* ときどき岩波文庫の『日本唱歌集』を手にする。この音痴のわたしでも七割は唄える。今朝は「文部省唱歌」に限って観ていた。デタデタツキガの「ツキ」 はいしいはいしい の「こうま」 あたまを雲の上に出し の「ふじの山」 とけいはあさから かっちんかっちん の「とけいのうた」 春が来た 春が来 た どこに来た の「春が来た」 あれ松虫が鳴いている の「虫のこえ」 道をはさんで畠一面に の「田舎の四季」 など、詩のいいのもある。
色香も深き、紅梅の とはじまる「三才女」とは誰か、小倉百人一首に親しみ出せば「みすのうちより 宮人の」の二番は小式部内侍、「きさいの宮の仰言」 は伊勢大輔と分かった。一番の、庭木のすばらしい紅梅樹を宮中より請われ、「勅なれば いともかし うぐいすの 問わば如何に」と聞こえ上げた才女はさす がに分かりかねた。教室で先生に教わった記憶もない。この才気、伊勢であったように今、すこし朧ろに覚えているが、それよりなにより「清・紫」でないのが 趣向である。
旅順開城約成りて の「水師営の会見」はまだ心地良く唄えていた、曲にも佳い哀調があった。
大方はむしろ大好きだったのに 「我は海の子白浪の さわぐ磯部の松原に」 声を張ってよく唄ったが、せいぜい三番まで、よくよく譲っても五番までで、ことに七番の歌詞は好まなかった、今も詩の美感において、歌いたくない。
いで大船を乗出して 我は拾わん海の富
いで軍艦に乗組みて 我は護らん海の国
和歌の世界に吹きかよう自然美や四季の感興、花や風に愛豊かにふれた作詞が好きだった。
岩波文庫の「唱歌集」「童謡集」「民謡集」はいつも手の届くところに在る。
* 昨夜も寝る前に重たい『音頭口説集成』を読んだが、耳に目にかすかにも聞き覚え見覚えてきた凄惨な「心中」口説きがたくさん収録されている。歌舞伎の 舞台、嫋々の新内がきこえる「浦里時次郎」の心中などなど、ごくの田舎で口説かれていて、それらが多くの歌舞伎作者達による舞台が先なのか口説きの方が先 であったか、もっともっと探訪探索してもらえないものかと思う。思わずウウウと唸ってしまうほど切な哀愁が、素朴・稚拙な言句・口説のままに溢れている。 歌舞伎舞台の洗練はその裏返しに凄みさえ覚えさせる。
2018 2/4 195
* 入浴後に、美空ひばり、ペギー葉山、フランク永井、松尾和子らの古い歌を懐かしい気分で少し聴いていた。
2018 3/11 196
* パソコンで音楽が聴けなくなったのなら、CDの使えるラジオを買ったらいいよと教えてもらった。なるほどなるほど。そんなラジオが家にもどこかに隠れている気がする。探しましょう。
2018 5/30 198
* 今もそうか、書店と縁を切ったような暮らしで知れないが、昔は本や雑誌を買うと「付録」が附いていて、本体の方は失せ果てても付録だけ残ったというこ とは、幾つか在る。これはのちのち「参考」に使えると思うと捨てがたいそういう「付録」は、ものの下や間にでも捨てずに記憶に置いていた。いま手にしてい るのは旺文社の「歌に見る近代世相史」とある小冊子で「懐しの明治・大正・昭和歌謡集」とある。敗戦後の昭和三十五年までの年表が附いているから、わたし たちが新宿河田町に住み長女朝日子が生まれた年まで、「皇孫ご誕生」とは今の皇太子さんのこと。「ハガチー事件でアイク訪日中止」は、安保闘争の激化を思 い出させる。社会党委員長浅沼稲次郎が暴漢に刺殺されたが、暴漢を祀る動きもあり、米日保守の左派撲滅への動きが露呈してきた頃に当たる。この冊子は東京 で手に入れ、わたしは「小説を書こう」としてすでに反戦の「或る折臂翁」と向きあっていた。
* この歌謡集にはあの「りんごの歌」を最後に「昭和時代 戦後」の歌は出ていない。明治の最初は「宮さん宮さんお馬の前に」の「トンヤレ節」である。歌 は世に連れ、或る面では一級の史的証言を成す、こういうのは、時勢を読むのにとても有効な好資料いや史料として参看できる。今も頁を繰ってそして目を閉じ てモノ思うことがある。わたしは徹して軍歌、国威発揚歌が嫌いで通してきた。しかも時に急激に口に甦ってきて暗然とする。「わがおほきみに召されたる い のち栄えある」だの「父よあなたは強かった」だの、不快であった。
2018 6/6 199
* 胃袋を全部喪ったあと、永らくわたしはこえをに出して歌が歌えなかった。声が出なかった。以来、六年半。本はよくてにとり歌詞だけを読んできた岩波文庫『日本唱歌集』をやはり機械の煮えを
待ちながら開いていて、ふっと声が出てまた「歌える」のに気づいた。幼稚園から国民学校へあがったころ、近所の子らと競い取るように歌った「青葉茂れる桜 井の」が歌えた。「天はゆるさじ良民の」と「ワシントン」も歌えた。「紅萌ゆる岡の花 早緑匂ふ岸の色 都の花にうそぶけば 月こそかかれ吉田山」は歌い ながら、いっぱい涙を流した。
唱歌からたくさんな、豊かな詞藻を学んだ、気を入れて学んだ。わたしが唱歌詩として最も敬愛して忘れないのは、大和田建樹が作の「旅泊」だった。
磯の火ほそりて 更くる夜半(よは)に
岩うつ波音 ひとりたかし
かかれる友舟 ひとは寝たり
たれにか かたらん 旅の心
詩が、歌が、じつに妙なることばの音楽なのだとわたしはこの歌にしみじみと学んだ。「磯の火ほそりて」「岩うつ波音」の「い」という音の静かさ。「ひ ふ は ひ ひ」と点綴される「は」行の懐かしさ優しさ。「て つ と た と た た た た」と刻み込まれた「た」行音の確かな音階。
わたしは、自身あの「少年」短歌を作り上げて行くまでに、かずかずの佳い唱歌から、「詩歌」とは本質「言葉」の美しい「音楽」でありかつ「表現」である ということを学んでいた。近時近年の生まな観念や説明のイデオローグを「節くれの棒」のように並べたガサツな短歌に、とうてい「詩」として「うた」として の感銘を得られないのは、ま、わたしの宿痾かもと、笑っている。
2018 8/29 201
* 気になっていることのために、フランチェスコ・ペトラルカの「わが秘密」を持ち出してきた。フランチェスコのさまざまな問いに、最大の教父ともいわれるアウグスチヌスが徹底して応え、時に激しく討議がつづくが、主眼のアウク゛スチヌスの教えにある。
いま、わたしはその偉大な教父のキリスト教神学の問い返さざるを得ない疑念を持ちはじめている。ことに性ないし情欲・情念にかかわる見解をよく確かめたいのだ。
* が、もう、保たない、休みに階下へ降りる。もう寝床へ行くかも知れないが。本当はこんな時、以前のように音楽が聴きたいのだ、が、この機械がすっかり 音楽を拒絶してしまい、わたしにはどうにもならない。ワキにある、ディスプレイも大きな新しい機械を、わたしは購入以来、ほとんど使えていない、何が何や ら分からない、いや根気よく分かろうとする辛抱が視力にも気力にも無いのだから情けないが仕方がない。
しかし音楽は聴きたいなあ、ほんとうに心身安まるから。なんで、この機械、音声が出ないのだろう。何をしても、ただの一度もピンもポンも鳴らない。やれやれ。
2018 8/29 201
* 入浴後、はからずも銀幕に唱う美空ひばりの特集番組があり、釘付けになって心底聴き惚れていた。敗戦直後の同世代から昭和をともに生きた。最も敬愛する藝のある天才歌手であった。
2018 10/7 203
* 東工大時代に研究費で買い、定年で退任の折り家へもらって帰った「aiwa」の、CDもテープもラジオも可能な大きな機械、やっと再発見したのに、 「使い方」がまったく分からない。闇雲に弄っていると、いまもラジオでのピアノ演奏が聴こえているのが嬉しいが、音質わるくしかも全くの「まぐれ当たり」 で情けない。なんとか手持ちのたくさんなCDで佳い音楽が聴きたいのだが覚束ない。
パソコンで自在に聴けていたのに、この古機械クン、まったくその方面では働いてくれなくなっている。機械のセイではなくわたしがややこしくねじ曲げて回復できていないのだろう。
新しい大画面の機械もあるのに、全然使えない(マニュアル本が付いていない)まま棚晒しに放置されている。やれやれ、わたしの「機械脳」が劣化しきっているのだから仕方がない。
シューマンの曲をバーンスタインが指揮しているらしいが、音質は最低で情けない。それでも音楽は嬉しい。リストの曲(歌曲)が始まっている、ソプラノで女声が唱っている。
わたしの仕事場がこんなに狭く狭くモノに溢れてなかったら、手持ちのいろんな名曲や演奏をレコードで聴く手も有るのに。
家中、人間が安楽に座れる余地もない。ときどき階段に腰かけて休んでいる。
2018 10/21 203
* 結局、今日も家にいた。そのかわり仕事ははかどった。
仕事しながら、横で、例のややこしいラジオの、たまたま聞こえ始めた音楽主体のディスクジョッキーのようなのを一日中鳴らしていた。クラシックの演奏も ありいろんな歌も聞こえていた。散髪屋の倚子に座ってるような気分でもあった。仕事の邪魔にはならなかった。そういえば高校や大学時代、しょっちゅう勉強 しながらラジオも鳴らしていたのを思いだした。邪魔にはならなかった。
2018 10/21 203
* ラジオに電源を入れたら静かなピアノ曲、ショパンのノクターンだったらしいが、終えてしまった。いちばん欲しいクラシックの演奏を聴き損じたらしい。つぎは誰かサンの歌劇が始まるらしい、序曲めく演奏が続いている。
きのう観た宮崎葵らのドラマ「あにいもうと」のように、いま、しきりと、ほんとうに佳いものに触れたい。ウソクサイのはいや。軽薄で雑駁なのもいや。映 画「ウエストサイド ストーリー」「シェルブールの雨傘」がまた観たいし、ジェフ・ブリッジス兄弟やミシェル・ファイファーらのピアノと歌が、いま、聴き たい。
* ラジオを鳴らしていると、わたしが軽音楽の世間を全くと云うていいほど知らなかったことに気付く。そもそも、あの喧しかったビートルズの音楽をわたし、百パーセント識らない。意識したことが全然ない。徹して美空ひばりばっかり。
2018 10/22 203
* 脇のラジオがスメタナの「モルダウ」の流れを聴かせてくれていた。いまはリストのピアノが鳴っている。東工大卆の子松くん、いまもピアノ弾いているか な、たしか今は倉敷住まいか。管理職生活で忙しいだろうが。美術へも新しい関心を持ちはじめていたが。倉敷の美術館は佳いよ。
2018 10/23 203
* 終日ラジオが鳴っていた身のそばで。と、云っても音の出るチャンネルは一つだで、幸か不幸か音楽チャンネルだけ。洋楽も邦楽も演奏も歌もお喋りもあ る。音楽というとベートーベンやバッハやショパンらだけでないことが、よく分かった。聴いたこともない音楽や歌や演奏や蘊蓄のお喋りが、いっぱい、ある。 おしゃべりは一人のも対話や座談もあり、喧しくも軽薄でもウソクサクもある。音楽だけなら佳いのにと思うがしようがない。ただし、誰がナニを歌ったり演奏 したりしてるか、聴き耳を立ててないのでぜんぶがこの部屋の装飾音で終わっている。ほとんど仕事のジャマにならない。
2018 10/23 203
* メンデルスゾーンの聴き馴染んだバイオリンの曲を聴いている。音楽があると、気分の揺れやざわめきが失せていてくれる。
2018 10/24 203
* 「湖の本」142、納品。すぐ発送作業に掛かる。六時、夕食前に作業を一段落と同時に血の気が引くように一気に疲れが出た。貧血か低血糖か、要するに過労 の疲労。それでも、夕食を攝ったあと、また仕事を再開。九時からの「リーガルV」が終わるまで、作業を続けたい。
機械の前で居眠りに落ちていた。階下でしばらく横になってからまた作業を続ける。ラジオがピアノ曲を聴かせる。階下での作業しなからのテレビはなんとツ マラナイばっかりか。ピアノの音色はなんて佳いんだろう。もう八時前。作業はあきらめて明日へ持ち越そうか。両掌が音たてるように痺れている。
2018 10/25 203
* もう少し寝てもいたかったが、八時には「マア」らの朝ご飯をやらねばならない、妻は寝かしておいて起きた。早起きがあまり苦にならなくなり、御蔭で午前が 長くつかえてイイことである。ラジオで音楽を(新しいアルバムなどと謂っていて、ほとんど語り手がナニを縷々独り言ないし解説しているのかわたしには分か らないが)聴いている。まずどれもこれも聴いたこともない音楽・唄であるが、ま、一種の外国旅行のようなものと受けいれている。終日のこの音楽番組集でい わゆる歌謡曲や演歌は出てこない、それは佳い。謂うなればこれらはあのジェフ・ブリッジス兄弟やミシェル・ファイファーがあちこちへ雇われて弾きかつ唱っ ていた映画のような世界なのだろう。マイクを嘗めるような語り口で独りでまた二人でひそひそと話しながら歌を聴かせる。わたしなどの識らないいろんな若い 人たちの世間があるという事実は半ば面白く受けいれている。「おじさま二人」で喋りながら二時間もつづくという番組が始まる。いろんなリクエストに応える らしい。できればお喋りより音楽をたくさん聴かせてもらいたい。
* 「俊成三十六人歌合」をつぶさに鑑賞後、今度は定家撰の「八代集秀逸」をことごとくわたしなりに判じてみた。今度は後鳥羽院による「時代不同じ歌合」 これは以前にも丹念に読んで楽しんでいるが、新しい好みでいちいち判別してみる。「古今・後撰・拾遺等」の作者で「左方」を、「後拾遺・金葉・詞花・千 載・新古今等」の作者で「右方」としてある。歌人は百人、百五十番、二百首。こういうカタチで選び抜いた「秀歌」に出逢う楽しさと、それにも自分なりの合 点・納得も不承もあり、自分でも撰んでみたいと思いこんだりするのが楽しい。時間さえあれば、二十一世紀の感覚で選び直してみたいものだ、定家の「百人一 首」には敬意を払いつつ敢えて歌の重複は、むしろ厳格に避けて。
これって、すばらしい楽しみなんだがナア、ヒマが無いなあ。ただし、八代集を文庫本で携帯してさえいれば病院の外来ででも喫茶店や電車の中ででも出来る こと。ただ、八代集のワクをはずして撰ぶ対象を各家集や国歌大観へまで広げるのは事実上もう時間のないわたしには不可能。
それにしても、楽しめることは、いくらでもあるもの。美空ひばりの好きな佳い歌を十撰んで十編の短篇が書けないかと思っていたのだが。
2018 10/27 203
* なんたること、絶望していたラジオでのCD、それがどう的を射たのか、マリア・ジョアオ・ピレシュのピアノ盤を鳴らしてくれている。手順を覚えればこ れで沢山なCD盤が聴ける、音質は、ま、割り引くとしても。有り難い。このピレシュの盤はたしか東工大卒の子松時博君が呉れたのではなかったか。
* 放っておけば同じピアノ演奏、いつまででも繰り返してくれる。仕事のジャマにならず、恰好の精神安定に役だってくれる。有り難い。
いまはアシュケナージの月光を聴いている、おなじ盤にはホロヴィッツの熱情も悲愴も入っている。
2018 10/27 203
* 手洗いに立ったあと、寝そびれる思いがしたので枕元の「湖の本」対談ゲラを読み、そのまま床をはなれてきた。ラジオは宝生流の謡曲を聴かせている、ワキか たを謡っているのは東川光夫さん、久しい「湖の本」の読者である。この早朝に謡曲は懐かしい。聴きながら後鳥羽院の「時代不同歌合」の一番一番をわたしの 思いで判じている。百五十番のやっと二十五番まで。
「持=勝ち負け無し」としたのは、
四番 あすからは若菜摘まむと占めし野に
きのふもけふも雪は降りつつ 山部赤人
ささなみや國の御神のうらさびて
古き都に月独りすむ 法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)
六番 和歌の浦に潮満ち来れば潟をなみ
葦辺をさして鶴(たづ)鳴き渡る 山部赤人
わたの原漕ぎ出でて見れば久方の
雲居にまがふ沖つ白波 藤原忠通
十五番 嵯峨の山みゆき絶えにし芹川の
千代の古道跡はありけり 中納言行平
世の中よ道こそなけれ思ひ入る
山の奥にも鹿ぞ鳴くなる 皇太后宮大夫俊成
二十番 色見えで移ろふものは世の中の
人の心の花にぞありける 小野小町
松の戸を押し明け方の山風に
雲も懸からぬ月を見るかな 正三位家隆
* 謡曲「通盛」がちょうど終えた。通盛に死なれた小宰相の悲しみ。静かに静かに清々として楽屋の囃子が聞こえている。 七時になる。
2018 10/28 203
* 仕事しながら、ほんとうに久々、グレン・グールドのバッハ「ゴールドベルク変奏曲」を繰り返し楽しんでいる。生きものの躍動のよう、心はずむ。そしてまだ、十時四十五分。起きて、五時間にしかならない。
* かなり早めの昼食後、潰れるように横になり、校正もし小説も読んでいたが寝入って、胸焼けで目ざめたのが三時過ぎ。いわゆる昼寝には長かったが、朝早の埋め合わせだったか。
グレン・グールドのピアノで、ベートーベンのソナタ30番ホ長調を聴き始めた。
2018 10/28 203
* ソナタは30 31 32番とある、が、わたしの耳体験ではドレがナニとは聴き取れない、ちっとも構わない。音を愛でている。
2018 10/28 203
* 妻が歯医者への留守に映画「ロシュホールの恋人たち」を楽しんで見終えた。「シェルブールの天傘」は歌のミュージカネルだった。これはダンスのミュージカル。フランソワズ・アルヌールのほかにジョージ・チャキリスやシ゜ーン・ケリーがダンスを観せてくれた。
機械の側へ戻ってくると、グレン・クールドがバッハを演奏してくれている。
2018 10/29 203
* そばでピアノの鳴っている仕事部屋になり、なにより。いまはバッハの協奏曲一番、二番、三番がグレン・グールドのピアノでつづいている。盤を替えると 四番、五番、七番そしてイタリア協奏曲になり、さらに替えるとフーガの技法と名高いゴールドベルク変奏曲全曲のしかも第一回録音が聴ける。お宝ものの三枚 盤、感謝。
* 瞼が痛いほど重たい。
2018 10/29 203
* 手洗いに立ったあとが寝入れず、校正したり源氏物語を読み進んだり、床に入ってくる「マア」を撫でて遣ったり、結局六時前には床を出た。「時代不同歌合」 は百五十番三百首もあり克明に読み耽って勝ち負けを判じている、それほどの間を懸けないと機械は働き始めない。根気はよくなる。そばではバッハのピアノ曲 が鳴り続いている。
2018 10/30 203
* フリードリヒ・グルダのピアノで、バッハの平均率クラヴィーア曲集を鳴らしている。贅沢なことです。クラシックのCDの、半分はバッハ、それもピアノ曲が多い。ピアノが好き。
2018 10/31 203
* 1987年のボストン交響楽団、小澤征爾指揮、フランシス・プーランクの、主をたたえる「グローリア」マリアをたたえる「スターバト・マーテル」を聴いて いる。キャスリーン・バトルのソプラノが神々しいまで美しい。この歌曲の深い感銘は、どんな歌劇も及ばぬ、屈指のわが愛盤。ほかにもう一、二枚同じ曲の演 奏を愛蔵している。
どうも、わたしはマリアにはよわいのです。
この曲は、いくらすぐそばで音量をあげていても仕事のジャマにならない。
2018 11/2 204
* 久々に、実に久々に、ラジオで宮沢明子のピアノでスカルラッティのソナタを聴いている。機械に入れてあったすべての音楽が聴かれなくなっている。幸いに原盤があり、ラジオが起動してくれて、いろいろに楽しめている。
2018 11/4 204
* 九時前 ヘンデルのオラトリオ「メサイア」を聴いている。第一部の冒頭に無くもがなの「解説」が八分あまりもある。ヘンデルの曲はなんら宗教とは関係 していない、「宗教」は人を惑わして金を取るものと明言されている。純然の「信仰」と教会宗教とを厳しく隔てて云うている気らしい。それ自体には意義無い が、説明抜きに音楽へ入らせて欲しい。
「スターバト マーテル」とは印象が大きく異なり、「メサイア」の合唱もテノールもすこぶる力強く、男性的。鼓舞される。そして言葉は耳に古色を帯びて響いてくる。
2018 11/7 204
* 八時二十分 「メサイア」を最初から聴きながら瞼を重く閉じていた。
2018 11/8 204
* ペーター・ホーフマンが、ワルキューレから、「父上は私に刀を約束して下さった」とワーグナーを歌っている。いまは「冬の嵐は去り快き月が現れた」と。
テノールも好き、ソプラノもアルトも好き。日本の歌手ではこうはなかなか聴き入らせてくれない、盤もめったに無い。
流行歌は ひばり以外へは気が向かない、めったに。タマに、「津軽海峡冬景色」や「瀬戸の花嫁」のように心地よい歌のあるのも否定はしないが。
ペーター・ホーフマンの歌声、胸の内のもやもやした汚れ物を吹き飛ばしてくれる。
* 二時半。小説「清水坂(仮題)」に没頭していたが。
キャスリーン・フェリアーの打ち込まれるほど腹に響いて力づよいコントラルトで、いま、シューマン曲の歌を聴いている。ブラームスの、シューベルトの曲 もあとに控え、全21曲も。ボイド・ニール弦楽合奏団、指揮ボイド・ニール。圧倒の女声で、魅力発散。「女の愛と生涯」と題されたシューマン歌曲集作品 42を いま聴き終えた。シューマンのもう二曲があり、ついで、ブラームスの二曲がある。聴き飽かせない堂々の歌唱、揺るぎない。
なんて佳いのだろう、美しい藝術は。録音は、日本で謂う敗戦後の数年になされていて音源に瑕瑾なくもないが、それを圧し越えている。
シューベルトの七曲が始まる。
「算盤」を欠いた「読み書き」の日々と云ってきたが、このところ東工大時代に研究費で買っておいたラジオのおかげで「聴く」が加わってくれているのが、幸せ、仕事していても一日中「聴いて」も楽しめている。「観る」はどうあっても外へ出掛けて行かねばならない。
* いまは、もうお終いまえの「清しこの夜」を歌いおえ、伝承曲でおなじみの「神の御子は今宵しも」で歌いおさめようとしてくれている。
満足した。その間にも「清水坂」の推敲と進行に食いついていた。
いつしかに雨の音 しとど。外のうすぐらい一日だった。 四時半をもうまわった。
* なにとかして、このラジオのテープ部門が無事働いてくれないものか、なにしろ電源だけは入るがあとはまぐれ当たりのような操作で辛うじてCDだけ、も ひとつラジオのディスクジョッキーのようなのへだけは突き当たれる。おかげでCDは楽しめている。テープが聴けると三遊亭圓生百番をとことん聴いて楽しめ るのだがナア。
それにしても機械というのへは、ロクに勘も働いてくれず、この大時代な古道具なみのパソコンも薄氷を踏んであゆむ危なさ。困るなあ。新しい機械を買ってくるのは出来るが、無事にセット・設定することには怖じ気づくほど機械にはもう自信がまったく持てない。
2018 11/9 204
* 「清水坂」に一息ついて、リヒアルト・シュトラウスの歌曲をソプラノのエリザベート・シュワルツコップで聴き始めている。ヘッセの詩とアイヒエンドル フの詩で「四つの最後の歌」を歌い始めている。悠々たる美声。そのあとへ十二曲いろんな歌がつづく。詩の言葉などまったく聴き分けられないのがむしろ幸い か、いやいや詩は志であって美しい言葉の粋であり、歌の美しさと歌声の美しさに聴き惚れている。
日本では、こういうすぐれて美しく聴ける悠揚の歌曲が、数少ない、というより廉太郎の「荒城の月」のほか、まったく出逢えたことがない。日本語の歌詞を 聴いていて気恥ずかしくなってしまう。日本語の可能性をしたたかに持っていた三島由紀夫は自身の日本語を能や戯曲へもちこんだ。歌では聴かせてくれなかっ た、のでは。
* けさ、どこかのテレビで世界的なギター奏者という愛くるしい韓国名女性の美しい演奏と、視界の問いに答えて実に的確に藝術の創作に生きて自身と向き合う日々の志を聴かせてもらい、感銘を受けた。嬉しかった。
これにくらべるなどイヤなことだが安倍内閣の地方創生女大臣や五輪担当男大臣の地方的な国会答弁の汚らしさ、耳を塞ぎたくなる。
『国家』でのソクラテスは、アテネ市民のグラウコンを聴き手に、正しい国家には素質の異なった三つの種類の人達がそのそれぞれの自己本来の仕事を行って いるとき、國は節制を保ち、勇気を持ち、知恵のある国家として起てると云っている。これらの人々が、お互いの仕事道具や地位を取り換え有ったり同じ一人の 人間がこれらすべての仕事を兼ね行ってしまったりすれば、「何らかの重大な害を与え」国家は亡びてしまうと云っている。
かならずしもわたしは職業人、補助人、支配人といった分け方に全面同感はしていないのだが、さきの片山女大臣や櫻田男大臣には、いかにも「國を亡ぼし」かねない重大な「場違い」感を持たずにおれない。
* それにしても、ま、R.シュトラウスの歌曲を歌うソプラノの、なんと美しいことか。これに匹敵する「言葉の音楽」は、まさしく「源氏物語」の絶頂を描き取っている「玉鬘」十帖などではあるまいか。世界に冠たる最古最良の物語と云いきれる。
十六曲 最後のヘンケル詩「冬の捧げもの」が歌い始められた。
2018 11/10 204
* 十時半。ずうっと、シューマンの「詩人の恋」ほか、ベートーベンやシューベルトの歌曲をフリッツ・ヴンダーリヒのテノール、フーベルト・ギーゼンのピアノで聴いている。
2018 11/11 204
* 九時過ぎ。 ティヌ・リパッティのピアノで、グリークとシューマンを聴いている。 2018 11/11 204
* ヘンク・バン・ツイレルトのチェロでバッハに聴き入っている。腹に滲みる妙音。
2018 11/12 204
* イングリット・ヘブラーのピアノ伴奏がすばらしいヘンリック・シゥェリングのヴァイオリンで、モーツアルトの美しいソナタ集を聴き始めている。ヘブラーのピアノの音色の佳いこと、ハートを掴まれるよう。
2018 11/12 204
* 「アコ」の手術、無事に終えていると医師から電話有り、ホットしている。「マコ」が初体験の独りの留守を淋しがっている。八時過ぎ。階下で、歌集の校 閲に神経を遣ってくる。モーツアルトのソナタ 24 28 35 そして 25番を シェリングのバイオリン、ヘブラーのぴあの伴奏で堪能した。
2018 11/13 204
* チャイコフスキーのあと、シベリウスのソナタを、ビクトリア・ムローヴァのバイオリンで聴いてい
2018 11/14 204
* パウ・カザルスのカサブランカでの演奏会を聴いている。仰天しそうに素晴らしい弦の音色に魂を奪われそう。
☆ 恒平さん
カタロニア民謡「鳥の歌(EI Cant dels Ocells)」は、カタロニアに生まれた、パウ カザルスのチェロの調べによって、世に広められました。「鳥」の歌はカザルスの歌であり、カザルスは鳥 となって、今もその胸の内を歌い続けている、ここカタロニアにいると、それが感じられます。
この(2003年の)3月、アメリカがイラクに攻撃を仕掛けた日、その日最後のラジオの曲に、このCDの「鳥の歌」が流れました。ホワイトハウスにも、カザルスの平和の音色に耳を傾けようとした時代があった。そう思うことは、私をひどく悲しくさせました。
不思議なものです。カタロニアの歌であり、カザルスの歌である「鳥の歌」は、私にとって、長い間、鷲津仁志君の歌でした。チェロ弾きの彼は、私に「鳥の歌」でチェロを、カザルスを語り、弦を震わせました。あの時の私が、今住んでいる土地、それがカタロニアです。
今日は恒平さんに、そのカタロニアの民謡をお送りします。
税関で問題がなければ、生ハムが同封されているはずです。
賞味期限は9月26日まで、0~9度で保存と書いてありますが、店頭では常温で置いてあり(冷たい生ハムは、おいしそうに見えないせいでしょうか)、2 週間程で召し上がるようでしたら、冷蔵庫に入れる必要はないと思います。いずれにしても、召し上がる前に常温にもどし、ハム同士をはがして、少し空気に触 れさせることが、おいしく召し上がる秘訣です。
おからだ 大切になさってください。 2003年 6月 30日 京子
* 曲目の一覧を書き出してくれている。「鳥の歌」に続いて クープラン シューマン メンデルスゾーンらの曲が続く。音量豊かに深々とした演奏で 息をのむ。
バイオリン アレクサンダー シュナイダー
チェロ パウ カザルス
ピアノ ミエチスラフ ホルショフスキー とあり、演奏には 曲ごとに 盛大な拍手が響く。
こんな手紙と盤にハムのご馳走も添え、はるばるカタロニアから送って来てくれたのがもう十五年余の昔になる。東工大の院を出て欧州へ奔った、仲良し、京育ちの「京」である。 お元気で。
2018 11/14 204
* ショパンの「幻想即興曲」を菅野万利子が爽快に弾いている。
2018 11/15 204
* アマリア・ロドリゲスのファドを聴いている。わたしに「ファド」を初めて聴かせてくれたのは「尾張の鳶」で、マドレデウスの盤を何枚も送ってもらって いる。ファドの歌声が好きで、盤が摩り切れそうなほどよくよく聴いてきた。日本の演歌はほどと嫌いだが。ロドリゲスの盤はいつどう手にしたのか憶えない が、よく響く歌声、好き。
2018 11/15 204
* 八時。いちはやく電源を入れておいて、機械が稼働するのに、これぐらいかかる。
朝八時は「マ・ア」君らの朝飯。大人はそのあとです。いま、オルフェウス・チャムバー・オーケストラの、モーツアルト、K364とあるのを聴いている。聴いているはオコガマシい、鳴っているだけですが、とても心静か。
それにしても身のそばにあるクラシックだけで七、八十枚の盤は、何十年かのうちに自然と手元に。わたし自身で音楽の盤をえらんで買ってきたなどは三枚と無いはずで、読者のみなさんからの御好意の、みな賜物。どんなに慰め励まされてきたか。
美空ひばりの全集、日本の四季多彩な唱歌集だけ、自分で求めて手に入れたのは。
2018 11/17 204
* パばロッティといったか、世界一といわれたテノールの絶唱を聴いている、オーソレミヨ、カタリ等々、これはもう、破壊的なまでに爽快に美しい。力強い。歌っているのはみなイタリアの歌だろうか、胸の内へ掌をつっこんで清掃されるような迫力です。
じつはソプラノのマリア・カラスの盤一枚も。これは珍しく自分で買った。池袋地下駅構内だった。
2018 11/17 1204
* バーンスタイン指揮で、グスタフ・マーラーの「交響曲第五番 嬰ハ短調」を聴いた。
これぞ、「もの凄い」と謂って逸れない。
この曲がこう演奏されたその同じ時空を共有してみたかった。わたしは、いくらか生まれ変わったことだろう。この盤を送ってきてくれた人 わたしに何を告げたかったのか。
2018 11/18 204
* 十時過ぎた。マリア・ジョアオ・ピレシュのピアノ曲を鳴らしながら、二た色の「魔」界をかきまぜていたが。生涯かけて拘ってきた、戸惑い迷ってきた何 かが否応なく此処へ来て目に見えてきたようで、ひどく息苦しい。もう、やすもう。大笑いできるような本が読みたい。小説を読んで腹が痛むほど笑い転げたの は一作だけ、漱石末席の弟子であったさの作家の名もど忘れし、題はまったく覚えていないが、あの笑いは蘇らせたいもの。
2018 11/18 204
* 八時。漱石の漢詩を読み読み、まともな機械始動に一時間ちかくかかった。朝一番の、やれやれ。ピレシュの静かなピアノを聴きながら。
インシュリン、三単位注射。 朝食。 ういろうを一枚、柿、ちいさなパン一枚、生姜の紅茶。ビタミン二種をはじめ、ゆるい緩下剤二錠も含め、いつものクスリを、計18錠。
2018 11/19 204
* たちまちに眼が霞んでくるので、仕事へ向き合うのに気合いでわほど踏み込まないと手がかりが掴めない。が、愚痴は言ってられない。 困ったら困ったな りに立ち向かう。ピレシュのモーツアルトが今も慰めてくれている。この盤は、東工大卒、ピアノの弾けた子松時博くんが勤務先からプレゼントしてくれたので す。
2018 11/19 204
* 宮沢明子というピアニストの盤が、いつ誰方から戴いたか記憶しないが、じつにしばしば愛聴している、ことに最初の曲、ガルッピの「ソナタ ハ短調」が 好きで、それのためにしばしば盤へ手をのばす。ピアノの澄んだ音色が、ワケ分からずに好きで、ついピアノ曲を聴く。バイオリンなどの弦の音は奇妙に気持ち を波立たせる。そういえば、クラシックの吹奏曲をほとんど知らない。
* 音楽というモノに踏み込む気持ちでふれた最初は、秦の父の「謡」であった。父は大江の舞台で地謡に出されてたこともあった人で、謡は子供の耳にも落ち着いて上手く、このひとつだけで父を尊敬したほど、父が気儘に謡をうたいだすのがいつも好きで憧れた。
そんな次第でわたしは能楽堂でも、つい謡と囃子へ気が行く。「歌・舞・伎」の舞台でもそうで、歌と囃子に先ず心惹かれる。それなのに、わたし、楽器の何 一つにも、ハモニカもろくに吹けず、触れたことがない。歌も唄えない。中国への旅の日中懇親会で、一座最年少のわたしに「歌え」と指名されたときは実に恥 かきで、荒城の月が、夜空から落っこちそうであった。
それでも、只一度、中学の頃、講堂の上で独りで「ローレライ」だかを歌わせられたことがあり、音楽の女先生を恨んだ。通知簿が全優やオール5であって も、本人は「音楽」だけは露骨に「ヒイキ」だと感じ、凹んでいた。「声」に出して歌うというのが恥ずかしく、学期試験ごとに音楽室で一人一人歌わせられる のが凄くイヤだった。声に出し歌うのは、浴室で独りのときで足りていた。
そんな反動でか、「声」で歌わず「ことば」でうたう「短歌」のほうへ、中学・高校のころ遮二無二すすんで、今に繋がっている。わたしの音感は、あげて字で読み字で書く「短歌」のために貢いだわけである。
あ、思い出した、牧水短歌の例に憧れて、わたしも、自分の短歌に 節をつけ、ひとりで歌えるようにしていた、高校時代に。音符にできないので記録がない、記憶もうすれて仕舞った、想い出せるかなあ。
2018 11/20 204
* 京都の森下辰男君のアレンジして送ってくれた十枚に剰る音盤のなかで、懐かしい流行歌20曲を各歌手のオリジナルと、同じ20曲をぜんぶちあきなおみ が歌ったのと二枚組みにしてくれたのがある。むろんわたしはオリジナル盤を愛聴してやまない。平野愛子の「海が見える丘」、田端義夫の「かえり船」、エト 邦枝の「カスバの女」、なかでも殊に菊池章子の「星の流れに」で「こんな女に誰がした」と聴くと涙もぐしゃぐしゃに泣いてしまう、そして二葉あき子の美声 で「水色のワルツ」を聴くと中学高校の少年時代を想い、息も詰まりそうに懐かしくなる。
敗戦後の占領時代、京都はおそらく他の大都市よりは穏和に恵まれていたのかも知れないが、無惨に「こんな女に誰がした」という泣く声は、日々に聞こえていた。
ああ、あの時代には還りたくない、が、なんと、今日の日本列島は無惨にあの時代を忘れ果て、女も男もなさけなく乱れ生きているのだろうと、これにも泣けてしまう。
いまは扇ひろ子が「新宿ブルース」を野太い声音で嘆いている。ディック峰の「夜霧のブルース」にかわり、胸がふさがる。春日八郎が泣けた泣けたと「別れ の一本杉」を歌っている。別れを嘆くほどに日本はまだ廣かった、故郷は遠かった。松山恵子が「未練の波止場」を絶叫してならぬ恋を嘆いている。しかし、も うこれらの未練も涙も歎きもあの、「こんな女に誰がした」の呻きからは遠ざかりつつある。「憶えているかい、こどもの頃を」と三橋三智也の「りんご村か ら」を聴いていると、こんな故郷や別れや都や夜汽車があったのだと、ふとよその國のことかと戸惑ってしまう。
これらの歌では、敗戦や占領で強いられた女の性こそ深く嘆かれているが、日本人同士の男女に今日の紙のようにうすくてかるい「性」が全然歌われていないのに驚く。
* ちあきなおみは巧い歌手ではあったが、オリジナルの各歌手の歌をどううまみで歌ってくれてももの足りない。じょうちょだけを真似ようとして、みな同じ に聞こえる。歌手の生きた時代がちがい、その深い割れ目に似たそのちがいがちあきなおみには理解も体得も出来ていない、むりなはなしだ。「星の流れに」に など、ただムードづくりで歌っていて。菊池章子のうたの絶望の深さとはまるでべつもの、ちあきなおみは「こんな女」の悲しみも「誰がした」の怒りもまった く分かっていない。「餓えていもうとはいまどこに ひとめ逢いたいおかあさん」という噴き溢れる激情と諦念。わたしはかすかにもそういう時代と女の表情を 見知ってきて忘れることができないのだ。
森下君が呉れたオリジナル盤の菊池章子「星の流れに」二葉あき子「水色のワルツ」は、昭和最高の証人、証言としてわたしのうちに生き続ける。
* これも森下君が送ってくれたのに相違ないだろう、ジャックー・ルーシェの「プレイ・バッハ」をピエール・ミシュロのベース、クリスチャン・ギャロのドラム スで聴いていた。軽快なバッハが存分に楽しめた。もう一面は「MJQ モダン ジャズ クアルテット」のラスト・コンサート盤、これもとても楽しく聴け た。この二枚を裏表コミでもらっていて、嬉しい時間であった、もっとも小説は手ひどい難所にさしかかっていて苦心惨憺なのだけれど。音楽にあやしてもらっ ていた。
2018 11/23 204
* 冬至へ、わが誕生日へ、日一日 日が短くなりゆく。六時に起きても外は小昏い。
起きるとすぐ手洗いし、体重を、血糖値を、血圧を計り、インシュリンを注射し、食後のために20錠ちかい各種の錠剤を小皿に用意しておいて、二階へ。機 械に電源を入れ、温めはじめる。正確な起動までの機械との気の合った「おつきあい」がだいじで、一つ間違うと、えんえんとやり直さねばならない。辛抱とい うことをしみじみ憶える。イラつかないために、拾い読み可能な文庫本や袖珍本に気儘に手を出し、粘る機械と賢く妥協の姿勢を取る、「慌てないよ」という意 思表示。そのために「読む」のは避けて「拾い読める」手取り本ばかりがそばに用意してある。和歌集、漢詩集、明治版和紙装の古語や漢字の辞典、箴言や世話 咄の本、等々。新聞は覗きもしない、愉快な報知のまったく無いのに惘れるのが関の山だし、なにより字が小さくて視力に堪えない。情けないことに「見出し」 の拙なこと、しばしば真反対に意味の取りにくい例が多い。世を挙げて日本語の素養が、記者にも編集者にも、自然読者にも落ちているということ。なさけなく なる。
「読む」より「聴く」のがラク、また楽しくて嬉しいという一面がある。いまも、軽妙に、仲よしの四つの楽器が「朝のおしゃべり」とでもいうほどの軽音楽を聴かせてくれてる。ライヴらしく時折り拍手も聞こえる。けっこう、けっこう。
* 七時十五分。朝食に階下へ。音楽は鳴らしたままに。
2018 11/24 204
* ベートーベンの比較的にじみなピアノソナタを、グレン・グールドで聴いている、朝、七時半。手にしている本は、京都新聞社が編んだ『京都・町並散歩』 京へ帰っている気分で。
2018 11/25 204
* ベートーベンの比較的にじみなピアノソナタを、グレン・グールドで聴いている、朝、七時半。手にしている本は、京都新聞社が編んだ『京都・町並散歩』 京へ帰っている気分で。
2018 11/26 204
* 今日から、「選集28」を慌てずに送り出す。
今朝一番には黒い「マコ」の手術後抜糸に医院へ連れて行く。午後は妻が病院。なにもなにもなにも無事ですように。を
まだ朝食していない。バッハの、すばらしいフーガを聴いている。
2018 11/27 204
* とにかくも「選集」送り出しの用意を始めている。わたしが、贈り印を捺し、妻が半ば荷造りし、手紙を添えたり封印するのとそれら全部を玄関に積んで郵 便局の集荷をまつのはわたしの用事になっている。妻は、今は、病院へ行っている。検査の前に歩いて疲れてしまわぬよう、往きは、車を呼んでいる。留守は、 手術をすべて終え元気な「マ・ア」のふたりを階下に置いて、わたしは機械の前でバッハのフーガをヘリベルト・ブロイエルの室内楽団で聴いている。とっても 佳い。懐かしいとはこういう気分か。
2018 11/27 204
* 六時半、諸測定、良好と思う。インシュリン注射。
冷たい粥に梅塩をふり、バナナ一本。独り朝食、服薬、「獺祭」を猪口に一杯。
機械の前へ来て。バッハのフーガをラジオで聴きはじめる。音楽に心身溶けて入る。
2018 11/28 204
* 十時半 もう寝に降りてもいいのだが、「伝説の歌姫」李香蘭秘曲選集と呼称の森下辰男君心入れの盤を機械に入れた。「さらば上海」についで「満州姑娘」 わたしはまだ三歳ごろの歌だ。 よくこんな曲が残ってたモノだと森下兄、好きこそモノのやなあと感心している。
声の若いこと綺麗なこと、十代で歌っているのかと驚くほど。歌詞も曲も、思い切り日本離れしている。
「支那の夜」は、妙に懐かしーい心地で、節も詞も覚えていた。真珠湾以前、幼稚園以前の日本の子供は、六歳ころのわたしでも、こんな歌を耳にしみて聴いていたのである。
24曲も入っている。「蘇州の夜」「夜霧の馬車」「蘇州夜曲」「夜来香」「何日君再来」など、八十余年の時間軸を別世界へ巻き戻している気がする。この李香蘭が、敗戦後には山口淑子と変化して国会議員になっていたのだ、夢幻の時間があった。
* さ、もう階下へ、本を読みに行こう。それにしても李香蘭ほど綺麗な声で唄った日本の女の歌手っていたろうか。二葉あき子ぐらいしか想い出せない。
2018 11/29 204
☆ 秦恒平様
おからだが支えられて、『秦恒平選集』第28巻が無事に刊行されましたことを、お慶びします。お届け下さり、感謝です。
昨日、大冊を夜遅くまでかかって拝見しました。
対談における共鳴も、無理解に対する相互の丁々発止も面白く、考えさせられつつ、読みました。
169頁の秦さんのご発言、
「どんなことばでも、その文脈の中で詩語になるかならないかだけの問題です。だから私は” 詩化” と言う」。
その通りだと思います。
もう一つ、178頁。
「私は、あるジャンルというものは絶えず他のジャンルとの揉み合い、あるいは外のジャンルへはみ出るような部分での格闘があって、本当にそのジャンルの 良さがでるものだと思う。だからそういう意味では、外のジャンルへはみ出していったり、それとストラッグルがあったりすることは良しと認める。」
多分、その根底には実験的な精神があるでしょうね。それが総じて言語芸術として、どれだけ日常性を超えでているかの高さを達成しているかどうかが問われ るでしょう。私はここで、古典音楽はもちろん、ロマン派音楽をも超え出て表現主義に演歌に片足を突っ込んでいるかの観を呈するグスタフ・マーラーによる後 期のシンフォニーを思い浮かべます。あれは外のジャンルへのはみ出しであり、伝統への果敢な挑戦であり、新たな精神と芸術性への探検でした。だから私は惹 かれます。 モーツァルトも好きですが。
川端文学を 「幾分危険な『廃器』」と言ってのける文脈におけるイメージの躍動に感服しました。さすが美学専攻です。
ご夫妻の心身が支えられて選集の完了に漕ぎ着けられますように。平安。
浩 ICU名誉教授
* マーラーの交響楽五番だったか、を聴いたばかり。しかし、聴くばっかりで音楽も音楽家も識らないし何も分かっていない。幸い「マーラーの恋」という未完の力作を、もう以前に、読ませてくれた読者がいる。上の 「浩」教授のお説について解説して貰おう。
2018 11/30 204
* あやしく千鳥足になりずっこける「機械め」との馴れ合いに、終日困惑し苦慮しすり抜けている。一緒に中国を旅した千住真理子さんのバガニーニ「24の カプリース」を二度聴いた。弦の鳴りのまさしく凄みに竦むほど。一刻も手放さず大事に抱きかかえていたストラディバリウスの音色である。
2018 11/30 204
* この間にも ドヴォルザークの交響曲「新世界より」が、大音響や美しいメロデイで鳴り続いている。引き続いて、スメタナの好きな交響詩「モルダウ」や シベリウスの交響詩「フィンランディヤ」が聴ける。ただただ聴いているだけです。モルダウは大河の名とか。作曲家らが何処の國の人とも識らない。必要か な。
2018 12/1 205
* 階下のテレビで、音楽のCDが聴けるようにし、昨日から、ピレシュのピアノでモーツアルト、宮澤明子のピアノ曲集などを。テレビの画面からは、九割が た 絶えて 観て嬉しい良かったと思える、気持ちの美しく静まる番組がない。不愉快を強いられるだけのほうどうやバカ騒ぎばかり。きりっとして時局へモノ 言う知識人・志操の人の声も聞かれない。つまりはなにもかも、コマーシャルの一切もふくめ、ウソクサイ。なら、画面は消して いい音楽、心地良い音楽を聴 き、そして優れた小説やオッセイを読み返し返し、せめて怪我なくからだを動かし元気に過ごすのが、何よりと。
2018 12/3 205
* 六時過ぎに静かに床をはなれた。「マ・ア」が大喜びで足もとでついて回る。諸計測やインシュリン注射を済ませ、「やまと櫻」を数勺味わってから機械へ きた。美しかった壁紙は消え失せたが、尋常に始動してくれている。『北越雪譜』を拾い読みつつ、グレン・グールドのバッハ「ゴールドベルク変奏曲」を聴き つつ、ひたすら温和しく機械と付き合っている。
メールが、尋常に働いてくれるか、これは、わたしの仕事では生命線に当たっている。
2018 12/5 205
* けさから敗戦後のムード歌謡曲らの歌も歌詞もない いわばダンス音楽風の演奏を聴いていた。大方は耳のひこに歌詞や歌声が残っていて懐かしやかであった。
ことのついでに「懐かしいあの頃の歌唄うた」と題されたCDをいま鳴らしている。丁度今「ジャバのマンゴ売り」を灰田勝彦と大谷冽子とが唄っていて、引 き続いて高峰美枝子が「南の花嫁さん」を、お土産はなあにと唄っている。こんな気楽そうな時代も唄も流行っていてわたしもちゃんと憶えているのだ。
これから軍歌が続くようだ。わたしは軍歌はハッキリいって「嫌い」だった。軍歌が過ぎて行くと、いっとき「りんごの唄」がはなやいだものの、たちまちに 「かえり船」「星の流れに」「「流れの旅路」「異国の丘」などになってくる。重苦しさの身にシム時代だった。少年なればこそ、堪えられていた。
今、「若鷲の唄」「同期の桜」「轟沈」など歌いだす。こんなウソくさい悲劇へ二度と若い人達を送り出したくない、ゼッタイに。
2018 12/6 205
* ただただ機械の前では「待つ」と覚悟している。
「待つ」にはいろんな仕方がある。
今も、バッハの「フーガの技法」をグレン・クールドで聴いているのも「待ち待ち」の姿勢だが、短い「待ち」には「数を数える」手がある。ただし只一、二、三と数を数えていても面白くない。
わたしの一番の手は、とにかくも天皇歴代を125代、早口でとなえる。ほぼ二、三分かかると分かっている。1 神武 10 崇神 20 安康 30 敏 達 40 天武 50 桓武 60 醍醐 70 後冷泉 80 高倉 90 亀山 100 後小松 110 後光明 120 仁孝 125 平成 と「け じめ」を憶えていれば途中混乱することがない。ああ、この人(?)のとき、こんなあんながあったなあと思うので歴史の「前後の見境」が明瞭に蘇り、これは けっこうな「徳」に値いしている。
125代分の諡を、「うた」のように一気に数えあげてゆくので、なかなか楽しくも、有益でもある。
* やはり「送信トレイ」には送信済みにならないメールが一つ残っている。「来信メール」は今朝、見ない読み出せないのが一本届いていたが、ソシアルネットものは今は誰からのモノも開けず開こうとしていない。
* グレン・グールドというピアノの名手は、演奏しながらときどきちいさな肉声の呟きまで聞かせるのが変わっている。この人のピアノの音色は、男っぽくて図太くて堅牢な感じ。
* 作に掛かっていたあと、気をかえ書庫に入って、雑誌や本の要処分ものを一籠分 より分けた。運ぶのが腰へ来て重い重い。早起きすると午前中がながく使 える。「マ・ア」かけずりながら付いて走るので脚に絡まれないようよほど注意していないと。ことに階段。甘えて、一足ごとに腹をみせ仰向けに抱けとせが む。
* また「フーガ」を聴いている。
2018 12/8 205
* 冷え込む。腰から下の冷えること。午後の外歩き、大丈夫かしらん。十時半、もう眼は霞みに霞んでいる。
メールは不調、発信できていない。受信はどうか、分かりかねている。じっとガマンし、半ばからだを固まらせたままカザルスを聴いている。
2018 12/10 205
* 留守に郵便や宅急便の不在票が二、三、ポストに。恐縮。明日待ちとなる。
今は機械に向かいながら、巨匠と聞いているパウ・カザルスのチェロ曲を楽しんでいる。
2018 12/10 205
* カザルスの音の深さ 全身吸い込まれて行く。ソクラテスが良い国家の国民の最良で必要な三種の教養・趣味として「文藝」「体育」にも先だって美しく佳き「音楽」をあげているのに思わず敬服する。
2018 12/11 205
* 諸検査、朝食より前に、機械に電源だけを入れておいた。階下でモーツアルト、バイオリンとピアノの美妙で軽快なコンチェルト一枚を楽しみながら、餅二つ出汁雑煮、酒「秋鹿」を猪口に三杯。相伴は「マ・ア」たち。
そして二階へ。尾張の鳶 「無事帰国」と。
2018 12/12 205
* いつどう手に入れたか忘れ果てているが「Secret Qarden」と題してあるCDを聴いている。いろんな「曲想」の典型例を列べているのか。それぞれに美しい波のような風のような花の咲くような雪の舞う ような音楽が現れる。「秘密の庭からの歌(songs)」とある。そんな感じなのを聴いている。なんとも懐かしやかに美しい佳い盤である。
2018 12/13 205
☆ 師走の京都です。
こんにちは。
冷たい風が枯れ葉を散らして今年も後少しになりました。
ご体調はいかがですか。
今年は膝の調子が悪く東京へは行けずじまいでした。
長女一家は荻窪にマンションを購入、もうこちら(京都)には住まないと思うと ちょっと寂しいです。
CDの「Secret Garden」
以前 一度お目にかかった折、貰っていただきました。
でも後になって 恒平さんはクラシックの名盤がお好きだとわかりました。
胸にしみ通るようで好きだったので、自分の好みで失礼なものを差し上げたのではと後悔していました。
木江の「私語」で あのCDのことが書いてあるのを読んで 飛び上がるほど嬉しかったです。
もう何年前になるのでしょうね。
どうぞお元気でいてください。
よいお誕生日をお迎えくださいますよう、来る年もよい一年でありますよう心よりお祈りしています。 みち 秦の母方従妹
* おー、そーでしたか、ありがとう。たった今もそばのラジオで 静かに しみじみと聴いていますよ。
みなさん、お元気で、いい春、お迎え下さい。
2018 12/14 205
* 菅野万利子のピアノ・ソロアルパム「リジョイス」を鳴らしている。いま、ショパンの幻想即興曲。八時半。暖房していても下半身の冷え、痛いほど。
2018 12/15 205
* 京・岩倉の森下辰夫君、お手製の「戦後日本流行歌史 第四集」恵投、目次を見ると、さすが同年、お互いに懐かしい歌声の好みも記憶も似ているなあ。感謝。うまく鳴り始めてくれるといいのだが。
☆ 秦 兄
内外共に多難であった一年も終わろうとしています。今年も兄には随分とお世話になりました。ほんとうに有難うございました。
今年の漢字は災ですが、来年lま息災であってほしいものです。しかし各国の政治家の顔ぶれを
みれば平安な年になるでしょうか。私も今年は少し力み過ぎたようで、あせっても詮無いことにようやく気づきましたので 来年は猪突猛進をせずにマイペースに戻って後悔のない一年にしたいと思っております。
それには目の酷使は程々にし、音楽を愉しむのがいちばんと 衰えた聴力で戦後歌謡史のCD
化を少しずつ始めました。ラベルなど手抜きの仕上がりですが第4集をお届けします。
この時代の流行歌は 多感な年頃と重なり 独特の雰囲気があってどの曲も楽しめます。カセットの磁気テープは劣化して再生中に切れたり伸びたり捩れたりで修復に手間取っていますが 楽しい
作業です。好きなことなら面倒でないから不思議です。詮ずる所は気の持ちようということに落ちつくのでしょうか。
来る年はお互いによい年でありますよう、より良い年にするように残り少ないエネルギーを燃焼させましょう。変わらぬご厚誼をお願いします。
洛北も急に寒くなりました。十分ご自愛の上よい年末年始を愉しくお過ごしください。
2018-12-12 森下辰男
追伸、Kindle本の拙著を 来年1月3日の午前0時から7日の午後11時59分までの5日間は 無料でお読みいただけるキャンペーン期間に設定しま した。是非この機会に兄のフアンの方にもこのキャンペーンの存在をSNSで拡散伝播してくださいますようお願いしておきます。
* 森下君は 選挙法の改善を願って独特の理解と理論で論を為し続けている。
* ここに「SNS」とあり「Kindle本」とあるのも、どういうことか、わたしは知らない。それほどわたしはこの機械世界に関して不勉強で無知の儘にこのホームページを二十年も運営してきた。愚の骨頂なのかオコの沙汰なのか、知らぬがホトケなのか、我ながら嗤ってしまう。
この間にも懐かしい歌声が聞けている。だいぶ珍しい曲もまじっているようだ。当分、愉しませて戴く。
2018 12/15 205
* ベートーベンのピアノコンチェルトを三つ、グレン・グールドに聴いて、やすまず仕事している。
2018 12/17 205
* エト邦枝の「カスバの女」 菊池章子の「星の流れに」 扇ひろ子の「新宿ブルース」などを 聴いていた。昭和の「敗戦後」という時期がいかに深刻にわたしの心身に刻まれているか、目を閉じ思い知っている。
十時過ぎてしまった。あすは十一時過ぎには出掛けねば。
2018 12/18 205
* まだ六時半でしかないのに、左肩・胸が重く硬く、疲れきっている。辰男編版の戦後歌を聴いて疲れを誤魔化し慰めている。「小判鮫の唄」なんて知らない し面白くないが、次は淡谷のり子が「君忘れじのブルース」を聴かせる、昭和二十三年の唄だとか、新制中学に入った年だ。やはり圧倒的に巧い、しみじみと大 人のうたごえを聴かせて呉れる。声も美しくて重量感に充ちている。二葉あき子も美声なのだが淡谷のり子とならべて聴くと声が薄くて浅くて弱い。
笠置しず子の「ワーオワーオワオ」と叫ぶ「ジャングル・ブギ」なんてのはあのりにツマラナイ。作詞が黒澤明、作曲は服部良一とはね。
つづけて沢山聴いたが、淡谷のり子「君忘れじのブルース」の足もとへ寄れる歌手も歌も無かった。
2018 12/22 205
* 辰男版の戦中軍歌から敗戦後の流行歌を鳴らしながら仕事していた。軍歌はつくづくイヤ。しかし、バタやんの「かえり船」から菊池章子の「星の流れに」に来 ると、胸がふさぐ。「こんな女に誰がした」という歎きは聴くに堪えない。歌も歌詞もみごとであるだけ、もうもうぜったいにこれだけはイヤだと泣けてしま う。「戦争に負ける」「占領される」とは、こうなのだ。だが、いま、この歌を聴いて意味のとれる大人がどれほどもいなくなっている。それでいいとも、それ がこわいとも思う。「こんな女」今も巷に「平気で」溢れているではないかと笑う者もいよう。ちがうなあ。
2018 12/24 205
* アムステルダムのLoeki Stardust Quartet の「THE ART OF FUGUE」に耳を楽しませている。こんな盤を、いつ、どう手にしたか、まったく覚えないが、佳いモノである。
2018 12/27 205
* 音楽を聴いていても、この、フーガの演奏が何かしら管楽器とはわかっても、笛の名前は知らない、分からない、分からなくてもいいと諦めている。音楽は、美しい、耳はよく聞こえる。
2018 12/27 205