ぜんぶ秦恒平文学の話

音楽 2021年

* 体調は容易に調わない。師走の十日頃、二十一日の誕生日まで生きてられまいかと謂うほどヘタッていた。
いまは、すぐ斜め目の前で、すっかり気に入りのジャズが歌い続けている。
2021 1/5 230

* わたしはというと、八時すぎに目覚めたが、そのまままた寝入っていた。正体の崩れそうな体調の違和に、やがて一時になろうというのに衰弱のまま、い る。トーサン好きなマコは、この部屋へ連れてきてある。ソファの「巣」から、わたしの背中をみている。いつものジャズが静かに、わたしは左側頭部にかすか な不快感のまま、キイを押している。地球にはコロナの悪風が吹き荒れ、日本國のウスノロめく失政は恥しらずに紙風船よりかるい言葉で言い訳すらロクに出来 ない。
2021 1/13 230

* いつもいつもいつも鳴らしている愛好一枚のジャズ盤、一部に怪我ができたか10秒分ほど沈黙する。申し訳ないが、鳴っていると安心できるバラードなので。
2021 1/18 230

* 六時半、午から根気よく機械仕事を継いでいた。疲れに、睡魔がすり寄ってきている、が。
静かなジャズ そして、この日記のアタマに置いた土牛と薫の「丑」の繪や、生まれる以前から知っていたような「少女」像に見入って気をやすめる。
2021 1/23 230

* 今日は、ずっと機械で仕事しつづけていた。疲れて夕過ぎてすこし寝入ったが。仕事は、力仕事にも類したが捗ってくれた。
十時を過ぎて行く。もう機械からは離れ、読書と音楽。今日は、昼間はグノーのオペラ「フアウスト」を聴きながら仕事していた。グレン・グールドの「ゴールドベルク」が久々に出番を待っている。明日のことに。
2021 2/13 231

* 久しぶりグレン・グールドの「ゴールドベルク変奏曲」を娯しんでいる。
もう、大小となく、テレビから聞こえる見える「世間話」が、まっとうそうだが本音はくたびれた井戸端の口舌の域を出ないのに、ウンザリ。グールドのピア ノは掛け値なく美しく心根に響いてくる。世界史的にもえり抜きのみごとな古典文学に触れていると、世辞や世事ぬきに、生きている嬉しさを覚える。
「ほんまのことはナ、言わんでも、分かる人にはわかるのん、分からへん人にはなんぼいうても分からへんの」と教えられた。ハテ、わたしは、「分かる人」 なのか。「分からへん人」なのか。苦笑しつづけてあの中学生の昔から今日まで不様に生き継いできた。「あほやなあ」と、あの教えてくれた人は、身近な虚空 のうらで笑ろてはるやろなあ。
2021 2/14 231

* グールドのピアノを耳に、ぶっ通しのガンバリで、三時半を廻って行く。時に靖子ロードへ出て路上へ窓をあけ、グレコのちいさな画集に見入る。凄い画家だ、眼を抉られるよう。

* ヴァーッと街へ出て、帝国ホテル地下の中華料理か、三笠会館のステーキか、上野へ走って天すずの天ぷらか、浅草米久で贅沢にすきやきかなどと思ったりする。すこしヤケ気味ではある。コロナ禍はまだまだ嘗めてはいけない、絶対に、と思っている。

* ゴールドベルク変奏曲32曲はバッハのピアノ曲の筋金入り、それを稀代の名手グレン・グールドが弾き続け、また繰り返し弾き続けている。私は、どうも弦の曲よりピアノ曲が好き。
2021 2/14 231

* 九時をとうに回っている。朝から、よほど今日は集注出来ていた。グールドのピアマと別れて階下へ。休息。
『史記列伝講義』上巻をやがて終える。『十八史略』の漢文もとても読みやすい。いま、読書に恵まれていて『フアウスト』も『失樂園』も、ぐんぐんと「読み物」として惹き付けられている。相変わらす『指輪物語』にも引き込まれている。
2021 2/14 231

* 谷崎先生には年がら年中此の角度で睨まれている。松子奥様になだめて戴い ている。若い若い日の{娘}靖子に笑われている。妻の描きおいてくれた亡き愛猫ノコがいつも見守ってくれる。囲まれた黒い角い機械は建日子が「トーサン」 に呉れて、日々音楽を愉しんでいる。今は、カラヤン指揮で、ディヌ・リバッティがグリーグのイ短調ピアノコンチェルトを弾いていて、ついでシューマンのそ れに代わる。書き仕事にはなんら邪魔にならず、そして「マ・ア」が、ふっと思い出したように足もとへ顔をそろえる。二枚の革ペン皿にわけてやる「かつお細 削り」をきれいに食してカーサンの階下へ帰って行く。
稚心可咲、わらふべし、八五老。
2021 2/17 231

* 森下兄の送ってくれた藝大卒の声楽家藍川由美の歌う「歌謡曲」を、今朝は聴いている。知らない歌は一つもない。いま「白いランプの灯る道」を歌ってい る。歌謡曲歌手なら強調するコブシはほとんど殺して、美声と澄んだ気配を歌う。で、どの歌もほぼ同じアンバイである。それでも、今聴いている歌も、これか ら歌う「港の見える丘」も「フランチェスカの鐘」「長崎の鐘」「白い花の咲く頃」なども、清潔感を哀愁がつきぬいて歌われ、声楽の妙を愛聴できる。
とはいえ、私の耳には、ところどころで自然な諧調が、かすかに不自然に「蹴躓く」と聞こえる箇所がありますナ。なぜかナ。
2021 2/20 231

* 機械のなかを散策中に、「ひばり」という短編のあるのにぶつかった。アレレと思ったが、『選集 11』に収めていた。口絵をみると、懐かしい、京・新 門前の父がくつろいだかっこうでちっちゃな建日子を膝に抱き、母もそばへしゃがんでいる写真が上段に載っていた、下には幼稚園頃か建日子と私で我が家の門 のまえで撮った写真と、そのわきに、一年生の建日子が「父の日」に教室で書いてきたという、
お父さんへ、

いつでも日の出づる人に
なていて下さい。
建日子
とあるのも 同じ選集11の口絵に遣っていた。嬉しくて、しばし見入っていた。
「ひばり」か。懐かしいなあ。こんな短編をひばりの「唄」と合わせ合わせ十も書いて置きたかったが。美空ひばりもまた わが青春の花であったのだ。
2021 2/20 231

 

* 今朝は アマリア ロドリゲスの ポルトガルのファドを聴いている。何を歌っているかは、ちっとも構わない、ファドなる歌謡に触れ合うたのは何十年む かしだろう。マドレデウスから始めたのだった。なまじ歌詞をぜんぜん理解しない分、純な音楽として耳に親しんで楽しめる。歌手のことは、写真の顔しか、女 性としか、なにも識らない。 2021 2/21 231

* マドレウスのチャド、「ムーヴメント」に板を代えた。ポルトガルのチャドに出会った一枚目、たいへんに面白く受け容れたのを思い出すが、何十年の昔かももう覚えない。 2021 2/21 231

* バッハやショパン、またジャズバラード、そしてファドなど鳴らしつづけてきたが、いま、ふっと森下兄の撰になる「戦後日本流行歌史 第五集」を機械へ さしこんだ。いきなり懐かしい林伊佐緒独特の含み声で、「ダンスパーティの夜」が来た。彼は「ダンスパーテ」と謡うのも当然昔のママで、わらってしまっ た。次いで渡邊はま子の懐かしい美声で、いま「桑港のチャイナタウン」を聴いている。さっきは「火の鳥」を謡っていた。あっというまに中・高生の昔へ帰れ る。「懐かしや 懐かしや」とはま子の歌が続いている。かなり効くビタミンになってくれるか、お、ひばりが「越後獅子の唄」を歌い始めた。ひばりをそれは 上手にうたった恋しい懐かしいおさなかった人たちの顔が、光る箭のように胸に衝き入ってくる。

* やはり歌謡曲は歌謡曲歌手のつよいクセで歌われるのが本当なのだろう、声楽家の流行歌は淡味に過ぎて、かえって趣味のよくない企劃に思える。
2021 2/24 231

* よく晴れているのに妙にうっとおしい日であったが、いま、松たか子に貰っていた「みんなひとり」 ことに彼女自身の作詞になる「幸せの呪文」「now and then」を聴いて、健康におおらかな歌声に気を励まされている。ちからと魅力とに溢れた松たか子はすてきな「存在(ひと)」である。
繰り返し繰り返し聴いていて、身の底から熱く励まされる快感に溢れる。まさしくみじんゆるみ無く、歌声そのものが燃え上がっている。
2021 2/24 231

* いま、目の前の機械は、ヘンデル作曲のオラトリオ「メサイア」を聴かせてくれている。これは縁の遠いものではない、いま耽読している「失楽園」も 「ファウスト」も、繰り返し手にふれる「創世記」以降の『旧約』世界と想い豊かに触れ合うている。ロシアを旅してトビリシのホテルに宿泊の時、どういう キッカケであったか、ホテルの従業員のような人が、いきなりに『スターバトマーテル』のレコード板一枚を手渡しに呉れた。大事に日本へ持ち帰り、よく聴い た。こういう世界へ触れ合ってゆきたい気持ちが、私にはもともと在る。神仏であれ神であれ、ことに聖母マリアであれ。
この二階廊下の書架には「マリア」に関わる本が数冊の余も積まれてある。そういえば、昔、世界の名作に「マリア」の名で登場する大勢の女性たちをとりあ げ一冊の思索本にと或る出版社と申し合わせたことがあった。私の事情で成らなかったが、おもしろい企劃ではあるまいかと今も思う。世界の名作に、マリアの 名のさまざまな女性が登場して意味を帯びている。トルストイ『戦争と平和』にも佳い「マリア」がいる。小説ではないが映画「ウエストサイド・ストーリー」 の心優しいヒロインも「マリア」と高らかに歌われていた。いい本が書けるはずである、だれか書きませんか。
2021 2/25 231

* 懐かしい限りの原節子に似た、コントラアルトのキャスリーン・フェリアーの歌うしューマンの歌曲集「女の愛と生涯」をいま聴いている。 令和三年二月の現実をわめきチラしているようなテレビ画面と喧しさは、イヤだ。
2021 2/25 231

*かなりの貧血に落ちているのか、夜前就寝のころより、夜中の手洗いへも、今朝の寝起きでも、よほど朦朧とからだが揺らいだ。幸いアタマにも手指 の働きにも変はない。ヴィクトリア・ムローヴァのバイオリンで、チャイコフスキーの協奏曲を聴いている。シベリウス、パガニーニと続いて、ヴュータンに至 る板で、此の、ヴュータンという作曲家が、東工大の教授室のころから、妙に気に入っている。
2021 2/26 231

☆ カマロン・デ・ラ・ルイス
賢者に尋ねた
死の後になにがあるかと
賢者は答えた
それは誰にもわからない
ただ、神のみぞ知る
フラメンコの大きな歌手であったというカマロンの、叫ぶほどに何かへ訴え呼ぶ、息つくひまも無いはげしい歌声を聴いている。まっすぐ胸に迫るものが今はなにより尊く思われる。
2021 2/27 231

* マカロンの歌に胸を掻きむしられているが、聴き止めてしまえない。

* むかし、あれは、敗戦後の六・三・三新制中学へ進んだ一年生の、音楽の教科書に「オールド・ブラック・ジョー」に天国から「早く来い」と呼びかける譜 と歌詞があり真実憤然としたことは、何度もあちこちで書いた。これから何十年も懸命に生きて頑張る少年に天国へ早くおいでとは何事かと怒ったのだ。が、  今は、もう、怒れない。なんともう、あの世へ移転した親しかった人たちの数多いことよ、そしてみな私を呼んでいるかと想われる。逆らうことの出来ない、こ れが、天命か。
2021 2/27 231

* カマロンの熱い叫び歌に私を鞭打たせている。

* 過剰なほど下半身が冷たく寒いと感じるのは、蛋白脂肪炭水化物みな栄養を摂ろうとしないからよと妻は云う。ちがいない。からだが求めてないのもその通 りで、いろんな意味で不順なのだ。妨げているのはほかならぬ「私」にちがいない。バカげている。カマロンの叫ぶ歌声を瀧に打たれるように聴きながら、目を つむる。黒いマコが、階下へ降りましょうと脚をつつきに来た。正午。

* 以前は、読書がしっかり楽しめるほど長湯できたのに、このごろは、湯あたりしそうになり、心ならずはやく切り上げる。
六時半、いよいよ二月が去って行く。どんな三月が訪れるか。恙ないのを願う。
マリア・カラスの卓抜の美声を聴き始めている。ドニゼッチィの「苦しい涙を流せ」からはじまった。めずらしく此の盤は自分で、池袋駅地下構内の出店で買い求めたのを覚えている。マリア・カラスがあまりに綺麗だったのに惹かれた。
わたしはこの手の音盤の殆ど全部を誰か彼かから頂戴して、大方はどなたからとも忘れて、愛蔵している。有り難いことだ。

* 荷送りで宅配受付まで自転車で走り、息切れのまま、グレン・グールドで、ベートーベンのピアノを聴いて 息をととのえている。風はあるが 暖かい。二 階の窓へもたれ込みそとへ顔を出して、グレコの繪の次には、表紙もボロボロの分厚い岩波文庫の『歌合集』に、古人の「判」わ無視して私自身の「判」をして 行くのを楽しみ始めた。暖かくなるにつれ窓の外へ顔や手を出すのもラクになる。が、さて古来の歌合は限りなく歌の数も多い。ま、出来るところまで。
が、もう、眼を開いてモノをまともに視る、読むことが、短時間しか出来なくなっている。点眼薬で一時凌ぎ凌ぎするばかり。不審に思うまでも有るまい、八五老だ。とても九重老とまでは有るまい。
2021 2/28 231

* えらくかぜが強い。要慎しなくては。

* ベートーベンの「ピアノ・ソナタ 30 31 32」グレン・グールドの佳い演奏で 聴き、いや書斎に流し続けている。とても佳い。
2021 3/2 232

* フランシス・プーランクの曲で、ソプラノと合唱での『スターバト・マーテル』を聴いている。
ジーザス・クライストの佳い音楽映画があったのを、観直してみたくなった。
佳い映画は、手を出し始めると、際限のない魅惑でわたしをとらえる。そんなヒマはもうもう無いのに。
さ、仕事、仕事。
2021 3/5 231

* 音楽は、バッハの「フーガ」をヘリベルト・ブリュウアの指揮で。静かに美しい、私の好きな大作である。
目が腫れぼったくなってきた。すこし休む。
2021 3/5 231

* それにしてもバッハのフーガの美しくも懐かしい静かさ。思わず眼を閉じて聴いている。
そして…まことに難儀は難儀、しかし心入れて「湖(うみ)の本」書き下ろし新稿を校正している。
2021 3/6 231

* いまここでは バッハのフーガの美が静かに鳴り続け、階下ではテレビ画面のかわりにベートーベンの協奏曲がグールのピアノで鳴りついでいる。いま心して新たに養わねばならないのは、衰えがちな魂である。
2021 3/7 231

* 音楽の素養も知識もないので、とても気に入って愛聴しているバッハの「フーガ」なる音楽が何を意味するかは、全然知らない、分かっていない。「遁走曲」と云われても何ごととも全然理解できない、が、ただただ愛聴して飽きないのだから、それで「ええやん」と思っている。
音楽と限らず、そんなふうに惚れ込んだ「ええもん」は多々ある。美術骨董など、くどくど理屈をツケテ知って、だから好いのどうのなど思いこまぬ事にして きた。「なんや知らんけど」好きや嫌いやということ、物事と限らず「人」に向いても、それはある。「しょがない」やないかと思う。時に、毛嫌いしてたもの が逆転の好きに変わることもあり、不思議と思わない。
2021 3/8 231

* 八時前に ちょうど目覚めたが 妻や「マ・ア」は起きているなと安心して 朝寝を貪った。妻の惚れている松平長七郎君に付き合って、二階の機械へ、電源を入れにきた。もうはや正午まえ。なにも 慌てることはなく 仕事も ま、落ち度なく運んでいる。
バッハの「フーガ」集は 絶妙の室内楽、聴いてなくても美しく聞こえ続ける。いい絵や美術も、観て触れていなくてはならない、音楽は耳があれば聴ける。
2021 3/11 231

* バッハのフーガ集をグレン・グールドに換えた。七時半だが
2021 3/18 231

* マリア ジョアオ ピレシュ のピアノでモーツアルトを聴いている。ピレシュのピアノは、グールドと双璧あるいはそれ以上に懐かしく美しい。音の粒が清んで鳴る。
それにしても今、わたしの背後にほぼ60ほどもCDケースが並んでいる。一つで二枚三枚と板の入ったのもあり、それらが私の傍の此処になぜに在るのか、 分からない。自前で買った記憶はマリア・カラスのソプラノしか覚えがない。あの人に貰ったと思い出せるのは数枚しかなく、しかし、ぜんぶ、貰ったものには ちがいなく、そして、いつしかに私はクラシック音楽を板(CD)で 「聴く」楽しみを、(音楽会に出かけたことは稀有に属するが)満喫できるようになっている。感謝しきれない。美術展には出かけられず、今は行っても視力が ダメでよく見えず、しかも一度観ただけで美術の魅力は胸に定着しないし、印刷画集の「色校正」は所詮信頼しきれない。色ほど真実「記憶し難いモノ」はない のだから。音もそうかもしれないが、同じ色と思いつつ、人はだれもが違う色を観ている。
音楽の録音にも限界はあろうけれど、機械技術は精密化していて、わたしは信頼と謂うより感謝を寄せながら繰り返し繰り返し、時を選ばず、一日中でも、何 日でも、同じ板(CD)を愛聴している。わたしの聴いている「音」と同じ音をほかの人も聴いているとは保証の限りでないが、それでも、まあ、なんとピア シュのピアノ  美しい。
2021 3/22 231

* 花盛りらしい。この下保谷でも、か。散歩しましよと誘われている。二、三日早いか。
テレビの伝える世間図は乱れざまに汚れがち。つきあう要はなく、「マ・ア」にせがまれて二階で削り鰹をすこしずつ二枚の革ペン皿に平等に分けてやり、わたしはピレシュのピアノを聴いている。椅子での脚もとが少し冷える。膝かけすっぽり蔽う。

* 大學で英文学教授を務めていた大叔父の吉岡義睦と学生の頃ただ一度偶々出会い、三条河原町辺の店でごちそうになったとき、「音楽も聴くように」と云われたのだけを長く記憶していて、今では私の日々にクラシックの器楽曲、ことにピアノは欠かせなくなっている。
美術品と出会には身をはたらかせて出歩かねば済まないが、音楽のための機械はまことに重宝、ありがたい。なによりも、仕事に障らないのが有り難い。音楽 ゆえに書きちがえることはない。ときに眼をとじていても音楽は聞こえている。良い音と ことばを紡ぐのとは、邪魔をし合わない。
いやいや、騒音のなかでさえ、言葉へはいい感じに集注がきいて、たとえ喫茶店での他のおしゃべりがどうあろうと気にならなかった。わたしの初期作品は、ほとんど全部、勤務時間中の喫茶店で書かれていた。
勤めた医学書院で、わたしらの編集長、社の外では国文学研究の碩学であった長谷川泉教授は常々曰く、「編集者は24時間勤務」、どこでどう時間を使って も生かしても「仕事」が成るなら良い、構わないと。わたしは、有り難く拳々服膺して、いたるところの街なかで小説も書いていた。騒音が邪魔などと感じたこ ともない、ときには喫茶店でや昼食の店で人と話しながらでも書いていた。文章が「雑」になるなど、全然なかった。昭和三十七年七月末に「或る折臂翁」を書 き始め、昭和四十九年八月末に退社したが、それまでに脱稿し、九月早々には新潮社から「みごもりの湖」、集英社「すばる」で長編「墨牡丹」が一挙掲載されたまで、みな「原稿用紙に手書き」の全作、家でよりほとんど街なかで書いた全作が、それを証している。
むろん、さらさら書き放しでなく、用紙がまっくろになり、自分でも読みづらいほど徹底推敲していた。街なかでしていた。そして、妻が、全作、新しい原稿用紙に清書してくれた。出版社は、私の書き文字でなく、たいてい妻の文字原稿を読んでいたのだった。
私は思っている。作家の才能とは 「推敲の根気と力」にあると。書き損じ用紙をまるめて捨てたりせず、即、そのまま推敲した。必要なら同じ原稿で何度も重ねてした。
コンピュータは、文学の味(こく)を機械的な走り書きで薄めてきたのではないかと感じている。
2021 3/23 231

* 漢字の読みとルビの要不要をこころして点検しながら漢文を日本語に訓み下しているうち、ヘンク バン ツィラートのバリトン サキソフォンのためアレンジ されたというバッハのチェロ曲を鳴らしたまま、機械の前でどれほどの時間か熟睡していた。やがて四時半。胸やけで目覚めた、そばに水分無く、ポケットの ヴィックスを一粒口に含んだ。不快を少なくも清めてくれる。
2021 3/24 231

* ゲラ校で目が疲れきって。 ヴィクトリア・ムローヴァのバイオリンで、チャイコフスキーの協奏曲二番を聴いている。なぜか好きな曲で。音楽の約束事な ど何の常識すらわたしは持たないが、ワケもなく聴いてて楽しめるのだから、有り難い。だれもがすることか、バカげているのか知れないが、いい気分で音が追 えると両手首をコマコマと、また静かに豊かに動かし、自分が指揮でもするような気分まで楽しめる。ことにこのチャイコフスキー二番は大いにソレが楽しめ る。バカみたいだけれど、ひとりで陶然と酔う。バカみたい。
2021 3/25 231

* ビクトリア・ムローバのバイオリンで、チャイコフスキーの協奏曲ニ長調作品35を、この曲が好きで。小澤征爾指揮で聴いている。鳴らしている、と謂うべきか、仕事しながら。
2021 3/26 231

* 昼過ぎまでチャイコフスキーとシベリウスの、午後からはパガニーニ、ヴュータンのバイオリン協奏曲を聴き続けている。ビクトリア・ムローヴァ。指揮は小澤征爾。興が乗るとわたしも手を振って指揮する。いい体操になる。
2021 3/26 231

* 骨休めに階下へ降りると、録画の、子供達に残したい日本の歌の、「朧月夜」「山紅葉」や「狭霧消よる湊江の」等々を泪を浮かべながら、よろこび聴いていた。
2021 3/27 231

* モーツアルトのヴァイオリン・ソナタ(24 28 35)を、ヘンリック・シェリング、ピアノはイングリット・ヘブラーで聴いている。ピアノの鳴りがじつに美しく、おおいに楽しめて嬉しい。
2021 3/28 231

* 午後二時半、まだ、茫然としている。モーツアルトのバイオリン・ソナタを聴き続けている。曲の美しさはもとより、イングリット・ヘブラーのピアノの音色の精妙に美しいこと。ピアノという楽器の底知れない可能と魅力とに、ただ感嘆。
2021 3/31 231

☆ 櫻
HP冒頭毎日の、詩歌に関する文章を楽しんでいます。鴉の思うところがくっきりと伝わってくるように思います。
桜が咲いたと思ったら低気圧の前線が通って風雨強く、そして今日は黄砂とか。早くも満開を過ぎた桜の景色です。家から200メートルくらい離れた川沿いの桜を数日楽しみました。
(一歳の)ちびちゃんは散った桜の花びらにご執心でした。毎日トラックやパトカー、ごみ収集車などを興味深く見るので 連れていきます。
我が家の桜はまだ蕾です。
数日前から『花方』を読み返しているのですが、以前理解できなかった箇所に再び立ち止まっている為体(ていたらく)です。熊野に関連して、昔行ったことのある熊野の長藤を思い出しました。天龍川東、磐田市池田の行興寺は藤の名所です。
鳶は 婀娜な姿どころか、汚れ目立たず洗濯が容易な服ばかり着ている日常です。時にはお洒落もしたいのです・・それは自分の気持ちを奮い立たせるためでもあるのですが・・。
モーツアルトの軽妙な曲・・? 何でしょう? 教えてくださいな。(鳶は、何故かモーツアルト全集をもっているのです。モーツアルトは軽快で美しいけれど、哀しい。)
取り急ぎ
花粉症にも負けず、この季節をどうぞ楽しまれますように。  尾張の鳶

* ヴァイオリン・ソナタ第24番 ハ短調 K296 と思われます。15歳の少女テレーゼ・ピエロン嬢に捧げたとか。ヘンリッキ・シェリングがヴァイオリンを、イングリット・ヘブラがピアノを弾いていて、その鳴りが素晴らしく美しくて愛聴していました。
今は、あしュケナージの弾いているピアノでベートーベンの「月光」を聴いています。ホロビッツが「熱情」と「悲愴」とを弾いています。

* いよいよ、機械がだか私がだか分からないか、送った気のメールが飛んで行かなかったり、今までと同じ機械で聴いているCDが、冒頭一楽章分だけしか聴かせてくれずに繰りかえし続けたり。
2021 4/1 232

* 倍賞千恵子の歌を「遠くへ行きたい」など二曲、岸洋子の「希望」 誰で あったかの「学生時代」をしみじみ聴いた。わたしは、ちっとも老人らしからぬのか、いや老耄してこそ、そういう前時代、前前時代の歌声がせつなく恋しいの であろうよ。美意識として がさつ さわがしい というのを最もよからぬこと。ものとして確信しつつ時代に育てられた来た。静かに、美しいもの・こと・ひ とを貴び尚とんで世の中を歩いてきた。今の日本は、もう堪らない、イヤだ。
2021 4/9 232

* 鳥取県知事が、聞くもおそろしいコロナ感染拡大の新知見をテレビで語っていた。下火に下火にとつい願うのだが、新型の、亞型のかくれた新感染源がまだまだ威力を発揮しつつあると。ただただ用心にしくは無い。
昨日からずーうっと、グレン・グールドのピアノで、バッハのゴールドベルク変奏曲を聴いている。
2021 5/20 233

* 朝食よりはやく、まっ先に「方丈」に入る。バッハのピアノ曲をグレン・グールドの演奏で聴いている。昨日の、歌の仕事の余韻がある。
2021 5/22 233

* かすかな頭痛か頭重があり、暑さを感じたり かすかな寒気を感じたり している。体調の安全が言い難い。おとなしく堪えるしかないだろう。
宮沢明子の、ガルッピとスカルラッティのピアノソナタ  ショパンのカンタービレ、コントルダンス、ノクターン(遺作)  バッハのシチリアーノなどを聴いている。ピアノの音色の美しさに魅了横溢。
2021 5/26 233

* 桜桃忌。 太宰治文学賞により「作家」として立つを得て52年になる。縦横に手足を働かせてほぼ悔いなく働いて来れたし、まだまだ先は有る。桜桃は手に入らなかったが、建日子の祝ってくれたレミ・マルタンで乾杯、とにもかくにみコロナ禍の日々とも戦い克って行きたい。宮沢明子の澄んだピアノがガルッピのソナタを綺麗に弾いてくれている。
2021 6/19 234

* 朝早やもまだ五時半、「アコ」のヤツ、書斎へ侵入し、書架に置いた、例の、「変わり手創り」の綺麗な手鞠とその座布団とを、階下の寝室へうれしそうに得意そうに運んできた。仕方なく、六時、二階ヘあがってみると、例の如く、書架手鞠座の前の「松子夫人」美貌温顔のお写真が下へ落とされ、あろうことか、いつも横で厳格に睨まれている「谷崎先生」の顔写真まで、可笑しそうに表情を和らげて見えるではないか。ウーン。

* そのまま機械をあけ、ピアノ曲を静かに部屋にながしてこれを書いている。「マ・ア」は私の脚にまとわりついて「削り鰹をチョーダイ」と甘えている。「遣らんぞ!」
2021 6/29 234

* 何としても疲労の小波が絶えまなく身に寄ってくる。こらえてはやり過ごす。ダメなら寝入る。
今は、澄んだ音色のピアノ曲を聴いている。歌曲は、どうしても言葉に引っ張られる。
2021 7/4 235

* 「こどもたちに残したい日本の歌」をいつも愛聴している。中には、陳腐な大人向けの現世歌謡ももまじるが、総じて胸を打たれ嬉しくて泣いてしまう。サトー・ハチローの詩など、まことに「うた」そのもの、詩歌は「うた」なのである。近時各結社誌の短歌など、瓦礫を踏むような生硬をきわめた低調な思いつきの書きなぐりで、いささかも「詩 うた」になってない。
2021 7/10 235

* いちばん願っていた横綱白鵬の、四十五回目、願ってもない「全勝」優勝の大相撲が観られた。もう百年二百年待っても、四十五回も優勝できる横綱はもう絶対に現れないと私は言い切る。勝ち相撲の激昂の表情に最高の美しい「男」を観た。解説のチビ男などが何をケチつけようとも、要は土俵上での「手」を尽くした「勝ち相撲」の15連続だった。偉業と頌え、私は、そんな横綱と時代をともにした嬉しさを満喫する。
負けはしたが大関照乃富士の大健闘にも心からの賞賛を贈る。彼が勝っていても私は賞賛を惜しまなかった。

* 美空ひばり、板東玉三郎、に加えて横綱白鵬、こんな完成された天才と世紀をともに生き得たのを私は喜んでいる。哲学と藝術の畑で、これほどの人らと出会えないままで死ぬるかと、寂しい。
2021 7/18 235

* 朝、八時二十分。ガルッピやスカルラッティのピアノ・ソナタ、珠を転がすように美しい音色に聴き入っている。
本や創作を介して日本中にくまない多年の友人達のご健康を願っている。
2021 7/16 235

* よく選ばれた「歌 うた」番組を聴くのを楽しみの一つにしている。童謡、唱歌、歌曲、すぐれて懐かしい歌謡曲など。故郷、夕焼け、たき火、荒城の月 異国の丘 青春 川の流れのように 椿姫乾杯の歌 等々 いくらも有る。泣ける懐かしさ 嬉しさ 恋しさ。
一方で、もの忘れは日々にすすむ。機械の作法もときに戸惑う。「ゐ」の字をどう打ち出すのか忘れて暫く困っていたが、ひょいと思い出す。思い出すというより指さきが見つけ出してくれる。
2021 8/16 236

* 早朝に起き、音楽(プロコィエフのビアノ協奏曲を十七歳の女の子が実に楽しげに弾いてくれた。)を楽しんだ。この節、まだしもテビという限界はあっても音楽は器楽も声楽も楽しめてありがたい。
造形美術は、ことに絵画は、テレビでは真には鑑賞できない。久しく美術展に出向けない。
文学は、手近に手に入れて読まねば楽しめないが、新しい作は手に入れるのが難しい。しぜん、往年の秀作名作佳作を書庫から持ち出すしか手がない。それでもドストエフスキーもカフカもツワイクも楽しめているのが有り難い。読書や音楽、また私語・作文、それなくてこのコロナ禍で逼塞の暮らしは保てない。
2021 8/28 236

* 疲れ寝のあと、霧島昇、灰田勝彦、小畑実三人の、懐かしくも身に沁み覚えていた戦前・戦中・敗戦後・戦後の歌声をしんみり聴きながら、戦争と敗戦と復興というふとい歴史線に、懐かしくも胸打たれ絞られた。いい番組だった。
もう十時半もまわった、今夜は何もせずに寝(やす)む。また明日から。
2021 9/10 237

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