* 夕方、妻と、実に久しぶりに俳優座劇団公演,夏目漱石原作・秦恒平劇作『心』を、加藤剛、香野百合子主演で、懐かしくもしみじみと観直して、色んな場面と科白とで泣けた。気恥ずかしくもあり、しかし強く踏み込んで私なりの「想や情や劇」を真摯に打ち出していた。初めのうちは首もひねったがやはり「k」の登場からは私の創作度が深まり、妻とも頷き頷き観ていられた。この舞台のあちこちに妻の想も組み入れられていて、懐かしくも胸に響いて各場面からの放射が嬉しく快かった。ああこんな創作もしていたんだと王師の感慨が深々と蘇って嬉しかった。
漱石の『心』は、弥栄中学を私の一年早くに卒業していった慕わしくも愛おしかった「姉さん(梶川芳江)」が記念にと私の手にのこしい謂った文庫本、署名もしてあった。その『心』は我が聖書ともなり、数十百度も読みに読み返した名作なのである。そんなことは識らない俳優座を代表していた人気の加藤剛が、私に『心 わが愛』として脚色を強く希望し依頼してきたのだった。加藤剛も演出の村上安行ももう亡き人。お嬢さん・奥さんの香野百合子も母親の阿部百合子も,それ以上に「k」も「私」も美事な好演だった。懐かしく涙の浮かぶのは当然しごくの舞台だったのだ。幕が降りて、拍手が永くやまなかった。
* おかげで、色んな事を華々しくもさせて貰えた永い人生であった。
2023 2/26
* 松たか子ら大勢と、若い人流に謂う「メッチャ」愉快な夢から「出」て、そのまま床を起ってきた。ひさしく松たか子の舞台も観ていない。白鸚さん夫妻の顔も見ない。また劇場で会いたいものだ、たしか四月にはまた『ラ・マンチャの男』が予告されてなかったか。その辺を、本格の「コロナ解禁」とできぬものか。
2023 3/5
* 高麗屋さんから、幸四郎が昼夜にがんばる七月歌舞伎や、松たか子主演舞台の魅力的な案内が来ている。久々のこと、観に出たいなあと、懐かしいまでに、思ってしまう。
お医者さんである勝田さんの言われるように、例の感染症。まだ油断なるまいと私もやっぱり感じている。ウーン。
2023 5/17
◎ 日本唱歌詩 名品抄 37 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 村 祭 文部省唱歌 明治45・3
一 村の鎮守の神様の、
今日はめでたい御祭日(おまつりび)
どんどんひゃらら、どんひゃらら、
どんどんひゃらら、どんひゃらら、
朝から聞える笛太鼓。
二 年も豊年満作で、
村は総出の大祭り。
どんどんひゃらら、どんひゃらら、
どんどんひゃらら、どんひゃらら、
夜まで賑わふ宮の森。う朝から聞える笛太鼓。
* 街なかで育ったが、昭和二十年三月下旬からの戦時疎開とその延長とで、 秦の母と国民学校=小学校三年末から、四年、五年秋まで「丹波の山奥」に農 家を借りて暮らしていた。一村と謂わずともその一部落の、みな農家の子や家 族とは自然に、「都会もん」と嗤われながらも馴染んでいた。ささやかながら 鎮守の宮もり祭りもあつた。この唱歌はけして他所のことでなかった。
そして京都へ帰り、戦後新生の弥栄中学一年生になった年の「全校演劇大会」 で、私の一年二組は、ね私の熱心を極め演出した「山すそ」と謂う農村の児童 劇で「全校優勝」した。その舞台で私は此の「どんどんひゃらら、どんひゃら ら」の歌をうまく遣った。二位には隣の一年一組が成って、その日のことを私 は後年に『祇園の子』という短編小説にし、これを良しと観た何人もの評者が いて、ちいさいながら一種の出世作のように遇された。懐かしい想い出です。
2023 6/9
* 昨夜寝がけに、泉鏡花の名作『天守物語』を七之助、勘九郎、扇若らで観た。玉三郎、当時の新之介、左団次、南美江、宮沢りえ等の初演には遠く及ばなかったが、それでも鏡花の魔才の程が楽しめ、懐かしかった。
2023 6/26
* 中国人作家の『主演女優』という長大作、現代の、と云っても毛沢東や周恩来が亡くくなり、四人組が打倒された頃の「北京の劇団」と付属の「俳優養成所」が場面を成していて、まだ少女ほどの幼い新人「女優」候補生の目と思いとで日々受ける「厳しい修練」などが描き出されている。
早々ににびっくりしたのが、必須も必須の最初の訓練が、「開脚 股割り」と。その暴虐なまでに苛烈な、こと。事実、実行されていると判る、こと。仰天。悲鳴が聞こえた。しかし、なるほど最高度の演技力へと鍛えるのに必須の関門とも、理解し納得できる。
と,同時に、わが日本国のはなやかげな若い俳優諸兄諸嬢も、みな同じレベルの訓練を経てきたのだろうか、俳優座の諸君や、歌舞伎役者や舞踊家はと、首を傾げた、それのみ、書き置く。
2023 7/21
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『村祭』 文部省唱歌
一、村の鎮守の神様の
今日はめでたい御祭日
どんどんひゃらら どんひゃらら
どんどんひゃらら どんひゃらら
朝から聞える笛太鼓
〇 京都の町なかで生まれ育ったが、太平洋戦争に入ったのが昭和十六年十二月八日、京都幼稚園での師走、翌春四月に市立有済国民学校に。三年生をもう終える雪深い三月、戦災の懼れを避け、京都府南桑田郡樫田村字杉生(すぎおふ)に母と祖父と三人で縁故疎開した。四年生が目の前だった。
上の『村祭』の小規模にもソックリを私はその「杉生』部落のお祭りで体験していた。山中をはるばる仲間と歩いて越えて南桑田郡篠村の賑やかなお祭り日も見聞体験した。京都市には音に聞こえた『祇園会』の大祭がある、ソレとは比べものにならなくても「村祭り」村中の大人も子供も大賑わいに踊り唱う。懐かしい思い出。
そしてぜひ付け加え太鼓と。戦後新制の市立弥栄中学に入学の歳の「全校演劇大会」で、小堀八重子先生担任の吾が一年二組の『山すそ』という「農山村舞台」の児童劇を、学級委員の私が率先演出役になり、主役、クラスデモ最もおとなしい目立とうとしない女子を断然起用訓練したのが成功し、実に、三学年全生徒の投票で「全校優勝」したのだった。嬉しかった。「祇園の子」という短編の処女作にもその嬉しさを書き置いたのも、文壇への有効な足がかりとなった。
この舞台で私は此の唱歌『村祭』を、背景の合唱で気分良く取り入れた。懐かしい少年遙か遙か大昔の少年活躍の思い出、掛け替え無い。
2023 10/2