* 夢は見ないで、寝ながら「唄」に溺れていた。「夕焼け小焼けの」だ。それも「赤とんぼ」でなく、「十五ぉでねえやぁは嫁に行き」の「お里ぉの便りぃもぉお、絶えはぁてぇた」の「おしまいの一句」ばかり。歌詞の記憶が正確かも確かめられないが「絶えはぁてぇた」ばかりが眠りの底へ蘇り続けた。
「十五でねえやは嫁に行」くとうたうのが、わたしは小さい頃、苦痛だった。数え十三で小学校をあがり、二年の「実務女学校」なるものが、わたしの母校校門からすぐ突き当たり横一字の木造二階校舎が建ち、二階の窓辺に「おねえさん」達がよく顔を出し談笑していた。其処へ進学して卒業すれば、ちょうど十五、「嫁に」行く、行ける歳であったのか。秦の叔母ツルもそんな学校へ通い、裁縫など習ったと云うていた。叔母は布かし習性嫁がなかった。
「開校一」によく出来たという秦の母タカは、富んでいた家が俄かに零落し、その程度の学校へも入れて貰えなかったのを生涯の無念残念悔しさに、九十六歳で亡くなるまで、話題が「学校」になると悔しがって泣いた。
「絶えはぁてぇた」「絶えはぁてぇた」と終夜、夢にわたしは口ずさみ続けていた、ようだ。そして五時前には床を起ってきた。わたしを底でとらえる価値観は、思想は、そんなメロディに養われてきていたワケだ。一言にして「感傷」か。後年、シラーと出逢って彼の主著の題にこの「二字」の含まれたのを見、粛然としたのを忘れない。
あまりに屡々言われたが、「変な人」であるのか、やはり私は。
2023 1/2
* 夜中唱歌は「ナーンゴク(南国)」の繰り返し。ペギー葉山のだったナ。伸びやかで、ま、好い方か。信也に一度右脚が痛烈に攣るったが、手で押さえ、いつも用意の冷茶をごくごく飲んで忽ち恢復し続かなかった。夢見は覚えなく、手洗いへ起きたのは二、三度で済んだ、但し夜中キチンに入ってリーゼを心室へ運び、通例の整腸薬三錠と合わせ一錠服した。朝までゆっくり安眠した。
2023 1/22
* 昨夢中の唱歌は「じーんせい(人生)」一句。水戸老公劇の主題歌であったか。わたしが意図して選ぶのでは無い、ただ夢寐に生じて間歇「唱い続ける」ので。「癖」でも「好み」でも無い。、
* 寒い。
2023 2/18
* 夜前、意識して利尿、浮腫どめをあわせ服用して寝た。覚悟の通り、三時間ほどは三十分ほどの間隔で手洗いに起った、が以降は安眠した。寝入ったまま終夜、「ジーンセーイ」と唄っていた。たぶん「苦もあり楽もある」とでもつづくうただろうが、唄っているのは終始「ジーンセーイ」とだけ。いまやオハコの一例か。
2023 2/23
* まずは、好適な目覚め間隔で、ほぼ安眠できていた。「ショッ・ショッ」とばかり寝入ったまま唱い続けていた。「みな出て来い来い来い」だ。
2023 2/28
* まずは、好適な目覚め間隔で、ほぼ安眠できていた。「ショッ・ショッ」とばかり寝入ったまま唱い続けていた。「みな出て来い来い来い」だ。
2023 3/1
* ほぼ夜通し「ひなまつり」の唄を一番二番とおして唱い続けていた、歌詞を正確に良く覚えているのに驚きながら。この唄でわたしが一等心しほれるのは、「お嫁にいらしたねえ様によく似た官女のしろい顔」、歌集『少年』の昔が生き返る。
2023 3/10
* 眼ざめての自覚は、夜通し「マーサカリ」担いだ金太郎が、「クーマに」跨がりお馬の稽古に、「ハイシドードー」「ハイドードー」と勇ましい「唄の一部」を寝入ったまま唱いつづけていたこと。
幼少のむかし日本少年たちのヒーローは、桃太郎か金太郎だった。わたしは桃から生まれ、着飾っての二本差し、犬、猿、雉を家来に鬼ヶ島で鬼退治する桃太郎より、身近に元気っぱい朱い腹掛け一枚で「お兄ちゃん」めく「金太郎」が贔屓だった。
いますこしワル知恵がついて、桃から生まれた「桃」とはとヘンに察するにつれイヤな気がしたのも憶えている。
2023 3/19
* 「リラぁの花ぁの」と夢中、夜通し唄いつづけていた。アトの歌詞は知らないのに。 2023 4/7
◎ 日本唱歌詩 名品抄 28 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ ローレライ 近藤 朔風・譯 明治42・11
一 なじかは知らねど心わびて、
昔の伝説(つたへ)はそぞろ身にしむ。
寥(さび)しく暮れゆくラインの流れ、
入日に山同かく映ゆる。
* 弥栄中学三年生で習った。へたな歌詞(詩)だと馴染まず、唄としても歌い づらいきょくであった。のに、こともあろうに私は音楽の先生に命じられ、全校 生が「講堂」に集まる催しの折り、講壇の真ん中へ出てこの「ローレライ」を歌 えと命じられた、仰天もし辟易極まったものの女先生の「厳命」は揺るがなかっ た。仕方ない、歌ったのである、が實に歌って楽しくない奇態な歌と思えた苦々 しさを、今も忘れない。こういう、翻訳の外国歌が教科書にも幾つかとられてい て、私は悉く馴染まなかった。
2023 5/29
* どういうことか、昨日は、病院から帰って昼食し、夕食もした筈だが、その余は、要は、今朝六時半の「起き」まで、本、おもには『参考源平盛衰記』の「文覚=遠藤武者盛遠」の記事を読み継ぎ読み継ぐだけ寝入りに寝入っていた、いや、夜中の一時頃、キチンで独り小一時間テレビを観ていただけで、つい今し方まで寝続けていた、らしい。
明け方は、例の、童謡を歌い続けていた,夢で。
あんたがた 何処さ 肥後さ
肥後 どこさ 熊本さ
熊本 どこさ センバさ センバ山には狸が居ってさ それを猟師が
テッポで撃ってさ
観てさ 喰ってさ お茶の子サイサイ
たしかにこんな唄で、女の子等が 地ベタに輪に坐り込んで何かしら歌いながら手遊びしていたようであった。手遊びらしい何かは覚えていない。似たような、半分口から出任せのような唄は、ほかに一つ二つ覚えていて、みな面白い。
イチリットラ ラットリトセ スガ ホケキョーノ 高千穂峰ノ 忠霊塔
ワケは判らないが、聞き覚えの唄の文句は、この通りだった。
一かけ二かけて三かけて 四かけて五かけて橋をかけ 橋の欄干 手を懸けて
はーるか向こう眺むれば 十七八のねえさんが 片手に線香 花をもち
ねえさんねえさん どこ行くの
わたしは九州鹿児島の 西郷隆盛娘です 明治十年三月十日 切腹なされた父上の
おー墓参りをいたします お墓の前では手合わせ ナンマイダブツと拝みます
と、もうこの辺からはアイマイ模糊 記憶も模糊としているが、みな、女の児らが地べたに輪に坐り込んでの「おじゃみ唄」のようであった、男の児は地ベタ遊びでも指をひろげ回しての「陣とり」のようなことをしていた。
妙に、「古釘」を用いても遊んでいた。「小石」を遣った遊びがあり、男女ともに賑やかにケンケンしたり投げ当てたりしていた。
2023 6/27
* なにともなく、なにもかも煮詰まってきたかと感じる。人生の「煮詰まり」とは何か、頼りない、なかみの無い「予感」に左右されることか。想えばあまりに大勢がもう先へ逝ってしまっている。新制中学一年の音楽教科書に「オールド・ブラック・ジョー」が載っていた。音楽の女先生はあれを「通過」され一度も教室で唱わなかった、のに、私はあの歌を独りで覚えた。物思いをする「中学一年生」には「荷物」になった。
2023 7/8
◎ 日本の形と心
〇 めでたや傘は末広 手放せぬ取り柄のある友
「かさ」には、少なくも傘と笠がある。「きぬがさ」とてもいわれる蓋(かさ)もある。「こうもり」や「蛇の目」などは、傘である。落下傘もかたちが似ている。開いて、さして、雨や雪をふせぐ。さすというのは、物を手で上へさし上げる意味である。かざすとは、まさに「傘さす」ことである。「天蓋」や「おおがさ」のような、長柄の傘をさしかけるのも同じで、そういう役目の者を「おおがさかざし」、平安末期の歌謡などにも歌ってある。国宝の源氏物語絵巻に見える、蓬生の巻の光君も、「おおがさ」に雨を避けながら、従者とともに、今しも末摘花をひさびさに訪れようとしている。長い短いはべつにして傘は取柄の部分が頼りなのである。だが笠にはふつう柄がない。笠はじかに頭にかぶる。陣笠、編笠などそれで、笠は、いわば雨や日ざしを避ける帽子の一種なのだ。
もともと傘や蓋は、法具であり葬具でもあり、必ずしも雨よけではなかったが、笠より余裕のある役に立つ形をしていて、雨具に転じていった。まして、夜目遠目傘の内という。傘のかげでは、ふつうの人も美人らしく、ゆかしく見える。たとえ春雨に濡れて行くにも、傘はたいしたお洒落な小道具になり、粋な意匠とくふうが愛された。実用一点張りではなかった。雨の日だけではない。日傘、繪日傘も、優しくかざすとなかなか佳い。むきだしより、すこしもののかげに入るだけで、色気がにじむ。思案のしどころである。
男でも、けっこう傘の手放せない人がいる。とびきり粋なのは、ご存知、白浪五人男が稲瀬川の土手に勢揃いし、世にもみごとな連ねの名台詞を吐く、アノ場面。大盗ッ人の五つの大傘が、花より華やかに、大向こうを唸らせる。女文化のあざやかな登用である。
傘をささせぬ市街地の設備も増えた。だが傘の用意、無くては済まない。服装が替われば傘の色も柄も形もまだまだ変わる。アメアメ降れ降れの唱歌が、今も、耳の底にある。
2023 7/12
* 清やかに華麗で大好きな独弾のピアノ曲を聴きながらの、朝一番、いま六時十五分。コンチェルトやシンフォニイには身をひく。所詮は「個」立した「個」性を愛するか。 2023 7/13
* 好きな、マリア・ジョアオ・ピレシュのピアノを音を静めて早朝に聴きながら「私語」している。為遂げねばならぬ半途仕事が幾つも。めげず片付けねば、フンづまりになる。いま、六時十分。
2023 8/8
* また払暁六時八分。宮澤明子のガルツピノソナタを聴いている。
だれが「宮澤明子」などいう人の「盤」を呉れたろう。
手の届く間近に、クラシツクの「盤」が六十枚あまりも在る。いった、どうして、「在る」のだろう。私自身はクラシック音楽の「盤」など自身で「買った」覚えは「三枚」と無い。その方面の買いものに気が有った覚えなど全く無い、とすると、何故「在る」か。人が呉れた、貰ったのほかに考えようか無いが、「誰に」などいう記憶は全然無い。かすかに「マドレデウス」か、ポルトガルと「ファド」の板を尾張の鳶が、一枚か二枚呉れたような記憶が薄れながら在る。他は、全然無い。志ん生や圓生の落語は自身で買った。「日本の唱歌集」も買った。が、クラシックのピアノやバイオリンの数十枚は、いつ、どうして、こう増えて溜まっているのか、サッパリ記憶が無い。もらい物と思うしか無い。感謝。
2023 8/17
* 朝一番 宮澤明子の弾く 好きな、ガルッピやスカルラッティの美しく鳴るピアノ曲を聴きながら。
昨日は ほぼ終日、新作途中の、長編、フクザツ難儀な小説を読み返していた。「まあだだよ」 「まあだだよ」 もうちょっと待って。
2023 8/20
* 晩、たまたま歌番組に出逢って、うまい・へたの極端例に、閉口してられず、盛んに褒めたりクサシたりして楽しんだ。美空ひばりがしみじみ懐かしく、ひょっとして彼女こそがわが「初恋人」であったのかも、などと独り合点したり。
小学校六年か戦後新制中学一年の真夏も真夏、わたしは売り出して盛んなひばりと、家から間近い新橋白川ばたで、触れ合うほど間近に出会っている。ちっこい女の子だった、わたしは「ひばりが来てる」と耳にするやパンツ一枚のはだかのはだしで駆けつけたのだ、人がギシと取り巻いてる輪を潜り入るようにして、もうホンマに触れ合う近さまで攻めよったものだ、口は噤んでいた、あれで有済小学校の卒業式には卒業生答辞を読んだ生徒会長だったが、油照りにクソ暑い京の真夏の夏休みの男子にはパンツ一枚のハダカが、ま、「制服」だった。ちっちゃい幼い、見るから子供の「有名な美空ひばり」は「よそ行き」のスカート姿だった、それにも少年は見惚れたものだ、暑い暑い京都祇園の真夏の午下がりだった。傍らにせせらいでいた白川は、今も変わりなく清う流れているはず。
2023 8/28
* 早暁。四時過ぎ。
ここ二三日、ひっきりなしに悩まされ、イヤ励まされても居るのだが、例の、歌の末尾だけが間断なく耳と口とに溢れる‥此処二、三日のそれは、ザ・ピーナッツの合唱『心の窓に灯を』の末尾「(ホラ笑くぼが)浮かんでくるでしょう」ばっかり、それだけが「まじない」めき「励まし」めいて實に昼夜なく間断なく聞こえるのである。不快ほどでもないが、時として煩い。「やめろよ」と言うて効く相手がいない。それに、此の手の歌詞の呼びかけ、年がら年中無数に「有り」つづける、つまりは執拗な「癖」のよう。
「おんもへ出たいと」「剣投ぜし」「吾がなつかしき」「忘れがたき」「ささやきながら」「ねんねこよ」「こんときつねが」「あーあ長崎の」「学生時代」「ちいさい秋」「金と銀との」「眺めをナニに」「富士はにっぽん」「うすむらさきよ」等々、‥際限なく、かつ取り留めないから、聞こえ続けるのだろう。
「くせ」やろか、誰にも有るんやないやろか。
謂えるのは、わたしが、ケッコウ「唇に唄を」派で永い人生、いまも最中と謂うこと、か。
* 朝八時四十五分、早起きした私か茶を湧かす。京の秦の家では当然のように夜来残りの番茶は捨てて新しく湧かしていた。当然と思い、少なくも私自身はそうしている、新しい水と新しい番茶。茶は、私惜しみなく多めに淹れ、熱湯で十二分に煮出す。ぬるい番茶は旨くない、徹底して煮出すと「番茶」が、煎茶や玉露に負けないうま味に成る。わたしは敢えて番茶を、熱滔、淹しに淹す。京都でもそこまではしなかったと想うが。
* 何時ごろと正確に覚えないが、夕過ぎるころ、手洗いで、用を足すというでもしに便座のまま深めに寝入っていた、らしい。居心地のいい個室なのでままあることだが今日は碓が違った、目ざめて起とうとした、が、右脚が膝下つま先まで「失せた」かほどに完全に「無」感覚、まるで働かないのだ、ビックリ。撫でて擦って抓って叩いて、感覚が戻りまともに起てるまでに三、四分はかかった、足が失せたほどのかかる無感覚喪失感は初体験で、動揺した。水分が切れていたか、神経が無能化したか。こんな事は初体験で、心底、動揺した。もし戸外へ出ている時に起きたら仰天し危険だったはず。片脚が「消えた」という実感に襲われたのだ。危ない。猛烈な季節のせいか、私独りのからだに異様な異常が起きていて、これからも繰り返されるのか。
とにかくも私の心身は、いま、まともでない。
* 呆れるほど寝入っている。一日の十七八時間も、妻も、私自身も、あきれるほど断続寝入っている。繰り返す、猛烈な季節のせいか、私独りのからだに異様な異常が起きていて、これからも繰り返されるのか。
とにかくも私の心身は、いま、まともでない。
2023 9/4
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を「明治」からはじめ気儘に、冒頭のみ。作者等の詳細は識らない。これは品川彌二郎の作詞か 真っ先に「トンヤレ節」を。節は、兵士たちからの自然発生か。
◎ 宮さん宮さんお馬の前に
ヒラヒラするのは何じゃいな
トコトンヤレ、トンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの
錦の御旗(にしきのみはた)じや知らないか
トコトンヤレ、トンヤレナ
〇 大将軍有栖川宮さんを先頭に「薩(摩)長(州)土(佐)」が意気揚々最期の江戸城を屈服せしむべく東征のおりの、たぶん軍中の知恵者が率先全軍に囃させ、軍歌めく口ずさみが民衆にも大流行したモノか。六番ほど有ったようだが、私ら幼少には一番で足り、「宮さん宮さん」という京風・御所風な呼びかけに親しみを持っていた。
囃子詞がどこから出たか分からないが。江戸攻めを「とことん、やれ」というけしかけであったか…どうか。
2023 9/12
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を記憶の儘に、冒頭のみ。作者等の詳細は識らない。
「ノーエ節」を陽気に想い出す。「農兵節」か。
◎ 富士の白雪ゃ、ノーエ
富士の白雪ゃ、ノーエ、富士の サイサイ
白雪ゃ 朝日でとける
解けて流れて ノーエ
解けて流れて ノーエ 解けて サイサイ
流れて 三島にそそぐ
三島女郎衆は ノーエ
三島女郎衆は ノーエ 三島サイサイ
女郎衆は お化粧がながい
お化粧ながけりゃ ノーエ
お化粧ながけりゃ ノーエ 三島サイサイ
ながけりゃ 大客が困る
自然発生ふうにもっと長いらしいが、子供時分は一、二番だけ。農事に携わる傭兵等の労働歌か、酒の席にはさぞ向いていたろう。中の洒落者のふとした口ずさみが大受けしたかと想う。
2023 9/13
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を記憶の儘に、冒頭のみ。作者等の詳細は識らない。
「オッペケペー節」は川上音二郎が「作詞」して、爆発的に唱われたとも、小声でだろう、とも。如何にもいかにも「明治」の唄声である。「主題付き」なのが佳い。
〇 「権利幸福嫌いな人に、自由湯(とう)をば飲ましたい」
オッペケペ、オッペケぺッポー、ペッポッポー
かたい裃(かみしも)かど取れて、マンテルズボンに人力車
いきな束髪ボンネット、貴女に紳士のいでたちで
うわべの飾りは立派だが
政治の思想が欠乏だ
天地の真理が判らない
心に自由の種をまけ
オッペケペ、オッペケぺッポー、ペッポッポー
2023 9/14
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を記憶の儘に、冒頭のみ。
〇 「第三高等学校校歌」 澤村胡夷 作詞・作曲
紅(くれなゐ)萌ゆる岡の花 緑の夏の芝露に
早緑(さみどり)にほふ岸の色 残れる星を仰ぐ時
都の花にうそぶけば 希望は高くあふれつつ
月こそかかれ吉田山 われらが胸に湧き返る 以下 十一番迄
* 此の欄の趣意としては早や「脱線」を承知で。
私が生涯で最も早く「憧れた」のは、国民学校(小学校)を出たら京都一中か二中を経て、あの吉田山の「三高」に合格し、美しい校歌「紅萌ゆる」を「わがもの」にうたうことであった。「校歌」に惚れていた。
だが、敗戦。学制も「六・三・三(小・中・高)制」に変わって夢は「泡」と消えた。
私は、試験を受ければ必ず受かる京都大學には、「気」がまるで無かった、当時火炎瓶だのデモだのの騒がしさも好まなかった、受験はせず、ためらいなく高校三年までの成績優秀の推薦で、三年生二学期の内に「同志社」への無試験入学を決めた。京都御所の静謐にひたと接した、あの「新島襄」が創立の「私学」、赤煉瓦の建物も美しいキャンパスも気に入り身も心も同志社に預けて、以降を、自由自在に私は「京都」の久しい歴史と山水自然のこまやかな美しさへ「没頭」した。「小説家」「歌人」へと「七十年の道」がもう見えかけていた。
2023 9/15
* 馴染みの「唄」番組があり、歌唱プロらしい正装の男女が合唱してくれる。
今日、「青い月夜の浜辺には」という唄を妻と聴いていて、私は嗚咽を忍べなかった。泣き出した。
子供の頃、養親たちや人に隠れ、孤りこっそりと口に唱う唄だった、泪を流しながら。街育ち、「青い月夜」も「浜辺」も「濱千鳥」も識らない、が、「親をたづねて(さがして)啼く」小鳥とは、数歳から幼稚園、国民学校一、二年までの「私自身」に相違なかった。生母があり実父があり「夫婦でない」大人たち。家出傍に居る秦の祖父も両親も、叔母も「もらひ子」してくれた人たちとだけは「知らされずに」も、幼少、感知し察知していた。唄の{ハマチドリ}には成りたくなくても;以外の何でもない、あり得ない幼少だった。此の手の唄には、過剰にも弱かった。
今にして思う、私には幼・小・中・高・大學の何時時期にも「親と慕い」「愛された」先生方がおいでだった。「あおげば尊し」「わが師の恩」を私は、もったいないほど戴いて来れた。決して忘れない。
2023 9/16
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を記憶の儘に、冒頭のみ。
〇 『デカンショ節』 東都の一高生らが民間へも流行らせたとか。
デカンショ デカンショで 酒は呑め呑め 茶釜で沸かせ
半年暮らす ヨイヨイ ヨイヨイ お神酒あがらぬ神はない
あとの半年ゃ寝て暮らす ヨーイヨーイデッカンショ
ヨーイヨーイデッカンショ 以下 延々
* 「デッカンショ」の囃子は、丹波篠山の盆踊りからと謂われ、しかもいろんな解釈も連れ加わって酒の肴にされたと。「デ」カルト、「カン」ト、「ショ」ーペンハウエルの頭(かしら)を借りたなど、伝わり聴いても面白かった。
2023 9/17
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を記憶の儘に、冒頭のみ。
〇 『人を恋ふる歌』 与謝野寛(晶子の夫) 作詞デ
妻をめとらば才たけて ああわれコレッジの奇才なく
眉目うるわしくなさけある バイロンハイネの熱なきも
友をえらばば書を読みて 石をいだきて野にうたふ
六分の侠気四分の熱 芭蕉のさびをよろこばず (他に幾番も)
* 才もなく眉目うるわしくもないが、「なさけ」はふかい方の「妻」と信頼してきた。
「書を読んで」書ける「友」には嬉しいことに、コト欠かない。
昨日も留守中、寺田英視さん(文藝春秋「文学界」等の編集者を経て「専務さん」まで)の新著『泣く男』が贈られて来ていた、倭建命にはじまり、大伴家持、有原業平、源三位頼政、木曾義仲、大楠公、豊太閤ら、さらに吉田松陰にまでも「男泣き」の系譜を「古典」からも論攷されている。いかにも「寺田さん」であるなあと、読み始めへの興味、はや溢れている。
この寺田英視という久しい「友」こそが、すでに「165巻を刊行」して、なおなお続く、世界にも稀な『秦恒平・湖の本』刊行を「可能」にと率先「凸版印刷株式会社」を紹介して下さった、それなしに「湖の本」がもう40年近くも途切れなく刊行しつづけられたワケが無い。「わが作家生涯」のかけがえない恩人であり久しい読者のお一人なのである。心して明記しておく。
2023 9/18
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に> 歌詞の一、二番のみ。
〇 『戦友』 真下飛泉・作詞 三善和気・作曲む
一、 ここは御国を何百里 二、 思えばかな昨日まで
離れて遠き満州の 真っ先かけて突進d
赤い夕日に照らされて 敵を散々懲らしたる
友は野末の石の下 勇士ははここに眠れるか
(十二番まで)
* この歌が 少年私の気に入っていたか。好きで唱ってたか。
いいえ。ノーである。「戦死兵」を痛み悲しむばかりであった。「御国を何百里」の「遠き満州の」「野末に」独り葬られた兵隊さんの、誰より家族遺族の身になった。「敵を散々懲らし」て日本「国の手」が収めて行く「満州」とは何であったか。私自身すこしずつ成長し、そしていろいろに読んで聞いて蓄えた「大日本帝国ないし皇軍」の意図や所業は、子供心にも剣呑な自利自欲・征伐征服欲のあまりな露呈、とても「勇ましい」とは思われず、其の爲に「満州の土」と化し孤絶に戦死する兵隊さん、また強い日本の兵隊さんに殺される側の人たちのことも、ごく当たり前に「無慚にも意味なきこと」と思われた。
「兵隊さんには成りとない」というのが、こういう歌から受け取った幼少負荷のメッセージだった。しかと「書いて」おく。
2023 9/19
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に> 歌詞の一、二番のみ。
〇 『スカラー・ソング』 神長瞭月・作詞 (「箱根の山は」曲で唱った)
なんだ神田の神田橋
あの九時ごろ見渡せば
破れた洋服に弁当箱さげて
テクテク歩きの月給九円
自動車飛ばせる紳士をながめ
ホロリホロリと泣き出だし
神よ仏よく聞き給え
天保時代の武士(もののふ)も
今じゃ哀れなこの姿
麻糸つなぎの手内職
十四の娘は煙草の工場へ
においはすれども刻葉(きざみ)も吸えぬ
いつもお金は内務省
かこそあねなれ 生存競走の
活舞台
* 当時三銭の電車賃が四銭に値上げで「焼き討ち事件」が起きていた。貨幣価値はむちゃに混乱、明治二十三年に建った「浅草の十二階」施工費は「月給九円(食えん)」の時節に「五万五千円」。わずか前「天保」の二本指しお侍達は廃刀令のもと、金主だった主君とも縁が切れて飯も「くえん」窮乏をかこち歎いていた。士農工商は逆転、「士」は落ちぶれ「商」が力を付けてきた。
2023 9/20
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に> 歌詞の一、二番のみ。
〇 『ハイカラ節』 神長瞭月・作詞
ゴールド眼鏡のハイカラは
都の西の目白台
ガール・ユニバシチ(女子大学)のスクールガール(女学生)
片手にバイロン、ゲーテの詩
早稲田の稲穂がサーラサラ
魔風戀風そよそよと
歩みゆかしく行き交うは
やさしき君を戀し川 (小石川か)
背(せな)垂れたる黒髪に
挿したリボンがヒーラヒラ
紫袴がサーラサラ
春の胡蝶のたわむれか
〇 二番は、おそらく「御茶ノ水」か。『魔風戀風』という通俗な新聞小説が爆発的な人気を得ていた頃。
2023 9/21
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 演歌『おえどこ節』
おいとこそうだよ墨田堤を三人連れ立つ女学生
モスト・ビュテイ(一番美人)で目に付くレディ(令嬢)は 人も知るな り駿河台 紅葉學校のセコンド・クラス(二年級) 姓は月岡名花子 滴 るばかりのその愛嬌を 双の笑窪にに噛みしめて 歩む姿はエンゼル・ス タイル(天女型) おいとこそうだよ
* 「のんき節」などとともに、世上に字義のまま、まさに「演歌」が唱われ流れた、大正時代。ラジオやレコードの未だ無い時代には「演歌」が唯一、唄、唄の伝え手であった。だが、「演歌」は、もとは明治半ばのの『政治運動』に胚胎されていた。しだいに「評判」という意図から「唱って」「伝え」「広げる」社会性。忘れがたい意欲の根も葉も感じ取れる。
2023 9/22
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 演歌『ノンキ節』 添田唖蝉坊 作詞という
学校の先生は豪(えら)いもんじゃそうな
えらいからなんでも教えるそうな
教えりゃ生徒は無邪気なもんで
それもそうかと思うげな ノンキだね
成金という火事ドロの幻燈など見せて
貧民學校の先生が
正直に働きゃみなこのとおり
成功するんだと教えてる ノンキだね
* バイオリンの哀愁の旋律などを伴奏に第一次大戦後の光景が生んだ「成金と成金と貧民」との懸隔は大正初年に際立った。「ノンキ」という皮肉と苦渋の「批評」が誰の身にも滲みたのだ。
2023 9/23
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 演歌『船頭小唄』 野口雨情 作詞 中山晋平 作曲ノ
一、おれは河原の 枯れすすき 二、死ぬも生きるも ねえおまえ
おなじお前も 枯れすすき 水のながれに なにかわる
どうせ二人は この世では 俺もお前も 利根川の
花の咲かない 枯れすすき 舟の船頭で暮らそうよ
* 陰気な唄の代表のように、幼少の胸にも、冷ややかにもの哀しく蟠るメロディだった。メロドラマという言葉を覚えたとき、まっさき、まっすぐ喉元へ戻ってきた唄であつた。船頭さん夫婦が気の毒とさえ思った。好きになれないメロディで、歌詞であった。
2023 9/24
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『鯉のぼり』 文部省唱歌
一、甍の波と雲の波
重なる波の中空を
橘かおる朝風に
高く泳ぐや鯉のぼり
〇 二番以降の歌詞はくどくて戴けないが、一番は胸の奥まで颯爽と澄むようで、「唄」「歌詞」の代表作の一つに数えていた。それは音韻の晴朗な連鎖・連繋に由来していると、子供心に「カ行音」の配置、「ア行音」の設置に、それがもたらす歌詞世界の明瞭を汲み取っていたから。和歌でも短歌でも俳句でも詩でも文章でも「カ行音」「ア行音」を一に心しているといないでは「唄」としての印象に大差が出る、と、私はこんな『鯉のぼり』をうたっていたころから感じ、感じ入り、教えられていた。「カ行音」「ア行音」そして「ハ行音」の配置の効果に無知・無神経な詩人歌人文人は、「ことば」という「こころ」の濁りに無神経なのである。
2023 9/25
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『朧月夜』 文部省唱歌
一、菜の花畠に 入日薄れ 二、里わの火影も 森の色も
見わたす山の端 霞ふかし 田中の小路を たどる人も
春風そよ吹く 空を見れば 蛙のなくねも かねの音も
夕月かかりて におい淡し そながら霞める 朧ろ月夜
〇 この唄で歳幼かった私は「日本の国土と言葉」とを深く美しく教えられ学び取った。これが「日本と日本人」の最も普段に平和な「生活」であり「景色」であった、今もある、のを悟るほどに信頼した。今日謂う街なかから小さな山村へ戦時疎開して、私のそう謂う感覚や理解が誤っていないと直観した。佳い教科書と美しい詩情とにふれる嬉しさを、私はもうこの老耄にも忘れていない。
2023 9/26
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『カチューシャの唄』 島村抱月・相馬御風作詞 中山晋平作曲
一、カチューシャ可愛や 別れの辛さ
せめて淡雪 とけぬ間に
神に願いを ララかけましょうか
〇 「カチューシャ」が人の、女の、名らしいとは察しても 他の何ひとつ 一切を識らないで、ただ聞き覚えに「カチューシャ可愛や」と唱っていた。大正の名女優松井須磨子が舞台でうたったとも識りようのない、昭和十年代の、国民学校下級生時期の私だった。トルストイ、『復活』といった背後の文学史には遅そ遅そに追いついていった、トルストイの「戦争と平和」「アンナレーニナ」「復活」こそが世界三大名作なとも追い追いにおぼえては「讀書」の大目標にしていった。実感として『アンナカレーニナ』が一、『戦争と平和』が継ぐと評価し、『復活』はやや気重もであった。そんな知識とは未だ全然触れ合うたことのない、ただの耳に入った流行り唄をうたっていた。カチューシャの「カ」という音のきれいな反覆を好感していた。
2023 9/27
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『新金色夜叉』 後藤紫雲 宮島郁芳 作詞」
一 熱海の海岸散歩する
貫一お宮の二人づれ 四 いかに宮さん貫一は
共に歩むも今日限り これでも一個の男子なり
共に語るも今日限り 理想の妻を金に替え
洋行するような僕じゃない
二 僕が学校卒(おわ)るまで
なぜに宮さん待たなんだ 五 宮さん必ず来年の
夫に不足かできたのか 今月今夜のこの月は
さもなきゃ お金が欲しいのか 僕の涙で曇らして
見せるよ男子の意気地から
三 夫に不足はないけれど
貴郎(あなた)に洋行さすがため
父母の教えに従いて
富山一家に嫁(かし)づかん
〇 尾崎紅葉の『金色夜叉』は新聞小説空前の大ヒット作、この唄も、私のような学校前の幼童でも口にした、つまらない唄とバカに仕切って。そしてもう成人し、紅葉の他の秀作など識るにつれ「読んでやるか」と読み出すと、コレがたいした文章の秀作力作だった、私は「尾崎紅葉」が「幸田露伴」と並んで「文豪」とされるのに承服する
2023 9/28
〇 秦先生 メールをお送りいただきまして、
有難うございます。
お忙しい中、お心にかけていただきましたこと、
感謝申し上げます。
暑さもまだ残っています。
お身体ご自愛くださいますよう、
お願いいたします。
今後とも御指導の程
宜しくお願い申し上げます。 望月太左衛
* 太左衛さんとも久しい。国立劇場で「邦楽」演奏の大會があり、誘われて觀に聴きに出向いたなかで、和楽器を総動員した大合奏が壮絶、見た目一等左端前座に、背格好は小柄だが生気に満ちた望月太左衛が太鼓を打った、その演奏の満堂を満たして美しい勢いに私は魅了され、知人を介してであったか、賞賛の言葉を伝えた。
すると、日も措かず突如として太左衛さん、お礼にと、はるばる浅草から保谷の我が家前まで見え、沢山な蜆などいろんな手土産を手渡して行かれた。びっくり、恐縮した。
以来何十年に成ろうか、仲良くしてもらい、浅草の花火にも例年招いて貰っていた。飴の晩にはお母上の私室へ夫婦とも通されて雨中の大花火を嘆賞した。
私に「浅草の魅力を覚えさせてくれた人である。東京藝大院卒、今は同教授。同じ道を行く娘さんともともども大精力、日本中で活躍されている。
2-23 9/28
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『赤い靴』 野口雨情作詞 本居長世作曲
赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて
いっちゃった
〇 自身の口には滅多に載せなかったが、かなり強く意識して忘れがたい唄であった。私は昭和十年(一九三五)歳末に生まれ、大東亜戦争は昭和十六年(一九三六)十二が八日、日本軍の真珠湾奇襲て始まった‥私は送り迎えのバスで京都幼稚に通っていた、翌る年四月に有済国民学校一年生に成った。戰争前の私はちいさかったが、家の間を往来する異人さんは見知っていた。我が家「ハタラジオ店」の有った知恩院下の新門前通りには「異人さん」を客に向かえる美術骨董や日本衣裳の店が転々と建ち並んでいて、蹴上の都ホテルなどに宿泊の異人さんらの決まって立ち寄る通り道だった、異人さん店をのぞかれることも、声かけられる子供達もいた。「赤い靴履いた女の子」を見た記憶は無い、が、大人に手を牽かれ通ってってもちっともふしぎでなかった。二番に出てくる「横浜のはとばからふねに乗って 異人さんに連れられて等吏手いっちゃ」う光景とは無縁だった。だが、なんとなく「いっちゃ」うのは、つまらなくイヤであった。あの気分に今でも帰れる。
2023 9/29
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『ローレライ』 近藤朔風 譯詞 ジルヘル作曲
三、 なじかは知らねど心わびて
昔の伝説(つたえ)はそぞろそろ身にしむ
寥(さび)しく暮れゆくラインの流れ
入り日に山々 あかく映ゆる
二、 美(うのわ)し乙女の巌頭(いわ)に立ちて
黄金(こがね)の櫛とり身の乱れを
梳きつつ口吟ぶ歌の声の
神怪(くすし)き魔力(ちから)に魂もまよふ
〇 敗戦後新制中學の一年、いや二年生の音楽教科書に載って居て、音楽の時間に音楽室で習った。まことにつまらん歌だと、譯詩の平凡にもイヤ気がした。なんで戦後日本の自主性・社会性・民主主義をと日々叱咤激励されるわりにはあまりアホらしいたわいない歌だとクサシていた。
ところが、である、その翌年の全学年より揃うて講堂での集会に、音楽の小堀八重子先生、嚴として、その全学集会で「ローレライ」を「独唱せよ」と。誰が。私が、である、マイッタ。音楽教室で、うちの組だけの音楽の時間なら、期末試験がわりに、みな、一人一人唱わされることはある、だが、ちがうのだ、それとは。京都市内でも人に知られた立派な大講堂の檀上で、先生のピアノ伴奏で「独りで唱え」と。「ローレライ」をと。講堂には、むろん全校生が倚子席にぎっしり。青くなり赤くなり、へどもどしたが、こういうときに断乎とニゲル気概と意気地がない。
じつを謂うと、同様の全校集会が前年のおなじ時期にもあり、そこで、やはり広い講堂の壇上真ん中でうたった上級生女子がいた。歌は、「春のうららの隅田川 上り下りの舟人は」という春の歌、唱った三年生女子は、一年下の私の、心から「姉さん」と思慕し敬愛していた「梶川芳江」だった、食い入るように舞台の「姉さん」を見つめ、美しい歌声を全身に体していた。その思い出があり、一年後に私に唱う役が与えられのにも、こりゃ困ったと閉口もしつつ、けれどあの卒業していった「姉さん」の「跡を継ぐ」のだからと、じわっと昨年を懐かしんだのである。あの聰明に優しかった「姉さん」も亡くなった。こんな妙チキリンな述懐を天井で微笑していることか。
それにしても『ローレライ』には歌詞も曲も馴染まなかった。以降も此の歌を口ずさむコとは絶えてなかった。だが、アレ、わが弥栄中学三年間の一のハイライトではあったなあ。とちりもせず、調子も外さずとにかく唱い終えたのだもの。
◎ めぐり逢ひていつも離れて酔ひもせでさだめと人の醒めしかなしみ
2023 9/30
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『虫のこえ』 文部省唱歌
二、 あれ松虫が鳴いている
ちんちろ ちんちろ
ちんちろりん
あれ鈴虫も鳴き出した
りんりん りんりん
りいんりん
秋の夜長をなき通す
ああおもしろい虫の声
〇 京の養家の猫の額ほどな奥庭でも、疊一枚ほどの泉水に金魚らが游いで、寝間の窓ごしに幼い私は松虫鈴虫の音も聴いて育った。ときに枕元の障子際を蛇の趨ったような怖い古い家であったが、わが埴生の宿ではあったし、此の唱歌も好きだった。
同じ文部省唱歌でも、「あたまを雲の上に出し 四方の山をみおろして かみなり様を下にきく ふじは日本一の山」なとと「上」にふんぞり返りたがる「ふじの山」など、同類歌は少なからず、みな、好かなかった。明治大正昭和の「唱歌」にはとかく「日本一」の「上」賛美や自慢があった、好かなかった。「天皇制」政体であるよりも「日本文化」とひとり理会していった少年は、「高嶺おろしに草も木もなびきふしけん大御代を仰ぐ今日こそ」などと唱いたくなかった。唱わなかった。
2023 9/30
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『人形』 文部省唱歌
一 わたしの人形は よい人形 二、 わたしの人形は よい人形
目はぱっちりと いろじろで うたをうたえばねんねして
小さい口もと 愛らしい ひとりでおいても泣きません
わたしの人形は よい人形 わたしの人形は よい人形
〇 子供こころに不愉快な唄でった。わが子を「人形」に見立てて、都合良く愛想良く大人? 多分に母親? が、わが子を「ひとりでおいても泣きません」などと思うまま「人形」扱いに私有し支配している図と見え、イヤらしかった。「文部省」がこんな唱歌で少年少女・児童を、大人や親の「人形」扱いに委せるのか、バカにせんといてと思った。
2023 10/1
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『村祭』 文部省唱歌
一、村の鎮守の神様の
今日はめでたい御祭日
どんどんひゃらら どんひゃらら
どんどんひゃらら どんひゃらら
朝から聞える笛太鼓
〇 京都の町なかで生まれ育ったが、太平洋戦争に入ったのが昭和十六年十二月八日、京都幼稚園での師走、翌春四月に市立有済国民学校に。三年生をもう終える雪深い三月、戦災の懼れを避け、京都府南桑田郡樫田村字杉生(すぎおふ)に母と祖父と三人で縁故疎開した。四年生が目の前だった。
上の『村祭』の小規模にもソックリを私はその「杉生』部落のお祭りで体験していた。山中をはるばる仲間と歩いて越えて南桑田郡篠村の賑やかなお祭り日も見聞体験した。京都市には音に聞こえた『祇園会』の大祭がある、ソレとは比べものにならなくても「村祭り」村中の大人も子供も大賑わいに踊り唱う。懐かしい思い出。
そしてぜひ付け加え太鼓と。戦後新制の市立弥栄中学に入学の歳の「全校演劇大会」で、小堀八重子先生担任の吾が一年二組の『山すそ』という「農山村舞台」の児童劇を、学級委員の私が率先演出役になり、主役、クラスデモ最もおとなしい目立とうとしない女子を断然起用訓練したのが成功し、実に、三学年全生徒の投票で「全校優勝」したのだった。嬉しかった。「祇園の子」という短編の処女作にもその嬉しさを書き置いたのも、文壇への有効な足がかりとなった。
この舞台で私は此の唱歌『村祭』を、背景の合唱で気分良く取り入れた。懐かしい少年遙か遙か大昔の少年活躍の思い出、掛け替え無い。
2023 10/2
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『籠の鳥』 秋月四郎 作詞 鳥取春陽 作曲
一、逢ひたさ見たさにこわさを忘れ
暗い夜道をただ一人
二、逢ひに來たのになぜ出て逢はぬ
僕の呼ぶ聲忘れたか
三、あなたの呼ぶ聲忘れはせぬが
出に出られぬ籠の鳥
四、籠の鳥でも知恵ある鳥は
人目しのんで逢ひにくる
〇 たわいない唄ではあるが、幼稚園、国民学校の幼少には、何ともなくこれを「世の中」へ入門して行く道先案内か、先達の指導かのようにも聴けていたのを、まんざらバカラシクもなく思い出せる。斯う謂う「世の中」へ誘い入れる道とも声ともいつしか唄い憶えるのが、斯う謂う「唄」の無視はならない訓育めいていた。だからこそ親や大人は「唱うな」と角を立てて幼少が「物知り」になるのを拒んだ。
2023 10/3
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『ストトン節』 添田さつき 亦は父・唖蝉坊作詞か
一 ストトンストトンと通はせて 五 ストトンストトンと通はせる
今更いやとはどうよくな 一月かせいだ金もつて
いやならいやだと最初から ちょいと一晩通つたら
いへばストトンで通やせぬ キッスひとつで消えちやつた
ストトンストトン ストトンストトン
〇 演歌大流行のほぼ末尾ちかく、大正も末のほうで流行ったらしい、こんなアホウら しい唄で憂さが晴れていたか。
令和の昨今サラリーマンのそれも同様なのか。月給取りの暮らしから脱けて少なくも、私、半世紀ほど。作家生活の「読み・書き・読書と創作」そして家で一人飲む酒で「ストトンストトン」と遣ってきた。ストトンストトン…て、何かな。
2023 10/4
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『ヨサホイ節』 秋月四郎 作詞
一 一つ出たハナヨサホイホイ 七 七つと出たハナヨサホイホイ
一人寂しく残るのはホイ ながめしゃんすな迷うてもホイ
わたしゃ死ぬよりまだつらい 加茂川育ちの京をんな
ヨサホイホイ ヨサホイホイ
二 二つと出たハナヨサホイホイ 八 八つと出たハナヨサホイホイ
二人は遠く隔つともホイ やはり変わらぬその心ホイ
深く契りし仲じゃもの 勉強しゃんせよ末のため
ヨサホイホイ ヨサホイホイ
三 三つと出たハナヨサホイホイ 十 十と出たハナヨサホイホイ
みんな前世の約束かホイ 遠い京都の空の雲ホイ
ほんに浮世はいやですよ 一人さびしくながめませう
ヨサホイホイ ヨサホイホイ
〇 私自身は、大正も末、昭和をそこに臨んでの「京も祇園」絡みのこんな唄、唱った覚えも聴いたことも無い、が、妙に、もの哀しくも、うらさびしくもあります、ホイ。
「ラジオ」誕生、東京大阪の放送局がュースを伝えはじめ、また、イヤな「治安維持法」などの起った頃である。
2023 10/5
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『木曽節』
一 木曽のナア 中乗りさん 木曽の御嶽(おんたけ)さんはナンジャラホイ
夏でも寒いヨイヨイヨイ
袷(あわしょ)ナー中乗りさん 袷(あわしょ)やりたやナンジャラホイ
足袋(たぁび)ョ添えてヨイヨイヨイ
二 木曽のナア 中乗りさん 袷(あわせ)ばかりはナンジャラホイ
やられもせまいヨイヨイヨイ
襦袢(じゅばん)ナー中乗りさん 襦袢仕立ててナンジャラホイ
足袋(たぁび)ョ添えてヨイヨイヨイ ヨイヨイヨイのヨイヨイヨイ
〇 十番までも有る。は、幼少來耳にしていた。京都から木曽御嶽山は比較的近い霊場とみられていたろう、平安時代の女人でも参籠に出向いていたほど、観光にも木曽は山河の美しさを合わせていた、今も。子供でも、聲いっぱい張り上げられる快感があったと、忘れない。
2023 10/6
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『草津節』
一 草津よいとこ 一度はお出で(ア ドッコイショ)
お湯の中にも コーリャ花が咲くョ(チョイナ チョーイナー)
四 お医者様でも 草津の湯でも(ア ドッコイショ)
惚れた病いは コーリャ治りゃせぬ(チョイナ チョーイナー)
〇 一番など、よほど幼かった、しかも太平洋戦争が始まっていたころにも唱っていたのは、草津の湯に人気のあったためとは想う、が、ここで謂う「草津」を幼いわたしは、「南浅間に西白根」と唱う「草津の道」など知らず、京の町なかからは隣県・滋賀の「草津」のように想っていた。
私は「温泉」にひたと浸かった覚えを、九州のどこだったか、取材の必要で訪れた四国愛媛、出雲、石川の山中、群馬のどこか、箱根、四度の瀧 北海道の何処だったか、ぐらいしか持たない。
八七年を生きてきたこれまでに、私は「旅する」余裕と機會をほとんど持てず持たなかった。望みもしなかった。貧寒というでなく。家で好きに、が、落ち着いた。
京の新門前暮らしの少年時代に通った近所の「銭湯」、古門前の新し湯、祇園の清水湯、松湯、鷺湯、縄手の亀湯などへ、好みの、空いた早い時間に通って、ゆーっくり湯船に浸かるのが好きだった。秦へ「もらひ子」されてきた幼い日々には、父や祖父につれられ、、また母や叔母と女湯へもしばしば連れて行かれた。「銭湯」にはそれなりの「好さ」「めづらはさ」があったと、今でもはっきり「色んな思い出真夜中に起きて」が懐かしい。「女湯」で近所の、また国民学校の女の子と、湯からくびだけだして並んで湯船に居たことなど数え切れない記憶がある。冬至は当たり前の情景で、戦時に「家湯」の遣える家は無かった。焚き物が無かった。夏場は、井戸端で盥の行水だったが、我が家では時折りそんな行水を脅すように長い青大将が現れ仰天した。寝ている枕がみの障子際を蛇に通られ、添い寝してくれていた叔母つると共に着布団ごと空を跳んでにげたことも有った。近所を清流白川が趨っていて、石垣にも橋の上までもよく蛇が出た。どこの家にも蛇は出ていた。それも『花の京都』なのである。
2023 10/7
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『酋長の娘』 石田一松 作詞・作曲 草
一、 私のラバさん 酋長の娘
色は黒いが 南洋じゃ美人
二、 赤道直下 マーシャル群島
椰子の木蔭で テクテク踊る
〇 日本の軍事勢力が太平洋をしだいに南下展開領有していった、無邪気なほど景気づいていた時機時節を反映しており、幼少の私でも、「ラバさん」が当時の少年少女言辞を用いて謂うなら「好きやん」に当たるだろう程度は察して平気で唱っていた。まだ戰争へ突入以降の陰惨を、国民はまるで胸にも萌していなかった、と想われる。「マーシャル群島」の名など、どんなにのどかに景気よく、どんなに危うく、どんなに不安に満ちて大人も子供も「つきあってた」ことか。
2023 10/8
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『洒落男』 坂井 透 作詞
一、 俺は村中で一番
モボだといはれた男
自惚れのぼせて得意顔
東京は銀座へと来た
そもそもその時のスタイル
青シャツに真赤なネクタイ
山高シャッポにロイド眼鏡
ダブダブなセーラーズボン
二、 吾輩の見そめた 彼女
黒い瞳で ボッブヘアー
背が低くて 肉体美
おまけに足までが 太い
馴れ初めの始めは カフェー
ここは妾(あたし)の店よ
カクテルにウイスキー
どちらにしましょう
遠慮するなんて 水臭いわ
五、 夢かうつつかその時
飛びこんだ女の亭主
者も言はずに拳固の嵐
なぐられてわが輩は気絶
財布も時計もとられ
だいじな女はいない
こわい所は東京の銀座
泣くに泣かれぬモボ
〇 こんな唄を少年私は エノケン(榎本健一か)というお笑いトーク藝人の「藝」として聴いた、むろん「ラジオ」か、ホヤホヤの「テレビジョン」かで。当時「お笑い藝人」の大御所格に、この「エノケン」と「アチャコ」が風靡。私は、そのどっちもたいして感心せず、この以降へつづいた数々の巧い笑わせる「漫才」ブームに惹かれた。
それにしても、明らかに「モボ(モダンボーイ)」ならぬ、西京京都の知恩院下、祇園街育ちの「女文化」少年の私に、「東京」「銀座」とは先ずはこういう「顔つき」で登場していた。東京に「憧れる」気持ち、全然と謂うに近く無かった。行くならよほど「要心」「覚悟」してと思っていた。私史としても記録に値する気だった。
2023 10/9
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『會津磐梯山』
エイヤー会津磐梯山は宝の山よ
ハヨイト ヨイト
笹に黄金がエーマタなり下がる
ハスッチョイスッチョイ スッチヨイナ
(囃子)小原庄助さん なんで身上(シンショウ)つぶした
朝寝朝酒朝湯が大好きで
それで身上つぶした
アもっともだ もっともだ
エイヤー音に聞えし飯盛山(いいもりやま)で
ハヨイト ヨイト
花と散りにし白虎隊
ハスッチョイスッチョイ スッチヨイナ
エイヤー会津磐梯山に振袖着せて
ハヨイト ヨイト
奈良の大仏婿に取る
ハスッチョイスッチョイ スッチヨイナ
〇 京の町育ち、會津も磐梯山も知らない、見たことが無いのに、幕末維新の昔に「會津」が色んな意味で京都で健闘したらしいとは、ボンヤリと子供心にも耳にも触れ合うていた。それに、大人も若い衆も上の「囃子」の「小原庄助さん」に共鳴してたらしく、早い時間の空いた銭湯で機嫌良く唄う大人はケッコウいたものだ。早い時間の空いた銭湯の好きだった私はこの唄、よほど早くから耳にし、口に倣うていた。「囃子」の「小原庄助さん」は一人のケッコーな先達ないしエラソーな人に想え、親しみ、敬意をすら覚えていた、子供のクセに。デ、私、この歳にして「朝寝朝酒」はいつも願わしい境涯と心得ているのです。
2023 10/10
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『うちの女房にゃ髭がある』 星野貞志 作詞 古賀政男 作曲
一、 何か言おうと 思っても
女房にゃ何だか 言へません
それでついつい 嘘をいふ
(女)なんですあなた
(男)いや、別に
僕は、その、あの
パピプペ パピプペ パピプペポ
うちの女房にゃ 髭がある
〇 何と無う「おとな」の世間はこんなかと、子供心地に察しながら、自分では唄わないが、ラジオなどで聞こえると、聴いていた。「ベンキョウ」になりました。「やると思えばどこまでやるさ それが男の魂じゃないか」なと虚勢の唄は、いっそバカげていた。
2023 10/11
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『露営の歌』 藪内喜一 作詞 吉岡裕而 作曲
一、 勝ってくるぞといさましく 三、 弾丸(たま)もタンクも銃剣も
誓って國を出たからは しばし露営の草まくら
手柄立てずに死なれよか 夢に出てきた父上に
進軍ラッパきくたびに 死んで帰れとはげまされ
まぶたに浮かぶ旗のなみ さめてにせらむは敵の空
〇 『曉に祈る』 野村俊雄 作詞 古関裕而 作曲
三、ああ堂々の 輸送船 四、ああ大君の 御爲に
さらば祖国よ 栄えあれ 死ぬは兵士の本分と
遙かに拝む 宮城の 笑った戦友(とも)の 戰帽に
空に誓った この決意 残る恨みの 弾丸(たま)の跡
〇 少年私は、概して「戰歌」と類されるどれ一つも好まなかった、嫌った。なかでも此の、「夢に出てきた父上に 死んで帰れとはげまされ」など、憎悪に近く嫌った、そんな「父親がいるものか」と。
「大君の御爲に 死ぬは兵士の本分」など、「遙かに拝む宮城」など、なんたる倒錯と思い、私は概して「天皇」の存在は「日本文化の一表現」と容認し認知はしていたが、「神」ともそのために「死ぬべきが兵士の本分」とも、容認も認識も出来なかった、少年の昔から天皇を一つの「象徴」とは認めていても、「戰帽を打ち抜かれて戰死した兵士」の「残る恨み」が何に向いていたかは、推測し得てあまりあるのではと,私は別の筝を思い「祖国」と「天皇制」とは元来が別ゴトと感じていた。私の祖国は「日本国」だか「宮城」でも「天皇」でもない。
海ゆかば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山ゆかば 草むすかばね
大君(=天皇)の辺(へ)にこそ死なめ
かなんとかえりみはせじ
は、学校内の「式」と称する機械には、「君が代」と前後して必ず「全校斉唱」を強いられた。幼少らい,私、断乎胸中に拒否し、憤然としていた、「死んで堪るか」と。
炎熱や酷寒の激戦地に苦渋する「父よ」「夫よ」に感謝し励ます「父よ、夫よ、強かった」と励まし頌える子や妻の歌は眞実同情できたが、これが戰争・戰闘・戦死の肯定・容認・感激になるなど、「子供ごころ」に恐怖とともに不条理だと断然容認できなかった。「兵隊さんにはなりとない」と何十度つぶやいたろう、私は「臆病」の罪を問わるべきだったのだろうか。
この歌のシリーズを敢えてした理由の一つは、かかる「幼少の批評」を忘れ去りたくなかったから。
2023 10/12
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『隣組』 岡本一平 作詞 飯田信夫 作曲
一、 とんとん とんからりんと隣組 二、とんとん とんからりんと隣組
格子をあければ 顔なじみ あれこれ面倒 味噌醤油
回して頂戴 回覧板 ご飯の炊き方 垣根越し
知らせられたり 知らせたり 教えられたり 教えたり
〇 これが戦時下 都市生活の「不安」に裏打ちされてのご近所暮らしであった、我が家だけの買ってと謂うことの物騒に 警戒警報や空襲警報に戦くじせつでもあったし、またこの「隣組」というしめつけで市民生活にワガママ化っての逸脱を懼れ禁じる当局の指導も指令もあったのだ。陽気な歌声と耳には聞き口にはうたいながら、「隣組」や「町内」の「常会」による締め付けは、大人世間や、男大人の出征や徴用による留守家庭の検束に当時不可欠であった。敗戦となればたちまちに「隣組」や「常会」の風は雲散したのをまだ子供心に憶えている。隣組班長」や「町内会長」はいつも「カーキ色」した国防服に身を固めていた。防空演習という,子供の目にも嗤いたいチャチなバケツリレー等もちょくちょく見た。あれど敵機飴あられの焼夷弾攻撃を消そうとしていたのだ、誰一人として勝てる戦争などと思ってなかった。
◎ 永く連載してきた この 『唄』ものがたり、を此処で終える。
2023 10/13
* 起きてても寝ててもわたしは「唄っている」ひとで、一の「お気に入り」は、
サッちゃんはね
さち子っていうんだ ホントはね
だけど ちっちゃいから 自分のこと
「サッちゃん」テ云うんだね
可愛いね サッちゃん
日に、三十ぺんほどは唄っている、小声で、だけど。もひとつ云うと、
垣根の垣根の曲がりかど というのが、口をこぼれて出る。
わたたしは「歌」を詠むが「唄う」も好きで、岩波文庫の「日本唱歌集」は一冊をボロにし、二冊目を愛翫してるのです。
2023 10/23
* 私の口をついて出る『この頃うた』は、常にふたつ。「サッチャンはね サチコっていうんだヘホントはね だけど ちっちゃいから 自分のことサッチャンて謂うんだね 可愛いね さっちゃん」の、出だし「サッチャンはね」が、ひとつ。
もひとつ、やはり歌い出しのいっくばかり口をついて出るのが「垣根垣根の曲がり角」の初句だけ。五月蠅いとは思ってない。
* 幼少の昔、『心に太陽を持て』と訓える本があり、「タイソウな」と嗤っていたが「くちびるにウタを持て」には同感していた。私は「くちびるに始終生きている「短句のうた聲」を歓迎している。きちじゅうはちになろうとしているが、いつも、「サッチャンね」とだけ唄い 「垣根の垣根の」とだけ唄っている、ツキモノかのように。
2023 11/14
* 新作にと「想い」寄せている仕事へ、あまり手がかりが多く書き出しそびれていた。へんなことと思われようが、しきりに「うろおぼえ」の童謡が口をついて出て、
サッちゃんはね サチコて云うんだ ほんとはね
だけど チッチャイから
自分のこと サッちゃんて 云うんだね
可笑しいね サッちゃん
「可愛いね」かもしれず、間違えててもそこは大過なく、「サッちゃんはね サチコて云うんだ ほんとはね」は「ほんと」。ただ私の知っているその「サッちゃん サチコ」は、可愛かったけれどもう「チッチャ」くはなかった、初めて顔をみた、見合うたころは、着たきり寸づまりな着物の母親が、ガラゴロ手押しで、たぶん煮焼きなどした小魚の類いを小さな「かけ声」で売りに来る荷車のわきを温和しくついて歩いて来た。我が家の前あたりに立ち止まると、待ち受けてたように近所の小母さん等が寄って気楽に喋ったり笑ったりし、わたしも母や叔母のちかくで、ボヤッと芸もなく立っていたりした。荷車の脇の(?_?)名のことくちをききうなど、あるべくももなく、しかし年格好は、わたタクシが敗戦後小学校の五年生なら向こうは三、四年かと見受けた。
2023 11/20