* 晩は一転、東天紅の料理で、紹興花彫酒を堪能した。建日子がいて、ネコが、マゴとグーと二匹いて、妻と、私。いい歌を聴き嬉しいメールももらい、心晴れて佳い元日だった。「mixi」日記には、この時代…わたしの絶望と希望、を語った。
2007 1・1 64
* ゆっくり朝寝してからお雑煮を祝う。猫たちが神妙に共存していて、えらい。
* 去年の今日、やす香は妹みゆ希をつれて此の我が家で一日賑やかに楽しんでいった。建日子も来ていた。少し時間もおそくなって、建日子の運転する車で玉川学園の家の近くまで姉妹を見送った。みなでドライヴしたい両親の口にしない気持ちを建日子が察してくれたのだ、疲れていただろうに。
ありがたい、楽しいドライヴだった。やす香とみゆ希とは車内で歌も歌った。夜道をさがして車が少々右往左往するのさえわたしたちはひそかに歓迎していた。
暗い山坂の途中で姉妹をおろしたとき、残り惜しかった。そしてまたたくさん時間を掛けて保谷へ帰った。
今思えば長時間の自動車の揺れは、やす香に痛い思いをさせてなかったかと、気の毒になる。だが、まさかあの日は、やす香でさえ病ににじり寄られている自覚がまだなかったろう。いや、あったかも知れない。
「痛」という自覚を初めてやす香が「mixi」に書いたのは、去年の今日から、十日ほどあとであった。今にして読み返せば、まちがいない自覚である、その同日にわたしにこれが読めていたらすぐ、「親と治療の相談をせよ」と、強要すら出来たろう。わたしが「mixi」に入ったのは二月、やす香も「mixi」にいて互いにすぐマイミクになったのは、二月二十五日だった。やす香の「mixi」日記を前年九月以来総なめに保存に掛かったのは、もっともっと後日、「白血病」とやす香自身が病院のベッドから「mixi」で公表して以降だった。嗚呼ああ…。
☆ 2006年1月11日11:18 痛。 やす香
そろそろまずい↓
何もしてなくても痛む腰。
ろくに上も向けない首。
筋が変にきしむ肩。
血の巡り悪すぎ。
手足の先が凍る。
頭が動かない。
原因不明のびみょーな腹痛。
言うコトきかない身体に
もううんざり。
時間がほしい。
負けたくない。
誰にも負けたくない。
何も生み出さない
意地とプライド。
ただただ過ぎ去った19年もの歳月。
怖い。
恐ろしい。
自分に負けるのが一番嫌。
* 例によって行儀の悪いSPAMをどっさり削除。マイミクの日記をみる。老若男女のたたずまいがそれぞれに目に見え、安心する。昨日のひばりの歌声が耳にのこっている。
2007 1・2 64
* 「mixi」の「足あと」を逆に追って訪ねると、そこに思いがけない私への言及があったりして驚かされる。
「mixi」の「マイミク」を増やすのを抑えてきた、が、「甲子」さんや「笠」さんら老境の知友を誘った後、ご老人がた初めのうち若さの沸騰世間に違和感を覚えたり、喚声や嬌声に辟易し立ち往生されるかもしれないので、思い切りわたしのところへ「E-OLDS」に何人も寄って戴くことにした。六十前後から八十過ぎまで。
自然、書かれることも日々の思いもお互いに通いやすい。十数人そういう方が集まると、わたしを訪問された序でに、そういう方々の日記が読める。生活も思想もみえ、手だれの創作もある。それに「湖の本」という老若男女をつなぐ紐帯もある。若い人達も、ミドルの人達も、みなさん、「考える人」でも「話せる人」でもある。その世界はまちまちで似てはいないから、お互いにのぞき込む甲斐もある。もうお互いにマイミクになりあっている人達もある。
どの方のどれが面白いなどとは言わない。「電子の杖」は思いがけないところへ連れて行ってくれる、が、ハメをはずして難儀なことには巻き込まれないように。
思えば、去年の二月十四日ごろ、思いがけず見知らぬ方のご親切で、なにも分からずに招待された「mixi」世間だが、わたしの目的は、自分に与えられている「日記」欄を原稿用紙にしよう、発表誌のように使おう、自作の書庫に使おうなどと思いきめ、書き下ろしを含めてほとんどを「作品」で埋めてきた。いわゆる「日記」ふうのものはごく僅かで、などれも皆、過ぎし「日記」欄に恰も象嵌されてある。何をいつ頃書いたか、一度整頓して「目次」を造っておかないと。
* それだけではない。人さまの日記に「コメント」したのなど、無数にもう埋没している。「メッセージ」が始めからみな読み返して保存できるかどうか、夥しい量になっているだろう。
2007 1・4 64
* 「mixi」に「記念したい井上靖」を三回連載した。
* 日記のように朝に晩に来ていたメールが減り、不正・不良メールが瀧のように流れ込み、「メール」をひらく意味がひと頃より薄れている。歳歳年年人不同。当然。
そのかわりに、「mixi」のマイミクが活況で、そっちの「日記」を読んだり「コメント」や「メッセージ」や「足あと」を受け取ったり書いたり付けたりが賑わっている。老若男女、三十五人にマイミクをふやした。きちんと読んで書いて、しかも八方、いろんな人達。「湖の本」の読者も、六十すぎたE- OLDSも、東工大卒業生も、ペンや書き仲間も、若い同窓の人達も。一覧で「マイミク日記」をひらくと、ぱあっと世間がひろがる。読んで休息できる。これまでに知った人も会ったことのない人も。
* わたしは、「mixi」に日記はめったに書かず、もっぱら「作品」を公開している。おかげで、未知であった愛読者や新しい読者達とも日ごとに出逢っている。去年一年分の目次をつくってみたら、びっくりするほど沢山を公開していた。むろんアクセス無料。
もう一両日で細かに気になる用事を片づけたら、此処での「私語」を、一段満たして行きたい。
2007 1・7 64
* 小説は、粗筋でも、お話でも、人間関係でも、事件でも、事変でもない。いわばそれらを「構築的な美観」として「言語でみごとに構成し表現」してゆく「文章創作行為」である。芥川龍之介と論争した谷崎潤一郎のそのように述べた見解に、わたしは賛成している。
この条件この前提を、たった一つでも満たさない、ただの粗筋や、ただのお話や、ただの人間関係や、ただの事件や、ただの事変などを、わたしは文学的な「小説」とは認めない。だから『秘色』や『みごもりの湖』は小説だと自負しても、『蘇我殿幻想』はエッセイとした。後者でわたしは叙述し表現したが、文章にも集中したが、小説としての構成は緩くし、あえて求心的に組み立てなかったからである。
小説は、手を出すには甘いものでない。手を出すからは「文学の名作」を提出する気でなくては意味がない。もしドストエフスキーを尊敬しているなら、ドストエフスキーよりも良くて彼には書けない作品を書かなくては意味がない。シェイクスピアでも、チェーホフでも、夏目漱石でも谷崎潤一郎でも島崎藤村でも、全く同じこと。その人達を真実尊敬し愛読しているなら、自分の書くものはそれら文豪の上を行って彼らには書けない「名作」を書く気でなければ「書いてはいけない」ほどの、容易ならぬ藝術なのである、文学は。小説は。
電子化機械の出現がもたらした文学への最大の毒は、こういう最高度の覚悟を希薄に拡散させたことであると、わたしは久しく嘆いている。
2007 1・8 64
* 「京言葉と女文化」についで今日から「京のわる口」を「mixi」に連載し始めた。
2007 1・10 64
* 歌舞伎座で昼夜過ごしました。(つい、「mixi」の方に「日記」を書いてしまった。「私語」へも転記しておく。)
顔ぶれも演し物も充実し、十一時から二十一時半まで、たっぷり、でした。高麗屋の心配りで、昼は幸四郎の勧進帳に最もいい中央通路ぎわの五列目、夜は花道芝居が多く、花道ぎわ通路より七列目という絶好席をもらい、しんから楽しんだ。
2007 1・11 64
そんな按配で、連載は一休みしました。 湖
* もう一時半をまわっている。今日は十分楽しんだ。
2007 1・11 64
* 「mixi」で貰った「メッセージ」が二百何十もになっていた。およそ同じほどを、わたしからも送ったり送り返したりしている。ほとんどはたいして意味あるものではない。「メッセージ」は個と個のメールなみ通信であるから、「コメント」や「日記」より一段踏み込んだ、なかには甘えた恋文めくものもあり、長続きするものではない。行く水の泡のように流れ去る。
書く、語る、話す、喋る、ダベル、ときに喚く。しかし真実生彩に満ちて「生きている」と読める例は余りに少ない。だから「風俗」が、「俗情」が、そこに現れるという「資料的」利点がある。俗情史資料として「mixi」は後生の史家に活用されるかも知れないが、欠点は、量が多すぎる。わたしもまた意識して流れに棹さしている。
2007 1・14 64
* ほっこりと疲れている。疲れながら、こまごまとした、しかししなくては事の前に進まない仕事を、あれをやりこれをやりまたそれをやって、一日が経った。仕事とはそういうもの。そんな間にマキリップの英語を読み、湯舟でカッスラーを読み。
極端にSPAMが増え、まともなのの五、六十倍。イヤになる。ホームページや「MIXI」の更新に影響が出ない手順が分かれば、いよいよメルアドを替えてしまおうかな。しかし年鑑類など、ずいぶん沢山な変更通知が必要になり、それが煩わしい。
2007 1・15 64
* マイミクに誘った人たちの日記(ないし創作の文章)が、それぞれに日々に書き換わる。それを読んで、わたしは休息する。
* 学都ボストンのハーバード大学に落ち着いた「雄」君は、鹿島立ちして以来の日記を送ってくれている。いずれは実験生活の多忙と緊張で途切れるだろうし、途切れて少しも構わない。むかし、ドイツに留学していた「京」さんは一週間に一度、かならず絵葉書の便りをくれた。いまとなれば彼女のために貴重な記録。
羅臼の「昴」さんもときどき断片のなかで、きらっと光る文章を書く。「馨」さんの生活感と実感はいつも知性にしっかり包まれている。
おじいさんたちも、然り。最長老「甲子」さんの健筆に驚くし、「瑛」さんの随感もしばしば異色を放つ。
マイミクをえらぶことで、自分の「mixi」世間をすこし堅固なものに出来たと思う。「足あと」は11000を越えている。二月十四日でまる一年十二ヶ月になるが、12000には確実になるだろう。何の目安になる数字でもないが、その頃をわたしは或る決断の機にする気で居る。
2007 1・16 64
☆ 心にうつりゆくよしなしごとを書きつづけて、これはただつぶやきとも・・いつか詩の形になっていくことを微かに望みつつ。
昨日「mixi」に登録したばかりで、いくらかの戸惑い・躊躇、小さな決意。ゆっくり書いていきます。日記のように、そのように書けない時はこれまで書きさしになったままのものも此処に。 エリペ
2007・1・5
ビアンカ
あなたとあなたの恋しいフランチェスコ殿
発病から急死にいたったその日々に
既に公然と囁かれていた毒殺が
「科学的」に証明されました
(本日2007年1月5日 日本語放送ニュースを耳にしました)
致死量の砒素があなた方の肝臓に残されておりました
何を今更
毒盛られるずっと以前から
毒盛られること 刺し殺されること 首絞められること
毎日毎日 覚悟して 生きてきたのですから
毒婦 姦婦 たぶらかし女・・とありとあらゆる名詞を貼り付けて
公然と声高に 或いはものの陰に潜んで湿った声で
わたしを非難したのは 誰だったのでしょうか
一人や二人じゃありません 数知れず
あなたの国でも 希代の毒婦として 紹介されてきました
愛など わたしの愛など 風前の灯
砒素の一盛りで 消え去り吹き飛び
屈辱と悔しさに 臓腑灼く熱さと痛さに
打ち伏して死を願った あの人の死を追いかけた
もう思考も意識もあてどない あやふやになっていく時間
でもあの人への愛のどうしようもない真実 それだけは真実
わたしの生涯は完璧に成されたのです 成就されたのです
正体不明の毒 肝臓の砒素を証として
1・10
神社の南 保育園西の田に トンドが作られた
集落の正月祝いをしめくくる
夕方 初老の男が飽かず見つめていた
トンドはわしの 正月の一里塚みたいなもの
藁立てて 昨年を送り出し 今年を祈る
1・11
おっちゃん おっちゃんの庭のレモン 黄色になったぞ
ちっこい緑の時は なかはスカスカっていってたけど
もう酸っぱいか?おいしいか?
暖冬に筋向いの家の玄関先には ひまわりが咲き 夜の冷え込みにも負けず まだ咲き続けている ひまわりと寒波と我慢比べをするらしい わたしの庭で赤いバラが咲く
フロンガスとは限らない 何か他の原因もあるという
オゾン層は尚引き続き増えつつある
二酸化炭素の増加で 地球環境は・・人は増え続けてはいけない、極力省エネに取り組まねばならない 危機は叫ばれる 大いなる警鐘 不気味な黙示録は示される
1・12
買い物帰りの 家近くで 集団下校の小学生女子五人が
行き過ぎるわたしを じいっと見つめて 目配せ
挨拶はかえってこない
視線と なにやら普通に話している会話が わたしを追ってくる
聞こえない言葉が 鮮やかに 背中にとまる
脅迫観念に陥るなど あまりにアホらしゅうて
それが アホらしくないのに 愕然とする
集団の無意識の暴力 女の怖さと書くのも 恥ずかしい
買い物は久しぶりのバーゲン・衝動ショッピング
少しストレス解消して元気になった帰り道
ブッシュはイラクに二万人の派兵増強を年頭演説で語った
三千人の死者 NY9・11
アメリカ兵の死者は三千人を越え
イラク人の死者は既にどれほどになったか
自由を守るため、テロ勢力を撲滅するためと・・しかし
先制攻撃・他国への侵略でなかったと言い切れるか
自分自身が 多くを死なせ、多くを殺した者であると
ブッシュは決して肯定しない
落ち込んでいく
暗い気分の中へ
うきことも うれしき折も 過ぎぬれば ただあけくれの 夢ばかりなる
ふと目にした 尾形乾山の歌
ソウル・メイト
おかあさんは わたしの ソウル・メイト
わたしたちはソウル・メイトなの 知っている?
ソウル・メイト・・魂の友・・
携帯電話の声が耳に残る
彼女がどのような意味をこめてソウル・メイトと告げたか
あの子を産むまで・・三回入院した
切迫流産は二回
悪阻でわたしの体重は39キロまで痩せた
早産を配慮して外出禁止 最後は早期破水 三日後やっと生まれた
これで元気に生まれたのは奇跡に近い?
わたしの命って凄い!
生きたい、生きたいってお腹の中でわたし思ってたのよ
娘はいつも自分に語りかけていた
ソウル・メイト その意味の理解はまったく別にしても
互いを大切に切実に ただし依存関係でなく
この世にある時間を 生きようではないか
ソウル・メイトだと告げられたことを わたしは重く受け止める
* 「インターネットの日本語」を価値と発明とのあるものに。わたしの願い。「マイミク」に誘い甲斐のあるまた一人の「表現者」の登場を、わたしは喜ぶ。
2007 1・17 64
* 「mixi」に「祇園と歌舞伎と」という短文を出しておいたなかに、祖父の頃の秦の家が、南座などに「かき餅」を卸していたことに触れていた。千葉の e-OLD勝田さんが懐かしがって、ご自身の想い出を寄せられたのが、なかなかの「文献」なみなので紹介しておく。勝田さんが「おせんべい」屋さんなのではない、お医者さんであるが。
ちなみに、関東の「おせんべい」は堅焼きの、京で謂う「かき餅」にほぼ相当していて、京都で「煎餅」は末富などの銘菓老舗らの、ややふわっと上品に甘みのある「和干菓子」にちかい。
☆ おせんべいの作りかた (明治生まれの「せんべいや」が書いたもの。 末尾に註)
おせんべいをおいしく作るこつは、よくかんがえると理屈に合った事ばかり。
たとえば十月頃新米で作ると、新粉に粘りが出て仕事がやりにくい。やはり古米がよい。年が変わるとそろそろ古米がなくなり、前年取れた米と云うことになる。その時も乾燥のよい、茨城とか栃木、千葉米などがよいが、今はそんな事は言っていられない。普通配給米で丁度よい。
団子で食べる場合は、粉は細かくよく搗いた方がなめらかで舌ざわりがよいが、これを煎餅にするとふわふわのものが出来る。やはり粉は少し粗めに挽いて、食べると少しごそっぽい位の方が、硬焼き、にはよい。
家では、20本の篩でふるっている。20本とは一寸角の中の目。粉を耳たぶより固めに熱い湯でこね、3~40分位蒸す。あまりふかすとねばりが出過ぎて仕事がやりにくい。昔は杵で搗いたが、今はねりだしで差し支えない。
手搗きと機械の違いは、新粉の場合は何ら変わりない。
正月の餅の場合は手搗きの場合、杵でよくねってから搗き始める間に適度に空気にふれ、熱がすこしづつ出て搗くから、こしの強い餅が出来上がる。だから機械の場合も早めに「せいろ」をおろして、2~3分置いてから搗くと手搗きと変わらない。
おせんべいの「手のし」と機械の違い
今言った通り機械の場合はどうしてもこなし過ぎるので、そのつもりで粉を粗くひくのである。ただし「かたやき」の生地は出来るが、ほいろがなかなか効かず、生地がもろい。天気の良い時はまだよいが、冬など2~3日目でなければ乾かないときは、とくにやりにくい。天気の良いときでも夏で1日半かかる。そのくらいに上げた生地は焼き上がっても「つや」よく、旨い。
うまく食べさせるこつは、何といっても味付けの醤油である。
世間では大抵刷毛で付けて居るが、あれは早く乾き醤油が得であるから。家では「つっこみ」で昔からやっている。濃さは生地の厚さによって濃くも薄くもそれに合った程度がよい。
「醤油の煮方」
キッコーマン、ヤマサ、 醤油1本(升) 1,8リットルにつき ミリン 5勺、キザラ砂糖 100グラム、カタクリ 50グラム
まず醤油1本を鍋にあけ、火にかけキザラを入れ、泡立った頃カタクリを入れ、煮立ちぎわにミリンを入れる。カタクリは水でどろどろ位にとく。醤油はがらがら煮立てては味が落ちる。煮だちぎわにおろす。
よそのお店のやり方を見て気を付けていると、手焼きの店で白焼きにしたものを、いったん冷まして色付けに焼いている。白焼きで熱を冷ますと芯がしろく、悪く言えば生焼けで、上皮だけ色付けに焼くので、堅くばかりあって香ばしみがない。やはり備長で、はなからしまいまで、一気に芯まで「きつね色」に焼いた方が一番うまい。それがこつである。
肝心なところを今一度かく。
粉は少し粗めに挽き、耳たぶ位より少しかためにお湯でこね、セイロにちぎって入れ、3~40分位蒸し、搗き、5~6分間水に入れて熱を取る。余り冷やし過ぎるとかたくなって、まとまりが悪いので、なまぬるめの内に水から出して、又、搗く。だから冬等は水が冷たいので2~3分で上げてしまう。干してからも乾きも良い。今一度搗き、耳たぶ位のかたさに、のしよいくらいに、かわくまで置いた方がやりよい。
生地が出来たら良くかわいた物で夏でホイロで1時間、冬で2時間位あたためてから、焼き始める。醤油は焼いてから2~30分位置いた方が良い。直ぐだと、しみこみのおそれ有り。一日置くと乾きが悪い、焼いた後で付けた方がよい。
「48年(1973) 貞夫にカセット・テープを貰い楽しんでいる。父に、せんべいを作る事を入れておいてくれと言われたので書いたわけだ。 父」
***
註
新粉:しんこ:米の粉を湯で捏ね、蒸して、搗いたもの(これを丸めると団子)
堅焼き:堅焼きの煎餅(せんべやの主力製品)
ねりだし:臼と杵で搗く代わりに練り出すように加工する機械
20本の篩:ふるいの目の粗さ(一寸に20本づつの針金を使用)
ほいろ:ホイロ:焙炉:煎餅を焼くまえにあらかじめ暖めておく
つっこみ:焼いた煎餅を瓶に入れた醤油の中にざぶりとつっ込む
生地:煎餅の焼く前の段階のもの
* 此処へ紹介するのも惜しい気がするぐらい具体的。こういう文献からは眼をそむけることが出来ない。感謝。
少し政治向きのコメントも今日は書いたのだが、そんなのは、こういう徹して具体的で実体験にしかと裏打ちされた文献の前へは薄くて持ち出せない。
2007 1・20 64
* 石川県から、期待のマイミクがきまった。心親しく、兄事してきたE-OLDSの一人、それも文学者。
* 東工大のころ、三人で目黒駅の地下でたしか天麩羅を喰ったことがある、その二人の学友が「mixi」で久しぶりに出逢ったようだ、二人ともわたしのマイミクになっている。一人はボストン、一人はバルセロナにいる。ボストン君の「日記」快調。儲けもののように喜んでいる。
* せっかく「mixi」で出逢っているのだから、マイミクのおじさん、おばさんたち、「日記」欄を使って欲しい。すると「コメント」や「メッセージ」が入ってきて、交流の機がうまれる。お互いに顔も見知らないというバーチャルな欠陥をどう埋めあえるかは、人それぞれの持ち前できまってゆくだろう。
* 『京言葉と女文化・京のわる口』を連載していて、西の方にいい話し相手が増えている。ほうっと西が今あったかい。
2007 1・21 64
* 「MIXI」を開いてみると、マイミク氏たちの元気な「日記」書き込みが読め、またわたしへの「コメント」も読めた。ときたま見知らぬ「足あと」を覗き返しもするが、おおかたは三十八人のマイミク氏たちの、更新された新しい幾つかの日記などを読んでみるだけで十分。文字通りの一服二服で済む。わたしは其処へは日記を書かない。記録しておきたい過ぎし昔の文章を、さっと読み返してから送りこむだけだ、が。
2007 1・22 64
☆ 今朝,ボストン美術館に行ってきた. ボストン 雄
実は観光はもうちょっと先に取っておこうと思っていたのだが,僕の前にこのアパートに住んでおられた方から、昨日お電話を頂き,その際に僕のアパートからボストン美術館までは非常に近いことを知った.今まではグリーンラインのDという電車を利用していたので,グリーンラインEまたはオレンジラインから近いボストン美術館へ行くには、非常に不便だと思っていたのだが,実は僕のアパートからだとグリーンラインのEラインにも非常に近いらしい.ただし,Eラインとオレンジラインはボストンでも治安の悪いエリアを通るらしいので、今までは乗ることさえためらっていたのだが,Eラインに関してはそれほどでもないとのこと.そうと聞いたら,俄然行ってみたくなった.
そこでお楽しみとして取っておくのをやめて、今日行った次第.
確かにEラインを利用したら、自宅から美術館までは20分足らずだった.本当に近い.
中に入るとまずコートやカバンを預けなくてはならない.それらを預けてから入り口より左奥に進んだ.
インドや中東などの展示を抜けていくと,そこには日本美術の展示スペースがあった.ご存知の方も多いように,ボストン美術館には岡倉天心やフェノロサの努力により,非常に優れた日本美術の作品が沢山所蔵されている.
正直言って,美術に関しては全くの門外漢なので,充分に理解したとは言い切れない.しいて言うならば,それまでのアジアの展示に比べて,日本のものはどれも実に繊細という印象を受けた.それはヨーロッパやアメリカなどを加えればなおのことそうだろう.
日本人は昔から実に繊細な民族だったのだなという印象を受けた.
それにしても,美術に造詣の深い方ならば、もっともっと色々な観点から楽しめるはずで,せっかくこれだけの美術品がある場所にいながら,それらを充分に理解できるだけの知識が自分に無いのは、実に勿体無いと思う.まさに豚に真珠ということか.しかし,それはそれで仕方ない.これがスタートなのであって,せっかく近くなのだから足繁く通っているうちに,きっと僕の中に、少しずつそうした素地が出来上がっていくものと期待したい.
素人なりにも,2階の仏像の展示に関しては素晴らしいなという印象を受けた.展示方法も素晴らしくて,これらの素晴らしい美術品を独り占めしたかのように、静かに味わうことができるようになっている.
西洋美術のコーナーはまさに圧巻,モネの数々の作品の中でも僕の最も好きな、La japonaiseが展示されていてびっくりした.これはモネの作品の中では異端に属するようだし,美術的な価値がどうなのかは僕には良く分からないが,昔美術の教科書か何かで見て,美しいなあと思った記憶がある.この作品がここに展示されているとは知らなかった.
そのほかにも有名な睡蓮の作品も展示されていたし,ルノワール,マネ,ゴッホ,ピカソなどの作品が所狭しと並べられている.日本だったら作品よりはるか手前にロープが張られていて,それらを遠巻きに観ることしかできなかったり,人ごみに巻き込まれてそれだけで疲労困憊してしまうが,ここではすぐ手を伸ばせば届くくらいの距離から観ることができるし,お客さんの数もそんなに多くないので,すきなだけ作品を眺めていることができる.本当に贅沢だ.
その他にも,エジプトのミイラの棺や古代ギリシャ,ローマ文化の展示,メソポタミア文明の展示など,古代のものもびっくりするほどの数が展示されていた.ミイラの棺や粘土の壁には象形文字が刻み込まれている.手に刀を持ち,どんなことを思いながら古代の人々はこれらの文字を刻み込んだのだろうと、思いを馳せた.
結局3時間ほど美術館に滞在した.3時間といえば短くは無いが,これらの展示を見るには短すぎる.しかし美術入門としてはこれだけでおなか一杯であり,次回からはもう少し観るものを絞って、じっくり観たいなと思った.
売店で美術館の展示作品のガイドブックと、モネのLa japonaiseを含む3枚ほどの絵葉書を買って美術館を後にした.
再びグリーンラインに乗ると,驚いたことに隣のラボのポスドクが乗っていた.どうしたの? と聞くと,一昨日子供が産まれたのだという.美術館の一つ先の駅はメディカルエリアにあるので,そこから乗ってきたらしい.これから車を取ってきて子供と奥さんを迎えに行くのだという.生まれるまでに24時間かかったのだそうで,まだ睡眠不足のようだった.
ハーバードスクエアで彼と別れ,僕はポーターまで乗った.
ポーターには日本食材を沢山置いてある「Kotobukiya」というスーパーがあるので,そこが目当てだった.実は昨日も来たのだが,散々歩き回っても見当たらなかった.昨日は恐ろしく気温が低かったので,外を歩き回るのも辛く,結局何の収穫もないまま帰宅したのだった.今日も見当たらず,遅い昼食をポーター駅近くの「伽耶」という日本料理と韓国料理の店で摂ったのだが,その際に店員さんに道を教わったものの,どうもそれらしいものがない.通りがかった白人のおばあさんに聞いたら,まさに自分の真横にあるビルの中にお店が入っていた.外見だけでは全くわからなかった.
中は予想以上に色々なものが置いてあり,ついつい嬉しくなってあれこれと買ってしまう.天ぷらうどんの鍋焼きセットだの,大福だのどら焼きだの,今までだったらさほど食べたいとも思わなかったであろうものを、必死に買い物カゴに詰め込んだ.おかげで50ドル近くも払うことになってしまった.次回からは気をつけたい.
帰りはクーリッジコーナーに立ち寄り,少し街を歩いた後,Trader’s Joeというスーパーで、少し食材を購入して帰宅した.こちらでスーパーらしいスーパーに入るのはこれが初めて.日曜に食材を買い揃えようと思ったが,荷物が重くて、とてもでないが無理そう.毎日帰りによって少しずつ買っていこうと思う.
帰宅してから気づいたのだが,どうも僕は日本美術のいくつかの展示室を見逃していたらしい.惜しいことをした.どおりで国外最大級の展示規模と聞いた割には、今ひとつだったのだ.失敗した.
と思いつつボストン美術館のホームページを見ていて気づいたのだが,なんとチケットの半券を持っていけば,今日から10日以内ならばタダで再入場できるのだそうだ.なんという素晴らしいシステムなんだろう.
これは来週も是非行かねば.
☆ 雪 ボストン 雄
今朝,実験を始めようとしているところにボスのジェフが寄ってきて,調子はどう? と聞いてきた.実はディスカッションしたいと思っていて,アポイントを取りに行こうかと思っていたところだったので、ちょうど良かった.ついでにパソコンも買って欲しいと頼み,快諾してもらう.ディスカッションの途中から,僕に実験を教えてくれているコーリーも加わったのだが,ジェフはコーリーにばかり話すようになってしまった.確かに英語の問題もあるのだが,ちょっと情けない.この状況を打開したい.
今日は査察が入っていたのだそうで,実験は査察が終わるまで中止と相成った.午後から実験だが,待ち時間が多く,終了したのは夜10時過ぎだった.
合間にロースクールのカフェテリアに夕食を摂りに行く.本来なら,昨日買った食材で夕食としたかったのだが,とてもでないが終わらない.
仕方なくカフェテリアに行こうと外に出た時,雪が降っていることに気づいた.今朝も霰のようなものが降っていたのだが,こんなに本格的な雪になるとは思わなかった.本格的な雪ではあるが,東京の雪のような水分をたっぷり含んだ重たい雪ではなくて,パウダースノーと言ったらよいのだろうか.スローモーションのようにゆっくりと地面に落ちていく.雪が「降る」というよりは,地上を雪が「包んでいく」という感じの方がしっくりと来る.
昨日,買い物ついでに帽子を買ったのだが,大正解だった.こちらの人が良く被っているようなのを見つけたので,25ドルとちょっと高いなあと思いながら買ったのだが,こんなに暖かいとは思わなかった.
天気予報では明日は更に激しく降るらしい.明日は朝からミーティングがあるので,遅刻しないようにしなくては.
* 読んでいて嬉しくなる。よく分かる。自分で自分の日記を書きながら、その日記が「mixi」を通して人にも読まれるということをちゃんと勘定に入れ、深切に書いている。独り合点ではないのだ、読んでいて嬉しくなる。
* いつのまにか、日付が変わって一時になろうとしている。
2007 1・23 64
* マイミクを四十人にふやした。「湖の本」の読者が半数以上なのは自然なことで、とはいえ殆どの読者とも一面識もない。そういうものだが、何かしら分かっている。淡い交わりの読者はありがたい。わたしには今、そういう読者だけが「在る」ようなもの。
「湖の本」に拘泥せず、いわゆるE-OLDSを「お仲間」に歓迎している、ある程度「日記」でお人が知れてくれば、であるが。
せっかくマイミクにお招きした老境の友人たちが、いい述懐やいい創作を見せてくださるのを楽しみにしている。若い人達は黙っていても生き生きと書かれる。そしてわたしは一枚の鏡のように、湖面のように淡々と日を迎え日を送っていれば済む。
2007 1・24 64
* 厄介なことになった。布谷智君が組み立ててくれて、多年使い慣れてきたネットワークの親機から、画面が消えてしまった。東工大の教授時代以来のディスプレイが働かなくなっているので、機械のハードディスクがクラッシュしたのかどうか俄には確認できない。もしクラッシュしたのなら、バックアップが間に合っていないワープロ機能仕様の原稿や保存稿やメール等のこの何ヶ月分かは消滅したことになる。幸い子機の方へ移したものもあり、ホームページは何とか更新できそうな気がしているが、発信してみないと分からない。「mixi」は幸い使えているようだ。が、この子機の方には電子メールの設定がしてないのとエクスプレスが不具合なため、メール連絡が不可能と、目下諦めている。現状や当方からの連絡は、このホームページの「私語」が利用できるといいが、様子を見ないと分からない。
電子メールは、いまでは殆ど全部がSPAMだから、めんどくさい削除作業がなくなる、やれやれと思うことにする。
機械の中身が消えたかどうか、行方はあてどなく絶望的だが、べつにわたしの命に別状はない。だが、参った。この子機になじんでいないので、少し疲れる。
* 昨日から少しそんな危険性を予感していた。なんとなく、変。それで「湖の本」のためにスキャンし校正もした、まだ三分の一量ほどを、ウンと思案しすかさず子機へコピーしておいた。助かった。これがフイになっていたら、わたしは絶息していたかも知れんなあ。
* さ、無事にホームページ「私語」が発信できますように。「mixi」の誰かがメッセージで知らせてくださるだろう。もう一時半になっている。
* 発信できなかった。ウーン
2007 1・26 64
* 厄介なことになった。二台の機械がともにこわれてしまった。ワープロの機能も使えない。どうしたことか、漢字ひらがな変換で、ひらかなに数字が混じってしまうため、転送できないまでも「私語」を闇に言い置くことすらできず、すべて文章を書くことができない。
いま、わたしは、クリックパレットから一字ずつ拾って書いている。これだけ書くのに凄いほど時間がかかる。神経がすり減り、キレてしまいそうだ。
2007 1・27 64
* 一昨日、突如、多年使い慣れたパソコンの親機が故障した。親機の本体が壊れたか、或いはディスプレイがついに働きを喪ったのか、希望を言うと後者なのだが、いずれにしても使い物にならなくなった。
親機は所謂「ウインドウズ98」で、甚だオールド・バージョン。モニターはそれ以上に古く、東工大時代に生協で買った。消耗してても仕方ない老齢品。
親機には殆どの作や文章や日記やホームページが満載されていて、MOディスクでバックアップしたのも、全部でない。モニターが使えなければディスクに補充も出来ず、ディスクから内容を持ち出すことも出来ない。
幸い親機に子機を連結していた。子機は新しい機種XEで、相当量をこの子機へ移転してはあったが、厳密には半量か。
ところが、此の子機、親機が、扱いをいろいろ間違ったのだろう、期待した凡ゆる機能を喪ってしまった。インターネット不能、ホームページ更新不能、電子メール不能、「mixi」も不能、その上に訳分からず、一太郎その他の書字機能まで混乱し、使用できなくなった。漢字ひらかなモードで書こうとすると、ひらかなに数字が混入してくる。十数字のひらかなが数字に化けてしまう。文章が書けない。
ワープロ機能さえ自在なら、たとえ書いて発信できなくても、更新できなくても、書くだけは幾らでも書いておけるのが、それも不可能となると、物書きは、原稿用紙に(現に今こう書いているように)自筆する他に手がない。
書けないのは辛い。とても辛い。
しかし考えようでは、又、このように「原稿用紙に向かえ」ということではないか。機械に頼って、ワープロの昔、『最上徳内北の時代』を「世界」に連載していた頃から、もう四半世紀とも云うまいが、それに近くなる。久しぶりの原稿用紙だ、なつかしさも戸惑いもあるが、晩年をもう一度「此処」へ戻ってきたということか。
* 機械の損傷で喪ったモノは多い。惜しい。口惜しいと思うモノが多い。
だがすべて「過去」とも謂え、さっぱり諦めてもいいのだ。実を云うと機械に向かいながら、機械から離れてもいい、離れた方がいいのではないかと、もう二年三年、内々思い続けていた。
「闇に言い置いた私語」は、八、九年の内に莫大な量になっている。それはそれ、一面からして我が代表的著作に相違ないが、今少し思惟の方面を異にし、本来の創作へ切り換わるタイミングを、いささか焦慮していなかったではない。
機械二台の思いがけない同時の破損は、大きな落胆と同時にいささか手荒に「励まされた心地」が、無くもないのである。
* 実に口煩く「小説」を書けと、言い過ぎるほど言ってくる読者がいて、一年二年悩まされてきたが、その人の「小説家秦恒平」に言ってきたことは、概ね正しい方角をさしていたし、五月蠅くはあっても、言われないよりは言われていて薬、苦いが良薬であったのは間違いない。たまたま機械の破損したのは、その同じ読者から例の苦言がメールで舞い込み、うるさいよ、放っておいてもらいたい、こういうメールは「蒙御免」と返辞しての、直後であった。おやおやと苦笑する気があり、一種の契合めくのを面白いと受容れていいかと、ちら、ちらと思いつづけて「今日=昨日」という日を復旧への全的徒労で過ごしたことであった。
* この日記も、大方ノートにでも書き置けば始末がいいのだけれど、原稿用紙に字が書けるだろうか、ぜひ試みたい気がして、こう、真夜中に起き、原稿用紙を押入の奥から見つけて書いている。ひどい字だが、何とか今四枚分、書けている。
昔、一日に五枚ときめて三百六十五日原稿用紙に書いていた時期がある。年に二千数百枚以上書いた年もあった、むろん「仕上がり」原稿をである。全部が依頼された稿であったが、みな右から左へという按配で「本」になっていった。今は原稿を頼まれることは稀になり、頼まれても断ってしまって、ひたすら機械で、好きなことを莫大に(一日五枚どころか十倍も)書いて発信していた。そういう書き手でもう自分は良いと考えていた。
むろん先の読者のように咎める人もいたし、自分の中にも同じ声を聴きつづけていたと隠す必要はなかろう。
* 小説の文章を書きたいという欲求が、書けなくなってはいないかという不安が、たしかに有った。有る。
機械に向いていては、欲求も不安もつい置き去りに日から日が過ぎて行く。あたりまえである。少し暴力的にこのあたりまえを抑圧し転向させるには、機械環境の破損が早道だとは、繰返し思いもし私語もしてさえいたが、いやはやその「早道」に踏み込んだのだ。
2007 1・28 64
* 機械の故障は改善されないどころか、一太郎で多年パスワード保存してあった厖大な資料の全部が、「パスワードがちがいます」と全拒絶されてしまい、多年の苦労が水の泡と化した。
* 昨深夜、一人台所で、原稿用紙に自筆で日記を五枚、書いた。機械と訣別していい時機到来のように思われる、と。まだ手書き原稿が書けるかなと少し心配だった、が杞憂のようであった。
今まだ、この文章、クリックパレットから、慣れぬ手で「一字」ずつ拾って書いている。
何かしら悪意か愉快犯のウイルスに環境を破壊された心持ちであるが、諦めて、なるべくよそ事のように思ってやり過ごしている。別の「物書き」の新工夫を試みた方がいい。機械は、ほぼ二十年、もう十分使って楽しんできた。
2007 1・28 64
* 夜前、夜中の仕事と再度の読書に疲れて、その後寝てしまった。
機械の様子は変わらない、が、もう一台、昔むかしの古い機械をもち出して、外付けのディスクにMOのハードを連結してみた。一度の試行錯誤で稼働してくれたが、MOディスクでは蘇ってくれないモノもあり、理由の察しも少しついた。3.5インチのディスクが利かなかったのに慌てたが、理由をつきとめて直した。この古機にもATOK異状が出て落胆したのも、何とか修復した。さりとてインターネットに繋がっていない為、この古機に多くは望めない。ただ文章だけは「書ける」かも知れない。
* 一番の打撃はMOを繋げたのに、パスワードで保存した一太郎ファイルの全部が、「パスワードが違っている」と警告のもと「全拒絶」の憂き目。参った。こういう事は過去にもあり、改善例は一つもない。大切に思う多くの資料が完全に闇の彼方に閉じこめられたのは痛恨極まりないが、諦めてしまうよりない仕儀と、即座に諒知した。諦めた!
此の外に、再度インストールしたい一太郎2004のディスクが、探しに探しても見つからず、捜索ついでに身辺をやや整頓した。これは、ま、出てくるだろう、わたしは簡単にモノは捨てないから。
終日そんなことをしていたのは、早く「この辺」を切り上げたいのが、本音。
2007 1・28 64
* 一昨日にトラヴルが起き、落胆のままたくさん本を読んで、さて寝付けなかったので、起きて原稿用紙に手書きで「私語」しはじめた。五枚書いてから、二階へあがり未練な試行錯誤をつづけたが成果なく、寝床に戻って、『イルスの竪琴』をまた英語で読み続けた。
寝入ったころで宅配に起こされた。栃木から苺を頂戴した。そのまま起きてしまうには疲労があり、気が付くと午後になっていた。
* 親機だけでなく新機にも異様な異常がつぎつぎに現れ、昨夜に持ち出しておいた古い以前の機械を使って、喪ったアレコレの復旧を試みた。成果は乏しく、MOの外付けにやっと成功したものの、ディスクからの再現にいろいろ故障があった。
ことに手痛いのは、多年大事に保存し、大事に思うあまりパスワードで保存していた膨大な資料群が、全く意味不明に「パスワードが間違っています」と全拒絶され、にっちもさっちも行かなくなったこと。
ことの次第の残酷さにあきれたが、ほぼ即座に断念した。諦めた。機械に入っているそうした全ては、つまり「過去」に属している。作品も記録も備忘も、いわば「過去」であり忘れ去っていい「過去」もあるといつも思ってきたのだから、痛恨はいっそ好機でもあるのだ。
* 妻が、もう使っていない自分の古い機械を持ち出してきてくれた。これだと、このように日本文が書ける。書けるなら、「日記」に類する「私語」に原稿用紙を費やさなくていい、原稿用紙では小説が書きたい。原稿用紙にまだ文章が書けるだろうかと少し不安があった。だが蘇る行文の感触には懐かしさも湧き出る。
ここ数年わたしは、いつも「小説」をという頭でいた。小説を書いたり書きさしの作に触れたりしてきた。ことにこの一年、mixiを利してかなり多くの旧作を読み返すうち、技癢を覚えることしばしばでもあった。そう自身を刺激すべく「mixi」を利用してきたに相違なく、目的にまっすぐ向かうには、機械に関わっている時間や精力を思い切り割愛すべきはむろんだった。機械に不調をきたすつど、わたしは時機至るかと刺激された。だが原稿用紙をもちだすまでに至らず、いつもそのうち機械がもとへ戻った。安心と同時にわたしはかすかな失望すら感じた。
今度の機械破壊はただの「不調」ではない。これが易々と早期に復旧すれば、おそらくわたしは或る落胆さえ覚えるにちがいない。
* 小説家が小説を書くのは本来の自然である。まして書きたいならぜひ書けと自身に向かい言いつづけてきた。作品を売る必要は今更ない。「書く」ことが、「良く書く」ことが、大事だ。つまらないものなら書くに及ばない。良いと自身思える良い小説が「書ける」かどうか、諦める時ではない。
* 送信できないが、「闇に言い置く私語の刻」は、こうして持てている。
先日もすこし「闇」に漏らしていたが、「mixi」は、やす香とマイミクになって満一年の二月二十五日で、事実上収束し、時間をこれに大きく割かれるのをやめたいと考えていた。やすかとの一年は満了したかった。
またおそらくペンの理事や委員も、また京都での選者も、自然に、辞してゆく時機にあると観測している。この際に十年ちかくフルに関わってきた機械環境から、いい感じに足抜きをして、良い小説書くべしとは、他人に言われなくても望み、また覚悟している。人に言われてすることでは、もとより、ない。
2007 1・29 64
* いま機械環境で難所に乗りかかっているのは、新機のインターネットが出来ないこと、新しい速度変更のADSLが働いてくれないこと、そして何よりも新機で正しく字が書けず、つまりパスワードも正しく打てていると保証されないことだ。まだ、プリンタも働かない。かなり決定的な障害だ。
一月二十六日の破損からまだ数日、それでもちょっとした遁世の心持でいる。ナニ、電子メディアの交渉が絶えているだけに過ぎないが、このところ少し家にこもりすぎ、鬱陶しくもある。気晴らしにからだを外気の中で動かしてきたくなった。
2007 1・30 64
* 苦心惨憺の甲斐あり、一つ、一太郎の書字機能を回復した。初歩的な理解の不足からであったし、ヘルプ機能のなかから関連の示唆・回答を見つけたのは、幸運であった。おかげでこの機械ではパスワードも回復できたのは有り難かったが、ただし旧バージョンの一太郎を再インストールした煽りか、パスワード使用の最近例が機械の中で見つからない。記事全体が行方不明になっている。一進一退ということだ。
だが紛失したかと懼れていた一太郎の最新バージョンのデスクもも見つけた。今まで見つけられなかったのが可笑しいようなところに鎮座していた。やれやれ。
これで、こうして「私語」も書き置けるようになった。残るは、インターネットの回復と、新しいADSLの設定成功。
長い間使用不能だった機械に接続の「電話」機能も復旧している。
願わくは、以前の親機からノープロブレムにコンテンツが救出できるかどうか。ハードディスクを安易に人手にゆだねることは出来ないし。
2007 1・31 64
* 睡眠不足で眼が乾いてきた。昼過ぎ、新宿紀伊国屋ホールで俳優座の公演に招かれている。眠くならない刺激的な芝居でありますように。
二月の我が家は劇場の誘いに恵まれている。紀伊国屋ホールに次いで、歌舞伎座、本多劇場、そして渋谷文化村。
* さて、ともあれ、どうにかしてインターネットだけは復旧しておかないと、ペンの委員会との連携すら出来なくなる。
2007 2・1 65
* 機械に改善なし。前進なし。こうして日記は書けているけれど、更新・発信はできない。もうあとはプロを頼むしかない、かも。
* 目が霞んでいる。眠い。今日は、もう保たない。
2007 2・1 65
* ほんとうなら京都へ行っているはずだった。京都美術文化賞の今年度受賞者三人展のオープンに選者の一人としてテープカットに参加する予定でいたが、余儀なく失礼した。
* チラシの入っていた東久留米の業者に電話して来てもらった。
* 万全に実施していないので全面的にまだどうともいえないが、
ADSLが接続された。緑灯が四つ、ちゃんと点灯した。
インターネットが稼働した。「mixi」も稼働した。
本機(今までの子機。XE機)に、プリンタも接続した。スキャナーとは自分で接続してあった。
以前の親機(布谷君が組み立ててくれた機械)とディスプレイとの故障状況では、ディスプレイの方が稼働せず、親機の方がクラッシュしているかどうかは判定できない、傷んでいない可能性がある、とのこと。
電子メールが使えるかどうか、ともかくニフティ・マネージャーのメール版を点検し設定し直してくれた。その結果、なんと800ほどのメールを受信していた。
支払いをして帰ってもらった。
* あまりに数多い受信分を一気に受け入れたためか原因不明だが、受信メールを開くと「開けない」と機械に拒絶される。スパムメールは全部削除して、なぜだか正月以来の二百あまりのメールが、誰からのモノとデータは分かりながら「開けない」という情けない現実。それ以外にどんな不都合がまた現れるかと、はらはら。だが、此処へ戻ってきた。戻れば戻ったなりに始末をつけて、別方角へ自分の手足で出て行かねばい行けない。
まずは、まる一週間ぶんの「私語」を更新・発信してみる。大勢の人にご心配をかけてきたことは、「mixi」のメッセージや、開けない電子メールの「題」で分かる。
* 勇んで保存し、更新したが、送信されていないことが分かり、落胆。めでたさも半端であった。
2007 2・2 65
* もう一度、昼前にB&Aにきてもらった。すこし別ごとを話しあいながら、すこし手をかけて設定をしていってくれた。安心感がもてた。
2007 2・3 65
* 昨日はこの「私語」、転送できずじまいであった。なぜかを点検し教えられた。
2007 2・3 65
* 逼塞中、たくさんのご連絡を諸方から。かろうじて一週間分のメールを読み終え、「mixi」のいろいろも読み終えた。ご返事は容易でない、多くはご容赦願うことにする。まずは入稿原稿を急ぎたい。
2007 2・3 65
* 「mixi」の「足あと」が朝一番に「12016」になっていた。はからずも未知の方に招待されて参加したのが、去年の二月十四日。やす香とみゆ希が遊びに来て、その場でやす香とマイミクになったのが二月二十五日だった。
しばらく前から一つの目安に、一年十二ヶ月で「足あと」12000かなと想っていた。十日早くその数字が記録されていた。
最初の数ヶ月は微々たる数だった。何を書いていてもとくに反応はなかった。最近は速いときは二日で100を増していた。とくに意味のある数字ではないが。
2007 2・5 65
* ボストンへ移籍したやはり東工大卒業の君は、毎日のように「mixi」に佳い日記を書いてくれ、手に取るように君の日々をわたしたちも追体験して楽しませてもらっている。達意の文章で過不足なく、叙事は具体的。こんな佳い書き手だとは想わなかった、失礼だが。
2007 2・6 65
☆ 楓 ボストンの雄
今朝は週1度のミーティングの日.お茶部屋に行くと、韓国からのポスドク(=ボスのドクターか?)のヒューノが、「オハヨウ」と日本語で言う.そこにいた韓国系アメリカ人大学院生のジェイと,隣のラボの秘書のメリッサも、口々に「オハヨウ」という.どうやら「オハヨウ」というのは,それなりに浸透しているらしい.メリッサはセサミストリートで昔習ったと言っていた.もしかすると,後の二人は,おじいさんやおばあさんから習ったのかもしれない.
ミーティングの発表担当者は,普段スラングばかり言っているJC.今日はいつになく真面目にこれまでの仕事の話をしていた.彼は今,論文執筆中だから新しいデータというのは無いのだろう.
ミーティングの中で何度も「カイーダ」という名前が出てくる.一体何のことだろうと思ったのだが,Kaedeであることが分かった.
Kaedeは理化学研究所の宮脇先生のグループがサンゴから同定したタンパク質で,普段は緑色の蛍光を発するが,光を当てると緑から赤に変化する.光を当てると色が変わるので,色々な研究のためのツールとしての利用が期待されている.僕の所属する研究室でも蛍光顕微鏡を駆使した研究が行われているので, Kaedeは有効なツールだ.
利用価値もさることながら,「楓」というネーミングが実に洒落ていると思う.宮脇先生は色々な蛍光タンパク質を発見または開発しては,それらに大変上手に名前をつけておられる.細胞内のカルシウム濃度に応じて蛍光が変わる「カメレオン」,光を当てると消え,再び当てると蛍光が復活する「ドロンパ」など,どれもとても凝っているし,遊び心があると思う.
国内はもちろんのこと海外の研究者の間でも宮脇先生は大変有名だし,それらのタンパク質も有名だ.海外の研究者たちが大真面目な顔をして学会会場などで「ドロンパ」と言っている様は、中々楽しい.それにしても,「楓」というせっかくの美しい名前が「カイーダ」になってしまうのはちょっと悲しい.ちゃんと「かえで」と発音して欲しい.
ミーティングを終えてすぐに実験に取り掛かる.久しぶりに実験に成功する.しかし,ボスが恐れていたように,やはりこのシグナルは神経細胞ではなくグリア細胞由来のようだ.残念.しかし,かなりいい線まで来ていることは確かだ.
いつもより早めに実験を終え,7時半にラボを後にする.帰りに近所の酒屋でビールを買う.今日もIDを求められたが,パスポートを差し出すと「コンニチハ」と日本語で言われた.この近所は日本人が多いので,きっと店主も覚えたのだろう.なかなか愛想の良い店主で,店を出るときには「アリガトウ,オヤスミ」と言われた.
日本語で始まり,日本語で終わった一日だった.
* ちょっとした首尾相応に遊び心も表れ、面白くて此処に紹介したくなった。
おやおや二時前だ。まだ本も読んでいない。
2007 2・7 65
* 雄クンが、アテズッポーを訂正して、興味ある解説をくれた。なるほど、なるほど。研究の着々進展を祈ります。
☆ postdoctoral fellow 雄 ボストン
湖さんのホームページで昨日の僕の日記を取り上げてくださった.どうも有難うございます.その中でポスドクの横に(ボスのドクターか?)と書かれていたのを見て,今まで何も説明せずにポスドクという言葉を使っていたことに気づいた.今日はポスドクについて説明させて頂きたい.研究者の方にとっては当たり前のことをくどくどと書いていると思われそうなので,読み飛ばしてください.
ポスドクはpostdoctoral fellow(ポストドクトラルフェロー)の略で,研究者のポジションの一つ.
世の中の多くの人は博士というとアインシュタインのような白髪の老人を思い浮かべるのかもしれないが,博士号は生命科学者にとっては運転免許証と同じであり,博士号なしで職を得るのはほぼ無理.多くの研究者は大学院の博士課程に進み,博士論文を大学に提出して27,8歳から30代前半位までの間に博士号を取得する.
しかし,博士号を取得してすぐに自分の研究室を主宰できる人はほとんどいない.ポジションが慢性的に足りないため,ポジションの獲得はえてして非常に熾烈なものとなるので,争いに勝つのに必要な業績を得るにはある程度長い研究期間が必要だからだ.
そこで多くの研究者は,博士号取得後にどこかの研究室に入って研究を続け,ある程度業績が溜まったところでポジションの獲得に乗り出す.
アメリカの場合は,大学院を終えて研究室主宰者になるまでのポジションがポスドクである.普通assistant professor以上は研究室主宰者なので,professorとつけば全て研究主宰者であり,話が分かりやすい.
それに比べ,日本のシステムは少々ややこしい.
もともと日本の大学は大講座制を取っている大学が多いので,教授,助教授,(場合によっては講師),助手というヒエラルキーができている.しかし,ヒエラルキーの一番下である助手ですら,最近では就くのがかなり難しくなっている.日本でも大学院を出てから助手になる前の研究者をポスドクとして雇うことが最近では一般的になりつつある.
個人的には,こういった研究者の身分の話は,野球選手のそれに近いと思っている.高校時代に甲子園で活躍しても,プロからお声がかからなければプロ野球選手とはいえない.これが研究者の学位取得前の状態にあたる.そして,ポスドクは実質的には研究遂行者なので,プロ野球でいえば現役選手ということになる.アメリカの場合だと,professorはただちに監督ということになる.日本の研究機関の場合は,監督と選手の間にコーチやらプレイングマネージャーやらに相当する人が多くいる.野球の監督も自分自身はプレーをせず,ベンチから指示を出すだけだが,王JAPANであったり星野JAPANということになる.研究室の成果も,実際には手を動かしていないにも関わらず,研究主宰者のものと見なされるのが一般的である.そして悲しいことだが,多くの野球少年がプロ野球選手を目指しながら脱落していくのと同様に,研究主宰者になれる研究者は一握りであるのも現実である.
ポスドクと助手以上の大きな違いは,助手以上は大学・研究所の正規の職員と見なされるのに対して,ポスドクは2,3年をメドに転出するという前提の下で雇われている点である.そのため,名称も「非常勤研究員」とか「流動研究員」などと呼ばれることがある.しかし実際には長くいるポスドクも多いし,逆に任期制の助手も最近増えているため,両者の差は小さくなっているのが現状だ.現実的な観点から言えば,ポスドクと助手以上の最も大きく違う点は,ボーナスが出るか否かである.ポスドクは正規の職員と見なされないためにボーナスが出ない.
ポスドクの給料の出所は大きく分けて3つあり,一つは研究室の予算から雇用される場合で,もう一つは研究所に既にそういう雇用体制が整っている場合.そして残りの一つはフェローシップ(助成金)を自分で獲得して,どこかの研究室でポスドクとして働かせてもらうというもの.
給料はまちまちで,日本の場合だと科学技術振興事業団系列の予算で雇用されるポスドクは高給だが,他は総じて安い.博士課程まで進んだというのに,年収300万円台というのはザラである.アメリカでもポスドクの給料は良くないようだ.しかしアメリカの場合はprofessorになればどんどん給料が上がっていくが,日本では旧・国立系の研究機関の場合,助手はせいぜい5~600万程度,教授でも1千万円を超えるのは大分年配になってからだろう.大学時代の同期が会社でどんどん良い給料をもらっているのを横目で見ながら,好きで選んだ道とはいえ少々やりきれない気持ちになったりもする.
しかし,ポスドクの期間というのは基本的には研究に専念してさえいれば良いので,こんな幸せな時期というのもそうはない.助手以上になれば,雑用もどんどん増えていく.大学であれば講義や実習もあるし,センター試験の監督にかり出されたりもする.研究所であっても,大学院生やポスドクの面倒を見たり,研究費の申請をしたり,予算の計算をしたりと雑用は多い.上からは押さえられ,下からは突き上げられる.誰かが「助手と書いて,たすけて,と読む」と書いているのを見て,うまいことを言うなあと思った.教授ともなれば,実際に自分の手を動かして実験できるだけの時間的余裕のある人は稀なので,それこそ毎日が雑用ということになる.
こちらに来て何かと不安はあるが,実験だけに専念できているということが何より嬉しい.研究に専念できるということがこんなに贅沢で楽しいことなのか,と日々感じている.
2007 2・8 65
* 『蘇我殿幻想』を「mixi」に連載し始めた。
2007 2・9 65
☆ 湖さま 日本に帰国したら「京、で五六日」を参考に是非京都に行きたくなりました。
日記を毎日読ませていただいていると一時帰国の時には欲しい本がいっぱいになりそうです。
湖さまのmixiが不具合の間、HPを見せていただきました。お陰でお写真でお顔が見えました。 在英 桃
* お役にたてば嬉しく。日記など、拝見しています。
☆ 地下鉄 ボストンの雄
どうも昨日から風邪を引いてしまったようだ.喉や咳はないが,微熱があり体がだるい.頭が痛く,ぼうっとする.
普段は行き帰り共にバスを利用しているが,帰りのバスの本数は少ない.寒空の下,長時間待つのは風邪を悪化させそうなので昨日は地下鉄で帰宅した.
レッドラインの車両に乗り込むと,僕の座った席の向かい側に綺麗な白人の女性二人が座っていた.綺麗だなと思って少し見とれていたら,いきなりこの二人が向かい合ってキスを始めたので驚いてしまった.その後も二人は抱き合ったりキスをしたり,肩を寄せ合ったりと,完全に恋人同士といった雰囲気だ.アメリカは同性愛者が多いとは聞いていたが,実際に目の当たりにしたのは初めてなのでびっくりだった.
美しい女性同士だったからまだ良かったが,これが男同士だったら風邪がさらに悪化して,今日はラボを休んだかもしれない.
☆ 「京のわる口」 麗
湖さん,有難うございます。御作「一 物を言う『位取り』の意識」(日記 1月8日)を読んだおかげで,面白い待ち時間を過ごせました。
———
博物館が好きだ。あの空間で,仏像や絵画などと見つめ合い,彼らが語りかけてくる「声なき声」に耳を傾けていると,矢のように時が経つのだ。
http://www.kyohaku.go.jp/jp/index_top.html
を堪能していたところ,「土曜講座」の張り紙を見つけた。「本日13時半から 講師 冷泉為人氏」
蝦夷地住まいには願ってもない。寒風吹き荒ぶ渡り廊下に並び,整理券配布を待った。 後ろから,地元の方と思しき老婦人の会話が聞こえてきた。初対面らしいお二人の会話は,なぜか互いの出自に関して。
お若い方,と言っても70代くらいの方が,姑の実家は2代続けて叙勲を受けて皇居に招かれたと言えば,もう片方は家系図を作ったところ,五摂家と繋がりがあるのがわかったとか,不比等から嵯峨天皇にまで遡るとか,お約束の先祖自慢を始めた。
聞くともなしに聞いていた。
「天樟院(?)様のご祐筆のお妹さんのお嫁に行った先の…」などという一節が浮かんできた。読みかけの本の中で一番軽いと言うだけの理由で持参した岩波新書『言語学とは何か』は,おかげでちっとも進まない。
お若い方が早速応戦し出す。
正確な記憶ではないが,やり取りの概要を以下に記す。
「うちは嫁やから詳しいことはわかりまへんけどなぁ,何でも昔は『猪を平らげる』言う字ぃの名字やったそうで。なかなかありまへんやろ,そないな姓は。」
「いやぁ,それやったら,お宅もぜひ家系図作らはったらよろしいヮ。」
「そうですやろか,でも,珍しい名字やとは思いますのや。」
同内容の話を2,3回は繰り返した後,お若い方が通うカルチャー教室に共通の知人がいることが判明し,そちらの話で盛り上がり出した。
話の中で,年長のご夫人が大正14年生まれだと語ったときは,思わず振り返ってしまった。お二人が会話に,もとい「位取り」に夢中で,よかったこと…。
結局,博物館には開館から4時半までいた。
その夜,花見小路のとある割烹で,そのことを語った。
「こう言うのを『位取り』と?」
私が尋ねると,一同そうそうと反応した。
京都人なら,皆知っている「位取り」。
* 「大鏡」冒頭で、夏山繁樹と大宅世継との初対面をおかしくおかしく、ほろにがく思い出す。麗さん。ありがたく。
* メールやメッセージが、殆どみな「mixi」経由に移転し、普通のメールは今朝もおしなべて不良の要削除ものばかりが何十も。必要な連絡メールもうかと一緒に消してしまいそう。
海外に出向く卒業生の雄クンを咄嗟に「mixi」に誘い、それが、読んで楽しい巧みな日記を誘い出し、日々楽しませてもらっている。よかった。
わたしへの「mixi」の「足あと」は、一ヶ月にらくに「千」を超えている。これも小さいながら、脱皮か。生活が、移り動いている。
2007 2・10 65
☆ 行っちゃった♪ 昴
(「mixi」に加わって)123日目 やっぱり行ってしまいました。(劇団昴の)平田広明さんの講演会。
自然が好きらしいです。
(平田さんの)高校時代の国語の先生は、劇団昴の創設者福田恆存さんと知り合いだったらしいです(本州の国語の先生ってすごいなぁ)。
(講演に来た平田さんは)釧路の人から熱烈な歓迎を受けたようです(田舎だからなぁ)。
で、話の内容はというと、私の頭では難しくてよく理解できていないのですが、演技で目指したいことを語っていたように思います。リアルに演じること。役を作るのではないこと。主役が公演二日前にいなくなって、代役を急遽行ったことなど、何を話しましょう? と言いながら、一時間、いろいろなことを話してくれました。
久しぶりに演劇が見たくなりました!! 策略にはまってしまったな…。
でも、四月の平日の公演は、仕事を休まないと見に行けないなぁ。ああ。釧路まで三時間は遠い。っていうか、仕事休まずに演劇見に行くなら、飛行機乗って、十二月の東京の土曜公演を見に行くことの方が可能だ。…北海道って広いなぁ。東京、距離的には遠いけど、時間的には近いなぁ。文明の利器ってすごい。
劇団四季のファミリーミュージカルぐらいしか、見れなかった頃に比べたら、今はとても恵まれているな。身軽で、時間とお金(いつ不適格教師になるか分からないからなぁ)に余裕のある、今年のうちに演劇を最低一本見るようにしたい。元演劇部、と(勤務の)学校で言ってる分、他の先生方がどんな演劇見ているのって聞いてくるので、その応えを作る点でもちょうどいいしね。
『アルジャーノンに花束を』の公演に行きたい! そして、観客と闘っている平田さんを見たい。そして、「仕事しに来ました」というセリフを聴きたぁ~い!!
あー、演劇みたいなぁ。
…平田さんの印象と、原作のチャーリーの印象って違うなぁ。役者さんは、化けるんだろうな。
* 「mixi」のマイミク日記で、こう「自分のこと・自分の気持ち」を具体的にまっすぐ飾らずに書いた文章が、文学・文藝・エッセイへの本道としても、いちばん胸に気持ちよくとびこんで来る。とにもかくにも、このように素直に「書ける」人の、身心のかろやかさに、感銘をおぼえる。
『アルジャーノンに花束を』は、劇団昴の最もよき成果。昴にみせてあげたいなあ。こういう切望の前では、わたしの観劇体験などいっそ野蛮に濁っている気がする。『月の子供』もみせてあげたいなあ。
☆ エンジングライダー e-OLD 千葉
今日は日曜日で天気がよい。風呂の窓の青い空に小さく飛行機が見えた。
むかし、誘われて二人乗りの小型飛行機(の後席)に乗ったことがある。川べりの舗装もない滑走路を、プロペラが回り出しごろごろと地面の凹凸を感じながら動き出したら、ほんの間に離陸した。地上で手を振ってくれている人達が小さくなっていった。晴天だった。
高度八百メートル位で「エンジン止めます」と言う。否も応もないが、乗せてくれた若い操縦士(後輩)は「あとはグライダーになって滑空します」と笑顔でふり向いてくれた。
音が消えた。シーンともいわない空をすべりながら眼下に、家が見え、田畑が見え、川が見え、山々が見えた。懐かしい感じがした。空からこの世が見えた。ふと、・・特攻機は・・こうして飛んで行ったのかと思い浮かんだ、が、口にはしなかった。天空は全くの静であった。 笠
* 笠さんの「ことば」が柔らかにほぐれてきた。これぐらいな分量ずつでいい、嬉しい、たくさん読ませて欲しい。e-OLDSの、金沢の「tetsu」さん、東京の「青」さん、神奈川の「さざなみ」さんら、みなさん独自の視野とお仕事をもってこられた、静養中の和歌山の「santak」さんも。日々のいいお便りが欲しい。
☆ ファウストの劫罰 ボストンの雄
今日はボストン交響楽団のコンサートに行ってきた.
昨日は夜中に目が覚めてから明け方まで眠れず,朝方になって少し寝てしまったので,起きたのは10時過ぎだった.2時過ぎにようやく家を出た.家を出る前に郵便受けを確認すると,ソーシャルセキュリティーナンバーが届いていた.大体申請してから4週間から6週間で届くというから,かなり早いほうだろう.
ハインズ・コンベンションセンターで地下鉄を下車してから、ニューベリーストリートを歩く.ここはボストンでもオシャレなショッピング街ということだが,確かに色々なお店が並んでいる.日本の青山や表参道よりは大分落ち着いているが雰囲気としては近いものを感じる.来た道を引き返してプルデンシャルセンターに入る.中はいかにもショッピングモールといった雰囲気.高級ブランドなども店を連ねているが,それらにはさほど関心はない.
プルデンシャルセンターでの目当ては「リーガルシーフード」.ここはボストンでチェーン展開しているシーフードの有名店で,大体どんなガイドブックにも載っているので一度行ってみたかった.ただしロブスターにかぶりつくほどお腹は減っていないし,生牡蠣は大好物だが去年ノロウイルスでひどい目に遭ったので今回は遠慮した.
結局クラムチャウダーとシーフードガンボというのを頼んだが,どちらもとても美味しかった.クラムチャウダーはこれでもかというくらい貝の旨味が出ていた.シーフードガンボがどんなものかは知らなかったのだが,御飯が真ん中に盛ってあって,その周りにメキシコ料理のスパイスが効いたソースがかかっており,その中にはホタテやエビ,白身魚などが入っている.エビはプリプリだし,ホタテや魚も火の通し具合が良くてとても美味しい.
店を出てからコンサートまで大分時間があったのでバークリー音楽院の前のスターバックスに入り,書きかけの論文に手を入れた.かなり先が見えてきた.
ホールに到着すると,僕の席は階段を1階上がったところの最後席だった.上には更にもう1階分あり,ちょうど陰に隠れるような席だったので音響が不安だったが,始まってみれば音響はバッチリだった.
今日の曲目はベルリオーズの劇的物語「ファウストの劫罰」.指揮は常任指揮者のジェイムス・レヴァインで,ソリストが4人(ファウスト,ブランデル,メフィストフェレス,マルガリータ),合唱団や少年合唱団などが出演して,かなりの大掛かりな上演だった.
ゲーテの「ファウスト」を元にしているが,「ラコッツィ・マーチ(ハンガリー行進曲)」を使いたいからという理由で,勝手に舞台がハンガリーの原野から始まるようになっているなど,かなり改変されている.ベルリオーズ自身も劇場ではなくコンサートホールでの上演を望んだとおり,オペラ形式ではなくコンサート形式で演奏されることが多い.実際,舞台がコロコロ変わるので,オペラ形式での上演はかなりキビシイ.
僕自身は大学時代に男声合唱のサークルに所属していたことがあり,その関係でこの曲を知った.畑中良輔先生が指揮する「慶應義塾ワグネルソサイエティー」がこの曲を演奏したのを聴き,大変感動したのだった.このときは勿論抜粋だったが,いつか全曲を生で聴いてみたいと思っていた(CDは何枚か聴いたが,どれも胸に迫るものは残念ながら感じられなかった).
そのような訳で,今日のコンサートには並々ならぬ期待を胸にシンフォニーホールに足を運んだのだが,正直言って前半は全く曲に集中できなかった.ホールの空調が暑すぎて汗が止まらなくなったからだ.それだけでなく,周囲の人たちも騒がしい.どうやら合唱団のメンバーの関係者なども多く来ていたようだ.そのせいか,オペラグラスでしきりにステージを見たり,歌詞の対訳の冊子をパラパラとめくったり,小声で話したりと皆落ち着かない.しかし演奏そのものは素晴らしい.メフィストフェレス役のソリストの声があまり僕の好きな声でなかったので,期待していた「メフィストフェレスのアリア」は今ひとつだったが,合唱団も低音部が若干弱いものの全体としてはとても纏まりがあって良い演奏だった.
途中の休憩時に廊下に出ると,僕の腕をつつく人がいる.誰だろうと思って振り向くと,ラボのマネージメントをしているケンだった.彼はサイエンティストではないが,研究室が所属するセンターのエグゼクティブディレクターをしている.多分僕と歳もそう変わらないだろう.恐ろしく優秀な人なのに違いない.普段はほとんど話をせず,通りがかる時にニコッとする程度だが,ふとした時に時折見せる表情が険しいこともあって気難しい人なのかなと思っていた.「今日は一人で来たの?」と聞くので「そう.この曲好きなんだよ」というと,ケンは「僕,この合唱団に以前入っていたことがあるんだよ」というので驚いた.この合唱団はアマチュアなのだろうか?とてもそうは思えない.また,ケンがそのような趣味を持っていたことも意外だった.
休憩を挟んでからは暑さこそ感じなかったものの,周囲の人たちの集中力が切れかけているのが手に取るように分かり,緊張感に欠けていた.しかし,後半の最後の「地獄の騎行」から「悪魔達の巣窟」のところで一気にものすごい盛り上がりを見せ,全身に電気が走るような快感を覚えた.最後の「マルガリータの昇天」では少年合唱団も加わり,非常に素晴らしい合唱を聴かせてくれた.オーケストラの抑制の効いた伴奏も素晴らしく,天に召されるような気持ちになった.
思わず最後はスタンディングオベーションをしてしまった.観客のほとんどが立って,いつまでも拍手をしていた.スタンディングオベーションをしたのは10年前に朝比奈隆の指揮でブルックナーの交響曲第8番を聴いた時以来だ.
ふと我に返ると,既に11時近い.慌てて目の前のシンフォニー駅からEラインに乗って帰宅した.噂に聞いていた通り,Eラインの客層はあまり良くない.早く駅に着いてくれと願う.駅について電車を降りようとしたその時,目の前を車が猛スピードで走り抜け,あわや轢かれそうになった.Eラインは途中から地上に出て都電のような路面電車になるのだが,線路と歩道の間に車道があるのだ.てっきり線路のすぐ脇は歩道かと思っていた.それにしても,降りる人がいるのは分かるのだから,あんなスピードを出すこともないと思うのだが,駅の辺りはあまり治安が良くないので車の運転も荒いのかもしれない.咄嗟によけたので腰をひねってしまった.悪化しないことを切に願う.
* 臨場感と、なんだかスリリングでもあり、長いのに読まされた。
わたしに親しんでくれた学生には、音楽・演劇、とくに音楽好きが多かった。音楽会にも何度も誘われたし、ピアノの演奏をいくらでも聴かせてくれる男性もいた。東工大の学生たちは、多くが「T」の字型の「専門一本脚」ではいけない・足りないと考えていた。佳い趣味や他の領域との二本脚で立ちたいと。いいや、家庭との三本脚で一人前、と答える人もいた。
ベルリオーズのファウストはバート・ランカスターとテリー・ポロらの映画『オペラ座の怪人』で上手に使われていたと覚えている。美術館に行き交響楽団を聴き、と、ボストン生活を楽しんでいる様子、お裾分けをもらっている心地。
2007 2・11 65
* 東工大生協で買い、以来わたしのパソコン生活の中央に鎮座して働いてくれた、ドでかい日立のディスプレイを、とうとう撤去した。よほど消耗していたと思う。見てくれたB&Aの高野氏も、もう全く働いていないと診断を下した。ひょっとして布谷君が組み立てた旧親機は、逆に、生存している「可能性」が高いとも。その確認のためには別のディスプレイを買って、つないでみるしかない。その際、ウインドウズ98にフィットするモニターでないといけないだろうなと独り危惧している。旧機からもし幸いすべての内容を救出または再現使用できるようになったら。
わたしは、これまでバックアップを全部外付けのMOに頼ってきた。MOだと編集や校正が利く。渡しの場合は殆どが文字原稿だし、編集と校正とはいつまでも可能でありたい。CDに焼きつけると、(実は自分ではどう焼きつけるのかがまだ分からないのだが、)編集も校正ももう利かないと聞いている。それでは困る。
ところがこれまでの外付けMO機が、肝心のこの新本機XPに接続できない。バックアップしておいたMOディスクが使えないのだから、降参だ。何とかするには、この新しい機械に接続できるMO機械を新たに探して買って来べきなのだろう。わたしの独り合点では危ない。
はやくこんな段階を切り上げたいが、半端に放っておくには内容が仕事に関わりすぎている。数百のアドレス、住所録の喪失は痛い。
2007 2・11 65
* つぎに紹介する「馨」さんも「雄」クンも、わたしの教室で、毎時間「あいさつ」を書き、出題された詩歌の虫食いを埋めていた。いまわたしの背後の押入れには、四年間に原稿用紙三万枚に相当の、それら学生諸君の提出したペーパーが保存してある。以来十余年、今はこんな日記をわたしに読ませてくれる。二人とも、顧みて他をいうがごとく、実はそうでない。しっかり自身を語りかつ書いている。だから読ませる。自身を棚に上げ顧みてただ「他」をあげつらうだけでは文章はどうしても冴えてこない。光らない。
☆ 鳥を見てきました 馨
昨日はよいお天気の中、午前中、鳥を見に行きました。
以前から見に行きたいと思っていたのですが、なかなか連絡先がわからず躊躇し続けていました。鳥の好きな母の影響で、たぶん普通の人よりは少しだけ多く知っているとは思うのですが、でもやっぱり、身の回りに鳥を見て「あれって何の鳥だろう」と、3日間もモヤモヤし続ける自分にイヤになって、思い切っていろいろと探して、鳥見の会に参加してみました。まぁ、別に一回参加したからと言って何でもわかるはずもないのですが。
これまた私の影響で鳥の好きな娘も大喜びでくっついて。(こうやって家庭の雰囲気って連続していくんだな、と思います。)
娘はやっぱり参加最年少で、おかげで初めてでもいろいろと親切にして頂きました。お菓子をわけて頂いたり、図鑑でいちいち教えて頂いたり。母親がゆっくりと山の中の木について教えて頂いている間に、娘は先行グループと一緒にとっとと上へ登ってしまい、完全に独立行動でした。(彼女には人見知りというものはないのだろうか…)
私自身はクロジが来るポイントで、もう手を伸ばせば届きそうな距離、長い時間あの全身ダークグレーのシブい姿を初めて堪能できて大感激。
ウソのさえずりもかわいらしくて。誰かが口笛を吹いているような「ヒュイ、ヒュイ、ヒュイ」という声です。「呼んでる口笛モズの声」ではなくて、「ウソの声」と替え歌を作りたいくらい。ウソは天神さんのお使い、という認識でしかなかったのですが、姿もかわいく、声もかわいくて。
それから、私が今まで「やたらに枝を歩くのが上手なスズメだなぁ」と浅はかに思い込んでいた鳥はコゲラでした。本当にそういうサイズなんですよ。でも確かにいっちょまえに木をさかんに突いています。いま鎌倉では普通に見られる鳥だそうです。
それから、実は初秋からずっとうちの北側の窓を毎日ヒヨドリが突きにくるのでその話をすると、それはシジュウカラなどでは多いけれど、ヒヨでは珍しいと言われました。とは言え、今PC見ているその横でもつついている…。糞害もひどい…。
他にも私が知らなかった鳥をたくさん教えて頂きました。
こういう活動をしていらっしゃる方に本当に頭が下がります。その知識とボランティア精神に。
歩いている途中で土筆がたくさん出ているのを見つけた方に、娘はわざわざ呼んでもらって教えて頂いていました。もう春ですね。梅もあちこちで満開でした。雪柳も咲き始めていました。
帰る道々歩いてきた川沿いに、昨年の枯れ残りの数珠玉をたくさん見つけてポケットに詰め込んだり、ヤツデの実の鉄砲を全然違うグループの人たちから頂いたり、と、娘は大満足。
そうそう、帰宅してから笑い話がつきました。母は昨日の午後、実家の裏山の保全をするために、里山の保存に詳しい方に会っていたそうです。その方は姉の知人なのですが、夕方に久しぶりに三人で顔を合わせて話してみれば、私の参加した鳥見の会の方でした。
その方もまさか一日のうちで血のつながった三人と順繰りに会っていたとは思っていらっしゃらないだろうなー。
☆ ハーバードの新学長 雄 ハーバード
昼近くに家を出る.意外に暖かいので,クーリッジコーナーまでぶらぶらと歩く.思った以上に近かった.クーリッジコーナーのベトナム料理店「Pho Lemongrass」でフォーを食べる.ここは味が良く,店も綺麗な上に値段も安いので評判が良い.今日食べたフォーもスープが優しい味つけで,麺も美味しい.ラーメンのようにくどくないのが嬉しい.
食べ終えてからバスに乗ってハーバードスクエアへ.途中,スターバックスに寄ろうと思い,いつも通らない道を通ったらハーバード大学の生協があったので,つい寄り道する.店内にはこれでもかというくらいハーバード大学のグッズが陳列してあった.Tシャツやバインダーなどはまだ理解できるが,普通のリュックサックや果てはゴミ箱までハーバードの紋章が入ったものを売っていた.いったいこんなものを買う人がいるのだろうか?
しかし,ハーバードに来て1ヶ月になるが,日増しにこの大学のすごさをひしひしと感じる.大概の学術雑誌はオンラインで見ることができるし,研究室も各フロアごとに清掃担当者がいる.研究室の設備はラボによって異なるだろうが,超有名教授が多いだけに,研究室ごとの予算もかなりの規模であると思われる.その他,共通施設として実験動物の世話をする専門の職員もいて,研究者がいちいちマウスの部屋を掃除したりする必要はない.一体どれだけの人が雇われているのだろうかと,その規模には目がくらみそうになる. それだけでなくて,何故か知らないが,時々free foodなるものが置かれていて,チキンの煮込みだのスープだのサラダだの,勝手に好きなだけ食べてよいことになっている.毎週金曜の夕方には T.G.I.F (Thank God! It’s a Friday night)と称して,膨大な数のピザと飲み物が用意され,好きなだけ取ってよいことになっている.一体このお金はどこから出ているのだろうか.今日目にしたグッズの売り上げなども,その一部に貢献しているのだろうか.
最近実験が思うようにいっていないこともあり,ボスと火曜日にディスカッションすることになった.そこで,今日はこれまでにやったことの纏めと参考となる文献を調べていた.論文書きも合わせて行っていたが,文献調べに思いのほか時間を費やしてしまい,今日仕上げるつもりだったが断念する.
書き物をしていると突然メールが入った.何だろうと思って開くと,Drew Gilpin Faustが次期ハーバード学長に選出されました,という内容だった.既に新聞などでは知っていたので,何故今頃(しかも日曜の午後)になってメールが来たのかは分からない.なんでも371年の歴史で初めて女性が学長になるのだそうだ.今までなっていないのが不思議なくらいだ.しかし,大統領ですらまだ女性はなったことがないというのだから意外にアメリカは保守的なのかもしれない.ヒラリーがその第一番目になる可能性は大きいと思うが,同じ民主党のオバマ候補もなかなか捨てがたい魅力がある.どちらになるのか興味深い.大統領と一大学の学長を比べるわけには行かないが,単に私立大学のひとつとして片付けてしまうにはハーバード大の規模は大きすぎる,というのが最近の僕の実感だ.
帰りは遠回りしてポーター駅まで歩きCafe Mamiで親子丼を食べる.客は僕以外すべて友人連れや家族など.昼のベトナム料理もそうだった.一人で食事をすることには慣れているが,なんだか今日は妙に虚しかった.
店を出てからkotobukiyaで少し買い物をし,店を出てすぐにあるJaponaiseポーター店(といっても通路の真ん中に売り場が一つあるだけ)でケーキを1個買って帰宅.
☆ 数日前のミクシィ「日記」に、「あの手この手(一)」と書き出して、「いまわたしは、以上のことを敷衍して、文学のことを話そうとしている」と閉じた文章のつづきに、詰め将棋のごとく長考してしております。
本日、「あらすじで書ける? 小説?」を拝見。
「小説を書くとは、鼻の先から真っ暗な奈落へ、脚のつま先から真っ暗な闇の奥へ、歩一歩踏み出して行く勇気と懸命の所行だ」の「教え」に接し、「小説を書き始めて、ある程度進路の予測はゆるされる、が、真っ暗闇に踏み出し踏み出ししているうちに遥かに当初の予測とは異なった方面へ小説世界の前途が開けてくることがあり、確かに在り、そういう展開こそがむしろ力量鳴り響く本当の魅力に成ってくる、のではないかと私は体験的に承知している」の至言に接して、教えというよりは、叱咤を感じて、身のすくむ思いです。 六
* 早速の反応で恐れ入ります、こうもすばやいことなので、あえて申し上げれば、「六」さん本日のエッセイ、「日々つれづれ」第一回の筆付きが、すこし、いや少なからず粗放に走っていないか、気にかかっていた。適切な句読点と改行とだけでも、よほど読み手に親切ではないか、エッセイの内容からすると無用に早口ではないか、性急ではないかと懼れていた。暢かつ淳、こころもち悠長な筆致でこそかえってなかみが活きないだろうかと。勝手な物言いで、それ自体は気にされなくていいが、推敲した方が興趣がいきることは間違いないと感じました。
2007 2・12 65
* 「雄」クンの以下の日記、人それぞれだろうが、わたしは東工大にいたあいだ、「セミ研究者」の学生諸君からこういう(源氏物語や谷崎文学の弟子筋であるわたしにすれば)途方もなく方面ちがいの話題で話してもらうのを、教授室での大きな楽しみにしていた。なかには何度聴いても理解できない難しいのもあったが、それでも面白く聴いた。わたしにも分かるように話そうとしてくれる学生もいた。わたしが学生たちに教えられることなどそう持ち合わせてなかったけれど、理系社会の研究余話は覚えきれなくても興味深かった。わたしは工学部教授の月給と研究費と、ボーナスまで貰った上に、なお、えらくトクをしていたのである。しぶしぶ、いやいや、大学に通勤するなどという損な真似はしなかった。学生とは、なにもかもプッシュプッシュだった。そのかわり教授会に代表される大学当局とは、終始プルプル。その方面からは何も得られそうになかった。
☆ Nair cream 雄・ハーバード
昨日から何人かの方にお気遣いのコメントを頂き,有難うございます.しかし残念ながらまだ回復していません.微熱があってだるい以外に特に症状もないので,直に治るとは思うのですが.
そのような訳で,今日はあまり夜更かしせずに寝ようと思うので,短めに,とりとめもない話を.
以前から書いているように僕はマウスを使う実験をしている.そのためにマウスを手術するのだが,その際にNair creamというものを使う.
このクリームを塗って5分も経つと,マウスの毛が綺麗に抜けてしまう.手術する際には毛が邪魔なので除くのだが,綿棒でこすると,あまりにも見事に無くなるので手術の度に驚いてしまう.ちなみにNairは「No+hair」ということらしい.
ドラッグストアで売られているので,勿論マウスのためだけに売っている訳がなく,人間が使うために売っているのだろう.ラボの人の話によれば,アメリカでは大変メジャーな代物らしい.日本で売っても売れそうなものだが,何故日本で売られていないのかが分からない.僕が知らないだけで,日本でも売られているのかもしれない.できれば僕は自分で買いに行きたくはない.
同じような意味で,できれば自分で買いたくはない消耗品にマニキュアがある.
組織などを薄く切った切片を顕微鏡で観察する際には,スライドガラスという長いガラスの上に切片を載せ,その上から封入剤と呼ばれる液体をかける.そしてその上から,カバーガラスと呼ばれる薄いガラス片を載せて,最後にガラスとガラスの隙間にマニキュアを塗る.こうすると,マニキュアが固まると切片がガラスとガラスの隙間に封じ込まれるので,顕微鏡で観察しやすくなる.
実験で使われる日常用品というのは意外に多い.タンパク質のある種の実験では粉ミルクが使われる.昔聞いた話では,雪印のものでないとダメなんだ,と言う人がいた.試薬としても売られているので実際にはそんなことは無いのだが,実際使ってみると雪印のものは大変具合が良かった.
こういう日常用品というのを初めて実験に使った人というのは誰なのか,そしてどういうきっかけでこれを使うことを思いついたのかに興味がある.
* 次のマイミクさん、わたしの誕生日に、お花を戴いた「新婚」さん。秦建日子のTVドラマのフアン。わたしの方へ移動してきて、マイミクに。本多劇場の『月の子供』が、生まれて初の観劇と。感想に感謝。とても、ビビッド!。
昨日は、四国高松からわざわざ見に来たという有り難いお客さんの「足あと」が、わたしのところへ来ていた。日記の感想を読み、お礼を告げておいた。
今日のマイミクさん、「感想」此処へも頂戴させてもらいます。建日子の眼にも触れますように。若い人の「mixi」語としても面白い。
☆ ~初観劇体験~『月の子供』 槇
昨日、生まれて初めて舞台を生でみた。
『月の子供』
人生迷ったら下を見ろ
たまにはホームの下を見ろ
舞台には無縁の私。
が、
私が大切にしているドラマ「ラストプレゼント」を描かれた、秦建日子さんが作・演出。
昨日、旦那さんと下北沢の本多劇場で「月の子供」を観劇。
三倉茉奈・佳奈ちゃんが主演
風間トオルさん 春田純一さん 円城寺あやさん
伊藤裕子さん 宮地真緒さん 林泰文さん
川津春さん 白石みきさん
総勢60名の大掛かりな舞台
好きなアーティストのコンサートには、何度も行ったことがある私。
だが、舞台は初。初体験!!そうなると。。。
そんな私が、まず、
チケットを取るのも迷いに迷うわけだ。
コンサートなら、少しでも前の方がいい。少しでもアーティストの近くに行きたい!!
う~ん。舞台は、どうしたらいいのだ???
前の方がいいの?? 舞台の全体が見渡せる後ろのほうが良いの??
端より中央がいいよね。
舞台によっても、近い遠いもあるかな??
素人が舞台近くは、失礼かな??
え~~~~っと、
それでどうしたか??
おこがましいと思いつつ、D列(4列目)の真ん中のチケットをとったの。
4列目も近くて、ちょっと緊張するなぁ~と、思ったのですが。
あっーーーー。劇場に入って席を探すと、
ウギャーーーー。実際にはD列が、2列目。
え??A・B・C 「D」 でしょ。
なんで?C席が1列で、D席が2列目。
名付けて『D席2列目事件』
4列目でも緊張で、って、なんで私が緊張するのか意味不明なのですが。。。
でも、もっと緊張したのが、
入場前、階段で(作・演出の)秦さんをお見かけし、舞い上がってしまいました。
しかも、話しかけてしまい。。。
あ~~~。嬉しかったけど、反省。
しかし、そんな私にも丁寧に対応していただき、感激しました。
名付けて、
『秦さんに 観劇前に感激事件』
まず、劇場に入って驚いたのは、
なにより、お花。これは、すごかったです。
いいとものテレフォンショッキングでみるお花がロビーにづらづらづらづらのづらり。
凄い数だよ。お花に圧倒されたのは、初めての体験でした。
お花の香りがロビーに漂い、そして名前を見ているだけで楽しかった。
凄い人の名前がいっぱいでした。イチローもあり、
ちょっとそれだけで興奮しました。本当に見ているだけで楽しかった。
ロビーでパンフレットを購入。
そして、このパンフレットが、嬉しいのと、困ったのと。
まず、嬉しかったのは、
秦さんが「ラストプレゼント」天海祐希さん主演の連ドラに触れ、改めて天海さんが死ぬシーンを描かなくてよかったと思っていると、おっしゃっていたこと。
私は、「ラストプレゼント」が単なるお涙頂戴ドラマじゃないから好きだ。
このドラマの何が好きなの? って、良くみんなに聞かれるけど、見てない人への説明としては、みんなが良い人のドラマなんだよ、と、説明に付け加える。でもね。実はね。私は、もう数え切れないほど見ているけど、まだ分からないシーンがあるの。これは、どういう意味なんだろう??って思うシーンがあって、そこは私なりの解釈しかできない。そして、凄いのが何度見ても涙が溢れる。ストーリーは知っているのに、涙が溢れてくるのよ。登場人物の描き方が1人1人丁寧なんだよね。「不治の病」を扱ってるドラマで、単なるお涙頂戴ドラマじゃないのって、これ凄くない。
で、で、で、だよ。とにかく「ラストプレゼント」ってドラマは、凄いのさ。ぽっぽちゃんは見てくれたけど、他の人も見てみてくれさぁ!!
「ラストプレゼント」に巡り合ってから私は秦さんワールドにグイグイっと、引き込まれたんだ。
おっと、そして、パンフレットを読んで困ったのは、
出演者の方たちが、
「月の子供を読んだときの感想」との質問に対し、
・はじめはちょっと解りにくくて、難しい作品
・どう読めばいいのかわからなかった
・難しいな。。。
・内容がつかめない
・正直わけがわからなかった
出演者の方たちがこうおっしゃってるのですから、このパンフレットを読んだ時、初心者な私は、少し不安になったよ。まぁ~よく考えれば私が不安になる必要はないのだが。
さて、いよいよ期待と不安といろんな気持を乗せ、私の初観劇体験が始まった。
いや~
すんごいよぉー。
圧倒された。
汗が、唾が、
雰囲気に圧倒圧倒です。
でも。難しかった。それが、正直な感想。
ダンスの時は、頭はフ~ッとするんだけど、2時間頭がフル回転状態。
笑いのエッセンスは、絶妙でした。
結構ブラックだったりもするんですよ。
心にバシバシ響く台詞で心は揺れる。
メッセージがあちこち詰まってて、その解釈を追っていると進行している舞台に追いつかなくなる。
まず、月の子供っていうのがすごいさ。もし月で生まれたら骨や筋肉は重力の少ない月でしか育ってない。その子が地球に来たら潰れちゃう。もし 本当に月の子供がいたとしたら、砂漠しかない月の子は、海も川もある地球に憧れるだろう。行きたいと思うだろうなぁ~地球に。
だから、自分たちは、月の子に比べれば。。。。。。
プッシュプッシュプルプル プッシュプッシュプルプル
耳に残った。
人生押してだめなら引いてみろって、こと。
そんな単純じゃない。いや~書けんわ。感想。
「生きる目標って??」
初めて舞台を観劇し、迫力に圧倒されたのと、舞台の内容について、うまくかけそうにないのだけど、メッセージがたくさん詰まってて、それにも圧倒。昨日は圧倒圧倒の1日だった。なんだろうね。この感覚って。この感覚も始めてなんだよね。なんかな?モヤモヤしてるのに爽快みたいな。この舞台からのメッセージを受け取って、考えて、なのに言葉にならない。
だ・け・ど
自分は、今めちゃくちゃ幸せだ!! って改めて思えた。
それが、一番大きかったかな。
私には、名前もあるし。。。
と、っと、っとぉ~。
初観劇は、モヤモヤ爽快。
個人的に、風間トオルさんかっこよかったっ酢。
円城寺あやさんは、素敵だった。素敵。
生で演劇って、この言葉で終わるの嫌だけど、
初心者らしく、
この舞台、すげぇ~~~よ!!
* 一度観て、よく感じ取っているのに感心。作者の思いや意図とのあいだに温かく平仄(ひょうそく)が合っている。魂の色が、こうして似てくる。創作者の冥利。
2007 2・13 65
* 「mixi」に招待されてきっちり一年経った。いましがた午前十一時半、「足あと」が12400を記録していた。
2007 2・14 65
* 神道の勉強をしている「日本人ではない」女性から「mixi」メッセージが来ていた。プロフィールをみると、わたしが『みごもりの湖』や『冬祭り』を書きながら関心を深めていた、民俗学や、文化的複合としての葬祭儀礼や祭りなどに熱心に触れている人だった。年齢も住まいもむろん分からない。いろんな人がいる。ご縁がこの先にも有るか知れない。どこの国の人かも分からない。
☆ 権力の無能と横暴 玄
私たちはだまされてはいけない。
これまでの歴史を振り返ってみると、権力が改革を叫ぶときは必ず己の政策が行き詰まったときであった。
今も安倍総理はイノベーションを声高に叫んでいる。権力はいつでも国民のため、社会のためなどと言って、その実己に都合のよい法律をつくる。
教育の荒廃を招いたのは教員のせいだ、親の責任だ、テレビの責任だなどというが、政治の責任に決まっているではないか。
政府は責任逃れに種々の審議会をたちあげて政策立案の助けにしている。これは政府に政策立案能力がないことの証明であるが、同時に政府に都合のよい政策を立案させるための審議会であることも多い。やらせである。
国の財政が苦しくなると国民に重税を課して凌ごうとする。これまでの己の失政については口を拭って知らぬ顔である。景気が悪くなったのは国民のせいだと言わんばかりである。
バブルがはじけたことを言い訳にするが、バブルを生み出したのも政治の責任だ。
* 同感。
* ホワイトバレンタイン 雄 ハーバード
日本は雪が降る前に春一番が吹いたらしいが,ここボストンは今年一番の本格的な雪になってしまった.夜のうちに降り始め,朝には一面真っ白になっていた.窓から外を眺めると,煉瓦造のアパートや周りの木々がモノトーンに浮かび上がり,水墨画のようだった.
朝,大勢の人が道の雪かきをし,塩化カルシウムの粒を蒔いていた.はじめこちらに来たときには寒い日になると白い粒が道路に散乱しているので何だろうと思っていたが,塩化カルシウムであるらしい.
塩化カルシウムや食塩などを水に溶かすと凍りはじめる温度が下がる.高校生の頃に化学で習った凝固点降下というやつだ.これを利用すれば,塩化カルシウムを蒔けば液体が凍り始める温度が下がるので,逆に雪は凍っていられなくなって溶けてしまうという仕組みだ.熱をかけずに雪を溶かすことができる.うまいことを考えるものだ.雪国の人やスキーをする人には常識なのだろうけど,僕は初めて知った.
今日は待ち時間の多い実験なので,合間に論文を一気に書く.ほぼ完成した.プリントアウトして,おかしなところがないか推敲し,図に手を入れてから日本のボスに送ることにする.今週中になんとか送りたい.
夕方,学部生のハンと廊下ですれ違う.彼も授業の合間にラボに来て実験をやっているが,それほど頻繁には現れない.彼は先週金曜日に21歳になった.アメリカでは21歳から合法的に酒が飲めるらしい.「先週の金曜はどうだった?」と聞くと「飲みすぎたけど記憶はあった」という.
ハンが「今日はバレンタインデーだよ.知ってる?」と聞く.こちらでは女性から男性にだけではなく,男性からも女性にプレゼントをするらしい.「どんなものをプレゼントするの?」と聞くと,「チョコレートとかカードかな」という.チョコレートを配るのは日本の菓子メーカーの陰謀であって,欧米ではそのようなことはしないということを昔誰かから聞いた気がしたが,こちらでもチョコレートは一般的と聞き,むしろ意外だった.
「日本ではバレンタインデーは女性から男性にプレゼントするんだよ.男性からは3月14日にお返しをするんだ」と説明すると,「その日はなんていうの?」というので「ホワイトデー」と答えたら,面白いといって笑っていた.ついでに日本の義理チョコなどについても説明したが,義理を正確に伝えようとして,ちょっと詰まってしまった.ニュアンスはもちろん分かるが,外国人にどう説明したらよいのかは難しい.日本をもっと勉強しないといけない.
夜,カフェテリアに夕食を食べに行ったが,雨で雪が溶け,靴がずぶぬれになってしまった.この前の日曜日に靴を買おうかと一瞬思ったのだが,サイズが分からず,面倒だからいいやとやめてしまったことを強く後悔する.
まだパラパラと小雨が降っている.夜半過ぎには雪になり,明日は一層積もるらしい.
* 毎度褒めては値打ちがなくなるが、叙事が具体的で観念的な説明へにげていない。これが実はエッセイでは非常にむずかしく、つい面倒なもので観念的な言辞へ逃げ込み誤魔化してしまう。
「雄」クンは自然にあるがまま、思うままを正直に飾り気なく書いてくれる。クリアに生き生き伝わってくる。
2007 2・15 65
☆ 笹を刈りながら 馨
お天気のよい午前中、朝早く起きすぎた息子が早々と昼寝に入ってくれたので、年末から気になっていた裏山の笹刈りをしました。昨日の雨の後で花粉も飛ばず、絶好のチャンス。
うちの敷地ではないものの、裏庭から地続きの裏山は少し登ると谷戸の向こうまで見えて、結構よい景色。ここで今度はお昼を食べよう! と意気込んで刈りはじめたものの、何せ昨年サボっているものだからすごい量。だんだん手が腱鞘炎のようになってきました。
そこでふと思い出したのが雨月物語。あの話って、「目が覚めてみるとそこは荒れ果てた・・・」という展開が山ほどあって、しかもその荒れ果てた場所には必ず笹の原が付随していたような記憶があるのだけど、要するに笹って人が手を入れてないことを象徴するものだったのね。今年はちゃんと夏にも刈るぞ!
刈って刈って、幼稚園の七夕が20回できそうなくらいの量が出たあたりで、ふらりと実家の母がやってきて「笹は七月か八月に刈るのが一番いいのよ。新芽の成長が落ち着くのがそのくらいだから」。はいはい、その通りでございます、これからはマメにやります。と、ずるずる崖から落ちそうになりながら呟く私。
母が立ち去った後、ふと気がつきました。七夕って七月じゃない! 要するに七夕の笹って廃物利用だったのねー。 日本文化ってエコロジカルだわ。
もうこれ以上、腕が上がらない、という時点でさすがに辺りを見回して一息つきました。 周りには笹の切り株(株ともいえないけど)がいっぱい。何せ素人作業なので、短く切ろうとしてはいるものの、切り口の長さが揃わないんです。そんなのが一面に広がっている。これ、今ここで勢いよく倒れたら人間千枚通しになってしまう・・・と、思ったら不安定な足もとが急にコワくなりました。 先端恐怖症ではないはずだけど、突然朔太郎の「竹」の気持ちがよくわかったりして。
そんなこんなでぽかぽかの日向で笹を刈りながら、いろんなことを思い浮かべました。収穫もあったんですよ。転がっていた枯れ枝にキクラゲがついていたので取っておいたり、日曜以来竹鉄砲がブームな娘用にヤツデの実をゲットしたり、我が家の猫の隠れ家を見つけたり。
全身枯れ草まみれになりながらも、わりと楽しい作業でした。
けど、明日はきっと腕が上がらないだろうな・・・。
胴をつけながら腕立て伏せ50回とかできた剣道部時代は今いずこ・・・(:;)。
* おもしろい。
さらりと雨月物語や朔太郎が出てきたりするのが、この人のポケットの深さ。七夕の笹は「廃物利用だった」なんて、さすが。
口癖も出ている。気がついているだろうか、「何せ」が二度、「ものの」が三度かな。「敷地ではないものの」「はじめたものの」「してはいるものの」もう一度出ては、要注意。この程度の長さの文章で「ものの」が五度も出ると悪癖に転じてきます。それでも「何せ」よりは。これはリップサービスの気軽さで意図的に使われたか、しかし書き手に似合わない気がしました。 湖
2007 2・15 65
* 買ってきたモニタが古い親機に接続でき、親機から消えたかと案じたなかみが現れ出た。B&Aの見立て通り、日立の大きなディスプレイに寿命が来ていたということ。必要なモノの保全だけは万全にしておきたい。前のはテレビのブラウン管と同じディスプレイで昂然と大きく場所をとっていたが、貫禄で、部屋全体の中心の観もあった。
買ってきたACERのディスプレイは、画面はその日立並み以上に大きく、嵩はひくい。棚が一気にスマートになった。画面も当然ながら明るい。
* ひさしぶりに、おじいやんを見上げてかわいい小さい昔のやす香の写真を、恋しく眺めている。おじいやんはお腹の出張ってきたのに、俯いてごきげんがわるい。
「いいじゃない、おじいやん」
やす香はきっとそう言って、はげましてくれたんだ。
2007 2・15 65
* まだ親機の稼働は円滑ではない。すぐフリーズする。
2007 2・16 65
* 古機は画面をモニターに出してくれるけれど、その先が働かない。遅くてもいい安定して働いてくれればと願うが、目下は私の手に負えない。旧親機の内容が、とにかく生存していることの分かっただけが、モニターを買ってきた収穫。今度はこの新本機XPに、外付けのMOドライヴをくっつけてみよう。
2007 2・16 65
☆ YouTube 雄 ハーバード
ここ最近,家に帰るとついついYouTubeを見てしまう.昨日も夜更かしは良くないと思いつつもあれこれと見てしまった.きっかけとなったのは「mixi」の中の、リヒテルのコミュニティーで,リヒテルがピアノを演奏する姿の映像が見られたからだ.
リヒテルのCDは何枚か持っているが,実際に演奏している姿を見るのは初めて.持っているCDの中での一番のお気に入りは、バッハの「平均律クラヴィーア第一集」.ムソルグスキーの「展覧会の絵」も素晴らしい.
リヒテルの映像がYouTubeに登録されていたので,もしかしてと思い色々調べてみると,フルトヴェングラーやトスカニーニなどの映像も見ることができた.どちらもCDは沢山持っているが,指揮をしている姿など見ることは不可能だと思っていたので感動だった.
一番面白いのは,やはりグレン・グールドだろうか.極端に低い椅子や,音と音の間に見せる動きなども面白い.寡黙な人なのかと思いきや,あんなにおしゃべりな人とは知らなかった.マルタ・アルゲリッチの若い頃の映像もあったが,全く事も無げに難しい曲を弾きこなす様は天才としか言いようが無い.
実は来月もボストン交響楽団のコンサートの予約を既に入れてある.指揮がデュトワでピアノがアルゲリッチという元夫婦の共演.離婚したというのに,何故かこの二人は良く共演している.
アルゲリッチは現在存命中のピアニストの中で、最も演奏を聴いてみたい人なので、今から楽しみ.
☆ 軽トラック e-OLD 笠
月に一度診療所へ通っている。田舎の団地からバスと電車を乗り継いで出かけて行く。そこはもっと田舎で単線の駅はついこの間まで無人だった。駅からは近いのだが少しの登り坂はだんだん億劫になってきた。
やっと着くと、玄関から老夫婦であろう、薬の入った袋を下げて出て来た。失礼だが、腰の傾いたかなりの老翁を老媼が手を取り、日の当たる中をゆっくり駐車場の方へ歩いて行った。やはり暖かい日を待って送って来てもらったのだろうと、うしろ姿を見送った。まわりの緑はまだ薄いがやがて春が来そうだった。
エンジンの音がしたので、脇によけて車をやり過ごした。
二人乗りの軽トラックである。と、運転手は・・先程の老翁であり、媼も横に乗っている。そんな筈が、と目を見はったが、他に誰もいない。
大丈夫だろうかもへったくれもない。その軽トラックは空の背中を見せて元気に坂道を下りて行った。
* マイミク氏の「mixi」日記をのぞく、楽しみ。
2007 2・17 65
* またしてもパソコンにイヤな支障が生じた。
わたしの「ホームページ」は、netscape7.1のcomposerで当初来実現してきたが、昨日機械をしまうまでそれで支障なく過ぎてきたのに、今日になり、なぜか、デスクトップのロゴをクリックして、composer も netscapeも全く反応が無く、画面が現れない。プログラムの方から出そうとしても、このふたつに限り全く反応しない。
つまり我がホームページは、またしても全面消滅の状態。この「私語」を書き継いでおくことも、画面が開かないので不可能な状態に陥っている。
* 当分というより、あてどもなく、もうパソコンの故障は放っておこうと思う。いいかげんイヤになった。
「闇に言い置く私語の刻」は、「mixi」日記の場に置き換えて書き継ぐとする。「作品」の公表・公開は、現在の『蘇我殿幻想』が明日で終わり、一冊に添えてあるもう一編「消えたかタケル」と「あとがき」を掲載し終えたら休止し、わたしの「mixi」日記は無期限に作家・秦恒平の「闇に言い置く私語の刻」と成る。誤解無いように断っておく、作家・秦恒平と「mixi」ニックネームの「湖」とは、同一人。
* わたしの『闇に言い置く私語の刻』は、平成十年(1998)三月下旬から書き始め、十九年(2007)今日まで、連日発信されている日録の「私語」のファイル。「宛名のない手紙」とも、「癇癪の落としどころ」とも、「単なるメモ」とも謂えるが、遠い遙かな、あるいは足下に深く沈んだ、「闇」に言い置く老境の遺書である。
克明な日記とちがい、思うことを手早に書き置いて、統一したスタイルを持たない。日付にもさほど意味なく、随感随想の連鎖であり、闇の彼方から届く多彩な「声」「声」もあえて取り込んで、「今・此処」を生きる一作家の生活と生彩を表現している。
日々とぎれなく更新してきた。不慮の事故で言い置く場所が変わったが、これからも更新して行く。アップロードされている従来のホームページ版は、厖大な量だが、必要なら読者各位の手元で保存して下さい。
http://umi-no-hon.officeblue.jp
* パソコンは「創作」のために用いる。インターネットは利いている。メール交換は可能。
2007 2・18 65
* ホームページを働かせる「場」であるネットスケープもコムポーザーも全然働かない。開けない。ホームペジはわたしの機械から全く隠れ去ってしまった。
2007 2・18 65
* 三十八年前、「芸術生活」に書いた受賞後初のまとまったエッセイ『消えたかタケル』を「mixi」に。そしてそれと『蘇我殿幻想』とを一冊にまとめた「湖の本エッセイ」創刊号の跋文もついでに「mixi」に送り込んだ。「mixi」に作品を掲出・公開するのを、これで、当分見合わせることにする。
2007 2・20 65
☆ 円安 雄 ハーバード
僕は給料を日本から円でもらっている.したがって,日々の為替は大変気になる.当座の生活資金としてトラベラーズチェックで持ち込んでアメリカの銀行に預金した分はまだまだあるが,結構頻繁に使うので,できれば早いうちに日本の預金をドルに変えてアメリカの銀行に移しておきたい.
しかし,最近は円安ですっかり落ち着いてしまったのだろうか.先週末,118円台になったものの,じわりじわりと再び120円になろうとしている.今,ドルで持っている分は1ドル115円位の時に換えたものなので,1ドルあたり5円も違う.今,ドルに換えると以前に比べて4.2%位損していることになる.
2回目以降の送金はアメリカの銀行にドルに換算して振り込まれるので,もはやジタバタしても仕方ないが,せめて今持っている分はレートの良い時に換えたい.日々,レートの欄を見ながら生活している.
今日はPresident’s dayでアメリカは祝日.身を切るように風が冷たい.できればお休みしたい.しかしながら,いつもどおり,休むのは秘書さんやテクニシャン(技術補佐員)だけ.カフェテリアはやっていないのでハーフサイズのサンドイッチを昼飯用に買ってラボへ.
いつもどおり実験をし,合間に論文を読む.風邪薬を飲んでいるせいかやたらと眠い.同じところを何度も読む.早めに終えて,帰りはポーターで日本食でも食べようかと思っていたが,甘かった.10時過ぎにようやく帰宅.まだ夕飯は食べていない.
* すっかり雄クン、ボストン人になってきた。
2007 2・20 65
* 池袋で、外付けのMOドライブを買ってきた。無事にウインドウズXPの本機にセットし成功した。
だが、大事なのはそれじゃない。モニターを新たに接続した旧親機の画面から、事なく内容を取り出すのが、バックアップするのが遙かに肝要なのであって、それに成功していない。モニターの接続を間違えているのだろう。
今ひとつ、本機で、ホームページを内包した「ネットスケープ(コンポーザ)」がどのロゴからも全然開けない。故障だと思う。これをどうにかしないと。
2007 2・21 65
☆ 旅行を計画しなさい 雄 ハーバード
普段僕はバスで大学まで通っている.寒い時期は地下鉄を利用することもあるが,地下鉄は途中で乗り換えなければならない.バスは1.75ドル,地下鉄は 2ドル取られるが,一旦乗ってしまえば額は変わらない(ただしレッドラインは途中から倍になると聞いた).
バスも地下鉄もMBTA(Massachusetts Bay Transportation Authority:マサチューセッツ州港湾交通局)という団体がやっているが,ここのホームページ(http://www.mbta.com/)の右上にlanguageというボタンがあることに気づいた.クリックしてみると,日本語も入っているではないか.早速切り替えてみた.
タイトルがいきなり,「より大きいボストンの公共交通システムのための公式のウェブサイト」となっている.原題はOfficial Website for Greater Boston’s Public Transportation Systemである.Greater Bostonとはボストン大都市圏のことで,ケンブリッジやブルックラインなどのボストンに隣接する地域も含めた言い方と思われる.
出発点と行き先を入力する欄には「旅行を計画しなさい」とあり,住所を入力すると最寄の公共交通機関の駅を表示してくれる欄には「近くに整備しなさい」とある.
極めつけは,「旅行を計画しなさい」の項目の説明文で,「2つの位置に次に入れば私達はあなたのための最もよいMBTA旅行ルートを供給するか、またはタブから他のTのライダー用具を試みることを上で選ぶ。」とある.全く意味が分からないが,原文はEnter two locations below and we’ll supply the best MBTA travel routes for you OR choose from the tabs above to try other T rider tools.となっている.ライダー用具って...
Service Alertの項目には「見なさい全てのサービスの更新を」と倒置法まで使われていた.
なかなか楽しいが,毎回開くたびにこんなページが出ていたのではたまらない.第一,意味が分からないので,英語に切り替えようと思い,「言語」と表示されたボタンをクリックしたら,こんな文章があらわれた.
「機械翻訳サービスに言語を選びなさい。 MBTAの内容の基本的な理解を提供することを意図するが翻訳は文字、名前および慣用的な表現を誤って伝えるかもしれない。」
誤ってはないけど,ちょっとおかしいですよ.
* こういうのを読むと、ボストンというわたしの見知らぬ都会が、自然にグーンと近寄ってくる。得難いものだ。「雄」クン、楽しませてくれる。
2007 2・22 65
☆ gene gun 雄 ハーバード
ついこの間まではひどく寒かったが,ここ2,3日は春にでもなったかのように暖かい. 実験は相変わらず停滞しているが,ある機械を使えば打開できるかもしれないということに気づいた.gene gunという機械だ.
名前の通り,銃のような形をしている.弾の代わりにチューブを詰めるのだが,このチューブの内側に金粒子と共にDNAを付着させておいて,導入したい細胞めがけて引き金を引くとDNAが細胞の中に入るという仕組みになっている.なんだかいかにも野蛮な装置だが,細胞に遺伝子を導入する方法としてはとても優れていて,色々な研究で利用されている.
大変素晴らしい機械なのだが,難点は高価であること.日本で買うと,代理店などの仲介業者が間に入るせいもあって600万円くらい取られる.アメリカでも20000ドルだそうだ(それでも,一体この差は何なのだと言いたくなるが).おいそれと気安く買える機械ではない.
調べているうちに,奇しくも隣の建物で持っているラボがあることが分かった.ラッキーなことに,そこには知り合いのポスドクがいる.先方のボスとうちのボスも仲が良いらしい.頼んでみたら気安くOKしてくれた.しかも,今日実際に実験するので見に来たらと言われる.
今日は弾を作るところを見せてもらったのだが,窒素ボンベの圧力を調節するのが難しくて,デモンストレーションしてくれたポスドクが失敗してしまい,そのたびにチューブが暴発して外れる.勿論,安全性は配慮されているので問題はないが,大きな爆発音がするので思わず声を上げてしまう.
他所様の研究室に入ったのはこちらに来てから初めてのことだが,色々と勝手が違うので戸惑いも大きい.来週,本格的に使わせてもらえるようにお願いしてきた.
ラボに戻ってから相変わらず条件検討をするが,今日の結果も芳しくない.できることはほぼやりつくした.この辺りでアタリが欲しい.
* IDカードのぶらさがった日記で、他の誰にも割込ませない。文章はこうでありたい。誰かが簡単に似た事が言えたり、代わりに書けたりするようでは、ダメなのだ。ちょっとした素直さでそれは出来る。へんな自意識をもっていると、かえって平凡に人の言い古した筆致でありふれたことを書いてしまう。
2007 2・23 65
* 好天
* 旧機から主立った内容は救出し、本機に移動できた。全部ではない、それは断念した。旧機へ初期化したハードディスクを入れて、モニターとつないで再起できるかどうかは来週まわしに。
理由は分からないが凍結していたネットスケープとコンポーザは、再インストールして機能を復旧。一週間ぶりにホームページを回復した。
* やす香と「mixi」のマイミクになったのは、明日。みゆ希と一緒に保谷の祖父母を最期に訪れてくれてから、明日は満一年。「mixi」に入れて貰っていて、つらいやす香の永逝に立ち会うことになったけれど、「mixi」に在籍していなかったら、極端な場合われわれはやす香の発病も闘病も悲しい死もあわや全く知らずじまいにつんぼ桟敷にいたかもしれなかった。「mixi」もまた運命であった、招待されていて有り難かった。
まる一年、わたしにとって「mixi」の意義もほぼ尽きた。明日で一区切り、以降ごく普通の在籍会員の一人と謂うにとどまり、ここへ掛ける時間と手間とを節約する。「闇に言い置く 私語の刻」はホームページで継続する。
メッセージは戴くし、必要な返事もさしあげるが、保存上、電子メールがありがたい。
2007 2・24 65
* 手のとどくところで、カリタスの制服の孫やす香がわたしに微笑んでいる。可愛い写真だ。写真だけがこの世にのこって、もう手をつないで歌をうたって保谷の里道を歩くこともできない。
* 去年の今日、やす香は妹のみゆ希といっしょに保谷へ遊びに来た。もともとみゆ希は独りで来る気であった。お姉ちゃんはと聞くと、お姉ちゃんも行く行くと言ってますという連絡があった。みゆ希の三月の誕生日が近づいていて、早めのお祝いをとわたしたちは思っていた。
お雛様を久しぶりに出して、二人に飾らせてはと提案し、用意しておいた。
* やす香の不調にはハッキリ気づけなかったが、あとで思えば全身の違和感を心もちもてあましていた気はした。クセのひとつかのように幾らか見慣れていた。
ひな祭りはほんとうに楽しかった、姉妹はきゃっきゃ笑いながら一つ一つ飾ってゆき、飾り終えて写真も撮った。みゆ希のお祝いもした。ああ、やす香にもしてやればよかった……。
おじいやんは「mixi」に入っているよと言うと、やす香は「あたしも入ってまーす」と内緒事を打ち明けるように笑った。すぐ「マイミク」の約束ができた。運命であった。やす香はおじいやんがマイミクである窮屈さもとっさに感じたに相違ない。日記はすべて読まれてしまう。それでもやす香は「マイミク」を即座に受け入れてくれた。おじいやんを喜ばせてくれたのだろう。ありがとうよ、やす香。おかげで、おまえの最期の日まで、わたしたちは「mixi」を介してもおまえを見守り哀しみ泣きつづけることが出来た……。
保谷の家で歓談・談笑のあと、まみいも一緒に池袋パルコへ出て、「すし田」で、思う存分二人に食べさせた。若い板さんに陽気に煽られ、二人ともご機嫌さんであった。ことにやす香はこういうとき陽気に心優しかった。
そして……JRの改札で、「さよなら」と手をふりあった。あれが、まだまだ元気なやす香を見た最期となった。
* 「mixi」に参加して、つまり満一年と十一日めになる、今日は。去年の今頃、もうやす香とみゆ希とは我が家の人であったろう。あれから只今まで、「12865」という「足あと」数と夥しい量のわたしの作品で「mixi」は埋められた。長編の『最上徳内北の時代』をはじめ『秘色・三輪山』も『初恋 (雲居寺跡)』も載せた。長編のエッセイも講演録も数えきれぬほど載せつづけてきた。「秦恒平」という見知らぬ小説家・作家の名前と仕事とにはじめて出会われた、出会って下さった方々も多かった。いい出逢いに恵まれてきた。なかにはやす香のお友達もあった。
しかし、わたしにはやす香があっての「mixi」であった。胸を抉るほどきつい思い出に彩られてしまったけれど、嬉しいことも有った。そして満一年を経てしまった。呆然としている。
* わたしは、仕残している仕事を幾つも胸のしこりに抱いている。その一つ、一つをクリアするには、残された時間はあり余っていない。体力も。
どこかで余力を按配し、節約しなくては。
ホームページには、十年になんなんとする歴史があり、パソコンは、わたしの書斎・書庫・記録と保管の場所である。喩えていえば原稿用紙でも初出の発表誌でも刊行著書でも全集でもある。主宰する文藝雑誌でもある。わたしは「ホームページ」というものを、さように(当時は常識ではなかった。)活かす前例を、率先実践してきた。機械が働いているうちは、それに対し責任を負わねばならない。
その一方、わたしは久々に「手で書く」創作、万年筆を再び活かす道へも戻りたいと切望している。われながら容易ならぬ決意。もとより二兎を追うとも思っていない、手書きが主だ。パソコンは補助の記録作業および「私語」の場に落ち着いて行くだろう。小説は、少なくもその第一稿は、原稿用紙へ手書きされるだろう。
わたしのための急務は、家の中に原稿用紙がひろげられる、何より「書き机」の確保だ。わたしは今は、我が家でありながら、それすらが持てない。
この家を建てていたとき、ちょうど太宰賞をもらい新作家と迎えられたばかりだったが、ある日、仕事している大工さんが、首をかしげて妻に漏らしたそうだ、
「旦那さんは小説家と聞いたけれど、書斎は無いんだねえ」
わたしの当時の生活は、書斎どころか、京都の老人三人をどう迎え入れ、育ち行く二人の子をどう励まし、妻に生活の不安をどう与えずにおくか、そんなことに掛かっていたし、れそを一所懸命にやった当然の励みだった。本業の方は、喫茶店であれ食べ物屋であれ、「卓」のあるところならどこでも利用し、家へ帰れば本を読んだり調べ仕事をしていた。勤めていた間は外での時間が多く、それでも済んだ。
勤めをやめたあとがタイヘンだった。狭い家でまぢかに人の話声や電話声やテレビの声のする場所でわたしは締め切り仕事をいつも「書かねば」ならなかった。いらいらしても、我が儘勝手だと非難されもした。わたしは時勢にも救われ、ワープロやパソコンという機械の恩恵と便利さへ走った。実は逃げ込んだ。必然の退路であった。退路とみえたものをアクティヴな進路に変えていった。それが、「ホームページ 作家・秦恒平の文学と生活」になった。そうするしか「書け」なかったからだ。パソコンへわたしを導いた東工大就任は、まさに天恵であった。
だが、万年筆と原稿用紙との生活へ、老境、馬の鼻を向け直すことは、このさき並大抵のことではない。ストレスはいや増すことだろう。
* やす香との思い出に胸を濡らしたまま、今日この日を、そんな再出発にと、わたしは考えてきた。そして今日を迎えた。
* 愛蔵の秦テルオのしみじみと冴えた「出町雪景」をだしておいても、この二月ばかりは画趣がまるで生きない妙な陽気の冬であった。厳寒はつらいけれど、一日も雪をみない真冬も異様だ。やがて夏の暑さが、思いやられるどころか怖くなる。
* 出前の鮨を奢って妻とふたりきりやす香を偲んだ。それから松たか子に、と言うよりお母さんの藤間さんにもらった、竹内まりやが作詞作曲して松たか子が歌っている『みんなひとり』という音盤を聴いた。ほかに松たか子が作詞作曲し歌っている「幸せの呪文」「now and then」も。 『かくのごとき、死』を高麗屋へ送ったら、すぐ何も言葉はなくこれが贈られてきた。有り難かった。
いま、となりの部屋で妻はビアノ曲「月光」のあたまを繰り返し弾いている。
2007 2・25 65
☆ 秦先生,いつも「mixi」では有難うございます.
このところ,先生のご気分がふさぎがちのように感じていたのですが,「mixi」を拝見して,その理由が分かりました.さぞお辛いことと思いますが,どうか気を落とされず,お身体も大切になさってください.
「mixi」では引き続き,なるべく継続してこちらでの日記を綴りたいと思います.それこそ煙草代わりにでもなれば幸いです.
「mixi」では日記はもうお書きにならないようですが,「闇に言い置く」の方は引き続き楽しみに読ませていただきたいと存じます. 雄 ボストン
* 「mixi」には、相対での「メッセージ」交換機能がついていて、第三者が割り込めないことで、いわゆる電子メールと異ならない。この満一年、今日までに278件のメッセージを受け取っていた。だいたいが「やりとり」であるから、ほぼ同数こちらから発信したり返信したりの「メッセージ」もあるわけだ、それはまだ調べていない。受信分を整理し保存した。
2007 2・26 65
☆ 不思議な夢 昨日のことでした。
早くに、五時半に、起きて色々していましたので、二度寝をして朝の九時か十時くらいでしたか不思議な夢を見ました。
キスの夢を見たのです。それが夢とは思えない、温かでやわらかい唇の感触のある本物のキスで、相手の抱擁に全身が包まれました。こんなことあり得ない、夢のはずなのにと驚いて目覚める瞬間に、からだの芯が突然かあっと燃えるように熱くなり、目を閉じているはずなのに目の底が明るい光に満たされ視界は真っ白な世界。その白い輝きの中からある映像が浮かんできて、その映像がだんだん明らかにかたちになっていくのがおそろしくなって、必死に目を開きました。そこはいつもの寝室でしたから、安心して目を閉じると、再び暗くなるはずの視界が明るんできて、映像が出てきそうになって、また目を開く。そんなことを数回繰り返していました。
夢のキスの感覚を思い出すとなつかしいのに、どこかこわい。単なる色夢と言ってしまえばそれまでですけれど、自分の無意識の妄念の現れなのでしょうか。キスの瞬間の、あのふわっと包まれたなんともいえない心地よさは、まだからだの中に残っています。
ミクシィ加入から一年あまり、また新しい扉を開こうとなさっています。パソコンの不具合は偶然ではなく必然だったのかもしれません。小説を書きなさいという天の意志です。どうぞ天才を存分に発揮なさってください。
「私語」に書かれていらした、「メリー・スチュアート」や「ひばり」に対する批評、素晴らしいものでした。長い間積み重ねた誠実な思索がなければ決して書けないお仕事です。私にとりまして、「私語」は稀に見る贅沢な読書経験。「私語」を続けてくださっていること、本当に感謝しています。今読めない過去の「私語」を、どうにかしてディスクにして頂戴したいという私の願い、是非お聞き届けくださいますように。
* メールは、ほんとに奇態な魔のちからを発揮する。まちがいない良家の人をさえ、かくも開放的にする。いやいやまさか、ふつうのお友達とはここまで書かないだろう、なんぼなんでも。
相手が一視同仁の物書きだからか。いやいや「電子メールというツール、ないしそれに過剰に依拠したバーチャルな表現」の薄さ、遊びすぎの要素を、わたしはおそれる。電子メールならではの「表現の魔」についてはイヤほど指摘してきた。
電子の言葉、またいわゆる言葉への無意識の過信が世に行き過ぎないことをわたしは願う。
ほんとに言いたいことは、顔と顔とをみあわせて伝え合うという日常を現代は忘れすぎている。
2007 2・26 65
* ニフティがサービスに送ってくれたディスクをインストールしてから、ウイルスを抱いたメールを駆除して通知してくれる。昨日一日で通知は五回。発信者は全部異なるがウイルスは五回とも同じ「W32.klez.H」 どういうことかは理解できないが。
2007 2・27 65
☆ 似て非なるもの 雄 ハーバード
前から日記に書いている通り,僕の部屋では日本のテレビ番組を見ることができる.これはテレビ好きの人間にとっては大変有難いことで,大いに活用しているが,唯一気をつけなくてはならないのが,グルメ番組を見てはいけないということ.うかつに見ようものなら,どうにも納まりがつかなくなる.
先日はグルメとは関係ない番組を見ていたが,ゲストゆかりの店として水炊きの店とちゃんこ鍋の店が紹介されていた.これを見てしまってから,もう食べたくて仕方がない.
5年前,博多に出張で行った時に水炊きを食べたが,この味が忘れられない.それまでは水炊きというのはどちらかというとつまらない食べ物だという認識しかなかったのだが,博多に行ってその考えが根底から覆された.具を食べる前に,湯のみのようなものに少しだけ鍋から汁をすくって飲むのだが,これがコクがあって信じられないほど旨い.目からうろこ,だった.すっかり味をしめて東京の高級店でも食べたことがあるが,確かに旨いことは旨かったが,博多の汚い店で食べたものに勝るとは思えなかった.
ちゃんこ鍋も捨てがたい.以前,ラボのみんなと一緒に広尾の「玉海力」に行ったが,これも旨かった.この時期食べたら堪えられないだろう.
こらえ性がないので,早く仕事を終えて,クーリッジコーナーで寄り道をし,前から気になっていた日本食レストラン「竹島」ですき焼きを注文した.
そもそもメニューのすき焼きの欄にbeefだのchickenだの書いてあったので不穏な予感はあったのだが,出てきたものはすき焼きともチャプチェともつかぬ,不思議な食べ物だった.店主はどうやら韓国人らしい.韓国人なのに何故「竹島」なる名前で日本食レストランをやっているのかがよく分からない.店員さんとは英語で話していたが,一人は日本人であることが途中で分かったので,後は日本語で話した.
決して不味くはなかったのだが,なんとも消化不良なまま店を出た.
* 老人のわたしなどが意地汚く食い気を発散しているのは見苦しいが、若い「雄」クンらのこういう記事は、いっそ颯爽としている。いじゃないか、いじゃないかと思う。水炊きか。そういえば新門前の父親もなにかの折りには「水炊き」を提唱して「かしわ」「かしわ」と口にした。
「おとうちゃん かしわとにわとりと、ちがうのん」
「うまいのがかしわや。おいしいのがにわとりや」
「うまいもおいしいもおんなじやん」
「そや。かしわもにわとりもおんなじや」
「…」
* 新宿の「玄海」に久しく行かない。行きたくなった。食べて早死にするか。食べずに長生きするか。何のために長生きの必要があろう。
2007 2・28 65
* なんて佳いんだろう、こういうお嫁さん。こういう娘さん。蘭の花よりかわいらしい。
* B&Aが数時間かけて調整し、機械環境がなんだか凄いほど変わった。当分の間、真新しい機械に立ち向かうほどの気持ちで慣れて行かねばならない。ま、最低限の仕事が出来ればよろしく、急がない。どうか不具合が続出しないことを願う。
ホームページが維持できて、ワープロ機能が間違いなく作用してくれればほぼ足る。
* すこぶる疲労した。B&Aが仕事をしている間に、そばで湖の本の校正をしていた。今夜も早寝したい。
2007 2・28 65
* 昨日の、非常な長時間にわたるB&A高野氏の機械の調整は、まだまだ成功していなかった。一つ一つを明け方早くから点検し箇条書きにして行くと、問題点が次から次へ浮かび上がった。午後、さらに直してもらうことに。
早く機械は平生に戻しておいて、不安なく半端な気分をのこさずに、機械から半離れして行きたい。
* 午後三時間ちかく、高野氏、機械を調整していってくれた。それでもまだ明らかに仕残しがある。帰したあとで気づくところがドジな話。ま、読み出せない保存メールには一定の拡張子を付すれば大方は助かるらしい。しかし何でそんなことになるんだ。
このNECのXPを「本機」と呼び、従来の機械のもとのハードディスクに、新たに大容量のハードディスクを追加しMEを装備した方を、もとどおり「親機」とは呼んでいるが、その親機で「ホームページ」作業ができるのかどうか、あやしい。できそうにない。ネットスケープもコンポーザも更新用のFFFTPも入っていないのだから。
ま、いい。本機を遣えば済む話。業者に深入りはよそう。
数百あった電子メール「アドレス」が、今までのように使えなくなった。建日子のも、ペンの事務局のも。向こうから来たのを保存してまた新たに増やして行くことになる。他人様のアドレスなんて、正確には一つも記憶していない。
2007 3・1 66
* 機械は好調かといえば、さにあらずきわめて「不安定」と答えねばならない。ま、成るようになる。きりのないことだ。
2007 3・2 66
* 機械は、わたしの椅子からいうと鍵の手北向きにモニター付き布谷君作の旧親機があり、西向きに今遣っているXPのノートパソコンと98の古いノートパソコンが二段に置いてある。
二台の機械の奥は、作りつけのがっしりした本棚。鏡花全集や森銑三作品集や、唐詩選や老・荘、古文真宝などの漢籍や日本史大事典六巻やキーンさんの文学史全巻、古寺巡礼京都全巻、そして平家や徒然草や蕪村・秋成などの背文字が、ざあっと見回せる。本は書庫にも東・西二軒の中にも充満し、おまけに湖の本の在庫。わたしたち夫婦は「本の家」に間借りさせて貰っているのと同じだ。
2007 3・3 66
☆ Blue Fin 雄 ハーバード
今朝は,こちらに来て一番と言ってよい程の大雨だった.気温が高くなって雨だったからまだ良かったが,これが雪だったらラボには行けなかったかもしれない.実際,内陸部では吹雪のような天候だった場所もあったようだ.朝のニュースで映像だけ見た.雨だけでなく風も強い.
今日は6時にラボを出て,シュシェンとライアンと3人でポータースクエアにある日本食レストランBlue Finに行って来た.本当は技術員のサラも行くはずだったが,いざ行くという時間になったら姿が見えず,結局3人となった.知らない間にシュシェンが色々な人に声をかけていたらしく,色々な人から「今日はいけなくてごめん」と言われて驚く.一番のお気に入りのアイリーンにも急に声をかけられてびっくりした.「今日は友達の誕生パーティーなので,行けなくてごめんなさい.次は必ず行きましょう」と言われて,年甲斐もなくちょっと顔が赤くなりそうになった.
Blue Finはボストンでも人気の高い日本食レストランで,着いてみれば20分待ちとのこと.順番だけ取っておいて,向かいの日本食材店Kotobukiyaに入り,色々と品物を物色する.ライアンは餅が大好きなのだそうで,雪見だいふくを見て興奮していた.
店に戻って待っていると,店内のテレビを見て,シュシェンが「あ,松坂が出てる.今日は登板のはずだけど,もう投げちゃったのかなあ」といって,携帯電話で友人に確認しだした.「もう投げちゃったらしくて,今はインタビューを受けているらしいよ.もう一度録画で流さないかなあ」と興奮している.僕よりシュシェンの方がよほど日本通だ.
ようやく順番が回ってきて,席へ案内される.僕とシュシェンは寄せ鍋と寿司2貫,ライアンは巻き寿司と海草サラダを注文した.寄せ鍋の味は,日本でコンビニなどで売っているアルミホイルに入った一人用鍋と大差ない.先日訪れた「竹島」のすき焼き同様,スープの中に少量の具が泳いでいるといった感じだった.やはり鍋は土鍋に野菜や豆腐,肉か魚などを豪快に入れて食べたい.追加で頼んだ寿司はホタテと鮪だったが,鮪は旨かった.
料理の味は先日の店と大差ないのかもしれないが,3人で食べに行ったせいか旨く感じた.店員さんの態度も思ったより悪くなかった.2人とは店を出てすぐに別れ,僕だけKotobukiyaで食料を買い,地下鉄で帰宅.
* 手の届くところに「雄」君いるみたいだ。松阪投手がいる都会に彼もいるんだなと思う。フーン。なんとなく感じ入る。
2007 3・3 66
☆ サービス 雄 ハーバード ボストン
隣のラボに、マイクというポスドクがいる.
笑顔がさわやかで,物まねが上手い.以前ラボに所属していて僕も知っている日本人の方の物まねも絶品だ.面白くて愛想の良い奴だと思っていたが,彼は今,幸せの絶頂にいるようだ.
まず,もうすぐパパになる.そして,少し前にインタビューを受けた大学で独立してラボを持つことになったらしい.さらに現在,非常に載せるのが難しい専門雑誌に論文を投稿していて,ほぼ通りそうだとのこと.同じく隣のラボのポスドクであるグレッグが主催して,お祝いのパーティーを今日やるとのことだったので,是非とも参加したかったのだが,あいにく今週は疲れきってしまったので,申し訳ないが遠慮させて頂いた.
昼近くまで寝て、大分疲れが取れた.昼前に車で家を出て,中国系スーパー超級市場へ向かう.付近は交通の激しい場所なので,昨日からちょっと不安だったが,意外とスムーズにたどり着くことができた.バスだと結構時間がかかる上にかなりの距離を歩くのだが,車だとあっという間.駐車場が満車だったが,2,3周しているうちにたまたま空いた場所があったので,急いで車を入れる.
早めの昼食をスーパー内のイートインスペースで摂る.
マイミクの「い」さんの日記で、フォーの話を聞いてからムショウに食べたかった.今日の昼食はフォーにしようと昨日から決めていた.ここのは量も多いし麺もコシがあって,スープも旨い.ハラペーニョを入れすぎて,食べ終える頃には汗だくになってしまったが,いやあ旨かった.満足した.食べ終えてから食材を大量に買い込む.
車を出して,向かいのトヨタの代理店に行く.今回車で来たのは,実はここに行くのが目的だった.僕の車は中古車だが,ナンバープレートを取り付けるボルトが古くなりすぎて,一つのボルトの頭の部分が壊れてしまっていていた.仕方なく片方だけで停めていたが,これではいつ外れてしまってもおかしくない.
そこで新しいボルトを手に入れるべくネットで調べていたら,たまたま超級市場の真向かいに代理店があることが分かった.そこで,昨日電話をかけたら, CKと名乗る担当者が実に感じ良く,こちらの拙い英語の説明に気長に付き合ってくれ,良く分からないけれどもとりあえず明日車を持ってきてくれないか,ということだった.
店内に入り,CKという人を呼んで欲しいというと,しばらくしてあごひげを生やしスーツを着た,ダンディな初老の男性がやってきた.車を見せると事情が分かったらしい.車にしっかりと付いたままになっていた古いボルトをペンチで外してくれ,新しいボルトでナンバープレートを取り付けてくれた.ボルトの代金を聞くと,要らないという.小さなことかもしれないが,なんだか妙に嬉しかった.何度も礼を行って店を後にした.
一旦荷物を置きに自宅に戻り,しばらくのんびりしてからクーリッジコーナーまで歩いて向かった.
家を出る際,ポストを開けると,日本のシティバンクからの手紙が来ていたのだが,この文面があまりに失礼なのでちょっと腹が立った.今までもこの銀行は慇懃無礼で碌でもない対応ばかりだったので,今更驚きはしないが,サービスというものを大きくはき違えていると思う.
僕は新生銀行も利用しているが,ここもシティバンクと近いものを感じる.
もともと新生銀行は長銀が破綻した後に外資系の銀行が買い取って「新生」した銀行だ,店舗を増やさずにインターネットやコンビニATMを利用することで経費を減らし,手数料無料という当時としては画期的なサービスを始めたのだが,ここ最近店舗を増やしてきた.
しかし,店舗は妙に小洒落た造りの店内でありながら,店員の応対が全く要領を得ない.サービスに全く柔軟性がないし,非常に慇懃無礼だ.行く度に不快な思いをする.
新生銀行は従業員の応対は不快なものの電話やインターネットではまだマシだが,シティバンクはそのどちらもどうしようもない.
アメリカに来て、銀行には度か足を運んだ。店内の雰囲気はシティバンクや新生銀行とよく似ているが,サービスの質はアメリカの方が圧倒的に上.意外かもしれないが,アメリカでもしっかりした人はしっかりしているし,サービスも非常に素晴らしい.
シティバンクや新生銀行は外資系銀行だが,形だけでなくサービスのあり方についてはき違えていると思う.形だけでなくサービスの本質についても,シティバンクや新生銀行は少しは深く学んで欲しい.
クーリッジコーナーでは新しいスニーカーを2足買い,近くのすし屋Mr.Sushiに入った.どうも昨日2貫だけ食べた寿司が後を引いてしまって,もっと沢山食べたくなったのだ.名前は怪しげだが,ここの寿司はなかなか美味しかった.
こちらの日本食レストランは、寿司以外のものを食べると不満がつのるが,寿司に関しては日本と大差ない気がする.少なくとも僕の舌では充分満足できる.店員のサービスもとても良い.満足した.帰りにTrader Joe’sと日系食材店で買い物をして帰宅.
2007 3・4 66
* 業者を頼んでの機械環境の復旧と改良とは、都合四五回家まできて貰ったけれど、どこか作業に締まりなく、ピリオッドどころか、コンマもまだ打てず、あちこちに仕残しがある。
以前、布谷君や林君は二台のラン機械の「連携」に、たいそう便利な相互コンテンツ移動の工夫をしてくれ、安心してバックアップに活用できたが、それを使うとほぼどんな内容も自在に両機を移動できた。
「もっと簡単です」と今度B&Aが設定してくれたのは、わずかに一太郎とホームページだけの相互移送だが、もうまく行かず、機械からはエラー警告がでる。そもそも旧親機ででもホームページ作業は出来ますと言われても、ホームペジを設営している肝腎のネットスケープもその中のコンポーザも旧親機に入っていない。このアプリケーションはもう市販されていない。機械の奥に隠れていた大昔の古いネットスケープを掘り起こしてインストールし、それをさらにバージョンアップして、とにかくもコンポザ環境は自力で用意したけれど、まだそこへ現在のホームページを移植は出来ていない。だがまだ転送用のFFFTPの用意もない。
業者に来て貰えば「設定」一つ一つについて何千円ないし一万円余が請求される。持参のハーデディスクやOSなども追加して請求される。自前でモニターやMOドライヴなどの外付け器具も買い足したし、新しい機械を買えるほど資金を入れた。もうせめて安定したコンマぐらい打ちたい。
* ほっこり疲れているのが分かる。まだ十時だが、階下におりる。
2007 3・4 66
* 「mixi」では、心静かに、思いあい考えあえる人たちを見つけようと心している。話すことばも書くことばも大切に、思いを編み考えを績み紡いでいる人たちが、その気でさがしていると何人もみつかる。わたしはしばらく時をかけてその人の日記を読み、読み続けて、必要で可能でそれが楽しそうなら、そういう人とマイミクになろうとしている。
美、藝術、文化、民俗、詩歌、信仰、政治、家、そして自然と人間。歴史。
それらへの思いを、マインドでではなく、言葉に多く凭りかからず、分別くさくなく、こまやかな体験をとおして聴かせてくれる人たち。
2007 3・5 66
* 朝になると、滝のおちるように「SPAM」メールを削除。いやはや。
2007 3・5 66
☆ 1987 雄 ハーバード
この週末は比較的穏やかな天気で,気温も東京と大して変わらないようだったが,今日は一転して寒くなった.帽子と手袋の完全防備で外に出た.昼には雪もちらつき,時折激しく舞っていたが,あっという間に晴れ上がり,跡形もなく消えてしまった.不思議な雪だった.
実験の合間にメールチェックして,思わず「あっ」と声を上げてしまった.ボストン交響楽団からのメールで,今週末予定されていたコンサートをマルタ・アルゲリッチがキャンセルしたとのこと.ショックだ.
前にも書いたが,マルタ・アルゲリッチは,現在存命中のピアニストの中で,僕が最も生で演奏を聴いてみたいピアニストだ.だから,今週末のコンサートは非常に楽しみだったのだが,期待が大きかっただけに残念.代役はYuja Wangというピアニストだそうだが,あいにく僕は知らない.ボストン交響楽団との共演も今回が初めてだという.
ホームページ(http://www.yujawang.com/)によれば,なんと1987年生まれだという.今年二十歳になる,北京出身の女流ピアニストらしい.それにしても,2003年にヨーロッパデビューを果たして以来,昨年はニューヨークフィルやシカゴフィルなど,アメリカを代表するオーケストラとの共演を果たしている.まさに神童ということか.昨年はN響とも共演しているそうだから,日本のクラシックファンの方にはご存知の方もあるかもしれない.
アルゲリッチの生演奏が聴けないのは残念だが,この新星の演奏が聴けるというのは,考えようによっては楽しいかもしれない.
今,彼女のホームページを見たら,過去の演奏が試聴できるコーナー(Listening room)があった.ラヴェルの「水の戯れ(Jeux d’eau)」も載せられている.Youtubeにはアルゲリッチの演奏やリヒテルの演奏も載っていた.これらと比較してみるとなかなか面白い.ちなみに,アルゲリッチの演奏はhttp://www.youtube.com/watch?v=lWeAbgA5tS4,リヒテルの演奏はhttp: //www.youtube.com/watch?v=cumoVX7x3Zoでそれぞれ聴く事ができる.
ラボからの帰りは一層気温が下がり,目の前でバスが行ってしまったせいもあり,地下鉄で帰宅した.ボストンの地下鉄は車内がとにかく汚い.新聞などが床に散乱している.車両も新しいとはいえない.グリーンラインの最後尾に乗ったが,ふと上を見上げると’Kinki Japan’と書いてあるマークを見つけた.グリーンラインの車両は日本の近畿鉄道の古い車両を譲りうけたものなのだ.それは知っていたが,そのマークの中に「1987」の文字を見つけた.
Yuja Wangはまだまだ若いが,この車両はとても同じ年に作られたとは思えないほど古い.
* おしまいの一行で締めくくられた。
2007 3・6 66
* 会議後、ひとり和食の「鈴木」に寄り、ミニ懐石で少し飲みながら、一気に次巻の「校正」を進めてきた。
委員会のまえに「ビッグカメラ」で先日のと同じMOドライヴを買っておいたのを、帰宅後に旧親機に接続してみた。なかなかうまくいかず諦めかけていたが、なんだか、なんとか成っていたようでもあって、画面を引っ張り出せた。旧親機と新本機とのLANがいっこううまくいっていないだけに、両方にMOが使えるようになったのは、手間のやや面倒なのを辛抱すれば、相互に大量バックアップして行けるわけで、3.5インチディスクもこまめに併用できるわけで、やや独力で環境を部厚に出来たような気がする。すこし一段落した気もする。
2007 3・7 66
* 「湖の本」の初校を大略手早く終えて、印刷所に送り返した。あとがきと表紙の入稿が残っている、が。土日の二日を跨ぎたくなく、一気に集中。自転車で宅急便を出しに行ったら間一髪間に合ったのもよかった。
録画しておいた『トラ・トラ・トラ』を観た。懐かしい顔が大勢。ひときわ田村高廣が、また三橋達也が。山村聡が、特殊撮影の完璧なのに驚嘆。
機械は十分ではないが、なんとか自力で少しずつよくしたい。旧親機と新本機とにMOドライヴが稼働したのは心強い。
旧親機が音声を出してくれない。「ME」をOSとして一万円支払い親機に入れたというのに、音声が出ないというのが分からない。「サウンドカード」を買ってこなくてはという話だった。さしこめば簡単なモノですという話で、ではと有楽町で買って帰ったら、組み立て機械をほどいて中で接続しなければ役に立たない。そんな真似は出来ないので、断念した。
なんとか旧親機でもホームページの書き込み転送が出来るようでありたい。コンポーザも用意したし、最新のホームページ内容もみな親機にコピーしたし、FFFTPも用意した。その三者が一つのトータルとして稼働してくれない限り、バラバラのままだ。
* メールアドレスがみな行方不明になったため、いまいちばん智慧を借りたいイチロー君とも、連絡がとれない。布谷君はもう海外青年協力隊に出かけていったはずだ。上尾君らとも、子松君とも会いたいのに、うまく巡り合わせがつかずにいる。
2007 3・8 66
* あまり眠く、音楽を鳴らしたまま機械の前で眠りこけていた。このまま引き下がるのも癪で、機械の奥から碁敵を引っ張り出し、一局、相手を盤上全滅。この機械の碁敵は十段階ほどにレベルが分けてあり、最初「最強」高レベルにいきなり立ち向かって初めて機械に負けた。これは下から勝ち上がってこいということかと、レベル一と二とを先ず全滅させた。次の機会にはレベル三を引っ張り出す。勝負事が好きなのではない。今のは目覚まし用に。もっとも、もう寝ていい時間。
2007 3・8 66
☆ 拝金文化 雄 ハーバード
前から思っていたのだが,アメリカには敬老の精神というものは,どうやらなさそうだ.いや,このラボには無いだけかもしれない.とにかく,年齢が上だから目上の人として扱おうという気持ちは微塵も無いらしい.
隣の席のデイヴィッドは中国系のまだ学部生だが,挨拶もゾンザイだし,実験の合間に居室に戻ると,自分の椅子に荷物を置き,僕の椅子に勝手に座って作業をし,僕が入ってきても平然としていたりする.
デイヴィッドに限らず,コーリーも僕に対しては明らかに目上とは考えておらず,対等か,場合によっては向こうが上といった感じだ.
僕だけが軽んじられているという訳ではなく,他のポスドクと学生を見ていても,その傾向は変わらないと思う.JCなどは大分歳上のはずだが,誰もそんなことは構わず接しているように見える.これにはJCの人柄もあるのかもしれないが.
僕が学部生の頃は,ポスドクや博士課程の学生といったらラボの長老であって,目上の人として接するのが当たり前だった.最近は日本でも変わりつつあり,以前僕が所属していたラボでも,大学院生がポスドクや助手にタメ口をきいたりすることも多かったので,徐々に変わりつつあるのかもしれない.それでもまだ,腹の中はどうであれ,年長の人を立てるという文化が、日本には残っていると思う.
しかし不思議なのは,そうやって年長者を敬う習慣が無いにも関わらず,バスや電車に乗っていると,足元がおぼつかないようなご老人が乗ろうとする時には,皆積極的に席を譲ったり荷物を持ってあげたりする.狸寝入りをする人間は日本の方が圧倒的に多い.敬老の精神が無いのに,こういう風に接するのはどういう訳なのだろう.
今日は大学院生のライアンが僕にちょっかいを出すようなしぐさをふざけてしたので,僕もふざけて「おいおい,もうちょっと俺を敬えよ」というと,「ここはアメリカだから年上だからといって丁重に扱う習慣はないんだよ.cionaは慣れないだろうけど,直に慣れるよ」という.
ちょうど良い機会なので,先ほどの疑問をぶつけてみた.ライアンは「一応,老人や身体の不自由な人に対してはそのように振舞う習慣があるんだけど,皆,腹の中では「使えない人」と思っているよ」という.なるほど,建前上は丁寧に接するが,腹の中は違うということか.
続けてライアンは、「ポスドクと学生も、そんなに変わらない.年齢が上だろうが下だろうが対等に接するというのが、この国のやり方なんだ.唯一違うのは、PI(研究室主宰者)になったときで,PIに対してはたとえ若くても,皆丁重に接するよ.結局は金の問題なんだよ.PIになると急に給料が増えるでしょ.この国では結局のところ価値基準は、金なんだよ,嫌なことだけど」という.
確かにアメリカでは、難関大学は概ね私立大学であり,ハーバードでもMITでも、日本では考えられないような法外な学費を払わねばならない.従って有名私立大学出身であるということは,そのまま親が金持ちであることを意味している.勿論,種々の奨学金もあって,優秀だが貧しい人にも門戸は開かれているだろうが,多くの学生は裕福な家庭の出身だろうと思う.
したがって,日本と違ってアメリカでは学歴イコール裕福という単純明解な図式があるのだろう.
日本も学歴が偏重されるのは,将来有名企業に就職して生活が安定するから,という理由が大きいのだろうが,一方で「頭が良い」ということに対して或る程度の尊敬が払われている部分もあると思う.
金で全てを判断するというのは、極めて単純明解である.あまりに単純明解すぎて,僕など、ついていけない.少なくともポスドクだからといってぞんざいに扱われるのは良い気はしないが,まあ仕方が無い.
* 興味在るところへ「雄」くん、踏み込んできた。これに、やはり海外に学んでいるらしい人の「コメント」があり、「アメリカは結局エリート家族はエリートになるべく、貧乏に生まれ育ったら貧乏から抜け出せない、限りなく一握りの人たちがアメリカンドリームをつかんだときに『ほらアメリカだ』ともてはやされているように見えます」と感想を結んでいる。こういう「アメリカ」にかぶれた、イカレた小泉純一郎タイプの政治家が増えてきて、「格差」容認の環境が上から押しつけられ始めているのが、今の「日本」ではないのか。
そして、そういう「日本」に、こういう「日本」は根付いている。
2007 3・10 66
☆ 毛虫 桜
去年 毛虫にぼろぼろにされた椿の そのぼろぼろの葉・病葉・徒長枝を、脚立を持ち出し上からも覗き込むようにして、カット・カット・カット。
驚きました。去年の毛虫の死骸のほかに もう新しく卵の産み付けられた葉 なかには孵化しはじめた幼虫まであって・・・早すぎない ???
切りつめられ 裸同様になってしまったけれど 南無・・・元気に茂って頂戴よ。
☆ 鹿 瑛 e-OLD
天気図は寒いが「晴れ」と出ているので、富士山を見に、また「丹沢の大倉尾根」を歩いてきた。
午前中から雲が多くなり、昼間はついに富士は裾野の一部しか姿を見せてくれなかった。午前11:30に昼休みの場所を探し、登山道から一寸外れた小高い丘のようなところで昼飯にした。肌着はびっしょりと汗で、寒い。着替える。
このあたりは「鹿」の縄張りでありました。親子の鹿がしきりと草を食んでいる。数年まえから鹿の害が声高にいわれており、ブナの芽を食い荒らすらしい。「柵」をしているところもあるが効果はなかろう。
僕がクロワサンを口に入れてもぐもぐしていると、鹿がじっーと僕の口元を見ている。何か餌を与えたい衝動に駆られたが止めた、思いとどまる。ちょっと人間の通るみちを外せば動物達の住みかだが、あたりは都会の山場である。よく生きて子供を生んでいるなあと頭が下がった。
「遠雷」のような音が響いていたが、富士山麓の演習の音であることはわかる。気ままな写生をして下山とする。あらぬことか粉雪が天から舞い落ちてくるではないか。段々霏々として舞う雪の雪片、充実感に満たされる。
水墨画の写真は「箱根の金時山」です。伊豆半島の太室山、天城高原と真鶴半島の尖端の「三ツ石」と手前は小田原の街点景、そして夕陽の富士山であります。
全て世はこともなし。と歌いたい一日でした。
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* 地球には、それはそれは、いろんな人たちが載っている。平等に載っていたいものだ。
☆ 突然のメール失礼致します 治 若い父方従弟
秦 恒平様
昨夜 「mixi」のサイトをうろうろと眺め漂っておりましたら、偶然、サイトにたどり着きました。
お会いしたのは25年程前になりますでしょうか、私の上石神井のアパートに訪ねて来た母が突然 秦様に会いに行きたいと言い出し、姉と私を連れ 連絡もせずに保谷のお宅に伺った事を記憶しております。
その母も 一昨年 癌を患い亡くなりました。来月には三回忌を迎えます。父の後を追うようにして 逝ってしまいました。もっと孫たちと過ごす時間を持って欲しかった、逝かせてしまった思いがのこります。
母は晩年 白内障にて随分視力を落とし、その為 長らく送って頂いていた「湖の本」もお断りしたようですが そのたくさんの本を、今また私が読ませていただいております
私は 昨秋 長く勤めた会社とともにソフトウエア技術者の仕事を辞め 父母の残してくれた家屋と地縁を使わせて貰って 新たな仕事に就こうとしております。
建日子さんの著作を書店で見つけて読み ご活躍を知り、姉や 従姉妹ともども、TVや著作を楽しませていただいております(関西におりますのでなかなか舞台を拝見する機会がありません)。
さて 昨夜 恒平様がサイトに書かれていた ご自身の近況に関わる事などを読ませて頂き 大変驚きました。
母と伺った後も 私のひょんな行動から お宅に招きいただけることになり、美味しいすき焼きを皆様と一緒にごちそうになりました。
そのときの恒平様がお子様達にしめされるこまやかな愛情と暖かい家庭の雰囲気が、今も、しっかりと記憶に残っております。
「mixi」の私のサイトへ、「足跡」から辿っていただいたのか、訪れていただきありがとうございます
突然のとりとめもないメール失礼致しました。
* 「mixi」について「足あと」を辿って山城加茂の従弟だなとすぐ分かった。若い父方叔母が突如我が家にあらわれた日の驚きは憶えている。
わたしには、実の父方に、たしか七人の伯母叔父叔母があり、ほとんど知らない。自然いとこも大勢らしいが、おおかた知らない。実の母方にも二人の伯母があったらしく、いとこも何人もいるのだが、ほとんど誰とも会ったことがない。育ての母方にも、一人の伯父と大勢の伯母がいたらしいが、伯父しか知らない。自然いとこも大勢らしいが、伯父の娘のひとりとだけ、今、メールのやりとりがある。甥や姪は数え切れないほどいるはずだが、ほとんどつきあいがない。わたしが、独特の「身内」観を育てたのはあまりにも当たり前の成り行きだった。
2007 3・10 66
* 例の SPAM MAIL を削除して、ナニも残らない。そういう朝は「マイミク」日記から、興味に触れてくる文章を拾い読む。生き生きと刺激してくれる一人は、ハーバード大で研究生活に入った「雄」クン。
☆ インパクトファクターとアメリカ文化 ボストン 雄
先日、アメリカには敬老の精神がなく,持っている「金」の多寡で人の値打ちが決まりやすいと書いた.今日はこれと似たことについて書きたい.長くなりすぎるので,明日にも「続き」を書くつもり.さすがに湖さんは鋭くて,ご自身のホームページで,僕の結論を先回りして書かれてしまったが.
学問の世界でも,インパクトファクターというものがある.「その雑誌に載った論文が、平均して何回引用されるか」ということを指標に,各学術雑誌を評価する数値で,アメリカのThomson Scientific社という会社が毎年発表している.生命科学の分野では,Nature, Science, Cell が「トップ3」として君臨しており,それに続く形で色々な雑誌が並ぶ.中にはインパクトファクターが「1」を切る雑誌もある.すなわち,それらの雑誌に論文を掲載しても,一度も論文が引用されないということが大いにありうる訳である.
インパクトファクターは研究者にとっては非常に大事な数値であって,なるべくならば,インパクトファクターの高い雑誌に論文を掲載したいと,研究者達は考えている.よく引用される論文は,様々な研究の基盤になっていると考えられるだろうし,せっかく書いた論文なのだから,多くの人に読まれ,参考にして欲しいと思うのは当然である.
しかし,実際にはもっと現実的な理由から,インパクトファクターは重要な意味合いを持っている.
「ポスドク」ならば,インパクトファクターの高い雑誌に多くの論文を発表すれば「PI」になれるチャンスがぐっと高まる.既にPIになった人でも,多額の研究費を獲得するためには,コンスタントにインパクトファクターの高い雑誌に論文を出さなければならない.
しかしながら,インパクトファクターの低い雑誌に載った論文でも,その後の研究の流れで大いに価値が高まり,何度も引用される論文というものも、現に存在する.それに,インパクトファクターの値は,その学問の分野の「勢い」のようなものを大いに反映しているので,研究人口のあまり多くない分野であれば,なかなか引用されなかったりする.
そこで,僕が日本に居た頃は,確かにインパクトファクターの高い雑誌に論文を掲載することは大事だし,なるべくそのように努力はするけれども,インパクトファクターの低い雑誌でも、価値のある論文はあると教わってきた.
前置きが長くなったが,本題に入りたい.
今のラボのメンバーを見ていると,ボス以外の人々のもっぱらの関心はインパクトファクターにあるように思われる.
僕がラボに来て間もない頃,JC、が僕にどうしてこのラボを選んだのかと質問してきた.僕は、「このテーマの研究がどうしてもやりたくて,それをやれそうな研究室を探した」と答えたのだが,JCにはピンと来ないようだった.
そこでJCに、「どうしてこのラボを選んだの?」と聞き返すと、JCは「インパクトファクターの高い雑誌に論文が載せられそうだからだよ」と答えてきた. さらに,聞いてみた。最近JCが投稿しようとしている論文は、医学寄りの内容なので,「JCは医学部出身なの?」と。
「いや違うよ」と答えるので,
「ああいう論文内容の研究をしているということは,医学的な興味があるからなのかな,と思ってね」と、僕。するとJCは悪びれず、
「いや,そうじゃないよ.だっていい雑誌に論文が載りそうじゃない? それだけだよ」と。
確かにいい雑誌に論文が載れば「PI」になりやすいし,給料も上がる.極めて単純明快だ.
しかし,学問って,そういうものだっただろうか? 正に、本末転倒なのではないのか?
JCに限らず,コーリーも各雑誌のインパクトファクターを,実に正確に,良く記憶している.あの雑誌はインパクトファクターはいくつだから「割に合う」とか,あの雑誌のインパクトファクターは低いけれども,この論文が出せると「グラント(研究費,助成金)にアプライできる」などということを、しょっちゅう話している.
僕の偏見かもしれないが,こういう物の考え方は「実にアメリカ的」な気がする.「数値化」することで,誰が見ても分かりやすい価値基準を作り上げる.実に即物的だ.そしてこの「分かり易すぎる価値基準」が,日本を,世界を,席巻しつつあるように思う.
僕が知っている或る研究室では,「インパクトファクターの合計がいくつ以上か」ということが博士号取得の必要条件となっていた.僕は当時,これを聞いて非常にクレイジーというか,偏差値世代の若い教授らしい発想だなと思ったのだが,アメリカではそれほどクレイジーな考え方でもないのかもしれない.
明日は,こういう即物的なアメリカ文化と日本との関係を書いて見たいと思う.
今日はこれから,ボストン交響楽団のコンサートに行ってくる.アルゲリッチの生演奏が聴けないのは残念だが,コンサートそのものは楽しみだ.
* 「アメリカ」という名辞を一度も口にせず過ごせる日が、年に一日も無い。それが日本の知識人や企業人の決まり切った日常だろう。だがその口にする「アメリカ」のなかみは、ま、おおかた符号か記号に類している。アメリカの主導した「グローバリゼーション」についても、語の表面の意味だけに反応して、とても良いこと素晴らしいことのように受け入れて片棒をかつぎたがるが、ひとことでいえば、いろんな豊かな食生活・食文化を持った各国に「コカコーラ」と「フアストフード」で上陸し、経済効果を口土産に席捲してしまう、実に「経済侵略効果」だけが意図の、味気ない「世界一律化」の勝手な国策に過ぎないというふうに理解すれば、だれが素晴らしいことと思えるだろう。しかし、それこそがアメリカによる「グローバリゼーション」の正体ではないか。
アメリカ方の価値観に、手もなく精神的にもイカレテしまっている代議士が、いかに日本の国会に多そうであるか、気がつかないだろうか。しかもわるいことに自他共に有能であるかに思っている若手に、そういう薄い軽い精神の持ち主が多そうなのが怖い。
* そもそも今本気で、アメリカは日本の同盟国であると信頼しきっている日本人が、国会の外の世間に、どれほどいるだろう。少なくもアメリカ人で、「日本」は利用するに「都合の良い国」ち思っている者が無数にいても、「国の運命や利害をともに出来る同盟国」と考えているような暢気な人は、ブッシュ大統領をはじめとし、おそらく一人もいない、建前ですらそんなことは胸の内に持ってはいまい。
今朝も安倍総理はテレビで「同盟国アメリカ」との関係を大事に思うと繰り返していたが、それは切なる願望として事実だろうが、其処どまり、であることにも実は情けなく気づいているのではないか。
* わたしの此の「日録」の読者、わたしの「著作」の読者なら、記憶していてくださる方も有ろう、わたしは外交とは、ことに「大国の外交」とは、「悪意の算術」そのものだと何十度繰り返し書いてきたことか。
大国と自認している国の誠意や親切が、いかに脆い紙衣に過ぎないかは歴史が明らかに繰り返し証明している。そういう基本の歴史的教訓にまなびつつ、わたしは、この日録「闇に言い置く」を書き始めて、ほぼ八、九年。
それほどの昔から、わたしははっきり繰り返し予想し懸念し続けてきた。すなわち、朝鮮半島、台湾を(ついには沖縄も支配下に)前衛に、極東「日本」を太平洋を背に完全包囲し強烈に圧迫して来るであろう「中国の覇権」意志、最終的にはその「日本」を中国への取引材料に自国利益を勘定高く計算する「アメリカの世界戦略」、そしてついには日本列島はついについに中国覇権の最良のリゾート地として、また工場として征服されてしまうであろう、と。
少なくもその懼れをバネに、よほどの外交と政治の舵を取らない限り、まさかまさかのジリ貧のうちに「日本丸」は海の藻屑と崩壊沈没するだろう、と。
* 嗤う人はまだまだ多かろうが、現にもう極東での「日本の孤立」を、普通に当たり前に口にしている連中は、マスコミに数え切れないではないか。
だが、つい先頃までは、信じられない話だが、そうではなかった。その背景に「日米同盟」という決して金に兌換されない紙屑並みの相互依頼心がバーチャルに鎮座していた。ああ、それこそを嗤うべし。
* では日本は今どうすればいいのか。わたしにその名案があるわけでない。どのような案を、策を、用いるにせよ国民にほぼ一致の危機感と、立ち向かう政治家に、宰相・大臣に、聡明な大勇猛心が、迂遠なようでも人間愛が、なければお話にならないし、そういう点に希望をもつには、今の小泉や安倍のタイプはサマにもならない。
そもそも安倍総理の理想とはナニぞや。あの岸信介を尊敬してその憲法改正の遺志を継ぐのだと。
岸信介がなにものであったか。国民の全てに悲惨と苦悶を強いた戦時経済の酷薄な謀略者だったではないか。あの戦時内閣の戦犯閣僚たる行跡から、もう一度も二度もわれわれは安倍総理の顔をしっかと睨みつつ彼の祖父のこと思い起こさねば。
「岸を倒せ」の国民的な叫びの前に倒された岸総理が幻想したのは、永世の日米安全保障条約」であったが、その名の下にいかに「アメリカ」は背信と高慢と強欲を繰り返し、引きずられて日本政府がどれほど繰り返し国民を愚弄するウソを塗り重ねてきたか、われわれは忘れたわけではない。
一にも二にも「アメリカ」依存の幻影に過ぎない国策を国民に押し被せておいて、今日の極東の孤立への道をつけたのが、平和憲法を憎悪していたであろう戦犯宰相の岸信介であった。安倍総理はその孫としてその祖父の「跡を継ぐ」と繰り返し公言してやまない。推して知らねばならない。
2007 3・11 66
☆ Yuja Wang 雄 ハーバード
日記は毎日1回の更新と決めているが,興奮が冷めぬうちにと思って,今日は2回更新することにした.
先ほどシンフォニーホールから戻ってきたが,Yuja Wangのピアノに全て持っていかれたといっても過言でない演奏会だった.
曲目はリムスキー=コルサコフのRussian Easter Overtureと、リムスキー=コルサコフの弟子に当たるストラヴィンスキーの交響曲ハ長調.休憩を挟んで、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番ということで,みなロシアプログラムだった.
アルゲリッチが演奏するはずだったのはベートーベンのピアノ協奏曲第一番だったが,キャンセルに伴い,演目も変わった.プログラムによればキャンセルの理由は病気とのことだ.心配である.
やはりキャンセルの影響か,空席が多い.僕の隣も空席だった.これは僕にとってラッキーだったが.
休憩前の演目に関しては,正直,もう帰ろうかと思ったほどだった.
ボストン交響楽団の演奏はいつもどおり素晴らしいし,指揮者のデュトワにも何の問題もない。だが,リムスキー=コルサコフの曲はまだしも,ストラヴィンスキーの交響曲はさっぱりだった.何故これが作品として上演に値するのか,良く理解できなかった.現代音楽に僕が疎いせいかもしれない.
休憩を挟んで,いよいよYuja Wangの登場.
浅葱色の美しいドレス姿で登場したYuja Wangは,いかにもアメリカ人が好みそうなタイプの美しいアジア女性で,まだ二十歳あどけなさが残っている.胸に手をあて,深々とお辞儀をしてから椅子に座った.
演奏に入ると,しかし、信じられない度胸の持ち主で,すっかりホールの人々をとりこにしてしまった.難癖をつけると,ちょっと耽溺しすぎるためにリズムにばらつきが生じ,オーケストラやデュトワは合わせづらそうだった.しかしこれは,この曲の抱える構造的な欠陥によるところも大きいと思うので,あまり責めることはできない.
実際のところ,僕はチャイコフスキーのピアノ協奏曲があまり好きではない.なんといっても第一楽章が長すぎる.しかも冗長という感じの長さであって,ピアノとオーケストラの連携も,いまひとつ決まりにくい.作曲直後に,ニコライ・ルービンシュタインに演奏を拒否されたのも,分からないでもない.
この構造上の欠陥を打破する方法は,「超スピード演奏」しか無いように思う.ホロヴィッツ(ピアノ)、トスカニーニ指揮、NBC交響楽団(RCA、 1941年5月、モノラル)の録音が残っているが,この演奏は,特に第3楽章は火がついたように熱狂的な演奏で,僕はこの演奏だけは好んで聴いている.
今日のYuja Wangの演奏は,ここまでとは言わないが,やはり第3楽章の盛り上げ方はすさまじかった.曲が終わると同時に,皆一斉に立ち上がって,歓声を上げて拍手したほどだ.僕もたまらず立ち上がって拍手した.
弾き終えたYuja Wangは,また元のあどけない少女に戻って,何度も深々と,胸に手を当ててお辞儀をしていた.オーケストラの人々も暖かい目で彼女を見ていた.
それにしても,すばらしい二十歳がいたものだ.演奏の造型が今ひとつではあるが,各所に見られるテクニックは並外れているし,ピアノの音もとても美しい.盛り上げる場所でのボルテージの高さは桁はずれている.
嫌らしいことを言うと,こういう中国からのスターが出る背景には,中国という巨大な「マーケット」を意識したものがあると思う.かつての小澤征爾が日本のマーケットをターゲットとして売り出されたように.
しかし,良い演奏さえすれば,そんなことは関係ない.是非これからも活躍してほしい.今後が楽しみなピアニストだった.
* 東工大の日々が嬉しかったのは、こういう学生がたくさんいて、思いがけず話題の広がることであった。それに対し、教授陣の内懐はかなり貧相で、カラオケ自慢が関の山かとよくガッカリした。卒業生の結婚式や披露宴に十回ほど招かれていったが、専攻学の先生をまったく招かない卒業生が何人もいた。驚いた。
2007 3・11 66
☆ 即物化する日本 ハーバード 雄
今日からdaylight savingになった.いわゆる「夏時間」で,時計の針を一時間だけ進める.夜型人間の僕には,朝起きるのが一時間早まったことになるので大変辛い.日本との時差の計算も,今までは十四時間であったが,今日から十三時間となった.従って,今まではこちらの時刻に「2」を加えて,午前と午後を入れ替えていたが,今日からは「1」を加えることとなる.慣れるまで少し時間がかかりそうだ.
さて,ここ最近の日記では,アメリカ文化は極めて即物的であり,「数値化」された,分かりやすいものが好まれるという話を書いた.
今日はこのことについて,最近僕が思うことを、もう少し詳しく書きたいと思う.
良く,戦後の日本をダメにしたものとして GHQの3S(Sports,Sex,Screen)政策が挙げられるが,「3S」こそ、まさに「アメリカ文化そのもの」ではないか,と最近僕は良く思う.つまりGHQは日本をスポイルしたかったのではなく,単に自国の文化を押し付けたかっただけなのではないか,と.
SportsとScreenは言うまでもないが,残りの一つに関して,最近特にそれを感じる.
JCやコーリーは盛んに、「ガールフレンドを作らないのか」と僕に言う.ラボの女性の名前を挙げては,彼女はどうだとか言う.以前にもこれと同じ話を書いて,僕の好みはアメリカ人には全く受け入れられなかったと書いたが,結局のところ,アメリカ人の好む女性というのは,スリーサイズで端的に分かるようなタイプであるらしい.
例としては,先日フロリダで変死したアンナ・ニコル・スミスのようなタイプといったらよいだろうか.あの事件はアメリカでは連日うんざりするほど放送されていた.彼女は「プレイボーイ」誌の元プレイメイトで,豊胸手術を受け,金持ちの老人とまんまと結婚し,莫大な遺産を引き継いだが,最近,謎の死を遂げた.彼女の遺産を誰が相続するのかという問題もあって世の関心を引いたのだろうが,豊胸手術を受けた後の彼女の写真は,まさに彼等が好みそうなタイプだと思う.そしてそうした好みはそのままそっくりセックスに結びついているようだ.異性のタイプはそのまま,いかに良いセックスができるかということであるらしい.
勿論,そんなことは女性の前では言わない.「愛」が大事だとアメリカ人は良く口にするし,実際,愛し合っていることを不必要なほど人前でもアピールする.しかし腹の中はそんなところであるように思う.どおりで離婚率が高いのも頷ける.
昔,「建前と本音」は日本の文化だと習った記憶があるが,あれは間違いだ.欧米人こそ,建前と本音を巧妙に使い分ける.
誤解の無いように書いておくが,僕は別にアメリカ文化を否定している訳ではない.そういう文化を持つ国があっても別に構わないし,そうした文化を好む人がいても,それはその人の嗜好であって,何ら責められるべきではない.それに,ここで書いているのはアメリカの文化の一面に過ぎず,評価できる点も決して少なくない.それらについては今後,折に触れて日記で書いていきたいと思う.
問題は,そういう文化が他国にもさかんに輸出されており,日本はその最有力候補になっているということだ.
日本には日本独自の,繊細で機微に富んだ文化があったと僕は思う.そして,それは守られるべき文化だったと思う.しかし,それが次第に姿を消しつつある.
先ほどアメリカではスリーサイズで女性の容姿を評価すると言ったが,最近の日本のテレビを見ている限り,決して他人のことは言えない.ホリエモンのように「全てのものは金で買える」と言うのは,まさにアメリカ文化の悪い部分をそっくりそのまま受け売りしているように見受けられるが,今の日本ならば,あながち外れてはいないかもしれない.
実際,多くの人がホリエモンに取り入り,時代の寵児としてもてはやした.今にして思えば,ホリエモンの有り様は「グレート・ギャッツビー」と重なるものがある.
全く個人的な意見だが,こういう即物的な文化の有り様は,食べ物一つをとっても良く分かる気がする.朝,鶏のえさのようなシリアルを食べ,昼食はサンドイッチかハンバーガー,ピザをダイエットコークで押し込む.そんなアメリカ人が即物的になることには,何の疑問も感じない.
同様に,コンビニ弁当をペットボトルのお茶で流し込み,夜中にカップラーメンをすする日本人が即物的になっても,それは致し方ないような気がする.さらに加えて,欧米の表面的な真似だけをして,「ゆとり教育」などという名のもとに若者をどんどん勉強から遠ざけてしまった.資源の無い日本にとって,人材こそが唯一の資源であり,そのために教育が果たしてきた役割は大きいというのに,だ.
最近良く感じるのは,アメリカに移る前も,ボストンに来てからも,多くの若者に生気が感じられない.目が死んでいる.彼等が聞いたら腹を立てるだろうが,すっかりスポイルされてしまっているように思う.アメリカに来て日本人と友達になりたいでしょう,と言う人もいるが,彼等と親しくなりたいとは,残念ながら僕には思えない.
それに,確かに平均的なアメリカ人は日本人と比べて働かないかもしれないが,アメリカのエリートは本当に働く.そのモチベーションが例え浅薄なものだとしても,実に良く働く.
騙されてはいけない.未だに「日本人はモノを作るにも,何にでも優れている」と思っている日本人は多いだろうが,それは日本人の驕りだ.かつて日本人は努力したから繁栄したのだ.努力を怠れば凋落するのは当たり前だ.
加えて,国立大学の独立法人化は正に暴挙だと僕は思っている.構造改革などという名の下に,教育・研究という,日本が削ってはいけないものを削ってしまった.大学を国がサポートすることをやめ,一時的に表面上の景気「指数」を上向けにしたところで,それが将来,一体どれだけの損失につながることか.独立法人化してから,旧国立大学や研究所がどれだけ研究しにくい場となったことか.教授達は、大学の運営に今まで以上に多くの時間を割くはめになった.研究の方向性についてもいちいち,それが将来何の役に立つのかを訴えなければ研究が継続困難な状況となっている.基礎学問が廃れ,応用ばかりがもてはやされるようになっている.
慶應義塾出身の小泉純一郎には,国立大学など何の必要性も感じなかったのかもしれない.竹中平蔵は一橋大学の出身らしいが,彼も慶應の教授を長年やっている.彼らは、慶應が日本のハーバードになれば良いとでも思っているのかもしれない.いずれにせよ,彼等はアメリカ型の「分かりやすい」格差社会を日本に持ち込みたかったのであって,「痛みをともなう」などと言っても,結局痛い思いをするのは非富裕層だけだ.小泉や竹中はちっとも痛い思いなどしていない.
僕は「日本」が好きだ.今はアメリカで研究をしているが,いずれは日本に戻って研究を続けたいと思っている.しかし,日本を離れ,アメリカという比較対象を得たことによって,今,はっきりと,日本の抱えている問題が見えるようになってきたように思う.何とかしないと「日本」はなくなってしまうかもしれない.日本に戻った時に,「日本」はもう無いかもしれない.
室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」という詩を思い出した.
* わたしは東工大の学生諸君に、毎時間かならず難問を呈し、わたし宛てに「あいさつ」を返させた。それで「評価」した。
卒業後もわたし宛に「あいさつ」を送ってくる人がときどきあり、それらはさすがに社会に出た彼や彼女らの充実を伝えてきた。
今日この「雄」くんの決然とした「あいさつ」はわたしを喜ばせる。現代の日本とアメリカとをとらえて、的確にわたしの思いに、実感に多く重なり合ってくる。だが、結論を急ぐまい。
それよりも、もし可能なら他の卒業生たちの呼応・賛否や批評・批判の「あいさつ」が聴きたいものだ。
ポーランドの柳君、国交省の丸山君、特許庁の上尾君、竹下君、三井化学の子松君、富士通の林君、スペイン通の河村君、NTTの田中君、サンケイグループの井筒君、博士になった古沢君、関口君、中野君、小川君、海外青年協力隊に鹿島立ちした布谷君、千葉県警の降旗君、塾講師でがんばっている西山君、トヨタの両角君等々、諸君はいま日本と世界とをどう観ているのか。
またバルセロナの岩見さん、母校や東大で博士として研究を続けている為我井さん、川口さん、IBMの道本さん東芝の富松さん、旭硝子の國峯さん、都文研の早川さん、日経の白澤さん、日建の宗高さん、主婦の堂免さん、和田さん、小川さん、藝大油絵に再入学した折戸さん等々、あなた方はいま日本と世界とをどう観ているのか、と。
2007 3・12 66
☆ タラバガニと電気生理学とハコフグと 雄 ハーバード大
昼食は久々に自作の弁当.昨日,Whole Foods Marketというスーパーマーケットに行ってきて,大量に食料を買い込んで来た.
このスーパーの生鮮食品は質が良いと評判だったので,前から行ってみたかったが,徒歩では無理だった.昨日,ようやく念願かなって車で行ってきた.車でならば,どうという距離ではない.
こちらに来て,スーパーマーケットの野菜の品質の悪さにびっくりしていたのだが,このWhole Foods Marketの野菜は瑞々しく新鮮.鮮魚コーナーにも足を運んだが,生で食べられそうな鮪の切り身なども置いてあったので,思わず衝動買いする.タラバガニも置いてあった.英語ではking crabというらしい.
ちなみに,意外に知られていない事実だが,タラバガニは、カニの仲間ではなく,分類学上はヤドカリの仲間である.きちんと脚を見れば分かるのだが,カニには左右に4対の脚があるが,タラバガニは3対である.
もっとも僕のような独身かつ貧乏な人間は,タラバガニ一杯を目にする機会は皆無だし,仮にあったとしても食い気が先行してしまうので,観察している余裕はない.
さらに付け加えると,実はタラバガニにも,もう一対,脚はある。だが非常に小さくて鰓の中に入っており,鰓を掃除する役割を担っている.腹を見ると,カニは左右対称だが,タラバは左右非対称で,これはヤドカリ類の特徴の一つである.さらに,カニは基本的に横歩きであるが,タラバは縦方向に移動できる.
それはさておき,新鮮な鮪を買って刺身にしようと思い,念のため「これは生でも食べられるよね」と聞いたら、「ダメだよ,焼かなきゃ」.
残念だが,仕方ないので,ヅケにしておいて今朝焼いて弁当に詰めた.他にもアスパラガスと椎茸をバター炒めにしたのだが,アスパラガスがシャキっとしていて美味だった.確かに他のスーパーより値は張るが,やめられそうにない.
午後,ボスとコーリーの3人でミーティング。今回は、自分が中心となって話せたと思う.
今後の方針としては,かなり大掛かりな方針転換をすることとなった.といっても研究の目的は当初と変わらず,手法が今までと大分異なり,電気生理学的な手法を用いたアプローチも取り入れることになった.
実は,アメリカに来る前に所属していた研究室には,電気生理学がやりたくて移籍したのだが,いざ移ってみたら全然関係ないことをやらされた.僕自身の興味を追究するという意味では,全くの回り道だった.
その後,電気生理学的なアプローチは諦めて,別のアプローチから同じテーマに迫ろうとして現在のアメリカの研究室に移ったのだが,皮肉にも,以前やりたかった電気生理の実験をすることとなった.僕には電気生理の知識や経験が充分ではないだけに不安はあるが,やりたかったことなので楽しみでもある.
もっとも,電気生理学実験はごく一部であって,光学的手法をメインにすることには変わりない.来る前に僕が提案していた実験のこともボスは良く憶えていて下さって,「そろそろこっちの方向からのアプローチも本格的に考えよう」と言って下さった.このラボにはまだ無い手法なので,他所に行って教わる必要があるが,それに関しても良さそうな候補を挙げてくださった.
僕のテーマは,このラボの主流からすると,やや外れている.それでもこれだけ親身になって,色々とアドバイスを下さるということに,とても感激した.実際に手を動かして実験するのを辞めてから大分経っているはずだが,アドバイスの一つ一つが実体験に基づいていて,非常に説得力がある.やることは山積みだが,また頑張ろうという気になった.
帰りはポータースクエアまで歩いてKotobukiyaで少し買い物.韓国料理のchochoという店に入ってプルゴギ定食を食べたが,なかなか美味しかった.最近プルゴギが食べたかったので行ったのだが,満足した.
店の前には大きな水槽が置いてあって,ハコフグやナンヨウハギ,カクレクマノミなどが泳いでいる.
実は,アメリカに来る1年程前から,僕はカクレクマノミをペットとして飼っていた.アメリカに移るに当たって,他の人に委ねてきたのだが,なんだか懐かしい気分になった.
水槽の大きさはかなり大きい.僕が使っていた水槽は縦横30センチの立方体型の小さなものだったが,それでも水量は10リットルにもなる.これだけの水槽ともなれば相当な重さだろうし,値段もかなりのものだろう.
店を出る際に店員さんに聞いたら,これはリースの水槽らしく,専門家が手入れしているらしい.どおりで綺麗だと思った.魚の種類も豊富だし,それらを共存させるのは,かなり難しいはずだ.
店を出る前に水槽の前で立ち止まったら,人懐っこいハコフグが僕の方に寄って来てくれた.また来ようと思う.
2007 3・13 66
* 碁は、半ばのレベル5まであげて、まだ、一方的に千目以上も勝ち続けている。
2007 3・13 66
☆ 夏時間 ボストン 雄
今日は週に一度のプログレスレポート.担当は中国人学生のジュリュウ.用事があるとのことで開始が遅れると昨日連絡があった.おかげで遅めに起きても間に合った.まだ夏時間に慣れない.
ジュリュウは抜群に数学ができる.今日はデータが何もないからといって、データ解析の話をしたのだが,大学以来久しぶりに行列・一次変換の計算をした.数学は理解できるのだが,数学の専門用語を英語で何と言うのかが分からず,内容も生物学とはかけ離れていたため,聞いていて辛かった.コーリーなどはしびれを切らせて,途中で逃げ出してしまった.
昼食後にようやく実験に取り掛かる.
ボスからの指示で,或る色素を試してみたのだが,意表をつく結果だったので驚く.本来の結果からすると失敗なのだが,もしかすると何かに使えるかもしれない.
電気生理実験に関しては,意外にもJCがエキスパートであることが分かった.このラボに来る前は電気生理を専門としていたらしい.相談すると,「今あるセットアップでできるから,すぐにでもできると思うよ.後で相談しよう」と言われる.みんなに話すと,「JCの英語を理解するところが一番大変そうだね」と言われる.確かにその通りかもしれない.
7時少し前にラボを後にする.まだ外は明るい.先週までは5時台だったのだから当たり前だ.こんな時間に帰途につくのなんて,一体いつ以来だろう.嬉しいような,ちょっと後ろめたいような.
まだ身体も頭も、夏時間に慣れていない.
* 「森」君の、「雄」君の、こういうメールをもらうのがわたしの幸せである。好奇心も共感も自然に沸く。「今・此処」の実感が伝わってくるからだ。
* 昨日、食事しながら妻が言った。「月をさす指は、月ではない。けれど同じ一つの月をさす指は、無数にあるわよ」と。その通り。指の一つ一つがどんな指であり得るか。その指次第だ。
2007 3・15 66
☆ JC先生 ハーバード 雄
天気予報どおり,朝11時過ぎ辺りから雪が降り始めた.時間を追うごとにどんどんと強く降る.ここ最近,暖かかったので油断していたが,やはり甘く見てはならない.この冬でも一番の降雪量になるのではないだろうか.
今日はJCに、電気生理用のマウス組織標本の作製法を習う.以前,コーリーから習ったことはあったのだが,その時もあまり良い出来ではなかったし,それを真似してやってみたものの,やはり全然うまく作れない.
本当は昨日からのはずだったが,何時まで経ってもラボに現れないので,諦めて他の実験を始めた.JCは予定していたことをスッポかす常習犯なので,今更驚きはしない.前もって別実験も計画しておいた.
今日は,まず初めに自分のやり方でやってみせてくれ,と言うので,自己流で標本を作った.やはりひどい標本になってしまった.JCに見せると,確かにこれはひどいね,ということで,JCの標本作りを、実体顕微鏡下で見せてもらうことにした.
手先が恐ろしく器用だ.驚くほど的確に,神経線維を取り出し,必要な箇所のみを残して,筋肉などの余分な組織をハサミで取り除いていく.少しの迷いもないし,出来上がった標本も完璧だ.見事だった.いつもは女の子の話しかしないJCだが,やる時はやる男なのだ.
ただし,英語は本当に分かりにくい.
他のネイティブスピーカーの会話ですら,時折2,3度聞きなおすことがあるが,JCの場合は3,4回聞いても全く聞き取れないことがある.ただでさえ発音が不明瞭な上に,合間合間に突然女の子の話や下世話(下ネタ?)な話をしてくるので,急に話が切り替わったことが理解できない.散々聞き直した挙句に下世話な内容だと,怒りを通り越して疲れてしまう.
しかし,一緒に実験をしたことで研究の話になり,僕がここに来るまでにやってきた仕事の話などをした.バックグラウンドが近いせいか,向こうも興味を持って話を聞いてくれ,いつになく真面目な話になった.
遅めの昼食を済ませてから,別の実験に取り掛かる.暇な時間に外を眺めると,雪は益々激しく降ってきた.
確か今日は,日本で知り合いだった方がポスドクとしてこちらに来られる日.無事に飛行機は着陸できるのだろうか? 選りによってこんな日に来られるとは,気の毒だ.
帰れなくなっても嫌なので,6時半に実験を打ち切って帰途に着く.ちょうどJCも帰るらしく,上着を羽織って廊下に出てきた.
「こんなに降っていて,帰れるかなあ」と僕.
するとJCは、「だから,彼女が近所にいればいいんだよ.ところで,お前はどういうタイプの子が・・・」
どんな話題でも強引に女の子の話に結び付けてしまうJCには,或る意味,感心させられる.
* おもしろい。こういうおもしろさは、なかなか、筋金の入りすぎてお硬いエッセイストには出せない。
2007 3・17 66
☆ St. Patrick’s day 雄
今日は土曜日だが,ここアメリカはSt. Patrick’s dayという祝日.
こちらに来るまで全く知らなかった祝日だが,アイルランドの聖職者Patrickの命日を記念した祝日らしい.
ジャガイモを主食としていたアイルランドでは,1845年から1849年の間にジャガイモの疫病が流行し,約200万人もの人々がアメリカやその他の国々へと移住したのだそうだ.ボストンは特にアイルランドからの移民が多いそうで,僕のアパートからそう遠くないところに生家のあるJ.F.ケネディもその子孫と聞く.
St.Patrick’s dayには,アイルランド人がクローバーを大切にする(三位一体を表しているらしい)ことから街全体が緑色にあふれ,パレードなども開かれるのだそうだ.アイリッシュの店では食べ物やビールも緑色になるらしい.
是非とも見てみたかったのだが,昨日の雪もあって,今日は全く外出する気が起きず,部屋で静かに本を読んだりしていた.時折,窓から外を眺めるが,アパートから出る人はごくわずかだ.
「光学」のテキストを読んでいるが,ついついうたた寝してしまう.ただでさえあまり面白くはない(しかも英語!)上に,夏時間のせいで睡眠不足が続いている.
体内時計が一旦狂うとなかなか直らない僕にとって,夏時間は時差と同じで,今週はひどく辛かった.昼寝をしない方が良いのは分かっているのだが,つい,うとうととしてしまった.
2007 3・18 66
* ジャンヌ・ダルクに触れてしばらくぶり「mixi」に出した一文に、フィンランド在住の人から佳い「コメント」が入っていて嬉しかった。
2007 3・18 66
* 昨日から「私語」の更新が利いていない。FFFTPに異常があるらしい。ままならない。
* 書いても更新できないと思うと、気が抜ける。その方が書きよいではないかと、内心の声も聞こえる。その通りだ、私語なのだから。
2007 3・20 66
* 機械。FFFTPは使用できるが、インターネットエクスプローラでサイトを観ると、まるで違うなかみが出る。今このファイルでは三月が進行しているのに、インターネットでは二月十日までが出て、それ以降も三月分も現れない。わたしのミステークでなく、ブラウザの方でなにか設定を勝手にいじくったらしい。迷惑な話だ。
* 苦心惨憺というとモノが分かってしているみたいだが、そうではない。昨日の建日子からの連絡で、ブラウザの方でなにやら設定を勝手にいじくって間違えたため迷惑をかけたが、明日には復旧すると思う、と。
簡単に復旧はしなかった、あれこれやってみて、元の設定に戻せた。いま書いているとおりがもう更新できているだろうと思う。
なんという機械の難儀さか。
* じりじりと、書きたいものを書いている。
2007 3・21 66
☆ 66番 ハーバード 雄
いつも僕は66番というバスで通勤している.このバスは,Harvard SquareとDudley Stationという駅を結んでいる.朝はDudley station発Harvard Square行きのバスに乗っている.
Dudley stationのことはよく知らないが,印象としては,あまり治安の良くなさそうな辺りにある.従って,あまりこの方面には足を運びたくない.今後も足を運ぶことはなさそうだ.
僕の住んでいる辺りから,急に治安が良くなる.わずかに通りを一本挟んだだけなのだが,急に変わる.とはいえ,バスの停留所付近などには,時折怖い目をした人が座っていて,煙草を吸っていることがあるし,一度だけだが,煙草を吸っているにしては明らかに不自然な吸い方をしている50代位の女性を見かけたこともある.女性は通りがかりの怪しげな男に囃し立てられていた.
従って,バスに乗った直後の車内の雰囲気は,ちょっと怖い時がある.
しばらく走るとクーリッジコーナーという繁華街に出る.ここは僕の日記にも散々出てくる場所であるが,ちょっとした商店街になっている.本当に「ちょっとした」というのが相応しい.地下鉄のグリーンライン(Cライン)の駅がある.付近にはレストラン,ドラッグストア,本屋,スポーツ用品店などが立ち並ぶ.土日ともなると,かなりの人で賑わう.
クーリッジコーナーからさらに2,3ブロック走ると,突然ユダヤ教の教会が現れる.付近にはKosher(ユダヤ教の教えに基づいた食事)のレストランや雑貨店などが立ち並ぶ.この界隈では,頭に小さな帽子を被った人をよく見かける.
さらに2ブロックも走るとハーバードアベニューというところに着く.ここにはグリーンラインのBラインの駅がある.この辺りから,急に街の風景がざらついたような,殺伐とした雰囲気になる.
ここまでの道のりは,ほぼ一本道で,ひたすら直進するのだが,ここで大きくバスは「くの字」型に迂回する.まっすぐ走っても同じところに到達するはずなのだが,迂回したところに停留所があり,ここは他のバスとの乗り換えに利用されている.
停留所は大きな薬局の駐車場の前にあるのだが,何故かこの大きな駐車場には,怪しげな人たちが沢山集まっている.日本でも以前,山手線に乗っている時に,高田馬場と新大久保の間にある公園を通り過ぎる際に,このような光景をよく目にした.
そして,出発地点付近から乗ったと思われる,ちょっと怖そうな人たちは,皆,判で捺したように,ハーバードアベニューから,この「くの字ゾーン」の間で下車する.
入れ替わりで乗って来る人たちは,南米系の人たちが圧倒的に多い.男は皆,これもまた判で捺したように堀内孝雄のような口ひげを蓄えている.近辺にはブラジル系の食品店やレストラン,床屋などが立ち並ぶ.
ここから先,陸橋を越え,左折すると,後はハーバードスクエアまでは一本道.途中はハーバードのスタジアム,グランドなどが立ち並ぶ.チャールズ川を越えれば,ほぼ終点は見えている.終点のハーバードスクエア周辺は多くの車と人とでごった返している.土日は見世物などもあり,さらに混雑する.
日本でも僕はバスに乗って,車窓からの風景を眺めているのが好きだったが,外国のバスはさらに面白い.たった一本のバスなのに,驚くほど沢山の光景を見ることが出来る.わずか数ブロック,場合によっては通りを一本挟んだだけなのに,全く異なる文化圏が存在している.人間には足があるのだから,もっと自由に広範囲に行動できそうなものだが,皆,頑なに自分のエリアを持ち,その中で自分の文化を固守している.
ボストンの朝の片道のバスには,一つの物語がある.
2007 3・23 66
* メールの出揃った次の二人、ずいぶん環境をことにしているようだが、二人とも、かつて同じ教室で隣り合ってわたしの授業に出ていたかも知れず、二人とも方面こそちがうがピカピカの研究者。
わたしを介し、お互いにこの日記も読みあっているのかなと想うと楽しい。バルセロナの京は、この二人と連絡が取れているらしい。It’s a small world だ。
☆ It’s a small world ハーバード 雄
今日は週末恒例のhappy hour.4時過ぎにロビーに行くと,大勢の人が集まっていた.
ピザを取って,さらにビールを取ろうと歩いていたら,Hさんとドイツ人ポスドクのマーチンの姿を見つけた.
マーチンはHさんと同じラボに所属している.僕と初めて会ったのは,こちらに来て間もない,オリエンテーションの時だった.とても気の良い奴で, happy hourのときや,gene gunを借りにラボにお邪魔した時などによく立ち話をする.
話していて分かったのだが,僕とマーチンには共通の知人がいる.僕の高校時代の同級生が,ドイツで研究者として活躍しているのだが,マーチンは彼と同じ研究所でポスドクをしていたらしい.
と,そこへ,隣のラボ(といっても同じ部屋だが)のポスドクのトーメックが来た.彼はポーランド生まれで,ドイツで学位を取り,ドイツでポスドクをしてから半年前にボストンにやってきた.Hさんが初出勤された日に,僕を探してラボに来られた際,彼が最初に案内したらしい.
トーメックとマーチンがお互いに「初めまして」と挨拶をする.トーメックという名前を聞いてマーチンが,「君はポーランド人だね?」という.トーメックも「マーチンということは,君はドイツ人だね?」と返す.共にそれぞれの国では典型的な名前らしい.
トーメックがドイツに居たことを伝えると,ドイツのどこにいたのかなど,お互い共通項を探り合うような話を始めた.話し始めて少しした時,ほぼ同時に二人が「あ~!」と声を挙げた.
何事かと思ったのだが,なんと二人は遠い昔に会ったことがあるそうだ.共通の友人がいるのだそうで,その友人を介して会ったらしい.さらに,その友人から「僕の友達が今度ボストンに行くよ」とお互い聞かされていたんだと.
狭い世界だ.お互い,日本,ドイツ,ポーランドから来ているというのに,間に一人か二人入っただけで繋がっていたりする.研究者の世界は本当に狭い.
happy hourのあと更に実験をつづけたが,芳しい結果は得られなかった.諦めて早々にラボを後にする.久々にHarvard Squareの付近を歩いていて,ふとメディカルエリア行きのハーバード大のバスを見つけた.このバスは,ハーバードのIDさえ持っていれば,タダで乗ることが出来る.タダというのも魅力的だが,普段通ったことの無い道を通ることができるので,早速乗ってみた.
マサチューセッツ通り沿いをひたすら直進するのだが,途中,MITの正門も見ることができた.ボストンに来たというのに,まだMIT(マサチューセッツ工科大学)には行ったことがなかった.写真で見る正門は,まだ真新しい印象だったが,間近で見てみるとかなり年季の入った代物だった.ギリシャ彫刻のような構造物で,ハーバードのレンガ造りの建物とは大分違う.
ここからチャールズ川を渡ったが,レンガ造りの様々な建物に取り囲まれた,夕暮れ時のチャールズ川の美しさには,思わず息を呑んだ.
橋を越えるとビーコンヒルと呼ばれる古い街並みがあり,ここも美しいのだが,残念ながらバスはここで右折してしまい,まっすぐにメディカルエリアに進んでいった.
メディカルエリアから自宅までの道が良く分からずに右往左往してしまったが,なかなか楽しい帰り道だった.
☆ 先生も京都に行っていらしたんですね。
私も今週、何年かぶりに仕事抜きの観光旅行に行きました。(お世話になった中央信用金庫の本店近くに泊まっていました。)たぶん先生と入れ違いだった気がします。帰る日の京都はあたたかでした。
子ども連れの京都も予想外に面白く、日記にアップしました。
ようやく春本番のようですが、花粉症は続く気配でしょうか。おからだ、どうぞお大切になさってくださいまし。
*
☆ 京都旅行 馨
いろいろなことが重なって、家族で京都に行って来ました。四年近く前に行って以来、家族で京都を歩くのは本当に久しぶり。
以前は、「どうせわからないだろう」と思って大人の好みにつきあわせていましたが、今回は完全にお子さま仕様の旅程を組み立てました。
着いた日は京都御所。事前に申し込みしておいて、おひな様で「右近の橘、左近の桜」を覚えたムスメと紫宸殿や建礼門を見て回りました。意外にも屋根の桧皮葺を面白がったので、以降、建物の装飾の説明を増やそう、と思ったり。
御所から出て来た後は、夕方近くになっていたのですが、蛤御門の近くの桃林で娘は走り回って遊んでいました。松の根方でヒバリがエサを探していたり。桃林からは大文字がまっすぐに見え、「大」の字が読めるようになった娘はこれにも興をそそられていました。
翌日は北野天満宮。お子さま向けにわかりやすいのは金閣寺かな、ということでそれを中心に、まずは初宮参りや七五三でお世話になっている荏柄天神のご本家へ。
ところが、ついでのつもりの北野天神、予想外に面白がってくれました。拝殿の後ろまで来た時に、御所で建造物装飾に興味を持っていたのを思い出して、欄間の透かし彫りを見てごらん、と言ってみたのですが、ちょうどそのあたりは最も格下で植物などが多い付近。次々に見ていくと、千鳥や山鳥、孔雀など鳥類が増え、正面に近づくにつれ、動物が登場。拝殿正面では虎や龍がいて、娘は大喜びで一枚ずつ見ていき、結局一周してしまいました。
この拝殿正面は、もう一つ奥にまた欄間があって、ここは人物画で、おそらく中国の故事のよう。でも、そのあたりのことは私は詳しくないので、ぼんやり眺めていたのですが、その中の一枚に、鼻が長ーく伸びた絵があるのを見つけた娘は、
「天狗の羽うちわだ!」
見てみると確かにその気配。確かあの話は中国から伝わったものなので、おそらくその通りなのでしょう。
「いいの見つけたねー」
と褒めると、にこにこ、お得意になっていました。
すっかり建物の装飾チェックにはまってしまった娘は、その後、龍安寺に行った時にも、門の鬼瓦が鬼でなく龍であることを見つけて、
「あ、龍だ!」
近くにいた管理人さんに、「お嬢ちゃん、ようわかるなー」と褒められて、またもお得意。龍安寺では肝心の石庭は見ずに、その背後の扉の木彫透かし彫が
「麒麟だ!」
と、またしてもチェック。(私は狛犬だと思うのですが、本人はキリンビールの麒麟だと言い張りました。)
この年頃の子に、どうやって京都を楽しませようかな、と思っていたのですが、こういう具象的な宝探しのようなことをすると、子どもってとても面白がるようです。
せっかく連れて行った金閣寺では「あれ、金色じゃない~」と由々しきことを大声で言うなど、あまり興味はなかったようですが、門のところから見えた左大文字にはとても真剣。
ついには、送り火の載っている地図を広げて、他の形をチェックしはじめ、
「鳥居形も見たい」。
・・・これには、私、思わず「うっ・・・」。
八月十六日に京都で送り火を見たことは何度かあるのですが、目にしたのはいずれも両大文字と「妙」と「法」だけ。鳥居形の所在は自信がない。
時間もあることだし、大覚寺方面に行けば見えるかなぁ、、とそのあたりに行ってみたのですが、見当がつかず「京都で困った時はタクシー」ということで、タクシーに乗り込んで聞いてみました。
「あれは見えにくいもんですわ。大文字なんかとちごうて日頃から手入れしてるわけでもないから今の時期は見えんのですわ。場所によっては送り火焚く草むらは見えますけどな。鳥居の形はむつかしなぁ」
確かに、見えるポイントを通って頂いて、そこから教えてもらった部分には、木の生えていない三角形の草むらが見えましたが、鳥居形は見えず。
この話、夜に食事に行った席で、昼は別行動だった母に話していると、(母と旅行に出たのも二十年ぶりくらい)、横にいた仲居さんが、
「見えますよ。あれは全部御所の方向を向いてるんで、御所の近くの高いビルの上か、京都タワーからなら」
「でも、今は鳥居の形は消えていたんですけど」
「いいえぇ、雪降っても鳥居の形に残りますもん。鳥居の形がなくなるはずはないですよ」
強く言い切られて、そうかなぁ、と。
私もダンナもしつこいタチなので、ホンマかどうか確かめようと、翌日京都タワーに初めて登ってのぞいたのですが、ちょうど春霞がかかりはじめた日で、山そのものが見えずに断念。
それにしても京都の人って、尋ねると必ずウンチクを語ろうとするんですよね。知らない、と、絶対に言わない。これ、ちょっとラテン系入ってる気がします。スペインやイタリアで人に道を聞くな、全然知らなくても自信を持って(間違った方向を)教えるから、と言いますが、近いものを感じるような。
そうそう、京都タワーの前に三十三間堂に行きましたが、ここで千体観音に感激してくれるかと思いきや、娘は二十八神将にご執心。観音様は持ち物にのみ興味でした。何々を持っている、これは何々に見える、等。
この年頃って本当に興味の対象は具体的なんですね。それともこんなに「ブツ」にこだわるのは、現実的なうちの娘だけかしらん・・・。
帰り際に伊勢丹の地下で、麩嘉の麩まんじゅうと「黒おたべ」を姉家族のお土産に、三木鶏卵の出汁巻き卵と茨木屋の揚げ物を夕飯のお菜に買って、京都旅行は終了。
ところで京都に詳しいどなたか、今の時期、鳥居形は行くところに行けば本当に見えるのか、実はやっぱり見えないのか、ご存知でしたら教えて下さい。気になりますワ。
* 京の山焼きはどれも遠方から観られるので、「鳥居形」といえどもそこそこ大きい。むろん東山の「大文字」ほどではないし、「妙法」や「船」のように、譬えていわば字画はフクザツでない。そばまでいっても、季節により灌木などに埋められているし、間近すぎては形は容易に納得しづらい。食べ物屋の仲居さんの言うている、ほどよい「雪」の日には、不思議でもあるまい、鳥居形が、東山よりの高いところから遠望すると、時に綺麗に浮かび上がっている。
わたしの高校は九条の東、東福寺より高みの日吉ヶ丘に在った。真冬、寒気に全身をさらして校舎二階三階の西はずれに立つと、京の下京を遠く越えてそれらしくくっきり見えることがあった。いつもいつもではなかったが。
2007 3・25 66
* 「mixi」に、京都での写真三枚と「旅」のことを書き送った。写真の中にパステルの「舞子繪」を入れてみた。雨もよいで薄暗い店の中の硝子張り額絵にフラッシュをたいているので、照りと歪みとで素人繪っぽいリアル味が表へ出た。衣裳の色づかいが佳い。
2007 3・27 66
☆ ボス直伝 雄 ハーバード
いつものように顕微鏡に向かって,一向にうまく行かない実験をやっていると,突然ボスがやってきて「調子はどう?」と聞いてきた.
今までにも,廊下で擦れ違ったときなどに,仕事の進行を聞かれることはあった.しかし,それはあくまでも挨拶の一環のようなものであって,たまたまそこに僕が居たからというだけに過ぎない.
しかし,今日は明らかに,僕に用があって聞きに来たという様子だった.特に思い当たるようなこともないだけに,なんとなく気になる.あまりの進みの遅さに痺れを切らしたのだろうか? あるいは,先週末はシンポジウムに出かけていたが,そこで会った僕の知り合いから,何か聞かされたのか? あれこれと余計な詮索をしてしまった.
今の進行状況を一通り伝える.JCに教えてもらった組織標本の作製が依然として上手く行っていないことを伝えた.JCがどのように組織標本を作製したのか説明させられ,一通り説明すると,
「その方法だと,この実験には問題があるな.じゃあ,僕が教えよう」と言い出した.
実は,今の状況に僕自身が痺れを切らし,今朝,ある決断をしたばかりだった.今までの実験は引き続きやっていくが,並行して,別のプロジェクトもやることにした.コーリーが以前から提案していたテーマでもあるので,今朝一番にコーリーには相談した.
ボスにも相談しようと,秘書のフィリスにスケジュールを確認してもらったのだが,あいにく今週は空いておらず,来週火曜日にディスカッションすることとなっていた.ボスは僕が予約を入れたことを全く知らなかったので,今日僕のところに来たのは,そのためではない.
「何時が空いている?」とボス.「来週の火曜日にディスカッションの時間を取らせて頂きましたが」と答えると,ボスは
「それじゃ遅いな.うーん,どうしよう.明日は何時にラボに来られる?」.
そう言われて正直に,「いや,最近弛んでいて,9時のセミナーに間に合わせるだけでもしんどいんですけど」とも言えず,「何時でも構いません」と答える.するとボスは
「じゃあ,明日の8時から,セミナーが始まる9時までに標本の作製の仕方を教えよう.それじゃ」と言って去って行ってしまった.勢いに圧されて,相談するはずだったことについても,切り出せずに終わってしまった.
それにしても,ボスが実験するのなんて何時以来なのだろう.少なくとも僕がここに来てからは一度も見たことが無い.研究室主宰者になれば40歳を越える辺りから自分で手を動かして実験する機会は減るので,50歳を過ぎたボスが自分で手を動かす姿は想像がつかない.
コーリーに伝えると,「うーん,それは災難だねえ.大惨事になるよ」.確かに,今までの僕自身の経験でも,ボスが自ら何かを教えると言い出した時には,碌なことがない.
ただし,この世界でトップレベルと誉れの高いボスの実験を見たいという好奇心はある.何より,わざわざ朝早くから来てくださってデモンストレーションしてくださるというのが嬉しいし,有難い.
とりあえず,明日は早起きが一番のネックになりそうだ.未だに夏時間に身体が対応していない.セミナーの後には,コーリーに新しいテクニックを教わることにもなっている.やることが沢山ある.早めに寝なくては.
2007 3・27 66
* 夕方、「レベル9」の碁敵と黒番で対局中に、建日子ら来訪。かろうじて十五目あまり勝ち、次は「最強」と称するレベル10と対戦することになる。
建日子たち、日立牛とキクイモとを持参、一緒に食事していった。巨猫のグーも同伴だった。いましがた仕事場へ戻って行った。
2007 3・27 66
* 小説を四作も一時に機械から喪った「mixi」の人の歎きが、他人事でなかった。どう慰めても慰めきれないのは重々承知。それでも早く立ち直ること、それしか薬はない。そう思って励ました。自分を励ますように。
相当な時間と労力で整備したつもりの原稿群が、わたしの機械でも、ワケ分からずに消滅しているのに二三日前に気づいた。捜索しても現れない。狐に鼻をつままれたようなことは、イヤほど経験している。創作物の場合は諦めきれないが、結局忘れてしまうというやり方で諦めてしまう。いまも、そうだ。
ここ暫く、発送用意を主作業にせざるをえない、あまり機械を開けないだろう。
2007 3・27 66
☆ 早朝練習 ハーバード 雄
昨日約束したとおり,朝8時から標本作製をボスに教わった.朝8時からなので早朝というのは大げさだが,緊張したせいか,朝4時半に目が覚めてしまった.昨晩寝たのは12時過ぎだったのだが.
5時半ごろまでベッドの中でゴロゴロしていたが,これ以上すると次に起きた時には遅刻している可能性があるので,諦めて起きた.
6時半に家を出て,7時過ぎにはラボに到着.動物や器具などを準備していると,8時10分前にボスが現れた.同じ頃出勤された,隣のラボのボスが,うちのボスを見つけて「お,早いなあ.どうしたの?」と声をかけていた.「実験を教えるんだよ」とボス.
準備を終えて,8時きっかりから教えて頂く.
ボスのやり方は,これまでに教えてくれたコーリーの方法ともJCのそれとも全く異なっていた.強いて言えば,コーリーとJCの方法は似ているが,ボスだけ大きく違う.ボスから技術を習ったはずなのに,何故このようなことになるのか良く分からない.ボス独自のこだわりが随所に現れていて,足りない器具をリストアップし,発注することとした.
ボスよりもJCの方が手先は器用そうだが,ボスの方が丁寧にやっているようで,最終的に出来上がった標本は,今までの中でもっとも美しかった.ボスに説明してもらったことで,どこに神経が走っているのかや,どこを切ってよくて,どこを切ってはいけないのかがはっきりした.
ちょうど1時間かけて標本作製のデモが終わり,すぐに週1度のプログレスレポートが始まった.今日の担当は,ニュージーランドから来ているフィル.割合年配の研究者で,ボストンへは1年間だけの短期滞在.かつては日本にもこのような制度はあったのだろうが,今では任期制の職ばかりになってしまったので,このような制度が残っているニュージーランドがうらやましい.
どうやら睡眠時間が足りないと,英語の理解力は極端に落ちるようだ.英語は明瞭だが,何を言っているのかさっぱり分からない.それ以上に,目を開けて居続けることが辛い.ただでさえ話が長い上,スライドも箇条書きの文字だらけなので,文字を追っているつもりが気づくと夢の中,というのが何度もあった.
セミナーを終えてから,昼食を挟んで,ボスに教えてもらった方法で練習.大分,コツが掴めて来た気がする.
コメント カナダ 2007年03月28日 10: 58
NZの方、サバティカルですか?
実際最先端を走っていらっしゃる方でサバティカルをする勇気のある方は、こちら北米でも少ないのではないかと思います。と言っても私の分野最王手のPI は、どうやら日本でサバティカルされたそうですが。
昔私の大学院の教授が実験を再開するとか言い出したとき(結局しませんでしたが)、私の同期が教授室に閉じ込めようかなんて言ってたことを思い出します。こちらは教授との距離が近くてよいですよね。
雄 2007年03月28日 11:10
NZの方が,どのような身分なのかは良く分からないのですが,教授ではないようです.サバティカルというよりは,日本であった(今もあるかもしれないですが),休職ではなく現職のままで籍を置いて留学するというタイプのようです.
僕の大学院の教授も,先輩にマウスを使った実験をさせたくて,「僕が教えるから一緒に行こう」と先輩を,無理矢理,動物舎に連れて行き,注射の仕方を教えてくれたらしいですが,ふと先輩がマウスを見ると、白いはずのマウスが赤く...どうやら,手を噛まれたらしいのですが,痛いだろうに教授は一言もそれには触れなかったそうで,先輩は笑いをこらえるのが大変だったそうです.
カナダ 2007年03月28日 11:36
男気のある教授ですね! かっこいい。
* こういう「mixi」はとても楽しい。MAOKATがマイミクを希望した気持ち、分かる。メールにも、こういう生活的・体験的なのが増えるといい。文学や映画・演劇批評なんかも、もっと歯に衣きせぬのがあっていい、無意味なおひゃらかしでは迷惑するが。
☆ 【訃報】花嫁の父 植木等氏 麗 北海道
「日本一の無責任男」植木等さんが死去(読売新聞 – 03月27日 20:11)
もう30年近く前,親戚の結婚式に参列した。場所は,池袋の某大学構内にあるチャペル。
式場に着くと,午前中の式が終わったところだった。チャペルから出てくる参列者の中に『ハナ肇とクレージーキャッツ』の面々を見つけたときは驚いた。植木氏のご令嬢,植木ひとみさんの結婚式だったという。
「花嫁の父」植木氏は,緊張したような,憮然としたような面持ちで,チャペルの庭に立っていた。当時10代の自分に,その複雑な胸中は推し量れるはずもないが,嬉しさや安堵感とは無縁の,ましてやTVや映画では絶対に見られない,見せない表情だ,と感じたことは覚えている。
花婿と見紛うような,白のタキシードスーツ姿であったことも。
その数年後,私も同じ日を迎えた。その日,父が植木氏と同じ表情をしていたかは,記憶にない。
また,昭和がどんどん遠くなる。 合掌
☆ 日本のコメディの終焉 鳰 滋賀
俳優の植木等さんが27日午前10時41分、都内の病院で呼吸不全のため死去した。80歳だった。
すでにお歳だったから…そんな日もいつか来るのだと…心では思っていたけれど…寂しさは拭えない…もうあの飄とした、姿を見ることは出来ない
日本最高のコメディアンは植木さんだと…あの人を越える存在はたぶん、もう、現れない…
どうか、あちらでもご活躍を…
私はコメディエンヌになりたかったの。
ゴールディ・ホーンみたいな…
日本にはいないでしょ?
この顔は決して美形とは言えないしね~。
ライザ・ミネリとか、シャーリー・マクレーンとか、もちろんマリリン・モンローもそうなんだけど、歌って踊れてわらかして泣かせる役者になりたかった…
学生時代、役者として最初に貰った役がちょいとおつむの弱いメイドの役だった。あまりにハマりすぎて、日常もいまだにどこか抜けてるけどねえ…
この国で言えば、植木さんが一番近かった。高度成長期の働くことが美徳とされた時代に「わかっちゃいるけどやめられないっ」だもんね~
早世された太地喜和子さんにものすごい憧れてた。妖艶な演技も上手かったけれど、ちょっとずれた役どころもたまらん上手かった…
吉田日出子さんも好きで同じ劇団を受けたとき、実物に偶然お会いしました。ドラマと全く同じテンポでした。
あるとき、吉田日出子さん主演の舞台を観にいった時、客席にいる自分に気がついた…
わたしのいたかったのは、あっちだと…舞台の上なんだと…
それから観劇から遠ざかりました…
* メル・ギブソンと演じた『バード・オン・ワイヤー』のゴールディ・ホーン、我が家ではあだ名を「ギャー」と呼んで親愛しています。十何度も観たでしょう。身動きに切れ味のある端倪すべからざる女優ですね。
シャーリー・マクレーンは断然たる名女優、愛しています。マリリン・モンローほど愛すべき愛おしい女はいません。
植木等には同時代人としての尽きぬ親愛と、時代を妙な方へひきずってくれた、かすかな怨念とを持っています。経営者たちの支配意識に火をつけ、今日の格差のひどい貧しい労働環境をミスリードしてくれた植木等でもありましたか。息子の秦建日子を俳優として鞭撻してくれた人としての感謝も深い。
晩年のおちついた役者ぶりをわたしは好んでいました。 合掌 湖
2007 3・28 66
☆ 助教 博士
僕は現在も日本の研究所に「助手」のポジションがあり,「休職」という形で留学している.休職期間は2年間.
しかし,2年後に復職できるとは限らない.僕が休職している間,教授は新しい助手を雇うことができる.2年後に,新しい助手の方が辞めない限り,僕の戻る場所はない.
とはいえ,僕には現在でも日本の研究所の「助手」という肩書きがある.
今日,日本の研究所からメールが届いた.学校教育法が改定されるのに伴い,今年の4月から,僕のポジションは「助手」から「助教」になるらしい.他にも,今までの「助教授」は「准教授」へと変わる.
これには,「助手」というと,いかにも「お手伝いさん」という印象が強く,身分が低いように聞こえるから,という理由がある.
「助手」と「博士研究員」とでは,「博士」と付くだけあって後者の方が偉そうに聞こえるが,大抵の場合,「助手」は「博士研究員」を経てから就任する場合が多く,また殆ど全ての「助手」は博士号を持っている.
しかし,ならば「助教」はどうなのか? 初めて聞いたとき,なんと納まりの悪い名称だろうと思った.この名称に決めた人たちのセンスが理解できない.
そもそも,何故このような名前になるのかには,アメリカの大学・研究所での「Professor」の名称が、背景にある.
アメリカでは 「(Full) Professor」, 「Associate professor」, 「Assistant Professor」と、3種類の「Professor」があり,日本語での直訳は、それぞれ「教授」「准教授」「助教授」となる.しかし,これまでは日本では、「教授」,「助教授」,(大学によっては「講師」),「助手」となっていた.そこで,これをアメリカ式に合わせるために、「助教授」を「准教授」へと繰り上げた訳である.
ならば助手を「助教授」にしてくれても良さそうなものだが,その辺りがいかにもケチくさい.「助手」を「助教授」にしてしまうと,「講師」が「助教授」よりも下のような印象を与えるからだというのだが,だからといって「助教」というネーミングはどうなのだろう.
そもそも,日本は日本のシステム・職名で良いのではないだろうか.名称を変えたところで,実質的に何か変わるとは思われない.変なところばかりアメリカの真似をするのは,もういい加減,止めても良いのではなかろうか.
* ま、わたしも国立大学の「元・教授」ではあるのだが、それも、ま、今では対岸の火事のようで、すこしく野次馬めくけれど、こういう話題、局外者にはアハハと面白い。博士の助教クン。ゆるされよ。
それにしても「助教」はやっぱり、ナンダカ、たしかにヘン。明治頃ではなかったか、臨時雇いみたいな小学校の先生が「助教」と呼ばれていなかったか。石川啄木など、そうではなかったろうか。ウーン
☆ 花冷え 碧
毎年お茶の先生の御宅の桜を楽しみにしている。お向かいのお寺さんの桜が少し早く咲き、そのうち小路に花のトンネルが出来る。月曜からの陽気で一気に開いたと、もう五分から八分咲き。お茶室のある二階からの眺めを楽しむ。
昨日のお稽古は先週に引き続き「貴人清次」の濃茶。ところが、さぁ用意をと思うのに、まるきり浮かんでこない。千鳥板を目にしても、それをどう使うのだったか、とんと憶えない。茶巾の折り方を変えて、といわれて漸く、あ、と思い出す。
久しぶりだからと先生は仰るけれど、実は先週のお稽古が初めてだった。これまで貴人点はしてきたけれど、清次はしていない。
こんな世の中なのに、御貴人さんでもないけれど、研究会でもしたから、やっぱりしておきましょう。
苦手なお手前、何がイヤといってあの畏まって待つ間の窮屈さ、逃げ出したくなる。それでも今回はすぐにお供の方のお茶を用意に立つので、気持ちは楽・・・煤竹の茶筅を入れ忘れた。
次週はお薄しましょ。。。ややこしいのかしらん。
寝む前に、露伴『連環記』を読み出したら面白くて止まらない、それでも遅いから、えいやっ、と離した。今夜もう一度初めから読もう。
* 「濃茶の貴人清次」とは、遠い遙かな昔を思い出させてくれますねえ。「小習」から「四ヶ伝」へ一等手続き煩瑣な点前で、苦手でした。大圓の真台子まで正引次され、「宗遠」という茶名はもらいましたが、「薄茶の平手前」と「盆手前」がきっちりできればいいやと、生意気に怠けていました。
そもそも足が痛くて「正座」が苦手で。その御陰? で、利休が「正座」してお茶をたてたなどという証拠は全く無いという大発見? をしました。彼の正座した画像も彫像も、同時代のものでは、一作もありませんし。ハハハ
* 『連環記』は、驚嘆の堂々大文章の文学作品、。『運命』も、天地に鳴り渡るような、すばらしさ。いま、露伴が読まれているなんて、感動。
2007 3・29 66
☆ ロマンチックなシナプス ハーバード 雄
今日は,コーリーと一緒に新しいプロジェクトの手始めとなる実験を行った.まず手始めに,シナプスを観察した.
シナプスとは神経細胞と神経細胞の継ぎ目に当たる部分.ここで神経細胞どうしは情報のやり取りをしている.脳の中では,無数のシナプスが絶えず作られたり壊されたりしている.シナプスが出来れば,情報のやり取りができるし,壊されれば,当然,情報のやり取りはできなくなる.従って,脳の働きを理解する上で,シナプスは非常に大事な構成要素である.
こうしたシナプスが,どのように作られたり壊されたりするのかについて,僕は強い関心を持って研究している.今日は,シナプスの部分を緑や赤に光らせることができる物質を,神経細胞にふりかけて,顕微鏡で観察してみた.
2時間後に余分な色素を洗い流して観察した.顕微鏡で連続的に焦点をずらしていき,その都度撮影した画像をコンピューターで重ねていくと,立体的な像を得ることもできる.
丸々とした神経細胞の上に,無数の緑色や赤色のシナプスが取り巻いている.とぐろを巻いているようなのもあれば,ポツポツと点状に浮かび上がっているものもある.時間を置いて観察すると,多少ながら伸びているシナプスもある.
真っ暗な視野の中に緑や赤に染め上げられたシナプスが浮かぶ様は,見ていて,純粋に,美しい.それらを眺めていると,天体望遠鏡で星を眺めているような気分になる.見ていて飽きない.
小さい頃,星を見るのが好きだった.目が悪かったので,あまり多くの星を見ることは出来なかったが,それでも天体の世界にはロマンを感じていた.
しかし,天体とは対極にある,私達の身体の中のミクロな世界にも,天体に匹敵するようなロマンチックな世界が存在している.
明日は,向かいの建物で行われるシンポジウムに参加する.ボストンの様々な大学に籍を置く,世界でも有数のシナプス研究者達が次々とトークをする.
その後は,シンフォニーホールへ.アルフレッド・ブレンデルがモーツァルトのピアノ協奏曲を弾く.どちらも楽しみ.
* 研究者は楽しそうだ。企業の人たちは、日々大変なようだが。 2007 3・30 66
☆ シンポジウム,シンフォニー ボストン 雄
今日は朝からシンポジウムに参加.講演者はJoshua Sanes,Micheal Greenberg, Susumu Tonegawa, Roberto Malinow, Morgan Shengなど,錚々たるメンバーだった.ただし,残念ながら利根川進は来ず,ラボのメンバーが代理として発表した.面倒臭いからスッポかしたのかと思ったが,なんと渡辺格先生の葬儀に参列するために日本に行ったらしい.
先日インターネットのニュースで渡辺格先生の訃報に接した.日本の分子生物学の草分け的存在で,利根川先生の師であり,僕の大学院時代のボスの師でもある.ご冥福をお祈りする.
シンポジウムの内容は,面子が面子だけに素晴らしいが,英語なので気を抜くとすぐに置いていかれる.ちょっと余計なことを考えると,すぐに分からなくなる.今日は特に,余計なことを考えることが多くて,ついつい内容の理解はおろそかになってしまった.反省.
6時半にラボを出て,シンフォニーホールへ.今回は,Hさんもお誘いして二人で行ってきた.本当は早めにラボを出て,リーガルシーフードで夕食をと思っていたのだが,Hさんが土日ラボに入れないので少し仕事をしてから行きたいということで,敢え無く断念.
今日の演目はモーツァルトの交響曲25番とピアノ協奏曲17番,ガンサー・シュラーの「パウル・クレーの主題による7つの習作」,ラヴェルの「ダフニスとクロエ・第2組曲」.
ピアノ独走はアルフレッド・ブレンデル.ブレンデルは写真で見るよりも大分老けていた.が,ピアノは素晴らしい.正直言って,最初の交響曲は少々冗長だったが,ブレンデルのピアノが入ったことで引き締まった.最後の曲は,ラヴェルのオーケストレーションの上手さが,ボストン交響楽団の演奏レベルの高さを一層引き立ててくれた.
但し残念だったのは,席がひどく悪かったこと.ギリギリになってチケットを取ったせいもあるが,とにかく周囲の人たちのマナーが悪い.始終せわしなく動いているし,しゃべったり席を立ったりするものさえいた.おそらく,学校か何かの課外活動の一環として来ていたのだろう.
席そのものの位置も,オーケストラから遠く,上に覆いがあるような場所だったので,音響的にも今ひとつだった.それでも一応,Hさんは満足してくれたようだったのが,せめてもの救いだった.次回はもっと良い席を取って,また行きましょうとお誘いする.
帰りは,万が一のことがあるといけないので,一旦僕のアパートに行き,車を出して家までお送りした.
2007 3・31 66
☆ エイプリルフールだから 昴
去ってから、あの人のことが好きだったんだなぁ、って気付くなんて、バカだなあ。
ロックが好き、絵本が好き、きれいな絵が好き、猫を飼っていた、ものづくりが好き、笑い飯(=こりゃ、何?)が好き、詩のボクシング(=こりゃ、何?) を学校祭でやったことがある、漫画が実はけっこう好き…話の合う要素がいろいろとあるなぁ。話の合う人が好きなんだから、好きになるに決まってるじゃない、ということに今まで気付いていなかったよ。遅いねぇ。
ああ、そうだ、人が幸せになるうそをつく人でもあったなぁ。それを一度、「茶化さないでください!」って言って怒ったことがあったなぁ。あれは悪いことをした。たぶん、何だこいつ、って思っただろうなぁ。
でも、ま、今の形のままで良かったんだけどね。淡い気持ちだけのほうが幸せさ。
でも、もうちょっと、視線送ったり何だり、しとけばよかったかなぁ。
と、書いてみて恥ずかしくなった。
さあ、今日も引っ越し作業があるぞ!!
* 転勤か何かで去っていった同僚の男先生のことだろうか。かわいらしい先生。
2007 4・1 67
☆ 家は壊しても、桜だけは。 福
桜博士、櫻男、桜守などと言われる笹部新太郎は
「家は壊しても、桜だけは残してほしい」
と死ぬ時に言い残した。
水上勉の小説『桜守』や白洲正子、いろんな人が笹部新太郎のことを書いている。
その旧笹部邸が桜守公園(岡本南公園)で、家のまん前。台所の窓から今、桜模様が拡がる。
ブルーシートを広げて興じる花見と違って、訪れる人は桜を見上げて、じっーと見入ったり、木の下にたたずんだり、ゆっくりゆっくり、ひと歩きしたり。待ちかねた人達がそれぞれ自分の、桜付き合いを愉しんでいる。私はここのところ、毎日、台所に立って窓を開けては感嘆。そして、人模様を眺めるのもオモシロイ。
たいそうな年齢の老夫婦が、桜に会いにやって来る。腰が相当に曲がっていて、杖をつきながら、老人がひとり黙々と木の下を桜を浴びながら歩を進める。
そういうのがこの桜の公園にはしっくり。
次男夫婦も八ヶ月の子供を連れて来た。
* 花は春、春は花。
☆ 在ボストン日本人研究者交流会 ハーバード 雄
朝一番に,先日購入のお約束をしたソファーベッドを,僕のアパートまで運ぶ.ソファーベッドをバラして車の屋根にくくりつけて運んで頂く.助手席に乗せて頂き,あれこれと世間話をする.
部屋にベッドを運び込み,組み立てる.最初に考えていた置き場所に設置をお手伝い頂いたのだが,なんとなく気に入らず,後で一人で置き場所を変えてみた.なかなかいい感じになった.
少し部屋でくつろいでから,マサチューセッツ工科大学(MIT)に行く.ボストン在住の研究者から成る団体に登録したのだが,今日はその会合がMITで開かれた.
今回の会の趣旨は,ボストンでPI(研究室主宰者)になられた5人の生物系研究者にパネリストとしてご参加いただき,ご自分がどのような研究をして来られ,どのようにしてPIになるチャンスを勝ち取られたのかを話して頂く,というものであった.質問も活発になされ,なかなか有意義な会だった.
多少意外だったのは,「たしかに発表論文のリストは大事ではあるが,それよりも,自分が5年後,10年後に何をしたいのかをはっきりさせ,それをアピールするような履歴書を書くことが重要」と,ほぼ全員がおっしゃっていたことだった.僕の周囲にはインパクトファクター至上主義者が多いだけに,やや理想論的な印象を受けたのだが,そうでもないのかもしれない.
さらに意外だったのは,会に参加していた方の多くは,日本には帰らずにアメリカでPIになりたいと思っていることだった.僕自身は日本でポジションを得たいと思っていたので,そうした人が大半かと思っていたのだが,そうでもないようだ.僕だけが意外に思ったのではなく,パネリストのお一人が逆に,「皆さんは日本には帰りたくないのか?」と聞き返しさえした.
なるほどと思ったのは,ボストンでの日本人のコミュニティーをもっと強力なものにさせることが,科学研究の上でも非常に大事だということだった.ユダヤ人や中国人,韓国人など,皆,積極的にそうしたコミュニティー作りをしている.そうして互いが顔見知りになっておくことが,コネクション作りにも大いに役立つということらしい.特にボストンには様々な素晴らしい研究機関が多いだけに,そうしたコネクションは科学研究にも大いに役立つということらしい.
会がお開きになってから,親睦会として開催された飲み会にも参加した.大学時代の研究室で知り合いだった方とバッタリ出会う.知らなかったが,2年前からボストンに来られているらしい.しかも,現在在籍されているラボは,僕が日本で籍を置く研究室と共同研究しているラボだった.改めて,世界は狭い.
他にも,何人かの日本人の方ともお知り合いになることができた.また,僕の所属するdepartmentで働いておられるPIの方もパネリストとしていらしていたので,ご挨拶させて頂いた.意外に気さくな方で,分野的にも非常に近いので,またhappy hourなどでお話させて頂きたい.
ビールを2杯飲んで酔っ払った.帰りがけに自宅近くのイタリアンでロブスターラビオリを食べ,またビールを1杯.すっかり酔っ払って,ついうたた寝してしまった.
* 雄くんは、東工大から東大の大学院に、そしてたぶん博士課程を経て、岡崎市にある、國の、ハイな研究機構で研究生活をしていた。
2007 4・1 67
☆ 心の評価 昴
「道徳」の時間が「徳育」という時間になるかもしれない。
今まで「教科外」だった道徳の時間と違って、徳育という時間は「教科内の授業」になるらしい。
ということは、授業時間「以外」の子どもの生活態度をも見て評価(○△×)していた道徳的行動の部分は、「授業の中だけで」見ればいいということだな。
ということは、授業中教師が「ごみはゴミ箱に必ず入れましょう」と言ったことに対して、「ゴミ箱に必ず入れなくてもいいじゃないですか」と発言し、放課後、廊下のごみを拾ってゴミ箱に入れているような、なんでも反発したがる思春期の子どもの心を、「授業の中だけで評価」すればいいんだな。しかも五段階で。
それでいいなら、いくらでもやってやるよ!
……ではないんだろうけど、極端なことを言えば、そういうことなんじゃない?
思春期の子どもの心は複雑だわ。厳密に評価なんてできないよ。
* 誰が誰に対して「心の評価」などできるものか。
自分自身の「心」に謙虚で謙遜でない者に、他人の「心」を支配目的で評価されてはたまらない。心ほど頼りにならないものは無い、だから心とは大切に付き合うしかないんですとだけ教えて欲しい。
そもそもいまの日本に、空洞化したむかしむかしからの儒教道徳を半端に強いるなど、アナクロも甚だしい。政治家のだれがどれほど儒学に触れているというのか。漢字すらまともに多くは読めない連中が国会に集まっている。代議士の顔をみれば、大方は、知性も感性も胴欲に摩り切った、だるい表情で脂ぎっている。そういう人たちが「教育」をさわり放題にいじくりまわして、手あか・手あぶらで汚してくれる。きちんとした国語を先生が立派につかい、ほんとうにすぐれた美と藝術とにちいさいときから多く触れあう機会をつくってあげるよう願いたい。「徳育」などと謂うから間違う。わたしの『日本を読む』の巻頭の一文字は、「徳」です、関係者は読んで欲しい。
2007 4・2 67
☆ AAA ボストン 雄
やってしまった...
昼頃,1週間分の食材を買いに行こうと地下駐車場に向かった.自分の車にたどり着くと,車内がほのかに明るい.「おや?」と思ったのだが,どうやら,一昨日Hさんをお送りした際,室内灯を点灯させたままにしていたらしい.
嫌な予感がしたが,案の定,バッテリーが上がってしまってエンジンがかからない.どうしよう...
仕方が無いので,日本のJAFに当たるAAA(トリプルAと読む)を呼んだ.事故やその他,何かトラブルが生じた際に助けてくれる団体である.年会費は日本と同じで1万円程度か.
1時間ほどで来るので,着いたら連絡するとのことだったが,1時間を過ぎても電話が鳴らない.仕方なく地下駐車場に降りたが誰もいない.地上に向かいつつAAAに再度電話をしながら外に出ると,アパートの敷地の外にAAAのマークのついた車が停まっていた.
運転席に座っている男は,僕を見るとうんざりしたような表情を浮かべ,「もう20分も待ってたんだぞ」という.「いや,こっちは聞いてないよ」と僕.とりあえず僕を助手席に乗せて地下駐車場まで向かうが,途中,天井の高さが低い場所があるため,その手前で車を置いて,僕の駐車スペースまで歩く.
バッテリーに電極のようなものをつなぐ.エンジンをかけろというので,エンジンをかけた.ようやくかかった.
‘All set!’と言い残すと,AAAの男はそそくさと帰ってしまった.
僕は車のことには全く疎いのだが,確か,或る程度走るとバッテリーがチャージされたような気がしたので,おそるおそるスーパーまで車を走らせた.
スーパーの鮮魚売り場では,僕の前の客が「Sushi Gradeの刺身をくれ」と言っていた.すると,奥の方から,パックされた上に冷凍されたブロックを店員が持ってきた.なるほど,こうすれば生で食べられる魚を買えるらしい.さっそく僕もお願いして,鮪の小さなブロックを買ってきた.
スーパーの駐車場でエンジンがかかるか不安だったが,なんとか無事にかかり,帰宅できた.やれやれ.
それにしても,日本では4年間ほど運転していて,JAFを呼んだことはないが,アメリカでは運転数回目にして呼んでしまった.しかも電話でのやり取りは当然英語ということで,日本以上にキツイ.
疲れてしまった.
* ハハハ。いろいろ、あるねえ。
2007 4・2 67
☆ 中に立つ 昴
「道徳」の問題と同じように、「国旗・君が代」の問題もある。
私は小学校の時に、君が代が歩んだ歴史、詞の意味を教えてもらってから、先生に、「歌うか、歌わないかは自分で決めなさい」と言われてから、ほぼずっと「君が代」を歌わずに来ている。
「君が代」の歌それ自体に大きな問題はないとしても、その歌が歩んできた歴史は惨憺たるものだ。
小学校の頃の先生の良いところは、その歌の意味、歴史を教えてから、歌わないこと或いは歌うことを強制せずに、子ども達に自分の頭で考えさせ、選ばせたことだ。これこそ「教育」だと思う。
ある物事を判断する時、自分の頭で考え、批判したり、選んだりする力をつけていくのが、教師の仕事なのだ。何かを強制したりすることは、教育ではない。
教師は中に立つ、中立であるべきだということが法律で決まっている。「君が代」を歌わせるのも歌わせないのも、中立の考えだとは思えない。
子どもに考えさせる、選ばせるということが教師の仕事であるべきだ。
なのに、「君が代」を強制させるのって、おかしいなと思う、んだけど…。
* 昴さんの自問自答に、「難しい問題ですね」とコメントしていた人がいた。わたしのマイミクさんではないので書き写すことはしないが、それも読んで含めて、わたしの思いを堅苦しく「昴」あてに書いてみた。
* 国歌と国旗と石原候補 湖
国際社会での現代国家であるからは、国旗も、国家も、必要です。
「日の丸」はデザインとして容認に足る優れたシンボルですし、「君が代」は***さんの謂われる「君 とは、私たち 一人ひとりだと今の私は感じています」ように受け取れば、ま、目くじらたてる歌詞ではありません。 (もっともこの和歌の歴史から謂うと、そんな理解は実は無理なんですが。またこの国歌や国旗の敗戦前までの近代史は、遺憾ながら多くの場合、侵略と支配との惨憺たるシンボル、加害のシンボルであったことも決して忘れてはならない反省ですが。)
ただし、国家権力や行政の圧力で、個々の「私民」に国歌国旗を強要するのは、基本的人権、思想信条の自由に対する犯罪的な侵害です。どんなことも、人が人に機械的に強要するのは、ゆるされぬ犯罪的行為です。そういう國の犯罪、行政の犯罪と闘うときに、胸の内で、一人一人の私民が「立つ」「立てる」よりどころとして親愛される、そういう国歌であり国旗でありたい。
「私の私」をなによりも優位に、その自立と安全に奉仕する「公」であるべきです。そうであってこそ、イザという時に「私」は「公=國」を信じ愛し護れるのであろうと思います。
国歌も国旗も、親愛のシンボルでこそあれ、「公」が「私」に強要してよい管理や締め付けの道具ではないと思うから、わたしは、さしあたり石原慎太郎氏の都知事「落選」をつよく希望しています。個々の考えでは共感するところも有る人ですが、根本で、彼は、「公」権力を私し悪用しているとわたしは観ています。
2007 4・3 67
☆ 年を取るということ 笠 e-OLD
年を取るということは、今までなんでもなく出来ていたことが、いつの間にかできなくなっていることらしい。若い頃は思いつくより先に体が動いた。しなければいけないことはケリがつくまで一心に出来た、と思う。
その若い頃どういう状況だったか、あるご老人に言われたことがある。
「おめぇも、年取りゃわかるよ」と。
もうお会いは出来ないが、
「はい、今になってずしんずしんとわかってまいりまし。」と最敬礼しても、
「ざまぁみやがれ」と笑われるだろう。
ある先輩は、「七十を過ぎると、何をするにも億劫になるよ。」と言っていた。
土屋文明は、「九十三の手足はかう重いものなのか思わざりき労らざり過ぎぬ」と。
みな誰でもはじめてその歳になって行くわけで、きっとまごまごしながら未知の老いの年々を実感して行くのだと思う。
この間行った診療所の受付で、やっと会計を済ませて診察券を受け取った。出口に向かいながら財布にしまう時、「やっ、これは、別のクリニックの診察券だ」と気づいた。どうりで受付のおねえさんが、いつもより余計ににこにこしていると思った。だまって返してくれたんだ。
☆ 「はかなさ」に惹かれて 福
『「はかなさ」と日本人 ~「無常」の日本精神史』 竹内 整一 (平凡社新書)
買おう買おうと思っていて、ようやく今日、購入。
ゆっくり読みたいなあ。
電車に乗り込み、ちょっとだけ、頁をペラペラめくってみた…。
あとがきに、
(マイミクの湖さん=)秦 恒平さんは、
もっとも愛読する現代作家のひとりです。
かつては「秦文学研究会」なるものを十数年開き、
本書の構想はその頃よりつながって…。
秦さん登場で、何かほっこりして、朝が早かったから「愉しみ」をバッグに仕舞い込み、うつらうつら、へ。
2007 4・4 67
☆ お風呂場の謡 香
くすりの後遺症で鬱々としてゐた。雲が晴れたやうに気持ちが明るくなる時があるけれど、すぐ、くらーくなつてしまふ。
欝を遣らふのに、大声で歌をうたふとよいと教へてくれた人がゐた。野中の一軒家ぢやない、長屋暮しだから大声なんか出せないと言つたら、カラオケ・ボックスなら大丈夫、附合つたげると親切なことだが、あれ、わたし、駄目。二、三度、連れてゆかれたことがあるが、まつぴら御免かうむりたい。
ふと、思ひついた。上下左右、他人の住まひで囲まれてゐるコンクリ長屋なので、お風呂場に窓がない。お風呂場でなら大きい声が出せる。それも昼間ならあたりの物音に紛れるだらう。
謡ひをうたふことにした。最初は「吉野天人」。花盛りの吉野山に降つてきた天人が舞ひ謡つて天へ帰つてゆくといふめでたい曲で、みじかいし、わたしが初めてのおさらひ会で謡はしてもらつた曲でもある。
「なうなう、あれなる人々は何事を仰せ候ぞ」といふ、シテ登場の呼びかけは、声だけが遠くからひゞいてくる感じと、師匠が何度も何度もお手本を示してくださつたつけ――。
一曲謡つたらすつきりしていゝ気持ち。
毎日、一曲、今の季節に合ふものを謡ふ。妄執がどうの、なんていふのはやらない。逃げちやう。
今日、謡つたのは「熊野(ゆや)」。お能の舞台だと、ヒロインの熊野は若い女のひとで、愁ひはあるものゝ牛車の作りものなど出て、華やかでです。
不安症からすつかり解放されたわけではないけれど、だいぶ、よい調子。
四月一日、河のや梅若寿家元に率ゐられて、花ざかりの桜並木の下、今風にいへばストリート・ダンス、そのかみは大道藝のご披露の一門の尾つぽにくつついて、舞はせてもらひました。最後は「かつぽれ」で締めて、おいしいビールを飲んで、これで欝はふつ飛んだと思ひきや……。うつくしい熊野さんのお蔭で少し、もちなほしました。
* 熊野といえば平宗盛。たぶん漱石自身もであろうが、『我輩は猫である』の苦沙弥先生は後架に入るときもちよく「これは平の宗盛なり」と唸るヘキがあり、近所から「宗盛せんせい」の異称を贈られていた。香さん、これは女漱石さまの風情ではある。
「熊野、松風に米の飯」とは、これが最良というより、最もなつかしい意味であろう。美女の熊野といえば清水坂、清水寺そして花は桜となる。梁塵秘抄にも、清水詣での道筋がさながらSの字を書くようにうたわれている。
能の熊野(ゆや)には後日談がある。南都を焼いた重衡が一ノ谷で生け捕りにされ、鎌倉へ送られる途中、熊野のすむ宿で彼女から「いたはし」と慰められ、はかない歌の贈答があった。
☆ ギリギリ息子 馨
今日は娘の入学式ですが、息子の初めての誕生日でもあります。
1歳になる息子は、いろいろな発育過程が微妙に娘と違っておもしろい。
まず、自分で食べようとしない。お腹がすいたら大騒ぎして泣きわめくのに、口を開けて待っているだけで、目の前に食べ物を置かれても手で遊ぶのみで、決して口に入れようとしません。この点、5ヶ月くらいから自分で食べたがった姉とは大違い。
それから、伝い歩きの方がハイハイよりずっと後でした。娘はほぼ同時だったのですが、これは我が家のリビングにあまり伝い歩きする家具がないからかも。娘の時はもう少し子どもの小回りが利いた家にいたので。
でも、娘と同じだなー、と思うのは歩くよりも先に階段を上ってしまったこと。まだ上らないだろう、と下に子どもを置いたまま私が上に行って家事をしていると「ふっ、ふっ」というかけ声が近づいてきて、ニコニコ顔がバー! 以来、一人で階下に置いていかれなくなりました…。
もう一つ、娘と同じなのが、我が家ではお風呂が沸くと音がなるのですが、その効果音に合わせて、楽しそうに踊る(というか体を揺らせる)こと。娘はこれ、3歳近くまでやっていたので懐かしい。
こんな、息子ですが、昨日、突然4歩、歩きました。
それから、突然、目の前にあるパンを手に取って口に入れました。
明日から1歳になると思うと覚悟が違うのかしらん・・・。
一応「歩いたのは何ヶ月?」という質問に、「11ヶ月」とか「1歳前」とか数字の上では答えられる日付ではあるけれど、こんなギリギリ、母はイヤだなぁ。
進学も就職も全部ギリギリだった自分を見ているみたいだゾ。
ちなみに、鎌倉市の「お誕生前検診」(お誕生前日までの検診)、ギリギリ人生の母は昨日連れて行きました。息子のかかりつけのお医者様では基本的に検診は水曜日なのですが、検診期間のこのひと月、ずっと水曜日に予定が入り続けて、3週間前の時点で、行かれるのは4/4しかないということが判明。ドキドキしながらも体調に気をつけて昨日つれていきました。これって、まさにギリギリ。顔なじみの受付のおばさんにも「危なかったねー」と言われ…。この親だから強くはいえないんだけど、頼むから余裕を持った大人になってね。
さて、今日はこれから入学式。
夕べの雨のあとだけれど桜どれくらい残っているかしらん。
* おめでとう!! 満開。
* マイミクが41人。「mixi」では、この41人が、今日はどんな日記を書いているか一覧で示してくれる。だれもが毎日毎日書くわけでないから、目を配れば、新着分はすぐ分かる。読み甲斐のあるのもないのも有るのはあたりまえだし、読み甲斐のある、琴線に触れてくる、そして差し支えのない人のものだけを、過度にならない程度に時として此処へ貰ってくる。「マイミク」制の利用の仕甲斐は、あらかじめ心親しい人の書かれた気持ちや暮らしがわたしにも想い描けていること。こんな我が儘をゆるしていただけること。感謝しています。楽しんでいます。そしてこれもまたわたしの生活、わたしの視野、わたしの安定剤。
いわゆる電子メールの方は、時には何十とくる全部が「spam」で、もっぱら削除の手間がかかるだけ。開くのも物憂くて、ときたまの嬉しい呼びかけすら「珍しいなあ」という気分。それにしても「spam」の洪水には、その虚しい浪費には、ほとほと呆れて声もない。
2007 4・5 67
* 今朝もマイミクさん三人の「いい言葉」がはるか離れた三方から飛び込んできている。世の中のこと、一概に観ていると世界を偏頗にする。それがよく分かる。どの一つもみなわたしの胸の内で溶融し燃焼してちからになる。いまわたしは、考慮のあげく「mixi」をこのように享受している。自分からは「mixi」へ発信していない。「私語」との二重手間は避けたいから。
☆ 大成駒(屋)のゐなくなつた日 香
昨日、東京は雪だつたといふ。テレビは千鳥ヶ淵の櫻に降る雪を見せてくれた。雪か櫻か白いものが水の上を舞ひ、水に吸はれて行つた。
大成駒――歌右衛門の逝つた日もさうだつた。調べてみたら、もう六年も前になる。
その年の三月最後の日、わたしは東京駅に近いビルの何階だつたか、高いところにゐた。窓から外を見おろすと、いつもより暗いゆふべのほのあかりに、白々浮かぶ花盛りの桜に雪が降つてゐた。何だかぞくぞくするやうなうつくしさだつた。
夜になつて雪は止み、ぬぐつたやうに晴れた夜空に半月が皓々と照りわたつた。外に出てみると、雪を被(かづ)いた櫻がしんと発光し、はなびらとも雪とも知れない光の粒を零してゐた。歌舞伎の舞踊劇『積恋雪関扉(つもるこひ・ゆきのせきのと)』そのまゝの光景だつた。
目の前の、月にかゞやく花景色雪景色に、かつて観たうつくしくもあやしい舞台が重なり、ぼうと見惚れたあの日、あとで知つたことだけれど、「関の扉」のヒロイン墨染櫻の精を当り役のひとつにしていた、当代の名女形六世中村歌右衛門がしづかにあちら側へ旅立ってゐた――。
彼女、いや、大成駒を最後に観たのは、『井伊大老』のお静だつた。もう、足がたいさう弱つてゐて、あまり、動きのない役なのに、立つたり坐つたりするとき、文机か何かに手をつくのが痛々しくあはれで悲しかつた。
この時、直弼を演じたのは吉右衛門、彼の父白鸚が最後につとめたのも、この直弼役だつた。この時もお静は歌右衛門だつた。
北條秀司作の『井伊大老』は、時間を、桜田門外の変の前夜に限られてゐる。直弼はこのあと、数時間しか生きてゐなかつた。一夜明けて屋敷を出るとき、直弼は花ざかりの櫻と、霏々と降る雪とを見たらう。あるいは兇刃にたふれた時、目に映つたのが雪の櫻、などとかんがへてゐると、雪を被く櫻のもとに泣きくづれる歌右衛門のお静が見えてくる。
* 『井伊大老』は、しんしんと静かな感動深い舞台で、わたしは今の幸四郎の父白鸚が井伊大老を演じてまさにそれが最期ともいえる舞台を、歌右衛門のお静役で観てきた。総身のそそけだつほどの感動が、広い二人きりの歌舞伎座の舞台から雪の積むように伝わってきた。
「香」さんの文、全て旧仮名遣いであることにも、注目。
☆ しゅぎょう 槇
明日、我が家に10人の来客がある。
そこで、慌てて障子と畳の入れ替えをした。
新しい畳の香りが、心まで綺麗にしてくれる。それは、ウソだが。。。
畳の臭いで心が綺麗になるほど、簡単じゃない。
が、
気持ちがいいのは、間違いない!!
畳は素材に少々こだわって、広島の備後にした。実に香りが良い。自己満足に過ぎないのだがね。
さて、自己満足に浸ってばかりおれぬ。これから明日の準備にかからねば。
前泊組みもいるので、今晩の夕食は、どうしよう?
明日の朝食は?
明日の昼は、私たち夫婦も入れて12名分だね。
そして、夕食は?
翌朝の泊組の朝食は?
お昼までいるだろうから、昼食は、出前でいいかな???
料理のことで頭がパンク寸前です。
家事全般において「青葉マーク」の私。まさに、「しゅぎょう中」です。
この『しゅぎょう』を楽しめるかが、大事。
いまのところ、パンク寸前を「わっはっは~」と、笑ってます。
今日の昼には、旦那さんのお母さんがやってくる。
これからケーキを焼きます♪
* 日本中に、こういう、健康で幸せいっぱいの若奥さんの日々も在る。テレビの中にばかり日本があるのではない、あっちが幻像。
☆ 光で行動を制御する バーバード 雄
今朝も電気生理の準備.
予想されたことだが,今の設備では足りない部品がいくつかあることが分かった.酸素ボンベに取り付けるレギュレーターが見当たらない.
JCは,「最後に貸してくれといったのはアンドレイだったから,あいつが持っていったまま返さないんだ」と言って,アンドレイのいる部屋に向かう.
アンドレイは,最初は「分かった分かった」と言っていたのだが,時間が経つにつれ,「いや,僕は知らない」という.珍しくJCが語気を荒げて「俺が知っている限りでは,これを貸してくれと言ったのは,お前が最後だ.借りたものを返さないのなら,この部屋には出入りするな」と言う.普段,怒った顔を見たことがないJCらしからぬ勢いに,驚く.
すごすごと引き下がったアンドレイは,自分の部屋からレギュレーターを持ってきて取り付けようとした.だが,そこでアンドレイが「JC!」と呼びかける.何だろうと思ったら,機械の陰から,失ったはずのレギュレーターが出てきた.単に,日ごろ実験室を乱雑に使っているJCの記憶違いだったのだ.さすがにJCもバツが悪いのか,謝りもせず,憮然としていた.
ただし,残念ながら,見つかったレギュレーターは壊れていて,結局,新しく買いなおすこととなった.
セットアップの傍ら,インターネットのスポーツ実況のサイトでレッドソックスの試合の実況中継を確認する.松坂は,無事,初戦を白星で飾ることができたようだ.普段,ベースボールの話題はほとんど上らないのだが,意外にもラボにはレッドソックスファンが多いらしい.
実験の合間に,科学雑誌「ネイチャー」の今週号を読む.「ネイチャー」は毎週木曜日に発刊される.「サイエンス」は金曜日.「セル」は隔週の金曜日に発刊される.木曜と金曜には,一通り目次だけでも目を通すのが習慣となっている.
今週号の目玉は,光で神経細胞の活動を制御してしまうというもの.
藻類から見つかったチャネルロドプシンとよばれるタンパク質は,光を当てるとイオンが(を? 秦)流す働きを持っている.今回使われていたチャネルロドプシンは2種類で,ChR2とNpHRと、それぞれ名づけられた分子.
ChR2を細胞に発現させ,青い光を当てると,ナトリウムイオンが細胞の中に流れ込み,カリウムイオンが細胞の外に流れ出る.こうすると,細胞の膜電位と呼ばれるものが上昇する.神経細胞などでは,ある閾値まで膜電位が上昇すると,活動電位と呼ばれる急激な膜電位上昇が起こる.平たく言うと,これが「神経が興奮した」ということになる.
NpHRを発現させた細胞では,黄色い光を当てると塩化物イオンが細胞の中に流れ込み,ChR2の場合とは逆に,膜電位は減少する.これは神経細胞の場合で言えば,「神経の興奮を抑えた」ということになる.
分かりにくくなってしまったが,要するに「ChR2は青い光を当てると細胞を興奮させることができるし,NpHRは黄色い光を当てると細胞の興奮を抑制できる」ということである.
これらの分子をマウスの神経細胞に発現させたところ,確かに青い光を当てると神経細胞が興奮し,黄色い光を当てると抑制されることが確かめられた.
圧巻は最後の実験で,C.エレガンスという線虫の神経にNpHRを発現させた実験.
Cエレガンスは体が透明なので,外から光を当てれば,神経細胞にまで光が到達する.しかも,神経細胞が一個体当たり何個あって,どんな風に結合しているのかも,大体分かっている.
NpHRを発現させたC.エレガンスは,暗闇の中では普通に動くことができる.しかし,黄色い光を当てた途端,固まって動けなくなってしまう.筋肉を動かすための神経細胞が,活動できなくなってしまうからだ.
この論文の結果は,ChR2やNpHRが藻類から見つかった時点で,ある程度予想されたものではある.しかし,ここまで見事にやってあると素晴らしい.
実は,先日のコールドスプリングハーバー研究所でのシンポジウムで,この研究の発表があったらしい.
基本的にコールドスプリングハーバーのシンポジウムや「ゴードン会議」と呼ばれるシンポジウムでは,まだ論文になっていない最新の成果を発表することが求められている.その代わり,聞いたことを他所でしゃべってはいけない.論文になって初めて,成果として認められるからだ.
シンポジウムに参加していたライアンが,昨日,その時のビデオ(コールドスプリングハーバーのウェブサイトに載っていて,シンポジウムの参加者のみがパスワードを用いて閲覧することができる)を見せてくれた.光を当てると線虫が動けなくなる様子をビデオで流していた.やはり圧巻だった.
光で神経回路を操れるというのは,なんだかゾンビのようだ.気味悪く思われる人も多いだろう.
しかし,神経回路を解析するツールとしては,非常に有効な手法だと思う.医療への応用でも,神経がうまく働かない人への遺伝子治療に用いることで,動かなかった手や足を動かせるようになるかもしれない.勿論,そのためには,もっと神経回路の研究が進まないと難しいが.
帰りはポーターに寄って,Kotobukiyaで日本食材を購入.Tで帰宅.
* こういうのを読ませて貰うと、理解は遠く及ばなくてもゾクゾクする。
「香」「槇」「雄」お三人の日記を読んでいると、人間の世界は広大無辺だと嬉しくなる。そしていくらか謙遜になれる。
2007 4・6 67
☆ 長電話 ボストン 雄
昨日遅めに寝たにも関わらず,今朝はかなり早くに目が覚めた.食事をした後,ブロードキャスターで松坂特集を見ていると,skypeの着信音が.重太郎さんからだった.
ここ最近,気分がふさぎがちで,相談に乗ってくれる人が欲しかった.正直言って,日記を書ける精神状態ではなかった.この1週間は手抜き日記でした.すみません.
たまりかねて,skype仲間であり,マイミクでもある重太郎さんにお願いしたところ,快く土曜の夕方(こちらの時間では土曜の午前中)を割いてくださった.
話しまくった.トータル2時間くらい話したのではないだろうか.今の悩み事に始まり,昔の共通の知人の近況など,話しに話した.おかげで,頭を大分整理させることができたと思う.本当に有難う >重太郎さん.
電話を切ってから,今月末にシンフォニーホールで開かれるエフゲニー・キーシンのピアノコンサートのチケットを注文した.幸い,まあまあ良い席を確保することができた.
キーシンのコンサートは,とにかくアンコールが盛りだくさんで,サービス満点であることで有名.こちらに来てシンフォニーホールには何度も足を運んでいるが,意外なことに,一度もアンコールをやってくれたことがない.ホールの閉館時間の問題なのか,それとも,そういう習慣はないということか.キーシンのコンサートでアンコールをやってくれることを密かに期待.
午後は録画しておいた日本のテレビ番組を観たり,簡単な買い物をしたりして過ごす.
夕方には,大学院時代の同級生からメール.愛知に行く前年に一緒にやっていたテーマがようやく論文として形になりそうということで,改訂された原稿が送られてきた.読んで気づいた点をメール.
* 「重太郎」くんはわたしの大事なマイミク。大学のころ、というよりもう「雄」くんが東工大の学部から東大の院に行ったかまだかという頃、大学の帰りがけ三人一緒になり、目黒駅ビルの地下で、カウンターに並んで賑やかに食事したことがある。「雄」くんと飯を食ったのはあれが初めてだったろう、学生の二人は同じ研究室仲間だった。
今度、彼の念願だったボストン往きがきまり、発つまぎわ、わたしは彼を「mixi」に誘いいれ、「日記」をすすめた。もうむかし「重太郎」くんもドイツから週一度の日記便を欠かさなかったのを懐かしく覚えていたから。
「雄」が旅立ったあと、わたしは「重太郎」も「mixi」に誘い入れた。二人が連絡をとりあうかどうかは二人に任せておいたが、ちゃんと連絡できていると「重太郎」が教えてくれた。よしよしと、わたしは嬉しかった。
「重太郎」はヨーロッパにいる。「雄」はアメリカにいる。わたし「湖」は東京にいる。広大な三角形を成しながらお互いに瞬時に疏通できる。なんということだろう。「雄」の日記は生き生きと具体的で、楽しませて貰っているのはわたしたちだけではない。植物学の篤実な研究者「MAOKAT」さんは、「雄」の日記がおもしろくてと、マイミク同士になったのを知らせてきてくれた。「重太郎」にも、書ければのびのびと書いて欲しいな。
2007 4・8 67
☆ 筍 泉
季節物、恒例の若竹煮、木の芽和え、筍ご飯の用意をしました。残念、まだ九州産しか出ていません。
京都西山、善峰(よしみね)さんの参道で、初物筍のお値段の高かったこと。
仕事休みの三日間、義弟が車のサービスをしてくれたので、存分に京の桜巡りが出来ました。
到着の日は、山科から、長閑な井手の里へ地蔵禅寺の枝垂れ桜を観に走り、夕刻、八幡の麓で背割り桜を観る頃は、寒くて首をすくめていました。
翌日、京都新聞の桜情報に、丹後山国の「常照皇寺」も満開て書いてると、弟が。たしかあそこは市内よりは二十日は遅い筈やと、首を傾げながらも、ばたばたと忙しくしていた妹と、確かめもせず、まあ、ドライブや、行ってみよか、と延々と走って山国へ。
咲いているワケがなく、奥深い山は、まだ微笑だにしていない。義弟とお寺の庭師さんとの、
「新聞に満開て書いたりましたで」
「新聞社は観にも来んと勝手に書かはんにゃわ」
なんてやり取りを聴いていましたが・・・心密かに読めてきたので、帰宅後、新聞で確かめると、満開は「嵯峨野の常寂光寺」でした。ジャジャーン
では、とそのまま西山の善峰さんへと走り、午後は天候に恵まれて、明るい京都盆地を手に取るように眺め、何本かの満開の枝垂れを観ました。
いつも混雑の嵐山は車で通り過ぎるだけですが、京都ならではの、虚空蔵さんの十三参りの子に沢山出会い、これはいい風情です。
亀山をバックの渡月橋の景色の佳さは、何度も観ているのに、「ええなあっ」て感嘆の声が出ます。少し離れた大覚寺が空いているのを知っていて、大沢の池を一めぐり、のんびりと散策です。
翌日、混まない内にと朝早やに醍醐寺へ。去年は晴天に映える最高の桜を観ているので、曇り空の今年はやや落ち着いて。
山科から大石内蔵助が伏見へ出るに使ったという狭い近道で七条に出て、第一目的の泉山(せんざん)へ。
あと何年、こうして京都へお墓参りに帰れるかな、と日吉ヶ丘の母校を眺めながら物想い。そして帰りはついでに、山科毘沙門さんへ。
車に乗らない一日は、蹴上からの散策。今回はインクラインにも登り、荒れたプール跡を見て弥栄中学の水泳大会を思い出し、岡崎から平安神宮、そして粟田坂下、三条角の「お福」で美味しいおうどんを食べるのも、目的。
青連院への道を選ばず、白川筋から光秀首塚に頭を下げて、古門前の坂を登って、知恩院へ。
円山公園、左阿彌の辺りでゆっくりと休んで、祇園、辰巳橋を抜けるのも、いつも通り。
四条から三条までは賀茂川べりの遊歩道を。そして宿近く、山科からは疎水端の桜を観ながらの桜ずくしでした。
筍ご飯が炊けたようで。オヤカマッサンドシタ。
* どこもかしこも、自分の眼で景色が、花の風情が偲べる。
* いつのまにか日付が変わっている。
2007 4・8 67
☆ 微妙な年齢? 馨
入学してちょっと「お姉さん」の自覚がでてきたのか、娘が最近、少し難しいことを聞いてくるようになりました。
先日、夕飯を食べようと着席した時のこと。
娘が突然「ねー、人間ってなんで生きてるの?」
???
「えーと、それは何を食べてっていうこと?」
「ううん、どうして生きてるの?」
うーん、もうこういう質問が出る年齢になったのかしら。ちょっと早いような気もするのだけど。
私は子ども向けに上手にかわすのができない性格で、たいていのことは直球勝負で打ち返してしまうので、今回も大人と会話するようにストレートに回答。
「いろんな人がずーっとそういうことを考えてきて『哲学』というお勉強もできているし、『宗教』っていうのもある。でも一つの答えはないんだって。ずっとその質問を考え続けてごらんよ」
「えー、いやだぁ。どうして答えがないのー」
「世の中、答えがないことも多いの。でも、考え続けるっていうのが大事なことなの。人生、これからはそういうことが多いんだよ。」
よい対応だったかどうかわかりませんが・・・。
そして、昨日。
主人と、何時頃選挙に行く? と相談していると突然
「どうして選挙ってするの?」
これまたストレートに打ち返してしまう私。
「国民の義務だから」
ここでかつて「おべんきょ」のできた主人が、訂正。
「選挙は義務じゃないよ、権利。そんなこといったら現代社会の試験で×つくよ」
「へぇー、義務だと思ってた…。現社なんて寝てたもの(言い訳です)。」
「罰則ないでしょ」
「労働の義務だって罰則ないよ。あれと同じじゃないの?」
「違います!」
と、話は横道にそれて行きましたが、その後選挙に行く道々、娘から質問攻めにあい、なぜ選挙をするのかから始まり、守秘義務だのなんだのまで説明し続けました。
自分自身が同じ年頃の頃は、読んだ本の主人公になりきっていたり、虫をずーっとながめてたりと、ぼんやりした子どもだったので、あまりにも違いすぎて、この年頃の子どものこういう質問にどう対応してよいのか…難しい。
でも、鋭い質問をしてくる一方でこんな一面も。
まだ春の浅い頃、雨戸を立てていたら夕焼けの中に星が見えたので「一番星が見えるよー」と声をかけると
「ひかるクンの星だね」
「・・・・」
「お葬式で、パパが『一番星になった』って言ってたもん」
そうだね。
一緒に卒園式を迎えることはできなかったけど、今でもずっとお友達だよね。
ひかる君のパパとママに、時が優しく流れて行ってくれますように。
二人でしばらく一番星を見ていました。
* 仏陀もイエスも老子も、答えられない質問には「沈黙」で答えていた。
「世の中、答えがないことも多いの。でも、考え続けるっていうのが大事なことなの。人生、これからはそういうことが多いんだよ。」
優れた対応だと思った。選挙のことも。一番星も。みんなで お幸せに。
* 夕日子にも幼稚園のころ、上の、「ひかる君」と同じようなお友達がいた。その夏京都へみんなで帰り、ビルの屋上で大文字をみたとき、すぐ東の山原にも大谷墓地に無数の送り火が燃えていた。夕日子は火の色にしろい顔を真向けて、涙をこぼしながら事故でなくなった仲良しを彼方へ見送っていた。『みごもりの湖」だったろうか、それを書き込んだ。わたしは今、十九で逝ってしまった孫のやす香を想っている。
☆ 都知事選,恩師の退官 雄 ボストン
日本のニュースによれば,都知事選は石原慎太郎の圧勝だったらしい.
何故,こんなことになるのか,僕には残念でならない.ただでさえ,あの傲慢な言動や周辺諸国への不必要なまでに刺激的な発言を,あと4年間も耳にしなくてはならないのかと思うと,うんざりする.かといって適当な候補者がいたかというと,それも僕には疑わしい.
まあ,僕の日記を読んでくださっている方の中には少なからず関係する人もいるし,あまり過激な発言は,ここでは慎みたい.なにしろ僕は東京を5年以上も離れ,今では海外で生活しており,完全に蚊帳の外だ.ただ,生まれ育った東京の行く末のことを考えると,暗い気持ちになる.
昼頃,メールをチェックしていたら,大学院時代の恩師の退官記念パーティーの写真や同門会の名簿が送られてきた.あまりにも大勢の参加者があったため,集合写真は一人一人の顔がほとんど判別できないほどだった.しかし,スナップ写真の中には,懐かしい顔がたくさん見える.大きく変わった人もいれば,昔と何も変わっていない人もいる.子連れで参加している人もいた.3月末ということで,1月に渡米したばかりの僕は参加できなかったが,できることなら参加したかった.
在籍していた頃は,研究室が嫌でたまらない時期もあったが,こうして今写真を見ると,とても懐かしい.僕の人生の中でも確実に重要な数年間を過ごした場所であり,そこでの多くの人との出会いは,僕の中で確実に大きな財産となっている.
教授は退官後も,4月から別の研究所に移って研究を続けておられる.お体に気をつけていただいて,これからもご活躍して頂きたいと思う.
2007 4・9 67
* 秒読みの碁を打っている気分。「湖の本」発送前は、だいたいそんなもの。
碁といえば、機械のなかの十段階にレベルをわけた「相手」の、もうよほど以前だが、「最強」と断ってある第十レベルにいきなり気軽に挑戦し、苦戦して一敗したのが、機械でいろいろ碁を打って敗戦した最初だった。ほかの囲碁ソフトでは六子まで置かせて一敗もしていなかった。この負けは刺激になった。
で、初心に返り第一レベルから打ち直しはじめたが、第九レベルの白番までお話にもならない勝ち勝負の連続で気抜けがした。第九レベルの白番ですら盤上に相手黒番の生きた石は一つもなくなった。よほど弱い。面白くもない。いよいよ、「最強」とことわってある「レベル十」に再度挑んでみよう。眠気覚ましには、ちょうど、いい。
そうはいってもわたしは勝負事が好きなのではない。機械を相手に麻雀もときには打つが、眠気覚まし以外の目的ではない。碁は一番、麻雀は半荘しかしない。
2007 4・11 67
☆ Skyler Fox 雄 ハーバード
大学院時代の同期と共同でやっていた研究の論文改訂作業で,昨日は3時過ぎまで起きて取り組んでいた.なにしろ膨大な量のデータであり,文章も長いので,なかなか読み終えられない.一日を争う状況であることは重々承知しているものの,さすがに体力の限界で,途中までの部分をメールで送った.
今朝は毎週恒例のプログレスレポート.朝7時起きは辛い.中国人大学院生ジュ・リュウの論文が投稿間近ということで,特別に余分に発表が回ってきたらしい.もう何度も彼の話は聞いているが,未だにまともに理解できない.そもそも,理解しようという意欲が僕にはあまり湧かない内容だ.
しかし,一部の人たちにはエキサイティングらしく,わざわざMITから聞きにくる女性研究者もいる.明らかに他の人は興味がなくて,早く終わって欲しいと思っていても,一端彼女が質問しだすと止まらない.
セミナーを終えて居室に戻ると,隣のラボの秘書からメールが入っていた.昨日からラボを休んで,奥さんの出産に立ち会っていたマイクから連絡があり,無事,女の子が生まれたとのこと.名前はSkyler.
実は,ここ最近,マイクの子供の名前を当てるというのが,ラボ内で盛り上がっていた.マイクがいくつかヒントを出し,それを元に皆がそれぞれ思いついた名前をホワイトボードに書き込んでいた.ヒントの例は,「6文字」「母音は2つ」「聖書に出てくる名前を踏まえている」など.
なんと正解者がいた.ライアンだった.メールを見たライアンは大喜びしていた.ライアンとマイクは日ごろから仲が良いから,もしかしてライアンのつけたのをそっくり頂いてしまったのではないか,とさえ思ってしまった.
マイクが良く話していたのだが,Foxという姓は女性の名前にとっては非常に難しいらしい.少し魅力的な名前をつけると,たちまちヘンに名前になってしまうのだそうだ.
どんな名前が良いかというのは本当に難しい.皆が口々に誰の名前が良いかなどを語っていたが,僕にはさっぱり分からない.日本人の名前さえ良く分からないのに,外人の名前など,さっぱりだ.
実験を終えてアパートに戻ると,実家からの荷物が届いていた.各種書類に混じって,妹の結婚式の写真も入っていた.新郎の親戚が作っているという「南関そうめん」の入った木箱も入っていた. 2007 4・11 67
* 「用」の手紙・メールと、「用でない」手紙・メールとは、はっきりちがう。しかもふだんに手紙・メールをかわす同士には、通底して微妙に「用」のないわけがない。「用でない」手紙・メールは聡明に書かれれば「恋文かのよう」に心親しい価値になるものだと、まだ電子メールが世間に広まりきらない頃、わたしは雑誌「ミセス」に書いたことがある。ふしぎに微妙な「架け橋」のような「用」が、信愛を可能にする。
だが双方に、或いは片方に本質的に「用のない」手紙やメールは生彩にとぼしくなり、つまり、装ったご挨拶におわる。「用でない」佳い手紙やメールはいわゆる作文に終わらず「文学」に接して行く。
それに気づいているから、わたしは、一視同仁、人様のメールを「お許し願って」此処に書き写したりもする。
2007 4・12 67
☆ 見逃した松坂対イチロー ボストン 雄
今日は,ボストンレッドソックスの本拠地であるフェンウェイパークで,シアトルマリナーズとの試合が行われるらしい.
シアトルマリナーズといえばイチローということで,どうしても松坂対イチローという対戦に注目が集まる.今朝のニュースでも,かなり大きく取り上げられていた.
二人の対決もさることながら,日本のメディアの取材攻勢に関しても、とても大きく取り上げられていた.100人以上のメディアが押しかけてくるというのは,尋常ではない.
メディアもそうだが,この試合を見るために日本からわざわざ見に来られた人もあるだろう.この寒いのに球場で観戦など,僕にはとてもではないが,無理だ.
昨日も前日に引き続き,夜中3時近くまで論文の原稿を読んでいた.それでも読み終えられず,朝,ラボに向かうバスの中でもひたすら読む.マウスの手術を終えてから再び読み始め,昼前にようやくコメントを書き終え、メールで送信.
Hさんと一緒に,ロースクールのカフェテリアで遅めの昼食を摂る.昨日実家から送ってきた南関そうめんを少しお分けする.
戻ってきてから実験に取り掛かる.今日は新しい手法を取り入れてみた、が,色素自体は非常に綺麗に細胞に入っているのに,神経細胞の活動は依然見えない.どうしたものか.
こちらの夜7時から,レッドソックス対マリナーズの試合が始まるということで,6時半にはそそくさとラボを後にし,自宅近くの中華料理屋で夕食を買い込んで帰宅.松坂に興味は無いといいつつも,これだけアメリカのメディアで松坂が取り上げられていると,単に松坂個人の問題でなく,日本人として見ずにはいられない気分になる.
家にたどり着いた時は既に試合が始まっていた.残念ながら,最初のイチローとの対戦は見逃した.それでも,この時間にリアルタイムで試合が見られるのは嬉しい.日本では朝8時に試合が始まるわけだから,普通の勤め人は容易に見られないだろう.ただし,研究者はフレックスタイム制が多いので,人によって出勤を遅らせてでも見たかもしれない.
と思ったのだが,意外な落とし穴があることも分かった.
当たり前だが,実況が全て英語なので,良く理解できない.英語と日本語では野球用語も若干違うし,カウントなど数字がたくさん入るので,即座に理解し難い.これも意外,アウトカウントやストライクなどの表示も日本と順番が逆だったりするので,画面上の数字が何を意味しているのか,今ひとつしっくりこない.
2回から松坂のピッチングを見た、だが,どうもピリっとしない.あっという間に1点取られていた.しきりに指先に息をかけるしぐさをしていた.やはり相当寒いに違いない.日中だって寒いのだ.ナイターなんて馬鹿げている.
イチローはなんとかしのいだようだが,城島の存在が大きかったようだ.考えてみれば,松坂と最も対戦しているのは,イチローでなく城島だ.実際,試合でもかなり良いアタリが見られた.
攻守変わってレッドソックスの攻撃となるが,当たり前だが選手のほとんどを知らないので,今ひとつ興味が湧かない.どうしても他のところに興味が行ってしまう.キャッチャーやバッターの後ろに,各企業が広告を出しているが,いたるところに日本語が見える.これも「松坂効果」なのだろう、が,果たしてどんなものか.日本人は嬉しく思うかもしれないが,他国の人たちの目にはどう映るのだろう.全く個人的な意見だが,例えば国技館にモンゴル語で書かれた垂れ幕がいたるところにかかっていたとしたら,日本人はこれをどう受け取るだろうね?
そんなことを考えながら,ソファーベッドに寝転んで観戦していたが,ふと気づくと寝入っていた.
起きた時には既に試合は終了していた.結局レッドソックスが負け,松坂は地元初試合で敗戦を喫したらしい.イチローとの対決は全く見られなかった.何のために早く帰宅したんだか.
妙な姿勢で寝ていたので,今は,体中痛い.
* わたしも少しだけ試合を観ていたが、イチローにも松坂にも不本意な心の寒い試合であったろう。「雄」君の指摘の通り、「ナイター」なんてバカげている。二階に上がり、仕事していた。
2007 4・12 67
* マイミクの「かめ」さんが、梅若六郎の、能楽堂でない舞台での「道成寺」を観てきたことを書いていた。能楽堂でない場所での「道成寺」はわたしは観たことがない。
* わたしは一昨日 歌舞伎座で仁左衛門と勘三郎の「男女道成寺」を観てきました。
むかしから思ってきました、なぜ「道成寺」がこうも国民、的に愛されるのだろうと。
わたしは蛇が大の大のイヤな人ですのに、道成寺には、どんなジャンルでも惹かれるのです。活字では「虫ヘン」の字がゾクッと目につくくせに、わたしは「蛇」を主題に人間社会の「差別」意識や行為への批判を、小説ででも何度も何度も書き継いできました。
「道成寺の藝」を宿命のように背負ってきた人たちの「歴史」をわたしは思います。能も歌舞伎も音曲も絵も。
「蛇」の問題をグローバルに共同で考えて行かないか、神話、伝説、民俗、文学、美術、デザイン、信仰などの広い範囲からと、環太平洋ペン大会で演説したこともあります。
女の思い、男の思いから「道成寺」が、「清姫」が、「花子」がどんな意味をもつだろうかと、『日高川清姫』という名画を描いた村上華岳を『墨牡丹』という小説に書いたこともありました。
女の名に「花子」とか「清姫」とか美しく名付けてこの物語を流布した人たちの思いにも、つよく惹かれています。 湖
2007 4・15 67
* もう日付が変わってしまった。「雄」くんのチャーハンが旨そうだ。
☆ ダウンタウンへ ボストン 雄
このところ,週末は自宅に籠もっていることが多かった.なにしろ寒かった,外出する気分でもなかった.
最近になって,大分暖かくなったので,今日は洗濯と掃除を済ませた後,昼から外出し、チャイナタウンに行ってきた.
ボイルストンで下車し,地上に出るとすぐボストンコモンが目に入った.大きな広場だ.広場というか,何もない.中央に,ちょっとした建物があり,バンドが演奏していた.
オレンジラインでチャイナタウンという駅もあるのだが,オレンジラインの治安が悪いらしいので敬遠した.それでも,ボイルストンからチャイナタウンの駅までの間には,**がたむろしている場所が2箇所もあり,あまり雰囲気は良くなかった.
チャイナタウンそのものも,決して治安が良いとはいえないため,今まで行くのを躊躇していた.昼間は大丈夫だが,雰囲気は決して良くない.規模は横浜などに比べると大分小さい.神戸のそれと比較しても,まだ小さいのではないか? 雰囲気は、しかし,充分にアジア的.
どこで昼食を摂るか迷ったが,結局「小桃園 海鮮菜館」へ.ワンタン麺とあんかけチャーハンを注文.ワンタン麺だけでよかったのだが,あまりに安かったので,これだけ頼むのはちょっと気が引けた.昼間から青島ビールを飲む.
ワンタン麺は,最初,スープの塩気が足りないように感じたが,食べ進むうちに,これで充分であると感じるようになった.普段,濃い味付けに慣れてしまっているせいだろう.
出てきたチャーハンを見てすぐに,一人ではとても食べきれないと、確信.チャーハンは,卵白と貝柱のあんかけが旨かった.持ち帰りに便利なように,あんがかかっている部分をこそぎとるようにして食べ,半分以上をバッグに入れてもらって持ち帰った.
どちらも味付けは薄味で旨かった.こちらに来て初めて,中華料理らしい中華を食べた気がする.アメリカ風中華はどうも好きになれない.
しかし,食べ終えてから歯が浮いたような感覚が抜けなかった.僕は味の素を大量に含んだ食べ物を食べると,歯茎に違和感を感じることが多い.もしかすると,かなり味の素を大量に使っていたのかもしれない.歯茎に違和感を感じるという人は他に知らないが,味の素を大量に摂取すると頭痛を感じる人は結構多い.名前もそのまま Chinese restaurant syndromeという.
せっかくなので,周辺をうろつき,食材を売る店で野菜を購入.レンコン,なす,大根,青梗菜など,全部で3ドル75セント.安い.
来た道を引き返し,ボストンコモンをブラブラと歩く.今日は何かのパレードが行われていて,先ほど見えた建物の周りを,大勢の人が囲んでいた.木々はまだ枯れたようだが,良く見ると,つぼみがかなり大きくなっている.もう少し暖かくなれば,ずいぶんと違って見えることだろう.
パークストリート駅まで歩く.この辺りからの景色の方が,いかにもボストンのダウンタウンという気がする.金色の屋根をしたマサチューセッツ州議事堂も良く見える.
このボストンコモンは,独立戦争前夜,レキシントンとコンコードへ海路を使って渡るため,イギリス軍がチャールズ川を通り野営した場所であるらしい.これを知ったポール・リビアが「真夜中の疾駆」でレキシントンに先回りし,イギリス軍が来たことを伝え,翌日の戦争でイギリス軍にダメージを与えることに成功したのだという.
このことを記念した祝日がPatriot’s day.4月の第3週の月曜日,すなわち明後日である.アメリカでもそんなにメジャーな祝日ではないらしいが,ここマサチューセッツ州では重要な祝日らしい.レキシントンでは,ポール・リビアの真夜中の疾駆を再現したり,レキシントングリーンでの独立戦争最初の戦いなども再現するパレードが毎年行われるそうだ.ただし,朝6時からということで,ちょっと僕には見られそうに無い.
パークステーションからハインズ・コンベンションセンターに引き返し,プルデンシャルセンターへ.時計が欲しかったのだが,高級品ばかりだったため,買い控えた.そのままTで帰宅.今日は異常にTの車内が混雑していた.レッドソックスのジャンパーや帽子を身につけた人たちであふれかえっている.ケンモアで殆どの人が降りたので,おそらくこれから試合なのだろう.これからの季節,土日の昼間は,野球観戦の人たちでごった返すようになるのだろうか.
2007 4・15 67
☆ 合唱 ボストン 雄
ここ数日の悪天候が嘘のように,抜けるような青空の一日だった.
4時から恒例のhappy hourだったが,皆,外に出て,陽の光を浴びながらビールとピザを楽しむ.
7時にラボを出て,Hさんと待ち合わせてボストン大学の講堂へ.Hさんのお知り合いの方からチケットを頂いたとのことで,ボストン在住の日本人を主体とした合唱団のコンサートを聴く.
合唱団がメインではあるが,休憩を挟んでオーケストラも加わった.ボストンシンフォニーのチェロ奏者がソリストとしてドボルザークの曲を演奏してくれたが,あまりの上手さに舌を巻く.
最後に有名な「大地讃頌」をオーケストラバックに演奏.すると,指揮者が「皆さんもステージに上がって歌ってください」と言う.
僕は大学時代,男声合唱団に所属していて,大学院の修士1年生の時は,社会人の団体に1年間所属していたこともある.愛知に移った時も,周囲に知り合いがいなかったせいもあって,1年間,名古屋の合唱団に所属していたことがあった.
Hさんと顔を見合わせて,「どうしよう?行きますか?」.
思わずステージに上がってしまった.
僕はまあ分からないでもないが,Hさんまでステージに上がったのには驚いた.なんと,中学校時代にこの曲を歌ったことがあるのだという.
車でHさんを送った後,久しぶりに車の中で熱唱してしまった.
団員を募集しているらしいが,はて,どうしたものか.
* いいなあ。
2007 4・21 67
* そんな按配で、いま、眠い。風強く、戸外は明るい。「雄」くんの日記がおもしろいだけでなく、考えさせられた。
☆ アーモンドと桃 ハーバード 雄
昨晩,遅く寝たというのに,朝7時に目が覚めてしまった.このところ,どういう訳か長時間寝られない.ブラインドの向きの問題かもしれないし,僕の体の問題なのかもしれない.後者でないことを祈る.
朝,目覚めてすぐにパソコンを立ち上げると,マイミクの「い」さんからskypeが入った.少しチャットをした後,フォンで少しお話する.実際にお話するのは初めてだが,聡明な方という印象を受けた.その後すぐに,今度は重太郎さんとお話.
昼過ぎに家を出て,MIT(jァ(マサチューセッツ工科大学)に行く.今日は,在ボストン日本人研究者の会.ハーバード大学の名誉教授が「日中関係」について,早稲田大学教授で現在客員教授としてボストンに来られている方が「日本国籍法」について,それぞれ講演.ハーバード大名誉教授はアメリカ人だが,日本語が堪能で,日本語で講演.普段は全く聞かないような内容の話だが,たまにはこういうのも悪くないだろうと思って出かけた.
この会に参加されたりオーガナイズされた方の中には,ここを読む方がいないとは言い切れないので,内容についてコメントは控えたい.ただ,できれば,前半の講演に関しては事実の羅列ではなく,アメリカ人という視点から自分の意見をもっと語って欲しかった.後半については,時間も大幅にオーバーしたし,もっと具体例を挙げてもらえれば興味深く聴けたと思うのだが.
睡眠不足のせいもあるが,文系の講演で使われるpowerpointのファイルというのは,どうしてただの箇条書きばかりなのか.特に白地に藍色の文字のスライドが延々と続くと,それだけで聞く気が失せる.これは綺麗な写真や動画に見慣れすぎた理系研究者ゆえの感想なのだろうか.
講演そのものよりも,終わってからの懇親会の方が楽しかった.今回は着席式だったので,ごく限られた人としか話せなかったのが残念だが,それでも楽しかった.
皆,僕よりも前にアメリカに来られた方々ばかりなので,アメリカについて色々な意見をお持ちのようだった.中でも興味深かったのは,その中の一人のドイツ人の友達がアメリカ人について語ったという,以下の言葉だった.
「ドイツ人は,一見とっつきにくいが,中は意外と柔らかいアーモンドのようだが,アメリカ人は全く逆だ.一見,フレンドリーで柔らかいが,不用意に噛んでしまうと,中には桃のように固い芯がある」
これには,多くの人が同感のようだった.
確かに彼等はフレンドリーで,誰と会っても気軽に話しかけ,垣根など一見無いように思える.しかし,基本的に彼等は自分とその家族以外の誰も,本気で信用してなどいないのだ,と.
気軽に話しかけるのも,一つには,相手が英語を理解するか否かを確かめている,という面も無いとは言えない.だから家族を大切にするし,家族以外に対しては,事によっては銃を向けることもあるのだ,という.
ヴァージニア州での乱射事件のこともあり,本来はもっと本格的に「銃」を取り締まらねばならないのだろうが,それがうまくいかない理由の一つは,こうしたアメリカ人の心の奥底に潜む,「孤独性の問題」があるのかもしれない.
2007 4・22 67
☆ おはよ、風 花
さっきゴミ出ししてきましたが、外は生あたたかく、歩くと汗ばむほど蒸しています。
水曜くらいまで、こんなお天気がつづくようですね。
日大で二回も講演なさるのですか。紛れ込んで聴いてみたいなあ。
でも、風は聴衆に知った人のいるのは苦手なんですよね。
そろそろ英語に出かける時間です。
* 教室で学生に「谷崎」を話す、ま、カリキュラムの一連のようなこと。目の前の谷崎先生の六代目の河内山めく(ご本人の曰く)写真が、けさはかすかに柔和。もう久しく、谷崎文学のことから離れている。読者としては少しも変わらないが研究者としては相当離れている。「谷崎学」に大きな期待をかけて研究の充実や全集の完璧を希望し続けてきたが、研究者たちの無私の大同が実現せず小粒な言説や言動が、ちいさく谷崎文学を私物化している気がして、触れ合ってゆく気がしない。
☆ オハヨ 泉
紫陽花の青く小さい蕾も芽生えて初夏の陽気、いつの間にか薄着になっていました。
流行の言を用いれば、「薬のちから」で元気に生きながらえています。(喘息の)調子が良いので適当に薬を減らしていて、一ケ月目の検診で医者にキツク叱られる横着婆。ヤレヤレ
ふと思い出しましたが、昨日は野村ビルで日吉の同窓会でしたが出席しましたか。大寄せの会は魅力がなく、欠席と決めています。椿山荘の会からもう三十年も過ぎたのは、感慨深い。
あなたの生涯の原点は祇園サンの石段上。
私は一つに絞るのがムツカシイ。
* いつも元気いっぱいの人だった。お医者に叱られるようになったかと、わたしより一つ下、相憐れむ。子にも孫にも友人たちにも恵まれた人。ま、しぶとく、この先を元気元気に楽しみましょう。わたしたちのもう一人の孫娘は、元気にしているだろうか。風のたよりに、日本一の歌手になりたいとか。
2007 4・23 67
* インドの日本人からコメントが入った。わたしのものを読みたいと言われるので、マイミクにお誘いした。わたしの日記に連載した全てが読み取りやすいと思いまして。
2007 4・24 67
☆ 本日「湖の本」拝受いたしました。 ありがとう存じます。
秦様のmixiの『愛、はるかに照せ』を拝読し、メッセージを送信したいけれど、どうしようか? と、実は、思い悩んでおりました。
私はもともとご子息の秦建日子様のドラマに感銘した身。ご縁で秦様と「マイミク」にさせて頂きましたが、私なんぞが、でしゃばってはイカン!!と、思い、遠慮しておりました。
今後とも宜しくお願い申し上げます。
「湖の本」卆寿、おめでとうございます。
御代は明日振り込みます。どうぞ健康に。 輝
* こちらこそ 感謝 湖
「輝」さん ありがとう存じます。「鴉」のことなど、日記も、いつも読んで楽しんでいます。わたし、マイミクの古い友人「鳶」とは、「鴉」と名乗って話し交わしています。ハハハ お玄関先に迷い込みましたときはどうぞご救済ください。
感性豊かな方です、こんどの新刊にはお気に入りの詩歌が幾つも見つかるのではなかろうかと期待しています。
また息子のことはご斟酌なく、いつでも何でも心ゆくままにお声を届けてください。 湖・秦 恒平
まだすこし冷えます。お大切に。
2007 4・25 67
☆ フロリダ産のフグにご用心 ハーバード 雄
昼過ぎに,電気生理のセットアップに詳しいエドがやってきた.他所のラボでメインに働いているが,僕の研究室が所属するセンターのセットアップ全般を担当しているのだそうで,こうやって僕らの実験を助けてくれるのも、仕事のうちなのだそうだ.そんな人がいてくれるというのは,実に有難い.
昨日,JCが破壊してしまった部品も特殊な機械で取り除いてくれ,さらに,必要な部品を作製してくれるという.他にも,こちらの要望を聞いて,それに見合う部品を明日中に発注し,来週頭にはかなりの部品が出来上がるという.感謝.
4時からはセミナーに参加.生物発光に関する内容だったので,てっきり発光現象を利用して生命科学の研究に役立てるという内容かと思いきや,発光する生物そのものに関する内容だった.面白いことは面白いが,ちょっと期待はずれだった.
演者はフロリダにある海洋研究所から来た女性研究者だったが,遺伝子改変されたウミホタルの入ったフラスコまで用意しての熱の入れよう.部屋を暗くしてフラスコを振ると,ぼうっと青い光が見えた.天然のウミホタルの入ったフラスコもあったが,明るさが全然違う.
演者によれば,生物が発光するのは,食べられないようにするための威嚇なのだという.実際,発光するものの中には毒をもったものも多いという.本当かどうか僕は知らない.逆に,発光することで,毒を持っていると勘違いさせる効果もあるのかもしれない.
そうした毒を持った発光生物の例として,演者は,フグ毒に関する話をしていた.フグ毒はテトロドトキシンと呼ばれる物質で,普通,フグの肝臓に蓄積されている.テトロドトキシンはナトリウムチャネルという神経や筋肉に発現しているタンパク質に結合し,ナトリウムイオンが細胞内に流れ込むのを阻む作用がある.致死量を摂取してしまうと,呼吸のための筋肉が収縮できなくなり,窒息死する.
これが定説なのかどうかは知らないが,これらの毒はフグそのものの体内で作られるのではなく,寄生している微生物によって作られるのだという.そして,その微生物は発光するらしい.
ところが,同様に発光する微生物の中には,サキシトキシンという別の毒を作るものもあるという.フグの毒はほとんどがテトロドトキシンだが,サキシトキシンも1パーセント位含まれている.サキシトキシンもナトリウムチャネルの働きを止める働きがあり,テトロドトキシン以上の猛毒である.
余談だが,このテトロドトキシンとサキシトキシンの両方を併せ持つという恐ろしいカニが日本近海にいる.名前はスベスベマンジュウガニ.猛毒を持つ恐ろしいカニにしては,名前が可愛らしすぎる.
恐ろしいことに,フロリダには,サキシトキシンを分泌する微生物で,フグの肝臓ではなく,筋肉に寄生する種類があるそうで,実際に、内臓をきちんと処理したフロリダ産のフグを食べて死に掛けた人もいるのだという.そうした被害の分布を示す地図によれば,フロリダの大西洋側沿岸に亘って,びっちりと丸印がつけられていた.
とりあえず,フロリダに行ったら,フグだけは食べない方が良さそうだ.
* なんて読みがいのある、おもしろい記事だろう。夏目漱石という人も、こういう専門外の研究余話を聴くのが好きだったに違いないと、『我輩は猫である』や『三四郎』を読んでいると気がつく。なにしろ身近に寺田寅彦という物理学のお弟子がいた。ほかにもいろんな畑の学者がいて、漱石は「いい聞き手」でもあったように察しられる。
わたしは、もう、そんな面白い話を小説に取り込んでやろうなどという色気はない。面白い話は面白い話だと純然楽しんで聴いている。「雄」くんのこの日記に出てくる舌を噛みそうなしかも妙にリズミカルなカタカナの「名前」のいろいろを口ずさんでみるだけでも、気分が軽く浮かんでくる。
そういえば、歌舞伎の「外郎売(ういろううり)」早口言葉を、テレビに出ていた市川団十郎が舞台でもスタジオでも披露してくれていた。NHKの男女アナウンサーもとても歯が立たない早口言葉を団十郎はあの朗々の口跡でやってのける。彼のお父さんは、この芝居を久方ぶりに復活したけれど、早口言葉の所は舞踊化してあらわし、当代の成田屋が文字通りの早口言葉の藝を復活した。「売り」言葉なのであるが、とても長々しくとてものことでうまく言えない。舞台ではとちりもなくやってのける団十郎に感心した。
白血病から立ち直ってくれた団十郎。やす香の「白血病」告知があったとき、一抹成田屋の例もあると治療効果に望みをもったのだったが、「肉腫」では…。くやしい。
2007 4・27 67
☆ ぬか喜び ハーバード 雄
今日も朝から電気生理.本当は12時から30分ほど,ボスとミーティングのはずだった.
シアトルに出張していたボスは、ホテルを取らずに深夜の飛行機でボストンに戻ったらしいが,その間全く寝られなかったそうで,ラボメンバーとのミーティングを全てキャンセルした,と秘書のフィリスが伝えてきた.
「ただしcionaとだけはミーティングするらしいから,4時過ぎになるけどいいか,と伝えてきたわ」とフィリス.
え? 何で僕だけ?
僕がミーティングをお願いしたのは簡単なことで,単にマウスをもらうドイツのグループに、メールを送ることになっていたのだが,送る前にボスに確認してもらいたかったのだ.本当は今週前半にも送りたかったのだが,ボスが不在で,出張中もメールが一切入らなかった.
大したことではないし,僕の時間は短くて良いと,前もってフィリスには伝えてあったはずなのだが,「何で僕だけ?」と聞くと,フィリスは、「さあ,お前はクビだ,とか言うんじゃないの」と言い,一人で笑う.
フィリスは丸々と太ったオバチャンで.さほど面白くない冗談を言ってはいつも一人で笑う.時々笑いながら軽く僕を叩く.こういうオバチャンの動作は,洋の東西を問わないのか.
「じゃあ,荷物をまとめに一旦帰宅しようかな」と僕も応戦する.
他の人のミーティングを全てキャンセルしてまでも僕とミーティングするということは,それだけ電気生理の実験が気になっているということだろうか.ちょっとプレッシャーを感じつつ,午後の実験を続ける.
約束の4時ごろ,ついに電極が神経細胞に入った.すると,なにやら意味ありげな電圧変化が見られた.オシロスコープで見ていると,バチバチと線香花火のように電圧を示すトレースが刻々と変わる.見ていて飽きない.既に教科書などでは見たことのあるトレースであり,学問的に新しいことという訳ではないが,シナプスの応答を、生で見たのはこれが初めて.感動した.
ちょうどミーティングの時間なのだが,フィリスが,「アンドレイがちょっとボスと話があるから,それが終わったらボスはあなたを探しに来るから」という.すぐに終わると聞いていたが,1時間近くも話合いが続いている.その間に細胞がダメになってきた.せっかく良いところなのに,とがっかりする.
途中で違う細胞に針を入れなおすと,再び勢い良く電圧変化が見られたが,それも長続きはしなかった.アンドレイとの話し合いを終えたボスが僕のところに来たときには,既に虫の息といった状態だった.
それでも記録してあったトレースをボスに見せたのだが,ボスの顔は浮かない.「うーん,これは僕が期待していたのと違う」.
まず、ノイズが大きすぎるので,ノイズを極力減らすようにといわれる.そのための工夫をいくつか教わる.さらに,見えるべき信号も,僕が見ていたのとは全く違うものだった.ボスはその実験を散々してきているので,どういう信号が見えるべきかは熟知している.せっかく良い結果が出たと思ったのだが,ぬか喜びだったようだ.
ボスが単に僕とのミーティングだけを残したのは,メールだけは今週中に送ってしまおうと思ったからだったようだ.なんのことはない,取り越し苦労だった.
肝心のメールチェックをしてもらっている間に,ボスがふと窓の外に目をやる.
「あれ? 妻かなあ.今日は娘がダウンタウンの方に行っていて,僕らも一緒に行かねばならないので,車で迎えに来ることになってるんだが.」
外に停まっている車がボスのと同じ車種らしい.
電話をかけたボスだが,奥さんは出ない.「どうやら違うみたいだ」と言ってメールをチェックしはじめたボスだが,しきりと窓の外を気にしている.
3箇所ほど簡単な訂正が入っただけで,「これをドイツに送って」と言うと,そそくさとラボを後にした.
メールの文章をチェックしてもらっている間に,何気なく見たら,ボスのメールボックスの受信欄には、未読のメールが、何と三千以上も! 道理で,メールを送っても滅多に返事が返ってこないわけだ.
電気生理のノイズ取りは,JCと一緒にすることになっているので,来週に持ち越し.7時過ぎにラボを出る.
今日は、松坂対松井の対戦がある.家で一人で観る気がしなかったので,近所のイタリアンレストランBertucci’sで、ピザとサラダを食べながら観戦.途中までは良い感じで来ていたのに,4回に一気に逆転された.あーあ,と思いながら店を後にしたのだが,自宅に戻り,テレビをつけるといつの間にか,レッドソックスが逆転していた.そのままソファベッドで試合を見ているうちに、居眠りをし,今起きたところ.首が痛い.
ネットニュースで,ロストロポーヴィッチの訃報を知る.指揮者としても活躍していたが,僕はチェリストとしてのロストロポーヴィッチが好きだった.日本びいきで,日本食が大好き.ウォシュレットに感激し,「日本人がまた,すごいものを発明したぞ」といって,知り合いに配りまくったという話も聞いたことがある.
また,演奏を生で聴いてみたかった音楽家が一人,この世を去ってしまった.
* 松坂大輔の勝ち星は増えているが、いまひとつ彼の勝ち星としては彼自身物足りないだろう。難しいところだが、勝ちは勝ちで、打たれても勝てる星なのだろう。あいつは少し打たれても勝負には勝つヤツだというチームメートの信頼も、意味が大きい。
2007 4・28 67
* 叙勲だの褒賞だのという國の顕彰のなかに藝術家の名前をみると、ときに傷ましいと感じる。どれほど敬愛してきた人の場合も、わたしはお祝いもせず、申し上げたこともない。健康をねがうばかり。
☆ 読んでもらいたい本 玄
このところずっと権力やマスコミ(も権力の一部といえる)のありように、苛立たしさを感じながら過ごしている。昭和ひと桁生まれの人間は、悪夢の再来を恐れる気持ちが強いのだ。
誰かが何とかしてくれないかと他人頼(ひとだの)みでなさけないと嘆いていたところ、一人でも多くの人に読んでほしい「よい本」を見つけた。『報道されない重大事ー斎藤貴男』2007年1月10日発行のちくま文庫である。
* はっきり言って、年ごとに、強引に國権に「飼われている」違和感にいらだつのである。「いやなら、死ね」と言われているような気さえする。だが死ぬ人はめったにいない。よほど敏感な人だけがたまに本気で死んでしまう。「玄」さんの意向からそれて行くかも知れないが、たまたま昨日もバグワンにわたしは聴いていた。
彼は人間の絶対に三つあり、うちの生と愛とは当人のままにならないが、死だけは、犠牲者にもなれるが決め手にもなれると、比喩的な口調で前置きする。自殺とはその決め手をつかうことだ。
社会(國)は人々から一切「私」たる尊厳を奪ってしまいたがる。尊厳を取り戻したさに自殺する者が出てきて、彼らはこう言える、「おれはおまえの世界とおまえのくれた生を放棄した、それは値打ちのないものだった」と。
誕生は思うままに出来ないし、愛も。ただ死だけにこういう決め手がある。あるけれど、それは性急すぎる決め手であるとバグワンは自殺を肯定しない。より「高次の可能性がある」と言い、本当に素晴らしい「個性的で、非模倣的で、非反復的な」「生のあらゆる瞬間に」自身を開くように、落とすようにあずけよ、帰依せよ教えている。彼はただ、生に対し敏感で、生を真に愛するものほど自殺に誘惑される、その理由をも、「実存の自由」に見つめている。但しより「高次の可能性」に帰依する前に生を放棄してしまうのを戒めている。
たしかに現世の生は、人の個々の生に対し「ユニークな敬意」を払ってくれはしない。とても屈辱的で、自分がただの歯車の一部に、巨大なメカニズムの一部になっているという苦境へ、いわば強いられた「匿名の生」へ追いつめてくる。敏感な者ほど、これは堪らない。そして「自殺」を考え込む。
バグワンは語る。
☆ 社会は強制的におまえを大軍団の一員にしようとする
社会というものは自分自身の道を行く人をけっして好まない
社会はおまえに「群衆」のひとりでいてほしい
ヒンドゥー教徒でいるのはいい
キリスト教徒でいるのはいい
ユダヤ人でいるのはいい
アメリカ人でいるのはいい
インド人でいるのはいい
とにかく「群衆」の一部でいろ
どの群衆でもいい、とにかく群衆の一部でいろ
けっして自分自身でいるな――
だが,自分自身でいたがる人たちというのは〝地の塩”なのだ
自分自身でいたがる人たち
彼らこそ地上で最も価値ある人々なのだ
地上にまだしも少々の尊厳と芳香があるのは
そういう人たちのおかげなのだ
ところが、そういう人たちに限って自殺する
* 断定的に聴くことはない、世の価値ある「少数派」の存在意義を高く認めたひとつの比喩的言説ではあるのだ、が、國や社会が「一人在る」ものを嫌うのは事実だ、そういう存在は「治者」には五月蠅いから。
バグワンが、こういう少数派に、自殺と二者択一の「より高次な自由の選択」「生」として示唆するのは、こういうこと。こういう自覚だ。それは「自殺」と真剣に向き合い至りついたほどの瞬間に、はじめて呼びかけてくる「高次の生」だ。
☆ 自分はどんな理想も目標(ゴール)も持たないことにする
自分は「今・此処」という瞬間瞬間に生きる
自分は瞬間瞬間に応じて生きる 内発的に。
* もろもろの財に似た価値を期待して長いものに巻かれているいるものには、寝言であろう。
2007 4・29 67
☆ ボストンの桜 雄
朝方は雲が厚く空を覆い,時折雨も降っていたが,昼近くになってカラっと晴れた.
今日は,ムービングセールでコーヒーテーブルを買うため,車でハーバードとポーターの間にある御宅に伺う.今日もstrow driveに乗ろうとするが,標識に従って走ったつもりが,気づけば反対車線へ.相変わらず地図オンチな自分に呆れる.
元に戻って,今度はmemorial driveに乗ってみる.memorial driveはstrow driveと並行してチャールズ川沿いを走っている道路.川を挟んで同じようなところを通っているのだから大差ないだろうと思ったが,memorial driveはあまり早く進むことができない.途中,信号で何度も停まらねばならず,また出口も多いため,出口から降りる車が前にいると,そのたびに停まらねばならない.時間通りに間に合うか不安だったが,なんとか時間前に到着.
御宅に伺い,実物を見せていただいたのだが,問題は大きさ.残念ながら僕の車には載せられそうに無い.後部座席を倒せばなんとか入らないことはないが,どうやったらよいのかが分からない.車の説明書に従い,しばらく格闘してみたが,今日は諦める.取りに来るのは後日でも良いというが,ちょっと思っていたよりも大分大きかったので,場合によっては今回は見送るかもしれない.
せっかく車で来たので,先週の日曜にも行ったポーターのショッピングモールへ.ビールと食料品を買い込んで帰宅.酒屋とスーパーが同じ敷地内にあり,駐車場も充分な広さがあるので便利だが,スーパーの品揃えが今ひとつ.ボストンでは最もメジャーなスーパーだが,野菜の種類が少ない.今日は煮物でも作ろうと思ったのだが,サラダになるような野菜しか見つからない.
帰り際,ふと,モール内の駐車場に桜の木があることに気づいた.満開だ.ソメイヨシノにしては,ちょっと色が濃いだろうか.花の形はソメイヨシノに似ているように思うのだが.
そういえば,memorial driveを走っているときにも,桜が数本咲いているのが見えた.帰り道,strow driveを走っていると,こちらにも桜が.残念ながら数本なので,日本で見る桜には遠く及ばない.それでも,桜を見ると心が和む.
東京にも川沿いにいくつも桜の名所があった.千鳥ヶ淵や目黒川沿いは言うに及ばず,自宅近くにも川沿いに多くのソメイヨシノが咲いていた.愛知の研究所や,近くを流れる川,そしてお城にも多くの桜があり,毎年楽しみにしていた.去年は京都にも桜を見に出かけた.桜は素晴らしかったが,あまりの人の多さに辟易した.
食いしん坊の僕には,桜餅も懐かしい.愛知に行くまで,桜餅といえば長命寺型の,薄い皮をクレープ状に巻いたものだと思っていたが,関東以外の人には,道明寺型の,米粒が若干残った餅で餡を包んだものが一般的と聞いて驚いた.
愛知にいた頃,穴子を蒸したものを桜の葉で巻いてあんをかけた料理を出してくれる飲み屋があった.毎年楽しみにしていたが,今年は無理.ああいう繊細な和食を食べられる店は,ボストン中さがしても,どこにもない.桜餅すら,手に入るかどうか.
ようやくボストンにも春が来たようだが,桜のない春というのは,どこか間が抜けていて,どうにも、しっくりこない.
* 海外に旅することももうあるまい。雄クンのこういう日記でわたしは渇を癒している。
2007 4・29 67
☆ 花の日々,来る。 麗 北海道
我が家の向かいの桜を,勝手に「標準木」にしている。
今日,それが花開いた。
朝方一分咲きだったのが,夕方にはもう三分咲き。おそらく,明日は五分咲きとなろう。
というわけで,今日は,個人的に「開花宣言」。
周囲は,梅・桃・桜や草木の花が一斉に開き,同時に木の芽時まで迎えてしまう,北国の春。
これから,山が「うるうる」と盛り上がり,ライラックやスズランを経て,一気に夏まで向かう。
本州人にとっては,何度迎えても心躍る日々。それが今日,始まった。
* 目に見えるようで、わたしまで心嬉しい。
2007 5・1 68
☆ サバティカル ハーバード 雄
今朝も昨日と同じく4時過ぎに目が覚める.我ながら実に分かりやすい.6時半くらいまではベッドに入ったりパソコンを見たりしていたが,大学時代の友人から6時半にskypeが入って話始めたため,寝るのは諦めて家を出た.
今日は週1度のプログレスレポート.担当はライアン.開始を待って座っていると,赤いジャンパーを着た,40代後半位の白人が入ってきた.椅子に座ってジャンパーを脱ぎ始めた.見慣れない人だが,と思って,はたと気づいた.
サバティカルでドイツから来ているTBだ.マックスプランク研究所のディレクターであり,神経発生学の大御所.お父さんも有名な研究者だった.
サバティカルを取って,9月までボストンにいるらしい.普段は別のラボで過ごしているようだが,ときどきウチにも来ているらしい.
秘書のフィリスが,「みんなに紹介しないとね.あなたは,ポスドクではないわよね?」.知らないというのは恐ろしいことだ.
プログレスレポートが始まったが,やはり普段の生活がでてしまうのか,他所のラボの初めてのプログレスレポートにも関わらず,矢継ぎ早に質問していた.ボスが二人になったかのようで,ちょっと恐ろしい.
プログレスレポートの後は,いつもどおり,カルシウムイメージングと電気生理.やはり,昨日自分で言ったことが気になるのか,時々JCが見に来ては「どうだ,何か変化はあったか?」と聞いてくる.あいにく,昨日試した方法はダメであることがはっきりした.
電気生理も,標本を作製し,いざ測定と思ったら,何故かベースラインが安定しない.JCを捕まえて聞いてみると,「ああ,これは電極のメッキが剥げてしまったんだね.一晩,塩酸につけておけばいいよ」.おかげですることが無くなった.
7時に荷物を纏めていると,ドミニカ共和国出身のポスドクのグレッグが,冗談混じりに「もう帰るのか? お前にはがっかりだ.お前は本当に日本人か?」と聞いてきたので,「実は日本人ではない.ドミニカ出身だ」と返したら,中指を突き立てられた.
* 実験研究者の日々は、じっとガマンの辛抱の日々。まして雄くんの研究は、細胞学でも未開拓な最新最先端の、いまだ荒野にあると聞いた気がする。ルーチンワークで済む世界ではないのだ。
2007 5・2 68
☆ 眼鏡 ハーバード 雄
僕はとても目が悪く,裸眼だと両目0.04しか視力がない.普段はハードのコンタクトレンズをしている.家に帰り,寝る前にコンタクトレンズを外し,眼鏡に換える.
アメリカに来る前にインターネットなどで調べていた情報では,アメリカではハードのコンタクトレンズというものはほとんど普及していないそうで,もっぱらソフトらしい.したがって,ハードを利用している人は,洗浄液を持ってくると良いとのことだった.そこで,大量の洗浄液を荷物に入れて送った.2年間は優にもつことだろう.
普段はコンタクトレンズを利用しているのだが,花粉症の時期や,夜になって目が疲れてくると,コンタクトレンズをしているのが辛くなってくる.昨日も,顕微鏡の見すぎで目が疲れたため,夜になってコンタクトレンズを外し,眼鏡に換えた.
すると,同室のライアンが「おお,ciona.眼鏡姿がとてもセクシーだよ」.後からパソコンで作業をするために入ってきたグレッグも「ヘイ,ドクター.眼鏡をかけていると,インテリジェンスを感じるよ」と,二人とも妙に眼鏡をかけた僕を誉める.帰り際に擦れ違った,韓国系女子大生のジェイも「cionaは眼鏡をかけるととてもhotよ.これからは眼鏡をずっとかけた方がいいわよ」と誉める.
実物の僕を知っている「マイミク」さんたちは,これを読んで腹を抱えて笑っている(哂う?)に違いない.お世辞も多分に含まれているだろう.なんでそんなに誉められるのか良く分からないが,きっと平坦な顔なので,眼鏡があったほうが,顔にアクセントがつくのだろう.
僕自身は,あまり眼鏡が好きではない.すぐに耳や鼻が痛くなる.「ちゃんと合っていないからだ」という人もいるが,いくら合わせても,また,色々な眼鏡を試してもそうなので,おそらくもともと好きでないのだろう.しかも,眼鏡をかけると,十歳くらい老け込んだように見える.
さらに,鼻が低いために,頻繁に眼鏡がずり落ちてくる.そこで,ずり落ちた眼鏡を元に直す訳だが,この動作が良く哂われる.
別におかしな直し方をしている訳ではなく,眼鏡のフレーム近くの「つる」の部分を持って上げるか,鼻にかかる部分を指で押し上げるかのいずれかだが,どちらをやっても,「もう1回やってみせてよ.かっこいいなあ」とからかわれる.これ以外に,どうやってずり落ちた眼鏡を直すというのか,知っている人がいれば教えて欲しい.
今日も顕微鏡を覗きつかれて居室に戻ってくると,ライアンが「ciona,どうして今日は眼鏡にしないんだ」.まだ夕方だが,目が赤くなってきたのでコンタクトレンズを外し,眼鏡に換える.すぐさま,グレッグやマイク,学部生のデイヴィッドが「うーん,インテリジェンスを感じさせて,セクシーだなあ」と持ち上げる.
おだてられるとすぐに木に登る僕の性格を利用した,新手のからかいか.
* 可笑しいほどわたしが、今も、同じ。
いくらお金かけて調製しても、眼鏡がすぐ見にくくなる。鼻梁の高さと位置とが眼鏡とズレているのだ、雄くんの書いているその通り、「頻繁に眼鏡がずり落ちてくる.そこで,ずり落ちた眼鏡を元に直す訳だが」瞬く間にまたずり落ちる。別におかしな直し方をしている訳ではなく,眼鏡のフレーム近くの「つる」の部分を持って上げるか,鼻にかかる部分を指で押し上げるかのいずれかだが,どちらをやっても」キリがない。雄君のように「セクシーだ」「ホットだ」などと褒めてくれる人もいない。
信じられないだろう、今その鼻梁と眼鏡との大きなすきまに、妻の作ってくれたあまり効果のない紙束が差し込んである。鏡を見たくない。昨日は試みに葱の白根のところを切って細工して眼鏡下に突っ込んでいたが、本人も苦笑いする顔面で、ものの言いようがなかった。頭に来る、いや現実には、眼に来る。
* 雄君の日記、雀さんのメールを、わたしはよく此処へ頂戴している。具体的に事柄をきちんと書き、気負わずいたずらに飾らず澄ましかえらず、観念的でない。普通の日記や述懐のメールはこうこそ在りたい。自己主張のことばも殆どなく、感想に類する言葉も最小限にとどめてありながら、書き手の気持ちはちゃんと伝わる。空疎でない。公開の日記は自分だけわかる端折った独り言では意味がない。言い過ぎてもくどくなる。
2007 5・3 68
☆ John Harvard’s Brew House ハーバード 雄
今,日本はゴールデンウィークだろうか.今年は中に2日入ってしまったようだが,会社によっては休みだったところもあることだろう.
憲法記念日.このところ,ネットニュースで安倍首相が改憲に前向きとのニュースをよく目にする.
先日参加した日本人研究者の会で,アメリカ人のハーバード大名誉教授は,「今,文明国でありながら,自分達が作ったのでない憲法を使っている国など,日本くらいなのだから,自分達で憲法を作るべきだ」と話していた.しかし,その憲法を強要したのは,他ならぬ,貴方の先達なのですよ,と言いたかった.そんな発言は,偽善に過ぎないように思える.
試案を提出したグループもあるようだが,国家元首を天皇にせよだの,軍を持てだのという試案には,到底賛成できない.今頃になって,何故,戦前の日本に戻ろうとするのか.よほど戦前に甘い汁を吸った亡霊たちが,今なお政治の世界で幅を利かせているのだろうか.僕は断固反対だ.
とはいえ,僕は国外にいて蚊帳の外.たとえ,国内にいたとしても,この流れをどのように止められるのだろうか.口惜しい.
昨晩,台湾人大学院生のシュシェンがJCと,僕の実験器具や机を午前中使いたいと言ってきた.僕にとって興味のある実験だったし,生きた動物用の器具を持っているのは僕だけなので,OKした.朝9時に始まり,10時には終わるとのことだった.お易い御用だ.
今朝は,彼らの実験に遅れるまいと,朝8時半にラボに来た.しかし,JCもシュシェンもいない.ようやく二人が揃ったのは9時半だった.すぐに実験を始めるのかと思いきや,必要な溶液を作っていなかったとかで,実験が始められたのはなんと11時を回ってからだった.何故溶液一つを作るのに,1時間半もかかるのか,僕には理解できない.
その後も,必要な器具がなかったり,実験に不備があったりで,結局彼等の実験が終わった(というか諦めた)のは3時.かなり苦痛だった.
おまけに,シュシェンの新たな一面にがっかりさせられた.普段は,いかにも金持ちの実家で純粋培養されたような,気のいい青年だが,実験に関しては極めて自己中心的.自分の都合しか考えていないので,その後に僕が控えているということに気づかない.平気で予定を延長する.指摘しても,のほほんとしている.動物を解剖しながらも,必要な溶液を僕に取ってくれと指図する.Could you~?と言われるのならまだしも,You can~.と頼まれると,なんだか腹立たしい.もっとも英語のニュアンスが,直訳どおりなのかどうかは,僕には良く分からないのだけど.
やはり金持ち育ちで,今まで何一つ不自由なく,周りの人たちが世話を焼いてくれたからこうなったのだ,と考えてしまうのは,貧乏人のやっかみかもしれない.
おまけに使った後の片付けが何一つ出来ない.顕微鏡のライトなどがつけっぱなしだ.終わったことさえ僕に伝えないので,一体始めて良いのかさえわからない.
実験台を見た瞬間,凍りついた.動物を解剖したまま洗わず,血がこびりついた解剖道具が散乱している.マウスの毛なども実験机に散乱している.人の器具と机を借りておきながら,これはあまりに酷い.文句を言おうと思ったのだが,当人はのんきに遅い昼飯でも食べにいったらしく,姿が見当たらない.今度やったら,徹底的にとっちめなくてはならない.
夕方,コーリーが,「ciona,今晩飲みに行かないか?」と誘ってきた.彼は今の僕の状況が分かっているので,気遣ってくれたのだろう.ちょっと喉が痛いような気がしているのだが,好意をむげにしたくなくて一緒に飲みに行く.
今日行ったのは,「地球の歩き方」などにも載っているJohn Harvard’s Brew House.ビールは全て自家製だという.黒ビールと,やや色の強いビールの2種類を頼んだが,どちらも悪くない.食事にはハンバーガーを注文.こちらにきてハンバーガーを食べるのは,実はこれが初めて.
まだ東京にいた頃,土日にラボに行った時などに,目黒駅近くのT’s dinerでハンバーガーを食べるのが好きだった.アメリカに来たらこんな感じの店が多いのだろうか,と思っていたが,実際にアメリカに来てからハンバーガーらしいハンバーガーを食べたのは,来てからもう4ヶ月近く経つというのに初めて.肝心のハンバーガーだが,なかなか美味しかった.
* こういう「くやしさ」がうねりうねって、大きな連帯の力になって欲しいもの。
2007 5・4 68
☆ 非常識part2 昴
(「mixi」)147日目 高度が上がると、飛行機の中が心持ち暖かくなってきて、そりゃイカロスの翼も溶けるよ、と思った。
というわけで、また(北海道の北辺から=)東京に向けて旅立ちました。
何のために行くかというと、演劇「アルジャーノンに花束を」を平塚市まで観に行くためです。
非常識もいいところですね。
さて、飛行機から東京を見ると、雲の色が変わるのはいつも気づいていたのですが、今回は、川のそばに家が結構あることに気づきました。
あんなに川のそばにあって怖くないのでしょうか。
上空から見る、本州と北海道の景色は全然違うので、じいっと見てしまいました。
一日目は、東京に着いた時間が五時ぐらいだったので、八重洲のブックセンターに行って教育関係の、印刷してすぐに使えるような本を何冊か買ったぐらいで疲れてしまって、すぐにホテルに帰りました。今回の旅のメインイベントは明日なので、一日目は体力温存です。
二日目は演劇を観に平塚に行くのですが、そのまま行くということはつまらないので、由比ヶ浜にちょっと寄ってから行くことにしました。
なぜ由比ヶ浜かというと、鎌倉文学館があるからです! 近代文学に度々出てきている地だからです!
で、鎌倉文学館に行ってきたのですが、旧前田侯爵別荘だった建物はいかにもお屋敷、という感じがしました。三島由紀夫『春の雪』の舞台にもなったお屋敷だそうで、敷居の高い感じがひしひし伝わってきました。中の展示品も、川端康成の使っていた筆や作家さんの原稿などがあって、興奮してしまいました。
鎌倉ゆかりの文学ということで『平家物語』や『徒然草』などがあったのもおもしろかったです。あの『平家物語』の本が影印本なのか、原本なのかが気になるところ。写本に、前田家蔵本というのもあったような、ないような、御伽草子の方だったような…勉強しないとな。
電車に乗って由比ヶ浜まで来ましたが、このお屋敷とその周りの環境を見ていると、なんで文豪達が鎌倉に集まったのか、わかるような気がします。仲間が居たからっていうのもあるでしょうが…。
文学館から駅へと帰っていく途中、日本家屋の造りと思われる廃屋が、草木に覆われて辛うじて建っているのを見ました。『源氏物語』を読みながら、垣根が草木で壊されたりしている、荒れている家々のことが出てくると、「そんなわけないじゃん」と思っていましたが、そんな家を目の当たりにして、自分の考えを改めることになりました。北海道の、特に私が住んでいる場所の廃屋は、牧草畑や浜辺に、木も背の高い草も生えさせず、ぽつんと孤独に荒れているだけなので、この発見は貴重でした。
この後、電車に乗って平塚に行きましたが、早く着きすぎて、神社に行っておみくじを引いたり、公園で本を読んだり、鳩にビスケットをあげたりして過ごしました。
* 昴のこの日記を読み漏らしていた。文は人なりという。いかにも柔らかな人となりの「素」があらわれて、微笑ましい。川の側の家が怖いという、これは昴の、根の感性のように想われる。草生に荒れる籬についての発見も素直で美しい。そういう昴がはるばる、ほかならぬ『アルジャーノンに花束を』を見に行く意思。錐で揉み込まれるほどの感銘がある。
芝居の感想も転写しておく。わたしのこの「私語」は、ときに劇団昴を率いておられた福田逸さんの目にも触れている。
☆ 観劇 昴
さてさて、平塚市中央公民館で行われた「アルジャーノンに花束を」の感想です。
印象としてはオーソドックスな演劇を見た、という感じ。
チャーリー役の平田広明さんが、知的障害者をその人らしく(指先を奇妙に曲げているなど)演じていたので、「え、違うよぉ」という思いを抱かず、すんなり劇に入ることができました。う~ん、プロの人ってすごい!強いて言えば、もうちょっと子どもっぽかったらよかったのになぁと思うことかな。あ、あと間が変なところがあったなぁ。そのあたりが気になったぐらい…かな。
お話自体も、一人称の原作では書けない部分が書かれていて、おもしろいなと思いました。原作付きの演劇を楽しむ方法を一つ覚えました。
実は観劇後のアンケートに、「元に戻っていくことがチャーリーにとって必ずしも不幸ではない」と書いたのですが、一日経ってみるとそうだったのかがわからなくなってきました。だいぶ悲観的ではあったように思います。でも、「仕事しに来た」とチャーリーが言ってからは幸せになってきたのかな。最後のチャーリーのレコーダーに残した声は確実に喜びだったように思います。
原作を読んだときに、チャーリーは元に戻りたかったのではないだろうか、と思うことがあったんですけれどもいまいち自信が持てずにいました。今回、演劇を見てやっぱりそうだったのかなと思えました。
今回の演劇を見て、ダニエル・キイスが「二四人のビリー・ミリガン」を書いた作者だということがよくわかりました。
原作がある作品の演劇化などは、物足りなさを感じるのであまり期待を抱いていないのですが、今回のは作品の理解を深めることができたので、いい劇だったなと思います。
広い舞台ではなく、本多劇場ぐらいの大きさの所で見てみたいな、と思いますが、もう、東京に行く経済的余裕もありませんし、冬の公演も見に行けるような時期ではないので、無理でしょう。
今回の観劇は、鬼気というか、緊迫感というか、そういうものがもう少しあれば100%満足のいくものになったようには思いますが、充分、満足のいくものでした。
平田さんが言っていたように、「仕事しに来た」というセリフはこの劇で一番の見所でした♪
* とにかく観て感じて、そのまま書いている。本も芝居も景勝・古跡もそうだが、再見からが、真の体験になる。一度目は扉を開いて一歩だけ踏み込んだのと同じ。その一歩をどうつぎへ育てるかには、少なくも二つ道がある。その一歩を二歩に三歩にする、またはその一歩をかかえ持ちながら次の別の一歩に内的に加算する。
古社寺をめぐって社寺印を捺して貰ってくれば「行った、知っている」という人がいる。良い体験は、そういうものでない。二度立ち向かう気を起こさせないものは、概して、つまらない。但しこの際に、ぜひ覚悟しておきたいのは、作品がつまらないとは限らない、作品に比して当人の人間の方がよほど「つまらない」場合もある。作品を「つまらない」と投げ出すのは人間の勝手だが、作品の方からおまえは「つまらない」と言われるのはかなり恥ずかしい。
昴さんも次の雄くんにしても、みな年齢的にはわたしの「こども」世代。わたしはいつもそういう親愛感でこの世代の人たちに接している。
次の雄くんの日記も例によって、なかなかおもしろい。単篇の日記として読み流すのが惜しいほど、それも公団に展開すればするほど内容面白く、興味津々。なるほど理系の秀才じゃのう、この展開はと、また納得させられる。苦笑も快笑もする。
☆ かぐや姫 ハーバード 雄
エドに頼んであった電気生理の器具がようやくできた.エドがやってきて,午前中に一旦,顕微鏡まわりの部品を回収し,夕方,それらと共に新しい器具を持って再び現れた.今週の初めには出来上がっているはずだったのに,出来上がったのは結局,金曜日だった.
取り付けてもらったが,こちらの望んでいたのとかなり違う上,照明の当て方が適切でないために,像のコントラストが極端に低く,全く使い物にならない.結局,月曜に再度来てもらい,案を練り直してもらうこととなった.
ハッピーアワーのビールも手伝い,その際にもちょっと色々あって,夕方にはすっかりやる気が失せ,居室に戻る.居室では,ライアンが暇をもてあましてか,下らないアニメのウェブサイトなどを開いている.
ふと画面を見ると,「月からやってきた狙撃者」とかいう文句とともに,アニメのキャラクターのようなものが描かれている.ライアンも,こんな下らないものを見つかってしまった,という様子で気恥ずかしそうにしているので,思わず笑ってしまった.
「日本にも,そんな話があるよ」と言って,竹取物語の話をライアンにしてみようと思い立つ.が,実際に話してみると,自分の記憶がいかにいい加減であるかが分かる.
僕が話したあらすじは以下の通り.
「昔あるところに,おじいさんとおばあさんがいました.或る日おじいさんが竹林に竹を切りに行くと,一本の光っている竹がありました.おじいさんがその竹を切ると,中には可愛らしい女の赤ちゃんが入っていました.おじいさんとおばあさんは,その赤ん坊をかぐや姫と名づけました.かぐや姫はすくすくと育ち,やがてとても美しい女性になりました.多くの男がかぐや姫に求婚しましたが,彼女はそれに応じず,或る日,自分は月から来た者だと伝えると,月からの迎えとともに,月へ戻っていきましたとさ.おしまい」
これを聞いたライアンは,「ということは,そのかぐや姫は,それまで大切に育ててくれたおじいさんとおばあさんを置いて,月へ帰っていったというのか? なんて女だ!」
続けて,「で,その話はそれで終わりなのか?」
昔,子供の頃に聞いたときには,とても美しい話であるように感じたのだが,いざ説明してみると,どこが美しいのか説明に苦しむ.きっと僕の話し方が悪いのだ.
「cionaはストーリーテラーにならずに,サイエンティストになって正解だったな」と,ライアンにからかわれる.
インターネットで検索し,竹取物語のことが書かれているウェブサイトを読みあさっているうちに,すっぽりとぬけてしまっていた箇所がいくつかあることを思い出した.
例えば,最終的に5人の男が求婚したが,それぞれに無理難題を言いつけ,結局誰も願いが叶わなかったこと.「竹取物語」では,もっとも重要な箇所の一つであるはずなのに,ウェブサイトを読むまで,きれいさっぱり忘れていた.
最後には御門(帝)までが彼女に会いたいと言ったが,それにも応じず,月に戻る直前に御門に「不死の薬」を渡していったこと.御門はそれを日本で最も高い山の頂上で焼くようにと命令したこと.そのことから,その山は「不死の山(=富士山)」と呼ばれ,今なお煙を上げているのだということ.そんな最後のオチの部分などもすっかり忘れていた.
しかし,こんなのをライアンに説明しても,5人の求婚者の話は,かえって火に油を注ぎそうだし,最後の富士山のくだりも,日本人にとってはオチになるだろうが,外国人が聞いてもピンとこないに違いない.
小さい頃に読んだ物語などのあらすじを,いまなお良く憶えている人を時々見かけるが,僕は全くダメ.うろ覚えで,他人に説明するなど,もってのほかだ.
そうはいっても,どうしてこのようなあらすじの物語が,いまだに受け継がれているのかは,考えてみると謎である.単に受け継がれるだけでなく,古くは同じ名前のフォークバンドもあったし,竹取物語をモチーフとした映画やマンガ,果てはパチンコ台まであるそうだ.日本人の美意識にマッチしているのだろうか.
ちなみに,「かぐや」と名づけられたマウスがいることは,ご存知だろうか?
東京農業大学の河野友宏教授らが作製したマウスだが,なんとこのマウスは「父親を必要とせずに」生まれたのだ.そこで,竹取物語にちなんで「かぐや」と命名されたのだった.3年前のネイチャーに報告された.
色々な生き物の中には,単為発生するものもあるが,マウスなどの哺乳類は,精子からの核と卵からの核が,個体の発生に必要とされている.
何故なら,哺乳類の場合,父親由来の遺伝子には,同じ遺伝子であっても母親から受け継がれた場合と異なる働きを示すものがあり,胚が正常に発達するには,この父親由来のパターンが必要だからだ.
このように,親の性別によって,同じ遺伝子でも異なる修飾を受けることを,「ゲノムインプリンティング(刷り込み)」と研究者たちは呼んでいる.「インプリンティング(刷り込み)」とは,例えば,生まれたばかりの鳥は一番最初に目にした動くものを親とみなして後を追う,という生得的な行動のことを指す.
河野教授らは,マウスの遺伝子を操作し,雄に由来するDNAがなくても生殖ができるようにした.そのマウスは雌であるものの,DNAの一部が欠損しており,インプリンティングを受ける遺伝子のうちの2つが胚の中で雄由来の遺伝子のような働きをする.このようなDNAをもつ核を通常の雌のマウスの卵細胞に入れることで,受精卵に相当する細胞がつくられ,それを元に作製されたのが「かぐや」だった.
この実験結果だけを単純に考えると,動物界でオスはもはや用なしということになる.
ただ,そういうことを結論付けるために行われた実験ではなく,ゲノムインプリンティングを受ける遺伝子のうちのいくつがオス型になっていれば,胚発生が進むのかということを学問的に検証するのが本来の目的だった.
また,457個の同様の卵を用意したそうだが,実際に生まれてきた「かぐや」は,たったの2匹だった.このことからも,まだまだ分かっていないことも多いのだろう.
ただ,このマウスの場合,竹から生まれたかぐや姫とは,大分かけ離れている気がする.しかも外国人には理解されがたい美意識のようだ.果たしてこのネーミングのセンスが良いのか,僕には分かりかねる.
* 「かぐや」と名のあるネズミが、世界のトップ科学誌に論文として登場するとはね。
雄君も、かぐやひめの話が現代の今日にもまだもてはやされていることに奇異の眼をまんまるくしているのも、この私には、異様な刺激である。わたしの「湖の本」には『なよたけのかぐやひめ』一巻が含まれているのだもの。
この戯曲化した和英対訳の美しい絵本は、語学のラボ教育センターが出版し、いまも滞りなく印税がを届けてくれる。この絵本には英語での、日本語でのふたつのテープも、語ってくれるのは外人も、日本人も大塚道子ら一流の俳優さんたち。わたしの三つの講演録もふくむ手厚い解説本もついていて、このワンセットは、しばしば政府要人等が海外首脳へのおみやげとして利用されていると聞いている。またラボの全国支部ではいまもこの台本でこどもたちが大勢英語劇としても日本語劇としても演じていることが、読者からの便りで分かっている。
かぐやひめ伝説はグローバルな根と広がりとを持っていて、バリエーションは莫大な数にのぼる。雄君が必死であらすじを友人科学者に伝えようとしてくれたご苦労に感謝する。
* そういえばこの本をラボで出してまもなく、ある人がハワイに嫁いでいったので、はるばる贈ったことがあった。どうしているかなあ、と、ときどき懐かしく思い出す。なのに、咄嗟に名前が思い出せない。あんなに人の氏名をたくさん覚えていたのに、年々歳々、忘れて行く。昨日会ったような人の名も忘れている。やれやれ。
2007 5・5 68
* 実父吉岡恒と生前に話す機会はほとんどなかった。わたしが避けていたからだが、妻は父の電話をうけて、いろいろ聴いていたようだ。柳生の里との血縁についてもそうだったか、しかと二人とも覚えていないが、「柳生」は父の母方または祖母方の里のように聞いた気がしている。それで柳生へ一度は行ってみたいと想いつつ、願いつつ、果たせていない。この先のことも分からない。
南山城加茂の若い従弟が、その「柳生」のことを書いてくれている。有り難い。
☆ 柳生へ行って来ました 孝
遠方の知人がコンサートをしに奈良市に来るというので 顔出しだけでもと思ったら 柳生でとのこと。
天気も良く 午前中で予定の仕事が片付いたので 加茂からJRで一駅を笠置に出 そこから 歩いて行ってみた。
昔は この地とはよく交流があったようで うちにも、母方の家にも、柳生や柳生家から嫁いで来ている先祖がいる。
笠置から柳生へは、二つの道がある。
一つはまず笠置山・笠置寺に登ってから尾根沿いに (おそらく元弘の乱の際 笠置の後醍醐帝の行在所へ 柳生郷から兵糧を運んだであろう道らしき辺り)と、
笠置寺へはいかずに 打滝川沿いに 登っていく (一般の用事ではこちらをとっていたであろう) 道。
今回は 打滝川沿いを歩いた。
打滝川は笠置山地を奈良市の東部から出 笠置へ流れ 木津川の手前で白砂川に合流し 木津川となる。柳生から笠置までは ただ滝が連なっている。
このあたりは巨石が多く もう少し広くとらえれば 大坂城の石垣も多くこの地域から運ばれ 途中幾つも備蓄された址がのこり それらは今 「残念石」と呼ばれている。
大きな岩は柳生にもあって 手力雄命 天岩戸を引き開けたとき 力余ってその扉石 空を飛んでこの地に落ちた といういわれを持つ神社があり
その側にも (写真の)一刀石がある この辺には大きな岩がいくらも露出している。
大きな岩を伝って落ちる水の音と、谷を渡る鶯の鳴き声とを、ずーっと聞きながら一時間登り道を歩いていくとポンとひらけた土地に出る そこが柳生の里だった。
渓流と野鳥らの響の援けがなければ とてもこの坂道今は歩き通せない。
古くからの豊かさを感じさせる柳生の里は 剣豪の里ということだが 建て方からすると元は商家であったのでは とおもえる家が 山間の里にしてはことのほか目に付いた。
柳生家の家訓に
大才は 袖すり合った縁をも生かす という部分があるらしい。 感度 工夫 精進 ということなのか。
建物については物識らずの間違い勘違いかも。
コンサートの会場となる アジア食堂 Rupaに到着。知人の車かなと思えるナンバーのものがあったが 皆出かけているらしく こちらもあちこち散策してみた。
どこをみて回るにも 春の坂道 足がお腹一杯というので 帰り道の事もあるので 近くで休憩していると 皆が戻ってきコンサートの準備が始まった。知人に声をかけ 少しだけお話をして 明るいうちにと また 歩いて笠置駅まで戻った。
とにかく ひさしぶりにたくさん歩きたかった そしてよく歩いた という一日。
* 柳生への道のりを、しっとりと、臨場感もたたえて教えて貰った。嬉しい。正確な筆致で書かれている。
父恒の生母が「良」という名前ではなかったか、裏に「良」と一字ある写真が手元に伝わっている。美しい人だ。この人は不縁になり柳生に帰ったとも聞いたような。その母の末っ子であった父は、彦根高商に学んだとき、彦根で下宿を営んだ寡婦「福(筆名阿倍鏡)」と出逢い、兄恒彦と私とを儲けたのであるが、父は母ほどの年の福に、幼くして生別した生母の面影を観ていたらしいという噂もわたしは聞いている。
* もう一人、「こども」の日のレポート。堅実な子育て、幸せなお嫁さん、ゆとりのセンス。
☆ ゴールデンウィーク後半 馨
ゴールデンウィークの後半は、少し早めに、水曜日の午後からでした。娘の帰宅後すぐに車で焼津のダンナ様の実家へ。
港町の上に、実家は昔は漁をしていたので、ご両親は今でも釣りが趣味。魚好きの私は帰省すると必ず太るんです。
私の好きなものをいろいろ覚えていて、全部取り揃えて出してくださるんです。しかも「ちゃんと食べてる? もっとあるからどうぞ、どうぞ」と、食事中も念を入れつつ・・・。意志の弱い私は目の前に好物を並べられて、毎度激太り。
今回も危険を察知して、できる限り散歩に出たり家の中でも階段をこまめに昇降したりしたのですが、帰宅後に体重計に乗ると・・・1kg弱増えてました・・・。やっぱり・・・。
いかん、いかん、と、一泊して帰宅した翌日はサイクリングに出ることにしました。娘の自転車を大人がついていない時はダメ、と禁止したので、そのかわりに最近の休日はほぼ毎日サイクリング(というほどの、速度もないトロトロ運転なのですが)。
行き先は、1)娘が自転車に乗っていかれる程度の距離、2)人混みを通らない(私の希望)、3)チビを遊ばせられる芝生がある(ダンナの希望)を満たすところということで随分と悩んで、旧華頂宮邸にしました。報国寺より少し奥の洋館です。
話がそれますが、この洋館、昔、鎌倉市の文化財課の人と話していてお互いに挙げた「鎌倉の洋館best3」の一つです。鎌倉には洋館が結構残っていますが、奇しくもその方のbest3と私のbest3は完全に一致。
残りの二つは鎌倉文学館と、某個人宅です。
その方はセオリー通り、旧前田邸である鎌倉文学館を一位に挙げていましたが、私はNo.1はその個人宅だと思っているのですが・・・。
裏駅の方にある谷戸全体を所有されたお宅です。しっとりしたロケーションがすばらしいんです。きっとご存知の方、多いですよねー(^^)。
綾辻行人の「時計館」を読んだ時に、絶対にモデルはその洋館だと思いましたが、その後、ミステリに詳しい知人に尋ねてみると、その通りらしいです。
と、話がそれましたが、表通りを通らず、ひたすらに裏道を抜けて二小の裏からバス通り、さらに報国寺の裏に出る道を通って、華頂宮邸へ。
予想通り報国寺前は大混雑でしたが、人が多かったのはそこだけで華頂宮邸はちらほらと人がいるだけ。
残念なことにお庭の芝生は人の立ち入りが禁止で息子クンを遊ばせられませんでしたが、代わりに玄関の横にテーブルとイスが出してあって、そこでゆっくりできました。
ここは、中は年に二回の公開ですが、お庭周りは毎日公開になっていたんですね。お庭周りは土日祝日だけだと思っていました。
娘は最近吹けるようになった笹笛を吹いて遊んだり(ついでに観光客のお姉さん二人にも吹き方を教えたり)、近くの水場でヤゴやオタマジャクシを見つけたり、楽しんでいました。
オタマジャクシは、私が久々に見たアカガエルのオタマで、「お、ここはちゃんと生態系が残ってるなぁ」とちょっと安心。
山の上ではオオルリの鳴き声を今年初めて聞いて、とっても嬉しく。
それから、その近くのお宅でゼンマイがたくさん生えており、我が家のゼンマイは増やしたいのに毎年3本しか出ないので食べるに食べられず、垂涎。ダンナが先手を打って「取らないでね」と牽制しましたが、大丈夫。私だってよそ様のお宅のものは取りません、はい。
ただ、最近、山に藤がすごく増えていますね。
この時期、きれいに咲いているのでどれだけ増えたかよくわかるのですが、藤って山の手入れが悪くなると激増するんですよね。ちょっと心配。
帰りは、小学校の前ではなく、浄妙寺の前を抜けて裏から住友団地を越えて遠回りして帰りました。このくらい上り坂を行かないと焼津太りは解消しません。(いや、このくらいでも解消しないけど。)
しめて2時間半のお出かけでした。
帰宅後、江ノ電の乗車に紀伊国屋の前まで並んでた、などという話を聞いて、毎年のことながらそれだけ黙って並んでる人たちって私にはない才能があるなぁ、と。
今日は娘とダンナ様でちょこっと自転車で買い物(柏餅や菖蒲ですね)に行ってもらった以外は家でおこもりです。
焼津太り、このまま定着しそう・・・。
明日はようやく雨が降るということなので、障子の張り替えをします。湿気の多い日のほうがきれいに張れるので。
最後の方はおこもりしてしまうので、あっという間のゴールデンウィークでした。
でも、地元で外出しても観光客と遭遇しないで楽しんだ! というのはちょっと達成感。ゲーム的ですね。
来年はどうなるのかなー。
2007 5・5 68
* 妻は近くの眼科へ。わたしも行って良かったが。
なぜか、今、本機のインターネットが不通になった。どうすれば回復可能か見当がつかない。それならそれで仕方がない。
2007 5・8 68
* 機械は直らない。どうすれば直るのか見当がつかないし、前に懲りているので業者を呼ぶ気もしない。もう機械に翻弄されるのはやめてもいい。ワープロ機能が使え、スキャンも印刷もでき、MOも使えるなら、要するにインターネットだけが出来ない。ホームページと「mixi」とメール。いまではぜひとも必要とも思われない。 2007 5・8 68
* 本機インターネット破損。かろうじて不安定な旧機で。
講演用意に手が着かず、気分もひどく不安定。数え上げてみると容易ならぬ仕事の塊が、五つ六つも積み重なっていて。
食わず飲まず、この二三日、ときおりの、人のメールを一服がわりに、はなはだ不勤勉にかつ慌てています。のーんびりのつもりで、内心あたふたしています。目も霞んで、機械漬けは要用心です。
いまのところ「mixi」も、「私語」の更新も本機では不可能。この旧機メールが命綱です。
脚を治さないと。町歩きができるか、今日、街へ出ます。 風
2007 5・9 68
* 「mixi」に。 インターネット破損のため、湖のHPは全面更新不可になっています。 湖
不具合だらけの子機の方で、かろうじてメール受発信、「mixi」使用ができていますが、子機からのHP更新には失敗しています。
場合により「mixi」に「私語」するか、当分放っておくか思案しています。
2007 5・9 68
* 趙州という禅の坊さんがいた。趙州は土地の名だが、ふつうに「趙州(ぢょうしゅう)」で通っている。その趙州という地方は「石橋」があるので知られていたが、事実は「略杓」つまり丸木橋にすぎないではないかと、別の禅の人が僧趙州をとがめた。
趙州は答えている、「お前は略杓しか見ないから石橋はわからないのだろう」と。
鈴木大拙は言っている、「人間というものは、自分の見るもの以上には見られないのです。われらは同じものを見ているように思っているけれども、人間はいずれも自分だけの世界を見ているのです」と。
眼科学的なことを言うているのではない、もっと内的な意味で人間の思いこみの妄りがわしく偏頗なことを指摘している。「石橋を見る眼があれば石橋が見える。略杓だけしかみえない眼ならば、それは何といっても略杓以上には出ない」と、趙州。
* 自分に見えているものを普遍妥当の客観視するのは、至らぬ「人の常」である。それを趙州のように、もっともっと深く広く見えている人に出会うと、また自分よりもまるで見えていない人に出会うと、即座に理解できる。
わたしがこの「私語」に、自身の述懐だけでなく、人様の述懐や発言や見聞をむしろ努めて転載させてもらうのは、「自分の見るもの以上(以外)のもの」を世界として補いたいからだ。それらは確実にわたしの言葉でなく書かれ、わたしの眼でない眼で見られている。わたしの言葉や眼つまり精神でそれらも濾過されていると言えなくはない、が、それでも、やはりわたしのでない言葉と眼の捉えたところは改変されていない。それを受け入れて共感するわたしがいるのは事実だが、いわばわたしには出来なかった、見えなかった、言えなかったことを、見せて貰い、興味を感じて、受け入れていることに変わりはない。
* 「mixi」のコメントは、どれもかも効果的に機能しているとはとても言えないが、それなりに意見交換されたり対話されていたりする部分は、上の意味での相互の補いになっている。
わたしは自分の「私語」を、自分の見聞を、自分の言葉だけで書き通すことも出来るが、それだけでは、「自分の見るもの以上には見られないのです。人間はいずれも自分だけの世界を見ているのです」という域を、枠を出られずに済んでしまう。少し言い替えればその「域」「枠」がいっこう広がって行かない「どんづまり」を自分から作りだして仕舞いかねない。
現にわれがわれの思いでむやみやたらに自分の言葉と眼とだけで書いている人の述懐や意見や感想は、乾燥したパンのように、ともすると味もそっけもない。ムリに我を張って、おれが、わたしがと言い張っているからだ。
* さらに大事なこと。趙州に、「略杓」しか見ないから「石橋」は見えない、それだけのことだと痛棒を食った僧は、「ではその石橋は何を渡すのか」と高尚そうな詰問で反撃した。
趙州はただ、「驢馬がわたり馬が渡る」と。「渡驢渡馬」と。これにはウンもスンもない。
* 「恒河(ガンジス)の砂は馬も踏めば獅子も踏む。虫けらも亀の子も通る。あるいはまた大象の足下に蹂躙(ふみにじ)られるというようなことがあるけれども、恒河の砂は何とも言わずにおる。何の不平もない。何の愁訴もない、また別に腹を立てることもない。驢を渡し馬を渡す石橋もまたこんな塩梅。何を渡しても一向平気でいる。」
日本人でもロシア人でもエスキモーでも構わない。いわば「木石」のように在る。「無」とか「空」とか難しく言わなくても「静かな心」は、「無心」は皆人の胸中のこんな石橋としてありうる。べつに略杓であってもいいのだ。分別して比較するからいけない。略杓はだめで石橋は上だと思っているのが困る。「よほど良い何かが選ばれて」渡るなんて思っていては、どうしようもない。
2007 5・10 68
☆ 研究者とお金 ハーバード 雄
一段と日差しが強くなってきた.行きのバスの中で汗ばむほど.日中は摂氏30度にまで跳ね上がったらしい.春を通り越して,一気に夏になってしまった.
今朝は予告どおり,JCのチリでのボスがプログレスレポートの時間を利用してプレゼンテーションを行った.朝9時前にお茶部屋に行くと,既にJCがいて,元ボスの横でプレゼンの準備を手伝っていた.
JCの元ボスがボストンに来た理由は,チリでベンチャー企業を立ち上げたからだそうで,企業活動としての一環らしい.チリは南半球の南北に亘って細長い土地を有しているため,様々な動植物があるのだという.特に植物から取れる様々な薬は,まだ手付かずのものが多いという.そこで,JCの元ボスは,これらを扱うベンチャーを立ち上げたらしい.
神経科学の世界では,色々な「天然の毒」を実験に使う.
以前日記にも書いたフグ毒のテトロドトキシンは,ナトリウムチャネルという神経にたくさんあるタンパク質に結合して働きを止めるが,同じように,例えば貝毒のω(オメガ)コノトキシンは、カルシウムチャネルのうちのN型(神経型)と呼ばれるものの働きを止めるし,サソリの毒であるカリブドトキシンは、細胞内のカルシウムイオンが増えた時に働くカリウムチャネルの働きを止める.
他にもクラーレという薬は南米産の植物から取られ,古くは原住民達が矢に塗って獲物を倒すのに使われていた薬だが,これは神経伝達物質の一種であるアセチルコリンの受容体(これもイオンチャネルの一種)の働きを止めてしまう.
こうした神経科学に使う毒以外にも,チリにしか生えていない植物の実には,例えば活性酸素を除去する強い作用を持つものもあるという.「ジュースにして売ったら?」とうちのボスが言うと,もう既に品種改良を始めているのだとのこと.なんでも手広い.
今日の話のテーマは,アルツハイマー病に関係すると言われている分子の,神経細胞の活動に対する効果についてのものだった.マイミクの「ぶんちゃん」さんは,この辺りの研究のエキスパートなので,僕がこの辺りのことを詳しく書くのは憚られる.
話の結論としては,「あるペプチドが,アルツハイマーの治療に効果があるかもしれない」というものだった.おそらく,彼のベンチャーでイチオシの商品なのだろう.質問もそこに集中していたのだが,僕には根拠としている前提があまりにも弱いように思えた.
セミナーから帰ってきてしばらくすると,JCが部屋に戻ってきた.「昼食を一緒に摂るんじゃなかったの?」と聞くと,「いや,彼はもう,今度はシカゴに向けて発ったよ」という.やはりタフな人だ.
「昨日は遅くまで,Jobのことで話してたんだよ.で,今朝は早く起きて娘のために食事を作ってからセミナーだろ? もう,くたくただよ」とJC.そんなに遅くまで話し込んでいたとは思えないほど,元ボスはハツラツとしていたが.
話し合いの結果は,必ずしも満足行くものではなかったようだが,今書いている論文が通れば,きっと見通しは明るいに違いない.元ボスとの関係も,かなり良好のようだ.「彼一人ではどうにもならない」とJCは言っていたが,それでも強力な後ろ盾であることは確かだろう.
今日のセミナーでも,元ボスは研究所の写真を示して,「JCは昔,この辺りで研究していた」などとポインターで示していた.広大な敷地に扇形の美しい建物が建っていて,それが研究棟だとのこと.なんとなくJCが戻りたくなるのも分からないでもない.
居室に戻ると,僕の日本のボスから,一緒に出している特許の出願書がFedexで届いていた.サインをして,特許事務所に至急送り返して欲しいという.
基礎科学の分野では,これまでは論文さえ書けば済むというところがあったが,近年はそうではない.必要に応じて,積極的に特許を取る事が推奨されているし,特許を全く取っていなかったりすると,研究所のお偉いさん方からお叱りを受けたりする.基礎科学一辺倒というのはダメであって,これからは,JCの元ボスほどではないにせよ,応用ということも視野に入れていないとダメということらしい.
まあ,この特許が通ったところで,お金になるとは思えない.至急送り返せとのことだったので,Fedexで日本に送った.こちらのラボの用件ではないから,自腹を切った.この代金を取り返すことは,この特許では到底無理だろう.なんだか馬鹿げているが,仕方ない.
特許を出願するのはこれが初めてではなく,東京にいた時にも一度ある.愛知に移る直前で,移ってからもしばらくの間,書類が送られてきてはサインをして返すということが続いた.
特許の出願書には、「甲は乙に対して云々」という記述がある.読みにくいのでろくに読んでいなかったが,ある日読んでみると,その中に,分かりやすく翻訳すると,「僕の取り分は全て教授に渡す」という内容の文言が入っているのを見つけた.まあ,この特許もお金になる特許ではなかったが,そうまでするか? と閉口した.
この仕事を選んだときから,金持ちになることはほぼ諦めている(それでも,もう少し給料が多くても悪くはないと思うが).しかし,この仕事を選んだ理由の一つは,「金の計算がしたくない」ということだったのだが,実際研究職についてみると,そんなのは全くの幻想だということが分かった.
確かに自分の懐に入る金は少ないだろうが,研究費その他,エラくなればなるほど予算のことで頭を悩ませる時間が増えるのは皮肉なものだ.研究室主宰者になれば,予算の管理や運営,助成金の獲得に多くの時間を割かねばならないし,研究所の管理職になれば,一日の大半はそうした仕事で潰れることだろう.
今はしがない貧乏ポスドクだが,一切金の計算をしなくて良いということは,考えようによっては今が一番幸せかもしれない.
* 学究も、いろいろとシンドイようだが、雄クン、健康そう。現実感のある感想に騒がしさがない。
2007 5・10 68
* 旧機の具合、やっさもっさ触り回して、なんとか、ホームページをここへ移せたのではないかと思う。思うだけだが。
頭の中、ぐちゃぐちゃ。ぐちゃぐちゃを人ごとのように眺めながら、いる。脚、なんだか、おかしいが。眼も右肘もおかしいが。
それでも手洗いに入ると、洋花の、名も知らない優しい花容が唐銅の筒にあふれて、もう、目がはなせない。目玉を吸い取られそうに見入っていて、それがよい休息になる。
風が鳴っている。一度目の講演の用意まったく進まないのに、明日また俳優座に招ばれている。二度目はどうなるやら。あと十日ほど、あれこれあって、気ぜわしい。それも楽しんでいるが。
2007 5・10 68
* 「mixi」でニックネームでのお付き合いながら、少しずつ親愛感の増してゆくグループが身の回りにできてきたなあという、一種の錯覚をすら、楽しんでいる。メッセージもコメントも増えているし、日記を書いていないのに「足あと」も増え続けている。
その一方、電子メールは圧倒的大多数が、呼びかけの題目を見るもけがらわしいSPAMだらけ。ペンの委員会活動や本業のあるかぎり無くすわけに行かないが、無用化しているアドレスの整理廃棄は思い切ってしてしまう気で居る
☆ Annual meeting ハーバード 雄
今日は一日中,脳科学センターの年次研究会に参加していた.
会場は「American Academy of Arts and Sciences」という場所で,職場から近いが,今まで行った事のない場所だった.何も考えずに行ったのだが,着いてみて驚いた.広い.建物もそうだが,門から延々と歩かなくてはならない.木々に囲まれた中に2階建てのホールがあった.
受付を済ませた後,中をぐるりと見て歩いた。「American Academy of Arts and Sciences」のメンバーに選ばれた人たちからのお礼の手紙が飾られていた.
錚々たるメンバーばかりで,初代アメリカ大統領ジョージ・ワシントンに始まり,歴代大統領の手紙(J.F.ケネディやクリントンのも見受けられた)のほかに,チャールズ・ダーウィン,アルバート・アインシュタイン,作曲家のショスタコーヴィッチ,’I have a dream’の演説で有名なマーチン・ルーサー・キング牧師のものなども見受けられた.古いものは全て直筆,比較的新しい人のもサインは自筆だ.
会は、研究室主宰者たちによるトークと,ポスドクを中心とするポスターセッションの2部構成.脳センターの構成員だけでなく,他の学部などからも,関連する研究室から講演者が呼ばれていた.
講演者の持ち時間は一人当たり10分間と極めて短く,質疑応答を入れても15分程度.話す方からしてみれば,とてもでない話し足りないだろうが,それでも講演が終わったのは夕方5時だから,これくらいでちょうど良いのだろう.
扱う生物も,マウスやサルから,線虫,ショウジョウバエなど多岐に亘り,中には鳥の歌の学習の研究者もいた.
今はあちこちの建物に散らばっているが,来年4月には,新たにできる建物に全ての研究室が集結するのだそうで,引越しの手間を考えると頭が痛いが,立派な研究所になることは確かだろう.
午前中のセッションを終え,昼食の時間となった.いつの間にか別室にテーブルが用意されていた.パンとサラダ,メインディッシュはチキン,デザートにケーキも振舞われた.ケーキは少々甘すぎたが,他は美味.これがタダとは信じられない.
食後のコーヒーが振舞われるのを待っていたが,午後からのセッション開始の時間となってしまい,やむなく諦める.
講演の中で圧巻だったのは,「Department of Chemistry」からの招待講演者であるSunney XieとXiaowei Zhuang.
Xieラボの「CARS(コヒーレントアンチストークスラマン)顕微鏡」は,絶大な将来性を秘めている.以前から共同研究をボスにお願いしていたのだが,ランチの時,ボスは、Xie教授と隣の席でずっと話していた.ポスターセッションの時にご挨拶をする.僕の研究目的への利用に興味を持ってくださり,是非一緒にやりましょうとのこと.うまく僕の研究目的に利用できるとよいのだが.
Zhuangは、僕と大して歳が違わないのではないだろうか.しかしもうfull professor.彼女の開発した「顕微鏡STORM」は,通常の光学顕微鏡の20分の1という驚異的な解像度を誇る.通常の顕微鏡では識別できない試料がはっきりと見える.圧倒的だった.
ポスターセッションでは,普段はメディカルエリアにいらしてお話することのできない日本人研究者2人にお会いでき,近々食事でもということになった.
夕食は、久々にCafe Sushiで、チラシ寿司.冷房が壊れているらしく,蒸し暑い.板前さんから「暑くなってきたので,これで精をつけてください」といって,「うざく」をサービスしていただいた.有難うございます.満足して帰宅.
* こういう具体的な日記のおもしろさは、格別。臨場感に満たされる。
2007 5・12 68
☆ エメラルドネックレス ハーバード 雄
今日は,朝一番にムービングセールで頂くことになっていたコーヒーテーブルを運ぶ.
前にも日記に書いたが,同じアパートの別棟に住んでおられる方から頂くことになっていたが,先週の火事で延期になっていた.ちょっと傷などもついていたが,まあタダなので文句は言えない.これで,揃えたいと思っていた家財道具は,全て揃った.もしかするとビデオデッキやDVDプレーヤーを買うかもしれないが,今すぐに必要という訳でもない.
テーブルを受け取ってから,すぐに家を出て,久しぶりにクーリッジコーナーまで歩く.
ここ最近,一気に蒸し暑くなったのだが,日本からは半袖の服をほとんど持ってこなかった.そこで,今日はクーリッジコーナーのGAPに行き,ポロシャツを数枚買う.半袖のオックスフォードシャツも買いたかったが,ろくなものが無くて今日は見送る.
ラボに着いて実験をしていると,ボスがたまたま通りがかった.
実は昨日,研究会から戻ってメールチェックすると,マウスをもらうことになっているドイツのラボからメールがあり,今月か来月ならば来ても良いとのことだった.
至急行きたいのだが,とボスに話す.ボスは「分かった.旅費をどうにかするから,ちょっとだけ時間をくれ」と言う.ドイツまではそれ程高くないと聞いていたが,ウチのラボは,それほど困窮しているのだろうか.Xieラボとの共同研究の件についても,少しだけ話をする.
実験は上手く行ったのかどうか微妙な結果.いずれにせよ,望んでいたのとはちょっと違う結果になる.これでカルシウムイメージングで試そうと思っていた条件は全て試した.来週火曜日にボスとのミーティングがあるので,それまでには終わらせておきたかった.
4時過ぎにラボを出る.ハーバードヤードは,休日ということもあって,多くの観光客で賑わっていた.芝生も生えそろい,冬に来た頃とは大分雰囲気が変わった.冬に撮った写真とほぼ同じ位置から,新しく写真を撮ってみた.
最後のリスはおまけで,ハーバードヤードにはリスがたくさんいるのだが,今日,ラボに行く時に,すぐ横をリスが通り過ぎた.おや,っと思ったが,向こうも一端逃げようとしたものの,何故かこちらを見ている.写真を撮るチャンスと思いカメラを取り出したのだが,その間もずっとこちらを見て待っていた.おかげで綺麗に撮れた.もしかすると,えさでもくれると思ったのかもしれない.悪いことをした.
ただ帰るのは勿体無いので,いつもと違う道を通ることにし,ハーバードのメディカルスクールエリア行きバスに乗ることにした.Kenmoreの駅に差し掛かったところで,多くの人の群れに遭遇する.皆,レッドソックスのウエアを着ているので,試合帰りなのだろう.
Fenwayに停留所があったので,発作的に降りてみた.駅には試合帰りの人がごった返しているので,電車に乗ることは諦めて歩くことにする.
その前に,前から気になっていたFenway駅近くのBed Bath and Beyondに立ち寄る.今まで,「これがあるといいんだけどなあ」と思っていたものが,次々と見つかる.例えば,石鹸を入れる容器.氷を作るための枠.スポンジを置いておく入れ物など.
改めて見ると,この一帯には店が多く立ち並んでいる.今までは滅多に来ることがなかったが,車ならば目と鼻の先.これからはちょくちょく来よう.
駅から延々とriverwayと呼ばれる道を歩いて帰宅する.この辺り一帯はメディカルエリアがあって,立派な建物がたくさん立ち並び,車の通行も多く,歩くには向かないのだが,riverwayの周りは木々がたくさん立ち並んでおり,川や沼の周りの木々に葉が生い茂ると緑色の首飾りのようになることから, 「エメラルドネックレス」と呼ばれている.
確かに,歩いていても気持ちが良い.緑も豊かだが,野鳥の種類が豊富なことにも驚く.実際,自宅にいても朝方などは鳥の鳴き声で目覚めることも多いのだが,帰る道すがら,変わった鳴き方をする鳥がいたので思わずそちらを向くと,真っ赤な鳥がそこにいた.種類は分からない.カメラを取り出す間もなく消えてしまった.
職場からの距離などを考えて,以前から引越しも考えてはいるのだが,ようやく生活の基盤も揃ったことだし,木々が緑に包まれると,自宅の周辺はなかなか美しいなあと思うようになって来た.愛着が湧いてきたのかもしれない.そうなると,引っ越すのも惜しい気がしている.
* 着々生活しながら、其処をしっかり通って手にしてゆく発見や感想や感覚。これが尊く想われる。この青年には観念におぼれる不確かさがない。そのぶんゆっくり時間はかかっているけれとども、着地に確実さがある。ときどきうらやましく想う。
2007 5・14 68
* 朝一番に好いメールがいくつか届いていた。今日はもう一時間余もすれば「谷崎潤一郎」を話しに出かけ、済んだその足で兜町のペンクラブへ駆けつける。電子文藝館、今期最期の委員会。その前に、まず、このメールを書き写しておきたい。わたしがグダグタ私語するより、よほどすばらしい。残念ながら錯視例の写真は割愛するが、察しはつけてもらえるだろう。具体的な記事でおのずとこの都市の魅力や誘惑が伝わってくる。書庫にじつはボストン市街の大きな写真集があったはず。あれを出してこよう。
雄くんに着実にマイミクが増えてゆく。日記が愛読されている証拠。マイミクに限っての日記にするつもりらしいから、もっと増えてくるだろう。すてきな友達が現れてくれるといい。
☆ ボストンの昼寝 雄
僕は、アメリカでは Bank of America という銀行を利用している.おそらくアメリカで最も大きな銀行の一つであり,ATMもそこら中にある.
このBank of Americaのイベントとして,’Museum on Us’というものがある.5月中ならば参加Museumのどこでも,Bank of AmericaのATMカードを見せれば、タダで入場できる.なんと素晴らしい企画だろう.日本の銀行も,こういうところを取り入れてくれればいいのに.
ここボストン地区での今年の参加Museumは,Museum of Fine Arts ,Museum of Science, Museum of Afro-American History,The Old State House Museumの4つ.
この機会を利用しない手はない.今日はMuseum of Fine Arts(いわゆるボストン美術館)とMuseum of Scienceの2つをハシゴしてきた.
どちらもかなりの規模なので,じっくり見ることはできない.タダだからというせいもあるが,かなり贅沢な見方をしてきた.ボストン美術館の方は,以前見たことがあるので,自分が見たい場所だけに集中し,なるべく早めに切り上げることとした.
ボストン美術館に以前来たのは,まだボストンに来て間もない,冬の頃だった.このとき気に入ったのが,ヨーロッパ近代美術のコーナーとエジプトやローマ・ギリシャの古代美術のコーナー.また,その時に見逃して悔しい思いをしたのが,浮世絵の数々と日本庭園.そこで,これらに焦点を当てて観る事にした.
今回分かったのだが,所蔵する浮世絵の中で実際に展示してあるのは.ごくわずかに過ぎないということ.それも,どういう訳かは知らないが,歌川国芳のものばかり.もっと色々な浮世絵師のコレクションがあるはずなのに,展示コーナーには「もっと見たい場合は,Museum of Fine Artsのウェブサイト(http://www.mfa.org/index.asp)を見ろ」と書かれていて,興ざめする.
また,前回見られなかった日本庭園だが,今日もダメだった.理由を聞くと「まだ天候が良くないので」.
確かに,今日はここ数日の中では気温が低く,コートなしでは肌寒いほどだが,それでも5月半ばにもなって、天候のせいで見られないとは,がっかり.
結局,ヨーロッパ美術とエジプト,ローマ・ギリシャのコーナーを中心に観たが,やはり、いずれも圧巻.お気に入りのモネのLa Japonaiseにも再会を果たしてきた.
今日,特に気に入ったのは、ゴッホとゴーギャンの作品.間近で観ることができるので,筆遣いまでくっきりと.どちらも素晴らしいが,今日は特にゴーギャンの絵に惹かれた.確か,サマーセット・モームの「月と6ペンス」の主人公は,ゴーギャンがモデルでは無かっただろうか.
古代美術コーナーには,書くべき言葉が見当たらない.ただひたすら圧巻.横たわる数々の棺やモニュメント.それらには象形文字が刻まれたものが数多く見られる.
こうした象形文字を1文字1文字刻むのは,楽な作業ではなかっただろう.今ならば,こうしてキーボードを叩くだけで,いくらでも好きに物を書くことができる.この1文字1文字を,古代の人々は何を思いながら刻んだのだろう.そして,近代のゴッホやゴーギャンは,あの荒々しいタッチの一筆一筆に何を籠めていたのだろう.そんなことに思いを馳せた.
昼飯時を大分過ぎ,腹が減ってきたので,ボストン美術館はこの辺りにして,Museum of Scienceへと移動した.途中,Government Centerで下車し,先週行ったにも関わらず何も食べられなかったクインシーマーケットに行き,遅めの昼食を摂る.
向かったのは,クインシーマーケット内にあり,「地球の歩き方」でも絶賛されている「ワルラス&カーペンター」.クラムチャウダーが絶賛されていたので注文.メインディッシュは,以前リーガルシーフードで食べて感動したLittleneck.今回は生ではなく,酒蒸しにしたもの(本当にsteamed with Sake and scallionと書かれていた).サミュエル・アダムスのビールと共に頂いたが,残念ながらどちらも,それほどとは思えなかった.値段は決して安くない.これならいずれもリーガルシーフードで食べた方が良さそうだ.特にlittleneckは,生の方がはるかに旨い.
気を取り直して,グリーンラインに乗りScience Parkで下車.駅の周りはチャールズ川と海に挟まれて,なんとなくお台場っぽい.さっそくMuseum of Scienceに向かった.
規模としては上野の国立科学博物館と比較すると,かなり小ぶりだった.展示してあるものも,それほどという訳でもない.説明する専門の職員たちが何人かいる.子供が色々と体験しながら科学を学ぶには良さそう.
中でも面白かったのは,「錯視」の数々.人間の脳は目から入る情報をそのまま脳に伝えている,と多くの人は考えがちだが,実はそうではない.目から入った情報は,人間にとって都合よく曲げられている.その一例が錯視.例えば,上の図で AとB が実は同じ色であることに初めから気づく人は,よほど周りに流されない冷静沈着な人か,あるいは相当なへそ曲がりだろう.(嘘だと思う方は,両手で他の部分を隠して見て下さい).
規模がそれほど大きくないので,あっという間に見終えてしまった.
せっかくなので,もう少し散歩をしようと思い,Charles/MGHまで地下鉄に乗り,ビーコンヒルをぶらつく.
ビーコンヒルに行ったのは、これが初めて.チャールズ通りが最も栄えているが,それでも大した規模ではない.街並みはヨーロッパに非常に似ている.景観を損なわないように,セブンイレブンさえもが,レンガ造りの建物で作られ,標識も黄土色のプレートにイタリックの文字で7-elevenと書かれていた.
プルデンシャルまで引き返し,copley place内にあるJ.crewで、夏物の服を買い足し,向かいのShawsスーパーで1週間分の食材を買って帰宅.
マイミク「湖」さんによれば,「京の昼寝」という言葉があるらしい.ホームページから借用すると,以下の通り.
「昔は京都の者が昼寝しながらでも身につけたものを、地方の人は不自由に勉学しなければならなかった。美術も文藝も、やはり優れた作品に触れることが、その後に大きい。それと、今ひとつものの生まれ出てくる風土の実感が体験として大きい。物の色、物の音、ことば、山紫水明、空の色、風の声。そういうものが役に立った。」
ボストンには多くの美術館・博物館がある.恥ずかしながら,僕にはそれらに対する知識が全く欠けている.「昼寝」という訳にはいかないだろうが,せいぜいこういう機会を利用して,あちこちの美術館・博物館に足を運べば,きっと自分の中に何かが蓄積されるに違いない.そんなことを期待している。
2007 5・14 68
☆ Twelve angry men ボストン 雄
一昨日のことになるが,コーヒーテーブルも揃ったということで,ソファーベッドに座ってワインを飲みながらテレビを見ていた.普段は決まったチャンネルしか見ないのだが,たまたまチャンネルをあれこれと変えていたら,昔の映画をやっていた.
放映されていたのは”Twelve angry men”.
映画をほとんど見ない僕でも知っているので,おそらくほとんどの方はご存知の映画だろうが,陪審員制度を題材とした作.ほとんど全てのシーンが,狭くて蒸し暑い陪審員室の中だけであるにも関わらず,脚本が面白いために,全く飽きさせない.好きな映画を一つ挙げろ,と言われたら,多分僕はこの映画か、「レナードの朝」を挙げると思う.
久しぶりに,やはり面白い.最初は分からないが,映画が進行するにつれ,12人の個性がそれぞれ明らかになってくる.
残念ながら英語力に難があるため,全てが分かったとは言いがたい.特に言い争いのシーン(といっても,そればかりなのだが)は早口で聞き取れなかったりする.それでも,大体のあらすじは覚えていたため,楽しめた.
今回,全く日本語字幕がない状況で見たことによって,No.11がアメリカ人ではないことなど,その人が話す英語から,それぞれの陪審員がどんな生い立ちでどんな生活ぶりなのかなども,なんとなく想像できたのは興味深かった.
この映画には,もう一つ異なる思い入れがある.
高校3年生の文化祭で,僕らのクラスでこの作品を演劇として上演したのだった.
マイミクMaoxilianは僕の高校時代からの親友.僕の高校は3年間クラス替えをしないので,彼とは3年間同じクラスで過ごした.彼は交友関係が広いので,そうは思わないかもしれないが,僕にとって「唯一無二の親友」と言われたら,彼の名前しか思い浮かばない.そう頻繁に連絡を取るわけではないけれど(皮肉にも,僕がボストンに来てmixiを始めてからの方が,コミュニケーションの頻度が増えた気がする),コミュニケーションの頻度は,親友であるか否かには関係ない気がする.
高校で、確か彼も,この陪審員のうちの誰かを演じていたはず.2日間に亘って,午前と午後に1度ずつ上演された.負担が大きいということで,2グループが演じたので,実際に出演したのは、12×2=24人.膨大な量の台詞を,みんなが完璧に憶えて演じていたのには感服した.
それまでは,うちのクラスは割とふざけた演劇をやることが多く,1年目はシンデレラを男が女装して上演した.このときは,僕は継母の役をやらされた.後にも先にも,化粧をされたのはこれだけ.スカートをはいたのもこれだけだが,あんなに頼りないものだとは知らなかった.
2年目は,嫌味を言う教師の役をやらされた(一体僕は,クラスのみんなからどう思われていたんだろう>Maoxilian).3年目に一転してシリアスに「12人の怒れる男」を上演した時は,裏方になってしまった.
なんだか少し懐かしい気持ちになった.
* 「コミュニケーションの頻度は,親友であるか否かには関係ない気がする」というのは、言えている。わたしの心親しい友達には、まだ電子メディアと無縁なのが何人もいる。遠く離れていればコミュニケーションは現実にめったにない。
頻繁にメールをやりとりしていた人たちも、わたしは少しずつ意識的に減らしてきた。義務か日課のように書かれてくるメールは、がどうしても空疎になる。書かずにおれず、また読んで嬉しい嬉しいメールを「交わす」のが、いい。そういうメールなら、逆に言うと、毎日でも、日に何度でも、嬉しいということになる。ハイさよならと言われた場合は別にしても、メールが遠のいているから気も疎くなる、ということは少なくもわたしからは無い。本来そんなことは、無関係。
2007 5・15 68
* この日頃を毎日のように心地温かにしてくれるのが、ハーバードのラボに籍を置いた最先端生物学の研究者である「雄」クンの日記であることは、もう言うまでもない。いつも、わたしが独占していたくない心境で、ここに再録をゆるしてもらっている。一つには、彼に早く……、と。いやお節介か。
☆ 研究を取るか,恋愛を取るか ボストン 雄
今日は週に一度のプログレスレポートの日.担当はポルトガル出身のポスドクの、M.
実は昨日まで知らなかったのだが,ミゲルは来月中にラボを去り,彼女が住むドイツに行くのだという.Mは,このラボでは3番目に新しいポスドクなので,びっくりした.まだ2年も経っていないのではないだろうか.
もともと,ボストンに来る前,Mはドイツでポスドクをしていた.その頃に知り合ったのかどうかは定かでないが,彼女もボストンにしばらく居たようだから,先に帰った彼女を追いかけるように,Mもドイツに戻るのだろう.
このラボを辞めるだけでなく,なんとサイエンスそのものも辞めるらしい.ドイツでは,コンピューターのソフトウェアの会社に就職するという.
Mがこのラボでやっていたのは,新しい顕微鏡の開発だった.そのため,彼には個人の部屋が与えられ,その部屋には最新鋭の機器が数多く揃えられていた.彼が使ったお金だけで,1億円は下らないだろう.しかも,まだその顕微鏡は完成していない.全く新しい原理の顕微鏡ならば話は分かるのだが,彼が作っていたのは,既に論文になっている顕微鏡だ.
そんなこともあって,うちのラボの中には,彼のことを面白くなく思っていた人は少なくなかった.中でも,顕微鏡のエキスパートとしてラボに雇われているSは相当面白くないらしく,「彼は結局,ラボで一番高いオモチャが欲しいだけなんだよ」と陰口をきいていた.
今日のプログレスレポートは,さすがにテンションも低く,未完成のままであることを申し訳なさそうに話していた(ように見えた).
2,3週間前からサバティカルとしてドイツからやって来て,プログレスレポートだけウチのラボに参加しているTBは,実はMの元ボスでもある.前のラボにいた頃,MはTBと折り合いが悪く,それでボストンに移ってきたのだった.きっとTBは今日のプログレスレポートには来ないだろうと思っていたが,定時きっかりに現れたのには驚いた.
そしてTBは,ミゲルが話しているのを時々止めては,えぐるように辛らつな質問を浴びせかけていた.最初はそれなりに答えていたミゲルだったが,途中からは質問を遮るように話し続けたり,質問に答える場合でも,真正面からではなく,かわすような回答しかしなくなった.正直言って,参加しているのが嫌になるプログレスレポートだった.
ただでさえ,今後使えるようになる見込みの全くない顕微鏡の作製過程など,聞きたくはない.いつもよりは短めの,1時間弱のプログレスレポートだったが,もううんざりだった.
別に,Mを責めるつもりはない.確かに,高額の機器を買い漁った挙句,作り上げもしないで,彼女がドイツに戻ったからといって投げ出していくのは,身勝手なように僕には思える.ただ,彼をラボに受け入れ,それらの機器を買うことを承諾してきたのだから,ボスにも責任はある.
むしろ,僕にとって驚きなのは,彼女がドイツにいるからといって,ラボもサイエンスも辞めてしまうということだ.
ボスの移籍により,ラボそのものが引っ越すというケースは,日本にも海外にも多く見られる.その際に,彼または彼女がいるので,ボスに付いて移籍することはせず,他のラボを探すという人は,実は少なからずいる.日本でも最近は,かなり多く見られるようになってきている.普通の会社でも,こういうのは今や当たり前なのだろうか? そして,あくまでも個人的な印象だが,女性よりもむしろ男の方が,そうした傾向が強まっている気がする.
まあ,確かに彼女(または彼)はこの世でたった一人の存在だが,同じようなことを研究しているラボは世界にゴマンとある,と言われれば,そうかもしれない.
ただ,僕には,それだとなんとなく,科学に対して不誠実なような気がしてしまう.
「もともと,そのラボがあまり好きではなかった」というのならば理解できるのだが,本当に自分のやりたいことをやれるラボであれば,もし自分ならば,たとえ一時的に遠距離恋愛になったとしても,相手には誠意をもって説得した上でラボに残り,なるべく早いうちに遠距離恋愛ではなくなるように行動すると思うのだ.
愛知にいた頃,やはり恋愛を優先してラボを移籍した人が身近にいて,そんな話題が上った時に,上記の自説を主張したところ,隣のラボの技官さんに、
「そんなことを言ってるから,先生はいまだに独身なんですよ」と一蹴されてしまった.まあ,そうかもしれません.
* コメント 05月16日 湖
理系の研究機構にいる研究者には、切実な、いつになってもキツイ話題・問題ですね。よそながら身につまされます。
幸運、天の配剤を何よりあなたのために切望しています。
この問題でわたしはあなたに、あまり大きな顔は出来ないんですよ、自然科学ならぬ哲学・美学の院を見限って、妻に成る人といっしょに京都を捨て、東京に駆け落ちしましたからね。念願の、創作人生に出会えましたけれども。そのおかげで、あなたがたとも出会えた、幸せでしたよ。 湖
☆ コメント 雄
湖さん,コメント有難うございます.
いえ,そういうことではなく,結局どのような選択肢を取るかで,その人の価値観が現れるように思うのです.先生の場合,いずれの選択肢を選んだにせよ,最終的に幸せな人生を歩むことができたというのは素晴らしいことだと思います.
ちなみに,上の文章を自分で書いておきながら,少なからず違和感を感じていました.そして気づいたのですが,研究室の移籍云々や会社に関しては,科学(または仕事)への誠実さ云々よりも,ボスや会社に対しての忠誠心が大きく反映される気がします.そういう意味では,あまり良いたとえではなかったかもしれません.ボスへの忠誠心云々は僕にとって,それほど大きい問題ではなく,恋愛相手を選ぶのはむしろ自然なことかもしれません.特に,既に相手がいて移籍先を選ぶ場合,お互いの興味を反映させつつ,最良の移籍先を探すというのはよくあることです.
確かにおっしゃるように,研究者どうしのカップルの場合,お互いにとって最良の行き先を選ぶということは非常に重要であり,かつ難しい問題でもあります.
* 天の配剤を祈る気持ち、それだけがある、わたしには。山之口貘の「求婚の広告」を彼がしているとは思わないが、その詩と詩集『思弁の苑』に佐藤春夫が附した序詞に、「枝に鳴る風見たいに自然だ しみじみと生活の季節を示し 単純で深味のあるものと思ふ 誰か女房になつてやる奴はゐないか」とある。もう一度「雄」くんに代わり貘のその詩をかかげてみる。お節介を怒るなよ、雄。
☆ 求婚の広告(1938) 山之口 獏
一日もはやく私は結婚したいのです
結婚さへすれば
私は人一倍生きてゐたくなるでせう
かやうに私は面白い男であると私もおもふのです
面白い男と面白く暮したくなつて
私ををつとにしたくなつて
せんちめんたるになつてゐる女はそこらにゐませんか
さつさと来て呉れませんか女よ
見えもしない風を見でゐるかのやうに
どの女があなたであるかは知らないが
あなたを
私は待ち佗びてゐるのです
* おそらく最高度ないし最先端の研究に従事しているラボの、ほんのかすかな一端を覗き見るおもしろさ。逆立ちしても現実のわたしは其処へ歩いては行けないのだから。だからといって無縁だとは思わない。わたしの学生が現にそこで生きている、一人の若い男として。
今朝のその男の日記も見過ごせぬおもしろさで、わたしの機械にとびこんできた。
☆ 衣替え ボストン 雄
この週末に夏物の服を買った.昨日から半袖のポロシャツで過ごしている.昨日の朝,天気予報を見ると,華氏81度まで気温が上がるとのことだったので,これは半袖でなくては,と思って着たのだったが,アパートを一歩出た瞬間,後悔した.
涼しいというよりも,寒い.周りを見渡しても,半袖の人など誰もおらず,ジャンパーを羽織っている人さえ見かける.しかし,引き返すとプログレスレポートに遅れてしまうので,やむなくそのまま家を出た.
朝は後悔したものの,昼になって予報が正しかったことを知る.半袖でちょうど良い.ポロシャツは,日本ではほとんど着たことがなかったのだが,皆が似合っていると褒めてくれてホッとする.
一日の中での寒暖の差が烈しい.朝晩は冷え込むが,昼は暑い.
加えて問題なのが,華氏の計算に慣れていないこと.計算に慣れていないので,当然ながら感覚的にも慣れない.温度を聞いても,暖かいのか寒いのか,実感が湧かない.
華氏の温度から32度を引いて5を掛け,9で割ると摂氏になるのだが,暗算能力が確実に低下していて,なんと32を引くところで,既に躓いてしまう.脳の中に汚れが溜まっているような気持ちになる.
ところで,全くどうでも良いことなのだが,ポロシャツの裾はズボンの中にしまうのが良いのか,それとも出すべきなのだろうか.
おそらく,外に出す人が(特に若者は)多いと思うのだが,アメリカではズボンの中にしまう人が多いように思う.Tシャツの裾をズボンの中に入れる人さえいる.
僕もさすがにTシャツの裾はズボンの中に入れないけれど,ワイシャツっぽいものの時は入れることが多い.体型のせいか,ズボンの外に裾を出すと,東南アジアの民族衣装のようになってしまうからだ.やっぱり外に出した方が良いのかなと思って,一時期外に出していたこともあるのだが,他所のラボの秘書さんから
「(太って)入らなくなったんですか?」
と言われて以来,意地でも入れない.
確かに少し前までは,若者は皆,シャツの裾をズボンの外に出していた気がするのだが,数年前から,東京ではそうでもなくなっている気がする.たまに東京に帰ると,裾を仕舞っている若者(といっても,僕と同じ位の世代だが)を見かける頻度が増えてきた気がする.むしろ地方に行けば行くほど,裾を仕舞っているとかっこ悪いといって笑われた.
ポロシャツの場合はどうなのだろうか.アメリカだと,僕がざっと見る限り,7割位の人が中に仕舞っている.日本では出している人がほとんどだったと思うのだけれど.
ファッションのことに全く疎い。気になってしまう.
* 大いに笑う。ハハハ
2007 5 17 68
☆ 美ら島ぬ軍艦 maokat
いまから六十二年前の今日、沖縄では首里城の西方で旧日本軍と米海兵隊軍がシュガーローフという丘をめぐる激しい攻防戦を戦い、旧日本軍の防衛線が破られた。
美しい東シナ海には、米第六海兵師団の軍艦が所狭しと列び、地形が変わるほどの艦砲射撃を行った。
破れた旧日本軍は首里城を捨て南部へ退却を始める。置き去りにされた住民のうち三人に一人が命を失っている。祖父祖母、親兄弟、妻、夫、恋人、身近に悲惨な死を見た沖縄県民にとって、六十年前の記憶はまだ生々しいものだ。
防衛省は、米軍基地移設予定地で反対派住民が行っている妨害行為を排除するため、掃海母艦「ぶんご」を沖縄に派遣した。
防衛「庁」が防衛「省」になってまだ半年も経っていないのに、もう、こういうことをする。沖縄に暮らす人にとっては、まさに悪夢の再来。無神経も甚だしい。というよりも、こういう無感覚な人間が「軍事」を操っていることを心底恐れる。
六十年前は敵国の軍艦がやって来た。しかし今度は「自国」の軍艦が意にそわぬ者の制圧にやってくる。それも、沖縄が日本に復帰した三十五周年記念日の、三日後。
六十年前の「軍」は住民を置き去りにして逃げた。今は自国民を標的にして向かって来ている。
もしかしたら防衛相は、沖縄県民を「自国民」とは思っていないのか? 同じことを、よもや大臣地元の佐世保や、首都圏の横須賀ではできないだろうから。
沈黙している在京メディアもなさけない。
一体沖縄県民にとってこの「六十年は何だった」というのだろうか。
* 胸を鳴らす。ふつふつと怒りがわく。
* 築地へ行きも帰りも、妻をとなりに座らせたまま、わたしは『フランス革命』に読みふけってきた。
なんという政治のエネルギー。国民の意思の多様にして激しく危うく強烈なこと。感動に息が詰まってくるのを、わたしはせっせせっせと赤い傍線を引きまくることで沈静させながら、感動する。右往左往する知識人たち。限界があり変節もあり、たしかに「自分でけしかけた大牛が、角を振り立ててこっちへ走ってくるのに慌てる」ような有様もあり、シエースもミラボーも、ラファイエットも、自分の目的をすでに果たして以降の革命の進展に振り回されてゆく。不徹底も撞着もあり、過激な制御不能も突発してくる。
だが、なんとこの革命の展開の「必然」でみごとなこと。わたしは、かれらが掲げた「憲法」の精神が、日本国憲法にも生き生き伝えられている真実に、心新たに感銘を受ける。アメリカの建国もフランスの革命にも、政治と人間の「理想」はうたわれていて、その価値は金無垢。その金無垢の理想を日本の憲法が、たとえ産婆役のよき示唆によったにせよ、受け継いでいて何がおかしいか、誇ってこそいいのである。
その理想の根本は人間の尊厳をまもるにたる「基本的人権の永久の確立」ではなかったか。今の日本の政治家は、これを蹂躙し足蹴にして、いわば第三身分の国民・私民の尊厳を奪い取り続けている。
安倍総理と内閣との、好戦志向の欺瞞・高圧政治を、わたしは憎悪する。
* 朝いちばんに「珠」さんのメッセージ、という連絡が「mixi」からあって、開いたが何もなかった。問い合わせのメールを返しておいて、演舞場へ出かけた。出かける直前に沛然と雨、そして雷。それがウソのように晴れたところで出かけられた。
☆ 湖へ 私、不快には思っていませんよ、大丈夫。
私語への転載不可の場合には、ちゃんと書きます。また書き忘れたとして載っても、それは私によるもの、、、湖に送ったものは、どうされようと湖の心のままに、おまかせしてます。気にかけて下さったお気持ち、それは嬉しく頂きますが。
以前もメッセージ゙の件、同じような事があったように思い出されます。私、削除も何も先日お送りしたメッセージ以後、誰にも、何も、メッセージを書いていないのです。機械の悪戯でしょうか。でも、機械にもご機嫌含め、ある種怖いような意思を感じる時があります。
先日のメッセージ゙の掲載は、ある意味、間違いなく珠の嘆きを和らげて下さいました。心の中に満ちた水が、今まさにこぼれようとしている時でした。豊かな生活感に満ちたボストンの「雄」さんの文章や、若いお父さんの描く息子さんとの一ッ時などの文章に囲まれて、珠の中へ中へと蠢くその気配は、なんと珠は我が身ばかりを見ているのかと、ぞっとしたのです。
繰り返し湖の「私語」を眺めつつ、穏やかに沈透(しづ)かになってゆく自分を感じていました。今の一時的でも穏やかな時間は、湖によってもたらされました。お礼、、というのもと思っていた矢先の、今日のメールです。私としては雷神さんのお取り計らいと思います。
湖、ありがとう。
大事に、足の声を聞いて、労って。
雷神さんと、湖に、心謝。
* つい今し方帰宅。脚、痛みましたが、びっこをひきながらも曲がりなりに痛みこらえて歩けます。
憤激した「珠」の罵詈を食いそうな恐怖を覚えていた、わけではないんですが、もしそうなら言うてもいいなと想っていたところを、「珠」が正確にふまえていてくれたと分かり、感謝しています。よかった。
「珠」は、もう少し広い場所へ視野をつくって、優しい柔らかい自身を発見して好いはずだと思ってきました。そしてそういう気持ちが「珠」の作文をいますこし具体的にヴィヴィッドにしながら、「珠」自身がよろこび「人」も心嬉しいような表白が可能になりますようにと。
このメッセージは、そういう「珠」のはずみがみえて楽しい。感謝。人が「珠」の書くものに思わず胸が開かれるように。それは好い「魂の看護」にむすびつくはずと。
それにしても 「珠」さんからのメッセージという事務局通知は、虚報であったにしても、このメッセージに繋がったのだから、「湖」は嬉しく。
☆ ありがとう、湖。 珠
心にふわっと漣たったように、言葉がやってきました。
ころころと好い音のする珠になりたいな。湖は珠を映してくれる鏡のよう、、深謝。
足、お大事に。 くれぐれも、無理せずに。
* ま、こういう声が時に往来しても好い。いろいろに見え、見えている世界。こわばりを脱ぎ捨てると、世界がきらきらし始める。「珠」などと名付けたことがちゃんと役に立っているか。
さらに一つ、見過ごせないメール。夫君はわたしの中学、高校の同級生。夫妻ともに、京大卒。
2007 5・17 68
☆ 「求婚の広告」 ボストン 雄
秦先生,いつも日記を読んでくださり,有難うございます.先生の「私語」のスペースを奪ってしまい,読者の皆様のお怒りを買ってはいないか,少々不安ではあります.是非,先生の「私語」も今までどおりお書き頂き,僕達を愉しませて下さい.よろしくお願い致します.
さて,ホームページにも載っていた山之口獏の詩ですが,面白いのを通り越して,笑えないのも確かです(面白いですけど).特に最近,まさに同じような気分でして,図星を指された心地です.
おっしゃるとおり,なんとかしないといけないのです.それはもう,大分前から,そう思っているのですね.しかし,中々思うようには行かないものです.
そもそも,東京から愛知に移った時もそうですが,今回ボストンに移ったことで,確実に出会いのチャンスは減っています.別に日本人に限る必要はないのでしょうけど,外国人の場合,言葉の問題,恋愛・結婚への考え方,そして首尾よくいった場合でも,どちらの国に残るのか,など,どうしてもハードルは高くなっていきます.
自分は結婚しない方向へ方向へと,ひたすら向かっているのではとさえ思ってしまいます.
僕の勝手な感想かもしれないですが,少なくとも僕の周りにいる(もしくは,いた)女性は,30代前半までは,「私は家事もするつもりは一切ないし,
仕事で離れ離れになるかもしれないけど,それでもよければ結婚してあげてもいいわよ」というスタンスの人が多かったです.
いまどき,家事を一方的に女性に押し付ける男というのは結婚できそうにないと僕も思いますが,かといって,家事を全面的に引き受けさせられるのも嫌なのです.
そうでなくなるのは,年齢的な問題もあるのか,あるいは世代での考え方の違いなのか,40代以上の女性ということになるようです.
おそらく,そうでない方も数多くおられるのでしょう.僕の周りに,たまたまいないだけなのでしょう.
「見えもしない風を見でゐるかのやうに
どの女があなたであるかは知らないが
あなたを
私は待ち佗びてゐるのです」
という箇所が,特にこたえます.
なんとかしないといけないのですけど,本当に,今は完全に白紙状態です.
* むかし、結婚を「科学」に喩えて所見を東工大学生たちに求めたことがある。多彩に「学問」の名がもちだされ、その理由がそれぞれにお見事で、ときにお見事すぎるのにも遭遇した。
面白いことに「経済学」にこと寄せて結婚を語ってきたのはおおかた女性で、その一人など、結婚相手になりうる男性のために詳細な「採点」項目を所持しており、「総得点」の多い方のを選ぶつもりですと書いていたのには降参した。男性の回答は内容豊富だが、ロマンティックに結婚を想い描いていて、すこし心配したが。
作家角田光代がわたしの教室にいた頃の早稲田文芸科で、学生に、年に五十枚、二十枚、五枚の小説を書かせて批評していた。角田さんもそうして前へと背を押したのだった。
男女半々ぐらい学生がいて、読んでみる小説からの総括の印象は、「男は坊ちゃん、女は猛獣(けもの)」という、そんなことはそれまで夢にも想わなかった実感だった。むろん例外はありましたが。
* これまた此処へ載せずにおれない内容。わたしは、こういう話がチンプンカンプンでも、好き。ヘエッと感嘆させられる話につい敬意が行く。
☆ セミナーはこうありたい ハーバード 雄
(昨日の)昼には,一昨日の日記にも登場した,ドイツからサバティカルで来ているTBのセミナーがあった.さすがに超有名教授だけあって,いつもは半分も埋まればよい講堂が,ほぼ満席となった.
テーマは「活動依存的な神経回路網形成」.
いわゆる普通の電気回路の場合は,色々な部品を導線でハンダ付けしていき,最終的に出来てからスイッチをONにするが,脳は違う.
脳の場合は,始めから,一つ一つの部品(細胞)に電気が流れている.そのうち,よく電気が流れる細胞どうしの継ぎ目(シナプス)は残し,電気が流れにくいシナプスは間引かれていくことで,最終的な回路が完成する.これが「活動依存的な回路網形成」な訳だが,どうやって,よく使われるシナプスだけが残されて,使われないシナプスが間引かれるのかの仕組みは良く分かっていない.
実は,僕自身の課題がまさにこれで,将来的にこの仕組みを明らかにしたいと思っている.そんな訳で,今日のセミナーは楽しみにしていた.
まず始めは,海馬の神経細胞の話.海馬は脳の中ほどにある,出し巻き卵を湾曲させたような形をした細長い部分で,左右1つずつある.ここは,記憶・学習に大事だと考えられている.
昔,H.M.というてんかんの患者から海馬を摘出する手術が行われたのだが,その後,H.M.は新しいことを何一つ覚えられなくなってしまった.H, M,には気の毒としか言いようが無いが,多くの研究者が彼を研究して論文を書いたので,彼は記憶・学習の研究者の間では最も有名な人物の一人である.
海馬の神経細胞にある決まった電気刺激を与え続けると,シナプスを介して繋がっている神経細胞同士が電気をよく通すようになることが知られている.この現象は記憶・学習と関係していると考えられているのだが,この刺激を与えたときの神経細胞の形を観察すると,シナプスを作るための突起が増えていくのが観察された.逆に,電気を通しにくくするような刺激もあるのだが,これを与えると,突起が消えていくのも観察できた.それらの様子をムービーで紹介していた.
さらに,目からの情報が,大脳皮質でどのように処理されるのかを調べるために,マウスの目にレーザーを与えて部分的に破壊し,その部分から大脳皮質のどこに情報が伝わるのか,そしてそのとき,他の部分から入力を受ける大脳皮質の部分がどのように変わるのかなどについても示していた.
日記では伝えるのが難しいのだが,非常に素晴らしいセミナーだった.
実は,この手の研究は最近の流行で,色々な研究室で既に手がけられている.海馬や大脳皮質というのはそれだけで興味深いし,しかも,それらの様子を観察するための顕微鏡も高額な最先端の顕微鏡を使っての成果だ.面白くない訳がない.
例えるならば,最高級の松坂牛のステーキや,大間の鮪のトロの刺身のようなもので,「素材が良くて道具が良ければ,料理人の腕は関係ないんじゃないの?」と,ひねくれ者の僕は考えてしまう.
今日,そのように思わなかった理由の一つは,個々のデータの質がとにかく高いこと.実現不可能なことではないにせよ,実際にやったら大変だろうなあと思われるようなデータがふんだんに出てくる.興味のあり方も非常に正統的で,古くからの課題に正面から取り組んでいる様に感銘した.
加えて,トークが非常に上手.しかも,口先だけの,話術の巧みさでカバーするといったものではなくて,非常に論理的にデータを積み上げていって,自分の主張を提示しているので,とても好感が持てた.
セミナーではこうありたいなあ,と思わされる内容だった.
* いろいろ、うろうろと、手が着いたような着かないような按配で。そのように時間は経ってゆく。退屈はしないのである。
2007 5・18 68
☆ ボストン「雄」さん日記のファンから 藤
秦恒平様 突然雨が降り出すことの多い日々—-安心して洗濯物が干せません。
おみ足の具合は如何ですか。無理しないでくださいませ。
ボストン「雄」さん日記の「活動依存的な神経回路網形成」のセミナー報告 とってもインタレスティングで、とっても判りやすくて、私の好奇心を刺激しました。
これを書き、伝えて下さった「雄」さん、「湖」さんに感謝します。
私の次男のようなダウン症の人の脳も研究者の興味をそそることが多く、ここに出てくる話とも関連してるのでは—とか思いながら、私はもっと知りたいな。
とても難解な領域の研究をこのようにわかりやすく(出汁巻き卵、松阪牛、大間マグロなど身近な喩えも加えて)説明できる「雄」さんは、”センスのある本当に頭の良い人”だなあと 今回の日記からだけでも私は”惚れ惚れする”のですが、もうすぐ70才の女に惚れてもらってもなんにもなりませんねえ—- -。
ついでに前回の”結婚したい”の話への感想。
こちらは、専門のお話しに比べると、ちょっとレベルが落ちる気がします。
1) そもそも「あなたと結婚してあげても良い」など言う(思い上がった)女と 「雄」さんほどの方は結婚してはいけません。
結婚は”してあげる”とか”してもらった”なんて言うものではありません。
対等に、堂々とやるものです。
2) 家事はどちらに押しつけるものでもなく、人が自立して生きるためのスキルであり、基本的には”自分でやって当たり前の仕事”です。
自分にまつわる家事を他人にやってもらえるのは、好意・愛情によるもの、さもなくば分業による義務又は経済活動(それがお金になる)からです。
結婚にはお互いの ”この人と一緒にいたい(物理的でなくても精神的にでも)” という気持ちが重要、家事はそのときにやれる人がやれば良いのです。
研究の最先端にくらべ、「雄」さんの女性観、結婚観は少し古くないですか?
「雄」さんファンとして残念。
「湖」先生はどうお思いになりますか? 2007/5/19 藤
* そうら来た。
「藤」さんにおおむね賛成であり、しかも「雄」クンの置かれている理系学生や青年たちの事情も、元教授、痛いように見聞してきて、現在もいつも感じ案じている。なかなか、「結婚してはいけません。対等に、堂々とやるものです」は、その通りであっても、現実にはつらい。「結婚は”してあげる”とか”してもらった”なんて言うものではありません」のは実に確かですが、その先へ、現実に歩を進めたい、その手順・手続きが幸不幸とも深くからみついて難題なんです。
同じことで案じている男子卒業生は、ほかにもいます、何人も。
むかしむかし、看護学生や看護婦さんたちと編集の仕事をしていたある機会に、東大の保健衛生の著名だった教授が、あなたがた今何にいちばん心の奥で関心をもってますか、と質問され、一同沈黙。
「死ですか」「知識ですか」「娯楽ですか」と問われても、沈黙。で、矛先がわたしへ回ってきた、編集担当者だから仕方がない、わたしは言下に「結婚」ですよと答え、それが彼女たちの大方の本音に触れていた。
わたしは知っていたのである。今なら「恋愛」とか「つきあい」とか謂うのだろうが、もう四十年も昔のはなしだ、が、若い人たちに、そうでないと見えてそうなのが「結婚」であり、但しそれが、昔は女性から、今はむしろ男性たちの身にいやに難しいことに変わってきている。それも見えている。
雄くんの、また見過ごせない面白い日記が来ている。
断っておくが、こんな気楽そうにしていて、日記など書いていて、研究者がこれでいいのか、脇目もふらずに没頭しないでいいのか と想う人は、誤解。
これはむしろ必要な気合い。精衛海を填める式の徒労の連続から、いい結果に出逢わねばならないのだろう。疲労・徒労また挫折感から来る危険な妄想や蟻地獄のような慣習に流されない、気のたしかな自己処理能力が必要なのだろうと想っている。
次の日記は、彼の文才を、ある種の余裕をみごとに示していて、笑える。
* 二人の韓国人女性 ハーバード 雄
昨日から,再び肌寒い気候になった.一月前に戻ったかのようだ.コートが手放せない.今日は朝から冷たい雨が一日中降っていた.
朝一番に,ハーバードインターナショナルオフィスに行く.ビザにサインをもらうためだ.来月の第一週にミュンヘンに行き,実験することになった.海外に行く際には,ビザに大学のサインが必要なので行ってきた.
帰ってきてからは,相変わらずカルシウムイメージング.昨日,顕微鏡担当のテクニシャンであるスティーブが,JCに向かって「カルシウムイメージングは時間の無駄だろう」とヒソヒソ話をしているのが聞こえてしまった.おそらく僕のことを話していたのだろう.
他人の噂をいちいち気にしても始まらない.しかし,スティーブの言うことはもっともで,あまり変わり映えのしない条件検討ばかりしていても,時間と金の無駄に過ぎない.特に時間は限られている.
興味本位なのか,本気で心配しているのかは分からないが,実験しているとスティーブが「カルシウムイメージングをやっているのか?」と聞いてきた.いくつか質問がてら,アドバイスらしきものをくれた.
周りの人たちを見ていても,皆,色々なテーマを並行してやっている.共同研究をやっている人も多い.僕の場合は一つのことをやっているだけだ.僕も,そろそろ他のことをするべきなのかもしれない.
そのためには,もっとこの分野での勉強が必要なことを,最近痛感している.プログレスレポートで他人の話が分かりにくいのは,英語のせいだけではないのだと,今頃になってようやく認識してきた.分からないのは,そこで使われているロジックに馴染みがないからだ.
どういうことを明らかにするために,どういう手法を用いるのか,そしてどんな結果が得られた時に,そこからどのような結論を導き出すことができるのか.それらが,今まで僕が経験してきたものと,かなり違っているのだ.今までとは畑違いの分野に飛び込んだのだから,違っていて当然であり,それこそ,僕がボストンに来て学ぶべきものなのに違いない.
そんなことを考えながら実験していると,僕の顕微鏡を挟む形で置かれている両隣の顕微鏡を,いつしか二人の韓国人女性が使っていた.
一人は大学生のジェイ.今年の9月にニューヨークのメディカルスクールに戻る.彼女は2歳の時からアメリカだから,ほとんどアメリカ人と言って差し支えない.英語の発音も綺麗だ.しかしご両親が韓国人なので,韓国文化にも詳しい.
もう一人は,隣のラボのポスドクのインジュン.彼女は大学(もしくは大学院)からアメリカに来た.大学院を終えてから,ポスドクとして今のラボに来た.アメリカ生活も,もうかなり長いはずだ.ただし,英語はいかにも外国人の英語であり,僕にとっては聞き取るのが難しい.
二人は雰囲気も,これまでの境遇なども全く違うが,二人とも喜怒哀楽がかなり激しいのは共通している.全くの偏見だが,韓国の女性は割合そのような人が多いように思うのだが,そういう意味では二人とも典型的な韓国人といえる.
二人と雑談をしているうちに,ひょんなことからインジュンが
「日本人の女性と韓国人の女性は,どっちが可愛いか」と聞いてきた.
ここで、
「そりゃ,韓国人に決まってるよ」と言えれば,ある意味正解なのかもしれないが,二人がそういう答えを期待している訳ではないことは雰囲気から充分わかっているので,馬鹿正直に
「うーん,韓国の女性はそんなに知らないから,どちらとはいえないよ」と答える.
インジュンは
「日本の女の子の方が可愛い」という.これを聞いたジェイが
「え~,韓国の女の子の方が絶対可愛いよ」という.
韓国人の女優は知っているか? と聞くので,
「チェ・ジウは知ってるよ」と僕.すぐさまインジュンが怪訝な顔つきで,
「あの子,可愛い?」.
どうやら,チェ・ジウをあまり可愛いとは思っていない様子だ.
「うん,綺麗だと思うよ」と僕.するとジェイが
「あの子は可愛いわよ.でも,きっと馬鹿よ」.
ジェイはいつでも女性に厳しいのだ.ウチのラボの女性で合格点をもらった人はひとりもいない.
「あとユン・ソナも知ってるよ」と僕が言うと,インジュンが
「ああ,あの子はちょっと日本人っぽい顔よね.顔がこう,小さくって...」と話し出す.またしてもジェイは
「どうってことないわよね」.
逆に僕から
「二人は,韓国の俳優だったら,誰が好きなの?」と聞き返す.インジュンが
「私はリュ・シウォン」と答えると,ジェイは爆笑して
「え~,信じられない.私はあの目が嫌い」.
ジェイも誰か名前を挙げていたのだが,発音が良すぎて僕には聞き取れない.もう少し日本語っぽい発音で言ってくれれば,韓流ブームの影響で,もしかしたら分かるかもしれないのに.顕微鏡についているパソコンでわざわざInternet Explorerを立ち上げて,僕に画像を見せてくれたが,リュ・シウォンとどこが違うのか,僕には良く分からなかった.
インジュンが言うには,
「私は本当は韓国の男は嫌いなのよ.保守的だから.でも,韓国にいた時は,他に選択肢がないから,仕方なくね.でも,アメリカに来て選択肢が増えて,大正解だわ」.
僕などは,言葉がろくに話せないというだけで,はなから外国人は無理だと思っている.この積極性が少しでも僕にあればいいのだけど.
インジュンが
「私の本当のタイプは**なのよ」という.ジェイがそれを聞いて爆笑しているが,発音が聞き取れない.インジュンもInternet Explorerを立ち上げて画像を見せてくれた.見て仰け反った.ショーン・コネリーだった.ずいぶんと年上好みのようで...
「こういう人を見かけたら,私に紹介してちょうだい」
ちょっと気分の塞いでいた今日だったが,二人の馬鹿話に,すこし疲れが取れた.
* わたしはチェ・ジウや、なんだっけ宮廷料理の達人のようなドラマのヒロインは覚えていて、美しいと思ってきた。研究の合間にインターネットでヒョヒョイと好きな俳優の顔を検索していたり。時代だなあと思う。「雄」クンの難しさにも同情してしまう。
2007 5・19 68
* この、以下の日記には、自分自身の思いをかなり代弁してもらっている。そう感じるので読む。
☆ 分化(differentiation) ハーバード 雄
朝起きると,頭が痛い.風邪をひいたのかもしれない.ここ最近の寒暖の差のせいで,ラボの多くの人たちが風邪をひいている.しかし実験の予定があるので,薬を飲んで10時頃までベッドの中で過ごしてから,ラボに出勤.
途中,Pho Pasteurで昼食.最近,外食はここばかりだ.ここでは大抵フォーを注文するが,今日はチキンカレー.この間,来店した際,隣のテーブルの客が食べていたのが,妙にうまそうだった.
ナンプラーの香りと,レモングラスの香りがマッチして,いかにもアジアらしい香りがする.チキンだけでなく,ズッキーニやパプリカがふんだんに入っていて,野菜が豊富.スプーンではなく,なんとフォークで食べろというのだが,カレーの味が濃いので,これでちょうど良いのだろう.カレーは甘味が強く,ほんの少し辛味も感じられる.日本人の舌にはちょうど良い.なかなか美味しい.フォーに飽きたら,今後はこれを頼むことにしよう.
ラボでは電気生理実験.標本を作っていつもどおりトライするが,なかなか細胞に針が入らない.入っても,期待するような結果がなかなか出ない.
5時半に標本がダメになったので,続けるかどうしようか迷い,一旦休憩していると,昨日の日記にも登場したジェイが,僕の居室にやってきて,一緒に夕食に行かないかという.
先週の日曜日にビーコンヒルに行ったのだが,その際,ジェイが以前薦めていたイタリアンレストランFigsの前を通りがかった.翌日ジェイに会った際,「そういえば,昨日,Figsの前を通ったよ」と言ったところ,「あの店は私の家から近いのよ.今度一緒に行きましょう」と言っていた.
今日,僕の居室に入ってきたジェイは,Figsはちょっと遠いから,代わりにハーバードスクエアのどこかで夕食に行かないかという.何が食べたいかと聞くと,寿司が食べたいというので,すっかり馴染みとなったCafe Sushiへ.
僕はにぎり寿司,ジェイはちらし寿司を注文.ジェイがスプーンを店員に頼んでいたので驚く.「日本人は箸で食べるの?」と聞くので,そうだよと答えたら,せっかく持ってきてもらったスプーンを使わずに箸で食べていた.
来週の週末,彼女はカリフォルニアに行くのだという.彼女の親友が結婚式を挙げるのだそうで,式に参加するためらしい.親友はビジネスの仕事についており,その夫となる人は投資の仕事をしているらしい.3人は大学時代からの知り合いだという.
「私の友達には色々な職業についている人がいるの.みんな違う世界に住んでいるのよ.だから,私と友達とでいる時はいいけど,友達同士が何人かいるとダメ.あまりに世界が違いすぎて,話がかみ合わなくなってしまう」とジェイ.
寿司を食べ終えて店を出ると,「まだ顕微鏡の予約の時間まで間があるので,コーヒーを飲みに行こう」というので,スターバックスに付き合う.
スターバックスで延々と,このラボでの2年間のことと,9月にメディカルスクールに戻ってからの今後について,彼女は語っていた.僕の英語力のことを忘れたのか,途中から容赦ないスピードで話し続けたので,僕はひたすら聞き役に徹し,時折相槌を打つのが精一杯だった.
「このラボに来てから,他人の好意とか,善意といったものは,一切期待してはいけないし,いくら外面が良くても内心は利己的で野心家でないと研究者としては成功できないのだと思った」とジェイ.
確かに,僕の周りの教授たちを見ていても,いわゆる「いい人」というのは本当に少ない.性格が悪くないと教授にはなれないのだろうかとさえ,思ってしまう.認めたくない事実だろうが,おそらく正しいのだろう.
もともとそういう人たちだったのだ,と言ってしまえばそうなのかもしれないが,おそらく環境によって作られてきた部分も少なくないのだと思う.
僕自身のことを振り返っても,大岡山のキャンパスに通っていた学部2年生生の頃までは本当に気楽だった.大学に行き,講義に出席してテストさえ受けていればいい.しかし,学部3年からすずかけ台キャンパスに通い,さらに研究室に入ってみると,それでは済まされないことが分かる.
ごく限られた人達(しかも全て自分より目上)とともに狭い空間に閉じ込められ,朝から晩まで一緒に過ごすという,あまりに濃密な人間関係の苦痛.やる気に溢れて入ったはずの研究生活なのに,何一つ実験が上手く行かないことへの苛立ち.僕の場合は,これらに加えて生活費の困窮もあった.今思い返すと,この時期は今までの人生の中で,どん底だったように思う.
経験したことがないので分からないが,大学を卒業した人たちが会社に入ると,おそらく同じようなことを経験するのだろう.会社とは違うと言われそうだが,研究室とて一つの社会.やはり順応するのは大変だ.「職業は人を作る」というが,職業にあわせて作りかえられていく過程には痛みが伴う.
そうして異なる環境で2,3年経ってから再会すると,以前あれほど親しかった人たちなのに,全く会話が成り立たなかったりする.
はじめは1個の卵だったものが,細胞分裂を繰り返すうちに,それぞれ筋肉になったり神経になっていくことを,生物学では「分化(differentiation)」と呼ぶ.人間も同じで,生まれたばかりの子供はどの子も同じように見えるが,成長していく過程でそれぞれの個性が備わっていく.生まれつきの部分も少なからず存在するが,同時に環境によって変えられる部分も少なくないだろう.
僕自身は神経細胞がどのように分化するのかに興味を持って研究テーマとしているが,その背景には「人はどのようにして,個性を獲得していくのだろうか」ということへの関心がある.
ジェイはひたすらしゃべり続けた挙句,「そろそろ顕微鏡の予約の時間だから行かなくちゃ」と言って,店を出た.Tのハーバード駅で別れて,ジェイはラボへと戻っていった.もう夜の9時だというのに.きっと彼女ならば,メディカルスクールでのハードな生活にも順応し,うまく立派な医師へと分化してくれることだろう.
* じつを謂うと、東工大を終えて東大へ転じていった「雄」とわたしは、せいぜい数度しか顔を見ていない。わたしの覚えている顔は、学生の頃にバルセロナの「京」も一緒に、目黒駅地下で飯を食った「雄」の顔で、忘れなかった。
わたしは彼や彼女らの専攻学の指導教官ではなかった、バカなだれもがさげすんでかかる「パンキョウ(一般教育)」の「文学・作家」教授であった。だが、一学年に1200人程度だった学生の、999人がわたしの講義を聴こうと申告した年もあり、あれにはさすがに参ってしまった。そんな大教室は「講堂」しかなく、講堂ではわたしの思っているような授業は出来ないのだった。
そういう学生たちが、四年間にわたしに提出した課題への「アイサツ」「述懐」は、原稿用紙に換算して三万枚を超え、それは普通の単行本の百冊に相当した。学生たちはそのようにしてわたしにいわば「告白」し続けた。わたしもすべて読んで、次週には教室へ戻していた。それが学生たちの私の講座・教室へ集まってくる理由の一つだった。
わたしは、東工大の研究生に不必要としか思われない「文学概論」など、しなかった。だれもの魂がはらんでいる「文学感性」を開放するようにし向け続けた。そういう教授と学生として、われわれは今も多く「個と個と」して「友達」なのである。
☆ はじめてのおもちゃ 馨
実は子どものおもちゃを買ったことのなかった私。
いま家にあるおもちゃ類は、頂き物・おみやげ(これは夫や私からのものもあります)・サンタさんからのプレゼント、という経由で到来しています。
あ、お友達の誕生日用にトイザラスに行った時に、ねだられてメルちゃんを買ったことはあるなー。でも、これはやむをえない仕儀でした。
・・・が、初めて主体的におもちゃを買いました。息子用おもちゃ(←あくまでムスメのではないところがポイント)。
いま息子のマイブームはなんとお片づけ。
目についたものはなんでもかんでもポイっ! ポイっ! ポポイのポイっ!
ゴミ箱に入れる場合もありますが、外に投げ出すことが圧倒的に多いです。我が家の裏口には猫用のドアがついているのですが、そこから次々に投げ出したり、昼間はベランダから投げ出したり。
捨てられたもの・・・私のスリッパ。ムスメのおもちゃ。テレビのリモコン。私の化粧品類。お財布。たたんだばかりの洗濯物。掃除機の口。積み木 etc… うち、今でも見つからないもの・・・テレビのリモコン。私のハンドクリーム。
で、考えました。
この片付け魔(いや捨て魔だな)、何か無害な方向に持っていかれないか。
というわけで、一念発起して初めておもちゃを買いました。
木のボックスにいろいろな形の幾何図形の穴が空いていて、同じ形のブロックをあてはめていく、というよくあるおもちゃです。
このおもちゃ、息子のニーズとマッチしていたせいか、購入後、延々と遊んでいます。入れたり出したり、入れたり出したり。ようやく少し目を離して家事をできるようになりました。よかった、よかった。
が、やっぱり。おもちゃ到着2日後、一連のブロックの中で扇形が行方不明となりました。そのときは締め切りのリビングに私と二人でいたのに、どこを探しても出て来ない~~。
息子の身の回りに四次元ポケットがぽこっと空いていて、そこをのぞくと、扇形のブロックやテレビのリモコンや使いかけのハンドクリームが浮かんでるんじゃないかなー。
紛失後3日して突然出てきた掃除機の口は、きっとそこからこぼれ落ちたんじゃないかなー。
なぁんて思いを馳せる母でした。。
ちなみに、ムスメにおもちゃを買わなかったのは、ちっこい時から「自分で作る」という子だったのが一番の理由ですねー。この前も「お母さんはDS買ってくれないに決まってるから自分で作ったの」と、工作物を見せてくれました(^^)。今はお人形(サンタさんより)用の二段ベッドを工作中。
安上がりな子どもです。
☆ 女の幼き息子に 佐藤 惣之助
幼き息子よ
その清らかな眼つきの水平線に
私はいつも真白な帆のやうに現はれよう
おまへのための南風のやうな若い母を
どんなに私が愛すればとて
その小さい視神経を明るくして
六月の山脈を見るやうに
はればれとこの私を感じておくれ
私はおまへの生の燈台である母とならんで
おまへのまつ毛にもつとも楽しい灯をつけてあげられるやうに
私の心霊を海へ放つて清めて来ようから。
* 夕方自転車でほんの少し近在を走ってきた。きつい風が奔っていた。
2007 5・20 68
* 早朝の宅急便で、栃木から、美術品のような大きなメロンが四つ贈られてきた。そういう季節なんだ。
また京都の二十歳過ぎのひとから「mixi」にメッセージが来ていた。高校のはるかな後輩なのかもしれない。
麻疹の閉校がなければ今日で、日大での谷崎話が放免になるところだったのに、六月初めに延期。やれやれ。
2007 5・21 68
* 昨夜、機械から離れる前、思い立ってこの二三日の私ごとを抜粋し、「mixi」日記に送った。人さまの日記ばかり読んでいて、ふと気がひけ、割り込んだ。日記をほとんど書かないことにしているのに、「足あと」は増え続けている。申し訳ない気もした。すぐ反応して下さる人も。感謝。
「mixi への久々のご登場,嬉しくお迎えします。こうしてお返事も差し上げられますし。長々とお許し下さい」と。
☆ 「私語の刻」毎日拝読しております。米国の教え子さんの日記,楽しみにしております。先日来の「恋愛か研究か」の記述は,結婚未経験者の,心の「立ちすくみ」がよくわかる,興味深いものでした。映画『グッドウィルハンティング―旅立ち―』や,自分の若い頃を思い出させました。映画では数学の天才が恋人と生きる道を選び,私は夫の転勤で仕事(高校教師)を辞め,といったように。彼の考えが,結婚によってどう変わるか(変わらないか)が,また興味深いところです。
「結婚て一度やってみると面白いよ」くらいしか私には言えませんが。
結婚に限らず,納得して選んだはずの道でも,心の揺れは絶対に出てきます。それと戦い,自分自身「ブレない」ようにするには,周囲の人の,「心」や「言葉」による助けが必要です。これは,「人」でなければなりません。ものでも,ましてや仕事でもなく。という点で,日記中の「人は、われ一人の思いこみでは、まっさきに、間違いなく自分自身を見間違え見失う。・・・わたしは大勢の人に手を貸していただきたいと願っている。」というお言葉には大いに共感しました。読み違いがなければいいのですが。
また,観劇の記や谷崎の講演の記録(5・14)を有難うございます。私のお願いを聞いてくださったのかと嬉しくなりました。
実は,25日の團菊祭は,新橋演舞場の切符が取れなかったので行くことにしたものです。うらやましくも悔しくもある観劇の記でした。
また講演の記,ご意図は,確かに「その場で」は伝わらなかったかもしれません。確かに,谷崎を読むには様々なものが要求されます。歴史や文学や芸能や古典や京阪神や東京の地理への知識,そして人間の心の襞の奥深くまで見ることも。しかし,それらの要求は,自分自身が時間の経過の中で「変わる」ことで,見えてくるものです。湖様の話に例えれば,聞いたその場で,商品のように「自分の変化・向上」が入手できるものでもありません。たとえば谷崎に触れる別の機会などに,はっとする経験となって生きる性質のものと理解しました。教育学では「アーハ体験」といいます。
自分の職業からの視点で申し上げて恐縮ですが,本来,教育は等価交換ではありません。時間が必要なものなのです。時間をかけて学び手が「変わった」とき,成果が現れるのです。にもかかわらず,最近,この時間軸を無視した「等価交換的」視点がどんどん教育界に広まってしまいました。「学ぶことの意味」を問うてくるなど,最たるものだと思われます。日大での反応がそのようなものだったとすれば,これはお辛いことだったと,お察しいたします。
本日の「私語の刻」も楽しみにしております。 麗
* 有り難う存じます。
ときどき、ひと様の日記や作品を読んでいるだけが、申し訳なくなると、割り込んでしまいました。
意識の流れのような「私語」で、もし「表現」していることがあるとしたら、「今・此処」で「生きています」という呟き、だけ。
平安神宮の桜をみるために『細雪』のひとたちが例年繰り返した「用意」の深さ・佳い意味の贅沢。谷崎をよりよく「読む」には、そういう「用意」が大事だとわたしは伝えたいのです。そのためにわたしの「谷崎愛」とは、と思い直す機会になりました。
週末には友枝昭世の能『邯鄲』そして狂言は『文蔵』です。能はこのごろは喜多の昭世、観世の栄夫ぐらいにほぼ限って、せいぜい歌舞伎や新劇に行きます。眠くて目の玉が「でんぐりかえる」から、お能は「勘弁」という家内なので、能には一人で行きます。
漱石の『心』の「先生」を翻訳する海外の人は、「sensei」としているそうです。教師と先生とは「兼ねねばならないべつもの」だなあと、わずかな体験で、よく思いました。とりとめなく。
お元気で。 湖
* 此処には載せないが、ニューヨークで勉強している若い若い孫娘なみのともだちの、真新しい日記も、とても面白かった。
☆ ドイツへ ハーバード 雄
来月の始めにミュンヘンに行くことが正式に決まった.6日にボストンを発ち,10日に帰ってくる予定.
今朝,メールを開くと,秘書のフィリスが明日から1週間休みを取るという.全く聞いていない.初耳だ.先週,出張の準備をしているときに,教えてくれればよいのに.慌ててドイツのラボにメールを送り,先週こちらが打診した予定で良いか確認のメールを送る.
先方からのメールを待つ間,取り合えずフィリスに頼んで,こちらではどういう出張手続きが必要なのかを聞き,航空券の予約を始める.
ついでにホテルの予約も始めようと,expedia.comでホテルを検索するが,一体どれが良いのかさっぱり分からない.土地勘がないので,いちいち地図をクリックするが,地図が小さすぎる上に拡大されすぎていて,縮小しないとさっぱり分からない.旅好きの人は,どのホテルにするかを決めるのも楽しみの一つなのだろうが,僕は苦手.時間がたっぷりあれば楽しめるのだろうが,仕事をサボっての作業なので嫌気が差す.おまけに予算も限られているので,洒落たホテルなど望めない.
途方に暮れた時,マイミク「ぶんちゃん」さんがミュンヘン在住であることを思い出し,メールでアドバイスを請う.
いつもだと先方のラボからのメールは中々返ってこないのだが,事情を説明して今日中にお願いしたせいか,昼には返事があり,予定通りで良いとのこと.どうにか航空券の予約を終えた.僕はこちらでヒストリーのあるクレジットカードを持っていないので,フィリスが立て替えてくれた.
今朝,こうなるとは全く知らずに,実家から送ってきた緑茶が飲みきれないのでフィリスにあげたのだが,それで機嫌を良くしたようだ.
さらに,先方のラボのボスが最寄りのホテルも教えてくれた.
早速予約しようかとサイトを開いたのだが,なんと予約のページが全てドイツ語.全く分からない.仕方なく,livedoorの翻訳ソフトのページでドイツ語を英語へと翻訳する.さらに,英語に訳しても分からないところを,英和辞典で翻訳.ヘトヘトに疲れた.
ようやく最後のページまで辿りついた時,怒涛のごときドイツ語が.さらには「来ても泊まれないこともありうるので,その場合の保険が・・・」とある.それを見た瞬間,一気にやる気が失せた.
ぶんちゃんさんからのメールでお勧めになっていたホテルのホームページを開く.なんと予約のページに日の丸のマークがあるではないか.
あっさり,日本語で予約してしまった.さっきまでの苦労は一体何だったのだ.最初に予約しようとしていたホテルより少し高かったのだけど,税込みだったので,トータルではこちらの方が安く上がった.やれやれ.
* 自分がこういうハメになったらと思うと、彼の動悸が伝わってくる。そういうふうに「書く」のは、なかなか。易しくない。
2007 5・22 68
* 次の、「優」さんの「mixi」日記は、ぜひ此処へも戴きたい。そして声を大きくして、此処で告げたい。お願いすらしたい。「今」を憂えているどなたにも、迂遠にきこえて端的・確実な、「おすすめ」を書き添えておきたい。
わたしの「今・此処」を目下励まし力づけてくれているのは、中公文庫『世界の歴史』第十巻、桑原武夫責任編集の『フランス革命とナポレオン』です。これを愛読し熟読しながら どうか日本政治の現状の巨大な危うさ、途方もない退廃に気づいて欲しいのです。易しい筆致で、的確に歴史を再構築し記述してくれています。記述は公正で立派です。莫大に教えられます。すぐ手に入る示唆豊かな好著です。
☆ 蔓延するスノビズム、労働者よ団結せよ! 優 e-OLD
「けなげなる茶髪少女を貧乏人と 吐き棄つる汝(な)はスノブの卑劣」 (都下多摩、一加齢茶髪男)
東京新聞等に掲載された、母子家庭に育ち家計を助け、将来は進学、獣医志望の夢を持つ16歳の茶髪のバイト少女が不当解雇に立ち上がった一件 (以下、記事転載)
2CHスレに早速こんな名無しの言葉が吐き棄てられた。
「茶髪って貧乏人に多いんだよな」
上流気取りの勝ち組と錯誤するスノブが、とくに親のすねかじりの若者がはびこり続けている、暗くジメジメと。
俗物根性、紳士気取りは辟易する。
お前らは何なんだ。親の丸抱えで進学校を出て、一流企業に就職したとして、偉そうに….かつて自分の足で立ったこともないくせに、
おまけにいつも名無しで、弱者を低く見て省みない、卑劣のきわみ。
笑止では済まぬぞ、
情けなや。
私の回りでは、労働者階級から、苦学(働きながら勉強すること)し――奨学金で学校を出て社会で自立している若者を多く見聞きする。そういう彼らを陰ながら応援する。
言っておくが、茶髪はファッショナブルだぜ。
中には、恵まれぬ生育環境にあって、いまは外面しか磨けない落ちこぼれもいるけど、みんな同じ制服着て親の庇護・過保護と見栄で囲われている血色の悪い子らの方がずーっとダサくて気色悪いんだ。
こんな姿(な)りで、日本の一部保護区域だけでなら通じるけど、厳しい社会、広い世界に飛び出りゃおおかた落伍するぜ。
も一つ言っておくが、英語のgentleman はgentle+manであって、元は「奴隷を、家僕をいたぶらぬ、傷つけぬ」なんだ。
☆ 『「茶髪は解雇」覆す フリーター泣き寝入りしない 2007年5月20日』 (東京新聞)
「茶髪」を理由にアルバイト先から解雇されそうになった16歳の少女が立ち上がった。東京都内に住む福家(ふくや)菜津美さん。フリーターらの労働組合「首都圏青年ユニオン」に加わって団体交渉に臨み、会社側の姿勢をただした結果、雇用継続を勝ち取った。
「自分と同じような目に遭った人のためにも言わなくちゃって、がんばった」。
少女の笑顔は、不当解雇にも泣き寝入りしてきた非正規雇用者たちに、希望をもたらしそうだ。 (佐藤直子記者)
「まじめに働いてきたのに、なぜ辞めなくてはならないのですか」
4月下旬、団体交渉が行われた豊島区内の会議室。机の向こう側の会社幹部や解雇を言い渡した店長、顧問弁護士に向かって福家さんは一息に言った。弁護士が答えた。
「髪の色が、店の規則に合っていないからです」
地元のファミリーレストランでアルバイトを始めたのは中学卒業後の昨年4月。時給820円で週3日、夕方6時から深夜10時までフロアで働く。週5日は早朝から隣町の牛丼店でも働き、バイトの掛け持ちで毎月の収入は14万円ほど。体はきついが、将来の進学や家計の援助のために頑張ってきた。
そんな生活が今年3月に変わった。ファミリーレストランの新任の店長が従業員の身だしなみを細かく注意し、福家さんには、従業員マニュアルの色見本に沿って、髪の染め直しを求めてきた。
福家さんは、突然の指示に戸惑った。仕事中は清潔感を保つため長い髪を小さくまとめ、装飾品は一切、外した。客から苦情が出たことは一度もなかったという。
「前の店長には注意されなかった。すぐに髪を黒く染めろと言われても納得できません」。
反論する福家さんに、店長は
「一緒に働けない。辞めてもらう」
と解雇をほのめかした。半年ごとに更新されるバイトの契約期限は7月末だったが、その期限すら守られない“通告”だった。
福家さんは4月、知人の紹介で首都圏青年ユニオンのドアをたたく。フリーターの若者たちが、個人で加入している労働組合。組合員になれば団体交渉権が行使でき、会社側と渡り合えることを知った。
「前の店長は仕事ぶりを認めてくれて時給も20円上げてくれた」。
交渉の席上、涙ぐんで声を上げた福家さんの横で、同ユニオンの河添誠書記長は
「有期雇用を繰り返してきた福家さんを雇い止めにするには正当事由が必要」
と主張した。これに対し
「(店長の言葉などに)解雇の意味はなかった」
とする会社側は、約1時間の交渉の末、雇用の継続を約束した。
同ユニオンによると、非正規雇用者の増加を受け、労働者の組合組織率は2割を切っており、残り8割は不当解雇にも泣き寝入りしているのが実情という。
同ユニオンなどは20日正午から、東京・千駄ケ谷の明治公園で集会を開催。福家さんも体験を報告する。参加無料。問い合わせは集会実行委員会=電03(3468)5301=へ。
* 親子三人で食事しながらの会話も、どうしてもこうしても安倍総理と内閣への、与党への、野党への、また世上の事件への、そして大きな格差や差別問題への慨嘆と希望のなさに話題があつまり、よそうよ、ほかにいい話題ないかなと舵をとっても、つい、うんざりする世の中への意気地のない愚痴へ戻ってゆく。
三菱東京UFJ銀行が超歴史的な好決算を出しながら、国の補助は受け取りっぱなし、しかも役員退職報酬は各一億円も支払い、安倍総理の身内であるそんな一人への未払いを詫びても、血税による支援になんら応えようとしない強欲を一言でも詫びる気はないようだと、新聞が暴いていた。ホリエモンや村上ファンドは刑罰されても、社会保険庁も日興證券もその他大企業の不祥事はほぼ一度も刑罰されていない。この不公平は何なんだと息子は怒る。父親は腕組みして天井を振り仰ぐ
2007 5・23 68
* 「ムスメと息子の最近」と題して「馨」さん。そして「雄」クンが今日も。なんだか、自分のムスメと息子のことのよう。
この二人には、わたしのような走り書きの変換ミスが、ほとんどない。
☆ ムスメと息子の最近 馨
この一週間、毎日小児科に通ってます。
はじまりは、予防接種二人分。息子の麻疹・風疹混合とムスメの日本脳炎。息子の方は、お誕生日後すぐにポリオの集団接種が入ってしまい、その後の4週間をはしか大流行を横目にじりじりしながら数えて、いざ!と打ちに行きました。すると「日本脳炎の接種できます」の貼り紙が…。そうです、副作用があるのかないのか微妙な日本脳炎予防接種でしたが、ようやく「同意書があれば」打てるようになりました。ということで、即、ムスメに接種。
日本脳炎、副作用のないワクチンが開発されたわけではないのですが、ここ数年、予防接種を止めていたら日本脳炎の発症数が副作用の発症なんかそこのけに増えてしまったそうです。
こういうとき、私は「因果関係がまだ不明確な副作用の心配よりも、日本脳炎を避けるほうが先決。もし何かあった場合は覚悟しよう」と考えるタイプです。日本脳炎のワクチンはいま話題の西ナイル熱にも効くという話もありますし、日本の現状では、現在のワクチンを打った方が明らかにベターな選択だと思っています。
それで、一週間後に日本脳炎の追加接種をする、というのが唯一の小児科通いの予定でしたが、その後、息子は頭を打って特大のタンコブを作るわ、治ったと思ったら40度の熱を出すわ、ムスメは学校の検診でアレルギー性鼻炎の診断を持ってくるわ(お医者様には治療の必要はないよ、と言われました)、この一週間は結局小児科に通い詰めています。息子クンがまだまだお熱が下がらないので、もう少し通うことになりそうです。 ちょっとでも熱が下がってラクになってくるとすぐに起きて遊び始めるのが問題。
ムスメは40度までの熱は出したことがなかったので、噂に聞いていた「男の子は熱を出しやすい」というのを初めて体験しました。
そしてその小児科通いのついでに、今までわからなかった子どもたちの血液型も調べました。
娘の場合、心ヒソカに「あってほしくないなー」と思う血液型があって、でも行動を見ているとどう考えてもその血液型の気がして、直視したくない母はずっと血液型検査を受けて来なかったのですが、結果、はい、予想通りでした。
オマケに息子までその血液型。母一人、多勢に無勢のA型です。(とは言うものの、私もA型と思われることがほとんどないのは確かですが。)
がっくりする母を尻目に、帰宅コールをかけてきたダンナさんにムスメは嬉々として結果を報告。
「うん、そうなの。お母さん以外みんなおんなじ。お母さん? うん、お母さん、とぉーってもがっかりしてる」
ムスメよ、冷静にそういう報告をするアナタは何者?
このムスメ、小学校生活を堪能しています。
このひと月で彼女の野生児度が一気にアップしたよう。近くに同じくらい外遊びが好きなお友達がいて、毎日のように遊んでいます。いや、帰ってから遊ぶ以前に帰り道にどれだけ道草食っているのか・・・毎日1時間以上かけて帰ってきています。
竹の子を掘ったり(しかも、その竹の子を川で洗って食べたらしい。お腹はこわしませんでした)、崖によじ登ったり、靴を脱いでフジヅルにのぼってターザンごっこをしたり(そういう日に限って唯一持っている高いファミリアの靴下を履いていっていたりする)、桑の実を食べたり、とにかく読書が好きなおとなしい女の子だった私には想像を絶する世界。
昨日の海への遠足も帰ってきた時には靴と靴下が真っ黒。靴を波にさらわれて靴下のまま追いかけた、とのこと。帰宅途中からは裸足でした。もう何をか言わんや。言葉を失って母は無言で靴と靴下にタワシをかけて洗いました。
でも、よく考えるとこんなにとことん遊べるのも人生のうちで今だけなんだろうな、と思います。そう考えると、まぁ、命に別状がない範囲なら大目に見ようかと。
それでも、学校からのお知らせで「寄り道をしている子を見かけます」と書いてあるのを見つけたりすると、「うっ」と言葉に詰まってしまう母だったりもします。
みなさま、この日記、どうか学校には黙ってて下さいまし。
☆ 日記のこと ハーバード 雄
昨日,今日と,再び晴れ間が戻ってきた.気温は先々週ほど高くはないが,これくらいがちょうどいい.爽やかで気持ちがいい.
今日も一日中,電気生理.しかし,期待されるような結果が出ない.
以前,電気生理学の先生が,「生理学者は狩猟民族,生化学者は農耕民族」と言っていたが,うまいことを言うなあと思う.
カルシウムイメージングや電気生理といった生理学実験の場合,結果は一瞬で出る.しかし,何も出ない時は,本当に何も出ない.釣りで言うところの「ボウズ」だ.
生化学や分子生物学の実験の場合,DNAを切り貼りしたり,タンパク質を精製したりと,手間と時間のかかる作業が比較的長期間に亘ることがあるが,全く何も収穫できない,ということも少ない.
さて,タイトルに書いた「日記のこと」だが,今朝,カウンターを見たらアクセス数が1900を越えていた.6月前には2000に到達するだろうか.
マイミクの多い人から見たら,半年近くでこのペースは遅いと思われるかもしれない.しかし,僕の日記を読んでくださっている方は,(少なくともmixi を介しての場合は)ごくわずかの方だけなので,それらの方が定期的に読んでくださっての2000アクセス.とても有難く感じられる.いつも読んでくださって有難うございます.
この2000アクセスか,あるいは日記を始めてから6月でちょうど半年になるので,こうした区切りをもって,日記の公開をマイミクおよびその友達に制限しようかな,と前から考えていた.そこで,以前,マイミクへの登録のお願いをした.何故か,あの時期,ちょっと良く分からないアクセスが多かったのだ.
ただ,それも最近は収まっている.たまたま訪れて下さった方の中から,定期的に読んでくださるようになった方もいる.しばらくは,このまま様子を見ようかな,と考えている.
日記に何を書くかは,大体,帰りのバスの中で考えていることが多い.その日あったことを思い出しながら,何を書いたら良いかを,ぼうっと考えている.帰りのバスに乗っている時は大概疲れているので,そのまま,うとうとしてしまうことも多い.
書くことが決まってからは,比較的早い.どんなに長い日でも,大体30分あれば充分に書くことができる.割合,筆は早いほうだ.ただし,「日本語で」だが.英語の論文を書くときは,本当に遅い.英語圏に生まれなかったことを悔やむ.
ただし,書き終えた後で,読み返して推敲することは,ある.その間も日記のことを考えていたとするならば,かなりの時間をかけていると言ってもよいのかもしれない.
日記をつけるようになって変わったことは,それまで取るに足らないと思っていたことにも目を向けるようになったことだろうか.また,その日にあった悲惨な出来事でも,「日記のネタになる」と思えば,儲けた気分にもなる(ただし,あまりに悲惨な場合は,思い返すことすら辛くなるが).
そして,何より変わったのは,マイミクさんとして交流を持つ方が増えたこと.これが僕にとっては,何よりの収穫だったと思う.
さらに,「湖」さんがご自身のホームページに僕の日記を良く転載してくださり,色々とコメントを下さる.これも,大変に有難い.今後も,よろしくお願い致します >「湖」さん.
勿論,人目に触れる日記だけに,読む人のことは意識する.先週は少し長く書きすぎたので,日曜からは控えめに書いたりと,それなりに工夫はしている.しかし,日記を書き始めた理由が自分の備忘録ということなので,どうしてもあれもこれもと盛り込みがちで,結果として長文になってしまうことが多い.読む方には負担を強いてしまい,申し訳なく思っているが,どうかお許しください.
これまでで,一番反響が大きかった日記は,僕にとっては意外だったが,研究をやめて彼女を追ってドイツに行くポスドクの話だった.
こちらのコメントはそれほどでもなかったが,「湖」さんのホームページに転載されてからは,「研究の話に比べてレベルが低い」「結婚や恋愛に対する考え方が古い」と厳しいご意見が多かった.
まあ,こうしたご批判ではなくても,やはり皆さん,恋愛・結婚には関心が高いせいか,色々とご意見・ご感想を寄せられた方は多かった.
色々と読みにくかったり,不適切な発言などもあるかもしれないですが,これからもよろしくお願いします.
* 馨さん、雄君とも、心身共に「健康」にそして丁寧に「生きて」いる。わたしは自身をこのような「鏡」に映して、励まされるのである。
* 「mixi」にもういくつもの力作を連載し続けている、手術後の「甲子」さんから、思いがけず、山梨のすばらしく精製された葡萄ジャムの大瓶を二つも頂戴した。夕食していた途中に届き、わたしはすぐ飯米食を一膳でやめ、恵比寿駅で買って来たおいしい食パンにのりかえ、早速ジャムを賞味、うまさに唸った。
ありがとうございます、甲子さん。
続々と小説を書き続けられる健康な意志力にいつも励まされています。米寿をまずはめざし、粘り勝ちに「甲子文学」を確立してください。
やがてまた『e-文庫「umi」』をしっかり立て直して充実させたく、甲子文庫がよりよく満たされてゆきますように願っています。
2007 5・23 68
* 五月末から六月へ、はや押し寄せるように用事の波が。
幸い、苦になる用事はほとんど無い。その気で楽しめばみな楽しめること。新年度に入り、日本ペンクラブの方が、各委員会も含めてどうなるか、新執行部がどんな方向へペンの舵を取る気か。すべて、この三十日の総会から始まる。
* 電子メディア委員会が総務省へ出向いて、先方官僚と対面の会議も予定している。例のわたしのホームページ全撤去というサーバーの暴行にもからんだ話し合いであり、参加する。
2007 5・24 68
☆ 何気ない一言 ボストン 雄
一昨日のこと,グレッグが僕の居室に入ってくると,「なあ,ciona.俺は今,猛烈に寿司が食いたいんだよ.ランチで一緒に行かないか?今日は忙しいから無理だけど,水曜日がいいな.行こうよ~」と言ってきた.寿司は先週土曜日にジェイと食べたばかりだが,無碍に断るのも良くないと思い,OKする.昨日,一昨日は自作の弁当持参だったが,今日はそのような訳で,弁当を持たずにラボに行く.
ある程度予想してはいたが,何も言ってこないのでグレッグに,「お前は月曜日に,俺に何を言ったか覚えているか?」と聞くと,「しまった!」とグレッグ.
「全くお前にはがっかりだ」と,普段言われているセリフをお返しする.しかし,グレッグは悪びれもせず,「俺は忙しい人間だから,忘れちゃうんだ」.
しかし,悪いと思ったのか,夜7時を回り,電気生理実験でくたくたになっている僕のところに来ると,「今日は,暇はあるか?うちの奥さんは今日,仕事で帰りが遅くなるらしいんだ.もし良かったら,一緒にセントラル駅の近くでビールとハンバーガーでもどうだ?」.
OKすると,「俺は良い夫だから,奥さんに電話してみてOKだったら行こう」.しばらく奥さんの返事を待つことにするが,「ダメだ.つながらない.どうしよう」とグレッグ.
「別に今日じゃなくていいよ」と僕.本当に,今日でなくても,良かった.今日はヘトヘトに疲れたので,ハンバーガーではなくて,もっとあっさりしたフォーが食べたかった.しかし,「いや,本当に君次第だよ」と僕.単に’It’s up to you.’という言い回しを使ってみたかったというのもあるが...
するとグレッグは,「うーん,でも,どっちみちセントラル駅の近くまでは,行かなくちゃいけない用があるんだ」と言うので,「それなら軽く飲んで行こうか」と僕が言い,結局飲みに行くこととなった.
行ったのはセントラル駅近くのThe Tavern in the Square.マサチューセッツアベニュー沿いにあり,テラス席もある.店の中には,大きなテレビが数台あり,ヤンキース対レッドソックス戦を流していた.ヤンキースの熱烈なファンであるグレッグが,この店を何故選んだのかが良く分かった.
最初は「俺は後で奥さんと飯を食うから,前菜だけでいいや」と言っていたグレッグだったが,注文する段になって,僕と同じハンバーガーを注文.「帰ってから,奥さんと一緒に食べるんじゃなかったの?」と聞くと,「奥さんは僕の性格をよく知ってるから,きっとこっちで食べてきて,軽いものだけ用意すると言ってくれるよ」とグレッグ.
サミュエル・アダムス・ラガーを飲みながら,ハンバーガーを頬張りつつヤンキース・レッドソックス戦を観ていると,グレッグの携帯が鳴った.奥さんからだった.
外に出て会話をし,戻ってくると「軽い前菜だけ用意しておくから,そっちでcionaと食べてきたら,と言われた」と.続けて,「僕らは,お互いの性格や考え方をよく分かってるんだよ」.
全く何気ない会話ではあるが,それを聞いて僕は,妙にグレッグがうらやましくなった.そんな風に自分のことをよく理解してくれる人がいるなんて,それだけで幸せな気がする.
この間の日曜日に,日本人ポスドクのMさんとSさんと一緒に食事をしたが,その際に同席されたMさんの奥様の,何気ない一言も印象的だった.
全くの偶然だが,僕ら3人は同じ留学助成金を頂いている.そこで,「助成金が切れたら,その後どうするんでしょうね」という話題が出た.あまり考えたい話題ではない.
僕などは真剣に「うーん」と考え込んでしまった.今,休職している日本の研究所の身分の問題もあるし,ビザの問題もある.学生時代の育英会からの奨学金の問題もある.しかし,今やっていることを放り出して,何も成果を挙げないまま逃げ帰るのも嫌だ.第一,逃げ帰ることができるかどうかさえ,わからない.
すると,Mさんの奥さんが,Mさんに向かって一言.「まあ,なんとかなるわよ」
本当になんでもない,それもたった一言だけだったが,その時,Mさんのことが心底羨ましく感じられた.
奥さんは精神科医だが,こちらではボランティアの非営利団体で働いているだけだから,収入源はMさんだけだ.もしMさんの収入が減れば,奥さんにとっても大問題であることは確かだ.それでも,一言,こういってくれる奥さんがいたら,どれだけ心強いことだろう.
独りで全てを背負い込むのは,仕方ないことかもしれない.一人の自立した人間として生きていくには,当然のことかもしれない.でも,そんなときに,お互いを分かり合えたり,励まし合えたりできる相手がいることは,やはりいいなあと思う.理想論に過ぎるかもしれないが,素直に羨ましい.勿論,一方的な関係ではない.奥さんがこう言ってくれるのには,日頃のMさんの奥さんに対する接し方が反映されているのだろう.
帰り際,グレッグは「これは奥さんの好物なんだ」といって,crab cakeを店の人に作ってもらい,お土産にしていた.
なんだか,妙に羨ましい気分になりながら,セントラル駅からTで帰宅.
☆ 雑記 碧
月曜に買った『京の和菓子』(辻ミチ子著・中公新書)序章冒頭に、「日曜日の朝、亀山さんへ仏壇に供えるおけそく(華足)さん、神棚に上げる星つきさん(おけそくの上に小餅がついている餅)を買いに行く」とある。
おや、これは。去年の暮に「湖」さんの書いてらした「ほしづきサン」のことみたい。
今日ようやくパソコンで検索してみた(その前に手元の仏教辞典と小さい国語辞典をみたけれど載っていなかった)。
「けそく」は華足・華束の表記あり。餅を供える道具。仏飯器、リン、高月などと共に写真もあった。我が家では高月にお正月の餅も、お盆のお迎え・お土産団子も供えている。省略したのかな。
「ほしつき」はそのまま平仮名で謂れまではわからなかった。
今月は豆月間。
えんどう豆・さやえんどう・スナップえんどう・おたふく豆を毎日のように食べている。どなたかに食べ助けをしてもらうつもりだったが、例年になく実入りが悪いしハモグリバエがわんさか付いているのでそれも憚られて。
先週その豆採りに出かけたら、またもや日焼けしたのか顔が赤くなって首の周りが痒くなった。皮膚科に行ったが「紫外線で、そんなまだらに出ることはない」と一蹴されてしまった。
「考えられる原因として 1.芳香剤」「置いてません」
「2.化粧品」「使いません」「化粧水や乳液も?スッピン?」「はい」
「あとは植物」「あぁ。豆採りに行きました」
・ ・・というわけで後半の豆上げ作業は手伝わず、いまはせっせと食べるだけ。
明日はここ下関で国民保護法に基づく訓練というのをするらしい。民間人も巻き込んで。六連島の住民でなくてよかった。(全市民で、といわれたって参加しないぞ。)
2007 5・24 68
☆ ついに ハーバード 雄
昨日,「夏休みにはまだ早い」と書いたのを訂正したくなるような,暑い一日だった.最高気温は優に摂氏30度を超えただろう.ラボの中はクーラーが効いていて涼しいが,一歩外に出ると,湿度も高く,むっとするような暑さに包まれる.
今日も朝から電気生理.刺激電極が壊れてしまったので,ハンダ付けをし,銀線にメッキを施す.苦手のハンダ付けも,大分上達した気がする.
ガラス電極を神経細胞に入れるが,細胞の調子の良い時に見られるような電位変化が見られない.標本を作りなおして再度トライしたが上手く行かず,諦めかけた頃,普段と違う電位変化に気づく.
JCにデータを見せると,「うん,これは確かに間違いなく,シナプスからのシグナルだよ.」
ようやく,見たかったシグナルが見えた.まだ,データのクオリティーは低く,科学的にも新しい現象ではないので,これで何かの発見になるとか,論文のデータになるという訳ではない.
しかし,4月にセットを作るところから始めて,ようやくデータを取れるところまで来たということで,感慨深い.それに,シナプスの応答を自分の目で確かに見たのはこれが初めて.
何度もJCが僕の背中を叩き,「Good Job!」と繰り返し言った.帰り際も,大きな声で「Good Job!」’と叫びながら,奥さんと一緒に帰っていった.少し嬉しかった.
すぐ追試しようと思ったのだが,溶液を切らしてしまったこともあり,気分の良いまま,今日は早めに切り上げて,帰ることにする.
帰りは回り道をしてポーターへ.歩くだけで汗が噴出す.
Kotobukiyaで久しぶりに日本の食材を買いあさる.暑さの余り,置いてあった「葛きり」を衝動買い.
* よかったね。
2007 5・26 68
☆ 昨日・今日と晴天だったが黄砂も飛来。しかも光化学スモッグのおまけつきで、北九州の小学校は運動会を中止したとか。
おととい金曜日の国民保護計画に基づく避難訓練。雨の降りしきる中、六連島の住民のおよそ三分の一(希望者だけ、歩行に不自由のない人だけ)が参加して行われた。
夕刻のニュースをいくつか見てみたが、「テレビ山口」編集のそれが、いちばん詳しかった。訓練に反対の被爆者団体が抗議したことも伝えていたし、山口大学の纐纈厚教授の評は的を射たものだった。
曰く、「通常の防災訓練と何ら変わるところはない、従って新しい立法も必要ない。それなのに敢えて行うのは<有事>を意識させるため、軍事訓練が必要と思い込ませるために他ならない」
テレビの取材に「市民の生命・財産を守るのが自治体として最大の任務」と答える江島市長。でも、どうやって?
「生命はともかく財産なんて守れるわけないじゃん」と母。
今日の新聞に載っていた島民の<本音>が可笑しかった。
「武装勢力が上陸したら自家用の船で逃げる。対策本部の指示なんて待ってられない」
さもありなん。 碧
☆ 夜はもうバタンキュー。
そして、このところ、早い目覚めでも寝直さず枕もとの本を広げている。
二日ばかり、ハーバート・リード(1893~1968.英国の詩人、文藝美術評論家)著、大沢正道訳『アナキズムの哲学』(法政大学出版会・叢書・ウニベルシタス。1968=だいぶ前の本で叢書の通し番号がまだ振られていない)を構えることなくゆきつ戻りつ頁をめくり、一日のよき目覚めとしている。
今朝は「自由の鎖」(1946~52)の一部「自由=フリーダムとリバティ」を読み、そしてあれこれ考えた。
「わたしは何のプランもたてていない。体裁はありふれた覚え書きである。わたしはいちいち日付をつけなかったが、大体、読書していった順か、過去の出来事に刺激されたものである。」(著者)
語義や文脈について原書を参照し確認したき点があるが、生憎手元にはない。が、覚え書きの中に、著者のすぐれて優しく強い思想ニュアンスを、訳文を通して、流されずに充分つかみとれる。
朝からきままな(フリーダム)読書を楽しめるのは、難解な哲学ではない読める文藝の筆致効果であろう。
(通読後、感想をまとめたい。だいぶ離れてしまった「ユートピア」論も復習しつつ)
☆ 色川先生のことども 俊
掲載写真(割愛)は、「秩父事件」の資史料(複写物)。色川大吉氏が昭和五十年代に女優の北林谷栄さんに送った、自稿の抜き刷りと明治の新聞(明治38、信濃毎日新聞連載記事)のコピーである。
秩父事件(秩父困民党)は、1884年(明治17年)10月31日から11月9日にかけて、埼玉県秩父郡の農民が政府に対して起こした武装蜂起事件。自由民権運動の影響下に発生した、いわゆる「激化事件」の代表例ともされてきた。
関心ある方は、地元の高校社会科教諭、吉瀬総さんのHPをご覧下さい。1956年生まれ。埼玉県秩父市在住。埼玉県立秩父農工高校全日制教諭(社会科)。 秩父事件研究顕彰協議会会員。
「圧制を変じて自由の世界を」 http://www.yasutani.com/ccbziken/
色川先生には、だいぶ以前、地元(東京経済大)の市民講座などでニ三度お話をうかがったことがある。
マイミクの「湖」さんが館長をつとめられる「日本ペンクラブ電子文藝館」〔招待席・主権在民史料〕に色川先生の記述抄編――「自由民権請願の波」 『近代国家の出発』より――が無料掲載されており、ぜひお読み下さい。「湖」さんが色川氏からじかに掲載をゆるされたとうかがっている。同室他編、ほかの多彩な分類コーナー作品もあわせ、一度立ち寄られるよう勧めます。
〔招待席・主主権在民室〕(館長の紹介文を転載)
色川大吉 いろかわだいきち 歴史学者 1925年 千葉県佐原市に生まれる。東京経済大学名誉教授。一貫して民衆の側から日本近代史を調査検討詳説し、民衆思想史の重要さをも夙に重く捉えた成果は、現代ないし未来に示唆と激励をなげかける。 掲載作は、昭和四十年代の大シリーズ中央公論社刊「日本の歴史」で、第二十一巻『近代国家の出発』を担当記述された一冊から、民衆の政治エネルギーの結集とはいかなるものであったかと、表記一章の掲載を特に招請した。
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/index.html
「リバティは具体的、すなわち実存的である。
フリーダムは抽象的、すなわち観念である。(ハーバート・リード)」
自身の結論はまだ持ちえぬし、先は分からない。が、身近な事象、経験から何かをつかみとりたい。
数式の演繹ではなし。
因果の帰納でもなし。
シンプル、明快で優しく強い自由な実行メッセージが欲しい。
いや、手ずから導きだし造ろう。
be free as a bird
2007 5・27 68
* 一時、卒業生の「臻(いたる)」君、来訪。妻の手料理で昼食・歓談。大手の電機メーカーにつとめ、もう十年、そのあいだジャズダンスのレッスンに熱心に通っている。話し相手の出来る青年で、歓談にこと欠くことがない。彼の方からもいろいろ珍しい話題を出してくれる。わたしの話すこともよく聴いてくれる。
おみやげに銀色のてんとうむしのような自転車用ヘルメットを買ってきてくれた。サンキュー・ベリマッチ。夕食も一緒にして川崎まで帰っていった今も機械の前でヘルメットを冠っている、子供みたい。
* 「臻(いたる)」君に訊いてみた。 平等、安全、人権、所有。この四つに不等記号をつけるとして、日本国の政治では、「臻(いたる)」君自身は、と。彼、しばし思案して、自分は 人権>安全>平等>所有と。政権政治家たちは、畢竟日本の政治は、 所有>安全>平等>人権でしょうと。
フランス革命最初の憲法前文にあたる宣言では 高らかに 人権(自然権)、ついで平等、最後には安全を意味する友愛だった。フランスの誉れある三色旗だった。それが数度の憲法いじりからナポレオンに至ると、真っ先に「所有」の保障、ついで最高権力者のもとでの「平等」、そして軍の力による「安全」で、「人権・自由」などは国民には無用と切り捨てられていた。
* 有りがたい来客のおかげで、本機インターネットを回復し、本機・旧機に連絡がついた。ファイルの相互移送や、両方から外付けのスキャナやプリンタが使えるようにしてくれた。機械全部からの「全検索」が可能になるよう新しいソフトをダウンロードもしてくれた。いろいろ、こまごま、調整していってくれた。わたしはこれからおいおいに学習する。
結局、旧機の音声機能だけは回復できなかったが、機械環境は機動的にかなり回復された。感謝、感謝。
夕食後も歓談、六時には帰ると言ってたのを大幅に遅らせてしまった。申し訳ない。
2007 5・27 68
☆ 休日の過ごし方 ボストン 雄
午前中,昨日買ってきたアーティチョークを早速,調理してみた.棘を切り取り,20分ほどレモンと塩の入った湯で煮る.
食べてみた感想としては,竹の子のような感じ.見た目は全く異なるが,茹でて灰汁を取り除くところや,皮を大量に向いた中に食べる部分があるところ,そして最も食べがいのある部分の食感が似ている.
食感に関しては,もう少し茹でると百合根に似ているかもしれない.揚げると美味しいというのも分からないでもない.しかし,大きさの割に,食べられる部分が本当に小さいのにはがっかり.
今日は天気予報では雷雨とのことだったので,家で本でも読もうかと思っていたのだが,それにしては余りに天気が良いので,午後から外出.外出したのは正解で,昨日までとは違って湿度も低く,気温も少し下がって爽快.
プルデンシャルセンターにあるスーツケースの店に向かおうと家を出たのだが,近くの沼があまりに綺麗なので,予定を変更して,少し辺りを散歩することにする.
犬を散歩させる人,ジョギングする人,ベンチで食事を摂る人,草の上にシートを敷き,その上で本を読む人.皆,思い思いに,のんびりと時を過ごしている.ガチョウの一種だろうか,沼から出てきて,草むらで餌を食べている.横を僕が通り過ぎても,全く動じない.
ベンチで昼食を取っている人をよく見たら,なんと先週,食事をご一緒したMさん夫妻だった.そういえば,先週会った時に,ここのことを聞かれたかもしれない.軽くご挨拶する.
沼の途中に橋がかかっているので,そこで折り返す.帰り道,2枚ほど沼の辺りの写真を撮った.エメラルド・ネックレスと呼ばれるだけあって,緑が本当に美しい.
Eラインに乗り,プルデンシャルセンターへ.スーツケースの店に向かう前に,本屋に立ち寄る.中ではCDも売っていたのだが,品揃えが割と良い.ポリーニの弾くショパンの「エチュード」,バレンボイムの弾くショパンの「ノクターン」のCDを買う.以前行った,キーシンのコンサート以来,すっかりピアノ曲にはまってしまい,同じ曲をホロヴィッツが弾いているCDをネット購入し,最近は実験しながらそればかり聞いていた.2枚買うと1枚タダになるというキャンペーン中らしいので,さらにサー・ネヴィル・マリナー指揮のバッハの「フーガの技法」をつけてもらう.
スーツケースの店は,やはり思ったとおり,かなり値段が高い.小さめのものはまあまあ安いが,わざわざ買う必要があるか悩む.仕方なく,プルデンシャルセンターの外に出て,ニューベリーストリート沿いの店を数軒覗く.
今まで来たときは,ニューベリーストリートがにぎやかな通りだという印象は全く無かったのだが,気候が良くなったせいで,どこの飲食店も皆,オープンテラスを開放するようになった.そのせいか,急に活気がみなぎった気がする.
場所柄なのか,それともボストンはどこでもそうなのか,他の店も安くはなかった.そもそも,僕が乗る飛行機の航空会社は,アメリカで最もlost luggageが多いと聞く.どうせ持っていくのは洋服と手術道具位だろうが,手術道具は手荷物に入れられないし,洋服はどうせ大したものは無いので,一番高いのはスーツケースかもしれない.そう思うと,わざわざ買いなおすのも馬鹿らしい.結局スーツケースは買わず終い.ただ,日本から持ってきたリュックサックが大分ボロボロに壊れてきたので,代わりになる肩かけカバンをThe North Faceで購入.
せっかくプルデンシャルセンターまで来たので,リーガルシーフードに立ち寄り,oysterとclamを軽くつまむ.ささやかな贅沢.だが,少量ならば,それほど高くはない.再びEラインで帰宅.
僕は元々,活動的な人間ではない.休日だからといって朝早くに起き,遠くまで出かけて,盛りだくさんの予定をこなして帰ってくるというのは,性に合わない.近所の,ちょっと綺麗なところを散歩して,本やCDを物色し,美味しいものをちょっと食べて帰ってくる,というのが僕にとっては理想的な休日の過ごし方.そういう意味では,今日は理想的な休日だった.
明日はメモリアル・デーといって祝日だが,ラボはいつもどおりフル稼働だろう.僕もこの2日で充分リフレッシュしたので,明日からはまた頑張れそうだ.
* この気散じなところが「雄」くんの真骨頂。休日の過ごし方など、どっちかならわたしも「雄」派だ。事実上のむりもあるからだが、なにも遠距離を出向いてゆくことはない、気に入った近間でも十分楽しめる。いま、三宝寺池や、そうそう堀切の菖蒲や柴又へまた脚をのばしてもいいわけだ、だが、歩けないからなあ。自転車でならいろんなところへ回れる。ヘルメット爺になって走るかな、怒られるかな。自転車だと脚はほんとうにラクなんです。
2007 5・28 68
* コンピュータ二台に、これは何じゃと思う初めてのロゴが幾つもあり、ややこしくて、手に負えない。ま、ホームページの更新と、一太郎でワープロ作業は出来るので当面困らない。両機の自在な交通が結局出来ないでいる。むずかしい機械である。
2007 5・28 68
* ある高校生少女のブログが、五月二十五日付で、終止符。一度もこちらからは働きかけなかったが、ただ眺めて楽しみにしていた。残念。
2007 5・28 68
* 女性の結集する、晴れやかでアクティヴな政治団体、今でもあるのか「主婦連」ぐらいしか知らない、が、主婦だけでは弱い。有っていいのに。しかし主導権争い、ひょっとして男性以上に有って纏まらないのかも。ダービーを制覇した牝馬ウオッカを名誉総裁に頼んでは。
* 日本も「八月十五日」を適切な名付けで国民祭日の「メモリアル・デー」にし、政治屋どもの靖国神社ににじりよるややこしいパフォーマンスを賢く避けてはどうか。人の死を政治目的に利用するのは避けたい。八月十五日なら、いろんな意味合いから適切ではないか。
☆ メモリアル・デー ボストン 雄
昨晩遅くにネットでニュースを見ていたら,二つの訃報が飛び込んできた.一つはZARDのボーカルの坂井泉水が慶應病院で階段から転落して脳挫傷で亡くなったというもの.もう一つは松岡利勝農水大臣の自殺の報.どちらも衝撃だった.
僕は特にZARDのファンという訳ではないが,決して嫌いでない.がんと闘っていたということも知らなかった.ご冥福をお祈りします.今日,実験をしながら,ZARDの曲が頭の中でずっと流れていた.
松岡農相に関しては,何とも言いようが無い.現役閣僚の自殺など,これまで聞いたことがない.僕がアメリカに来てから,光熱水費の問題が国会で激しく取り上げられるようになったので,僕にとっては今ひとつピンと来ない.ネットでもニュースは読めるが,やはりテレビから受ける印象とネットニュースとでは,大きな差がある.たまにlocation freeでニュースを見ても,一本5千円の水がどうした,というような内容ばかりで,正直言って馬鹿馬鹿しいと思っていた.しかし,まさか自殺するとは思いもしなかったが.
「生む機械」発言の柳沢大臣といい,今回の松岡大臣,そして何より首相の安倍晋三と並べただけでも,この内閣は明らかにおかしいと思う.
さて,今日はメモリアル・デーでアメリカは祝日.メモリアル・デーとは元々は南北戦争の戦没者を追悼する日であったのだが,現在では国のために命を落とした軍人全てを追悼する日となっているらしい.
祭日だが普段どおり家を出たものの,一向にバスが来ない.車の数もまばらだ.しかたなくTに乗って出勤.ハーバードスクエアで地上に出ると,昔の軍服姿をした集団がパレードをしていた.カメラを持ってなかった.
街もそうだが,ラボもどことなく閑散としている.次々とラボのメンバーが顔を出すので,休んでいる人はわずかのようだが,それでもがらんとした雰囲気.
そんなに重要な祝日なのかと思い,金曜日に休暇から戻ってきた同室のライアンに聞くと,ただ単に気候の良い時期の連休だから,皆,どこかに行っているのだろうとのこと.ゴールデンウィークみたいなものか.
祝日で思い出したが,今日,マイミクぶんちゃんさんより,僕がミュンヘンに行く日は,宗教的な祝日だとのこと.下手をすれば,金曜日も休暇を取って,4連休にする人も多いのではないかとのことで,本当にラボで実験できるのかどうかと焦ってきた.朝一番にメールを先方に送ったが,返事が来ない.頼むから,予定を変えてくれなどと言わないで欲しい.
実験は,やはり二日休んだせいか,勘を取り戻すのに少々時間がかかった.最後にようやく成功して記録をとる.祝日なので,早めに切り上げ,ハーバードスクエアに出る.
昨日,コメントで教えて頂いた,キース・ジャレットのCDを早速購入.楽しみだ.Pho PasteurでいつものDac Biet(牛肉入りフォー)と春巻きで夕食.
2007 5・29 68
☆ ジャムより、足袋 甲子
実のところジャムは付け足しで、室内履きをお送りするのが主でした。二年ほど前に娘が買ってきてくれて愛用しており、自転車事故のあと「足が冷える」という「私語」への書き込みを拝見、お送りしようと用意しましたが、陽気も暖かくなり、いかにも季節はずれ、と一旦断念したのでしたが、二・三日前にまた、「しんしんと冷える」との記事を拝見、翌日お送りしました。
お送りしたとたん「夏日」となり、またまた失敗。わたしの生き様のごとき有様、苦笑を通り越して情けない思いがいたします。
それにつけても、多勢のかたがた、事故についての心配り、よい友を多数お持ちで羨ましく存じあげます。
『愛、はるかに照せ』 もちろん読ませていただいております。それの読後感もさまざまあること、さもありなん、と存じます。
また、卒業生の方の日々の日記もすばらしく、堪能させていただいております。こういう文章に遭遇すると、「自分は何のために書くのか」という根の問題に引っかかってしまいますので、観賞だけさせていただいて深くは考えないようにしています。
「愛」について、よくよく考えると「自分は(自分以外の)誰かを愛したことがあるか(あったか)」という問題に突き当たってしまい、己れの浅はかさに気づくばかりです。
まだ、言い足りてはおりません。当然ですね。
日々のご健康、ご留意なされますように…。
* 室内履きは、ひたっと足に吸い付くように薄く軽く、しかも温かいので、いただいたのも忘れるほど早速に愛着している。足先が、ほかほかと熱くなってくる。かと思うと、それでもなにとなく冷たい感じが足先へ溜まってゆく。
甲子さん、有り難うございました。お大事に、日々を。「mixi」にお誘いしてよかったと思っています。旺盛な筆、羨ましいことです。
2007 5・29 68
* 「麗」さん、おもしろうてやがてさびしきお話なので、頂きます。 湖
☆ オバさんは日本の将来が心配だ 麗
5/27,学会発表が午前中で終わった。引き続き「営業」してもよかったが,麻疹が怖いのと,共同研究氏が「午後は?」などと大儀そうに言ってきたのとで,帰ることにした。
共同研究氏とは**で別れ,JRで実家最寄の山手線某駅まで,ひとまず戻った。
久々に履いたハイヒールの足を引きずり,資料の山をぶら下げ,駅から実家までの道のりは10分ほど。坂道を登る様は,「後姿の時雨れてゆくか」ではないにしても,「疲れているな」くらいの印象では,あったはずだ。暑い午後だった。
「すみません」
左後方上側という,いささか変な位置から声がした。
振り返ると,ロードレーサーに乗った,どう見ても20代の男性がいた。歩みを止め,無言で彼に見入った。
「迷子かしら」
いかにもオバさんらしい思いが,心中にはあった。
「あの,いきなりすみません。」 「?」
「突然で,何だって思うかという感じなんですが」 「??」
この男性、なかなか本題に入らない上に,こちらの不信感たっぷりの表情に気づいているだろうに,立ち去るそぶりもない。
あたりには人通りもない。「まずいなあ」と思い始めたころ,やっと男性が切り出した。
「その…そちらのお友達何人かと,僕の友人何人かと一緒にですね」 「!!!」
顔をしかめて手を横に,追い払うしぐさとともに駆け去った。
坂を上りきって振り返ると,ロードレーサーの姿はなかった。とうとうこちらからは,一言も発しなかった。
角を曲がると,実家が見えてきた。汗を拭きつつ,心配が萌してきた。
女の年齢(とし)も見抜けない,見抜けたとしても,臨機応変に立ち去る術も知らない,最初に考えたシナリオどおりにしか,言動を運べない…。牡の触覚も嗅覚も瞬発力も退化したような,そんな若者が増えているのだろうか。
オバさんは,日本の将来が本当に心配だ。
* オバさんは、オジーサンを相手にわずかな未来をアテにすべきなんですかねー。
2007 5・30 68
☆ 手がかり 07.05.29 雀
修理が済んだ携帯電話を受け取ったのは、名張に越して丸10年になる、前日。
友人の贈ってくれた銀座みやげの根付けを、翌日ストラップ代わりにつけ、新装開店・気分一新と、心にシャープペンシルで書いたくらいの細い輪郭線を引きました。
朝、目覚めているのを確かめ、2時間後、家事を終えて手に取ってみると、こときれていた、頓死といったていで、基板を交換されて戻ってきましたから脳を取り替えたようなもの。初期設定からやり直しです。
器械が記録していた情報、また器械に記憶させた情報、カメラ映像、それらすべてが消えましたが、ショックやパニックにはなりませんでした。呆気に取られ、ついで、ま、そんなこッたろゥと思ったよ、いつかはサと、さっぱりした気分になりました。
ナムバリングの器械が信用できなかった人のお話が印象深く心に残っています。『モダン・タイムス』につながるお疑いでしょう。電子情報はそれに勝る疑いです。情報の保護、保存などありえないし、変容、消去、改竄、介入は当たり前と思っています。
そして、真実より事実、記憶より記録という傾きが、もはや傾きどころではなく、明らかに前者が敗けています。自分の記憶が記録に影響を受け、記録ばかりを「気にしている」ことは堪らないことですし、器械が示す記録再生が少しずつ改竄されていって、それによって「記憶がこしらえられ変わっていく」のではないかという恐れがとれません。それは見た夢や脳の変化によって記憶がかわってゆくのとは、まったく違った気味の悪いことです。
また書き写しをしながら、縦書きで紙に手で文字を書いてゆく気持ち良さを取り戻し、理屈でなく自分が好ましいと幼い頃から感じてきたことが何だったのか、あらためて思いを凝らすことができました。
ペンタッチワープロの時代から、パソコンのキーボード、そしてケータイのボタンと、ハードは変化していますが、文字を画面でいちいち指の動きで変換させながら思いを綴るリズムと、画面スクロールの動き、指だけで操作するストレスは軽減されず、慣れることができません。最初は面白がって新しがって浮き浮きとした心持ちでしていた電子メールが、雀のなかでは錆びて色あせた「ツール」になってきました。文房四宝は空想的なぜいたくですけれど、藁紙に鉛筆でも、紙に手で縦書きで文字を書く手遊びが、雀の心身を安楽にしてくれる一法と感じているこのごろです。 囀雀
* 賢者の謂であり、共感する。「mixi」のマイミクにもしんそこ「読みたい」ほどの文章はなかなか現れない、おおかたはうたかたのようだ。ま、それでもわたしには小さいが世間への窓である。もうしばらく開けておこうか。
2007 6・2 69
* 黙々仕事をすすめる。いろいろ有りすぎるのを一つ片付け一つ片づけ。
一つ、詩人から預かり原稿を、ディスクで開こうとしても開かない。仕方なく「ぺると」へ走って、マスターの機械で開いて、メールで送ってもらった。読んで入稿。自分の仕事も進め、明日の谷崎話の心用意も。
* 知らぬうちいま機械の前で昏々と眠っていた。眼の底の底、遠くで、まっ白の吹雪が奔るように斜めに流れていた。
2007 6・3 69
* マイミクの二人に、美術の話題が出ていて、つい一服がわりにコメントさせてもらった。また上野の博物館か東洋館か表慶館か。人の少ないところをぽつりぽつりと見て回りたい
2007 6・3 69
☆ 火星の人類学者 ハーバード 雄
オリヴァー・サックス著『火星の人類学者—脳神経科医と7人の奇妙な患者』(吉田利子訳,早川書房)を読んでいた.日本を発つ少し前に,オリヴァー・サックスの著書にはまり,買いあさったものをそっくりボストンに送ってあった.一通り全部読んだが,改めて読み直すと新鮮に感じられる.
著者のオリヴァー・サックスは、『レナードの朝』の著者として著名な、脳神経科医.この本には,7人のそれぞれ実に不思議な体験をした人々が描かれている.例えば,事故を契機に全てのものが白黒に見えるようになってしまった全色盲の画家,激しいチックを起こすトゥレット症候群の外科医,「私は火星の人類学者のようだ」と漏らす自閉症の動物学者.
他にも,それまで目が見えなかったのに,手術によって視力を獲得した人が,かえって「見えているのに,それが何なのか「見えて」いない」という新たな問題に突き当たった話.自閉症で,言葉を全く話さないが,一度観た風景を異常なまでの記憶力で細部まで鮮明に描くことのできる,イディオ・サヴァンの話も収録されている.
イディオ・サヴァンの話は,同じ著者の『妻を帽子と間違えた男』の中にも出てくるが,こうした特殊化された,しかし極めて高い能力をもつ人の話を読むと,人間の脳のもつ潜在的能力の恐るべき高さをひしひしと感じる.よく,人は頭が良いとか良くないとか言うが,そんなのは,本来,脳が持っている潜在能力からすれば,誤差の範囲なのだといえる.
この本の冒頭で著者も言っているが,この本に登場する,「思いがけない躓き」を経験した人々は,一方では,「極端に変化した状況の下で生き延びた人たち」でもあり,彼等が生き延びられたのは,「人間がもつすばらしい再構築と適応の能力のおかげ」に他ならない.
著者は,このようにも書いている.
「発達障害や疾病の破壊力はたしかに恐ろしいが,同時に,そこに創造性が見られる場合もある.ある道が閉ざされ,ある行動様式が不可能になったとき,神経系はべつの道,べつの様式を見出し,思いもよらなかった発達,進化を遂げるかもしれない.私の見るところ,この可能性はどの患者にもある.発達障害や疾病が秘めているこの可能性について,本書で語りたいと思う.」
実際に現在,そうした発達障害や疾病に悩まされている方やそのご家族にとっては,「なんと悠長なことを言っているのだ」と不快に思われるかもしれない.
しかし,今の医学や科学では,脳はあまりにも複雑な研究対象であり,研究者が日夜努力しても,一人の研究者が明らかにできることは,本当に限られている.とりわけ,病気を治すということに関しては,時に絶望的な気持ちになる.
その中で,神経科学の研究者が希望を捨てないのは,脳本来がもつ,こうした「驚くべき適応能力」に,わずかな望みを託し,その仕組みを少しでも明らかに出来たら,これらの発達障害や疾病を理解する上で一歩前進することになるのではないか,と考えるからだ.
* 読んでみたい、わたしも。
2007 6・4 69
☆ 卒業シーズン ハーバード 雄
今朝は週1回のプログレスレポート.担当はポスドクのムリカ.僕と1日違いで先にラボに入った新人ポスドクで,今日は初めてのプログレスレポート.あまり仕事が進んでいないとの話だったが,確かにデータといえるデータは無いけれども,かなりいいところまで来ている.正直,プレッシャーを感じる.これだけのプログレスレポートを自分がしようとしたら,どれだけ準備に時間を要するのだろう.
そんなことを,話を聞きながら考え込んでしまった.ふと気づくと,皆が僕を見ている.どうやら,僕に誰かが質問したらしい.ちょっとちぐはぐな答えをしてしまい,恥ずかしい思いをする.
プログレスレポートが終わってから,ムリカと一緒に,担当となっていた解剖部屋の掃除をする.ここは共通スペースの中でも特に汚く,単に汚いだけでなく,いらない器具の放置スペースとなっていた.ムリカと相談して,とりあえず机の上などを綺麗に整頓し,要らない器具に関しては,1週間の間に必要なものにラベルを貼ってもらい,それ以外のものは来週廃棄することにした.
ランチの時間になったので,ロースクールのカフェテリアに行くも,今週はお休みとのこと.ロースクールの前にテントが張られ,椅子やらスピーカーやらが用意されている.図書館には垂れ幕も掛かっている.そういえばここ2週間くらいに亘って,ハーバードヤードの中の至る所にテントが張られている.これは何なのだろうと思ってライアンに聞くと,今週,卒業式があるのだという.
かなり前から準備していることからも想像できるが,ハーバード大学の卒業式はかなり大規模なものになるらしい.今日見たら,普段広いと感じるハーバードヤードに所狭しと椅子やテントが置かれていた.当日は,ビル・ゲイツが来て講演をするという.
実は僕自身は,大学を卒業していない.大学3年生で大学を中退して,同じ大学の大学院の修士課程に入ったからだ.いわゆる「飛び級」だが,どうせ同じ大学の大学院なのだから,卒業にしてくれても良さそうなものなのに,正式には中途退学扱いとなる.従って,正式な履歴書には「中途退学」と書かなければいけないことになっている.そのため学士号も持っていない.学位授与機構というところに行けば,学士号だけはくれるらしいが,この仕事をしている限り,学士号はあまり意味をなさないので,まだ申請していない.
だから,大学の卒業式に参加したのは,大学院修士課程の時だけ.博士課程のときは,式の前後に高熱を出して入院してしまったので,参加できず,後から学位記だけもらいに行った.
修士課程修了時に参加した卒業式では,各学科ごとに修了証書を受け取りに行く代表者がいたが,皆,個性的な格好をしていた.普通にスーツ姿の人もいたが,アメフト部出身なのかアメフトの格好をしていた人もいたし,ジャージ姿でたすきをかけた人さえいた.スーツ姿で一見普通なのに,証書をもらう時にいきなり学長のネクタイを直した人もいた.
日本とアメリカでは,日本の方が形式を重んじる気がするが,こと大学の卒業式に関しては逆のような気がする.
ちなみに,卒業式の後,サークルの後輩に胴上げをしてもらったが,あれは実際にやってもらうと,思った以上に気持ち良いものだ(やる方は大変だと思うけど).
明日からドイツということで,6時にラボを切り上げる.廊下で擦れ違ったジェイに「気をつけて行ってらっしゃい」と声をかけられ,しばらく立ち話をする.するとそこにマントを羽織った学生が入ってきた.おそらく本番では,皆あんな格好をして大々的にやるのだろう.ちょっと見てみたかったが,ドイツに行ってしまうので見られない.残念だ.
(明日から日曜までドイツに行きますが,まだパソコンを持っていくかどうか決めかねています.ノートパソコンの折りたたみのヒンジの部分が壊れかけていて,下手をすると使えなくなる恐れがあるので.明日の朝,最終的に決めるつもりですが,持って行かない場合は日曜日まで日記の更新はできません.その場合,帰ってきてからドイツでのことを書こうと思います.)
* 気をつけて行ってらっしゃい。
2007 6・6 69
* ペン言論表現・電子メディア委員会へ緊急の要望 ML
共産党の志位氏が公表し抗議した自衛隊の個人情報調査実態は、共産党のホームページ内容を虚心に見ましても、また各報道の対応からも、重大議題であると思います。
日本ペンクラブの新執行部は、電子メディア委員会と言論表現委員会を合体して双方の活動範囲を含む新・言論表現委員会を発足させました。わたし個人の認識では、時代の要請にも逆行し、あたかも一升釜で一斗飯を炊けというほどの暴挙のように思えるのですが、ともあれかくもあれ、上の問題は、まさしく言論表現の自由も侵し、また「エシュロン」等の電子メディア悪用のグローバルな個人・団体情報収集という問題とも、密に関わっています。山田健太委員長はよく問題点をすでに把握されていると思います。
新委員会の取り組まねばならぬ大問題の一つが露出してきたと思います。早急に新委員会開催を計画して下さるよう、希望します。 理事・委員 秦 恒平
* ペンが座視して済むことではない。
* 阿刀田会長 浅田専務理事 吉沢事務局長 殿 秦恒平理事
「二つ」お願いがあります。
「一つ」は 新・言論表現委員会にメーリングリストで提案・緊急の要望した件、新執行部でも対策対応を考慮して戴きたい。MLを此処にも貼り付けます。 (内容は上記)
「もう一つ」は、下記「情報開示」のお願いです。
日本ペンクラブの新・執行部また新・理事の中で、少なくもインターネットによる交信の「可能で実行できる人」と、「不可能な人」とを、理事会に「一覧開示」して下さい。
上記MLのような事態・事件の生じてきたとき、理事間でも虚心に速やかに意見交換または相談したい事例が、過去にもしばしばありました。
電子メディアを使用するしないなど全く個人の自由ですが、国際的な団体である日本ペンクラブの活動基体である執行部や理事会では、対応可能度の高いに越したことはありません。
例えば「電子文藝館」や「電子メディア」委員会では、委員も館長も担当役員も「ML」に加われないのでは、実務的に役に立たず、資格がなかった。例えば「ペン電子文藝館」の実際を、自分の手と目とで機械で見ることも出来ない委員や役員では、無意味で滑稽な存在でした。なくなった米原万里さんは、昼夜を分かたぬMLの「校正往来」にも誠実に参加されていたのです。いろんな相談もインターネットで速やかに出来たのです。
いちいち会議会合しなければ、即時・緊急に協議・論議・対応出来ないというのでは、委員会活動の遅滞・停滞は必至です。それも憂慮しながら、上の情報開示を請求します。
2007 6・7 69
☆ ミュンヘン ドイツ ハーバード 雄
(前略)アルテ・ピナコテークに置かれている作品のほとんどは,キリスト教と密接に結びついていると思われる.そのため,僕には良く分からないものも多い.
ただ,分からないなりにも,ルーベンスのコレクションは楽しめた.柔らかいタッチで描かれており,肌の質感なども瑞々しく描かれていて,他の画家と比べて一見して異なる.構図も凝っているし,巨大なキャンヴァスに描かれた作品も数多く,果たして一人でこんなにたくさん描けたのだろうか,と思ってしまった.実際,彼の作品だけで一部屋以上のスペースが使われていた.おそらく,この美術館のウリの一つなのだろう.
その他,たった一作品だけの展示だったが,エル・グレコの作品も,色調が独特だった.レンブラント,ラファエロ,レオナルド・ダ・ヴィンチの作品も掲げられていたが,ダ・ヴィンチの作品はそれほど目を引くものでなかったのが少々意外.
アルテ・ピナコテークから,通りを挟んで建っているノイエ・ピナコテークへ.ここでのお目当てはゴッホの「ひまわり」.実際,この作品の掲げられている部屋,およびその隣接する二部屋程度以外は,大した作品はなかった.しかし,この「ひまわり」とゴッホのほかの2作品で充分,入場料の元が取れた気がした.この部屋にはゴーギャンの作品もあったが,ボストン美術館で見たものほどの感銘は受けなかった.
ノイエ・ピナコテークの中の休憩スペースで,次にどこに行くかを考える.寝坊したせいで,もう4時を回っている.悩んだ挙句,彫刻などの作品も置いてあるResidenz Musiumに行くことに決める.
ここは,昨日「ぶんちゃん」さんと待ち合わせた場所と近いので,既に前は通りがかっているが,博物館の中には入らなかった.受付でチケットを買う時,もう一つの博物館の名前もあったのだが,ガイドブックではResidenz Musiumと書いてあったと思ったので,こちらに入る.しかし,これは失敗だったらしい.僕が見たかったものは,隣の博物館にあったようだ.こちらは,王の宮殿そのもので,当時使われていた食器やら,家具,美術工芸品などが展示されているのみで,彫刻などは殆ど無かった.
隣の博物館に入りなおそうかとも思ったのだが,歩き回り過ぎて疲れてしまった.気温が高く,汗をかき,喉が渇いたせいもあるだろう.かなり早足で見終えて,そのまま外に出てきた.
同じResidenzの敷地の中にあるレストランに入る.焼いたソーセージとザワークラウトを注文.ビールを頼もうとしたら,ここはワインしか置いていないと言われて驚く.それまで目にした店では,ほとんどの店でビールが置いてあったのに.仕方なく一番安いワインを注文したが,これはこれで美味しかった.しかし,ソーセージは一本だけだったし,夕食にはちょっと物足りない気がした.
ResidenzのあるOdeonplatzからMarienplatz駅でと歩き,そこから中央駅方面を目指して歩く.この通りは,この辺りでもにぎやかな通りの一つであるらしく,多くの人々が散歩をしている.多くの飲食店が軒を連ね,皆,ビールを楽しんでいる.その中に,Augstinerという店があるのを見つける.ここは,ボストンの知り合いで,以前ミュンヘンに居た人が薦めていた店だった.早速ビールを飲みに入る.
普通のとピルスというのと二つ試したが,ピルスは苦味がかなり強かった.先ほど食事は済ませてしまったのだが,ちょっと物足りなかったので,昨日も食べた好物のホワイトアスパラを注文する.これも大満足だった.そのまま歩いてホテルに戻る.
この短い期間の滞在で感じたことは,ドイツは思った以上に日本に近い.おそらく,アメリカより,よほど似ているのではないだろうか.夜遅くまで飲食店は開いているし,多くの人がのんびりと夜の時間を楽しんでいる.アメリカでこんな時間にうろうろしていたら,危険なことが多いだろう.
アメリカは,大型店舗がモールを形成し,皆がそこに車で買い物に行くのが一般的だろうが,ドイツはそうでもない.小さなデパートのような建物を見たが,地下一階に飲食店が並び,スーパーまである.デパートの造りが日本と似ている気がする.
それに,テレビの朝の情報番組も,日本のそれとちょっと似ていた.アメリカのテレビ番組は同じニュースを延々と流すだけだし,その9割以上は自国のニュースだが,ドイツはそうでもない.
電車の車内もドイツは非常に綺麗だ.日本もかなり綺麗だろう.アメリカに行ったとき,電車やバスの車内のあまりの汚さに驚き,欧米ではそうなのかと思っていたが,どうやらアメリカだけがおかしいようだ.
僕の印象では,日本人にとっては,おそらくアメリカよりもドイツの方が(少なくともミュンヘンに関しては),過ごしやすいのではないかと思う.ドイツ語はさっぱり分からないが,なんとなく想像はできる.彼等の話す英語はアメリカ人よりも遅くて明瞭なので理解しやすい.
日本との一番の違いは労働時間だろう.皆,長時間働くのは嫌がるらしい.金曜は半日といった感覚だし,土日に働くことは珍しいという.しかし,それであれだけ豊かに生活できるのならば,それはそれで良いのかもしれないな,と思う.
街が美しいのも素晴らしい.Odeonplatzの辺りの建物など,見るもの見るもの,カメラを向けたくなる.ボストンはアメリカの中ではヨーロッパ的であると良く言われるが,実際のヨーロッパを体験してみると,かなり違うことが分かる.
明日はミュンヘンを12時に発つ飛行機でボストンに戻る.朝にはホテルを出なくては.なんだか,ちょっと後ろ髪を引かれる思いだ.
2007 6・10 69
* これは、おもしろい。ちと懐かしい。
☆ 六一○ハップ、万能家庭温泉剤、汗知らず 俊 e-OLD
健康オタクのカミさんが、またまた怪しげなものを買ってきて、この度はいささか驚かされた。よく斯様(かよう)な懐かしいものを見つけてきたものだ。訊くと、ドラッグストアで売っていたとか。
未病デパートのカミさんは、かつてくさぐさのけったいな発症につき、西洋藪医者から幾たびか誤診を受けて、余計な薬を服まされたり、ウンダラクンダラ、何かと竹庵先生への不満、不信が募っている。それかあらぬか、医者嫌いの分、自家療法、とりわけ入浴美容・療法にはこだわりがある。私もやや、民間療法、伝統医療、綜合医学には理解が深い方ではあろう。
「六一〇ハップ」
昭和ニ年発売のロングセラー商品とか。硫黄、生石灰、カゼイン、硫化カリを高温で溶かして作られている薬用。
ラベルに書かれている効能は「あせも、しっしん、水虫、にきび、ひぜん、しもやけ、荒れ症、かいせん、いんきん、たむし、冷え症、痔、リウマチ、腰痛、神経症、肩のこり、うちみ、疲労回復、産前産後の冷え症」など、能書きどおりなら萬薬師(よろずくすし)に近いではないか。
さすがカミさんは一部特例を除きなべて該当していた。私も、片掌の指では足りぬほどであった。
「いんきん」とは何ぞやと問われ、ことこまかに、かつては「いんきん・たむし」と畳み重ねて通用していたことも説明したところ、アンタは今もそうじゃないのと荒言(こうげん)して憚(はばか)らない。衛生行き届かぬ汗まみれの運動、労働の青春時代になくはなかったが。
おまけに、「加齢臭」湯治にまで話題が拡がり及んだ。
云われるがまま、連夜カミさんの残り湯を有難く微温浴つかまつっている。
お風呂はぬる目の感がいい♪
子供時分、長雨時から初秋にかけてはあせもとただれ、寒くなるとひび、あかぎれ、しもやけに悩ませられた、そういう血の巡りの悪い体質だ、とよく言われた。
思い出しては、ややおぼろげだが、順番待ちの遅風呂にムトーハップを入れたりしていた。汚れをかき混ぜ隠す工夫もあったであろうか。
薪をくべる有り体の楕円形の風呂桶であった。台所に続く物置部屋並みのトタン屋根の二畳の土間に、そういう方面はしごく器用で手慣れたオヤジがセメントを流して洗い場を仕上げた。銭湯通いから内風呂(うちぶろ)に代わったときは家族みんなで喜んだ。
水を注ぎ足すことはあっても、入れ替わりの度に洗い流すことなぞしなかった。夏場は盥(たらい)で楽しく湯浴みもしたし、盥や小ぶりの金だらいに張った水を昼間温め置いては風呂桶に入れ足していた。
手桶一ニ杯ほどのあがり湯をかけて出たあとに、おふくろにあせもの治療をしてもらっていた。よくおできもできた。
その際、風呂よりだいぶ濃い目に希釈したムトーハップ液をあせものただれに塗ってくれた。それから、「汗知らず」(天瓜粉=テンカフン=シッカロール)をパフでパタパタと、湯上り稚児衆が仕上がった。
超敏感肌のオヤジの浴後の仕草も重ねて思い出す。体質をそっくりそのまま私が受け継いでいたのであった。
強いて勧めぬが、ムトーハップはなかなかよろしい。
犬猫の皮膚病にも効くと言われていても、ついぞ試したことはない。毛の薄い犬なら効能は増すかも知れぬが、毛もじゃではいかがなものか、猫にも不向きではなかろうか。
過ぎ越し方、活字のうち、一番目を通したのが「家庭の医学」(赤本か青本か)であろうカミさんは、そちら方面はかなりうるさい。やや挑み顔のていで、読めぬ解らぬ医学用語などをしつこく尋ねては合点がいくまで引き下がらない。これは体質、「粘着」の方である。
かかるとき、以前はこう言って質問を封じ収めていた、「よろず病のもとは食い物=栄養のバランスが悪い、咀嚼が足りぬ」と。
ムトーハップを使い、効き目が現れはじめた今はこう言い換えている、「それ見たことか、やはり、新陳代謝が悪いんだ」。
いまどきの人、とくに若い女性はエアコンぐらしに慣れ嵌(はま)はまり、新陳代謝不全兆候である<ここちよい汗>をかかぬようになって、何かと健康、美容、生理に難題を抱えているようだ。
これは別種の「汗知らず」である。
微熱、発熱一般を感冒とあっさりくくって省みぬ藪井竹庵センセより、我が家の共同自衛予防予後策が勝っているかも知れない。
ムトーハップ…..
万古の草津か、遠い思い出の信州(松本から島々の先、上高地の手前)白骨の湯につかった気分である。
ただ、多用の悪癖は戒めたい。
一リットル、八百円也。禁飲用にて毎浴数百倍以上の薄めでユニットバスなら三週間は保つと推量する。むかしと違うのは、容器が硝子(ガラス)から薄い合成樹脂に様代りしたことぐらいであろうか。
「硫黄」は古来「湯の泡」の趣きであり、惚れた病のほかは、ひと通り治してくれることになっている。
* こう勢いよく言葉のあふれるとき、「俊」さんは元気。「強いて勧めぬが、ムトーハップはなかなかよろしい 」と、わが息子にも教えたい。
2007 6・11 69
* mixi にも親しい「湖の本」読者がすこしずつ出来、有りがたい。街は暑かった。しかしつよい冷房に入ると脚は覿面に痛む。
2007 6・11 69
☆ ボス ハーバード 雄
昨日から,ボストンはいきなり気温が下がり,最高気温が16度,最低気温が9度となった.コートを着るほどではないし,かといって上着無しでは辛い.こういうときに着る洋服を買わなくては.それにしても,もう6月だというのに,この気温は何なのだろう.
11時からボスとのミーティング.先日のドイツ出張での結果を踏まえてということで,かなり気が滅入ったが,腹を据えていくつかの提案をした.提案だけでなく,これらに付随して最近ずっと感じ続けていたフラストレーションを率直に話した.それらに対するボスの答は,僕をかなり奮い立たせてくれるものだった.
それらの提案の中には,政治的にかなり難しい問題も含まれていた.下手なことをすると,僕は日本に帰れなくなるかもしれない.あまり事を起こしたくないので,敢えて避けて通っていたのだが,日本の研究社会の現状も含めてボスに率直に話した.
ボスも僕の感じているフラストレーションを察し,大いに同情するとともに,バックアップを約束してくれた.詳しいことはここには書けないが,腹を括って日本の二人の大御所にメールすることにする.僕が考えるほど,大げさなことではないのかもしれない.しかし,逆に感情を逆撫ですることになるかもしれない.いずれにせよ,うまくやる必要があることは確か.
ミーティングの後,すぐにセミナーに参加.隣のラボ出身で,現在Duke大学でラボを持っているGFがトークをした.多くのラボから話を聞きに来ていた.
トークの内容は,神経系のある遺伝子を欠損したマウスを作製したところ,毛づくろいをする頻度が増え,ある精神疾患と非常に似た症状になったことについて話していたが,あまりにストーリーがシンプルな上,かなり疑わしいデータも多く,あまり感心できる内容ではなかった.
セミナーを終えてすぐに,大学院生のシュシェンが電気生理の実験をボスと一緒にすることになっており,先ほどのミーティングで僕も同席するようにボスから言われたので,後ろで作業を見ていた.
もう自分で実験できなくなってから20年近く経っているはずだが,事細かにあれこれと改善ポイントを挙げていき,目の前でいくつかを直していく様子を見て,改めてボスの偉大さに感動する.
夜はPho Pasteurで牛肉のフォーと生春巻き.
2007 6・15 69
* 今から総務省へ出向いて、電子メディア委員会。官僚の話を聴くために。さ、どんな気分で帰ってくるかな。
脚は両方とも膝下表皮に紙を貼り付けたよう。どうもない左は湖の本でいえば本紙を貼り付けたみたい。痛みののこる右脚は表紙を巻き付けたみたい。幸い歩行はほぼ普通に出来ている。帰りに夕食をしてきて良いと言われている。
* 若いお役人の話は聞き取りにくかった。質疑応答をかなり熱心に繰り返したけれど、要するにプロバイダ基本法を以てプロバイダの気儘な行為を行政がいろいろに免責することだけが確かなようだ。書き手の言論表現の自由や権利の擁護は、かけ声としてはともかく具体的な手だてで守ろうとは、全然といえるほどまだ配慮できていないらしいことだけが分かった。しかも行政の縦割りという名目で、問題点の責任所在がちっともはっきりしない。いくらでもニゲをうって、それは…と言える体制でしかまだないということ。
ま、予想はしていたが、責任のある発言はあの若いお役人では何も出来ない、とすると、行政の机上論をペーパーを配って説明されただけ、こうあってほしい、これはまずいのでは、それはどうなのかと幾ら質問してみても、生返事しかあり得ない。まったく受動的に話を聴いてあげ、聴いても貰ったけれど、聞き置きます以上の何物でもないのだった。若い人で、ムリもないと思うが。
ま、なにがしか聴くことが出来たのは「わるくなかった」という、それだけだった。プロバイダと話し合わねばダメなのだが、日本中にプロバイダが一万も在るというのでは、つまり何をしても野放し状態であり、官庁も彼らを免責保護することは考慮しても、ユーザーや文筆家の権利や立場を守ろうという用意は具体的にはゼロに等しいのだから、お話にならない。
* すぐタクシーを拾って日比谷のクラブに入る。今日はしっかり食べてしっかり呑むと決めていた。そして、相当量の校正をしっかりし終えてきた。おかげで、外へ出ていた時間がムダにならなかった。
三種類の料理は少し多くて少し残した。竹鶴のグランプリ分をからにしてきた。そしてブランデーも。コーヒーも。ミントだかハーブだかをあしらった、とてもスカッとする飲み物をサービスしてくれたので、やや油っ気の濃かった後口が気持ちよくなった。
帰りの電車でも校正を続けていた。仕事さえしていれば何の退屈もない。
2007 6・19 69
☆ 一冊のノート ハーバード 雄
今日も朝から晩まで電気生理実験.ボスが改良したセットアップにも大分慣れ,何度か神経細胞に電極を入れることに成功する.しかし,相変わらず,期待するような結果が得られない.これは,セットアップのせいではなく,僕の標本作製に問題があるのだろう.
何か手がかりになるような文献はないだろうか,とネットで検索しているうちに,たまたま,こんなファイルを見つけた.
http://neuro.med.tohoku.ac.jp/Life_science/readings/yawo_Chapel%20Hill.pdf
現在,東北大学教授として活躍されている八尾寛先生の,京大大学院生時代の思い出を綴った文章.当時ノースカロライナ大学教授で,新たに京大に教授として赴任された久野宗先生の手紙を紹介している.
久野先生の学生に対する丁寧な文面にも驚かされたが,手紙の内容が現在の神経科学の中心的テーマとさほど変わらないことにも驚かされる.久野先生の目指していたことの新しさ,そして将来を見据えた目の正しさに驚嘆する.
久野先生の門下からは,多くの優れた生理学者が育っている.やはり,研究の系譜というのは,優れた師から優れた弟子へと受け継がれていくものなのだろう.多くのノーベル賞学者の師もまたノーベル賞受賞者であることが多いのも,同じ理由なのだろう.
八尾先生の文章を読んでいて,僕はある1冊のノートのことを思い出した.
そのノートは,高速超遠心機の使用記録簿.僕が大学院時代を過ごした研究室の機器分析室に置かれていた.この高速遠心分離機は,僕が師事した教授の前任にあたる教授から受け継がれたものであり,前任教授が退官された後も,共通機器として現役のまま毎日のように利用されていた.前任の教授は,日本でも最も著名な生化学者の一人であり,その研究室からは,著名な教授が数多く輩出されている.
頻繁に利用される機器ではあるが,使用記録はせいぜい1行で済むから,使用記録ノートもそうそう更新する必要がない.そのため,機器そのものだけでなく,使用記録ノートまでもが前任教授からのものが引き継がれて使われていた.
超遠心機は,スピードが安定するまで,そばに付き添っていなくてはならない.試料の重さのバランスが合っていないと,大惨事になるからだ.開発当初は,2階建ての建物の1階に置かれ,2階から操作したほどだ.
スピードが安定するまでの間,このノートをめくっていくと,色々と驚かされることが多かった.
使用者のところに「長田」とあるのは,今年から京大医化学教室の教授になられた長田重一先生.細胞死研究の世界的権威.「K.Arai」とあるのは,新井賢一・東大医科学研究所名誉教授.細胞増殖因子のインターロイキンの研究などで知られる.「N.Arai」とあるのは,奥様の新井直子・米DNAX研究所主任研究員.「渋谷」とあるのは,今年の3月に東大医科研を定年退官された渋谷正史教授.血管内皮細胞増殖因子の受容体研究の第一人者.よその研究室からも使いに来る人があったようで,「山本」とあるのは,東大医科研の前所長である山本雅先生.
こういう錚々たる名前が並んだ使用記録簿というのは,それだけで値打ちがある気がする.今は世界に冠たる研究者達も,サンプルを氷に突き刺して遠心機の前に立ち,このノートに自分の名前を刻み,遠心機が回るのをこうして待っていたのかなあと,思いを馳せたりした.
勿論,このノートを使用した皆が偉くなった訳ではないだろう.しかし,そこに名前を書くだけで,あたかも自分が連綿と続く研究史の1行に名を連ねているような錯覚に陥った.
僕の師事した教授も,日本で最も著名な神経科学者の一人だったが,この3月に定年退官を迎えた.僕の先輩に当たる方々の中には,現在活躍中の研究者も多い.先ほどのノートにも,それらの方々の名前が見受けられる.
おそらく,遠心機とその使用記録はまだ共通機器として残されていることだろう.次にそれらを受け継ぐ研究室が出来,そして,またそこに名前を刻んでいく人の中から,のちに大きな発見へと結びつく人が現れるのかもしれない.
* なんともいえず、こういう文章に背を押される。逆立ちしても知り得なかった世間だ。 日付が変わって、もう二時。これから寝床の本を読みに行く。
2007 6・19 69
☆ 午後2時6分からの夏 ボストン 雄
今日から夏になった.
別に僕が決めたわけでなく,朝,テレビをつけたら,気象予報士が「今日の午後2時6分から夏です」と言った.日本にも立夏があるので,「今日から夏」と言われれば,ああそういうものかと思うのだが,午後2時6分というのは,一体どういう根拠に基づいているのだろう.「6分」とは,アメリカらしからぬ細かさだ.
別に何が変わったという訳でもない.気温はここ数日と殆ど変わらない.大学の夏休みは大分前から始まっている.先週,夏休みをとってビーチに行った人も隣のラボに2人いる.
今日まで夏でなかったということは,昨日までは春だったということか? とても、そうは思えない.そもそも,春は何時から始まったのだろう.寒い日が続いているうちに,少し暖かくなったかなと思う間もなく,気温がぐんぐんと上がって,いっきに夏の気候になってしまった.
日本は今年,空梅雨だというが,こちらでは梅雨もへったくれもない.梅雨のじめじめとした気候は好きでないが,2時6分から夏ですと言われるのも味気ないものだ.
今日は新しい実験手法を試すべく,韓国人ポスドクのヒューノにやり方を教わって実験したが,あいにく失敗に終わった.なかなか難しい.
ヒューノに実験を教わっていると,ニュージーランドからの研究者でヒューノと1年間居室を共にしていたフィルが,手を差し延べてきた.「明日,ボストンを発ってニュージーランドに戻るよ」と言ってきたので,握手する.ヒューノも少し寂しそうに握手していた.
「今戻ると,冬なんだよ」とフィル.確かにニュージーランドは南半球だから,今帰れば冬だろう.ボストンの長い冬の後に再び冬とは気の毒.
そういえば,先日のバーベキューパーティーを最後に,ポルトガル人ポスドクのミゲルもラボに姿を見せていない.おそらくもう,ボストンにはいないのだろう.先日ラボを解雇されたアンドレイも,先週まではラボに来ていて,今までよりかえって真面目に実験していたのだが,今週に入ってパタリと姿を見せなくなった.最後の追い込みだったのかもしれないが,何のためにあれほど実験しているのか,誰も結局分からずじまいだった.
ボスに用事があったので,秘書のフィリスのデスクの前で待っていると,フィリスが話しかけてきた.しばらく話していると,フィリスが「cionaはずいぶん英語が上手くなったわね」と言う.
とんでもない.むしろ僕自身の印象ではリスニングの能力が高くなったと思えないし,話す方に至っては,かえってたどたどしくなっている気さえしている.
「そんなことないわよ.来た頃はひどかったわ.本当にゆっくり話さないと理解できなかったし」.
ひどい...来た頃は ‘pretty good’ と言っていたので,あまり上手くないんだろうなとは思っていたが,そこまでひどく思われていたとは.
冬にボストンに来て,もう夏.気づかないうちに少しずつ,自分を取り巻く状況も自分自身も変わり始めているのかもしれない.
* 日々の自問自答がどんなに「雄」をリラックスさせているだろ。いい夏を迎え過ごし、どうか根気よく。
2007 6・22 69
☆ 伊勢海老や煮魚 ハーバード 雄
実験の途中に廊下に出ると,普段見慣れない女性が,別のドアから廊下へ出てきた.このドアは関係者以外知らないはずのドアなので,どうして知っているのだろう?と思っていると,同じドアから今度は男性が.
去年,うちのラボから独立してミュンヘンにラボを構えたトーマスだった.先に出てきたのは奥さんだった.初めてラボを訪れた際,奥さんにもお会いしたことがあったのだが,顔はすっかり忘れていた.
この時期,ボストンから車で2時間ほどのところにある,ウッズホールの臨海実験所ではサマーコースが開かれており,トーマスは講師として教えに来たのだとのこと.うちのボスも,来週,講師として参加することになっている.トーマスには,先日のミュンヘン行きに関して,準備段階で色々と世話になったので,礼を言う.
ボスがコロラドに出張に行ったせいか,トーマスが懐かしいせいか,皆,仕事そっちのけで延々とトーマスと話し込んでいた.僕は昨日の実験のリベンジがあるので,話にはあまり参加できなかった.
ウッズホールの臨海実験所は,イタリアのナポリ臨海実験所,日本の東大附属三崎臨海実験所に次いで古い臨海実験所であり,海産無脊椎動物の研究者にとっての聖地.ボストンにいる間に一度は訪れてみたい.
日本の各大学の臨海実験所は,いくつか訪れたことがある.最後に訪れたのは下田にある,筑波大学の臨海実験所.セミナーに参加しに行った.帰りに立ち寄った店で食べた煮魚の味が忘れられない.
一昨日,マイミク湖さんのホームページに書かれていた熱海の食堂の話を読んで以来,伊勢海老やら煮魚やらが頭の中でぐるぐると回っている.ボストンで,美味しい煮魚が食べられる店は,どこかにないだろうか.今ならば給料も入ったばかりだし,多少贅沢してもいい.多分,ないだろうけど.
2007 6・23 69
☆ 記憶のコーヒー 香
メジャーカップで量つてコーヒーの豆を挽く。明け方に見た夢をぼんやりおもつたり、テーブルにこぼれてゐるはなびらを拾つたりしながら、ミルの把手をまはす。部屋中にコーヒーのにほひがひろがつてゆくにつれて、夜型人間の頭にかかつてゐる靄も少しづつ薄れてゆく。わたしには朝のコーヒーは、毎朝、顔を洗ふのと同じ、缺かすことはできない。
子供のころ、コーヒーはあこがれの飲みものだつた。父の友人ちから「――君の腰巾着」といはれてゐたわたしは、父に喫茶店などにもよく連れられていつたが、コーヒーを飲ませてもらつたことは、一度もなかつた。
晩婚だつた父の四十歳過ぎての初めての子といふので、ずいぶん可愛がられたらしいが、遊び相手になつてもらつたり、やさしく手をひいてもらつたりした記憶はない。連れられてゆくところも、古本屋、骨董や古道具のお店、喫茶店など、およそ、子供にはふさはしくないやうなところばかりだつた。幼い娘が喜ばうが喜ぶまいがおかまひなしで、ただ、どこへでも腰巾着を下げてゆくといつたふうだつたのだらう。かびくさい店の中で長い時間ほつたらかしにされたことも多かつたし、歩くときも、わたしの歩幅にあはせてくれるやうなことはなかつた。大股にすいすい歩く父のコートや羽織の裾、ズボンの脇などをつかんで、わたしはいつも小走りだつた。
喫茶店でも、わたしに何が欲しいか訊ねてくれたことは一度もなく、注文はいつもコーヒーとホットミルクにきまつてゐた。今とちがつて冷房のない時代だつたから、夏の暑いさかりなど、一杯のホットミルクを飲むと、全身、汗びつしよりになり、くたびれてしまふほどだつたけれど、この注文が変へられたことはなかつた。
裾の方に金属製の透かし模様のカヴァーの嵌めてある、厚手で背の高いコップのミルクをふうふう吹きながら、父の前のコーヒーを羨ましくながめたことを思ひ出す。
父のカップの脇には角砂糖が二つ、きらめいてゐた。アンデルセンの「みにくいあひるのこ」がうつくしく変身したときの白鳥のやうなミルクポット、そしてカップには、子供は飲ませてもらへない飲みものが、とても飲みものとはおもはれない色をたたへ、刺戟的なにほひを放つてゐた。
父はせつかくきらきらしく整へられた角砂糖やミルクに手をつけないまま、コーヒーを口に運ぶことが多かつたが、時には、一つだけ角砂糖を入れ、ミルクを入れることもあつた。四角の白いかたまりがカップの中に沈むと、ややして、こまかなこまかな泡が浮かんで消える。スプーンをかるく揺らして混ぜる。ミルクをしたたらす。褐色の液体の表面に妖しい渦巻模様がゆるく動く。何度見てもそれは荘重な儀式であり、おまじなひだつた。
まれには、幼い娘の好奇と羨望のまなざしに氣づいて、角砂糖を一つ、わたしのミルクに落としてくれることもあつたが、たいてい、本を読むか、パイプたばこをくゆらしてゐるかで、相手をしてくれたことはなかつた。
それはいつもと変りない父の態度だつた。しかし、どこかちがつたものが感じられた。わたしは、それはコーヒー、あの、あやしくそそのかすやうな液体のせゐだとおもつた。そして、そのやうな不思議なものに親しんでゐる父に、また、父に微妙な変化をもたらしてゐるコーヒーといふ飲みものに、かすかな畏怖とときめきを覚えてゐた。
コーヒーを初めて口にしたのは中学生の時だつた。北原白秋の、
ニコライ堂この夜(よ)揺りかへり鳴る鐘の大きあり小(ち)さきあり小さきあり大きあり
を、教えへてくださつた先生に連れられて、その鐘の音を聴きに駿河台のニコライ聖堂に行つた時のことだつた。冬だつた。沈んだ草色の大きなドームの上に厚い雲が低かつた。そこだけ、べつの世界、べつの時代の空気に包まれてゐるやうな、ふしぎなあやさしさをただよはせてゐた。裾の長い僧衣を着た赤髭の司祭や、黒いヴェールに顔を隠した貴婦人があらはれさうにおもはれた。
鐘の鳴らされる時刻に間があつた上、たいさう寒かつたので、先生はわたしを連れて近くの喫茶店に入つた。父以外の人と喫茶店に入つたのは、それが初めてだつた。
そのころ、父は健康を害してゐて、コーヒーや煙草から遠ざかつてゐた。わたしをお供に、古本屋や骨董屋などを覗く習慣も失はれてゐたし、喫茶店の客となることもなくなつてゐた。
先生はコーヒーを注文なさつた。「何がいい」と訊かれ、わたしは「わたしも」と言つた。武者ぶるひするやうな氣持だつた。なぜか、はつきり「コーヒー」と言へなかつた。
コーヒーが来た。サイフォンのフラスコの中に球形をなしてゐるコーヒーが、目の前のカップに注がれる。わたしは動悸した。父の行つた「儀式」をなぞるやうに、スプーン一杯の砂糖を入れ、ミルクをしたたらせた。あこがれてゐたコーヒーは想像してゐたよりも苦く刺戟的だつた。舌を刺した苦みが身体中にひろがり、神経のどこかがツンとしびれた。今までに口にした食べ物、飲みもののいづれにも似てゐない不思議な飲みものだつた。ゆつくりゆつくり飲みながら、わたしは、初めてのコーヒーを父とではなく、ほかの人と飲んでゐることを、うしろめたくも、また、残念にもおもつた。
窓の外はみぞれになつてゐた。
* 好いエッセイ。
2007 6・24 69
☆ 小説の豚どもへ 箭
数年前に矢作俊彦さんが予言した通りの状況になっている。
本屋をのぞけば、すぐに目につくが、携帯サイト出身の小説が溢れている。文章もストーリーも圧倒的に絶対的にお粗末で、まったく読むに価しない子どもの作文が、何10万部と売れている。ネット上でピーチクパーチク、垂れ流すように話している、あの文体で書かれた小説。
ネット上でダベる分には構わない。ボク自身、文章の完成度なんて気にせず、話すように書き散らしている。遊びであったり、息抜きであったり、意識的にならずにすむ時間も必要だから。
ネットの上を流れるテキストなんて一過性のもので、消費される以前のものだから、罪もない。しかし、それを印刷して形にするのは、万死に値する罪である。
小説のブログ化は文化を殺す。携帯サイトは暇つぶし文化だ。
かつて、物語は国語を作り、文化を作った。アーサー王の物語が英語をつくったように。携帯小説は言葉を暇つぶしの道具に変えてしまった。カウンターカルチャーが文化をつくり変えるような力ももたない。
異端が文化になるように、前衛が伝統になるように、既成の死に絶えそうな、出版業界を革新するだけの気概もパワーもなく、ただ、その死期を早めるだけの存在。
真の前衛は一部のポップミュージックとストリート発のラッパーたちの中にしか見られない。小説の豚どもには頼むから、一日も早く死んでもらいたい。
* この叫び、必ずしも耳新しくはない、以前からわたしも腹中に溜めこんできたものだが、時代の証言の一つになり、心ある歎きの声として、ますます広く唱和されてゆくだろう。
* パソコン機能は現代の筆記具であり、毛筆、万年筆、鉛筆、ボールペンと或る意味で同じであるから、ワープロ機能で書く、書き慣れるということ自体は咎めようがない。一部の頭の硬い人が理屈を言うようにそれで文学・文藝が変質するとも体験的に決して思わない。自身の文体を身につけているなら、また推敲に実意を持つ人なら、ペンでもワープロでも変わりはない。わたしは「世界」連載の長編『最上徳内』の途中からごく初期のワードプロセッサ「東芝トスワード 1」を百パーセント使い始めたが、誰も、どこまでがペン、どこからはワープロ原稿と見分けられる人はいない。
その意味でわたしは今日圧倒多数がワープロ機能で創作しているのを当然の帰趨とみている。問題はインターネット機能にあまえて、たちまちに双方向通信で垂れ流し始めてしまうことだ、そこには広義・高度の「編集」という働きが欠けて自己満足が優先暴走してしまう。
わたしは、インターネット機能にのりながら「書く」と同時に広く小説を外へ流した体験は、一度しかない。『お父さん、繪を描いてください』という長編のいわゆる藝術家小説だった。だが、途中からワープロソフトへ移転してそして仕上げ、繰り返し繰り返し推敲してから紙の本にした。紙の本を出版してから、ホームページに所蔵しインターネットに載せた。
もう一つ、「mixi」に加わったとき、わたしは「mixi」日記欄を原稿用紙にして、『静かな心のために』という一ヶ月かけたエッセイを書き下ろしていった。だが、作品を新たに此処で書いて公表するのは推敲の満足がえにくいと判断し、以降は過去に紙の本または活字初出歴のある作品を選定して「mixi」にたくさん無料公開し続けた。それなら、無用の危険を冒さずにすむ。すくなくも自分の場合、小説は仕上がるまではインターネットには送り出さないと決めたのである。
しかし、わたしは或る程度の筆力があり、紙の本にする手だてや便宜をもたない書き手の方には、「mixi」日記欄を公表の場として利用されるように奨めてきた。マイミクの中にはそういう優れた書き手(小説、詩、短歌、日記、随筆)が何人かおられる。書こうとして書き出せない人もある。残念ながらまだ評論の優秀にまったく出逢えないが期待している。
また書いたので読んで欲しいと、作品をわたし宛メッセージやメールで送ってこられた未知の人もたくさんある。残念ながらほとんどは、箸にも棒にもかからない、「箭」さんの謂うようなモノだった。これは出版されてのち戴いて読んだが、朝松健氏のいくつかの中世小説に「mixi」のお付き合いを通して出逢ったのは幸いだった、が、そういう嬉しい目にはめったなことで出逢わない。だが可能性はある。マイミクだと目が届いて便利なのである。
大事なのは「編集」という批評力。自己批評がいちばん大切だが、それが出来ないのだから、「読める人」「創れる人」が働かねば。いちはやく責任編輯の「文藝文庫・湖umi」をホームページに創ったのもその気持ちからだったが、ペンの「ペン電子文藝館」に力を割いていた。復旧のときが来ている。
* ペンクラブに電子メディア委員会を企画創設したときから、わたしに、こういう根本的危惧があった。繰り返し発言してきたことだ。
一つは、市民使用のインターネットは遠からず国家権力の忌避するところとなり、陰に陽に個人のインタネット運営は、管理や警戒の対象として法規制を強化されてゆくに違いないということ。
もう一つは、似而非の文学・文藝が氾濫して、「文学・文藝」の真価がもう問われることもなく無惨に崩潰し、その立ち直りには想像を超えた長期間を要するだろうということ。
さらにもう一つは、放埒な自己表現の麻痺薬にアテられて若い世代の精神に多大の毒がまわってしまい、未来の日本は幾世代にもわたり軽薄きわまりなく頽廃してゆくだろうということ。
そしてさらに言えば、(きわめて陰険な)サイバー・ポリスと(きわめて広範囲な)サイバー・テロとの死闘の時代が、すでにはじまっているが、いっそう熾烈になり人間の精神的環境と機械的環境とを汚染・荒廃させてゆくだろうということ。
あえてもう一つ、インターネットに限らずパソコンは、概していえば老人のための「電子の杖」としてこそ甚だ有用だが、自堕落に若い人たちに広がっていいツールではなかろうなというのが、早くからの私の大きな危惧であった。のみこむには毒があまりに強い。
* こういう認識を、日本ペンクラブの新・執行部(阿刀田高会長)はほとんど思い描けないのか、簡単に、電子メディア委員会と言論表現委員会を合併してしまった。両委員会の機能がともに中途半端な、おざなりになるだろう。
言論表現委員会は、ペンでは伝統的に闘志をひめた時世と官憲へのお目付役であった。電子メディア委員会はいわばアップ・トゥー・デートな勉強と啓蒙指導の性格を大切にしてきた。しかも双方に看過できない問題は増える一方。安易な合併に何のメリットがあるというのか、まるで一升釜で一斗飯を炊こうというぐらい、バカげた判断だ。
その上純然「文学・文藝」の委員がきわめて数少ない。そういうことが執行部には見えていない。まったく見えていない。
ムリもない。大方の役員が電子メール一つ使えなくて、せいぜい緊急電話かファックスで意思疏通しているというのが、役員会・理事会の現況なのだから。かりにもグローバルな国際ペンという大組織の一環・事業執行部ではないか。
文士もみな機械をつかえなどとバカげたことを、わたしは決して言わない。
しかし難しい電子系言論表現問題の沸騰している二十一世紀現代の「組織の中枢」としては、適切な用意・体制とは、とても言えない。
十年間の理事会体験から、わたしはハッキリそう言う。
2007 6・25 69
☆ 美男ではなかつた 香
新芽の、花かと見まがふ薄紅色やごく淡い浅緑、そして、頼りなげに蔓の先がふらふらしてゐる一鉢、「ビナンカズラ」の札がついてゐた。美男といふより美女といひたい風情だけれど、光源氏の美貌を褒めるのに、「女にて見たてまつらまほし」なんて言つてゐるから、ま、美男葛といふのも的はずれではないと、手もとにおくことにした。
けれど、幾年か経つうちに葉つぱはバリツと厚く逞しく、色も、花にも見えたあえかな色はどこへやら、濃いみどりになり、なかにはくすんだ朱色を帯びてゐるのもある。なよなよした美男はどうしちやつたの? これぢや百戦錬磨の強者(つはもの)ぢやない。
ところが、この強者が可憐な花を咲かせた。幾鉢かに株分けしたその一鉢にそれもたつた三りん、径一センチちよつとくらゐだけれど、けつこう、高い香を放つてゐる。わが家に来て五、六年にして初めての花である。
よろこんであつちこつちに、この、むかし美男の花を言ひふらしてゐたら、「それ、初雪葛ぢやないの?」といふこゑあり。慌てゝネットや図鑑で調べたら、美男ではなくて初雪でした。やつぱり美男はわが家にふさはしからずか。
* ハハハ。
2007 6・26 69
☆ 親切 もお国柄 バルセロナ
昨年、日本に帰ったときのこと。
ある製品を買いたくて、秋葉原のヨドバシカメラに行った。広々とした店内に所狭しと並ぶ商品、120度の視野に一瞬にして7~8人もの店員のユニホームが飛び込んでくる。素晴らしい! さすが日本。
あまりの品数と店員数に、うろうろするのは止め、直接、目当ての品を店員に尋ねる。新米さんは一瞥してから、私に断って上司を探しに行った。
「申し訳ございません。そちらの商品は現在扱っておりません。ハイ、確かに以前はお取り扱いしておりました。と言いますのも、以前はアメリカの××社様と日本の○○社様が提携しておりまして、我が社は○○社様を通じて××社様の商品の方もお取り扱いできたんですね、ハイ。それがY年M月をもちまして、 ○○社様と××社様の提携が打ち切られましたものですから、私たちの方でも××社様の商品を取り扱えなくなってしまったんです、ハイ。今現在、××社様と提携されている日本の業者様がおりませんので、××社様の商品を探されるのは難しいかと思われます。また、○○社様と××社様が今後再び提携されるかについては、今のところその見通しはないように聞いておりますので、ハイ、お客様の探していらっしゃる商品が今後こちらに入る見通しも、今のところないかと思われます、ハイ。あっ、ここにまだ××社の商品が出ておりますけれど、これは、交換用のパーツでして、○○社様と××社様の提携が打ち切られたとは申しますものの、昔この機械をこちらでお買いあげくださったお客様のために、こうして在庫分を・・・・・・」
腹の中で波打っていた笑いが、すんでのところで噴き出すところだった。
イタリアやスペインで道を尋ねると、ああだこうだああだこうだ実に親身に説明してくれるのに、いざその通り行ってみても、目的地に着いた試しがない。というような話を、よく聞く。
秋葉原のヨドバシカメラで、私は、その商品があるかないか知りたかっただけなのに、エラく長い説明を大層シンセツにされた。なあんだ、日本人だって同じじゃないか。私はそう思った。
それを、こちらに住む日本人の友人に話したところ、それは違う、という。
日本人が「お客様」にあれほど親切丁寧で、頼みもしない説明を十も二十もつけてくれるのは、それが「仕事」だからではないだろうか、と。どう? 往きすがりの人に道を聞いて、アナタそんな応対されたことないでしょう、とも。
逃げ腰に、関わりたくない素振り・・・タシカニ。
逆に、こちらの人々は、道端であれほどフレンドリーなのに、お店や仕事では手のひらを返したように無愛想だ。単に無愛想な人が多い、という理屈では当て嵌まらないものがある。どうも彼らは「仕事」だと思うと機嫌が悪くなり、無愛想になるのではなかろうか、と。
オモイアタルフシアリ。
ちなみに、この国は、客と店員の立場が、日本と見事に逆転している。
店員様は客からお願いされない限り動いてはくれない。それも、全身から《遣ってあげている》臭を放つものだから、いつの間にその横柄な店員様に二度も三度も礼を言っている。私用の電話が鳴れば、万事中断、十分二十分平気で喋るし、割り振られた休息時間が来れば、客が待っていても姿を消してしまう。50ユーロ札で4ユーロの買い物をしようとすれば、お釣りがないから売れないわ、と断られ、やりたくなければ、今忙しいの、とくる。仕事なんかに一滴の《愛想の果汁》だって注いでやるものか、そんな意気込みすら感じることがあり、「お客様は神様」の国からきた日本人にとって、これは、腰が抜け、開いた顎が外れるほどの驚きだ。
それが「私」の場では、別人になる。重いものを持っている人には自ら手を貸し、ドアを開けてあげる。道を聞けば、分からなくてもうんうん考え、それでもだめなら、別の人を引き留め、その人が分からなければまた別の人に聞き、気づくと道往く人々が皆足を止め、ああだこうだ議論している。こちらはすっかり恐縮して、ほとほと逃げ出したくなっているのに、待ちなさい、大丈夫、今解決してあげるから、と手まで握られることすらある。
「仕事」だから親切になれる日本人、「仕事」だからこそ不親切になれるスペイン人。
確かに、そんな印象がある。むろん、決め付けるつもりも、括りつける気もない。
今回一緒に旅行したこちらの友人は、日本人のあまりの親切さに、心底びっくりしていた。お店でも、レストランでも、ホテルでも、駅でも、課せられた仕事以上のことを進んでやってくれる。こちらでの生活に慣れた人が、驚くのは当然だ。(時折、その親切さを鬱陶しく感じるのも事実だが。)
日本で印象に残ったことのひとつに、彼女はこう話していた。こんなにこんなに親切な人たちが、どうして、電車で老人が倒れそうになって立っていても、平気で座席に座っていられるのだろうか、と。
そうか、「仕事」じゃないもんな。咄嗟に、そう思った。でも、きっと、それだけ「仕事」で疲れているのかも、と、ついつい弁解がましいこともつけ加えていた。
面白いな、と思う。
決まりごとを守らないと非難の目で見られる国があって、決まりごとに従っているとバカなやつと笑われる国がある。
年寄りに席を譲ると感心される国と、年寄りに席を譲らないと非難される国がある。警察が先頭切って交通ルールを尊重する国と、警察だからどんな交通違反も許されてしまう国がある。
私が今いる国は、決まりごとに従っているとバカなやつと笑われ、年寄りに席を譲らないと非難され、警察だからどんな交通違反も許されてしまう。今のところ。
でも、これは私のものさしで、測るものさしのスケールが変われば、振り分けられる側だって変わってくる。
ちょっと、とりとめない話になった。
* なるほど。
2007 6・27 69
* 第一回の新・言論表現委員会の日程打診がきた。言論と電子とをあわせると相当な人数になるだろう、しかも両委員会での話し合いの筋も質もよほど異なっている。両委員会に出てきたから、よく分かっている。どうか、互いに中途半端にならないようにと願う。
十三日金曜日は、聖路加での検査と診察日。ま、間に合うだろう、幸い聖路加からペン本部へは近い。
2007 6・28 69
☆ ケロちゃんの傘 碧
今日は久しぶりにまとまった雨が降った。といっても三時間足らずの間だったが。この頃お馴染み? の集中豪雨。昔のような、しとしと降りの梅雨が懐かしい。
その降り出した雨の中を皮膚科の受診と買い物に。
じんましんの薬はなかなか減らせない。このひと月は落ち着いているけれど、先月はあまりの痒さにイライラ八つ当たり、医師とも大喧嘩。
出せるだけの薬を処方されていたようで、他の内科医に相談したら「きっと先生も手を焼いてるんでしょうねぇ」といわれた。でも、「なんで僕が怒られんといけんの。僕のじんましんじゃない、あなたのだから、僕は知らんよ、同情はするけど」なんていわれたら、頭に来るというもの。
その遣り取りを内科医に愬え、念のため血液検査をして内臓的な問題はなし、と診断されてようやく落ち着いてきた。あのときがピークだったのかもしれない。
病院からスーパーに向かう途中、歩道を歩く親子連れを見た。小さい(三~四歳くらい?の)男の子が緑色の傘をさしている・・・あー! ケロちゃんだ!! 傘の上に地と同じ色の丸い突起ふたつ。それぞれに黒丸の目。
「あんたも欲しいんやろう。子供がおったら買ってやって、お母さんにも貸して、って取り上げるんやろう」と母にいわれて考え込んだ。
そうかも、しれない。
* なにとなし胸にしみて、佳い。天真を発している。
以下の長編は連載されてきた、或いは締めくくりか。この、ただ一人の足場をしっかり保って詩を書き続ける才能を、もう四半世紀も注意して見てきた。ただ一人が不幸か、幸福か、わたしには分からない。マグマを抱いて世界を翔んでいる。
☆ ウズベキスタン 5 清水恭子
タシケント 日本人墓地
墓前に一つ一つ花と線香を手向ける
花束は何と5000スム・百円位で腕に抱えるほど
ご一緒に日本の歌を歌いませんか
さくらさくらはどうでしょう
今は秋ですから・・時は秋 雨の夕方
それでは・・夕焼け小焼けを
夕焼け小焼けで 日が暮れて山のお寺の鐘が鳴る
お手手つないでみな帰ろ カラスと一緒に帰りましょ
なんで「不吉」なカラスなの 何処に帰っていくのでしょ
あなたたちは帰れなかった
歌のカラスは干からびて それでも それでも 懐かしい
日暮れの部屋は寂しくて 空腹 空腹ばかり
生きるとは食べること 生きるとは食べること
否応なく知らされた
それでも 厳寒のシベリアより まし、運がイイのだ
これは屈辱でなくてなんだろ われらは捻じ曲げられる
帰りたい 日本に
現身のまま 正身のまま 影もつ体のまま
待つ人の元へ わたしの場所へ 千万無量の我が想い
所縁なき人々
しかし紛れもなく 同胞という言葉が 体の芯を貫いた
一枚の写真も撮れなかった
どうしても撮れなかったのは わたしの弱さだろうか
ここは静寂の場所 僅かに離れ
しかし決定的に離れ引き裂かれていた
質素な部屋に 彼らの記録が残されていた
雨の車道を走る車の音が微かに耳に聞こえていた
路面電車 雨 街路樹 いささか殺風景な
抑制された首都タシケント
空港で日本行きのウズベキスタン航空の乗客はほとんど日本人
トルクメニスタンとウズペキスタン二か国を旅した感想を聞く
トルクメニスタンは凄かった 何が凄かったか
トルクメニスタンは北朝鮮みたい
至る所で検閲賄賂、検問賄賂の繰り返し
写真撮るのも こわごわ恐る恐るでした
この話は先のサマルカンドで知り合った日本の大学生の話とも
重なって想像できた
何故賄賂請求が繰り返しなされたか?
公務員の質の低下、それを生み出す経済的問題を見逃せない
ウズベキスタン、この友好的に見える国でも個人旅行をしている者には厳しい現実がある。ロシアとは距離を保つが、社会体制として大きな変革がなされたとは言いがたい。国内にはイスラム過激派も存在する。
ウズベキスタンでは 一人当たりGDP2500ドル、その現実を貧しいとか不幸とか単純にくくれない。少なくとも戦争の悲惨はなかった、みな幸福そうに笑っていた、いい人たちに沢山出会った、どんなに表層的な見方、感想であるかは承知しつつ、そう記す。
国境のすぐ向こうの現実が痛い・・。国境近く、アフガン領内で発掘を続ける加藤九さく氏のことも忘れがたい。
旅を終えて 買い求めた本を何度も何度も開き、ページを繰る。眼裏にある、わたしが見たはずの現在の姿と、たかだか十年二十年前、或いは十九世紀末、二十世紀前半の写真を見る。
モノクロの、時に白黒のコントラストが強く彫り深い表情がさらに激しい写真、時にぼやけた写真、そのどれもが過去に存在した。が、わたしにはすべてが夢幻に思えた。
建物は、殊に寺院の殆どは崩れに崩れている。日干し煉瓦の建物ということもあるだろう。帝国主義の侵略の下、帝政ロシアの支配下、あるいはソ連の支配下、そのような政治情勢が容易に修復を認めず、宗教活動を弾圧したことも。とにかくタイルは剥落し、レンガは崩落していた、つい最近まで。
そして写真の人物は厚く巻き上げたターバン、民族を示す様々な形の帽子を被った男たちが行きかっていた。長いキセルを口にして水煙草を吸う男たち、商取引を見守る路上の男たち。金持ちはゆったり高価そうな丹前に似た長い筒袖の上着を着込み、労働に従事する男たちは裸足だった。女は姿なかった・・少女が数人だけ写されていた。
嘗て在ったはずの彼らの姿。現実夢幻分かちがたく、さて何が・・わたしの中で真実らしく思えるか。もどかしさに堂々巡りしている。階段の同じあたりを昇ったり降りたり、そのうち何をしているのかさえ・・そんな感覚。失われた街はいっそう喪われてしまう、失われた人々、失われた事実はさらに喪われていく。浮遊感覚に近い。疲労感覚が這い上がり、日本の日常に戻っても微妙な感覚が続いた。覚束ない思考の平衡感覚はまだ狂いをきたして危うい。
PS、あるいは蛇足?
現実的に考えれば、明らかに過去と現代を決定的に分かつものもある。世界中到る所でも言えるだろうが。代表として電気と車、二つ挙げるだけでも十分だ。
自動車 そして道路。交通手段、輸送手段の変化
電気 もたらしたもの、まず明かり、暗さ明るさ夜昼の感覚の変化。ラジオ、テレビ、電話、さらに携帯電話やコンピューターなど情報面の変化は殊に著しい。
昨年1906年トルクメニスタンに取材したドキュメントがNHKで放映された。ソ連崩壊後、独立以来トルクメニスタンではニヤゾフ大統領による独裁体制が続いてきた。
1995年永世中立国として国連で承認されたが、これは北からのロシアの影響力を恐れての国際的な妥協だろうと言われる。
大統領は個人崇拝! 独裁政治を行い、欧米からは「中央アジアの北朝鮮」と言われた。2002年8月終身大統領となった直後11月に銃撃を受けた。2006年12月21日突然死、「心停止による急死」と発表された。享年66。1997年にはドイツで心臓バイパス手術を受けていたという。
今年2007年二月、ベルディムハメドフ大統領代行が大統領就任。
独裁体制が維持できたのはカスピ海沿岸の天然ガスを利用して資源大国化を目論み、トルクメニスタンの経済発展を成功させたからだと言われる。が、2005年の一人当たりGDPは1283ドルにとどまっている。実質経済成長率9.6%、物価上昇率13.5パーセント、2004年の失業率は30.2パーセントだったという。
トルクメニスタンはどのような方向に向かっていくのだろうか。
2007 6・30 69
☆ ふりだしに戻る ボストン 雄
(前略) こちらに来て半年が過ぎようとしている.新しいアパートを見つけ,新しい環境に住もうとしている.これまでの半年は無駄だったとは思わないし,思いたくはない.アメリカでの生活に慣れただけでも,大きな収穫だと思わねばならない.日本は恋しいが,多分,いま日本に戻ったら,浦島太郎のような感覚を味わうことだろう.それくらい,アメリカの生活に慣れてきた.
前に日記でも書いたが,今は何一つうまくいかない.仕事は勿論のこと,色々な問題が山積している.正直言って,辛い.
しかし,考えようによっては,今は過渡期なのかもしれない.過渡期は決して心地よいものではないが,変わるには必要な時期だ.ここをどのように乗り越えるかで,今後が決まってくるのだろう.
人間の真価が問われるのは,何か成功を収めた時でもなければ,それによって表彰される時でもない.それらはあくまで過去の結果にすぎない.他人は結果で相手を評価するけれども,それは所詮,他人の評価だ.他人の評価がどのように変わろうと,その人自身の本質が変わる訳ではない.その人の真価が本当に決まるのは,逆境をどのようにして乗り越えていくかだと,僕は思う.
* まあただよ。もういいよとは言はれまじ。もういいよとは、もうおしまひぞ。 湖
2007 6・30 69
☆ 夢見る頃を過ぎて 箭
父親の具合が思わしくなくて、毎週土日は実家に戻っている。母の具合が良くなかった時に、月一で様子を見に行っていたが、年末に帰省出来なかったら、正月に母はなくなり、死に目に会うことが出来なかった。あんな思いは二度としたくない。神戸と東京往復は正直キツイけれど、昔の友人に会ったり、子どもの頃の思い出の場所に出かけたり、忘れていたことを思い出したり。案外この状況を楽しんでいる自分がいる。
母に死なれた時、産まれて死なれて、二重の受け身を背負って初めて生きることの意味が分かった気がする。高校生の時に出会って以来、大切にしてきた秦恒平さんの小説に書かれていることが実感をともなって、本当に理解できたと思う。
父も同じ思いを抱いたようで、もともと父とは仲が良いほうだったが、母がなくなってから、絆が深くなったと思っていたが、今度は、その父の調子が良くない。
柱を何気なく見たら、子どもの頃、身長をはかるために、父が鉛筆で付けた記しがいくつも残っていた。4歳から13歳までの40本の線が残っていた。10 年間かかさずに3か月に一度背をはかってくれた。13歳で終わっているのは、それ以降は身長が止まってしまったからだ。何だか感傷的な夜に乾杯でもするか。
* 胸をしめつけられるようです、お二人の念々平安を心底祈ります。いま掌に珠玉の「時」を保たれています、どうぞお大切に。 湖
☆ 石の花 馨
最近、子どもに読ませるのによい本はないかな、と探していたときにふと思い出した本。
「石の花」。
小学校2年か3年の学級文庫にあって「石なのに花なんて、どんな話なんだろう」とわくわくして手に取った記憶があります。
内容はもうほとんど覚えていないのですが、石工の若者がすばらしい彫刻を彫りたくて、よい石を捜しにいき、そこで石の女王と出会い、という設定だったような気がします。
若者の、恋人との少し切ないエピソードもあり、オリエンタルな雰囲気の挿絵とともにとても奥行きのある物語で、ずっと借り続けていた本でした。
大人になった後もときおりその味わい深い雰囲気だけを思いだして「また出会いたい」と思っていた本でもあります。
思いついてネットで検索してみると、物語の中の「石の女王」は孔雀石だったのですね。ひらがなで「くじゃくいし」と読んだ画像がはっきり蘇ってきました。くじゃくみたいな石ってどんなものなんだろう、と物語のワクワク感がさらに深まった記憶も。
孔雀石。マラカイト。
思いがけず、今の私にはおなじみのものでした。
あの「手の届かない」「想像もつかない」どんなにすばらしい石なんだろう、と思ったあの女王の石。
いま、大人になった私があの頃の私に出会えたとしても教えないだろうな。
「緑青という、あの顔料の原石だよ」とは・・・やっぱり教えないだろうな。
マラカイトはとても美しい石だけれど、子どもの頃にワクワクしながら想像した「女王」たる石は、私の心の中でもっともっと美しくて手の届かない崇高なものだった気がするから。
孔雀石という言葉はもうすっかり目になじんでいるのに、「石の花」とは結びつかなかったのは、私の中で「くじゃくいし」は孔雀石ではなかったから。
緑青は、絵画の緑を描く時に古くから使われてきているもので、そのため実験室で絵画の修復試験を行う時に、私もしばしば使う材料の一つです。そのくらい一般的な材料となってしまっています。確かに数ある顔料の中でも高価な物の一つですが、でも、今や画材屋さんで確実に手に入れられる物でもあります。
私の考えていた「石の女王」や「石の花」はそんなお金であがなえるものではなかったから。
今回調べてわかったのですが、「石の花」はウラル地方の民話をもとにした話で、ロシアバレエにもなっているそうです。
ロシアの民話はなぜか大人になってから「読みたい」と思わせるものがあるようで、学生時代に「森は生きている」を唐突に購入したこともあります。
あれも不思議と余韻の残る話ですよね。
「石の花」にしても「森は生きている」にしても、四季や花を大切にする思いが、どことなく日本と通じ合うからかしら、などとも思ったり。
子どもの本を選びながら、自分の歩いてきた読書を思い出すのって幸せな作業な気がします。
* いい思い出がよみがえりました。 お変わりなくて。なによりです。 湖
* 美術の雑誌に依頼して書いてもらった論文以外、また学生の昔以外、「馨」さんのメールやメッセージは、ことごとく、この話しかける文体でもらってきた。この話しかける口調が、言葉の奔出や湧出を、ときに豊富にし、ときに抑制し、なかなか心がけた優しい効果になっている。この人は書き飛ばさない。インターネットに送り出す前に何度も読み返しているだろうと思わせるほど、修辞にいつも落ち着きがある。もしこの口調でなかったら、あるいはかなり辛口な文体になるのかも知れない、と、遠い昔の教室でのアイサツなどしきりに思い出そうとしている秦さんです。手の届く押入れのすぐ其処に、わたしは、あのころの学生たちがくれたアイサツを、一枚も散らさず保存している。
2007 7・1 70
☆ 三度許すまじ原爆を、ある長崎被爆者の境涯 俊 e- OLD多摩
都会の片隅に、私より学齢ひとつ上のご婦人がおられる。
長女は既に嫁ぎ孫もいるが、心優しき長男は自閉症、仕事もままならない。
家庭内暴力に長く耐えた。加害者の夫が早や亡くなったあと苦労を重ね二人の子供を育てた。
被爆時は三歳、上に六人の兄姉がいた。父御は戦地でみまかった。母御が七人の子を必死に守り育て上げた。被爆後遺症の母御は彼女が成人前に亡くなった。
彼女はいまなお「手帳」を携え働き続ける。かたわら、地域の福祉ボランティアに励む。
楽しみをたくさん持つ。
強く、明るく、おおらかに生きる。
☆ 「原爆を許すまじ」 浅田石二作詞・木下航二作曲
ふるさとの街やかれ
身よりの骨うめし焼土(やけつち)に
今は白い花咲く
ああ許すまじ原爆を
三度(みたび)許すまじ原爆を
われらの街に
ふるさとの海荒れて
黒き雨喜びの日はなく
今は舟に人もなし
ああ許すまじ原爆を
三度許すまじ原爆を
われらの海に
ふるさとの空重く
黒き雲今日も大地おおい
今は空に陽もささず
ああ許すまじ原爆を
三度許すまじ原爆を
われらの空に
はらからのたえまなき
労働にきずきあぐ富と幸
今はすべてついえ去らん
ああ許すまじ原爆を
三度(みたび)許すまじ原爆を
世界の上に
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/genbaku.html
☆ 全共闘の団塊世代よもう一度、団塊ジュニアよ一度、この歌を唄おうではないか!
* わたしは「安倍総理と内閣とのメールマガジン」の継続受信者の一人である。一私民として看過してよいと思わないから読んでいる。総理と内閣とのやみくもに全部が全部をわたしは弾劾していない。けれども彼総理は、ここぞというところでみんなパーにしてしまうほど、政治家の良心を平然となげうつ。久間防衛大臣のむろん暴言・無思慮以外のなにものでもない「原爆しょうがなかった」発言を、「アメリカの考え方を代弁し説明したものと思う、問題は無い」とは、呆れはててしまう。
そもそも日本国こそ、アメリカの核爆弾による無差別虐殺に敢然抗議しつづけてよい第一番の有資格国である。真っ先にアメリカ等の核保有に反対することで核軍備絶滅への旗手たるべき世界的責任すら帯びているのが、日本の総理大臣ではないか。なぜにアメリカの考え方を代弁し説明する必要があるか。その前にすべきこと、とるべき姿勢がある。いかにメルマガを作文し続けても、こういうカンドコロで「心ない機械」のような内面をポロポロ吐露されては、唾棄したくなる。
2007 7・1 70
☆ 独立記念日 ハーバード 雄
今日は,アメリカ独立記念日.アメリカで最も大きな祝日と聞く.普段,花火を上げることは禁止されているそうだが,この日は花火を上げて盛大に祝う.
一体,どれだけ大きなイベントが行われるのだろうかと,少し期待していたが,僕のアパート周辺は至って静かだった.
今日は,一日中,自宅に籠もり,来週火曜日に当たっているプログレスレポートの準備をしていた.やはり今のラボに来て最初のプログレスレポートということで緊張する.ただでさえ緊張するのに,英語となるとなおさらだ.
昔,英語での発表が当たったときには,必ず原稿を書いて準備したが,さすがに今回はしない.本当はした方が良いのかもしれないが,仮に書いたとしても,今からでは頭に入らない.まして,原稿を読みながらの発表は最悪だ.
それに,原稿を書くとしても,僕の場合,音読してみることが重要だ.実際に声に出さなくても,頭の中で音読する.こうすることによって,文章の流れのおかしいところや,句読点の位置をどこに打つかが明確になってくる.これは,日本語で文章を書くときにも,必ずそうしている.
特に,英語の場合,フレーズのどこで区切るかは重要だ.どこで区切るかでリズムが生まれてくるし,リズムに乗った英語は,聞いていて理解しやすい.
実際に声を出すとなると,中々ラボでやるわけには行かない.今日は自宅で発表練習.
思ったよりは話せた.考えてみれば,ここ2年ほど,前のラボに外国人がいたせいで,プログレスレポートを英語でやっていたのだった.それでも,初めて話す内容のときは気をつけなくてはならない.まだ少しスライドに若干手直しが必要か.
発表準備の合間に,この間の日曜日に買ってきた食材を使って,お好み焼きを作る.こちらでは薄切りの肉は中々手に入らないが,Kotobukiyaには置いてある.薄切りの豚肉のほかに,長芋と卵を購入.こちらでは,サルモネラ菌に汚染されている卵が多いので,生で食べることはできないが, Kotobukiyaのものは品質が良いので,生でも大丈夫と聞いている(本当かどうかは知らない).
ちなみに,映画「ロッキー」で,ロッキーが生卵を飲むシーンがあるが,これを「精をつけるため」と解釈するのは日本人ならではの間違いで,スラム出身であることを表しているのだ,と、以前聞いたことがある.
実家から,長芋や出汁の入ったお好み焼き用の粉を,先日送ってきてくれたのだが,今回は長芋も買ってきてしまったので,普通の小麦粉を使って作る.やはり,前回の作ったものよりは,はるかにお好み焼きらしいものができた.お好み焼きにうるさい人にとっては,これでは満足できない出来かもしれないが,僕にはこれで充分.
それ以外の時間は,今まで取ったデータを,ひたすらパソコンで解析.ここ最近,ラボのパソコンのメモリーが壊れていて,データ解析をしようとすると,すぐにブルースクリーンになってしまっていた.
作業をしながら,時折外を眺めていたが,あいにく今日は天気が悪く,風も強く,夕方からは雨まで降ってきた.花火には残念な天候だ.余りにも静かに一日が過ぎてしまったので,アメリカ最大の祝日という気が全くしなかった.朝,ブッシュが演説しているのを少し見た程度だ.
それにしても,こちらの祝日は建国に関連したものが多い.それだけ国民が自分の国を愛しているのだろうか.傍から見ていると,アメリカは色々と問題を抱えているように見受けられるが,それでも国民が自分の国を愛することをできるというのは幸せなことだ.
翻って,今の日本はどうだろう.愚かな男がトップに立つと,これほど救いようがなくなるものなのだろうか.今の日本を,僕は愛せるだろうか.どんどん日本が遠くなっていく気がする.
しかし,僕自身も,そこから逃げるわけにはいかないのだろう.「国家が君に何をしてくれるかではなく,君が国家に何をできるかを考えたまえ」という J.F.ケネディーの言葉を思い出した.
* 雄クンの好いアイサツを聴いた。だいじなことを、スッスッとまっすぐ書いてくれている。気負ってもいない。好い。
2007 7・5 70
* 紀田順一郎さんとはまず最初に電子メディア研究会を創った頃からのお付き合い。わたしなどより遙かに電子メデイアの世間では名の通った、蓄積の多い方で、あのころから何かにつけ教えられてきた。ほぼ同年配の先輩であるが、ご老人の介護などあり、委員会から早くに引かれていたが、「ペン電子文藝館」への出講や、なにかにつけ要所で頼ってきた。その昔にも池袋までお越しいただき、話したことも。この人など、もっと早くにペンでは働いて貰える場所があったろうにと、今頃になりもったいなかったと思うのである。
* 街はめっぽう暑かった。池袋で昼食し、ゆっくり時間をつかってから、都心へ移動。朝の脚の痛み、ほぼ脱けてくれていた、ホッとした。
2007 7・5 70
☆ アラビアのワイン 巌
コーヒーノキの原産地はエチオピアの高原とされている
今もエチオピアではコーヒーノキの葉を乾燥させ 場合によってはそれを焙煎し浸出させて飲料とすることがあるらしい まるでお茶のように。
コーヒーについて文字で書き残された物は どうも九世紀を遡る物はでてこないようで。
陸羽の茶経は八世紀半ばに著されているので 焙煎し浸出して飲む事も それのセレモニー化も イスラムと中国の交流の中から生まれでたのかも知れないなぁと思ったりする。
出エチオピアを果たしたコーヒーは アラビアのワインとも表現され モカの港からヨーロッパヘ運ばれていった。
当時はまだ コーヒーカップには取っ手はついてなく また 大きめの器で回し飲みをする事も多かった様子。どれくらいの温度で飲まれていたのかなと思う。
今 エチオピアのイルガチャフィ 冷めたのを口に含むと 確かに アラビアのワインです。
* 「コーヒーノキ」というのが固有名詞かどうか判読出来ない。「コーヒーの木」か。「アラビアのワイン」ですか、おもしろい。
娘が、いっとき「茶」の伝搬地図に関心をもって調べていた。「テ」の国と「チャイ」の国とがあるとか、あれこれ。チャイナというと陶磁器だが、なぜかジャパンというと、漆器。漆器のことも調べていたようだ。結婚後は、もうそんな余裕もなかったか。
2007 7・6 70
* ソロモンの指輪 ハーバード 雄
今週,電気生理のセットを3人でシェアして使っている.普段は大学院生のシュシェンとシェアしているが,そこへさらに,JCの奥さんのモニカが加わった.モニカは1階上のラボでポスドクをしている.
今日も午前中はモニカが実験をし,僕は午後から夕方まで実験.実験している時間は短いはずなのに,何故か妙に身体がだるく,予定していた終了時刻の30分も前にヘトヘトになって,実験を打ち切った.頭痛と肩こりがひどい.
実験の待ち時間の間に,記録したデータを動画にする作業をしていた.記録に用いたソフトは,あいにく僕のパソコンには入っていないため,他のソフトで読める形に変換し,来週のプログレスレポート用の発表資料ファイルに書き込む.
せっかくなので,その中の一つをここにも載せた(割愛).アップロードした画像は,マウスの神経節の中にある,グリア細胞と呼ばれる細胞の活動を,マウスを生かしたまま記録したもの.
グリア細胞には様々な種類があり,小さなものから大きなものまである.以前は,神経細胞と違って,回路を作ったり電気を流したりすることがないことから,グリア細胞は神経細胞のサポートをするだけの細胞だと考えられていた.
グリア細胞は日本語だと神経膠(こう)細胞と呼ばれている.神経細胞と神経細胞との間にあり,「にかわ」のように神経細胞をはりつけ,構造を支持するのだと考えられていた. (中略)
こうした細胞のカルシウムイメージングの画像を眺めていると,星の瞬きを望遠鏡で見ているような錯覚に陥る.私達の身体の中に,小宇宙を見るような思いがする.
地球から見れば近接して見える星どうしは,実際には遠くかけ離れている.それぞれの星の瞬きに,とくに関連は無いのだろう.
しかし,グリア細胞や神経細胞どうしはカルシウムや電流といった言葉を使って饒舌に何かを語り合っている.彼等はお互いに何かを語り合うことで,色々な情報を伝え合い,私達の身体の働きに大きな役割を果たしているに違いない.
神経科学者達は,これらの細胞が何を語っているのかに耳を傾け,彼等の発するメッセージが,何を意味しているのかを明らかにしたいと考えている.
旧約聖書に出てくるソロモン王は,魔法の指輪をはめることによって,獣,鳥,魚達と語り合うことができたという.神経科学者達は,神経細胞やグリア細胞たちが何を語りあっているのかを理解するための,「ソロモンの指輪」を手にしたいと,日夜考えている.
* 実験内容にふれた記事は割愛したが、おもしろい。動画、繰り返し動かして眺めている。
2007 7・6 70
☆ 水族館 ハーバード 雄
前から行ってみたかった,ニューイングランド水族館へ行ってきた.
もともと,僕は海産無脊椎動物を扱う研究室に所属していた.プライベートでも,ボストンに来る直前までの1年間ほど,カクレクマノミ(「ニモ」と言ったほうがわかりやすいかもしれない)とイソギンチャクを飼っていたので,海水魚や海産無脊椎動物には強い関心がある.
今,ニューイングランド水族館では,クラゲ特集をやっているのか,かなりのスペースがクラゲの展示に割かれていた.海水浴でクラゲに刺されるのは気分の良いものではないだろうが,こうして水槽に漂っているクラゲは美しい.ゆったりと水中を漂っている様は優雅でもあるし,時間の流れがそこだけ遅くなったかのような印象を受ける.
水族館の中央には大きな水槽があり,その周りをらせん状に取り巻いて,見学者のための通路が出来ている.中の魚はどれも大型のものばかりだった.
なんだか日本に残してきたカクレクマノミなどが懐かしく思われ,グッズコーナーでカクレクマノミやクラゲ,ヒトデなどのオモチャを衝動買い.ラボのデスクにでも飾ろうかな.
クインシーマーケット横に’Wagamama’という日本食料理店が出来ていた.なんでも,ロンドンから上陸したらしい.試しにモヤシソバを頼んでみたが,ラーメンのはずだが,麺が茹ですぎでドロドロになっていた.ボストンに来てからの外食では,最悪の一品だった.ロケーションは良く,店も流行っていたが,もう行かない.
2007 7・8 70
* 「mixi」のマイミクさんのお一人が、谷崎原作の「恐怖時代」を観てきたことを書かれていた。谷崎にはこれまで殆ど触れたことのない、すくない、しかし文学愛好の人である。すぐコメントを書き込んでおいた。返辞があり、谷崎があまり人に読まれないで来た作家であるのは、芥川などのように教科書に出なかったからであろうと書いてあった。たしかに谷崎潤一郎についてほとんど「知らない」らしい感想であった。あまり多くはひとに読まれない作家として「鏡花」とならべてあった。これにもわたしは応えておいた。
以下、二つのコメントを挙げておく。
* 谷崎潤一郎の戯曲 湖
大正時代の谷崎は、推理小説、映画制作とならんで戯曲をたくさん書き、その幾つかは古典的にいまも残っています。中でも「恐怖時代」は、そして文字通り「誰もいなくなった」舞台の奇妙は、当時谷崎の耽美的悪魔主義の一代表作として突出し、昭和や戦後になってからも、歌舞伎の舞台ででも演じられました。
谷崎の戯曲は「無明と愛染」「お国と五平」「顔世」など時代物だけでなく、「愛すればこそ」「愛なき人々」など現代劇にも凄みのものが少なくなくありません。そもそも彼の処女作は戯曲「誕生」でしたし、つづく「象」や「信西」なども読む戯曲として、とても面白い作でした。
大正期に花咲かせた戯曲と推理小説、そして優れた映画論。この三脚に立って、昭和初年の古典的谷崎が大輪に咲き誇ったものと観ています。
「恐怖時代」 さぞ…おどろかれたと思います。もっともっと谷崎が読まれて欲しいなと、「隠し子」(水上勉説・事実無根)と風評のあったわたしは、念願しています。呵々
* 谷崎潤一郎という文豪 湖
かつて何度も出た代表的な近代日本文学全集では、島崎藤村、夏目漱石、谷崎潤一郎の三人は、籤取らずに二冊分与えられていたのが普通でした。また全集売り出しの第一回配本も、この三人の誰かが占めるのが普通で、角川が昭和文学全集を出したとき、横光利一「旅愁」で始まったのは、びっくりする新鮮さでした。わたしの高校生のときでした。
谷崎は、大正、昭和時代、国内ではむろん、海外でもよく読まれ、読者数の莫大に多かった人です。ドナルド・キーン、サイデンステッカーなども谷崎礼讃から日本に根をおろした人でした。
その点、「五百人」の固定読者の確保できる作家だったので、時めく自然主義作家たちに憎まれながら明治大正を生き延びたという泉鏡花とはちがい、谷崎潤一郎は、超弩級の人気作家でしたから、文壇にも、谷崎を通し文学に志した作家はうようよといました。
ただ、谷崎はいわゆる文壇的作家ではなく常に超然と派閥の外にいました。それが出来るほど売れた、読まれた、大文豪でした。
岩波に『明治文学史』『大正文学史』という画期的な座談会形式の大部の二冊があり、常連は三人で、多くのゲストが参加した、きわめて高水準の文学研究書です。
その三人の一人、勝本清一郎という批評家は、著書をほとんど創らない、近代一二の優れた批評家としてたいした定評がありましたが、彼はもともと藤村や秋声に個人的に近い人でした。
しかし座談会がついに果てましたときに、最期に感想を述べあって、誰が近代一の作家と思うかが話し合われたとき、勝本は、問題なく「谷崎潤一郎」への讃嘆を縷々述べまして、大勢の文学フアンを驚倒させました。わたしものけぞるほど驚きましたが同感でした。今も同感し続けています。
多く「読まれた」「愛読された」ということからしますと、教科書には載らなくても、芥川や志賀直哉を、谷崎は数字的にいつも圧倒してきました。どの出版社も安心して全集で優遇し、また質的に時代を超えてよく応えていたのが、漱石、藤村、そして潤一郎でした。
鏡花は真に天才ですが、その文学を満喫するには、その天才的な日本語が、現代の読者には歯がたちません。しかし優れた戯曲の上演を通して、鏡花もまたしっかり今も長命しています。
残念ながら、谷崎は生前の華やぎからやや遠のいていますが、一つには、谷崎を丸抱えしてきた中央公論社の低迷も影響しているようです。谷崎を実際に読んだ人は、すぐ、すばらしい大作家だと分かるようです。彼の作は、たとえ普通作であっても少しも通俗でなく、文学として手は抜いていないからでしょうね。活字に唇を添えてうまみを啜らせるほどの文学でした、わたしには。
谷崎は満開の桜、川端は雨にぬれた桜、三島は造花の桜。わたしはそう批評してきました。 湖
2007 7・8 70
☆ 京のひとり旅 瑛
比叡山散策の二日を終え、昨日で一人旅を果てた。
朝、牛若丸と弁慶のモニュメントの近くの宿屋から、鴨川沿いに青鷺を見ながら三条まで歩く。
青鷺は東山から朝日を受けてきらめく川面と実に似合う。
何故か。この鳥からは、宮本武蔵の絵を見るような孤独と、宇宙に一体となる無心とが伝わってくる。鳥になって空を飛びたい。
しかしどうも腹は空かしているのであろう、魚の獲にありつこうとしている。三条大橋で高山彦九郎の銅像をじっくり見てから、岡崎へ行き、哲学の道を歩き、初めて霊鑑寺、安楽寺、法然院を尋ねた。
細雪の著者のお墓を、墓守の元気なお爺さんがにこにこして教えてくれた。ここは若い綺麗な女性が多いという。このお爺さんは若さの精をおとなう女性からもらっている。
* 谷崎夫妻、空・寂のお墓のすぐ右隣が、優れた現代の日本画家福田平八郎の奥津城であったのに気づかれましたか。
法然院には永徳の子の狩野光信の檜林を描いたみごとな襖絵があります。東山では好きで馴染んだお寺でした。茶会にも行き、また茶会も茶事もしました。「或る雲隠れ考」「蝶の皿」などを法然院を舞台にていねいに書きました。
ご一緒したかったです。また気が向かれたら誘って下さい。うまく折り合えばごいっしょに京を歩きましょう、そう健脚ではありませんけれど。 湖
2007 7・10 70
☆ ホヤ ハーバード 雄
朝6時5分起床.6時に目覚ましをセットしたつもりだったが,止めた記憶がない.おかしいなと思って確認すると,何とPM6:00にセットされていた.危ないところだった.
身支度を済ませ,7時前に自宅を出る.Harvard SquareのAu Bon Painでベーグルを20個購入.レジの店員の表情が,いかにも不審そうだった.
ラボに着くと,既にジェイとライアンが居て,実験していた.プログレスレポートがあるので,その前に一仕事しておこうということなのだろう.エライなあ.
ノートパソコンをセミナールームに持って行き,プロジェクターと接続してpowerpointのファイルの動作確認をする.一部の動画が正しく動かないことが判明した.なんとか発表までに直す.さらに,思い切って話を簡単にするために,何枚かのスライドを省いた.
定刻よりやや遅れてボスが現れ,セミナー開始.ある程度準備しておいたおかげで,なんとか無事に終了.前半は,僕が今までやっていた研究の中から一つを紹介し,後半は今のラボでの実験経過報告.
前半の話の中で,研究材料として用いてきたホヤについて,簡単に紹介したのだが,どうやらこの部分が最もウケたようだ.プログレスレポートの後,何人かの人からNice talkとかThank you for good progress reportなどと声をかけられたが,お世辞を除いたとすると,ほとんどの評価はホヤへの興味によるものだったように思われる.
ホヤは,日本人(特に東北地方の人達)には,食材として馴染みのある動物.とはいえ,日本人でも,それほど多くの人が口にするわけではない.好き嫌いがはっきりと分かれる食材だろう.
世界で最も多くホヤを消費しているのは韓国人ではないだろうか.韓国には,ホヤを美味しく食べるためのタレがあるらしい.実際に食べたことはないのだが,ビビンパに入っている辛いタレと似ているそうだ.
良く「ホヤ貝」という人がいるが,これは間違い.ホヤは原索動物(正確には尾索動物)に属しており,軟体動物である貝よりも,進化系統樹の上では,遥かにヒトに近い.しかし,魚屋で売られている姿を見ると,一体この動物のどこがヒトに近いのだ,と思いたくなる.
店先で見かけるホヤ(正式名称はマボヤ)は成体(写真左、割愛)であるが,この状態では,2本の管が角のように出ている.片方の管から海水を吸い,もう片方の管から海水を吐き出す.この2本の管の間にエラがあり,エラで海水をろ過することにより,プランクトンを漉し取り,食している.なんともシンプルだ.
ホヤはいわゆる雌雄同体であり,一つの個体の中に精子と卵を持っている.しかし,非常に興味深いことに,同じ個体由来の精子と卵は決して受精しない.つまり,ホヤは精子と卵のレベルにおいて,自己と非自己を認識しているのだ.この現象に関係すると思われる遺伝子は既に明らかになっているが,その詳しい仕組みはまだ充分には分かっていない.
ホヤがヒトに近いといわれる所以は,オタマジャクシ(幼生,写真中央、割愛)の時期にある.ヒトをはじめとする脊椎動物の定義は脊椎,すなわち背骨を持つことにあるが,ホヤはオタマジャクシの時期に脊索と呼ばれる構造を持っている.
オタマジャクシは海水中を泳ぎ回り,岩などにぶつかると,それが引き金となって変態を開始する.変態して成体になると,そこに固着してしまい,植物のように,一生その場で過ごす.
変態して成体になる際に,脊索はなくなってしまう.なんだか進化に逆行しているかのような振る舞いだ.さらに,オタマジャクシの時期には脳にあたる構造もあるが,これも変態の間に壊されて失われてしまう.成体は,もっと少数の神経細胞から構成される「神経節」しか持たない.
精子と卵のレベルでは自己と非自己を識別したというのに,私達が普段考える意味での「自己」のよりどころである「脳」さえ,変態の過程で捨ててしまう.一生の間に,まったく新たな「自己」へと生まれ変わるなんて,なんという生き物だろう,と思う.
ホヤが学問的に有用な理由は他にも色々あるのだが,ここでは専門的になりすぎるので割愛する.
ただ,一つ面白いのは,ホヤの研究者は驚くほどホヤを愛しているということだ.生物学の研究者は数あまたいるが,ホヤの研究者ほど研究対象に愛着を持つ人々も珍しい.日本動物学会の年会には「ホヤの談話会」なる催しさえある.マイノリティーゆえの結束の強さなのだろうか.
たとえば,ホヤの研究者はいちいちホヤとは言わない.いちいち「ホヤ」とつけるのは,マボヤくらいかもしれない.ホヤにはもっと色々な種類があって,例えばユウレイボヤ(写真右、割愛)などというホヤもいる.しかし,殆どの専門家は「ユウレイ」と言う.従って,ホヤ研究者の会話には「幽霊の精子」などという,けったいな言葉が出てくることがある.
さらにマニアになると,実はユウレイボヤの中にはカタユウレイボヤと呼ばれるものと,ヤワラカユウレイボヤと呼ばれるものの2種類あるのだが,「ユウレイ」も省いてしまって,「カタ」「ヤワ」と呼んだりする.
僕はホヤを扱っていた割にはホヤに対する愛着が強くないので,ホヤ研究者と一緒に話をすると,非常に肩身の狭い思いをすることになる.もっとも,扱っていたというにはおこがましい程度の頻度だったので,無理もない.しかし,時々,「ああ,ホヤって,ホヤ貝だろ?」などと知ったかぶりをする人が現れると,思わずムッとして、「ホヤは貝じゃないです」と言いたくなるあたり,既に毒されているのかもしれない.
実は,mixiでの僕の名前は,ユウレイボヤの学名からとった.気づいた方はマイミクの中のお一人だけ.さすがです.
プログレスレポートが終わって居室にいると,ボビーがわざわざ部屋に入ってきて、「面白かったよ.それにしても,歳がいくと,ひとところに落ち着いて,脳細胞もなくなるなんて,まるでボスみたいだな」と言ってきた.なかなか上手い事を言うわい,と思ったが,ボスに聞かれてもいけないので,良く分からないふりをして,のらりくらりとかわした.
何人かのメンバーからもホヤの話は面白かったと言われる.誰も僕の仕事の内容を面白いとは言ってくれないのが,ちょっと寂しい.
しかし,愛知の研究所に居た頃は,医学部出身者が多かったせいもあって,ホヤなどというと顔をしかめられたり,鼻で笑われることが多かった.「ホヤにも精子ってあるの?」という教授さえいた.
このラボにも医学部出身者は多いが,今日のように面白がってくれるのは嬉しい.まあ,ホヤに負けたのなら仕方が無いか,と思わないでもない.
* ホヤホヤの研究発表の話、面白かった。よそながらホッとした。
2007 7・11 70
☆ 研究のオリジナリティー ハーバード 雄
気温はさほど高くないのに,湿度が高く,蒸し暑い一日だった.昨日のプログレスレポートで出た意見を参考に,最近やらなくなっていた類の実験をする.一日,顕微鏡やマニピュレーターと格闘.しかし,電気生理実験で多少なれたせいか,以前感じたほどの辛さは無い.ただし結果は今ひとつ.
実験していると,JCが「昨日のプログレスレポートはすごく面白かったよ.お前の見つけた〇〇は,すごく面白い」と言ってきた.僕の仕事の内容で誉めてくれたのはJCだけだ.しかし,そこからすぐに,「それにしてもホヤは面白いな」と,ホヤの話になる.
「独創的な研究はいかにして生まれるのか」などという偉そうなことを語るほど,僕は偉い研究者でもなければ,完成された研究者でもない.したがって,請け売りになるが,大学時代に講義を受けたことのある吉田賢右・東工大教授によれば,研究のオリジナリティーとは,大きく3つのタイプに分けることができるという.
まず一つは,扱う実験材料にオリジナリティーのあるもの.そして次に,実験手法にオリジナリティーのあるもの.最後に,アイデアそのものにオリジナリティーのあるもの.後に挙げたものほど,その研究者の頭脳に依存する割合が大きくなっている.
こういう観点からすると,研究者と料理人は似ているような気がする.新鮮で食べごろの素材を使えば,それだけで美味しい料理ができる.良い窯を持っていれば,それだけで一味違うピザを焼くこともできる.しかし,ありふれた食材や器具を使って,斬新な料理を作ることができる人もいる.
一概にどれが良いとはいえない.もちろん,斬新なアイデアで次々と独創的な仕事ができる人は素晴らしい.しかし,新鮮で食べごろの素材を使うには,それらをどのようにして手に入れるかを熟知していなくてはならないし,素材の良し悪しを見極める目も必要だ.最先端の手法を取り入れるにしても,それがどのような料理に優れているのかを人より先に気づかなくてはならないし,最先端の手法を自分のものにするための努力も必要となる.これらは,決してたやすいことではない.
おそらく,優れた研究者とは,これら3つの要素をうまく組み合わせて,独自の世界を築くことができる研究者のことを言うのだろう.
2007 7・12 70
☆ 早すぎる… 碧 下関
さきおととい辺りから虫の音が聞こえ始めて、今宵も繁く鳴いている。
鈴虫? 松虫?
ネットで確かめてみるけれど、どちらとも言い難い。アオマツムシというのに似ている気はするのだが、こんなに早く鳴き出すものだろうか。
そういえば先週の日曜日~七月の朔にコンサート会場でヒグラシが鳴き始めて…という話を聞いた、そのときも早いなぁと想ったのだった。
早いといえば台風の接近。先週末に植木の手入れをしに来てくれた姉の、「クモの巣が低く張ってるから台風が来るんかも知れんねぇ」という予想(名づけて<台風クモ予報>)、今年も当たりそう。
そうそう、先週半ばに「野生のサルが出没しています」と広報車が廻っていたっけ。どうなったのかしらん。
☆ (上にコメント) 巌 南山城
うちのあたりは 猿が 国道を集団で横切って行ったりします
アライグマが 西瓜を始めいろいろと荒らし回っています
猿とアライグマはとても利口で 作物の防衛は大変です
猟友会は 熊や猪の被害の時は嬉しそうに出動してくれますが 猿は 目が会うと撃てないと 空砲で威すだけ 猿はたいして怯えもしません
先日カボチャを猿に餌とされてしまった人の話ですが ネットで囲ってあっても 少し隙間があると そこから子猿を入れて 蔓をネットまで引っ張らせて 後は親猿が外から処理するのだそうです。
* 碧さんは湖の本の二十一年の支え手のお一人。巌君はわたしの父方の若い従弟。
こういうコメントの織物はいろいろにマイミクの繋がりで織り上がってゆく。瑛さん、香さん、湖では京の話題も。わたしは、ずいぶん気楽に気軽に失礼も顧みずにコメントを入れたりメッセージしたりしている。「mixi」のなかにわたしのいわば逸文がずいぶん遺ってしまいそうだ。
2007 7・12 70
☆ 疏水沿いの散策 瑛 川崎市
京の五条大橋から鴨川の土手を歩いて、岡崎へ。琵琶湖疏水の豊富な躍動の流れを岡崎の仁王門通りで見る。ここまでは朝の通勤時間、通学時間滞の人の流れ流れをさおさしながら、五条大橋から一時間の足。疏水と、緑陰の近代美術館と、能楽堂の観世会館を見たかった。最近はやりのガラス建築に対峙する、古いが重厚な京都市美術館の姿も確認する。
京都の岡崎は「文化ゾーン」といわれている。湖さんの日記で星野画廊と秦テルヲの回顧展が取り上げられたことがあるが、星野画廊にも寄ってみたい。画廊はここからそう遠くはないだろう。
平安神宮の丹(に)色を左にして、東は朝の山気日佳の懐が大きい。
この地の、昔からの見聞は心の「積分」となり、今の見聞は「微分」でありましょうか。ターレスの言葉かも知れないと思いながら、哲学の道へ歩いて行きました。過去の多くの先人、先人を慕った同僚や後輩が、京都というこの地を歩いていると目に浮かびます。かたい口調の日記でありますが。読んでください。
* あの平安神宮の丹朱の大鳥居のまえ、疏水に架かったあかい橋。あの橋が、新制中学の頃のわたしたちの飛び込み台でした。真下の深い早い疏水へとびこんで游いでいました、水泳パンツでなく、褌でした。
危険な水泳で、ときどきあの疏水では事故がおきました。
あの橋をわたり、三条通へまっすぐ広道を戻って行き、三条へ出るすぐ手前の東側に「星野画廊」があります。ちいさな画廊ですが、この画廊の内懐は深く厚く、おどろくべき収集文化財でつまっています。機会があれば立ち寄って下さい。
此処で、気に入ったのを三点買っています。その一つが秦テルオのしんしんと降り積んだ雪景色でした。京の出町、我が家の菩提寺が描きこまれています。
能楽堂のまぢか、疏水から白川が南へ流れ出て町屋のなかを流れている辺、とても風情があります。あの岡崎一帯に壮大に六勝寺が建ちならんで栄華を誇った白河法皇時代の、その白川の顔が、三条通へ出るまで、昔ながらに見られます。ちょっとした秘処です。 湖
2007 7・12 70
* 関東では今日を盂蘭盆として迎える家が多い。京都では八月十五日。
「mixi」に「脚あと」多く、そのなかに「洗い茶巾」の茶を書いている人があり、思わずコメントを書いたり、母校日吉ヶ丘高校の、「雲岫会」というわたしの命名した茶道部の後輩部員のメッセージも来て思わず問わず語りにメッセージを返したりした。「mixi」には自分から日記を書くことはしないでいるが、親しいマイミクの日記を読んだりコメントしたり、未知の人の「脚あと」から思いがけない人との出逢いを楽しんだりしている。無際限に遊ばずに、自然な範囲内で声や言葉を交わしている。おのずから質的にも濃淡のあらわれるのはやむをえない。
☆ 洗い茶巾 紅
文月に入って 夏のお茶を楽しめる季節になりました
今日は洗い茶巾をしていました
お茶碗の中に水を入れて 茶巾は浸しているまま お茶碗を出します
涼しそうな夏の遊びです
一日の授業が終って 一番楽しみにしているのは茶道部です
美味しいお茶を頂いて 心はほっとしますね
日本人は ひたすらに工芸の匠を追究するではなく 水や葉っぱなど 自然のものを親しみます
日本って いいですね
☆ 湖 さまへ 汀
はじめまして。
京都の日吉ヶ丘高校普通科のコミュを見て 思わず、お訪ねしてしまいました
わたくしも茶道部にいました その頃は福岡宗寿先生と宗菊先生(?)だったと思います
「雲無心にして岫を出で、鳥飛ぶを飽きて帰るを識る」
陶淵明の帰去来の辞でしたっけ? 雲岫席・雲岫会の由来ですね
その頃は、まだ美工があって、その2階にありました 今はプレハブに移りましたが 後輩たちが守ってくれてると聞いてます
本名・年齢を隠して訪問してるから不審を抱かれたかもですが けっして怪しい者ではありません(?)
足あとを残しますが どうぞ、よろしくお願いします
まずはご挨拶まで・・・ 汀
P.S.台風にお気をつけください
* なんと心涼しいこと。嬉しくなった。わたしのマイミクには、茶の湯に堪能の人が今も二人。お一人は植物病理学者、もうお一人は医療関係者。
2007 7・15 70
* ボストンの雄くん、引っ越すようだ。ボストンで、もとの愛知の研究所関係の知人たちとも、偶然にまた必然の気味で出逢っているようす。世間の広さと狭さと。おもしろいことだ。
2007 7・15 70
☆ 運転練習 ボストン 雄
ずっと懸案となっている運転免許だが,ペーパーテストには合格したものの,その後色々あって実地試験が受けられずにいた.来週の木曜日に実地試験の予約を入れたので,Hさんが試験の前に運転練習をしたいということで,今日,一緒に行って来た.
実地試験を受けるのは,ウォータータウンのRMVだが,ここの実地試験のルートはDr.Kazuのホームページに載っているので,そのルートで練習することにした.
実際に走ってみて,あまりに距離が短いことに驚く.2,3回曲がっておしまいとウワサで聞いていたが,あながち嘘ではなかったのだと悟る.
あまりに短い距離なので,練習にもならない.そこで,ウォータータウンのRMVから少し西に行ったところにある,Russo’sまで行くことにする.ここは,以前から,新鮮な野菜や果物が安く手に入ると聞いていて,一度行ってみたかった.
周囲にはこれといったものもないが,大勢の人達が来ていた.野菜はどれもみずみずしく,種類も豊富.日本の野菜もたくさんある.Hさんは白菜を買っておられたが,僕はレンコンを購入.人参とキンピラにすれば,弁当の良い付け合せになる.普段買わない果物も,あまりに美味しそうなのでいくつか購入.かなり大量に買い込んだが,それでも20ドル足らず.安い.
来た道を引き返し,さらにちょっと寄り道をして,Trador’s Joeで酒類を購入.ポーターまで引き返して,Hさんとはそこでお別れする.
僕はポーターエクスチェンジモールに立ち寄り,日本食レストラン「一兆」でビーフカレーを食べる.行く前は親子丼にするつもりだったが,席について急に気が変わった.美味しかった.
Kotobukiyaで多少買い物をし,駐車場の代金を払っていると,後ろから声をかけられた.ふりかえると,昨日,レストランツアーでご一緒させていただいた方がおられた.買い物に来られたのだという.また,ツアーでお会いしましょう,と声をかけて帰宅.
* 新潟・長野についで、東北・北海道や京都の日本海沖でも地震。東京も二度揺れる。
☆ 不安 碧
今朝は七時過ぎに雷鳴、間もなく降り出す。豪雨というほどではないが、かなり強い雨脚。
九時を回って日が差したかと思うと蝉の声。わしわしわし、と聞こえる、クマゼミ? ~どうも虫の音などの区別がつかない、名前と結びつかない~このまま梅雨明けするのかと思ったら、
十一時に新潟・長野の地震を知る。再び雷鳴。今度は地鳴りを伴って、稲光も凄まじい。ニュースと落雷との同時進行で泣き出しそうになる。怖いのと哀しいのと。約一時間。
台風。地震。津波。福岡市はオリンピック候補地にならなくてよかった、とつくづくおもう。
亡くなった方が少しずつ増えている。
安倍の対応の早さ、選挙結果に影響するだろうか。
* まさしく不安。
2007 7・16 70
☆ ロバート・フロストの詩より 清
美しき森は 暗く深し
されど 我に 守るべき約束
宿る前に 辿るべき長き道のりあり
ロバート・フロストの詩を偶然読んだのは中学二年生だったか。(姉の本棚にあった。)孤独感と気概の間をうろうろしていた当時、詩のひとひらはわ
たしへの「励まし」になった。あの時、孤独はひたすら戸惑いに塗りこめられた孤独で 冷たく寂しいものだった。思春期特有の片思いに似た感情に怯えていたのかもしれないと今になって思うが、あの頃、生きること呼吸することは大袈裟だがつらかった。
美しき森は暗く深し・・美しいと期待したいが、暗いのも深いのもすべて見定められるはずがない。ただ辿らなければいけないと、やっとやっとなだめ励ますだけだった。
先ごろ書店で彼の詩集を見つけて買い求めた。
その詩の題は「雪の夕べ森のそばに橇を止めて」という。
最後の「宿る前に辿るべき長き道のりあり」と記憶していた部分の訳は「だから私には眠る前に何マイルも行かなければならない。」となっている。原文を書き出してみる。
Stopping by Wood on a Snowy Evening
Whose woods these are I think I know.
His horse is in the village ,though;
He will not see me stopping here
To watch his woods fill up with snow.
My little horse must think it queer
To stop without a farmhouse near
Between the woods and frozen lake
The darkest evening of the year.
He gives his harness bells a shake
To ask if there is some mistake.
The only other sound`s the sweep
Of easy wind and downy flake.
The woods are lovely, dark and deep,
But I have promises to keep,
And miles to go before I sleep,
And miles to go before I sleep.
最後の「宿る前に辿るべき長き道のりあり」と記憶していた部分の訳は「だから私には眠る前に何マイルも行かなければならない。」となっている。そこから感じ取るものにかなり食い違いを生じてしまう。改めて図書館の他の翻訳を探したが、さして変わりばえしなかった。
原文を読み、その文脈から考えても おそらく淡々と、韻文よりむしろ散文の感覚で捉えたほうが納得する・・ということは、これまでの思い入れはわたしの思い違いに近かった。
それでも構わなかった。既にわたし自身の中で、それは一つの決定的な「訳」になっていて、それどころか彼のその詩から遊離して、一つの格言のようなものになってしまっている。
そして同時に原詩の何気ない言葉に思えるものが周到に選ばれていること、脚韻の美しさ、軽やかさを意識していることを知った。日常のさりげない言葉からさまざまに尽きない深い意味を汲み取ることができる気がする。今その思いを強くしている。
中学の同期会の時、もう記憶の彼方に沈んでいた人から声をかけられた。何十年も前の当時、彼女は服装も着崩して、不良らしい振る舞いだった。高校は違ったのでその後の消息はまったく知らないままだった。その彼女がまっすぐわたしに近寄ってきた。いかにも家庭の主婦をしてきましたという雰囲気とは異なるが、潔さ、一種のすがすがしさ、まっすぐなものが彼女から感じ取られた。
「あの詩、覚えている?・・あなたに教えてもらった詩よ。好きな詩を選んで読むってことになって、困って聞いたら教えてくれた詩よ。」そう言って彼女が口にしたのが、あのフロストの詩だった。その一行はあまりに思いがけなく唐突に過去から浮かび上がった。
「覚えてるわよ。あの頃覚えたのって忘れてないわねえ。」自然にわたしの口からもその一片があふれ出た。
「あれからいろいろなことがあったけど、この言葉で、わたし、随分助けられたの。だから今日はお礼を言いたかったの。本当にお礼を言いたかった。」
そうか、そうか、わたしも少しは友達の役に立ったんだ。
そして繰り返しになるが、この一行が「宿る前に辿るべき長き道のりあり」と訳されていたからこそ彼女に意味深長に聞こえたのであり、「だから私には眠る前に何マイルも行かなければならない。」では、わたしから彼女に伝わることも恐らくなかったろう。
そして十数年前ボストンで知り合った友人もロバート・フロストの名前とこの詩をあげた。
「これはね、ニュー・ハンプシャーの森を歌ったもの。ニュー・ハンプシャーには二千もの湖や池がある。面積の90パーセントが森林。君の国よりもっと森が多い。しかも3000フィート以上の山が200以上もある。」
素直でアグレッシブなアメリカ人とは少し外れて、彼は静かな含羞の人だったが、森のことを誇らしげに語った。
確かにニュー・ハンプシャーの青々した山は素晴らしかった。時まさに秋十月、週末にレンタカーを借りて、山深いところに家族旅行した。森、点在している湖、何よりも記憶に焼きついたのは紅葉だった。たくさんの木々の紅葉を見た。この先一生分の楓の紅葉を見たと思った。
わたしたち日本人もまた美しい日本の自然を、森を歌いたい、心から歌いたい。勿論、この日本の自然を大切にしていく強い確かな姿勢あってのことである。
美しき森は暗く深し
されど我に守るべき約束
宿る前に辿るべき長き道のりのあり
わたしたちの森は何処まで続いているか、暗いか 深いか・・明るいと思えば明るい、暗い森にも日が射し込む箇所もあるだろう。深い森でも時には思いがけず切り開かれた場所に至るだろう。時々は怠け心のままに休息し、宿り宿り、辿り辿り、さて長い道のりとは・・何処まであるか、何処で途切れるか。
それにしても わたしの森が美しいか、醜いか、それすら実は全く分からない。暗く深い、その不分明さだけは身に沁みて感じていても。
* 「道のり」を、水平の遠い彼方に読み取る風情もあれど、「道のり」を垂直の闇の虚に汲み取るのも、有るべく。遠くへ遠くへ尋ねてゆくのでなく。美しい森はもともと胸奥に抱いているのではないか、気づかないだけで。 湖
ようすは少し違うかもしれないが、詩句の読みのちょっとした差異から深いとまどいに心を揺らした記憶が、わたしにも、ある。小説『慈子(あつこ)』に書いた。
ヒロインが大原の三千院近くの茶屋で女主人の「徳女」の自らしたためていた句色紙を、「蛍籠とうから夢とけじめなく」と読み取ったのが、じつは「蛍籠どこから夢とけじめなく」の読み損じであったこと。
この微妙な差は、「夢」なる一字の世界をゆらし続けて、いまもなおわたしの胸の奥でけじめがつかない。
2007 7・17 70
☆ 初のメジャーリーグ観戦 ボストン 雄
経緯はともかくとして,メジャーリーグの試合を生で観るのはこれが初めて.メジャーリーグどころか,日本のプロ野球ですら,最後に観戦したのは小学生の頃だから,もう25年近くも前ということになる.夕方になるのが待ち遠しい.
Park Street駅でレッドラインからグリーンラインへと乗り換えてKenmore駅へ向かう.グリーンラインはB,C,D,Eラインと4種類あり,このうち Eライン以外の全てがKenmore駅に止まるのだが,来る列車来る列車,どれを見てもラッシュ時の山手線のような混雑ぶりだった.やはり試合のある日の,この時間帯はこうなるのだろうか.
やっとの思いでKenmore駅で下車し,フェンウェイパークまで歩く.あたりはボストンレッドソックスの帽子やTシャツ,ユニホームを着た人達でごった返している.
まずは腹ごしらえということで,球場近くにあるPOPEYESというファストフードの店へ.CHICKEN&BISCUITSとも書いてあるので,どんな店なのだろうと思ったが,ケンタッキーフライドチキンと良く似ている.アメリカでは(特に南の方で)有名なチェーン店らしい.ケンタッキーフライドチキンは嫌いではないのだが,もう高校生の頃位から食べていない.チキンバーガーとマッシュポテトのセットを注文.野球観戦と同様に,こちらも久しぶりだが,久しぶりに食べるとなかなか旨い.
入場する前に,手前のおみやげ屋さんで岡島と松坂のTシャツとボストンレッドソックスのロゴ入りの帽子を購入.実は大学院修士課程時代の同級生が,今,ボストンから車で2時間ほどの距離にあるウッズホール臨海実験所に実験しに来ているのだが,野球好きのお父上のために岡島のTシャツが欲しいとのことで,僕が代わりに買うことにした.土曜日に渡す.松坂のTシャツと帽子は僕用に買った.松坂よりも岡島の方が僕は好きなのだけれど,”Dice-K”と書かれているのにちょっと惹かれてしまった.
さて,球場内に入り,ビール片手に席へと向かう.試合開始前は日没間近ということもあって夕日がまぶしい.買ってきた帽子が大いに役立った.外野席だったものの,前から8列目くらいだったせいもあって,選手との距離が驚くほど近い.すぐ目の前でプレーしているようにさえ見える.もっともピッチャーやバッターは遠いのだけれど.
今日の先発ピッチャーはWakefield.ピッツバーグ出身のライアンによれば,ライアンが幼い頃,Wakefieldはピッツバーグの選手だったという.対戦相手はKanzas City Royals.恥ずかしながら,このチームは全く知らなかった.
まず,国家斉唱で全員起立し,テノール歌手がアメリカ国家を独唱.素晴らしい歌声に感動.周囲の観客も,何人かは歌っていた.日本でもサッカーの国際試合などで国家斉唱が行なわれる場合はあるが,アイドル歌手などが「君が代」を「オリジナリティー豊かに」歌っているのを見ると,とても興ざめする.
試合は,前半は0対0の攻防が続いたものの,中盤になって3点取られ,1点追いついたあとも,交代したピッチャーが打ち込まれて,瞬く間に9対1となってしまった.8回に2点返したものの,もはや完全に負け試合といった印象だった.客席はほぼ満席だったが,8回に入る前辺りから客がどんどんと減っていき,9回表にいたっては,試合に飽きた客席が,ウェーブを作って,もはや試合内容そっちのけで楽しんでいた.
一方的な試合ではあったのだけれど,レッドソックスがチャンスを迎えると,どんなささいなことでも観客は大喜びしている.この盛り上がりを体験するだけでも,レッドソックスファンになってしまいそうだ.
松坂や岡島の活躍のおかげで,レッドソックスの本拠地フェンウェイパークの話題は日本のテレビでも良く取り上げられるようだが,レフトスタンドは高い壁となっていて,「グリーンモンスター」と呼ばれている.
このグリーンモンスターの存在はテレビなどで散々知っていたが,今日改めて,この存在がホームランを阻むのに大きく貢献していることが分かった.今日,一体何本のホームランが,このグリーンモンスターによって阻まれたことか.反面,ライトスタンド側のフェンスが予想以上に低かったことにも驚く.
グリーンモンスターの存在のせいかもしれないが,今日の試合はホームランが1本も出なかった.惜しい当たりはあるものの,全てホームランにまでは至らなかった.自宅などで試合を観戦していると,ホームランばかりの試合は大味に感じられて,面白みが無いように思ってしまうのだが,こうして生で観戦すると,外野方面に飛んでくるボールには興奮させられる.この辺の臨場感の違いが,テレビと生との大きな隔たりかもしれない.
残念ながら一方的な負け試合になってしまったため,岡島は登板しなかった.ただし,こちらに来てレッドソックス関連のテレビなどを見ていくうちに何人かの選手の顔は覚えるようになったので,彼らの打席は楽しめた.
試合開始直後は強い日差しで汗が止まらなくなるほどだったが,回が進むにつれて,気温も下がり,涼しい風が吹くようになった.夜風に吹かれながら野球を観ていると,勝ち負けはどうでもいいような気になってくる.日本はドーム式球場が多いが,やはり野球の醍醐味の一つは,この開放感にあるように感じた.
良く晴れた夕方に,ビール片手に野球観戦をしていると,それだけで塞ぎこんでいた気分が晴れていく.このところ,引越し関連で気が滅入っていたが,これでずいぶんとリラックスできた.
フェンウェイパークから徒歩で帰宅.
* 山田健太さんに券をもらって、後楽園で、巨人と広島だったかの試合を、妻と並んで観たことが一度だけ。独特の陽気にアテられた心地でわるくなかったが、飲み物のペットボトルにもテロ対策の警戒厳重だった。ああいうもんなんだろう。
野球というゲームは概して退屈だが、ドームの広いこと、その密閉されて騒然とした陽気をあれで楽しんでいたかも知れない。ネット裏の小高いいい席にいた。どっちが勝ったかも覚えていない。遠いところで選手たちがこまごまと動いていた印象だけ残っている。
やはり歌舞伎の方が席はいいし、美しいし、興奮するなあ。
2007 7・18 70
* 雄君の日記長大だが、やはり書き込む。
☆ 留学することの意義 ハーバード 雄
昨日,フェンウェイパークに行った際に買った,「松坂Tシャツ」を着てラボに行く.恥ずかしげもなく,良くそんなことをする,といわれそうだが,これでも散々迷ったのだ.しかし,着ていくなら,やはり今日だよなと思い,着ていった.
しかし,皆の反応は,驚くほど無関心.ごく数人から「それ,いいねえ」と言われただけで,後の人は何も言わない.どうやら,このTシャツがあまりに街に溢れているために,全く違和感がないらしい.唯一,ヤンキースの熱狂的なファンのグレッグだけが,「そんな恥ずかしい服を着て,ロゴの部分を手で隠して歩かなきゃ」と言ってきた.
今朝は週1回のプログレスレポート.担当はコーリー.彼は今年の秋には博士号を申請する.そのための,今までやってきた仕事の集大成を,一気に話した.それにしても,膨大な量のデータに改めて圧倒される.普段は下品ことばかり話したり,ラボの中でフラフラしていることも多いが,やる時はやる奴だなあと思う.
一つ,データが足りない図があった.そこはJCの担当らしいのだが,まだデータが出ていないらしい.
「僕は毎日「生理学実験はどうなった?」とJCに聞きに行くんだけど,JCは「ああ,ばっちりだよ.もうすぐデータがとれるよ」と言ったまま,数ヶ月が経っているんだ」とコーリー.
powerpointの図をクリックすると,JCの顔写真が画面下からゆっくりと動いてきて,空白のデータの部分に収まった.
皆は笑っていたのだが,プログレスレポートの後でJCは
「あれは,ジョークなのかなあ.それとも,本気で怒っているのかなあ」 と,密かに気にしていた.
横で電子顕微鏡担当の技術員のエリカが
「今度言われたら,私が毎日,あなたを煩わせているからデータが中々でないのだと,コーリーに言うのよ」といって慰めているのが,ちょっと微笑ましかった.
プログレスレポートの直後に,フランス人のポスドクのジョンが,正式にパリの研究所に永久職を得たということで,皆で軽く,シャンパンでお祝いする.
さて,午後になって実験を開始したが,やはりどうしても引越し関連のことが頭から離れない.今住んでいる部屋のことは一昨日の日記に書いたが,今度移る部屋についても,問題がある.まだ,大家が受け入れると言わないのだ.
それでなくても,外国人でクレジットヒストリーが無いからということで,銀行の預金残高の証明書やら,履歴書までFaxしている.そこに今度は日本からの収入の証明書と,保証人を誰かに頼んで書類に記入してもらえと先週言ってきた.
そこで,申し訳ないが保証人をボスに頼んだのだが,あっさりとOKしてくれて,書類を作成してくれた.ただ,書類の一箇所を指差して,「ここは,ちょっと不愉快だから,僕ははっきりとは書かないよ」という.見ると,保証人の年収を記入する欄があった.
いくらなんでも,これはひどすぎはしないだろうか?保証人を頼むだけでも気が引けるというのに,その人の年収まで明らかにしろとは,失礼にも程がある.
「ハーバード大学のFull Professorの年収と書いておいたよ.もし聞かれたら,「彼は大学のすぐ傍に一軒家を購入して住んでいるので,そのくらいの年収がある」と説明してくれ」と言われる.本当に申し訳ない.
さらに,ボスがハーバードの教授であることを証明するために,学部の事務に行き,署名と刻印をしてもらい,昨日の昼にFaxした.これで,必要とされている書類は全て提出したはずだ.文句はあるまい.
ところが,昨日の夕方になって,不動産屋から、「大家から質問があると言われた.貴方の収入は年間何回という形でまとまって振り込まれるのか?それとも毎週ごとに振り込まれるのか?」という.
そんなこと,どうだっていいじゃないか.毎月,決まった額の家賃を納めれば,文句ないはずではないか.実際,この半年間,今度移る先よりも高い家賃を払ってきて,充分生活できているのだ.その証明のために,銀行の預金残高の推移までFaxしたのではないか.疑り深いにも程がある.
今日になって,不動産屋から連絡があるかと思ったが,一向にない.そんな状態で実験していて,しかも人が動けるスペースはわずかに2畳ほどしかない実験室だが,JCに来客があったせいで,1畳ほどのスペースに3人が押し込まれることとなった.椅子を引くことも押し出すこともできない有様で,イライラが募る.おかげで標本作りを失敗してしまった.
そこに偶然,ボスが通りがかった.
「この間の保証人の書類の件だけど,学部の事務からの署名は無事に取れた?」と聞いてきたので,
「それは取れたのですが,まだ大家が決めかねているようです」と言うと,
「なんで? 君は日本ではAssistant Professorじゃないか.大家は一体,何が信用できないというんだ?」とボス.
そこから始まり,今住んでいるアパートの家具の引継ぎの件にも話が及ぶと,ボスは
「そんなひどい話は聞いたことがない.なんてことだ」といって,一緒になって憤慨してくれた.
「何か,僕に助けられることは無いか?」とボス.
これだけ忙しくしているボスに,サイエンスと無関係のことで,そんなに煩わせるわけにはいかない.
「強いて言えば,今,契約している電気やケーブルテレビなどの解約や,新しい住所を申請したりするのに時間がいるので,平日に1,2日お休みをいただけないでしょうか?」と僕.
「そんなのは当たり前のことだよ.断りなしに休んでもいいくらいだよ.こちらでは,1週間くらい休みを取るのが当たり前だよ」とボス.
「今住んでいる部屋の大家に,今度部屋に入ろうとしている人とのことは話したか?」 とボスに聞かれる.
「一応伝えましたが,多分,彼女は僕の言うことには耳を貸さないでしょう.家具はあくまで僕の問題ですし,彼女は家賃さえ払ってくれれば問題ないでしょうから.僕も色々と説明しましたが,やはり英語の問題もあって,充分に理解してもらえないようです」 と僕.
すると「君の英語はエクセレントだよ.君の言っていることで僕が分からなかったことは,今まで一度も無い.それに,来た頃に比べて,君の英語はどんどん上達している.英語の問題ということはありえない」とボス.
それにしても,この半年間,一体僕は何をしていたんだろう,と情けなくなる.渡米直後に生活のセットアップに時間がかかるのは仕方ないとして,またもや引越しで右往左往している.一向にデータは出ないし,何も進んでいるように見えない.
「データも出ないのに,こんなことばかりで,本当に申し訳ないです」と思わず口にしてしまった.
するとボスは次のように言った.
「確かに留学して,データを出したり論文を書くことは大事だよ.でも,海外に留学するということの意味は,それだけじゃない.今まで自分が暮らしてきた世界とは全く違う世界に身を置き,そこでの生活習慣の違いを体験したり,全く接したことのない文化に触れるということが大事なんだよ.
僕は日本に何度も行ったことがある.だから,日本とアメリカがどれだけ違うのか,僕には理解できる.おそらく,アメリカ人が日本に行くのと,日本人がアメリカに来るのとでは,日本人がアメリカに来ることの方が,はるかに大変なはずだ.
日本は民族的に均質だから,お互い何も言わなくても通じ合う部分が多い.それに比べてアメリカは多民族国家だから,実に色々な人がいて,色々な文化・習慣がある.それらは,アメリカの中でさえ,地域によって全く異なる.
アメリカ人である僕でさえ,南部から東海岸にやってきた時は,色々と大きな戸惑いがあった.だから,そんなことは気にすることはないよ.」
本当はデータを出すことをボスは望んでいるだろうが,あえてこう言ってくださるボスの優しさに感謝する.このボスのところに来て良かった,と思う.
確かに,昔は留学経験はポジションを得る上で有利に働いたのだろうが,今は時代が変わり,日本で若くして教授になっている人の中には全く留学経験の無い人も多い.早く教授に昇進するためには,留学よりも国内で実績を積んだほうが,名前も憶えられやすいし,コネクションも増えるのかもしれない.
しかし,やはり,人生それだけではないだろう.結果も大事だが,プロセスはなおさら大事だ,と僕は思う.いくらか願望も入っているが.
ボスとは,その他に実験室に関しても話をした.JCの部屋は,あまりに来客が多い上,スペースも少ないので非常に厳しいと言うと,コーリーが年末にメディカルスクールに戻った際には,彼の部屋をもらえることになった.小さいながらも個室になっている.JCのところにやってくる人達に煩わされることは全く無い.
「しかしコーリーがいなくなるまでには,まだ大分時間があるから,臨時のスペースを他にも作ろう」といって,ラボの中をあちこち見て歩く.候補として2箇所を挙げられる.どちらにするかは,僕次第とのこと.
結局,今日,新旧どちらの大家からも連絡はなかった.新しい部屋の担当の不動産屋に電話をすると,大家とは,明日話し合いを持つと言う.明日は運転免許の試験があり,その後は実験動物の講習会があるので,僕は立ち会えないよと伝える.
どういう結論になるのか.結論によっては,家具を手放さない方が良いかもしれない.もどかしい日々が続いている.
* たいへんやなあと思う一方で、なかみのある日々を堪能しているようだとも。のちのちに佳い記憶に結晶し、光り出すだろうなと思う。
2007 7・19 70
☆ 風邪の町 幌
6時55分に起き、身繕いをして7時15分に予約したタクシーへ乗り込んだ。南郷13丁目駅から7時29分発の東西線に乗り7時38分新札幌へ到着する。改札横の喫茶店でモーニング。トースト2切れ、サラダ少々、ゆで卵、コーヒーがついて380円。安い。8時10分発の特急スーパーとかち1号で芽室(めむろ)へ向かう。車内で40分ほど熟睡する。あとの時間は、資料を見たり、いろいろと考え事をしたり。10時20分芽室駅下車。快晴。寒い。一台だけ停まっていたタクシーに乗り北海道立の試験場まで、1200円。
試験場の病虫科長Sさんに、薬剤試験を仕込んだビニールハウスを見せてもらう。本当は広大な畑を使って実施するはずの試験。うまくいけば、頭を抱えているある病害の特効薬として年度内に登録がとれるのだが、諸般の事情により、畑での試験ができないことになり、やむをえず、植木鉢ほどのプランターを使ったポット試験となった。Sさんによれば、昨年寝る間を惜しんで開発し特許出願した検出法が、現場ではまだ使えないらしい。本庁で「公的機関の開発技術を何で金を払って使うの?」との意見があったとのこと。同じ質問を私もしたい。
しかし、今の独法は、金、金、金。この特許を、親方の○○省が使う場合でも、基本的にお金は頂くのだそうだ。独法儲けさせるために、寝る間を惜しんだ訳じゃないんだけどな。Sさんにも申し訳なく複雑な気分。
やりきれないまま、隣の独法研究所に移動。会議室でお昼に頼んでおいたお弁当をもらう。500円。領収書までくれた。メンチカツ、ひじきと大豆の煮物、切り干し大根の煮付け、ポテトサラダ。メンチカツとサラダにさりげなくジャガイモが入っているが、午後の会議は、ジャガイモの関係者が一堂に集うものなのだ。
会議にはジャガイモの品種を創る人、それを栽培する人、売る人、買う人、加工する人、製品を売る人まで集まった。北は地元北海道から、南は種子島まで、この人たちが扱っているイモの量は、ひょっとしたら日本のイモの半分以上を占めるかな、などと考えつつ、各自の発表を聞いていた。私が聞きたかったメーカーの執行役員のプレゼンは、大幅に時間を超過して、45分になった。私はプレゼン時間を超過する人が嫌いだ。自分が主催者側になれば、その苦労がよくわかる。しかし、45分熱弁をふるっただけあって、役員さんの言わんとすることはよくわかった。植物病理が専門の私としては、とうてい容認できない生原材料の輸入も、販売者側から見れば、それなりの理由があってのことだ。要は、私(この場合、組織の研究職員としてではなく、一植物病理学徒として)は、彼らの行為を、これからも注視し続けるということ。病原体はかならず外からやってくるのだ。
午後3時、バスに乗り、芽室町の畑作地帯を移動する。刈り入れ前の麦、紫や白い花を咲かせたジャガイモ。防風林で仕切られた畑が、パッチワークのように色分けされている。バスを降り、畑のきわに立つと、氷かと思うほどの冷たい雨が降り出した。気温はおそらく10℃を下回っているはず。しっかり背広を着込んできたが、それでも前をかき合わせる寒さだ。
ジャガイモを貯蔵する農協の貯蔵庫、2万トン。倉庫の中も寒くてかびくさい。5時過ぎて、研究所に戻ったときには、体が芯から冷えていた。研究所で帯広畜産大学のアルバイトをしている学生さんに、芽室駅まで送ってもらう。汽車を待つ30分の間に、駅前の喫茶店に飛び込み、熱いココアを注文する。7月真夏に熱いココアか。
18時9分の特急でいったん帯広まで行く。560円。帯広駅も雨。駅前の「ふじもり」という昔風の食堂で、体が温まりそうな、カレーを注文。しばし考え、ハンバーグをのせてもらう。左の席には、私服の男子高校生3人。チョコパフェを食べた後で、放心している様子。見れば部活の話などしながら、皆寿司屋の茶碗で茶を飲んでいる。パフェに緑茶? と不思議に思っていたら、我がテーブルの上にも、水、茶、それにソーダ水が少し。面白い店だ。カレーを食べ、水、茶、ソーダ水を順繰りに飲んでいると、体もやや温まったような気がしてきた。ハンバーグもタマネギのみじん切りまで手作りで、とても美味しかった。
帯広駅から、19時10分発の特急で札幌へ向かう。今度は30分ほど熟睡。そのあとで、鞄の中から書類を取り出す。4月にコピーして、イントロだけ読んだコムギの論文。1960年代のスコットランドの論文。2004年に同級生がアメリカの学会誌に投稿したピーマンの論文。いずれも、今日出張してきた道立試験場でやっている研究に関するもの。次に出てきたのは、一月前に書いた「これからの実験予定」というメモ。6頁にわたりびっしり書かれている。この一月で進んだのは、一行か二行だけだ。その部分を鉛筆で消して、ため息をつく。「これから」がこんなにある。
21時31分に新札幌に着き、地下鉄駅に直行して、南郷13丁目からタクシーを拾い、22時05分、自宅に戻る。一週間ほど留守にしていたような気分だ。
十勝の出張後は、必ずといっていいほど体調を崩す。私にとってはまるで風邪の町。一つには、十勝は寒すぎる。二つ、日程が詰まっていて疲れ気味になる。三つ、病害の現場が全然改善されず、帰路車中で自分の無力をまざまざと感じてしまう。これが重なって、たいがい風邪をひくか、お腹を壊している。今日も風邪の兆候があったので、帰宅後すぐ湯を沸かし、葛根湯を溶かして飲んだ。
ポストに、イルジ・ビェロフラーベク指揮日本フィルの『わが祖国』ライブ版が届いていた。「2006年ベストコンサート」にも推薦されていた名演。改装に入る前のサントリーホールでのライブだが、今日の気分にも合ってすばらしく、十勝の寒さと葛根湯の熱が混ざり合った体に、しみ入る演奏だった。ひさしぶりに、『我が祖国』をしみじみと聴いた。
* ひさしぶりにmaokatさんの声を聴いた。それぞれの悪戦があり苦闘があり、だから「これから」も「この先」も生まれてくる。だが現実に実在するのは「今・此処」だけ。この一点が、しかし途方もなく誰の肩にも重い。
2007 7・20 70
☆ 新居決定 ボストン 雄
昨日の運転免許に引き続き,こちらもかねてからの懸案だったが,新居がようやく決まった.今日,大家が僕を受け入れることに同意したと,不動産屋から連絡があった.
正確には,まだ契約書に僕とボスのサインをし,最初の月と最後の月の分の家賃を小切手で支払う必要があるのだが,ボスは来週月曜までボストンにいないので,契約書を持っていくのは来週となる.
大したことではないはずなのに,ここまで本当に長かった.まだ,今ある家具の処分や,引越し,そしてそれに伴う各種の届出など,あれこれとしなくてはならないことは残っているが,ひとまず9月からの住むところが確保できて,ホッとした.
実験関連では,ボスから言われて作っていた新しい実験装置用に,机の上に置く巨大な鉄板を入手する.マシンショップで手に入ると聞いていたが,どこにあるのかが分からず,そのままにしていた.
今日,色々調べた結果,物理学科のある建物の地下にあることがようやく分かった.地下に降りる階段が分からずに3回も建物の周りをぐるぐると回ってしまった.地下には工作室のような設備があり,学生さんが何人か,装置を自作しているようだった.
僕はマシンショップの担当者に頼み,鉄板を18インチx24インチに切断してもらい,それを持ってラボへ.これで必要なものはほぼ出揃った.これらを,僕の新しいスペースに置いて,いよいよ実験に取り掛かることができる.
色々なことが片付いて,ホッとした一日だった.
日頃,滅多に何も入っていない,ラボでの僕の郵便受けに手紙が入っているのに気づく.大学からで,先日のドイツ出張の際のホテル代などの諸経費を自分で立て替えておいた分が,小切手になって還ってきた.さっそくHarvard SquareのBank of Americaに行き,自分の口座に入れる.
早めにラボを切り上げて帰途に着く.Harvard Squareの近辺に,信じられないほどの長蛇の列が出来ていた.先頭付近を辿ってみると,映画館に繋がっているようだ.どうやら,「ハリー・ポッター」の最新作が公開されるらしい.
ひねくれ者の僕は,未だに「ハリー・ポッター」は,どの作品も観た事がないので,これが映画の最新作なのか,本の最新作なのかさえ,まだ良く分からないのだが,行列を作っている人達の中には,魔法使いのような帽子を被ったり,マントを羽織っている人の姿も見受けられた.
☆ Summer Shack ハーバード 雄
昼近くにラボへ.途中,Pho PasteurでいつものDac Biet.
昨日から培養していた大腸菌を,遠心して沈殿させ,フリーザーへ.ラボの遠心機の調子が悪く,1階上の他所のラボのを借りに行った.今まで使ったことのあるタイプと違っていて,戸惑う.
1階上のラボの研究室主宰者は,まだ若い女性.いつも綺麗にオーガナイズされた研究室だなあと感心していたのだが,遠心機の前に貼ってある紙を見て絶句.
「遠心し終わったら,必ず蓋を閉めること.さもなくば,I will flog you」.Flog=激しく(むちで)打つ.
うーん,恐ろしい.
‘flog’で,以前所属していたラボの(若干天然ボケな)秘書さんとの会話を思い出した.
秘書「カエルは英語でケロッグですよね?」
僕「ケロッグは朝食です.カエルはフロッグです」
秘書「フロッグは...旗じゃないですか?」
僕「それはフラッグ」
まあ,こういうことをflogから思い出す時点で,僕も秘書さんのことを笑えないのだけど.
さて,夕方になってラボを後にし,Porter駅に向かい,Tで終点のAlewifeに向かう.
今日は,大学院の修士課程時代の同級生がウッズホールの臨海実験所での3週間の実験を終え,ボストンを経由して帰国するということで,同じ研究室に在籍していたことのあるボストン在住の方(とその奥様)とで,食事をすることになっていた.
指定されたのは,Alewifeの駅近くにあるシーフードレストランSummer Shack.カジュアルな雰囲気だが,ボストンの老舗Legal Seafoofと比べても,ひけをとらないと聞いていて,少なからず期待する.
お味の方は,やはりLegal Seafoodの方が上品か.ロブスターは,今回は茹でたものを食べたが,やはりbakeした方が美味しい気がする.雰囲気がカジュアルなせいか,あるいは駐車場が完備されているせいか,大勢の客で賑わっていた.料理も,リーガルシーフードに比べると,いかにもアメリカンカジュアルなメニューが多かった.値段は,それほどカジュアルという程でもなかったが...
修士時代のラボの昔話や,アメリカでの話(英語その他)などで,あっという間に時間が過ぎた.食事を終えて,僕以外の皆さんは,御宅の方に向かわれ,飲みなおしとなったが,僕はここでお別れし,TでHarvard Squareまで出て,そこからバスで帰宅.
2007 7・22 70
* 「mixi」でいつしかにマイミクになっている人でも、その「実」のお人も名も知らぬ例が多い。それゆえの興深い奇遇もある。あれれと思って日記を読み、その人が、すぐ手近に愛読している雑誌「江戸文学」の或る論文中で論考を引用されているご当人だと「露見」したりする。はからずもご本名まで知れて、ほうほうと思わず声が出る。昨日はおかげで石川雅望の『飛騨匠物語』など思いだしていた。いやいやこんな堅苦しい名前でなく、「宿屋飯盛」という狂歌人として思いだしていた。このマイミクさん、いま秋成を手がけられているとか、またまた懐かしく往時に帰る。
* 「江戸文学」36の『誤読』特集のなかで、天野聡一論文は個人的な関心があり、読んでいました。
関心は『飛騨匠物語』の竹芝寺縁起の箇所にありました。
わたしは高校生のときに『竹芝寺縁起』という小説を書き、のちに徒然草に取材した『慈子(=あつこ・斎王譜)』(筑摩刊)という処女長編にとりこんでいました。
そもそも「竹芝寺跡」を諸本が、伊皿子坂の済海寺に擬していたのを、わたしは強く疑いました。「ミセス」に連載した『蘇我殿幻想』(筑摩刊)のなかで反論しました。骨子は、小学館版の「日本の古典」更級日記の『月報』に書き、その後の小学館版「日本古典文学全集」では、たしか脚注に私の説を取り上げています。
わたしは雅望の{古本「更級日記」}を、『飛騨匠物語』を読んだ初めから、造作ないし創作と読んでいましたし、全く方角違いに、わたしの関心は、竹芝の説話を、『将門記』や武蔵竹柴や桓武時代の史実等から溯って、大化の改新以降の蘇我氏政変までを読み込むことにありました。
思いがけずあなたの日記から(具体的なことは、なぜだか、何も書かれていませんでしたから、甚だ分かりにくい述懐でしたが)すぐ手近に置いていた「江戸文学」に手が届いて、大昔のことを思い出すよすがとなりました。感謝します。
雅望の『雅言集覧』や『源注余滴』は大作でなかなかのものですが、宿屋飯盛としての風貌を、最上徳内を書いた長編『北の時代』(筑摩刊)に、ちらと書き加えたこともありました。
あなたの原論文を読んでみたくなりました。わたしはなまじの小説より学者の論文をもらって読むのが好きなんです。ぺりかん社のいつも贈ってくれる「江戸文学」は愛読書です。高田衛さんや長島弘明さんは、久しい友、「湖の本」の強ーい味方。江戸女流文学研究で大きな存在になった門玲子さんも親しい仲間です。
亡くなった森銑三先生も、亡くなるまで、たくさん教えて下さった。著書も沢山戴きました。
江戸時代は好きでないのですが、江戸文学者の仕事には親しんできました。白石と徳内と蕪村とは小説にしましたが、秋成の宿題はまだ果たせないで居ます。呵々
またしても余計な弁口を弄しました。多謝。 湖
私の育ちました京都東山の新門前通りを東へ突き当たりますと、袋町(古地図表記では袋丁)があり、秋成は妻と二人で京都に移住のいきなりに此処へ寓居を得ていました。いまその辺に、頼さんの家があります。
なぜ、彼はためらいなく此処へ来たのか、来れたのか。村瀬栲亭や親戚の画家、後の景文や、いろいろ秋成と縁のある人たちも袋町にいたからでしょうが、この界隈を私たち地元の者は「コッポリ」とも呼び慣れていました。これとも必ずや有縁であろうと推量して、書いたことがあります。
酒をのまなかった彼に、「生涯在酒」の印のあるのを懐かしくいつも思い出します。金剛山の麓まで秋成を尋ね歩いた昔を懐かしく思い出します。
いいお仕事を仕上げられますように。 湖
2007 7・27 70
☆ 一年萬感を見て 優
写真の中の少女がごく自然な優しい表情でこちらを見ています。
一年前の今日、彼女はみんなを置いて先に逝ってしまいました。
彼女の病気は私にとってもかなりの衝撃でした。
知り合いでもなく、マイミクでもなく、彼女のお祖父さんのフィルターを通してしか知らないのに。。
mixiの日記を読んでいきいき、文章に、今どきの女子大生を想像していました。
何年か前に一度、彼女の名前で検索してみたことがあります。中学生のときに英語のスピーチコンテストで表彰されてた記憶があります。今もどこかにログ残ってるかな?
七月に入ってから時折、去年感じた気持ちを思い出すことが多くなったので、言葉に、文章に、とも思ったけれど思うだけでキーボードの上で手が止まってしまう。
それでも、つたなくても今日は書いてみようと初めての日記を書きました。
* ありがとう。ほんとうに、「優」さん、ありがとう。あなたの日記が読めたのはほんとうに初めてですね。やす香が喜んでいます。
2007 7・27 70
☆ 日記というよりメモ 巌 南山城
関西で夏の花火といえば 来週八月一日のPLの花火。
開催地の大阪府富田林市には「毛人谷」という旧地名がある。地名は簡単にはいかないというか読めない。これは「えびだに」と読む。
このあたり葡萄の産地なので 昔も葡萄が良く採れて エビと言ったのか。河内の蘇我との関わりなのか。
日本の伝統色の色見本の”葡萄色”はエビイロ と読む。(紫の上は、葡萄染にやあらむ、色濃き小袿・・・は、エビゾメと振られている。)
大きなエビは海老で 小さなエビは蝦と書く。
毛人で蝦 とくれば 蝦夷 これを カイ。アイヌとよばれた人は 自分たちの事をカイ カイノーといったとし それをとって北加伊道とした人が 松阪の松浦武四郎 明治政府はそれを受けて 北海道としたらしい。(その北海道では近頃はぶどう色をしたエビで ぶどうえび を、幻の海老と宣伝している。)
松阪のある三重県はこの辺りのおとなりの県。
カイ カイノーは時と場所が変れば甲斐や戒能とも表したのだろうか
『北の時代=最上徳内』を読む傍ら PLの花火の日程を調べていたらの考え事 メモ。
* 従弟のメモ。秦檍丸という、俊足の民間学者の持説の一つに、蝦夷は「かい」と読むのが本来だというのを読んで、面白かった。頷けた。それで『北の時代』の書き出しの辺につかった。主人公の最上徳内とも縁の濃かった人物だ。
富田林のPL学院が主催の大花火に招かれたことがある。その頃「藝術生活」という雑誌をPLは出していて、何年も連載していた。それで招いてくれたのだが、たまたま夏休みを京都で過ごしていたので、富田林まで行くことが出来た。わたしは娘・夕日子の手を引き二人で遠路を出かけた。
盛大を極めた花火で、あんまり音が大きくておなかに響くと娘がいっしょうけんめいお腹を両手で庇っていたのを思い出す。
「巌」くん、嬉しいことを思い出させて下さった。花火の話題、それとなしにわたしの胸の内にふれてくれたものと、感謝します。明日の晩、去年とはまたちがった思いで、浅草へ花火を見に出かけようとしています。
* やす香にふれて、それとなく今日一日を見送ってくださった大勢に、お礼を申したい。一周忌、いま、日付が動いて無事に過ぎていった。
一年萬感。寂しい日であった。「mixi」から、もう、やす香の写真ははずします。
2007 7・27 70
☆ 京は元気です。 バルセロナ
この絵(「mixi」に使用)、夫の同僚が(夫のパートナーが日本人と知って)ささっと描いて渡してくれたものだそうで、描き手がラジオの美術番組を担当していること以外、実は何も知りません。正面を向いた耳、こけた頬、尖った顎・・・私に似ていませんか。一筆描きのシンプルなところが気に入っています。
七月、恒平さんが西東京なら、私はインスブルック(オーストリア)からパッサウ(ドイツ)まで、自転車で走ってきました。
走りながら、ドイツ留学のこと、想い出していました。当時、ちょうど10年前です、恒平さんに(一年間)何を書いたのか、私はまるで覚えていません。ミュンヘンにいながら心はバルセロナにある疚しさから、恐らく上滑りのことしか書けなかったのでは、と。
一度だけ、悔しくて涙をこぼしながら寮に帰った日、恒平さんにお便りしたことを覚えていますが、手紙で具体的に触れる勇気があったかどうか。見栄張っていたんですね、きっと。楽しいとは言い難い留学生活を悟られたくなくて。楽しいだけがベストではないのに。
「雄」君の日記を読みながら、具体的に書かれてあることがどれほど貴重か、ミュンヘンで自分はその機会を逸したんだと思います。(これからでもいいから書けばよい、というお声が聞こえてきそうですが。)
恒平さんと「雄」君と、三人でまた食べに行きたいなあ。 京
* 一目見て、面白い絵なのである。ただものではないなと感じ、「解説」を請求した。こうは描けるものでない。三人で、旧目黒駅の地下のドサクサした店のカウンターに並んで天麩羅を食った。ああも食通の「雄」には物足りなかったであろうなあ。「京」が「恒平さん」と口にしたり書いたりするとふしぎに新鮮な名前に聞こえるから妙だ。
☆ 羅臼 昴
「mixi」166日目 今日は、海が泣きたくなるぐらいきれい。
緑の大地も、霞んでいる空も、ゆったりとした時間の中に浮かんでいるようでした。
* 病気に悩んでいる羅臼の昴。「海」への感想が縁ではるばると結ばれた若い読者、マイミク。元気になって下さいよ、早く。生徒たちも先生の復帰を待っているでしょう、きっと。
☆ boring ハーバード 雄
今日から大学院生のシュシェンが,母国台湾に帰った.戻ってくるのは3週間後とのこと.うらやましい...
同室の大学院生ライアンが,ポスドクのグレッグと,なにやら盛り上がっている.なんだろうと思うと,「シュシェンのやつ,ブログを書いてるんだよ」とライアン.タイトルは中国語だが,本文は英語で書かれているので皆も読める.
そこに隣のラボの大学院生のケイトが通りがかった.ライアンはケイトを呼び止め,シュシェンのブログを見せる.「この間僕らと一緒にやった,スカッシュの試合のことも書いてあるよ」とライアン.
しばし立ち止まって読んでいたケイトが一言.”boring”
横で作業をしていた僕も,つい思わず,声を上げて笑ってしまった.
僕もちらっと読んでみたが,登場人物は自分だけ.主語は全てIで,誰と対戦して,どんなことがあったかは全く書かれていない.プライバシーに配慮してかもしれないが,自分が何点負けていて,その後盛り返して何対何になった,など,そんなことしか書いていない.どんな試合だったのか全く分からない.
それにしても,「つまらない」とは,身も蓋も無い.
僕も毎日mixiに日記を書いているので言い訳じみているが,面白いネタなど,そうそう毎日転がっているはずがない.
こういうと真面目な研究者の方からは,お叱りを受けるかもしれないが,藝人と研究者は,ある意味似ている部分があると僕は思っている.
「つまらない」と言われると,全人格を否定されたような気持ちになる(もっとも,研究者の中には強者もいて,ゴーイングマイウェーを貫く人もいるが,昨今では研究費の獲得に苦労することも事実である).
もっとも,何が面白いのかというのはセンスの問題であり,必ずしも全ての人が理解しうるものではない.好き嫌いの問題も少なからずある.オリジナリティが要求されるところも似ている.そして,ヒットを出し続けないと,忘れられてしまうところも似ている.
藝人も研究者も,「ウリ」になるものが必要だ.この人はこれをやった人だ,というものがないと,認知してもらえない.かといって,同じネタばかり話していては,「またあの話か」と飽きられてしまう.
先日,おぎやはぎのラジオ番組のPodcastで,お笑い藝人になって1年目の,とある藝人が,おぎやはぎ宛に送ってきたメールを紹介していた.
そのお笑い藝人のメールは,以下のような内容だった.
「ライブなどでネタを披露するが,一向に受けない.そのうちに相方を責めてみたり,客のせいにしたり,挙句の果てに,自分の前の藝人が爆笑を取ったせいで,自分の分の笑いが減ってしまった,などと,妙なことまで考えたりする.おぎやはぎは,駆け出しの頃,どうやってモチベーションを維持し続けたのか,教えて欲しい.ネタを磨く以外に,何かやったことがあれば,それも教えて欲しい」
これに対する,おぎやはぎの回答が,なかなか興味深かった.
○相方を責めることについて
これは芸人の誰もがやること.当たり前.
○客のせいにすることについて
これも真実.(おぎやはぎは,「昭和のいるこいる」が同じことを言っていたので,あれだけキャリアのある人が言うのだから間違いない,と説明)。
○自分の前の藝人が爆笑を取ったせいで,自分の取り分が減ったことについて
これも真実.人間(=客)は,そうそう笑い続けることはできない.前の藝人が爆笑をとってしまえば,客は休みたいから,面白いネタをしても,そうウケない.だからこそ,トリは「この人の後に出てきても,もうこれ以上の笑いを取ることはできませんよ」という意味で,最も実力のある人が務めるのだ,と.
○どうやってモチベーションを維持し続けたのかについて
ゴルフ.おかげで,仕事が無くても,まったく退屈しなかった(むしろゴルフができて嬉しかった).お笑いのことだけしか考えないというのは,かえって良くない.
○ネタを磨く以外にした努力は?
これも,ゴルフ.ネタは散々だったのに,その後,プロデューサー達とゴルフの話で盛り上がり,番組出演を果たしたこともある.
おぎやはぎを僕が好きか嫌いかは置いておいて,なかなか含蓄のある言葉だと感じられた.
研究も,そうそう毎回ホームランを打つことは出来ない.そう面白い題材が転がっているわけではない.大事なことは,そうしたチャンスが回ってきた時に,それをモノにすることができるか,ということと,チャンスを待つ間,どのようにヒットを打ち続けるか,ということだと思う.
そして,僕が考える,もう一つの大事な要素は「長く続けること」.
最初の話題に戻るが,最近,日本ではルー大柴が再ブレイクしているのだとか.きっかけは,今年になって始めたブログだという.僕も読んでいるが,無意味な英語がちりばめられ,53歳という年齢にはふさわしくないほど,絵文字が多用されている.はっきり言って読みにくいが,オリジナリティーに溢れていて,面白い.
ルー大柴といえば,昔はアデランスのCMで「トゥギャザーしようぜ」などとやったり,一時期,話題になっていたが,あまりにも藝風がクドイということで,ここ最近まで,テレビでは滅多に見かけなくなっていた(その間も,僕は関根勤の主宰するカンコンキンシアターで毎年見ていたが).
今のルー大柴の人気を支える人々は,若い世代がメインで,アデランスのCMを見たことが無い人も多いらしい.彼らにとって,ルー大柴に初めて接したのがブログであり,そこで使われている無意味な英語と絵文字が人気を呼んだとのこと.
本人も,まさかブログがきっかけで再ブレイクするなどとは,思ってもみなかったに違いない.人生,どんなところにチャンスが潜んでいるのか,分からないものだ.長く続けていたからこそ,ひょんなことから再ブレイクできたのだ.
ルー大柴は,最近,Tokyo FMのPodcastで「試験に出る英熟語」なる番組をやっている.僕も早速ダウンロードして,実験をしながら聞いてみた.関根勤や小堺一機が一緒に出演している番組ならば,すかさず「くどい」とか「うるさい」と突っ込みが入るところを,Podcastのアシスタントが一つも突っ込まないため,聞きながら思わず自分で突っ込んでしまった.
* こんなふうに「雄」に、つまりドロをはかせているんやなあと、わたしは少しニタニタしている。理系とか文系とかいうが、一概な先入観ではわからない。「食う」だけでなく「雄」クン、なかなかマメで面白い。
2007 7・27 70
☆ 私語の刻を読んで ボストン 雄
昨日の日記,秦先生にはどう映るだろうなあと思いながら,書きました.
先ほど「私語の刻」を拝見したら,その日記が転載されていて,「ドロを吐かせている」と書かれていて,ちょっと笑ってしまいました.
そうです.理系も文系も,一人の人間であることに違いはありません.典型的な理系や典型的な文系という人もいることでしょうが,そうでない人がほとんどではないでしょうか?
僕自身,大学進学の際には,文系に進むか理系に進むか,ずいぶんと悩みました.浪人時代ですら,真剣に文転を考えたほどです.
mixiの日記を先生のホームページに転載していただき,それらを読まれた方の感想に,「いかにも理系の人が書いた文章」との評価があったのは,少なからず驚きでした.
自分でも気づかないうちに,理系的な思考に染まっていったのかもしれないですし,読まれた方の先入観も,少なからずあるのかもしれません.
そのように思わせる原因のひとつは,僕が「句読点」ではなく,「コンマとピリオド」を使っている点ではないか,と思っています.
以前,メールや横書きの公文書の場合は,コンマとピリオドを使うのが正しいと,何かの文章で読んだことがあり,実際,僕が購読していた専門雑誌でもそのようにしていたので,以来,この習慣を続けています.
何度かお話に出てきている「京」さんとの食事ですが,あれは,目黒駅の地下ではなく,池袋パルコの船橋屋であったと記憶しています.たしか,ホテルメトロポリタンのロビーで待ち合わせ,3人でパルコに向かいました.先生は茄子が苦手とのことで,茄子のてんぷらはしっかりと僕が頂きました.
目黒駅の地下へ行ったのは,僕と先生が目蒲線でばったりお会いした際に,二人で寿司を食べたのだと思います.先生にとっては雑然とした,なんということはない店だったのかもしれないですが,大学生の僕にとっては,考えられないような贅沢だと思いました.てんぷらも,外で食べたことがほとんどありませんので,贅沢としか言いようがありません.
「ああも食通」と書かれていたのは,少々意外でした.確かに食べることは大好きですが,まさか食通の先生から,そんな風に思われていたとは.
先生の「私語の刻」を読む楽しみの一つは,「うまいもの」の話に接することができることです.僕が一昨日「寿司ネタの鰻が敷き詰められたうな重」をかきこんでいた頃,先生は「きく川」の鰻を召し上がっていたとのこと.羨ましいというか,恨めしく拝読しました.
「きく川」の鰻も,先生のホームページで知り,どうしても食べてみたくなり,愛知にいた頃に,東京へ帰ってきて2,3度,足を運んだことがあります.
もちろん,僕にとっては決して安いものではなく,かなりの覚悟をきめて店に入りました.「キャベジン」もしっかりと注文しました.僕の場合,懐事情もあって,「B級グルメ」に走らざるをえないのが,残念です.
結局,また食べ物の話になってしまいました.
これから東京は益々暑くなることと思いますが,どうぞ御身体を大切にお過ごしください. 雄
* そうかそうか。目黒の地下が印象に残っていた。白金台の医科研に縁のあった君なので、目黒はまさしく東工大との中間点だったし。池袋もまた君には実家から便利なところで。むしろ「京」が、千葉から遠くまで脚を運んでいた。「京」とは池袋でもう一度二度会ったか。一度は一輪の薔薇の花を手にしてきたのを忘れない。
なにしろ一視同仁のわたしは、男女とも、学生たちとは学内学外でどれほど歓談し飲食しているか、とても数え切れない。記憶に混同も生じかねないが、存外間違えずに覚えている。給料はみな学生たちと使っていいと思っていた。食べ物でも観るものでも、きちんとしたものがいいと考えていた、彼や彼女たちが一人ではたぶん行かないだろう、食べないだろうと想うものへ誘っていた。なにかにつけて固定化してしまう学生風スケールの目盛りを動かし揺さぶっておくことが大事と思っていた。いずれみな社会の中堅をつとめる人たちだと思っていた。
* 「雄」が今朝メールをくれたのは、少し予測していた。というのは、昨日の彼の「mixi」日記を、夜分の時間もせまっていたために「理系・文系」程度の話題でとめておいたのだが、彼の意図はもう少しちがっていたはずだ。「仕事」の評価ということにむしろ重きを置いてわたしの感想を誘っていたのだろうと、今でも思う。答えるにはたしかに重い話題で、わたしはもう少なからず疲れていたので触れなかった。
「雄」君の問題提起は、下記に集約されているだろう。
☆ 「こういうと真面目な研究者の方からは,お叱りを受けるかもしれないが,藝人と研究者は,ある意味似ている部分があると僕は思っている.」
「『つまらない』と言われると,全人格を否定されたような気持ちになる(もっとも,研究者の中には強者もいて,ゴーイングマイウェーを貫く人もいるが,昨今では研究費の獲得に苦労することも事実である).
もっとも,何が面白いのかというのはセンスの問題であり,必ずしも全ての人が理解しうるものではない.好き嫌いの問題も少なからずある.オリジナリティが要求されるところも似ている.そして,ヒットを出し続けないと,忘れられてしまうところも似ている.
藝人も研究者も,『ウリ』になるものが必要だ.この人はこれをやった人だ,というものがないと,認知してもらえない.かといって,同じネタばかり話していては,『またあの話か』と飽きられてしまう.」
* 彼の昨日の日記には、下に藝能人の言説に触れた多くがあり、それで「藝人と研究者」の対比があるともいえるが、彼が自身を「研究者」とみているのは当然で有りつつ「真面目な研究者の方」をも意識しているように、「藝人」とはいいつつ例えば「藝術家」も念頭に置いているのは明らかだろうし、置いて当たり前なのである。
彼の言うていることは間違いなく創作者たちにも関わってくる。「秦さん」もこの話題で部外者ではありえないのである。そう自覚してしまうと、彼の提起は批評辛辣ということになる。私にして忸怩たるものの無いわけがない。おいおいおい、言うてくれるなあと。それでニゲて触れなかったのではない、そもそも私のことというより、彼の真面目な研究者たる意識がしばし立ち止まって自問自答の姿勢に入ろうとしているわけだから、それを見過ごさずに見守ろうという気持ちになったのである。
東工大でわたしに膨大な量のアイサツを書いていた学生諸君が、あれから十年余をへて自分自身にもアイサツをしているのである、そういう心境の人たちがさぞや数多かろうと想う。
こういう反応を、彼は暗に、無意識にでも期待していただろうか、と想ったのである。
* 「mixi」に、やす香の大学での友達かと思われる人が足跡を置いていた。大学でのやす香のことも知りたい。
2007 7・28 70
☆ 千の重み 瑛 e-OLD川崎
湖様 お早うございます。
「mixi」をご紹介いただき半年ほど経過いたしましたが、奇しき哉、僕の日記への「足跡」が湖さんで1000回目となりました。一千回目はどなたの足跡かと数日前から数字占いの気分に浸っておりましたが、月面に記す痕跡の重みを感じ、感謝と満足感を味わっています。「一年」の光陰のはやいことを感じると同時に、明治・大正・昭和の作家の魅力のご紹介を拝聴しております。
やっと関東も夏らしい天気になりましたが、お体を留意されて今年の夏を過ごされますように。「笠」さんも元気になりますように。 .
* 「mixi」にお誘いしてよかったと思うお一人で、生き生きとした日記を読ませて下さる。「笠」さん「瑛」さん「香」さんと四人で東京會舘で食事してから、もう何年になるだろう。
わたしのところへの「mixi」の「足跡」は、十七ヶ月で15500ほどになっている。日記を書かなくなっても、マイミクさんたちの「足跡」だけでなく、少しずつ覚えのない人の訪れがある。
2007 7・29 70
☆ 好きなこと、得意なこと ハーバード 雄
日本のテレビを見ていたら,マイミク「重太郎」さんからskypeが入った.しばらく話していたが,その中で言われたのが「Ciona君というと,いつも思い出すのが,学生実験の時の或る実験が一人だけできなくて,みんなが笑っていたこと.いまだに思い出すと可笑しくなる」と.なんとも不名誉な話だ.
散々実験の話を日記に書いているが,元々僕は実験がそれほど好きな訳ではない.不器用だし,要領も悪い.新しい技術もなかなか習得できない.実験しないで色々なことが分かるのなら,はなから実験などしないのだが,本当に自分の知りたいことは本に書かれていることではないから,仕方なく苦手な実験をしている.それでも修士課程1年生の頃は,絶望のあまり,研究者になるのを諦めて,どこか一般企業に文系就職しようかと真剣に考え,資料請求の葉書を出したりもした.
結局,「別に企業に就職したからといって,それが得意なことかどうかも分からないのだから,それなら好きなことをもう少し追求してみたほうがいいのではないか.どうせなら,自分で納得のいく研究室に博士課程から入りなおして,そこでダメだったら,その時に本当に諦めればよいや」と考えて,博士課程から他の研究室に進んだ.
好きなことを職業にしようと思った時点で,多くの廻り道をすることになることは覚悟していた.好きなことと得意なことが完全に一致している人は幸せだろうなと思う.そういう人達と同じ土俵で戦うのは大変だし,この先,本当に研究者としてやっていけるのかは,まだなんとも分からない.
ただ,博士号を取得し,研究でお給料をもらい,今まで食べることに不自由はしていない.その間,こうして留学するという経験もできたし,国内外の著名な研究者たちと親しくしたりもできた.そのおかげでシンポジウムや学会などで,色々な国に行くこともできた.修士の時点で文系就職していたら,こういう体験はできなかったわけで,それだけでも自分にとっては良かったと思っている.まだまだ先が長いので,一体どこまでいけるのかは分からないが,なんとか騙し騙しでも,定年まで研究に携わっていけたらいいなあと思っている.
いまだに,決して実験は得意ではないし,もともと体力のあるほうではないので,長時間実験しているのはシンドイ.しかし,機械と違って,自分の代わりはいないわけなので,取り替える訳にもいかない.不満を抱えつつも,欠点を理解しながら,なんとか使っていくしかない.
ひとつ自慢してよいのは,自分が実験が下手で,色々な失敗を繰り返してきたので,初心者がどういうところで躓きやすいのかは熟知しているし,少しでも実験を簡単にするには,どうしたらよいのかも分かっている.それなりに工夫を重ねることで,自分の欠点をカバーできるようになってきたと思う.
国立遺伝学研究所の前所長の堀田凱樹先生が,以前,面白いことを言っていた.今,手許に本が無いので,記述は正確ではないが,大体の内容は以下の通り.ちなみに堀田先生とは一度学会でお会いしたことがある.僕の高校の大先輩でもある.こちらの堀田先生のインタビュー記事も面白い(http: //www.brh.co.jp/s_library/j_site/scientistweb/no42/index.html).
「研究者というと,好きなことを職業にしているので,自分の得意分野で勝負しているように思われます.しかし,或る人は実験は好きだけれども論文を書くのは得意でなかったり,またある人は語学は達者だけれども実験は苦手だったりします.またある人は実験も上手だし,論文を書くのも上手だけれども,女性関係で足元をすくわれたりする.つまり,研究者は一見,自分の得意分野で勝負しているように見えつつ,最終的にはその人の不得意なところがネックになるのであり,その不得意な部分をいかにカバーするかで勝負しているのです」
研究者に限らず,どんな職業にも当てはまることかもしれない.
2007 7・29 70
☆ 選挙 ボストン 雄
今朝8時ごろから日本のテレビを見ていたが,やはり自民党の大敗は確実なようだ.中川幹事長と青木参院会長は辞任,片山参院幹事長にいたっては落選ということになっているが,肝心の安倍首相は早々と続投を表明しているという.どこまで図々しいのだろう.
このまま,解散・総選挙ということになるのだろうか.
帰宅し,日本のテレビをロケーションフリーで見たが,やはり自民党は大敗.40議席を下回り,与党だけでは過半数は取れないようだ。強行採決や閣僚の不祥事ばかりが目立ったここ最近の日本の政治。これを機に少しでも状況が変わってくれると良いのだが.
2007 7・30 70
☆ はじめまして、「琳」ともうします。
松岡正剛コミュ→油屋源兵衛さんの書き込み→湖さんという経緯で遊びに伺いました。足跡を返してくださったので自己紹介をさせていただきに参りました。
ある秋の午後、高校の図書館で「先輩の作品よ」といってすすめてもらった「慈子」を手にしたのが、秦恒平という作家との初めての出会いでした。
本を読み出すと読みきらないときがすまず、その日も授業をサボって、美術コースのある校舎の裏にある見晴らしのいい、お決まりの小高い丘に腰を下ろし、ゆっくりとじっくりと、
ああ京都に生まれてこれてよかったわぁ、
そんなことを感じながら読み終えた記憶があります。そのときの枯れ草の焼いた香りまで、はっきりとおもいだせます、不思議ですね。
理系人間だったのに、なぜか源氏物語の世界にハマって自分が住んでいる町が、ついこの間、源氏の舞台に登場する人たちが賑やかに住んでいたんだと思うと、ぞくぞくしてきて
「あ、このあたりが夕顔の館やったんかな」と散歩するだけでたのしい私なのでした。
その後、日本語のルーツ、中国語をおさめようと大阪外国語大学に進学し、教育実習で日吉が丘に帰ってみれば,制服ができていてびっくり!
自由が丘といっていた私たちの高校が、まるで召集令状を待つ学徒のように思えて、、、(大げさですみません)
とにかく、、、わたしは秦さんのことをとても誇りに思っておりました。こんな綺麗な文を編み出せる先輩と同じキャンパスで過ごせたのですから。
これからは、時々遊びにいかせて頂きます。
どうかよろしくお願いします。
(クラブはギターマンドリンオーケストラで、マンドリン三昧の3年間でした。)
* 何年ほどの後輩さんであるのだろうか、「慈子」の産んでいた孫か娘ぐらいかなあ。うれしい。こういう出逢いがあるか。仲良くしたい。
2007 7・30 70
☆ ありがとうございます。湖様 琳
わたしのほうこそ、早々にお返事いただけて恐縮いたします。ホームページへは、どんどん遊びに伺わせていただきます。
うみ、ですか。
私の名前も「潮の香りのする子」という意味で 海にあこがれた京都人の祖父がつけてくれたと聞きます。
こんなふうにお便り差し上げられるとは、たのしみができました。じつは作品の中のことで いろいろ想像していたことがあったのです。不躾ですが
これからは、お聞きしに伺います。とはいえ、まだ人生経験が浅く、伺っても理解できるというものではないね、といわれるかもしれませんが、、。
いづれよろしかったらお話を伺いに参りたいし、出来の悪い後輩だけど末永く(細くても!)関わってあげようと思ってくださったら、いっぱいいっぱい甘えに参りますので、ときに遠慮なくメールにお便りさせていただいてもよろしいでしょうか?
実在の先輩だった、と驚いているものですから、、。
ps
本来ならば、秦先生、とお呼びすべきところ、長年「想像の中の先輩」で居てくださったので とってつけたように、そうお呼びできない私が居ります。
呼び名は自然に変わるかもしれませんが、湖(うみ)さん、と今は呼ばせていただけたら幸いです。
高校にある湖さんの作品には、私の名前が記名されているはずです。
(わたしのことは、なんとでも およびください。)
メッセージ、本当にありがとうございます。
明日は一日中忙しい日ですけど、がんばれそう!!
2007 7・31 70
* 安倍政権に怒りのノーを突きつけて、心友であった小田実さんに昨日死なれ、亡き九兵衛さんの魂の籠もった一周忌の美しい湯呑みを今朝頂戴し、心ゆく一日を街で過ごして帰宅、嬉しいお便りを目にした。
そして、もう一つ。転記させて下さい。
☆ スウェーデンの巨匠、イングマール・ベルイマン監督、死去 麗
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=264523&media_id=14
初めて好きになった人は忘れられない。遠い日の思い出でも,こうして昨日のことのように,語ることが出来る。
当時私は小学生。ふと目に留まったTVの洋画劇場の「予告編」が,1週間頭から離れなかった。題名は『沈黙』。翌週,教育上悪いと言う母親と大喧嘩の末,ラストシーンのみを見ることが出来た。列車の故障で,言葉のわからない外国に足止めを喰った,姉妹の話。妹の息子も一緒だ。
若く水気の多い(瑞々しいではない)母親と少年が,車窓に向かい合って座る。病気で外国に居残ることになった少年の伯母であり母親の姉である女性からの手紙を少年が読む。
「この国のことばをひとつ,あなたに教えます。―ハジュク(精神)―。」
後に全編を見た。ことばの通じない外国という閉塞状況の中で,病弱でストイックな姉と奔放な妹との反目が,どんどん煮詰まっていく息苦しさ。欲望は,耐えて抑圧することで様々なものに昇華する,ただし,悲しみや苦しみを伴うけれど。逆に,欲望を解き放っても,生み出すものや得るものは何もない,などと感じたのを覚えている。
ベルイマン映画との出会いだった。初めて好きになった監督だった。
それからなぜか,この監督の映画を,しかも白黒の隠々滅々としたものばかりを選んで観る日が続いた。神保町の岩波ホールには,若い頃,手弁当で通ったものだ。『冬の光』『恥』『ペルソナ』…。ベルイマンの故郷,北欧には,白夜のような明るい夏と,太陽が出ない暗い冬がある。そして,ベルイマンは,この「夏」と「冬」のような,対照的な映画が作れる稀有な監督だった。『ファニーとアレクサンデル』やオペラ映画『魔笛』が夏の白夜なら,私が好んだ方は,さしずめ北欧の冬だろう。もちろん夏のほうも,いい映画だと思ったが。
もう,そのどちらも観ることは出来ない。
遺作となった『サラバンド』は未見だが,夏と冬,どちらの部類なのだろう。追悼の意も込めて,早く見る機会を持ちたいものである。
* 白皚々の雪原から、高貴で柔美な魂が青草のほつほつと見える映画ではなかったろうか、戦慄にも似た旋律の啓示に、息を呑むことの多い映画世界であった。わたしはそう感じた。訃報は一つのまたも啓示のごとく届いた。
* かくて、七月尽。
2007 7・31 70
☆ 葉月 露も明け 碧
湖さん ようやく関東も梅雨明けだそうですね。これからのひと月、どれほど暑いことでしょう、ご用心なさってください。
昨日『閑吟集』届きました。NHKブックスで開くよりずっと開け易く、「ながく便利に愛読・愛蔵」と仰る通りになりそうです。ありがとうございます。通信欄にも書いたことですが(下関まで一度)「逢いに行きたい」とお書きくださったこと、嬉しく勿体なく、けれどもそれに相応しくない自身で、恥かしくなります。
七月は御本の中から主にエッセイを、谷崎・中世・美術など読んでいました。買ったままにしていた(ごめんなさい!)『顔と首』や『美の回廊』なども取り出して。一度読み出すと次々関連して読み返したくなります。まさに阿片・・・。
今月は『親指のマリア』『墨牡丹』など読み返すつもりです。
並行して古典も、と想いながらこちらはなかなか進みません。そこで思い切って『太平記』を毎日一巻(=句)ずつ、と決めました。『谷崎源氏』は「若菜」の途中です。
マキリップの三部作、翻訳のハヤカワ文庫は現在、第一部しか発売していません。でも読み進むうち続きがどうしても読みたくなって(地元図書館にもなかったのです)、ネット古書店で探して手に入れました。第三部は品薄、みつけるのに時間がかかり値も三倍になっていました。原書も思い切ってアマゾンで注文したら、三部合本の特別版が届きました。
ご命日の前後は、眼の不調と週末の教会行事のために用心してパソコンは開けませんでした。わざと、だったかもしれません。怖い気持ちがありました。
隅田川の花火を「去年のように息くるしく胸くるしいことはない、が、一緒に観る気持ちは同じ」と書いていらっしゃるのを読んで、少しほっとした気持ちになりました。もちろんお寂しいのは、もっと尚のことでいらっしゃるでしょう。それでも一年を無事に(多少の難儀はあっても)お過ごしになった、喪の仕事を大切になさったのだと感じました。
先日、「巌」さんからマイミクのお申し出があり、嬉しくお受けしました。色々なことを教えてくださり有難く想っています。
今度の台風はまた厄介な風向きで、クモは益々低く木陰ごとに、巣を張っています。
それではどうぞお大切に、くれぐれもご用心お願いいたします。
迪子さんにも、よい日々でありますように。
* 気の遠くなるほど久しいご縁。下関は二度三度通過したことはあるが、下車していない。いろいろ在るはずの下関だが、先ず思い出すのは「碧」さんの名前と「ふく」で。お顔は存じ上げないが久しい読者は、みなさん親類のように感じている。
マキリップ『イルスの竪琴』を和英本揃えてを手に入れられたのが嬉しい。あまり評判にはならなかったが、ル・グゥインの『ゲド戦記』とも深く呼応する構成力抜群のフィクションで、魅力満点。
『太平記』の一節一節を語り物の平曲なみに「句」と呼ぶかどうかさだかでない。「太平記語り」というように、語られたには違いないが、太平記読みともいう。読み本の性格も濃い。一節がずいぶん長いのもあります。源氏物語の「若菜」上下ほどではないけれども。
「巌」くんとマイミクとのこと、よかった。奥の深い従弟です。
2007 8・1 71
☆ ナサケナイ 玄
参院選における自公大敗を受けて安倍首相(自民党総裁)の記者会見が行われ、その発言の中に「人心を一新する」という言葉があった。この「人心を一新する」という言葉の意味がよく分からない。記者会見の間首相の目が泳いでいて自信のなさがもろに見て取れた。こんな姿が世界中に流れたのだから恥ずかしい限り。有権者の資質が政府の資質に繋がるといわれるのがナサケナイ。
2007 8・1 71
* 花と湖 花は大好きだし、写真に撮るのも好きだけれど、花は「花」でよいと思っていて「名」を覚えようとしたことがない。
此処「mixi」にかかげた花の写真の、一つは、妻と散歩していて撮ったもの、「花にら」と教えてくれた。他の二つは、妻の育てているのを勝手に撮っただけで、名は聞いていない。美しければいい。
『ゲド戦記』風に謂えば、いずれどんな名も通称でしかなく、真の名ではなかろうし、などと思う。わたしの名にしてもおなじこと。だから「湖」で佳い。
この「湖」の、根のイメージは、少年の昔に見入った、お盆に仏壇に供える野菜などを乗せた、蓮の葉。さっと清水をふりまくと珠の露となり、たちまちに溜まって一つの小さな「みづうみ」にかわる。露の一つ一つを大勢の人と想えば、「みづうみ」はわたしの謂う「身内」のイメージ、ひとつの「世界」を意味するか。 湖
2007 8・3 71
☆ 首相の器 ボストン 雄
最近,引越しのことで頭がいっぱいなので,あまり真面目なことを考える余裕がないのだが,たまには真面目なことも書きたい.
安倍総理の辞任問題が,このところ取りざたされている.正直言って,僕もこんな無能な首相には,早く辞めて欲しいと思っている.色々な自民党議員がテレビや何かに出ては釈明しているが,聞き捨てならないものも少なくない.
「安倍総理のやっていたことは悪くなかったのだけれど,それが国民に伝わらなかった」などと言う議員もあれば,「ばんそうこうのせいだ」などというのまである.
はっきり言って,国民を馬鹿にしすぎてはいないだろうか?
国民は,安倍総理のやっていることが悪いと思ったからこそ,ノーを突きつけたのだ.国民は,貴方達議員が思うほど,馬鹿ではない.
憲法改正関連その他,重要法案を,ろくに審議もしないまま,数に物を言わせて強行した.民主主義とはおよそかけ離れた行為だろう.
度重なる強行採決.そのたびに深まる右傾化.年金問題や政治資金の不透明さに,なんら解決策を見出せない無能さ.さらには,4人もの大臣が問題を引き起こすという異常さ.いったい,これらのどこをとって,「安倍総理のやっていたことは悪くなかった」というのか?
「ばんそうこうのせいで負けた」などという議員も数多く見られる.しかし,それは全てを赤城農水相のせいにしてしまおうという魂胆ではないのか?彼を悪者にしてしまって,彼のクビをきることで,矛先を変えようという魂胆が見え見えだ.
今回の選挙は政権選択選挙ではない,という議員もいるが,首相自らが選挙中の応援演説で,「私と小沢さんと,どちらを選ぶのか」と明言している.この愚かな男は,自分の人気がいかに凋落したかさえ,把握できなかったらしい.これだけはっきりと拒否されたにも関わらず,選挙前から続投を決めていたというのは,よほど図々しいのだろう.
しかしながら,かといって,では誰が首相になればよいのだろう?
ニュースでは,麻生太郎だとか福田康夫だとかいう声が聞こえてくる.安倍首相が辞任して,これらのうちのいずれかが首相になったら,果たして日本はハッピーになるのだろうか?
他の人がどう思うか僕は知らないが,少なくとも僕は麻生首相なんて真っ平ごめんだと思っている.安倍晋三にまさるとも劣らない愚か者ではないか.あの失言の数々を聞いて,まだ彼を首相になどという人の気が知れない.かといって,あの煮え切らない福田康夫が首相の器とも思われない.
自民党だけではない.仮に次に国会が解散し,総選挙となって民主党が勝ったとして,一体誰が首相になるのか?小沢?菅?鳩山?前原??
確かに目障りな安倍首相に退いて欲しいとは思うが,ポスト安倍が誰になるのかを考えると,仮に彼が辞職したところで,晴れ晴れとした気分にはなれそうにない.
それにしても,森,小泉,安倍,麻生,福田と,二世,三世議員ばかりが首相候補になるというのは異常ではないのか?暴論なのは百も承知なのだが,いっそ,親族に議員がいる者は国会議員になれないということにしてはどうか?せめて総理大臣にはなれない,とか.
勿論,職業選択の自由の観点からいっても,投票する国会議員の多くが二世,三世であるという点からいっても,こんな無茶な法案が国会を通ることはありえないだろう.しかし,「地盤・看板・カバン」なんていう言葉が選挙に付きまとっている現状を考えると,あながち冗談で言っている訳でもない.
つまるところ,こういう議員たちに取り入って,私欲のために投票する有権者が悪いのだ.国政に携わるべき国会議員に,おらが村の利益ばかりを求め,国家全体としての将来性を無視して投票する有権者が少なからずいる以上,議員ばかりを責めても仕方ないのかもしれない.そういった負のスパイラルを断ち切るためにも,代々のつながりなどというものは絶つべきだろう.
商人は三代目が店を潰すと言われる.三世議員に国を潰されるのは,堪らない.
* 前にも書いた。『最上徳内』を岩波の「世界」に連載していたころ、担当編集者と、いま日本のいちばん重い課題、隘路はなにだろうという話になり、編集者氏は即座に「教育」といい、わたしは「世襲」だと言った。日本人の弱い、良くない方の性質がらみでいちばん國を危うくする慣習は「世襲」だとわたしは国史に読みふけった少年時代から感じていた。天皇制はもとより源平藤橘、北条足利徳川と「世襲」系図をよみとるだけで概ね日本史の支配形式が見えてくる。その対極に被差別世襲という非道も見えてくる。
雄クンの世襲議員に対する感想はもっともであり、さきの編集者との対話にからめていえば「教育」畑での地位世襲にちかい露骨な実情も日本の社会を実に陰湿にしているとわたしは思っている。
* もし自民党で次の宰相をというなら、わたしは加藤浩一を辛うじて推したい。彼の躓きは躓きとしてそれへの対処は潔白であったと印象をもっているし、近時の小泉正次への批判も安倍政権への批判も、言葉少ななが加藤氏の発言には沈着な必要最小限度が厳しく出ている。麻生などはもともと論外であり、雄クンの言うとおり。また谷垣もひろい民意を謙虚に聴くには聡明さが不足し格差是認者の表情をみせてきた。福田康夫は相当酷薄な権力主義者であることは官房長官時代のあの「顔」が露骨に示していた。
いまのところ、わたしは政権は一度民主党に預けたい。中堅若手に勉強家が集まっている。その勉強に希望を託してみたい気がしている。そしていろいろに交替していくのが良い。いつ問うの超長期政権をゆるしてしまうのが、天皇制で育った日本人の宿痾である。
2007 8・5 71
☆ お元気ですか 鳶
8.3 台風が宮崎に上陸して、こちらでも風が強く吹いていた夕方、本が届きました。今朝、台風は既に日本海に、とはいえ暴風警報が出されました。寝苦しい嵐の夜のあと、背中が胸に倒れこむように疲れています。(ヘンな表現ですが。)そして昼前漸くいくらか風がおさまりました。配達されるのを待っている郵便物があり気持ちが少し落ち着きません。
懐かしい『閑吟集』
手元にある『枕草子』の放送カセットテープを聴いていると、声のやや高いこと。これは声の若さでしょうか。そして、マイクに向かって語る、その時どんな表情やしぐさをなさっていたか、想像します。内部の叫びにも似たものを声に託す生身のあなたがいらっしゃるはず。
残念なことに『閑吟集』のラジオ放送は聴いていません。が、文字としてみる時と異なったものをきっと感じ取れるでしょう。・・テープの録音はお手元にありますか? 聴いてみたい。
8.4 最近、ザビエルに関するものをいくつか読んでいる時でもあり、閑吟集の15世紀という時代と重なって、わたしには嬉しい再々読書になっています。鴉の、壮年期の鴉の思いが籠められた大切な著作です。
ザビエルは日本での布教公認を求めるために堺から都に上ることを望みましたが、都の荒廃ぶり、無政府状態に銷沈して空しく九州に戻って行きました。当時室町幕府の権力が強く、都での布教が浸透していたら・・? ザビエルの日本滞在、僅か二年。その後の日本でのキリストの困難な歴史を思わずにはいられません。
三様の挫折と書かれていること、特に世阿弥の幽玄が、後に次第に変容変質を迫られ傾(かぶ)きの要素が浸透してくる、という指摘に関してこれまであまり思い至らなかったことに気づかせられました。激動の時代は、戦国時代はさまざまな可能性にみちていた、しかし指摘されているようにその先にあったのは安土桃山の黄金の暗転期だったのですね。以前、NHK日曜美術館に出演された際の主張でもありました。重ねて思い起こしました。
8.6 昨日の記載に、今の日本の重い課題として「世襲」に触れていました。先の三様の挫折とも深く関連すること。伝統文化の継承という名の下に構築されていった「世襲」にはいくらか譲歩するとしても、政治や医療など、露骨な言い方をすれば金銭や地位での格差を保持できる「世襲」が蔓延している社会は、やはり納得できません。
天皇制はもとより、と書かれてあり、その祭祀を司ることに由来する天皇は歴史的に連綿と存続し実に実に深く重い存在。天皇制に触れることはタブーに近く、普段あまり考えもしないのですが、やはり時折突き当たらずにはおれません。
こりゃ、なんじゃ?!
と「mixi」にコメントが早くにありましたが気づかずに、日が過ぎてしまいました。さりげなくわたしもコメントを書けばいいのですが、やや胸につかえたものが溶けませんのでそのままになってきました。どの部分に対して、なんじゃ、と思われたのか・・。
「書く姿勢を問われて、恥じらい、躊躇、立ち竦んでいるようでは失格です。」と指摘されても当然でしょう。が、それぞれの人の性格や感じ方なので「恥じらい・・」と感じているのは、わたしの謙遜でなく、ポーズでなく、ただ自然のわたし、わたしの自然なのです。
「小説になるかも、エッセイなのかも、書いている当人は厳格に考えていない。強いて書けば、小説になりたいけれどなれない文章か。純粋にエッセイとは思っていない。」
これもいささか「挑発的」? 開き直り? と感じられたのかもしれません。あれから書いていても、やはり小説と言い切れないのです。情けないけれど、それが実情。
そしてエッセイへの間違った態度・・。
たとい短い文章でも、書くことはすらすら書けるものでは決してないことを、痛く痛く知る日々です。
* 『閑吟集』はラジオ放送していない。先に出版していた『梁塵秘抄』がラジオ放送そのまま。それに倣うていで『閑吟集』を一気に書き下ろした。たぶん霞友会館でうまいカンヅメを喰いながら、窓の下の女子大・女子高のテニスコートの嬌声を一服がわりに聞きながら、おそろしい早さで書き下ろしたと思う。『枕草子』『梁塵秘抄』『中世の源流』『日本語で書くこと・話すこと』その他、わたしはラジオの録音室に一人とじこめられて話すのが性にあっていた。テレビにも日曜美術館はじめ二、三十度も出てきたが肩が凝る、が、ラジオは時間さえ狂わさねば気楽なもんであった。亡くなった吉村昭さんや伊馬春部さんらも聴いていて下さった。
わたしは話すように書くのが好きだ。
2007 8・6 71
☆ 解剖男 ハーバード 雄
先日,お笑い芸人の爆笑問題がNHKで定期的にやっている、「爆笑問題のニッポンの教養」をロケーションフリーで見た.科学的な話題を扱った番組としては,ここ最近では久々のヒットだった.
この番組は,爆笑問題の二人が,専門家を訪ねては色々な話を聞くという番組だが,僕は今回初めて観た.
今回は,京大霊長類研究所の遠藤秀紀教授を訪ねたのだが,この遠藤教授の個性に全て持っていかれたといっても過言ではない.
少し前の秋葉原にいそうな服装.電車マニアにも,いかにもいそうなタイプだが,実際,筋金入りの電車マニアとのこと.爆笑問題の二人と同い年ということで,会話も弾んで,なかなか楽しいインタビューだった.
遠藤教授は幼い頃から動物の「形」に興味があり,色々な動物の死体をひたすら解剖してきたという.
主な発見は,パンダの手にある「7本目の指」.それまで,5本の指のほかに,突起がもう一つあることは分かっていたのだが,それ以外にもう一つの突起があって,これら二つの突起が,竹を支える上で重要な役割をしているという.
番組では,パンダの骨の実物も出てきたが,頭蓋骨がファンファンのもの,手はフェイフェイのものだという.小さい頃,テレビで姿は見たことがあるが,まさかこんな形で彼らに再会することになるとは思いも寄らなかった.
パンダが可愛い理由として,頬骨が他の熊などに比べて高いからだと遠藤教授は言うのだが,その説明に,「松たか子さんみたいに,頬骨が高いと可愛く見えるんです」と言っていたのが印象的だった.その他,アリクイが殆ど顎を開かない理由についての洞察も面白かった.
それにしても,パンダにせよ,アリクイにせよ,昔から存在していた以上,それらの骨は見ようと思えば見られたわけだし,事実,遠藤教授以前にもパンダやアリクイの骨を見た人は,大勢いたに違いない.にも拘らず,これらの骨を見て,何故,新しい発見があるのだろう.
独創的な発見・研究というのは,誰もが今まで見てきたものを見て,誰も気づかなかったことを見出したり,誰も考えもしなかったようなアイデアを思いつくことをいうのだ,と僕は思う.
パンダの骨を見た人は大勢いても,誰も遠藤教授のように考えた人がいなかったからこそ,新しい発見がある.簡単なようでいて,なかなか,誰にでもできるものではない.
夏目漱石の「夢十夜」の中に,運慶が仁王像を彫る様子を眺めている夢の話がある.「ああやって像を彫るのは楽じゃないだろうな」と思っていると,見物人の中に「いや,あれはもともと木の中に埋まっているものを,ノミとツチを使って掘り出すだけだから,別に大したことではないよ」と言う人がいたので,早速家に帰って自宅にある木材を片っ端から掘ってみたが,どこにも仁王は埋まっていなかった.それで今日まで運慶が生きている理由が分かった,というようなあらすじだったと思う.
研究にも,この話と似たものを感じる.「仁王」は木の中に埋まっている.しかし,それを誰もが掘り起こせるかというと,そうではない.やはり,いかに「仁王」が埋まっていようとも,「運慶」でないと掘り起こすことはできないのだ.
話を元に戻すが,遠藤教授はこれまでに色々な本を出版している.新書として出版されているものも多いし,タイトルもそのまま「解剖男」というのもある.日本にいたとき,実はちらりと見かけたのだが,購入しなかったことを,今になって悔いている.読んだら,きっと面白いに違いない.
* 「独創的な発見・研究というのは,誰もが今まで見てきたものを見て,誰も気づかなかったことを見出したり,誰も考えもしなかったようなアイデアを思いつくことをいうのだ,と僕は思う.
パンダの骨を見た人は大勢いても,誰も遠藤教授のように考えた人がいなかったからこそ,新しい発見がある.簡単なようでいて,なかなか,誰にでもできるものではない. 」
まったくこの通りだとわたしも思ってきた。文学の「読み」にもそれが、ある。学者の読めなかったところを、素人が読み抜くことも決して不可能でない。また見慣れてそんなものと思ってきたことが、まるで別の顔で見直せることもある。元禄より以前、「正座」していた日本人など、罪人以外にはほとんどいなかった。
2007 8・7 71
☆ 真実を傷つけぬ彫琢 俊 e-OLD 多摩
一ヶ月の早いこと
一週間はなお早い
不思議なことに
夜の刻みだけは早く感じない
楽しい
艶っぽい
そして
まだ冒険の
夢を見る
忙殺ではない
おっとどっこい
殺されてはいない
殺しも
殺されも
しない
やはりまだ生きている
このところ
「真実を傷つけぬ彫琢(ちょうたく)」について
夢のごとき己と
うつつのごときドッペルゲンガーが
よく論じ合っている
創作
小説
随筆
詩文などなど
そして人生
玉の光りを放つ原石は少ない
柔らかいのは磨耗が早い
気づくと
かろうじて
アンパンの芥子粒臍になっている
* おもしろい。お若い。
2007 8・7 71
☆ 母の歌集――「子なき娘」に―― 麗
母は短歌をたしなむ。5月に上京して会ったとき,私家版を作るのだ,と表紙に使う写真を選んでいた。それができたと,先週土曜日に届いた。
母が短歌を作るのを知ってはいたが,そのものを目にしたことはなかった。結構なページ数に,昭和59年,今から23年前から現在までの作品が並ぶ。夫と娘2人と孫2人と,自分の母への思い,たまに出かける海外旅行の思い出,自宅の窓から見える副都心の眺め,など,所謂,身辺雑記風な題材からなる。
歌の師匠と思しき御仁が,「平凡といえば平凡,しかし,その気持ちが大切。」などと,「平凡」さを扱いかねたような讃文を寄せていらした。
平凡な題材でもいいではないか,装わず,偽らず,取り繕わず,歌に作れば。しかし,そんなことば選びが出来れば,もはや平凡とは言わない。装い,偽り,取り繕い,結果的に平凡に堕する歌が何と多いことか。そして,母の歌は…。師匠の御仁は,題材ではなく,ことば選びの点で「平凡」と言ったのかもしれない。
いちいちの歌を引くことは差し控えるが,私のことを詠んだ歌に,唯一,「装わず,偽らず,取り繕わず」,歌に作ったと思われることばがあった。「子なき娘」。
このことばは,私を特定するものとして,繰り返し登場する。確かに,語呂はいい。
歌によると,この,「子なき娘」は,勝手気ままに生き,来年は不惑だなどと言いつつも表情には幼さを残す,らしい。他人が,世間が,自分をどう見,どう思うかを知る機会はありそうでないことだが,自分の母親の作った歌にそれを見つけるとは,さらにない。そういう意味では貴重な経験である。
だから,我ながらしつこいと思いつつも,続けて書く。
私が学生時代に,前田夕暮のご子息,透氏自らのお誘いを受け,歌誌『詩歌』に参加していた頃,「『詩歌』の飼い殺しにされてもね」と,母は言い放った。進学,就職,結婚,などなど,私が「気に入らない選択」をしたと,母から投げられた悪し様な罵りは数多い。悪罵に関することば選びの的確さは,一種の才能と言えるかもしれない。その才能が,対極のことばを選ぶ際には,少しも効かない。皮肉なものである。
ことさらに「子なき」と形容するところに,娘の私に対する,「子をなした」母の優越感を感じる。しかしその裏からは,それ以外のことに対する,妬み・嫉み・僻みが透けても見える。これらは,母の慈愛とは対極の感情であるが,それが自ら(みずから)の内に在ることを,このことば選びで,母は自ら(おのずから)認めている。認めた以上,再び,取り澄ましたことばで覆い隠してはいけない。中途半端という,平凡以下の出来になるだけである。いいではないか,娘を妬ましく思う心の葛藤を詠んでも。作品としてよいものができれば。
「芸術は必ずしも清浄な心から生まれるものではない。(佐藤愛子(2002)『私の遺言』新潮社 p.241)」
* この一文にわたしは感心した。母上の歌集へ、最良の賛辞になっている。他人はなかなかこうは書いてくれない。
ほとんど会ったことのないわたしの生母も歌を作って、一冊にして遺していった。わたしが国民学校の頃に短歌を一つ二つ残し、新制中学では田のドノジャンルよりも熱心に短歌のノートを作で書き埋めていた頃、高校ではのちに歌集『少年』に成るほど一心に歌に励んでいた頃も、じつは生母と短歌とのことなど何も知らなかった。知るすべもなかった。いま、わたしは母のためにもう一度母の短歌をわたしの思いで再編集してみようと試みている。
* 佳い一文ですね、これ以上の賛辞は他人には書けないでしょう。
現代の歌は、ことに「私性」の所産です。「私史の玉」たらんと歌われてそれで良しとしうる所産です、たとえ「歌史の瓦」に過ぎなくても。そういう歌集をたくさん戴きます。
「子なき娘」を歌う例も、娘に「子をなすな」と戒める母の歌も、まま、ありますね。
岡井隆さんは、短歌は「ことば」という「パーツ」を選び選びつくる構造物かもしれぬと書いていました。わたくしが東工大や「ミマン」で試みていた「虫食い短歌」の記事を読みながらの感想のようでした。
詩歌がたんなる言葉選びであるわけはありませんが、言葉もよく選べない例はすくなくありません。
根底には、日本語の「内在律」を適確に見つけ創り出す「詩性」が「生命」なのだと思います。詩は「うた」であり「うったえ」なのですからね。
前田透さんは、わたしの歌集『少年』を、歌壇から声を上げて真っ先に称揚し推賛してくれた歌人でした。懐かしい昔話です。そのご縁で秦野市での夕暮記念の大会で講演したりしましたよ。 湖
2007 8。7 71
* ボストンの「雄」君の「独創」なる説に南山城の「巌」君が人類史上の独創にひろげて、コメントしていた。咄嗟に、以下をいま思ったので挙げてみる。どうでしょう。異説を待つ。
* 神の発見 数の発見 手順・手続きの発見 AはAである発見 モノに名前をつけるという発明 人は死なれ・死なせる存在であることの発見 地球が奇跡の惑星であるという発見 諸悪の根源としての愛と心と言葉の発見 諸価値の発現としての愛と心と言葉の発見 「私」の発見
2007 8・8 71
☆ 湖へ 珠
いつも不思議なほど、息継ぎを必要とする頃にお声が届きます。湖の感触にちからがぬけます、ありがとう、珠は元気です。
6月から毎日人の心をノックするような仕事を抱え、緊張感と時間的な制約で通常業務は滞るばかり。。。おまけに休日・夜間に仕事をしていたら急に入った冷房にやられ、今年2度目のひどい風邪をひいてしまいました。元来のアレルギー体質からか、冷たい空気や埃に弱く、咳が止まらなくなり、商売道具の一つである声を使って相手と会話する状況もままならなくなり落ち込みました。プロとしての自己管理、自分の弱みが仕事上の大事な道具と重なる事、今更ながらよく判りました。仕事・私生活、振り子のように振れてバランスをとるにはまだまだですが、、でも少しずつ、と思いながら過ごしてます。
「湖」のご本、ありがとうございました。
熱き想いの表現にどきんとしながら読んでいます。「想い」の生々しさを語る多くの言葉・表現は、私の奥にある感情、今まで言葉にしていない「何か」を求める呪文か地図のように思えます。繰っては戻りまた進みと、ゆるゆる文字をたどり探っています。この夏の暑さ、本には汗を染み込ませ、私には本を染み込ませて。。。
まるで幽霊のようにぽっとでて消える私のmixiですね。
ディスプレイはまさに幽霊状態で、白がとんで、書いているうちに薄くなっていきます。そろそろ限界と言いながら、何ヶ月も働いてくれるので惜しくて。動かなくなるまではこのままと決めましたので、幽霊mixiお許し下さいね。
湖の「私語」は朝に夕に読んでます。湖はもてますね、女性がたくさん登場。届きそうで届かぬ奥深い湖、ひややかに透んだ湖は、まるで蛍が水をもとめるように寄りたくなるのかもしれない、ちょっとジェラシー。
お元気で、湖。
いつも、だから、湖。
* 液晶が消耗しきっているのでしょう。とりかえるしかないでしょう。この夏に風邪はよくない。
2007 8・9 71
* みなさん、ご注目。 ボストンの「雄」君の日記に端を発し、咄嗟・即座の「思いつき」でわたしの書き入れた「十」箇条へ、修正意見が、「雄」君からも「巌」君からも出されている。面白い。難しい。藤江さん 鴉さん 芝田さん 馨さん 上尾君 そしてmaokatさん 俊さん 瑛さん みなさん、いかがですか。
☆ 生物学10? の独創的な発見・発明 ハーバード 雄
午前中,居室に来ていたグレッグが日本語を教えてくれというので,「おはよう」「おなかすいた」「ありがとう」などの簡単な日本語を教える.
「どうも」という言葉も教えた.或る意味,日本を象徴している言葉かもしれない.
昼すぎラボに戻ると,グレッグが嬉しそうに近づいてきて,隣のラボの日本人ポスドクのMさんに「元気?」と言ったら通じたよ,と言う.
さて,一昨日の日記からの宿題にもなっている,「十の独創的な発見・発明」なのだが,全ての事象の中でとなると,中々難しい.「湖」さんの挙げているものも,かなり偏っているように,僕には見受けられる.
例えば,「諸悪の根源としての愛と心と言葉の発見 諸価値の発現としての愛と心と言葉の発見」であるが,これらをこう分けるべきなのか,表裏一体としてみるべきなのかは,難しい.
あるいは,人文系の事柄に偏りすぎてはいないだろうか? 「万有引力の発見」は? 「相対性理論」は?
バスに乗っている間などに,あれやこれやと考えてみたが,うまく考えが纏まらない.
そこで,卑怯ながら,分野を大幅に狭めて,専門の「生物学」に絞ってみた.勿論,人によって意見は大きく異なるだろうし,後で振り返って,「あ,これが抜けていた」というのもあるかもしれないが,思いつく限りで、以下の通り.
顕微鏡の発明(レーウェンフック), 進化の発見(ダーウィンその他), メンデルの遺伝の法則, セントラルドグマ(クリック), オーガナイザーの発見(シュペーマン), 神経細胞の膜興奮モデル(ホジキン&ハックスレー), 化学浸透説(ピーター・ミッチェル)
思いつくままに挙げてみたが,まだ7個しかない.もっと単発の仕事でよければ沢山思いつくのだが,生物学に大きな衝撃を与えた仕事となると,選ぶのに躊躇する.
例えば,PCR(polymerase chain reaction)の発明.単に,温度を上げ下げするだけで,DNAを無限に殖やすことができるという方法.最初に発表されたとき,分子生物学者の誰もが「何故これを,自分は思いつかなかったのだろう」と思ったという.その位,簡単な原理に基づいているが,今や分子生物学の研究室で,この技術を使っていないラボは皆無だろう.犯罪捜査などでも,血痕から犯人の特定に至るには,この手法は欠かせない.
この発明で,発明者のキャリー・マリスはノーベル賞を受賞している.ちなみにマリスは、彼女とデートでドライブしていて,車の中で彼女が寝てしまったとき,暇をもてあましているうちに,ふとこの方法を思いついたという.
マリスは,ノーベル賞受賞後に日本に来たことがあり,園遊会にも出席した.その際に美智子皇后から、「では,今日ご一緒に来ていらっしゃるのが,その時の彼女ですか?」と聞かれ,「いえ,彼女ではありません」と答えたらしい.しかし,美智子皇后はすかさず,「ならば,ノーベル賞が,もう一つもらえますわね」と言ったとか.なかなかウィットに富んだことを言う.しかし,実はマリスは4回結婚しているのだが...
それはともかくとして,僕が「独創性」という観点から最も気に入っている科学上の発見は,実は生物学ではなくて,地球物理学者ウェゲナーの「大陸移動説」.もともと地球上の大陸は一つだったのだが,それが分かれて,大きく移動した結果,いまのような地図になった,という説.
ウェゲナーがこの説を思いついたのは,ただ単に,アフリカ大陸の西側の海岸線と,南米大陸の東側の海岸線が,合わせるとピッタリ重なる,という,極めてシンプルな理由に基づいている.
したがって,生前は科学者たちから殆ど相手にされず,死後になって,色々な方面から,ウェゲナーの説が正しかったことが証明されてきた.地磁気の研究,植生の研究,土壌の構成要素の研究など,多方面から,徐々にウェゲナーの説の正しさが確かめられていく様子を,竹内均先生がNHKブックスの1冊に書いておられ,中学2年生の頃,貪る様に読んだ.まるで,推理小説で犯人が絞られていくのを読むように,身体中がゾクゾクとした.その本を読んだことで,将来科学者になりたいと強く思った.
一昨日のコメントに「ケイ」さんも書かれているように,独創的であるためにはタフでなければならない.ウェゲナーの辿った道は,独創的な研究者の,或る意味,典型的な道でもあった.突拍子もない説だと哂われ,皮肉たっぷりに揶揄され,挙句は無視される.その後,評価されれば良いが,結局それはウェゲナーの死後となってしまった.
大事なことは,その間にブレないことなのだろう.どれだけウケが悪くても,自分が正しいと思ったら,言い続ける.これは,タフでないと,なかなかできない.世間の評価が,嘲笑・中傷,無視,再評価と変わっても,それによって本人は変わってはいけない.
☆ 人類史上の独創十指 巌
人類の独創性の顕れた「史上十指」となると やはり科学技術のようなものは どんなに独創的に見えても 先人からの積み上げの上にあったり 同時代やそれ以降の追試がないとどうにもならないという事があり その進歩の過程・歴史が伝わっていたりすると 十指にどれを「とる」というのがまた難しい
誰がいつどこでというのを考えなくていいような 人類が人類となったのは「これを手に入れたから」というものに目をつける。
人類の目的が 人類が存在するこの世界を表現することにあるのなら その目的を進めるために大いなる物であったものが 人類の独創性が顕れた発見であったとして、
「十」は、
神 (一体を考える事)
私 (疎外を考える事)
暦 (時間的連続性 時空間を考える事)
言葉 (名付ける事 事象を表現する事 伝達保存する事)
数字 (量を抽象化し表現する事 伝達保存する事)
音階 (音を抽象化し表現する事 伝達保存する事)
愛 (量化できない価値の根源)
物語 (事実だけでなく 虚構で表現する事 伝達保存する事)
おばあさん (成長・生殖から自由な人 元祖スペシャリスト)
貨幣 (物の交換や蓄積への時間的自由)
* 聞いてみたい人たちが、たくさん。
2007 8・9 71
☆ ストアド・プログラム方式 瑛 e-OLD 川崎
人類の独創性の顕れた「史上十指」を選ぶとなると、なかなか おいそれと選べない。が、三つなら僕なりに選べる。
現代世界を制御している電子計算機の方式『ストアド・プログラム方式』を、その1としたい。ジョン・フォン・ノイマン(ハンガリー人)の発明で今のコンピュータは「ノイマンコンピュータ」であり、技術はこの域を出ていない。
哲学ともいえる『零の発見』が、その2。思想、史観、その他へ通じる。インド人の発見である。位相代数、無限大の定義など『人間の脳の世界』が働き生み出した文化遺産でありましょうか。
その 3は、「林檎が木から落ちる」ことの原理の発見。英国の産業革命に始まる現代産業への道しるべ。
ニュートンは、フランシス・ベーコンとデカルトとともに、諸悪の根源を創造した。バグワンはこれらを「知恵」とは言わない。「業」である。地球は何年もちますかね。
☆ 今週美術館三つに行ってきました。 純
大学生のころはこんな感じだったな~。懐かしいな~。
一つ目は念願の金比羅宮展。
応挙も若冲もみんなよかったんだけれど、一番びっくりしたのは邨田丹陵という画家。こんな人がいたなんて、私は全然知らなくて、ものすごく興奮したのだった。鹿狩の様子を襖絵にしているのだけれど、構図の取り方、構成、余白、そうして画力。すべてが抜きん出ている感じで目を引く。
昨日の新聞(朝日・夕刊)にも載っていたので、ご覧下さい。
抱き合わせで歌川広重展もやっていて、こちらもものすごく面白かった。やっぱり構図の取り方が非凡。
二つ目は諏訪のサンリツ美術館。
茶道具(特に焼きもの)の展覧会をしていたのだけれど、本阿弥光悦の国宝「不二山」が出ていて、こちらも大興奮だった。思わず展示ケースに極限まで近づいてしまって、ゴツン、と額をぶつける。
他の楽茶碗も、長次郎、了入とはずさないセレクションで、その上、15分くらいの展示説明VTRがよかった!
ミュージアムショップで牧渓の眠虎図の絵はがきを買ってきて、先の応挙の虎と見比べてみるのもまた一興。
三つ目は岡谷のイルフ童画館。
やはり全然知らなかったけれど、武井武雄という童画家がいて、この方の作り出す世界の美しさ、妖しさと言ったらなかった。大人のための童話って、こういうものを言うのだろうな~という感じ。ため息がでる。
蔵書票なんかも版画作品で作ってらして、それがまた素晴らしい。私もこんな蔵書票が欲しいなー…と、やはり展示ケースに極限まで近づいてじろじろ眺めてきた。
ただし、絵葉書に欲しいものはあまりなく、仕方がないので作品集を購入。商売上手? なミュージアムショップであった。
で、興奮しすぎたか、また体調を崩し気味で、一日臥せっていた。
そんな、オチ。 情けない。
* わたしは、京都の頃から、博物館の静かさのフアンで、コツコツと自分の足音をたしかめるように蟹歩きに作品を長時間掛けて観た。体力に自信がなくなって遠方へよう出かけないが、上野の本館の常設展がいちばん落ち着く。東博の収蔵品を全部観たいとよく思ったが、とてもムリ。
しかし美術賞の選考のためにも京都系の現代美術にもできるだけ目配りが必要で、なにしろ書と建築とをのぞく全ジャンルを選考対象にしているだけに容易でない。「純」さんのように楽しんであちこち観て歩きたいが。座って観ていられるので、つい劇場におちついてしまう。
* どこかしことなく夏休みムード。わたしも、のんびりしている。こう焦げそうに戸外が熱暑では、あまんじて家の中に落ち着いているしかない。けっこうなこと。
2007 8・11 71
☆ Tax free day ボストン 雄
新居での朝を迎えた.心配していた,幅の狭いベッドだが,思いのほか快適.ベッドの良し悪しは寝てみればすぐに分かる.このベッドは,一見華奢だが,相当良いベッドだ.大家の家具に対する並々ならぬ思い入れが伝わる.
今日は,Tax free day.マサチューセッツ州の税金がかからないらしいので,買い物するにはうってつけの日.朝から引越しおよび,その関連商品,さらには全く関係のないものまで買いあさりに,一日中奔走した.
10時頃に部屋を出て,前のアパートに行く.もう,殆ど全てのものを運びいれたつもりだったのだが,改めて行ってみると,積み残したものが沢山あり,結局,車一杯に荷物を積むこととなった.
最後の荷物を積もうとして出てきたら,車のワイパーにタグが挟まっていた.慌ててセキュリティーに行くと,これはあくまで警告で,次回やったら罰金だとのこと.しかし,今までも中庭に車は散々停めているが,こんなものを挟まれたことはなかった.
本当は,今日はライアンに椅子とじゅうたんをあげることになっていたのだが,僕の荷物だけで一杯な上,椅子を車に積もうとして分解しようとしたら,ネジ頭が崩れてしまい,取れなくなってしまった.仕方ないので,ライアンに電話を入れ,2時半にライアンを拾って前のアパートに一緒に行き,どうするか考えることにする.
今日は絶好のドライブ日和.strrow driveを飛ばすと気持ちが良い.
結局,椅子はネジをはずさなくても,ギリギリ僕の車に積めることがわかった.じゅうたんと共に積み込んで,ライアンの自宅に直行し,再びライアンをラボへと送り届ける.
途中,フェンウェイパークの横を通りがかったのだが,お土産屋さんが開いていた.この前行った時は,試合がないせいか閉まっていたのだが,土日は試合がなくても開いているらしい.野球好きの妹夫妻に松坂Tシャツと岡島Tシャツを送ろうと,Kenmoreまで地下鉄で向かう.
自分用に岡島Tシャツも1枚余分に購入.そのまま引き返して,ニューベリーストリートを歩き,買い物をする.ニューベリーストリートに来るのは久しぶりだが,多くの人で賑わっていた.
帰りに,ビーコンヒルのピザ屋Figsに立ち寄り,ピザを食べようとCharles/MGHで下車.しかし,Figsは順番待ちの列ができるほどの混雑だったので,あっさりと諦め,来た道を引き返す.駅近くの酒屋で焼酎を購入したのが,せめてもの収穫.
Harvard Squareで下車し,いつものPho Pasteur(いつの間にか名前が変わってLE’sとなっていたが)で,いつものシンハービール+生春巻+牛肉のフォー.一日中,散々歩き回ったせいか,ビールが旨い.蘇る気がする.徒歩で帰宅.
* ポーランドの柳君たちはどうしているだろうな。先日の花火の日にも、ああ花火を一緒に観たなあと懐かしかった。
2007 8・12 71
* この間から、人類史上の偉大な発見・発明という話題が、「mixi」のマイミクの間でにぎわいかけている。 「碧」さんがこう発言されている。
☆ 発見・発明 碧
先週後半からパソコンを開けないでいたら「発見談義」が進化していた。
「雄」さん、「巌」さん、「湖」さんの選んだ「発見」を読んだけれど、なぜか「火」が出てこない。あまりに常識的すぎるから?
「火」とともに想い出したのは、中国の友人が言っていた「世界四大発明」。それも全て中国での発明だという。「火薬」「印刷」「羅針盤」あと一つ何だったっけ、浮かばないのだが。
「神」の発見~ 湖さん、巌さんの一番めにあったけれど、私にとっては、「神の赦し」の方が身に迫ってくる。あるいは「唐突な宣言」~なんの脈略もないところに突然やってくる「救い」。でもそれを、人間が「考え出した」とは到底思えないので、神は存在する(いる)のだろう。
☆ 発見と発明とは微妙に重なりながら異なるところがあり、前提でこれをどっちつかずに選んでいたのは、ひそやかな私の勝手でした。
優れて偉大な発見も発明も、避けがたく人間を不幸にする要素を含みます。「神」の発見・発明も数々の惨劇の原因に、現在もなっています。「神の裁き」「神の赦し」の名の下に十字軍は異教徒への言語を絶した暴虐を平然と是認しましたし、「神の平和」という歴史的な認識も、むしろ都合よく気儘に破られがちであることは、中東その他での世界情勢がまざまざと実現しています。
「火薬」も「核」も、あるいは「印刷」術すらも、途方もない災厄を人間にもたらさなかったとは謂えません。「お金・貨幣」も。「言葉」ですらも。「愛」は聖なる無私と底知れぬ煩悩との両面をもち、「心」も乱れに乱れた動揺や混乱の種になりながら、思考と知識の源泉にもなっています。
「火」は人間の発明でも発見でもなく天与を利用したのではないでしょうか。
概して偉大に、負の面が少なく軽く、人間に大きな幸福や聡明をもたらした、また安全や安定をもたらしたのは、何でしょうね。
アリストテレスによる、「AはAであり、AはBではありえない」という論理の発見は、人の意識や認識や判断や思考の日々を混乱や混雑から救い出し、とても明るくした気がしています。われわれは無意識にこのテーゼに従い、社会生活を送ってきましたから。
動物も本能で死を迎えているようですが、人間は、「死」「死者」「死骸」という三つの概念化へ、意識して立ち向かうことで、「生」の意義を発明し発見してきた気がします。「神」の発見など、むしろこれの未熟でいびつなな付随かも知れません。
考え始めると、難しいばかりですね。 湖
2007 8・13 71
☆ 大掃除 ボストン 雄
今,日本はお盆の帰省ラッシュだろうか.
朝,新居に来て初めて,パンを焼き,コーヒーを入れる.美味しい.前のアパートには,古いトースターはあったが,使ったことが無かった.コーヒーメーカーは無かった.新しいアパートには両方ともあるので,試しに使ってみたが,なかなかいい感じ.昼には焼きそばを作る.ソースを入れた途端,予想外の匂いがしたので,おや?と思い確認すると,ソース焼そばではなく,カレー焼きそばを買ってしまっていた.どおりでカレーの匂いがした訳だ. 早めに昼飯を食べてから,新居を出て,今日もまた前のアパートへと向かう.一旦荷物を置き,ニューベリーストリートを歩く.ビーコンヒルと並んで,この辺りの雰囲気は,ちょっとヨーロッパっぽい.せっかくなので,写真を撮る.
前のアパートに戻り,部屋の掃除をする.荷物はほぼ,片付いた.ガス台や風呂場など,汚れやすい場所を丹念に掃除する.前の住人からの汚れもあるので,全て落とすのは無理だが,まあ,やるだけのことはやった.要らないものを,片っ端から捨てた.どうしてか分からないが,捨てるという行為は気分が良い.ストレス解消になる.
必要なものを少し持って,帰路に着く.途中,寄り道をして,Russo’sで野菜類を購入.
これで,生活の基盤は完全に新居に移った.明日からは研究に打ち込みたい.
☆ 「新居」の字 ふとなまめかし きみがために 愛(うつく)しき日の吉き兆しなれ 湖
* 卒業生の一人が転職して愛知県から静岡県に移り住んだ。卒業生ではない読者夫妻にも、近年同じ例の転居があった。愛知県から東京への転勤もあり、大阪から東京への転勤記者クンもあった。ボストンでも、これは単なる転居だが「新居」に引っ越した。若いときにはあること。
京都から東京新宿へ「新居」を得て移り、北多摩保谷町の社宅へ移り、そして同市内の下保谷に家を建てて、わたしも都合三度転居した。もう、したくない、が、もう一度ぐらいしていいか知らんとも心の内でちょっと思う。
2007 8・13 71
* 真夏バテというのか、ひっきりなしに眠い。
朝六時に起きて、昨日来の「一太郎」整理をしとげた。信じられないほど厖大なファイルで満たされていて、フォルダ化して整理しておかないと利用しにくく、欲しいファイルを探し出すのがとんでもなく不自由になりかけていた。それを五十余のフォルダに整理して取り纏めた。書きおいた作品を探し出すのにはそのフォルダを開ければともあれ、以前よりは、早くラクに見つけられる。仕掛かり途中の仕事もすぐ拾い出せて、それぞれに前進がはかれる。今までだと、埋没してしまいがちで、ちょっと油断すると何処へ行ったやら、迷子を捜すような手間がかかった。完璧と云うにはほど遠いけれど、二千近いファイルがあらまし相応の抽斗を造って蔵われた。強いて夏休み気分に自分を誘い込めばこそ、出来たことである。しておかねば収拾がつかなくなる是非必要な作業であった。
それとても「一太郎」という一部門だけの話で、機械の中には、別に、「ホームページ」も「文庫」も「マイドキュメント」に蔵われた一切合切も在る。消耗品ではないので、保管されてゆく数は日々に増えてゆく。
それにしても整理してやれば、パソコンは、らくらくとその全部をのみこんで、保存してくれる。バックアップには万全の気配りが必要だけれど。これにはハラハラする。
* いまパラオにいる布谷君が、以前に造ってくれた親機と子機との相互に自在なファイル転送の装置はじつに便利であった。いとも感嘆に大量のコンテンツをあっちへこっちへ移して作業出来た。布谷君が頼めなくなり機械の故障を業者に頼んでいじらせて以来、親機は今も音声が全くでないし、両機の連携も壊れてしまった。かろうじて親機から子機への移送だけが出来るが、逆は効かない。わたしのように字だけ書いている者には、機械で音声が使えなくても静かでいいが、大きな不具合には相違ない。子機のノートパソコンの方で音楽も映画も楽しめるのだからいいといえばいいが、機械環境が自在に完備していないのは残念といえば、残念。で、親機で書き仕事と写真の編集、子機はもっぱらバックアップと休憩の楽しみ用に「棲み分け」ている。それも悪くはない。
2007 8・14 71
☆ ピアノ ハーバード 雄
今日も電気生理のセットアップ.ノイズが中々取れない.ちょっと良くなったかと思うと,すぐに強いノイズが入る.夕方になり,疲れ果てているところへ,ライアンが「Hiro,ピアノを弾きに行かないか?」と声をかけてくれた.
最近ライアンはピアノを習い始めたのだが,ハーバード大学には,IDカードさえ持っていれば,タダで好きなだけ弾くことのできるピアノが20台もあるのだという.喜んでライアンについて行く.
サイエンスセンターを抜けると,裏手に古めかしい建物があり,その地下1階にピアノがあるという.建物の1階入口には専門の職員が座っていて,IDカードを見せ,名前などを記入すると,IDカードと引き換えに部屋の鍵を渡してくれた.ピアノは一台一台個室に入っており,鍵がかけられるという.さすがに完全防音とはいかないが,これだけでも充分だ.
部屋は小さいが,中にあるのはグランドピアノ.なんとスタインウェイだった.
僕は小学校の1年生から4年生まで,ピアノを習っていた.中学くらいまでは何とか弾けたので,合唱コンクールなどでは伴奏したりしていた.しかし,高校に入ってからは,そんな機会もなくなり,めっきりピアノを弾かなくなってしまった.
大学院修士課程に進学し,大学から近くのアパートに下宿を始めてから,なんとなくピアノがほしくなり,貧乏な中からお金をひねり出して,電子ピアノを購入した.たまに弾いたりしていたが,やはり音もタッチもピアノとは大分違う.
愛知県にいた頃,ふとピアノが懐かしくなり,実家に保存してあった電子ピアノを再び送ってもらったのだが,保存状態が悪く,鍵盤どうしがくっ付いてしまい,全く使いものにならなかった.
そんな訳で,まともに鍵盤に触れるのは修士課程以降ということで,10年以上もの年月が経っている.アメリカに来る際,楽譜集を2冊ほど持ってきてあった.両方ともNHKのテレビ講座のテキストで,1冊はショパンばかりを集めたもの.もう一冊はバッハからプロコフィエフまでと幅広い.この本がたまたまラボに一時的に置いてあったので,持参した.
小学生の頃に弾いていた曲でも,今では全く手が動かず,どうにもならない状態だった.ショパンのワルツでは7番と10番が僕の十八番だったのだが,どちらも思うように手が動かない.3番はゆっくり目だし,楽譜も前述のテキストに載っているので,なんとかなるかと思ったが,冒頭の左手のトリルで躓く.
他にも有名なショパンのノクターンも試してみた.練習次第ではマスターできるのではないだろうかと甘い考えを抱く.バッハの平均律クラヴィーア曲集第一集の1曲目を,つっかえながら,なんとか最後まで弾き終えることができた.弾き終えたというよりは,なんとか最後まで辿りついた,というべきかも.
ライアンは途中で実験があるということだったので,そのまま僕一人で30分もの間,ピアノを弾いていた.集中していたせいか,とても30分経ったとは思えないほどだった.
ふと,ドアの外から,ショパンのピアノ協奏曲第一番の冒頭部を弾く音が聞こえてきた.目の覚めるような鮮やかなピアノで,しばしあっけに取られる.本来は,こういう人が来る場所なのかもしれない.ちょっと気恥ずかしくなり,鍵を返却する.
それにしても,久々にピアノを弾いた.実験で行き詰ったときなど,気分転換にちょうどいい.月曜から木曜は夜9時まで,金曜日は4時まで利用できるという.新学期が始まれば,夜12時まで利用できるらしい.これからは頻繁に利用しよう.
帰り道,大幅に寄り道をして,久々にCafe Sushiに行く.今日はさほど客がいなかったせいもあって,シェフとゆっくりと話をすることができた.色々と有益な情報を入手できた.
* 東工大出の男のピアニストと、これで二人付き合っていることになる。最近転職して愛知から静岡へ移った子松クンは、大学の頃からわたしに何度も大教室でピアノを聴かせ、我が家へも来て弾いて行った。「雄」クンのピアノははじめて識った。あの大学にはりっぱな交響楽団もあって、わたしの学生で男女何人も参加していた。バイオリンもフルートも、大きな楽器を扱う人もいて、何度か演奏会にも誘われた。
いま我が家では妻がきまって宵の七時になると、一時間あまりピアノを楽しんでいる。音楽を楽しんでいるというより楽器に触れているという風情だが、ま、いいことだと、ときどき冷やかし半分に耳を傾けている。
2007 8・17 71
☆ skype ボストン 雄
昨日の朝からskypeの調子がおかしい.原因はソフトウェアにあるという.
ご存知の方も多いと思うが,skypeはパソコン同士でインターネットを利用して電話のように話ができるというソフトで,マイク付きのヘッドフォン(または電話機のような形態のもの)をパソコンとUSBケーブルでつなげ,ソフトをダウンロードするだけで,世界中のどこでも無料で話ができる.
実家や友人とのやりとりは,ほとんどskypeを通して行なっている.マイミクさんの何人かとも,skypeでやり取りしている.特に両親にとっては,無料で話ができるというのが何より助かるようだ.国際電話となると構えてしまうが,skypeならばどれだけ話してもタダなので,気楽なのだろう.それに,相手のパソコンがネットに繋がっているか否かも表示されるので,いつかけてよいのかが分かりやすい.
そんな訳で,留学が具体化した頃から,実家とのやり取りはskypeを使っている.カメラもつけられるので,親にとっては,画像も送って欲しいだろうが,部屋が汚いだの,また太っただの言われるのは嫌なので,あえて付けていない.
夜になって,完全復旧したように思っていたのだが,今見たら,また接続に問題が生じているようだ.と思ったら,また復活した.
普段頼り切っていると,いざ障害が生じたときには,困ってしまう.接続が異常だったのは,2日かそこらなのだが,オオゴトのように感じられる.
* skype とやら。興味がある。建日子とも話しやすくなるようなら。
2007 8・18 71
☆ Violation ハーバード 雄
新居に備え付けの洗濯機を初めて使ってみたり,昼食・夕食とも自炊したり,一週間分の食料を買出しに近所のショッピングモールに行ったりしているうちに,あっという間に一日が過ぎてしまった.
もっとも,それ以外の時間は日本のテレビをロケーションフリーで見ていたので,決して時間が無かったわけではない.要するにダラダラしていたのだ.色々な番組を見ていたが,特に面白かったのは,「爆笑問題のニッポンの教養」シリーズ.先日,この日記にも書いた,「解剖男」の出演したシリーズの番組で,どうやら夏休み特集として,それまでの分をまとめて放送したらしい.ロケーションフリーが勝手に録画していた.
特に面白かったのは,東工大の井出茂教授の「宇宙人は存在するか」の回,そして東京理科大の田沼靖一教授の「人は何故死ぬか」の回など.
井出先生の回では,東工大大岡山キャンパスが映されており,懐かしかった.学生達がオシャレな格好をして,男女ともになかなか美形の学生が出ていたのも,僕らの頃とは大分違うなあという印象を持った(当時学生だった方,ごめんなさい).
田沼先生も,東京理科大に移る前は東工大におられ,僕は講義を受けたことがあるので,そういう意味では,偶然ではあるが,お二人とも東工大関連の先生であった.
井出先生の研究は,生命が誕生するような条件を持つ星が宇宙に存在する確率を,シュミレーションなどの手法を用いて,理論的に導き出す,というもの.田沼先生の研究は,細胞が自ら死ぬという,「アポトーシス」という過程を研究することにより,細胞が生きるということがどのような意味を持つのかを明らかにしようというもの.
全くの偶然であり,またそれは,番組制作者の意図とは大きく異なるかもしれないが,これらの井出,田沼両先生の回を見て僕が抱いた感想は,「今,繁栄しているヒトの未来は,決して明るくはない」という悲観的なものとなった.
全ての人とは言わないでも,多くの人は「今,地球で最も繁栄している種はヒトである」ということに賛同してくれるのではないかと思う.しかし,今繁栄している種がヒトであることは,決して必然的なものではなく,むしろ偶然による要素が多いに違いない.
たまたま地球という環境に水が存在し,その中で様々な化学反応が起きた結果,タンパク質などの生体高分子が作られ,そのうちに生命が誕生した.そして,何らかの偶然により,生物は陸へと上がった.しかし,恐竜の繁栄した時代があったことなどを思い起こしても,ヒトという哺乳類の1種類が繁栄しているのは,ごく最近のことに過ぎない.
恐竜は,何らかの環境変化により絶滅したが,おそらくヒトは,自らが招きつつある温暖化により絶滅するのだろう.今年,日本は酷暑であるので,地球温暖化がテレビ番組などでも頻繁に取り上げられるようだが,もし来年,気候の関係で冷夏となったら,マスコミは地球温暖化をこれほどは取り上げなくなることだろう.
アメリカでも,環境問題に対し真剣に取り組もうという人は増えている.しかし,ゴミ収集や,アメリカ人の生活習慣全般を見ていて,CO2削減やエネルギー問題に積極的とは思われないことも多い.今,アメリカは地球上で最も栄えている国だろうが,それとて何時まで続くわけでもない.そのことにアメリカ人は気づいていないように思われる.
過去の歴史を振り返っても,今,必ずしも栄えているとは思われない地域も,かつては文明の最先端であった時代であることがわかる.文明というものは,地球上を吹き抜ける風のように,吹き抜けていくものなのだろう.ボストン美術館で,各地域の展示品などを眺めていると,特にそれを強く感じる.文明が未来永劫,ずっと自分のところにあるものだなどと思うのは,傲慢なのだろう.
アメリカの次に栄える国があるならば,おそらくそれは中国だろう.経済的な発展を考えても,地球総人口の4分の1を占めるという中国の人口的なポテンシャルを考えても,おそらく次に中国が栄えることは間違いない.そして,その途上にある現在の中国のやり方を見る限り,工業的発展にいそしむ余り,地球の環境破壊には目をつぶっているように思われる.おそらく,相当な環境破壊が,既に中国で起こっているように思われる.
これら,アメリカと中国が環境問題に真剣に取り組むことがない限り,おそらく地球の温暖化は止まらないだろうし,それはそのまま,ヒトを含む多くの生物の絶滅につながるに違いない.そして,そのうちに,温暖化後の地球に適した生物が繁栄することになるのだろう.
僕は現在,アパートに駐車場がないため,路上駐車しているのだが,先日,ワイパーのところにViolationと書かれたオレンジ色の紙が挟んであった.通常,違法駐車をした場合,オレンジ色の紙がワイパーに挟まれており,ケンブリッジ市に罰金を払わねばならない.僕が車を停めている場所は,違法ではないはずなのに,おかしいなあと思って,挟まれている紙をよく見たら,それは違法駐車のチケットではなく,環境保護団体がチケットに似せて作った紙で,そこには「SUV車(僕はToyotaのRav4に乗っている)は環境に悪いから,ハイブリッド車に乗れ」と書かれていた.
環境保護団体のメッセージは,どうしても説教じみたものになりがちであり,なかなか皆,耳を傾けようという気にはならない.生活習慣病になっている人に「あれを食べるな,これを食べるな」という医者のようなもので,「そんなこと,分かってるよ.うるさいなあ」と言いたくなるのが当たり前ではないだろうか.五体満足に生んでもらっても,その人の弱い部分が引き金となり,死に至る人は多い.生活習慣病もその一つだし,煙草の吸いすぎでガンになる人もいるだろうが,だからといって,そのことでその人を責めることは,果たしてできるだろうか? 人というのは,そういう生き物ではないのか.人は,自分ができることでは簡単に他人を責めることができるが,自分が守れないことに対しては、「いいじゃないか,そのくらい」と思うものではないだろうか.
やはり,僕は法的な規制以外に,環境問題を解決する術はないのではないかと思う.上に挙げたViolationの札はシャレていると思うが,拘束力はない.僕もこれを見たからといって,車を買い替えるかというと,申し訳ないが,その予定はない.第一,それだけのお金がない.やはり,法律で規制されない限り,実際の行動に結びつけることは無いのではないだろうか.
* 「雄」クンの提言は、たいへん難しい、大事なところへ及んでいて、本気で考える人には議論のわくところだ。「環境」問題は、個々人の善意と聡明とに発する賢い行為で動くかも知れないが、ほとんど効果が上がらないかもしれない。そういう個々人の行為もとても大切だけれど、これだけは、政治力と法制とがタイアップしないとグローバルな改善へはとても結びつくまいとい気が、個人的にはしている。「雄」クンもそうらしい。
人類は予想外にはやく滅びるであろうと、わたしは悲観している。人類にはそれを地球規模でくいとめる政治的な聡明が無いであろうと、今のアメリカや中国や日本やあれこれを観ていてムリだなと想う。残念だが今希望は持てない。
2007 8・20 71
☆ お休みのおじさんファッション 麗
昨日まで,我が家には無関係だったが,世間的にはお盆休みだった。
新幹線のホームや空港や道路や行楽地ばかりが報道されたが,我が家の近所,書店やレンタルDVD店やスーパーにも,「私服」の中高年男性があふれ,行き交っていた。彼らに目を向けるたび,
「背広を脱いだ日本の男性,もっと素敵になってほしいなぁ。」
と思えた。何かしら,所在無げな印象を与える方が多いのだ。
偏見かもしれないが,街行く中高年男性で,おしゃれ! という方は,そうはいないように思われる。若い頃は,髪型や服装に高い関心を払っていただろうに,就職すると,背広以外の「私服」が決まっている,という男性には,あまりお目にかかれない。お盆休みは,ファッションセンスがバレバレになる時期であるが,それに気づき,意識している男性は,果たして,どれほどいるだろう。
最近は,クールビズやウォームビズなど,背広という型にはまった男性が,個性という型に出でるのを,試される機会も増えている。ピーコやドン小西が鋭くチェックする対象は,ギャルやマダムに限らず,お盆の時期は,中高年男性に絞っても面白いかもしれない。お盆休みでTVを見ていたら,自分と大差ないのがいろいろチェックされている。そんな光景に,いささか意識も高まるのではないだろうか。
いえ,お仕事で大変なのはわかりますよ,でも,「あっ,素敵な男性(ひと)!」という視線を感じることで,明日への活力も湧いてきません?
以上,街行く素敵なオジ様で目の保養をしたいなぁ,と思うオバさんでした。
* 困るなあ、こういうオバさん。
☆ 夏祭り 巌
親戚が取りまとめ役になっていて ぜひおいでとお誘いを受け 近くの当尾小学校で行われた、子供向けの夏祭りに家族で行ってきた
いろんな出し物もあり 「おかげ踊り」という 幕末の ええじゃないかのおかげまいり の名残のものも この時初めて見た。
猿害に苦慮する大人住民を前に 演じられた猿回し 親方は過去に吉本新喜劇で活躍されて 被害にあっている世代はみんな知っていた人気者。この親方は 被害の事も知っていて 少し前口上でも触れられ 皆苦笑しつつも 猿の藝は目出度き物で 親も子供も拍手喝采。
この当尾小学校 在校生総勢32名という状態ではあっても 内戦の続いたカンボジアなどへ児童書を贈るボランティア活動を行うなど 視野の広さを持つ事での地域の核ともなれている でもこのままでは存続も難しい。
住民を増やす事は 簡単にはいかないので 「小規模特認校制度」の適用による広域からの学童受け入れを並行し推進しているグループもあり その方(実はうちの店のお客様でもあり)とも 従姉を交え そこで今後の町興しの事へ少し話しもできた。
最初 小学校に着いた時はまだ設営中で 始まるまでに一時間ばかりあったので 近くにある母の実家でお茶を頂いて時間待ち。
子供達はそこへは初めてで アマガエルが部屋に入ってきたりするのがめづらしく よろこんでいた。
* 旧当尾村には、浄瑠璃寺 岩船寺 また石仏などがある。わたしの初期小説で、語り手に「当尾宏」という少年や青年のあらわれるのは、巌君の掲げている写真の家、巌君の「母」なる人=わたしの叔母の実家、わたしの実父の実家でもあった家で、ごく幼年期の二三年? を暮らした記憶に拠っている。ほかには何も知らない、こうしてそれとなく教えてもらい、ああそうかそうかと想っているばかり。
☆ 敦盛そば@須磨浦公園 直
平敦盛を供養するために建てられたと言われる大きな五輪塔がある敦盛塚に寄った。
山陽電車須磨浦公園駅からに西に5分ほど歩いたところに敦盛塚がある。
その手前に平成十七年四月から十年ぶりに再開された「敦盛そば」が佇む。
平敦盛は、平安後期の武将で笛の名手と伝えられる。一ノ谷の戦いで熊谷直実に討たれるが、このとき敦盛は弱冠十六歳だったので一層の悲しみを誘うこととなった。
もともと店は戦後間もなくに開店し名物そば屋として知られたが、先の震災で閉鎖になっていた。
敦盛塚に人が来ても、何もないのは寂しいと再開になった。
平敦盛を偲んで、ひさしぶりに敦盛そばをいただきました。
* 敦盛と聞くと懐かしい。『修羅』や『能の平家物語』で表紙写真や口絵につかった面「十六」の苦心の撮影を思い出す。蕎麦が食べたい。須磨焼という珍しい窯がむかしあった。それだと箱書きのある面白い茶碗を祇園石段下にあった茶道具屋でみつけ、都ホテルでの叔母の茶会、能松風の趣向のために買ったのを思い出す。その茶碗はアメリカの友達に進呈した。
2007 8・20 71
* 少し続けて「横綱・朝青龍」の鬱陶しさや弱虫ぶりにジレていた。その部分を「mixi」に送り込んでいたら、それぞれにコメントが来ていた。数少ないのであるから反応一般とはいえないけれど。
☆ こんばんは。「困るなあ、こういうオバさん。」です。
上の(朝青龍関の)お話,冥界のわが祖父に,私の「部屋」に来てもらったら,どんな話が出来るかな,と思いました。
祖父は,大正時代,平幕の関取でした。高校時代に大学相撲と某部屋から誘われ,本人は進学するつもりでしたが,実兄が親方に篭絡され,支度金を in my pocket してしまったとかで,入門のやむなきに至ったそうです。
巡業も,外地にまで渡った当時,相撲取りになるにしては「まとも」な家の子だった祖父は,寄ってたかって兄弟子にたかられたのを初めに,世の中の裏の裏まで見ることになったそうです。26歳で馴染みの藝者と「でき婚」したのを機に,さっさと足を洗って「堅気の衆」に戻った…というのは,本人の弁ですが。
さっき,祖父と思しき声が,こう言っていました。
「親方や兄弟子の言うことが聞けねえ様な奴ぁ,さっさと叩き出しちまえ!」
「どうせ,横綱の落とす金が惜しくて,親方も迷ってんだろうが!情けねぇ野郎だ。」
蛇足ですが,祖父は,当時の相撲界に反発し,独自の巡業を打つなどした「天竜」関に同調していたこともあります。 麗
* 男どもの夏場のファッション鈍感を撞いてきた(まだ若い若いらしい)おばさん、から。お祖父さんと話し合う「部屋」とは、相撲部屋ではあるまい、「麗」さんのことだ、わたしが「徳内」さんとよく出会っていた、あのような「部屋」でであろう、懐かしいこと。
☆ 湖様 瑛
13世紀に世界史上最大の大帝国を築いたチンギスハーンの騎馬民族の末裔の国モンゴルは果てしなく広がる草原を連想し、司馬遼太郎の「草原の記」を思い出します。
湖さんの「朝青龍考」を読んで溜飲が下がる思いがします。 さわやかな天声人語を読んだ気持であります(同意だけのコメントで内容に乏しいですが暑気払いができました)。
今日の暑さをものとはせずに過ごせそうです。
2007 8・22 71
* 忙しくしている。涼しくなってくれるといいが。
☆ 「瑛」さんの驥尾に附いてのコメントでございます。 香
ずつと前、お相撲を観る(テレビでですが)のが、好きでした。自分が小さくて力無しですので、舞の海と、あんこ型ばかりの今のお相撲さんの中ですつきりした筋肉質で美男の寺尾が、好きでした。
二人の関取が土俵を去つてから、お相撲に興味を失ひました。たいした相撲ファンではなかつたのです。
それでも朝青龍騒動には、腹が立ちます。朝青龍にも相撲協会にも。
湖さんの「鬱陶しくなってきた」「弱虫」を、弱虫連中(相撲協会も弱腰、弱虫)に叩きつけてやりたい。
2007 8・23 71
* たまたま、こんな一年も前のものを、与えられて読んだ。「木洩れ日日記」。その他の記事も陋劣・卑猥、のけぞるほど嫌らしいが、その汚いクソは曝さない。わたしが読めなかっただけで、読んでいた人は大勢いたのだろうも「知らぬは親父ばかり」であったが、むろん人に聴かされていた。簡単に否定できることは、すでに肖像権の写真も利して、嗤っておいたが、次の、この箇所だけは「mixi」に関わるもの、はっ
きり「★★朝日子」の署名で会員むけに「公開」していた一文であるから、嗤って此処に取り上げておく。
★ 2006年08月31日 17:13 mixi管理者への公開質問状 ★★朝日子
mixi管理者様にお尋ねいたします。
mixiは会員制であることを「安心」として提供しているブログサイトであり、 「本名での交流」を推奨さえしておられます。
ところが、私ども「思香」1507957ブログの大部分は、ある公開HPに無断で流出しています。
「思香」本人の記述のみならず、コメント欄まで、投稿者名と共に、無許可でコピー&ペーストされています。
時には、恣意的な改竄もされています。
問題のHPは、mixi会員である秦恒平、ニックネーム「湖」、ID3099149によって運営されています。
「小説家」秦恒平の宣伝活動を行って会員を募り、自作を通信販売する、れっきとした営利サイトです。
秦恒平は、mixi会員として「思香」ブログにアクセスし、わざと問題を起こして自ブログへのアクセスを増やし、「思香」並びにその友人たちの記述を無許可でHPに取り込み、そのことを逆にmixi内で宣伝して、さらに自HPのアクセスを増やそうと試みています。
「思香」ブログ管理者が「湖」をアクセス禁止設定にしたにもかかわらず引き続き書き込みが漏洩しているのは、mixi会員内に共犯者がいるからでしょう。
残念ながら日に200を超えるアクセスがありますので特定はできません。
「思香」ブログでは筆者の闘病・死去にあたり、大勢の方々からお見舞い・弔意のコメントをちょうだいしましたが、それらがごっそり、営利サイトに「泣けるコンテンツ」として掲げられている様には嫌悪を感じずにいられません。
mixi内のだれがこのような事態を想定して、日々、書き込みをしているでしょう。
これは、mixiの「安心」を揺るがし、本名での交流を阻害する行為ではないでしょうか。
私どもは秦恒平本人に厳重抗議を行いましたが、 「文学活動を妨害する不当な要求」と一顧だにされません。
むしろ、わざと関係者の本名をHPに書き散らすことで、検索エンジンでのヒット数を稼いでいます。
秦恒平は、ペンクラブ理事という肩書きを持ち、「著述活動におけるメディア活用の権威」と自称しているにもかかわらず、自らの営利のために多くのブロガーの「著作権」を公然と侵害し、「会員制であるがゆえに公開されているプライバシー」をも侵害しています。
mixi会員規約を無視し、「会員制」であるmixiにおいて、人々がどのような交流環境を望んでいるか全く理解していません。
「思香」の友人の多くが、「いつあのHPに流出して悪用されるかわからない」と感じ、あるいはワンクリックで自ブログへ乱入されることを嫌い、かかわりを避けるために「思香」ブログへのコメントを控えているのは、当然と言えるでしょう。
mixi管理者におかれましては、
「会員制の安心」を脅かすこのような行為を、どうお考えでしょうか。
「表現の自由」と「ペンクラブ理事」を錦の御旗に掲げその実、mixiにおいて営利サイトの宣伝を打っている人間が、多くの会員の「自由な交流」に暗雲を投げかけるのを、このまま放置なさるのでしょうか。
mixiは「私営」の会員サイトですから、管理者は、断固たる態度によって逸脱者を制限する権限を有するものと信じます。
善処のほど、よろしくお願い申し上げます。
「思香」1507957のページを継承・管理 ★★ 朝日子
* 「法的措置」云々の警告はリフレインのように出てくる。しかし名指しで全く事実無根が具体的にいわれている以上、今も日々に「mixi」を利用している会員としては、わたしにも言い置く権利がある。
* 孫・思香=★★やす香と祖父・私とは、やす香の親たちの知るよりもはるか以前から「mixi」のマイミクであった。しかもやす香は「mixi」に自身の思い病状を書き続けていて祖父母を心配させていた。そして白血病で入院、肉腫と診断換えがされて直ちに緩和ケア、つまり手遅れと治療不可能の判断が為されてきた。祖父母はやす香の貴重な日記を散佚前に保存するのが当然の措置と実行したし、ことに「病脳」の具体的な経過に対しては日記保全が大きな意義をもつと判断し実行した。その引用や援用を大事な時は敢えてしたが、その経緯は著書『かくのごとき、死』が正当に証言している。ぜひ必要なやす香の生きた証跡である以上、故意に文章の改竄などするワケがない。
* アクセスを増やす。そんな無意味なバカげたことにわたしは滴ほどの関心もない。増えれば増えたなあ思って愕いても、足跡は人様がつけられるもの、わたしの関心の外にある。連載してきた作品とのご縁であろう。どんな作品が載っているかも、歴然としている。私の日記の九割以上が小説やエッセイで、余の日記ふうの文章は、ごく少ない。それも何を書いていたかは纏めて判るようにしてある。見れば全貌が判る。
* わたし=秦恒平は、「mixi」に、数えれば去年一年間に数千枚の各種作品を、受賞作『清経入水』はじめ小説、評論、エッセイ、講演、対談等々を、すべて「無料公開」し、「湖の本」も希望者には時として「差し上げ」ているのである。
わたしは原則として、著作権者のわたしが意図し容認している事例である限り、自分の作品にしつこい著作財産権を主張しないことにしている。「パブリックドメイン=公共財」に準じて、作品を広い範囲で無料提供して良いと考えている、当節希有の作家の一人なのであるから。著作・創作は「時代」に書かせて貰った所産。一定の収入を獲たあとは、適切な時期に不自然で著者の過大な負担にならぬかたちで、「時代」に向けてひろく利用されてむしろ自然なことだという思想である。それを「mixi」ででも明瞭にわたしは実践している。
* 話頭を少し転じて、
じつは、わたしも秦建日子も、期せずして、★★家との紛争を、ただ親子血肉の喧嘩とは考えていない。そっちは呆れてしまえば済む。『かくのごとき、死』や仮題未完草稿の『聖家族』や、湖の「mixi」日記や、作家・秦恒平の「私語の刻」へ、意味はよく知らないが「仮処分」を朝日子らは法廷に持ち出した。彼らはそこから「刑事告訴」へ移動し、最終は金で勝とうともくろんでいるのかも知れぬ。推測である。用意もしている。
あるいは、憎い父のわたしを牢屋へ入れたくもあるのであろうが、実は、建日子とわたしが、内心まだ茫漠と考えている「事件の本質」は、そんなものではない。
* この電子化新時代での文学表現や著作の自由が、むしろ拡大より狭小化されて行く傾向がすでに見えている。わたしの前の「ホームページ」の、理不尽な削除や仮処分判決が、よく示している。むしろそれにこそ大きな意味で「待った」をかけ、表現者の活動を法的にも自由で自然な権利としても自衛して行かねばならない、そういう新世紀の運動の「最初の大きな契機」に、この作家・秦恒平の事件を「構築」していっていいのではないか、と、いうのである。
その意味で、むしろ事件自体を、踏み込んで「世」に曝した方がいいのではないか、と。
一例が『かくのごとき、死』のはらんでいる、また「私語の刻」等のウェブでの文藝活動のはらんでいる、「表現の自由の問題」は、他の色々の抵触事項もともども考慮しつつ、むしろ「新時代へ押し出す課題」として、いっそ拡大して宜しいのではないかと。
いわば「これしき」のことで娘が父親を訴えるという、それは前代未聞ではあるがことは「和解マター」に過ぎずに、最高裁まではとても行くまい、行っても構わない。
だが、それではなく、新しい「電子メディア」での「表現の自由」か「法的規制が先行する」のか、それが本当に「前代未聞の文学や表現者の問題だ」と、そう、父と息子とは同じ思考の先で、今しも確かに触れあっている。
* こういうつよい話題で、父と子とが本気で交叉しえたのは、実に「初めて」のことだった、とても頼もしかった。
2007 8・25 71
* この機会に、ハッキリさせておく。
わたしの「私語」は、いつでも、のちのちまでも気をつけて、文章として落ち着きまた文意の通りやすいように「推敲」されている。プロの表現者には当たり前の覚悟、不可欠の作法なのだから。
だから、こう諒解していて欲しいと、いつもアクセスされる方には願っている。
この「第一ファイル」は、忙しい「書斎・仕事場」に相当している。此処では変換ミスもいとわず、いわば「初稿」を創っている。そして例えば現在只今、今月八月分にかんしていえば、やがて専用の「第七十一ファイル」に、日付順に直して、文章もつとめて推敲されて慎重に保管される。いわば作品の「第二稿」に事実当たるけれど、作家は、推敲を極端にいえば生涯かけて行うから、気づいた限り何十年前の作でも、推敲はされて行く。著者自身で自身の作品に飽くことなく手が入るのは、当然の働きで、他人からの「改竄」とはちがう正当な仕事である。誤解のないよう、明記しておく。
少しでも良い文章のためには、字句の斡旋は心ゆくまでする。しかし文意は改変しない。例えば一過性の機械事故のような、時を経れば無意味な記事は削除もする。そういう取捨も著者の当然の働きでありる。これを「改竄」など間違った語彙で間違える人がいると、迷惑である。
* 「私語」の読者は、秦さん、また大きく逸脱してきた、変転したと思われるだろう、が、わたしはわたしの「今・此処」に、まっすぐ向き合って行く生活者で表現者で、それが秦の基本のが在りようと見て下さるなら、秦の、このところ、またこれからの毎日は、「外」からの、とても善意とは言われぬ侵害に揺れているものの、どう「内」なる思いで咀嚼し濾過して行くか、それを、見ていてやろうと思っていただきたい。
* だいじなことは、妻もわたしも「静かな心」で日々を送り迎え、「かかるものの餌食とならず」生きて行くこと。
死ぬぐらい簡単なことはない、わたしは日々にその正確で簡単な手段すら与えられている。だが、われわれ夫婦は「死ぬまでは生きて行く」気だ、当然だ。
* 明日朝、難しい日程を割愛して、秦建日子も法律事務所との打ち合わせに参加してくれる。場合によってわたしの代理として法律事務所と全接触してもいいかなあ、その方が弁護士も歓迎かなと笑って昨夜言っていた。なるほどそうかも知れない。おやじは法廷とは「無関係にしていていいと思うよ」、とも。
2007 8・26 71
* 本日、事件を担当する法律事務所より、私の婿・★★★(青山学院大学教授)・私の実娘・朝日子(町田市主任児童委員)夫妻の提起した、舅・実父秦恒平 (太宰賞作家・日本ペンクラブ理事、元東京工業大学教授)への訴え、すなわち夫妻の社会的声価をおとしめた秦の著作・創作『書くのごとき、死』や小説『聖家族』による、「名誉毀損」その他各種財産権(生前の孫からの日記・メール、また娘の作品の引用等の著作権侵害、また娘や孫の写真をウエブに利用した肖像権侵害等々)の侵害を咎める訴えに関しては、裁判所判定の出るまでは、今日以降、この「私語」にも、「「mixi」にも、要するに、「書かない」ようにと「指導」があって、従うと決めたことを、此処で、このサイトへ日ごろアクセスして下さる方々に、お伝えします。
* なお、裁判に関しては、息子・秦建日子(小説家、劇作・演出家・脚本家等)が、父に代わって法律事務所との折衝に任じたいと本人の提案があり、感謝してわたしは従った。法律事務所も受け容れてくれた。息子は、後の仕事で一時前には退席し、わたしは三時まで居残って担当してくれる主任弁護士の質問に答えていた。
* わたしは「法」という乾いた価値観や概念の前では、文学者の内なる思いも表現も、創作者の強い動機も、あたかも「一片の紙くず」のようであることを、今はよく思い知っていて、しかも、あくまで創作者である自分が曲げられない。そういう男は、法律家は難儀で扱いにくいのも分かる。
秦建日子の親切で思いやりに溢れた代理の提案も、それに快く賛同してくれた法律事務所にも、感謝している。
* それにも関わらず、物書きであることに命を賭けてきた者が、片々であれ大事であれつまりは「書かない」約束に応じたというのは、「自死」に等しい実感である。「恥ずかしい」退屈である。
* かつて柳美里さんの表現が法廷で争われていたときも、わたしは、サンケイ新聞にかなり大きく発言の機会があった。無意味に人を傷つけるのは問題の大きいこと勿論である、避けるべきである、が、もし書き手が命に替えても、たとえ牢屋に入れられても、そう書かずに済まぬ、と考えたのならば断じて「書くべきである」、それが作家・創作者の「生きる」ということだ、と、書き手の誠実な覚悟をつよく求めた上で、容認し、肯定した。わたしの実感である。むずかしいことではあるが、今もそう思う。
* そのわたしが、『かくのごとき、死』をウエブに書き、「湖の本」にし刊行したのは、「これを書かずにどこに作家が生きるのか」という覚悟であった。
二十一世紀の新しい私小説の探求でもあり、同時に人間の日々の「今・此処」を、極限の緊張や情理の中で、いつわりなく書き切ろうとした。
ところが、その本が主に問題とされ、結構な知識人でもあるだろう実の娘や婿が、実の父・舅を法廷に「訴えて出る」(この言葉を法的厳密に用いる力はないのであるが。)という、文字通り物凄い事態に立ち至ったのは、なによりも「文学表現」のためにわたしは傷ましいと思うのである。
この是非は、しかし裁判官よりももっと適切に最終的には「読者」が判定されるだろうと信じている。わたしには「読者」「知己」が大切である、法廷の判断よりも何倍も。
裁判の裁定には、失礼ながら多くは期待できない。譬えて謂えば、千に九百九十九の真実の愛や歎きの文章が溢れていながらも、ある一箇所に「こんなバカげたことが」と仮に書かれていると、その「バカ」という一語だけその箇所だけで、もう名誉毀損や誹謗や中傷や人権蹂躙だと言われてしまうらしいからだ。なにをか言わんや。人間の自然と精神の自由を大事に思う藝術家は、法の前のそういう真情や誠実の紙くずなみに扱われるらしいことに、思わず大笑いしてしまう。
* そんな次第で、今日以降、「私語の刻」には、ある種の記事は「書かない」と約束してきました。みっともないが、ご理解下さい。それでも、書くだろうかなあ。
2007 8・27 71
☆ 山火事 清
昨日は安部内閣の組閣のニュース、いろいろな解説やコメントを斜に構えつつ流すように聞いていた。
今日はあまりに胸潰れる重い事柄に耐えるべく、時間が過ぎていくのを見守るように息潜め暮らす。
やや暗い雨の午後。昨日までは体に堪える暑さが続いていた。
晩夏、秋雨前線の北側には秋があります・・と天気予報の若い子が言っていた。
例年になく調子が良くなかった体調にイヤでも年齢を意識する。午後になるといつも横になって暮らしてきた。
BS放送で連日ギリシアの山火事のことが伝えられている。火の手が近づいていると危惧された遺跡はかろうじて難を逃れてい
る。既に60人余りが火事で亡くなった。確かにこの夏の暑さ、ヨーロッパのイタリアやギリシアでは殊に七月気温は40度を越えた。確か46度、47度あたりの気温。既に八月の終わりになって、いつからか知らないが地中海の周りでもかなり涼しいとも聞いた。
では何故まだギリシアの山火事か。ギリシアの山火事は放火によるものだという。火を放つ、その行為がどのような結果を招いていくか、十分知りながら、むしろ嬉々として火を放っていく人たち。不気味な笑い、ひたひたと陰湿な足音。舞い上がる焔になぎ倒されていく木立や草、呆然と立ち尽くし泣き崩れる人たち、山火事は自然環境の必ずしも豊かでない山野を、ギリシアの人々を窮地に陥れていく。
人間を限りなく偉大な生き物と思うと同時に、限りなく悪意に満ちた生き物とも、思いたくないが、思わせられる。
* 頼まれ原稿を書き上げ、送稿。
題は、「死なれて・死なせて、死ぬとき」 久しく、人は生まれ、死なれて死なせて、生きてゆく、と書き続けてきた。だが、そのあとに「死ぬとき」が来る。自明のこと。これまでは気も若く、そこまで言えなかった、言う必要もなかった、が、もう、いいだろう。
2007 8・28 71
☆ 悲しい日も,楽しい日も,人生。 麗
路上にチョークで大書してあった。夕暮れ時,郵送する書類を抱えて郵便局に向かっていたときのことだった。
顔を上げると,小学生くらいの男の子が数人,外遊びに興じていた。死語になりつつある「ギャングエイジ」が,ここでは生き残っている。そんな光景だった。
「貴方たちが書いたの?」もう少しで聞きそうになった。
悲しい日も,楽しい日も,人生。
このことばは,彼らの心の琴線に触れたのだ。無邪気な笑顔と泥んこほっぺの奥に,繊細な感性が,ちゃんと育っているのだ。
何も言わずにその場を離れた。夕風と虫の声が涼やかに流れてきた。
* 胸にしみ入った。感謝します、麗さん。
2007 8・29 71
* 理由が分からないが、ホームページの「私語」が、機械を触っている内にこの第一ファイル以外、全面消去の状態になってしまっている。差し迫っては困らないが、また誰かに教わって回復できるようにせねばならない。むろん、本文は別に保管してある。ほんのちょっとした何かの誤作動をわたしがしてしまったのであろう。
幸いこの欄は使用できる。
人手を頼んで構築されたホームページだから、数次増築された建造物のように古い建物が残っていて、メニュでは同時に別々に現れてきたりする。削っておいた筈のものが、別のところにはそのまま残っていたりして、びっくりする。
2007 8・30 71
* 九月になった。
* 朝一番、亡き麻田浩画伯ご子息のマイミクのお誘いが届いていた。「mixi」にはこういうことも、ある。よろこんで、ご縁をまた深めたい。
ご両親とも「湖の本」の有り難い読者であった。画伯には、星野画廊で繪を買うときによこで助言と太鼓判をもらったり、奥さんには、秦テルオの講演会場においでいただいたりした。疏水の流れ、白川のせせらぎを眼裏におもう。
☆ 秦 恒平先生 突然のメールをお送りする失礼をお許しください。
私は麻田浩の倅の**といいます。
偶然、先生をmixiで見つけまして厚かましくも
マイミク申請させていただいています。
両親とも亡くなりましたが
これからもお付き合いいただけると嬉しいです。
まさか先生がmixiをやっておられるとは思わず
びっくりしました。
現在、京都近美(=近代美術館)で浩の回顧展をやっております。
遠いですが、時間があえば観ていただけると
光栄です。
PS 気が向けばマイミクになっていただけると
嬉しいです。日記では馬鹿なことばっかり
書いており恥ずかしいのですが。。。
* もうわたしの学生ともいってられない親戚のひとりのような**君も、「mixi」を訪れてくれて、早速「マイミク」の約束をした。ビビッドに日々の仕事のみえる日記を書いている。官僚君、そこまでシャキシャキ書いてくれて、有り難いけれどもいいの、ダイジョブかいと心配もしてしまうほど。
ま、そういうところはよほど慎重にこっちで気を配りましょ、と。で、少しのどかなところで。
☆ 金曜日 司
今週末は、妻の両親を連れて野球観戦をメインとした1泊2日の小旅行。
と言っても私が毎日通っている職場周辺に来るだけなのですが。
義父が根っからの野球好きで、ちょうど土曜日にデーゲームがあることもあり、(産休後の=)妻の仕事もまだまだ本格稼働していないようなので、少しのんびりとしようと思っています。
野球の方は、1歳と3歳の子連れなので、2時間持つかなぁ、1時間かなぁと・・・。
こんな機会も滅多になく(私も20年振り位だと・・・)、遠くで何やっているか分からない様な席だと、子供達も余計に飽きてしまうと思って、一番高い席を買ったんですが、まぁ致し方ないですね。
* あの子たち。ますます可愛くなったろうな。
2007 9・1 72
☆ 男の脳 女の脳 ハーバード 雄
今朝,最新刊のネイチャーを見ていたら,同じ学部のCatherine Dulacのラボからの論文が掲載されていた.
Dulacは現在学部長を務めているが,ぱっと見はタダのオバサンである(ホームページの写真と,あまりに違うので,時々うちのラボに顔を見せるおばさんが,まさか,あのDulacだとは思わなかった).
今回掲載された論文の内容は,「メスのマウスからフェロモンを感知する能力を取り除いてしまうと,オスと全く同じ性行動を取るようになる」というもの.詳しい内容は,このホームページに,よく纏められている.http: //rate.livedoor.biz/archives/50403264.html
Dulacは,嗅覚系に関する研究で少し前にノーベル賞を受賞したRichard Axelのラボで、ポスドクとして在籍していたことがあり,マウスのフェロモンの研究を中心的に進めている.
人のフェロモンはまだ完全に明らかにはされていないし,存在そのものを含めて,まだ確定的とは言えないが,マウスではフェロモンの存在ははっきりと確かめられているし,どこでフェロモンを受容するのかも分かっている.マウスの鼻には,匂いを感知する嗅上皮の他に,鋤鼻(じょび)器官といって,フェロモンを感知する部分がある.
Dulacらは,数年前に,TrpC2という名前のイオンチャネルを生まれつき持たないマウスを作った.このチャネルがなくなると,鋤鼻器の神経細胞が,フェロモンを受容しても活動しなくなってしまうため,フェロモンの情報が脳に伝わらなくなってしまう.したがって,脳の回路の配線そのものは変わらないのに,電源そのものが入らないので,結果的に回路が全く働かなくなってしまうのだ.
このマウスの行動を調べていて,著者らは面白いことに気づいた.
普通,オスのマウスは,メスのマウスと同じ檻に入れると交尾をしようとする.逆にオス同士を同じ檻に入れると激しく攻撃しあう.ところが,TrpC2を生まれつき持たないオスの場合,中にいるマウスがオスであろうとメスであろうと構わず交尾しようとするらしい.フェロモンを感じられなくなってしまったオスは,相手の性別に構わず性行動を取ろうとするらしいのだ.
前回の論文ではオスの行動に焦点を当てていたが,今回の論文によれば,どうやらメスの行動もおかしいらしい.詳しくは上記のホームページを参照して頂きたい.
この中にも書かれているように,この論文が面白いのは,鋤鼻器という,情報の「窓口」が働かなくなるだけで,行動パターンがメスからオスになる,という点だ.このことは,メスの脳にはオスの行動回路が生まれつき備わっており,鋤鼻器によって普段は抑制することでメスとしての行動パターンを取らせている,という可能性を示している.
よく「男は地図に強いが女は弱い」とか、「男に比べて女の方が,語学能力に優れている」などと,男の脳と女の脳は区別されがちであるが,実は入口そのものが違っているだけで,脳そのものはそれほど差がないのかもしれない.
* しばらく「雄」クンの日記も、目を通すのがセイいっぱいだったが。楽しみました。
2007 9・1 72
☆ エアコン除湿水逆流の原因ははっきりしません、ドレンの出口に虫が入ったのかも知れないと、そういう例がこれまでにあったと、サービスの人が言っていました。
今日は午後になって陽が出てきました、風があり、湿度が下がっているみたい。秋めいて来ましたね。
今朝は、防災訓練があり、近所のスーパーの駐車場に集まりました。久しぶりにご近所の人たちみんなの顔を見ました。立ち話して解散、という、緊張感のない訓練でしたが、こちらでは来る来るといわれている東海沖地震を、みな意識して生活していますよ。
作家の全集は、嵩張りますね。揃えたくても、住宅事情が許しません。日本人は、みな小さい家に住んでいて、家に本を好きなだけ置けないのではないか、それが、本の売れない理由のひとつになっているのではないか、と、本気で思います。読みたい本が家にあったら、どんなにいいだろうと思います。でも、思い通りにはいきませんね。「荷物を増やさないで」と、家の人に言っている手前、自分だけどしどし蔵書を増やすわけにはいかず・・・ウーン。
川上弘美の小説が、わたしは好きです。創作のことを考えるとき、いつも頭に浮かんで来ます。「あんな風に書けたらいいなあ」と。でも、実際自分で書いてみると、違います。持ち味(というのもおこがましいですが)違うのでしょう。
風が谷崎の『吉野葛』や川端の『山の音』に感心しながら、ご自身の小説を書かれたように、道はある、と思うのですが、具体的な道が見つかりません。
風、目薬や抜歯など、お大事になさってください。脚の痛いのも、ようすを見ながら、回復していってください。
きのう、風の無事なメールが来て(私語も更新されてい)、ほっとしました。花がそういう気持ちでいることを、伝えたいだけです。 花
*どういう操作からそうなったか分からぬまま、愚直に、もとどおりに訂正して行き、現在、わたしの『闇に言い置く 私語の刻』は「71」のファイルの全部が復活している。全部の「ダウンロード」保存を希望されている読者が何人も復旧を求めてこられ、技術いたらず難渋していたが、コケの一念よろしく時間をかけ、やっと全面回復させることが出来たと思っている。
錯覚かも知れないが。これの「全削除」を暴行した「ビッグローブ」への抗議はすさまじく、この問題で通産省で話し合ったときも、また専門家を委員会へ呼んだときも、あまりに無茶なやり方だと、そんなことがあり得たのかと容易に信じて貰えないほどであった。そして、適正な法改正が必要とは、多くの識者が当然視している。
* 追い追いに、ここ暫く手をかけられなかった「e-magazine 湖(umi) = 秦恒平編輯」の再度新たな充実を図っても行きたい。掲載を希望されている寄稿も投稿も溜まってきている。
2007 9・1 72
☆ 緑 司
午後から市内のある開発についての議員説明。
メインは開発計画の中身についてで、私は風致地区関係のみの担当ということで気軽に行ったのだけど地元の人も居て、ちょっとびっくり。
概して、よくあるパターンで、「高さをもっと低くできないのか」「緑をもっと残せないのか」等々。
こちら側も、制度概要を説明して、その制度に則して計画手続きを進めている、ということでこれもよくあるパターン。
ただ、基本的なスタンスは地元の方々と行政とでは同じ方向を向いているので、あまり対立的になることもなく建設的な意見交換・情報交換ができたのでは。
まだ先の計画案なので決まっていないことも多く、今後行政からも事業者に確認すべきこと、指導すべきこととして終了。
緑を保存する話は、全国的にも色々話題に上ることが多いのだけれど、ホントに難しい。
ただ「保存、保存!」と言うは易し、行うは難し。行政には緑地を買うお金もなく、仮に買えるお金があっても、維持管理の費用と人手間まで措置できる事はほぼ皆無。
かといって、土地を持っている人にその費用と手間を負担させ続けている今の状態は早く解消しないと問題の先送りでしかなく、将来的に全面的な開発計画に発展する可能性が高まるだけ。結果、今、事業者に対してある程度の開発を許容しつつ、残りの緑を担保させる、という手法が取られることになるのだけど、緑地の部分を沢山残しつつ、事業採算性を上げるためには、狭い土地に高い建物を許容してあげないといけない・・・とこうなるわけで。
行政だって緑は残しておきたい、でも・・・・というこういう上の様な状況を理解して頂いた上で議論ができれば、税金や管理方法などについて結構色々なアイディアや方策が見えてくるのだけれど、上の様な状況を理解していない(とにかく「高い建物はダメだし緑も全部残せ」という議論)方々とは、なかなか折り合いがつかない。
たぶん、ここ半年から一年以内に同じ様な(というより、もっと規模の大きい緑地を開発する)話が2件ほど予定。ただ、ここまで大きい話になると、行政としてのスタンスが問われることにもなるので、トップ判断で「緑地を保存しろ」という事にもなることもある。個人的には、それまでに開発されてしまった小さい緑地も残したかったなぁとは思うのだけれど・・・。
* たぶん勤務自治体の「議会」から、発語してもらっているのだと思う。何処のということは、言わずにおく。この人らしく、いろいろに努めていてくれることを、わたしは微塵疑わない。頼もしい地の塩である。
2007 9・5 72
* メラニー・グリフィスとドン・ジョンソンの、それにイライジャ・ウッドが事実上の主役をする『パラダイス 愛に翼を』を、わざわざ選んで観ていた。
淳で、柔らかくて、温かいものが、観たい。欲しい。そう思って。
心優しい、ほんとうに天国のような佳い世間だ。最後に、泪が来た。泪はある種の目の病にわるいと、落語で聴いた。右目尻の、かすかにだがニチャついて霞む不快感が、なかなかとれない。
2007 9・5 72
* こんなのが読めて、気が和む。
☆ 吉井勇 純
小さな子どもが川で遊ぶのを眺めていて、ふと思い出したのです。
枕の下を川が流れていて、その音がするのだ…
寝ている間にも。。
小説だったかしらん。
博覧強記の先輩が 吉井勇だよと指摘して下さいました。
かにかくに 祇園は恋し 寝るときも 枕のしたを 水の流れる
あっ、そうだった、と思って少し恥ずかしく思いました。
夏の思い出です。
* 流るる だろうかと思います。でも、「寝るNERU」との響きあいでは「流れるRERU」が正しくも思えます。文語歌にあえて口語をまじえ、歌人であった国語の先生に、その方がいいといわれたこともあります。けれど「寝るNURU}「流るるRURU」が作者の正しい音楽のようです、やはり。
この歌碑の据えてある祇園白川から、小走りに一分ほどの新門前通りで育ちました。
歌碑のこの位置で、(まだ歌碑は今のように出来てなかったけれど、)戦後の新制中学に入ったばかりのわたしは、ロケーションに来ていた美空ひばりを、手の届く間近で「見」ました。「ちっこい、黒い、雀みたいなやっちゃなあ」と思い、それは、ほとんど初恋でした。
あの白川は、むろん戦争前は両岸に茶屋がひしとならび、川面は、辰巳橋の上に立たぬ限り見えませんでした。橋をわたって母と祇園の銭湯に通いました。松湯、鷺湯。女湯には、出勤前の舞子さんが大きな髪の頭を、ぷかぷか浮かべていました。脱衣場には芸子舞子の名を紅く染めた団扇がいっぱいかかっていて、それでヒラガナなど覚えました。
お元気で。 また、おしゃべりしてしまいました。 湖
2007 9・6 72
* 芯の髄が傷んでいるのか、気を励ますのが、なかなか難しい。なさけないのである。
* 新しい太宰治賞の受賞者だという人が「足あと」をつけていた。おめでとう。いい作を創りつづけて下さい。誰にどんな作品で授賞したとも何とも、連絡が有ったのか無かったのかも分からない。
2007 9・6 72
* 教室以来、仲良くしてきた卒業生が、また新たに二人、マイミクに。「湖」をめぐって、新しい静かな出逢いや交流があればいい。母校の、東工大の、京都の、ペンの、湖の本の、そして「mixi」で出逢ったひとたちの輪に柔らかに包まれている。輪は、自然に生まれてくる。
☆ 開発 司
昨日の午後は、駅前での再開発事業を目指している地区での地元個別相談会へ。
駅前広場も小さく、進入路でバスもすれ違えない様な昔からの街。近年、周辺の丘陵地での開発に伴って人口増大、結果、朝晩の駅前は事故が起こらないのが不思議な程の混雑。
そんなところでの再開発計画なので、基本的には地元も総論賛成。
「再開発は良いけれど新しいビルのどこに店を構えられるか分からない。リスクが大きいからやだ」→「(うーん、もっともですねぇ・・・)でも、駅前がこのままではまずいでしょ?」と。
「再開発に乗るより、隣のビルと一緒に建て替えちゃった方が早いんじゃない? 立地も変わらないし。」→「(そりゃそうですけど)再開発でやると、色々と補助金が貰えますよ」と。
これまで何十年も再開発の検討をしてきて、そのたびに「再開発とは」という説明を受けてきている方々なので、再開発事業の事はよく知っておられるんですね。だから、すごい「ごもっとも!」というご意見が多くて、こちらもあの手この手(というと言葉は悪いですが)でご説明。
ただ、最終的にはそれぞれのご判断なので、ダメならダメでその意見を反映させた再開発計画に修正しなければいけない。行政としては、どの時期にその最終判断をするのかの見極めが重要。同意が少なければ、再開発自体を止めるという選択肢もあるし、一部区域を変更するとか、あるいは、じゃぁもっと時間をかけて引き続き説明しようかとか。極端に言えば、道路と駅広は必要だから再開発ではなく道路事業などで(半ば強制的に)やっちゃおうか・・・とか。
その辺の判断をするのはまだ先なのだけれども、やるからには出来るだけ色々な人に賛成をして貰えるようにしたい、というのは私たちも地元の人も一緒。このスタンスさえ間違わなければ、大丈夫と思います。
将来、あの街を訪れるのを、実は今から楽しみにしています。
2007 9・6 72
☆ 合唱 ボストン 雄
昼過ぎにパソコンで作業をしているとメールが入った.3月頃にコンサートに行った合唱団の団長からで,今日から練習が始まるのだけれど,良かったら来ないか,とのこと.
夕方3時からボスとのミーティングがあるが,その後はハーバードスクエアにあるKinko’sに行かねばならず,その後には受け取り損ねた郵便物を受け取りにセントラルスクエアの郵便局まで移動しなくてはならないので,そのまま練習に参加してみることにした.
グリーンラインCラインのWashington squareから2つほど先に行った駅で下車し,向かいの教会に行く.最初,入口が分からず右往左往してしまったが,教会そのものではなく,横の建物であることが分かり,そちらに向かった.早く着きすぎたので,僕が最初に着いたメンバーとなってしまった.
その後,女性の方が来られたが,この方も初めてとのこと.しばらくして,演奏会で見かけた白人の男性が来たので,地下の練習会場に降りる.
今日の練習は,森山直太朗の「虹」を合唱用にアレンジしたもの.去年の合唱コンクール中学生の部の課題曲だったとか.
いやあ,難しい.久しぶりのせいもあって,高い音域が全く出ないし,テンポにもついていけない.原曲を知らない上に譜面を初見で歌ったせいもあるが,全くついていけない.なぜか胃と背中が痛くなる.
休憩を挟んで,またも練習は続く.休憩の間に,色々な人が声をかけてくださる.僕以外にも見学者は大勢来ておられたのだが,男は僕だけだったせいか,やはり目立つのだろうか.特にベースは不足しているから是非入ってくれといわれるが,全く音量が足りないし,足を引っ張るだけなのではと恐れている.
練習終了が9時.グリーンラインに乗って帰路に着いたが,途中から野球観戦を終えた人達がどっと乗り込んできて,満員電車になってしまった.
2007 9・6 72
☆ 台風の夜 松
今日は台風が迫っていて富士市はすごい雨と風。
車の運転も見通しが悪くてこわいので、夕食は冷蔵庫と相談して作った。明日は東京出張。天気は回復するだろうか。
【今日の音楽】 ドヴォルザーク、 エルガー チェロ協奏曲
早世したチェリスト、ジャクリーヌ デュプレの演奏で聞いた。ドヴォルザークはいい演奏なのだが、オケの音が入りきらず、バリバリと音がして聞きにくい。
エルガーのチェロ協奏曲の録音は、いつになってもこの演奏が最高だと言われている。自分自身何度も聞いてしまって、他の人の演奏を聴くと違和感がでるぐらい。
それくらい若いデュプレはエルガー晩年の作品にのめりこんでいる。老人の繰言のような哀愁ただようメロディと、昔を思い出してふつふつと盛り上がってくるような情熱的な部分と、どこをとっても作品にぴたり、とはまっている。
途中高音部で歌うところなど、狂気すら感じられるほど。
最後の部分は人生の決別のように終わる。
たまにしか聞かない重い曲だけど、やはり名曲、名演奏。
* きみの、「mixi」で聴く初の述懐。歓迎。新しい職場には馴染んで来たろうか。健康でありますように。
* 北海道の「麗」さんも胸に迫る日記を書かれている。が、わたしはいま、書き写し読み直す元気がない。いま、わたしの肌も神経も、出雲の兎のよう。落ちてくる焼け石をだきとめていた、あの若い弟神のよう。それでもその兎は癒された。それでもその神は癒された。
わたしは癒されたいのか。それとも癒えるまではどんな苦痛にも耐える気か。
* 永い生涯に、ああ羨ましいと思ったことは、幼時から近時までむろんいくらも有った。だが、なかでも印象的に忘れられずにいるのは、「団蔵入水」であった。歌舞伎から身を退いた老優は西国遍路に向かうと告げて旅立ち、そして誰知らぬうちに船から消えていた。わたしは、何度もその静かな最期を想った、一つの事実として。
団蔵の最期は、わたしが「清経入水」を書いたよりアトのことだ、記憶ではそうだが、いま確かめることはできない。あの浩瀚な平家物語のなかからとりわけて自分があのような公達清経の入水死に真っ先に筆をつけたことが、なにやら意味ありげに団蔵の死に受けた羨ましさと重なって思い出されるが、たぶんわたしは、そういう真似はすまいと想う。ただ、ともに羨ましかったということは、消え去らない。
映画『グラン・ブルー』に魂を鷲づかみされるほど共感し、あの真の闇の海底に帰って行く主人公を、わたしもまたあの彼を愛した女と同じ思いで見送ったことが思い出される。羨ましかった。たしかあの女は男の胤を宿していた。わたしもまた何かしらそういう胤を自身の身内にまだ胎動のように感触しているのだから、死ぬわけには行かないのである。それだけのことであるが、それだけが大切だとは知っている。
2007 9・7 72
* 帰ってからの何時間かインターネットが不調だったが、『梁塵秘抄』を熱心に校正しているうちに、ふと目をやると復旧していた。ありがたい。
2007 9・8 72
☆ 富士山 松
富士山登山についてはいくつかの格言がある。
『富士は見る山。登る山ではない』
『(富士山を)一度も登らぬ馬鹿、二度登る馬鹿』
南アルプスの遠くから富士山を見ることが出来た時、なんて立派な山なのだろうと感激する。富士山を見つけるとはしゃいだりする。
それにも関わらず登るのは面白くない、という話が出回っている。3年前に初めて登頂した時も、当分登ることはないな、と思っていた。景色は確かに良いにしても、道が単調な瓦礫で、つまらない。おまけにかなりの急登で厳しい。
登山客も多く、山の風情がない....
今回は職場の山仲間3人で出かけることにした。富士市に引越して来たことだし、もう一度行ってみるのもいいと思った。
一人は初挑戦、もう一人は三度目、私は二度目。
ついに二度登る馬鹿に名を連ねてしまった。
2007 9・9 72
☆ コインロッカー ボストン 雄
遅い時間になってしまったが,ラボに行き,少し実験をする.その足でハーバードスクエアに向かい,ハーバード大学の生協で,妹夫婦から頼まれているT シャツを購入.
さらに,レッドラインでサウスステーションへと向かう.
実は,今月末に大学時代の友人がボストンに来るのだが,問題は,観光の間,巨大なスーツケースを持ち歩かねばならないという点.どこかにコインロッカーがあればいいのだが,僕はボストンでコインロッカーを見かけたことがない.おそらく観光するのはダウンタウン近辺なので,どこかにコインロッカーが無いかと思い,サウスステーションに行って見た次第.
サウスステーションにはコミュータートレールやアムトラックの駅,長距離バスのバスターミナルなどが集まっているので,ここならあるに違いないと思ったのだが,見当たらない.
バス会社の案内係が暇そうにしているので,ロッカーがないか聞いてみた.すると係は「9.11以来,撤去されてしまったんだよ」とのこと.9.11というのは,それほどまでに大きな影響を及ぼしたのかと改めて思う.それにしてもロッカー無しで荷物を運びながらあちこち出歩くのは辛いに違いない.確かにテロは怖いが,もう少しなんとかならないものか.
* あッ、そうか。なるほど。日本でもオームのサリン事件のあと、街なかや駅の構内などで、ゴミを捨てるところが塞がれていた。 2007 9・9 72
☆ 富士宮焼きそばと、マーラーと。 松
富士登山の後、天母の湯(あんものゆ)で一風呂浴びたあと、富士宮焼きそばを食べに行くことになった。
場所は『ゆぐち』という場所。富士宮出身の後輩が紹介してくれた。いかにも町の定食屋さんという感じの場所。カウンターに席を取る。
焼きそばは柔らかめだけど、コシがしっかりしている。
鰹節の香ばしさもいい。味は程よい。
お好み焼きは独特。蒸し焼きにすることによりもっちりするお好み焼きを、折りたたんで出してくる。
好みが別れるが、かなり気に入った。九州出身の友人が頼んだ豚足もなかなか。また来て見たいお店だ。
【今日の音楽】 モーツァルト 弦楽五重奏 3番(ハ長調)、4番(ト短調)
スメタナ弦楽四重奏団+ヨーゼフ スーク(ヴィオラ)
モーツァルトの晩年は傑作ばかりだが、この二曲もその中に入る。3番のハ長調は明朗な始まりだが、だんだんと不安でさびしげな雰囲気に変わっていく。明るい一辺倒ではなく、影があり不安な中をうつろいゆくところがモーツァルトの魅力だろうか。
4番のト短調は交響曲40番を予想させる、短調の傑作。さびしい時に聞いたら、涙が出てしまいそうです。寂しく悲しい曲でも絶望で終わらずに希望を感じることが出来るのがモーツァルトらしい。
マーラー 交響曲第6番 『悲劇的』 バーンスタイン指揮 ウィーンフィル
悲劇的なマーラーの交響曲の中でも絶望の中で打ちのめされて終わってしまうのは、この曲だけ。オーディオの性能を試したかったこともあるが、たまに聞いてみたくなる。
バーンスタインののめりこんだ指揮と、暖かくそれについていくウィーンフィルの面々。弦楽器が素晴らしく、マーラーの狂気を良く表現できていると思う。また、オケ全体が鋭くなりすぎないのも良い。
実演に接した時に思ったけど、このオケの団員はノリノリの演奏が好きだと思う。音楽に没頭させてくれる指揮者を好み、そのなかで全力で自分たちも楽しんでいると思う。
* この卒業生クンは、化学者である。山男である。独身です。見ようによれば美男子。
2007 9・10 72
☆ 辞意? あきれた男 ボストン 雄
日記の更新は一日一回と決めているが,突然のニュースにあまりに驚いたので二度目の更新.
安倍総理が辞意を表明したとのこと.改造内閣を組閣し,所信表明演説までしておきながら,代表質問の直前に辞めると言い出すとは,一体どこまで情けない男だろう.もっと早く辞めるべきだったのだ.もともと愚かなのだから,総理などになる器ではなかったのだろうに,しがみついておきながら,今頃になって「やっぱり辞めます」なんて,情けないにも 、ホド!。
せっかくやる気になっていた舛添厚労相はじめとする新閣僚達は,一体どんな気持ちで聞いているのだろうか.さぞ無念に違いない.年金問題は?ムコ多糖症の新薬承認は? 厚労省の役人達は,きっと胸をなでおろしているに違いない(再任されなければ,だが).
しかも辞める理由が「小沢党首が会ってくれないから」.情けない...
こんな男を後任に据えようとした小泉にも責任がある.勿論,総裁に選んだ自民党の議員達にも責任がある.
一体,政治を誰のものと思っているんだろう.
☆ 議会、そして七五三 司
先週からしばらくは9月の議会モード。
私も、担当の地区の状況などについて議員からの呼び出しで説明をする機会が何度か。
あまり知られていないのかも知れないが、議会でのやりとり(特に本会議)は、議員からの質問内容と行政からの答弁内容があらかじめ調整されていることが基本路線。
後は、議員によって(あるいは党派によって)様々なバリエーションとなるが、「俺はこの質問をするからな」という様に一方的に質問通告をして、答弁内容についてはほとんど関知しない議員も居れば、本会議で自分が読み上げる原稿まで行政側に作らせて、行政側の答弁内容まで確認する議員まで様々。
前者のパターンの場合、変な答弁をしようものなら事前通告にない質問までバタバタと畳み掛けられることがあるので、実際の議場でのやりとりでも、それなりの緊張感がある。後者のパターンの場合、実際の議場でのやりとりでは、後ろに座っている事務方は予め作られた原稿の文字を一言一句追って確認するという、何とも緊張感のないやりとりがだらだらと続く事になる。
ちなみに、私が説明を行った議員は後者に近いパターンでやろうとしている様だったが、質問したい項目に対して、行政側で答弁する内容を概略説明したところ、「それくらいの答えしか貰えないのであれば、質問する意味が無いから止める」という事で終了。
個人的には「そんな答えじゃダメだ!」「俺はこの質問をするから、もっと答弁を考えておけ」「本会議上でそんな答弁したら、もっと追求するぞ」と言われる期待(?)も若干あったのだが、そこまで気合いの入った議員は、ここではほとんど見たことありません。
* *
上の子の七五三の準備のため、色々と着物を見て回っています。
「着物は仕立て直しをすれば、三歳の時でも七歳の時でも着られるから」と義母から言われて、子供も2人だし“じゃぁ作ろうか”と検討をしているのですが、デパートの呉服売り場に行ってびっくり。「昔はできたんだけど、今はそういうことができる人が居ないので、ウチではお受けできません」と。
「それより、このセットの方が安くて良いですよ」と言われても・・・・ねぇという感じです。
幾つか回ったデパートでいずれもそんな感じなので、仕方なく祖母の知り合いの呉服屋さんに電話をして聞いたところ、「昔はウチも自前でやっていたんだけど、出来る人が居なくなったので今は京都に出している」とか。うーん、こんなところで伝統技術の衰退を感じることになるとは・・・という思いですが、まぁでも何とかやってくれそうなので一安心。
私も妻も着物を作るなどは初体験なので知らない事ばかり。伝統技術の衰退を憂えるのであれば、私たち自身も頑張らなければいけないことが沢山ありそうです。
2007 9・12 72
* 安倍総理の辞意は、突然であったが、もっと早く辞職してよかったのであり、囁かれているように健康こそが大きな理由なら、折角養生されたい。
* このわたしも、驥尾に付したのではない、もうずっと前に一つの「辞意」を告げて、永かった言論表現委員を辞めると、八月二十一日に届けた。押村の「仮処分」申し立ての通知が地裁から届いた、二三日前のことである。山田委員長から真意の問い合わせがあり、すぐ答えた。それによりもう処理されたのであろう、希望通り「ML」からもはずしてもらっている。
明日が、委員会の予定で、同じ刻限に、わたしは京都で美術の「対談」をしている。
* 自身の「けじめ」のためにも、山田さんに答えておいたメールを記録しておく。一度は引き受けたが、同じ委員会の委員を「二十年」は、例も少なく度外れてもいて、わたしの持論にも背くのである。もう休ませてもらっていいだろうと思うと、気がラクになった。
* 山田さん お気持ちを煩わせ、恐縮です。お詫び申します。
辞任のことは、かねがねの思いをふと実現したくなりましたもの。さきに電子文藝館の館長をやめて委員会を退きましたと同じく、一つの地位や肩書を一人が永く占めるのは宜しくないと考え、繰り返し、発言もしてきました。
私の言論表現委員を務めますことは、はや二十年に及びます。そして私の委員会での発言が、かりに一方で何らかのプラスがあろうとも、またその発言の姿勢や調子におのずからな(多年任にあったという=)高慢が忍び込んでいなくもないかと、反省していました。前者のプラスは他で補い得ますが、後者のそれは健全な委員会の運営に障り、しかもあくまで自身に原因します。老害と謂うべきでしょう。
加えて糖尿病の推移から、健康の日ごと悪化していることも間違いなく、身の晩年を大事に自戒していいことと思いました。
今ひとつご指摘があり痛み入りましたが、組織での地位・肩書に、かならずしも本来活動の意義に添わず、かえって虚栄の満足とか出世意識とかが冗談にも委員の口ぶりに思わずあらわれたりしますことと、ペンの伝統の中で「言論表現委員会」が占めてきた実に重要な真の役割との間に、いやな隙間が見えかけているのを心に嫌いはじめていました。
一つにはそれも私の高慢、老害の勝手な意識と反省しました。
また、より大事なことですが、ペンクラブの中で、理事や委員の席を、同じ人間が幾つも重ねて占めてしまう安易な事態にも、寒心を覚えてきました。じつは私自身、多いときは理事、委員長、館長、委員などと、ある点では自然な成り行きでしたが複数の「役席」を占めてしまっていましたが、他方、会員の中から、ときに理事にも、またどうかして委員会の委員になりたい意向を漏らされ、うったえられることが、ここ、十年、増えていました。
会員の一人でも多くが有益に意欲を持って委員会に参加することは、一人の者が幾つもの「役席」を同時に占めて譲らず多年に及ぶよりは、実に大切なことで、これも、かねがね一理事としての強い思いでありました。これも繰り返し発言してきましたが、全く改善はされませんでした。
さて、ところが、(予期は皆無ではありませんでしたが) 委員辞意を通知しましたその直後に、実に不本意ながら、婿と娘との連名で「債務者」席に置かれる「審尋」通知を東京地裁から受け取りました。文字通り、只今電子メディア委員会を合併したばかりの新・言論表現委員会のほぼ唯一主要主題、「言論表現の自由」「創作表現の自由な権利」に対する真っ向の挑発・挑戦を受けたのです。私は、今もペンの会員・理事であり、委員会とは実に深い久しい関わりをもって働いてきました。真実心を曲げることは成りませんが、この際、正式にこの問題を山田委員長にご審議またご支援いただきたいと、幸便にお願いしたいと存じます。
告発の要点は、さきに刊行した『かくのごとき、死』に著作権侵害と名誉毀損があるということ、同様にウエブに単に保管されている未完・未定稿の草稿『聖家族』を、同様の理由で出版差し止めの処分をということ、私のウエブの日録「秦恒平の生活と意見」をも、「mixi」に掲載してきた「日記」をも同様に、ということです。「mixi」に多数公開している秦恒平作品は、ハンドルネーム「湖=秦自身」による盗用だと、複数を動員して事務局に「削除」を要請し、読者たちの憤激を買ったこと、その直後に例のホームページ全削除の策動をし、不幸にもサーバーの一方的な処置で「全削除」されたことも関わります。文字通り一会員の上に起きた、これは「言論表現委員会」マターの議題です。
この審議に当事者の私が加わってしまわない方がいい。そのためにも、たまたま「委員辞意」を申し入れたこと、或いは天与の示唆であったと私は感じています。
以上、あらあら申し上げました。この由は、このまま委員会にご提示下さいまして構いません。暑さの折から、お大切に願います。読み直さずに発信します。これは内密にといった内容でなく、すべて山田さんの高配に託します。 不一 秦 恒平理事
* 役につくのはむしろ容易い。辞める・退くのは難しい。退きどきを失うとサマにならなくなる。成りたい人がいるのだから、その道を適切に譲るのも、大事な「地位の心得」だとわたしは考えている。安倍総理は、だが、時機を見失ったようだ。
それでも、まだ当分の間、日本ペンクラブの理事役で、思うところを人前で述べたり、用を命ぜられたらその用を務めたりしてゆく。
2007 9・12 72
* 亡き愛しい孫のやす香に贈ろう。「闇に喰われしもの」として地下宮殿に幼くより閉じこめられていたテナーが、ゲドの助力をかり、ついに自由を選択して闇から脱出したときの描写である。
☆ テナーは両腕に顔をうずめて泣きだした。その顔は塩辛くぬれた。彼女は悪の奴隷となっていたずらに費やした歳月を悔やんで泣き、自由ゆえの苦しみに泣いた。
彼女が今知り始めていたのは、自由の重さであった。自由は、それをになおうとする者にとって、実に重い荷物である。それは、決して、気楽なものではない。自由は与えられるものではなくて、選択すべきものであり、しかもその選択は、かならずしも容易なものではないのだ。坂道をのぼった先に光があることはわかっていても、重い荷を負った旅人は、ついにその坂道をのぼりきれずに終わるかもしれない。
ル・グゥイン作『こわれた腕輪』より 清水真砂子訳
* この「テナー」を、誰もがたとえば自身の名に置き換えて読むことは、例外なくゆるされる。だれもが脱出せねばならぬから。
* 以前も引いたが、去年の三月七日、やす香は長い「mixi」日記の一部にこう書いていた。再度引用して、わたしは心からやす香を愛おしむ。「おじいやん」に聴いてまだ間もないことばを、如実にやす香は此処に用いている、やす香の実感のままに。
☆ やす香 2006 03 07 より一部引用(太字は秦)
だけど私たちは
自分じゃない人=他人と
必ず関わって生きてる。
家族、友達…。
誰かに愛されて生きてる。
誰かに必要とされて生きてる。
生まれてきた時点で
誰かにお世話になって、
誰かの力になってるんだ。だから生きなきゃいけない。
例え今私が死んだって地球は回るよ。
そう思ったら、
自分の存在なんてものすごくちっぽけなもので、
虚しくて壊れてしまいそうになる。
だけど、
生きたくても生きられない人がいっぱいいる。
生きててほしい人に
死なれてしまう人がいっぱいいる。
そんな人たちを前に
自分の命を粗末に使うことは
私にはできない。
生きなきゃいけないって思うんだ。
それに、
私には大好きな人がいっぱいいる。
みんなにも大好きな人がいるでしょ?
その人が
自分が死んで悲しんでくれるかはわからないけど
少なくとも私はみんなとまだ別れたくない。
どうしても生きなきゃいけないなら、
たとえ未来がわからなくて、
どんなに不安で
どんなに怖くても
明日、今の楽しさが
虚無感にかわっても、
それでも今を楽しむ。
今を大切にする。
* 「今」という言葉遣いに重きがかかるのが分かるが、このやす香の「今」にも、よくわたしの謂う「今・此処」という物言いにつよく反応していたやす香を思い出させる。「今・此処」は重い。ほんとうに重い。ハーバードの「雄」くんのレポートにもそれは感じる。学者の「今・此処」にもいろいろあるのだろうが。
☆ Karl Deisseroth ハーバード 雄
3時過ぎにラボを出て,MIT(マサチューセッツ工科大学)に行って,セミナーを聞いてきた.演者はKarl Deisseroth(スタンフォード大学,assistant professor).ホストは利根川進ともう一人別の教授.
会場はMITのPicower institute for Lerning and Memoryのセミナールームだったが,驚くほど立派な建物だった.現代的かつ綺麗で,ハーバード大学のセミナー室とは大違い.おそらく今ハーバード大学が作っているCenter for Brain Scienceの新しい建物も,このようなものを目指しているのだろう.
演者と,ホストのもう一人の教授は定刻より10分位前に会場にいたが,ホストの教授が演者について説明し始めた頃に,ようやく利根川進が現れ,セミナールームの最前列中央の席にどっかりと腰を下ろした.
セミナーの内容は,以前この日記にも書いた,「光で神経細胞の活動を制御する」というもの(4月6日の日記参照).バクテリアで見つかった,チャネルロドプシンというタンパク質には,青い光を当てると神経細胞の活動を活性化する働きがある.これと逆に,黄色い光を当てると,神経細胞の活動を抑えるタンパク質もあり,Deisserothはこれらの分子を神経細胞に発現させるような線虫を作って,光を当てると全く動けなくなるような線虫を作ることに成功していた.
今日のトークでも,光を当てると動けなくなる線虫の映像が出てきた.黄色い光を当てると,途端に動けなくなってしまう様子が見事に映し出されていた.さらに,青と黄色の光を使い分けることで,線虫の動きを停めたり,また動かしたりと自在に操っていた.まるでゾンビのようだ.この線虫を作った理由は「単に面白いから」と言ったので,皆笑う.
さらに,「ボストニアンにもこの遺伝子があれば,黄色い信号で停まるのに」というジョークに全員爆笑.ボストンの人達は,とにかく信号を守らない.平気で赤信号でも横断歩道を渡る.かくいうDeisserothも,今はカリフォルニアにあるスタンフォード大学にいるものの,生まれはボストンとのこと.だからこそ言えるジョークだろう.
さて,この技術を応用した話が今日のメインテーマだったのだが,これもまた圧巻だった.Deisserothのグループは,他のグループと共同で,青い光を当てると神経細胞の活動を高めるようなチャネルロドプシンを,ヒポクレチンという神経ペプチドの受容体を発現している神経細胞に作らせることに成功した.
ナルコレプシーという病気をご存知だろうか.約2千人に一人の割合で見られる睡眠障害で,眠り病とも言われる.一日中寝てばかりいる人は大勢いるが,ナルコレプシーの最大の特徴は,情動性脱力発作を伴う点.怒りや喜び,驚き,笑いなど,強い感情によって,突然体中の筋肉が弛緩してしまい,覚醒状態から深い睡眠状態へと移行してしまう.
セミナーでも,ナルコレプシーの犬とヒトのビデオを見せてくれた.ナルコレプシーのモデル動物として系統維持されてきた犬がいるのだが,この犬に餌を与えると,喜びのあまり寝てしまう.食べながら寝たりもする.ヒトの例としては,この病気の少女が出てきていたが,ホームパーティーか何かで,皆が楽しそうに踊りだしたのに釣られて,本人も笑いながら踊りだそうとした瞬間,突然床に倒れこんでしまった.家族が慌てて覗き込むが,やがて少女は笑いながら目を覚ます.
この病気には,ヒポクレチン(オレキシンとも言う)という,脳の中の視床下部で作られるペプチド(アミノ酸が連なったもの)が関係することが分かっている.
オレキシンは,そもそも食欲促進物質として,テキサス大学ヒューストン校の柳沢正史教授と筑波大学の桜井武助教授が見つけたのだが,このペプチドが作られないマウスだと,ナルコレプシーと同じ症状を引き起こすことを突き止めた.当初,柳沢教授らは意外な結果に驚いたらしいが,食欲が充たされるとオレキシンの分泌が収まるわけで,お腹がいっぱいになると睡魔に襲われるのも,オレキシンの働きと考えると腑に落ちる.
一方,上記の犬を使って十年以上にも亘ってナルコレプシーを研究してきたグループも,どの遺伝子に異常があるのかを丹念に探していった結果,ヒポクレチンに行き当たった.確か1999年のことだったと思うが,科学雑誌Cellの同じ号に,柳沢グループのオレキシン欠損マウスの論文と,犬のナルコレプシー原因遺伝子としてのヒポクレチンの論文が同時に掲載され,ラボの皆と読んで興奮したのを思い出す.
話を元に戻すと,Deisserothのグループは,上記のチャネルロドプシンを発現しているマウスを使い,視床下部にファイバースコープを使って青い光を当てると,それまで寝ていたマウスが突然起き出すことを見出した.つまり,ヒポクレチンを受け取ると活性化する神経細胞を,ヒポクレチンではなく,代わりにチャネルロドプシンで活性化したことで,睡眠状態から覚醒状態へと急激に変わったのだろう.まるで白雪姫だ.
今日まで知らなかったが,Deisserothは研究者であると同時に精神科の医師でもあり,こうした精神・神経疾患に強い関心があるらしい.だから,線虫を使った実験などは,まさに「お遊び」に過ぎなかったのであり,本当の目的は,こうした医療面への応用だったのだろう.
セミナー中も,随分と若いボスだなあと思っていたが,ラボに帰ってきてウェブサイト(http: //www.stanford.edu/group/dlab/)を見てびっくり.なんと学位を取ったのが,僕より1年早いだけ.しかも,相手はメディカルスクールも出ているわけだから,研究歴は僕の方が長いはず.
まあ,こういう人と比較してはいけないのだろうけど,頑張らなくちゃと発奮する自分と,諦めの境地に達しようとしている自分とが,自分の中で交錯する.
* おもしろい。
2007 9・14 72
* 深夜、また低血糖症状で、ひとり起きて対処。砂糖を一なめし、牛乳一杯で、強いてやり過ごす。
六時に起き、ひとり簡素に朝食のようなもの。
息子が自身のブログに書いていた。「mixi」を介して読みに行った。
☆ 生きていればいろんなことがある。 秦建日子
知っている方はもうとっくにご存知だけれど、とある裁判沙汰に巻き込まれ、定期的に弁護士事務所に通っている。
実の姉が、実の父を名誉毀損で訴えるという―――なんというか―――事実は小説より奇なりを地で行くような話である。
私は、落ちこぼれではあったけれど、一応法学部の出なので、親孝行を兼ねて打ち合わせのたびに父に付き添っている。何せ、齢70を超える、しかも病人である。
裁判の詳細はブログでは書けない。(書かない)
ただ、実の親子でも裁判所の力を借りないとトラブルひとつ解決できないという現実を前にすると、世界各地の紛争など解決できなくて当たり前、という気がする。
人という生き物に対して、ひとつ、ネガティヴになる。
*
連ドラ終了と前後して、たくさんの新たな仕事のオファーをいただきました。
で、そのうちのひとつである、とあるスペシャル・ドラマにチャレンジすることにしました。
そのドラマを見てくれた方が、ひとつ、生きることや人を信じることにポジティブになっていただけるように。
* わたしは、書き手の一人として、もし希有なら希有で、娘に訴えられ、バカげてよしない汚名を、汚物のように浴びせられるというイヤな体験をすら、「人間」のきたなさ情けなさを見極める恰好の演習素材だと、半ばは興味深く受け容れている。そして何故こんなことが起きるのかと謎解きのように考えている。歴史記述者のように見守っている。
* これを書かなくてどうするか。書き手として避けては絶対いけない、「人間」の見極めどころの一つと信じるから書くのであり、それを読まれたら「人という生き物に対して、ひとつ、ネガティヴになる」かなと心配したり、これを読まれて「ひとつ、生きることや人を信じることにポジティブになっていただけるように」などと願ったりして、ものを書くのではない。書き手わたしの信と実とが、たとえどう伝わり、どう受け取られようとも、それは受け手の問題で、書き手が、わたしが、干渉することではない。わたしはそこに書くに値する「人間探求」の道があるから、その道を進んだのである。「ワケ知り」に陥って、現実の「ワク組み」と安易に妥協したくはないのだ、わたしは、いつも。
* 「mixi」のマイミクさんに、「人を許せない」心は醜いという題の日記が出ていた。抽象的な話題ではなく、ご自身の身辺実話が体験として語られていたのである。
このような題目でなら、わたしにも日ごろの物思いは有るので、ちょっとコメントを添えさせてもらった。ここには、もう少し手が入るかも知れない、書き写しておく。
* 久間防衛大臣が、アメリカの原爆投下は「しようがなかった」と発言したとき、日本人のかなり多くが、怒りました。発言を暴言としてゆるしませんでした。あれは、どれほどの実感を伴った怒りようであったでしょうか。
あの無残な原爆投下に対し、日本の国会は、政府は、日本人も、公式の怒りを結局は一度も発してこなかった。心優しく美しく、既往の咎として、もうアメリカを「ゆるして」あげたのでしょうか。それは称賛されることなのでしょうか。
学問的には異説無くはないのですが、ホメロスの『オデュッセイア』 あの叙事詩の英雄「オデュッセウス」という名は、「怨みの子」という意味を帯びています。ながいながい海洋彷徨の苦難の旅の果て、彼は辛うじて故郷に帰りつき、留守を守った妻子達のために、彼らの屋敷を占領し無道で無礼なふるまいをし続け居座っていた者達に、じつに徹底的に「怨み」を晴らし「復讐」します。
そういう名作が、人間の歴史の初原にちかい昔にあり、人々は感銘を、感化を受けてきました。
ハムレットは、怨みと怒りとを母にすら向けました。
古事記のヤマサチは、兄ウミサチへの怨みを、何容赦もなく徹底的に晴らして服属を誓わせ、犬のように遇しました。
『嵐が丘』二代を生きたそれぞれ真の男と女とは、怨みや憎しみを、精神の濃いエネルギーに、執念深く怨みを晴らしながら、ついに深い真の愛への浮揚と清冽とを得てゆきました。だれも、生半可にゆるしたり、仇に感謝したりはしませんでした。しかも物語は妄執の暗さ重さからみごとに立ち上がっています。感動は、ゆるし にではなく、ゆるさなかった事から沸き上がって、昇華されました。
『心』の「先生」は、父の遺産をよこしまに奪った叔父を、徹底的にゆるしませんでした。あるいはそのような業苦が彼の頽落を招いたかも知れぬにせよ、彼は、ゆるすべきでないものをゆるさないことに、人間たる命の意義すら認めていたのではないでしょうか。
『モンテクリスト伯」は、あれほど愛したメルセデスをすら許さず、怨み憎んだ全員への徹した復讐を完遂して、愛するエデとともに汚い世界から、遙か遠くへ去って行きました。
ゆるしてはならぬものは、徹底してゆるさなかった彼は、そのことで人間の真価を喪っていたでしょうか。醜い男として生きたのでしょうか。
赤穂浪士の面々は、吉良上野の高慢と強欲と小心を憎み、幕府の無道な片手落ちを憎み、ゆるすなどという考えは微塵もなく復讐を完遂して死んで行きました。
かれらが、もし吉良や幕府を如才なくゆるしていたら、いったいどういうことになっていたでしょう。脱落武士の運命はあまり美しくは無かったようです。
武士道なんてものにわたしは惑わされませんが、人間が、最期の一筋で守る ゆるす ゆるさない「気概」の真実にこそ、心をひかれます。
ゆるすべきをゆるす美しい勇気、ゆるすべきでないものを徹してゆるさない美しい勇気。
ごっちゃに、甘くいい加減にひとしなみにすることは、人間の奥の底の気稟の清質そのものへの冒涜にならないでしょうか。
ひ弱な通俗の道徳や、社交的な行儀の良さや、そんなものから出てくる ゆるし、あるいは ゆるさない には、ともに醜いものを感じます。
社会や、教育や、政治や、時代の強い力で一律に押しつけてくる「ワク組」、損得の思いや、つまり無意味な妥協がつい作りあげてしまう「枠組み」。こういう「モラル」ともいえない惰性の強圧に背中を押され、安易に受け容れてする ゆるし ゆるさない など、わたしはイヤですね。
自身の内奥からわき出てくる、何の「枠組み」への追従でも妥協でも屈服でもない ゆるし ゆるさない そういう決断なら、すばらしい。
与えられ 押しつけられ 従わせられている「ワク組」に対する、強い批評、疑問、不審や葛藤から、ぎりぎり選ばれる ゆるし ゆるさない でありたいです。そうでないとイヤだなと、わたしは願っているのですよ、「麗」さん。 湖
2007 9・15 72
* こんなのの書ける人はザラにいない。秋の気配、少しずつ身に生じて。
☆ 幽霊は秋 菊
すゝきなんぞを庭に入れたら、のさばられてあとで往生します。植よしがさう言ひ張るのを、無理矢理説き伏せて植ゑさしたすゝきが、今のところは「一むらずゝきの、穂に出づるは」といつた体(てい)で、さのみ嵩高にもならずいゝ塩梅(あんばい)だ。二、三、ぱらりと開いた花穂が、ちやうど、こないだ観た音羽屋(ろくだいめ)の、「色彩間苅豆」(いろもやうちよつとかりまめ)の累(かさね)が着てゐた振袖の模様をなぞつたやうでおもしろい。
小女(こをんな)の菊が蚊遣りを持つて来た。こゝいらの蚊はいつまでも元気のいゝことだ。氣がつくと部屋の中は薄暗い。
「電氣つけてつとくれ」
部屋が明るくなつた分、外はぐんと暗くなつた。芒の穂も定かには見えない。
累はさる家中の腰元だから、高島田に振袖といふ御殿女中の拵へだ。着附けの地は藤色か深川鼠(ふかがはねず)、柄(がら)は秋草と流水といふのが決りだ。それも秋草の中に必ずすゝきを入れる。この所作事は川つぺりでの話ッてことになつてゐるし、終ひには殺されちまふ累が、たちまち幽霊になつて、自分を殺めた徒し男に「おいでおいで」をするからだ。
一口に決りの模様といつても、肩や胸に菊なんぞを派手に置く役者もゐるにはゐるが、先だつての六代目のは、すゝきの穂を肩先と袖にあしらつた、いかにも江戸前のすつきりした拵へだつた。ひやひやした秋の夜風が舞台に吹いてゐるやうな心持ちがしたものだ。
幽霊だからッて夏に演(だ)すことが多いが、これは秋のものだらう。振袖の柄だけぢやァない。斬りつけられて片肌脱ぎになると、襦袢は白地に血しぶきのやうな真つ赤な紅葉。どうでも秋だ。
「牡丹燈籠」のお露の幽霊も秋草模様の着附け、カランコロンと下駄を鳴らして新三郎の所へかよつたのが盂蘭盆のころだからこれも秋。
井戸から「恨めしや」の皿屋敷のお菊は、夏場ッてことになるか。菊ッて名から言やァ秋だが。
障子の開く氣配がした。
「菊かい」
返事がない。
ひやつこい風に振り向くと、すうと障子が閉(た)つた。
2007 9・15 72
* イギリス在住の人から、暫くぶりに、的確な「お尋ね」のメールを貰った。わたしとすれば、折しもそれに答え切れたかと思った所であったので、歯医者へ出かける直前にお返事した。二、三例のヘンチクリンな転換ミスも残っていたが、判読して頂けたろうと思う。
* MAOKATさんの暫くぶりの消息も「mixi」で読めた。よかった。親切な思いやりや激励の手紙は、春さんほか、幾つも戴いている。
2007 9・26 72
* わたしの機械は今なお万全でない。ほとんど毎日数時間、ADSLの、本来四つ緑ランプであるべきが、下の一つ赤くなり、その間はインターネットが使えない。今も、つい先ほど急に赤くなって、だからメールは使えず、「mixi」も読めない。この日記も更新できない。途方に暮れて機械を消して、また戻ってくると、涼しい顔をしてモトに戻っていたりする。そんな毎日で、理由も分からず対策もできない。こういう時は急ぎの連絡も、ことごとく不通。
私に、アクセスなさる人、この「状況」をご記憶下さい。電話は、無関係に繋がります。しかし電話という道具、わたしは、よほどでないと使わない。
2007 9・28 72
* インターネットが、復旧しない。
榮夫さんを「偲ぶ会」の前に、用をかねて早めに出かけようと勇んで着替えもしたが、両脚が、異様に張って、痛む。以前こういう脚のママ駅からムリに家まで歩いたら、玄関前で、痛烈に攣った痛みでぶっ倒れ、醜態だった。出かけるのは、しばらく様子を見てみる。
いま、四時になってやっとインターネット直っている。脚の攣りはなお不穏である。雑誌「ぎをん」のファックス校正、責了。眼は霞んで、不調。
2007 9・28 72
☆ 昔、懐かしい 巌 南山城の従弟
ながらく 生まれた育った土地を離れて生活していたので 随分久しぶりだった
今朝 外で聴き思えのあるお囃子の音がしている
伊勢の大神楽が秋の門付けに廻ってこられていた
子供の頃に その獅子の口に咬んで貰ったり よく後ろについていったりした というような事を覚えている
その頃は 先振れするというか先廻りする人が お囃子の聴こえる範囲で各家にご祝儀を集め ご祝儀を出した家の入口の地面に
その金額にあわせ何か符牒か 印を書き記していく
大神楽の一行は その印に従って 門付けの振る舞いを変えているようだった
今朝の一行は その小振りの獅子頭や道具も 振る舞いも 昔の見覚えがあるもので でも若者も中にいて 後継者もいる様子
符牒での印 舗装された道路となった今 どうやっているのか うしろに着いて回らな かったので わからない。
* 今にして大都会暮らしをしている者には、胸しめつけられそうに、懐かしい。
2007 9・28 72
☆ ばった 慈
おー 今日は涼しいこと
だんだん元気のないマリーゴールドに バッタが二匹。
どうしてこの葉がいいのか・・・
毎年 バッタを見かけ コンクリート打ちっ放しの車庫に どうして暮らしているのか不思議に思っているのですが・・・
☆ 赤 巌
赤 で
随分たちますがお伺いした折に
日本の歴史や文化の中に現れた 「赤」というものには いろいろ面白い 重要な事がある という意味のことを 言われていたのを 思い出しました。
* そんなハナシもしましたっけね。
2007 9・29 72
☆ ボストン美術館 ボストン 雄
腹ごしらえを済ませてから再び車に乗り,ボストン美術館へ.途中,前住んでいたアパートの前を通り過ぎる.前のアパートからは近かった上に地下鉄が利用できたので車で行ったのは今回が初めてだが,やはり駐車代金がかなり高い.30分ごとに4ドル取られる.
1時過ぎに美術館到着.中に入ろうとすると,駐車場と美術館の入口の間に門が.ここが岡倉天心の日本庭園「天心園」らしい.以前来たときは,シーズンオフのために開放されていなかった.せっかくなので写真を撮ったが,庭園そのものはいまひとつであった.
館内に入り,真っ先にヨーロッパ印象派のコーナーへ.どれも教科書などで見た事のある画ばかりなので,(ボストン来遊の友人=)Aも興奮してシャッターを切りまくる.ゴッホ,ゴーギャンの絵も良かったが,今日はなぜかモネの絵に強く惹かれた.睡蓮もすばらしいが,特に風景画が素晴らしく感じられた.このコーナーに来るたびに,その都度,異なる画に感銘を受ける.毎回,新鮮な驚きを感じることができる.
その後はエジプト美術,ローマ・ギリシャへと進む.これらについて述べる言葉はもはや無い.今までに書いた感想がすべてと言ってよい.しかし,来るたびに思うのだが,写真右にも掲載した,頭が動物で身体が人間の像は,あまりに大胆で独創的に思われる.一体,何を考えてこんなものを作ったのだろう,と思う.
幸いにも,ちょうど日本の浮世絵などの特設展示もしているようで,菱川師宣の浮世絵や葛飾北斎のものも展示してあった.しかし,残念ながら,これらは正直言って今ひとつだった.
1階に降りて,アメリカ美術のコーナーへ.ここは正直言って,あまり興味がもてないコーナーなのだが,今日は特別展示ということで,これまた偶然にも,村上隆率いるKaiKai Kikiの展示をしていた.外国人たち(当たり前だ)が真剣に見入っていたが,悪いが僕にはこれの何処が良いのか,さっぱり分からない.これが日本のアートです,と言われることに少なからぬ抵抗を感じる.
ただ一つ,寿司屋の壁にあるような,寿司ネタを書いた札が掲げてあったのは面白かった.「まぐろ」「はまち」「玉子」などに紛れて「妹もえ兄」だの「くるぶし」だのと書かれていた.面白いので写真に撮ろうとカメラを向けたら,すぐさま職員に止められた.通常の展示品は,フラッシュさえ使わなければ写真に撮っても良いのだが,これらは特設展示なのでダメなのだという.
ほぼ全ての展示をざっと見て,二人とも疲れて中庭で休憩.心地よい風が吹いていて,暑すぎもせず寒すぎもしない.とても心地よい.空をぼうっと眺めると,雲がかなりのスピードで流れていた.こんな風にぼうっと空を眺めるのは久しぶりな気がする.
* 東工大の教室で出逢って十数年、いまもマイミクの「雄」くんも「松」くんも、ともに音楽に(雄君は声楽、松君はピアノ)長けていて、こうして美術にも親しんでいる。「松」くんはその上に山男である。研究と豊かな趣味。彼らが昔教室で話してくれた「Π パイ」二本脚は、しっかり確保している。三本脚なら机に成る。四本脚なら食卓になる。
2007 9・30 72
☆ 中島みゆき 雄 ボストン
中島みゆきは,僕が中学生の頃,ニッポン放送でオールナイトニッポンのパーソナリティーをしていた.妙なテンションのしゃべりと,反面暗い雰囲気の音楽に少々抵抗があり,あまり馴染めなかった.
今日,改めて聴いてみると,詩もなかなか深いものが多いし,結構良い曲が多いのだなあと思った.
特に「ファイト!」と「永遠の嘘をついてくれ」は胸に沁みた.後者は吉田拓郎との共演で,つま恋コンサートでのコンサートの模様のビデオだが,二人とももうかなりのお歳なのに,本当にカッコイイ.なんだかジーンとしてしまった.
もともと僕は新しい流行曲がそんなに得意ではなくて,僕よりも上の世代の方々が好みそうな曲ばかり聴く傾向がある.卒業シーズンの曲といって思い浮かべるのは「卒業写真」や「春なのに」であって,間違っても「My Graduation」ではない.そのMy graduationでさえ,もう9年前の曲なのだから驚く.ちなみに「春なのに」も中島みゆきの曲だということを今日知った.
ちなみに,Dreams Come Trueのビデオもいくつか見つけ,お気に入りに入れたのだが,そんな矢先に,ボーカルの吉田美和のご主人の訃報を知った.たしかつい先日は,大掛かりなライブをやっていたはず.そんなライブの最中にも,ご主人が生死を彷徨う状態だったとは知らなかった.しかもご主人は僕より若くて33歳とのこと.さぞ辛いだろう.ご冥福をお祈りします.
* 結婚式か披露宴かのバックに、新郎が好きな中島みゆきの曲を勝手に流したと新婦が泣いて憤慨していたことがあった。そのご亭主が、中島みゆき秀作集だとテープを作って、呉れたことがある。聴いていると、頭の芯から湿気で腐ってきそうで辟易しつつも才能はあるなと評価した。しかし聴き直そうとは思わず、テープはたぶんどこかでホコリにまみれているだろう。
あの夫婦、仲良くしているかしらん。お嬢ちゃん達はもう適齢期ではないかしらん。
2007 10・1 73
* この機械では、どういう成り行きからか「ワード」が使えない。そのためにファイルを「送る」のも「一太郎」ですると、意外に多く一太郎では開けない機械の人が多くて、意思疎通が阻害される。この機械で「ワード」が使えるようにすればいいのだが、どうすればいいか、頭が働かない。えっ、まだそんな程度なんですか秦さん、と笑われる。そんな程度なんですよ。
2007 10・2 73
* いま「見ぬ世の友」に逢いに階下へと思って、「mixi」でマイミクさんの日記に眼が行った。思わず「クククッ」とコメントを入れたが、どうもこのままにしておけない。此処へも、欲しくて。「純」さん、いつも相済みません。
☆ 熊谷陣屋 そして少年? 純
(歌舞伎座の九月=)吉右衛門さんをはじめとして、弥陀六の富十郎さん、義経の芝翫さん、みんなみんなとてもよかった。特にトミ~はよかったなぁ!!抑えているのに情があふれ出るようで、こういうお役がやっぱりいい。
実は福助さんの相模だけが、どうしてもちょっと語りすぎ、という気がしてならなかった。
セリフはもちろん決まったものなのだけれど、なんというか、演技が「情」を強調しすぎているような気がして。武士の妻であるからは、もう少し理性的であって欲しいし、それでもなお感情を抑え難くて、というのがぐっとくるのだけれど、情が先に立っているような感じがあったなぁ…。
以前こき下ろしたけれど、勘三郎さんの政岡は、押さえ加減が、よかったなぁ…。
などと今さら。
立場がまた微妙に違うのだから、福助さんは福助さんでよかったのかな…。
それにしても笑った話。
私は昼の部をかぶりつきで見ていました、一人でおとなしく。
2人ほど隔ててやはり1列目に座ってらしたご夫婦の、だんな様がお芝居がお好きらしく
「やっぱり芝居はかぶりつきだよ!ここじゃないとな!」
などとおっしゃっていたので
「うんうん、そうだよね!近いと迫力が違うもんね!」
などと心の中で相槌を打ったりしていたのですが。
熊谷陣屋が終わったあとの幕間に、だんな様。
「うーん、しかしすごかったなぁ!芝翫と芝雀がそっくりだったなぁ!オレ、見分けがつかなかったよ!」
などと、ものすごい暴言を!!
「イヤっ! そっくりじゃないし!」
と心の中で叫ぶわたくし。
親子だと思ったのか?
ちょっと違うと思わないか?
…
*******
さきの週末、3年ほど使っていたかばん(もう使っていない)を処分しようとして、なぜか解体することにした。革と布製のかばんで、値段のわりには、かなりしっかり作られており、解体作業するのになかなかの手ごたえを覚えました。
革の部分は何かに使おうと思って手元に取っておく。
時計とかラジオを解体してしまう少年のような成人われは
五・七・五・七・七
* クククッ‥。 湖
2007 10・2 73
* これもまた嬉しい。
☆ 教育の賜、四季 ハーバード 雄
今朝は9時から,他のラボと隔週で行なわれるセミナーに参加.各ラボから演者が交代で選出され,毎回2人が話をすることになっている.演者は簡単に自分の仕事の紹介をする.長くなってはいけないので,使用できるスライドは7枚以下という決まりになっている.
今日の後半の担当者は,うちのボス.しかしながら,スライドは一枚も使わず,テーマも「良いテーマと悪いテーマとは何か,皆で討論しよう」というもの.ライアンは「スライドを準備するのが面倒だから手抜きをしたんだ」といって,セミナーには参加しなかった.
ボスは,「とある会社で売られている抗体を使うと特異的に染まる,ある脳の一部分について」というテーマで学位を申請した大学院生の例を挙げた.皆,それを聞いて,腹を抱えて笑っていた.学位は認められず,後にもう少しマシなテーマで学位を取得したとのこと.
セミナーが終わり,セミナー室から引き上げる途中,ボスが「目は大丈夫?」と声をかけてきた.「何も無いようだ」と伝える,と「それは良かった」とボス.さらに,「今日の午前中はラボにいる?僕は教授室で書き物をしているけど,実験のことで何かあったらいつでも声をかけて」
改良を重ね,打つべき手は全て打ったはずなのだが,神経細胞の活動が見えずにいる.昨日も試してみたがダメ.今日は別の実験をするつもりだったが,そうボスに言われて,今日もトライすることにする.しかし実を言うと,金曜日の昼にも一度見てもらっており,改善すべき点を指摘されていたのに,友人が遊びに来たのをいいことに,何も直さずにサボっていたのだ.恥ずかしい.
それらのポイントを直すだけの時間的余裕が無かったので,そのまま標本の作成を始める.先週のボスの指示により,普段使っている部分の神経組織ではなく,もっと多数の神経が束を成している,大腿部の神経を用いる.神経を取り出して溶液の入ったディッシュの上に置き,ガラス電極で神経の束を吸い込み,電気刺激を与えてオシロスコープで観察する.
やはりダメか.と思っているところにボスがやってきた.「すみません.この間指摘していただいたことをまだ直していないんです」と率直に謝ると,「いいんだよ,気にしなくて.うーん,ちょっとノイズが多いね.ちょっと見せて」といって,オシロスコープや刺激装置のつまみをいじり始めた.
すると突然ボスが,「Hiro,これだよ.これが活動電位だよ」と言う.驚いてしゃがみこみ,オシロスコープの波形に見入った.
ボスが指差したあたりを見るが,なにやらノイズのような不鮮明な波形が見えるのみ.しかしボスが刺激の強さを変えていくと,確かに波形が変化していく.活動電位って,こんなに小さかったのか.論文や教科書で見るのと,大分形が違う.
「おめでとう」と言ってボスが手を差し延べてきた.ボスとセットの前で握手をする.
とはいえ,この実験はあくまで,セットがちゃんと動いているかどうかのための確認の実験に過ぎない.論文のデータにはならないし,大学の学生実習でやってもおかしくない程度のごく易しい実験だ.しかし,慣れないハンダ付けに苦戦しながら,ひと夏かけて,自分で一から実験セットを組んだ.訳の分からないノイズを取り除くのも並大抵の苦労ではなかった.そうして初めて得られた,真の実験結果なだけに,今までのことを思うと,涙の出るほど嬉しい瞬間だった.
それにしても,ボスが見なければ,僕にはこれが活動電位だとは到底思えなかっただろう.もしかすると,既に僕はこれと同じものを見ていたのに,気づいていなかったのかもしれない.そう素直にボスに伝える.ボスは事も無げに答えた.”But,you will.”
結局,教育というのはこういう部分が大事なのだろう.教科書を読んだり,論文を読むだけなら僕一人でもできる.しかし,オシロスコープに描きだされる波形だけを見て,どれが真実のデータであり,どれがアーチファクト(人為的に得られた,真実でないデータ)なのかを見極めるのは本当に難しい.それらを正しく見極めるには,正しく導いてくれる指導者と,時間を掛けて自分の目を磨いていく以外に道は無い.
冒頭のセミナーの話に戻るが,「何が重要なテーマで,何がそうでないか」というのも,研究者全てが常識として持っているようでありながら,実はそうではない.本人の資質もさることながら,どういう研究室で,どういう指導者と接することによって磨かれてきたかも重要なファクターなのだと僕は思う.
利根川進がノーベル賞受賞直後に立花隆と対談形式で著した「精神と物質」という本がある.この中で利根川進は,「自分にとって最も勉強になったのは,がん研究でノーベル賞を受賞した,レナード・ダルベッコの研究室でポスドクとして働いた経験だった.何が重要なテーマで何が重要でないか.何がやるに値するテーマで,何が値しないか.そういうことは,一流の研究者と接することで,初めて身につくのだ.ノーベル賞受賞者の研究室からノーベル賞をもらう研究者が現れることが多いのは,そういう理由だ」と述べている.
何が重要か.何が真のデータか,そういうことを見極めるためには,良い指導者の下で研鑽を積むことがいかに重要かが分かる.
興奮さめやらぬまま居室に戻ると,日本のボスからメールが入っていた.現在投稿しようとしている論文のことで,共同実験者からメールが届いたので,それに対するやり取りを,昨日からしていた.
もしかすると,追加実験をしに日本に一時帰国しなければならないかもしれない.しかし,なるべくならばそれは避けたい.どうしても必要ならば,今出している公募の面接に通れば一時帰国するかもしれないので,それに絡めてということもできるかもしれないが,最近分かって来たいくつかの情報によれば,どうもこの公募には通りそうに無い.
その旨を伝えると,日本のボスからの返信メールが入っていた.「なるべく追加実験は,共同研究者にお願いして足すようにします.でも,それと関係なく,新しい大学に移る前にでも,一度遊びに来てください」とあった.
さらに,こんな文章が続いていた.「君(=僕)の職探しは、もっと楽観していいのではと思います。いますぐがいいかどうかはべつとして、君のような人材で、職がみつからないようなら、日本の将来はないと思っています。」
お世辞とは分かっているが,新しい大学へのお誘いを断った直後だけに嬉しかった.
夕方早めにラボを抜け出し,毎週水曜日の合唱練習に参加.今日の曲はとびきり難しかった.今週日曜日からは,ベートーベンの第九の練習も始まる.忙しくなる.月末にはシンフォニーホールのステージで,墨田区から来る「国技館で第九を歌う会」の人達と一緒に第九を歌う.楽しみだ.
クーリッジコーナーまで電車に乗る.実は今日練習に参加したもう一つの目的は,最近クーリッジコーナー近辺にオープンした和食レストラン「四季」に寄ることだった.日本人向けの情報誌JMagazineで見かけたのだが,日本の居酒屋で口に出来るようなメニューが並んでいる.是非とも行かねばと思っていた.
まずは,日本酒の飲み比べ.4種類ほどの日本酒がお猪口に入って出てきた.つまみは刺身,銀だらの西京焼,漬物,白和えを注文.三色そばも注文した.
写真には撮らなかったが,刺身はどれも新鮮で美味.特に鯖がこってりとしていて美味しかった.銀だらの西京焼も最高.これが食べられるなら,もうニューヨークの日本食レストランに行かなくてもいいくらいだ.漬物はちょっと残念で,柴漬けや沢庵などの盛り合わせだった.唯一良かったのは野沢菜.三色そばも,蕎麦そのものはごく普通だった.白和えは,アスパラガスだのトマトだのが入っていて,一見綺麗だが味は求めていたのと少し違った.もう少し豆腐と胡麻を多めにして,こんにゃくなんかを入れて欲しかった.
でも,どれも美味しいことは間違いない.満足した.リピーターになること間違いない.ただし,どれもかなりのお値段だったので,そう頻繁に来ることはできないだろう.金額だけを見れば,ニューヨークに行って日本食レストランに入るのとさほど変わらない.でも,頼むメニューを工夫すれば,相当楽しめそうだった.
クーリッジコーナーからバスでハーバードスクエアまで出る.もう10時を過ぎているのに,バスには大勢の客が乗っていた.ハーバードスクエアから徒歩で帰宅.
* わたしの気持ちも、すーーぅッ、とする。「雄」
2007 10・4 73
* よそから送られてくる「一太郎」でないファイルを読み出すことは、教わった通りすれば出来るのではないかと思う。感謝。
ただ、一太郎でファイルを送っても一太郎を使ってないので開けませんとよく言われてしまう。それで「ワード」で送りたいなと思うが、この機械にワードが入っていない。そんなアホなと息子など言うが、事実だから仕方ない。どこかにディスクでも持っているのかしらん、それならインストール出来るかしらん。
2007 10・5 73
☆ 馬糞ちゃん 馨
新聞の記事に、牛糞からバニラの香りを抽出する技術を開発した女性にイグ・ノーベル賞が贈られた、とありました。イグ・ノーベル賞はハーバード大系の科学雑誌が設立した賞で、「笑わせて、そして考えさせてくれる研究」に贈るのだとか。
「ひえ~、牛糞からバニリン(バニラの香り成分)!?」と思いましたが、ジャスミンの香りは人糞の匂いと化学構造がかなり近いという話も聞いたことがありますし、においの成分は精密に分離していけば、かなり面白いところから面白いものが取れるのかもしれないですね。
それよりも、この若き26歳の女性、成果を出すために来る日も来る日も牛糞を扱っていたはずですが、その心意気に拍手。
日本人って、特にイメージに弱い人種らしく、食器などにひと頃よく使われていた尿素樹脂。発売当時は全然売れなかったそうです。これをユリア樹脂(尿素の化学用語がユリアです)と言い換えたとたん、爆発的に売れたのは有名な話。
そういう文化の中で育ってきたうら若き女性が、乗り越えたのは技術の壁以前に、心の中の「う…糞は…」という気持ちだったのかも。
糞といえば、知人から聞いた話。彼はある大学で製紙科学(紙を作る科学)を教えていたのですが、そこでやはり心意気のある女子学生が、中国の文献にある「馬糞紙」を再現したい、と卒論テーマに選んだそうです。
紙というのは、樹木を繊維に分解して、それをさらに叩いたり切ったりしてパルプにしたものを漉くわけですが、馬糞の中には未消化な植物繊維が山ほど出ているそうです。これを洗って漉けば、製紙工程の前半が省略できる効率的な方法だったのだとか。彼女は熱心に馬糞を調達して、再現にいそしんだとのこと。
「で、結果は??」とわくわくして尋ねると、「う~ん…馬糞はあまりにもまだ未消化過ぎるみたいですね」と彼の弁。つまり、きちんと消化しきっていずに繊維がもとの植物に近い状態で出るので、漉くのには固くて、あまりいい紙にならなかったとか。
「サラブレッドじゃなくて、道産子みたいな馬種ならもう少しちゃんと消化したのかもしれないですけどね」
なるほど。 とすると、牛糞とかだと今度は消化しすぎていて紙にならないのかなぁ。 馬糞紙の話で思い出しましたが、イギリスの自然史博物館のミュージアムショップでは象の糞から作られた紙が売られているそうです。象くらいが紙にするのにちょうどよい糞なのかしら。こちらも担当は女性だったりして。
馬糞卒論の彼女はこの一件以来、「馬糞ちゃん」と愛されキャラになっています。
ちょっと男気のあるこういう話、なぜか主役は女性が多いんですよね。
ついこの前は、別の知人から電話がかかってきました。
「実は彼岸花の糊の再現を卒論テーマにしている学生がいるんですが、サンプル要ります?」
「いるいる!!」と間髪入れずに返事。
彼岸花の根が猛毒なのは有名ですが、これで作った糊で文書などを継いでいくと、この毒が防虫・防黴効果で、虫が食わないし、カビも生えないのだそう。これまた本当かどうかわからない話ですが、かなり苦労してできたという糊、到着をちょっと楽しみにしています。
ただ、電話では「でもやっぱりカビは生えました」とのことで、大爆笑。まだまだ虫除け効果の方はわからないですよ~、と期待しています。これを作ったのも女子学生だそう。
でも、自分で作るのはちょっとコワいかも。こちらは男気のカケラもない小心者な私です。
* おもしろい。少し気分が、シャンとした。ありがとう。
2007 10・8 73
☆ (イグ)ノーベル賞 ハーバード 雄
日本はこの3日間,連休だったようだが,ここアメリカも3連休.今日はコロンブス・デーという祝日.しかし,週末充分休んだので,今日は出勤.夕方には臨時のセミナーもある.
実は日本から来られた先生が,明日,メディカルエリアでセミナーをされるのだが,隣のラボの日本人ポスドクYさんと昔からのお知り合いということで,インフォーマルなセミナーを我々のラボのお茶部屋で開いて下さることとなった.セミナーは聞きに行きたかったものの,メディカルエリアまで行く気がせず,どうしようかと躊躇していただけに,有り難い.
朝,目覚めると,ここ最近では珍しく,激しい雨が降っていた.少し遅めに出勤し,実験にとりかかる.連休ということもあって人影もまばらで,実験しやすい.
夕方からセミナー.セミナー前に,演者の先生に,簡単にご挨拶する.Yさん以外にも,この先生とは共通の知人がいる.世界は狭い.セミナーの内容は大変素晴らしく,参加していたのは隣のラボのメンバーが殆どだったが,皆口々に「いいトークだった」と絶賛していた.
セミナーを聞いてから,帰宅して夕食.今日のメニューはタイ風ヌードルと鶏肉のワイン煮.タイ風ヌードルはインスタントだったのだが,昨日買ってきたコリアンダーともやしを大量に入れたせいで,お店で食べるような味になった.鶏肉のワイン煮は僕のレパートリーの一つだが,今日のは上出来.満足.
さて,今日はコロンブス・デーであると共に,我々,生命科学の研究者にとっては特別な日でもある.今朝未明に,今年のノーベル医学生理学賞受賞者が発表された.
今年の受賞者はカペッキら3人.特定の遺伝子を生まれつき持たないように遺伝子改変されたマウス(ノックアウトマウス,という)の作成法およびその元となる技術の開発を行なった人々だ.ノックアウトマウスの作成は,いまや遺伝子の機能解析には欠かすことのできない技術.ノーベル賞を受賞するのは,もはや時間の問題だったし,むしろ遅すぎる位だった.
ラボに着き,ふざけてライアンに「しまった.ノーベル賞,取り損ねちゃったよ」と言うと,ライアンもふざけて「今年もかい?まあ,また来年があるよ」.僕らはお互い冗談で言っていることを百も承知なので冗談として通用するが,エライ先生の中には,本気でそう思っている人もいるのかもしれない.
研究者というと,すぐに「頑張ってノーベル賞を獲ってね」などという人がいるが,僕にとっては,まったく別世界の話のように聞こえる.ノーベル賞より,宝くじを買ったほうが,まだ当たりそうな気がする.もっとも,初めからノーベル賞狙いで研究する人など,ほとんどいないと思うが.
ノーベル賞よりも,僕にとって親近感が湧くのは「イグ」ノーベル賞.毎年,ハーバードやMITの教授達が選考にあたり,エクセントリックな研究に対して与えられる.授賞式はハーバード大学のSanders Theatreで行なわれる.先日,大学時代の友人Aがボストンを訪れた際,写真に納めていた教会風の建物だ(僕の日記にも写真がある).僕のラボからは目と鼻の先.相と知っていれば,見に行けばよかった.
式典の冒頭で,ノーベル賞ではスウェーデン王室に敬意を払うのに対し,イグノーベル賞ではミートボール(スウェーデンの名物料理)に敬意を払うという.また,式の間中,観客が飛ばす紙飛行機の掃除夫を務めるのが,本物のノーベル賞受賞者というのも笑える.
イグノーベル賞も,ノーベル賞同様に色々なセクションから構成されるが,今年の化学賞に輝いたのは、日本人の女性.なんと牛糞からバニラの芳香成分「バニリン」を精製したという.小学生の頃,糞の匂いを千倍位に希釈すると,バラのような香りになると科学辞典で読んだことがあるが,本当に牛糞からバニリンを精製する人がいるとは驚き.
もっとも,これは馬鹿に出来ないのであって,本物の方のノーベル賞をもらった人の中にも,似たようなことをした人はいる.ヴァンダービルト大学のスタンリー・コーエンは,男性用トイレの横に巨大なタンクを用意し,「ご協力いただける方は,ここで用をたしてください」と書いておいたという.
コーエンがノーベル賞を受賞した研究は,成長因子の発見に関するもの.マウスの顎下腺をすりつぶしたものを生まれたてのマウスに注射すると,目が開くのが数日早くなる.なんとも素朴な(というか,この実験自体,なんでそんなことをしようと思ったのか意味不明だ)発見が発端だった.そこからコーエンは,レヴィ=モンタルチーニと共に,細胞の増殖を制御するような物質が存在することを提唱し,上皮増殖因子EGFと神経成長因子NGFの存在を明らかにしたのだった.
したがって,上に挙げたトイレの例は,ノーベル賞とは関係のない研究.しかし,コーエンによれば,ノーベル賞を獲る秘訣は「月に一度,クレージーな実験をすること」なのだそうだ.コーエンはノーベル賞を一度しか受賞していないが,イグノーベル賞ならば何個でも獲れるかもしれない.
ちなみに,過去にイグノーベル賞を受賞した日本人は他にもいる(Wikipediaの項参照).ドクター中松も受賞しているのは、さすが.しかも,フロッピーディスクではなく,彼が受賞したのは「栄養学賞」だそうで,受賞理由は「34年間、自分の食事を撮影し、食べた物が脳の働きや体調に与える影響を分析したことに対して」だそうだ.
ちなみに今年の受賞者達の中で,僕のラボで人気のあったのは,平和賞だった.
投じると相手がこちらに対し性的魅力を感じてしまい,戦闘意欲を消失するという,その名も「ゲイ・ボール」の開発.今朝,大学院生のコーリーが僕の居室にやってきて,この話をし,「でもYouはもともとゲイだから,こんなものは要らないな」.コーリーは,自分の下品なジョークに乗ってこない相手は,皆ゲイとして扱うのだ.「お前に投げてやろうか」と言ったら,慌てて出て行った.
* こういうエッセイを、タダで読めるんだから、有り難い。私一人の世界をさかさにして絞ってもこういう話題は出てこない。文壇のうわさ話などもし聴かされても反吐が出てしまうだろう。「雄」君も、いっちょう元気のない秦さんにサービスだいと、聴かせてくれているのかも。ありがとう。
「馨」さんに先に「馬糞ちゃん」を聴いていて、ひとしお。
2007 10・9 73
☆ 母の誕生日に ─一杯の珈琲から─ 麗
一昨日は母の誕生日だった。
ついでに言うと,故宮沢喜一氏や,大学院の指導教官も同じ誕生日だ。
母とは,諸般の事情から,決して,折り合いがいいわけではない。しかし,「仲良くしないと(母が)死んじゃってから後悔するわよ。」などと,「世間の常識」を耳に入れてくれる親切な方々がまわりに多いので,「そのご厚意に感謝しつつ」,常識の範囲で接している。しかし,数年に1回,大衝突を繰り返している。東京と札幌,離れて暮らしているのは,幸いといえば幸い。近くなら,年に数回以上となるだろう。
夏に,京都の珈琲店の方と,少々お近づきになった。mixiで,「友人の友人」に当たる方だ。送って下さったサンプルは,非常に美味だった。
なぜか,私の中で,この美味しい珈琲と母が結びついた。母は,珈琲が大好きなのだ。
「誕生日に珈琲を贈ろうか」
なぜか,そう思った。
そこで,京都に,「誕生祝い」のセレクトをお願いした。母の好みを簡単に伝えたところ,私の好きな,「ケニア」の豆や,お店オリジナルのブレンドを選んでくれた。さらに,母のために,オリジナルプレンドまで作って,送ってくれた。会ったこともないものに,何という気遣いを。京都人の「おもてなし」の心の一端に触れた思いだった。
昨夜,母から電話があった。
「箱を開けるなりとてもいい香りが家中に広がって…」
「私のためにオリジナルブレンドを」
と,珍しく,感謝と感動しきりだった。
この一瞬‥‥。
感謝します。「巌」さん
coffee豆 凛
焙煎&小売 JR加茂駅近く
* 嬉しいマイミクさんのお心遣い。凍えがちな老いの胸が、温かく。花咲く心地。
☆ ずいき 恭
サトイモの茎、それも紫色した茎を買い求めたのが日曜日。いつも買うのは色の薄いものだが、見かけるとつい買ってしまう。たっぷり出汁をとって白しょうゆで炊く。夏なら冷やして食べるといい。その時の気分で甘い味付けにしてみたりする。
サトイモの茎は「ずいき」、漢字になると「芋茎」。乾燥したものが「いもがら」。何処だったか、芋がらを祭りに使うところもある・・京都・・京都の北野神社だったと思う。小さい時はずいきの味は分からなかった。京都でずいきを美味しいと知った。
濃い紫の、その皮の繊維を剥き始めた途端に紫の色が飛び散り、指先は紫に、やがて鈍い黒に変わった。ああ、今日は人に手を出せない、見せられない・・。思い返すまでもなく指先に色がつくこと、染色や絵を描くことに縁があった。それに比べれば料理で指が染まるのは・・やはりこれも腐れ縁?で日常的な出来事。それでも指先が染まるのは何故か幼い遊びのような気がして楽しいなあと気をとりなおした。そして何より夕食には美味しいずいきが楽しめる。
* ずいきを食べさせられるのは、茄子なみにイヤやったなあ。
☆ 学位審査 ハーバード 雄
今朝は9時から大学院生コーリーの学位審査会の予演会があった.学位審査会は11日.今さら予演会などやって,指摘された箇所を直せるのだろうか.
しかも,この週末,コーリーはフットボールの試合を見に,男6人で車をチャーターしてペンシルバニアまで出かけたのだ.僕もしつこく誘われたが,男6人で車の中で寝泊りしてフットボールの試合を見に行くなんて,考えただけでぞっとするので断った.それにしても学位審査1週間前だというのに余裕がある.
僕の時なんて,準備に追われ,ろくに寝られない日々が1ヶ月近く続いたというのに.あまりに体力を消耗してしまい,学位審査が終わってすぐに高熱を出し,1週間ほど入院してしまったほどだった.
もっとも,コーリーの場合は,既に4報も,全て一流誌に筆頭著者として論文を出しているのだから,これで落とされることはあるまい.
いつになく緊張気味のコーリーは,原稿を準備してあったのか,まるで原稿でも読んでいるかのようなトークだった.セミナーとしては,格調高く,データも充分なので,これで問題はないと思うが,学位審査の発表としては少々問題もあった.
学位審査といっても,大学によって基準も審査方式もバラバラであり,同じ大学でも学部が違うだけで形式がガラリと変わる.例えば,東大の場合,理学部だと審査担当の教授の前で報告をした後,改めて公聴会という形で審査が行なわれたと思う.公聴会は誰でも聞きに行くことができる.また,確か主査と副査は,指導教官である教授と助教授が入ったはず.
これに対し,僕が体験した医学部の場合は,審査員に指導教官が入ることはできない.教授会で勝手に決められた審査員が5人集められ,狭い部屋に審査員の教官5人が並んで,その前で発表することになる.発表の途中でも,どんどん質問が入る.
アメリカの場合がどうかは分からないので,今日はおとなしく黙っていたが,僕が気になった中のいくつかの点は,やはりラボのメンバーからも指摘されていたようだ.
僕が大学院時代に指導教官からキツク言われたのは,「学位審査会は,普段のセミナーや学会とは全く異なる心構えで臨め」ということだった.発表の仕方についても,口うるさく言われた.大まかに纏めると、以下の通り.極端な部分もあるので,指導教官によっては,これと正反対のことを言う人もいることだろう.
1.一番初めに,自分のやったことの結論を,簡潔に箇条書きにして,纏めて言ってしまう.
2.説明に使う図は全て自分で,このためだけに作る(他人の作った図や,以前,別の目的で作ったスライドをそのまま使わない).
3.少しでも特殊な実験方法は,必ず図を作って説明する.
4.スライドの中にケアレスミスが無いように気をつける.
有効数字や,顕微鏡写真のスケールバー(大きさを表す棒)にも細心の注意を払う.
1は,人によって意見が大きく異なるだろう.推理小説の犯人を先にバラしてしまうようなものだからだ.聞いていてドキドキしないし,何より,話す本人が一番気乗りしない.しかし,審査会の場合,ドキドキは必要ないし,むしろ不必要とさえいえる.
普段のセミナーならば,聞きにきている人は自分の意志で参加しているわけだから,ワクワクするような話を聞きたいだろう.しかし,学位審査の審査員は,好きこのんで聞きに来ているわけではない.従って,これからどういう話になるかよりも,なるべく早いうちに内容を把握することに関心がある.このため,いつまで経っても犯人が分からないようなトークは,かえって審査員の心証を損ねる,ということらしい.
普段のセミナーならば,聞いていて理解できない場合,「ああ,自分の勉強が足りないのだな」と思うだろうが,審査員の教官がそんな風に思うことは,まず無い.内容が理解できない場合,その原因は全て発表者にあると見なされるのであり,「この俺様が理解できない話をするなんて,こいつはよっぽどバカな奴に違いない」と思われるのが関の山だ.そんな愚を犯す位ならば,初めに手の内を明らかにしてしまったほうが良いという訳だ.先に犯人を明らかにしてしまっても「刑事コロンボ」や「古畑任三郎」は楽しめるように,予め結論を言ってしまったほうが,ロジックの展開に集中して聞いてもらえる.
2は,当たり前のように聞こえるかもしれないが,実はやりがちなこと.
スライドの図を作るのは,意外と手間がかかる.特に,学位審査直前の時期は,いくら時間があっても足りない.そんな時,自分の仕事の背景となる部分に関して説明しようとすると,ついつい,昔作った図や,誰かが同じようなことを発表するのに使った図を使ってしまいがちだ.しかし,自分の発表に少しでも関係ないことが入っていた場合,そこから思いもかけない攻撃を受ける可能性がある.
発表者の研究内容を,審査員が全て把握しているとは限らない.むしろ,全くの分野外のことも少なくない.しかし,審査員という立場上,少しでも質問しなくてはと思うので,何か手がかりになるものはないだろうかと目を光らせている.借りてきた図の中に,自分の研究とは関係ないので気にも留めていなかったような箇所が,たまたま審査員の良く知っていることだったりすると,そこを手がかりとして質問攻めに遭う可能性がある.少しでもリスクは減らさねばならない.
3もやりがちなこと.
普段のセミナーでは,結果ばかりを紹介することが多いので,よほど特殊なものでない限り,いちいち実験方法の図を挟むことはしない.しかし,これは博士号を与えるかどうかの審査なので,本当に発表者が自分のやった実験をきちんと理解しているのか(教授に言われるままに動いただけではないのか)を試すという側面もある.それに,実験方法を逐一把握していた方が,聞いていて理解しやすい.
4は言うまでも無い.しかし,これもやりがち.学位審査は加算方式ではなく,減点方式だと考えて,少しでもミスを犯さないようにすることが大事.
これらは,あくまで学位審査用の心構えだが,普段のセミナーでも有効な場合もある.これらの心構えを通じていえることは,「バリアフリーな発表」を心がけよ,ということになるだろうか.聞いている人に,できるだけ負担を与えず,理解するためのエネルギーを使わせないようにするという意味だが,この心構えは普通のセミナーでも大事だ.話の上手い人はこんなことに気を遣う必要はないだろうが,普段話ベタな人でも,心構え一つで,随分と発表のレベルが変わる.この場合,口の上手い下手は関係ない.
僕がセミナーなどで心がけているのは,マックス・デルブリュックが弟子に説いたという教え.
マックス・デルブリュックは分子生物学の生みの親ともいうべき科学者.もともとは物理学者だったが,エルヴィン・シュレディンガー(朝永振一郎,リチャード・ファインマンと共にノーベル物理学賞受賞)の書いた「生命とはなにか」という本(岩波新書に収録されている)を読んで,生命科学に転向し,物理学者らしい要素還元主義的手法を生命科学に持ち込むことによって,分子生物学という全く新しい分野を切り開いた.
話を元に戻すと,デルブリュックの教えは次の二つ.
1.聴衆は完全に無知であると思え.
2.聴衆は高度な知性を持つと思え.
名言だと思う.話の下手な人の多くは,この二つを忘れていることが多い.特に多いのは1を忘れ,前提となるような知識や背景をすっ飛ばして話してしまう人だろう.特に,自分の研究に没頭している人ほど,相手が自分と同じ知識を持っているとは限らないのだということを忘れてしゃべってしまう.
これは,ある建物までの道順を説明するのと似ている.
いきなり目標物のすぐそばから説明を始めてしまっては,聞いている人はさっぱり分からない.どこまで詳しく説明するかは,相手次第ということになる.お互い近所なのならば,お互い良く知っている近所の店などから話始めれば良いだろうし,一方で外国からの訪問客に説明するならば,空港からの道を説明しなくてはならないだろう.相手がどの程度自分と共通の知識を持っているのかということを,適切に把握しておく必要があるだろう.
しかし,最初無知だったとしても,一旦前提となる知識を与えられたら,思いもかけないほど素晴らしい質問をされることもある.無知だから,きっと大した質問はできないだろうなどと考えていると,とんでもない目に遭う.相手は高度な知性を持っているのだという敬意を持って接しなくてはならない.
* 貴重な助言だ、わたしにですら、役に立つ。嬉しくなってくる。
2007 10・10 73
* アル・ゴアのノーベル平和賞に賛同する。いろんな議論もあるではあろうが、いま地球と人類にとって最も重要な危機的話題へまっすぐ突入し拡大して、多くの関心と論議を喚び起こしてくれたことに、わたしは感謝している。価値ある授賞である。
☆ アル・ゴア ハーバード 雄
朝一番から実験を教わりに他のラボに行く.教えてくれるのはポスドクのモニカ.うちのラボのポスドクJCの奥さん.
ここ最近,夜更かしする癖がついてしまって,朝早く起きるのが大変.今日もやっとの思いで起きて,身支度を整えて出勤.
今日行った実験は,マウスの大脳皮質と海馬の神経細胞をタンパク質分解酵素を使ってバラバラにし,細胞培養用ディッシュに蒔くというもの.その際, DNAを神経細胞に導入することも併せて行った.これまで,小脳の神経細胞を分散培養したことはあるが,大脳皮質と海馬は初めて.
あまりにグロテスクになるので詳細は省くが,実体顕微鏡下で鮮やかに胎児脳を取り出し,脈絡叢を取り除いていく様子はさすがに手馴れている.実験だけでなく,後片付けなども完璧で,まさにお手本といったデモンストレーションだった.実験室全体も,良く整理整頓されていて,うちのラボとは大違い.なかでも,うちのラボで部屋を最も汚くしているJCの部屋とは大違い.この二人が夫婦で同じ部屋で暮らせるのが不思議だ.
タンパク質分解酵素で脳の組織をバラバラにしている間に休憩をとり,自分の居室に戻る.しばらくメールチェックなどをしていると,後ろでライアンが奇声を上げた.
「ゴアがノーベル平和賞をもらったらしいよ.信じられないよ.なんであんな奴がもらうんだ.おかしいよ」とライアン.相当頭に来ているらしい.
僕の認識では,ゴアとブッシュが大統領選で戦った際,多くの知識人たちはゴアを支持していたように思ったので,
「でもブッシュと比べたらマシだったんじゃないの?」と聞くと,
「よせよ,ブッシュと比べたら,そりゃ誰だってマシになるよ.比べる相手が悪すぎる」とライアン.
ちょうど居室に入ってきたボスに向かってライアンがその話をすると,ボスは爆笑して,
「僕も今朝知ってびっくりしたよ」.
「なんでそんなにびっくりするんですか?」と聞くと,
「だって彼の話していることは,別に彼が言い出したことではないじゃないか」とボス.
普段,周囲の人々の生活態度を見ていても感じることではあるが,やはりアメリカでは地球温暖化に対する認識が決定的に不足しているように思われる.実際,知識人達の中には「地球温暖化はゴアの言うほど深刻な問題ではなく,もっと他に是正すべき問題がある」と論じる人も少なくないようだ(例えば http://anond.hatelabo.jp/20070125145018).
僕のラボのお茶部屋には,飲料水を飲むための装置とタンクがある.ラボの誰がやったのか知らないが(多分プラスチックカップの消費を抑えたい秘書のフィリスあたりだと思うが),ゴアの写真とともに「地球に優しくするために,プラスチックカップの使用はなるべく控えましょう」などと書かれた紙が,この装置に貼られている.
しかし良く見ると,ゴアの鼻の下には,ヒトラーのような髭が描きこまれている.きっと,ゴアのことを好きでない誰かが手を加えたのだろう.
前から書いていることだが,アメリカと中国がこの問題に真剣に取り組まない限り,日本が何かしたところで,焼け石に水といった気がしてならない.とはいえ,人工衛星から見た夜の地球は,日本だけが国土全て光って見える.こんな国は他には無い.そういったことを考えると,やはり日本の責任も大きいのだろう.
再びモニカと実験をしに,モニカのラボへ向かう.しかし,ちょうど昼食時にさしかかってしまったせいで,いつもモニカと昼食を共にしている技術補佐員から「まだランチにいけないのか?」と逐一プレッシャーがかかり,最後の方はモニカも急いで実験してしまったので,最後は駆け込むような実験になってしまった.
モニカとの実験が一段落したのは午後2時.閉店間際のカフェテリアに行き,最後に1個残っていたローストビーフサンドイッチと,これも鍋の底に1杯分だけ残っていたトマトスープで昼食.
3時からはコーリーの学位審査が無事に終わったことを祝してのパーティーだった.3時になってセミナールームに行ってみると,巨大なピザが8枚も並んでいた.後はダイエットペプシが3本ほどあるだけ.うーん,もうちょっと他に何かないのだろうか.
「おめでとう,ドクター」と呼びかけると,コーリーも嬉しそうにしていた.
4時になり,再びモニカのラボに戻り,液体培地を交換する.神経細胞は既にディッシュの底に張り付いている.まだ形はおかしいが,1週間もすれば充分実験に使えるに違いない.来週以降には,これを使った実験をしたい.これで何かポジティブな結果が得られると良いのだが.
* ゴアへの水のかけ方はいろいろ聞いている、が、この問題をノーベル賞委員会が評価するほどまで彼が率先世界に広げたことに意義がある。科学者ではない政治家の彼に、この問題で専門的な最初の発声が可能なわけがない。しかし政治家として最初にこれを耳にしたとき、すぐ、まっすぐ反応したという姿勢とセンスは褒められていいことだし、身を働かせてその声を広げていったことは、世界政治家として立派なこと。科学者間の議論は議論として活溌に為されていいが、大事なことは「手遅れ」の「回復不能」へ地球と人類を陥れないで欲しいということ。この問題には「緩和ケア」は無意味なのだから。
* 「雄」の言うとおり、わたしもそれを言ってきたが、アメリカと中国とが大国エゴを平気で振り回している限り、本当に本当にタイヘンなことがそう遠からず起きてくる虞れはある。
ノーベル平和賞は、大国への「警告・警鐘」として聴かねばならない。
2007 10・13 73
* 高校二年生の、ひさしぶりのやす香のメール、また電話。頻々とメール交信の開始。以来、それらを、「やす香生彩」の名で保存しておいた。裁判所にいつでも持ち出せるように、今日、プリントした。読み直した。
* 先日のやす香の手紙やハガキは、此の孫の五歳から七歳頃のものだった。みな優しい、あどけない、仲良い文面で、往時を茫然と懐かしがらせた。
今日のは、もう高校生以降。そして自らの意志で、まっすぐ祖父母へ歩み寄ってきて以降の、すっかり成人した意欲にも元気にも親愛にも溢れた文面ばかり。
数えないが、百に優に余っているだろう。
* なぜこんな「探索」がつぎつぎに必要か。わたしは、このようにして、自分にフリカカる「娘難=コナン」を、懸命に自分の手で払わねばならぬ立場に置かれているのだから、仕方がない。放っておくことはできない。
* 去年八月から九月へかけて、「木洩れ日」こと、やす香の母の「mixi」日記には、祖父母のアクセスを拒絶したまま、あたかも物陰で、亡き子・やす香の霊に向かい、「あの男」祖父が、つまり私が、娘の自分の身代わりに、孫娘「あなた」を性的餌食にすべくおびきよせて「人質」に取り、「四十年」にわたる久しい「呪い」の「連鎖」へ「あなた」やす香を絡め取ったといったことが、毒々しい口調で書きつづられていた。
人の親切で聞き知ることが、またそれら日記の文面も読み取ることが、やっと出来た。裁判所は、いまそれを問題にしているのである。
* 去年七月十二日は、やす香の死にもう二週間しかない。やす香の声のとだえを案じるわれわれに、そのやす香は辛うじてケイタイで伝えてきている。
☆
06/07/12 re.お見舞いにいきます まみい
まみぃ心配しないで(>_<)携帯メールちゃんと全部よんでるから。返信はmixiも携帯も友達にもなかなかしてないの。でも言葉は全部届いています。ありがとう。
06/07/12 re.re.お見舞いにいきます
やす香ちゃんの優しさには ァーァ 涙ぐんでしまいます。 返信させちゃって ごめんね。疲れたでしょ。
もう 返信なくても心配しないからね。
06/07/12 re.re.re.お見舞いにいきます
まみぃの気持ち全部わかってるからね(>_<) みんなみんな想ってくれてることちゃんとわかってるから。
06/07/14 re.re.re.お見舞いにいきます
今日はいい天気★彡梨と桃もたべたいなぁ(>_<)気をつけてきて下さい!
06/07/14 re.お見舞いにいきます
本当にいいお天気。まぶしいお日様ですよ。迪子
06/07/14 re.re.お見舞いにいきます
何時にきますか?!
* この交信、「まみぃの気持ち全部わかってるからね(>_<) みんなみんな想ってくれてることちゃんとわかってるから。」と読み直してわたしは、噴き上げて哭いた。これではわたしの「涙眼」はわるくなる一方だ。
☆
Date: Wed, 4 Feb 2004 07:09:00 +0900
Subject: おはようございます☆
今日はこれから学校です ☆午前中だけですけどね(^-^) 私立の女子校に通っています。みゆきもおととい受験に合格し春から晴れて中学生です。
夢をみているようなのは私もかわりません。私たちの間で止まっていた時間がまた動きだしたみたいです。
私のその写真おぼえがあります。いくつになっても私の笑顔は相変わらずです。人と話したり笑わせたりするのが大好きな女子高生です。
みゆきの写真も撮れたらまた送りますね。
今はこのへんで失礼します。
やす香
電話、嬉しかったよ、やす香
びっくりしたけれど、やす香が、穏やかな佳い声音の持ち主で優しいとすぐ分かり、ジイヤンは感動して、アガッテしまいました。じいやんは、すぐ、あがる、この歳になっても。
マミーの声を覚えていたかな。こっちからは掛けられないから、(あなたがどこに誰といるのか確認できないものね。)いつでも、かけて頂戴。保谷は二人とも留守ということは、せいぜい月に二三度ですから、どっちも大抵家にいます。マゴも。
きょうは寒いという人も暖かいという人もいました。わたしは、終日暖かかった。これは、やす香の御陰だと思う。
この頃はなにかにつけ物騒な時節だから、かしこく用心して、怪我に遭わないで。それをいつもいつも願ってきました。 じいやん
Date: Thu, 5 Feb 2004 23:18:38 +0900
From: gros-bisous.vvv.7237@ezweb.ne.jp
私もお話しできて嬉しかったです。とっても。声覚えていました。顔を思い浮かべながら話していました。
すぐでてしまうとこ一緒ですね(^-^) 私もあまり長く入っていられないんですょ。
早く会って色々なことお話ししたい。ますますそう思いました。
確かに物騒ですね。気をつけますちゃんと。私の命はたくさんの人に支えられてます。私だけの命ではないですからね。
おじいゃんや、まみぃのもですょ! 怪我、病気には気をつけて下さいね(^-^)
やす香
* このやりとりで可笑しいのは、わたしの「アガッテ」を入浴していたようにもやす香が取っていること。事実わたしが湯にいたときの電話だったかもしれないが、上気したのである。
あの日の、あの電話。ああ、取り戻したい。
* あまり引用していると、また著作権がどうの、相続したのを侵したのどうのと「法」の顔が出てくる。
やす香の、真っ先におじいやんに読んで欲しいと送ってきた、大学入学のための提出課題文は、しっかり書けていて、わたしは友人にも読んで貰ったのを思い出す。その友人からの長い感想も届いている。
どういう気で、やす香の母親は、ああいう欺罔・捏造のツクリバナシを「mixi」なんぞに書き散らしたのだろう。もっと他のブログでも書き散らしているのだろうか。やす香を死なせた錯乱の「悲哀の仕事」であったろうと可哀想にも思うが、どうしてそれに大学教授の亭主までが同調したのだろう。ふつうなら制止するだろうに。
2007 10・13 73
* なぜか「mixi」の「足あと」が一晩でバーンとはねあがっていた。どうしたのかな、どうでもいいけれども。
2007 10・14 73
* マイミクの小森さんが、ビトゲンシュタインとバグワンとのことを「mixi」日記に書かれていて、目を引かれた。この二人の世界史的な思想家の出会いには深甚の興味を覚える。小森さんとは、もともとバグワンからご縁が出来たと記憶している。
2007 10・14 73
* 映画監督ベルイマンは、凄みを湛えた精神をささげもつようにして、死んだ。どの映画も身をこわばらせて、引き込まれた。
☆ 夫婦は幻覚を共有し,同じ狂気に堕ちる(イングマル・ベルイマン監督『狼の時刻』感想)。 麗
イングマル・ベルイマンは,私が初めて好きになった監督である。去る7月30日に89歳で死去した。日記にも,それについて記した。(7/31 日記)
その後,TVで特集も組まれず,東京あたりで細々と催される追悼上映も,最果ての地では縁もない。何でもいいから見たいもの,と焦がれていた。しかし,インターネットとは便利なもので,未公開3作品のDVD-BOXを発見。早速注文して,自宅で見た。
3作品の中のひとつ,『狼の時刻』は,サイコ・スリラーとしても楽しめる映画だ。精神的に追い詰められた夫を気遣う身重の妻が,耐え忍ぶ生活の中で,徐々に夫と同じ幻覚を見,狂気に引きずり込まれていくさまが描かれている。
夫を演じたのは,マックス・フォン・シドウ。『エクソシスト』の神父役でお馴染みだが,ベルイマン作品には多く出演し,性格俳優として名演を見せている。妻を演じたのは,ベルイマンにとってのミューズとも言える女優,リブ・ウルマン。この撮影中,彼の娘を出産した。二人は結婚しなかったが,ベルイマンの遺作まで関わり続け,藝術家同士の絆で結ばれていた。
スウェーデンの孤島で暮らす若い夫婦。夫は画家で,身重の妻がいる。生活の苦しさと創作の行き詰まりから,閉塞した日々を送る二人。
夫の留守中,庭先に現われた謎の老婦人から,夫の日記の存在を知らされる妻。読み進めるうちに,日記に記された,夫の幻覚と妄想に,自身も引き込まれていく。
島の所有者という貴族の城に招かれ,パーティに出た二人。先の老婦人をも含む城の住人たちは,冥界の使者とも,吸血鬼とも,人食いともイメージされる存在である。そこで,夫の昔の恋人についての話が出る。心を乱される二人。取り乱す夫。怯える妻。その日を境に,夫の不眠が重篤になり,錯乱の果て,自ら命を絶つ。妻は,夫を失う代わりに,狂気の淵から生還できた。
夫を気遣い,耐え忍びながらも,徐々にその狂気に侵されていく妻は,けなげで痛ましかった。ラストシーン,妻の独白。
「男と女が一緒に暮らしていると、だんだんそっくりになってくるという。愛する人と同じものを見、同じことを考えたいと思う。幻覚まで共有してしまったの?」
愛する者と同じものを見,考えたいという願いは,幻覚まで共有し,行き着くところは,同じ狂気,なのかもしれない。映画の題名は,日本で言えば,丑三つ時。悪魔が跋扈し,人間を,狂気に引きずり込む時間なのだそうだ。
「明けない夜はない」
と言う。
* ヴィトゲンシュタインの哲学は、超高層ビルのおもむきであるが、その一切で指し示しえたメッセージは、「哲学ではどうにもならないことが在る」ということであったと、最大の敬意をこめてバグワンは指摘している。
バグワンが落としてくれた眼の鱗は何枚あるか知れないが、これは大きな大きな一枚であった。
2007 10・14 73
* 次の「雄」くんの提起は、広範囲に波動して行く大きな問題。希望もあり心配もある問題。
☆ 国際化 ハーバード 雄
今朝は週に一度のプログレスレポート.担当はライアン.
昨日用意していたスライドは,少々ふざけたものが多かったことを日記に書いた.どうなることやらと心配していたが,案の定,最初のスライドにアル・ゴアが出てくると,笑いと共に「おーい,ライアン.どこに行こうとしてるんだ?」というボスの突っ込みが.ライアンは地球温暖化に関する研究を複雑系の例として挙げ,それに類するものとして神経回路網形成の話に結び付けたかったようだが,少々強引すぎて失笑を買っていた.しかしそれ以外は,相撲の写真も綿棒の話もかなりウケていた.これらのジョークを挟む場所も絶妙だったし,データそのものも中々良かったので,皆,素直に笑うことができたのだろう.
昼食を摂り,しばらくして来客.実は今日,僕が現在留学助成金をもらっている団体の関連団体から,お偉方が二人インタビューに来ることになっていた.この団体は,日本の研究施設に外国人を招聘することを目的としている政府系団体.ちょうど僕とは逆の立場にある人達を支援しようという訳であり,そのような事業を進めていく上で,どういうことが今後の日本に必要なのか,日本を離れて海外で研究している研究者達に話を聞くことが目的らしい.
併せて,外国人のことだけではなく,僕のように外国に出て行った研究者をいかに呼び戻して,そうした日本の国際化に役立てるか,ということについても範疇において仕事を進めているらしい.
相手を気遣って建前ばかり述べるのが大人の態度かもしれないが,僕は日頃思っていることを素直にぶつけた.その中には,先日嫌な思いをさせられた事務の問題もあった.このことで恨んでいる訳ではないが,もし本気で外国人を受け入れるつもりならば,旧態然とした事務方の意識を変えることが重要だ,と言った.本筋から外れた意見かと思ったが,実は多くの人が指摘する問題なのだという.おそらく他の人達も似たような経験を持っているのだろう.
日本に居た頃に見た例だが,外国人の職員についても,日本人と同様に出勤簿に判子を押さなくてはならない.しかし「トム」だの「マイク」だのといった判子が文房具屋で売られている訳も無いから,これらは当然特注となる.大体3千円は取られるだろうか.何も分からない外国人は,そんな判子を見て最初は “Cool!”などと言って喜んでいるが,後になって,その代金は自分が払うのだということを知ると憮然とする.きっと,何でこんなものに3千円も払わなくてはならないのか,意味が分からないだろう.
他にもあれこれと話をしたのだが,その中で僕が驚かされたのは,彼らは半ば本気で,将来的には日本の大学や研究機関の教授やグループリーダーの3割程度は外国人が占めてもおかしくないと考えていることだった.「優秀な研究者を積極的に海外から取り込むことによって,日本の研究水準を高いものに維持したい」と彼らは話していた.もちろん,そうなれば国内で僕らがつくことのできるポストはどんどん減るだろう.正直言って嬉しくない情報だ.
今まで,僕は日本に帰って,将来は日本で自分の研究室を主宰するようになることを最も希望していた.ただ,もしかすると海外で自分の研究室を持ち,そのまま海外に住み続ける可能性も無い訳ではないだろうとも思っていた.しかし,日本のポジションを外国人が占めるようになり,自分が締め出されるという可能性は,不覚にも考えたことがなかった.
考えてみれば,アメリカの大学や研究機関で,生粋のアメリカ人の占める割合は決して多くない.イギリスやドイツからは勿論,最近は中国からの研究者も多くいる.勿論日本人も少なからずいる.アメリカの場合,こうした外国からのポスドクを多く取り入れることで,働き盛りの科学者達を手にすることができるわけであり,アメリカのサイエンスのレベルを維持する上でも,こうした海外からの研究者受け入れは重要な意味を持っていると思われる.もちろん「アメリカに住めばアメリカ人になる」というお国柄だからこそかもしれない.しかし,多かれ少なかれ,似たようなことは他の国でも見られる.国際化するということは,或る意味こういうことなのかもしれない.単に海外の文化を取り入れるのが国際化ではない.人的交流といえば聞こえが良いが,あえて悪い表現を使うならば,外来種が在来種を駆逐したとしても,或る意味それは仕方がないというところか.
研究者だけが特殊な世界と思われる方もいるかもしれないが,僕は決して対岸の火事ではないと思う.既にこれまで,いわゆるブルーカラーの仕事は南米などからの移民が多く占めていた.実際,工場の多い地区などでは,そうした国からの人々を多く見かける.逆に工場を海外に作るケースも既に一般化している.しかし,最近では,いわゆるホワイトカラーの仕事に関しても,積極的に外国からの働き手を受け入れるケースが増えてきていると聞く.そうした外国からの移民を積極的に受け入れ,日本国民として認めれば,労働者の質も或る程度のレベルで維持することができるだろう.少子化問題なども,形の上では解決するかもしれない.
こうした形を,果たして本当に日本人は望んでいるのだろうか.
「これからは国際化社会だ」という言葉に悪い印象を持つ日本人は多くないだろう.しかし,国際化を歓迎する日本人に,「もしかしたら自分達の仕事も彼らに奪われるかもしれない」という意識は薄いのではないだろうか.
語学留学する人達の意識も,多くの日本人の意識と大差は無いように思われる.せいぜい「これからは国際化社会だから英語が話せた方がいい」とか,下らないところでは「英語が話せるとカッコイイ」とか「外国人と友達や彼(女)がいるとカッコイイ」なんていう理由で漫然と海外に来る人も少なくないかもしれない.今に日本が色々な肌の色の人々で占められ,日本語も変遷を遂げるかもしれない(あるいは日本の中で様々な言葉を話す人々を頻繁に見かけるようになる)という可能性について,多くの人は考えないのではないかという気がする.
多くの日本人は,そうした意味での「国際化」を本心では望まないのではないか,と僕は思っている.日本人の多くが英語習得に苦手意識を感じる理由の一つは,実は国際化することによって異質な人々が入ってくる可能性に抵抗感を感じるからなのではないか.もっと簡単に言うならば,「日本人は英語が「話せない」のではなく,実は意図的に「話したくない」のだ」という気がしている.
インタビューは90分にも及び,おかげで午後から参加しようと思っていたコネクトミクスの講義には大幅に遅刻してしまった.僕の研究内容とも大いに関係する内容.僕のカルシウムイメージングさえうまくいけば,彼らのやっていることはあっという間にやりつくすことができるのに,と講義を聴きながら思う.休憩時間に,演者に話しかけようとタイミングを伺っていると,肩をコツコツと叩く人が.誰だと思って振り向いたら,ボスだった.
「研究の具合はどう?」
きっとボスも僕と同じ事を先ほど考えていたのだろう.そろそろなんとかしなくては.
2007 10・17 73
☆ 耐震偽装 司
構造計算書の偽装がまた見つかった。姉歯事件以来2件目とか。
姉歯以降も、耐震偽装ではないかという事件が何件もあったが、それぞれの構造設計者が「偽装ではない。構造設計についての考え方の相違だ」という様な主張をしていたので、構造設計者自身が「偽装した」と認めたのが姉歯以来ということらしい。
にしても、姉歯の時は構造計算書のページの欠落などもあったのに比べ、今回のは3,800ページにも及ぶ構造計算書の中の161カ所の数字の書き換えと 8カ所の切り貼りとか。
構造計算書の1ページに何文字入っているかは知らないが、仮に少なく見積もって1,000文字だとすると、今回の偽装は大凡2万文字中の1カ所くらいの割合の偽装(書き換えor切り貼り)を担当者が見つけ出したことになる。
そういえば、報道によると「今回の偽装は巧妙」(そういえば、姉歯事件の際にも「これは巧妙な偽装だから」との言い訳が言われていた様な気が・・・)と言われているらしいが、「NG」の文字を「OK」に張り替える作業を“巧妙”とは私は思わない。ただ、2万分の1の間違いを探し出すのというのも、相当な根気の為せる業なのかあるいはたまたま運が良かったのか担当者の能力の高さによるものなのか、いずれにしても大変な事であることは間違いないと思う。
もちろん問題はこんな事ではなく、姉歯事件での教訓が建築界に全くいかされていなかったということが問題。姉歯事件があったにも関わらずこういう事件がまた起こったことで、市民は「やっぱりやってんじゃん」と思うだろうし、なおさら「姉歯事件の前はもっとみんなやってたんじゃん」と思うだろう、ということを真摯に反省しなければいけない。
実際に偽装をしているかしていないか、ということが問題なのではなく(もちろん偽装などしていないという前提なのだが)、信頼を無くした、という事を受け止めて、建築界としてどうしなければいけないのか、考えなければいけないのではないか。
そういう意味で言うと、良いか悪いかは別として行政は今回の法改正で1つの答えを出している。果たして、この答えが正解なのかどうか、正直に言うと行政の人間にも分からない。でも、国民の信頼を回復するための、1つの回答であることに間違いは無い。
これまで偽装などしたことの無い設計者には迷惑な話であることは百も承知だが、国民の“信頼”を回復するためには、致し方ないのではと思う。
姉歯の時にも感じたが、今回の事件でも孫請けの零細な構造設計者が悪者にされていることが何とも腑に落ちない。
私たちが日常手にする工業製品にしろ食品にしろ、何かの欠陥があれば販売をしたところに文句を言う。
例えば、NECのパソコンを使っているが、これに欠陥あればNECに苦情を言うだろう。NECは自分の製品に欠陥があったことについて、自らの責任で謝罪をし修理をするだろう。たとえ、欠陥の理由がパソコンの中に使われている1つのネジが問題で、しかもそのネジを作ったのが孫請けのどこかの町工場であったとしても、その町工場に責任を押し付ける事は、決して無いはず。ネジの性能も含めて、販売主であるNECがきちんとチェックをして、製品として納入しているのだから。
今回、建築主も元請設計者も、「孫請に出したことなど知らない」というスタンスであり「うちは偽装には関与していない」という主張を繰り返している。孫請けに出した下請けも「偽装には関与していない」と主張しており、目下の悪者は孫請けの設計者だけである。
もともと安い賃金で無理な日程で仕事を押し付けられている構造設計者が、こういうときに社会的にだけでなく、発注者からも全く守られない様では何ともいたたまれない。もちろん、意図的に、法律に反する行為をした構造設計者が批判されるのは当然なのも分かる。ただ、先の例の様な工業製品の場合を比べると・・・ということを考えると、何とも腑に落ちない・・・という気になるのは私だけだろうか。
* やれやれ困りましたね。
2007 10・18 73
☆ 人が住み暮らしてこそ 巌
少し前の日記に書いたようにお隣さんは廃墟になっています
人が住まなくなると 家屋は驚くほど早く傷んでいきます
家屋よりもう少し空間を拡げてみて
少子化という事が問題として取り上げられて かなりの年月になると思います
一年 都市部を離れて思うのは 少子化が今後どうなるかというよりも すでに 人口減や人口の偏在の進行がよほど問題だと
少子化というのは あくまで日本国籍を持った人を対象にした話であって かつ出産率の高い地域でも 就学 就業で地域外へ出て行く人の方が 流入してくる人よりも多かったり 職住の場所がどんどん離れて行っていたりしていないだろうかと
道州制の議論は永らく行われているが その時 北海道はそのまま独立した「道」と思っているらしい はて 今 人口は 563万人(平成17年調査)で 減少傾向
東京都周辺への人口集中はどんどん進み 神奈川 埼玉 千葉 は全て 北海道の人口を超えていてかつ増加傾向
人口の減少・偏在の改善が無いままでは 道州制も何も あった物ではないのでは?
とにかく 活力の源は人口にあって 人が行きかう 人が住み暮らすことが必要で
農村も山村もそこに人が住み働き暮らしているからで
過疎化が進めば 山村・農村は ただ荒れた山・野原
その改善手段もはっきりいえば 国籍なんか構ってられない
暮らす人が まず増えて欲しい というのが郡部での本音だと思う
それも職住近接がなによりなので その仕事作り
これが 当面の主題なのです
* これが じつに難しい。名案 ありませんか。
2007 10・19 73
☆ 受話器に足 司
子供って大人では想像できない発想をするときがあって、時々ハッとさせられ、時々大笑いさせられる。
先日、保育園から祖母の家に引き取られて、仕事で遅くなった母親と電話で会話をしていた時の話。
保育園での出来事を一生懸命話す娘。
どういう経緯でその様な話になったのかは知らないが、彼女は保育園で裸足で外で遊んでいたらしく、その足のまま靴を履いて帰ってきたそうな。
で、母親曰く 「そのまま履いたら、足がばっちぃでしょ? ちゃんと洗わないと靴も臭くなっちゃうじゃない!」
そうすっと母親の耳に、祖母の大笑いが聞こえてきた、とか。
「そんなに臭くないよ!」と言いたいがため、娘は、自分の足を一生懸命受話器に押し付けていたらしい・・・・。
家に帰ってその話を聞いた私も、大笑い。
でも、そういう事をした娘に、「臭いは無理だよ」と言うのも、もったいないのでそのままにしておこう、と、これは妻と同意見でした。
いつか、臭いも送れる電話機ができるかも知れませんしね。
* あの教室の男子君。いまはこんな佳いお父さんに。しかし、葵ちゃん、やるなあ。おじいちゃんも大笑いだ。
* なにもみな、事のととのほりたるは、あしき事なり。し残したるをさて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり。
しばらくながめているがよろしからん。 遠
2007 10・24 73
* 理由は不明。久しぶりにまたインターネットが不調で、ADSLの機械が、上二つめの緑が点滅し、三つ目が消えていて、一番下が赤点灯。あなたまかせで、ただ待っているだけ。どうする手もないのだから。ホームページも「mixi」も使えない 。
* 晩になって復旧。その間に、湖の本の本文を責了にした。まだ一部分、し残しが残っているが。
2007 10・28 73
☆ 京都 maokat
起床後、河原町のホテルをチェックアウトし、大徳寺へ。
28日は利休居士の月命日で、聚光院にて法要。拝服席。続いて山内の掛釜のうち、瑞峯院へ。二時間待ち。。。。
しかし穏やかな天気に方丈より枯山水をながめて過ごす二時間は、心地よかった。床には「春秋富」。
堺町の松屋常磐で松風を買い、三条のイノダ本店で遅い昼食。
ここのビフテキサンドイッチを食べるたびに、「西は牛、東は豚」を実感する。この厚さ、そして柔らかさ、ゴージャスさ。私にとってはイノダのたたずまいを含めこの一品に関西食文化圏が代表されている。
混雑の四条、五条、七条を抜け、京都駅からはるかに乗って、関空、千歳、札幌と帰り着いた。
* 簡潔に行き届いた「日記」を読むと、これでいいんだなと思う。わたしは、書きすぎている。「松風を買い」に、ジンと来た。「イノダ本店」もジンと来た。里心というものか。無常の思いかも。
2007 10・28 73
☆ あさぎまだら 碧
十日ほど前だったか、市内の病院に集団で来ていると新聞に載りテレビでも紹介されていた。
「うちにも来てるよ」と呟いた母。でも私は見ていなかった。
今日のお昼前、久しぶりに庭を眺めていたら、綺麗な蝶が藤袴の花にとまっている。名前どおりの浅葱色。どちらが内か外か知らぬが、一方には黒の縁取りと浅葱の青、時折大きく広げて見せる翅の美しいこと。もう一方には濃茶が加わり、莟めても華麗といいたい、<ステンドグラスの様>と書かれたのも頷ける。
幸い姉の来ている日、携帯電話のカメラに収めてもらった。
「藤袴にしか興味がないらしいよ」
「じゃあもっと増やさなきゃ」
☆ 今日は休業 巌
先週末は 木津川市加茂まつり ”恭仁京~当尾の里” という商工会の催し物があり その間は なるたけ営業していて欲しいと商工会からの意向を受けて 定休日(日、月)は返上。
土曜日はあいにくの雨だったが 日曜日はよく晴れ 海住山寺 浄瑠璃寺 岩船寺 などで特別展もあり ウォーキングで廻られる方も多く 町全体が賑わっていた。
定休日の代わりに 今日は午前中を休業にして 京都国立博物館で開催されている「狩野永徳展」へ。
会館前にたどり着けたおかげで 洛中洛外図 唐獅子図 檜図 の三屏風は、込み合う前に観る事ができた。
この時代の工芸品・美術品は 制作依頼者の意思が強く反映されている。
鉄砲伝来の年に生まれた永徳の活躍した30数年間の時代の空気の濃密さに、圧しつぶされそうになる。
* 永徳はほんとうに豪放・剛健。
ただ、内へ溜めた力であるよりも、外へ外へ漲る力だと思います。
大学の日本美術史の講義はいつも寺社の実物の前に座らされて聴きましたが、永徳の鳴り響くような魅力に先ず打たれました。
そのうち、長谷川等伯の、内面へ充実して行く沈潜の魅力と相俟ってはじめて、安土桃山の永徳なんだなと思うようになりました。
ま、わたしは安土桃山時代を、時代としては「黄金色の暗転期」と観てきたので、永徳らの金碧障壁畫に心から感嘆しながらも、やはり草庵小間の茶の湯よりに想いを預けがちです。佇み眺める時間の長さでいうと、等伯に、より深く惹かれますが、しかし永徳展、観たいな。 湖
* メールも来ていない、眼も霞んできたので、やすみます。
2007 10・30 73
☆ 絶対音感 ハーバード 雄
今朝もマウスを使った実験.ガラス針を使って神経節にDNAを注入し,さらに神経細胞がDNAを取り込むように,電気パルスを与える.電極の先端がピンセット型になっていて,2本の電極の間に神経節を挟み,微量の電流を瞬時にかける.この機械は解剖部屋に設置されているので,解剖部屋に行って実験した.
すると,横で脳のスライスを切っていたタミリーが,電気パルスの音をまねして「ピッ,ピッ」と高い声を挙げた.「これは何の音かしらね.ラかしら」とタミリー.実は彼女も(僕の所属しているのとは別の)合唱団に所属している.僕が「これはファのシャープだと思うけど」というと,「Hiro,あなた絶対音感あるの?」とびっくりしていた.
自慢ではないが,僕には絶対音感がある.小学生の頃にピアノを習っていたせいだと思う.
しかし,本で読んだところでは,絶対音感を身につけるためには,もっと小さい頃からトレーニングする必要があるということなので,さほど練習熱心というわけでもなかった僕に,どうして絶対音感が身についたのかは,良く分からない.特に苦労してトレーニングしたという記憶もない.
絶対音感があるというと,すぐに、「じゃあ,これは何の音?」といって,そこらじゅうで鳴っている音を当てさせる人がいるが,大抵の音はいくつかが混ざり合っているので,そうなると良く分からない.あまり高すぎても良く分からないし,低すぎても難しい.
ただ,サイレンや電話のベルなどは明らかに分かるし,音楽ならば,聴けばすぐに音符となって頭に浮かぶ.普段の実験室でも,遠心分離機が回っている音などは,ある一定の高さの音になっていれば分かる.
電気生理学で使うアンプの中には,細胞とガラス電極の間の抵抗を数値だけではなく,音で表す機能がついているものがあるのだが,これだとパソコンのモニターを見なくても,今どのくらいの抵抗値なのか分かる.この話をしたら,タミリーは大笑いしていた.
実は,多くの人には絶対音感は無いのだということを知ったのは,大学に入ってからだった.
合唱のサークルで,新しい曲を練習する際,音符に「移動ド」でドレミファを書き込むのが,僕には理解できなかった.「移動ド」と「固定ド」は高校の音楽の時にも習ったが,なぜこんな面倒臭いことをするのか,僕には理解できなかった.歌う前にピッチを合わせるために小さな笛を吹く理由も良く分からなかった.「ファ」は「ファ」じゃないか,と思っていた.
あるとき,歌う前に先輩が吹いた笛が半音ずれていたので指摘した際,皆が絶対音感を持っているわけではないのだということを初めて知った.このとき何故「移動ド」が必要なのかも分かった.
絶対音感を言葉で表現するのは難しいが,感覚としては「色」に似ている.
ドにはドの色があり,レにはレの色がある.ドとドのシャープは,断じて同じ色ではない.むしろ,オクターブ違っている方が,例えば薄い緑と濃い緑のようなもので,判別が難しい.同じ人が歌っていれば分かるが,男声と女声だと尚更分かりにくい.
「絶対音感がある」というと,びっくりする人が多い.何か特殊な技能でも持っているかのようで,急に尊敬のまなざしで見る人もいる.そんな時はちょっと誇らしくなるがが,日常生活では,はっきり言って何の得にもならない.むしろ,音に敏感になるせいか,タイマーの音や遠心分離機の音などが気になって仕方がない.しかも微妙に音がずれていたりすると気持ち悪くて仕方がない.カラオケなどに行って,声が出ないからといってキーを下げると,とても気持ちが悪い.いっそオクターブ下げた方が,まだマシだ.
タミリーが「ラ」の音を出してくれというので出すと,それを元にして彼女は鼻歌を歌い始め,また脳のスライスを切り始めた.
* いやいやいいや、雄クン。尊敬する尊敬する。能ある鷹だねえ、隠していたな。
いま隣室で、毎日一時間、欠かさない妻の「ピアノお楽しみ」が聞こえているが、妻に絶対音感は、まるで無いなあ!? きみ、妻の月光をそばで聴いてたら、気が狂うかもしれん。幸か不幸かわたしは狂わないけれど。
2007 10・31 73
☆ 湖(うみ) さん 巌
コメントありがとうございます。
コンサート等で使われる大型スピーカの前では 音と共に 大きな音圧(空気の振動)を感じる事があると思います。
あのような感じを 四百年を経て損傷したり形を変えても 今も尚当時の演者(作者の永徳 や依頼者の例えば秀吉)の意思を伝播し続けていました 安土桃山の時代の空気は長谷川等伯にてその最期を見取られた 時代の勢いが息絶え転ぶその最後にそのような空間を秀吉は選び 等伯は創った その充実にも惹かれます 。
三年先の約束として 長谷川等伯展を開くと 出口で 京博は張り紙していました。
☆ 秋の味覚 珠
人間ドッグへ。築地のとある予防医療センターは数年ぶり。落ち着いた内装とスムーズな運びに熟練を感じつつ、、、ほぼ無事終了。
軽食を頂きながら時間を過ごし、結果説明という段取りらしい。ゆったりした窓側のカウンターからは、ところどころ黄色くなった土手の並木と川が見える。その景色をさえぎる様に置かれたチラシが目に入る。”旬を味わいましょう”とある。
柳葉魚(シシャモ)
アイヌ伝説によると、飢饉の年に神様が人々のために川に柳の葉を流したところ、魚に変身し、人々は飢えから救われたそうです。柳の葉はアイヌ語で「スス」、魚は「ハム」。「ススハム」が変化して「シシャモ」となりました。
最近は「樺太シシャモ」のカペリンという魚が90%で、世界各国より冷凍空輸されています。北海道で水揚げされる「本シシャモ」は10月から11月産卵前が旬とされ、漁期になるとシシャモ寿司が味わえます。
無花果(イチジクク)
古代エジプトの壁画にもブドウウと共に描かれており、さらには旧約聖書にも数多く登場する歴史ある果物です。「知恵の木」「生命の木」とも呼ばれ、アダムとイブ゙が身体を隠すのに使ったのもイチシジクの葉です。
蛋白分解酵素を含み、植物由来ではパパイヤの「パパイン」パイナップルの「フブロメライン」などと同じく肉料理を柔らかくする効果を持っています。
そういえば、先日食べたシシャモは美しく、美味しかった。ちょっと金色がかって透明感があり、まるで酔ったのかと思うようにほんのり目の周りをピンクにさせて。卵もしっとりふっくらして、穏やかなしお味だった。もうちょっと食べたら、、止まらなくなりそうで、我慢した。食べればよかった。私は食いしん坊、あのシシャモが忘れられない。
無花果も好き。あのボワッとした甘さとプチプチした種の感触を思い出す。乾燥もよいが、やはり生に限る。これも食べたくなる。
この2つ、数多ある秋の旬の代表として推挙されるとは、ビックリ。
2007 10・31 73
* 三響会でニアミスのマイミクさんがいた。
☆ あああああ~!!! 淳
湖さま~!
私も夜の部、9列目中央やや上手よりに座していました~!!
台風の中を見に行って、劇場から出てみると風はすっかりなくなっていました。
こんなに近くにおられたのに~!! 気づかなかったのが不覚! 不覚!
勘十郎さんの舞踊、とても美しくて私もうっとりでした。
最後の一角仙人もとても面白かった。
ただ、太鼓や鼓や笛の音を聴かせる、という意図ならば、最初の(能の)五変化につけた舞はいっそ、いらなかったようにも思いました。
道成寺も、高砂も、みなそれぞれの舞の一歩一歩に、感情の高まりがあるのだ(ろう)けれど、メドレーでやってしまうと、時々肩透しを食ったような気分になります。。。
いろはの「い」の言うことですから、悪しからず…。
若手さんたちの舞台を堪能できたのが、やっぱり一番楽しかったです。
最後に地謡をしておられた方たちも、一緒に立ちあがってカーテンコールに参加して欲しかったです。
残念。
* ニアミスでしたね、残念無念。
能の五変化は、「舞囃子」というきまりの演目をメドレーにし、神・男・女・狂・鬼により舞も囃子も変わる景気を見せていたんですね。舞にうまいへたがありすぎて調和がよくなかったけれど、趣向は尋常でした。
一角仙人の地謡は上手でしたね。謡のおもしろさを躍動させていました。
勘十郎も納得させてくれましたね。
十一月は、山城屋の玉手御前を、国立劇場で大いに楽しみにしています。歌舞伎座は夜の部の「山科閑居」に期待しています。
またニアミスならぬ、出逢いがありえますように。 湖
2007 10・31 73
☆ 初雪 maokat
この日記を書くようになってから、今年の初雪はきっと、底冷えする暗い午後、藻岩山の方から細かい雪が静かに降りてくるのだと、勝手に想像してました。
昨夜二時過ぎまで仕事をしていて、朝を寝過ごし、雨の中出勤しました。そしたら昼のニュースで、朝方のみぞれが一時雪になって、札幌は初雪を記録しました、と。
見てないよ、今年の初雪。も一度降り直してよ。
紅も黄も 目に滲みたり 初小雪
* 和して hatak
くれなゐや 黄や 秋かぜの果てどころ
小雪とて おのづからなる泪かな 湖
2007 11・3 74
* はるばるポーランドから、マイミクにと。
「ご無沙汰しております。ポーランドに住む先生の教え子です。<創>という名前で登録しております。
8月まで多くの作品の現場を抱えておりましたが、一段落しました。そこで、もう長いこと、先生に「文章を書きなさい」と言われていたのを実行にうつせるか、とミクシィを始めることとしました。
継続に自信はありませんが、コツコツと更新できればと思います。よろしくお願いします。」
☆ クラコフ→カトヴィッツェ 創
11月1日~3日にかけてクラコフ→カトヴィッツェを旅行してきた。
クラコフはポーランドの古都、かつて住んでいたプラハと相通じる所がある。都市としてはプラハのほうがおもしろいが、ヴァヴェル城とプラハ城を比較するとクラコフのほうが良いかもしれない。
カトヴィッツェは驚くべき都市だった。ある通りがすべて上質なモダニズム建築に覆い尽くされている。こんな通りは世界広しといえどもここいがいないのではないか。
ポーランドにいる間に是非もっと調べておこう。
* 大歓迎 待ちかねたよーい。元気なアイサツを、楽しみにしています。あいかわらず、苦しい日々ですが、楽しい日々に化学変化させようと気を働かせています。
よいお仕事を続けて下さい。いい日本語を忘れないで。
奥さん、ボクちゃん、によろしく。 湖
2007 11・4 74
* 「mixi」の「マイミクさん=相互交信の信頼関係を結んだ人」をわたしは今五十一人もっている。昔からの「湖の本」のお仲間が大半をしめるが、「東工大」「京都」「e-OLD」「ペンクラブ」などで結ばれてきた人たちも、「mixi」上での新たなご縁で親しみあった人たちも。あまり数を増やしたいとは思わない。
マイミクさんの日記や作品は自動的に眼に入るよう設定されているので、丁寧に付き合おうとすると相当な時間が必要になる。時間を掛けても丁寧に付き合いたいと思うから数ばかり増やそうとは全く願わない。
マイミクのなかに、おのずと幾つかのグループが出来て行く。私=「湖」というキイステーションを中継して、それまでご縁のなかった人たちが交信されたりマイミクになったりされていると、ああこれが「mixi」だなと気が晴れる。
「mixi」にも、ずいぶん醜い悪用が流行したり蔓延ったりしていない段ではないのだが、それは自律的に排除していさえすれば大方問題はない。無考えにマイミクを受け容れていると、しらぬまにややこしい情報網の餌食にされかねない。
ともあれ、わたしのマイミクさんたち、ご老体の甲子さんを筆頭に、こもごも活況を呈されている。ご健康を祈ります。
☆ 河田町 秀
マイミク「湖」さんがHPに、昭和34年に市谷河田町に上京、あら所帯を持った、と書いていたのを懐かしく読んだ。
先月、埼玉のお寺さん参詣のあと、まだフジTV嘱託をつとめている兄貴と、みちみちしんみりと話した。
兄貴はフジTV(当初の社名は富士テレビジョン)開局二年目から勤めている。入社は昭和35年春(実習期間は前年から)。
局は何度も訪ねた、あそこらあたりに知り合いもいたし(病院の先生やらお偉いさんやら)、バブル絶頂・崩壊時期にボクの職場もあった。坂下の富久町だったが。
そんなこんなでフジTV、河田町界隈の思い出のおすそ分けがある。
開局間もないころ、録音技術担当でデンスケ持って河田町フジTVへとタクシーに乗ったら、不安的中、市谷の日テレに運んでもらった話。
当時、東京のTV局で知られているのは、(内幸町のNHK=日本薄謝協会は別にして)民放では赤坂のTBS、市谷の日テレだった。フジTVって富士電機の子会社ってな話もザラだったとか、隔世の感しきり。
河田町のフジTV通用門口に、労組の赤旗が翻っていた時代のこと。兄貴や仲間は構内の事務室や近くの事務局によく寝泊りしていた。経済闘争が欠かせない時代であった昭和40年代。時々訪ねては、社員食堂や通用門口の喫茶店でお茶や飯をよばれたりした。
ボクとは違って真面目でひたむきな兄貴には、一目もニ目も置いていて、尊敬していたっけ。よく説教もされたが。
それから時が経って、バブルの頃、ボクが上ッ調子で羽振りが良かったころ、親分の代貸格で運転手付き黒塗り高級車で局に何度か乗り付けていた。
そんなときにも、マジメにやれよと何度も諭されたっけ。
先夜再々観賞した「夕日の三丁目」で思い出したこともあった。
東京タワーもいろいろからんでくる。
あれは、泣けて笑えるいい映画だね。いつ観ても。
2007 11・5 74
☆ アウシュビッツ ポーランド 創
今回の旅行の最大の目的はアウシュビッツに行くことでした。
私は既に2年前に一度訪れたことがありましたが、妻がまだ行ったことがなかったための再度の訪問となりました。
アウシュビッツ(ポーランド語ではオフィシエンチム)は戦争の悲劇の証であり、戦争の残虐性の証であることで、これからも、いえ、これからこそ、その重要性が増していくと感じます。
私にとってのこの地は、本当に悲惨な悲劇を想像できないということ初めてを痛切に感じさせる場所として、記憶されています。アウシュビッツにはアウシュビッツⅠとⅡがあり、Ⅱをビルケナウと呼びます。
Ⅰには多くの遺留品(正確には没収物)が展示され、また銃殺刑に使われた中庭など、生々しい悲劇の「場」が、今でも残っています。子を持つ身としては、小さな子の衣服を見ると、自然と涙が流れてしまいます。
Ⅱはそのようなものが残ってはいません。あるのは馬小屋を改造した囚人(!)用バラック、そしてガス室の残骸のみです。しかし実際にはこちらこそが殺人工場であり、何倍もの犠牲者を出しています。
このⅡは何倍もの悲しみがそこにあるにもかかわらず、その悲惨さが全く想像出来ません。要約すれば、Ⅰは生活の一部として悲惨さがあるが、Ⅱでは生活全体が、生活そのものが悲惨となり、そのような悲惨を私が想像できないのです。どのように感じ生きていたのか、それが想像出来ません。
このような想像を絶する悲劇の起こらないことを願います。
本日のヤフオク:「保健住宅」山田醇 創
山田醇は明治~大正~昭和にかけて活躍した建築家。
私には辰野事務所に関係した住宅作家としてしか認識がなく、本書のタイトルから興味を持った。
山田は、明治45年に帝大から辰野・葛西事務所に入所、大正6年には独立する。
代表作は閑院宮邸。
本書は昭和14年発行であり、東京駅と辰野金吾」によると 15年頃には廃業(?)となっているので、廃業する直前のものとなる。
近代主義建築の目標の一つには「衛生」があるが、タイトルずばり 「保健住宅」というのは重要な書籍であろう。
藤井厚二とともに今後考えていきたい。
本日のヤフオク:ル・コルビュジェ展(1961)図録 創
コルビュジェに関する書籍、図録は既に何冊か持っているが、ほとんどが80年代以降の最近のものばかりであり、巨匠としての回顧録であった。
今回のものは1960~61年にかけて行なわれた世界巡回展の図録であり、かつ50年代に入りチャンディガール、ロンシャンと以前の「白い箱」の作風を裏切る作品を発表したばかりで、その活動が大きな節目を迎えた後のもの。
59年には上野の西洋美術館が、60年にはラ・トゥーレットが完成する。まだ確定しないコルビュジェの記録として、楽しみだ。
さらにおもしろい事実は、本展の日本展実行委員長が、前川國男であること。前川にとっても展覧会のあった61年は、前述の西洋美術館の正面に東京文化会館が竣工する。
つまりこの展覧会は、前川の主義を主張する展覧会でもあったのだと考えられる。
* 創クンの「mixi」登場をよろこぶ。建築のお仲間達にも知ってもらいたい。
2007 11・5 74
* いってらっしゃい は、気楽トンビのような友人に、半ばやっかんだ出無精なわたしのアイサツ。
☆ ベルギー・オランダ旅日記 1 Haarlem 恭
「怪我のないよう、いってらっしゃい。異国の空を悠々遊弋してくると、いい、注意深く。」
友人はメールでそのように書いていた。異国の空を悠々遊弋できるほど言葉に堪能でもない、さらに問題になるのは常に念頭にある金銭的余裕
のないことだが、気分だけは緊張しつつも悠々遊弋するだろう。これが肝心なこと。
七月のヨーロッパは暑かった、その暑さは八月には退いて、チェコでも、オランダでも20度前後の日々が続いている。地中海周辺の国々ではもちろん30度以上の夏。40度の数字も天気予報のテレビの画面に出ている。イタリアやギリシアに行きたいけれど、暑さは敬遠するしかないので、ひたすらベルギー、オランダに留まる予定。
プラハからの飛行機を降りる直前になっても今夜はアムステルダムに泊まろうか、どうしようかと考えあぐねていた。これまで訪れたことのある街はできる限り避け、訪れたことのない街に宿泊しようと決めた。アムステルダムは乗り継ぎの長い待ち時間を利用するなど、これまで三回訪れているのだから。
夏だというのに暗い空の下、雨が降りしきっていた。
オランダのハーレムは勿論ニューヨークのハーレムの名前の元になった街。アムステルダムの西、電車で二十分ほどの近郊の街だ。空港からアムステルダム駅まで行かずに、いくつか手前の駅で乗り換えた。雨がまだ降り止んでいない。緑溢れる草地と水路、点在する家を窓外に見ながら夕方のハーレムに着いた。
ハーレムに行きましたよと言うと、「えっ、ハーレム?」と反応が返ってくるだろう。美女あまた侍る男の楽園ハーレム? まさか!! 或は・・ニューヨークのハーレムを連想するかもしれない。どちらも何やら胡散臭い感じで・・。けれどもハーレムはオランダの静かな街。ただし今日は土曜日。夏のバカンスの真っ最中の週末は殊に賑わって、街は浮かれている・・一人旅の最初は興奮と不安が半ばしてせめぎ合う。今夜のホテルを探してまず決めること、それが先決。担えない荷物の重さ、生き難い重さは一切排除して一人旅の最低限の荷物だが、広場まで十分近く歩いただけで、それでも重いと感じる、それはわたしの不安の重さでもある。
・・案の定、週末、市で賑わう広場周辺の二軒のホテルで満室ですと断られた。ホテルのスタッフにこの近くの他のホテルを教えてと頼むと、市庁舎の脇の通りを百メートルくらい進んだ左手に一軒あるから行ってみてと言われて、望みを繋いだ。そしていくらか高いなあ、足元見られているなあと思ってみても、とにかく部屋を確保してホッとした。旅の一番目の敷居を跨いだ感じで安堵。一階が大衆的なレストランで、脇の狭い階段を上り最上階の部屋。窓を開けると空が近かった。
荷物を置いて早速グローテ・マルクト広場に戻った。花を中心にさまざまなものが売られていたが、そろそろテントをたたみ始める店が多かった。広場に面したカフェやレストランは曇り空でも椅子やテーブルを石畳の上に置いて、そして人々は外の喧騒の空気を思い切り楽しんでいた。家族連れやカップルの幸せそうな表情に余分な感傷や孤独感を抱かないこと、そう身構えるのは自分の弱さだ。幼い子たちに自然に微笑みかける。
セント・バフォ教会、旧肉市場などすべて既に閉まっていたが、どれも立派な堂々とした建物だ。海に開いて嘗ては海洋王国オランダの一翼を担う商人の旺盛な活動が確かにあった・・。教会は後期ゴシック、モーツアルトが11歳の時ここでオルガンを弾いたとか。
商店街のいくつかには洗練された商品もあり、ドレスや骨董品店のショーウインドウの布地・・イタリア製の薔薇つまみ細工をした布地・・などつい目を奪われたが、旅はこれから、すべて目の楽しみにとどめる。
明日は日曜日、日曜日・・観光地では必ずしも店が閉まっていないが・・それでも多くの店が閉まり、美術館も午後開館という。フランス・ハルスの絵は次の機会に。KLMでヨーロッパに入る機会はこれからもあるだろう。
* 前の{雀}さんでも、この気楽トンビ君でも、なんと精神ののびのびしていることか。人間味も豊かで、文章に知性も楽しさも溢れている。「甲子」さんも、八十代半ばにして日々小説創作の筆は健やか、「mixi」にも、もう沢山な読者が生まれているだろうと想う。
2007 11・6 74
☆ 嗣ぐ maokat
ある方に大切な言葉を「嗣ぎ贈」られた。自分にはとても重いと思ったが、同時にこの言葉に恥じないようにしようと心躍った。同じような気持ちは、以前にも味わったことがある。それは、博士号を取得したときだ。
私は学位を得ずに就職した。熱帯作物学専攻だった私に、配属された研究室の室長だった上司は、半年間かけて植物病理のイロハをみっちりと教えてくださった。今自分が同じ役職になってみて、それがいかに大変だったか、身に染みてわかるようになった。半年後室長は大学に出られ、私は沖縄に転勤した。作り話のようだが、沖縄に一人行く私に、室長は桐箱に入った茶杓を下さった。「これを持っていきなさい。頑張りなさい」と。
転勤して五六年経ったころ、東大の教授になられた元室長から「そろそろ博士論文を書きなさい」と電話があり、私の母校の教授に紹介状を書いてくださった。紹介していただいた先生を主査に、そして三人の副査のうちの一人を、元室長にお願いして、私は博士号を取得した。学位記を頂いたときの気持ちが、まさに上と全く同じものだった。学位の重みを感じ、また同時に私に学位を授けてくださった先生方に恥じない研究をしようと、心が躍ったものだ。
今年から母校の教授を客員し、今博士課程二年次の院生を一人預かっている。順調にいけば、来年度末には、この人に学位を授けることになる。残念ながら私は元室長ほど優秀な研究者ではないが、それでも私にしていただいた十分の一でもこの人にしてあげられたらと思い、兼業の中時間をやりくりしている。次の博士が誕生したとき、院生でシリア人の彼に、この室長の話をして、もしチャンスがあれば、彼にも同じことをして欲しいと頼むつもりだ。
いただいたものは「嗣ぎ」送る。出来る出来ないは別にして、そうありたいと思っている。
☆ maokatさん ハーバード 雄
良いお話だなあと思いながら,読ませて頂きました(何回も読んでしまいました).
僕は課程博士でしたので,状況は大分違うと思いますが,学位取得までには,本当に色々な困難がありました.その過程において,どれだけ多くの人のお世話になったか,両手ではとても数え切れません.
頂いたものを「嗣ぎ」送るように,僕もそうなれたらと思います.
* わたしの大事なマイミク二人に、はるか海をへだててこういう疏通がある。
雄君はわが学生君であったし顔は覚えているが、maokatさんとわたしは、まだ一度も逢ったことがない。必ずしも、逢うということに人はあせる必要はないのだ。二人とも理系の博士で、雄君は絶対音感の声楽家でもあり、maokatさんは逢わなくても分かる、きちっとした茶人だ。わたしは、無茶人。
☆ やっと ハーバード 雄
今日は週に一度のプログレスレポート.担当はJC,僕のやっている研究と,かなり関係する話をした.興味が近いせいもあってか,面白く感じた.ジョンが細かい質問を次々とする.
いつの間にか,プログレスレポートでの会話が,ある程度聞き取れるようになったことに気づいた.
未だに日常会話を聞き取るのには苦労しているし,特に訛の強いJCやジョンの英語を理解するのは大変だが,こうして興味のある内容ならば,英語のことを気にせずに内容に集中できている自分に,ふと気づいた.なかなか目に見えて進歩しているようには思えなくても,少しずつでも英語が聞き取れるようになってきたのかもしれない.
プログレスレポートが終わり,しばらくして廊下を歩いていると,研究室から出てきたボスと,ばったり出くわした.「何かある?」と聞かれ,「後ほどお話が」と言うと,「ちょっと妻から電話がかかってきたので,これから出かけるけど,午後には時間があると思うよ」とボス.
最近,心なしかボスの目が冷たいような気がしている.いい加減,データが出ないことに愛想をつかしているのかもしれない.あるいは,ボス自身は何も変わらないのだけれど,そのことに僕自身が負い目を感じているのかもしれない.この分では,留学助成金が切れたら,ラボには置いてもらえないかもしれない,などと思ったりする.
「後ほど」と言ったのには理由があった.昨日,電気生理学の実験をしていて,気になる結果が出ていた.前にも見たことがあるトレースなのだが,細かく値がぶれている.もしかして,これはシナプス電圧変化ではないだろうか?
あいにく,僕の使っているオシロスコープは旧式のものなので,記録も残せない.そこで,あまりエレガントではないが,持っているデジカメのビデオ機能で,オシロスコープのトレースを録画しておいた.
夕方,教授室で書き物をしているボスを見かけた.ドアも開いたままなので,邪魔しても良いかと思い,ドアを軽くノックする.デジカメを片手に教授室に入り,画像を見せた.
するとボスは,「Hiro,これだよ,これ.Great! Great!」
ようやく,電気生理学実験で本当に成功した.ここまで本当に長かった.
この実験は,最終的な目標そのものではないが,それでもずっと乗り越え難い壁として存在していた.
いくつか技術的な指示を出してから,急にボスが口を開いた.
「Hiro,アメリカのThanksgivingは体験したことある? もし良かったら,今度ウチに遊びに来ないか?」
なんだかようやく,このラボの一員になったような気がした.
* よそながら嬉しくなる。
2007 11・7 74
☆ 理研シンポジウム ハーバード 雄
今日,明日と,理化学研究所脳科学総合研究センターとMIT Picower Instituteの合同シンポジウムがMITで開催され,聞きに行ってきた.この二つの研究所がメインではあるが,他の大学からも錚々たる顔ぶれが集まっている.昨日まで北米神経科学会だったので,そのサテライトシンポジウムといった意味合いもあるのだろう.
どのトークもおそろしく中身が濃い.
Ed Callawayのウイルスを使った神経回路標識法, Allison Doupeはゼブラフィンチという鳥を使って,歌を聴いたときの神経細胞の活動の様式を解析していた.ゼブラフィンチは歌の学習モデルとして良く用いられる鳥だが,今回は学習過程というよりは,聴覚系の情報処理機構を解明することに重きを置いていた.
ちなみに,ゼブラフィンチはつがいになると,お互いの歌を真似し合うのだそうだ.なんとも仲むつまじい話ではないか.
コロンビア大学のRene Henは、不安に置かれたときの海馬における神経細胞の増殖についてトーク.一昔前までは,脳の神経細胞というものは発達期に増殖したらおしまいで,大人になったら神経細胞は死ぬ一方だと考えられていた.しかし最近では,脳の一部の領域に関しては,大人になってもどんどんと神経細胞が作られることが明らかになってきている.
特に有名なのは記憶・学習に関係すると言われている、海馬という部分で,例えばタクシーの運転手などは,他の職についている人に比べて海馬の神経細胞が多いという報告がある.確かにタクシーの運転手をするためには色々な道を知っていなくてはならないわけで,そうした記憶・学習のために神経細胞が増殖するのかもしれない.
Henが、トークの最初で引用した話だが,双子のうちの片方が戦争に参加したといったケースを調べた結果,海馬の小さい人ほど,不安にさらされると PTSDになりやすいのだという.
逆に,不安にさらされると海馬での神経細胞新生が抑制されるというような報告もある.僕自身は,この辺の話題にはあまり関心がないので,あまり熱心に聴いていたとは言えないのだが,この辺は最近のホットなトピックスであり,実際,会場には多くの人が話を聞きに来ていた.
理研の、見学先生の小脳顆粒細胞の初代培養系を用いたライブイメージングのデータも素晴らしかった.
こういうトークを聞いていると,やる気が湧いてくる.
「そうだ,この手があったか」とか
「こういう研究をすると面白いかもしれないな」といったアイデアが湧いてくる.明日も面白そうなトークが目白押し.楽しみだ.
2007 11・9 74
* いまの近用眼鏡だと、機械上の「私語」の字がちいさく見える。幾代か以前のたぶん遠用眼鏡をみつけて使ってみると、文字が大きくしっかり見える。両眼が霞んできて、眼がふさがっている。機械のちいさい字が読めない。大きく替える方法をすぐは思いつかない。
2007 11・10 74
☆ DICE-K ハーバード 雄
昨日に引き続き,今日もシンポジウム.今日は主に記憶・学習や,その基盤となる分子・細胞レベルでの話.一番話を聞きたかった,Duke UniversityのMichael Ehlersがキャンセルしたのが残念.しかし,それでも充分に中身の濃いシンポジウムだった.
中でも圧巻だったのは,やはり利根川進.
利根川ラボでは以前から,脳の中でも記憶・学習に重要と言われている「海馬」に着目し,海馬で発現する遺伝子のノックアウトマウスを作り,その影響が記憶や学習にどのように現れるかについて解析している.
実は,遺伝子改変マウスを使った研究は,あまり僕の好みではない.以前,この日記にも書いたように,ノックアウトマウスとは,「ある着目した遺伝子を生まれつき持たないようにしたマウス」.ノックアウトマウスの行動を調べることで,着目した遺伝子が生体内で何をしているのかを知ろうというのが,この技術を利用する目的といえる.
しかし,これはひどく乱暴な話だと僕は思っていた.いうなれば,パソコンに繋がっている電源プラグをいきなり引っこ抜くようなものだ.
電源プラグを引っこ抜いたからパソコンが動かなくなったといって,「だから電源プラグはパソコンの機能にとても大事な部品です」と言われれば,文句のひとつも言いたくなる.そりゃあそうかもしれないけれど,電源プラグを引っこ抜いても,ハードディスクがクラッシュしたとしても,一見同じように見えても意味合いが全然違うだろう.ましてや,抜いた電源プラグがパソコン本体ではなくてモニターのものだったら,パソコンそのものは全く正常なのに,見た目は壊れたようになってしまう.本質的な点を見誤る恐れのある技術だと思っていた.
しかしそうした欠点は,ノックアウトマウスを扱っている研究者も良く分かっている.そこで,少しずつでも,上記の「電源プラグ」のようなことが起こらないような工夫や改良を重ねている.たとえば,カペッキによって開発された初期のノックアウトマウス作製法では,着目した遺伝子をマウスの「全身で」働かなくなるようにすることしかできなかったが,現在では着目した遺伝子の働きが例えば脳だけで壊れるようにするといった,「組織特異的な」ノックアウトも可能となっている.
利根川ラボでは,この技術をさらに徹底させ,海馬の中の,さらに限られた場所だけで遺伝子が働かなくなるようなマウスも作っている.そして,こういうマウスを作ることによって,海馬の中のどの部分が,記憶の中でもどのようなことを担当しているのかといったことを明らかにしている.
今回の発表では,さらに推し進めて,「ある特定の時期だけ,特定の場所だけに限定して遺伝子の働きを抑える」といったマウスの作製法を編み出していた.つまり,今までは空間的に限定されたノックアウトマウスの作製には成功していたが,これをさらに推し進めて,時間的にも空間的にも限定した形で,ある遺伝子の働きを見ることができるような方法を開発したのだ.
この手法では,ドキシサイクリンという薬を利用している.ドキシサイクリンが作用している間は遺伝子の働きは正常なのだが,ドキシサイクリンが無くなると,とある特定の遺伝子の働きが抑えられるという仕組みになっている.この方法そのものは以前から知られている手法なのだが,これを今までの部位特異的なノックアウトと組み合わせて,時空間的な遺伝子の働きを抑制し,最終的には海馬の特定の神経回路だけを遮断して,記憶や学習にどのような影響が生じるかを見よう,というもの.この手法が優れているのは,食物の中にドキシサイクリンを入れたり除いたりするだけで,ある特定の遺伝子の発現を制御できるという点.同じ個体でありながら,特定の回路のスイッチをオンにしたりオフにして,その機能を確かめられるというのは,かなり有効だと思った.
この手法を利根川進はDICE-K(Doxycyclin-Induced Circuit Exocytosis Knockdown)と名づけていた.爆笑とはいかないまでも,聴衆はくすくすと笑っていた.実は利根川進のサイエンスの話を,しかも英語で聴くのはこれが初めてだったが,結構ジョークも言うし,堂々としていて,カリスマ性のようなものを感じた.
びっくりしたのは,ニューヨーク州立大学のTodd Sacktorの発表.ある酵素の阻害剤(ZIPと名づけられていた)を入れると,記憶・学習が消失してしまうという内容だった.サッカリンで味をつけた水を飲ませた後にリチウムを注射して吐き気を起こさせると,通常のマウスではサッカリンの味のついた水を飲まなくなるのだが,ここでZIPを注射すると,忘れて普通の水のように飲んでしまうという.
別の例としては,回転している円盤の上にマウスを置き,ちょうど時計の11時と1時の間あたりに電流刺激が生じるような区画を作っておく実験をしていた.記憶・学習能力の正常なマウスは,決してその場所に近づかないように,その区画から離れる方向に動くのだが,そのように記憶させたマウスにZIPを注射すると,そのマウスは記憶を失って,危険な区画に平気で入ってしまう.この様子をムービーで示していた.果たしてこれは信じてよいものだろうか.
その他にも,エジンバラ大学のRichard Morrisも講演していた.モリスはマウスの行動解析で有名な「モリスの水迷路」を開発した研究者.ノックアウトマウスの行動異常を調べる実験として非常に有名な実験系で,プールの中に一箇所だけ底の浅い部分を作り,濁った水を張っておいて,その中にマウスを入れるというテスト.マウスは水を嫌うので,ひたすら泳ぎ回ったあげく,底の浅い部分を見つけてその上に乗るようになるのだが,マウスをプールに入れてから底の浅い部分までに到達する時間を計ることで,どの程度場所を記憶・学習したかを試すというもの.もっと年配の研究者かと思っていたが,まだまだ現役バリバリといった様子の研究者で,いかにも頭の良さそうな人だった.
昼休みに,おとといすっかりディナーをご馳走になってしまったK先生に,せめてものお礼ということで,昨夜HarvardのCOOPで買っておいたものをお渡しする.ラボのメンバーで食べていただくようにミルクチョコレートと,お子様のためにTシャツ.独身男の僕には,どのくらいの大きさの服がぴったりなのか,全く見当もつかない.壁に貼ってあったサイズと年齢の対応表を身ながら考える.散々悩んだあげく,「大は小を兼ねる」ということで,2歳半のお子さんにしては大きめのを買った.すぐに着られるようになるでしょう.
ついでに,昼休みを利用して,一時帰国用の航空チケットの発券を旅行代理店に依頼する.結局,今月の26日にボストンを発ち,12月7日まで滞在することにした.こちらの都合もあって,色々と代理店の人にお願いしたが,やるべきことはやってくれるものの,非常に態度が悪い.どうして海外にいる日本人向けの店員というのは,こうも礼儀作法を知らないのだろう.
まだ日本の大学2校の公募の結果は来ていない.もし万が一面接に選ばれて,このチケットの日程では間に合わなかったらどうしよう,などと不安になっている.どうせなら11月半ばから帰国にしておけばよかったのだが,こういう判断を先延ばしにしてしまい,結局最悪の結果になるのは僕にとっては日常茶飯事.計画性の無さと見通しの甘さのせいだろう.公募にアプライしておきながら,今となっては,選ばれないことを密かに願っているのは変な話だ.
午後からのセッションは,演者が一人減ったせいもあって,早く終わった.最後に伊藤正男・理研BSI初代センター長が挨拶に立った.今年は理研脳科学総合研究センターができてから,ちょうど10年なのだとか.もうそんなに経ったのかと驚く.BSIができたのは,僕が大学院生の頃だった.自分自身のことを顧みると「もう10年も経ったのか」と思うが,研究所から発表される論文の数や質のことを思うと,「たった10年で,良くこれだけの論文を出したものだ」と思ったりもする.
シンポジウムでは理研やMITにいる日本人の研究者の方々と沢山知り合いになることができた.これを期に,色々な方とのネットワークが広がるといいなあと思う.
2007 11・10 74
☆ 画面の字を大きくする方法 e-OLD 笠
秦さんへ
インターネットの画面の最上欄は題名で、その下の欄には「ファイル」「編集」「表示」「お気に入り」・・とあります。
(1)その中の「表示]をクリックすると、メニューが出ます
(2)その中の「文字のサイズ(X)」にカーソルを合わせると
(3)「最大(G)」「大(L)」「中(M)」「小(S)」「最小(A)」と
出ますので、「最大」か「大」をクリックします。
大きくなる筈です。
寒くなります。どうか、いろいろと、くれぐれも、お大切にしてください。
わたくしは相変わらずくぐり抜けるように日々を過ごしております。
自分のこともそうですが、もっと困った方達が大勢いて、困ります。
明日は日曜日なので、少し秋の夜更かしをしました。おやすみなさい。拝
* 試みて、すぐ、メールの字も、「mixi」の字も大きくなった。字が見えると生き返った心地がする。感謝します。
こんなことも出来ずに、十年も、大きなホームベージを動かしてきたんですね。以前なら出来たのか知らん。とにかく今はアタマが、円滑にこういうことに思案利かせてくれない。
2007 11・11 74
☆ お元気ですか 風
お仕事は大変でしょうが、制御しながらなさってくださいね。
ご依頼の件、まず、画面の文字を大きくする方法です。
1.画面左下にある「スタート」をクリックし、「コントロールパネル」を選びます。
2.作業する分野の中から、「デスクトップの表示とテーマ」を選びます。
3.作業の中から、「画面解像度を変更する」を選びます。
4.「画面のプロパティ」ウインドウが開きますので、「設定」タブを選び、更に、ウインドウ下部にある「詳細設定」を選びます。
5.「全般」タブの「画面」の部分に、「DPI設定」というのがあります。風のパソコンでは、「通常の設定」になっていると思われますので、そこを「大きなサイズ」に変更し。「OK]をクリックしてみてください。
6.パソコンを再起動します。
これで、風の眼への負担が軽減してほしい。文字が大きくならなかったら、またご連絡ください。
外はいいお天気ですよ。 元気な 花
書きもらしましたが、手順5で「大きなサイズ」に変更し、「OK」をクリックしますと、既存のフォントを使うか、CD-ROMからインストールするか訊かれるかも知れません。既存のフォントがあれば、それを使いたいので、「はい」をクリックしてください。
そのあとに、再起動するかどうか訊かれると思います。
うまくいきますように。 花
* 感謝。どかんと字が大きく出来て、画面がみやすくなった。ただ受け取る人に大きすぎていないかと、少し心配。
2007 11・11 74
☆ 百人一首の雪 maokat
土日に良く働いたお陰で、半年前からうまくいっていなかった実験(5’RACE)が成功しました。勢いに乗って、月末東京国際フォーラムに出すポスターを仕上げ、11月上旬締め切りだった報告書に載せる実験を始めました。明日の実験の準備をして、家の近くのロイヤルホストで2時間、学会誌の校正も。PC からメールで編集事務局へ訂正箇所を送れば、0時近く。今日もあっという間に終わってしまいました。
このところ寝る前に、百人一首を読んでいます。百首のうちで雪の字がある歌、いくつあるでしょう?
答えは、四首プラスαです。
田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ(山辺赤人)
君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ(光孝天皇)
朝ぼらけ 有明の月と みるまでに 吉野の里に ふれる白雪(坂上是則)
花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり(入道前太政大臣)
雪に興味があって、百人一首を読んだ人がどのくらいいるか知りませんが、そういう目で見てみると、「田子の浦」は、なんだか銭湯のペンキ絵のようで、雪の実景がわいてきません。「君がため」の雪は、舞台を美しく演出していますが、しょせん主役は君と我。雪は衣手に降る添え物です。「花さそふ」は、雪の字はあるものの(桜)花を歌っているので、論外です。
残る「朝ぼらけ」の歌が、雪を表現の主体において、しかも風流の王道である「花月」を脇に添え、美しく歌い上げています。雪が気になる私も大満足の一首。朝の雪もいいでしょうね。それにしても、百人一首に雪の歌がこれだけとは、以外でした。昔の人にとっては温暖化した現代より身近なはずの雪。歌では表現が難しい対象なのかもしれません。
私が見つけたもう一つの「百人一首の雪の歌」。それは次回ということで。
* こんな話題に誘われる季節が来ているんだと、わたしは、なかば潰れた眼にうっすら涙をためる。
次便を楽しもう。
* まるちゃんの七五三のはなしに、遠く異国の天才が祝意を送っている。なつかしいねえ。
2007 11・12 74
* 階下での晩・夜の仕事を一応十時で切り上げ、機械の前へ来た。戸外はどこも冷え冷えしていたが、最高裁や国会前のあたりも、まだ燃えるような銀杏並木の黄葉ともみえなかった。
☆ 紅葉黄葉 ボストン 雄
改めてケンブリッジ市内の紅葉が見ごろであることに気づく.少し前までは,紅く色づいた楓が目に付いたが,今は黄色く色づいた楓が多い.既に枯れかけている葉も多く,茶色く見える木もある.これら黄色や茶色の葉が,煉瓦造りの建物に良くマッチしていて,なんともいえない趣がある.
特に,ハーバードのビジネススクールの近辺は美しい.左手にビジネススクールの建物群,右手にはスタジアムがあり,この道沿いの紅葉が,今まさに見ごろ.
カーラジオからは,色々なクリスマスソングが流れている.もう,そういうシーズンなのだろう.
2007 11・16 74
☆ 紅葉山川満 珠
今日は秋の茶会。まだ暗いうちに起きて、髪をまとめ着物をきる。
着物は月1、2回しか着る機会がないが、不思議とすっと着られる時と、何度やってもうまくいかない時がある。着物や帯の違いというより、単なる運のような感じであり、こればかりはやってみなくちゃわからない。今朝は思いのほか一度できまり、出かける時間にも余裕ができた。
成城にある茶席では、社中揃って慌しい準備、、、喜寿をこえめっきり足腰の弱くなられた師は、静かに竹一重切の花入と向き合い、照葉や椿を生けてられた。
どんなに準備をしても、何かはおこる、だから茶会は厳しく普段を試される。釜、茶碗、、小さくて大きな問題が、皆の知恵寄せ集めてそれなりに落ち着いてゆく。独りじゃできない、しみじみ思う。
私も点前を、した。キンチョーしてなかった、だからよくなかった、ように思う。
道具を運び座る、蓋置を置き、柄杓をとろうと目を向けると、着物の袂が触れたのか、ゆっくり柄杓が転げていくのが見えた。よぅく、見えていた。慌てず転げた柄杓を取って半東に渡し、清めてきてもらう。待つ間、正客に一礼「失礼いたしました」そしてそのまま点前を続けた。
茶杓を清めて茶器の上に置く段になって、自分の手の震えに気がついた。衝撃の出だし、、にキンチョーの階段を一気に昇ったらしい。
一番困ったのは、茶器から茶をすくう時。茶杓にすくった茶を茶碗の底におく、、その何とムツカシイことか。震える手は、我が手であってもどうしようもない。どうしようもない自分だけが、其処に、お客様の前にいる。そのどうしようもない自分にがっかりして、ようやく手の震えも諦めたかのように消えていった。
穏やかな陽射しの一日、床には「紅葉山川満」、色満ちてまた明日、そう、またはじまる。
キンチョーは必要。足りない我を自覚するからキンチョーする。謙虚に、静かにキンチョーを抱きしめ、パートナーにしたい、秋の日に学ぶ。
* 茶の作法を自分で習ったり人に教えたりしていた昔を、また茶会当日の空気を、ありありと思い起こす。この珠さんの流儀はわたしの習った裏千家とはちがうのではないかと想う。「茶会は厳しく普段を試される。釜、茶碗、、小さくて大きな問題が、皆の知恵寄せ集めてそれなりに落ち着いてゆく。独りじゃできない、しみじみ思う」は、佳い言葉だ。
床はどなたの書だろうか。「山川紅葉満」とありたい気がするが。あるいは「紅葉満山川」か。
☆ 三昧 maokat
昨夜研究室を出ようと思ったら、実験室でアラームがピーピー鳴っていた。超低温槽が故障して温度がマイナス51度まで上昇している。メーカーに電話したものの、東京のカスタマーセンターに通じただけで、夜8時過ぎではどうしようもない。やむなく、400リットルの内容物を全て出し、他の低温槽に分け入れた。
お陰で今朝は、メーカーからの電話で起床。いつもの朝食をとり出勤。温室の水遣り後は、昨年から書き始めようと思っていた論文に着手。書くと言っても、いきなり書き出すわけではなく、まずはデータの過不足を整理したり、図表を作成したり。この仕事に結構集中した。時間を忘れた。気がつけば夜。
外はマイナス3度の世界。帰宅後、パスタ125グラムを茹で、辛子明太子で和える。大葉を散らし、この間福岡で買ってきた有明海の海苔を火取り、細く切って散らす。所要時間15分。満足は限りない。
土日と家で夕食を食べ、少し健全になったような気がする。
寒い夜長、洗濯でもしながら、論文の続きを楽しみたい。
* ああ、佳い文章、静かな述懐。
2007 11・18 74
* 忘筌といい、如庵、待庵といい、このところマイミクさんのなかで茶室の話題が散発している。
歌舞伎の感想を書くと、どうやら歌舞伎好きの人たちから「足あと」が降るように来る。「mixi」のおもしろさで、コミュニティーをさがせば無数、多彩に「世間」も「関心の話題」も広がって行く。あまり足を取られたくないのでわたしは自身で覗きに行くことはしないのだが、たいへんな食通もわたしのマイミクの中におられる。食の店を開いている人も、茶の店を開いている人もあり、作家も脚本家もいる。
☆ Pad Thai ハーバード 雄
今日は,隣のラボのインジュンとランチに行くことになっている.この間の誕生日のお祝いだ.
「You,見ろよ」と居室の外から、ライアンが呼ぶので出てみると,外は激しく雪が降っていた.昨日の初雪とは比較にならないほどの降り方.しかし,気温が高めなので,積もることは無いだろう.
しばらくして,隣のラボのプログレスレポートが終わり,インジュンが居室に入ってきた.「凄い雪が降ってるけど,大丈夫?」とインジュン.「大丈夫だよ」と答えると,「では少し早めだけれど,行こう」とインジュン.
「どこに行きたい?」とインジュンが聞く.
「何かご希望は?」と聞き返すと,「韓国料理以外ならどこでもいい」とインジュン.インジュンは韓国人だから,勿論韓国料理は好きだ.しかし,それが故にボストンの韓国料理には満足できないらしい.僕もボストンの日本料理には満足していないから,その気持ちは良く分かる.「じゃあ,タイ料理はどう?」と僕.
ハーバードスクエア近くのタイレストランに行く.なぜか数日前からPad Thaiが食べたくて仕方が無かった.
Pad Thaiは,甘酸っぱい味付けの炒麺.具は鶏肉や卵,ネギ.砕いたナッツがふりかけてある.こちらでは定番料理の一つで,どのタイレストランにも置いてあるが,日本では食べたことがなかった.
この店のPad Thaiは,麺が少し平べったいが,コシがあってとても美味しい.最初出てきたときは,量が少ないなあと思ったが,ゆっくり食べているうちに満腹になった.
僕の実験プロジェクトのことや,隣のラボの日本人Mさんの話,今インジュンが出そうとしている論文の話などをする.Mさんの論文は,最近Nature誌にアクセプトされたらしい.インジュンも,Natureに改訂版を送っているところだが,審査員たちのコメントからして,まず間違いなくアクセプトされるだろう.僕の周りの人々が,次々と良い論文を出していく.僕もこの流れに乗れると良いのだが.
ハーバードスクエアにあるHolyoke centerに用があったので,ハーバードスクエアでインジュンと別れる.インターナショナルオフィスのある8階に行き,帰国に際してパスポートやビザに不備がないか,見てもらった.この時期はアメリカを離れる人が多いので,色々トラブルがあるとインターナショナルオフィスから注意を促すメールが届いていたので,念のため確認してもらった.その足でハーバード大学の生協に寄り,いくつか買い物をする.
ラボに戻ってきてからは,ひたすら実験.夕方からセイリーンが現れた.この間,シュシェンの演奏会に来られなかったのは,パソコンがクラッシュして,その対応に追われていたのだとか.Thanksgivingの休暇の前までにデータ解析を仕上げたいらしく,夜になってもパソコンに向かって電子顕微鏡の画像とにらめっこしている.
「Youは,こんなに遅くまでいつも実験しているの?」とセイリーンが聞く.
「最近はサボりがちだから,今日はたまたまだよ」と僕.
「サイエンスセンターのカフェテリアに御飯を食べに行かない?」とセイリーンが誘う.僕も確かにお腹が空いてきた.こんな時間でも開いているカフェテリアがあるのかとびっくりしたが,なんのことはない,たまに僕も利用しているカフェテリアだった.グリーンハウスという名前がついているのを知らなかった.
ここのカフェテリアのメニューは,いかにもアメリカらしい.ピザ,ハンバーガー,ブリトーなど.この中で好きなのは,強いて言えばブリトーだが,今日はピザを選んだ.セイリーンも同じくピザ.
セイリーンはアメリカ生まれのアメリカ育ちだが,ご両親が台湾出身ということで,家庭ではアジア系の食事で育ったという.そのせいで,今もアジア料理のほうが口に合うのだとか.日本のカレーライスが好物だという.インドに行ったことがあるそうで,同じインドでも北インドの料理は美味しいけれど,南インドの料理は不味いなどという話をしていた.
明後日から土曜日まで,サウスカロライナのご両親の下に帰省するとのこと.サウスカロライナにはアジア系の食材店が無いのだそうで,ボストンから帰る際には,チャイナタウンで何か買って帰ってきてくれ,と頼まれているらしい.
食事を済ませてから再びラボに戻り,測定を続ける.粘った割には思うような結果が出なかった.一時帰国までに,もう少し良いデータを取りたい.
* 「雄」の日々を覗かせて貰うことで、わたしは、なにかしら増殖感を満たされているらしい。
2007 11・21 74
☆ Thanks giving 前夜 ハーバード 雄
昨日遅くまで実験したにも関わらず,家に帰ってからもあれこれとやっていたため,寝たのは3時になってしまった.おかげで今朝は眠くて参った.
祝日の前でも,多くのラボメンバーは普段と変わらない生活を送っているが,今日は様子が違う.
聞くところによれば,Thanksgivingは日本の正月のようなもので,多くの店が閉まると言う.今日も半日または夕方までで営業を終える店も少なくない.
朝,ラボに着くと,コーリーが居室に入ってきた.彼は今日の夕方,実家のあるペンシルバニアに戻るという.何をするのかと思いきや,ひたすらビールを飲み続けるというから,これも日本の正月と大差ない.
コーリーいわく,「僕らの家族は,皆お互いのことが嫌いなんだ.だから別々に離れて暮らしてる.だけど,Thanksgivingには,一応,皆集まる.でも,15分も経つと,お互いのことが嫌いだったことを思い出すから,後はひたすら酒を飲んで誤魔化すんだ」.
それを聞いていたライアンは,「僕もそう.だけど,僕は酒が飲めない.だからThanksgivingには実家に帰らず,Christmasだけで済ませているよ」
アメリカ人というのは,もっと楽観的なことを言う人達かと思っていたが,うちのラボのアメリカ人は,そうでもないらしい.
皆,早めに仕事を切り上げ,”Happy Thanksgiving!””Happy Turkey day!”などと声をかけては,ラボを後にする.
隣のラボの学生のエマが,インジュンと一緒になって,Thanksgivingの翌日(金曜日)に,郊外のアウトレットへ行く話で盛り上がっている.
Thanksgivingの翌日は,年に一度の大安売りの日となっているらしく,郊外のアウトレットモールは深夜から開店するところも少なくないという.彼女達はWrenthamのモールへ行くらしい.何時ごろに行くと,駐車場が空いているかなどを熱心に語っていた.
そんなに特売なのだったら,僕もちょっと覗いてみたい気もするが,なにしろ僕は目をつぶると自分が何を着ているか全く分からないほど,服装には無頓着.持っている服のほとんどはユニクロかGAPという有様だ.アウトレットまで行って買うようなブランド物は,まさに「豚に真珠」といったところで,正直,全く関心がない.
6時前に実験を済ませ,合唱の練習に行くために車を取りにアパートに戻る.いつもは隙間の無いほど車が停められているOxford streetだが,今日はガラガラ.今週もDさんと一緒に車で練習会場へと向かう.
今日練習したのは,ヘンデルの「メサイア」からの抜粋.後3週間で演奏会だというのに,この程度の仕上がりで,果たして大丈夫なのだろうかと不安になる.
今日はThanksgiving前日とあって,参加者もまばら.ベースは二人しかいなかった.
指揮者の先生も真剣になっているのか,休憩もなしで,2時間ぶっ続けで練習.最初は気にならなかったが,途中から寒さが気になった.歌っている間は分からなかったが,すっかり身体が冷えてしまったようだ.
帰りの車の中でも寒かったし,アパートに戻ってきてもまだ寒い.風邪をひかないように気をつけなくては.
* 追体験の楽しみで、雄クンの日記を愛読している。
2007 11・23 74
☆ 甘える・甘えられる関係 創
大学時代の文学概論(だったか?)の授業で、「親」について挨拶せよ、とのお題が出された。次の週、親と子の関係として、どちらがどちらに甘えるのが自然か、という講義になったと、記憶している。もしくはこれらは違うお題の挨拶の授業であったかもしれない。
私に鮮明に記憶されているのは、私は「子が親に甘える」ことが自然である、と挨拶したことに対し、秦先生は「親が子に甘える」ことが自然である、と述べられていたことだ。当時の私は「自然か?」という問いに対しては、「扶養されている身である訳だから不自然」と感じていた(と思う)。
しかし、わが子を持つようになって、この秦先生の回答は、残念ながら「理解できる」ようになった。私は2歳に満たないわが子に甘えている。具体的な「扶養」というような些細な点ではなく、「生きる」という、より根源的な意味で私はわが子に甘えている。
生きる力という意味で、彼は非常にたくましく、私はこれからさらに甘えていくことになることも、感じている。つまり授業で秦先生が伝えたかったその真意を全く理解できていなかった、ということだ。これも言葉では伝えきれないことなのかもしれませんね。(私が青かったというだけかもしれませんが。)
一方で、このことは、親から子へ「思うこと」であって、子が親に「理解すること」でもないように思う。一方向のみしか存在しない理解だとも感じている。わが子がこのことを学生時代に理解してくれたら、それはそれで恐ろしい。それを理解するような深刻な事件か状況が彼の周りに起こったということだろうから。
私は「幸いにも」そのような状況には置かれず、生意気の限りを尽くし一人で生きてきたように振舞ってきた。先生が授業でも触れていた「十七にして親をゆるせ」の必要がなかったわけです。
この件をはじめ、親子関係の連鎖は無数に無限に続くありふれたものでありながら、こんなことにも気づけない難しいものである、と感じるようになったわけです。こう思うとき、秦先生ありがとう、と思わざるをえません。
* ありがとう。写真のボク、クリックしたら大きく見えるんだ。大きくなったねえ。二人に似ているよ。そうだよ、こどもが親を育ててくれるのさ。
☆ ニックネーム変更 創
poplifeandcoにはコダワリ持っていたわけではないので、湖さんの勝手なご提案を勝手に受け入れ、「創」と変更。私の名付け親ですね、湖さま。
poplifeandcoは「873面白化計画」を遂行していたときに、思いついたニックネーム。アパレル・ブランドの「Max&Co.」とか設計事務所で「&Associates」とか使うことから思いついた。直訳して「弾ける生活とその仲間」だ。
ある時期、私は「面白くない人間」になっている、と湖さんにコテンパンに言われたことがある。そのとき私はある事件で落ち込んでいて、優しい言葉を待っていた、にもかかわらずだ(笑)。しかし、おかげで目が覚めた。そこから上記「873面白化計画」に入ったのだ。なので、poplifeandcoも源泉をたどれば、湖に至る。
そのせいでポーランドにいるということにもなるのだが、、、、(笑)
そういえば『面白い話』は、未読のまま実家の押入れに眠っている。帰国したら読んでみよう。
* 創意工夫。謂えばカンタンだが容易でない。容易でないから励んでいるのが、この人。奥さんも赤ちゃんも、お元気で。
☆ 教員という仕事 司
教員をしている妻と外出すると、色々なところで出会いがある。
七五三の時も、とある巫女さんから「○○先生ですよねぇ? ○○でお世話になった○○です。」と突然声をかけられ、しばし妻と彼女との立ち話に付きあった。
先日、買い物に出掛けたときは、スーパーの中でデート中(だと思うが)の今の教え子2人とばったり。ズボンを半分下ろした男の子と幼い顔のクセに妙に大人びた格好をしている女の子・・・。正直に言うと、見た目は頂けないが、うちの3歳と1歳のチビにも「こんにちわ」と笑顔で話しかけ、あやしてくれた。その素顔が垣間見えて何ともいい感じ。
デート中に先生と会うのもどうかとは思うが、どちらの子供(巫女さんは既に成人だったが・・)も妻を「先生」と呼び、先生である妻も彼・彼女らに笑顔で話しかける。
そんなときの妻は母から先生の顔に突然変わる。子供たちも、生徒の顔に変わる。
教員とは何ともうらやましい仕事だなぁと正直に思う。
18歳。高校3年生。既に推薦で進学先は決まっていたという。将来の夢はスチュワーデスだとか。夜10時、塾の帰り道。歩道を自転車で走っているところを左折してきた車に捲き込まれて亡くなった。
夢は一瞬で潰えた。棺には成人式用の着物が一緒に入れられたとか。
担任ではなかったらしいが妻の昔の教え子。担任であった先生は事故の翌日、彼女の自宅を訪問してご家族とお話をしたと言う。
こんな悲しみにも正面を向いて立ち会わなければいけない。
私など、話を聞いただけでどうにも堪らなくなってしまった。何も言えない、何もできない・・・と思う。これでは教師は務まらない。
教員とは何ともうらやましい仕事だが、この仕事が務まる妻もまたうらやましいと思う。
* こういう柔らかいハートの「司」をもった行政って、いいなと思う。奥さんもお子さんも、お元気で。
「司」クンの結婚式、あんなに生徒たちが大勢参加して楽しかったのは、初めての体験だった。奥さん「先生」の人徳を目の前に観た。
「創」クン夫妻には、わたしは結ぶの神であったなあ。みんな幸せでいてほしい。
* 生きているだから逃げては卑怯とぞ幸福を追わぬも卑怯のひとつ 大島史洋
2007 11・24 74
☆ 秦先生 馨
このところ体調がすぐれず「mixi」もすっかり読むだけになってしまっております。ただ、私の不調は時期がくれば治るのですが、先生のお具合の悪いのを心配しております。お目は先生の生命線、くれぐれもお大切になさいますよう。
湖の本のお礼も遅くなりました。いつもありがとうございます。ゆっくりと読ませて頂きたいと思っています。
先日、パソコンを整理していましたら、ときおり書いていました歌が出てきました。下手な歌ばかりですが、なんとなく我が家の小さな来し方を思い出し、少し甘えて送らせて頂きます。
花びらを蜆のかたちといふ吾子よ 静かに豊かに汽水に咲きゆけ
2年半前の春、裏山からたくさんの山桜が花吹雪になって谷戸一面に降りしきる中、思い立って外で朝食をとりました。その時にまだ幼稚園だった娘が舞い落ちる花びらを拾い上げ「お母さん、花びらってシジミの形だね」と言った一言に、シジミの棲む汽水域の豊穣さを思い出し、そういう子に育ってほしい、とすらりと出てきた歌です。
そして、翌年の花吹雪の時は、息子が生まれた時期で、入院中の私は家にいなかったのですが、娘が夫に頼んで花を見られなかった私のために花壇のチューリップを撮影しておいてくれたのも思い出です。
千年を経て横たわりいる佳人見つ 寝入りし吾子の息聴くがごと
息子を生んで、そして仕事に戻った時、千数百年を経て、初めて日のもとに出た美女が待ってました。くらい中では何度か会って来ましたが。これからの仕事だなぁ、と、明るい光のもとで対面した時、彼女達を見つめる視線が、我ながら我が子を見守る目になっているのに気づき、ふふ、と。
3Dでディテクトされし吾子はまだ五輪旗のごと風をはらみて
今月の初め頃できた歌です。超音波を使った検診で、小さなマルだけで構成された二等身の体が見えました。ジタバタと動く姿が風をはらんだ五輪のようにも見えて。
というわけで、私の現在の不調はつわりです。仕事に戻ってまだ半年ですし、全く予定外のことなのですが・・・。
最近あまり「mixi」を更新せず、先生がご心配なさっているのではないかと思いまして、メール差し上げています。
仕事の方も順調で、育休中に仕上げた論文が掲載になり海外でも話題になっている、などと噂を聞いたり、いくつかのプロジェクトの大枠の予定を立て始めたり、と軌道に乗り始めたところですので、休むのはもったいないなぁ、と思わずにはいられないのですが、もう一度子ども達とやわらかな日々を送れることを、贈り物のように楽しみたいな、という気持ちも多分にあります。
まだ不安定な時期ですし、順調に子どもを産んできた友人でも三番目を流してしまった、という話をあちこちで聞いたりしていますので、この子に本当に会えるのかはわからないのですが、自分の安産体質を信じて、バタバタと出張暮らしを続けています。(そうは言っても、新幹線から下りて吐き、乗りかえて吐き、なんてやっている情けなさですが。今回、今までで一番しんどいのは、きっと年のせいのような気がしてなりません。)
「mixi」での書き手が増えていらして、先生のHPを読むのが本当に楽しみです。同窓生も多いようですが、みなさん私より一学年くらい上かしら。ポーランドの「創」君だけが同学年ですね。(彼はきっと私のことなど忘れていらっしゃるかと思いますけど。)
海外生活では私の同級生も、アメリカ暮らし5年目の人がいますが、年明けに二人目の赤ちゃんが生まれるそうです。みんないいパパ、いいママになっていってますね。こんな些細なことにでもふと涙ぐんでしまうところが、つわり中で少し情緒不安定なところなのかも
しれません。
寒さに向かう季節、どうぞどうぞご自愛下さいませ。
* 三人めの天与のいのちに幸あれと、お母さんの健康ももろともに祈ります。いい歌日記をもらいました。
「司」クンも「山楓」クンもあなたと「あの日」教授室で会っていますよ。みな同じ学年です。「mixi」に少しずつ昔の仲間たちが加わってくるのを心待ちにしています。「創」クンは最近飛び込んできてくれました。
☆ 冬の始まり オホーツク 昴
窓が朱色に染まっている時、外の世界はいつもと違うらしい。
学校に行こうと外に出たら、細かい霰のような雪が降っていた。
北西の風が雪を激しく舞わせて、無防備な顔に当ててきた。
視界を白くするほどの雪が降っているのに、ちゃっかり太陽は出ていて、金色の輪の中に白い体をおさめていた。
子ども達は頬だけ真っ赤にさせながら、登校してきた。
年長の子は、年少の子に雪がかからないように、コートでかばいながら歩いてきた。
昨日は、甥っ子の誕生日でした。
今日は、風邪でダウンしていました。熱が出ないのが、なにより。インフルエンザの予防接種、どうしよう?
甥っ子にうつってないといいのだが…。
☆ 玉手御前の愛 淳
国立劇場の『摂州合邦辻』 藤十郎さんの玉手、我當さんの合邦、私の大好きな「吉弥さんのおとく」。秀太郎さんの羽曳野、三津五郎さんの俊徳丸。
シブイ! 配役だけでいや増す期待である。
国立劇場のいいところは、あまり商業ベースには乗らなさそうな演目も丁寧に演出して上演する点にある。だって国立だから。
で、今回も実に39年ぶりの通しでの上演である。合邦は最後の大詰のみ(もしくは三幕目から)の上演が多いけれど、やっぱり通しで見られるのは流れもよくわかって、いいなぁ。
かつて私は玉手の恋に主眼を置くよりも、親の立場によりそってこの演目を見ていて、娘を思って切ながるおとくと合邦に涙したのだけれど(そして今回もやはりこの両親に寄り添って涙を流したけれど)、通しで見るとやはり「これは恋の物語なんだな」と、浅香姫を打擲する玉手の激しさにいっそう涙を誘われた。
武家の女性としての生き方を通さねばならない一方で、自分ではどうしようもないくらいにつのる俊徳丸への想い。玉手は自分を終生記憶させ、自分が俊徳丸にとっての無二となるために、自己犠牲の道を選択したのではないか。妻となることはできない身の、あれは究極的な選択ではなかったか。あのように死ぬことによって、玉手は妻という立場、母という立場を越えてゆく。なんという壮絶な恋物語だろう、と私は胸震えました。
ちょっと泉鏡花の「外科室」を思い出した。
私はやっぱりこの演目が好きだなぁ。
現実における「こうあるべし」という観念(これも人間が作ったものなのだが)が、人々の強い情念とぶつかり合う時に生まれる悲劇、そこに人間の切なさとか悲哀が凝縮されている。
* 「淳」さんの玉手への感情移入は、さこそと共感する。鏡花の『外科室』とリンクされたのも佳い、われわれ自由な読書人・観劇人の在りようはこれでいい。
「いい読者」は「いい記憶」の持ち主と、ナボコフは言っている。一つの作品の中のあれこれを覚えているだけではない、自分の生きてきた感動のさまざまをよく覚えていて、おもいもかけぬところとところとが、釦と釦穴のようにひたっと合ってくる喜び。そういう喜びはいっそ「創造・創作」に近い。
ナボコフが、やはり「いい読者」の条件に挙げている「少しでもいい創造力・創作のセンス」と望んでいたのが、是に当たるだろう。
☆ スケッチ ボストン 雄
昨日,ヒャーノに言われて思い立ち,この週末に靴を買うことにした.ハーバードスクエアまで歩く.
今週初めまでは色づいた葉が沢山残っていたが,今週になって,一気に葉が落ちてしまった.歩道は,街路樹からの落ち葉で敷き詰められている.足で落ち葉をかき集めながら歩く子供.それをたしなめる親.
セールということで期待していたが,行った店のせいか,あまり安くは無い.普段買っているスニーカーの方が安いのだが,適当なものが見つからない.結局,革靴2足買うと1足分を半額にしてくれるということで,革靴を2足買った.半額にしてもらったおかげで,どうにか普段買うスニーカー位の値段になった.上の階にはGAPもある.コートを買おうかと思ったが,こちらもさほど安くなかったので,買うのを止める.
少し腹が減ったので,ハーバードスクエアのピザ屋Cambridge 1に立ち寄る.まだ日が高いが,Harpoon UFOを注文.このビールは酵母をろ過していないのか,少し濁っている.レモンが添えられていたので,搾ってビールに入れる.さっぱりとしていて美味しい.ハーフサイズの,クリスピーで美味しいポテトのピザをつまむ.
ハーバードヤードを突っ切って帰宅しようとしたところ,門のところで隣のラボのボスと擦れ違う.軽く会釈.
* こういう簡潔なスケッチの目に観るように具象的なのが、この筆者の、生得の強みか。
2007 11・25 74
☆ 寒くなりました 藤
秦恒平様 急に寒くなり身も心もびっくり致しました。湖の本『梁塵秘抄』有り難く受け取りました。
秦様が身をけずるようにして作って下さって居る本なのに、それを十分に読みこなす力のない自分が申し訳なくて—ぱらぱらとページをめくっております。
祇園のドラマ珍しく夫と共に”熱心に”見ました。
京ことばが下手やしいらいらするわ、といちいちケチをつけ、踊りが下手や、着物に変なシワがある、とかと文句をつけ、そのくせやっぱり懐かしい京都、祇園界隈——-夫婦そろってがやがやとテレビを見ている今を幸せに思いました。
松本清張の「点と線」も見ました。
夫は出張の車中でよく清張の推理小説を読むようですが、私は秦様同様に登場人物がみんな”哀しい人”すぎて後味がつらくて
余り読みません。私の好みは哀しいのにどこかおかしい人たち。
昭和30年代が丁寧に再現されていてこちらも又懐かしかったけれど、「結核で療養している佳人」とか「夜行列車で20時間近くもかけての旅」とか今の視聴者には実感が伴わないでしょうねえ。
一つ違和感があったのは、「安田」がうなぎを食べる前に使ったおしぼりタオル。あの頃はあのような青緑の格子の入ったおしぼりはなかったと思う。白とか、白で端だけが薄青とかでないと—–
テレビ見て文句ばかりつけて、いやな婆さんになったなあって自己嫌悪(もうすぐ私も70才です)。
いろいろ、つぎつぎ、お身体の不調があるようで心配しています。
お大事になさって下さいませ。 2007/11/27
☆ 京の地元もの 泉
孫が幼稚園でもらってきた風邪(流感ではなく)のおこぼれを貰い、熱が出なかったせいか長引き、中耳炎になり、今治療中。従いまして私は片眼でなく片耳で過ごしています。
「点と線」「球形の荒野」は松本清張の小説ではのめり込ませた二作です。
初テレビドラマ化の「点と線」は、ベテラン脚本家竹山洋の腕前と云いたい、いいテレビドラマであった、と。これもビデオ撮りしてのめり込みました。
京都物は、悲しい性で、つい方言のイントネーションのあら探しをしてしまう。
峰子さんのドラマは、確か東京育ちの筈の白川由美と、あのいけず役の戸田菜穂は完璧でした。
祇園甲部の舞妓さんが、例えオフでも白川行者橋を散策している場面は違和感があります。
以前に観たテレビ小説で、洛中の商家を一歩出るや、次の瞬間には南禅寺の水路閣を散歩しているなんて、なんやこれは、と距離感のつかめている者は白けてしまいます。
な~んて、いやな婆さんやなア やれやれ
* 期せずして故郷も互いに接近した、老主婦さんたちの感想。
「藤」さんのご亭主はわたしの同級生だが、彼と「泉」さんとわたしとが、話題になっている白川行者橋、楊並木の白川に架かった何本かの御影石でできた細い橋、まで行こうとしたら、ま、早足三分で三人の顔が合う。そして祇園の舞子、藝妓たちにしても普段着でなら直ぐそばの古川町へ買い物に来るのに散歩の範囲なのだから、べつだん可笑しくない距離だけれども、祇園の女の姿のままあの白川沿いを歩くなどということは、感覚的に、どんなに距離は近かろうとも、まず、決してない。ありえないと地元のモノは知っている。だがまあ、そこが映画なのである。あの美しい景色を取り込まない手はない。なにしろあの辺は、マーロン・ブランドが日本へ来て、いちばん印象的だったと漏らしたところだ、あのマーロン・ブランドの表敬には、いっそ地元のモノがびっくりしたもんだ、なんやね、あんなとこがええのかな、と。それほど馴れて、肌身に馴染んだ景色だ。
* みなみなそろって、e-OLDs。インターネットがなかったら、こんな感想がただ交わされるだけでなくこう公開されることもない。居丈高に、こういう交流は対話でも会話でもないと怒る人もいるし、わたしも信じすぎないでいる方だが、なかなかどうして、電子の杖は、健康で真面目な老境を励ましているのである。
藤さんも泉さんも、上の文章を、わざわざ手紙で書いて切手を貼って私に送ってくれるだろうか、それは考えられない。メールにはメールの利もあることに素直であっていいのである、もはや今日。悪用する人を警戒することだけ覚えていた方がいい。
2007 11・27 74
☆ 近頃の郵便局 E-OLD 神戸
あいた口がふさがらないとはよく言ったものだ。
近所の暇な老人しか来ない郵便局でのこと。
列をなしているわけでもない。郵便振替で代金を払おうとしただけだった。
「おぬし、これが見えぬか。民営化後の局ではローテク番号札、再利用可能な番号を取って順番待ちしてもらわないと処理はしてはならない法律ができたのを、おぬしは知らないのか」
「そんな注意書き見えるか。しらんわ。」
またされること30分。サービス低下で、なんの民営化か。
局員はコンビにの仕事にはまず不適格。
こんなスローモーな会社自体をコンビニで再教育してもらいなさい。
* 同感。さ、もうやすもう。明日一日で、声はすこしでも、もどるかしらん。
2007 11・30 74
☆ 続き薄 maokat
茶会当日。準備は二人で。炉に炭を次ぎ、湯を沸かす。竹一重切に花を活けてもらっている間に、濃茶、薄茶を漉して、出雲焼の茶入れと栗生地の茶器に茶を掃いてゆく。この時間だけ、自分がどこにいて何をしているのかを忘れ、集中していた。
準備を終え、定刻になった。
客を迎えた寄付に、白湯を出す。事情を知らずに愛知からやって来た次客は、僧形のM若和尚と二人きりで、さぞや緊張していることだろう。
寄付の床には、鹿のつがいに「谷紅葉」。
席入りをしても、二人。水屋も二人。席主不在の由を述べ、今日は彼の再起を祈って代理で、お茶を差し上げますと告げた。濃茶をしてもらいながら、若和尚が嘯月の雪餅を召し上がるのを見ていた。お茶が点ち、主客の隔てなく皆で頂く。茶は甘く旨かった。
茶碗が返ったところで、続き薄となり、干菓子が出たところで、交代。建水と薄茶用の茶碗を持って出て、点前を始める。自服も含め、四服点て、四器並んでの拝見。道具を仕舞い、お礼を述べて、次回はN君、次回はN君と、繰り返し繰り返し、会を終えた。
片付けが終わり、大徳寺を辞したのが、午後四時過ぎ。皆予定があり、名古屋の人は名古屋へ、Mさんも明日から東京とのこと。結局、N君を囲む予定の懇親会は、水屋の二人でしんみりと。木屋町の町屋の雰囲気を楽しんだ。
食事も終わり、宿に戻り、今日も何もせず、明日の岡山行きを思い、就寝。
* まるで幾昔前の秦さんの小説の場面かと想われそう。
こういう茶数寄の世界があるということ、もう今のわたしは修業未練でここへは入れないが、様子だけは手に取るように知れる。
* 前シテは茶室に不在であった。後シテの場面がもう一つ続くが、あえて此処には遠慮して出さない。
2007 12・3 75
* 帰国中の「雄」くんからも、メールでお見舞いがあった。「mixi」にも書いていた。
☆ 本郷、都路里 雄
今朝は,小雨の降りしきる中,本郷へ.
実家に届いていた郵便の中に,東大生協からの葉書があった.生協の脱退手続きをしていないので,生協本部まで来て欲しいとのこと.そういえば大学院を修了した時に,脱退手続きをしていなかった.いちいち行くのも面倒だが,1万6千円が還ってくるというのは,悪い話ではない.
僕は大学院博士課程を東大で過ごしたが,本郷ではなく,白金台にある医科学研究所で過ごしたので,本郷には馴染みが無い.それでも,事務手続きや,講義を聞きに行くなどで,何度か本郷には足を運んでいる.
赤門をくぐり,医学部2号館の前で左折し,突き当たりを右折して,安田講堂へと坂を下る.購買部で本部の場所を確認.書籍部のある建物の2階とのこと.
手続きはあっさりと終わった.名前などを記入し,判子を押すと,それと引き換えに金を渡され,それでお終い.なんともあっさりとしたものだ.
1階に降り,書籍部を覗く.ここの本の品揃えは,大きな書店と比べてもひけをとらない.事務に手続きなどで本郷に来るたびに,羨ましく思っていた.白金台には,本屋はおろか,図書館もない.あるのは図書室1つだけ.
来た道を引き返し,電車で銀座に行き,ボスとその家族へのお土産に,漆塗りの箸を購入.
そこから歩いて汐留へ.カレッタ汐留にある,抹茶の辻利へ入った.本店は京都にあるが,一度前を通りがかった時には,大勢の人が並んでいて,とても入れそうに無かった.
恥ずかしながら,抹茶パフェを注文.パフェなんて食べるのは10年以上ぶりかもしれないが,あまりの旨さに言葉を失う.
日本の料理は何を食べても旨いが,スイーツは特に,アメリカを大きく引き離している.
* 十五年半も東大赤門の近くに勤務し、東大はこよない散策、それどころか大事な取材先だったので、匂いだけでも懐かしい。
そういえば、医学書院で机を並べ、のちにやはり巣立ってハードボイルドの翻訳や研究家になり、最近大著を出した中島信也君(小鷹信光)から今日、佳い手紙を貰っていた。
☆ 前の週末 都内の恵比寿で演奏会を開いた。 松
関東の友人たちに忘れられないようにと企画して、はや7年目。
メンバーは少しづつ変わってきているが、毎年この時期になると、人が集まる。今回はいつになくにぎやかな演奏会だった。
個人的にはアンダーソンの『シンコペイティッド クロック』をみんなで遊べるように編曲するために多大な時間を費やし、いささか演奏は消化不良だった。直前にまとめて仕上げてしまうくせが、いつになっても直らないのがいけないのだと思う。
若い頃(?)はそれでも集中力で切り抜けてこれたが、これだけピアノをさわる時間が少ないと、それもできない。少し活動する場所、曲目を絞って、演奏の完成度を上げていきたい。
今回はプーランクのフルートソナタが難曲だった。なかなか耳に馴染まないし、しかも怪しい和音が多く、どうしても楽譜を確かめてしまう。耳で納得できない音楽だ。
* 「松」クンも、東工大の卒業生。昔からのピアニスト。
* ただもう、今日ははやく眠りたい。疲れた。
2007 12・4 75
☆ 待降節 瑛 e-OLD
「待降節」はクリスマスの4回前の日曜日から始まり、クリスマスの前日までであることを知る。
日本のお正月への「序奏」では感じられない時期を、一月も心して待つ。待降節とは、「クリスマスを待望する時期」という意味。
初めて教会へ行ったのは小学校4年か5年生だった。インフルエンザの注射を学校で打ってもらい、熱気味な体を意識しながら家へ帰り、それから異文化に触れるわくわくした気持で、クリスマス・イヴの郷里の教会へ友人と行ったことが昨日のようである。
聖書を買ってもらって読んだが、最初の「系譜」に驚いた。その後時々聖書を読んだ。「山上の垂訓」その他を少しではあるが。
「われらとともに留まれ。時夕べに及びて、日も早や暮れんとす」。
エマオの宿でイエスが二人の弟子と会っている場景は、レンブランドが描いてルーブルにあるという。
昭和25年に買った本、聖書の写真を今日の日記にする。感謝の気持ちである、「足跡」である。
* 何故かわが家にも新約聖書と讃美歌集とがあり、秦の叔母がある時期に人から貰っていたものではないかと察しられる。一編の小説がそこに横たわっていた気もする。
二書ともに今もわたしの座右にあり、新約聖書は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ傳だけは何度も読んだ。般若心経はべつとしても、仏典とは、もっと遅れて出逢っている。
いま私は「旧約聖書」の「詩篇」を読んでいる。旧約を読み、新約聖書を全部読み通すまで、まだ数え切れない歳月を要する。
知識は求めない。救われを願いもしない。ただ無心に読んでいるだけであり、それで足りている。
☆ 幸福 雄
今日は,元ラボへ.大学院時代の恩師に会いに行く約束をしていた.和光市にある理化学研究所に向かう.大学院時代の同期と飲みに行く予定も入れてあった.恩師は午前中しかラボにいないとのことなので,朝からラボへ.
あいにく先客がいたので,建物内をぶらぶらしていると,大学院時代お世話になった先生とばったり会う.研究室を案内してもらう.やはり,理研の設備は充実している.さらに,大学院時代にお世話になった,別の先生のラボにもお邪魔し,しばらく話し込む.
ようやく元ボスに時間ができたようなので,簡単にご挨拶.この分野の現状の厳しさなどを聞く.
大学院時代の同期と話をし,昼食を摂りに食堂へ.理研には2つ食堂があるが,今日は少し高級な方のカフェテリアへ.それでも,カレーライス,小鉢,味噌汁,ヨーグルトのデザートを頼んで,合計470円.安い.しかも味も素晴らしい.理研に来るたびに,食堂の充実ぶりに驚く.
ラボに戻ってからは,先日ボストンでお会いしたK先生や,元ラボの先輩であり,今も研究上つながりのあるM先生を訪ねる.しかし,あいにくK先生はご出張中とのことで,メモのみ残す.M先生は夕方になってようやくコンタクトをとることが出来た.研究上のお願いがあったのだが,あっさりとOKをもらう.やはり実際に会ってみて良かった.
夜6時にラボを出て,同期のKと先輩のHさんと3人で,和光市の駅前の飲み屋で酒を飲む.やはりこの業界は楽ではない.楽ではないけれど,毎日を充実して生きているということは,それだけで幸福なのではないかという気がしてくる.
* 幸福とは、そういうものだと、思う。若い、こういう気概に励まされる。
2007 12・5 75
☆ 慶事 maokat
元部下で、研究室がなくなってからは同室の同僚となった女性研究員が、来春学会賞を受賞することに決まった。
入省以来たった一つのテーマを追い続け、男社会の中、しかも学問の境界領域で、正当な評価を受けず、辞めずにがんばってきた、のを脇で見てきた。並大抵のことではなかった。
一番喜んでいるのは、受賞者に名を連ねている故 I 室長だろう。
おめでとう。
* こういうのが好きだ、よそながら。心嬉しい。
* 芯が抜け落ちているような不快感。八時だが、もうやすもう。
2007 12・6 75
* 「mixi」のあるためか、このごろメールが減り、むしろ手紙・ハガキのお便りを戴くことが増している。
* 小林保治さんにお手紙を戴いていて、それは平家物語にかかわる一つの不審を質問してあったのへの、親切なお返事であった。残念ながら、だが不審はまったく晴れず、小林さんからある専門家に問い合わせて貰っていた返事も、全然「分からない」ということであった。少し落胆もしたが、少し勇気づけられもした。つまり「想像する」自由が許可されたのに等しいからである。
同じことで、一つ、べつに調べておかねばならぬことがある。わたしと同じ関心を、ひょっとして(まったく方角違いで重なりもしないか知れないけれども) 亡き円地文子さんも持ってすでにそれについて書かれていたかも知れないという情報を小耳に挟んでいる。それを確かめてしまうと、創作へ動く自由が得られる。かなり大きな図書館に行かないと掴めそうにない。
2007 12・11 75
☆ エクセレント maokat
アルゼンチン植物病理・生理学研究所(IFFIVE)から、セルジオ・レナルドン博士が来日。三年前、この研究所を訪問し、セミナーを二回開き、ラテンの楽しい時間を過ごした。札幌では明日から三日間の予定で、セミナーを一回してもらい、マクロアレイという実験法を技術移転する。
夕方ぎりぎりまで職場で仕事をし、六時にJICA札幌センターまで迎えに行く。我が家からは、三分の至近距離だ。今日は夕食をご馳走しようと思い、いつか海外からお客さんがあったら連れて行こうと思っていた江別のイタリアンレストラン「マリナーラ」へ。
半時間ほどで、マリナーラに到着。門を入り雪の小道を歩く。まるで友人宅を訪れるような雰囲気。店に入ると先客は一組だけだった。
ここは古い和風邸宅をイタリアンレストランに改築したため、フローリングの床、木製のテーブルセット、床の間、ピアノ、欄間と襖が独特の調和をみせている。席に着くと、客人はぐるりを見回して、とても気に入ってくれた様子だった。店には静かにジャズが流れていた。
ワインリストを持ってオーナーのマリさんが挨拶に出てきた。客人は赤ワインをたのむ。続いて事情を話して頼んでおいたコース料理が運ばれてきた。まずは、平目のカルパッチョ。いつものあっさりソースと違って、今日はクリーム色のソースがかけ回してあり、水菜が散らしてある。お客人はこのソースが気に入ったらしく、とりわけた大皿に残っていたソースまできれいに掬って食べてしまった。珍しい味のソースは、柚と胡椒のフレーバー。悲しいのは、せっかくの「平目のカルパッチョ柚と胡椒ソース水菜添え」が、私のつたない英語では「白身魚のカルパッチョ日本特産の冬によく使う柑橘と胡椒ソース加えて関西特産鍋用野菜」などと、味気ないものになってしまうこと。
次に運ばれてきたのは「プロシュートとモッツァレラチーズのサラダ」。これも、いつも私が食べているものと少し違い、ガーリックが効いていて、力強い味だ。パスタはトマトソースで、具にいろいろのキノコとベーコンが入っていた。パスタを食べ終わるころ、道産コムギ自家製パンが出る。BGMはいつしかカーメン・マクレエに変わっている。オーナーの実家は製粉会社を営んでおり、このパンはとりわけおいしい。アルゼンチンも小麦の大産地でパンは美味しかったが、客人はまたもや、大皿のソースをきれいに拭ってパンを食べた。 次は魚。レアーにソテーしたサーモンとイカが美しく盛られ、緑のハーブで飾られて出てきた。客人はその盛りつけに感激の様子。最後に、お肉の国アルゼンチンの客人を満足させるために作ってもらった、豚肩ロースの野菜煮が鍋ごと登場。両手にのりそうな肉の塊を、大きな木製スプーンで切り分けていく。六時間煮込んだという肉は、ほろほろと溶けるような柔らかさ。頼りない量の日本料理を食べ続けてもやもやしていたお客人もきっとこれには満足してくれたことだろう。とうに許容量を超えた私を尻目に、おかわりまでして、鍋のおおかたを食べてくれた。野菜の甘味が肉に染みて美味しかった。
甘さ控えめのデザートと濃いブラックコーヒーで、ディナー終了。隣室の和室を見せてもらったり、写真を撮ったりして、歓談。厨房から出てきたマリさんを交えて少し話す。
客人に料理の感想を聞くと、間髪入れず「エクセレント」と返ってきた。特に、ガーリックの味付けが美味しかったと。そういえば、今日はガーリックがよく使われていたなと思っていたら、マリさんは「そうでしょう」ととても満足げに頷いている。二品目のサラダにガーリックを多めに使ったドレッシングをお出ししたら、お客さんがとても美味しそうに召し上がっていたものですから、あとの料理も、ニンニクでいきました、と。私がつたない英語で、なぜ日本の年末は第九をやるのか、とか、「戦争と平和」のクリスマスに仮装したロストフ伯爵家の一族が、月光の下トロイカに乗って鏡のような街道を疾走する場面は、真冬の北海道でなら、追体験できる、とか苦心惨憺しているとき、オーナーシェフは客人の細かな反応を見て、味付けの組み立てを変えていたのかと、感服。
そうなれば、いつも決まって食べる元気が無くなったときにこの店を訪れることが多い私には、カルパッチョもサラダもパスタも優しい味で、時としてメインディッシュに肉の塊が見えないことがあったのにも、今にして納得。
これぞ「エクセレント」に値する、日本のイタリアンレストランだと、ゲスト以上に嬉しく帰路についた。こういう店こそ、☆などつけずに大事にしていきたいものだ。
* マイミクさんには、期せずして「グルメ」が多い。みな、美味そうに書かれる。わたしなどガサツに食欲を満たすだけ、お恥ずかしや。
2007 12・11 75
* 夕食後、夫婦してすこししんどく、思い切って眠ることにした。わたしは十時半ごろ目が覚め、機械の前にきた。「mixi」に、十年前からの「私語」を「再撰・再録」をという読者の希望もあったので、試みることにした。時事に踏み込んだ話題は割愛し、文学・文藝、藝能・歴史等に触れた、また思索の跡を拾ってみることにする。
2007 12・15 75
* 次の一文は、身に堪えた。
途中から涙で目がふさがりなかなか読めなかった。こういう文章は、つよい。「mixi」のなかで、うっかり見落とすところだった。
☆ 諏訪のおばあちゃん 珠
今日は不思議と祖母のことを思い出す。帰りの電車でうとうとしていたら、夢に祖母がでてきて懐かしい声を聞いた。寒くなってきたからだろうか。
父が亡くなって母が仕事に出るようになり、私は鍵っ子になった。寒くなって農作業が一段落つくと、冬を我が家で過ごすために、祖母が諏訪から出てきてくれた。家に帰った時に祖母がいる、、、嬉しくていつの間にか走って帰った。
私が大学に進学した頃だろうか、田舎の寒さは厳しいが、東京へ出てくるのもしんどいからと滅多に来なくなった。だから祖母に会うために、毎年何度も諏訪へ帰った。友達も連れて行き、皆フアンになるユーモアのある祖母だった。足腰は弱ってきても村の中では存在感があって、「おばぁにちょっとな、、」といつも人が寄ってきた。
そんな祖母が不整脈から脳梗塞となり、突然倒れた。左半身麻痺と失語症とが後に遺った。
理解力はしっかりしていた祖母は、一時食べる事を拒否した。私は孫として看護師として、あらん限り戦った、「もうほっとけ」という祖母の気持ちと。ただ生きて欲しかった。
子供の時から冬中一緒に過ごし、食べ物を粗末にするなとどれほど怒られたことか、、そのことを私は祖母に繰りかえし言った。そう言ってた自分がいま粗末にしていると。食べないだけじゃ死ねないのよと。繰り返しそう言った。今思い出しても悲しくなる。家族の誰も悲しがるばかり、何も言えなかった。励ましもならず、事実を突きつけるしかなかった。それでも、祖母は、ため息をつきながら食事をまた摂りはじめてくれた。
日中誰もいない農家、祖母が自宅へ戻ることは叶わず、結局施設に入居となった。「おらのうちへかえりてぇ」何度も祖母は口にした。せめて外泊をと、母を伴って諏訪に帰り、2ヶ月に1度、3泊4日の外泊をした。夜間のおむつ交換に、うとうとしていても祖母は必ず「ありがとよ」と言った。暗闇のなか、ベッド゙の横に敷いた布団に入るとその言葉が胸につまり、泪があふれた。ほぼ1年半をそうして過ごし、正月の外泊に温泉旅行を準備していた矢先、母が誕生日の朝、祖母は静かに逝ってしまった。
その2週間前、いつものように外泊し、家から施設へ送ろうと車に移動した時、「おれはいかねぇ」としきりに言っていた祖母。何とか正月にと約束をして施設の部屋へ戻ったが、自分のベッドをじっと見て、
「ほぅか、そういうことか、、、おれのうちはここか、、」
小さくつぶやくように言ったあの声が、あの表情が今も浮かぶ。亡くなって、もう6年。
おばあちゃん、94歳まで長かったでしょう、私はまだ半分にもならない。相撲を見ても、おでんを見ても、綿を見ても、おばあちゃんを思い出す。
「お針をするときゃ、そばによるでない」
皆に”はんてん”を作りながら、いつも言ってたっけ。私もまだお針をしてるけど、あの頃教わった糸の繋ぎ方、もう一回聞きたかった。
* 記憶にある祖母の声
「おれはやっかいにはなりたくねぇ」(祖母初の海外旅行に向け、毎日散歩をし歩く練習をするにあたって一言)
「ごしたてぇなぇ」(疲れたときよく言った)
「わりぃがちょこっとみてくれねぇか」(小さな目に睫が抜けてよくはいってた)
「おら ねるぞ」(早寝早起き 寝る前には梅酒一口)
「われ ひるめしふえるぞやい」(ラーメンの鉢を前にボーッとテレビ゙に夢中なワタクシ、ラーメンはのびて増えた。。。)
「ほうか、ほういうことか」(うなづきながらよく言ってた)
「おしょっさまえ」(諏訪のあいさつ)
「おりゃ ずくがねぇ」(やる元気がないときに)
「ほらぁよくした よくした」(ほめるときに)
「そら!そらいけ!」(相撲の取り組みを見ながらよく言ってた)
「おら なんにもいらねぇ」(欲しいもの聞くといつもこう言った)
「おりゃいけねぇ きちまっただか」(道を間違えたとき)
「気をつけてな しっかりやれよ」(帰るときいつも、いつも)
「おれにゃぁむつかしいこたぁよくわからねぇ」(いろいろ聞くといつも最後はこう)
まだ思い出しそう。おばあちゃん、短い言葉多かったね。学校も行ってないから字が書けないと隠れて字の練習をしてた。絶対に見せてくれなかったけど、私たち孫からの手紙を練習台にしてたの、知ってました。
お針も上手で、靴下の穴いっぱい繕ってもらった。子供に、孫に、ひ孫に、その家族まで”はんてん”皆大事に着てますよ。私にも「われもな 先にやっとくからな」と笑いながら2枚、ありがたく現在も保管中。もう諏訪の山にも雪、今年の冬は、「御神(おみ)渡り」あるかしら。
春になったらお墓参りに帰ります。
* 堪らない…。
2007 12・16 75
* わたしがペンに「電子メディア研究会」設置を提案して最初の座長に任じたのは、この「私語」をそもそも書き始めた「一九九八年、平成十年む春だったと、「mixi」のために日記を「再撰・再録」しはじめて、直ぐ思い当たった。あのあとすぐに通産省の一角に出来ていた「文字コード委員会」に、ペンクラブからわたしが参加した。モノしらずのこわいモノ知らずで、ずいぶん元気に発言し続けてきた。隔世の感とともに、しかしおおかたはわたしの「思い」に添う形で、機械の漢字や記号・符号にも呻くほどの不便もなく、少なくなっているのに気づく。
電メ研は、やがて「電子メディア委員会」になり、ながく委員長をつとめていたが、モノしらずの私が地位を占めていてはよくないと、山田健太氏を見込んで委員長役を譲った。この委員会からわたしは、「ペン電子文藝館」をも発足させて、委員長・館長として数年に六百作もの近代現代文学作品を国内外に発信しておいてから、今年の春に館長職を自ら退いて、ついでに言論表現委員からも自ら退いて、一理事の身となった。仕事をして、ほどよく「役」を終える。わたしは、そのように過ごしてきた。溜まり水は腐るからだ。泉は、泓泓と湧いてかつ流れてこそ、清い。
2007 12・17 75
☆ re-search ハーバード 雄
先日,アインシュタインの次のような言葉を知った.
If we knew what we were doing, it wouldn’t be called Research.
研究をしていて一番不安になるのは,自分のしていることが全く的外れで,意味の無いことなのではないかと思う時だ.今の自分も,勝手知ったる分野を離れ,ボストンで全く新しいことを始めている.それだけに,結果も出ないまま悶々としていると,自分がどちらの方向に進んでいるのか分からなくなる.おそらく今の不安な気持ちの最大の要因はここにあるのだと思う.それだけに,あのアインシュタインですら,こんな風に考えていたのだと知ると,気が楽になる.もっとも同じレベルで比べてはいけないのだろうけど.
そんな話を先日,ポスドクのジョンとしていたら,隣のラボのボスがジョンに言った言葉を教えてくれた.
「研究というのは,自分の知りたいことがこっちの方向にあるに違いないと思って探しても,大抵見つからない.だから,また違う方向に向かって探していく.その繰り返しだ.だから研究はre-searchなんだよ」
隣のラボのボスは仕事を進める上で非常に論理的に方針を立てていく人であり,実際,その方針に従って多くのポスドクが仕事を進め,素晴らしい成果を挙げ続けている.そんな人がこんなことを言っているのは意外でもあり,また心強くも感じた.
もう少し,今のまま頑張ってみようと思う.
* ああ、そうだねえ。
☆ 第九 maokat
八時半にタクシーを頼み福住駅まで。金曜から断続的に降り続いていた雪が一段落したらしく、朝は薄日が差していた。大雪の影響で、高速道は制限時速五十キロ、一時間かけて千歳空港へ到着した。十時半のANA便は定刻に羽田に到着。京急品川経由で池袋へ。東京芸術劇場の隣のビルでお昼。和食だが付け合わせにポテトサラダが付いている。ジャガイモの需要はこんなところにもあるのか、こうして年間三百万トンのいもが消費されているのだな、と感心する。
先週アルゼンチンの客人に話したとおり、年末の第九を聴く。沼尻竜典・日本フィル。
私が高校生のころ、日本フィルは親会社に解散され、自主運営をしていた。何度も河田町の楽団事務所へ通ったが、電気もガスも切られたビルは廃墟のようで、蠟燭の明かりで譜面を読みながらバイオリンを弾いている人がいた。いまでもあの音色が忘れられない。
今でも憶えていることが他にもある。高校生の私と楽団員のおじさんおばさん(といっても今の私より若かっただろうが)で、食事に行って、たしかうどんか何かを食べたと思う。私は、皆年上の人ばかりだったので、当然ご飯ぐらいご馳走してくれると思っていたのだが、お勘定が割り勘で、学生の私もしっかりと代金を取られてしまった。たしかこの時財布には帰りの電車賃そこそこしか入っておらず、会計の段になって、冷や汗をかいた。財布の中身にも冷や汗をかいたが、むしろ、学生の遊び半分でのこのこと「日本フィル闘争」なるものを冷やかしに来ていた自分が恥ずかしくなり、いたたまれなかった。
河田町のうどんの店は思い出しても赤面するが、同じ楽団員さんに連れて行ってもらった新宿歌舞伎町の「ランブル」という名曲喫茶は、大学を卒業するまで、熱心に通い続ける店になった。ここで受験勉強をし、場所柄社会勉強も少しし、グレン・グールドのモーツアルトや、カザルスのバッハに出会った。今は無くなってしまったが、たまに歌舞伎町の桜通りを懐かしく思い出す。
以来、所は北海道、筑波、沖縄、北海道と移り変わっても、機会あるごとに日本フィルの公演には足を運んでいる。高校のころから聴き続けているので、鑑賞や評価というより、親戚が出演しているコンサートを聴きに来る感じがする。まず、客席が埋まっているか気になり、次に誰かが目立ったミスをしないか緊張する。そして皆々の演奏を観て聴いて、誰それの顔色が悪かったりすると、心配になる。今日も札幌出身の後藤さん(ビオラ)が今ひとつ元気がないようで気になった。こんな具合だ。
今日の公演は、第九の前に合唱があった。オケを入れず、東京音大の合唱だけで、武満徹の「明日ハ晴レカナ、曇リカナ」「死んだ男の残したものは」「うたうだけ」を聴く。
昨日ノ悲シミ
今日ノ涙
明日ハ晴レカナ
曇リカナ
昨日ノ苦シミ
今日ノ悩ミ
明日ハ晴レカナ
曇リカナ
明日ハ晴レカナ、曇リカナ
言葉が明瞭に響き、ストレートに胸に響いた。いいなぁと思いつつ、舞台に目をやる。オーケストラは次の第九まで出てこないので、ステージの真ん中には人が一人もいない。そこには放射状に無人の椅子と楽譜立て、大型の楽器だけが置かれている。合唱団はその向こう、ステージの一番奥に並んでいる。したがって、舞台の手前だけを注視すると、沼尻氏は、まるで無人のオーケストラに向かって、一人で指揮をしているように見える。無人の舞台で一人激しく指揮をする人というのは、なかなか異様なものだ。これで音がなければ、狂人ではないか。私は楽器を演奏したことがないので分からないが、やはり名演奏のためには、指揮者が一メートル四方の木の台の上で、身悶えたり、般若のような形相をしたり、目を見開いて音を要求したり、気持ち悪いほどにっこりしないとだめなのだろうか。大変だなぁ、などと考える。
頭の半分で、武満徹を楽しみ、もう半分で一人踊りする沼尻氏を考察しているうちに、第一部が終わった。
休憩を挟んで第二部。第九。日本フィルは先日の日経新聞にも「一発屋」と書かれていたように、熱の込もった演奏をするため、細かいアンサンブルやなどは、はやり乱れることがあるのだろう。しかし正指揮者の沼尻氏は、破綻しないタイプの指揮者だと思った。淡々と演奏が続けられている。
ここでも演奏を聴きながら、思考が遊離していろいろなことが頭に浮かんでは消えてゆく。まず、第九をはじめて聴いた神奈川県民ホールの夜。あまりに衝撃が強く、山下公園から桜木町まで歩いて帰る間に、一緒にいた母と姉に口がきけなかった。次には一度きり行った日比谷公会堂。非常に古めかしいホールと渡邉暁雄の指揮が似合っていた。普門館のカラヤン・ベルリンフィル。生前唯一度聴いたカラヤン。ホールのせいで最悪だった。新宿厚生年金会館では、演奏中に席を立ったことがある。第四楽章シラーの「そうだ、ただひとつの心なりとも この世でわがものと呼び得る者も歓呼せよ それが出来なかった者は泣きながら この団結から去らねばならない」というくだりだ。大学の第二外国語にドイツ語を専攻したのがこの時だけ、役に立ったというよりも、仇となった。
生演奏を聴いているときの私の頭の中は、たいがいこんな具合になる。こういうことは、家でCDを聴いていても決して起こらない。この時の自分の脳波がどうなっているのか、一度見てみたいものだ。きっと、極めて特異的な波形を示しているだろう。
強いて言うならば、座禅をしている時、これに似た感覚を味わう。江戸時代に開かれた日本最南端の臨済宗寺院、南海山桃林寺が石垣島にあり、茶礼したさに、五年ほど早朝座禅に通った。夜型の私がよく五時起きして行ったものだと今でも思うが、まだ身体に力が有り余っていたのだろう。容赦なく襲ってくる蚊や眠気と戦いながら、息を整えていると、頭の中の半分で蚊の羽音や線香の匂いを意識しながら、もう一方別次元のところでいろいろなことが頭に浮かんでは消えて来るようになる。もちろん、この雑念を消し去るのが座禅の目的なのだが、たかだか五年では、雑念が消えることなど、ほとんどなかった。ただしこの時の独特の感覚は身体が覚えていて、それが生演奏を聴いたときの感覚とよく似ているのだ。
さらに言うならば、演奏に意識が集中すると、雑念を思い浮かべる余裕が無くなり、聴くのに精一杯になる。このあたりが、演奏に感動するピークだ。さらに演奏に感動しすぎると今度は、身体的な圧迫感が起きて、鑑賞が妨げられる。心臓が高鳴り、脈拍が早くなり、胸が苦しくなる。こうなると、感受性の許容範囲を超えて身体がついていけなくなってしまうのだ。こういうことは滅多にはないのだが。
こういう経験を他の人もしているのかは、知らない。ただ間違いなくいえるのは、私は音楽の素人で良かったと言うことだ。少しでも楽器の演奏経験があれば、きっとその楽器のパートや、曲のスコアが気になって、私の様には、頭の中にいろいろな発想が泡のように浮かんでは消える領域が出来ないのではないかと思う。これは、どこへ行っても植物があれば、葉っぱを裏返して、病害の有無を確認してしまい、大草原や山並みや田園風景などを単純に鑑賞できない自分の経験が裏打ちしているのだが、いかがなものだろう。
こういった具合で、やはりいろいろな想いが去来し、今年の第九もつつがなく終了した。
五時近くでも明るい東京の宵を楽しみ、池袋から便利な新宿湘南ラインで横浜経由、山下町の定宿へ入る。日が良いのかロビーに結婚式で着飾った人が溢れている。一階のカフェでお気に入りのドライカレーを食べ、コーヒーを心ゆくまで飲んで、部屋に戻り、この日記を書いている。もう三時間ほど経ってしまった。
* 早く「e-magazine 湖(umi) = 秦恒平編輯」へのわたしの姿勢を回復し、そこにmaokatさんや、鳶さんや、甲子さんや、また雄クンらの専用のパートを創って、エッセイ集や小説集として、ひろく読んでもらえるようにしてみたいなあと思う。まだまだ、「明日は 晴れかな 嵐かな」という天気予報では覚束ないのだが。
☆ e-Taxへの再挑戦 麗
感冒から復活。励ましのおことば有難うございました。
快復後,最初に行ったところは,税務署でした。
一昨年,e-Taxに切り替えようと申請して,識別番号なども交付を受けていたのですが,実行できずに時間ばかりがたってしまいました。
画面上で自動計算してくれるのは,とても便利なのですが,それをネット上で送付できず,印刷して税務署に送るのが精一杯。e-Tax講習会を開いてくれるというので,申し込んでいたのですが,先週はキャンセル。幸いにも,今日の回に「空き」があったので,そちらに回してもらいました。
講師の税務署員は,自明の理とばかりに早口でまくし立て,またたく間に2時間が過ぎました。行ってみて分かったのですが,この,e-Taxは,実行するには,結構物入りです。住基ネットの証明書の交付や,ICカードリーダライタの購入が必要だそうです。市役所に2回も行ったり,何千円も支払ったり…それを聞いて,また,くじけそうになりました。
個人的に質問したとき,思わず言ってしまいました。
「郵送した方が楽みたいですね」
税務署員は,当然のことですが,また早口でまくしたてました。
「一度手続きしてしまえば,あとはずっと楽になりますから。」
「初回の控除で元は取れますよ。」
とか何とか。
私より年上の方々も大勢,受講しにいらっしゃっていました。その方たちも含めて,理解が深まったとは思い難いものでした。聞けば,e-Taxの使用率は,現在2.5%ほどだそうです。開始年に限り,5千円までの控除を設けるなど,あの手この手で広めようとしているようですが,どんなもんでしょう。
これを読んで,やってみる気になった方,いらっしゃる?
* 妻に聞いてみよう。
2007 12・17 75
☆ W.ケンプ著 鳴り響く星のもとに 白水社刊 (絶版)を読んで 松
大好きなピアニスト、W.ケンプの著書が、先生の書棚にあった。中古を手に入れようとしたが、難しかった。そこで、先生にお願いして貸して頂くことにした。
W.ケンプの幼少時代から、プロのピアニストとしてベルリンフィル(指揮A.ニキシュ)にデビューしたすこし後ぐらいまでの話が書いてある。
ケンプの父親がオルガニスト、ピアニストであり、兄弟も音楽に親しんでいた。ピアノを弾き始めたきっかけがすごい。父の練習しているモーツァルトのソナタを弾こうと、一人で鍵盤をさわっているうち、いつしかオリジナルな曲となっていたそうだ。父親は驚き、五線譜にわずか五歳のケンプが弾いた曲を書き留めてくれたそうだ。
習わずにピアノを弾くことができ、しかも作曲もしてしまうとは天才としか言いようがない。
個人的にはデビュー以降のことが詳しく知りたかった。共演した、ニキシュ、フルトヴェングラー(二人で連弾している写真が載っていた)、ヴァイオリニストのクーレンカンプの話など本当に興味がある。
ただ、この本はギリシャや昔のヨーロッパのたとえ話が多く、非常に読みにくい。ヨーロッパの人には当たり前の話かもしれないが、文化を知らない私にとってはいちいち訳注に目を通すことになり、面倒だった。
ケンプはロマンチックなセンスをもちながらも、楽譜を重視した演奏をしている。勝手気ままにテンポを動かしたりはしないが、ピアノの歌わせ方、深みのある響きは素晴らしい。すこしだけ間を空けたり、テンポを変えたり、音色を変えたりして雰囲気を作るのもうまいというか本当に自然。CDを聞いていると、すっと、音楽が耳に入ってくる感じだ。以下の演奏が素晴らしいと思う。
<R.シューマン 幻想曲Op.17 1957年モノラル録音>
ロマンチックなシューマンにケンプの演奏はぴったりだと思う。ケンプはクララ シューマンの楽譜を校訂しており、曲への理解、共感も大きい。めくるめく1楽章、素晴らしい歌い回しの3楽章など魅力的な録音である。
このときのピアノはベヒシュタイン?(ケンプは戦前はベヒを使用していた。)とても透明な音がする。技術も衰えていないので、聞きやすい。
他にもクライスレリアーナ、フモレスケで見せる暗い情熱的な演奏、アラベスクの美しい歌のある演奏も素晴らしい。
<F.シューベルト ピアノソナタ第21番>
このシューベルト最後のソナタは『歌』全編すばらしい歌の連続。素朴で暖かいメロディーをこんなに自然に歌わせることができるのはケンプならでは。
<L.V.ベートーヴェン ピアノソナタ第15番田園、31番>
ケンプはベートーヴェンの中でも暖かい田園ソナタが素晴らしいと思う。
そして、複雑だけど美しい31番のフーガで見せる響きもケンプならでは。
* わたしはケンプにもピアノ演奏にもほとんど縁のない者だが、東工大で仲良くなった「松」クンの、こういう述懐を聴くのが、楽しい。そういえば、わたしの乏しい持ち盤にはケンプの演奏は一枚もないようだ。
話は変わるが先日続けて二度観た映画『秋のソナタ』で、娘のリブ・ウルマンと母親で著名なピアニスト役を演じていたイングリット・バーグマンが、ショパンの同じ短い曲をそれぞれに弾いたのを聴いたが、おっそろしく難しい音楽だったので、たまげた。
2007 12・19 75
☆ 記者発表 司
以前「mixi」に書き込みをした新たな耐震偽装に関して、その建物の安全性について検証をしていた結果が、先週公表された。
公表は、行政からと設計者からと両方からなされていて、その内容は
行政:「建築基準法に適合しないものと判断いたしました」
設計者:「建物の全棟とも必要な耐力を確保している」
というもの。
一体、この違いは何なのか。
実態としては、「必要な耐力は確保しているけれども、法律には適合していない」という事なのだろうと思う、が、実態は別として、こういう公表の仕方が、果たして市民の理解を得られるのかどうか、というのに疑問を感じる。
行政の側にいる人間としては、法律に適合するか否かが問題であって、「法律に適合していないけれども安全」とは言えないのは充分理解できる。
一方で、法律への適合可否はよく分からないけれども、「必要な耐力は確保している」と広く市民に言い放つ設計者の感覚が、正直、理解できない。
建築基準法の基準は過剰だ、と言いたいのかも知れない、が、法律は法律。それを守ることが大前提で、市民は法律に合っている事を前提に、建物を買い、安心して生活できる。
法律に合っている建物でも安全で無い、となれば、それは行政の責任であり、法律を早急に改正するなりの対応策が不可欠となる。
設計者は、市民と法律とを繋ぐ専門家のはず。その専門家が、「この建物は安全だから、法律に合っているかどうかはどうでもいい」と言ってしまったら、市民は一体何を信ずれば良いのか・・・・。
ま、建築基準法自体も、市民の信頼を全面得ているとは言い難いのかも知れないが、こういう時期だからこそ、行政も設計者も一体となって信頼回復に当たらなければいけないのに・・・・と、残念でならない。
私の感覚がおかしいのかなぁ・・・
崎陽軒のシュウマイで、パッケージの材料表示順が違っていたことだけで、商品回収をし、幹部が全面的に謝罪したのとは大違いだなぁと思わずにはいられない。パッケージの表示がどうであろうと、シュウマイの美味しさに変わりは無かったなぁ・・・。
暫く前から時々書き込んでいた、私の所管の条例改正案が、先日の議会の委員会を、無事に通過。賛否は挙手でやらないので、最終的に満場一致なのかどうかは分からないが、まぁ何より何より。
折角だから、本会議通過、公布の日に、「条例が改正されました!」と記者発表しようと関係者で検討中。
私の名前で記者発表されるのは、はじめて。
行政絡みの不祥事での記者発表が多いなか、私の初の記者発表は「いいこと」で良かった!
* 良かった良かった。
2007 12・19 75
☆ 終わり始まりそして続き maokat
今週はじめて研究室に出勤する。鹿児島からポンカンが届いており、研究室に柑橘の良い匂いが満ちた。北大の教授からごくろうさまでしたと封書も来ており、これは三年間務めた学会誌編集幹事の任期が今月で終わることから。
アマゾンからは、注文した洋書と、生方貴重氏の『利休の逸話と徒然草』が一緒に届いていた。こういう組み合わせの注文もめったにあるまい。
前者をテキストに、来月から職場で新しく輪読会が始まる。月二回のペースで、担当者は洋書二十頁の要約を作る。私の担当は来年の五月だ。連休に準備をしよう。
後者は、「続き薄」の点前を調べていて、古い『茶道雑誌』に生方氏の連載を見つけ、読んでみたくなったもの。本当は連載されていた『茶心の背景和歌と仏道』を読みたかったのだが、こちらは既に絶版。
夕方までに実験のおおよその結果が得られた。良い結果でもあり、悪い結果でもある。この病害の研究を進めていく上では、新しい発生の証拠をつかんだこの実験は、行政の理解や協力を得たり、研究資金を獲得するには、いい結果だった。しかし防疫上は、とても重要で、深刻な結果が出てしまった。
これまでは、生産地の産業が立ちゆくように、とか、所轄官庁から睨まれずに予算が獲得できるように、とか考えていたけれど、今日からは、「わが国」のことを考え、国土をこの病害から守ることのみ最優先に考えていきたい。
官庁も生産団体も、ごく狭い視野でしかものを見ていない。生産団体は深刻な経済的損失が起きていない今、いたずらに風評被害を煽るつもりかと、「今後一切の協力を拒否」すると脅したけれど、今徹底的な調査と隔離対策を打たないと、本当に深刻な経済的損失を招いてしまう。そうなった時には、もうもとのきれいな生産地には二度と戻れないのだ。
官庁に至っては笑止千万で、さまざまな偽装問題でただでさえ大変なのに、これ以上ややこしい話を持ち込んでくるな、とある担当者は電話でわめき、他の担当者は来年度当たり配置換えになりそうなので、やっかいな問題に足をつっこまずに、この問題は「先送り」したいとの気配が見え見えだ。一番力になってくれている担当者のポストは、あまり発言力がない。こんなことで、官庁の対応は決まっていくのだ。この間まで、I 種国家公務員だった私には、この辺の事情は知りすぎるほど知っている。だからこそ、「一研究者の分際で」と言われながらも、この件については頑張っておきたいのだ。ポスト削減の数合わせだけに拘っている今の独法では、私の後には、この研究を担当できる後任研究者などは配置しないだろうことは明白だ。この病害に対処できるウイルスとカビの専門家がたまたま揃って同じ研究所にいたことは、単なる偶然かもしれない、しかし天の采配かも知れない。どちらかは知れないが、その偶然に感謝して、とにかくこの問題を解決する方法を考えていかなければならない。
いろいろなことが終わり、また始まる。そして、毎日続くのは単調な実験。私の人生は、こうして続いていく。
* さまざまに真剣に真摯に生きている人たちが世の中に大勢いること、自分一人だけが生きているわけでないことを、わたしはこういう「声」「言葉」に励まされて思い知るようにしている。
2007 12・20 75
☆ おん祭り 冬本番 巌
日曜日には 誘ってくださる方があり 春日若宮のおん祭へ
初めて 深夜に行われる遷幸の儀と暁祭に参列することができ
澄み切った星夜の下の漆黒の闇の森の中 もののけを感じてきた
明けて今週は たくさん頂き物があった
お向かいから水菜と白菜のおすそ分け
川崎の従姉から コーヒー美味しかったと とても美味しい練り物天ぷらを
ご近所さんから「そろそろ冬至やね お風呂に入れるか?」と言って 大小の柚子を
それと 迷惑な隣の廃墟からうちに伸びた枝になった 蜜柑
蜜柑はご近所さんたちとで山分け
柚子は小振りのものをジャムにして少しお返しにした
今週末か来週には おん祭の馬長児の「ひで笠」につける山鳥の羽根を
奉納された笠置の鳥肉専門店さんで用意していただける
きじ肉等で 今年縁のできた方々多くと 鍋忘年会
* 南山城の風情と匂いとが、届いてくる。
2007 12・20 75
☆ ゆっくりできる 昴
休みになって、疲れがちょっと出てきている。
歯の痛みはまだ治らない。
とにかく今は、ゆっくり休もう。
木曜日のドラマ「ジョシデカ」は、最初のほうはあまり好きでなかったけど、回を重ねるごとに「いいな」と思うところが結構出てきた。もっとちゃんと見ていればよかったと、後悔。
なかなか落ち着いて書けなかったこと、やっと書けた。
おや、歌舞伎で「舌切り雀」をやっているんだ。
他のお伽草子や昔話も歌舞伎になっているのかな?
道成寺は、お伽草子だけど…。
* maokatが発熱しながら、「mixi」に、佳いエッセイを書いている。すこし長いけれど、大勢に読んで貰おう。
☆ 熱出て思うこと maokat
金曜の夜から三十八.九度の熱が出て、悪寒、発汗を繰り返していた。一晩に三度も四度も、肌着はおろかパジャマまで絞れるほどの汗をかき、起きては、着替え、水分補給、服薬、洗濯を仕掛けてまた寝る、の繰り返しを際限なく続けていた。二組のパジャマではとても足りず、クローゼットから夏用のシャツとチノパンをもう二組出してきて、それを着て寝ていた。チノパンさえも汗でじっとりと色が変わった。汗で濡れたベッドも不快だったが、そのうちに、右半分と左半分を移動しながら寝ることを思いつき、これは功奏して、乾いた布団で暖かく寝ることが出来た。
律儀にコンマ一度上がらず、三十八.九度を示していた熱も、発汗後は三十七度代に下がるようになり、さっきの大汗の後は、なにか大きな峠を越したような感覚を覚えた。
何が大変といって、昨日と今日の温室の水遣りは、危険かつ難儀なことだった。九度の状態で車を運転し、職場の温室で水を撒いてくるなど、今思い出してもイヤになる。我ながらよくしたものだと思う。土曜は、羊蹄からウイルスの実験をしに来ている人もいたが、話もそこそこに、実験の手技だけを説明して、早々に帰ってきてしまった。往復四時間かけて通ってきてくれているのに申し訳なかったが、余儀ないことだ。昨日も今日も雲の上を歩く思いで家に戻り、そのまま布団に直行だった。
今日の夕方になって、それでもようやく物思いのできる余裕が出てきたと見え、布団から身動きもできぬままいろいろなことを考えていた。
子供の頃のことはあまりよく憶えていないが、体はあまり丈夫な方ではなく、寝込んで学校を休むこともしばしばあった。長野の木曽福島に住んでいた小学校二年の時、父が倒れ、松本の病院へ入院した。母は付き添いで松本へ行き、私と姉は、隣村の伯母、母の長姉の家に預けられた。伯母は国道沿いに小さな食堂を経営しており、夫に先立たれて従姉妹三人を養っていた。このおばさんは、大柄でむっちりと太っていて、おおらかで気さくでいい人だったが、私は好きでなかった。何というのか、だらしない気がしたのである。まず思い出すのは、食べ物をたくさん作ること。伯母と私二人の昼食のために、大鍋に一杯素麺を茹でてみたりする人なのだ。台所にはいつも昨日一昨日に作りすぎた余った食べ物が鍋に入ったまま放置されていた。私は子供心に、そのだらしなさが許せなかった。
この食堂は結構繁盛していて、昼は工事関係者などが作業着を着てたくさん来ていたし、週末の夜は同じ連中が、今度は酒を飲みにやって来て、店では酔っぱらいが騒ぐし、奥では客らが家に入り込んでジャラジャラと五月蠅く麻雀をするのに閉口した。
今思い返せば、生涯嫌いになってしまったものの多くが、伯母の家に預けられている間の体験に基づくものなのに気付く。
太った女の人が嫌い。有り余る食べ物が嫌い。今でも冷蔵庫の中は必要最小限のものしか入れず、余分なものが入っていると、気が落ち着かない。煙草嫌い。だらしない酔っぱらい嫌い。麻雀嫌い。ビートルズ嫌い。これは、従姉妹が夜通し聴いていたから。
両親と離れ、慣れない環境での生活も影響し、いつしか私は体調を崩し、何も食べられないほど衰弱してしまった。気に病んだ伯母さんが一生懸命料理を作れば作るほど、それは枕元に放置されて、寄食の分際も子供心に分かっていただけ、さらに私の容態を悪くした。かなり衰弱したのだろう、ついに私は、誰かに抱き抱えられ、タクシーで医者へ連れて行かれた。古い医院には女医さんがいて、優しく診てくれたことを憶えている。またタクシーで伯母の家に戻り、そのまま夕方まで寝かされていた。
夜になり、伯母が枕元にやってきて、「てっちゃん、何か食べれるかい?」と聞くのに首を横に振った。小半時して再びやって来た伯母が、「てっちゃん、これ飲んでみるかい?」と手にしていたものは、暖めた牛乳に砂糖とインスタントコーヒーを入れたもの、つまり即席の珈琲牛乳だった。私は枕辺に漂ってきたコーヒーの香りに、まず食欲がわいた。おばさんは最後の賭でもしているような切迫した顔つきだったが、私が「うん」と頷いて起きようとすると、大喜びで甘い甘い珈琲牛乳を飲ませてくれた。
この時伯母が作ってくれた珈琲牛乳の味を私は一生忘れない。妹の夫は生死の境をさまよっており、甥までただならぬことになってはと、伯母も必死だったろう。この珈琲牛乳をきっかけに、私は回復した。そして、長じてからは自他共に認める珈琲好きとなり、今でも生豆を買って、自宅で焙煎し、焙煎香につつまれてうっとりし、毎日を自家焙煎珈琲の朝食で始めている。もちろん、カフェオレも大好きで、外でも飲むし、風呂上がりに飲む珈琲牛乳も好きだ。これもそれも、思えば、伯母さんが作ってくれたあの珈琲牛乳との強烈な出会いが、きっかけになっているのだと思う。好きになったものも嫌いになったものも、幼児体験に強く動議づけられている。恐ろしいものだ。
さんざん伯母に世話になっておいて、その後私は大変なことをしてしまった。元気になったらなったで、伯母の家のだらしなさが気に入らず、ついに家出をしてしまったのだ。伯母の家から二三分の所に伯父の家、母の実家があり、こちらは手広く民宿を営んでいた。ある日私は一人で伯父の家に行き、おばちゃんの家には戻らない、とかたくなに言い張って、祖母の部屋に立て籠もってしまったらしい。伯父も伯母も困惑しただろうが、まだ祖母が元気でいたため、しばらくは祖母の部屋にいたような気がする。
民宿では、一家総出で夕食の準備をする。私も配膳を手伝ったり、時には注文のビールを運び、お客さんに、「小さいのに偉いねぇ」とチップをもらったことなどもあった。夕食のメニューのうち、胡桃の入った味噌和えだけは、祖母の担当と決まっており、この献立の時には私に必ず大きなすり鉢を持たせて、胡桃、味噌、酒、砂糖、味醂と材料を合わせ、最後に「てっちゃんこれでいいかね」と、祖母は味見をさせてくれるのだった。今思えば、料理の上手だった祖母から私が伝授された料理は、この一品限りで、今でも胡桃を胡麻に変えて、親しい人に振る舞ったりしている。
松本の丸の内病院で父が亡くなり、私の寄留生活も終わった。母は生活のため、木曽を離れる決心をし、川崎へ一家は転居した。後年伯母は糖尿病を病んだが、医者の言うことを一切聞かず、白内障や他の様々な合併症を併発し、従姉妹の嫁ぎ先の川崎近辺の病院を転々とし、横浜の病院で息を引き取った。一度だけ、横浜の市民病院へ母と一緒に伯母を見舞ったことがある。「わざわざありがとう」といわれ、胸がふさがった。祖母は九十の長寿を全うし、伯父もガンを病んだが、もう思い残すことは何もないと書き置きして亡くなった。
母は今年、永年住んでいた川崎の家を立ち退きにあい、すったもんだの末に、虹ヶ丘の高齢者向け公団住宅に入居した。新しい住居から、横浜の市民病院は目と鼻の先だ。その母が、築地塀に伽羅蕗の咲く絵葉書に、「あの引越が夢のように思います。先日には○○で一緒に働いていた人が来ました。良いところで帰りたくないと言って五時までいました。栗平から持ってきた植木も、冬なのに生き生きとして来ました」と近況を伝えてきている。
* こういうふうにモノは思い出すもの。思い出すときに思いだしておかないと、生涯忘れてしまうもの。
2007 12・23 75
* 日本人のクリスマスって、何。分からない。
☆ 松山 司
この3連休を使って、愛媛県松山市に、この1年色々とお世話になった祖父母と共に、もちろん娘2人も連れて、旅行してきた。
松山は、私が小学校4年から中学1年にかけて父の転勤で移り住んだ街。私の今の仕事というか、建築やまちづくりを志すきっかけとなった、原点の様な街。
海・川・山があり、その全ての場所で色々な遊びをした。お城や温泉、古い街並みもあり、その全ての場所を日常生活の場としていた。田や畑、川や海でとれたものが、そのまま食卓に上った。
そんな街が大好きで、東京に帰ってきてからもとにかく度々訪れた。結婚してからも、妻と一緒に既に5回は行っただろうか。
行って何をするわけでもない。今回も、銀天街と大街道という商店街を歩いて、道後温泉に浸かって・・それだけ。松山城にも上らなかったし、(某氏には怒られそうだが)坂の上の雲ミュージアムにも行かなかった。
でも、松山は充分堪能した。商店街は、地元の店と新しい店とがうまく共存しているし、街行く人達も元気そう。道後温泉界隈も、段々開発は進んできているけれども、きちんとコントロールされている感じがする。お城は相変わらずデンと上の方に居て、きちんと街を見下ろしていて、道後温泉本館は街の端っこの方で相変わらず美しく建っている。路面電車は少しづつ新しい車両に更新されている様だが、30年近く前と同じ木の床の車両がガタゴトガタゴトと走っている。
ひいき目に見ているからかも知れないとも思うが、毎回一緒に行く妻も、「また行こう」といつも言ってくる。今回一緒に行った祖父も「よくシャッター通りにならないで色んな店がやっているねぇ」と感心している。
道後温泉の熱いお湯に、1歳になる娘を入れてきた。数千年の歴史のある温泉に1歳児が悠々と浸かっている様は何ともほほえましく、これもまた松山の魅力。
元気な秘密をきちんと分析して、他の街へも波及させるのが私の仕事かなぁと思うことも無くはないが、松山に行くとそんな気も失せて、ただ、のぉんびりしてしまう。
新しくできたふるさと納税制度。愛媛は私のふるさとでも何でもないが、少しでも役に立つのであれば、と、今から心に決めている。
2007 12・25 75
* 宗教、信仰、修養といった方面に気が行かない。へたをすると人に「抱き柱」にせよと奨めてしまうのと同じ結果になると、本意ではない。
「人と、抱き柱」とについて、落ち着いて、やや取り纏めて書いておくことはしたいなと思うのだけれど。
「mixi」を始めたとき、冒険だなと思いつついきなり『静かな心のために』を一ヶ月ぶっつけ、ぶっつづけに書いてみた。あれの吟味がまだ出来ていない。
2007 12・26 75
☆ 振り返る ボストン 雄
ボストンに来てから,ほぼ1年間経った.この1年間は,本当に色々なことがあった.色々な人々との出会い,異国での生活への戸惑い,新しい研究分野への移行,色々な人々との別れ...来たばかりの頃のことを思い返すと,とても今年の出来事とは思えない.もっとはるか昔のような気がする.
この1年間で,自分はどの程度変わっただろうか.
そう大きくは変わらないような気もする.英語は相変わらずだし,研究も進まない.せっかくアメリカに来たというのに,ボストン以外の場所を訪れたのは,ニューヨークに1泊しただけ.同じマサチューセッツ州のウッズホールやケープコッドなども,訪れていない.
僕がもう少し積極的な性格だったら,あるいは一緒に生活する人でもいれば,もっと色々な体験ができただろうと思う.残念といえば残念.
しかし,多少は変わったかもしれない,とも思う.
まず一つは,何でも自分で極力やるようになったかなということ.
日本にいた頃の僕は,何でも人任せであったような気がするし,それで済んでいた.しかし,アメリカに来て,自分の身は自分で守るしかないという立場に身を置いたことによって,そうもいかなくなった.無駄な時間という人もいるだろうが,少しは逞しくなったのではないか,と自分で思ったりもする.
そして,サイエンスに対する視野が,少し広がったような気がする.
日本にいた頃に自分が見ていたサイエンスは,大げさに言うならば「箱庭」だったような気がする.しかし,こちらに来て,さまざまな研究者と語り,様々な優れたセミナー・シンポジウムに触れることができた.それらは,箱庭では決して見ることのできないような風景だったように思う.
僕は日本のサイエンスを否定しているのではない.美しい箱庭には独自の美しさがある.日本のサイエンスのレベルは概して高いと思う.しかし,反面,画一的であるような気もしている.そこには変な形をした木や,思いも寄らなかったような形の岩を見ることはできない.「こんな変な形をした木や岩も,それはそれで価値あるものなんだ」という認識を持つことができるようになった気がする.
そして逆に,日本のサイエンスへの見方も,ほんの少しだけ変わったような気がする.
まだ年末には数日あるが,これからの1年間は,一体どんな1年間になるんだろう.期待もあり,また不安もある.どんな1年になるにせよ,それを楽しむことができればいい,と思う.
2007 12・26 75
* 「mixi」で二人の「ひとりごと」を聴いた。耳に留まった。一人は、わたしのごく若い友人。会ったことはないが。ニューヨークで独りでダンスなどを懸命に勉強して帰ってきて、立派にある大きな劇団に入った人。ポツンポツンとメールを交わして、わたしは激励してきた。いつか舞台を見にゆきたいと楽しみにしています。
☆ マジで独り言です。 炎
やるからには きちんとやりたい
白黒はっきりしないと 前に進めない
これがあたしの 長所なのか短所なのか。
今は短所になってる。 苦しいよー
だけど みんなに追い付こうとして、ただただがむしゃらに それだけの毎日を続けて得るものって
心の強さ
表現力
の割合が大きくて。
あたしが今ほしいのは 心の強さと表現力を しっかり人に伝えられる
『身体能力。』
それ以外のなにものでもなく。
ゆっくりでもいいから 確実に身体と向き合って身体を変えなきゃ。
骨、筋、バランス、固さ。あたしには課題が山積みでいっぱいいっぱい。
ただがむしゃらにやり続けても、心と身体は 変わらないって気付いてる。
あ、多少は変わるとおもう。
あたしの場合が、がむしゃらにやっても
日々『なんちゃってダンサー』に近付いてしまうだけ。
心だけで表現するダンサーなんていない。
ってゅーか 気持ちだけで踊るのは 格好悪いってあたしは思うから。
心に見合うだけの身体が必要なんだと思う。
観る人と見られる人がいて初めて成り立つこの職業
当たり前なことだけど 見られることに責任があるんだ。
あたし 人の数百倍不器用みたい。
器用になりたいけど なろうとすればするほど 自分を見失うからー
考え始めたら すぐにいっぱいになって てんぱって 失敗するんだ
あたし何がやりたいんだ
人を楽しませたい
それで舞台に立ちたい
だったと思う。
いや、そうなの。 そうなんです。
だけど
あたしが今ほしいものは 踊れる身体なんだ。
だから、 出来る範囲でマイペースに ちゃんと自分と向き合っていきたい。
でも それが無理な生活をしてるから。くるしいよー。
今の自分いやだー ダンサーでも舞台人でも なんでもない。
全部甘い。全然中途半端。
でも
もたもたしていられず。
もー 自分の頭悪さ加減呪いたい
踊りうまくなりたい
ダンサー、舞台人のみなさん。
あたし多分今 そーーーとーーー 滅入ってます弱腰
なんか言葉ください。
あたし 踊るのが好きみたい
でも 踊ってる自分が どんなんだったか忘れてしまいそうだぉ。
* お友達のたくさんなコメントがもう入っていて、わたしから口出しの必要はないが、「からだ」と「こころ」とにふれて微妙に難しい問題の糸をまさぐっている。この「私語」の読者で此の道にかかわった人もいるので、気持ちを伝えたいと想った。
「マジで独り言」なのでなく、「マジな独り言」だ、わたしは耳を傾けて聴いた。
☆ ひとりごと。 秦建日子
もうすぐ2007年が終る。
ぼくの30代も終る。
今年は、芝居を始めた頃から目標だった本多劇場で公演し、小説を一冊出し、春と夏と冬にOFFICEBLUE制作の舞台をプロデュースし、そのうちふたつは演出もし、そして秋には連続ドラマとスペシャルドラマを書いた。
よく働いた。
でも、もっとやれた気がする。
逆に、そんなにたくさん働くべきではなかったという気もする。
昨日、駆け出しの頃に、何度も何度もぼくにチャンスをくれたプロデューサーの方と食事した。
詳細は伏せるけれど、いろいろと厳しい意見をいただいた。
ボロカス、にかなり近い感じだった。
でも、とても愛のある言葉だった。
そして、少しだけ、今ぼくを包んでいる霧が晴れたような気がした。
狂えばいいのだ。
わがままであることを怖れる必要はないのだ。
上手に賢く生きて行く必要はないのだ。
作家で、ありさえすればいいのだ。
青臭い独り言だな。
でも、今の自分の記録として、あえて消さずに置こうと思う。
一年後に、自分がこの文章をどういう気持ちで読むか、読めるか、楽しみだ。
* 息子のと限らず、若い人のこういう述懐に触れると、わたしも洗われる。
* 「狂えばいいのだ」に、すこしドキッとした。閑吟集の、またわが中世の一つの鍵ことばだ。
何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ
と言いたいのか。「わがままであること」とどう繋がるのか。彼の仕事を包み込んだ環境は、或る意味「わがまま」にも「狂ふ」にも向かいにくいかも知れない、「上手に賢く」を強いられやすかろう。分かっていてなにかを手まさぐりしながら、四十という年代に踏み込んでゆく。「健やかに」と願う。それは「炎」さんにも願う。
2007 12・27 75
☆ 「雄」さんへの応援 楊 在ノルマンディ
秦様 ボストンの「雄」さんの1年を振り返っての述懐、大きな共感を持ち、応援をしたくなりました。
日本の科学について、それは高い水準にあるが画一的で箱庭のようである、外に出て箱庭では見ることができないような風景を目にして「変な形をした木や岩も、それはそれで価値あるものなんだ」という認識に達したと書かれています。そこにこの方の大きな成長が見られます。それは科学だけではなく、社会のすべてのことに当てはまることに、やがて気が付くことになるでしょう。
そしてもう一つ、彼は大切なことに気が付きました。人任せではいけない、自分の身は自分で守るしかないと覚悟が決まったことです。漱石が英国で文学と苦闘しているときに、他人本位ではいけない自己本位にならなければならないと悟ったと「私の個人主義」で語っているのを思い出します。
1年のボストンでの経験で、雄さんがこの2つを得たのは大変な成果です。彼の書いているものは一見すると自分のしている実験や細々した日常のようですが、日々を書き留めつつ彼がもっと普遍的な何かを会得しつつあることが感ぜられます。それは彼の精神が広がっていくのに私たちが立ち会っていると言ったら良いかもしれません。
来るべき年が彼にとって一層の魂の躍動の年となるよう応援をします。
* 「雄」君は、自分自身の時空に、生活に、決して小さくない危機をいつも自覚している。じぶの「いま・ここ」に欠けていたり欲しかったりするモノを、てらいなく意識して暮らしている。これが、出来そうで誰にもは出来ないのである。まったく同じような状況にいながら、身に迫り来る危機のようなものから眼をそらして、意外に消費的に歌を歌ってだけいる人もいる。「雄」君の危機の自覚には容易ならぬモノがひそみ、しかもそこに立ち向かう日々の姿勢が「日記」に良く出ていた。観ていて下さる人があるんだと、わたしも喜んでいる。
2007 12・27 75
☆ ブット元首相の暗殺 気の塞ぐ一日 ハーバード 雄
朝一番に,ネットニュースでブット・元パキスタン首相の暗殺のニュースに接する.最近,国政への返り咲きを狙っているとのニュースを見たばかりだったというのに.
あいにく,この辺りの情勢の知識が全く僕には欠けているため,何がどうなのか,コメントするのは難しい.ブットが首相となった頃のことは良く覚えている.イスラム国家で初の女性首相であり,また最年少でもあったと思う.とても美しく聡明な人という印象があった.
今wikipediaで調べたところによると,当時彼女は35歳だったとか.今の僕より1歳年下ということになる.そんな若さで首相になるということに驚きを感じる.
彼女はハーバード大学のラドクリフ校で学んだという(その後,オックスフォード大学に移ったようだが).ラドクリフは,何度も頻繁に横を通り過ぎている.もしかすると,今この界隈を歩いている若者の中にも,将来,国家を背負うような人がいるのかもしれない.
wikipediaによれば,彼女はタリバーンの勢力拡大に深く関わっていたようであるし,在任中の金銭スキャンダルなどもあるようなので,手放しで賞賛することはできないのかもしれない.しかし,いずれにせよ,ムシャラフ大統領にとっては,目ざわりな存在だったに違いない.
彼女の真の評価は,いずれ歴史が決めることかもしれないが,いずれにせよ,このような形で命が奪われるというのは残念なことだ.
日頃,アメリカ国内のニュースしか放送しないアメリカのテレビでも,このニュースはトップニュースとして繰り返し報じられていた.どうもホリデーシーズンということで,まるで気合が入らないのか,普段家を出るよりもはるかに遅い時間まで,部屋でテレビを見ていた.途中,近所のサンドイッチ屋Oxford spaに立ち寄り,サンドイッチとコーヒーを昼飯用に買い,ラボへ.
昨夜の雨で,積もっていた雪も,大分減ってきたようだ.今日も朝から小雨が降っている.しかし,今夜半には再び雪との予報も.この雪から解放されるのは,大分先ということになるのだろうか.
今日も同じ実験を試みるが,一度成功してからの中では,最悪の結果だった.他の実験も手がけるが,こちらの結果が分かるのは明日.ひどく疲れた.
日記にはなるべく書かないようにしているつもりではあるが,時にはひどく気が塞ぐこともある.特に,やってもやっても一向に成功しない実験をやり続けていると,そんな日もある.早めにラボを切り上げて帰宅.
* インドとパキスタンとの核保有をグズグズに容認してしまったのは、核戦争の脅威をよほど現実の物にしてしまったと、わたしは歎いてきた。中国、北朝鮮、そしてロシアも。東アジアは核の帯で締め上げられている。
わたしの世界史は、恐慌とニューディールのアメリカ、大粛清と一党独裁のソ連を通りすぎ、いよいよ満蒙で牙をとぐ日本軍国主義の俄然擡頭の時代、田中義一内閣の時代へ来ている。凄い、としか言いようがない。
いっそ『千夜一夜の物語』世界が、懐かしいアジールのようですらある。
『太平記』は、後醍醐天皇も吉野で崩御。護良も正成も義貞も顕家も武時も長年も、みーんな死んでしまって太平記はまだ半ばに達したかどうか。
いまわたしの読み進んでいる本でいちばんアホらしくなっているのはルソーの『告白』だ、ルソーという書き手のキャラがイヤになっている。
2007 12・28 75
☆ みなさん、新年を迎える準備中かと存じます。
家庭内LANのわが家でも、新しい年のカレンダーを貼ったりしてます。
亡くなった親父の残した人生訓が色あせてきたので、コピーしなおしました。その人生訓の下に、今は大学生の息子の作品がありました。
「ぱそこんつうしんは止めよう」です。いまなら
「mixiは止めよう」でしょうね。あはは。
パソコン通信で月10万円て人もいましたからね。
今は安くなりました。これで離婚した人も多いでしょう。
うちは、パソコン通信ではまだ離婚に至ってません、あはは。
みなさんmixi辞められますか?
それが2008年の問題だ(笑) 直 e-OLD神戸
* 同じ意識をかかえた人、さぞ多いと思うし、それでもやめられないと思う人も。「mixi」を辞めようかなと数度考えたけれど、気持ちをマイミクのうちに限るようにしてから、この人達の声は、出来れば聴いていたいと思うように変わってきた。マイミクもいろいろだけれど、いろいろなのが「mixi」だと思い、心親しいマイミクを、もう少し迎えたいと思う日々もある。個から個への電子メールと、幾らかは公開された「mixi」と。両方にメリットがある。人への信頼があるところでは、デメリットはかんがえにくい。SPAMなみに悪意で悪用する人もあるのが不快だけれど、無視する手で、済むと思う。
☆ 頭痛の種 昴
薄曇りの中、枯野に沈んでいく太陽に追いかけられながら車を運転していた。心臓に空洞があるような重さを感じる体調の悪さ。鎮痛剤を飲みながら実家まで。
体調はあんまり良くないけど、昨日先輩の先生から言われたことを、書いておこう。最近、記憶力が落ちているような気がするし、そうでなくても人間は忘れる生き物なんだから。
・「考える」こと。
・人をすごいと思うなら、その人に近づける努力をすること。
・自分にできることは、できる、できないことは、できないときちんと言う。
・準備をきちんと行う。
・基礎をやり直す。
・中学校も小学校も体力的にはどちらも同じ。
長い時間話していたのに、これだけなのかな? 大切な何かを落としていそう。
最近、歯痛や頭痛、むくみなどがどういうメカニズムで起きているのかということをネットの情報を見ながら考えることがしばしばある。自分の病気限定だけど、病気マニアになっている。
そりゃ、暗くもなる。
断ち切って、健康的に別のことを考えないと。
* 自分の病気に「同化」すると、暗くなる一方です。自分でないもう一人の自分の病気を、「観察」するのは有効です。
自分の「体」は、家屋でいえば壁や屋根や床のような建物そのものだと想い、「自分」とは、それらに囲まれ包まれている「内なる空気」だとわたしは想っています。「内なる空気」は、壁達の「外なる空気=天」と全く同じです。
そんなふうに想っています。 湖
☆ 羽織 瑛 e-OLD川崎
昔の宿題を思い出す。昭和20年代の小学生のころ。 いや高校生であっただろうか。人間の記憶はあてにならない。
宿題帳のざら紙の上の文章。年齢の尺度は「かぞえ年」。
主人公は除夜の鐘を書斎で聴く。
百八つの梵鐘。ふっとたれかが後ろから羽織を着せてくれる。
年の重みである。
平成でこの様な羽織を着たい。
* 何とも知れず温かい。
2007 12・29 75
☆ 歳末 ボストン 雄
10日ほど前に,ポスドクのジョンからCDを借りたことを思い出し,iTuneにコピーする.居室でライアンと3人で雑談をしていた時,バッハの「マタイ受難曲」の話題が上ったのだが,ジョンが是非これを聴いてみてくれといってCDを貸してくれたのだった.僕もマタイは既にiTuneに入れてあるのだが,僕の持っているCDはカール・リヒター指揮の1958年の演奏.ジョンが推しているのはレオンハルト指揮の古楽器による演奏なので,聞き比べてみた.
聞き比べるといっても,なにしろ長大な曲なので,全部を聴くのは疲れる.僕が好んで聞くのは,冒頭のコラール.全くの偶然だが,レオンハルト指揮の演奏がYoutubeにアップロードされていた.古楽器でない演奏も載っているので,聴き比べると面白い.あと,有名なアリア「憐れみ給え、わが神よ」好んで聴く.
レオンハルト盤は,古楽器による演奏ということで,ピッチが低めに設定されており,そのせいか,くすんだような色調を感じる.しかし,演奏自体はテンポも早く,全体的に軽やかな印象を受ける.リヒターのは大分重たい.
実は3月の終わりにボストンシンフォニーも「マタイ」を演奏する.指揮者はベルナルド・ハイティンク.現在存命中の指揮者の中では,最も尊敬している指揮者.決して派手ではないが,誠実な音楽作りが素晴らしいと思っている.ウィーンフィルと一緒に録音したブルックナーの交響曲第8番は,僕の中では同曲のベスト盤だと思っている.ハイティンクがボストンシンフォニーと,どんな「マタイ」を聴かせてくれるのか,今から楽しみ.チケットは既に購入してある.
☆ 歳末 東京 珠
昨日、ひとまず今年の勤務は終わった。
前々日から40℃まで発熱して一人休み、前日には嘔吐・下痢でまた一人、昨日は最後だからと無理して出勤してきたスタッフが蒼い顔してすぐにトイレに駆け込むといった散々な状況で始まった。お腹の風邪、、といってしまえばそれまでだが、薬を処方しても吐気で飲めないから、刻々と進む脱水状態を点滴でおいかけるといった治療になる。
「どうしてこんな日に、、」「最後なのに、、」
うわ言のように繰り返すが、歩いて帰れる状態まで落ち着くのを待って、家へと見送った。その後昼過ぎで、診療終了。
片付けた後、納会となったが、家族のいるスタッフは一刻も早く帰りたそうで、早々に散会とする。今年は風邪の流行が早かったように思え、スタッフにも体調不良者が続出した年の瀬。休みに入って寝込んだりせず、元気に新年を迎えてほしい。
夕方から更に職場全体での納会となったが、人のいい男性が体調不良であまり飲めない上司の代わりに杯を重ねていたらしく、気づくとフラフラで、、頭から床に倒れる、酩酊状態。蒼い顔、あぁ、、、残念なことに上司の為に飲んであげたのに、上司を心配させることになってしまった。
せめて車に乗せられるようにするために、点滴。医師と交代で様子をみながら、残った仕事を片付ける。真面目な男性は、意識が戻るにつれハイな気分になったらしく笑顔でヒピースサイン、何とか車に乗せて帰す。今日、目が覚めて、昨日の失態数々覚えているのかしら。記憶のないことを祈ってあげましょう、一応。でも新年じゃなくて、年忘れでよかったですね。
そんなこんなで、仕事納めは点滴で始まり、点滴で終わった。
自分の残した仕事を片付け、持ち帰る仕事をまとめたら、外は霧雨けぶる今日になっていた。仕事納め、終電で帰宅とは。今年も、よく働きました。
今朝起きて、一日年賀状書き。。。減るどころか、毎年増えるばかりの年賀状。普通に考えれば当然なのだろうが、賀状だけのやり取りの人も多くなってきて、せっかくなら、来た年賀状に→お返事する年賀状、にしたい。「仕事はどんな様子ですか?」などという一言へのお返事は、来年の年賀状では、遅い。問題は、新年初出勤で顔を合わせる同僚には年賀状が届いていないとかっこ悪い、、ということ。さて、次の年賀状書きまでに考えよう。今年の分は大方書いたし、ひとまず宿題終了気分、安堵。
* 年賀状は、葉書でもメールでも、わたしは「全廃」ときめた。たいせつなお付き合いは、三百六十五日のうちに、心籠めて、する。そうは言いながらご挨拶やお礼や消息を漏らしてしまっている例が、今年も幾つも。口は調法だが手も足も追いついていない。
2007 12・30 75
☆ 野々宮宗八 maokat
帯広より戻り、二十八日御用納め。実験はうまくいかず。午後二時より来客。出張移動中に、漱石『三四郎』読み始める。
帰宅後二十九日昼まで、十二時間以上寝る。夕方散髪。夜から年賀状を作る。
三十日、年賀状を持ち、家を出る。某所に籠もり、年賀状書き。食事をしたり、温泉に入ったりしながら、年賀状半分ほど書く。
『三四郎』読了。「罪はわが前に」が、どのように登場するのかがわかった。
研究者としては、三四郎や美禰子よりも、野々宮さんに目がいく。
「学問をする人が煩瑣い俗用を避けて、なるべく単純な生活に我慢するのは、みんな研究のためやむをえないんだから仕方がない。」
基本的には、明治末も現代も、研究者の精神構造など、何一つ変わってはいない。
読書はこの後『狭き門』と、『こころ』へ続く予定。
* 簡潔な文体。
* 『三四郎』の三四郎が『それから』の代助、『門』の宗助になるのではない、これはよく読み誤られている。野々宮宗八が代助の前身であることは、美禰子と野々宮との関係を正しく読んでいれば容易に分かるのだが。三四郎は『こころ』の「私」の前身なのである、わたしの読みでは。
2007 12・31 75