■ 「むかしの私」 厖大量の「私語」を三十種近い項目に分類して下さる有り難い読者がある。読み返してみると、面白い。「朝の一服」のあと、これを此処へ手当たり次第に抜いてこよう。「いまの私」との相対化が楽しめるかも。見出し末尾のデータは書いた日。「 」は分類名。 09.01.21連載開始。日替わりで書き換える。
(それぞれに、適宜日々の日記末尾に移してゆく。)
2009 1・1 88
☆ おつきさま 2009年01月06日21:58 悠
保育園からの帰り道.晴れた夜空にお月さま.抱っこした息子に指差して教えると,はっきりとすぐにわかった様子.腰をぐっと反らせて真上を向いてお月さまを眺めはじめました.「そんな姿勢でつらくない?」と聞いてもやめる気配なし.息子を抱えたまま家路につきました.途中,バス停で園長先生に会っても息子は上を向いたまま,手だけバイバイ.そのまま冬の月を見上げて帰りました.
2009 1・7 88
* 「朝の一服」ももう今日明日で全部を連載し終える。「mixi」には半ばは未練、半ばはもういいかという気もある。どうしようか、是までも惑ってきたけれど。また惑っている。
2009 1・8 88
■ 朝の一服 『愛、はるかに照せ』(秦恒平・湖の本エッセイ40・原題『愛と友情の歌』講談社刊)から。 08.06.27連載開始。
さまざまな愛
☆ 暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照せ山の端の月 和泉式部
未生の「暗き」から死後の「暗き」へ、人は生きる。そして死ぬ。後じさりのならない一筋の道である。その道を、成ろうならば来世までも「はるかに照らせ」と祈る。「山の端の月」を、この作者の時代でいえば、摂取不捨の来迎仏そのものと眺めていただろうか。だがそうした思い入れを超えて、この歌のなんとまあ美しいことか。「和歌」時代から一つと限り女の歌を選べと言われれば、私はこの作者の名とともにこの歌を挙げたい。
☆ 淡海の海夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしぬにいにしへ思ほゆ 柿本 人麻呂
もし「和歌」で男の歌を一つ選べとあれば、好きなのはこの歌と答えよう。「心もしぬに」以下の下句は、心も萎えしぼんで衰えてしまうぐらい…昔がなつかしまれる、の意味。日本語の「死ぬ」の意味は、命が萎えしぼむ、しなびる、から出たという。もっともこの歌でのこの句は、そう深刻に重く取り過ぎることはない。「いにしへ」への愛の思いが、誰にもある。この作者の場合には具体的に古き志賀の都への哀惜があったろう。が、我々は、もっと自在に大きくこの歌の表現や音調に助けられ、わが心の内なる「愛」の旋律を引き出して貰っていいだろう。私は、子供の頃から私専用の「和歌」のためのメロディーを持っていて、ことにこの歌など繰返し機ごとに口遊みつづけてきた。
「淡海」はわが、生みの母の国。いわば、私の詩歌への愛の原点といえるこの美しく懐かしい一首を大尾に挙げて、久しい撰歌と鑑賞の作業を、今こそ終えたい。
原本「愛と友情の歌」あとがき
『日本の抒情』の一冊を分担するよう指名を受けたのは、昭和五七年(一九八二)六月十七日のことであった。まる三年がこの間に経過している。顧みてよく三年でこれだけ読みこれだけ撰べたなと、思わぬでない。近代現代に的は絞って行ったが、近代以前の莫大な作品にも、ともかく納得が行くまで目を通しつづけて来た。今にしてこの三年間が幸せなものであったと、感謝は厚い。
思うままに撰んだ。冠絶した作品を厳撰したのでは、けっして、ない。表現や技巧に不満はあっても、テーマの「愛」に即し、心に触れて「うったえ」て来るものが有れば、つとめて拾った。それが「詩歌=うた」というものだ。むろん出会いに恵まれずじまいの作品が、数限りなく有る。その余儀ない事実に私は終始謙虚でありたかった。今もそう思っている。
また、私の解説や鑑賞が、作品を新鮮に読む喜びを読者から奪うほど過度にわたるまいとも、心がけた。簡単で済むものは済ませて、その分、一つでも作品を多く紹介した。最初に指定された作品数より、だいぶ多くなっている。「愛」にもいろいろ有り、さまざま有るということだ。
作品の読みは「私」のそれに徹した。挨拶だくさんに、なまぬるい話に流れるのを嫌った。私はこう読んだが、あなたはそう読まれて、それもまた佳しとうなずけるものが詩や歌や句には、しばしば、ある。読みを一つに限ってしまう「翻訳」も、私は、当然避けた。サボったのでは、ない。
それにしても、いま初校を遂げながらしみじみ思う、愛ならぬ詩は、ない…と。
「愛」の、あまねく恵みよ! しかし「愛」の、難さよ! 努めるしか、ない。
昭和六〇(一九八五)年六月八日 娘・夕日子(仮名)が華燭の日に 秦恒平
そして二十四年が過ぎ、その間に十九歳で孫・やす香をわたしたちは死なせてしまった。娘達のために心こめて編んだ本を、こんどは亡きやす香のため、和泉式部の絶唱にかりて再び、『愛、はるかに照せ』と改題し一昨年春に「湖の本」で再刊したのである。それを此処で、また「mixi」で「朝の一服」と題して少しずつ連載してきた。それを今、終えた。 09.01.10 秦 恒平
* ほぼ半年掛けて『朝の一服(湖の本原題『愛、はるかに照せ』さらに原題『日本の抒情 愛と友情の歌』講談社刊)』連載を終えた。
* この機会に、退会はしないが、「mixi」の作業を、当分(今年中ぐらい)停止する。デスクトップのロゴも削除した。端的に、時間を惜しむため。
2009 1・10 88
* 機械の前へ来ると、まずメールを開き、ついで「mixi」のマイミク日記を読み、「足あと」を点検し、コメントしたり時にはメッセージしたりし、また自分も日記を書いたり連載したりしてきたが、昨日から、ふっつりと「mixi」は遠ざけ、観ていない。個と個との「メール」のみの世間に立ち戻った。メールは、世間とも謂えない。「mixi」は「ソシアル」である。おなじことでも、路上で人聞きも憚らずに袖すり合うた人と立ち話する気分がある。わるいものではないが、立ち話は手間暇をとるものだ。
個と個との「メール」にもどり、それの可能な、ゆるされたものだけは時に此の「私語」のなかへ加えさせてもらうとしよう。
わたしの楽しみは、気づいてみれば人の日記を読むことよりも、そこに楽しい、あるいはピカと光った「表現や吐露」を見出して、「文藝的な興趣」とともに後々にまでも「記録」しておきたいのである。さすがにソシアルな「mixi」ではそれが気儘にし難かった。
2009 1・12 88
* あまりに「spam」不良メールが多い。いろんな遠慮からメールアドレスは極初期以来のものから変更を躊躇ってきたが、むしろ積極的に変更しようかと思いかけている。積極的という意味の一つに、メルアド公開の世間の輪を絞りたいと前から思ってきた。
わたしのアドレスブックには、メール付きで現在七百数十人が登録されているが、過剰であり、現にほとんど交通途絶の人も多くなっている。いまのわたしからは、いろんな付き合いも、よほど多くて二百人で足りるように暮らせばよい。来てくださる人はむろん拒まないが。
2009 1・13 88
* 短い小説を二編、手放そうかと思うところまで繰り返し読んだ。成るものから次々に成らせてゆこうと思っている。「mixi」を手放した気持ちの効果は生まれているのかも知れぬ。小説へ小説へ、と、頭がむきかけている。
2009 1・19 88
☆ 宿河原といふ所にて maokat
昨年来生方貴重著『利休の逸話と徒然草』を読んでいる。読んでいるうちに引用されている『徒然草』自体を読みたくなり、何十年も前に買って本棚の奥で眠っていた岩波文庫本を取り出してきて、就寝前の数分間を楽しんでいる。
私が小中高大と住んだ神奈川県川崎市多摩区中野島は南武線の中野島という駅が最寄りで、徒歩五分のカリタス学園前から市バスに乗れば、小田急線の登戸駅へ行くこともできた。目の前には多摩川が流れていて、当時から夜型だった私は、よく、あけもどろの河川敷をあてどなく歩いた。多摩川に沿って川下にゆくと、南武線の登戸駅前で世田谷通りと交差し、さらに進めば、南武線の宿河原駅になる。その駅のあたりに宿河原中学校というのがあったはず。
私は南武線の中野島駅の向こうにある中野島中学校に通っていた。遊び場所の多摩川に沿って隣接する中学がこの宿河原中学校であり、そこに無言のテリトリー争いがあり、境界線は世田谷通りだった。同級生がよく「宿河原の○○に呼び出されて多摩川の河原で決闘する」などと言っていたので、世田谷通りを越えて多摩川の向こうへ行く時は、何だか敵地に乗り込んだ気持ちになった。
昨夜寝しなに『徒然草』を手にとって、適当に頁を開いてみると、「宿河原といふ所にて」という段(第百十五段)があった。岩波本には各段に西尾実・安良岡康作による校注がついていて、「宿河原」には「神奈川県川崎市宿河原」と注があった。京の兼好がなぜ坂東の宿河原について書いているのか不思議だが、内容はなかなか面白い。
「ぼろぼろ」という流浪の乞食が宿河原に多く集まって念仏をしている。そこで師を殺された「しら梵字」というぼろぼろと、師の敵にあたる「いろをし」というぼろぼろが巡り会う。「二人、河原へ出であひて、心行くばかりに貫き合ひて、共に死にけり」。つまり二人は穢れるといって多摩川の河原へ出、差し違えてともに死んでしまったのだ。「ぼろぼろといふもの、、、放逸・無慚の有様なれども、死を軽ろくして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、、、書き付け侍るなり」と兼好は書いている。
七百年近く前の宿河原でぼろぼろたちは「心行くばかりに貫き合ひて」共に死んだ。兼好はそれを「いさぎよく覚えて」『徒然草』に書き留めた。意外なところで宿河原を目にした私は、布団の中で急に、中学の同級生の宿河原中学との決闘を思い出し、あの決闘がどうなったのか、それが気になった。
あのころの中学生男子は臆病だったから、同級生の決闘も、とても「いさぎよく覚え」めでたくとはいかなかっただろう。未明の多摩川の、生温いような川風の匂いがふと蘇り、七百年前の書き付けに、三十年以上前の中学生の記憶を蘇らされて、昨夜は不思議な心持ちで、眠りについた。
『徒然草』探訪は、まだ続きそうな予感がする。
* 印象燦然とした段で、☆一つ岩波文庫の読みにくい本文を初めて読んだ中学生のときから、記憶あざやか、「宿河原」という地名すら長く胸奥に尾を引いて後年に没入していった民俗学の頃へきちんと繋がった。たとえば東海道の宿場といった「宿」とはべつに、無視しがたい宿の歴史があり、なまやさしいものではなかった。現在「宿河原」という地名は日本広しといえどもこの川崎のそれ以外に大きな地図索引にも見つけにくいが、類似の「宿」地名は決して少なくない。
この徒然草百十五段の「宿河原といふ所」も、現在の川崎市という指定が絶対ではなく、摂津国の昔に実在した宿河原説の方がじつは久しく信じられてきた。ただ、兼好は金沢文庫と浅からぬ縁をもっていて二度も下向の足跡が確認されるにつれ、意外なと思われやすい川崎の宿河原説がかえって有力になり今日に及んでいる。
「ぼろぼろ」「梵字(ぼろんじ)」の周辺には「念仏」もあり、その他の「藝」も「習俗」も纏綿する。伝統久しい漂泊の人たちの生活が推量されずに済まない上に、この場合は斬った殺した刺し違えたというような殺伐に馴染んだ「ぼろぼろ」の特殊な境涯もある。「三人法師」の説話なども存在し、谷崎には同じ題の小説がある。いずれ典拠の説話集もあったのである。
「宿」の研究は柳田国男にとどまらず幾らもあるけれど、なお探索の余地は浅くないとわたしは観てきた。篤学の探査があれば読みたいと今も思っている。
2009 1・21 88
* 十年以上も以前のことには、昨日・今日とほとんど変わりない空気のモノもあれば、コンピュータのような機械の面では、既に隔世の感のモノもある。それが、おもしろい。
松尾敏男氏や千住真理子さんらと二度目の中国招待を受けて北京、西安、杭州、上海等の旅から帰ってくると、日本ペンクラブの理事に推薦するから受けるようにと梅原猛さんの意向が留守宅に届いていた。就任してみると、日本ペンクラブには、理事間でも事務局ともメール交信すら出来ない。ホームページも話題にすらならなかった。ビックリした。すぐ電子化提案したが、いっこう理事会の話が煮えない。やっと電子メディア研究会の新設だけ認めさせたものの、じつに理事会のみなが時代後れで冷淡・無関心であった。理事二年目に入って、ようやっとホームページをつくろうかと理事会の重い腰が上がりかけたが、「予算措置」が、ちょっと先行していたらしい文藝家協会でも、追随したペンの事務局でも、まるで手探りでいい加減なものであった。実情を記録しておいた。
そんな時代があったのだ、仕方なかったのである。わたしにしても、東工大であんな道草を食っていなかったら、電子化など冷淡派の最右翼にいたのかも知れなかったか、いやいや、そんなことはない。東工大教授に白羽の矢がとんできたとき、いちばんにこれでパソコンに手が掛かると期待し、工学部の潤沢な研究費で一番に買ったのはパソコンだった。ワープロは、それよりももっと早くから使い始めていた。
わたしの最初に手に入れたワープロは、東芝開発の一号機「トスワード・ワン」だった。リードはたった、二行。七十万円ちかくした。買ったその日から使い始めた。岩波の「世界」に連載途中だった『最上徳内北の時代』は、そんなワープロで書き上げられた。
☆ ペンクラブにもホームページを。予算措置のてんやわんや。 1998 7/19 「ペンクラブ理事会」 「むかしの私」から。
* もう去年のうちと、今年になってからは何度も、(私の提案で)ペンクラブにはホームページが必要だと協議されながら、いっこう前進しなかった。何がネックなのかホームページを使っている猪瀬直樹理事や私には合点がいかなかった。
事務長はついに先輩格の文藝家協会に出掛けて行き、ホームページを見学し予算の程を聴いてきたのでと、理事会で報告した。新聞記者も同席取材しているいわば公開会議であり、部外秘にする問題とは思われないので、ちょっと「報告」を書き写してみる。
7月7日文芸家協会を訪れ、ホームページに関する説明をして貰いました。費用を問い合わせたところ、文芸家協会の場合、初年度経費として 100万円強の予算を予定しておく必要があるとのことです。
開設費 15万円 制作費
プロバイダ使用料 60万円
更新費用 10万円
電話代 24万円
以上の経費を予備費から賄ってよろしいでしょうか。
業者に委ねれば開設費用はかかるだろう。もっと掛かるかも知れず、もっと安く引き受けてくれる所や人もいよう。
しかしその他の費用(金額)が理解できなかった。唖然とした。
私の5MBのこのホームページ(=現在の此の「私語の刻」他)は、開設にたぶん五千円ほどをBIGLOBEに支払った。誰でも同じの筈である。あとは更新等の毎月請求に対し、プロバイダ料を、二千円未満から目下多くて五千円未満支払っている。これだけで足りている。
私の文章や作品をダウンロードされる方には時間と電話代がかかっているだろうが、発信し更新している私の費用は知れたものだ。開設には親切な東工大の学生君を煩わせたが、それは、誰にでも許されてはいない。可能ではない。だから開設費は掛かるとしても、「60万円」のプロバイダ料とは、何ですか?!
推定可能なのは、文藝家協会は「専用線」を使っているのではないか。分かりよく言えば、一日二十四時間、プロバイダに電話接続しっ放しでいるのだろう、と、いうこと。(=11年昔の話です、念のため。秦) これだと湯水のように費用は垂れ流しである。しかし、どうして文藝家協会の、ないし日本ペンクラブのホームページに、そんな「専用線」の必要があろうか。専門家の誰に聞いても、理解できない、信じられないことだと言う。
あるいは、もっと別の、私などの知らない必要で妥当な「プロバイダ料」が存在するのかも知れない。それなら話は別だ。だがホームページを使っている普通の人は、私も、そんなものは支払わずにいて、支障はなにもない。用は現に足りている、しっかりと。専門家も、別の名目は思いつかないと言う。
協会といいペンクラブといい、規模として、私のこのホームページ程も必要としない(量のことを言っている。)発信量ではないか。発信する方には、たとえばデザインなどに費用を使うことはあっても、通常のプロバイダ料は、つまり電話接続の転送費用は、先にも言うように、連日連夜書き込んでいる私の場合ですら知れたモノである。
全く驚いてしまう予算額が措置されている、或いは措置しようとしている。
こいうことは、機会ある度に口を酸っぱくして理事会で言うのに、聴かない。分からないから分からないのであり、気の毒ではあるが、ずいぶん頑固に、人の話を素直に聴かないのでもある。
それでも国際的組織である日本ペンクラブに、ホームページが無くてどうしよう、必要だと、みなが考えている。分かっている。梅原猛会長は私にも協力してやって欲しいと言われる。むろん協力する。だが、とにかく飛び出てきた「数字」にビックリした。市役所でこんなことをやれば、過剰予算で市民から訴えられるだろう。
* ホームページ予算問題に反響があった。電話を四六時中開け放してあれば、年間には数十万円を要する勘定になるらしい。そんな必要がペンクラブや文藝家協会にあるのかな。きちんと理由があるのならいいが、と思う。どんな組織や団体も、乏しい「会員の会費」を使うのだから、「予算」は慎重でありたい。事務長はわたしのホームページで取り上げることでなく(この「私語」を)削除して欲しいと言ってきたが、新聞記者同席の公開された理事会資料を、その通りホームページで取り上げて発言するのも、私の言論活動であり、とくにこの記事を「削除」せよとは可笑しくないか。言論表現の自由を大切にうたうペンクラブではないのか。 1998 7・23
* 文藝家協会の事務長からも、ホームページ立ち上げ予算問題で、メールを通じて(=私に。私は文藝家協会の会員でもある。)事情説明があった。要するに事務局員で賄いきるには、技術の面でも手間の面でも負担が重く、それをカバーするための何らかの人件費がかかった、だが、実際には当初予算に上げたほどはかからずに済んだ、とのことで、さもあろうと思い、わざわざの説明に感謝申し上げた。
* ペンクラブとしては、私の新たな提案に事務局長も賛同し、東大研究博物館の坂村教授(電メ研メンバー=電子メディア研究会は私の提案で出来、座長を務めていた。)の知恵を借りに行った(七月二十八日)。ここでも、要するに会員の手を煩わせることが出来ず、事務員の能力も労力も及ばない限りは、人件費で、有効な「手」を「買う」しかなく、それとても理事会に提議されたような百万円も百二十万円もの高額予算ははっきり「不要」と判明した。その「手」も、坂村教授に斡旋して貰えた。せいぜい二十万円程度で、あとのサポートも含めて可能となった由、森山氏から今日知らせがあった。
もっとも、実に淡泊な、実質的なホームページを作ろうというのであり、飾り立てて目を惹こうとはしない。それでよいと私は思っている。「予算措置」のことは、これで、決着したことにする。 1998 7・31
2009 1・27 88
* 今日の「むかしの私」では、理事に就任していち早く「電子メディア問題研究会」を立ち上げた私の「基本の理解」を示していて、それは今もそのまま有効の筈である。
ペン理事会は、当時コンピュータなど話題にするのはいつも渋々嫌々であったが、否認したいだけの見解ももっていなかった。研究会はやがて「委員会」に昇格し、そのままわたしが委員長を引き受けていたが、更にこの委員会から「ペン電子文藝館」委員会を企画独立させ、館長としてその責任者も引き受けた。
数年後、電子メディア委員会はより有能な理解者に委ねたいと、若い山田健太氏を推挙し、わたしは喜んで退いた。
一昨年、阿刀田新会長の執行部は、どういう見解でか、「電子メディア委員会」と「言論表現委員会」とを「合併」してしまった。明快な理由は何一つ聞けなかったし、わたしは、そのような合併が「一」委員会としては「過剰負担」になり、双方の機能が弱体化するというオソレを持った。そう発言した。現に合併委員会の「働き」は甚だ鈍ってしまっているのではないか。現執行部の洞見の不足に、わたしは不満と抗議との意志を今も隠さないでいる。
☆ ペンクラブ電子メディア問題研究会 1998 4・12 「コンピュータ・インターネット」
* 日本ペンクラブに「電子メディア問題研究会」が出来ました。言いだしっぺ理事として、当面、座長役を仰せつかっています。
パソコンは頭打ちとはいえ、一年で六百万台を越す売り上げです。しかし大方が粗大ゴミなみに、ゲーム機またはワープロとしてかつがつ使われているに過ぎないのが実状ですから、まだまだパソコン時代が実質を得ているとは言えません。
難しすぎるのですね。インターネツトを使いこなしている人は少なく、使える人の何割もが、いわばヘンな興味や好奇心で掲示板を使ったり、アダルトのハードコア写真を収集しているのも現実でしょう。わたしだってそういうところをちゃんと見て知っています、すぐに飽きてしまい、もう近づきませんけれど。
つまり実勢はたいしたことは無いのに、しかし「問題」は、電子メディアの全分野にすでに生じ、近未来にますます生じ、遠い先には何が生じるか予想も付かないけれど生じるに相違ない問題が、山ほど考えられる。電信電話、テレビ、ファックス、ワープロ、パソコン、コンピューター。それらとのつき合いが、「ペン」の領分でも、増えこそすれ減って行くわけはありませんし、必ずしも電子メディア機械を歓迎している一方ではないのです、わたしも。
しかし時勢の大勢を、手をひろげて阻むことは容易でないし、またそれが真に賢明なことかどうかは思案の余地があります。
どんな問題がどのように起きて、どう「言論」や「表現」に影響してくるか、問題がのっぴきならないことになる前に、拾い上げ考え、対応を考慮してゆくことは、ペンクラブとして、自然な「思想的」発想であり態度ではないかと思ったのです。
人権、著作権、出版権なども、目の前の問題になってきます。言論表現の自由も関わりますし、悪しき法権力による「規制」への対応も、遅きに失してはなりません。「文字コード」の国際的な視野における適切な見直しも叫ばれていますし、これは単に現在のわれわれだけの問題でなく、釈迦や孔子にも、日本書紀や源氏物語にも、空海や親鸞にも、鴎外や漱石にも、いいえ現在活動中の文筆家や学者研究者にも、いいえ千年後にも漢字やひらがなで思想や藝術を成すであろう人たちにも、まったく同じ条件で、大きな大きな問題になりかねないのです。
言語文字文化財は、稀少化と劣化とを免れません。世界中のだれもが、どこでも、いつでも、同じ条件でフォント化された文字で、あらゆる古今の文献や作品に接しうるほどの「電子図書館」「電子文藝館」を願って行くことも、大切な「文化」事業、国家的な大事業になるでしょう、ならねばならないとわたしは思う。
いま、研究会発足の当初メンバーをどう探して行こうかと、すべては緒についたばかりですが、思案しつづけています。いい知恵のある方はお教え下さい。
ともあれ、いまだに和服姿で、毛筆で原稿を書いているのかと、わたしのことを想っていてくれる読者もいます、が、ワープロに切り替えてずいぶん久しい、この道では先駆した一人なのです。東工大「文学」教授に選任されると、即座にパソコンを買いました。なにしろ国立の東京工業大学です。学生達の親切な指導と協力で、まだまだ今もウロウロしていますけれど、ホームページを開くまでに来れたのも、はっきり、私自身の意志と好奇心の結果です。機械を賛美する思想はじつは持っていないのですが、前へ向いて動いて行く時代に、機械に興味がわかない、それと貨幣価値の変動について行けない、なんてのは、要するに、わるく「老け込む」モトだと考えてきました。
断っておきますが、新しい機械、変わりすぎる貨幣価値、その両方への批判・嫌悪感を、わたしは決して意識の背後に置き去りにしてなど、いないのです。一種の「敵性」「毒性」として認識し、把握して、しかし機械の前に卑屈に屈してしまいたくはないのです。 「むかしの私」から
2009 1・29 88
* こんな時節にも職場を変え、博士論文を書き上げて新たな教職にもついて人生の進路を自力で切り開いて行く人がいる。「mixi」でしりあった東工大の、私のいた頃より少しあとの卒業生、女性。励ましを受ける心地。元気に新天地を開拓されるように。
2009 2・20 89
* 表題は凄いが、次ぎに書かれてきたことは、こころして忘れてはならず、人とも語り合い風も起こさねばならぬ。沖縄が好きと、沖縄に遊びに行くだけの人たちばかり多い。
☆ 盗人に追い銭 珊瑚
クリントン米国務長官が来日し、日米両政府は17日、「在沖米海兵隊のグアム移転に係る協定」に署名した。この協定で日本は、米海兵隊のグアム移転費用2520億円を負担することになる。しかも専門家は移転費用はさらに増加すると予測している。
もともと沖縄本島の米軍基地は、昭和20年3月末から占領が続き、昭和47年の本土復帰後は日米安全保障条約・日米地位協定という極めて不平等な条約下で提供されているもので、その返還・移転に、日本が2520億円を払ういわれはない。占領されていた土地から出て行く者に多額の国費を払うのは文字通り「盗人に追い銭」。普段「美しい国」だの「わが国の歴史と伝統」だのとうそぶき、モーニングを着て神社に参拝している政治家は、今こそ憤慨しなければいけないのだが、その声を全く聞かない。
上の協定では、沖縄本島中部にある普天間(ふてんま)飛行場を、沖縄本島北部の辺野古(へのこ)沿岸へ移設することも明示された。現在沖縄県と地元自治体はこの案に反対する立場をとっているが、これで環境影響評価(アセスメント)やその後の県知事の埋め立て許認可など国内法の手続きを経ず、沖縄の頭越しに基地移設を強行できる法的根拠が得られたことになる。
本土で日本政府が協定を締結しているころ、地元沖縄では県警からこんなニュースが配信されていた。
沖縄本島中部の基地隣接地で、昨年12月に流弾と見られる金属片が民家の車から見つかり、沖縄県警の調査で米軍が使用している50口径通常弾であることが判明していた。ところが米海兵隊はその関与を否定し、日米地位協定に阻まれて、県警は基地内に立ち入り捜査を行うことができず、結局立件を断念した。被害者は「県も県警も県民を守ってくれないのか。これからも弾におびえて暮らさなければならない。こんな集落がどこにありますか」と語っている。
この時期暖かい沖縄へのツアーは全盛で、ANAは「マッタリーナホッコリーナ」JALは「ちゅらなび」などで多くの観光客を誘っている。それはそれでいいのだが、観光では伏せられる「沖縄の光と影」の「影」の部分を知るにつけ、なんともやるせない気持ちになる。
* 分かっている。学生達が連繋してほんものの「声」を纏めて行く日が来るまで日本列島は政治的に沈没したままである、間違いない。日本を滅ぼしているのも、日本を救うかもしれないのも、わたしは大学生、高校生達だと考えている。それも例の「王子」たちではありえない。スポーツの「経済効果」「人気」で日本が真に日本の顔を持てるわけがない。グラディエーターの昔から、その種の娯楽は国民への目くらましであり続けたのをわれわれは忘れ果てているが、その「痲薬効果」は絶大であった歴史的に、そして今日只今も。
2009 2・21 89
* 光通信が、結局わたしの手でどうにもならず、業者も接続作業には全く来てくれぬまま諦めたのが、何年も前のこと。その後始末に、午後業者が来るという。ばかげたロスだ。空しく支払った金額だけはあの当時十万に近かったろうに。
2009 2・23 89
* インターネット犯罪の極悪例が、裁判所の判決で断罪された。インターネットで、一人が発議し二人が同意して、無辜の女性に言語に絶した暴虐を為し尽くし、殺した。この際の「発議」者独りが、自首を酌量されて無期懲役になっている。議論が沸騰している。
その議論には加わらないが、こうしたインターネット犯罪が、「匿名・無名の仮面」に隠れていられることが、犯罪誘発や多発の温床になっている。インターネット利用のせめてものエチケットとして、わたしが必ず励行しているように、「記名・文責明示」が原則化して欲しい。
* わたしは前にも書いたが「匿名コラム」の匿名性を文藝たる看板にしている場所にも原稿を何十度もいや百の単位でも書いたことがある。それはそういう「場所」として伝統的に公認されてきた。大昔の童謡(わざうた)や落首と同じである。
しかし大方の原稿は「原則文責明記であるべき」だ。まして「論争」行為ではそうあるべきで、自身は「仮名」に隠れて身分も所属も明かさず、たとえば私の氏名も経歴も顔写真も露出しながら週刊誌に売り込むなどは、とんでもない卑劣さと言わねばならないだろう。この卑劣さが昂じればインターネット犯罪がますますあくどく増えてくる。
わたしは、「電子メディア委員会」を日本ペクラブに創設したとき、こういう犯罪の激化増加を懼れていた。「知識人のインターネットは原則文責明記が義務」でありたい。ホームページも、ブログも、「誰が責任者であるかをきちっと登録」させたい。
法や官憲の介入は好まないが、垂れ流しの落書き地帯にたいしても時代は「何等かの叡智のブレーキ」を掛けねばならないだろう。それらはあの「童謡や落首」の「批評・批判」とはとうてい同列に並べ得ないからだ。
2009 3・19 90
*一気に三月分の日記の変換ミスや誤記などを訂正し、京都への二日以前は「iken90.html」に移した。いつも月末はこの作業に気を遣うのだが、一気にことが運んで少し肩の荷をおろした。
こんなに早く四月が目の前に来ていたのかと、この「三月」の前に少しく頭を垂れる。
2009 3・28 90
* 自筆年譜(一)の電子化原稿を校了。
2009 4・2 91
* 久しぶりに「mixi」にアイサツを入れた。
2009 4・21 91
* わたしのメールアドレスは、各種の年鑑その他に広く公開されていて、おかげで公然悪用もされている。なにしろわたしのアドレスを使ってわたしのところへspamメールはしょっちゅう来る。おや、秦さんどうかしたかなと思われたときは、それでもメールで直にお問い合わせ下さい。
「mixi」は今は開きもしていません。お問い合わせなどは、メールを使用して下さい。 FZJ03256@nifty.ne.jp
2009 4・29 91
* 朝から書いた「私語」相当量を、手違いで全部消してしまった。およそ何を書いたか記憶がないではないが、ふつつかに繰り返すのも気乗りしない。
2009 5・14 92
* 仕事をズンズン進めている。「いま・ここ」を無心になれる何よりの清涼剤。もうすることが無くなったら昔のように心ゆくまで好きに創作すればいい、それがいい。だが、なかなか、することは無くならない。「mixi」を休んでいる効果が、上がっている。どうしても一仕事必要になっていたが、人の役にも自分の役にも立っていない無力感と負担感にとらわれていた。少なくも負担はなくなって、自分の仕事へ意識をふりむける時間が増えた。
2009 5・18 92
☆ 初蛍 馨
蒸し暑かった月曜日、帰宅したダンナさんが
「車の上にホタルがとまってるよ」
もうパジャマを着ていた子どもたち全員、ぞろぞろと庭に行くと、車のボンネットで静かに一つだけほわ~んと薄黄緑の光。
とても暑い日だったので、間違えて出てきちゃったのかな。
普段より一ヶ月早いよね。
3歳の息子はすごく感動。
「あ、あっちいった! ぴかーってまた光ったねぇ。あ、木の方へ行ったよ。」と、ずっと追っていました。ベッドに戻っても「ホタル、いたねえ。また見よーね」と名残惜しそう。
そうだね。シーズンはまだまだこれからだからたくさん見られるよ。
この息子、お月様は大好きだし、お花や鳥も好き。虫愛ずる姫君ならぬ「花鳥風月愛するムスコ」と、ハハはちょっぴり揶揄を込めて呼んでます。
ピンクが好きと言いつつ、選ぶものは青いきかんしゃトーマスだったりする妙なギャップ。3歳児、アンバランスさが面白いです。
月と言えば、ムスメの方はようやく見上げた月を見てこれからふくらむか小さくなるかをあてられるようになりました。
この前は突然「宇宙の外側には何があるの?」
この手の話の大好きなダンナがワイン飲みつつ、たっぷりと説明していました。(専門用語多すぎだったけど←これだから酔っぱらいは…)
地球の自転や太陽系の話や、いろいろ世の中にはまだまだ面白い話があるから少しずつしていこうね。
ちょっとずつ大人の会話ができる人数を増やしていきたい母親です。普段はカタコト語の3歳児に、全く言葉の通じない0歳児って、 ちょっと疲れるのよね。
話は変わりますが、首都圏に新型インフル、出ましたね。
高校生ばかりがクローズアップされますが、私が思うに、これって高校生が感染しやすいわけじゃなく、単に高校生が一番発覚しやすいだけなんじゃぁ…。
高校は欠席の連絡をしなくてはならないし、アヤしければちゃんと検査もさせて、その上に発表もする。
でも、社会人で感染していて普通に売薬か町医者ですませてしまって終わっている人って絶対にいるような気がするんだけど…。
と、思うのは私だけかなぁ。
ちなみに、ウィルスの小ささを考えると、マスクってどれだけの意味があるんだろう、とか思ってしまう私です。いま、マスク売り切れでネットオークションですごい値段になってしまっているらしいですが、石油ショックのときのトイレットペーパーみたいな感じなのかな。
* 久しぶりに「mixi」でこの家族と逢った。
2009 5・24 92
* 定例により「五月」も尽きようとしているので、昨日までの「私語」は、日付順に並べ替え、書き込みミスも訂正して、「生活と意見 闇に言い置く 私語の刻」ファイル92に移転した。五月の私語の大方は「ファイル92」で読み取ってくださいますよう。
なお暫く、五月二十三日以降はこのファイルにも残存させてある。例えば高村光太郎に関する記事は、五月二十五日のペン理事会記事以降翌日へかけ、私見は大方読み取れるようにしてある。
2009 5・27 92
* 久々に「mixi」に復帰し、「e-文藝館=湖(umi)」からの推奨作を少しずつ具体的に紹介して行くことにした。
2009 6・13 93
* 今日は私の「e-文藝館=湖(umi)」から、目をみはる、かつ珍しい一文を推奨する。
昨日今日の文章ではない。わたしの生まれるよりなお四年前の朝日新聞の署名記事であるが、当然その頃にパソコンの普及やブログ繁盛など誰一人も夢にも見ていなかったが、しかも今まさしく昨日今日に書かれたかと思うほどの洞察が働いている。
初見の昔、息を呑んだ。
■ 商品としての文学 杉山平助 招待席 「e-文藝館=湖(umi)」 評論室
すぎやま へいすけ 作家 1895.6.1 – 1946.12.1 大阪市に生まれる。慶應理財科予科を胸を病んで中退、療養生活のなかで老子当を濫読、長編の自伝的小説『一日本人』を自費出版して生田長江に認められ以降自由主義的な各種文筆に活躍したが日支事変頃より右傾をみせつつ敗戦後の早々に歿した。 掲載作は、「朝日新聞」昭和六年(1931)九月十九・二十日に初出、めざましい先見の明を「文学」の「出版」に対して見せており、稀有の文章と言える。古稀をとうに過ぎた編輯者私の生まれるなお四年前に、すでにこの言説が新聞紙上に在った。凄いほどの洞察であり、文学に何等かのかたちで志す人の、いましも心がけとして必読したい一文である。 (秦 恒平)
http://umi-no-hon.officeblue.jp
(目次のe-literary magazineとある英字の方をクリックして下さい。)
* 文学の商品化等に関連しては「e-文藝館=湖(umi)」に、高見順や十返肇その他にもすぐれた論考が招待されている。それぞれにもわたしはほぼ適切に「招待」の弁を添えている。
中村光夫、伊藤整、福田恆存、平野謙ら錚々たる論客が、近代文学を論じた成果は豊かで、どんなに教わったか知れないが、ただ一つ、彼等の誰一人も、まだパソコンによる「表現行為の大拡散」という社会の到来を洞察できていなかった。そんな中で、これら優秀な論客より遙かに遙かな以前、昭和六年に既にコンピュータとまでは謂えないまでも、その辺にまで洞察の手を伸ばし得ていた杉山の記事には、やはり驚くのである。
* わたしの仕事の、つまり「文学と生活」との主要な軸は、当然一に創作、次いで「湖の本」刊行、さらに「e-文藝館=湖(umi)」の責任編輯、そして「闇に言い置く 私語」のいわば「宗遠日乗」である。
* 日本ペンクラブの理事の仕事は、理事会という制度的な場に足を取られず、むしろ文筆の場で世の中へじかに訴えたり問いかけたり述懐することで果たす気でいる。
六期七期務めて、理事会でなにを真剣に発言しても煮え切らない、その傾向が阿刀田執行体制に入って度がすぎてきたことをイヤほど感じており、よく思えば、職分は、理事会に出席してだけ果たせる物でないことに気づいた。
理事会が、執行部下部機関に成り下がっているという批判を、わたしは何度も他の理事から聴いたことがあるし、その感を阿刀田一期で痛感して以来、わたしは今のようなイエスマン運営では「不信任」と、公然発言してきた。
* 必要が在れば、文書で、あるいはメールで、事務局宛伝達するし、阿刀田会長、浅田次郎専務理事に必ず伝えて貰いたいと事務局長にすでに伝えてある。
それより何より、会長、専務理事に人を介せずメールでものが具申出来ない、メールアドレスを彼等が持っていないのかも知れぬという現状にわたしは困惑する。時代後れに、惘れる。そんなことで、どう「執行」するのか。
* という次第。
さて、『濯鱗清流』下巻の本紙、表紙を責了にし、遅れていた「あとがき」を書き始めた。明日、上巻が出来てくる。
2009 6・14 93
☆ モゥ,あんたたちみんな,死ンじゃッて,いいからッ! 麗 札幌
先月,遠来の客人を迎えた。
米寿になりなんとしているそのご婦人は,病床にある弟を見舞いに,還暦過ぎの息子に付き添われてきた。息子は,母を迎えに新幹線で実家まで出向き,二人ではるばる来道したのだった。
対面はつつがなく終わり,その後の会食に付き合った。婦人のほうはいたって元気で,牛肉のポアレがメインのフルコースを,難なく平らげていた。
久々の対面に話は尽きず,いつしか,彼女の亡き夫のことに話題が移った。
「酒で死んじゃったような人」と,彼女が語るその夫は,職業がらなのか癇癪持ちで,そのときの家族の対応は,
妻:無視
娘:背を向け壁に向かってひたすら読書
息子:ふらりと表へ
だったそうだ。
聞くままに,壇ふみや阿川佐和子を思い出した。あの二人も,似たような父の性癖に悩まされ,「同病相哀れむ」で,初対面から意気投合したという。
また,これも職業がらか,「無頼の徒」めいた人々も,よく出入りしていた,という。
鯨飲や高歌放吟というお定まりの騒ぎの中で,彼女は密かに願っていたそうな。
「モゥ,あんたたちみんな,死ンじゃッて,いいからッ!」
次のセリフがふるっていた。
「そうしたらね,思った通りの順番で,みーんな死んじゃったの。」
これを,あくまでも穏やかに,莞爾として語るのである。
ところで,全くの偶然だが,私のマイミクさんの一人が,その夫の「後輩」に当たる。別れ際に,彼女に確かめてみたところ,
「お会いしたことはないかもしれないが,夫とお付き合いがあったことは知っている。」
という答えが返ってきた。ついでに,
「貴方には何も言うことはないが,強いて言えば,もっと銀座へ出ていらっしゃい。」なることばをかけてもらった,ということも,よせばいいのに言ってしまった。
「まッたく,下らないことを言って・・・。」
と,苦笑していた。おまけのつもりで,
「では,ご生前はさぞかし・・・。」
と尋ねると,
「えェ,まァ,ねェ・・・。」
と,苦り切っていた。
翌日,彼女と息子は帰京した。息子の方は,地方の任地にとんぼ返り。今度会えるのはいつか,などと野暮なことは,考えないことに,しよう。
* 懐かしいお人の笑顔が、目の前によみがえる。この人、和田芳恵と連名で、わたしを文藝家協会会員に推薦してくれた。巌谷大四さんと仲良しで、京都で何か会のあったときこの二人に京都の案内を頼まれ、泉涌寺や東福寺や智積院、法住寺界隈を歩いた。
東京へ帰ってから、お礼にと二人に招かれ銀座松屋裏の「はち巻岡田」でご馳走になった。
この人は、中国に招かれても、中国の批判さるべきはキチンと批判し非難すらされていた。井上靖さんらは閉口されていたようだが、そういうシマリのよさに魅力横溢の逸人だった。
この人とご縁の深かった出版社で、いまわたしの息子がお世話になりベストセラーを出している。
2009 6・16 93
* 三年前の今日の朝、十九歳やす香の名で「mixi」日記は、あろうことか、やす香自身の「白血病」を、二百人前後のマイミク向けに「公表」した。
☆ 2006年6月22日05:04思香(=やす香)みんなへ
長いこと更新しなかったことで
心配してくれた人ありがとう。
人生が逆転したかのような
この一週間。
ここに書き記すことをずっと迷っていたけれど、
やはり自分の記録として
今まで日記を残してきたこのmixiに
書き残そうと決意しました。
「白血病」
これが私の病名です。
今日以降の日記は
微力ながら
私の闘病記録になります。
必ずしも読んでいて
気分のよいものではないと思うので
読む読まないは皆様の判断にお任せします。
コメント等
返信遅くなってしまうかもしれませんが
力の限り努力するのでよろしくお願いします。 2006.6.22
* やす香とマイミクであった祖父の私は、あたりまえのようにこれをやす香当人の文章でありコメントであると疑わずに読んで、仰天した。
だが、診断を聞いたやす香の動顛と慟哭とはたいへんなものだったと母親自身が書いて話していた。
上の平静そのものの文章は、そんな烈しい動揺からたちまち回復してやす香自身に書けたものだろうか。書けたのなら、たいしたものだ。書けはしなかったとしたら、誰かの代筆と謂うことになる。どういう「意図」であったのだろう。
もっとも、この公開がなかったら、わたしたち祖父母は何も知らずにおれてよかったか。いいや。いいや。
* すべて、この三年前の今日から、暗くなった。いまも暗い。いまも悲しいし、いまもつらい。
2009 6・22 93
* 由起しげ子の『本の話』は「名作です」と「mixi」での推奨に一声掛かっていた。「e-文藝館=湖(umi)」へ、愛読者達の濃い渦が幾重にも及んでくると嬉しい。これも「仕事」と思っている。
2009 7・1 94
* さ、この辺でまた「mixi」から当分撤退し、次から次への仕事の方へ打ち込みたい。
2009 7・14 94
* わたしの「mixi」機能が随分以前から故障のママ、いくら事務局に頼んでも直らない。で、現状のまま放置しているが、ヒマをみて、書きためた「日記」でホームページとダブッテいない記事に限り、できるだけ他へ吸収保管しておいてから、退会しようかと思う。さしづめ、現状で手を放し、当分そのまま放っておく。
「mixi」というと、それは死なせた「孫・やす香とのためにこそ必要」だった。必要が無くなった。ホームページがちゃんと在るのだし、もう事実上不要になっている。
2009 7・17 94
* 七月の日録を、昨日分まで、「iken94.html」に日付順に移転し、本文の誤記等をすべて調整した。月末には必ずこの仕事をしている。
2009 7・28 94
* 清水英夫さんの『表現の自由と第三者機関』を、先ず妻が詳細に読んで参看箇所をチェックしてくれた。次いでわたしが読んでいる。清水さんの大きな願いは「公権力の干渉」から「メディアを守る」ところにも有る。ペンの言論表現委員会でもわたしたちは多くそれを憂え警戒し、そのためにも言論表現の自由と責任について討議を尽くしていた。
清水さんは「透明性と説明責任のために」も第三者機関の公正な判断が必要と説いてこられた。なかなか第三者機関とまで行かないなら、わたしは例えば広い意味でのウエブやインターネットの「読者」に期待してきた。これは極めて微妙であるけれど、わたしは今やそういう「時代」であろうと観ている。
* パソコンやインターネットが「イノベーション(だれもが容易に思いつけなかった革新的な初めてや制度改革のこと)」であることは否定できない。イノベーションを起こせる人間は少ない、千人に三人という説もあるが、巨大なイノベーションは十万百万に一人の天才や剛力が創り出す。そして数えきれぬ大勢がそれに追随してあたりまえのように、真新しい、従来とは一見「別時代」を成し上げてゆく。
その観点からすると、最も時代後れに迂闊で魯鈍な体勢を引きずり歩くのが「法」である。「名誉毀損」がらみに譬えて謂えば、こんなに数量的に広範囲に世間に関与していながら、質的に不出来なまま、ユーザーの権利と自在とを拘束して時代後れなのは、サーバーによるウエブ表現規制の見当違いなお粗末さ加減である。
* これについては徹底的に別に書く。
2009 8・10 95
* やす香のお友達であった人の「mixi」メッセージが届いていた。あれから三年。つまりお友達はそろって大学を出、就職したり院に進んだりしている。この人は就職している。大学時代の友人が、秋に、建日子の作・演出の芝居に出るらしい。世間の狭さにビックリしていますといったこと。メツセージの人は、やはりカリタス卒で、わたしのマイミクのマイミクさんであった。建日子が秋にどんな芝居をするのか何も知らない。メッセージ、ありがとう。
こんなふうにして、もう一人の孫、やす香の妹の消息なども知れると、嬉しい。大学受験の筈。
2009 8・12 95
* 司会のみのもんた氏が、「規制」という言葉を用いて、ブログの書き込み等を非難していた。相当いろいろ書かれているらしい。
一つにはあれだけ悪罵もふくめて毒のある言葉遣いを「売り」にしている「公人」であり、無理からぬ半面がある。視聴者も「公人」を批評する権利は持っている。マスコミに乗った「公人」は権力者でもある。権力は批判される。それが人の世のバランスというもの。書かれたくなければ、自分のブログにそういう窓口を設けねば済むこと。いい評判は聴きたいがイヤな非難は読みたくない、というほど甘くはない世間が広い。「某チャンネル」など、超然として見なければ済む話。
* 但し、彼・みのもんた氏は、こう言いかえす「私権」なら持っている、「匿名で言うな、書くな。文責を署名で明かして言え。書け。必要なら議論するよ」と。
もとよりこの国には、上古来、童謡(わざおぎ)や落首という「匿名抗議の伝統」がある。
それにしても、インターネットのいわば「公言」時代の言説には、まともな批判や批評であればあるほど、少なくも「匿名」の卑怯を排した「文責明示のルール」が立って良いのではないか、と、それなら、みのもんた氏もハッキリ言ってくれたほうが良い。
テレビのあのような場所に立って、感情のたかぶりで「規制」要望を口にするなど、キャスターとしての資格や識見が疑われる。言論表現の自由や、思想表現の自由を率先守らねばならぬ立場のジャーナリストが、「お上」「公権力」の「規制や取り締まり」を要望するなど、なにを考えているのか。
* わたしは見たことも見ようも知らないが、「某チャンネル」の匿名悪罵のふうはすさまじい、「凄いモノ」と聞かされたことはある。公衆便所の落書きのようと何度も昔から聞いている。そう分かっていて「わざわざ見る方が人間が弱いよ」とそんな愚痴を嗤っているが、改めて言うなら、このインターネット時代にそんなチャンネルやブログに忌憚ない声や言葉が往来し氾濫するのは、いかなる「規制」によっても留められない、まさしく「人の口に戸は立てられない」時代に、もうとうの昔から入っているということ。
だからこそ、ユーザーの自覚と良心とで、最低限度、書き込みは「文責署名(場合により地位所属も。)」という「ルール」が、「不文律」が、モラルとして一般化するように「キャンペーン」すべきなのである。みのもんた氏のような立場の人こそ、迂闊に「規制」などと口走らず、「文責表示」を大声で叫べとわたしは言いたい。
* ホームページに日記・私語を書き始めて十二年半になる。むろん、歯に衣着せず率直に時に癇癪も、批評も書き込んできたのは広く知られている、が、終始一貫、わたし本名で「文責」を明示し「作家・日本ペンクラブ理事」とも立場も示して、必要なら「討論・論争」も辞さない姿勢でモノを言いかつ書いている。匿名や偽名で書いたりしない。
その上、時にわたしが槍玉に挙げる人は、みな「公人=政治家、官吏、著述家、藝術家・藝能人、放送・放映・新聞人、マスコミタレント、大学教員、自治体役員等」に限定されている。その人達は、大なり小なり「一般私民」に対する「言動・表現」に責任を帯びていて、批評されても当然な、ある種の「権力的存在」であるからだ。
* 知る人は知っていて、忘れていまい。
去年の夏、「週刊新潮」は、わたしの氏名・肩書・所属・経歴・顔写真を明示し、「孫の死を書いて実の娘に訴えられた太宰賞作家」と大見出しの記事を載せた。
ところがその記事に、肝腎の「実の娘」の氏名も写真も、一言半句の「訴え」の言葉も出ていなかった。娘の「代わり」に登場したのは「高橋洋(仮名)」と名乗るどこの馬の骨とも読者にすぐは判じ得ない、わが「実の娘の夫」で、独り喋りまくっていた。この夫が現役の青山学院大学教授であることは、披露宴もしての婿であり、知る人はみんなよくよく知っているのに。
「実の娘」は病人でもなく、口がきけないのでもなく、都下某自治体の「主任児童委員」の職にあって、しかも本名を現に「仮名」に替えて務めている。
* わたしは週刊誌記者氏の口頭取材を断った。代わりに文責明示で「書いて公刊」してある秦の文章なら、何を参照されても引用されても構わないと返辞してあった。
記者氏は、記事を書く直前に、先方「仮名夫」の本名を添え、六箇条の言い分を「直接話法」のままわたしに届けてくれた。それがどんなにデタラメであったかは、みな、即座に反駁を書いて置いた。「湖の本エッセイ44」の「あとがき」に公開してあるから、誰方にも読んで頂ける。
* ともあれ、こういう某チャンネルまがいの、匿名・偽名・仮名・垂れ流し・悪声・悪罵に類した捏造や中傷をこそ、「名誉毀損」の名で「規制し処罰すれば」よろしく、この「実の娘の夫」氏も、真っ当なはなしなら、堂々と本名で、それも夫妻出揃って、記者氏になり私になり訴えれば良かった。
こういう「卑怯」を一流私大で教育哲学なども教える教授が「仮名に隠れ」てやるのは甚だ見苦しいだけでなく、これぞ名誉毀損の犯罪に類するのではないか。
* 「書くなら、文責を明示しましょう、それをせめてインターネットでのモラルにしましょう」と、みのもんたサン、あなたの立場で話してくれたなら、それこそ、ともあれ、いい「コメント」になりますよ。
2009 8・21 95
* 「現在昨今における私小説の問題、きっと以前から『ネットの介在』をおっしゃっていたと思います。やっと、それが自分にも考えられるようになってきました。ひとりひとりの権利意識とも絡んで、難しい問題だと思います」と、読者の反応メールが届いていた。
いまの批評家達も作者達も、まだそこへ、視点も視野も、できていない。そして「問題」だけが起き、独り歩きして行く。
現代文学が「ネットの問題」とますます不可分に成ってゆくこと、それが「法」ともからんで、ややこしく悩ましい事件を引きずり起こしてゆくこと。今、まさに、それを「わたし」が体験している。
文学も批評も、いずれ、「ネット以前」「ネット以後」と、または「新文学時代」「旧文学時代」と、分類されてゆくだろう。多くの近代文学が、文豪たちも手だれたちもその他大勢も、「ネット以前」の「旧文学」という箱のなかに蔵われるだろう。若い書き手達、批評家達よ、奮起せよ。
このわたしの「予言」 賢明にだれかが「記録」し「記憶」していてくれますように。
2009 8・22 95
* 濯鱗清流。 志賀直哉全集に六巻分(小説は十二巻)の「日記」がある。拾い読みはしてきたが、全編を通し、気を入れて読んでみる。
ゲーテはエッケルマンに向かい、シラーやバイロンや誰彼となく無数に優れた人からの「書簡」を現物で読ませて、そこから学び取るように、打たれるものにはまっすぐ打たれるように「教訓」している。よく分かるし、とても羨ましい。
直哉の書簡集は五巻ある。漱石全集にも優れた書簡集がある。言うまでもない「日記」も「書簡」も、「断簡」すらもすべて彼等には、そしてわたしにもそうだが「文学」としての「仕事」である。
わたしの機械には、十数年、じつに大勢との、万を遙かに越す「書簡(メール)往来」がそのままほぼ全て記録されている。ご厚意に甘えてこの「私語」にも、同じ十数年の間に記載されたものが少なくない。それは下さった人の書いたメールであっても、往来し応答のある流れは、俳諧連句の付合と同様、自然「合作」されてゆく人と人の連帯であり固有の時空を成している。もし真実「成心ない」人が編めば、まちがいなく豊かな、時に創作された小説より興味ある赤裸々な往復書簡集が少なくも数十冊すぐ出来るだろう。まさかそれは出来ることでないとしても、千彩万姿、すばらしく組み合わせながら創作世界に溶かし込んで錬金術をほどこせば、まさに「I T」時代の小説世界を組み立てることは少しも難しくない。
* いま「成心」という言葉を書いた。此の機械でも「成心」と直ぐ出るが、多年、ほんとに多年愛用してきた新潮国語辞典(昭和四十七年二月の第四刷)に載っていない。びっくりして『広辞苑』第四版を見ると出ていて、思った通り、「一 前もってこうだと決めてかかっている心。先入観。 二 心中にもくろむところのある心。したごころ」としてある。
「成心」をもたないこと。
2009 9・11 96
* ある日、それまでご縁のなかった方から、わたしの「私語」を読み、「mixi」に参加されませんかとメールで奨められた。平成十八年(2006)二月中頃だった。
たどたどしい手続きをはたから支えられながら参加したのは、その「日記」欄を利して新しい「仕事」を試みたいと気が動いたからで、様子が知れると早速、『静かな心のために』という試論を書き始めてマル一ヶ月、日々ぶっつけに思うままを書き継いだ。かなり気の張る冒険だったが、三十一日間でコンマを打った。
それからさき、新しいエッセイも書いたが、自作の長短編小説、連載エッセイ、評論、講演、対談などを連載しつづけた。新しい読者達の目にすこしでも触れればいいと願った。
* その一方、「mixi」に会員参加した暫くあと、忘れもせぬ孫のやす香たちが遊びに来た二月二十五日、やす香も「mixi」会員だと知り、すぐさま二人は「マイミクシイ」同士になった。マイミクになると日々の日記が互いに自由に読める。おじいやんは、おもしろいやす香の日記はホームページの方へもらうよ、いいですよ、と楽しい約束になったけれど、孫娘二人は祖父母の家へ、両親には固くナイショにして出入りしていたので、やす香の日記をどう自由に読めても「私語」に書き込むことは事実不可能だった。大学生と中学生との孫姉妹で遊びに来てくれる、祖父母にはたまらない嬉しさも、ウエブの日記には書けず、「若い友達」が訪ねてきた、楽しかったとぐらいしか。もどかしさが続いた。
* そのうちにやす香の日記がひっきりなしに体調の違和を、苦痛を、がまんならない歎きを書き続けるようになり、友人達からも間違いない医療をと警告しつづけるコメントが鈴生りに日記のあとへくっつくようになった。オジイヤンも癇癪が起きるほど心配し、親に告げて援助を頼むように言うものの、まさか「癌」とは思いつけなかった。
その年六月二十二日のやす香の「mixi」は、「わたしは白血病」と入院を告げた。仰天した。
祖父母とのマイミクなども、このときにすべて両親に知れてしまった。
やす香の「mixi」は七月七日、「わたしは肉腫」とまた告げた。「肉腫」は癌の中でも最も恐ろしい絶望そのものの業苦。そして七月二十七日にやす香は逝ったのである。
通夜にも葬儀にも、来れば警備員の手で追い出すと祖父母は娘夫妻に宣告されていた。
* 八月になると早々、「やす香の祖父母は娘夫妻をウエブで殺人者呼ばわりした、謝罪しないなら民事刑事の裁判に訴える」とひっきりなしに文書やメールで攻撃され始めた。
以来数年、わたしは、いまも「娘夫妻の被告」として裁かれている。
* その裁判の中で、わたしの「mixi」日記を「削除せよ」という要求がある。わたしが、どんな「mixi」日記を書いてきたかは、会員なら誰でも自由に読める。やす香の亡くなった平成十八年記載分の「全目次」は何度も公表しているし、今度は平成十九年の分も作成した。難儀に手間の掛かる労作であるが、自身の心覚えにもなると。
そもそも娘夫妻が「mixi」当局を責め立てた削除要求は数次に及んだらしいが、わたしの意見を聴き実状をみたあと、「mixi」当局はわたしの方へ「迷惑を掛けた、今後も会員として宜しく」と挨拶し、娘達の言い分を「門前払い」している。
それでも、同じ要求がまたしても出ている。
やっと作った平成十九年分の「全目次」をここに掲げておく。十八年分は何度も「全目次」を公開している。
* 平成十九年(2007年) 「湖・秦 恒平」の「mixi」日記掲載目録
* 一月 一日 この時代に‥私の絶望と希望(チェーホフ劇に寄せつつ)
* 一月 二日 袁枚悠々
* 一月 三日 早春 花びらのように
* 一月 四日 サマ文化とさん文化
* 一月 五日~七日 記念したい井上靖1~2
* 一月 五日 2006年「mixi」に掲載した「湖・秦 恒平著作」目次
* 一月 七日 kasa さんの見返り小僧さんの写真を
* 一月 八日~九日 京言葉と女文化1~3
* 一月 十日~二六日 京のわる口1~18 跋「京都と私」
* 一月十二日 一月十一日は歌舞伎座で
* 一月十六日 閑話休題 京ことばと日本語と
* 一月十六日 秦建日子作・演出『月の子供』本多劇場
* 一月十八日 空蝉と軒端の荻と
* 一月十九日 祇園と歌舞伎と
* 一月二十日 早春
* 一月二一日 志賀直哉の日記
* 一月二二日 湖の本版『早春』の埋め草に
* 一月二三日 河原町商店街のために
* 一月二四日 秦 恒平・湖(うみ)の本 十四年歩み
* 一月二五日 こんなふうに思っていたときも
* 一月二六日 翁と天皇
* 一月二六日 使い慣れた親機大破のため作業難航します。
* 二月 二日 回復への一週間 闇に言い置く私語
* 二月 三日 やっと機械は復旧し
* 二月 四日~八日 京で、五六日 京都案内1~4
* 二月 四日 マイミクにと誘ってくださる人に
* 二月 八日 昨日は一日中歌舞伎座にいた
* 二月 九日~一九日 蘇我殿幻想1~12
* 二月十二日 あらすじで書ける? 小説?
* 二月十九日 私語の刻 存在の詩
* 二月二十日 消えたかタケル
* 二月二十日 『蘇我殿幻想・消えたかタケル』の跋
* 二月二一日 私語
* 二月二三日 昨日の私語の刻 松たか子の『ひばり』
* 二月二三日 私語の刻 『ひばり』のこと
* 二月二四日 闇に言い置く私語の刻
* 二月二五日 「mixi」に送る最後の日記 湖
* 三月十六日 『ひばり』のジャンヌ、近代への誠実
* 三月二十日 ホームページ更新が不可能に
* 三月二六日 京都へ行ってきました
* 四月十六日 『愛、はるかに照せ』
* 四月二二日 「湖」の日記は
* 四月二六日 小田実氏のメッセージ 湖の「私語」に転載
* 五月 三日 憲法記念日の「私語」
* 五月 十日 親機のインターネット破損のため
* 五月十一日 「私語の刻」復旧そして俳優座へ
* 五月二二日 この二、三日の私ごと
* 五月二四日 伝えずにおれない 湖 今日の私語から
* 六月十三日 染五郎の知盛 わたしの船弁慶
* 六月十三日 六月歌舞伎座昼夜の楽しみ
* 六月二二日 六月二十二日 涙雨
* 六月二五日 恋童さんの「小説の豚どもへ」に和して
* 七月 七日 渡らぬ織女 渡る織女
* 七月十一日 「闇に言い置く 私語の刻」より 抱き柱
* 七月十六日 襤褸が脱げるか
* 七月十七日 写真の嬉しそうな巨猫氏は、
* 七月十八日 写真の凛々しい美青年は
* 七月二五日 徳田秋声の『あらくれ』
* 八月 一日 秦 恒平・湖の本エッセイ41『閑吟集』跋
* 八月 三日 花と湖
* 八月 四日 「二度」の地獄 安倍総理に訴える
* 八月 九日 井上ひさし作、大竹しのぶら出演『ロマンス』を観て
* 八月十二日 心と夢との危うさ
* 八月十七日 敗戦の日と納涼歌舞伎
* 八月十七日 涼しそうに
* 八月十八日 幽霊 宮沢りえ
* 八月二十日 海は見ていた 清水美砂
* 八月二十日 励まない
* 八月二一日 鬱陶しくなってきた
* 八月二一日 弱虫
* 八月三一日 家 実父の生家
* 九月 一日 昨・平成十八年「湖・秦 恒平」の「mixi」日記掲載目録
* 九月 九日 枯木寒鴉
* 九月十二日 吉右衛門と福助と左団次 九月の歌舞伎座
* 九月二十日 述懐 そして「星空」
* 九月三十日 珠光の「心の文」①茶の湯も文学も
* 九月三十日 珠光の「心の文」②観世榮夫も松本幸四郎も
* 十月 四日 截金の江里佐代子を心より悼む
* 十月 六日 追従しない 独りぽっちで
* 十月 八日 あッ お月さま
* 十月十二日 中村屋ッ 奮闘公演
* 十月十九日 我當に拍手「新口村」 楽しんだ歌舞伎座の昼
* 十月二二日 蕎麦と能装束と卒塔婆小町と天麩羅の一日
* 十月二八日 兼好の眼
* 十一月 一日 生母
* 十一月 三日 闇に言い置く私語の刻 人生の消費税
* 十一月十六日 山科閑居など 十一月歌舞伎座
* 十一月十七日 玉手御前と合邦 国立劇場
* 十一月二五日 「置き去り」俊寛と「居残り」俊寛
* 十二月 九日 日々に思うこと
* 十二月一一日 めでたし『松浦の太鼓』
* 十二月一五日 一昔前の「闇」に言い置く1 川口久雄 女文化 バグワン
* 十二月一六日 一昔前の「闇」2 東工大 院展 電メ研発足
* 十二月一七日 一昔前の「闇」3 パソコンと漢字 文字コード
* 十二月一七日 一昔前の「闇」4 湖の本 ホームページ ペンにもHP
* 十二月十八日 一昔前の「闇」5 併読 能 囲碁ソフト バグワン 真山賞の我當
* 十二月十九日 一昔前の「闇」6 佐高信と猪瀬直樹など
* 十二月二十日 一昔前の「闇」7 (再撰・再録
* 十二月二二日 七十二歳誕生日の歌舞伎座 湖
* 十二月二三日 一昔前の「闇」8 大坂の松竹座など
* 十二月二四日 一昔前の「闇」9 ペンクラブに 根本的な疑問
* 十二月二五日 一昔前の「闇」10 お国と五平 菊五郎の知盛
* 十二月二五日 一昔前の「闇」11 京都美術文化賞 浅井忠展など
* 十二月二六日 一昔前の「闇」12 茶道具 手紙の引用 核声明
* 十二月二七日 一昔前の「闇」13 『寂しくても』『能の平家物語』『心は頼れるか』
* 十二月二八日 一昔前の「闇」14 電子メディア論
* 十二月二九日 一昔前の「闇」15 フォントと漢字の標準化 作家の稼ぎ
* 十二月三○日 一昔前の「闇」16 レイタースタイル 自問 『戦争と平和』 正字と略字
* 十二月三一日 一昔前の「闇」17 表現の自由 参議院自民惨敗 東工大卒業生と湖の本
* いったい、これは何か。どこに名誉毀損があるか、「mixi」会員なら本文はすべて自由に読める。こういう面倒は、情け無いことに「仕事」とは呼べないのである。しかし、「仕事」にすることは出来る。
* 組みの整理が美しく出来ていないが、不審の方もあろう、問題の前年分も挙げておく。
* 2006年「MIXI」に掲載した「湖・秦恒平著作」目次
2/15 – 3/17 『「静かな心」のために』 31回
3/18 – 4/7 『本の少々』(エッセイ集) 31回
4/8 – 5/13 『一文字で「日本」を読む』 36回
5/16 共謀罪新設法案に反対する
5/21 「長編小説を連載する気持」
5/21 – 6/8(上巻跋) – 9/3 『最上徳内 北の時代』 87回
6/10 マイミクシイの思香(マゴ・やす香)へ 祖父
16/11 – 7/26 『「東工大」青春短歌大学』 上巻 42回
6/23 孫よ生きよう
7/3 七月四、五日は京都で対談
7/11 「優れた文学とは」 (徳内 中巻跋)
7/14 片思ひの歌に寄せて
7/15 願い
7/18 初孫やす香の三枚の写真
7/20 やすかれ やす香 生きよ けふも
7/25 生きよ けふも
7/26 やす香母の朝日子に 湖
7/27 – 8/25 『死なれて 死なせて』 (30回)
7/27 やす香永遠に おじいやん
7/29 孫やす香の使命
7/30 この花火やす香は天でみているか
8/1 ノータイトルの一言 生きたい
8/3 死なせた は 殺した か
8/11 八月十一日 金
8/19 やす香が夢に来た
8/23 逃げない
8/25 「死なれて 死なせて」を終えて
8/26 – 8/29 『日本語で「書く」こと「話す」こと』 (4回)
8/27 初の月命日
8/30 「心の問題」
8/31 – 9/15 『漱石「心の問題」』 (17回) 後記
9/3 「永かった『最上徳内 北の時代』の連載を終え」
9/4 – 9/17 『秘色(ひそく)』(太宰治賞受賞第一作・14回)
9/6 「湖」と「作家秦恒平」とは「同一人」ですが。
9/7 湖=作家秦恒平は同一人。
9/10 「MIXI」に作品を公開する理由
9/16 – 9/18 『講演・私の私』 3回
9/17 – 9/23 『三輪山』 5回
9/19 – 9/23 『講演・知識人の言葉と責任』 4回
9/21 ホームページの強制削除か
9/21 – 10.12 『闇に言い置く 私語の刻』(HP被害の経緯・反響)22日
9/23 「秘色・三輪山 作品の後に」
9/24 – 9/26 『講演・マスコミと文学』 3回
9/24 – 10/8 『罪はわが前に』上 15回
9/27 – 9/29 『講演・蛇と公園』 3回
9/30 『歌集・少年』 全
10/1 – 10/3 『講演・短歌のことばと日本語』 3回
10/4 – 10/6 『講演・把握と表現』 3回
10/7 – 10/12 『講演・桐壺更衣と宇治中君』 5回
10/9 – 10/12 『清経入水』 第五回太宰治文学賞 7回
10/13 – 10/18 『講演・春はあけぼの』 6回
10/13 「平成癇癖談」1
10/14 – 10/15 「漫々的 書いて行く人との対話」1.2
10/17 「闇に言い置く 遺書として」
10/19 – 10/21 『講演・春琴と佐助』 4回
10/21 志賀直哉と瀧井孝作と
10/21 – 10/24 『講演・名作の戯れ』 5回
10/25 – 10/26 『対談・いけ花と永生』(長谷川泉) 2回
10/27 私の潰されていたホームページのこと
10/28 – 11/1 『畜生塚』 5回
10/30 – 10/31 『対談・極限の恋』(大原富枝) 2回
11/1 『対談・創作への姿勢と宗教』(加賀乙彦)
11/1 「畜生塚と加賀さんとの対談」
11/2 『生まれることと生きること』(竹西寛子)
11/3 「今日の私語から 仏と仏像」
11/3 – 11/7 『対談・京ことばの京と日本』(鶴見俊輔)3回
11/3 「今日の私語から 死を告げる鐘は」
11/8 『竹取翁なごりの茶を点つる記』
11/13 – 11/13 『対談・一遍聖繪と一遍の信』 2回
11/13 ・11/23 – 11/25 『初恋=雲居寺跡』 4回
11/ 「芹沢光治良『人間の運命』を読みながら」
11/26 – 11/30 『マウドガリヤーヤナの旅』 5回
12/2 – 12/10 『能の平家物語』 11回
12/3 親機の不調深刻
12/11 『花鳥風月』
12/11 「甲子さんを紹介します」
12/11 – 12/21 『好き嫌い小倉百人一首』 12回
112/21 「当た亥年 述懐 七十一郎」
12/22 – 12/31 『歳末随感十編」 10回
「芥川のこと(追加)・病院・かなひたがる・寅さんたちの国語・和歌・篠村・京都・ソ連へ・お酒・大晦日」
2006年の「MIXI」以上 湖
* 「mixi」のソシアルな機能を利して、わたし自身の文学のために作品を熱心に展開させていたことは一目瞭然。今も「mixi」で誰でも読める。(但し、一定期限開示の目的を遂げた自作創作のうち、湖の本や既刊単行本で読める「小説・エッセイ・評論・講演・対談」等は、目次のみ残し本文はもう撤収してある。)
2009 9・13 96
* わたしが「その人の祖父の異父兄弟」にあたるのだという「mixi」メッセージを貰っていた。父方にはそういう兄弟はいない。母方にはウーンと年の離れた異父兄が二人有るはず。事実なら、嬉しい連絡であるが。
2009 9・14 96
* たぶん母方のいちばん上の兄の孫娘にあたるらしい人の再度のメッセージを貰った。「mixi」で願うのは、一つにはこういう「出逢い」である。
父方の従弟とも出逢えた。元気にしているかな。「また珈琲をいつものように見繕って送ってもらって」と妻に頼まれています。よろしく。
2009 9・16 96
* 両親のどっちかがわたしにとって母方の甥か姪に当たるという、奈良の若い人とマイミクになった。「mixi」を介して遠く途絶えた人たちと、一つ一つまた縁が繋がるといいがナアと願っている。
2009 9・17 96
* わたしの他に読者がいないというブログもある。ずうっと続いている。ブログがなければそのまま胸の内で噛んで棄てられる感想や述懐が、思い出が、書き残される。
沢山書いてはいけないが、一日に少しずつ。すると、何の為とも知れない或る蓄えになる。読む人が一人も無くてはつまらないが、そうかといって人にそうも知らせたくはない。だが書いてみたい。そういう思いが誰にでもあって、醗酵しようとしている。そのためのブログをもつのに、わたしは賛成。
マイミクのもっと限定されたカタチか。試みたい人、大勢いそうに思う。公開したくはないが読者が一人は欲しい。分かる。
2009 9・24 96
☆ 笑いと諷刺 悦
昨夜、『8時だョ! 全員集合』の番組があり、チラチラ見ていた。
江戸城松の廊下コントがよかった。
あの頃は、浅野内匠頭の刃傷のパロディを、誰でも笑うことができた。
『ドリフ大爆笑』でも、よく同じコントをやっていた。
かつては、年末になると、忠臣蔵の映画がよくテレビで放送されたが、この頃はほとんどない。
東映のオールスター忠臣蔵の大好きなわたしは、残念。
浅野内匠頭は、中村錦之助、大川橋蔵あたりで、吉良上野介は、月形龍之介、進藤英太郎あたり、そして大石内蔵助は、御大の片岡千恵蔵、市川右太衛門のどちらか。
昨夜のドリフでは、岡っ引きのコントもあった。
登場したいかりや長介さんが、「大川橋蔵です」と名乗っていた。
当然、『銭形平次』の放送されている頃である。志村けんさんは、長谷川一夫の真似をした。
今、このパロディを笑える人は少ないだろうなあ、と思った。
時代が変わっているのだから、仕方ない。パロディは、本体と運命を共にする。
ドリフターズに不満を言うとすれば、社会風刺の少ないこと。
ドリフターズに限ったことでなく、日本のコメディ全体に言えることで、それは日本という国の体質なのだと思う。
「笑い」だからこそできる風刺があるのだから、活用してほしいと思う。
小泉純一郎や安部晋三、福田康夫、麻生太郎らを、痛烈な批判を込めて真似していたコント集団、「ニュースペーパー」のような人たちが、もっと出てきてくれるといい。
2009 9・24 96
* 「mixi」をちらと覗いてみると、マイミクの半分ほどは、歩調を合わせたように「日記」を書いていない。わたしもこの「私語」とかぶってくる「文字通りの日記」には気が動かない。ひとの日記をのぞき見したいという気も起こらない。
自分で書くなら、加入最初の年の『静かな心のために』のような、書き下ろしでの新たな連続ものか、なにか主題をもって自分のためにも備忘の書き置きを続けてみたいもの。
2009 9・27 96
* インフルエンザに触れて医療のほうのマイミクさんが書いていた。少し以前の記事とはいえ、参考にしたい。
☆ 急に患者数が増えている。 珠
そして、ついに一緒に働く医師が発症。はからずも自分自身が濃厚接触者になってしまった。流行が始まって、出勤前の体温測定は全員実施していたけれど、追加して5日間のマスク着用・食堂の利用制限など。
発症する覚悟を決め、仕事の手配もして、引篭もり用食料などを買い込んで。帰宅するとスタッフから「発症」したと連絡、とうとう明日からの診療も厳しい状況になった。一週間、何とかしなくては。。。少ない人数でやれる方法を考えなくちゃと思うけど、連日の疲労感もつよく、ぼーっとして頭が働かない。まいった。
免疫が無いのだから、あっという間に感染する、と分かっていても、とにかく驚く感染力。次々の報告に、ため息がでる。多くが軽症で済んでいるが、問題点も多い。
気がついた点、以下に羅列してみる。
・ 通常季節に流行するインフルエンザより、ウィルスの増殖が遅いためか、発症までに時間がかかっている様子。(職場の発症者と最終接触から2~5日で発症者がでる。)
・ 感染から発症までの間、症状が乏しい。ちょっとした咳、軽い風邪程度の人が結構いる。その間、人に感染させている可能性がある。
・ 免疫が無いためか、若い人には高熱がでている。ただ、インフルエンザ゙判定キットで検査しても、ウィルス量が少ないせいか当初は陰性になるケースがあり、診断に苦慮している。(医療ニュースではキットの検出率は50%程度らしい)
・ WHOは、診断キットの使用は紛らわしく判断を遅らせる可能性があるので、疑わしければ積極的にタミフルなどを処方すべきという見解を示している。しかし、若い人へのタミフル投与は「厳重注意」となっているため、判定キットが陰性で基礎疾患もない人に、積極的に処方する事に医師も迷う。結局、発熱した患者で数回受診してようやく陽性となり、それからタミフル処方になるケースがあり、本人の肉体的・経済的負担が大きい。
・ 通常の季節性インフルエンザ゙では、解熱剤であまり熱が下がらない。だが現在流行しているインフルエンザでは、消炎鎮痛解熱剤で解熱している場合が多い。しかし、翌日には再び上昇するなどして、下がり続けてはいない。市販薬で解熱剤を服用して下がった、、という患者の説明に、それならインフルエンザではなさそうだ、、とされてしまう場合がある。
・ 現在出されている治療指針では、療養日について、発症から7日間または解熱した翌々日までとなっている。この両方の差が問題。タミフルなど服用すると半日~1日で解熱する。解熱が早いので、翌々日は未だタミフルなど服用中となってしまい、未だ人に感染させる可能性がありそうでも OK と言われるなど、復帰への判断に差がある。
皆さんも、密閉された空間や人混みには、くれぐれもご注意を。
ひとまず、体温チェックは相当有効。症状がなくても微熱が出始めた時は、要注意。今回は、かかることの怖さより、社会生活維持への問題点の方が大きいので、家庭や職場の危機管理体制見直しに良い機会と、、考えようと努めています。
何より大切と思うのは、怖がりすぎず、侮らず、少しの警戒心をもって日々丁寧に生活すること、でしょうか。
消毒もよいですが、こまめに流水で洗うこと、これが一番です。きれいな水が蛇口から流れる国でよかった、、と思いながら洗って下さい。
2009 10・2 97
☆ どんぐりころころ 柚
どんぐりの皮を剥き、火を通して食べると、ほんのり甘くて、おいしい。
年配の女性が、そんな風に調理してくれた。
食感は、栗に似ている。
「熊が大好きなわけよね」
と。
子供の頃、通学途中や、遊びに行った神社で、どんぐり拾いに余念がなかった。
大きく、傷のないツヤツヤしたのを集め、宝箱にしまっていた。
大人になった今でも、足元にどんぐりを見つけると、つい手に取ってしまう。
人気のない小径の石段に、撒き散らされたどんぐりの中から、きれいなのを拾いながらついて来るわたしを、前を歩いていた人は、怪訝そうに振り返った。
あれは、クヌギの林だったのかもしれない。
* 「どんぐり」を食べると「どもり」になると、わたしたちは、何故か、大人に止められていた。「どんぐり」そのものは子供は好きで、わたしもよく拾ったが、食べなかった。食べたのは椎の実。
「椎の実煮てます 囲炉裏ばた」という歌も有ったように、椎の実は食料にしたようだが、なぜか「どんぐりは 食べると どもりに」と田舎暮らしの時も禁じられていた。勿体ないなあと子供心に分からなかった。
2009 10・8 97
☆ 「マイガール」 第一話 薺
金曜にはじまったテレビ朝日のドラマは、音楽が澤野弘之氏と聞いていたので、音楽だけ目当てで観たのだけれど、思いがけず感じるところがあり、泣いてしまった。
今朝、寝覚めに思い出し、涙が出た。
留学する、と言い残し去った年上の女性を忘れられず、正宗君は毎日彼女に宛てて手紙を書くが、返事は一度も来ない。
別れから六年経ったある日、正宗君は、彼女が亡くなったとの知らせを受け、彼女の一人生み育てていた、五歳になる自分の娘の存在をも知る。
「六年も音沙汰なかったんだ、お前の娘のわけない」と諭す友人の言葉に、半ば頷きながら、戸惑う正宗君だったが、投函されなかった彼女の手紙を読んだ正宗君は、自分の娘だと確信する。
彼女のみごもっていた当時、正宗君は高校三年生。
「わたしが正宗君くらいのとき、いろんなものを見たいと思ってた」
彼女は、正宗君に家庭を背負わせるのでなく、一人生むことを選んだ、愛ゆえに。
「恐くてたまらない」
配達されなかった手紙には、彼女の正直な気持ちが綴られてい、正宗君は、別れた後の自らの愛の報われたことを知るが、彼女はもういない。
娘の存在が、なんとなく日々を消化していた正宗君を変えてゆきそうなのを予感させ、一話は完結。
何かにじっと耐えているような娘のようすから、経済的にも社会的にも容易でなかったシングルマザーとしての彼女の暮らしがうかがえる。
彼の将来を想い、一人で子を生む女性、という設定は、危ういとも考えられるが、わたしには、すっと納得がいった。
彼女は、千に一人、万に一人の、愛深き女性なのだ、と。
澤野氏らしい音楽を聴くことは、一話目ではできなかった。音楽担当者に、澤野氏と連名でもう一人いたことが関係しているのか。わからない。
* 東工大の学生君たちにも、似た物語を演じていたのが何組もいたなあと、思い出した。このドラマには気もついてなかったが、第二話に気づいたら観てみよう。
物語の設定には興味がある。昨日「グレート ビギン」とか謂った宇宙や生命の創始を美しくて凄い映像で観せる映画を半ばほど観ていた。「二つが一つになり三つになる」誕生の神秘と必然をナレートしていて頷いていた。
そのまえに「姉のいた夏、いない夏」という佳い映画も観ていた。まるで『みごもりの湖』だと妻と言いながら観た。大好きな姉の死を、その軌跡をふみに成長した妹が遠い旅に出て、昔の姉の恋人とも出逢い、姉の最期へ迫って行く。そして、Uターンして母の待つ家へ帰って行く。『みごもりの湖』で妹槇子が、失踪して杳として行方知れない姉菊子の足跡を辿って行く物語、人が人を知るということの計りがたい難しさを「生死」を見つめて呑み込んで行く物語。
映画では姉に恋人との間の子はなかったようだが、菊子には恋人幸田との間に子が果たしてあったか無かったのかも、作者は微妙に問題として組み入れていた。
* 「二つが一つになり三つになる」神秘。それは、生きものが生きて在るあいだの最大の課題だとわたしはいまも考えている。幾つも書いたわたしの物語は、はやくから執拗にその問題を組み入れながら書かれていた。
究極のフィクションであるが、人生のリアリティを問う困難で大事な課題だと思っている。上のドラマの筋を聞かされ、本筋が今後どうなるかは知らないし別ごとだが、「娘」を思いがけず得た(であろう)「正宗君」を羨む気持ちが、明らかにわたしには動いている。
2009 10・11 97
* よせばいいのにとも思ったが、ひょいと背中を誰かに押されたように、「mixi」に、新しい「連載」を始めてしまった。投げ出すかな。分からない。
『最上徳内 北の時代』の冒頭にわたしの「部屋」を紹介している。あの「部屋で逢う」人の話を書こうというのである、古今東西を問わず。実在・非在の人を問わず。
さ、どうかな。うまく行くかな。なんと、いきなり「ゲーテ」先生と逢い始めたぞ、おいおい。
2009 10・14 97
* 「部屋で逢う」を、朝のうちに書き継いだ。ま、行けるところまで。
2009 10・15 97
* 『部屋で逢う』は、いまどき何をトチ狂うかと笑われているだろう、ゲーテ先生をお呼び立てしつづけている。意地づくで書くのではない、わたしの敬意と関心とがさせている。もうしばらくゲーテ先生と逢い続けてみたい。どこかでわたし自身を語っているだろう。
2009 10・16 97
☆ がんばれ、東北楽天ゴールデンイーグルス 金木犀
クライマックスシリーズに、二位で臨んだ楽天が、ホームの応援にも力を得て、ソフトバンクに、二試合共、圧勝した。
結成当初、多いときは十点くらい差をつけられ大敗を喫してばかりいた弱小球団だったけれど、今季は、シーズン後期へ向かうにつれ、ぐんぐん追い上げ、三位争いで西武を突き放し、ついには二位でシーズンを終えるに至った。
少ない戦力で、よくここまで。
弱小と見做されているチームが、強いチームに打ち勝つのが大好きなので、楽天の快進撃が、面白くて仕方がない。
特に、クライマックスシリーズは、短期戦。
ここで打たなかったら、抑えなかったら、後がない、という緊迫感が、たまらない。
楽天がここまで来たのには、経験豊富で実績のある野村監督の力が大きいと思う。
早稲田実業の斎藤投手と激突し甲子園を湧かせた、駒大苫小牧の田中将大投手の楽天入団が決まったとき、あの逸材が弱小球団に、と思う反面、ノムさんが育ててくれるだろう、という期待があった。
その通りになった。
もちろん、マー君本人の努力がまずあったのだと思うけれど。
育成枠で伸びてきた選手たちも、活躍している。
日本ハムとの五連戦では、投手陣の層の薄さが心配なものの、打線は頼もしいし、この勢いのまま、おもしろい試合を見せてくれるだろう。
* わたしも野村が南海ホークスに入った頃からのフアン。長島や王のようなハイライトを浴びることなくテスト入団して、その後に抜群の働きをした。京都府の北の方から、丹後の方から現れ出た。初の三冠王になり、また緻密なデータを持っての采配ぶりには定評と実績があった。そして、ま、不遇というか、日陰道をこつこつ歩いて端倪すべからざる野球道を建設してきた。
わたしが、「総選挙で社会党が勝てばプロ野球は廃止になるんでしょうか」などと真顔で心配した大スターよりも。こういう人の方を好くのはあたりまえ。
だから今シーズンの「楽天二位」という成績でクライマックスシリーズに打って出ると決まったところでの監督「解雇」には、憤慨している。せめてシリーズを終えてからの話で良かったろうにと。
選手の奮起で二つ勝った。第一ステージ、ひょっとしてひょっとするかも知れないと、むろん応援している。
2009 10・17 97
☆ 企業努力 鰯雲
よく利用するスーパーストア「西友」の相次ぐ値下げに、驚かされる。
近隣の同業種との競合が過熱しているためか、主な野菜、果物などが、じりじりと、安くなってゆく。一円、二円であっても、客には、その差がアピールする。
昨年、市内に「イオンショッピングセンター」のオープンした頃から、「西友」の客足が、めっきり減った。
また、1、2km離れた場所に、「しずてつストア」と「COOP」の新店舗が、斜向かいで建設中。ほかにも、地元のスーパーが点在してい、市内は激戦の様相。
そんな中、「西友」に先頃、298円弁当が登場した。内容はそれなりだけれど、容器も人件費も含め、赤字覚悟の価格設定で。不況で低下した購買意欲に、どうかして火をつけたい企業の、身を削る努力がしのばれる。
以前、雑巾を限界まで絞り、最後の一滴を搾り出すテレビコマーシャルがあった。
画面に大きく現れた文字は、「企業努力」。
スーパーストア激戦は、今にはじまったことでなく、なんとなし、購買人口を無視しているような店舗乱立に、主婦たちの本音は、「スーパーばっかり、そんなにいらない」。
内心では、共倒れしないかを、心配している。
* 勤めていた昔、管理職の一端として、「前年同期*パーセント増」という年間目標を毎度会社に強いられた。いつまで続くものかと信じなかったし、曲のない、二枚腰のないワンマン専務経営だと感じていた。
やがてわたしは「書く」一本道へ足場をずらし、退職した。
上のような「安売り安売り」も、根はエゴイズム、ほんとうの健康な景気対策とは逆行する必然の自滅路線と考えている。
* わたしは人さまのウエブをほとんど覗きもしないで来ているが、それでもタマに目に入るもので、聡明そうな主婦のそれらが、実のところ、いま此処に挙げたのとかなり一様に似ていて、考えていること、言うこと、口調や論調までもだいたい同じなんだなあと、そのことに感心したりシラケたりする。時世という大きな掌の上でだれもが同じような舞を舞っている。
2009 10・18 97
* 「mixi」に、「部屋で逢う」という連載をしている。わたしの「部屋」のことは、小説『最上徳内』のはじめに紹介している。わたししか入れない「部屋」に入り、襖やドアの向こうへお呼び立てすると、古今東西の、親しい人がわたしと話しに出てきてくださる。
このところその「部屋」にわたしはゲーテ氏をお迎えしている。もう数日を重ねているが、今日は、こんなことを。
☆ 「ときどき、短い言葉で、とても深い示唆をくださいます」とわたしは云った。
「そうかね」とゲーテ氏は底知れない穏やかな眼でわたしを観た。
「人の到達できる最高のものは」と、「仰っています。それは、<驚嘆>だと。もし根本的な達成や現象に出逢って真実驚嘆させられたら、その喜びや称讃に満足するがいいと。それ以上は人には実は許されていない。それ以上を背後に探ってももうなにも手に入れられない、そういう、それほどの驚嘆には、いかなる理解も及ばない値打ちがある。そこに人知の限界がある。鏡を覗いて、すぐに裏の方にまだ何かがあるかと裏返してみるのは子供のすることだ」と。
「およそ人間の文化の行きつく最高で最深の歓喜は、無垢の驚嘆だろうね。そこで人は謙虚になる。そこで人が厚かましくなってはいけない。」
ゲーテ先生は、そこで、にっこりされた。
* 世間へ出向いて人交わりしてせかせかとモノを言うてくる暮らしを、極度に割愛するようになり、わたしの日々に、やわらかい日だまりも出来るようになった。まだそれは狭くて淡くて頼りなくて、陰気に濁った、気味の良くない場面の方がはるかに広くてイヤなのだが、ま、一気にどうなるモノでもない。
* 息をつめ、地に生えひろがるこんぐらかったえにしだの茂みを、這うようにくぐり抜けて行こう行こうとしながら、吐息しているような日々であるけれど、それも「夢」と見えている。夢と知りながら「覚めざらましを」と歎くのは愚かの極みだが、そこに云うに云えないおかしみも感じる。おかしみという思いは、奇妙だ。余裕でもないのに余裕がましく感じられ、ふと満たされていたりする。あほやなあと、自分をわらいながら。
2009 10・19 97
* 岸野有美子さんからも、旅のお土産をもらった。野沢利江さんからの生姜糖、こざっぱりと、おいしい。藤田理史くんに戴いた薩摩焼酎の「赤兎馬」の瓶もおいしくアケてしまった。次いで「喜左衛門」を頂戴する。
昨日も勝田さんに話していたが、あれこれ戴いたご厚意にとかく御礼を申し遅れて、ご無礼が絶えません。申し遅れるどころか、つい、そのままにもなり、辛うじて日記の中で恐縮しながら感謝をお伝えしている。これは「お伝え」ではなく「お伝えした気」に過ぎないのだから、二重によろしくない。よろしくない。ご免なさい。
メールすらお返事をついしないまま。自分からメールを出すと云うことなど、ほぼ無いに等しくなっている。ご免なさい。
* 日記を書いても、転送を、いつも忘れてしまう。
2009 10・21 97
* 「抱き柱は要らない」とわたしは云ってきた、ここ数年か、それ以上か。要らないと云っても抱きついている柱が何本も有るのかも知れない。穿鑿はしていない。
次に紹介する述懐最後の要所、「人と同じでいる安心は、いらない。」は、上のわたしの思いに近似した強いマニフェストになっていて、ふと目が留まった。
☆ 人と違って 栗
小学三年生だったか、四年生だったか。
遠足で、同級生たちが、キティちゃんなどのかわいらしい柄のついたリュックサックを、大人っぽいナップサックに切り替える年頃は。
いつまでもリュックサックのまま歩いているわたしの背後で、
「*年生にもなって、リュックなんて、ねえ」
と囁く声が聞こえた。
音楽の授業で使う縦笛も、真白い新品を買ってもらっている同級生の中で、わたしだけ、家の誰かが使っていた深緑色のだった。
あれもこれもみんなと違うのに気後れし、新しいのが欲しいと母にねだると、
「まだ使えるんだから、使いなさい」
と押し切られた。
後になって、ナップサックも、白い縦笛も、買ってくれたけれど、しばらくは、周囲と違う古いものを使っていた。
今思えば、壊れたわけではないのだから、長く使えばよかった、と思うが、子供の世界で人と違うと、なかなかに周囲の眼が痛くはあった。
中学入学時、ねだって赤い自転車を買ってもらったら、中学に姉のいる同級生たちが、
「白い自転車でないとダメ。赤い自転車なんて、先輩に睨まれるよ」
と、盛んに諭しに来た。
世事に疎かったわたしは、中学生の上下関係の厳しさを知らなかったので、赤色の自転車を買ってもらったのだが、通学するのが恐くなり、そのことを母にうったえた。
母が、小学校の校長先生を通し、中学に通学自転車の色に関する校則などないことを確認してくれたものの、もう一人、黄色い自転車を買っていた同級生と、悲壮な覚悟で中学入学に臨んだ。
結果として、自転車の色のことで先輩の不興を買ったことは、わたしの実感では、なかったけれど、周囲と違うことにより、浮いて見えてはいただろう。
どうして人と同じが安心なのだろう。
ルールを守り、突飛な行動をしないことを求められる傍ら、成績は飛び抜けることが歓迎されるのに。
就職活動時、決まって訊かれたことは、
「あなたの長所は」
「人より優れているところは」
これまで同じ制服を着せ、靴下の柄や髪をしばるゴムの色まで管理しておいて、急に「人と違う個性を」といわれても。
考えてみれば、子供の頃、わたしが人と違ったのは、リュックサックや笛や自転車など、持ち物が、だった。
では、わたし自身は。
今は、自分の持ち味は何か、探す日々。
人と同じでいる安心は、いらない。
* 堅い意志でないと、これは云えない。「みんなで渡れば怖くない」「みんなそうしてる」「みんな云っている」「みんなが」「みんなが」とみんな「安心そう」に云って、常識だの良識だのと称するものが、臭く濃く醗酵している。それをまるまるバカにはしないけれど、いくらかバカげているという真実も見えている。
「人と同じでいる安心は、いらない。」
身内の思いがする。
* 「千人の多様な子供がいて、そして千人の多様な大人が出来るのです」と、凡庸な知ったかぶりをとくとく言い散らしている、五十年配の学校関係者がいて失笑した。
子供たちは「まずは多様な」存在であるが、これも甚だ疑問なことは、上のナップサックや自転車の色の話でよく分かる。
「みんな云うてはるし」「みんなそうしてはるし」と云いたがるのは、妥協に惑いかけた子供の正直であり、個性を喪いかけている、いや個性から怯懦に逃げかけているのである。それが子供だ。
その状態から起ち上がるか、その状態に狎れてしまうか。どっちつかずに、しかし、大人に近づいて行く。
そして世の大人たちときたら、世間一般、多様どころか、あまりに情けなく「かなり一様」である。ナップサックや自転車の色で分かるように、あるいは多様だったかもしれない子供が、小学校の高学年になり、中学・高校・大学になればだんだん個性的どころか進んで一様化し、すっかり大人になると、もう主夫も主婦も、男も女も一様に平均化されて、ながいものに平然と巻かれたがる。
だれかが謂った「人間もいろいろ」というのは、言葉の遊びに過ぎない。赤信号「みんな」で渡ればこわくない式にしか生きられないのが大方だ。
わたしの七十余年の人生で、大人が千人いれば、千人の多様な大人がいる、などといううそくさい実感はとうてい持てなかった。
* 上の人の、「人と同じでいる安心は要らない」という決意は、しかし、とびぬけて特異。すばらしい。大人達の九割九分は、とても、そんな毅然とした科白は吐けない。ま、おかげで世は平安、権力者は安泰なのである。
2009 10・22 97
* 「mixi」の連載も今は拘泥しない。出来るときは出来る。出来ないことはしない。
2009 10・24 97
☆ LEE と LEVI’S というだけでなく フック
アメリカ映画「ウエストサイド物語」で、対立する不良軍団のどちらかがリーのジーンズを、もう片方がリーバイスを履いていたと、昔読んだ映画雑誌に書いてあった。
当時、リーの方が正統派ジーンズで、リーバイスの方は邪道というほどではないけれど、正統からは外れたイメージがあり、それぞれのグループのイメージに合わせた衣裳になっていたとか。
彼らが、日本の不良グループと違い、明確な人種間対立という背景を持っていると知ったのは、ずっと後。
「ウエストサイド物語」は、はじめ、イタリア系とユダヤ系の不良グループの話にしようとしていたが、当時のアメリカ社会の実情に即し、ポーランド系とプエルトリコ系にしたと聞いている。
とすれば、ポーランド系のジェット団がリーで、プエルトリコ系のシャーク団がリーバイスか。
先日観た「ロッキー」は、ロッキーとエイドリアンがイタリア系、セコンドのミッキーがユダヤ系、対戦相手のアポロが黒人で、舞台はハーレム。
やはりボクシングは、下層階級のスポーツなのだな、と思ったら、それは間違いではないけれど、事はもっと複雑で、当時のアメリカでは、黒人への優遇措置により、白人貧困層の不満が溜まっていたとかで、つまり、ロッキーは白人貧困層の星だったと。
青春時代に観た映画は、いつも、ただキラキラしていたが、人種問題の複雑さを知るようになると、映画に渋み、エグみが出て来る。
* 興味あるエッセイの、「やはりボクシング」と始まる一段落に、「は」という助詞が六つ行列している。「は」「も」の使い方、ラクでない。
* 疲れました。やすみます。
2009 10・24 97
☆ 負けた らしい。 楽天家
パ・リーグのクライマックスシリーズは、昼にあったらしい。
日本ハムが日本シリーズに出場、と、夕方のニュースで知った。
楽天を応援していたわたしは、残念。
楽天は、いい勢いでクライマックスシリーズに進出したのだけれど、一戦目、リードする中、好投していた長井をマウンドから下ろし、出した継投が、相次ぐ暴投に押し出しで、無駄に失点し、最後は最悪のサヨナラ負け。
予想したとおり、投手陣の戦力の薄さ、特に、中継ぎ・抑え不足が、モロに出てしまった。
楽天は必死に戦ったけれど、勢いは日ハムに移ってしまったか。昨日のマー君のこれ以上はないというほど気合の入った投球も空しく、楽天はノムさんの勇退を錦で飾ることはできなかった。
セ・リーグの試合はまだ残っているし、大一番の日本シリーズは、これから。
でも、もう面白くなくなってしまった。
野村監督に言いたいのは、
「お疲れ様でした」
それから、
「野球が面白かったです」
* 四点リードを逆転されて負けたと知ったとき、勝ちを信じてテレビから離れていた。あれはヒドかった。昔サッカー、ドーハの悲劇なみだった。
野村監督を両軍で胴上げしてくれた図には、ほろりと感動した。
* さ、弛んではいられない。
2009 10・25 97
* 上野千鶴子さんのメールをもらった。いつもは著作のやりとりに添えた書信で、メールでの交信は初めて。わたしのホームページを初めて観て、こんな「ハイテクな人」とは知らなかったと。「ハイテクな人」とは口が曲がっても自慢出来ない、用意してもらった構造体を初心に利用しているだけで、そのかわり、技術的に躓けばハイそれまでよ。
いまだにわたしはドーナツ版にコンテンツを保存する手順を知らないし、用いている親機では一切音声が出ないので、音楽は聴けない。それは子機のほうでやっと出来る。親機が何故音声不能なのかまったく理解できていない。
2009 10・28 97
☆ 天才とは 白菊
アメリカの英才教育についてのテレビ番組を、チラチラ見ていた。
IQ100を超える子供たちを集め、独自の方法で学ばせ、能力を伸ばしているという学校への取材で、「今、関心のあることは」と訊ねていた。
「北朝鮮問題や、中国の外交問題」
「自動車などの排出する温室効果ガスによる温暖化の問題」
映し出された子供たちの、教科書的に模範的な答えに、大人たちは、感心するだろうか。
脳科学者の茂木健一郎さんは、十四歳まで読み書きのできなかった福沢諭吉を例に引き、
「子供が大人のようなことをするのが優れているという価値観は、少し違うのでは」と、異見していた。「子供の頃に享受する刺戟によってはたらく脳のメカニズムは、大人とはまったく異なる」とも言っていた。
遺伝子の研究をしている友人から、脳は、後天的な刺戟により、どんどん活発になってゆくと聞いたことがある。いかなる個体にあっても、脳のはたらきの限定的に語れないのは、確からしい。
アメリカの天才児たちの話に戻れば、たとえそれが何かの受け売りであろうと、自由に発言できる場のあることは、よいことに違いない。もし、日本の小学校あたりで、上のような発言をする子がいたら、孤立しそう。
かといって、アメリカでいつも自由な発言が許されているわけではないことは、マッカーシズムや、イラク戦争時の言論弾圧などで明らか。
自由な発言をしているようで、当局にとって安全圏内のことしか言わないよう、巧妙に馴致されていることだってある。それを見抜けるかどうかにおいて、また、馴致されないことにおいて、生まれつきの天才であるかどうかは、あまり関係ない気がする。
* わたしが、一字サゲで ☆ を打って紹介している文章は、もう云うまでもないがわたし自身の書いたものでなく、戴いたメールや、ブログの記事である。あるいは何らか、特に書き起こされ、転載をゆるされている文章である。名乗りは、わたしがそのつど好き勝手につけている。
共感して転載する記事もあれば、人はどう思われるだろうと批評的に転載するものも、ある。そういう取捨の中へわたし自身の思いを反映させ得ているだろうと思う。わたしの身近な世間や身近な世界もまたそこへ映し出される。ただ一途に書きつづられる私的に、個人的に過ぎた「日録」の単調や曲の無さを、少しでも避けたいとわたしは願ってきた。
2009 11・3 98
* ひさしぶり機械と碁を打って、黒番で負けてしまった。かつて一度もなかったこと。強いときは機械に五目も置かせていたのに。老いの散漫であろう。つぐ二の句も無い。
2009 11・5 98
* 眠気をはらうために子機のほうでポルトガルの歌を、長い時間聴き続けていた。聴きながら機械の中をバックアップ気味に整理した。いまはホロヴィッツのピアノを聴いている。
2009 11・5 98
* いま私費出版の道筋は、有るといえばかなり有る時節だが、専門の業者に委託すると、契約内容はかなり利用者にシンドイ重負担が課せられると聞いている。事実は承知していないが、わたしが五十年近く前に私家版の本を何冊かつくったときも、そういう業者に委託しなかった。印刷所と直接取引し、組み付けも、校正も、装幀も自分でした。わたしは出版社勤めをしていて、本づくりの技術も製版印刷のツテももっていた。製本だけを印刷所に任せた。とくべつ安く付いたか高く付いたかは分かりにくいが、都合四冊出版し、部数は多くて三百部、全部で五十万円ほど支払った。昭和四十年の前後だったから、所得倍増時代へ時代は動いていただろう、が、貧乏サラリーマンとしては思い切った支出だった。おかげで第五回太宰治賞を大きく釣り上げた。
* 人の目に自作が触れるのは、作家として立つための最初の大前提で、それが一人であれ複数であれ多数であれ、何かしら工夫が要る。それも自己満足ではダメ、どう恥ずかしくても厳しい他人の批判に耐えねばならない。今の時代、ブログがある。そして自分のブログに自作を並べている人はかなり多い。残念なことにその大方は読むに堪えない。いわゆる編集者という他人の眼識を経ていないのだから、自己満足でしかない。しかし本にするには費用が重い。出版社にじかに持ち込むには高い分厚い壁がある。
そういう希望者のために、わたしは経歴のある作家として「e-文藝館=湖(umi)」を責任編輯している。そして投稿を受け容れている。新人のために作品を発表の場を提供している、無料で。
* 日本ペンクラブでは、十年前に理事会決定している、入会審査の条件は紙の本二冊以上の出版であったが、新時代に応じて、たとえばわたしの「e-文藝館 =湖(umi)」のような場で、二冊三冊に相応の発表作があり、理事会が「紙の本」同等と認めた時は会員に推薦されるのである。日本文藝家協会でも少し遅れてそのような理事会決議をしたように聴いている。日本ペンではわたしが提案して理事会決定したのであり記憶に間違いはない。
成心に躓かず、虚心坦懐に作品を寄せられればいい。優れた新人を生み出すべく、わたしはお手伝いできる。
2009 11・7 98
* ほんとうは発送のまえに一週間も余裕が出来たのだから、気の重い追加の作業をせっせとしておけば気ラクなのが分かっていたのに、漫然無為に過ごしている。無為というのではなかった、発送用意と無関係なことばかりしているのだ。漫然とはいえ、せずに済まない仕事や用事なのだから、ものは片づく。しかし、気は晴れない。
08年、つまり去年「mixi」に書いたものを整理していると、五ヶ月間で大きな本の一冊分ほどは出していて、けっこう読み返していて興新た、で、つい時間をとられる。今日までにあと一年半分、とにかくも「mixi」に書いた全部をわたしの機械へ取り出してしまったら、一度「mixi」から出たいと思っている。それほど、わたしの「mixi」は機能不調・不都合、多くが不具合で、ままならない。
2009 11・7 98
☆ 低反発至上主義 少納言
肩こりがひどい。
美容院でマッサージしてもらうとき、
「張ってますね。どこが骨かわかりません」
とまで言われ、恐縮する。眼精疲労からくる首筋から背にかけての凝りだろうと思いながら、就寝時の枕が合っていないのではないかとも疑っていた。
昨夜、試しに、枕を変えてみた。
十年以上使っていた、いただきものの低反発枕から、来客用に買っておいた薄めの羽毛枕へ。
今朝、目覚めてみて、普段よりラクな感じがした。いつもは、半身を俯きがちに起こし、一夜のうちにカチコチに固まった背中の筋をしばらく伸ばさないことには、動き出せないのだけれど。
低反発素材は体にいい、という説に、違和を感じはじめた頃、低反発のベッドからスプリングマットに変えたら起床時の体の痛みがなくなったという記事を読んだ。
低反発素材は、体を沈ませるように受け止めるが、そこに、功があり、人によっては、罪もあるのではないか。わたしの場合、低反発枕に沈んだ頭が、寝返りを打ちたい体についていっていないせいで、無理な恰好になり、首に負担がかかっていると感じたことがある。低反発至上主義を、疑ってみなければならない時期が来ていたのだろう。
薄めの羽毛枕は、柔軟性があり、寝返りを妨げず、ほどよい角度で頭を支えてくれた。
このまま肩こりがよくなってくれるといいけれど。
* 「黒いピン」も関わっていようか。「枕」の厄介には多年悩んできた。一年ほど前から、妻が、当座の工作、手製というにも当たらない幾重にもモノを巻き、ちょうど昆布巻を叩いて平たくしたような低い長枕をつくってくれてからは、著しく首・肩の凝りが減退し、無呼吸睡眠からも抜け出した気がする。
それにしても、「低反発至上主義」という言葉のおもしろさに目をとめる。なんだか、広範囲の人に実例の認めうる「批評」語の気味。これ、使える。
2009 11・8 98
☆ 行政改革刷新会議 颪
政府による事業仕分けが、昨日からはじまった。
事業仕分けの作業は、割り当て予算をかすめとる小判鮫団体を洗い出し、構造そのものにメスを入れるものと思われ、国民が政府に実現してほしいと望む最高位の政策だろう。
会議場は、予想どおり、殺伐としている。
仕分け人たちは、会議に出席している官僚たちに厳しいなあと感じるが、やんわり接していたら、なんだかんだ言って煙に巻きそうなのも官僚。しばし、性悪説も仕方ないか。
発足から二ヶ月足らずで、早速、天下り問題に着手した政権を応援する。
すぐに成果が表れなくても、慌てない。
やる気マンマンの与党議員たち、激務で体を壊さないでほしい。
* そう。やることは、断乎、やってほしい。政府与党の身内から浅はかに水を掛ける真似、慎んで欲しい。これは過去の政権の絶対にやれなかった革新的な試み、有意義な断行。
2009 11・12 98
☆ 怨と恨 金之助
「知るを楽しむ」といったか、NHKの番組で、戦後の日本の漢字政策を特集していた。
「当用漢字」が策定されて以来の、易しい漢字使用の原則を見直すきっかけとなった出来事は、水俣病患者たちの掲げた「怨」旗だったと。
石牟礼道子さんによって提案された「怨」は、当用漢字ではなかった。
「怨」に相当する漢字として、当用漢字には「恨」があったが、両者の意味は、深いところで異なる。
「怨」は、「他からの仕打ちを憎む」の意。
自分に対して起こる「後悔」の意を持つ「恨」とは、違う。
水俣の人々の意を汲むべき旗文字として、「恨」では、決定的に違う。事態を受け、当時のマスコミも、当用漢字使用の原則を逸脱し、「怨」の字を紙面に伝えた、と。
言語統制は、西欧諸国によるアフリカ、アジア、南米支配、また、日本の沖縄、アジア支配などをいうまでもなく、占領上重要な政策である。
GHQ主導の下に行われた日本の国語改革において、「恨」を残し、「怨」を外した当用漢字策定に、それぞれの漢字の深意を選別する意志のはたらきを思うのは、うがちすぎだろうか。
2009 11・14 98
* 「松」クンの「mixi」日記を貰った。彼はいまや「ホフマン」を読んでいる。彼が音楽を愛してやまないことは東工大の昔からよくよく承知。そこからついにドイツ文学へ手が届いてきた。べつに彼は夙に美術も愛し始めている。そして「山」もある。大学生、院生のころから扇をひろげるように生活を美しく豊かにしてきた、いまではむしろ珍しい一人になった。
わたしは音楽がすきだが、百人が百人なみの凡常の愛好に過ぎない。ホフマンの方は音楽によりも今少し身をまぢかに寄せてきた。『黄金寶壺』のような愛読書ももっている。
☆ ホフマンの『クライスレリアーナ』を読んで 松
ドイツロマン派全集No.13 ホフマンⅡ ㈱国書刊行会所収 クライスレリアーナ(クライスラー楽長) 伊狩裕訳 青柳いづみこさんの本を読んでいたらクライスレリアーナの話が出ていたので、久々に図書館で読み直した。
クライスレリアーナは、架空の楽長クライスラーの、音楽に関する覚書や手紙から構成されている。小説の形を借りた、作者の音楽論と言っても良いと思う。
楽長クライスラーは『音楽至上主義者』である。ベートーヴェン、モーツァルト、ハイドンを讃え、音楽を理解しない人を罵り、音楽の素晴らしさを語る。文章は飽くまでロマンチックであり、精神的な高みにある者こそが真の音楽を奏でることができる、というような話が続く。
小説としてはあまりに突拍子も無い話だが、シューマンやブラームスが模範とした音楽観を知るためには面白い本だと思う。私自身も音楽で心の内を表現したい、と思っている方なので、面白く読むことができた。
このクライスレリアーナは音楽用語が飛び交う本だが、訳者は読みやすい日本語にしている。音楽の専門家の助けを借りているのだろうか。おかげで熱病にうなされて書いたような文章を分かりやすく読むことができる。
クライスレリアーナを基にして、シューマンが同名の素晴らしい曲を書いている。
第一曲目からして、異常な世界。絶望と、慟哭と、狂気すれすれの音楽が展開される。憧れに満ちた2曲目が終わると、悲劇的な3曲目になる。4、5、6曲目はひたすら内向的な曲。自分の内面の闇の世界に沈み込んだような曲だ。情熱的な7曲目は嵐のように過ぎ去る。最終8曲目は理想のために闘い、敗れ、失意のうちに死んでいくクライスラーの姿が描かれているように感じる。ホフマンの狂気の世界を可能な限り音として表現している名曲だと思う。
青柳いづみこさんは、『シューマンのクライスレリアーナを聞いても、所詮ホフマンの異常な世界は音には移せない。』と書いている。おそらく理性が強く、文学を愛する青柳さんだからこう書いているのだろうが、彼女はシューマンの曲以上の、狂気の世界を文章から読み取っているのだろうか。
* ホフマンを「狂気」と感じているのが面白い。存外に「凶器」であるのかも。
2009 11・14 98
☆ 大学入試と文学 塾児
「いまの文学部関係の学生たちのことを考えると、小島(征二郎)さんのときやわれわれ(勝本清一郎)の時代には、文学以外には役に立たない学生がいましたよ。ところが、いまそういう連中は絶対に大学に入れません。入学試験がむずかしくて入れない。そうすると、いまはどこの大学に行っても、みんな数学もできれば、社会科学もできればといったような、利口そうな顔して、それで肝心かなめの文学のことはちっともわからないといったような人ばかりでしょう。
もちろんそれで、金儲けの達者な、また新しい文学者のタイプというものも出てきているけれども、大正時代に、われわれの周囲にごろごろしていたような、ああいう人もどっかで救いとらないと、日本の文学の生産の場が豊富にも賑やかにもならないのじゃないか。ああいう文学にしか才能がない人をどうやっていまの教育制度の中で救いとるか、それは文学者が考えてもいいんじゃないかと思いますね。」(『文学』一九六三年二月)
これは、『座談会 大正文学史』に収録されている、勝本清一郎の発言。
「菊池寛と芥川龍之介」の回で、小島征二郎、平野謙、猪野謙二と、「菊池寛の生活第一主義文学など」について話したあと、上のようにつけ加えている。
昔の学制のことはよく知らないけれど、半世紀前には、すでに現行の受験制度に近かったことが、勝本さんの発言からわかる。
いずれの科目でもある程度得点しなければ合格できない今日の入学試験は、より平均的な学生を生みつづけているのかも知れない。
明治・大正の、綺羅星のような作家たちの多くは、東京大学で学んでいる。
それはそれは優秀な人たちだったのだろうけれど、その頃の大学は、確か、無試験(またはそれに近く)で入れたのではなかったか。
当時、大学に入る学生は多くなかったろうし、とりわけ優秀な、選ばれた秀才ゆえに無試験でもあったのかと、「帝大生」の登場する小説を読み、想像している。
「無試験」には、また、「文学にしか才能がない人」を「救いとる」側面もあったのではないかと、ぼんやり思う。
「昭和文学は大正文学を超えられなかった」と、某元文藝雑誌編集長氏が洩らしていたことを伝え聞いた。
どの科目も満遍なくできる昭和の学生が、「文学にしか才能がない」明治・大正の学生を凌駕できなかった、と、言い換えてしまってはいささか乱暴だけれど、夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介、志賀直哉、谷崎潤一郎らにつづく作家のこんにちに見えないことに、現代の教育制度は、僅かでも関連があるのだろうか。
* 難しい問題だが。これも、そう簡単な話でないぞと思う。
2009 11・26 98