ぜんぶ秦恒平文学の話

自作を云う2015

 

自作を云う15

* 新年早々から妻にはややこしいスキャン作業をたくさんして貰っている。新聞紙からの復元はたいへんなのだ。しかし電子化しておくとそうでないとでは、いろんな意味から天地の差がある。スキャンの利かない手書きの資料が、日記や創作ノートなど、また貴重な通信物など、思わず天を仰ぐほど在る。棄てようかと思うが、少しでも健康が保てている間は思い切れない。悪しきサガである。
ITは、或る意味で猛毒害だと信じて疑わないが、感謝に堪えないほどの利器にも相違なく、わたしの場合は作家活動にフルに役立ってもらった。東工大教授として就任していなかったら、作家・秦恒平はとうの昔に息絶えていたかも知れぬ。機械のおかげで、何より嬉しく有難いのは、騒壇余人として、あのドクターX大門未知子なみに、「いたしません」を、かなり貫いて来れたこと。
先輩作家の加賀乙彦さんの年賀状に、「作品を御自分で出版するやり方に すっかり感心しています さすがに工学部の先生だと思います お元気で 御自愛下さい」とあったのには、わたしがいち早く、ワープロ、パソコン、ホームページといった展開につとめたのを観てられたのだろう、が、但し「工学部」とは関係なく、関係が在るとしては、親切な東工大の学生諸君とのお付き合いに恵まれたことを忘れてはならぬ。あの頃の学生君が、此の新年にも心親しい年賀状を、少なくも十数枚、二十枚近くも呉れている。
加賀さんの謂われる、「本にする」という点では、編集出版の仕事のうち「編集」は、あの医学書院から学び得た賜物であり、「出版」となっては、 ① 誰よりも何よりも妻の全面協力無くては到底出来なかったし、② わたしに真摯な創作や執筆意欲と実践・収穫がなかったら、どんなにしたくても全くあり得なかったし、 ③ 「いい読者」からの久しいご支援とご愛読無しには到底ありえなかったし、④ ことに非売限定の美しい「選集」刊行ともなれば、数十年を一心不乱に書いて書いて、それで地道にもそこそこ稼がせてくれた「時代」にも感謝しなければならない。とてもとても、チャチな自己満足では、三十年に手の届いている「湖の本」や、また「選集」出版などは出来る仕事ではない。出来た人を一人もわたしは知らない。
2015 1/3 159

* 建日子四十七歳 もう「若い」という言い訳はできない。
わたしは、昭和三十四年二十四歳の新婚以来、貧しい限りの中で百十余巻の講談社版「日本文学全集」を一巻一巻買い溜めてひたすら読み、ことに作家批評家詩歌人達の「年譜」を欠かさず熟読して自身を激励した。謙虚に学ぶことを勉強と思い思い、しかも自分に出来る、自分にしか出来ない仕事をと願った。
いま、建日子が達した年齢までに初の新聞小説『冬祭り』も書き終え、いま出し、出そうとしている「選集」第六巻までの代表作をすべて出版し終えていた。四十代はまこと働き盛り、第二の噴出期だ。井上靖さんは若かったわたしにしみじみ話して下さった、創作者の人生には、必ず、二度の噴出期があります、二度目の噴出を最も大切にすべきですねと。
井上さんのその教訓にどう応え得たかは、過酷で非情な紆余曲折に悩まされて、まだ結論は出せないけれど、そんな評価は人に任せておけばよい。まだ噴出するマグマが残っているとだけ自分にむかい、信じたい。
2015 1・8 159

*「選集」第六巻を入稿した。小説であたかも隠れていた別世界を掘り出し彫り起こすというわたしの作風を示して、現代、近代、江戸時代、平安時代に挑んだ、興味ある一巻になっていると思う。巻中「糸瓜と木魚」には、瀧井孝作先生が原稿用紙へのご自筆で、

「糸瓜と木魚」
瀧井孝作
秦恒平君は、美しい小説をつくり、また美術品をみる目も確かにて、中篇「糸瓜と木魚」は、この両方合致の表現也。

と書いて下さっている。
2015 1・11 159

*「選集」第五巻長編『冬祭り』を夜前一時に再校読了した。わが「身内」の物語。
もう責了可能だけれど、この十六日には出来てくる第四巻との間隔をあまり詰めて窮屈になるのを防ぎたく、今月中をかけて再校ゲラを、もう一度丁寧に読み直してみたい。本当は、小説の方へ時間が掛けたく、誰かに頼めないものかなあと思案している。
2015 1・11 159

* やっぱり浴槽で読んだ、まずは「吉備」の歴史、これには昔から濃い興味を持ち続けていて、遑無く手が出せなかった。「吉備」は備前、備中、備後、美作の旧四カ国の広域であり、瀬戸内海の島々へも広がっていた。わたしの感心の契機は、神武東征神話の途中で吉備に数年もの足止めないしは停頓を余儀なくされていたことと、日本海側出雲文化圏との連携ないし葛藤に在る。べつだん今更になにを目論むのでもない興の趣くままにである。一つには今書き継いでいる新しいいわば「清水坂」小説を「瀬戸内」にまで想を拡げうるならばと願っているので。
ヒルデイ『眠られぬ夜のために』の第二巻、『南総里見八犬伝』第九巻、ともに残り少なく、しっかり読み上げたいと思っている。
そして「後撰和歌集」「拾遺和歌集」の撰歌と称しつつ一首一首をもう幾たびも繰り返し繰り返し読んで楽しんでいる。
2015 1・12 159

* 学生時代に妻がお世話になっていた真如堂前牧野さんの町子小母さんが九十八で歳の暮れに亡くなったと、孫の美香さんから通知があった。「みごもりの湖」でヒロイン姉妹が時を隔てて近江五箇荘から此処へ移り住み、大学に通っていた。
想い出の多い家、また町子おばさんだった。「畜生塚」の町子の名もこの小母さんから勝手に借用したのだった。
こころより、ご冥福を祈る。
2015 1・13 159

* 25年ぶりに処女作①の「少女」を読み返した。書いたのは1962年十一月だった。これより早く書き始めて歳末に仕上げたのが処女作②の「或る折臂翁」だった。半世紀の余も大昔だ。いま白楽天の長志井和夫読み返すとき、まざまざと安倍政権の好戦姿勢への疑念と厭悪の思いをもつ。
多くの読者は知らない、わたしの処女作ははげしい反戦反征の小説であったことを。
2015 1・13 159

* とはいえ処女作②の「或る折臂翁」の中頃も読んでみた。短篇の「少女」とともに処女作としてこうい中篇をもっていたのを嬉しく思う。字句をすこし新ためながら、選集⑦の巻頭に置きたい。
2015 1・17 159

* 夜十時過ぎ。看取って見送った黒いハムの墓に添えた花のかたちの匂い袋を、夜の間は桐筺に入れてやる。
終日、二人で荷造りにかかり、メドが立ってきた。明後日中には九割九分手が離れるだろう。心おきなく水曜にはCT検査を受けてきたい。木曜の「櫻の園」 舞台が見えてくれるといいが。
今日など機械には殆ど向き合ってなかったが、送り先の宛名書き、湖の本版元と謹呈と書籍小包のハンコ捺し、そして気遣いの多い荷造りをして、その上で送り先をきちんと記録するとなると、限定本といえどもビックリするほどの作業量になる。間違いないようにと視力を使うので、ヒリヒリするほど目が痛みさえする。
四巻十九作の小説が函の背に並んで見える。いよいよ第五巻に『冬祭り』が来る。健康で怪我さえなければ少なくも小説集だけで十五巻では足りないだろう。
凸版印刷以外によその誰の手も借りていない。これはわたしと妻と二人の人生、協働で成し遂げる「卒論」のようなモノ。そして、この卒論には、新作の小説をも、ぜひに加えたい。その為にはまだまだ勉強も必要なら、ぜひにも長生きもしなくてはならぬ。無用の疲労は絶対に禁物。
2015 1・18 159

* 活字にした処女作は短篇「少女」と中編「或る折臂翁」とが最初で、後者を昭和三十七年(一九六二)七月二十九か三十日に書き始め、まだ脱稿しない途中で前者を書いた。その一月ほど後に「折臂翁」を脱稿した。
ながいあいだ「折臂翁」の出来をはにかみ羞じる思いがあり、それらは「畜生塚以前」という気持ちで括弧に入れて後方にしまっておく気分だった。自分の小説は「畜生塚」から始まったというふうに思い慣れていった。
じつは、「或る折臂翁」のあとで、わたしは築地の松竹シナリオセンターへ殆ど発作的に六ヶ月退社後の毎晩受講に行き、課題の二作提出を全うした。七十人ほどのなかで二作書いたのはわたしを含めて二人だけと聞いた。シナリオ「懸想猿」「続・懸想猿」である。読んでくださったのは前編を当時松竹の副社長だった城戸さん、後編をある著名な映画評論家だった。二作とも、予想も出来なかった八十点で、お二人ともが「小説をお書きなさい」という「評」だった。そのあとへ「畜生塚」を書いた。

* あれから数十年が経ち、いま虚心に「畜生塚」の初校を読み、「説臂翁」の初稿を読み比べると、あきらかに前者の方にムダな贅肉がある。雑誌「新潮」の小島喜久江さんの励ましがあり「畜生塚」は大幅に推敲し添削して同誌に発表し、幸いに桶谷秀昭さんや立原さんの称讃を得、愛読者もえられた。そしてそのまま「或る説臂翁」の方は「処女作②」という記号付きで後方に置いておかれた。
いま、その処女作②を読み返してみると、おもいのほか初稿「畜生塚」のような贅肉をつけていない。主題や動機にも、あきらかに「畜生塚」とはまったく別の方角を、意図していたのが明らかに分かる。そんなにも気後れしたり恥ずかしがることはないと、その後の数十年の「眼」が平静に見直させてくれる。生まれて初めて活字にもした処女作として、ま、通用させてもらえると感じ得たのは望外の喜び。「選集⑦」では部分の推敲も或る程度加え、すこしでもすっきりした形でアトへ繋げたい。直後に書いたシナリオへもこの「或る説臂翁」は濃厚に尾をひいている。会社の頃、同僚の女性が読んで、この一連は「怖い」と感想を告げてくれたのを思い出す。
2015 1・22 159

* 「罪はわが前に」を読み始めている。この長編、確かめてはいないが、選者でもあられた瀧井孝作先生が谷崎賞に推されていると小耳にはさんだおり、おもわず身をすくめた。とても谷崎賞には似合うまいと感じたから。しかし作柄からすれば、この作の方が「廬山」を芥川賞に推してくださったより瀧井先生のお眼鏡に適うかなとは思えた。
いま読み直しながら、わたしの他のいろんな作を批評してくれた評者のたいていが「罪はわが前に」の持っている原板のような意味に気付いてくれていないと何度も感じた。わけても「風の奏で」や「冬祭り」のようなロマンの下絵は、この私小説にこそくっきり描かれていたと思える。絵画で謂う本畫に対する原画的な原板構造がここには出来ている。読み直していて、くっきりそれを感じる。瀧井先生はその原板ふうのリアリズムないしは私小説構造を「美しくロマンに仕上げた作品」よりも好んで戴いたのかも知れぬと有り難く今頃思い当たっている。
読み返すのに幾らかの躊躇があった。その一つに、ありのままの顔形で登場してくる中学時代の娘「朝日子」のことが響いていた。この朝日子が、あのような… と。
しかし、それも避けて通れないわが文学の大きな一面を占めた要対決の論点になる。先に挙げたようなロマンの原板でもあり得たと同時に、この「朝日子」登場作はあの忌まわしい「裁判劇」を真っ向書いて乗り切ってきた「私小説」の道へも繋がる、とても無視しがたい原点ではないか。
秦恒平を論じようとしてくださる論者は過去にけっして少なくはなかったけれど、その全容を構造的に論じきるのは、ひょっとして私本人しか居ないのかもしれない。小説だけではない、論攷や随筆や日記(私語)が絡み合って、質は言うまいが、量と広がりとを想うだけでもなみなみでない。文学の未来を語らないわたしだが、わたしを唸らせるほどの未来、かすかに夢に見るとしよう。良い「選集」をと努めている理由である。全集構成でなく、系列選集を願ってきた理由もそれである。
2015 1・25 159

* 日曜日だった。出掛けなくて済む日は寛ぎながら仕事のハカがいく。
明日は歯科へ。行き帰りにも「冬祭り」読み終えるだろう。入稿の前から五度も読み返してきたか。いとも「愛(かな)しい日々」を覚えた作。生まれながら身の程のしれなかったわたし自身のために、生まれおちての詳細な身の程をわたしはこの作の中で創り堅めた。此の身の程の系図をわたしは抱きかかえ、「このよよりあのよへ帰るひとやすみ」を今しも生きている。そう思っている。
2015 2・1 160

* 中華家族でマオタイ、ダブルで二杯、酢豚。「冬祭り」ラストを読んでいて泣けてきた。帰りの西武線の中で読み終えた。涙があふれた。この作ばかりは、どうにも堪え性がない。自作というより、特製の聖書でも読むように魂を突き刺してくる。久しく願ってきた此処に「身内」がいるのだ。もうわたしには小説でも物語でも絵空事でも、無い。
2015 2・2 160

* 次の、「選集⑥」の巻頭に「祇園の子=菊子」を入れた。「廬山」を「美しい作品、美しさに殉じた作品」と芥川賞の選評を下さった永井龍男先生は、また人づてにだったが、「『祇園の子』のような作が十も書けたら、たいしたもの」と伝えて下さった。まえにも書いたが、その当座わたしは、このような随筆のような作でいいのかなあと、かえって申し訳ないほどの気がした。だが、少し後に「ちくま」書かれていた笠原伸夫さんの『秦恒平の美の原質』という評論でも、この『祇園の子=菊子』をもったいないほど重く大切にとりあげておられた。いまそれをつぶさに読み返ししみじみとした。笠原さんといい桶谷秀昭さんといい、ありがたい知己は早くからあったのだ。それでもわたしは文壇の身辺小説ばやりにただ小さくなっていた。「騒壇餘人」という自覚はぬけず、すこしずつわたしを「湖の本」へ押し流していった。いま、わたしは、けっしてそれを悔いてはいない。しかし今度第六巻巻頭に「祇園の子」を置き、第七巻では二つの処女作についで「みごもりの湖」につぐ書き下ろし長編『罪はわが前に』を置こうと決断以来、選集の作法に拘泥せず、「祇園の子」のうしろへ笠原さんの一文をぜひ戴こう、また「罪はわか前に」に添えて、林富士馬さんとの対談『事実と小説』また笠原伸夫さんとの対談『罪はわが前に、をめぐって』を置こうと思い立った。「祇園の子」がわたしの文学の原点なら、「罪はわが前に」はわたしの数々の文学を写し成しえた「原板」に相違ないからだ。いわゆる出版社版の「全集」では多分許されまい方法だが、わたし自身で編輯して出す私家版・非売本なればこそ自在な手もうてる。はっきり云って、笠原さんや今は亡い富士馬さんにもういちど応援して戴きたいのである。それほど笠原さんの一文はみごとであり、また発言も打たれるほど適確なのである。
2015 2・3 160

* 選集⑥「糸瓜と木魚」とを思い安らかに楽しんで校正している。「湖の本123」の初校も、ツキモノも好調に進行している。
選集⑤大長編『冬祭り』はこれまでの巻より70頁ほど分厚くなり、製本も製函も、わたしたちにすると発送がよほど手間も費用も大変になる。限定部数プラスの著者造本も少し減らすしかない、が、それでも、この新聞連載小説は、ひとしお愛着深い大きな中仕切りの一冊であり、これこそがわたしの「日本」深層・真相理解を「小説」という方法で決し一作と考えている。出来る限り、こころよりお望みの方にお求めねがいたいしお読み返し願いたい。
2015 2・4 160

* 仕掛かっている小説の一つ、「猥褻という無意味」と副題しながら主題の見つからずに来た長い小説、題を「返景」とも考えた。夕焼けとでも謂える意味になる。晩年の「性」風景を示唆したいと思ったが、すこし軽いかなあ。「返照」の方が。それなら「黄昏」の方が。では、当たり前すぎるか。迷っている。生母の生涯を追尋した長編は母自身の歎きの儘『生きたかりしに』で良い。もう一作のロマンは、題は決めているが、まだ明かしたくない。
2015 2・5 160

* こころよく「糸瓜と木魚」校正を進めている。
わたしの育った京都市東山区新門前通りの家は仲之町の東の南端にあり、家の西脇に新橋通へ抜けられる細い抜け路地があった。眞東から梅本町になるその眞隣り屋敷が、「奥さん」という市会か府会議員の持ち家であったらしく、住人はときどき替わっていた。その奥さんの眞東に京都の植物園長かと洩れ聞いていた「淺井(あざい)さん」の大きな表土蔵と路地の奥に邸宅とがあった。淺井さんの真東にも、豪儀な門構えの家屋敷があり、後年、清水焼の清水六兵衛家のもちものになっていた。我が家は梅本町のそういう西並びにくっついて、「ハタラジオ店」の看板を上げていた。全体に、梅本町にも仲之町にも、西の西之町にも大小美術骨董を商う店が数有って新門前通りを特色在らしめていた。梅本町の東寄りもう東山線の大通り間近くには「京都美術倶楽部」が在ったし、西之町には仕出し料理で名高い「菱岩」があり京観世と京舞井上流本拠の井上さんも稽古場と家屋敷とを構えていた。仲之町の土手ッ腹はいまでは花見小路南北にぶち抜いている。仲と西との町境には白川が南北に横切っている。
わたしの子供の頃はちょうど戦時中で、火の消えたように静かな通りだった。下駄で歩けばかんころりと、東へも西へも筒抜けに鳴り響いた。
「糸瓜と木魚」はそんな新門前の我が家から二軒ひがしの「浅井(あざい)さん」を懐かしい舞台にしている。語り手の私はこの家で初めて明治の洋画家淺井忠が描いたという「鶏頭」の色紙繪に愕き、次第に正岡子規一代の秀句「鶏頭の十四五本もありぬべし」に近づいて行き、だんだんに学者の道を行かずに小説家に成ろうとして行く。「糸瓜と木魚」の糸瓜とは子規辞世の句にあり、木魚は淺井忠の俳句名である。
瀧井孝作先生は、「秦恒平君は美しい小説を創りまた美術をみる眼も確かにて、『糸瓜と木魚』は両方合致の作品也」と推奨して下さった。身に沁みた。調子に乗るまいと思った。はっきりと創作であるが、わたし自身の思い願いが作には充満している。校正が、楽しい。
2015 2・8 160

* 「罪はわが前に」を半ばまで読んだ。京都の秦の家がさながらの地獄だったとき、高校二年生のわたしは、もう久しく逢えずに、姉と慕いつづけていた一つ年上の人に、人づてに呼ばれ、祇園八坂神社西楼門の内で、激励された。「さ、あなたの道を行きなさい」と優しく背を押された。
わたしの「以降の人生」を、まぎれもなく「決めた」のは、あの芳江姉の、「さ、行きなさい」の一言だった。いま七十九になるわたしが、其処まで読み、感謝新たに声をもらして哭いた。あれから六十年の余、お元気であろうか、どうかお元気であって欲しい。秦恒平の「身内の思想」「島の思想」と呼ばれているその原点をこの人がわたしに植え付けていった、記念の漱石「こころ」一冊とともに。
2015 2・9 160

* 「罪はわが前に」起承転に次ぐ「転」まで読み込んだ。心和らぐ嬉しい続篇は書けなくて、暗く不幸な流れで、「ディアコノス=寒いテラス」「逆らひてこそ、父」そして「凶器=陳述書」が忌まわしく尾をひきずる。それも、目を背けられない「この世」の業なのだ。
2015 2・11 160

* 「罪はわが前に」起承転転の最後十章の「転」の凄まじさ……、往時を想い出し、頬に毛がそそけだつほど、参った。あのころ、わたしはまだ会社をやめてなかった、若かった。「選集第四巻」のいくつもの作をあの頃に書いていた。会社を辞めて、独り立ちして、いろんなことが有った。だが、迷い惑うということはなかった。九十すぎた秦の父も母も叔母も我が家に引き取り、最期を見送った。それだけでも、済まなかった。凶事はさらにさらに襲ってきた。
2015 2・12 160

* 「罪はわが前に」起承転転の十章はさながら地獄であった。「書く」者の酷薄なエゴイズムかと心底畏れながら読み切った。 この作ないしそれ以前にわたって、林富士馬さん、笠原伸夫さんとの「対談」二つが記録されてある。或る意味では読み取りのきわめて難しくなりかねないひの書き下ろし小説に関連して、希有の意義づけをお二人の批評家は期せずして双方から成し遂げて下さっているのも、読み終えた。出版社刊行の選集でなら無いことだが、そこは文字どおり私撰の「選集」、作のため、わたくしのためにも、お二方先達のご厚意を心より感謝して第七巻に取り入れたい。読者のためにもお役に立てるであろうと願って疑わない。

* 二つの対談を、とても有り難く丁寧に読み返した。それにしても何と「「みごもりの湖」ですでに秦の集大成と謂われていて、「罪はわが前に」はさらなる転進への新たな集大成とも謂われている。昭和五十年(一九七五)の作であり、「清経入水」で受賞してから足かけ六年しか経っていない。選集四巻までのほぼ全作を書いてしまっていた。五巻に来る「冬祭り」がまた「畜生塚」以降物語系の集大成といわれ、懐かしい野呂芳男さんは新聞の書評であえて「名作」と書いておられた。いつかこのヒロインたちがまた蘇ってくるのを待望するとも。わたし自身の気持ちでは、「日本」の人と自然と歴史とを懸命に追っていたのだと思い出す。
さて、相次いで「丹波」を読み始めた。自分自身の「身の程」を問うことからまた歩み始めようとしていた。

* ああ、しかし、目がよく見えない。いそぐな、むりをするなと大勢にいつも本気で諫められている。しかし急がねば、間に合わないという歎きにもいろいろに追われている。間に合う限りは間に合おうと願っている。逢いたい人たちにも間に合う内に逢っておきたいと切に願っている。
2015 2・13 160

* 「丹波」を、グイグイ読んでいる。もうホームページを活用して盛んに書いていた時期の、趣旨は「こんな私でした」という、小児期へ克明な記憶の記録だった。「もらひ子」そして「丹波」への戦時疎開、さらに敗戦後の小学校から中学入学までを三部に書き置いたが、他の何よりも「丹波」はわたしの作家生涯に芽をふく重要な土壌を成していた。処女作の「或る折臂翁」も、私家版の第一册になったシナリオ「懸想猿」二篇も、さらには顕著に太宰賞「清経入水」も、この「丹波」体験なくては全く成しがたかったこと、余りに明瞭すぎる。三部のうち「丹波」を真っ先に書いた。此の作は、ど忘れしているが或る社の文学選集に気前よく全編採られている。監修・編集者にとにかくも評価されていたのだろう、読み返していて明瞭に適切にエッセイの味わいのままムダのない私小説一作になっている。人や土地の固有名詞だけは替えたが、叙事は実感に溢れて記憶の限り正確であり、なによりも後々の作家生活、社会生活の機軸をなすほどの思想的な芽生えが出ている。
そして、この「丹波」体験に大きく命を継ぐように、筑摩で書下ろし、戦後新制中学の日々から「真の身内」を問いつめて行く長編「罪はわが前に」が必然、出来たのだった。 2015 2・14 160

* 「選集第七巻」本文を入稿した。敢えて処女作短篇「少女」と中編「或る折臂翁」を巻頭に置き、ついで長編「罪はわが前に」を置いた。秦文学ともし言うにたる一連の創作があるならば、此の作は、問題をはらんだいわば創作全容の「原板」に位置づけられるだろう。作者の思いをより有り難く支えて下さった、もうはるか往年の二つの「対談」稿を、敢えて添えさせていただいた。対談しテク多去ったお二方に、記して、深く深く御礼申し上げる。
さらにそのあとへ「丹波」一編を置き添えた。それがどんな意味を持ったかは、読者はたちどころに深く察して下さるだろう。「丹波」はホームページに書き下ろし「湖の本」に入れた。ずっと後に長野の郷土出版社から「京都府文学全集」というのが出来たとき、第六巻に全編掲載された。

* 「あやつり春風馬堤曲」ぐんぐん校正している。
それでも疲れて、正体なく機械を前に寝入っていたりする。
明日は二週間ぶりに歯医者に通う。週半ばから、また飛び石を踏むように病院通いがある。「選集⑤」の送り出しの用意にも手を掛けておいた方がいいし、「湖の本123」の再校ゲラも出来てくる頃だ。
今日は、今夜は、長い小説へのこまかな手入れも進めている。

2015 2・15 160

* 昨日用事あって西の棟で本を探したついでに、薄い、昔風にいえばみな☆一つの岩波文庫を三册こっちへ持って戻った。寝床に入ってから、それぞれ数頁ずつ読んだ。ま、なんという嬉しい再会であったろう。一冊は、生まれて初めて自分のお金で買った岩波文庫、シュトルムの「みずうみ」。☆一つの値段にひかれたとはいえ、それは最良の出逢いであった。しみじみと心を洗われる一冊。つぎの一冊はゲーテの「美しき魂の告白」です、有名な長編のなかで自立してある名品であり、懐かしい極みの奥から魂というものの真の意義が匂うように立ち上ってくる。そしてもう一冊は、ホフマン最良の名作「黄金宝壺」。「冬祭り」での再会場面に一部を演じ用いてて、ふるえるほど懐かしくて読み返してみたかった。いうまでもない殉情の青年アンゼルムスと美しいセルペンチナ(蛇)との恋物語。
なんとよく似たなつかしい作ばかり選んできたことか。ま、ナニとしてもこの辺に私の「根」がおりているということか。
2015 2・16 160

* 宅急便で、「選集⑥」前半要再校、一部入替え稿と前付け後付け入稿。「選集⑦」は、本文入稿済み。「選集⑧」を用意する。
ひどい無理をしているとは思っていないが、そのように危ぶんで下さる人も多い。はっきり云って「間に合う」限り間に合いたい。何に。むろん一つは、私の健康、妻の健康。もう一つは、印刷所に事情に変更の生じないうちに。そして、私家版資金のなんとか間に合う内に。この製本製版の立派な選集の一巻一巻の製作費は半端でなく、非売本のこと、回収も考慮していない。正価を設定すれば読者は仰天されるだろう。そして送料。460頁を越すと、ポンと100円以上も送料総量が増す。心用意は一応してあるが、やはり出したい巻数との斡旋で「間に合って」ほしい。余生残年にもし幸い先があれば有るで、老境の生活費は加わってくる。
可能な限り、正確な仕事をして、ピッチは下げたくない、むしろ上げられるなら上げたい。欲も得も無縁の甲斐性であり、おそろしく贅沢な健康法かも知れないので、お叱り下さるな。
むろん、新作も、湖の本も、ホー゜ページ運営や私語の刻も、趣味生活もけっして抛たない。

* わたしの創作の先導原則は、なんども書いている、だれよりもわたし自身が読みたいと願っているような小説を創りたいのである。読みたいような作が人さまの手でどしどし書かれていればわたしはその本を買って読めば済む。ところがその望みはほぼ叶わなくなっている。鴎外、藤村、漱石、鏡花、秋声、荷風、直哉、潤一郎、ま、その辺で、停まったのである。仕方がない、それなら自分で書いて自分で読んで楽しもう。
そんなこと、しかし、出来るかなあ。
出来ていたという確信を、いま「秦恒平選集」でだれよりもわたしが楽しんでいる。だから150册余も造れば足りるのだ。喜んで貰って下さる人はある。是非にと云われば、一巻あたり控えめに製作実費だけ戴いている。わたしは生まれつき創作者だが、本屋さんではない。
2015 2・18 160

* 『最上徳内』一章の一と二とを快調に読んだ。いま大きな盆栽「蝦夷土産 モガミ」の逸聞を早稲田大学図書館に勤めていた「E」さんから聴き終えた。ずいぶん本の探索では援けてもらった。藤平教授に紹介されたのだった、が、話している内に「E」さんの奥さんは、中学高校でわたしの一年下の後輩だと知れて仰天した。なつかしい。気の毒に、「E」さん、一昨年ごろに亡くなったと聞いた。初めて図書館であったころ既に意の手術などしていたと聞いていた。忘れていたが小説に書かれている。
岩波の「世界」にいきなり「最上徳内」を連載することになった機縁は、今思えば不思議すぎた。まあ、よく書かせてくれるもんだと愕いたほど、知った編集者にちらと徳内を書いてみたいと漏らしただけで、即座に「連載」が決まった。あんまり即座に決まってわたしの方がノケぞった。長い連載になった。その頃の編集者と、いまもお付き合いがある。
この連載の最中にわたしは「東芝トスワード」という東芝初のワープロをたしか70万円も支払って買い、即日機会で原稿を創りだした。妻の清書のたいへんな労苦はその日から無くなったのだ。
ワープロで文学の文章が書けるものかと云った迷論珍説が一時流行ったが、「徳内」連載中のどこから機会打ちになったか言い当てられる読者や論者はただ一人もいなかった文体をもった作家なら、筆だろうがペンだろうが鉛筆だろうが、機械だろうが、さんなことに文章や表現が揺れるわけが無い。文体に筋金が入ってなければ、何で書こうが、ばらばらの迷文が出来てしまうだけの話。
2015 2・20 160

* 『最上徳内』は快調に読み進んでいる。わたしが四十六歳、その頃頻りに、「部屋」で膝つき合わせて逢っていた「徳内先生」が四十六歳、そして思い合わせれば息子の秦建日子もちょうどそんな年頃の筈だ、彼は、なんだか初めての「ミュージカル」とかの製作に熱中しているらしい、心ゆく仕事になるといい。

* 「世界」連載の『徳内』さんの滑り出しでは、早稲田大学図書館の遠藤さんに、ずいぶん決定的なお世話になっている。徳内さんの直接の上司でありともに生死のきわにも陥ったことのある幕府普請役青島俊蔵の著「紫奥畧談」を見つけて貰ったり、何より、徳内資料を莫大に所蔵していた山形大学を紹介してもらい、山形まで数日も泊まり込みで資料のコピーや読みに専念できたことなど。あらためて感謝限りない。遠藤さんのご冥福を祈る。
この連載では、連載途中、わたしとしては異例中の異例、見も知らない北海道へ長い旅をし、すくなくも岩手県から津軽海峡越えに函館へ、その先は襟裳岬きはもとより北海道の南岸を正確に縫い取るように根室・ノサップ岬まで、北岸は根室から野付のさきまで進んで、中標津経由釧路港へ戻って、さらに船で、東京まで戻ってきた。独り旅ではなかった、終始一貫して「徳内さん」と二人での道中だった。楽しかった。楽しいことはいろいろ有った。
『冬祭り』では、同時代の日本の作家二人と訪ソ、ソ連では懐かしい通訳エレーナさんの案内で終始楽しい旅が出来た。残念ながら、今日に生きて在るのは、私ただ独りなのである。今度の「選集⑤」は、お三人への追悼本でもある。
『北の時代』では、天明の徳内さんと昭和のわたしとの「ふしぎな連れ旅」だった。得も謂われぬ嬉しさがあった。

* 新作小説の「清水坂」もの(と謂うておくが)の話柄を、どうかして、はるばる瀬戸内海と繋ぎたいと、試行錯誤を重ねている。苦しんでいるより楽しんではいるのだが、……難しい。
もう一つの長編は、構成・構想・叙事ともにほぼ仕上がっていて、推敲、そして小やかだが補充の仕事をのこしている。まだ「総題」へしっかと踏み込めてないのが課題である。いずれにしてもこの「ヰタ・セクスアリス」は簡単には公表できないが。
八百枚の『生きたかりしに』は、いつ本にしてもいいと腹は決まっている。「湖の本」だと、少なくも上中下巻は避けられない。選集の一冊で出してしまうのは、久しく「新作を」と励まして貰ってきた「湖の本」読者に申し訳ない。やはり新作は「湖の本」が先と思いかけている。
「湖の本123」は、全紙、昨日に再校ゲラが届いていて、三月中旬ないし「選集⑤」をほぼ送り出し終えたあとを追いかけ、責了に出来るだろう。「湖の本」の年度第一册が早くて三月中、四月初めの刊行というのは異例の遅れになっている。それだけ「選集」が奔っていたと謂うこと。
2015 2・22 160

* 『秋萩帖』読み終えて深い息を吐いた。よくもあしくも、これがわたしの追究であり表現であり、ついて嬉しいウソそのもの。ゾッコンと云うてくれる読者が10人あれば、大満足。この世の今しか生きてない人には、ムリやなあ。
2015 2・23 160

* 目覚めて、床に半身を起こし、腰したには布団をかけたまま、小説のゲラを読む。一日でいちばん目のいい時である。「糸瓜と木魚」の再校。しみじみとする。この「選集」第六巻は、これぞわたしが専攻の「美学藝術学」に対する「卒業小説」といえる。
ちなみにわたしの卒業論文の題は「美的事態の認識機制」で副題が「美しく視えるということ」。淺井忠や正岡子規を書いたのではない。「糸瓜と木魚」は、大学院にいすわっていつか美学藝術学の教授になるという歩みをいちはやく捨て、おれの美学藝術学を「小説」で書きたい・書こうという、決意の小説だった。「あやつり春風馬堤曲」も「秋萩帖」も、その実践であった…ナ、と、今にして手に取るように分かる。「秦さんは小説家になるしかなかった人だよ」と何人もの此の道の先達から云われてきた。そうだったんだと、しんみり今にして身に沁みる。

* 京都文化賞のお祝いに、京都の画家池田良則さんより、文化勲章佩帯の祖父池田遙邨画伯の作になる、懐かしい風景版画を頂戴した。

* 心静かに、やすみやすみ明日からの労作業に備えながら、仕事を続けている。

* 「生きたかりしに」に、必要な記事を小さく追加した。今少しだけ言を添えて、ほぼ仕上がりと目したい。原稿用紙では862枚だが、十分手を掛けていて、ほぼ800枚ほどか。ほおっと息を吐いている。書き始めたのは、最初の中国旅行から帰ったあとからである。妻の清書原稿に手を入れ手を入れ手を入れた挙げ句、深く書斎に埋蔵して何十年も置いた。去年一年掛けて妻がまた機械に入れてくれ、それを更に検討し推敲した。
2015 3・1 160

* 『秦恒平選集 第五巻 冬祭り』 どっしりと出来てきた。既刊の「全二十作」を函の背に眺めている。ただ一作として気を抜いた作はない。「おもひ」という「火」を燃し尽くして言葉にした。文章にした。「作品」と、呼んでやりたい。

* 『秦恒平選集 第五巻 冬祭り』 どっしりと出来てきた。既刊の「全二十作」を函の背に眺めている。ただ一作として気を抜いた作はない。「おもひ」という「火」を燃し尽くして言葉にした。文章にした。「作品」と、呼んでやりたい。
2015 3・2 160

* 「作」として公開されたものは、小説であれ何であれ、読者・享受者に気儘に受読まれ取られるのが、まずは、当然のことである。だから、小説本の場合、ふつう著者の解説的な「あとがき」が入らない。
ただし、それと同時に、作者には、作者の意図とも祈願とも執着ともいえるものが、真摯であればなおさらとも必然にともいえるほど創作の基底に籠もっていて、自愛も自負もまた反省も自己批評も出来ている。成ろうなら、よく汲んで貰いたいと願っている。たたし、ふつうは、それを外へ出さない。まして強いはしない。本音は、ご勝手に、お好きなようになどとは願っていない。
例えば芝翫のような役者が、たとえば道成寺を「一世一代相勤め申候」といえば、もうその後は演じないという覚悟の表明である。
今度の「秦恒平選集」はその意味で一世一代の、作家としてのこれが「遺書」に同じいものと意識し踏み切った。
で、成ろうなら、微妙な作にほど、作意をも明かせれば明かしておきたかった。出版社を版元に求めれば、そのような気儘はユルされないが、あえて非売限定の「自撰集」であるのを利して、最低限の「自作自解」も「あとがき」で敢えてしておこうと態度を決めた。多くの紙幅はとても求められない、だからこそ心して書き遺して行きたいと思ったし、今も思っている。

* もう、アトがないと覚悟している。わたしに本当の自負と確信をもって言えることといえば、自作の状況をすこしでも豊かにメモっておくことと思う。まさしくこの「闇に言い置く私語」に私語して事情や思いを書き置いておくことも今や必要と思っている。取捨は、それこそ、みなさんにお任せしていいことと思っている。
2015 3・7 160

* 「秋萩帖」に没頭。わたしにすれば、こんなに面白くこんなに読んでみたかった小説はない。しかし知友の中でこれを面白かった、よく書いたと言って下さるのは、亡き「T博士」こと角田文衛先生や亡き「K博士」の他にはその道の専門家は別にしても、思い付く州かぎり一人か二人しか思い浮かばない。わたしはそういう人のために小説を書いていたとすら謂える。
それにしても登場する女性達の懐かしいことは。
2015 3・8 160

* 選集第七巻のなかの「丹波」初校ゲラを読み終えた。国民学校の三年生を終えて二月末にいきなり丹波の山奥の山の上のあばらやに疎開した。八月には敗戦したのに、もう一年余もたんばに居坐っていて、重い腎臓炎で京都へ帰った。二十ヶ月山村生活の体験は少年の五体に耳目に克明に刻印された。この体験なくてわたしは処女作「或る折臂翁」もシナリオ「懸想猿」二篇も太宰賞の「清経入水」も書けなかった。狂い疎開生活ではあったが、償って余りに余りある体験を得た。「丹波」は、我ながら驚くほど克明な記憶の際限になっていて、文学としても自愛の一編になっている。京都文学全集全六巻のなかにわたしのこの長編「丹波」がとられていたのをわたしは誇らしく喜んでいる。

* 選集第六巻は全部の再校が、「秋萩帖」は三校ゲラも手元に揃っている。「あやつり春風馬堤曲」の再校を終えたら、もういつでも責了できる態勢に入っている。倦まず弛まずこの道を歩む。そのうちに今度は「湖の本124 125 126」新作の一括初校も出そろってくるだろう。活況と謂える。どうか、妻もともども今のまま、今の程度の健康をじいっと保ち続けたい。
2015 3・17 160

* 浴室で、ゲラを水没させぬよう用心しながら、「あやつり春風馬堤曲」をわれながら面白く再校読み通し終えた。「海からきた与謝蕪村」という大きな題の第一部と結末に付記されている。第二部は由良の山椒大夫から、第三部は竜宮の浦島太郎から蕪村を考察し創作する腹案であった。余生と残年とに不安はあるが、簡潔にでも書いてみたくなってきた。それほど、この第一部「浦島朋子」嬢の健闘はおもしろく書き切れている。蕪村の秘められた境涯も十分に追究されている。
この「朋子」という女子学生は、わたしのヒロイン系列にあっても出色の個性を発揮している。出逢えてよかったなあと作者としても喜べる。それでも、これを読みこなせる蕪村好きは、やはり数にしては少ないだろう。小説にしたから面白いのだが、人によれば論文・論攷にしたらいいのにと歎かれるだろう。そんなことをするぐらいなら母校で美学藝術学の教授に成っていた。だが、わたしは小説家だ。

* もう一度「秋萩帖」三校通読し終えれば「選集第六巻」が責了できる。「祇園の子」「糸瓜と木魚」「あやつり春風馬堤曲」「秋萩帖」の第六巻は、おきまりの「むずかしい」を聴くことにはなるのだろうが、文学の質としては、最も充実して面白い組み立てを作者自身が堪能した一巻になっている、はず。仕上がりをわたしは楽しみに待っている。つづく第七巻初校も、ずんずん読み進んでいる。ここで、作の基調が、一ふし、動いてくる。
2015 3・20 160

* 書きかけの長編小説を書き進めていた。書いたこともない、妙なモノが出来上がるだろう、じつは、もうあらまし書けているのへ、手を掛けているのだ、一つには題がうまく付かない。この小説、2○○8年の二月二日に起稿している。そのとき仮に付けていた題は「方神 猥褻という無意味」であったようだが、これではうまく通じない。ま、手間の掛けついでにしんみり仕上げようとしている。
妻が手を貸してくれ始めた百数十枚の未完成「原稿・雲居寺跡」も、それなりの相貌を見せるかも知れない。自信なくて棚に上げたのでなく、あんまりハナシが長くなるのが怖くなったのだった。
2015 3・22 160

* 「冬祭り」は遠藤周作さんのあとを次いで連載が始まった。連載を終えたとき東京新聞の林慎太郎さんに終えての感想を聞かれたとき、間髪を入れず、「この作を掲載したことが、さきざきも新聞社(=新聞三社連合の各社)の誇りになるでしょう」と答えたりを覚えている。林さんは言下に「それでいいんです、有難うごさ゜いました」と生真面目に頭をさげられた。途方もない豪語に類してはいるが、いまでもそう思っている。よくわたしのところへ、詰まらない作ですが、恥じ入るばかりの仕事ですがと原稿や本や雑誌を送って見える人がいる。豪語しなくていいが卑下も過ぎるとそかな読みにじかんをとられ時間を取られるのはイヤだと思ってしまう。根限り、精一杯の仕事をこそ人の前へ出すべきだと思っている。
2015 3・23 160

* 『女文化の終焉』『趣向と自然』『顔と首』『美の回廊』『猿の遠景』等々その他にも美術にふれた著作や論考・エッセイは、量も多く内容にも力を入れてきた。ま、いわばそういう勉強を大学でしていたわけで、文学や古典や藝能や歴史も、それに加わっている。しかし「論考」風の学問勉強は大学院の退学というかたちで棚上げにし、むしろそれらを「小説」で書きたい、教授よりも「小説家」になろうと思った。そういう小説がハッキリ多かったことは、選集をわずかに五巻作った現在てすでに明瞭、まして次巻の「糸瓜と木魚」「あやつり春風馬堤曲」「秋萩帖」はそういう行き方の鮮明な作になっている。成りきっていると思っている。しぜん、読み煩う人が少なくなかった、難しすぎると本を壁に投げつけたと告白した読者もいたが、ありがたいことにその読者もいつしかに熱狂的な愛読者に変貌して行かれた。むろんそういう人数は破天荒に増えない。で、「売れない」作家の第一人者のようになっているワケだが、いささかも苦にしていない。文学・文藝としての質的な清明と優美と堅固なことをだけわたしは願い続けてきた。そういう意味でもわたしは「騒壇餘人」として「湖の本」という世界を深めようとしてきた。
2015 3・24 160

* 淺井忠に注目したのは、上村松園を書きだしたころ、村上華岳に没頭したよりよほど早かった。何十年もむかしだ、黒田清輝を知った人はいても淺井忠の名も覚えていない人が多かった。大判の格調を備えていたころの「すばる」誌に先ず藝術家小説「墨牡丹」を一気に発表し、やがて「展望」に松園の「閨秀」も、「すばる」に子規と忠との「糸瓜と木魚」も発表した。その一方では新潮社新鋭書き下ろしシリーズで『みごもりの湖』が出ており、わたしは勤務生活から離れ作家として自立の日々に入っていた。
長編小説『糸瓜と木魚』はわたしが小説家に成って行く一種の精神史的断章でもあり、次の回の選集第六巻ではたぶん愛読して頂けるだろう。
2015 3・26 160

* 書き下ろし長編の「あやつり春風馬堤曲」は、筑摩書房破産の騒ぎに巻き込まれ、宙に浮いたまま、嫌気がさし原稿を取り戻して棚上げだか何だかしまい込んで置いた。「湖の本」創刊十年の記念に初めて活字にしたので、単行本がなかった。
これは、めったにない「興味ある」蕪村追究であり、同時に卓抜なヒロインをひとりまた生んでいる。食いついて読んで下さる方には印象にのこる読書になろうとわたしは自負し期待している。
2015 3・26 160

* 処女作と思ってきた二作がある。一つは先ず書き始めて永く書き終えた「或る折臂翁」で、もう一つはその途中で短く書き終えた「少女」。じつは、それよりももっと早いむかしに書いたり書きさしたりした小説ようのモノが無いわけではないが。
ともあれ「少女」と「或る説臂翁」とを初稿し終えた。選集⑦でこれがどう新たな視線で読まれるか楽しみしている。
2015 3・26 160

* 選集⑥の全再校を終えた。装幀は責了にしたし、本紙は、もう一度丁寧に点検し終えれば「責了紙」として、早ければ明日にも送れる。四月中に刊行の可能性、小さくない。
第⑥巻は、巻頭の「祇園の子=菊子」がいわば歴史的な所産として評価されている。笠原伸夫さんのすばらしく有り難い論文も相並べて送り出せる。そして「糸瓜(=正岡子規)と木魚(=淺井忠)」は、今し「湖の本123 繪とせとら日本」でも最も注目されている。わたしはふたりを論考の大正でなく小説必至の人間として描いた、藝術家小説として。自信作である。ついで与謝蕪村を追究した「あやつり春風馬堤曲」は、これほど面白い蕪村探索の旅小説はあるまいと思う。癡情可憐のヒロインのかしこさ、やさしさに驚嘆して貰えるだろう。そしてまた平安十、十一世紀の草仮名の国宝「秋萩帖」をめぐる夢幻能さながら、現代と古代とを精微に優美にもののあはれも色濃く描ききっていて、これを読み切れる人は残念ながら少ないでは有ろうが、こんなに美しい小説には、そうそう出逢えないでしょう、たとえ鏡花世界でも谷崎世界でもとわたしは云いきっておく。
2015 3・29 160

* いま、わたしの心底の切望は、……。とにもかくにも、このまま死にたくもなく死なれたくも絶対に無いということ。渾身の願いで、日一日、仕事を形にして行きたい。それがわたしの栄養なのだから。選集第七巻は、いよいよ処女作二編と、「罪はわが前に」「丹波」になる。わたしの小説世界は選集①から⑥に到るいわばロマンの世界と、次の⑦のしめる切にリアルな私小説系とに大きく分かれる。「罪はわが前に」は、その双方の大きな流れの源流である。他が焼かれた写真だとすれば、これは真に「原板」と謂うべきに当たる。祈る思いで、健やかであってと願っている。
2015 3・29 160

* 選集第六巻はたぶん四月のうちに出来るだろう、つまり第一巻から満一年で六巻、頑張ればその辺まで創れるとして、何を収録するか。『最上徳内』まで入稿出来ている。『親指のマリア』など長編が何編もあり、掌説・短篇集や歌集も創っておきたい。小説だけで十七、八巻ないし二十巻必要と想ってきた。欲をいえばわたしの場合、論考・エッセイにも選集のかたちで残したい作はたくさんある。ま、わたしの寿命がもつまいし、この編集と刊行との仕事はよほど技術とセンスのある者でないと出来る仕事ではない、建日子にはそんな技術も時間もなく、本人の世界を探求してもらいたい。
どこかで、サッパリと諦めることだ、それに尽きると思って、可能な限りやってみよう。
2015 3・30 160

* 朝一番に、湖の本へ長編『生きたかりしに』全編の初校が出た。上中下巻になるだろう。初校に時間をかけ心も用いねばならぬ。ついにこの日が来たかと思う。
わたしの創作は、いわばロマンのかたちで出発した。選集第六感までに収録の全二十四作は悉くそうである、どう私小説風を利していても、すべて仮構的に利したまでで、物語は創られている。第七巻のメインになる『罪はわが前に』で、それら写真的な物語の「原板」が持ち出され、私小説が初登場した。そのエネルギーを承けて、以降は物語と私小説との綯い合わさって行く創作軌道が出来た。「罪はわが前に」で「真の身内」「魂の血族」を打ち出した以上は、必然、わたしを「秦恒平」としてこの世に送り出した、育てた、実の両親や育ての親たちとの心の葛藤や彼らの生き方(使いたくはないが「生きざま」とも。)をも冷静にあとづけるいわば「役目」があると思うようになった。『生きたかりしに』は、他の誰よりも壮絶な個性であった「生母」を全力で追尋し再現した長編私小説ということになる。自分自身のためにも書かずには済ませない難しい主題であり対象であった。この際、「実父」のことは概ね埒の外に置いたが、父にも父のすさまじい生涯のあったことを今のわたしは識っていて、書きたい、いやこの場合は「書いて置いて上げたい」という気がある。相応に用意も出来ている、だが、わたしに時間の余裕があるかどうか。実兄北澤恒彦の存在もあるが、じつはも持っても心親しい兄について、わたしはあまりに少し、ホンの少ししか何も知らないのである。湖の本エッセイ20『死から死へ』に書き留めた程度しか解らない。息子の恒=黒川創からも何も聴かされたことがない。兄とは、自然甥姪ともこのまま行き分かれて終えることだろう。
私小説ということでは、もう一人、娘の朝日子ら夫婦との不幸で不快な醜い傷跡がのこっているが、十分精確に、きっちりした既に私小説が出来ており、改めて書き加える必要はない。
2015 3・31 160

* 印刷所からの責了紙確認問い合わせの電話で朝になる。無事諒解がついて、第六巻は順調に、ほぼ間違いなく四月中に出来てくるだろう。出版社頼みや任せの出版ではない。世常の慣行や通例にしたがう必要のないまったくの私撰集であり、それだけに各巻にわたしの思い入れが詰まっている。今回の四作も、ただ並べたのではなく、それぞれの意義を担わせてある。特色ある一巻に仕立て得た自覚も自信もある。作はそれぞれに独自のおもしろみをもっていて、さりながら簡単には読者を近づかせない鞏固な味を示している。喜んで愛読される方と、音をあげる方との差が歴然とあらわれるだろう。差し上げる先をかなり慎重にえらばないと、本一冊が差し上げた先で死蔵されたり厄介にされかねない。

* つづく第七巻は、まったく先行六巻と行き方のちがう純然かつ凄然たる私小説を主軸に、加えて記念に値するかどうか、二つの短篇と中編の「処女作」を収録した。泣いても笑ってもわたしの文学はこの二作を手がかりに足がかりに歩き出した。二作の性質はよほど異なっている。明かして置いていい時期だろうか、中編「或る折臂翁」は、時期はしかかと記憶しないが「清経入水」が突如太宰賞の最終選考の場へ「招待」されて受賞したより、少し先だって、共産党系の雑誌であったか「新日本文学」とかいった場で文学賞の候補として審議された「らしい」と当時仄聞した。ということは、わたしから「応募」したのであろうか、それも全く記憶にない、ともあれそんなことがあったとしても受賞はしていないし、そんな雑誌に目を触れたことは只の一度も無いのである。いまわたしはペンクラブで知り合った「アカハタ」編集部にいた会員を識っている。いちどその人に往時の「新日本文学」を調べて貰おうかなあと思いもしている。「或る折臂翁の死」と題していたかもしれない。
もう一つの短篇「少女」は、勤務していた会社の労組の刊行物に請われて書いたか、出してもいいかと思いつつ書いたか覚えないが、結局は「惜しんで」渡さないままにした記憶はある。或る程度の自負はもっていたのだろう、か。

* 処女作がどの程度書けていたか、いまあらためて批判を受ける機会を持つことにしたのは、ま、一つの趣向かも知れない。と同時に第七巻の眼目である書き下ろし「長編『罪はわが前に』がまた、或る意味、ふつうに謂う処女作ではないが、濃厚な「処女性」をはらんだわたしの「文学」というより「生涯・人生」の根底を突き出して見せた、きわめて懐かしい、極めて凄まじい、ただならぬ地獄篇でもあり、これ以前六巻の諸作がいわば「ロマンス」であるとすれば、「罪はわが前に」は、わたしが書き下ろした最初の「小説(私小説)」なのである。
いま謂う「ロマンス」と「小説」とのちがいを、わたしは今のところ便宜に、ナタニエル・ホーソーンの提義にしたがって謂うている。その提義は、このところ映画として繰り返し見直していたバネットの大作ロマンス「抱擁」の文庫版原作巻頭に「序」のていで掲げてあるのを謹んで参照している。

☆ 言うまでもないことながら、作家が己れの作品を(ロマンス)と呼ぶのは、(小説)と称した場合には許されぬ自由を、方法と素材の両面にわたって、認めてもらいたいがためである。元来、小説という形式は、人間のたどる日常的な経験を、可能性と蓋然性を含め、極く細部に到るまで忠実に描くことを目的としている。それに対し(ロマンス)は(もちろん藝術作品である以上、諸々の法則には厳密に従わねばならぬし、人間の心の真実から逸脱するのは、まさに許されざる大罪であるが)、大方は作者自身が選び、創造する様々な状況のもとで心の真実を提示することが、正当な権利として認められている……この物語を(ロマンス)の名のもとに出版するのは、遥かなる過去と、刻一刻過ぎ去り行く現在とを、一つに結びつけようとの意図にほかならない。
ナサニエル・ホーソーン 『七破風の屋敷』序文より

* ホーソーンのこの作をわたしは読んでいないが、上に簡約された一文の意義は明瞭。ふつう小説、小説と言い慣れた創作に少なくもここに謂う「ロマンス(物語)」と「ノベル(小説)」の二種類があることを、告白するとわたしは自分が小説を書き始めた頃、全然認識していなかった。「清経入水」で自作が発表できはじめた頃に、当時「婦人公論」の記者でのちに作家になった阿部さんの口から、秦さんの作は「物語」ですね、「小説」ではないですねと云われ、恥ずかしながら何を言われて居るとも明瞭に聞きわけ得なかった。おいおいに解るようになり、そんなことは昔から知る人はみな知っていたのに、わたしは「小説」といえば小説で、小説にもいろいろ有るのだとしか識別のていどでしか意識してなかったのを分かり始めた。なんとも迂闊な恥じ入るハナシであった。
結果的に、わたしの作は、おおかたがホーソーンの謂うに相違ない「ロマンス(物語)だった。「ノベル(小説)」はめったになく、処女作①の短篇「少女」や永井龍男先生、笠原伸夫さんらの褒めて下さった「祇園の子」などが少数の例外だった。そういう小説の大家として志賀直哉や瀧井孝作や永井龍男等が、また島崎藤村、徳田秋声らがあり、一方「物語(ロマンス)」の大家として谷崎潤一郎や泉鏡花らがあったのだと、ま、識別が利いてきたのだった。
処女作②「或る折臂翁」以降「清経入水」を経て「冬祭り」まで
、わたしが書く文学作の大方はまさしくホーソーンなりの「ロマンス=物語」に相違ない。今度の第六巻の長編三作まさに然様であり、「秋萩帖」にしても「冬祭り」にしても、夢幻能というにも近い。
それに対し第七巻「罪はわが前に」は紛れもなくホーソーンが規定して居るままの「小説・ノベル」であり、徹底した「私小説」なのである。そこが、重い。感慨も深い。嬉しくも哀しくも辛くも、ある。
2015 4・2 161

* 午前中かけて、選集第七巻の初校を「要再校」で戻す用意をした。あとがきと口絵用意が残った。建頁の関係で、あとがきを二頁書くか六頁書くか。とにかく本紙「要再校」分だけ、先に送った、身の回りに「時」と「場所」とを少し明けるためにも。
今度の一等長い小説は、「起・承」から「転・転」への移行に、「ロマンス」でなら遁れられる、「ノベル」ならではの、凄い、苦しい息づかいがある。いま読み返していて肌に粟立つかなしみや悔いがある。
それにしても一中学生の頃の、そして大人になり妻子を得てからの、愛する妻子にならぶ「魂の血族」を掌中にたもち持つ気持ちは、いま、七十九歳になって、そのまま。これは、当人としても深い驚嘆に堪えない。よっぽどわたしは妙な人なのか。
いま願っているのは、だれもだれもみな、わたしより早くに「死なれたくない」のである。望みは、それしかない。逢えない人に逢おうとしても意味がない、「芳江姉」は、中学高校のむかしから、「強いて逢いたがる必要はないのえ」と、口癖だった。わたしを絶望にちかく悲しませたのは、下の妹が、もう十年も以前にまったく知らぬまに死んでいた、死なれていたことだ、つらかった。いま、「罪はわが前に」の「転・転」の終末部にかぎりなく優しい愛らしいそま「妹」の登場するのを読んで、わたしは呻いた。姉も、上の妹も喜寿どころか八十を過ぎているのだ、逢うのは互いに苦しいだろう。ただただ、「死なれたくない」と願うばかり。
2015 4・3 161

* ウソでないホントのオモ火に身を燃して
オロカなままに歩き果てばや     宏

* 「生きたかりしに」は、甘美な懐かしみなど一抹も加わってこない、苛烈な「ただ肉親」の親を探索した、どこへどう遁れようもない私小説である。とはいえ、書き上げて、しみじみ思うのは、生涯かけて「生まれ変わり生き変わった」生母の魂のつよさ・生きの気合いの激しさであり、なかなか愛情とは謂いにくいが、やや見上げる心地には自然となっている。書いてくれべき兄の恒彦はほとんど此の母を書きもせず識りもしないまま自ら死んでいった。兄を、事実上、母よりも遙かに少なくしかわたしは識らないが、母のことは弟の恒平が、到らぬ筆のママにも精一杯書いておいて上げたかった。

* 生まれ落ちて、少なくもわたしには実の両親と育て親であった秦の両親や叔母という少なくも五人もの「親」たちがあった。わたしの幼かった昔から今日に至る人生は、そんな五人の「親」たちを血族とは認められずに、中学生の全心全霊をつくし、もともと縁もゆかりもなかった、偶然に会いはかなく別れていった或る「三姉妹」に真実の「身内」を得た、そんな妙なモノであった。しかしその「妙」をわたしは大切に守りきった。そして、そんな三姉妹三人に、此の世いう「現実」として真実相当した「妻」をそれより後に「見つけた」のだ。わたしの人生で「特別な存在」といえば現実の妻と理念としての「姉と二人の妹」だけがある。それを分かってもらうのは、じつに、難しい。
2015 4・3 161

* 思ったより順調に『生きたかりしに』上巻、進んでいる。校正しやすい。巧緻に組み立てて創られるロマンスではない、直截で誠実な私小説であり、不可思議のロマンスを期待される読者の願いからは逸れるけれど、波に乗るようには読んでいただけよう。ある女の一生とも、ある母の生涯とも読まれるだろうが、基本の意嚮は、「生きたかりしに」の思いである。「死にたかりしに」ではないのだ。
2015 4・4 161

* 外出のせいか、目を使う校正過剰のせいか、がったり疲れている。機械から離れて、上のフーちゃんの論文を読んだり、送られてきたどれもおもしろそうな海外作の本を読むなどし、疲れ寝にでも寝たいと思う。この疲れ、所詮は眼から来ているのか、からだの奥深くで異常があるのか、ごく当たり前な老境なのか、判らない。なんとなく実感として、という物言いは齟齬しているけれど、ようやくに、死にながら生きている、生きながら死んでいるという併行併存状態に入ってきたのかも。『冬祭り』のはじめの方で「冬子」や「順」や「吉男」らと心幼いままに生きる死塗るについて話し合っていたのを、妙にしんみりと思い出す。
2015 4・4 161

* 今日、妻と同歳に。七十九。健康であれと心より願う。わたくしも。
「元稿・雲居寺跡」の読みにくい手書き原稿を、もうあらかた機械へ書き写してくれた。所詮は中断し、他の「清経入水」や「風の奏で」や「初恋=雲居寺跡」などへ展開していった、ロケットでいえば燃え尽きて切り離れたような原稿だが、いったい何をどこまで書こうとしていたのか、自身、思い出せない。読み返してみるのが楽しみになっている。
そしてーー、ちょうど今も書き続けている、ま、面白くもややこしい現代・平家時代のロマンスと、ならべて湖の本一巻に仕上がると佳いがと、淡く期待している。この作、題は決まっているが、明かしたくない、ま、ヤバイ企業秘密。小説ではあるが、やはりわたし好みの話の運びで、露伴の史伝ものともに似てくれていいが、などとまだまだ夢見ている。
題は決まらないが、初稿は概ね仕上がっている新作長編は。湖の本にするか、非売の選集本に限定しておくか、迷っている。

* 少なくももう一作、実父のことも、書き置いてやりたい気が、在る。資料は十分、在る。わたしが書くのでなく、誰かに書いて貰えると気が楽かなあとも。ま、これも書き進んでいる。

* 久しぶりに、わたしらしい掌説の連作を試みたいと願ってもいる。特異で、独自の世界をもてていると感覚している。

* 書いてみたい、書きたいことが、こう滲み出るように脳みそを騒がすのに、すこし惘れている。生き急いでいるのか。死に急いでいるのか。
なにをぢう書こうが、日本と日本人もろとも、いいえ人類ともろとも確実に煙か黴かのように失せ果てるだけと判っている。それがどうしたと思っている。

* 書いたものを読み返していて、建日子と何度か二人で旅していたことが思い出される。建日子のまだ幼稚園ほど頑是無く小さかった頃と、成人してからと、二人で京都の親の、建日子には祖父母の家へ、二度は帰っている。ゝ小学校のある時期にも、一度は奈良、飛鳥、竹内越えに大阪へ、京都へ、そらに近江能登川から五箇荘の石馬寺まで、わたしの取材を兼ねたかなり永い旅を一緒にしたし、なにかしら建日子のへこんでいたのを見かね、学校を休ませて二人で、日光から華厳の滝、中禅寺湖や裏見の滝などを観にでかけ、自転車を借りて湖畔を駆けたりボートを借りて湖上へ出たりしている。日光への旅ではやや建日子は沈滞ぎみだったが、大和路。近江路の旅でも、京都ででも、建日子の優しくて元気な性格が嬉しくなるほど小説のなかに書き込まれていて、嬉しくなる。懐かしくなる。 2015 4・5 161

* 「生きたかりしに」中巻部へも快調に初校すすんでいる。深夜、寝床の上で読み進んでいて、生母が兄恒彦に宛てた長い手紙をよむうち、感極まり独り哭いた。母の発見ーーその探索体験記とも謂える。それが上田秋成探索の希望と表裏している。講談社の大村彦次郎さん、松本道子さんが我が家までみえて書き下ろし「上田秋成」の小説をと依頼があったのは、昭和五十一年(一九七六)五月十七日で、同年十月一日に突然井上靖さんの電話で中国訪問の旅に誘われた。即座に受け、しかも二日後の三日に「秋成」起稿、奈良県御所への取材旅行にも出かけた。日中文化交流協会からの訪中作家代表団の旅立ちは十一月二十九日、井上夫妻を団長に巌谷大四、伊藤桂一、清岡卓行、辻邦生、大岡信に私の一行だった。四人組追放直後の印象深い中国だった。帰国して直ぐ訪問した大同上華厳寺大壁画に取材の小説「華厳」を書き下ろした。だが中絶していた「秋成」の稿をどうしても継ぐことができず、急角度に路線をまげて、母の発見行へ向きを変えた。一年半近く同居した叔母が元気になって京都へ帰った直後三月十六日から改めて書き始め、十月三十日、初稿九百十六枚が成った。それから先が、長く長くかかった。講談社には諦めてもらった。大きな負荷負担にもなった。作家生活の色合いが、ゆうらりと移っていった。
2015 4・6 161

* 黒いマゴが、寝床に半身を起こして校正を始めているわたしに甘えて、手と尾でわたしの腕を抱きかかえ顔をわたしの腕に預けて、グルルグルルと声をもらす。早暁から二時間もそとで遊んできたらしい。元気でおれよ、父さんも母さんもいるからなと云ってやる。
「生きたかりしに」上巻の跋文も書いた。すこし気張って、すこし寛いで、書いた。「私語の刻」をとりあえず読むという読者が多い。ただの「あとがき」に終わらせないように、と。「湖の本124」 ぜんぶ、揃えて初校を「要再校」で戻した。
やがて「選集」七巻の再校も、八巻の初校も出てくるだろう。九巻には何をと思案している。

* 若い頃、多い年には六册も単行本を出版していた。自分では寡作のつもりでいて、ふとそう口にし、同業の人に怒られたこともあるほど、毎年毎年書いた原稿の殆どが本に成っていった。
ところが去年、目の前に八十の来ているわたしが、八、九册も「湖の本」と「選集」とを仕上げている。今年もおよそそんなペースになるだろう。
昔の出版は、出版社に編集担当も製作や製本の担当者もいてくれた。原稿を渡したアトは念のため校正をするだけで足りた。
いま現在わたしの出版は、印刷製本のほかは全部、発送までも、わたしと妻とでやっている。生涯でいちばんとは云わぬまでも、日々多忙を極めている。どうなってんだ、これはと惘れもし、しかし有り難いことである。
はっきり書いて置くが、今その仕事からわたしは「お金」を稼いでいない。」お金はほとんど全面、遣う一方である。幸いそれの出来るのは、若い頃、売れない作家なりに原稿を想った以上にたくさん書いて原稿量を稼いでいた、ということ。みんな遣い果たして行こうよなと、夫婦して笑っている。

* つぎの「選集第七巻」を敢えて出すのには、まこと苦しいモノがある。巻中の長編『生きたかりしに』の初版では、愛してやまない主人公「久慈」三姉妹に、またご家族にまで、言い尽くせないご迷惑をかけた。そのためか長姉は離婚されたかとまで、もう昔に仄聞していた。その後の住まいも神戸のほうとしか識らず、分からず、詫びる機会も今にいたるまで全然なく、まして末の妹には、いつしかに死なれてしまってさえいた。それも風の便りに聞いた。
そんな作を、敢えてまた本にする作者自分自身の気持ち、苦渋に溢れてしかと掴みにくい。それでも、「此の作こそは」と思うまで「選集」には是非入れたいと願ってきた。妻にも、入れていいかと頼んだ。
迷惑をかけた「久慈」三姉妹、またその周囲のだれ一人からも、作者のわたしは、当時もその後も、一言の叱責も恨み言も受けず、今日まで来た。来れた。三姉妹の弟夫妻からは、出し続けている「選集」など、姉にも是非読んでほしいと思っていますと、手紙までもらっている。住所の知れている上の妹には、湖の本もみな送りとどけている。ありがたく、なにか「包まれている」といった感謝にわたしは堪えない。
じつのところ戦後まもない新制中学時代を「久慈」三姉妹と倶にできた期間は、姉とはたった十ヶ月足らず。次の妹とは二年足らず、死なれてしまった愛しい末の妹とは一年。そしてそれぞれその後は、「無いも同然」の僅かな期間に、たまさかの出逢いを分かちあうだけだった。
だが、わたしは、いまも中学時代の思いのままでいる。いられる。それを幸せに思うのは、まさしく血縁や義縁などをすべて超えた「真実の身内」「魂の血族」を信頼しうるからだ。かならずしもわたし独りの独り合点と思ってはこなかったのである。
ふつうなら、わたしはあの出版により「被告席」に立たされても仕方なかったろう。だが、そんな波風は、そよとも伝わらなかった。ただただ堪えてもらえた。
「真の身内」「魂の血族」を、生まれ落ちて以来、求め、捜し、つづけてきたわたしである。いったい、何人出逢えたろうか。
親子だから、夫婦だから、きょうだいだから、親類だから、好きあっているから、だから「身内」だなどという確証の決して安易にはあり得ないこと。
その「真の身内」を見出し見つけることの難しさ、嬉しさ。
わたしは、作家として、ひたむきにそれを書いてきた。「罪はわが前に」は、その証言の一作だった。いましも本に成りつつある新作「生きたかりしに」とともに、真実これを書くことなく、わたしは作家とは名乗れなかったろう。
最近に見直した映画「禁じられた遊び」の少女は、身のそばで容赦なく撃ち殺された両親の死骸から、頑是無く起ちはなれて彷徨い、たまたま触れ合うた「兄」かのような幼少年「ミシェル」を、慕いに慕う。しかもそのミシェルからも、施設へともぎ離され、名を呼び求め求めてやまない、「ミシェル」「ミシェル」「ミシェル」「ミシェル」……。わたしもまた、わたしを生んだ親たちを知らず、育てた親たちとも親しまず、ずうっと「ミシェル」との出逢いを待った。わたしは、そういう「こども」だった。八十になる今なお、そういう「こども」のままでいる。成長しなかった…のか。

* 「選集⑥」は、印刷所内の調整で、五月七日に本になって届くと通知があった。四月、すこし寛げる。しかし五月は病院通いも多く、よほどからだを追い使わねばならなくなる。
2015 4・7 161

* 今日は寒かった。部厚なカーディガンを着重ねて暮らした。下半身が冷えた。体調が安定せず、一度、猛烈な苦渋を烈しく吐いたりした。困ったことだ。
そんな中でも『生きたかりしに』を読み始めるととまらず、中巻分の初校ももう半ば過ぎた。探索の旅路がいましも佳境には入ってきた。もう右顧も左眄もしていられない、吶喊して読み続いで行く。さて「湖の本」の読者がどう読んで下さるか。出来得れば、たてつづけに新作の小説を「湖の本」で出し続けて大団円に持ち込みたいが。ほぼ書き上げてある新長編の方は、いっそ最初の仮題のまま、『或る寓話 猥褻という無意味』で行くか。それでも、これを「湖の本」にするにはちと勇気以上のものが要る。
とにもかくにも、書き続けねば、いろいろと。ただただ時間が惜しい。時間が欲しい。 2015 4・8 161

* わたしの「物語 ロマンス」の一起点ないし一基点となった、まだまだ作家以前、青年期の試作、いや中断作である「原稿・雲居寺跡」を、とうどう妻が電子化してくれた。これは湖の本の上中下巻を成す「生きたかりしに」にはほど遠いまさしく試作の中絶作にすぎないが、支離滅裂で投げ出したのではない。このまま長く長く書いて行くのがコワくなってしまったのだ、先へ先へ進むにはよほど勉強を積み重ねねばならず、さりとて、ひそやかに小説なるものに手を染めはじめて、むろん先途はなにもまだ見えていなかった。結局コワくなってビビったのだが、妻が機械の中へ書き入れてくれたものを読み返してみると、たしかに或る可能性ははらんでいた。「清経入水」や「風の奏で」や「雲居寺跡=初恋」などの芽を含んでいた。
学会長の馬渡憲三郎さんは、半端の儘でもいい湖の本へ入れて欲しいと云われている。丁寧に読み返し字句も点検し推敲して、それが可能で有効かを、よく考えたい。
妻の大変な御苦労さんであった長編「生きたかりしに」は、もし電子化して貰えていなかったら紙屑で終わっていたかも知れない。「湖の本」三巻と大化けしたのを克明に慎重に読み直し校正して、わたしの作家生涯にこの作を欠いていたら、いわば半身をもがれたようなものだったと、ゾッとする。あらためて、機械へ電子化のながながご苦労さんに、心から感謝する。有難う。わたしは小説や評論やエッセイを「創作」してきた。妻は作家秦恒平を創作してきた。いま、しみじみそれを思っている。
2015 4・13 161

* 電子化原稿にしてもらった「初稿・雲居寺跡」を読み返しながら文章にこまかに鉋がけしていると、懐かしくもあり風情も感じる。やはり「清経入水」を選者のお一人が「現代の怪奇小説」と評されていたのと同じ怪奇美ということがアタマにあったようだ。まだ先が長いので早まったことはいえないし物語に実は記憶も定かでないので、ハテ、どうなるのやら。
2015 4・14 161

* 湖の本124『生きたかりしに』上巻の再校、あとがき「私語の刻」の初校が出そろった。中巻、下巻の進行も好調で、揃って日の目を見るのも遠くはない。出不精なわたしには信じがたいまで未知で初対面の大勢に進んで出会ってきたが、歳月は速やか、もうおおかたといえるほど人が亡くなった。
京都の秦の親たちが叔母も倶に三人とも亡くなり、主人公である生みの母にはとうのとうの昔に死なれていたし、実の父の葬儀では弔辞を読まされた。母が嫁ぎ先の長女も、長男も三男も亡くなり、次男は戦時中に亡くなっていた。実兄北澤恒彦にまで死なれてしまった。母方の伯母たちもみな亡くなり、本家を嗣いだ従兄も夫人も亡くなった。父方の叔父にも叔母にも、また伯母たちにも死なれている。母方祖父の生家である、東海道水口宿本陣の跡取りも亡くなった。ま、それが歳月だといえば仕方ないが、個性強烈で壮絶な闘いの内に果てていった我が生みの母のためには、心拙いこの末っ子がなんとかして書き継いだ長編小説を、或いは魔物のように母を嫌い、或いは仏のように母を慕った、そういう大勢にぜひ読んでもらいたかった。

* ちなみに父母を倶にした亡き兄北澤恒彦は、生前に瀬戸内寂聴さんとこの母を主題に対談していた。母が臨終の直前までかけて仕上げた詩歌文集『わが旅 大和路のうた』へは、信じがたいほど著名作家等の心のこもった激励や感動の便りが届いていた。富裕な名家にお姫様のように生まれ育ち、兄のことばを借りるならさながら「階級を生き直して」人のため子等のため敢闘苦闘の後半生を生き切った母であった。もっと生きて闘いたい母であった、「生きたかりしに」と辞世歌をのこして病躯を投げ出すようにして逝った。「変わった母」であったと今こそわたしは驚嘆する。
2015 4・15 161

* 気疲れはする、仕事もしている。
あす、聖路加の循環器外科でり妻の検査と診察に同行する。手術の日程なども決まるだろう。外来で、かなりの待機時間があるだろう、校正ゲラを三種類鞄、に入れて行く。
今夜ははやくやすむ、と云いながら寝床に躰起こして、昨日も二時頃まで校正していた。気分転換にはいま「後撰和歌集」の撰歌の四回目。五回選んでみる気。この勅撰集には贈答歌が多くも自然詞書の量も多くて、短篇小説の場面に触れている心地もする。しかし撰歌は結局は歌だけで自立し自律しているものを好んで選び残すつもり。べつにそれで何をする気もないが。「後撰・拾遺・後拾遺」三和歌集の秀歌を自分なりに選んでおいて楽しもうと、それだけ。撰歌は、どんな短時間にも、どんな場所・場合にでも、好きに楽しめて退屈しのぎには最適。
2015 4・19 161

* 病院の行き帰り、また外来でも、ずうっと「選集⑧」の長編『最上徳内=北の時代』に読み耽っていた。楽しんで、はずむように書いているのがよく分かり快い。『親指のマリア』で新井白石とシドッチ神父、『北の時代』で最上徳内、『あやつり春風馬堤曲』で与謝蕪村、『生きたかりしに』では上田秋成を書いてきた。わたしの「近代」への足どりである。他の人には書けない書き方でそれぞれに肉薄した、読み物時代小説ではない。ある意味では、やはり「こんな私でした」と書いている。そこに愛着も自負もある。願うは只の「作」ではない。「作品」に富んだ小説である。作品が生み出せないならどんな文学も批評も屑にすぎない、売れようとも。
2015 4・20 161

* 無事、退院。暫くは造影剤を脚から入れた後遺症があるだろうが。深切な配慮と連携とで、恵まれ診療であった。感謝。
疲れはした。きのう十時間寝たが、まだ睡い。明後日には印刷所との打ち合わせ。五月七日に「選集⑥」が出来てくる。五月八日には、妻の術後の診察。五月もまた、忙しく仕事を追い仕事に追われるだろう。『罪はわが前に』などの「選集⑦」も桜桃忌ごろには出来るのではないか。しかもうち重なって「湖の本」では、新作の長編『生きたかりしに』が上中下巻で間隔を詰めて出来て行く。「選集⑦」と「湖の本」三巻の新作とは、文字どおり表裏して、一風あるわが自伝にも成るだろう。なぜ書くのかを値から答えることになるだろう。
2015 4・22 161

* 半世紀むかしに書いていた「原稿・雲居寺跡」は作の重みに作者が負けて中絶していた。電子化した原稿を読み直していて、方法にも意欲にも不足はない。行文は歴然、もうわたしの文体に成っている。湖の本組みでみて80頁ほどあり、「中絶作」として保存しておき、湖の本で息を吹き返させてもみたい。
からだだいじに、眼だいじに。生き急ぐでも死に急ぐでもなく、「いま・ここ」に徹し、「為し成したい」ことをただ「為し成し」たい。I am NOT ABE!」は、確信。その上で、わたしはわたしの「いま・ここ」を作家として為し、成し、つづけたい。 2015 4・25 161

* 殺伐とした殺傷、欺瞞的な政治、大噴火・大地震・虐殺つづきの世界。顔を背け耳も目も背けていたいが。自作の世界にいろいろに浸っていられるのを身の幸と想っている。
「罪はわが前に」「生きたかりしに」そして「最上徳内=北の時代」
新作の「或る寓話」「原稿・雲居寺跡」「清水坂綺譚」
没頭していたい。
2015 4・26 161

* 『生きたかりしに』上巻を責了した。感慨深い。生みの母への思いが蘇ったなどという実感ではない。苦しい闘いの生涯を闘い抜いた母への鎮魂歌。同時に、不明なことのみ多かった自身の背景をおもに母方を通して見渡せたということ。
実の父へは、まだそこまでの思ひ(火)が燃えていない。だが、子としてでなく作家として関心はもっている。資料も材料もある。母と違つて父は闘うことのできない、インテリジェントな負け犬の生涯だった。気の毒な気持ちはもっているが、身内へ食い入ってくるちからは欠いている。
2015 4・27 161

* 他方で今日もたくさん校正ゲラを読んだほかに、例の「原稿・雲居寺跡」も読んだ。物語は鎌倉が京を制圧したあの承久の乱のころへ動いていて、二代つづいた藤原公家将軍が唐突に都へ還され、皇子将軍が新たに樹ったりした頃へ大きく動いている。書いたわたしがビックリするような語りと想像をこえた聴き手が出来ている。語り物の平家、琵琶平家の担い手がどうやら高貴な、うら若いほどの公卿に夜をこめて長物語を請われて話している、らしい。まだ、作者のわたしにもこの先の展開が思い出せないが、原稿はまだまだ書き継がれてある、ようだ。むかしふうに謂うならなかなか「きょうとい」つまりおもしろいわたしの日々ではある。なにが夢でなにがうつつなのやら。
2015 5・2 162

* ロシュフコー(今後は、ロ公爵と謂う)は云う、
「47他人に対して抱く信頼の大部分は、己れの内に抱く自信から生まれる」と。また、
「392 運も健康と同じように管理する必要がある。好調なときは充分に楽しみ、不調な時は気長にかまえ、そしてよくよくの場合でない限り決して荒療治はしないことである」と。
前者は謂い得ている。後者には他の判断もあり得ようか。
わたしの過去にあって、それは好調の不調のという判断でなく、生涯の行く手を決する意欲と覚悟の問題だったが、
① 大学院を見捨て、そこでしか生きられないと人にも謂われていた「京都」という基盤を一気に抛擲して妻と「東京」へ出、就職し結婚したこと。
② 貧の底の暮らしの中で、敢えて高価な支出に絶えて私家版で小説や歌集などを四册もだし、ワケも意味も分からぬママ、志賀直哉や谷崎潤一郎や小林秀雄らに送るという行為に出たこと。
③ 六十余の著書をすでにもちながら、騒壇に背を向け読者と相向かうような「湖の本」創刊に踏み出したこと。
少なくもこの三条は「ロ公」の誡めている「荒療治」に類していたのだとは考えていない。しかも明瞭に成功した。①で良い家庭を得、②で念願の作家の道へ太宰賞という大きなおまけつきでさながらに「招待」された。そして③は独特の文学活動としてもう三十年、百三十巻に及ぶ実績を維持継続し、「騒壇余人」として生き長らえ、「選集」刊行にまで到っている。
自慢でも自賛でもない、決然と行わねばならぬことが「ある」という、それに尽きている。
2015 5・3 162

* 「原稿・雲居寺跡」を読み続ける。おもむろに物語は近江の佐々木を芯にしながら鎌倉と京との葛藤が目立ってきている。フーン、そう云えばわたしは高校の頃から承久の乱に関心つよく、慈円の「愚管抄」をその方面の問題意識から読んでいた。思い出してきた。なぜか近江源氏の「佐々木」一党に身も心も寄せ始めていたのも、能登川という母の生国に膚接した佐々木の本貫であったからか、あきらかに後年の『みごもりの湖』胚胎の偽らぬ徴証であった。
2015 5・3 162

☆ 秦 恒平 様
大変遅くなりましたが、過日は「秦恒平選集」第四巻および第五巻を頂戴いたし、まことにありがとうございました。
身辺の雑用にまみれ、頂いたご本の中の小説を読み返してから御礼を、と思っておりますうちに、いたづらに時間が打ち過ぎました。
御礼がはなはだ遅くなりましたこと、ご容赦ください。
秋成の『背振翁伝』(茶神の物語)を読み返しているところに、「蝶の皿」や「青井戸」が収録されているご本が到来し、しばし茶の世界に遊んだことでした。
茶は事を酔わせます。
どうぞ、変わらずお元気でご活躍ください。  長島弘明 東大名誉教授

* 長島さんのメールをもらい感慨に耽っている。初対面の日、彼は東大のまだ学生ないしは院生だった、わたしを五月祭に呼び出しにきてくれた。五月祭の会場で東大生たちに何を話したかは全く覚えないが、そのあと長島さんと喫茶店「ルオー」で歓談、その際にわたしからも秋成を書きたい、彼からもぜひ秋成を書いてくださいという話題になった。わたしは彼に宿題を負うたのである。
その後、長島さんは上田秋成研究を大きく成熟させ、その業績は広く深く知られて、なんと、もう東大名誉教授に。ところがわたしは秋成という宿題を果たせなかった。講談社から書き下ろしで秋成をと依頼されたのも、果たせなかった。
とはいえ、わたしは、じつに、わたしの「秋成」を書きはしたのである。書き始め一応書き終えて三十年、ようやく日の目を見るのが、この十八日の上巻出来にはじまる「生きたかりしに」なのである。どうその長編がどうわたしの秋成探索に成っているのか、それは読まれれば分かる。
上田秋成研究に目をみはる一生面を開かれたのは高田衛さんだった。その研究をさらに深めたのが、高田さんには後輩に当たる長島さんであり、秋成を語るとなれば、いまや長島さんの研究に頼らねばならないが、「生きたかりしに」に組み討った頃は、高田さんに学ぶしかない時期だった、そしてわたしは、それを敢えて改めないままに、「生きたかりしに」を仕上げた。長島研究はまだ知らなかった事実をあえて改めなかった。その必要がなかったのである。
誰に読んで欲しいか、誰よりも生みの母の霊を慰めたい名草、が、ついでは高田衛さん長島弘明さんへ宿題として提出したい。そう思っている。願っている。
2015 5・8 162

* 『秦恒平選集』第六巻を拝受
『祇園の子』が冒頭にあるのに魅かれてすぐに拝読、「中村菊子」の姿を深く胸に刻みました。あの印象深さは、秦さんの筆でしか現出できないものです。笠原さんの文章も続けて読み、秦文学の深いところを見定めておられることに感嘆し多くを教えられました。
秦文学の陶酔感はあとをひきます。が
いま『糸瓜と木魚』を読んでいるところです。
いつもご厚意をいただき深く感謝しています。
「第六巻刊行に添えて」は秦さんの面目躍如。読みたい本を書いていただいて、当方 幸せです。
どうぞお身体お大切に。   敬  元講談社出版部長

* 優れた編集者に読んでもらえて感想も戴くのは、書き手の幸せである。

* 面目躍如と笑って頂いた「あとがき」を披露しておきたくなった。

* 秦恒平選集第六巻に添えて
まったく私撰の本であり、世常の例を逸れてもいいかと考えている。一例が、作の成った時期に順じて列べることもしていない、むしろ一巻一巻に作柄を考え選んでいる。この第六巻では最初期の一短篇に次いで、三つの中篇・長編を収録した。
短篇「祇園の子=菊子」は、最初期の私家版『斎王譜=慈子(あつこ)』の巻末から後に単行本『廬山』(芸術生活社)に収めたとき、帯の文を頂戴した永井龍男先生の、「祇園の子」ほどの短篇が十も出来れば「たいしたもの」というご感想が、編集者を通じ届けられた。ただただ「過褒」と頭を下げて恐縮するばかりだったが、文藝批評家笠原伸夫さんもまた「秦恒平における美の原質」という、生涯私感謝にたえない一文のなかで、祇園の子の「菊子」に熱い共感を語られていて、この批評は、その後私の創作を鼓舞も刺激もし、ある意味指標とさえなった。新ためて心より感謝申し上げ、巻末の解説などというのでなく、敢えて、小説「祇園の子」と本文中に相列べて笠原さんの文章を此処に頂戴した。どうぞ、お聴しください。

次いでの三作は、大学で学んだ美学藝術学に生涯「学者」として従事するに慊りず、「小説」を書いて思うさま探索や讃嘆を完うしたいと願った、その最も顕著な作ばかり、と謂える。
いったい、私の小説・文学への愛はよほど我が儘な「病気」じみて繁殖したのである。中学か高校一年のころ谷崎潤一郎の岩波文庫『吉野葛・産刈』に出逢って、ああこれこそ私の読みたかった小説だと胸が膨らんだ。『細雪』や『少将滋幹の母』や『夢の浮橋』に出逢えて私は文字どおり「谷崎愛」に燃え、幸せだった。心底「読みたかった」作がそこにあった。
だが、そういう幸せは、昭和も半ば過ぎて滅多に恵まれなくなった。
やれやれ、と、思った。
そして私は書き始めた、読みたくて堪らないのに誰も書いてくれないからは、「自分で自分の読みたくて堪らなかった小説を書く」しかない、と。此の選集の第五巻『冬祭り』を含め、それまでにちょうど二十作を選んだが、どの一作も、自分で書いて自分で読むしかない小説であり、今回第六巻の中長編三作は、ことに学究風の探索をわたし自身が楽しんだのである。
幸い、正岡子規と浅井忠を書いた『糸瓜と木魚』は瀧井孝作先生にお褒め戴いた。『あやつり春風馬場曲』は、かつて『風の奏で』が多くの平家物語研究家や愛読者を動かし得たと同様、蕪村研究の専門家からも「興味津々」の注目を浴びた。さらに国寶『秋萩帖』をめぐる知られざりし人渦を、千年をまたいで不可思議に表現した長編は、あの、小説家のフィクションに厳しかった京の碩学角田文衛博士から東京の私宅まで、「よくやりましたねえ」とわぎわざお電話をもらう作となった。
どれも、だれも、書いて読ませては呉れなかった、だから自分の読みたい世界を書いたのである。小説家が「小説」を創作し表現するとは、本質的にそういうものと私は心得ている。る
2015 5・12 162

* 「最上徳内」のような変わったツクリの小説にも、めったにお目にかからない。田沼意次から松平定信へ時代の動いて行くころ、幕府の蝦夷地探索一件が「北の時代」の幕を激しく明ける。その立役者で先駆者の最上徳内さんと此の私とか連れだって不思議に旅しながら、アイヌのこと、松前藩のこと、蝦夷地のこと、奥蝦夷千島樺太のこと、ロシア人のこと、探索一行の御普請役らのことを、克明に、歴史的にも今日的にも再現し検討して行く、愛らしく美しいヒロインも加わってくる。小説の中に、私独特の発明になる不可思議にリアルな「部屋」が用意してある。
もう終盤の暗転へまで小説は、物語は近づいている。読める人には、関心のある読者には滅法興味津々であるだろうが、とことん読み物に骨までくたくた煮付けられている人の多い昨今では、わたしの物語・小説は天然記念物なみだろう。
2015 5・13 162

* よけいなことだが、昨日、国家的栄誉も肩書も得ているある先輩作家の長編小説第一頁の冒頭一行半を読んで、音をあげた。慨嘆した。

私の父は山東半島の貧しい家に生まれたが、清朝末期に師範学校の入試に合格して、二年間の勉強をしたのち、優等で卆業したのだそうだ。  原作

短いような長いような文中に、「して」「した」した」が三箇所、まこと無雑作に不用意に重ね使われている。文体の節度からは、「師範学校の入試に合格(し)、」と引き締め、次の「二年間の勉強をしたのち、」も、「二年の勉強ののち優等で卒業した(そうだ)。」とすっきりしたいところ。
何よりも<「したのだそうだ」などという結びようのウソクサク、陳腐なこと、「した」「のだ」「そうだ」の鈍重・凡庸なこと、読むに堪えない。
さらに云えば、小説冒頭第一行の書き出しであるからは、「父は」と書けば「私の父」に決まっている。「妻の父」でも「だれそれの父手」でもないのに、ただもう、慣い性のごとく無意味に「私の」と添えている。この作家、この程度の推敲が出来ないのだろうか。これでは、作は書けても作品は添わない。長編小説書き起こしの第一文ではないか。そもそも出版社の担当編集者は何をしている、平伏して見遁していたのか。
わたしなら、こう推敲する。

父は山東半島の貧しい家に生まれたが、清朝末期に師範学校の入試に合格、二年の勉強ののち優等で卒業した(そうだ)。  秦の推敲

わたしが編集者なら、この原作一文を読んだ瞬間に推敲をと原稿をお引き取り願っている。

* 小説という創作には、文章と主題思想との両面がある。読み物はべつの慰みもの、ここでは何も云わないが、最近の文学、あまりにも文章を涜し切っていないか。すぐれた主題や思想を優れた文章で書けてこその藝術であり文化なのではないか。駆け出しの素人よりも程度のワルイ上のような小説の書き出しが、大出版社から堂々本になって出てくる。こわいことだ、おそろしいと思う。
名編集長でもあった久英さんが、ある女性の書き手から「助言」を熱心に求めている場に居合わせ、何と云われるかと聞いていた。「文体を」 それだけだった。それで充分分かった。作家にとって文体は指紋以上の源泉である。
上の著名な大作家は、どんな優れた文体の持ち主であるのか。上の漢字ではあまりに文品、お粗末ではないか。

* このような場所で「私語」を走り書きしているのと、作家が小説を世に出すのとは、やはり問題がちがう。すくなくもわたしは作家として創作を本にして出すときは、推敲に推敲を重ね自分の文章・文体を磨きにかけている。当然ではないか。

* ちょっと必要あって書き取っておく。「チャタレイ裁判以来、刑法一七五条にふれる「わいせつ」とは、① 徒に性欲を興奮または刺激せしめ、 ② 普通人の正常な性的羞恥心を害し、 ③ 善良な性的道義観念に反するもの  を謂うのであり、藝術作品だからといって、基本的にこの規定を免れはしない」とか。(今夕、東京新聞夕刊「大波小波」)
わたしが今にも書き上げそうな長編『ある寓話 ないしワイセツという無意味』が、どうなるか。①の「徒に」の意図はない。②の「普通人」「正常な」はあまりに曖昧、年齢・性別・環境・体験により到底一律に規定できない。 ③の、「善良な」とは何を指さして謂えるのか、「不良な性的道義観念」も在るというのか。「道義」とは何か。だれが道義と認めるのか。
ま、そんな疑念をもっていて、たから「ワイセツという無意味」とわたしは認めている。地位の高下とも教育の高下とも収入の高下とも趣味や美観の質とも、ワイセツは無関係で、ワイセツそのことは誰しもにひとしなみ等質に働いている。
2015 5・13 162

* 昨日も今日も「選集⑥」への佳いお手紙をたくさん戴いているが、今夜は、まだ作業を続けたいので、メールだけを。

☆ みづうみ、お元気ですか。
選集第六巻頂戴しました。こんな光栄なこと、人生でめったに経験できるものではありません。ありがとうございました。今回のご本について、自分の感想をまとめるのに時間がかかってしまいました。
今回の配本の中で、今までその存在すら知らず未読であった笠原伸夫氏の、「秦恒平における美の原質」に感動、興奮してしまいました。わたくしの読みたかったのはこのような「秦恒平論」なのです。優れた文藝評論だけがなし得ることですが、秦恒平について、「祇園の子」についてだけでなく、わたくし、自分自身についても目を開かれた思いです。
「京都的なもの」「血の昏さ」というキーワードを見つけて、ずっと探していた言葉を見つけたと思いました。
みづうみの作品における「魂の血族」とは、「魂のエロス」を「滴らせる」「京都的なもの」の結実する「女人像」という笠原氏の指摘部分(わたくしの解釈ですが)は、わたくしにみづうみの謎をとく鍵の一つを教えてくれたようです。
祇園甲部と乙部の違いは「祇園の子」を読まなければ、わたくしのような江戸っ子は生涯知らずにすませていたことで、最初に読んだときにはなんともむごい実態に衝撃を受けました。悪意がなくても、無知というのは罪深いものです。たとえばハンブルグのレーパーバーンなどと違って、表面の舞妓さんの華やぎに隠されているだけに、祇園の陰湿な商売はやりきれないと思いました。世界中、どこでもどの時代にも存在する性の搾取と差別の構図で、いつ「祇園の子」を読んでもわたくしは涙を禁じ得ません。自分が菊子の立場にいなかったことは偶然の幸運にすぎないのですから。
菊子を書かずにはいられなかったところに、秦恒平の「原点の京都」があると思います。『初恋』のヒロインに対するものと同様に、被差別の側への深い共感、差別する側にいることへの呵責が、秦恒平文学の血の色です。
みづうみが美空ひばりを大好きな理由も「祇園の子」菊子に対するものと根が同じではと感じました。
正直に申し上げると、私は美空ひばりを好みません。天才だと思いますし、テレビやラジオから流れてくるその歌に、うまいなあと思わず聴き惚れるのですが、自分から触れようと思わないのです。どこがどう好きになれないのか説明が難しいのですが、それは「演歌」に対するある種の嫌悪感です。彼女の演歌は、日本のどうしようもない暗部なのです。日本の「血の昏さ」を感じるのです。山口百恵がどうにも苦手だったのも同じ理由によるものでしょう。美空ひばりも山口百恵も、「菊子の系譜にいる女」です。きれいごとの裏側で、被差別の側に生き、泥水を飲んできた女です。

ある高名な仏文学者が、留学から帰国して下船した瞬間、美空ひばりの歌が聴こえてきて、「ああ日本に戻りたくない」と痛切に思ったと述懐していましたが、自分のことのようにわたくしには理解できます。日本人の血にしみこんだ昏さが陰々滅々と美空ひばりの「演歌」に流れているような気がしてなりません。たとえ明るい歌を歌っていてもジャズを歌っていてもそれを感じてしまうのです。美空ひばりが悪いのではなく、美空ひばりにあのように歌わせてしまう「日本的な何か」に、耐えられないものを感じるのです。それは後ろめたさのようなものともいえます。

みづうみの「魂の血族」になる資格のようなものが、もしあるとしたら、菊子や美空ひばりと同類でなければならないと思います。彼女たちの性根のすわった、命がけのさまは、到底ひ弱なインテリ女もどきのわたくしの力の及ぶところではありません。フラメンコやタンゴのほんものの名手を観て、その全身から発せられる強烈な性と生に圧倒される感じと似ています。

みづうみのヒロインの中で、わたくしに一番近しいヒロインは、おこがましくも厚かましくも申し上げれば、『あやつり春風馬堤曲』の「浦島朋子」でしょう。
『秋萩帖』は、秦恒平作品の中で、一番読みこなすのが難しい作品です。わたくしは未だ充分読みこなせていないのです。再挑戦の良い機会で、今度こそ「読める」ようにと願っています。
『生きたかりしに』については是非一度に三冊いただきたいのですが、それはご無理でしょうね。読者のわがままにつきあっていたらみづうみの身がもちません。
昨夜の私語のご様子で、心配しています。どうぞどうぞお大事に。今日も明日も明後日も、毎日をお身体をお楽に、お心を少しでも楽しくお過ごしくださいますように。    漆   花漆こまごまと咲き日にけぶる  上村占魚
* ありがたい、メール。こういうメールは、研究者からもめったには貰えない。いい読者はありがたいし嬉しい。書き手冥利に尽きて、頬を熱くする。
ことに「漆」さんの美空ひばりへの言及は、しっかり胸に届いておのづと「私」をも論じてくれている。こういうひばり観を私はなんら拒絶しないし、先行理解の範囲内であり、「それでも」と踏み込んできた私自身の弱者を思い強者を悪んできた歴史がある。上田秋成の境涯に自身を想い寄せながら、ついについに『生きたかりしに』を書き上げたのもその底意からだ。出来のよろしさも願うは当然ながら、その前か先かに人生苦汁の自問自答があったし、生みの母にも、兄恒彦にもあったに違いない。
今日も妻と往来の車中で話していたのだが、「母」のことは書いてやりたかったし、身近に読んで欲しい人達も、母方、父方に数多い。が、「父」のことは、どうも書きにくい、書きたくもなく書いては父に気の毒という気がある、と。
それにしても、『生きたかりしに』では、私の「秋成葛藤」がどう「小説」として現れているかに自身興味を持って読者の批判を願っている。そもそもは講談社から「秋成」を書き下ろしでという依頼があった。依頼の意図にはおもしろい時代小説をという希望があった、が、私には、それが苦手、というより時代読み物は書きたくなかった。さあ、どう書こうとたゆたっているうち、井上靖さんに誘って戴いた中国旅行がとびこみ、「華厳」のような自負と自愛の作は成ったけれど、「秋成」主役の長編は飛沫をあげて消散した。『生きたかりしに』へ化けていったのである。
2015 5・20 162

* 朝一番に、銀行から、選集⑥と湖の本124との支払い送金を終えてきた。二つが一気に来て金額が張ったが、張ろうが張るまいが、見返りの収入はゼロなので、出来るだけを出来る間は続けるというだけのハナシ。自然とお金が無くなるか命が無くなるか、うまくバランスしてくれるだけを希望している。
日盛りながら暑くもなく、行きは駅まで市の花バスで。帰りは妻と歩いて帰った。銀行での支払い事務は、用紙への書き込みなどが煩雑で、こっちは数字も見にくい視力なので、妻に付き合ってもらわねば出来ない、情けないが。
2015 5・22 162

* 「選集 第九巻」を編成して原稿を読んでいるが、掌篇小説集や短篇小説小説集とは別に前半と後半に自愛の独立した短編小説を各三作用意している。
とりわけて、「加賀少納言」。
日本の作家のだれ一人、源氏物語を数次現代語訳した谷崎潤一郎でもこんな紫式部を書いてはくれなかった。どう見わたしてもこう書ける作家は、過去にも今日にも一人もいない、過去でいえばもしかしたら上田秋成が書いた書けたかもしれない。「太陽」に発表し、この「加賀少納言」をはっきり評価してくれたのは誰あろうロシアの文学者たちであった。わたしの小説で唯一外国語、ロシア語に飜訳されているのが「加賀少納言」なのである。この小説は、あれほど汗牛充棟ただならぬ源氏物語研究で、この小説以前に「加賀少納言」という未知の名前に解答を与えた学者も一人もいなかったし、今も、学者からの解答は出ていないのではないかと思う。
この「加賀少納言」は、紫式部集 つまり彼女が自選した家集の掉尾を飾る歌の読み手なのである、が、本来、家集の最後の歌は、歌人本人の述懐歌か、よほど世に知られた大家または名家の作で結ぶのが「習い」だった。紫式部ほどの人の家集なら当然そうあるべきに、そうではなかった。「加賀少納言」 これは今もなお研究者世界で実在が確認されていない人物なのである。男とも女とも、明瞭でないが、女であろう。
わたしの小説「加賀少納言」は、わたしの最も自愛、最も自信の短篇作品として選集⑨を飾りたいと自負している。はっきり、それを書きのこしておく。古典や文学をこころから愛し愛読している「いい読者」に心から捧げたい。

* 同じ、「選集⑨」では、後半の「於菊」、前半の「月の定家」も、「加賀少納言」なみに愛読されたいと願っている。
2015 5・22 162

* 「月の定家」(しゆんぜい さいぎやう さだいへ)を読み終えた。わたしの和歌観である。わたし自身に気概の在った頃の作だと思われた。
ついで短編集の「修羅」を読み直す、初めて読むほどの感慨がある。
2015 5・23 162

* ぐるうーっと遠回りして、漱石や芥川のことから、「これは平の宗盛なり」なんぞと名乗って出る能の「熊谷」の道行きについてまわりながら清水坂の物語へ誘い込む算段、わたし自身がおもしろがってどんどん運ぶにもなかなかシンドイ成り行きの不思議さ怪しさで。読み返しながら、この新作のロマン、どこへ漂流して帰港できるのだろうかと、不思議がっている。
また「八重垣つくる」「衛士の焚く火の」「おののしのはら」「わが身よにふる」などと続いて行く苛烈な「ワイセツ」の物語も、どう鉾をおさめるのか、そもそ発表できるのか、死ぬる日までわれ一人で読み書きを愉しんで、あとは野となれと放り投げてオサラバするか。今日は、そんなことを考えていた。明日も明後日も考えます。
2015 5・23 162

* 趣向の短編集『修羅』の十二篇を読み始めた。何が出るやらホイと美術品を見せられた印象と刺激を能楽の題にからめて現代ものの短篇小説をという依頼だった、身を乗り出して、楽しんで書いた。書きながら泥も吐いていた。いま、読み直していて、ほかの人は知らない、わたしはホクホクと面白く懐かしく、はやく選集⑨のゲラで校正したいなとそぞろ気が急いてすらいる。
妻はいつも言う、あなたって幸せな人ねと。わたしは一つの覚悟としても、まだまだ、まだまだ足りない、努力も勉強も技も足りないなんて気張ったことは言わない。思わない。ウソクサイ。出来たモノは出来たモノなりに精一杯に身贔屓もし喜んでもやり愉しませてもらう。そもそも書き殴ってやっ付けた仕事など一つとしてしていないと思っている、それこそがわたしの義務・責任・働きだと思っているからだ。
2015 5・24 162

* 『修羅』一日かけて半分六篇を読んだ。「神歌」「三輪」「八島」「小督」「海人」そしていま読み終えた「山姥」が凄かった。いやいや、みな、わたしの滅多に使わない批評語の「凄い」「怕い」淵の深みを美しく書いている。「選集」第九巻 楽しみになってきた。
2015 5・24 162

☆ 前略 ご免下さい。
ご恵投に与りました「生きたかりしに( 上) 」 本日拝読し終えました。
秦様のアイデンティティを探す旅、興味深く存じましたが、まだ様々な伏線をはりめぐらせているという段階で、重要な事実は中、下によって明らかにされるのだろうと憶測しております。
私の父も 大倉喜七郎と芳町の芸者との間に生まれた子で 生後まもなく喜八郎夫人*子の実家**に養子に出されているだけに、今回の御作、まことに身近に感じております。 草々  恋ヶ窪  歌人

* 中巻へ、下巻へ転じていってたしかに驚かれるだろうと想いはする、が、言われている「伏線」とか手持ちのタネを「明かす」というようなことは、この私小説に関しては百パーセント無い。著者である私自身が何の推測も見当も持ち得ずに、ただもう一歩一歩脱線も覚悟で前へ歩いて歩いて見つけたり知ったり聞いたりしたことが、その時々に書き込まれている。時系列を正すことも、仕掛けをすることも、したくても殆ど不可能だった、何一つ出来なかった、であればこそ、私自身の「実感」として「事実は小説より奇」という気配のこの世にあり得ることにただ圧倒されたのだった。ただ、圧倒されっぱなしでなく、かなり冷静に普通の叙述を守った守ろうとしたのである。
2015 5・26 162

* 祇園の「辻」さんから、素晴らしい和菓子、京に咲く梅「おうすの里」を送って戴いた。「恋しくば尋ね来てみよかつらきや名柄の里のうらみ葛の葉」というたぶん即興の歌でわたしを名柄の里へ導いて下さった京大N名誉教授とはこの「辻」の止まり木にならんで盃を含んでいた。わたしの純然京ことばで書いた「余霞楼」という小説の題も、N先生の連載されていたエッセイの題からもじって頂戴したのだ。なつかしい、とても。

* 祇園北側の路地なかあちこちの店では、京都へ帰るつど、何人もの、当時既に高名を遂げられていた「先生」がたと止まり木に並んで酒を飲んだ、うまいものを食った。わたしは、これで生来人なつっこいタチで、特別ものおじもしないから、どんなえらい先生とでもすぐ話し合うようになった。わたしのしてきた、している仕事も多少は役に立ってくれた、こと歴史や文学や藝能や古美術に関してならわたしは聞きたい教わりたい質問がいっぱいいつも有ったし、おかしな文士だと笑っても貰えた。いまでも妻が言う、わたしも身に沁みておもうけれども、「いつでも、お年寄りに好かれる」のである。「売れないワケよ」とまでは言われないが、ま、そんなところだ。作家生活の大半をわたしは、太宰賞への招待を筆頭に、大先輩、先輩の作家や批評家や先生方に手をひいて表へ表へ引っ張り出してもらえた。わたしも、恥ずかしからぬ答案を提出する姿勢と気持ちとで手を抜いた仕事はしないで来れた。先生方に恥ずかしい仕事は見せられなかった。
2015 5・26 162

* 昨日『修羅』の十二篇を読みおえて、「鷺」へ。これがもうわたし以外の誰が書こうか、愉しむだろうかという濃艶な幻想境で、鏡花にもこの小説が抱き込んだ背景はとても手に入っていない。ぞおっとする凄みに美しいフラグメントがきらきらしていて、堪能した。まこと自分で書いて自分で愉しんだ物書きではあったと思わざるを得ない。誰にでも書けるようなものを書いていて何が楽しかろう。
今朝は「孫次郎」を読み始め、次いでは「於菊」へ。身辺雑記風の私小説が純文学めいて流行っていた頃、わたしはそんなサラリーマン小説など書きたくなかった。「蝶の皿」であり「清経入水」であり「秘色」だった。
2015 5・27 162

* 正午予約で、診察室から声のかかったのが午后二時。めずらしく校正ゲラが無く、「生きたかりしに」上巻を読み返してきた。生母の短歌を多く点綴して、わたしの歌もところどころに置いたのが、唱和ではないけれど呼び合っていて、ときどき胸を熱くした。また後半の七十頁に及ぶ大和路、近江路の旅を建日子と倶にしていたのも、子と父とのかけがえない懐かしい記録になっていて、この小説がただもう一途の探索で終わっていない余裕も見せていると、喜ばしい気がした。
幸い、検査データ、肝臓ほか全てに問題なく。次の診察は九月。
何一つ道草食わず、帰宅。暑さに草臥れるが、少し元気にもなっているか、と。
とはいえ、頸のまうしろから肩が重く痛む。やはり疲労と思う。すこし休む。
2015 5・27 162

* 短編小説こそ、おもしろくなくてはお話しにならない。と、思います。
2015 5・27 162

* キムタクと大の贔屓の上戸彩とが演じている「アイムホーム」を時折見ている。血縁家族のあいだの微妙な断絶を問題提起の断続の中にあらわしていて、わたしのように複雑に過ぎた幼少期をへて大人になってきたモノには、ややゆるくは有るけれど大方の人には見過ごされている微妙な危機的罅割れを上手くドラマへ持ち出している。
生みの母のことをひとまずは形にした。実の父のことには、手は掛けかけてはいるが、どうなるとも分からない。母の場合は大げさには名誉回復してあげたい気持ちが働いた。それだけ、わたしの内側に愛情ではない敬意が生まれていた。少なくもわたしが懸命に整理し得た母の短歌には、真摯なつよいリズムが息づいていて、強く肯くことにためらいがない。生きる短歌、うったえる「うた」としての短歌を母は死ぬる日まで胸の奥から噴き上げていた。けっして泣き言の歌なんかではなかった。
父の遺している文章や記録は大量にのぼるけれど、終始謂えることは、歎きと逃避と敗北のグチに近い。だれもが穏和で頭のいい坊っちゃんだったと教えてくれるが、敬意はくみ取れなくて、触れて行くのはかえって気の毒という気がしてしまう。

* 今度の上巻では、兄恒彦と息子の建日子を、それぞれに等身大に紹介できていたのではないか。母と兄とは「同志」的に近づいて行けた。わたしは、母を嫌い抜いた、たぶん血の疼きから。わたしは共産党じみはしなかったし火炎瓶とも無縁の少年。青年時代を過ごした。短歌と読書と茶の湯と少年らしい恋と。だから、その後の人生でわたしは闘えた。今でも秦さんは烈しく闘っていると見ている人が少なくない。ナニ、したいことをしたいようにしていて、それが出来るように努めているだけの話。この後のわたしに立ちふさがって来かねない問題は、一つだと思っている、即ち、死、自死。生母はおそらく自死したろう、それは兄恒彦の確信に近い推測でもあった。実の父も、と想われる。そして兄恒彦も自死した。あとを追わねばならぬ理由は何一つ無い。しかし先のことは分からない。

* ま、仕残しているしたい仕事の山登りをせっせと楽しもうと思う。みなさん、くれぐれも自愛せよと誡めて下さる。有り難い、が、したいことが有る、有るという生きる幸せを、大事にし満喫して生涯を終えたい。仕事に終わりはない。
2015 5・28 162

* ふと手を掛けた資料棚で手に触れたペーパーが、川端康成の掌小説の一編「心中」だった。妻も居たので、声に出して読んでみた。
川端といえば掌の小説は有名な一つの畑で、「心中」は、なかでも「絶頂の秀作」だという評判もあるらしいが、正直、全然感心できなかった。なにより文章がいけない、「だ」「のだ」と聞き苦しい押しつけが雑音のように繰り返されて効果なく、話そのものも、私の思いからはナニの発明も感興も刺激も呼び起こさない、頭でっかちに下手な計算づくでムリにつくったモノだった。ウソならウソにもっと見事に感動的に徹すればいい。あまりに、半端で、結果、ウソクサイだけ。こんなのが「絶頂」では他はどうなのと寒々しい。
2015 5・29 162

☆  まいにち暑いです
「生きたかりしに」、はじめから惹きこまれて、ほぼ一息に(上)を読みました。
あとは、とりとめのない感想です。
まわりの方々が、亡くなるまえに本にしておけば、ということを気にされていますが、今でよっかたと思います。
なにかのためのものでなくて、完全に一つの「作品」ですから。
テーマがはっきりしていて 読みやすかった。
53ページに、誤植。
36と71ページの、「がったり」という言葉がめづらしかった。
いつかもっと丁寧に、書こうと思いますが。
自死のことも。
とりとめのないことを、それでも、捕まえておきたい、と、たいへん。
おゆるしを。 柚

* 亡くなった兄は知り合った当初むしろ賛成でなかったが、わたし自身は、作家生活のハナから、よく読んで下さり、感想を持って育てて下さり、なんらか生涯に響き合うモノを感じて下さる読者を、血縁や俗縁を超えて心の「身内」と想い、親しく迎えてきた。血縁や俗縁には偶然がある。読者との縁には「作品」というよかれあしかれ命が在る。

* 「がったり」という物言いはわたしの辞書にもなかった、母の家集のアタマの、早い内に、「がったりしてはいけないよ」と言われ、しかし真実「がったりしている」という述懐があった。感じが伝わるので、わたしもつい一度どこかで用いたはず。
誤植の指摘はありがたい、が、著者自身でもなかなかそれが見つけられない。校正は怖いしごとである。

* 『親指のマリア』が、まろやかにスムーズに読みすすめられることにホッとしている。この京都新聞朝刊小説は、わたしの作の中ではむしろマットウな書き方に属しており、いわゆる著者・作者ないし準じた語り手が作中へ割り込んでいるいる形跡を持たない、つまり客観叙述に終始している。「小説」とはふつうこうであって、「或る折臂翁」「蝶の皿」「廬山」「閨秀」「墨牡丹」「マウドガリヤーヤナの旅」「華厳」なども私小説ふうの語り口からはっきり離れている。紫式部集に取材した『加賀少納言』、俊成・西行・定家を通して勅撰和歌・晴れの和歌を説いた『月の定家』また上田秋成の晩年を怪談にした『於菊』などもそうで、ま、手堅い書き方に属している。
語り口に「趣向」をもちこんでいっそ方法的な実験をわたしはもともと好んでおり、「清経入水」「秘色」「みごもりの湖」「風の奏で」「雲居寺跡」「冬祭り」その他多くは、たとえ人物や歴史や伝奇にふれても、手が込んでいる。「最上徳内」のような歴史の日本人を検証し顕彰て行く創作でも、わたし自身類を見ない実験を叙述にも表現にも展開にも推し進めている。
白石と徳内とはわたくしの近世理解・近代観測の太い軸芯を成しているつもりだが、その書き方は、はっきり意図して、客観叙述と主観趣向とを際だたせてみたのだった。しかもともに主題の核心部には人間性への合理的な愛と人間・弱者差別への憎しみとが置いてある。書いた順序は先後したが、白石のシドッチ審問こそは日本の近代への幕開きを告げており、徳内の蝦夷地での活躍や成果は近代へ向かう歴史のつよい推進力であった、二人とも、海の道を認識し世界の広さへ揺るがぬ視線を向けていたのである。
2015 5・30 162

* 『最上徳内』『親指のマリア』という、わたしにとって方法を全く異にした二大長編を思いこめて読み返している。まさしく私自身が心より読みたかった作を、自分自身で書き上げていたの。そういう機会を与えられた岩波書店「世界」と京都新聞社に感謝する。
そして、昭和四一年(一九六六)十一月十一日、それは「清経入水」で太宰賞受賞よりも、作家として文壇に迎え入れられたよりも二年半も以前に起稿し、原稿用紙百五十四枚で断念中絶の『< 原稿> 雲居寺跡』も読み返しているが、かえすがえすも惜しい中絶だった、希望をもち根気よく想像力とともに書き継いでいたなら、少なくも「何か」に、後の『風の奏で』とは異なる長編小説に成っていた。成らずじまいにしておいて良かったのだという納得も実は深いが、この苦悶と残念とがあってこそ、『清経入水』もその後も在りえたには万々相違ない。
この未発表中断作、ぜひ公表して欲しいと馬渡憲三郎さん(藝術至上主義文藝学会会長)に奨めて戴いている。すでに『清経入水』や『風の奏で』を懇切に論じてくれている原善君にもこの原資料である<原稿>を呈上してもいいと思っている。もとより「作家以前」の懸命の、しかも思い入れも過ぎたる試作ではあるけれど、出る「芽」は出始めていたのではないか。

* と胸をつかれるほど『原稿・雲居寺跡』は奇っ怪にものがたりを奥の暗闇へまで進めていた、わたしは皆目記憶していなかった。しかし、いかにもわたしの書き起こしそうな場所へ場所へとはなしは運ばれていた。
心底、いま、驚いている。まだもう少しくは費やした用紙原稿の残りが在る。久しいわたしの読者は、喜んでくださるかも知れない。

* 予期していたよりも踏み込んだところまで「原稿・雲居寺跡」は書けていた。湖の本にいれて中編、優に七十頁ほどはある。あまりにもしどけない中断ではなく、その先が朧にも読み取れなくはない、が、だから書き継ぐということも、作の「気合い」からして自然ではないだろう。あえて謂うなら、總緒の纏まりすらかんじとれるところまで書けていた。なぜアトが継げなかったか、当時の私には荷が重くなったのであろう。
妻が読みにくい原稿から、昔むかしのようにとにかくも電子化してくれて、まことに有り難かった。それなりにこれは大事な一記念作に相違なく、「生きたかりしに」に次いで、大きな儲けものになった。

* こういう仕事が、実を言うと、まだ幾つも、それも作として嵩のある書き置きものがまだ幾つも見つかっている。しかし、原稿用紙へ手書きの儘では、またノートブックへ書き置いた儘ではニッチもサッチも行かない。

* さて。これからは、徳内サンと白石先生・シドッチ神父とのお付き合いが当分続く。ありがたい、間違いのない「身内」である。
2015 5・31 162

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