ぜんぶ秦恒平文学の話

2000年~2002年

e-文庫 電子文藝館

* このホームページでの、「e-magazine湖=umi」の刊行に希望をもっている。わたしの読者にはすぐれた力をもった人がいっぱいいるのを、幸い、よく識っている。残念ながらまだインタネットの使えない人の方が多いけれど、使える人も増えている。原稿料は払えないけれど、幸いこのホームページには「いい読者」がかなり集まっていて批評の水準は高い。そういう人たちからの思い思いのエッセイや論考や詩歌や書簡やまた創作を、むろん署名入りを原則に、各欄ファイルを分けて編集・積み上げて行ければ、電子時代にさきがけて、意義を生じるかも知れない。「湖= umiの本」のわたしだから可能かも知れず、どうか、原稿を依頼したら表現を試みてくれますように。むろん、率先寄稿して貰うのも歓迎ですが、「編輯者」である「秦恒平」の「取捨」にはしたがっていただく。それが、わたしの「責任」になる。さ、どうなるか、まずは、そういう頁を新たにホームページに設定しなければ始まらない。
2000 9・25 7

それよりもわたしは、ホームページで編集する気の、「e-magazine湖=umi」を発足させるのが楽しみだ。甥や息子の原稿も欲しいが。
2000 9・27 7

* 成功するかどうかは分からない、「e-時代」にさきがけた「e-magazine湖=umi」の成り行きが気になる。こういうことを基本的に考えている。
「このページを、広く提供します。但し、文学・文藝としてここに公表して良しと編集者・秦恒平がほぼ信頼と責任の持てるレベルの、創作・エッセイ・研究・批評等を、ページを分けて、積み重ねるように収録し続けて行きます。連載ものも、可。編集権は行使し、原稿料・掲載料は、一切、無。掲載原稿に何の装飾も付けません。そのかわりこのホームページでは、プロの作家・批評家・編集者また学者・藝術家を含めて、「優れた佳い読者」が期待できます。寄稿は、電子メールまたはCD-ROM でお送り下さい。編集者からの注文等は電子メールで致します。」と。
性急な結果は期待していない。永い目で見守り、いつ知れず、豊かな内容の文藝・文章が集まっている、というふうでありたいと。さ、どうなるか。
2000 10・12 7

* e-magazine湖(umi) の、第八頁を「旅」の頁とした。また「電子書簡往来」の頁にも、中村扇雀丈への礼信を入れた。いろいろに満たして行きたく、いまは「見本」輯の時期である。
2000 10・17 7

*  e-magazine湖(umi)=秦恒平編輯

これは、在来の雑誌の常識を超えた、作家秦恒平の責任編輯による、広範囲な「文学・文藝サロン」です。小説・詩歌・エッセイ・批評・研究・紀行・論争、長短を問わず、ジャンルごとに自立の頁に、原稿を配列して行きます。ファイルが満杯になれば拡充しますが、また MOディスクにバックナンバーとして保管し、希望が有れば、頁に戻したり希望の読者に電送します。

しばらくは、寄稿をまちながら実質を築いて行き、やがて、この雑誌独自の表紙と目次・索引を設けて行きます。
寄稿は、原則として何方も自由です。秦恒平のホームページ内に「入れ子」に設定された文学・文藝の「場」として、利用し活用して下さい。掲載料もとりません、読者に接続課金もしません、原稿料も一切支払いません。我がホームページの一郭を進んで「文学表現」の場として提供します、活用して下されば幸いです。但し、質・量・表現にかかわる取捨の自由は編集権者の秦恒平にあり、不可とみたものは、掲載しません。
寄稿には、秦恒平宛て電子メール「FZJ03256@nifty.ne.jp」をご利用下さい。

「湖」と名づけた原像は、少々古いのですが、幼年の昔に、供え物のための蓮の葉に散った露の玉が、たちまち一つの湖をなしたあの清さと美しさの記憶です。この「e-湖」は、広くはならなくてもいい、深くありたい。

こういう「e-文藝」の「場」が、世間でも、これから次々に生まれてくると思います。この「e- magazine湖(umi)」は、理念としても実践としても、魁の意義をもつでしょう。電子メディアを場にして生まれくべき新世紀の若々しい文学・文藝のためには、こういう、きちっとした「場」が必要です。落書きに過ぎない野放しの垂れ流しの文章が、いくら無数の「掲示板」に満載されても、「文学・文藝」の表現にいい土壌を培っているとは言えません。

幸いこのホームページのビジターには、作家・芸術家・編集者・研究者・学者・教師・大学生そして「湖の本」の読者たちが、つまり優れた読み手も書き手もが、相当数含まれています。「e-湖」は、そういう「いい読者」にはじめから恵まれているとも言えなくはなく、これは大きなメリットです。編輯者自身も、かなりウルサイ読み手です。逆にいえば、寄稿者に恥はかかせないつもりでいます。

原則として秦恒平は、ここには書かないつもりですが、各頁の形と実質を整えるまでは、適宜に原稿を入れて行きます。また心親しい書き手の方たちにも、当分の間、原稿を頂戴したいとお願いに上がるつもりでいます。ご支援下さいますよう。

* ご吹聴・ご紹介、それよりも寄稿参加願えれば幸いです。
2000 10・23 7

* 第一番の寄稿が「e-agazine湖(umi)」に届いた。常陸筑波にお住まいの歌人和泉鮎子さんの文学エッセイ「『源氏物語』の常陸」で、惹き込まれて読んだ。丁寧に懇切に書かれていて、洩れのない把握である。わたしなども、以前からもやもやとしてこの「常陸」を思ってきた。源氏を読んできた大勢がそうだろう、和泉さんはそれを美しく語られ、もやもやを整理して下さった。記念の第一寄稿が気持ちの佳い文章であって、嬉しい。
引き続いて、寄稿のあるのを心待ちしたい。
2000 10・24 7

* E-MAGAZINEをメールで諸方に報せた。矢は弦を放れた。どこまで飛べるか、だ。言うまでもない、これは、わたしの、いろんな意味で、一部分。
2000 10・28 7

* 娘の朝日子は、昭和六十年より以前に、手作りの、奥付をさえ持たない、そんなことへ気も行かないような質素な私家版を二冊創っていた。わが娘である。その創刊の一冊を「e-magazine湖(umi)」の最初のファイルに積み重ねた。今夜一晩かけてワープロ版からスキャンし、丁寧に読み返し読み返し、校正した。贔屓目でなく、娘には文章のセンスがあった。さりげなく自然に清明に書ける力があった。いつも、わたしはそれを褒めてやりながら、自発的に「書く」よう期待していた。書けば、書けたのに、続けなかった。またいつか書き出すのだろうか。わたしがそれを読んでやる機会があるのだろうか。
湖に載せた作品は、尋常な題材であるが、よく書いていると思った。よく書いて置いてくれたと、少し、泣いた。こういうかたちで公表されることを今の朝日子は好まないかもしれないが、幸せに穏やかな親子四人のいた日々を思い出し、心しおれながら、いいものを読んだ嬉しさをいま反芻している。読んでやっていただきたい。二十三か四歳ごろの作である。

* 「湖=umi」に反響が届き始めた。一つ、手早く此処でもぜひ紹介したい。千葉の勝田貞夫さんが、わたしの本のスキャン原稿をどっさり添えて、送って下さった。脱帽ものの秀逸で、こういう真似はちょっとやそっとでは出来ない。

* 玄奘三蔵訳「摩訶般若波羅密多心経」 そのまた勝田貞夫訳?

この世を見渡す観音さまは どしたらいいかと修行をされた この世はすべて空だと見抜き 一切の苦厄をのり越えられた
これおまえ ものみな空にほかならず 空がものに他ならない 形あるもの即ち空 空が即ち色なのだ ひとの心のはたらきも これまた同じく空である よいかおまえ あらゆるものが空なのだから 生もなければ滅もない 空のこころにものなどなく 喜び悲しみ欲分別も 目鼻手足も心もなく 姿形も想いも無い 見るもの聞くもの十八界も 心の奥まで無に等しい 三世の因縁や迷いもないが 迷いがなくなるわけではない ほれあの猫は老死を悩まぬが 老死がなくなるわけではない 苦もその元もそれから逃れる道などもない 人の知恵など悟りが何だ 取るには足らぬものなのだ
菩薩さまは そこんところがよくおわかりだから 心にわだかまりがない わだかまりがないから 恐れもないし 考えちがいも邪念もなく こころが安らぎ涅槃におられるのだ 三世の仏さまも ここんところを身につけなさり 正しい悟りを得られたのだ だから般若波羅密多は 計り知れない言葉だし あまねく照らす言葉だし この上もない言葉だし 比ぶべきない言葉だし 必ずかならず苦しみをとる 真実うそではないのだぞ そこで言葉を教えよう
即ちその言葉とは ガテー ガテー パーラガテー パラサンガテー ボーディー スヴァー ハー

* こんなのが、対象になるのかどうかわかりません。「文藝」にはほど遠い私にまで、「e-magazine湖 (umi)」のお誘いを戴き、ほんとに恐縮の極みです。以下言い訳け:実は、煎餅屋の母が仕事を止め、90才で亡くなるまでに、7万巻(枚)余の「般若心経」をせっせと書いていました。実家へ行った時、私も一枚書いてやると、とても喜んでいました。帰り道、小学生だった娘に「おばあちゃんは、わかって書いているのかしら?」と聞かれました。「ありがたいと思って書いているのだから、いいのさ。」と答えて、その場は逃げたのですが、何か、うしろめたさが残っていました。小学卆の両親に、上の学校まで出して貰ったのだから、何とかしなければと思い、訳してみました。母に見せたら、「ふーん」と言っただけでした。その、お袋のお経は、2万巻たまると、好きなお寺に納めていました。芝の増上寺、那智山青岸渡寺などに今でも小さな碑が建っています。(筈です。)
「エ4茶ノ道スタルベシ.txt 」「エ5京言葉と女文化・京のわる口.txt」「猿の遠景.txt」「なよたけのかぐやひめ.txt」お送りします。うまく着きますように。
どんどん寒くなって来ます。お大事にしてください。勝田貞夫

* 嬉しくなって眠さもとんでしまう。囀雀さんからも、いいメールが来ていた。雀さんで嬉しいと言えば、雀躍(こおどり)したい喜びは、布谷智君からまた改善改良のプランが届いた。これは明日の楽しみにしよう、今夜はもう休もう。二時になる。
2000 10・28 7

* 「e-湖(umi)」へ、もう二十通もメールが入っている。講談社の「Web現代」編集長の元木さんからも。感謝。まだ、メールでしか挨拶はしていない。郵便でも、と、思うし、やがて冊子版「湖の本」でも。
栃木の友人からも。

* 志のあるメールをいただき有り難うございました。執筆締め切りに追われて疲れている頭に、清々しさが戻ったようです。

> この「e-湖」は、広くはならなくてもいい、深くありたい。
> こういう「e-文藝」の「場」が、世間でも、これから次々に生まれてくると思います。この「e- magazine湖(umi)」は、理念としても実践としても、魁の意義をもつでしょう。電子メディアを場にして生まれくべき新世紀の若々しい文学・文藝のためには、こういう、きちっとした「場」が必要です。落書きに過ぎない野放しの垂れ流しの文章が、いくら無数の「掲示板」に満載されても、「文学・文藝」の表現にいい土壌を培っているとは言えません。わたしが名伯楽であれるとは思っていませんが。
幸いこのホームページのビジターには、作家・芸術家・編集者・研究者・学者・教師・大学生そして「湖の本」の読者たちが、つまり優れた読み手も書き手もが、相当数含まれています。「e-湖」は、そういう「いい読者」にはじめから恵まれているとも言えなくはなく、これは大きなメリットです。編輯者自身も、かなりウルサイ読み手です。逆にいえば、寄稿者に少なくも恥はかかせないつもりでいます。

本当にそうですね。現在はほとんど発信だけで、鍛え合う「場」が無きに等しいと思います。その意味でまさに魁でしょう。是非とも表現をめざして「寄稿して修行させていただこう」と考えます。
確かに優れた読み手と書き手の方々が含まれているでしょうから、できれば、「恥をかいてもいいから鍛えてもらえる」というレベルのディレクトリがあって欲しいとも思いますが・・・欲張りですね。
とりあえずは読むことの楽しみがひとつ増えたことを喜んでいます。

* 千葉の高田欣一氏からは、直哉についても。嬉しい。

* 電子雑誌への案内、有難うございました。(略)
阿川弘之「志賀直哉」は読まれましたか?まだでしたら、差し上げるわけには行きませんが、お貸しすることはできます。おついでのときにお返し願えれば結構です。
最近、戦後の志賀直哉についてもう一遍読み直す必要が起き、下巻だけまた卆読しました。阿川さんのお仕事はすべてそうなのですが、トリビアルなことを積み重ねてゆく書き方にいいものがあります。海軍提督ものでさえそうなのですが、「志賀直哉」は特にその傾向が強い。近代文学研究家には貴重な資料でしょう。ただし、志賀直哉という独特の大きなスケールの人間の全体像を捉えるにはどうでしょうか。
私見では、(直哉は)作品より人間のスケールの方がはるかに大きかった人という印象を受けます。外国人でいえば、ポール・ヴァレリーのような人。資質は大分違うが。
秦さんと違って、私は志賀直哉で文学に目覚めました。高校1年生の三省堂の国語教科書で「城の崎にて」を読み、友人の古屋健三の書棚から借りてきた新潮文庫で、随筆「リズム」と、「大山」という題で載っていた「暗夜行路」の最後の部分を読み、小説のおもしろさを知りました。
高校を卒業してしばらく勤めているときに、「懸崖」という詩集を持っている菱山修三という詩人に、あるフランス語の講座で、ジッドの小説を習い、そのとき菱山さんが日本の小説の話をして、日本の小説は、夏目漱石からまったく進歩していない、ということを志賀さんを例に話すのをきいて、あるショックを受けたことがあります。
阿川さんの本に、誰かの言として、志賀直哉の小説は、絵でなく、書として読めばよい、というのがあり、なるほどと思いました。
私は、これまでの諸家の評価では、「もうあがってしまった」作家のものとして評価される「暗夜行路」以降のものが好きです。「馬と木賊」という文章など、あの短い枚数でよくあれだけのものが書けるなと感心してしまいます。戦後のものでは「鈴木貫太郎」という文章が好きです。最近、阿川さんの講演を聴いて大変おもしろかったので、お礼の手紙かたがた、なぜあなたは「米内光政」のあと、「鈴木貫太郎」に行かないで、「井上成美」へ行ってしまったのか、という無礼な質問をしておきました。
志賀直哉という人物を、そのあとの世代に及ぼした絶大な影響と共に、これからの文藝の人は極めるべきだ、そうしないと日本の文藝の衰亡は救えない、編集者はそういう企画を建てるべきだ。そのために「私小説特集」をやれと、私は或る編集者に書きました。やるつもりだ、という言質を得ています。
「文藝批評家」が「文藝批評家」になっていない、というご説、同感です。「文藝」がわかるとかわからないではなく、批評家として一番大事なプリンシプルがないような気がします。そのことに尽きると思っています。
長々と書きました。
御闘病大変だと思いますが、がんばってください。食事と運動、これだけだと思います。私は43歳から50歳まで苦しみ、なんとか拡大をくいとめました。いまは血糖値110以下です。
あわせてご健筆を。阿川さんの本は、御必要ならばメールでご連絡下さい。高田欣一
* 高田欣一様
先日の「通信」が、ことにいい文章で、いい内容で、それについてと思っているうちに、どうっと新しい仕事の方へ駆けだしていて、逸機。ごめんなさい。
いま、「昭和初年の谷崎」の旧稿をホームページに書き込んでいますが、その冒頭にありますように、大学入学の面接で、感化を受けた作品はと問われて、わたしは谷崎でなく、志賀直哉の「暗夜行路」とトルストイの「復活」を挙げています。気持ちにウソはありませんでした。
このところ、直哉の全集を克明に読んで読んで、「私語の刻」にはずいぶん直哉について書いてきました。中村光夫の直哉論は、出た当時に読んでいて、最近読み直し、できれば、少なくも阿川さんの直哉像には触れたいなと切望しつつ入手していませんでした。御厚意ありがとう存じます。ただ、わたしは鉛筆片手の読書家ですので、ご本を汚しては申し訳なく、どこかで見つけます。本屋さんに行かないもので。
申し訳有りませんが、いただいたメールを、ぜひ転載させて下さいませんか、ホームページに。私が私蔵するだけでは惜しいものです。また、過去の「通信」から幾つか頂戴できればいいなと思っています。高田さんの文章を、また少しちがう方面へ送り出せるかと。
冷えてきました。お大切に。わたしの血糖値は、三度三度のインシュリンに助けられてのことですが、100前後に安定し、体重も落とし、以前よりずっと健康です。医者がほめてくれます。インシュリンの量を減らそうかと云われています。
2000 10・29 7

* 朝日子の「ねこ」を褒めてくれるペンの友人のメールも来ていた。ゆうべ、娘の置いていった「回転体の詩」の二輯を読んでみた。初読であった。拙い詩集であったが、数あつめてあったので、全体から来る情感は汲み取りやすかった。ま、最初の出産を体験したうら若い母親なら、だれしも内心に抱いた思いかも知れない。だが、それを言葉に置くのはやはり力業である。ある限られた時機にこういうものをこう書き置いたことは、やはり尊いことだと思い、大袈裟な親ばかに照れながら、すこし涙をこぼした。
これも、記録して置いてやりたいと思った。
2000 10・30 7

* マスコミがもう「e-m湖」をとらえはじめた。新聞記事が知らされてきた。アクセスが増えている。

* 朝日子の「詩集 小さい子よ=回転体の詩 2」を、すべて「e-m湖」の一頁に書き込んだ。スキャンでは、かえって手間がかかるので、一つ一つ自分の手で書き込んだ。娘と孫娘とのそばにいて、体温も息づかいも感じられた。
2000 10・30 7

* 高校三年生の藤田理史君が送ってくれた一文を「創作」として読んでみた。こういう話材は、世間には山ほどある。その意味では本人の思うほど珍しいことではないのだが、それを、どのように「書ける」か、とりあえずは、内なる言葉がどう流れ出るか、が、読みどころになる。
2000 10・31 7

* その松子夫人の格別のお世話でサントリー美術館に就職したこともある娘の、「パリ」の日々を、若い母の視角で少し風変わりに切り取ってみせた一文「ジャン・ムーラン公園に革命二百年の風が吹く」(雑誌「思想の科学」1989.11所収)を「e-m湖」の第一欄に書き込んだ。この調子でいろいろと書いていたらと親ばかは思う。
2000 11・1 7

* 各務原市の詩人山中以都子さんの「詩」五編が戴けた。「詩歌」の頁(7 頁)を、真っ先に、この心したしい人の詩で飾れたのが嬉しい。ありがとう。
詩の書き込みは難しい。わたしの不手際でへんな組み方になっていないかと、読者方の器械との折り合いも心配している。不慣れなことをなにもかも自前でやっているので、変なところは厳しくご注意を願いたい。
2000 11・1 7

* これまでもあったし、「e-m湖」ではもっと苦情が出るだろう一つは、一頁への収録量・収録編数が多くて、めざす作品へスクロールするのが大変だと。それは、分かる。かといって、作品ごとにクリックすれば飛び出すような工夫はわたしには出来っこないし、それに考えようでは、今のままにも大きなメリットがあるのではないか。スクロールも大変だろうが、そのかわり、オフラインにしてしまっても、その厖大量のファィル (頁)分は読めるのだし、必要ならまとめてプリントも、ダウンロードも出来る。わたしのホームページやマガジンの場合は、このメリットの方が遙に大きいのではと思うことにしている。寛恕ねがいたい。
2000 11・3 7

* 姪の北澤街子が十八でメルボルンに留学し、三十三回、三年近くも「思想の科学」にオーストラリア物語を連載していた。朝日子の「ジャン・ムーラン」が載った号にはその第七回が掲載されていたが、後に新宿書房で単行本『メルボルンの黒い髪』になったときは、300 頁にちかい堂々たるものが出来た。清明な文章のセンスは兄の黒川創を凌がんばかりで、贔屓目なく、いい呼吸であった。街子から、アタマの辺を採ってくれてかまわないと、兄黒川を経て連絡があった。
旅の出だしのところというのは、或る型につきやすく、そのぶん尋常に成りやすい。街子の本も抜群なのは向こうでの暮らしの日々なのだが、ま、単行本のおいしいところを抜いては気の毒なので、アタマ二章とオワリと、あとがきとを貰うことにして、スキャンした。
2000 11・3 7

* 予定していたというのも言い過ぎだが、ごく自然の勢いで、「e-m湖umi」の第一頁は、「亡き父母たちと兄姉たちに捧げ」たいと思った。少なくも実父と生母は、縁薄くはなればなれに生い立った兄とわたしとの佳い再会を、それぞれの場所からいつも熱望してきた。わたしは冷淡だったが。
だが兄と出逢い、兄の子供たちとも出逢った。短歌をつくり文章を書き、あわや共産党に推されて戦後最初の統一選挙候補に押し上げられようとまでした母が生きていたら、孫たちの仕事にさぞ目を細めたことであろう。可能なら甥二人の文章をもらい、また亡兄の文章も著作権継承者からもらい、そして息子の戯曲を一つ二つおさめて、泉下の霊に感謝して酬いたい。ま、感傷に類するが、いいではないか。
ま、わたしの気ままな願いでしかなく、黒川にはそういう場所には出したくないと言われ、弟の猛は日本にいない。わたしの息子もこの忙しさでは、なかなか手が回りかねる様子である。それでよいのだ。
2000 11・3 7

* 小説だかエッセイだか分からない、未知の人の投稿があったのに、ファイルを開くと全文化け文字いや英数字。なにかを操作すれば文字に変わるのかも知れないが、分からない。残念。
2000 11・5 7

* 未知の人の「e-m湖」への寄稿が次ぎ次ぎある。お返しするぶんは、読んで、感想を添え返事している。すぐさま良いモノが来るわけはない。妥協はしていない。一部参考までに、どんな返事をしているか「雑輯」の頁に、要点だけ、積み上げてみた。
2000 11・8 7

* 西域への旅で生まれた一連の詩稿が「e-m湖」に寄せられた。全体の意識が川のようにゆったり流れている。一つ一つはそれぞれ別の場で成っているのだろうが、そういう区別をむしろ超えたかたちで、切れているようで繋がって行くような、連歌のような匂付けがトータルに生きている。一つ一つを特定の題などでくぎると、一つ一つの詩としての完成度がさらに厳しく問われるだろう、すると、かえって面白みが落ちてしまう。旅の記録という捉え方でなく、旅の中で詩人がどう声を放ち続けていたか分かる方が、感銘度は高く澄んで来る。全体の題は、「西域」でいいのだが、「一期一会」の感懐としても、精神の内なる「海市蜃楼」なる構築物ととらえてもいい。まだ、半分ほどしか頁に書き込めていない。
長い西域紀行の文章もワープロプリントで届いているが、どうデジタル化がうまく行くか、作業はたいへん。落ち着いた文体で、しかもこみあげるように熱く語られて、いいものだと感じている。さ、どうするか。

* 原稿をあげますと、何人ものいい筆者から申し出られている。高い水準を維持することで、広い範囲の寄稿者に気を入れてもらえるのではないか、今は、呼び水を、誘い水を流して行く段階である。此処へ掲載されることが嬉しいと思ってもらえるような、きちっとした「e -m湖umi」でありたい。そうでなければ、こんな営為じたいが無意味なのだから。
2000 11・11 7

* 「雑輯 2」に、編輯者からの返信をとりまとめている。おのずから、わたしの意向など表れていると思う。寄稿の方は参照されたい。

* 作文は、だめ。作文はどうしても「お上手に」と浅く気取るから。「書く」というのは、泥を吐くのと同じ呻きなのですが、呻き(単純に解釈しないように)のないものは人の胸に届きにくい。それが、モチーフ=動機というものです。
2000 11・13 6

* 「論考」の頁に矢部登さんの「結城信一の本」をいただいた。結城信一研究で知られた篤志の文学者である。有り難い。
2000 11・14 7

* 或る水準が目に見えてきたと思う。もっと高く高くと内心は思っているけれど、初心の若い書き手が入って来にくくてもいけない。おれも、あたしも、と思っている人には気持ちよく投稿願いたい。よければ採る。さほどでなければお返しするか、話し合って良くして行きたい。
2000 11・15 7

* 「e-m湖umi」の二頁に若い人の創作を一本入れてみた。正直のところ、わたしのポケットにはかつてなかった類の表現であるが、箸にも棒にもかからないという稚拙さともちがっている。ほとんど、手を添える気もなくそのまま掲載したので、見て欲しい。なにかを感じたのである、わたしは。
2000 11・20 7

* 高橋由美子さんの『神楽岡』が創作欄に入った。何度かの話し合いに応じて推敲がつづいた。落ち着いた筆致で一つの作品に仕上げられたと思う。長い、あるいは自伝的な作品の一挿話を成すものかもしれない。作者をまったくといっていいほど知らないが、素質ある人のように感じている。さらに推敲可能だが、掲載してみた。
2000 11・21 7

* 留守のうちに、斎藤茂吉文学賞を受けられている山形の高橋信義さんから、「e-m湖umi」にご寄稿いただいた。いま、スキャンして掲載した。清々しい文章である。感謝。
2000 11・23 7

* 嬉しいことに原稿が次々届く。けさも、京で一夜の旅寝の記を、北海道の真岡さんが南の石垣島から送ってこられた。飛び込んだお店の親子丼の、なんとも美味しそうな、若々しい筆つきで、余裕がある。

* 大府市の門玲子さんは、江馬細香など江戸女流文学者たちの研究でつとに聞こえた人、その門さんからも寄稿があった。忝ない。だが問題は、器械で再現できそうにない漢字の続出することである。いまかなりの文字は文字セットに入ってはいるが、漢字によって画面に移してみると「?」と出てしまう。わたしの『廬山』も、だいぶそれで泣かされているが、門さんのお仕事には漢詩が、また文人たちの漢文が続出する。興味津々の原稿なのに、これで突っかかりそうなのが悔しい。文字コード委員会で孤軍奮闘したのはこれなのである、あそこで議論していた人たちの頭には、大方、頼山陽も江馬細香もなかったのだ、そんなもののためにまでと本気で無用視していた。あげく、文字セットに用意しておけば良かろうと言っていたが、インターネットでは文字コードが標準化されてなければ、結局伝達出来ないのだ、平等で均質の条件では。トロンの坂村さんの考え方がやはり正しいのだと今でも思う。能力において不可能なら仕方ないが、パソコンの懐は狭くはなくて、漢字の大方は吸収できる。なんとか、もっと文筆家や学者がものを言うべきであった。どんなに完備した文字セットでも、異なるOSやソフト間では双方向に使えない。限界が目に見えている。姑息にその場しのぎをしていてはいけないのだ。

* 面倒なことを面倒がらずになさると、驚き感心していますと、冷やかされてしまった。むろん「e-m湖umi」のことである。そのとおりであるが、パソコンやホームページという機能を、なんとか自分なりに見きわめてみたい気がある。そのうちに秦は作家でなく編集者に戻ったと言われるだろう。もう言われているだろうが、それが何だと思っている。そんな呼び名など何でも宜しい。面白いと思うことをやって行くだけである、わたしの人生であるから、わたしが面白いと思えないのでは仕方がない。創作もするし器械も楽しむ。芝居も見るし許される限りうまいものも食う。逢いたい人もいつでもいる。そういう暮らしは、だが、いわば分数式の分子群。分母は、一つの景色である。少年の昔に覚えた高浜虚子の句「遠山に日のあたりたる枯野かな」である。いまでいえば、深い広い「海」である。海が分母。わたしは、わたしの命は、わたしの暮らしは、わたしのすることなすことは、すべて小さい三角の波立ちのひとつにすぎない。一瞬の後にすべては海そのものに帰して行く。

* しかし面倒なことは、やはり面倒であり、わたしは、知る人ぞ知る極度の面倒くさがりやである。どうでもいいことは、物・事・人ともに放っておける。それを負担には思わない。ハタで見て面倒そうなことも、わたしがそれをやっているのならけっこう楽しんでいるのだと思って欲しい。何でも比較的長続きする方だが、やめたくなればさっさとやめる。それは湖の本でもホームページでも同じであり、だが「書く」ことだけはとてもやめられまいと思っている。
2000 11・24 7

* 藤野千江さんの苦心惨憺の推敲で、一つの作品が成っていった。最初の原稿から読み比べれば、べつものである。推敲ほどたいせつな修行はないだろう、書くうえで。推敲を怠ったために、その大切さを知らないか怠慢に見捨てたために、モノにならなかった書き手がどれほどいるだろう。推敲にどれだけ付き合えるか、昨今の編集者のレベル沈下も、この「読む」根気にかかっている。
2000 11・27 7

* 門玲子さんの江馬細香『湘夢遺稿』私家版に関する貴重な資料と原稿とを、やっとスキャンし校正できた。コピー原稿が二段組で見開きに、しかも歪んでコピーされていたので、「読みとり」がわるく、ほとんど打ち直しになった。一般読者にはまことに地味な資料としか見えないだろうが、滋味掬すべきものが淡泊な記載の奥に見え、わたしには面白い有り難いものであった。
世間は、じつに広く、懐深く、いろいろな分野での貴重な探索がなされている。そういう面も、わたしは「e-m湖 umi」に反映させたい。「湖の本」読者には、わたしなどの遠く及ばない仕事を現にされている人が大勢おられる。そういう方々にもお願いして原稿をいただいて行きたい。
同時に、たじろぐことなく若い、若くない人でもいい、表現してみたいものをお持ちの方は、遠慮なく原稿を送ってきて欲しい。むろん簡単には掲載しない、何度も書き直してもらうつもりである、良くなると思える原稿ならば、なおさら。

* 詩人の仁科理さんの、浦上切支丹に取材された優れた作品も頂戴でき、掲載した。こういう佳い例が誘い水になり、未知の新人たちの文学魂が光を放って飛び込んできてくれるのを心待ちにしたい、慌てずに。
2000 12・1 7

* 嬉しくなってしまう、こういうメールに触れると。「石垣島の週末」は、e-m湖umiの五頁「エッセイ」欄にもう掲載した。真岡さんの文章は安心して読めて、軽快だ。
2000 12・2 7

* 若き詩人のアーサー・ビナード氏からエッセイが寄せられた、題して「忘れる先生」彼が二十七歳頃、まだ日本へ来て、日本語を使い初めてほんとうに間もない時期の文章だが、だれがそんなことを信じられるだろう、美しいほどみごとに達意の日本語である、どうか、読んで欲しい。e-m湖の「エッセイ」の頁に、たった今、メールとともに掲載した。アーサーの詩集のことは、前にもこの「私語の刻」で褒めて触れている。
2000 12・2 7

* e-m湖umiに掲載した『神楽岡』の作者からが、こんなメールが届いた。

* 御創刊第65巻目の、記念すべき新しい湖の本をお送りいただきましてありがとうございました。おめでとうございます。図書館より借出して読ませていただきましたものを、手元に置いて再び勉強できますことは、大変ありがたいです。
たくさんの友人達が、先生のホームページの奥深さにまず驚き、「神楽岡」をプリントして読んでくれています。そしてさまざまな感想をくれます。そのほとんどが暖かい励ましです。
一時は疲れ果て、もう手伝うのを止めようとしたお店のお客様からさえ、激励を受けました。(他の職業を探し、面接に行きましたが、見事に落っこちてしまいました。)
次作品、次々作品完成に向けて努力中です。よろしくお願い致します。
「平静に」というお言葉が今常に思い出され、強く胸に滲みます。
ありがとうございました。       高橋由美子
2000 12・4 7

* 清和女子短大の紀要に発表されていた石内徹氏の「『海やまのあひだ』考」が戴けた。折口信夫=釈迢空にかかわるすこぶる興味深い考察で、ありがたい。スキャンしてみて、校正に、かなり手間取っている。「迢」一字もいちいち文字ボックスから拾い出し拾い出ししないと、いけない。「ちょう」でも「ちょうくう」でもこの文字は出てくれない。「しゃくちょうくう」でも出ない。文字コードを作ったような人たちには、折口信夫=釈迢空の如きは無縁無用の存在であったし今もあるのだろうと、憎まれ口が叩きたくなる。 2000 12・5 7

* 明け方五時まで起きていた。石内徹氏の「『海やまのあひだ』雑考」「神西清のこと」を校正して、掲載した。前者は折口信夫=釈迢空と、彼の生徒であり恋人であった伊勢清志にかかわる機微を、名歌集として知られた『海やまのあひだ』を介して考察したものであり、後者は作家としても翻訳者としても知られた、そのわりに文学史的には不遇と想われている神西清への、私的な感慨をこめたオマージュである。石内さんが、現在どの大学におられるのか、清和女子短大で教授をされているのか、しかとは確かめていないが、折口研究に加えて、荷風や、神西に関する優れた著書もあり、頂戴し拝読している。もう久しい「湖の本」の読者である。
もう一人同じく読者であり、歌人で、横浜市の中学の先生でもある高崎淳子さんの「自撰短歌五十首」を、だいぶ思案した上で、作者の自負と意欲を斟酌し、そのまま掲載した。おもしろいもののある作風で、それを認めてわたしがペンクラブ会員にも推薦した歌人である。ではあるが、その歌風、自撰された限りでは、高崎さんの歌句を拝借するなら装飾的な「チャイナモザイク」のようで、そこが口疾に気が利いた風に面白いのだろうが、伝わってくる感銘はかなりアバウトで、手うすい。と言うか、わたしの感性からははみ出たものが多い。高崎さんの責任ではない。
何としても短歌の流れには、正岡子規の「瓶にいけし藤の花ふさみぢかければ畳のうへにとどかざりけり」式と、与謝野晶子の「みだれ髪」式とがあり、鏡花や谷崎の徒であるにかかわらず、短歌ではわたしは後者の歌風が苦手なのである。白秋や吉井勇ぐらいは面白いと思っているけれど、やはり茂吉、空穂らの表現と思いの真実感=リアリティにつよく惹かれる。編輯者が「好み」だけで作風を選別してはいけないのは当然で、高崎短歌を評価する人もあるに違いないから敢えて掲載したのである。
2000 12・6 7

* 雑誌「ミセス」に『蘇我殿幻想』を連載した頃の担当編集者であった、今は作家の田名部昭氏に、フランキー堺を偲ぶ小気味のいい一文を、注文を付けて、寄稿してもらった。映画「写楽」製作にまつわる中味のあるインタビューだけでも佳い内容なのだが、やはり前後に少し補足的な「今」の感懐を添えてもらう方が、読者は読みいいだろうからと無理をお願いした。
2000 12・6 7

* 高校の頃の恩師上島史朗先生から、嬉しい自撰歌五十首をいただいた。すぐ拝見して、滋味掬すべき、じつに佳いご境地で撰のなされているのに驚嘆した。平淡簡明しかも飄逸にして温和、一字一字原稿の師の手跡を書き写して行きながら、何度も何度も、うち頷いて感銘を受け、嬉しく胸を鳴らした。くすくすとも笑った。多年、「ポトナム」同人として短歌に思いをかけてこられた眼で、気負いもなく楽しんで選歌されている。それが、一つ一つの歌に、安心感と安定感と、しかも型に陥らず泥まず、自在な興趣を生んでいる。巧まずして巧みに歌われてある。文藝のうれしさである。
上島先生にわたしは歌集『少年』の主部を成している高校時代作品をことごとく見ていただいた。先生方でなさっていた歌會に、生徒の私もひとり加えて下さった。だが、また、歌誌結社の法へ誘われるようなこともなかった。それが有り難かった。わたしは、ついにどんな結社にも近づかずに来たのである。
思えば先生が歌集『鈍雲(にびぐも)』を出されたときに、頂戴して感想を書き送った、その手紙が「ポトナム」であったと思う、そのまま掲載されたのが、わたしの文筆が活字で扱われた初めであったのではないか。まだ、私家版にも手を染めていたかいなかった昔のことである。作家として仕事をしはじめてこのかた、湖の本の時代に入ってからも、上島先生はすべてを手に入れて読んで下さり、励ましを戴き続けているのである。恩師である。
高齢の先生はこの数年繰り返し入院生活をされていたが、いま、そんな病後のなかからいちはやく歌稿をつくられてわたしの新たな試みにこよない華を添えて下さった。幸せな生徒である。ご平安とご長寿をせつに祈る。 200- 12・7 7

* 朝いちばんに、H氏賞詩人岩佐なを氏から受賞詩集『霊岸』の表題作が、e-magazine湖umiに贈られてきた。いま、掲載を終えた。氏も、湖の本を最初からずっと応援して下さっている。詩人としては言うまでもなく、加えて実に美しい藏書票の作者としてもつとに知られた藝術家である。

* いわゆる散文詩ふうの譚詩を一行字数をきれいに揃えて改行して行く技術がわたしの手に入っていないため、詩人の寄稿には、気をつかいつつ申し訳なく思っている。
また短歌の場合、なるべくどの画面でも一首一行に読めるのが佳いと思い、一段小さい文字を用いて書き込んでいる。読まれる方は、フォントを調節しながらご覧下さるように。
2000 12・8 7

* 予想を大きく超えて、e-magazine湖umi が早くも充実してきて、寄稿の申し出もなお幾つも貰っている。急務は大幅な増頁で、布谷君にその手法は教わっているのだが、なんだか怖くてまだ触れないでいる。
まず、今の index.htmlを別のファイルにコピーする とある、htmlの「l」一字が、「index.htm」とどう違って、それが何処にあるのか分かっていない始末。index.htmというのは、ホームページの目次で始終開いたり転送したりしているのだが。そんな按配で、この歳末は、自力での増頁作業が宿題になる。
2000 12・8 7

* ゼルマ ラーゲルレーブは、今世紀のはじめ、1909年にノーベル文学賞を受けている、スェーデンの女流作家。そのラーゲルレーブの作品『軽気球』を、1938年に、鈴木栄先生が訳しておられた。先生は名古屋大学名誉教授で小児科学専攻、わたしが医学書院の編集者の頃数え切れぬほどお世話になった方であるが、これを訳された頃は旧制高校の二年生であったという。一昨年に、懐旧の思いから記念の私家版につくられ、わたしも頂戴していたのを、名古屋のお宅へ電話でお願いして、e-m湖umiに頂戴した。快諾して下さった。初々しい筆致で典雅な感じに品よく訳されてあるのが尊く、原作また、意表に出た特異な好短編なのである。本邦ではこれまでに市販の訳文は出ていないとのこと、貴重なものと謂える。いま、スキャンした原稿を校正しおえて、すべてを掲載できた。また一つ興味深い作の加わったことを喜んでいる。訳者鈴木先生のますますのご健勝を祈りつつ御礼申し上げる。
2000 12・9 7

* 夜中にふと目覚めて「湖」をのぞき込みました。
若い日の鈴木栄先生訳 ラーゲルレーブ作「軽気球」を一息に読みました。
結末に涙があふれています。
どんな境遇でも諦めなかった少年達
努力して努力して夢をもち続けた少年達
しかしついに挫折と絶望に襲われます。
そのときに現れた彼らの夢のすべてである大きな美しい気球・・・
この時代、この少年達を救うのは、こんな方法しかなかったのでしょうか。
若い日の鈴木先生はこの作品をどんな気持ちで翻訳されたのでしょうか。
今も少年達は、世界中のたくさんの家庭にいるのかもしれません。

* 軽気球を読んで。 今でいえば幼児虐待の類にはいりましょうか。自分たちでは親を選べない年齢ゆえの、裁判による悲哀は、いまもある。扶養義務の放棄は、作品のこの時代よりもひどくなっている。虐待死というかたちで。想いを馳せれば、哀切に、思わず涙し、怒りも込み上げてくる。
やりきれないのは、このアクシデントが親子双方にとって悪気のない出来事であったということ。空に浮かんだ気球は、彼らにはこの現実から連れ出してくれる天使に見えたかもしれない。追いかけることで、叶えられるかもしれない夢と。キラキラ輝いている顔を思い描くと、涙が溢れました。
内容的には少し違いますが、「フランダースの犬」の、主人公ネロのことを思い出していました。あれも切なかったですね。もう少しもう少し、幸せの足音がもうそこに来ていたと言うのに。涙、涙で見ていました。
離婚は子供にとっては、とても割り切れるものではありません。

* 作品に反応があるということ。

* およそ百年前の作品であり、高等学校の二年生だった鈴木先生が翻訳されたのが、六十数年前である。作にも訳にも「時代」が刻印されてあり、しかもここに書かれた境遇は上のメールが指摘しているように、今の例えば多くの「十七歳」事件にも複雑なかたちで反映しているとみていいだろう。まるで童話のようでありながら、現実の生活にありふれた普遍の状況を指さしている。あの「マッチ売りの少女」や「繪のない繪本」に膚接している。読むに値する作品だと、いまもあらためて感じている。
2000 12・11 7

* 清沢冽太さんから凛々と自撰の五十句を寄せていただいた。感謝。すぐ掲載した。清沢さんとは湖の本の読者と作者として久しいが、面識はなく、それなのに不思議に通い合うものを感じてきた。句を拝見して、禅機を感じ続けたが、どういう閲歴で現在どういうところに立っておいでか、何も知らない。友人の大原雄氏からも、歌舞伎にかかわる氏独自の切り口の、長いエッセイが届いている。読者にこの特別な面白みがうまく通ってくれると佳いが。
言論委員会から帰ると、メールも沢山届いていた。
2000 12・11 7

* 北海道の高島信一氏から「自撰五十句」の寄稿を得て、掲載を終えた。
2000 12・12 7

* 京都精華大学名誉教授笠原芳光氏から、原稿を「贈」られた。新聞原稿と講演録である。なんと喜ばしい。エッセイはすでに「e-m湖umi」第五頁に掲載した。笠原氏は亡兄北澤恒彦の若くからの知友であり、最晩年に講座をもっていた大学での同僚でもあった。ご縁に感謝したい。

* 石久保豊さんの短編小説を第二頁に掲載した。作者は卆寿をすでに越えた独居老女であり、わたしへの自称「押し掛け弟子」である。作品は、若い昔のものを再録したのでなく、まちがいなく現在の作であることを保証する、が、その筆、じつに若い。簡潔に女と男を書ききって、若いわれわれの顔色をうしなわせる。一の傑作と賞してはばからない。名は体をあらわし見識も知識もゆたかな、なによりも精神健全なみごとな女性である。「女徒然草」をお書きなさいと勧めているほど、はや百通に余る書簡は、面白く、またいつも心を励まされる。
2000 12・17 7

* 辻下淑子さんにお願いした自撰五十首「ベツレヘムの星」を掲載した。さすがに、よく選ばれた充実の魅力で、感じ入った。原稿から書き写して行きながら嬉しかった。力量有る人の「自撰」という美意識が魅力に富んでいることは、古来多く実例があり、それは詩歌人の優れた自己批評であると同時に、存在理由を自ら明示する自負の行為でもある。責任が作者自身にくっついてまわるから手抜き出来ないのである。雑誌「e- magazine湖umi」の中でも、この詩歌欄は、このようにして益々重きを加えて行き、いつか関心と鑑賞の的となるぐらいに培って行きたい。すでに、それだけのものを積み重ねつつある。電子時代に主張して行くアンソロジー=詞華集として、充ち足らせて行きたい。
辻下さんからは、初めに、近作で各誌に発表された五十首が届いたが、願わくは過去の作歌のすべてから自撰していただけないかと押してお願いした。それが、良かった。そうして良かったと喜んでいる。
2000 12・19 7

* 笠原芳光氏の講演「ブッダとしてのイエス」をスキャン校閲しているが、こういう「ことば」を聴いているのが、いちばん嬉しい。大勢の人にも聴いて欲しいと願っている。
京都の神原廣子さんから自撰五十句が届いた。躊躇なく掲載した。上品の俳味で、あっさりとした京菓子を口に含むようである。高校の後輩かもしれないこの人を、ながく、普通の家庭人読者と想像していたが、ある年、句集を贈られて、読んでびっくりした。優れたもので、胸をとんと押されたように感動した。似た思いを紅書房主人の菊池洋子さんの句集にも感じたことがある。菊池さんは推してペンクラブの会員になってもらった。神原さんも、ご当人が望まれればいつでも推薦したいと思う。
日本ペンクラブに入るのには「十数万円」かかると聞いていて、とてもそんな余裕はありませんが、入会したい気持ちはあるのですと、新潟在住の男性歌人から手紙が来た。これには仰天した。入会金は三万円である。年会費はその半分も要ったかどうか。過剰なデマが飛びかっているものだ。推薦してもらうと推薦者に金額の謝礼が必要と思いこんでいる人がいるのかも知れないし、金銭を受け取る推薦者もいるのかどうか、まさかと思うが、そういう行為に出る新入会者のいるのは知っている。現金や商品券を送って寄越されすぐお返ししたことが何回かある。わるい思い慣わしだと思う。
2000 12・20 7

* 笠原芳光さんに贈られた講演録「ブッダとしてのイエス」を、感謝して第六頁に掲載した。解説を添えるまでもなく、平易に、しかも極めて重要で大胆な笠原さんの見解が、端的によく提示されていて、むろんいい意味で、驚かされる。バグワンの『ボーディダルマ』を終始念頭におきながら、楽しむほどに丁寧に読んでいった。駒沢大学会館という、いわば禅に有縁の会場で講演されていたので、そのためか禅への言及も多く、それが興味深かった。
わたしは浄土宗の家庭に育ち、念仏に深い関心という以上の帰依の念を抱きながら成人したが、禅にも惹かれている。わたしは教派・教団というものになんら拘泥していないし、具体的に何かの信者ではない。だから宗教的でないという理由もない。むしろその方がはるかに宗教的に深く在れると思わぬでもない。教派や教団を「立場」にした信仰などを深くは尊敬しない自由な場で、どちらかというと、笠原さんの説かれているような「思い」で、死ぬまでを元気に生きたい。宗教学、哲学、教学といったものに、とみに意義も意味も、たいした感謝も覚えなくなっているのは、バグワンへの信頼が日夜に深まっているからであろうと思う。
2000 12・22 7

* 笠原さんの「イエス」についで、心友にして尊敬する神学者野呂芳男さんの信仰と哲学を聴こうと思う。野呂さんが
力を入れて立ち上げられたキリスト教神学と宗教の研究雑誌「黎明」創刊号に書かれた長編で、題も「『慈子(あつこ)』の思い出」である。野呂山ならびに版元松鶴亭の林昌子さんの御厚意による。これからスキャンをはじめる。文芸批評家ではないが野呂さんには集英社文庫『慈子』の解説もある。
2000 12・23 7

* クリスマスイブである。新たに野呂芳男氏の「『慈子(あつこ)』の思い出」を、第六頁に書き込むことが出来た。
単に小説『慈子』へ氏の私的な思い出だけを語られたものではない。牧師として、神学博士として、キリスト教への重大な、革新的といえる提言を含めて、鋭く、氏の宗教観や世界観への動機を提示されている。それを介して、文藝批評家では及びもつかないまた新たな『慈子』論となり、おおけない話であるが秦恒平論ともなっている。発表されていたのが神学研究の雑誌で、熱心なわたしの読者でも目に触れた人は極く稀だと思われる。イエスをおもうにふさわしい今日このクリスマスイヴに、「湖=umi」に掲載できてひとしおわたしは悦んでいる。

* 野呂さんには「死後」を極めて深く神学的に論じられた著作がある。育たれたのが東京下町の、真言宗を奉じていた家庭であったという。優れてユニークな野呂神学に、そうした根の体験や思いの反照して、誠実しかも追究の精緻で大胆なところが魅力である。
2000 12・24 7

* 歌誌「炸」主宰の松坂弘さんが、自撰五十首を下さった。岡野弘彦氏の結社「人」をながく支えてきた方であり、わたしとは同年の、気息の通い合う学究である。愛妻歌の名手でもある。冴え冴えとした都会人の孤心を、硬質の輝きで歌い出される。すでに掲載した。

* 新年早々に「e-magazine湖umi」をインタビューしたいと、今、ある大手新聞の申し入れが入った。実際を見た上でのことと。二ヶ月でここまでの充実は、わたしも予想しなかった。
2000 12・27 7

* 真岡哲夫さんが文章を送ってこられた。『死なれて・死なせて』を読もうと思い、表紙を開いたものの、始めの竹取物語のところで、泣けて泣けてと、動機も告げられて。一度推敲してもらい、いま、エッセイ欄に掲載した。
その真岡さんにも心配させてしまった。勝田貞夫さんにも叱られた。叱られて、有り難いことである。
2000 12・28 7

* 穏やかに晴れました。雪も僅かに解けたようです。
書き終われば落ち着くと思いましたが、全然落ち着いてはおりません。もう少しこの机に座って、花を見ていようと思います。チューリップは、ヨーロッパ世界にはじめて植物ウイルスの存在を知らしめた、植物ウイルス学を専攻するものにとっては特別な植物です。赤い花が室長の机にとても似合っています。
秦さん、大型の暖房器具をぜひともお備えください。FF式と言って、屋外の空気を給排気し、火の見えない安全な物があります。費用はそこそこかさみますが、お体にはかえられないのではないでしょうか。「耐えて忍べば済す有りと」は、別のところで。お体には楽をさせてあげてください。お願いします。心配です。
私の書いたものを読んでくれる方がいる、好きだと言ってくれる。嬉しいことです。論文を評価されるのとはまた違った感慨があります。また書こうと思います。
今年は風邪を引いて第九には行けなかったので、フルトヴェングラーのCDを聞いています。
解けた雪がまた氷り、星が輝きはじめました。明日も寒くなりそうです。
2000 12・28 7

* ドクター卒業生卒業旅行記を読んでいて、紀行の難しさをしみじみ自覚した。日記ふうに時間経過がある程度書かれるのはいいが、もっぱらそれへ流されて、目的地や目的のモノ・ヒトに行き着くと、とたんに甚だ概念的・抽象評論的になる。「すばらしい。一見の価値がある」と書くために日記がつづくようなことに陥りやすいのが、旅行記の落とし穴だ。だが、それも、書いて自覚して行くしかない。書いてみようとするのは、とてもいいことだ。
2000 12・29 7

* 「e-magazine 湖umi」と呼んできたが、そのままでいいとしても、呼び名を簡明に「e-文庫・湖」としよう。この方法こそは「文庫」そのものだから。

* いま、わたしは{弁慶}の気分である。刀の千本狩りではないが、いまの「文庫・湖」の方法だと、たとえ千本もの「佳い文章・文藝」を編輯するのも夢でない。十分可能である。読者は厖大なサイトから佳い好きな作品を選んでいつでも読める。
弁慶の気分を自覚するのには、もっと深い意味がある。
わたしは、昔から編輯者はつよい「弁慶」であり、作者・筆者という名の「牛若丸」を追いつめ追いかけ、さんざ攻め立てながら、おしまいには牛若丸の前にうまく「負けて上げる」役回りなのだ人にも言い、そう何度もものに書いてきた。優れた編集者と大勢出逢ってきたが、優れた人ほどまことに「強い弁慶」であった。さんざ攻められて、そして作者であるわたしを最後に引き立ててくれた。
そういう編集者・そういう気質が払底してきているというのが、文学・文藝のピンチである一つの大原因なのだが、かれらを弁慶ならぬあたかも勝ち手の牛若丸気分に驕らせてきたのが、現代の「出版」の病根そのものなのだと、彼らは気づいていない。

* こんなこと言うていると、秦は、いよいよ書き手はやめたぞと喝采され、憫笑されそうだが、潮がそちらへ流れているときはその潮と楽しみ、その潮のなかにまた新たな潮のうごくにちがいないのも、悦んで、柔らかい心に受け入れて行く、そういう自在な、いや勝手のできる年齢にわたしはもう向かっているという、それだけ、のことだ。予感もあるのだが、わたし自身は健在なのに、ある日、ホームページ「秦恒平の文学と生活」が地を払って消え失せている日だって、まったく来ないわけではない。その時はまるでべつの楽しみに浸っていることだろうが、それとて「文学・文藝」から逸れた楽しみでは必ずありえない、それだけは確実だ。弁慶であろうが牛若丸であろうが、わたし自身である。どこでどう一人二役を楽しんでいるかは、他者の識るところではないと嘯いておこう。
2000 12・29 7

* 森秀樹氏から「百姓名を読む 中世のイメージを求めて」という好研究を戴いた。官途名などの類を検地帳から名寄せしながらの論考で、端的に纏められ、考察も附してあり、資料性高いしかも読んでいかほどにも想像の働いて行く、面白い、興味深い作品である。衛門とか兵衛とかが名前にくっついている例は、子どもの頃にまっさきに覚えて、侍ごっこをすれば、(平)清盛、(織田)信長などと名乗るよりも、(荒木)又右衛門とか(大石)内藏助とか名乗っていたが、農民の社会にこういう名乗りがじつに多彩に浸透していたことを、現実に森論文は面白く示してくれる。ただそれだけでも面白いが、それだけのことではないのである。有り難く、いまから転送する。
2000 12・29 7

* エッセイの第四頁に、外国語に翻訳された作品を書きこむことにし、手始めに「NOH=能」を掲載してみた。スキャンに難航した。読みとりがわるく、校正に、はなから書き込みと変わらないほど手間と時間とがかかったが、ちょっと面白い作業であった。訳者にお礼申し上げる。
2001 1・5 8

* 午後、今年初めての外出。まず毎日新聞記者と一時間半ほど、「e-文庫・湖」の話をした。漫然とあれこれ話したので、どんな記事になるのか見当がつかない。そういうことは、ま、任せていいだろうと思う。感じのいいインタビュアーで、わたしは、対話をただ楽しんでいた気分。ペンの理事会で、いつも後の記者席にみえている人であった。
池袋もメトロポリタンホテルも、なにやら正月らしく人の往来に元気があった。三連休だとか、知らなかった。
2001 1・6 8

* 昨日もらった長い手紙は、また読み返して、いいものだった。とりとめないようで、書くべきはいろいろに書いてあり、旅情をよく感じさせた。女の一人旅というだけではない、最近に父母に死なれ・死なせた思いに重ねて、我が身を励ましている、見直している感じが気持ちよく出せていて、巧みでも達者でもないにせよ、述懐がそのままの文藝を成していると感じられた。「e-文庫・湖」の紀行頁に書き写してみたい、お許しを得て。
2001 1・7 8

* また新しい、「Serpent : from Representation to Shared Awareness and Results」をスキャンしはじめた。文字がこれは大きく、読みとりが宜しくて、校正がはかどるだけでなく、英文を読む楽しみも味わえる。
版権も著作権も期限切れで、なかなかの読み物が幾らもあるのは当然だが、そういうもので、復活させたい珍しいものも「e-文庫・湖umi」に入れて行く。いまも、一つ佳いものを見つけだし、スキャンをはじめた。旧仮名遣いで正字の原稿を読むのもまた頗る楽しい。
2001 1・7 8

* ほら貝の加藤弘一さんから、内容たっぷりの佳いファイルを贈っていただいた。連載の「作家事典」で横光利一のプロフィールなどが丁寧に書かれていて、また佳い映画作品の紹介などあって、感心した。「メールマガジン」と銘打たれてある。マガジンとはこういうものなんだナと思う。わたしの意図していたのは、やはり、「e-文庫=archives」なのだと納得する。送ってもらったその「メールマガジン・ほら貝」には、これまでも、これからはいよいよ、注目し対処しなければならぬ「自治省独自文字コード」関連のとても旨く纏められた巻頭記事もあり、できればエッセイとしても読まれたいので「文庫・湖」に頂戴できないかとお願いしている。
2001 1・8 8

* 大阪の谷崎学者三島佑一氏から「『細雪』の船場ことば」を贈られた。三島さんは生粋の船場育ちであり、これまでも大阪や関西に取材された谷崎作品を、きめこまかに検討してこられた。この考察はただに谷崎の作品論というばかりでなく、「地の言葉」なるものへの愛着に満ちた視線の深さを感じさせる。そこに読み甲斐がある。
また石田波郷の、また瀧井孝作の謙虚な弟子である俳人奥田杏牛さんが、「自撰五十句 芋の露」を下さった。奥田さんはいま「安良多麻」を主宰されている。瀧井先生への思い出をなかに、久しいご縁である。
ともに「e-文庫」に掲載を終えた。
2001 1・8 8

* 電話で許可をとり、「e-文庫・湖umi」第8頁に、紀行文として、村上泰子さんの「サロマ湖から」を掲載した。湖の本の読者。東京の保育園に勤務。一度だけ、もう十数年まえに、フードピア金沢の宴席で挨拶したことがあり、以来逢わないが、文通は繰り返しあった。今度の手紙は、孤心・孤愁を抱いての「旅」なる意味を、淡々とした筆致の奥に静かに置いていて、優れた文藝価値を感じさせる。「紀行」のもっとも純なる述懐に富んでいて、とりとめなさに、もののあはれがにじみ出ている。細いペンで描いた、ホテルの窓からの清楚で巧みなサロマ湖眺望画を、うまく誌面に取り込めないのが、残念。こういう才能と境涯を生きる読者が、わが「湖の本」には数えきれずおられると感じている。十五年の、六十五巻のお付き合いである、そういう実感が親類づきあいより深く食い込んでいる。

* E-文庫の増頁作業に難航。教わってもなかなか難しい。辛抱よく粘るしかない。
2001 1・9 8

* やっと、E-文庫・湖の増頁に、また、一歩前進した。もう少しだと思う。聞いて聞いてやってみて、出来てみると、昔、上京して間もなく、医科歯科大學病院の前で、お茶の水駅はどこと人に尋ねたのと似たことをやっていたのが、分かる。だが、分からなければ目の前のものも見えない。見えていても分からない。そんな初歩的なことで、手を引いて、我が手をそれへ添えて、これですよ、こうと教えてもらえるのは、本当に有り難い嬉しいことである。なさけないが、そうまでされて、やっと呑み込めるのである。愚かではあるが、愚かな間は致し方もなく愚かなのである。
自分で自分のマニュアルを作っておくより無いようだ。
八頁しかなかった文庫を二十頁にふやし、別に作業頁を一つ用意した。それで書き込みの重くなるのを避けようという、体験からの工夫なのだが、巧く行くだろうか。
さしあたり、「戯曲・シナリオ」の頁と、「時事・言論」の頁を設けたいし、ほかにも、思案していることがある。いい原稿やいい発言を、闇の彼方の世界へ送り出せるのを単純によしとしているのである。難しい功罪はいまは考えていない。
2001 1・12 8

* 新刊の『大塚布見子選集』第七巻から、巻頭の「短歌雑感」数編を「e-文庫・湖」にどうぞと著者のお許しを得たので、三編を抄録した。現代のある種の短歌へつきつけた匕首である。書かれた年次はもう二十年も昔だが、発言の意義は古びていない、それが悲しいぞと思う思いもわたしにあった。どれも、以前に熟読した文章なのである。手をうって頷いた文章なのである。大塚さんほどストレートにポレミックな論客はいないようだ、歌壇には。敬服して、目につく限り大塚歌論は読んできた。
言葉の理解や「表現」の意義について、わたしも、『日本語にっぽん事情』だけでなく、繰り返し発言し続けてきているから、大塚さんの言説に大きく手を拍って賛同する面と、わたしならばと思うところも無いではない。それでも大塚さんと論争せずに気の済まないところは少なく、それより、応援したり声援したりしてきた趣旨が多かった。
いうまでもない、大塚さんがいつも激しく攻め立ててきた馬場あき子にも山中智恵子にも、わたしは久しい友情を持ってきたし、じつは、ふたりを公に推奨・推薦したこともある。おなじことは岡井隆にもいえる。
だが、また、大塚さんの歌論の明晰に本質を得て揺るぎないことにも、久しく共感し続け、いまも共感している、それもまた事実である。だから、わたしがその双方の言説や表現をわたしなりに踏まえてものを言えば、明らかに、かなりコウヘイな線が出てくるのかも知れない、ただ、今、そんなことを手がけたい気が少しもない。
明らかに、「e-文庫・湖」は開け放たれた佳い場所なのであるから、どうか、ここで、議論を白熱させてもらえれば、嬉しい。呼び出し役をしてもよく、少なくも行司役は公平に出来るだろうと思う。ともあれ、すこぶる読んでわかりいい大塚さんのエッセイを、第三頁の冒頭で、読んでみて欲しい。
2001 1・13 8

* 毎日新聞に「e-文庫・湖umi」のインタビュー記事が出たらしい、昨晩、思いがけない、京都新門前時代に同じ隣組だった「うどん高砂屋」の長女「ひろチャン」の電話をもらった。わたしより三つ上で、五十年ちかく無縁だった人だが、新聞の顔写真に、子どもの頃の面影がある、懐かしくてと、若々しい声音であった。七十にもう近づいて幸せな家庭人らしく屈託が無い。驚いたことに東京の品川辺に暮らしていると。京都の市井の人が東京に来ている例はごく少ないのだ、わたしの知る限り。
きょうだいの多い家だった。一人子のわたしにはかなり眩しい圧力団体であった、なにしろ六人もいて、国民学校当時、生徒数の至って少ない町内で、四人も同じ学校へ通った時期もある。「ひろチャン」はその年上の姉にあたる人で、話せば話すほど、さすがにわれわれにしか通じない話題も多く、懐かしかった。六人のうち二人男の子がもう亡くなっていると聞き、声を喪った。胸に堪えた。
毎日夕刊の記事はまだ見ていない、が、記者の電話では、わたしのURLの「?」が「-」に間違っているという。そういうことも、ちっとも気にならなくなっている。
2001 1・14 8

* 芝居の後にも寿司で、ゆっくり、少し飲んだ。飲み足りない気分を保谷へ戻ってから「フィレンツェ」へ寄り、先日堪能の赤ワインを、もう一度、少し味わって帰った。留守に、九十過ぎの押し掛け弟子さんが、「e-文庫・湖」に小説の掲載されたのを喜び、乾杯用にとビール券を送ってきてくれていた。あちこちに頼み回って、わたしのホームページにどうやら辿り着けたらしい、めでたいこと。
2001 1・16 8

* 英文の講演録   The Serpent : (from Representation to Shared Awareness and Results) = 蛇を、エッセイの四頁に収録した。アジア・太平洋ペン国際会議での演説である。もういちど念入りに校閲の必要があるが、「英文」に対し助言が戴ければ幸である。
2001 1・19 8

* 毎日新聞のインタビュー掲載紙も今日届いた。
2001 1・19 8

* ようやく「The SERPENT」全文を校正しおえて、先ず「エッセイ選 4」に掲載できた。グローバルな視野から「蛇」の問題に対し文化史的・社会的かつ国際的に関心が振り向けられるようにと、アジア・太平洋国際ペン会議に提示した演説原稿の英語訳である。批判を得たい。他に「能」「庭」と題した短い論考の翻訳稿も掲載してある。
2001 1・22 8

* わたしのアタマと、この器械とが、いま、もっとも乖離している気がする。豆粒のような似顔絵も大きく元へ戻せないし、「e-文庫・湖」の増頁がもう一歩まで来ていて、きちんと教わっているのに恐くて手が出ないし、「マイクロソフト・アウトルック」のアドレスブックからはどんなに試みてもメールが受発信できないし、教わりながら出来ないでいることが、多すぎる。手が縮んで、やろうという気になれない。困ったものだ。
2001 1・22 8

* 名古屋大學の鈴木名誉教授から、新世紀早々のエッセイ二編をと、贈っていただいた。「e-文庫・湖」の第5頁に掲載した。記憶も新しい、あの『軽気球』の訳者である。あれは学生の昔のお勉強の成果、これは傘寿の先生日々悠々の記である。
2001 1・25 8

* 「e-文庫・湖umi」の増頁に九割がた成功、「作業頁」を含む12頁分が一気に増えた。嬉しい嬉しい。早速第10頁に建日子の戯曲「タクラマカン」を、第11頁には英文原稿を入れてみた。
2001 2・2 8

* 石久保豊さん、九十過ぎの老女のエッセイ「重き存在」を「e-文庫・湖」のエッセイ欄に収めた。元気のいい、しかも、心意気の粋な行文であり、触らずにそのまま頂戴した。
2001 2・3 8

* 林丈雄君に「編集」「置換」という手段を教わって、混線していた「e-文庫・湖」増頁案は予定どおりに無事決着した。ほぼ三ヶ月近くかかった。どこかのところで、わたしが布谷智君の設定してくれた段取りを、間違えてか、イージィにか、不十分に実行してしまったのだ、おっかなびっくりの退け腰のままわるく触って失敗していた。その修正が自力では結局出来なくて、林君の助言が解決へ導いてくれた。布谷君や林君の手引きがなかったら出来なかった。
此処まで来ての問題は、「e-magazine」のと限らず、今後も絶対必要になる「各欄の増頁方法・手順」を、統一して整備保管することには「失敗」したことだ。思い出し思い出し「箇条書き」にしておかねば、同じことを繰り返してしまうが、これが難しい。
2001 2・4 8

* 昨日初めて、ワケの分からない翻訳ソフトを当てずっぽうに使ってみた。試みに「NOH」の書き出し数行を入れて和文に「翻訳」させてみたら、まことに珍な訳文になって現れた。これは危ないと思い、「エッセイ」の頁と「e-文庫・湖」の翻訳頁に入れた英文に、いま、日本文の元原稿を副えたところだ。
実例を挙げる。ソフトが自前に改行したままの、訳文を後に示すと、下記のようになり、最後に原文を示してみる。

Mumbling ,”Oh, no(h) !”
one slides into a marvelous sleepiness, a beautiful dream-like state.
This is a time of ecstasy, either waking or sleeping.
The joy of the noh theater is that it is such a pleasant place to sleep.
Still, one wouldn’t want to snore there or be forced to hear a snorer.
The beauty of noh is made up of sensual, concrete elements brilliantly joined to conceptual and symbolic elements.

モグモグ言って、「ああ、no(h)!」
人は、素晴らしいsleepiness(美しい夢のような状態)にこっそり入る。
これはエクスタシーの一時である。そして、起きるか眠る。
noh劇場の喜びは、眠ることは楽しいそのような場所であるということである。
まだ、人はそこでいびきをかくか、snorerを聞くことを強制されたくない。
nohの美しさは、概念上で記号的な要素に輝いて連結される肉感的な、具体的な素子から成り立つ。

「オー、ノー」と眩きつつ偉大な睡魔に優美な夢をめぐまれる。至福のとき、である。覚めても至福、覚めなくても至福。能楽堂の見所は至福の寝所でもあり得て、うれしい。ただ願わくは鼾はかきたくないし、鼾をきくのも、願いさげにしたい。
「能」の美しさは、じつに感覚的に具体的なところと、じつに観念的に記号的なところと、みごとに両面をそなえている。

* 役に立つとも、あまり立たないとも言える。
2001 2・6 8

* 大塚布見子さんの「自撰五十首・雪」を「e-文庫・湖」に頂戴した。
2001 2・10 8

* 院卒、建築の中野智行君が、好い文章の「北八ツから」を送ってきてくれた。短いけれど「三週間」かけたというのが嬉しい。よく推敲されている。すぐ「e-文庫・湖umi」の八頁に掲載した。

* 書いてみました。
こんにちわ。お元気でしょうか。最近は忙しくて、連休も返上です。残念ですが、お芝居もちょっと無理そうです。次ぎの機会を楽しみにしてます。
ところで先日、ふりはた君と八ヶ岳にいってきました。以前から山に行くたびに、なんとかその山行で思ったこと、感動したことを表現できないかと考えていました。写真やスケッチ、版画など下手の横好きで、のそのそとやっています。ところが、ふと、実は文章が一番表現できるんじゃないか?と最近思いだしました。
昔から作文とかはわりと好きでした。
しかしまとまった文章となるとほとんど書くことがありません。最近では学生時代の論文ぐらいです。
とにかく書いてみたくなったので先日の山行記をつくってみました。
書いてみて、なんて文章って難しいんだろう、と改めて思いました。これだけの文章で、かれこれ3週間ぐらい書き続けています。会社の昼休みとか残業の合間とかにこそこそ書いたりしてるのが、結構楽しかったです。
なんとかまとまってきたのですが、すこし誰かに見てもらいたくなってきました。そこでメールにして出した次第です。
とにかく素直に書こうと心掛けて書いたつもりです。よかったら感想をいただけないでしょうか。
2001 2・12 8

* 仕事で書いている論文の推敲がだいぶ進み、投稿間近になってなってきた勢いに乗じ、中野(智行)さんの気持ちの良い文章にも触発され、ずっと抱えていたテーマの一つを、この連休でまとめてみました。
この原稿を書きたかった最も大きな理由は、沖縄でお茶を習っている人たちが、(教えている先生の多くも)、茶道は戦後になってようやく本土からやってきた外来文化で、本来沖縄とは無縁のものだと思ってしまっていることでした。
確かに、沖縄には京都のように利休さんが作った茶室もありませんし、九州のように古い流派も残ってはいません。そのせいか、地域に根を張ったような安定感がなく、みんな何となく頼りない心持ちでお茶をしているように、私には見受けられました。できるだけ沢山の人に、少なくとも17世紀の琉球に、忘筌のようないいお茶室があったことを知ってほしい、できればそれを復元して、胸を張って「沖縄自慢の茶室」で茶会をしてみたい、そういう気持ちで書いてみたものです。
沖縄に十二年住んでいて、琉球文化の層の厚さ、沖縄学という学問の領域があることに驚きました。しかし、すべての分野を網羅していると思われた沖縄学も、意外と手が回っていないところもあり、この原稿で扱ってみた琉球王朝の茶の湯に関しては、沖縄県立芸術大学の、文化受容史が専門のホルスト・ヘンネマンさんというドイツ人教授が一人で、細々と研究をしている現状です。日本で茶の湯という文化が形作られていく過程で、琉球を要にした交易ルートが果たした役割は大きく、物の流通と共に、茶の湯自体も、早くに琉球に招来されていたことはあまり知られていません。
今回は、琉球王朝の茶の湯自体には深く触れず、「御茶屋御殿」という建物にテーマを絞ってみました。機会があれば、琉球王朝と千家のつながりを軸に、王朝の茶道文化についても書いてみたいと思います。
理系の学術論文と違って、文系の論考を書く場合は、ある程度テーマへの導入部として、落語のまくらのようなものがあっていいのか、小見出しが必要か、重要なポイントを繰り返して強調してもいいのか(私はよくこのポイントのだめ押しをして、同じことを二度書くな、と上司に怒られます)などわからないことばかりですが、我流のスタイルで書いてしまいました。謝辞、参考文献についても同様です。また、御茶屋御殿の周辺にある、琉球文化の背景をどの程度書き込むべきかもよくわかりませんでした。
最も重要なのは、このテーマが、「e-文庫・湖umi」のカテゴリーに収まるものであるかどうかです。なんだか、『畜生塚』に出てくる、「オトギヤロ」の香合の名誉挽回にムキになっている道具屋さんのようなことをしているのかなぁ、などと自信がなくなってきました。慣れない分野の書き物はしない方がいいのかも知れませんが、あの道具屋さんと同様、御茶屋御殿の茶室については胸を張って世に出したいとフンガイしてもいるのです。
いずれにせよ、まず秦さんに「琉球版忘筌」の存在を知っていただければ、とりあえずは満足です。よろしくご指導お願いいたします。

* 善い論文であるだけでなく、貴重な言及で、専門家をすら裨益するもののように、わたしは、一読有り難いと思い、すぐ「e-文庫・湖」の論考頁(四頁)に掲載を終えた。親しい淡交社の編集者にも読んでくれるように伝えたい。論考には上のメールも前書きとして添えたい。
2001 2・13 8

* 昨日の理事会で、三好徹副会長から、秦さんのホームページにあれをと、エッセイ集『旅の夢異国の空』の巻頭に収められていた「わたしの『森 敦』」の一文を貰った。三好さんがわたしのホームページを見ておられたことにびっくりした。有り難い申し出にもびっくりした。感謝して、今晩、スキャンし、校正して、たった今第三ページに掲載した。
言うまでもない芥川賞の「月山」で名高い文人である、森敦は。若かりし日から三好さんは、まだ無名であった森敦に親近し傾倒されてきた。その思いの溢れる一文をもって没後の全集の一巻に寄せられたいわば「思慕と追悼」であり、忘れられてはならない森敦という豊かに清かった孤峰への一つの道しるべとしても、ぜひ、目にとめていただきたいと願う。

* 「月刊ずいひつ」主宰の随筆家神尾久義氏からも、編輯者の眼鑑にかなうようなら採ってくださいと寄稿いただいている。明日にスキャンしたい。
2001 2・16 8

* 三好徹氏の一文をさらに校正した。スキャン原稿はよく校正しないと魯魚のあやまりが多い。「e-文庫・湖」で校正ミスに気づかれれば、どうかお教え願いたい。
2001 2・17 8

* 三好徹氏のエッセイ集『旅の夢 異国の空』をまた読み返していて、三好さんの方から言い出された巻頭の「わたしの『森敦』」とともに、これは私の方からぜひ欲しい一文がそのすぐ次に掲載されていた。井上靖と大岡昇平との貴重な挿話的思い出の一編である。どうしてもご厚意に甘えてこれも戴きたいと思い、事後承諾でお願いしようとすでに掲載してしまった。著作権の侵犯であり怒られるかも知れないが、これをぜひというわたしの思いは諒承してくださると思う。それほどいいもので、はじめてこれを読んだときも今回も、目頭がじわっと濡れた。
2001 2・17 8

* ニュースステーションなど見に階下に降りるつもりであったが、結局器械の前を離れなかった。東工大のドクターを終えた古澤宏幸君の旅行記と、日本随筆家協会を主宰する神尾久義氏の随筆とを「e-文庫・湖」に収めた。
2001 2・19 8

* もう長短七十編ほども「e-文庫・湖umi」は掲載している。創刊まだ三ヶ月とも経つまい。無名の高校少年や九十過ぎた老婦人の作品から、極めて著名な学者や作家や詩歌人や随筆家の作品・文章までを載せている。そういう中にも湖の本の読者が多い。ながく出版し続けていて、湖の本には読者としてだけでなく、極めて優れた書き手の多いことにわたしは早くから気づいていた。こういう方々の作品をひろく世界に提供したいという希望が「e-magazine湖」の動機にあった。そしてそれ以上に、新しい書き手に場所と読者の目とを提供したかった。ますます新人は世に出て来にくくなるとは、再版問題などをかかえた出版世界に跼蹐しているわれわれの憂慮である。本が売れる売れないよりも、わたしは、若い新しい才能の登場に無法な制約を与えて頭を押さえ込んでしまうことを恐れている。

* 「e-文庫・湖」は見られるとおり文芸文学として恥ずかしい水準の「場」では、ない。すばらしい書き手と読み手とに恵まれている。胸を張っていい作品や文章を寄稿して欲しい。原稿料は出ないが掲載料も取らない。責任編輯者である「作家秦恒平」を頷かせることだけが「資格」である。頷けないものは、採らない。何度も書き直してもらう。
2001 2・22 8

* 神尾久義氏に戴いた「心に残る話」五編を「e-文庫・湖umi」第五頁に全文掲載し終えた。氏は日本随筆家協会の主宰で「月刊ずいひつ」編集長である。もう久しく二十年近くもこの雑誌には、きまって新年号と六月号のあたまに、中国へご一緒した伊藤桂一氏とならんで、エッセイを寄稿し続けてきた。そのご縁で日本ペンクラブにも推薦し入ってもらった。お目にかかったことは一度有ったか、まだか。よく覚えない。
三月中旬に送り出す新しい「湖の本」から、少しずつだが、こんな「依頼状」を挿し込もうと思って用意した。

* 「e -文庫・湖umi」に、ご寄稿お願い
昨年暮れに創刊の、電子文庫「湖」には、僅か三ヶ月で、七十編を越すさまざまなジャンルの文芸作品がすでに掲載され、毎日新聞をはじめ各方面の注目を浴びて、順調に、多くの読者・識者に見守られています。
高校生の少年から九十過ぎた老婦人まで、また著名な学者・作家・詩歌人・随筆家等の、充実した文芸・文章・研究で、文字どおり多彩な「e -文庫・湖」を成しています。
どうぞ、ご参加下さいますように。
一つには「湖の本」を支えて下さる方々が、いい読み手であるだけでなく、いい書き手でもあられることを、十五年のお付き合いでかなりよく存じ上げていました。
一つには、優れた文芸・文章を「e-文庫・湖」に満載することで、新世紀「電子文芸」の若い才能登場に呼び水となっていただきたいのです。
どうぞ、ご寄稿下さいますように。
営利目的でなく「原稿料」は出せません。むろん「掲載料」も無用です。まさしく世界へ開かれた広大な電子の「広場」に、お気に入りの、あるいはお心残りの過去のお作やご文章をお分かち下さいますよう、重ね重ねお願い申し上げます。
* 初期以来のご自撰の短歌・俳句(五十作品)を戴かせて下さい。
* 詩作品を数編、戴かせて下さい。
* エッセイ・紀行・講演録・論考・批評・評論を戴かせて下さい。
申し訳ありませんが、取捨・編集は、編輯者にお任せ下さい。(このお願いは湖の本読者の皆様へのものですが、他の方へのお願いにも使わせて戴きます。お許し下さい。)
「e-文庫・湖 umi」責任編輯 秦 恒平
2001 2・23 8

* 高橋由美子さんが小説「神楽岡」の続編「一本松」を送ってきた。ゆっくり読みたい。
2001 3・1 8

* 出かけたいが、吹きすさむ風の声を聞いていると、日差しは晴れやかだが、目のかゆさ、鼻のぐずつきに、おそれをなしてしまう。

* 阪森郁代さんの寄稿、自撰短歌五十首「バロック嫌ひ」を掲載した。若い頃に短歌賞を受賞している人で、当時引き受けていた朝日新聞の「短歌時評」でわたしもとりあげた記憶がある。しばらく、湖の本の読者でもあった。会ったことはないが、久しいご縁である。塚本邦雄の選をしている「玲瓏」を場に作歌していると聞いている。歌のスタイルは、むしろバロック風と観られるだろうか。最初の歌集の時期に、力ある表現の歌がならんでいた。後年の歌は、すこし、しどけないのかも知れぬ。わたしの好みでいえば、であるが。
2001 3・5 8

* はじめまして。 ホームページを愛読しています。毎日、膨大な量の更新と、またその文章の迫力に圧倒されています。
『こころ』の講義録が、とても印象に残りました。
また、日記の中で、表現のマグマを溜める必要性を述べられたときには、私自身のホームページをどうしようか、悩みました。
『こころ』の講義録を読み、じっさいに『こころ』を再読したくなり、今朝読み終えて、ホームページに文章を綴りましたので、お時間があるときに目を通していただけるとありがたいです。
なお、私は、少し前までの秦先生と同業者で、東京経済大学で教職課程を担当しています。新米で4年間終えたところです。『東工大「文学」教授の幸福』を読み、深み・厚みには遙かな差がありますが、私と同じ地平を見つめて、実践されている方が存在することに、喜びを覚えました。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
秦先生の日記にありました小森健太朗さんは、大学院での私の一年先輩です。但し、私には、小森さんのような文才はありませんが。
それでは、花粉症にお気をつけて。失礼いたしました。

* 短い感想だが、きっぱり書かれてあり、「e-文庫・湖」の第三頁に頂戴した。
2001 3・7 8

* 門脇照男氏のおゆるしを得て、「上林暁」との出会いを書かれたエッセイを「e-文庫・湖」第三頁に掲載した。
2001 3・12 8

* 石黒清介氏へお願いしたところ、快く、歌集「桃の木」からの選抄を許されたので、「e-文庫・湖」の第七頁に掲載した。
2001 3・16 8

* 東洋女子短大の北田敬子さんに戴いた、ことばを考える会共著の『対話』は興味深いインターネット考察で、読み始めて、やめられない。北田さんの巻頭論文のわが「e-文庫・湖」への転載を許してもらえたので、早い時点でスキャンしたい。北田さんはロマンチックな詩人でもあるが、この学術的な散文の的確で明晰に読みやすいことにも驚嘆している。一つには日々に感じていることで、分かりが早いとも言えるが。今朝一番にもらった北田敬子さんのメールも、ぜひお許しを得てここに紹介したい、多く広く読まれて欲しい。私のことに触れた箇所よりも、インターネットやメールの「表現」にかかわる箇所がことに大切だと思う。そして、それにふさわしい「工夫」のますます必要であるという点も。これは、大げさに言えば画期的なところに深く触れた「希望」のメールであり、引用されて佳い内容に富んでいる。
日々に幾つも内容のゆたかに佳いメールが届く。だが、問題も無いわけではない。自筆の手紙でも肉声の電話でもない電子メールには、ワープロ書きの郵便とはまたちがった表現上の問題や事故も起きやすい。わたしは、それに興味を持つ。興味は尽きない。

* メールをありがとうございます。
随分のご無沙汰の上に、突然拙い本などお送りいたしましたご無礼をお詫び申し上げなくてはと思っておりましたのに、「私語の刻」でも触れていただきましたこと、何と御礼申し上げたらよいでしょう。秦様の元には数々のご本が送られて来るに違いありません。見つけてお読み下さったことに重ねて深く感謝いたします。
> 御本の巻頭論文、さっそく拝見しました。こういう検討がいろいろに始まってゆか    >ねばならぬ時期と考えていました。わたくしの電子メディア研究会でも、その方へ     >関心を振り向けようとしています。
秦様のご紹介下さる数々のメールを拝読しておりますと、メールそのものが貴重な作品である場合のとても多いことにあらためて驚きます。元学生さんとおぼしき若々しい文体、長く深く読書と思索を続けてこられたに違いない達意の文章、軽妙洒脱な含蓄ある短信など、「雁信」のページはおことば通りさまざまな表現のショーケースのようです。全く書き手のことを知らなくても、文が自ずと語る場合のいかに多いことか。それが手紙ではなくメールだから可能になったのではないかと思えてなりません。少なくともああして公開され、不特定多数の人々に共有されることで幾度も新たな命を与えられることになる文章は、インターネット時代の申し子といえましょう。「書簡集」として大仰な装丁を施され書店に並ばなくとも、余程多くの読み手との出会いに恵まれるに違いありません。
皮肉なことに、最近メールのやり取りや日記、雑文などをそのまま活字にして出版する風潮も出始めています。私は店頭でそれらを立ち読みしますが、まず買うことはありません。紙の上に印字されたとたんに、オンラインではさぞ生き生きしていたであろうことばが、平坦な駄文の羅列に見えることが多いからです。メールはいわば生きたままやり取りされる鮮魚のようなところがあります。こちらの海からそちらの海へ。あるいは湖から湖へ。その泳ぐ様をモニター上で知らぬ者同士も自由に眺める贅沢をする。それが秦様の「雁信」のページと、私は感じております。
想像いたしますに、それでも公開されない文章の方がずっと多いのではないでしょうか。書かれた文脈を外れると意味をなさないものや、プライバシーに関わることを多く含むものなど、個人から個人に手渡されて役目を全うするメールは数限りないと思います。そうして人の目に触れずに幾千万の文章が、日々綴られラインを行き来していると思うだけ
でも圧倒されます。これまでも手紙の行き来は無数にありました。しかし、これほどまでに個人が自由に書く時代は嘗て無かったのではないでしょうか。消えるには惜しい文章がネット上を行き交うとしたら、その実践の上に、表でひらく精華もあるはずと期待できるかも知れません。
「権威」が印刷され出版されるものだけを認知する時代は、そう長く続かないようにも思います。
> ホームページの試みも、いろんな方の電子メールをあえて取り纏めて公開させてい
>ただいているのも、いくらかはその資料を提示したいからで。どのように「表現」が   >質を変えるのか変えないのか、新しい書き手の登場にむすびつくものかどうかと、「e-    >文庫・湖umi」はいま呼び水・誘い水を一心に用意しています。
新聞紙上でも秦様の試みが取り上げられているのを拝読いたしました。高揚した面もちでその切り抜きを手渡してくれたのは、パソコンともインターネットとも無縁の暮らしをしている私の母です。母は目が悪いので、今からモニターと格闘するのは無理でしょう。強いるつもりもありません。私でさえ長くモニターばかり睨んでいると目がショボショボしてきて、頭痛にも襲われます。
やはり電子本の普及には、画面上での読みやすさが最大の課題ではないでしょうか。縦書きや、エキスバンドブック形式など、様々な試みも進んでいますが、未だ幾つものステップを踏まないと読みやすい表示に辿り着かないのが少々辛いところです。
秦様のサイトにお伺いして私がいつも思うのも、この点です。誠に不躾な物言いをお許し願いたいのですが、「e-文庫・湖」にある作品の配列、レイアウト、目次、リンクなどが、今少し整備されたら、読者はさらに増えるに違いありません。ウェッブデザインという分野と文学とは、歩み寄り、手を携えて進んでいくものではないかと期待しております。私もこのことに関心とエネルギーを注ぎながら数年暮らしております。
ある長さを持って初めて意味をなし感興を呼ぶ文学特品に相応しい表示(アウトプット)を考案していくのは是非若い人々の進出し開拓する分野として発展して欲しいものです。特に、女性はこの分野に適性を持つ人が多いように思います。私事になりますが、自分の個人サイトの「新・三行日記」というものの背景画像を、私はあるときから小学六年生
の娘に任せてみました。毎月変わります。彼女は誰にも教わらずに体得した画像ソフトを自在に使いこなして、その月に相応しい背景を提供してくれます。書き手である母親の注文にも耳を傾けて、工夫をしてくれます。彼女自身も自分のサイトの主催者ですから、親子とは言え私たちは同志、あるいはライバルでもあります。この切磋琢磨を楽しみつつ、私は次の世代の動向に注目しているところです。
捨てたものではありません。比べるのは余りにもおこがましいと十分自覚しつつ、秦様がご子息の舞台に感じていらっしゃるであろうことに少し似ているかな、とも想像しております。
> あなたの巻頭論文などもこう新刊でなければすぐにも頂戴したいぐらいです。おゆ    >るしがあれば、嬉しいことです。
掲載して下さるのですか。(それとも私の読み違いでしょうか。)もし掲載していただけるのなら、光栄です。手元のテキストファイルを整備し直し、近日中にメールに添付してお送りいたします。また、私自身のサイトにも同文の掲載を予定しておりましたが、それでも構わないでしょうか。
ネット上に散らばる幾多のサイトが呼応し緩やかに連携を保ちつつ、新たな言語表現の地平を切り開いていくものなら、この時代に生まれた幸運を祝ってもよいような気がして参ります。本日お送りいただきましたメッセージに強い励ましをいただきましたこと、あらためて深く御礼申し上げます。
春未だ浅い日々、何卒ご自愛専一にお過ごし下さいませ。 北田敬子
2001 3・18 8

* 優れた歌人であり、新制中学時代の恩師でもある信ヶ原綾先生の自撰五十首「彼岸此岸」を「e-文庫・湖」の第七頁に、また喜寿を迎えようという真岡市在住の随筆家渡辺通枝さんの随筆三編を新刊の『文箱』から頂戴し、第五頁にすでに掲載した。信ケ原先生の激情をはらんで深沈たる短歌には、書き写しながら感歎したし、渡辺さんの淡々と澄み
切った境涯にも共感した。
2001 3・18 8

* 山形の高橋光義さんの自撰五十首「茜さす」を今朝戴き、いま「e-文庫・湖」詩歌の頁に掲載した。しみじみと佳い作がことに前半にならんで、感銘を受けた。昨日の信ヶ原綾先生の述懐といい、今高橋さんの五十首といい、ああこういう短歌がきちっと歌われ続ければ短歌の命の緒はまだまだ丈夫だと、心嬉しく、一首ずつ書き写していった。
問題は小説である。力ある新人の登場が、力作が、期待される。小説は難しい。ほんとうに難しい。半端な妥協で作者を惑わせてはいけないし、力づけたくもあるし。
2001 3・19 8

* 留守のうちにこの器械仕事の場を適当に模様替えされていて、かなり落ち着かない。

* 北田敬子さんの論文「窓越しの対話 インターネットでことばを磨く」を、「e-文庫・湖」の第11頁に、アップトゥデートな「論説・提言」の頁を新設して、掲載した。問題点を丁寧に取り纏めて考察も適切な、いま、最も必要な文章の一つであると思っている。広く読まれたいと願う。
2001 3・22 8

* 続々とベテランからの「e-文庫・湖」寄稿の申し出がある。原稿も届いている。若い人にもぜひ頑張って欲しい。
2001 3・23 8

* お手間をおかけいたしました。
早速サイトを訪問いたしました。一つの項目を設けて掲載して下さったことに驚いております。文学作品の並ぶ中にあって、いかにも堅物な文章ですが、居心地のよい部屋をあてがっていただいたようで、御礼申し上げます。いずれ同室に沢山お仲間が登場するであろうと、楽しみに待ちます。「メディア論」とやらは最近の流行だとか。私はただ、自分が日々繰り返すパソコンを通じての書く作業、そしてパソコンを通じての人との出会いの「実感」を作文いたしました。お目に止まった幸運を心から喜んでおります。
段落の間を一行空けて下さいなどと、厚かましいお願いをいたしました。その願いも叶えて下さいまして、どうもありがとうございます。URLは、無くても一向構いません。もし何かのことで興味を持って下さる方がおありになれば、きっとブラウザーの検索エンジンで探し当てて下さるでしょう。キーワードは読み手が挙げて下さるはず。そのパズルのようなクイズのようなゲームのようなプロセスも、また興味深いものです。時々、思いがけない方から、「サイトを見ました」とのお便りを頂きます。その方の興味と私のことばがどこかでカチリと合致することがあるのでしょう。特に海外から飛び込むメールには「一体どの様にして?」と、このインターネットの仕組みの面白さを再認識させられます。もしもどこかにURLを入れて下さるのなら、私の文章の末尾にでも
http://www.kitada.com/~keiko
とお書き添え下さい。この魔法の文字には思わぬ効用があります。
> むかし、あなたの詩をはじめてみてイタズラのフリをしましたね。
>あの、あなたの 詩を欲しいなと思いますが。
あれは「イタズラのフリ」だったのですか(笑)。大変印象深いイタズラでした。でも、あれらの詩が秦様のサイトに並ぶ詩歌の列に加われるようなものでないことは、私自身が一番よく心得ているつもりです。
あの頃、私は表現したい思いだけに突き動かされて文を綴っておりました。パソコン・インターネット・ウェッブサイトという「道具と場」を得て興奮していました。たまたま読んでくれた知人から、痛烈に批判され、何度ももう止めようと思いながら今日まで来ました。
私の工夫の一つは、「日記」であれ、「短歌」であれ、「これは英訳可能だろうか」と自分に問い、日英併記にすることです。海外の読者を求めているのでもあり、自分の書く日本語から「独りよがり」なところを削る意味もあります。その英語は単純なものですが、コンスタントに読んでくれる友人もいて、ありがたく思っています。それにしても、「毎日書く」だけが文章修行であるというのも、進歩がないように思えることがあります。もっと読書に時間とエネルギーを振り向けたいと思います。これもなかなか思うようには参りません。勉強いたします。
「書籍」が縁結びをしてくれたことに、やはり意味深いものを感じます。どうか御身お大切にお過ごし下さいませ。

* 「縁」とは嬉しい意味深い言葉である。 2001 3・24 8

* 田中荘介氏の寄稿による一編の詩を「e-文庫・湖」に掲載した。上野重光氏の「四重奏」は、スキャン原稿の校訂に手間取っている。かなづかいが、歴史的なのと現代のと、むちゃくちゃに混同使用されていて整頓しなければ成らず、組み付けも能など、かなり複雑な作業なので。数十枚のスキャン作業には、かなり長時間かかる。そして一字ずつの校正が必要になる。メールで送られてくれば、原稿どおり校正ミスのおそれなく、素早く作業がはかどる。やってみて、パソコンの貼り付け機能に今更感謝したくなる。
2001 3・25 8

* 上野重光氏の、狂言・浄瑠璃・能・小説を一気に仮にわたしが「四重奏」と名付け、「e-文庫・湖」第2頁に掲載した。もっとも能「沈黙」はまだ本文の校閲ができていない。個人誌「晴巒」を刊行し、創作歴のながい、しかし、まだ若い作者なのではないかと想像している。久しい湖の本の読者でもある。この四重奏はいわば上野さんの手の内をならべた感じで、どのように読者は読まれるだろうか。能、狂言、新内、茶の湯、焼き物など、わたしの好みに極めて近接しているので照れくさくもあるが親しくもある。こういう作柄では、とかく作者の方が読者より先に舞って酔ってしまうこともあり、その辺だけは心していたい。
英文の「TATAMI=畳」を「NOH=能』『NIWA=庭」についで第9頁に掲載した。もう一本「MAKU-NO-UCHI-BENTO=幕の内弁当」も近いうちに掲載する。いずれも短いものだが適切な理解を示し得たと思っている。これらの原稿をかつて掲載した平凡社刊の『日本を知る101章』は、便利な佳い本であった。
2001 3・26 8

* 東工大の女性で、院生のあいだに、思い立って研究室から日々の短歌をわたしのもとへメールで送り続けた人がいた。わたしも批評し続けていた。纏めてみると三百数十首にもなっていた。卒業し就職して中断していたが、また作歌しはじめたようだ、自分のホームページに書き込み始めたと報せてきた。以前の作品もみな取り纏めて書き込んだようなので、読みなおしてみたい。
2001 3・26 8

* 「e-文庫・湖」の第2頁に、高橋由美子さんの創作を「森へ」を掲載した。二作目である。まだ、どこへ行き着くか分からないが、何かがあり得るかと、待っている。いま、もう一人の人の投稿作も読んでいる。年齢的にも生活の状況も二人は似ているのかも知れない、二人とも会ったことのない書き手だが。
2001 3・28 8

* 歌人高橋幸子さんの自撰五十首を「ひともと芒」と題して、「e-文庫・湖」第七頁に掲載した。和歌や歌謡の味わいを飄逸に、だがしっとりとした措辞の妙にのせて歌いだせる達人である。能の舞いや謡いに自身堪能な人で、連句も嗜まれる。湖の本でも、久しい有り難いお付き合いである。
今日は、義妹の詩編と、短歌の冬道麻子さんからの私家集が、それぞれべつに届いている。

* 案の定、浜松中納言物語が届いた。嬉しくて堪らない。なにしろ古典に触れ始めて以来贔屓の更級日記著者による創作か、といわれているのが一つは大好きな「夜の寝覚」で、もう一つがこの「浜松中納言物語」だ。しかも初めての出逢いだ。次は「うつほ物語」の第二巻が来るという。日本書紀にとりつけるのはだいぶ先のことになりそうだ。ゆうべも遅くまで栄花物語にとりつかれ、夢にまでみてしまった。
2001 3・28 8

* 妻の妹黒澤琉美子から、亡き兄保富庚午を偲ぶ詩編二十余が送られてきた。兄にもらった筆名の「あぐり」で。七編を選んで、これは、「e-文庫・湖」第一頁の追悼のなかに組み入れた。義妹は、気持ちの澄んだ詩を書き、巧みに繪も描く。詩も繪も、少し身贔屓していえば、素人ばなれがしている。
2001 3・29 8

* 和泉鮎子さんの自撰五十首「十六」を、昨日の高橋幸子さんについで、今届いたメールから「e-文庫・湖」第七頁のトップに入れた。たいへんみごとに撰歌されていて、読み応えがあった。
人によらず、ただもう届いた順番に積み足している。新しい寄稿が頁のいちばん前に来る。すでに二十人。 いずれ、この詩歌の頁は、人もおどろく充実の詞華集「湖=umi」として識られるようになる。寄稿を予定してくれている人は跡を絶たずある。手元に、なお二三控えている。
上野重光氏の創作「四重奏」の「能・沈黙」も、作者自身でテキストにして再信され、いま、所定の位置に他の三作とともに掲載した。力作である。能の表記法などおいおいに工夫してもう一段読みやすくしたい。
2001 3・29 8

以下のメールをもらっていた。朝から、気分がシャンとした。

* じれったい私の作品のために、大変御面倒をおかけし、心より御礼申し上げます。
中学生の時にビートルズに出会い、音楽に傾倒してから、30数年聞き続け、今も音楽を中心にしたお店で働いております。音楽は私にとってただの趣味ではなく、生き方そのものであり、また、はやり廃りとは関係なく、詩や音作りに思想や哲学を持ったものに惹かれてまいりました。そこがうまく書けないのですが。
私の若い頃は、人生の模範にしたい人が見当たりませんでした。芸術に貴賎があると思っている一部の中には、ろくに教育を受けていない4人の若者が(ビートルズ)大きな才能を持ち高い評価を受けていることに耐えられない人もいました。しかし彼等は、国を超え言語の壁を破り、世界中の若者を熱狂させ、あらゆる決まりごとや権威主義を破壊しました。
作中のグレイトフル・デッドは、その詩がビートニクの流れを受け、オリジナリテイ溢れる音楽で多くの若者をやはり熱狂させました。かれらの音楽からは、激しく鳴らせば強い気持ちが伝わるものではないと、むしろ研ぎすまされたやさしい音のほうが、ときには強い気持ちを伝えることができると、教えられました。音楽を集中して聴くことは、自分以外のすべてのものを見ることだとも。日本人のなかにはただのヒッピーバンドと捉える人もいるようですが、かれらは多様な音楽的実験を試み、他のバンドに先駆けてインターネットで世界中のフアンに情報を発信していました。ほとんどのロックが巨大音楽産業に飲み込まれて行く中、決して自分たちのやりかたを変えることなく全米ナンバー1ヒットも飛ばし、95年のリーダーの死をもって、30年の活動に終止符をうちました。
音楽以外では、70年代の激しい時代のうねり、映画やアートに強い影響を受けました。

* 「森へ」の作者から、はじめて、こういう肉声を聴いた。これまでは普通のメールの往来と、ただ書かれたものを読んでいただけ。此処に書かれた「音楽」事情などは、わたしの最も疎い領分で、作品を読んでいてもその音楽のことは、作の仮構なのかそういうレコードが実在するのか分からなかった。正直のところ音楽のもつヴィジョン(音楽に対してへんな物言いだけれど、)はよく掴めなかった。作者の上の感想をナマで書き込むわけには行かなかったが。
とにかく新鮮な印象を、作に対し、作者に対し付け加え得たのは有り難い。「若い」主婦ではないとことわっているが、それも知らない。わたしよりは、だいぶん若いのはたしかだろう。
上のメールからは、さすがに作中の少女とはべつの明晰な意識が感じ取れる。どのように作の世界が拡充し佳い映像を描き出してゆくか楽しみたい。何が書きたいのか。その強い把握から深い美しい真実感に富んだ表現を期待したい。
「森へ」は、さらに新たに作者の手の入った新稿に入れ替えてある。

* 「仕事は遅いほうではない」というようなこと、おっしゃってでしたけれど、まあ、びっくりいたしました。さっそく、お目を通してくださり、身に過ぎたおことばを添えて、「のぞみ」並みの早さで、「e文庫-湖」に掲載してくださいました。うれしうございます。
「十六」という題に、はっと、胸をつかれ、そして、なんという佳い題をくだされたものかと、目頭があつくなりました。永遠に十六歳であるおとうとへの何よりの賜りものでございます。
『修羅』の箱、そして、このたびの「湖」の扉の、あの「十六」、それから舞台の敦盛や経政をおもった、わが思いあがり、おゆるしいただきとうございます。一所懸命生きた少年ということで。
幾箇所かに、ふりがなをつけてくださいましたお心配りも、かたじけないことでございます。
いま、「絵本」を、縦書きにしてプリントさせていただき、読んだところでございます。「セキツイカリエス」ということばを、わたくしも少女のとき、知りました。長女であった母の末の弟、叔父さんというには若過ぎて、みき-おにいちゃんと呼んでいましたが、それを病んでいました。『「世の中」というところ』へ出てゆく間なく、あの世というところへ行ってしまいました。
おとぎばなしめかせているけれど、こわれそうなうつくしさと浮游感、その裏にうっすら刷かれている酷薄。繊細な少女の目がとらえた、かの日かの時かのところ。もう、地上のどこにもない──。
忘れていた記憶を呼びさまされ、わたくしが、亡きひとに捧げ得なかったことばのくさぐさに思いいたったりしました。はては、「小さな木の寝台」に少女のわたしがすわっていたり……。
かなしくてうつくしい刻を分かち与えていただきました。
ねむりにくい夜になりそう。しずかにおもうことにいたしまょう。この詩を、わが亡き人たちを。
2001 3・30 8

* 詩人で写真家の中川肇氏の、美しい詩17編を写真詩集『かけがえのない』から選ばせてもらったのを、「e-文庫・湖」第七頁に掲載した。一読感銘をえられるであろうと思う。目の覚める美しい詩的な写真を撮られ、それに詩が一つずつ添っている。写真がないと分からないのは省き、詩だけでわたしの胸にしみじみしみた作品を選び採らせてもらった。おみごとである。
2001 3・31 8

* とうとう三月も終わりになりました。宿題が大変遅くなって申し訳ありません。たったこれだけのものを纏めるのに一ヶ月近くもかかってしまいました。
纏めながら、高等学校で美術の専門教育として、如何してもしなければならないことは何か?を考えつづけていました。そして、やはり「写生だ」と思いました。「観察し、忠実に写しとる」これを繰り返し行うことで「観る力を養い、造形の力を培う」ことが何より重要な基本だと言えそうです。大学でだって同じですね。
しかし、実際には毎日毎日写生の繰り返しをするのは退屈なものです。ここで秦さんがたびたびエッセイで言っておられる「一期一会」の精神が重要になるのですね。
以下、学校の独立に至るまでの経過を書きましたが、わざわざ読んでいただくほどのものではないかと思いながら、宿題なので送ります。

* 京都の陶芸作家で、銅駝美術高校の校長先生であった、昔、一緒に平凡社のやきもの取材に九州の窯場を巡り歩いた江口滉さんが、「美術専門教育の高校」について、実体験にもとづき銅駝校の歴史的な沿革を書いてきて下さった。一二項の追加で、じつに貴重なすばらしい資料になる。一気に興味津々、読んだ。いま追加をお願いのメールを送った。京都でやっている雑誌「美術京都」の論説原稿としてもぜひ欲しい。

* 日々に新鮮な刺激を受けることができる。わたしに、このインターネットが今もし無かったら、それはそれで別の工夫もしているに違いないが、このホームページに満載されている多くが、つまり「無い」日々なのだと想像すると、やはり、おどろくのである。液晶の影のような文字や映像でどんな実感に触れたものが得られるものか、などと、したり顔の人もいるけれど、そういう肩肘張った偏見は、お気の毒というしかない。インターネットのために、それだけが唯一の価値のように囚われたりしていない人間なら、これを生き生きと利用し活用することは、難なく、できるし、またそういう者には、インターネッが無かったら無かったで、これまた別の活況が工夫し出せるのである。とらわれるから、感想が偏ってしまうのだ。
2001 3・31 8

* 今日は、長い原稿を二つ、お返ししなければならなかった。一つは未推敲原稿であった。一つは、あまりにも昔の事件に密着していて、読者に周到で公平な説明をしないと理解しきれまいという原稿であった。どちらも、いいものなのだが、惜しかった。
2001 4・2 9

* 陶芸家で、京都市立銅駝美術工芸高等学校の前校長江口滉さんの、充実した「論説・提言」を戴いて「e-文庫・湖」第十一頁に掲載した。有り難い。
2001 4・4 9

* 作家の庄司肇さんからも出久根達郎さんからも、作品を自由に「e-文庫・湖」に使って下さいと言われている。忝ない。新人の小説も読みたい。
2001 4・7 9

* 結城信一研究で知られた矢部登氏から「結城信一の肖像」を寄稿していただいた。研究の基盤をなす基本の理解が「肖像」のなのもとに要領よく展開されていて、きわめて的確・適切な紹介である。いい年譜がそうであるように、いい紹介とは研究成果の煮詰まったものであり、貴重なのである。愛読されるのを願っている。結城信一は幸せである。
2001 4・10 9

* このホームページの「雑輯」第二頁は、「e-文庫・湖」編輯者としてのわたしから、寄稿者へ、感謝や、忌憚のない感想や意見や注文を書き送ったものの「控え」である。自然、創作者としてのわたしの感覚と経験とが出ている。多忙に紛れ昨年暮れからこの三月半ばまでの分がぬけているが、新しいところを追加してある。参考にと思われる方は目を向けてください。
2001 4・10 9

* 昔、東工大よりも昔に、頼まれて二年間早稲田で文芸科のゼミ指導をした。その時の教え子の一人が今の作家の角田光代で、五枚、二十枚、五十枚の三作を書かせて批評していた。角田光代のどれかの作を教室で読んで批評したのも憶えている。湖の本も何冊か買ってくれている。角田光代より一年上に、宮沢賢治研究などで仕事をしてきた平澤信一君から、今日「e-文庫・湖」へ寄稿があった。懐かしい。
2001 4・11 9

* 出久根達郎氏にも高史明氏にも庄司肇氏にも、また木島始氏にも眉村卓氏にも、「e-文庫・湖」に、自分の文章をどうぞご自由にと言われている。よく選ばせていただこうと思う。
2001 4・12 9

* 「e-文庫・湖」第二頁に、直木賞作家出久根達郎さんの創作「貧の功徳」「タンポポ」の二編を、『門出の人』と題して掲載した。嬉しいことである。また先の「四重奏」の作家上野重光さんの新作「泥眼」を、あえて寄稿されたままの表現で仮に掲載してみた。編輯者としては、全体にもっと推敲して欲しいと頼んである。前半と後半との微妙な落差も気になっているし、結びの処も言い足りていないようである、が、力のある書き手なので、どのように直ってくるかを読者と共に期待したいと、趣向にして気の毒だが、掲載させてもらった。
2001 4・13 9

* 三木聆古さんの自撰五十句「寒鯉」を「e-文庫・湖」第七頁に掲載した。瞬間風速のような透徹した表現の妙に何度も感じ入りながら書き込んだ。もう詩歌欄だけで二十二人の作品が掲載されている。いずれも、鑑賞に豊かに堪える作品集である。
2001 4・13 9

* 新城市の詩人紫圭子さんの「白い野生の馬(ムスタング)」を詞華集『EUROPE』から頂戴し、「e-文庫・湖」第七頁に掲載した。
2001 4・14 9

* 「e-literary magazine 湖(umi)文庫」ということに、する。magazine には「価値あるものの倉庫」の意味がある。まさに「文庫」である。第五頁に望月太左衛さんの「お座敷はライブハウス」と題した心意気の文章を頂戴した。邦楽囃子方の気迫横溢・藝満点の女師匠さんである。第六頁の「人と思想」の欄には作家高史明さんの講演録「いのちの声が聞こえますか」を頂戴できた。かなり長い。心静かに読んでいただろうと、連載風に、三回ぐらいにわけてスキャンし掲載し行こうと、最初の三分の一を用意した。
2001 4・15 9

* 真岡哲夫氏の長編「会議は踊る スコットランド・イギリス紀行」を、まず三分の一ほど掲載した。以前に読んでいて、書きたいだけを全部書いてしまっているが、それがけっこう面白いのを覚えていた。こういうのを、このままにしてしまうのは惜しいではないかという気持ちも、「e-文庫・湖」の着想に影響していた。平澤信一君の「廬山論」も、上野重光氏の「泥眼」二稿も届いている。目を通して掲載してゆきたい。
2001 4・16 9

* 札幌の真岡さんの文章に、こう添削してみてはと送った原稿を、元原稿とていねいに照合し、線で見せ消ちにし朱字で書き分けるなど、一目瞭然にしたのを見せてもらった。おもしろいものになっているので、貼り込もうとしたが、うまく行かない。「画像変換」という窓が出てくる。テキスト原稿に直すと、真岡さんの作業がフラットになってしまう。
残念。我が技量では、出来ないことが出来ることより遙かに遙かに多い。
2001 4・17 9

* 長谷えみ子さんの自撰五十首をいただいた。三十年のお付き合いになる。しみじみと読み、ていねいに書き写した。どうしても、無名鬼村上一郎さんの風貌や肉声がきこえてくる。ああ、懐かしいなあと涙が浮いてくる。「文庫」の第七頁に掲載した。
手の入ってきた上野重光氏の小説「泥眼」を第二頁に、平澤信一氏の「『廬山』まで」を第四頁に掲載した。第六頁では高史明氏の講演録が、第八頁では真岡哲夫氏の紀行が「連載」中である。
2001 4・18 9

* 久しいご縁の萬田務さんの、「秦恒平『廬山』」というかなりもう昔の原稿を「e-文庫」に戴いた。神田神保町辺で初対面のインタビューを受けて書かれた紹介記事であった。作品はまだ「閨秀」を出したぐらいな時期で。平澤信一氏の「廬山論」とたまたま並んだが、それはそれで、有り難い。京都の河野仁昭さんにも頂戴したいと思っている。
長谷えみ子さんについで、今日は北澤郁子さんの自撰五十首を頂戴した。ワープロプリントで届くと、スキャンして即刻掲載できる。詩歌の作者達は、それぞれの世間ですでに活躍されていて、わたしの敬愛できる人へ声をかけるようにしている。水準の高いのは自然なことである。
2001 4・19 9

* 長谷川泉氏の「書縁千里」という、わたし自身にかかわって深切に書いて下さったエッセイを頂戴して、「e-文庫」の第三頁に掲載した。感謝する。
2001 4・21 9

* 「e-文庫・湖」第七頁に、神戸の木山蕃氏の記念碑的な歌材「鬼会」を中心にしたユニークな自撰五十首「鬼役」を掲載した。興味深い表現に満ちている。
ラフな「私語」を書き散らしていて恥じ入る。
2001 4・23 9

* 吉田優子さんの小説「さぎむすめ」を第二頁にあえて今のまま掲載してみた。編輯者の思いは、作品の前後に添えて明らかにしてある。すぐれた文学作品に澄み切る要素を持っている。通俗読み物にずり落ちるおそれも持っている。文学の文章にどう仕上げきるか、作者の勉強に賭けたい。
2001 4・25 9

* 京都の河野仁昭氏からも、「e-文庫」にいいようにお使い下さいと転載を認めてもらった。「京都」そしてわたしの作品『初恋』を介して、もう久しいご縁である。氏は、京都にあり、盛んに京都を書かれている。『中村栄助と明治の京都』など優れた仕事であった。京都の谷崎についても書かれている。去年のペンの京都大会で初めて、か、二度目を、逢っている。『初恋』を周到に紹介してくださった論文があり、それが欲しいと思う。

* 高史明さんの講演をじりじりと掲載し続けているが、なかなか深い。知識で話さずに魂のはたらきとしては話し続けておられる。胸にひびき、スキャン原稿の校正をしながら引きこまれるように読んでいる。哲学者や宗教家からは、こういう魂の声がとどいてこない。識で、知識で、彼らは評論する。生死のきわから話してくれない。だから読んでいても、混乱はともすれば深まり、なかなかラクになれない。高さんのような人の声が尊い。浅いようで深い。畏ろしい。
2001 4・26 9

* さぎ掲載 感謝
吉田です。ご批評ありがとうございました。
これまでにいただいた助言の数々、推敲を重ねているうちに、そうか、そういうことか、と納得してきました。これは、書くという作業なしでは理解しえなかっただろうなと思います。理屈はわかったつもりでいても。
そしてまた新たなご指摘、「清潔な文章の力でよごれを清拭」するということも、一人で書いていたらそこに思い当たるまでにどれほどの時間を要したことかと、あるいは思い当たらぬままに終わったのではないかと、学べるうれしさ、ありがたさを噛みしめております。
「清潔な文章の力でよごれを清拭」と読んでまず思い浮かんだのは、秦さんは勿論ですが、川端康成でした。川端康成の作品には、物語だけを追えば通俗小説ともとれそうなほど奇想に展開するものがあります(小説を読むとき、物語を愉しむという姿勢が、どうやらわたしにはあるようです)。おそらく、文学全集にのっかっているような純文学の小説のどれにも、物語はあると思います。アンチロマンでさえも、何かしら筋はあると。
では、なぜ川端康成なのかというと、湖面のように静かに澄んでいてうつくしいあの文章から立ち昇ってくるどうしようもない個の寂しさに、わたしは惹かれているのではないかと思うのです。「眠れる美女」は、老人が少女を玩弄する話、とえげつない言い方もできるものですが、清らかに読ませるのは、筆力というものでしょうか。「みづうみ」は今でいうストーキング以外の何物でもありませんが、劣等感と孤独が哀しく響いてくる作品です。確か「たんぽぽ」という未完の作では、人だけが見えなくなるという奇病に冒された女性の登場に驚かされましたが、人だけが見えない、ということの根の奥に思いをめぐらしてみれば、抱き締めてくれる人の存在さえも疑わざるをえない、何と心細い個であるかと、胸の中がしんと静まります。しかしそれらは決して胸蓋ぐものではありません。
人は、多少の境遇の差こそあれ、生来孤独を抱えて生きていると思います。であるからこそ、秦さんのおっしゃる「身内」を求めてやまないのだと思うのです。そういう希求が、彼の作品からはもどかしいながらも、伝わって来るのです。文章は、一朝一夕によくなるものではないと、これは悠長に構えているわけではなく、思っています。何しろ勉強が足りない、修業が足りないのですから、こつこつやるしかありません。でも、もう二十七歳です。川端康成なら「伊豆の踊り子」を書いてる歳です。川端康成を引きあいに出すのもなんですが、せめて思っていることを書いて表現できるようになりたい、その一心で臨んでおります。同じ道を、と言うとおこがましい限りですが、書くことを志した大先達の秦さんの助言は、具体的なことからその意気にいたるまで、的確にして尤もで、深く考えさせられます。
ともかくも、文章の清らかさを見つめ直してみようと思います。
ああ、もう二時半を過ぎました。明日も会社です。

* 吉田優子さんの心強い嬉しい反応で、よかった。根気良い精進が、川端文学にこのように佳い視線をさしこんでいる若い書き手を励ますであろうことを期待したい。いちばん言いたかったところを、いちばんいい感じで受け止められたのは有り難い。読者の批評を得たい。これで、創作欄に、高橋由美子さん、上野重光氏、吉田優子さんと、書き手がとにかくも登場してきてくれた。もっと、もっとと願っている。
2001 4・27 9

* 高史明氏の講演「いのちの声が聞こえますか」を、「e-文庫」第六頁に全部掲載し終えた。これは近代と人間とその闇の深さに対する畏ろしい洞察を経た緊迫の声である。後半から集結へとても盛り上がる。生きのいたみに日々を呻いている人に読んで欲しい。
真岡哲夫氏の紀行は、原稿用紙で百枚もの大作であるが、全編を同じく第八頁に掲載した。
2001 4・27 9

* 「e-文庫・湖」第七頁に、玉井清弘氏の澄んで水をひくような清酒に似た自撰五十首を戴いた。長塚節を現代に蘇らせたような静かな境涯に現代の哀情の沈透く短歌だと、久しく敬愛してきた。玉井氏のような優れた歌人が世間に大勢ひそやかに隠れている。隠れていると言っては失礼だろうが、東京界隈に住んでただ地の利だけで、やわな歌人がマスコミ受けしているのを見ているのは、ときに苦々しい。
2001 4・28 9

* 吉田優子さんの「さぎむすめ」に、高校を出てまもない少年、いや青年、の賞賛のメールが届いた。自分も作品を送ってきてくれた。ゆっくり読む。こういうふうに「e-文庫・湖」が始動してゆくのが望ましい。大勢の文学者に寄稿を頂戴しているのは、安易なことでは済まないよという誘いのメッセージのつもりだ。

* 「生活と意見」、いつも覗いています。秦さんの文章は勿論ですが、最近とくに秦さんを慕う読者の方々の言葉や文章に、とても感心させられています。いろんなところに、いろんな人がいるもんだなあ、と、当たり前のことを、とても強く実感しています。
吉田優子さんの「さぎむすめ」を読みました。なんだか、この吉田さんという方に会いたくなってきました。<面白かった>なんてモンじゃない、モロに感動しました。ときどき、言葉(単語、語句の範疇)がきらきらしすぎて、文章の流れから少し浮き気味になっているところもあったように見受けられました。しかし、路子さんのなんと美しいこと。最後の場面、思わず作者に頼みたくなりました、「ああどうか消えてしまわないで!」と。これからもぜひ書き継いでいってほしいと思います。
ものの見事に僕も触発されました。習作とも呼べないようなものですが、投稿させてください。高校時代に書き溜めたうちの、一番最後のものです。今までの自分をまとめて出す、という心積もりで送ります。お忙しいこととは思いますが、よろしくお願いします。

* 藤田理史君の「牡丹」を未推敲の現状、とりあえず、そのまま「e-文庫・湖」の「作業頁」に仮掲載しておく。漢字に?で届いている箇所もあり、作者のさらなる推敲がどう進むかを見たい。「作業頁」はいわば作者と編輯者とでの作品検討の「場」として機能させている。この作品は、まだ次の一行めを見たばかり。
「紫色の花が土の上に転がっていた。近寄ってみて、牡丹の花だと坊やは認めた。」
問題は、やはり「在る」と見ている。牡丹は転がるだろうか。崩れるとは思っていたが 2001 5・1 9

* 「雑纂 2」に入れていた「e-文庫・湖umi」寄稿者へ編輯者からの手紙は、「文庫」の第20頁に入れることにし、移転した。「雁信」も書き加えた。わたしの姿勢がはっきり見える。
2001 5・23 9

* 十時ののぞみで京都へ。途中、吉田優子さんの「さぎむすめ」三稿を読んだ。文章、ずいぶんきれいに澄んできているが、まだ推敲していい箇所がかなりあった。一つは、要所での漢語による強調や修飾がきつく響きすぎて身振りが大きく固くなった箇所がある。今ひとつは「は」「も」「て」のうるさく間延びに感じられる箇所がずいぶんある。
名の通ったある作家に、こんな文章があった。長いもののごく最初の一段である。

前の年の建仁三年九月に征夷大将軍の宣旨を受けて、鎌倉幕府の三代目の将軍となった源実朝が、この日、将軍として始めて鶴岡八幡宮に参詣した。新将軍はこの年、数えで十三歳である。

冒頭のこの短い一段落中に、「将軍」の文字が四回も用いられてる。こういうのが気になる。

先秋建仁三年の九月、鎌倉幕府三代の征夷大将軍と宣旨を受けた源実朝は、明けて新年のこの日、新将軍として初めて鶴岡八幡宮に参詣した。数えて、十三歳。

こういう行き方もあるのではないかと思った。文藝も音楽である。フォルテばかりでもピアニッシモばかりでもいけないし、間延びや不自然な違和感は困る。ここで盛り上げようというようなところで往々にして言いすぎが出る。吉田さんにもややそれがあると観た。さらに踏み込んだ感想も湧いたが、それは直接伝えたい。

* ついで藤田理史くんの「牡丹」を読んだが、題は「牡丹雪」がいいと思った。高校を出たばかりの少年、書き出しの牡丹がぼたんと落ちて路上にころがっているのだけは、椿の間違いだろうが、他は、なかなかしっかり書いていた。かなり客観視ができているなと、前作のたどたどしかったのと比べると別人のように、というより、もう長くつきあってきていつも感じていた確かな理史君に戻っていた。「おユキさん」という自分の母よりいくつか若い「芸者」をほどほどに距離を置き情もよせてそれらしく書いているのに感心した。文章ではやはり「は」「も」「て」が無駄になった箇所が目に付いたが、大きな破綻のない文章を書いている。若さゆえの新しいセンスも見えた。批評はあるが、ここには控えておく。

* ただこういうことは言える。吉田さんのも藤田君のも、パリパリするような新しい小説ではない。このまま巧くはなるだろうが、時代と切り結ぶ強い批評が表現に結びついては造形されていない。そして二作とも、途中から結末がもう見えてしまう。意外性はほとんど無い。課題は残る、と言える。その点、高橋由美子さんの第二作「森へ」など、そこそこに現代を呼吸していたと思う。
2001 5・28 9

* 藤田理史君の「牡丹雪」を、「e-文庫・湖」第二頁の創作欄に掲載した。作者は高校を今年卒業したばかりの少年。だからと言って瑕瑾を大目に見るということはできない。藝術は年齢で創るものとは言い難い。
2001 5・29 9

* さぎ三稿、ていねいに読み直しました。鉛筆を手にもって。ぜんたいに、文章がとてもすっきりしてきました。全部の七八割まで読み進めながら、あれこれの編集者たちならどう反応するだろうかと想像していました。なにかに応募して、果たして最初の関所が通れるだろうかと。まだまだ、わたしの鉛筆がだいぶ動きました。
助詞への過剰な期待感が、一つ。「は・も・に・が」をきれいに整理できれば細部のゆるみはきちんと整います。緩急も的確に。とくに感情や運びの急なところで無用の「は・も」を削るとすっと流れが自然になる。それと「ような」「ように」はたいていの場合ないほうがピシッとします、不思議なものです。「すぐに顔を前に戻した」の「に」のダブリなど。「危険を感じる暇もなく」の「も」など。「女の子に譲ってもらうことができたが」の「が」の重複も清潔感を損ねています。「譲ってもらえたが」で過不足ないのでは。「仕打ちを考えないわけにはいかず」の「は」も無くてよく、たぶん無意識に調子づけています。より丁寧な気がしたのでしょうが、取った方がすっきりしてイキがよくなります。「一週間ほど入院して、祖母は息を引き取った。役目を終えたかのように静かに去った。」も、「息を引き取った。」という耳慣れた慣用句は、削ったほうが遙かに静かです。
このレベルで言い出すと、推敲はまだまだ足りません、しかし普通の読者はこんな点には気づきません。だが、もし推敲前と推敲後とを読み比べたら分かるものです。
もう一つ、盛り上げたいときの漢語の使用が、逆効果になった箇所もあります、幾つも。言いたいところはむしろ柔らかに押し鎮め、静かなところに間延びを避けてきちっとした語彙を象嵌するのも方法です。
七八割のところで期待を持ちつつ、しかも、こうなるだろうなと予測していた通りに話が運ばれてゆく。空気が抜けてゆく気になります。
ラストシーンへの入り方ですが、路子が舞って鷺になる。鷺が死ぬ。ここが眼目なので、予定のシナリオどおりに落ち着いてしまうのが惜しまれます。このままだと僕の愛が感動に繋がらない。それがあるから路子も鷺も生きてくる。鷺も路子も実際には、此処にいなくてもいると感じさせるリアリティー。それを僕が僕の幻想の中で確保するのが本筋かも知れませんね。ちょっとラストが現実の条件にひきずられて飛翔仕切れていないかも。死なせなくても清まはることは可能かも。そのためには、まずは鷺がいて鷺が舞い、舞いくずおれて一瞬路子になり、また鷺にかえって、と、いった幻想もありえますね。音楽は僕の胸の中で鳴り続けていればいいのかも。
そんなことを思いながら新幹線にいることを忘れていましたよ。
ただ私語の刻にも書いたけれど、なぜいまこれを作者は書くのだろうという点で、編集者たちや読者たちを強く引っ張る動機の必然が、どう伝わるのか。作者は一編のただ美しいお話をつくりだしたのか、この物語にどれほどの己がモチーフを注ぎ込めていたのか、それは他者にも感じられるだろうか。そういったところが一つの問題、小さくない問題ですね。
2001 5・30 9

* 博英画伯の講演録を「e-文庫・湖」に戴けると奥さんからお手紙をもらった。スキャンを終えた。秀逸・出色の絵画論・画家論になっていて、読んでいて懐かしいだけでなく深く頷ける。嬉しいことだ。もう一両日で、校正して掲載出来るだろう。

* 木島始さんからお送り戴いた詩一編、或る跋文一章が、優れて感銘深い。詩は、ある女性の出版人に贈られた哀悼・感謝の作、文章はハンセン氏病患者たちの創作集によせたもので、往時と呼応しつつ時宜にもかない、はなはだ胸を打つ。ともにゲラがインク薄くスキャンは効きにくそうなので、じかに書き込んでみる。まず詩を「e-文庫・湖」第七頁に書き込んだ。文章も数日の内に必ず掲載したい。ご入院中も気力の衰えなくお仕事を続けられていると聞く。ご平安を切に祈る。
2001 5・30 9

* 橋本博英画伯の優れた絵画への讃歌を、「e-文庫・湖」の第六頁「人と思想」に掲載した。橋本さんとの出逢いはそう遠くないが、それでも十余年になる。人に連れて行かれた銀座「菊鮨」の止まり木に隣り合い、言葉を交わし始めた。同じ店に結婚を報じられていた歌舞伎の中村福助、当時の児太郎が来ていたのも思い出す。橋本さんとは、その後にゆっくり時間をかけて話し合ったことが一度もない。だが、湖の本や新刊の著書を介して、じつに心温かなすばらしい手紙を何度も何度も戴いた。展覧会にも何度も呼んでもらった。深く深く心をゆるしあえた文字どおりの心友であったのに、橋本画伯は新世紀を待つことなく逝去された。くやしい、寂しい別れであった。死なれたと思い、落ち込んだ。今でも寂しいのである。画伯はよく新潟の秘酒というべき旨い酒を、折りごとに送ってきて下さった。足柄の画廊から、発病されて本郷に移転して来られた頃に、逢いに行くべきだったかと悔やまれるが、因果なわたしの性格では、やはり遠慮が先立った。
この原題「笠井誠一讃歌」の講演録は、じつに優れた内容と生きた言葉を蔵しており、むしろ橋本画伯の人と芸術を語ってこれに優るものはそう有るまいと信じている。奥さんにお願いして、掲載のお聴しを得た。嬉しいことである。一字一句を校正しながら、襟を正した。原題から「絵画への讃歌」と変えた。橋本さんの遺言のようにわたしは聴くのである。絵を、ことに油絵を描く人にはどうか読んでもらいたい。

* 木島始氏がもう半世紀近く前にハンセン氏病の患者たちの文藝創作集『跫音』に寄せられた跋文も、同じく第四頁に掲載した。小泉首相のよき政治判断にいたる久しく久しい時間の意義にも思い至るね歴史的な証言の一つと言えよう。
2001 5・31 9

* 掲載、ありがとうございます。「作者がいい距離をあけている」と言ってもらえたのが、何より嬉しいことでした。二稿を送ります。秦さんが直してくださったところはそのままうつしています。最後の一文、…。「だんだん赤く変わっていった」。これだけで、がらっと変わるものですね。
祖母と母とのことについては、僕自身、冷静に見ることができないでいます。祖母の死んだあとにもいろいろなことがあって、そういうことが余計に思い出されてくるというのもあります。事実をありのままの事実として書き表してしまうと、かえって自分の思い込みが行間を敷き詰めてしまうような感じがして、重苦しくなりました。祖母のこと、母のこと、僕には当分書けないと思います。
昨日(5/31)で19才になりました。あっという間にもうすぐ大人という感じですが、振り返ってみると、いろいろことを吸収してきたんだなあと思います。それこそ、季節の変わるたびに違う自分になっているかのよう。二ヶ月ほど前は、これから一年間どうなるんだろうとばかり考えていましたが、過ごしてみると、ほんの二ヶ月でこんなに自分の価値観って変わるものかと、驚くぐらいです。きっと去年もそうだった、一昨年もそうだったはずです。来年も驚いている自分が見えるようです。もっともっと、吸収していきたい。
先日、インターネットを使って、「絵巻」「罪はわが前に」そして「慈子」の豪華限定本を、大阪の古本屋さんから買いました。インターネットで買い物をしたのはこれが初めてではないですが、届いてから手にしたものへの驚きは、今までの比ではありませんでした。来年終の棲家を建てる父と母の、素敵な宝物になります。

* 「もうすぐ大人」どころか、「十七にして親をゆる」す意味でも、また精神的に自立し自律しているのがそうだとしても、この少年は、とうの昔から「大人」へ歩み出していた。

* 戴いたメールを何度も読んでいます。
わたしは物語を作っているのだな、と思いました。筋の運びにばかり気をとられ、かんじんの動機を埋没させてしまったのかもしれません。
例にあげて下さったラストの展開は、あんまり見事なのでそのまま頂きたいところですが、自分なりによく考えてみます。
敢えて読まずにおいた秦さんの「鷺」を、やはり読んでよかった。物語の奇想なだけが幻想ではなく、幻想のようで現実、現実のようで幻想、そのどちらとつかないのが幻想……。すぐに真似できる芸当ではないけれど、懐の引き出しにしっかりしまっておきます。
表現の推敲と、筋の運びの練り直しと、動機をほりかえす作業。大きな山が三つあります。ひとつひとつ向かってゆくしかありません。この繰り返しこそが大切と思いながら。
川端康成の「片腕」という短編を最近読みました。深く印象に残りました。

* 吉田優子さんの「さぎむすめ」は、「鷺」と端的に題して佳いのではないかと思うが。
2001 6・1 9

* 朝飯の前に、昨日頂戴した恩田英明氏の自撰五十首とエッセイとを、それぞれ「e-文庫・湖」第七・五頁に掲載した。早くにお願いしておいたものが実現し感謝している。
これから朝食して、湖の本の発送にかかる。
2001 6・6 9

* 奈良の東淳子さんの、すばらしい自撰五十首「晩夏抄」が届いた。待ちわびていた。わたしの見るとところ現代歌人の中で最も力有る真摯な歌人のお一人で、齋藤史さんを追うかのようにさえ想われる。表現は彫り深く確かで、一読胸を熱くする。「うた」が、もし「うったへる」のを原義とするなら、東さんの短歌はまさに「うた」そのもので、気概に冨み、すばらしい。世の多くの歌誌の、親分や姉御でときめいている大将格の人たちが、情況に甘え、その場しのぎの錯雑として索漠とした品のない歌を平然と自分の雑誌に月々垂れ流している時代に、世の隅にいて丈高い短歌を珠のように彫んでいるこういう歌人の存在に接すると、胸のすく心地がする。「e-文庫・湖」第七頁に掲載した。
東さんの作品で、この頁への寄稿は三十人。単純に五十作品と勘定すると、優れた詩人たちが選り抜きの、千五百作品の詞華集を早や成している。単行本でなら五冊に相当する詩歌集である。詩歌の好きな読者は安心してここに出された各作者の境涯を鑑賞されたい。

* 引き続き、森秀樹氏に戴いた「台湾万葉集のこと」二編を合わせて「e-文庫・湖」第三頁に掲載した。題名を読んだだけでも察しられる、あまり知られていない台湾詩歌の珍しくも貴重な証言である。できれば三四の実作例が欲しく、森さんに頼んである。
2001 6・9 9

* 森秀樹氏の軽妙な「ネパールのビートルズ」を紀行と読み、「e-文庫・湖」の第八頁に掲載させてもらった。
2001 6・10 9

* 先日の電子メディア小委員会で提案し討議した「構想」を私案として書き纏めてみた。理事会の理解は容易には得られまいと思う。研究班のみなさんにもメーリングリストで伝えたが、もともとこの案は一般のユーザーにも向けているので、思い切って、以下に公表しておく。

*  電メ研提案 日本ペンクラブ「電子文藝館」構想 2001.6.15理事会に。

* 六月五日の研究会で討議の結果、以下のように提言する。 座長 秦 恒平

* 日本ペンクラブ・ホームページ活用は、型通りではあるが現在支障なく行われ、委員会活動等の広報内容は充実している。強いてリニューアルの必要はないと考える。
ホームページによる「広報活動」は、現状のまま「広報委員会」に委ねるのが適当で、従来通り事務局による交通整理ないしATCによる入力・転送で、技術的・運営的に何の問題もないと思われる。ホームページ利用による「広報」は「広報委員会」に返したい。

* 「電メ研」は、日本ペンクラブによる「電子メディア活動」の一環として、PENの名に背かない文藝的・実質的な「ホームページ活用」に当たりたいと、具体案の検討に入っている。会員による「日本ペンクラブ・電子文藝館」のホームページ上での創設である。

以下、「電子文藝館」構想の大要を示したい。

* 発想の原点には、日本ペンクラブが、思想は思想としても、本来文藝・文筆の団体であるというところへ足場を固めたい希望がある。さらにはまた、日本ペンクラブ会員となっているいわゆる地方・遠隔地会員にも、会費負担に相応・平等の「何か」特典が有って然り、今のままではあまりに気の毒という思いがある。「会員である」事実を、本来の「文藝・文筆」の面で実感できる、極めて経済的な「場」として、「ホームページ」を活用しない手はないのではないか。

* 日本文藝家協会には、会員共同の「墓」地が用意され、希望者は、生前ないし没後に、夫妻の姓名と会員生涯の代表作名を一点刻み込んで、永く記念できるようにしてある。だが莫大な費用もかかる。
しかし、もし我々のホームページに適切に「電子文藝館」のファイルを設定し、そこに、会員自薦の各「一作・一編・一文」をジャンル別に掲載してゆく分には、ほとんど何の費用もかからないで、直ちにみごとな「紙碑・紙墓」を実質的に実現できる。作品の差し替えも、随時、簡単に出来る。

* それのみか、アクセスする国民その他の、自由に常に閲覧できる優れて文化的な「場=電子文藝館」にも成る。人は、具体的な作品と数行の略歴により、筆者がどのような文藝・文筆家であるかを即座に知ることが出来る。もし会員になれば「電子文藝館」に自作が掲載できるのだと分かってもらうのも、一つのメリットと成ろう。

* 即ちこの「電子文藝館」に作品の掲載されることは、そのまま自身が日本ペンクラブ会員たる事実を、世界にむけて発信することになる。会員の一人一人が「その気」になれば、すぐにも我々のホームページ上に「電子文藝館」は実現し、収容能力に不安は全く無く、維持経費は極めて軽微で済む。

* 掲載は現存会員に限らない、遺族の許可や希望が有れば、過去の著名な会員の作品も適切なファイルを設けて、積極的に収容した方がよい。さしあたりは、島崎藤村以下歴代会長の各一編を順に掲載できれば、極めて大きなアピールとなろう。不可能なことではない。電子メディア時代ならではの雄大構想になる。

* 会員の自薦作であるから審査は不要とする。すでに慎重審査を受けて入会を許可したプロフェショナルな会員である以上、掲載作には筆者が自身で質的に名誉と責任とを負えばよろしく、ただ作品の長さや量にだけ、一定の約束(例えば、一作限定、二百枚まで。短歌俳句は自撰五十、詩は適宜、とか)を設ければ済む。申し込みの順に適切に積み上
げて行くのが公平な扱いになる。目次と検索索引は工夫できる。

* 会長以下、役員・理事諸氏が率先作品を提供されれば、直ちに「呼び水」とも「評判」ともなり、寄稿希望者は漸次増えてくるに違いない。一年で三百人が集まれば、それだけで偉観をていするだろう。さらに「電子文藝館」が充実すれば、ここから「日本ペンクラブ」の質の高い選書・叢書すら出版して行ける可能性も生まれる。
なによりも、会員各自が「自信・自負の作品」を集積するのが趣旨であるから、文字通り「日本ペンクラブ」の価値ある「大主張」と成ろう。
こういう本格・本来の事業が、文筆家団体の雄である「日本ペンクラブ」に是非必要ではないか。ホームページを活用すれば、簡単に、金もかからずに出来るのである。

* 但し、原稿料も出さず掲載料も取らない。アクセス課金もしない。収益は一文もあげる気はない。
また重大な点ではあるが、電子メディアについてまわる著作権侵害の危険はある。この点は「覚悟の上で掲載作品を各会員が自薦」することになる。作品の差し替えはいつでも簡単に出来る。退会者の作品はその時点で削除する。

* 寄稿は、原則としてデータファイルの形で担当者に送信して欲しい。少なくも手書き原稿は、事務的な手不足と煩雑からも扱いかねる。最低限度、スキャナーにかけられるプリント状態で寄稿してもらう。手間のかかるものほど、掲載に時間のかかるのはやむをえない。

* 「日本ペンクラブ・電子文藝館」は、設営に、アトラクティヴな相当な技術的工夫を要するので、またファイル構成や編成にも機械操作の技術をともなう編集実務を必要とするので、「電子メディア小委員会」が委員会内に「編成室」を組んで担当したい。日本ペンクラブの大きな財産に成るようにと期待している。英断による即決をお願いしたい。
内閣にも電子マガジンの出来る時代である。     以上   文責・秦

* 会員はもとより、一般のユーザーからも、より良い助言や批評が得たい。早くも賛同と期待のメールが次々に入っている。
2001 6・11 9

* 木島始さんに戴いた詩集『回風歌・脱出』は気迫に富んだ優れて批評的な一冊で、「脱出」は詩劇である。二十年前に刊行されているが、今に読み返して強い刺激を受ける。今年の夏、また上演されると聞いている。「e-文庫・湖」に一編二編頂戴したい。
2001 6・13 9

* 田代誠さんの「父のぬくもり」という佳いエッセイを「e-文庫・湖」の第五頁に戴いた。夏目漱石の早稲田の宅の近くで育った人で、父上は優れた医師であり人格豊かな「良寛」のようなと人に評された方であった。田代さんは京都在住の陶藝家で、わたしの日頃愛用し常用している湯呑みの作者である。文章そのまま、心温かなふっくらと掌に大きくて優しい湯呑みである。明治の大人の、父親の、また母親のプロフィールが、愛と思慕の情をこめてよく書かれている。
2001 6・14 9

* 木島始氏の詩集から「回風歌」「きみらの指図をうけないところ」二編を頂戴し、「e-文庫・湖」第七頁に掲載した。惜しい作家であった三原誠の奥さんから夫君の作品をどうぞと貴重な遺著を送ってきて戴いた。昔に感銘を受けていた作品で「創作欄」に立派に重きをなすことを喜びたい。スキャンし、慎重に校正してから掲載したい。また、大事な読者である方の母上の昔に書かれていた児童向けの小説をプリントで受け取っている。ディスクがうまく働かないので、メールで送れるものならお願いしたいと頼んである。幾昔かの時代のきちっと刻印されたちょっと面白い楷書の異色作になるだろう。「詩歌」の欄は、どこへ出しても恥ずかしくない立派な詞華集を成して、層一層と充実しているが、「創作」欄も追い追いに充実を加えてゆく。「e-literary magazine文庫・湖umi」は、創刊半年、確実に飛翔しつつある。若い新しい才能、新しい作品のさらなる登場を切に待ちたい。
2001 6・14 9

* (投稿のまま。)「姦通小説」という耳慣れない言葉を耳にしたのは、大学時代の国文学の近代文学概論だったように思います。「姦通」という古めかしい言葉にある種のエネルギーを感じたのかもしれません、その言葉に導かれるようにフランス写実主義の代表作『ボヴァリー夫人』を読んだように記憶しています。人間性を解放することなく、問題を解決することなく、追い込まれて自滅的に死んでいく主人公エンマを魅力的とも愚かとも思わなかったのは、文学史的興味からの読書だったからだと思われます。

(推敲の試み)「姦通小説」という耳慣れない言葉を耳にしたのは、大学時代、近代文学概論の教室でだったと思います。「姦通」という古めかしい言葉にある種のエネルギーを感じたのかもしれません、その言葉に導かれ、フランス写実主義の代表作『ボヴァリー夫人』を読んだと記憶しています。人間性を解放することなく、問題を解決することもなく、追い込まれて自滅的に死んでいく主人公エンマを魅力的とも愚かとも感じなかったのは、文学史的興味の読書をしていたからでしょう。

「ように」「という」「から」「思う」等の不注意で安易な重複が文章をぬるいゆるんだものにしています。推敲したのですか。 厳しいことをしつこく繰り返し言うのは、あなたが文章を「書く」素人さんではないだろうからです。

* 渡辺通枝さんの随筆「好日四編」を「e-文庫・湖」第五頁に掲載した。日本随筆家協会賞をうけたことのある真岡市在住の元気に老いつつある心優しいはたらくお母さんである。四編の前二つには手をいれてみた。後ろふたつは意図してそのまま掲載した。推敲できるなら推敲して差し替えてもらおう。

* 異色の小説、児童文学ともいえるだろうが一編の作品として誘い込まれる「朱鷺草」源田朝子さん作を「e-文庫・湖」第二頁の創作欄に掲載した。わたしと同年輩ほどの人らしく、わたしの読者の母上で、読者がまだ幼かった日々に読み聞かされていた好きな物語だという。作者は健在で、娘にすすめられての寄稿であったのか、一読して、きっちり書けているのに感心した。本格に児童文学を若い頃志しておられたのだろう。戦時下の少国民文芸にわたしも感化されたことがあったやも知れない、この作品にもかすかにその匂いが残っているようで、しかし物語はなかなか面白く運ばれていて、戦争とも軍国主義とも全く関係はない。一読をすすめたい。
2001 6・16 9

* 昨日掲載した「朱鷺草」に早速心地よく読んだという読者のメールが入っていた。うっかり削除キイをたたいて消してしまった。 2001 6・17 9

* 林晃平氏の『浦島伝説の研究』という大著から、序章の「浦島伝説略史」が「e-文庫・湖」に戴けることになり、スキャンした。『あやつり春風馬堤曲』を読まれた方はわたしが浦島太郎の伝説になぜ関心があるか察してくださるだろう。あの小説は二部で山椒大夫に、三部で浦島太郎に転じて、全体としてわたしの蕪村が書かれる予定になっている。おいおい、はやくそっちをやってよという声も聞えている。『無明』一話の「電話」の女が加悦という地名を口にするのにも関連している。この世にはとてもとてもつきあえないという人間が多すぎる。お互いにそう思い合っていることも多かろう。そんなとき、わたしは死者ともつきあえることを、よほど有り難く思う。わたしの小説世界には死者として生きている魅力有る人が何人も何人もいる。そんな死者たちがいつもわたしの日々生きてあるのを励ましてくれる。
2001 6・18 9

* 林晃平氏の『浦島伝説の研究』からその「序章・浦島伝説略史」を「e-文庫・湖」第四頁に掲載し始めた。長いので、校正の出来たところからキリよく連載する。電子メディア時代にすでに突入している今日での、異色で大胆な文学史の新構想、文化史の新構想といえる。序章は提唱部であるが、よく纏められていて示唆に富む。
2001 6・19 9

* 高崎淳子さんの随筆を「e-文庫・湖」第五頁に掲載した。最初の投稿からすると格別にいいものになった。何度もの書き直しでご苦労をかけた。最終稿にも編輯権を少しく行使した。
2001 6・20 9

* 下関市在住の俳人出口弧城氏の自撰五十句「月の襟足」を「e-文庫・湖」第七頁に掲載した。飄逸の境涯を抱いて宇佐や国東の風土記的探訪にも余念ないと聞く。亡き上村占魚の門におられ、占魚さんの没後は独行の悠々自適のようである。やはり湖の本の読者でもある。
2001 6・20 9

* いろんな「自分史」のスケッチが試みられるのは自然なことだろう。「e-文庫・湖」第十二頁をあて、祖谷八寿子さんの未完のスケッチがどう仕上がってゆくか、期待したい。
2001 6・21 9

* なんだかカンカン照り、天気予報とは大違い。出かけて行く気力は落ちてしまった。行けば美食と酒、そしてお土産は佳いチョコレートだった、従来は。どれも甚だよろしくないものばかり。受賞者たちのことは何も知らない。二十によろしくない。理屈をつけて行かない方へ自分を誘導している。

* ホテルオークラへは行かず、林晃平氏の「浦島伝説略史」をすべて「e-文庫・湖」第四頁に掲載しおえた。「浦島太郎は亀に乗り」と、今の大人も子供も覚えているが、どうしてどうして。そして「浦島効果」は栗本薫らのSFにまで展開し、宇宙時間と地球時間の時間差のなかで問題を拡大している。啓発されかつ面白かった。いま原本一冊を注文してある。楽しみにしている。掲載の順序待ち寄稿分があとに幾つも続いている。フロッピーディスク、それよりもメールで届くと、内容さえよければ掲載は技術的に簡単である。
2001 6・22 9

* 吉田優子さんが小説「さぎむすめ」をさらに推敲して送ってこられた。明日にも差し替える。自発的に、本格の推敲に繰り返し粘りをみせた作者に敬意を表したい。
フランスのリモージュから届いた旅の便りを「e-文庫・湖」第八頁に掲載した。無事の旅を祈る。
2001 6・22 9

* 三原誠作『たたかい』を「e-文庫・湖」第二頁に掲載した。うしろに、編輯者の弁をこう入れた。「作者は、小説家。優れた力量をもって同人誌「季節風」でも卓越した作品を次々に発表されていたが、平成二年十月二十一日、惜しくも亡くなった。「たたかい」は芥川賞候補作の傑作である。名作である。これも今は亡き久保田正文氏が「文学界」の同人雑誌評に、この一作のみを取り上げて称揚した異例の批評があるのを、ここにも異例をあえてして転載しようと試みたが、作品内容を説明もされているのでやめた。惜しんであまりある作家への供養としては、やはり読者一人一人に読んでもらうのが本筋だろう。三原さんと面識はなかったが、いつも熱い視線をわたしの仕事に向けて戴いていた。わたしから氏の代表作長編の刊行に序の一文を贈ったこともある。夫人節子さんは「湖の本」に大きな支持を今も寄せ続けて下さっている。「たたかい」は、校正していて、じつに「嬉しい」充実作であった。文学であった。「e-文庫・湖」は面目を得た。感謝ひとしおである。他の秀作もぜひ此処に紹介したい」と。早い時期の芥川賞候補作であった。
次ぎに掲載してみたい三原作品に単行本の表題作になった『ぎしねらみ』がある。三原さんはこう書いていた、昔に、昭和五十五年夏に、これを読んで眼の輝く思いのしたのを今に忘れない。

* 「ぎしねらみ」は、作品の中でも書いたように、清流にだけ住まう魚である。そして、私(三原)が子どもの頃は、故郷のどんな流れにも見かけられたものである。それが、この頃では全く姿を消しているという。二三尾捕えておいてくれという私の気楽な依頼に、電話の向こうの甥は、
「それは、言うなれば雲をつかむような事(こつ)でござります。」
と応えた。幸い、この度は、村の魚獲りの名人の網でようやく捕えられた二尾が空路運ばれ、野村良郎(装幀者)氏の筆でその姿をとどめることができた。が、私は、甥の言葉が忘れられない。
それは、言うなれば雲をぞつかむような事でござりますョ──
しかり。清流にしか住めぬ傲りの性(さが)ゆえに、いまは虚空のかなたの青さの中に、じっと泳ぎすましている一尾の「ぎしねらみ」が、私には、たしかに見えるのである。

* 「ぎしねらみ」として生きて死んでゆくことをわたしは悔やまない。濯鱗清流。好んでわたしの書く識語である。
2001 6・24 9

* 「雁信」第一頁に、今日までのメールの印象深いものを整理して掲載した。「ディアコノス=寒いテラス」へ纏まった感想のずいぶん多く来ていたことに、改めて感謝する。「e-文庫・湖」第二十頁には、「編輯者の弁」を最近分まで掲載してある。
2001 6・25 9

* 「三原誠」論ともいえる追悼の一文を「季節風」追悼号から戴こうと、発行責任者の花村守隆氏に許可をもらったが、スキャンか効かない。雑誌用紙の裏頁が透け、それも読み込んでしまうのか、乱脈そのものに出てしまう。残念。

* 梅雨の晴れ間が真夏の熱暑なみで、ふうふう言っている。
2001 6・26 9

* 森秀樹氏の「至宝『阿蜜哩多軍荼利法』の行方」を一読以来興味深いものと記憶してきた。「e-文庫・湖」第四頁に掲載させて戴いた。仏教史からも、森鴎外研究の一面からも、しかるべきフォローの欲しい、ぜひ欲しい提言がここに在る。
また秦澄美枝さんの「和歌にみる定家と式子内親王」を第三頁に同じく掲載した。秦さんはペンクラブ会員であり、同姓だが特別の縁はない。いわば在野の国文学研究者であるが和歌への検討は深く、優れた論考論文を幾つも発表されている。清泉女子大学で教鞭をとっていたころの、大学内での学生に対するセクハラ問題を痛烈に告発した著書『魂の殺人』もある。
2001 6・27 9

* (五月三十一日) 木島始氏がもう半世紀近く前にハンセン氏病の患者たちの文藝創作集『跫音』に寄せられた跋文も、同じく第四頁に掲載した。
2001 6・30 9

* 『ディアコノス=寒いテラス』の「妙子ちゃん」を念頭においた、そう、「詩」のようなもの、「詩」が、名乗り無くメールで届いた。見捨てることはできなくて、そのまま「妙子」の名乗りにして「e-文庫・湖」第七頁に掲載して置いた。心を惹かれる方はその頁をひらいてみて下さい。
2001 7・3 10

* ぞくぞくと「e-文庫・湖」に寄稿がある。三百枚もの書き下ろし長編小説も届いてきた。さ、どんなものか。
2001 7・6 10

* 委員会の帰路、しばらく、寄り道した。
九十過ぎた、わたしへの自称「押し掛け弟子」の老女がいて、端倪すべからざる文才をもっている。短い小説だが「ぬくもり」一編を早くに「e-文庫・湖」に掲載していて、文庫を取材してくれた「毎日新聞」の若い女記者さんが、その老女の作の若さとうまさに感嘆していた。その石久保豊さんが今入院していて、病床から、かねて頼んであった自撰短歌を、かろうじて友人に書き出してもらい送ってきてくれたのである。この短歌百二十首を早く読み、早く選び、早く掲載してあげたい。作品を落ち着いて読みたく、それは家の器械部屋よりは、外の、落ち着いた場所の方がいいと思っていた。で、森委員と別れてから、腰をすえ、うまいものと佳い酒とでくつろぎ、じっくり短歌作品を読んできた。石久保さんが昔からの歌人であり、「潮音」に縁のあったらしいことも察している。夥しい数もらっている手紙の中にも、折に触れて思わず小手を打ったり唸ったりするうまい短歌が自然に織り込まれている。歌をとお願いしていたのは、贔屓目でいうのではなかった。さすがに老境の、したたかに、おもしろい、良くできた歌作が並んでいて喜んだ。食事も、気持ちよく旨かった。給仕の人も、うっかり猪口を転がしたりしたのに、とても優しかった。優しい人は、美しい
2001 7・6 10

* 石久保豊さんの短歌八十八首を「e-文庫・湖」第七頁に掲載した。友人の手を経て届けられた百二十首から、病い安かれと、わたしが八十八首を撰した。石久保さんの齢は卒寿をとうに過ぎ越されているとだけ知っていて、その程度の知識ではあるが、母子のように親しく文通をつづけてそれも久しいのである。
短歌は贔屓目なく優れていると思った、自筆の夥しい手紙と共に散文はたくさん見てきたが、短歌作品をこれだけ纏めて拝見したのは初めて。期待に違わぬ境涯と表現とで、目頭の熱くなることも一度二度ではすまなかった。
2001 7・7 10

* 山瀬ひとみ作・長編小説『ドイツエレジー』を、あえて「e-文庫・湖」の「作業頁」に仮掲載した。三百枚を越す作でありながら、一つの文体で、遅滞なく運んでいる。文章の書ける書き手で、あまりに書けるためのむしろマイナスが生まれていないかと案じてすらいる。
文章が書けるというのは、とほうもないメリットである。問題・課題はそれが「小説」の文章として魅力をもって盛り上がってゆくか、ファシネーションの世界を文体・文章で築いているか、だ。
わたしは、この期待の持てる、すでに可能性をはらんだ長編を、厳しい読者の目に曝しながら一人歩きさせてみたくなった。読者に見られて、文学作品としての或る質感や表情を作品が帯びてくるか、硬く乾いてゆくか、そこが作者の闘いどころだと思われる。
それにしても「読ませる」作になっている、すでに。レディーであるフォン・コンタ夫人の章など、独立しての一編たりえている、適切に改めて書き起こせば。
どうぞ、読んでくださいと読者にお奨めしたい。いわば「ドイツ滞在記」かのようでいて、なかなか、そんな単純ではない。怕くもなってくる。作者の山瀬さんが、この掲載に、踏み込んで応えて、さらに手を入れ続けられるのを期待している。こう早くに、これほどの長編がすらっと登場したのが不思議なほど、嬉しい。作者山瀬さんの実像などを、わたしは殆どなにも知らない。
2001 7・8 10

* 石久保短歌を収録して、詩歌の頁は三十五人に成ろうとしている。詩作品もふくめて短歌と俳句、すべてで千五百作品に及んでいる。しかも、我ながらみごとな顔ぶれと作品とを、ほぼ選べていると思う。知名度ではない、わたしが信じてこの人ならばと思いお願いし、期待通りの実力がみごとに出そろっている。そろそろ、この全部に好題を添え、ながく保存し公開しつづけたい。そして第二輯へ転じたい。第一輯を、器械が承知してくれるなら、切りよく、五十人の詞華集としたいものだ。
2001 7・8 10

* ひとり日比谷へ戻り、クラブで、ブラントンのボトルを飲み干し、シーバスリーガルとマーテルとを、交互に飲みながら、山瀬ひとみさんの長編の読みに没頭した。とても面白く、ぐんぐん引き込まれた。文章はほとんど手を添えたいと思うところなく、これにも驚嘆するが、観察と表現にもきらめく個性と洞察のよろしさが照り合っていて、至るところで感心した。これで完成していると言えば言える完成度であり、しかし、工夫の生きる何かがある気もしている。とにかく読んでいて引き込まれ、先が読みたくなる作品に出会うとは、ウソのような幸運である。

* 「作業頁」が変なことになり、開けないことが分かったので、山瀬ひとみ作「ドイツエレジー」は急遽「e-文庫・湖」の第十三頁に仮掲載した。
2001 7・9 10

* 昨深夜、山瀬ひとみ作の長編『ドイツエレジー』を読み切った。贔屓目にみるのでなく、一つの独立した作品として、とくべつ注文をつける余地もほとんど無いほど、完成度高く仕上がっていると感心した。終章への盛り上がりは美しく、つよく、惑乱に近い感銘を受けた。手放しに褒めているのではない。しかるべき編集者に巧みに手をひかれれば、更に磨かれるだろうと思う、が、そういう人がこの時節にいてくれるだろうかと、そっちの方が心配だ。
わたしは、これは立派に己れを主張して羞じない一種の傑作と認知したい。出だしの方で感じ、言い置いた問題など、解決されていいことだろうが、へたにいじくって、全体の均衡をむげに壊すのは、避けたくもある。語りは渋滞なく行っている。語り口に、調えていい逸脱や逸興がなくはない、ママへの手紙であることを作者が忘れて評論へ走っている気味もときどき見受ける。それは、修正できる。そして、しいて小説と読むことも読ませることもなく、「文学」作品としてのより完璧な完成が望ましい。
むろん、だれもが私のように好意的に読むとは限らない。わたしは、語り手の感性にも知性にも頑強な個性=性格にも、それぞれの魅力を感じた。観察にも感想にも鑑賞にも、それぞれに凡でないきらめきを嬉しく見てとった。それは、この種の文明論をかかえこんだ海外滞在記では、幾らも有りそうで、めったにお目にかかれない、なかなか無い、要点=美点だと思う。この著者は、ドイツないしヨーロッパという「世界」の前で、たじろがずに己れを貫徹している。そうすることで、享けるべき恵みも、深刻な被害も、しっかり受け、それらとの格闘を通してよく自己批評を遂げている。つまり自己救済されている。著者にすれば、真に「書いてよかった」と思える作品だろう、読者のわたしも「読んでよかった」と感謝している。
仮掲載ではなく、よろこんで「e-文庫・湖」の大収穫として本掲載に切り替える。第13頁に、置く。縦読みのソフトで、より読みやすくご覧ください。

* この三百枚を越すと思われる長編を、かく速やかに読んで掲載できたのは、フロッピーディスクで寄せられ、きちんとプリント原稿も付されていたからであった。これを例えばスキャンし校正していたのでは、かなりの日数を要しただろう。この熱暑に、わたしはダウンしていただろう。プリントが有ってよかった。持ち歩けたから。
2001 7・10 10

* 二三日前に、いいメールが来ていた。

* お元気ですか。毎日暑いですね。わたしの職場は冷房の効きが悪いので、冷房病の心配のない夏です。
今日は玉三郎さんの舞踊公演に行ってきました。地唄の「雪」と長唄の「羽衣」、「鷺娘」でした。300人くらい入る劇場でした。地唄を踊るにはぎりぎりの規模だったのではないかと思います。わたしは後ろから二列目でしたから、地唄のときは遠めがねを使いました。
何といっても「鷺娘」に期待していました。ビデオで幾度も見たはずなのに、泣けました。生の力はすごいですね。踊りとしては、しっとりした地唄や、長唄といっても能がかりの「羽衣」に比べ、歌舞伎舞踊ならではの見るものを飽きさせない趣向に富んだ「鷺娘」は、うわべの派手さゆえに底の浅い感があるのではないかと思っていたのですが、どうして、からっと飛躍する世界が、見る側の解釈を自由にしてくれます。玉三郎さんも、雰囲気を大事に踊ってくれています。
踊りを見ていて、わたしの「さぎむすめ」、最後のところをもうちょっと直したいなと思いました。話の中で路子が「鷺娘」を踊りますが、ほんとうは引き抜きやぶっかえりのある演目を踊れるはずないし、そうとわかって書くならば、もっともっと幻想のリアリティーを突き詰めなければならないと思っています。でも、それを書いて伝えるには精進が足りません。いやはや、そうそう思うようにはならないものです。
清潔な文章のことをいつも考えています。今はまだ実体がつかめません。いつか腑に落ちるときが来るのでしょうか。川端康成は通俗な内容を美しく書いているなと思っていましたが、改めて読んでみると、その文章はあまりお手本にならない気がしてきました。ガラス細工をつなぎあわせたような文章は、安易にこちらへ持って来ようとすると、ばりんと割れてしまいそうです。
「書くことは泥を吐くこと」、身にしみる言葉です。わたしはまだまだ泥を吐ききれていない。
日本の少女がヘッセのもとに、いつもあなたがわたしを見てくれていると信じています、という手紙を送ったそうですが、わたしは秦さんに同じことを申し上げます。1.7.8
2001 7・10 10

* 河野仁昭氏に戴いたエッセイが、スキャン校正半ばで行方不明になっていたのを再発見した。いい原稿なのではやく校正を終えたい。
2001 7・10 10

* 河野仁昭氏の深切で懇切な、愛情溢れたと感謝したい「秦恒平『初恋』」考を、氏の著書『京おんなの肖像』からお許しをえて「e-文庫・湖」第四頁に掲載した。校正していて懐かしくなり、ほろりとした。この小説はわが小説世界、文学世界の臍の位置をしめているとすら謂える。河野氏は以前からそのように観てか、繰り返し此の作品に親切に言及される。長編の、原作よりも長いかも知れない原善君の『初恋論』にもそれが感じられる。早く、このホームページの電子版「湖の本」にも掲載したく、すでに勝田貞夫さんのご親切でスキャンは終えている。校正をすれば掲載できる。
2001 7・11 10

* 三原誠作「白い鯉」を「e-文庫・湖」の第二頁に掲載した。この作者は、多くの優れた作品を遺し、惜しくも平成二年十月に亡くなった。「白い鯉」は昭和三十年八月の「季節風」八号に発表された、三番目に若い時期の創作であるが、亡き平野謙が生前に注目していた凄絶かつ清澄、印象強烈の秀作で、作者その人が終生抱いた故国の自然と季節とへのデーモニッシュな共感と哀情とが、凄みと哀しみとの優れた文学的表現を産んだ。三原さんは生涯に三冊の単行本を出して逝った。昭和五十五年の『ぎしねらみ』から、芥川賞候補作にあげられた巻頭の「たたかい」を先に戴き、昭和五十六年の『愛は光うすく』からも、巻頭の「白い鯉」を今日戴いた。三冊目の本は、昭和六十二年書き下ろしの長編『汝等きりしたんニ非ズ』で、郷土の隠れキリシタンを書いた迫力満点の力作であった。わたしが、請われて序文を書いた。いまなお哀悼の思いに堪え得ない。
2001 7・13 10

* 篠塚純子さんから第二歌集「音楽」が贈られてきた。以前に貰ってあったのが見つからず、お願いしてあった。
たちまちに一読し、試みに八十五首を選んでみた。第一歌集「線描の魚」からだけではと思い、「音楽」もようやく手に入れた。あわせて五十首を、できれば篠塚さんに自撰してもらいたい、が、大学教授のなにしろ「お忙しサン」だから、こっちでやってしまうことになりそう。感性も知性も、女っぽさも、また母親としても、ひときわ優れた個性で、日本の古典や外国文学にも哲学にも趣味深い。歌以上にもとても佳い散文の書ける人であり、『古典の森のプロムナード』という優れて批評的なエッセイ集がある。話し相手としてこれ以上はないというほどの人だが、なにしろ忙しい、忙しい人である。
2001 7・14 10

* 篠塚純子さんの二冊の歌集からわたしの選んだ計二百三首に、作者の諒解を得、「ただ一度こころ安らぎ」と総題して、「e-文庫・湖」の第七頁詞華集に掲載した。わたしは、これを或る歌物語または女日記のエッセンスとも読みとり、往昔の古典の成り立ちに理解の及ぶほどの興趣を覚えた。編輯者でなく、一人の小説家として渾身の想像力を働かせて一人の女の半生記を読みとってみた。貴重な経験をした。歌は、いずれも口先の技巧では出来ていない。呻き出るような嘆息と憂鬱と危機感にあやうく彩られつつ、なお日々に生きて闘ってきた妻、母、女の息づかいが率直に、美しく、表現されている。

* 詞華集、じつに好調。
2001 7・17 10

* 昨日の祇園会にことよせ、南観音山の鉾町である百足屋町生れの優れた建築家であった、今は亡き小島敏郎の遺稿から「善財童子さま」を「e-文庫・湖」第二頁の創作欄に掲載した。もともと京ことばで書かれていたが、ひろい読者のことも考えてか標準語版も出来ていた。わたしには京ことばは有り難いが、相当な脚注を必要としているので、考えた末に標準語版にまず従った。この説話とも童話とも読まれうる創作が、作者の愛した祇園会の鉾とも深く結びついているのは言うまでもない。広大無辺の華厳経を要約しているとすらいえる結文の主人公である、善財童子は。その姿勢や思想には、大乗仏教の大乗的立場が、たとえば同じ大乗であれ禅のそれとは対照的なところが興味深い。禅にきわめてちかいバグワンに日頃帰依しているわたしとしては、一種エキゾチックでもある仏法であるけれど、そのわたしに「華厳」と題した自愛深い作品がある。新設の「日本ペン電子文藝館」にはこの作を載せて貰おうかとすら思案している。なににしても、小島敏郎のすぐれた日本語の遺作を発信できることは、嬉しい。夫人、また叔父にあたる木島始氏のお許しもえており、いま少し遺稿集『森の精ホテルで』から選ばせて貰いたく思っている。
2001 7・18 10

* さてこの夏は「電子文藝館」の立ち上げに踏み込んでゆくしかない情勢。幸せにも有力な有り難い助っ人の参加が得られることとなった。確実に、この大事業に端緒を得て押し上げて行ける見込みが持ててきた。わたしには何も出来ないが、志だけは、しっかり注いでゆきたい。考えたり用意したり働きかけたりしなければならぬ仕事が、ざっと想ってみるだけで、山のようにある。熱いうちに熱く打ち込んで行くしか有るまい。これまた一つの大きな創作になるのだ、委員全員の。
2001 7・18 10

* 「寒いテラス」であなたが一番言いたかったことは、明確なようでもあり・・でも読者として断言しきれないところもあります。ぐんぐん読めて、登場人物の設定など虚と現実をダブらせて、作者の掌中の手法。ホームページで既に多くの人が述べている感想はよくわかります。ストーカー行為こそ受けたことはありませんが、知恵遅れ・・そう言って適切かどうか・・の子に頼られたこともあります、身近でダウン症や自閉症の子を抱えている人も知っています。妹は大阪で養護学級や、精薄の学校で長年仕事してきました。昨年は高校生に突き倒されて怪我をしてかなりの期間仕事を休みました。が,今も頑張っています。
誰もが引っかかるものを意識の中に持っている問題だと思います。あなたがそれを小説に書くキッカケは何だったのでしょうか?
山瀬ひとみさんの「ドイツエレジー」の文章は、文学に入るのでしょうが、微妙?ただし言いたいことは良く分かります。私自身似た体験もあります。が、理解の底がまだこれから、といった感もあります。ナチの問題はつらいし簡単に近付けない感じさえします。ドイツ人の潔癖さと一般的に言われますが、そんなに単純に言い切れませんし・・。ドイツ語を学びながら、本当に今は遠ざかりました。ドイツ的なものが自分には合わないのかもしれません。
説明が長すぎるとの編輯者の指摘も分かります。
最後のIch liebe Dichの解釈、理解は、キリスト教徒でない私には保留せざるを得ません。キリストの言う「愛」はそれだけでもう理解に余りますし・・。信ずるにはある種の飛躍を必要として、私には出来ません。宗教、信仰に対する姿勢はこれはあなたと同じです。バグワンにさえ一定の距離を置いている私です。中途半端な感想ですが許して下さい。書きたいことを書ききれません。
2001 7・19 10

* 電子文藝館がらみに諸要件が一時期輻輳するのはやむをえない。それは覚悟している。覚悟しながら、執着はしていない、一所懸命やるけれど、思うように進まぬ事はありうる。そんなとき、難しくは考えない、必ず不成功すら含めて成るように成って行くからだ。ことを急く必要はなく、ただ、何もしないで放っておく空白だけは作らぬ方がいいのである、ものごとは。成し遂げたいのであれば。

* ことを複雑に複雑にして行かない方がいい、簡明にはじめて、精緻にしあげてゆけばよい。基盤は大きく深く作っておけば、建物は分かりいい構造から進化すればいいだろう。
2001 7・19 10

* 日本画家古山康雄氏が筆名「目(さっか)精二」で刊行された『異聞みにくいあひるの子』から、八編の創作散文「花連歌」を戴き、「e-文庫・湖」第二頁に掲載した。独特のアンデルセン体験を書いた単行本表題はユニークな世界へ斬り込んで、なかなかの連作長編であり、その序章をと思ったが、巻末のこの八編の散文がまた長歌に対する反歌のように不思議に美しい凄みの短編連作なので、これをとりあえず貰うことにした。ゴッホ外伝「クラシーナ・マリアの部屋」といった戯曲もものされている本物の才能である。久しい湖の本の、読者でもある。お目にかかったことは、まだ、ない。

* 目に見えて「創作=小説」欄が充実してきた。未知の読者との出逢いをさらにさらに願っている。佳い作品を送ってきて欲しい。 2001 7・20 10

* 一週間後に「電子文藝館」の初会合をもつ。どう成ってゆくかは委員の話し合いで見えてくるだろう。どう努力するかである。成心なく、しかし具体的にいい手順を探り取ってゆきたい。それまでに、会報へ出す原稿をつくる。
2001 7・20 10

* 会報に送り込むための文案を書いてみた。事務局から指定された分量である。

*  日本ペンクラブ電子文藝館の創設:: 七月理事会で一致して承認された、「電メ研」提案「日本ペンクラブ電子文藝館」(初代館長は梅原猛会長)の構想をお伝えする。手続き等の詳細は追ってお知らせする。
発想は、?文藝・文筆の団体として、日本PEN全会員の自薦作と略歴を、適切なジャンルに分載し、インターネットで廣く国内と世界に発信したい、?全会員の一人一人が地域差・分野別に関係なく、平等に、その「存在」を世界に示したい、以上の二点にある。
地方・遠方の会員に、会費負担に見合う活動の「場」をぜひ提供したい気持ちが発想の根に在る。「会員である事実」を、本来の「文藝・文筆」の面で実感できる経済的な「場」として、ワールドワイドな「ホームページ」を活用しない手はないと考えた。
利点は、?日本ペンクラブが存続する限り、会員相互の実績を「文藝・文章」により半永久に遺し得る。?一会員に一作・一文と限定し例外は認めないが、掲載一ヶ年を経た作品は、随時容易に別作品に差替えることが許される。?ウェブの立ち上げに軽微な経費を要する以外、維持・運用・拡充にも、「紙の本」刊行や「会員の墓」建設に比し、問題にならぬほど全く経済的で、しかも簡単に、この秋にも「電子文藝館」は実現し、作品の発信を開始できる。?また、現存会員にとどまらず、島崎藤村初代会長以降歴代会長をはじめ、物故会員の作品も掲載できる。その魅力と意義ははかり知れない。?加えてこの「アーカイブ=文藝館」から、真に日本ペンクラブらしい作品叢書や選集が出版可能になる道もある。?高雅なデザインと便利な目次・検索法の設定により、文字通り莫大な文化財的アーカイブとディスプレーが、質・量の両面に期待でき、しかも器械の収容量には何の不安もない。?原稿料はなく掲載料もなく、アクセス課金もしないが、充実すれば、やがての広告掲載収入が十分見込める。?プロフェショナルな会員による自負・自薦の作・文章を審査はしない。責任も名誉も会員自身のものである。?外国語原稿もむろん可能である。?言うまでもなく学者・研究者の論考も充実したい。
問題点も、二つある。?電子メディアの弊として、著作権が有効に守りきれないオソレがあり、それも覚悟して構想と意義とに賛同してもらわねばならない。? いわゆるエディター会員の為にも、最良の頁設定をよく考慮し工夫して不公平を排したい。
寄稿は、?原則としてファイル化したものをディスクかメールで。?少なくも、原本ないし綺麗なコピープリントを。?手書き原稿は無理。?自薦作の量的限界は百枚前後と予期しているが、詳細は後日にお伝えする。?自負・自愛の作をぜひお願いしたい。
ウェブの立ち上げと以後の運営には「電メ研=文藝館」編輯室が当たる。寄稿のお願いには快くご協力下さい。以上 (電子メディア研究小委員会  委員長・理事 秦恒平) (文中の丸数字が ? で出てしまうかも知れない。)

* 二十七日午後に初会議する。
2001 7・21 10

* 小泉総理のマガジンなんて読む筈がありません。読むのはあなたの「マガジン」です。
山瀬さんの「ドイツエレジー」は途中までよんで、時間切れになりまだ残っています。読むのに時間がかかるので、改めてゆっくりと。興味があります。私がドイツを、行きたい国の高位にあげないワケが、潜んでいそうです。
ドイツ系の薬品会社にお勤めのご主人に同行して、当地のお宅に招かれた友人の話に依りますと、台所が汚れるので、自宅でのお食事接待はなく、レストランへ行き、お宅では帰ってからお茶を戴くとか。隣家の台所にまで、汚れていますよと口をはさむとか。よく聴く話ですが、本当らしいです。イギリスと並んで、美味しくないお料理は周知の事です。
清潔、綺麗な町並みは悪くはないけれど、私には、旅行者としても、興味が湧かない国です。単なる偏見かもしれませんが。ドイツ人がイタリアに憧れるのが分かる気がします。

* 電子文藝館  画期的なお仕事ですね。楽しみにしています。
面接した20代に、「最近読んだ本は何ですか?」と聞いたら、「インターネットで何でも調べるので・・・最近は読んでいません」と。図書館はもちろん、本屋にも足を運ばない本離れをした「e-young」たちが、文学の世界に入る一つの「門」にもなるかもしれませんね。
「湖」文庫もますます充実していますね。最近の目精二さんの「花連歌」、すごみのある作品で、ひきこまれるように読みました。
さるすべり むくげ のうぜんかずら が家に咲いていますが、今年は花が少ないようです。はなみずきが枯れそうになってきたので、あわてて朝晩水やりをしています。にっこうきすげとほととぎすを買ってきて、植えました。「花連歌」とはかけ離れた世界ですが・・・。

* 日本ペン電子文藝館が、本離れをした「e-young」たちの、文学の世界に近づく一つの「門」になるかも、というこのメールは嬉しい。
2001 7・21 10

* 文藝館のメーリングリストが活溌に働いているように思う。用件を限って話し合うには、いい手段であるが、否応なく割り込まれるということも、ある。ま、それは、適宜にして行くしかなく、便利であることに間違いはない。メールは、とにかく、機械の前でだけ処置出来る。「電子の杖」とはわれながら名言であったなと思うほど、助かる。
2001 7・22 10

* 明朝でも良かったもですが。すぐに書きたくて。
NHKを聴きながら、山瀬ひとみさんの「ドイツエレジー」を読みついでいましたが、また時間切れになり、さーと最後までどんな題材かと眼を通していると、なんと私が思った様に、この方もイタリアで、心を癒されているではないですか。私はゲーテがイタリア紀行で「君しるや南の国」と賛美したフレーズが頭にあって今朝のメールを書いたのですが、矢張りそうだったのですね。
ドイツ人然り、イギリス人も然り、「眺めのいい部屋」なんていう、フィレンツエへ長期のバカンス出発から始まるいいイギリス映画もあります。
異常なお掃除好きも、台所を使いたがらないのも、流言ではない、と。

* 「e-文庫・湖」の作品を、オフラインにして、そのファイルだけをゆっくりスクロールしたり、縦読みソフトで変換したりしながら「タダ読み」を楽しんでくれる読者がちょくちょくとメールを下さる。書き手にも励み、わたしも嬉しい。
2001 7・22 10

* 文藝館の討議は盛り上がっているが、まだ、なかなか噛み合っていない。
2001 7・23 10

* 気張っている毎日なのかも知れないが、気にしてはいない。電子文藝館のメールの往来は、元凶はわたしであるが、かつてなく活溌に。今は仕方ないと、リストの皆さんには煩わしいだろうがご辛抱願っている。
2001 7・26 10

* 明日の外出と電メ研。電子文藝館の初討議、小人数になるだろうが、せめて心涼しく済みますようにと願う。話題がとりとめなく拡散したり、横道に偏跛に突っ込みすぎないように願う。恐ろしい量の討論メールが溜まっている、かなりを自分で書いたのだが。目を通し直すだけでもたいへん。編集者・記者・出版者といわれる「E」会員の仕事をどう表現するかをよく考えて興味深いファイルを創りたいが。
2001 7・26 10

* 電子文藝館の初会合は、幸い、ここ数日にくらべれば格段に涼しくて、それだけでも大助かりした。会員推薦を先に見込んでオブザーバーとして文藝ホームページ「ほら貝」で知られた加藤弘一氏を招いた。村山精二、野村敏晴氏、牧野二郎し、森秀樹氏そして高橋茅香子さんに秋尾事務局長と安西事務局員が参加、わたしが司会し、二時半から五時半まで、多角的に、しかしさほど散漫に流れず討議できた。叩き台になる基本の構想案を、会報用と討議用と二種類事前に用意して置いた。ただのフリートーキングでは、どうにもならない。
入れ物と入れるもの。入れ物は技術的な用意であり、加藤氏の参加で頼みの柱が立つ。会員のためには入れるものつまり原稿に関する細目等を会員に先ず報せねばならない。今日は入れるものの意見交換からはじめて、徐々に入れ物へ話題を動かし、ともに、あらましの話し合いができた。
さらに八月と九月とに一度ずつ会議を重ねて、固められるところから固めてゆく。起一であり生二、次三を計ってゆく、無用のたるみを排して、気のあるうちに追い込んでゆくかないと、こういう生き物は勢いをうしないへたばってしまう。気がつけば形も溶けて崩れてしまっていたりする。慌て急がず、手綱はだらしなくゆるめないで行きたい。次回にはまた新しい別の委員からの声も聴けるだろう。声が出て気が揃う、それが必要なのだ。

* 「電子文藝館」という商標が登録できたのは幸いであった。
2001 7・27 10

* ペンの同僚委員から、「日本ペンクラブは基本的に会員を増やしたいという方向にあるのでしょうか? それとも、そう簡単には会員にはなれませんよ、というスタンスなのでしょうか? 「電子文藝館」を立ち上げるにあたって、この人の作品は入っているといいなあと思う作家で、まだペンクラブ会員でない人は大勢います(この考え方自体、現在の会員を大切にするという姿勢とずれていることは承知のうえで)。また私の友人で、会員になっていない作家も多々います。「電子文藝館」の目的を見失わないようにしつつ、もし日本ペンクラブが会員を増やすことを願っているのであれば、この企画が新会員獲得に大きな力になると思うのですが、どうでしょうか」と、声をかけていただいた。
当然入会されていて可笑しくない優れた書き手はまだいっぱいだ。そして、入って欲しいのですとペンクラブは積極的に働きかけて来た。だが、うまくいっていない。
わたしは、或る程度は当然の結果だと思っている。
入ってみても、税務指導などのある同業者組合的な文藝家協会とはちがい、ペンに入会しても、その恩恵=メリットがあまりにもうすいからだ。ことに大会にも月々の例会にも、全く、または殆ど出られない遠隔地会員からすれば、高い会費の只払い以外に、何一つといっていいほど報われなかった。わたしは、それを理事会等で何度も何度も繰り返し言ってきたが、対策は無いに等しかった。せいぜい名刺に「日本ペンクラブ会員」と印刷できるだけのことだ。ある人は、ペンに入ると「原稿料が上がるのでしょう」と大真面目に質問したことがある、わたしは頭をかかえた。
わたしが「電子文藝館」を発想し提唱し、いま実現に踏み出すことになった根の動機は、こういう遠隔地会員にも「会員」であることの実質存在証明の「場」をつくりたかったのだ。島崎藤村や志賀直哉や川端康成と同じ自分もペンの会員であり、同列に電子文藝館に自薦作が掲載される、と、そういう思いをしたい人にはしてもらいたいと思ったし、会員の基本のデータベースが実現するからだ。それが、大きな、一つだ。
もう一つは、金稼ぎの名目に拘泥して、日本ペンクラブの名前で、なぜこんなものをと思う珍な出版事業に多くの力の用いられている現実に、それはそれでいいけれど、それとバランスするようなもっと本来の日本ペンクラブ会員らしい文藝・文筆の仕事を、作品を、思想を、世間にも世界にも見てもらおうよという望みを捨てきれなかったからだ。
2001 7・28 10

* 電子文藝館のプレステージが用意されているが、背景の色をどうするかと担当の加藤氏から提案があり、三色ほどの候補で投票をという提案もあった。わたしは、その候補色等の実際をあえてまだ見ていない。その前にわたしの考えをしっかり以下のように伝えておこうと思った。

* 本文の環境は、原則無色で。秦
加藤さんの色見本など、何も拝見できていません、まだ。むしろ見る前に発言しておきたいのです。
この際言われている背景の色が、文字作品の「掲載される頁」の背景のことなら、とにかくも「文字が読みやすく、気持ちの騒がないもの」にしたい。「文字」より先に「色」が訴えてくるようなのは、イヤです。
長い間、「本」の紙色が、およそ「オフホワイトに黒いインク」であったのと同じにとは、「地」が紙ではない液晶だから頑固には言いませんが、「原則は同じ」で、色彩が主では断じてなく、心静かに「言語の意味・意義・表現を読みとる」ことが主です。力点はそちらに置いて欲しいと思います。
「色彩」というのは、それだけで、ある「感情を伝染」しますが、文学作品の表現している内容や情趣と背馳する色は明らかにあります。線の意志的・精神的なのに比して「色彩は瞞着」と村上華岳は言いましたが、少なくも色彩が軽薄な「騒音」「景気」を発していることは美術作品でもよくあり、また「色がつく」「色メガネで見る」とも言います。
大勢の個性的に多種多様な作品を扱います「文藝館の命は、作品・文章」です。ある種のお仕着せとして選ばれた色彩で、作品を「読む」まえから一種偏向した雰囲気・景気を与えてしまわないよう、「つとめて普通の、視覚的に無意識でおれるほどの」ものにして欲しいと、わたしは強く望みます。
個人の単行本なら、たとえ緑の紙を使おうと黄色であろうと自由ですが、藤村や川端の作品世界へ、読む前から色彩に影響され幻惑されながら入ってゆく・読む、のはタマラナイ気がしますから。
表紙や目次等のツキモノの部分なら、自在にデザインした方が楽しいですが、本文の背景は、精神的に「無色透明」=べつに純白の意味ではありませんが、それに近い方がありがたい。そう、あるべきかと一作者として実感しています。色紙に刷りましょうかなどと、百冊の本を出してきて出版社・編集者から言われたこともなく、言われたら作品を取り下げていたでしょう。少なくも小説や詩歌などの創作に対して、これは実作者の強い希望です。
美術館の展示室の壁や背景も同じでしょう。背景が先になにかを訴えてきては、展示されている内容=美術品・文学作品にとっては迷惑です。少なくも邪魔に感じます。純文学雑誌が挿絵を入れない伝統もそれです。誰のどんな作品にも偏しないで邪魔しないで読める「場」の条件は、比喩的に言って「色を付けない」事であったはずです。
れわれの「電子文藝館」は、世間に数多い企業PR誌でも、個人の趣味に薫染された個人ホームページでもない、ペン会員大勢が等条件で文芸・文章を陳列するディスプレーであり、保存するアーカイブです。本文の環境には「遊び要素」は持ち込まず、単純明快、静謐を重んじたい。原則論です、これは、私の。
大事な点なので、活溌に議論願います。表紙のデザインも。

* 本でも真っ白な紙に活字を刷ると読みにくい。地を読むのに純白はダメなのである。クリームとかオフホワイトとか言ってきた。液晶の真っ白は読みにくい。薄い灰色とか薄い鈍色=にびいろとか。この薄い黄色は普通文にはいいが、小説を読むには少し浮つくかもしれない。守るべき本筋は、背景の色でなく、その上に置かれる文字であり文の内容でありその「読み」であるということ。それだけは、ぜひ分かってもらいたい。
2001 7・29 10

* 電子文藝館の見本を制作するために、取り急ぎ現会長の著作集から「闇のパトス」をスキャンし、校正に入った。島崎藤村からは「嵐」を採ろうかと思う。
梅原さんの「闇のパトス」は彼の原点であり、純真無垢の渾身の哲学である。弱冠二十五歳の院生時代のほとんど処女作であるが、梅原さん自身も言うように、ここに彼の後々の仕事、きついことを言えば昨今の仕事に希薄になっている梅原猛その人の哲学が懸命に語られている。ぜったいにこれは評論ではない、哲学の論文であるが、なみの論文と違い、祖述もなく文献の引用羅列もない、ただもう若き梅原猛の言葉が暗闇をさぐりさぐり渦巻く。この方法は梅原さんのこれまでの生涯を貫いてきた。しかも、この「闇のパトス」の熱気と哲学とは復活されねばならない。哲学を欠いた評論に流れてはいけないと、失礼だが、わたしは見ている。
「闇のパトス」よりも知名度の高い論説・言説はむろん山のように積まれているが、わたしはあえて、これを選んでみた。見本である。梅原さんは、そんな若書きをとしぶい顔をされるかどうか。そうは思わない。「闇」は梅原氏の哲学と人生と業績を引っ張ってきた松明のような一字なのである。それだけからも、この選択は、わたしの梅原猛批評であり、適切だと信じている。文脈が若い命に溢れている。
2001 7・31 10

* 「闇のパトス」を興味深く読みつつ校正している。スキャンの識字率は本にもよるが、好調な箇所では好調でも、ひどくなると全面に書き直しになる。句読点の一つ一つにまで注意を要するので、全集で三十頁未満の作品校正に三日はかけてしまう、むろん、少しずつ継いでやるからだが。だが苦労は苦労としても、それがいい原稿だと、読みは深くなり楽しくもある。書かれた年は梅原さんが二十五歳ころであるというから、わたしの今の息子よりもだいぶん若い。しかし、なんという生一本な論旨の展開であろう、純真無垢の思想が呻いている。それが今も感動をよぶ力をもっている。首を傾げたり、ちょっと待ったと言いたい箇所が無いわけはないが、問題はそういうことでなく、語られていることと語り方とが一体となって迫ってくるそれが、まさに若き梅原さんの「哲学」であり「肉声」だという、嬉しい刺激。処女作に後の全てが現れるかどうかはべつにしても、まぎれなくこの「闇のパトス」は、梅原猛という敗戦を体験してきた「考える人」の戦後の出発を告げている。その後の多くの業績の遠い堅い基盤を証ししてもいる。いまこの基盤が「時の人」梅原猛をどう支えているのか、いないのか。その批評はまたべつのものである。
不安。無。希望。絶望。闇と光。こう並べればお定まりの単語の羅列と見る人もいようが、真剣に生きてきた者には、これらが青春をそこから動かしたものであり、その後の人生にもいつも付きまとっていた、今も、というそれだと分かっている。わたしは、若い人たちに読んで欲しいと思っている。
2001 8・1 10

* 幸い今日は昨日のような暑さではない曇り日。はやく目覚めて梅原さんの文章をじっくり校正し続けたりしていた。
一時期、「水底の歌」などしきりに梅原著書の書評がまわってきた。「隠された十字架」やその他の文庫本解説までまわってきた。あまり親切な読み手でも書き手でもなかったか知れない。その当時の梅原氏の原稿は甚だ闘争的で、ときに乱暴、ときに傲然として無礼なほどであったから、一流の文章はもっと静かなものだと不満をぶっつけたりした。だが噴出するマグマのようなものを氏が抱え持って、噴火しそうでしないと、胸苦しそうに胸を手で打ちながら話す姿も見知っていた。さすがにそういう時期を氏も通り過ぎてこられた。穏和になり、しかし、すこし普通の「評論家」になられた気味もある。
「闇のパトス」を逐字的に読んでいると、題のままの、身もだえのような勢いが感じられる。氏はみずから、当時この論文の評判がさんざんであったと回顧されているが、さもあろうと思う。哲学でも美学でも、当時の論文ときたら砂利を噛むようなすさまじい文献解説ばかりであったし、それが論文書きの作法であった。わたしが大学院での美学におさらばしたのは、一つは恋の為でもあるが、もっと大きかった一つには美学哲学研究の日本語に耐え難かったからだ。「闇のパトス」はとてもその点で当時のいわゆる論文ではない。「詩的ですらある散文」での感想とでも揶揄ないし罵倒されたのかも知れない。それを敢えてしていたところが梅原猛の「猛然文学」性というものである。「非小説」を書く「猛然文学」者というのが、長い間のわたしの梅原評であった。「闇のパトス」にもその趣は濃厚で鮮烈だが、加えて「これが哲学」というものだと思わせる「私想から思索へ」の徹底が見受けられる。惑い無くそこへ踏み込んでいる。踏み込み方が純真で無垢に感ぜられるところが、わたしがあの厖大な業績集を一点一作で代表させて「よし」と読み切っている理由である。

* 藤村のは迷っている。「嵐」「ある女の生涯」「分配」などの他に、「若菜集」などの詩をとりあげるか。だがわたしには、尊敬する藤村は「小説家」なのである。電子文藝館に「家」ではだが長篇過ぎる。
2001 8・2 10

* 難しい問題が殺到してくる。「e-文庫・湖」方式なら、簡明に出来るのだが。難しく難しくなって行く感じもしている、が、作品はなるべく上質の画面で届けたい。但し、大事に大事にしたいことがある。受け手の受け取り画面で文字化け等の不公平がけっして出ないように、発信側の独断強行は慎みたい。 2001 8・7 10

* 電子文藝館は細かなところで問題や理解不足が溜まり、強烈にストレスも溜まってきた。開館までに用意しなくてはならぬ事が手元に幾つもある。表紙の中かすぐ下かに「趣旨」を謳いたいと事務局長に頼まれている。梅原館長名で当然必要だが、下書きしなくてはならない、従来の紙の出版とは違う性質の「日本ペンクラブ・電子文藝館」なのだから。島崎藤村の「嵐」はかなり長く、スキャンもたいへんだが、ルビがありオドリがあり正字であるから、校正にひどく時間がかかる。じつは、春秋社からの単行本一冊の校了校正を急がれているし、湖の本の初校もまだ半ばにあり、頼まれ原稿が三つほど締め切り間近い。息苦しいほどだが、こういう時がどうしてもやって来る。しかし必ず通り過ぎてゆく。いまは堪えている。
2001 8・8 10

* 電子文藝館、すったもんだを反復しつつ、論考、小説、詩を試みに送り込んだ。山ほど取り決めなければならぬことが、ある。
2001 8・10 10

* 阿部真之助 阿部知二 青野季吉 有島生馬 芦田均 土井晩翠 土井光知 藤田嗣治 深尾須磨子 後藤末雄 原久一郎 長谷川巳之吉 長谷川如是閑 長谷川時雨 林芙美子 林達夫 本多顕彰 堀口大学 細田民樹 藤森成吉 藤沢桓男 深田久弥 福田清人 舟橋聖一 飯島正 石川欣一 板垣鷹穂 伊藤整 岩田豊雄(獅子文六) 上司小剣 賀川豊彦 神近市子 片岡鉄兵 勝本清一郎 川端康成 川田順 川路柳虹 木村毅 岸田国士 北村喜八 小松清 小山清 今日出海 児島喜久雄 久保田万太郎 久米正雄 前田夕暮 正宗白鳥 三木清 村山知義 室生犀星 武者小路実篤 長田秀雄 中嶋健蔵 中村吉蔵 中村星湖 名取洋之助 新居格 西脇順三郎 昇曙夢 野口米次郎 小川未明 岡田八千代 岡本かの子 岡本綺堂 大木惇夫 西条八十 佐佐木信綱 佐藤春夫 里見? 芹沢光治良 島崎藤村 柴田勝衛 島中雄作 白柳秀湖 高浜虚子 谷川徹三 戸川秋骨 徳田秋声 徳永直 戸坂潤 豊島与志雄 鶴見祐輔 宇野浩二 和辻哲郎 山本実彦 山内義雄 横光利一 米川正夫 与謝野晶子 吉江喬松

* これはどういう顔ぶれか。日本ペンクラブに保存された最古の名簿のなかから、わたしにも分かる会員の名前を拾ってみたもの。すばらしい顔ぶれが並んでいる。二冊目三冊目となれば、さらに華々しいであろう。わたしは、こういう人々の遺作も電子文藝館に拾い上げたいと思っている。ケチなことは考えていない「近代日本文学」と「文学者」とを揃えて世界に発信したい、それなのである。それも無償で誰にも読んで貰いたいのである。一人一作品などと限定してのことだが。こういう文学者がいたと、その人のためにも日本文学のためにも。上のうち、著作権の切れている人が初代会長の島崎藤村以下二十人ほどある。年々に増えてゆく。
こういう仕事も、「黒いピン」に刺激されてのことであろうかと承知しているが、こういう発想でこそわたしが少しでも役に立てるのなら、立っておこうと思うのである。
医学書院のころから書籍「企画」で働いた。ある年は、週に一度の企画会議に、一年中一度も休まず企画書を出し続け、多いときは二百枚を越す企画カードをもって、数百人の著者を一人で追いかけ回していた。医学や看護学は高度の研究書になると一冊に数十人の共著も多い。本に仕上げてゆくのは信じられないほどの力業であった。医学書院にわたしの残してきた単行本は、ウソのように数多かった。太宰賞を貰ったとき、鴎外や川端の優れた研究者として知られた医学書院の長谷川泉編集長は、わたしを「A級のエディター」とインタビュアーに太鼓判を押してくれていた。今でも照れるが、嬉しくもあった。編集者の仕事がわたしはとても好きであった。もっとも、企画した本は研究書ばかりで、数は売れなかった。作家になってからも、幾度か出版社のために企画を提供したり、企画を手伝ってあげた。こんな本が欲しいなあと思う、企画はそこが原点で、じつは、このやり方では売れる本は出来ないのである。譬えて謂えば、たくさん売れる通俗読み物など「読みたいな、欲しいな」と思わないからである。

* 電子文藝館に関する電メ研のメーリングによる日々の意見交換は活溌だが、あまり先走ることもない。足元を見つめて進みたい。今日わたしの送り出したメールは、自戒のためにもここへ書き込んでおく。

* 只今は足元を  電子文藝館が、ペンの財源になるかどうかは、考えること自体が時期尚早で、今は、悲観的に予測不能とむしろ考えていていいことです。今から皮算用に走る必要はありません。目下は、ひたすら、無事に美しく「開館」することです。喜ばしきサイトを、豊かなコンテンツを、これは電メ研全員の仕事であり、それも無償の仕事だということです。電子文藝館という発想も運営も、電メ研の非営利の仕事。将来財源になるならそれは結構なことぐらいに、事務局長の胸に今は預けて置くつもりです。事務局の能力も労力も、あまり今はアテにしない方が秋尾さんたちに親切です。「新館建設」という難事を事務局は抱えていますから。
ペン会員から電子文藝館へ何らかの寄付を募るようなことは一切致しません。
電子文藝館が理事会で承認された一つのメリットは、他の事業に比して経済的に、つまり金があまりかからずに実現しそうだという点に有りました。電子メディアの工夫のしどころとして、金より頭を使えるだけ使おう、簡素・簡略な便法も生かそう、最初から金をかけて贅沢な完璧主義になど走らず、のちのち手間をかけても、ゆるやかな時間的経過の中で、より良いリニューアルを重ねようというわけです。
発案者の秦には、白状しますと、私の「e-文庫・湖」の立ち上げの際に、この「日本ペン電子文藝館」があったのです。自分のサイトで実験してみたいと。少なくもコンテンツという面からは、行けると確信したので提案しました。基本的には、だから「e-文庫・湖」の「日本ペン版」が出来る、結局はそうなる、それしかあり得ないだろうと予想しています。サイトの構造や使い勝手の工夫は別にしてですがね。
秦の頭に、無事の「開館」には、基本が、二つ。
万人がアクセスして、「差別も支障もなく適切に読めるサイト」、日本ペンが謙虚に、しかも誇りをもって世に送り出せる「優れた文藝・文章」の収集。
余のことは、その先に自然に起きてくる問題で、その時の対処で足りると思っています。
サイトの方で、倉持さんから、「化ける」という報告、これを気にしています。「化けない」ことを不動の原則に。また、ディスク等で原稿を受け取るとき、その原稿に手を加えることは、よくよくでないと出来ません。一度校正を出すにしても。そのためにも、寄稿者全員に簡単に理解可能な「手順・方法」の提示が前もって必要。ルビなど、うしろに括弧して入れるなど、簡単明瞭な指示がやはり統一可能で、有効ではないかと、今も思います。誰もが正確に、首をひねらずにすぐ出来ることですから。届いたディスクをすべて点検し、こちらで書き換えるなど、事実問題として不可能ですから。オドリも、「いろいろ」「たまたま」でいいですよと事前に告げておく方が、やはり遙かに簡明です。寄稿者は、みな「機械の初心者」であるという認識をあえて「根」に置いておきたい。
コンテンツの方ですが、著作権の切れた方の作品選びをしますので、スキャンと校正の出来る方、スキャンは出来ないが校正の出来る方、図書館等でコピーの頼める方、ここ暫くの期間、幾つか担任していただくことになります。動き始めたいと思います。

* 「黒いピン」が刺さっているようだ、まだ。
2001 8・14 10

* 電子文藝館の実験過程が沸騰している。いいことで、予期以上にモノが煮えている。もし、真夏ですから秋になってじっくり考えましょうと言っていたら、これは流れていただろう。まだまだ危険性はあるにしても、関係者がこう踏み込んでいれば乗り越えて行けるだろう。やがて会報で全会員に告知される。進水だ。委員会のほかにも小刻みに小さな打合会も必要に応じ重ねたい。勝負は長くて年内になろう。会長作品をはじめ、少なくも十人以上の作品で開館できる。あとは、ゆっくりと雪の降り積むように増えてゆけばよい。
「秦さんの言われる「今の私のこの機械等でも『支障なく読みとれる電子文藝館』を志向します。同じそういう人が大勢いるものと仮定して、その代表者としても。無条件で読めること、という意味はそれです」という目的は、原則的で、極めて大事なことだと私も思います。大変でしょうが、是非、この目的を達成する形で、「電子文藝館」を立ち上げたいと思います」という一委員の声を生かしながら進みたい。
2001 8・15 10

* 梅原猛氏から「闇のパトス」について、あなたに万事任せますと、作品の選択に満足された旨の手紙が来ていた。

* 午後、ちいさな会合が一つあり、街へ出る。そして明日は電子文藝館のための電メ研。もう、わたしの生活は夏を終え、秋本番に入ってゆく。湖の本も再校が出そろってきた。
2001 8・23 10

* 久しく「e-文庫・湖」の面倒をみているヒマもなかった。いくつもの寄稿を受けていてスキャンの必要な作が来ているのに、手が回らなかった。無理をすると草臥れてしまうのであえて見過ごしていたが、今、電メ研の僚友で詩人の村山精二さんの作品を掲載させてもらった。「詩歌=詞華集」は従来の第七頁が量的に満了したので、第二輯を第十四頁に開いた。村山さんの「特別な朝」をその最初の作品に飾らせて戴く。
おいおいに他の方の寄稿も掲載してゆく。 2001 8・25 10

* 高田欣一氏の「小林秀雄雑感」を「e-文庫・湖」第三頁の文学的エッセイ欄に頂戴した。雑誌「ミマン」の連載原稿を書き送った。
2001 8・26 10

* 「梅原猛と33人のアーチスト」というイベントが、展覧会が、各地の高島屋で開かれる。京都美術文化賞の選者仲間である清水九兵衛さん、三浦景生さん、また授賞した面屋庄甫さん、井上隆生さんからも相次いで案内が来ているし、井上さんからは佳い図録も頂戴した。石本正さんからも必ず届く。さすがに梅原さん、充実して新鮮な印象の、佳い33人を選ばれているし、一人一人への「寸観」というか紹介と称賛の弁がまた要領を得ている。それだけではない、梅原猛という「哲学者」の「芸術家」観が具体的に良く読みとれて興味深く面白い。この企画、オーガナイザーとしての梅原さんの能力がよく出ている。見応えのある藝術家群像であり、京都ないし関西からの強烈な発信である。33人の3人はわれわれの仲間の選者であり、受賞者も何人も入っている。その筆頭は秋野不矩。第一回の選考でわたしが真っ先に推した。以降のぼりつめて文化勲章まで。来野月乙、小清水漸、中野弘彦、野崎一良、服部峻昇、藤平伸、三尾公三、面屋庄甫、吉原英雄、渡邊恂三など、思い出せる限りみな京都美術文化賞で選んだ作家であり、横尾忠則、前田常作、下保昭、山本容子などの人気作家も加わっている。裏返せば梅原猛という元京都芸大学長の人脈であると同時に、氏の審美眼というか好みが表されていて興味津々の顔ぶれ。
たとえば日本ペンクラブのような文筆家団体の人たちは、この方面の梅原さんには、具体的には、かなり疎い。こういう梅原猛の原点にあるのが、全著作から確信をもってわたしの選んだ「闇のパトス」なのである。若い人に、青春に蹉跌しそうに苦しんでいる人たちに、読んでほしい。
2001 8・30 10

* 京都の新京極を妻と歩いて、錦天満宮をのぞき込んだりしていたのを、「e-文庫・湖umi」に小説を二本載せている高橋由美子さんが、そばで見掛けていたらしい、驚いてのメールが来た。わたしのことは写真で知っていたと。普通なら似た人とぐらいで終るだろうが、「私語」に、その刻限、錦や新京極にいたと書き込んであったので、間違いないと思われたのだろう。夫婦でなにを話し、なにをしていたことやら、冷や汗が出る。ま、旅の恥のたぐいであり、こういうことが、ときどき有るものである。こっちでも高橋さんを識っていたら、声を掛け合って楽しいひとときが持てたかと、惜しかった。
この高橋さん、新しいまた作品を送ってきてくれたのが、その帰省中の京都からであったらしい。帰省といってもお互いに家はもう無くなって、ホテルずまい。ホテルまでは一緒でなかった。我々は河原町に、高橋さんは烏丸に。

* 電子文藝館の実験版が、かなりの体裁で出来てきた。表紙など、まだ仮定の、借り着のようなものだが、サンプル作品に梅原会長の論考、わたしの小説、他に詩と短歌作品を入れてみた。もう少し調えれば、開館のめどが立つ。熱いメーリングの意見交換で、加藤弘一氏の尽力からここまで辿り着いてきて、しかし、まだまだ慎重にすみずみまでフォーマットをかためねばならない。
2001 8・31 10

* 四国の門脇照男氏の小説「風呂場の話」と「赤いたい」をスキャンした。いい作である。若年以来文学「執心出精」という免許状などに出てくる文言どおり、私より一世代上の練達の書き手で、太宰治や上林暁に私淑し師事していた人。校正して早く掲載したい。 2001 8・31 10

* 門脇照男氏の秀作「赤いたい」を「e-文庫・湖」第二頁の創作欄に掲載した。昭和二十四年の「文芸広場」に福田清人氏に認められて掲載された作者自愛のこの作は、前年、小説が書きたい一心で四国から上京した作者の、いわば処女作であった。第三頁に掲載した同じ門脇さんのエッセイ「上林暁」が、この上京の時期に重なっている。かすかに流れるユーモアとペーソスとは、門脇さんが仰ぎ見ていた太宰治からの薫染であろうか。上質の私小説である。「湖の本」の久しい読者である。
ひきつづき昭和四十年の「風呂場の話」をスキャン校正している。
2001 9・1 10

* 昨深夜に上司小剣の「鱧の皮」を再読、質感豊かなリアリズムに、独特の生彩と生動があり、大阪弁の面白さにのせられた人物像のねばっこさと、それにもかかわらず不思議な軽妙感とに、とにかくも感銘を新たにした。まぎれもない文学作品であり、濃厚で、うまみが充溢。たれの利いた鰻とか鱧とかの味であるが、お茶漬けも添っている。織田作之助とかをはじめ、似た作風をおもいつくことは出来るのだが、よく味わってみると、こういう腰の据わった文学は作之助にない、もっと軽いし、わるくいえば上司作品のおっとりときめこまかな品位に及ばない。「電子文藝館」には、ぜひこれをもらおうと思い、編輯の高橋茅香子さんを介して青空文庫版の本文を入手した。
じつを言うと、わたしはこの作家の名の正しい読み方が確認し得ない。「じょうし」「うえつかさ」「かみつかさ」「うえじ」「かみじ」などと読める。「じょうし・しょうけん」とばかり読んできたが、さてとなると、確かでない。わたしの手持ちの講談社版文学全集には、一箇所もふりがながない。
志賀直哉の全集書簡には再々奈良の上司海雲という人が登場する。人名索引では「か」の項にある。小剣も奈良の生れで、家は手向山八幡の神主であった。海雲とは一党であろうか年譜では「上司の丘」に住んだので上司氏を名乗ったらしい、もとは紀氏であったという。日本人の氏名の読みはほんとうに難儀。編集者は、正しい読みを記銘しておくべきだろう。この作家の別の作品にもいろいろの趣味をおぼえているが、『U新聞年代記』という実名ものが面白い。
著作権の切れている「鱧の皮」を、敬意を表して、「e-文庫・湖」創作欄に頂戴する。

* ペンの初代会長島崎藤村の『嵐』本文も青空文庫に拝借した。
2001 9・3 10

* 追分に暑を避けて静養されている木島始氏より、お手紙を戴いた。なかには、わたしの為につくられたコラージュ作品も含まれていた。いろんな広告を用いて創られてある。じっと眺めている。この八月十五日の東京新聞夕刊に寄稿された「分け隔てない戦没者霊苑」の切り抜きも入っていて、「e-文庫・湖」第11頁の論説・提言に戴こうとスキャンしてみたが、新聞記事には囲みの題字や写真や見出しがあり、うまく原稿として取り出せない。短いものだし、そのまま、わたしの手で書き込んだ。大事な提言であり、一読を願いたい。
2001 9・3 10

* 「e-文庫・湖」第二頁創作欄に、門脇照男作「風呂場の話」を掲載した。さきの「赤いたい」は昭和二十四年の出世作であった。これは昭和四十年「文芸広場」一月号に初出の、デビュー以来の作風をみごとに味好く煮詰めた、この作家人生半ばの代表作である。婿が舅を書いたこれほどの秀作をわたしは知らない。極めつけの佳い私小説であり、懐には余裕があり、視線は行き届いている。柔らかな軽みも救いもある。
以前に三原誠氏の「たたかい」を掲載した、あれもじつに佳いもので、この二つの作品の善さには、通底したものがある。地味だがひたすらに書いていて、余裕があり、変な受けねらいが無い。大勢の作者をわたしは湖の本の読者にもってお付き合いしているが、他にも倉持正夫氏にしても武川磁郎氏にしても、みな、本格の書き手で、作品をゆるがせにしていない。門脇さんの二作、三原さんの二作、廣い読者を得たいと編輯者は切望している。
2001 9・3 10

* 上司小剣は「かみつかさ・しょうけん」と森秀樹さんから事典で調べて報せてもらえた。感謝。
2001 9・3 10

* 昨深夜に、芹沢光治良「死者との対話」、岡本綺堂「近松半二の死」を読んだ。電子文藝館の掲載候補作としてであるが、ともに、感動した。ことに芹沢さんの「死者との対話」はこの作家の根の真面目を痛切に書いていて、驚嘆した。敬服した。哲学に対し鉄槌をふるいながら、知性の真に在るべき在りようを示唆してあまさない。戦後の昭和二十三年に書かれている。これは、ぜひ欲しい。日本にも哲学者はいて、西田哲学はことに世界的なものとして喧しかった。だが、なんという日本語であったかと、わたしなども、さじを投げて嘆いたものだ。芹沢さんの批判はさきの戦争の不幸に触れながら、ことばと表現についても根源のことを適切に話されている。昔に読んだときよりも、はるかにさらに強い感銘を受けた。どなたが著作権者であるのか、そういう下調べが先ず急がれるが、ぜひにと願う。
岡本綺堂の新歌舞伎戯曲は、上演された有名なものでなく、優れた内容なのにふしぎと上演の機会をえないままの「近松半二の死」に目星をつけてみた。期待通りの、読んで静かな感銘作であった。長さも程良かった。著作権切れの岡本綺堂であり、スキャンしてみたい。
2001 9・5 10

* さて。午後は、電メ研の、台風で延期されていた会議。いろんな議題で賑わうことだろう。電子文藝館の立ち上げへ、ゆっくりと、しかし着実に前進している。ツメのところへ歩み寄ろうとしている。さ、どうなるか。 2001 9・13 10

* 最小限度の小人数会議になったが、必要な顔は揃っていて、順調に「電子文藝館」の会議ができた。三十分超過。よほど前向きに煮詰まり、希望のもてる段取りが出来、感謝する。次回は十月五日金曜日。ゆっくりゆっくり、少しずつ階段を上ってきた。それでいい。

* 小雨であったが、ひとり、今夜も、刺身、土瓶蒸し、それにあなごの唐揚げを味わいながら、燗の酒、そして「ミレニアムのイエス」という小冊子のイエス論を読んできた。久しぶりにイエスに逢う。
2001 9・13 10

* はやくに亡くなってしまった三原誠の奥さんに、遺著を二冊拝借していて、中から「たたかい」「白い鯉」の二編を「e?文庫・湖」にすでに掲載したが、どうしてもそのままに済ませない、これが三原誠をわたしの胸に刻み込んだという代表作の「ぎしねらみ」を、ぜひ読者に紹介したいと願って、かなり長篇だがスキャンした。いま一字一句をていねいに校正しているが、校正しながら読む宜しさには、独特の嬉しさも横溢する。むろん優れた作品なればこそであるが、こんなに水準の高い物語が、いわばひっそりと書かれ、ひっそりと出版され、とくべつ顕彰もされずにあわや忘れ果てられて行くのを、わたしは心から惜しまずにいられない。
みながみなとは残念ながらとても言えないが、世間には、こういう優れた作者が、何人も隠れたまま、この世を去っていた。現存して静かに炎をあげながら書いている人達も現にいる、幸いわたしは何人か識っている。
そのなかでも「ぎしねらみ」の作者は優れた才能の持ち主であった。わたしより五歳年上の、作家としての経歴も優にわたしより先輩であった。手間取るスキャン作業にためらいながら、断念しきれず、忙しいさなかに粗原稿にしておいて、今、校正しているのだが、こういう作品で、わたしの「e?文庫・湖」の飾れることを誇らしく思う。新しい世代のむろん新しい作品が欲しい、が、その一方で、忘れられてはならない、しかももうとても読める機会の遠のくか無くなってしまった秀作を、心して発掘し記念しておくことも、「e?文庫・湖」の役割であるかのようにわたしは考えている。やっと半分近く校正した、もうすぐ掲載できる。
「静かに深い小説」の幾つも掘り出されてある「e?文庫・湖」にして行きたい、すでに、少しずつそうなっている。心疲れた日には、気の寄ったその一編だけをワープロなり他のソフトに貼りつけて、プリントするなり、「T-TIME」で縦読みするなり、気持ちを憩わせてください。
2001 9・15 10

* こんな中で、今日午後のペンクラブ理事会がどんな議題で輻輳するか、期待したい。わたしは、会議時間の不足を考慮し、書面報告にして置いた。また明後日晩には、言論表現委員会と人権委員会の共催で、シンポジウム「いま、表現があぶない」が開かれる。どんなタイトルにしようかと猪瀬委員長が聞くので、こう応えたのがそのまま採用されたようだ、むろん通常創作的にいう「表現」ではない。個人情報保護法等の抑圧的な立法措置への対抗の意味をこめている。わたしも会場から少し発言することになるだろう。

* 「電子文藝館」が、「JAPAN P.E.N DIGITAL LIBRARY」と訳された。歴代会長の著作権継承者への出稿依頼状、同じく物故会員への依頼状も用意した。現会員からの出稿わ牽引するためには、こちらからの充実を図りたいのがわたしの願いである。
2001 9・17 10

* 電子文藝館の報告は、すべて承認され、小中専務理事からは「小委員会」でなく「委員会」です、確認ですと告げられてきた。小でも中でも大でも何でもいいが、協力してくれている委員の気持ちを考えれば、すんなり委員会である方が私の肩の荷は軽くなる。

* 議論らしい議論は、言論表現委員会からの図書館問題での報告に関してだけ。やっとこさ、協調と地道なキャンペーンの必要が分かり合えてきた。そもそもは、いわば横面を張るような只の非難から始まったが、話し合いたいという表明が図書館側からあったというのも、じつは、あちら側の意思表示であり、誠意であったのだ。それがなければ、では、どうなっていたか。意思疎通のない反感の投げ合いになっていたかもしれないのである。図書館側に著作権への意識が足りないのは事実であるとしても皆無ではないし、彼らは彼らの壁に阻まれて苦戦しているのが事実だ。
さて顧みて著作権者の著作権意識がどの程度のものか、この世間で何十年生きてきたわたしには、分かる。猪瀬直樹や三田誠広のようには尖鋭ではない。図書館には「一著者一冊」以上の本は「買うな」という提案に、たとえば1900ペン会員のどれだけの人数が、正しく反応するだろう。中にはとんでもないと叫ぶ人もあろう。明らかにそれでは、困るのだ。そういう物書きでは困るのだ。だが平均的な現実は、とてもそんな意識になっていない。時間をかけて、まず仲間内へ、同時に社会へ、キャンペーンして行く辛抱がなければならない。自分と同じ水準でものを言わないからと、やみくもに軽蔑したり非難したりしても、児戯に類してくる。一気呵成の可能な問題もあろう、が、たいていは歩一歩という問題なのである。人を鼻先でバカ扱いしすぎていると、それ自体がバカげて見えてくるから、ご用心。人は、人より、なにかにつけて、それほどはエラクなんかないものだ。

* 例会に出は出たが、顔なじみはいなかった、長谷川泉氏ぐらい。梅原会長に促されて、乾杯後の雑踏相手に「電子文藝館」の宣伝を一席。そして、退散した。帝国ホテルまでの距離が今夜は遠く感じられて、そのまま清瀬行きの有楽町線で一気に帰宅。桂氏と高橋昌男氏と坂上弘氏の鼎談「江藤淳の文学」を面白く読みながら。
メールをいくつも処理し、返事をすべきはし、理事会の纏めを書いて、メーリングリストで、仲間の委員に通知した。加藤弘一氏はめでたく今日の理事会で正式に会員として入会を承認された。氏には、今日の文字コード委員会に代理で出てもらった。この人こそ最適任の文字コード委員会である。力強いこの仲間を、わたしは、エッセイ会員でもあるが、新世紀にふさわしい「Digital Editor」でもあると、紹介して推薦の弁を述べた。
まだ、あすが、ある。あすには、湖の本の通算68巻が出来てくると連絡があった。受け取ってからシンポジウム「いま、表現があぶない」に出掛ける。これから、買ってきたワクチンをインストールする。
2001 9・17 10

* 公開される事業であり周知をはかるのもだいじであるので、今日の理事会で承認された「書面」報告を掲げておきたい。最初に、梅原猛会長・初代館長による宣言。館の入り口に掲げられる宣言を、口調をやわらげて出稿依頼状の冒頭に掲げるべく用意したもの。この「電子文藝館」構想と実現の仕事も、また一つの我が「創作」と考えている。

* 「日本ペンクラブ電子文藝館」を開設します。

日本ペンクラブは国際的な文筆家団体であります。国際ペン憲章は、「藝術作品は、汎く人類の相続財産であり、あらゆる場合に、特に戦時において、国家的あるいは政治的な激情によって損われることなく保たれねばならない」とし、また「文藝著作物は、国民的な源に由来するものであるとしても、国境のないものであり、政治的なあるいは国際的な紛糾にかかわりなく諸国間で共有する価値あるものたるべきである」とも宣言しています。核実験に反対し、環境問題や人権問題につよく提議し、言論表現の自由を護ろうと闘うのも、その基盤には、会員の文学・文藝の「ちから」がなくてはならないでしょう。「ペンのちから」を信じ愛して、世界の平和と言論表現の自由のために尽くして行かねばと思います。
今、日本ペンクラブは「ペンの日」を期して、ここに独自の「電子文藝館」を開設し、島崎藤村初代会長以来、あまた物故会員の優作を、また、二千人に及ぼうとする現会員の自愛・自薦の作品ないし発言、加えて簡明な筆者紹介を、努めて網羅展観する事業を通じ、国内外に、メッセージを発信します。大きなご支持をお願い申し上げます。
2001 年 仲秋
日本ペンクラブ会長  梅原 猛

日本ペンクラブ歴代会長著作権継承者の皆様にお願い申し上げます。

別紙、梅原会長の「開館のことば」を受け、「日本ペンクラブ電子文藝館」実現へむけて、電子メディア研究委員会が作業を始めました。ご支援をお願い申し上げます。  (以下略)

* 「日本ペンクラブ電子文藝館」の概略  電メ研による理事会書面報告

以下は、七月理事会決定以降、数次の会議を経た討議内容です。実験段階でのサイトも、入念にフォーマットを整え、和文英文の梅原館長による開館宣言、また初代会長島崎藤村の「嵐」、梅原現会長の「闇のパトス不安と絶望」、上司小剣の「鱧の皮」などの他にも、試験的に数点の展観作品を掲載しています。索引も、幾重にもクロスオーバーした便利に
使いよい装置が仕上がり、即座に、めざす作者と作品へ画面を展開することが出来ます。用意ができ次第、会員向けに
公開し始めます。理事諸氏の率先出稿を希望します。
梅原会長名および担当委員会からの、歴代会長・物故会員の著作権継承者に対する懇切な出稿依頼状も、用意しま
した。十一月「ペンの日」を期した「開館」は、恙なく実現の見通しが立っています。
子メディア研究委員会 委員長 秦 恒平

「日本ペンクラブ・ホームページ」の看板のもとに、「電子文藝館」と「広報」とが、別個に並び立ちます。相互にリンクして外向きには一体感をもたせた運営になります。

以下、「電子文藝館」現在の概略を、順不同に書き上げて行きます。

「日本ペンクラブ電子文藝館」  初代館長は梅原猛会長。「開館」に至る運営は電子メディア研究小委員会=日本ペンクラブ電子文藝館編輯室が担当し、事務局長が支援する。

「トップページ」  文藝館の入口にふさわしいデザインにし、梅原館長の「文藝館宣言」を掲げる。別に「英語版トップページ」を作り、「文藝館宣言」の英訳を載せて、世界に対する日本ペンクラブの顔とする。「入口=背景画面」には日本字と英語との題字=看板を横書きに入れる。実現している。

「会員名総覧」  現会員全氏名および物故会員全氏名と、ローマ字読み及びP.E.Nの区別を掲げた「日本ペンクラブ会員総覧」を用意し、簡明に通覧可能にする。そのままで、近代文学史の一資料となる。住所電話肩書等は不要。容易に実現できる。

「見出し」  氏名 題名 小見出し 筆者紹介 等は形を統一する。一任願う。

「文字化け」  利用者(読者)の使い勝手をよく考慮し、文字化けしない画像文字も活用して文字が正確に読者に届くことを最優先する。なるべく作品に必要な文字の使えるよう、わかりやすく解説した「表記法の手引」を用意し、また出稿に伴う問題点の事前周知にも適切な「パンフレット」を用意して、全会員に配布する。主催側の独善を排し、展示改良へフォローし、リニューアルも覚悟の上で進める。

「作品の質」  高いに越したことはなく、バーは高く設定したい。イージーなことは出来ないと会員諸氏に先ず思ってもらい、次の段階では、こういう中に並びたいと思ってもらえるように。余儀なく一つには「ネームバリュー」であり、初代会長島崎藤村ほか、上質の出稿の期待できる「著作権切れ作者や物故会員」作品を、古い会員名簿で物色したところ、錚々たる作者たちのみごとな作品が、多数、しかも容易に期待できる。現任理事諸氏の意欲的な出稿が特に待望される。事務局は過去会員の名簿を提供して欲しい。
作品審査はしないが、外国語原稿に限り、専門家の内容確認を委嘱する。是非には従ってもらう。

「作品の分量」 編輯室ないし理事会で可とした現会員には、一人に「2」ジャンルを与える。詩人にして小説家とか、小説も随筆も書くとか、作家で批評家とか。その才能を一作限定で殺さない。賑やかにしてゆくためにも少なくも当初は好配慮となろう。
量は原則を示し、四百字(20×20)原稿用紙換算とする。
「小説」 30枚から150枚以内。一作に原則限定。短編作品なら、100枚以内厳守で複数作、可。
「戯曲・シナリオ」 150枚以内。一作に限定。
「ノンフィクション」 30枚から150枚以内。一作に限定。
「児童文学」 30枚から100枚以内。一作に限定。
「評論・論考・研究」 30枚から100枚以内。一作に限定。
「短詩型」 短歌・俳句・川柳は一行アキ組み、150作品(300行)に限定。総題希望。
「詩」 300行(1行20字計算)以内。複数作、可。複数の場合、総題希望。
「詩歌」作品は、努めて、生涯全作品からの精選を期待する。
「随筆」 合わせて50枚以内。複数作、可。
「翻訳」 各ジャンルに準じる。
「外国語」原稿  原則として上に準じるが、内容の確認を含め判定を加える。
「オピニオン」 出版人・編集者・報道人等広くエディターの、「テーマ」をもった発言の場とする。討論・論争に及んだ場合、複数回の発言可能。但し個人間の私的紛争や誹謗に相当すると編輯室ないし理事会で判断した際は、掲載しないことがある。発言量は、年度内複数回で計50枚前後とする。P.E.Nならではの「Editor」発言に期待する。所属等を明示する。
すべて質・量にわたり若干の配慮措置はありうる、が、編輯室ないし理事会の判定には従って貰う。

「作品の提出」  適切な「出稿要領」の提供を用意している。
原則として、入念に本人校正されたテキストファイルを、ディスク、またはE-Mailおよびプリントも添えて提出してもらう。但しWindowsの場合、一太郎、MSワードでも可とする。原稿は、段落単位に、改行なしベタ打ちで提出してもらう。Macに関しては技術的に検討して改めて通知する。
デジタル化の技術的に不可能な会員には、申し出があれば、出稿製作のため適当な「業者=アルバイト等」を紹介することもある。誤植は筆者本人の責任とする。
なお、図版、挿絵、表組み等は「原則として」不可。主に文字による文学・文藝・文筆作品を展示掲載する。但し編輯室ないし理事会が必要と認め、かつ MSWord、一太郎形式による提出に限り、特例として受けつける場合がある。版権のある画像については、必ず著者の責任において版権問題を事前に解決しておく。展示後にトラブルを生じた際は、一時ないしその後、作品を撤去する。
なお「外国語」作品は校正を必要としないファイル等による提出に限定し、専門家の内容確認を得る。是非には、従ってもらう。
総じて、限られた人手で運営する電子文藝館であり、寄稿提出したら即座に掲載されると性急にならないで欲しい。なるべく速やかに正確に掲載する。

「新入会会員の出稿」  理事会で入会を承認された新会員は、自薦作品を提出することを原則とし、義務づけたい。その能力の認められた者が入会を承認されるのだから。

「索引」  作品の題、作者・筆者氏名、ジャンル等から、複合的に構築する。
当面約六万枚の原稿を収録、さらにほぼ無際限に拡大出来る。リンクと索引目次の完備により、支障なく随時・随意に手早く望む作品を選んで読むことが出来る。

「作品の掲載」  会長も現会員も物故会員も、目次や索引には明瞭に区別されるが、作品は、すべて索引に対応して展観される。作品は、並ばない。原則として、受付順に「ジャンル=小説・随筆等」別に掲載するが、すべて索引による単純乱載法を採用する。
スキャン校正等の作業を要する場合掲載が遅れるのはやむをえない。不公平は排する。実掲載年月日を明記する。
原稿料は支払わない。掲載料は取らない。利用者への課金行為も一切行わない。

「歴代会長」  目次を別に立てて敬意を表する。作品のジャンルは問わない。目次面に特に立てるのは「歴代会長」に限り、他は「物故会員」「現会員」と、斉しく並立する。

「作品の差し替え」  現会員の場合、最低一年掲載後には、別作品に差替えることが出来る。

「作者略紹介」 氏名と英字によるフリガナ、P・.E・.N登録別、「小説家」「哲学者」「大学教員」「高校教諭」「新聞記者」「編集者」「随筆家」「評論家」」等の端的具体的な名乗り。生年月日、出身府県、受賞歴一つ、作品初出、作品受賞歴、掲載年月日に限定する。顔写真など無用。作者による作品解説も無用。文化勲章・文学賞等の受賞は、主要な一つに限る。会員データベースの基底部を形成する。

「著作権」  作品は著作権者に属し、電子文藝館は掲載のために無償で「場」を提供している。電子メディアにつきものの著作権被害には著作者として納得のうえ作品を提出してもらう。もとより明白な侵害行為には日本ペンクラブとしても著作者と共同して厳重に対応する。原則として著作権問題のクリアは原作者・原筆者に委ねる。
著作権の切れている作者の作品は、「青空文庫」等の提供を受けることも出来る。日本ペンクラブとして挨拶と希望申し入れをすれば無料提供される。歓迎されている。

「掲載の体裁」  作者名を先とし、略紹介が添い、そして作品が掲載される。作品は横書きで展示され、縦組みに換えて読むか横書きのまま読むかは、読者の自由である。
ジャンルによる一定の体裁を定め、作者や作品により差別することはしない。フォーマット=方式設定は、慎重に用意している。

「原則運用」 当面は全てに「原則として」と限定することで、運用の融通も確保したい。原則設定と細目運用に関しては、電子メディア研究小委員会=日本ペンクラブ電子文藝館編輯室の配慮に一任願いたい。よほど難問は理事会に諮る。なお、技術的な運営には従来通り業者の協力を得てゆきたく、経費的な手当は事務局長に委ねる。

「開館と公開まで」 2001年の「ペンの日」を期して開館する。着実に進んでいる。技術的な推進等に就いては一任してほしい。協力出来るという会員には参加して欲しいが。

「実現すると」  日本ペンクラブの名の下に、少なりとも全会員の文学・文藝・学問の成果が、自負・自撰の作品とともに、世界に向け発信される。将来的には、作品という実質を伴った全会員のいわば「人名索引」ともなり、「日本ペンクラブ・データベース」の一翼を「文学・文藝」そのもので実現することになる。やがて第一歩を踏み出せる。

以上、報告し、理事会承認を得た。
原案作成2001年 9月 13日 電子メディア研究委員会
2001 9・17 10

* 本が届かないので、待ち時間に、三原誠代表作の一つ「ぎしねらみ」を校了できた。「e?文庫・湖」の創作欄「第二輯」の最初の掲載作として、感謝して歓迎する。作者は、昭和五=1930年生れの小説家。すでに惜しくも亡くなっている。昭和五十五年七夕に上梓の単行本『ぎしねらみ』の表題作である。本のあとがきに三原は書いていた。「ぎしねらみ」は、作品の中でも書いたように、清流にだけ住まう魚である。自分が子どもの頃は、故郷のどんな流れにも見かけられたが、この頃では全く姿を消していると。二三尾捕えておいてくれと気楽に依頼したが、電話の向こうの甥は、「それは、言うなれば雲をつかむようなこつでござります」と返事したと。さらに三原は言う、「清流にしか住めぬ傲りの性ゆえに、いまは虚空のかなたの青さの中に、じっと泳ぎすましている一尾のぎしねらみの性が、私にはたしかに見える」とも。
三原誠がみずからを「ぎしねらみ」に擬していたかどうか、ここでは言及しないが、この作品は、どうしても「e-文庫・湖」に欲しかった。今も夫君の意をつぐように「湖の本」を支えてくださる節子夫人の厚意から、三原の「三」代表作=たたかい、白い鯉、ぎしねらみを得られたのは無上の喜び。研究者原善は、自分の研究課題はメジャーの川端康成、マイナーの秦恒平と、日大の非常勤研究室のホームページに公言しているが、わたしもまた、おのが内に「ぎしねらみ」をひしと抱いた、まさにマイナーの創作者であることに、亡き三原さんらと共に誇りを持ちたい。 2001 9・18 10

* 林芙美子という作家にはほとんど出会いがなかった。有名な『放浪記』もしらない。映画で「浮雲」を、「めし」を、観た記憶がある。なかみは忘れている。そういえば、最近「歴史小説」の特集で一つ読んだが、いいものではなかった。駄作であった。
わたしが高校の頃に、林芙美子は亡くなった。源氏や谷崎や短歌に打ち込んでいた頃で、芙美子の死はよそごとだった。「清貧の書」「晩菊」の二編からえらんで電子文藝館にならべたい。著作権は切れている。

* 岡本かの子は幾つか読んで、それぞれに感じ取れた、評価できたという記憶がある。「川明り」「老妓抄」など、優れていると思った。その辺で選びたい。著作権は切れている。

* 電子文藝館に、現会員から作品が入るのは、しばらく様子眺めをしてからになるだろう。現に活動している人は、気疎いことであろう。物故会員からの優れた作品を入れ続けてゆくと、水準の高い近代日本文学のライブラリーになり、サンプル館になる。わたしは、心の底でそういうのをむしろ望んできたから、一つまた一つと可能なところから優作、秀作とともに優れた文学者の名前を文藝館に刻んで行きたい。雪の静かに降り積むように。いつか気がつくと真珠や宝石の箱になっているように。
2001 9・26 10

* 林芙美子の「晩菊」と「清貧の書」のどっちを採ればいいか、迷っている。「晩菊」は題のようにしおらしいものではない、六十近い芸者崩れが昔の男の一人と会っている、すさまじい心理の葛藤。文学的には優れているが、同じ女でも徳田秋聲の「或売笑婦の話」には落ち着いた冴えとリアリティーがある。芙美子の「晩菊」はリアルであるが、胸を深く打つリアリティーはない。地獄繪のようである。「清貧の書」は夫婦もので、散文の緊密度では「晩菊」に劣るだろうが、あはれがある。あはれが感じられる。文学をもし「藝」の一点で測れば「晩菊」の肉薄は優れているが、もののあはれが微塵もないので、カタルシスもない。そこに疑問が湧いてくる。材料が荒んでいるからではない。作者の心が荒んでいるのだ。もっと汚らしい話材ものでも、もののあはれが作品を質実に高めて深めるということはある。冴えて静かな光るものがある。林芙美子は「晩菊」で、それをどこかにかなぐり捨てている。それが凄いという人もいる。「凄い」とは、心に鬼の蠢いて在るという意味だ。日常会話で「凄い」「凄い」というなと、昔、えらい人がきっちり指摘されていた。
2001 9・27 10

* 徳田秋聲作「或売笑婦の話」のスキャン稿を校正しているが、作業がうれしくなるほど、気持ちのいい作品で、清涼剤を口に含み含みいる心地がする。優れた作品というのは、散文それ自体の魅力で思いを深くも清くもしてくれる。もとより秋聲の散文は近代の諸作家のなかでも抜群なのだから当たり前であるが、その抜群の魅力を味読するのが今日では容易でないかも知れない。酒のようなとも清水のようなとも謂わない。へんな言葉だが素水のような味わいなのである。淡々として、薄くはない。水くさくない。水の味なのである、はっきりとした。その点では志賀直哉の散文よりも優れているところがある。直哉は表現の意識がある。秋聲はそれにもとらわれない。叙事叙述に徹していて、それがだがなまじの表現よりも無駄なく的確で味わい深い。この作品では、名もない「売笑婦」の人間が美しいまでよく書けている。胸が温まり、そして堪らなく寂しくもある。今日一日の塵労ににた疲れの癒えた気がする。

* 映画「リーサル・ウェポン4」をビデオ撮りしながら観ているとき、映画と関係なくなんだかわたしは哀しい、引っ込んだ気持ちであった。映画は十二分に面白かったのに。なのに、湯に入り、機械の前に戻り、秋聲を一字一句読んでいるうちに、そんな晴れ晴れするのがおかしい内容の小説なのに、わたしは救い出されていた。ほとんど、黒いピンが抜けて温かい野に身を憩わせている気分になれていた。ほんものの藝術の徳というものか。
2001 9・28 10

* 徳田秋聲作「或売笑婦の話」の校正を終えた。秀作と謂うに何のためらいなく、散文による文学の藝術的達成とはこういうものかと嘆賞を久しうする。底知れず寂しい読後でありながら、胸は静かに洗われて、そこに溜まる清水は澄んでいる。人情話として噺家が話しても成る題材であるが、そのような落ち付け方ではなく、あくまでも人間の、生きている哀しみに視線が注がれ、強いて解決を与えようとしない。解決のつくことなど、そう有るワケのない人の世なのだから。
日本文学の一方に泉鏡花の文学を置くなら、対極に徳田秋聲の文学をと思う。この二人は共に金沢から出て、前後して尾崎紅葉の門下生となり、愛憎こもごものライバルであり、お互いに理解者であったろうとも想う。表現し到達した日本語は、まったく質を異にしたものだが、甲乙なくたとえようなく光り輝いている。文豪と謂うにふさわしい。
2001 10・1 10

* 歴代会長著作権者、物故会員著作権者および日本ペンクラブ現会員宛て、それぞれの「出稿依頼状」を用意し終えた。亡くなった方や遺族に原稿を作成してもらうのは難しいから委員会で手伝うが、現会員には自分で用意してもらうのが原則になる。その際のいわば作成要領をめぐって、だいぶ議論があった。一つ提出された最終案は、詳細に長大なものであった。こんなながいものをわたしが一会員として受け取れば、その煩雑で難儀なことに音をあげ、「電子文藝館」自体から目を背けてしまうだろうと、途方に暮れた。
かりに、わたしや、委員会の委員には理解できても、そもそも1900人の現会員のなかで、メールの使える会員はまだ300人そこそこ。ホームページを開いている会員はそのうちの一割もあるかどうかだ。そんな会員に、数百行にわたる「原稿作成規定」をおくりつけるのは、あまりに現実的でなく、器械を未だ買っていない人に分厚いコンピュータのマニュアルを送りつけるような、いわば委員会独走の独善、デジタルデバイドを犯すに過ぎないのではないか、と、それが、わたしの強硬な意見であった。
で、下記のような「出稿要領」の委員長案を今日提示し、委員の賛否を問うている。

*  「出稿表記の方式」 現会員「出稿」希望者には、器械に対する親和・習熟度に甚だしい落差があると推知されます。等水準の原稿作成を一律にお願いしても無理を生じます。下記のようにご承知のうえ、ご負担の少ない「出稿」をお心がけ下さい。

1 原則、会員各自の「出稿」表記が、その原稿内で統制されていれば良しとします。

2 初心の方は、最も簡単な方式にしたがい、原稿を作成してください。
例 侃々諤々(かんかんがくがく)  いわゆるオドリは、「いろいろ」「さまざま」
傍点は、 真実(2字に、傍点)
そして、同じ段落内では「1行字数」を決めてわざわざ改行したりせず、すべて、ベタ打ちに、器械の自然改行に従って下さい。これで、概ね統一が利きますし、器械の種別、ソフトの種別により混乱することは避けられます。いわゆる新聞方式で、とくべつ読みにくくはありません。

3 原稿作成と器械の駆使に習熟した方は、電子文藝館のサイトに、「参考」までに掲示した「手引き」を参照しながら、各自原稿の表現効果・伝達効果に見合った仕方で統一表記し、送稿して下さって結構です。但し、
ルビや傍点をふれば、現状では、行間の広さに差が出ます。指定のオドリを用いれば、やや見苦しくなります。その点はご承知ください。

4 作業の簡明と「読みやすさ」「書きやすさ」からは、「2」の簡明表記が、現在の機械環境では最も合理的で、混乱や間違いが少ないであろうと思います。この方法をはみ出て処置仕切れない場合は、上記「手引き」を参照されるか、個々にご連絡下さい。

5 現在の機械環境はさまざまに不備と不足をまだ抱えています。自然、活字表記と同じに行かぬことも僅かに生じますが、著者と委員会の協力で、極力妥当なところへ落ち着けたいと思います。試行錯誤はやむをえない段階とご諒解下さい。
大事なのは原稿作成の煩雑に躓いて出稿意欲を殺がれないことです。研究者用のテキストでなく、一般読者が「読めて楽しめる」本文として、これでよいと作者自身が思われるように自由に表記して下さい。

* まだみなの賛同をえられるかどうか分からないが、ここへ纏めるまでに、実に実に多くの時間と体力気力を要した。次の会議は明後日。
2001 10・3 10

* 電メ研は、一時過ぎから、ぶっ続けに続いて、ほとんど終えたときはグロッギーであった。久しぶりに甲府の倉持光雄
氏が参加された。庶幾した目的はおおかた果たした。ATCの山石裕之氏が来て、いよいよ実験版を引き渡すことになっ
た。こまかな打ち合わせも出来たと思う。経費的な折衝は事務局長にすべて委ねた。七月理事会以来、数次の会合とメ
ーリングリストの討議とだけで、よくここまで持ち込んで来れたと、いまさら顧みてほっとしている。

* かなり気張っていたのだろう、途方もなく疲れた。帰りの電車で途中下車してでもどこかで本でも読んでゆくかなあと
思いはしたものの、胸苦しいほど、胃のあたりまで、けだるかったので、そのまま池袋経由とにかく帰宅した。家には家で
仕事が待っていて、休息は無し。見るつもりだった映画もみないうちに、十一時過ぎた。今日はこのまま休みたい。
2001 10・4 10

* 梅原猛氏に、「電子文藝館宣言」の英文を送った。ついでに現状を概略報告した。本格的に「出稿」依頼段階に入ることになる。

* 昨日の電メ研で感銘を受けたのは、すでに「電子文藝館」準備サイトに掲載してある上司小剣の「鱧の皮」を読んだ委員の一人の高畠二郎氏が、言葉を尽くして作行きに感嘆され、ああいう素晴らしい作品をいまどきの作家たちは書いているのでしょうかねと慨嘆されたこと。耳も痛かったが、この作品を躊躇なく選んで掲載した私の気持ちも、まさしくそれであった。今日にも掲載されているおそらく徳田秋聲作「或売笑婦の話」もそのように読まれるだろう、読み手の人には。林芙美子の「清貧の書」を一字一字校正していると、ほんとうに文学っていいなと思う。
2001 10・6 11

* 原作者の原稿に即して、スキャン原稿を誠実に注意深く校正してくれる人を捜さなくてはならない。物故会員の氏名名簿を作成する仕事もある。これも手元で作ってゆきたい仕事の一つで、「出稿」依頼先や作品を、思いつくつど書き留めて置きたいから。眼の心配は甚だ募るが、早い段階で卒業してしまえるよう、今は集中するしかない。近所の眼科にも行きたいし眼鏡も替えたい。
妻にはパソコンでの手伝い、あっさり断られた。自分の体調を「自衛」したいと。
2001 10・7 11

* 静かに もう 静かに見ているしかありませんね。世界情勢のますます緊迫する中、家の小さな庭には細い雨が降っています。旅行会社の娘は、仕事が皆キャンセルになってしまったと、少し寂しそうに言っています。今年の賞与は出ないかもしれないわよと言うとうなずいていました。あと数日でイタリアから帰る娘の飛行機が無事につくようにと祈る気持ちです。今まで心配したこともなかったのに。ささやかな庶民の家庭にもテロの影響が少しずつ現れてきています・・・・。
徳田秋声の「或売笑婦の話」を読みました。題名から予想されるものとは異なり、飾らぬ美しい文章をたんたんと、澄んだ気持ちで読みすすめることができ、最後のシーンが悲しく、哀れに心に響きました。
「電子文藝舘」の校正をする人が必要とのこと。ぜひお役にたちたいと心ははやるのですが・・・ おそらく生涯で心に残る仕事になると思うのですが・・・ どの程度の分量で、どの程度の速度ですすめられるものなのか、私には、やはり無理なことなのかと迷っています。
あしたからまた忙しい日々が始まります。そろそろ休みます。おやすみなさい。

* ほんとに「静かに見ているしかありません」のか、どうか。そこは、考えねばならない。こういう「私語」すら、少しでも何かをしてみようという気持ちなのだから。

* 息子も電話してきて「校正のアルバイト」を斡旋しても良いよと言う、稼ぎたいやつは何人かいると。しかし、稼ぐが主であるのはその人にすれば仕方ないが、校正というのは、一字一句を絶対おろそかにしてはならない容易でない技量と誠意の仕事。手が抜けては何の役にも立たないばかりか、二度手間がかかる。様子をよく聞いて、残念ながら辞退した。
2001 10・8 11

* 林芙美子を校正しつつ読んでいて、心底感嘆するほど、細部の表現が利いている。無技巧とみえてさにあらず、天成の人間把握の強さが生んでいる確かな表現で、舌を巻く。嬉しくなる。高畠さんが、上司小剣の「鱧の皮」に舌を巻いたのも、さこそとわたしは会心の笑みを禁じ得なかったが、芙美子の「清貧の書」も、秋聲の「或売笑婦の話」も、微妙にしたたかに時代と渡り合って毅い文学なのである。こういうのを、大勢に読んで欲しい。みな「e?文庫・湖」第二頁、第十五頁に収録してある、多くの出逢いが望まれる。 2001 10・8 11

* 今日もほぼ終日、間断なく「電子文藝館」関連の折衝や応答や提示のために、気を遣い時を費やしていた。もう機械から離れよう今夜は。やがて日付が変る。アフガニスタンは、また空爆されているのか。
2001 10・8 11

* 零時半ごろ床について、バグワンのあと、正宗白鳥晩年の秀作「今年の秋」を読んだ。驚嘆ものの達人の筆致であり、筆意である。白鳥のものでは初めて心底感嘆した。著作権者のおゆるしをぜひ得て「電子文藝館」を飾らせて戴きたい。白鳥の後、「うつほ物語」を読み継いだ。あて宮が東宮に娶される日がちかづくにつれて、あて宮に恋いこがれる無数の公家たちが、さながら狂態をさらして恋の歌をおくり物を贈るが、女ははなはだ冷淡を極め、返事もしない。へんな物語であるが、さきざきの落としどころがどうなるのか実は知らずに、とても楽しみにしている。配本は第二巻で、第三巻まであるのだから「美少年録」なみの大長篇である。完結にはもう暫く時間がかかるらしい、その前に「狭衣物語」の方が二巻で次回配本で完結する。百何十巻、残りなく寄贈を受け、有り難い。感謝し、またトテモ楽しめている。
で、寝入ったが、二時半には目が覚めてしまったので、林芙美子の小説を校了し「e?文庫・湖」に収めてしまった。読書人として自信をもって秀作を選び出せるのは、励みであり、興ふかく、また新たな出逢いに道をつけられるかも知れない。少しは人の役にも、先輩作家の役にもたちそうだ。もう明け方の四時過ぎた。
2001 10・9 11

* 電子文藝館への出稿を依頼して、日本ペンクラブ歴代会長の著作権継承者に宛てね梅原猛館長名の依頼状に電メ研担当の依頼状、わたしの手書きの依頼も書き添えて、希望候補作品を選び得た先ず六人、正宗白鳥、志賀直哉、芹沢光治良、中村光夫、尾崎秀樹、それに健在の大岡信氏にも、郵送した。また大きな一歩が踏み出された。矢は弦を放れていった。手紙を書くのにかなり緊張した。

* 昨夜から今日へ、秦さんの作業を少し手伝いましょうという申し出を一人また一人と受けている。有り難いことで感謝に堪えない。さて、具体的にどのようにしてよいものか手順が難しい。
一つには、文藝館のスキャン原稿の校正がある。忙しくしている日々の仕事の中で林芙美子の「清貧の書」は、一日で原作をこぴーしてスキャン、スキャン原稿をプリントを片手に一字一句を慎重に校正校閲してゆくのに一週間を費やしている。楽しい仕事、仕事の合間の仕事ではあるが、候補作は増えてくる一方になる。これをやがては電メ研の大きな対処課題にしなければならない。
今ひとつは、私自身の湖の本から、勝田貞夫さんの絶大なご厚意で、続々とスキャン原稿が出来ている。これを厳密に紙の本版と照合校正して置かねばならないが、なかなか手が回らない。これは私自身の手当てでぜひ推進しなくてはいけないと気にかけている。
問題は「校正」というあまり簡単ではない仕事なので、誰にでも出来ることではない。魯魚のあやまちで、校正に校正ミスはついて廻りやすいのは多くの編集者・校閲者を悩ませ続けてきた不変の難関。しかも百パーセント誤植や不備のないことを目指して当然の、それが目的の仕事なので、軽率には取り組めない。昔の作家のものはすべて旧カナヅカヒであり、底本により正字も多く、ルビも傍点も多用されている。建日子が云ってきてくれたような、「稼ぎたいヤツならいるよ」では、とても安心ならないのである。申し訳ないが、申し出てくださった方には、一つだけでも、仕事の正確さを見せて欲しいという慎重さと厚かましさとを持ち出さねばならない。「仕事」はすべて自分でと、つい考えてやってきた苦労性のわたしも、ここへ来てウーンと唸っている。バカじゃないかと見ている人もあろうなあ。根がバカに出来ているのである。分かっている。

* 睡眠不足と歴代会長依頼などいろいろで疲れたか、夕食後に潰れたように寝入り、ふと気がついたときに、もう朝だと思い、血糖値を測らなくてはと思ったが、外が暗い。時計をみると九時。朝九時でこんなに暗いなんてとドキッとしたが、どうも晩のうちの九時であると分かるのに、二三瞬を要した。どうかしている。
2001 10・9 11

* ATCという業者に従来から日本ペンクラブはホームページの運用を委託してきたが、電子文藝館の新設にともなう運用もちゃんと引き受けてくれるのかどうか、内容面に関する打ち合わせはみな先日に終えて諒解が成り立っているが、経済面での約束事は事務局に一切委ねてわれわれは関知していない。その方面がうまくいっているのか、それが今の心配の種である。業者からの連絡がまだもわたしの方へ、無い。

* 無いと心配していたATCからの連絡が、ともあれ、今入ってきて、愁眉を開いている。関連の連絡も、ともあれ済ませた。また明日からのこととする。
2001 10・10 11

* 免許皆伝のことを瀉瓶(しゃびよう)と謂った。瓶から瓶へすっかり中身を注ぎ移す意味であろうか。後白河天皇が今様うたひの技量を、ことごとく愛弟子源資時に伝え終えたときに、こんな語彙を「口伝」のなかで用いていたと覚えている。
技量だけでなく、事業を前任から後任へ引き継ぐときにも、こういう漢字がついてまわり、慎重に大切に成されねばならない。いま電子文藝館でも、委員の実験室段階から業者の準備室段階へまさに引継「瀉瓶」の時機であり、引き渡します、引き受けました、では前段階の実験室は撤収します、結構です準備室準備できました、そして撤収、となる。親切で慎重な計らいとはそういうもので、常識ではなかろうか。この辺の手順を間違えて、速断や独断がもし働けば、はらはらしなくてはならない。むろん、そういう事態も考慮し、実験室の全容はわたしのMOにバックアップして置いたけれど。
今のところ、撤収の方が先行して、引継が無事に出来ているかの確認がまだとれていない。だが、業者からの、撤収についての問い合わせ連絡では、同様のバックアップはしてあるらしいので、愁眉をかすかに開いている。かなりドキドキしてしまった。人の寄り合ってすることは、まこと、難しいものである。
2001 10・11 11

* 日本ペンクラブは、昭和十年(1935年)十一月二十六日に丸の内の東洋軒で創立総会を開き、初代会長に島崎藤村を選んだ。副会長は堀口大学、有島生馬、主事は勝本清一郎、会計主任は芹沢光治良と、当時の名簿にある。百二十六人の氏名が住所とともに上げてある。わたしは、この一ヶ月近く後、十二月二十一日に生まれている。
戦後昭和二十九年七月の名簿では、会員四百六人、三十二年三月には五百七人に達している。ちょうど、わたしの大学学部時代に当たっている。現在では、ほぼ千九百人。隆盛でけっこうと思っている人もいるようだが、必ずしもそうとばかりは言えぬ。文筆家が、同じ日本の社会で、そんなに増えている現状に、良い意味で必然の読みとれる道理がない。会費収入を増やして新館を建てたりしたいわけだが、どこかでは地道に文学・文藝の質的な充実に思いをもどすことも必要なのではないか。「電子文藝館」を企画したのには、どうかして先輩物故会員達にひけをとらない自覚が、現会員に、むろんわたし自身にも必要という、わたしの「批評」意識、少し意地悪い皮肉な思いも、まじっていたことは否めない。
古い名簿から、単純に物故先輩会員の氏名一覧をつくっている。これを文藝館の一画に掲載しておくことに、わたしは大きな喜びを覚え、またそのことに何かの期待もかけている。
2001 10・11 11

* 昭和十年創立当時以来、昭四十三年春まで、九冊におよぶ日本ペンクラブ会員名簿を校合して、物故会員氏名一覧を、昨日から作成し始めている。重複と脱落をふせぎ、今日健在の会員を万一物故者扱いしないよう細心の注意を払っての作業で、甚だ視力と根とを費消するが、また一種のビタミン効果もあり、退屈な作業では全くない。貴重な資料が出来てゆくよろこびがある。昭和四十三年といえば、わたしが太宰治賞を貰った前年に当たっている。大江健三郎氏がここで初登場しているが、現在の日本ペンの役員は、梅原猛、加賀乙彦、三好徹、井上ひさし氏ら殆どの人がまだ名簿に登場しない。僅かに堤清二(辻井喬)氏、瀬戸内晴美さんらが入っている。歴史は面白い。時めいていた人有って去り、時めいている人もやがて去る。時めこうと、うずうず待っている人が名簿の中にも犇いている。思わずフフッとわらってしまう。

* それにしても、今なお鳴り響くような名前が続々と現れ出てくるので、その人達の著作から秀作を一作ずつ集め得ても、大変貴重な「ライブラリー」になる。現会員は本人の自信と意思に任せて成り行きを待ち、彼らを刺激するに足る先輩作家達からの作品提供に大きな大きな期待をかけたい、希望は持てる。あと一年半、努めてみようと思っている、おそろしく時間も体力も奪われるのは必至だが。東工大でも定年の時点ではわたしはもう今にも倒れそうであった。今回も、そのようにして任期を果てたい。欲は、なあんにも無い。いいじゃないか、いいじゃないかと楽しむだけのことである。

* 十一月二十六日の「ペンの日」に、東京會舘の会場で電子文藝館「開館」のデモンストレーションをややりませんか、経費の面倒は見ますからと秋尾事務局長に言われてきた。ま、一つの区切りではあり、会場には例年大勢会員が集うのであるから、内容を解説し宣伝する好機会にはなる。ただしわたしは機械操作のこと、何も分からない。大岡山の大学の頃、機械をつかって講義しませんかと、他の先生が機械を貸してくれたり、学生からもそんな希望を一二度聞いたが、結局一度も使用しなかった。使えそうになかった。
電メ研副座長の村山精二氏が、フイルムだの写真だのの関係の人なので、段取りを願いたいと依頼している。

* 山田健太氏が配ってくれた新聞記事から、「サイバー犯罪法」等の解説を此処に書き込んでおきたいのだが、今夜も、もうへとへと、休みたくなった。
以前だと、麻雀ケームでも一卓まわすかと「休憩」したこともあるのだが、今は、そんなお遊びはみな機械から削除し追放してある。目もやすめたいし、目の休憩にはならないから。だが階下へおりても、酒も甘いものも無くて、テレビではね。
ほんとは今日はペンの京都大会に出掛けたかった。だが、月曜、火曜と会議などが続くので、また家での仕事も放っておけば際限なく増えてしまうので行かなかった。

* やすむと言いながら、やっぱり、十二時まで。これで休めば、いつもより早いのだが。
2001 10・13 11

* 文藝館の英文宣言の表現に、執行部と国際委員会から助言が届き、これも今日中になるべく直し、明日の理事会に臨まねばいけない。
2001 10・14 11

* 中村光夫先生の奥様からお電話をいただき、電子文藝館への「出稿」を許可して戴いた。しばらくお話しした。大岡信氏ももうペン事務局の方へ原稿を送って下さり、これには英訳文もついていると事務局の話。有り難い。これで、藤村、白鳥、直哉、中村光夫、そして大岡信、梅原猛と、歴代会長十三人の半分が快諾。おいおいに依頼した著作権継承者からもお返事があるだろう。

* 九冊の名簿をすべて校合して、物故会員の氏名一覧も今日私の手で一応仕上げた。亡くなっている人と健在の人とを混同させられないので、いま、同僚委員に確認して貰っている。昭和四十三年四月現在で作業を限定したのは正解だった。それより以降の名簿は分厚くなり、しかも健在会員が大半になって来るから。

* 問題は、出稿が一時的に増えるだろうと思うが、ディスクで届くよりもプリントで届く方が多くなると、これをスキャンし校正し念校するのは、途方もなく大変な作業になる。どこかでアルバイトないし業者に委託となるが、予算のないペンクラブであるから、多くは費用がかけられない。
ある人の参考意見では、相場として「一字一円」と。これは、予想していたより遙かに高くつき、百五十枚の作品一本を文藝館に掲載するのに、校正だけで六万円かかる。百本掲載するのに六百万円もかかるのでは、ちょっと手が出ない。まして湖の本一冊一冊の校正を頼むとなれば、巨額の費用を用意しなければならない。弱ったなと思い、簡単に直ぐ断念し、メーリングリストで他の電メ研委員の耳にしされている相場のようなものを問い合わせてみた。
先刻一人の委員からファックスを貰った。「初校 ワープロ・印刷物原稿なら、一字35 銭、手書きなら、40銭」「再校なら、一字30銭」等とあり、かなり違う。「校正者はプロです」ともある。もう少し実状に近づいて妥当なところを把握しておかないと、この事業が行き詰まる。
委員の中には、会員のボランティアでという声もあり、有り難いけれども、校正はいわばプロの仕事であり、厳格厳正に耐えるものでないと困る。親切だけではなかなか出来ない、プロでないなら潔癖なほどミスの嫌いな性格でないと、なかなか厳重にやれない。じつは、わたしでも満足に出来ない、おろそかには決してしないのだけれど。
これからは、この方の対策も電子メディア委員会でしてゆかねばならない。分かっていたことで、驚いてはいない。

* 半日ががかりでわたしの次の本のスキャンもした。一度途中で操作をあやまり、何十頁分も消去してしまい、閉口した。キレかけたが、キレてはわたしが困るだけなのでガマンしてまたやり直した。はじめDVD で「タイタニック」を英語で聴きながら作業していたが、この映画は身につまされるものがあり、ドキドキと興奮してくるので、中途でやめ、昔の歌謡曲や唱歌を聴きながら一冊分のスキャンを終えた。どうもスキャンは苦手な作業である。
2001 10・17 11

* 終日雨で冷え冷え。文藝館に困った問題が起きていた。マークアップした方法で原稿を再現すると、例えば、私の小説が各段落ごとに一行開きで出てくるのだ。創作の場合、どこかで一行開きを作ることはよくあり、だが、何処でどう開けるかはかなり苦心して決める。一行開きも「表現」なのだ。それが、機械的に一律に段落ごとに一行開きされては、作品そのものが電子メールのようなことになってしまう。読みやすいからという問題意識を全面否定はしないが、創作は作者のもので、作者に断わりなく機械的に一律にそれをやるなど、非常識な暴挙であり、機械的な操作を作品よりも優先してしまった本末転倒そのもの。こういう事になっているとは、機械の組み立てというか、 HTML言語がどうでこうだか理解仕切れないが、目の前の作者に断わり無くそれをやっていたのが、文学に無縁の業者ではなかったので、わたしの驚愕は大きかった。私の作品は、直ちに私の方法で原稿を作り直し、差し替えることになる。これが、他の著者・作者の原稿にも及んでいるとなると、由々しい事態になる。
底本に従った「原作の同一性保持」は著作人格権の基盤であり、いかなる再現にも可及的誠実に守られねばならない。むろん、正字が略字にされた底本もあるし、現代仮名遣いに変えられた底本もある。社会的慣行であり、研究者用のテキストではないから、それは、此処では深く問わない。機械環境の制約でオドリ記号も用いられない以上、「いろいろ」と直したり、ルビも「侃々諤々(かんかんがくがく)」という風に新聞方式を使わねばならなかったりすることは、有る。(ルビはふれるのだけれど、その為に行間がバラツクという版面の見苦しさが、今の機械環境では出てしまう。)
だが、一行開きなどは、忠実に原作に従える簡単なしかも大切な「表現」なのである。どうして、段落ごとに機械的に一行開くなどという設定を気儘にもちこんだものか、理解に苦しむ。

* この後始末などに思いがけない時間と神経を無駄遣いしている。ただし、おかげで「清経入水」をまた読み返せる。三十二歳頃に、書いていた。今の文章感覚でいえば推敲したい箇所も多いが、あえて文字遣いなどもそのままにしている。若いという意気はもとのままでこそ感じられる。途方もない昔の作品なので、他人のものかのように新鮮に引込まれてゆく。

* 大岡信氏、元会長から、「詩」原稿を和文と英文とで受け取った。これで健在の会長経験者二人の原稿が揃った。早速スキャンして和文は校正した。初代藤村のは念校が必要になったが、二代正宗白鳥と三代志賀直哉とは、これから。これも原稿はわたしが作らざるを得ないようだ。

* 天気なら創画会展など観に行きたかった。いろんな会や催しに不義理を重ねている。夜前も床に就いたのは結局四時であった。
2001 10・18 11

* 今日も終日、文藝館の作業をしていた。大岡信氏の詩を日本文で校了し、ついで英訳されたその詩の校正もした。英文での方がなにか身にしみてくるものの有るのに驚きながら。
わたしの『清経入水』を完全に読み直し、再入稿原稿に仕上げた。
横光利一の『春は馬車に乗って』を小学館版でスキャンし校正をはじめた。
正宗白鳥の『今年の秋』をスキャンした。
親切な読者の協力して仕上げてくれた岡本かの子の『老妓抄』を点検した。
森秀樹氏から神坂次郎氏の『今日、われ生きてあり』からの五編分が、ディスクで送られてきた。岡本綺堂の『近松半二の死』の仕上がりを待っている。
井上靖夫人から『道』の掲載を快諾する旨の連絡が事務局に。志賀直哉の作品をもう一度選び直そうと調べ返し始めた。
また全国のメール使用会員に流した「電子文藝館」のことに、すでに何人かから「歓迎」の返信が届き始めた。まことに、こういう事がなければ、東京から遠隔地の会員は、名刺に肩書きとして会員であることを印刷する以外に、ほとんど何のメリットもなくかなり高額の年会費を支払い、維持会費も期待され、さらに新館建設費の寄付まで頼まれる始末になる。この状況は何とかしなくてはと、理事就任以来思い続けてきた。

* ま、余儀ないことと覚悟はしてきたので、作業の負担は、せめてもう半年はこの調子で引き受けるが、疲労の度は日一日と増してゆく。疲労というより、心労か。何と謂っても人間関係や実務関係のなかで芯の位置を引き受けているのだから、投げ出せない。ふつうなら黙っていることも言わねばならない。黒いピンを十本も刺された気分だが、それも境涯、いいではないかと思うことにして、「なんじゃい」と。
2001 10・19 11

* 横光利一は「春は馬車に乗って」という不思議な味わいの作品を選んで、今校了した。川端康成と並んで新感覚派の旗手と謳われた優れた作者であった。この作品は新感覚派のここちよい優れた特色に溢れていて、悲しい物語であるにかかわらず、作家が「表現」の喜びにうちふるえるように初々しく確かにモダンな日本語を績み紡ぎ出していて、魅力横溢の初期代表作である。何十年ぶりかで読み返した。
2001 10・20 11

* 芹澤光治良もと会長の記念館から「死者との対話」掲載に快諾の返信が入った。うれしい。すぐコピーをとってそれをスキャンし、校正に入った。正字使用なので三倍ほど時間がかかるが、襟を正して読み進めたくなる。
正宗白鳥の「今年の秋」も校正しながら読み返している。こちらは底本が正字使用ではないので比較的らくに進む。これもまた優れた選り抜きの作品、白鳥の到達した境涯がさらさらと、しかも深々と表されている。
井上靖の「道」はまだスキャンが出来ていない。わたしの好きな作品である。
2001 10・22 11

* 今朝は、とにかくも四時間は寝た。六時半には起きて、すぐスキャン原稿の校閲に。白鳥と光治良とわたしの湖の本一冊分とを並行して触っている。靖の「道」がこれへ加わる。芹澤さんの作品の底本にしたのが正字と旧かなづかいなので、芯から疲れる。しかし「死者との対話」も「今年の秋」もすばらしい。
2001 10・23 11

* 帰ってすぐ、また校閲の仕事にかかり、とりあえず自分の入稿用原稿の七八割にあたる、芯の原稿だけはつくりあげた。もう十二時だ。疲れた。白鳥と光治良とをもう少しずつ進めて置いて、靖の「道」のスキャンは明日に回して早く休みたい。馬鹿なことをしていると嗤う人が多かろうが、こういうものだ。流れのままに疲れようではないか、今は。 2001 10・23 11

* 正宗白鳥作品と横光利一作品、及び「日本ペンクラブ物故会員氏名一覧」を、業者の手に入稿できるところまで用意した。芹澤光治良作品の校訂に手間取っている。石川達三、高橋健二、遠藤周作、そして尾崎秀樹各元会長作品はまだ選べていない。
湖の本用の候補作品をスキャンしていたら、関連のものだけで二册分にもなるほどあり、また選別に汗をかかねばならない。ときどき、泥のように機械の前で居眠りしてしまう。
2001 10・24 11

* 「e?文庫・湖」のほうの手当がなかなか出来ない。
2001 10・24 11

* 白鳥と利一との小説、また物故会員の氏名一覧を業者の手へ送った。森秀樹氏による岡本綺堂の新歌舞伎と神坂次郎氏の小説も送った。いよいよ、あと一ヶ月で「ペンの日」が来る。最善は尽くすがデモンストレーションが出来るかどうかはまだ様子が分からない。成るように成るであろうと深くは気にしないことにしている。

* 今、わたしの心をとらえているのは、いったい何であろう。
2001 10・25 11

* またもや一時半。これから横になってバグワンと「うつほ物語」を読む。何冊も新刊を戴いているのも読みたいが、歴代会長のなかの遠藤周作と石川達三の作品を読んで、掲載候補作を選ばねばならない。わたしは疎い方なので、お二方の佳い短編小説を、どなたか、教えて欲しい。
2001 10・25 11

* 阿刀田高氏の原稿が事務局に届いたとか、感謝。電子文藝館の企画に理事会で率先して賛成してもらった。理事の原稿が増えて欲しい。神坂次郎氏についで二人目。
2001 10・26 11

* 芹澤光治良作「死者との対話」を校了した。深くにも何度か嗚咽をこらえた。このような作品の前で、靖国神社に参拝することで死者たちへの感謝が表現できるのだと考えている日本の総理大臣を思うとき、暗澹としてしまう。この宇野千代に会ってゆきたいと語り、先生の語ったベルグソンの唖の娘のはなしに涙ぐんで最後の別れを告げ、人間魚雷回天に搭乗して死地に赴いた若い知性は、政治的意図を抱いて靖国神社に来る総理に、戦死者として何を逆に語りかけるだろう、よく来てくれたと名誉に思い感謝するのだろうか。昭和二十二年の歳末に書かれたこの文章は、わたしのまだ小学校六年生時代の戦後さなかの苦渋と反省との作である。こう結ばれている。

*  そう、そう、忘れるところだった。十九年十月九日の手記に、君は書いている。
「この頃私は、時々女の夢を見る様になった。大竹は勿論、武山でも夢といえば、食物か家の夢しか見なかったのだが、身体と気分が楽になって、そろそろ私にも男性としての本来がもどって来たのかもしれない……」
女のことを書いてるのはこれがただ一度ぎりであるし、長い師弟関係の間、君が女のことを僕に語ったのもただ一回ぎりだった。
壮行会でみんな集った時、諸君は出征前に会っておきたい人々の名を次々に挙げて、女流作家に会って行きたいが誰がよかろうかと、冗談らしく僕に質問した。僕はその時宇野女史の名をあげた。その少し前に、出征している夫を思う妻の手紙という形式で愛情にみちた美しい小説を発表していたし、人柄といい薔薇のようなきれいな印象を諸君にのこしてくれるだろうと考えたからだった。次に野上(弥生子) 女史の名をあげた。諸君に理解ある母を感じさせるだろうと考えたからだった。殺伐たる戦場で、諸君が遠く故國を想う時に、宇野女史も野上女史も諸君の胸をあつくはげますような印象をきざんでくれるだろうと信じたからだった。
その時、僕は諸君に誰も紹介状を書かなかったが、諸君は紹介状はなくても、どんな人物の門をも叩くフリーパスを持っている様子であったから、必ず二人の何(いず)れかを訪ねるものと思っていた。ところが、君は最後に独り訪ねて来た時にいった。
「先生、宇野千代さんに紹介状を下さい。女を訪問するに紹介状がなくては失礼でしょう」
僕は、うん書くといいながら、紹介状を書く前にいろいろ話しているうちに、ベルグソンの話になり、その果てに、君は訳のわからない感動に涙をこぼして、それがてれくさくもあったのだろうし、又、叔父さんの家の晩餐の時間がとうにすぎたのを気付いたのであろう、あわてて帰り支度して、紹介状のことも忘れて帰って行ってしまった。出征前に宇野さんを紹介状なしに訪ねたのであろうか。あの翌日、紹介状をわたさなかったことに氣付いたが、もうおそい気もして苦にした。帰還したらばおつれすればいいだろうと、家人は簡単に僕を慰めた。君が戦死しようとは考えなかったのだ。
今日も君の手記の十月九日の手記まで読んで、はっとして、紹介状をわたさなかったことが、またしても悔いられた……
それにしても、人間魚雷とは、悪魔の仕業のように怖ろしいことだ。それを僕達の唖の娘はつくりあげて、それに、君があれほど苦しみぬいて神のように崇高な精神で搭乗して、死に赴いたのだ。
君の手記は、その悲劇を示して僕達に警告している。僕達がまた唖の娘にそっぽを向けていたらば、僕達は崇高な精神に生きながらまた唖の娘のつくるちがった人間魚雷にのせられて、死におくられることが必ずあることを。
(昭和二十三年十二月)

* なにもかも、どこかで有機的につなぎ合わされている。わたし自身のこのような毎日の思いも、また、つなぎ合わされたなかの一つの小さな結び目である。思想も人生もこうして形を持って行く。
2001 10・28 11

* 「日本ペンクラブ電子文藝館」は「恐ろしい場所」になるだろう、無条件に比較されてしまう真剣勝負の場所、「文藝合せ」の現場になるからだ。
わたしは、頭の中でよくやる。美術展に行き、目の前の作品に見入りながら、べつの最高最良と思っている作品をその横に置いてみる。「そんなのと比べないでよ」と言うことは、「創作」の場合けっして許されない。比較を絶する作品を自分は書いたか、書けたか。それだけが残る。
三筆、三跡、光悦、良寛。これらと並べられて比較を絶する個性を、その「書」が成し得ているか。そのようにして、絵の場合も焼き物の場合も彫刻でも工芸でも、わたしは、推服し称賛する最高の作品と容赦なく押しならべて、目の前のものを簡単にはゆるさないのである。だめなものは、だめなのだ。小剣の「鱧の皮」秋聲の「或売笑婦の話」白鳥の「今年の秋」藤村の「嵐」芙美子の「清貧の書」かの子の「老妓抄」利一の「春は馬車に乗って」綺堂の「近松半二の死」そして光治良の「死者との対話」を、物故会員のそれぞれ一代の作中から、条件も考慮しつつ、選んで、わたしは用意した。追って靖の「道」や直哉、康成、中村光夫らの作品も掲載してゆく。われわれ、なお生きてある者は、これらと、真剣で渡り合うほどの気迫の作品を用意し「電子文藝館」に提出しなければならない。安易な気持でいると、無惨な恥をかかなくてはならない。自信が、自負が、度胸がなければなかなか提出しにくいほどの「試合場」を、早く作り上げておきたい。同じことは、今生きてある者同士にも、言える。もっと厳しく言える。
この「場」では、もはや虚名という看板で、言いわけは利かない。大衆文学であれ純文学であれ、そんな区別で何の言いわけも出来ない。それが深い感銘を与え、優れた表現を得ているか、どうかだ。それだけだ。依怙贔屓はこの場では通用しないし世評も定評も通用しない。読者が、同業者が、それぞれの能力に応じて、ただ判定する。彼らも又作品群により試され鍛えられるであろう。
こういう、公平で公正な文学・文藝の「場」がこれまでなかった。文学全集の人選など依怙贔屓の最たるものに流れがちであったし、文学賞もそのようなものでありがちなのが今や常識である。選者といえども、五十歩百歩の水準だ。
わたしは、「電子文藝館」の根の意図の一つに、こういう「恐ろしい場所」を創ろうとという仕掛の気持も堅く持していた。物故会員の作品を先ずと言いだしたのは、それ故であった、ただ選択しやすいと言うからではなかった。世に時めいている「いいかげんなもの」を容赦なく炙り出さねばならない。この意図を本能的に見抜いているファジイな著名作者たちは、むしろ尻込みする方を選ぶだろう。
2001 10・28 11

* 夜前は発熱ぎみで辛く、めずらしく十一時前に就寝、バグワンと「うつほ物語」を少しずつ読んでから寝入った。夜中に少し発汗しているのを自覚しながら、難儀にこんがらかった夢を幾つも見続けていたが、一度猫に起こされてまた寝て起きて、七時。すぐ二階へ上がり、井上靖「道」のスキャン原稿を、楽しんで校了した。全集からスキャンしたので字が大きく、 99パーセントの識字率で校正はラクだった。何度も読んでいる秀作であり、懐かしい井上先生の肉声をそのまま耳にする思いで読み通した。晩年のえもいわれぬ話術で語られている。寸法がよくとれていて、すこしとれすぎているぐらいであるが、しんみりとする。
これで十三人の歴代会長の六人分(島崎藤村、正宗白鳥、芹澤光治良、井上靖、大岡信、梅原猛)が、掲載原稿として用意できた。志賀直哉分と中村光夫分の承諾が取れている。石川達三、遠藤周作、高橋健二分の依頼が出来ていない。川端康成と尾崎秀樹分の返事を待っている。
物故会員は、徳田秋聲、上司小剣、林芙美子、岡本かの子、岡本綺堂とそろい、与謝野晶子も用意できる。現会員でも六人が原稿を出している。開館までに、二十人は超えるだろうから、ほどよい展観であり、読者に楽しんでもらえるだろう。安心して読める読書館=ライブラリーとして、気が向けば訪れて貰って失望させない内容を備えたい。
あとは、業者の手もとで、安定した読みやすい索引しやすい電子文藝館にどう仕立ててくれるか、それだけの問題となった。まだ、無事にスタートラインに並んだという保証は見えていない。
2001 10・29 11

* 芹澤光治良の「死者との対話」は初出の時は「死者との対話または唖の娘」となっていた。この作品では哲学者ベルグソンの娘が「唖者」であったこと、その娘と平然と対して深切に娘の絵に批評を加え、唖の娘もそれに深く教わっている、そういう場面に遭遇した語り手が、それと比べて、日本の世界的なといわれた哲学者の言葉の難解を極めてほとんど何の役にも立たないことに批判を向け、日本の知性たちの、さながら「唖の娘=一般大衆」を無視した、人の苦悩に応えるどころか仲間内だけの伝達に満足した傲慢な「言葉」こそが、日本を不幸な戦禍へと巻き込んでゆく結果になったという強い批判。
それにしても「唖の娘」という提示には痛みを覚える、実際の「唖者」には不当にむごい言葉では無かろうかという疑念は、きっと読者の幾らかに、あるいは多くの胸に兆すかも知れない。唖であることは知的に低いということではない、が、そういう比喩になっていはしないかと読む人もあろう。現にわたしのもとにそういう訴えが届いている。
わたしは、それを押しても、この作品をやはり取り上げたいと思った。こういう差別的言辞に気付かない世間と時代にこの作者ですら住んでいたらしいのには、わたしも気付かざるを得ない。いかに文豪であるかどうかは知らず、例えば志賀直哉でも夏目漱石でも、時には無茶な言葉を作品に吐き出している、今の時代の思いでは。その中では、芹澤さんのこの作品での姿勢は、いかにもいかにも実経験、実見聞を通しての象徴的比喩として、これを用いなければこの作品が成り立たなかったことは、認めたい。わたしは、その上で、この発言に納得し共感し感銘を受けた。
折しも今日成立したいわば「日本国の再軍事発動法」を前に置くとき、「それにしても、人間魚雷とは、悪魔の仕業のように怖ろしいことだ。/君の手記は、その悲劇を示して僕達に警告している。僕達がまた唖の娘にそっぽを向けていたらば、僕達は崇高な精神に生きながらまた唖の娘のつくるちがった人間魚雷にのせられて、死におくられることが必ずあることを」という予言に、戦くのである。
2001 10・29 11

* 「e-文庫・湖」第十四頁、詞華集第二輯に、佐怒賀正美氏の自撰五十句「炎声(ほごえ)」を掲載した。優れた句を選んで戴いた。第十五頁の創作第二輯とともに、愛読してもらえると嬉しい。選り抜きの人と作品とが「e?文庫・湖」には集めてある。まだまだ、増えてゆく。今はペンクラブの「電子文藝館」開館へ相当な力を割いているが。
2001 10・30 11

* さいたま市の榊政子さんに電話して、著書の中から埼玉県内の或る伝承考とそれに関わる詩作品とを頂戴したいとお願いした。七十過ぎられた在野の学究で詩人である。お目にかかったことはないが、湖の本をとどけるつど、丁寧に手紙を下さる。
長老の加藤克巳さんや石黒清介さんからも、好きに短歌などを「e?文庫・湖」に掲載して宜しいと預けられている。みな文藝館の煽りで、手が着いていないが先の楽しみは増えてゆく。
2001 10・31 11

* 昨日、哲学者三木清の『哲学ノート』の冒頭四章を抜抄、スキャンした。今日その最初の「新しき知性」を校正。文庫本をスキャナーにかけたが、とても綺麗に写せていて、校正がラクに進むのが有り難い。この仕事は、スキャンがうまく行くかどうかで、えらく作業が変ってくる。
三木清といえば戦後直ぐ、わたしの、いわば物心がほんとうについてきた少年期に、たいへん大きな名前であった。わたしは、少年期から青年期へかけ、いわゆる評論や論考の文章よりも直ちに小説読みにのめりこんで他をあまり顧みなかったので、三木清も、小林秀雄同様に読まなかった。
思うにおそらく梅原猛さんが『闇のパトス』を二十五歳で書かれたのと、この敗戦直後の九月に、当局の暴虐により獄死した三木清の哲学とは、どこかで渡り合い関わり合っているだろうと思う。今度は採らなかったが三木は、「不安の思想とその超克」「シェストフ的不安について」などの代表的な論文を持っていて、梅原猛さんの「絶望と不安」という主題とも交叉しているのである。同じ「電子文藝館」の論考のなかで、隣り合ってこの梅原論文と三木論文とが読める面白さにも注目されるといいが。

* 三木清の「新しき知性」は明晰な、しかし平明な語彙と構築とのめのさめるような好論文である。科学、技術、知性、歴史を深く見入れながら、構想力へ触れてゆく論考の流れように美しさをすら感じ取れる。あの不幸な戦争の最中にこれが書かれていたかと想うと、思わず頭がさがる。以下「伝統論」「天才論」「指導者論」を採り上げた。やはり日本ペンクラブの会員であった。
中村光夫会長のものを、「正宗白鳥論」でと思っていたが、夫人のご希望で「風俗小説論」か「知識階級」という題の論考かで決めたい。前者は一冊の本であり、やはり前半ていどを抄するよりない。後者は未見のものであり、いま青田委員に依頼して国会図書館ででもプリントして貰おうとしている。志賀直哉のは、「早春の旅」をと思っていて、志賀直吉さんから「それでもよい」ペンクラブの判断に一任すると言われ、考え込んでいる。あまり簡単に手に入るものでない、良いものを選びたいのである。石川達三会長のものは、第一回芥川賞の「蒼氓」第一部が欲しい。
白柳秀湖の『駅夫日記』という歴史的に非常に問題をはらんだ秀作を用意できるのも嬉しい。かなり長いが。
しかし、電メ研内の「手伝います」の声もなんだか細く遠のいて、この分では、こういう作業の全部にちかくわたしがしなくてはならぬかと思うと心細い。だが、し甲斐はある。
2001 11・1 11

* 「哲学ノート」の第二章「伝統論」も、優れて興味深い展開であった。あの時代に、歴史と伝統と文化と芸術にかかわりながら、人間的な理解と洞察を少しも形崩さず揺るがずに、明晰に解き明かしてゆく魅力はたいしたものだと思う。
2001 11・1 11

* 三木清の「天才論」を読み終えた。カントの『判断力批判』に多くを拠りながら語られ、大学時代に戻ったような気分。この本は美学の教室ではバイブルほど大きな存在で、妻の卒論はその「構想力」についてであったから、まさに三木清の関心や論策に重なっている。彼はあの戦前戦時にここから「指導者論」へ繋ぐことにより、戦後日本の混乱と再生を予見し、また洞察したのであろうか。
2001 11・2 11

* 四時に起き、三木清の「哲学ノート」から、序・目次とともに冒頭の四編「新しき知性」「伝統論」「天才論」「指導者論」を抄出し終えた。西田幾太郎門下の最優等生として知られた哲学者で、 1897.1.5 – 1945.9 兵庫県揖保郡に生まれている。昭和二十年(1945)三月、共産党員高倉テルをかくまったため検挙され、九月、豊玉拘置所で獄死。『哲学ノート』は昭和十六年真珠湾奇襲の直前十一月、河出書房刊。著者は「序」にその緊迫の刊行日付と共に、こう書いている。

*  これは一冊の選集である。即ち「危機意識の哲学的解明」という最も古いものから、「指導者論」という極めて最近のものに至るまで、私の年来発表した哲学的短論文の中から一定の聯関において選ばれたものであって、その期間は『歴史哲学』以後『構想力の論理』第一を経て今日に及んでいるが、必ずしも発表の順序に従ってはいない。程なく『構
想力の論理』第二を世に送ろうとするに先立って、私は書肆の求めによってこの一冊の選集を作ることにした。ここに収められた諸論文は如何にして、また何故に、私が構想力の論理というものに考え至らねばならなかったかの経路を直接或いは間接に示していると考えるからである。
これらの論文はたいてい当初からノートのつもりで書かれたものである。種々様々の題目について論じているにも拘(かかわ)らず、その間に内容的にも聯関が存在することは注意深い読者の容易に看取せられることであると思う。もとより私はそれらを単に私の個人的な感心からのみ書いたのではない。現実の問題の中に探り入ってそこから哲学的概念
を構成し、これによって現実を照明するということはつねに私の願であった。取扱われている問題はこの十年近くの間、少くとも私の見るところでは、我が国において現実の問題であったのであり、今日もその現実性を少しも減じていないと考える。その間私にとって基本的な問題は危機と危機意識の問題であったのである。
私のノートであるこの本が諸君にもノートとして何等か役立ち得るならば仕合(しあわせ) である。すでにノートである以上、諸君が如何に利用せられるも随意である。必ずしもここに与えられた順序に従って読まれることを要しないであろう、──初めての読者は比較的理解し易いものを選んで読み始められるのが宜い。その選択はすでに諸君の自由である。私が示した問題解決の方向に諸君がついてゆかれるかどうかはもとより諸君の自由である。ただ、これはノートである以上、諸君がこれを完成したものとして受取られることなく、むしろ材料として使用せられ、少くとも何物かこれに書き加えられ、乃至少くとも何程かはこれを書き直されるように期待したいのである。
昭和十六年(一九四一年)十月廿一日 三 木 清

* 哲学者が殆ど身を挺して警世の言を発していたことが察せられる。その内容は、太平洋戦争勃発直前にのみ適合するのでなく、読めば読むほど、現在只今の我が国の「危機」にも当てはまっている。「e-文庫・湖」第六頁に収めた。三木清もまた日本ペンクラブの会員であった。獄中作家の一人であり、不幸にして獄死した先輩である。
2001 11・3 11

* 青田吉正氏にプリントしてもらった中村光夫先生の論文「知識階級」を、スキャンして、校正し始めた。奥さんは、これか『風俗小説論』の前半でもとご希望であった。後者の文庫本はまだ手にはいるので、雑誌論文であった「知識階級」を戴くことにし、読み始めてみると、平易に、大きな問題があざやかに概観され詳論されている。とても優れたお仕事であり、「電子文藝館」の読者にふさわしいものと喜んでいる。
ぐんと分厚さが増してきた。想像以上にこれは大きな豊かなライブラリーに育つだろう。現会員の出稿を強いて期待するよりも、物故会員の優秀原稿が積み上げられ再開発されてゆけば、それを堅い根雪にして、いやでも雪は降り積むだろう。次から次へと昔の先輩達の良い業績に再びの日の目を見せてゆく仕事に、わたしは喜びを感じている。
2001 11・3 11

* 歌人篠塚純子から、与謝野晶子と二人での開館スタートは「光栄」なので、わたしの撰した「e-文庫・湖」歌稿を、そのまま「電子文藝館」に掲載して欲しいと。たぶんそう言うに違いないと思い念のため確認して置いたのへ、返事がきた。
2001 11・5 11

* 霞ヶ関から日比谷に戻り、「クラブ」で、サイコロステーキと三種の酒肴で、ブランデーとバーボンをむろんストレートで二杯ずつのみ、かやく飯を食べて来た。帰りがけ、ガルガンチュアで、一つ六百円のケーキがひどく旨そうなので二つ買って帰った。濃厚かつ豪華なケーキ。保谷駅をでると小雨で、いそいで、折畳み傘をひらいた。明日は、どうやら激しい雨のなかを聖路加まで行かねばならぬ。眼科診察である。近所の医者にも行くとか、メガネを作り直すとか考えていたが、すべて、出来なかった。次の目標は、無事にペンの日に「電子文藝館」公開へ持ち込めるか、それだ。雨の音が激しい。
2001 11・5 11

* 池袋駅で大学イモなんか買ってしまい、妻に頼まれたパンも買い、おまけにカンビールまで衝動買いして帰った。いろんな連絡が来ていた。
電子文藝館に、規定の何倍もの分量の掲載依頼が来ていたり、これからは、この分量でかなり困るだろうなと思う。どうしても欲しくての分量と、寄稿者の安易な分量とでは問題が違ってくる。厳格にするしかあるまいなと思っている。
2001 11・6 11

* 妻の買って置いたDVD「ホブソンの婿選び」を見始めたら、想像を絶して面白い出だしで、ぐいぐい引込まれ、かろうじて中断した。映画をぜんぶ見通すほど時間に余裕がない。
中村光夫「知識階級」の校閲がちょうど半分、かなり長い。啓蒙的な書き方だが、要点を押さえながら漸進してゆく。明治維新から明治以降へ、日本の歴史を動かしたような動かし損ねたかも知れないような「知識階級」への批評が、そのまま日本の近代論になっていて面白い。前へ進みたい。まだ半ばなので。
中村先生独特の口話体の批評はかなり読んでいた、小林秀雄は敬遠しても。志賀直哉論、谷崎潤一郎論、風俗小説論、カミュの異邦人論など、愛読したと言える。それだからこそ、中村光夫の推薦で太宰治賞に知らぬうちに最終候補へ差し込まれたのだと聞いたときには、嬉しかった。しかし中村光夫に「清経入水」を送っていたわけではない。批評家で一番偉いのは小林秀雄らしいと思っていたから小林秀雄には送っていた。筑摩書房に送っていたのではなかった。小林秀雄はどうやら中村光夫の師匠格であるらしいという程度はものも知っていたが、小林秀雄は読まなかった。だけど私家版はいちばん偉い人に送るものと思っていた。だから小説家では谷崎と志賀直哉に送っていた。新人というのはおかしな人種である。なつかしくなる。
2001 11・6 11

* 「知識階級」の校正をしていて、二時半になろうとしている。目が痛くなってきた。もう寝床へ行こう。湖の本の新刊分が組み上がってきている。これの校正も作業に加わってくる。
2001 11・7 11

* 昨日は、珍しく「私語」も忘れるほど。おかげで中村先生の「知識階級」を校了した。明治の知識階級を論じて終っているが、優にその後にも意義は通じて、たとえば芹澤さんの「死者との対話」にも、ボタンをかけたようにきちっと繋がっている。維新の知識階級は、福沢諭吉と森有礼のように在野と在官の差こそあれ政治や国家への視線・姿勢を優勢させていたが、明治二十年頃、四十年頃をふたつの画期として、知識階級は支配の道具機械と化して精神を見捨てるか、精神世界へ沈淪して痩せ我慢するか、運命の別れを体験した。精神界にのがれた者は、仲間内だけの言葉を操ってゆくことで、さらに歪んで痩せていった。
2001 11・9 11

* 土井晩翠の「荒城の月」と、作曲者瀧廉太郎を追憶しつつラジオ放送した話とを、取り上げようと用意した。

* ペンの日まで、半月。どこまで用意できるか。胸突き八丁でこの辺が気の萎えやすい苦しいところだが、要するにこれも一つの通過点で、事実上、もう「日本ペンクラブ・電子文藝館」はペンの内部では発足している。梅原さんの和文英文の開館と発信の宣言は会報で全会員に報じられているのだし、出稿要領ももれなく配布したのだから。ペンの日は、いわば外向き公開という意味になり、されば静かにもう通過してゆくだけである。わたしの大仕事は、そこで、一区切りとなり、あと、これをどう育てるかは、日本ペンクラブの意識次第である。大樹に育つも、痩せて枯れるも、もうわたしや電メ研の全責任ではない。会員相互の責任である。力と時間とのゆるすかぎり、優れた先輩作家達の作品を、一つ一つまた一つ、ゆっくり送り続けるだけで、わたしはわたしの此の「創作」行為に孤独に思いを注ぐことだろう。
2001 11・9 11

* 中村光夫「知識階級」についで土井晩翠の「荒城の月」と関連の一文を原稿に起こした。また志賀直哉のものはやはり小説らしい小説にするのが礼儀かなと思いあまり、志賀直吉氏あてに手紙を書いた。「クローディアスの日記」「赤西蠣太」「邦子」のどれかでどうでしょうか、と。「早春の旅」は好きで選んだものの、いかにも随筆であり、小説家志賀直哉に礼を欠きたくないと思った。
三木清、中村光夫、土井晩翠、それから与謝野晶子自撰の明治短歌抄、さらに日本ペンクラブ現会員の名簿を、合わせて日曜日の内に業者へ送稿する。
2001 11・9 11

* 文藝館の前途はなお多難。作品が、きちんとした形でサイトに再現されなければ意味がない。それが、一部混乱したままである。与謝野晶子短歌抄がどうなるか、とても心配だ。わたしの「e-文庫・湖」方式で表記していれば、索引方法にだけ工夫を凝らせば、それで済んだのではないかと今も思う。事大主義が、それなりにマットウできなくて半端なままにややこしくなった。混乱は暫く続くだろう。

* 大岡信さんの詩の英訳者から訳使用快諾の返事をもらった。志賀直吉氏に作品選定で相談の手紙を書いた。石川達三、遠藤周作の作品を早く依頼したい。芥川賞作品を戴ければ有り難いが。谷崎潤一郎、江藤淳、大江健三郎、石原慎太郎、水上勉各氏への依頼も急ぎたい。この仕事が面白くてたまらないという新委員がもう二人ほどみつからない
かなあと思う。ま、無理だろうな。
2001 11・10 11

* 電子文藝館の開館を「ペンの日」の懇親会場で映写披露する計画は、わたしの意思で断念した。会場が広すぎ座が乱れているのが例年の出席経験で予想され、そんなさなかに機材等に十万円以上もかけて僅か五分十分で何が出来るとも効果的とも思われず、むしろ、通常の例会時に披露した方がよほどマシだと判断した。もう一つには、掲載作品の機械上での表示に、ごく一部とはいえ甚だ不十分な混乱が出ていて、安易に強行すると逆効果になると考慮した。
しかし、十分な質と量との掲載作品はすでに用意され掲載されていて「開館・公開」に何の不都合も起きていない。行事を企画してはではでしくは披露しないが、ごく自然な開館・公開へ予定通りに向かっている。あと二週間にさらに作品を一つでも二つでも増やしたい。

* 仕事を堅実に着実に仕上げてゆくというのは、容易なことでなく、場あたりのいいかげんは混乱と失錯のもとにしかならない。会社づとめをし、長い間管理職として部下の仕事をみながら、数え切れぬほど月刊誌や単行本の校了に立ち会ってきた私には、いやほど分かっている。理屈ではない、現場は現実問題で構成されている。現実問題に誠実に対処しようとすれば、一つには慎重、一つには決断。そして成り立たないことにいたずらに拘泥しないで、その時点で一番良いと信じられる選択をすばやくしなければお話にならない。論語読みの論語知らずでは、仕事はけっきょく膠着し、うまく出来あがらないものである。
出来ればいいなとは願ったものの、「ペンの日」のデモンストレーションは、無理であろうと暗に予測し、いつでも断念できる腹づもりでいたが、そのようになった。強行しても利はなにも無い。ほっとしている。
2001 11・12 11

* 迪子が、昨日は徳田秋聲作品を、今日は林芙美子作品を念校してくれた。やはり、ぱらぱらとミスや抜けが出ている。念校しないと危ない。見る目が複数で交代しないと誤記誤植はなかなか避けきれない。わたしのスキャンした仕事を今迪子に手伝ってもらって点検を急いでいる。
志賀直吉さんから、作品の選択は任せるとお返事を貰った。少し癖はあるが、直哉自身は気に入っていた「邦子」へ落ち着けようと思う。直吉さんも賛成であるし。「早春の旅」が好きだけれど、直吉さんも自分が出てくるし好きだといわれるけれど、小説家志賀直哉の作品を、あまりに随筆的なものではと遠慮した。直哉自身、自分の文学では小説と随筆のけじめはぼやけていて、それには拘泥していないと書いているのだが。「赤西蠣太」と「邦子」なら、後者が良いと妻も言う。わたしもそう思っている。妻は林芙美子の「清貧の書」に泣かされたという。校正しながら細かに読むとひとしお情の深い秀作なのである。

* 文藝家協会ではわれわれの「電子文藝館」の「課金版」を考えているらしい。向こうの理事をしている三田君の話である。金を取って成り立つかどうか、微妙に難しい分かれ目であるが、成り立てばまた別の希望も持てる。
* 白柳秀湖の「駅夫日記」を読み始めたが、すばらしい。作品の存在すら念頭になかった初の出逢いだ、作者は明治十七年生まれ、昭和二十五年に亡くなっている。この作品は、明治四十年十二月の「新小説」に発表されているので、自然主義作品としては花袋の「蒲団」に重なってくる。まだ予感ながら「蒲団」以上の社会性に富んだ自然主義先駆の記念碑作のように思われる。これが電子文藝館や「e-文庫・湖」に拾い採れるのは、とてもとても誇らしく、また嬉しい。
山手線の目黒駅を舞台に語り始められている。目黒はね東工大に通った頃の目蒲線への乗り換え駅だった。今はずいぶん立派な駅になっているし、権之助坂辺の景色もこの作品の頃の寂びしやかに武蔵野めく風情からは、ウソのように都会の顔をしている。またも、佳い作品に出逢える予感で頬がゆるむ。こういう先輩作家の秀作をこうしてまた世に送り出せるのが、言いようもなく嬉しい。
2001 11・13 11

* 吉川英治記念館から作品が届いた。現会員で三島賞の久間十義氏も作品を送ってこられた。白柳秀湖はスキャンを全部終えて校正をずんずん進めている。志賀直哉のスキャンも急ぎたい。どう慎重にやっても、スキャン原稿を一度校正しただけでは誤記が出る、初校だけで誤植がないなんてことは普通あり得ないのだから、やはり二度は最低、それも読む眼の変るのが望ましいが、なかなか委員も皆生活を抱えていて時間はとりにくい。
2001 11・13 11

* 埼玉市在住の詩人榊政子さんの「辻谷の寅子石」に関する論考と詩一編を「e-文庫・湖」第四頁に掲載した。榊さんの本領発揮といえる史実と伝説との考究であり実感に満ちて美しい詩編である。七十を過ぎてみずみずしい詩精神を湛えた篤実の文学者であり、いまなお文学少女の純粋と克明な探求心とを、詩の創作で、つよく結びつけられている。寅子石は実在し、近隣ではよく知られている。哀れ深い印象強烈な伝説にからめられている。
「e-文庫・湖」の掲載も増やしてゆきたいし、文藝館の手作業がなかなかのもので、らくな日々ではないが、文学文藝にずぶりとはまっているわけで、何の不足を言う筋ではない。
2001 11・15 11

* 今日は終日、白柳秀湖の「駅夫日記」に心惹き込まれながら校正に努めていた。かなりに長い。しかし素朴な中に叙情性も叙事性も豊かで、読んでいて嬉しくなる。恋愛小説のようで居て社会性の小説になってゆく。明らかにこれは花袋の「蒲団」的な自然主義でなく、藤村の「破戒」に肩を並べる同時代の忘れ去られてきた秀作である。ことに今、目黒駅を中心に世田谷、太田、港、渋谷区界隈に暮らしている人には、この明治四十年頃の東京の風景がおどろきと懐かしさとでイメージを湧かせるだろう。おそらく、こういう小説はこういう文藝館のような試みと意思とが再発掘しなければ本当に忘れ去られてしまう。しかし当然忘れられて致し方ないような凡作ではないのである。
わたしは、ますます、この仕事に誇りを感じ始めている。新鮮な佳い読者に新鮮な佳いおどろきと喜びを伝えたい。
2001 11・15 11

* 白柳秀湖「駅夫日記」を書き起こした。正字で旧仮名遣い。仮名遣いは生かせるが正字は化けて出る事例が多く、試みにこの原稿では正字略字の混在を敢えてした。主人公が、年齢相応にやや感傷的で俗に云う貧困に育ったことを恥じ入りすぎているのが、劣等感の強すぎるのが焦れったいけれど、たいへん素直な前期自然主義の美しい描写と感動のなかで、素朴にストーリーが績み紡がれ繪を成してゆく。時代は古いがモチーフはかっちり強く捉えられていて、この先の闘争がどう展開するかといろんなことを考えさせる。無理矢理の妥協や不自然な作為のない、得難い古典性を帯びた秀作に出逢えてほんとうによかった。「破戒」から「駅夫日記」へと自然主義が伸びてゆけば、よほどまた別の趣の近代文学史もありえたろうに、埋もれてしまったのが惜しまれる。不運の秀作と呼ぶに憚りないものであった。

* 一日一日がいまは「電子文藝館」の用事で終えてゆく。湖の本の作業も今日は一区切りまで進めた。どうしても校正ミスを犯しているのを、外では倉持光雄さんが、家では妻が着々と読み直し続けてくれて、だいぶ安心の利くところまでこぎつけた。今度は志賀直哉の「邦子」のスキャンにとりかかる。吉川英治の作品を記念館の城塚朋和氏が選んで送ってこられたが、せめてスキャンするか、プリントして欲しいと頼み返している。少しでも委員には作業を助けて欲しい。久間十義氏の作品も単行本で届いている。
転送等の作業を委託している業者に、原稿の校正までをさせることは出来ない、それは約束の外で、原稿は委員会で責任をもって校正し終えたものを渡すより無い。いわゆる完全原稿で印刷所に渡すというのが原則であった、昔から。内校してくる印刷所もあったが、ディジタルでは、我々が責任有るコンテンツを渡して、なるべくそのまま転送して済むようにしておくのが当然だろう。
2001 11・16 11

* 高木冨子さんの詩集『今は』を、「e-文庫・湖」第十四頁に一括掲載した。折々の詩的な「ノート」を含んだ一巻の旅詩集として読んだ。おそらく推敲も吟味もなおなお可能な、あるいは必要な詩篇であるが、散文でもあるが、優れて実意に富み、このままで、あらあらしいほど生きて言葉が呼吸している魅力を受け取った。今後のことは作者に委ねたまま、掲載した。機械の環境により改行などが作者の最初の思いを裏切りかねない。いっそ、改行の不明な箇所は、機械の自然改行にまかせて整理しておこうとも編輯者として考えているが。おそらく作者にも、そして編輯者にも、佳い収穫として一つの形にして示したい。

* 湖の本のツキモノやあとがきを用意して要再校原稿を送り、志賀直哉の「邦子」を慎重に校正校閲し、関連して幾つものメールを書き、二十六日「ペンの日」の開館と公開を理事会に正式に報告の書面を作成した。あああと思っているうちに、もう二十四時に残り二、三分。疲れるわけだ。なんにかしらこの数日、ワインが利いているような、ある種の元気がある。無念無想とも行かないが、着々と、いやジリジリとことを前へ前へ運んでゆく。もうどうしようもなく、一つのゴールが目に見えてきている。あと一週間のそのゴールは、自然にただ通過して行き、次の目標へまた動いてゆく。

* 直哉の「邦子」は何度も読んできたが、ある読み違いをしていたような気が今度はした。これは夫の浮気で妻が自殺する話ではあるが、直哉の意図には、芸術家と家庭との問題意識の方が重く沈んでいる。直哉は、なかなか「書けない」文豪であった。その「書けない」苦しみと平和な家庭との相克は、他者の評論以上に直哉にとって重いことであった。それがこんなに真正面から主題化されているのに、わたしは、ながくこれを「山科もの」の同作というふうに読んできていた。明らかにわたしの大きな間違いであったと気がついた。本質的にたいへんな苦悩がココには書かれていたのだ。
2001 11・18 11

* 昨日と同じように過ごして、いま、午後十時。二時間分ほど今日はラクであった。文藝館十八人十八作の最終点検済み原稿を一枚のフロッピーディスクで、業者に発送した。「ペンの日」までに、ぎりぎりいっぱいの作業となった。まだ不十分で不安は残っているが、この種の校正仕事では余儀なくどこかで見切らねばならない。べつにもう七人の原稿が入るから、また現会員、物故会員の「名簿」も入ったから、内容的には重みのある良いスタートになる。
あとは追加の出稿依頼。その方の仕事が進まないでいる。あすは、そちらへかかりたい。
2001 11・19 11

* 業者の手で「日本ペンクラブ電子文藝館」作成中の準備段階サイトを見ていて、(自分で手掛けたコンテンツの念校に追いまくられて、今日までよく見ているヒマもなかったのだが、)ひとつ、複雑な作手順にしたがい、作品に難儀なルビ打ちを試みられた起稿分が、そのようには出来ていなくて、私の従ってきた新聞方式の括弧内「よみがな」に統一されてある。これに該当するのは、少なくも与謝野晶子、岡本綺堂、神坂次郎三原稿で、担当者が長期間掛けて仕上げられたもの。
見たかぎり、岡本綺堂、神坂次郎原稿は、わたし自身は、現に掲載されている方式で、(本文念校をきちんとすれば、)このままで良いように感じている。ルビを頻繁にふり、行間が均分に整わないのでは、とても文学作品は読めたものでないからだ。
ただ、短歌作品の場合は、評価が難しい。数百の短歌が、行間ばらばらでは、均質な感銘をもって読みにくいのと同様に、漢字の後ろへカッコつきで「読み」の入る方式も、感興をそぎ読み下しにくい言える。どっちが、どうか。
業者の方で結果的にどう判断してそうしたのか、二十二日の会議で聴くしかないが、わたしの作成した二十本ちかい作品が、みな新聞方式に準じた簡明な再現になっているのに従ったものと思われる。そうでなく、別の何かの支障が有ったのかも知れない。いずれにせよ、相当な長期間かけて作成された「ルビ打ち」作業であったが、結果的に無にされているのを見て、正直気の毒で、困惑している。わたし自身は現掲載で読んでゆくのに、とくに支障を覚えないものの、時間と神経を費やされた方にはお気の毒な結果になっているからだ。
読者の読みやすさと、作者の満足度と、これから先の寄稿者たちの作業の難易と。それが絡み合っていて、評価は容易でない。
が、確かに守らねばならぬ「二つ」が、厳として、有る。
寄稿してもらう一人一人に、おじけをふるうほど難儀で煩雑な手順での寄稿など、とても要求出来ない、してはならない、というのが、一つ。間違いの少ない原稿を数多く出して貰いやすくする、そして二つには、どんな読者(の機械でも)にも均質に読んで楽しまれるように作品を提供する、という最初からの大原則、この二つが何より優先する。これは拙速ということではないのだ。ものの宜しく成るためには、電子文藝館のための本質論なのである。

* なかなか八方うまくは纏まらない。生きて動いている仕事とは、こういうものだ、やはりここ半年一年はいろんな試行錯誤を重ねながら調整改訂してゆくより無いのであり、そういうものと、わたしは予期し覚悟していた。大事なのは現実を注視しながら、机上の理想論にだけ流されてしまわず、しかも理想は大切にする、ということだ。その意味では、だいたい理想としていたように事は成り立ってきている。余す一年半足らずの任期のうちに、一つまた一つと、優れた内容の作品を積み重ねてゆきたい。もう、わたしに、あれもこれもは出来ない。

* 川端康成、石川達三、高橋健二、遠藤周作、尾崎秀樹各歴代会長の遺族あてに、梅原館長代理で出稿依頼状を発送した。また谷崎潤一郎の遺族および石原慎太郎氏にも出稿依頼を送った。大きな一段落でほっとしている。文芸家協会の理事長達へもおいおいに依頼してゆきたい。しかし、白柳秀湖のような人が大勢あり、こういう人達をぜひ見いだしてゆきたい。
2001 11・20 11

* いま、妻と、半日かけて神坂次郎氏の『今日われ生きてあり』を読み合わせ、念校を終えた。想像以上にスキャンから校正した原稿自体に間違いが多く、結局、少なくも150箇所ほども修正したり補正したり訂正したりした。正直のところ、このまま「公開」していたらと想うと冷や汗が出た。なんでこういうことになるのだろう、分からない。どんな校正でも、一人が急いで一度読んだ程度では、たとえ二度読んでも、誤植はなかなか免れがたいものではあるが、ちょっと……、驚いた。ともあれ、神坂原稿は無事に開館に間に合うだろう。
明日は、岡本綺堂の『近松半二の死』を同じように読み合わせて直してゆくしかない。今、他に気にしているのは上司小剣、島崎藤村である。この分では、ぎりぎりまで緊張が続く。

* 倉持委員から、つぎつぎに念校の指摘が入り、有り難い。息つく暇なく、今夜ももう十一時半になり、まだ、休めない。膝下がじんじん冷えてきた。
ゆるんでしまったら、潰れてしまいそう、気を張って、全力疾走で一つのゴールを駆け抜けたい。ずいぶん乱暴な委員長だと委員達のなかには辟易したり顰蹙している人もいるだろうが、今という今は慎重な中にも勢いを欠くワケには行かない。顧みて他を言うていても仕方なく、自分で自分に鞭をあてるとすれば今しかないのだと想っている。そして奥深くでは楽しんでいる。これは苦行なんかではない、一種の創作なのだから。
2001 11・20 11

* 帰宅後に、留守のうちに妻に手伝っておいてもらった岡本綺堂の戯曲原稿を、さらに丁寧に体裁に至るまですべて修正し、念校済み原稿に仕上げた。これで、結局わたしは、電子文藝館開館作品「25」編のうち「21」編を手掛けたことになる。加えて物故会員名簿なども。新世紀の一仕事として「電子文藝館」企画と発足とは、我が年譜に遺せる記念の一大晩景となった。もうこの先は、わたしのものでなく、日本ペンクラブの財産である。どう育てて行くか、それも日本ペンクラブの見識と自覚による。できるかぎり、手伝いたい。
明日は、開館直前の最終の打ち合わせ電メ研である。よく漕ぎ着けた、ここまで。協力してくれた電子メディア委員会の委員皆さんと事務局に感謝している。
2001 11・21 11

* 開館直前の「電子文藝館」最終状況を、梅原館長へあらまし報告の手紙を送った。午後の電メ研、二十六日の理事会、その晩の「ペンの日」懇親会を通過した段階で、自然に、離陸「公開」段階に入る。今夜の遅くにも、もう、URLの知れている人には、ウェヴサイトが一般に見られるようになっているかも知れない。すこしでも、滑走段階で手直しの出来るよう、委員会としても正規の公開サイトで点検したいからの措置である。

* 午後、乃木坂へ、電メ研に。ATCの山石氏に加わってもらい、「電子文藝館」の最終段階でのチェックや意見交換を重ね、むろん、ここ当分はいろいろな試行錯誤を重ねてより良い環境と発信のために手を尽してゆくと確認の上、まずは、無事に今夜の遅くにも開館と公開に踏み切ると決めた。実験段階から準備段階を経て、いよいよ滑走を始める。苦労の割にいろいろの不備が見つかったりするであろうが、それは、或る面からは当然のことで、誠実により良くしてゆきたい。
日本ペンクラブ・ホームページの中に、「電子文藝館」と「広報」とが並立する。
電子文藝館のサイトは以下の通り。 http: //www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/

* 島崎藤村以下歴代会長十三人のうち、正宗白鳥、志賀直哉、芹澤光治良、中村光夫、井上靖、大岡信、そして梅原猛現会長(電子文藝館長)八人の作品も揃い、さらに与謝野晶子、土井晩翠、徳田秋聲、白柳秀湖、岡本綺堂、上司小剣、横光利一、岡本かの子、林芙美子、三木清らの秀作が揃い、現理事からは阿刀田高、神坂次郎、そして私の三人が出稿している。現会員からも、小説、詩、短歌、評論、意見などの各種の出稿があった。どれも甲乙無く、均等の扱いで見て行くことが出来る。大勢の訪れて満足できる読書館ほライブラリーに育てて行きたい。今暫くは、僅かながら化け文字が出たり、誤記が見つかったりするかも知れないが、おいおいにそれらも克服して進みたいので温かく見守って欲しい。

* 暫くぶりに病気癒えて中川五郎委員が、元気な顔つきで以前と変わりなく出席してくださり、ほっとした。

* なにとはなく、一人になったので、千代田線で日比谷に、そしてクラブに入り、オマール海老と海草とのサラダ、サイコロ・ステーキで、ブランデーとウイスキーをそれぞれ二杯ずつ、例のストレートで楽しみ、久間十義氏にもらった小説を読みふけってから、丸の内線、池袋経由で帰宅した。なにはともあれ、一段落が付き、あとは二十六日の創立記念日を穏便に只通過して行くだけ。それで自然に「日本ペンクラブ・電子文藝館」は「開館」となる。ひとまず電子メディア委員会とわたしとの開館責任は果して、それから先は「日本ペンクラブ」自体の責任で事が運ばれるのである。

* それにしても創立記念の「ペンの日」を即ち「福引きの日」かのように心得ている事業感覚はなにとも情けなく、甚だ先が心許ない。
そういうマンネリの「俗化」現象も、何から生まれるかというと、「理事の固定化、担当委員長の固定化」から生じるのである。委員長が適切に交代して行くことで、活動にも飛躍が生まれる。好例が猪瀬直樹委員長の言論表現委員会であろう、めざましくこの数年「ペン」らしい仕事をし続けてきたのも、彼の、彼なりに溌剌とした前向きのセンスから出ている。チョコマカと理事がさながら「宴会幹事屋」になり、福引きの景品集めに奔走して「ペンの日」事足れりという顔つきは、どこか間違っている。本当なら、「創立記念日」らしく、「P.E.N.」活動に則したイベントを計画し、藤村・白鳥・直哉・康成らの昔からを思い起こし、心新たにペン憲章に思い至る「お祭り」にしてこそ、本来の「事業」ではないか。ここ何年も何年ものばかばかしい「ペンの日=福引きの日」に、わたしは、とうからウンザリしている。
2001 11・22 11

* 「冬祭り」である。よく晴れている。いま、  http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/ を開いてみた。わたしの機械では即座に表紙画面が現われた。こまかな点検はしていないが、昨日のうちか、今暁にか、「日本ペンクラブ・電子文藝館」は開館・公開段階に入った。すでに電子メディア委員会のメーリングリストに業者も加えて、細かな連絡等も手早く行えるように配慮した。

* 平成十三年十一月二十三日、創立六十六年「ペンの日」に先立ちまして、 記念の「日本ペンクラブ・電子文藝館」が開館・公開の段階に入りました。
どうぞ、御覧ください。 http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/
まだまだ機械上での十分な安定に至りませんが、よく手を掛け改良して参ります。お気づきの点などご指摘・ご示教下さい。
開館時には、初代島崎藤村より、正宗白鳥、志賀直哉、芹澤光治良、中村光夫、井上靖、大岡信、そして現梅原猛(電子文藝館館長)まで、歴代会長十三人のうち八名八作、また物故会員では、与謝野晶子、徳田秋聲、横光利一、白柳秀湖、岡本綺堂、岡本かの子、林芙美子、上司小剣、三木清、吉川英治らの優れた作品を揃えました。現会員を含めて、三十点ちかい作品をすでに展示しています。
この電子文藝館は「無料公開」です。半永久的に、Digital Libraryとして、過去から未来へ、日本ペンクラブに所属した全会員の文藝・文章を少なくも一作・一点ずつ展示してゆくことで、Japan P.E.N.の存在理由を示して行きたいと企画し実現の緒についたところです。物故会員、約千人、現会員は二千人に成ろうとしています。小説、児童文学、戯曲・シナリオ、詩歌、評論・論考、随筆、翻訳、外国語、オピニオン等を網羅します。
どうか、より広く読者の得られますように、ご吹聴・ご支持下さい。
日本ペンクラブ 電子メディア委員会 (文責・秦)

* 続々と反響が入り始めている。いろんな注文が届くことを願っている。「鱧の皮」など、ややこしい操作を加えて出稿されたのがうまく行かず、明らかに不具合で変な本文が出来てしまっている例も指摘できる。そういうことを予期して、「ペンの日」より数日早い見切り発信を指示したのである。字の大きさにも早速注文がついている。大きいか小さいか、機械の操作でも按配できるので、発信時の大きさがどうであるか一概に言いにくい。
2001 11・23 11

* 電子文藝館開館、心よりお慶び申し上げます。お知らせを戴き、早速、島崎藤村の『嵐』をコピーしてみました。ご苦労を拝察し、本当にありがたい事と感謝しております。タイヘンダッタロウナアなんて、待ってただけのくせに先ずはほっとして、嬉しいかぎりです。
「親指のマリア」上中下(のスキャン原稿) 送ります。
「勘解由。身をいたわり、相変りなく勤めてくれよ」と家継に言われた時には・・涙が出ました。
ひとのことは言えませんが、転倒は骨折につながり困ります。くれぐれもお気をつけください。

* 祝メールを沢山もらった。みんなからみんなへ吹聴してもらえればうれしい。みんなのものとして愛用される電子文藝館でありたい。だが、たいへんな作業がまだまだ続く。今夜も気がかりだった「鱧の皮」を結局またもとのわたしの作っておいた原稿に差し替えようと、念校作業を繰り返した。
2001 11・23 11

* 電子文藝館開館おめでとうございます!
そして、こういう素晴らしいものを実現してくださったことに心から感謝しております。
日本語の読めるありがたさを、とくに海外に住んでから痛切に感じています。今は、仕事場上、日本語の本に触れる機会も多いのですが、1年前までは、運良くて年に数冊、多少興味がなくとも友人の間で後生大事にまわし読みをするのがせいぜいでした。
日本人は文字を読まないと落ち着かない、という話を聞いたことがあります。真偽は別にしても、時々「そうかもしれぬ」と感じることがあります。
日本語の本に渇望していたあの頃、日本の文学をインターネット上で読めないか、探したことがありました。英語でもドイツ語でもフランス語でも、一昔前の名作が自由に読めるからです。探し方のせいもあるでしょうが、満足な結果を得ることができずがっかりしたことを覚えています。
それでも、秦さんのホームページが、私に日本語を読む機会を与え続け、同時にあれ以来、日本の文学がインターネット上で読めたら、と願い続けてきました。
だれがそこまで労力をかけて、と思う傍ら、いつか読める時が来る、と確信していましたが、それが、すでに私の日本語の供給源である秦さんによって叶えられるとは!
長い冬の夜が楽しくなりそうです。

* はるか海外からの声も届いてきた。それにつけても、少しでもより良いものにしたいと思う。晴天。心持ち暖かい。小春日和か。 2001 11・24 11

* 吉川英治作品をスキャンし、吉川英治記念館に校正を依頼した。蒲原有明が早い時期のペンの会員であった。有明集巻頭の「智慧の相者は我を見て」のような詩を、おどろきとともに昔に朗唱したことがある。土井晩翠の「荒城の月」とまつわる回想の一文をもらったように、「『有明集』の前後」を添えてこの詩を入れたい。
2001 11・25 11

* 十一月二十六日 月 ペンの日 電子文藝館開館

* ご尽力ご支援戴いたみなさんに心より感謝する。蒲原有明の「智慧の相者は我を見て」および「『有明集』の前後」を「詩」の頁のために用意した。著作権者の許諾を得て掲載の運びとしたい。

* 午後は理事会、夕景より「ペンの日」福引き懇親会である。どこかで静かに盃を挙げてきたい。
2001 11・26 11

* 理事会前に帝劇モールの「きく川」で、大串と菊正で一餐。昼過ぎで、個室に他の客はなし。いい気分で、「ひとこふはかなしきものをならやまに」などと浅酌微吟。テーブルを指で叩いて拍子を取りながら、ゆっくり歌っていた。

* 理事会に梅原さんが欠席、体調を崩されていると。いたく心配。梅原さんがいないと理事会の重量が半分方減ってしまう。あの人はそれだけ陽性のよろしさを備えていて、梅原さんに欠席されると、とたんにみんなが小粒になって仕舞う。これは先行きが心配な話である。

* ペンクラブの新館建設地に、地下埋蔵残骸がみつかり撤去に三百万円ほどもかかるという。ビルの跡地を買いながら、その辺のチェックを怠っていたとは、さすがに文士の商法と言わねばならない。もともと見積もり予算のぎりぎり一杯の資金でビルを建設するなど無謀な話なのである。予算の1.5五倍の資金を持っていて、なんとか間に合うかというのが通常のことで、資金難に陥るのははなから分かっている。その上に地下埋蔵物が出てきて、もはや尻の持ち込みようもないとは。
で、新館建設の寄付集めになるわけだが、本来無用の費用に充てられてしまう寄付というのも、つらいものではないか。はっきり言えば、これは不始末に近く、情報公開して責任を取った方がいい。
わたしは、だいたい、「立って歩ける大人たちの団体」に対する寄付行為は、「思想として」しないことにしている。日本ペンクラブにも文藝家協会にも、規定の会費以外に寄付などしたことがない。会費の範囲でできることをやればよく、それでも足りないのなら妥当に一律に会費を上げればよいと考えている。それよりも寄付の本当に必要な団体や個人が世の中には一杯いる。そういった方へは寄付も支援もする。よくある維持会費などという便法にも賛成でないので一切応じない。よけいなことに金が足りないのなら、よけいなことをやめればよい。たいていろくなことはしていない。必要なら合法的に会費を値上げすれば宜しい。

* 嘘いつわりなく、わたしは、今、月に十万円ほどしか稼いでいない、平均して。もう稼ぐのが邪魔くさいので、蓄えをゆっくり食いつぶしてゆく生活に、意識して、入っている。そのわりに贅沢ではないかと言われれば、それだけ過去に頑張って置いたのだからと言えるのである。で、そういう暮らしを好きにしているときに、月収の半分も寄付せよなどといわれてもまっぴら御免蒙るとしか言えない。そんなお金は、例えば、維持の厳しい「湖の本」を一冊でも多く長く出す方へ使いたい。
それとてアフガニスタンでの医療活動とかアムネスティーとか、そういう方には寄付も惜しまない。「立って歩ける普通の大人達の団体」に寄付する意味は乏しいと考えている。そのかわり、自分に課された仕事はしっかり努める。手抜きはしないし積極的に身銭を叩いてもやっている。わたしは理事会に欠席したことも委員会に欠席したこともない。自ら企画して仕事をすることに骨惜しみはしない、が、無用な寄付行為はしない。

* 「電子文藝館」の開館報告をした。六十六年前の今日、島崎藤村を会長に戴いて日本ペンクラブは発足した。六十六年後の今日、その島崎藤村の「嵐」が、電子化されて世界に発信されている。正宗白鳥も志賀直哉も徳田秋聲も横光利一も、与謝野晶子も土井晩翠も三木清も発信されている。そういう時代を「電子文藝館」は体現している。そういう過去の偉人達の作品に混じり、おなじ場におなじ形でわたしの「清経入水」も掲載されている。太い伝統に一つに乗り合えているうれしさにわたしは率直に感激している。
現実に開館され作品が公開されてみると、もう、疎々しかった人達の反応がまるでちがう。もう矢は弓をはなれて天空にとびたち、この事業は続いてゆくしかない。お祭り騒ぎの福引は、来年には或いは無くなることがあっても、「電子文藝館」はむしろ一年ごとに日本ペンクラブの誇りにもなり文化財になって行く。

* 大勢に原稿を依頼し、何人もの人から取捨選択を委託もされてきた。加賀乙彦氏はわたしの奨める「フランドルの冬」第一部の出稿に納得した。新井満氏も辻井喬氏も倉林羊村氏も、原稿を送ります選びますと約束してくれた。長谷川泉氏や伊藤桂一氏は原稿選びもわたしに任せると言ってくださった。原稿を送らせて下さいと何人もから声がかかったし、事務局にもう何人もの起稿が届いている。なんとか、わたしの元気なうちに堅実に前へ進めたい。

* 大勢の人とふれ合った。なかには、むかし、妻が見合いしたと聞いている人もいた。向こうはそんなことは知らない。知らぬ顔をして共通の話題の谷崎潤一郎や松子夫人の思い出話を楽しんだ。

* さいごには、いろいろ苦労を分かち合った電メ研の村山副委員長、高橋編集主任とで、乾杯し歓談し、ゆっくりした一時を分かち合ってきた。
2001 11・26 11

* 日本ペンクラブ・電子文藝館の開館、おめでとうございます!!
時代に向き合う日本の文藝家の方々の意気込みが感じられ(実際には、秦さんがおられてはじめて開設が実現できた、というのが実情でしょうが)、世界に向かってその姿勢をアピールできる試みだと思います。もとより、日本ペンクラブのPRのためではなく、すべての人類の未来に向けて託された文藝の保存と開放、「持ち寄りと分け合い」への営みとして。(これは図書館の思想と同一です。)21世紀はじめの年にこの壮大な試みがスタートしたことに対し、心からお祝いを申し上げます。 西尾  肇

* 鳥取から祝って戴いた。図問研で活躍されている方で、ながく湖の本も支えてくださっている。

* 西尾さん、お言葉に感激しています。スタートしたまでで、今後がだいじですが、今後もこれを気永に維持してゆく「気」のある理事や会員がいてくれないと、心配です。そのためにも、この一年半ほどの任期内にせめて百人の作品は公開してゆきたいと願っています。
都の文学館廃館の噂や、現代の焚書にあたる多数書籍の廃棄や都立の図書館廃館ないし統合や降格の政策など漏れ聞いて、心寒く。昨日の理事会でも話し合いました。さすがに関心を寄せられました、おおぜいの出席者からも。
図書館と著作者との協和協力のいきなりの議題が(一つ覚えのように)「公貸権」一本槍になるのでなく、行く先はそこへと切望していますが、それも世界的実状を良く調べおく一方で、やはり「本」とは何なのかという基本の本質に足をのせた話し合いが必要なのだろうとわたしは感じています。
文藝館も、digital library 広い意味で図書館の形式をわたしは発想しました。しかも無料公開なのです。そこにわたしの「文化人」としての思いがあります。師走、お大切に。  秦恒平
2001 11・27 11

* 歴史や歴史上の人物、亡くなった人達と、つき合いがあまりに少なく、むしろ断ち切られ裁ち落とされているのが、若い人達の、いや多くの人達の日々であるように、昔から感じてきた。あんなことでは索漠としないかしらん、ようやれるものだと、不思議ですらあった。
明治以降の作家や詩人達の多くが、その歩みのあとが、同じ道に歩んでいる人達からも当然のように多く裁ち落とされ忘れられている。それで構わない、自由な処世である。そのかわり、そういう生き方では批評のものさしもひどく貧相にしかもてないだろうなと思う。事実、そうなので、手近なお互いの理解だけでかるく一丁アガリに決めている。自己批評の厚みが段々薄くなり干上がってくるのは、当然だろう。時間をただ直線のようにしかみていないのだから、まさに過去は過ぎ去ったものでしかない。過去や過去の人・業績をも、同時代、同時代人のように親しめる力が、時間観が、無いからだろう。「文藝館」の発想には、一つの球空間のなかで平等に明治から平成までの作者達に、作品を手にして同居してもらおうという意図もわたしは持っていた。昨日の宴会で、二人の小説家から、自作と物故作者の作品群とのある「落差」「異質」を告白されたとき、ああ、これでいいのだ、こういう意識が広く生まれてくるのが大事で貴重なことだと思った。
2001 11・27 11

* 吉川英治の「べんがら炬燵」、わたしがスキャンし、妻が校正したのを、もう一度わたしが丁寧に念校し、形を整えてから、ATCに送った。一太郎で原稿をつくり、しかしメールで送ると、しておいた指定が向こうでみな消えてしまうようだ、準備サイトに掲載されたものを見てみると、改行箇所や、中見出しの指定がとんでしまい本文に埋もれている。それをメールで指摘して直してもらうのだが、まだるっこしい。意思疏通も微妙に齟齬しかねない。こんなことは、わたしの「e-文庫・湖」なら、ぜんぶ自分で簡単に直せるし、転送も何でもない。転送ソフトさえ手元にあり設定できれば、痒いところまで手が届かせられる。
ひとの原稿ばかり見ていて、自分の作品をやっと見られたのが今日だが、送った念校済み原稿と微妙にちがい、十箇所ちかく、不要な行アキがあったり、必要なアキが無かったりしている。それを直してくださいとATCに伝える伝え方が、ややこしくて、とてもとても煩瑣。一字二字の直しを告げる場合、向こうで長大作品のどこからそれをうまく見つけだして直せるか、心許ない。これは、今後よほど工夫しないと、完全原稿で渡してもなおこういう齟齬を生じてくる。思わず長嘆息。 2001 11・28 11

* 細川藩あずけになった大石内蔵助以下十数人の死罪切腹の日までを書いた吉川作品を逐一校正して、不覚にも二度ほどぐっと胸に来た。信じられぬほど、記号的なほど簡潔な文章の、文節ごとに句点がふってあり、改行は無数に多く、したがって読みやすいといえばこれぐらい読みやすい読み物はない。大衆文学の一つのコツのようなものが見えてきた。従おうとはユメ思わないけれど。これはこれで、したたかにさすが文豪の筆であった。師走の討ち入りまでに掲載は十分間に合う。折りに叶い、なによりであった。

* 伊藤桂一、長谷川泉氏は、わたしにすべて任せると。加賀乙彦氏には「フランドルの冬」冒頭を、わたしが奨め、本人も進んで承諾。井上ひさし氏、猪瀬直樹氏につづき、新井満、中西進、倉林羊村、眉村卓、辻井喬各理事諸氏が出稿を承諾し、尾崎秀樹分は清原康正氏に委託した。久間十義氏の原稿はもらってある。太田洋子、大原富枝、耕治人、木山捷平、開高健、片岡鉄平らの作品も遺族に依頼すべく作品を選ばねばならない。高橋茅香子編集委員は、自身で手の届く現会員に依頼をはじめている。と、なると、こういうのが、大方わたしの肩に被ってくる、わけか。ウーン。医学書院の激甚編集時代に戻ってゆくわけか、また。妙なことになったが、乱れそめにし「誰」ならなくにであり、ことは「文学」である。楽しもうと思う。それに何も慌てたり急ぐことはないのだ。

* 経済人や理系人や事務人なら何でもなく見逃してしまう、飲み込んでしまう、が、文芸の表現ではどうしてもそこは許せないと言うこまかなところに、表現上の意図や工夫や苦心があるのを、機械のセイということでガマンしていては、パソコンという機械が不具な道具のままになってしまう。いまや、経済人や理系人や事務人の道具をちょいと拝借しているわけではないのだ、文学人間も人文人間も自身の大事な道具にしているし、そういう人たちも顧客にして機械屋は商売をしているのだから、こまかなことまで可能なように行き届かせて欲しい。
2001 11・28 11

* ペンの会員からメールが入り始め、中には開くのが危ない変なウイルスものも混じる。厄介なのは即座に削除してしまう。文藝館原稿も、いろいろと入ってくる。掲載に関して、これで本サーバに送りこんで良いという最終判断をわたしが全部する約束になってしまい、ATCの予備サイトでの直し意見なども送り出さねばならないから、途方もない仕事量になる。月刊医学研究雑誌五冊の統括編集長を勤めていた時の雰囲気に似てきた。やれやれ。たいしたボランティアである。
2001 11・29 11

* 文藝館への問い合わせや寄稿など、活況を呈してきた。遠藤周作元会長の夫人からも作品選定その他をわたしに一任しますとご連絡戴いた。さて、腹案は「白い人」であるが、名案があれば聴きたいもの。あれもこれも、仕事輻輳、一つにかまけていると他が停滞するので、小刻みに幾つも併行して、頭が混乱しないように、じりじりと漸進させてゆく。集中力が、結局はラクを運んできてくれる。
2001 11・30 11

リサイタルのあとは車で日比谷まで行き、「クラブ」でブランデー。エスカルゴ、銀杏。そして、わたしは、かやく飯も。妻は文庫本で森瑤子を読み、わたしは湖の本の校正をすすめ、ゆっくり、のんびりしてから、丸の内線で帰った。遠藤周作夫人の手紙が届いていた、これで歴代会長作品が九作になる。ありがたい。歌人の二人からも、その他にも、文藝館関係のメールが溜まっていて、応対に追われている内に、もう午前二時。そうそう、名古屋勤務の卒業生が千葉へ転勤してくるとも。顔の合う機会がふえるだろう。
2001 11・30 11

* 遠藤周作「白い人」をスキャンした。これはすうっと読んで行けそうだ。加賀乙彦氏の太宰治賞候補作「フランドルの冬」は当時の「展望」から採る以外にすべがないが、雑誌のノドがつまっていて、容易にきれいなプリントも作れないし、長い。スキャンしても相当打ち直しの必要な難儀な識字に終りそうで、途方に暮れる。ゆっくりやるか、だれかプロに任せて費用を作者に負担してもらうか、悩ましい。

* 東京新聞の夕刊に「日本ペンクラブが電子文藝館を開館」の、要領のいい、中身のある囲み記事を出してくれていた。まだ、メールの使える会員と「ペンの日」親睦会に出ていた会員と、わたしたちがメールで知らせた範囲しかウェブアドレスは知られていないが、この五日間で順調にアクセス数が延びている。アクセスの数などどうでもよく、一本一本の作品を読んで、読み進んで、楽しんでもらえれば嬉しい。

* 正字に好ましい意義のあるのは、人一倍感じていますが、日本ペンの「電子文藝館」では、なるべく均質に、どんな機械にも文字が化けて届かないよう念願し、機械的な独善に走らぬよう心がけています。正字作品は正字でと、当初こそ考えていましたが、それでは案の定、とても双方向の安定受発信は望めないと実験段階からよく分かり、現在は、たとえ明治作品でも、また正字初出作品でも、化けない通用文字になるべく替えています。この辺が紙の本と電子の本との性質の差の一つでして、いくら厳格なことを望んでみても机上の空論にまだまだ流れざるを得ない。
このライブラリーの意義の一つは、研究者にテキストを提供するのでなく、新世紀の読者に、作品を「読む楽しさ」を届けたいと謂うにあります。「文字が化けずに作品が読める」ようにと、発案者として、当初から考えを変えずに来ました。結果としてそう成らざるをえず、その方向で、こまかに手直しをつづけて参ります。
文字が、途方もなく最初大きかったのです。それで、小さくしました。品良くはなりました、が、やや小さいかなという感想が、いま、委員会でも出ています。機械により、「表示」の機能でいくらか操作は利くものと思いますが、さらに工夫し善処いたします。今後ともお声をお届け下さい。あなたからも、お仲間からも、自薦・自愛の出稿を、お待ちします。 秦

* 激励のエールを送ってきた会員に、こんな返事をした。機械の分かる人は何でも出来る出来ると言うが、こっちで出来たものが、そのままあっちへ届くという保証のない自己満足を、いくら言い立てても役に立たない。大きな仕事をするためには、仕事そのものを、追々に、段々に育ててゆく辛抱がなければならない。
つくづく思うが、機械は機械である。ほどよく付き合うしかない。
テレビの内部構造に詳しい人が、そんなことは何も分からずテレビをただ見て楽しんでいる人を、得意げに見下し軽蔑してみたとて、何の意味もない。それと同じことを、パソコンでやってしまいがちなのは、それだけ「機械」としてまだ安定していない証拠だと言えるだろう。たかがパソコンを、他人よりずっと詳しくいじれるというだけで、そうでない初心者にむかい、機械的完璧を強いようなどということがあっては、愚かしいただの自慢話になる。古い機械を永く使って仲良くしている人にむかい、機械を新しいのに買い換えれば、こうも出来る、ああも出来ると、それをしないのは怠慢かのように罵ってみても、滑稽なはなしにしかならない。
しかし、現実に委員会ではそういう議論で、よけいな遠回りをしっかり体験した。そして、落ち着くところへ落ち着くしかなかったのである、現実問題として。それがまさに試行錯誤であったのだから、そういう混乱を体験したのは良かったと思う。今は自信をもって、上のような「返事」が出来る。「e-文庫・湖」で率先体験していたことが、そのまま役にたった。
2001 12・1 11

* 作品を一つ一つ校正していると、それがよく推敲された作品か、そうでないかが、自然に見えてくる。また時代差による物言いのかすかな差異や特徴も見えてくる。

* 日本ペンクラブの「電子文藝館」のご案内、ありがとうございました。ジャンルごとに、さまざまな作品を掲載していただき、また無料公開というのは、大英断と思います。著作権の切れた「青空文庫」とは異なり、新しい文学の公開だけに、ご努力は大変なことと思います。早速、御著の『清経入水』にアクセスし、ダウンロードしました。やはり、読むのはどうしてもプリントしたくなります。御礼申し上げます。また、このアドレスは登録いたしました。

* 関西の国立大学教授からの激励。すこしずつ口コミやWEBコミで知られてゆくようになれば有り難い。
わたしの「e-文庫・湖」
http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/e_mag1.htm/  から e_mag20.htm/ までも訪れて欲しい。
2001 12・2 11

* 遠藤周作「白い人」をとにかく原稿に仕上げてしまいたい。それに気が急いていて、帰ると直ぐ。字義通りに「凄い」作品である。もっときちんと推敲されていたらさらによかったろう。「凄い」とは当節の軽薄な嘆賞の俗語だが、もともとは、そんなものではない。心にまで粟立つ寒気がするような、顔のこわばるような、こわさを言う。
2001 12・4 11

* 高木卓という人がいた。芥川賞のながい伝統の中で只一人芥川賞を要らないと辞退した当選作家である。「遣唐船」で候補になり有力視されながら惜しくも外れ、次回に「歌と門の盾」で当選したが、断った。文藝春秋の経営に当っていた作家菊池寛が熱心に推していただけに、菊池寛は大憤慨したが、選者達は冷静に辞退そのことを評価した者も何人もいた。作品としては前作の方が優れていたというのがほぼ一致する見方であったらしい。辞退の理由は知られていない。
今は亡いこの高木卓に心寄せの電メ研委員から、その作品を戴けないかと著作権者に依頼してもらうことにした。

* 遠藤周作原稿「白い人」は重みのある、凄みのある、主題深甚の一佳作であった。こういう現代作品、信仰と人間を深みから把握しようと試みた思想性の烈しい小説作品を、われわれの電子文藝館が抱えている意味深さを考える。どんな人のどんな作品も、何を書いてもいいが、質的には、こういう作品と真摯に鎬をけずり火花を散らす作品であらねばと思う。文藝館にどれほどそういう作品が出てくるか、それが楽しみでならない。ここは、そういう「場」だ。「白い人」の校正は永くかかったが、力強く読ませてくれて嬉しかった。つぎは久間作品をコピーし、加賀作品をとにかくも試みにスキャンしてみる。
2001 12・5 11

* 少しずつスキャンし校正をはじめた加賀乙彦氏の「フランドルの冬」は、遠藤周作の「白い人」と同じく、フランスに取材の太宰賞候補作であるが、導入のあたり、遠藤さんの作よりも文章がざらざらとあらく、今一つ表現に妙味がうすくてドキドキしてこない。かなり長いので今後の展開を待たねばならぬ。
「校正しながら読む」というのは、作品の評価にはじつに厳しい、しかし良い道である。小剣も、秋声も、芙美子も、白鳥も、利一も、みな「校正しながら読」んで感嘆した。「白い人」でもそうだった。もうちっと推敲して欲しいなあと思いつつ読まされていった。 2001 12・7 11

* 夜前はおそくまで長谷川泉著「森鴎外論考」の大著を読んでいた。歴史小説論でもある「阿部一族論」を電子文藝館にもらおうと決めた。文体は独特の調子を持っていて、しかも論旨は明快、さすが碩学の風趣に富んでいて、読みは極めて深い。評論家の読みではない文学鑑賞学の大家である真実学者の精緻な読みである。これは電子文藝館に更に大きな幅を加えるに違いない。任すよと言われている。任された期待に応える選択をと緊張していたが、自信がもてる。
加賀乙彦「フランドルの冬」第一、二章がもうすぐ掲載にまで運べる。それ以上、もう倍も長くとなれば、アルバイトを頼むより無い。伊藤桂一さんの作品は、やはり中国への兵隊体験の生きた小説を選ばせてもらいたい。これも「任せる」と言われている。
2001 12・10 11

* 電子文藝館で、志賀直哉の「邦子」を読みました。横に字数が多くて、少し読みづらいのですが、一気に読みました。
十分に作り上げられた「小説」なのでしょうけれど、淡々と 作り上げた感じのしない自然な文体で綴られていますね。主人公の男のいつわらざる気持ちと 邦子の女の純粋な気持ちが、その他の登場人物やできごとを黒い背景にしてくっきりと描かれているように思えました。悔恨 というよりも 必然性に縁取られているようにも感じ取られました。
多くの志賀直哉の作品の中で、これを選ばれたのはなぜなのでしょう。
志賀直哉はあまり読んでいません。少し他の作品も読んでみようかしらと思っています。

* 創作と平和な家庭(妻)との難しい桎梏を書き、書けない作家の苦痛を書いている藝術家小説として、問題点をさりげなく鋭く射抜いている作である。直哉のモチーフはそちらにあり、うっかりすると、夫の浮気で妻が悩み死ぬ小説のように読んでしまいがちだが、それでは読みが違うように思う。「邦子」は優れた作だと思ってきたが、なぜ優れているかは、痴情の果てを書いたからでなく、直哉の身にも痛かった書けない苦しみを率直に書いたところに意義がある。わたしは、今度、それを思い知った。
2001 12・13 11

* 討ち入りかと思い出しながら、今年は、忠臣蔵の映像に一度も出逢ってないなと思っていた。しかし電子文藝館に吉川英治の「べんがら炬燵」をもらい、わたしが起稿し、校正していた。念校しながら、一度ならず、ぐっとこみあげたことがあり、大衆小説の骨法のようなものを感得できた。一字ずつの校正であったればこそだ。千葉の勝田さんからも「べんがら炬燵」はよかった、ああいうのが嬉しいとメールをもらっている。

* 「湖の本」の搬入が二十日となり、次の日が満六十六の誕生日、日本ペンクラブより一ヶ月の弟になる。
この分ではクリスマス過ぎまでばたばたと落ち着かない。近年にない珍しい師走になった。十七日が歳末の理事会で、そのあとは講談社のパーティーがある。十八日はペンが主催の戦争と平和を考えるシンポジウムが予定されている。三百人劇場からの恒例の「クリスマスキャロル」招待もあったのに、たぶん発送作業と読んで、お断りしていた。こうなれば二十日までの時日をせいぜい活用して、仕事の山を低くしておきたい。
今日も、加賀乙彦の「フランドルの冬」第一、二章を校正し終えた。掲載は予定の半分にしたが、それでも多い。遠藤周作の「冬の人」とはかなり容貌のちがう作品だが、やはりフランスの、加賀さんらしい教会立精神病院のクリスマスを書いてある。
とにもかくにも、これで、理事会から、現副会長作品を一つ「電子文藝館」に展示できる。名誉会員長谷川泉氏の「阿部一族論─森鴎外の歴史小説」も追いかけて初校を終えている。もう一度丁寧に読み直したい。碩学のすばらしい論究で、原作の感銘を新たにしえた。
さらに伊藤桂一氏の小説「雲と植物の世界」のスキャンが明日にはできる。久間十義君の長い現代小説は、単行本からのスキャンに手間取っている。
わが委員会の中で、「スキャン」出来ますという人が殆どいない。これには参る。一本の作品に長時間かかるだけでなく、スキャン作業の間中、脇見もならず集中していないと能率も上がらず、間違いもしでかす。
初めての「随筆」欄原稿が、今日私の手元へ直接栃木の会員から送られてもきた。
しようがない、文藝館のことはやるべきはやるしかないのだから、同じなら楽しんでやろう。などと、言い過ぎてはいけませんと勝田さんに窘められているのだが。

* 電子文藝館ほんとうにありがとうございます。大原雄『…Rさんへの手紙』ほんとに冗談じゃねぇよと思っています。
吉川英治『べんがら炬燵』いいですね。こうゆうの好きです。感謝々々です。
と、読ませて戴くたびに申し訳ない気持ちで・・さて、「・・ゆっくりやるか、」「・・もうすぐ掲載にまで運べる」と、つまりは、テキスト化の実際をほとんど全部なさってるということですよね。しろうと判断ですが、イケマセンデゴザリマス。何故かというと、・・ソレデハ、マ、ヤッテシマイマスルカ・・となりそうだからです。「・・だれかプロにまかせて」の方が、やはり楽だと思いますが、それでも、ヤッテシマッタホウガイイ・・のでしたら、(だからなさっているのでしょうから、) 中略
師走は勝手にはやくなりますね。老化かなぁと思っています。お大切に。

* わたしは義経には近づけても、頼朝のようにはなれっこないので、鵯越は先頭で駆け下りてしまうのである、つい。
2001 12・14 11

* 長谷川泉著作選十二巻は、たとえば朝日賞などにふさわしいものと推薦したことがある。なかでも博大な「森鴎外論考」「川端康成論考」の弐册は、座右に置いてあるとついつい手が出る。文体の魅力に富んだ詩人である国文学研究者であり、この人に出逢っていなかったら、わたしは「小説」を書き始めるきっかけをとても掴みにくかったろう。
今から「阿部一族論」を慎重に念校する。 2001 12・15 11

* 長谷川泉「阿部一族論ー森鴎外の歴史小説」を面白く読み終えた。いつでもATCにおくりだせるものが、加賀さんの小説と、二つ揃った。伊藤桂一作「雲と植物の世界」をスキャンし終えて校正を始めている。
2001 12・15 11

* 石川達三元会長の遺族から、第一回芥川賞「蒼氓第一部」の掲載許可を戴いた。電子文藝館にまた一つ記念作が加わる。また異色の記念作とでも言おうか、芥川賞受賞を拒んだ只一人の受賞者高木卓の歴史小説、大伴家持を書いた「歌と門の盾」が手に入った。これもぜひ掲載へ持ち込みたい。三好徹副会長の「ゲバラ傳」がもらえそう、三好さんのチェ・ゲバラに関する著作は日本では稀有のもので、前に読んでつよい感銘を受けた。一人一人が力作をというきもちになってくれれば、ますます充実する。随筆、児童文学、ノンフィクションなど、積み重ねたい。現理事から十五人をはやく実現したいと思っている。 2001 12・17 11

* 高木卓遺族との掲載交渉は、電話のあった中川五郎さんにお願いした。長谷川時雨の本は、森秀樹さんがみつけて送ってくれると。スキャンスキャンスキャンに追いまくられてきたが、まだまだ続く。それも余儀なく本の発送で中断せざるをえない。
2001 12・18 11

* 妻がぼろぼろ泣きながらスキャンを初校した伊藤さんの小説を、階下から持って上がってきた。「泣かされた」とあかくした目に泪を溜めている。さて、それを早く念校してしまおう。わたしはこの「雲と植物の世界」は以前に読んで感銘を受けている。伊藤桂一さんとは、二十数年前に、井上靖団長の一行で一緒に中国を旅した。井上先生の奥さん、巖谷大四さん、辻邦生さん、清岡卓行さん、大岡信さんがいっしょだった。この顔ぶれをみてもいかに井上先生によくして戴いたかが分かるというものだ。わたしは海外へ初体験だった。伊藤さんは敗戦後初、久方ぶりに踏まれる中国の大地であった。馬と共にくらした伊藤さんはかつての兵隊さんであった。一行の誰よりも感慨迫るものをもっておられた。昭和二十七年の作、伊藤さんが初めて芥川賞候補に挙げられた中国ものの先行作である。伊藤さんは芥川賞に三度、直木賞に二度候補に挙げられて、そして『蛍の川』で直木賞を得られた。いつどこで逢っても初対面以来懐かしい優しい大先輩である。
2001 12・18 11

* ATCに、伊藤桂一「雲と植物の世界」加賀乙彦「フランドルの冬」長谷川泉「阿部一族論ー森鴎外の歴史小説」を送稿した。それぞれに重きをなすであろう。伊藤さんの小説、終局へ来て泣かされた。

* 森秀樹委員に送ってきてもらった長谷川時雨『旧聞日本橋』がすてきに佳い。時雨が創刊した「女人藝術さ」誌のいわば白を売らないために埋め草として書き継がれていたという原稿であるが、今日時雨の表芸であった戯曲を読むよりもこの本を懐かしく面白く愛読する人の方が遙かに多い。見ようによれば編集者が書く「埋草」という編集余技の文章のようでありながら、どうしてどうして短編小説の連鎖ともみまがう溌剌と生彩豊かな好エッセイなのである。さて、どの辺を選んで電子文藝館に入れるか、悩ましい。
2001 12・19

* 伊藤桂一、加賀乙彦、長谷川泉三氏の作品がATC 作業室版から「本館」掲載になる。ぜひ読んで欲しい。
2001 12・21 11

* たくさんなメールが届いていた中でも、嬉しい誕生祝いの一つに、猪瀬直樹氏の電子文藝館のための原稿があった。これはもう話題作である。衝撃の力ある評論として注目をあつめるだろう、中味は今は明かさない。ありがたい、嬉しい。いま日本中でいちばん忙しい一人でありながら、配慮してくれたことに感謝します。
2001 12・21 11

* 昨夜はおそくまでかかって猪瀬直樹論考を整頓していた。メールできた原稿は、段落のところなど気をつけて整備しないと歪みが出ていたりする。面白い刺激的な原稿で、掲載が楽しみ。
そして今朝からはまた発送作業にうちこんでいる。堀上謙氏の電話で出版記念会発起人に名前を貸してと。お安いご用。出版記念会の好きな人が多い。
2001 12・22 11

* おめでとうございます。みなさんにこんなに祝って貰える六十六歳はそうはないと思います。益々の、明日への力が湧いてきているご様子が目に浮かびます。心よりご健勝をお祈りしております。
(電子文藝館)『伊藤桂一:雲と植物の世界』 おじさんも、ぼろぼろ、くしゃくしゃになって泣きました。国民学校の頃、何も知らず、慰問袋を作ったことを思い出しました。
「馬はだまって戦に行った/馬はだまって大砲ひいた/馬はたおれたお国のために/・・・ /馬は夢みた田舎の夢を/田んぼ耕す夢みて死んだ」という歌も思い出しました。どなたの作か知りませんが、そうだったのか、「東聯」だったかも「沼好」だったかも、と涙が止まりません。感想など言える才覚はありませんが、この小説に出逢えたことを心から感謝します。ありがとうございました。

* ああよかったと思う。伊藤さんの作品の一二に好きな作品を選ばせて戴いた「任せるよ」て言われて。何とも言えず佳い小説なのである。伊藤桂一さんの温顔がずうっと目から去らないまま読める。伊藤さんを現実知らない人にもまちがいなく、同じ感銘を与えるだろう、この千葉の「おじさん」と同じに。 2001 12・22 11

* 次の日の午前三時十分、いま、猪瀬直樹氏の力作評論「『黒い雨』と井伏鱒二の深層」を丁寧に通読し終えた。『ピカレスク 太宰治』であらましは承知し、大きな衝撃をうけたし文壇を揺るがせた。その趣旨を焦点を絞ってさらに彫り込んである。明日にはATCにディスクを郵送してすぐ掲載してもらう。「小説」欄と「評論」欄とが拮抗して力強く充実してゆくのは最も望ましい。電子文藝館が望みの方向へ好調に動いている。
2001 12・22 11

* 加藤一夫の「民衆は何処に在りや」を書き起こした。大正七年(1918)正月号の「新潮」に載っていた。ただの平民ただの労働者でない、真に己の権利と意欲に目覚めた自覚せる「民衆」とともに「藝術」を創造し享受しようと、殆ど、筆者は叫んでいる。
基盤にはトルストイやロマン・ロオランの「ヒューマニズム」がある。基督教がある。このころには武者小路実篤の「新しい村」の運動もあった。いうまでもなく彼等の雑誌「白樺」も、またべつの方角からヒューマニズムを日本に持ち込んでいた。
以来八十余年。昨日のようでもあり、遙かな昔語りのようでもある。
加藤は大正九年に同志と春秋社を起こし、トルストイ全集の刊行に手をそめている。文壇的には主として大正期に活躍し、昭和二十六年一月になくなった。わたしが中学をやがて卒業する頃である。日本ペンクラブ創立に参加していた先輩会員である。
そしてこの人の起こした春秋社で、今年わたしは山折哲雄との対談『元気に生き自然に死ぬ』を出版した。初の文化論、初の連載、の「花と風」を二年にわたり雑誌『春秋』に書かせてくれたのも、春秋社にいて『春秋』編集長をしていた山折さんであった。

* 前田夕暮の二冊目の歌集『収穫』の上巻を、いま校正している。「木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな」の名歌が入っていて、明治四十三年三月九日に「自序」が書かれている。明治十六年(1883)七月二十七日に生まれ、(わたしの娘朝日子の生まれた日だ。)昭和二十六年四月二十日に亡くなった。尾上柴舟に学び、若山牧水、三木露風らと同輩、島崎藤村や田山花袋に親しみ、山村暮鳥、萩原朔太郎、室生犀星らと交遊し、北原白秋とは「日光」を創刊している。結社誌「詩歌」は子息前田透に受け継がれた。透さんも、もう亡い。いわば近代短歌史の第二世代として大きな足跡をのこした前田夕暮も、日本ペンクラブの創立会員であった。
この人ともご縁がある。秦野市での大きな記念行事にわたしは行って講演しているし、わたしの歌集『少年』に最もはやく深切に好意を示されたのが前田透氏であった。
一首一首ていねいに校正していると、歌人の情感が乗り移ってくる。生涯をかなりダイナミックな歌風の変遷で自ら彩った、溌剌とした、生来飾り気のない、「正直な」詩人であった。その歌を「電子文藝館」で採り上げられるのは、ひとしお心嬉しい。

*三島賞作家久間十義氏の青春小説も、いま校正している。言論表現委員会の仲間として知り合い、何冊も本をもらって読んできた。ドキュメンタリー調の力作がある。
長谷川時雨の『旧聞日本橋』は、あんまり面白くて、ついつい「読んで」しまっている。何編か有る中から選ばねばならない。
「俳句」「川柳」が、また「随筆」が、まだ一本も入っていない。栃木の渡辺通枝さんの寄稿随筆が随筆欄の開幕作品になるかも知れない。
「詩」「短歌」「評論」そして「小説」は充実している。「戯曲」も入っていて、もし井上ひさし氏の作品が来れば、嬉しいが。
何といっても、これからプリントし、スキャンして、校正の必要な、石川達三元会長の第一回芥川賞作品『蒼氓』第一部がドーンと重い。氏の生涯で、もし一つとなればこれだとわたしは思う。かなり長い。

* 他でもない、すべて選り抜きの文学に触れている仕事なので、手はかかっているが、批評や想像の大いに楽しめる特異な「読書」体験だと思えば、贅沢な喜びでもある。わたしなら…という思いも、むろん滾々と湧いてくる。頭の中でいろいろにわたしなりに書いている。「電子文藝館」がわたしを必要としている間は、手掛けていよう。
2001 12・26 11

* 猪瀬直樹「『黒い雨』と井伏鱒二の深層」が電子文藝館「評論」に掲載された。井伏鱒二に、また名作と謳われた『黒い雨』に関心の深かった人は衝撃をうけるだろう。ぜひ読まれたい。
もうATCにフロッピーディスクを送っても、年末年始はどうにもなるまいから、加藤一夫「評論」久間十義「小説」前田夕暮「短歌」は、新年早々に入稿する。その際に同時に谷崎潤一郎「小説」石川達三「小説」長谷川時雨「随筆」渡辺通枝「随筆」も送り込みたい。その辺でわたしの文藝館作業は一時休止して、二月の講演二つに備えねばならない。卒業生の結婚式にも出る。著作権問題での共著のハナシもある。そして京都では受賞者展覧会のテープカットも予定されている。鼎談の手直し作業も待ったなしでくるだろう。次回「湖の本」入稿の段取りもつけねばならぬ。これが、たいへん。
正月二月、相変わらず寸暇無き戦場になりそうだ。
2001 12・28 11

* 木崎さと子さんから年始メールをもらった中で、電子文藝館に芥川賞作品の「青桐」をスキャンしてくれていい旨のことがあり、旧年来希望していたことで、有り難いお年玉を戴いた。
今日は、妻にコピーをてつだってもらい、戸坂潤「認識論としての文藝学」片岡鉄兵「幽霊船」戸川秋骨「自然私観」三本をスキャンした。長谷川時雨の「旧聞日本橋」巻頭部分もコピーしてもらってある。わたしが怠りなく気を配り続けさえすれば、このようにして次から次へ先輩文学者の作品も、現代活躍中の作者の作品も、電子文藝館に姿を現わしてゆく。気難しい読み手の人達が、いいものを読みたいなと思うと反射的に「日本ペンクラブ電子文藝館」を開いてみたくなる、そして満足されるというぐあいに育てたいのである、読者のためにも、作品のためにも、書き手のためにも。
原則として作者が作品を自選し自薦されるのであり、作者・作品と読者との「自由で良質な出逢いの場」である。安心して立ち寄れる文藝広場であり「ライブラリー=読書室」なのである。
2002 1・2 12

* 片岡鉄兵という作家は、新感覚派の旗手のように謂われた当時の花形で、横光・川端は別格としても、最も華やかな存在であった。その彼の、さてどれが今も鑑賞に堪えるか、判断は容易でなく、短いものだが、初期の「幽霊船」を選んで校正している。細部の表現に、また把握に、確かに新感覚派の特色が花咲いている。
十一谷義三郎、佐々木茂索、犬養健、稲垣足穂、今東光、池谷信三郎、菅忠雄、鈴木彦次郎、石濱金作といった、大方は今は忘れがちな人達が、このころ「新感覚」を競いつつ集っていた。片岡鉄兵はなかでも華やかに咲いていたのである。
2002 1・2 12

* その前に、インターネットで村上華岳を見ていた。「裸婦図」がいきなり大きく目に入り、溜まらなく懐かしく、そのままあちこち見ていれば、当然ながら祇園の何必館にすぐ直面する。ひさしぶりに「太子樹下禅那図」と梶川芳友の文章に出逢い、大いに満足した。そのままメールを送って、この文章だけは佳い意味でちからがよく抜けていて、素晴らしいと褒めた。褒めたついでに半分は本気で、この繪と文を電子文藝館の「随筆欄」に欲しいなと思った。芳友も日本ペンクラブの会員なのである。
2002 1・2 12

* 電子文藝館を訪れました。興味のあるものから読んでいます。「阿部一族論」、「邦子」・・・。
遠藤周作の「白い人」を読みました。
後味の悪い感じ。
「最後の殉教者」、「海と毒薬」、「沈黙」などを読んだときと似ています。
中学生の頃、狐狸庵先生ばかり読んでいました。狐狸庵先生は、自分が一番気の弱い人間だと思っていたけれど、更に上がいたと書いていました。それは、夜、寝床で、過去にあった心苦しいあれこれの出来事が脳裏を駆け巡り、うんうん唸っている人だと。
滑稽話として読み捨てられず、胸の中にずっとひっかかっていました。あれは、狐狸庵先生本人のことではなかったかと、「白い人」を読んで想いました。
川端康成の死を書き立てたジャーナリズムに対し、偉大な小説家が自ら選んだ死について、周囲が何を言えるものではないと、語を強めて書いていた狐狸庵先生。人は誰しも、他人に言えないことを胸に秘めていると言ったのは、「白い人」の作者だったのですね。
わたしの中に散らばっていた断片が、一本の糸につながった気がいたしました。

* これは優れた感想である。こういう読者を一人迎え得ただけでも、「電子文藝館」は意義を得た。数多い遠藤作品の中で、この原点作を一作選ばせてもらった甲斐があったと嬉しい。「もともと絹のような文章は書かない人でした。推敲ももう少しきびしくすれば出来る作品です。が、ここには、大きな一人の作家の初心が鼓動している、それが貴重で凄い」とわたしはこの創作力ある群馬の人に返事を書いた。
2002 1・3 12

* 片岡鉄兵「幽霊船」を念校、いつでもATCに送れるようにした。シナリオや台本のト書きに似た小説で、いくらかたわいないのに、いくらか凄みがある。ときどき読まされる素人の思いつき作品にこんなのがあるものだが、微妙なところでやはりプロの作品になっている。タクトは作者がつよく振っている。 2002 1・3 12

* さて今日一日ももう十分で果てる。戸坂潤の「認識論としての文藝学」校正にいささか音をあげていた。三木清の後進であり、一時期日本のマルクシズムを先導した第一人者といわれ、戦中、激しく、数次の裁判で思想を国と争い、ついに下獄し、発病して獄死した人である。その言説は、或る意味で克明で、また煩雑で、ある時期の日本の哲学や思想表現の短所をもたっぷり帯びている。だが、誠実であり、渾身の思いで時代へむけて血を吐くように語っている。こういう人も日本ペンクラブの先輩会員であった。地位と名誉と金について露骨に話題にして恥じらうものをもたないのでは、困惑する。文学・文藝・思想において必死に時代と渡り合った、その歴史、に学んで言論表現委員会は勝ち味の薄い、しかしねばり強い仕事をしてきたつもりだ。「ペンの日」を「福引きの日」にしてしまっているようなペンクラブでは、平和かも知れぬが、気恥ずかしい。
しかし、仲間の理事や新聞記者や会員からもらった年賀状には、「電子文藝館」の実現を、すばらしいと言ってくれているのが、幾つも幾つも混じっていた。嬉しいではないか。
2002 1・4 12

* 傘壽を前にした栃木の渡辺通枝さんの「道なかばの記」が届いた。初稿より格別に良くなって、「電子文藝館」の随筆欄に喜んで迎え入れたい。
これから石川達三「蒼氓第一部」の念校に入る。妻が引込まれるように初校してくれた。芥川賞の歴史を飾る第一回受賞の記念碑である。悲惨というに値する昭和初年のブラジル移民にまつわる小説であるが、さすがに「読ませる」のである。「読まされ」てしまう。相当の長篇だが、この受賞対象になった第一部でしっかり纏まっている。
戸坂潤の「認識論としての文藝学」もやはり佳い論文であった。我々が日々迂闊に用いている「文藝」「文学」という名辞に関しても縷々見解が語られて、一つの「時代」の思いを明確にしようとしている。興味深いものであったし、また同じ京大哲学の中で、こういう先学のマルクシズム理解に深い悩ましさと疑問などももつところから、例えば梅原猛会長二十五歳の「闇のパトス」の、呻くような新たな現実認識も出てきたかと想われる。
大勢の会員の作品がモザイクのように日本の近代を描き出してゆく。そう期待して良いのである。
2002 1・5 12

* 今日は外出したいと思っていたが、ぐずついて出なかった。そのかわり、石川達三の「蒼氓」第一部を読みあげた。
新感覚派的に流れても、プロレタリア文学に走っても、少しもおかしくない時機に文学に志しながら、そのどちらにも身を寄せず、小市民的な視線と場所とをねばり強く守った作家の本領が、みごとにあらわれている。流行作家ではあったし、通俗を恐れない「孤立した常識」の姿勢を生得守り抜いて、手放さないところがあった。石川達三のあらゆる意味での可能性も原点も特質も、この一作に凝集している。
昭和十年の芥川賞創設第一回受賞のこの作品は、「星座」という小さな同人誌に、その年の春に書かれていて、達三本人はまだ作家になるつもりすらなかった、帰郷して獣医にでもなろうかと考えていた、という。
手堅く具体的な描写を連ねて、当時の新進の作にしては、手法に新奇な趣はむしろ皆無で、古めかしいとすら云われた。ところがその堅実さのゆえに、今もこの作品は少しも古びなくて、生き生きと新しいままなのだ。独特の感動があり、初校した妻もたいへん佳い読後感を得ていた。
なにしろ悲惨な貧移民の話であるが、概念的にイデオロギーの主張に流れたりせず、ひたすら具体的に、それも特定個人でなく大きな集団を根深く書ききっている。ブラジル移民団、いや事実は棄民団にひとしかった千人近くの大団体の、不安と興奮と生活苦を、脂汗のようににじませ、また噴出させている。たいへん優れた作品であるが、好んで求めて読む人は、今の時代に多いと思いにくいだけに、「日本ペンクラブ電子文藝館」に、はればれと元会長作品として保存し公開できることは、とても嬉しい。
この作に比べれば、大概の人の作品は、遠藤周作でも加賀乙彦でも、井上靖でも、つまり特別の意味であまりに「知的所産」であるが、石川達三のこれは、徹してで市民と農民との具体像を刻み上げた作品である。そこに「個性」がある。

* 中川五郎委員の尽力で、高木卓の遺族から、芥川賞謝絶の異色作「歌と門の盾」という歴史小説が出稿された。今日正式に承諾の返事を得た。木崎さと子さんの優れた芥川賞作品「青桐」もお任せ戴いている。長谷川時雨の「旧聞日本橋」もあるし、谷崎潤一郎の「夢の浮橋」も観世恵美子さんにお断りして戴けることになっている。この四本に力を入れたい、が、かなり私の時間は窮屈に窮屈になっている。二月のあたまに、「日本人の美意識」に関して、かなり突っ込んだ講演をしなければならず、その一週間後には、川端康成を、近代文学館で話さねばならない。ところが、両方共に、じつはあまり自信がわいていないのである。それかプレッシャーになっていて、いささかブルーなのである。
2002 1・6 12

* 今日は大きな作品を二つスキャンし終えた。電子文藝館の展観現況をいつでも確かめられるように、「一覧」も作成した。戸川秋骨といえば、北村透谷や島崎藤村の僚友であった「文学界」時代の大先輩に当る。この人の文語文の「自然私観」を校正している。
英詩が原文で入っていて、これが、スキャンしてみると日本文にひきずられて全部文字が化けてしまっている。手書きするしかない。分かる人には、それはこうすればと道が知れているのだろうが、わたしは、不器用に覚え込んだ一本道しか行けない。
入稿原稿も、わたしの願ったとおりの配字などでATCに組み付けて貰うには、全部フロッピーディスクに入れて、それを郵送している。電子メールだと、太字も大字も、字サゲも、みんな平板に変わってしまって届くらしいからだ。ファイルして送れば佳いのですよと言われるけれど、今もってそんな方法も覚えていないのだから、怠惰なものだ。ばかばかしく初心の手段なのであろういろんなことを、わたしは、未だ覚えないままパソコンを使っている、駆使どころか。恥ずかしくなる。
2002 1・7 12

* 戸川秋骨「自然私観」は優れた力の入った文明論で、その文語体も懐かしい律動感に富み、「人間」に基本をつよく据えた文明批判や日本文化への批評など、時代背景を考慮しても無視しても、堅実で健康な、いささかもひるむもののない毅然とした論旨であった。今読んでも少しも古びたものでなく、むしろ本質的に意義を失っていない。佳い論文を読んだと、嬉しくなった。英文学者であるが、また文学界の同人であり、透谷や藤村に親しい同僚であると共に、夏目漱石とも親しい人であり、西洋文明や文学、思想の摂取に安定した真摯なものを感じ取らせる。明治の人の踏み込みの確かさである。秋骨の雅号は藤村によるものという。

* 秋骨論文ととともに、戸坂潤の「文藝」「文学」の意義に手強く触れた論文、石川達三の力作小説、そして現会員渡辺通枝さんの随筆、都合四本を一枚のフロッピーディスクに入れて、ATCに送れるよう用意した。
2002 1・8 12

* 石川近代文学館の井口館長から、「電子文藝館」に原稿を戴いた。中西悟堂、中谷宇吉郎、谷口吉郎という三人の科学者で随筆家の文業をそれぞれに纏めて、論じた、論考であり研究である。これをとお願いしたのを聴きいれてもらえ、有り難い。
2002 1・9 12

* 長谷川時雨の『旧聞日本橋』のおもしろさ、懐かしさといったら、ない。わたしは京生まれ京育ちで「明治の日本橋」とはずいぶん別天地に育っているし、時雨の時代とは幾世代も離れている。それだけに、かえって違和感もなにもなく旧い昔の日本人の暮らしが、町並みと共に再現される嬉しさは、言い尽くせない。谷崎モノの「少年」時代なども、この読書で、生き生き甦ってくる、ああそうかと。
永井荷風の東京下町は、山の手の目でみた下町である。時雨のような生粋のものではない。荷風には荷風の面白さがあるが、例えば水上瀧太郎の「山の手の子」と比べて、時雨の日本橋回顧は対照的である。水上のものも作品として優れているが、時雨のシャンシャンとしたメリハリの文章、とても佳い。自序から最初の章を読み終えて、次の「利久の蕎麦屋」へ読み進んでいる。
2002 1・9 12

* 出稿用の長谷川時雨随筆を読み終えた。念校している妻の弁のごとく、これは「江戸から現代いや近代へつなぐ東京」日本橋の証言として、限局されているが濃密でリアルな叙事詩である。少なくも町並みとしての日本橋は、完全にいまでは消え失せているとしか思われない。震災で、戦災で、戦後のあわただしい繁栄で。
谷崎潤一郎が、見るのも疎ましいと、生れ育ったこの界隈を去って関西に住んだ気持が、今こそ、本当によく分かる。痛切に分かる。歌舞伎の書き割りにのこされているような町並みと風物とが、まだ時雨の記憶に、はきっちり残っていた。よく書き留めてくれたと感謝したい。

* 「電子文藝館」の掲載分に、いくらか受信者の機械で「化け」が出ているらしいと、倉持委員のメールが、メーリングリストに入っている。これは、或る程度予期していた。原稿につとめて忠実にやっていても、例えばわたしの機械では再現できる正字なのだけれど、ひょっとしてこれは「届かない」かもと恐れる字が、これまでも幾らもあった。だが、その時点では、そう決めつけてもしまえなかった。
この問題に最善の対処方は。発信時にこわごわ憶測していられない、できるだけWEB受信してみて、何処のどの字が怪しいと点検しなければ意味がない。スキャン起稿で初校・念校しているが、さらにWEB念校も必要だということが分かってきた。「WEB念校」は、「読ま」なくてもいいから、ただ逐一画面を追って、へんな箇所を発見し報告するという作業になる。委員の何人かで専従点検してもらえると助かるが。これは、WEBサイトを開いて、追いかけてもらうだけで済むのだが。ボランティアでモニターを募集するか。
2002 1・10 12

* 「電子文藝館」に湧き出るように問題点が出てくる。ほとんど予測していたことで慌てはしないが、対策はかなり難しい。例えばドイツ語の詩が戸川秋骨の文中に引かれていて、あたりまえの話、ウムラウトが出てくる。わたしが自機の或るソフトを使用すればウムラウトの字も再現できる。だが、それをわたしのホームページへ転送してみると、ウムラウトの字はすべて「?」に変っている。文藝館で発信しても、受信機では「?」なみになって届く確率が高い。
わたしは、「?」をそのまま残し、その前にウムラウトのつくべき「a o u」などを入れ、詩句引用の前に小文字で注記して、「?」の前の文字は「ウムラウト」ですと告げるより、手がない気がする。手元で再現できていても、先方でどうなるかと思えば、こういう姑息な方法も必要になる。使用頻度の少ない正字は避け、化ける懼れのある漢字にはむしろ努めてうしろのカッコにヨミガナをせめて書いておく。
いま、妻と私が交替して初校と再校をしているが、編集者の体験からしても、再校で完璧ということは滅多になく、せめてもう一校欲しい。テストサイトに仮掲載の際に、誰かが一応責任を持って当該作品にざっと目を通し、疑問点を未然に処理できるよう、最低三段階を踏むのが誠実だろう。委員にはみな生活がある。引き受け手がなければ、わたしがやるよりない。
原稿の段階で筆者が責任を持つのだから、間違いが出ても、それは筆者の責任だとは言えないのである。機械のセイで出る化け文字もある。それに、かりに筆者がデタラメ原稿を送ってきたにしても、世間へ公開してしまえば、もう日本ペンクラブないし電子文藝館の姿勢や責任問題に変る。読者に対し、これは筆者が杜撰だからなんですという弁解は成り立たない。ペンの事業であるからは、ペンとして及ぶ限り「読める」コンテンツを提供するのが正しい対応であり、当然である。
問題には少しずつでも解決の努力をしなくてはならない。こういう事があると予測して、開館前にわざわざ予防線の「断り書き」を、入り口近くに掲示して置いたのである。  2002 1・13 12

*わたしがソ連作家同盟の招待で、なくなった宮内寒弥氏や、健在の高橋たか子さんとロシアを訪れたのは二十年ちかい昔だが、モスクワの作家同盟の食堂で、案内役のエレーナさんも一緒に食事していたところへ、講談社のたしか専務だった三木章氏と一緒に現われたのが、通訳役の米原さんだった。当時から元気溌剌。同じその人が昨年の春から理事の一人として参加、わるびれないストレートな発言で理事会のヘンな空気をときどきかき混ぜてくれる。言論表現委員会のシンポジウムにも参加して貰った。
こういうふうに、読んで面白い原稿もどんどん入ってきて欲しいものだ。

* 米原原稿はメールで届いた。一定の形に調えるために、やはり「起稿」はしなくてはならず、通読も必要だ。読んで行くと、どうしても変換ミスや明らかな誤記がエッセイ六編の中に20箇所ばかり出てきた。「筆者の責任」だからとそのまま掲載することは出来ない。この仕事の当初、わたしも、筆者から送られてきたものはそのまま載せる、誤記誤植は筆者の責任と思いかけていたが、実際に自分で大方の作業をすすめていると、この仕事は、日本ペンクラブが公開している外向きの「電子文藝館」なのであり、筆者の責任です、文藝館は掲載するだけで内容如何には関わりませんなどとは、言えない、言ってはならないものだと、覚悟を新たにした。
たとえディスクであれ、メールであれ、きちんと「念校」の上で入稿しないといけないものだと、よく分かる。

* おそらく普通の紙の単行本にして10册を越す原稿が既に出ている筈で、紙の本に作っていたら、生産費に 1000万円どころでなくかかっている。おそらく発足段階ではサイトの立ち上げがあったから、少し費用はかさんでいるだろうが、それでも十分の一とは行くまいし、この先はもっとはるかに廉価で済むだろう。
ただ、起稿や校正をぜんぶアルバイトに出したりすると、比較すればそれでも問題外に安いものだが相当な費用を用意しなくてはならない。貧乏なペンに金を費わせたくないし、作業をこころよく手伝ってくれる仲間が少ないなら、自分の時間や体力を犠牲にしてでもわたしはやってしまいそうである。困るけれども、事が文藝・文学で、根が好きな仕事だという気があるので。だが、やっぱり困るだろうなと思う。ここから逃れ出るためには任期をテコにして脱出するしかないだろう、が、すると「電子文藝館」はそのさき、どうなるだろう。やれやれ、余計な心配である。

* 年度替わりで、今度こそわが電メ研も「予算」請求をしなくてはなるまいか。毎年各委員会は予算を得ている。電メ研=電子メディア委員会は、去年は「いいよ、いらないよ」と考慮外にした。事務局の経費か予備費の範囲で済むと思ったからだが、電子文藝館がスタートしては、そうも行くまい。こういう手当はとてもわたしの性にあわない。グレン・グールドの弾くバッハのピアノコンチェルトをずうっと聴きながら、米原原稿を通読していたが、そういうことの方がラクチンである。
このあいだから、隅々まで覚え込むほどベートーベンの三大ピアノソナタをグレン・グールドで繰り返し聴いてきた。ベートーベン、バッハ、モーツアルトと、月並みな好みだろうが、尽きない魅力である。
2002 1・15 12

* 休む間もなく文藝館の原稿づくりや掲載のための調整・打ち合わせで過ごす。井口さんの評伝・中谷宇吉郎。要点が掴まえられていて、簡潔。年譜が利いている。師寺田寅彦との出逢いと継承の美しさに感銘を受ける。中谷さんも、つづく谷口吉郎氏も、ペンの会員であった、早速遺族に出稿を依頼したい。

* 苦労して校正しレイアウトして、わざわざディスクで送稿しても、フラットな掲載原稿になって、指定が生かされていない。これには落胆する。なんとか工夫がないか、もう少し的確に原稿の味の出せる作業手順が。疲れる。期待していた高木卓の大伴家持を書いた小説が、「小説らしき・評伝らしき」ハッキリ謂って駄作で、校正に倦んでいる。これが受賞作に当選したという方がおかしい。選者の大方が作者辞退をむしろ是とした選評を書いていたのはもっともで、菊池寛がなぜこれを強く推したのか、断られて激怒したのか、分からない。作者の辞退自体が誠実な自己批評であると、わたしはそれを評価する。表現も措辞も把握もはなはだおおまかで、知識の提供としても不細工である。この程度の家持についての知識なら、読まなくても持っている。とすれば「小説としての妙味」を期待するところだが、それが無い。やれやれ。この人の歴史小説観に問題がありそうだ。
2002 1・16 12

* ペン会員の阿部政雄氏から寄稿があった。率直にあふれ出た書簡体の所感なので、「意見」欄に掲載させてもらうことにした。気持のいい内容である。わたしよりも一回りほど年輩会員だが、気の若さは往年の学生気質がそっくり残っている。学徒としていつ戦地へ出て行かねばならないかという思いの中で、健康な青春を誠実に送り迎えていた人の想い出であり、昨今日本への警世の言でもある。
2002 1・17 12

* 終日作業。高木卓「歌の門の盾」を読み終えた。途中の感想はあらたまらなかった。万葉集の家持としては、因幡での「今日ふる雪のいやしけ吉事(よごと)」という掉尾の和歌一首で終るのは常識のようだが、大伴家の宗家家持の生涯ということなら、これからあとに大変なドラマが待ち受けていた悲劇的な、悲惨なとすら謂える人物であり、そこまで筆の及ばないのは、あまりに型どおりで、作者自身がつよい不満足を表明し芥川賞を固辞して受けなかったのは自然かつ誠実な進退だったと思う。そこに感銘を受ける。

* ぽつりぽつり寄稿されてくる形勢で、対応は、ますますシンドくなる。
「毟」る、「鞠」の程度の字が、まともに受信者へ通ってゆかない機械・機種がある。ドイツ文字のウムラウトも化けてしまう。再現が全く不可能なら諦められるが、手元の機械でなんとか再現出来、やれ嬉しやと送信すると先方では読みとれない。読みとれる人も読みとれない人も有るというのが大いに困惑の種となる。文字コードの専門家達は、もう二万字もそれ以上にも文字コードは出来ているなんて謂ってくれるが、特別な箱の中に用意されている絵に描いた餅に過ぎず、万人に共通して利用できる漢字は、相変わらず六千字足らずなのである。ウインドウズやマッキントッシュがそれを搭載してくれない限り、木の葉の小判、泥の饅頭なのだ、手厳しく謂えば、文字コードも、専門家や関係者間の自己満足に過ぎない段階とすら言える。
わたしの代理として文字コード委員会に出てもらっている、電メ研委員の加藤弘一さんには、わが電子文藝館での体験や現在の悪戦苦闘もふまえ、文藝関係者からの切実な意見を折に触れ開陳してきてもらいたい。少しずつでも改善の歩を進めて欲しい。

* 2ジャンルへいきなり寄稿してくる会員も、もう数人になる。いまはまだ一人一作だけに絞っているが、いずれ緩和して賑やかにしてゆきたい、とはいえ、だれが行く末面倒をみるのか。正直のところその辺はお先真っ暗というのが実感だ。
2002 1・18 12

* 谷崎潤一郎の「夢の浮橋」をスキャンした。一月中に電子文藝館に送り込めれば、一月の予定は満了。新しい依頼に手をつけたい。
2002 1・20 12

* 秦建日子からは、戯曲「タクラマカン」をビデオから人に書き起こしたのでと、送ってきた。まだ形は整わないが、「e-文庫・湖」の第十頁におさめた。「さぎむすめ」の吉田優子さんからは小説第二作も受け取っている。
2002 1・21 12

* 谷崎先生の「夢の浮橋」文藝館用寄稿は、えらく難作業、なによりも漢字が足りない。絶対に欠かせない大事なヒロインの名の「茅渟」が、さ、無事に届くかどうか。表具の表に衣ヘンがついているのも、字がない。有ったにしても送れまい、伝わるまい。申し訳ないが通用の「表具」にさせていただくだろう。日本文学を、現代文学ですら、機械の上で再現し送信するのにいかに不自由であるか、それはもう最初から察していて、分かり切っていて、何年も前から声高に指摘し請求し続けてきたけれど、関係者には、その必要すらなかなか分かってもらえなかった。愚かにも、自分の原稿でだけ書き出せれば、無差別の誰か受信者にそのまま届く届かぬなど論外だと、じつは学者にすら、見捨てられてきた。商売用・事務用の文書だけで世の中の事は済むと考えている人達の、または自分一人の都合だけに生きた人達の考え方であり、そんなのことで済まない世界が広大であることを理解できない人が、余りに多い、今も多い。

* 電子文藝館へ、自発的な投稿が、だんだん来るようになっている。原稿のスタイルがまちまちで、たとえディスクやプリントで届いても、掲載までには、形式上の整頓作業いわゆる「原稿整理」がまた大変で、これは雑誌編集での実製作をしたものでないと、出来そうで出来ない。それとて自分の機械で調整するならきわめて簡単に即座に処理の利くことも、みな業者の手へ委ねてから転送されるのであるから、微細なところで、直したくても直しにくい。長い原稿の、ある一箇所の句読点を、「、」から「。」に変更するなどと云っても、機械の中で、その一箇所を見つけてくれと云うのは、おそろしく大変なことなのだ。現に自分で探して、イヤになってしまうのである。

* 雷が鳴っている。

* 疲れて機械の前でうたたねしていたら、川端康成元日本ペン会長の作品掲載許可が、遺族から事務局経由で入った。郵便やファックスが、みなものにまぎれて行方不明であったという、先ず一安心した。尾崎秀樹前会長の作品は、遺族との仲に立ってきた某理事の手元で延々と動かず、どうやら、やっとこさで何か作品が選ばれるらしい。残るは高橋健二元会長の作品だけで、これも含め早晩歴代十三人が揃うことになり、「電子文藝館」に不動の態勢が出来た。歴代会長十三人、現役員理事からせめて十五人、総計でまずは百人に達すれば、提案企画実現のわが実行責任レベルには十分届いたものになる。半分は優に越している。はやく肩の荷をおろしたい。
2002 1・21 12

* 谷崎と川端の作品を一字一句原稿に照らし合わせて読んで行くのは贅沢な体験で、創作の呼吸や思索や感性そのものに触れている実感がある。「夢の浮橋」と「片腕」はともに晩年の秀作。どきどきする。「夢の浮橋」論は、わたしの批評では、太宰賞を受けた小説「清経入水」に重さで匹敵する。こののち、谷崎についてわたしが語れば、人は黙って耳を傾けてくれるようになった。「片腕」はカフカのように昏くせつなく妖しい。

* 電子文藝館に原稿が流れ込み始めている。自分のペースを守り、慌てずに交通整理をして行くより仕様がない。
2002 1・22 12

* 川端康成の「片腕」を念校した。これは一つの物語詩のように読んでいいのかもしれぬ、川端でなくては書けなかった、だが、大勢を魅了するであろう、よみやすい逸品である。わたしは、最初から、長篇はむりなのだし、初期の「伊豆の踊子」か晩年の「片腕」かと決めていた。まだ読んだことのない人の多いことでなら、また川端康成という天才作家の至りついた独特の「狂涯」の魅惑という意味からも、『片腕』がふさわしいと思った。
田才益夫氏の翻訳「カレル・チャペックの闘争」と一緒に、今日入稿する。
谷崎原稿の校正があり、自分の仕事も立て混んでいるので、尾崎秀樹前会長の「『惜別』前後 太宰治と魯迅」は、スキャン校正を、ペン事務局に委託することにした。もうお一人の高橋健二元会長作品が未だ決まらない。

* ペン会員の阿部政雄氏から電話をもらった。どういう人か知らなかったが、寄稿された「意見」が快く胸に落ちたので事務局に伝えて置いたのが伝わったらしく、しばらくいろんな話を電話口で利いた。大道芸や話芸などに興味のある人らしく、保谷へまででも逢いに行きますと云われ、恐縮した。わたしより六つ七つは年輩の人である。
2002 1・24 12

* 「片腕」の記憶   「片腕」だったのでございますね、「楽しみにしてもらいたい」とおっしゃっていたのは。たのしみにしつつ、いろいろ、かんがえてみました。「掌の小説」の幾篇かを思いうかべたりして。
「片腕」を初めて読みましたのは、中学生のときでした。
あの、若い女性が片腕をはずす冒頭の、シュールでこわいかったこと、そのあとの男性の振る舞いも、少女にはつよい刺戟でございました。わたしも腕がこんなふうにはずせ、それをいとしむひとがいたら……。自分が怖ろしい世界――今でしたら「魔界」と申しますでしょう――に惹かれたがっていることに気づいて、それも怖しうございました。

* 読み尽くせないほどの凄みをもった作品だと思う。全面に肯定したり容認したりしていない自分の好みもありながら、躊躇なく一秀作として川端文学の一面を代表させて良いと判断した。遺族に掲載をご承知戴けてよかったと思う。やがて遺児観世恵美子さんにお許しいただいた谷崎潤一郎の秀作を、電子文藝館に送り込める。文学批評に関心のある人には、川端と谷崎との比較にも対照的ないい選択だと思っている。ぜひ読み比べて欲しい。この文藝館には、そういう「合わせ」場の意義も、意図している。ともあれ、なにか良い文藝作品に触れたいが、さてアテもないという人には、ぜひ日本ペンクラブの「電子文藝館 http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/」を訪れて、検索を楽しみながら良い作品に出逢って欲しい。このURLをぜひぜひご吹聴ねがいたい。

* 倉橋羊村氏の新句集、森詠氏の集英社文庫を戴いた。ともにペン理事会の同僚で、もう五年顔を合わせている。お二人にもぜひ出稿して戴きたい。石川近代文学館の井口館長からもていねいなお手紙に添えて、いろいろに資料を頂戴した。
2002 1・26 12

* 竹田真砂子さんの「言葉の華」を原稿として整頓し、入稿できるようにした。歌舞伎の台本なども書いている若い人ではないかと思う。「つらね」つき、歌舞伎の中の印象的なセリフを主題にした七編の長い随筆である。
2002 1・26 12

* 木崎さと子さんの「青桐」が出来上がってゆく。この作品は、佳い。森瑤子の「情事」のよさとは甚だ異質であるが、絹のようにきめこまやかに静かな筆致で微妙な経緯と心理とが紡ぎ出されている。文藝館にまた一つの秀作が加わるのであり、わたしは心嬉しい。もう一つ、潤一郎先生の作品を。それで二月理事会に報告したい。例会で会員諸氏にもお知らせしたい。
2002 2・2 12

* 長谷川時雨の「旧聞日本橋」を全巻読み通した。これは、わたしがしくじった、巻頭の二編を機械的に選んでしまったが、他にも文藝として優れて面白い章が幾つもあった。いずれ追加したいものだ。掛け値なく名著といえるし、資料性にも抜群に優れていて、江戸のなお生きている文明開化の東京日本橋界隈を知るだけでなく、江戸から東京へ、激動の大きな時代転換期をさまざまに生きた庶民生活の手に取るように具体的な細部までが、美しく、はずみよく、おそるべく個性的に描かれていて、まるで手に触れるようである。この本に教えられることのもう三十年早ければ、どんなに良かったかと悔やまれるほど。 2002 2・3 12

* 疲れた。あんまりいろんな相談があり、時間足らず、何をどう決めたのやら、呆れるほどアタマが働かなくて、もう夜の十一時になるのに、会議の輪郭もうまく書き記せない。ま、いいか。
考えてみると、さほどに混乱していたわけでも、議論が沸騰して収拾がつかなかったのでもない。一と一で二と、三に三をかけると九と、そういう具合に割り切った結果が出にくい会議なのでくたびれた、わけである。
わたしが、原稿の内容にそって事細かにレイアウトし、一太郎ディスクに書きこんで、業者に渡す。わたしとすれば、その通りやってくれればいいんですと言いたくてそうしているのだが、いろんな分りにくい経緯や機械的事情が介在し、結果的に、電子文藝館に発信掲載されると、それが、受信者(読者)の千差万別の機械により、必ずしもわたしの意図していた通りには届かなくて、とんでもない、私などにはどうしても理解しきれないほどの変容が先方で出てしまい、文字が化けたり、行間がとんでもなく広がったりつまったり、字の大きさが勝手に大きくなったり小さくなったり、する。このパソコンという機械はそんなものなのだ、というのだ。
これを聴いただけで、いくらか予測していたトラブルではあるが、だがそれはトラブルというのとも違う、機械環境のいたずらで出てしまう変化変容であり、「おいおい勘弁してくれよ」と言いたいが、誰に尻の持ち込みようも無さそうなのだ、じつに燻った気分になる。たいそうに用意したつまりはマークシートなんてものが、逆に途方もなく邪魔をすることになっているらしく、「やめてんか」と嘆かれる。わたしのホームページみたいに単純簡明なツクリだと、こういう高等な混乱は起きていないと思うと、機械とは、なんてややこしい生き物だろうと思ってしまう。
結局PDFという方式でやることになった。いや、ほんとはどうなったのか、わたしには分かっていない、明確には。そうやれば、よほど問題点が改良されるという話し合いだったので、「それで行きましょう」と無責任な責任者として決めてきた。賛成してきた。混乱して疲労したので、もう、そのあとは、何を司会しどう会議が進んでいるのやら、うつつごころが無い有様。
だが、電子文藝館の、発足以来の急速な充実と展開とは、いくらかの驚きを以て委員会でも再認識されていたようであり、有り難かった。どういう人のどういう作品が既に掲載になっているかを丁寧に一覧に作って周知をはかっているのは、それが一番分かりいいからである。
ここまでは、発起人としてのわたしの意欲も意地もあって、かなり苦しくても頑張ってきたが、いつまでも続けられる事ではなく、委員会内での協力関係が進まねばならない、その点は今後に期待するより無い。高畠委員から、ともあれ、もう当分は遅疑することなく電子メディア委員会の中で電子文藝館も維持し続けて行きましょうという発言に、励まされてきた。
2002 2・4 12

* 文藝館の新しい出稿分を高橋委員と分担して持ち帰った。自発的な寄稿が来るようになっている。分担してきた一本は私の推薦で入会した武川滋郎氏の小説。
2002 2・4 12

* 電子文藝館に、現会員の詩、俳句、小説が掲載できるよう三編郵送の用意できた。六十二編(予定含む)に達した。

* わたしの、この事業での次の目標は、会員のデータベースとしての「略年譜30行以内」「業績目録=個人全集書誌・一般全集収録作品・全出版(単行本・新書・文庫本)書誌・主要共著20册以内・未刊行主要原稿5点以内・主要講演録10点以内」の業績目録を、電子文藝館記録庫に集積することである。電子文藝館に出稿している著者から提出を求め、これを収容収載してゆくこととする。
日本ペンクラブ会員といえども、それは狭い内輪の話であり、それでさえ、二千人会員の殆どを、どんな仕事の人と互いに知らないし、知りようもない。知る必要が有る無いの問題でなく、知る必要が生じれば知ることの出来るというのが堅実な組織というものであり、「データベース」という言葉の本来の意義はそういうものだ。名簿などはその初歩の初歩たるものに過ぎない。かりにもし、日本ペンクラブから国際ペンに理事や会長候補や事務局長候補を送り出すとして、(その幾らかは現実になっているが、)世界の文学者やペン会員が、例えば梅原猛という候補者はどういう仕事がある人か、どんな経歴の人かと思っても、とっさに資料も何も無いというのでは、鈴木宗男の口まねをすれば、「いかがなものか」と言うしかない。現に国際ペンでのその種の投票の際や、噂をする際にも、その人物がまるで何者とも分からない場合の方が遙かに多い。片端なハナシではないか。
こんな記録資料も、もし「紙の本」で作れば途方もない資金が要るが、すでに出来ているホームページとしての電子文藝館の一画にこれを構築するのは至極簡単で、当人の作成提供してきたディスク原稿を、テキストファイルのまま形を統一して転送すれば、それだけのことで、作品の掲載よりも問題なく容易に出来る。手間は、個々人の手元でかかるだけで、それは本人の裁量次第である。例えば梅原氏なら編集者か研究者に依頼すれば、大方は整っているはずだし、梅原さんほどの大量著作者でなければ、自分で一日もあれば簡単に作成できる。何でもない。
こういう基本の構築作業が「組織」的に抜け落ちているのが、日本ペンクラブとしては、未成熟ないわば自覚の乏しさであり、同じことは文藝家協会にも謂えるだろう。どんな新館が建設されようとも、こういう杜撰がそのまま放置されているのでは、堅固な組織とは謂えないのである。

* 先に昭和十年以降四十三年の間の物故会員氏名一覧を、多数の名簿を交合して作成したが、ここ三年半の会報等の資料により、この期間内に逝去された全員の氏名を書き加えた。なお三十年ほどの名簿で精査しなければ、物故会員の全容は確認できない。時間をかけても調べ上げておくことは、歴史資料としても肝要なことだ。
ただこの場合にも、会費滞納等で自然退会した人、いろんな事情で中途退会した人もある。遠い過去の経緯が分からない以上、その種の事を問わないのであれば、現存者の場合も、逝去段階で氏名を書き加えた方が、つまり、いかなる事情はあれ一時期でも会員であった人は、感情的な斟酌ぬきで氏名を記録して置いた方がよいように私は考えている。議論が必要かも知れないが。
2002 2・5 12

* 久米正雄の「虎」「小鳥籠」という二短編を読んでみた。この作者の造語として知られた微苦笑を繪に描いたようなもの。菊池寛とならべて言われることの多かった作家だが、菊池寛ほど徹したものがない。佳い作品の、程良く短いのを選びたい。

* いきいきと気の弾む気合いがいま無く、のんびりしているような間延びしているような。
2002 2・6 12

* 久米正雄の「風と月と」という自伝風私小説前半三分の一を抄録し、「電子文藝館」に入れたい。第何次かの「新思潮」創刊まで。これは読み物として興味深い。なにしろ読ませる人で、かなりながいものだが、渋滞無く楽しめる。掲載は、物故会員三十人、現会員三十三人になろうとしている。この十五日例会にデモンストレーションするから、また増える。
2002 2・7 12

* 谷崎作品の初校が出来、尾崎秀樹前会長の初校済み原稿が届いたので再校をはじめ、理事眉村卓氏の原稿がどちらかをどうぞと二作届いたので、読んで一作をスキャンし校正も済ませた。和泉鮎子会員の短歌百五十首もメールで届いて、原稿に書き起こしが済んだ。着々と充実してゆく。来週末の講演の方も着実に草稿化が進んでいる。申し分なく働いているが、すべて稼ぎ仕事ではない、奉仕である。奉仕するのは構わない、電子文藝館が充実してゆくのなら。出来れば、メール交換している人にすべて展示内容を知らせ、その先々でまた拡げていってもらえないだろうかと希望している。
2002 2・9 12

* 尾崎秀樹の「『惜別』前後 太宰治と魯迅」は力の入った論考で、歴代会長の作品群にまた重きを加えてもらった。いま半ばまで念校を終えた。
高橋委員が初校され、妻が再校して、それでもなお見落とし多く、念校に気が抜けない。その上に、本文と引用と注や、また見出し等の整理修飾の全面に、わたしの手を掛けねばならない。
雑誌編集でも書籍製作でも、いわゆる昔風の「活字指定」とか「組み付け」「レイアウト」とか謂う作業が、結果として、読者に届けるための化粧の仕事・質的なサービスになる。これを省けば、プロとはいえない。売り物にも成らない。
電子文藝館では、ただ言葉と文字だけを送り出せばいいという意見もある、が、それでは、原稿に対しても読者に対しても不親切なことである。文字の大小とか、行間の適正というのが有って、はじめて文意も言葉も伝わりやすくなる。今後も「日本ペンクラブ電子文藝館」がながく存続して行くとして、いつまでも、わたしが従事してはいられない。だが、アトを受ける人に、こういう心得や心がけのある人が見つからないと、機械的な、殺風景を平然と現出しかねない。転送の業者にそれは望めない。
「原稿整理」というのはかなりに高等な技術に属している。形だけでなく、原稿の内容に適応しつつ読み込む能力も必要になる。加えて一般の製作では写真や凸版での図版組みや表組みがある。十五年余も勤務した医学書院で、亡くなった細井鐐三氏や鶴岡八郎氏らにこまかく指導されたことを、今こそ、懐かしく、有り難く思い出す。
「原稿整理」の適切に出来ない「編集者」なんて、昔は考えられも存在もしなかったのに、今は、編集者とは、原稿取材だけする者のように、製作は下請けに任しっぱなしの者に、なろうとしている。なっている。昔は校正できる人は製作もできた。製作者で校正できない人などあり得なかった。
2002 2・10 12

* いま、声に出して叫んでしまった、「アアッ」と。火曜日の午前二時半。まだ昨夜の内と思いこんでいたが。寄稿された短歌百五十首を読んで総題をつけ、また百五十句を読んで、不審点を作者に問い合わせ、仕事のメールなどを五つ六つと済ませ、尾崎秀樹の「『惜別』前後 太宰治と魯迅」を読み上げて、原稿整理を終え、ディスクにおさめて、眉村卓氏のSF「トライチ」、和泉鮎子さんの自撰歌、その他資料類を合わせデイスクに収めて、郵便ポストへ自転車で走ってきた。冷えきっている。
2002 2・11 12

* メールからメールへ、文字通り World Web Wide にひろげてもらうのが、なにより「電子文藝館」の周知と広い範囲での愛用に繋がるだろう。趣旨を伝えるだけではだめで、せめて具体的な展観内容を目次風に観てもらうにしくはないと思い、三百近い知人・読者のメールのある人に、いましがた電送した。インターネットの使える人でなければ、読めない。漠然と広告するより、私から、直に声援をお願いしようと思った。

* お変わりありませんか。秦恒平です。
もしも、
近代・現代の、よく選ばれた小説や評論や詩歌に出逢いたいと思われるときは、「日本ペンクラブ電子文藝館」を訪れてください。
島崎藤村、正宗白鳥、志賀直哉、川端康成、芹澤光治良、中村光夫、石川達三、高橋健二、井上靖、遠藤周作、大岡信、尾崎秀樹から現会長梅原猛まで十三代の日本ペンクラブ歴代会長、また徳田秋声、谷崎潤一郎ら錚々たる物故会員、そして現会員二千人の、自負・自薦の各一作が、ジャンルを問わず、「無料」で読めます。
開館して二箇月半の「展観現況」をお知らせします。十年のうちには少なくも千人千作を優に越す「Digital Library」が育ってゆくものと信じています。
どうぞ文学好きな、メールのお仲間に、URLとともに、ご吹聴下さいますよう。Hoya e-old 秦 恒平

* 日本ペンクラブ電子文藝館  (2001.11.26開館)
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/ 無料公開
展観内容 (2002年2月15日現在 予定)

* 歴代会長
島崎藤村「嵐」 正宗白鳥「今年の秋」 志賀直哉「邦子」 川端康成「片腕」 芹澤光治良「死者との対話」 中村光夫「知識階級」 石川達三「蒼氓第一部」 高橋健二「(未出稿)」 井上靖「道」 遠藤周作「白い人」 大岡信「長詩・原子力潜水艦『ヲナガザメ』の性的な航海と自殺の唄及び英訳」 尾崎秀樹「『惜別』前後─太宰治と魯迅」
梅原猛=現会長・電子文藝館長「闇のパトス」
* 物故会員
「詩歌」 与謝野晶子「自撰・明治期短歌抄」 前田夕暮「歌集・収穫上巻」 土井晩翠「荒城の歌及び回想」 蒲原有明「智慧の相者は我を見て及び回想」
「戯曲」 岡本綺堂「近松半二の死」
「随筆」 長谷川時雨「旧聞日本橋 抄」
「論考」 戸川秋骨「自然私観」 三木清「哲学ノート抄」 加藤一夫「民衆は何処に在りや」 戸坂潤「認識論としての文藝学」
「小説」 白柳秀湖「驛夫日記」 徳田秋聲「或賣笑婦の話」 谷崎潤一郎「夢の浮橋」 横光利一「春は馬車に乗つて」 上司小剣「鱧の皮」 林芙美子「清貧の書」 岡本かの子「老妓抄」 高木卓「歌と門の盾」 吉川英治「べんがら炬燵」
* 現理事・幹事
伊藤桂一「雲と植物の世界」 加賀乙彦「フランドルの冬抄」 阿刀田高「靴の行方」 神坂次郎「今日われ生きて在り」 秦恒平「清経入水」 猪瀬直樹「『黒い雨』と井伏鱒二の深層」 米原万里「或る通訳的な日常」 眉村卓「トライチ」
* 現会員
「詩歌」 篠塚純子「ただ一度こころ安らぎ」 和泉鮎子「果物のやうに」 岩淵喜久子「蛍袋に灯をともす」 村山精二「特別な朝」 平塩清種「季節の詩情」 池田実「寓話」 牧田久未「世紀のつなぎめの飛行」
「随筆」  渡辺通枝「道なかばの記」  竹田真砂子「言葉の華」
「論考」 長谷川泉「『阿部一族』論ー森鴎外の歴史小説」 井口哲郎「科学者の文藝ー中西悟堂・中谷宇吉郎・谷口吉郎」 川桐信彦「世界状況と芸術の啓示性」 加藤弘一「コスモスの智慧ー石川淳論」 大原雄「新世紀カゲキ歌舞伎」 篠原央憲「いろは歌の謎」
「小説」 木崎さと子「青桐」 久間十義「海で三番目につよいもの抄」 崎村裕「鉄の警棒」 武川滋郎「黒衣の人」 武井清「川中島合戦秘話」 筒井雪路「梔子の門」
「児童文学」 松田東「海洋少年団の秘宝」
「翻訳」 田才益夫「カレル・チャペックの闘争 抄」
「意見」 大原雄「テロと報復軍事行動の狭間で、何を見るべきか」 大林しげる「怒らねば」 阿部政雄「もう一度人類のルネサンスへ一歩踏み出さそう」

* 一見雑然としているが、単行本の二十五册分ぐらいは在る。かけた経費は限りなくゼロに近い。紙の本で奈良もう一千万円はかかっている。
2002 2・13 12

* 電子文藝館に作品を掲載した地方会員の一人を、地元の新聞が写真入りで大きな記事にしている切り抜きが送られてきた。「文豪とならんで」作品が載ったというのである。地方の会員はこれまでは会費を支払うだけしか何の特典も無かったのである。名刺に肩書きとして印刷する程度であった。わたしは、そんな不公平で気の毒なことはないと繰り返し理事会でも発言してきた。電子文藝館の一つの大きな意図には、東京在住の会員や役員と同等の場で、本来の文藝作品が少なくとも人の目に届けられるということであった。
東京に住んで、役員や委員をしているからといって、文筆家として高等であるという保証は何もない。そんなことは作品が語る以外に分からない。東京はえらくて地方は低いなどと謂う傲慢は改められねば成らず、それにはそれなりの「場」と「機会」が平等に与えられねばならないだろう。電子文藝館は、その為にも必要であった。
この伝えられた新聞記事には、地方か委員の歓びも籠もっていると思う。苦労が酬われる気持だ。

* 電子文藝館は、また、容赦ない「場」でもある。有名だから、無名だからという不当な差異を超えて作品の質が競われる。いずれピンもあるがキリも相当たくさんに現れ出て、自然に、日本ペンクラブ会員の質の程が露わになってくる。そのとき、厳しい批評にさらされるだろう、入会審査のいい加減なことが、顧みられるであろうことも、そうあらねばならないことも、わたしのこの企画の秘かな意図の一つなのだ。

* 頻繁な折衝で、明日までに、尾崎前会長「論考」、眉村卓理事「小説」、和泉鮎子会員「短歌」までが間に合い掲載される。谷崎先生の小説は、私がもたついて、それに慎重も期したく、明日の例会でのデモには間に合わない。次いで篠原央憲氏の「論考」と畠山拓氏の「小説」が届いているが、畠山氏のディスクを機械に入れると機械が凍り付いてしまうので、見合わせている。篠原氏の方はもう原稿に整えて念校も済ませた。著者が慎重に起稿されたディスクも、読んでみるといくつも直しの必要箇所が見つかる。ディスクで届けば右から左に入稿とは、とても行かない。体裁も整え、校正もして少しでも問題なくやらねばならぬ。化けるかも知れない文字にはせめてヨミガナを付しておかねばならない。
2002 2・14 12

* さすが三百ちかく同報したので、電子文藝館へのいい返事をたくさん戴く。青空文庫との相似についてもときどき聞かれるが、はっきり特色の違いがあると思っている。昨夜も、このように返事をしている。

* 活動の性質は明瞭にちがうものと考えています。
著作権の切れた人達のものに限定して「青空文庫」は頑張っておられます。枠組みはその一点にあり、或る意味で無差別・無中心の収拾のように思われます。

* 「電子文藝館」を要約すれば、
初代会長島崎藤村以来、現第十三代梅原猛に至るまで、「日本ペンクラブ」所属の、過去・現在「在籍全会員」の存在証明を、「一人一作品」のかたちで展示し、「日本ペンクラブ」が、過去・現在、どんな人材により組織されて来たか・現に活動しているかを、如実に示そうとしています。
物故会員・現会員を問わず、著作権期限は一応考慮外におき、それよりも、各作品を、できるだけ「読みやすく」十分な鑑賞に供し得るよう、電子環境での多彩な読者たちのために、配慮しています。(研究者のために厳密な研究テキストを提供するという意図は、一応放棄しています。)
むしろ、この一つの「電子文藝館」という「場」で、過去・現在の会員が、「地方・中央」「有名・無名」「ジャンルの違い」超えて、全く平等・対等に自愛・自薦の「自作」を呈示し、読者の鑑賞ないし評価を求めている、ということです。
詩歌、小説、児童文学、ノンフィクション、評論・論考、随筆・エッセイ、翻訳、外国語作品等、あらゆるジャンルを問わず、また「芸術、通俗」を問わず、同じ一つの「電子文藝館」の中で、読者が自由自在に比較しながら、好きに価値判断をされる「機会と場所」としても、大いに利用して欲しいと企画・提案者は、編輯室責任者は、願っています。
したがって、この「ディジタル・ライブラリー」の読書に関する「課金」等は、一切求めていません。完全な「無料公開」です。「電子文藝館」は、国内外に対する「日本ペンクラブ」の文化事業であり、ボランティアなのです。
おそらく、いずれ読者のうちで、「こんなに素晴らしい作品に出逢えた」という思いと、「なんだこの程度のものか」という思いが微妙に交錯してくることでしょうし、そこに、「日本ペンクラブ」の素顔が否応なく浮き上がってくる筈です。そういう
現実を足場にしつつも、しかし「日本ペンクラブ」は、真向から、世界平和を求め、言論表現の自由を心をあわせて守って行こうと願う文藝団体なのです。「国際ペン」の一環なのです。
「電子文藝館」が日本ペンクラブ活動の「目的」ではありません、これは、会員全員のいわば「存在証明」なのです。「顔写真」なのです。筆者の「略紹介」を極端に簡素にしてあるのは、「作品」そのものをして語らせよう、主観的な先入見をなるべく排しておこう、という意図に出ています。
クラブ創設六十六年の二○○二年十一月二十六日、「ペンの日」を期して誕生・開館したばかりの「電子文藝館」ですが、十年を経ず、少なくも「千人・千作」を擁した大図書室に育つことは確実です。

* 上の「要約」は、私、企画・提案者の考え方である、が、この通りに、どこへ引用されても差し支えない。今夜の例会での映写紹介に先立って、わたしの気持をも要約しておく。
2002 2・15 12

* 参議院議員会館の第一会議室で、EU議会が公的に存在を認めたECHELON=エシュロンをめぐる超党派勉強会があり、市民として、また日本ペン電子メディア委員会の責任者として参加し、イルカ・シュレーダーEU議会議員(EU議会エシュロン特別委員会委員)の一時間の演説と、質疑を聴いてきた。議員は二十四歳のチャーミングなドイツ人女性。演説は要点を簡潔に整頓したみごとなものだった。呼びかけ人は福島瑞穂や枝野幸雄や中村敦夫議員ら。
今夜は疲れがひどいので、このことはき改めて書く。帰りに福島瑞穂議員をつかまえて立ち話しをし、エシュロンはただに経済産業情報上の侵害だけでなく、思想信条や言論表現への深刻な干渉や管理や侵害になる懼れが濃く、ペンクラブのような団体がどう取り組んでゆくかに今後の課題があるはずで、ついては日本ペンクラブにぜひ入会しないかと、口説き落としに成功してきた。入ろうと約束された。日本ペンの考え方には、福島さんらの考え方と軌を一にしたところが相当にある。他党のどこよりも多いとすら謂える。ペンの活動に、又一つの刺激が加わるといいと思い、勧誘に努めた。

* 好天の国会議事堂を見て、憲政公園内の、静かに空いたレストランで、ゆっくりビーフシチューとビールで昼食しながら、湖の本を校正した。青空の下の大内山と濠を眺め、桜田門から一駅乗って有楽町。三時からのペンの理事会へ出た。議事輻輳を見越して、書面をつくって提出して置いたので、問題なく意図は通じた。電子文藝館「編輯長=主幹」として、対外的な依頼活動等にも動くことが承認され、また予算措置にも理解が示された。委員会ないし私の個人的なボランティアだけでは到底永保ちは出来ず、しかし、とても大きな仕事として成長と定着の見込みのあることは十分理解されたようであった。
エシュロンのことも、あわせ報告した。この問題で大問題なのは、米英加豪ニュージーランド等のエシュロンにEUや他国が反対に動こうという点では実はなく、むしろ、同じようなシステムを自分たちも持たねばという方向に地滑りが始まっている点なのである。

* 五時半過ぎからペン例会の会場に大きなスクリーンを設えて、「電子文藝館」の逐一を映写し、説明した。まさしく百聞は一見に如かず、会員の関心をあつめたようで、デモンストレーションは成功裏に終えた。デモに先立ち梅原猛会長は挨拶に立ち、電子文藝館についても多く言葉を費やしてわれわれの労を多とされ、日本ペンクラブに大きな財産とも成る仕事の緒についたことを慶賀されたのは嬉しかった。後刻の懇談でも、梅原さんはわざわざ私の所へ来て、よくやってくれたとねぎらいと感謝があり、恐縮した。私流儀の虚仮の一念のようなものでもあるが、とにかくも佳いもの佳いことに手を染めたかった。日本ペンクラブで良かったと思える仕事がしたかった、というに尽きている。
倉橋羊村氏から原稿を預かってきた。また大勢の出稿があるだろう。

*おかげで会場を歩きまわっては出稿を頼んだり質問を受けたりしていて、和泉鮎子さんなどの見えていたのにもろくすっぽ挨拶も出来ぬまま、疲れ切り、先に失礼して東京會舘の外へ出た。日比谷のクラブへ行き、ブランデーのあと、珍しく鮨を頼んで、だがもうウイスキーには身が持たぬ気がした。生ビールを呑んだ。湖の本のちょうど前半を校正し終えてから帰った。地下鉄丸の内線の終点池袋駅で寝ていて、降りる客に起こしてもらった。しょうがないなあ。

* 家に帰っても直ぐは休めない。メールが沢山入っていた一つ一つを処置し、幾つも発信した。
あすは、二時には、駒場で川端文学を語らねばならない。
2002 2・15 12

* 「今日の例会では、遅くまでありがとうございました。「ペンの日」以来2ヶ月ぶりの例会のせいか、いつもより参加者が多く「電子文藝館」への注目度が高くなったように感じました。寄稿について、受け付けでお問い合わせくださる方もあり、今後目がまわるほどの忙しさになると困るなと思いつつ期待しておりますが…今後ともよろしくお願いいたします。どうぞあまりお疲れがたまりませんように」と、事務局からもねぎらわれた。幾つもこういうメールが届いていた。感謝。
2002 2・16 12

* 倉橋羊村氏の出稿された俳句は、新刊句集一冊がまるまるで、しかも一頁に二句組みで四百句近い。スキャンするにもたいへんな手間であり、余儀なく、五年間のうちの平成十、十一、十二年の作句だけを、スキャンせず、煙草替りにヒマを見ては少しずつわたしが自分で書き込むことにした。それなら読むことも出来る。再現不能漢字のある句は割愛させてもらう。
入会が認められたばかりの佐怒賀正美氏の百五十句はもう戴いてあり原稿になっている。篠原央憲氏の「いろは歌の謎」も原稿に仕立ててある。
今日は、中谷宇吉郎、谷口吉郎の遺族に電話して出稿を依頼した。電話ではラチが明かず、やはり依頼状を出すより仕方がない。著作権のことをクリアして置いて欲しいので、物故者の場合はその方が良い。現会員にも今日はメールで二十人近く正式に依頼した。西垣通氏や紀田順一郎氏、倉持正夫氏らから早速出稿意志が伝えられて、心強い。
2002 2・18 12

* 高橋健二元会長の出稿はご遺族の希望でヘッセの翻訳ときまりそう、作品を選ぶことになる。「ダミアン」か「シツダルタ」が候補に。これが決まると、十三代の会長作品がぜんぶ揃う。ぜんぶ揃ったら(いいのだが)と夢のように期待したまま始めたのが、はや正夢に成ろうとしている。
昨日依頼した中から、もう、速川和男氏の「川柳百句」もメールで届いた。西垣通氏、高畠二郎氏、山中以都子さん、森秀樹氏らの承諾が届いている。うまくすると春たけなわの開館半年で、当面初年度目標にしてきた百人百作が達成できてしまいそう。
2002 2・19 12

* ディスクで原稿が送られてくればラクだろうと。たしかにプリントやスキャンの手間は省ける。だが校正の手間は省けない。今日もやっと機械に開いたディスク原稿の小説を読んでゆくと、たちまちに十も十五もケアレスミスや変換ミスや誤記・誤植が続出する。そういう原稿に限ってとは言わないが、意味の取りようもない文章に何箇所も突き当たる。とても安心しては入稿できない。そのまま出てしまえば、誰よりも本人が恥ずかしい想いをするだろうが、また、日本ペンクラブの、電子文藝館の無責任にも恥にもなってしまう。手が抜けない。
2002 2・20 12

* 倉橋羊村氏の句集「有時」の中から三年分の俳句を逐一わたしの手で機械に書き写した。スキャンするよりも、いっそう深く原作の味わいに迫れるメリットを取った。たしかに倉橋俳句の微妙をいくらか嗅ぎ分けたように思う。
高齢の叔母上を見送られた後に、幾句かあったが、
永病みを看取りし妻よ寒昴  羊村
の「妻よ」の「よ」に感じ入った。ただこの一音の一助辞に籠められたものは、温かくて深い。こんなに一字をみごとに響かせた例には決してそう再々は出逢えるものでない。この句が集中に図抜けていたなどと言うのではないのだが、この「よ」には驚嘆したことを書き留めておく。二百数十句のなかに、二句はどうしても漢字の制限上再現不能と見て割愛した。字は在ったけれど再現できるかどうか不安なものも二三在った。困ったものだ。
佐高信氏から、「選稿」をお任せしますとハガキをもらった。高橋健二元会長作品も探しに行かねばならない、翻訳作品を。谷崎先生の原稿も妻が初校したまま、まだ念校出来ていない。そして尾辻紀子さんから児童文学の本一冊が送られてきている。妻にプリントしてもらったのを、スキャンして校正しなければならない。内容の佳いものなら、苦にしないとまでは謂えないが、楽しみもある。推敲出来ていない杜撰なものを送りつけられては困惑する。腹立たしくなる。
2002 2・21 12

* 「文藝館」の起稿と校正とをお願いし、きちんとやってもらいながら、何のお礼も出来ないで久しく放っていた人に会い、せめてものお午食をご馳走させてもらった。ご希望の昼の「三河屋」は少し混んでいたが、しばらく待って、一階に席が取れた。
ボジョレーのハーフは、わたしがほとんど一人で飲んでしまったが、食事の方は豊富にうまかった。老舗の洋食店で常連客も多いようだし、昔は知らないが今では上等なレストランになっていて、それで「三河屋」といった名乗りも微笑ましい。その人とは初対面であったが、もともと、コンピュータで困っていたときに、「私語」を読んで「通りがかりのものですが」と、適切に教えてもらい助かったのが、ご縁であった。もう二年ほどになるか。文学少女かなあと思っていたが、二十年来の校正やパソコン運用のベテランであった。大きな企業に勤めていたのを、思い切ってこの春のうちにもっと動きやすくはたらきやすい若い人達のグループ会社のようなところへ転じるという。機械に強い友達は心強い。

* 二時間ほどかけたゆっくりの食後に、銀座三越前で別れ、わたしは一人でDVDの店で立ち読みならぬ物色に小一時間も過ごした。目移りして何も選べずに出た。手洗いが使いたく風月堂に。八百円のコーヒーの、値段に比して不味いのに憤慨しつつ有楽町線で保谷まで、寝て帰った。のんびり駅のエレベータで夕暮れの家路についた。エレベータで一緒だった四十恰好の感じのいい奥さんふうの人が、どこまでも、私より二十メートル先を歩いてゆく。おやおやと思っているうち近所の大きなマンションへ入っていった。こういうこともあるんだなと、妙におかしかった。
2002 2・22 12

* 「出版ニュース」に依頼されていた「電子文藝館への招待」14枚を電送した。大きな要約になり、いい機会が与えられてよかった。

* 「e?文庫・湖」の第十五頁に吉田優子さんの新作「皆既月蝕」を掲載した。ずいぶんよく推敲されてきた。モチーフの強い作者であり、足踏みしないで、また前作にとらわれず、次ぎを書くことを奨めたい。新しい力有る書き手の投稿を待っている。第十四頁には、和泉鮎子さんの短歌、速川美竹氏の川柳、日吉那緒さんの短歌を掲載した。
2002 2・23 12

* 高橋健二元会長の作品だけが出遅れていて、やっと遺族との折衝がはかれたが、ヘルマン・ヘッセを訳した「ダミアン」や「シッダルタ」が候補に挙がっていた。それが、ヘッセの著作権の切れていないことなどが障りになり、ゲーテに変更された。わたしは「ヘルマンとドロテア」を希望していた。ゲーテといえば、「フアウスト」だが、これは長いことでも論外で、長さを考慮すれば「若きヴェルテルの悩み」か「ヘルマンドロテア」が双璧なのはいうまでもない。それでも随分長いものになるが。前者は、書いて以後作者ゲーテが二度と「読み返したくない」とした名作であり、後者は、終生作者自身が繰り返し「愛読していた」という名作である。前者はあまりに悲しく、後者は神聖なほど素朴に美しい愛の物語。
しかし高橋家遺族は、「ゲーテ格言集」をつよく推された。
ゲーテの作品を読むのが主ならそれでもいいのだが、高橋健二という日本人の「翻訳」文藝を読むのには、やはり小説を訳した藝の冴えが読みたいと、わたしは思う。いかにゲーテとはいえ「格言集」などというものが一人の人間に可能であっていいわけがなく、大方は、作品から切り抜いた摘録にひとしい。そういう摘録の出来るのが、翻訳者・学者としての「藝」であるという理屈は一応つけられるけれど、所詮、文学作品そのものを無垢に「読む」感動や感銘からはほど遠い所産であることもまちがいない。遺族の意向は尊重しなくては成らないが、残念だ。

* 著者自身がディスクで寄越された出稿だから安心とも謂えないことに、つくづく嘆息している。
今日、三人のディスク原稿を三本念校した。うちの二つは妻が一応初念校したものだが、幾つも疑問が出ていて、その一つはあまりにひどいので、著者自身に差し替えて、もっと丁寧に、と要請してあった。それのまた届いたのを読んでみると、こちらで発見していた疑点の、十に八つ九つが見落とされたままなのには、殆ど呆れてしまった。もう一人のそれは、まず簡単に直せる数カ所で済み、わたしが直して置いた。最後の一人は東大の西垣通教授の小説で、これは、さすがに、そのまま手つかずに入稿できる、読みやすい、ディスク原稿だった。本来、こうあって欲しい、それが著者自身のディスクを求める理由なのだが、なかなか、校正と謂うヤツは、書いた本人が出来ていると思うものほど剣呑なのである。経験上よくそれを知っているから、何としても校正に手が抜けない。しかし、労力と神経をつかうことは想像以上で、しんそこ疲れる。
2002 2・27 12

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