* 小説のなかで、「事実」にはあまり執着しない。自然でさえあるなら、弁慶に小野小町への懸想文を描かせてもいいと思っている。ルーベンスの筆力はすばらしく、彼が描けば、エンジェルの腹から腕が生えていても不自然には見えまいと謂われた。小説は、絵画のようには行かないかも知れないが、可能ならばそういうこともわたしは敢えてする。作品の力学を「作品外の事実レベル」からは批評しない。
1998 4/30 2
* ホームページで現在連載中の「掌説」は、平成七八年に、週一編と義務づけて書き次いでいた未発表作を公表しているもので、四半世紀以前に試みていた頃とくらべ、陰鬱でやりきれなくなり、二十篇でうち切ったもの。だいたい掌説は、何を書こうというアテを一切持たず、その日その日、さ…と自分を促してむりやりに即座の「泥」を吐かせるのであり、その一編が出来上がるまで自分を解放しない。苦しくて、苦し紛れに想像もしなかった「泥」を吐く。四十字×三八行という「約束」もけっして自分で自分に破らせないから、一種のサーカスになる。文章も世界もできるだけ彫りを確かにと願うと、簡単なことではない。「説明」しはじめたら、紙数はすぐ尽きてしまう。
インターネットの掲示板に「掌編」と称してたくさん投稿されているのを読んでみると、長さへの潔癖感が無く、説明だらけでダラケてしまっている。泥を吐いていなくて、デッチ上げに造っている。
それにしても、今度の我が二十篇、われながら、やりきれないものがある。また、新しく試みればべつの「泥」が出てくるだろうか。 1998 5・7 2
* 『死なれて・死なせて』を復刻した。桜桃忌から始めた発送を、今日終えた。創刊満十二年、干支一巡である。創作とエッセイとで、通巻五十五。よくまぁ、ここまで来たと思う。それだけの仕事をしてきた。原稿をたくさん書いて、稼いできたから出来る。さもなければ赤字の血の池に沈んで溺死していた。仕事をさせてくれた世の中に感謝をしよう。
* 優雅な仕事ですねと時々言われるが、血みどろである。
医学書院の最後の頃、昭和四十九年頃、一九七四年ごろ、私の管理職年収は六百五十万ぐらいであった。
数年前、国立東京工業大学の教授に呼ばれていたときの給与年収が、なにもかも合算してかつかつ千万に届きそうで届いてなかった。これは永年の一作家がにわかに就任したのだから、いわゆるベースになる「前職」がなかった。「作家」であったことなど「前職」とは認められなかった。
なにやかやで合算すると、じつは私ほど地味な作家でも「教授」と同程度にずっと稼いでいた。だが、原稿料で年に千万稼ぐということは、私ほど地味な作家では、不可能ではなかったが、血みどろの働きであった。なぜなら、おおかた原稿用紙の升目を一字一字うずめてゆく原稿料で稼ぐのである、ベストセラーの印税で稼いでいるわけではないのだから。
本の印税など、私ほど地味な作家では、たいしたものではない。二千円の本を五千部作ってもらい、一割じつは九分の印税をもらうと、九十万円。この頃ではなかなか純文学やエッセイで五千部は作ってくれない。一冊の本が出て、せいぜい六、七十万円の印税を受け取っているわけだが、しかも、いまどき年に一冊の本も出ないことがある。現に私は去年は三冊出したが、今年はまだ出ていない。何年も一冊の本も出せない作家が山ほど世間にはいるのである。優雅どころか。
そんな中で、私の原稿料は一枚が平均して五千円ぐらい。税金のことを考慮せず単純に計算すると、一千枚書かないと五百万円に達しない。昔は月に百五十枚平均書いて、一千八百枚の中から四冊平均が本になった。私の著書は「湖の本」を除いても、過去にほぼ百種類ほど一般の出版社から出ている。豪華本・限定本も何点も出た。原稿料はまだ安かったが、かなりの稼ぎで生活はできた。蓄えすら出来た。
今は体力が落ちている。出版事情は極端に悪い。本にならない分、原稿を多く書かねばならないが、稼ぎということだと注文原稿でなければ意味がない。注文が年収一千万円分あるというのは、たいへんな話なのだ、書くのもたいへんだ、優雅どころか。
しかも私は、老人三人を見送り、家族を養いつつ、この十二年、自力で湖の本を出し続ける資金も、原稿料だけで稼がねばならなかった。いまはそこまでは無理で、すべて過去に心して蓄えておいたものを宛てて出来ている。そして多年の読者に支えられている。
* 文学作家はラクではない。ラクだった時代は、無かった過去にも。誇りはあった。栄達も願わない。勲章もいらない。自分の言葉で「世界」を創り「思想」を鍛えて行きたい。やがてはのたれ死にするであろう、覚悟は出来ている。
1998 6/22 2
* 作者の意図を読めと、原稿の端々までいろいろ引きずり出してきて、論じてとくとくとしている学者が多い、日本では。文学は、作者の意図など超えて作品の表現に則し本文に則しその本質的な言葉を読み込まねばならないのに。作者の意図はそうではなかったなどと言い訳できると考えたことは、私はない。人の作品も、作者の意図を説明された通りに読まねばならぬとは考えない。小西甚一氏の本に同じ事が書かれて、いまどきの国文学者たちを諷しておられるのを知り、おもわず手を拍った。作者は作者、しかし読者も読者。作品は作者の意図をはなれてそこに在る。在るものを、より深く正しく味わい、良い意味で批評的に読まれるのが作品の幸福であり、運命。今、私のそばには何冊も良い本が並んでいる。
1999 1/18. 3
* 創作のために地図を参考にする。当然の手続きだが、歴史的な作品の場合、それが近代のものであろうと、注意しないと、道路は、消えたり増えたり変わったりしている。京都の体験で言えば、誰でも祇園の花見小路は知っているが、新橋と三条間の現在の花見小路は戦時中の疎開により出来た。それ以前は四条と新橋の間に現在の半分以下の細道としてあり、新橋通でつきあたりだった。廓の境であった。吉井勇の歌碑のある白川沿いの
並木道など無かった。疎開で出来た。
東山通りも大正はじめ頃に開通したので、昔は無かった。都大路なんかではなかった。三条通りも、現在の南よりに旧街道があった。
こんな例は時代が遡れば例は幾つもある。だからといって、それらを調べずに現代の地図を頼って歴史物を書く人がいたら、どうかしている。
辞書辞典も、いわば各時代の「文字」の地図帳に該当する。昔の地図に今日的には不備が多いように、昔の辞典にも今日の目からは過不足等の問題は有ろうが、その時代の文字事情や言語事情は概ね証ししてくれる。
ハイテクの進歩を誇るコンピューターが、それらの基本辞書を器械として収録したくても出来ない、出来てもしないというのでは、言ってみれば、現代の地図で古代も中世も書きなさいというに等しい。こういう事実の前にも謙虚に対策しようという配慮を欠いた「標準化」は、いわば思想の欠陥と言うよりも欠落に近い。
1999 2/1 3
* よぶんなことをゴタゴタとやっているが、なりゆきのことであって、性分であるからその任に在れば一心に務めるけれど、本音は、悠々として、我ながら世離れてしびれるような女の小説が書きたい、その方へと帰りたい。なにがいいといって、やっぱり女にいちばん心を惹かれる。いい女を創りあげてみたい。もうすぐ。もうすぐ通り過ぎるだろう。 1999 2・8 3
* つかこうへいの『ストリッパー物語』を読み終えた。明美さんと重さんの物語にあやうく嗚咽しそうであった。瑕瑾が無いわけではない、重さんのお嬢さんが留学したり成功したりする話は嬉しいけれど、ちょっと照れくさくもある。重さんと明美さんのことは忘れられないだろう。こんなオリジナリティの鮮明で強烈な小説、むろん過去に無かったわけではないが、確実にまた感銘作を付け加え得て、嬉しい。これを読んで、読み終えて、私は初めてつか氏に、息子のために感謝した。ありがとうございました。
かつて野坂明如の『えろごと師たち』などを読んだときにもやや近い感じはもったが、どこかでいささかのハッタリをかまされているような、少し身を引くものがあった。むしろ瀧井孝作先生の『無限抱擁』を読んでの澄んだ感動にちかい実質を、つかこうへいは持っていると感じた。瀧井先生とはちがうが、つか氏ははっきりとした「憎しみ」をみごとに抱いている。そのことに私は感動した。秦建日子に学んで欲しいのは人気ではない、虚名でもない。身内の熱塊だ。燃えるモチーフだ。
1999 2・14 3
* 志賀直哉『暗夜行路』も読み出したが、これは引き込む。さすがに引き込む。それにしても「私は」「私に」「私の」と「私」の乱発に驚く。小説では極力一人称を書かない私は、今更に、驚いてしまう。知らないまに感化されていて、自分で考えたことと思いこんでいた類似の考え方がちゃんと『暗夜行路』に出ていたりして、それにも驚きながら懐かしい。
1999 2/26 3
* グレン・グールドの書簡集と『暗夜行路』とが就寝まえのとてもいいバランス剤になっている。グールドの音楽が何倍も身近に寄ってきた。書簡集は一流の人のものは決して裏切らない。よくセレクトもされているが翻訳も佳い。大冊だけれどずんずんと読めてしまい、もったいなくなる。こんなに愛すべき人とは思っていなかった。音楽や芸術への考えかたも本質的でじつに豊かだ。ゲルハルト・リヒターの『写真論・絵画論』も面白くはあるが、深い説得力と普遍的な魅力ということになると、かなり舌足らずに早口にものを言っている。時任謙作のわがままはすさまじいが、それを律して普遍の魅力を与えている志賀直哉の卓越した文体には舌を巻く。ストーリーでいえば退屈な感想と描写の連続で、劇的な主題が平板に語られているどうしようもないものなのに、まぎれもない硬質な文学芸術のはるかな高みに作品を押し上げて安定し、幾らでも読み進めてやめられないのが直哉のえらさである。直哉の人間の偉さでなく、人間に結びついた文体の偉さである。
1999 3/10
私は作家たるべく生まれてきたのではなく、ただ「私」でありたい。「私」が、作家である私の作品である。とんでもなく誤解されそうだが、あえて「闇」に、さよう「言い置く」。
1999 3・14
* ユイスマンスの『大伽藍』は、ちょうど百年前の、まことに特殊な雰囲気をもった小説で、小説の体裁をほのかに備えた、シャルトルの大聖堂論であり聖母マリア賛歌であり強烈なバロック建築論である。そういう一切を通してのカソリック論でもある。私はこの聖堂を知らないが、親しい友人が、ちょうど今ごろその聖堂を訪れている頃かもしれない。絵を描いているかも知れないし、瞑想しているかも知れないし、私のことを思いだしているかも知れない。この小説も、旅の好きなこの友人が呉れた。毎日この小説をすこしずつ滋味を慕うように、慌てず急がず少しずつ読んでいる。そういう読み方でなければ読めない。
アーサー・ウェイリーの『袁枚』もそういう本の一冊だが、この中国近世の一詩人の、伝記と言うよりも「伝記的な逸話人生譚」も、滋味に溢れた好読み物で、詩が優れ、加島祥造さんの訳がいいが、もとになったウェイリーの訳がまたいい。袁枚などという当時の大詩人も今では知る人が少ない。文豪の運命もたいていはこんなもので、名を残すなんて事は虚しい希望に過ぎない。マルクス・アウレリウスの本を昔に読んで、一番先に身にしみたのが、その教えであった。名を残したくて書いてきたのだとは思っていない。せっかく生まれてきたのだから、自分の生涯を自分で楽しもうと思っている。死後に誰かが私について書いてくれようとそんなものは私にはもはや意味がない。自分のことは自分で書き自分で始末をつけ、人がどう思おうとも、自分で自分に納得して楽しんで死んで行こうと思うので、反芻するような真似も平然としている。人のために書いているのではない。せいぜい子どもや孫や愛した人にだけ残しておけばいい。
1999 3/29 3
* ところが、このごろ「年譜」を作るために日記や手帳やノートを山のようにひっくり返しながら、克明に自分の軌跡を眺めていると、やっぱり、どこか「変だわ」と呆れる所が見えるのに、閉口している。
ちょうど医学書院時代の前半を調べているところだが、例えば会社の内と外とが截然と分かたれている。外ではじつに多彩に人と付き合っているが、同僚や上司との接触は寥々としている。会社での仕事は好きで熱心で、成績をかなり上げている。太宰治賞を取ったときに上司の編集長は「編集者としてA級」と新聞の取材で証言してくれているから、ま、本当のところだった。自負も自信もあった。
だが会社そのものが好きになれなかった。出来ることなら早く辞めたい、そのためには別の世界で頑張れるように勉強しておかないとと、いつも本気で考えていた。人間的に折り合えずとも、好かれずとも、仕事で後ろ指は指させぬように務めながら、断固として、自分本位で不徳な社員生活を貫いた。
そのために「主任」への昇進を延期されたこともあった。いわゆる「協調性」がないと。これが私の病気なのかも知れない。しかし、また、方角が違うと私は人とそれは丁寧につきあえる。魂の色の似た人をいつも捜している。こういう辺も変わっているのかも知れないが、私はそれが当然で自然だと思い、上辺だけで如才ない人間関係を、そつなく、ガマンしつつ、かげで誹りつつ続けている人たちを見ると、どうぞ、御勝手にと身を引いてしまう。
かなふはよし。かなひたがるは悪しし。利休のこの言葉はわたしの芯に生きている。生かしたいと思っている。
* だが、もう一つ、変わっているかどうか別にして、私に問題がある。言いたくないが、奮発して言ってしまえば、異様に「惚れっぽい」のである。飽きやすいか。それが、そうではない。惚れてしまうと、つき合いが長い。遠く離れながらでも何十年も懐かしく気は通う。喧嘩別れと言うことが、ほとんど無い。不思議なことに、六十年余の人生によくもこれだけという惚れた相手が大勢いて、男も女もと言いたいが大方は女性だが、それで心を悩ましたと言うより、心を豊かに養ってきた。出逢わねばよかったなどという人は殆ど一人もいない。自然に親しみ、自然に別れたようでそのまま親しみが通っている。
妻は、おおかた素知らぬ顔をしてくれながら、さすがに愉快でないことも多かったろうと、今更に感謝し、また頭を下げている。これは、変わっているという自覚であるより、よほど「おかしい」「変なヤツ」という自覚なのであるが、有り難かったとも感じている。 むろん、妻を絶対的に心から愛している。だが、月並みにいえば、やはり「小説家」になってしまったのは道理だわとつくづく思う。まだ、バグワン先生に服してそれら全部を「落としてしまう」には、タメライがある。そんな辺りに、『袁枚』先生に共感した理由が有る。「死にいそぐ道には多し春の花」と、大学時代に日々使っていた英和辞典の見返しに自句を書き付けていたのが残っている。袁枚には、「花」とは大方「女」を意味する詩語であったが、私にも近い語感が生来あり、後年に『花と風』を書いた事に繋がるのかも知れない。
1999 4/16 3
* 二十代後半から三十代前半の年譜を書いているが、日記をみると盛んな読書の跡が見えるのは当然として、ずいぶん中国古典を意識してたくさん読んでいることが分かる。仏教の経典にも触れている。日々の生活は無頼で、多忙で、創作への意欲に燃えていたが、なにを思ってああいうものを読もうと努めていたのだろう。そばに在ったからと言えばそれまでだが。
あの頃の読書は欲望に溢れていた。読めば読んだだけが役に立つようにと願っていた。役に立ったし、役に立てた。だが、もう、ああいう風には本を読むまいし読んでも仕方がない。読んでいることが楽しくて嬉しくて堪らないように読んでいる、今では。これで何かが書けるぞなどとは考えない。そんな風にして書きたいとは思わない。書きたいから書き、読みたいから読む。努めるというのは私の大好きな十八番だったが、努めたり頑張ったりは、しないようにしようと、し始めた。 1999 5/7 3
* 今日もまた心嬉しい初めてのメールが届いた。我が胸の思わず高鳴るのを聴いた。小説家の場合には、いや私の場合にはと限定して置くが、さながら小説のような日々というのが、確かに何度か在ったし、また有り得た。
* ひときわ懐かしく思い出されるのは、会社勤めに毎朝電車に乗っていた私は、ある女性とよく同車するのに気がつき、向こうでも気がついていたものか、ふと口をきくようになった。ここまではありふれているが、私は「その人」の名も勤め先も経歴も一切尋ねなかった。もともと私は「尋ねる」のは好きでない。その一方でたまたま私は作家以前の私家版の二冊めを出して間がなかったので、それを見てもらった。読まれれば私のことはかなりよく分かる。妻子があり、本の表紙絵は妻が描いていた。やがて「その人」から会社に電話が入るようになり、電車でも何度となく逢い、約束して池袋の喫茶店で話したりするようになった。しかし私は些かもプライベートな人定質問に類することは避けていた。すべて知らせ、なにも知らない、二人。そのアンバンスはどちらに重い負荷になるか。「その人」が電車の時間と車両を変え、電話をくれなければ、私からは全く連絡できない。姓も名も知らない。私は便宜に「その人」に勝手に命名し、心の内ではそう読んでいた。そう告げたとき、その人は笑っていた。その頃私はもうその名前をヒロインの名に、殆ど同時進行のように「身内とは何か」「人が人を識るとはどういうことか」「知る知らぬの力関係はどう展開するのか」を主題に、小説を書き出していた。それは黙っていた。そのまま淡々と懐かしく交際は展開し、そして、終わったのである。なぜ終わったか。それはその面白い小説が明かしているので、ここには書かない。と、そう書いて、そんなのはみな私の作り話だと思うか、いいや本当だと思うかと、昔、ある短大の教室で、学生たちにまことしやかに尋ねたら、みながわあっと騒いだ。
本当とは何か。何がうつつで何が夢か。
あれは本当ですかと聞く人には本当ですともと答え、まさか本当じゃないでしょうと聞く人には当たり前ですよと答える。どうでもいいのである、虚実の決定などは。
「その人」は、小説家のいいだももさんの奥さんの妹とか姪とかであると日記は記録しているが、さ、どんなものか。夢であれ現であれ、私は「その人」が懐かしい。
* ひょっとして今日のメールの「その人」が「その人」であるとも言える。私の世界ではそんな按配にことが運ばれて、それが自然なように成っている。
そんな「その人」のメールが届くかも知れないと、本気で待っていたのだといえば、普通の大人たちはわらうだろう。そういう意味では私は普通の人ではない。しかし例えば漢字を書いたり読んだり用いたりする立場としては、私は特殊な専門家ではなく普通の人であり、そんな特殊な専門家がたくさん居るとは思わないのである。程度の差があるだろうが、安易に勝手に線を引くわけにはいかない。
1999 5/12 3
* 長編『寂しくても』を、途中ではあるが、最初部分から第二稿づくりに入った。「創作欄 一」を一太郎に書き写して、そこで、今回は叙述の文章を整えて行く。初度軽度の添削である。構造的な直しは第三稿でというのが私の常で、もっと先のことになる。
第二稿ではぐんと読みやすく、文章として整って行くはずで、仕上がったら現在のものと差し替える。根気仕事だが、当然の作業と思っている。
1999 5/14 3
* 「ミマン」に送った原稿が十八行も多かった。すぐ推敲して送り直した。推敲はすればよくなることが多いので、昔から嫌いな仕事ではない。論旨や流れに傷をつけないで多く減らすには、きっぱりした思い切りと眼が大切。推敲しすぎて文章を皆殺しにしてしまうことも、無いではない。
1999 5/15 3
* 昭和四十二年頃の年譜を書いているが、もうあれから三十二年も経っている。すでに私家版は「懸想猿・続懸想猿」「畜生塚・此の世」「斎王譜」を出していた。四月に管理職に昇進し、現住所に土地を買い、妻は長男を懐妊した。そしてやがて「新潮」の酒井健次郎編集長、小島喜久江編集者から、突如、原稿を見せよという通知が来る。あれには魂消た。だが、何故だろうと長い間考えていた。
亡くなった酒井さんはあるとき、ふっと「斉藤重役から」と言われたが、わたしが斉藤十一氏を識るわけがない。それで、たぶん私家版をやみくもに新潮社に送りつけていたのだろう、それが幸いに斉藤氏から新潮編集部へ動いていったのだろうと想像していた。
日記を丁寧に見て行くと、この昭和四十二年に、順天堂大学内科の北村和夫教授から、私家版の長編「斎王譜」を出した後に、円地文子さんに紹介して上げる、会わせて上げると言われていて、それがある日実現していた。診療を受けておられた円地さんと教授室で一時間の余もお話しした。谷崎潤一郎のことを沢山聴いた。円地さんの「なまみこ物語」が好きだと言い、円地さんも気に入っておられた。谷崎の好きな作では「少将滋幹の母」に合致した。その若さで今どき谷崎愛とは、むしろ珍しいと言われ、住所や電話番号まで教わっていた。だが、わたしは著名な作家を訪問するということを遠慮して、これまでもわざわざ呼ばれない限り殆ど一度も我から訪問したことがない。円地さんへも行かずじまいだったが、「斎王譜」は送ったが。この長編は後の『慈子』であり、他に「蝶の皿」「鯛」などが載っていた。円地さんから何の返事もなかったし、そういうものと思っていた。
そして「新潮」との悪戦苦闘の間に、第四冊めの私家版『清経入水』を用意していった。これが今度は中村光夫を介して筑摩書房の太宰治賞最終候補作へさし込まれ、受賞した。応募作ではないが応募したことにして欲しいと、「展望」編集部および筑摩書房の電話を、家で妻が受けたのだった。
その授賞式が昭和四十四年桜桃忌のあとであったとき、円地文子さんは来て下さり、「おもしろいところで、また会ったわね」と笑われた。わたしは、長い間、それをそれなりの挨拶と思い込み一種のユーモアと解していた。むろん嬉しかった。
だが、よく推理し想像してみると、「斎王譜」を新潮社の斉藤重役に手渡せる人として円地文子を考えてみるのは、甚だ適切なのではないかと、こんど、初めて想い至った。
うーん、と眼の鱗が落ちた気がした。円地さんはその後も顔の合う機会には一言声を掛けて下さることが何度もあった。授賞式にみえて、瀬戸内晴美さんと並んで署名しておられる記念写真が筑摩から送られてきている。
今となって確かめようもない。確かめてさてどうなるものでもなく、はっきりとそう想到した現在ただ今の感謝と驚きとを、大切に、胸に畳み込んでいたいと思う。
1999 6/4 3
* 泉涌寺来迎院の縁側がとても懐かしい。現実の来迎院と作品の中で描いた来迎院とがどこから夢とけじめもなく溶け合っている。朱雀先生もお利根さんも慈子も、わたしにすれば、現実の人たちとすこしも変わらず実在していて、現実の人たちよりも遙かに手づよく確かに懐かしい。そういう世界がなかったら、わたしは、所詮生き永らえてはこなかったと思う。支えられている。それを幸せだと思う。身内を書いて身内を得てきた。絵空事の不壊の真実。むかし、その意味を知りたいと何度もわたしに質ねた人がいた。その人は元気であろうか。
1999 6/6 3
* 「群像」とかいう雑誌で、わたしのことを「商売上手」と言う人がいたそうです、これには、びっくり。「湖(うみ)の本」のことをいうのか、何をいうのか判りません、片言の伝聞なので。或る人の知らせによれば「悪意」に満ちたものとか。その種の刊行物とは無縁に過ごしていますので全然知りませんでした。とばっちりで一緒くたにされたらしい黒川創にはじつに気の毒ですが。
ほんとに商売上手なら、まず湖の本のような、労は過重で、うっすら出血続きの出版物など出さずに済ますでしょう。もっと如才なく、文壇と出版社会を頭を低くして世渡りしているでしょう。わたしには出来ない。職人だった父譲りで至って商売は下手です。
自由でいたく、文芸出版から遠のいて、孤立を楽しむように生き延びてきたわたしのことが、癪に障ってならない世間のあるのは、知っています。第一、いまのわたしには書く「場」も出す「場」も無いに近いし、それも、自分でそこへ導いたと言われれば、実はその通りなのです。それでも潰れてしまわず、仕事は年々積んできたし、今度は誰の手も届かない「ホームページ」という場で、好きにものを言ったり書いたりしています、それがまた腹立たしいらしい。
どんな短い小さい仕事でも、わたしはきっちり書いて、手抜きはしてこなかった。「商売上手」な読み物など一切創らなかった。読者はよく知っていて下さり、だから「湖の本」が十三年も経って、六十巻も出て、まだ続くのでしょう、一年と保たないと言われたものですが。
万に及ぶ大小の原稿を書いてきましたが、毎回答案を献じている気の、例えばわたしの太宰治賞に満票を投じて下さった選者の先生方、井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫の何方に対しても、恥じ入るような一点も混じっていないと信じています。商売上手では、できないことです。「カンカンガクガク」のあなたは、どうですか。
こういう世界では十人が十人、同じ事を言いはしない。毀誉褒貶半ばというのがやはり真実で、褒められすぎはどこか臭いものです、思惑が絡んでいる例が多い。タイコモチやゴマスリは文芸の世間でも、どこの場にもいます。わたしはどんな偉そうな人にも、是々非々で通してきました、今もです。編集者にも出版社にも、です。
読者が「五百人」もいると僻まれたという泉鏡花が好きですね。己を持して、卑しくない、いい仕事をつづけることが大切だとわたしは思う。創作は、気稟の清質を世に問う仕事です。分かる人は、分かる。残念だが、だが、数少ないのが本来のように思っています。古典ならぬ今々の本が、無数に売れるなんて、なんてウサンくさいことでしょう。
芸術としての文学、つまり純文学創作を取り扱う出版・編集個々人の世間は、残念ながら想像以上に俗世間です、昔よりもますます恥ずかしいほどに、金の論理が先行どころかほぼ全面を覆っています。広告を出して下さるなら雑誌は何でもやるそうです。宣伝で文学の質を捏造してすらいます。
書き手は、そういう企業の「非常勤の雇い」の境涯にあるから、けっして自由にばかり生きてゆけない。わたしも不自由にフンガイしながら永く生きてきて、そこから、断乎、意図して抜けて出た。自分の作品を守ってやりたかった。そして自分で自分の道を「出版社会」で塞いだのです。いわば出世間したのです。
負け惜しみなど雫もありません、創作者は、魂の色の似た「いい読者」に出逢うことが願いで、稼ぐことではない。それは付随してついてくるだけの、いわば副賞なのです。わたしにも副賞が十分あったから、今、誰の掣肘も拘束も受けることなく、煩わしいことは落としてしまい、思うさま書き続けられています、器械で、ペンで。
しかしそんなことは、言ってはならないタブーなのです。わたしはそれを言い、「非常勤雇い」での商売を、商売上手な世渡りを、蹴ったのです。無謀な反逆。許されるわけが無く、悪声を放たれる。あいにくと私には届かない、なにも見ていないからですが、わざわざ届けてくれる人がいます。しかし、何故あって耳を洗いたいような汚い言葉が聞きたいでしょう、耳を寄せてまで聞こうとはつゆ思わない。勝手にやってくれ、です。
有り難いことに「不徳ナレドモ孤デハナイ」のです。わたしは、わたしの悔いのない言葉を「闇に言い置く」ばかりです。
わたしは、自分ではみ出た。追い出されたのではありません。しかし、昔の誰かのように、サボテンを育てて過ごす気はないのです。
東工大教授に引っぱり出された数年を栄誉とまでは思わないが、優秀な学生諸君と出会い、コンピューターを使えるように指導してもらえたことを、今、心から有り難いと思っています。「ホームページ」という、この「原稿用紙」この「発表の場」は、世界へ開かれ、無限にちかい原稿「量」と読者「数」を約束してくれています。
べつに、今そこでお金を稼ぎたいと思っていないから、少なくも未だ有料化も考えていません。考えるかも知れません。
大事なのは「量」や「数」に見合う、文学の、文章の、文体の「質」です。私に必要なことは、厳しい上に厳しい自己批評です、その点で甘くならないようにと、いつも頭を垂れています。むろん、ホームページだけが私の場ではありません。雑誌や新聞の連載があります。普通の本も乞われれば何冊でも出しますし、出して来ています。
それにしても、わたしのそばにいると、この社会ではトバッチリを喰うおそれがあり、現に甥がやられたようです、気の毒に。ヘンなのは政治や社会だけではないことが、よく分かります。常識の顔をしてヘンなのは、ハタ迷惑です。
1999 6/9 3
* 『寂しくても』の推敲作業が「創作欄二」の三分の一あたりまで、進んだ。最終の仕上げにはもっと手を掛ける気だが、知られざる一画家を介して芸術創造と生活という古くして新しい問題につっこみを掛けたこの新作は、地味だけれど、私の新たな探求として実って行きそうな手応えを感じている。
関連して、今、ゲルハルト・リヒターの『写真論・絵画論』を調べているが、興味津々。今橋映子の『パリ・貧困と街路の詩学』からも好刺激をたくさん得ている。
* もう一度紹介しておききたい。
* ユングはこう考えている。
太陽が上昇から下降に向かうように、人生の前半で一般的な尺度によって自分を位置づけた後に、自分の本来的なものは何か、自分は「どこから来て、どこに行くのか」という根源的な問いに答えを見出だそうと努めることで、死の受容に取り組むべきだ。それは、下降することで上昇するという逆説を経験することで、大きい転回の為には相当な危機を経なければならない、と。
* エレンベルガーはこう考えている。
偉大な創造的な仕事は、中年における重い病的体験を克服しようとして、自分の内界の探索を行った後に展開される、と。
* 紙と活字の時代はまだ衰えるところまで来ていないが、内容的には退廃と衰弱と無残とに蝕まれている。好むと好まないに関わりなく、電子文字が大切に機能して行き、ここでは「私」の「志」の活かされる道が、その気なら見つけだせるし、かなりに確保できる。純文学こそ活路を電子メディアに求めていい時節
1999 6/12 3
* 大久保房男氏に『文士とは』(紅書房)を頂戴した。一気に読んだ。「房夫様」と手紙に宛て名を書いた或る女性作家への返事に、大久保房夫は「男」でござるとあったそうな。「群像」で鬼といわれた編集長であり、私は氏が鬼の時代にはつき合いがなかったが、亡くなった上村占魚に下町の鮨屋で紹介していただいた。以来、久しい。湖の本にも、きちっと毛筆の便りを下さる。そういうことは「新潮」のもと編集長の坂本忠雄氏も同じ、講談社の出版部長天野敬子さんも同じ、元中央公論編集長の平林孝氏も同じで、きちっと、その時時の返事が届く。こういう作法は若い駆け出しに近い編集者ほどできない。岩波書店の野口敏雄氏など、必ず全篇を読んでの感想がきちんと届けられる。文芸春秋出版部長の寺田英視氏は必ず電話でじかに労をねぎらい励まして下さる。みな昔の「文士」に交わり鍛えられた編集者であり、こういう文士体験のある編集者と、今日の編集者との落差に文学の危機も悲劇も胚胎している。
大久保さんの本は、文学とは何事であったか、作家とはどのようなものであったかを、怖いほどに語っている。
1999 6/14 3
* もう二つ、つぎの会員親睦会で驚くことがあった。
* 一つは若い新理事の女性作家が挨拶をした。その中で「もう五十年は作家としてやって行くつもりだから」という表明があり、愕いた。わたしは、今年で三十年の作家生活を積んできた。出版した本は、私家版をのぞいても百種に及んでいるが、それでも、もうダメかもうダメかと怖れつつ乗り切ってきた。「三十年間、作家でいられるだろうか」と何度も嘆息しながら生きてきた。自己批評というものがいつも働いて、これしきでいいのだろうか、もう終わりかも知れないと思いつつ、力と気力とを振り絞ってきた。いとも軽々と先のように挨拶されてみると、昔の文士たちの呻吟や煩悶や悪戦苦闘がしみじみと思い起こされる。わたしは、可愛らしい女性の怖いもの知らずな昂然とした挨拶に、正直の所仰天し、もう、こんな場所にはいたくないなと思った。
* 会も果てよう頃合いに、俳優の森繁久弥が現れた。それと知って司会理事をはじめの浮き足立つことにも、あああ、伊藤整や高見順がいてもこんなだったろうかと、情けないほどに感じた。らちもない猥談ふうのお喋りを聞きながらの会場の迎合、ペンという倶楽部は、この程度の集まりかと恥ずかしかった。巖谷大四氏が森繁に声を掛けて近寄って行かれ、ちょっと、みなが呆気にとられたが、この文芸の世界での久しい功労者であり業績を残されてきた長老への、森繁の態度も、会場の反応も、痛ましいまでに軽かった。巖谷さんを知らないのである。知らないのは無理もないとして、森繁自身は知らないわけが無く、また司会の理事たちもよく知っている。それなのに、対応は拙劣であった。わたしはただの闖入者・妨害者めいてあしらわれた巖谷さんが気の毒に思われた。
会の果てる前に巖谷さんと一緒に会場を出て、西荻のお宅まで送った。車の中で巖谷さんは、もっとも印象的に懐かしい作家の一人は佐多稲子だと言われた。きりっとして美しい人だつた。井上靖も大の佐多さん贔屓だった。もう一人、逢うことは出来なかったが、芥川龍之介には一度逢いたかったなあと巖谷さんは呻いた。「文士」の世界があった。必ずしもわたしはそれだけを全面的に懐かしがりはしないが、ぽっと出てきた女の子が、当たり前のように五十年は作家でやれると信じている強心臓にもくみしない。これだけでも昨今の編集者に、痛烈な力のないことが推量出来る。臼井吉見、巖谷大四、杉森久英、大久保房男、酒井健次郎、近藤信行。この人たちの時代を知っていた編集者が、企業にみな飼い慣らされ、ただもう大人しくなって重役に収まってしまったかと思うと、淋しいとしか言いようがない。
* 李恢成がペンクラブを脱退した。どんな理由があったか、理由はあるらしいが伝えられなかった。なにとなく、今日それと知って、意味のない事ながら、反射的にとても羨ましかった。
1999 6/15 3
* 中村真一郎が、「源氏物語を訳するなら秦恒平が一番だと書いていましたよ」と報せてきた人がいた。中村さんは、私が京都人であることをよく知っていて、源氏は、京都者の性根をよく知ったものが、底意地わるく辛辣に訳して行くのが本当だという考えであったに違いない。与謝野晶子も谷崎も川端も円地文子も瀬戸内寂聴もみな京都からみれば異人さんでる。京言葉で一貫して訳したりすれば、この古典は面目を一新するだろう、へえ、こんな物語であるのかと。出版を保証してくれるところがあれば、やりたいが。これは難しい。
* 著名作家が、講演会で別の作家を語っているのを聴いても、とくべつ目新しい発見はなにも無い。血の滴るような作家論が、作品論が、近年、有っただろうか。ばかげているほど、何とか講座の作家論、何とか講演会の作家論、みな、つまらない。自分が著名であるという満足だけで思いつきを浅く浅く斜めに喋っているだけだ。聴かなくても分かる。聴いたら情けなくなる。十月の鏡花講演がそんなことになりかねず心配である。
1999 6/20 3
教わるといえば、東大博士課程の男子院生は「カルシウム」と「蛋白質」との関係についてじつに興味深いことを教えてくれた。専門家にはあたりまえのことも、素人には堪らなく面白い。漱石が寺田寅彦からたくさん聴いて楽しんでいた気持ちがよく分かる、もっとも居催促でおまえも『我が輩は猫である』や『三四郎』のような小説を何故書かないかと叱られるのは迷惑だ。小説は話の種で書くのではなく動機が有って書くものである。
1999 6/20 3
* 大阪朝日に六十五枚の長い原稿を送った。無事受け取って貰えるといいが。
この間に、柳美里の小説に対するプライバシー侵害の有罪判決がおりた。これは、大きな事件であり、文筆や創作の関係者は真剣に対応していい、歴史的な事件であると考える。ペンクラブの言論表現委員会でも理事会でも、むしろ緊急且つ真面目に討議していい事柄だと思う。
こういうことを言うと、躍起に、判決に反対のためにと誤解する人もあろうが、私の真意はまるでちがう。この折りにこそ、文筆や創作と、市民のプライバシー問題について、本気で考え直していい時機が、明治以来はじめて訪れたのだという認識で、「書く」側がそれを真摯に謙虚に受け止めていいと思うのである。
過去十年の言論表現委員を経験して、何度かペンクラブに支援して欲しいと申し出てきた文筆家がいた。被害者としてではない。何等かの形でその文筆に傷つけられたと訴えられている文筆家からの支援要請が多かった。私は、ほぼ一貫して、その種の提議にたいし、「書く」側よりは「書かれた」側に立って発言してきた。「書く」側に思い上がりがあってはならないと考えてきた。
そうは言いつつ、私自身はといえば、どれほど多くの人を「書いて」傷つけてきたか知れないと思う。
『神と玩具との間』では、谷崎潤一郎や佐藤春夫や谷崎の三人の妻たちの私信を膨大な数公開し、谷崎文学と作者との昭和初年を徹底的に検証した。事前に断るべきは断ったとは言え、私をあれほど可愛がって引き立てて下さった谷崎松子さんをすら私は嘆かせたはずだ。三島由紀夫の奥さんに、あれでは谷崎先生の奥様はお気の毒だと言われたけれど、谷崎夫人はついに私には何一つ苦情を漏らされなかった。私も遠慮して筆をまげることは一切しなかった。わたしの「谷崎愛」を、松子夫人ほどよく知っていて下さった方はない。そして怺えて下さったに過ぎない。佐藤夫人にしても、丁未子夫人の遺族にしても、娘の鮎子さんにしても、耐え難いものがあったろうと思う。しかし、結局はどこからも苦情は私のところへ入ってこなかった。仕事自体は評価され、或る文学賞にノミネートされていたということも、後に聞いた。
実在の芸術家を書いても、わたしは斯くありし「事実」を重くは見ないで、それよりも斯くあるべかりし「真実」を仮構する方へ、自分の方法と意欲を傾けつづけてきた。上村松園を書いても村上華岳を書いても浅井忠や正岡子規を書いても、わたしは「斯くあるべかりし」書き方に徹した。そして、溢れるほどの思慕と敬愛とを書いた。作品が高度に結実することを願っていた。わたしの上村松園は虚構のうえに真実像を追い、げすな事実の詮索には向かっていない。松園女史へのそういう敬愛の深さ故にと思いたいが、私の作品は、文学としても高い評価を受けたし、上村家からも一度も咎められずに今日まで来ている。今日送ったばかりの原稿にしても、朝日新聞社に勧めてわたしへ依頼させたのは上村家であったと聞いている。
そうはいえ、私は、弁解の道もなく、己が文筆で多くの知人知友や家庭を傷つけてきたに相違ない。我が家族となれば散々である。それを考慮しなかったわけではないが、それにもかかわらず、わたしはわたしの筆を捨ててなどこなかった。
いちばん、私を、この数年独り悩ませたのは、事実を確認できたのではないが、或る家庭に「離婚」の不幸をもたらしていたのではないかという、確かめようのない「噂」であつた。噂を私に伝えたのは私の中学時代の先生であり、酒席で耳元に囁かれた。おまえの書いた小説のせいでとは先生は一言も言われなかったけれど、私は、そう言われていると感じた。四、五年も以前のことだが、確かめようがない。私は、そのようなことが自分には許されるのだろうかと悩みつづけてきた。
ごく最近になり、そうではない、「その人」はご主人に死なれたようだという噂も耳に入った。これまた確かめようがない。だが、なににしても私には文学とプライバシー侵害の問題は大きい課題であり、考えずにものを書いてきたことは一度もない。
* では、ホームページに掲載し公表している私の文章はどうなのか、創作はどうなのかという現実の問題に突き当たる。それについては、「覚悟を決めて書いている」というしかない。そういう文学の可能性を、少なくもここで自ら殺してしまわないことにしている。
1999 6/24 3
* 柳美里の小説がプライバシー侵害判決を受けて、いくらか話題になっている。私にも或る新聞から原稿の依頼があって送った。この問題は、決して小さくはない。論調は、なんとかして、これ一つの特異例であり大騒ぎには及ばない、柳美里だけの特殊例なんだと小さく小さく囲い込もうとしている、が、それがテレビ人間たちの一般論のようだが、それは違うだろう。画期的に文学の創作や文筆による表現に厳しい判決を突きつけている。しかも珍しく大方が賛成できる判決である。私の耳に判決に対する否定や否認や反論は入ってこないし、わたしも賛成である。それにもかかわらず、一人の書き手としてこれを思うときに、問題は小さくない。
わたしは、ペンクラブ理事会が討議のために緊急に集まってもいい、言論表現委員会がそうしてもいいと思った。文学の危機だとばかり、判決に抗議声明するためにではない。この機会に、文筆表現や創作と人権との関係をとくと論じ合ってみるぐらいな、真摯さが、文学の関係者には必要だと思ったからだ。行き過ぎた報道によって、公然平然と人権侵害が得意顔さえして行われている。編集不信は編集者のなかにも蔓延しているのだ。
そういう編集倫理を問題にしようとは、今更、考えたくもない、。情けないほどそれは諦めている。
そうではなく、文学が、人間を書くかぎり、どんな真面目で優れた創作であれ、大なり小なり書かれた人や世間を傷つけずに済むわけがなく、自分は傷つけていないなどと言う現代小説の作家がいたら、よほど、いい加減な人だと思うのだ。柳田国男のように、なにもわるく書かれていなくても、実名を書かれるそれだけでも「いやだ」と頑張る人もいた。他方その柳田の文筆で泣かされたり怒ったりした人は随分いただろう。我々には貴重で興味ぶかい報告や研究であった彼の民俗学で、事実傷ついた人たちは千、二千できかないだろうが、それはそれとして実にみごとな学問的成果にむすびついた。今、あれほどのことをしようとしたら相当な覚悟と、先立つ配慮とを要する。
モデル問題では、文豪島崎藤村はいちはやく近縁の関係者から告発を受けていた。『破戒』では、モデル問題ではなく、差別問題で烈しく糾弾された。私も藤村の思想と認識に不備のあることを藤村学会で厳しく講演したことがある。彼の名作『新生』など、もし縁戚からの告発が有れば、現在なら有罪は間違いない。藤村に限らない、日本の近代文学は、「書かれた」側の口惜しい血の涙の海を泳いでいる。しかも『新生』を初めとして名作や秀作や傑作が幾らもその中に混じっている。悩ましいそれが事実なのである。
その種の名作は、もう書かれない方がいいという判決であるのを、判決として私は進んで受け入れる。しかし人に「書くな」とも自分は「書かない」とも決して言わない。書く限りは「覚悟して」書くがいい。いい作品を書くがいい。不当に書かれた人は躊躇なく審判に委ねて、公論に決すればいい。泣き寝入りしないがいい。文学の名ゆえに人を傷つけていい道理は無い。それでも書きたいもの、書くべきものなら、書くなとは言わない。書かないとも言わない。覚悟だけは決めていなければならない。
わたしの新聞原稿は、掲載されてからこの場にも転載する。
1999 6/27 3
* 『慈子』上下をもって、はるばる時間をかけて京都の泉涌寺来迎院まで、梅雨の晴れ間に日帰りした人がいる。あいにくと蚊柱が立っていたようだ、長時間は含翠庭におれなかったようだが、しっとりとした風情には魅されたらしいい。懐かしい。折しも大河ドラマで大石の山科閑居にふれながらテレビでも庭と茶室とを紹介していた。小説では、あの庭で秋の夜ばなしに茶を点てた。茶室で、わたしは、父をうしなって泣く慈子を抱き、ともに泣いた。
高校の頃から、教室を抜け出してはこの来迎院の縁側にすわって時の経つのを忘れた。その頃は拝観料など無用だった。一度も咎められもしなかった。ああこんなところに好きな人をおいて通いたいと思った。もう源氏物語その他の古典にかなり親しんでいた。
来迎院の家族とも『慈子』を書いてから知りあった。すてきな若奥さんがいて、可愛い赤ちゃんが出来たころに一度逢っている。その頃はもう私は作家だった。『北の時代 最上徳内』の「世界」連載を終わったか終わる直前であった。その作中のヒロインが、肩先にひしと乗っていたような頃だった。
作品を作っているとき、わたしは、いつもヒロインと行を倶にしている。あの日、来迎院の、むかし慈子と初めて出逢った門前で、その若奥さんと赤ちゃんの写真を撮った。慈子も、あのとき私のもう一方の肩に来ていた。昔のヒロインと今のヒロインとが、とても仲良くてわたしは幸せだった。あのときのあの赤ちゃんも、もうひょっとして自分の赤ちゃんを抱いているのだろうか。
あの含翠亭に帰ってふかく眠りたい。いつか、あの庭は「慈子の庭」と呼ばれるだろう。
* 昭和十年十二月の誕生から四十四年歳末までの「自筆年譜」三百四十枚を昨日脱稿した。四十四年桜桃忌に作家として世に出たのだから、いわば「作家以前」の三十四年間を顧みたことになる。だれのために書いたのでもない、やはり自分のために書いた。一種の洗骨である。根を洗ったのである。自分自身に対する「モゥンニングワーク」を続けてきたと思っている。葬式はしなくていいと家族に言ってある。自分は自分で葬りたい。紙の墓も自分でしたい、人を煩わせたくない。
1999 6/29 3
* 年譜を作っていたら、作家になる前に重森と何度も何度もよく会っている。小説が本気で書きたいなら、「書きたい」なんて言わずに「書け」と背中を叩かれた。もし今日にも「新潮」から書いたものを見せろと言われたら「どうすんにゃ」と言われた。そんなことがあるわけがないと思ったが、道理だとも思い、わたしはビリッとした。そしてついに書き出した。しかも、ある日「新潮」編集部から、ぶったまげるほど突然に「作品を見せよ」と速達の手紙が、事実、来たのである、ウソでなく。わたしは、すでに三冊の私家版を出し作品を書き溜めていた。おかげで作品を見せることが出来た。
* 重森ゲーテは、まさに、我が生みの親の一人なのである。彼には他にもいろんなことを、節目に言われている。「秦はスケベー」と喝破したのも重森、「学問か、女か(妻のこと)、一つにしろ」と言い、わたしに、院の勉強を諦めて東京へ駆け落ちする決心をさせたのも重森だった。彼も書きたかったが書かずじまいで、わたしが物書きになった。「売れとらへんやろ、御前」と、今夜も見抜かれた。ホームページで「タダ」で人にものを読んで貰っている、「売る気はなくなつた、もう」と返事して反応を待ったが、彼はまじめに「そうか」と応えて、わたしの顔を見た。「そうなんだ」ともう一度返事した。いい気持ちだつた。またぜひ逢いたいと思う。
1999 7/1 3
* 一日に大阪で、今夕東京で、産経新聞に私見を発表した。柳美里さんの作品がプライバシーを侵害したという判決に関連して、「私小説とプライバシー」をどう考えているか書くようにとの依頼だった。私は、元来潤一郎や鏡花の末座にいる者で、私小説風に私小説を否認した小説作りをしてきたが、私小説の魅力は心得ている。生前わたしをいつも強く支持して下さった中に、瀧井孝作先生、永井龍男先生がおられたし、瀧井先生の『無限抱擁』は近代小説十指に数えていい名作だった。谷崎や漱石とならべて尊敬する島崎藤村の名作にも私小説と謂うべきものが幾つもある。わたしも、年をとるにしたがい、私小説で心根を洗い出してみたい気が動いていることは、たしかである。必ずしも新聞社の希望どおりには書かなかったかも知れないが、依頼してきた記者は原稿をよろこんでくれた。見出しは東西で違うけれど、原稿そのままに、以下に書き込んでおく。
* 作者は、覚悟を決めよ 秦 恒平
三十年、書きたい小説だけを、書きたいように書いてきた。
「書きたい」には動機がかかわり、「書きたいよう」には方法がかかわる。動機と方法とを、どれほどの文体と表現が支えるかで、作品が決まる。作品の優れているかどうかが、決まる。扱う材料で決まるのではない。「小説」ほど、どんな材料でも受け入れるジャンルは珍しく、だから『モンテクリスト伯』も『新生』も『城の崎にて』も『吾輩は猫である』も『変身』もありうる。問題になった柳美里の「石に泳ぐ魚」もありうる。柳作品がプライバシー侵害の判決を受けたことと、この小説が、作者の動機と力量とで高い評価をうける作品に成ったこととは、明白に、別ごとである。動機と方法が強い力で作者に把握され、その成果である「表現」つまり作品が優れた結晶を遂げたことと、今度の裁判の結果とは、同じ次元にはない。短絡は避けたい。
判決が示した判断は、私もふくめて、たぶん大半の市民や小説好きに支持されていると思う。電子メールで連絡の取れた友人たちで、判決の趣旨を支持しなかった者はただ一人もいなかった。ただし柳さんの小説を読んでいた人も一人もいなかったから、それらの意見は「一般論」になっている。私も同じだと断っておきたい。読者には読みたい小説を読む自由があり、世の中に、読まねばならない小説など一編もない。作者は、それを承知のうえで骨身を削って創作している。私小説であろうとなかろうと、小説を書くとは、ものを創るとは、そういう「覚悟」に支えられてでなければ出来ない。でたらめに出来るものを文学とはだれも呼んでこなかった。
柳作品だけの特異例であると、なんとかして小さく囲い込もうとするのも、違うだろう。一人の書き手としてこれを思うとき、問題は、そうは小さくない。
日本ペンクラブの言論表現委員をほぼ十年つとめているが、その間に、読者・関係者からの苦情に背を衝かれ、支援を願い出てきた著者が何人かいた。それぞれに対応したが、私の判断は、いつも、同業の作者支援より、被害の苦痛・苦情を現に持った側に傾けた。文学だから人を傷つけてもいいという道理は、どこにも無い。近代日本の文学史は、島崎藤村の頃からとみても、「書かれた」側の流した苦痛と汚辱の血と涙に満ちあふれている。そのけわしい不幸な事実と、そんな加害を敢えてしたとしか謂いようのない作品に名作、傑作、秀作も数多かったという事実とを、じつに悩ましく、われわれは今思い出しているのではなかろうか。
「ありもしないこと」を書いても傷つけ、「ありのまま」を書いても傷つける。「その人と分からぬように工夫すればいい」という意見はもっともで、聴かねばならないが、文学の「動機」の深さは、そんな工夫で片づかない一面をもつ。小説が字義どおり「表現」であるということは、根底に「暴露」「直視」「剔抉」の批評性ももっているのである。それとても悪や愚劣への非難からでなく、人の噂を楽しまずにいられなかった清少納言いらい昨今の「サッチー騒ぎ」に至るまで、日本人は、「噂」と「ほんとのこと」つまり浅い事実の詮索に耽溺するのが、大好きという性癖もかかえている。「私小説」繁栄のそれが土壌であったのは疑いなく、一般に日本の小説がそういう難儀な素質を、よほど深いところに孕んだ芸術であることは否定できない。
えらそうなことを言ったが、現に私自身の表現により、傷ついた人は大勢いたにちがいない。重々配慮したとも言え、配慮そのものを敢えて排した時もある。すべて「書かれた」人たちがじっと怺えてくれ、直接苦情を言ってこなかっただけで、噂では離婚にいたったかと耳にしている例もある。いたたまれず、真実つらい。
では、もう、書かないか。私は、書くべく命をうけてきた。おおよそ真面目な作家はそうであろうと思う。裁判の判決は判決として私は進んで支持したい。しかし私は書きたいことを、書きたいように書かずにいないだろう。ものを書く者が動機と方法を殺し、表現を殺すことは出来ないし、そのような自己規制はすべきでない。人は傷つけてはいけない。傷つければ今回の判決が待っており、その方向は、より厳しく広く重く拡大されて、創作者の前に、厚い高い当然の壁になる。不当に傷ついた人はためらわず抗議すべきである。しかし作者に必要なのは、自己規制ではない。罪せられても「そう書く」かの覚悟であり、覚悟のない者は去るしかない。どのように文学の方法が変わって行こうとも、人間と社会とを書くかぎりこの問題は色を変え形を変え、必ずついてくる。言えるのは「作者は、覚悟を決めよ」という自覚しかあるまい。
この「書く覚悟」と、敬愛や慈心をでたらめに欠いた「暴露」「歪曲」の許されぬ罪とは、別ごとである。まったく別ごとである。藤村の名作『新生』は訴えられれば「石に泳ぐ魚」の比ではないだろう。しかし、現代や未来のもし藤村に対し「書くな」と言う気は無い。私に対しても無い。ぜひ必要と信じるなら「覚悟」を決めて書くしかない。
創作とは、えたい知れぬ「何か」へ向けた、血のにおいの「確信犯」なのである。きれいごとでは、ない。
1999 7/3 3
* それにつけて胸にもう一度刻んでおきたい言葉がある。今日届いた志賀直哉全集第八巻月報に書いておいた「志賀直哉の自己批評」の中に、直哉が自作の「赤西蠣太」に触れてこんなことを書いている。この全文はエッセイのページに書き込むつもりだが、この箇所だけをここに書き留めておきたい。この小説の原料はじつはいろんなジャンルで使われていた。講釈の円玉も高座で話していて人気があった。直哉は言う。
「円玉の講談中の女中と此小説で書いた女中とは解釈が大分違ふ。此異ひは一方は所謂大衆対手、他はさうでないといふ所から来てゐる。所謂大衆といふものは私が現した女中よりも、円玉の現した女中の方を喜ぶらしい。若しさうとすれば、そして若しさういふのが大衆といふものであるならば、その大衆を目標にして、仕事をする事は自分には出来ない。己れを一人高くするといふ態度は不愉快であり、いやな趣味であるが、現在の大衆に迎合するやうな意識を多少でも持つた仕事は娯楽にはなつても、仕事にはならない。」
「仕事」とはむろん直哉の考えている「文学」「優れた文学作品」の謂いであるのは無論であろう。これに対しわたしは、「完璧に代弁して貰った気がする」とコメントしている。実感である。直哉の謂う「娯楽」をわたしは好んで観るし読みさえするが、書かない。書きたいものにそれは入って来ない。
1999 7/3 3
* 昨日届いた『志賀直哉全集』の第八巻、これがまた随想短章ばかりで小説と言うにはあまりに身辺心境の短文章ばかりなのだが、つまり伝奇なんてものは微塵も縁のない文芸だが、これが実に佳いのである。どれ一つを読んでいっても、心洗われる。清々しくなる。カタルシスの効果が身に溢れてくる。ああ、これでも文学なんだ、どんな伝奇ものにも屈しない力を持っているんだと感嘆する。
1999 7/4 3
* シンポジウム「ぺール・クルマン氏と語る─オン・デマンド出版の力」を聞いて
<11月22日紀伊国屋ホールに於いて> 報告:野村敏晴
今、オンデマンド出版というのが大きな話題になっていますが、11月に新宿・紀伊国屋ホールでシンポジウムがありましたので報告します。
オンデマンド出版は、製版や刷版をしないでパソコンから高性能プリンターでプリントをして製本する方法と考えていいかと思います。従って1部からの、300あるいは500部くらいまでの少部数出版が可能というものです。1部2000円くらいから販売可能ということです。
出席者:ぺール・クルマン氏(スウェーデンの詩人)
松田哲夫氏(筑摩書房常務取締役)
津野海太郎氏(「季刊・本とコンピュータ」編集長)
●以下ペーテル・クルマン氏の講演から(スウェーデンの現状報告)
・書店がファストフード化している。
・再販制度がなくなってから、大量に印刷されたものか、ベストセラーしか本が並ばなくなっている。
・書店の棚におかれる時間が短くなっている。
・取次の価格競争が激しい。
・スウェーデンでは本の寿命が短すぎると感じている。特に純文学や詩集が売れなくなっているし、書店に並ばなくなっている。
・以上のようなことから作家を中心にして、オンライン上のオンデマンド出版社である PODIUM出版社を設立した。これによって、1部からでも読者の注文に応じることができるようになった。
・スウェーデンでは公共図書館が重視されていて、図書館から本が貸し出されると、一回につきアメリカドルに換算して20セントが作家に支払われる。うち50%は作家基金に。
◎PODIUM出版社について
・オンデマンド出版はすぐに利潤を生むものではない。
・現状の技術・システムの上に補足的にオンデマンドを取り入れるということ。
・絶版本を再度出版するのも目的の一つ。
・スウェーデン作家協会の会員は10%が異文化民族の人たち。オンデマンド出版によって、彼らの言語で少部数出版をすることが可能になった。
・民主主義の促進のためには書店の存在が重要と考え、PODIUM出版社はインターネットで注文を受けると書店に送品し、読者は書店に受け取りに行く。
・読者には欲しい本と欲しくない本を実際に見て撰ぶ権利と必要性がある。したがって、書店の存在は重要。
・少部数の書籍化と発売を可能にするということからも、オンデマンド出版は言論の自由とも関わりがあると言える。
・誰にでも出版の機会を与えたい。
・異なった部数、異なったページ数も印刷可能。表紙もデジタル印刷。
・PORISKOPという商業出版社がありPDFファイル(デジタル送信)の出版をしている。、PDFで見て人気が出て、オンデマンドで少部数出版され、その経過から新たに商業出版されベストセラーになると言うこともある。
●以下パネルディスカッションから
・500部以上はオンデマンドになじまない。
・100人ほどのクラスや講演会のテキストを、オンデマンドで本にするということが考えられる。
・オンデマンドはメインではなくサブシステムである。ただしサブシステムのなかから生まれたものがメインシステムに移行することもあり得る。
・コンテンツをどう確保するか、印税をどうするのか。5部しか出ない本の印税を毎月払うのかといった問題がある。
・オンデマンドは少部数出版のため広告費が捻出できない。従って商売としては成り立たないのではないか。
・書店はどうなるのか。
・2年ほど前までは売れない本も市場に流せる寛容さがあった。現在は、売れるか売れないかの二者択一の価値基準になった。オンデマンド出版によってこの二者択一ではない出版が可能になるのではないか。
・アメリカでは多数の絶版本の権利を所有して商売しているところもすでにある。日本では、デジタルデータがそこまで完全ではないのでむずかしい。(責了時に訂正が入っていて、最終的なデータをそのままの形では使えない。)
●以下は当日出席した野村の感想です。
出版物の製作とインターネットを初めとする流通は、劇的な技術革新によって刻々と変化していますが、これは、作家および編集者・出版者の出版の権利、そして言論の自由の問題など多くの問題とかかわっています。ペンの会員も充分注視し、時には発言していく必要があるかと思います。
・再販制度がなくなってからベストセラーしか書店に列ばないというスウェーデンの現状が、昨今の日本の現状と(再販制度が存続しているにも関わらず)似通っていて、これは何に起因するのか興味を覚える。流通システムの問題だけではない他の原因を考えてみる必要があるのではないか。
・再販制度がなくなってから、価格競争が激しいというスウェーデンの現状は、いずれ日本も襲うか。印刷部数に対する印税ではなく、売れ高に応じた印税支払いなどの現象が出てくると思える。そこで、好条件で契約を結べる作家と、そうでない作家との差が出る。売れ行きが必ずしも品質の良さを証明しないことが問題。
・スウェーデンでは、図書館の本でも、貸し出された回数に応じて印税が支払われると言う。これはおもしろい。中古ゲームソフトの訴訟問題ではないけれど、出版社も貸し出し回数に応じて利益の配分を受けられれば、弱小出版社も少しは助かるか。でもその資金源は税金?
・少部数販売で著作権料を支払う、というのはやはり難しい。デリバリーを含めて、もちろん細かなコスト計算をしなければなりませんが、不可能でないにしても、手間がかかるばかりでやっかいかも。
・確かにオンデマンド出版は商業ベースには乗りにくいが、DTPで編集しフロッピーを渡せば本になるというのは、誰もが著作者になれると言うことで、見かけは民主主義に貢献するかも。しかし、読む人があるかないかは別問題。むしろ、資金がなく、かつあまり売れない(プロ)作家にとっては、やはり受難の時代に変わりはないかも。
・インターネットがブームで、本を読む時間がパソコンの画面に向かう時間にとって変わり、本代がパソコン代に変わったわけで、可処分所得は数年前も今さほど変わらない(むしろ少ない)のだから、本が売れなくなり、今度はその本をインターネットで売るというのは、これは矛盾しているのではないか、とも思う。
・私も、オンデマンド出版はサブシステムだと思う。インターネット、衛星を使ったデジタル送信、オンデマンド出版プリントメディア、これらのメディアミックスがどのようになされるのか、なしていくのか、ということに興味があります。
・単に書店の存続が民主主義に繋がるとは思わない。そもそも書店も出版社も直接読者と向き合っていないのではないか(志のある書店が少なくなったような気がする)。読者と向き合うために、インターネットでも衛星でも利用できるものはすればよいと思う。
・最後に、津野氏の発言にあったように、2年前頃までは、売れない本も市場に流せる寛容さがあった。今は売れるか売れないかの2者択一の価値基準になった、という言葉が印象に残っています。つまるところ、これをどうするかという問題に尽きると思います。
* 野村さんにご苦労をかけたが、大変誠実なレポートになっていて、このトレンディーな話題に関して、良く纏まった便利な整理がされている。大方の参照・参考に堪えるものとして敢えて此処にも紹介した。
1999 12/2 3
* つい先日も誰方かが、「あなたは作家になるべき人であった」と言われたが、何故とは問い返していない。そうかも知れないが、分かるとも分からないとも言える。
これでわたしも、ずいぶん大勢の作家を識ってきた。作品だけでの作家も多いが、接した人も多い。深く敬愛し畏怖した人もあれば、まるで信頼しない作家も少なくない。作品を深く認めて尊敬する人となると、そんなに大勢いるわけがない。これは仕方がない、誰もがお互いにそんな按配であるに違いない。
そういうことは別にして、それでも自分は、よほど他の作家たちとはちがう神経をしているようだと思うことがある。資質的にひとり己れを高く謂うのではない。変わっていると想うのであるが、作家はたいてい変わっている存在だった、昔は。この頃はフツーの人の方が多いのかなと思うぐらい無頼な人は少ない。面白くもない。わたしだって、そう見られているかも知れないが。
自分の変わりようを、うまくは表現出来ない。文学を愛している、が、自分の人生をもっともっと強く愛している、それに執着しているのかも知れない。人生で出逢った大勢の人、大勢ではないかも知れないが、親密に触れあえてきた何十人、百何十人かも、五百何十人かも、千人かも知れない、「魂の色の似た」いろんな人たちへの思い出を、ほんとうに大事に大事に感じ続け、文学への愛もそれを超えはすまいと自覚している点で、わたしは変わり者の素人作家である気がする。
そういう人たちが先ず在ってわたしは「文学」してきた。死んでしまった育ての親たちも、実の父母も、兄も、異父姉兄もそうだが、生きて元気な何人も何人もの一人一人と、わたしは、いつでも、どこにいても、向かい合って生きて来れた気がする。一人一人を、ONE OF THEMなどと思ったことはない。兄の言葉を信奉して用いれば「個と個」「個対個」の一期一会である。
1999 12/16 3
* 古典の現代語訳というと谷崎などの源氏物語を誰もが思うが、もっと間近には古典全集のたぐいで対訳した本がいっぱい売られている。たいていは校注の研究者学者が訳しているのだろう、が、この日本語が「ひどい」ので呆れることがしばしばである。ケアレスミスで間違えるのは、仕方がない。そういうことは誰にもある。わたしなど、よく、やっている。そんなことでない、訳された日本語がとてものことにまともでない、訳したよりも原文の方がよほど明解で分かりいいという例が、あまりに多い。
岡見正雄先生も、そういうことを憂えておられたのだろうと思う。「あんたのような人が現代語訳してくれないといけない」と言われた。そのことを、その後もよく思い出す。いま『狭衣物語』を読んでいるが、訳文は、すさまじい。困ってしまう。
源氏物語を以前ごく一部「京ことば」で訳したことがあり、亡くなった中村真一郎さんがとても気に入っていたらしいと漏れ聞いていた。中村さんも亡くなってしまったが、彼は、私の源氏物語理解が一番だと人に漏らされていたことも、また漏れ聞いている。
もっとも、源氏物語をどうこうしたいという気はない。谷崎先生のでいいだろう、他にも幾つもあるが今さら読む気もない、原文で何度でも読みたい。
しかし『夜の寝覚』なら訳してみたいなという気がある。源氏物語のヒロインでなければ、あとはあのヒロインだと思う。作り話の小説にしようとは思わない、現代の日本語で優しく訳してみたい。いずれ、ヒマになるだろうから課題に挙げて置いて佳いなと思う。 1999 12/18 3
* 辻邦生の佐保子未亡人からモウンニングワークの遺著を贈られた。昨日は新井満氏から、今日は三田誠広氏から、エッセイ本を貰った。
凛として襟を正すような本が読みたい。そういうものが書きたい。書けるモノなら何であれ、書きさえすればいいのだろうか、本になればいいのだろうか。そう思っていた時期もあったが、そうは思わない。
義経記を読んでいると、流布本の平家物語が、いかに素晴らしい古典かが分かる。
1999 12/22 3
わたしは「仲間」で文学したことが一度もない。出身大学を基盤に二度ほどそんな動きに絡められそうになったけれど、成るまいと予期したように雑誌は成らなかった。惜しいとも思わなかった。寄って集って青臭いより、一人で孤独に青臭い方が恥ずかしくなかった。
1999 12/27 3
* 以下は歳末号「出版ニュース」に請われて発表した原稿のままである。これがわたしの「闘い=ゲリラ」であるからは、挫けずに書いておくのだ。何と闘うのか。「出版」とか、ちがう。この仕事はむしろ「出版」を助け補っている。人がおのがじし抱いている「弱さ」わたし自身の「弱さ」と闘うのだ。
* 再び・作者から読者へーー作家の出版
秦恒平・湖(うみ)の本 十四年の歩み
結果として私版の文学全集を成しつつある「秦恒平・湖(うみ)の本」の刊行に、読書界から、このところ、関心を寄せて下さることが増している。何故だろうか。
一九八六(昭和六十一)年の桜桃忌を期して創刊第一巻『定本・清経入水』を出した、その巻頭に、大略以下のような所感を私は掲げていた。
*
「帰りなんいざ、田園まさに蕪れなんとす、なんぞ帰らざる」と陶淵明は『帰去来辞』に志を述べた。いまこそ、親しんだこの詩句に私は静かに聴きたい。
文学と出版の状況は、ますます非道い。良い方向へ厳しいのでなく、根から蕪れて風化と頽落をみずから急いで見える。
幸い私は、この十数年に都合六十冊を越す出版に恵まれてきたが、また、かなりの版が絶えてもいる。絶えかたも以前よりはやく、読んでいただく本が版元の都合一つで簡単に影をうしなう。数多くは売れないいわゆる純文学=芸術の作者はあえなく読者と繋がる道を塞がれてしまう。私は、「帰ろう」と思う。
もとより創作をさらに重ね、機会をえては出版各社から本も出し、商業紙誌にも書いて行くことは従来と変りない。が、もともと私家版から私は歩き出した。今、私にどれほどの力があろうとも思えないが、望んでくださる読者のある限り、その作品が本がなくて読めない…という事だけは、著者の責任で、無くしたい。
読者は作家にとって、貴重な命の滴である。一滴一滴が、しかも大きな湖を成すことを信じて作家は創作している。作家と作品とは、そのような母なる「うみ」に育まれ生まれ出る。
本は、簡素でいいのである。版の絶えている作品の本文を正し、時には新作にも必要の場をひらき、そして本の常備をはかりたい。作者から直接に(出費を願って)読者へ、また、読者から直接に(作品を求めて)作者へ、もっぱら口コミを頼みに、可能な限り年に数冊。「創作」の自由と「読書」の意志とがそうして細くとも確かに守れるのなら、そこへ、私は「帰ろう」と思う。久しい読者との、さらには新たな読者との重ね重ね佳い出逢いを願わずにおれない。
*
いつごろこの「湖の本」を発想しただろう。最初にはっきり口にした場面なら、よく記憶している。筑摩書房の三人か四人の編集者と、当時社屋は駿河台下にあったので、あの辺のにぎやかなそば屋へ昼飯にでかけた。
「自分の本を自分で再編し復刻して、本が手に入らず困っている読者に、自分の手から送って上げたい、が、採算はとれっこない。ま、贅沢に遊び回る私ではないが、遊びの金を宛てるぐらいの覚悟でやってみようかな」と。
筑摩の人が賛成したとは覚えていない。賛成するわけはなかった。
幸運にも、太宰賞いらい、人が驚くほど私の本は数多く出版されていた。何年もの間、年に四冊も五冊も六冊も出ていた。小説は慎重に書き、エッセイや批評は大胆に数多く書いた。日に五枚、年に千八百枚程度だったが、右から左に単行本になっていった。
だが、たくさん売れる作風ではない。熱い読者がいるとよく編集者に励まされたが、そういう作者に、不特定大多数の読者は却ってつきにくい。出した本はさっと無くなり、その後は手に入りにくい。版元に増刷は強いられない、割高についてしまうからだ。
で、版元の肩代わりを私がして上げよう、そうすることで、作品と読者とへの作者の責任を取れないかと思った。「読みたい本が、本が無くて読めない」という情けない思いを読者に、とくに地方在住の佳い読者たちにさせるのは、今日の出版の、余儀ないとはいえ大きな責任放棄だとわたしは感じていた。
泣き言を言って引っ込むのが嫌いで、出来そうもないことを人に頼るのも好きではない。赤字出血は仕方がない、飲み食い遊びを控えれば足しになるわけだし、手持ちの技術で本は作れるからと、むかし編集制作者だった私は、自分で自分に鞭をあてた。慎重に計画し、八六年六月に創刊にこぎ着けた。予想外に反響と支持は大きかった。幸運だった。
以来、十三年半を経て「湖の本」は、創作42巻、エッセイ19巻、通算61巻に達している。この間に出していった市販の新刊著書も、通算すれば百冊に及ぼうとしている。現役作家として終始働いてきたし、江藤淳の後任として東工大「文学」教授も定年まで務め、今は日本ペンクラブ理事を二期め、京都美術文化賞の選者も十数年務めている。九八年四月からは新たな文学活動の「場」としてホームページ『作家秦恒平の文学と生活』を開き、約三千枚の各種の原稿を日々更新しつづけ、また発言しつづけている。
そういった中での、多年「湖の本」の停滞なき持続には、どんな意味があるのか、意味はないのか、その評価は当人のする事でなく、ただ「事実」を挙げるにとどめたい。
「作者から読者へ ー作家の出版」と表題して本誌に寄稿したのは、創刊から半年後の、一九八七年初めだった。「湖は広くはならないが、深くなった」と、作品を介して読者と作者との直の関わりが支えた「刊行事情」を、率直に報告した。エッセイのシリーズが創作に伴走し始めたのは、もう二年後、やはり桜桃忌に、第一巻『蘇我殿幻想』を読者の手に届けて以来だが、これが成功した。巻頭に私はこんなふうに述懐した。
*
この三年、言うまでもないが、私は孤独ではなかった。刊行の作業は予想を超えて厳しいが、どれだけ多くのご支持に支えられて来たことか。無謀とさえ見られた『湖の本』がもう三年・十二冊を送り出し、幸いに今後の継続を可能にしているばかりか、あらたに『湖の本エッセイ』の刊行もごく自然の流れで、読者に待たれるようになった事実が、それを証ししている。感謝にたえない。と同時に、このような、いわば悪戦苦闘に内在し潜勢している文壇や出版への「批評」を、すくなからぬ方々が察してくださるのだと思いたい。「湖」が広くなったとは、言わない、しかし、深くなっている。良き繰返しの一度一度を、一期を賭して繰返したい。
これからは、「小説」のシリーズに「エッセイ」のシリーズが伴走することになる。私のエッセイは、小説と両翼を成している。それも読者は、よくご存じであった。
*
そうはいえバブル景気は砕け散り、出版と読書にも深刻に影響した。「湖の本」も継続読者の葉の散り落ちるような脱落に見舞われ、一と頃の三割がたも人数が減ったし回復できていない。だが製本部数は減らさなかった。思い切りよく全国の大学の関係講座や図書館に寄贈して行った。資金的な出血をすこしでも押さえたいのはやまやまでも、もともと利潤の上がろうわけがない私家版であり、私の仕事をより広く知ってもらう意味では、「大学」に寄贈と決めたのはすこぶる正解だった。在庫をもち、読者の希望に応じ即日送り出すという当初の思いも、間違いなく果たし続けてきた。城景都氏の傑作画に飾られた簡素に美しい造本も、旅行者には恰好の友とされ、また作品内容を吟味しては贈り物に利用されることも多くなっている。僅かながら外国にも読者があり、石垣島から稚内まで、口コミひとつでひろげた読者の網は、目は粗いけれど、日本列島をくまなく覆っている。部数は減ったが、現在九割五分までが親密な「継続」購読者であり、作家、批評家、編集者、新聞記者、学者、研究者、教師、他の芸術家にも支援を得つづけてきた。
だが苦心も工夫も必要だった、それでも維持するのは大変だった。
最初にもし百人の読者がいたとして、次回は、減る人と増える人とが同数だと前回分維持であるが、初めの内は、手をかけなくても、勢いで右肩上がりが期待できた。だが長くは続くわけがない。口コミしか頼れない以上、手をかける必要は巻数を増すにつれ、ますます深刻になった。
一度送金してもらっても継続の意思の判明しない人、次は要らないと告げられていない人には、必ず次回本を送った。気に入らなければ「送金の必要も返送の必要もありません、本の好きな人に払い込み用紙も添え差し上げて下さい」と、送った。本そのものを人目に広めたく、また一冊でも勝手下さった読者に感謝の気持ちもあった。一冊分の支払いで二冊届ける結果になることがずっと多くても、それでよいとした。このおかげで、その後「継続購読」して下さった方も、かなりあったのだ、無ければ、部数は減る一方になる。
注文は受けていないが、この本はこの人にはどうかなと、趣旨または依頼を添えて送るのも大切な工夫だった。気が動かねば、「返送・送金に及ばない、誰かに差し上げて下さい」と明記のうえ送った。こんな本を出しましたからと、本を見てもらう、手に取ってもらう。手紙だけで頼んでも何の役にも立たない。代金の送金をはなから諦めて本を届けてしまう、それでなければ新しい読者には出逢えないのである。
だが、そういう「送れる先」を見つけ出すのが、何よりナミたいていの苦労ではなかった。この苦労を厭わなかったのが、十三年半を、かつがつ維持させた。そこで生じる若干のトラヴルを怖れていては、自滅して行くだけであった。作品と本とに自信をもち、押すべきは押さねば維持できない。それは情熱に類することであって、商行為ではなかった。収入増にはまるで結びつかない、いわば「タダ本」を撒くことにしかならないのだ。だが、撒かれた「本」が口コミの材料となり「湖の本」の存在が少しずつ知られて行くと、数は増えなくても、大きく減って行くのをなんとか防いでくれていた、と、その実感が今にして持てるのである。
親切な読者に「紹介」を願うことも諦めてはならぬことだった、紹介が紹介を生んで、思いがけぬ連鎖の網目が広く出来てくる。これが有り難い。感謝しきれないほど有り難い。手繰って行けば、多い人なら数十人にも、もっと多くにも、輪を広げて貰ってきたと思う。
どんな内容の本が、どんな順番で、刊行されてきたか。読者との約束事がどうなっているか。それは私のホームページ
http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/
の「湖の本の事」という頁で御覧願いたい。最新刊の創作第四十二巻は、未刊の新作『丹波・蛇』を平成十一年十一月末に刊行した。前者は敗戦前後のいわゆる疎開生活に焦点を結んで、自伝の一部を成してゆく。この少年時代の二十ヶ月が、創作生活への基盤とも推進力ともなったことの自覚を動機にしている。後者「蛇」は、「丹波」と深く連携して作者の思想形成に寄与した重い主題を、敬愛する泉鏡花論に重ね、金沢市での石川近代文学館主催講演会で話した講演録である。併せて、異例だが「参考」に、妻迪子の「姑」一編を敢えて加えてある。
ところで先ごろ新宿紀伊国屋ホールで「オン・デマンド出版」のシンポジウムがあった。講演したP.グルマン氏の話を聴きシンポジウムの各パネラーの話もつくづく聴きながら、いつのまにか「秦恒平・湖の本」が出版時流の最先頭をきって走っていたのだと思い当たった。本が売れないと出版社は言い訳をするが、売れる本だけを売れるにまかせ、売れにくい本でもなんとか売ってゆこうという工夫も努力も棚上げしていたに過ぎないのだし、これでは出版文化の実質が腐ってきたのも無理はない。私は、そんな非道い澱みから身をのがれて、自力で、読者と連帯のきく潮目に棹をさしてきた。べつの見方をすれば赤坂城や千早城に籠もった楠正成の悪戦苦闘に異ならず、落城はもう目前に相違ない、が、はからずも「紙活字本」にかわりうる「電子本」が、出版の流れを大きく動かそうと登場してきた。六波羅探題も鎌倉幕府も安閑とはしていられなくなっている。
だが目下は、私一人の事情で思い、また、私と立場の近い純文学作家、愛読者と実力とを十分手にしている作家たちからすれば、著作権があいまいで不利の予想されるな電子本方式よりも、各自に工夫を凝らした「湖の本」方式で絶版本に息を吹き返させ、新刊も世に問える「場」も手中にしてゆく方が、実質、実りがあるのではないかと、そんな気もしている。
ただ、我が「湖の本」の場合、既成の文芸出版社の露骨な敵意にも堪えねばならなかった。私を世に送り出した筑摩書房にさえ、作家生活三十年の一冊を、何を出すとの一顧の検討もなく拒絶されてしまう。文庫本一冊の企画もないことと「湖の本」の十四年・六十余巻の持続とは、どうみても「質」的に均衡をえていないと、私が言わなくても然るべき人が怪訝に思ってくれる。グルマン氏らの報告や討議の中でも、物哀しいまで既成の出版権力への遠慮が語られていたが、いわゆる「出版資本」の固陋な認識やバッシング意識は想像を絶して根強いのである。同じそういうことが、実験段階に入っている「電子書籍コンソーシアム」にも「オン・デマンド出版」にも生じないこと、排除と独占の論理で新世紀の新出版モラルが汚れないことをぜひ願いたい。
1999 12/28 3
ファイル4
* かつて「恋文」という一文をかいたことがある。余儀ない事務的な手紙もあり、ときには憎しみに満ちて書く手紙も無かったとはいわないが、七割、八割がたのわたしの手紙は、宛先が男性であれ女性であれ、気持ちは「恋文」のように書いてきた。意図して「つくった」気持ちではない、手紙というものは本来は「恋文」なのだと思っているのである。相手の人を大切に思えば思うほど、自然とそうなるのが「手紙」であると思う。日本中にわたしの恋文が散らばっていて、そこから、どのような美しい誤解の花が咲くことか、おそれてはいない。醜い事実よりも、誤解という絵空事が不壊の真実を匂わせることを尊いと思っている。この筑波嶺近くの人とも、逢ったことは一度もない。短歌の「七月」は、当然「ふづき」と読んであげたい。
1999 7/30 4
文学の場合も、わたしは作品論が好きで、作家についてどう議論をひねりまわしても、論者の意気込みや気張りようはうかがえても、そんなのは作品を面白く読むのにあまり役に立たない。
作品は魅力的に迫ってくるが、作品ならぬ作家をとやかく言い続けた文章など、そうは多くは教わらない。味気もない。作家についての終始人間論だけでは退屈してしまうだけでなく、つい、それがどうしたと言いたくなる。
1999 8/3 4
* 把握が強ければ表現も強く深くなりうる。それが、わが思いの芯にある。志賀直哉は、場面が、しっかり目に見えるように想い描けてから、その通りに書けと繰り返し言っている。想像力や自己批評力が不足していると、「にわか雨が急に降ってきた」などと平気で書く。気取って、自分の母を「お母様は」などと言いながら、そのお母様の好意やもの言いへの敬語が、ばらばらに、使われたり使わなかったりしている例を、今日も、人の小説で読んだ。推敲すれば容易になおるものを、読み直してもいない。インターネットの上で、いともあっさりと小説らしきものが氾濫しているが、しっかりした文章にはひとつもまだ出会えない。出会いたいと捜しているわけではないが、ただの「創作ごっこ」にもパソコンが愛用されていて、そこに批評の力が全然働いていないとなると、光る星に出会うのは奇跡に近い。
わたしは、日々に、かなりのメールを親しい友人たちと交換している。顔も知らない人が多いけれど、長い間例えばわたしの「湖の本」などを介してのお付き合いがあるから、お互いに気心が通じている。魂の色も自然に似ているらしい。そういう間でのメールの文章は、気軽であれども、親しんで狎れないから、気持ちが佳い。絹のような風合いで書く人も、麻のように涼しげに書く人もある。詩人は詩人の、歌人は歌人の、画家は画家の、しっとりと正しいものの把握がある。だから佳い表現もある。メールを楽しむのは、なにも、ヒマを弄んでお喋りしているのではない。
19998・18 4
* 文学や映画の主題に、「愛と死」はつきものだが、それらを乗り越えて、またはもっと深めて、われわれを真に感動させているのは、「真の身内」が描かれている場合であろう。
真の身内とは、なにか。
親子や夫婦や親族や兄弟姉妹。それがそのまま「身内」でなんかあり得ない実例は、山ほど世間に転がっている。
わたしは、早くから、子どもの時から、そういう「名乗り」の関係だけで結ばれ合っているのは、要するに「他人」同士だと思っている。親子も夫婦もきょうだいも、「自分」ではないのだから、即ち「他人」である。「身内」とは、そういう「他人」や「世間」の中から選び取った、或る種の独特な同士をいう。これは譬えて謂う以外に説明しにくい。
* 人は「世間」という広い「海」に、投げ込まれるように生まれてくる。生まれると人は、自分の脚だけを載せられる小さな極限の「島」に一人で立つ。一人だけで立つ。孤独な、孤立。それが「生まれる」ということの真の意味だ。島から島へけっして橋は架からない。人は淋しくて他の島へ呼ぶのだが、橋は架からない。
それなのに、その筈なのに、気がつくと、一つの島、自分一人しか立てないはずの島に、二人で、三人、五人、十人で立っていると実感できる時がある。錯覚、極めて価値ある高貴な錯覚であるが、そのような錯覚あるいは絵空事の真実を、真実分かち合える同士が「真の身内」であり、人は、心の奥底でつねに孤独にさいなまれながら「真の身内」を求めている。あらゆる人間の劇、ドラマ、物語は、実はその欲求をこそ書いてきたし、書きつづけている。そこまで気がつかず、愛の、死の、損の、得のというレベルでし小説や演劇を、人の世を、浅く見て納得しているだけのはなしなのだ。
さもなければ「俺たちに明日はない」が、「明日に向かって撃て」が、感動をもたらす道理がない。主人公たちは、或る側から見ればどうしようもないならず者の犯罪者ではないか、どこに感動の種があるか。しかし、感動する。かれらが「真の身内」であり、一人でしか立てない「島」に二人ではっきり立っているのを認めて、うち震えるほど羨ましいからだ。
「真の身内」は極めて難しい。「身内崩れ」は容易に起こる。今夜の映画で、二人の男に真実愛された女も、死をわかつことで来世をも分かつ決断は出来ずに、去った。「真の身内」とは、ともに死んで、ともにまたあの世でも生きうる仲である。「倶会一処」を信じ「倶生倶死」を果たせるかどうか。そういう身内が欲しくありませんかと、わたしの脚色した戯曲、漱石原作『こころ』で、「K」は「お嬢さん」に問うていた。
わたしは小さい頃から「真の身内」が欲しかった。身内とは、一人でなく何人でも何人でも出逢いたい。本当に今もそう思っている。探し求めている。ただ一人の「真の身内」もないままに死んで行くのが、即ち地獄だと想っている。
わたしはこの「身内」観を、「島に立つ」というイメージで育ててきた。意識して育ててきた。私のこの身内観で感動の質の説明されうる世界の名作・秀作がどんなに数多いことか。「身内」を求める孤独と愛と歓喜、求めて求め得ぬ孤立と不幸と死。究極は、おおかたが、そこへ徹して行く。そこへ徹して行かないものは、どこかでチャチだ。作品に風がそよがない、命の叫ぶ声が聞こえない。
* 忠臣蔵があんなに人気を保ってきたのも、最期は四十七士の倶生倶死、一つの「島」を奇跡のように共有し得た「身内」としての在りように感動しているのである。ただ、まだそれを「哲学」として意識し確認することの出来る人が少ないだけで、無意識には皆が憧れているのである。人間の意識市場でこれがはっきり評価されるようにならない限り、わたしの小説はなかなか売れない、が、希望はある。
モンテクリストは最期にエバという身内を得て去って行く、現世から、希望を持って。『嵐が丘』のヒースクリフとキャサリンとが、あれこそが「身内」だと思わない人はいないだろう。春琴と佐助も、わたしの「春琴自傷」の読みをとれば、まさに真の身内である。江藤淳夫妻も「身内」として逝かれたといえば、かなりよく分かる。
* 志賀直哉夫妻、いや彼の家族にも、めずらしいほどの「身内」意識が濃い。稀有な例の一つである。直哉の全集を全部読んでも、得られる知識は、彼の家族家庭親族のいろいろについてだけといってもいい、それが八割も九割も、それ以上も、占めている。余所様の家庭のなかをこれだけ徹底的に、日常感覚で、たいしたドラマも波瀾もなく覗かせられるなんて、普通なら何の役にも立たない。それなのに読んでしまう。読まされてしまう。独特のトーンで実現している「身内」が、惹きつけるのだと想える。羨ましいまでの温かな赤裸々が、我が儘に、ありのままに露出している。直哉の文章や文体だけを我々は言い過ぎてきたのではないか、その「身内」意識の質も問い直されて佳いのではとわたしは思う。
1999 8/19 4
* ある野菜を売るおじさんが、テレビで野菜の選び方を丁寧に話していて、要領がいいばかりか、じつによく聞こえる。おじさんのそばで相手をする女子アナウンサーの話は早口で独り合点に上機嫌で、聞き取りにくい。一つには、おじさんの話し方には、キイになる言葉を引き立てるように、いわば句読点が親切に打たれていたのであるが、一般にお利口そうな女子アナほど、一口に喋るセンテンスの長いこと長いこと、それが自慢と言わんばかりで、体言と用言とが単調に一ツラに一気に喋られるから、つまり句読点のない長ぜりふにして喋るから、聴いていても堪ったものではない。
「あの違いは、簡単に言えるわね。聴く人の身になって話している人と、話している自分に浮かれている人との違いね」と、よこで妻は、わたしの思っている通りのことを言う。
顔だけがいやに前に出て、かんじんの言葉は口さきで囀っているのがワンサといる。話し方のプロではないのか、少なくも「意味」を正確に伝えて聴く耳に届くように「言葉への情」を深くしてほしい。
簡単なのは、「息にあった適切な自分なりの句読点」を、「聴く人の身になって」打てばいいのだ。わたしは句読点に気を遣って書き、また話そうとしている。
1999 8/24 4
* 今日も、或るべつの画家から手紙をもらったが、「隅々まで意識してからでないと繪は描けるものでない」と、手紙の最後の辺に書かれていた。芥川龍之介はそういう作家で、一度始めから終わりまで構想し尽くしてからは、どんな途中からでも混乱なしに小説が書けたなどと伝説化されている。そういうところが芥川作品の魅力でも有ろうが、短所ともなっているだろう。石川淳は創作は一歩一歩暗闇へ踏みこんで行く作業だと言っていた。わたしもそうだと思う。敷かれた軌道を走るような創作には、弓なりに反って曲がって、それでも前に進んで行くねばりの強みは出てこない。
繪も同じでは無かろうか。昨日観てきたセザンヌは、風景といい人物といい静物といい、あの水浴のモチーフいい、必ずしも多彩にいろいろ題材を描いていたのでなく、似たモチーフを繰り返し繰り返し描いていた。描きながら意識し、また描いて意識を新たなものにし、また描いていた。
「隅々まで意識してからでないと繪は描けるものでない」と言っていたら、この画家はいつになったら描けるのだろう。
1999 9/11 4
* 「私語の刻」は、ただの日録ではない。「つれづれ」に日は送っていない、送りたくてもそれは無理であるが、また「徒然草」を庶幾する気もないのだが、これも「文藝」と思い書いている。日々にエッセイをたっぷり書いているようなもの。
志賀直哉全集を見ていると、作品十巻中の最後の三巻ぐらいは、量的なことだけ言えばわたしの「私語の刻」の一日分、一段落分と変わりない程度の短文ばかりで占められ、それらを、直哉は、ナニ憚ることなく「仕事」と称している。彼の「仕事」とは「文学」そのものをいつも意味している。
文章を書くということは、作家にとってはたしかに仕事であり表現であり、事実を事実らしく書いていても創作なのである。直哉はそれに徹し、わたしも、それだけではないが、それも肯定している。
1999 9・13 4
* 山種美術館が贈ってくれているカレンダーの今月の繪は、小林古径の「菓子」で、林檎五つと青みの洋梨二つ、すばらしく清潔で、佳い香りのする静かな画面である。背景も下地もまったくない、ただ果物が無造作に。それでいてコンポジションの確かなこと、無垢に熟れて初々しい林檎の肌といい洋梨の生彩といい、そして背後の深い無の世界といい、目を吸い寄せてやまない。写真でこれだもの、実の繪をいますぐにも山種へ行って観せて見せて欲しいと思ってしまう。むさくるしいいろんな思いに煩わされていても、この「菓子」に見入れば、すうっと「清まはる」から、嬉しい。
藝術というものは、どんなに荒々しい、どんなに烈しい、どんなに暗く重い苦痛を仮に描いていても、それが真に藝術であるならば、観た後に、読んだ後に、この「菓子」の繪を観た後と同じ清くて深くて静かな感動をのこす。魅惑をのこす。のこさないものは、藝術としていまだしと謂うしかない。果物こそ「菓子」の文字にふさわしい。草冠が生きていた時代の表記である。利休の頃の茶会記にも「菓子」として果物がよく出てくる。
1999 9/26 4
* こんなチェーホフの言葉を、いつ知れず書き留めて借用していたことに気がついた。よほど胸に届いたのだろう、何方の訳されたものかを記録していなくてまことに申し訳ないが、共感したのである。ここに敢えて転記しておく。
貴族作家がただで自然から取ったものを、雑階級の作家は、青春という代価を払って買っています。
この青年がどんなふうに一滴一滴自分の体から奴隷の血をしぼり出し、どんなふうにある朝ふっと眼ざめて、自分の血管を流れる血がもはや奴隷の血ではなく、本当の人間の血だと感じるかを、一つ書いてごらんなさい。 チェーホフ
* 奴隷の血などと自身をなぞらえて感じるのはむしろ僭越であるが、ひろく比喩的・歴史的にいえば「奴隷的」な立場を多くの「私」たちは「公」の強権により強いられてきた。そんな時代は永かったし、もう抜け出た、などとはまだ誰にも確言できまいと思う。チェーホフのものと伝えるこの言葉を聴き、わたしは、自身の根を、青春を迎えるまでの早春期をホームページの上で点検してみたくなった。そして「こんな私でした」と、「闇に言い置く」ように自身に向かい告白して来たのだ。
1999 10/10 4
* まだ漱石が世に出ないでいた頃、当時の文壇を席巻し風靡していたのは、漱石と同年の高山林次郎樗牛だったが、漱石は「ナンノ高山の林公が」と歯牙にかけなかったという。漱石は少ない。「高山の林公」ならうじゃうじゃいる。今の世に漱石は一人も現存しない。若き後生は新世紀を席巻し風靡して、漱石をすら超え潤一郎を超え藤村を超え鏡花を超え康成を超えて行き給え。まちがっても「高山の林公」はやめておきたまえ。
昨日のペンの理事会で、誰であったのか大きな声で、我々はもっと「興行ということを考えなくっちゃ」と叫んでいた。そういう興行に客寄せパンダなみの「高山の林公」なら、手持ちはいっぱいと言わんばかりに聞こえ、失笑した。「平和」とは「興行」なり、それは、だが、謂えているようだ、情けない平和であるが。
1999 10/16 4
* 現代の俳句と、例えば蕪村。その差は体温の差のように、感じられます。近代現代の短歌も俳句も、佳い詩になった作があるのも事実として、和歌や蕪村の句のもつ、いわば体温の優しい暖かみが抜けて落ちているのですね。冷えたからだを抱いているようで。佳い時代の和歌のあの温かい「和」の魅力。楽しさ。ワザ有りの面白さ。そういう日本語表現の妙味を切り捨ててしまわないと、発見し創作仕切れなかったような「近代・現代」の、或る「痩せ」「冷え」を思うことがよくあります。
* 或るメールに応えて、そんなことを言ってみた。昨晩、湯に浸かりながら蕪村を読んでいた。不思議で仕方がないのである、蕪村の句を読んでいると、蕪村だから思うというワケではないのに、どの句もどの句も、余りに佳く余りに面白く、あまりにはんなりと暖かで感じ入ってしまうのに、近代の句はそうはいかない。秀句でもそうはいかない。結社を主宰する程度の俳人の句集をみていても、一冊に幾つとも感じ入る句は少なく、佳いなと思っても、それがいかにも冷えていて、暖かみに乏しい。あたたかみは、どこかでおかしみ、かるみに繋がるものだが、「俳」本来のそれが現代句に乏しい。
ところが蕪村句集だと、次から次からみな暖かくて俳味横溢している。
何でなのか。うまく説明できない。才能の差と言ってしまえば身も蓋もないし、それだけではないと思われる。しかし、巧く説明できない。とにかく近代現代の句集や歌集をもって湯に浸かるなどというおそれ多いことは、湯冷めしそうで、出来ない。蕪村や大昔の和歌は、それを許してくれる。胸の内側からやわらかに温めてくれるのである。
1999 10/19 4
多くの小説で愛すべきヒロインにいったいどれほど逢ってきただろう。一般にはサラアのような女は、女の人にも男の人にも人気はないのかも知れないが、いやいや、今でもわたしは胸を剔られる。それほど魅力を感じる。それって、けっこう幸せなことの内に数えあげたい気がする。もうあと一両日は、作品に酔っていられる。
1999 10/25 4
* しかしいつも思うが、本当に「感動作」を見せれば、どんなお客も喜んで帰ると言いかねるのも、じつは確かなのだ。
あれで、けっこう永年スターといわれていた或る映画女優が、テレビの料理番組に出演して、なんとまあ「守口漬」のあの長あい大根を見せられ、この長い長いのも地中に根を張っているのですよと料理人に聞かされての科白に、なんとまあ、「大根って土の下にいるんですか。土の上に生っていると思っていたわ」と宣うたのには、さすがに、仰天した。だがこういう赤恥青恥人は、大勢も大勢もいることは不思議なほど間違いなく、それでも芝居を観て楽しむ権利は誰でも持っているのだから、作者も、俳優も、相応に舞台を分かりやすく、まさに通俗に作らねばならない。
どんなに志賀直哉が小説の神様で『赤西蠣太』は佳い作品であろうが、同題材を話していた講釈師圓玉の寄席人気のようには面白く行かないことを、直哉自身が知っていた。ただ、だからといって圓玉のようには創らない、決して、とも断言していたのである。
あれもあり、これもある、ということだが、どっちも藝術だとは、やはり言えないし、言ってもならないだろう。帝劇に藝術を期待して行く方が間違っているのだ、と、結論しても、だが、それで本当にいいのだろうか。 1999 10/26 4
* 妻が生協を通じて、新刊の翻訳サスペンスを三冊も買っておいたので、内の一冊を読み始め、数百頁の大冊だったがどんどん読み進んだ。むろん面白いから読み進んだのであり、スピードではグレアム・グリーンの『愛の終わり』を追い越していった。だが、その面白さは筋書き、ストーリィの面白さだけであり、『愛の終わり』に転じると、直ちに文学の腕に深く抱き取られる。共感や、表現への嘆賞が湧き起こってくる。サスペンスの方は著名な賞をもらっている作品らしいが、感銘などは何ものこらない。事件や犯罪や事柄への興味と惑乱とがあるだけで、そこを離れれば忽ち、読み終わって頁を伏せてしまえば忽ち、に、薄れ去る夢ほどに影薄れて、なにもかも消えて行く。文学の感動や感銘は、筋書きだけで保証されるのでなく、遙かに大きく、多く、文章表現と文体の迫力とで訴える。
サスペンスは娯楽と時間つぶしにはもってこいで、わたしも、ずいぶん読んできた。だが、無数と言っていいそれらの中で、文藝的に印象の濃い作品は、百に一つあればいい程度である。ペリーメースンもポアロも、読み終わればうたかた、もっともっと迫力の筋書きものがいっぱいあるものの、それらは、チェーホフやグリーンや志賀直哉や泉鏡花のかわりには、全くならないのである。
* 偏見だと言う人も在ろう。断じて偏見だと思わないのである。偏見だと言い立てる人は、それならこれを読んで見よと、サスペンスの文藝文学としての秀作を教えて欲しい。よろこんで読みたい。
1999 10/30 4
* 有楽町の新マリオン五階で、大島渚監督「御法度」試写を観てきた。満足と不満とが半々というのではなく、截然と分かれた。映像としてはみごとな美しさで、最良の黒白映画と感じたほどの追究で、これには大いに感服した。場面の設定も写真もすばらしかった。演技陣の芝居にも満足できた。殺陣の凄まじい迫力など驚くべきもので、すかっとした。ビートタケシをはじめ、一人一人遺憾なく演じていた。映画は映像であり写真であるからは、それが魅力的なら半ばは目的を達している。
しかしまた黒沢明の晩年の映画が、映像的には様式美に溢れ整然として大きく豊かであった、目を瞠るものであったけれど、初期の「生きる」中期の「七人の侍」の人間味あふれる感動はついに得られなかったのに観る如く、映像美だけで映画が完結するものでないことは明かである。推敲の完璧な文章がそのまま感動の小説にならないことは、例えば尾崎紅葉の小説が示していた。大島渚の新作は禁欲的なまでに映像世界の推敲の利いた、彫琢の利いたものであったが、映画のもう一つの大きな要素である物語ないしドラマの魅力という点からすると、小味なねらいではあっても大藝術の豊かさは備えていたとは言いにくい。
男色・衆道ものだからどうこう言うのではない。それにはそれなりの魅力はあったし美しく演出されていたけれど、胸の奥には空洞が空洞のまま残って、美学的な感銘はあったが人間的な感動は甚だ希薄で、初手からそういうことは監督によって意図されてもいないらしかった。よく出来た美学的な娯楽映画であり、それ以上のものではないから、テレビで放映されたら喜んでまた観るだろうが、映画館まで行ってもう一度観たいとは思わないで帰ってきた。
大島氏らがステージで挨拶した。帰りには映画の完成を祝して握手してきたが、大病のあとにこれだけ緊密な映像を構築されたことには敬服もし喜びも深かった。その上で、感想は、といえばそんなところに落ち着く。今ひとつ気になったのは、一時間四十分がなめらかには流れていなくて、ぶつぶつと場面が切れて繋がって、存外に武骨な時間経過であった。いかにも試写の試作品の感じだった。もっともっと手を掛ける余地が有ろう、そんなことは百も承知の第一回試写なのだろうと思いたい。
1999 11/8 4
* 狭衣物語の文章意識のつよさに驚いている。推敲がかなり出来ている感じがする。
推敲というのは微妙に難しく、過ぎると文を窒息させてしまう。尾崎紅葉は文句の付けようない文章の大家であるが、だからといって文学としてすこぶる効果的に作品が生きているとは感じにくい。漱石、谷崎、直哉、康成らの文章が好きだ。個性があって癖がない。鴎外の『渋江抽斎』と『即興詩人』露伴の『運命』なども佳い。露伴の『連環記』も好きである。
1999 11/11 4
* 紀伊国屋ホールで「オン・デマンド出版」シンポジウムがあり、聴きに行った。通訳つき講演の体で、スエーデン詩人作家の「オン・デマンド出版」実践報告があった。
動機は、よく分かった。わたしの「湖の本」刊行の動機とすこしも変わらない。動機の点では、私ほど体験的に良く理解した者はいないだろう。
さて、その内容や手順・手続きとなると、手法となると、スエーデンでのことはともかく、日本では、越えなければならないバーが幾つもあり、しかもかなり高い気がした。スエーデンでは読者からの注文が、書店経由で、出来本の到来も場合により書店経由であるとなると、いかにも従来の流通に随順したもので、革新性は乏しい。よほど従来出版の圧力が強いのだろうなと察した。
また、一冊ないし数冊の製本から「可」という注文手法は斬新でも、注文のもとになる、注文の対象になる「作品」が、元会社でデジタル化されるまでの段階での、著作者の著作権益保全などがどうなるのか、ペイ・システムなどはまるで分からないままだった。コンテンツはどう用意されて、その出版契約書はどんなものになるのか。
* 聴きながら、わたしの「湖の本」が、十五年も前に構想され実践されて、刊行を曲がりなりに着実に維持してきたことの革新性を、あらためて自覚した。「作家たちは何をしているのか」とパネラーから痛烈な言葉があったが、そんなことは、遙か以前に私の言ってきたこと、してきたことである。
わたしは、出版も取次も書店もぬきに、直接わたしの作品を美しい簡素な本の形で読者たちに直接に迅速に丁寧に手渡し続けてきた、十四年も、途切れることなく。利益こそ全く上げられないが、かつがつ薄い出血水準のまま短期間に資金回収し、年に四回から五回の刊行を滞りなく実行してきた。読者に支えられた著作者としては、「オン・デマンド出版」では及びもつかない、いろんな意味でハイレベルの実績になっている。
* もう一つ。わたしは、いち早く「インターネット=パソコン」を、作品発表の、文藝公表の「場」として、実地に利用し始めた。そのことで、紙と印刷・製本による出版とは、またちがった文藝家活動の拠点を得て、従来の出版社会からの、甚だ孤立感の濃い自由ではあるのだが「自由」を得ている。その点でも、また新しい実践の形態を今後に示唆し得ていると、今日は、実感して帰ってきた。
* わたしの、この二方向の出版と実践について、従来は、概して文壇からも出版からも黙殺されてきたけれど、それどころか妨害やバッシングすら受けてきたけれど、出版の「現実」は、十数年以前にわたしが感じ考えていた「批評」と「実践」の線に沿って、さながら後からついてきているのだ、そういう実感をすら、今日は持てた。
* 津野海太郎氏、室謙二氏、萩野正昭氏らとも初対面を果たせてよかった。新宿ライオンでのレセプションで、ビールを何杯か飲んだ。
パネラーの一人だった筑摩書房取締役の松田哲夫氏とも久しぶりに出会ったが、彼の口振りから察するところ、筑摩書房はもう昔のあの懐かしい古田晁さんや竹之内静雄さんやまた原田奈翁雄さんらの筑摩書房、臼井吉見先生や中村光夫先生や唐木順三先生らの筑摩書房とは雲泥の相違を来して、出版の理想も見失いがちに喘いでいるらしい。悲しいことである。しかも商売が隆盛になっているわけでもないと言う。どうしたというのだろう。 1999 11/22 4