ぜんぶ秦恒平文学の話

2000~2002

* 主客とも余情残心を催し、退出の挨拶終れバ、客も露地を出るに、高声に咄さず、
静ニあと見かへり出行ば、亭主ハ猶更のこと、客の見へざるまでも見送る也。扨、
中潜り、猿戸、その外戸障子など、早々〆立などいたすハ、不興千万、一日の饗応
も無になる事なれバ、決而客の帰路見えずとも、取かた付急ぐべからず、いかにも
心静ニ茶席ニ立もどり、此時にじり上りより這入、炉前ニ獨座して、今暫く御咄も有
べきニ、もはや何方まで可被参哉、今日一期一会済て、ふたたびかへらざる事を
観念シ、或ハ獨服をもいたす事、是一会極意の習なり、此時寂莫として、打語ふも
のとてハ、釜一口のみニシて、外ニ物なし、

井伊直弼「茶湯一会集」の眼目といわれる”獨座観念”の章が、もともと余情残心という狙いで書かれたことは、今の私は知っている。余情とか残心とか、それはまた武道的な発想でありながら、むしろ雅びな貴族的な魂の風韻を語るが如くに洩らされている。獨座大雄峯の境涯を超えたあるやさしみも感じられる。初めてこれを読んだ瞬間のしびれる感動を忘れることが出来ない。そして電光のはしるように「徒然草」第三十二段をわたしは想い出した。同時に「兼好はなぜ徒然草を書く気になったんだろう」と独り言ちていた――。

九月廿日のころ、ある人に誘はれたてまつりて、明くるまで月見歩くこと侍りしに、
思しいづる所ありて、案内せさせて入り給ひぬ。荒れたる庭の露しげきに、わざとな
らぬにほひ、しめやかにうちかをりて、しのびたるけはひいとものあはれなり。
よきほどにて出で給ひぬれど、なほことざまの優におぼえて、物のかくれよりしば
し見ゐたるに、妻戸を今すこしおしあけて、月見るけしきなり。やがてかけ籠もらまし
かばくちをしからまし。跡まで見る人ありとは、いかでしらむ。かやうのことは、ただ
朝夕の 心づかひによるべし。その人ほどなく失せにけりと聞き侍りし。 (第三十二段)

“獨座観念”の先蹤を尋ねて徒然草のこの一段に想い及んだつもりでいたが、この段に類似の表現はいくつかの説話にじつは重複している。そのかぎりでは兼好のいわば古典趣味に発した潤色ととっても差し支えない一段なのだが、わたしは、そうは考えなかった。兼好法師つれづれの心をあやかすあの物狂おしさに想像が奔っていった。

雪のおもしろう降りたりし朝、人のがり(許へ)いふべき事ありて文をやるとて、雪
のことなにともいはざりし返事に、「此の雪いかが見ると、一筆のたまはせぬほどの
ひがひがしからん人のおほせらるる事、ききいるべきかは。返す返す口をしき御心な
り」といひたりしこそをかしかりしか。
いまは亡き人なれば、斯ばかりの事もわすれがたし。 (第三十一段)

この段だけをみると、文の相手が男とも女とも確認できない。先の第三十二段とも一応切れている。ところで、すこし飛んで第三十六段はこうだ。

久しくおとづれぬ比、いかばかりうらむらんと、我が怠たり思ひしられて、言葉な
きここちするに、女のかたより、「仕丁やある、ひとり」など言ひおこせたるこそ、
有りがたくうれしけれ。「さる心ざましたる人ぞよき」と、人の申し侍りし、さもあ
るべき事なり。 (第三十六段)

誰かの噂ばなしに合点したような書きぶりで、これははっきり女のはなしである。心ならずも閾居を高くしてしまった先の女の方からさりげなく男の窮屈を救ってくれた。さらっとした無邪気な女の機根がうかがわれ、そのみえない表情は、雪に寄せ、かすかな媚びを秘めたほどの咎め方で男の野暮を諷してきた第三十一段の女(に違いない)の表情に、似通っている。

朝夕へだてなく馴れたる人の、ともある時、我に心おき、ひきつくろへるさま見ゆ
るこそ、今更にかくやはなどいふ人も有りぬべけれど、なほげにげにしくよき人かな
とぞおぼゆる。 (第三十七段)

男か女かなどというまでもなく、雪の朝の女、仕丁をもとめてきた女と深い部分で統一されている。”手のわろき人の、はばからず文書きちらすはよし、みぐるしとて人に書かするはうるさし”(第三十五段)は、前後の文に関係ある話柄といい、これにもあるさだかな人の投影がある。第三十一、三十五、三十六、三十七の各段は明らかに兼好在俗時の一女性の断片像が強い個性的統一を得ているとしか思えない。三十二段の月見る女だけはすこし趣が違うようだけれど、それは情景に兼好独特の潤色があるからで、振舞の優しさは三十七段のふと淑やかな気品をひらめかせる女と同じだと思う。朝夕の心づかいは何もこの段の女だけへの讃辞でなく、三十一、二、五から七段までを一人と意識した上での懐旧の情、嘆賞の声ではないか――
2000 4/12 5

今年はもっともっと、たくさんの舞台を観に行きます。
それから、ついさっき、湖の本の振込用紙が出てきました。なくしたと思っていたものです。もう少し時間がかかるかもしれませんが、必ず振り込みますのでお待ちください。
郵便局のことを今思い、ひとつ思い出したので書き添えます。
今日、二人合わせてかなりの額になる奨学金を、すべて返済し終えました。晴れ晴れとしています。

* この「晴れ晴れ」は、わたしたちにも同じ体験があり、よく分かる。わたしたちも結婚して三年目には全額返済してしまった。この人は、今のわたしのように時間の自由になる職場には居ないが、どんなに忙しかろうと、心の内にはくつろげ得る場の在ることを、この人は識っている。生活の芯のところに毅然とした個性を樹立していて、それがこの人の文字通りの「本」になっている。「本」を芯に抱いた人は多くはない。
文学は「音楽」の一種であると大学の教室でもよく話した。「文学」と表記せず「文楽」にしておいてくれたらよかったのにと、わたしは今でもときどき考える。
しっかりと彫り込んだ言葉で書けることと、それに思いを載せられることとが、ふたつとも出来るのも、難しい。このメールが、自分で自分に向けられた手紙とも読めるのは、数年前の教室での「挨拶」習慣がまだ生きているのだろうか。矢のように「人」の飛んでくる懐かしいメールであった。
2000 4・24 5

* 木崎さと子さんからも佳いメールをもらった。金沢講演録の「蛇」を送ったのへ返事がきたのだ、木崎さんは小説にそれは大切に「蛇」を書かれているのを、初めて知った。こんなにもと驚くほど近い関心事を、お互いに書いていた。驚いている。今も、毎日木崎さんの作品を、今は『鏡の谷』を、読んでいる。こんな返事をわたしから送ったのを書き込んで置く。

* 木崎さん、こんにちわ。メールを嬉しく読みました。ありがとう存じます。
この時代に、私たちの世界で「蛇」をまじ めな話題にできるなど、希有のめぐりあわせでした。びっくりしています。いま、大矢谷の物語を読み継いでいます。
京都で生まれ育ちましたが、あそこは貴賤都鄙の集約された場で、神仏と、それにともなう奉仕や隷属の人と暮らしとが、底知れず埋蔵されたまま、現代を呼吸しています。そんななかで「日本」を考え続けてきました。水、海、川、沼、池、そして天。そして神。日本だけでなく、アジアだけでなく、世界史にうごめくモノとして「蛇や龍」の問題は、とほうもなく深く大きく、文化と社会の根底に構造化されていると思って、書き続けてきました。
アジア太平洋ペン国際会議では、めったにない思い立ちで、「差別」の根でもある「蛇」問題を、国際的にも認識してはと、演説をしました。もっとも、突飛で珍な提議と受け取られたか話題にもなりませんでしたが。
今度も、ペンの女性委員会が「水」のシンポジウムをするそうですが、予定の内容から察して、とても「蛇」にまで掘り下げる視野も視点もなさそうに思われ、やれやれと苦笑しています。
日本の神社は、殆どが水神すなわち蛇イメージの神様を祀っています。「祀」という漢字そのものが「巳」を体していますもの。
私の「蛇」体験は、育てられた貧しい京の町屋のなかにすでにあり、戦時疎開した丹波にありましたが、敷衍すれば、京都にも日本中にも見渡せ、中国でもロシアでも。
わたしは、今も蛇ほどイヤなものはなく、虫ヘンの漢字すら苦手です。しかし、何故と問い直し続けています。蛇を厭悪するのと同じように、或る人々を忌避し傷つけてやまない国、京都、日本、でした。その悔いと自責から何故と問いながら、小説を書き始め、秋成にも鏡花にも出逢いました。「清経入水」や「冬祭り」や「四度の瀧」その他の蛇たちを書いてきました。あやまりつづけるように。
水上勉さんぐらいなものでした、新聞小説に「蛇」を書き続けているとき、「たいへんなことに手をそめているね」と認知されたのは。学者では高田衛さんが昔から。そして彼もようやく『蛇と女』を書きました。
木崎さんに出逢うのが、こう遅れたのを悔しく思いますが、でも、よかった。
2000 6・27 6

* シナリオ『懸想猿・続懸想猿』を謄写版で一冊にし、初めて自費出版したのが昭和三十七か八年。すぐ次いで『畜生塚・此の世』を出した。それへの感想を中学時代の畏友から受け取った。その礼状が残っていたのだ、有り難い。書き下ろしたばかりらしい小説はきっと『或る「雲隠れ」考』だろう。
「何かに背き背きやっていきたい」とある一句に、一瞬茫然とした。わたしの生き方がまざまざと刻印されている。あの当時、何に背こうとしていただろう。呼び名の有る、ただ呼び名だけに空洞化し形骸化していたいわゆる人間関係に背いて、「身内」を考えていた時期だ。同時に、当時の文壇作品への軽蔑があったのも忘れない。そして、まだあの頃、ものに応募して世に出ようなどと全く考えていなかった。だから私家版へ動いた。わたしは、結局一度も同人雑誌や人への師事もなく、また新人賞などへの応募もしなかった。太宰賞も、私家版が人の目に留まって、『清経入水』を応募したことにしてくれないか、賞の最終選考に候補としてさし込みたいのでと、筑摩書房の希望だった。寝耳に水の招待だった。
吉川霊華という画家がいた。いまではむろんのこと、存命当時も表へはめったに派手に出てこない画家だったが、近代日本画で極めて特異な位置を確保した芸術性のじつに優れた表現者だった。わたしは、こういう人を敬愛してきた。世にときめくことは、わたしには無理だった。問題外であった。そういうことに「背き背きやって」きた。「客愁」を抱いていつも「退蔵」を庶幾し、しかも「一期一会」努めてきた。それが出来れば上等だと思ってきた。太宰賞も東工大教授もペン理事も美術賞の選者も、わたしから望んで手をだしたものは一つも無い。みな、向こうから舞い込んできた。望まれれば、応じても良く、断っても良い。創作者には好奇心がある。好奇心を水先案内に生きてきたかも知れないのだ。だが、根は「何か(俗悪なもの。権力で支配するもの。)に背き背きやって」きたつもりだ。
それももう、落としていい時期だ、やがて人生の二学期を終える。どんな三学期が可能か不可能か知らない。彼の世へ進学するために学年末試験や進学試験があるのかどうかも知らない。したいだけをして、しのこしたことに思いをのこさずに。静かに。そう、静かに終えて行きたい。そればかりを祈っている。
2000 7・15 6

* 『畜生塚』も『慈子』も、いわば世の掟を超えた、道ならぬ恋を書いている。そういう中でわたしの思いは、いつも「身内」とは何かという根底を探っていた。
社会では、実に惨憺たる事件が陸続と山をなしている。少年達のいたましい惨劇もあとを断たない。
それらの多くが、渇くような孤独や孤立の地獄苦を負いながらの事件であることは目に見えている。東工大のような恵まれた一流校の学生達でも、「寂しいか」と問えば、愕くべく多数が、大方が、切実に「寂しい」と内心を書き綴っていた。
過剰なまでに人は孤立し、孤独は現世の業病と化していることを、わたしは三十年問言いつづけ、書きつづけてきた。
わたしを突き動かしてきた思想は、幼くからの「島に立ちて」の「身内」観であった。「自分」には、親兄弟もふくめて「他人」たちと「世間」とに取り囲まれている。その両者から「自分」は真の「身内」を求め続けて生きるのである。
「身内」とは、何か。
その、わたしの答えを確かめたくて小説を書き、戯曲を書いてきた。その前に、大勢の人たちと出逢ってきた。どんなに一つ一つの出逢いを大切にしてきたかと思う。古めかしいイメージだと笑われるだろうが、その根のところに、盆の供え物の蓮の葉に、一瞬玉と散る露が、みごとにちいさな湖をなして清冽であったという幼時の視覚が働いている。あれに「身内」のありようが見えた。それからすれば、今、世間の人々はあまりにバラバラに孤立し、孤独に渇いている。

* 本は、山ほど世間に溢れているし、いわゆる先生たちも溢れている。宗教の本も山ほど在る。それなのに、人の孤独や孤立という辛い状況に、哲学として寄与してくれるような示唆は、余りに乏しいではないか。
いつでも、思う。なにを観ても聴いても思う。ああ、この人は「身内」が欲しくて堪らなかったのだ、ああ、この人達のこの幸せこそ「身内」の悦びであったのだと、およそ、それで本質まで分かりきれる。
いくらか、数はまだ少ないが、それに共感してくれる人たちが、いつ知れず「湖」の本に、わたしの思想に、溶け合ってきたのだと思っている。人の魂に触れて鳴り響く文学でありたかった。人の人生に深く関わりうる本が書きたかった。今もだ。
2000 8・24 6

* とうどう『慈子=あつこ』全編をこのホームページに書き込み終えた。親切な人の協力で、校正もほぼ出来ている。

* 太宰賞を受賞して最初の頃、断然女性の読者が多いと編集者から言われていた。手紙などもらっても、事実そうであった。但し一等反応の早かった杉本秀太郎、宮脇修、山折哲雄の三氏は男性、馬場あき子さんが女性だった。受賞作を含む処女単行本『秘色』は女の人に多く読まれたらしいことは、昨日の愛知の読者の例からも察しられる。
筑摩からの二冊目が書き下ろしの『慈子』だった、がこれで、、ざあっと女の読者の波が退いて、どうっと男性の熱い読者が増えた。このヒロインは男性には憧れをもたれ、女性には嫉妬されますよと、編集者は「解説」してくれたが、それはともかく、語り手の男である青年、既婚の「私」に対する、世の掟からする猛烈な非難があった。事実、群馬県はじめ各地で著者を囲む会があると、女の会員から、『慈子』という作品にでなく、「私」なる男へ、ひいては作者へ、続々と非難の声が発せられて応接に汗をかいた。
一方、ラジオのディスクジョッキーで、時を同じくして女優の吉永小百合と、落語の桂三枝が『慈子』を語っていましたよと、何人かから聞いた。これには喜んだ。
それが幸いしたというのではないだろう、想うに、次々に作品を出して行くうちに、わたしの「身内」の考え方や「死なれた者」の思いなどが、じわじわと知られていったためだろうが、またも、強い実感として女性読者がどうっとこの『慈子』に戻ってきて、結果的にも最も多く愛された作品になっていった。
秦さんの世界へは『慈子』から入ったと告げてくれる読者が今も少なくない。しかし徒然草の「考察」が入っていて、時間は幾つにも「層」をなし、だれもが読めるやさしさではない。この作品の読める人なら、他の作品も苦もなく読みこなせる読者であった。わたしには「いい読者」であった。
その頃から今日まで、わたしの小説世界への多くの苦情は、一つだけ、「むずかしい」であった。言葉を顧みないで言えば「よく選ばれた読者」に熱く愛されてきた。「魂の色の似た」読者の数は、当然にも増えにくい。そのかわりお付き合いは実に長い。「湖の本」にわたしの作家生活の流れ込んでいったのは必然であった。

* 克明に作品を読み直して、理屈は何もない、慈子というヒロインをいとおしく思う。高校時代に泉涌寺の来迎院にしばしば授業を抜けては憩いに行った。すでに源氏物語の愛読者であったわたしは、こんなところに「好きな人を置いて通いたい」と夢見たが、夢を叶えたのである、小説の中で。
来迎院の意味、慈子の意味。それは人生の意味を問うのとひとしい問いなのである、わたしには。
他のことなど、なにほどでもありえない。
2000 8・25 6

* いい小説が書けるのではないかなあと思っている、若い女性がいる。ときどきメールで話すが、逢ったことはない。今は田園調布に住んでいる人で、もとは京都のわたしの高校の後輩に当たる。美術の勉強をしていたというが、小説も書いている。黒川創寄りのセンスのように思われるが、もう少し待たねばならないだろう。続けて書くかどうかが問題なのである。過去にもかなり有望な小説の書ける人を二人知っていたが、書き続けなかった。
2000 8・28 6

* 身辺を整理していると、これまでに送ってもらった文章や詩などが幾つも見つかる。残念ながらどうにもならないものも混じるが、感銘深いのも幾らもある。世にときめいている人の作品が文句なく佳いとは残念ながら言えない。悪くすれてしまった傲慢な仕事も、雑なモノも、ある。その道で立っていないからと謂って、世間に隠れた知性や才能をバカにしてかかるのは大きな間違いである。
2000 11・12 7

* 作文は、だめ。作文はどうしても「お上手に」と浅く気取るから。「書く」というのは、泥を吐くのと同じ呻きなのですが、呻き(単純に解釈しないように)のないものは人の胸に届きにくい。それが、モチーフ=動機というものです。
2000 11・13 7

佳いものならわたしは、どんな題材でありどんな扱い方であろうとも支持する。佳いと謂うことですでに一つの昇華がされている。だが、よくなくて悪くて迷惑至極なモノが、「表現」を口にするなど、厚かましくもおこがましいと思う。世界ペン憲章は言論表現の自由を守ろうと説いているが、その言論も表現も人間の尊厳と誠実とに背くモノであっても佳いとは決して謂うていない。そこが忘れられすぎている。
あまりにくだらない下劣なテレビ番組が名指しで批判されていることを、わたしは当然と思っている、名指しされている限りの番組は、である。一般論はしない。だが、引っ込めれば仕舞という結末には満足しない。衣裳を替えてすぐ似たようなのが出来、当分の間は世にはびこるのだから。
一般論をするとすれば、あくまで言論表現の自由は守られるべきものである。ペンの言論表現委員会に籍を置く一理事一委員として、これは譲らない。個人としても譲らない。だが、無条件ではない。ペン憲章の趣旨を体してのことである。悪辣で下劣な暴力的な言論は恥ずべきだし、表現とは佳いもので在りたいと思う。
2000 11・29 7

*こうして、孜々として働き、かつ、心豊かに心身を養っている青年たちのためにも、いい新世紀であって欲しいと願わずにおれない。このところ、近未来の、荒廃し尽くした不毛でバイオレントな世界を映像にしたアメリカ映画をたてつづけにテレビで見て気が滅入っていた。しかし「マッドマックス2」などは、何度観ても不思議に身にしむものがあるのだ。バイオレントに過ぎているかも知れないが、それが映画表現の痛烈な効果になっていて、訴えてくる神話的なひらめきがある。今度の深作映画「バトルロワイヤル」については、わたしは「観ていない」のだから批評しない。筑紫哲也の言うように、良く出来ていれば必ず人に訴えうる。わるければ、存在理由をそれ故に喪う。盗撮が顰蹙の話題になっている。写真撮影も表現の自由であると居直れるか、バカな。しかし、「公然の盗撮」としか、それだけとしか言いようのない映像に対して、言論表現の自由などと言わせていいとはわたしは思わない。
往々にして「言論表現の無条件・利益追求の自由」が、真に価値ある「言論表現」を冒涜している事例が多い。「児童ポルノ」の規制が言われたときに、雑誌や出版が「言論表現の自由」を守るという口実のもとにそれらの「販売や制作の自由」を抱き込みたがっていたのなど、適例ではあるまいか。そういう利に飢えた態度が野放図になり、官憲の法的規制策にまんまと口実を与えてしまう。世論までを敵にまわしてしまう。
早急に日本ペンクラブは、ペン憲章の確認のためにも「真に守らるべき言論表現の自由とは何か=ペンの反省」を主題に大きなキャンペーンを企画すべきだが、理事にも会員にも、大小の出版人・編集者が大勢いる。さ、彼らがそういう企画に乗ってくれるか、むしろ阻止にかかるか、判定は難しいな。
2000 12・3 7

* 突如として京都の菩提寺から、新年の「寺報」に原稿を書けと、待ったなしの電話。お寺さんには勝てない。

* わたしの信、念仏、法然   秦 恒平 (常林寺檀家)
「ご平安に」と書き添えて手紙を終えることが多い。「お平らに」「お静かに」という挨拶にどこかで似ている。過ぐる「前世紀」にもそう声をかけて見送った。「新世紀」を迎えての気持ちも同じである。斯くありたいと願っている。
兄は彦根で生まれて父の名をもらい、恒彦といった。わたしは昭和十年の末も末に平安京で生まれて、恒平と名付けてもらった。そう朧ろに聞いている。さきの師走に、だから満六十五歳になった。兄には前年秋に死なれた。生みの親、育ての親、妻の親たちもとうに此の世にいない。妻の兄ももういない。それが不思議とも、それが自然とも、時々の気分で受け入れながら、いつか死ぬ日のことを、気ぜわしくもなく思い入れていたりする。
無常は迅速だという。だからどうすればいい、わるい、と惑ってばかりなのも苦しい。死が、一瞬の好機かのように訪れてくれれば有り難いと思うが、そううまく行くまい。「ご平安に」と人さまを言祝ぐのは、我が内心の「不安」が照り返しているからかも知れぬと苦笑しつつ、いわば「待老期」に突入した実感を、静かに胸に抱いている。六十五なら立派に年金年齢ではないかと言われても、母の一人は、九十六歳まで長命している。あます三十一年かと指折れば、そう老人がっていられない。で、好きな句を小声で口にする。

明日への信いくらかありて種子を蒔く  能村登四郎

沙石集であったか、本の題は朧ろになっているが忘れられぬ話がある。高徳の僧が庵居して行い澄ましていたが、ある日、裏山から崖崩れし、庵ごと埋もれてしまった。人々が急いでかけつけ、かろうじて師僧は救い出された。幸い五体は無事であった、のに、ご本人は浮かぬ顔をしている。命助かっての浮かぬ顔はと問われて、僧はこう答えている。山が覆いかぶさって来た咄嗟に、わしは「南無観世音菩薩」と唱えてお助けいただいた。あの時に、なんで「南無阿弥陀仏」と唱えて西方浄土に迎え摂っていただかなかったかと、それが、残念でならない……。
この説話、深読みも利きそうにわたしを永く惹きつけていたが、今は、さほどでもない。一瞬の好機をのがした話と謂えるが、素直に、良かったではないかとも思う。あまり高徳の人の言とも思われないし、現世利益の観音と摂取不捨の阿弥陀とをあざとく対比して見せた説話の手ぎわも、やや鬱陶しいのである。右の掲句に謂う、いくらかの「信」の方が、まだしも仏様に嘉みせられるのではなかろうか。
わたしは現代を生き、明日へ歩んでいる。頭の中には、一例が三部浄土経や般若心経の意義も、また古事記や源氏物語もいつも生きているが、インターネットの電子の網に対するグローバルな好奇心や信頼も旺盛に巣くっている。地獄を信じないように、極楽のことも、それ自体としては信じていない。ただ、往生極楽にふれて法然上人が最後の最期に『一枚起請文』を遺して下さった恩徳の広大は、こころから信じ、ただもう感謝に堪えないのである。この気持ちを、道筋立てて説明する気にはなれない。説明できないとも出来るとも考えないのである、考えていては信じていないのと同じである。
平安に生き終えて平安に死んで行くのに必要なのは、わたしには、法然上人の教えて下さった「南無阿弥陀仏」で足りている、他は無用で、頼りに成るとは思わない。
2000 12・18 7

* 光について莫大な知識をもっていても、暗闇は照らせない。われわれの人生は暗闇なのである、概して。そんな中で知識の切り売りのようなことばかりしているインテリでは、我が身一つも癒すことはできず照らすこともできない、ということを、わたしは痛感している。哲学も宗教も科学も、真に照らす光は放っていない、光の知識をひけらかしてばかりいる。それでは間に合わないと、わたしは思って、じっと自分の身内を、その闇をのぞき込んでいる。かなしいかな、わたしは、まだまだ闇そのものでしかない。自ら発光していない。なにも分かっていない。手を引いてくれているのはバグワンだけである。
ビトゲンシュタインは、その自らの哲学を、要するにそんなものは何の役にも立たないと確認するために築き上げたに等しい、体系的な哲学など、哲学学など、真の悟りの前にはただの有害な壁にすぎないが、そう「悟る」に至るに必要な存在ではあった、と言っている、そうだ。真偽は確かめないが、真実だと思う。話題を切り口だけで何となく面白げに、高尚に、また洒落て、どんなに座談してみてもそれは光ではない。いわば光について話しているだけだ。
2001 1・10 8

* 名古屋方面の或る国文学者とのメールのやりとりで、辣腕刑事のように作家の真相に迫る猪瀬直樹評判の「太宰治=ピカレスク」のことを話し合った。猪瀬氏は太宰文学を論じていない。一人の男としての人間太宰を、ついでに人間井伏鱒二を厳しく毟って赤裸にしてみせた。そういうことの出来た猪瀬直樹には、文壇や作家へのいわれない遠慮が、はなからかなぐり捨てられていた。そういう立場と姿勢とで作家論をやった人は少ないので、そこに強烈なメリツトがあった。新しい方法であり姿勢であったし、しかもよく徹していた。太宰や井伏に、また文壇におもねったり遠慮したりする必要が、彼には無い。ほんとは誰にも無いのだが、みな、妙に腰が引けた議論をして、礼儀をまもったような気になっている。国文学者としては驚かれたであろうが、この人は、メールの中で小林秀雄の、つぎのような、あたりまえな言葉を想起されていた。
「小林秀雄が昔、『文学など屁でもないという世界があるのだ』と言い、また、『作家はサラリーマンなどとは違うなどと力んでいい理由が何処にある』等々と語っていたことを思い出します。(猪瀬氏が)高級な言葉でなく言い放っているところが大事な気がします」と。

* その通りなのだ。「文学など屁でもない」と思っている世間はじつに広いのである。外の世界へも深切に目配りし、自由に生きていれば、こんなことは簡単に分かることで、作家達や批評家達の井の中の殿様蛙のように世間知らずに反っくり返っている姿を滑稽に眺めてきた思いは、もう、実に久しい。賞などを取り立ての若い作家達にしばらくのあいだそういう臭みがぷんぷんするのもおかしいものだが、とくに若い女作家が凄いが、いい年をした物書きにも、「作家はサラリーマンなどとは違う」と必要以上に「力んで」いるだけの人がいる。うようよいる。そういうのは、立場への自尊心に過ぎない、なかみは伴っていない。小林秀雄の上の言葉は、まことにその通りなので、よく思いに秘め置きながら、しかも、自分の仕事により深く打ち込んで行かねばならないだろう。
2001 1・20 8

* 昨日も、テレビで、高齢期への夫婦の性生活について特集番組があった。このごろ、ちょくちょく似たような特集を組んでいるが、その一方で、若めの夫婦達のスケジュール・セックスや、セックスレス夫婦のことも特集している。
たまたま目にするこういう番組を見ていて、全く視野から落ちこぼれている観点のあることにわたしは気づいている。
セックスは、いろんな程度と容態とをもっている。性交という行為の回数や頻度のことさらに語られていることが多いけれど、もし、性的夫婦関係を老齢・高齢化社会での本質的な福祉意義とからめ、また相互愛の意義に絡めて問題にしているのなら、それら番組関係者の発言や感想からは、さらに重大な、次のような「視野」の「落ち」ていることを、わたしは指摘したい。
肉体は老化して行く。機能が落ちるだけではない、やむを得ず老朽と醜悪化を強いられる。人間の美意識は、美の感受と批評能力は、老人とても、わが肉体の老化ほどは急速・急激には減退しないから、まず、ほとほと自分のからだが醜く汚く衰えつつある事実に、ゲンリしなくてはならぬ。自分のものは致し方もない、が、老人夫婦の場合、わが妻やわが夫の肉体的醜化にも、いやでも当面しなくてはならない、そこのところが、先の特集番組などでは忘れられている、イヤ気づかれてもいないのである。
老夫婦で性的肉体交渉が頻繁に有るという方が稀有な事例になるのは、致し方はない。そういうものである。ただ、それにつれ、いわば「はだか」の付き合いというものも欠落してゆく。しぜん伴侶の肉体に「目で」ふれることも乏しく稀に成り行くにつれて、まれに目に触れたその「老化し醜化したはだか」への驚きが、やがて美的な「厭悪感」に転じて、思わず「互いに目を背けてしまう」ような成り行きになれば、、さて、どうなるか。この延長線上では、自然当然に夫婦間の親切ないし深切な介護交換に心理面から支障が起きるだろう。互いに肌に手を触れ目を触れた介護の交換が望みにくく成って行くであろう。夫婦と雖ももう互いの「はだか」から目を背けたくなるほど離れ合ってしまっていたのでは、その愛情も、服を着ている場合に限ることになってくる。
そんなバカなと思うのは迂闊であり、人間はいやおうもなく習慣に支配されているから、馴染めばいくらも馴染み、だが一度疎遠になったものと馴染み直すには、たいへんな心理的壁をまた努力して越えねばならない。まして、そこに「醜化」という美意識に逆らう要素が加速的に加わると、アタマは理性的になろうとしても、「眼の厭悪」や「情の嫌悪」というやつが、土石流のように理性を押し流し排除してしまうのに抵抗できない。
中年や初老の夫婦で、互いの下着を汚いと感じ、同じ洗濯機で洗濯したくないなどという話を聴くが、あれには、「離れ行く性生活の疎さ」がわるく響いているのだろう。「はだか」の付き合いが親密で緊密である夫婦に、そういう忌避の働きようは、まさか無いであろう。一つ墓に入りたくないのも、それか。
性交だけが性生活ではない。
要するに「はだか」を許し合い、互いにその老化や醜化を許し合えるものなら、それこそが、まずは「最低限守り合われねばならぬ、老夫婦の性生活」というものである。それでこそ、互いに「下の世話」もできる。少なくも愛の基盤ができる。互いの恥ずかしい「はだか」から、ああッと目を背けなくても済む。そういう「接触」をもっともっと大切にと、福祉や健康の関係者は大事に世に言い広めておかないと、多くの老夫婦たちが「相互介護の時代」に安らかな気持ちで入って行けなくなる。ちょっとばかり堪らないけれども、老夫婦ほど、あっさりと一緒の入浴習慣をもつぐらいがいいのではないか。夫婦生活イコール性交などと考えた老人の性特集は、どこか過剰である。
2001 1・24 8

* ある若い友人が、匿名で、公開の場で「日記」を書き続けている。このごろそれと知って、ときどき覗いているが、才能のあるかもしれないと思う人が、淡い密度の、ため息のような文章で「空気抜き」をしているのだったら、惜しいなと思う。若い人にこそ、噴出の、爆発の、その絶好機が必ず来る。その機のため、息を詰めてでも待機していなくてはならず、それは、あたかも、風船に息を吹き込み吹き込み堪えている時機でもある。その機がきたとき風船は大きく強く破裂する。炸裂する。ちいさな針で風船をチクチクと日ごと刺して空気抜きをしていては、生産的な、必然的な爆発も噴出も、いつまでも来なくなる恐れがある。やり過ごさざるを得なくなる。
そういう同じ恐れは、この私にもある。わたしは、それを承知して、それに堪えて、ただの「空気抜き」「息抜き」には終わらせない例えばホームページを、必死で運営しているつもりだ。成るか成らぬかはともかく、間断なく或る時機をわたしは息をつめて狙っている。この年齢でもそうである。こんな私語を書いて「空気抜き」などしているワケでなく、自分に敢えてプレッシャーを掛けに掛けている。俗欲でも妙な意欲というのでもなく、要するに生きているという覚悟だ。愚痴に自分を流し込みたくはない。
ものごとには、機がある。機を活かすには、気を張って、息をつめて、風船を、無傷で、がまんして膨らませ続けていなければならぬ。それがつらくて逃げ込むように空気抜きしていては、生きていること自体に空疎を招いてしまうかも知れない。わたしはそれを案じている、若い力ある誰しものために。
2001 2・7 8

* 西鶴に『文反古』の一冊がある。さまざまな手紙を編成したという体を備えた創作である。書簡文芸そのものである。今日の「e-MAIL」から、そうういう文芸の生まれてくることをわたしは期待し注意している。
2001 2・7 8

* 晩、「知ってるつもり」とかいう関口宏が司会の番組で「法然」を取り上げていた。さほどの「理解」を示したものとは見えず、常識的な「知識」の取り纏めに終始していた。大方の法然論は、みな、そうである。売れているという梅原猛氏の『法然の哀しみ』も、壮大な読み物だが大差ない解説に終始している。それがいけないとは言わぬが、梅原さんも顔を出していた今夜のテレビ番組は、法然よりもよほど寸法の短い紹介番組であった。
法然の「南無阿弥陀仏」を、ただ鵜呑みに有り難がるので、かえって、そこでコツンとものが止まっている。行き止まりになっている。仕方がないから賛嘆しておくことで終わってしまう。「南無阿弥陀仏」という六字念仏とは何なのか。ほんとうにそれは有り難いものと、例えば、今の我々は、どこまで、どう真実信仰しうるのか、そこの徹底を避けているから、悩ましい深みが見えてこない。
バグワンの言葉に、何年も欠かさず耳を傾け続けているわたしには、法然の南無阿弥陀仏にも、常識的な通念とはべつの受け取り方が胸に宿っている。法然の易行とは、阿弥陀信仰を六字念仏に煮詰めて与えたことであるのは、一枚起請文によってもまことにその通りだが、事実は、ただ我々に対し「安心」の「抱き柱」を提供したのではなかったか。
西方浄土も阿弥陀の本願も、仏教の創作にすぎない。法然がそんなことに気づいていないわけがない。法然の撰択本願の論の建て方はおそろしく論理的であるが、根本に、証明不可能な「信」の仮設を据えている。そんな論理的「信」の設営でいっさいが保てるとは、法然は考えていなかったろう、が、簡明無比の「抱き柱」を与えて真に「安心」させるための基礎作業としては、そんな議論めいたところも経てこなければ、至り着いた「一枚起請文」のリアリティが成り立ちにくい。「一枚起請文」の無比の簡潔は、世界の信仰のなかでも類のない、みごとにたやすい堅固な「抱き柱」を我々に授けたいという「愛」に満ちていたのである。そんな「抱き柱」など無くても安心の成る者には、「南無阿弥陀仏」も必要のないことを、宗教者法然が知らぬわけはない。

* 法然を否認して言うのでは絶対にない。深く深く感謝して上のことをわたしは言うのである。この正月、菩提寺「光明山」の寺報に書いた「わたしの信、念仏、法然」は、感謝に堪えないきもちを書いたものである。
2001 2・18 8

* 最近に発行をもくろまれてる、ある教科書からの、こんな記事が送られてきた。

* [情熱の歌人晶子] 与謝野晶子(1878ー1942)は、歌集『みだれ髪」(1901年)で一躍有名になった。そこには、例えば、「その子二十櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」という歌のように、みずみずしい新鮮な情感が歌い込まれていた。晶子の歌は、明治という時代の、自由な新しい感情表現の試みであり、それまでの形式を脱した新しい短歌の可能性を開いた。そうした歌人としての活動と、与謝野鉄幹とのはげしい恋愛の末の結婚が話題となり、晶子は奔放な女性だというイメージが広がった。
さて、日露戦争のさい、晶子は旅順攻略戦に加わっていた弟のことを思い、「あゝをとうとよ君を泣く、君死にたまふことなかれ」という節で始まる有名な歌を発表した。この歌は当時、愛国心に欠けるとの非難を浴びた。しかし、晶子にとってそうした非難は心外であった。
というのも、晶子は戦争そのものに反対したというより、弟が製菓業をいとなむ自分の実家の跡取りであることから、その身を案じていたのだった。それだけ晶子は家の存続を重く心に留めていた女性であった。実際、晶子は、大正期の平塚らいてふらの婦人運動を当初支持したが、晶子の人生観や思想そのものは、家や家族を重んじる着実なものであった。晶子自身は歌人として活動を続けながら、大家族の主婦として、妻や母としてのつとめを果たし続けた。夫であり、12人の子の父であり、文学上の同志であった鉄幹の死を、晶子は万感の思いを込めて次のように歌った。
平らかに今三とせほど
十とせほど二十年(はたとせ)ほども
いまさましかば
(原文には随所にふりがな)

* これを送ってこられた人の感想を引用させて貰う。

* ご意見あるいはご感想を伺いたいことがございます。いま主として日本と戦争の関わり方の記述で論争をよんでいる「あたらしい歴史教科書をつくる会」の中学校歴史教科書についてです。
この教科書は全体的に極端な国家主義、戦争美化にかたよっているものですが、人物コラムで与謝野晶子をとりあげ、家制度の支持者として描いています。
晶子は種々の文章で、家のなかでの男性・女性の役割分担に反対していましたし、「子どもは物でも道具でもない。一個の自立独立した人格者である。子どもは子ども自身のもの」としています。弟を家存続の存在として考えて「君死にたまふことなかれ」と歌ったはずはないと思うのです。子どもの自立性の点で「平塚さんのように社会のもの、国家のものとは決して考えない」と言っているように、この点では平塚らいてふと考え方を異にしたようです。
このことをどのようにお感じになるか伺わせていただきたいのです。
私は晶子をゆがんでとらえていると思うし、文学者をこのように勝手に解釈して(もちろんどういう解釈も勝手かもしれませんが)若い人を教育するのは許せないと思っています。
それにしても家族や家の仕事を愛することと、古い家制度を温存することとを切り離すにはどうしたらいいのでしょうか。愛を基盤とする宗教を持たないためのジレンマでしょうか。

* いちおう、この感想はワキへ置いておいて考えたい。と、原稿用紙にして数枚も書いたところで、ちょっとした手の滑りで、あっというまに、書いていた文章が消去の憂き目に遭った。この頃ときどき起こす事故である。深夜の二時。さすがに新たに書き始めるには遅い。わたしの感想は明日以降に譲りたい。
2001 5・6 9

* 「あゝをとうとよ君を泣く、君死にたまふことなかれ」と始まる与謝野晶子の詩が、何を歌ったかと考えるのは読者の自由であり、自然、人により読みの力点の置き方が散らばってくるのも、道理であろう。反戦歌だと読む人も、上一人の御稜威と軍の自儘を諷し嫌悪したと読む人も、即ち肉親への情愛と読む人もあろう。どれかに限定はできず、深く絡み合っていて、どれも否定できはしない。だが鑑賞にはおのずと作の動機に触れねばならない。
発表当時に激しい非難をあびたのは事実で、晶子の陳弁につとめたのも事実と謂える。非難の声があがり、非難の当否はべつとして、当時の世情としてだれもそれを異とせずに観てきたのは、即ちこの作品が、御稜威の名における兵役を厭悪した反戦歌と広く読まれたか、読まれやすかったかを明らかに示している。内心で作者の気持ちに賛同していたか、声高に非難を浴びせたか、いずれにしても当初の印象も読みも、そこを大きく逸れていたわけがない。
だが、作者のやむにやまれずそう歌ったのが肉親の情に発していたのも自然当然で、否定できることではない。むしろ作の動機は、弟の(無道な)兵役と出征とにあったのは明らかである。晶子の陳弁が自然肉親愛に添うように行われたのも、根拠になる動機がもともとあったればこそで、これまた頭から否認できる話ではなかった。
だが、それもより深く先行して厭戦の情とお上への怨嗟があった、表現したかったのはそれだったろうと言われれば、作者も胸の内では頷いていたに違いなく、しかし口に出して国体の意思に真っ向から非難を浴びせはしなかった。当然である。図式的に動機や思想を分離し対立させて考える方がおかしいのである。ものの表裏である。その上でわたしは、明らかに弟よ戦場にむなしく死ぬなと歌った、痛切な皇軍批判の厭戦歌であると読む。しかも晶子の、人として藝術家として国を愛した気持ちを疑ったこともない。戦争して負けないだけが愛国心であるわけもない。
それにしても、教科書本文の、「この歌は当時、愛国心に欠けるとの非難を浴びた。しかし、晶子にとってそうした非難は心外であった。 / というのも、晶子は戦争そのものに反対したというより、弟が製菓業をいとなむ自分の実家の跡取りであることから、その身を案じていたのだった。それだけ晶子は家の存続を重く心に留めていた女性であった。」という行文は、論旨の寸があまりに短く、短絡ということの代表的作文のように思われる。観念的に戦争そのものに反対したのではなかったが、無辜の若き男子を戦地へ追いやるいわば「仕組み」への強い怨嗟の声になっている。直接には弟を歌っているが、その歌声は、同じような無数の悲嘆を優に代弁し得ていたから、あれだけの訴求力を持った。「弟が製菓業をいとなむ自分の実家の跡取りであることから、その身を案じていたのだ」と文章を繋ぐのは、むしろ後段の主張を導きたいタメにする論法で、この叫ぶように丈高い詩は、一実家内のプライベートにとどまる表現ではなかった。作者の背には目には見えなくても耳には届いてくる民の声の、あるいは女の声と謂うもいいが、そういう後押しが働いていた。だからあれだけの表現になった。
だが教科書は、この優れた詩を、一鳳家の家内感情に矮小化させつつ、「家の(保守的な)存続」をこそ与謝野晶子は大事に考えた人であったと、見当はずれなある魂胆に賛同協力させようとしてくる。与謝野晶子は奔放な愛欲に目覚めた詩人であったといわれてきたが、事実は、子として姉として、また妻として母として、まことに家庭と家族と家の存続とをなにより大切に考えて生きた人であった、と、先ずは「評価の重点」を移動しようというのである。だが、そこで終点ではない。それほどに「家の存続」は人間の生き方を左右する基本的に重い大事だと、つまりは晶子をダシに、そこへ、教育の方向と結論とが設定されているのである。
与謝野晶子がみごとな藝術家であったこと、奔放な愛に身を賭して生き得た人であったこと、じつに優れた業績を残していること、は、否定できない。が、同時に子として姉として、また妻として母として、まことに愛情豊かにみごとに生きた人であったのも、まぎれもない事実である。晶子には、これは、相対立する矛盾ではなかった。両立させた自然であった。
だが、この自然から、「家の存続を重く心に留めた」と論旨を導くのは、批評が足りていない。日本語では、家庭・家族と、家とは、そう軽々と同じ範疇かのように認めることはできない。家が家屋を意味する場合は、家庭・家族ともナミに扱えるが、家門・家名の意味になってくると問題は急に難しく複雑になり、情愛の範囲内に落ち着いていない。教科書は、都合よく「家」と「家族」を一掴みにして「晶子の人生観や思想そのものは、家や家族を重んじる着実なものであった」と断定したが、家族への愛は溢れていても家には拘泥しない「人生観や思想」の人は、幾らもいる。与謝野晶子の場合がどうであったか、少なくも検証の必要が有ろうが、最後に上げられている夫鉄幹の死を嘆く名歌には、「家の存続」という人生観や思想は微塵も受け取れずに、まさに妻の夫への「愛・恋の情」に溢れている。そして、それは与謝野晶子の生涯をみごと証ししているものでこそあれ、その人と藝術との指さすところが「家の存続」に重きを成していたなどと、教科書に特筆できる証跡は感じ取れなかった。思うに、この教科書編纂の後ろ向きな思想と意向が「家の存続」に在るのを、与謝野晶子に間違って代弁させようとしたに過ぎないのではないか。魂胆とわたしが指摘したのはそこである。
かの「きみ死にたまふことなかれ」に立ち返って謂えば、あの詩批判に満ちた視線は、そもそもどこへ向いていたか。「家の存続」思想の根拠のような、或るやんごとなき一家一族にではなかったのか。
2001 5・7 9

* :与謝野晶子つづき
そうなのです。与謝野晶子の芸術性と夫や子ども(もちろん弟にも)に対する深い愛情、それに天性の鋭い客観性をダシに使って、彼女が持っていたはずのない思想にあてはめるのがたまりません。
あの部分を書いたのが誰かはわかりませんが、この教科書の執筆者は次の人たちです。伊藤隆、小林よしのり、坂本多加雄、高森明勅、田中英道、谷原茂生、西尾幹二、広田好信、藤岡信勝、八木哲
とにかく文部省(いまは文部科学省ですね)がこの教科書を検定合格させたのですから、がっかりします。
どんな思想を持つのも自由ですが、その表明には全責任をもって自分の言葉でしてほしい。敬愛する与謝野晶子をそんなことに使わないで!! というのが私の単純な反応なのです。

* この教科書がずいぶん問題にされている。わたしは検閲にも検定にも反対で、自由教科書を考えてきたので、国が手出しをしないかぎり、思想と言論の自由にもとづき教科書がたとえ乱立しても、かならず淘汰されるものと信じている。国が、政府が、無用な指導を強要しない限り、いろんな教科書の出てくること自体に、わたしは反対しない。しかし、現行の制度では、今度のも、一種の「お墨付き」を国に得ている点にいちばんの問題がある。だから隣国も内政干渉を敢えてしてくる。
与謝野晶子がどのようにいわば「利用されて」きたか、これも問題だ。
2001 5・8 9

* 歴史の授業で詩を教えるということ。
秦先生 少しご無沙汰してしまいした。
先日先生にメールしました後の4月初旬、日暮れ後に自転車を漕ぎながらふと山際を見上げると、やわらかなサーモンピンクの大きな月があり蕪村の「のっと」という表現はこういう月をいうものなのだ、と納得しつつも句の全体を思い出せず、「先生に伺わなくちゃ」と思いながらもこんなに日が経ってしまいました。
もう月ものっと出る季節ではなくなってしまいましたが・・・。しかも、今日は雨でせっかくの満月も見えないようです。ただ、鮮やかな色とりどりの新緑に雨のかかる様は瑞々しくて私の大好きな景色でもあります。
そう言えば、娘の生まれたのも満月の夜でした。
人もただの一生物だなぁ、と痛感させられるほど、その夜は病院でも出産が次から次へ続いていたのを思い出します。
月の満ちる夜に新しい命が誕生するのは、不思議なほど生き物全体の共通点ですね。
ところで、「のっと」出る月の句はなんと言いましたっけ?
先生のホームページで、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」を取り上げられておりましたが、私は中学・高校を通して、この詩を何回も習いました。国語でも歴史でも。
異常に感じるのは、この頻度です。
芸術として完成度の高いものであることは疑いようもありません。ですから、国語で習うのは納得はいきます。けれど、ただでさえ近現代史を教える時間がない、と言われている今の歴史教科書の中で、例えばリットン調査団の記述すら消えてしまっているような教科書の中ですら、中学でも高校でもくり返しこの詩を教えること自体に、私は疑問を感じるのです。
歴史の教科書の中で、他に詩を取り上げていた記憶はほとんどありません。それ故に、今までの教科書では、ある種の意図が働いて、この詩を取り上げてきていたという感触を覚えております。
与謝野晶子は素晴らしい詩人だったと思います。
彼女のあの詩を発表することは、あの時点では、かなり勇気を必要とするものだったと思われます。世の中は、「お国のため」にロシアに戦いを挑むことが大きな流れになっていたのは事実だったはずです。そのあたりの流れを「坂の上の雲」ではしっかりと描いてありますよね。
そんな中で、彼女の詩を発表することは、相当に気力が必要だったでしょう。
しかし、従来の(少なくとも私の習った教科書では)日露戦争に関しては反戦的な取り上げられ方ばかりで、戦いに向かう大きな事実経緯を詳細に書いてなかったように思えるのです。
すると、与謝野晶子のこの詩は、普く流布している反戦ムードの中での単なるファッションに見えてしまう。これでは、与謝野晶子に対しても失礼ではないでしょうか。
彼女は、詩を発表する、それも時流に抵抗するような詩を発表する、その「発表」という事実の中で、激しく生きた人だったと思うのです。そして、こういう「詩」にかける情熱は、国語の中で教えることこそが相応しい。歴史の教科書の中で、それも安っぽい反戦ファッションとして取り上げるべきではないはずです。
かといって、この新しい教科書でのとりあげ方が正しいとも思えませんが、彼女の詩を逆のとりあげ方をして、日露戦争へ向かう時代背景を教えたくなってしまった「つくる会」の意図もあながち否定すべきものとは思えないのです。
私としては、基本的には、歴史の教科書の中でいたずらに詩などをとりあげるべきではない、ましてや安っぽく取り上げるべきではないと考えています。
(古代の叙事詩など、史料となるのならば別ですが)
そして、今までの教科書がそういう作りだったからこそ、反動でここまで書いた教科書が登場してきた理由もわかるような気がするのです。ただちょっとあまりにも極端ですけれど。
でも、与謝野晶子を題材にして、この時代の価値観自体が今と異なっており、その中での、彼女のこの行動だったのだ、と言いたかったのでは、と解釈しております。ここまで書かなくても、とは思いますけれど。
またしても長くなってしまいました。
明日の「細雪」が見ごたえのあるものでありますように。
やわらかな雨音を聞きながら・・・

* 東工大に来ていたことに女子学生達には、こういう、くっきりとした文章で意見をしっかり述べる人が多かった。この人もそうだった。わたしのような「文学」教授には、それは有り難かった。わたしの教室では与謝野晶子のこの詩は取り上げなかったが、与謝野鉄幹の「誠之助の死」は、大切に毎年取り上げた。この詩一つのあることて、わたしは鉄幹を意識してきた。晶子の問題の詩とは好一対である。晶子の詩が先行し、鉄幹の詩はさながらに呼応している。前者が日露戦役の頃にうたわれ、後者は大逆事件のフレームアップ(でっち上げ)で死刑された一介の医師をあざ笑う体で、痛哭している。この夫妻が、つねづね何を考えて語り合っていたかは明らかだろう。

* 「のっと」出るのは「月」でなく「日」で、蕪村でなく「むめがかや」の芭蕉であろう。
2001 5・8 9

* メールで別の人から一本のエッセイが送られてきた。読んだ小説、観た映画を通して語られているのだが、一つには多様で不特定なインターネット「読者」が、まるで勘定に入っていないエッセイで、例えばいきなり「アンナ」と出てきたのがアンナ・カレーニナのことと分かるのに、けっこう読み進まねばならない。原作を読んだことのない読者、映画を観たことのない読者には、はなはだ分かりにくく、書き手の「思い」だけが露骨に取り纏めて書き込んである。このわたしの「私語の刻」なみの主観的な日記ででもあるなら、たんに「私語」であるのならそれでいい、が、随筆という自立した文藝作品の場合は、「私語」だけでは成り立たない。たとえば短歌の同人誌に短歌の話を、映画雑誌のなかで映画のことをというふうに予測できる読者の世間が狭ければ、「私語」でも通じる可能性は高い。しかしインターネットの文藝は、その点、かえって厳しい条件に適わねばならない。書き手だけが分かっているのでは感心できないのであり、限度は有るにしても、あくまで読み手に伝えて読んで欲しいという書き手の親切心も厳しく要求される。
随筆には、ハートの柔らかみが表現にも生きていて欲しい。漢字の熟語を叩きつけてくるような表現では硬直した演説を聴くようであるし、また、漢字の熟語は一語に多くを包含できるかわりに、つい、その含蓄に意の有る多くを安易に託してしまう手抜きになりやすく、文章の生気が記号化されて、いっそ空疎に陥ってしまうのである。そんなに気張らなくてもと宥めたくなる硬い文章は、観念的空疎に落ち込みやすい。自分の感動や印象を、くだいて具体的に伝えようとすればこそ随筆になるのであり、そこが聴きたいと読者のおもうところを、軽便に既成熟語で済まされては、随筆にならない。考え直して欲しいと思う。
そうかと思うとまた、あまりにオトメチックにほんわかほんわかと気分だけを書き込んだ小説めかしもした自称随筆作品も送られてきて、お返ししたりする。随筆を書くのは難しい、苦手だと本気で思うことがある。
2001 5・16 9

*  あなたが、カソリックの国の方角へ向かうのだということを、意識しています。シチリアなどと聞くと、どうしてもシドッチ神父が懐かしい。それにこの二三日、コンピュータで、DVD映画「ジャンヌ・ダーク」を観てしびれています。
わたしが、フランスやイギリスやカソリック教会に、そして信仰の問題にふれた、生まれて初めての体験は、大戦争以上に、戦後の中学時代に見せられた天然色映画「ジャンヌ・ダーク」でした。イングリット・バーグマンでした。今度観たのはバーグマンとはまるでべつのミラ・ジョボヴィッチ主演ですが、ダスティン・ホフマンが共演していて、優れた作品になっています。国会の討論にも目も耳も向けていますが、そういう関心が白濁してしまい、映画のさしむけてくる問題の方にクリアな、リアルな実在感を覚えています。王位や教会による肉体や精神の支配をきつく嫌い厭う気持ちは、この映画で芽生えました。
わたしは、多くの儀式や装飾を身にまとって拝跪と服従を強いる、宗教というよりも権威宗団を信用しない。仏教は釈迦をはなれ、カソリックはイエスを裏切っています。日本には法然や親鸞やのようにありがたい導師がいて優れた抱き柱を与えてくれました、が、バグワン・シュリ・ラジニーシを介して、今、わたしは禅ないしは「静かな心」に惹かれています。
2001 5・21 9

* 国際討議の原稿は幸い一度でオーケーになった。新しい時代の「出版」のなかで読者と作者の問題を率直に語った。従来の「出版」の議論の特徴はねそこで書き手や読み手の存在にほとんど一顧もしないことであった。わたしの「湖の本」は、そういう「出版」への力の限りの「批評」こういであったことが、ようやくかなり広く認知されてきたと思う。だが、ことはわたしの問題ではない。これからの問題、新たな時代の問題なのだ。わたしは実践してきた。
2001 6・18 9

* 「英語を外国語として理解している多くの読者にもよく分かるように、(本とコンピュータ)の英文は平明を旨とします。すると分かりやすくなるのですが、原文の持っていた迫力がそがれるようなことがあります。できるだけそうならないように、秦さんの英文の翻訳・編集は、最後までこちらで議論して手直しをしました。英文に直したときは、変化球より直球の方が、外国の読者には理解されます。秦さんの今回の文章は、剛速球なので多くの人に理解され歓迎されると思います。ありがとうございました」と編集長からアイサツが入っていた。どんなことを書いたか、少し露わにものを言っているが、「エッセイ」欄にも、(本とコ)で許してくれるなら「e-文庫・湖」第九頁の「英文」欄にも掲載しておきたい。
関連討議は、http://www.honco.net/100day/03/2001-0622-hata-j.html から展開して読んで欲しい。

* ネットの時代へ、作家として編集者として  秦 恒平

わたしは「書き手=小説家」だ。批評もエッセイも書いてきた。どのように作家として出発し、現にどのようにこの議論との接点をもっているか、それを知ってもらうのが、議論の趣旨にいちばん適う気がする。なぜか。

エプスタイン氏に始まり加藤敬事氏らの対話に到る議論が、ほとんど「書き手=作家・著作者」を、「出版」の問題にしていない。「読者」への評価もまるで無い。こと「出版」を語って、作者と読者への視野や評価を欠いた議論というのは、何なのか。久しく作者を出版の「非常勤雇い」として?使し、読者から「いい本」を取り上げて多くの泡をくわせ、待ちぼうけを食わせてきた、出版社主導ないし独善の「出版」なるものが、いま自己破産に瀕しているのは、けだし当然のように見受けられる。新世紀は、そういう作者や読者から、旧出版へ反撃の時代とも位置づけられる。反撃を可能にするのが、デジタルテクノロジーであることは、言うまでもない。「出版」抜きの出版、作者と読者とで直接交しあう出版が、今日、可能になっている。わたしはそれを、十五年、成功させてきた。出版よ変われと願い孤軍奮闘してきた。その実践を人は楠木正成の赤坂城に喩えてくれる。愚かしい真似であったか、意義があったかはみなさんの判断に委ね、他人のことでなく、あえて自分のことをこの場で語ろう。

1960年代、創作を職業にする以前に、出版社に頼らず、私家版を少部数ずつ作って、ごく少数の読者に作品を手渡していた。その四冊目の表題作が、作者の知らぬうちに太宰治文学賞の最終候補に推されていて、受賞した。1969年である。文学賞は、この業界からの「雇い入れ」招待状になった。
以後、年に四冊から六冊ほど、毎年本を出版し続けた。折り合える限りを出版社・編集者と折り合い、勤勉に書いて書いて著書を積み上げていった。一年に書く二千枚の原稿のほぼ全部が右から左へ単行本になって行くほど、この新人作家は出版に恵まれた。十数年といわぬうちに各種六十冊を越えていた。ただし、どの一冊もベストセラーにならなかった。わたしには出版が大事なのでなく、心ゆく創作や執筆、その自由と発表の場が大事であった。「いい読者」が大事だった。少数だが熱い読者に常に支持されていると、編集者も出版社も本を出しつづけてくれ、蔵は建たなかったが、職業としての作家業は、受賞以来五年の二足わらじを脱いでからも、十数年、二十年、なお十分成り立った。原稿料・印税その他で、一流企業の友人たちよりもわたしは当時稼いでいた。

ところが、お付き合いの濃かった人文書出版社が、つぎつぎ具合悪くなった。筑摩書房、平凡社、最近では中央公論社。意外とは思わなかった。優秀なバックリストに満たされての破局は、エプスタイン氏の批判に言い尽くされているのかも知れない。龍澤氏の反省がまるで当時機能していなかったのは明白である。
痛みとともに想い出すが、すでに1970年代前半にして、わたしが勤めてきた出版社の企画会議・管理職会議での合い言葉は、強圧は、「前年同期プラス何十パーセント」という機械的な生産高設定であった。医学専門書の出版社でそうであったし、読者確保の利く専門書であるがゆえに高価格設定でそれもなんとかなったけれど、龍沢氏のいわれる「幅」のある、それだけ見通しの利かない人文書出版社で、生産高本位の「前年同期プラス」に歯止めなく走り始めれば、そんなバブルが、うたかたと潰えるのは目前であった。作家として独り立ちしてからの7-8-90年代を通じ、わたしは「出版」の自己崩壊または異様な変質は、あまりに当たり前のことと眺めていた。良識ある編集者の発言力が社内で通用せず、むしろ進んで変質し、「売れる本を書いて欲しい」としか著作者に言わなくなっていたのだ。龍沢氏は言われる、「書籍編集者は年間出版点数を倍に増やさなければ売上げを確保できず、企画は次第に画一化されてゆく。その過程で編集者・出版社は、かつて強力な流通網の向こう側に確実に実在していたはずの、ある『幅』をもった多様な人文書の読み手であった『読者階層』の姿を急速に見失ってしまったのである。企画の画一化は、結局のところ画一的な読者を生む以外にないのである」と。この通りであった。「編集者」はいなくなった。原稿もろくに読まない・読めない「出版社員」だけが下請けを追い使って生産高を競った。
そんな中で、作家・著作者とは、バブル化する出版資本のかなりみっともない「非常勤雇い」に過ぎないとわたしは自覚し、イヤ気もさして、このままでは、百冊の本を出しても、売り物としては半年から二年未満の寿命に過ぎないし、読みたい本が手に入らないという「いい読者」たちの悲鳴に出版が見向きもしない以上、作者である自分に「できる」ことは何だろうと、考えに考えた。

そして、1986年に創刊に踏み切ったのが、絶版品切れの自分の全著作を、自身の編集・制作により復刊・販売・発送し、作品を、作者から読者へ直接手渡すという、稀有の私家版シリーズ「秦恒平・湖(うみ)の本」であった。辛うじて自分の「いい読者」を見失うまいと手を伸ばしたのだ、詳しく話していられないが、今年の桜桃忌(太宰治の忌日)までに、満十五年、六十七巻の著作を簡素に美しい単行書として、自力で出版し続け、百巻も可能な見通しで、なお継続できる「文学環境」が確保できているのである。読者の質は高く、支持は堅く、代金は一ヶ月でほぼ回収している。復刊だけではない、新刊も躊躇なく刊行し、ただし実作業はわたしと老妻との二人で全て支えてきた。苦労そのものであったが、読者という「身内」に恵まれ幸せであった。「本が売れないって。泣き言を言うな。自分で売るさ」と、実に自由であった。むろん市販の本も、各社から二十冊ほど増やした。忙しかった。

大事なのは、ここからだ。かつて菊池寛が文藝春秋を創立したとき、作家が出版社経営に手を出すのかと中央公論社長らに大いに憎まれ、喧嘩沙汰もあった。菊池寛のような政治家ではないたった独りの純文学作家・秦恒平の自力出版が、五年しても十年しても着々続いていては、陰に陽に凄い圧力がかかる。文壇人としては野たれ死ぬかな、ま、赤坂城のあとには千早城があるさと粘っているうちに、1993年、東京工業大学の「文学」教授に、太宰賞の時と同じく突如指名された。大学教授の方はとにかく、理系の優秀校、コンピュータが使えるようになるぞと、わたしは、牢獄を脱走するエドモン・ダンテスのような気分になった。紙の本で得てきた創作者の自由を、電子の本でさらに拡充し、紙と電子の両輪を用いて、「いい読者」たちとの「文学環境」をもっと豊かにもっと効果的にインターネットで楽しもうと、奮いたったのである。

定年で退任したいま「作家秦恒平の文学と生活 http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/」は、その途上にある。途上とはいえ、文学・文藝のアーカイブに徹して、コンテンツはすでに600万字に達し、電子版「湖の本」の他に、新たな創作もエッセイや批評や講演録も多彩に取り込んでいる。課金しないから、読者は自由にすべてが読めるし、気が向けば印刷版
の「湖の本」へ自然に注文が入る。紙の本の魅力はまだまだ当分失せはしないのである。
わが「湖」は必ずしも広くはなっていない、が、深まっている。その証拠ともあえて言おう、わたしのホームページは、さらにその中に「e-literary magazine文庫・湖umi」を抱き込み、わたしが責任編輯して、弁慶の刀狩りではないが千人・千編の各種の文学文藝を掲載発信すべく、すでに創刊半年で、百数十人の作品に満たされているが、書き手の大方が「湖の本」の読者であり、大半は立派に知名の書き手なのである。その水準の高さに惹かれ励まされて若い無名の書き手も次々に参加してきている。原稿料は出さず、掲載料もとらず、ただわたしの「編集と取捨」とに委ねられている。実はわたしは、作家以前に、弁慶のような「編集者」として牛若丸の「書き手」を追いかけ回し、そして最後には勝たせてあげていた。その「体験」が、わたしの「作家」三十数年を支えてきたのだ、ここが、もっとも肝要な「これからの編集者」論ということになる。龍沢氏の文中にもある「編集者・出版社」という一括はもう崩れていい。「作家・編集者」という根源のチームに立ち帰らねば「編集という本質」は瓦解するのだ。

もし、力ある作家と編集者とが、小さく緊密に、コッテージ・インダストリーふうに紙とデジタルで信頼の手を組めば、そういう「新出版」が各処に渦巻き働き始めれば、老朽した「旧出版」という北条政権は、遂には傾くだろう。インターネットに、読者と作者を引き裂く「中間」存在など無用なのだから。
この場合に必要なのは、作家自身の誠実な自己批評の能力、編集力、だ。作家自身も、それをサポートできる編集者にも、何よりもつまりは良きものを求めて「読んで」見つけだす力が必要なだけだ。インターネットで文学環境を築こうとすれば、作家自らが誠実な意欲的な編集者になれるかどうか、その結果時代が真に新しくなるかどうか、が、鍵になる。弁慶と牛若丸のように、今こそ編集者は作家と、作家は編集者と組んで「旧出版社」から脱出せよと言いたい。その際、力ある「いい読者」たちの存在をけっして無視してはならないのである。 2001.6.17

* 優れた編集者は、まだ、大勢が苦闘している。ひやかしでなく、真正面からの反響の届くことを期待している。
2001 6・23 9

* 梅雨の晴れ間がながい。有り難いのか、どうか。黄金色した朝日を窓の外に感じていると、祇園会のもう近いことを懐かしく思い起こす。神輿の渡御、鉾の巡幸。コンコンチキチン。
京都へ帰って住もうとは考えないが、帰山の情はあつい。現実に身を動かさなくてもほぼ自在に帰って行ける時空があり、自在に逢える多くの人々がいる。多くは故人であり、さらに多くは架空の人々でもあるが、リアリティーはいささかも異ならない。

* 身をせめるという物言いがある。芭蕉などが用いている。わたしの場合、このようにして私生活を、内心の思いを、かなり素裸に曝すことで身をせめている。とても疲れる行為で、ここまでやると、ごまかしが利かない。「闇」という公開の世界にこう自身を曝し続けることを、甘いラクなことだと思える人は、やってみるがいい。
なぜ、こんなことをしているのだろうと、我から問うていることもある。よく、ある。
意識して今を生きたい、バグワンの教えてくれるように。しかも為している行為の一つ一つに意義を求めたり置いたりはすまいと思う。どんな大事なことも、大事ではないのだ、それが根底にある。べつに何もわたしはしていないのだ。して、しないでいるのだ。しないで、しているが、それは、していないのだ。意識して生きているが、価値判断もしているが、しかし意識も価値判断もどうでもいいことと、根で見捨てている。死ぬまで、平然と、生きたい。
2001 6・29 9

* 夢から覚めては何のこっちゃというものだが、夢見ているうちは我ながら面白い面白いと夢に興奮していた。なんでも、「仁の風景」と題された大小相似の風景画を自分で描き、上下に並べてみると素晴らしく奥行きふかい一つの景色になったので、大喜びして画中の人といっしょに繪の中へ飛び込んで行った。なぜ「仁の風景」で、なぜ描いたのかも分からないが、ふしぎに嬉しい珍しい夢であった。だが、こう醒めて書いてみると、あとはかもない。バグワンは、このとらわれ多い生の現実を、醒めてみれば、ただ呆れるほどはかない夢なのだと、なぜ「気付かない」かと繰り返し言う。気付きはじめている。
その先である。人生が虚仮とハッキリ気付いて、どう、自身の本性を知るか。
2001 7・1 10

* 作品を読んでくれる人とともに生きるのが「作者」である。著作権は言うまでもなく大事な大事な作者の権利に相違ない。だが、こういう「いい読者」より前に、先に、置くべきものだとは、「真の作者」なら考えない。
読者の「顔」を知らない作者がふつうなのである、不思議なような、当然なような、ことだが。
声高に著作権だけを突出して語るような作家は、出版してくれる出版・編集者の「顔」だけしか知らないし、知ろうとしていない。それが特徴だ。読者とは、権利への対価を支払うべき、ただそれだけのための「人数」に過ぎないと、ただの「頭数」のように見ている。そういう作者ほど、作者とは、作品の出版を、出版・編集に対し「許可する」存在だと胸を張り反り返る。著作権者なのだと鼻息の荒い若気の作家たちほど公然と息巻くが、ものがよく見えていない。作者に対して出版を許可するのは「出版者」であり、作者はこの力関係を錯覚している。さよう錯覚させておくのが「編集者」の技量なのでもある。本本当の本性は、作者とは出版の「非常勤雇い」に過ぎない。本を出させてやっているなどと思っていても、本当は、出してもらっている。出すも出さぬも、絶対権は出版の側が握っている。作者も腹の芯では力関係が分かっているから、だから顔の見えない読者よりも、目の前の出版・編集の顔色のままに、傲然とまたは卑屈に、依存し追従し、ただもう「売れる」ことでのみ恩と義理を返そうとする。まともな「いい読者」たちの顔を知っていたらとても恥ずかしくて出せない仕事も平気で書ける・出せるのは、「読まれる」ことより「売れる」ことを一義に、作者は雇い主に媚びて業界での延命をはかるしかないからだ。クレバーな読者の顔をなまじ知ってしまうと、恥ずかしくなるから、知りたくないのだ。
これが、バブルこのかたの、従来「紙の本」出版社会での基本の図であったし、この図を出版はそのまま「電子の本」時代へも持ち込みたいとかなり本気で取り組んでいる。それに気付かない作者たちは、覚えたての「著作権」で権利意識をふりかざしながら、たとえば作者・読者・出版の構図が見えていない。電子の本と紙の本との本質的な素性の違いにも理解がない。「本」と呼ぶ以上は単純に延長線上に並んでいる気でいる。世間知らずなことは百年前と変わらないのが物書きだ。

* 読者の「顔」を知っている、現代では稀有なわたしは作者の一人だと思っている。出版の売り上げ増のために書くのでなく、知己である読者に恥ずかしくない文章や作品が書きたい。受賞いらい、いささかもその態度を、襟度を、崩さなかった。メールの少年のような、こういう「一人」「一人」のあるかぎり、わたしは「作者」だ。このような読者と同列に、心して、わたしを育てまた認めてくださった諸先生の「顔」をも忘れない。優れた日本の古典の作者たち。また漱石や藤村や鏡花や潤一郎、直哉や、荷風や康成や、太宰賞の各選者や瀧井孝作、永井龍男や、福田恆存や、下村寅太郎や、森銑三や、井上靖や、そういった人たちから「ノー」と首を横に振られるような「レベル」の仕事は、たとえ出来ても、しないのだ。わたしの「湖」は掌に載るほどの小ささだが、湖岸の景色は美しく、湖水も深く冴えている。まさに「みごもりの湖」を、わたしは胸に抱いている。
2001 7・2 10

* 真に自己の実在=リアリティーに目覚め気づくことのない限り、生きてあること自体が夢で、実体はないと同じと、ブッダは言う。その通りに違いない。夢の一字はなにかしら美しい物事の代名詞めいて口にされてきたが、夢はたいてい悪夢か虚妄にすぎず、夢がほんとうに人間を良くした例は、よく吟味すれば絶無なのではないか。貪欲。瞋恚。愚癡。いずれはそこへ突き当たって、ただ醒める。安心は残らない。不安だけがのこり、目前に死が来ている。
わたしも人後に落ちず夢を書いてきたが、夢を頼みにしたり美化して書いたことはないつもりだ、虚妄そのものと見つめて書いてきた。
おもしろい、興味深い事実がある。日本の古典は多く夢を書いた。源氏物語はあれで実に少ないほうであるが、更級日記の著者は夢尽くしのように夢を書き込み、浜松にも寝覚にも夢を印象深く多用している。他の物語もまた、概ね然り。
ところが、夢の文字を一つも使わない有名な古典が「二つ」現存するのである。今は、明かさないが。
2001 7・7 10

* この人の世をあたかも「喋り場」と心得てときめいている人は多い。ときめかなくても、わたしだってその一人だと言われればその気味もある、なにしろ「私語」しているのだ、これほども。
だが、わたしの場合、最大の関心はあらゆるジャンルへの多彩な好奇心や関心をかるく超えて、ただ一つ「死」でしかなかった、子供の時から。あるいは「無常」の思いでしかなかった。昨日も今日も明日もそうであり、その前では『経済戦犯』も『日本国の研究』も、大事に受け入れつつ、或る瞬間にはただの白い紙切れと化して散り失せる。

* だが、わたしはこれから選挙に行く。棄権など思いもよらない。生と死と、どちらが分母でどちらが分子か。明らかに死が分母である。この分母の値をかぎりなくゼロに。すると……。
2001 7・29 10

映像化される原作には、どこか、弱点がある。映像に文藝が媚びてしまうからだ、テレビ時代になってからの原作には、はなから映像にすり寄ったような計算がしてある。それでは文学は衰弱する。

* 谷崎潤一郎は映画の魅力を最も早くに体得し実践した文学者であった。シナリオも書き、映画会社に関係し、家族で映画出演し、いわくのある妻の妹を女優にしていた。大正時代である。芝居も好きで戯曲を山ほど書いている。そんな谷崎の昭和期の傑作は、大方が映像性を豊かに表現して、たくさんな映画が出来た。成功した映画も少なくない。
志賀直哉のあの『暗夜行路』でも映画化されたが成功するはずがなかった。映像からすり寄ってきても歯の立たない文学性を志賀直哉は確立している。
わたしは、何度も担当の編集者から「映画化権」がどうのというハナシをされた。だが頑固者のわたしはいつもハラのなかで、映画になどされてたまるか、できるものならやってみろと想って小説を書いた。「清経入水」「秘色」「みごもりの湖」「初恋」「風の奏で」「冬祭り」「四度の瀧」「北の時代」「秋萩帖」など、やれるものならやってみろと思っていた。安易に映像化させないことに「文学の文藝」を意識していた。もっとも、だから読むのにも難しいと言われたのかも。
2001 8・1 10

* ことばが、全く頼りにならないとまで思わないが、ことばは頼みすぎては危ういものだと、いつも思う。十分不十分という意味でなら日本語と限らず、ことばが十分なものである道理がない。老子の鉄則、真理は決して語られ得ない、語られたときもはや真理ではない、というのは頷ける。禅は語らない。語るにしてもあさっての方を向いて途方もないことを言う。バグワンも、真理は、比喩的に詩的にしか寓意できないから真理だといい、多くの寓意・寓話でわたしを愕かせてきた。
だからこそ、明確に書けると庶幾して書かれた文学が、どこか説明過多に軽薄に流れたり生き苦しくなるのも、無理がない。説明し始めれば、説明に説明が要るようになる。人の心理を説明しようとする文学もある。川端康成はそうだ、たえず心理を反省し解釈し説明してくれる。その手際に人は感心するのだが、うるさいなあと思うこともある。谷崎は、そんな必要があるかねと、春琴や佐助の心理などむりに書くことすらせず、事柄をきっちり書けば心理など書けてしまうものだと言ったものだ。
2001 8・3 10

* わたしの「私語」を聴いてから「アルジャーノンに花束を」を観てきたという人は他にもある。アクセスのカウントを放棄してしまって以来、わたしのホームページが、どの程度の人数に読まれているのか、増えたのか減ったのかも皆目分からない。その意味では全くの「暗闇」へむかって日々に言葉を言い置いているだけで、このようにして声を掛けてきて下さる方があるから、何かしら手応えになる。感触としては、わたしの言い置く声、放っていることばに耳を貸していて下さる人はうんと増えている気がしている。
その一方で、非常識に読みだしにくい過剰に重いファイル処理だと手厳しく非難する人も増えている。もっともな気もするが、リニューアルはわたしの手に負えないし、このファイル形成は、作品や文章を大量に、全的に保管するという基本の目的にはかなり便利なのである。一つのファイルがせいぜい50KB限度だなどと言うていたら、長篇小説もバラバラに分割することになる。湖の本でいちばん分厚いのは、今までに『死から死へ』だが、600KB近くを、一ファイル処理してある。
一度開いてもらえば、オフラインで全編、自由に読むなりコピーするなりしてもらえる。大量をオフラインで見てもらえるメリットをわたしは重く見ている。「e-文庫・湖」の詞華集にはもう数十人の詩歌が入っているが、開いてオフラインにすれば、スクロール一つで好きに読んでもらえる。そして保管高率もあがる。開くのに時間がかかる、重い、と聞くが、なかなかあれもこれもと旨くは行かない、と言うより、わたしの手では、どうしようもないこういう組み立てになっているのだし、それもわたしが最初に希望してそう作ってもらった。そのままを、「闇」へそっと放ち沈めている。言い置いている。その先のことはカウントというマインド行為を幸便に落とし果てたため、もうわたしの手は及ばないのである。
2001 8・3 10

* 秦建日子の新しいホームページを開いてみた。なぜ、「掲示板」が欲しいのだろう。掲示板で、そのホスト発信者やホームページそのものの「調子」が決まってしまう。必要なメールなら、わたしのホームページで分かるようにメールとしてきちんと入ってくる。わたしだけが読めば済むものは読み、披露しても意味のある表現や表出は許してもらって披露している。そのために闇に言い置く「私語」のある水準が保たれる。その調子で行くから、過去数年、万に達する受信メールの中で、へんに不快なメールはたった一通だけ、二通と来たことがない。
三十余歳。建日子には先輩に黒川創がいる。柳美里さんらとは同じ年輩だろう。アーサー・ビナードより年上、平野啓一郎君よりずっと上だろう。優れた世代のライバルをも念頭に、公開する文章というものは、よほどの覚悟できっちり書くべきだ、自身の誠実と蓄積の全容を賭して。そうでない文章を意識もなく垂れ流すのは、文筆で食って生きるものとして恥ずかしい。それは読者を下目に見ることに繋がるし、決してしてはいけない。それをやっていると、文章がただただ軽薄に鉋屑のようになって行く。尊敬する最高の大人を一人でいい想い浮かべ、その人の前で顔を赤くしなくて済む文章(必ずしも中身のことではないが。)を書く気で書き、また創った方がいい。
わたしは、ウソではない、この場に書く文章の一行といえども、分かりよくいえば私を文章世界に送り込まれた、太宰治賞の選者たち、井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫先生らへの「答案」提出と同じ気持ちで常に書いている。瀧井孝作、永井龍男、福田恆存、井上靖、円地文子、小林秀雄、和田芳恵、辻邦生ら各先生に顔をしかめさせるような文章(中身ではない)は書くまいとしている。こういう考え方には批判は在るかも知れないが、じだらくに流れない一番の方法であり、優れた読者の顔をいつも念頭に置いている。湖の本の「いい読者たち」をいつもいつも念頭に置いている。それがわたしを或る意味で呪縛しているのだという論法も成り立つだろうが、そんなことを気にかけたこともない。
電子画面だから軽薄で佳いと言うことにはならない。不特定大多数のテレビ芸能ふう若い人を相手に商売の宣伝をするのだから、と、それで済むように考えていると、「ことば」が「表現」が、もう創作者の自在を失い、書けなくなってしまうのだ、本当に「表現」した文章が。それが言葉と文章の怖さだ。習作ほどの気持ちもなく日々に安易な言葉を消費するのは、これからという若い人のためにはならない。やるなら、新鮮な血潮を絞るほどの文章をそこで創作すべきだと思う。
2001 8・7 10

* 柴田錬三郎「無想正宗」は、例の眠狂四郎もの。採るにも言うにも足りない消耗的な読み物。中村真一郎「砕かれた夢」は腰砕けの生硬な史談で、徳川忠輝の最期を書くようでいて焦点散漫、年譜をただ舐めて済ませている。味付け雑駁で小説の魅力には遠く達していない。水上勉「天正の橋」は、よく知られた精進川裁断橋欄干の銘文に取材して巧みに纏められた一編、堀尾茂助の戦死した嫡男かといわれる金助を、じつは叔父の息子であったと考証してゆく縦糸にそい、不運な父子、かなしい母の思いを書いている。ファクトノベルであり、腕のある作者が気に入った「材料」に出逢ったとき見せる手腕である。文学の香気とは遠い読み物の最たる一例であるが。つまりは真の文学がストーリイではなく、いわば比類ない文品であることを、逆に教えてくれる。「天正の橋」と谷崎の「小野篁妹に恋すること」を比べ読めば分かる。
阿川弘之の「野藤」と名付けられた鷹と鷹匠との話は、事柄が具体的に適切に把握されていて、表現も確かな佳い作品であった。阿川さんにこういう作品のあるのを知らなかった。鴎外に近いね歴史小説という品位をさも感じさせた。興味深い世界が文学として造形されていた。
五味康祐「喪神」は、この手の作品群の傑作であり、通俗読み物の域を頭抜けた表現を得ていて、魅力に富む。昭和二十七年の芥川賞に選ばれてあることに異存を覚えなかった。久しぶりに読み直して初読の昔の感銘がおおかた損なわれていないのをよろこんだ。松本清張の「ある小倉日記伝」とならんでの受賞だったが、ともに良い収穫であった。
山田風太郎「みささぎ盗賊」は、器用に書かれたコケおどし気味の語り読み物で、それ以上でも以下でもない。語りでなく、品位ある散文でこれだけの中身が静かに書けていれば、肌に粟したかもしれない。瀬戸内寂聴「ダッ妃のお百」(女ヘンに旦の字が再現できない。困ったことだ。)は文品低俗な読み物、他に言葉もない。
文品という言葉はわたしは昔から用いているが、あまり他では見ない。人品と比して読んで欲しく、わたしは「作品」にもそういう意味合いが本来あったと思っている。作があり、その作に作品が有るか無いかはべつの批評であり、べつの価値観なのである。この読んでいる「戦後傑作短編50選」の「歴史小説」特集のなかにも、作はたしかに五十有ろうとも、作品のある、文品のある文学は、寥々としているという事実を苦く苦く嘗めているわけだ、わたしは。池波正太郎「看板」など、要するに文学の世界とは別の住人で、暇つぶしの読み物としてもあまりに低俗。娯楽としてもあまりに軽薄。こういうのが面白いと言われればそれも理解するが、こんなものなら、たとえ書けても書かない。
志賀直哉が「赤西蠣太」を書いたとき、同じ材料で同じ頃に寄席の講釈師が評判だった。だが直哉は、自分はあんな風になら「書かない」と断言していた。書ければ何でもどのようにでも書くという書き手になんか、なりたくない。それが自分の手足を多少なり縛ることになろうとも。子母沢寛、海音寺潮五郎、久生十蘭、山本周五郎、柴田錬三郎、山田風太郎、池波正太郎。みな通俗読み物の雄であるらしいが、偏見なく読み進めて、どれもみな文学作品とはほど遠い消耗品でしかなかったのは、残念なような当然のことのように思われる。べつものなのだ。
娯楽。それはよい、その限りでなら。どれもこれもテレビドラマの「捕物帖」や「必殺もの」や「暴れん坊将軍」や「大岡越前」と選ぶところのない、ま、少しは巧みな、娯楽作ばかりだ。
2001 8・13 10

* 蒸し風呂に入るような二階へ、昼過ぎになって上がった。昼過ぎまで珍しく寝過ごした。むずかしい、夢を見ていた。
神さまから、としておこう。人生の早い時期に、意味もなく、一つの小さなピンを貰った。八ミリ四方ほどの黒いつまみの画鋲のようだったが、それを服のどこかに刺してくれた。わたしは、ほとんど意識もしなかったし、身につけているとも忘れ果ててながく生きてきた。わたしの夢中の人生は、多彩で、波乱にも内容にも運不運にも恵まれていた。その意味ではけっこう結構な歳月ではなかったか。しかも、その結構さに、わたしは好都合より不都合感を、清明よりは混濁を、宥和よりは窮屈を、静かさよりは騒がしさをどうやら感じ始めていた。何なんだ、これは。
そしてわたしは、初めて自分が身に帯びている黒いピンに目をとめ、それを抜いてみた。 すると、日々の暮らしが、多彩も波乱も運不運も落とし喪い、なんだが、ゆたゆたと有るとも無いともはっきりしないが、冴えないなりに晴れやかな、ものに追われないゆるやかに静かな時間空間にのんびりしていることに気がついた。いくらか物足りなかった。で、黒いピンを刺し戻してみると、また、ものごとが忙しく回転し始めた。ワッサワッサと生きている自分へ戻っていた。が、どうも、そんな騒がしさの底を流れている気分は、イイものではないのだった。いやな毒が感じられた。ピンをはずすと、みーんな忘れたように、ゆったり暮らしていた。

* 「黒いピン」の夢だ。わたしは、まだ、黒いピンを捨ててしまえていない。ときどき抜いたりまた刺したりしている。それが恥ずかしいことに思われる。黒いピンを抜き捨て去ってわたしは死ねるのだろうか。刺したまま死ぬまで生きるのだろうか。
2001 8・14 10

* 「黒いピン」をハッキリわたしの眼に見せて、奔走奔命している人が、疲労困憊している人が、心身消耗している人が、何と多いことか。得意そうな人も有れば悲しそうな人もいる。赤い羽根運動のときの比でなく、もう、わたしの眼には、われも含めてと敢えて言うが、無数に「黒いピン」を刺したまま、無数に人の右往左往しているのが見えている。こんなに黒い世界であったとは。

* 山折さんとの対談の本のうしろに跋文を送ったなかで、わたしは、六十四年の分別にさからうことを書いた。全文はまだ出せないが「抱き柱はいらない」という題が一切を示している。わたしは抱き柱を求めていた。もっとも身に合ったそれが「南無阿弥陀仏」であったことは、『廬山』などの読者は分かってくださるだろう。
法然や親鸞の教えを否認したのでも否定したのでもないが、有り難い易行の恩恵であると信じているが、鰯の頭と異ならないことも分かっている。いずれにしても自身の外へ外へ何かを求めてみてもマジナイほどのことに終ってしまい、深い絶対の安心・無心はえられない。「黒いピン」を見知ったからは、外へでなく我が内へ根源の痛みをみつめて生きるよりない。外にある柱に抱きついてはいられないと思った。この思いの前には、一切が無意味である。なによりも己が無意味である。
断って置くが、鬱の気味でこんなことを言うのではない。わたしの元気は、まぎれもない。
2001 8・17  10

* 歴史的にも、厖大な著述はのこしながら、出版という日の目をみなかった価値ある大業は、おどろくほど沢山あり、いまも埋もれて、文献としての劣化のおそれに瀕したり、すでに廃亡したりしている。紙の本のかたちで「出版できるだろうか」と、これが篤志の学者や創作者の無念の悩みであった。今は、ちがう。電子メディアにのこすことも公開することも出来る。あまりの便利さに、かえって追及の質が低く粗悪化することが心配される。だが、希望ももてる。
このわたしの「闇に言い置く・私語の刻」など、紙の帳面に書き次ぐ日録であつたら、まず確実に埋もれたまませいぜい伴侶か子か孫までが読んでみようかと思えばいい方だ。第一ひどい嵩になり保管も大変だ。だが、デジタル化してあるおかげで、またホームページで公開しているから、これでかなりの人の目にふれ、口コミにものり、わたしの感想や生活は生きて動いてくれている。もの惜しみなく、わたしはわたしの感想や意見や着想までもここに書き込むことで「生きて」いると言える。
歴史上の人物でパソコンを上げたいな、ホームページを作っていたらどうだったろうと思う人はあまりに多い。御堂関白記・権記・台記・玉葉・明月記などの著者。徒然草、折り焚く柴の記、鶉籠などの著者。兼好でも永井荷風でもパソコンでなら、必然記事はより豊富に長めになったろうと想像される。彼らには紙という嵩のある金のかかる貴重な財を消費しているという自覚があった。そうそう長くは書けないことで文藝が光り磨かれた事実は大きいし、貴重である。わたしなど、なにの遠慮もなく書くことで、まさに思いを「のべ」ている。短もあり長も必ずある。
2001 8・18 10

* 大学受験生の若き友人から「夜更かし」のメールが来ていた。新潟にも秋が近づいているだろう。きびきびと、息づかいの正しい散文になっている。宇治十帖をつつがなく夢の浮橋にいたってください。そう、古典は声に出して読むのがいい。音読できるということは、言葉として受け入れ得ていることになる。細部の語彙以上のものがしみこんでくる。娘朝日子の大学受験勉強をてつだって、古典を山と積みあげ、片端から少しずつでも音読させて聴いてやったことが思い出される。「読める」それが「分かる」初めなのだとわたしは考えてきた。それで、わたしは今も多くの本を飽きることなく音読している。
2001 8・27 10

* 聴く耳のない馬に念仏を称える気はしない。聴く耳のためには語りたいし、自分も聴きたい。わたしが、高年齢対照のカルチュアーセンターを引き受けたくなく、喧しくて騒がしくても学生達には話したかったのは、若い彼らの方が明らかにじつは聴く耳を持っていたから、彼らの人生は今始まるから、であった。だが、若い人がみなものを聴こうとしているワケではなく、かなり早く耳をとじたがるようになる。と言うか、自分に都合のいい声を選り分けて受け入れるようになる。先日、若い歌人の写真歌集にこの場で苦言を呈したが、今日、「褒めなかったのはあなただけで、大勢が褒めて評価してくれました」と手紙を送ってきた。バグワンではないが、大勢がどっと均しなみに言うことは、どこか可笑しいというぐらいの気で、ただ一人の声にも耳をかす気がないと、自己満足にしかならない。自己批評。それが失せたり薄れたりしては、聴くべき耳はふさがるのである。
2001 9・5 10

* 優れた哲学者ベルグソンには唖者の娘さんがいた。ベルグソンはその唖の娘とも対話できるような言葉で、痛みに耐えた愛で哲学していたのが偉大さの所以であると、芹沢光治良は書いている。こんなことを、繰り返し書いている、戦死した教え子に呼びかけて。

* 実は、西田(幾太郎=「善の研究」などで世界的といわれた哲学者)博士ばかりでなく、僕や君をふくめてすべての日本の知識人が、大衆を唖の娘にしてゐたために、唖の娘に復讐されるやうな不幸な目にあつてゐることに、(敗戦により)おそまきながら気がついたのだ。学者や芸術家など、あらゆる知識人が、現実からはなれ、現実に背を向け、凡俗を軽蔑して、自己の狭い専門を尚いこととして英雄的に感情を満足させてゐる間に、一般の大衆はもちろん、軍人も政治家もかたはな唖の娘になつて、知識人の言葉も通じなくなつて、知識人を異邦人扱ひするところから、日本の悲劇も生じたが、知識人は復讐を受けるやうな不幸にあつたのではなからうか。

みんなで避けようとすれば避けられる不幸だつた。それに苦しめられながら、僕はあの唖の娘のことを思ひつづけた。西田博士ばかりではなく、日本には多くの善意を持つ偉い学者や芸術家や思想家がをらうが、この人々がみな仲間同志にしか通用しない言葉を使つて、仲間のために仕事をして来たので、日本人は唖の娘としておきざりにされて、民度をたかめることもできなかつたが、これはさうした知識人の裏切りであつたと、最後に君にあつた日に憤つたのだつた。

同じ言葉を使はないことは、いつか思想を同じくしないことになつて、外国人同志のやうな滑稽な悲劇が起きる原因になる。  めいめいちがつた言葉を使つていて、他の者を唖の娘扱ひしてゐたので、お互に意思が疎通しなかつた滑稽を暴露してゐる。

敗戦後、民主主義といふことが流行してゐるが、すべての唖の娘が口をきき出して、しかも同じ言葉をどの方面に向つても話すといふことでなければ、民主主義も戦争中にいくつも掲げられた標語と同じことだらうと、僕は心配してゐる。
君の世代の人々もすでに文学の世界で仕事をはじめたやうだ。立派な仕事をしてゐる者もあるが、みいちやんはあちやん、太郎くんはもちろん、大衆を唖の娘としてうちすてて、やはり同じ仲間の言葉でしか物を書いてゐないやうだ。
君は、長生きしていい仕事をするやうにと、回天で出撃する日遺言のやうに、僕に詞を送つてくれたが、そのいい仕事とは、唖の娘にもわかるやうに努力して唖の娘の詞で書きながら、なほ芸術的な作品であると理解している。

君は警告してゐる。  僕たちがまた唖の娘にそつぽを向けてゐたらば、僕達は崇高な精神に生きながらまた唖の娘のつくるちがつた人間魚雷にのせられて、死におくられることが必ずあることを。

* 揚げ足を取る人はとれるであろう。ファシズムだとさえ言う人もあるかも知れないし、芹沢文学の説明だと言う人もありかねない。だが、素直に受け取ればこれは傾聴に値してあまりある智慧の言葉であろう。わたしにも、耳に目に痛い言葉である。
「いい仕事とは、唖の娘にもわかるやうに努力して唖の娘の詞で書きながら、なほ芸術的な作品である」とある。「唖の娘の詞で書きながら」の一句は省いて欲しいと望むのが書き手の意地であり根であるとも謂えるから、これには異論も出ようが、「いい仕事とは、唖の娘にもわかるやうに努力して、なほ芸術的な作品である」とは、だが確実に正しい。
わたしの息子などにも分かりよく譬えれば、ドラマ「阿部一族」とドラマ「暴れん坊将軍」や「水戸黄門」は、同日には語れず、芹沢さんの弁にきっちり値しているのは前者なのである。その「阿部一族」を、高級すぎると久しく「オクラ」にしてきた(という)ところに、広い意味での客=唖の娘たちを下目に見た傲慢さがあるのだろう。同じことは、現代物のドラマについても謂える。いいものは誰の目にも感動をあたえ、しかし、仲間ぼめ以外には誰もほめない消耗品の方が圧倒的に多い。そういう凡百の消耗的なテレビドラマや読み物が、「唖の娘」の味方だなどと言ってもらっては、迷惑だ、唖の娘達を心から大事にしている仕事などでは、けっして、ない。腹の中で、「おまえたちは所詮この程度の物をみて、読んで、楽しめ」と、下目に侮った仕事ばかりになっている。くらべてみれば、歴然としている。テレビを見ていると「腹が立つ」という唖の娘たちは世の中にあまりに多い事実を、謙遜に悟らねばなるまい。帝劇でいえば、浜木綿子の舞台にその悪弊を感じるし、浅丘ルリ子の舞台には反対に誠実な努力を感じる。
一例が西田哲学にだけ罪があるのでなく、現代では、軽薄と猥雑極まって、「なほ芸術的な作品」というにはあまりに程遠いものを垂れ流し、ただもう視聴率を拝んで生きている作家達により、大きな害が生じている。新宿雑居ビル災害の根にも繋がっていると思う。しかし、野坂昭如やつかこうへいの優れた作品には、題材の猥雑をはるかに凌ぐ人間と時代への洞察や愛がある。その辺の「人間」の深みの違いが大きく、秦建日子には、師匠つかさんのあとを今は、たとえジャンルは異なっても、謙虚に追えと言ってやりたい。言葉を大切にと言いたい。
2001 9・6 10

* 昨日就寝前の読書は二時三時に及んだが、一休の道歌を説きながらのバグワンのことばに驚いた。わたしが、ものを書き出してこのかた、創作動機の芯に置いてきた一つ、「島」の思想、とおなじことが語られていた。おッ、同じことを言っていると思わず口に出たほど。
わたしは、言いつづけた。人の生まれるとは、広漠とした「世間の海」に無数に点在する「小島」に、孤独に立たされることだと。この小島は人一人の足を載せるだけの広さしかない。二人は立てない。そして人は島から島へ孤独に堪えかねて呼び合っているが、絶対に島から島へ橋は架からないのだと。「自分=己れ」とは、そういう孤立の存在であり、親もきょうだいも本質は「他人」なのだと。だが、そんな淋しさの恐怖に耐え難い人間は、愛を求めて他の島へ呼びかけつづけていると。
そして、或る瞬間から、自分一人でしか立てないそんな小島に、二人で、三人で、五人十人で一緒に立てていると実感できることが有る。受け入れ合えた、愛。小島を分かち合ってともに立てる相手は、己に等しい、それが「身内」というものだと。親子だから身内、きょうだいだから身内、夫婦だから身内なのではない、「愛」があって一人しか立てぬ「島を、ともに分かち合えた同志」が、身内なのだと。だが、それは錯覚でもありうる。いや貴重な錯覚だというべきもの、愛は錯覚でもあるだろう、と、わたしは感じていて、だからこそ大事なのだと考え、感じてきた。
昨夜、バグワンは、語っていた。(スワミ・アナンダ・モンジュさんの訳『一休道歌』に拠っている。以降、同じである。)

* ひとり来てひとりかへるも迷なり きたらず去らぬ道ををしへむ  一休禅師
一休はどんな哲学も提起していない。これは彼のゆさぶりだ。それは、あらゆる人にショックを与える測り知れない美しさ、測り知れない可能性を持っている。
ひとり来て一人かへるも──
これは各時代を通じて、何度も何度も言われてきたことだ。宗教的な人々は口をそろえてこう言ってきた。「われわれはこの世に独り来て、独り去ってゆく。」倶に在ることはすべて幻想だ。私たちが独りであり、その孤独がつらいがゆえに、まさにその倶に在るという観念が、願望が生まれてくる。私たちは自らの孤独を「関係(=親子、夫婦、同胞、親類、師弟、友、同僚、同郷等)」のうちに紛らわしたい……。
私たちが愛にひどく巻き込まれるのはそのためだ。ふつうあなたは、女性あるいは男性と恋に落ちたのは、彼女が美しかったり、彼がすてきだったりするからだと思う。それは真実ではない。実状はまったくちがう。あなたが恋に落ちたのは、あなたが独りではいられないからだ。美しい女性が手に入らなければ、あなたは醜いじょせいにだって恋をしただろう。だから、美しさが問題なのではない。もし、女性がまったく手に入らなければ、あなたはだんせいにだって恋をしただろう。したがって、女性が問題なのでもない。
女性や男性と恋に落ちない者たちもいる。彼らは金に恋をする。彼らは金や権力幻想=パワートリップのなかへ入ってゆきはじめる。彼らは政治家になる。それもやはり自分の孤独を避けることだ。もしあなたが人を観察したら、もしあなたが自分自身を深く見守ったら、驚くだろう──。あなたの行動はすべてみな、一つの原因に帰着しうる。あなたが孤独を恐れているということだ。その他のことはすべて口実にすぎない。ほんとうの理由は、あなたが自分は非常に孤独だと気づいているということだ。  で、詩は役に立つ。音楽は役に立つ。スポーツは役に立つ。セックスは役に立つ。アルコールは役に立つ……。とにかく自分の孤独を紛らわす何かが必要になる。孤独を忘れられる。これは魂のなかの疼きつづける棘だ。そしてあなたはその口実をあれへこれへと取り替え続ける。
ちょっと自分の=マインドを見守るがいい。千とひとつの方法で、それはたった一つのことを試みている。「自分は独りだという事実をどうやって忘れよう?」と。T.Sエリオットは詩に謂うている。
私たちはみな、実は愛情深くもなく、愛される資格もないのだろうか?
だとすれば、人は独りだ。
もし愛が可能でなかったら、人は独りだ。愛はぜひとも実現可能なものに仕立てあげられねばならない。もしそれが不可能に近いなら、そのときには「幻想」を生み出さねばならない──。自分の孤独を避ける必要があるからだ。
独りのとき、あなたは恐れている。いいかね、恐怖は幽霊のせいで起こるのではない。あなたの孤独からやって来る。──幽霊はたんなるマインドの投影だ。あなたはほんとうは自分の孤独が怖いのだ──。それが幽霊だ。突然あなたは自分自身に直面しなければならない。不意にあなたは自分のまったき空虚さ、孤独を見なければならない。そして関わるすべはない。あなたは大声で叫びに叫びつづけてきたが、誰ひとり耳を貸す者はいない。あなたはこの寒々とした孤独の中にいる。誰もあなたを抱きしめてはくれない。
これが人間の恐怖、苦悶だ。もし愛が可能でないとしたら、そのときには人は独りだ。だからこそ愛はどうしても実現可能なものに仕立てあげられねばならない。それは創りだされねばならない──たとえそれが偽りであろうとも、人は愛しつづけずにはいられない。さもなければ生きることは不可能になるからだ。
そして、愛が偽りであるという事実に社会が行き当たると、いつも二つの状況が可能になる。

* そしてバグワンは、深くて怖いことを示唆する。
それにしても、わたしは、バグワンと同じことを考え続けて書いてきたのだと思い当たる。所々のキイワードすらそっくり同じだ。そうだ、わたしの文学が、主要な作品のいくつかに「幻想」を大胆に用いた根底の理由を、バグワンは正確に指摘しているのである。いま上武大学で先生をしている原善はわたしを論じた著書をもち、しかもわたしの「幻想」性に早くから強い関心を示して論点の芯に据えているが、じつのところバグワンの指摘した「幻想」に至る必然には目が届いていないと、作者としては思ってきた。だが彼のために弁護するなら、作者のわたしとても、かくも明快に意識していたかどうかと告白しなければなるまい。
もう少し、バグワンの重大なと思われる講話の続きを聴きたい。

* ブッダたちは情報知識=インフォメーションには関心を示さない。彼らの関心は変容=トランスフォーメーションにある。あなたの世界は、すべて、自分自身から逃避するための巨大な仕掛けだ。ブッダたちはあなたの仕掛けを破壊する。彼らはあなたをあなた自身に連れ戻す。
ごく稀な、勇気ある人々のみが仏陀のような人に接触するのはそのためだ。波のマインドには我慢できない。仏陀のような人の<臨在>は耐え難い。なぜ? なぜ人々は仏陀やキリストやツァラツストラや老子に激しく反撥したのだろう? 彼らはあなたに虚偽の悦楽、うその心地よさ、幻想のなかに生きる心安さを許さない人々だからだ。これらの人はあなたを容赦しない。彼らはあなたに真実に向かうことを強いつづける人々だ。そして真実はぼんぞくにとっていつでも危険なものだからだ。
体験すべき最初の真実は、人は独りだということ。体験する最初の真実は、愛は幻想(=錯覚、貴重な錯覚)だということだ。ちょっと考えてごらん。愛は幻想だというその忌まわしさを思い浮かべてみるがいい。しかもあなたはその幻想を通してのみ生きてきた……。
あなたは自分の両親を愛していた。あなたは自分の兄弟姉妹を愛していた。やがてあなたは、女性、あるいは男性と恋に落ちるようになる。あなたは、自分の国、自分の教会、自分の宗教を愛している。そしてあなたは、自分の車やアイスクリームを愛している──そうしたことがいくつもある。あなたはこれらすべての幻想(=夢・錯覚)のなかで生きている。
ところが、ふと気づくと、あなたは裸であり、独りぼっちであり、いっさいの幻想は消えている。それは、痛む。

* この通りであると、少なくも「畜生塚」や「慈(あつ)子」や「蝶の皿」を、「清経入水」や「みごもりの湖」を、そして「初恋」や「冬祭り」や「四度の瀧」を書いた頃を通じてわたしは痛感してきた、今も。
だが、バグワンとすこし違う認識が無いとも謂えず、それは大事なことかも知れない。「慈子」や「畜生塚」のなかで用いていたと思うし、請われれば答えていたと思うが、わたしは「絵空事の真実」と謂い、「絵空事にこそ不壊(ふえ)の真実」を打ち立てることが出来ると書いたり話したりしていたのである。一切が夢だから、早く醒めよ、そして真実の己と己の内深くで再会せよというのが、バグワンの忠告であり、じつは、ブッダたちの、また老子たちの教えである。そういう教えのもっている怖さを回避するために仏教や寺院や経典ができ、また基督教や教会が出来、道教への奇態な変質が起きた。バグワンはそれらに目もくれるなと言いたげであり、わたしは彼に賛成だ。それらはその名を体した人の本来とは、ひどくかけ放たれた俗世の機構にすぎない。
いま触れた点でのバグワンとわたしとの折り合いは、そう難儀な事とも思えていない。わたしは「幻想」を創作の方法として必然掘り起こしたときに、「夢のまた夢」という醒め方から、絵空事の不壊の値に手を触れうると思っていたし、今もほぼそういう見当でいる。

* わたしが、ふとしたことからバグワンに出逢ったことは繰り返し「私語」してきた。もう何年、読誦しつづけていることか、しかし読んでも読んでも、聴いても聴いても、飽きて疎むという気持ちは湧かない。ますます理解がすすみ、嬉しい安堵や恐ろしい叱責を受け続けている。その核心にあたる機縁に、昨夜はじめて手強く触れ得たのは幸福であった。
2001 9・7 10

隠遁したいとは考えない。なにから、どう隠遁するのか、できるのか。しかし、いくつかの試みはできるだろう。一つは、この「私語の刻」をすとんと真如の「闇」に落とし見喪い切ってしまうこと。これに懸けている時間と意欲とを、絵空事の世界へ自由に解き放ってやること。コンピューターを切り捨てること。退蔵し、蓄えた本を読んで楽しみ、一冊ずつ捨てて行くこと、お金を大いに使って楽しむこと。黒いピンが刺さっている間は、言うは易く出来にくいのは分かっている。しかし黒いピンを抜いてしまう日は来るだろう。出来れば抜いたそのあとに、元気に老いて行けるもう暫くの年数がのこればいいが。嬉しいが。
2001 9・9 10

* 声高に警告されるあまりにいろんなことがあり、だが、そんなことが何であろうという別の醒めた思いは、いつもわたしにはある。その気になれば、わたしのこんなサイトなど、簡単にひねり潰せる悪意のテクニックの有ろうことは容易に察しられるが、潰せるのはサイトだけであり、わたし自身の心根には及ばない。どっちみち私が死ねばいくら四の五のと言うてみたところで何の意味もなく廃墟と化す営為であり、ロマンチックな永遠など、少しもわたしは信じていない。ここで、わたしが、一応真面目にとかく論説したり表白したりすることも、根底では幻影の破片にすぎず、一種の生きている演戯であること、間違いなく承知している。虚無的になっているわけでなく、はるかに大事なことに「気づいて」いるに過ぎない。その「気づき」からすれば、百万言の現世的な言も説も感も想も、夢幻泡影だということである。夢を見ていると気づいたまま夢を続行させているのであり、夢が不真面目であるのではない。だが、いかに真面目であろうと、夢は夢と知っている、気づいている、だけのことである。一瞬にそんなものの全部を投げ捨てられる。「なんじゃい」である。

* 中学の頃に、一学年下の女友達が、こう述懐した。複雑な家庭環境にいた子であり、それだけに、その言葉は忘れがたく、今にしてますます鮮明に甦る。
「あれもそれも、これもどれも、もう、むちゃくちゃにいろいろあるやろ。わかってくれるやろ。そゃけど、ある瞬間に、『それがなんじゃい』と思うときが有んのぇ。すとんと一段沈んでしまうの、ごちゃごちゃから。いっぺん『なんじゃい』と思てしもたら、もう、なんでもないのん。あほらしぃほど、なにもかも、なんでものうなるのぇ」と。
わたしは後年、この「なんじゃい」を「風景」にしたのが、高花虚子の句「遠山に日のあたりたる枯野かな」ではあるまいかと思い当たった。以来、わたしの中にも、「なんじゃい」という名の「他界」が、広やかに明るく静かに定着したのである。遠山に日のあたりたる枯野へ、いちど「すとん」と身を沈めれば、ハイジャックもテロも、ましてやウイルスもくそも余計な幻影に過ぎない。要するにそれらは悪意の攻撃なのであり、されるままに「それが、なんじゃい」という「本質的な反撃」がありうるのである。ペンクラブの、電子文藝館の、文字コードの、また湖の本だの、創作だの読書だの酒だの飯だの、ああだのこうだのとわたしが頗る打ち込んでいられるのは、根底に、「なんじゃい」という「気づき」を身に抱いているからである。

* その「湖の本」新刊の発送用意も、よく頑張って、九割がた出来ている。本が届いても、メインの作業は出来る。
カミュの「シジフォスの神話=不条理の哲学」を高校三年生の頃手にして、不条理の喩えに、シジフォスが巨石を坂の上にはこぶと、すぐさま神により転がし落とされてしまい、また押し上げてはまたまた転がし落とされ、その果てない繰り返しのさまの挙げてあるのを、読んだ。また、向こうへ飛ぼうとしている蠅だか虫だかが、透明なガラスに阻まれ、ガラスに突き当たったまま飛び続けようとしている、飛びやめれば落ちてしまう、のにも譬えられていたと思う。わたしたちのしていることは、大概これだが、「湖の本」など、可笑しいほどの好例である。へとへとになって飛び続けている、と謂うしかないが、それが「なんじゃい」と思っている。この「なんじゃい」は意地でも負け惜しみでもまったく無い。
2001 9・12 10

* 遠山に日のあたりたる枯野かな という高浜虚子の句のことを書いた。黒いピンを抜いて、ときおりわたしは現世の塵労からこの「枯野」に降りていって、ひとり、佇んだり寝そべったり遠山に視線を送ったりして過ごす、と、書いた。
塵労の一つ一つは、それなりに日々の暮らしに意義の重いものばかりで、くだらないとは言いにくいけれど、奔命奔走であることには違いなく、刺された黒いピンのあまりな痛さに、ただ走りに走ってのがれようと、あれをやりこれをやり、もっともっとと果てしないのだと謂うことは、じつに明瞭なこと。
そういう自分が、その塵労を「なんじゃい」と、すとんと落としてしまい、胸奥の「枯野」に憩うというのは、ある人からそれと指摘され、「秦さんに似合わない」「暗い」「もっと明るい気持ちを持たなくては」「枯野などと口にしない方がいい」と忠告されたような、本当にそれは此のわたしの「鬱」のシンボルなのであろうか。にわかに、直に応える気はない。
ただ、この野の景色は、暗くない。ひろびろとした野の枯れ色は、草蒸してまばゆく照った真夏の青草原とはちがった、懐かしいほどの温かみと柔らかさとを持っている。けむった遙かな遠山なみには柔らかに日があたっている。風あってよし、鳥がとんでもよし、野なかに一条の川波が光っていてもよい。どこにも暗いものはなく、騒がしいものもない、清い静寂。胸の芯にゆるぎない一点の「静」は、優れた宗教家なら一人の例外もなくそこに人間存在の真実と本質を見定めてきた。仏陀も老子もイエスも、また荀子や荘子や、道元や一休も。暗いものも重苦しいものも騒がしいものも無い真実の風景。虚子がなにを見てなにを思って書いた句であるかは知らない、が、此の句に出会ったときわたしは真実嬉しかった。あの瞬間には、たしかにわたしは、身に刺された黒いピンの果て知らぬ唆しからまぬがれていたと思う。
わたしを「鬱」かと心配するその人は、「楽しみを自分で見つける努力をしています。生活にメリハリを付けたいのです。よく出かけるのもその一つです。なるべくストレスを溜めない生活を求めて」とメールに書いている。甚だ、良い。が、それもまた「黒いピン」に追い立てられた塵労のたぐいであるかも知れぬ。いわば虚子の、またわたしの謂う「枯野」ではない、現世の「荒野」「荒原」の営みと一つものであるかも知れぬ。クリエーションとリクリエーションと、対照して質的にもべつもののようにどう認めたがっても、所詮は同じ次元の場面の違い、痛みに脅かされ外向きに外向きにはねまわっている、「もっと」「もっと」の欲望というものに過ぎない。「いいえ楽しみはちがう」と言われるだろうが、それも見ていると慣性化し、いつか義務のように繰り返して、やめるのが不安でやめられないだけの例は、少なくない。そういう営為のいかに苦痛であるか、虚しいかは、体験的にわたしも知っている。例えば「祈る」という、長い長いあいだ一日も欠かさなかった行為を、わたしがピタッやめたのは、繰り返し続けること自体に自由を奪われかけていると感じたからだ、そんな祈りに何の意味があろう。
「静かな心」でいたい。それは、外向きにどんなに走り回っても得られはしない。自分の内側の深い芯のところにひろがっている「遠山に日のあたりたる枯野」のようなところでしか出逢えないのではないか、「静かな心」には。
そういうことを思うのが、つまり「鬱」なのだと言われるなら、否みようないが。
2001 9・15 10

* たまたま「文藝館」のため持ち出してい高浜虚子・河東碧梧桐の文学全集本を、ポンと開いたそこに、「遠山に」と題した虚子の手記が、埋め草ふうに組み込んであった。わたしの読みや感想は感想として、句の作者はどんなことを言うているか、書き写してみる。

* 遠山に日の當りたる枯野かな   虚子
自分の好きな自分の句である。
どこかで見たことのある景色である。
心の中では常に見る景色である。
遠山が向ふにあつて、前が広漠たる枯野である。その枯野には日は當つてゐない。落莫とした景色である。
唯、遠山に日が當つてをる。
私はかういふ景色が好きである。
わが人生は概ね日の當らぬ枯野の如きものであつてもよい。寧ろそれを希望する。たゞ遠山の端に日の當つてをる事によつて、心は平らかだ。
烈日の輝きわたつてをる如き人世も好ましくない事はない。が、煩はしい。遠山の端に日の當つてをる静かな景色、それは私の望む人世である。  (昭和三三・三・二二)

* どこに書かれたものか知らない、新聞俳句欄の囲み記事ほどの分量である。これを読んでいて、これと関係なく、わたしがこのような景色を感じたとすれば、京阪か阪急かで大阪の方へ向かう車窓から、西の生駒山脈の方を眺めたようなものかなあと想われた。虚子がこれを書いたのは、ちょうどわたしが大学を出て、大学院に進むことの決定されていた時に当たっている。句の作られたのはずっと以前のいつかであろう、しかと認識していない。
この句にたいする憧れは、あるいは原作者よりもわたしの方が深いかも知れない。わたしには広漠の感はあっても落莫の感は微塵もなかったし、今もない。人生を日の当たらぬ枯野の如きものといった喩え方をしようという気もなかったし、今もない。総じてわたしは、この景色に「人世」ではなく、人世から離れた、一段も二段も深く沈んだ「別次元」を感じていたし、「日」は遠山にも、しかし枯野にも、ともにやわらかに落ちていた。目を遠くへはなてば、あああんな「遠山にも」日が当たっているなあという、嬉しさであった。虚子は枯野をくらく、遠山のみを明るく眺めているようだが、わたしは、心身をとりまく一面の枯野を、暖かな枯れ色にあたためている「日の光のあかるさ・やわらかさ」を感じて、感謝していた。
虚子とわたしとが倶に享有している最大の価値は、心平らかに「静かな」ことだ。「寧ろそれを希望する」という虚子はすこし芝居がかるし、「それは私の望む人世である」もミエを切っている。だが、「心の中では常に見る景色である。」「わたしはかういふ景色が好きである」と虚子は間違いなく思っていただろう。この人も、したたかに黒いピンを運命に刺しこまれて、ともあれ奔命し奔走しながら、烈日のように輝いた大世俗の人であった。師の子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」を、認めない人だった。
わたしには、この「遠山」の一句を与えてくれて、有り難い人である。
2001 9・15 10

* なるほどね。「闇に言い置く 私語」が、さながらに織りなしている、私・秦恒平の文学と生活。生活はあるが、文学はどうしたと声が飛んできそうであるが、ひょっとして、今、この「生活と意見」ほどの文学があるのだろうかなどとノーテンキに思っていたりする。
2001 9・30 10

* ピュアーなものが、欲しい。自分から失われてゆくのがそれという懼れが、いつもあるから。だが、ピュアーとは、センチメンタルなものの意味でないことは、知っていなければならぬ。たとえば涙は、ピュアーの保証ではない。反射的な生理でもあり、涙もろさは何か価値あるものの保証ではない。お涙頂戴という批評語で人はそれに気づいてきた。感情のあふれやすいことは、人の善さとは何の関係もない。涙もろいが酷薄な悪人もいないわけでない。
2001 10・1 10

* 親しい「詩人」の有り難いメールである。

* 『青春短歌大学 』を、ありがとうございました。
タイトルの「青春短歌大学」という文字に、実はとまどっていました。秦さんの小説は好きですが、今回だけはちょっと憂鬱でした。「青春」という言葉に、二度と繰り返したくない青臭い自分を思い出し、さらに苦手な「短歌」までくっ付いているタイトルですからね。しかし、読んでみて驚きました。短歌は、やはり詩であり、しかも相当に深い心境まで表現できることを教わりました。
「青春短歌大学」というタイトルにも理由があることが判りました。東京工業大学で、以前「文学」教授をなさっていたことは存じ上げていましたが、その時の講義をまとめたものだったんですね。19歳や20歳の学生に一般教養として短歌を取り上げていたわけですから、「青春」であり「短歌」である必要があったことを理解しました。「虫食い短歌」に私も挑戦してみました。これはハマリましたね。正解率は50%ほど、短歌になじみがないとは言いながら、詩らしきものを書いている身としては不本意な結果でした。まだまだ詩が判っていないのだな、と改めて感じた次第です。ありがとうございました。

* 痛み入るご挨拶であった。
少し驚いたのは、詩人による、「短歌は、やはり詩であり、しかも相当に深い心境まで表現できることを教わりました」という、言葉。
日本の詩の伝統はなんといっても和歌を基本に育ち、近代に入っても錚々たる業績が積み上げられている。或る意味では近代詩のそれより層は厚いし質も優れている。影響力からすれば、近代の短歌や俳句は、現代詩より質的にも勢力は旺盛なのではないか。藤村や晩翠や泣菫や有明の詩を読んで「感じ」られる人はもう払底しかけている、が、子規や晶子は生きている。左千夫・節、茂吉・赤彦・文明、また白秋や牧水や夕暮や空穂や迢空や、ひいては佐太郎、斎藤史らに至る豊かな短歌の「詩的」表現には、和歌世界を乗り越えてきた力強い魅力がある。日本語の詩人が真に底根ふとく豊かに詩の妙境をねがうならば、「短歌」「俳句」や、さらに「和歌」「歌謡」からの栄養をも、意識的に深く丹田に蔵してもらいたい気がする。短歌的な詩や俳句的な詩がよいと言うのではない。文化の素養は分厚い方がいい、把握と表現をつよくするためには。
2001 10・1 10

* つい先日、「いま、表現が危ない」というシンポジウムを、われわれの言論表現委員会主催で開きました。これは「いま、報道が危ない」の意味でつけた題でした。報道されていることと、その背後からの別の報道や情報を、幸いにわれわれの委員会や仲間達は、さすがにその筋のプロたちで、かなりえぐり出すようにして所有していますし、わたしのような何も知らない仲間にも分かち合ってくれます。いままさに「報道・情報」は、真実という点で「危なく」偏して流布されています。程度の差はあれ、いつの時代いつの時点・事件でも、実はそうでしたが。君が、そういう方角から、なにかを考え始めたのを喜んでいます。
その上で、わたしなど、「報道・情報」というものが、如何に表向き、如何に裏側にわたろうとも、所詮は「正しい正しくない」と謂った議論に耐えられるものでなく、相対化の視線や姿勢でクリティックしなければお話にならぬもの、割り切って謂えば、信じてしまってはならぬもの、と、久しい「歴史」にも教えられ、冷淡に距離を置くようにしています。所詮は人間のマインド(利害の分別)が作りだしている「幻影に近い事実」に即した情報であり報道であり、正しいも正しくないも、堆積する時間や時代の中で結局はルーズに「意味を変えてしまうもの」であるのは、当たり前の話です。少なくも「同時代情報」のもつ頼りなさの例は、歴史的に枚挙にいとまがない。その辺を、よく心得てかからないと、結局は、自分を見失って、「情報(に操作された)ロボット」になってしまう。
本質的には、情報も報道も「まぼろし」です。正しいも正しくないも、本当も嘘も、つまりは無いこと、まぼろしであったことに、どんなに多く気づかされてきたことか。深く生きる意義に照らして謂うなら、まさに「虚仮」に向き合っているのです、われわれは、日々に。しかも、そうと承知の上で付き合っています、そういう「虚仮の情報」と。便宜的に。
それが、わたしの思いです。
村上龍は現実の人です。現実は、真実をなにほども保証しないと識っているわたしは、聞いて面白いものは聴きながら、とらわれないでいます。
何が大事か、わたしにとって。やがて人生を幕引きする身にとって、大事なのは、現実の「我」をきれいに見捨てる、かき消す、ということです。地獄も望まないが天国も望まない。テロも戦争も、芸術も哲学も、虚仮であると思っています。そのうえで、日々を虚仮に楽しもうと。長く時間をかけた山折哲雄(宗教学)との対談『元気に老い、自然に死ぬ』春秋社が刊行になりました。大いに語っていますが、それとても虚仮であると分かっています。真実は言葉にすれば途端に真実でなくなる。それこそが、すべて偉大な人の知っていた真実なのですからね。 秦恒平
2001 10・12 11・

* バグワンが、寺院の入り口におかれた「ミトゥナ像」について話していた。国会の論議がダラダラ嘘くさいと、朝から嘆いてきた人もいる。わたしも聴いていた、見ていた。男女抱擁のミトゥナ像に即して謂えば、真実に真に近づきうる瞬間をミトゥナが体現し示唆していると、バグワンは、適切に教えている。ドンマイ=don’t mind なのだ、基本の姿勢は。二が二でなくなり、一ですらなく溶け合っているそうそう長くは保てない瞬間の、無我。覚者でない我々凡俗には、その余は、ぜーんぶ虚仮=コケである、すべて。虚仮には虚仮と承知で楽しく付き合うが、覚めれば何も無い、夢。夢でないと深い暗示が得られるのは、ミトゥナのような、二が二でなく一ですら無くなったような極限でだけ。ちがいますか。国会なんて、コケのコケ。文藝館もドルフィン・キックも、みーんな虚仮である。ミトゥナ像が寺院の「入り口」に置かれる意味深さは、「入り口」を奥へ入って虚仮でない世界にまでは容易に進み得ない者には、理解が遠い。自我の心を落としきるのは容易でないが、それなしに、虚仮に振り回される幻影地獄からは出て行けない。
2001 10・12 11

* そういえば、今、わたしの身内でジンジンと何かをたぎらせているのは、三十四年も昔に書いた『清経入水』校閲の余韻のようだ。ほんとうの処女作ではないが文壇的にはまちがいなくこの一作でわたしは家の中から外へ踏み出した。その作柄は、たしかに世の常のものではない。だが、まぎれもなくわたしの創作する力が、若々しく漲っている。読み進むに連れて自分でも興奮してくるが、身の芯の深くに支えきれないほどの寂しいものも凝っている。「非在」のものに恋をしていた、わたしは。それこそが眞実在かも知れぬと心渇いて求めていた、それが、大嫌いな「蛇」のような「鬼」であろうとも。
2001 10・19 11

昨深夜、眠れぬまま床の中で眼を見開いていた。完全な闇であった。この頃この真の闇をパッチリ眼を開いて見るのがわたしのお気に入りの「行」である。とても安楽で平和で落ち着きどころに在る意識。なによりもわたしに五体が皆無に失せている。感覚も失せている。ただ闇を見ている、いや闇に在る「意識」以外のいかなる私も存在しない。空の空に意識だけが眼のように在る。形ある何の影すらもない。これでこのままこの意識すら失せたならどんなに安らかであろう。そう願いながらいつか寝入るのだろうか。寝入ると夢が来る。夢はいやだ。だが夢の話をこう書いている今のわたしが夢のなかにいるのも間違いないことだ。ほんとうのわたしは、あの闇にみひらいて在った「意識」以外になにも無いのだなと思う。
2001 10・22 11

* 泥酔の泥とは、どろどろの泥のことだと思うだろうが、この泥とは、もともと、どろどろのどろのような「虫」の名前だと中国の本に出ている。拘泥の泥もそうである。
「清ら」「清げ」とは、ともにりっぱに美しい意味であるが、「清ら」にくらべ「清げ」はやや下り、二流のよろしさである。こんな微妙なところも古典では読み分けて行くと自ずから批評が見えてさらに興味深い。
2001 10・25 11

* なにもかも、どこかで有機的につなぎ合わされている。わたし自身のこのような毎日の思いも、また、つなぎ合わされたなかの一つの小さな結び目である。思想も人生もこうして形を持って行く。
2001 10・28 11

* 今、ファックスで、現代文学会の「問題提起とディスカッション」というふれこみで『作家に未来はあるか 著作権とメディア・流通」という催しをやると伝えてきた。十二月一日だという。
わたしは幾足か早く、来週、十一月五日に、霞ヶ関弁護士会館の「著作権」テーマの研究会で、同傾向の主題で講演する、「ネット時代の文藝活動と著作権」と題して。
これからは、こういう催しが増えてくるだろう。それにしても「作家に未来はあるか」という提示は意味があまり無いように思われる。未来はあるかどうかでなく、創りだしてゆくしかない筈のものではないか。
2001 11・2 11

* 兄が自決して、はや今月のうちに満二年、三回忌を迎える。「妹」として少年時代に愛した一人にも、今年、逢うことなく死なれていた。こういうことが、年々に増えてゆき、わたしもまたその数にいずれ入ってゆく。明日かも知れず、もう二十年もあましているかも知れぬ。後者の方と思って、何が出来るか、何がさらに「創れる」か、胸を絞らねばならぬ。
わたしはもう、ほぼ十余年、主として家の外へ出て活動してきた。京都美術文化賞選者、東工大教授、ペンクラブ理事その他。わたしの生活をこれらが強く輪郭づけてきて、今も輪郭に囲まれ、ときにきつく緊縛されてすらいる。内へ帰れと、多くの多くの声が聞え、その声の一つが自分自身のそれだとも知っている。わたしに必要なのは、ただ一枚の鏡になりきることか。うつるものはくまなく映し、去りゆくものはけっして追わず、とらわれない。すべては映像、虚仮のもの。鏡自体はなにも所有していない。もたない。
渇望しているのは、この鏡が、ある大きさの、限りある、鏡縁のある一枚と数えられるような有限の鏡から、無限に拡大し、縁というもののない、また何ものも映さない鏡になり切りたいということ。空。無。
いま夜中に目をみひらいて「闇」を見る。縁というもののない無限真如の闇のやすらかさ。この「闇」が澄んであかるいただ「空無」と見えるようになれば、どんなに安心だろう。どんなに嬉しいだろう。もがくことなく、待つだけである。待つ思いの前には、内も外もない。今は有るがままに来たものは映し、去るものは忘れて、日々に新たであるよりない。ジタバタはすまいと思う。
2001 11・9 11

* いま「ヒーロー」を超人気だったと書きかけて「超」をやめた。いい表現でないから。ところで、さきごろ、「立ち上げる」ということばを秦さんが使っているのには失望しましたと読者の一人に叱られた。
だが、わたしこれを思慮して使っている。近来の新用語の中で、「立ち上げる」は、文法も間違いでなく、含蓄があり、巧みで有用な方の語の一つと評価し、その上で自分も便利に用いている。この言葉に代えて「立ち上げる」意味を伝えようとすると、かなりのむだな言葉数がいる。コンピュータ時代には、また企画の時代には、なかなか効用のある旨い一語だ、「立ち上がらせる」よりも、と考えているが、どうだろう。
2001 11・29 11

* 昨日は久々のいいメールが二つ三つあり、そのうちの一人から、むかぁしに、わたしがその人に言ったらしいこと、批評、について反問があった。自分ではどう思っていますかとだけもう一度返事したが、それ自体への関心はもうわたしの中で薄れていた。よいこと、わるいこと、賛成なこと反対なこと、むろん無いわけではなく、政治や社会の事件では意見をもつことが多い。しかし思いの深くでは、大概なことには是も非も、賛成も反対もない向かい方をしていたいと思うようになっている。咲いているバラの花に向かって賛成したり反対したりしない。月が昇り、朝日の輝くことに是非をいうようなことはだれもしない。およそのことに、それぐらいな気持でいられるようにと、わたしはこの頃願っている。願うだけでそうは問屋が卸してくれないけれど、いわばそういうことである。北風がとげとげしく吹けば、是非無く襟をかきあわせる。陽が照ればやわらかに顔をふりむける。賛成や反対の意見・分別でそうするのでなく、自然にレスポンスする。

* 年々歳々花は同じように咲き、歳々年々人は動いている。動く人にたいして執着するのが人生であり、そこに愛憎会苦が生じて青くなったり赤くなったりする。一枚の鏡になっていれば、花は去っても確実にまた咲いて現われる。人はそうは行かない、行くことも行かぬこともあり、それはそういうものだと分かるようになっている。われから去ることも行くこともないが、去るのを引き留めたり、来るのを拒んだりしてみても、ともに始まらないと分かってきている。人の世に無用に賛成や反対や、是非の分別を持ち込みすぎないことで安心しながら、だからといって仙人のようになるのでなく、生き生きした好奇心や嬉しさや楽しさや、むろん怒りも憎しみも、あるがままに去来させ、また発動したいと思う。寒ければ襟をかたくし暖かくなれば肌をくつろげるのと同じほど、無心に自然に喜怒哀楽したい。それは、出来ないことではない。矛盾でも撞着でもないようだ。
自分の中に、相変わらずとげとげしたものの、欲深いことの在るのが、苦痛の最たる一つには、ちがいない。それを承知でそういう自分のトゲや欲と付き合っていなければならない。ま、そういうことらしい。善人になりたいなどと思ったことがない。いわゆる悪いこともいっぱいしている、修辞的に言うのではない、わかっている。善悪なんて何だろうと、重く考えたことがないし、分別していない。人の世の作り出すいちばんつまらないモノサシではないかと、軽蔑さえしているかも知れぬ。感じると泪が吹き出る。かっと怒るし、どきどき胸がさわぐ。善悪だの正邪だのより、そういう自分の方がだいじである。
2001 12・15 11

* 昨夜楽しく過ごした勘定書が今朝の血糖値117で届いたが、朝110から126までのいわゆるグレーゾーン真ん中の値であり、インシュリン注射でなく、のむ薬だけで治療している人は、150から200ぐらいで推移していることが多いらしい。食後二時間なら、140までが正常、200までが「良」とされている。血糖値は安心しているが、寝て夢をみるのは閉口だ。もっとも、わたしは夢判断だの分析だのいうフロイト亜流の仕事をまったく信用していないので、どんなひどいこわいいやな夢をみても、夢に過ぎないと気にかけない。現実だと思いこんでこう生きている、これも夢だし、いつかこの夢からさめるのだと思うほうが、リアリティーがある。ずいぶん夢を書いてきたが、それは夢の夢。書いていること、生きていること、それが夢に過ぎないと思う。まだわたしは「夢」しか知らない、その向こうへは出られないと、悲観するならそれを悲観する。ただ、それを強いて掴もうとはしない、掴もうとして掴めることでないことだけは分かっているから、ただ気にかけずに突然のそれの到来を待っている。
2001 12・25 11

* 明日は無い。
叔母の稽古場の欄間に、万葉仮名で「あすおこれ」と、お花の家元に書いてもらったという額が掲げてありました。「明日怒れ」だと叔母は訓んでくれました。「怒るな」という意味であろう、「明日」とは、決して来ない時間の意味だと思いました。
「好奇心」や「冒険心」はいいが、それを本当にたたき込めるのは、自分の足元の「今・此処」でしかあり得ない、「明日」「明後日」ではありえない。
日々の虚ろな空回りは、明日に冒険し明日に好奇心を満たそうとする姿勢に生じるのではないか。あなたとは謂わないが。
高校一年の漢文の時間に、「除夕よりはじめよ」と習ったときにも、「明日怒れ」と同じものを教わりました。ほんとうにしたい大事なことなら、今日が大晦日なら大晦日からすぐ始めればよい、新年からなどと言うな、と。新年という「明日」とは、永久に来ないものの意味だと。「今日」しかないと。裏千家が「今日庵」という意味もそうなのだと覚えました。
「俺たちに明日はない」という映画が感銘をもたらしたのにも、一つには、それがありましょう。
元気にいい新年を迎えるには、元気に、「今・此処」で自己実現しえてこそ、と。元気に新年を迎えましょう。 遠
2001 12・25 11

* 秦さん。  富小路禎子さんが、亡くなりましたね。
5日の朝刊で知り、あっと声が出ました。75歳。もちろん直接お会いしたことなどありませんが、「秘かにものの種乾く季」が、とても印象に残っています。
年末はのんびりと、年始はそれなりにあわただしく過ごしました。
今日の初出勤を控えた昨夜、靴を磨きながらいろいろなことを考えました。
年末年始、実家へ帰れば親戚の噂話も耳にします。それぞれ、誰一人として、平凡に生きている人はいないと感じ、私が去年、頭を悩ませたり心を痛めたりしたことは、それと比べ、些細なことだなと思います。
いつか何のために生きるのか、という問いに、Webページで答えを書かれていましたね。そうか、と思いました。何のために、ではないんだ、と。
私たちの時間、体験できる事象は限られている。なら、そのなかでのびのびと、自由にやろうと決めました。去年から、あまり我慢しないように、と意識しています。刹那主義に堕ちるつもりはありません。
今年の目標は、無意味なタブーを作らないこと、です。
昨夜は年初にふさわしく、前向きな気持ちになりました。長い年末年始の休みで、最も充実した一日でした。
それから、今年もやはり、「そんな少年よ」を読み返しました。毎年違った気持ちになります。

* ああ、これは変わりない、秦教授への、とても佳い、嬉しい、年始の「アイサツ」である。ほぼ七八年は経っている、教室で二年間いっしょに過ごしてから。
歌人富小路禎子の死は、わたしにも少なからずショックであった。顔を合わせていたかも知れないが、認識して挨拶を交わしたこともない人だが、短歌の幾つかには感じさせられた。教室でも二度三度虫食いの出題歌に選んでいた、その一つを、この女子学生は印象深く記憶していたという。短歌に対して最も感度の高い学生で、実作にも興味をみせて実践していた。今でも、と、期待している。岡井隆や河野裕子にアクティヴな関心を示していたが、富小路歌に対する気持もよく分かる。とうに結婚している。
こういうメールをもらうと、すぐ目の前に向き合っているような存在感を覚える。
それは、こんな、三首の連作の体で出題した歌の最初の一つだ。
(   )にて生まざることも罪の如し秘かにものの種乾く季(とき)   富小路禎子
誤りて添ひたまひたる父母とまた思ふ(   )を吾はもつまじ
急ぎ嫁(ゆ)くなと臨終(いまは)に吾に言ひましき如何にかなしき(   )なりしかも
「平凡に生きている人はいないと感じ、私が去年、頭を悩ませたり心を痛めたりしたことは、それと比べ、些細なことだなと思います。 / いつか何のために生きるのか、という問に、Webページで答えを書かれていましたね。そうか、と思いました。何のために、ではないんだ、と。」
わたしにだって分からないことだらけで、だから「闇に言い置く」ようにいろんな独り言を書いている、毎日のように。またそれを読んで、めいめいの自問自答に少しでも刺激にしてくれている人がいるとは、勿体ないことだ。
わたしが誰の発言にどのように反応していたのか、むろん覚えている。
「何のために生きるのか」と悩んでいる若い人に出会うのは、苦しいほど切ない。日を背にして自分の影を踏もうと焦るようなものだ、罪深い落とし穴のような問いだ。
しっかり生きるためには一番先に捨てるべきそれは無意義の問いなのである。
何百億年だか光年だか知らないが、ビッグバンによって宇宙は生まれたと科学番組で語っていた。子供でさえ問う、では、宇宙の生まれるそのビッグバンの以前は宇宙でない何が在ったの、と。そんな問いにどう答えられてもとめどない。そういう問いは、発しても仕方がないのである、少なくも人間の今、此処を生きることに関しては。答えてもいけないのである。
わたしは、神のことも含めて、答えようのない質問は自分になげかけない。黙って自分のうちなるブラックホールをのぞき込みたい、そこへ無事に安心して帰りたい、という願いの方が切実である。それが容易でないということだけを、理解しかけている。
水平に過去へ未来へ目をはなすのでなく、垂直に「今、此処」を確かに踏んで生きていられれば嬉しいと思う。そのような思いが、いくらか彼女に響いていっていたのなら、あるいはその人をあやまる種であるのかも知れないけれど、わたしたちは「対話」し「アイサツ」を交わし続けていたということに相違ない。
「今年の目標は、無意味なタブーを作らないこと、です。」
賛成だ。
タブーでもあるが、ま、自分を、激励よりは要するに拘束してしまう惰性に流れた「努力目標」だの、日課や習慣的な「約束事」などに自分をことさら縛らせ、「被虐の奮発」を、どれほど多く重ねてきたことか、わたしも。「今、此処」から目が離れて、いたずらに向うに向うに「目的地」を幻想したその手の「タブー」は、大方が、麻薬的な習慣性の毒になる。楽しんだり励んだりしているつもりで、自身を悪く縛って苦しんでいるだけのことに、なかなか気づけない。欲が絡んでいるのだ。しかも逃避か執着かのどちらかであるに過ぎないそういう「約束」に、「タブー」めく過大な評価をあたえることで、自己暗示をかけてしまう。「なんじゃい」というさらっとした相対化が、できない。
ただ、自身を怠惰の容認へ突き落とすような放心や刹那主義もまた毒の一種であるが、彼女は、そこもきちんと「前向き」に見ているようだ。
そして、「今年もやはり、『そんな少年よ』を読み返しました。毎年違った気持ちになります」と。
東工大で一緒に正月を迎えた諸君はだれもが覚えていてくれるだろう。必ずのようにわたしは井上靖の詩「そんな少年よ」を読み上げることから、新年の授業を始めた。懐かしいその詩を、わたしも、此処で読み返そう。

そんな少年よ  ─元日に─   井上 靖

これといって遊ぶものはなかった。私たちはただ村の辻に屯ろして、
棒杭のように寒風に鳴っていたのだ。それでも楽しかった。正月だ
から何か素晴らしいものがやって来るに違いないと信じていた。ひ
たすら信じ続けていた。私は七歳だった。あの頃の私のように、寒
さに身を縮め、何ものかを期待する心を寒風に曝している少年は
いまもいるだろうか。いるに違いない。そんな少年よ、おめでとう。

俺には正月はないのだと自分に言いきかせていた。入学試験に合
格するまでは、自分のところだけには正月はやって来ないのだ。そ
して一人だけ部屋にこもって代数の方程式を解いていた。私は十三
歳だった。あの頃の私のように、ひとり正月に背を向けて、くろずん
だ潮の中で机に向っている少年はいまもいるだろうか。いるに違い
ない。そんな少年よ、おめでとう。

私は何回もポストを覗きに行った。私宛ての賀状は三枚だけだった。
三枚とは少なすぎると思った。自分のことを思い出してくれた人はこ
の世に三人しかなかったのであろうか。正月の日の明るい陽光の中
で、私は妙に怠惰であり、空虚であった。私は十五歳であった。あの
日の私のように、人生の最初の一歩を踏み出そうとして、小さな不安
にたじろいでいる少年はいまもいるだろうか。いるに違いない。そんな
少年よ、おめでとう。

私は初日の出を日本海に沿って走っている汽車の中で拝んだ。前夜
一睡もできなかった寝不足の私の目に、荒磯が、そこに砕ける白い
波が、その向うの早朝の暗い海面が冷たくしみ入っていた。私は父や
母や妹のことを考えていた。ひと晩中考えた。なぜあんなに考えたの
だろう。私は十九歳だった。あの朝の私のように、家へ帰る汽車の中
で、元日の日本海の海面を見入っている少年はいまもいるだろうか。
いるに違いない。そんな少年よ、おめでとう。

* 「『そんな少年よ』を読み返しました。毎年違った気持ちになります」と。今年はどんな気持ちになったものか、井上先生のこの豊かな詩を、あの当時にわたしが選んで読んだままの思いを、今なお分ちもっていてくれる卒業生がいる、すばらしいでははないか。
この詩を初めて読んだ或る年の感銘は大きかった。むろんわたしは大人であった。働き盛りであった、が、井上靖に正月を祝ってもらった七つの、十三の、十五の、十九の少年の気持で温められていた。

* もしかして、いまこの井上靖の詩にしばらく思いを静かにした新しい友人たちがいるかも知れない。すべての友人達のために、わたしは、今ひとつの井上靖の詩を贈りたい。この詩を、若い諸君の胸の上に最後にそっと置いて、わたしは、あの教室から、あの大学から、去ってきた。

愛する人に    井上 靖

洪水のように
大きく、烈しく、
生きなくてもいい。
清水のように、あの岩蔭の、
人目につかぬ滴りのように、
清らかに、ひそやかに、自ら燿いて、
生きて貰いたい。

さくらの花のように、
万朶(ばんだ)を飾らなくてもいい。
梅のように、
あの白い五枚の花弁のように、
香ぐわしく、きびしく、
まなこ見張り、
寒夜、なおひらくがいい。

壮大な天の曲、神の声は、
よし聞けなくとも、
風の音に、
あの木々をゆるがせ、
野をわたり、
村を二つに割るものの音に、
耳を傾けよ。

愛する人よ、
夢みなくてもいい。
去年のように、
また来年そうであるように、
この新しき春の陽の中に、
醒めてあれ。
白き石のおもてのように醒めてあれ。

* 野心と意欲とに溢れていた東工大の小さな研究者たちに、この詩は、静かに過ぎたかも知れないが、学部を出、殆どの人が大学院を二年ないし四年以上かけて出て、社会という手荒い日常の中で、わたしの知る限り当然ながらラクラクと過ごしているような卒業生は、昨今、いないのである。そういう人が、今又この詩に立ち戻ったとき、詩と自身との距離をはかりながら、感慨は深いであろう。
あんまり佳いメールをもらったので、わたしもまたこんな詩に自分を曝してみたくなったのである。

そこへまた一つの、ごく珍しい人の「アイサツ」が届いた。

* 新年明けましておめでとうございます。
新年のメールをいただきましてありがとうございました。
私は調査研究を主な仕事として、日々働いていますが、成果物であるレポートは使い古された言葉ばかりで、どうも具合が悪いなぁと思っています。
かといって、新しい言葉(事実をより正確に伝える言葉)が使えるわけでもないので(使い古された言葉の威力も想像以上に強いのです)、何となく使い古された言葉を選んでしまうのです。
と書いていますが、実は言葉が使い古されているのではなく、調査研究の枠組みそのものが古くなっているのかもしれないと思えてきました。
先生にいただいたメールを拝見しますと、短い言葉でぴしりと意を尽くせているような気がして、感に堪えません。
それ故、上の独り言みたいな感想を書いてしまった次第です。どうぞお許しください。
本年も何卒宜しくお願い申し上げます。

* かなり大事なことを指摘している。「文学」を事としている者には、ゆるがせに出来ないのが、要するに「使い古された言葉ばかり」で書けば、手ひどい通俗読み物に堕してしまうこと、これは覿面の見分けどころで、どれほど高名な大家のものでも、「通俗読み物」は、要するに「使い古された言葉ばかり」で書かれてある。ほとんど例外がないほどである。
優れた文学作品では、それが無い。在ってもその場合は真の意味で「使い古された言葉の威力」を生かしている。ここがまた微妙な第二の見分けどころであり、「夕方・夕刻」ふうに書こうが「黄昏・薄暮」ふうに書こうが、言葉をつよく生かして「使い古された言葉の威力」を駆使しているか、屈して無自覚・無批判にだらしなく悪用しているか、の違いになる。これまた読めば一目にして瞭然たるものがある。わたしは今「小説」の文章を謂っている。そしてこの問題を突き詰めてゆくと、必ずやこの卒業生クンが、彼の仕事の領分のこととして指摘している、即ち「調査研究の枠組みそのものが古くなっている」のに比類される文学・創作上のある認識不足や反省・自己批評の不足の問題に突き当たるであろうと、私は推知している。
思いがけず本質的なことをこの人は伝えて来て呉れている。感謝。
2002 1・7 12

* 一両日も前であったか、夕刊に、注連縄の写真が、大きく三つほど出ていた。記事の趣旨は、要するに注連縄が「蛇」体を表してあることへの、或る写真家による「気付き」から、多く実例写真の撮影されてきた紹介であった。注連縄が蛇の模写であり、神・人の結界をなしているぐらいは、吉野裕子の著を待つまでもなく、気付いている者は大昔から気付いていた。わたしなど昔からそれを謂い、そうした関心が、わたしの創作の根底に動機となっていることは、読者は夙に承知されている。
人類の歴史と蛇乃至龍とが大きく深く関わり合ってきたことは、歴史的にも各方面で具体的な伝承や形象によりつぶさに挙例できるが、モノがモノであるだけに、大きな文化史として、グローバルに連携した言及があまりなされ得ていない。国際ペンの「アジア太平洋会議」で、めったになく腰をあげて、わたしがこの問題で提言の演説を試みたのも、いますこし関心が国際連携でひろがってくれぬかと思ったからであった。
泉鏡花のような、純日本的と見えてその実は日本の作家活動の中で最も容易に世界史的な場へ流れ込みうる素質を、「水= 蛇」の面から指摘し、「鏡花の蛇」がいかに本質的な課題であるか、繰り返し説いて倦まずに来たのも、その関心からであった。
日本の神の大方は、水=海=河川池沼=山・田の神、即ち蛇神である。正身(むざね)を辿れば「蛇」に至る。記紀の世界にも風土記の世界にも明証がある。注連縄は大きなシンボルであり、茅の輪もそうであり、綱引きの綱も、境神の前へ引きずって行き、燃したり切ったりする縄も、鞍馬の竹伐りの竹も、そうである。なぜそのような祭事や忌事が広く久しく行われてきたかは、心して考えてみてよい。
新聞に語られていた通り、鳥居などにかけられた注連縄の容態は、限りなくいろいろで、簡略にしてリアルな蛇そのものから、出雲大社のように、雄大にして象徴的なものまで、おそろしいほど多彩である。が、根底にはかなり明瞭に「蛇」のすがたや、その性的な勢力の猛烈さに由来した容儀がみられる。御柱でしられた諏訪大社の神事の最初は、土の室に籠もった神官の手で、細い藁からだんだんに巨大な縄なりに編まれてゆく蛇体生誕の振舞いであり、何を意味しているかは謂うまでもない。
こういう不思議は、なにも神代の昔に限られてはいず、今日の文化的表象のなかにも生き延びて、意味をもっている。
近時、あちこちでしきりに「水」の「山」の「海」のシンポジウムが「環境」問題として開催されていても、どこでもこういう根源の人類生活に視線をさしこんでいる例がない。認識がうすっぺらいのである。
この蛇の問題をぬきにして、世界的な「人間差別」の問題が根底からは読みとれ得ないことも、いま、識者の思いから完全に蒸発しきっている。ばからしいほどである。単なる好事家の好事ではなくて、考えねば済まない根底の課題のここにあることをまで、新聞記事もとても言い及ぶことの出来ていないのは、笑止であった。
2002 1・8 12

* 「闇に言い置く」私語のなかで、わたしは、あまり性に関して触れてこなかったが、性的に淡泊だからではない。おそらく、生死の実感において、ふやけた多くの観念に遊ぶぐらいなら、遙かに至純の体験が性にあることを感じ、とても大事に感じればこそ、かえって森さんの表現に、危うい挫折の必然を感じるのだと思う。性は金無垢、絶対に必要であるが故に、また、若いときですら、多くも生活の15パーセントを超えて「性」が肥大したときは、その暴力により結婚生活や男女の間が、かえって貧しく窮し行くものとは、確実に、いつもわたしは考えていた。性意欲がエネルギーである以上は、欲望通り自在に行くはずのないきわめて微妙な人間関係であるのは、自明なのである。森さんの文学の行く手には、気の毒だが、途方もなく苦しい自壊と荒廃と窮死がありはせぬかと感じた。それかあらぬか、森瑤子は、あまり早く亡くなったのを、今、心から惜しむ思いでこの感想をわたしは漏らすのである。ただし、まだ「誘惑」の方は、荒廃寸前の夫婦が、夫の生家のあるイギリスへはるばる旅に出た途中までだが。

* もう、わたしの「性」の思惟を、わが「老いの微笑」として、ときどき、漏らしていい時機のように思われる。
2002 1・20 12

* 騒がしい。これは、醜いとか、きたないとか、ひどいとか云われるのと同義語に近い、手厳しい批判であった。静かに清いものは、美しく豊かである。静かとは、動きのないことを云うのではない。動くものもまた深い静かさを湛えていることは、大河の流れはやいのを観てもわかる。鳴り物が騒がしいわけではない、みごとなシンフォニイをだれが騒がしいと批評するだろうか。騒がしい人がいる。弥次喜多は騒がしい。おかしいから笑わせてもらうけれど、あの騒々しさは願い下げにしたい。だが、そういう人物を創作していた作者の心事は、必ずしも騒がしかった限りではないだろう。存外に寂々しいものを抱いていたのかも知れない。騒々しいも寂々しいも同じ「そうぞうしい」という読みである。逆転の機微のあることを昔人は知っていただろうと奥ゆかしい気がする。

* 顧みて自分が騒々しくないのかどうか、忸怩とすることがある。
こんな「私語」をもし読む人が、筆者を静かな人、騒々しくない人とは、なかなか思い難いであろうかなと、羞じるときがある。それに、日頃の物言いは声も大きく、ときに粗く荒く、さも騒がしいのではあるまいか。
それでも、昔、激甚の勤務に堪え、創作との二足草鞋をしっかり履いていた頃、自分の書く文章がどうか静かであって欲しいと、いつも願っていた。騒がしくなるまいと、気をつけ気をつけ句読点に至るまで気配り欠かさず書いていた。「慈子(あつこ)」も「みごもりの湖」も「清経入水」も「蝶の皿」も、職場では、管理職と何誌もの編集長職をかかえ、本郷といい何処といい、言語道断な喧噪の巷で、取材に通う病院や大学で、人に揉まれ、立ちながらでも書いていた作品であった。小説を書いているのが気恥ずかしい、原稿を横から覗かれては恥ずかしい、そんな気遣いはしなかった。たとえ喫茶店四人席の三人がよその人であれ、相席しながらでもわたしは毎日原稿用紙をそんな場所ででも拡げた。狂っていたと云われればその通りだが、文章の世界を静かにとただ願っていたあの頃、わたしは、どの頃よりもつよく、日本的な価値観に身を寄せていたのだと思う。そして大きな変更を加えられることなく、今日に及んできた。そう思っているが、人の目は分からない。

* こんなことを書きつづりながら云うても詮無い恥かきだが、人の作品でも騒がしいととたんにイヤになる。文品がひくく、手触りがざらざらと汚れたような文章がいやである。書かれている題材がどれほど汚いものでもそんなことは構わない。必要があって荒い言葉がフォーヴの絵のように叩きつけてあっても、その魅力は読み分けられる。泉鏡花も愛読するが徳田秋声も尊敬して読む。保守であれ革新であれそれは問わない。佳いかよくないか。それは書き手の魂が静かに清いか、深く湛えた文品が備わり、血潮ににじみうめき声が放たれていても、それ自体がどんなに清いものかをわたしは観ている。よしと観ている。

* こんな今更らしい述懐を何が誘っているのかと、ふと訝しいが、不思議にも昨夜の歌劇「トラヴィアータ」であり、今朝観さしのジュリア・ロバーツの映画「ノッティングヒルの恋人」の印象がわたしを動かしていたらしいと気がつく。うまく説明はできない。
2002 1・21 12

* 昔に、今や絵手紙で元祖めく友人小池邦夫の絵を、展覧会で買った。二尾の鯛が描かれ「動かなければ出逢えない」と書いてある。絵に惚れたか、言葉を買ったか。ま、取り合わせの佳い作であり、今も居間の飾り棚にかかっている。息子が前から狙っているが、持っていってもいいと思っている。このごろ「動かなければ出逢えない」という尤もそうな託宣に対して疑義を抱いているからだ。
「動くから出逢えない」のかも知れぬではないか、という深海からの泡のようなメッセージが聞こえてくる。
そとへそとへ、もっともっと。
若さのそれはモットーのようなものだが、それが何を人間に贈り物してくれたか、焦燥と失意と不安とだけであるかも知れない。外へ外へもっともっとと言い続けていると自然その辺に流れ着く。
だから座り込んでいるのではない。なんのことはない、ものぐさになっているだけだ、わたしめは。

* 昨夜も眠れなくなったとき、幸い真の闇であったから、眼をみひらき、闇を覗き込んで過ごした。
仰臥している、その体感や、手足、襟もとなどの感触が初めのうち生きている、が、闇に見入っているうち、徐々に自身の五体感覚がすべてかき消え、なにも感じないようになる。すると、無限の闇のなかで、存在するのは、ただ純粋の意識だけになり、秦恒平などという世俗存在は失せているというか、そんなものがかつて存在したとも思えなくなってくる、いや、そんな思いすらなく、ただ深い闇に溶けている。闇は無限である。
ははん、生れてくる前がこうだったんだ、死んでしまえばこうなるんだ、いやいや、生きていると思っているのも夢に過ぎなくて、自分の内奥を覗けばこんなもの、生前も死後も生そのものにも、在るのは、この「意識」だけなんだと感じられる。
真っ暗闇は、怖いよりもとてつもなく安心な世界なんだと、わりと本気で感じ始めたのは、大人になって、さていつ時分からだったろう。闇を覗き込んでいると、自分がほんとうに何かしらトータルなものと一体であるという意味が、分かる気がしてくる。空であり無であるように感じられる。
2002 1・29 12

* ご意見、ありがとうございました。
「私語の刻」で秦さんの感想に触れているせいか、書きながら、川端・谷崎のことがずっと頭にありました。わたしはどっちなのだろう、と。その折りにいただいたご意見がまさにそのことであり、「秦さんはなんでもお見通しなのね」と驚きつつ、わたしの思考が誘導されているのかしらん、と不思議な心地もします。
わたくしごときが話を作ろうとしたら、いかにもの、あざといものになるだろう、というのが前回の反省点でしたので、今回は、湧き出るものに沿って書いていました。そういう姿勢は、どこか川端に寄ろうとしていたかもしれません。反面、真似できないな、と思っていました。川端の文章は、繊細なかけらをそっとつむいでひとつの物語になっている印象があり、あわれにアンバランスな均衡は川端だからこそで、安易に触れてはならないと。
ただ、川端のように感情を吐露してゆく書き方は、直接的で、ある意味、満足感があると思います。谷崎に寄ったとき吹っ切らなければならないのは、この満足感のことかなと、今は思いますが、果たしてどうでしょうか。さて、どちらを選ぶかですね。少し、谷崎に寄った方がいいような気がしています。谷崎を読んでみます。書こうとしながら谷崎を読んだことは、まだ、ありません。
題は、難しいです。ほんとうに苦手です。
それでは、推敲して、またお送りしますので、宜しくお願いいたします。

* 小説を送ってきた人の第二作は、前作よりも遙かによく落ち着いて書けていた。だが、前作がストーリィに重きがあるとすれば、今度はかなりに心理的に書いていた。心の内が書き込まれていた。それなりの効果をあげていた、が、ふっと顧みて、これで人は面白い小説とおもうだろうかなあと感じた。それで、たまたま考えてきたことでもあり、こんな感想らしきものを書いたのである。

* そんなに難しいことでは、ありません。が、
全編一人称世界として運ばれる物語ですから、無用な「わたしは」「わたしに」を、省ける限り省いた方が、行文も波打たず、作品の「眼」が広く深くなります。
形容語をだぶらせての強調は、くどい瘤になり、作品の血流を不用にごつごつとさせます。ずいぶんそれは少なくなっているけれど、まだ、感じます。
文の末尾を、清潔に音楽的に一定させるか、力動的にとりまぜるか、成り行きにまかせるか、態度を確認して検討してみてもいい。
ま、上のようなことは、技術的なことですが。

川端と谷崎とを読んでいると、その特色が明白にわかれ、川端は、精緻にせつないほど内心を表現し、一挙手一投足にも「心理的な意味や背後」を透かし観て、書きこみます。谷崎は、具体的な人物の行為と事件との推移の中で「筋=ストーリー」に多くを語らせます。心理の説明に重きは置かずになお心理も書けているはずという主張です。その通りに感じています。
川端には筋の面白さのしめる比重は、さほどでない。心理表現の犀利と精緻のなかにあわれを感じさせて魅力に富みますし、谷崎は、おおらかに物語の世界を掴みだしてきて具体的であり、心理の説明に立ち止まる神経質はほとんど持ち合わせずに面白い世界へ誘います。
あなたは、この辺で、どっち寄りであるかを意識的に吟味しておく機です。川端寄りなら、まだまだ川端の足元に及ばないのだから、つまり、たいして面白いダイナミックな小説にはなりにくいまま、心の内を解剖するような仕事が当分続くでしょう。
谷崎寄りに物語を創り上げて面白くするには、何かしらの部分を吹っ切るように断念しなければならず、多面的な勉強が、話嚢の充実や話術が、必要になるでしょう。
今度の作品、わたしは、「スイート サレンダー」という題は、分かりません。もうすこし端的に凝縮したナウい題が欲しいかな。そして、もう一度全体にざっと推敲すれば、これはこのままで一編を成すでしょう。

* そして上の返事があったので、もう一度わたしから書いている。

* 強いてどっちかに寄ろうという必要はないでしょう。小説の書かれ方に、そういう大きな違いのあるのを分かっていれば済むことです。出すのは自身の味ですからね。
昔なら、谷崎と志賀直哉といったものです。その頃は、谷崎と川端は似ていると思われていましたし、三島でさえも。しかし書き方は三人ともずいぶんちがいます。
あなたは、無意識にも作品論や作家論にも希望があるのかな。それもいい。ただ、小説の文体を確保しておかないと、文章があれるおそれはあります。質がちがいますからね、文章の。論理と表現ですからね。
2002 1・31 12

* 妻に聴いたが、「足の裏」という「からだ言葉」も有るらしい。「からだ言葉」とは、頭痛鉢巻、舌打ち、頭越し、肘鉄、腹芸、尻を割る、足が早いなどを例に挙げれば説明要らない。わたしの命名で、かつて辞典まで作って、「からだ言葉」「こころ言葉」はわたしの一つの登録商標のようなモノだが、「からだ」の部位の中で「掌を返す」はあっても「足の裏」にだけは「からだ言葉」が出来ていない、他は全身至るところに在ると言ってきた。
ところが在ったらしい。節分などに神社が賽銭をどっさり集めることはニュースにも成るほどだが、あの総額を生真面目に税務申告はしない、幾分かは役員関係者で隠然公然と「分け取る」のだそうで、その金、また行為を「足の裏」というらしい。お金が落ちていると、直ぐ拾って懐に入れず、いったん「足の裏」に踏んで様子を見てからにする、それなんだと。
妻の説ではない、見ていたテレビドラマの中で耳学問したと言うから、責任は持てないが、有りそうな話だし、ぴたり「足の裏」が「からだ言葉」に成りきっていて、わたしは、うーんと唸って教わったのである。
2002 2・3 12

* 五時に起き、古語の「こころ言葉」を大辞典で全部読見直した。信じられないほど多い。妙なもので、初めて知ったという「こころ言葉」は、二、三もなかった。日本語の特徴とも謂えるが、一つの語に多彩に意味が重複している、それを押さえてゆくととても面白く語のふくらみが理解できる。起き抜けに本を一冊読んだような勉強をした。日本人が心というモノをどう捉えてきたか、どう捉えきれないで、惑い、迷い、翻弄されながら適当に付き合ってきたかがよく分かった。
2002 2・8 12

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