ぜんぶ秦恒平文学の話

1998~2001

* 叔母が多年愛蔵した茶道具があまりに家の場をふさぎ、恥ずかしながら使うゆとりが無いので、やむをえずせめて五分の一ほどでも処分しようと、一日がかりで整理を始めたが、私にも思い出が多く、叔母へ繋がって行く思い出はまして多く、遅々として進まなくてやっと半分ほどに目を通し、三十点ほどをはじき出してみた。だが、なんだか申し訳なくて。
古門前の林という、京都でも最上等の美術商をおおかた経てきた品なので、私が観ても、手放すのは惜しいと思う。なんでもないと思っていたものも、あらためてじっと観てみると、こっちの目も熟してきているので、思い切りがつかない。
たかが茶道具、されどお道具と啖呵を切ったこともあるが、いいものは、いい。思いがけず、いい一日をすごした。明日もう一日かけてみる。
明後日には京都から林の筋の道具屋が来てくれる。
1998 5・28 2

* 父はラジオ屋としては草分けの一人だった。JOBKの技術検定試験第一回の免状をひっさげて開業した。それまでは装身具の職人だった。珊瑚や翡翠や金銀を細工していた。いろんな材料がはだかで遺っている。そんな父がラジオの技術で喰って行ける時代だと観たのは、たいしたものであった。少なくもテレビが出てくるまでは成功した。
父は売るよりも直すのが仕事だと思っていた。ラジオなら唸りながらでも直したが、テレビになるとお手上げになり、さりとて売りまくる商売は断然へたであった。自然衰微した。
父は私にハイテクの技術を覚えて欲しかったに違いない。ところが私は美学芸術学を学び、裏千家茶の湯の教授になり、はては京都を出て東京で作家になった。玉木正之の『祇園遁走曲』の主人公はこの私に違いないと思ってテレビを観ていた京都の知人が、山ほどいたぐらいで、私はまさに遁走したのだった、京都から。祇園から。
六十余年の生涯で私が一番なさけなく辛くみじめであったのは、大学三年か四年の夏休みに、父の厳命で、大阪門真のナショナル工場にテレビ技術の講習を受けにやられた二月足らずであった。なにひとつ私は覚えられなかった。気もなかった。午弁当の出る午前と午後との七時間が地獄の退屈であった。とうとうサボッて、京橋や大阪市内まで入り込み夕方まで時間を過ごしたりしたが、遊ぶはおろか飲み食いの小遣いもなかった。あれには参った。好きな本を読むか歩きまわるかであるが、真夏の暑さにも辟易した。成績の付けようもなかったのだろう、父は私の跡継ぎをあれで根から断念したのに違いない。
父は考え違いをしていたとも言える。テレビを技術的にいじくるよりも、電化製品をどう多く売るかの講習を受けさせた方が時代に向いていた。近隣で成功した電器屋はみな売りに売りまくって、直しは会社にさせた。賢明な対処であった。器械は自力で直せるのがホンマモノと思っていたのだ、父は最後まで。それはそれで、えらいものだと思っている。
1999 5・7 3

* 今、願わしいのは、娘の朝日子が、いまこそ「個と個」との対話のために電子メールをよこさぬかという願い。娘とも孫二人とも、どこにいるのやら、もう何年も何年も顔も見ない。声も聞こえない。上のやす香は中学生になったろう。下のみゆ希は小学校の何年生だか、まだ赤ちゃんの時、父親が筑波の技官だった未だ青山の国際政経に就職するより以前に、ただ一度筑波の宿舎まで忍んで行き、かろうじて抱いてやって以来、触れあわない。娘のいわば遺産の「バグワン・シュリ・ラジニーシ」をもう二年、毎夜読みつづけ、元気でいて欲しいと、キーボードに触れるつど祈っている。ときどき、もう此の世にはいないのだと想うこともある。
1999 5・9 3

* 昭和四十二年頃の年譜を書いているが、もうあれから三十二年も経っている。すでに私家版は「懸想猿・続懸想猿」「畜生塚・此の世」「斎王譜」を出していた。四月に管理職に昇進し、現住所に土地を買い、妻は長男を懐妊した。そしてやがて「新潮」の酒井健次郎編集長、小島喜久江編集者から、突如、原稿を見せよという通知が来る。あれには魂消た。だが、何故だろうと長い間考えていた。
亡くなった酒井さんはあるとき、ふっと「斉藤重役から」と言われたが、わたしが斉藤十一氏を識るわけがない。それで、たぶん私家版をやみくもに新潮社に送りつけていたのだろう、それが幸いに斉藤氏から新潮編集部へ動いていったのだろうと想像していた。
日記を丁寧に見て行くと、この昭和四十二年に、順天堂大学内科の北村和夫教授から、私家版の長編「斎王譜」を出した後に、円地文子さんに紹介して上げる、会わせて上げると言われていて、それがある日実現していた。診療を受けておられた円地さんと教授室で一時間の余もお話しした。谷崎潤一郎のことを沢山聴いた。円地さんの「なまみこ物語」が好きだと言い、円地さんも気に入っておられた。谷崎の好きな作では「少将滋幹の母」に合致した。その若さで今どき谷崎愛とは、むしろ珍しいと言われ、住所や電話番号まで教わっていた。だが、わたしは著名な作家を訪問するということを遠慮して、これまでもわざわざ呼ばれない限り殆ど一度も我から訪問したことがない。円地さんへも行かずじまいだったが、「斎王譜」は送ったが。この長編は後の『慈子』であり、他に「蝶の皿」「鯛」などが載っていた。円地さんから何の返事もなかったし、そういうものと思っていた。
そして「新潮」との悪戦苦闘の間に、第四冊めの私家版『清経入水』を用意していった。これが今度は中村光夫を介して筑摩書房の太宰治賞最終候補作へさし込まれ、受賞した。応募作ではないが応募したことにして欲しいと、「展望」編集部および筑摩書房の電話を、家で妻が受けたのだった。
その授賞式が昭和四十四年桜桃忌のあとであったとき、円地文子さんは来て下さり、「おもしろいところで、また会ったわね」と笑われた。わたしは、長い間、それをそれなりの挨拶と思い込み一種のユーモアと解していた。むろん嬉しかった。
だが、よく推理し想像してみると、「斎王譜」を新潮社の斉藤重役に手渡せる人として円地文子を考えてみるのは、甚だ適切なのではないかと、こんど、初めて想い至った。
うーん、と眼の鱗が落ちた気がした。円地さんはその後も顔の合う機会には一言声を掛けて下さることが何度もあった。授賞式にみえて、瀬戸内晴美さんと並んで署名しておられる記念写真が筑摩から送られてきている。
今となって確かめようもない。確かめてさてどうなるものでもなく、はっきりとそう想到した現在ただ今の感謝と驚きとを、大切に、胸に畳み込んでいたいと思う。

* 太宰賞の授賞式の日、娘朝日子が一歳半の弟を家で留守番しながら面倒をみてくれた。その朝日子がやがて四十歳に近づきつつあり、建日子も三十一歳を過ぎてしまった。まだ結婚せず、自分の芝居に三度四度出演させた年上の女優と同棲して、もう二年になる。この正しくは女優志望の人が女優志望のゆえに子どもを産もうという意思がなく、産まないという意志がつよく、これが、親にはなかなか切ない物思いの種になっている。同棲し、先方の親元では嫁に出したぐらいな気で居るらしいが、なにより「同棲」という絆があっては、新たな見合いも恋愛も束縛されて出来ない。本人の望むようにするしかないが、妻には、どうかして孫を抱かせてやりたいのはわたしの強い希望なのである。こんなことも、ある。避けて通れない家庭の難関なのである。
このままだとわたしを養子にした親たちの願いも潰え、「秦」家は絶えてしまう。それもわたしの立場では哀しい。われわれの願いは息子は重々知っているのだが、「同棲」の金縛りは厳しいらしい。
1999 6・4 3

* 父の違う兄の一人に生涯でいちどだけ会いました。優しい紳士でした。その後も文通がありましたし子どもたちにもよくしてくれました。ガンで亡くなる間際に逢いたいと家族が大阪から伝えてきました。わたしは行きませんでした。わたしのエゴでした。縁薄く共に暮らさなかった兄の只一度の温顔を大切にしたかったから、です。兄の希望に反して、自分の宝を捨てなかった。
何度も、そのことを考えてきました。その時に浮かぶのは兄のいい顔です。それをわたしは喜んでいますが、兄は失望して亡くなったでしょう。兄の遺族とは文通だけが続き甥や姪とも会ったことはありません。兄の柔和に優しかった表情は、そのまま今も生きていて、いつでも対話できます、わたしの「部屋」で。
仮定として、わたしがいつかの日、深く愛した作中の「慈子」のような人が、同じように行ってきたならわたしは死の床に馳せつけるでしょうか。正直のところ、答えは出てきません。来てとは慈子なら言うまいと思えるぐらいです。
ではもしわたしがそうだとしたら、慈子に来てと言うでしょうか。言いたいかも知れない。言うかも知れない。しかし、それが大きな「喪失」であることは事実です、「死なれた」者にとって。病み衰えて極限にある人との対面は、多くの記憶に匹敵して打ち勝ってしまうかも知れない。
もしあなたのいう自分の「エゴ」が、或るなにらかの「清算」「思い切り」「けじめ」を付けようとする動きを秘めているものなら、凄みがある。
「見る」というのは強烈な行為です。日本語では、見る・見られるは決定的な意味を持っていました。見て欲しくない、見られたくないと思っている人を一方的に見てきた男たちの世の中がありましたね。侵し=レイプです。
あなたの心根に、侵してでも「きまり」をつけ、「自己満足」したいものがあるとして、そこで得られた満足とは、つまり「きまり」をつけた「清算した」意味でこそあれ、美しく佳き記憶の保存とは無縁でしょう。清算を願ったりしていないのなら、逆に「自己崩壊」を敢えてすることにしっかり繋がりかねないでしょう。ご本人が呼んでいる求めているのでないならば、よけいに。最も辛いし見苦しいかもしれぬところを目がけて「侵し」を敢行するのですから。
問題は、満足を求めているあなたの「エゴ」は、愛で動くのか侵しで動くのか、どうなのか。あなたは迷わねばならない、それが地獄というものです。

* わたしの苛立ちが言わせたか優しさが言わせたか、わからない。人は、してしまう存在である。喜怒哀楽はそこから生まれるが、救いは遠い。バグワンを置きみやげに飛び去った娘に感謝している。
1999 6・6 3

* 神学者の野呂芳男さんが保谷の宅までお出で下さった。久闊を叙しお互いに大過なく健康であることを歓びあった。文庫本『慈子』の解説者であり、久しい心の友であり知己である。この方と話していると静かになれる。娘の朝日子もふくめ一家で敬愛してきた。結婚前の恋愛で悩んでいた娘は、わたしにも勧められ、野呂さんのもとへ胸中をさらけ出しに出かけたこともある。野呂さんは作中の「慈子」を親族がさようはからったのと同じに、アメリカに留学させてはと勧めて下さり、本人もその気になっていたが、わたしは賛成しなかった。結局恋愛をすてて見合い結婚を娘は選択した。夫は筑波の技官を経て、青山で教鞭をとっている。子どもも二人(だと思うが)でき、娘にはそれで良かったのであろう。娘がそれで良かったのなら、やはりそれで良かったのである。
孫は姉がもう中学、妹は小学校に上がっているが、記憶にあるのは上の子が幼稚園にいて、下の子はようやく掴まり立ちした頃である。娘とも孫ともそれほど永く逢っていないし、現在の住所も知らない。分からない。野呂さんは、たぶん、それを案じて来て下さったのに違いないが、わたしも妻も、野呂さんのようないい方を「所詮不毛」の地へ煩わせる気になれず、仲介を辞退した。孫たちの意識と日常から、一組の祖父母を不自然に「削除」したような現状は、孫たちにもわたしの妻にも、むろんわたしにも、じつに可哀相で不幸であるが、余儀ない不幸に目前を阻まれることは、それも人生の一風景で珍しくなく、わたしたちからは所詮「手」の施しようが無い。

* 今朝の五時頃に息子が車で隣り棟にきて、わたしの部屋で昼前まで仕事をし、夕過ぎまで寝て、飯を食い湯に浸かり、電話を相当あちこちに掛けまわしておいて、器械の前にいたわたしに「父さん、戻るよ」と階下から声をかけて、五反田の自室へ帰っていった。終始和やかでもの柔らかで、多忙を極めているらしいが、殺伐と興奮していないのがとても気持ちよかった。プロダクションに籍をおきマネージャーがついてくれることになり、さて、どんな舞台やテレビや映画の仕事が出来るのか、楽しみにしたい。孫はとても出来そうにない。
1999 6・11 3

* 嬉しいことも辛いことも、ある。
愉快に幸せに若い人の給仕で上機嫌で食事を楽しんだ老人が、すこし足を滑らせて転倒したまま帰らぬ人になったと、悲哀の限りのメールが届いた。お気の毒に…と、言葉も凍りつく。泣けるだけ泣いておあげなさいと、わたしも、辛い。
通夜、葬儀、いろいろなことが後に続く。煩わしいあれこれが続くので悲しみが紛れるのだということまで聞いたことがある。
父を送り伯母を送り、可愛い猫のノコを見送り、そして母を送った。ろくな親孝行もできなかった、それどころか、つらい思いを最晩年、みな九十過ぎてからさせた。病院や施設で死なせた。余儀ない理由がどんなに有ったとて言い訳にはならない、気は軽くならない。ごめんよと謝ってみても今更自己弁護に過ぎない。両親と伯母との位牌を仏壇から身近に祀り替えて、しょっちゅう前を通る。通るたびに下げる頭が、このごろ、極く自然になってきた。いつもそこにいてくれる安堵感で、普通に声を掛けていたりもする。
1999 6・14  3

* 朝日子の葉うれを洩れてきらきらし という句をえて、下句も出来ていたのに、忘れた。
1999 6・18 3

* 作家秦恒平として満三十歳の桜桃忌である。朝一番に、山形の芦野又三さんから、すばらしい桜桃の二キロもの贈り物が届いた。有り難いことである。早速電話でお礼を申し上げた。あの地方では聞こえたお蕎麦やさんである。最上徳内の取材で楯岡へ行ったときに、徳内の子孫にあたる人に案内されて行ったことがあるが、湖の本の読者としては、福田恆存先生の奥様が紹介して下さった。
雨の似合う桜桃忌である。禅林寺へは去年は妻と一緒に墓参に行った。今年は、これも読者から報せてもらった上野の西洋美術館へ、新収蔵品のカルロ・ドルチ作「悲しみのマリア図」を観にでかけた。博物館にも、シドッチ神父がはるばる持参し新井白石も模写している重要文化財の「親指のマリア」と呼ばれる「悲しみの聖母図」がある。西洋美術館の絵は、それよりぐっと大きく、縦楕円の枠の内に描かれているが、一見して全く同一人の筆になると確信したいほど、容貌も衣服の筆致や色彩も酷似していた。こちらがカルロ・ドルチで間違いないなら、あちらもそれに極く近いと言える。少なくも極く極くの近親が描いたものと言い切れる。魂を吸い取られそうに二つとも美しい。佳いものが収蔵された、常設展示でしばしば観られるなら、こんな嬉しいことはない。
エルミタージュ展は、殆ど期待していなかった。何度も何度もエルミタージュの名を冠した展覧会に裏切られてきたが、今度も二三流の作品が多く、雑踏のせいもあつたが、しみじみと胸に触れる名作にはあわなかつた。せいぜい数点。むしろ常設展のほうが断然佳いもの揃いで楽しめるのだが、妻が人いきれにバテてしまい、辛うじて上野駅の上のレストランで息をついだ。
その足で池袋に戻り、妻も回復していたので、東武美術館で「大ザビエル展」を観て、博物館から借り物の「親指のマリア」に、また、しみじみと逢ってきた。こちらは銅板に描いた油絵で、小さいが、目にしみる優しさ美しさ、何度観ても感動する。この絵に、写真図版で出会えばこそ、私は新聞小説の『親指のマリア』が書き切れた。シドッチと白石。二人の人物が相触れた「一生の奇会」に心打たれて書いた。殆ど正確な資料というものを欠いたシドッチと、比較的実像や著書に恵まれた白石とを、全く対等に交互に章立てして七百枚ちかく書き切れたのも、このマリア図への感動が支えであった。カルロ・ドルチの同筆とも言えよう「悲しみの聖母図」に、一日の内に二点出逢えたのは幸福だった。すばらしい桜桃忌になった。
満たされた心地で、久しぶりに東武スパイス最上階の「美濃吉」に行き、旬の懐石で記念の日を祝った。お祝いにと馴染みの美濃吉がお銚子を一つとお土産をサービスしてくれた。
雨で、ラフな格好ですこし濡れながらも暑くなくて、快適だった。妻も幸い一息入れて頓服薬のおかげで持ち直し、ザビエル展など、私よりも熱心に観ていた。それも、よかった。保谷駅からの途中に最近店をあけた蕎麦屋があり、もう一度寄って、妻はせいろ蕎麦を、私は鴨南蛮を食べて帰った。心静かな、いい一日になった。

* 三十年の内には、数えれば大きな出来事が幾つも幾つも有った。子どもたちが生まれ、家を建て、老人を三人引き取って京都の家を失い、三人とも見送った。実の親にも死なれた。湖の本を創刊し維持し、東工大教授を無事定年まで務めた。娘を結婚させたことも、息子が演劇等の創作活動に入ったことも、大きい。しかし、何と言っても太宰治賞が舞い込んできたのは、私たち夫婦の人生を最も大きく変えた、大事件であった。
三十年前の今日がどんな日であったか、未公開の「自筆年譜」から、昭和四十四年六月十九日桜桃忌の項と、七月十一日授賞式当日の記事、併せて、中村光夫による朝日新聞文芸時評を、面はゆいが引いてみる。もう、これで゛太宰賞からも「卒業」したいからでもある。

* 六月十九日、五時過ぎ起床、太宰治『津軽』後半を読む。九時過ぎ家を出、本郷三丁目「とっぷ」でコーヒー飲み、十一時前筑摩書房着。竹ノ内静雄社長の祝辞を受け、中村光夫、唐木順三の選評を見せてもらう。打ち合わせの後に筑摩書房の土井一正、中島岑夫、小宮正弘、森本政彦とホテルニュージャパンへ行く。
正午過ぎ、第五回太宰治文学賞の発表会。竹ノ内社長の挨拶で始まり受賞者として紹介され、李白「静夜思」の詩の「頭をたれ故郷をおもふ」の故郷にふれ、話す。報道各社記者とカメラの前に立ち約一時間のインタビューを受ける。島崎藤村、夏目漱石、谷崎潤一郎をとりわけ敬愛すると言う。
三時過ぎ、三鷹禅林寺に人垣をわけて太宰治の墓に花輪を献じ、合掌し報告する。桜桃忌会場で真っ先に紹介されて短く話す。吉村昭と識る。また檀一雄、伊馬春部らと識る。迪子と建日子、持田晴美さんが、桜桃忌会場外に来ていた。五時半頃、吉村と同車、中島、小宮に送られ禅林寺辞去、帰宅。
NHKテレビ等七時のニュース、毎日新聞、朝日新聞等の夕刊にも報じられ、竹内繁喜、沢田文子、林路彰ら祝電が相次ぐ。各紙のインタビュー申し込みも相次ぐ。「共同通信」四枚の原稿依頼。筑摩書房は第二作を、(新潮)は七月二十五日までに八十枚ほどの作をと。
七月七日「展望」に作品発表され、十一日には東京會舘で受賞式と祈念パーティーがある。

* 七月十一日、第五回太宰治文学賞授賞式と懇親パーテイに迪子同伴で臨む。東京會舘。終生忘じ難い日となる。雨も上がり、実に大勢が見えた。井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫の六選者。円地文子に「佳い所でまた会いましたね」と祝われた。臼井先生は大病後の車椅子での参加で激励下さる。吉田健一、佐多稲子、井上靖、中村眞一郎、瀬戸内晴美、吉村昭、加賀乙彦、一色次郎、三浦浩之、金達壽、奧野健男、伊馬春部、田辺茂一、また(新潮)酒井健次郎、小島喜久江、さらに友人の女優原知佐子、重森執氏、今原夫妻、持田夫妻、星野夫妻、田所宗祐伯父など、加えて医学書院金原一郎社長、長谷川泉編集長等々。とても覚えきれるもので無かった。
筑摩書房社長竹ノ内静雄から賞状を受け、友人代表で原知佐子が花束を呉れる。「太宰賞なら三年間は忘れられる事はない。焦らずに」と中村光夫選者代表が懇篤丁寧な選評と紹介のあと、短く謝辞を述べる。六時から八時過ぎまで、一世の晴舞台だった。迪子の嬉しそうなのが嬉しかった。
二次会は新宿「風紋」で、中村眞一郎、奧野健男を囲む体に太宰賞関係の作家や柏原兵三らで和やかに乾杯、歓談。十時過ぎて車で送られ帰宅。ともあれ金原社長、長谷川編集長、また筑摩書房の竹ノ内社長、土井一正役員に謝辞を書いて一日を終える。

* 七月二十九日、朝日新聞夕刊「文芸時評」に中村光夫「野心的な『「清経入水』」の見出しで推賛。
「秦恒平氏の『清経入水』(展望)は戯曲ではなく、太宰治賞を受けた小説ですが、風変りな作風で、今月の小説のなかでも、孤立しています。
平重盛の息子で、『平家物語』によれば、一門の不幸のさきがけとして、豊前柳ケ浦で入水したとつたえられる清経にたいして興味を抱いた主人公が、この知られぬ公達の事跡を探索し、彼にまつわる伝説をしらべて行くうちに、彼の「入水」を否定する見解をいだくようになるのを経とし、そこに主人公の丹後に疎開中の経験や京都における学生生活の記憶などもからませ、歴史と現在の「私」、さらにその生活と夢とを打って一丸としようとする野心がうかがえます。
「『夢のまた夢でございますなあ』と聴いた海底の声々の主が、……平家の人たちのものと悟った僕は、……いまは異端の鬼の群に身を絡められた即ちこの僕が清経なのだと知った」
という境地まで、読者をひきずって行く筆力は、もとより今のこの作者にはありませんが、自己表現の欲求を、たんなる写実や自伝をこえてここまで拡大、あるいは深化しようとする試みは、現代小説の壁を破る企てとして意味があり、やがてこれを実現する才能と根気を作者に期待したいと思います。」
前日時評で堤清二、井上靖の告白的自伝と私小説を、この日も大谷藤子、安岡章太郎、大岡昇平のいずれも私小説的写実や告白を前に置いて、最後に、それらとかけ離れた「清経入水」の紹介と批評とで結んであり、一編の時評構成での扱いとして、意味がとても重くなっていることに感激する。「繰り返すが、しかし、これからだ」と日記に記録。

* その「これから」が早や三十年になった。ここに挙げた日々が、つい昨日のようであり夢茫々の大昔のようでもある。そして今また言えることは、同じ、「繰り返すが、しかし、これからだ」でしか、ない。過去は過ぎ去ったのだ、もう太宰賞は「過去完了」にお蔵に入れていい時期が来たのである。佳い三十年であったと、感謝は深い。
1999 6・19 3

* 昨日は息子が若い女優を家に連れてきて、家内の咄嗟の手料理とお酒とで三時間ほど歓談した。息子は九月に、暫くぶりで芝居を作・演出するらしい。その女優が出るのか出ないのか、そんなことは知らないが、盛んにいろんな人と連絡しては逢ってるようだ。テレビドラマで随分馴染んだ男優などと電話で連絡しあっている。テレビと映画の方へすっかり埋もれていると見ていたが、芝居もやるという。八月から稽古だという。どこで、どんな風に世渡りをしているのか見えていないが、せっぱ詰まった風もなく、ずいぶん落ち着いて穏やかに、大人になった。今度はふらりと来て二泊してまた五反田へ戻っていったが、親の家でくつろいでいた、温和に。その女優の話では、ふしぎに人を落ち着かせ励ますことのうまい「作家さん」だというから、安心していよう。じわりじわりと自立している。いいことだ。
この春、就職して各地に散っていった若い友人たちは、元気だろうか。このホームページをときどき覗いている人もいる。わたしはわたしで、野暮ったく、鈍くさく、ま、マジに生きているよと伝えるためにも、この「私語の刻」は大切に、飾らずに書き込んでいる。みな、元気でいて欲しい。
1999 6・29 3

* 田中日佐夫氏の紫綬褒章祝賀の宴に出てきた。発起人を頼まれたが、同様の人が五十人ほど名を並べていてびっくりした。顔見知りの人が何人かいるはずだったが、祝辞を述べた高山辰雄の他は一人も来ていなかった。この頃こういう例が多い。出席しない発起人というのは変ではないのか。
もっともこういう会も多すぎる。発起人慣れした人が随分重なって、いっぱいいるのだろう。祝賀会の回り持ちも有るかも知れない。
若い友人の原善君も、今月、出版記念会をやる。発起人か挨拶かどっちか、出来れば両方を頼むと言われ、発起人は願い下げにした。
今夜の会合では一ついいことがあった。大学以来の親友重森ゲーテとぱたりと顔があった。懐かしかった。知る人は知っている、優れた芸術家だった重森ミレーさんの、ゲーテは息子である。兄弟にコーエンさんやカント君がいる。連れが何人もあるようだったので別れて帰ったが、とても懐かしかった。
ちっとも遠くなったとは思っていない、いつも湖の本を買って貰っている。しかし顔を見たのは久しぶりだった。昔は彼の「企画」に頼まれて何度も原稿を書いた。毎日新聞社の『坪庭』や小学館の『利休と現代文学』や、いろいろあった。今は何をしてるのと聞くと「社長やんけ」と来た。ま、年からすれば不思議はない。よかったなと思った。出版の仕事はシンドイ季節だろうが、こっちの方がよほどシンドイ。また逢いたいと思うがうまく機会があるかどうか。

* 年譜を作っていたら、作家になる前に重森と何度も何度もよく会っている。小説が本気で書きたいなら、「書きたい」なんて言わずに「書け」と背中を叩かれた。もし今日にも「新潮」から書いたものを見せろと言われたら「どうすんにゃ」と言われた。そんなことがあるわけがないと思ったが、道理だとも思い、わたしはビリッとした。そしてついに書き出した。しかも、ある日「新潮」編集部から、ぶったまげるほど突然に「作品を見せよ」と速達の手紙が、事実、来たのである、ウソでなく。わたしは、すでに三冊の私家版を出し作品を書き溜めていた。おかげで作品を見せることが出来た。

* 重森ゲーテは、まさに、我が生みの親の一人なのである。彼には他にもいろんなことを、節目に言われている。「秦はスケベー」と喝破したのも重森、「学問か、女か(妻のこと)、一つにしろ」と言い、わたしに、院の勉強を諦めて東京へ駆け落ちする決心をさせたのも重森だった。彼も書きたかったが書かずじまいで、わたしが物書きになった。「売れとらへんやろ、御前」と、今夜も見抜かれた。ホームページで「タダ」で人にものを読んで貰っている、「売る気はなくなつた、もう」と返事して反応を待ったが、彼はまじめに「そうか」と応えて、わたしの顔を見た。「そうなんだ」ともう一度返事した。いい気持ちだつた。またぜひ逢いたいと思う。
1999 7・1 3

叔母が裏千家の茶の湯を、京都の町なかで教えていた。敗戦後に疎開先の丹波樫田村から京都の新門前に帰ってくると、もう、教えていた。
祖父が死んだのは昭和二十一年閏の二月二十九日だった。新円に切り替え実施のきわどい前日であった。祖父が生きていたら、寝所になっていた奥の四畳半を叔母が稽古場につかうことは出来なかった。
わたしと母とは、敗戦後もなお一年の余を丹波の山奥の疎開暮らしから引き揚げなかった。急激に腎臓を患ったから余儀なく京都の医者にかかり、そのまま丹波は引き払ったのであり、戦後一年余の二十一年秋であった。癒えて退院してくると、叔母は、祖父の息を引き取った部屋をすっかり畳替えして、炉も切って、社中を集めて稽古していた。初釜の日など入りきれないほどぎっしりと社中を揃えていた。裕福な家庭から若奥さんやその妹さんなどが通っていた。生け花の稽古場も風情があったが、茶の湯はなんと言っても気が改まったし、門前の小僧にもなりやすかった。生け花には花材がいるが、茶の湯は袱紗を人に借りれば稽古が出来る。茶の味に腰のひけることは一度もなかったし、たとえ振出しの炒り豆や金平糖ていどでも「お菓子」にありつけたのは、あの時節、有り難かった。
やがてわたしも、あらたまった気持ちできちんと稽古を始めた。熱心至極の門前小僧で、茶は、見た目も綺麗にしっかり点てた。「やっぱり男の子ゃ、茶筅がよう通ってお茶が美味しい」と、来客の叔母の友人にも褒められた。袱紗を一手に扱っていた北村徳斎の奥さんだった。この人も叔母も筆頭業躰だった金沢宗推氏の門弟だった、つまりわたしも金沢門に連なっていたわけである。
叔母が稽古日ごとに奥の部屋を使うと、もともとそこがわたしの両親の部屋であったから、迷惑したのは母であった。わたしも小学校五年六年、新制中学に進んで行くにつれ狭い家は恐慌をきたし、父もさぞ苦労したことだろうが、ついに地続きに裏で行け行けの、もとは母屋に対する隠居であろう一棟を含めて、久しい「借家」を大家から買い取り、叔母を隠居に入れた。叔母は自力で四畳半一室を茶室に設え直し、簡便な水屋押入も備えると、本格に、茶の湯生け花の師匠で世渡りするようになった。おいおいに叔母は、なかなか、たいした茶道具持ちになっていった。
わたしは中学時代には中学の茶道部を、高校でも茶道部を指導し、わたしのいる間はよそから「先生」を頼むという必要が無かった。茶会もなにも、きちんと部員を率いて主宰した。茶名をもらったのは高校の間か大学に進んですぐか、とにかく早かった。「宗遠」の文字は『老子』から自分で撰した。いい名を許していただいたと思っている。
町屋の稽古場であったし、また学校のクラブを指導していたから、飽きさせてはならず、工夫がいつも必要だった。観念的な理屈は言わなかった。「偕楽成就」ということを気分の上でも大切にしていないと、どうにもならず、そのなかで点前作法の美しさに対するセンスを自然と要求した。作法のない偕楽では自堕落になる。動作でなく所作の世界として茶の湯の場を弁えて行くと、楽しめるほどに身について行くと、ぐんと稽古に身が入る。そして稽古だけでなく、どんな貧しい会でも茶会をすることで、楽しみが互いに幾重も増して行くことを覚えたのである。
学校だけでなく、叔母の稽古場をかりて、頼まれて一級下の後輩たち六七人に毎週お茶を教えていた時期もあった。少なくもその中の四人とは今も作者・読者の縁がある。大学時代にも真如堂の方へ出掛けては何人にも教えていた。その中の一人が、いま、階下から「お昼ご飯、できましたよ」と呼んでいる。  1999 7・5

* 建日子が、九月末から十月初めに、しばらくぶりに「作・演出」の芝居をやると言ってきた。八月末ごろに、テレビの二時間ドラマもきまったらしい。テレビは、所詮はテレビ。芝居には期待をかけている。今年はまだですかと、何人にも聞かれている。

* この二十七日は朝日子の誕生日だ、三十九になる。女の三十台はほんとうの花であるのに、どんな花に咲いているのかを、ついに殆ど観てやれないでいる。元気でいてくれるように。
1999 7・24 4

* 今日で娘は、朝日子は、三十九歳になる。指折り数えれば、まことに、そのとおりである。朝食に赤飯が炊いてあった。黙々と食べた。
1999 7・27 4

* 「自筆年譜」で三十九年前を読み返してみた。妻に出血性素因があり、出産は困難と診断されていたのを、東邦医大内科の森田久男教授万全のカバーで出産にこぎ着けた。あの一年、さながらドラマであった。娘も妻も、むろん息子も、健康にと祈っている。    1999 7・27 4

* 六百グラムの黒い仔猫が舞い込んできた。とても可愛くて、もう手放せそうにない。軽くて、やわらかくて、ノラ経験が皆無とみえ、全然怯えないで視線を合わしては啼く。初めのうちは弱々しかったのに、慣れるに連れて元気に歩きまわり、後をついてきて、仕事をしている上に乗ってきたりする。することなすこと、かつての、母「ネコ」仔「ノコ」の思い出につながり、いとおしい。あの母子猫はしんからの我らが「身内」であった。ノコは十九年も生きてくれた。そのノコの写真に、この仔猫を置いてやっていいかいと尋ねている。
むかしのアパート時代から数えると、わたしたちが愛して付き合った猫は、今日の仔で七匹めになる。セブンと呼ぼうかと言うと、妻はそれなら「ナナ」が可愛らしいと言う。それでは差し障りが有るといえば、有る。同じ呼び名で、わたしの好きなすてきな女子学生が以前東工大にいて、輝く星のような人だったから、猫の名前にするのは少なからず抵抗がある。ま、可愛いのだから、可愛がるに決まっているのだからと多少言い訳も用意はしているが。
ノコに死なれたときは悲しかった。あんな辛い悲しい思いはもうしたくないと言い合ってきたが、明後日が、その愛しかったノコの満四年の命日なのである。そういうところへ添い寄るようにして訪れてきた仔猫であることに、心を動かされている。ちいさいちいさい漆黒の猫である。久しぶりの感触に胸の内があたたかい。
1999 8・4 4

* 仔猫に一晩啼かれ、眠れずに朝の七時まで相手をしていた。それからやっと眠った。眠りたくて眠れない頭や胃がかなり苦しかった。黒い仔猫はすっかり慣れ、ものも食べ、見違えるほどの元気さで、私や家内のうしろをついて廻って遊び戯れ、甘えて啼き、お腹を空かして啼き、我々の姿を見失ったと言っては啼いている。仔猫の習性を一日でほとんど思い出してしまった。ひさしぶりの仔猫の柔らかい軽い感触にしびれる。正直の所、もう手放せないだろうと思うが、せっかく夫婦で家をあけて外出や旅が出来るようになっていたのにと思うと、ウーンと唸ってしまう。留守の時は預かるかと、息子を、夫婦して口説きかけているが、向こうはわたしよりも出歩く商売のようだから。さあ困った。
1999 8・5 4

* 小さい生き物がひとつ増え、家中に新しい生気が流れている。掌に載るほどちいさい黒い仔猫の命ではあるが、啼き声から何から、すっかり安心し、身も心もわれわれに任せきったように、歩き、遊び、食べて、寝ている姿には、信頼されていることには、気持ちが和む。排泄などのことはしつけなくては済まないけれど、なるべく、家の内外で好きにさせてやりたい。
名前が「まだ」決まらない。とかく可愛がっていた「ノコ」の名が口をついて出てしまう。なにしろ、ちいさい。ほっそりしている、長めの尻尾のさきまでも。まだ、ふっくらまろやかとは行かない、顔も三角にみえるし、グルグルと喉もならせない。育つのかしらんと思ったが、食べて飲んで元気になり、ぴょんとはねて、タタタッと駆け出したり、背伸びして椅子に上ったり、こてんと丸くなって寝たりする。猫らしく坐るし毛づくろいもしている。
川の字のまんなかの棒が猫になり
とかいう、川柳だか短歌の上の句だかを、ごく最近、どこかでみた。気持ちは分かる。  1999 8・7 4

* 仔猫の名前が「マゴ」ないし「マーゴ」に落ち着こうとしている。「ネコ」「ノコ」「マゴ」と、血統はともあれ猫の子の孫、三代目。孫を祖父母に見せてもくれない娘、孫をつくってくれそうにない息子への、いささか「アテつけ」じみるのも、敢えて然り、としたのである。からだつきが、ふっくらしてきた。急速に、いろんなことをからだで覚え始めている。片方の目にうるみとやにとがあったのも、栄養がつき、排尿・排便の習慣が出来てきて、ぱっちりと綺麗な黄金色の眼になった。
1999 8・10 4

* 数日前、湯川秀樹博士と夫人との「ノーベル賞」物語のような映像をテレビで見た。結婚するときの夫から妻への誓いに、ノーベル賞を取るという一事があったらしい、それは成就したのだし、めでたい。あの頃わたしは中学生だったが、胸のふくらむような朗報だった。理論物理学がどんなものか知らないが、中間子理論に到達するまでの苦労はさこそと納得できた。わたしの母と湯川さんの生家とはご近所で、母は湯川さんのそれぞれに著名な兄弟たちについても、聞きかじっていたことを、嬉しそうによく話してくれた。
生家は湯川姓ではなかった、それは奥さんの方の苗字である。奥さんの家は聞こえた病院であった。湯川さんがれっきとした婿養子であったか、たんに奥さん側の姓を名乗っていただけか、そういうことは知らない。
そこまでは、それだけの話であるが。
結婚して間もなく、奥さんは、夫の机に積まれた幾つも幾つもの封書に目をとめざるを得なかった。みれば、洋書など書籍類の請求書の山であった。奥さんは黙ってそれを自分の父親に差し出し、父親は、つまり湯川さんの舅は、黙ってそれをいつも全部支払ってくれた、という。

* おお、これだと、テレビを観ていたわれわれ夫婦は声をあげた。青山学院大学の教職にあるわれわれの婿殿は、こうして欲しかったのだ。
学者の舅姑たるものは、こういう具合に「住む家」も婿に与え、黙っていても「生活費の半分」も拠出提供すべきだし、学者の嫁たるものは、実家から黙ってそういう金を引き出して来べきものだと、そう、われわれの婿殿は考えていたし、また、われわれへ手紙の罵詈雑言とともにそれを突きつけてきたのである。つまりおまえたちは学者を婿にした親として失格だ、湯川博士の舅のようであるべきだ、それが「常識」であり、自分の知る限り「みーんな」そのように、嫁の実家は学者婿の学問を、黙って喜んで支えていると手紙に書いて寄越した。貧乏文士のわたしを「非常識な世間知らず」と罵って、経済の役に立たないそんな「嫁の実家」とは「親戚づきあいを絶つ」と手紙で宣言してきたのである。
よほどけっこうな「仲人口」がつかわれていたのか、よほど稼ぎのいい売れる作家だとでも勘違いしていたのかも知れないが、九十前後の義理有る親や叔母を三人も京都から引き取り、狭い家で喘いでいたわれわれ夫婦には、出来た相談では無かった。
結婚後かなりの期間、孫が一人生まれてくるまで、婿殿は、だが、むかむかしながら我慢していたらしい。堪忍袋の緒が切れたように、「非常識な作家」である舅のわたしに、罵詈讒謗の限りの手紙を連発してきて、理不尽に「姻戚の縁」を絶たれてしまった。なんとも、ま、みっともなく情けない話である。わが娘は「それ」が出来ないのなら、形だけでも夫に、婿に経済支援できないのを「謝ってくれ」と泣いてきた。やんぬるかな。
妻は離婚させたいと言ったが、わたしは魂の色の似た同士「夫婦」で生きてもらいたいと、娘や孫の手を、引っ張らずに、手放したのである。つき放されたと娘は思っているかも知れないが。
やがて十年になる。

* たしかに湯川さんの奥さんや父親の仕向けが「美談」視されたことはありえたし、そういう例は「みーんな」でないまでも、有ったろう事は察しがつく。ところが婿殿にとって「不運」なことに、わたしは、徹してそういう思想や生活態度の持ち主ではなかった。むろん出来もしなかったが、じつは、出来たにしても、そういう余計なことは、よくよくの場合でない限り、むしろ「努めてしなかっただろう」と思う。その点ではわたしは、湯川秀樹よりは、はるかに新井白石の態度を尊敬してきた。
白石また、湯川さんにおさおさ劣るどころでない大学者であり、大詩人であり、優れた政治家であった。彼の青年時代の貧窮は、豆腐屋のお恵みの豆腐の絞り粕で飢えをしのぐ有様だったが、学問には励んでいた。優秀さを伝え聞き見込んだ当時の豪商は、三千両の持参金附きで娘を嫁に貰って欲しいと申し入れてさえ来たが、白石はそれを潔しとせず、すぐ断っている。自伝にはそう書いてる。
同じく美談であるとして、われらが婿殿は、湯川家の例をもって「常識」とし、常識の守れない嫁の実家とは親戚ではいない、利用価値がないと、切って捨てた。
わたしは、断然白石という人が好きであった。湯川さんのことは、はや遠い古であり今は論評しないけれど、ま、わたしは、娘の亭主を「情けない甘えたヤツ」だと軽蔑して思い捨て、惜しいとも思わなかったのである。仲人口に感謝して乗ってしまった点では、恥ずかしながらアイコだった。わたし自身が、娘を、いわば押しやった結婚であった。
1999 8・12 4

* 明日が、京都ではお盆にあたる。とくべつなことは、しない。日頃から、両親や叔母のことは妻としょっちゅう思い出話をしている。感謝もしているし、手厳しいことも言っている。すぐ身近に、三人の位牌が置いてある。聞こえるものなら親たちも話の仲間に入っているわけで、こつちもそのつもりで、べつになにも遠慮はしない。
なにの供養になるわけもないが、たまたま祖父の死から戦時中の「丹波」疎開先のことを書いたのがあったのを、今日は、妻を前にし、読んで聞かせた。父にも母にも叔母にも、それぞれに感慨のあるに違いない戦中から戦後への記録だ。
丹波の山中に二十ヶ月疎開していた。この体験は、一つには「京都」という街暮らしを徹底して相対化してくれた。農家が十軒ほどしかないちいさなちいさな山奥の部落に、とくべつの縁故もなく、町内の知り合いの、ほんの口利きを頼りに疎開した山村だった。
もう一つは「わが家庭」をも痛切に相対化してくれた。祖父と母とわたしとが三人でお世話になった農家は、とても和やかに愛情に溢れた豊かな家族、大家族だった。「こんな家庭かて、あるのやな」と、子ども心にびっくりした。京都の我が家は狭く暗く、その上、平和ではなかったし、わたしは小さな孤心に秘密を抱いて親に接し人に接していた。よその家庭を知ったのは大きい体験だった。そして、何といってもそこは農山村であった。生活に、暦の流れがあった。
1999 8・14 4

* 考えるまでもなく考えてみると、目下のわたしの毎日は、いわゆる宮仕えの職業はもたず、かと言って原稿や出版であくせく稼ぐことも必要とせず、好きなだけ好きなことを書き、読みたいだけ本を読み、寝たい時間に寝て起きたい時間に起きて、三食を食い酒もいろいろ飲み、テレビも見て猫とも遊んでいるのだから、あ、なんという佳い暮らしをしていることだろうと思わずビックリしている。
こういうところまで、よろよろ、とぼとぼと歩んできた、来れたのも、親たちのお蔭だと言う以外にない、むろん妻のお蔭もある。とうてい悟れそうにはない凡骨であり、ま、「南無阿弥陀仏が成仏するぞ」といわれた一遍聖の遙かな声をたよりに「安心」を得たいと思う。
1999 8・14 4

* 左膝の周囲に三十箇所も仔猫の「マーゴ」にやられた大小のひっかき傷が、赤く蚯蚓腫れになっている。ひりひり痛む。右脚にも、腹にも胸にもある。以前の母ネコ子ノコの場合は、ほぼ同時に我が家に母子で住み着いたので、エネルギーはお互いに母子で吸収し合ってくれていた。いつも晩になると、ひとしきりノコがネコにとびかかり、噛みつき、くんずほぐれつ格闘していた。遊びでありスキンシップでもあったろう、喧嘩していたのではなかった。それでも母親の方が辛抱しかね、逆襲したり、うるさがって唸っていた。子ノコは、だが、とても幸せそうだった。観ているわれわれも幸せだった。
だが、今度はもっぱらわたしたちが親代わりになっている。生傷だらけである。ひりひり痛む。この子がオスなら、思い切って外で飼おうかなとも思う。オスは所詮はいつかずに、どこかへ行ってしまう、そういう残念な経験ももっている。
家の中に元気な小さい生き物がいると、ほんとに楽しい。
1999 8・18 4

* 仔猫のマーゴはわたしのそばでよく寝ていた。六百グラムで入来のマゴは、はや八百グラムを越し、からだつきが丸くなって、可愛い。妻は「マァゴ」と呼んでいるが、わたしはどうしても前の愛猫の「ノコ」と呼んでしまう。
1999 8・27 4

* 妹から、梨が例年のように届いた。母のちがう妹で、川崎市にいる。何度とも会ったことはない、二人いて、姉の方とはいちど銀座の「竹葉」で食事したことがある、実父が亡くなって程無いころだった。小さかった姪が、もう、旅行会社だかに勤めているという。
子どもの頃から実の親を知らず、天涯孤独の気分で、養いの家に養われていた。兄弟はないものと思っていたら、両親の同じ実の兄がよその家に一人いた。
大人になって自分の脚で調べ廻って、父のちがうずっと年かさの姉一人と兄三人のいたことが分かった。また母のちがう妹二人のいたことも分かった。たまげた。
父のちがう姉や兄は、四人とも亡くなってしまった。兄の一人は早く戦時中に亡くなっていた。姉兄三人とはそれぞれの現住地で四十歳すぎてから初対面したが、その後は文通していた。二度は逢わぬうちにみなに死なれた。
父母をともにした実兄北澤恒彦は、ちょうど今ごろ、弟息子の暮らしているオーストリアからアイルランドの方を旅しているのではないか。この兄とも何度と逢ったことはない。兄はいま京都の精華大学に講座をもっていて、大学のパソコンで、ときどきメールをくれる。いいメールをくれる。兄の兄息子はペンネーム黒川創、有望なほやほやの小説家になっているが、少年の頃から「思想の科学」などで評論活動を重ね、岩波や筑摩からも本をもう何冊も出してきた。そのことが、今、彼が小説を書くうえで功罪半ばしていて、「表現」に苦しんでいるかも知れない。娘も一人いて、若くしてこれはオーストラリアに渡り学生生活をしてきた。その間に「思想の科学」に連載したエッセイは兄に負けないいい文章で、いい本になった。いまは東京のどこかで一人で頑張って生活しているらしい。
学生時代に抜群のドイツ語で外務省の試験に受かり、いきなりオーストリア大使館に勤めた兄の弟息子は、中学浪人もしかねなかった暴れ者で、末は大丈夫なのかと心配したほどヒョンな存在だった。高校頃か、ガクラン姿で髪を染めて我が家にあらわれ、とんでもなく凄い麻雀の腕前を披露してくれた。そんな子が、ラグビーの強い大学に入ったのに念願のラグビーもやらずに、ドイツ語の先生と仲良くなって、ドイツ語が読めて喋れてという実力をつけてしまった。そして四年生にも成らず卒業もしないで外務省に雇われていった。おもしろい子だ。たまたま京都に仕事で行っていたときそれを知り、祇園乙部に呼び出してわが女友達のやっているクラブで祝い酒を奢ったら、気持ちよく飲んだ。カラオケを謡わせたら、上手で何曲でも熱唱した。ママが、この、変な場違いな大学生に惚れこみ、自分の箱入り娘の婿にしたいと、のちのちまで半分本気だった。
兄息子の方もおさおさ劣らない。こっちは早くから秀才だったが、はじめて我が家に現れたのはやはり高校生頃で、ずぶぬれだった。成田闘争の支援に行き、したたかに警官隊のホース攻めに遭ってきた。そうかと思うと獄中の金大中支援のためにソウルに飛んでいたりした。ちっと違う方角もおやりと唆したら、すぐ歌舞伎にうちこんだ。わたしの画集を持ち帰ったまま、何年もかけていつのまにか伊藤若冲を調べ尽くし、長編小説に書き、群像の巻頭に、若冲の長編を二つも書いて単行本にした。やる男だ。
早くに死んでいった実母が生きていたら、兄息子の子らが、孫たちが、わたしの家に出入りしたり、本を出したり、外国勤務していたりするのを、またわたしの子が戯曲を書いて演出したり、テレビドラマを書いて放映したりしているのを、どんなに喜んだろうと思う。わたしたちの生みの母は短歌を詠み、歌文集を一冊遺して死んだ。子孫の中で短歌を詠んだり書いたりしたのはわたしだけであった。
母がと言ったが、実父も、兄や私の世に出て著述しているのを心から喜んでいたのは知っている。その父にも母にも、わたしは冷たかった。罰はうけねばなるまい。

* 黒猫のマーゴは、一キロを越して、毛艶も黒々と食欲有り、男の子だと分かってきた。家中を駆け回っていて、わたしにも妻にもまつわりついている。すっかり馴れて、母親の代わりであろうしきりに柔らかく噛みつく。心から笑わせてくれる可愛らしい姿態や動作や表情に、大満足している。だが、猫のことを書こうとは思わない。誰が書いている話でも、同じである。そんなことなら、うちにいた猫とちがわんなあと思ってしまう。親娘で十年、娘猫の方は十九年もいっしょで、たっぷり共生していた。猫の生態はおおよそ同じであり、人間の喜ぶところもおかしがるところも悩まされるところも、そうは違わない。
犬のことは知らない。猫かわいがりものの文章は読んでも同じことばかり、だから書きたいと思わない。谷崎の『猫と庄造と二人のをんな』だけは、むろん漱石の『吾輩は猫である』も傑作だが、必ずしも猫を書いたものとは思われない。人間がきちんと書かれていたと思う。
1999 9・6 4

* 人のいぶかしむほど、手足はひっかき傷だらけで、一日中仔猫に噛まれたり掻かれたりしている。真っ黒い猫が、以前、真向かいの家に飼われていて、これが気の荒い噛みつき猫だった。無理もないか、頸にしっかり首輪と長い縄が掛けられていて、道路向きの外庭に出されていた。その猫は可哀相なほど自由を奪われていたから、うちへ来た仔猫の親とは思われず、また、仔猫の生まれる大分以前に死んでしまっていた。
何にしても黒猫はいやだと、ポーの小説以来毛嫌いしていたのに、妻が抱いて見せに来た仔猫に、一も二もなく在宅許可を与えてしまった。
黒い色が、こんなにも美しいかと、思う。まえの愛猫「ネコ」は七分の黒と三分の白で、その子の、愛しかった「ノコ」も六分四分で黒白猫だった。黒と白とが最高だなあと和猫ぶりに傾倒していたが、そのときでも白いところよりも黒の美しさを感じてはいた。だが、まさか真っ黒にぞっこん参るとは思っていなかった。もう階段も、わたしのそばをすり抜けて弾丸のように駆け上がって行く。外で収穫してきた枯れ葉を蹴立てて、余念なく走り、跳び、宙返りをしてから、私の手足を噛みに来る。かるく銜えるだけだが、歯尖が細く、時には声をあげてしまう。ま、いいか。猫には、だが、猫引っ掻き病というれっきとした神経病を引き起こしかねない危険がある。たしか「脳と神経」か「神経研究の進歩」という雑誌を担当し発行していた大昔の医書編集者時代に、そういう症例論文を読んだことがある。
たしかに、だが「黒」はつよい。、映える色だ。衣裳合戦で、尾形光琳が、肝いりの女房にひとり黒い衣裳をうまく着せて圧勝した逸話も思い出される。
わたしが黒に魅せられた最初は、叔母の愛していた楽慶入作の黒茶碗、銘「若松」の漆黒の照りであったろう。松の翠を黒に見立てたセンスにも恐れ入ったが、それよりは黒茶碗で点てた茶の緑の色美しさを「若松」と見たのだろうとわたしは解釈して、ひとしおその黒が美しく眺められた。その「若松」の黒茶碗も、叔母はわたしに遺していってくれた。
1999 9・12 4

* ゆうべ、息子のテレビ番組があった。「世にも奇妙な物語」を、五人が競作していて息子は二番目の台本を書いていた。玉置浩二とか、たしか薬師丸ひろ子の以前夫だった俳優だか歌手だかが、とても面白い芝居にしていた。初っぱなから笑えた。
「世にも奇妙な物語」が、世にもまっとうな「主張」をしても、これは企画に合っていない。数あわせのような「図式的」な思いつきで押し切っても、リアルでない。まして、精神医学的な「病気」を描いたのでは、奇妙でもナンでもなくて、初めから異常なだけだ。オカルトめく「怪談話」も、知恵がない。
その点では建日子の脚色していた『マニュアル警察』は批評であり風刺であり、荒唐無稽のようでいて、現実にどこにでも転がっている奇妙さである。例えば有名なファストフード・チェーン店の「過剰なマニュアル商法」でかちっとドラマを締めくくられてみると、文句なく納得させられる。現実現代ないし近未来の奇妙さへ、属目の日常から遊離しないで奇妙に絡みついていった作意が、しっかり笑わせてくれた。とても面白かった。
この勢いで三十日からの舞台も、客の入りのことはともかく、熱気のある成功作にして欲しい。下北沢の小劇場「劇」とは、よりによって、わたしたちには不便で不案内なところだが。
1999 9・28 4

* 秦建日子作「タクラマカン」が、地域差別に準拠しながら、かなり突っ込んだ差別問題を真向から表現しようとして見せた舞台であったのを、それも徹した差別「批判」の舞台であったのを、わたしは、嬉しく観た。同時に、この問題の表現には、だれがどう当たっても未熟なところが露出せざるを得ず、そこからまた新たな問題が生み出されてしまうことも、考えに入れぬわけには行かなかった。
息子がこういう芝居を公演していると関西に住む親しい人に伝えたところ、「建日子さんは差別のことを真っ向から書いているのでしょうか? 彼が関西に育たなかったからこそ書けるのかもしれません、そう思いませんか? 関西の地縁に何処かで呪縛されてしまいます、関西の闇、かな?」とメールが帰ってきた。この人同様にわたしも関西での体験と見聞とを共有していて、これは、よく分かる。ちなみにこの人は京大在学の頃から差別問題に相当に踏み込んで活動していたという関心者である。
関西の闇。そうはいうものの、東京は、かつて差別の首府でもあった。大都市展開の間に拡散したとは言え、全国からの転入者の、背後に背負って東京へ持ち込んでいる体験と見聞とは、表面に出ないだけで実は莫大であることは、ゆっくり話していると漏れ出てくる。そういう性質のモノであるし、加えて市民一般の頭を押さえている政治的・社会的・経済的な閉塞状況そのものにも「被差別」感は醸成されているので、だからこそ、「それは自分のことではない」などと思いつつ、「それは自分のことでもある」と肌身に感じて、何とかして「人でなし」のいない「あっちの国」へ脱出しようという、つらい、はかない夢に命をなげうって行くものたちのドラマに、熱く涙し、劇場を離れる前から目を赤くして興奮と称賛とを隠さない人たちがいっぱいと言うことになる。

* そこにも問題はある。「人でなし」の絶対にいない「あっちの国」も無ければ「人でなしのなし」のいない国も無いことは、誰もが知っていて、そして幻を望むように彼岸の存在を信じたがっている。そういうドラマ、そういう問題提起じたいに「偽善」性を読みとることは容易く、いかなる善意によるにせよ、触れればからだが腐るとまで忌み嫌われる者たちのために「就職」という将来性の確保を図ってやりたいという劇中の「治安少尉」らの存在は、余りにはかなく、現に彼は「善意」ゆえに国権により逮捕され罪せられることを免れない。この少尉の絶叫は、俳優の声を完全に潰してしまうほど劇場に響き渡ったけれど、現実は無残であり「人でなしの浜辺育ち」は「町育ち」の砲火に沈んで、尽く闇に失せて仕舞わねばならない。「レミゼラブル」である。それでも書かねばならぬと思って書いたのであろうし、俳優諸君の演技も熱意に応えてなかなか好演であった。わたしは嬉しかった、親ばかと言われようとも。

* それでも、やはり、関西で公演するとしてどうだろうかということを、わたしは、考えていた。「関西の闇」はたしかにあるが、「関東の闇」も「日本の闇」も深い。
そう思っているところへ、新しい、長いメールが届いた。東工大の院生である。阪大を卒業して東工大の院に今居る。親しい友人と二人で芝居を観てくれたのであり、関西、寝屋川市に育った人だという。大事な大事な点にしっかり触れてあるので、名は伏せたまま感謝して此処に書きこませて貰う。
1999 10・4 4

* たった今、「週刊朝日」から、舅と嫁とのグラビア頁に出て欲しいと申し込まれたが、「残念」なことに、「嫁」はいないと辞退するしかなかった。ウーンと唸った。

このマゴを斯うも愛しては良くないと深くおそれて頬寄せてゆく

黒い仔猫のマゴは、初めて抱いた体重のちょうど三倍になった。
1999 10・4 4

* 下北沢「劇」小劇場での秦建日子作・演出「タクラマカン」公演が終えた。壁際におしつけられるように立ち見が並び、わたしも自分の券は他の客に譲って、最後の最後に立ち見の場所に立って、ほぼ二時間の芝居の三度目を観た。今日も昨日もお断りした当日の客が何十人にもなったそうだ。
初めのうち客の入りが心配だと聞いていたのに、爆発したように超満員の日々になった。ま、小さい劇場だから、六日で八ステージ全部が補助席に加えて立ち見となっても、総人数に限りはあるが、それでも景気が良くてよかった。すでに、あちらこちらで良い批評がでているとも聴いた。

* 遠慮して休もうかとも思ったが、千秋楽ではあり妻も是非今夜の舞台は観たいというし、わたしも観られるときに息子の仕事は目におさめておきたくて出かけた。立ってでもいいやと思った。建日子も出来れば見せたい、観てもらいたいという気があるようだと妻は見ていた。
早めに出て吉祥寺近鉄の「三友居」で先に夕食をした。京都で仕出しの老舗として「菱岩」に並ぶ佳い店になった京都本店の女将は、「湖の本」の永い読者の一人でもある。東京で、安心して京料理の味わいの楽しめる少ない支店であり、まずはお勧めものだが、今夕の懐石もたいへんけっこうで美味しかった。料理も器も出し入れの行儀もいい。値段も手頃で、たいへん満足して、下北澤へ出向いた。

* 七時半開演の七時開場前にもう長い行列だった。券を持った家内は並んでから劇場入りし、はじめから立ち見のつもりのわたしは、開演ギリギリまで外で待っていた。
建日子の師匠である、つかこうへい氏が、知る限り初めて劇場に姿をみせ、俄なことであったが息子が耳打ちしたらしく、寄って見えて、初対面の挨拶をかわした。氏が建日子の公演を見に来られたのはまず初めてのことではなかったか、息子もさぞ嬉しいことであったろう。

* 今回最期の舞台はよく盛り上がり、二時間の窮屈な立ちっ放しも苦にならなかった。泣かされた。済んでからの路上に出ての俳優と客との交歓も、千秋楽らしく興奮と安堵と歓喜とでわき返っていた。いいものだ。主だった出演者たちとも言葉をかわして、そんな人の渦から離れ、駅前で夫婦でほっこりとお茶を飲んだ。吉祥寺からはタクシーでまっすぐ家に帰った。これで「公演」という名の我が家の秋祭りは、無事終えた。無事でもなかったか、主演級の女優が途中声を潰してしまい、ひどかった。どうなるかと案じたが、荒療治でもしたようで、今夜はまずまず声になっていた。過去十数度の公演によっては、不満足な出来のもあって、そんなときは気が重かったが、今度の公演は、文句なく佳いものに仕上げていた、演出も演技者も。嬉しいことだ。

* そうはいえ、やはり主題の扱われ方に、せりふに、耳を澄ましているとまだまだ問題が無いわけではないなと感じるところが、何点もあった。まだまだ「ひとでなし」と言われている側の心情に、全幅の理解は届いていないなと。無理もないが、書かれる側はそんなハンデぬきに痛いのであり、作者は、まだまだ、歩を、真摯に運んで行かねばならないだろう。
1999 10・5 4

* 妻が聖路加病院に定期検診に行った留守中を、昼寝してすごした。「京の昼寝」ではない。
黒い猫との日々は、笑いが絶えない。理想的な共存である。雄猫なので、やがて外へ外へと生活範囲を広げて行くだろう。ご近所へも多少となくご迷惑をかけるだろうが、頭をさげてでも、無理なく拘束もしないで過ごさせてやりたい。
1999 10・14 4

* 四十二年前の今日であったか、学生同士だったが、妻と鞍馬へ登った。全山紅葉して酔う心地がした。貴船に下り、奥の院まで三社参拝し、渓流に沿うて最寄り駅まで歩いた。京都の秋が懐かしい。
1999 11・16 4

* 元禄綾乱のあと、「グース」という愛らしい映画を観た。だいたいどんな映画かは知っていたが、観てよかった。気持ちよかった。
映画の間に甥の黒川創(北澤恒)から電話が入った。京都の父、わたしには兄の北澤恒彦によほど元気が無いようだと言う。
昨晩、兄からうちへも電話が来ていて、妻が兄の話を聴いた。両親を共にした一人きりの兄である。元気でいて欲しいし、じつは心配もしていた。すぐ黒川に電話して様子を聴いた。八十というより九十に近い老父が入院しているのを、とても兄は気にしながら、自分も相当の疲労で気分優れず、大学の講義も負担になっているようで、しかし息子の黒川には、さほどせっぱ詰まった心配はないらしかった。だが今晩の電話はちがった。兄は息子に何度も電話してくるようだ。
「あすには京都へ(行こう)と思てます」と黒川は、もちまえの、へへへ、へへへと、電話口で笑いながら言っていた。
「鬱は危ないんだよ。ホテルに泊まるなどと言わず、必ずお父さんと枕をならべて、一緒に寝て上げるんだよ、必ず明日は行けよ」と何度も何度も念を押した。

* 甥の話を綜合して察するところ、昨夜の兄の電話は、かなり心配だ。あれほど支持し応援してくれていた「湖の本」が、送ってくれてももう読めそうにない、そう兄は妻に告げていた。よほど疲れているようだ、が、お父上が病状の危機を脱してまだ病院におられるのだから、まさかのことはと思い、心配を押し殺してわたしからは電話しなかった。今夜の甥の話で、心配はまた募るのだが。あの兄だもの。そう思い、そこで今は判断中止している。

* 建日子も電話をよこし、中途で母親に替わった。十二月十三日に「くだらないドタバタ」を放映する予定だと言う。「お父さんのいちばん趣味に合わないモンだよ」とも言う。「観ないよ」と笑った。
1999 11・21 4

* 恒(黒川創)は父親と、わたしの兄と、今時分は一緒にいるだろうか。
1999 11・22 4

* 兄北澤恒彦が死んだという。
六時半頃か、電話があった。「北沢です」という声がむしろ若く感じられたが甥の黒川創ではなかった。兄かと思い、こう朝早なのもこころもち不審に思ったが、このところの事情は創、いや北澤恒から聴いていたので、弾んで電話に応じた。だが、それはウイーンから掛けて寄越した恒の弟の北澤猛の電話だった。
父が「死んだらしいのです」と言う。兄の恒から連絡があり彼はいまごろ京都へ急ぐ新幹線の中なのではないか、僕も帰ろうと思うと。絶句というより、しどろもどろに近い応対になった。
次男猛を訪ねてつい最近兄はウイーンへも行ってきた。その旅で疲れが増したのかも知れないと兄は先夜二十日の電話で私の妻に語っていた。
わたしはその時、兄の電話に出なかった。兄が電話などしてきたことは過去に三度とは無かったし、電話で話すというのはわたしの最も苦手とする一つなので、妻も心得て、兄を、朗らかな口調で慰めたり励ましたりしていた。兄のその電話での用事らしい用事と言えば、自分の体調もよろしくないが、父上が入院され、その世話などに追われて余裕がないので、「湖の本」はしばらく送ってこなくていいよという話だった。他にも具体的な用事があるなら兄も妻もわたしを呼ぶはずであったが、そんな調子で電話は切れた。おかしいナと感じた。北澤の父上の家は左京区吉田で、兄の独り住まいの家は伏見区の南寄りにあり、往来が億劫で、本の届く伏見の家へはずっと帰っていないらしかった。独り老いられた父上の側で暮らしていたのだ、このところ。兄はわたしなどよりはるかに親孝行で心優しいのだ。
出てあげればいいのにと妻にも言われたが、電話口でとほうにくれて過度にもものを言い続け声を励ますのは辛かった。ことに、わたしたちのように、サマの変わった捻れた運命を分かち合ってきた縁薄い兄弟としては、よけいだった。甥たちとなら幾らでも喋れても兄とはそうは行かず、その点近年のメール交信は大いに自然の情愛をかわしえて、ありがたいまさに利器であった、わたしには。兄もつとめて利用してくれた、ただ兄が洛北の精華大学にある器械の前に座れるのは、月曜の出講日しかなかったが。その大学の講義の用意も、兄をかなり圧迫しているようであった。どんな講義をしているのかと聞いたこともあるが、返事はなかった。彼の「人生」をありのまま語ってやればいいのだが、きちっとしたアカデミックな講義を務めていたのだろうか。
兄は、昭和九年四月生まれ、わたしより一年半はやく生まれていた。生まれたのは彦根であったと聞いている。そしてわたしよりも早くに、実の両親をはなれて、京都左京区吉田の北澤家に貰われていったらしい。らしいとしか言いようがないほど何もお互いに知らないのである。初めて意識して出会ったのは、顔を見合ったのは、四十半ばではなかったか。わたしから兄の職場へ出かけて行き、廊下で数分の立ち話をした。それまでは、いろんな人からも、兄からも、何度となく、会うがいい、逢いたいと電話や手紙が来ていたが、すべて断り続けていた。その気持ちをいま述べ立てる余裕はないが、事実であった。それをわたしから逢いに行ったのは、機が熟したからと謂ったものではなく、いっそ気の迷いのようなものであったろう。
以来、京都でせいぜい一度二度、東京ではわたしの息子の作・演出の舞台に三度四度と来てくれていた内の一度二度、簡単に口を利き合った程度であった。文通の方が繁くあったとはいえ、たいていは兄から声を掛けてくれた。ときどき気になって兄の健康を見舞ったことはあるが、二三年以前から兄にはやや「気」になるところが増えていた。ま、無理をせざるを得ないのはお互いの仕事からも年齢からも致し方ないけれど、兄の「無理」にはやや過度なものが感じられ、アw揩ヘそのつど何等かの結果に結びついていたようである。
外国へ行って自転車で旅をするというようなことも、わたしの体調から推しても、「ようやるな。やりすぎやないか」と思っていた。東京へ出てきても自転車で駆け回っていたと聞くと、「おいおい」と言いたい懸念を持たずにいられなかった。そして帯状疱疹のような難儀な病気を引き起こした。神経に響く厄介な病気で、過度の疲労が引き金になることが多い。そういうことも、症状を報せてきたときにすぐ伝えて、万全の治療をと勧めた。それ以上のことは出来なかった。
ウイーンへ、そして理由は知らないが是非ダブリンまで行ってきたいとメールで知ったときの調子にも、ああ引き留めたいと思わせるものが感じられた。引き留めこそしなかったが、くれぐれも用心し、無理のない旅にして下さいよと頼んだ。兄ほど自立して自由な生き方をしてきたいわば「人生の闘士」に対し、内面にまで踏み込んでとかく言うことはいつもしなかった。遠慮し、避けていた。
帰国してから、特別の連絡はなにもなかった。
電話の後、妻からいろいろに伝え聞いた。そういえば実父が生前よく電話してきたときも、大方は妻に一任して、わたしは父とは自然になれない対話をいつも避けたものだった、父も妻との方が気楽に好きに話せて、気も休まるようであった。私はそう想像していたが、父がどう思っていたかは分からない。
なににしても兄の電話の様子を、へんだなと直感した。老鬱だと思い、兄ほど時代や社会のなかで闘いぬいてきた人にもそういうモノが襲いかかるのだなと、無残な気がした。すぐ甥の恒に電話で様子を聞いた。あらまし、わたしの直感は裏書きされた。重病も持っていそうな容体らしく、診断を拒んでいるとも聞いた。だが危篤に近かったのは恒らの祖父の方で、その応接に父親は困憊しているようだとのことに、老人が老人を看取らねばならない困難のまざまざとした実例を見なければならなかった。
兄は死ぬかも知れない、それも自身で。そういう怖れをわたしはもった。まさかとも思った。わたしから電話をかけ直すことはせず、兄の身を案じながら夜遅くまでなんとなく身じろぎもしない感じで、机の前にいた。今にも辛い知らせの電話が鳴るかも知れない、鳴るなよと祈っていた。
翌日恒の方から電話をくれた。父親からかなり頻繁に電話が来ているらしかった。明日にでも京都に行きますと恒は言い、ぜひそうするがいい、ホテルになど泊まらないでお父さんと一緒に寝てあげなさいと言った。息子はそこまでの切迫感は持てないらしかった。死にかけていた祖父もどうやらしっかり持ち直しているしと言っていた。二十一日、一昨夜のことだった。
電話が切れてから、わたしは、だが、危ないな、今夜にだって危ないなという怖れをもった。鬱といえるほどのものでなくても、私にも憂鬱の辛さは身に覚えがある。はね返せる気力も環境もわたしには在ったから、抜け出し、抜け出し、してきた、が、兄にはその環境がなかった。老父が入院してしまえば、吉田の家には兄が一人だった。嫂は同じ伏見にいてすでに何年来別居し、夫婦間の齟齬は気の毒なことにもう久しいようであった。
金縛りにあっているようにと言うとウソに近い。わたしは、兄に声をかけなかった。まともに用をなす手紙が書けるとも想われず、書こうとも努めなかった。じっとしていた。メールを送っても届くまい、大学は休ませた、休講届は長男の恒が自分でしておきましたと電話口で話していたのだ。
昨日のうちに長男や、場合により娘街子も東京から見舞いに行くというのだから、兄も一安堵するだろうしと、兄のことは暫く忘れていようと昨日も思っていた。「オン・デマンド出版」のシンポジウムで会った津野海太郎さんや室謙二さんらも、むしろ黒川創や北澤恒彦らの側の「仲間」なのだった、黒川は父親の見舞いに京都へ行っているようですよと、初対面のあの時もわたしは告げていた。
ウイーンからのこれは猛の電話なんだと分かってからも、一瞬は父親や祖父の容体を「叔父さん」に問い合わせてきたのかなと思ったが、兄の恒から電話連絡が来ましたとか、今頃兄は新幹線でしょう、叔父さんには電話しなかったんですかなどと言われてみると、はッ…と息が詰まり、どうか不確かなままの誤報であって欲しいと灼熱するほどの痛みで願いつつも、だが、もう、「他」に想いようが無かった。それでも自分の口で「死」という言葉がどうしても使えなかった。「死んだらしいんです」と猛は堪らない声を届けてきた。なんだ、昨日に行っていたのではなかったのか、と咄嗟に思った。
妻は、電話をかけてあげたらよかったのに、あの電話に出て上げてたらよかったのに、と、先ずわたしを責めた。さっき猛の電話で、昨日のうちに京都にいなかった恒を内心責めていた自分を、わたしは強く恥じた。そうなるべく、なってしまったので、若くて忙しく此処を先途と今まさに頑張っている黒川にしても、希望的観測によりかかり、現に動きづらい仕事の状況であることは聞いていたのである。彼は彼の生きを努めているのであり、それでよいのだ。余儀ない成り行きだったのだ。むしろわたしが見殺しに死なせたのだ。
私のしたことは、余儀ない成り行きなんかではなく、わたしが意識してしたことである。結果として見殺しにしたのである。
言い訳ではなく、わたしは、兄のつらそうな声が聞きたくなかった。臆病で卑怯だった。兄は大きな、重い、かけがえない「存在」そのものだった。兄と弟という「関係」は希薄であった。戸籍謄本には、人為的な操作により兄弟であるという記載も証拠も皆無なまま、幼いうちに大人たちの都合で引き裂かれていた。だが、初めて逢って、むすぼれた「気」をほどいてからこのかた、わたしは「兄の存在」にいつも深く支えられていたと、ウソ偽り無く言える。兄はいついかなる時でも、「秦恒平」として私を評価し励まし続けてくれた。いつも私の味方をしてくれた。譬えようもなくわたしは兄により、安堵していた。だから、と言っては人は咎めるかも知れない、理屈にもなっていないが、わたしは電話の後も、じっとしていた。敢えてなにもしなかった。
兄を喪いそうだという予感に怯えたのは、じつは、今回が初めてではなく、遅くも帯状疱疹と分かったときから、つまり、兄の日常に体力的に過度な「無理」の出始めていて抑制できないらしいと感じたときからだった。まして、遠くダブリンへまで是非にも行っておきたいとか、これが最後のチャンスだからとか、すこし興奮気味に沈鬱なメールを寄越された時には、明瞭に、「危ない」と思っていたのだ。だが、兄は兄の方法と意思とで自分の人生を仕上げて行く権利を持っている。だから動かなかった。わたしは兄を尊敬してきたのである。
大事にしてよ。それ以外のなにも言う言葉はもたなかった、その一言に万感を籠めていた、いつも。
誄  ああ、初めて、いまわたしは泣く。涙で、嗚咽で、キィが見えない。
兄は、まだ少年だった黒川創が我が家へ訪れ始めた頃に、今後の付き合いは、「すべて、個対個、ということにしましょうや」と言っていた。「個対個」は、以後の我々を律した立派な原則だった。兄らしい言葉だと信服して従ってきた。
兄は死んだ。最大の「死なれた」体験はあまりに急速に来た。涙は、振り払わねばならない。もうしばらくは、わたしは生きていたい。だが、実の両親に早く死なれ、育ての親たちにも死なれ、父の違う姉や兄たちにも全て死なれてしまっていて、たった一人父母を共にし血を分けた兄に今死なれた。不思議なことに死への怖れが薄れ、むしろ死への懐かしさが、すうっと夜霧のように忍び寄ってきたのを自覚している。

* 午前十時半に近いが、連絡は来ない。わたしを煩わせまいと恒は配慮してくれているのかも知れない。兄の死に顔を見たいなどと思うものか。骨を拾いたいなどと思うものか。それはあの、実父の通夜や葬式で来賓として「弔辞」を読まされたあの一昼夜の辛さで、ほとほと懲りた。血縁でありながら他人として我々は生きてきたのである。兄ともそうだった。だが兄の「存在」はわたしから失せはしない。うつつの「関係」は「存在」の重みに遠く及ばない。
わたしが北澤恒彦の弟であることは、今では広く知る人は知っている。だから京都へ行って来た方がいいと妻は勧めている。だが行って何になるだろう。兄の電話に出なかったあの時に、兄とは、別れることなく此の世の別れをしたのだと思っている。兄は、私が電話に出ていたら、何気ない話をして済ませただろうし、弱音を吐いたかも知れないが、本心はわたしに「別れ」を告げる気で掛けていたのだ。それを言わせなかった、言わせなくてよかった、聴かなくてよかったというのが、わたしの、兄への真の「思い」であり、この二日三日で、わたしたちは遠く思い合いながら、たがいにまた昔のようにもっと遠ざかって行ったのだ、ただの「関係」としては。
「ああ秦サンが来ている。弟なんだって。そうらしいね」などと確認してもらうために兄のもとに走ろうとは、今は思わない。このまま私の中で、いつものように、いままでと全く変わりなく「存在」し続ける兄でいてもらいたい。兄さん。そうさせてもらうよ。恒、猛、街子。許してくれ。

* いま書いておかないと、と、心を励まし、この誄(しのびごと)を書いた。落ち着いて書いたつもりだ、これこそは闇に言い置く気持ちで書いた。現状のわたしとしては、この愛しているホームページ以外に書ける場所は無い。
兄に、もっともっと多く実の父や母と、まだ幼かった兄とがどう接していたのかを聴いておきたかった。もっと何度も逢っていれば良かったとは思わないけれど、兄がどう思っていたのかは知っているべきだった気がしている。

* 上段まで、たてつづけ一気に早朝から書いた。じっと堪えながら。
恒が電話を寄越して、兄の死を事実と告げた。どんな死とは聞かなかった、聞くまでもなく、甥も言わなかった。毎度のように「書かンといて下さい」と黒川は電話口で言い、東京では兄の医師でもあり友人でもあるU氏にしか報せていない、明日、ごく内々の者だけで弔いをするが「どうされます」と聞かれた。
爆発するようにわたしは泣いた、自分でもびっくりするほど声をあげておうおうと泣いてしまった。もう死に顔だけを見るようなそんな辛いことはしたくないと言った。実父とは三面もせず死に顔を見せられた。兄とも数度しか顔を合わしたことが無く、死に顔で僅かな記憶を混乱させるようなことはしたくなかった。死なれ・死なせ、死に顔を見て葬式に出て、それが何になるか。烈しく泣いてわたしはそう思っていた。
恒は不承であったかも知れないが、ま、落ち着いて下さい、取り乱さないでくれとわたしを遠くから宥めた。わたしは電話を自分から切った。

* わたしには「書く」ことが出来た。朝から「書いて」いた。そうすることで気持ちはよほど統御出来ていた。電話でだけ一度泣いた。あとは静かに泣き続けている。
1999 11・23 4

* いたるところ青山あり、死なれる人がいる。死なせた人も、いる。わたしも、今日、かけがえのない兄の死を知った。たった私よりも一つ半上。あまりに早いではないか。
その人の死に顔など見たくない。骨を拾いたくもない。
このまま、今日も明日も何年先までも、わたしが死ぬる日まで、兄はこれまでどおりに京都に暮らしているものと思い続け、心頼みに甘えながら生きて行きたい。そして遺された子たちの上に、どうか平安あれと祈ろう。 1999 11・23 4

* 雨を聴いている。ついさっき郵便局に走ったときより、雨粒が大きくなっているようだ。寒い、心の底まで。いまごろは甥や姪が寂しく父を見送っているだろう、彼らの上に平安あらんことを。

* 人さまの下さったメールを、おもむくままに此処に書き込むのはゆゆしき無礼であることを承知している。なぜ、するか。一つには、これが、わたしの「生活」であり、こういう出逢いやふれ合いを通じてわたしの「意見」も生まれ、「文学」も生まれ出るからである。そのなかに「わたし」が反映しているのを見知っているからである。人の世の好もしい在りようが肌身に感じられるのである。娘朝日子の言葉を借用すれば、「魂の色が似ている」と思えばこそである。

* 夕過ぎて、息子が顔を見せに来た。黙っておやじを慰めに来たのである。えらく忙しいらしい。想像以上に仕事の依頼がひっきりなしにあるというから、けっこうなことだし、疲れもするだろう。怪我と病気のないことを願う。いろんな話をし、わたしのパソコンをのぞき、彼に買っておいた平凡社大百科事典の CD-ROM新版を喜んでもって帰った。なんといっても建日子の顔を見るのが両親には嬉しい。車で帰って行くので疲れないうちにと、十時前には五反田へ帰した。

* 母のちがう川崎の妹二人には、兄の死を電話で伝えた。妹たちの生母も一月余り前に亡くなっていた。死んだ兄とこの異母妹たちとは会ったことがない。彼女たちの母とは私たちも会ったことはない。
1999 11・24 4

* 帝劇の好意で、浅丘ルリ子主演の「西鶴一代女」を妻ともども招いて貰っていたが、また意欲的な作品とも聞いて期待し楽しみにしていたが、兄を悼み、このたびは静かに過ごすことにし、券はご近所に譲った。この主演女優は何かしら意欲的なツクリでないと芝居に出ない人とも聞いている。それだけに西鶴の傑作を「花組」との共演でどう創り上げるか期待していた。
1999 11・25 4

* 兄は、いわゆるベ平連活動で、最もユニークに実質的な活動をしたと言われる「京都」勢の「要」の地位にいたと聞いている。市民運動家としても思索者、著述家としても良い仕事をしてきた人と聞いている。「お兄さんはじつに立派な男ですよ」と、私はかつて何人もから聞いている。例えば作家の小田実氏からも、あのゴツンとしたもの言いで大きな声で言われている。鶴見俊輔氏にもそんな風に言われたことがあった。一つの物差しに過ぎないが、朝日新聞社の『現代人物事典』にも「北澤恒彦」の名は挙げられている。
なにを言いたいか。兄のことを多方面の人々がきっと悼んで惜しんで下さるだろうと思うのだ。兄の死は痛ましいが、知らないままいてもらうには、仕事は社会的に拡がり評価も受けてきたのであり、いわば公人である。どのような死であったにせよ、きちんと知らせて惜しんで下さる人に惜しんでもらいたい、悲しんでもらいたい。兄は、わたしも含めてとは言わないが、遺族だけのもはや「所有」ではないのではないか。葬儀は葬儀、それは密葬でよい。だがーー、死を、秘して置かなくて良いように思う。
1999 11・27 4

* いよいよ師走かーー。沸騰する思いがあり、冴え返る哀しみがある。

* この一年余に交歓し得た兄恒彦とのEメールを、原文のまま忘れ得ぬ記念に掲げておく。?記号のないものが、わたしからの日付の記録できない返信・発信分である。

?  差出人  :kitazawa@kyoto-seika.ac.jp    送信日時:1998/09/03 15:25
題名    :電子メール関係調査           平成十年九月三日
膨大な資料閲覧させてもらって、参考になりました。夫々に関心を持っておられ、何より回答者の多さに感心しました。
こちら図書館のノートパソコンという超小型の機械で練習がてら打たせてもらっていますが、これだけの量になるとちょっとびっくりというところです。それにいつものことですが、常用しているメカとタイピングの要領がちがって、なかなかスピードがあがりません。
やはり、これは年齢と関係するんじゃないでしょうか。80歳近くになると、(電子メディアに)関心はあっても、もういいやとなるのが自然ですし、必要なら若い人に代筆してもらう手もあります。目下、ぼくはそのてを使っております。立派な字を書ける人が電子メール以外受付けませんなどとなれば切ないことです。
それに、やっぱりコイツはアメリカに有利にできていますね。今のところ恨みはないけど、事と次第によって危ない気もする。
とにかく今日はだいぶ打てた。お達者で。シュアー別便で送ります。

(注 ペンクラブ会員の電子メディア意識アンケート結果のうち、文言による意見陳述を見てのメール。「シュアー」は恒彦刊行のオピニオン誌)

宛先:kitazawa@kyoto-seika.ac.jp
題名:御元気のご様子
恒平です.いろいろ、ありがたく、拝見.
京都から帰ったところです。対談して、南座で上方歌舞伎をみて。迪子も一緒でした。
猛君は元気なようで、なによりです。
御元気で御過ごしを。

?  送信日時:1998/10/21 14:50
題名    :ごぶさた
ハードディスクが壊れるとは怖いはなしですね。
こちら、九月下旬にヘルペスが胸から背中にかけて出て、この一月身動きできなかった。普通に歩けることが、どんなにたいへんなことか、痛感しました。キャンパスなどを若い人がスイスイ歩いていると、わああ歩いとるという感じ。シュアーの無理がでたようだ。
ホームページで近況を拝察し、変わらぬ気迫に感じいってます。まちがっても、ヘルペスみたいなアホなことにならないように。こんなこといえるのも、ちょっと元気になってきた証拠かな。夫人によろしく。

題名:大事にして下さい
恒平です。
帯状疱疹ではなかったですか。それは神経系の難儀な病気で、痛みもあり、発疹もありきついのです。大事に丁寧に直して下さい。シュアのあの文字の小ささは、いろいろに響くと思います。眼精疲労からの神経系の損傷が帯状疱疹を招いたのなら、専門医の意見も聞いた方が良いです。大事にして下さい。
実は、今朝、水曜の午前に、精華大学の棟方志功展を家内と見に行きました。中尾(ハジメ)さんに挨拶して行こうと学長室まで行きましたが、授業中でした。あなたが風土論の講義をされているとは秘書らしい方に聞きました。雨でした。佳い展覧会で、ゆっくり楽しんでから午後三時過ぎの新幹線で帰りました。東京も雨でした。
月曜に母の三回忌法要を遂げ、翌日は湖東の佐川美術館で佐藤忠良の彫刻展を見、石山寺に寄りました。美術館自体が優れて美術的で、出色の館です。石山の多宝塔もすばらしかった。朝日会館の裏、高瀬川沿いの「なかむら」という画廊での吉原英雄展もいいものでした。京都で二泊というのはもう最近では珍しいことで、のんびりしました。もっとのんびりしたいと思います。ペンクラブの仕事をはやくやめてしまいたいと思うのですが。
シュアは、ホームページ向きの気もしますね。あるいは同じ内容を二本立てということも考えられますが。著作権や親書の公開でやっかいな目に遭われませんようにと祈っています。気を付けていても、ますます著作権問題は危なくなっています。
建日子はいよいよあやしげなテレビドラマなど公開するようで、なんともはや、辟易しています。黒川君の単行本出版も此のご時世ですから難航していないかと心配しています。電子書籍コンソーシアムが動いていて、あす、わたしの研究会はその組織と、談話会をもちます。出版事情は動いて行きます、「本」のかたちが変わって行くのも目前のことのようです。   恒平  十月二十一日
このあいだ珍しく街子ちゃんが家内に手紙をくれていました。

?  送信日時:1998/10/28 15:27
題名    :お見舞いありがとう
わざわざ、お見舞いの言葉とアドバイスありがとう。
ヘルペスは一部こわばりと疼痛を残して、だいぶ楽になりました。ぶりかえす気配が感じられたら、おおせのとおり専門医の診断を受けるつもりです。病気はいろいろなことを教えたり、考えさせてくれました。
前の通信を打っている頃、精華に足をのばしておられたことになりますね。秦さんが来てくれたようだ、と中尾ハジメからききました。お二人で、京都でくつろがれたとのこと、なによりです。
シュアはたしかにネット用の形式になっていますね。君のホーム・ページの形そっくりです。しかし、危惧されるとおり、中身が問題です。これはちょっと、どうにもならないね。
それに、ぼくは親父が生きている間は部屋住みの身だしね。空間の組み替えが自由にならんのです。気楽なところもあるが。現在のシュアーが限界だなあ。あの字の細かさと眼精疲労とは関係ないと思います。あれは縮小コピーのカラクリですから。それより、やっぱりソウルを自転車で走るなんて狂気の沙汰の因果だろう。それに井上(流の)舞のような柄にもない難問をとりあげたのがこたえた。これは正味参った。次回からは、初志にかえってシンプルにやります。
建日子君はガンバルね。黒川君のは、正直いってオレにはわからん。迷路じゃないのかね、あれは。
ともかく、タイピングはだいぶなれてきた。近くにいる親切なインストラクターのおかげです。夫人にくれぐれもよろしく。街子の手紙とはほんとにめずらしいね。お達者で。

?  送信日時:1998/11/16 15:59
題名    :失敗お許しを
この前は、頂いた分まで返送しちゃってゴメンなさい。体の方はあらかた回復した感じですが、根をつめたことは、まだ無理のようです。
コンピュータは壊れるとたいへん怖い存在になるなあ。今日は授業で「祇園の子」に少し触れました。作者はわが弟であると威張ってもおきました。お達者で。

題名  風邪でダウン 恒平     十一月十六日
ゆうべ遅くに急に猛烈な悪寒に襲われ、一晩苦悶。しんぼうよく熱を出し汗もかき、じっと寝ていて、今日午後遅くにはあらかた回復しました。なんとも調子が悪いなあと思っていたらこのテイタラクです。お大事になさいますように。
少年時代を小学校の卒業まで、記録して置きました。ホームページに『客愁』の題で入れています。小説ではありません。あなたの少年時代はどんなだったかな。いつか書いておいて下さい。
創君が引っ越して、またうちの比較的近くへ来ているようです。大いに「窮して」暮らしているとメールにありました。「窮すれば通ず」だといいですね。
建日子の火曜サスペンスは、失笑ものの駄品でしたが、事前にさすがに不安だったのかシナリオをもってきたので、あまりの無知蒙昧ゆえのまちがいなどは訂正でき、赤っ恥は掻かずに済んだようでした。それにしても日本刀を、包丁や鎌ナミのかまどで独りで打とうというんですから、逃げ出したくなりました。そんなしろものでも、これから多チャンネル化の時代で、消耗品作りに追い掛けられることでしょう、志が低いと言うよりも、無いも同然で。
お大事に、力をためて、元気にお過ごし下さい。 恒平

? 送信日時:1998/12/02 13:51
題名    :客愁、発見できず
お手紙ありがとう。風邪は治すときは、ああいう風に一挙にやらんといかんのだなと感心しました。こちらは、胸と背中に一部軽い痛みが残りますが,町医者は心配するなと励ましてくれます。しかし、痛みは疲れと相関していることがわかるので無理はさけようと思います。完治せよ、という君の助言がそのつど頭をよぎります。
建日子君、火曜サスペンスとは驚いたね。たくましいもんだ。とにかく餓死されては困るからね。創はその点あぶない。
「客愁」さがしてみたけど、みつけられなかった。エッセ?の欄じゃないんですか。少年時代のことはポツリ、ポツリと思いだすていどだ。高校時代以降を故意に意識化しすぎた弱点だと思う。幼年期というのも大切だね。君の『少年』所収の歌を新聞でみかけたのを覚えている。あれはいつのことかな。
まだダメだ。タイピングに相当時間をくってしまう。メカは使い慣れたらべんりだが、初期段階でべらぼうに時間をくうね。これで落ちるひとが多いだろう。でも楽しんで半日過ごしました。風邪は完治しましたか。

題名   客愁は、創作欄 5-8に。 恒平
寒くなりました。冷えると痛みなどこたえましょう、お大事に。
創くんのこと、ちょっと案じています。出版事情がよくないので、なかなか新人の大冊は本になりにくいかもと。長編を二編あわせるとけっこうな分厚さになり高価になり、たくさん売れるとは思えないところが、厳しい。あれで材料がちがっていれば、と、思います。
とにかく本のことでは焦らずに、同じ飢えるなら次の仕事へ取り組んで飢えた方がいいのではと。
建日子の方はただもう節操のない身すぎ世すぎのようです。一月末か二月初めのために、また別のドラマを書いたようです。誰一人ほめませんのも、当然です。しかし食わねばと言われると黙ってみているよりありません。
あさってに講演を一つ控えて、まだ、風邪はぬけません。咳き込むとひどいので用心していますが、寒いのは苦手です。十日頃からまた湖の本の発送です。
なにはともあれ、お大事に。師走は、なんといっても、いろいろあるものです。ご平安に。お互いに。
創クンに要注意と忠告されたバグワン・シュリ・ラジニーシ、もう二年余も、毎日欠かさず読んでいます。今は『道=タオ』老子を。バグワンに叱られ続けています。

?  送信日時:1998/12/16 15:22
題名    :客愁一部拝読
客愁、かなり膨大なものですね(収録されたものだけでも)。はじめの方一部と、ざっとどんなものかスクロールしてみました。初期小説の『祇園の子』、町の切り取りが見事だったので、それと類比するスケッチに出会える楽しみもある。父親のダークな側面に筆が及んでいくあたりになると、やはり胸がふたがるなあ。それでいて、なんとなく気持ちが落ち着いてくるのはなぜだろう。存在の奥の方で、鳴っている鐘のせいかな。
それにしても、上田秋成、でしたか、あれが中断してしまったのはどういうことかと改めて考えさせられる。
湖(の本)についても、今の成熟した筆で見限らないで書いておいてほしいとも願う。黒川創に目があるなら、ほんとうはそうした作業をひきつぐべきなんだ。やんぬるかな、これだけは・・・。
こちらの年寄りは,長銀がどうとか、日債銀がどうとかいうごとに、思いだしたように大騒ぎをする。そんな心配なら、いっそ孫に渡して保全しておいたらというのは理屈で、これだけはどうにもならんらしい。昨日も散髪代がおしいといって、何か手刈器のような広告をもってくるので、おおらかになりなさいと、無益な説教を試みたら,意外と簡単にひっこんだ。東山(区)と違って、左京(区)の細民はかくのごとく軽い。
お陰さまで、胸の痛みは薄らいできました。お達者で。

題名:北澤恒彦さま こんにちわ。
押し詰まりました。もう学校に出られないかも知れませんが。新年も、どうぞ健康に、お幸せにお過ごし下さい。 湖
『客愁』で、ホームページには書き込まなかった、門外不出の一部分、念のためにあなたにだけ送ります。コピーされたら、器械からは消去しておいて下さい。      (以下・略)

題名:寒い日々。お元気ですか  恒平         平成十一年三月頃か
今は大学はヒマな時とも忙しい時とも言えそうですが、どう過ごされていますか。健康は宜しいですか。お大切にと、一言ですが、祈ります。
黒川君、苦闘していると思いますが、新しい仕事へ前向きに邁進してほしいと願っています。

? 送信日時:1999/03/18 14:59
題名    :漢字など

漢字の水準を巡る(文字コード委員会での)論争、面白かった。素人はこの程度の漢字で我慢せよとか十分とかいうのはヒドイねえ。
(平野啓一郎の)「日蝕」は明らかにワープロ漢字による作品だ。あの工夫で、ラテン語など使わずに、それらしい感じを出せたんでしょう。今の人らしくて笑えてくる。「くろい」という色など、君と同じ漢字をあてていた。
黒川創はいちど地におちるべきなんだ。死なれては困るが、底からはいあがる力がなくちゃね。
久しぶりに機械をなぶってみて、すっかりタイピングのカンがさび付いているのには参った。この道もなかなか厳しい。わざわざお便りありがとう。できるだけ、睡眠をとるようにしています。

題名 :RE:創君の新刊 祝します。 恒平
恒彦様
やっと(黒川創著『若冲の目』)出ましたね。よかった。あの値段だから売れるとは行くまいが、忘れて、前へ踏み込んで欲しいです。
うちは結婚して四十年になりました。(大学)院をやめて東京に出てきた前後、やっぱりいろいろと大変なことでした。
私の養子縁組は中学に入る直前で、それまでは貰い子というより事実上預かり子だったのですが、最近、(父方実家の)吉岡は秦に養育費のようなものを支払っていたのかしらんと想像しました。秦の家なら取っていたかもしれんなと思いつつ、ついぞ、そんな気配は感じていなかった。
都知事選です。どれもみな宜しくないのですが、石原、明石は好きになれないですね。
のんびりと過ごしています。読書と器械と酒。あまり健康ではないんですが。お大事に
恒平
我々の年かさの従兄の一人が、例の日銀の大阪支店長社宅を独り占めしていた時があったなんて、知ってましたか。ややこしい身の上です。しかしそういうことからもすっかり解放され、そんな噂そのものも楽しんでいる始末です。もと「展望」「人間として」の原田奈翁雄さんが奮発しました、新雑誌「ひとりから」創刊。

? 送信日時:1999/03/24 14:32
題名    :養育費のことなど
養育費というのはおもしろいね。仲介料というのはあったかもしれない。
(都知事候補の)明石さんには一つだけききたいことがあった。セルビアの指導者はみたところ、どういう感じだったかということ。彼はセルビア寄りを理由にアメリカからほされたんだからね。聞くチャンスはあった。君と似た感じで、彼は立命の特任教授か何かしていて、例の(経済学者の)森嶋さん等とシンポジウムをやったことがあるんだ。ところが、こうした席で異例にも明石さんの話は、よく言えば公平、悪く言えば毒にも薬にもならないと森嶋さんが言ったものだから、なんだか質問する空気が抜けてしまってね。とにかく、進退というのはむずかしいもんらしい。石原さんも今となっては滑稽だね。
建日子君は「食え」てますか。彼のラジカリズムはどこか「三島」を思わすと(劇場で観劇後に)走り書きさせられたことがある。あれはどういう意味だったのかな、と、ときどきわれを振りかえる。
創のものが本になるのも、今どきの不思議です。
ご結婚四十年、この遙かなる持続に敬礼!

?  送信日時:1999/04/15 13:35
題名    :練習がわりに
「私(語の)刻」の読み方がわかってきて、面白く拝見しています。これでいちいち返事をもらわなくても、たいていすんでしまいます。今日のこれは、タイピングを(忘れないための)手すさびです。
下鴨の「秦(恒夫)」さんからのメールの話、まるで小説そこのけですね。やるもんだなあ。
石原(慎太郎)さんは、かくなる以上、息子さんの政治的センスがノーマルなことを期待するのみ。取り巻きが少しましなら、本人はお人好しなところもあるので、ある程度もつんじゃないか。
セルビアは深刻ですね。なにかが一つ狂えば、バルカンなどひとっ飛びで、大国間の争いに転化してしまったのが、第一次世界大戦ですから。もはや難民はもうもとに戻せないですね。以上、練習がわりに。お達者で

題名:RE:雨しとど  恒平
恒彦 様
私は器械の文章は基本的に指一本でポツンポツンと書き込んでいます。片手にメモや本をもってする仕事も多くて、両手指を駆使してカッコよくやることは出来ませんし、練習したこともない。指先の腹に目でもついているように、頭では記憶していないキーを指は的確に捉えますので、指一本でもあまり不足無く早く書き込めます。
じつは我々の父のも母のも墓の在処を正確に知りません。墓参りをとは考えていませんが知らないのも妙に小さな穴がどこかに開いているような気がしています。それにしても此の二人は遠い存在に退きました。私には秦の両親と叔母の三人がこのごろ真近身近にいつも存在します。それでよしと思っています。
東京にはときどき見えているのですか。銀座松屋裏に、ラフな、けれどうまい寿司屋があります。最近は酒も出します。気が向けば声をかけてください。
大学には何曜日に出ていますか。メールを開かれるタイミングを知っていたいので、教えて下さい。吉田が多いのですか、伏見ですか。急の電話はどこへ。
建日子、テレビにはまっている様子。ときどき、つまらない質問をしてきます、七十七は何寿かなどと。朝日子も孫も、行方も知れません。この年になると行方知れない旧知が多くなるのは自然現象のようです。 お大事に。  恒平

?  送信日時:1999/04/19 16:40
題名    :登校日は
登校日は月曜です。他に水曜にもできるだけ出るようにしています。ただ、ときどきノートパソコンが出払っていることがあり、そういうときはお手上げです。練習といったのは、ローマ字打ちしかできないので、その変換がうまくいかなかったり、機械の気まぐれのようなものに振り回されたりといった初歩以前のことで時間がとられてしまうのです。やはり、機械にも個性があって、最小限慣れがいるようです。
緊急連絡先をきかせよ、ということですが、この点ホームレス同然で、どうしても留守番電話ということになってしまいます。近頃は年寄りのこともあって、吉田(に在る親の家)に泊まることが多いです。ぼくのようなものこそ携帯電話ドコモがいるんでしょうが、どうもね。勢い,つき合いつき合いの輪はどんどんせばまっていきます。
「「私(語の)刻」はいいですね。
建日子君はやってますね。幼稚な質問というけれど、こちらはそれ以下だ。時間切れ、今日はしつれいします。君こそ、体に気をつけてください。

?  送信日時:1999/04/26 15:33
題名    :コソボとは
ホームページ拝読しています。ちょっと芯の疲れる状況に見舞われているので、その都度なにか書くのは無理かもしれませんが、励まされたり、ときには慰められる気持ちで開いていると思っていてください。(恒平のホームページに書いた)「京都案内」にそってぼくももう一度歩いてみたいですね。ようやく片足に痺れがきてしまった。
猛によると、ルーマニアの貧困とジプシーへの蔑視はすさまじいものらしい。子供をはねても、わいろさえ払えばなんとかなるといった類の構造らしい。コソボも似たようなことがあったとみていいんじゃないか。ベルグラードには品位がある。コソボにはその裏返しがある。深刻さとはそういうことではないか。

題名 恒彦様 コソボとは。
たいへん含蓄の深い把握で、つよく共感します。人間の誇る品位なるトリックを怖れかつ認識せざるを得ないとは。
私の掌はいつでもかすかに痺れています。指先がほんとに利かなくなりましたよ。
お大切に。
猛君は電子メールしてくるのですか。
創君の『猫の目』の方を読み返しました。猫の目のようにくるくると好き勝手げに場面を貼絵のように置き換えて行く手法、感覚的に面白いのですが、ミスリンクの妙味を打ち出すほどの把握の強さにまだ欠けていて、渾然といかず、混雑感を読者に残すだろうなと惜しく思いました。文藝の才とセンスはありますね。頑なに固い蕾ですが。
小説の文章へ熟して行くには、書き慣れた批評や雑文体とのかなり苦しい闘いが続きそうで、がんばれよと言いたい。    恒平
コソボとは。お返事
実はあなたからのメールのあなたのアドレスに誤記があり、そのまま返信したら戻されました。改めてアドレスブックから引いて送り直します。 恒平(上記の文)

? 送信日時:1999/04/28 16:32
題名    :ちょっと体調がよいので
今日は少し体調がよいので、かけるときにかいておきます。猛は電話してきたのです。めずらしくぼくが取れた。
ルーマニアの学生に気にいられて、どうしても彼の故国をみせたいと猛を連れていったんだそうだ。たぶん車をつかったんだと思う。そのルーマニア人が、「もう、このあたりで引っ返そう」とビビリ出した(猛の表現)というんだから、ともかくそれほど危なかったんじゃないかな。
くわしくきけなかったが、たぶンハイジャクの危険といったものでなく、治安警察のあらっぽさ、なにをされるかわからんという不安、恐怖じゃないかと思う。チャウシェスキ大統領夫妻をああいう形で銃殺したあとの、権力の空白は、微視的領域でこういうヒビワレを日常茶飯事にしていると容易に想像できる。
しかも、このルーマニアの現政権は natoに追随しておこぼれを狙っているんだが、こういうことは何の違いもうまない。ここもまたコソボなんだ。「すさまじい貧困や」と猛はいっていたが、これを視覚化するのは、衛生状態を思い浮かべるのが一番近道だろう。クソの山さ。
猛は誰かがコンピュータをくれるようなことをいっていたが、eメールのことも念頭にあるのかもしれない。しかし、彼を通信員に仕立てるより、彼独自の思索を重ねさす方が先決のように思う。彼には小田実にはないサムシングがある。先のルーマニア人が果たして男だったのか、と、ふと思った。家族に彼をみせたかったという動機は十分女であった可能性もあるね。
nato介入の誤算、というのはむしろたやすい。しかし、アメリカはともかく、英国の世論がことここにいたっても、変わりなく強硬でブレアに微塵のユラギも感じとれないのは、判断材料として過小評価できない。ボスニア・ヘルツゴビナ当時にかえって、bbc記者の記録をみても、ミロシェビッチに対する評価は実にカライ。なにかひどいことがあるにちがいない。同時にテレビ画面でみるかぎり、じつによい表情している司令官がいて、それがセルビアの古い貴族の名称と同じだったりすると、ひっくるめて国際法廷にくくりだすような荒っぽい世論は、たいへんな反動を引き起こすのではないかと、正直いって、こわい。そのあたり、例の明石さんにききたかったのだが、バカなことになってしまった。せっかくアメリカに抵抗してセルビアに慎重に接しようとした意味を、本人はなんにもわかっていなかったということだ。これでは、アメリカのみならず、ヨーロッパにもみくびられてしまう。
ヨーロッパの中心的政権は軒並み左派政権だ。イタリーなどグラムシの流れをくむ旧共産党だ。フランスはシャッポはドゴール派のシラクだが、下部構造をにぎっているのは社会党。これは日本のそれとはちがう。党首ノジョスパンは、ぼくのみるところ深い人文的素養をもつ、もっとも魅力的かつ清廉な政治家だ。党内の異論派を含めて、彼が説得に立ち上がる姿は、まさにフランス革命の言論とはかくやと、おもわせる。言論に命がかかっているのだ。一つ狂えば断頭台いきというあの伝統がね。こういう連中が寄って狂気の方向をつっぱしるとは、まず、ぼくには思えない。ミロシェビッチは見事なまでに孤立させられている。
ねがわくば、政治的決着がつくあかつきに、ミロシェビッチらの縛り首ということにならぬよう、その面でも賢明な妥協がはかられることを期待するのみだ。
ともかくセルビアを中核とするユーゴスラビア共和国は、スターリンの干渉を排して、西側ともっとも親密な社会主義国であったことが忘れられてはならない。ということは、意外なほど双方間に人脈の交流があって、核心的情報を共有しているのではないか。ベルグラーッドはスラブ的といっても、泥臭い方のそれではない。君が(ホームページで)遺憾としていた放送施設攻撃も、その番組作成能力の高さからみて、まったくその通りで、惜しかったなという気持ちが残った。ユーゴはある意味で、非常に洗練された最後の社会主義国といえるかもしれない。そうだ、まさに、今世紀最後の社会主義国の挽歌であるのかもしれない。

隣りの家が鉄筋三がいに建て替えるといってきて、長屋が切り離されたら倒れるとオヤジがさわいでいる。いつつぶれるかわからん家でグチをききながら、ぽつんと暮らすのも面白いかもしれない。こういうことは、まったく芯はつかれない。しかし、わが家こそ、ご町内のコソボかもしれんな。
創の作品でいってもらったこと、たいへん示唆的でした。創作面のことはわからないけれども、どうも薄っぺらく相手を作っておいて、それをたたいて得意になってるなと感じたことがいくつかこれまでにありましたね。
今日はだいぶ練習になりました。ではまた、いつか。

題名 恒彦様 体調よいのは喜ばしく。
たくさん教わりました。ペン総会の小田発言などホームページで御覧の上のことと思い、それは繰り返しません。感謝だけを。  恒平

?  送信日時:1999/05/06 11:36
題名:前信届いていてビックリ

連休前の(こっちからの)通信が届いていたとは、ビックリ。
こちらの記録では、消えてしまったか、どこかあらぬ方に飛散してしまったようだ、というので諦めていたのです。sureもあわせて目をとおしていただけたようでなによりです。
建日子君のシナリオいつかみたいもんです。創のものに懇篤な批評をいただいたのに、ぼくはまだ(息子の小説を)再読できない。どうも本を読む気がしない。律儀に読んできたジャンルは、もう前ほどの集中力で再読できそうにないし、新しい、異質な分野になれば、なおさら無理という感じだ。こうなれば、「うしなわれた時をもとめて」ではないが、記憶の中で熟成しているヤツを使って、自由なコラージュでやるより手はないというという気がする。少なくとも、当分はね。体調は一定せず、とにかく境目だね。「しご(=私語)の刻」と「みずうみ(湖の本)」が、ますますありがたくなってくるようだ。大切にしてください。

? 送信日時:1999/06/07 15:59
題名    :ホームページ熟読しています
恒平さま
ホームページ熟読していますと、ひとこと。
中世論、いただいたもので、だいたい今までに目をとおしているんですね。だからといって、飽きさせない、これが古典の特質とは、丸山真男の言。丸山さんをもちだすまでもないか。
お達者で。恒彦

?  送信日時:1999/07/14 11:39
題名    :志賀直哉のことなど
恒平さんに
志賀をおもしろく読んでおられるとのこと、楽しみですね。
テレビ司会の田原さんのこと、人相がわるくなったと、ご立腹の様子だったが、ぼくはもう少し点数があまい。あんな番組をこれほどもたせる人がまともな人相でいられるはずがない。それはそれで一つの才能だと思います。
彼がテレヴィに登場する以前に、商社マン批判が世を風靡していたとき、彼の書いたものをいい感じでおぼえている。ニューヨーク派遣の商社マンが、自分らが販路の敷石をあくどいまでに敷き詰めていくことで、安定的生産を可能にしてるんだ、と語るインタビュ記事だが、商社虚業論の風潮のなかで異彩をはなっていた。ぼくの保守主義で、こういう記憶が甘い点数のもとにある。
梅原猛さんがいい顔になってきたことに満点異議はないし、だいいち田原のテレビなどほとんどみないが、土井たか子よりはマシじゃないか。
共産党が君に寄稿を求めるまではいいが、やんぬるかだね。森嶋通男さんが、同じようなことを解放同盟の関係で経験し、がっくりきていた。この国の最も深刻な主体的危機だと思う。ともかく命を大切に。

(「アカハタ」が原稿を依頼して置いて、党に都合が悪いと掲載を渋りボツにすること。)

?  送信日時:1999/08/11 13:48
題名    :江藤さんのことなど

江藤さんのこと。苦心して翻訳しておいてよかったと、いまになって思います。オールソンの原文があとになるほど江藤に批判的になっていくので、訳文までそれにつれて非礼な調子におちいらないように注意したつもりです。江藤作品の引用を全部、日本語であたりなおさねばならなかったのは往生した。あれは、ぼく一人では無理だったね。おかげで、だいぶよめました。こういうことは、もっと早く記しておくべきだろうが、気が重かった。
それにしても、刻々とかきためられていく、この(ホームページの)コラムにはまったくおそれいってしまう。
これが書くことのプロフェッショナルな姿なんだろう。真似はできません。
年寄りの長屋にも世代交代の波が訪れて、となりもビル改築するらしい。こちらが倒れたり、雨漏りさえしなければ、別に文句はないが、せわしいことになった。
猛のことも少し気になるので、秋口にでもいってこようかと思っています。ヨーロッパは同料金なので、できたらダブリンにもと虫のいいことも考えています。
この便りはなんの意味もない。日ごろのアクセスのお礼のみ。ご自愛のほどを。

? 送信日時:1999/08/23 12:21
題名    :電話のことなど
絵の切符とおたよりありがとう。まち子のでんわ、携帯で*********です。どうしているかと電話をいれてみたら、まだ通じました。
ときどき図書館にでてきて、「私(語の)刻」をひらきます。その他のコラムも開くべきなんだろうが、とうてい手がまわらない。一欄で十分堪能です。
君が代の代わりに、さくらさくら、とは感心した。(瀧)廉太郎の花もいいが、これは鴨川あたりが怒るかもしれないなあ。
ときどき、血圧が100をきって、さすがそのときはしんどい。真っ黒な顔をして、こういうことをいうのは、ちょっとしたブラックユーモアーですね。君はどうですか。くれぐれも気をつけてください。
猛はだいぶいきずまっているらしい。年寄りもいいが、やはり若い人が心配ですね。
夫人によろしく。

?  送信日時:1999/08/23 14:02
題名    :追伸
通信をおわり、ホームページをあけると、(学生の)「K」くんを相手にした松園論を発見。たいへんな力作としかいまはいえない。ときをあらためてよみなおします。恒彦

題名 恒彦 様
猛くんのこと、SUREで、彼の手紙読みました。鴎外とは違った「新・舞姫」を書いて、地下の太田豊太郎を震撼させてみたいものです、彼は根性が太いから突貫すると思いたいですね。
それよりも黒川創が、ややへばっているようで、電話では、率直に「しんどい」と笑っていました。ただ、新しい長いものも書き上げたようで、その行方しだいで頑張れるのではないかと、文運を祈っています。父上に暫く会っていないとも言っていました。励ましてあげて下さい。
わたしは、見た目相変わらずの毎日ですが、ホームページとメールのおかげで、日々にリフレッシュを心がけることが出来ています。八月は、いろいろありながらも、休息に近い日々ももてました。九月は早々からまた会合などが続きます。下旬には京都で「きりがね」の作家と対談します。
血圧の「上」が低すぎるのはつらいですね。わたしも低血圧の方ですが、そうは低くないと思います。「下」が100だと、これは高すぎますが、そうじゃないのですね。熱帯夜がつづくので、夜は三時ごろまで起きて本を乱読し、二三時間寝てから早起きの猫のめんどうを少し見て、そのまま起きるか、また寝入ります。じつに気ままにしています。
この頃の読書の中軸は志賀直哉全集です。まことに興味深い人です、作品以上に人に興味が持てるのですが、そうさせるのは「作品」なのです。
発送の用意に戻ります。  お大切に  恒平

題名 ありがとう存じます。
なにかのおり街子ちゃんに、家内から電話をさせてみます。  恒平

? 送信日時 1999/8/25 11:41
題名: 留守すること:
わざわざありがとう。
少し留守がちになります。みずうみ、おくっていただいて応答がおくれたら、そういうことだと了察ねがいます。
九月にはいったら、猛のところと、交通運賃がそのままなので、ダブリンに足をのばしてきたいと思っています。ゾンビみたいな老人をかかえ、かえってきたら隣りの家をぶっこわす事態が待っているのに、まったく無謀なハナシです。しかし、どう考えても、今しかチャンスがないきがする。猛にあえるかどうかも確信がないが、会えれば、君の励ましを伝えます。喜ぶでしょう。事情のご通知まで。

題名 恒彦様

なんだか「敢行」の気配ゆえ、よけいに心配します。命や健康にかえてまで敢行するほどのことは、この年になると、さすがにあまり見つかりません、まだ若くて元気なんだとおもうことにして、ただ、充分気をつけて欲しいとだけ申します。無理と不自然とを極力避けて、途中で怪我なく、病みつかないように願います。
九月末から十月あたまへかけて建日子が下北沢で公演します。八月三十一日には、どうしようもない火曜サスペンスを。わたしは観たくもない。ぽつぽつとテレビのしごとが続くようです。
湖の本は、もう一週間以内に発送になります。送っておきます。
街子ちゃん、いちど電話して通じることだけ、確かめました。
くれぐれもお大事に。                  恒平

? 送信日時 1999 /9/21 17:54
題名: みずうみ拝受
予定どおりダブリン、ウイーンからもどり、みずうみの本拝受しました。ご心配をかけました。年寄りが生きていてくれ、(もちろん医者の助力によって)、今のところ自分もこうやって生きているわけですが、いずれが欠けても破滅的なものでした。それほどの値打ちがあるか、といわれれば、答えにくい。
猛はアトピー体質で、オーストリアの乾燥した気候があっていると元気でした。この点では、嬉しい見込みちがいでしたが、もはやぼくの手のおよばぬ所に彼が出てしまったという感はぬぐえなかった。
旅に彼はぴったり付き添っててくれたが、これほど至福で、悲しい旅はなかった。ダブリンとは、そういう街のようです。
ここで倒れればお笑いぐさですから、気を引き締め、長屋の破壊に立ち会うつもり。久しぶりでキャンパスで若いひとたちにあいました。やはり、いいものです。
猛はおじさんをたいへん誇りにしていました。

? 送信日時 1999/10/12/ 14:34
題名: ひとこと
みずうみの中世論、家の老人が入院中で、なにか歴史もんないかというので、貸してやりました。どうだ、というと「むずかしいけど、おもしろい」そう。不思議なものです。

題名:RE:ひとこと
恒彦様
先日、恒くんが電話してきました。べつに何と謂うことは無かったから、会いたかったのかなとも思いましたが。そのままになりました。新しい書き下ろしを朝日新聞社から出せそうだとか言っていましたが、そのわりに元気というか覇気がなくて、なんだか、へらへら笑ったりして、調子が低かったのが気になりました。家に引きこもりで人離れして人嫌いになっては、彼の良いところが薄れてしまう。
一人暮らしのようですが、彼が、なんであの**さん(前妻)と別れたのか、いまもって何も聞いていないので、心残りです。
恒くん、あれは独りボケしてるのと違うやろか、などと思っています。元気にならな、いけません。電話のことだし分かりませんが。
そちらお変わり無いですか。お大切に。十月二十三日に、金澤で鏡花の話をしてきます。
恒平
(以上で交信は尽きている。通常の郵便物は他に相当数在る。)

* 十二月二日 木

* ウイーンから、父北澤恒彦との永訣と葬儀にかけつけた甥の北澤猛が、遺書や写真を京都から持参、我が兄の最期などを告げに訪ねてきてくれた。一夜を語り明かし、わずかな睡眠の後、今日も午後二時半まで父を、兄を偲んで時を喪うほどに語り合った。おそらくは恒彦も、場に加わっていたことであろう、甥は父の最期の旅となったウイーンからプラハやまたダブリンまでの十日余を、ひしと付き添ってともに過ごしてきた。
帰国して、彼の父は、わたしの兄恒彦は、やがて自身を処決した。数通の遺書はしっかりした書体で、常平生よりもよほど読みやすい正確な文字で、どれも簡潔に、兄の真情と身体の衰弱をかなり的確に語っていた。そしてそれについてわたしは何も付け加えるものも付け加えたい気も無い。わたしを名指しの遺書はなかったが、一通、宛名のない簡潔なものがあり、わたしは、それが兄のわたしへの述懐と、しかと受け取った。

* 帰国以降、大学へ出るのも、講義の用意をするのもよほど大儀であったらしい。兄はEメールのため大学の図書館かどこかにある器械を、慣れない手つきでやっとここまで使えるようになっていたので、出講の月曜日に限ってメールを呉れていた。わたしのホームページもよく見て、反応してくれることが多かった。
八月末の「留守すること」というメールは、最初の部分が三行ほどあいていた。何か書いた文章を送信前に削除したのではないかとも感じた。このメールに心配し、内心はどうか無理な長旅は思いとどまって欲しいと思ったが、兄が行きたいものを引き留めることはしたくもなく、出来ることでもなかった。
行って、そして息子との至福の時をもったことを、今となれば、良かったと思う。肝硬変が末期化していたかもしれないと漏れ聞いている。事実は知らない。老父をあえて遺して逝ってしまった、そこに兄の秘めた「覚悟」や「配慮」をすら感じている。感じているだけである。

* 猛によれば、明けての一月に、鶴見俊輔氏や中尾ハジメ氏らのお世話で「偲ぶ会」が計画されるらしい。兄のために喜びたい。願わくは遺児三人が誠実に和やかに父恒彦の遺書の遺志を尊重し、霊を慰めて欲しいと、よそながら見守っている。ちょっと世人の理解しにくいかも知れない奇妙な運命のもとに、生まれてすぐ生き別れ、以来僅かに数面、また死に別れてしまった兄と弟であった。それすら互いに戸籍の上では証明できないのである。それで良かったとも思わないが、それが悪かったなどとも執着はない。親類とか親戚とかいった実感も拘束もお互いにきれいに棚上げして、兄は私をただ愛してくれたし私も兄を深く敬愛してきたのである。幸せな兄弟だった。そうあって欲しいと死ぬる日まで切望していた生母や実父も喜んでいたと思う。そして今は静かに恒彦を迎え取っていることだろう。

* もう再々は兄にふれて書くことは無いかも知れないので、「闇に言い置く」ことが、一つ在る。

* 私の最も早い時期の小説に『畜生塚』がある。のちに新潮に出し桶谷秀昭氏に賞賛されたなつかしいものだが、これを最初の私家版に収めたときに、わたしは、一度も逢ったことのない兄に宛てて送っていた。兄はすばやく、強く反応した佳い手紙をくれたが、中でも心籠めて強く共感してくれていたのが、作中に書いていた「本来の家に帰る」という作中の語り手の考え、いや祈願、についてであった。
人は死んで本来の家に帰る。此の世は旅である。旅から帰って行く本来の自分の家には、自分が愛した、自分が愛された、全部の人がともに帰って行き、ともにその家に住む。そういう本来の家を、一人一人がみんな持っていて帰って行く。「私」はそんな自分の家に帰って作中の「妻迪子」とももちろん、妻のたえて知らないヒロイン「町子」ともきっと同じ家で仲良く住む。しかし「迪子」の本来の家では「私」もまた必ずともに住むだろうが「町子」はいなくてもっと他の迪子の愛した人たちが一緒に暮らすだろう。同じように「町子」の本来の家にも「私」は必ず一緒にいるが、「迪子」の姿はそこにはなく、もっと他の町子の愛した母やだれそれが一緒に暮らすことだろう。そのようにして、多くを愛し愛されたものほど、死後には多くの人の家で多くを満たされて生きることになる。孤独地獄とは、本来の自分の家でだけ、ただ孤り・独りで永劫生きるしかない者の絶対苦を謂うのではないか。
ま、そう謂ったことを「私」は「妻」にも「町子」にも作中で語っている。
兄恒彦のこの件りに関する共感はちょっと作者の私をも驚かせるものがあった。そして後に兄は『家の別れ』という独特の詩的文体の思想的自叙伝により、実の親たちや養いの親たちや家庭にふれた覚悟の著作を公にした。兄がどれほどの著作をしどれだけの原稿をどこに書いたかを詳しくは知らないが、『家の別れ』は兄を最も多く代表したものであったように感じている。それを話題に「思想の科学」で瀬戸内寂聴さんと兄とが対談していたのを読んだ覚えもある。
そして兄の生涯の様々な市民活動のなかで、一つの拠点として成果をあげていたのが「家の会」だったようだ。兄はロマンチストであるとともに、第一次火炎瓶闘争の高校生の昔から、一貫して優れて実践的また合理性的な不屈の闘士であったらしい。その一方で兄はわたしが遠くの方にいて谷崎や茶の湯や短歌などの世界で己れと向き合っているらしいことを「良かった」と見守ってくれていた。そういうことも人づてに漏れ聞いていた。
『家の別れ』といい「家の会」活動といい、あの「本来の家に帰る」という、未だ逢わざる弟の夢想のような想いにあんなに感じ入ってくれた若き日の兄と、無関係だとは私は思わない、思えないのである。それを、舌足らずながら言い置くことは、二人にとってなにかしらかけがえなく大切なことに感じられる。わが、只今のmourning work=悲哀の仕事、である。               『死から死へ』以上 ーー
1999 11・30 4

* いま兄の次男猛が訪ねてきた。ウイーンからきて父親を葬りおさめ、またウイーンへ帰るのであろう。今夜はともに泣くだろう。  1999 12・1 3

* ウイーンから、父北澤恒彦との永訣と葬儀にかけつけた甥の猛が、「遺書」を持参、我が兄の最期などを告げに訪ねてきてくれた。一夜を語り明かし、わずかな睡眠の後、今日も午後二時半まで、父を、兄を、偲んで時を喪うほど語り合った。おそらくは恒彦も、場に加わっていたことであろう。
この甥は、父の最期の旅となったウイーンからプラハやまたダブリンまでの十日余を、ひしと付き添ってともに過ごしてきた。帰国して、彼の父は、わたしの兄は、やがて自身を処決した。「数通の遺書」はしっかりした書体で、常平生よりもよほど読みやすい正確な文字で、どれも簡潔に、兄の真情と身体の衰弱をかなり的確に語っていた。それについて、わたしは、何も付け加えるものも付け加えたい気も無い。わたしを名指しの遺書はなかったが、一通、宛名のない簡潔なものがあり、それが兄のわたしへの述懐と、しかと受け取った。

* 兄の最期のメールが四通受信箱に残っていたのを猛のために刷りだしてやった。

* Date: Wed, 14 Jul 1999 11:58:45 +0900
From: kitazawa tsunehiko <kitazawa@kyoto-seika.ac.jp>
To: “秦 恒平” <FZJ03256@nifty.ne.jp>
Subject: 志賀直哉のことなど

恒平さんに
志賀をおもしろく読んでおられるとのこと、楽しみですね。
テレビ司会の田原さんのこと、人相がわるくなったと、ご立腹の様子だったが、ぼくはもう少し点数があまい。あんな番組をこれほどもたせる人がまともな人相でいられるはずがない。それはそれで一つの才能だと思います。彼がテレヴィに登場する以前に、商社マン批判が世を風靡していたとき、彼の書いたものをいい感じでおぼえている。ニューヨーク派遣の商社マンが、自分らが販路の敷石をあくどいまでに敷き詰めていくことで、安定的生産を可能にしてるんだ、と語るインタビュ記事だが、商社虚業論の風潮のなかで異彩をはなっていた。ぼくの保守主義で、こういう記憶が甘い点数のもとにある。
梅原猛さんがいい顔になってきたことに、満点異議はないし、だいいち田原のテレビなどほとんどみないが、土井たかこよりはマシじゃないか。
共産党が君に寄稿を求めるまではいいが、(原稿を受け取ってからの没書処置など、)やんぬるかなだね。森嶋通男さんが、同じようなことを解放同盟の関係で経験し、がっくりきていた。この国の最も深刻な主体的危機だと思う。ともかく命を大切に。

Date: Tue, 25 Aug 1998 11:41:02 +0900
From: kitazawa tsunehiko <kitazawa@kyoto-seika.ac.jp>
To: “秦 恒平” <FZJ03256@nifty.ne.jp>
Subject: 留守すること:

わざわざありがとう。少し留守がちになります。みずうみ(湖の本)、おくっていただいて応答がおくれたら、そういうことだと了察ねがいます。九月にはいったら、(ウイーンの)猛のところと、交通運賃がそのままなので、ダブリンに足をのばしてきたいと思っています。ゾンビみたいな老人(養父)をかかえ、かえってきたら隣りの家をぶっこわす事態が待っているのに、まったく無謀なハナシです。しかし、どう考えても、今しかチャンスがないきがする。
猛にあえるかどうかも確信がないが、会えれば、君の励ましを伝えます。喜ぶでしょう。 事情のご通知まで。

Date: Tue, 21 Sep 1999 17:54:00 +0900
From: kitazawa tsunehiko <kitazawa@kyoto-seika.ac.jp>
To: “秦 恒平” <FZJ03256@nifty.ne.jp>
Subject: みずうみ拝受

予定どおりダブリン、ウイーンからもどり、みずうみの本拝受しました。ご心配をかけました。年寄りが生きていてくれ、(もちろん医者の助力によって)、今のところ自分もこうやって生きているわけですが、いずれが欠けても破滅的なものでした。それほどの値打ちがあるか、といわれれば、答えにくい。
猛はアトピー体質で、オーストリアの乾燥した気候があっていると元気でした。この点では、嬉しい見込みちがいでしたが、もはやぼくの手のおよばぬ所に彼が出てしまったという感はぬぐえなかった。旅に彼はぴったり付き添っててくれたが、これほど至福で、悲しい旅はなかった。ダブリンとは、そういう街のようです。ここで倒れればお笑いぐさですから、気を引き締め、長屋の破壊に立ち会うつもり。久しぶりで(月曜ごとに出講していた精華大学の)キャンパスで若いひとたちにあいました。やはり、いいものです。
猛はおじさんをたいへん誇りにしていました。

Date: Tue, 12 Oct 1999 14:34:02 +0900
From: kitazawa tsunehiko <kitazawa@kyoto-seika.ac.jp>
To: “秦 恒平” <FZJ03256@nifty.ne.jp>
Subject: ひとこと

みずうみの中世論、家の老人が入院中で、なにか歴史もんないかというので、貸してやりました。どうだ、というと「むずかしいけど、おもしろい」そう。
不思議なものです。

* これ以降、大学へ出るのも、講義の用意をするのも大儀であったらしい。兄のEメールは大学の図書館かどこかにある器械を慣れない手つきでやっと此処まで使えるようになっていたので、出講の月曜日に限ってメールを呉れていた。ホームページもよく見て反応してくれることが多かった。八月末の「留守すること」は、最初三行ほどが空いていた。何か書いた文章を送信前に削除したのではないかとも感じた。このメールには心配し、内心は、どうか無理な長旅など思いとどまって欲しいと思ったが、兄の行きたいものを引き留めることはしたくもなく、出来ることでもなかった。行って、息子との「至福」の時をもったことに、今となれば良かったと思う。
肝硬変が末期化していたかもしれないと漏れ聞いている。事実は知らない。老父をあえて遺して逝ってしまった、「そこ」に兄の秘めた「覚悟」を感じている。感じているだけである。

* 明けて一月には、鶴見俊輔氏や中尾はじめ氏らのお世話で「偲ぶ会」が計画されるらしい。兄とために喜びたい。願わくは遺児三人が、誠実に、和やかに、父恒彦の遺書の遺志を尊重して、霊を慰めて欲しいとよそながら見守っている。
ちょっと世人の理解しにくいかも知れない奇妙な運命のもとに生まれながら生き別れ、僅かに三面か四面、また死に別れてしまった兄と弟であった。兄弟とすら実は互いに戸籍上は証明もできないのである。それで良かったとも思わないが、それが悪かったなどとも執着していない。親類とか親戚とかいった実感も拘束もお互いにきれいに棚上げして兄は私を愛してくれたし、私も兄を深く敬愛してきたのである。幸せな兄弟だったと言うべきだろう。そうあって欲しいと死ぬる日まで切望していた生母や実父も喜んでいたと思う。そして今は静かに先ず一人の息子を迎え取っていることだろう。

* もう再々は兄にふれて書くことは無いかも知れないので、闇に言い置くことが、一つ在る。

* 私の最も早い時期の小説に「畜生塚」がある。のちに新潮に出し桶谷秀昭氏に賞賛されたなつかしいものだが、これを最初の私家版に収めたとき、わたしは一度も逢ったことのない兄に宛てて送っていた。兄はすばやく、それも強く反応した佳い手紙を呉れたが、中でも心籠めて強く共感してくれていたのが、作中に書いていた「本来の家に帰る」という、作中の語り手の考え、いや祈願についてであった。
人は死んで「本来の家」に帰る。此の世は旅先である。旅から帰って行く本来の自分の家には、自分が愛した、自分が愛された、全部の人がともに帰って行き、ともにその家に住む。そういう本来の家を、一人一人がみんな持っていて、帰って行く。「私」はそんな自分の家に帰って作中の「妻迪子」とももちろん、妻のたえて知らないヒロイン「町子」ともきっと同じ家で仲良く住む。しかし「迪子」の本来の家では「私」もまた必ずともに住むだろう、が、「町子」はいなくて、もっと他の迪子の愛した人たちが一緒に暮らすだろう。同じように「町子」の本来の家にも「私」は必ず一緒にいるが、「迪子」の姿はそこにはなく、もっと他の町子の愛した母やだれそれが一緒に暮らすことだろう。
そのようにして、多くを愛し愛されたものほど、死後には多くの人の家で多くを満たされて生きることになる。孤独地獄とは、本来の自分の家でだけ、ただ孤り・独りで永劫生きるしかない者の絶対苦を謂うのではないか。

* ま、そう謂ったことを作品の中で「私」は、「妻」にも「町子」にも語っている。
兄恒彦のこの件りに関する共感はちょっと作者の私をも驚かせるものがあった。そして後に、兄は『家の別れ』という独特の詩的文体の思想的自叙伝により、実の親たちや養いの親たちや家庭にふれた覚悟の著作を公にした。最後には弟である新進の作家「秦恒平」の名も明らかにして触れている。
兄がどれほどの著作をしどれだけの原稿をどこに書いたかを詳しくは知らないが、『家の別れ』は兄を最も多く代表したものであったように感じている。それを話題に、瀬戸内寂聴さんと兄が対談していたのを読んだ覚えもがある。

* そして兄の生涯の様々な市民活動のなかで、一つの拠点として成果をあげていたのが「家の会」だったようだ。兄はロマンチストであるとともに、第一次火炎瓶闘争の高校生の昔から、一貫して優れて実践的また合理性的な不屈の闘士であったらしい。その一方で兄は、このわたしが遠くの方にいて、谷崎や茶の湯や短歌などの世界で己と向き合っているらしいことを「良かった」と見守ってくれていた、そうだ。そういうことも人づてに漏れ聞いていた。

* 『家の別れ』といい「家の会」活動といい、あの「本来の家に帰る」という未だ逢わざりし弟の「夢想」のような想いに、あんなに感じ入ってくれた若き日の兄と無関係だとは私は思わない、思えない、のである。それを、舌足らずながら此処に「言い置く」ことは、二人にとって、なにかしらかけがえなく大切なことに感じられる。
わが、只今の、痛いほどの mourning work = 悲哀の仕事である。
1999 12・2 3

* 「お受験」という不愉快な言葉を「春奈ちゃん殺し」の前にも聞いていた。息子が姉と電話かメールかでかで話したときの話題に、朝日子ががしきりに、来年は娘の、つまり我々の孫の「お受験」だと、見せびらかすように「言いやがる」と気色わるがっていたのだ。わたしも気色わるかった。この秦の家で育った娘が、そんなことに熱中するようになったかと暗然とする一方、孫が可哀相になった。朝日子自身はいわゆる「未塾児」で、中学受験では落ちたが、自らの初志を貫徹して、高校受験では難関を自力で突破し、お茶の水女子高校にパスし、卒業生答辞を読んで、大学はお茶の水にも慶応にも、塾になど一度も行かずに合格していた。娘の根性でし得たことであり、「お受験」などという雰囲気は、我が家にはなかったのである、自力の受験勉強はさぞ大変だったろうが。
その朝日子の口から、得意げに「お受験」などと、たとえ口づてにも聞くとは、耳を疑ってしまう。どんな考え方に変わってしまったのかと胸が痛む。
高校生活を、「外部」と言われながら通学していた。「問題の幼稚園」から、ずっと持ち上がりの生徒も含めて、それ以前の大部分の生徒が「内部」だった。PTAにも「お受験」派といえばいいのか、一種独特の社交界が形成されていて、「おもしろいわよ」と妻は観察していた。妻はてんでそういう人たちに馴染みも気圧されも諍いもしないタチだから、べつだんもめ事もなく、それどころか、押しつけられてPTA会長をこのわたしにというような提案も、ああそうですかと呑み込んで帰ってきたりした。
PTA会長ーー。それは、およそわたしには似合わない職分だった。なあんにもしなかったし、付き合いも一度もしなかった。金も使わなかった。卒業時の謝恩会に、すこし長い目の挨拶をして、会長就任の記念に時計をもらっただけで、社交界ふうの母親たちからはあきれ果てられていただろうが、そんな狭苦しい世間のことは右になっても左になってもわたしたちには何の関係も関心もなかったのである。
1999 12・5 3

* 寒さに負けて散髪に行かなかった。「黒い少年」は活発に家の内外を領略し、意気盛んである。食欲の旺盛なことは「ジイヤン」におさおさヒケをとらない。何でも食べるといいたいほど食べに攻めてくる。蕎麦も食う、ビスケットも食う、チーズは大好き、肉となれば牛も豚も目がない。そして脱兎のごとくではきかない、まるで戦闘機のように階段を駆けのぼり駆けおり、砂塵を巻く勢いで廊下を疾駆してくれる。勇ましい。攻撃的で、負けず嫌い。わたしとボクシングしてパンチを食うと、両耳を三角に逆立ててジリジリと迫ってくる。なかなか、逃げ出すようなことはしない。
妻はメロメロに優しい。わたしも、優しい。
1999 12・7 3

* 京都新聞の宮本さんが、親切に、いかにも生き生きとした兄の写っている新聞などを送ってきて下さった。出町辺の商店の表なのだろうか、あの辺は中小企業経営診断士という資格をもった公務員であった兄の、ことに力を入れていた地域である。見るから活気に満ちた風貌で、胸がつまった。有り難うございました。わたしのホームページを覗いていて兄の死をしり、うまいぐあいにそんな新聞を見付けて下さった。感謝に堪えない。
他にも三千家と藪内家との大きな展覧会の図録ももらった。いかにもいかにも茶道具展だが、よさの分かる者にはすばらしい。

* 妻の「姑」を群像の鬼編集長だった大久保房男さん、文藝春秋の出版部長の寺田英視さんが揃って褒めて下さり、妻はほくほくして嬉しそうである。ずいぶんながくかけて、ワープロでひそひそと書いていったらしく、大阪育ちで京ことばの微妙なところは、よく尋ねてきた。言葉遣いの独特のニュアンスだけは細かく、助言した。大筋には口出ししていない。妻がものを書いたというのは、婚約以来四十二年、初めての一事件だった。
1999 12・8 3

* 「私語の刻」を、ぜんぶ日付順に直し誤植を直してプリントしたのが、二千枚ほどになっていた。そんな脇道に逸れていないで、と、言う人も有ろう、それも分かっているが、此処にものっぴきならない「表現」がある。精神が萎縮していれば、とても書けるものでない。「疲れ果て気力を失ないました。」と、それだけを兄は私に書き遺して逝ってしまった。常平生、大事なのは「気力」だ「体力よりも」と私は誰に向かっても言ってきた。闇に言い置くこの「私語」は、私の気力の証左である。戦闘的な気力は必要ない、落ち着いた自然な気力を大切にしたい、今となれば兄の分までも。
1999 12・9 3

* 五十年記念の大きな高校同窓会名簿ができても、せいぜい前後二三年しか記憶の名前もない。嬉しいのは、大昔の先生方の住所氏名がよく調べてあり、これは懐かしい。残念ながら亡くなられた先生の多いのは、ま、致し方もないが、思ったより多くご健在のようであったから、こんどの湖の本『丹波・蛇』を何人かの先生宛て、久しぶりのご挨拶に献呈した。その中で、どうされているかなあと永らく思っていた、あの頃は若かった「英語」の男先生から、お返事をもらった。
中学の一年先輩で、東京芸大にすすみピアノの勉強をしていたはずの人の従兄妹とかにあたる先生で、お住まいも同じ縄手の四条寄りにあった。
葉書に、小さな読みやすい達筆のペン字で、お返事には思いがけないことが書かれていた。

* 「湖の本」ありがとう、ゆっくり読ませて頂きます。貴君の消息で僕として一番新しいのは「朝日」の「著者に会いたい」です、お元気でご精進の様子、喜んでいます。
スリップに「覚えてて下さいますか」とありますが 貴君は次のこと覚えておられますか。
僕が日吉(ヶ丘)に就職して間もなく貴君はこの英語添削して下さいと言って一冊の大学ノートを持って来ました、勿論すぐ引受けたのですが困ったことにそれがどこかへ行ってしまいました、翌日貴君に謝ったら貴君は赤い顔をして非常に迷惑そうに「内容が内容やさかい…」と言いました。僕には何のことかわかりませんでした。所が数日後意外なことにそれが僕の机に連る向い側の実習助手の机上の端にありました、日常殆んど空席で僕はそこへ誤って置いたらしいのです。何にせよそれには誰も触れていない、という直観があったのでホツとしながらすぐ鞄の中へ入れました。
家で開いて見ると日記だったのでヒヤッとしました。添削しながら読み進めていくうちに「…彼女は雪子に似ている…」という意味の所に出くわし「あつ」と思いました、悪かったなあ、と、しばらく動けませんでした。   寒くなって来ました  ご自愛祈ります。    11.12. 6

* こういう先生だった。若くて兄貴分のような、柔らかい、気のいいインテリで、この時期のことゆえ、その頃熱愛していた漱石作『こころ』の「私」のように、その先生のことをわたしは印象していただろうと思う。育ちのいい、まっすぐな、だが預かりものをこんなふうに紛失してしまいそうな先生にも思われた。
それにしても英語で綴った日記とは、このわたしにしては信じられず、記憶も全然ないが、だからあり得ないとも言えない。なにしろ、しょっちゅう色んな事を課外に試みるのの好きな生徒だったから。なによりも「雪子に似ている」とは谷崎の『細雪』のヒロインに相違なく、ちょうどこの頃は谷崎愛にボウッと火のついた頃であった。しかもわたしが「姉」と慕っていた人が、新制中学で先生のピアノの従兄妹と同級の仲良しだったし、その「姉さん」の妹が、まさしく「雪子」のように魅力的だが、しぶとい子だった。好きだが、翻弄されていた。わたしより一つ下で、高校には上がっていなかった。この先生に、そんな日記を英文らしきもので見せたのは、なんとなく「わが人模様の内の人」と謂った安堵か甘えがあったのだろう。
記憶から完全に消えていたこんな一幕を、思わぬ湖の本の余録に頂戴したのは有り難い、が、思えばおもしろい先生である。「数日」もそんな間近な机の上を一瞥もしなかったのだろうか、しなかったんだろうな、あの先生は、と、くすりと笑った。
1999 12・11 3

* ゆうべ仲人の小林保治氏に、孫に会いたくないのかと問いつめられた。何と謂うことを言う人だろう。昨日の明け方にも、朝日子が孫の一人と颯爽と「帰ってきた」夢を見ていた。孫は二人いるのに、可哀相に、下の一人は知らないも同じなのだ。
「逢いたくない」と答えた。呆れた顔をされたが、呆れていたのはわたしだ。「逢いたい」ともし言えばこの仲人氏、なにをしてくれると言うのか。してくれる気が有るならとうの昔に出来ていただろう。
1999 12・19 3

* 「死から死へ」七月の江藤淳の死から十一月の兄の死までを、ずっとスクロールしながら思い返していた。ゆうべウイーンの甥の猛から電話がきた。猛の電話は何事でもなかった、が、さっき猛の兄の恒から電話で、北澤家のおじいさんがとうとう亡くなったと知らされた。息子の死を知って亡くなったのか、知らないまま亡くなったのか。ご冥福をいのる。一面識もない人であった。

* 書かねばならぬ事がたくさんあると思っていたが、胸中、虚ろに寒い。もう少し、あの芳醇の中国の名酒をのんで、「ものやおもふ」と問われそうな佳い顔になって佳い夢を結びたいと思う。
1999 12・21 3

* 階下に、異母妹の一人から電話が来ていて、妻がながながと相手をしている。わるいが、わたしは二階へのがれてきた。
このような類似の電話や手紙や来訪が、東京へ出てくる以前から、どれほど何度もあったことか。わたしは生まれ落ちると直ちに我ひとりの戸籍を建てて、全くの孤独であった。「秦」家の戸籍に養子として入ったのは新制中学入学の直前だったと後々に知った。それまでは里子ナミであったらしい。実の親たちの「戸籍に入るを得ず」と戸籍謄本は記載していたが、わたし自身の知ったことではない。先日死んだ兄と兄弟であったことも、戸籍の上では何一つ証明できないようにされている。
それなのに、いつのまにか、なしくずしに、ありきたりの親族のような関わりで大勢の人がわたしの前に忽然と現出し、そしてそれこそが当然自然のように感じ、振る舞っている人が多い。こだわるのではないが、わたしには違和感がある。わたしはものごころついて孤独な孤立人であった。それを我が建前と守って、自身の「自由」を受け容れてきた。父母をともにした兄をさえ長く受け容れなかった。兄とし弟として付き合ってきたけれど、少なくも二人は、互いに「親族」のようには振舞わなかった。兄には分かっていたのだ。
* こんなことを「闇に言い置く」必要が有ろうとは思っていない。成り行きでこんな事を書いているのだ、だが、昨日も北澤恒は、当然のように彼らの祖父の死、兄の養父の死を告げてきた。通夜はいつで、葬儀はいつで、と。兄なら、告げても来なかった。「なんにも関係は無いのだから、気にしなくていいよ」と兄は「北澤」家のことではわたしたちを煩わせなかった。わたしも一度も父や母や叔母の死を兄に告げはしなかった。彼は兄でわたしは弟であるところまで認め合い、しかし戸籍上の親族では一度もなかった。だが兄がいて私がいる、その現実・事実のあることで、わたしは甥や姪を愛してきた。兄が要であり、要がはずれた頼りなさはわたしには途方もなく深い。甥には、その気持ちが分からない。異母妹にも分かっていない。
重苦しいことである。
1999 12・22 3

* 長い間机の端にのっていた案内のはがきを見て、クリスマス・メニュがちょっと佳いので、どうせ満員だろうと思いつつ電話すると、今夜なら席があるという、すぐ予約した。麹町の「トライアングル味館」では、以前に、食べる会の企画があった。わたしは欠席していた。文芸春秋の真ん前まっすぐの通りに店の在るのは知っていた。有楽町線だと一本で簡単に行けるのも気楽であった。

* アットホームなフランス料理の店で、料理をあれのこれのと品評する力もその気もないが、雰囲気は家族的、「みな、幸せそう」と妻も楽しんでいた。美味かった。たくさんなメニュを丁寧に工夫して出してくれたし、接客も親切で心親しかった。きっちり二時間かけてたっぷり食べ、シャンペンとワインを飲んだ。すぐ、ほんとにすぐの隣に、初々しい新婚夫婦が来ていた。四十年たつと我々のようになるのかなと想い、微笑ましかった。
* 祭日で、麹町の宵は閑散としていた、それもよかった。めったになく、いい服を着ていいオーバーで暖かくして出かけた。食事をすると、まっすぐ帰ってきた。誕生日とクリスマスの中間祭であった。

* いろんな成り行きでそうしたところへ関心が寄るせいもあるが、妻と、古い昔のことを推測しいしい話し合うことが多い。話題は尽きない。電話で妹も不思議がっていたようだが、兄一人なら分かるが、どうしてわたしの父と母とは「二人」までも子どもを作ってしまったのだろう。昭和十年ごろ、高等学校の書生だった父と、倍も年上の子持ちの寡婦であった母とが、漱石の科白ではないがなぎ倒されたように恋に落ちたのは分かるとして、その後までも成り立つ恋でなど、とうていあり得なかった。それなのに二人目のわたしまで母は生み、案の定、仲は引き裂かれ、二人の幼な子も、巷間別々の家に捌かれた。わたしが秦家と養子縁組したのは中学に入る直前であったから、数えで四つ五つ、かろうじて秦家に入った頃のわたしは、実は「もらい子」というより「里子」なみに預けられていたと言えるが、預けたのは父方の祖父母で、父自身は親や親族の手で埒外に追われ、また母の方とは大揉めして交通途絶の状態であった。どうみても「小説より奇」な渦中にいたのだが、稚いわたしには事情や経緯の何ひとつも諒解できていなかった。ただもう「もらい子」の境遇にそしらぬフリの演技をつづけて、だんだんに大きくなった。

* そんな過程で、あれは「どうやったんかな」と思う不思議は、いろいろある。そういう話題が、何のしめっぽさもなく妻とは交わせる。当時兄のおかれていた境遇などは、殆どなに一つ知らない間に兄に死なれてしまった、聴いておきたかったことが沢山あるのに。

* ふしぎなもので、自然と夫婦して「私小説的な会話」を紡ぎだしながら、洒落て美味いフランス料理を食べている。それも東京の麹町のまん中という、お互いに生まれ育った場所からは何百里も離れたところで。我ながら、思えばおもしろい人生であった。

* 冬至の満月が、往きは大きく赤く低く、帰りは大きく白く高くなっていた。
月照って心まづしき師走なり 遠
1999 12・23 3

* クリスマスにはあまり関心がない。それでも連想的に妙にアンデルセンの『繪のない繪本』の第一話を思い出す。娘のお年玉に添えて買って与えた昔のことが思い出される。娘や息子に、繪の美しい『日本の神話』上下をはじめ、よく選んで繪本を買ったものだ。初めての子で、娘にはひときわ心を用いて本を選んだ。貧しかったから、たいしたことは何もしてやれなかった。慶応とお茶の水とに受かったときも親の懐具合を慮ってか、黙ってお茶の水を選んでいた。貧乏は少しも恥ずかしいことではない。だが娘や息子もそういうふうに思えていたかどうか、今は、分からない。
1999 12・24 3

* ハイな気分ではない。
京都から甥の一人が電話をよこした。おじいさんの野辺送りはすべて済んだようだ。北澤家の祖父と父とが一時に逝去、母と孫三人が遺された。母は事実上もう久しく夫北澤を離れて一人暮らしをしてきたと聞いている。孫三人も京都を離れて一人一人で暮らしてきた。長男とは、作家黒川創として同業の後輩として付き合って行くことになる。小さい頃から親族ともつかず赤の他人ともつかず私の身の回りに空気のように在った「北澤」という名は、事実上これで雲散したものと思う。文字通り兄の望んだように、個と個とにかえった。それでよい。いま、いちばん願っているのは、北澤の三人の兄と妹と弟とが、ごく自然に心から親しみ合い、より大きくなって欲しいこと。親のない後で同胞に感情のしこりやギクシャクのあるのは、ヨソのことでも胸が痛いものだ。
数えればわたしには何人の甥や姪がいるか知れない。が、兄の子たちのほかは会ったことがない。「いとこ」会を年々に開いているような一族もあるらしいが、羨ましいとは思わない。
北澤恒彦を偲ぶ会は明けて三月頃に開かれるようだ。
1999 12・28 3

* 暮れは、買い物役もする。明日も明後日も出かけて、京の白味噌や蛤を買う。花は家中の植木鉢と例年ご近所から戴く花とで足りる。念入りの掃除など考えられない、少なくもわたしの書斎も器械部屋も書庫も。もうどうにも手が着けられないのだから、なまじ手を着けない方がいいのである。兄のことがあり、年賀状は一枚も書かない。
大晦日だ正月だという感慨はあまり持たなくなっている。自然体で通過して行く。電器とガスだけは、水も、切れて欲しくない。寒いのは閉口である。息子たちが元旦に来る。
黒い少年のマゴは、活発そのもの、妻の愛を一身に浴び、幸せそうに家の内外を駆け回っている。枯れ葉を拾ってきては得意そうに見せ、枯れ葉の舞を演じてくれる。母親の愛を知らなかったのか、よく噛む。二本の手で手を抱きかかえて軽く噛む。わたしとは盛んに拳闘をする。
1999 12・29 3

* すでに新年に入っている国があり、コンピュータに事故は起きていないようだという嬉しい報道がある。だが、油断はならない。無事であればいいがと思う。
稀有の体験である。事故が起きようと起きまいと忘れられない体験になる、これぞ「二千年体験」と呼んでよく、二千年を迎えるに当たってこういうことを思うものとは、夢にも予想できなかった。
二千年まで生きるだろうかと、子どもの頃、何度も思ったものだ。信じられなかった。妻もそう思っていたという。そんな妻と二人きりで一九九九年の大晦日を過ごしている。黒い少年のあまえて鳴く声が階下でしている。もうコンピュータを閉じて階下に往き、酒でも飲もう。
1999 12・31  3

* 建日子   新年おめでとう。

元気に、志をつよく、高く、頑張って下さい。怪我と病気に陥らないようにと、親たちは心より祈っています。
歳末に片づけ仕事の中で、古い、幼稚な、やすい、鉄の写真立てのようなものを見つけました。雑誌から切り抜いたらしい、「言葉」が二つはいっていました。小説を書き始めた若き日々に机に立てていたものです。だれの「言葉」だったか、それは忘れていますが、「言葉」には信服していました。その通りだと信じていました。
二千年の年頭に、此処に置きます。

此の仕事をする者には
富貴も、安逸も、名声も
恋も無い。
絶えざる貧窮と
飽く無き創造欲とが、唯
あるばかりだ。
知っているか ?

水を流そうと思うなら
流そうと思う方を
水の在る場所より深く
掘らねばならぬ。
「流れよ!」
と云った丈では
水は流れはしない。

五センチ四方にちぎった、色変わりのした粗末な紙に、9ポイントの字で印刷してあります。
あとの「言葉」の三行目は、わたしの言葉に変えました。
原文では「水の在る場所より低く」とある。「低く」掘るのは間違いだと思います。心して「深く」掘りたい。
きみの悔いなき健闘を祈っています。 父  2000 1・1 5

* 明日で息子が三十二歳になる。わたしは六十四歳になったばかりだから、いま子は父の「半歳」に達したのだなと思うと、まだそんなものかと我が子がいとおしくなる。自筆年譜を見返してみると、彼の出産はなかなかおおごとであった。そんな記事の中に、忘れていたが、手帳に書いていたモノか、三つの述懐があった。

母ひとり産むにはあらで父も姉も一つに祈るお前の誕生  昭和四三年 元旦

赤ちゃんが来た・名前は建日子・男だぞ・ヤマトタケルだ・太陽の子だ
一月八日 建日子誕生
これやこの建日子の瞳(め)に梅の花       一月二十三日 建日子退院
2000 1・7 5

* 今夜はまた息子の火曜サスペンスだそうだ、番組案内に初めて「脚色」と名が出たとか、母親がよろこんでいる。人を殺さずに済む芝居を書かせてもらえないものかなと思う。カミュの『異邦人』は純然と人を殺す小説であったけれど。あれは良かったけれど。谷崎も、そして誰もいなくなったほど殺しに殺す戯曲を書いていたけれど。殺人が新たに劇的なものに昇華されるには、現代は、良い意味の緊張をあまりに欠いている。無反省に何かの手段としてのみ殺しを書き、書かせている。すこしでも無理のないサスペンスでありますように。
黒川創の「硫黄島」取材が本になると報せてきた。期待している。兄の「偲ぶ会」は実現するのかどうか分からないようだ。
2000 1・11 5

* 前回の「男コンパニオン物語」ほどふざけた作品ではなかったが、よくまあ、こんな凡常の科白ばかりを書いて済ませるものだ。テレビドラマ作りの現場が愚劣なことは話にも噂にもよく聞いているが、作者がそれを駄作の逃げ口上に使っていては、卑怯に部類される。悪環境の中で、才能の片鱗なりとも光らせようと努めるのが創作者の誠意であろうに。頑張りどころだろうに。

* 女優で親友の原知佐子が、このドラマの始まる前に電話をくれた。ちかぢか建日子の書いたものに出演してくれるそうで、その仕事で北海道に行って来るという。「黒い画集」の主演女優で、木下恵介の「野菊のごとき君なりき」でも、嫂役のいい演技を見せた人だ、往年の日活ニューフェースだった。大学に入る間際からの友人である。そんな原知佐子が、息子の脚本で、老け役をしてくれるとは、感慨深い。
新宿の六畳一間のアパートに、重森ゲーテ君らと一緒に遊びに来てくれたとき、彼女は立派にスターだった。姉の朝日子すらまだ生まれていなかった。太宰賞の受賞式に来てくれて、花束贈呈役を引き受けてくれた晩、弟の建日子はまだ一歳半で、姉に守られ家で留守番をしていた。うんちをして朝日子にいたく面倒をかけていたのだ。建日子よ、驕るなかれ。まだ人様をつかまえて「格上の」「格下の」などと言うのは厚かましい、まだまだ「格」なんて「無い」のだし、ケチな「格」など持ち急ぐな、と言って置く。
2000 1・11 5

* 明け方の五時に電話が鳴って、びっくりした。受話器をとると、ぴー、ぴー、と鳴る。いたずらかと思ったが、ファックスを送るつもりの番号違いだと妻は言う。その通りだった。ウイーンの甥がファックスを送ろうとしていたのだった。正しい番号を教えて置いて「また寝」してしまい、目覚めたら午に近かった。

* 経済学者で兄が最晩年に傾倒していた森嶋通夫氏夫妻に宛てた「父」追悼の手記をわたしにも送ってきたのだった。佳い文章だった。わたしは兄の一面を教えられるとともに、この次男坊の甥の一面も識った。

* 「偲ぶ会」がどのように持たれるにしても、ウイーンの甥は、北澤猛は帰国しないで文書で参加する気になったらしい、それで一文を先ず森嶋さんに宛てた手紙の体で草したわけだ。手紙の内容には俄に触れることは避けたいが「偲ぶ会」のことでは、こう返事を送った。

* 偲ぶ会は、可能なら発起人をならべ、思想の科学または家の会が母胎となり、鶴見さんか中尾さんに「顔」になってもらうのが、尋常で佳いかたちです。喪主の遺児が主催なんてのは、むしろ成り立ちにくい異例に属するでしょう。
父親のことだから感情面で無理ないとは思いますが、一人の思想家であった「北澤恒彦」に即して言えば、その死に方が自殺であろうとも、それも一つの表現ないし意思であり、それが話題にされることを過度に気に掛けなくていいのではないか。遠慮なく恒彦の像が、多くの人の信頼と敬愛によって証言され彫琢されることは、きみら遺児の、生涯の優れた「相続分」になると思うのです。そして、そういう機会は、逸してしまうともう難しくなる。書かれたもので「編集」し「本」の形にするのは、実はなかなか容易に纏まらない。流れた例が多い。
「偲ぶ会」を遺族が直に主催しては、ちょっと参会する側が率直に成りきれず、じめつくものです。そんな「偲ぶ」なら、銘々が胸に持っていればいい。恒彦兄が、向こうから「オイオイオイ」と異存を唱えたり、哄笑したり怒ったりできる「場」で、腹にあるものを参会者に吐き出してもらえる、そういう「偲ぶ会」なら、ぜひ出たいなと願っていました。

* 私一人の勝手な思いで強いる気は少しもないが。長男の恒がなにもかも気分的に背負い込むのは辛かろう。また押し隠して仕舞おうとしても無理であり、また父のためにも最善のことではなく思われる。
2000 1・14 5

* 猫の恋の季節になってきた。我が家の黒い少年が、大きく「成人」してきて、匂いツケを始めた。ウーン、どうしよう。それにしても、何故「成人の日」は今日ではなくなったのか。
2000 1・15 5

* 京都へ行っていた甥黒川創の手紙をもらった。『硫黄島』のわたしの感想への謝辞にそえて、彼が、近江能登川の、わたしには生母の、彼には父方祖母の歌碑などを久しぶりに見に行ってきたということも書かれていた。よほど幼かった日に父親と一緒に探訪したことがあるのだろう。わたしも幼かった建日子をつれて歌碑を観に行き、また母の里に寄りまた父の違う姉とも初めて、そしてそれが最後の、出会いを果たしたことがある。
兄恒彦が戦中戦後の疎開生活を過ごしたのは、北澤の母方の里である南山城笠置の方だったということも初めて知った。こんな事なども、ぽつぽつとお互いに記憶を補いあって死なれた者はこれからを生きて行くのだろう。
2000 2・3 5

* 新刊、荷造りに頑張った。かなり妻を手伝わせてしまった。済まぬ。ひさしぶりに息子が電話をしてきた。器械の二台目を買うという。ハードディスクのクラッシュを心配しているらしい。三月八日と十日とに、つづけて彼の書いたドラマの放映があるという。生活はしているようだ。運もいいようだ。
2000 2・27 5

* 昭和二十一年の今日、父は、祖父に死なれた哀しみのなかで、明日から旧円が新円に変わるというので、葬式代をなんとか旧円で支払いたいと苦慮し奔走した。財産が封鎖され、規定額の新円だけが支給されて旧円は使えなかった。閏年の閏の日で、やかましく言うと祖父の命日は四年に一度しか来ないことになる。お寺さんはそれを認めなかったのではないか、二月二十八日が命日になっている。
2000 2・29 5

* 黒川創が『死から死へ』をもう一部欲しいとメールをくれていた。子供たちが三人とも母親に優しい。兄は安心して任せていったと思う。

* 今日だか明日だかは、末の孫の誕生日だそうだ。一歳の誕生日もまだ迎えていなかったろう頃に、一度だけ、父が技官勤めをしていた筑波大の宿舎へ、建日子の車で妻と三人で、娘と孫にこっそり逢いに行った。その日の、わたしに抱かれわたしの鼻をつまんでいる「みゆ希」の写真一枚が、目の前の本棚に飾ってある。姉の「やす香」はもう中学生とか、道であってもお互いに分かるまい。元気に育てよと祈るだけである。
2000 3・9 5

* テレビドラマづくりの息子は、はやくも職人に甘んじるらしい。それでいいという人もある。よくないと思う人もある。職人に徹するなら技巧技術を磨いてほしい。雑学を、広く拾い深く掘り下げてほしい。

* わたし自身の今の生き方は、独善に陥らぬ事が、なによりも大切なこと。
2000 3・11 5

* ウイーンから甥の北澤猛が、元気になった口調のファックスを寄越した。相変わらずこっちからのメールは読めるのに、ウイーンからのは化け文字になる。ドイツ語で「書ける」ようになったと言う。話すと聴くは、京都産業大学に入って、三年生までにマスターし、簡単に外務省の選抜でウイーン大使館に勤務した。舌を巻く。中学浪人もしかねなかったガクランでのし歩いていた少年が、である。大使館勤めでの貯金をつかい、いまは向こうの大学院に在籍して、ドイツ語に「文化的な」磨きをかけているらしい。元気にやって欲しい。母親をヨーロッパに呼んで、亡き父と旅したコースを、同じように連れて旅行したという。
2000 3・12 5

* 「闘士」北澤恒彦は「京都の良心」でしたという便りをもらい、兄のことはほんとうによく知らないままだったと、つくづく思う。
また、懐かしい元学生の佳いメールがわたしを喜ばせた。生き生きと文体が弾んでいる。
2000 3・13 5

* 雨の音が寒い。妻が怒り出すほど厚着して、器械の部屋にいる。
しかし家の中はいま椿の花盛り。蓼科で買ってきた、ふくろうの繪の小さい扁壺に、赤い椿白い椿が二輪頬を寄せ合って、きりっと咲いている、手洗いに。なんとなく五郎十郎のように見え、緑の葉色が冴えて美しい。手洗いに入るつど句にしたいと気張るのだが、うまく行かない。
黒い少年のマゴは、我が世の春を楽しんでいる。「わがものと思へば黒が美しい」ほんとに、なんという黒の照りだろう。しなやかに長くのびる姿態。金色の、湖のような瞳。わたしの声に反応して静かにうごく、耳。
だが、そんな家の中へも花粉は入って舞っている。
2000 3・16 5

* 甥の北澤猛が留守中に電話をくれていた。ウイーンから戻って、兄弟で相続の話し合いをしていたという。これから京都へ移動すると。「ミマン」の出題にどうかと思っていた中に、「なるようになりて相続の済みしかばふつふつと鮟鱇の肝を煮ており 斎藤文子」という歌があった。穏やかに済むといいが。
わたしは一人子で、両親にも叔母にも縁者がなかったため何のトラブルもなしに済んだが、どこで聞いても、だれに聞いても、大なり小なり揉めているようだ。「鮟鱇の肝を」ふつふつと煮る心境が、分かると言えば分かり、分からぬといえば分からない。
2000 3・27 5

* 貧しく育ったことを恥じたことはない。育ての親たちは、せい一杯のことをしてくれた。
ものに埋もれ、突き当たり当たり家の中をうごめいていると、ああ、もうすこし広い家だといいなあと思うことは、ある。
一度だけ、八畳間のある家屋に暮らした一時期がある。戦時疎開先で借りていた裕福な農家の隠居に、八畳間が一つあった。母とそこで一年ほど過ごした。京都の家は奥の間で四畳半だった。東京で妻と借りたアパートは六畳一間で、しかし京間の四畳半より狭苦しく感じた。社宅が六畳と四畳半だった。そして三十三歳頃に建てたこの現在の我が家は、六畳間ばかりの二階建てだが、もう物に溢れ身動きがとれない。幸い隣家を買って親たちが移転してきたのが、そのままわたしの手にあるが、家屋は古びたまま本の倉庫になっている。二軒が地続きなのだから、どうにか仕様もありそうだが、考えるだけでも面倒くさい。この分では生涯六畳の部屋以上には暮らさないだろう。辛抱が成るのなら、そんなことは二の次でわたしはいいのである。妻は三百坪もの家屋敷で育った人だから、さぞ侘びしいだろうが、そういう苦情は聴いたことがない。有り難い。
2000 3・27 5

* 我が家の黒い少年が恋にやつれて、近隣近在を泣いて歩く。夜も歩く、昼も歩く。ときどきよその猫と衝突しているが、そのなかに「マゴ」の同胞に違いないと想われるよく似た漆黒の猫がいる。ときどき帰ってきて、入れてくれと鳴き、入れてやると一声二声挨拶するのはいいが、強烈に匂いツケをする。ウーン、こたえる。わたしの足にもひっかける。ウーン、キビシイ!!  少年は少し食事して、もうたちまち外へ出せと顔を見る。戸を開けてやると、そそくさと出て行く。これぞ「憂き身をやつし」おるのだと思い、ご近所に申し訳なくあやまりながら、出してやる。この家の子ですよと、確認させるためにだけ寸時帰って一飯にあずかり、昨夜も一昨夜も一宿もせず咆哮と彷徨の「のらもの」を演じきっている。

* 愛したネコの子のノコが、赤い柄の座布団に脚を折って顔をあげている佳い写真。これをパソコンにとりこんだ。寸法がかなり自在に替えられる。スクリーン一杯に大きくしてみると、「頼むから喋ってよ、何か言ってよ」と声を掛けてしまうほど、懐かしい。愛おしい。
田中君達のおかげで、パソコン利用にまた幅が出た。そういえば、昨夜は、妻と「糖尿病」をヤフーで検索して、いろんなものを見た。あんなに有っては、迷うだけだ。だがデータを追って多くを調べることの出来る実感は持てた。わたしはホームページに書き込む以外に手を広げたくないので、データ検索は余りしてこなかった。
2000 3・31 5

* 早起きして、聖路加国際病院眼科外来に十時に予約票を出した。検査と診察の終わったのは午後一時十分ごろで、幸い、眼底等に問題無く、眼鏡の度は確かに狂ってきているので作り替えねばならないが、今度は十月にいらっしゃいと、長く待たされたことも忘れてしまいそうな嬉しい結果であった。慢性的に眼精疲労に悩んでいるところなので、眼底にも異常が見つかるのではないかと本気で案じていた。なによりであった。院内で昼の注射をして院内食堂で「聖路加弁当」を、三十分間はお預けのあと、美味しく食した。食べ物がみな美味いというのは幸せなことだ。

* 妻に連絡し、打ち合わせどおり池袋で逢い、目蒲線目黒駅の、また大岡山駅のすてきな変わり様に感心しながら、東工大の櫻を例年どおりに観た。検査薬で瞳が開いていて、十分視力が働いていなかったし、眩しいのでサングラスをつけていたせいもあるが、花は例年よりまだ早く淋しかった。もっと淋しいのは、スロープに大きく咲くはずの「青櫻」の大樹などがすべてがらんと撤去され、芝生が植えられていたこと、特色あった植え込みなどもみな影を消していたこと、これには落胆した。留学生会館前の並木だけが満開に近く、例年のように何枚も写真を撮った。妻は前髪の生え際に帯状疱疹の傷が残っていて治療中のガーゼをくっつけ帽子で隠していた。
ことしは、二人とも何かしら正月以来ものに突き当たり当たりしてきたが、この辺で、いい方へ様変わりしたいなと思いながら、百年記念館でコーヒーをのんだ。残念ながら駅へ戻りかけた校門外で妻のエネルギーがストンと落ちた。薬をのみ、水分を補給し、わたしの血糖値急降下用に用意していた角砂糖を二つ口に入れて、漸くゆっくり歩いて電車に乗れた。ちょくちょくこういうことがある。山手線で妻は熟睡していた。
こういう時は食べねば力が出ない。池袋スパイスの上の「甍」で、いつものように懐石を注文した。妻は、明日、わたしと同い歳になる。前日を祝って、銚子を一本あつらえ、わたしも猪口に一杯だけもらって、嘗めるように楽しんだ。妻は日頃は呑まないが、わたしに呑ませまいために、また体調がこういう時にはむしろいい刺激になるので、珍しく、銚子一本を呑みきった。本人も初体験なら、わたしも見たのは初めてのことだ。
料理の「光琳」は今日は当たりで、とても美味かった。和食はバランスよく、ぜひ避けた方がいい食べ物もなく、量もちょうど。食べる前に注射し、わたしは二十五分ほど箸を持たなかった。

* 保谷駅の花屋で佳い紅薔薇を二本買い、妻を祝った。タクシーで帰った。
2000 4・4 5

* 同じ六十四歳の夫婦になった。

* 妻に敬意を表して、いや誕生日をダシにして、今日だけは好きに食事をすることに勝手に決め、朝と昼とはぐっと量を減らしておき、晩餐に備えた。息子と同居人とが参加してくれるというので、雨であったが、麹町の「味館トライアングル」を予約し、市ヶ谷駅前で息子たちの車に拾われ麹町へ。
なんとも美味い食事だった。シェフ佐藤豪さんの念入りの料理。品数豊富にバラエティーに富み、一つ一つの食べ物に、そして佳いワインで、文句なしの久しぶりのグルメ気分。ワインは量をおさえたけれど、食べ物は遠慮なくぜんぶ一人前をデザートまで賞味した。何としても、ここへ来て妻の誕生日を祝ってやりたかった。みなが、しみじみと満足した、満腹した。

* 保谷まで車で帰り、今夜は息子たちも泊まって行く。佐藤さんの店でも紅い薔薇白い薔薇をもらい、妻は元気が出たようだ、昨日から今朝へ、今朝からも午後まで、もう一つ元気がなかったのも、いい料理といい酒と、そして息子たちの顔も見て、嬉しそう。

* わたしは図に乗って、帰ってから、念願のビール中瓶を呑んだ。最高。
だが、食後二時間の血糖値は233。息子は108。築山さんは120。さすがに若い人たちは良好な値。わたしは覚悟していたし、そのわりには、という値で回復は十分可能だと思う。明朝の数値が判断材料になる。
それよりも今朝から昼まで節食したままインシュリンは規定量を注射していたためか、麹町へ向かう西武電車の中で、唇も白くなり手の甲も掌も白くなり、口渇や違和感を生じ、慌てて池袋駅でキャラメルを買って四粒食べ立ち直った。あの方が危なかった。
2000 4・5 5

* 息子の書いた初めての小説らしきものを読んだ、七八十枚に書いてはどうかと思う題材の、シノプシスのように、二十枚余に書かれていた。落ちついて素直に、清明な文章で初恋を書く。いいことである。照れてしまって文章を跳ね返らせるのは見苦しく緩くする。また書かでものムダを書いてしまうことになる。
ほぼ終日息子は今日も一人居残って、隣の棟のわたしの書斎を占領すべく、段取りをつけていた。同居人は、お茶の稽古だと、先に五反田の家に帰っていった。
そのあと息子と母親とわたしと三人で、いろいろと大いに語り合えた。よかった。子供と話す嬉しさはなにものにも代えがたい。まして初めての小説作品が隣家からメールで送られてきて、それを読んで批評しながら話し合えるなんて、想像したこともなかったものだ、昔は。腰をしっかり据えて、落ちついて素直に。ほめられたら警戒し、批判には謙虚に。
2000 4・6 5

* この「私語の刻」の一つの働き、最初から考えていたわけでない働き、に気づいている。亡くなった兄恒彦の適切な名言に「個対個」で付き合おうというのがあり、わたしは服膺してきた。兄とは兄と、甥たちとは一人一人の甥や姪と、と。それはまた他の多くの知人や友人とも同じことであった。まさしく「個対個」で付き合ってきた。
だがホームページに「私語の刻」を持ち始めてからは、わたは自身のかなり多くの「個」の面を、同時に多数の、特定・不特定の多数に同時に明白にし続けてきたことになる。「個対個」でなくなったのではない、より細やかな「個」を自分で自分に表出せよと命じることになっている。そう思うのである。「私語の刻」に実現された「わたし」と、例えばよりこまやかに「メール」などに表現されている「わたし」とが自然に表れて両立している。建前と本音といった乖離があるとは思わない。それでいて「メール」はやはり「個対個」である。そこでしか洩らせないものが有る。問題は、メールを有り難く思うぶん、つい、メール交信の出来ない知人や友人と相対的に疎遠になつてはならないと自戒している。メールの可能な人は、そうでない人よりもまだ遙かに少ないのだ。
2000 4・19 5

* 黒猫のマーゴは精悍な青年になり、申し分ない男性になった。怪我もして帰る。医師は積極的にキョセイを勧めてくれる。以前のネコやノコは女性であった。殖えては困ると、深く考えずに手術してしまったが、母親に一度二度なった母のネコはとにかく、一度も出産の体験をさせてやらなかったノコのことは不憫だった。十九年もともに暮らして死なれてみると、ノコの子猫のマゴ猫が一匹でも遺っていたらと泣いた。女性だから謂えたことか。現在のマーゴは男性で、簡単に父親になれる。が、父子としては暮らさない。その点ネコとノコとは幸せそうな母娘で、離れることなくむつみ合っていた。
手術しないとマーゴの寿命は短いよと獣医に云われてはと、「自然」を不自然に抑制してでも健康保全を考えてやるしかないかと、困惑中。真っ黒な塊のまん中に、金碧に澄んで光る眼。ときどき、ぞっとするほど美しいし可愛い。
2000 4・21 5

* 京都今出川の「ほんやら洞」を維持し経営している、優れた写真家でもある甲斐扶佐義氏の「ほんやら洞通信」が、ゼロ号から一、二、三月号まで送られてきた。亡き兄北澤恒彦追悼号も含まれていた。「ほんやら洞」というかなり有名な場所を、浅はかに此処にわたしが解説し紹介するのは避けた方がいい、知らないも同然だから。一度二度立ち寄ったことがある。風変わりな喫茶店で、コーヒーを飲んだだけで立ち去ったほぼ行きずりの場所だった、が、甲斐さんや兄たち多くの人たちにはもっともっと別の意義ある価値ある「活動拠点」であったらしい。鶴見俊輔、中尾ハジメといった人たちの感化のもと、大勢の活動的市民の大切なオアシスふうの拠点であったのだろう、これ以上は言うまい。
その「ほんやら洞」の再建と維持に甲斐さんは自ら任じ、新雑誌を創った。その創刊以来の四冊が届いたのであり、寂しいことに兄の原稿は読めないが、兄を取り囲んでくれていた大勢の息づかいは伝わってくるし、兄にふれた文章も幾つも載っている。甲斐さんは手紙一つ添えないでそっと送ってきてくれた。ありがたい。
わたしは、兄を、兄の活動や交友や精神の向きについても、事実、ほとんど知らないままに死に別れた。だから、こういうかたちでしか兄にふれることができない。
むろん、それら一切をたとえ知らなくても、わたしの兄はわたしの兄である。しかし知らなかった兄の多彩な容貌も見てみたい、今は知りたい。それが幾らかかなえられている「ほんやら洞通信」と甲斐さんの好意とに、頭を垂れている。
2000 4・21 5

* 母校日吉ヶ丘高校の美術コースを出て、いま、小説を書いている若い後輩とのメール交信が続いている。京都と母校と美術と小説とを共有の話題にもてるので、全く見知らない人だが、懐かしい気がしてならない。友人島尾伸三氏らで出している雑誌を送って貰った中に小説を書いていた。一見とりとめないなりに文章の書けている作品に感じ、題材が京都で、母校にも縁ありげに感じられたので連絡してみた。作の質や作者の背景からすれば、伏見から出た甥の黒川創の小説にちかいのかも知れない。
黒川の方は父親と共に、今出川の「ほんやら洞」を思想や活動の拠点にしていたと謂えるだろうが、この人は「ほんやら洞」のまむかいの「ゲンセンカク」に関係していたらしい。ともに、つげ義春のまんがにゆかりの名であるとか、わたしはといえば、そういう世界とは殆ど接点すらもたない人生を歩んできた。
きのう、おそくまで、甲斐扶佐義の送ってきた「ほんやら洞通信」を四冊、読んだ。甲斐さんとは二度ほど出会っていて、ユニークなスナップ写真集も何冊か貰っている。三條大橋で出逢い忽ちに写真を撮られたこともある。それとても兄との縁で、鶴見俊輔氏と一度対談したのもやはり兄からの縁を経ている。「ほんやら洞」世界はわたしには、ふうん、ふうんと感嘆するだけで、難しく遠い地点に在る。
兄にしても甲斐さんらにしても、個々には「個と個」であろうとも、組織的に集団で動ける意志を持っていた。わたしには、それが無い。孤独に孤立してでも、わたしは、だいたい一人で歩んで行こうとしてきた。わざと世間を狭く狭く暮らそうと意図したのではないけれど、結果はそうなっている。われ、なにものにも属さず在りありたいと、心根で思い続けてきた。なぜ、こうなったのだろう。兄の北澤家、わたしの秦家のちがいが感化したろうか、そんな簡単なことでないように思われる。

* 家中にマーゴが匂いツケしてくれるので、くさいことくさいこと。生憎後ろ足の一本に化膿性の怪我があり、完治するまで外へは出すなと獣医は言う。去勢手術をすますまでに自由に外出をさせていると、致命的な病気や怪我を貰ってくる怖れありと警告されている。可哀想に外へ出してもらえず、精力あまって、もはや黒い青年は耐え難いと見える。マゴ育てもらくではない。
2000 4・23 5

* 秦建日子が、殺人ものでも刑事物でもない、まともな家庭ものの二時間ドラマを引き受けて、もうそろそろ撮影に入り、七月には放映と報せてきた。噂に少し出ていたもので、話の元ネタはあるのだが、それに拘泥しないで書いたという。殺しでないドラマと聴けば、それだけでも、ウンよかつたじゃないかと思う。
2000 4・28 5

* 「テディ・ベア展」のオープニング・レセプションに、日本橋三越本店へ。
送られてきたテディ・ベアの腹部に装飾して、そこに「言葉」を書けという注文だった、そんなのを出品するのはイヤだと抵抗したが、趣旨がいいとか何とか妻にのせられ引き受けた。
繪も描けない、字もへたでイヤだつた。平和だの愛だの夢だの光だの祈りだの心だの、そういうウソくさいことを平気で書くのもイヤだった。会場にはそういう文字が溢れていた。
わたしは仕方なく、思った通りに、「逢いたい人がいつでもいる」と書いた。これは本心で、それがわたしの人生だ。
紅白の椿に青葉をあしらった。稚拙なものだ。会場の隅っこでわたしの熊君はちいさくなっていたので、おい、元気出せと言ってきた。石原慎太郎や吉永小百合など、各界から四百二十人ほどが出品していたらしい。わたしは雑踏の会場で気分が悪くなり、妻と遁れて、下の階で、ビールの小瓶とからみ餅を食べた。餅もビールも美味かった。血糖値が急に下がっていたらしい。
レセプションでは、だれだか宮家のお妃が挨拶していたようだが、椅子にかけて休んでいた。注射のチャンスがなく、仕方なく、そのままご馳走を適当に戴いてしまった。ビールも飲みワインも一杯飲んだ。和食の、好きな種類を限定して幾つも食べた。妻も大目に見てくれた。しまいにケーキも食べてしまったが、これが堪らなく美味かった。テデイ・ベアはだしにして、今晩は、妻も食べようという気でいたようだ。三越のご馳走、なかなかであった。それでも、量は、さほどは食べなかったと思う。

* 銀座へ戻って、足の痛んだ妻のためにらくなサンダルを買い、店をしまっていた鮨の「きよ田」を覗いて、おいしい鮭の切り身一尾分を姿のまま貰っていたお礼を言った。酒が呑めなくなったというと、いいことだと手を拍たれた。もう十二分に飲んできたではないかと言うことらしい。
「ベレ」へ寄った。妻は「ベレ」へも久しぶりで、水割りを一杯飲んで「飲めたわ」と自分で感心していた。わたしもボトルから、ウイスキーを少しずつオン・ザ・ロックで三度ほどお代わりし、早めに引き揚げた。銀座一丁目の好きな店でパンなど買い、有楽町線で。今日は私の方がいちど気分が悪くなったものの、立ち直って、口腹の欲を少しく満たした。妻は元気に家まで帰ってきた。「黒い青年」がおお喜びで玄関へ出迎えてくれた。
2000 5・8 6

* カナダの友が、中学の頃の友人観を何人ものぶん書き送ってくれた。大手の石油会社の社長か副社長をしているはずの團彦太郎とこの友人とわたしとの三人で「細雪」最初の映画化作品を映画館に見に行ったなど、忘れ果てていた。「細雪」の映画を観たことはそれはもうしっかり配役まで覚えていて、何度も、それに触れて書いてきたのに。記憶というのは、ややこしいものだ。
十二人について、れぞれに適切な批評とエピソードを添えてくれているその番外に、「Untouchableと言われるかもしれないのですが、それを敢えて」と、わたしには肉親以上に身に刻んで大切な三姉妹に筆を運んでくれているのが嬉しかった。姉も、妹たちも、元気でいてほしい。
2000 5・16 6

* メール本文を欠いた同じ携帯電話番号でのメールが二度も届いたが、誰からとも判らない。そんなとき、ふと、娘かなとあてどないことを思う。明け方に、ドアをあけて朝日子が帰ってきた夢を見た。もう中学生になる孫娘にも、突然そういうことがあるかも知れないがと、まこと、あてどない空想もする。元気で、いよ。
2000 5・23 6

* ひさしぶりに息子が、もうやがて、深夜に帰ってくるというので楽しみに待っている。来週の火曜には「ショカツ」とかいう警察物の彼の脚本が放映になるとか。いろいろと忙しいなりに悪戦し苦闘しているそうだ。
2000 6・3 6

* 叔母秦つる・宗陽・玉月の命日。念仏唱名三十遍。父と母とはおおかた書き尽くしたかも知れない、が、叔母の生涯は一層内容に富んでいて、殆どまだ手が着いていない。よく人生を健闘し、多くは悔いなき卆寿の死であった。この師なくてその後のわたしがあり得たとは思われない。円満具足といった茶人ではなかったが、想像以上に弟子筋に永く慕われ、命日前後には墓参の人が絶えていない。家庭をもてなかったことを除けば、むしろ心ゆく人生を自力で築き上げ遺憾なかった。  2000 6・10 6

* 横須賀に住む年長の従兄から、『もらひ子』の「読中感」がメールで届いた。一度ぐらい顔を合わせているのかも知れないが、覚えていない。湖の本は、だが、おおかた読んでもらっている。
実父に年かさの姉が三人いた、そのどれかの姉の子ということだ、かなり年長と想像されるが年齢も知らない。そんなぐあいの従兄が父方伯母の子で三人以上はいるらしい、そのうち二人と交際がある。一人がこの横須賀の従兄で、経歴は知らない。もう一人、日銀理事で大阪支店長を経、顧問になり退職している昭和二年生まれの従兄が、練馬区に暮らしている。この人の弟らしいのが、綜合研究大学院大学の副学長か学長かを務め、平成四年に難しい研究で学士院賞を受けている。ハーバード大学の理学博士らしく、わたしの勤めた東工大とも縁のある人と風の便りには聞いていた。接触はなかった。
父方親族には、他にも理系で有力者がいるらしく、実父が戦後の一時期「理研」に勤めたというにも少し関係があるかも知れないが、わたしの東工大「作家」教授就任にこういう遠景は一切無縁であった。

無音に打ち過ごし失礼いたしました。
御本を途中まで読み、恒平さんの昔の記憶の克明で正確なのに、驚嘆しています。
一つ昔の事を想い出しました。
昭和十三年の秋でした、私は当尾(現・京都府相楽郡加茂町)の祖父の家を訪ねました。驚いたことに祖母が男の子の世話をしていました。年恰好四歳くらいで、目がパッチリしており、紺の絣の着物を着ていました。恵子ちゃん(叔母に当たりますが、私より五つほど年下)に弟ができたのかと思いました。確認はできなかった。京都市内の親の家に帰って母に報告し、質問しましたが、何かはぐらかされたように記憶しています。
あの時、当尾の祖父の家には、チョコレート色の毛並みの老いた雌犬がいまして、ちょうど子犬が二、三3匹産まれたところでした。その子犬たちの始末(捨て犬)を祖父に安請けあいして、子犬を捕まえにかかったら、玄関前の大きな松の根元にあった細い排水用土管の中に逃げ込まれ、捕獲に大いに難渋した事を覚えています。
多分翌昭和十四年になって、当尾で見たあの子供が、誠叔父の子と私にもわかる事件が起きたのだったと思います。恒叔父が精神病院に強制入院させられました。実の父親(私からいえば祖父)に乱暴狼藉を働く乱心者ということで、「平常心に戻らない限り病院に入れっぱなしにする」と親族会議で決めたらしい。「病院を出たければ父親の言うことに異を唱えるな、母子と縁を切れ」と言った成り行きであったと思われます。病院の病室まで入り込んで膝詰め談判をしたのは、恒叔父からいえば義兄にあたる私の父だったようです。「兄貴は、これを認めない限り絶対に病院を出してやらんと言いよったが、フェアじゃないよね」と甥の私に同調を求める言葉を、何回か叔父の口から聞いたことがあります。私はいつも曖昧な返事しかしませんでした。
今にして思えば、道徳律が違っていたんですね、そう、気付きます。
先に兄上の恒彦さんがなくなられたとお聞きした時、当尾で昔会ったのは、恒彦さんか恒平さんかどっちだったんだろうと思いました。今回の御本で恒平さんに違いないと確信しました。
私などは記憶力が悪い上に、他人のことに遠慮しすぎるというか、見ざる―聞かざる―言わざるの気分が強すぎると思うのですが、とにかく過去の記憶がぼんやりしすぎています。芳賀昭子君(=恒平異母妹、川崎市在住)いわく、”昔のことを幹兄ちゃんに聞こうとしても何も知らんのね!”と酷評されています。御本に出てくる、私の過去とも絡みあう部分、大変に面白く読ませていただいています。
今後ともますますのご清栄、ご発展を祈ります。

* 二人まで男の子を産んだ父と母との間柄は、なみたいていなモノでなかった。すでに寡婦であった母には四人の子女があり、二人が出逢ったとき、兄恒彦とわたしの父になる人は、母になる人の娘、亡夫との間にできた長女と、同年の学生だった。
父の父吉岡誠一郎は京都府視学に任じていた人で、父の異母弟吉岡守も、のちに府立木津高校などの校長を歴任した。そういう家柄であるが、それだからこそか、一族が挙って「母子と縁を切れ」と強権を発動、生木を裂いた。教育監督の上長の家が精神病院までを強引に利用したわけだ。「老いた雌犬」なみの母親はもちろん、生まれた小さな子たちも、あだかも「捨て犬」のように吉岡の戸籍から閉め出した。凄いことだ、生まれ落ちて直ちにわたしにはわたし一人の単立戸籍原簿がつくられ、区長は明晰に「父母の戸籍に入るを得ざるにより」と立証していたのである。
従兄の証言で、昭和十年末の生まれのわたしが、少なくも十三、四年頃には当尾の祖父の家で祖母の手に預けられていたことは、だが、分かった。
断って置くが、と、今の今わたしはこれを「史実」のようにしか感じなくて、興味こそあれ、怨念のようなものはもう持たないでおれる。卒業してしまっている。だから『もらひ子』を書いて、落としたのである。わたしの知ったことでは、すべて、無いのだ。
2000 6・13 6

* ゆうべは、二時半まで息子と妻とで、「仕事」や「人生」について和やかにいろいろ話し合えた。このあいだから、「精神的向上心のない者は莫迦」かどうかで、「努力」とか「ガンバル」とかに言い及んだ元学生君とのメールの往来があったが、たまたまある新聞が、息子の「ショカツ」という番組中のある台詞に関連して、署名記事をのせていたことから、こんなメールを先日息子に送っていた。そういうことも、改めて親子の話題になった。
三十過ぎてちゃんと自立した息子に、こういうことを言い送ったりするのは、いまだに言い続けているのは、よほど愚かしい親ばかで、いっそ異常に思う人も多かろう。私自身自分を嗤う気持ちをもっている。だが、言いたいのなら言えばいいと、息子から拒んでこない限り、よそ人の思惑は考えない。それが流儀というわけではないが、ありのまま、したいまま、である。どっちみち世間の物差しでは、かなり可笑しく生きているの文士なのだから。

* おはよう 建日子。 元気ですか。
さて、私の三ヶ月目の診察日が二十一日に迫りました。新参患者なので、健康保険証は携行していたく、戻してくれるように。血糖値は安定していて問題ないように感じますが、運動不足は相変わらずです。それでも最高86キロもあった体重が、78キロに落ちています。75位になれば自覚的には理想的で、それも夢ではない。
今日二十七日は、三百人劇場で「罪と罰」を観ます。三時開演。
帝劇の「エリザベート」を楽しみにしていましたが、わたしが座長の会議日と重なって残念ながらお返ししました。観てみたかったが。六月後半は、きみの父親は、気楽にしています。
新聞に、きみの「ショカツ」の或る台詞を引いて、コメントしている「先生」がいました。母さんが送るでしょう、コピーを。「頑張らないで」というのが、題でした。
「頑張らないで」を、あっさり肯定的に見ての評論でしたが、わたしの考えは少し違います。「頑張った」というこの言葉は好きでないので、「努力した」とやや方角を変じて言いますが、ほんとうに努力した人だけが、「努力しない」ことの真の価値を知っているのだと。ほんとうに頑張った・頑張れる人だけが、「頑張らない」ことの大切さを心から分かっているのだと、思っています。バグワンにならっていえば、よく泳げればこそ、泳がなくても水になじめるし、水に浮くことも出来る。泳げないのにいきなり水にやすやす浮こうとしても、沈み、流され、溺れるだけです。
世を挙げて、若い人たちに殊にラクに楽に怠惰に生きよう・生きられると思っているムキが、露骨に見えています。きみも、そうでなかったとは言いにくい。今もそうでないとは、まだ少し思いにくい。
「ラクにやりたい」とばかり思っていればこそ、「頑張らないで」という台詞が、お互いに安易に安直に口にも行動にも出てきて、それを聞くのが耳に心地よく、後ろめたさも薄れるのでは。安心なのでは。努力しないことの都合のいい自己弁護、言い訳、口実になり、怠け者同士で傷をなめあって、ますますイージーになって行く。そういう一面が近時ますます憂わしく瀰漫していることを、よく承知し見極めた上で、「頑張らないで」と、例えばあのドラマの若い刑事さんは言うていただろうか。作者は書いていただろうか。
今朝、チャイコフスキーコンクールで優勝してきた若い諏訪内晶子が、大学でも今でも、佳い音楽を創るためにも政治思想史を勉強している、どういう潮流や歴史からこの国のこの曲は必然生まれて来たろうかということが知りたい、必要な努力です、と話していました。拠って立つほんとうの歴史的基盤を知っているかどうかは、自分をただの根無し草にしてしまうかどうかの、分かれ目になりましょう。
「頑張らないで」と言われると、直ぐ嬉しがって簡単にそのまま鵜呑みにしてしまう風潮ですが、「頑張らない」方が「良い」のは「何故」なのかとまで、思索も直観も届いていない。それでは言葉や台詞が耳ざわりが佳いだけの、軽薄なものになると、そう、きみも思わないか。
なぜ「頑張ってはいけない」と言うのか、その根拠を実感し深く思って言うているのかどうか、新聞に書いていた「先生」にも、きみにも、聴きたいね。
わたしは、「頑張らないで」と、誰よりも、自分で自分に言っています、この頃になって、やっと。ガンバルのに疲れたからではない。頑張らないことの本当の佳さが感じられるようになってきたからです。頑張ってこなかったら、これは分からなかったろうと思う。
2000 6・19 6

* 「孫」という、たいへんなひっとソングがあるという。片端ぐらい聞いたかも知れないが、そのヒットぶりに協賛だか便乗だかで、フジテレビが二時間ドラマを製作するのを、「秦建日子」に脚本役が廻ってきた。撮影ももうよほど進んでいるらしく、主役は「いかりや長助」だという、これは、楽しみ。この人は、ドリフターズが登場した最初から、たいへんな役者だと眺めていた。息子など、這い這いしていた頃からのスターだ。そのいかりや長助の為に自分が脚本を書くなんてと、息子は感慨無量らしい。製作記者会見も今日か昨日に済ませたらしい。
ヒットソングそのものにはくっつかず、距離を置いた自前の新作ドラマだというし、殺しのないドラマだというのも、ほっとする。いい仕事になって欲しい。八月早々の放映だそうだ。
2000 6・28 6

* 明け方、娘の朝日子ががらりと戸をあけて、しろっぽいレインコート姿で帰ってきたのを夢に見た。元気でいるといいが。
2000 7・3 6

* 我が家の黒い美少年は、顔もちいさく姿態は細くしなやかで、悠々として自由なこと、ジイヤンにそのままである。妻に洗わせて、おふろが楽しめるらしい。ボテボテに太ってこないのが、いい。
2000 7・5 6

* 黒い少年が全身に蚤をもって、家中に繁殖させてくれる。さすがに悲鳴をあげて昨日は、留守中に家を燻蒸した。以来外に出しっぱなしにされていたマゴが、今、階下の浴室で洗われている様子、鳴き声が聞こえてくる。
2000 7・13 6

* カリフォルニアの懐かしい人から、糖尿病を心配した遙かな電話の見舞いもあったらしい。気持の上では家族のように心親しい年上の人で、結婚するときに姉妹してずいぶん力になってもらった。今、電話をくれた妹がアメリカで裏千家茶道の大先生をしている。姉もアメリカで伴侶を得たが、もう随分前に亡くなった。顧みれば、不思議なとしか言いようのないご縁である。不徳なれどしかし孤では無いなと、つくづく思う。
2000 7・15 6

* 今日はおもしろい日でもあった、妻がパソコンを相手に碁を打っていた。十九路盤で打っていた。初体験のはずだ、わたしが手ほどきしたときも、もっと狭い盤で覚えた。それからでも何年にもなる。途中から、おやおやと覗き込んだら、なかなかの形勢で、白番の器械側が六四で分が良かったが、黒盤の妻にも希望は残っていた。器械がどの程度の力かはよく知っている。けっこうポカを平気で打ってくれる。すこし助言しながら見ていた。広すぎる白地の三三に打ち込ませてみた。幸いに生きた。それから、あちこち攻めたり引いたりしているうちに、やはり器械は失敗を重ねて、形勢逆転、器械は「参りました。投了します」と、妻の黒番に、中押しで勝ちを与えた。ウフフと妻は二重の初体験に悦んだが、実力ではまだ当分は器械に負けるだろう。だが囲碁はいい。下らないテレビ番組に、騒がしく部屋を占領されるより、よほど有り難い。
2000 7・19 6

* 八月四日金曜の夜、秦建日子作二時間ドラマ「孫」が放映になると、もう各紙で予告されているらしい。殺人のない初の書き下ろしドラマだという。爆発的に売れた演歌の「孫」にあてこんだテレビ局の企画だったらしく、しかし歌に即したものではない書き下ろしだと聞いている。わたしたちに孫を恵んでくれそうにない息子の、ドラマ「孫」がせめては佳作であって欲しいと願っている。朝日新聞には作者名も出て予告されていたと漏れ聞いている。姉の朝日子や、孫やす香やみゆ希たちも「予告」を見つけているだろうか。  2000 7・25 6

* 娘朝日子が、今日、満四十歳になった。赤御飯で、妻と、ひっそり祝う。孫のやす香、みゆ希の誕生日にも、同じようにジイヤンとマミーとで祝っている。娘も、中年の花盛り。「お受験」になどウツツを抜かしていないといいが。健康を心から祈る。
2000 7・27 6

* フジテレビ「孫」の放映が、明日の晩に近づいてきた。秦建日子が、どこまで書いたか、ぜひ観たい。
2000 8・3 6

* 建日子  二時間ドラマ「孫」観ました。まずは大過なく終えたことを祝います。
ドラマの出来映えと、脚本の出来映えとを、分けて考えざるを得ませんが、私の評点では、題材と役者の力とで前者がずっと高く、後者の脚本には、注文がかなりつきます。
導入部に時間が掛かりすぎ、その分、テンポのゆるさが、写真の「説明的」傾向を招いていた。平凡な写真が、前半にかなり多く、全般にも多く、そのために、「おおっ、これはナミのドラマではないな」と感じさせるより、ナミのホームドラマに「やっぱり近い」と思わせる通俗さが目立った。脚本技巧の残念な平凡さです。意外性も、きらめく表出も、殆ど無かった。「演歌的現実との妥協」がわりと容易く為されていて、惜しい気がした。むろんターゲットになる視聴者の年齢層などを考慮した妥協でしょう。だが、願わくは作者は、内心にそんな平凡な妥協を「悔しい」とくらい深く藏いこみ、いつかは全力で、妥協もなく、分かりにくくもない、佳い作品を成してやるぞと奮起して欲しい。言い訳したい中身は、聴かなくても察しがつく。だが、胸の内の「水位」を、「志」を、しっかりと高く維持していて欲しい。
東北の人たちの描き方が、とくに安易で良くなかった。もっと等身大に、平静に話しもし、振る舞っていいのでは。そういうところが、あの「北の国から」での人間描写とちがう。違いすぎる。きみの、あれでは、東北の人たちは不快だろうな、いかにも騒がしい田舎者にされて。ところが田舎にも、落ち着いて、静かな、クレバーな日本人は多いのです。むしろ東京人のほうが概して浮薄で騒がしいぐらいだ、我々も含めて。
もう一つ、看護婦の冷静なようで感情的なきつい演じ方、も一つも、も二つも、良くない。どう良くないかは、わかっていると思う。
いかりや、柳葉、七瀬は、役を巧みに、かつ真面目にこなしていた。それと、あとで出た担当医が、とてもよかった。あの医者の等身大に堅いぐらいな芝居が、ドラマのリアリティーを、よほど大きく担保してくれた気がします。元職がら、医者や看護婦は、ずいぶん多く見てきたし付き合ってきた。あの医者は現場から借りてきたかと思うほどリアルだった。幕開きの方の産科医の方が、温かい感じの分、むしろツクリモノになってシンドかった。むずかしいものです。
「表現」しないことの言い訳に、視聴者には「説明」が必要だと謂い、「説明」過剰の言い訳に「表現」していては分からないと謂い、いつでも表裏同じの逃げ道を持ったテレビ脚本家という「立場」の安易さ。これが、創作者としては怖い。ややこしい「制約」の上で仕事をしているのは分かっている。その上で、一人の創作仲間として、「仲間褒め」しないようにと、わたしが敢えて言うている真意を、汲みたまえ。
終わり無き、道程。謙遜に、もっともっと意欲的に大胆に歩んで下さい。
そんなところです。いい機会を得て、いろいろと考えたろうと思います。きみのホームページに、どんなことをきみが書くか、楽しみだ。  父
2000 8・4 6

* 複雑な気分でいる。早起きして、黒い少年をお医者に運んだ。かねてより強く奨められていた手術を受けさせようと。そういうことを、出来れば避けたい気がある。しかし猫白血病も多く、少年だけに、格闘し戦闘してくる。怪我もしてくる。間隔をおいてだが、かなわぬ恋に、夜通し、それも何日も、高啼きし徘徊し、憂き身をやつすことも、もう数度有った。
無事に長生きさせたいならと、医者は手術を奨める。妻を、母親とも祖母とも思うのだろう、孫のように赤ん坊のように甘えて抱かれたがる。いとおしくて、やはり長生きをさせてやりたい、マゴのためにも、妻のためにも。
で、連れていった。預けてきた。夕方過ぎには引き取りに行く。同じなら効果が見えて欲しい。しかし我々の勝手を押しつけたかなという、かすかな悔いはある。まえの、母性で有り得たノコの時は、もっと悔いた。一度は母親のネコのように子供を産ませてやりたかったと今でも思う。マゴは父性ではあれ、父親として子を育てない。それを思うのも、同じ男として奇妙な気分である。母ネコの子育ての賢さや懸命さは、わたしたちを感嘆させたが、マゴは子を産ませても子を育てない。そこに、かすかに付け入って手術台に送ったという感じだ、それがまた落ち着かせない、わたしを。
2000 8・8 6

* 機嫌がいい。黒猫のマゴの手術は無事に済み、白血病その他の病気も陰性で、術後の衰弱もなく夕方に帰宅以降、ごく順調におなかもすかせて、麻酔後の嘔吐もない。妻の膝にも身軽にとびのり、甘えている。少年ないし青年の体調としては、スマートで体力もあり、上乗と医者は太鼓判。ま、孫が「猫」であろうとも、良かろうではないか。
わたしは、昔から、『狐草紙絵巻』であれ『信太狐』であれ、ほんとにその狐が好きであったなら狐が妻でもいいではないかと想っていたような男である。孫は「人間」でなければ、などと思わねば良いのだ。まだ人間の孫は諦めたとは言わないが。
2000 8・8 6

黒い少年は元気旺盛。手術後というのに、家中を韋駄天のように駆けている。可愛い瞳をしている。
2000 8・9 6

* 八月には、かつて愛猫ノコがなくなり、月末には老父長治郎がなくなった。歳月の速やかさにおどろく。
2000 8・11 6

* 朝日新聞社から発行の「論座」とかいう雑誌に、森嶋通男氏が心のこもった亡兄北澤恒彦の追悼の文を書かれているという電話の報せがあった。どのような雑誌か、知らない。ありがたいこと。
2000 8・12 6

* 兄の新盆である。江藤淳の自決からもはや一周忌もすぎてしまった。迅速の思い新たである。
2000 8・15 6

* 零時前、ロンドンから甥の北澤猛が電話してきた。数理経済学の世界的な泰斗として知られた森嶋通夫氏の家にいて、森嶋氏からわたしへの質問を、電話で中継してきたのである。どうやら生母の父のことにかかわって、阿部房次郎という往年財界の覇者のことなどを確認されたかったらしい。
猛は、穏やかな元気そうな声でゆっくり話していた。手持ちの『死から死へ』を森嶋氏のところへ置いて行くので、また送ってくれとのこと、お安い御用である。
2000 8・17 6

* 京の河原町四條、鮨の「ひさご」の主人が、電話で、商店街のための原稿を頼んできた。前には「ひさご」のために書いたことがある。コマーシャル原稿というのは、せいぜい数度ほどしか記憶がない。京都へ、また行きたくなってきた。
「ひさご」との縁は、兄の北澤恒彦がつくってくれた。中小企業経営診断士という肩書きのある兄は、その方から大いに「ひさご」の主人を啓発したらしいのである。

* その兄のことを、森嶋通夫氏が、朝日新聞社から出ている雑誌「論座」での連載原稿第15回目に書かれているのを、今日、読んだ。
去年の今頃、兄は病苦にむち打って、イギリスにまで息子の猛と旅をしていた。ロンドン在住の森嶋氏とも逢ったのかどうかは分からないが、氏の原稿は、わたしにも、わたしの母にも触れられてある。お許しを願い、われわれに関連の箇所だけを、ここに抜粋させていただきたい。ホームページでのわたしの友人たちにも読んでほしいと願うのである。

* 森嶋通夫 終わりよければすべてよし 「論座」 2000.9月号(朝日新聞社)より抜粋

私が北沢恒彦にはじめて会ったのは八九年の京大での連続講義の時だった。学生運動の成果として京大の経済学部の学生は、彼らが選んだ先生の連続請義を開催する権利を獲得していた。講義はその年出版された私のRicardo’s Economics に則っていた。学生の出席率はよく、教室は満員だった。前から五列目くらいのところに年配の人が坐っていた。
「あなたはどなたですか」と私は聞いた。彼は「京都市役所の者ですが、傍聴禁止なら退場します」とはにかみながら言った。こうして彼は講義に皆勤した。講義の回数が増えるとそのうちに親しくなり、親しくなると「一緒に肉でも食いに行きませんか。神戸にうまい所があるのです」と誘われた。神戸まで行くのは大変だから私は断った。彼は「四条に安いところがあるから行きましょう」といって、私たち二人を京阪四条駅を降りてすぐの、安そうだが、おいしそうには見えないレストランに招いてくれた。
その時に彼は、何か日本で味わってみたいことはありませんかと私に聞いた。私は別段何もないが、強いて言えば畳の上で日本の布団に寝てみたいと一言った。彼は「僕が言えば必ず引き受けてくれますから頼んでみましょう」といって、四条富小路の徳正寺を紹介してくれた。私たちはその年の正月をその寺の庫裏で過ごした。
私が神戸大学で話をした時にも、彼はわざわざ神戸まで来た。龍谷大学で講義した時のセミナーには徳正寺の住職と奥さんを連れて来た。私は徳正寺の宗派を知らないし、龍谷大学が仏教系の大学であることは知っていたが、何宗の何派なのかもよく知らないので、食い合わせ症状のようなことが起こらないかと心配したが、セミナーは無事すんだ。しかしその日の私の出来は悪かった。
立命館大学で教えることになってからも、彼は私の講義に皆勤してくれた。ただしその後半の頃は彼は京郡市役所を退職して精華女子大学の先生をしていたので、時間の都合上隔週にしか出席できなかった。彼が異常といえる程の興味を私に持っていることは、その頃の私にはよくわかっていた。しかし彼は特別な質問を何もしなかった。精華女子大では文化論の先生をしていたので、彼は私が雑談としてするイギリス観やイギリスの目から見た日本論に興味を持っているのだと思っていた。
ある日、彼は乗って来た自転車を押しながら、「先生の『経済成長論』を読んでいる。ありゃ大変な本ですな。だけど、もう数回読み直せば克服出来る所までこぎつけた」と言ったので私は驚いた。その後彼は私のCapital and Credit を読み始めたということを葉書に書いて来たから、彼が私の経済学に興味を持っていることがわかったが、私に会うまでは私の経済学の本は読んでいなかった管だ。
私はその頃、彼が高校生の時代に、学生反戦活動に参加し火炎瓶を投げて逮捕されたりして、大学の卒業が遅れたことを知っていた。その後も京都べ平連の中心人物の一人となった。彼は同志社大学法学部を出ており、マルクス経済学の知識はあっても、マルクスの解釈は私とは全く違う上に、彼の年齢ゆえに、私のような考え方をもはや受け入れられないような頭になっていると私は思っていた。彼の弟の秦恒平(元東工大教援)は彼のことを「心優しい兄」と書いている。それに全く同感だが「心優しさ」だけでは数理経済学の論理を克服出来ないとも私は考えていた。
驚いたことに、彼は私が九七年に天津の南開大学で講義をした時に、天津までやって来て私の講義を聞いた。日本では、折角彼が来ているのだからと、彼用の話を講義のなかに挿入して彼にサービスしていたが、そういうことは中国ではしにくい。私が英語でサービスしても、それが彼にうまく通じるかどうかは不明だし、講義の後は中国人に取り巻かれて彼に直接話をする機会はほとんどなかった。
そのあとは大阪市立大学である。彼はその大学の大学院の学生であったそうだから、アット・ホームであった。しかし一緒にご飯でも食べようと声をかける余裕は私にはなかった。最後に私の送別会があった時、そそくさと帰る彼を追い掛けて「少し話をしていきませんか」と言ったが、次節に書くように「ターンパイク定埋の所を読み上げました」と言って、振り切るように彼は去っていった。

私は彼のもう一つの面を全く知らなかった。彼自身数冊の本を書いていたし、彼の実弟秦恒平は小説家でもあった。以下に書くことは、彼の死(自殺)後、二人の書物から私が知ったことである。北沢はそのことを敢えて私に隠したとは思わない。断片は聞いていたが、それらがまさか以下に書くような実態の断片だとは思わなかった。
以下は秦恒平の『死なれて、死なせて』(弘支堂)と北沢恒彦の『家の別れ』(思想の科学社)に基づく、彼らの母親と彼ら自身についての悲しい物語である。母は阿部鏡子といい文才のある才気にあふれる人であった。彼女の父は彼女が一一歳の時、東洋紡績から退陣することになり、そのあとを「後年財界の覇者として識られた当時の青年層F・A氏」が継いだ。退陣した父は韓国に行き、彼女も住み慣れた家から追い出された(阿部鏡子「わが旅・大和路のうた」による、未見)。
F・A氏が誰かはわからないが、阿部房次郎であるならば、当時の東洋紡社長の彼は「財界の覇者」とも一言えるし、同じ阿部姓の彼女の父は阿部房次郎の前任者であるから、阿部一族の内紛の結果、鏡子の父は放り出されたのだとも見られる。古い話だが東洋紡の社史でも読めば、この憶測の正否ははっきりするだろう。その後鏡子は結婚し、四人の子供を産んだが、夫が死んでから彼女は生計を立てるために彦板で下宿屋を始めた。
そこへ北沢・秦の父が彦板高商の生徒として下宿し、彼女との間に彼らをもうけた。まず生まれたのが恒彦(北沢)で一年後に生まれたのが恒平(秦)である。彼らの父は、阿部家に下宿をはじめた当時は一八歳であり、鏡子にはすでに同じ年の娘がいた。彦根で生まれた北沢は恒彦、平安京生まれの秦は恒平と名付けられた。父の家はかなりの名家(吉岡家)であったから、体面を重んじる吉岡家は子供をすぐに養子にやり、鏡子も結婚していた先の家から放り出され、亡夫との間に出来た四人の子供も孤児になってしまった。成人しても恒彦と恒平は長い問兄弟付き合いはさせてもらえず、想像し得るように父方(吉岡家)にも母方(阿部家)にも出入りできなかった。「子供たちが北沢ないし秦の子供と
して暮らしているのを乱したくない」という配慮で父と子供たちとの間の連絡もなかった。恒彦は自分の子供たちとの関係はあっても他の家族から自分や子供を切り離していた。恒平も彼自身が「四○半ばをすぎる年まで、血縁にかかわるすべてを拒絶し統け」てきたそうだ。
しかし母は必死になって子供(特に恒平)に逢おうとした。「いとけなき私や私の兄の行方をさがし求めて、(母は)ほとんど狂奔した。ただもう兄と私に執着し、その執着心にすがりつくようにして死ぬまで生き続けた」と恒平は書いている。鏡子は色紙に「恒平さんヘ」と書いて
話したき夜は目をつむり呼ぴたまえ
羽音ゆるく肩によらなん
という歌を残して、死んだ。彼女は「不治の傷と病とをうけてほとんど自ら死をえらんで逝った」と恒平は書いている。私は秦を知らないが、北沢同様心の優しい人だと思う。
私は恒彦と恒平とでは恒平の方が文才があると思うが、彼らが書き残した鏡子の和歌を見れば、彼女は二人の息子よりも優れた文芸の才能を持っていたように思われる。そういう彼女の激情と非常識が生んだ悲劇だが、またそれだけに彼女は驚くべき立ち直りを見せた。彼女は四○歳代にさしかかった頃、大阪に新設された保健婦養成校に入学し、卒業後、奈長県で看護婦兼保健婦のような仕事を始めた。晩年には奈良県下の未解放地区の診療所で働き、彼女に世話になった人たちは彼女の献身的な活動を絶賛した。世俗的な倫埋基準から見て、それまでの彼女が魔性の女であるとすれば、後期の彼女はマリアのようだといえる。
シャイで、用心深く引っ込みがちの秦は長い間父をも母をも拒絶していたようだが、母の性質を受けて秦よりは前にでるタイプの北沢は、少年の頃から母とも「微妙に連絡を保っていた」ようである。私が彼と付き合うようになった頃には、母はずっと前に死んでいたが、彼は実父にも養父にも非常に親切にしていたことを私は知っている。
親類付き合いというものを知らなかった子供達に伯父や叔父、従兄弟、従姉妹への親しみ方を教えるのに、北沢は家族単位の付き合いでなく個人単位で付き合うことを秦に主張したそうだが、普通の家庭環境に生まれたものならば、自然に知っている親類付き合いの仕方を、白分達で子供の為に見つけねばならない北沢、秦の人生はさぞかし大変であったろう。その結果得た北沢の「個人主義的解決」という知恵は、彼の友人の選ぴ方にも及んでいると見なければならない。そうすると、彼は私の中に何か惹かれるものを見たから、私を追っかけ、私の書物を繰り返し読んだのである。なぜ彼は自殺したのか。なぜもう一度私に会おうとしなかったのか。イギリスと日本に別れていても、生きてさえおれば、会うことは不可能ではないのに。

* 森嶋教授の記事には、あたりまえだが、いくらか、事実と言い切れない点も含まれる。中にもあるように氏はわたしのことをご存じないし、母や父のことも、書き遺したものも見ていられない。しかし九割九分以上も不自然なところは感じられなくて、しみじみとした。母のためにも兄のためにも、これ以上はない供養である。森嶋氏ほどもとても知り得なかった兄のことを、たくさん教えていただいた。感謝に堪えない。
いま一度言っておく、氏は、数理経済学の世界的な泰斗として知られた人である。

* もう一つ特筆しなければならない、森嶋氏の文は、千葉の勝田貞夫さんの親切な教示にしたがい、e- typist をはじめて用いて、スキャナから文字認識し、校正しえたものの貼り付けである。こういうことも、従来は知らなかった。なるほど認識率は八割ぐらいかも知れないが、校正は利くのだし、一字一字書き込むよりは、能率はわるくないと思われる。書き込み途中の『慈子』の終盤を試みてみれば、能率の差は実感できるだろう。誤認識だけを拾えばいいので、安心感ももてる。 2000 8・18 6

* 黒川創から、父と祖父との新盆に京都へ行き、ひさしぶりに大文字の送り火もみてきたと便りがあった。一周忌には「偲ぶ会」がもてそうだとも。よかった。世間のことに疎くて、黒川がどんな仕事をしているかも知らないでいるが、この兄も、ヨーロッパで暮らす弟北澤猛も、幸い元気な便りをくれて、何よりだ。
2000 8・20 6

*   話したき夜は目をつむり呼ぴたまえ
羽音ゆるく肩によらなん

家を空けていまして、数日ぶりに湖のお部屋をお訪ねしました。そして、お母さまのこのおうたに泣かされています。
あちら側へ行ってしまったわたくしのたいせつな、そして慕わしいひとびとが、ときどき、肩のあたりに来てくれる、そう感じられることがあります。「あ、来てくれた」。この世に残しておいた拙いわたくしのために、ときどき、こちら側に来てくれる、来てくれてそっとわたくしの肩に手をおいてくれる。「どうしたの」「悲しまなくていい」「辛抱なさい」──。
幻想とか錯覚とか、割り切ってしまうには、せつなく、かなり現実味を帯びて感じられて。
いい年をして甘ったれたことをと言われそうですが、こうした亡きひとたちに守られ、助けられてきたという感じがしております。
お母さまのように「呼ぴたまえ」と言ってくれたひとも、「羽音ゆるく肩によらなん」と言ってくれたひともいません。けれど、わが亡きひとびとも、失礼ながらお母さまと同じおもいであったかと。お母さまのおうたは、世を同じくしながら、逢い得ぬわが子への呼びかけでありますけれど。
去年の秋、廣澤池近くで、採ってきたのを蒔いた数珠玉が五、六本、育って実をつけてくれました。白い糸くずともヒゲとも見えるものを一粒に二本づつつけて。
涼しくなったら、また出かけたい、今度は萩の咲いているころ、それから稚児ヶ池にも。

* 森嶋通夫さんの原稿に引かれていたわたしの生母阿部ふくの歌である。森嶋さんはわたしの『死なれて・死なせて』でこの母の短歌に出逢われている。この「恒平さんに」と書いて遺された母の短歌を、わたしが初めて色紙の上で読んだのは、母の死を知ってからも何年も何年も経ってのちのことであった。遺品をわたしは妻に命じて天井裏へ仕舞わせてしまい、頑固に見なかったのである。
母の遺歌文集にもこの短歌は載っていなかったかも知れない。
母が臨終の床にいて、やっと刊行に間に合ったらしいこの歌文集『大和路の歌』は、校正も人任せであったとみえ、明快を欠く行文もまま見える。
わたしの眼にまずはと想われる歌を選んで、先の本にも、講談社版『昭和万葉集』月報にも、湖の本の『歌集・少年』の付録にも載せて置いた。それが幸い森嶋さんの嘆賞を得たのである。

* なにかしらが、「肩に」よってくるという感覚は、母の短歌を知る以前から、わたしは、はっきり持っていた。今でも、毎夜欠かさずに就寝前に本を音読するのは、そういう「肩に」よってくるモノたちのために、いっしょに読むという気なのである。
私の背中にはいつも「風」がそよいでいます、その正体が知りたければあなたにだけは教えて上げると、もう随分昔だが、受賞して作品を発表し続けていた頃に、未知の人から手紙をもらったことがある。正体などというのは知らぬが花で、返事は省いた、が、「風」とは分かりいい表現だと思い、今も想っている。
2000 8・22 6

* 建日子が大忙しでやって来て、ふうふう言いながら仕事に追いまくられ、つむじ風のように帰った。秋からの連続ドラマを一応単独で始めることになり、進行中なので息つく暇もないらしいい。「孫」は概して「絶賛もの」だったらしく、「ひどいことを言うのはオヤジだけ」とか。それはないと思う、あの程度での絶賛はお安いと思うが、この業界の価値判断は、すべて「視聴率とわかりやすさ」であるから、仕方がない。ま、せめてわたしだけは、ガンとして、わたしの良い・良くないのバーを下げないことにしておこう。仕事はいっぱい来ているらしい。ま、ヘンな社会であり、それにしてもよく早く食い込んだものだと思う。びっくりしているが、まだまだ、ホッともしていない。人間理解において、今のままでは偏跛の不足は余儀なく露出してくるだろうから。
2000 8・27 6

* 明日で、秦の父が亡くなって十一年が来る。暑い日だった。
2000 8・28 6

* 父長治郎の命日である。平成元年の今日、逝去。明治三十一年生まれであった。
2000 8・29 6

* 十月十日火曜夜から秦建日子脚本の連続ドラマ「編集王」が始まると、テレビは再々予告しているらしい。素材に劇画でもあるか、おやじは見てられないからと息子は予防線を張っている。
2000 9・27 7

* 今夜から、連続テレビドラマ「編集王」とかが、秦建日子の担当脚本で始まるという。下敷きには劇画か何かがあるらしいが、ストーリーは創るのだろう。前から、「おやじ向きではないよ」と予防線が張られている。局側からの最初の注文が「パンツを脱げ」であったと息子のホームページを見ると告白している。この注文はいろいろに取れて意味深長と謂うておこう。裏番組は有力、視聴率は厳しいだろうが、健闘を心から祈る。
2000 10・10 7

* 連続ドラマ「編集王」第一回を見た。むちゃくちゃヒドイといったものでなく、なんとなく最後まで見ていた。ヒーローの出来がどうのこうのと言いたい気も、特には、ない。大竹しのぶが出ているのにびっくりした。芯にいる小味な若い女優が、ちと珍しいタイプで、悪い感じでなかった。東大建築出の新人女優の方にはとくに印象がなく、男たちには、蟹江敬三ほどのベテランが加わっているのが安心だった。ま、無事に船出したものと見ておく。
2000 10・10 7

* 老いた親たちをことごとく見送り、人のわざをし終えて一息つく寂しさは、体験してみないと分からない。あんなに衰えていた親でも、やはり親として頼みにしていたのだったと分かる寂しさと心細さ、うす寒さ。ひとりでこれからは立っていなければと思うのである。
2000 10・11 7

* 秦建日子作のどらま「編集王」には、見ようによれば「マンガ」を介しての批評的な問題や問題意識が角を出していて、今後の育ち方しだいで、或る意味も意義も持てるかも知れない。愚劣で弊害のあるマンガ雑誌というのが確かに在るのだろう、手にしたことが皆無絶無でわたしにはしかとしたことは言えないが、玉石混淆しているのだろう。そして、自然な反応として愚劣な者への反感と反対運動も生じるのは分かる。分かるけれど、そういう動きの根の部分に、往々にしてまた愚劣な偽善や反動や臭みのからんでいることも否めない。遠回しに言えば官憲や行政の権威にすり寄りながら、自分たちの基本的な権利を貢ぐようにお上に返上している動きにも成って行く。だがまた、出版や編集の野放図に自己肥大した言論表現の自由の名にかりた愚劣な儲け主義がはびこっていて、それこそが諸悪の根元なのであることも、もっと自覚し、自浄化してもらわねば困る。それをやらないから、日弁連ほどの巨大な弁護士団体が、強制的に官憲と協力して愚劣出版や報道に向かい、刑事罰を背景に吶喊しようとするのだ。それが出版や報道の規制に止まらずに、拡大されて市民的な「個」の権益の強制的な取り締まりへまでも拡大して行く道がつくられ、結果として官憲がほくそ笑んで便乗拡張の引き金を用意しているのと異ならないことになる。堪らない。

* 「編集王」が、そういう風潮や潮流に警告できるほどのおもしろい鋭い視点を見失わないで呉れるといいが。
2000 10・11 7

* 少女とあるのは『清経入水』のなかの、幼かった娘、朝日子のこと。どうしているだろう、幸せでいて欲しいが。せめて個と個との電子メールがつかえれば嬉しいのだが。孫のやす香やみゆ希も、もう器械になじめる年齢になっているだろう。突然、やす香から、ジイヤンやマミーにメールが届いたら、どんなに嬉しいだろう。
2000 10・11 7

* 今から京都へ。明日は器械の前に坐れない。黒い少年マゴを置いて二泊も外へ出るのは初めてのこと。夜中の四時頃にテレビ局からまわってきた建日子が、いま、となりの家で寝ている。マゴの面倒を頼んである。
2000 10・13 7

* 建日子脚本の「編集王」第二回を見た。編集といっても文藝ものでも専門書でもない、マンガ雑誌の編集である。とは謂え、編集の難儀さは編集者を十五年経験し、編集長らしき立場にもいて識っている。作家としても編集者たちとは三十年以上も付き合ってきているから、苦労も楽しみも嘆きも十二分に察しがつく。受賞して文壇に出た頃のわたしの新聞紹介記事には、「A級の編集者」としてあることもあった。上司が記者の取材にそう持ち上げてくれたのだが、わたしは編集の仕事が好きで、誇らしかった。今でも好きだし、それだから「湖の本」が出せるのである。編集者がどんな気持ちでいるかも、編集者と付き合う作家からみた編集者の言動や内心も、よく知っている。
むろんわたしの場合は医学研究書の編集者であったし、作家になってからは、いろんなタイプの出版社のいろんなタイプの編集者に無数に出逢ってきた、だが、マンガ編集者との付き合いはない。それでも、分かるのである、いいもわるいも。
建日子のテレビ仕事の、敵は、目的は、「視聴率」であるようだが、マンガ雑誌では、一にも二にも「売れ部数」であるだろう。いいや医学書の場合ですら、「いい本」と「売れる本」とは常には重ならなかったし、「売れない本」は「いい本」とは無条件には言われ難かった。だいいち、わたしは「いい本」を企画出版したり、自分でも書いてきたつもりだが、そして「わるい本」と言われたりしたことは一度もないが、残念ながら会社時代も作家時代も、たくさん「売れる本」では先ずなかったから、著者としても編集者に対しても、微妙な立場にいつもいた。わたしは、だが、その微妙さの中で自分を曲げなかったし妥協もめったにしなかった。出来なかったという方が当たっている。
建日子は、およそそういうオヤジの仕事ぶりを見知り聞き知っているから、歯がゆくも思ってきただろうし、少しは敬意も払ってくれていると思われる。
今度の「編集王」では、そういう彼なりの体験や見聞もいくらか作に反映させやすいだろう、また、ガムシャラに売らねばならない「編集長の立場」ではなくて、その反措定役の熱血青年を主人公にしているのだから、或る意味ではわたし寄りのものの考え方や受け取り方に近いところでドラマを書くことが出来ている。そしてまた、秦建日子の、すこし甘いめの優しさや素直さも、わりとまっすぐに持ち出しやすい場をしめなて脚本を書いているらしい。つまり、これは、いい仕事に出来る、出来やすい仕事をしている、と言えるのである。そのメリットが、今夜の二回目にわりと素直に出ていたと思う。
無意味なわるふざけに走り過ぎなければ、これは脚本家の「地」にふれて書ける題材であり、うまく書けば質的には出世作に成るかも知れない。そう、今夜は思った。好調に行っている、そう思った。主役の原田泰造が悪くない、またライバル役の女優京野ことみが感じよく演じている。大竹しのぶもとてもサービスしてくれている。ほかにも好感の持てる役作りの脇役もいて、このドラマ、案じたほど脱線はしていないようだ。
とはいえ、女性の大勢乗ってくるタチのドラマではなく、「視聴率」にはきっと恵まれまい。わるくすると、放映打ち切りのピンチもかくごしなければなるまい、そんな厳しいことも予測される。そんなことには、しかし、腐らないでもらいたい。
2000 10・17 7

* 雨が寒々と降りついでいる。隣の家に建日子が来て仕事をしている。案じたように「視聴率」という、わたしなどからすれば、ただもう理不尽な敵にむかい悪戦苦闘らしい。言葉もない。じっと見ているだけ。

* 兄を「偲ぶ会」が、鶴見俊輔氏らの肝いりで実現するようだ、十一月に。わたしにも「三分間」での兄を語れと。だが、兄と私には語れる事があまりに少なく、「思い」ばかりが溢れている。「思い」はとても語れない。出席するとは言ってあるが、ひとりで偲べるのだ、その方が自然だと内心の声はしきりに言う。
2000 10・20 7

*  昨夜は「編集王」しっかりと観ました。ストーリーも役者の演技も佳いのに、劇画的なシーンがとても下品で、目を背けたくなります。狙いはたとえそれでも、損をしていますね。あれでは、若い女の子は敬遠します。あの時間帯は、その人達の心を掴むものでなきゃ視聴率は上がらない。娘も勤めから帰ってましたが、「それはちょっと敬遠」と、別のテレビで他のドラマを観てました。「(建日子さんの)芝居を観た時、面白く、とても佳いなあと思えた、あんなレベルの物を書いて欲しい」とも言っていましたよ。

* このメールの通りである。もっとも、「視聴率」が上がればそれでいいとは、わたしは、少なくも考えていない。なにが何でも「視聴率」に媚びた、すり寄った、そんな仕事がいいわけがない。若いのに藝達者なんかであれば、いくらかは気味がわるい。若者が「藝」のなさをふっとばして補いうるのは、烈々の意欲と志しかありえない。まだ職人づらするのは厚かましいのである。職人藝の人の徹し方を知らないのだ。なめてはいけない。
視聴率でピンチなら、それも経験。あてがいぶちに「パンツをぬげ」と言われて脱ぐのはいい、工夫のある脱ぎ方を見せて欲しい。落語の中村仲藏「定九郎」の意地と工夫。苦労したから幸運も来たと円生の藝が語っていた。仲藏も名人になった。円生も名人だった。だが、彼らの藝がなにも最上とは限らない。いくらたとえ「視聴率」が上がろうと、そういうやりかたはしないと、例えば志賀直哉なら突っぱねる。そういう藝もあるのだ。
いろんな「藝談」がある。わたしも読んできた。いいものほど、応用は利かない。だいじな藝は、自分で創って磨くしかないのだ。 2000 10・25 7

* 「編集王」には参った。気が散った。二人の若い女優は好きだが。主役のマンガそのもののような男優もわるくはないのだが。息子の書いているものだから見ているけれど、他人のものなら、振り向きもしない。
2000 10・31 7

* 昼過ぎに、電話口から、隣に来ていると息子に言われてびっくりした。朝の六時頃に来て、西の家に入っていたらしい。
かなり厳しい状況らしく、それも経験だなと思い、そっと傍観の姿勢でいる。
2000 11・2 7

* 建日子と今宵はすこしゆっくり話せた。車検を終えた自動車で、また、テレビ局との打ち合わせに今出かけた。
2000 11・2 7

* 朝日子様の作品に時のたつのを忘れて、読みふけりました。
仮に、今はお休みされていても、これほどの力の持ち主ならば、必ず、またいつかペンをおとりになられましょう。その日の訪れを、そして、新しい作品を読ませていただける日を、心静かに待たせていただこうと思います。ありがとうございました。

* 朝日子さんの作品、一気に読みました。一気に読み進めたい気持ちを抑えられぬほどの情感にあふれた作品でした。
朝日子さんの目から見た「ねこ」「ご家族」は同じ被写体を別の角度から写した映像であり、けれどもそれらがぴったりと重なり合ってさらに立体的に見えたような、そんな想いがいたしました。ぴったりと息の合った幸せなご家族だったのでしょうと・・・。
朝日子さん どんな想いを持って日々をおすごしなのでしょうか。でも、お幸せならば、お元気ならば、生きていらっしゃるのであれば、それでよいのではと、決して還ることのない娘を想い、慰め事ではなくて心から想うのです。

* 優れた創作者やいい読者からのありがたいメールが届いていた。三編をとりまとめて掲載したのも効果的であったろうと親ばかの編輯人は思っているが、身贔屓で採用したわけではない。載せるよと断わる道がないので、娘の本意ではないかも知れないが、ゆるして欲しい。あとにもさきにも、これだけしか「秦朝日子」のものはわたしたちの手元にない。親と娘でありえた昔の思い出にという感傷がないわけではないが、根本は、作品を、わたしが認めているということだ。繰り返して言うが、娘の本意ではないかもしれない。
むかしこの娘は父親に代わって、実は、二人の中国歴史上の人の、小説風の評伝を書いている。或る社の文庫本の中におさまっている。小遣いに惹かれて大学の頃に代作したもの、むろんわたしが読んで推敲した。いまもこつこつ書いているといいがと、いつか晴れやかな日のあれと、わたしも、内心願っている。
2000 11・3 7

* 仲見世にちかいところで、ショウウインドウに、めったにない佳い(何というのかわからないが、とにかくすてきなセンスの)服をみつけた。よく似合い、そのまま妻は暖かにそれを着て、銀座を経て、有楽町線でゆっくり帰宅。昨日に次いで、肩のちからの心地よく抜けた一日だった。
2000 11・6 7

* 母を九十六歳で見送った。なんと、もう三十一年余も生きないと母の生き=域に達しない。それにしては、なんと心病んでわたしは力弱くなっていることか。自分をだましだまし励まして、日々を呻くように明日へ明日へ運んでいるけれど、だましきれずに身内がぞっとするほど寒い時がある。していることの一切が、あたかも恐怖から逃れ走るのと変わりないほど、そういう意味で夢中に手足をふりまわしているのに同じいのを、誰でもなく、わたしが知っているのだから始末がワルイ。
2000 11・9 7

* やがて「編集王」の放映時間なので階下へ。
昨日の会議の席で、はじまる前であったけれど、建日子が「編集王」の脚本を主に担当している(十一回の八回分とか。) 話をしたら、猪瀬氏が、三十一や二で連続ドラマの脚本書きの芯の役が担当できる、それだけでも幸運なこと、どんなに辛いいやなことがあっても、いつかはと歯を食いしばって粘り抜き頑張り抜き、したたかに現場の泥を呑んだ方がいいと、真面目な話であった。いま辛抱して、その結果としていつか思いのままのいい仕事をすればいい、今は泥水に首までつかってガンバレと。
そのまま、建日子に伝えて置いた。
2000 11・14 7

* 今夜の「編集王」には脚本家のモチーフが生かされていたようで、それなりに、平凡だがそつなくやっていた。どういうメッセージを伝えたいのか、もひとつハッキリ読めなかったけれど。東大を出たというお嬢さん役にはあまり魅力がなかったが、編集部の二人の女性は佳いではないか。主役の原田泰造も、評判のわるい夜中の番組を知らないので、このままなら、なかなかのもので、好感が持てる。
2000 11・14 7

* 朝晴れ。六時頃になるとキッチンで、マゴがもう起きて頂戴と、鳴く。少し早い。もう五キロもある。真っ黒なので見どころは眼だけだが、この眼が艶やかにモノを言う。完全に家族になり身内になり生活している。「ゴッツン」と頭と頭を付き合わせての挨拶はよほど好きなのか、これには気の立っていそうなときでもおとなしく応じる。戸外へ出て一緒にいてやると大喜びで駆け回る。ときどき出てきてと、戸外へ誘ってくる。
2000 11・15 7

* 建日子が、こそっともこのところ言ってこない。風邪をひくなよ。
2000 11・17 7

* 辛うじて発送の用意も八割方出来た。風邪のオソレで、文芸家協会の知的所有権委員会を今夜は失礼した。大事な会議で出たかったけれど。そのかわり、「編集王」が見られた。テレビの画面から、よくもあしくも、いかにも建日子らしい声と言葉とが聞こえていた。

* 明日は、兄北澤恒彦の一周忌。京都で、仕出し料理の「菱岩」主人と美を主題の対談をしてくる。兄を偲ぶ会には出てこない、兄についての半端な耳学問をしてくるのは避けたい。わたしの感じてきた兄をうまく人に話して分かってもらえるとも思わない。その必要もない。
2000 11・21 7

* 高史明さんがいい原稿と、亡兄にも触れた親切なお手紙を下さった。感謝。「子どもを救え」と、深々とした提唱である。若かりし昔、兄北澤恒彦といっしょに激しく活動もされたと、ちらとうかがったこともある。奥さんもときおり有り難いお便りを下さる。奥さんにはお目にかかった事がない。
兄から届いたたくさんな雑誌や単行本を、息子のベッドの足元にある古い書棚の前に座り込んで見ていた。「思想の科学」が多い。この雑誌には、恒が少年時代からずいぶん書いていたのも分かる。うちの建日子まで、小学生時代から高校の頃までに何度も寄稿している。鶴見俊輔氏のインタビューを受けてわたしも一度顔を出している。
兄からは電話も手紙ももらっている。古い時代の手紙を見つけだすのは至難の作業になるだろう。上京以来の受信は、兄と限らず、ほとんどが家のどこかに保管されてある。志賀直哉のも中勘助のも中河与一のも窪田空穂のも三木露風のも谷崎精二のもある。中村光夫のも唐木順三のも森銑三のも下村寅太郎のも宮川寅雄のも福田恆存のも立原正秋のも辻邦生のも、そして谷崎松子のも、その他数え上げられないほど、いっぱい在る。整理したいが、無理である。
読者からの大切な手紙も多い。せめて、処分していい事務的なものは処分したいのだが、無理である。
せめて北澤恒彦のものと、母の同じ姉に当たる川村千代のものとは整理したいが、到底今は難しい。
2000 11・25 7

* 今晩は階下で発送のために働いてくる。そういえば「編集王」だ。がんばっているかしらん、息子殿は。
2000 11・28 7

* 四十三年前、黒谷金戒光明寺で残りの紅葉を狩り、大きな緑釉の水盤に投げ入れ、叔母の留守の茶室で茶をたてた。客は、妻がひとりであった。そして婚約した。

* いま、日射しは明るくて通り雨のような音を聴いた。正午である。
2000 12・10 7

* 建日子も悪戦苦闘しながら、幸いと言うべきなのか、テレビドラマの仕事は次から次へ来て、とても芝居の公演に稽古等の日が取れない有様だとか。
2000 12・11 7

* 昨日の明け方ちかくに建日子が隣りに来ていて、なんだか、ぐっすりよく眠って、昼に牛肉を食べ、夜遅くに豚肉を食べ、母親に背中を踏ませたりしてから入浴して、真夜中にまた車で帰っていった。来てくれていると、顔は見ていなくても家の中が暖かい。
2000 12・15 7

* 建日子が昨夜から帰って来ている。今晩、わたしと妻とは出かけなくてはならない。その留守番をしながら「編集王」の最終回を録画して置いてくれるだろう。
2000 12・19 7

* 秦建日子がもっぱら書いていた連続テレビドラマ「編集王」は昨夜で終えた。最後までマンガっぽいものであったが、主演の原田泰造はじめ主なる「編集室」の演技人は尋常によくやっていた。原田泰造のキャラクターは好感の持てるものであったし、女優二人も気持ちよかった。視聴率=売れ行き、はサッパリ良くなかったようだ、当然だろう。そういうものを厳しく批評している「編集王」を、そういうものだけが神様だと考え愚劣さとも平気で妥協して行く「テレビ」が作っているドラマなんだもの、自家撞着も甚だしいのである。脚本家の苦渋推して知られるが、そのわりには、そんな「テレビ」の強烈な制約をうけながらも、曲がりなりに「編集」を書いていた、演じさせていた。
考えてみると、この程度にも「編集」の苦渋や日常を書いた小説もドラマも映画も、少ない・無い、のが現状なのであり、一つの足跡を息子達は印したのだと思ってやりたい。 2000 12・20 7

* 満六十五歳の誕生日になって、一時間。一つ門をくぐった。のこす十日一年を送れば、まさしく一陽来復の新年になる。新世紀になる。湖の本最新刊に書いた跋文のあたまのところを、感慨をもって少し書き写しておく。こういう風に思ってきて、こういう風に今思っている。

* 京都では、十二月二十一日を「終い弘法」とも謂い、東寺に、ひときわの市がたつ。駄洒落をいうようだが、冬至でもある。わたしは、昭和十年(一九三五)のこの日に生まれたので、今年は、新世紀到来を十日後にひかえて、満の六十五歳になる。その日とその歳とにうち重ね、「秦恒平・湖(うみ)の本」も、創作とエッセイを通算して、第六十五巻めを無事刊行できた。心より御礼申し上げる。
遙かな昔に「西暦」というものを覚え、二十一世紀を迎える元旦は、満六十五歳と十日めに当たるンやなと指折り数えて、そんな日を自分はほんとに迎えられるのかと、なんだかぼうとした気持ちになったのを、ありありと思い出す。その頃、世界の人口が十一億人だと、啓蒙的な家庭事典には書いてあった。そのうちの一億を日本が占めたか占めそうな按配であったのも、ある種の驚異であった。
思えばわたしは幸せに今日まで過ごしてきた。いい教育も受けたし、いい家庭ももてた。お宝の藏はもたないが、小さいながら狭い庭に書庫は建てた。成りたかった小説家になり、三十余年の間に百冊におよぶ単行本等が出版できたし、いい読者に恵まれて「湖の本」という稀有な文学環境を、十五年に及んでなお維持し持続している。世にときめく人からすれば憫笑される程のことのようであるが、わたしは、この境涯を深く誇りに思っている。何故か。わたしは、本をこそ売ってきたが、自立心と自由は誰にも渡さなかった、これまでは、少なくも。幸せなのは何よりそれである。
誰も、わたしを有徳人とは思うまい。「多数」の世間に背を向けて有徳でいられるわけはなく、だが「不徳ナレドモ孤デハナシ」と偽りなく思うことの出来る、それが幸せでなくて何であろうか。「逢ひたい人がいつでもいる」と、或る催しに請われ、テディベアのお腹に妻の描いた花の繪に添え、そう書いた。それが我が宝である。
このところ、宗教学の山折哲雄氏とつづけて対談し、「自然に老いる」ことについて考え合ってきた。無事に本になるかどうかまだ微妙に思われるほど、話題の行方は厳しく交錯して、わたしはそういう議論こそ必要なこと、面白い対談とはそういうものと思うけれど、要するに「老い」を語る難しさに、まだ戸惑いがあるのだ、少なくもわたしには。
ひょんなご縁で「八十路過ぎ」られた俳人の句集『芒種』を頂戴したのも今年だったが、ちょっと類のない優れた句集で、対談にも、何句も取り込ませていただいた。引きたい句は多いが、なかでも、

明日への信いくらかありて種子を蒔く    能村登四郎

が、胸に響いた。「橋なかばにて逝く年と思ひけり」も「春愁に似て非なるもの老愁は」も「花疲れ生きの疲れもあるらしき」も胸に来た。だが、とりわけ先の掲句に、ふと立ち直るものの身内にある気がした。我と我が身への信より、もっと大きい何かに「信」そのものも預けておき、明日へなお、ほんの少しでも「種子を蒔く」気があるのだった、わたしには。

* 言い尽くせているので、これだけを書き写して置いて、満六十五歳になった第一夜の寝に就く。兄の享年に追いついて追い越してしまったことになるのだろうか。

* 朝、少しの赤飯と、永年、三十年以上も戴き続けているユーハイム従業員一同さんからのケーキとコーヒーで、ささやかに無事に馬齢を一つ加ええた気分を自祝した。心もちは静かでありなにも変化はない。朝からたくさんなお祝いのメールなどを頂戴している。
午後には、たまたま二人分のお誘いのあった新年映画試写会に出かけ、あと、息子達と落ち合う算段。

* かすかに頭痛がしている。外は雀の声もして、うらうらと晴れてあかるい。うらうらとと言うと、西行法師の和歌が耳に静かに聞こえてくる。「さぞ」「さぞ」「さぞ」と呟きつつ、人生二学期を終えて、今日から正月休みに入り、またやがて人生三学期を迎えるのである。そして「卒業」して終わりと何となく思い続けてきたが、現実の人生には、学校を「卒業後」というものがある。それこそが「人生」なのである。卒業後の生活というのも在る道理なのだ、これは予期し考えておくべきかと、今、ふと思い当たった。そうかそうかと思っている。
2000 12・21 7

* 誕生日のお祝いに、三原橋ヘラルドの試写室で、「リトル・ダンサー」の試写を妻と観てきた。どういう縁なのか「お二人でどうぞ」と招待状に書き添えてあった。試写室は、すばらしく見やすい佳い場所だが廣くはなく、すぐ満席で追い返されてしまうので、電話で前もって二席分確保を念押しして置いた。おかげで定刻三十分前に行って無事入れてもらえたか、列を成していた大勢の人が断られていた。かなりの前評判と見えた。
最高に見やすい席で、ゆったり観られた。そのせいでというワケでないが、映画はすばらしい感動作で、最高級の芸術品と言い切れる。全英でも全米でも歴代の高位を占める評判であったというが、さもあろう。地味な作品といえば地味なものであるが、深く訴えてくる。沸き返ってくる感動がある。少年が主役だが、大人達のワキのかためも完璧であった。バレエという芸術の世界と激しい炭坑の労働争議とが、違和感なくみごとに綯い交ぜられながら物語が盛り上がって行く。サウンドの魅力も充実し、そして当然にも少年のバレエ、少年が立派に芸術家になってのダンスが、電気に撃たれるようにみごとだった。劇的なうまい映画の手法に、さんざ泣かされてしまった。満たされて幸せな、六十五歳誕生日の映画鑑賞であった。

* 息子達と出逢い、日比谷のホテルで、時間もたっぷりと飲みかつ食べてたくさん話し合った。すてきなオペラグラスをプレゼントしてくれた。十七年ものと十二年もののバレンタインを飲み尽くしたので、今度はバーボンのワイルドターキーを買った。誕生日ということで、四人で乾杯のシャンパンをクラブでサービスしてくれた。

* たくさん、誕生祝いのメールが届いていた。名張の人から、名張産の御菓子をいろいろみつくろって詰め合わせたのが贈られていた。餡のいっぱいの最中がすてきに旨かった。
2000 12・21 7

* マゴが大きくなった。五キロもあるようだ。右眼にかすかに翠いろが、左眼にかすかに黄金(きん)いろが。冬で、黒一色の体毛が密生してふくれている。表情は双の瞳だけであるが、それが豊かに意味をおびて、その時々に全身がそのまま愛らしい。ときおり障子紙に爪をかけて注意をひくのがニクい手だが、夫婦の日々に、もう無くてはならない生けるモノ、愛しい生きものであり、ほどよく対話もできる。ちいさなクシャミをして鼻水が出るようだと、妻は朝から医者へ抱いて行った。冴え冴えと晴天のクリスマスである。さっきから、世界中、物音一つしない。

* 自分の中で爆発を待つマグマのあるのを、じっと感じている。だが急がない。急がない。
2000 12・25 7

* 心暖かに、帰ってきた建日子と三人で祝いの蛤汁、人参と大根の紅白の膾、叩き牛蒡などで大晦日の夕餉を戴き、夜分には、恒例の海老天麩羅で年越し蕎麦を祝った。結局は片づかなかった歳末であったが、それでよしとした。建日子は、もう目の前に迫られたドラマの脚本書きに追い立てられて、せっせとキイを叩いていた。文字どおり「叩き台だね」と、見ていて笑えた。「シッケイな」と息子は苦笑いしながら、本番になれば何がどうなることやらと。キムタクと松たか子の連続ドラマでも途中の一回を引き受けていると言う。二月には、つかこうへいが育てたという出来る男優を芯に、舞台公演を打つらしく、自分のホームページに予告を出していた。

* 賑やかなカウントダウンを選んで、テレビ画面の溢れ返る若い人たちと声を揃えるようにして、新世紀を迎えた。手を拍った。心幼いしぐさだけれど、そんな幼い日から、この瞬間を迎えられるだろうかと心待ちに待っていた。ある時はあり得ないような、ある時は虚しいような心地でぼんやり見ていたが、好奇心の一つからも、事なく迎え取ってみたいと、兄に死なれ、今年に入ってから強く内心に思うようになった。すると、間断なく、無理なのではないかという、謂れのない不安がさざ波のように、影のように襲ってきた。さながらに、なにかが身内ふかく揺れ動くようであった。

* ああよかったと思い、その瞬間わたしは声を放って拍手したが、当然のように妻も息子も対照的に冷静であった。おれはヘンなのかなあと、ふっと感じた。ヘンな一生を、もう暫くは生かしてもらえるのだと思うと有り難い。わたしの喩えで謂うと、「二月期終了」である。当分は、すこし長めに、そうだ七十と言わなくても六十八ぐらいまでは「冬休み・正月休み」をもらおうと思う。手足の冷えを炬燵でゆっくり温めてやりたい。

2001 1・1 8

* もっと大事なのは、朝日子たちとのことだろうと心配してくれる人がいるが、わたしには、自分から動くほどの大事では、ない。健康で平安にあってと祈るだけでよい。

* さ、初夢を。いや、夢見の殊にいつもひどいわたしは、せめて新世紀の初寝の旅を、夢を見ないで過ごしたい。

* ゆっくり、寝た。

* 十一時に、三人と黒いマゴとで、静かに、和やかに、元日の雑煮を祝った。朝日子たちも、落ち着いた佳いお正月を迎えているようにと、言い合って。妻と息子に三種類の紅茶セットを贈り、建日子にはヴァレンチンの黄金のライター、カフスボタン、ボールペンのセットをやった。これぐらい今の彼に似合わない贈り物はなかろうなと気の毒に思いながら。だがいい物なのである。

* 暮れまぎわに京都から贈っていただいた、清水九兵衛さん作の、「お茶碗作りはこれを最後にします」という「七代目六兵衛」として名残りの、記念の、黒茶碗を、わたしはわたしのために棚に飾った。すこし以前に頂戴していた、紅をふくんで艶に白いお茶碗とならべると、好一対をなした。清々しく、嬉しく、眺め飽かない。すばらしい造形だ、九兵衛さんならではの現代味の横溢した、非凡な美しさ。両碗とも、お茶の翠いろが、新たな春を想わせるようにしみじみとよく映って、じつに佳い。嬉しい。

* 三人で、ちかくの天神社に、恒例の初詣。うららかに残りなく澄み切った二十一世紀晴れで、こよなく、気持ちいい。

* どっさりと第一便、三百通ちかい年賀状がもう届いていた。そしてこの器械にも、メールでの賀詞がたくさん入っている。年賀状にも、年々に新たにメールアドレスを記載したのが増えている。わたしは「元旦」とほぼ時をともにして、この冒頭に掲げたままの述懐一首を以て、端的な電子賀状を三百人近くに一斉に発信した。九割九分届いたようだが、なかには、制限しているのだろう、受け付けないサーバも数人分あったようだ。それにしてもBCC発信の、同文同送の威力におどろき、また感謝する。
ところが、添付で、「スッゴイ」年賀を贈ってくれたという「ファイル」が、開けると数字や記号でしか読めなかったりし、これには、がっかり。簡単に読み戻せる操作があるのだろうが。まだまだ、至りません、わたしは。

*させることもなく、穏やかに、静かに元日は過ぎて行く。九十分もすれば、もう二日だ。妻のお煮染めが、旨かった。建日子が愛猫のグーを五反田のマンションから連れてきていて、グーとマゴとが微妙に位を取り対峙するのも面白い。息子がグーを抱き、妻がマゴを抱いたのを、写真に撮った。年賀状の返礼はつとめてご勘弁いただくことにした。原則、湖の本の届いている方には失礼することに。

* 階下から、息子がビデオで持参の「傑作」外国映画を観ようと、誘いがかかった。
2001 1・1 8

* 風が出ている。今夜も真っ黒な可愛いマゴと寝よう。
2001 1・4 8

* 建日子が三十三歳になった。わたしが太宰賞をもらって表舞台に立ったのが満三十三歳半の桜桃忌だった。書き始めて七年、私家版を四冊造っていた。東大保健学科の木下安子先生から五百円のお祝いを頂戴した、それだけだった。私家版とはそういうものだ、150冊ないし300冊を製本してもらった、医学書院に出入りの印刷所に。最初の一冊はガリ版だった。シナリオを二作入れていた。その次からが小説集で、最初の一冊には歌集「少年」を巻頭に収めた。三冊目まではペンネーム「菅原万佐」名義で出した。四冊目「清経入水」は、もう雑誌「新潮」の依頼を受けていた時期のものだが、そっちの話が容易に煮えないので勝手に本にし、気の遠くなるような偉い人にばかり送ったのが、まわりまわって筑摩書房「展望」での太宰賞最終候補にねじ込んで貰えていた。人の運というのは不思議なもので、この時もわたしが自分の意志で応募したことではなかったし、後年の東京工業大学教授に就任したのも、まったくあずかり知らぬ世間できまっていた人事だった。要するに、無心にであれ、人の認めてくれる仕事をし続けていることが運のめぐりになってくる。何もしないでうまい夢だけみていてもダメだ。
建日子は、もうこの年齢までに、曲がりなりにもまともに木戸銭を戴いて、劇作・演出の舞台を一ダースほど重ねているし、テレビドラマ脚本を、単発や連続でもう相当回数放映してもらっている。わたしより遙かに早いスタートに恵まれてきた、ただ、まだ質的充実をみせた作品は、舞台で一つか二つか、テレビでは無いに等しい、このうるさい父親の眼には。これからだと思う。
幸い従兄弟に、小説や評論の黒川創が、これまた、うんと早くから好スタートを切って走っている。競争の必要はないけれど、刺激的な好環境にあるのは、創にしてもそうなのだ。若い人たちに真摯に努めて欲しいし、見守っていたい。間違いなく、創は、次の芥川賞候補に挙げられることだろう。期待している。
2001 1・8 8

* 夕刊で、黒川創が芥川賞候補に挙げられたのを見た。必ずこうなる日を待っていた。文運を祈る。兄は喜んでいるだろうか。それよりも、われわれの実父母が冥土できっと嬉しがっているだろう。
2001 1・9 8

* 明け方、かつてなく鮮明に、死んだ兄恒彦と夢で逢った。大きな駅の広やかな改札外で、わたし(たち)を待ち迎えていた。満面の笑顔であった上に、格好がおかしかった。上下ともアロハというよりも、赤い大きな縞柄のパジャマみたいなものを着ていた。おうと、互いに歩み寄りさしだす手のふれるあたりで、うち切られたように夢の外へ出た。夢がさめた、というより、放送中の映像がはたと途切れたみたいだった。あまり鮮明な兄であったことにわたしが感嘆、いや驚嘆しすぎて、夢を、壊したのかも知れない。指折り数えても、死んだこの兄と、生まれて共に一つ屋根の下に暮らした記憶が一度も無い。長く別れ別れに成人し、大人になってからも、この兄と、坐って長時間話しあったのは、食事したのは、ただ一度。あとは、五、六回の立ち話しかない。まともに顔も長く見た覚えがないのだから、今朝がたの夢中の兄ほど鮮明に兄と出逢ったのは初めてだ。それで驚いた。出会いがしらの兄のポーズは、京都新聞の宮本実氏が送ってくれた新聞紙面に、出町の商店の表でカメラへ視線を送っていた兄と全く同じだった。わたしはその写真の兄が好きだった、だから夢に甦ったのだろう、だが服装はちがう。赤っぽい縞のアロハ・パジャマにも吃驚した。
夢覚めて、なんで兄があんなに笑顔でと反射的に考え、今日が、息子黒川創の芥川賞選考の日だと思い当たった。
兄は喜んでいる。そう分かったような気がして、兄のためにも創のためにも嬉しかった。文運を、遠くでわたしも祈ってやりたい。

* 覚えがあるが、あの賞候補になるのは重苦しいものである。昔のわたしはむろんサラリーマンで仕事のある日であったし、家の方へは記者さんたちの電話など入っていたらしいが、わたしは取材仕事にかこつけ夕方から社を抜け出して、だれとも話さずに済む場所へひそんで、酒をのんで本を読んでいた。やり過ごした、いや、遁走したのである。正直のところ、わたしの場合は、そんなうまい話のあるはずがないというのが、偽りない気持ちだったから、結果には驚かなかったし、落胆というほど深刻な気分では無かった。なにしろ「新潮」でケチのつき続けた作品を、クソと思って「展望」にまわしたら即掲載されて即芥川賞候補という経緯の作品だった。割り切った話で足して二で割れば五十点の作品だった。そう思えば済んだ。瀧井孝作、永井龍男の二先生が、はっきり評もつけて推薦され、吉行淳之介氏も自身との作風のちがいを指摘されていた、それだけでも有り難い、十分満たされた結果であった。だが、どっちにしても選考当日は鬱陶しい。創がどんな気分でいるか分からないが、期待している。あの重苦しい気分がわたしにまで甦ってくるのは正直かなわないが、兄もそんな気持ちで夢に出てきたのかなと思うと、兄のほんとの気持ちは分からないけれど、いい結果になればいいなと思う。そして、そんなことも早くさっさと忘れたいものだ。

* 黒川本人にそんな気はないにしても、わたしからは、バトンをうけとってくれたランナーのような気がしているのは、これは隠しようもない。若冲といい、還来神社のことといい、作風といい、わたしにはみな「覚え」のある、心したしい話材であり書きぶりなのである。そういうところから歩みだして行く甥を、ながく、出発以前の勉強開始の地点からずっと見つめ見守ってきた。それだけはまさにその通りなのだから、わたしもやはり気が揉めて仕方がない。
今日は幸い俳優座の芝居があり、めったになく一人で行くので、芝居のはねた後、すこし酒でも飲もうかな。あんな兄に逢えただけでも、けさは、不思議な気分である。

* 夢で兄にあったとき、わたしは、一人ではなかった。なにか大勢の会合がホテルのようなところであり、会合が果ててからバスかタクシーかのような乗り物で移動していたよな、その時にも一人でなかったような残感がある、が、場面は錯綜していて誰とも分からない。イヤに壮大な自然景観とも対峙していたようであり、家屋の中や外であったり、乗り物であったり、する。最後に「駅構内」の広い場所へエスカレーターですうっと上がって、パアッと兄に当面した。わたしのやや後に大人の女性の影が感じられたが、誰か分からない。わたしの妻ではなかった。ひょっとして兄夫人であったか、それも実感は全くない。
2001 1・16 8

* つかこうへい氏が、朝刊の連載記事に、弟子「秦建日子」について親切に書いてくれていると、妻に言われ、床を出た。
建日子はよく自覚し、少なくも師匠の期待に応えて、勉強せねばなるまい。二月七日からの公演、稽古はうまく進んでいるだろうか。
2001 1・23 8

* 二百数十人の方には、もうメールの同報で、下記の「宣伝」をした。ここにも書き込んでおく。

* 息子に「宣伝を」と頼まれましたまま、とりあえず、届いた「パンフレット」のマル写しで、お知らせ申し上げます。相変わらずの事で、恐れ入ります。どうぞご吹聴下さい。お気が動きましたら、よろしく。テレビ仕事に追われ、一年ぶりぐらいの舞台公演になるようです。 寒い季節です、お大切に。   秦 恒平

『pain』

つかこうへいが、チケット代たったの千円で断行し、大きな話題をさらった紀伊国屋劇場における「熱海殺人事件 ザ・ロンゲスト・スプリング」。
その伝説の舞台で、犯人・大山金太郎を快演し、一躍演劇界のスターダムにのしあがった山崎銀之丞。
そして、その「熱海殺人事件」千円公演のプロデュースを担当し、そのまま、つかこうへいの直弟子として劇作・演出家の道を歩み始めた、秦建日子。
あれから、IO年。
今や、つかこうへい演劇のみならず、大劇場のプロデュース公演に、そしてTVの連続ドラマにと八面六臂の活躍を見せる山崎銀之丞と、「タクラマカン」「地図」などの劇作・演出を、「ヒーロー」「編集王」「ショカツ」「はみだし刑事情熱系」など連続ドラマを連投する作・演出家、シナリオライターとなった秦建日子とが、初めて舞台で「対決」します。
公演のタイトルは、『pain』。劇場は、「新宿・スペース107」。
たった200席足らずの小空間で、「山崎銀之丞」の華を、色気を、「秦建日子」の料理で、たっぷり味わっていただこうという贅沢な企画です。
チケットは「チケットぴあ」にて、「1月22日より」発売。
どうか、皆様、お誘い合わせの上、ぜひご高覧ください。劇場にて、皆様のお越しをお待ちしております。

出演 山崎銀之丞 大森ヒロシ
本宮純子 田中恵理 築山万有美
安藤彰則 小谷欣也 せきよしあき 井上唯我 栄島智 森 裕征
制作  小崎美加
公演 2001年 2月 7日(水)~12日(月・祝)
時間 平日 19:30  土曜 14:00/19:30  日祝 13:00/18:00
劇場 新宿・スペース107 (JR新宿駅西口徒歩1分)
新宿区西新宿1-8-5α107 地下1階  03-3342-0107
代金 全席自由 前売・4,500円  当日・4,800円
チケットぴあ 03-5237-9999
お問い合わせ オフィス・ブルー 03-3494-8688
http://www.geocities.co.jp/HeartLand・Himawari/2036/

* 帰ってからメールを開くと、たくさんな返事をもらっていた。感謝します。わたくしに、寒中見舞いの、うまそうな牛肉を沢山に戴いてもいた。ふしぎに、食欲は旺盛で衰えない。遠くから、ちゃんと見抜かれている。感謝。
2001 1・26 8

* 黒いマゴが、寒いと、夜はいっしょに寝たがる。台所に閉じこめておけばひとり寝るのだが、スキを狙って、すばやく寝室に駆け込み、布団の裾まで潜り込む。おとなしく熟睡しているけれど、早朝の決まった刻限には枕元へすうっと出て、それからはアタマで顔をつつき首筋をつつき、耳をかみ、頬にかみついて、眠い大人を起こしに掛かる。噛みかたはやわらかいが、放っておくとだんだんきつく噛む。わたしのことは遊び相手ないし喧嘩相手と心得ているらしく、とくに動く手先が気になると見えて、狙い澄ましてとびかかる。床から、わたしの顔の高さならラクに跳躍して、のばした腕へ腕を巻いてくる。柔らかく握手もするようになってきた。
人間の言葉で口を利いてくれればなと思い、いやいや、それが出来ないから可愛いのだと、もう何度も何度も思ったことを、また思う。
2001 1・28 8

* 「日本人の質問」というNHKテレビの番組に、「おじいさんの古時計」という米国製童謡の訳詞をめぐって、クイズの出題があった。その訳詞者保冨康午は妻の兄で、もう亡くなって十数年になる。よく太った写真が二度も画面に出て、懐かしかった。妻の方へ事前に知らせがあって、妻は親族の誰さん彼さんにだいぶ報せていた、放映が済むと電話が幾つもかかつて来た。
義兄は、若い頃、谷川俊太郎らと詩を書いていて、詩人になるはずだった。だが詩では食えず、父親のコネでシェル石油に入り、広告などやっていたようだが、自然に放送の世界に接近して、ラジオや、テレビ初期からの「構成」とか「作詞」とかをやりはじめ、やがて脱サラして、全く、放送や歌謡曲歌詞の世界に身を置くようになった。
わたしたちが結婚した昭和三十四年頃が、放送世界で義兄の働きの認められ始めた初期であったろうと思う。その頃の先輩や同輩に前田武彦とか青島幸男らがいた。
あまりに急な早い死がやってきたとき、義兄は五十四歳だった。夜半に仕事を終えて一休みしたところで亡くなったと聞いていて、ときどき、それを思い出す。生きていたら、わたしはともかくも、息子は、かなり力に感じられただろうと、そうでなくても、惜しまれる若死にであった。ひさびさに、テレビ画面でよく肥えたまるい顔を見て、その思いを新たにした。
例の訳詞は、おそらくは最もよく知られた代表作の一つであろう。
2001 1・29 8

* 建日子は、舞台とテレビに挟撃されて息もつけないありさまらしい。悪戦苦闘を繪に描きながらの二十五時間勤務のようだが、からだは大切にと、祈る。
2001 2・3 8

* 今夜九時のキムタクとマツタカの連続ドラマは、息子の脚本だとか。これは、見てみよう。このあいだキムタクのべつのドラマを初めて途中から覗いてみて、うまいのに感心した。幸四郎の娘の松たか子は、足利義政の大河ドラマの初登場でびっくりし、つづく太閤記の淀殿役で舌を巻いた。この存在感、たいした大物だよと予言してはばからなかった。食パンの広告一つでも印象づよい。
二人がどんな風に噛み合うのか、べらぼうな視聴率だそうで、秦建日子のプレッシャーも大きいだろう、視聴率なんかドスンと落ちても構わない、いいドラマがみたいものだが。
2001 2・5 8

* 明日から息子の芝居が始まる。こんなメールを、ある人に送った。今度ばかりは、チラシ一枚送らずじまいのうちに初日が来る。あの方もこの方も、お知らせさえしないでしまったと、それを申し訳なく思っているが。

* 息子の公演。親が客あつめをしてやること自体過剰な応援でしたが、ま、駆け出しのうちは応援してやりたいと、知り合いの方や学生達に、何年も、何回も、お出でを願ってきました。頼める方に「観客」になって戴けますかと頼んできたのであり、招待と謂うよりも、お願いでした。義理で来てくれていた人も大勢あったでしょう。
今回は息子が自分でプロデュースしているようでもなく、もう、成功失敗も自前で味わえばいいことと、私からのお願いは、今回一切やめました。正直のところ、お出でをお願いして日時を調整する百何十人との折衝に、私自身がほとほと草臥れたというわけです。
学生達も社会人になり、もう任せて下さいと言うてくれる人が多くなり、へんな偏りで、声をかけたりかけなかったりもいけないので、一律、とりやめました。
永らくお忙しい中で観てやって下さり、感謝します。今回も観て下さるとのこと、恐れ入ります。息子もよろよろと独り立ちしながら、頑張らねばなりません。わたしも体力的にとても劇場へ「日参」は出来ませんが、そうさせるほどの力作であればと心から希望しています。
2001 2・6 8

* 秦建日子の第五話脚本を書いた「ヒーロー」は、五週連続視聴率30%台という新記録と、さらに過去最高の高視聴率をあげたと各紙報じている由、メールや電話が朝から来ている。それ自体には驚かない。事前に、高視聴率が続くか続くかと、あれだけムーディに報道されれば、テレビ人間達は、何ということなくてもそこへ気を寄せる。そういう世間なのだから、いわば「作為された自然の成り行き」という「心理」的な数字=:結果に過ぎない。そんなことで、もし、自分の手柄のように思っては甚だ滑稽であるから、脚本家たるもの、気をゆるめて増長しないでもらいたい。幸い責任だけはやっと果たしたということである。
身贔屓がなくても、キムタクとマツタカのホンワカムードでなら、甘いフアンはとびつく。しかしあのドラマ自体は、まことに底の浅い娯楽品である。殺しのないだけが見つけモノという程度の。比較して、広告スポンサーの動向に怯え、増頁問題でヤキモキしていた「編集王」の或る回などの方が、現実の場面に苦く迫っていたと思う。
どっちにしても、言葉はワルイが、テレビドラマの浅くふやけた質の低さには、満足ゆく豊かな喜びは希薄も希薄、ただもう消耗的なその場しのぎに近い仕事であることに変わりはない。
消耗的でなく、ドラマが真に劇的に人の胸を打つためには、作者や関係者たちは、もっといろんな意味で勉強し、「意識と姿勢」を、そして「テクニック」も、深め正す以外にないが、「関係者たち」に望んでみても仕方のない現場的な現実があるだろう。これは、作者秦建日子に突きつけて置くしかない課題であろう。満足するな、と。
2001 2・7 8

* 早めの夕食をすませ、建日子作・演出の初日「PAIN」を今夜は一人で観に行く。雨。地固まるか。妻は明日に備えて待機休養。
2001 2・7 8

* 新宿での秦建日子作・演出の「PAIN」は、彼のこれまでの仕事では、最良の出来で、今回はじめて、才能を感じさせた。これまでのは、どこかで、まだ、良くてもアマチュアの力作めいていたが、一皮むけたように思われる。苦情を述べたいところが、とくには無かった。そんなことは、過去の仕事では無かった。テレビ仕事で、苦い泥水をしたたかに飲んできたらしい体験が、はっきり役立っている。それだけに。素人のある種の品のよさが、玄人っぽく擦れて汚されて行く危険にも近づいたのだとも言えるから、そこは自覚し自戒して、そうならないように気をしっかり張っていて欲しい。
山崎銀之丞の演技力は、きちっと格をまもって懐に余裕があり、妙な受けを狙ってごまかす必要のない確かさがあった。さすがであった。脚本が彼の力に支えられて盛り上がった箇所、脚本が演技者の先を切り開いて導いていた箇所、良い意味で両者がよく鎬をけずって競演しえていたのが良かった。
「PAIN」という題が、今回はたいへん利いていた。成功していた。こういう舞台に見なれている観客なら、把握しにくいということはなかったであろう。ノンセンスに近い、とりとめない「場面」がスナップショットのように繰り返されるが、それが一つの批評にも筋の上でも活かされていることに気が付けば、なかなか凝った組立であることに納得できるだろうと思う。
山崎と、もう一人「編集者」の役で友情出演してくれていた俳優大森ヒロシが、うまかった。この二人の噛み合わせだけで舞台は成功していた。出し入れの演出がきびきびと無駄が無く、ああ巧くなったなあと思った。安心して観ていられた。
女優達は何人も出ていたが、主と副の男性二人に比しては、みな尋常で目立たなかった。それが、よかったのである。
築山万有美は難しい役所であって、大過なくともいえ、しかし、科白の深みの無さにこの女優の限界の見えるのが残念だった。科白も、体の動きに詩的に美しい切れのよさの出てこないことも、大きな課題であろう。
舞台は、要するに脚本と主演と友情出演という三人の男のがっぷり三つ巴で十分構造が出来ていた。フーン、よくやったなあと、この点の辛い人が、すこし嬉しい気分で雪の中を帰ってきて、赤いワインで妻とよろこんで乾杯した。
初日だからか、いくらか「動員」をかけたのか、すさまじい超満員であった。開幕が十五分以上も遅れたほど客が入り、通路にも二列に小座布団敷きで客がならんだ。当日券の人たちはなかなか入れなくて往生していたようだ。

* 東工大出の、ひさしぶりに逢う米津麻紀さんが友人と一緒に来てくれていて、とても嬉しかった。林丈雄君らと同じ総合Bの教室にいたすてきな美女で、東芝に勤め、なんだか掘り下げた難しそうな研究に従事している才媛である。大學の頃教授室にきてくれて、どんな研究を今しているかを、とても分かりよく熱心に話してくれ、印象に深く残っていた。
弓道をやっていた。その仲間が三人でわたしの授業を二年続けて聴きに来ていた。池波正太郎の小説が好きで、その縁でだろう、中村吉右衛門が好きだと言っていた。あの大學で歌舞伎役者の名前を口にする学生はさすがに珍しかった。もう七八年逢っていなかったが、メールは通じていて、気持ちも親しく、遠くなったと思ったことはなかった。
それでも実際に顔を見ると、とてもとても嬉しかった。幸せそうであるのも、嬉しかった。

* 電メ研委員で、「朝日ウイークリイ」の編集長をされていた高橋茅香子さんも、友人と二人で来て下さっていた。これも予期せぬことで、嬉しいことであった。妻の友人で湖の本をながく応援してくれている母娘も、仲良く来てくれていた。有り難いことである。

* とにかくもホッとした。おおぜいの方に観ていただきたい芝居に仕上がっていて、ホッとした。十二日まで。劇場は、新宿SPACE107。今までは人数のわりと入る地下劇場である。
2001 2・7 8

* 新宿の公演を、今夜は妻と出かけて、もう一度観てきた。爆発的な「動」性では、前作の、差別問題に挑んだ「タクラマカン」や生の讃歌に仕上げた「地図」の方が烈しかった。今度の芝居は一種の「芸術家小説」の範疇に属し、また「母もの小説」にも近いし、アンマリドマザーとその子の悲劇だったとも言える。こういうふうに要約してしまうと、このわたし、脚本家からは父であるこの私自身のモチーフや自然に、かなり深く根ざして発想されているように感じる知人や読者は多いかも知れない。すでに「建日子さんの中に、秦先生の血が流れているのだなあ、と感じました。うまく言えないのですけど」という反応が出ている。
必ずしもいま要約したようにだけではわたしは観ていないが、たくさんなフラグメントを組み合わせながら、見る人の姿勢によって受け取り方の違うであろう、かなり多彩なメッセージを送りだしていることは分かる。それだけの蓄積が作者に出来てきていたのだと認めよう。

* 夜の新宿を散策、めずらしいラーメンを食べてからJR経由で帰った。
2001 2・9 8

* 新宿で、博士課程をもう一年で了える男性と、古河電工で研究者生活をしている女性の、昔からの仲良しに会い、昼食をともにし歓談のときを楽しんだ。彼は「物性論」を、彼女は「冷却」をと、ふたりともわたしの想像を絶した難しいことを研究している。どんないかめしい男女かと思いそうだが、彼はシャイで、彼女はかぎりなく楚々として優しい。学部にいた頃から結婚を考えていたような二人で、もうあれから七年を通り過ぎて、彼のドクター卒業も間近になってきた。彼女の初給料で、神楽坂で三人で会い、甘いものをご馳走になってから、四年近くなる勘定か。
食事のあと、いっしょにSPACE107で息子の芝居を観た。招待したのではない、初日のペアと同じく、自費で券を買っていてくれていたのである。相変わらず、通路に座布団敷きのお客もいっぱいの、大盛況。券を持っている人も、できるだけ早めに行って、整理券を取って置いた方がいいようである。

* 三度めを観たが、安定していた。山崎銀之丞、大森ヒロシのシテとワキで芝居をがつちり締めている。その他は、二人の邪魔をしない程度、演出のままにソツなく有効に動いている。母親役の田中恵理はあれ以外にない、その意味で役目を果たした静かな好演とみていい。
やはり問題は、築山万有美。邪魔まではしていないが、舞台の効果を一層挙げ得ているか、その貢献をしているかといえば、ゆるい。ぬるい。科白が、終始上滑っている。あれでは工夫とは言えない。名優の第一条件は科白が豊かに深く彫琢されて、明晰なこと。ふしぎなほど、科白の明晰な役者は、どう動いてもからだの切れが佳いのである。演劇は、本質的にはダンスである。動作ではない、所作である。科白もまた然り、地のままのしゃべりでは、演劇言語にはならない。ほんとうに笑ってはいけない、笑い声すら科白なのである。
その辺の謙虚な勉強が深まらないと、築山は、タテの女優としても、うまいワキの女優としても今以上には成長できない。女優を続けたいのなら、あまい一人合点・思い込みは捨てて、初心に立ち返り、体操と発声から新人なみにやり直した方がいい。
これまでの秦建日子の舞台は主役のない雑居混成部隊の芝居ばかりだった。それはそれで、いい。今回は、はっきりと主役が立ち、この主役は力量あり、男の色気があり、安定して落ち着いた科白術があった。ワキ役の友情出演大森ヒロシは、主役に優に拮抗して緩急のおもしろみを、したたかに表現できる達者であった。わたしは、自分でも十数年編集者だったし、また編集者に面倒を見て貰ってきた作者・著者としても三十年を越えている。この芝居ではカメラマンと編集者の付き合いが書かれているが、この編集者の、わたしの所謂「弁慶」ぶりは、体験的に評価しても、なかなかのもの。弁慶は牛若丸を追いかけ回して、そして負けてやる。編集者は、強いようでいてうまく負けてやる、著者・作者に勝たせてやる、その勘どころを、どれほど掴んでいるかで勝負を決める。しかも編集者たるもの、負けて遣ってばかりはいられず、牛若義経といえども斬り殺さねば済まないときに出合うのである。建日子が、いつしれず、そういう現場から学び取り得ていたやはり下地に、我が家での四十年ちかい生活基盤が無意識にも置かれていたのかなと感じている。
かなり大勢の出演者達が、欣然と舞台を構成してくれているのに感じ入る。端役に至るまでがピーンとしていないと、いくら主役が良くても舞台は崩れる。その意味で、成功をおさめていると、ま、今は見ている。

* だが、今度の劇は、もうおおかた底の岩盤にがちんと当たってしまっていて、この先へは多くは、深くは展開しまい。その辺、前作の、「浜辺育ち」たちが「あっちの国」への脱出をめざして玉砕する「タクラマカン=サハラ」の方が、まだまだの可能性・可塑性を残していると言えるかも知れない。

* プレジデント社の青田吉正さんが義妹さんと見に来てくれていた。
2001 2・10 8

* だれもが「PAIN=痛み」を身に抱き呻いている。それを癒してくれる舞台とも、辛辣に気づかせる批評の舞台とも、幾分、まだあまくニゲを打ち、問いつめを逸らしていなくはなかったが、一時間半の脚本に、アンマリドの母子、老親介護、不毛の愛と欲、身内の思い、孤独と卑屈、虚妄のマスコミ、ロリコン雑誌とジャリタレ売買、無意味で空疎な日常、泣くことすら出来ず乾上がって意義なき日々の渇き、そういったものをひっくるめ、中軸を、創作者と編集者の葛藤、いわゆる「芸術家小説」のタッチで破綻なく纏めていた。いま一段このタッチで締めたかったが、母子ものの方へ大きく逸れかけ、かろうじて持ち直してエンディングした。「渋い」という感想もあったが、あれでいいと思った。編集者の最後の出が利いていた。
山崎銀之丞のキレのいい男カメラマンの魅力ある色気に、友情出演大森ヒロシの端倪すべからざる編集者ぶりが、きちっと噛み合った。しかし、「駆け込む」ことを「走り込む」と喋ったりしている。「走り込む」は、運動選手の練習や鍛錬にはつかうが、駆け込む意味への転用は耳障りなものが残る。
田中恵理の母からセーターを受け取るシンボリックな場面での山崎の動きには、能の舞の、時間を練り上げて崩れないあの「藝」と、同質のものを感じた。舞である。ああいう「時間」に堪えきって動く舞は、天性とともに錬磨・稽古がものを言う。酷なようだが、山崎が美しく所作する意味では、女優の築山はひょいひょいと動作しか出来ていない。その露骨な表れは、例えば舞台を三歩移動するときも、ドシンドシンと足音を三つ数えるようにして歩いてしまう。足音が客の耳に数を数えるように付いてしまう。四回観て四回とも同じである。身軽に舞えていないのだ、比喩的に謂えば。

* 母親は、最後にほとんど正気に返って息子との愛を修復確立して、またボケの他界へ戻ってゆく。子は母を、母は子を、決定的に取り戻したのである、と、わたしは理解している。

* 遠く栃木から阿見拓男さんが見に来られていた。望月太左衛さんのお弟子さんもみえていた。林イチロー君もペアで来てくれていた。明日で千秋楽、明日行きますとも、今日の昼に行きました、「涙が溢れました」とも、メールが届いている。夜も満員だった。
2001 2・11 8

* 「父上の友人猪瀬直樹です、今夜行きます」と建日子の方へメールがあったと知らせてきた。電メ研で甲府放送局の倉持光雄氏も、今から観に行くと早朝にメールがあったという。こういうふうに励まされて、創作者は「謙虚」になって行き、そして「奮発」もして行くのである。そう、あらねばならぬ。

* 若者らしい演出によるオープニングに先ず引き込まれました。テンポの速いいくつかのショットが一つずつしっかりと決まっていました。
売れっ子カメラマンと編集者のやりとり、これが実はとても微妙なニュアンスを含んでいたのですね。
「PAINを感じなければ、生きるのは楽だ」と言うせりふがありましたが、いつの間にか、私の心の奥底のPAINをすっかりむき出しにされていました。
編集者の鈴木が自らの痛みを、山田一郎の稚拙そうな一枚の写真に見当てた感動から始まる二人の格闘。その痛みが強く強くうずきました。人の心の痛みが優れた作品を通して初めて実感できるということ・・・・。
作品のモデルとなった「家族=妻願望」の女性は、話し方や動作など押しつけがましいと感じさせたのが、役どころとして、あれで、うまかったのだろうか…と思います。
実母の哀しみは余り伝わってきませんでした。
むしろ 待って 待って 待っていれば 必ず叶うことを楽しんでいるような、幸せなような・・・。狂ってしまって あちらの世界にいる感じはよく出ていたと思います。
地雷を越えて母に近づけなかった山田はセーターを持ったときに、本当にぼろぼろ泣いていました。まるで秦さんの分身のように・・・。
待って 待って 待っていれば 必ず叶う……か。どうなのでしょうか。
編集者とカメラマンの絶妙なやり取りに本当に引きこまれ、PAINをむき出しにされて、ぼろぼろ泣いてしまい、外に出ると喧騒の新宿はまだ真っ昼間でした。休日の思いがけない時間を本当に有り難うございました。
建日子さんの優れた感性や磨かれた才能がこれからもさらに良い作品を見せてくださるのを楽しみにしています。

* ありがとう。作中の「待つ」は、作品によって「偽り」のものと否定されているのですが、十一日の「私語」の最後に二行ほど書き添えたように、母と子との間には、「待ち得て」回復し確立された「愛」が残ったのかなと読みとりたい気がしています。わたし自身はといえば、あのような生母への感傷はありません。もっと薄情で冷淡な乾いたもののままで永訣しました。

* まずまず、このようにして息子の活動ににぎやかな刺激を受けて親は楽しんでいる。それは君、暢気すぎないかと言われもするだろうが、それでいいのだ。わたしからすれば、それらの全てもわたしの「生きて在る」ことに生まれた創作なのである。大事なのは、まさに、日々生き生きとわたしが「生きて在る」という真実なのである。
2001 2・12 8

* 牧野大誓『天の安河の子』も読み終えた。こんな有り難いメールも今、届いていた。

* お芝居 昨日は、以前早めに出て整理券を、と知らせて戴いていましたので、はやく出掛けました。お陰で、二十三番の若い番号をとり最高に佳い場所に座りました。
「PAIN」を一言で感想を表わすとしたら、センスのとてもよいお芝居でした。
同じテーマの寸劇が写真のフラッシュをたくように、幾つか組み込まれた形式を観たのは、初めての経験でした。多分この試みはそうなのではと想いますが。流れに何の違和感も無かったのは、大したものです。
時々笑い声が上がりながらも、しっかりした台詞を一言も聞き漏らすまいとする二百人の観客が、一人しかいないのではないかと錯覚する程に、静かに舞台に集中していた気がしました。
二枚目の銀之丞さんは初めて観ましたが、迫力十分で、これは感激ものでした。終幕では、この俳優が溢れる涙で、歌舞伎さながらの大見得をきるところでは、ホロリとさせられましたし、目を拭っていた観客もいたようです。
見ごたえがありました。
2001 2・12 8

* つつがなく「PAIN」の新宿公演は終えた。千秋楽の晩、忙しい極みの猪瀬直樹氏がオフィスの人といっしょにわざわざ見に来てくれた。
まず大過ない仕上がりであった、我が家のお祭り、無事果てて、ほっとして、劇場の近くの京王プラザホテル44階で、妻とひっそりフランス料理で乾杯、打ち上げてきた。

* また、明日から日頃の普通日に戻る。
2001 2・12 8

* 新宿Space107 へ行って、「Pain」を観てきました。二重丸です。四十年ぶりで、若い人達のいい演劇集団を目の当たりにして、元演劇部員のおじさんはとてもうれしい気分になれました。親切に気を使ってくれた入口のお兄さんも、会場整理のお姉さん達も、体に気を付けて頑張って欲しいと思いながら帰ってきました。
余計なことですが、機会があったら、母親役を、岸田今日子あたりにオールド・ジャパニーズ風にざっくり着物を着せてやって貰うといいかなぁと思いました。惚けてる人と付き合っていて、それなりに風格を感じていますので。(今回のお母さんは、あれでいいと思いますが。)
ラーメンのおねえさんよかったですね。引っ込みが良かったです。(そばで見ていました。)・・みんな、元気をくれてありがとう!です。
秋葉原のラオックスへ行って、「超漢字3」も見てきました。OCR 不能、現在使えている漢字以外は送信も無理(方法はあるようですが)のようなので、残念ですが、しかしOSとしては軽くて、ハイパーリンクで、日本製で、魅力は十分、いじってみようかと思っています。去年の今頃は、縦書きもまだ出来なくて見合わせていました。さて、DOS/Vマシンを何にしようかと迷っています。
梅は咲いていますが、まだまだ寒いです。くれぐれもお大事にしてください。

* 千葉の勝田貞夫さんも、来ていただいていたのにお目にかかれなかった、すれ違ったりしていたのかなあ。とにかくまさにアングラ、雑踏してどうにももみくちゃになるばかり。それが活気とも元気ともなるのだろうが。あれからすると、大劇場はひやあっとして寒いところがある、歌舞伎座でも、俳優座でも。

* つくり手の心、エネルギイが、こちらにじかにひびいて来、登場人物のひとりびとりが抱えているPainが、忘れていた、いえ、忘れたがっているわたくしのPainを、揺りうごかす。ちょっとつらい時間でした。けれど、こうした刺戟に身をさらすことは、必要なことでございましょう。
最初、大音響とはげしく動く光線に、終りまでこちらが持ちこたえられるかと不安になりましたが、それは導入部だけでした。その導入部に、数人の登場人物が、天井からの光の条をふりあおぐ感じで静止する瞬間がありました。うつくしく、かなしい絵、とおもいました。あれは、あのドラマをシンボライズしたもの。あとになって、そうおもいました。
どんどん、もってゆかれました。
主人公の最後の長いモノローグ、役者の力量の問われるところでしょうか。もう少し、と、生意気なことを感じましたが、照明が落とされたとたん、涙があふれました。
早く整理券を、とお教えいただきましたので、前日、電話でチケットの予約はしてあったのですが、早起きして、何と11時20分に会場に着きました。16番。高いところをとおっしゃってでしたので、関係者席のすぐ前、それも中央からちょっと上手より、よい席が取れました。
佳い時間、佳い刺戟をありがとうございました。

階段まであふれて飾られゐる花のやつれてにほふ千秋楽けふは

あまり、おめでたいうたでなくて。
2001 2・13 8

* 昨夜、おそくに建日子が帰ってきた。夜更けの三時頃まで、公演の裏話など、四方山の話題で両親を楽しませてくれた。ともあれ、ものを創り出す仕事に勤しんでいる息子との腹蔵のない会話には、時を忘れてしまう。
一夜時分の部屋でぐっすり寝て行き、朝昼兼帯に牛肉の食事を注文して、食べてから五反田へ戻って行った。
2001 2・16 8

* 今朝、黒い少年が、いつかはと懸念していた長押へ、ひらりとジャンプ、跳び移って得意満面、寝坊していないで起きよとわたしを見下した。反射的にわたしは、「あ、よう見とこ!」と叫んでいた。それから、この物言いの甚だ懐かしく、久しくうち忘れていた京の物言いであったことに気づいて、マゴの果敢な行動よりも、そっちへ思いがいった。 なにか宜しくないことを目にすると、ちらと身を退いて、「あ、よう見とこ、よう見とこ」と、大人でも子供でも幾分囃すように冗談っぽく大仰に口にした。後日の証人になるぞというぐらいに、かすかに威嚇も警告も不同意の表明をもしているのである。すっかり忘れきっていた。ふいと浮かんできた。「知ぃらんで、知ぃらんで」「見ぃつけた、見ぃつけた」「言うたんね、言うたんね」「あ、よう聴いとこ」などという、身の退き方もあった。こういうところに、京都人と京ことばと、また日本人と日本語との、そして処世の姿勢との、あまり感心できない陰湿な結託が見られて好きになれないが、好きになれないそれが咄嗟に自分の口をついて蘇ったりするところ、「言葉」暮らしのこわさである。  2001 2・23 8

* 寒い日だった。出る気がしなかった。いろんな用事を順繰りに前へ進めていった。高田欣一氏に長いメールをもらった。甥の事などに触れてあった。さしさわりがあってはいけないので、これ以上は言わない。
2001 2・25 8

* 今日いちばん嬉しくも驚きもしたのは、実の父方の年長の従兄より届いたメールであった。こんなタネあかしはどうかと思うけれど、あまり懐かしくて。

* 昭子、ひろ子姉妹から連絡をうけ、おじいさんの古時計についてのテレビ番組を拝見しました。娘と孫の一人の愛唱歌で、私ですら多少は歌えるくらいです。一層の愛着を感じます。
ご子息のご活躍、まことに素晴らしいことで心からお慶び申し上げます。ただTV作品自体にはまだちゃんとお目にかかっていません。普段老人くさい番組しか視聴しないためでしょう。そのうちには、ああこれかという発見に至ることでしょう。
少し古い話となりますが、小説「丹波」の中の記述が、ほぼ60年も昔の私の青少年期の、埋もれていた記憶を想い出させてくれました。
昭和16年(1941)の8月、私は当時中学5年生で、毎日高校受験準備で机にかじりついていましたが、暑い夏の一日無性に歩き回りたくなり、朝早くから弁当と水筒だけを持って近郊ハイキングに出かけました。自宅周辺は歩き尽くしたと考え、高槻の次の摂津富田駅から、当時摂津耶馬渓と宣伝されていた景勝地へと歩きました。
1?2時間も歩くと景勝の渓谷の終点に着きました。そこからすぐ帰るのでは今ひとつ歩き足りない。見ると未舗装ながら道幅も平坦さもしっかりした立派な道がずっと北の方角へと続いています。
この道はどこに通じるのか、そこまでの距離(km)あるいは歩行所要時間、さらには途中の道路の状況などを道行く人、路傍の人に尋ねても知らぬと言う人ばかり。
そこからずっと北上して山陰線のどこかの駅まで歩いて行けないか、途中で道が無くなったり、険しい山中に入ったり、選択しにくい分岐点があるのではないか、などの情報が知りたいのですが、かみ合う応対をしてくれる人はいませんでした。
ままよとどんどん歩いてその内に良い人にめぐり会えるだろう期待したのですが、会う人もまばらで、また集落のような所にも到達しなかったと思います。
歩いても歩いても前方道路状況はつかめません。そのうち午後の2時とか3時になりました。そこまでの所要時間から、そこからなら明るい中に出発点の摂津富田駅に引き返せます。これ以上進んだらもう前進あるのみ、イチかバチかでバチの場合は山中の野宿、暗夜の彷徨、あるいはどこかの民家に救いを求めるしかない。当時の農村への食糧買い出しの横行の実状から、民家に軽々しく救いを求めるのはどうかと思いました。確かにこんな事まで考えてイチかバチかはやめました。
引き返した地点がどこだったか、何か目印になるような物がなかったか、今では全く記憶がありません。
昭和16年の暮れには大東亜戦争も始まり、このことを私はすっかり忘れてしまっていました。小説「丹波」の中に記載された、「京都府南桑田郡椎名村字田布施」から「大阪府大槻市」へ通じるトラック道というのが、私が高槻方面から歩いていった道ではないかと想像しています。椎名村はその後大槻市に合併されたと記されており、私は椎名村のごく近くまで歩いていったのではないかと思います。
今私の持っている高槻市の地図は、最新のものではありませんが、その中にある地名と小説「丹波」の中の地名の対応は、次のようで、良いでしょうか。
実名 亀岡 高槻 田能  樫田 中畑 外畑 杉生
小説 亀山 大槻 田布施 神田 本畑 遠畑 国木

上記の道も今は車が頻繁に往来するにぎやかな道に変容しているのではないかと思われますが、今一度歩いてみたり、あるいは車で通ってみたい気もしています。
以上 御無音をお詫びして。  ますますのご健勝とご活躍を。

* なんだか、自分がそうしてハイキングしていたような懐かしさを覚えた。ズバリである。いちばん最初の「昭子 ひろ子姉妹」とは、わたしの異母妹たちで、川崎市に暮らしている。妻が自分の亡き兄保富庚午が、自作の訳歌詞で「日本人の質問」に登場するのを妹たちに報せていたものか。
2001 2・27 8

* これを書いている最中にウイーンから甥の北澤猛が電話をくれた。長生きしてくださいなどと言う。どういう日々を送っているのか、ドイツ語と英語はうまくなりましたよとも言う。父親がよく語学の出来る人だったようだが、この甥にはその方の天才があるらしい、大学在学中にもう外務省が買い上げていったくらいである。ドイツ語など大学に入って初めて出逢ったのにである。かなわない。
日本の神道や信仰について、ヨーロッパのそれとの体験的対比からも関心を深めているらしく、そういう話がしたくてはるばる電話をしてきたので、これという用向きがあったのではない。メールにしないで、電話で肉声を届けてくるところも一つの行き方である。たくさんたくさん話したいと言う。とても元気だという。兄の「もどろき」は読んだそうだが感想は何も言わなかった。
2001 3・1 8

* 平均株価が壊滅に近い下げ方をしている。日本は、いまや金縛りにあったように動けない。もはや罪は森という「無知無能」の一総理にだけ在るのではない。火中の栗を拾う勇者のただ一人もいない自民党そのものが、日本を潰そうとしている。国が潰れるなどと、これまで口にしてきた者も、まさかに今の今のように現実味と戦慄感とを帯びて身に迫る日の来ようとは、まさかと思っていたのではないか。今日にも森内閣は潰して、とにかくも建て直しに一刻を急ぎたいところだ。それなのに、今もって森は、「全知全能」を傾けて国政にあたる覚悟などと世迷言を口にしてにやついている。恥知らずという他はない。
* いまウイーンの甥から、電話とファックスが入った。フアックスは、ロンドンかどこか、英国在住の経済学者森嶋通夫氏に宛てた長い私信のコピーで、いろんなことが、いわば連鎖連想式に書かれてある。この子は父親の子らしく、かなり飛躍のある、よくいえば詩的直感に頼った文章を書く。書かれてある内容は、かなり深い史的・思想的・国際的な現代論であり批評のようである。すぐには取り纏めたことは言えない。
言えるのは、どうも、かれはマインドに疲れた日々のようである。知的に旺盛に思索しているようだが、収拾がつかないほど、手を広げているのかも知れない。ラクそうでなく、なんだか辛そうだ。一人の生活が負担なのかどうかは、分からないが。
2001 3・2 8

* いま、先月のメールを整理していて、ある配慮からためらったまま紹介せずじまいであった大事なメールの一つを、やはり、書き込んで置かねばと思った。固有名詞を少し省いた。それが筆者に障ってはと顧慮しているうち日が経ってしまった。

* 春寒料峭の候、いかがお過ごしですか。ときどき「生活と意見」を拝読して、ときどき接近したところにいるなと思っています。先日は秦さんが歌舞伎座にいかれたその3日後に、やはり襲名披露を見てきました。ただし夜の部だけですが、「め組の喧嘩」は思いのほか堪能しました。歌舞伎はその昔は誰でもが楽しめる大衆演劇だったのだなと思いました。そういうものがだんだん少なくなってきています。
「生活と意見」を読みながら、ある危惧をおぼえておりました。こんなに何もかも書いてしまっていいものか。ただし、それについては秦さんご自身が2月9日にある覚悟を述べておられますので、先刻ご承知のことと安堵いたしました。2月23日、「もどろき」を読んでみようかとおっしゃっておられるのを、興深く読みました。
じつは、昨年の十一月末、あるひょんなきっかけから、某文芸誌の編集長に食事をご馳走になる機会があり、そのとき「もどろき」の話をしました。この数ヶ月の雑誌の中でもっとも感動した作品として、私が取り上げたのですが、たぶんそれはお作を通して、あの作家が扱っている題材について知っていたからかもしれません。バシュラールはともかく、ドナルド・キーンが戦争中に戦死した兵士の日記から、日本文学に近づいていったことを記した父の手紙を面白いと思いました。「日記・手紙・和歌」この三つの要素の上に、日本の文学は立っており、これを無視すれば、何も語れないからです。
ただし、この小説は題材から、いちぢるしく父の側に偏っていますが、実はキーは母なのではないか、と思いました。谷崎潤一郎はいうに及ばず、志賀直哉ですら母恋いの文学で、これを無視すると、日本の文学は語れなくなるからです。また、一般に戦後の日本の教育がだめになったのは、父親が不在なせいだ、と、きいたようなことをいう手合いが
いっぱいいますが、私は母親が母親でなくなったせいだと思っています。
そんなことを話しているうちに、秦さんのことになり、すでに黒川創君と秦さんのご関係を、むこうが知っていると思ったのに、何も知らないのでこれにはびっくりし、余計なことですが私が知るかぎりのことは話してしまいました。お許しください。
あの作品が芥川賞候補になったとき、私は多分受賞は「聖水」と「もどろき」だろうと勝手に決めていました。あのふたつが群を抜いている。しかしふたを開けてみると、「聖水」は取りましたが、「もどろき」の代わりに私がたったひとつ読み残した作品が入っていました。歌舞伎座で、4時間ならぶ間(というのは私の券は新聞販売店の招待で、そのくらい並ばぬと切符がもらえぬからです)出たばかりの「文芸春秋」を買い、読み残した受賞作と選考委員の選評を読みました。秦さんが「或る小倉日記伝」のことに触れて、芥川賞の受賞作を読んでみようかとおっしゃっているのをこれも興味をもって読みました。読んだらぜひ「生活と意見」で感想をお聞かせください。
黒川創氏はおそらくもう一、二回候補になれば賞をとると思います。もう一作ぐらい読んだら、私も感想を述べるつもりです。
私がまったく買わなかった「熊の敷石」を推している選考委員とそうでない選考委員の顔ぶれを見ていたら、その人たちの作風ではっきり色分けできるのに気がつきました。これは森敦がよく言っていた「密閉」ということを理解しているかどうかの違いなのです。どんなに小さな世界でも、それが密閉された時全宇宙と等価になるというので、近代日本文学でもっとも密閉に成功した作品は「蓼喰ふ蟲」ではないかと私は思っているのですが、そんなことを考えました。
例の書き物はここのところ、意識して休んでいます。言葉がほんとうに内から出なくなってきている危機感を持っています。昨年の半ば過ぎからいろいろ付き合いが拡がってきてしまったためでしょう。気を取り直して、やっていきたいと思っています。(二月二十五日)

* わたしの日々については、とくべつ揺すられる思いもない。
読んでいない「もどろき」に関して謂えば、書かれてあるかどうか知らないが、死んだ兄に『家の別れ』という本があり、兄がわたしにも触れてものを書いた最初にちかい仕事であったのだろうと思う。それすらもわたしは永らく気づいていなかった。つまり、すぐには読まなかったのであったろう。その本の最初の方であったかに、洛北と言うよりも滋賀県にちかい遠い山中に「還来神社」のあることを兄は書いていて、わたしのように歴史好きの小説家なら反応して当然の、むしろ兄の意図を逸れたところで関心をふくらませたものであった。その後、滋賀県滋賀里住まいの読者から、はからずも「もどろき」さんに触れた手紙を貰い、以降、その人を介してわたしは京都市内の「還来神社」もふくめて主として歴史の側から資料を拾っていた。しかし熟するまでは書く気はなかった。なかなか面白い由緒や伝承をもっていた。もう兄の寄せていた関心とはよほど離れてわたしは頭の片隅でのべつの発酵を期待するともなく待っていたが、ま、当分は書くまいと思っていた。
「もどろき」さんをお書きよと、黒川が家に来たときに、それほど熱心に言ったとも思わないが唆したのは覚えている。創は、わたしほどではないがかなりに飲める方だし、飲み過ぎるといかにも眠そうな目になるから、わたしの言うことをそうは覚えていまいとみえて、そうでもなかった。いつも妻と話して感心してきたのは、創は、土が水を吸うように、その次か次に逢うと、まえに我が家で話していたことへの何らかの反応をもって訪れてくることだった。勧め甲斐のある男で、これが嬉しかったものだ。『冬祭り』でも書いた深草の若冲寺について話して、大きな集英社版の画集を貸してやれば、たちまちにと言っていいほど関心を深めて、懇意の京都の画家徳力富吉郎への紹介状を書かせて会いに行ったりしていた。身を働かせることの的確にすばやい方で、そういう青年を見ているのは嬉しいほど楽しかったものだ。歌舞伎を唆したのもわたしだった。美術だの古典芸能だのといったことでは、何の蓄えもない少年だったのが、ぐうっとそこへも進んでいった。本当に書きたい批評や評論の題材があるのなら、遠回りしてでもまずは小説家に成りなさい、その方が絶対に効果があるよと体験的に何度も話して、気乗りのしないような煮え切らないことは口にしていたものの、瀬踏みをしていたのだろう、きっちりとその方へ歩いて行った。「群像」に若冲を書いてきたときは、思わず妻と「やったぁ」と快哉の声をあげたものだ。
育った京都、伏見、家、自分の体験をほんとの「財産」にするように、そこへ一度は真向きにぶつかるがいいとも何度も唆した。彼は少々どころか大いに困惑し当惑し迷惑もしたであろうが、私の気持ちには、かなり本気で、黒川にバトンを渡し、自分は好きにしたい意識が、いつもあった。そういうわたしの気持ちにも、割り切れていないものは幾らも含まれていたが、またそう「思っていい」ものを、わたしは、もうその当時から、甥の「文章」のよろしさに感じていた。「書ける子」だと信じていたので唆し甲斐が十分あったし、それだけのキャリアを少年時代から彼はたぶん父の薫陶や優れた周囲の大人たちの刺激・期待により、培っていた。文章の才はあるのに娘朝日子には、従姉弟の恒(黒川創)ほど謙虚な意欲も努力も見られなかった。息子建日子は演劇を創る方へ意欲的に出ていった。小説家の親の近くで小説ではどうも「ありがたくない」のだろう、よく分かっている。
ウイーンから電話してきた恒の弟猛は、「兄貴は、いま、叔父さんを敬して遠ざけとるんゃないかなあ」と、まんざら冗談でなく言っていた。そうかも知れない、そうでないかも知れない、が、そうであっても当たり前の話である。よく分かる。下の甥は「叔父さん」と呼ぶが、黒川は少年の昔から「秦さん」と呼んできた。「個と個とで」つき合おうという北沢恒彦の思いも深く、兄少年の方がさすがにナミの親族でも同族でもない意味をそれなりに分かっていた。血縁こそ致し方なく認識していても、戸籍の上では叔父でも甥でも全くないからである。その上におなじ創作・文学、それも通俗文学を避けた路線にともに乗っているのだから、わたしがもし若い彼の立場でも、今となってはあまり「ありがたくない」だろうと思う。それでよいのである。あの松篁画伯でも母松園の絵にまともに目を向け語り始めたのは壮年期にはいってからであった。
ともあれ「もどろき」は書かれたのである。作者がどう思おうとも、祖父も父親も作品をそれぞれに受け入れているだろうし、わたしも、なんだか、肩の荷が一つ下りた。らくになった。わたしのことは気に掛けないで、ドンマイで、人が「感動作」と思ってくださる作品をどうか書き続けて欲しい。受賞はしてもしなくても、である。
いままでのところ、少し口はばったく言わせてもらえば、作品の骨組み上の推敲が足りないため、不用意に長いだけでなく、冗漫な細部での足踏みや詮索が煩わしく作品を殺している、若冲はそれで完全に失敗していた。私にも苦い自覚があるだけに、似たような「病気」で似たような患者にはなって欲しくない。それだけを言っておく。叔父さんとしてではない。一世間の批評家・文筆家「秦」からの批評である。もう、わたしと同じ道をついてきてはいけない。

* ことのついでに、わたしの器械に「メモ」してある「もどろき」の昔のことをここに書き込んでみよう。もう何年も昔のもので、これを黒川創に送ってやったかどうかはしかと覚えないが、秘しておく気持ちは少しも持たなかった。
還来神社の祭神は藤原旅子とされている。この名前が「旅」と絡んで無事に「また還り来る」と脚色されたのであるらしい、わたしは、そう思う。もう六年以上も昔からわたしの「もどろき」をめぐる読者との交信は重ねられていて、このような神社の実質については、著書に書いていた兄恒彦もなにも知らなかったことと思われる。以下は読者からの手紙に答えた手持ちの調べの「纏め」のようなものであった。お礼に送った本は、出たばかりの『青春短期大学』であった。わたしはまだ東工大に教授室をもっていた。

*  前略 ごめんなさい。疲れていてねむいのですが、お手紙がおもしろく有り難いものでしたので、お返事をしないで寝るわけに行きません。長くは書けませんが。
旅子の父は百川ですが、母は、内大臣藤原良継の娘の諸姉(もろね)です。良継は光仁即位を参議百川とともに謀った人物です。彼等の策謀を宮廷内で支えたのは百川の母であった久米連(くめのむらじ)若女(わかめ)です。諸姉と百川には少なくも娘が二人あり、姉が旅子、二つ下の妹が産子(なりこ)です。姉が生来病弱なために妹がまず光仁天皇
の後宮に入り、後れてほぼ婚期を逸したほどの年齢で姉が光仁の子の桓武の妃として入内しています。そして妹は姉の遺子である後の淳和天皇・大伴親王の養母となって養育し、そのために産子は異数の厚遇を朝廷に得ています。
注目すべきは若女で、この女人は藤原宇合の未亡人ですが、石上乙麻呂と密通して流罪に遭ったりしています。下級貴族の娘ですがしたたかな策謀家で、百川らもこの母の手引きで動いていた形跡があります。ともあれこの女人の孫娘が、旅子と産子です。
畑丹波守というのが、ちょっとすぐには分かりません、これから探索しますが、当時の氏姓からすれば「秦」氏と見るほうがリアリティーがあり、胸が騒ぎます。「蓮華夫人」が佳い名ですね、小説の題に生かしたい。
私は西院で生まれています。これもまた所縁ありげで、徐々に想像が渦巻いて行きます。
書き出すまでにこの想像を堪能するほど楽しむのがわたしの方法です。また耳よりのことあらば教えて下さい。
ちょっと妙な本が出来ました。お納め下さい、そしてすぐ本文を読まずに、等分は目次をにらんで正解を探って下さい。百題ほどあります。何点とれますか。お元気で。   平成七年三月二十六日 午前二時過ぎ
2001 3・3 8

* 夕過ぎて建日子が帰ってきた。夕食後に、彼が持参の、ロケットを天高くとばす高校生四少年のビデオ映画を観た。長い題で、忘れた。いい映画で、妻と試写会に招かれた「リトル・ダンサー」とつくりが似ていた。背景に炭鉱のつかわれてあるのまでいっしょだった。今夜のは、ちょっとハナシがうますぎるかなという気がした。
引き続いて向田邦子原案金子成人脚本の「風立ちぬ」をまた観た。田中裕子、小林薫、宮沢りえ、田端智子、加藤治子、米倉斉加年らの、隙のない名演技に、三人で感嘆した。演出し、また脚本を書いている経験から息子は明らかに「玄人」として観ている。めったなことで、うまいとは言わないのだが、このドラマの田中裕子たちには惜しみない評価を与えていた。原作も、大御所級の脚本も、久世光彦の演出すらも凌駕する演技。役者のうまさが大方を決めてしまう。
だが、あのテレビ画面での同じうまさが舞台でも映えるかとなると、それは、またちがうだろう。其処ではまた別の芝居をしてうまみが出る。うまい役者の演技でなら映像も見たいし舞台も観たい。

* 零時半ごろ建日子は五反田へ戻っていった。息子の顔をみるとほうっとする。娘や孫たちとも話したいと思う。きょうは雛の日であった。
2001 3・3 8

* 黒川創の「候補作」が新潮社で本になって、贈られてきた。雑誌で読んだ人が、本も買ってくれるといいが。装丁は誰のものか、すこしパンチ弱い感じだ、二百枚で一冊にする時代なのだなあと、そんなことにも時節を感じる。
こないだまで高校生だった気のいまだにする甥が、もう四十に近づいている。わたしの娘は四十になっている。元気でいて欲しい。きんさん、ぎんさんだけではない、久和ひとみのようなイキのいい女性が、四十半ばで死んでしまった。NHKテレビで日本語のことを話しあったことのある女優で演出家だった如月小春も、最近死んでしまった。若い人たちの健康を祈らずにおれない。
2001 3・5 8

* ゆうべ、黒川創『もどろき』を、単行本でやっと初めて読み始めた。はっきり言って、最初の「 1 」までだが、落胆した。いい文章の書けるヤツだとまともに褒めて置いたのに、その文章に魅力がない。ザクザクし、グサグサして。へんな演説も鼻につく。しかし、長い作の最初の一章でサジを投げては、わたしも辛抱がなさ過ぎる。最後まで、ちゃんと読みたい。この先のあざやかな立ち直りを期待している。
2001 3・6 8

* 私小説を書くのであれば、大胆と誠実とが数倍必要であり、その必要は、他者によりも、何より自分自身の表現に即して重くあらねばならない。ある程度のハラをくくれば、他者に対して辛辣であったり深刻であったり軽妙であったりは難しくない。しかし、自分に対して厳しく真実に迫ることは容易でない。過剰に自虐したり、強いて観察の「眼」とのみ化した気で圏外に遁れ出てしまう。容易い、が、誠実ではなく、小心である。カミュの蠅のように透明なガラスに頭をすり羽をすり、飛べないガラスの彼方へ飛び続ける苦渋を永続する、そういう不条理な大胆さで、自分自身を表現しなければ、私小説は不純に陥る。
黒川創の私小説は、祖父や妹や母や父や実の祖父母は適切にリアルに書いている。よく書いている。これを物語る「私」のハートは書こうとしていない。書かないのだ、という方法のようである。貫く棒のごときものとして「私」の斯く『書く意志』が、確かな表現と徹底を得ていない、まさにそこが、或るお洒落な感じを与えると同時に、読後に、さてこれという感銘をのこさない。
わたしたちには私的興味に助けられたり邪魔されたりするところがある、が、遠い場所で読んでくれる読者は、この「よその家」の顛末にかかわる三代の心理の交錯に、どれほど心打たれるものか、見当がつかない。
自殺した父を目して、「父の死骸は」と書くことで、作者は、「私」の真相・真意を表現した気か、逆に鎧い隠して守っているのか、たんに不用意なのか、微妙なところだが、妻もわたしも、ドキッとした。わたしたちは、あまりに関わりが濃すぎる。正しそうな批評が出来ないと思った。高田欣一氏のいわれるような「感動作」とは、わたしは特には感じなかった。作風が、散らかる感じに固定されてきたようだ。句読点を過剰にほどこした、きれぎれの短文節短文章は、ある軽い弾みと乾きとを作にもたらし、湿っぽさを吹きさらす効果になっているが、そんな効果の陰へも、ほんとうは書かれなくてはならぬ「私」が逃げ込んでしまっているのかも知れぬ、という気がした。ちらちらと、した。だが、読みやすかった。
わたしたちだから分かり、わたしたちだから可笑しく、わたしたちだから悲しいところが有るだろう。わたしには、これ以上は言えないし、言うのはよそうと思った。エッセイの筆致であり、筋とか物語とかの太く逞しく表立たないのが、『若冲の眼』『硫黄島』『もどろき』に共通した特色となった。とりとめなげに短章・短説を連鎖させて行く。谷崎に学んだわたしは、その手法をとることはあっても、おおかた「ストーリィ」を書いてきた。創は、ちがうようである。ストーリィをむしろ崩すようにして書いている。それが新しい感じ感覚になっている、と言えば、言えよう。
2001 3・7 8

* 文芸春秋の芥川賞選評をはじめて読んだ。いろんな選者がきれぎれに触れているのを、わたしの「もどろき」批評は、取り纏めて言えていたようだ。今回に関する限り、残念だが「もどろき」を採った批評より、切り棄てた選者の批評の方が信用できる。受賞作にはあまり興味が湧かない。

* 昨深夜に建日子が隣へ帰っていた。今も仕事をしているらしい。
2001 3・9 8

* 昨日年長の従兄から、わが実父の昔の書簡を送ってもらった。内容は、わたしには殆ど意味すら分からない親族間の内輪の感想で、その限りでは無縁にちかいが、父吉岡恒の謹直な書体また文体であることは間違いなく、肉筆のものなどわたしは殆ど一つも持たないのだから、珍らかでもあり、有り難く頂戴した。
秦の母もものもちのいい人だったから、実父母や吉岡家からの通信物は保存されていただろうが、京都を引き払うときに悉く処分されてきた。それはそれで、わるいことではなかった。
妻の兄の、詩人として出発した頃の作品などが未亡人のところでどうなっているのか、心配している。妻の母は短歌、父は俳句をたしなんで、作品もあったようなことを聞いている。そういう「作品」には個人的に目を触れてみたい気がある。
2001 3・10 8

* 妻に、明日の結婚の日の心祝いに、金のネックレスとイタリア製の絹のスカーフを。あすは、おそめの昼食の後、歌舞伎座の夜を観る。我当も出る。玉三郎初役という忠臣蔵戸無瀬の二幕もある。仁左衛門の保名、幸四郎の鳥辺山もある。華やかではないが、しっとりと歌舞伎の楽しめる出し物だ。散髪もしてきた。
2001 3・13 8

* 黒いマゴが、テラスから一気に書庫のエプロンに、そして屋上庭園(は、チトたいへんな物言いだが、)へ、らくらく跳び上がって、引き留めようもなく好き勝手に「外遊」を楽しみに行ってしまう。食べたくなると、また夜はわれわれと一緒に寝るために、帰ってくる。掌にも足りなかった仔猫が、雄大になっている。妻にはベタベタに甘える。妻がいないときはわたしにも盛んに甘える。
2001 3・27 8

* 妻の妹黒澤琉美子から、亡き兄保富庚午を偲ぶ詩編二十余が送られてきた。兄にもらった筆名の「あぐり」で。七編を選んで、これは、「e-文庫・湖」第一頁の追悼のなかに組み入れた。義妹は、気持ちの澄んだ詩を書き、巧みに繪も描く。詩も繪も、少し身贔屓していえば、素人ばなれがしている。

* いまウイーンの甥が電話してきて、昨日で三十になったという。三人の年長の友に囲まれてちいさな誕生会をしてもらったという。ユダヤ系のインド人のために、「荒城の月」を訳して唱ってあげたという。その訳詩が欲しいというと照れてにげた。ラグビーもやっているらしい。彼が入っているウイーンの大学では、学生のほとんど女性だが、ラグビーをやっているのは体格旺盛な男ばかりで、元気なもんです、と。

* 雨。桜が落ちて仕舞わぬことを願う。義妹のいい詩を書き写していて、気分が静かになった。
2001 3・29 8

* 明日は建日子がわれわれを車でどこかへ連れて行ってくれるとか。湯でもつかって、今夜ははやめに休みたい。
2001 4・4 9

* 明け方には冷え込んだ。マゴに障子をやられて飛び起きたのが七時前、血糖値は、80、すこぶる良好。
迪子、満六十五になり、わたしに追いついた。聖路加の定期検診にでかけ、そのあと建日子らと合流する予定らしい。体調は一進一退のもう永い永い横ばいで、日により弱り日により元気。その程度で永く永く無事にいてもらいたい。
2001 4・5 9

* 聖路加病院で建日子の自動車に乗り込み、お台場のフジテレビの、高い高い球形の展望台にあがった。今日は天気晴朗ながら強風の吹きすさぶ日でもあった。六十五歳の妻は、めずらしいお台場近縁の景色を声弾ませて楽しんでいた。息子の仕事場の一つであるということも、フジテレビには懐かしい思い出のあることも、ご機嫌のよさに手伝っていた。
フジテレビはもともと、我々の上京し結婚したころの、新居といえば聞こえがいいが、市ヶ谷河田町のアパートの、すぐ近くにあった。家にはテレビなどなく、金もなく、よくフジテレビへ出かけて、どこへでも潜り込み物珍しさに楽しんでいた。あげく、当時の長寿番組であった「スター千一夜」のセット(喫茶店)の客として出演を頼まれたりした。菅原謙二という映画スター、今は新派にいる役者が結婚するか婚約したかの頃であった。数百円の出演料を、ポケットからの小銭一掴み分もらった。それが家計の足しになった時代であった。すこぶる楽しかった。その頃、妻の兄が、ときどきフジテレビで構成などの仕事をしていた。いまフジテレビはお台場に引っ越し、そこへは我々の息子が、ドラマ脚本の仕事などで通っている。
フジを出て、近くのヨーロッパスタイルの豪勢なホテルのラウンジで、サンドイッチ一人前と飲み物とで、一服した。
妻のつよい希望で、お台場をはなれて自動車は川崎の方へ走っていたらしいが、わたしは小瓶のビール一本に誘われ、うしろ座席でぐっすり寝入った。前では妻の嬉しそうに息子と話している声がときどき夢の合間に聞こえ、自分が車の中に寝入っていることを忘れたりした。気が付くとガランとすいた大きなトンネルの中を疾走していた。一瞬シルベスタ・スタローンのやった海の下のトンネル大事故の映画を思い出した。そういう物騒な印象はすこしも現実にはなかった。木更津へ通じた海底トンネルを、妻が所望の「海ほたる」へと走り続けていたのだ。
「海ほたる」なんてとさんざバカにしていたけれど、なかなかの光景で、光景どころかよろめくほどの恐ろしい強風で、幸い寒くはなく、風も景色も、ことに富士山のシルエットが空に浮かんだ方角に、炎々とあかく燃えていた夕焼けと夕陽の美しさには、わたしも声をあげ喜んだ。息子が何枚も写真をとってくれた。海に囲まれた巨大な船の上という感覚であり、ぐるりと風にさからい回廊を一周して、妻は嬉しくてころころと笑ってばかりいた。落日のはやいことにも三人でおどろいた。いい眺めであった。
また川崎の方から陸に上がり、銀座に戻って、ラジオの仕事をちょうど終えてきた息子の相棒の女優とも合流し、「寿司幸」をめざしたものの全席ふさがっていたので、一丁目の「シェモア」へ歩き、シェフお薦めの料理を満喫した。シャンパンを食前に、赤ワイン一本を四人で分けた。ゆっくりといろんな話が出来た。誕生日祝いの品などなにも用意も出来なかったけれど、後日に靴を一足と、手形で払って置いた。文句なしに妻には楽しい誕生日となったと思う。
「シェモア」の下の方の店で、二所帯が、めいめいにパンを買ったところで路上で別れた。足下に有楽町線の駅がある。地下鉄で妻はうとうとし、わたしは、立ったまま嶋中鵬二さんの「日々編集」に読みふけりながら、保谷まで。宇野千代のこと、司馬遼太郎のこと、永井荷風のこと、など、よき時代のすぐれた作家や文学者達のはなしは、いっとき私に「フジテレビ」や「海ほたる」や「シェモア」を忘れさせたほど濃厚な感銘を与えてくれた。
建日子にNHKでの連続ドラマの打診などが、運転中の携帯電話に繰り返し入ってきていた。金になるならぬ、生活がラクか苦しいのか、そんなことは分からないが、生き生きと日々を過ごしているらしいことは分かり、そういういわば仕事の現場に触れるというのも親には珍しい見聞であった。しっかりやってやと、わらっておれた。
2001 4・5 9

* 昨深夜、建日子が車で隣の家に帰った来たのが分かった。今日昼食をいっしょにして、夕方人と会うと出かけていった、人と会うのが「仕事」なのだ、放送製作の世間は。
2001 4・8 9

* 柔らかく薫り高い朝掘り若筍の京より贈られてきたのが、昨日だった。若布と炊き合わせ、木の芽も添えて、筍御飯。これは、昨日の晩から今日への、季節最高のごちそうであった。叔母の処へ出入りの茶道具を商う家が、いまもなおわたしのところへきまって毎年の筍を、松茸を贈ってきてくれる。叔母のことが、現金にも、懐かしまれる。妻は永年の腕で、とてもおいしく筍を煮てくれる。今日は和え物もつくってくれ、焼酎を楽しんだ。
* 二階にいるうちに、スティーヴン・セガールの活劇ものをビデオにとって置いてくれたという。これは喝采もの、もう午前一時前だが、見に降りよう。
2001 4・14 9

* 今日起き抜けのショッキングなニュースは、小学六年生が母親を刺し死なせた事件です。引っ越しで学校が変わり、以前の友達との別れがつらいので自殺しようとし、留めて叱った母親が逆に刺されたと。
転校して友達のいない寂しさは、身に染みて覚えがあります。
国民学校二年生で父は出征しました。 あのころ、先ず学童を強制疎開しましたね。姉は当時病身で休学中。学童は私一人でした。集団疎開はいややと頑張りまして、当時の大阪市郊外に住む母方祖母と、半年ばかり二人だけで暮しました。寂しかったし 永く永く思えた日月でした。大阪市内に 、夜は花火の様にバラバラと爆弾の落ちるのをボーと見ていた記憶があります。人見知りが激しく、内向で 友達は作れず、偶に祖母の処へ来る伯父や姉からの便りだけを待つ日々でした。寂しかった。まだ 七歳でしたね。
その後家族たちも疎開する事になり、今度は淡路島の父の実家の離れで、父を待ちながら終戦を迎えました。
終戦の日、強い日差しを受け、色とりどりの松葉ぼたんが咲き、そして雑音の多いラジオ放送は、何だかさっぱり分からず、説明をしてもらって「敗戦らしい」と理解した、あの天皇の玉音放送。
母に付いてリュックを背中に買い出しもしました。やはり友達は出来ず、只々苦い思い出ばかりです。父が復員するまで 一年半ばかり住みましたか。
元に戻りまして。寂しさは充分に理解できます。それにしても「切れる」年齢がこうも低くなるのは、何が問題なのかという事です。あの「十七歳たち」が次々に「切れる」事件を起こしていた頃が、もう昔のことかと錯覚しそうですね。

* わたしは十歳になっていた。偶然だが、わたしもまた、現在は大阪府下の高槻市、当時は京都府南桑田郡山村に疎開し、大阪が空襲に遭っている日の炎々と赤く燃えた空の色にちいさい頸を縮めていた。わたしも集団疎開はいやだなと思っていた。にわかに、かすかな縁故を頼んで、じつは縁もゆかりもない山奥のあれた農家にとびこんだのだった。はじめは祖父と母と、やがて母と二人になり、ときどき父が自転車で老いの坂をこえてはるばる見舞いに来てくれた。叔母は引っ越しの最初に一夜を過ごしておぞけをふるい二度とは現れなかった。疎開してすぐの四月から国民学校(小学校)四年生だった。
小学校六年生は、ひとによっては、そんなに子どもではない。むろん、そんなに大人であるわけもない。しかし自信にも自信喪失にもまぢかにいる年齢で、どっちに転ぶかは危ういのだ。私たちの頃は世の中の人みなが飢えと背中合わせにいたので、転校がいやで自殺したいなどと、暢気な見当違いは言うておれなかったし、飢えていると死にたいどころか生き延びたいと思うものらしい。孤独に弱いのは人の常だが、中学時代のわたしの年上の人は、「孤独を楽しみよし」と微笑んで勧めるほど強かった。
東工大の学生に聞いたのだが、高校時代の先生から、「十七にして、親をゆるせ」と教えられたそうだ、なんというすばらしい自立の勧めであることか。「十七にもなったら、たとえ親が至らなくとも、ゆるして親を支えてやれ」ということか、これが本当だ。十七ならそれが出来る。体力的にも気力的にも社会的にも出来る。むしろ親が「切れて」も、十七にもなった若者が「切れる」なんてみっともないのである。
わたしの十七のとき、育ての父親は女と金とに躓いて家出をした。切れたのだ。母も切れていた。わたしは親に先を越されて切れるどころのさわぎでなかった。食うものも食わずに本を読み、短歌をつくり、叔母に茶の湯を習っていた。ぜんぶ、しっかり元を取った。「切れ」ている少年少女たちに、わたしは、そう暗澹とはしないと決めている。大人の責任ばかりとは考えていない。
出久根達郎さんの上京譚が好きである。「e-文庫・湖」にいただいた『タンポポ』の書き出しに、こうある。
「中学校卒業後の進路は、一存で決めた。私の家は生活保護を受けていた。保護家庭の子女は、義務教育を修了すると、いやも応もなく働きに出て、稼ぎを家に入れなければならぬ規則だった。国から借りた生活資金は、そういう形で返済しなければならぬ。
私は就職も就職先も、誰にも相談しないで決めた。昭和三十四年当時の、中学卒に対する求人の大半は、商店員か中小企業の工員である。月給千五百円から二千円が多かった。
書店員、というのがあった。住み込みで食事付き、手取り三千円。書店なら思う存分に本が読めるだろう、勉強も出来る。私はあとさき考えず飛びついた。菓子屋なら菓子が食える、と幼児が単純に思いこむのと同じ発想である。
上京当日、私は初めて両親に就職の件をうちあけた。出立(しゅったつ)は数時間後だと告げると、両親は仰天した。行先が東京の中央区月島と知ると、母親が不意に泣きだした。島と聞いて胸をつぶしたのである。鬼界(きかい)ヶ島の俊寛(しゅんかん)を想像したらしい。流人(るにん)ではない、となだめたが、私にも月島がどういう島であるか見当がつかなかった。銀座に近い島、と職安の係員が説明したが、すると尚更もってイメージできない場所であり土地である。船で渡るのか、と母が聞いたが、たぶん橋が架かっていると思う、と平凡な答えしかできない。マムシがいるのじゃないか、と東京を見たことのない母が取り越し苦労をした。人間が多いから蛇はいない、と断言すると、巾着(きんちゃく)切りが鵜の目タカの目で狙っているぞ、とたたみこんだ。
要するに息子のひとり旅が心配なのである。
こんな大事を勝手に決めるなんて、親不孝者の最たるものだ、と母親がぐちり始めた。  私はうんざりして、表へ出た。」
気概、というものである。
2001 4・15 9

* もう一泊しようかなと言っていたが、やはり建日子は仕事にも追われて五反田へ晩のうちに戻っていった。いろいろあるだろうが、からだは大事にして欲しい。
2001 4・16 9

* 夕過ぎてから、妻と、電車で一駅西のひばりヶ丘へ行き、以前から贔屓にしているビストロ「ティファニィ」で晩餐。フランスの赤ワインをハーフで。料理はいつものようにシェフに一任して、何が出来るか楽しみに待った。店内がどうという店ではない。クリムトのレプリカがやたらにあるが、繪は好みではないのだ、ところが料理は失望したことがない。自家製のパンもうまく、シェフが自身で丹精の赤米の飯もうまい。赤米は皇室の祭事用ぐらいにしか作らない。面白いことにこだわったビストロである。ここのメインはソーセージ。これが文句なくうまい。マリネにした各種の魚や野菜もうまい。満腹した。

* ちかくに「田中」という普通の民家の中に出来た風変わりに佳い蕎麦屋があると、妻は聞いていた。五時で終わる店でもう明いていないが、満腹していたし、在処だけ観ておこうと住宅地の方へ歩き出したところで、ちいさな店の奥にウーンと唸る好みの服が、女物の服が、目にとびこんできた。わたしは自分の恰好などどうでもいいので男物にはダメだが、女の着るものには、昔からきちっとした趣味と目をもっている。あれがと指さしたものは九割以上の打率で、妻に合う。今宵のも、シホンの、タンクトップにふわりと着込める上着で、デザインも柄もイタリアの、それは気の利いた佳いものだった。よくまあひばりヶ丘のこんな場所にと思ったが、相当にいい値段でもあった。それでも妻はよろこんで買った、蕎麦屋のことなどそっちのけで。楽屋を訪れて沢口靖子と張り合う気か、まさかね。
倉持さんの送ってきた「ステラ」に紹介の沢口靖子の写真、なかなかけっこうで。デスクトップにスキャンしてとりこみたいが、まだ、二台の機械に対して周辺機器の配分と設置が決まらないでいる。

* 子どもの声のしない「子どもの日」だったが、ま、近間の散策でご機嫌の食事と買い物が出来、これでよいとしよう。
2001 5・5 9

* さて今日も、理事会の始まる前に、ある人から、わたしのホームページで、「奥さん」との「お楽しみ」がびっくりするほど多いねと、冷やかすよりも本気で驚かれたのには驚いた。ま、だが、驚くまでもなく、いっつも誰にも言われつけていて、ことに子ども達が家にいなくなってからは、わたしの外出や遊びは妻といっしょがもう常時のことになっている。狭苦しい「家」では出来ない、出来にくいお楽しみを「外」でという秘めた気持ちが、かなり老いてきた二人共に、ある。回春の意識と無意識とがあるのやも知れず、そして、なかなか愉快なことも、ある。お疲れのことも、ある。老愁よりは、時節遅れにでも春愁を味わっている気で、恥じ入ってもいないし、食べてばかりいるわけでもない。
近年の東京で、妻とわたしの比較的好きなのは、まず上野。博物館やいろいろ有るし。また浅草、そして銀座。この三点、地下鉄で移動しやすい。千代田線も三田線もいろいろに便利である。休息して、食事して、上野にも浅草にも、妻も大好きな寄席・演芸場がある。上野浅草とは銀座の有楽町線へもたいへん便利で、上野広小路で寄席「夜」席のたとえ中入り後を楽しんできても、帰りは、以前よりずいぶん気軽にラクに保谷まで帰れる。
今日は保谷まで帰り着いてから、また寄り道して、もう少し赤ワインを楽しんだ。世の若い人たちも、われわれ老夫妻のように、せいぜいおおらかに安心して楽しめばいいのである、楽しめる機会には。
2001 5・15 9

* 隣の家では、珍しく建日子が「三日目」の仕事を、粘ってやっている。昼夜逆転の仕事ぶりは感心しないが、苦闘を強いられているらしい。これで三夜とも徹夜しているようだが。幸い仕事は幾つも来ているらしい、が、モノにするまでが大変なのは、なんとなく察しがつく。

* 重い鉄骨のような大きな本棚を六つも組み上げ、六畳の和室を板敷きに改造して書庫を拡充した。本を棚に積むだけでノビてしまった。
2001 5・25 9

* 珍しく北沢の姪の街子が手紙をくれていた。京都の吉田の家、祖父母が住み父の育った家で生活すると決めたらしい。これで東京にはまた兄の恒=黒川創が独りで残ることになったか。そういえば、やがてウイーンの弟猛が帰国してくるのではなかったか。ここしばらく彼らのことも忘れがちであった。いつか京都で街子に兄恒彦の墓参りに案内して貰おう。
2001 5・26 9

* 無事好日、さて何事もない珍しい日である。昨夕過ぎ、近所の薬局へ処方の薬をもらいに行き、近くに開店していた新しいレストランに妻と入ってみた。「ケケ・デプレ」とか妙な名の店であったが、2700円のコースが品数豊富で適量、意外に儲けものの味わいで、たっぷりのデザートまで、満足した。二階の窓の前に天神の森が青々と奥深げに見えたのがよろしく、わが保谷にも少しずつこういう気の利いた店が出来てきたかとこれからが楽しみになる。スリッパの普段着で数分。初めのうちすいていて、ゆっくり夫婦でいろいろ話せた。
2001 6・21 9

* ウイーンから甥の猛も帰ってきているらしく、昨日留守に、京都から電話があったとか。
2001 6・27 9

* ウイーンから甥の一人が帰っていて、今夕にもちょっと顔を出すと言ってきている。何をしているかは問わない、よく生きているだろうか。
2001 7・2 10

* 北澤猛と姉街子とが、京都から訪ねてきた。はじめ猛だけかと思っていたが、街子も行くと云いいっしょに出てきたらしい。宿は都内に取っていた。それで、十一時までに帰した。七時前から、まことに満ち足りた会話の晩餐になった。街子もだいぶはんなり話せるように、話せなくても表情に大人の女のうるおいが見えるようになり、そして弟の猛は、舌を巻く勉強ぶりを雄弁に開陳してくれた。ヴィトゲンシュタインの哲学の特徴や性格を即座にあれほど長々と滞りなく話せる若者が、いま、日本中に何人いるだろうか、猛は哲学の徒でも文学の徒でもないのだ。ただ語学の才に突出したものを持っている。父恒彦の才をうけているのだろう。西欧文明とユダヤの問題を多角的に縷々語って倦まぬだけの蓄えも持っていて、哲学史や比較宗教への視野も相当ひろく身につけていた。その未来線上に猛は「政治」を考えている気がした、彼自身がその方角へ身を動かしてゆくのではないかと。けっこうである。父親のある一面をこの弟息子は追って行くのかもしれない。
兄息子の黒川創(=恒)には心ゆくまで文学を追い深めて欲しいとわたしは願っている。「叔父さん叔母さん、長生きしてください」と、猛は、今夜、三度も口にした。この子らの行く末を少しでも永く兄に代わって見届けてやりたい。
姉も弟も飲める方なので、わたしも、付き合った。いや、ダシにして飲んだ。自分で純米の一升瓶と、大きな缶ビールを一ダースも買ってきたのだから、あまり心がけの良くない糖尿患者であった。よく太っている猛の血糖をはかって見たが正常値であった。人ごとの方は安心したが、自分のは恐くて計らなかった。
2001 7・2 10

* 朝、赤飯で娘の誕生日を祝った。指折り数えて、娘が、朝日子が四十一歳になる。もう十年見ていない間に、保谷の家のまわりも激変した。新しい廣い道路が出来たりマンションが幾つも出来たり、ご近所もみな老齢化。朝日子や建日子らの子供の頃は、近所に子供の遊ぶ姿や声が絶えなかったのに、その子たちがみな親になり、その子たちや連れ合いとよそに暮らしている。それでも、ときどき実家に帰ってきているが、朝日子には、その後に孫が増えているのかすら分からない。いろいろと、困惑させたくないので、こちらから探すことも声をかけることもしないでいる。連れ合いが青山の、国際政経のもう教授にもなっているのだから、生活に困ることはないだろう。健康にと祈って、母は「心身ともに」健康にと祈って、今年も両親で赤いご飯を遠くの娘のために祝った。
2001 7・27 10

* めずらしく兄の娘、姪の街子が、わたしと妻とに便りをくれていた。先日、弟の猛と二人で訪れてきた日が楽しかったらしい、京都へ来たらぜひぜひ声をかけてと。極端に寡黙な姪にしてはめずらしい。秦の父の十三回忌にかねて、兄の墓参りに街子に案内してもらおう、父の命日も迫ってきた。京都へぜひ法事にと、妻はお寺に連絡している。どうも、これには、よそうよと言いにくい。
2001 7・28 10

* 今朝、黒川さんの「もどろき」を読み終えたところです。読みやすい文章だったので短時間で読み終えたのですが、お父様、お母様、お兄様に関することだけに、とても複雑な気持ちでした。あなたがこれまで書かれていないこと、お兄様との交渉、黒川さんの目を通して見たさまざまなこと、などなど。そして同時に創作としての「読み方」をも頭の片隅に置きながら・・。
p74の父の文章・・「だが、同時に生まれることはなべて不用意ではないのか・・私の社会主義も革命もこの決着のつかぬものの悲哀を排除しない。私たちはいかなるプログラム、いかなる歓喜の中にあっても無限に悲しい。」、それに続く父の活動と逮捕、p79のお母様の短歌、p80「私は幽霊となる道を選んだ」・・活動を続けた人がなおそう書かずにはおれなかった、その意味の重さ、切実さ!・・、最後のp159のバシュラールからの焔の話、などが心に残りました。

* 恒=黒川創は、元気にしているだろうか。
2001 7・30 10

* 今年は花火も見ることなく過ぎてしまいました。例年になく暑い夏は、人員削減で、暑さも倍増です。体力負けしないようにと思っていますけれど。
久しぶりにテレビドラマ「救急病棟24時」を見ていました。
「…しか、ない」ではなく、「…も、ある」という、可能性を含んだ言葉は好きです。このドラマでは手術に要する時間のことを言っていましたけれど。とても気持ちが和みました。
それがなんと、建日子さんの脚本だったのですから、驚いてしまいました。ご活躍なさっていらっしゃることを、なんだかわがことのように嬉しく思い、またそのような気持ちになれる不思議をも、喜んでいるわたしです。

* 秦建日子の脚本ドラマは、妻のとっておいたビデオで、あとで見た。アメリカ製の「ER」の足元にも寄れない演出で演技で脚本であったが、もう、そんな愚痴を日本のテレビドラマに言い続ける無駄はすまい。いいものをという志を摩滅と言うより、ハナから持つ気なく、きまった放映時間を埋めるのが第一目的のような消耗品づくり、これはシンドイことだろう。しかしまた、そんな中でも「いいもの」を作ってきた人が伸び、また尊敬されてゆくのではないだろうか。建日子には、せめて年に一度ずつでも演劇に志と技とを燃焼させて欲しいが。
2001 7・31 10

* 日本列島秦氏族史と銘打った『「秦王国」と後裔たち』という本が贈られてきた。高価な大冊である。目次の第四章近畿地方の中には、「古代近江国愛知郡は、小さな『秦王国』」とあり、なんとそのワキに「作家秦恒平家の家系」と見出しが出ていて、四頁ほどの記事になっている。わたしの小説から適宜に推察したもので、家系といっても私自身が知らないし、亡くなった育ての父や叔母もほとんど何も知らなかったのだから、ま、編者に気の毒であったけれど、途方もないことは書いてない。わたしの生母が愛知川にちかい神崎郡能登川の人であったことは確かであるが、父は南山城の当尾の別姓であり、秦氏とは、わたしが実の父母から離れて養育された京都市内の養家の姓である。この秦家は、滋賀県の水口宿から京都へ出てきたようだと、それぐらいしか分かっていない。水口町には現在も数軒の秦さんが有る、らしい。
わたしは、ご縁でもあるから、滋賀県の秦氏には多大の興味を持っている。かなりのことを知ってもいる。「みごもりの湖」を書きながらも、母なる近江湖国の「秦」とは何であったろうと、夢のようによく想っていた。だがあの長篇にはいわゆる「愛知秦」のことは取り込まないで済ませた。鈴鹿の奥の木地屋伝承へ迫っていった。
いまも、なにもかも抛って近江に取材の悠久の歴史小説をまた書きたいという気がふつふつと沸いてくる。それを望んでくれる人の多いのもよく承知している。人の生は、しかし、流れている、蕩々と、かなり早く。流れに逆らって抜き手を切って遡ってゆくのが自然な行為とは、もう考えていない。成るように成って行くものだ。かりに読者の手には届かなくても、わたしの中ではたくさんな小説が、物語が、書き続けられていて、わたしはそれを常に常に楽しんでいる。
刊行元の「秦氏史研究会 歴史調査研究所」も、編者の牧野登という人もまるで知らないが、ま、わたしには興味深い文献であり、感謝して、一冊別に注文することにした。  2001 8・1 10

* 聖路加病院へは、妻とわたしとで常は別に通院しており、予約診察日もばらばら。ところが、はからずも今日はほぼ同時刻に予約時間も重なっていると、数日前に確認して笑ってしまった。病院通いまで一緒とはしまらないハナシだが、この偶然に、ながいあいだ意識すらなかったのも老化というものか。  2001 8・2 10

* 病院ではわたしの担当医に緊急の患者があり、長時間待たされて、ついに医者にはみてもらえず、看護婦から処方箋や医薬を貰いうけるだけで、予定よりはるかに遅い時間に解放された。始めての経験だった。妻は待ちくたびれた。
結局夕方になっての昼飯を、銀座の三笠会館「秦淮春」で。マオタイと老酒に料理がよくあい、たいへん旨かった。銀座では一の贔屓のビヤホール「ピルゼン」が九月で取りつぶされるとか、東京へ初めて来て、初めて在京していた妻といっしょに来た店であり、名残を惜しみに寄った。すぐうしろの席に、もと講談社の大村彦次郎氏、筑摩書房の中川美智子さんが、若い女性の書き手であろうか、と来合わせ、声をあげてお互いに久しぶりの対面をおどろき喜んだ。仕事の邪魔はしないで、やがて別れ、わたしはDVDの「タイタニック」を買い、妻は明治屋でチーズなどを買って、一眠りしながら有楽町線で保谷まで帰った。喫茶店「ぺると」で若い主人と暫くコンピュータ談義を楽しんでから家に帰った。
国立博物館や根津美術館に観たいものがあるのだが、今日は行けなかった。
2001 8・2 10

* 秦建日子の新しいホームページを開いてみた。なぜ、「掲示板」が欲しいのだろう。掲示板で、そのホスト発信者やホームページそのものの「調子」が決まってしまう。必要なメールなら、わたしのホームページで分かるようにメールとしてきちんと入ってくる。わたしだけが読めば済むものは読み、披露しても意味のある表現や表出は許してもらって披露している。そのために闇に言い置く「私語」のある水準が保たれる。その調子で行くから、過去数年、万に達する受信メールの中で、へんに不快なメールはたった一通だけ、二通と来たことがない。
三十余歳。建日子には先輩に黒川創がいる。柳美里さんらとは同じ年輩だろう。アーサー・ビナードより年上、平野啓一郎君よりずっと上だろう。優れた世代のライバルをも念頭に、公開する文章というものは、よほどの覚悟できっちり書くべきだ、自身の誠実と蓄積の全容を賭して。そうでない文章を意識もなく垂れ流すのは、文筆で食って生きるものとして恥ずかしい。それは読者を下目に見ることに繋がるし、決してしてはいけない。それをやっていると、文章がただただ軽薄に鉋屑のようになって行く。尊敬する最高の大人を一人でいい想い浮かべ、その人の前で顔を赤くしなくて済む文章(必ずしも中身のことではないが。)を書く気で書き、また創った方がいい。
わたしは、ウソではない、この場に書く文章の一行といえども、分かりよくいえば私を文章世界に送り込まれた、太宰治賞の選者たち、井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫先生らへの「答案」提出と同じ気持ちで常に書いている。瀧井孝作、永井龍男、福田恆存、井上靖、円地文子、小林秀雄、和田芳恵、辻邦生ら各先生に顔をしかめさせるような文章(中身ではない)は書くまいとしている。こういう考え方には批判は在るかも知れないが、じだらくに流れない一番の方法であり、優れた読者の顔をいつも念頭に置いている。湖の本の「いい読者たち」をいつもいつも念頭に置いている。それがわたしを或る意味で呪縛しているのだという論法も成り立つだろうが、そんなことを気にかけたこともない。
電子画面だから軽薄で佳いと言うことにはならない。不特定大多数のテレビ芸能ふう若い人を相手に商売の宣伝をするのだから、と、それで済むように考えていると、「ことば」が「表現」が、もう創作者の自在を失い、書けなくなってしまうのだ、本当に「表現」した文章が。それが言葉と文章の怖さだ。習作ほどの気持ちもなく日々に安易な言葉を消費するのは、これからという若い人のためにはならない。やるなら、新鮮な血潮を絞るほどの文章をそこで創作すべきだと思う。
2001 8・7 10

* 明け方というより、朝方に、隣に息子が帰っていて、ほぼ半日余も寝ていた。今は仕事をしているらしいが、今夜中にまた五反田へ戻るとか。ホームページによると、連続もののドラマを数回分仕上げてパスしているとか、よその芝居の頼まれ演出で稽古中とか言っている。体重オーバーが心配だが、運転しているせいもあり、もともと酒は飲まない。その方がいい。
2001 8・8 10

* 息子がさっき自分の車で五反田へ戻っていった。
2001 8・8 10

* 妻の友達がみえ、付き合って三人で近所のレストランに出掛けた。満腹した。
2001 8・11 10

* 「このあたりに雨をみたのは、何日ぶりでしょうか。アメリカンブルーがいきいきと沢山の小花を付けています。朝一番に、オハヨウと挨拶します」と、夏の朝らしいアイサツが届いていた。我が家のテラスは幾十という大小の植木の鉢で真翠に溢れている。書庫の屋上にも雑多な植物が繁茂して、目のうるむような青に視野が包まれる。そのなかに書庫の正面カウンターがみえているのだが、ま、どうしようもない書物の乱雑な山に成ってしまい、装飾度はゼロ。書庫へ入れば足の踏み場なく、奥へ通れない。書架の入れ替えはなかなかの重労働で一人では無理だが、妻を肉体労働させることは出来ない。息子は頼れない。で、もう十年近く手が着かない。必要な本を的確に探し出せないから利用度もさがっている。どうにかしたいが。
2001 8・12 10

* 河原町の京都ホテルにはいるとすぐ吉田にいる姪街子に電話して、北澤恒彦のお墓のあるお寺を教わる。ホテルの部屋の窓からおよそ見通せる、仁王門通り近くに専称寺はあった。妻と歩いて行った。途中日蓮宗本山の一つである頂妙寺境内に入ってみた。風格のある大きなお寺だ、その門前で妻は花を買った。仁王門通りを歩いたのは初めてかも知れないが、この辺は京の東寺町で、たくさんな各宗派の寺が群集しているのは知っていたし、そういえば狂言の茂山千作、千五郎の襲名式を取材しにこの辺へ来たなと思い出した。あるいはこのお寺ではなかったかなと思う、その真向かいに浄土宗専称寺はあった。
墓がどの辺かは街子に聞いていて、「北澤」という同じ苗字の家のお墓がないかとも確かめていた。無いということだったが、妻が先ず見つけたのは、無いはずの他の「北澤家」の墓であった。
暗に予測していたが、その墓には、北澤式文という名前で水塔婆があげてあり、間違いなくこの式文氏は北澤六彦氏の子息で、たぶん元京大薬学部の教授、小さいときにわたしのために子供用の自転車を譲ってくれた五つ六つ年かさの人、その当時は「ショウヘイち
ゃん」と呼ばれていた。父六彦氏はわたしの入学した頃の市立有済国民学校の教頭で、やがて校長としてよそへ転任して行った。わたしを、元京都府視学だった祖父吉岡誠一郎との縁でであろう、始末に困っていた幼いわたしを秦家に「もらひ子」として世話をしたのが、この北澤六彦氏であり、その斡旋で、もともと「吉岡」と名乗らねばならぬわたしが、国民学校時代を「秦」で通せた。秦と養子縁組の出来たのは新制中学入学の直前であったのだから。
北澤六彦家は知恩院下、白川沿いにあって、奥さんは助産院をもっていた。長い間、何も知らぬままこの北澤家を親類のようなそうではないような、奇妙な気分で眺めたり触れあったりしていた。いつしかに疎遠となり、しかし、気持ちの上では切れようのない不思議な家の一軒だった。
実の兄が「北澤恒彦」ということを知った頃からは、ますます「北澤」が気になる名前になっていた。ショウヘイちゃんの北澤と、兄の貰われていった北澤とがどんな縁になるのか、なにも知らずじまいに今日まで来ていた。

* ああ、やっぱりなあと思った、兄恒彦やその養父北澤氏と同じ寺の墓地に、北澤六彦氏も眠っていた。だが、両家の墓はやや離れて全く無関係らしく存在し、庫裡で大黒さんに確かめても「遠い親戚やろかな」という具合であった。街子にもあとで確かめたが、何も知らないようだった。
何十年ぶりかでわたしは北澤六彦・式文父子の名に、墓地で出会って、感慨深かった。

* 兄のほうも北澤家累代之墓とあり、夫人や恒、街子、猛らの名のある板卒塔婆が立っていなかったら、実感はもてなかっただろう。いや、不思議なほど兄の納骨されているお墓にわたしは実感がもてなかったと告白しておく。花を立て、線香をあげ、水で墓石をあらい卒塔婆にも水を掛けたが、兄の存在感はとくに受けなかった。感じとれなかつた。子供達は三人ともしっかりやっていると思いますよ、よく育てましたねと声はかけたが、すこし照れた。それでも、わたしは、すこし妻がうしろに下がっていた間に、水塔婆を墓石に立て、高唱十遍の念仏を一人であげた。おりしも大型台風が接近していたとはいえ、それまではなりを静めていた林立する墓地中の卒塔婆が、まして目の前の兄や兄の養父の卒塔婆が、すさまじく震動して鳴り続けた。おやおやと思いながら、高声南無阿弥陀仏を十唱し終えた。そして辞去した。
専称寺は風情のある佳いお寺だった。我が家と同じ浄土宗であることも、親しめた。玄関の奥の奥庭が深々と見通せて、清い眺めであった。
2001 8・20 10

* 北澤さんのこと
秦様、台風をかいくぐっての京都への往き来、お疲れさまでした。奥様との京都歩きに、後ろから私も付き従うような感じで「私語の刻」を読ませていただき、楽しんでいたのですが、途中であらまあ……と。北澤式文さんの名前がでてきて驚きました。
「薬剤の北澤さん」としておぼえている先輩です。北澤さんとは研究室が異なったので、先の富士谷あつ子さんの夫・憲徳(元京都薬大教授)さんとのようにいつもお喋りしていたというようなことはないのですが、存じています。北澤さんは京大ではなく慶応の医学部の薬剤部が長く、そちらの教授でしたから、ずっと、今も、東京(ご自宅は船橋市)です。きっとお盆にわざわざ墓参をなさったのでしょう。
夫の兄が同じ薬学で、北澤さんの一年上で、いっとき慶応の薬剤にもいたことがあるので、恐らく親しいと思います。いろいろ不思議な縁で繋がっているものですね。
数年前、大正製薬で結構偉くなっていた私達の同級生が肝臓癌で急死し、その葬儀が田無の護国寺であり、そのとき北澤さんをお久しぶりにお見かけいたしました。まあ、そんなくらいのことで、どうということもないのですが。
私はこのところずっと京都にご無沙汰して、お墓も参らず、申し訳ないと、西の方向いてあやまっています。7月12日の父の命日も、8月のお盆も、私の怪しげなお経を家であげて勘弁して貰いました。でも正因寺の万年ご住職は「そうやっておうちの方がお参り下さるのが一番でございます」と言って下さるので有り難いことです。
大文字も過ぎ、高校野球も終わり、もう秋が近いと感じます。残暑の候、お身お大切にお過ごし下さいませ。お陰様で私達夫婦は元気にやっております。 2001/8/23

* こうやって、知らずにいたことが少しずつ知れてくる。そしてまた忘れさられて行き、息子達の代になれば茫々とした忘却どころのことでなく、なにもかも無かったことになっていよう。
2001 8・24 10

* 税申告の講習会には、高井有一、吉村昭、阿刀田高、古山高麗雄ら百三十人も集まり、妻は文士達の質問やらおしゃべりやらに興味津々楽しんできたらしい。各社の編集者や新聞記者とはずいぶん大勢逢ってきたが、パーティーの席とはちがつた税のことなどで、作家達のみせる素顔がよほど面白かったらしい。ちょっと誰にでも体験できる刺激ではなく、そういうことでは、妻もずいぶんこれで世間は広い方であるだろう。税務なんてことは、わたしは苦手でどれもこれも任せっぱなしにしてある。
2001 8・30 10

* 京都で妻と買ってきたマゴ猫への土産の、啼いて歩いて「グゥッ」と吠える子犬が、あまり可愛くて、もうマゴの方は正体をみすかして見向かないので、わたしが貰いうけ、いまこのキイを叩いているすぐ側に置いている。掌にのるほどの、すこし仰向きにわたしを見上げている黒いちいさい眼と鼻と、あかい舌のさきとが、無垢に愛らしい。ピンと立てた尻尾まで、全身温かいベージュ色、淡い茶色をしている。名前をつけてやりたいが、まだ佳いのを思いつかない。啼かせるとちとウルサイが、黙って見上げられていると嬉しくなる
2001 9・8 10

* 今、日付の変るというときに、息子の電話。少し話して母親に子機を譲った。メールでも送ったのだろう。若い者は携帯の方が手っ取り早いのだろう。
2001 9・8 10

* わたしは二階の器械部屋で一日の大半をすごし、妻は自分の器械を仕事場にもちこんで、カードゲームに夢中。もったいない!! 「e-OLD夫婦」の、平和な「コンピュータ別居」の日々が始まっている。
十一時半。読書のベッドへ行こう、少し早いけれど、明日がある。
2001 9・9 10

* 猪瀬直樹の出版記念会(励ます会)が帝国ホテルであるというので、行く気でいた。昼間から出て、上野辺をまわってと思案していたが、朝からの体不調で昼間はとりやめ、晩には出てゆこうと思っていたが、心身大儀でとりやめた。帝国ホテルの光の間というのは、娘の結婚披露宴の会場だったところで、往時に触れるのもイヤではあった。
谷崎夫人も藤平春男氏も尾崎秀樹氏も森田久男先生も亡くなられた。
離婚の経験のある谷崎夫人を新婦側主賓におくとは非常識なと、人に罵倒されたとき、正直のところわたしは虚をつかれ、じつにイヤな気がした。およそそのようなことは、考えたこともなかった。谷崎文学とわたしと、谷崎夫人と我が家と、の縁は知る人ぞ知る、深いものがあった。まして娘を孫のように愛して、自ら何度も身をはたらかせて朝日子を本人熱望のサントリー美術館学芸部に就職させてくださったのも谷崎夫人であった。離婚も再婚もそれが何だというのか、松子夫人あって昭和の谷崎は名作の山をつみ、二人は添い遂げて、夫君没後も夫人が谷崎文学のために奔命されたことは、まさに知る人はよく知っている。
よそう。
2001 9・25 10

* 昨日、小学館古典の「近世説美少年録」最終巻が届き、読み始めて、ひどく夜更かししてしまった。眠りが浅く、黒いマゴに足先を噛まれて起こされ、外へ出してやり、そのまま起きてしまった。
一昨夜から息子が来て、昨夜のうちに戻っていった。どんな仕事をしているのやら、よく分からない。一頃より寡黙に、仕事に追われながらなかなか稔りを上げるのに苦労している感じ。今度は、今度はと、仕事について次々を聞かれるのは、うるさくもありシンドクもあるのはこの親父に覚えあり、あまり聞くことはしない。
ほんとうは、仕事をはなれて、今のうちにもう少し実のある話も、切ない話もしておきたいところだが、ま、男同士の親子でそういうことは、出来ないのが相場と昔から決まっている。井上正一の「亡き父をこの夜はおもふ(話)すほどのことなけれど酒など共にのみたし」という短歌を初めて読んだとき、思わず天を仰いだ。わたしは、実父とは生涯二面のみ、二度目は死に顔であった。養父は酒は飲めなかった。実のある話もあまりしないで過ぎた。十三回忌を迎えて、骨を洗うようにいやなものは全部抜け去り、懐かしい気持ちだけが感謝とともにこみあげるが、いかんともしがたい。育ての母にも叔母にも、まったく同じ思いである。この器械のデスクトップに、京都の店先で、一歳にならないまるまるした建日子を祖父が椅子坐りの膝にのせ、祖母は脇にしゃがんでいるありありとよく撮れたモノクローム写真を、いつでも大きく取り出せるようにしてある。父も母も息づかいまで聞えそうによく撮れている。ときどき、じいっと眺めている。
上の、井上さんの短歌で、虫食いの文字に、「赦」すほどのことなけれど、と入れてきた学生が教室にいて、胸が早鐘のように打ったのを思い出す。何という……と思いつつ、こういう子心、あるのだろうな、いや、わたしでもと、複雑な気持ちに思い萎れたものであった。

* 器械の同じ場所に、昔の社宅のベランダで撮った、一つは稚い娘朝日子とうら若い妻との写真、もう一つは一歳頃の息子建日子と妻との写真も置いてある。その息子がもう三十三、娘は四十になってしまっている。女盛りの美しかろう娘の三十代を、わたしたち両親はついに一度も見てやれないで来た、同じ東京都に暮らしながら。
その代りに、これは断然娘よりも美しい「雪子」ほかの澤口靖子が五枚もデスクトップに隠してある。いつでも逢える。文章と違い、写真というのはなんと手っ取り早いのだろう。若くて美しかった時代を変らず保存できる、それが映画の魅力と早くも大正半ばに谷崎先生は切言されていた。
2001 9・28 10

* 建日子が二泊して、仕事でまた五反田へ戻っていった。建日子が来ていると、話す時間はごく少ないが、心温かくわたし自身安心しているのが分かる。
2001 10・2 10

* 緑内障をおそれよと医師の無表情にわれも無表情に眼をあげて「はい」  遠
緑内障は眼の癌のようなものと遠き日に『緑内障』を本に、編集者われは

* 数日前であったが、遅く遅く床について、ながい時間読書の後、電灯を消したとたん、あ、緑内障かも知れないと直観した。それで、今日の、一年ぶり早朝八時半予約の眼科検診をすこし気にしていたが、視野テストが良くなかった。テストを受けながら、自分ではいいように思っていた。結果は両眼とも芳しい成績でなく、もう少しデータを増やしてから、投薬等の治療に入る必要があるかもと、来月の診察日がきまっった。驚かなかった。
午後の糖尿専科の方は、データはどれも安定し、たいへん結構と、例によって褒められた。

* 一病息災と思っていたが、余儀ない二病息災を考えるときに立ち至った。夕食をともにして行った建日子を心配させてしまった。
2001 10・2 10

* 何の歌だか、さっき、「思い出すのは、おまえのこと」「おやすみ」といった切々とした歌曲がCDから流れ出していた。こう呼びかける人が、わたしには大勢いる。とりわけて、娘。
2001 10・17 11

* 朝八時半か九時前に疲労困憊してベツドに倒れ込み、気がついたら夕方の六時だつた。かすかな寒気と発汗の感じがあるが、ま、大丈夫だろう。建日子が置いてある自動車をつかって吉祥寺での打ち合わせに行くのでと、雨のなか、小一時間立ち寄り戻っていった。
2001 11・3 11

昨日に次いでまた建日子が帰って来て、今日は泊まってゆくらしい。ビデオの映画を一つ、いっしょに観ないかと誘われ、階下でいっしょに観た。実話に基づく「銀行崩壊」とか。大味なツクリで、結果から結果へと説明的に場面が連結されてゆくだけ、共感も同情もわかず、気色悪い映画だった。主人公のからっとした小柄の妻役だけが少し可愛らしく、その他は、救いもカタルシスもなーんにも無い。
この気分のわるさは、昼間から読み始めていた三田誠広作「菅原道真」の、およそ文藝の藝の感じられない、索漠として説明的で、歴史年表を滑り台にして滑っているような、しかも無茶なつくりごとに、かなりムカムカしていたのを増幅してくれた。もっとも、題材が道真の時代となると、「秋萩帖」を書いたわたしには興味がある。どんどん読んでゆく。
あしたの講演に気が乗らなくなってきた。弱った。バグワンと「うつほ」を読んで、風邪薬をのんで寝てしまおう。何が何でも明日を済ませてしまって、明後日の眼科診察だ。 2001 11・4 11

* 迪子と待ち合わせた中華料理の「保谷武蔵野」で夕食し、歩いて市役所のこもれびホールに入った。建日子が推奨の中国映画「初恋のきた道」を観た。途中のかりん糖工場で買ってきたかりん糖と食事の時の老酒と、その前のビールがきいてしばらく寝てしまったが、いいところで、きっちり目覚めて、映画を十分楽しんだ。

* 父親に死なれて一人息子が故郷に帰ってくる。母は夫の死を心から嘆いて、遺骸を遠く離れた病院から、車ではなく古式にのっとり担いで帰りたいと、つよくつよく息子達にねがう。
父は死ぬる日まで学校の先生であった。すばらしい先生であった。新任してきた若き日の先生に、愛らしい村娘であった母は恋し、二人は愛し合った。その恋と愛とが、いかに清純に深く豊かであったかを、息子の回想と語りとで描き出されてゆくのが、それはもうみごとな繪になっていて、すばらしい。主役の少女が魅力横溢、ほかの何も要らない少女が画面に映ってさえいればただもう嬉しく感銘を受けてしまうと云った映画なのであった。
そして、その、夫であり父である人の遺骸は、吹き降る雪のなかを、教え子達や遺徳を偲ぶ大勢の手に担がれて、村へ帰ってきたのである。
息子は、父がそうしていたように、村の学校で、父の書き残していた文章で、一日、村の子ども達に授業する。それこそは、死んだ父が望み、死なれた母も心から望んでいて息子の果たせなかった大きな心残りなのであった。老母は、息子の音吐朗々と読み上げる授業の声にひかれて、やがて改築される昔ながらの学校の前に、かけつけるのであった、昔
も、いつも、そうしていたように。

* 大味でありながら、心美しく澄んで優しい映画であった。中国辺境の大自然を描いた映画に通有の設定とも言えるが、この映画には悲惨な悪意が働いていないので、後味がとても美しいのが嬉しかった。
2001 11・17 11

* 今日は迪子が息子といっしょにグローブ座の芝居を観に行った。留守番して仕事がはかどった。水曜にはわたしが、俳優座の稽古場の芝居に行く。木曜はいわば文藝館開館直前の電メ研。そして三連休して「ペンの日」になる。
2001 11・18 11

* 建日子が来て、置いてある車に乗って帰っていった。だれだか若いというより幼いタレントのCDを演出して造ったらしい、ちらと見たが、三十分ぜんぶは見なかった。はみだしデカの柴田恭兵の新しい娘役だとかで。
2001 11・27 11

* 「ヒーロー」というキムタクと松たか子主演の人気連続ドラマがあった。何人もの脚本家の分担連続であったが、あれが、ノベライズされて本になったのを、息子が黙って一冊置いていった。秦建日子も脚本作者の一人であったから、本の後ろの方に名前が小さく出ている。
映像のノベライズ小説というのは外国でもたくさん例がある。「氷の微笑」とか読んだこともある。ノベライズする人により面白さは格段に変る。「ヒーロー」がどうかは、売り出し中なのだから、息子のためにも黙っていよう。置いていってくれたのはそれなりに嬉しい。せっかくだから、お気に入りのキムタクと松たか子のサインが本に入っていても佳いなあなどと、安直で浮薄な父親はちと夢をみたりした。
2001 11・29 11

* 昨夜おそく息子が自動車を置きに来た。いま、階下で朝食を食べているらしい。あいにくの我々の外出で。一日、こちらにいるのか帰るのか。
元気ならいい。お互いに、怪我無く過ごしたい。
2001 12・10 11

* むかしよくカンヅメにされた、三番町、オークラ経営の霞友会館が、もうホテルではなく、企業の幾つも入った建物に変っていて、それならと車で逆戻りして、サントリー美術館下のイタリアンに走り、盛りだくさんに色々食べて、ワインをボトルで。のーんびり出来た。
むかしむかし、黒谷で紅葉を狩り、叔母の茶室で妻を客に茶をたててからきっちり四十四年になる。年々歳々の思いはまことに遙かであり、走馬燈のように想い出ははてなくめぐりめぐる。イタリアンの料理はどうということのないものだが、騒々しくならぬ程度に店内は広く暖かく、あいたカウンターのコーナーに席を占めて、屈託なくいろんな話の出来る相手は、やはり、妻。
もう何処による必要もなく、赤坂見附から永田町まで歩いて有楽町線で帰ってきた。建日子が夕方近くまで留守番をしてくれていたようで、玄関にはいると黒いマゴが嬉々として迎えに出た。
2001 12・10 11

* 建日子がほどなく帰ってきて、あすは一日こっちにいるという。わたしの六十六の前夜祭をしようというらしい。なににしても嬉しいことだ。
2001 12・18 11

* わたしも息子も忙しく追われているので、昼はたっぷり鮨をとりよせ、友人からもらってあった上等のワインで乾杯し、二日早めの六十六歳を祝った。宮沢りえ、澤口靖子、安田成美、牧瀬里穂を特集した写真の綺麗な大きな雑誌を息子はおやじにプレゼントして、もう夕過ぎには仕事の打ち合わせに街へ戻っていった。心ゆく仕事を生き生きとしてほしい。
2001 12・19 11

* 小雨をさけて地下道をゆっくり銀座、日比谷へもどってゆき、打ち合わせなどで忙しそうな建日子に電話して無理に出てくるに及ばないよと解放してやり、妻と帝国ホテルに入ってロビーの大きいところでお茶をのんで一休みしてから、クラブに入った。四人で行くかも知れないと言って置いたのが二人になったが「当クラブのお誕生日お祝い」と大きな瓶のシャンペンが用意されていて、他の酒には手が回らず、ありがたくシャンペンを飲み放題にいろんな珍しい小料理を五種ほど注文して、のんびりと芝居のことや文学のことや昔のことを話し合いながら静かな時間を過ごした。おしまいに奨められてモンブランやレアチーズでわたしはエスプレッソ、妻は紅茶、それで上がり。
雨も上がっていたので、日比谷から銀座一丁目までゆるゆる散策、DVDをまた二つ買った。八時前に乗った有楽町線で、わたしは気持ちよく寝ていたようだ。
2001 12・21 11

* 昨日逢えなかった建日子からお祝いのメールをもらっていた。前々日にわざわざ来てくれて食事もいっしょに出来ていたので、あれで十分。忙しい年頃は忙しく働いた方がいいのだ、怪我せず、風邪ひかず。それだけでいい。心ゆく日々を過ごして欲しい。
2001 12・22 11

* 建日子たちに誘い出され、池袋メトロポリタンホテルで夕過ぎに逢い、地下の「ほり川」でたっぷりお任せの「鮨」を食べた。カウンターで、妻は築山真有美と、わたしは建日子とならんで、歓談・歓食・歓飲。引き続き西口のビヤホールで、飲みかつ喰いながらたっぷり歓談した。途方もなく楽しかった。池袋で別れて家に帰ったら、もう二十四時に近かった。べつに何のために逢ったというのでもない、たまたまクリスマスイヴであったが、そっちの方の思い寄りはなにもない。ただもう逢って楽しかった。朝日子や孫達もいっしょならなと思いはしたが。
2001 12・24 11

* うらうらと晴れた真冬の好天。気に病むことなにもなく。とくに書くこともない。こういうとき、「平成」の二字がなかなか佳い。「恒平」という二字も似た意味かと、思う。平安京で生まれた恒の息子といった「説明」は、忘れておきたい。兄は彦根で生まれた恒の息子で恒彦と命名されたと云うから、わたしの方もツロクはしているが、恒に平らか、「恒平平成」をこそ好みたい。

* 体調優れず、午後を床にいた。建日子がきて隣家の自分の仕事場などを片づけている。
わたしは、片づけ仕事など一切せぬまま越年しそうだ、あすには雑煮の白味噌と蛤だけはわたしが池袋へ買いに行かねばならぬ。

* おそい夕食をいっしょにし、手近にあったサミュエル・ジャクソンとケビン・トレイシーとの映画「交渉人」をみなで観て、そして建日子は五反田へ戻った。元日の夕方に来ると言う。
2001 12・30 11

* 体調も戻り、街へ、恒例の買い物に。昼食には、寒さをとばそうと、焼酎無一物で鍋焼きうどんを、ふうふうと食べた。「すこし多めに」くれたストレートの焼酎が、よく体にまわり、温まった。
先ず蛤をたっぷり(じつは勘違いで例年の半分)買った。ついで京の雑煮用白味噌もたっぷり買った。売り場が遠くへ移動していて、戸惑った。年越し蕎麦のための大きな海老を三尾。京の漬け物。

* 一年が              大切に
あーっという間に        また 次の一年を !!
過ぎるのに、
この頃は、 恒平 様
その一年が                   迪子
貴重ね。                2001年12月21日

* 六十六の誕生日にカードを呉れた。池袋で、妻になにやら覚えられない名前のユリ科の変り種のようなきれいな花を、赤と黄色と、末広がりに八本買って帰った。大きな大きな大きな茶筅のような包みになり、電車の中で照れくさくなりサングラスをかけた。
年越し蕎麦は、今年はじめて妻と二人だけで。
一年を感謝し、来年のために祈った。

* 居間と書斎と庭正面の書庫と、山になり、山も崩れて、手の着けられなかったのを、むりやりダンボールの箱につめこんで、すこしだけ格好をつけたつもりでも、見苦しいことは相変わり無く、重い本をああ積みこう運びして、腰は激痛。やれやれ、どうしようもない。が、こうでもするしかなかった。
きれいにはならない身の回りである。これも老境か。
二階のこの機械部屋は、カレンダーを取り替えただけで、なにも片づかずに越年する。 2001 12・31 11

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