ぜんぶ秦恒平文学の話

京都人として 1998~2001年

平安神宮のあやめと睡蓮が美しく、空気も澄んで晴れ上がった日光のまぶしさが心地よかった。子どもの頃から馴染んだ後苑だが、円熟して、いい庭だ、じつに。
三条通り上裏の、白川沿いを歩いた。青蓮院にも行ってきた。「好(す)い場」という言葉を京都の人は胸に畳んでいる。ひっそと自分だけの所有に感じている「場所」のことだ。この辺は私の「好い場」だ、他にも在るが。
肩のあたりに好きな自作のヒロインを感じながら、こういう日にこういう散歩をゆっくり楽しめるのが、「京」味津々、幻想の刻である。
1998 5/27 2

* 祇園下川原の鶴庵の二階ですこしおそめの昼飯を食べた。浜作の居宅を店にしているのだ、二階から見下ろした壺庭が、飾り立てずに、瑞々しく雨に光って木立が映えていた。時間の余裕をみて京都駅ビルをそぞろ歩いても来た。面白い。少なくもこれだけの駅は東海道新幹線だけでなく、日本中にひとつも無い。建築の学生たちも評価していたが、もっともだと思う。京都だからあの新しさが似合う。ややこしさも似合う。
ついでに言っておくが、悪名高い京都駅前の白いタワーにも、私は、あれが出来たときから希少の一票を投じてきた。あれだけの曲線の自然な美しさを構築物で安定させ表現し得ているのはナミのことではない。あれのどこが京都を乱しているというのか、美の見えない目が、反対のための反対を唱えて自己陶酔しているだけであり、軽薄なことにおいて、フランス橋に反対の声をあげていた、いわゆる「文化人」たちの声に似ていた。
三条四条間にあのフランス橋は愚であるとわたしも思うが、あのくすぶった貧相な四条大橋がモダンに美しくなるのなら、わたしはかりにパリから美しく似合う橋のデザインを頂戴してもべつに構わない。京都の歴史は、それしきの受容力もなしに築かれたものではなく、珍奇な混じり物をいつのまにか「京都」にしてしまうのが、即ち京都であった。チャラチャラとした反対好きな人たちに、いい加減うんざりする。京都を「古都がる」のもいいけれど、立派な新都に育てる意欲も必要なのだ。
1998 10・21 2

* 兵庫の人がメールで、京都へ行って来た、元の芸大わきの道を上がっていった先にある陶器屋サンで佳い品物を買って帰ったと言ってきた。その道はかつて私が通った高校一年時代の教室のすぐ外を通っている。新設の高校が、芸大、当時は京都市立美術大学の構内に同居していた。高校に、当時では日本で一つの美術コースが設けられていた縁であり、この美術コースは、かつての美校の後身、美大は絵画専門学校、絵専の後身であったから、何の不思議もない。私は、普通科の生徒だったが、同じ高校に美術コースのあったことで、たいへんな感化を受けた。日曜美術館という番組にずいぶん早くから少なくも十数回は出演してきたし、京都美術文化賞の選者を十数年務めているのも、元をただせば美術関係の小説や批評やエッセイを書いてきたからであるが、それも元をただせば日吉ヶ丘高校に美術コースがあり友達が何人もいたからだ。さらに元をただせば育った新門前通りが、よく知られた美術商店街であり、ショウウインドウを私専用の美術館のように子供の頃から飽かず見歩いていたのだ。
いま一つは叔母の茶室で門前小僧をつとめ、茶の湯の道具や茶会や茶席に十分に親しむ機会が小学校時代からずっと続いたことも大きい。
さらに元をただせば「京」が在った、京都の自然が朝夕にまぢかにあった。一木一草一葉のそよぎからも、山城のやまなみの晴れても曇ってもの色合いから、莫大なものを歴史とともに享受してきた。「京の昼寝」を誇るのはどうかと思うけれど、京都に育った莫大な恩恵を身に負うてきたと思う。
話が逸れたが、その元の芸大はいわば智積院境内に出来た学校だった。長谷川等伯らの楓や桜のあれ以上はないほどの襖絵や、すばらしい庭園がある。智積院の北ならびには妙法院門跡があり、この境内にも専売病院が同居している。兵庫の人のメールをみて、何故ともなく反射的にこの専売病院が、平安古代の面影を宿して今に生きている園池「積翠園」を抱き込んでいるのを思い出した。公的病院のいわばお庭に取り込まれているので、誰でも無料で自由に出入りできるが、あまり知られていない。びっくりするほど奥深い大きな趣致ゆたかな池が、まぎれもない「古代」の表情を遺している。変な岩を池に置いたり改悪の感じもあるに関わらず、佳い池であることは間違いがない。こんどあの辺へ行ったらぜひ立ち寄られるように返事をしたけれど、とうに知っているかもしれない。兵庫県ぐらいの人だと、京都が好きでしきりに訪れている人は多く、こっちが教わるほどものを知っている。
それにしても、こういう穴場をあまりひろげてしまうのは心配もある。だが自慢したくもあるのはたしかで、ときどき、ここで「私の京都」を披露してみたくもある。大人になってから京都に移住してきた人たちの京都とは、視線や体感のちがう京都を、私は知っている。少年の思いを抱いて、歩いて、見て、驚いて、知っている。
1999 1・21 3

* 桜はまだ五分咲きと東工大の学生が花だよりをくれた。それでも、そろそろ出かけたい。重たいほどの満開のかすかに前に、花の清潔な笑顔が見たい。今年は息子は忙しいようだ。息子の友達もこの四月からの昼ドラマ「はるちゃん」に出演し、稼いでいる。
それにしても何故こうも花には、桜には、心そぞろになるのだろう。広い東京には桜の名所もいろいろあるが、東工大本館前の桜は豪華に豊かで、馴染み深い。地方赴任の卒業生に、君の分まで楽しんでおくよと約束もしてある。夜桜にライトアップしたのも見てみたい。
京都でもやや盛りすぎた花見が出来るだろう、圓山は過ぎていても平安神宮なら早いめであろう。四月十六日頃に、後苑の満開の枝垂れを妻と楽しんだことがある。前日に真葛ヶ原高林院で、仲良しだった年若い子の婚約披露の茶会を手伝った。あの子ももう五十半ばのおばあちゃんになっているのだと思うと懐かしい。あれ以来三度とも顔を見ない。
去年は醍醐の初花を雨に濡れて見た。平安神宮の後苑では菖蒲が美しかった。京都が懐かしい。逢いたいと思う人も何人もいる。京都は女の、女文化の街である。京都で男に逢おうなどとは会議会合以外に考えられない。  1999 3・31 3

* 京都へ行って、帰ってきた。二つ、いや三つ目的があった。うちの一つは京の花にひさびさに逢いたいという憧れごころであった。これは仕事ではない。仕事の一つは淡交社の服部友彦氏とひさびさに会い、依頼原稿の件でお互いにすこし煮詰めたい用事があった。ま、用事よりは会ってご馳走になってきただけとも言えるが。縄手四条下ルの割烹で、スツポンや若筍やあなご寿司やいろいろとご馳走が出たが、酒もよく飲んだ。話も弾んだ。
服部氏が雑誌「淡交」を統べていた昔、私は後に『茶ノ道廃ルベシ』に纏まって行く連載をして、しばしば物議を醸し、何度か京都に呼ばれてご馳走になっては原稿内容の、表現の緩和を要請されては、応じたり応じなかったりした。臼井史朗御大がいつも一緒だった。懐かしい。あれはあれで、裏千家としては納得しましたとは言うわけがないが、いい仕事ができた。単行本は他社で出したが、よく売れたし、今でも「湖の本」で愛読し眼から鱗を落としてくれる読者は多い。
なにしろ、ほんの子どもの頃から叔母の門前小僧で茶の湯はからだに入っている。無茶者ではあるが、理屈だけを吹いてきたわけではない。雑誌「淡交」との縁も深いし永い。沢山の仕事をさせてもらったので、今度も、気を入れて書いてみる。優しいテーマではないが。
縄手でもう一軒寄り、そこで別れて、富永町の「とよ」に寄った。新制中学の同級生で、我が演出で全校優勝した演劇大会のヒロインである。往年の美少女である。最近健康が優れないし父上にも死なれ母上も気が萎えていると聞いていた。見舞い半分激励半分で顔を見に寄った。幸い私が独りの客であったので、頼んで、美空ひばりの歌を二曲歌ってもらった。私は歌えない、が、ひばりの歌は大好きだし、バーのママさんたちは例外なくと言いたいほど、じつに歌はうまい。「川の流れのように」と「恋見酒」であったかをしんみり聴いたところで新しいお客が入ったので、ホテルに帰った。

* この頃は、必ず「のぞみ」に乗る。昼過ぎには着いたので、素晴らしい天気ではあり、すぐ外へ出てなにとなくイノダのコーヒーが欲しくて行き、ついで京都ホテルまでが面倒で河原町三条のロイヤルに上がり、「うらうら」の東山の遠見の桜を眺めながら、春爛漫の献立で酒をすこし飲んだ。比叡も鞍馬もくっきりと美しかったが、どうにも高台寺露坐の観音様の上に華やかに匂いたつ桜の一群が懐かしくてならず、昼飯の後タクシーで八坂の塔まで行き、急な坂をあせばみながらのぼって、結局、正法寺までのぼりつめて京都の町を眺めた。人の来ない高見の古刹で、狭まった境内に墓が二基ひっそり並んでいるのが私の『冬祭り』の冬子と法子との墓だ。二人が最期の最後にみそぎをした「鏡の水」という井戸もある。墓に手を添えて「おやすみ」と声をかけてきた。
圓山のしだれ桜も雑踏に心浮かれて眺めてきた。八坂神社の境内を北の斜めにすり抜けて絵馬殿わきから西の楼門に立った。絵馬殿のワキにも見せ物小屋が出来ていて気味悪かったが、あれも春花どきの景物とおもい堪忍した。「農園」でのみものを補給してから一度ホテルに戻り淡交社の迎えを待った。暖かで晴れて、じつに久しぶりにうらうらとした京都をやや特異な角度で楽しめた。冬子や法子に逢いたかった。

* 一夜明けて、二時の会議が京都美術文化賞の第十二回の授賞者選考。少し間があるので出町の菩提寺へ車を走らせ、墓参りをした。今朝方にも父の出てくる夢を見ていた。このごろ、しきりに秦の父や母や叔母を夢に見る。機嫌のいい夢もそうでないこともあるが、夢見ることはすこしもいやではない。
作務衣の住職と立ち話してから墓地に入り、たっぷり水をつかって洗い、落ち葉を拾い、樒を立てて、話しかけてきた。祈ると言うより話しかける方が落ち着く。南無阿弥陀仏もたくさん唱えてきた。いつかここへ私も妻も入るんだなと思った。

* 花曇りながら空は明るく暖かく、高野川西堤へ葵橋を渡り、東堤に上流へかけて花盛りの桜並木を眺めながら、ゆっくりゆっくり溯って行った。川の水は陽ざしにまぶしいほど澄み切って、稚魚は稚魚で水底に淡い影になり光になりして泳いでいたし、三四寸の魚たちもまた群れて水輪をうみながら光っていた。
犬づれの人が幾組もゆっくり犬を遊ばせている。絵を描いている人も、鳩や小鳥にしきりに餌を撒いている少女もいた。御蔭橋までに西堤には一株だけ、とても大きい桜樹がはんなりと枝たわわに花を咲かせていて、その蔭に佇んで比叡を、鞍馬を、北山を、それから東堤にえんえんと続く紅の雲を眺めていると、そぞろまた京都の小説が書きたかった。ふっとその辺から、とっておきのヒロインがあらわれて私に声を掛けてくれそうな気がしてならなかった。
下鴨の屋敷町へ堤からあがり、そぞろ歩むうちに、表札に「秦恒夫」とあげた家があって胸がときめいた。
下鴨社に入り、本宮まではあきらめて河合社に詣でた。境内に鴨長明の「方丈」の家が復元してあり、これには魅入られた。小一時間も動けなくて見ていた。たった三メートル四方の家である。その小ささ簡素さに具体的に目をふれてみると、感動してしまう。方丈と額をかかげた仏殿はどこにもあって見なれているから、「方丈記」とは読んでいても、三メートル四方の建物はなかなかイメージ出来ていなかった。感動したというしかない深い深い感動で、私は、人の居ない境内で、「方丈」の家と、背後の桜樹やさらに背後の新緑を思わせる木々の緑に、溶け行くような気がした。嬉しくてならなかった。
小川沿いのちいさな店で、ビールとおにぎりとで昼食しながら、ゆっくり文庫本を読んだ。この店には以前、妻と入ってホットケーキを注文したことがある。
京都御所の公開で烏丸通りが混雑した。時間前に、汗をかいて会議の場所へかけつけた。

* 選者は梅原猛、石本正、小倉忠夫、清水九兵衛、三浦景生氏と私。東京からは私一人が参加。京都美術文化賞は、書と建築を除くあらゆる造形分野から三人を選ぶ。賞金は各二百万円、もう十二回目になる。
選考は終えたが、ここで発表は出来ない。授賞式がまたある。展覧会は来春の一月と決まっている。
散会後に高島屋で大きな個展を開いていた漆藝作家の新作など見てから、予定ののぞみを、時間早めて乗った。いつもは寝てしまうのに、今回は行きも帰りも湖の本の校正にフルに働いた。家に帰ったら京都の道具屋から送ってくれた筍で、ご飯と煮物がうまかった。昨夜の料理屋の筍に負けない味付けで、満ち足りた。
いい京都だった。高校の頃の友達と、チェックアウト前に電話で十分ほど話しあえたのも、はんなりとよかった。
1999 4・9 3

* 東工大のころ、学生から、京都へ行きたいがどこをどう歩けば宜しいかと繰り返し聞かれた。留学生から頼まれることもあった。それで、ある機会に、『京都案内』の私版を試みた。もう特定の宿の決まっていた連中に与えたので、一般論では無いとも言えるが、利用は十分利く。それで希望があればコピーして誰にでも上げた。この間、あれの続きを書いて欲しいと、学生ならぬ、妻の友人から頼まれたりした。その人にも妻が上げていたらしい。
精密なことは書けない。ややこしい場所で迷子にしてもいけない。つまり限界はある、が、「私の京都」だ。そんなのがフロッピーに残っていたので、参考にする人もあろうと、ここに載せておこうと思う。何年も前のものゆえ、事情が少々変わっているかも知れないが。

*   京 都 案 内 (案)
秦 恒平 作成

* 京都市内に宿泊する(未定)ものと考える。
* この通りこの順番ですべて訪ね歩く必要はない。おおよその目途をつけておくだけ。
* 京都はおおむね四角い街で、「市内」から「東」「西」「北」に山が見え、南はひらけ、東山のなお東側に、北から南へ細長い「郊外」がある。無駄足をなるべく避けるために、この(括弧でくくった)五つの方面別に、案内する。たくさん見るより、ゆっくり見て楽しく歩くことを考えたほうが京都にはふさわしい。
* およそ市内のどこからでも東北西の三方に低い壁のように山が見える。山の感じを先ず見覚えてしまうと方角をあやまることは無い。東北の角のところにひときわ高い山がある(比叡山。ひえいざん)のを念頭におくと、90度に折れてその向かって右側が東山、左側は北山と記憶すればいい。
* 京都人は外国人には一般に親切。中年以上の女性に遠慮せず質問して、無駄を省く。
*「東山ぞい」はもっとも見どころ多く、ここだけでも二日三日かけてもいいほど。

*先ず「郊外」の「滋賀」「宇治」「山科」「醍醐」方面を案内する。
1 天気がよければ、思いきって先ず「出町柳・でまちやなぎ」(市内やや北寄り東西に今出川(いまでがわ)通りがある。その鴨川を東へ越えたすぐ北に始発駅あり)から郊外電車で「八瀬・やせ」へ行き、ケーブル・カーでいきなり比叡山へ登ってみるのも良い。終点からは山上を歩くが、京都市内や琵琶湖が一望できる。また日本史にもっとも重要な古代寺院である「延暦寺・えんりゃくじ」があり、茶店などで案内の略地図を手に入れて、「根本中堂・こんぽんちゅうどう」など見歩いてから、滋賀県の「坂本・さかもと」へ降りると、そちらには琵琶湖や三井寺・近江神宮など湖西の名所おおく、「浜大津駅・はまおおつえき」まで気のむくままに途中下車しながら戻る。そこで京都三条行きの電車で「三条・さんじょう」まで帰ってもいい。
時間があれば浜大津からさらに南へ「石山寺・いしやまでら」まで行って来てもよい。
紫式部が源氏物語を書いたともいわれる古代寺院で、途中「粟津・あわづ」には芭蕉の墓と木曽義仲の墓とのある「義仲寺・ぎちゅうじ」もある。浜大津経由で、簡単に京都へ戻れる。
このコースは、いちばんの大遠足。比較的、景色が大きくて気が開ける。あまり目的意識を持ち過ぎず、おおまかに遠足だと思って行けば景色の変化がよく楽しめる。

2 宇治の「平等院・びょうどういん」へは行き方が二つある。
1で挙げた「浜大津」または「石山」から「宇治川ライン」を船で下り「宇治」まで行くのが楽しい。宇治川は、かつて「川」コンクールで日本一の人気投票を得たこともある。ただ季節により船の休むこともあり、宿で確かめてもらうか、「京阪電車・けいはんでんしゃ」の駅で聞くといい。運行しているならこのコースは、最高。川の上はまだ寒いかも知れないが。下船してからは川下へ川ぞいに、暫く歩く。
宇治へつけば「平等院・鳳凰堂」「中の島」「宇治橋」川向こうの「興聖寺・こうしょうじ」「宇治上神社・うじかみじんじゃ」を地図をみて歩く。平家物語の頼政戦死や名馬先駆けの争いの場面。鳳凰堂ではゆっくりする。中尊の阿弥陀像は「定朝・じょうちょう)による平安時代最良の彫刻。興聖寺参道や境内も清々しい。源氏物語の美女浮舟の住んだ辺りとも言われる。
宇治は最もうまい茶の名産地。パックの宇治茶なら宿ででも家ででも熱湯でかんたんに味わえる。
京阪宇治駅からすぐ「黄檗・おうばく」まで乗り、そこで「万福寺・まんぷくじ」へは是非立ち寄りたい。中国風の禅寺で趣がある。門前の白雲庵の精進料理も余裕あれば楽しみたい。簡素で旨く、庭も風情あふれている。
黄檗駅から京阪電車で七条なり四条・三条なりへ簡単に戻れる。JRを利用して京都駅へも戻れる。道順などは土地の人に聞くのがいい。いずれも距離はたいしたものでは、ない。
これも一日行程として、十分。まだ時間があるならば、黄檗からの帰りの京阪電車を「伏見稲荷大社・ふしみいなりたいしゃ」で下車、日本最高の数を誇る稲荷神社の総本山に参ってくると良い。とくに本殿裏から山上へえんえんと延びてつづく赤い鳥居の大トンネルを、すこしの間でも潜って歩いてきた体験は、忘れがたいものになる。ここは「必見の京都」の一つでもある。参道の風情もひなびて面白い。
宇治へ行き方が二つと言ったのは、つまり右の逆コースの意味。しかし船さえあれば先のコースの方が断然良い。

3「山科・やましな」へは「三条京阪前・さんじょうけいはんまえ」のバス・ターミナルからのバスと、徒歩とを、うまく組み合わせるのがいい。
山科では「小野随心院・おののずいしんいん」そして醍醐では「醍醐寺・だいごじ」のなかでも特に門を入ってすぐ左の「三宝院・さんぽういん」の庭園および五重塔が必見。随心院は小野小町ゆかり。奥の、静かに清い庭先で放心してみるのもいい。べつに「勧修寺・かじゅうじ」という古代寺院もあるがハイウェイで騒がしく、今は特別勧められる場所ではない。醍醐寺への移動はバスがいい。歩けぬことはないが。
三宝院の庭はおそらく日本一巧緻に美しいもので、秀吉の名とともに桃山時代の豪華さを、加えて静寂と趣向の美とを堪能させてくれる。絵画も茶室も自然もみごとに織り成されている。嵯峨の天龍寺の庭とならんで、さらに絢爛と美しい。
醍醐から「日野・ひの」へ移動する。バスがいいがタクシーを拾っても。「法界寺・ほうかいじ」「一言寺・いちごんじ」がいい。『方丈記』の世界。ことに方界寺の仏像は宇治鳳凰堂の頃のもので、すばらしい。京阪電車の最寄り駅から(宇治からの帰途と同じに)京都へ戻れる。時間次第でこの時に「稲荷大社」に立ち寄ってもいい。
また「東福寺・とうふくじ」駅で下車して、現存最古の大きな山門を擁した有名なこの禅寺の鳴り響くシンフォニーのような伽藍を、夕まぐれに、しみじみ歩いてから帰るのもすばらしい。一度寄っておき、日を改め、泉涌寺・東福寺を起点に東山ぞいをゆっくり楽しみ直すことを勧めるが。

* [東山ぞい」は、南から北むきに進むのが良い「南コース」と、北から南むきに歩くのがいい「北コース」と、その接点部を町歩きもふくめて楽しむ「中央コース」がある。「中央」は時間と体力しだいでどっちかへ組み入れることが可能。なににしても京都は、そう広い広い町ではない。その気なら端から端まで徒歩でも押し渡れる程度だから、東京とはちがい、乗り物にあまり頼らずに済む。もっとも、時は金なり、時間の経済を考えれば適度にタクシーを利用しても、これまた東京のように費用はかからない。基本的には、しかし、歩くことを楽しめる・楽しんだ方がよい町である、京都は。

1 「南コース」  いきなり「伏見稲荷大社」へ京阪電車で直行してもいい。何万の鳥居の胎内を気力の許す範囲で山高くまで潜ってくるのは凄い体験である。眺望もよく太古の遺跡も雰囲気も凄味がある。伏見街道を北へ、人にも尋ねながら暫く歩くと「東福寺」へ南から入る。
いきなり東福寺から日程に入っても良い。その際は京阪電車の「東福寺」駅まで行く。 道順は駅員なり、土地の人にすぐ尋ねたほうが早い。距離はほとんど無い。東福寺という寺は、大建築の配置(伽藍)が自慢。「通天橋・つうてんきょう」を渡ってぜひ奥の庭園まで入ってほしい。また「本堂」も見学したほうがいい。数多く末寺(塔頭・たっちゅう)が周囲にならんでいる。ひとつひとつ覗きこむ程度でいい遠慮なく門内に入ってみると、思わぬ風情の清い小庭が隠れている。優しい花も咲いている。
東福寺境内を北から東寄りへ抜けて行くと、「泉涌寺・せんにゅうじ」参道へ出る。徒歩で数分。土地の人に道筋を聞くといい。泉涌寺は日本で唯一「御寺・みてら」と尊称される皇室の位牌寺で、背後に御陵山を抱きこみ、清寂の明浄処。御所と寺院との不思議に習合した感じに気品がある。町家のなかの参道をのぼって、小さな門前へ来たら、すぐ左の「即成院・そくじょういん」の中に入る。境内右の小道を奥へ奥へ進むと、平家物語に名高い那須与一の塚が隠れている。さらに東へ突き当たるちいさな「戒光寺・かいこうじ」の本堂に上がってみるとよい。すばらしい釈迦如来の立像がある。深く覗きこんで礼拝を。大仏様で、京都の人も知らない、とって置きの秘仏「丈六釈迦像」。堂に上がりこんでも咎められない。
参道へ出て東へ進めば泉涌寺に自然にすぐ辿りつく。境内へ入ったほうがよく、庫裏 (本堂)へ入れれば、中は、信じられないほど静かに心地いい。金堂や楊貴妃観音もいいが奥の参道へのぼって、中途で御陵(天皇の墓)に一つ参ってくるのもいい。
金堂のわきを左へ外に出、ふっと小道坂を降りた右手に「来迎院・らいごういん」の在るのはぜひ覗いてほしい。「含翠庭・がんすいてい」には池も茶室も書院もあり、忠臣蔵の家老大石が一時身をひそめていたところ。門前を渓ぞいに右へ行くとすぐ奥に「観音寺・かんのんじ」があり、愛すべき日だまりを作っている。庶民の今も生きた信仰がそのまま温もりになっている。赤い橋を渡って元の参道へもどったら、むしろ躊躇なくタクシーを拾うなりして、「パークホテル」または「三十三間堂・さんじゅうさんげんどう」を指示する。数分の距離。バスでも、東山通りを北へ歩いてもいいが。パークホテルの北側、通りの向こうが「国立京都博物館・はくぶつかん」西側向こうが「三十三間堂」、南隣が「後白河天皇御陵・ごしらかわてんのうごりょう」「養源院・ようげんいん」「法住寺・ほうじゅうじ」で、特に三十三間堂は必見。建築も仏像もすばらしい。平清盛の建てたもの。中尊の如来像は大きくて鎌倉初期の最高傑作の一つ。千体像のある本堂裏の廊下にも見過ごせない彫刻群がならんでいる。
南隣の養源院には最高の画家俵屋宗達のすばらしい「松」の襖絵や「象」などの板扉絵が見もの。後白河御陵も感慨深い。静かなホテルで昼食が気軽にとれる。
京都博物館は最高水準の芸術品をもっていて、東京・奈良博物館に劣らない。疲れてしまう程広くもない。南隣に秀吉を祭った「豊国神社・ほうこくじんじゃ」や「方広寺・ほうこうじ」がある。
見過ごせないのはパークホテルの東側、通りの向こうにある「智積院・ちしゃくいん」で、ここの庭園や堂もみごとだが、宝物館に保存した長谷川等伯らの『楓・桜図』の大襖絵は日本美術の最高峰の一つ、桃山時代の豪華な作品。北隣の妙法院境内に市営の病院があり、その庭園が「積翠苑・しゃくすいえん」これが平安時代の匂いをほのかに伝えたいい池泉回遊式のすばらしい風情で、しかも無料。観光客の姿の先ず無い静寂さ。
東山通り西側に立ち北へ行くタクシーを拾い、「清水寺・きよみずでら」のなるべく近くまで行かせる。ここは「舞台・ぶたい」と奥の「子安塔・こやすのとう」を拠点に眺望を楽しむ。「音羽滝・おとわのたき」で手と口とを清めてくるのもいい。また本堂の裏のちょっと高みに「地主神社・じしゅじんじゃ」があり、縁結びを願う人で雑踏しているのも面白い。本堂には古い「絵馬・えま」が掲げられてある。清水寺には、「成就院・じょうじゅいん」があり、庭園がすばらしい。拝観させているなら寄って見るといい。参道を人の流れにまかせて坂を降りてゆくと、やがて右へ石段を人は降りて行く。「三年坂・さ
んねんざか」で、それを降り道なりに進むといい。
もし雑踏が嫌なら、清水寺を出てすぐ右へ山ぞいの小道を、北むきにどんどん行くと、民家のならびに「正法寺・しょうほうじ」前へ出る。小さい古寺だが、釣鐘堂からみる町も西山も、眼下の「八坂五重塔・やさかのごじゅうのとう」も結構な眺め。めったに人の行く寺ではないが、境内に清水涌く清い井もある。この寺から下ると「京都(護国)神社・きょうと(ごこく)じんじゃ」も、閑静に清潔ないい所。間近に、大きな石造観音菩薩座像が、青空の真下に見下ろせる。この一帯は古代以来の遊楽の名所。「高台寺・こうだいじ」は秀吉夫人の寺。めったに開放していないから、開いていたら必見。庭もいいが「御霊屋・おたまや」「時雨亭・しぐれてい」「傘亭・からかさてい」などの蒔絵や茶室、また本堂外にかかげた「方丈」の二字額など、見ものが多い。
高台寺のすぐ下に「円徳院・えんとくいん」の枯れ山水の庭もよろしく表の庭では有名な甘酒を売っている。門前をさらに北へ東寄りに進むと、「西行庵・さいぎょうあん」「長楽寺・ちょうらくじ」「圓山公園・こうえん」など無数の見どころがひしめくが、もうこの辺で西向きに、公園から「八坂神社・やさかじんじゃ」へて入って行けばよい。この日本三大祭筆頭「祇園祭祇園会・ぎおんまつり・ぎおんえ」の総本宮をそぞろ歩きに、西の総門から、四条通りの繁華へ降りて行く感じはなかなかの気分。
門の向かって左手前方、「弥栄中学・やさか中学」の背後一帯がいわゆる「祇園町・ぎおんまち」つまり遊郭・花街である。中を散歩してもすこしも剣呑ではない。風情はあり舞子にも出会う。いい店もある。祇園のすぐ南隣に「建仁寺・けんにんじ」も大きいが、ここは殆ど開放していない。建仁寺から遠くない南には、「六波羅密寺・ろくはらみつじ」があり「平清盛像」「空也像」「鬘観音像」などすばらしいものが在る。界隈は平家一門にゆかりの地である。
以上莫大なプランのようだが、体力と地の利を心得たものには、優に回れる範囲内にある。適度に省いてもよし加えて寄り道してもいい。二日に分けてもまた構わない。
2 「北コース」  「修学院離宮・しゅがくいんりきゅう」に入れるなら、なにより行きたい場所だが、普通は無理。したがって「三条京阪・さんじょうけいはん」駅からバスで、または「出町柳・でまちやなぎ」駅から電車で、「一乗寺・いちじょうじ」の辺まで行き、尋ねて歩いてすぐ東の「曼殊院・まんしゅいん」へ先ず直行を勧める。格式高い中世寺院で、庭園と建築との調和は優美そのもの。縁側に座りこんで時のたつのを忘れる。そこから坂を歩いて降り左・南へ田中道をしばらく行くと「詩仙堂・しせんどう」がある。近世の文人趣味の邸宅で建物も庭も鑑賞に耐え、みごとである。標識にしたがいそこから暫く南の山寄りに、「金福寺・こんぷくじ」がある。与謝蕪村にゆかりの小さな寺だが、芭蕉庵のわきの山腹には蕪村の墓をはじめ文人俳人の墓がなごやかに静まっている。季節はつつじ・新緑の頃がいい。
そのまま歩いてもタクシーでも大通りからバスでもいいが、「銀閣寺・ぎんかくじ」へ。言うまでもない足利義政将軍の遺跡、東山文化の拠点であり、「東求堂・とうぐどう」は書院の典型。銀閣寺のすぐ西に画家橋本関雪のアトリエ跡「白沙村荘・はくさそんそう」が、一見の価値ある庭園住宅。銀閣寺へ入るより前に寄っておくといい。
銀閣寺を出れば、そのまますぐ山ぞいの小道を南へ行き、「法然院・ほうねんいん」にぜひ立ち寄って欲しい。許可さえあればぜひ仏殿に参り、また庭や茶室や襖絵(狩野光信の槙図)も観たほうがいい。この寺の墓地に文豪谷崎潤一郎の墓がある。隣にすぐれた画家福田平八郎の墓も並んでいる。場所は人に聞いたほうがいいが、一番山ぞいの高みにある。
法然院からはいろいろ道があるが、西の方角近くに低い山なみが見えている。吉田山であり、ここに「真如堂・しんにょどう」「黒谷金戒光明寺・くろだにこんかいこうみょうじ」がある。広大な墓地もある。なかなの散歩道で、わざわざ山を降りまた山へ登って探し尋ねても、それだけの価値は十分ある。山といっても丘程度のもので、たいした時間も体力も要しない。「大文字山・だいもんじやま」の「大」字が見える。
黒谷を南へ降りたら近くに「平安神宮・へいあんじんぐう」がある。尋ねて行き平安時代の「応天門・おうてんもん」「大極殿・だいごくでん」を模した壮大な輪奐を見ておいて、白砂の前庭の左奥の入り口から、ぜひ奥の大庭園へ入るように。『細雪』の花見で知られた桜を経て、まことに優雅に美しい辺かに飛んだ名園がひろがっている。屈指の名庭で堪能できる。神宮の外、大鳥居の両側に美術館がある。
ここから「疏水・そすい」に沿って、歩いてでも車ででも、ちょっと戻るがぜひにも 「永観堂・えいかんどう」を訪れ、中を拝観してくると良い。奥の奥に「見返り阿弥陀」像が安置されているが、忘れがたい出会いとなろう。この寺の建物はまこと平安時代の貴族の山荘を思わせ、京都でももっとも感銘深い寺の一つである。
ここからは南へ「南禅寺・なんぜんじ」に近い。北側から境内へ入るとすぐ「奥丹・おくたん」の湯豆腐が名物。味わってみるといい。庭も面白い。歴史に名高い「五山」に超越した位高い禅寺で、境内をそぞろ歩くだけでも楽しめる景勝の地。三門も美しい。上れる機会にはぜひ上ってみたい。門の脇に「天授庵・てんじゅあん」また「金地院・こんちいん」があり、庭園はともに抜群。この一帯は大昔から景勝の地として皇族・貴族の別荘が多かった。いまも細川家の別邸はじめ、大別邸が数多くある。多くは開放していない。「無鄰庵・むりんあん」は旧山県公爵の別邸であったが、庭園とともに一部開放されている。尋ねれば分かる。その近所に、日本一といわれる料亭 「瓢亭・ひょうてい」もある。
しかし南禅寺の境内では、明治に建造された「水道・すいどう」を見落としてはつまらない。不思議に美しい大構造物であり、三門の奥の右寄り粗林に隠れている。
南禅寺を出て、「蹴上・けあげ」の都ホテルで休息してはどうか。眺望のいいレストランを選んでもいい。超級のリゾート・ホテルである。
三条通りを避け、一筋南、民家の奥の山近い細い道へ入る。昔の三条通りというより旧東海道である。今はごく狭いが風情はいい。西へゆるやかに坂をおりて行き、途中「粟田神社・あわたじんじゃ」に寄ってもいい。一帯が昔の「粟田口・あわたぐち」で、やがて粟田小学校が道の角にある。そこで右をむけば平安神宮の朱の大鳥居が見え、左の急な坂へ上って行くと、すぐ左に「青蓮院・しょうれんいん」がある。これまた格式を誇る古代寺院で、庭園がすばらしい。建物も古式を帯びている。高僧慈円がいて親鸞聖人を得度させた寺でもある。この寺の前の「花鳥庵・かちょうあん」はいい割烹の店で、そう高くない。この辺にも御陵がある。皇室の墓だが、御陵はどこにあっても清らかに日本の美意識に結びついている。すぐ隣の「十楽寺陵」も覗いてみるといい。南へ、やがて広い坂道とのT字路へ出る。すぐ左手・東の石段をあがって門の中へ入るのが便利。ずうっと道なりに進むと「知恩院・ちおいん」の大境内へ入って行く。この道筋も捨てがたく、しかし、また先のT字路をそのまま進むと、やがて日本一大きな「知恩院三門・ちおいんさんもん」前へ出る。この門をくぐり、さらに石段を上っても結局同じ知恩院本堂まえの広場に出る。本堂へはぜひ上がってみる。浄土宗総本山、世界でも最大級の木造建築である。また徳川幕府が事あらば京の城として構えた寺でもある。
本堂の東、北寄りの山のうえへ石段をのぼって行くと開山堂や墓地へ通じ、かなり高い。また本堂の東側、やや南・右手の山へ石段をのぼると、日本一のおそるべき「大釣鐘堂・おおつりがねどう」がある。釣鐘、一見の価値はある。そこを右・南へ抜けて行くとちょうど圓山公園の真上になる。舗装した道をちょっと降り、そしていきなり公園いちばん奥の落ち水までちょっとした隠れ道を降りると、公園をほぼ全部見ながら、噴水の池へ、有名な枝垂れ桜へ、また八坂神社境内へと降りて行ける。「南コース」と「北コース」のつまり合流点に、この公園や八坂神社は在る。

* むろん見残している場所は無数にあるが、これでも十分に盛り沢山である。「比叡山 コース」「宇治川ラインコース」「山科醍醐日野コース」「東山南コース」「東山北コ ース」と、これだけでも五日間は楽しめる。「西山」と「北山」とは後日に温存して。

* ご希望の「大徳寺・だいとくじ」を中心にした「市内コース」を考えてみよう。

「大徳寺」へ  は、いっそタクシーでいきなり門前へ行ったほうが経済な気がする。いろんな末寺(塔頭)はあるが、どこも皆見せてくれるとは限らない。境内自体はそう風情のある寺でなく、末寺の一つ一つを尋ね歩き見て歩く寺である。山門の「金毛閣・きんもうかく」は、二階に千利休が自分の木像をあげたのを咎められ切腹に及んだ門。中を見せている時期もある。「大仙院・だいせんいん」の小さな庭が途方もなく有名。見せているところはすぐ分かるので、興味しだいでどんどん入ってみるといい。鉄鉢の精進料理の寺もある。入れば、さすがにどこも内部は禅境らしい深みがあるが、あまり多くを大徳寺に期待し過ぎないほうがいい。
この北方やや西よりに「今宮神社・いまみやじんじゃ」という古代から祭で知られたいいお宮がある。この辺からは北東の「上賀茂神社・かみがもじんじゃ」へタクシーを拾って走るのもいいし、北西の山寄りへバスで鷹峰(たかがみね)の「光悦寺・こうえつじ」に行くのもいい。甲も乙もない。すてきな神社だし、すてきな自然である。気の動いた方へ。
上賀茂神社からは、いっそ加茂川ぞいに河原を歩いて下って、「下鴨神社。しもがもじんじゃ」まで散歩してみては。両神社とも、平安京以前からの山城国の一の宮である。そして下鴨神社からは町なかをすこし西へ歩き、「京都御所・きょうとごしょ」つまりかつての皇居や、そばの「相国寺・そうこくじ」「同志社大学・どうししゃだいがく」など覗いてから帰るのも一興か。
また光悦寺からは、裏山道をぬけてもよし、バスかタクシーかで走った方がらくだが、「金閣寺・きんかくじ」に行くのが順であろう。三島由紀夫や水上勉の作品とも関わり、日本の中世が誇る建築でもあるし、庭園もしみじみと良い。そして土地の人に尋ねながら「等持院・とうじいん」「妙心寺・みょうしんじ」「龍安寺・りょうあんじ」から「御室仁和寺・おむろにんなじ」まで、京都でも屈指の寺々を歩いて尋ねるのが面白いだろう。自然はよし、町もさびさびと古都の風情はある。等持院は庭園、妙心寺は小さな末寺の一つ一つに秘めた壷庭や絵画。龍安寺は何といっても名高い「石庭」とともに、本堂の手前から脇に隠れた広大な池をめぐる散歩、これは是非とも。そして御室は、優美な境内と五重塔。見せて貰えれば平安朝さながらの優美な建物の内部も是非に。宮廷気分がかなりか実感できる。山ぞいに歩くと魅惑の古寺も点々と。
この程度もまわれば十二分で、時間と体力は、それぞれの場所での時間配分にゆっくり宛てたほうがいい。気ぜわしくしないのが京都での秘訣。
そして街なかへ戻り、京都シティーにも少しは馴染んで欲しい。

以上「六日分」で、北・西と、北西の郊外と、南とは、今回は割愛する。あぁ疲れたぁ。 (おしまい)
1999 4・24 3

* かなり疲れて、京都から帰ってきた。不快な疲労ではない。京都美術文化賞第十二回の授賞式と理事会懇親会とが、二十五日の午後と晩とに予定されていて、一日で一度にお役の果たせるのは私には有り難いことだった。東京からは私一人の参加なのである。
二十五日は四時過ぎて目覚め、仕事をしてから、八時過ぎに家を出た。十時ののぞみには早く東京駅に着きすぎるのは分かっていたが、遅れて走りつくのは堪らないので、悠々と時間をあまして動くように、この頃は意識して気をつかっている。三十分ぐらいぼうと目をとじていれば済むし、そういう三十が十分でおわっても、その時間が、有り難い放心の、または思念の時になる。退屈はしない。
車中は珍しく飲み食いしないで、文字コード委員会の資料やメール討議のプリントをたっぷり抱え込んで、赤いペンを片手に読みに読んだ。これでまず、目から疲れた。
都ホテルの式場の広い窓は北向きに大きく開いていて、比叡山、東山、吉田山、北山西山、眼下には岡崎一帯、湧くような新緑で、その眺望の懐かしさだけでも京都へ帰ってきた甲斐がある。都ホテルはまして地元であり、総支配人の八軒さんは湖の本の最初からの読者、「浜作」女将は中学で机をならべた親しい友達。茶室を借りて叔母が釜をかけた昔には、大学生だった私は水屋で活躍したものだ。幼かった娘にはここのプールで初めて泳ぎを教えた。少年の日には、夕方になると、家から自転車でここ蹴上まで三条通をこぎ上り、一気に粟田まで疾走するのが、かなりの期間、わたしの楽しみだった。
授賞した三人は、日本画、陶芸、漆芸。小倉忠夫さんが選者を代表して、とても適切に選考経過を話された。受賞者のアイサツは尋常だった。どの世界でもこのてのアイサツの尋常すぎる昨今であるが。もうすこし破れた面白さが欲しい。
梅原猛さんの乾杯の声で宴会に。この昼会は、ゆったりした会場で気持ちのいい参会者で、なかなかの味わい。石本正、梅原猛、小倉忠夫、清水九兵衛、三浦景生という選者仲間の質の高さが、信頼されている。この中に小説家で東京の私が加わっているのが申し訳ないようなものだが、これもいろんなご縁の結果だと、とにかく誠実に努めてきた。大きな佳い賞に育ってきたのは、なによりも情実に流されないからである。
食べ物は口に入れているヒマも気もなく、気持ちよく懐かしくいろんな芸術家や学者や研究者と逢えて話せるのがいい。芳賀徹さんのような、東京の人と思いこんで付き合ってきた人も、今は京都の美大の学長をしていて、やあやあと言い合える。石本さん、清水さん、三浦さん、榊原さん、それに梅原さん。ここで逢うと話が清々しい。

* せっかくなので、会の果てたあと、南禅寺にひとり歩いて、三門に上がってきた。都ホテルから三門が新緑に埋まって見えていて、ああ、石川五右衛門になりに行きたいなと思っていた。たぶん上がれはしないと思っていた。行ってみると上げてくれていた。これだけで、南禅寺も京都も今回は十分だと思い、すぐ受付にお金をはらい靴をぬいだ。気分がせいせいしていた。
山廊はおそるべき急な階段で、まさに命綱に掴みついて一段ずつ上る。と、やがて軽装で旅するらしい白人の若い女性が上っていたのに追いついて行った、が、見上げればこれはまた、幽暗微茫の絶景に白はぎが匂うではないか、私は思わず敬虔な思いがして奥の奥まで闇の深みをふり仰ぎ、そのまま楼上に達した。くだんの仏様は、そこでふりむいて私ににこっと笑って下された。手をあわせそうになった。
「ああ絶景かな」
なにひとつ裏切られることのない美しい眺望が、四方に開けていた。ああいい、ああいい。もう他に望みはなかった。

* ホテルで一息入れてすぐバスと嵐山電車とを乗り継いで、ゆっくりと嵐山へむかった。「吉兆」での財団理事会と宴会である。いわば私のために受賞式と理事会とを一日にすましてくれるわけで、親団体である京都中央信用金庫には感謝している。
渡月橋は、日本一、鑑賞に堪える優美な橋、あれほど景色にしっとりしっくりと填った橋は珍しい。しかも、ごてごてと飾らない。京風の粋を一つと問われれば渡月橋と挙げたい。市内の鴨川には、あれほどの橋が一つも見あたらない。
嵐山は夕景がよく、早朝が佳い。祇園から、茶立ての用意をして自転車で一路渡月橋まで走り、茶を点てて飲んで帰って、そして朝飯を食ったものだ。
上流に嵐峡館がある。「慈子」との世界だ、嵐山は。
わたしが「畜生塚」「慈子」「誘惑」「みごもりの湖」「雲隠れ考」「清経入水」「冬祭り」「初恋」などの熱い読者をあつめた恋愛小説を書いてきたことも、そろそろ忘れられつつある。やれやれ。

* 吉兆の接待は、今回は申し分なかった。祇園でなく上七軒から髪の美しい芸妓舞子たちが揃ってくれたのがよく、舞子の舞いがとてもよかつたし、飛鳥の国宝仏頭の底知れぬ大きな魅力を思わせる、すばらしい顔立ちの芸妓にも感嘆した。祇園の子らに飽き足りない行儀の乱れを感じていた私には、これは、とても清潔で新鮮な佳いごちそうであった。祇園は私には近すぎるのかもしれないが。
宴会に石本さんがよぎなく欠席だったのは残念だったが、橋田二朗さんとは例年のように隣りあわせで話せた。清水さん、三浦さん、梅原さん。話題がなにのてらいなくすっと深くなる。それがいい。
二次会は避けてホテルに帰れたのはよかった。十時半までには寝入っていた。

* 二十六日は、今日は、待ちかねて東寺へ行った。九時になるのを待って、すぐ講堂の大森林のような仏像群に背をかがめて掌を合わせた。修理で大日中尊が不在であったが、こんなに充実した力ある時空間に身を置く幸せは、そうそうはどこででも出会えるものでない。金堂の薬師如来にはいつもいつもお叱りを受けにおそるおそる御前に出る。今日はいつもほど厳しい視線ではなくほっとした。東の日光菩薩の慈顔慈眼には泣けそうだった、むろん西の月光菩薩にも。いつもだと薬師中尊の前で萎縮していて両脇侍に縋るゆとりもなく退散するのだが、今朝は、日光月光の素晴らしい慈悲心にも触れることが出来て嬉しい極みだった。立ち去りがたくて、薬師のまえで、腰をおろし、ゆっくりと安堵していた。南禅寺三門と東寺の御仏たち。都ホテルと吉兆。十二分だった。夢のようだった。
1999 5・26 3

* 京都へ行き、祇園会の町を楽しみ、小野竹喬展を観てきますと、懐かしいメールが西国筋から届いた。きゅーんと京都が恋しくなる。祇園祭は、一年の内で、観ようが観まいがわくわくする第一の年中行事だった。梅雨が上がってぎらつく太陽の下で鉾が大きく揺れて動き出す興奮、御輿がきらめきながら鳴る興奮。少年の日に出逢った懐かしい恋しい少女たちの表情が矢のようにいくつも甦ってくる。夏はほんとうにロマンチックに悩ましかったし生彩に富んでいた。
そして小野竹喬。いちど手紙を貰っている。麦僊の無二の盟友であり、華岳、波光、紫峰らのすばらしい仲間だった。五人の名前を器械にこう書き出すだけでもわたしは、胸ふるえるほど彼ら「国画創作協会」の人と芸術とが好きだ。観に行きたいなあとため息が出るが、ゆけるだろうか。

* そうそう、昨日雨の銀座で、一軒目のばかに騒々しい寿司屋から飛びだしたところで、京都の何必館主梶川芳友に出逢った。向こうに連れがありものの数十秒の立ち話であったが、懐かしかった。彼と久々に逢ってちょっと力になって欲しいことがある。ある画家のデッサンを観て欲しいのだ。それにしても蒸し暑いのにリュウとしたお洒落であった。わたしはあんな窮屈なお洒落はごめんだ。若くてあんまりカッコいいので、少なからずヤキモチが焼けたのかも知れないが、暑いときは涼しくいたい、少々行儀悪くても。行儀を、ほんとに構わなくなってしまった、老いてきた証拠かな。
1999 7・14 3

* 朝六時前に京都のホテルで目が覚めた。朝食に降りていったら時間に早すぎて、それならばと、そのまま出町柳の常林寺へタクシーで走った。午後にと予定していたが、朝早に墓参というのもいい心がけだった。烏丸四条からあっというまに加茂大橋についた。萩の寺の名に背かない紅白とも真っ盛りに境内に波打っていて、住職が庭を掃いていた。「びっくりしたなあ、もう」と驚かれた。紫式部の実の清らかに白い、白式部とか、も見た。 墓を清めて、線香をあげ、ひとしきり父や母や叔母と話してきた。彼岸まえに幸便に墓参りできてよろしかった。妙に嬉しくトクをしたような心地だった。
叔母の社中たちが、命日の頃になると参ってくれている。有り難い。
それだけでなく、大学で妻と同期の友人が近所に住んでいて、折り目けじめの頃になると必ずうちのお墓を掃除して、塔婆を上げていってくれる。有り難く、恐縮している。今日も、はびこっていた墓の裏の草などを、きれいに掃除して貰っていたようだ、住職にも奥さんにもそう聞いた。

* 三条縄手まで電車で戻り、朝早で閑散とした古門前通りを東へ。有済橋のたもとで「なすあり地蔵」の祭られてあるのを拝み、白川沿いに狸橋まで行って、西向きに、橋から川を覗いてきた。北岸の草むらから、折しも、いま目覚めたとばかり六羽の水鳥が元気よく川面に泳ぎ出た。南の川縁の家はいずれも痛く古びたり様子が変わっていた。ことに昔津田さんといった家が取り壊されてしまっていた。
両側にまだ家のあった子どもの頃、目が舞いそうになるまで、気がボウとなりそうなまで、狸橋から川瀬の音もさやかに水の流れに流れるのを、まぶかにまっすぐのぞき込んでいるのが好きだった。橋の東をみると、川中に、秋草のたけ高にいきおいよく生えた径一メートルあまりの中島が造られていて、これはわたしの見知らぬ風情だった。わびていて佳かった。
狸橋から新門前通りまでの、豆腐屋さん八百屋さんはむかしのままだが、荒物屋も魚屋も無くなっていた。東角の奥村隆一君の家もまるきり変わってしまって、妙に荒んだ感じのビルに化けていた。むかし我が家のあった跡は、どうしようもないテナントビル。電柱がめじるしで辛うじて、その東間際の此処と分かるが、抜け路地も、もう跡形無くなって通れない。
いたたまれないのに、ときどき、忍び寄るように新門前へ帰ってくる。
隣組の第七組は、一軒残らずバブルの昔に根こぎ地上げされてしまい、面影といえば、路上の電柱だけ。その電柱に、そっと手を触れてきた。
新門前橋を渡り、西之町の「菱岩」のわきから辰巳稲荷へ抜け路地を南へぬけて、祇園白川沿いに縄手へ出た。南座の前から朝のバスに乗って四条烏丸のホテルへ戻った。老舗の「田中長」で、妻の好きな小茄子の辛子漬けを買って帰り、ホテルで決まりの朝食。

* 十時、京都中央信用金庫本店の会議室に江里康慧・佐代子夫妻を招いて、現代の仏師・截金師の、信と美と、造像と荘厳との「日々」を聴いた。よく話してもらえて有り難かった。康慧さんが八つ、佐代子さんが十、わたしよりも若い同じ高校の後輩になる。この夫妻の仕事は、銀座の和光でも何度も展覧会があり、知る人は多い。現代には珍しい伝統の技術で、じつに清らかな世界を夫婦相和して創造されている。

* わたしが、小説『畜生塚』の町子という美術コース日本画科の高校生ヒロインに、作中で、「截金」という稀有の技術にうちこませ、新たな工藝としての可能性を探らせていた、ちょうどその執筆の頃に、江里佐代子さんは、偶然の一致であったが日吉ヶ丘高校の日本画科にありながら、截金師の北村起祥氏の門に入って、師から技能を譲り受けていた最中だった。わたしが作中の町子を入門させていたのもその起祥氏の父親だった。作の町子と現実の佐代子さんとは、モデルかと言われても仕方のない、重ね合わせたような二人であったのだが、むろん小説の町子は、作者である「私」のような「宏」と同年なのだから、十年の年齢差があり、先輩後輩とは言え、当時は知る由もないお互いに遠い存在であった。
佐代子さんのことを知ってビックリしたのは、今から十年ほど前だろうか、美術文化賞の親財団である京都中信の発行している雑誌に、「女性の截金師」として紹介されていた時だ。「ヘッ、こんな人がほんとにいたんか」と感じ入った。財団理事であり賞の選者でもあるわたしの仕事をよく知った雑誌担当者は、そっとナイショで、佐代子さんに小説『畜生塚』のモデルですかと尋ねたそうだ。そして小説を読んでみたご当人は、ドキドキしてしまったそうだ。
今日が初対面ではなかった、が、時間をかけて話したのは初めて。夫妻とも、きびきびと自信にあふれた佳い藝術家であった。佳い鼎談になり、楽しい出逢いであった。

* 仕事から開放されて、ひとりで四条を東に向いたが、荷物も重く、「たごと」名月庵で懐石をゆっくり食べ、東寺に寄りたかったが疲れてもいたので、手近な「イノダ」のコーヒーでほっこり一息を入れてから、新幹線に向かった。

* 京都に入ったのは前日の午後だった。車中で、妻の長い時間をかけて書いていた原稿五十枚ほどを、初めて読んでみた。「姑」を書いていた。わたしの知らない母の声が聞こえ顔がよく見えて、有り難いものであった。よく書けていた。感謝した。ホテルに入ると早速電話で礼を言った。

* 京都駅からの地下鉄のなかで、オランジュリ展があるというポスターをざっと見ていて、タクシーで走ったら、なんと明後日からだと分かり落胆した。だが、常設展がわるくなかった。珍しい近代の繪が、たくさん観られた。やきものもよかった。
国立近代美術館のよく設計された窓からは、白川のいい裏道が眼下に見えて、一幅の繪のようであった。東山のやまなみの緑がとりどりの濃淡で映え、手の届きそうな平安神宮の朱の大鳥居も美しく見えた。粟田坂青蓮院前で旨い京料理を食った。
鼎談を明朝にひかえて有り難い休日だった。京都を、足に任せてそぞろ歩いた。夢であった。

* 旅中、原田奈翁雄氏と金住典子さんの出している雑誌「ひとりから」の何号目かをだいぶ読んだ。原田さんららしいしっかりした思想の足場に築いた、健康な大切な論調の記事がたっぷりあり、篠田博之氏らの「創」とはまたちがった行き方の、読者の増えて欲しい雑誌だと思った。
1999 9・20 4

* 池袋で、京都から出て見えた京都新聞の宮本実氏と、久しぶりに「京都」の話が山ほどでき、楽しかった。京の智慧について、短い原稿を頼まれていて渡したのだが、あまりな原稿の短さなので、話したいことが腹にたまっていた。「京都」論を始めると、すぐ本の一冊分ぐらいのことが頭から溢れ出てくる。わたしの「京都」論は、ちょっと余人の容喙を許さないものだと自惚れているから、堪ったものでなく、あわや宮本さんを新幹線に乗り遅れさせたのではないかと、別れてから心配した。
池袋ではいつもメトロポリタンホテルの喫茶室で、人と逢う、仕事の話をする、写真も撮られる。
むかし、やはり京都新聞での朝刊連載小説の打ち合わせに社の杉田博明氏が上京してこられ、このホテルで久闊を叙しながら相談していた、その真っ最中に、相当な地震が揺った。地震ゃと、思ったもうその瞬間にわたしは脱兎の如くホテルを飛びだしていたものだ、「すばやいなあ秦サンは」と大いに笑われた。地震はいやである。火事も親父も苦手であった。雷は、むしろ好んで大きな音を聴こうとする方だが。そんなことまで、懐かしく思い出した。
1999 9・29 4

* 京の智(ちえ)  ー巻頭言ー
子どもの頃、「あんたに褒めてもろても嬉しゅうはございまへん」と、腹立たしげに憮然としている大人を初めて見て、人を褒めるのにも、相手により事柄により「斟酌」が必要らしいと、深く愕いた覚えがある。「人の善をも(ウカとは)いふべからず。いはむや、その悪をや。このこころ、もつとも神妙」と昔の本に書かれている。智慧である。
「口の利きよも知らんやっちゃ」とやられるようなことこそ、京都で穏便に暮らすには、最も危険な、言われてはならない、常平生の心がけであった。京の智慧は、王朝の昔から今日もなお、慎重な、慎重すぎるほどの「口の利きよ」を以て、「よう出来たお人」の美徳の方に数えている。
「ほんまのことは言わんでもええの。言わんでも、分かる人には分かるのん。分からん人には、なんぼ言うても分からへんのえ」と、新制中学の頃、一年上の人から諄々と叱られた。十五になるならずの、この女子生徒の言葉を「是」と分かる人でないと、なかなか京都では暮らして行けない。いちはなだって、声高に「正論」を吐きたがる「斟酌」に欠けた人間は、京都のものでも京都から出て行かねばならない、例えば私のように。
京都の人は「ちがう」と言わない。智慧のある人ほど「ちがうのと、ちがうやろか」と、それさえ言葉よりも、かすかな顔色や態度で見せる。「おうち、どう思わはる」と、先に先に向こうサンの考えや思いを誘い出して、それでも「そやなあ」「そやろか」と自分の言葉はせいぜい呑み込んでしまう。危うくなると「ほな、また」とか「よろしゅうに」と帰って行く。じつは意見もあり考えも決まっていて、外へは極力出さずじまいにしたいのだ、深い智慧だ。
この「口の利きよ」の基本の智慧は、いわゆる永田町の論理に濃厚に引き継がれている。裏返せば、京都とは、好むと好まざるに関わらず久しく久しい「政治的な」都市であった。うかと口を利いてはならず、優れて役立つアイマイ語を磨きに磨き上げ、日本を引っ張ってきた。京都は、衣食住その他、歴史的には原料原産の都市ではない。優れて加工と洗練の都市として、内外文化の中継点であり、「京風」という高度の趣味趣向の発信地だっ
た。オリジナルの智慧はいつの時代にも「京ことば」だったし、正しくは「口の利きよ」「ものは言いよう」であった。この基本の智慧を、卑下するどころか、もっともっと新世紀の利器として磨いた方がいい。
1999 11・9 4

* ホテルを出て、三條高倉の文化博物館へゆっくり歩いた。イノダ本店でコーヒーをと思っていたが、改築中だった。中京の町中を歩くのもわたしには懐かしい。
第十二回京都美術文化賞の受賞者作品展で、選者の一人としてこれを会期中に観るのは仕事のうちである。このために、わざわざ来たのであるが、展覧会は、いまいち落ち着かないものだった。選者としてこれは恥じ入ることであるが、心配していたとおり日本画が良くなかった。「きたない」という批評は、昔、土田麦僊が甲斐荘楠音の繪に投げつけた問題の批評語であるが、そして甲斐荘絵画はそう言われてもなお跳ね返す力強い画境を守っていたが、今日の会場の日本画受賞者の作品は、わたしには力無くただ「きたない」だけで、何の感銘も受けなかった。選考会で強く推された石本画伯にわたしも最後には従ったけれど、だからこんなことは言っては成らないことかも知れないが、不安が的中した。異様にいやな繪であった。
林康夫氏のダマシ繪風の彫塑も、感動的なものではなかった。図録の写真でみている方が面白い。
服部峻昇氏の蒔絵も、派手に豪奢な金銀や螺鈿象嵌がほとんどで、元気いっぱいだが、会場は澄んで静かとはいかず、ぎらぎらしていた。ま、大変な力業ではあるが、どの一点も「欲しい」ほどのものではなかった。ま、しかし来会の市民には服部氏の作品が、一番の見ものであろう、か。
審査員の石本正さんの日本画「馬」のね本絵と下絵とが対比して並べられたのは面白かった。つよい繪ではなかった。清水九兵衛さんの彫刻、三浦景生さんの染色作品も、普通作だった。
十二年も続けてくると、すこしはゆるみも出るのかな、心しなければなと思った。

* 高島屋で、財団理事の三尾公三氏が二人の女弟子に囲まれた恰好で「三人展」を開いていて、最終日に間に合った。
こっちの方がずっと佳い展覧会で、三尾さんの定評ある幻影画の面白さと確かさとはもとより、二人の女性もそれぞれに力作を出していた。感動させるとまでは行かなかったが。
一人の人のも、どうやら人に死なれた陰を引きずっての作画らしい、蓮や水の大作は、なかなか力に満ちていた。けれども、一方で、構図は写真に得ていることの明白に見て取れる作品なのが、気になった。仕上がりが良ければいいではないかとも言える。しかし写真機に構図する役を引き受けさせてでは、画家の「何か」が放棄されては居ないか、大いに気になる。気になるなあと思いつつ、折悪しくその画家だけが不在だった。三尾さんともう一人の画家には挨拶して会場を離れ、予定より一時間早い「のぞみ」で十二時十分には京都を離れた。
車中で、十分に原稿が読めた。液晶画面では少し掴みづらい細部まで読みとれて、概ね思い通りに進みつつあるらしいと感じた。もっとも全体の三分の一も読んでいないのだから前途は遼遠。

* 帰宅して、ともあれ散髪した。
2000 1・25 5

* 「からすま京都ホテル」の喫茶室で、約束どおり、高校時代の英語の女先生と孫娘さんに会った。先生は米寿になられるというが、喜寿ほどにお見受けした。目も耳もお話もすっきりと、お若い。何十年のご無沙汰など、何事もなく溶けて流れた。
若いお嬢さんに、なにかしらの助言をということで、そんなことの出来るわたしではなかったが、お茶をのみながら歓談した。気持ちの佳い時間であった。お土産まで頂戴した。
* 同じ場所で、そのあと関西テレビの記者をしている東工大院卒の井筒慎治君と学部三年の教室いらい、久しぶりに、そして初めて二人で、対面・歓談した。文学のセンスのある人で、二年生三年生と各学期成績良く、「挨拶」にも真率な言葉を記し続けて印象豊かな人だった。逢えて話せて、すっきりと心行く嬉しさに感動した。ホテルの真ん前のビルに勤務していてびっくりした。もっともっと長く話していたかったが、勤務中の人を小一時間も引き留めただけで恐縮した。佳い話題で十分楽しめた。何年も以前の出逢いがお互いに佳いものであったのだと、つくづく実感でき幸せだった。

* 出町の常林寺に墓参。三條に戻って縄手の「今昔」西村家に立ち寄り、老母、子息夫妻、孫息子の三代に逢い、新装の古代裂展示室でお茶を戴き、懐かしく談笑、還暦になったという昔の少女(他家に嫁いだ姉娘)の元気そうな消息も聞いて安心した。お互いに元気なうちに一度逢いたい。
辞して、縄手の「梅の井」で特上の鰻をゆっくり、お酒も。店内に橋田二朗先生の小品画が掛かっていた。主人の三好閏三君も出てきてくれ、しばらく歓談した。
河原町の「ひさご寿司」に立ち寄り、生前北澤の兄がこの店と昵懇にしていた礼を言おうと思ったが、主人夫妻とも不在だった。ホテルへ帰ったら追いかけて「ひさご」の夫妻から電話があった。
おそくまで部屋で仕事をして、やすんだ。  2000 3・6 5

* 十何回目かの京都美術文化賞選考会。ほぼ、思いどおりに選考できた。梅原猛、小倉忠夫、石本正、清水九兵衛、三浦景生氏ら選者で、いつも一人も欠けることなく、選び続けてきた。第一回に推した秋野不矩さんはその後に文化功労者になられた。あの頃までは、そういう面では不遇の人だった。今回の選考は、結果としてちょっとフレッシュな新しい分野から二人も選べてよかった。

* 一目散に帰ってきた。家に、建日子と同居人とが来ていた。今日、妻は聖路加病院でやはり「帯状疱疹」と診断され、治療を受けてきた。もっとも頭痛の烈しかったときからすれば、十分の一ほどにわれわれの自力で治していたが、完治させた方が良く、今後も通院する。「数病息災」の夫婦で在ろうとしている。
2000 3・7 5

* さて、明日は早立ちで京都へはいる。弥栄中学の同期会。今朝、西村肇君からわざわざ電話で出席の確認があった。明後日は、京都美術文化賞の授賞式と、晩には財団理事会と宴会がある。ことしは西石垣の「ちもと」とか。嵐山「吉兆」まで出かけて行くより、鴨川が見え東山が見えて地元の「ちもと」の方が何倍も有り難い。少し、この旅は酒が過ぎてしまうかも知れない。
そういえば、「きりがね」で今回受賞した江里佐代子さんから、珍しい、一つで四人分にも分けた方がいい、すばらしい菓子と、宇治の極上茶が贈られてきている。この菓子が、いやもう、美味いのだ。しかし食べられないのである、沢山は。
京都から戻れば、即日、湖の本の通算六十三巻めを発送の作業に入る。創刊、満十四年の櫻桃忌がまぢかい。
この「私語の刻」など、しばらくのは途切れがちになる。
2000 5・27 6

* 夕過ぎて京都から帰ってきた。すぐ湖の本通算六十三巻めの発送作業に入った。

* 五月二十八日には、市立弥栄中学創立五十年記念の同期会が二条城まえの京都国際ホテルであつた。思ったより盛会だったが、きまったテーブルに着いての会だったので、昔のクラス単位に顔ぶれが固定されたのは、こういう会では巧い方法ではなかった。狭い地域社会なのだから五十年も前のクラス分けになど意味は殆ど失せている。立食にして、適宜にテーブルを作っておけば、お互いにフロアを移動しての話題と交歓に、もっともっと融通が利いたろう。欠席した人たちの通信を、騒然としたなかで幹事役に読み上げさせるなど、各クラスの読み上げ役も気の毒なら、全体のムードも混乱させていた。司会役がまったく独り合点の雑な強行で、いたく興ざめした。そんな中で強引にわたしも喋らせられたが、言いたかったことも言えなかった。自分の声が聞こえなかった。
なつかしい顔にたくさん逢えたのだから、それだけで満足した。二次会も三次会もあったが、わたしは飲めず食えずで、どうしようもなかった。会場では殆ど全く飲み食いをしなかった。

* バー「とよ」での三次会をぬけだしてから、一人で縄手の「蛇の目」へ行き、鱧のおとしと、最上のネタお任せで「五つ」を握ってもらった。お銚子を一本。これは美味かった。心底、堪能した。なつかしい好きな店である。『みごもりの湖』で祇園会のさなか、ヒロインの女子大生と友人とにここで食事させる場面が、「贅沢な」と言う読者もいたけれど、わたしは、何のと思っていた。朝日ジャーナルに『洛東巷談』を連載中にも、この店の「鱧のおとし」のことを書いたら、鶴見俊輔さんが、「秦さんがうまいという店なら」と食べに行かれたと聞いた。今では常連のお一人らしい。安い店ではない。先日の「きよ田」なみに一万五千円支払ってきたが、大満足。宿へ戻って、テレビを「聞き」ながら、『客愁第一部』の「三」の原稿に手を入れ、眠くなったところで寝た。

* 二十九日午前、タクシーで今熊野の観音寺へ参り、奥の墓地をそぞろ歩いてから泉涌寺来迎院に入った。ご住職も奥さんも亡くなり、そのむかし、まだ赤ちゃんを抱いていた若い奥さんが出てこられた。縁側へお茶とお菓子を運んでくださり、小一時間も歓談。あの時の赤ちゃんがもう大学生と聞いて驚いた。言うまでもない来迎院は『慈子』の舞台、含翠庭は読者の間では「慈子の庭」で、作中、慈子の住んでいたお寺なのであるが、初めて、初々しくも美しかったこの若奥さんに出逢ったときは、それこそ慈子を髣髴とさせるすてきな人だった。頼んで写真に撮らせて貰ったから、日記の間には残っているだろうと思う。もし、わたしに文学碑が可能になる日があれば、この庭の隅にちいさな石をおいて、死んだら髪一つかみなりと石の下に埋めて欲しいと思うほど、この庭がわたしにはなつかしい夢の世界だ。
京都へ来た甲斐があったと喜びながら辞去し、新善光寺の郵便受けに、熊谷龍尚師(湖の本の継続購読者)へ挨拶の名刺を入れて置いて、順に戒光寺、即成院へと静かな中を通り抜けて行った。一度ホテルへ戻った。

* 午後は、都ホテルで第十三回京都美術文化賞の授賞式。受賞したのは日本画の堂本元次、写真の井上隆生、きりがねの江里佐代子。今回はなかなか佳い当選者で、選者を代表しての梅原猛の挨拶も、一人一人の芸術に深切にふれて、とても佳いものだった。ペンの理事会での疲れた顔とちがい、とても健康そうな佳い顔をして、実も情もある話しぶりだった。これは何よりの受賞者たちへのご馳走だった。祝賀の会もなごやかで、江里さんも夫君の仏師康慧さんもそれは嬉しそうだったし、井上さんとの立ち話も、写真の「決定的瞬間」を論じ合ったり密教の話題にも深くふれ合えて、面白かった。選者仲間の石本正さん、清水九兵衛さんとの立ち話も例年通り大いに楽しかった。シャンパンの乾杯には参加したが、殆ど何も食べなかった。
記念撮影のあと車でホテルに送って貰い、一息入れてから、夕刻、西石垣「ちもと」での財団理事会評議員会、そして懇親会に出た。先斗町からの芸妓舞子が接待してくれ、率いて出たのが、石房の「おかあさん」で、このお茶屋へは、亡くなった叔母がお茶お花の出稽古をしていたし、私のことも「おかあさん」は知っていた。わたしも知っていた。その奇遇が、この会での大きな儲けものであった。酒はほとんど飲まなかったが、料理はおいしく食べた。「ちもと」の四階からは鴨川も東山も晴れやかに眺められ、気が落ち着いた。例年出席の橋田二朗先生が欠席されたが、前日の同期会でお目にかかりそれは承知していた。橋田先生も西池季昭先生も、さすがにお年を召していた。

* 今日は、菩提寺に墓参。かんかん照りのまぶしい墓地で、たっぷり墓石に水をかけて、父や母や叔母に話しかけてきた。念仏も、長く唱えてきた。京阪電車で三條に戻ると躊躇なく母校有済小学校に入った。本にしたばかりの自伝の舞台を、また目で確かめておきたかつた。そして、仰天したのである。ここの校庭には木曾義仲に愛された山吹御前の塚がのこっている、それを観ているときに、若い女先生が一人寄って見えた。その先生の話に我が耳を疑った、なんと現在の生徒数が一年から六年まで合計して、たったの「四十七人」だというのである。まさか。だが事実だと。
私の卒業した昭和二十三年当時は、ほぼ七百人ほどの生徒数だった。その後に千人近い時期も有ったというが、今や地域の高齢化、若い家族がみな郊外へ出てしまったために、たった四十七人きりの、離島や僻地なみの学校になり、大きな校舎はがらんどうのまま森閑としていたのである。教頭まで追うように出てこられ、かなりの立ち話の挙げ句、職員室まで行って創立百三十年の歴史を刻んだ写真資料集を分けてもらったりした。

* この学校を父も叔母も卒業した。芸能の大「松竹」を起こした双子の兄弟も、この学校の大先輩だった。だが、やがて統廃合の対象になるであろうというから、真実吃驚した。

* 切り通しの「菱岩」に寄り、頼んでおいた東京へ持ち帰りの弁当を買い、主人といずれ「美術京都」で対談したいと予告してきた。ここの有名な弁当は、とてもナミではない。詰め合わせが美術品なみで、質も量も豊かなとびきりの御馳走なのである。安くはない、が、絶対に間違いないうま味と満足感が購える。前日に予約して置かねばならないし、もちのわるい季節には造ってくれない。
注射の時間なので、四條の大原女屋に入り、四季弁当を昼食にした。しみじみ酒が欲しいと思ったが自制。子供の頃から馴染みの店で、静かにのんびりとした。
これも懐かしい河原町東の南海堂で、完訳の新潮文庫『チャタレイ夫人の恋人』を買い、ぶらぶら歩いてペットボトルの日本茶を買い、荷を預けたホテルに戻って、喫茶室でコーヒー、思案してから紅茶のムース一つ、を注文した。無性にうまいケーキが食べたくなったのである。満足した。

* 二時十分発の「のぞみ」に乗り、本を読んだり、まどろんだり、お茶を飲み切ったりしながら、まだ日の高い内に帰ってきた。きちんと湖の本第四十三巻、エッセイと通算して第六十三巻『もらひ子・かなひたがる』が届いていた。「菱岩」の弁当が妻との夕食に十二分だった、さすがのものであった。
帝劇「エリザべート」の招待券が二枚届いていた。残念なことに電子メディア研究会の時間にさしあっていた。後藤さんにお戻しするしかない。
2000 5・30 6

* 焦げそうな陽ざし。祇園会らしく熱暑の乾燥しているのがいい。気の遠くなるような清々しい日照りの中で、鉾の巡幸を観た少年の昔が想われる。
巡幸の経路など、昔と様変わっていると聞く。先と後とに祭日を分けて巡幸した鉾・山が、一度に、一日で、みんな動くとも聞いている。祭にも時世時節で変更のあるのは致し方ない仕儀。だが鱧の味は変わるまい。あの魚だけは京都で食べたい。
祇園会の折り、『みごもりの湖』で、若い女子大学生に四條縄手「蛇の目」の鱧を食べさせているのは、贅沢だと小説を批評されたことがある。バカらしい。食べられれば食べるし、無理なことはしない。それが食事というモノだ。
神輿をかつぐのは、定まった地域からの奉仕である。八坂神社の神輿は途方もなく大きく重く、かつぐ人数を揃えるのが年々に難しいとも聞いている。満腹することのなかった戦後のむかし、神輿の重さに耐えかね何度か危うく休息しいしい渡御するのを、はらはら眺めたこともあった、が、飽食の今はどうか。八角、六角、四角の三基と、私のまだ京都にいた時代に、子供用の美しい神輿も出来た。この小さいのでも、諸方の祭のまともな御神輿ほどある。先の三基はべらぼうに立派で、殊に四角のはたいへんな重さらしくて、渡御を担当する若竹・若松組はいつもたいへんだった。
兼好は、祭礼は過ぎた後の「あはれ」を良しとした。わたしも、やや、その想いにちかい。京都中のはなやぐ季節である。梅雨もあけた。国土安穏でありたい。
2000 7・17 6

* 祇園会の後祭。むかしは、この日に、船鉾を殿にしたたくさんな山の巡幸があった。後の祭りの賑わいと寂しみに、十七日の、長刀鉾を先頭にした天地の揺るぎ出すような先祭の興奮とは、ひと味違ったよさがあった。『慈子』で、幼い朝日子を高く抱きあげながら見送ったのも後祭の巡幸だった。あの小説のあの一日はながかった。そして思うのだ、まだまともに書いていない人が、少女が、もう一人いたなと。
2000 7・24 6

* 八朔。京の芸妓は白い衣裳で挨拶に回ったものだが、今ではどうか。
風がある。南の島々では烈しい、そうじつに烈しい地震に見舞われ続けている。気の毒でならない。

* 街にちょっとした所用あり出かけようとしたが、あまりのギラギラ照りに辟易し、器械の前にはりついている。

* ゆうべ夜遅くのテレビで、京舞井上八千代と孫の三千子との家元継承をめぐる特集番組があり、妻と、釘づけになって観た。「虫の音」という、ひょっとして謡曲の「松虫」に取材しているのだろう、秘奥の曲を三千子が八千代に習い続けていた。見るからにすばらしい地唄舞であり、教える祖母が真の名人。習う孫娘は幼い頃からの逸材であり、もう四十二歳、五世井上八千代を継承の間際なのであるから、はりつめて豊かな稽古のさまは、ブラウン管越しにも息を呑ませる、清浄で厳粛な境涯であった。祇園は、まさに我がふるさと。白川にせよ女紅場や歌舞練場にせよ、また観世=井上家の内も外も、わたしには身近に懐かしい故郷の一場面なのである。
八千代はんの家は、育った我が家からほんの少し西にあり、文字通りの御近所だった。息子の慶次郎さんは同志社美学の先輩で、今は観世流のシテ方。慶次郎さんの兄が片山九郎右衛門で京観世の元締めである。三千子さんはその娘。
井上家の前では、戦後、夏ごとに盛大に盆踊りが楽しめた。井上家からは大笊にカチワリの氷が出されて、踊りの輪がそこへくるとさらって頬ばり、またまた踊り続けた。わたしは盆踊りの大好き少年で、自分の町内だけでなく、いたるところへ踊りに遠征した。またそれほど戦後の一時期には爆発的に町々に盆踊りが盛んだった。八月だ。地蔵盆、大日如来盆の八月下旬が、踊りの真盛りだった。
瑞穂踊り、京都音頭、東京音頭、三味線ブギ、炭坑節、真室川音頭など、順不同だが、いろいろあった。速いのも遅いのも、変則の足踏みのもあった。何でもよかった。晩になると、ジッとしていられなかった。小学校時代はまだ闇市の時代だったから、みな、弥栄中学時代のことだったから、昭和二十三年から五・六年ころが盆踊りの盛りだった。少女美空ひばりがすばらしい勢いで出てきていた。天才だった。
2000 8・1 6

* 歌舞伎の中村扇雀が、どこかで、京言葉に触れて話すか書くかしていたという読者の情報に、もう少しくわしく知りたいと問い合わせたら、いっそ扇雀さんにじかにお聞きやすと、扇雀丈のメールアドレスを教えてきた。そのついでにこんなことを書いてきて呉れたのである。ボキャブラリイではない、「物言い」を聴かないと分からないのが地言葉の難しく面白いところと、口を酸くしてわたしの言ってきたのが、これだ。
2000 8・2 6

* 京都は「大文字」だ。五山に火が燃えて、京の夏の夜を不思議の時空にかえる。寂しくて美しい極致である。娘の小さかった頃に、妻と三人で弥栄会館の屋上から送り火を見た感動が、わたしの『みごもりの湖』をつよく押し出した。懐かしい。ふるえるほど懐かしい。
2000 8・16 6

* その弥栄中学の頃の水谷(佐々木)葉子先生から、宇治上林の最上の抹茶を頂戴した。嬉しい。また中学生だったわたしのために、藏から、与謝野晶子の源氏物語帙入りの豪華二冊本を、何度も何度も叔母の茶室まではこんでくれた今井(林)佐穂さんからも、懐かしい長文の便りがあった。二つ三つ上級のみごとな才媛であった。叔母が主宰の初釜のお遊びのために、カルタを、堅い紙に白い紙をきちんと貼って手製し、『利休百首』を取札と読札に二百枚、みごとに毛筆で書いたのが、今もわたしの手元に秘蔵してある。鑑賞に堪える美しい筆跡で、それぐらいなことの出来る人が、本の手近なところに何人もいた。京都であった。佐穂さんの長文の手紙は、楽しみに、まだ初めの所しか読んでいない。「思い出を書きました」と有り、ペンの字が若々しく美しかった。
2000 9・13 7

* 林佐穂さんの手紙を就寝前に読んだ。懐かしそうに国民学校の昔から戦後のことなどが、わたしのことも織り交ぜて書かれていて、しんみりした。昭和二十年、敗戦前の三月に卒業生答辞を読んで卒業していった、仰ぎ見る憧れの先輩であった。卒業生答辞を読むすずしい声音を耳の底にだいじに秘めたまま、間を置くひまもなく、わたしは、祖父と母とで「丹波」へ疎開していった。ホームシックのなかで京を懐かしく焦がれるときには、しばしば講堂での卒業式の静粛を思い出していた。戦争もへたくれもなかった。ただ佐穂さんの声音に耳を澄ませていた。
戦後、いつしかに叔母の稽古場に、お茶お花ともにお稽古に通ってくる佐穂さんがいた。それはそれは美しい点前でいいお茶をたててくれる人だった。その後の生き方も結婚も、大家のお嬢さんとしては決然として個性的な進路であり、聡明な選択であったと遠くから感心して眺めていた。断続して文通は続いていた。安心だった。子供の頃以来一度も顔を合わしたことがないが、すぐ身の側に、いつも感じている。

* 五十年も昔のことをそんなに「意識」しても仕方がないと、世間には言う人もいる。そうかも知れない。そうでは無かろうと思い、わたしは、ここ数年は、意識して少年の昔を顧み、その頃への「旅」を続けてきた。記憶の旅は一面的なところがある。後輩にも当たる京都の読者のおかげで、例えば図画の西村敏郎先生のまた一つ心嬉しいエピソードが伝えられたりすると嬉しくてならなかった。だが、すぐさま、べつの心よからぬ評判を伝えてくる声も届いてきたりする。人間の「世間」ゆえ、一人の人物も視角しだいで、いい・わるいの両側をもたざるを得ないだろうが、今さらに人のいやな側面を聞き知ってみたいとは、全く、思わない。いやなヤツと思ってきた人の、思わぬいい面を教わるのは嬉しいことだが、逆は、愉快でない。そういうところに丁寧に「意識」を置くことも、また年の功というものではなかろうか。
くさいものに蓋をする気ではない。一面からだけ見過ぎては、その一面がわるい一面の場合は殊に、いけなかろうと思うのだ。わたしの生母など、近江山城では非道の悪女のように観られていたが、大和路へまわって人に会い聴いてみると、まるで、ナイチンゲールやマザー・テレサなみに褒める人が多く、人の人生の不思議を痛感した。そういう探訪の旅を重ねた日々も有ったのである。
西村先生の場合、画業への不運不遇がどんなにか生活の焦れを招いていただろう、経済難もさぞあったろう。先生のあの頃のあまりな年若さを思えば、青春の悩みも深かったに違いないと想像される。
わたしは小学校五年から新制中学二年までを『早春』と呼んだのだが、一年入学で理科を教わった佐々木葉子先生は、女専を出てすぐの新任だった、あの頃こそが自分の「青春」でしたと昨日のお手紙に書かれていた。佐々木先生と西村先生では、みたところもむしろ男先生の方がやや若かったかとすら思われる。二十歳代に入って間もなかったろう。青雲の思いがなかなか満たされにくい時代でもあった。そんな西村先生が、一つのパンを二つに分けて、食べるもののない一年生に与えられていた。思い出すだけで涙腺がゆるむとその一年生は、いましも高齢にさしかかりながら告白し、なにと人が言おうと先生はわたしの「ヒーロー」でしたと書いている。「わるい」だけの記憶からものは得られない。それを否定も出来ないが、わるい記憶は出来れば処分するか、少なくも胸にしまっておき、わるい噂話にして人に伝えたりしない方がいい。それとも、きつちりした形で表へ出して「書き表す」か、だ。
2000 9・14 7

* 十月にペンの京都大会がある。理事を退くことになるかもしれず、一度ぐらいは故郷での会に顔を出さないと義理が悪いかも知れない。妻を連れての旅が、黒い少年のために、なかなか出来ない。一泊ならまだしも二泊家の中に閉じこめておくのは、妻には堪えられない。これには困惑している。もし一緒に行けるなら南座での翫雀、扇雀、橋之助、染五郎の「男岩藤」を観てきていいのだが、芝居見物は独りではつまらない。
2000 9・16 7

* 老いた親たちをことごとく見送り、人のわざをし終えて一息つく寂しさは、体験してみないと分からない。あんなに衰えていた親でも、やはり親として頼みにしていたのだったと分かる寂しさと心細さ、うす寒さ。ひとりでこれからは立っていなければと思うのである。
こういうメールが続いて届いていた。ことを終えて、もう老境の三姉妹で東寺のあの鳴り響いておわす巨大な偉大な仏たちと向き合ってきた図は、なにがなし、わたしを感動させた。

* 父を、あんなに帰りたかった京都へ、そして、自分が隠居所として建てたのに、不便だと言って一度も住まなかった今は妹の家に、一晩安置し、そして翌日は、何十年も前に泉山の景色がとても気に入り、此処なら皆が楽しみながら参りに来てくれるだろう、と言って用意していた、既に弟と母の待っている墓所に葬り、子どもとしての最後の務めが果たせて、安堵いたしました。
帰宅の日に、東寺のあのすばらしい仏像群をゆっくりと、目を潤しながら拝観して、姉妹三人で、心より父の冥福を祈りました。あのような悲しみの後の穏やかな気持ちは、何物にも代え難いものがあります。秋の空にすっきりと立つ国宝五重塔を晴れ晴れと見上げてきました。

歳を重ねる毎に初めて出会うものが少なくなり、感動する機会も数多くはありません。京都には、一年に二度ばかり行く機会があります。離れてみて、住んでいた若い頃には、出逢わなかった、感じなかったものに、必ず出会って感動して帰ります。特に、当時は考えてもみなかった古い歴史の上で暮らしていたんだと、実感します。まず、「春はあけぼの」は、「裏の山」だったなんて永らく気付きもしない程、只、暮らしの場所でした。無論、今の子ども達も大半そうだと思います。モッタイナイ
ちなみに、東寺へは、私の提案で行きました。よかった。

* 故郷の胸の内に、こうして入って行けるのにも年齢が必要なのか。「故山入夢」と本を送るときに書き添えたとき、この人は強く反応し、自分の思いそのままだと言っていたのを思い出す。地に足のついた生活者ならではの感慨と境涯かと、このメールもしんみりと読んだ。浮き草のようにふわふわと生きているだけでは深いものに出会えないし、感動も湧いてこない。
2000 10・11 7

* 十三日の金曜日午後  新幹線ののぞみで、うたたねしているうちに京都についた。出がけは小雨の気さえあったのに、京都は快晴でまばゆいほど。
河原町の京都ホテルに入り、すぐ、車で、萩を刈ったばかりの出町の菩提寺へ。墓地も日盛りのまばゆさで、墓に水をたっぷりかけて、香華を供え、念仏。住職としばらく玄関で話し、辞去。
地下鉄で四条まで走り、花見小路の「小西」で、紙と木と金との作品展に、中学時代の恩師で歌人でもある信ヶ原綾先生のご子息が、興味深い金属造形を出品されているのを観た。蓮を造形した自在な金属の扱いなど、興趣に富み、感心した。「小西」はもともと祇園甲部の御茶屋であり、その家を開放して各室に展示がしてあり、そのまま京の数寄屋造りの間取りや壺庭などが観られて、それもまた展示効果を粋に挙げていた。懐かしいものがあった。祇園町の小路をぬけて縄手へ出るまでも、建仁寺の風情と色町のそれとがにじみあうように面白く、縄手へ出ればまた広くもない通りに商家がにぎにぎしく軒を並べている。子どもの頃父に言いつかって牛肉を五十匁の百匁のと買いに行った店も、昔のままの間口としつらえで残っている。京都へ帰っている、ここは祇園ゃ、縄手ゃと、思うまでもなく呼吸しているだけで、心もち良く落ち着いてしまう。妻も楽しんでいる。

* 南座があいて、前から四列の真中央の席にならんだ。扇雀丈の女番頭さんに、来月の平成中村座「法界坊」二人分も含めて支払いをし、礼を言い、花形歌舞伎「鏡山縁勇繪=かがみやまゆかりのおとこえ」通し狂言を観る。
中村翫雀、扇雀の兄弟、中村橋之助、市川染五郎、それに吉弥や高麗蔵らがワキを固めた、本当に若手花形だけの舞台だが、それが活気をうみ、また台本がばかに面白くて幕間はごく短いというテンポのよさ。もう頭っからの歌舞伎・歌舞伎なのだが、歌舞伎の根の趣向だけでなく、岩藤の骨寄せや尊像の宙浮きには現代の超魔術テクニックを借用するなど、盛りだくさんにけれんと手管を嫌みにならぬ鮮やかさで連発したから、ただもう、引き込まれて面白がっていられた。おおッと手に汗もしたし、蝶の乱舞する演出など、なかなかやるなと感心もした。
常の舞台でなら、年季の入った大幹部の俳優たちに立ち交じって、若い生きのいい芝居をみせる若手四人が、此処では互いに競い合って一芝居を支え合う活気と協調。気持ちよく、若い芝居が若く元気に盛り上がり、終始いやみなく成功していたのは、大いにめでたかった。見栄えもした。「男岩藤」という趣向を掘り起こして存分に新脚色した意欲も利いた。「こんなのも、いいな」と思わせてくれた。
橋之助の由縁之丞が、女役、若衆役、本悪まで多彩に元気いっぱいに、なんだかとても楽しそうに演じ分ける。扇雀も、まずは滅多に見られない、老職の武士役と、絢爛の花魁や世話の女房を演じ分けながら、自害までしてみせるから、ご苦労であったし、しどころも有った。フアンは喜ぶ。
なにしろ四列目のまん中にこっちはいるので、橋とも扇ともしっかり目があい、ひょんな初対面の按配なのも、とても面白かった。すくなくも扇雀はわれわれが東京からわざわざ来ていることは知っているのだろう。こっちも一心に見るし、舞台の上でもうんうんと確認しているような按配。それほど近いところにいたので、よけい面白かった。
座頭格の翫雀も、大名と二枚目とを彼らしく颯爽と演じて父親の鴈治郎に生き写しなら、扇雀は母親の建設大臣に瓜二つというところ。立ち役にもはまるいい顔立ちをしていて、妻など、そっちの方もすてきねと、痺れていた。染五郎にはまだヒレがないが、これまた随所に高麗屋の芝居ぶりが出て、父松本幸四郎にそれはよく似ているからおかしかった。そんなことを言えば「歌舞伎さん」(寛子夫人の婚約の頃の表現)こと橋之助が、また若き日のお父さん芝翫丈にそっくりだ。「若手花形」とは、名実ともに偽り無き看板であった。たいして期待しないで来た分、大トクをしたほど面白い芝居見物が懐かしい南座で出来て、夫婦して、いたく満足。

* 芝居がはねて八時過ぎ、きわどいなと思いつつ、すぐ東の「千花」の暖簾を分けた、と言いたいが、もう灯を落としかけている間際だった。顔を見て、とくべつに中へ入れてくれた。
つい先頃にも、淡交社の本で、「京で呑んで食べるなら此の店」と一文を書いていた。もう古い馴染みで、同じような機会にはためらわずにいつも「千花」と書いてきた。それほど好きな店であるから、ぎりぎり間にあって有り難かった。二人で京都へ、の一つのお目当てであったから。間に合わせてもらえて、もう誰も客の来ないまま、しみじみと佳い京料理の粋を、堪能した。
「一品として、どこかよそでもこれは出るわねというお料理が無く、ぜんぶが新鮮で珍しいお料理なのねぇ」と、妻は舌をまく。この店は、食べ物に趣向があり、じつに佳い器での、ものの出し入れがやすらかに美しくて、店の行儀もいいのである。酒をうまく呑みたければ、超一級の食べ物で、酒を、いっそう美味くしてくれる。
老主人が枯れた西行さんのように、また、佳い。この人に逢えると逢えないのとでは、味がちがうだろうなと思う。美味かった。幸せな気分だった。老主人や店の若い人に四条通で永く見送ってもらい、佳い気持ちで四条大橋を西へ越えた。
ホテルはもうそこだったが、河原町三条の六曜社でコーヒーをのみながら、のんびり妻とおしゃべりした。

* 十月十四日 土曜   十七階の窓際で朝食。眼下に、京言葉で書いた小説『余霞楼』につかった屋敷と庭が見えている。南は清水寺まで、北は比叡山まで、晴れ晴れと東山が青い。もう一月すれば紅葉しているだろう。視線が深くて、鴨川が、かわいらしいほど川幅せまく見下ろせる。視野に収まる限りはわたしの知らぬ所が無いとすら言え、あれは、それはと、建物の一つ一つを指さしながら、その中には母校の屋上の鐘楼もあれば、知恩院も八坂の塔も、黒谷も真如堂もある。

* 時間予約したハイヤーで、妻の希望に任せ、まず五条の山越えに、山科に入り小野随心院で車をとめた。静かに気品豊かなこと、この門跡の庭には俗気が微塵もない。その気なら数時間でもじっと座っていたい。なまじハイヤーを待たせているのは罪なことであったが、六時間は使わせるというホテルとの約束なので、午後の日程のためにも、ま、車は有り難かった。
小野小町ゆかりの寺であり、境内に広い梅林があるなかに、小町化粧の井もあって、石段を貝殻を踏むようにまわって少しおりると、木の葉が積んでいるけれど澄んで静かな、湧き水。降りていって、指先を泉に着けて妻は頬をすこしぬらしていた。白いじつに可愛いちいさな仔猫が、小町の井をまもるように石段のわきにいて、にげるどころか、よぶと懐かしそうに二人の足にからむように啼く。それは綺麗な、よごれのない仔猫で、いとおしくて堪らない。去ろうとすると声をあげて妻にもわたしにもかわるがわる走り寄り、あとを追い続けてくる。これは、もう、つらいほど胸がしめつけられた。心を鬼に、置いて行くしかなかった。家のマゴのお嫁さんに連れて帰りたかった、本当に。

* 醍醐寺の三宝院へ入った。あまりに晴れやかな天気で、かえってこの庭のみごとさが明るく浮かんでしまっていたが、夥しく置かれた石組が少しの騒がしさもなく豪華な音楽のように美しいのはさすがで、どこに立ってもすわっても天下一の庭園、繪になる。
しかし今日ばかりは、もっと立派だったのが金堂前の醍醐寺五重塔。その鳴り響く大きさ、美しさに、息をのんだ。金堂の仏様も、東寺のとはまた異なる大きさで立派に見えた。

* 次いで車を日野へむけ、法界寺の阿弥陀堂で、定朝作の最も美しい阿弥陀仏名作の一つを、心から拝んだ。堂も御仏もありしままの場を占めて、ありしままに時代を経て、豊かに美しい。今度の旅でもっとも感動したのはこの如来像であり阿弥陀堂のたたずまいであったと言える。背中の丸く縮んだ老婦人の解説が要領を得ていたし、人はわれわれ二人だけであったし、車を待たせてなかったら、わたしたちはやはり立ち去りがたくここに時をうつしていたに違いない。ちいさな静かな池の風情も残りの萩の花もよかった。ススキも涼しく立っていた。

* 宇治へ走り、黄檗山萬福寺は惜しいが割愛して、やはり宇治川の景色が見たいのと、頼政の墓と切腹の扇の芝を訪れたく、平等院に入った。ここでは観光客をさけることは出来ない。すこし順番を待って鳳凰堂に入れてもらい、法界寺の阿弥陀とまさに兄弟のようによく似た同じく定朝随一の名作阿弥陀如来を拝んだ。堂内の雲中供養仏など多くは、いま巡回の「平等院展」に出払っていて、それは上野でわたしは観ていた。
頼政の墓は清潔に優しい。観音堂の裏手の扇の芝は、なにかしら文武の将の最期を偲ばせてもの哀れだった。わたしの著の『能の平家物語』では、「頼政」「鵺」と、一人を語って二曲をとりあげた。そういう人物は頼政だけ。それほど魅力の人であり、また時勢を動かした人である。辞世の和歌もさながら、末期は哀れとも見えるが、だが、みごとに老いの花を咲かせて死んだものとも、わたしは観ている。

* 宇治の下流の悠々と穏和な景色に感じ入りながら、桃山御陵を遠望し、観月橋から伏見街道を通って、一路、ホテルへ戻った。時間が有れば稲荷へも東福寺へも立ち寄りたいところだが、二時すこし前には帰り着いてハイヤーを離れた。
部屋で着替えて、またタクシーで南禅寺下の「洛翠」へ。日本ペンクラブの京都大会。もう二十年ほども前に一度妻と参加したことがあり、久方ぶりの二度目。前にも逢った井土昌子さんにいきなり再会、この人は久しい湖の本の読者であり、雑誌「美術京都」に原稿ももらっている。昔大阪の阪急で講演したときの司会役もしてもらったことがある。
広くない会場で同僚理事の三枝和子さんが何やら講演していた。妻は聴いていたが、わたしは受付の外で人と立ち話などしていた。京都のことで、知人は少なくない。京都新聞の杉田博明氏、淡交社の服部友彦氏、同志社の河野仁昭氏、作家の田中有里子さんらにやつぎばやに逢う。他にも覚えきれないほど大勢と言葉をかわした。
眩しく晴れ上がったかんかん照りの庭で園遊会になり、会長の梅原猛氏はご機嫌さんの長い挨拶であった。
そのあと、梅原さんはわたしに、例の世界ペンがらみのいきさつなど、十六日の理事会でぜんぶ話しますと、いろいろのことを耳打ちしてくれた。それについては、理事会を経てから書くかも知れないが、ニュージーランドが世界大会の開催に名乗りを上げてくれたらしく、ま、欠会にだけはならずに済みそうなのが、有り難い。梅原さんも責任上よほど苦慮されたことと思う。日本で、京都で、梅原さんはさぞやりたかったろうが、ちょっと準備が難しく断念したと残念そうだった。わたしから出して置いた長い手紙も梅原さんはちゃんと読んでの、二人だけでのウラ話・立ち話となった。
つねは控えめな妻が、梅原さんのところへ一人で行って、なにやら盛んに話していたのが可笑しかった。東京からの理事は小中陽太郎、早乙女貢、高橋千剣破氏ぐらいだった。広くはない会場だが食べ物の味はなかなかで、しかも盛会で、のんびり楽しめた。五時ぐらいまでゆっくりしていたが、会長も意外なほど長居で、ご夫妻には挨拶をしておいて先に失礼した。日の有るうちに南禅寺を散歩したかった。

* 白川沿いの道から、清冽に流れ落ちる走り水に沿い、東の山辺への小道を溯っていった。こういう佳い小道は、土地のものでないと気づかないし知らないが、この界隈は超弩級の宏壮な邸宅がやたら集まっていて、人通りもすくなく木立や塀づたいや季節の深まりようも、清寂そのもの。水の走る音だけが心にしみ、そして、いつ知れず南禅寺に入って行く。妻を「絶景」の三門にあげてやりたかったが、わずかに五分のおくれで上がれなかった。まだ夕暮れ前の穏やかな空には、ほのかに茜色もまじっていた。

* 金地院の前を通り抜けて蹴上まで、広い別荘の立ち並ぶ、溝川の潺々と鳴って走る道を、蹴上へ抜けて出た。先刻南禅寺境内からかけた妻の携帯電話では、まだ都ホテルに戻っていなかったアメリカの古い古い女友達が、蹴上のホテルに入ってフロントで聞くと、折良くもう部屋にいてくれた。ロビーにはたまたま総支配人の八軒氏がいて、おおおおと双方で声が出た。創刊以来の「湖の本」の読者で、妻も以前に会っている。いまから泊まり客の友人とここで食事すると言うと、八軒支配人はご機嫌だった。
ロサンゼルスに四十年来夫君と二人で暮らしている池宮千代子さんを、三階の「浜作」で歓迎した。われわれが結婚の時からのごく親しい年上の友達で、年に一度平均は京都懐かしさに遊びに帰国してくるつど、三人で、どこかで、一度は顔を合わせている。話は尽きない。喫茶室に移ってからも歓談に時を忘れた。旅の疲れもあろうけれど、都ホテルの客だと思うとわたしたちも気がらくであった。元気に逢える間には何度でも逢いたいのである。もともとは池宮さんの姉さんの方と親しかったのが、アメリカで若くて亡くなってしまった。死なれてしまってはどうにもならないではないか。

* 名残惜しく別れ、タクシーで知恩院三門の前へ走り、夜の円山公園を八坂神社までそぞろ歩いた。拝殿は修理中で、もう一年半ほどかかる。綺麗になったのをぜひ拝みたいと思った。つうっと、感傷的なほどその想いが胸を射た。
何必館=京都現代美術館のわきから入って、横井千恵子の「樅」へ行ったが何故かしまっていた。花見小路を西へ渡って内田豊子の「とよ」へ入った。中学の女友達がひとりで店をあけている。相客がなく、三人で昔話を懐かしく話しているうち、妻が、カラオケというのを体験しようと言いだし、ひばりの「愛燦々」越路吹雪の「愛の賛歌」それから布施明の「積み木の家」とかいうのを、つづけて三曲歌った。妻の声は澄んできれいだが、歌いかたは淡泊で、うまいとは思わない。「とよ」ママに頼んで、ひばりの酒の演歌を一つ歌ってもらったが、さすが、すてきに上手であった。
妻の兄が作詞して、森進一が自分のコンサートでは必ず歌うという「うさぎ」という長い長い曲のあるのを、カラオケの画面で、はじめて読みかつ曲だけ聴いた。これは妻も歌えない。すこし感傷的な母恋歌だが、森進一がコンサート用の愛唱歌だというのはよく分かる。彼なら持ち味で、きっと聴かせるだろうなと思いつつ、義兄もあまりに若く死んだのが惜しまれた。その辺で「とよ」を辞してホテルに帰った。
昨日の「千花」もあり、今日の園遊会から「浜作」から「とよ」までと、だいぶ多く呑んでいたので、念のため血糖値をはかると、289にもなっていた。しっかり水をのんでさっさと寝入った。

* 十五日 日曜  はやくに目覚めて一人湯をあび、そして血糖値を計った。116のほぼ正常値に戻っていた。朝食後にすぐチェックアウト、荷物はクロークに預けておき、タクシーで岡崎の美術館に向かったが、気が変わり、先に三条神宮道の星野画廊に寄った。ところが、十時半に開店としてあるのにまだシャッターが降りていた。そのシャッターのワキに、近くの粟田神社のお祭りのことを告げる張り紙をみたので、美術館をやめ、そちらへと、粟田小学校のわきを東に向いて歩いた。旧東海道の古道である。狭くて落ち着いて静かな家並みの中の佳い道である。妻は大いに気に入ったようだ。美術館なら東京にいっぱいあるが、こういう小道は無い。京の七口の一つであり、青蓮院門跡、総本山知恩院、尊勝院、粟田山、将軍塚を肌身に近く感じながら、こんな旧街道を通ってあの弥次喜多も、東海道をやがて終点の三条大橋へ通っていったと思うと、志ん生の落語などまで思い出せるわと妻は興がった。
すぐに、粟田神社への石段が、右手に。急ではなく、ゆっくり昇って行くと、今しも氏子の主立った人たちも集まり、拝殿には雅楽の用意もでき、神官や巫女たちがいかにも大事のお祭りらしく立ち働いていた。まさに祭儀の今にも始まるところだった。
はじめは写真など撮っていたわたしたちも、そのまま氏子の席に定まって、祭儀の始終一切に参加し、玉串もささげて参拝し、古式ゆかしき舞楽の奉納もつぶさに鑑賞した。じつに簡素に、神々しい儀式であった。宮司以下神主は五人、八坂神社からも知恩院からも神官や僧が一人ずつ参列していた。儀式の始まるときと終えるときとに、宮司が神前の奥深くで、厳かに、オオオの声を三度ずつ三度あげるのが、山懐の境内に響き渡って、得も言われず尊い気がした。祝詞も聴いた。多くの供物が捧げられ、またおろされて、一つ一つの作法が、神式の簡明と古朴の清々しく備わって無駄の無いのにも感じ入った。星野画廊が開いていなかったおかげで、願ってもない神々しい場に、神事・祭式の当事者として参列できたのは、心嬉しい、じつに豊かな体験であった。
舞楽の面白さには、ぞくぞくするほどの喜びを噛みしめた。妻は席を立って、拝殿の近くで、それはそれは珍しい伎楽面と装束とをつけた太古の舞い遊びのさまを、くいいるように見入っていた。
尋常な美術展の百倍もここちよいお祭りに出くわした、立ち会えた。祭礼ではなく、紛れもない神事そのものであった。粟田神社の氏子になってしまった気がしている。それにしても、二三十人ほどで定めの席に着いていたほんものの氏子たちは、わたしたち夫婦を何者だろうと思われていただろう。

* 星野画廊に戻ったら店が開いていた。この画廊は、全国の画廊でも際だって志の丈高い優れた画廊で、得難い作品を、誠意を込めて掘り出し蒐めてくれている。まず何時きても期待を裏切らないし、美術史的に貴重な貢献をしてくれている。「対談」したこともあり、また「湖の本」の久しい読者でもある。気骨というなら、星野画廊主にはそれがあり、その骨は太く直い。
以前に、亡くなった麻田浩に助言してもらってここで一点風景画を買ったが、今日もわたしの気に入った「柿の実」の繪を、妻の耳打ちで買って来た。牧渓の柿にもやや似た、画境の深い静謐な柿四つの繪で、わたしは一目で佳いと観た。妻ははじめ、くらいわと言ったが、観ているうちに良さをつよく感じ取ったらしく、星野さんもこの選択に賛成だった。こういうときに無茶売りはしない人だと分かっているので、今日は麻田浩のような卓越した画家の目利きに助けて貰えなかったけれど、安心して買うと決めた。粟田の秋大祭を、また今度の満ち足りた佳い旅を、のちのちまで記念したい気もあった。たしかに、こんなに充実した京の二泊三日は、過去にもそうザラにはなかった。

* 満足して、二時過ぎののぞみで東京へ。往きと同じく帰りも保谷駅についたときは小雨になっていた。駅からタクシーで。留守居の息子たちはもう退散していたが、初の永い留守番を体験した黒い少年のマゴは、ジイとバアを家の中で出迎えて、むちゃくちゃに興奮した。元気に美しいマゴの真っ黒な毛艶に、わたしたちも安堵した。

* メールも郵便も沢山届いていた。

* 佳い京都であった。 息子たちに留守が頼めて、ほんとによかった。感謝。
2000 10・15 7

* 元気かと言われると、そうでもない。大事なときに京都行きが入る。行けば行っただけのことはある、それがわたしの京都だけれど、発送前の旅はやや億劫ではある。今度の対談は、「美術京都」としては少し異色の話し相手である。うまく話題が引き出せるか、その緊張も少し有る。
2000 11・10 7

* 昨日は、二時、菱岩主人川村岩松氏を迎えて対談、いわば「たくみの美味」といった感じで話し合えた。川村氏はたいへんよく話してくれ、聞き役としてはらくであった。菱岩は同じ新門前通りの切通し角に昔から店があり、典型的な仕出しの店で、叔母の稽古場は、初釜といい茶事といいよく菱岩の世話になっていた。岩松氏の姉の良子さんは国民学校で私より一つ上の優等生であったし、叔母の弟子で、私とも一緒に長くお茶の稽古をした人だった。
菱岩は鱧の骨きりで聞こえた店であり、また出汁巻きの旨いことでも知られている。もう仕出しのいい店は京都にも何軒とあるわけでなく、とびきりの老舗になっている。なかなか面白い話を時間いっぱい沢山聴かせてもらえて良かった。
* 紅葉はまださほど綺麗に発色していなかった。対談の後、日のある間にとタクシーを頼んで、松尾前から嵐山渡月橋、さらに清涼寺、大覚寺、広澤の池と千代原山をみて、宇多野越えに市内に戻り、出町を歩いて兄をひとり偲び、とっぷり暮れた菩提寺の墓地に入って親の墓の前でぼそぼそと喋ってきた。念仏も多く唱え、また般若心経も唱えてきた。
ライトアップしているという永観堂へと思ってタクシーにまた乗ったが、半端な気分であったので、百万遍から右折して神宮広道に入り、星野画廊をのぞいたあと、ライトアップの青蓮院もまたやめて、古川町から新門前に入って、我が家の跡が、文字通り火の消えたテナント廃ビルになっているのを鬱陶しく眺めてのち、新橋の「常盤」でしっぽくうどんを食い、もう呑む気などなく烏丸のホテルに戻って、ゆっくり晩御飯を食べた。

* 今朝はすっかり寝坊したので、もう出たとこ勝負に朝飯のあとチェックアウトしたものの、昨日来読んでいた今井源衛さんの『源氏物語への招待』再読がおもしろくてならず、程良く何もかも切り上げて新幹線に乗った。今井さんの本を夢中で赤ペン片手に読んでいるうちに東京に帰っていた。

* さ、もう年内に汽車に乗る面倒は有るまい。湖の本の新刊を送り出してしまい、そんな日が本当に来るだろうかと子供の頃から危ぶんでいた満六十五歳の誕生日を無事に迎えて、のんびりと新世紀の正月を祝いたいものだ。新世紀の日々は、ま、おまけのようなものであるからこそ、生まれ変わった気で旺盛に過ごしたい。
2000 11・23 7

* 今、合併で「西東京市」と新たに呼ばれることに決まった保谷市に暮らしている。東京暮らしが京都の頃のもう二倍の永さになったが、いまだに、京都からわざわざ「いつお見えでしたか」と聞かれたりする。京都の住人と信じてくれている人が今もいるのである。
武蔵野の匂いのまだ少し残っている市にいると、街並みはあっても、京の祇園の辺とは、なにもかも違う。あたりまえの話だろうが、何故あたりまえかと理屈を言い出すと難儀なので、適当に思考は停止している。
保谷のご近所についぞ見たことがなくて、祇園にも、生い立った新門前通りにも幾らもあったのが、「ロージ」だ。大勢がそんなことには気が付いているといえば、その通りだろう、が、そうでないかも知れない。「ロージ」というものをつぶさに知って暮らして、また「ロージ」など捜しても見つからない街にも暮らしてみて、やっと、気が付くのかも知れないではないか。
四条の表通り、祇園町南側にも、路地(と書く)はあるが、北側ほど数多くない。割烹の「千花」のように路地の奥に店は明けているが、裏ん丁まで通り抜けの抜け路地となると、南側ではほとんど記憶にない。だが北側は、ことに花見小路より東には、いったい何本の抜け路地が通っていることか。花見小路より西になると、中華料理の「盛京亭」や割烹「味
舌」などのような、こっちはドン突きの路地が多い。そのかわり富永町へも辰巳橋・新橋までも通り抜けのきく便利な辻がある。新橋通りの先には「菱岩」の切通しへ出られる抜け路地もある。あれが無かったらどんなに不便やろ。芸妓も舞子も八千代はんの家へすいすい通えなくなる。
祇園の南も、奥へ踏ん込むと、これは数え切れないほど、蜘蛛手十文字なすほどの路地がある。抜け路地がある。パッチ路地もある。路地の奥の粋に出来てあるのは祇園甲部のご自慢のうちであるかも知れない。
だが少年というよりも、もっと子どもの頃から駆けずりまわって遊んだ者には、祇園町の路地は、なかなかの秘密境なのであった。「探偵ごっこ」などというものが流行った時は、有済学区の新門前の子ども達が、探偵と泥棒の二手に別れて、躊躇もなく弥栄学区の祇園の路地という路地を、追いつ隠れつの戦場に「利用」したのであった。言うまでもないが、行き止まりの路地は逃げ隠れの側には物騒で感心しなかった。抜け路地が便利でスリルがあった。パッチ路地は、ことに在り場所を心得てその長所を生かし、奥の暗がりや物陰を伝い隠れては胸を轟かせて、捜しかつ逃れ走って、興奮のるつぼであった。
あのワルサがと、祇園の人には迷惑千万であったろうし、お茶屋遊びの文化などを説きまわすお人たちには無粋の極みだろうが、わたしの祇園体験には、こんな路地遊びの秘密の見聞が、申し訳なく微妙に刷り込まれている。だから堪らなく懐かしいのである。

* 「軽気球」を追って走った走ったレンナルトやフーゴーが、わたしの中にも住んでいたようである。
2000 12・11 7

* 用があって、はちきれそうな大きな深いダンボール箱から、初出原稿のコピー数枚を探しているうち、こんなものが見つかった。「週刊朝日」に連載されていた広告頁「私の夢ホテル」66のために書いた署名原稿だ。

* 戻らなくても、いい…
和食の店が地下にある。水が落ち鴛鴦(おし)が泳ぐ池に面した窓ぎわでも、出来たらここでと定(き)めた席がある。いい時に来たとみえ、おいおい客が入る。この席では、きまって同じことを想いながら盃をあげ、じっと、池の向うへ視線を奪われる。池の向うは巌畳(がんじょう)に石を積んで壁にし、石積みのいたる所から潔(いさぎよ)く水が落ちている。巌壁の外は * 川、その川水を引き上げ瀧に落として池を満たしているらしい、そんな事は何でもない。ああ、今日も…。今夜も、灯が…。十何メートルあるか、席から真横に池の向う、畳何枚もの巨きな巌(いわお)の壁を絶えまなく水がなめている。ところどころ細かな瀧になっている。しかも巌とも見えず巌の面(おもて)にほんのりと白い障子窓が浮かび上がって、障子の内に灯が入っている。
種は知れてある、食堂の奥まった畳敷きに障子の隔てがしてあって、その灯(あか)り障子が窓越しに水の上を渡ってうの巌に映るのだ…が、詮索無用。ただふしぎに水の上へ閉じた小窓の灯を見つめるうち、…あの部屋へ行きたい、行ってみたい、池を渡ってあの床(ゆか)しい障子の奥へ人の名をそっと呼んでみたい、二度とこの世へ戻れなくても…行きたい、と、恋いこがれてくる。恋いこがれ、酒をたくさん呑む。音という音が消え失せ、落ちる水と、静かに灯の入った一度も明かない障子窓の、ほのかな白、だけが…。
そんな…夢の酒を、ひとり楽しめるホテルが、佳い。

* 最後の一行は不要だ。上出来の文ではない、が、この憧れ心地は、まざまざと思い出せる。京の鴨川べりのホテル・フジタ、地下和食の店での何度も繰り返した体験だ。外のくらい夜の窓ガラスには、これに似た別世界がよく浮かび出る。妻と箱根ホテル小涌園のレストランで食べていたときも、名古屋城ホテルで食べていたときにも、窓の外の夜闇に、得も言われずほの浮かび上がる他界が見えて、あっちの世界へ移動したいと、言い合ったかひとりで想っていたかは忘れたが、目がそちらへそちらへ向いていたのは懐かしいほど思い出せる。
映画「グラン・ブルー」の男達の、深海に潜って行けばもう地上へ「戻る理由がない」と言っていたあの気持ちが痛いように分かるのは、こういう下地が自分にあるからだとも分かっている。むろん「戻る理由」の在る、理由をしかと持った世界をわたしは今も身に抱いているからそれはまだ「夢」なのだが、それが無くなってしまったら、「戻る理由がない」現世へ戻ろうとなどしないだろうなと予感している。大事なのは、むろん「戻る理由」である。
2001 1・5 8

* あすから関西へ、二日。菱岩の弁当をお土産にと頼まれている。美術展の開幕式に参加するだけの気楽な旅。骨を休めてくる。なに、いつもいつも骨休めしているようなものだが。手に入った「秦氏研究会」の会報十五号分の論文と、猪瀬直樹『黒船の世紀』後半と、「近世の身分的周縁」論の一冊を、鞄に入れて行く。さ、これから荷造り。
2001 1・16 8

* 明朝の、京都美術文化賞受賞者作品展覧会の開幕のために、選者の一人として参加すべく、今日、京都に帰る。

* いまでも、やはり京都へは「帰る」という気分であり、しかし東京へも「帰る」という気分しか今は無い。現住の東京都保谷市が、来週から、正式に「西東京市」とかわり、田無市と合併する。たいそうな名前になったものだが、「ひばりヶ丘市」などより明快で大柄で、やや照れるが、慣れてくればわるくないだろう。わたしの住所表示は、市名だけの変更で、郵便番号なども変わらない。
2001 1・17 8

* 昨日の出がけに凸版の構成が出たので、後半のゲラを持って出、「のぞみ」のなかで、あらかたを読んだ。

* 京の二日は、天候に恵まれた。トンボ返しに帰ってきた。
昨日は、七条の博物館常設展をゆっくり堪能した。弥生時代のすばらしく雄大な瓶の、胴の張りの揺るぎない豊かさ確かさ強さに、立ちつくす。こんな確かなものが二千年も前に作られていたのか、これでは後々の作者は堪ったものでない。英知に満ちた巨きな人間に出逢ったようであった。この一つに出逢い魅せられただけでも、京都に来た甲斐があった。こぶりの、緑釉というより若草色した骨壺の、何度観ても飽きの来ない清潔な美しさにも魅された。崇福寺の塔心礎から発見された、金銀銅そして緑瑠璃の舎利容器や、鉄の無文銭などとも久しぶりに対面した。小説『秘色』のいわば主人公のような出土品だ、あの小説を書いていた真っ最中に、わたしの芥川賞選考はあった、三十年近く前に。黒川創は今回残念だったが、また奮発すればよい。
こういういわば考古品以外では、初見ではない、鎌倉期だろうか「神鹿」二頭の、写実というより「理想」的な体躯、その柔媚な線の美に驚嘆したり、倶生神たちの畏さにかるく身震いしたり。ロダン「考える人」のいる冬晴れの博物館構内から、東山の青さも目にしみて懐かしく。
書にも絵巻にも、印象深い優品逸品がいくつもあったが、この博物館のことだ、あたりまえ。なみの美術展でがっくりするぐらいなら、博物館の常設へ行くのが、何もかも揃えてよく選ばれてあり、必ず満たされる。

* 夕食にマオタイをのみ、それで酔って、さっさと寝入ってしまった。気づいたら夜中の二時で、次に気づいたら朝の七時だった。
堺町、三条通りに近い「イノダ本店」がすっかり改装されていた。砂糖ぬきのミルクコーヒーを楽しみ、そして京都文化博物館の会場へ。京都美術文化賞の十三回目の受賞者展で、テレビカメラなどの前で、受賞の三人、それに梅原猛氏らとともに選者の一人として開幕のテープカット。白い手袋などさせられるのは、落ち着きのわるいものである。

* さっき帰ってきました。いい展覧会でした。
日本画の堂本元次、きりがねの江里佐代子、写真の井上隆雄の受賞者三人に、彫刻の清水九兵衛、日本画の石本正、染色の三浦景生三選者も賛助出品していました。堂本さんの中国の風景に取材した灰色を基調にした大作数点は見応えがありました。小品は、今ひとつでした。江里さんは、わたしが推しました。期待通りに美しいものを並べてくれました。伝統の技法で新しい分野へ切り込んで行く真摯な姿勢は、はやくに、(この人をまだ知らなかった昔に、)小説『畜生塚』で期待していたものでした。ご主人が仏師で、夫婦相和し、いい仕事を続けています。写真の井上さんもわたしが推しました。木を主題にした写真はじつにみごとな芸術品でした。現在だけを決定的瞬間で切り取る写真が、そうではなく、過去を呼び未来を引き込んだ「息づく現在」となって、時間も空間も、一枚一枚の写真の中で生き生きと増殖し呼吸しているのを感じました。すてきでした。

* 堺町から三条通を河原町へ出た。河原町のそぞろ歩きの途中、洒落て落ち着いたデザインの、グレーのニット・アンサンブルを店頭で見つけ、荷物になるのに衝動買いした。わるくない買い物だった。あまり食欲もなかったので、昼飯代わりに、永楽屋のウインドウでみつけた拳二つほどもある大ぼた餅に惹かれ、ふらふらと喫茶室に上がって注文した。煎茶とそのぼた餅の昼飯、堪能した。コーヒーも飲んだ。
書店の海南堂が、二十世紀末で閉店したと、おろしたシャッターに挨拶を貼り出していたのには、胸つかれた。わたしが新刊の本屋というのに出入りし始めた、新制中学以来の馴染みの店。店の真ん前に市電の停留所があり、そこから電車で馬町の方へ帰って行く人を、この書店で立ち読みしながら認めては、胸をときめかせたりしたのも遙か昔の思い出だ。青春の灯の一つがふっと消えた。寂しかった。
四条の橋の上から、晴れて遠い北山の霞んだ柔らかい灰色の、波うつ静かさを、繪をみるように愛おしみ、ながめてきた。なぜか、きょうは比叡山や東山でなく、北山へ目を吸い取られた。
縄手から白川ぞいを東行、柳の枝とかすかな翠とが、冬の風にさやさや鳴る。白川の水が少なかった。閑散としていた。そういえば、今度の京都は総じて閑散としていた。車もすいすい走った。
辰巳稲荷から抜け路地を通って、注文して置いた弁当を「菱岩」で買って出た。西之町を縄手へ、縄手から古門前へはいり、母校有済校の、陽ざしの中にひっそりかんとした校庭を、しばらく、その辺に腰掛けて眺めた。思文閣本店のギャラリーを覗き、また何必館にも顔だけ覗かせ、八坂神社には、石段下で柏手打って遙拝するだけにした。弥栄中学の校庭も覗いてきた。校長室前から職員室前のくらい廊下を通りぬけ、むかしの茶室の前をそろそろ歩いて、変わったような変わっていないような母校のたたずまいを深呼吸した。 校門前からタクシーに。正月の今時分がいちばん閑散としてますと、運転手はわたしが旅上手かのように世辞をつかったが、わたしの手柄ではない。

* 美術展の会場で係りから受け取ってきた「菱岩」対談の再校ゲラにも、帰りの「のぞみ」でみな目を通し、『黒船の世紀』を半分過ぎまで読み進めている内に、もう東京だった。端倪すべからざる猪瀬直樹の著述であるが、いささか燥しい。語り手の「ぼく」が張り扇をつかい過ぎる。弁慶と牛若丸のチャンバラを、猪瀬くんは一人芝居で二役演じているみたいに、大わらわに語っている。ところどころで退屈する。また持ち直して、面白くなる。その交替がなんともせわしない読み物であるが、そこが面白いのでもある。
空腹で帰り着いた。
「菱岩」特製の弁当と、ニットの服に妻が喜んだのは言うまでもない。さて留守中に何事もなかったし、また普通の日々を送り迎えて行く。もう目前、電メ研の会議が始まる。任期内に、もう二度か、三度か。心のこりなく果てたい。
2001 1・18 8

また、べつの人から京嵐山の嵐峡館に女ばかりの業界の寄り合いで出かけてくるという便りも一両日前にもらっていた。「あらしやま嵐なふきそしら雪のこころ清(すず)しく舞ふやうに降れ」と、はなむけしたが雪は降らなかったようだ。

* 女ばかり六人で、冬の嵐山に行ってきました。
嵐峡館別館で、雪で遅れた札幌からの人の着くのを待って、宿までの船に乗りました。座席の四十人分もある屋根のついた船でしたが、乗ったのは、私たちの一行と、一組のカップルだけで、「慈子たち」とは逆に、夕方の日差しののこる河を溯っていきました。
暖房のしっかりきいた船内から見ると、岸辺の木々の枝は真冬のきりっとした線条ではなくて、つのぐむ木の芽のやわらかな、けぶったようなシルエットをうかべていました。 船着き場から降り、嵐峡館入口とある坂道を上がって、眼下にすぐ川の見える小さな部屋に案内されました。「慈子たち」の向き合ったお部屋だったかもしれないし、そうではなかったかもしれません。飾り気のない和室でした。
会議の後の食事や、女風呂が、もうひとつだったのは、ここが団体の会議で使う宿ではなく、船に乗り合わせていた二人のように ひっそりと訪れるのに似つかわしい宿だからかもしれませんね。「慈子たち」の嵐峡館 があまりに鮮烈なイメージを残しているからかもしれません。
夜は連れだって来たそれぞれの女性たちのたどったドラマ、進行中のドラマなどを、夜更けまでたくさん聴きました。
・・・わたしは、もっぱら聴き役で。
朝食は本館で。
明治時代に建てられたという風情のあるつくりでした。
桜の花のころ、紅葉のころ、雪のころ、いつかまた訪れられますように。

* 嵐峡館は、京都でも高級な老舗の料亭ということになっている。もっとも、わたしも、宿の風情ほどは食べ物に感心したことはない気がするし、泊まったこともないが、むかし、朝日子の小さかった頃に、新門前の母も誘って、妻や娘たちと食事に行き、美しい夏景色と嵐峡の碧り濃い流れを楽しみながら、家族風呂でゆっくりしたことを思い出す。近年には息子とふたりでやはり食事に行った。静かな、静かすぎるほどの川上にあり、心寂しくも、懐かしくもある風情の宿であり、現代風なにぎやかなものは似合わない。建物も、昔ながらに古びて河瀬にまぢかい和室の小間の方が、わたしは気に入っている。
来月にはまた京都で仕事がある。「慈子」が待っていてくれるかな。
2001 2・20 8

* 今朝、黒い少年が、いつかはと懸念していた長押へ、ひらりとジャンプ、跳び移って得意満面、寝坊していないで起きよとわたしを見下した。反射的にわたしは、「あ、よう見とこ!」と叫んでいた。それから、この物言いの甚だ懐かしく、久しくうち忘れていた京の物言いであったことに気づいて、マゴの果敢な行動よりも、そっちへ思いがいった。 なにか宜しくないことを目にすると、ちらと身を退いて、「あ、よう見とこ、よう見とこ」と、大人でも子供でも幾分囃すように冗談っぽく大仰に口にした。後日の証人になるぞというぐらいに、かすかに威嚇も警告も不同意の表明をもしているのである。すっかり忘れきっていた。ふいと浮かんできた。「知ぃらんで、知ぃらんで」「見ぃつけた、見ぃつけた」「言うたんね、言うたんね」「あ、よう聴いとこ」などという、身の退き方もあった。こういうところに、京都人と京ことばと、また日本人と日本語との、そして処世の姿勢との、あまり感心できない陰湿な結託が見られて好きになれないが、好きになれないそれが咄嗟に自分の口をついて蘇ったりするところ、「言葉」暮らしのこわさである。  2001 2・23 8

* 昨夜、寝入る間際に吉原の里を書いた荷風の一文を読んだ。ああいうふうに懐かしく京都の昔をしみじみと書いた文章がめったに手に入らない。
2001 2・20 8

* 幸いに晴れて暖か。いつもより遅く出て、四時過ぎに京都へ入る。明朝十時から京都美術文化賞の選考会。済ませてトンボ返しに東京へ戻り、夕方の、熊井啓監督作品「冤罪」試写会に。慌ただしいがそういう予定。
2001 3・20 8

* 往きは窓際の席でほとんど眠っているうち、四時過ぎに京都に着いた。持参のもの、なにも読めず。宿にはいるとすぐ、寺町御池の中信御池支店に新設のギャラリーで道端進氏の花の写真展をみて、近くの京都ホテル二階回廊で甲斐扶佐義氏の写真展もみた。甲斐氏のはやはり面白かった。
常林寺を訪れて夕暮れの墓参りをし、墓前で般若心経をとなえ念仏数十遍。庫裡ですこし住職と話してから、とっぷり暮れた出町へ高野川と加茂川を渡り、橋際の弁天さんに詣ってから、甲斐氏のいる喫茶店「ほんやら洞」を尋ねて、注射してビールをのみ、甲斐氏と兄恒彦のことなどを暫く話し合った。卒業式のあったらしい同志社の、もう人けのすっかり失せた暗いキャンパスをゆっくり烏丸まで抜け出て、四条のホテルに戻った。レストランで、かなりけっこうなコースを赤のワインでゆっくり一人で食べ、ビールとワインとで酔ったものか、部屋へ戻るともうもう一度河原町の甲斐氏のやっているバー「八文字屋」まで行く元気がなくなり、東京へ電話を入れた後、そのままぐうっと寝入ってしまった。夜中に目が覚めたらテレビも電気もついていた。

* 甲斐氏の兄についての話ではいくつか覚えておきたいと思うことがあった。それを、今、ここには書けない。
2001 3・20 8

* 午前十時、梅原猛、小倉忠夫、石本正、清水九兵衛、三浦景生氏らと、京都美術文化賞の選考に入り、今年もつつがなく三人の受賞者を選んだ。十四年めになる。受賞者をまだここで紹介は出来ない。五月に授賞式がある。その日に理事会がある。

* 昨日休日と気づかず、ポストに入らない郵便物を持って出てしまい、今日の会議の後京都の町を足任せに郵便局を探し歩いたが、なかなか見つからずに、とうとう四条を河原町まで、河原町を三条まで、三条木屋町で瑞泉寺の豊臣秀次らの畜生塚に参り、先斗町を四条まで抜け出て、四条大橋を渡り、結局勝手知った縄手の郵便局に荷をあずけた。
京都の花粉はあまりにもひどく、目も鼻もさんざん。それでも「浜作」のまえを通って「いづう」に行き、鯖寿司と鯛寿司の盛り合わせで冷酒をゆっくり飲んだ。旨くて、汗もひいた。「いづう」の北隣にむかし「松湯」という銭湯があった。母に連れられてよく来た。ここは男湯が女湯の三分の二ほどの広さしか無いという、いかにも祇園の花街の湯らしかった。「鷺湯」という銭湯も近くにあったが、もう、二つとも無い。そんなことを思いながらの「いづう」であった。「盛京亭」で昔恋しいようなやきそばも食べたかったが堪えて、何必館に入った。
二階で村上華岳を観ていたら、なんと館主梶川芳友の息子だという背の高い芳明君に挨拶された。おどろいた。学芸員で娘のいるのは知っていたが息子の存在は知らなかった。
その芳明君から、彼には末の叔母に当たる人の去年になくなっていたことを聴かされた。深い悲しみに囚われ、呆然とした。梶川の三人姉妹は、わたしに初めて真の身内という気持ちを刻印してくれたかけがえのない人たちであったが、私より二つ年下の貞子ちゃんは、ほんとうに可愛い優しい妹であったのに。もう手の届かないところへ、行ってしまっていたのかと、わたしは芳明君の顔をほとんど睨んでいたかも知れない。
京都が、またいちだんと寂しい街の顔をした。どうしようもなく、ぽつぽつと歩いていた。ただ歩いていた、いつまでも。
帰りののぞみの時間が迫ってきて、どこかから車で京都駅へ走った。花粉のつらさも絶頂だった。

* 気を励ますか紛らわせるか、眠気はなくて、窓際の席で、持参のものを次々に読んでいった。鼻をかみ目薬をさし、ペットボトルの茶をがぶがぶ飲んだ。
2001 3・21 8

* 少し疲れて機械のまえでうとうとした。雨、上がってほしい。明日の今頃は、京都。授賞式とパーティーを終えて、夜分の理事会と懇親会のまえの一時をホテルで休息しているだろう。街を歩いているかも知れない。
六月二日が済むまではじっとガマンしてやり過ごす毎日になる。用意はほぼ出来ている。遅れているのは、続く発送の用意。ぎりぎり間に合うだろうと期待している。
京都へは吉田優子さんの「さぎむすめ」第三稿と、藤田理史君の「牡丹」そして山折さんとの対談原稿を持ってゆく。それと『髪結いの亭主』が読める。
2001 5・27 9

* ホテルで着替え、まず四条河原町の高島屋で、堀泰明君から知らせてきていた「NEXT」展を観た。中堅以上の日本画家たちの「横の会」を継承したようなグループ展で、六階の小品展を先に見た。安田育代の一点だけがすっきりしていて、箱崎睦昌の一点がまずまず、他は陳腐だった。竹内浩一君が加わっていなかった。堀君の絵は左上の青葉楓と女の持った白い団扇が無用だった。そんな調子づけなしに力を見せてほしい。七階の、本展は、大作ぞろいだったが、おおむね空疎、感銘作はなく、ここでもやはり安田育代の線の清潔さだけが印象的であった。堀君のもただの風俗画であった。感動を欠いた技術の見本市のような展覧会では真の「NEXT」は狙えまいと落胆した。

* 蹴上の都ホテルで第14回京都美術文化賞の授賞式。洋画の渡辺恂三、彫刻の木代喜司、染色の福本繁樹氏ら三名に授賞、梅原猛氏が選者を代表して選考理由を、小倉忠夫氏が同じく乾杯の発声を。三人の受賞の挨拶もそれぞれに聴かせたが、スポンサーの京都中央信用金庫の理事長が、日本中で一銭の不良債権も持たない金融機関は当行のみ、日本一の信用金庫であるとともに日本一の優良金融機関だと胸が張れると挨拶したのには、感服した。こういうことの言える銀行の他に無いのは確実で、ここは、今年初めに他の不良信用金庫を二つも救済吸収して、なお、こう言い切っているのである。しっかりしたはる。
しっかりしたはるのは、それだけではなかった。寺町御池の角の支店に隣接して、新たに美術ギャラリーを開設したのは前回に京都へ帰ってもう見知っていたが、いま、事実上のオープニング展をやっていたので、受賞者たちとの記念撮影の後、石本正さんと車で見に行った。三浦景生さんも渡辺恂三夫妻も追いかけるように見えた。
で、何の展覧会かというと、歴代受賞者に「ご寄贈願った」作品展なのである。賞金の二百万円では追いつかない力作もかなり並んでいて、前期展についで後期展ももう予定されていた。
これは見応えがあった。懐かしい麻田浩の絵にいきなり出会えた。なまじな展覧会よりも自負自薦の作品展であり、しかも見学無料である。企業の文化事業の、これは普通の道になりつつある。しっかりしたはるのである。

* 授賞式後のパーティーでは、清水九兵衛さん、藤平伸さん、江里佐代子さんら大勢の人と歓談できた。会場の大きな硝子窓の外は、南禅寺から比叡山まで、また黒谷吉田山も、真緑に照り映えていた。粟田山の側は山が迫ってしたたる新緑だ。石本正さんに、献呈署名入りの新著、姫路の人の褒めてきていた評判の新刊『絵をかく楽しみ』を、こっそりと頂戴した。美しい佳い本だ。

* 夕方から西石垣(さいせき)の「ちもと」で財団理事会と宴会。先斗町の芸妓舞子たちが接待し、あまりうまくない踊りを二つ見せた。清水さん、また橋田二朗先生も欠席でへんに寂しい席になった、が、梅原猛さんが元気で、笑顔も豊かに、見るからくつろいで声高に笑っていたのはよかった。ペンの理事会ではあんな顔はめつたに見られない。

* 宴後、ひとり失礼してすぐ近くの木屋町「すぎ」に寄った。お酒はもうしたたか入っていたが、ここでも若狭のうまい「ぐじ」を焼いてもらったりして、土佐鶴や鬼ころしを飲んだ。よそでは聴けない、聴きたいことを、幾つか老境のママに教えてもらった。よくもあり、寂しいことも聴いた。妹の梶川貞子には、やはり死なれてしまっていた。姉の梶川芳江はやはり独り神戸の方へ家を出ていると聴かされた。
そのままホテルへ帰る気になれず、鴨川を東へ越えて、ひさしぶりに新地の「樅」へいった。ママは弥栄中学の同級生である。わたしのボトルをきちんととって置いてある(らしい)のにも驚いた。二年ほどは来ていなかったろうに。華奢な人だが肝っ玉かあさんである。品と位を備えて、ただクラブのママさんではない、度胸を据えて自立した経営者である。達観していてこだわりもなく、人は優しい。相客にも恵まれて、カラオケも聴きながら十二時まで、ウイスキーをストレートでだいぶ飲んだ。路上まで見送られ、車でホテルにつくと妻と少し電話で喋って、バタンキューと朝の七時まで熟睡した。
2001 5・28 9

* 酒がしっかり体に残っていた。もう京都に長時間うじうじしている必要はなかった。のぞみに乗り、帰りには、山折哲雄氏との第一回対談の編集者纏めの原稿を読んだ。これが、われながら面白く読めたので安心した。山折さんは山折さんらしく、わたしはわたしらしく話している。この手の対談のとかくフラットなお座なりに流れやすいのより、これでよいように思えた。第一回分が他の二回より量的に多いのだが、それもいいではないかと思う。
車中隣席に名古屋から乗り込んだ若い女性が、いきなりツナサンドを食べ始め、その苦手なにおいに辟易した。窓側にいたので避けられなかった。対談を読むのに集中できて助かったが。

* 酒疲れのまま、まだ日の高い、夕方よりだいぶ前に家に着いた。イチローこと林丈雄君が結婚式の日以来の初メールをくれた。アカウント不調の修繕方法。
橋本博英画伯の奥さんからも、夫君の遺稿をどうぞと手紙を戴いていた。
詩人木島始さんからもお手紙と原稿を頂戴していた。
2001 5・29 9

* 世界思想社というところが富士谷あつ子氏らの編集だか企画だかで『京都学』の本を出すので、エッセイを書くようにと依頼してきた。「京都学」の必要な時期であるとわたしは何度も「私語の刻」に書いてきたし、以前からもそのつもりで京都を見てきた。そういう眼で世界思想社の構想を読んで目次を眺めてみると、「京ことば」というか京都における言語の項目がまるきり脱落しているのに気付いた。まずくはないですか、と、応答したところ、言葉にまで触れるゆとりが無いと言う。「京ことば」は京都学の分母ともなる大事なもので、物語、和歌、政治、社会、女文化の血潮である。そういう基本の理解を欠いた「京都学」では疑問なきを得ない。折角、御勉強願いたいと不審の気持ちをまた伝えて置いた。

* 京都でほんとうに育って暮らしたという実感の乏しい学者たちの「京都」になりがちなのは無理もなく、昔から京都にはよそから入って半端に京都贔屓の人が多く住んでいる。もともとの京都人はあまり京都京都とは言わず、よそびとは珍しさからも京都を売って人気を取ろうとしがちだ。構わないことだが、どんな土地にも、不思議に独自なことばの命が宿っている、それを軽く見ては何もよく深くは掴めないのである。わたしがあまり江戸や鎌倉を書こうとしないのは、言葉にどこか通じないところがあるだろうとつい慎重になるからである
2001 6・23 9

* 「京都学」企画の富士谷あつ子さんは生粋の京都の人だと、彼女と大学時代から縁のあった読者が教えてくれた。その上で、こんな面白いことも。
「あつ子さんはれっきとした京都の方。府一の最後の卒業生だったかと思います。秦さんがおっしゃるように”言葉”を抜きにして京都は語れません。秦さんの忠告に、きっと”痛いところをつかれた”と思ってられるでしょう。
ちょっとしたきっかけで、最近チェスタートンの推理小説にこっています。その中に、主人公の”もってまわった言い回し”を3人の女性が自分に関心のあるところだけ記憶していて、3様の証言をして(いずれも正しいが)混乱を招く—というところがあり、そこに”正しい英国紳士は単純な物言いはしないものだ”との意が、誇らしげに書いてあって、面白かったです。イギリス人と京都人には似たところがあるように思います。どちらも長く都だからでしょうね。」
そうなのである。そういう言葉をつかって築き上げてゆく文化や社会なのであるから、いわば血液に相当する「言葉」「京言葉」への配慮や注視を欠いた「京都学」では、魂が入るまいとわたしは慨嘆するのである。れっきとした京都で暮らしてきた京都人ほど、かえって、ここへ気がついてくれない。他国からの異人サンはもってまわった言い回しに悩まされているから気付いてはいるのだろうが、古典文学への素養がないとどうしても見逃してしまうのである。
2001 6・25 9

* そぞろ気のさわぐのは、祇園会の宵宮のためか。今宵は四条は人出と囃子とで満たされる。
2001 7・16 10

* 昔だと祇園会の後祭りの山巡幸があった。鉾ほど圧倒的な迫力ではないものの、物語的というか説話的というか、いろんな伝承に飾られた各町内が自慢の山車が出そろってくるのが、楽しい見ものであった。そして最後にりっぱな船鉾が通り抜けてゆくと、祭りすぎた或る寂寞の風が町にながれる。
2001 7・24 10

* 早起きして。ああ今夜の京は、大文字やなと想った。亡くなった人をつぎつぎに思い出す。
2001 8・16 10

* あすから三日間、妻と小さな旅に。父の十三回忌も。その用意や、メールの始末で、書き込みの時間がなくなった。
2001 8・19 10

* 河原町の京都ホテルにはいるとすぐ吉田にいる姪街子に電話して、北澤恒彦のお墓のあるお寺を教わる。ホテルの部屋の窓からおよそ見通せる、仁王門通り近くに専称寺はあった。妻と歩いて行った。途中日蓮宗本山の一つである頂妙寺境内に入ってみた。風格のある大きなお寺だ、その門前で妻は花を買った。仁王門通りを歩いたのは初めてかも知れないが、この辺は京の東寺町で、たくさんな各宗派の寺が群集しているのは知っていたし、そういえば狂言の茂山千作、千五郎の襲名式を取材しにこの辺へ来たなと思い出した。あるいはこのお寺ではなかったかなと思う、その真向かいに浄土宗専称寺はあった。
墓がどの辺かは街子に聞いていて、「北澤」という同じ苗字の家のお墓がないかとも確かめていた。無いということだったが、妻が先ず見つけたのは、無いはずの他の「北澤家」の墓であった。
暗に予測していたが、その墓には、北澤式文という名前で水塔婆があげてあり、間違いなくこの式文氏は北澤六彦氏の子息で、たぶん元京大薬学部の教授、小さいときにわたしのために子供用の自転車を譲ってくれた五つ六つ年かさの人、その当時は「ショウヘイち
ゃん」と呼ばれていた。父六彦氏はわたしの入学した頃の市立有済国民学校の教頭で、やがて校長としてよそへ転任して行った。わたしを、元京都府視学だった祖父吉岡誠一郎との縁でであろう、始末に困っていた幼いわたしを秦家に「もらひ子」として世話をしたのが、この北澤六彦氏であり、その斡旋で、もともと「吉岡」と名乗らねばならぬわたしが、国民学校時代を「秦」で通せた。秦と養子縁組の出来たのは新制中学入学の直前であったのだから。
北澤六彦家は知恩院下、白川沿いにあって、奥さんは助産院をもっていた。長い間、何も知らぬままこの北澤家を親類のようなそうではないような、奇妙な気分で眺めたり触れあったりしていた。いつしかに疎遠となり、しかし、気持ちの上では切れようのない不思議な家の一軒だった。
実の兄が「北澤恒彦」ということを知った頃からは、ますます「北澤」が気になる名前になっていた。ショウヘイちゃんの北澤と、兄の貰われていった北澤とがどんな縁になるのか、なにも知らずじまいに今日まで来ていた。

* ああ、やっぱりなあと思った、兄恒彦やその養父北澤氏と同じ寺の墓地に、北澤六彦氏も眠っていた。だが、両家の墓はやや離れて全く無関係らしく存在し、庫裡で大黒さんに確かめても「遠い親戚やろかな」という具合であった。街子にもあとで確かめたが、何も知らないようだった。
何十年ぶりかでわたしは北澤六彦・式文父子の名に、墓地で出会って、感慨深かった。

* 兄のほうも北澤家累代之墓とあり、夫人や恒、街子、猛らの名のある板卒塔婆が立っていなかったら、実感はもてなかっただろう。いや、不思議なほど兄の納骨されているお墓にわたしは実感がもてなかったと告白しておく。花を立て、線香をあげ、水で墓石をあらい卒塔婆にも水を掛けたが、兄の存在感はとくに受けなかった。感じとれなかつた。子供達は三人ともしっかりやっていると思いますよ、よく育てましたねと声はかけたが、すこし照れた。それでも、わたしは、すこし妻がうしろに下がっていた間に、水塔婆を墓石に立て、高唱十遍の念仏を一人であげた。おりしも大型台風が接近していたとはいえ、それまではなりを静めていた林立する墓地中の卒塔婆が、まして目の前の兄や兄の養父の卒塔婆が、すさまじく震動して鳴り続けた。おやおやと思いながら、高声南無阿弥陀仏を十唱し終えた。そして辞去した。
専称寺は風情のある佳いお寺だった。我が家と同じ浄土宗であることも、親しめた。玄関の奥の奥庭が深々と見通せて、清い眺めであった。

* 仁王門通りを東へ出て、東山通り東北の角店で、生八つ橋でお茶をいただいた。すこし買い物をして、東の疏水べりに立った。小鴨が群れていて、わたしたちに餌をもとめて寄ってくる。買ってきた菓子のカステラ部分をちぎってやると、競うように二十も三十も寄ってきた。鳩まで沢山来て、笑ってしまった。
観世会館の東から白川ぞいの道を、走り寄るように降り出した雨に、傘さして、ゆっくり歩いた。古門前から三条までの白川沿いも好きだが、三条の北、平安神宮の大鳥居の足下までつづく家並みのかげの弓なりの白川道も、ひとしお風情の隠れ道である。
三条へ出て、白川沿いにもとの北澤助産院のほうへと踏み込んだ、まぎわの家のショウウインドウに、それはみごとな島岡達夫の湯飲みが飾ってあるのに吸い寄せられた。人間国宝の名品といえる美しさに、雨中立ちつくした。八万円は安いと思い、買えるだけは持っていたが、よした。そのようにして買ったりもらったりした逸品が、つい使われずにしまいこまれているのだから。ぐいのみにも、湯飲みに劣らぬ一品があったが、それも手にもたせてもらっただけで満足し、失礼した。モノに執着し始めるとキリがなく、モノの行く末を思うと心細くなる。分かる人がもっていて愛用して欲しい。

* 雨が激しくなったので三条通白川橋から車で四条河原町へ走り、「ひさご寿司」に入って主人夫婦に歓迎された。二階で「新作」の季節の献立で食事した。河原町商店街のために原稿を書き、その用の顔写真をと頼まれていたのを、届けに寄ったのだ。
この店は兄恒彦が中小企業経営診断士の資格で綿密に懇切に指導し、みごとに人気の店に大成功させたゆかりの店で、実のところ兄とただ一度食事をして話したのが、この店でだった。わたしもこの店のためにコマーシヤルのまねごとのような短文を書いたことがあり、湖の本は全部買って貰っている。
二階の客席に、広田多津の舞子図と堂本元次の風景がかけてある。二つとも佳い。ああ、こういう格の店になってきたなと嬉しかった。佳い絵をみきわめ、さりげなく掛けてある店は、なにかがちがう。ひさご寿司にも老舗の風格が添ってきたかなあと、勉強家の夫妻の多年のガンバリにいつもながら気持ちよかった。寿司はむろんおいしいし、やすい。流行るわけである。

* 手洗いの小窓からのぞくと裏が、お寺。そして裏寺町への抜け路地が出来ている。南隣りに大きな「ドーパ」店が出来ている、ワキに、ひさご寿司との間に、抜け路地が通ったのだ、妻とわたしは楽しんでその小径から裏寺町へ、そして新京極へ入り込んでいった。めったに歩かない新京極も、雨の日には傘が要らない。台風が来て降り籠められるようなら映画を見るかと下調べの気分で新京極に入ったのだ。ここは、今々の商品で溢れた店々にまじり、錦天満宮だの誠心院だの誓願時だの立江不動尊だのと、古いこぢんまりした寺社が違和感なく目に付いて、面白く、感じ入ってしまう。ふしぎとコスモポリティックな喫茶店のカウンターでエスプレッソなどのみながら表の道を見ていると、キャピキャピの若い女の子用の服をけばけばしく吊しているすぐわきに、「和泉式部」の名を書いた誓願時墓地の入り口があいている。京都やなあと話しながら、いつになく妻が、「京都」という街の希代な底力を感じる感じると感心するのがおかしかった。
六角ちかくの、センスのいいデザインと一品ものの店さきで、わたしは妻のために佳い服をまた見つけ、妻はよろこんで買った。旅の途中ですぐにも着られる落ち着いて冴えたものであった。

* 三条通りをゆらゆらと大橋まで出て、雨のこやみに川をながめ、木屋町からホテルへ戻って行って、もう一軒、ホテルの東隣の「Hill of Tara」というワインとビール店に入った。たまたま隣り合わせた老音楽家の青山マサオ氏と、ひととき歓談。八十何歳もの陽気な、かつて東京芸大の先生であった。わたしはギネスをのみ、赤ワインをのみ、マリブのような甘い濃い南の酒も楽しんだ。雨がひどくなっていたが、宿はすぐとなりだ。
なかなかの京の半日だった。部屋へ戻ると、目の下に、高瀬川一の舟入りわきに、小説に書いたことのある大きな庭が見下ろせる。鴨川や洛東の街の向こうには東山三十六峰の濃いかげが、雨気にくろぐろとうるんでいる。台風は、四国と紀伊半島の南海上にいて、もうやがての本土上陸をテレビは繰り返し伝えていた。
2001 8・20 10

* 起床、すぐ、テレビの台風ニュースを横目に、光明山常林寺に電話して、この台風しだいでは東京へ帰れないおそれあり、できればお参りを今朝のうちにとお願いして、十時前に、出町「萩の寺」に入った。
雨のこぬまにお墓を清めて参り、本堂で、わたしと同年の住職と長男である若住職とにお経をあげていただく。わたしも妻も、唱和。我が家の法事にはよそのだれも混じらない。混じるような親類も親戚もまったく無いわけでは無いが、九十過ぎて死んだ父や母を見知っている人はもう誰もいない。独身で通した叔母も九十過ぎていた。叔母の社中が命日近くには参りに来てくれているようだが、いっしょになったことはない。いつも、我々夫婦でお寺に参り、住職たちと声を揃えて読経する。明日の十一時の約束が、台風のため急遽今朝の十時になっても差し支えること、何もない。卒塔婆はちゃんと書いて貰っていた。若い住職がお墓の前でも焼香し読経してくれた。萩の寺らしく、花はまだだが、前庭は溢れんばかりの緑の若葉に盛り上がっていた。しとどの露に、墓地と庫裡の往来のたびに清々しく濡れた。
おかしな檀家かもしれないが、受け入れて貰っている。時には頼まれて檀家たちの前で話したり、「光明」というお寺のパンフレットに原稿を書いたりもする。

* 台風の影響が深刻になり、今日のうちに東京へ帰れれば帰ろうか、明後日にもその翌日にも大事な会議を控えているし、と、お寺から急いでホテルに戻ったら、街子のファックスがフロントに届いていた。「おじさま、おばさま」と書いて、「十分でも逢いたい」と。昼ご飯においでと電話した。
一時前に、ホテルの「入舟」で京料理を食べ、街子はいけるくちなのでと、姪をダシにして冷酒「玉の光」とワインを飲んだ。口の重かった街子が、すこし話すようになり、父親が、恒彦がね「蟹が嫌い、形がこわい」と言う人であったなどと、面白い話も聞かせた。万里小路の家に仏壇は有るが、父の位牌は伏見に住んでいる母親が持ち帰っているという話も耳にとまった。よく知らないが、兄生前は微妙な仲の夫婦のようであった。晩年は殆ど別居していたと聞いている。街子の今一人で住んでいる家は、父と祖父との遺してくれた家、黒川創が小説「もどろき」に書いた家だ。恒彦は最晩年はここに老父と住み、老父の入院中に自決した。熟考しての末であったことがわたしには分かる気がする。

* 部屋に三人で戻ってろいろ話しているうち、上賀茂神社を知らない行ってみたいと街子が言うので、すぐタクシーを雇って、雨の上賀茂へ賀茂川ぞいに走った。まだ、さほどひどい雨ではなかったが、しとどに降っていて緑はしたたる色佳さ。車を待たせておいて、参拝した。本殿のまえから御手洗川のすぐ上の方まで足をはこび、木々に覆われて波打つようにいろいろに変化を見せている建物の屋根の美しさを、三人で見上げてきた。
円通寺まで車をまわしてみたが、台風をおそれてか門をとざしていた。それでも京北の里から里へと小径を縫うてのドライヴは、雨の山も木も家も見ばえして、静かに静かに目にしみた。
宝ヶ池をとおって、また出町へ戻り、街子を家の前でおろした。街子は東京にいた頃の女友達が京都へ転勤してきたのを幸い、二人で暮らしていて、今日は自分が炊事当番だと言うていた。雨もひどくなり台風の情報も気になるので、家に上がるのは「今度ね」と、そのまま別れてきた。そうはいえ、もう新幹線に乗って帰る時間じゃないかと、それならいっそ映画「釣りばか日誌」の新作でも見ようと三条河原町まで走らせたモノの、妻よりも妙にわたしの体調に疲労が滲みでていて、余儀なくすぐホテルに戻った。
そのまま、倒れ込むように、一人八時まで熟睡していたらしい。

* 台風は、超スローモーで、予報でなら、とうに東北地方へ抜けていそうだったのに、なんと、まだ和歌山に上陸の何のというはなし、これでは明日の新幹線は危ないなと本気で心配し始めながら、八時過ぎて、低カロリーが売り物のホテル内のレストランで晩の食事をした。ドライシェリーと渋みの赤ワインを二種類グラスで飲んだから、食事のカロリーが低かったとはとても言えないが、旨かった。今夜半には京都は暴風雨とききながら、ま、明日は明日の風かと、テレビもはやめにきりあげ、ぐっすり寝入った。
2001 8・21 10

* 新幹線はすべてが「各駅停車の自由席」で、「一時間にせいぜい二本」と報道されては、わたしはとにかく妻の体力では強行して帰るわけに行かない。もう一泊と考えたが、いまだに近畿地方を出てゆかない台風の鈍足ぶりだと、明日なら確実に帰れるとも安心できない。とりあえず、あすの会合の人たちに帰れそうにないからと電話で伝えた、が、明後日の会議にはどうしても出なければならない、よし、いっそ台風を逸れた道から、台風の先まわりをして帰ろうと、朝食を済ますとすぐ京都駅へ出て、あっというまに金沢行きの特急雷鳥に飛び乗った。正午には金沢に着き、すぐ十二時九分発の特急北越五号に乗り換えて長岡まで行き、ここで新幹線の「あさひ」に乗り換えた。自由席はいっぱいなので車掌に指定席をみつけてもらい、ラクに坐って、汽車旅をのーんびりと楽しみながら何のわずらいもなく東京まで帰れた。
車中、加藤弘一氏のたくさんなメールにすべて目を通し直したし、うまい弁当も食った、缶ビールものんだ。ついでに笹巻寿司も食った。

* 長岡から越後湯沢までの、山々の蒸気が見映えして懐かしかった。「トンネルを抜けると、嵐だった」となるかと予想していたら、嵐どころか、五時着の東京へ近づくに連れてまぶしいほど明るく晴れていたから、びっくりした。のろい台風を出し抜いて、先まわりに何とか東京へ着こうと乗り継ぎに成功したのだったが、台風めもさるもの、暴風域をすうっと消してしまい、すり抜けるように東北の方へ抜けていったあとだった。新幹線に乗っていたら、だが、途中難儀していたに違いなく、金沢経由の大回り道はラクであったこと一つとっても、窓外を楽しんだことでも、成功だった。のぞみの払い戻しも受け、保谷へは、六時半過ぎに帰り着いた。

* 駅まで、建日子が車で迎えに来てくれた。マゴの面倒をみに、建日子は二度も保谷へ通って呉れていた。感謝。
マゴが、わたしたちの帰宅に興奮して、甘えてばかりいた。がまんしていたものか、わたしたちの目の前で、砂に、それはそれはたくさんオシッコをした。マゴなりに気を張っていたのだ。建日子は仕事があるからと、お土産の晩飯を食べて八時に都心へ戻っていった。
かくて、台風の京の旅は、結果恙なく満ち足りて終えた。
うまくないのは、パソコンのマウスがまるで動いてくれず、仕方なく今も古いノートの方で書いてきたのである。マウスに噛みつかれるとは思わなかった。マウスが利かないとにっちもさっちも行かないのをしたたか思い知らされ、苦り切っている。
2001 8・22 10

* このところの奮闘さなかに、一方では、国内を小旅行している人たちから幾つも幾度もメールをもらっている。羨ましい。ほんとうは、今日は京都で鼎談というはなしもあったが、昨日の今朝早くに新幹線はきついので、師走の十日過ぎに日をかえてもらった。

* 在住のイタリアから帰国の娘さんと京都へ行っていた人は、京料理の「千花」へ行ったり、永観堂の「見返り阿弥陀」に逢ってきたり、「何必館」で華岳、山口薫、魯山人に感動してきたり、ま、これだけでもとても佳い京都だと思う。むろん少なからず示唆したわたしの好みが濃いが、まちがいはないと思う。もっとも「千花」でお酒抜きはお互いに気の毒ともいえるし、永観堂では、阿弥陀様だけでなく、そこへ辿り着くまでの柱細く華奢にしかも奥深く造られた、みやびな建築の陰翳にも、無意識にもさぞ心惹かれていただろうと思いたい。「何必館」主人の梶川芳友は元気であろうか。
2001 11・27 11

* 日本画論を雑誌「美術京都」に書いてもらった二人の研究者と語り合うのであるが、その論文を今日も街への行き帰りに読み直しかけていて、大問題なので、唸っている。研究者はどうしても新しい時代での論点に決めてきている、文献的にも。
わたしなどは、久しい美術史の中で鑑賞者の立場から頭の中にも目の奥にも日本画とは何かという問題意識を抱いている。話したいこともあり、しかし、わたしは話してもらう立場で司会しなくてはならない。とんぼ返しになるだろうが、いい京都が待っていて欲しい。
2001 12・3 11

* あすは京都にいる。あさってのことはまだ考えていない。湖の本もまだ出来てこないだろうから、もう一泊京都で過ごしてくることは不可能でないが、いま、切実にどこへという希望が湧いていない。
2001 12・11 11

* 京都での鼎談に発つ。十分の用意は出来ていないが、榊原教授、大須賀研究員のおはなしを聴いてこようと思っている。トンボ返しに帰ってくる。京都はもう冬に入っている。南座のまねきでも見上げてくるぐらいで、とくに望みはない。
2001 12・12 11

* 車中で勉強をと思っても、ボヤーとしていて、途中寝入っていたりして、はやばや京都へ。

* 鼎談「日本画の問題」は九十分の予定を大幅にオーバーし、スムーズに、問題点もおおかた拾い採って、予想以上に好調に終えた。榊原氏の以前の論文は、「日本画」という言葉がいつから誰により使い始められたかの検討から、「描く」べきを「塗る」ことへ押し流された日本画を憂えていた。大須賀氏の今回の論文は、近代はじめの東京と京都の日本画感覚の差異を検証していた。
鼎談では、もともと「日本画」意識が日本の中にあったわけでなく古代以来、いつも、海外絵画との対比の中で「日本」が意識されてきた事情を、歴史的にわたしから提起し、いま、「日本画」を考えることが、今後へのどのような有効性をもつのか、二人の論点の重なりや異なりから語り合ってゆこうとした。
歴史的な推移と、「日本風」「和様」の認識や評価とを軸に、近代現代の日本画だけでなく、今後がどういうことになるかまで考えた。もう日本画と西洋画との対比以上に、これらを一つの「手で描く絵画」とひっくくり、「ディジタルな絵画」と相対する時代になろうとしているのではと、試みにわたしから発言して置いた。

* ホテルにもどり、レストランでひとり静かに川端康成の「雪国」論を読みながら、魚はすずき、肉は鴨のコースを、赤のグラスワインで。閑散として、わたしひとりの貸し切りのようであった。
食後、先日来気がかりであった、中学のクラスメートが多年闘病の兄上をうしない独りになっていたのを、古川町の家に見舞い、霊前に線香をあげ暫時慰め励ましてきた。
弔問は気が滅入る。ホテルに戻るのも気分が暗いので、四条木屋町の「すぎ」に寄り、ふぐの白玉に、刺身、それに琵琶湖のもろこを三尾焼いてもらい、冷や酒。信楽のすごみのある大壺に千両と小米桜の大枝が豪快に挿してあった。いま京都へ来て、なんとなく懐かしい心地になれる、極めて数少ない佳い店のひとつなのである、「すぎ」は。
たまたま店にいあわせた、染色作家の玉村咏氏と親しみ、是非にと誘われて宮川町の茶屋バー「かな子」に河岸をかえ、染色や茶の湯や心のはなしで談論風発のまま、うまいワインをたっぷりご馳走になった。車で送られてホテルに戻ったのは零時すこしまわった時分だった。来年三月に東京銀座で個展をと。再会を約して別れてきた。もらった図録では、非常に優れた作品で、国際的に高い評価を得ている作家だった。
京都はふところが深い。なにとはなし、昼間から夜中まで、今日は絵画を論じあい染色や創作を語り合い、しかも酒も肴も旨かった。十分だと思った。
2001 12・12 11

* ホテルで目覚めたら、十時過ぎ。雨。もう十分だと、すぐ用意し、朝食抜きで京都駅にはしり、十一時九分発の「のぞみ」に乗って、一時半前には東京駅にいた。車中、川端康成の雑誌特集で何本かの論文を読んだり、放心していたり。はやばやと東京に着いて、こちらも雨。保谷駅でタクシーを待って帰宅。
2001 12・13 11

* 京都での木屋町で出逢い、宮川町の座敷バーでうまいワインをご馳走になってきた染色の玉村咏氏も手紙をくれて、文章も幾つか送ってきた。私より一回り若い。どこで誰に出逢ってもこのごろはみな私より若い。しようがない。
文章を読んでみると、なかなか書けている。独特の佳い色気のある、字義通りのハンサムだが、それが文章ににじんでいる。ぜひまた逢いたい。こんどは東京で、いやまた京都で一月に、とも。一月には京都美術文化賞の受賞者展覧会がある。財団母胎の理事長が勲章をもらったので二月初めには祝賀会をとも言ってきている。これは、ちょうどたてつづけの講演が予定されていて出掛けられないが、そうこうする内に、また賞の選考に行く。京都に若い気持のいい創作者の友達が出来たのは、出かけて行く励みがついて有り難い。 2001 12・17 11

* 玉村咏氏が北国の新聞に書いている文章を読んでいて、「お嬢さま」「奥様」という言葉がでてきた。氏の京都のアトリエに着物を誂えに、買いに福井市から来たお客との話のようであった。それはそれでいいが、京都では「さま」「様」はあまり用いないのである。天子様でなく天子さんであり、宮様でなく宮さんであり、「貴様」「貴様まいる」というような侍の田舎言葉や江戸の遊女の無心の手紙のような「様・さま」はそう大事がることはなかった。あんなのをむやみと流行らせたのは銀行などでの客の呼び出しであろう。東京では「様」はごく丁寧語と言うことになっていて、病院の外来や会計でも、銀行でも、ホテルのクラブでも「秦様」と呼ばれる。京都であまり「秦様」と呼ばれた記憶がない。「秦さん」「秦はん」である。ぞんざいなようでそうでなく、よそよそしくない。
玉村氏は東京で勉強して、京都に来て居着いている人らしい。「お嬢さん」「奥さん」でいいのではないか。そういえば、漱石は『こころ』で「奥さん」「お嬢さん」で終始している。一箇所も「様」は使っていない。「先生」呼ばわりの安っぽいことでは京都も東京も差がない。わたしは「先生」とよばれようが「秦さん」であろうが、呼ぶ人の勝手だと思うことにしているから、気にしない。「先生」はよしてくださいなどと断ることさえばかばかしいと思う。しかし「秦様」と呼ばれるとたいていちょっとイヤな気がする。「秦さん」にしてくれと言いたくなる。
2001 12・18 11

上部へスクロール