* アメリカから帰っている池宮千代子さんを、妻と新橋ちかいホテルに訪ねる。お土産に、淡海お庭窯、膳所焼の水指を用意した。裏千家十四代、わたしたちの年齢にはいちばん親身な淡々斎家元の箱書がある。古門前の美術商林から裏千家へ箱書依頼の付記がある。
膳所焼は遠州七窯のうち最高の格を誇った丁寧な仕事のお庭焼で、ハデではないがしっとりしている。持参のこれは、瓢耳の細水指。結び文につくった蓋のつまみは華奢に美しい。胸高に一部、さまよく碧みの華麗な色釉が流れ、美景を成している。陽炎園造。
ロサンゼルスで多年熱心にお茶を続け、地元淡交会でも付き合いの広いらしい池宮さんに使ってもらえば、道具がよろこぶ。なにか 軸も添えてあげたいが、と、手近に巻いてあった荻原井泉水八十八歳の朱印のある『一陽来復』の色紙形軸装を掴んで行った。昭和四十五年十二月二十三日の日付が書き入れてあり、今なら天長節いや天皇誕生日。
「一陽来復」とは目出度くて、使いやすい。色紙形は、井泉水さんからわたしへ「フアンレター」代わりに「花・風」の二大字を揮毫して送ってきて下さったのに添えてあった。これは佳いと家で表具に出し軸装しておいたもの。わたしは気に入り気軽に愛用してきた。
* 結婚しようという頃、この池宮さんと姉の大谷良子さんにずいぶん力づけられた。そんなことも「年譜」を校正していて思い出した。二人ともわたしより四つから六っつほど年上で、良子さんの方が茶の湯、生け花の叔母の弟子だった。わたしと仲良しだった。この人もアメリカに渡って結婚し、惜しくももう亡くなっている。
お互いにもう少し長生きしなくてはならぬ、お大事にお元気でと、祈りながら池宮さんと別れてきた。
* 歌舞伎座前から三井ガーデンホテルまで歩いた。昨日ほどではないが汗ばんだ。三人で一時間半ほど歓談して別れてきた。お土産にブランデー「ヘネシー」や「ゴディバ」のチョコレート、それにティシャツを貰ってきた。
六本木まで車を拾い、どこへも寄らず地下鉄一本で練馬へ。駅構内のなじみの店ですこし早い夕食にし、その足で保谷へ帰宅。
* 茶道具は建日子にのこしても仕方がない。繪は建日子にも好みがあり、もう何点も、望まれては遣ってある。どう飾っているのか仕舞いこんでいるのか知らない。上村松篁の『雪』をいつも欲しがるが、これはまだ当分わたしのそばに掛けておきたい。
本は荷造りすれば送れるが、茶道具や額物はこわくて郵送しづらい。持ち歩くのもしんどい。茶の友は関西には何人かいて、東京ではめったに付き合いがない。売り買いしない。が、さてさし上げるとなると、茶の湯のほんとうに好きで分かっている人にと願う。かなり気がかりな「お荷物」になっている。
2009 4・12 91
* 雑煮を祝って、建日子愛猫のグーもまじえ歓談、息子と三が日をともに雑煮を祝ったのはもう思い出せないほど久しぶり。で、建日子へのお年玉に、愛蔵の、高台寺蒔絵の中次(茶器)を小帛紗を添えて、遣った。茶器としてつかうことは無茶人の彼には難しすぎるが、書き仕事場に静かに置くだけで、疲れた曇った眼を洗ってくれるだろう。精緻な漆工で、高雅に美しい。とくに古いというものではないが、さすがの作り、「いい仕事」である。箱書きのことなどは、建日子自身がながい年月をかけ、自分でいつか自然に分かれば良く、分からなくても良い。自身の文字通り「器量」によってこの茶器にならべてどんな茶碗がみごと映るか、双方生きるか、を「発見」するのもきっといい楽しみになるだろう。趣味という言葉は使わないでおく。蔵いこまず、さて、どんな場所を器のために創っているか、いつか見に行きたい。
建日子、大喜びして自分の仕事場へ持ち帰ってくれたのが、嬉しい。たかが茶道具、されど茶道具。いい品になると、持ち主の方が気圧される。まかりまちがうと道具に持ち主が蹴飛ばされる。それにも、気が付かない。
* 三が日、正月晴れ。ありがたかった。
2010 1・3 100
☆ 湖の本ありがとうございました。 波
ミモザの花が金色に光り、春の訪れを感じます。
このたびは『宗遠、茶を語る』をお送りいただきまして、本当にありがとうございました。
「一期一会」「かなひたがるは悪しし」
改めて心に置きながら、ゆっくり読み進めています。
わたくしのほうは、相変わらず仕事が忙しく、特に人事の関連に心騒ぐことの多い毎日です。
いつ どのようにして 後継者にわたすか、あるいは M&A という形で より大きい企業に譲るか、考えなければならないときになりました。
財をなしたわけでもなく、日々を不自由ない程度に過ごしています。
お体のお具合はいかがでしょうか?
心静かに、日々過ごされますよう心からお祈りいたします。
☆ 湖の本 ありがとうございます。 晴
102号 金曜日に届きました。早々に送って頂きありがとうございます。
以前の厚い封筒の包装で送って頂き、ご本美しく届きました。
厚いので、たくさんの部数で重さがお身体にこたえておられるのではないかと案じています。
土曜日曜と外出いたしましたので、早速持って出かけました。
狭くて雑駁な大江戸線の中でも心静かにお茶の世界を、心を覗かせていただくことが出来ました。
まだまだ全部は読み通せていないのですが、私は以前から「一座建立」の言葉が腑に落ちると申しますか、納得がいく言葉でした。その場に居合わせる者としての配慮が必要なのではないかと、ちょっとしゃちほこばって思っていました。
ご本の「言葉あり」の章で、「独坐観念」の言葉を書かれていました。
『一会の茶事は、終てた。
亭主は自服の茶に、静かに静かに深まる時のうつろいを味わう。至淳の「時」である。主と客とが一座を建立してあればこそ、そののちの「独坐観念」の充実が光ってくる。』
そして私語の刻で、
『惜しみ、愛しみ、そして愛しみ哀しみ「寂」へ極まってゆく、なごりの美。』
を読み、命のなごりを思いました。
どうかして、充実した「独坐観念」の一服がもてますように。
読み方がまだまだ不十分ですが、しばらくそばに置いて読み返したく思っています。
先週は京都の行き返りに『絵巻』を読ませていただいていました。ありがとうございました
気候の変わり目です。どうぞどうぞ迪子様もともにお身体お大切にお労わりお過ごし下さい。
2010 3・14 102
* 重い、やや重苦しい仕事が続いていたので、茶の道の二冊目を取り纏め、すこし息を入れて頂くことにした。
* 湖の本102『宗遠、茶を語る』 跋「私語の刻」より
年賀状をたくさん頂戴しながら、今年は失礼した。例年、元旦を迎えるとすぐ電子メールで数百もの方に送り出していた「同報」の年賀状もとりやめた。旧臘、単にホームページの日録にこう書き出すにとどめた。
百福具臻 平成二十一年(2009) 大晦日
當寅歳のご平安を祈ります。 秦 恒平・七十四叟
来る年を迎へに立てば底やみにまぼろしの橋を踏みてあしおと
歳といふ奇妙の友の手をひきて渡るこの橋に彼岸はあるか
さて。今回、たいそうな表題を置いたが、「宗遠=そうえん」は、裏千家十四代淡々斎宗匠より頂戴した私の「茶名」で。「遠」は、慣例を践んで私から願い出た一字。老子「有物混成章第二十五」に、「道」を名付けて大、逝、遠、反としてあるのから撰した。「物有リ混成ス。天地ニ先ンデテ生ズ。寂タリ寥タリ。独リ立チ而モ改メズ、周行シテ殆(あやう)カラズ、以テ天下ノ母タルベシ。吾レ其ノ名ヲ知ラズ、字(なづ)ケテ道と曰(い)フ。強ヒテ之ガ名ヲ為(つく) ツテ大ト曰ヒ、大ヲ逝ト曰ヒ、逝ヲ遠ト曰ヒ、遠ヲ反ト曰フ。故ニ道ハ大。天モ大なり、地モ大ナリ、王モ亦大ナリ。域中ニ四大有リ而シテ王ハ一ニ處(を) ル。人ハ地ニ法(のつ)トリ、地ハ天ニ法トリ、天ハ道ニ法トリ、道ハ自然ニ法トル」と。
「入門必携」記載のわが茶歴によると、昭和三十一年(1956)三月一日に「茶名」と「準教授」の許しを得ている。二十歳にまだ間があり、大学二年生を終える頃に当たっている。「必携」巻頭には淡々斎の手蹟で「わけいればこころの奥に月ぞすむまことの道を得とれ人々」とあり、茶道裏千家淡交会・会員證には「終身会員」と証されている
裏千家の出している雑誌「淡交」に『茶ノ道廃ルベシ』を連載したのは二十年後、昭和五十一年(1976)。北洋社で本になりよく読まれて版もずんずん重ねたが、講談社が引き継ぐとすぐ絶版になった。いまは「湖の本エッセイ」十八年前の第四巻に収録、とぎれなく今もよく読まれている。
小説にも、茶の場面はいろいろに書いてきた。特色の一つのように思って下さる読者も少なくないので、ひさしぶりに『宗遠、茶を語る』の題で許して頂こうと思う。説明不用、発語・発言にほぼ一貫した流れを汲んで頂ける。先の『茶ノ道廃ルベシ』と合わせ、私の「茶への思い」はほぼ纏まったと思う。「まことの道」を得たなどと言挙げはしかねるが、率直に語っている。
茶の湯は、叔母・秦宗陽に習った。裏千家教授であった。正式に裏千家に「入門」したのは記録によれば昭和二十七年三月とあり高校二年生直前だが、小学校六年生ころから習い始めており、中学三年では学校の茶道部で万端部員の稽古を見ていた。高校でも茶道部を創って、最初から私が指導した。茶会もした。学校に来客があると、茶室や、校長室の立礼(りゅうれい)の設えを用い、茶をたててもてなした。京都市立日吉ヶ丘高校には「雲岫(うんしゅう)」席という設計も命名もりっぱな茶室が広い和室の一角に造られていて、さながら自室のように私は親しんだ。卒業後も、頼まれて指導に通った。家では、叔母の稽古場で、早くからずうっと代稽古にも励んだ。当時の生徒や叔母の社中さんたちと、大勢、いまも親しくしている。
叔母ツルは、加えて御幸(みゆき)遠州流生け花の師範もしていた。茶名は宗陽、花名を玉月。なんと大らかな佳い名であったろう。玉月…。この名受け嗣いで、このさき、玉月宗遠の境涯にいたいといま私は願っている。
生け花師匠である叔母の身の回りには、稽古花とはいえ四季おりおりの花が咲いていた。半世紀もの先生稼業で、茶道具も花器も所持していた。釜や、書や繪の軸もの、陶磁器・漆器・蒔絵はじめ、木や竹や金の工藝など、叔母は私が諸道具にしたしく手を触れるのを放任同様許してくれていた。この感化は大きかった。
もう一つ、父・秦長治郎が観世流の謡曲をよくした。素人ながら時には師匠の命で大江能楽堂地謡の前列に並んでいたりした。父の謡は、私が幼な思いに胸に抱いた「美しいもの」の豊かな一つであった。流儀の稽古本に出ている曲の梗概は、私が潜った古典世界への貴重な入り口の一つだった。茶の湯とちがい途中で棒は折ったけれど、それでも「鶴亀」「東北(とうぼく)」「花筐(はながたみ)」の三曲を父の口うつしに教わっている。謡曲、仕舞、能。そして茶の湯。私の「中世」好きは、わりと自然に培われていた。
順不同で恐れ入るが、一つ、「竹取翁なごりの茶をたつる記(ふみ)」を此処へ再録したのを、お断りしたい。
「なごり」と謂えば「つきない」「はてしない」と、演歌はせつせつと歌った。だが「なごり」は、余波にせよ、余韻にせよ、余情にせよ、つまりは尽きも果てもする。これが最後という意味もある。ただし尽きて果てて、なにも残らないというのではない。「なごり」には、これが形見という意味合いもあり、ものの譬えにも「口切り」このかたの茶壺がもう残り少ない、惜しい…という愛着の気持ちは、強調すれば「いと愛(惜)しさ」となる。それでも所詮は尽きて果てて、愛惜の思いが清いけむりのように残る。
もし天来のかぐやひめが、帝を正客に、竹取の翁らを客に、月かげを負うて「なごり」の茶をすすめに来るとあらば、どんな茶になるだろう。そんなことをよく想像した。あるいは須磨の浦へ、みずから身をさすらわせる決意の光君に、都にのこる紫上がもちまえの優しさで「なごり」の茶を夫にすすめるとあらば、どんな場になるだろう。
足柄の山中、天に澄みのぼる遊女の清い歌声に聞き惚れながら篝火のもとで、もし、更級日記の著者が「なごり」の茶をたてていたなら…。永久(とわ)の別れを胸にひめて、南へ北へ、流されゆく師の御坊法然と弟子親鸞との最期の場が「なごり」の茶であったのなら…。日野の草庵で、深み行く秋と鳥獣とを客に、方丈記の著者が「なごり」の一碗をたてているとしたら…。
そのような「もしも」ならば、湧くように、私の脳裏を幾場面もが去来した。茶の湯という「かたち」がまだ生まれない前にも、「茶」のある人の世が、春夏秋冬、まぎれなく実在していたと思う。そして必然、茶の湯は生まれたのであると。
惜しみ愛(いと)しみ、そして愛(お)しみ哀しみ、「寂」へ極まってゆく、なごりの美。この寂の境涯を、どう趣向しどう表現するか。より寂しくか、むしろ華やかにか、で、「なごりの茶」は左右される。避けがたい季のかわりめを、風情のとじめと読むかはじめと読みとるか、どんな主と客とでその思いを分けあうのか、で、決まってくる。
「なごり」とは、なにかとの別れに耐える思いだが、「別れ」を「分かれ」と想ってみるゆとりがあれば、そのまま、新たな出逢いを予感する気の弾みにも近いであろう。「惜しむ」にも「愛しむ」にも、いつもその両面がほの見えていればこそ、「なごり」は、いかにも人を優しく美しくする。
「なさけ」は「かける」でも「かけられる」でもない。「なさけ」は「知る」ものであることを、「なごりの茶」とかぎらず常平生創造したいものだと思ってきた。そういう気持ちで、再録を敢えてした。
2010 3・15 102
☆ (前略) 毎日、飲茶をしながらも、いわゆる「茶の道」には馴染んでこなかった小生ですが、「茶に言葉あり」は興味深く拝見しました。殊に「作」は、小説家=作家の解釈が面白く、「清める」から始まる「扱う」「置く」「かざる」「すわる」から「のむ」「好む」「結ぶ」と動詞形で具体的にやさしく解く、お説に魅せられました。いつもいつも御配慮に預り深謝申し上げます。不一 出版社役員
* ここをこう観て下さったのは嬉しい。ちなみに、「作」をどう書いていたか、『宗遠、茶を語る』を買って下さった読者には少し申し訳ないが、挙げてみる。
☆ 作 (茶に言葉あり より) 秦 恒平
たいがいの場合、私の肩書きは「作家」とされる。小説を作る(書く)からである。絵を作る(描く)人は「画家」と呼ばれ、書を作る(書く)人は「書家」と呼ばれる。作ることにおいてはみな同じなのだから、小説家だけを作家とはちょっとおかしいのだが、難しい議論をしようというのではなく、「作」という言葉ないし文字について、いささか考えてみたい。
「お茶杓のお作は」
と問うのは、茶室での挨拶のつねである。茶杓を作った(削った)方はどなたですか…と問われているのであり、ここは然るべき人の名をあげて答える。
だが、作者の意味の「作」というよりも、茶の湯の場合はもっと作意の意味の「作」や作用・作法の意味の「作」を私は問題にしたい。いやさらに言うならば、「随処ニ主トナレバ、立処ミナ真ナリ」などという、その「主トナレバ」の「ナレバ」が「作レバ」の訓みであることを念頭に、「作」を私は問題にしたいと思う。茶の湯という、創意工夫を、心入れや思い入れのかたちで表現して行くことに妙味も趣味もある藝能では、ただに、茶杓を作ったのは誰で、掛けものの字を書いたのは誰でなどという「作」の意識では、ダメなのだ。
そもそも「作者」「作家」という場合の「作」も、けっして作った人、その氏名、をあげて事足ると思ってはなるまい。作るという一事に籠めて、全精神の微妙に具体的な構想や構築が揺るぎなく実現して行く、ないし実現している、そういう「作」の在りようを面白いとあるいは見て取りあるいは読み取り、そのうえでそれほど見事に作った人なり名前なりに関心が湧いて、
「お作は」
と質問せずにおれぬというのが、やはり本来なのであろう。手前みそになるが人生の諸相を複雑は複雑なりに、微妙は微妙なりに書き表して行く小説のばあい、ことにこういう意味の「作」が、作意や作法が特徴的にものを言う。だから「作家」なのである。
だからといって、例えば茶杓を削るくらいにそんな「作」などあるものか…などと言っていては、所詮、「随処ニ主」も「立処ミナ真」もありえない。いわば長編小説の一つや二つもに匹敵する人生や思索から、あたかも生えて出たようにして一本の茶杓が清らかにかろがろと削りだされて居るのかもしれない、そこを「作」の不思議とも面白さともしっかり眺めながら、その物へも、その物を作り出した人へも、敬意と興味とを持つようでありたいし、そうであるべきだろうと私は思う。「作者」とは、もともとそういう性質の敬意や興味を持たれていい人のことだ。
一席の「茶の湯」が、もっとも佳い意味の「お作」となるように願って茶室に臨んでいる亭主や客が、どれほどいるか。
「作者」は自分自身と、そう思い入れて佳い「茶」を作りたい。
* わたしは、かねて「作」と「作品」とはべつのことと考えている。しいて謂えば前者は行為で、後者は評価であると。人品、画品、文品、品位といったもの謂いから推しても、われわれは対象としての「作」を読む・観るとともに、そこに「作品」の有無如何を問いかつ求めて、味わっている。これが、見落とされ見遁されていると、優れた批評は成り立たない。
* 文でも画でも、また人であっても、その「作」に、まぎれなく品のある、ない、がある。高い、低いがある。
同時に、ややこしく紛れやすいのは、いわゆる「俗語」と化してしまっている「上品」「下品」という感触の介入で、用心しないとコトをまちがえる。「お上品」「お下品」とまでいわれれば、むしろ付き合わずに見捨ててしまえるが、俗にいうふつう現代語としての「上品・下品」は、むしろ批評語としては拒絶し無視した方がよいとすらわたしは考えている。上品といわれるがゆえに作品の弱いもの、下品と見捨てられる中に、ある高質の品位というのがある、こともある。
* 井口さんには、利休の「正座」画像の写真を戴いた。但し、たぶん近代の画作であろうか。
正座画像が美術史的にも普通にあらわれ始める元禄以前では、数点存する利休の座像で正座のモノはやはり見当たらない。元禄期に、三千家の祖である利休孫千宗旦に、はっきり正座画像が出来ている。
女性では、描かれた時期は確認できないが確か信長の妹お市の方画像に、正座とみえる一点があったと思う。
ごく稀に阿弥陀の脇侍などに正座に近似した、跪座かそれに近い座像がある。白州や閻魔の前での土下座例は、すべて正座と同じすわり方である。
元禄以降には、それ以前の歴史的人物であれ、むしろ普通に正座像で描かれ造られている例は多い。
☆ ご本の御礼 作家
秦さま、湖(うみ)の本、新刊102「宗遠、茶を語る」をご恵贈たまわりうれしく、ありがとうございます。
日ごろ、茶を喫するゆとりもない暮らしぶりですが、ご本に書かれた利休の、前後の「茶」にまつわる時代のことなど関心もあり、外の勤めの昼休みに番茶を呑みながら、ゆっくり大人しく読み進めます。
ありがとうございました。どうぞご健勝にてお過ごし下さい。
☆ ありがとうございました。 出版社役員
寒暖差の激しい日々が続いておりますが、秦先生にはますますご健勝のこととお慶び申し上げます。
先日はご高著『宗遠、茶を語る』をお送りいただき誠にありがとうございました。いつもながらのお心遣いに心より御礼申し上げます。茶人として茶道に精通していらっしゃることにも驚きましたが、何より「茶」というひとつのテーマで、これほど縦横無尽に語ることができるのだ、という事実に感嘆いたしました。発表された媒体が多岐に渡っているため、その媒体特性にあわせたエッセイをお書きになっていることもあるとは思いますが、換言すれば、「茶」というものがそれだけ、さまざまな切り口で語ることのできる奥深さを持っているということなのでしょう。何よりその「奥深さ」を秦先生が深く理解していらっしゃるからこそのご労作なのだと、感じ入るばかりでした。重ねて御礼申し上げます。
引き続きご指導を賜りますよう、御願い申し上げます。
メールで御礼申し上げる失礼をお許しください。
不順な天候が続きます。お忙しい毎日、くれぐれもご自愛ください。
2010 3・23 102
* 朝は快晴、冷えているが。『宗遠、茶を語る』にアメリカから、五冊も注文してくださり、寄贈先国内の三人の方にご挨拶を書いた。寄贈なさる本には寄贈先の氏名と識語・署名して送り出している。ロサンゼルスへもそうして送り出す。
「茶」を語っても私の場合、いわゆる「茶の湯」や「茶道」に限らない。
「茶」は茶室での茶の湯でなければ表現できない楽しめないという偏頗な思想をわたしは持たない。思いと、成しようと、そして相手によって、さまざまな場で、さまざまに「茶」の気持ちも楽しさも実現できる。茶祖珠光の以前にも、あるいは栄西禅師の以前にも、「茶」に準じた飲みものを多彩に味わってきた日本人であれば、それにともなう寄合の心映えや作法のようなものは芽ぶいていた。それらをも含めた気持ちでわたしはこの本で「茶」を語っている。幸い、予期していたより拾い力強い好評で読者に迎えられている。感謝。
2010 3・27 102
* 楽しくお相撲が観られて私たちも嬉しかったですよ、お相伴ありがとうございました。
過分のお心遣いを賜り、恐縮の上に恐縮して身が縮みました。とにもかくにも、「湖の本」維持のためにと、深く頭を下げてお預かり致します。
家で、鵬雲斎の若い頃の「自作」茶杓を見つけました。みるから粗杓ですが、銘の「和」と筒の花押、箱蓋にも自署があり、茶杓自体にも鵬雲斎自身の削り跡がはっきり出ているようなので、うまくすれば、ロスにお帰りの時分にはお家に届いているかと、航空便で謹呈しておきました。どの季節にも使える銘なのが便利と思われますので、気軽にお使い下さい。木の箱が潰れないといいがと案じていますが。
古いけれど紛れない淡々斎の短冊「萬事如意」(万事・意のまま=何事にもこだわりなく、自由自在)の四字は結構な、めでたいものと思います。字も花押もすっきりと、鵬雲斎よりよほど上手で綺麗です。
時代ものの大棗「秋の野」は、利休ものの「写し」であるらしく、塗も時代ですが、大柄にいかにも豊かなところが新しい持ち主のあなたに似合っています、ご愛用あれ。出処はたぶんいろんな理由から、藤田男爵家あたりだろうと想ってきました。いい箱をあてがって上げて下さい、そして気楽にお使い下さい。
「茶ノ道廃ルベシ」「宗遠、茶を語る」の追加 有難う存じます。すぐ送ります。
大関魁皇が堂々と一千勝を勝ち取り、喝采しました。横綱白鵬の二場所連続全勝も流石で、よい責任を果たしてくれました。この本場所をご一緒に観ました。いいご縁を重ねました。
今度六月に送ります新刊は、題も『私=随筆で書いた私小説』です。大半は読みやすく、かなり楽しんで頂けるだろうと。
では、エデイさんともども睦まじくどうぞどうぞご健康にお過ごしなさいますように。
家内からも、お大切にお元気でと。 遠
2010 5・24 104
* やっぱり航空便で茶杓を送ったのは軽率であったかもしれない。途中で箱ごと圧しつぶされたか、小さい荷のためどこかへ紛れてしまったかも。追っかけて送った本二冊も、郵便局でクチャクチャとモノ云いをつけられたので心配。これまで二十年、問題なくそのままで扱われてきたものが、なぜ急に文句がつくのか分からない。
2010 5・27 104
* 鵬雲齋「自作」と自署花押のある茶杓、無事にロサンゼルスについたそうで、妻が電話を受けた。英語で「無価値」と上書きして航空便にしたが、たしかに、或る意味無価値な竹箆であり、また「扱い」一つで価値が出る。そういう意味合いでもわたしは茶杓という作物が好きである。自分で削る藝はない。が、茶杓に惚れぬいて何千本も作られている西山松之助先生の茶杓三昧に敬意を惜しまない。わたしも一本頂戴しているが、生かして、まだ使えていない。
2010 5・28 104
* 京都の草野さんに、花押入り共筒共箱、裏千家十四世淡々齋自作の茶杓、銘「露」を送呈した。日吉ヶ丘茶道部でわたしが教えた一番弟子。後に叔母の社中として永く稽古に通っていた。その後お茶の「先生」もして、いまもお仲間と茶を楽しんでいると、この間都ホテルで講演した折りに会場で聞いた。秋に茶会をするとも聞いていたので、
ただ人は情あれ 花の上なる露の世に
閑吟集九六の 露 とでも想って下さい。あるいは、
白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞ散りける
村雨の露もまだひぬまきの葉に霧たちのぼる秋の夕暮れ
とでも、と。叔母宗陽の形見とでも、と。御礼の類はまったくご無用に。お茶をどうぞ楽しんで下さい。 宗遠、と。
* 京都にはお茶をつづけていて、この人に、あの人にと、今のうちに道具を贈っておきたい人は何人もあるが、やはりタイムリーでありたいと思うと、意外に難しい。それに茶杓など送り易いが、茶碗や水指など割れ物は素人の荷造りでは不安がのこる。茶道具だけは、懸けておく繪や軸物とちがい、ほんとうに茶の湯が好きでしかも出来る人でないと、ただのお宝に落ちぶれてしまう。使えない茶道具など持っていても始まらない。
2010 6・26 105
* アメリカから池宮さんの電話をもらう。写真では、差し上げた淡々齋短冊「萬事如意」を短冊懸けに綺麗に仕込まれて。また時代秋草の大棗をつかって、秋口には釜を掛けると。茶会は楽しい。
実は見失っていた昔の胸ポケット用の医学書院手帳一冊が、寝室の箪笥の隙間から見付かった。干物のように堅く乾いているが、一九六二年の分。あっちこちに、ちっちゃかった娘が鉛筆でラクガキしている。父親と同じように「字」が書きたかったのだ。七月二十七日の「朝日子 Birthday」には京都の祖父母達から祝電。電話はないから、電報だ。金はなかったから外食は出来ないが、ママがご馳走をつくった。この月、十二日から十八日まで、嬉しい夏休みで京都に。この祇園会の日々、をのちに『慈子』に書いている。
同じ年の五月七日に、さっきアメリカから電話のあった池宮さんの家を落合に訪ねている。お茶のパーティだった。この日のために貯金をつかい、迪子に純白のワンピースを買った。朝日子も可愛い帽子と服で参加している。写真が残っている。わたしはまだ小説を書き始めていない。
* 思いがけないものが見付かると、いっとき不快を忘れる、が、現実に戻ると、途方もない。 2010 7・4 106
* すこし出遅れて。身近な掛け物を一新。
メインに玄々齋の懐紙「翫月」を久しぶりに。ふつうに謂う歌懐紙ではない、右寄りに、題と、和歌一首を墨も美しく。左は大きく大きく白地のまま、月光の満てるさまに。佳い趣向。幕末の玄々齋が高弟であった加賀の前田に与えて前田で表具したもの、箱底にまで書き入れがあり、気が入っている。
書も表装も趣向も嬉しくて。叔母自慢の所蔵であった。大学時代、これを持ち出し、妻の下宿していた真如堂まえ坂根家の二階で、翫月の茶を楽しんだ。『慈子』に、来迎院の秋の茶遊びとしても書いた。
* 玄々齋のわきに、森川曽文の「紅葉と鹿」の細い長軸を垂らしてみた。目の覚める紅葉と芒をかすかに点じ、下に、雄鹿がゆったり真向きに起ってわたしを観ている。春の「落花と雉」繪と双で。はんなりと、しかも寂びている。
* 玄関には西村五雲の「秋香」すなわち土の香ものこった松茸三つが無造作に転がしてある。よくこんな軸を買っておいてくれたと叔母に感謝。
一気に秋の風情が家の内に。せめて美しいモノに眼も思いも静かにと願っている。
2010 9・22 108
* 繪を観るばっかりに飽いて、玄関の五雲描く松茸(「秋香」)の軸を巻いた。茶の間に掛けた曽文の、紅葉に鹿の長軸も、裏千家玄々齋の「翫月」の佳い軸も巻いた。もう霜月も半ば、しかしまあまだ秋のうちにと、茶の間には堂本印象が描く、まだ赤い木守りの柿にただ一葉の柿紅葉。小野竹喬の「しぶ柿」もどうかと思ったが印象画「澄秋」の題の明るい静かさに惹かれた。そして脇に、裏千家圓能齋の細長軸「紅葉舞秋風」を。この字が一字一字身に沁み目に見えるようにすばらしい。
湖の本を用意分ほぼ全部送り出して明るくなった玄関には、同じ十三世圓能齋のとびきりの名筆と思われる大字竪一行、「四海皆茶人」の軸を掛けてみた。気宇の大きい雄渾の筆で、此の五大字が朗々と、ふと哲理のように響く。いつまで観ていても飽きない。
* 気分よくなった。
2010 11・14 110
* 今日、アメリカから来ている池宮さんにさしあげるのは、裏千家十四世淡々齋が手造茶盌、銘「忘筌」の大物で、濃茶を練って、十数人は優に喫みまわせる。ずしっと重い。当時の楽吉左衛門が焼いて、堂々の函印と書付けをしている。面取りした箱の蓋に、「自作赤茶盌 銘 忘筌 宗室 十四世花押」の箱書がある。箱の底に贈先宛名は切ってあるが(=たぶん古門前の美術商林楽庵に贈ったと思われる。)字も筆力もつよく、「拙作 茶碗 千宗叔」と自筆の奉書が畳み込んである。この茶碗が淡々齋の若宗匠時代の作であると分かる。「宗叔」はその頃の名乗り。茶碗の糸底にも「叔」の花押と「造之」の刻印があり、紛れもない。
銘がいい。「筌」は、茶筌であるとともに利休実家の稼業であったという魚屋の由来、「筌」は魚を追い込む漁具である。それを「忘」じるとは、その意味や意義は銘々に思うべきであろう。
* 池宮さんはロサンゼルスでの裏千家茶の湯のもう久しい師範である。社中もあり、なによりも茶の湯の実践者。それが嬉しいし、道具も活かして貰えるのが嬉しい。使ってもらえてこそ、道具は生きる。それが何より。
* さて、街の気温はどうであろう。
* 有楽町へ出て、時間調整に帝劇モールでお茶をのみ、タクシーで三井ガーデンホテル銀座へ。池宮さんに会い、21階で三人で歓談。「淡々齋手造赤茶椀」をお土産に差し上げる。明日は京都へ、と。楽吉左衛門の大きな三つの展覧会や奈良の松伯美術館、祇園の何必館の入場券など、みな上げた。きっと楽しんでもらえるだろう。楽氏次男の展覧会の案内も今日届いていたけれど、それは師走。
余り永くはお邪魔せず。ホテル下まで見送ってくれた池宮さんは、路上で妻ともわたしとも熱くハグして、またの再会をと願いあった。歩行者天国の銀座通りをゆっくり歩いて一丁目まで。また有楽町線に乗り帰ってきた。
* むかしむかし、鉛筆がズボンをはいていたようなと妻の云うほど細かった昔に、池宮さん姉妹と撮った写真をもらってきた。こういうほっそりしていたときもあったのにと、なんとも今の体躯のでかい、見苦しいことに慨嘆。
2010 11・20 110
* 京都から東京へもどってきた池宮さん、お土産に一保堂の濃茶を送ってきて下さった。
たとえば初釜などで、十人ほどの濃茶が十分練れる堂々の重みと大きさの赤茶椀、普通の一倍半の豪快な碗で、十四世淡々齋が「宗叔」若宗匠の昔の手造りである。当時当代の楽家が「焼いた」と銘記がある。その用にと、とびきりの濃茶を、きっと京都で仕入れてこられたのだろう。アメリカでは、めったに「楽」と名の付いた茶碗を持った人が、淡交会支部あたりでもいないと洩れ聞いている。
初釜の本席床に、どんな軸が掛けられるだろう、茶入れは高取の肩衝を所持されている。元気にめでたい初釜が祝われますように。
* なんだか、もう一度も二度も、自分も釜をかけてみたくなる。昔は叔母のために用意した四畳半に床の間も置ききちんと炉も切ってあった。医学書院からはるばる通ってきて、稽古した人もいたのだが。やす香の生まれるのを記念して家を改造し、四畳半のかわりに「やす香堂」と笑って呼んだ、板の間に卓や倚子のダイニングキッチンに造り替えた。今は、そこが「湖の本」発送の作業場になっている。炉を切り直すなら六畳の茶の間しかない。
2010 11・28 110
* 隣棟に片づけたままの茶道具を、大方こっちの家に移転した。眺め眺め、可能な人から形見分けして行きたいと思う。その為には、薄れている記憶に実物を自分の手に持たせ、感覚を取り戻さなくては。茶の間にもう一度炉を切ろうかとさえ思う。炉畳も炉壇も炉縁も保存してあるのだし。しかし、正座は出来ませんなあ、とても。
しかし、茶の湯に趣味のある人、東京では多くは出逢わない。出逢っていてもあまりお年寄りでは仕方がない。
2010 12・27 111
* 大小の骨董類のうち、小さめの品、茶器、棗、茶杓、香合、蓋置等々の類をともあれ一個所に取り纏めた。其処へは嵩や丈のある品は入れようが無く、別の算段を付けている。狭いながら今居る棟のうち、あっちこっちに分散しているが、ともあれ、大方をこっち棟に移転できた。まだ茶碗などが運び切れていない。
決して玩物喪志にならないで、しかも無為に死蔵して腐らせないように配慮してやりたいが。容易でない。
私に命のある内に、出来る限り、なんとか「かたづけ」たい。
2010 12・28 111
* 骨董類の西棟から東棟への移転を終えた。繪がまだ幾らか西にある。
* ことのついでに、久しく西棟に逼塞させていたチェーホフ全集をこっちへ持ってきた。妻もわたしもひさしぶりに少し纏めてチェーホフが読みたくなっていた。妻は朝日子を産むころであったか、少しあとか、とにかく昔、昔に東邦医大の病室で読んでいた。わたしもチエーホフはたいがい読んでいる、戯曲も小説も、『サハリン紀行』も書簡集も。
それでもこの頃の直哉読みで、何度も直哉のチェーホフ好きに出逢っていて、懐かしく思っていた。直哉はロシアでは『アンナカレーニナ』をはじめトルストイの作とならべて、チェーホフを好んでいる。ことにチェーホフと名乗って以降の作を好いている。中央公論社で全集が出はじめた頃から、本も作も、珠玉のように愛しみ思って買いそろえていった、貧乏だったのに。
2010 12・29 111
* 二階はなにも片づけない、飾らない、山種美術館の呉れるカレンダーをかけかえるだけだ。
玄関には、はるかな梢に鶴のおりたみごとな巨松と天高くしづまる旭日とを描いた長軸を掛けた。足下に松と薔薇と菊を丈高に金銀日月の大壺に生けた。居間には、裏千家十三代圓能齋が、墨で寶の入舟を大きく描き、淡々齋として十四代を次ぐ若子の宗匠宗叔が波と海老とをやはり墨で描き添えた、めでたい一軸を掛けてみた。千家の家什であることを証した大きな丸の朱印が捺してある。古門前の古美術商林を経て叔母が入手していた。
さてキッチンの床には、秦テルオの「出町雪景」か、思い切って松篁さん鶴二羽の「雪」にしようか。
2010 12・30 111
茶の湯11
* 昨日家を出がけに、とうどう秋石の長軸を巻いた。はるかに喬い松樹に用いた色に堪らない魅力があり、もう巻かなくてはと思いつつ惜しみ続けていた。
代わりに、宗旦の「水仙の文」と極めのある消息文を思い切って掛けてみた。表千家の誰かの箱書のある、付属文書も函底にありそうな曰く付きだが、わたしには読めない。宗旦の紛れない花押が文末にみえる。総じて渇筆、かなりの速筆と見える。甚だ侘びている。鑑定を求めたこともない、間違いなく古門前の林から出ている。来歴はどうでもいい、掛け物としてわたしは愛している。万が一ほんものなら、こういうものは相当な施設なり家元筋へお返しした方が佳い。ニセモノなら悦んで我がタカラモノに愛玩する。
2011 1・28 112
* 帰って、節分の豆撒きを勤めた。宝船、来るかな。寶船は裏千家圓能齋が描き、波と海老とは嗣子淡々齋が若宗匠宗叔と花押して描き添えている。二つの朱印が千家の由緒伝来を証している。裏千家にお返ししてもいいい画跡なのだが。
2011 2・3 113
* 贔屓の歌舞伎役者にお茶碗を贈りたいと、ずうっと心に置いていたが、これだと思う佳い作を選べた。
平成から先を担って行く人だ、骨董ではいけない、新世紀に壽命長い優れた藝術品をと選んだ。むろん気に入られるかどうかは分からない。楽屋でお茶をたてて喫むという人なので、さぁ、ちょっと気になる点もありはするが、五十年も稽古に日用に、じつは今日までも愛用してきた黒楽茶碗も、できればバトンタッチして貰いたくて上に添えることにした。
公演中でもあり、手渡しはしないし、顔を合わせたり話したりはじつは苦手なので、楽屋へも通らない。明日、番頭さんに預ける。なんとなく気持ちもウキウキする。
* 骨董や、ことに茶道具は、あとへ遺さない。愛用するには斯道への素養がいる。素養のない人には無用の品、使いようがない。繪や繪軸は装飾的に建日子にでも愛用できる。欲しがるモノはみな遣る。出来れば深い趣味の力を進んで養って愛好してくれるならどんなに安心か知れないのだが、そういう気も力も今はまるで持ち合わせていない。それが書いたり創ったりしている仕事に浮薄に露呈されている。少しも早く、いい眼を創ってほしい。
真贋はあげつらわないが、わたしの気に入っている消息や墨跡や書軸は趣味のある人に贈ってしまいたい。道具屋に売る気は、ほとんど無い。甥の黒川創がもっと再々姿を見せてくれればと願うのだが。彼はとにもかくにも「若冲」を書いて世に出た作家だ。姪の街子も繪の描ける子だ。美しい良いものには心惹かれることだろうが。
* 節分も過ぎたので、寶船も、また宗旦の水仙の文もしまい、玄関に、「画所預従五位下土佐守藤原光貞」と細字である、じつに品位の佳い雛の繪軸を掛けてみた。大きめの蛤貝のなかに、御所風の雛一対が描かれ、その蛤二つといい背後の柳の枝葉といい、たいした写実の技が美麗。叔母が古門前の林から預かってきて、この「光貞」をどう思うかと聞かれた。美学など学んでいた咎のようなものだったが、わたしは叔母に買っておくように強くすすめた。学生の昔のことだ。もうあまり露わに外へ晒さない方がいい華奢な繪であるが、雛祭りにはよく掛けていたから、朝日子は観れば懐かしいだろう。
2011 2・9 113
* 連休も半ば、過ぎたらしい。
* いつ、どこで、何があってと皆目憶えていないが、赤樂ふうの茶碗がわたしの手元に、半世紀の余も、ま、大事に仕舞われていた。前にもすこし書いたが、弥栄中学の若い元気な先生が、四人で寄せ書きされ、茶碗屋が焼いたものである。それを戴いた。五十年愛用してきた黒樂を、楽屋で気楽に使ってと、最近、役者の市川染五郎君にあげたあと、この赤茶碗を思いだし、これは茶碗としてたいした物でないが、先生方の思い出は懐かしく、日々の喫茶に用いている。
橋田二朗画伯 青年の頃の樂描き
四人の先生のうちお二人とはさほど縁がなかったけれど、お二人、橋田二朗先生と西池季昭先生とは、図画の橋田先生が去年、数学の西池先生は十年近く前に亡くなるまで、筆紙につくせず可愛がっていただいた。西池先生は「死生命在リ」と書いて署名されている。お二人とも、まだ勉学中でもあるほどの二十歳代半ばか前半であったろう。
橋田先生の速筆の裸婦、おもしろい。今月掲げてある扇面でもわかるように、花卉や鳥類をこまやかにじつに美しく描かれる方であったが、青年の向こう意気のうかがえる骨太なこの、裸婦、好きだ。
2011 5・3 116
十世柏叟宗室「閑事」 永楽和全「玉取獅子鉢」河濱支流
* 七月の逝くを送りながら、心静かに身近を新たにした。
裏千家認得齋の「閑事」二字は、いまの私にはもっとも貴い。由緒伝来のあれこれあったらしく軸装に傷みもないでないが、上下の金彩はまぶしいほど美しく、わびた表装がなつかしい。嗣子玄々齋に恵まれ、妻も弟子も子女も優れた茶人として知られた。
永楽十二代和全は名手父保全をもしのぐ歴代中の名人。模呉須赤繪の塙いで精緻な「玉取嗣子鉢」は七十二翁としての代表作で、紀州藩より贈られた金印「河濱支流」が刻されてある。
いま、私を静かに静かに励ましてこの上のものは無い。 観音像は妻の父母より伝えてきた持仏。下棚には古典全集と志賀直哉全集。
2011 7・31 118
* 永楽和全が七十余歳での造、「河濱支流」印のある赤繪呉須の「珠取獅子」盂を楽しんだあと、裏千家淡々齋の箱書された、何代だろう三浦竹泉の造「祥瑞写捻」の美しい水指を柏叟筆「閑事」の軸前に出してみた。手の佳い造りで胴より下を豪快に捻ってある。共蓋で、しっかりと大ぶり。いまの竹泉さんは大学の先輩で、ずうっと「湖(うみ)の本」 を支援して下さっている。お尋ねすれば何代さんの造であるかはすぐ分かる。「竹泉」は磁器、そしてきわめて華麗ないい仕事をみせてくれる。やはり何代と記憶しないが豪奢に丈高い瓶花生も家にあるはず。
こういう美術品は、ただ箱に入れて雑然と死蔵されてしまってはモノに対し申し訳ない。建日子が、趣味と眼とを養いながら、収蔵もし観賞も出来る、設えのいい家を持ってくれると何よりなのだが。
2011 10・19 121
* 裏千家十三世圓能齋の書になる細長軸「紅葉舞秋風」を、叔母の社中で、わたしも六十年來つきあってきた方に、今日謹呈した。
十四世淡々齋家元の箱書がある。古門前の林樂庵に宛て「又拙庵」が贈りものにした熨斗書きもついていて、由緒伝来の明瞭な品である。
叔母宗陽が終焉まで永く永く社中として出精し、叔母亡きあともわたしの「湖の本」を欠かさず購読しつづけてくれた、いわばわたしにとっても、少なくも五、六歳姉弟子に当たる有り難い人。何十年も顔を合わしていない人。
2011 11・17 122
* むかし淡交社の呉れた『原色茶道大辞典』は愛読書の一冊で、見開き二頁に、多い場合五つほども原色写真が出ている、 その記事を読んで行くだけで、なんとも趣味のいい楽しみになる。
「昨夢軒」などと茶席もある。
染井吉野、山椿あるいは桜鏡など花の写真や花生も観られる。
「櫻川釜」などと釜の写真も、むろん名碗や墨跡や菓子・干菓子の写真も出ているから見飽きることがない。
辞典を読むなど索漠とした印象のようで、これは少しもそうでない。じつに珍しい物にも出会える。
今は圓能齋好みの「猿臂棚」を観ていた。客付のハシラ一本に竹が用いられ、弓張りの透かしがあって、運び水指が入る。中棚に薄茶器、天板に羽帚と香合、あるいは柄杓と蓋置を莊る。
大振りな時代ものの源氏車蒔絵平棗を莊ってみたい。水指にはいまも毎日観ている華麗な竹泉造祥瑞の捻がそのままぴったりだろう。そういう想像も楽しめる
2011 11・20 122
* 贈った「紅葉舞秋風」圓能齋筆・淡々齋箱書の細長軸、さしあげた中村宗冨さんの、まさしく傘寿のお祝いに当たっていたと、喜びのお手紙を戴いた。叔母の稽古場で、多年に亘り何度も目にされていた一軸で、きっと記憶されていたろう、それはそれは喜んで下さって、わたしも嬉しい。叔母のお弟子たちも、あの人もこの人もと、思い出せば大方がもう亡くなられている。
八十の御慶ともあわせ喜んで貰えて、ほんとうによかった。
来年は辰歳。龍の繪を白く胴に描いた樂何代か、たしか惺入造の赤茶碗が、わが家のどこかに蔵われてあると想う、久々に見たいと思うが、さ、どこに在るだろう。叔母に借りてこの茶碗をつかい、誕生祝いにささやかに自宅で茶会をした人を思い出す。辰年生まれの龍ちゃん、愛らしいお嬢さんだったが、もう一、二年もすれば古稀を迎える京の人だ。同じ茶碗で古稀の茶をたててくれないかなあ。
2011 11・22 122
* 古備前、矢筈口の耳付水指で、銘「餓鬼腹」という豪快なのを探し当てた。「閑事」の軸前に置くと、威風あたりを払う堂々とした品。備前焼でも秀作によく出会う特色有る「垂れ耳」もおもしろく、華麗な石もの竹泉の祥瑞捻水指とは趣変わって、しかも立派。竹泉と並べると対象の妙と同様の貫禄とで、目にゆたかな協奏曲すらきこえてくる。
茶道具の中でも水指はおおものに属していて、嵩高く重たくもあるが、床の間とともに、茶席一座の印象を決定づける。もう数点も在ると記憶しているので、部屋の片づいている内にしかと目にしておきたい。
2011 11・29 122
* 電灯を消したのは一時半だった、二度手洗いに立ち、二度目はまだほの暗い六時過ぎだった、八時半には朝が来るなと思い、もう一度床に入ってからながい夢を見ていて、あまり息苦しくて起きたとき、午まえになっていた。
いくらでも寝られる、それはいいが夢は見ないで寝たい。大勢での、乗り物に乗ったり歩いたり遠足感覚の夢で、なにの不快な出来事もないのに不安感が波立っていた。もがくように目を明いた。
今日明日までかかると想っていた本の発送がこころもち早く済み、それだけ疲労は濃いか。
柏叟の二字「閑事」の軸をかけていらい、これを公案のように見つめているが、はるかにまだ霞んでしか読めない。胸奥にこの境涯が沈んでいないのだ。まだまだむしろ「 多事」や「他事」がとぐろを巻いているということ。黯然とする。
* 堂本印象描く一軸、寂寞として朱い「木守り」の柿一つを観ている。題には「澄秋」とあるが師走へかけて十日頃までは佳いだろう。寂しいが花なりの命が虚空に澄んでいる。
2011 11・30 122
* 井口哲郎さんの、陶淵明南山詩を大きく刻し燦然金彩された板を、頂戴した。機械のある此の、一日で最も永く身を置いている書斎に掛ける。荻原井泉水さんの「風 花」二大字、秋艸道人の「学規」も此処に在る。気持ちの一等暖かになる、部屋。
* 『利休好み 釣瓶水指』 のあるのを確認した。函蓋内に「利休好み水指」「宗室判認(宗室という独特の二字は玄々齋筆かと思われるが、判認= この二字は別筆か)」「小兵衛」の作とある。函底裏にも「小兵衛」と署名し「小」の小判印。この指物師らしい作者名は直ぐには確認できない。割蓋の一枚裏にも彫り込み様に 丸印 がある。香りの残った檜の柾目造。
「釣瓶水指 武野紹鴎が井戸から汲上げたままの水を水屋に置くために、木地で好んだのが最初という。当時盛んに用いられている。利休好みは檜の柾目を用い、外法長さ上部で七寸一分半、横七寸、下で少し狭まり深さは内法五寸五分、鐵釘で止める。一文字の角の手付で二枚の割蓋が添うている。妙喜庵好みは松材。木地のもののほかに春慶塗のものなどもある。古くは用いるたびに新調したが、後年では伝来ものが尊重されるようになった。」(原色茶道大辞典)
「木地釣瓶 檜の木地を用いた水指。十分に水で濡らして使う。名水点といって周囲に注連を施すこともある。紹鴎が井戸から汲上げたままに水溜として置いておこうと、木地を好んだのが最初とされる。それを利休が小座敷に侘びて面白いと席中に用いた。利休在判のものや、玄々齋宗室の教歌直書のもの、淡々齋好みの竹張りのものなどがある。(原色茶道大辞典)」
大辞典の「利休好み」記載を忠実に満たしている。函内の底に紙袋に入れて叔母宗陽の用いたらしい注連が残されていて、桶の中には「名水点」作法などの解説された雑誌「淡交」一冊が巻いて入れてあった。
かすかな記憶だがわたしも一度だけこの水指での作法を稽古したように思う。いまのところ作者「小兵衛」が未確認だが、指物としては大辞典の記載にそのままの謹直な造りで面白い。 檜の香りがなつかしい。
2011 12・7 123
* 夕方、建日子、都内から自転車で来訪、夕食を倶にし、古備前の餓鬼腹や利休好み釣瓶水指や竹泉の名品など、また楽九代や大樋五代の名人藝の茶碗など観て、嘆賞久し。自転車で持ち帰られてはたいへんなので、平に容赦願う。
家狭くて。処分を急ぎたい。時折のこうした棚卸しで楽しんでいる。佳い物はいい。が、出すのもまた蔵うのにも気を使う。
2011 12・22 123
茶の湯12
* 昨夜、床に就くまえにロサンゼルスへ送ったメールが、なぜか不通で戻ってきた。早く伝えたかったもので、あるいは此の場の方が向こうで目に留まるかも知れず、転載しておく。私の気持ちとして伝わっていて欲しい。
☆ 親愛なる**さん 恒平
先だってはお電話でお見舞い下さり有難う存じました。日々のことは、おおかたホームページの日記のとおりです。ご安心下さいともご心配下さいとも言えない、いまぶん従来とたいして変わりません。あと何度か検査通院がありまして、二月には入院し手術、尋常にすめば三週間ほどで退院と聞いています。
そんなことは、そんなこと。私も、たいてい忘れているようにしています。
それより、下記に添付のように、**宗千先生に「謹呈」の一行ものが用意してあります。郵便で破損などあってもつまりませんので、次回日本へお帰りの時に、元気なら私から、弱っていれば家内からお手渡しします。ご遠慮無くご笑納下さい。
海を越えて茶の湯のためにはるばる参るのに、「四海皆茶人」という字句は最適の、またいかなる時にも場所にも本席掛けして恥ずかしくない、堂々として見事な円能齋の書蹟です。お楽しみのためにあえて写真を添えません。
ことにこの軸・一行もの、は、円能齋自筆のしっかりした蓋裏の箱書きに加えて、淡々齋による蓋表に自筆の極め箱書きが付いており、そればかりか、この軸がどういう時と機会に贈り先「林楽庵」に淡々齋家元から「贈呈」されたか、美しい継色紙の「千宗室 今日庵」書簡が付属しています。明らかに亡き円能齋を記念した楽庵の茶会に家元から感謝の鄭重な礼状であり、家元と楽庵との親交もよく知れて、この手紙そのものを美しく表具することも貴重で可能と思います。虫食っていましても、封筒もぜひ大切に保管され、表具されるならぜひとも封筒・本紙ともども京都の表具屋でなさるように奨めます。
今の家元、前の家元、また裏千家の高弟たち、誰が観られても、「これは」と感じ入るであろうこと請け合い、大いばりでご愛蔵なさいますように。
とにもかくにも、またお帰りになる機会を私ども楽しみに待っています。
裏千家十三世円能齋筆一行「四海皆茶人」控え
軸箱
蓋表 「円能齋筆一行もの 四海皆茶人とあり 宗淑淡」
(宗叔=十四世淡々齋の若宗匠時代の茶名)
蓋裏 「自筆一行 四海皆茶人 円能宗室 花押」
(蓋裏 上桟落ち)
本軸 「四海皆茶人 円能齋花押書中にあり 和敬清寂朱印」わび表具
(書 堂々の大字 軸 悠々長)
付き物 書簡巻紙 青地白地の継紙 一通 虫食いなれど
封表 「市内古門前 林楽庵様 御直披」西陣 13.10.1 午后発 参銭切手消印
封裏 「〆 小川( 以下虫食いで判読不能) 千宗室 十月一日」
本紙
拝啓
昨日は久方振りの暁会
御招きに預り特に故先代
円能齋の為に御追悼之
意を以て御道具萬事
萬端之御心尽しにて 一入
感慨無量に奉存候
定めし地下の故人も満足
に思居る事と存候 右厚く
御禮申上候 猶今後
一増御後援賜り度く伏し
て願上候 先以右 御礼
かたがた 御願ひ迄
敬具
拾月一日 今日庵 (昭和十三年かと。大正十三年も否定できないが。)
林 楽庵雅主
(円能齋からの贈り物でなく、嗣子淡々齋の謹呈一軸であることは、蓋表の淡々齋箱書で明瞭。軸はそれ以前から今日庵に所持されていたものを特に感謝の意を添えて林楽庵に献呈したものと。林楽庵は、古門前一帯に一族蟠踞した当時茶道具骨董を商う富裕の豪商でした。箱脇の札は「楽庵」所持の控え番号。) 平成二十四年一月二十一日 秦宗遠記
なお、お道具のことなどますます楽しまれる上で、淡交社刊『原色茶道大辞典』はお楽しみになれる必需の一冊。おついでの折に京都のお友達から送って貰われますように。
お二方のご健康を心より願っていますよ。 恒平・宗遠
* 可能ならゆうひつがきでたとえあつたとしても書簡は侘びた表具をされておくと宜しく、また軸箱の蓋の表にも裏にも二代の家元の箱書きがあって時代がついてきている。二重箱をこしらえて当代か先代かの箱書きをもらっておくと、ものが裏千家内の相承ではあり、流儀の人には感銘を与えるに違いない。
2012 1/30 124
* 夜前は、疲労というか何というか、とにかくも床に就き、幸い七時まで起きなかった。大事を取りもう一度寝入って十時頃まで。妻が電話で話しているらしかつた。ロサンゼルスかららしかった。連絡が付いて、よかった。
* わたしが叔母宗陽から引き継いだ茶道具を人さまに手渡しているのは、真実差し上げているのであり、売る気など毛頭無い。売るならその筋の商人に売る。売る気は、全然無いことを明記しておく。すこしも気遣いなくまさに笑納願いたい。願いはただただそれが茶の湯の場で生きてくれること、それのみ。
この世界のヘンなのは、流儀の埒のきついことで、どんなに佳い道具でもたとえば表千家のものを、例えば裏千家教授であった叔母が茶会で用いると、多少の悪声を聞かねばならなかった。ヘンな話だ。叔母は表の道具も他流のもすこしは蔵っていたが、流儀モノとしてはやはり裏のものが多い。ところが東京での比較的身辺の茶の湯人には表を習ってきた人が多い。やれやれ、である。 今一つ美術骨董には愛好者にはその人なりのクセも好みもあり、関心のうすいひとには、あまり好まれない。流儀を離れた繪や書でも、同じ事。それで、必要以上に気遣いしてしまい、ときには落胆もする。
2012 1・31 124
* 夜来の雨おやみなく時に激しく。出掛けねばならぬ用事無く、何の約束ごともない。雨を聴きながら家で好きにしていられるありがたさは、贅沢である。
* 夥しい保存資料が整理用抽出しの百棚ほどに溢れているのを、折ごとに整理し不要ななかみは捨てようとしている、が、捨ててしまえるものは少ない。そうかといっていつか役に立つかというと、アテにならない。愛着や執着の成せる堆積と言わねばならぬ。
今日もみていたら、「1953ー4~」とあるB5の古いノートを見付けた。
「茶道」「京都市立 日吉ヶ丘高等学校」「会計」と表紙に有る。
もっと小型帳面で、毛筆で表紙に「昭和廿七年発足 茶道部 日吉ヶ丘高校 金銭出納簿」としたのも挟み込んであり、茶道部の会計帳に、他の備忘や記録や部員名簿などが書き込まれてある。茶道部の出来たのが一九五二年と分かる。その年、わたしは高二であった。
わたし自身の筆蹟は殆ど見当たらないが、懐かしい部員の名前はほぼ残りなく随時に繰り返し記録されていて、稽古日ごとの菓子や茶などの領収書もたくさん挟み込んである。また茶籠など携え嵯峨野に野点にでかけたりした顔ぶれも分かる。
なかに、ノートの一枚を切り取ったのに、わたしのペン字で、茶道部稽古用の刷毛目茶碗と菓子鉢とを五条の京都陶磁会館販売部で買った「日吉ヶ丘高茶道部殿」への領
収書が写し書いてある。「29年9月10日」の日付は、わたしがもう大学一年生であったことを示している。つまりその頃までも高校茶道部の稽古を指導しに母校へ出向いていたのである。
そんなことより、同じノート紙片に「菅原万佐」の名で、まぎれないわたしの高三時短歌が四首書き込んである。後の歌集『少年』にはみな洩れている。文化祭といわず、何かしら学校に来客などあると、茶道部は接待を頼まれた。校長室に立礼の設えもありそこでも茶を点てたりした。学内に指導できる先生がなく、創部のときからわたしが点前作法などを部員に教えていた。裏千家の茶名宗遠は、叔母宗陽のもとでちょうど高校卒業と同時にゆるされていた。家ではしばしば叔母の代稽古もしていた。
昭和廿八年文化祭協賛茶席を設けし日に
射し添へる日かげをうすみほのぼのとあかき帛紗の沁みてなつかし
のこり火の火の消えぬがに夕づけばのこせる香を薫きゐたりけり
すさびとは吾が思はぬに目にしみる夕陽のいろを茶室にみをり
山なみは目にあかくしてけふひと日かく生きたりと丘の上に佇つ
日吉ヶ丘の高みに建つ母校の、美術コース専用校舎二階には、当時著名な茶室建築家が設計し、やはり著名な哲学者久松真一氏が「雲岫」席と名付けられた、八畳間の佳い茶室が出来ていた。わたしたちの茶道部は、其処を我が物のようにいつも使っていた。襖ひとえの奥には、日本画などの画室にも使われたのだろう畳敷きの大広間が接していた。西向きの小窓からは、京の西山なみが夕方には落日にあかく染まり、東寺五重塔の水煙が目の高さに遠くほのかに見えていた。
男子部員は、わたしが指導していた頃には一人もいなかった。多いとき女子部員は廿人以上もいたか。中にはもう、亡くなった人も何人かあり、いまもメールを呉れ、湖の本を愛読してくれる人が何人もいる。「あかき帛紗の沁みてなつかし」い人もいたに違いないが、覚えていない。
* こういうことでは、とてもモノが片づかない、捨てきれない。 2012 5・3 128
* さて。午后にはロスから帰来の池宮さんに会う。約束の「 四海皆茶人」の一軸を贈るために。圓能齋の雄渾の書に淡々齋の懇切で美しい極めの書状も付いている。海を越えて「四海皆茶人」の志が生きると思うと、わたしも嬉しい。なにか、もう一品加えようかと思っている。
そのあと、妻と、新橋演舞場の「椿説弓張月」を楽しむ。三島由紀夫の脚色演出。それも楽しみにしている。体調が安定していてくれますよう。
* 裏千家十三世円能齋筆一行「四海皆茶人」控え
軸箱
蓋表 「円能齋筆一行もの 四海皆茶人とあり 宗淑淡」
(宗叔=十四世淡々齋の若宗匠時代の茶名)
蓋裏 「自筆一行 四海皆茶人 円能宗室 花押」
(蓋裏 上桟落ち)
本軸 「四海皆茶人 円能齋花押書中にあり 和敬清寂朱印」わび表具
(書 堂々の大字 軸 悠々長)
付き物 書簡巻紙 青地白地の継紙 一通 虫食いなれど
封表 「市内古門前 林楽庵様 御直披」西陣 13.10.1 午后発 参銭切手消印
封裏 「〆 小川( 以下虫食いで判読不能) 千宗室 十月一日」
本紙
拝啓
昨日は久方振りの暁会
御招きに預り特に故先代
円能齋の為に御追悼之
意を以て御道具萬事
萬端之御心尽しにて 一入
感慨無量に奉存候
定めし地下の故人も満足
に思居る事と存候 右厚く
御禮申上候 猶今後
一増御後援賜り度く伏し
て願上候 先以右 御礼
かたがた 御願ひ迄
敬具
拾月一日 今日庵 (昭和十三年かと。大正十三年も否定できないが。)
林 楽庵雅主
(円能齋からの贈り物でなく、嗣子淡々齋からの謹呈一軸であることは、蓋表の淡々齋箱書で明瞭。軸はそれ以前から今日庵に所持されていたものを特に感謝の意を添えて林楽庵に献呈したものと。林楽庵は、古門前一帯に一族蟠踞した当時茶道具骨董を商う富裕の豪商。箱脇の札は「楽庵」所持の控え番号。) 平成二十四年一月二十一日 宗遠記
* 虫食いの巻紙の手紙は、風炉先としてでも表具されれば、「四海皆茶人」の床掛けと共映えして茶席を豊かにするだろう。
加えて、梅模様のしっかりした仕覆付き、肩衝茶入も進上した。かすかに、しかし、美しい翠釉が一刷けしたように流れている。箱は見付からず、はだかで鞄へ突っ込んで行った。あやうく渡し忘れそうになった。
いずれもいずれも活きて愛されてほしい。
2012 5・12 128
* 時代が古いことでは、もうすぐ掛けようと思っている「義政」の「海上蛍」と題した歌短冊が手元にあり、さすがに半信半疑だが豪奢な表具が気に入っている。「表具の値段や思て買おとおきやす」と出入りの道具屋に叔母が薦められれていたのを覚えている。わたしも賛成した。短冊そのものも古色を保って高雅で、書も捨てたものでない。将軍というより趣味者であった足利義政を想像しながら例年、 季節になると持ち出している。
じつは、それよりはるかに気に掛けている物に、大徳寺「江月宗玩」自筆の梅繪に賛という一軸があり、「伝来を証した書簡」と古筆了以の「極め」が附随している。江月は、大徳寺住持で後水尾天皇より大梁興宗禅師の号を勅賜されている。信長や秀吉に仕えた堺の大商人で大茶人であった津田宗及の子であり、堺の南宗寺住持でもあった。
書をみるのは何より好き。厚かましくも岡倉天心、幸田露伴から會津八一や魯山人ら名だたる十八人の名前をならべた井上靖監修古美術読本「書蹟」巻を編集(光文社 知恵の森文庫)してもいるのだが、「古筆」の鑑定はとても出来ない。しかし、何となくわたしは此の江月繪賛に真蹟の匂いをかいでいる。遺墨は比較的多く伝存し珍重されていると『原色茶道大辞典』にもある。古筆研究の小松茂美さんがお元気な間に鑑て貰っておきたかった。
同じく千家茶道の祖である、利休の孫、千宗旦の消息を仕立てた、いかにも時代の一軸も手元にある。およその読みも利いて、これまた茶掛けとして風雅な感触に満ちていて、大事にしている。
義政の短冊はともあれ、江月も宗旦も、真蹟と知れればわたしなどが握りしめているより、しかるべき施設に寄付していいとも思っている。
なににしても思い屈するようなとき、美しさも奥行き深い書や工藝の数々に目をふれては、励まされ癒やされる。なかなか家常の什物としては扱いにくい物もあるが、軸や額は掛けて楽しめる。
2012 6・2 129
* 今日ほど疲労して食餌も摂れずに苦しいと、わたしも、ひたすら「ねむり」たい。
* こういう時、余念無く所蔵の茶道具の包みをといて楽しむのもいい。からだはいくらいたぶられても、気持ちは負けまいと思う。 2012 7・3 130
* 朝の食事しながら雑誌「茶道の研究」九月号の口絵写真を眺めていた。「竹一重切花入れ」は十六世紀千利休の作、高さ31.6センチ、口径12.6センチ、堂々の貫禄で、今は永青文庫に在る。「これ以上ない簡素さ」と解説されてありその通りだが、筒内面の黒漆といい、正面大きな縦割れには黒の竹を埋めて鎹の修理がしてある、それすらが見どころになっていて、簡素を超えて出た美意識の参加が生きている。
こういう道具の美しさを、見落とすどころかしかと創りだし、かつ守り育ててきた日本の魂に感嘆する。
* もう一つ、国宝の孤篷庵蔵、大井戸茶碗、銘喜左衛門のいつ写真で見ても引き寄せられる真の安定美。柳宗悦は昭和六年に、河合寛次郎と共に大徳寺孤篷庵でこれを見て、「飾り気のない平々坦々たる姿」に感動し、「世にも簡単な茶碗」と絶賛した。この「簡単」誤り見てはならない。それはあらゆる堂々、本格をはらんだ大いさで、揺るぎなくそのそこに平然と在る。姿、色、景色とも「飾り気」なく「平々坦々美」に徹して最高度に美しい。「国宝」であることに喜びを覚える。
茶の湯の世間では、このような美の馳走・振舞にしばしば出逢える幸せがある。
2012 9・2 132
☆ 恒平様
そちらは早やさむくなってゐるようですね。
先日は湖の本113と続いて京のわる口 お贈り頂きましてありがとうございました。
私も「ミマン」の読者で最后迄拝見して居りました。何時も次頁に幸四郎夫人の美しい和服姿も楽しみにしてゐました。
京のわる口は半分程読んだ頃友達が持って帰りましたので私は初版を読み直して居ります。
楽しいですね。でも 中々通じない人ばかりでつまらないです、田舎の人が多いので。
こちらも少し寒くなり もう椿が咲き始めました。
細水指と秋の野のお薄器 使わせて頂いてます。表さんの友達がうらやましがってゐます。
見る程に美しいおなつめで 嬉しい嬉しい思をさせて頂いてます。 ありがとうございます。
どうぞお体お大切にお過し下さいませ。ありがとうございました。 ロス 千 茶人 読者
* 差し上げた茶の道具が実地に使われているのは、ことに嬉しい。ハズバンドさんの御健勝が切に願われます。
2012 11・12 134
* お手紙はかように有難くたくさん頂戴するが、メールの方はこのところ、ずうっと殺到する不良メール「SPAM」のみ。今日も、数十の全部、即座に削除。そんなことでメルアドを変更したいと願うものの、ホームページなどでもややこしい「要変更」があると手に負えない、未だに手を拱いています。
そんなことを書いていたら、嬉しい便りがメールで。感謝。
☆ お花便り 紅葉の京都
遠様
暫くご無沙汰でした、すっかり紅葉の頃になりました。
HP では頑張ったはるけど、大変にご無理の様ですね、自転車がこわいです、良く此れまで来れたと喜んでいます。
私にも、色々なことで問題有りです。
(日吉ヶ丘高校)雲岫会 の事 お話したいけど 時代も変わった今、此方がくたびれて来ました。春 頑張って最後のお茶会をと努力しました。今年も 11. 12 月楽しく集います。
後はとくに考えが纏りません。暫くは今までどうりかな?
日吉ヶ丘に新しいお茶室が出来てからでも35年になります。私も後期高齢者になります。
今月は、炉開きで、椿はまだ硬くて、菊とさねかずらを、ひさごの花瓶に入れて見ました。
しばらく天候が悪いらしいので体調に気をつけてください。 華
* 長い長いあいだ母校の茶道部をまもってもらってきた。お疲れさん。
2012 11・12 134
☆ 湖へ
夏に御連絡とてから、ずい分季節が過ぎてしまいました。治療の御様子や血圧、血糖、体重にハラハラしながら、日々は「私語の刻」でお近くに感じていました。
目のことも丁度注意情報が届いたところだったので、御連絡しようと思ったなか、ちゃんとすぐにお声かけ下さる方がいらして、遠くホッとしつつ心配ばかりでした。お役に立てず申し訳ないと思っています。
私の今年は、こういう時期なのでしょうが、それこそ次々に……という有様で、仕事も私生活も予想外の展開になることばかり…仕方ないと、ただただ一日一日を考えすぎずに過ごしてきました。ようやく暮れになり、”無事”という言葉の意味を考えつつ、新しき年がすぐ近いことに驚いています。
秋頃から、自分が求めた品で、温められたり、ホッとしたりすると、湖にもお届けしたいと買っていた品が、気がつけばクリスマス近くになっていましたが、お届け致しますので御笑納下さい。
今年の冬は寒さの駆け足が速く、例年より冷えるような気がします。薬草の臭さはありますが、電子レンジ1分半ほど温めると、肩やお腹にのせて温かく過ごせると思います。お試し下さい。
あと少しでお誕生日ですね。今年の大切な日にお元気でいらして下さることに、心から感謝します。
転移の検査結果にホッと一息。召し上がることの不自由さ、目のこととあると思いますが、どうぞ日々を遠く祈る読者や私のために、一日一日を元気でお過ごし下さい、祈ってます。
メールがおっくうになっています。
私も今年は目の調子が悪く、仕事のPCでもウンザリなので、自宅ではできるだけPCを使わないようにしています。そんなことで、まとまりのないお手紙ですが、お許し下さい。
湖のこと、想っています。どうぞ、お元気で。どうか、お元気で、湖。
またお手紙書きます。 珠 12月15日
* お誕生祝は別便で送ります。(この便の)これは、ためこんでいた品……まとまりのない 珠 です。
* 優しい心づかいで、いわゆる古来「消息」文の温かい佳い雰囲気に包まれた。ありがとう、珠。プリシラ・アーンのティスクも、ユーモラスなもて遊びものも、温まる薬湯も、ありがとう。
もう今年の早くに御見舞に戴いた名菓の包装に、華奢に竹ひごを磨いて編んでしかも上部は竹のまま編みもせずひゅうっと伸びた。これが中身何にも無くなってからカラのまま棚にかざってみると、なまじの壺や花よりも飄々と美しくとても見栄えがするので、ずうっと棚の中央、掛けた繪のましたに主役然と今もまさに「かるみ」の威儀を正している。この人は、こういうモノをさらりと呉れる人。
* 上の竹籠も、見立てで他を圧して生きているが、もう一つ、わたしの目で見て佳いぞと惚れ込んでいる水指ようの壺がある。何あろう和歌山の梅干しを壺のまま下さった或る画家からのもらいものだが、壺がすこぶる軽妙に安定していて、塗りの蓋を奢れば、何の何物という由緒来歴とは無縁でも、「わたし」の愛蔵した壺として生きて行けるのではないかなどと自惚れてみたくもなる。それほど、さらりとサマになって美しい壺が来ていたのである。梅干しは美味しく戴いたその空いた壺をわたしは、別の棚に干支の小物などとわざと一緒に飾っている。
竹といい壺といい「見立て」れば、思いがけぬ佳い一画を家のうちに創り出せる、茶の湯とは、こういうこころざしを生かした藝であるかと想われる。
2012 12・17 135
* 「騒壇余人」の印を、小松の井口さんに頂戴しているのを、もすこし大びらに用いたい。
今ひとつ念頭でうそぶいている私号がある。「有即斎」です、今書いているフィクションの中で使っていて、その「うそくさい」のが気に入っています。「退蔵」という二字をときどき使っている。新井白石に教わった。肩書きを取り払い平服で生きるといった意味と理会している。裏千家から高校卒業時に希望して受けた茶名が、「宗遠」。これも気に入っている。
「退蔵院有即斎宗遠居士」と死後に坊さんが呼んでくれるかどうか、何にしても自己「批評」と心得ています。
2012 12・19 135
茶の湯13
* 正月の飾りに掛けていた鵬雲斎の「壽」字軸を仕舞い、かわりに都路華香の筆になる洒脱な大軸を掛けてみた。大きな太い線描きの雪だるまが面白く、「百尺の竿振って松の雪払ふ」とある句の字も面白い。
鵬雲斎の軸に添えた父君淡々斎がまだ「宗淑」若宗匠時代の細身の蒔絵薄器「末広」を仕舞い、代わりに時代物、片輪車を螺鈿も用いて蒔絵した大ぶりの平棗を裾に置いてみた。いい感じに他の置物ともよく映って、おさまっている。わたしの気も落ち着いている。 2013 1・28 136
* 金沢の、文化勲章陶藝家、十代大樋長左衛門年朗さんから東京で個展をするからと案内が来た。大樋は好きな焼き物で、わたしも五代か六代あたりの名碗を二枚所持している。楽のわかれで、楽には当代吉左衛門が天才を発揮している。楽の碗は一入作以下数碗を愛蔵している、が、本当に適当な人が出来れば差し上げてモノの命をのびやかに生かしてやりたいと願っている。道具は、ほんとうにものが分かって心から愛しうる人のもとでないと、孤独死してしまう。
2013 2・18 137
* 昨日、ロサンゼルスより来信。 さしあげた圓能齋筆、淡々齋極め進呈書状、林楽庵旧蔵の「四海皆茶人」軸が初釜席の床にどっしり映えていた。いい国、良い場所に場所を得て生かされていて、嬉しい。
ご主人が入院というのが気がかり。どうか回復の速やかでありますように。
2013 3・5 138
* 一昨日、京祇園で茶の湯をひさしく楽しんでいる人、弥栄中学三年生で同級だった人、湖の本を創刊以来支援し続けてくれた人に、淡々齋の箱書付き、「一位」の木で仕立てた「香合」を謹呈した。まん円い平な香合で、一見、蓋も身も深い飴塗り、だが、蓋を払うと蓋裏も身の内も輝く金、みごと鳳凰が晴れ晴れと描かれてある。
祇園の人なので祇園さんゆかりの軸もの、岸連山が安政のむかし、ハリスが江戸城へあがった年に描いている「祇園社御手水場」の瀟洒な繪がどうtと思っていたが、やや本紙にやつれが見えるので、美しく晴れだつ香合を贈ることにした。
* いまわが家の手洗いには、唐銅の耳付瓶に、妻が南天の花と葉とをおもいきり晴れやかに、巧みに取り纏めてさしてくれてある。南天は白い米をまいたような花も、真緑のきりっとした葉の姿かたちも、意気である。赤い実だけが南天ではない。
唐銅耳付瓶は、京の美術商の林が、これは手放さんとだいじにおしやすやと念を押して呉れていた品で、どのように花木をあしらってもみごとに受け容れてくれる。愛している。
茶の間には、いまは淡々齋筆、簡素な「語是心苗」の軸を拳々服膺している。
* もう十一時。
2013 6・9 141
* 村上開新堂の山本さんからクッキー詰めのまた一函を、朝いちばんに頂戴した。退院以来、三度目。
この老舗中の老舗の菓子は、信じられぬほど美味い。「上等」という言葉が京育ちの子供の頃、とびきり掛け値無しの「褒め言葉」であったが、その「上等」が思わず口をついて出る。高価とか高級という語感と異なり、あの、人やモノなかなかを褒めない京都人が、「上等やな」と口にするときの言葉は、いかにも賛同・賞賛の思いで胸に温かい。山本さんもまた、そういう上等な人である。四半世紀を超えて、しかもたった一度か、せいぜい二度半蔵門のお店「dokan=道灌」で会ったかどうか。遠いお人と思ったことがない。そういう人をわたしは何人も持っているのが誇りだ。
茶の湯を習い始めたのは小学校五年生ころのこと。ほぼ同時に師匠の叔母が属していた裏千家の「淡交会」という名も聞き、機関誌「淡交」にもいつも幼いなりに手を触れていた。大きな意味でわたしが茶の湯から学んだのは、難しい「わび・さび」の、「和敬清寂」のよりも、「淡き交わり」という人間関係のよろしさであった。淡交でいい、淡交こそいいのだという確信が少年のころから有った。むろんそこをはみでた、はみ出たがったべつの交わりも、だからこそ当然に幾度も起きたろうけれど、それはそれでやはり永い眼で観て「淡交」へと落ち着くのであった、と、そう思っている。
2013 6・18 141
* 堂本印象の「あやめ」を巻き、さて、岸連山「祇園社御手洗い場」の瀟洒に心涼しい軸をわきに添え、玄関の正面へなにを持ってこようと思案してる。季節か、胸懐か。茶の間には淡々齋筆「語是心苗」四字の懐紙を掛けている。叔母の稽古場でこの軸は一度掛かると永いあいだ掛かっていた。いつもわたしはそれに問うていた。
妻の整理していてくれる初出稿の中に、こんなのが在った。上の四字軸にも触れているので、個々へ再掲してみる。「日本語を学び直す」と題した雑誌「myb no.26 」特集(2009.03.15)に頼まれた文章です。
* 日本語を創って行く 秦 恒平
ある茶の湯の家元が書かれて「語是心苗」とある軸を、生前の叔母は稽古場によく掛けていた。もらい受けて、いま、私もときどき掛ける。理屈らしく読んだ記憶はなく、その通りと黙々納得していた。どう納得していたかを、まず書きます。
この際の「語」とは「話しことば」というにちかいが、「文」の場合もおなじで、やはり「心の苗」のように表れてくる。しかもこのI心」、不動心とも無心とも静かな心とも限らない。刻々千々に乱れ砕けて動揺ただならぬ凡心でも小心でもあり、ことばも、文も、そんなアテにならぬ頼りない心と同心し、静かにも、荒けなくも、深くも、傲慢にも外へ洩れて出る。人の「ことば」や「文」は、あまりに当然に心ざまに相応する。どう繕っても、繕いきれない。人がらは物の言いように表れる、文は人なりと昔の人の言い置いた事情は、今日とて少しも変わらない。ものの分かった人ほど、だから我々を強く戒める、真相の理解に「ことば」を信じ過ぎてはいけない、頼い過ぎてはいけない、と。まともな文士なら例外なく「文」や「ことば」への不信を身に痛く抱いていて、それが普通と思う。
「美しい日本語をとりもどすために」と編輯氏は問うてこられたが、もともと日本語「が」美しくも醜くもあるのではない。「心美しい日本人」かどうかの問題である。そしてこの問題は、私の手に余る。
私は「書き手」で、文章語を「書い」て売って、暮らしてきた。話し上手や話藝にふれて此処でもの云うのは、烏滸(おこ)がましい。自然、文学・文藝を念頭に、「書い」てあらわす「文章」について話すしかないが、これとて、立った足もとを掘り崩すような、やはり烏滸の沙汰になると、じつは甚だ気がすすまない。卑近な「感想」から書きます。
明治に、一時期「美文」が流行った。妙なモノであった。昨今は「名文」ということもあまり言わない。名文の議論はよほど多岐にわたる。安易な口出しは避けたい。
当今は「悪文」の時代であろうか。悪文にもしかし、稀々、あるいは時折り、とても個性的な「佳い悪文」があり、見捨てるばかりが読み手の能ではない。一昔まえの瀧井孝作先生や吉田健一先生の一見悪文は、また名文の一種とも謳われた。
すぐれた文学か、そうでないか。それは題材では決まらない。文体と文章。その上に造型され表現された作者の「思い」の深さ高さや、オリジナリティーないし作の品、と、ひとまず謂っておく。だらけた陳腐な物言いや決まり文句を多用し、筋書きを説明に説明して、文章を「読むうれしさ」を全然与えてくれない、それはもう「読み捨ての読みもの」に過ぎない。ほんものの「作品」備わった「作」は二度三度四度の再読を促してくる。名勝が、再訪につぐ再訪を促す魅力に富んでいるように。
この節、書きたい人がむちゃに増えている。ケイタイでも書ける。他人のものは読まないのに、自分の書いたものは読んで欲しいからか、私のところへも、見知らぬ書き手が「書いたもの」を送ってくる。
ものを書くのに、才能は、どう現れるか。少なくも一つ謂える。「推敲する」力と根気、それが創作文章での確かな「才能」です。推敲の力は、数行の書き出しだけでも分かる。一つ、(これで十分なのではない、誤解ないように。)申し上げる。「のようというのだ」と覚
えてくださると好い。
「(の)ような(ように)」「という(といった)」そして語尾の「のだ」の、この三つは、書きながらも我から首を傾げて思案した方がいい。
大概、この三つは必然の必要から書かれず、ただの口調子で書かれている。省いてしまうとピンと文章の立ってくる例が多い。この三つの頻出する文章は、たいてい、救いがたい「駄文」である。
序でながら、例の一つであるけれど、「私がすること」「あなたのなさること」の、「が」と「の」を、確かに書き分けられる人も、少ない。丈章の品位、作の「品」を左右する例が多い。
さて、では「文学」の徒は、何を大切にしてきただろう。
古めかしいかも知れないが、やはり「人間」。人を励ますという最終効果は願わしいが、過剰にそれを目的にするのは賛成でない。文学は祝言藝ではない。文学は追究・探求の「表現」藝術であり、その表現や達成が結果人を励ますモノであれば最良だろうと思う。文学が妥協の所産であるとき、必ず通俗な読みものに終わる。ひまつぶしは出来ても、人間の闇に光をさしこむことは出来ない。
では「文学表現」の本質とは何なの。その話題になると、私はいつもこう口にしてきた。
文学は(絵画である以上に)音楽です。文学の根は詩歌ですもの。優れた文体は、音楽です。「音楽」と書いて「音学」と書かなかった幸せを感じるとき、「文楽」と書かずに「文学」と書いてしまった不幸を思います、と。
しかし「音楽」もいろいろで、クラシックもジャズもシャンソンも日本の民謡もある。同様に文学・文藝の「ことば」で奏でる音楽もいろいろで、ラコニック(スパルタふう)といわれ、厳格にムダを削ぎ落とした志賀直哉ふう文体の美しさだけが達成でなく、流暢な谷崎潤一郎ふうも、絢爛たる泉鏡花ふうも、さくさくと砂を晒したような徳田秋声ふうも、じっくりと挨拶のきいた島崎藤村ふうも、それぞれに甲乙ない「文体の音楽」を奏でていて、むろん芥川龍之介も川端康成も忘れがたい。漱石や 外、なおさらである。例は幾昔かまえのに、あえて限っておく。
だいじなことは、こういった文豪たちの気息にいくら追随しても、あなたの、私の「日本語」は美しくはならない。確かなものにもならない。学べても、それだけでは、物まね。
「ことば」は、時代と手を繋いで生きる。「時代」という土壌に自覚の根をおろした自分自身の「心の苗」を育てるしか手がない。そういう「日本人」で在れるかどうかに、あなたの、私の「日本語の問題」は戻って行く。
ある漠然を蔵したふうな「美しい日本語」がだいじなのか。自己批評のするどい「いま・ここ」に芽生えた、「生き生きした現代語」がだいじなのか。そもそも「とりもどす」ようなものか。
物思い多き「書き手」たちの、その辺が日々の思案になる。態度になる。 (はた こうへい・作家、日本ペンクラブ理事)
2013 7・2 142
* 故西山松之助先生の記念本『茶杓探訪』は名杓2000本を絵入りで語られた111の手記から成っている。茶杓という、茶道具の中でもっとも茶人その人の個性・稟性の濃く表れた創意・削意と材吟味の面白さに魅される。同時にこの111編はそのまま近世茶の湯の歴史として書かれてある。有り難い、素晴らしい記念の本である。
2013 12・13 146
茶の湯14
* 応挙という画家はわたしが敬愛する何人かのなかでランクの高いひとりである。ことに、「雪松図」に胸打たれたのを快く強く自覚してきた。
もともと「松」という樹木が、杉、檜、樅などより好きで、当代最高水準の若い女優「松たか子」が贔屓なのも、実力によるのはむろんだが、端的な「松」という名乗りを、よそながら気持ちよく愛している。彼女の舞台で失望を覚えたということが絶えて無い。希有なことである。
それは、ま、よそごとであり応挙の「雪松図」にもどってあれこれ思うとき、「松風」とは耳にも目にもする言葉だし、「雪月花」という取り合わせも、幼くから馴染んだ茶の湯の場では耳にタコほどのいわば三幅対にされている。現に叔母から伝えもつ軸物で、小堀宗中筆になる「花」「月」「雪」の簡明かつ瀟洒な三幅を愛蔵している。都ホテルでの茶会で「花」の軸をかけたこともある。あの会では、そうそう、若き日の淡々斎が「好み」の美しい松を描いた「末広棗」を茶器に用いた、あの棗は叔母もわたしも大好きだったが、松本幸四郎のお祝いに、よろこんで呈上した。これま、本題を逸れたが、「松と鶴」「松と旭」などは蓬莱山の代役をするぐらいで、元日には決まってわが家の玄関を飾る秋石画の「蓬莱図」、それはが見事な巨松に鶴と旭とを配している。
まわりくどいが、つまりは「松と雪」という組み合わせは、応挙の素晴らしい大作以前には、あまり観た記憶がない、ということ。
ところが、かねがね愛読中の『十訓抄』で、「松の貞節」という一節にひょいと出逢った。秦始皇帝が幸い松を頼んで「雨宿り」できた礼に、松に酬いて「松爵」の称と位階(五位)とを贈った逸話も、そういえば『十訓抄』の早いところで読んでいた。
で、この古典の筆者は「松の貞節」をどう書いているか、長くはない、すこし約して書き写してみる。
そもそも松を貞木といふことは、まさしく人のために、かの木の貞心あるにあらず、
雪霜のはげしきにも、色あらたまらず、いつとなく緑なれば、これを貞心にくらぶるなり。
勁松は年の寒きにあらはれ
と古人が書ける、そのこころなり
圓山応挙がこんなことを識っていたかどうか、しかし同様の感懐はきっと持ち合わせていた、だからあんな見事な「雪松図」が成ったのにちがいない。いずれこの辺の感興をわたしも創作の中で趣向に用いているのを明かすだろう。永井荷風は「 東綺譚」の女に「雪子」となづけ、谷崎潤一郎もまた「細雪」のヒロインを「雪子」と呼んで愛していた。しぜん「松・勁松」は男をあらわすだろう。 2014 3/30 149
* 故福田歓一(元東大法学部長)さんの夫人からもいつもの鄭重なご挨拶と静岡の新茶を頂戴している。恐れ入ります。
またロサンゼルスの池宮宗千さんからも、平安神宮のしだれ櫻をなつかしみ、差し上げた圓能斎筆・淡々斎極め書簡つき「四海皆茶人」の軸を掛けての初釜その他茶の湯の楽しみを伝え聴いている。チョコちゃんももう八十過ぎ。ご主人をなくされて一年と。時を同じくして花小金井に住む中高一年後輩・茶の湯の手ほどきもしことのある人も、ご主人の一周忌を迎えましたと。
だれもだれも生きてある人、人の平安を願う。
2014 4・30 150
* 西の書斎をやはりクーラーで冷やしておかないと熱気で蒸れてしまう。昼間にクーラーをつけに行き、夜分にはとめに行く。少しずつ馴染めば、西の書斎で機械仕事も出来はじめるだろう。書斎のつづき部屋には、作りつけの広い本棚に、ほぼ一点も洩れず単行本自著や共著の蓄えがある。新井白石全集や基督教文献なども置いてある。東芝トスワード第一号機もしまってある。書斎には谷崎文献が揃えてあり、文庫本専用の書棚ふたつから大量にあふれ出ている。
このところ、「ペスト」を読み終えてから、現代小説を読みたく、今晩、すこし文庫本をこっちへ、東の母屋へ運んできた。
ジョイス「ダブリン市民」 フォークナー「アブサロム、アブサロム」 グレアム・グリーン「事件の核心」 ガルシア・マルケス「族長の秋」それとこれは正体不明だが、サラ・ウォーターズの「半身」 以上五冊。二十世紀文学の幕を開けたジョイス。ノーベル賞作家のフォークナー、マルケス。国際的なスパイでもあったグレアム・グリーンの「事件の核心」は、あの「情事の終わり」とは異なる世界。いや似ているとも言えるか。
この超多忙の中で、現に十数册を読み続けていて、かなり重い小説が加わる。読めるかな。読みたいと思っている。
書斎に秦の叔母玉月宗陽の遺品の大きな函があって、そこから淡々齋校閲、井口海仙著の「茶道問答集」もこっちへ持ってきた。茶の湯は身に沁みたわたしの素養の最たる一つ。懐かしみながら、こぼれ落ちて行く知識の記憶をすこしずつ拾ってみたくなった。昭和二十三年九月の本で、真っ赤に紙が劣化してきている。わたしは新制の弥栄中学一年生だった。もう茶の湯の稽古はだいぶ進んでいた。この、問答というよりはなはだ具体的で箇条の質疑集は、読み始めると興味深くてやめられなくなる。さすがに茶の湯、いかにも平生の暮らしと密接に触れ合っていて、智慧として生かしやすい。わたしの小説では、「畜生塚」「ある雲隠れ考」「慈子」「蝶の皿」「みごもりの湖」「「青井戸」など、茶の湯世界とすら謂えば言えるもの。茶の湯と能。このふたつをわたしは秦の叔母から、秦の父から学んできた。陶淵明や白楽天などまた日本の古典や歴史などへのつよい興味は秦の祖父の蔵書から学んできた。感謝している。
2014 8・13 154
* この機械のOSはいまやサポートされない全くの古物。そのうえ、光通信も使っていない。附設器具の故障で電話・ファックスも此処では使えない。なによりも起動の遅いこと。ホームページの「私語」が無事使えるようになるまで延々と時間がかかり、メールが読めたり使えたりするのにも延々と待つ。いまわたしは、その「待ち」時間を、むしろ楽しんでいる。陶淵明ほかの漢詩や、17世紀フランス製「箴言集」や日本の勅撰和歌集や歳時記やヒルテイの忠告など。待ち時間にちょうどフィットする。
もう一冊、今朝からは「茶道問答集」が加わって、これがまことに有益かつ興深い。有り難い。
問 茶庭に用ふる門戸の種類は、どれ程あるのですか。
答 猿戸、あじろ戸、角戸、四ッ目戸、へぎ戸、枝折戸、簀戸、鳴戸などあります。尚此外にもありますが普通は右に記した位です。
これが全一冊冒頭「茶室及び露地」の章の第一問。この章だけで数十問14頁ある。さらに「花」「花入」「薄板」「釜」「風炉」「敷板」「水指」「棗」「蓋置」「建水」「棚」「薄茶平点前」「濃茶」「炭点前」「茶箱」「七事式」「特殊点前」「茶事」「懐石菓子」そして「雑問」の章がある。馴染みのない人には「何のこっちゃ」ろうが、人の、日本人の「暮らし」の行儀作法知識用意にこまやかに膚接している。
上のような一問一答なので、ま、わたしにはと断るべきか知れないが、生き生きと身内に甦ってくる感覚が有る。
そういえばこれは大きな辞典で重いのだが、ふんだんに写真の載った『原色茶道大辞典』も左手を斜めにおろしたすぐ手先にいつも置いていて、これを手辺り次第にひろげ、茶道具等もろもろの原色写真と記事とを読むのも、それは楽しい慰みになっている。なにかをぼんやり「待つ」のも悪くはないが、このような「待つ」楽しみには豊かな励ましや慰安がある。
2014 8・14 154
* 茶室へ通る露地に「砂雪隠」の用意のある席もある。大小便ともに用いていいのか、触杖はどう使うのかという「問い」に、大小便共に使用して差し支えはないが、「砂雪隠」は貴人のための用意ゆえ、普通人は普通に「下腹雪隠」で用を済ましておき、砂雪隠が有れば拝見のみしておくのが当然と答えられている。貴人、普通の差別以前に、ま、当然のこと。「触杖」は、用便のあとへ砂をかけおくのに用いる。わたしも「砂雪隠」を見たことはある。よく選ばれた「砂」という素材の「妙用」を目で感じた。
☆ 忙しいのは
おれのせいじゃない。
と、心のなかでつぶやいてから、すぐに間違いに気づく。
忙しいのは、どう考えても自分のせい。
因果応報。自業自得。
そして、書きかけの小説をボツにしてまた一から書き直すのだ。
没にする分量を考えると気が遠くなるけど、仕方ないのだ。 或る四十半ば過ぎた作家の「facebook」から
* そう。仕方ないのだ。「facebook」にわざわざ書くことではない。言いたいなら、自分のブログで「私語」する程度にすれば。四十半ばは働き盛り、二度目三度目の噴火のときだ。黙々と堪えて膨れあがって、爆発すればいい。自身の年譜をしっかり腹に入れ、黙々、着々、変容と充実を遂げてゆくのが大事だ。
* 散髪してきた。気持ちいい。
作家の場合、小説なら一作と数えエッセイなら一編と数えている。著書なら一冊ないし一巻と数えている。散髪屋さんは人一人の髪を刈り整髪するのを何と数えているか聞いた。青年は単に「一人」かなと言い、父親は「一頭」かと笑った。それはそれで笑い話だが、利休の師は生涯に数え切れない点て茶を即ち「一期一碗」と謂い、井伊直弼は数重ねる茶会を「一期一会」と謂った。「一期」とは生涯の意味であろう、それで「一碗」それで「一会」とは、どういう覚悟であるか。作家は、とは謂わないわたしはと限るけれど、覚悟は「一期一作」「一期一編」「一期一巻」と思ってきた。それでも悔いはのこるが、仕方ないとは投げ捨てない。やはりあくまで「一期一作」と立ち向かう。当然と思っている。
2014 8・15 154
* 茶庭につかう「垣」にもいろいろ在る。柴垣、宗左垣、建仁寺垣、大裏垣、打合せ板垣、大津垣(朝鮮矢来とも)、利休垣、鴬垣(黒もじの垣)、立合垣、枝折垣、重ね垣、真背垣、連子垣など。金閣寺や光悦寺にも風変わりな垣がある。名は名なりに懐かしい。 2014 8・17 154
☆ こんにちは。
今日は涼しくなり、過ごしやすくなりました、またぶり返してくるとは思いますが。
保谷駅の近くの何処かで、軽くビールでも呑みながらというのはいかがでしょうか。
もし、お酒がのめないようでしたら、私が車でお迎えにいき何処かでランチでもたべながらとしたいと思います。
私は、土曜日の午後ならたいがいあいています。
ご都合の良い日をお知らせください。
直近ですと8 月30日土曜日となります。
9 月27日は出勤日となっています。(完全な週休2 日にはなりません)
母は晩年お茶を再開し、道具一式が残されたので、少しはお茶もと思っています。 直
* 1959年に上京・結婚して入居した新宿河田町、女子医大裏のアパート「みすず莊」大家さんちの少年だった。六畳の一部屋でこの少年がわたしにお茶を習いたいというので、保谷の社宅へ転居するまで手ほどきしていた。思えば不思議なように感じられるが、この「みすず莊」へも、遠い社宅へ転居してからも、会社の同僚の何人もがわたしに茶の湯の作法を習いに通ってきた。そのうちの一人だった後輩の遠藤恵子さんは、のちに東北学院大の教授になり、米沢女子短大の学長になった。今も「湖の本」購読を続けてくれている。上京・結婚いらいやがて55年半になる。その大家さんちの生真面目な小学生だった直樹君が、もう六十過ぎに相違ない、わたしに会いたいと。
2014 8・27 154
* 「新潮」に発表した「青井戸」を満たされて読み終えた。担当の小島喜久江さんが当時「もう少し長編だと芥川賞に推せるんですがねえ」と嘆息されたのを懐かしく想い出す。茶の湯は沢山な作で書いてきたが、この作でほどまっすぐに純潔に書いたものは無い。心底から澄み切った心持ちで謙遜に、しかも堪らなく喜ばしい思いでこれを書いた。記憶違いでなければ、この直後か直前かに川端康成が自死されたのではなかったか。
書いてよかった、書けてよかったと思う。むだな只の一行も書いていない。
茶の湯を小説に書いた人はむろん何人もいた。すべてわたしには物足りなかった。薄汚れて思えるものも有った。作と作品とはべつのもの。それをわたしは、はっきり、云う。
2014 9・4 155
* ロスから帰国して京都へ行っていた池宮さんが東京へ戻ってきたので、急遽新橋のホテルへ妻と出向いた。お土産には「粉溜(ふんだめ)」「片輪車蒔絵」の大柄な平棗を上げてきた。螺鈿の蒔絵にすこし窶れのあるのが文字どおりの「時代物」で、金色の美しい出来で、どんな茶の湯の席にも大いばりで使ってもらえるだろう。
ホテルについたのが七時過ぎ。半をまわってから銀座へ出、十四年ぶりに八丁目のおでん「やす幸」へ。池宮さんの亡くなったご主人の大のひいきの店で、わたしも四丁目にあったころはよく来ていた。お店を引っ越したあと場所を確かめずに久しくご無沙汰していたのを一気に昔の儘に取り返した。おでんがたっぷり食べられたのも予想・希望の通り、しかも此処で呑む酒、しごく美味い。満足して、銀座大通りでまたの機会を約しハグして別れてきた。
銀座一丁目までゆっくり歩き、有楽町線で一気に帰ってきた。
2014 9・6 155
* 懸命に荷造りし、ダンボール箱に僅かずつ詰めて何度も郵便局へ走った。幸か不幸か明日から土、日で郵便局が使えない。ま、土曜日は、ゆっくりしましょ。第三巻も、佳い本が出来た。巻頭の写真は、思い切ってかなり照れくさいものを入れた。第三巻は、「畜生塚」「慈子」「隠水の」「月皓く」「誘惑」などほぼ一貫して「茶の湯」との縁の濃い作が並んだ。つづく第四巻巻頭の「蝶の皿」や「青井戸」に到るまでそれが続く。わたしが茶の湯にもっとも熱心だったのは中学から大学まで。丸坊主で学生服を着て稽古もし人にも教えていた。妙な少年だった。
2014 10・17 156
* せっかくの本を傷めないように、発送には神経をつかって妻が一冊一冊慎重に荷造りしてくれている。わずか5グラムほどの超過で、前回350円だった送料が460円に。厳しい。
巻頭につかった写真は、日吉ヶ丘高校の茶室「雲岫席」で、茶道部の稽古日に部員のだれかが撮ってくれたもの。
部の予算が乏しくて、貴人点には天目茶碗というきまりが出来ず、なみの茶碗が貴人台にのっているのが懐かしい。それでも広蓋の釜を使っていて、蓋は手前畳に入れている。わたしは、もう大学生(一年)で、稽古日には出向いて作法を教えていた。わたしが坊主頭でなくなったのは大学二年以降だった。
2014 10・21 156
☆ 今、
我が家の床に、貴方にいただいた「紅葉舞秋風」を掛けています。この時季を楽しんでいます。
久し振りの「ちりめん山椒」お送りします。ご賞味下さい。
昨日、(京都=)国立博物館へ行ってきました。
帰途、買求めたお干菓子も同封しました。
(展覧会は)24日までなので、混んでいるだろうとも思ってましたが、入場まで2時間20分……並んで順番を待ちました。
(高山寺国宝展か。)次の機会は私にはないと思い、元気出して行って来ました。高山寺の鳥獣戯画は、わたくし、好きでした。蛙とうさぎのなんともユーモラスな動きを楽しんできました。
(此の紅葉の一筆箋に書いた手紙を入れた鳥獣戯画の)ファイル 何かに使って下さい。小さなおみやげです。
どうぞ お体大切にお過し下さいます様に……大阪府 宗富
* 秦の叔母宗陽・玉月に最後まで久しく茶の湯・生け花を習った人で、もう九十に近いはず。この気概・気風、敬愛する。佳いご馳走、佳いお土産を貰った。以前に差し上げた軸は、圓能斎の一行もので、叔母もわたしもその筆勢の美しさをさながら散る紅葉と愛していた。床に掛けて下さっている風情が眼に見える。この人、「湖の本」の創刊以来のありがたい継続読者でもある。感謝。
2014 11・22 157
茶の湯 15
* なにか佳いものが観たい。久しぶりに、しまい込んである茶道具など、さわってみようか。好きな音楽を聴きながら。
2015 3/21 160
☆ ごぶさた致して居ります。
もうずっと以前に「123繪とせとら」受取って居ります。ありがとうございましたた。
前に 美しい選集を頂き恐縮致しております。この御本のお礼は書いたと存じますが 今となってはおぼえがうつろではっきり致しません 改めてお礼申し上げます。
客間のテーブルの上に置いてありますので 時々 少し…学のある人は気付いておどろいてゐます 私は時々少しつ読んだりチラチラと見たりしてゐます。
(中略) やっと今年から収入がぜんぜんないので税金(所得)を払わなくても良いそうです。これで頭痛がなくなりホットしてい居ります。
初釜と、先日思付いて隅炉をして見ました。(写真を)ごらん下さい お蔭様で皆さんも初めてと言ふ人が多くて私は一寸ごきげんでした。お茶をして居る時は 楽しく元気です。
お二方様 千代子 ロサンゼルス
* チョコちゃんは、わたしより四つ五つ上だが、写真、若い隅炉もおもしろく、また前に差し上げた圓能斎筆「四海皆茶人」の一行が堂々と美しい。わたしが死蔵しているより遙かに軸が幸せそう。
2015 5・11 162
* 人権擁護の活動で國の褒賞を受けている川西の東野美智子さんからも、巻紙に絵入りの綺麗なながい手紙を貰っている。「生きたかりしに」ともこもごも重なり触れてくる重い「秘」の内容であり、再録はしない。生涯を賭けた進路について、大学生だったわたしのところへ中学卒業前のこの人が相談に訪れた日のことを覚えている。中学の茶室でわたしから茶の湯を習っていたのだ。
「思ったままの道へ行きなさい」と奨めた。迷いなくこの人は祇園の舞妓、それも優れた藝妓にもなりえたのを一擲、きっぱり京都を去り、大阪で高校に進んだ。苦学して大学も出教育者になり、婚家の両親もやすらかに見送り、幸せに平和な家庭をきずきあげつつ、繪を描き、短歌をつくり、社会的にも献身のみちを歩んできた。文字どおり、よく生きた。もう一人の「祇園の子」であった。
2015 6・3 163
* 高校同窓会が、全学同窓会をすると言ってきた。日吉ヶ丘高校は1949年(昭和二十四年)開校の新制高校で、わたしは1951年・昭和二十六年の入学、三年後(1954年・昭和二十九年)の卒業。以来、六十年余。思わず、唸る。人数でもみくちゃになりそう。
去年か一昨年かに廃校になった弥栄中学では、もう同窓会など難しいだろう、組織を遺していたかどうかも分からない。
* 高校の美術コース校舎の二階に創られていた茶室「雲岫席」が、自立の一棟として改装されたとも知らせてきている。これは、日吉ヶ丘茶道部「雲岫会」の創始者・指導者としても、観てみたい。
2015 8/24 165
* 歩け歩けと医者にいわれても、京都だと家を出れば、歩きたいところばかり。東京では、歩いてみたいところまで電車で行かねばならぬ。永井荷風の散策は、そんなあんばいだった。結局、東京で歩くとは、電車に乗って目的の方面へ移動することのようで、億劫。
あしたの天気は分からないが、さしづめ西武線を奥へ行くか、副都心線で横浜へ行くか、有楽町線で木場のほうへ出てみるか、それらが保谷住まいでは効率的 だけれど、そんなの歩くとは謂わない。ぞっとしない。横浜中華街のあの雑踏、食欲のあまりに乏しい今のわたしには、心騒がしいだけで閉口。新宿から甲府の 辺まで乗るのはよかろうが、新宿までが億劫。西武線の奥の方で山を眺めてくるとか。飯能に東雲亭が無くなっているのが惜しい。秦の母や朝日子も一緒に天覧 山へ登ったのを想い出す。
2015 8/24 165
☆ 今日は
草木の手入れ後の 雨の一日でした。
夕方に(日吉ヶ丘高茶道部雲岫会の)資料到着しました。
思い出せないほど前の、古い物!今のメンバーでは誰にも通じないです! とりあえずお預かりします。有難うございました。
くれぐれもお大事に、ではお休みなさい。 華
追伸、 何必館の魯山人チケットも戴き、有難うございました。楽しみに観てきます。 華
* 二年生で、学校の許可を得て茶道部を創ったとき、部員は三年生に一人、二年生にわたしひとりだった。点前作法を教えられる先生もいなかった。わたしは もう奥許しもかなり深くまで得ていたので、先輩の小沢さんにはわたしが手ほどきして、毎週二人だけで風炉や炉に火を入れ、稽古し、片付けて夕方には下校し た。
次の年からは部員が一気に各学年で増え、忙しくなった。相変わらずわたしがなにもかも教え、時には嵯峨の方へ野点に出たりもした。「華」は一年生だった。今は彼女が茶道部を指導している。
送ったのは、創部の当時の名簿や会費の出納簿など。六十余年も昔だもの。それでも間違いない部史の発足期が記録されてある。それから小説が書けなかった わけではない、今からでも書けようが、ま、卒業していいだろう。ものの下から見つけておいた古いノートやいろんな領収書など、送っておいた。
* もらうメールや手紙にも、ほんとうにいろいろ、ある。賢こげに頑なしくてなんともゾッとしないのも来る。「人」が見え透き、なるほどな、おもしろいなと小説家は思う。
2015 9/25 166
☆ 日吉ヶ丘創立65周年記念同窓会
同窓会のお陰で、久しぶりに街なかへ行って来ました。
参加者は150名余りかな、五回卒業生は5名、我々七回卒業生は8名で、旧姓星野さん、古谷さんにお会いしました、お元気でした。
新会長は31回卒業で、年代の相違を感じて帰りました。
高島屋で、多分奥様お好みの甘い物、お送りしました。明日に着く様です、お楽しみに。
日々お大事に 華
* ありがとう。
星野さん 古谷さんも、茶道部でわたしから点前作法をはじめて習った美術科一年だった後輩。なつかしい。
2015 9/27 166