ぜんぶ秦恒平文学の話

歌人として 1998~2001年

 

* 和歌といえば公家や女房の占有物のように錯覚しがちだが、あの西行、ま、武士でもあった。男性の和歌の詠み手で一人だけと言われれば西行を挙げるだろう、よほどその時の気分では定家を挙げるかも知れないが。

 西行、佐藤義清は、強いていえば藤原氏である。武官だったが公家でなかったわけではない。だが平忠盛や忠度はれきとした武士で、しかも立派な和歌をのこしている。源頼政も立派な和歌を詠んでいる。武士が公家の文化に諂ったのではない。和歌自体の力が真に文藝の意志として働き始めたとき、より真剣に命がけに生きた者たちの手へ、和歌の方からとびこんで行った。忘れてはならない、その際に和歌はいろんな「説話」を背負ってとびこんだ。武士にだけではない、いろんな層の人間のところへ和歌は説話、「和歌徳説話」を背負って行った。謡曲や平曲の成って行く原理や土壌が出来ていった。茶の湯も例外ではなかった。

  1998 5/9 2

 

 

* 言問へば花とばかりぞ川開き  恒平

 1999 7・31 4

 

 

* 夫婦哉 コーラわけあふ処暑の照り   遠    

 昨日だったか、積乱雲の青空の下を駅前まで、自転車の二人乗りで用事に出かけた。二人乗りは危ないなあと思いつつ、永年の習慣になっていて、つい自転車で出かける。そして体力・脚力が落ちたなあとつくづく感じる。

 1999 8・25 4

 

 

* 新編の『和歌の解釈と鑑賞事典』が版元から贈られてきた。人麿から俵万智までとある。名歌秀歌撰に解説が付いているものと思えばよい。解説はたいして用がないが、選ばれた和歌短歌は堪能できる。漏れたモノの多いのはあたりまえで、贅沢を言わねばこれだけでも和歌は大いに楽しめる。

 和泉式部や西行は歌数も多く、それでももっと欲しいと思ってしまう。近代の短歌とむかしの和歌となると、積み上げの伝統と技巧の高さで和歌のほうが遙かに面白いのは仕方がない。和歌にはふしぎに深い普遍の「遊び」があり、近代の短歌は、胸を打つ告白の個性力がつよい。面白いというモノではなく、いいものはいいが、いいものはめったにない。だからこういう選集がありがたく役に立つ。

 はっきりしているのは江戸近世の和歌が、良寛さんなどを除けば殆ど読むに耐えないということだ。題材をひろげて苦心はしているのだが、平安室町和歌の残骸ばかり。近代短歌の革新がどんなに必要なことであったかが、よく分かる。正岡子規や与謝野晶子はえらかった。

  1999 9・22 4

 

 

* 『和泉式部日記』を読みおえた。王朝の物語でも日記でも、根を支えているのは和歌であり、これだけ和する歌の才能が、時代と人とに遍在し遍満して揺るぎない確かさをもっていたことに、いつもながら感嘆してしまう。代作を頼まねばならない苦手の人もいたようだし、人数はそっちの方が多かったろうと想像しているけれど、それにしても女房族の歌詠みの「口疾」なことに感心する。しかも巧い。伊勢でも和泉式部でも、また源氏でも枕でも寝覚でも、和歌が楽しめなくては、話がお話にならない。

 

* 笠間書院の呉れた『和歌の解釈と鑑賞事典』をいちど手に取ってしまうと、暫くのあいだは虜にされてしまう。それほど「和歌」は面白い。ゆったりと浸かりごろの湯に浸かっているような、温かい、無類の安堵感が楽しめる。そのまま近代以降の短歌に移っていくと、浸かっていた適温の湯が、冷やあっと冷めてゆく侘びしさを感じてしまう。優れた「詩」に触れる喜びが近代現代の短歌には認められるのに、人と人との「和する」暖かみ温みは、うすく冷え冷えとしている。

 本の帯には「不朽の名歌を触る」とへんな言葉が書かれていて「人麿から俵万智まで」とか。人麿より前の記紀歌謡も入っている。

 

  八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

  さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも

  難波津に咲くや木の花冬ごもり今は春べと咲くや木の花

  秋の田の穂の上に霧らふ朝霞  いつへの方に我が恋やまむ

  熟田津に舟乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

 

のような歌が、人麿以前に居並んでいる。人麿にはこんな歌がある。

 

  笹の葉はみ山もさやにさやげども我は妹思ふ別れ来ぬれば

  秋山の黄葉をしげみ惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも

  天ざかる鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ

  もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行くへ知らずも

  近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ

 

 まだまだある。

 平安時代の和泉式部も挙げる。

 

  黒髪のみだれも知らずうち臥せばまづ掻きやりし人ぞ恋しき

  あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな

  つれづれと空ぞ見らるる思ふ人天降り来むものならなくに

  暗きより暗き道にぞ入りぬべき遙かに照らせ山の端の月

  ものおもへば沢の蛍もわが身よりあくがれ出づる魂かとぞ見る

 

 これが、全巻のトリを取る現代の俵万智になると、こうなる。

 

  「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの

  愛された記憶はどこか透明でいつでも一人いつだって一人

 

 こんな「歴史」の記述は、あんまりではないか。少なくもこんな愚にもつかない戯れ歌と歌人は割愛して、もう一人先に取り上げられた河野裕子の二首で、せめて、締めくくってもらいたかった。この二首とも、わたしの推賞歌である。

 

  たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか

  たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり

 

 言いたいことはさまざまあるが、俵万智の、短歌「のようなもの」を、もうこれ以上ワケ分からずにチヤホヤするのは、やめたがよかろう。彼女のちょっと特異な特色を、わたしは、歌壇が騒ぎ出すよりはやくに推賞し、テレビでも紹介したものだ。キワモノであることに目をつむったのではなかった。

『サラダ記念日』をいち早く贈ってきた礼状に、わたしは書いた筈だ、たいへん面白い、が、これは雑誌創刊で謂う「創刊0号」であって、真価は本当の創刊号がどう出るかで見きわめられるだろうと。その後の俵の歌集に進歩はない。相変わらずの安いキワモノ歌ばかりが並んできた。その俗な人気と本質的な保守感覚を「是」とした文部省や教育委員会のオジサンたちがやたら客寄せに持ち上げ、文藝団体のへんなオジサンたちも、ロリータ趣味でちやほやした、それだけのことだ。

 現代のちからある佳い歌人たちの道を、こんなモノで塞いではなるまいに。

 この『事典』は、佳い本だと人にも勧めたい、が、二人の編者井上宗雄と武川忠一に俵を切って捨てる、もう少しは様子を見る英断と慧眼の働かなかったことは惜しまれる。俵万智の歌は、少なくもここまでは、時代のバブル風俗の一つに過ぎないのに。やっぱり客寄せにしたかったのだろうが。

  1999 9・27 4

 

 

* 眠れなくて、浅い夢を見ているのだろうが、しきりに夢の中で歌を詠み、文章をつくる。起き出して書いてみると、思い出せる。このごろは短歌をつくるなど縁遠くなっているのに、五つも六つも出来ている。妙な気分で、また寝床に戻っても眠れない。

 

  蟲ひとつ夜長を啼きてなきやまず吾もひとりの秋を眠れず

  眠れずに少年の秋を恋ひゐたり少女幾人(いくたり)も夢をよぎれり

  夢をよぎる幻の中のまぼろしと一人の名をば呼びてなげくも

  あはれ君は死んでしまつたのかと少年は叫んで黒き猫と化(な)る夢

  夢ですものバカねと少女はわらふなり少女とはかくも丈高きなり

  1999 10・2 4 

 

 

* 現代の俳句と、例えば蕪村。その差は体温の差のように、感じられます。近代現代の短歌も俳句も、佳い詩になった作があるのも事実として、和歌や蕪村の句のもつ、いわば体温の優しい暖かみが抜けて落ちているのですね。冷えたからだを抱いているようで。佳い時代の和歌のあの温かい「和」の魅力。楽しさ。ワザ有りの面白さ。そういう日本語表現の妙味を切り捨ててしまわないと、発見し創作仕切れなかったような「近代・現代」の、或る「痩せ」「冷え」を思うことがよくあります。

 

* 或るメールに応えて、そんなことを言ってみた。昨晩、湯に浸かりながら蕪村を読んでいた。不思議で仕方がないのである、蕪村の句を読んでいると、蕪村だから思うというワケではないのに、どの句もどの句も、余りに佳く余りに面白く、あまりにはんなりと暖かで感じ入ってしまうのに、近代の句はそうはいかない。秀句でもそうはいかない。結社を主宰する程度の俳人の句集をみていても、一冊に幾つとも感じ入る句は少なく、佳いなと思っても、それがいかにも冷えていて、暖かみに乏しい。あたたかみは、どこかでおかしみ、かるみに繋がるものだが、「俳」本来のそれが現代句に乏しい。

 ところが蕪村句集だと、次から次からみな暖かくて俳味横溢している。

 何でなのか。うまく説明できない。才能の差と言ってしまえば身も蓋もないし、それだけではないと思われる。しかし、巧く説明できない。とにかく近代現代の句集や歌集をもって湯に浸かるなどというおそれ多いことは、湯冷めしそうで、出来ない。蕪村や大昔の和歌は、それを許してくれる。胸の内側からやわらかに温めてくれるのである。

  1999 10・19 4

 

 

* 雑誌「ミマン」連載のために、絶えず歌誌句誌歌集句集を、そばに山積みにしている。月々に送られてくる、また贈られてくるそれらを積めば、わたしの背丈が一つで足りない。必要のためもあるが、もともと好きな道ゆえ、まずまず、門外漢としては短歌も俳句もよく読む方で、連載が始まってからは、どれもこれも処分せず積んであり、増える一方になっている。

 しかし、ゴマンとある歌や句から、これはと思う面白い作品、佳い作品に出逢うことは少ない。無いと断言したくなるくらい、少ない。無いでは済まないし、無いとは決して言えないのだが、ごく僅かのいいモノに出逢うまでの辛抱がナミではない。

 和歌の時代、それも最も和歌の発達していた平安時代の和歌には、「和」する歌というぐらいで、自詠歌は比較的少なく和歌・相聞や贈答の歌が多かった。またそれらに佳いもの面白いものが多かった。物語や日記の魅力の多くはそういう和歌に培われている。温かい人付き合いのぬくみが感じられ、読んでいて楽しくなった。

 

* ところで、今日贈られてきた「短歌21世紀」最新刊の編集後記をみてみると、たまたま大河原惇行氏ーー氏は本誌の選者の一人ーーが、こう書いている。

 

* 「歌などというものは、人に誇れるものでない。自らに問い、自らが歌うものだ。それだけのものだと考えている。獨詠歌でよいと思うのである。歌は結局誰のものでもない、自分一人のために作るのである。そして、己れの生きている影が、一首にあらわれていれば、それだけでよいのではないか。こういうと、何か悟ったようなものいいになるが、決してそうではない。」

 

* 悟ったどころか、なにかしら「歌」への誤解がある。こういう考えに煮詰まって行く過程が近代短歌史的に分からないのではないし、とうに、みな励行していて、実はそのために短歌の体温が冷えに冷えてしまい、魅力の表情を喪ってしまっているだけなのだ。獨詠歌しか、自詠歌しか作れなくなっているに過ぎず、それを幾らこんな風に確認しても、自己弁護にしかならない。参考に、同誌同号の大河原氏自身の「自らに問い、自らが歌」っている作品を、ぜんぶ挙げさせてもらおう。

 

* 語気鋭く放ちて深き沈黙の後の言葉を待つといふべし 

  はがゆしと思ひ給へる心をもわが少し知る三日の会に 

  この夜の深き眠りもほのぼのとかたへに安き心と言はむ

  しらみ来る窓に安らなひとときをかたへに何を願ふともなく

  今にして大切にせむ思ひなどわけてこの事われは弱し弱し 

  会の三日に寄せし心をかへりみて寂しむ君の病みて居らねば 

  今日ここに君のいまさず幾度かその心語る人らの中に    

  人の心はそれぞれに善みどり深く杉はかがやきを谷にひきつつ 

  流れ豊かに千曲の川を見下せり迫る山々日はすでに高し    

  一年を人ら継承を言ひ来れど継承の意味するものは何          

            

* たまたま大河原氏の後記を読んだだけの引き合いで、氏には甚だご迷惑だが、私的な悪意は何もない。「アララギ」の分裂騒ぎにも何の関係も無い。「アララギ」の衰弱は斯く極まれりと言おうとしたのでもなく、どの歌誌にも、大なり小なりこういう傾向があると指摘したかった。何なのか、これは。

 むろん、むしろ孤独にしみじみと日々に歌って、表現にも心境にも遺憾のない佳い歌人の何人も居られるのを、幸いわたしは知っている。よく知っていると言あげしてもよい。ほとんど広くは知られまいが、前登志夫氏に師事していたらしい『欝金』という歌集をもつ一主婦信ヶ原綾さんの歌など、手に取った一冊のなかに、心惹く表現が幾つも幾つもあった。感嘆した。ほんの一例だが。

 最近贈られてきた、こっちは著名な石黒清介氏の歌集『立冬』にも、平易だが藝の利いたまさに「己れの生きている影が、一首にあらわれてい」て胸に届く心にくい歌が、多く含まれていた。今集はむしろ少ない方だ。

 だが大河原氏の、少なくも上に挙げた作品は、作者の「影」もさだかに見えない半端なものである。無理もない、後記の述懐そのものが、短歌への勘違いのようなものに発しているからであり、結果的には何かしら本質的な不足や不熟・未熟の自己弁護風に過ぎないからだ。

 

*  瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり

   くれなゐの二尺のびたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る

   夕顔の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我いのちかも    正岡 子規

 

   おりたちて今朝の寒さを驚きぬ露しとしとと柿の落葉深く   伊藤 左千夫

 

   垂乳根の母が釣りたる青蚊帳をすがしといねぬたるみたれども  長塚 節

 

   椿の蔭をんな音なく来りけり白き布団を乾しにけるかも

   我が家の犬はいづこにゆきぬらむ今宵も思ひいでて眠れる   島木 赤彦

 

   めん鶏ら砂あび居たれひつそりと剃刀研人は過ぎ行きにけり

   草づたふ朝の蛍よみじかかるわれのいのちを死なしむなゆめ

   朝あけて船より鳴れる太笛のこだまはながし並みよろふ山

   壁に来て草かげろふはすがり居り透きとほりたる羽のかなしさ

   沈黙のわれに見よとぞ百房の黒き葡萄に雨ふりそそぐ     斎藤 茂吉

 

   吾がもてる貧しきものの卑しさを是の人に見て堪へがたかりき

   小工場に酸素熔接のひらめき立ち砂町四十町夜ならむとす   土屋 文明

 

* 手近な詞華集から「アララギ」の先達の歌を、ただ、ぱらぱら抜いたものである。

 「継承」とは何であるか。それ以上に「歌」とは何であるか。現代歌人たちよ、愛読者に風邪をひかせて下さるな。

  1999 10・27 4

 

 

* 今西祐一郎さんの伊勢物語第二段の歌一首「おきもせずねもせで夜をあかしては春のものとてながめくらしつ」についての、論文「用心の歌」を読んだ。

 

  むかし、男ありけり。奈良の京ははなれ、この京は人のまださだまらざりける時に、 西の京に女ありけり。その女、世人にはまされりけり。その人、かたちよりは心なむま

 さりたりける。ひとりのみもあらざりけらし。それを、かのまめ男、うちものがたらひ

 て、帰り来て、いかが思ひけむ、時はやよひのつひたち、雨そほふるにやりける、

    おきもせずねもせで夜をあかしては春のものとてながめくらしつ

 

「ながめくらす」とは、今西さんの解説の如く「昼間をむなしく物思いに費し暮れに至ること」である。この歌一首だけを地の文から離して読めば、難解な歌では、たしかに、ない。本文とひとくるみに読むと、きぬぎぬ(後朝)の歌の如く、それにしては翌日の夕刻以降もしくは二日三日も後の歌とも取れて、古来現代まで解釈の混乱してきた実状を今西さんは実例をあげて、いつもの例で実に親切に克明である。相手の女は、ひとかどの人で敬意が払われている。それほどの相手に、もし歌が他人の目にふれても迷惑のかからないよう、用心して贈っていると今西さんは言われる。実事はなかったという「逢はぬ恋」説も、古今集に載った前後配列の歌柄から行われてきているが、『伊勢物語』を読むかぎり古来九分九厘実事はあった、そしてこの歌は後朝の歌だ、いや翌日の夕過ぎての歌だ、後日の歌だと、説が分かれていた。今西さんはこれらに加えて、光源氏が、柏木と女三宮の不倫を知った柏木の恋文の、あらわに用意用心の無いことを強く咎めている態度を踏まえて、伊勢のこの場合も実事はあった、但し、何かの折りに「逢はぬ恋」とも言い逃れうる「用心」の仕組んである歌であろう、とされているのである。

 

* 今朝、わたしは今西さんに礼状を書いて、今西説に説得されたこと、妥当と思うことを伝えるついでに、私自身のほぼ初読以来の「読み」をも書き添えたのである。わたしは、これは「ふられ歌」だと読んでいた。逢いたかったが逢えなかった、つまり夜通しごちゃごちゃと有ったけれども実事にはついに至らずして「まめ男」は帰されてしまっていると。それは、「うち物語らひて」というあまり例のない表記の、その「うち」というところに男女の心理的な体力的な STRUGGLE または COMBAT の気味が出ているというわたしの語感に出た解釈だった。男は、いいところまで善戦したかも知れないが「逢ふ恋」の成就には至らず、翌日は悶々として、「いかが思ひけむ」この歌を贈ったが、その「思ひ」は、むしろ今西説の「用心」とは逆で、「ほんとうは無かったコトを、人は有ったコトと想像もできるように」一首の歌を詠み起こして、いわば向こうの女への「揺さぶり」をかけ、恋の第二、第三ラウンドへのまめな「手」を打ったものだと読んで、意義は通ると考えも感じもしてきたというわけである。

 これが、わたしの第一感で、今も捨て去れないでいる。

 光源氏は、確かに恋の消息をあらわに書き散らさないことを、よく努めている。しかしまた、きわどく露骨にちらつかせ、無かったことを有ったかのように女にプレッシャーをかけて口説の妙を歌に託している例が、無かっただろうか。実は無かったことだとしても、この歌をもしよその人が知れば、有ったと思うかも知れないし思われてもわたしはいいのですよ、それが嬉しいのですよ、というぐあいに「揺さぶる」のである。「いかが思ひけむ」の一句にそういう男の厚かましさも恋の手管も実にみごとに書き表されていると観ているのである。

  1999 11・5 4

 

 

* 『和歌の解釈と鑑賞事典』は最良の編集とまでは純熟していないが、パソコンにさわりながら、いろんな「待ち」時間ごとに、撰された和歌から近代短歌へどんどん読んでは好きな歌に爪印をつけていって、一段落した。で、最古の作と最新の作とを合わせ、私なりの「歌合」と判とを付けて見ようか、などと思ったりする。

 例えば、

   左

  倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠(ごも)れる倭し美(うるは)し   倭建命

   右   

  たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり   河野裕子

 

 これは面白い組み合わせである。  

       左

  さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中(ほなか)に立ちて問ひし君はも  弟橘比売命

   右

  愛された記憶はどこか透明でいつでも一人いつだって一人   俵 万智

 

 これは、どうじゃ。

 この調子で合わせて行くと、すてきに面白い歌合が出来る。左方、右方の方人を選んで議論させ判をしてみたら面白いだろうな。どこかの歌雑誌で私判させてくれないものかな。

  1999 12・10 3

 

 

* 冬至の満月が、往きは大きく赤く低く、帰りは大きく白く高くなっていた。

  月照って心まづしき師走なり 遠

 1999 12・23 3

 

 

* 明日で息子が三十二歳になる。わたしは六十四歳になったばかりだから、いま子は父の「半歳」に達したのだなと思うと、まだそんなものかと我が子がいとおしくなる。自筆年譜を見返してみると、彼の出産はなかなかおおごとであった。そんな記事の中に、忘れていたが、手帳に書いていたモノか、三つの述懐があった。

 

   母ひとり産むにはあらで父も姉も一つに祈るお前の誕生  昭和四三年 元旦

 

   赤ちゃんが来た・名前は建日子・男だぞ・ヤマトタケルだ・太陽の子だ

                            一月八日 建日子誕生

   これやこの建日子の瞳(め)に梅の花       一月二十三日 建日子退院 

 

 2000 1・7 5

 

 

* あはれ花や 蕾 女になりにける  遠

 椿の、いろいろに美しい季節になり、洗面所にも手洗いの中にも挿してある。数日もの時間経過で、ほんとうに美しく蕾から花咲いて行く。

 2000 2・11 5

 

 

* 現代歌人協会理事長という人の、いや名前を出しておこう、篠弘氏の「文化交流の贈物」という歌八首が、「日中文化交流」の三月一日号に載っていた。連作というほど連携度は高くない、が、一首ずつ読むと自立の短歌作品としてはとても受け取りにくい。篠氏には、短歌に読者などいない、いらないという態度でもあるなら知らず、また短歌とは散文と変わりなど在るものかという認識ならば知らず、さらに短歌なんて芸術ではないと思って歌人協会を率いているなら知らず、あまりに独善の表白だと思うが、いかが。

 

 善麿に随ひゆきて郭沫若にまみえしことをわが誇りとす

   これは詩歌の「表現」だろうか。

 日本がむしろ仏像まもりしと目を細めたるかの王冶秋

   なんという独り合点のものだろう。

 交流の贈物(たまもの)なると李瑞環祝(ほ)ぎくれたりし辞典を編みつ

   何ですか、これは。   

 会ふたびに名刺を交はす習慣をわが詠みたれば頷く伊玖磨

   これは判じ物にもならない。

 

 オソマツの極みとはこれで、ここから短歌の魅力をくみ取れると強弁する人がいたら、お目に掛かりたい。ほんとうは短歌界の中から、これほどのイージーさ批判が出るべきだ。しかし、あまりこれは例外例ではないのをわたしは知っている。篠氏とは久しく親しくさせてもらっているので敢えて言えるのだが、裸の王様ではなかろうかと心配する。

 もう四首挙げるのもめんどうになった。

 

 直截に評せば中国の詩人たち肉声を欲るしびるるまでに

   しびるるまでの「短歌表現」を読ませて欲しい。

  2000 2・29 5

 

 

* 山形裕子さんの『子どもなんか』という歌集は、すさまじきものの一つで、すさまじさを面白いと言い替えるには躊躇いがある。

 生来あまりしっくりしないで過ごしてきた、すでに卒寿過ぎた実母を、歌人の娘が、娘のことばで、また母に化り変わって、短歌にしている。どこかで、湖の本の前巻に収録したわたしの妻の「姑」と同じ趣向のようでもあるが、妻の聞き書きには、ゆとりこそあれ、山形さんの烈しさに遠く及ばない。

 まず「こごと」である。

    古漬けをまた捨てている 塩を抜きしゃきっと千に刻んでごらん

    なんきんの種は洗って干しなさいあとでわたしが炒っておくから

 この程度なら、老婆心であるが、「お舅(とう)さん」になると笑いが消える。

    父サンはそこそこだったがお舅さんは男前でね胆がすわって

    ひと目にて十九の娘を見抜かれたこの甲斐性をこの真心を

    一雄には過ぎた嫁よとおっしゃって家の宝と呼んでおられた

    お舅さんのお姑(かあ)さんへの口癖は嫁に習えよただそればかり

    毎日の大福帳も取り上げて嫁の仕事と渡されました

    わたくしにカレーやシチューを習うようお姑さんに指示もなさった

    お舅さんに逆らうもののあるものか篠原郷の大将だもの

「母さんが来た」ら、大変だ。

    唐辛子やめてちょうだい この家ももう母さんの味ではないわ

    末っ子の文子の家は薄味で母さん風がまだ生きている

    煮魚は嫌いと言っておいたはず年寄り扱いしないでおくれ

    フィレならば薔薇の花ほどお刺身は鯛を四、五切れ 贅沢は敵

    ひとよりもいたわられきたこの母は魚の腸(わた)などよう除(と)りません

    母さんが裕子の家に慣れるまであかりはとれも消さずにおいて

    今夜からしばらくそばで寝ておくれ猫の便所もこちらへ入れて

        ・

    母さんは裕子のほかにこの家に人が居るのを忘れているわ

 ま、こんなふうに母のことばが歌い、娘が母を歌い続けて、全一冊。嫁と姑ではない、実の母と娘の記録歌である。母のかわりに娘が母の言葉も態度も心根も歌っている。そこが、凄まじい。

 正直のところ、読んでいて愉快ではない。しかし、稀有の母が描かれてはいる、具体的に過ぎるほど率直に。敬服に、うーん、値すると言っておく。

  2000 3・1 5

 

 

* 木島始さんにまた新しい詩集やご本を頂戴した。中に、二字四行詩=八字詩が、ある。

 

    仰ぐ

    神よ

    呻き

    照せ

 

 面白い試みで、自分も書いてみたくなる。

 

    是か

    違う

    非か

    違う

 

* 京言葉の詩もある。

 

    たんと

    きばって

    ええかっこしいな

    えろみえまっせ

 

 叱られてるみたいな気分で、苦笑する。「しいな」は、「せよ」でも「するな」でもありうるが。私なら、

 

    ちがうのと

    ちがうやろか

    ほなまた

    よろしうに

 2000 3・3 5

 

 

* 妻が承知していてわたしはよくワケも分かっていないが、テディベアの白い腹に繪と字とをかいて、抱いて写真に撮られ送り返すという、なんだかチャリティー移動展覧会用のサービスのようなことを、させられた。赤い椿白い椿を、緑の葉といっしょに描き、「逢いたい人が、いつでもいる」と書いた。妻に写真を五、六枚撮られた。

 

 赤い椿白い椿 五郎十郎のごとく立つ  遠

 2000 3・5 5 

 

 

* 歌人の河野裕子から電話をもらったのは初めてかも知れない。『みごもりの湖』を出した頃に知りあった。彼女が滋賀県に暮らしていた頃か。その頃二、三度電話で話したことが在ったような気もするが。いい歌人だと思い、ずいぶんいろいろに、あちこちで推賞してきた。この十年ぐらいはさほど感心した歌がなく、それよりも歌壇の枠の中で一方の女将校めく風情が鬱陶しいなと思うこともあった。過去の成果からすれば、俵万智など足元に及ばない力のある歌人で、斎藤史の次は河野裕子が立つというほどであって欲しかったが、ちょっと最近は歌壇の力関係や位置関係を意識してか、俗っぽくなった。彼女の担当のテレビ「NHK歌壇」を聞いていても、ビカッとする面白みのいっこう無いのを残念に思っていた。

 ただし、あれは河野さんの罪であるよりも、あの番組の組立て自体が、低調で低体温でつまらないのであり、馬場あき子に頼まれゲストで出て、身にしみて面白くも何ともない番組だと見捨てていた。その同じ番組の、河野裕子の時間にまたゲストで出て欲しいというのが電話の趣旨だったから、申し訳ないが、即座に断った。映えない中味の番組に顔を出してみても始まらない。

 短歌番組にせよ俳句番組にせよ、工夫すれば、短歌や俳句の製作に関心の無かった一般視聴者をさえ取り込める、面白くて意義のある持って行き方はいろいろ可能な筈だ。あんな、ちまちました小歌会、小句会の、蚊帳の中でのとりすました内輪だけの番組には、ほとんど意義を感じることは出来ない。まん中に座っている者に虚名を加えているだけだ。 2000 3・7 5

 

 

* 俳人能村登四郎さんから、りっぱな句集と鄭重なお手紙をいただいた。米寿になられるのではないか。能村さんの、「幼な泣きして春暁の夢醒むる」の句を「ミマン」に使わせていただき、鑑賞した。御覧になり、喜んで下さったようだ。

 

* 今日は気力が萎えている。そういう日には、必要なのに手の着いてなかった整理などを進める。頼まれ原稿を一本送った。私語の刻も整理した。恥ずかしいほど打ち放しの誤字が入っている。直しておく。

 

* 酒呑めぬ花見の客やさむさうに  遠

  2000 3・30 5

 

 

* 花ながらわれは不屈の物書きぞ  遠  2000 3・31 5

 

 

* 雑誌連載のために無数に歌誌・句誌を、歌集・句集を読みあさっているが、岩田正の『郷心』を読み直して、短歌作品より、あとがきの文章に感心した。あとがきまで読み直したのではなく、初読時にあちこちに線が引いてあるのを見直して、再び同じ所に頷いたのである。で、書きだしてみようと思ったところへ、ファックスがきた。見ると階下からで、「お風呂の用意が出来ています」と。中断。

 

* 岩田さんの短歌は闊達に見えてかなり屈折した陰翳をためていて、極めて職業的に練達した凄みある幇間の藝にちかい。面白く刺激的に読めて、自然発生の雑な口三味線とみえながら巧みに巧んだ趣向の過ぎたものでもある。感動は薄く刺激は濃い。短歌新聞社の石黒清介老の短歌をわたしはあの慈円なみに自然に巧いと思うのと、岩田さんの巧さとは、素質が別である。したり顔の身についたあの兼好法師の練達に、岩田さんの短歌処世は似ている。むろんこれは大いに褒めているのである。

 その上で歌集の「あとがきにかえて」を見ると、これは極めてまともな、直球である。感じ入る。ちょっと引かせてもらう。ちなみに歌集『郷心』は1992 年秋の刊で、今頃古証文を引っぱり出されては、岩田さん、苦い顔をされるかも知れないが。

 

* 歌人論と状況論に力を入れていた氏は、後者がいやになったという。「歌壇状況たる、実は得体の知れないある雰囲気や風潮にのっかって、合言葉のような口調で、ボールを投げあうように書き交わしたり、書いたりしても、なんの意味もない。つまりみのりがない。」同感だった。そういうことばかり達者に、歌壇のオピニオンリーダーのようにときめく評論家がいるなあとわたしも、あの頃から眺めていた。

「私を含めて、多くの状況論は、古典への、いやほんのすこしの前の作品への無知に由来する。周囲の状況、自分のいる状況がまず絶対の優先権を主張している。極端に言えば、自分が知らないことは、まずもってこの世にないかのような独断を、独断とせず、あたかも普遍の真理のごとく装って主張する。」「ひとの作品を楯とし煙幕として自分の存在を証ししている。」

 そして肝腎の作品はひどいのだ。

「なんだこんな程度で歌壇で、賑かに動きまわっているのかと少々癪にもさわる。そして多くは実際、歌の実力で歌壇的というか、歌の世界での名声を博している場合はすくない。」 その通りだ。

「多くの論や批評は、歌を見ないで風潮をみている。だから明日にでも消えるような歌を、その風潮を論ずるゆえにひきあいに出す。自分がそういう風潮に足をとられているから、歌の巧拙・真贋がわからない。」「歌の世界では、状況なぞをうまく創ってゆくような歌人を、常にたのみとする空気があり、私はそれを歓迎しない。」

 全く同感で、今でも実状は変わっていない。「むりの目立つのは駄目である。表現と作者の思い(考え・感情・指向など)とのずれのある時である。なにかを狙っているが、心の底から作者が感動したものでないのに、それを表現だけでやってゆこうとする。」

 歌壇の人間でないわたしから見れば、おおかたの現代短歌がそうでありげに見えていて、じつは岩田さんの作品でも、夫人である馬場あき子の歌でも、かなりそうであるのを免れてなどいない。

「自分が本気で感動してなくて、なんで読者が感動することがあろう。」

 感動とは芸術の場合は把握の強さで表れる。把握の弱い、想像力の隅々にまでビシッと透っていない表現など、表現の名には値しない。「絶対に守らねばならない」のは「とてもくやしいときでも、いい歌はいいとして是認することだろう。」

 全くその通りである。岩田正のこんなまともな声が短歌界にきちんと届いていたのなら、もう少しいい歌が多くて、わたしの「ミマン」の撰歌と出題ももっとしやすいのだが。  2000 4・27 5

 

 

* 「ミマン」の新原稿を送った。解答を送ってくるお年寄りの読者たちが、若々しい気分で真剣に考え感じておられ、嬉しくなる。

 

   (  )のごとく銃に凭れて眠る兵描かれてあり兄かも知れぬI

 

 素朴な歌いくちだが、心に残る。いろんな漢字一字が入ってきて、実感があった。むかし、東工大の学生に、時実新子さんの川柳を出題した。

 

   墓の(  )の男の(  )にねむりたや

 

 これが、さまざまに入って、抱腹絶倒のもあった。あまり面白くて、時実さんの原作を忘れてしまった。

  2000 7・23 6

 

 

* 加藤克巳さんの歌集『游魂』に泣かされている。歌壇の長老、ときどきお目にかかると声を掛けて下さる。豪快に大きな全集もみな頂戴し、このあいだは記念会に来ないかと「個性」の皆さんからお招き頂いたりした。それは辞退したが頂戴した歌集は拝見している。六十年をともになされた奥さんの死を嘆きに嘆かれるモゥンニングワーク=悲哀の仕事。短歌の形にももう囚われない自在な歌いぶりは、早くから定型と定型崩しの自在さに独特の境地を確保されてきた老歌人にふさわしく、ポンと境涯自体を高く突き抜いている。それでいて老い込んではいない、意志が生きて、けっしてよろめいていない。

 

* ついでにまた山形裕子さんの『子どもなんか』も読んで、また笑ってしまう。歌集の全部を書き写したくなってしまう。いっこう愉快ではないのだが、八十九の実母と、作者長女と、長男やその他の家族や嫁、孫や、犬猫らも入り乱れての、本音の露出のすさまじい、めったにない歌集なのである。

   カナリヤの唄を忘れた母さんをお背戸の藪へ捨てる相談

   病院へ入れたらどうと言ったって八十九歳は病気でしょうか

   長男と末の娘の二人だけ まだ泥棒と言われていない

   百万円昨日やったと仰せです 返してくれとおっしゃるのです

   盗った者に盗ったと言った 盗った者が盗ったと言い出す例は聞かぬ

   遣ったゆえ遣ったと言った 受けた者が自分の方から言い出すものか

   子どもらが食事の世話をしないならご近所さまへいただきにゆく

   子どもらはみんなお先に死ねばよい わたしは百を越えてみせよう

 いや、あっぱれ物凄いが、腹を断ち割ればこういう家族が世間に一杯で、例外の方が少ないのではないかとふっと想わせて、笑いの凍りつく歌集である。

  2000 7・27 6

 

 

* 花火かな いづれは死ぬる身なれども  月

  2000 8・9 6

 

 

* 矢後千恵子さんの歌集『駅長』を本の山の中から持ち出して読み始めたのが、えらく面白い。「後ろ指は承知の上で、面白がりこそ目指す道」とあとがきにあるが、狂言歌に類している。しかし、言うはやすく、とても狂言歌を丁々発止とうちだすのは容易でない。それを矢後さんは、あざやかにやってのけている。ふつう歌集で、印象的な、つまりわたしが読んでよしと思えるのは、一冊に数首だが、この歌集では面白いのが幾つも幾つも拾える、感心している。結社「りとむ」の人で、今野寿美さんの配慮下にいるらしいが、今野さんがまたこういう歌風に微妙な収穫をあげてきた歌人である。なるほど、なるほどと思いつつ、しかし矢後さんの歌い口には一家の風が出来ている。批評の志がなければ成り立たない。川柳の時実新子にならぶ平成狂歌体を成熟させてほしい。初めの方から少し紹介しておく。江戸の狂歌の真似なんかしてはいけないのであり、これで宜しく思う。

   右箱根左江ノ島ふりわけてさねさし相模大野駅長

   京訛りのむかし男を泣かせしがひたすらに餌をあさる都鳥

   チェリストが仁左衛門似であることで今宵の「第九」やや粋である

   マンションという中空に子を育て鳥の家族のごとき明け暮れ

  2000 8・13 6

 

 

* 矢後千恵子さんの歌集『駅長』は昨夜全編を読み通し、めったになく鉛筆の爪印がいっぱいついた。たまたま結社を束ねている今野寿美んに宛てていた挨拶にそえて、矢後さんのことも褒めておいた。めったにない大人の女歌人に出逢った気がする。藝があり底が深い。面白い歌の数々を紹介したいが、本が階下へ行っていて手元にない。

  2000 8・15 6

 

 

* 「ミマン」の原稿催促が来た。ウウッと唸る。次の出題は、難しかったかな。

 

  妻がドアひらけば( )が息を吐く寝たふりをして布団をかぶる

 

 「妻がドアを」と、字余りを効果的につかえばなと思う。漢字一字を欠くと、存外にこの歌「読み」幅が広くなる。

  2000 8・23 6

 

 

* ミマンに、次の連載原稿を送った。次の出題短歌も俳句も、佳い作品が選べたと思う。漢字一字、難しいかも知れない。

 

 ほのあかる林の奥のかの( )とも思いみつめて深草をゆく

 

 明日への( )いくらかありて種子を蒔く

  2000 9・23 7

 

 

* 馬場あき子歌集『飛天』を頂戴した。巻をひらいて、第一頁から、

 

  読み更かし涙眼濁る冬の夜の精神を抱く肉体あはれ 

 

とは、何じゃこれは。次の頁には、

 

  乾坤といふ大きさを忘れたる都市の濁れる巷を帰る

  父の薔薇ゆめの浮世の秋闌(ふ)けの陽にかがやきて吾を宥すべし

  どどつと乗り込みぎしぎしとせる急行の荒きちからに冬が来てゐる

  枇杷の花咲いても咲いても醜くて小春びよりのさびしさが湧く

 

 はっきり言ってひどい歌である。拙劣であることだけが分かり、胸にとどく作者の真摯な生の感動はちっとも感じられない。どういう編集かにしても、歌集巻頭の五首がこれでは、先へ進めない。一冊の歌集を、これだけで云々しては問題があろう。だが、かりにも馬場あき子ではないか。

 初心の熱がかくもぬけ失せ、謙遜の姿勢も失せてしまうのは、これも結社というお山の大将に安住して、歌の推敲や自己批評すら手抜きしているのではないかと、久しい友人のために惜しむ。与謝野晶子にも斎藤史にも、巻頭にかかる「駄歌」を置いた歌集は無い。わたしは、面白くない。いい気分ではない。つづきは、間をあけてから、読む。

  2000 10・24 7

 

 

* 八上芳枝『続笹の葉』という、もうずいぶん昔に貰った歌集を、しみじみと読み通した。六十年前に夫を見送った人が、いまなお切々と夫恋うる歌をよみ、師友を偲んでいる。こういう人をこそ「短歌」が育てたのだと思うほど、澄んで清い境涯を冴え冴え表現して清水の湧くごとく楽しんでいる。能村登四郎氏の句集『芒種』とともに、心洗われるとは、これかと思う。こういう真実・真率そして丁寧な歌集もあるのだ、ほとんど無名に近い歌人にしてである。いや無名に近ければこそか、有名が着物を着て歩いているような馬場あき子の『飛天の道』は、まだ、とても続きを読む気がしない。

 

   彼岸すみし日の照る庭を歩みゆく背(せな)を伸ばせと自らに言ひて

   六十年の夫の忌日もすぎゆくと思へる庭の遠き雷鳴

   倉の前梅花うつぎの白き花この窓に見し人の恋(こほ)しき

   音のなく若葉の揺れて風ゆく庭夫を偲べど思へど寂し

 

 新しくも何ともないが、しずかな感銘の質は新しくて清い。それでいいのである、短歌藝術は。鬼面人をおどろかして実情を欠いていては、ただの曲芸を出ない。蕪雑なものでも人を感動させることはあるが、感動のない曲藝は、藝術の世界ではただ卑しい。いいものが、読みたい。

 2000 10・27 7

 

 

* 機械の操作では各種の「待ち」時間が、いやでもある。それにあせってキーを叩いたりすると器械が怒る。当たり前である。その時間に、わたしは、歌集・歌誌、句集・句誌、古川柳や狂歌、和歌集を引きつけて置いて、読みあさる。待ち時間が苦にならないだけでなく、楽しめる。佳いのがあると、本や雑誌にはワルイが爪ジルシをつけて、頁の角を折り込んでおく。「ミマン」連載のためになど役立てる。折り込みの多いのはけっこうな読書。全く無いのは困りもの。困りものが多くて困るのである。

 有名人には批評的に細心に、無名に近い人には大胆に親切に、接している。有名人というのは、まず、絶対的にアテにならない。要するにタメにしタメにされてきた虚名人があまりに多いのである。下士官や将校を私兵のように雇っている部隊長や連隊長級に、マガイモノが多い。子分が多くてエライのなら、森総理は日本で一番エライはずだが、誰がそう思っている ?

  2000 10・29 7

 

 

* 討ち入りのこと聴かざりき十四日  遠 2000 12・14 7

 

 

* 雑誌「ミマン」連載原稿も今日もう書いて送った。読者に悦ばれているのが、出題に解答をよせてくる多くの手紙をとおして、ひしひしと感じ取れる。詩歌の、短歌や俳句の表現の美しさに、わたし自身がさらに心惹かれつつある。こういう仕事は甲斐がある。

 2000 12・23 7

 

 

* 一陽来復 !! 

 

 大いなるものしづしづと揺れうごきはたと静まりなにごとも無し

 

 萬福聚来 ご平安を心より祈ります。 湖umiの本  秦 恒平  

 2001 1・1 8

 

 

* 新刊の『大塚布見子選集』第七巻から、巻頭の「短歌雑感」数編を「e-文庫・湖」にどうぞと著者のお許しを得たので、三編を抄録した。現代のある種の短歌へつきつけた匕首である。書かれた年次はもう二十年も昔だが、発言の意義は古びていない、それが悲しいぞと思う思いもわたしにあった。どれも、以前に熟読した文章なのである。手をうって頷いた文章なのである。大塚さんほどストレートにポレミックな論客はいないようだ、歌壇には。敬服して、目につく限り大塚歌論は読んできた。

 言葉の理解や「表現」の意義について、わたしも、『日本語にっぽん事情』だけでなく、繰り返し発言し続けてきているから、大塚さんの言説に大きく手を拍って賛同する面と、わたしならばと思うところも無いではない。それでも大塚さんと論争せずに気の済まないところは少なく、それより、応援したり声援したりしてきた趣旨が多かった。

 いうまでもない、大塚さんがいつも激しく攻め立ててきた馬場あき子にも山中智恵子にも、わたしは久しい友情を持ってきたし、じつは、ふたりを公に推奨・推薦したこともある。おなじことは岡井隆にもいえる。

 だが、また、大塚さんの歌論の明晰に本質を得て揺るぎないことにも、久しく共感し続け、いまも共感している、それもまた事実である。だから、わたしがその双方の言説や表現をわたしなりに踏まえてものを言えば、明らかに、かなりコウヘイな線が出てくるのかも知れない、ただ、今、そんなことを手がけたい気が少しもない。

 明らかに、「e-文庫・湖」は開け放たれた佳い場所なのであるから、どうか、ここで、議論を白熱させてもらえれば、嬉しい。呼び出し役をしてもよく、少なくも行司役は公平に出来るだろうと思う。ともあれ、すこぶる読んでわかりいい大塚さんのエッセイを、第三頁の冒頭で、読んでみて欲しい。

 2001 1・13 8

 

 

* 何の番組だか、昼ごろ、歌壇の将官や佐官級が一般の短歌を品評し顕彰している番組があった。推薦して、「じつに」とか「きわめて」とか強い言葉で褒めているいる短歌作品を読んでも、いっこうに感心できないことに驚いた。説明的な歌、ガサガサした歌、舌をかみそうな歌、観念的な理屈の歌、要するに感動のまっすぐ伝わってこないへたな歌が、次から次に推され、褒められ、それでは作者より「玄人」を自認しているらしい推薦者・選者の鑑賞眼の方を疑うしかなかった。

 たとえば俵万智の褒めあげた作には、「コンビニが」「コンビニが」と二度出てくる。二度出るのは必要なら少しも構わない。しかし、「が」という助詞の用い方に歌人として何故疑問をもたないか。「が」は、格助詞の「の」にくらべて、いやしい、きたない、という語感を国語の伝統ではもってきた。そしてその短歌では、「コンビニの」でむしろ正しい表現であった。事実、直ぐ次に登場して馬場あき子の推した短歌では、同様の第一句にちゃんと「の」を用いていた。散文を書いていても、「が」と書いて、すぐ「の」の方がここではいいなと、書き直す例が多い。「が」は濁音の響きも感じわるく、必要なら必要だが、一音一音に心を入れるはずの歌人詩人にして、俵万智のような無神経なことでは、なるまいに。国語の先生ではなかったのか。いや、国語審議会か何かの委員ではなかったのか。

 

* 腰から下が痛むように冷える。蒸気で暖房しているのだが効かない。外は晴れやかに明るいが。

 

* 手近に送られてきた歌集、句集、歌誌、句誌の山が、始末に困るほど幾つにも積んであり、器械を操作しながら合間合間に手にしては読んでいる。わたしほどこの手の作品を丹念に読んでいる小説家は少ないにちがいない。付き合いきれないほど数多いから。そんな中から、気に入った歌や句に出逢えると嬉しい。出来は悪くても印象に残りものを考えさせてくれたり感じさせてくれ作品もある。過度の引用はいやだが、いいもの、印象的なものは、「e-文庫・湖umi」に随時に拾い上げて行くのも、送って下さった作者のためにもいいことだろうかと、今、ふっと思いついた。いやいや、「ミマン」連載で出題しているうちは、そんなことをすると、自分の手元を窮屈にするだけかとたじろぐ、が、できないことではない。あれは虫食いに適切な一字が無いと出せない難題だが、そういうことの出来なくて佳い作品もあるからだ。

 

* ソ連崩壊に関して、こんな歌が或る歌集にあった。気持ちは分かる、が、あるいは「短歌」での表現の限界をも感じさせる。こんなに簡単にいわれては受け取れない、もっとややこしい感想が胸にあるだろう、一頃の大人なら誰にでも。

 

  搾取して富まむ所業を罪悪と断ぜし思想はいさぎよかりき

  人の理想かなへし国と言ひあひて恃みたりしが無力にほろぶ

 

 しかし「戦陣回顧」しての次の作など、とても秀歌とは言えないけれど、届いてくる毅い何かはある、はっきりと。

 

  直立し吸ひし煙草は恩賜とか味は格別のものにあらざりき

  菊の紋の煙草恩賜と渡しやる人死なしむるなんぞたやすき

  人間を神とまつるはなじまずと靖国神社参拝を問はれ答ふる   畔上 知時

 

 さきの番組のような場合、わたしなら、この三首にも少し立ちどまりはしても、推さない。だが、ものは感じさせてくれる。そういう作品に出逢いたいと思うが、ただの概念ではいやだ。この場合など、これは実感だなとよく分かる。

 

  楯などにされてたまるかその上に醜(しこ)はひどいとひそひそ言ひき

  天皇は神にあらずと口ごもり部隊長に答へき二等兵われは

  慰安所とは何かと問ひし少年兵帰隊し笑ふここちよかりきと

  たはやすく鎮魂といふなたましひの鎮まるべきや蛆わかせ死して

  侵略と言ひ敢へしばし黙したり戦ひ死にし友があはれに

  営庭に集められ学生服に固まりぬかく兵とさるる思ひ惨めに

  慰安婦にふれず戦地より還りしと言へば不具かと呆れられたり

  毛一筋残さず爆死せしありき笑ひて戦争體験語るを憎む

 

 こういう記憶に久しく堪えながら同じ作者に以下の短歌が出来てくると、読むわたしも、ほっと息を吐く。

 

  とりし掌の温みは知れり年長くたづさひしもの妻の掌ぞこれ

  家建てて移り住みきし九世帯それぞれに喪のことありて三十年

 

  門過ぐる我にかならず吠えし犬この頃吠えずただよこたはる

 

 畔上さんはかつてわたしの上司であった。上司としてよりも歌人としての畔上さんをわたしは敬愛していた、今も。お元気でと心より祈る。歌集『時を知る故に』はお名前にからめた好題で、ほかにも印象的な歌、胸に残る歌がいくつも有った。いずれも「私史の玉」であり、上に挙げたどれ一つもわたしは先の番組のような場面で安易には称揚しないだろう。「歌史の玉」とまではいい得ないのだ。

 

* こういう紹介をはじめたら、寸暇もなくなるだろうほどに、数多くの作品集に爪じるしを付けている。 

 2001 2・2 8

 

 

* 清水房雄氏の歌集「旻天何人吟」を読んでいる。

 

 脳梗塞も脳血栓も似たやうなものだ齢だと医の友言へり

 一人一人老いては終りゆくすがた見つつ来りて吾老いにけり

 年々の七月一日かなしみもやうやく淡くすぎし三十一年

 すべなくて吾の居りとも殊更ぶとも見るらむかさまざまに人は

 血のめぐり悪しきは曇り日のゆゑか吾はこのまず秋の曇り日

 残念のいま何もなしと言へば嘘ただそれのみと言へばそれすら

 結論を出さず処理せず終へし人それも一つの行き方として

 雨の庭にはだしで逃げることも無くやみし地震に戸をとざしたり

 斯かるをし母いましめし記憶あり記憶のままに夜ふけ爪を切る

 何がなし肌さむくして起きいでぬ今日よりわれの七十八歳

 今年あまた成りたる柿をよろこびてなほ佳き事のあるかとぞ待つ

 

 頁を半ばもくってこんな歌に立ち止まってきた。老境の歌に相違はないが、生命力は毅然として在る。俳句の能村登四郎さんをあわせ思い出す。今年はもう八十五か六になられる。器械を操作の途中にもこうして秀歌を拾い読めるのが歌集の嬉しいところ。若い頃よりもますます短歌や俳句を読むのが好きになっている。しかし清水さんのような歌人と歌集とにいつも出会えるわけではない。

 2001 2・19 8

 

 

 

 

* 作業を追い込んで、ほぼ予定通りの所へ運んだ。いつ本が届いても送り出せる。搬入まで一週間の余裕ができ、助かる。多少、ぼんやりとした気分にはまっている。寝る前には、よく選ばれた江戸の俳諧を、口当たりのいい薬湯でも呑むように読んでいる。芭蕉と蕪村と一茶だけの江戸俳諧でないことが、よく分かる。一部に、さきの三人こそ江戸俳諧の傍流で、その余の大勢こそが基幹なのだという説も出ているという。そういう発想も分からないでない。わたしには、そういう議論もたいした意義をなさないだけのこと。三人を欠いた俳諧のありえないと同時に、三人で言い尽くせないものの在るのも事実なのだから。ああ好きだなと思う俳人が、三人のほかに何人もいる、それも事実なのだから。

 2001 3・2 8

 

 

* 石黒清介の歌集『桃の木』を余念無く読んでこの日を送った。

 

  人の心をうつ生活歌がいつよりか軽蔑されつつ短歌おとろふ

 

 その通りである。「心をうつ」ことのない語彙玩弄の歌がいたずらにもてはやされる。

 

  夢に風夢に雨音かくまでも覚めてゐるのに覚め切れば夢  宮尾壽子『未央宮』

  適量の毒と言葉に春愁を加へて君に稲妻送る

 

 この手の歌を読むのは、知的遊戯の域をでない。「今慈円」の石黒さんの歌を読んでいると、さらさらとして快い音楽を聴きながら日々に生きてあるよろしさに感謝したくなる。「どこがいいの、こんなの」と思う人がいても、とてもとても容易には真似得ないのである。

 

  八十一になりたるわれは正月の雑煮の餅(もちひ)をたのしみて食ふ  平成九年

  鯛焼の熱きひとつを公園の夜のくらきに入りて食ひけり

  佐渡の海の春のわかめのにほひよき味噌汁を食ふ椀を重ねて

  対岸の松の梢にとまりゐしからす羽ばたきてとびたちにけり

  罅入りし岩垂直に立ち並ぶ向ひの岸に昼の日の射す

  やはらかき越後の茄子の一夜漬なみだいづるごとわが食ひにけり

  吹きとほす風をすずしみ新しき家の二階にひる寝すわれは

  人身事故のためにとどまりゐし電車のろのろとして動きはじめぬ

  尾を赤く曳きて夜空にのぼりたる最初の花火は静かに開く

  ベッドのうへに体おこして聞きてをり雨のしづくは草にふるらし

  廊をゆくひとのあゆみがカーテンの裾よりみゆるに我のたのしむ

  音もなくしづかに朝の明けゆくをまなこ見ひらきみつめつつゐぬ

  中庭に梅の古木と葉を垂れてしづまる桃の木と並びたり

  昼寝よりさめたるときに葉を垂れて仏のごとく桃の木のたつ

  ベッドの上にからだ起して温かき飯をぞくらふ熱のさがれば

  夜の庭に鳴く虫の声病室の窓にあゆみより聞かむとしたり

  夜ふかくわが起きいでて鳴く虫の声をあはれむ耳かたむけて

  病院の食事の味の薄ければあるいは塩を振りかけて食ふ

  散歩より戻りきたりてしばらくをベッドのへりに腰かくるなり

  手の爪を切りたるついでに足のべて足の爪を切るベッドの上に

  雨ふれば朝より寒き病室のベッドの上に足袋はくわれは

  散歩よりかへりてくればあなうれしあたたかき栗飯が配れてゐき

  寒き風吹けば散歩を取りやめてベッドの上に昼寝をぞする

  蟷螂が硝子戸にきてとまりたり青きからだを逆さまにして

  いのち死なず生きてかへりしわが家の二階の部屋より外を眺むる

  菊の花の黄ににほへるをひと袋もとめぬひでて今宵食はむと

  わが家の裏をたまたまとほるときもひるがへる物干台見ゆ

  スタンドの電球の線の切れしかばあたらしき電球とかへてもらひぬ

  駅前のポストまでゆく道のべに檀(まゆみ)は赤き花をつけたり

  看護婦の見習の少女休日にあそびに来たり昼寝してゆけり

  虫籠のなかの飛蝗(ばった)を幼子は我に見よといひ目の前におく

  蚊屋吊草と狗尾草を道のべに引きぬきて来てコップに活けぬ

    百日振りにいで来し会社にわが友の二人死にたる報せとどけり

  明治生れの歌人の二人日をつぎて死にたることをわれのあはれむ

  髪をうしろに靡けながらに口かたく噛みて走りくる上岡正枝は

                      国際千葉駅伝 女子一区

  ルーマニアのルハイヌスをば追ひ抜きて一位の中国に迫りつつあり 

                           二区田中めぐみ

  中国の楊のうしろに迫りつつやうやくにして追ひ抜きにけり  三区高橋千恵美

  うしろより追ひかけてくる中国をふりきり遠く引き離したり  四区大南敬美

  一位にて襷を受けし松岡は最後ののぼりに今さしかかる  五区松岡理恵

  独走態勢に入りて走れるランナーのうなじの汗がしたたりにけり  六区高橋尚子

  ちから尽して走れるものの顔みればみなうつくしくがやくごとし

  席を立ちてゆづりたまへばありがたく遠慮をせずに腰かくるなり

  白百合の白き花弁(はなびら)汚しつつ黄の蕊(しべ)ながくのびいでにけり

  肩寒く目ざめし夜半に肩までを布団ひきあげてふたたびねむる

  すこしずつからだよくなりし健康をよろこびあへり朝の電話に

  肩痛くなる前に止め朝々の五日がほどを年賀状書く

  汚れたる眼鏡の玉に熱き息吹きかけてぬぐふ歳のをはりに

  前を歩きてをりたるひとが立ちどまり不意に後を振りかへりたり

  幸福に暮してゐんと思(も)ふのみにその人の名を思ひ出だせず

  追風に背(せな)を押されてあゆむときたのしかりけりをさなごのごと

  朝々に摘みて食(を)すといふ青き菜の二畝(ふたうね)ばかり風にそよげり

  すこやかにからだ癒ゆればうれしけれ口つけて吸ふ葡萄一房

  撞木にて撞かれし鐘はその胴をゆるく揺りつつ鳴りひびきけり  平成九年歳晩

 

 一冊一年の歌集『桃の木』六七二首から、恣に書き抜いてみた。石黒清介第二十四歌集である。ここまで読んできて、こういうふうには、ものごとはなかなか見えるものでなく、まして、こういうふうにはなみの歌人には表現できないのである。だから力のない人ほど語彙を玩弄して賢しらに陥る。石黒さんのこれは名人藝で、真似よとは言わない。石黒さんは大正五年生まれ、現役の会社社長である。幾首有るか数えていないが、書き抜いた歌を自然と読み進めば、その日々と境涯とは悠々として見えてこよう。これ、禅と謂うべきか。

 2001 3・4 8

 

 

* 風つよく、快晴。花粉散乱し大いに迷惑。石黒さんの歌集「桃の木」を読み通して、おもむくまま恣に書き抜いてみた。八十一歳の平成九年が正月から歳晩まで、みごとに見える。

 2001 3・4 8

 

 

* 篠塚純子の第一歌集『線描の魚』を、ひさしぶりに読み返している。むかし、この一冊を手にし目にしたときの驚愕と感動を忘れない。歌集の体裁をえた小説のように読み込んだ。教養深き才媛は、高校で英語の先生をしていたが、和歌や古典にもふかく入っていて、蜻蛉日記や和泉式部に傾倒し、歌誌に延々と連載していた。その短歌にも、和歌の匂いがしみこんでいて、砧に打ったような措辞で、しかも西欧文化の香気をも表現できた。表題にもそれは表れていた。東西の比較文化にも気を入れていたのではないか、しかも歌人の実生活は傷ついていた。

 わたしはこの未知の歌人の新歌集にすっかり刺激されて、一編の幻想的な小説を書いた。その歌集の出版記念会によばれ、はじめて口を利いた。

 この歌集のよかった点は、巧みな編成にも認められた。一編の「物語」を成していた。堀辰雄のような、岸田国士のような風情すらあった。一首一首がすばらしく巧みとか感動的とかというのでは、むしろ、なかった。その世界が、人その人のように呼吸していた。生身の哀しみと、ある種インテリ女の傲りすらも感じさせる、ふしぎに香ぐわしい「女」の歌集だった。読み返していて、印象は今もかわらない。わたしと同年の篠塚さんは、いまは大学教授になり国文学を研究している。昔ながらに「忙しいのがお好き」さんである。

 2001 3・6 8

 

 

* 晴れやかに目覚めた。暖かになりそうで心地よい。加藤克巳氏の歌集『樹液』を読み上げた。八十歳台の五百首。よくいえば自由自在、きびしくいえば勝手気儘な放埒な「うた」声である。元気。

 

  片丘に月落ちてゆくつかの間を遠い昔のごとく見ている

  五十年いつしか過ぎて在りたるがありたるままに庭石はある

  かの石に腰をおろして杖をつき顎すこし上げし父も今亡し

  無明長夜をあるがままよと三日三晩眠りつづけて腹切開(きら)れたり

  春の愁いのほどろほどろの降る雪のそこはかとなき悲しみである

  照りかげる気多の神山すべり径(みち) しもととりかね妹が手をとる

    とんとんと膝頭を叩いてぴくつかせ何を調べているのであるか

  月はいま黄いろくまるくほのぼのと酔うがごとくに空のぼりゆく

  庭隅の茗荷の芽をひとつとって来て三輪そうめんでもすするとするか

  独り身もなかなか乙なものなどと言うてはみたがさみしいものだ

  死せる妻の名しばしば呼びてわれとわがおろかしとあわれ空穂悲しき

 

 わたしの好みで選んでみたこれらは、この歌集を代表していない。

 

  神は各自の心にあるかないかだ ないものにはない あるものにはある

  フォンタナの一閃 ああ 敢然とわが晩年がはじまるのである

 

* 老人は元気であらねばならぬ不幸な時代になってきている。衰えゆくものなどと思っていては老境三十年は地獄と化する。加藤さんの「元気」は汲み取らねばならない。

 2001 3・14 8

 

 

* 三日つづけて出ていた。外で飲食すると、金がかかるという心配はしないが、明らかに体力を要する。夜ふかしして沢山本を読むという嬉しい習慣はあまりやめたくないが、夜は寝たほうが健康にいいに決まっている。

 栄花物語は、もう道長が、時姫の生んだ兼家三男として登場して来ている。兄に道隆、道兼がいた。清少納言の仕えた皇后定子は道隆娘であった。紫式部の仕えた中宮彰子は道長の娘であった。彼らの異母兄弟に大納言になる道綱がいた。母親が、蜻蛉日記の著者である。百人一首に名高い「嘆きつつひとりぬる夜のあくる間はいかに久しきものとかは知る」の歌人でもあり、この時代に、一二をあらそう才媛であった。

 

* 九大の今西祐一郎教授から、その大納言道綱母の一首の「読み」にかかわる論考等をいただいた。

 この名歌は、藤原定家が百人一首に採るより以前から、圧倒的に人気の高い歌であった。拾遺抄や拾遺和歌集に採られ、大鏡にも出てくる。

 日記によれば夫兼家の訪れた夜、しきりに戸を叩くが道綱母は入れなかった。そして明くる日、アテツケに兼家に送ったのがこの歌であり、兼家も立ちん坊の不服を返歌している。そのころ彼は、彼女の家の前を素通りして町の小路の女のもとへ通うことの度重なっていた。道綱母はそれにむくれ、たまたま立ち寄って戸を叩いたのを、知らぬ顔に外で立ちん坊させたのである。

 この知る人ぞ知る名高い挿話の、だが、拾遺や大鏡の記載と、日記の記載とでは、違っている。前者では、さんざ焦らせて置いて迎え入れ、ぼやかれたのに対する即応の和歌となっているが、日記では、ついに入れずじまい、翌朝以降の夫婦の応酬となっている。そのように読める。どっちがどうかと古来議論があり、今西さんの論考は、また新たな論議を持ち込んでいるのである。

 日記には、立ちん坊で入れて貰えなかった後の兼家の反応が、書かれず省かれていると今西さんは説き、本当は、兼家の方から、翌日になってであれとにかく何らか道綱母の対処を咎めて抗議していたはず、その夫からの苦情に対して答えているのが道綱母の「嘆きつつ」の歌であり、それがあまりの秀歌ゆえに兼家もまた、「げにやげに冬の夜ならぬまきの戸もおそくあくるはわびしかりけり」と返歌でぼやいてみせ、事態を収束した。道綱母は、夫を家に入れず、そして翌日自分から先ず歌を送ったのではなくて、兼家に抗議されたので切り返すように歌で気持ちを伝えた。送った。それに兼家は返歌したのだ、と。そのように日記本文の経過を、拾遺や大鏡とはべつに整理し、理解された、ということのように今西説を拝見した。

 

* さて、わたしのような一愛読者は、こう考えてきた。

 まず和歌集に詞書して収録したり、大鏡のような歴史物語に採録される場合は、もはや日記的事実を超えた編集・編纂の取材もの割り切って、別に自立し自律した脚色と受け入れ、その限りにおいて、事実以上の真実感を酌んで興がることにしている。ウソがウソではなく、脚色されていていい、そういうものなのだと。

 一方「蜻蛉日記」本文の流れを、わたしは、今西説のように、兼家側からのアクションに対するリアクションの「嘆きつつ」とは受け取っていなかった。

 道綱母という人は、「嘆きつつひとり寝る夜の」つらさ侘びしさをしたたか兼家により体験させられている。そんな夜の長さ、夜の明けるまで悶々として寝られぬ長さがどんなにつらいものかを、イヤほど知った人だ。それゆえ情動不穏に陥っている。ヒステリーも起こしている。それあればこそ、家の前を素通りしてゆくようなむごい夫兼家に対し、気まぐれに表戸を叩かれると、心身違乱、毒くわば皿までと突っ張って、内へ入れずに追い帰してしまった。

 兼家という夫は、そういう道綱母であることをよく承知して彼女を操縦していたから、立ちん坊に、自ら先に抗議したかも知れず、しかし知らぬふりで抗議などわざとしないという兼家流も、また優にあり得たであろう。どっちとも言えないが、どっちであろうと、道綱母の方は、それぐらいやって置いてなお追い打ちに、「嘆きつつひとりぬる夜のあくるまはいかに久しきものとかはしる」ぐらいは蒸し返し押し込まねば気の済む女ではなかった。和歌がうまければ、相応に評価もしてくれる兼家だとも承知でつっかかることぐらい、何でもなくやれるお高くてヒステリックな女の性を道綱母はもっている。それさえも魅力の一つにしている。

 それに、この歌は、香川景樹がクレームをつけるほど、蜻蛉日記のなかで意味不都合があるようには、わたしは、感じて来なかった。

 この一首は、なにもこの時に限って強烈にあてはまった「ひとりね」の歌ではない。いつも慢性的に「まちぼけのひとりね」体験を強いられている女の、腹に据えかねた味気ない夜の長さをいわば底荷にした、ふだんから憤懣の一首である。悶々と夜の明けるまでが「いかに久しきものと」「あなたは、知っているのか、知りはすまい、頭に来る」と歌っている。

「少々門の外に立たされ、入れてもらえないぐらいで、文句など言えた義理ですか」とやっている。そのやり方が、きついけれど、ひどく巧い。おそるべき秀歌なのである。本人もそれは自慢であるから、歌を突きつけた辺りから、もう、怒りもすこし中和されている。この歌、いつか叩きつけてやると、すでに嚢中に秘匿されていた手榴弾であったかとすら邪推できるのである。ねらい澄まして、うまいのである。

 兼家の返歌は、にやりと、女の歌の巧さに感じ入り、しかも素知らぬ顔で、「しかし、あれはひどかったぞよ」とぼやく。鷹揚なものである。とくべつ、強いて兼家からのアクションを待たなくても、劇的状況は首尾調って自然に成り立っているものと、わたしは読んできた。まずいだろうか。

 沖ななもという、現代の、すこし軽薄にみえる歌の達者な歌人がいて、「わたくしがいなければだめになってしまう、と思わせておくも男の手なり」と歌っている。

 道綱母は、これを「女の手」と信じたい直情の人であり、兼家はそれを「男の手」として、悠然と、道綱母を操った。この相い和する歌のやりとりは、その辺の勝負であり男女の齟齬なのであると、やっぱり感じている。やられたのは女で、男ではあるまいと観ているが、道綱母一人は夫をへこませたぐらいな気でいる。「男の手」が見えていないのである。

 「蜻蛉日記」の現状の本文は、こう読んで過不足無いように、今も、感じている。今西教授に、感謝して、そう返事してみようと思うが、どんなものか。

 

* さて、もう一本「『大嘗会のけみ』考」という論文も今西教授に戴いている。蜻蛉日記絡みである。辞書辞典の記載如何ということも絡んで、今西さんならではの博捜と実証とで「大嘗会のけみ」と本文にある「けみ」は、検見・毛見などのけみではありえず、「小忌=をみ」の読み違いであると確証されている。蜻蛉日記の「大嘗会のけみ」を出典により一般の検見・毛見とはべつの意味項目を立ててしまっている辞典編纂者への撤回改正を求められている。これは、もう両手をあげて賛成し感謝したい。

 2001 4・8 9

 

 

* 『路上の果実』という歌集が未知の人の小川優子さんから贈られてきた。巻頭の離婚の歌などはたわいなげであるが、嬉しく予期を裏切られ、なかなか厳しい批評味に富んだ強い歌、うまい歌、感銘を覚える佳い歌が混じっている。まだ作歌数年のいわば初心の第一歌集であるが、「歌う」根性に人生に真向かって苦しんできた人の真実の声音が聞こえてくる。これは若い歌人の場合稀有のことといっていい。

 俵万智の歌が、そうだ。魂に響いてきて思わず胸に手をおく作品は皆無に近く、風俗的にも詩的にもただ巧妙そうなアイデアだけの表現で、ウキウキと世渡りしている。ほんとうは、『サラダ記念日』などを遙か置き去りに、真実心の展開を「短歌表現」に見せて欲しいのに、最初の好評に足をとられ、ただただ前作模倣の「標語歌」作成に浮き身をやつしている。深まらずに、軽く薄くなってしまっている。

 昨日贈られてきた米川千嘉子の「四番目の歌集」という『一葉の井戸』を、期待して読み始めたが、五十五頁まで来てただの一首も質実に胸を打って表現の光った歌が無い。馬場あき子のところでいかにも売り出された今では名の通っている歌人であり、この前の『たましひに着る服なくて』には、書き留めて置いたいくつもの作があったのに、今度のは、口先で気取って洒落を言うているだけのような薄い短歌が、まるで枯れ葉のように並んでいる。あとを読むのがイヤになりかけている。「口先で気取って洒落を言うているだけのような薄い短歌が、まるで枯れ葉のように並ん」だ歌集が、なぜ、こんなに「世に出た」歌人たちに多いのか。

 それからすると、たとえ数少なくともゴツンとくる凄みの歌を、この三十歳そこそこの小川優子という歌人は、第一歌集に入れてきた。

 むろん米川さんのも見捨てずに、読む。なにしろ自撰五十首が欲しいと頼んだ人である。さ、呉れるか、どうか。

 2001 4・18 9

 

 

* 小川優子の歌集『路上の果実』は身を入れて読んだ。読まされた。感情移入をさそう歌がかなりの数有り、爪印がたくさん付いた。構成のいい歌集で、組み立てに風が走っていた。まともに苦しんで、飾り立てていられないと言う息づかいが魅力になっていた。歌壇の将校を以て任じ、テレビやなにかで、ちゃらちゃらと、気の利いた歌がいい歌ですと軽い軽い出見世をだし得意そうな連中には、こういうズーンと重い苦痛との闘いが失せてしまっている。べつに、表紙カバーや本文中のきれいなお尻の写真に惹かれたわけではないのも断っておく。  

 2001 4・24 9

 

 

* 「e-文庫・湖」第七頁に、玉井清弘氏の澄んで水をひくような清酒に似た自撰五十首を戴いた。長塚節を現代に蘇らせたような静かな境涯に現代の哀情の沈透く短歌だと、久しく敬愛してきた。玉井氏のような優れた歌人が世間に大勢ひそやかに隠れている。隠れていると言っては失礼だろうが、東京界隈に住んでただ地の利だけで、やわな歌人がマスコミ受けしているのを見ているのは、ときに苦々しい。

 2001 4・28 9

 

 

* 著名な俳人の立派に装幀された句集をいただき、よろこんで読んだ。だが、全巻から六句しか、共感できなかったのには驚きかつ失望した。以前に能村登四郎氏の句集を戴いたときは、感銘句が多すぎて慌てたほどであった。作風の合う合わぬということなのか、作句の考え方にわたしが承伏しないのか。句集にも歌集にもこういう体験はしばしば繰り返してきた。一読者として、わたしは、軽々に妥協しない。

 2001 5・25 9

 

 

* 奈良の東淳子さんの、すばらしい自撰五十首「晩夏抄」が届いた。待ちわびていた。わたしの見るとところ現代歌人の中で最も力有る真摯な歌人のお一人で、齋藤史さんを追うかのようにさえ想われる。表現は彫り深く確かで、一読胸を熱くする。「うた」が、もし「うったへる」のを原義とするなら、東さんの短歌はまさに「うた」そのもので、気概に冨み、すばらしい。世の多くの歌誌の、親分や姉御でときめいている大将格の人たちが、情況に甘え、その場しのぎの錯雑として索漠とした品のない歌を平然と自分の雑誌に月々垂れ流している時代に、世の隅にいて丈高い短歌を珠のように彫んでいるこういう歌人の存在に接すると、胸のすく心地がする。「e-文庫・湖」第七頁に掲載した。

 東さんの作品で、この頁への寄稿は三十人。単純に五十作品と勘定すると、優れた詩人たちが選り抜きの、千五百作品の詞華集を早や成している。単行本でなら五冊に相当する詩歌集である。詩歌の好きな読者は安心してここに出された各作者の境涯を鑑賞されたい。

 2001 6・9 9

 

 

* さて、また「ミマン」の時が来た。今度の解答も、意外や意外、あわせて原作どおりの人はわずか四人、驚いている。

 

  産みしより一時間ののち対面せるわが子はもすでに一人の(   )人

 

  手(   )を落し自分の記憶までも

 2001 6・22 9

 

 

* 篠塚純子さんから第二歌集「音楽」が贈られてきた。以前に貰ってあったのが見つからず、お願いしてあった。

 たちまちに一読し、試みに八十五首を選んでみた。第一歌集「線描の魚」からだけではと思い、「音楽」もようやく手に入れた。あわせて五十首を、できれば篠塚さんに自撰してもらいたい、が、大学教授のなにしろ「お忙しサン」だから、こっちでやってしまうことになりそう。感性も知性も、女っぽさも、また母親としても、ひときわ優れた個性で、日本の古典や外国文学にも哲学にも趣味深い。歌以上にもとても佳い散文の書ける人であり、『古典の森のプロムナード』という優れて批評的なエッセイ集がある。話し相手としてこれ以上はないというほどの人だが、なにしろ忙しい、忙しい人である。  

 2001 7・14 10

 

 

* 関川夏央氏の歌集「少年」をさしあげたのへ佳い返事が届いているのが、嬉しく。

 昨日は終日、篠塚さんの歌集二冊に没頭していて、その余韻にあたまのなかが音楽になっている。こういうことも、一種の佳い栄養摂取である。 

 2001 7・16 10

 

 

* ミマンに原稿を送った。比較的易しい出題であったかも知れないが、それとは無関係に、読者の胸をしたたかに揺るがせ、いつもの倍も解答が来た。感想も山ほど来て、応接に窮したほど。

 

 A あやとりのはじめはいつも( )にして小指にすくふ幼子の夢   三田村 章子

 

 B 父の掘る芋は無( )でありしかな  宮下 杏華

 

 次回の出題は、いかが。

 

 A なるようになりて相(  )の済みしかばふつふつと鮟鱇の肝を煮ており

 

 B 煮(  )や得心いかぬ事ばかり

 2001 7・25 10

 

 

* ながく病床にある歌人冬道麻子が、手作りに近い小冊子の写真歌集を送ってきた。故郷にある三島大社の写真をもらって歌を書き添えたものだ。写真はいろいろに鑑賞に堪える綺麗なものばかりだが、かんじんの冬道さんの短歌がいけない。これでは、わたしが中学の修学旅行でつくりまくった短歌習作とえらぶところがないと、目を疑った。

 この歌人はなかなかどうして、高安国世の門下で、病床で苦心したいい歌集をもっている。わたしの詞華集でも作品を採ってきた。

 懐かしいからといって、写真を眺めながら写真や神社の解説のような歌をつくってはいけないだろう、拙劣空疎に陥るのは当然である。もともと紀行の詩歌には練達の人でもろくなものがない。感動が他人には伝わって来ないのだ。まして写真で歌をつくるのは、写真で繪を創るのと同じく、よくない。絵葉書の説明にしかならないのである。百近くあるなかで、わたしの辛うじて選び得たのは

只一首。たった、それだけ。ダメなのと並べておく。

   恋人のそれぞれと来し夏祭り思い出としては切なすぎるが

   大社にて源氏再興祈願せし頼朝のかげ偲びつつゆく

 前のにはまだしも哀情が流れているが、後ろのは空疎な文字が定型を追いかけて置かれただけ。歌人と名乗るのなら、こんなお遊びではいけなかろう。自分自身の「今」と向き合うべきだ。

 2001 8・29 10

 

 

* 高校時代の恩師上島史朗先生の文庫版歌集が贈られてきた。嬉しい。ながらく闘病のあいだに、仙骨のあらわれた味わい「からし」と謂いたい、寸分のゆるみない老境短歌が並んだ。米寿になられる。この先生の無言の批評を、爪印だけの批評を、毎週もらいつづけてわたしは高校時代に「少年」の短歌を作りつづけた。わが文学生涯にこの歌集の有ると無いとでは大きくバランスの支点が変わる。先生の御陰である。

 

  ひむがしに月のこりゐてあまぎらし丘のうへに吾は思惟すてかねつ

 

  笹原のゆるがふこゑのしづまりて木もれ日ひくく渓にとどけり

 

 泉涌寺、東福寺。高校二年の三学期であったか。

 2001 8・31 10

 

 

* なにごとも「馬耳東風」と言う人に、

   秋風や不称念仏馬の耳   遠

 2001 9・5 10

 

 

* 秋咲きのばらに隠れよ 睦みの絵    愛子

 夢うつつ あひを重ねて虫時雨

 

* メールに添えられた二つの句、シチュエーションは異なる別句と想像するが、十数句のなかで、ふと心をとられた。前のは展覧会場ででもあろうか、大きな画集をひらいてでも口をついて出そうな佳句である。

 2001 9・8 10

 

 

* 秋咲きのばらに隠れよ 睦みの絵    の、句に、ご本人から解説が届いた。ポンペイ展に行き、また現地へも旅した記憶など、有るらしい。

 

* 勉強したことも、ガイドの本を読んだ事もない、さして関心もなかったのです。興味を持つものが沢山有りすぎて、別世界でした。メールの文章がわりになるかと書いた内で、一句でもお目に留まるものがあったなんて、感激です。

 娼館の壁面を飾っているわりには、汚く醜い画ではなく、むしろ共感を呼ぶ、明るくおおらかな壁画です。絵は小さいです。その手の絵は好まない女の私にも、そんな場面をきらりと想像させました。ポンペイ当地でのそんな館の入り口に面して、道路に、文盲にも一目で分かるそれむき出しのモザイク画の看板があり、照れ臭くて凝視は出来ないまでも、ホウと、ローマ時代のおおらかさを思い、印象深いものでした。

 当時の壁画はフレスコ画ではなかったのに、泥土に深くうもれて、酸化をまぬかれ、運よくタイムカプセルを抜け出て、当時の色そのままに観る事ができたのよと、友人に教わりました。

 2001 9・9 10

 

 

* たまたま「文藝館」のため持ち出してい高浜虚子・河東碧梧桐の文学全集本を、ポンと開いたそこに、「遠山に」と題した虚子の手記が、埋め草ふうに組み込んであった。わたしの読みや感想は感想として、句の作者はどんなことを言うているか、書き写してみる。

 

* 遠山に日の當りたる枯野かな   虚子

 自分の好きな自分の句である。

 どこかで見たことのある景色である。

 心の中では常に見る景色である。

 遠山が向ふにあつて、前が広漠たる枯野である。その枯野には日は當つてゐない。落莫とした景色である。

 唯、遠山に日が當つてをる。

 私はかういふ景色が好きである。

 わが人生は概ね日の當らぬ枯野の如きものであつてもよい。寧ろそれを希望する。たゞ遠山の端に日の當つてをる事によつて、心は平らかだ。

 烈日の輝きわたつてをる如き人世も好ましくない事はない。が、煩はしい。遠山の端に日の當つてをる静かな景色、それは私の望む人世である。  (昭和三三・三・二二)

 

* どこに書かれたものか知らない、新聞俳句欄の囲み記事ほどの分量である。これを読んでいて、これと関係なく、わたしがこのような景色を感じたとすれば、京阪か阪急かで大阪の方へ向かう車窓から、西の生駒山脈の方を眺めたようなものかなあと想われた。虚子がこれを書いたのは、ちょうどわたしが大学を出て、大学院に進むことの決定されていた時に当たっている。句の作られたのはずっと以前のいつかであろう、しかと認識していない。

 この句にたいする憧れは、あるいは原作者よりもわたしの方が深いかも知れない。わたしには広漠の感はあっても落莫の感は微塵もなかったし、今もない。人生を日の当たらぬ枯野の如きものといった喩え方をしようという気もなかったし、今もない。総じてわたしは、この景色に「人世」ではなく、人世から離れた、一段も二段も深く沈んだ「別次元」を感じていたし、「日」は遠山にも、しかし枯野にも、ともにやわらかに落ちていた。目を遠くへはなてば、あああんな「遠山にも」日が当たっているなあという、嬉しさであった。虚子は枯野をくらく、遠山のみを明るく眺めているようだが、わたしは、心身をとりまく一面の枯野を、暖かな枯れ色にあたためている「日の光のあかるさ・やわらかさ」を感じて、感謝していた。

 虚子とわたしとが倶に享有している最大の価値は、心平らかに「静かな」ことだ。「寧ろそれを希望する」という虚子はすこし芝居がかるし、「それは私の望む人世である」もミエを切っている。だが、「心の中では常に見る景色である。」「わたしはかういふ景色が好きである」と虚子は間違いなく思っていただろう。この人も、したたかに黒いピンを運命に刺しこまれて、ともあれ奔命し奔走しながら、烈日のように輝いた大世俗の人であった。師の子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」を、認めない人だった。

 わたしには、この「遠山」の一句を与えてくれて、有り難い人である。

 2001 9・15 10

 

 

 

* 雑誌「ミマン」に原稿を送った。

 

なるようになりて相(  )の済みしかばふつふつと鮟鱇の肝を煮ており  斎藤文子

 

煮(  )や得心いかぬ事ばかり  今井 圭子

 

 台所での物思いから詩が生まれている。さすが台所練達の女性読者たち、正解が多かった。

 2001 9・23 10

 

 

* 連載「ミマン」の読者解答が届いた。今回はよほど難しかったか。いかが。

 

 (   )の世を蔑(なみ)するほかにすべ知らぬ、戦後の民のひとりか。われも

 

 (   )なかばにて逝く年と思ひけり

 

 ともに、著名の作者のもの。原稿を早く書いてしまおう。

 2001 10・24 11

 

 

*  (今)の世を蔑(なみ)するほかにすべ知らぬ、戦後の民のひとりか。われも

 

 こう、卒業生の一人が答えてきた。 「今」という解答は実際にも最も多いのだけれど、あなたは何を考えての、この「今」

ですか。どういう意味になる歌なのか訊きたいな。あなたの「今」そして「戦後の民」観を訊き確かめたい。そう反問したら、

「おこたえします」とメールが届いた。

 

* (今)の世を蔑(なみ)するほかにすべ知らぬ、戦後の民のひとりか。われも

 蔑(なみ)するべき世は、今の世だ、という判断です。

 確かに、今の米国とも違う雰囲気で、過去に戦争へ突き進んだそういう「世」もあり、それこそが、蔑まれてしかるべきかも知れません。しかし、戦後の民である私は、今の世よりも本当に、悪い世だったのか自信を持って言えないのです。戦後とあるので、戦争に絡めてその前をひくのが正論だったのかも、とも思いますが。

 もう少し言うなら、おそらく私は、戦後の民、ではなく、高度成長期以降の民、あるいはバブルの後のオトナ、かと自覚しています。ここで歌われている戦後の民、とは、同じ気持ちは持てていないと思います。

 

* これは分かる。同時にまるで違う「今」理解を示してきた高齢の女性が何人も何人もいたことは言って置かねばならないだろう。

 「短い文章では言い尽くせない難儀な短歌を出題してしまいました。どんなに現象的に「今」の時代がひどく見えようとも、過去に、本当に今より良い時代があったとは思えぬ、と、高齢の女性たち、はっきり今を是認する・是認したいのだと解答している人が、何人もいました。今がというより、わたしは、この後が、これから先が、イヤな時代に後戻りしてゆきそうなのを案じています。若い人、学生たち、が立ち上がらない時代は暗いなあと心配しています。

 わたしは、「飢の世を蔑するほかにすべ知らぬ、戦後の民のひとりか。われも」が面白いように思いました。」

 2001 10・26 11

 

 

 例の「ミマン」出題短歌に、圧倒的に、「(今)の世を蔑=なみするほかにすべ知らぬ、戦後の民のひとりか。われも」と解釈した人の多かったのは、何故だろうと、また考えている。原作は「今」ではないのであるが。思いの外にこれは複雑な問いかけをはらんでいる。「戦後の民」と「今」と。己の位置と質と姿勢とを、こう一首にして人はどう考えているのか。一概に行かぬものがある。

 2001 10・27 11

 

 

* 師走の街へ出歩きたいとも思いつつ、ついつい思うに任せずに「校正」を先へ先へと急いでいる。久間十義小説を予定の箇所まで読み終え、次いで前田夕暮短歌をもう半ば以上読んだ。いやもうもう、「かなしい」「さびしい」「恋しい」「わかれ」「泣く」の多い青春短歌であり、歌人や詩人とは「かくある」もののように夕暮以降に或る型=タイプが出来ていったのか知らんとさえ思ってしまう。流行歌や演歌の歌詞のいわば原型を、明治大正の詩人や歌人が大まじめに創り上げていたという理解は的はずれであろうか。

 夕暮の歌、それでいて佳いのである。当人も「自序」に宣言しているように、文字通り「正直」にうったえている。「うた」とは「うったえ」であることをはっきり思わせる。いまも、やはり恋とはこうであろうか、そうかもしれない。

 夢中でやっていて、もう二時半になろうとしている。

 2001 12・27 11

 

 

* 山口の俳人で「湖の本」の読者から、稽古の第一句集に添え、心祝いの純米大吟醸が二升とどいた。豪快そうな、九州京都(みやこ)のお酒である。新年を祝う清酒が出来た。おめでたい。

  夕汽笛鳴りをり独楽の澄んでをり 孤城

 佳い。感謝。そういえば、こう寒くなってくるとまたうまい酒粕も出来る季節だ。

 2001 12・27 11

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