ぜんぶ秦恒平文学の話

歌人として 2002年

* 新年を迎えまして。 秦恒平

 

正春光輝 悠々東雲  二○○二年 元朝

 

 ご多祥と世界平和を祈ります。

 

 ろくろくと積んだ齢(よはい)を均(な)し崩し

   もとの平らに帰る楽しみ     六六郎 

 

 日本ペンクラブ電子文藝館 http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/

  作家秦恒平の文学と生活  http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/

 2002 1・1 12

 

 

* 碌でもない、碌々の六六郎の気でいるが、千葉の勝田さんは親切に「無無老」に読んで下さった。

 

  元朝の見果てぬ夢や憂=う=有の初め

 2002 1・2 12

 

 

* 秦さん。  富小路禎子さんが、亡くなりましたね。

 5日の朝刊で知り、あっと声が出ました。75歳。もちろん直接お会いしたことなどありませんが、「秘かにものの種乾く季」が、とても印象に残っています。

 年末はのんびりと、年始はそれなりにあわただしく過ごしました。

 今日の初出勤を控えた昨夜、靴を磨きながらいろいろなことを考えました。

 年末年始、実家へ帰れば親戚の噂話も耳にします。それぞれ、誰一人として、平凡に生きている人はいないと感じ、私が去年、頭を悩ませたり心を痛めたりしたことは、それと比べ、些細なことだなと思います。

 いつか何のために生きるのか、という問いに、Webページで答えを書かれていましたね。そうか、と思いました。何のために、ではないんだ、と。

 私たちの時間、体験できる事象は限られている。なら、そのなかでのびのびと、自由にやろうと決めました。去年から、あまり我慢しないように、と意識しています。刹那主義に堕ちるつもりはありません。

 今年の目標は、無意味なタブーを作らないこと、です。

 昨夜は年初にふさわしく、前向きな気持ちになりました。長い年末年始の休みで、最も充実した一日でした。

 それから、今年もやはり、「そんな少年よ」を読み返しました。毎年違った気持ちになります。

 

* ああ、これは変わりない、秦教授への、とても佳い、嬉しい、年始の「アイサツ」である。ほぼ七八年は経っている、教室で二年間いっしょに過ごしてから。

 歌人富小路禎子の死は、わたしにも少なからずショックであった。顔を合わせていたかも知れないが、認識して挨拶を交わしたこともない人だが、短歌の幾つかには感じさせられた。教室でも二度三度虫食いの出題歌に選んでいた、その一つを、この女子学生は印象深く記憶していたという。短歌に対して最も感度の高い学生で、実作にも興味をみせて実践していた。今でも、と、期待している。岡井隆や河野裕子にアクティヴな関心を示していたが、富小路歌に対する気持もよく分かる。とうに結婚している。

 こういうメールをもらうと、すぐ目の前に向き合っているような存在感を覚える。

 それは、こんな、三首の連作の体で出題した歌の最初の一つだ。

  (   )にて生まざることも罪の如し秘かにものの種乾く季(とき)   富小路禎子

  誤りて添ひたまひたる父母とまた思ふ(   )を吾はもつまじ

  急ぎ嫁(ゆ)くなと臨終(いまは)に吾に言ひましき如何にかなしき(   )なりしかも

「平凡に生きている人はいないと感じ、私が去年、頭を悩ませたり心を痛めたりしたことは、それと比べ、些細なことだなと思います。 / いつか何のために生きるのか、という問に、Webページで答えを書かれていましたね。そうか、と思いました。何のために、ではないんだ、と。」

 わたしにだって分からないことだらけで、だから「闇に言い置く」ようにいろんな独り言を書いている、毎日のように。またそれを読んで、めいめいの自問自答に少しでも刺激にしてくれている人がいるとは、勿体ないことだ。

 わたしが誰の発言にどのように反応していたのか、むろん覚えている。

 「何のために生きるのか」と悩んでいる若い人に出会うのは、苦しいほど切ない。日を背にして自分の影を踏もうと焦るようなものだ、罪深い落とし穴のような問いだ。

 しっかり生きるためには一番先に捨てるべきそれは無意義の問いなのである。

 何百億年だか光年だか知らないが、ビッグバンによって宇宙は生まれたと科学番組で語っていた。子供でさえ問う、では、宇宙の生まれるそのビッグバンの以前は宇宙でない何が在ったの、と。そんな問いにどう答えられてもとめどない。そういう問いは、発しても仕方がないのである、少なくも人間の今、此処を生きることに関しては。答えてもいけないのである。

 わたしは、神のことも含めて、答えようのない質問は自分になげかけない。黙って自分のうちなるブラックホールをのぞき込みたい、そこへ無事に安心して帰りたい、という願いの方が切実である。それが容易でないということだけを、理解しかけている。

 水平に過去へ未来へ目をはなすのでなく、垂直に「今、此処」を確かに踏んで生きていられれば嬉しいと思う。そのような思いが、いくらか彼女に響いていっていたのなら、あるいはその人をあやまる種であるのかも知れないけれど、わたしたちは「対話」し「アイサツ」を交わし続けていたということに相違ない。

「今年の目標は、無意味なタブーを作らないこと、です。」

 賛成だ。

 タブーでもあるが、ま、自分を、激励よりは要するに拘束してしまう惰性に流れた「努力目標」だの、日課や習慣的な「約束事」などに自分をことさら縛らせ、「被虐の奮発」を、どれほど多く重ねてきたことか、わたしも。「今、此処」から目が離れて、いたずらに向うに向うに「目的地」を幻想したその手の「タブー」は、大方が、麻薬的な習慣性の毒になる。楽しんだり励んだりしているつもりで、自身を悪く縛って苦しんでいるだけのことに、なかなか気づけない。欲が絡んでいるのだ。しかも逃避か執着かのどちらかであるに過ぎないそういう「約束」に、「タブー」めく過大な評価をあたえることで、自己暗示をかけてしまう。「なんじゃい」というさらっとした相対化が、できない。

 ただ、自身を怠惰の容認へ突き落とすような放心や刹那主義もまた毒の一種であるが、彼女は、そこもきちんと「前向き」に見ているようだ。

 そして、「今年もやはり、『そんな少年よ』を読み返しました。毎年違った気持ちになります」と。

 東工大で一緒に正月を迎えた諸君はだれもが覚えていてくれるだろう。必ずのようにわたしは井上靖の詩「そんな少年よ」を読み上げることから、新年の授業を始めた。懐かしいその詩を、わたしも、此処で読み返そう。

 

   そんな少年よ  ─元日に─   井上 靖

 

これといって遊ぶものはなかった。私たちはただ村の辻に屯ろして、

棒杭のように寒風に鳴っていたのだ。それでも楽しかった。正月だ

から何か素晴らしいものがやって来るに違いないと信じていた。ひ

たすら信じ続けていた。私は七歳だった。あの頃の私のように、寒

さに身を縮め、何ものかを期待する心を寒風に曝している少年は

いまもいるだろうか。いるに違いない。そんな少年よ、おめでとう。

 

俺には正月はないのだと自分に言いきかせていた。入学試験に合

格するまでは、自分のところだけには正月はやって来ないのだ。そ

して一人だけ部屋にこもって代数の方程式を解いていた。私は十三

歳だった。あの頃の私のように、ひとり正月に背を向けて、くろずん

だ潮の中で机に向っている少年はいまもいるだろうか。いるに違い

ない。そんな少年よ、おめでとう。

 

私は何回もポストを覗きに行った。私宛ての賀状は三枚だけだった。

三枚とは少なすぎると思った。自分のことを思い出してくれた人はこ

の世に三人しかなかったのであろうか。正月の日の明るい陽光の中

で、私は妙に怠惰であり、空虚であった。私は十五歳であった。あの

日の私のように、人生の最初の一歩を踏み出そうとして、小さな不安

にたじろいでいる少年はいまもいるだろうか。いるに違いない。そんな

少年よ、おめでとう。

 

私は初日の出を日本海に沿って走っている汽車の中で拝んだ。前夜

一睡もできなかった寝不足の私の目に、荒磯が、そこに砕ける白い

波が、その向うの早朝の暗い海面が冷たくしみ入っていた。私は父や

母や妹のことを考えていた。ひと晩中考えた。なぜあんなに考えたの

だろう。私は十九歳だった。あの朝の私のように、家へ帰る汽車の中

で、元日の日本海の海面を見入っている少年はいまもいるだろうか。

いるに違いない。そんな少年よ、おめでとう。

 

* 「『そんな少年よ』を読み返しました。毎年違った気持ちになります」と。今年はどんな気持ちになったものか、井上先生のこの豊かな詩を、あの当時にわたしが選んで読んだままの思いを、今なお分ちもっていてくれる卒業生がいる、すばらしいでははないか。

 この詩を初めて読んだ或る年の感銘は大きかった。むろんわたしは大人であった。働き盛りであった、が、井上靖に正月を祝ってもらった七つの、十三の、十五の、十九の少年の気持で温められていた。

 

* もしかして、いまこの井上靖の詩にしばらく思いを静かにした新しい友人たちがいるかも知れない。すべての友人達のために、わたしは、今ひとつの井上靖の詩を贈りたい。この詩を、若い諸君の胸の上に最後にそっと置いて、わたしは、あの教室から、あの大学から、去ってきた。

 

     愛する人に    井上 靖

 

洪水のように

大きく、烈しく、

生きなくてもいい。

清水のように、あの岩蔭の、

人目につかぬ滴りのように、

清らかに、ひそやかに、自ら燿いて、

生きて貰いたい。

 

さくらの花のように、

万朶(ばんだ)を飾らなくてもいい。

梅のように、

あの白い五枚の花弁のように、

香ぐわしく、きびしく、

まなこ見張り、

寒夜、なおひらくがいい。

 

壮大な天の曲、神の声は、

よし聞けなくとも、

風の音に、

あの木々をゆるがせ、

野をわたり、

村を二つに割るものの音に、

耳を傾けよ。

 

愛する人よ、

夢みなくてもいい。

去年のように、

また来年そうであるように、

この新しき春の陽の中に、

醒めてあれ。

白き石のおもてのように醒めてあれ。

 

* 野心と意欲とに溢れていた東工大の小さな研究者たちに、この詩は、静かに過ぎたかも知れないが、学部を出、殆どの人が大学院を二年ないし四年以上かけて出て、社会という手荒い日常の中で、わたしの知る限り当然ながらラクラクと過ごしているような卒業生は、昨今、いないのである。そういう人が、今又この詩に立ち戻ったとき、詩と自身との距離をはかりながら、感慨は深いであろう。

 あんまり佳いメールをもらったので、わたしもまたこんな詩に自分を曝してみたくなったのである。

 2002 1・7 12

 

 

* 倉林羊村氏に戴いた俳句集「有時」を読んでいて、やはり、近年いろんな句集で気になっていた体言止めの句のとても多いことに、あらためて一驚している。ざっとみて六割をこえているのではないか。それに比して切れ字を用いた伝統的な句型は実に少ない。自然、漢字が多く句は漢字で黒くなり、語調も語勢も重い。かるみの俳句から、現代俳句は離れて離れて深刻な短い詩になろうなろうとしているようだ。

 2002 2・3 12

 

 

* 倉橋羊村氏の句集「有時」の中から三年分の俳句を逐一わたしの手で機械に書き写した。スキャンするよりも、いっそう深く原作の味わいに迫れるメリットを取った。たしかに倉橋俳句の微妙をいくらか嗅ぎ分けたように思う。

 高齢の叔母上を見送られた後に、幾句かあったが、

  永病みを看取りし妻よ寒昴  羊村

の「妻よ」の「よ」に感じ入った。ただこの一音の一助辞に籠められたものは、温かくて深い。こんなに一字をみごとに響かせた例には決してそう再々は出逢えるものでない。この句が集中に図抜けていたなどと言うのではないのだが、この「よ」には驚嘆したことを書き留めておく。二百数十句のなかに、二句はどうしても漢字の制限上再現不能と見て割愛した。字は在ったけれど再現できるかどうか不安なものも二三在った。困ったものだ。 2002 2・21 12

 

 

* いろんな人生が有る。有ると思っている、と、それもいつ知れず消え失せてゆく。何かが残ると思うのは錯覚に過ぎない。だから人は投げやりに生きるだろうか。そうは思わないから人間なのである。いいわるいの問題ではない。

 

* 一人(  )ることには触れず新茶注(つ)ぐ   

 

* この「ミマン」出題の解答が、面白かった。どんな漢字一字でどんな場面を創りますか。

 2002 2・23 12

 

 

* 季節に先駆けて出題した以下の二題。たくさんな解答が届いたが、原作と表現を共有した人数が極端に少なく、二つとも原作通りの解答者が一人もいなかったのには驚愕した。

 

 雨の(  ) 女子高生は傘と傘ちよつと合はせて相別れたり

 

 掘りたての筍の(  )風呂敷より

 2002 3/23 12

 

 

* ミマンの連載で、川崎展宏氏の筍の句を読んでいて、まだ少し早いが、掘りたての筍飯が食いたくなってきた。原稿はもう送った。

 2002 3・25 12

 

 

* 川崎展宏さんに、「掘りたての筍の先風呂敷より」という、季節の匂うようなかるみの妙作がある。この「先」一字を虫食いにしておいた。すると、こんな句が雑誌「ミマン」の解答者から飛び込んできた、「掘りたての筍の飯風呂敷より」と。原作は土の香のする筍のとんがった頭が風呂敷からはみ出ている季節感。それが一転、一字のちがいで、お裾分けの到来物に化けた。目の前へ「掘りたてですのよ」と、お鉢か重箱かで香ばしい筍御飯がもたらされた嬉しい句となる。名解である。わたしの「創始」になるこの虫食い詩歌のそれぞれの「表現」には、こんな新鮮な発見も生まれる。見渡していると、ずいぶん、この試みがいま流行っているようだ、中学でも高校でも新聞や雑誌でも。授業報告も幾例も出た。

 2002 4・1 13

 

 

* 望の月でしょうか、中天に浮かぶ朧ろ月。

 最後の最後まで、花をかがやかせていた巨木が、みずからのふりこぼすはなびらにつつまれながら、しずかに倒れました。齋藤史先生が、とうとう……。

 昨日のちょうど今ごろ、まだ夜深いというか、明け近くというか。

 史先生のたましひがふはり、地上を離れたとき、やわらかな、おぼろ月のひかりがひろがっていましたでしょうか。

 身辺、いよいよ、さむくなりまさってゆくようでございます。

 

* 与謝野晶子以降の大歌人、真正の詩人であった。全うされた生涯と想うことで、黙送している。処女歌集をのぞけば、斎藤さんの頂点の大きな一つは、「ひたくれなゐ」であったろう。わたしはその帯の文を書かせて戴いた。実に重厚に大きな栃の木の鉢を戴いているし、全歌集や単行の歌集も何冊も戴いている。普通の歌人にはどうしても、五・七・五・七・七と「数えた」ように、その上に「言葉が置かれ」てくるが、斎藤さんの歌はそういうことが感じられず、音数句数など感じさせない渾然と一首であった。わたしは歌人と呼ばず、詩人と、より大きく呼んできた。 2002 4・27 13

 

 

* 午前中の青嵐が止んで、つくばは雨になりました。

 

  濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ  齋藤 史

 

「有事法、メディァ規制法。イヤな流れがそのまま濁流化している」というおことば通り、イヤな濁流が、すぐそこに迫っているような。

 暗澹たる思いがいたします。

 亡き父が、ロシア文学の徒というだけで特高に追われた時代に逆戻りしそうで、怖ろしうございます。

 大勢のひとが血と涙であがない、わたくしたちに贈ってくれた「自由」は、たった、五十余年で、失われようとしています。血と涙を流してくださったひとびとに、何と言ったらよろしいのでしょう。

 しずかな雨のけはいに、亡き魂を感じております。

 

* 斎藤さんの夫君は、2.2.6事件に連座された軍人であった。自決し又死刑にされた青年将校達は少女であった斎藤さんのいわば友だちであった。上の歌は、斎藤史の出発を告げてほとばしり出た痛切な批評であった。「ひたくれなゐの生ならずやも」と歌った人の根底の視覚である。

 2002 4・30 13

 

 

 正岡子規の句と歌とを百ずつぐらい選んでみようとしたが、予想どおり、さて「選ぶ」となるとそうそう佳いモノばかりではない。「竹の里歌」から百も採ろうとすると、無理が出る。安くなる。人口に膾炙した幾つかはどうしても目にとまるが、今から見て月並みに緩い句や歌が多い。正岡子規は批評の方が俊秀の感、濃し。

 2002 5・21 13

 

 

* 交叉路をわたる雑踏にわが子居り少年期過ぎし(  )しきその顔

 

 とうに亡くなられた高名な独文学者で歌人だった方の作であるが、「ミマン」で、ただ一人として作者と表現をともにする人が無かった。興味ふかい結果であった。漢字一字を補って欲しいのだ。いかが。なぜ原作の一字が思い浮かばないのだろう。いかが。

 2002 6・25 13

 

 

* 北原白秋の抒情小曲集『思ひ出』を起稿校正。楽しんだ。岩波文庫で白秋詩集を人に借りて読んだのは中学時代、若山牧水歌集とならんでいた。ことに「思ひ出」には、年齢のこともあり、措辞の魅力もあり、心惹かれた。久しぶりに読み返しても、やはり、いいなと思う。先日朔太郎の『純情小曲集』を読んだばかりだ、北原白秋に捧げられていた。白秋は大きな一大源泉であった。優れた詩人があとに続いた。白秋ともう一方の極に、高村光太郎がいた。わたしは白秋の天才に傾倒した。

 2002 6・26 13

 

 

* 夥しい数の和歌や俳諧を書き抜いてみた。目的があって、それに添ったものを選んだが、そのついでに、目的に添ってはいないがビックリするほど美しい、面白い、唸ってしまうような和歌にも俳諧にもたくさん出逢う。千ではきかない。いいなあ、こういう伝統とこういう名歌秀句を魂の糧としてもっているのだ、いいなあとつくづく思う。よく選ばれた詞華集を、みなが母子手帳や年金手帳ほども大事に身の傍に愛蔵し所持するようだと、どんなにいいだろう。

 2002 7・7 14

 

 

* 涼をもとめて  子供の頃、氷河というのはただ白いものだと思っていました。大人になってスイスで初めてほんものの氷河を見たときに、白さの奥から濃厚なブルーがにじみ出ているのを知り感動をおぼえました。地球の歴史を刻んできた氷河のなかに、広大な海があり空があるような印象がしたのです。純粋な氷河ほど青いのだと教えてくれたひとがいました。

 酷暑の予感がひたひたと迫りますこの頃ですが、あの青い氷河を思い出すたびに心があらわれ清々しさが甦ります。

 先日「e-文庫・湖」に掲載してくださいました芹沢光治良にかかわる講演は、友人に送りましたところとても喜ばれました。ありがとうございます。

 川端康成についてのご講演も読ませていただきました。私が以前から川端康成の作品について漠然と感じていたものをお教えいただいたようで、大変面白うございました。

 昔彫刻家の高田博厚が川端康成の肖像をつくったことを回想して、こんなことを言っていました。

「川端康成、ごつい顔でしょう、目も。顔がごついんだけど、中からくる力が弱いんで閉口したんです。非常に弱いですね、中からくるものは」

 私が川端文学に感じるある種のもどかしさはこんなところにもあるのかもしれません。なんて美しいひとだろうと近づいていくとたしかに美しいのですが、触れるとなぜか淡雪のように溶けてしまう。私にとって川端文学はそんな女性でした。ですから迫るよりは眺めるだけでいいと感じ続けて、熱い読者にはなれませんでした。私の感性が川端美学を理解し愛好するほど繊細でないとお叱りを受けそうですが……。それでも先生の静かな語り口を読むうちに、私の川端文学への接しかたも少しは許されるような気がしてまいりました。

 お暑さのなかでも、先生のお心のなかにはきっと清らかで涼しい歌や句がたくさんおありのことでしょう。どうぞお身体のほうは、くれぐれもご無理なさいませんように。

 

* 夕風や水青鷺の脛をうつ  蕪村

  夏河を越すうれしさよ手に草履  蕪村

  石も木も眼にひかるあつさかな  去来

  是ほどの三味線暑し膝の上  来山

  おほた子に髪なぶらるる暑サ哉  園女

 

* 彫刻家高田博厚の川端洞察がおもしろい。

 2002 7・9 14

 

 

* 「ミマン」の出題のために、身の丈にあまるほど歌集、句集、歌誌、句誌を積んでいるが、少なくも数万作もあるだろう。そんな中から毎月ひとつずつの短歌と俳句を選び出す。だから、しょっちゅう読んでいる、さもないと咄嗟に選べない。選んだのを、カードに書き出しておくようにしてきた。面倒な、しかし必要な作業で、それをサボルと、選んだ作品がどこにあるか探し直すのは途方もなく大変なのである。ことに出題の時は「作者」の名前を出さない。出さないまま、もし作品の在処を見失えば、記憶していなければ、探しようが無くなる。むろん一度もそんなヘマはしてこなかったのに、今回解答の送られてきた俳句の方の作者が分からない。カードにし忘れていた。作は出題してあるのでわかるが、原本の行方がつかめず、作者名が分からないのでは、運動場で針一本探すような次第で、脂汗をたらして、かりかりして探しに探したが見つからない。往生した。へとへとに疲れ、頭の中がパン屑のようになり、立ったまま座ったまま寝入ってしまうほど。

 それでも、見つけだした。半日で足りなかった。原稿も書いた。だがボケてしまっていて、同じ人に同じ中味のメールを二回書いたり三回送ったり、我ながら手に負えなかった。

 2002 7・21 14

 

 

* このところ、目的があって、古今集の和歌を全部通読し、山本健吉氏の撰になる詞華集二巻を全部読み、さらに近世俳諧、川柳を全集で、全部通読して必要なモノを選んでいった。近世の俳人だけで百五十人ほど、その代表作を読んでゆくのは想像以上に楽しかったし、川柳は、俳諧ほど分かり良くないだけに注を参考にしいしい、グスグスと笑い続けていた。そしてやはり和歌がわたしは好きだと分かった。

 これらから必要な作をすべて機械で書き出して行く。べらぼうな作業量で、保存すれば良い資料には成るのだが、汗が噴き出す。日本の詩歌とは、百人一首の遊びこのかた、ずっぷり漬かってきた。物語など、和歌があればこそひとしお面白い。また芭蕉や蕪村のいない日本の近世なんて、どれだけ侘びしいだろうと思う。

 ときどき、もう残り少ない人生に、そんなに読書してどうなるのと、不届きなことも思うが、昔は、読書して何かの役に立てようという欲が確かにあった。今は、もう役立てる仕事もないが、そのかわり楽しめることでは、純然、楽しめる。それが有り難く時を忘れる。視力だけが心配。

 2002 7・21 14

 

 

* 何時間もかかる県外から必ず祇園祭のあの鉾の「辻回し」を見に来るなんて、京都の者には考えられない元気さだ。わたしでも、梅雨明け、あの暑い暑い日照りの中の「辻回し」など、三度と見たことはない。祭礼はむしろめったに見ないというあたり、兼好法師の弟子筋である。

『合本・八代集』とは佳い蔵書。いま私が頂戴し続けている大古典全集に、惜しいことに『古代和歌集』が欠けている。古今と新古今、それに和漢朗詠集は入っているが、八代集からのせめて選集が欲しかった、一冊か二冊にして。『国歌大観』は字が小さく本が重く、扱いにくいし読みにくい。

 世の中には、いろんな人がいて、生き生きと暮らしているのが分かる。

 2002 7・22 14

 

 

*「伊藤左千夫短歌抄」を起稿し校正を終えた。生涯作品の全般をまばらに、晩年を密に選んだ。年少の正岡子規に全人的に傾倒して、後に続いた島木赤彦や斎藤茂吉に師の大いさを確かに手渡した、熱い血のこの情深き詩人がわたしは好きである。

 2002 8・8 14

 

 

 昨日は大正四年生まれの菊地良江さんの自選短歌百五十首をスキャンし校正していたが、歌の佳いのに感心した。さすがに結社で選者格のベテランは、歌の一首一首で人生を彫琢してきた気概が、措辞ににじみ出る。わたしより二十歳も年長の人が、日本ペンクラブ入りして、すぐに生涯の制作から百五十を撰して届けられる。それが「ペン電子文藝館」により、世界に公開発信されて、残る。

 2002 8・11 14

 

 

* 若山牧水の歌集『別離』は彼の生涯のうちで最も華々しい好評に包まれたもの、二十六歳での第三歌集である。牧水の歌集をわたしは、新制中学三年のうちに岩波文庫で買った。白秋詩集とともに、愛読した。茂吉の自選歌集『朝の蛍』を古本で手にした時は高校生になっていた。

 今日、「別離」上巻をスキャンした。相当な歌数になるが、国民的な愛誦歌も含んで、一つ一つの歌がいとおしいほど懐かしい。「略紹介」にこう書いた。

「わかやま ぼくすい 歌人 1885.8.24 – 1928.9.17    純情、浪漫、憧憬、人生、哀愁そして旅情、酒。じつに「新風」そのものであった。多くの愛唱歌を抱き込んだ「別離」は東雲堂より明治四十三年(1910) 四月刊行の第三歌集で、非常な好評を博した。歌人は時に二十六歳。上巻の大半を収録」と。この校正は、量的にたいへんだけれど、歌をよむ醍醐味に恵まれる。

 2002 8・15 14

 

 

* 牧水の短歌をまなんでわたしは多くの「言葉」を覚えた、「身につけた」ことが、校正していてまざまざと思い出せる。わが歌集「少年」にもっとも色濃くかげを落としているのは若山牧水であったと、いまにしてしみじみと懐かしい。「幾山河越えさり行ば寂しさの終(はて)なむ国ぞけふも旅ゆく」などの歌に出逢った感動は当時のままにいまも胸に在る。「白鳥はかなしからずや空の青海の青にも染まずただよふ」とも。牧水にたっぷり漬かってから、茂吉に出逢った。茂吉に出会えてよかった。茂吉の『万葉秀歌』も愛読し耽読した。だが、すべての出発点にあったのはやはり和歌であり、百人一首の恩恵があまりに深い。呪縛だとは思わない。

 人は、老いて、すこしずつ去ってゆく。もう、そういうことに驚いて心をひどく傷めることはしなくなりつつあるが、古典は、かわりなく胸の内で新しい。

 2002 8・16 14

 

 

* 「女ありき、われと共に安房(あは)の渚に渡りぬ、われその傍(かたは)らにありて夜も昼も断えず歌ふ、明治四十年早春。」この一連の牧水短歌にどんなに陶酔し憧憬したろう、読んだわたしは十五六歳で、歌った頃の牧水は二十三歳だった。海も濱もあまり縁のない京の町中で育っていたし、或る意味では非常に遠慮深いタチでもあったから、牧水のこの無垢にして赤裸々な恋愛の賛歌にして悲歌にして陶酔の歌声には、心底驚いたし、動かされたのであった。

 

ああ接吻(くちづけ)海そのままに日は行かず鳥翔(ま)ひながら死(う)せ果てよいま

 

接吻(くちづ)くるわれらがまへにあをあをと海ながれたり神よいづこに

 

山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇(くち)を君

 

いつとなうわが肩の上にひとの手のかかれるがあり春の海見ゆ

 

声あげてわれ泣く海の濃(こ)みどりの底に声ゆけつれなき耳に

 

わだつみの白昼(ひる)のうしほの濃みどりに額(ぬか)うちひたし君恋ひ泣かむ

 

忍びかに白鳥(しらとり)啼けりあまりにも凪ぎはてし海を怨(ゑん)ずるがごと

 

君笑めば海はにほへり春の日の八百潮(やほじほ)どもはうちひそみつつ

 

そして又、

 

このごろの寂しきひとに強ひむとて葡萄の酒をもとめ来にけり

 

松透きて海見ゆる窓のまひる日にやすらに睡る人の髪吸ふ

 

闇冷えぬいやがうへにも砂冷えぬ渚(なぎさ)に臥して黒き海聴く

 

闇の夜の浪うちぎはの明るきにうづくまりゐて蒼海(あをうみ)を見る

 

空の日に浸(し)みかも響く青青と海鳴るあはれ青き海鳴る

 

海を見て世にみなし児のわが性(さが)は涙わりなしほほゑみて泣く

 

白鳥(しらとり)は哀しからずや空の青海の青にも染まずただよふ

 

かなしげに星は降るなり恋ふる子等こよひはじめて添寝しにける

 

* ほとんど驚愕した。与謝野晶子の「みだれ髪」には反撥していたものが、牧水短歌ではみごとに開放された。胸を押し開かれ、少年は目を瞠いていた。あの鼓動の高まりと少し気はづかしかったこと。初めて読んだ、初めて知った、そういう感動だったのを思い出す。あの少年の気持ちが、しかし、いまも胸の内に在る。わたしはまだ憧れて胸うちふるえる事が出来る。

 2002 8・17 14

 

 

* 膝に大怪我のあとをかえた貴乃花が、久しぶりの本場所で武蔵丸と、横綱同士千秋楽に優勝をかけて取り組んだ。こう書くだけで、気分がいい。武蔵丸が大きな借りを返した。それもいい。貴乃花の黙々と意地を徹した気概にも共感した。

 

 名月や貴乃花負け武蔵丸  遠

 2002 9・23 14

 

 

* つくばの和泉鮎子さんから歌誌「谺」がとどき、巻末この人の執筆になる「作品評」を読んでいる。たいへんこまやかに、さりげない歌のささやかな命脈にふれて歌の意義を立ち上がらせる寸評の、よく行き届いているのに感じ入っている。思いがけない出逢いの中に佳いモノは静かに隠れているものだなと思う。

 2002 10・9 15

 

 

* 「ミマン」の連載、最終回の校正も終えた。四年間、気持ちよく仕事してきた。「残念ですが、誌面をまた新たにしていい時機と思い、今年で終えさせて戴きます、ながらく有り難う御座いました」という挨拶があれば、まったく何でもなかった。わたしが編集長なら、そう云う。

 ところが、「好評なので好評の内に終らせたい」という挨拶だった。

 雑誌編集と限らず、どんな仕事でも「好評」を得ようと努力し、事実好評なら、いやましにその好評を持続させ拡大させ営業のプラスに繋げようと努めるのが、常の道理で、この、顔を見たこともない編集長の挨拶は、編集者の常識を逸れた、まことに稀有な「終らせ」方だという話になる。つまり、未熟なお世辞をまちがったレトリックでつかったわけだ、よせばいいのに、と苦笑した。

 ある周期で誌面を清新にしたいのは、編集者の常、それは立派な理由になる。ところが、「好評なので好評の内に終らせたい」というケッタイな挨拶は、事実なら明白に間違った判断であり、お世辞ならへたなお世辞で、云わない方がはるかにマシであった。つまりウソをつかれた気持ちにさせるいやみな挨拶であった。四年にわたるとてもスムーズだった気分を、最期にぶちこわされた心地は、いいものでない。

 2002 10・10 15

 

 

* 版画作家田島征彦氏の贈られてきた本の添え状にわたしの昔の句が書き込まれていて、この「私語」に引いておいたところ、

  月皓く死ぬべき蟲のいのち哉  恒平

とあるべきが「無視のいのち哉」になっていた。メールで指摘してきてくれた人が、「変換違いになっていて、クスクス笑ってしまいました、でもあの句、佳いですね」とついでに褒めてくれた。ちょっとだけ嬉しい。

 2002 10・12 15

 

 

* 齋藤史先生の最後の「てがみ」をご紹介させてくださいませ。

 逝かれたあと、ご長女の章子さまが見つけられたそうで、詩の中にある〈みんな〉とは「おせわになった全ての方と解釈して」お伝えくださったもので、たぶん、一般の雑誌などには、まだ、載せられてないとおもいます。

 

    てがみ  齋藤 史

 

  明日 わたしは 鳥になり

  あなたのそばから 飛んでゆきます

  わたしの いつも 居たところ

  茶の間のあかり 消えるでしよう

 

  あした わたしは 風になり

  空の向こうへ 帰つてゆきます

  雲の間を 駆けながら

  星のことばを 聞くでしよう

 

  いつも わたしは 何処かにいて

  みんなのことを 思つています

  花や水やが きらめいたら

  それは わたしの てがみです

 

 史先生の第一歌集『魚歌』の第一首目は、

  白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう

 でした。

 偶然であろうはずはない、と、おもいました。詩人としての幕を、みごとにひかれた、と、おもいました。

 

* 少なくも昭和以降の日本の詩人(歌人俳人詩人)のなかで、最も優れた、卓越したお一人であった齋藤史さんのこれは「辞世」の「てがみ」であり、わたしの占有していいモノとは思わない。わたしは齋藤さんを歌人と呼ばず、この人に限って「詩人」と言いてきた。その詩人「史」の最期を告げる「詩」である。頭をたれて聴き入っている。

 少女期、二二六事件の渦に家ごと深くまきこまれ、そしていまや歴史的と評価できる処女歌集が生まれた。その巻頭作に呼応して、高齢を生きた齋藤さんのうちなる「乙女」のことばが素直に流露している。

 2002 10・23 15

 

 

* 宮本より少し早く生まれていた歌人土田耕平の第一歌集「青杉」全編を起稿し、校正している。

 島木赤彦門下で赤彦の歌風を独自に磨き上げ、師よりもなお魅力的な流露清淡の境涯に達した歌人。この若き日の、しかも病気を養って孤寂の境にひとりまみれて過ごした、伊豆大島での数年の療養歌集の、懐かしい調べは、嘆賞のほかない静謐の魅力。短歌を自分でも作ってみたい人には、心静かにこの「青杉」を音読してみることを勧めたい。

 2002 10・24 15

 

 

* 伊勢物語の九十八段をこんな風に読んでみたがと、今西祐一郎氏のお手紙をもらい、しばらく考えていた。

 

* 古今集雑上に、「よみ人知らず」「さきのおほいまうちぎみ=前大臣」の歌として「かぎりなき君がためにと折る花は時しもわかぬものにぞありける」という一首があり、左注に「ある人のいはく、この歌はさきのおほいまうちぎみ(=前大臣) のなり」とある。大臣はいっぱいいるし、前のといっても誰のことか特定は不可能であるが、古来これを太政大臣(=おほきおほいまうちぎみ)良房であろうとするあくまで推定がなされてきた。根拠は不明。

 伊勢の九十八段を論じた人は、「むかし、おほきおほいまうちぎみときこゆるおはしけり。つかうまつるをとこ、なが月(=九月)ばかりに、梅の作り枝にきじをつけてたてまつるとて」次なる和歌一首を献じた。

   わすがたのむ君がためにと折る花はときしもわかぬものにぞありける

「とよみてたてまつりたりければ、いとかしこくをかしがり給ひて、使に禄たまへりけり。」と、これだけの一段である。

 この不明な根拠を一方で前提とし肯定しつつ、古今集の和歌は太政大臣良房の作とし、伊勢物語のなかで在原業平は、官位の昇進を望んで、(他にも追従の例のあるように、)古今歌初句「かぎりなき」を、機転ないし趣向で「わがたのむ」ともじって作り替えた。この「業平」の「秀歌と趣向」を「過剰」なほど大仰に愛でて、「良房」太政大臣は、使いの者に当座の褒美を与えた、と、そう今西氏は読まれたのであり、引証適切、その限りでとても綺麗に読み切れている。

 これで良いだろうかと改まって問われ、ではと考えてみると、よく読み通せないけれども、それなりに不審点や問題点が無いでもない。で、それだけを以て答えにしようと、以下のようにわたしは手紙を書いた。

 

* 伊勢物語第九十八段

 この段の私の第一印象は、和歌が「へた」ということでした。「秀歌」とはとてもいえない、在原業平に擬して読むに足るモノが感じられない、と。この評価では、少し意見の差があるようですね。

 次ぎに、時節を選ばないとしても、なぜ梅の花か、でした。作り枝なら、藤でも桜でも桃でも梨でもよろしいのに。梅でも桃でも良かったのか、梅でなくてはいけなかったのか。これには、触れてられませんね。

 またこの雉が、1 生きた雉か、2 死んだ雉か、も気になりました。「雉も啼かずば」などという後代の口気を気にするわけでなくても、また歌のなかの「きし」に仮にかこつけたにせよ、「雉と梅」という似合わない(と私は感じましたが、)取り合わせが、「何でやろ」と思わせます。この取り合わせに、1 理由がある。 2 理由のないことが理由である、の何れか、気になりました。雉と梅との取り合わせは、他にいくらも例があるか、俄には言えません、私には。この点にも、触れて居られませんね。

 歌の意味は一読して「意図した追従」ですが、太政大臣がなんでこう喜ぶのかは、仰るとおり余程の事情を絡ませない限り「過剰」で、分かりにくいですね。それが本心からか、苦笑混じりかも。

 だいたい、伊勢の「男」は、たいがい自身で身を働かせて事を行う方ですが、この段では、和歌を自身では捧げていないようです、「使」に「禄」が出ていますので。そのために献歌が、やや間接の行為となり、文藝的に訴求力がうすれています。これは何故でしょう。「使」と「禄」にも、触れてられませんね。じかに捧げなかったのは場所柄の制約があったのでしょうか、しかし梅花の作り枝に雉をつけるなど、えらく派手やかに使者が届けているのは現実のことですし。

 そして献歌の衷情が、作者の上に「めでたく酬われたのか、どうか」も。官位ねだりであったのなら、「使」に「禄」で済ませたのは、太政大臣の、出し惜しみとも、皮肉なお返しだとも見て取れますが。

 で、次ぎに例の「かぎりなき」の「前大臣」作とされる歌ですが、これがまた、ひょっとしてこれも業平作かも知れぬよちがあるにしたところが、本来の歌からはほど遠い駄歌で、先の「わがたのむ」も、ともに業平の集に見えていないのは、当然のように感じます。

 一つ、「かぎりなき」と「わがたのむ」とが、どっちが先に出来た歌か、ですが。和歌が拙いという私の趣味判断を先にすれば、伝「前大臣」歌が先で、伊勢の「男」のは、やはりその「もじり」だということになります。この「男」が業平とは確定出来ないので、もし他の人間なら「わがたのむ」のような拙な歌をひねり出し、ぶっつけに先ず追従したとも言えますけれど、、そしてまた「前大臣」(良房かどうか、伊勢の記事を利用して、古今集へアト添えの左注がついたとも。)が、それを「かぎりなき」と改めまして「上」に献じることもありえましょうが、伊勢物語の「物語る趣向」としては、これはあくまで「わがたのむ」であり、意図して先行の「かぎりなき」をもじったのでしょう。古今の歌をネタにして、伊勢が、後発追加のの創作にし、それを受けて、更に古今の歌に左注「一説」が添っていったという、全体にたいへんひねった「創作」モノのように、やはり感じられます。

 古今の「前大臣」を太政大臣良房と仮定しますと、こんな「かぎりなき」などいう「賀歌」を献じた「上」人は、天皇か、上皇か、皇族以外に無いでしょうね。女にも親族対してでも、感じがうまく合いませんから。

 清和天皇では、両者の実の力や年齢のひらきからして、リアリティーを感じにくい。

 文徳天皇はいわば良房達が天子の位から押し下ろした人で、作歌の時期にもよりますが、へんに白々しいと。

 むしろある時期に、惟喬親王のような敵性の存在に追従の意図で贈っていたなどが、業平がらみですと、曰くありげで面白いのですが。

 業平と良房との関係も、もともと、まともな「上と下」ではなく、立場的・信条的・政局的には相当にねじれた仲らいでありましょう。業平から良房へとすると、「わがたのむ」にはブラック・ジョークに近い慇懃さすら感じられます。加えて、似せモノの梅花と、(仮に)死んでいる雉との「ときならぬ」取り組みは、妙に気色が悪いともとれます。

 のちの藤原基俊の「させもが露をいのちにてあはれことしの秋もいぬめり」に似た、一種のいやみか嘆息か失望を、昇任がらみか、他に何かのワケあって、「男」からもちかけた腹に一物の狂言なのかもしれないと、そして太政大臣の反応にも、むしろ「このヤロー」といった「苦笑」を感じ取ってもいいのでは、と、いうぐらいの印象でした。

 「使に禄」の読みが、この一段の普通の結末なのか、その先に、別の成果や挫折が見られたろうとまで推測するか。「含み」の残る、舌足らずな「段」の組み立てですね。

 良房と業平との縁で、特別記憶されたり記録されたりしたほどの「良い事」があり得たか。染殿の高子をはさんでの「まずいこと」等の方が、一般に印象にあるだけに、「わがたのむ」には、少なくも直球を投げた颯爽は、感じにくいようです。

 ま、思いつきを申し上げてみました。昇任希望の、或いは何かの要請を秘めた「男」から「前大臣」への追従または運動と、仰有るとおりに綺麗に読み切れるのも、その通りです。欲を言えば、いま挙げたような関連のことがらにも、綺麗な説得が利くと嬉しいなというところです。

 御礼にかえて、駄文。ご容赦、お笑い下さい。凛々歳暮。お大切に。

 

* 異説が聴きたい。

 2002 11・27 15

 

 

* 伊勢物語九八段に関連して、ペンの日のパーティーで会った和泉鮎子さんに、この段は、「何ななのか」読み直してくれませんかと頼んで置いた。良い感想が届いている。

 

* 伊勢物語九十八段、あらためて読んでみますと、むつかしうございます。

 このお話、わたくしはひとつ前の段、あの、

  櫻花散りかひくもれ老いらくの来むといふなる道まがふがに

のあります九十七段の続きといいますか、同趣のものが並べられている、そういう感覚で、ぼんやり読んでおりました。この九十七段の「櫻花散りかひくもれ」という、藤原基経の四十の賀の祝いに詠んだうたですが、一応、賀のうたとなっています。けれど、不吉なことばがいくつも重ねられており、結句を見るまでは、何とも薄気味わるい感じがいたします。結句にしましても「まがふ」ということばも、めでたいといったおもむきのことばとはおもわれません。致し方なく賀歌を詠んでさしあげはするけれど、といった、業平の意志が透けて見える。けれど、結句でくらり、ひっくり返して見せるという機知に富んだ賀歌とも見え、それゆえ、贈られた側はとがめだてすることもならない……。

 呪詛ともなりかねない賀歌を贈られた基経は、このとき、どうしたでしょう。腹の立つのを抑えて鷹揚に「いや、みごと」と言ったか、苦虫を噛みつぶしたような顔つきでふいと横を向いたか――。

 九十八段も同じような場面を想像いたしました。

 「わが頼む君」と、追従口の一つも利いたりして権力者良房に膝を屈せねばならぬ口惜しさを、業平とおもわれる「仕うまつる男」は、毒を隠した機知で遣らおうとしている。その小道具が、「九月ばかりに、梅の造り枝に雉をつけ」たものであり、口上に代るうた。そう、読んでみましたが。

 木の枝に鳥をつけるのは、鷹狩りなどのおみやげとして『源氏物語』などにも見えますが、雉ですと冬の大鷹狩りの獲物。それを秋の季節に、春の花の木につけて奉るという念の入れようは、「ときしもわかぬ」と言いたいためとは申せ、いかにも盛りだくさんで、業平自身の美的感覚からははずれた悪趣味なもの、おふざけかともおもいます。もしかしたら、おふざけついでに、この小道具では缺けている「夏」を、使いの装束にでもあらわしたか、いや、そんなのんきなものではなく、「夏」の缺けていることに何か、意味があるのかも知れない、などと、これも、想像でしか、ありませんが。

 また、業平が献上したのは、現実にはあり得ないものです。そこに、みーんな嘘いつわりという寓意を籠めたとしたら、たいへんな悪意を相手に突きつけたことになります。

 最後の、良房が「いとかしこくをかりがりたまひて」云々は、良房ほどの人物が、単純に興がりよろこんだとはおもわれません。業平の底意を知りつつ知らぬ顔をしたのか、業平の演技、見抜いたぞと、ことさら大仰に「いとかしこくをかりがりたま」うたのか、それとも、書き手の潤色、いえ、書き手は業平の側に立つひとで……と、わたくしの想像は、通俗にかたむき過ぎていて、つまるところ、わたくしという読み手の器をさらけ出したことになってしまいました。

 この、九十七段と九十八段は、年代としては順序が逆になっています。うたも、「櫻花散りかひくもれ」のほうが、格段にすぐれていると、わたくしはおもっていますが、幾年かのちがいにせよ、少し、角ある振舞いとうた、それと、練達のうたを並べてみせた編者のことも、おもわれます。

 実は、この小文、秦先生のを拝見する前に書き始め、書きさしたなりになっていた、思いつくまま書き連ねた体のものでございます。

 先生のを拝見しましたあとでは、作者に疑義のあること、異同といったこと、なぜ、梅なのかといったこと、そのほか、思いの至らなかった点が見えてきて、臆するばかりでございます。けれど「異見を」というおことば、それに宿題をくださったということで、お恥ずかしく存じますが、送らせていただきます。

 2002 11・30 15

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