ぜんぶ秦恒平文学の話

歴史を読む 1999~2008年

 

* 聖帝とうたわれた村上天皇までは、崩御後にみな「天皇」とおくり名していたが、次の帝からはすべて「冷泉院」というふうに院号であった。後白河天皇とか後醍醐天皇と呼ぶようになったのは、大正時代に入ってからの話で、「天皇」のおくり名の復活したのは幕末に近い「光格天皇」以降仁孝、孝明、明治天皇と続いたのであり、光格天皇以前平安時代の村上天皇までは、ことごとく正式のおくり名は「院」であった。

 こういう史実をふっと記憶に呼び起こされることで、意外に新鮮な気分になり、身のまわりの「むちゃくちゃ」から微かにであるが逃避できる。息がつける。

 わたしは、「知識」に対しては、熱い共感を持っていない、知識は重荷になるとすら思っているが、時に、塩胡椒のようなぴりっとした「知識」がつらい気持ちに刺激を生んでくれるのも確かである。

  1999 11/15 4

 

 

* 京都での梅原猛氏の文化勲章のお祝い会には、お祝い会費だけを早くに送って、失礼した。たいへんな人出であったろう、ご同慶に堪えない。

 その梅原さんは、ここのところ「法然上人」について、東京の新聞に、書き続けておられる。法然は日本史上もっとも懐かしいお上人であり、理屈抜きに有り難い数少ないお一人である。

 じつに大勢が法然を語ってきたし、わたしも、法然と親鸞の「出会い」を日本史の大きな出会いの一つに数えて早くから語ってきた。梅原さんの法然論はもう暫く続いて行くだろう、また新聞紙上という性質から、いくらか評論・解説的にもなって行くのは仕方がない。

 

* 今夕、梅原氏は、法然の出自に関連して、その両親がともに「秦氏」であったことを指摘されている。また父の漆間時国は押領使の職にあり、これは、いわゆる地方の土豪の「悪党」化して行く最短距離の職位であったとも指摘し、したがって抗争のあげく「夜討ち」に遭い一族の死に絶えるような可能性の高い環境・状況に彼は生きていたと言われている。新説でも何でもない、よく知られたことである。「悪党」必ずしも今日の悪党ではなかった、楠正成もそのような「悪党」の最たる一人であった。命を張って力づく生きていた、「時代の子」であり、品性の質は自ずから別のことであった。

 法然の父時国はよく己を知り、わが子を、遠く仏の国へ向かわせる思慮を持っていたと謂わねばならない。

 

* 梅原さんは、筆を進めて、法然の母秦氏の「家」は手工芸の家で、もとより渡来系の氏族であり手工芸の家でもある「秦氏」は、歴史的に、二重に被差別の立場にいたであろう、それが法然の「信の芯」に強いエネルギーを送り込んだのではあるまいかと推量されている。

 微妙に嶮しい一つの難所であり、にわかに反対も賛成もしにくいが、親鸞にしても日蓮にしても、自身を、最もいやしき者の最たるものに見きわめて、そこから信を深いものにしていた。事実というよりも覚悟の表明である。法然はとくにそういう述懐をしてはいない。渡来系というならば、最澄も渡来系の家の人であった。そのことが最澄の佛教に特に大きく響いていたか、飛び抜けた条件であったようには思われない。

 身分低いと謂えば、行基にしても空海にしても空也にしても一遍にしても、恵まれた地位や社会から出てきた人ではない。法然の「信」を簡単に「秦氏」「渡来系」という出自からだけで左右するのは、やはりやや軽きに失するのではないか。

 親鸞は、仮にも藤原氏であった。だが明らかに同じ藤原氏の師慈円とはまったく異質の人として、後には法然をいわば嗣いでいる。名僧知識の「信」の基盤を問うのは難しい。思いつきでは片づかない。

 

* 一つには梅原氏の「秦氏」理解も、どんなものか。

 太田氏編の『氏姓大事典』のなかで明言されているように、「秦氏」は、世に謂う源平藤橘の四大氏姓をもしのいで、最も多くの苗字に別れてきた。日本列島に広くひろがり、ある著書によれば「境界を持たない國」のようだとまでいわれている。大和にも山城にも近江にも秦氏の大根拠地があった、が、それしきではない。分布だけでなく、また担っていた職能の多彩も、大変なものであった。製糸・織布・鉱業・造船・土木・建造・造酒・木工・金工、製糸、牧畜、芸能。秦氏には、京都の宮廷社会で五位前後に地位を得ていた官吏の家系も多く、ことに騎馬を得意とした秦氏の群像で、一巻の国宝絵巻「随身庭騎絵巻」も出来ている。平安末期にいたって、なお、「秦氏」は渡来系だからなどという意識や評価は、色んな角度で「説話」群を読んでいても、例話にはぶつからない。当たり前の話だと思う。「秦氏」は、ちょこちょこっと指先で摘むにはあまりに巨大な多面体であり、包括的な研究には、専門家すらもてあますほどの、ピンからキリに富んでいる。富みすぎているのである。

 今の人の意識には上らないが、世の神主さんに、秦さんは小野さんと並んで多い事実も面白い。京都で謂えば、稲荷も松尾も鴨もそうだった。そして「秦氏」がいわば長岡京、平安京を提供し得た「地主」のような存在であったことも忘れてはならないだろう。「太秦」の名はかりそめのものではなかった。嵯峨嵐山の歴史的景観の基本構図は「秦氏」が描いていたのである。

 

* 法然の母の秦氏がどんな「工芸」に携わっていて蔑視されていたと梅原氏が謂われるのか分からない、が、「醍醐天皇の頃から差別を受け始めた」と氏は書いている。秦氏に限ったことでなく、律令世界構造が露骨に綻びはじめ、いわば「小さい政府」になろうとしてリストラしていったのが、非農業=工芸技芸部門からであったろうことは確かである。だが、布も糸も椀も鍬も箸も舟も傘も、世に無くてはならぬ品々は世の中が日々に求めたから、必ずしも生産者の誰も彼もが差別されたりはしなかった。それではこの國が成り行かない。むろん農民=公民感覚からすれば、非農民=職人は、ほとんど「國=公」の保護をアテに出来なくなっていった。だから差別されていたというのも、その限りでならそう言うことは出来る。多くの貴族や寺社に隷属していた例が多いからである。京都の、今は名高い色んな老舗など、ほとんどみなその末裔だと言ってもいい。いまだに京都で大寺社勢力が市政を壟断できるのも、その伝統に便乗しているようなモノだ。

 

* ともあれ、醍醐朝以降被差別の海にいったん深く沈んだのは、むしろ「祝言芸」の人と、底辺の祭事に専従する「死と信仰」を担った人たちであった。そのシンボルが、例えば盲目の琵琶奏者蝉丸のような存在であった。以降観阿弥世阿弥の時代まで、彼らは時代の表面に人がましくは出てこられなかった、なかなか。

 法然の父は、「悪党」かどうかは知らず「押領使」という、ともあれ公職の人であった。法然の母の家のことは、わたしは、よく知らない。ただ梅原説は簡単過ぎる。先ず、十二世紀半ばの渡来系氏姓の名に、どれほど「渡来実感」が遺存していたかの検証がない。また「それ故に差別されていた」という検証が、法然の故郷近在で確認されているのかどうか、その時代に。それも分からない。

 私の知る限り、無数の苗字に変化して散開したおびただしい「秦氏」が、例えば「島津」と名乗る人が、おまえはもともと秦氏で渡来系だからと差別を受けたなど、あまり信じられない。

 もっとも今日でも、こういうことはある。かなり当てつけがましく、とくとくと「秦サンは向こうのお人の筋でんな」と、このわたしを焚き付けてきた人の苗字が、紛れもない代表的とも言える「秦氏」のものなので、「あなたもそうですよ」と丁寧に説明して上げると、実に困った顔をされ、気の毒になったこともある。これなどは、むしろ梅原さんの被差別説を補強し得ているようなものだが、そういう意識傾向の遺存していることは、やはり有るといえば有る。しかし作家井出孫六氏も、芝居をさせればたいへんな演技派だった桜田淳子ちゃんも「秦氏」で、薩摩の島津という苗字も、戦国大名の長曾我部もやはり「秦氏」だと聴いて、その人はかなり安心したから可笑しかった。世阿弥も「秦元清」と名乗っていたとは、あえて言わなかったが。

 

* 梅原説でもっと大事な検討事項は、手工芸=職人差別が、法然の「信の芯」に真実かかわり得たことかどうか、だ。差別被差別を謂うのは簡単かも知れないが、簡単に言ってはならないだろう。「秦氏」についても、差別問題についても、梅原さんの、より慎重な議論をこの先に大いに期待したい。

 わたしも、考えてみたい。

 2000 1・31 5

 

 

* 昔は紀元節といった。町内で路上に集まり、「雲に聳ゆる高千穂の 高嶺おろしに草も木も」と祝祭の歌を斉唱し、熱い粕汁をみなで啜った。いろんな祭日の中で、あの日が比較的好きだった。二月の寒気も心地よく、どんどなど焚いたのも気が明るんだ。

 

* 生活に暦の生きていた日々は、おりめけじめもハッキリしていて、季節感にも満たされたものだ。あのような「文化」は地を払ったように東京のような大都会では失せた。

  2000 2・11 5

 

 

* 例の数かぞえに、外国の主演級男女優のフル・ネームを各三十、四十人と挙げて行くならいは、男の四十、女の三十人ぐらいまで、らくに挙げられるようになってきた。歴代天皇の桓武五十代までは完璧に挙げられ、後小松百代までにはどうしても数人足りなかったのが、もう確実に、百代まで正確に順に言えるようになった。これは俳優のとちがい、歴史上の前後の見境をつけるため有効な手段で、実益がある。天皇の一人一人の諡号の周囲に、いろんな史実や人名が浮き立ってくる。歴史が直ちに楽しめる。現実の憂さなどすぐに追い払えてしまう。

 後小松の次は。これが全然出てこない。そのことにも、それなりの意味がある。そんな気がする。室町時代の天皇。そんなのは本当に実在したのだろうかと思うほど、疎遠だ。柏原天皇。そんな人がいたような気がする程度で、ぽんと安土桃山時代の後陽成、後水尾天皇などへ飛んでしまう。こんどは後小松以降を数えることにしよう。 

  2000 3・17 5

 

 

* 桶谷秀昭氏に頂戴した『昭和精神史 戦後篇』が、問題をはらんでいる。戦前編の大作はすでに読んでいる。戦前は、概ね、わたしのものごころつく以前の「歴史」であり、体験的に参加できた時代ではなかった。だが戦後は、少年ながらわたしも体感するところのあった同時代である。

 さて、日本国は「無条件降伏」であったか。われわれ国民一同は微細に関係史料の読める立場にはなかった。研究的に「敗戦」の条件を論策出来る立場になかったから、実感として「無条件降伏」という分かりのいい言葉の方を、「ポッダム宣言受諾」といった吟味のきかない言葉よりも、端的に、そのまま受け取らざるをえなかった。その意味では、後々の吟味や検証や議論でどうあろうとも、「無条件降伏」のつもりでいた心理的・情況的事実は、今さら動かしようがない。

「無条件降伏」を全面に拡大的に「ポッダム宣言」を解釈し、したいように占領軍側の「謀略的作為」による占領政策が力づく行われていたと謂われれば、なるほどさもあろうと思うが、あの当時の「何をされても」の無条件の実感を打ち消すことは、今さら出来ない。戦後占領施策の、敗戦処理の、GHQ指令といわれる全てを、眉をしかめてでも致し方なき「無条件降伏」のツケであると、少なくも政治交渉の衝には遠く遠く置かれた国民が嘆息し受容していたのを、もはや「過ちであった」などと、悔悟の対象にばかりはなしがたい。あれが敗戦だったのだから。

 極東軍事裁判の法制的な不備や矛盾についても「その後」の吟味検証議論で多くを承知しているけれども、あの当時の段階では、余儀なく、議論の余地なく、ただ受け容れていたのが大方の反応だろう。わたしのように中学生になるならずの疎い少年には、どんな報道も、まずは「無条件降伏なんやし」と聞き入れるしかなかった。広田弘毅のような、子供ごころにも何故にと愕かされた死刑判決はあったけれど、その余の大方の判決を呑み込んで異議なかった国民が大半であったとして、それは「間違っている」などと言えるあの当時では有り得なかった。それもまた「無条件降伏」なるが故にと思っていたとして、仮にその誤謬を、あの時点に戻って実感の根底から書き直すわけにはとても行かないのである。その意味では、幾分かは、あれは占領軍が裁いていただけでなく、日本国民も裁いていた裁判なのであり、A級戦犯としてあの市ヶ谷法廷に引き出されていた殆どの元軍人たちの過去の所業に、「賛成」できた国民は極めて極めて数少なかった真実を、大事に見て取って良いのである。

 たしかにインドのパル裁判官の、東京裁判を全否定した見解は尊いけれども、そういう議論とは別に、国民が胸の内で裁いていた裁判では、やはりあの判決の大方は、不動の鉄槌なのであった。桶谷さんの論証には、そこが落ちている。あの軍事裁判が不当な論理の上に立った占領軍の偏見と誤謬のものであれ何であれ、それはそれ、その埒外で粛々と国民の胸中でも進行していた戦争犯罪人と思しき連中への怒りや恨みや批判は、それまた、厳然と動かぬ指弾であった。その事実まで黙過しては、いかにも「為」にする議論のための議論に陥り兼ねないのを、桶谷さんのためにも惜しみたい。

 

* 天皇の人間宣言や新憲法問題でも、占領軍の政策的恫喝や策謀が働いていただろうことは、桶谷さんらの証明されるとおりだと思う。だが、だから天皇は人間になってはいけなかったのか、明治憲法が克服されたのは良くなかったのか。主権在民、象徴天皇は日本国を悪くしたか。

 わたしは、そうは考えていない。天皇を神であるなどとわたしは少年時代から、あれほど神話に親しみ日本国史に親しみながら、だからこそ、考えたこともなかった。天皇制は一つの文化的・政治的な仕掛け・工夫の一つであり、存続させた方が、愚かな権力志向者の暴虐をまねくよりよほど賢いとこそ思え、「天皇に支配されている国民」という図式になど、反感とまで謂わなくても違和感は禁じがたかった。天皇陛下万歳などと本気で叫んだことなどなく、そういうことの出来る人たちは歴史病患者で病膏肓に入っているとしか思わなかった。楠正成の勤王を理解しても、後醍醐天皇の誤謬もまたわたしは理解した。天皇が人間であると宣言したとき、「あったりまえやん」とわたしはハッキリ感じていた。理屈をいろいろつけて、それを嘆いた人たちの大袈裟な感覚には、ついて行けない。

 明治憲法の多くが克服滅却されたことは、後々までも、今でも、よかったと思っている。教育勅語も、根底の趣旨において全面否認。その上で、また取り入れるべき語句や趣旨もあるだろうと思うだけのことだ。明治憲法の文章文体の、どう荘重であろうが高雅であろうが、根本精神に「天皇中心の神の國」を「国体」とし、国民はそれに滅私奉公せよとの強烈な支配意図は、ひらに御免を蒙り、葬り去りたい。どんなに新憲法の文章・文体が、いまいまの、たとえ翻訳調であれ、それまた「素心平意」の理想を新たな国民の胸に届け得る程度であれば、言うまでもなく憲法のことは「中に盛り込まれてある」内容で以て評価したい。主権在民、象徴天皇・国際平和・国民参政権・基本的人権の確立・思想信条言論表現の自由などの多くが、歴史的に初めて得られた大きな変化であり権利であることの大きさは、明治憲法が国体と共に存続していたのと比較すれば、数千万倍にあたる喜びであると、わたしは、新憲法を、とにかく喜びとしている。その上で現下の不備をよりよく改めて行くことに少しも反対しない。

 あの敗戦後の現況下にあって、わたしは、日本の古い体質や姿勢をもったままの一部政治家たちの手で、旧国体観や万世一系の天皇神権政治が温存されてしまわなかったことを、心から、ああよかったと思っている。感謝している。

 新憲法のああいう決定的な理想主義には、たしかに人為的で欺瞞めいたウソ情況が、方便としても必要だったと思う。それでもなお、明治憲法による天皇制支配の国体が打破されたことは、よろこばねばならない。桶谷さんの議論では、その辺があまりに曖昧で、詮索に行方が見えてこない。大筋明治憲法のまま、天皇の神の國でよかったと言われるのなら、そうハッキリ言われるべきであり、主権在民は否定したいと言われるのなら、それもそうハッキリ言われればよい。新憲法が、占領軍に強いられて成立したかどうか、強いられたろうとわたしもほぼ認めているが、だから、それが、明治憲法をあのまま容認する根拠になどならない。憲法まで強いられた、そういう戦争であり敗戦であったが、わるいものを強いられていないことに、いっそ、よかったという気がある。日本の政治家に任せていたら、旧態依然に相違なかったのだ。ましてや文章文体で憲法の内容を是非するなど、本末転倒も至れりで、唖然とする。新憲法は、少なくも現憲法のように、素心平意の口調で分かりよく起草された方がいい、たとえ一部を書き改めるにしても。

 

* 國は守らねばならず、極東の近未来は危険に満ちている。戦争放棄・国際平和は原理的に保存しつつ、しかし、安保条約になにほどの期待も掛け得ないと知れば知るほど、自衛の姿勢は、まず思想からして確立すべきだと思う。が、軍備について明確に言う足場を持たない私は留保せざるを得ないが、近隣近国との間に生じる軍事的緊張のさほど遠からぬ事態には、備えをせねば、やはり、どうにもなるまいとは怖れている。

 

* 桶谷さんの指摘にある「国語」にたいする悪しき戦後の干渉については、もっともっと諸方から声が挙がっていい。現にわたし自身も新かなづかいを用いているけれど、その意味で言行不一致の誹りは免れないけれど、新かなづかいなるもの、およそ不合理を極めているのは確かであり、日本語に浸透した自然で必然の文法に深く、蕪雑に、背いている。日本中が勇断と聡明にしたがい、若干の配慮を加えて旧に復すべき反省に立ちたい。二十世紀日本語に対する「国民の恥ずべきいじめ行為」であった。新聞が、決然と立ち向かわねばいけなかったのに、新聞が事態をわるくした。日本のマスコミの恥ずかしさは、新聞も、テレビも、出版も、極め付きの質の低さである。日本語への愛と敬意を最も欠いている世間がマスコミなのだ。

 

* 桶谷さんの本は、なおなお慎重に丁寧に読んで行きたい。銘々に考えねばならない問題が、一貫して桶谷さんの判断で、取捨されてある。これだけで「昭和戦後の精神史」を尽くしていると思っては誤る。自分の胸に、正しく問うことが必要だ。わたしも、もっともっと落ち着いて考えて行く。今は思ったままを、即座に書き込んだのである。

 2000 7・1 6

 

 

* 妙な話だが、今日、ついに天皇歴代を、百二十五代平成天皇まで、確実に暗記に成功した。後小松百代までは頭に入っていたが、室町江戸時代の天皇にほとんど気が行ってなかった。称光、後花園、後土御門、後柏原、後奈良、正親町、後陽成、後水尾、明正、後光明、後西、霊元、東山、中御門、桜町、桃園、後桜町、後桃園、光格、仁孝、孝明、明治、大正、昭和、平成の二十五代。南北朝合一後、持明院統の天皇が行列している。後陽成、後水尾、明正の辺が大河ドラマ「葵」で、家康、秀忠の幕府権勢にさんざん痛めつけられる。

 天皇歴代に個人的にはほとんど思い入れはないが、歴史を顧みる目安には使いよいので覚えたのである。保谷駅から家まで、ゆっくり三度も百二十五代を呪文のように唱え続けていると、退屈しないで家につく。自転車に乗らずに歩くことにしているこの頃の、頭の体操である。

  2000 7・17 6

 

 

* 『天皇百二十五人と日本史』という本が書ける気がしてきた。天皇を書きたいのではない、神武天皇以降、天皇歴代を十人ずつで区切ってみると、なかなか明快に別の顔した日本史が面白く見えてくる。こんなにうまく区切れるものかと喫驚している。誰かがもう試みていたら、それまでだが、むかし「学鐙」編集長が『一文字日本史』を三年間連載させてくれたように、或いは山折編集長が「春秋」に『花と風』を二年間書かせてくれたように、どこかが気軽な誌面をくれないかなあ、概説的な日本史なんかでない面白いものを書いてみるが。

 こんなところに、こんなことを書けば、鳶に油揚げで企画をさらわれるかも知れないが、いいものが書かれ、一本読ませて貰えるなら、それでもいい。

 

* 参考までに、ちと、十代ずつに区切った実際を挙げて置こうか。

 神武 から 崇神天皇      神代人皇から歴史天皇

 垂仁 から 安康天皇            大和の大王時代

 雄略 から 敏達天皇            混乱からの脱出

 用明 から 天武天皇            仏法・王法の対峙

 持統 から 桓武天皇            律令制の陣痛と王政

 平城 から 醍醐天皇            藤原氏の台頭と律令の瓦解

  朱雀 から 後冷泉天皇          藤原王朝と和風文化

 後三条 から 高倉天皇          院政と武家の台頭

 安徳 から 亀山天皇            鎌倉幕府と皇室の衰弱

 後宇多 から 後小松天皇        両統迭立と南北朝

 称光 から 後光明天皇          武家支配への荒れた道程

 後西 から 仁孝天皇            尊皇攘夷と開国への急な坂

そして

 孝明天皇 明治天皇 大正天皇 昭和天皇 平成天皇    維新・敗戦・民主主義

 2000 7・18 6

 

 

* 五十九年前、真珠湾の奇襲が奉じられて太平洋戦争は始まった。「九軍神」などと盛んに聞いたのがこの時か。朧ろに朧ろな記憶でしかないが、米英という大国との戦争が始まったんだという幼稚園児なりに胸の尖端をふるわせた実感は今も生きている。よく生きてきたものだと思う、それも感慨に満ちた実感だ。すばらしい冬晴れである。飛行機のゆく爆音がのどかに大屋根のうえで響いて流されて行く。平和はありがたい。

 2000 12・8 7

 

 

* 教育基本法にかかわるテレビ討論を朝からやっていた。町村新文部大臣も出ていた。基本法は素晴らしい理想を佳い文章で表明した、世界にも誇れる法であり、その理想が十分に達成できていないのは惜しくもあり残念でもあるけれど、さらに法の精神に基づいて達成して行こうと思いを新たにするのこそ当然の姿勢ではないか。何を、どこを、変更するというのか。それが田島力氏らの法改定反対の論拠であった。

 それに対し変革会議の議長だか会長だかは、世界的に普遍の理想法であるにしても、それゆえに「日本」の顔が見えないから「日本の伝統」などを加味する必要があると反論していた。

 そのような運営上の工夫は、法自体を変更しなくても、技術的に十分可能なように道も付いてある、それなのに強いても法をいじろうというのは、「伝統」の名において復古反動への足場を得たいだけではないか、というのがさらに反論であり、これには、わたし自身の意見も加わっている。

 昨日もらったペン会員のメールにも、「日本文化の伝統」ということが言われていた。それ自体その言葉のかぎりでは、特に問題はない。もしこのわたしの経歴に多少のメリットがあったとするなら、大方が日本文化の伝統から得たものだと断言してもいい。ただ、わたしの念頭にある「文化」とか「伝統」というものと、法に不備を唱えて同じ言葉を用いている人たちとが、果たして同じモノを見ているかどうか、見方が同じかどうか、となると甚だ危うい落差が無いではなく想像される。なにしろ、ついこの間に「天皇中心の神の国」らしい教育が大事だと放言した森首相の内閣であり、その森派の知恵袋の一人である町村文部大臣なのである。

 ちょっと一例をもってするが、よく日本の伝統文化というと「能」を挙げる人が多いのだが、以下にわたしの書いた一文をまた再録する。翁も伝統、天皇制も伝統、として、よりどちらが圧倒的大多数の日本人が心身に保有する伝統文化に膚接しているか。

 

* 翁と天皇(原題は、能の天皇)   秦 恒平    

 天皇を中心にした神の国という国体観で、われわれの総理大臣は、厳かに、勇み足を踏んだ。踏んだと、わたしは思うが、思わない人もいるだろう。

 能には、神能という殊に嬉しい遺産がある。「清まはる」という深いよろこびを、なにより神能は恵んでくれる。それでわたしは行くのである、能楽堂へ。神さまに触れに行くのである。

 神能に限ったことでなく、数ある能の大方が、いわば「神」の影向・変化としての「シテ」を演じている。そういう見方があっていいと思う。シテの大方は幽霊なのだし、たしかに世俗の人よりも、もう神異の側に身を寄せている。そしてふしぎにも、あれだけ諸国一見の僧が出て幽霊たちに仏果を得させているにかかわらず、幽霊が「ホトケ」になった印象は薄くて、みな「カミ」に立ち返って行く感じがある。みなあの「翁」の袖のかげへ帰って行く。その辺が、能の「根」の問題の大きな一つかと思うが、どんなものか。

 能には、神さまがご自身で大勢登場される。住吉も三輪も白髭も高良も杵築も木守も、武内の神も。また天津太玉神も。それどころか天照大神も、その御祖の二柱神までも登場される。能は「神」で保っているといって不都合のないほどだが、但し、いずれも「天皇」制の神ではない。それどころか、能では、いま名をあげた神々ですら、天皇にゆかりの神さまですら、それまた能の世界を統べている「翁」神の具体的に変化し顕われたもののように扱っている。イザナギ、イザナミやアマテラスが根源の神だとは、どうも考えていない。或いは考えないフリをしている。「翁」が在り、それで足るとしている。そうでなければ、歴代天皇がもっと神々しく「神」の顔をして登場しそうなものだが、だれが眺めても能舞台にそういう畏れ多い天皇さんは出て見えないのである。

 隠し藝のように、わたしは、歴代天幸を、第百代の後小松天皇までオチなく数え上げることが出来る。お風呂の湯の中で数を数えるかわりにとか、最寄り駅までの徒歩が退屈な時とか、今でもわたしは神武・緩靖から後亀山・後小松までを繰り返し唱えるのだが、後小松天皇より先は、全然頭にない。出てもこない。少年時代の皇室好きも、南北朝統一の第百代まででぴたり興が尽きて、あとは群雄割拠の戦国大名に関心が移った。(現在は百二十五代平成今上まできちんと暗誦できる。)

 観阿弥や世阿弥の能は、この後小松天皇の前後で書かれていたはずだ、が、舞台の上に「シテ」で姿をみせる在位の天子は、たぶん「絃上」の村上天皇ぐらいで、ま、「鷺」にもという程度ではないか。崇徳も流されの上皇だし、後白河も法皇である。崇徳も安徳も「中心」を逐われた敗者であり、村上天皇ひとりがさすが龍神を従えた文化的な聖帝ではあるが、森首相のいうような統治の至尊でなく、いわば優れた芸術家の幽霊なのである。

 歴代天皇の総じて謂える大きな特徴は、この文化的で芸術家的な視野の優しさにあった。またそういうところへ実は権臣勢家の膂力により強引に位置づけられていた。その意味で、森総理の国体観は、意図してか無知でか、あまりに「戦前ないし明治以降」に偏していて、天皇の歴史的な象徴性をやはり見落としていると謂わねばならないだろう。

 総理の執務室に「翁」の佳い面を、だれか、贈ってはどうか。 (新・能楽ジャーナル創刊号 2000.9.1 所収)

 

* 理屈をこねる必要はない。こういう世界観が、山や海や田畑や河川から、つまり日本の自然の中から生まれていて、国土安穏・五穀豊穣・皆楽成就の祈りを「翁」を頼んで得てきた「暮らし」があった。日本の文化はそれを基盤に生まれていたのであり、じつは天皇も天皇制もその所産の一つにすぎなかったのであると、「能」三百番は示唆している。「天皇を中心にした神の国」を下心に庶幾するばかりの伝統の理解が、極めて反日本的に偏したものであることを、先ず真っ先に政治や教育を弄くりまわそうという人たちに覚えていてもらいたい。純然と伝統文化を尊敬するなら、純然と子弟の未来を案じて教育の理想を充実させたいと願うのなら、なおさら天皇中心の「教育勅語」的日本の復古と復活を根から清算して取り組んで欲しいのである。教育勅語の文言を部分に切り出して是非をいうのは言辞のトリックであり、勅語という語彙も明示している如く、あれは徹頭徹尾「汝臣民」は「天皇」によく仕えよ、そのために斯く教育せよとの上意下達以外の何ものでもない。それで民主主義は守れない。民主主義はやめ、強権支配の国民教育を都合良く進展したいと思う下心があるから、教育勅語の部分部分を切り出して見せて、こんな良いものなのだからとインチキを平気で言いだし兼ねない教育改革など、物騒千万なのである。 

 心からの善意で日本の文化のすばらしさを子ども達に教育して欲しいと願う人は多いだろうし、わたしもそれに反対などするわけがない。沢山なことは出来ないだろうが、たとえば日本美術のいいものを見る機会があればとは思う。民話やお伽噺に親しませ、また各地方言と祭りの存在意義を良い意味で理解させたいと思う。

 だが、実は、政権の中枢にある人たちは、そんなことは余り本気で考えていない。改革会議の人たちの総意とも、本音の処は深刻にずれているだろうと思う。諮問しておいて実は都合良く「政権による国民支配」の道を地固めしたいのであろうと、ほぼ、わたしは断定的に推測している。ペンが公表した「憂慮」の声明もそこを案じているのである。

 

* しかし、あの「憂慮」声明は読めば読むほど、あれで人を説得する力はない。ま、文藝の冴えがない。あんな短文では説得しきれないと言えば、その通りであろう。梅原会長は、改革会議の座長を挑発するなら、文章のような自分の側の土俵へでなく、例えば「公開質問状」または「公開討論會」を挑まれるべきであった。教育問題はなにも「文筆にたずさわる」我々だけの関心事でなく、広く国民一般の課題なのだから、後楽園のドームを満員にしてそこで、梅原さんと向こうの座長とが直接討論し、我々も参加して意見を戦わすぐらいな大きな戦略を持たなければ、この戦には勝てないのではないか。何かというと「声明」と記者会見とでお茶を濁してきたが、それはもう自家中毒であり、やらないよりはマシ程度のものになっている。その証拠に、あの「憂慮」声明を全文掲載した新聞などの報道媒体は無きにちかいのではないか。

 

* 中国に旅行して、中国国家の、美術品レプリカ製作にかける意欲の深さに感心したことがある。名作はそのものは、その一点、それ以外にない。国土の広さからしてその一点に直接出逢える機会は当然稀である。だから精巧なレプリカを各地の施設に送り込むのだと。わたしは、日本の誇る国宝のうち、せめて三十点を選びに選び抜いて見事にレプリカを創作し、各府県の公立美術館に、必ずそのための一室を用意させるようにして欲しいと前から願ってきた。言ってきた。また、主要な国公立美術館ならびに寺社の拝観を、高校生三年間に限り無料にすべきだとも言ってきた。「伝統文化を」とそうまで言うのなら、それだけをするのでも、素晴らしいではないか。法律を弄くる必要はない。それに、狂言はまだしも、能などを少年少女に強いてみても始まらない。歌舞伎や人形浄瑠璃ならばまだしも面白いだろうが、能楽堂では、手だれの批評家でも寝入っている。なみの客の八割がうとうと寝ている。そういうものなのだ。 2000 12・17 7

 


 

* もう、今年の仕事にかかっている。

 

* 惣墓制といって、数村で一つの墓地を共有していた時代が長かった。惣墓をとりかこむ村々を墓郷(はかごう)と呼んでいた。墓地に住み、葬と死骸の世話をしていた三昧聖(さんまいひじり)は、伝統的に税負担を免ぜられた除地に住み、諸役負担もおおかた免ぜられていて、かわりに、墓郷全域の葬祭実務を担当した。そういう聖が、一惣墓を、多くて数人でまかなっていた。村方や領主方と三昧聖たちとのあいだで、税や役の負担分担問題で、近世もすすむにつれ繰り返し紛争が起き、個々の聖たちの孤立無援は覆いようもないのだったが、そのつど、三昧聖たちは一種の産別労働組合のような結集と組織化の動きに出て、大和国では、東大寺青龍院を本山に頼み、その権威下に、伝統の権益を確保すべくかなり強烈な団結力を働らかせていた。一国内の三昧聖組織は、大きく畿内連合体へも拡大的に動いていた。

 こういうことは、現代の学究たちの地道な研究成果に拠らぬ限り、われわれには分かってこないが、解き明かされて行くと、わたしなど、そういう動きのあったろうことも朧ろに感じていた、さもあろうなと納得できるものがある。近世の身分的周縁を研究した叢書が、六巻。読書が、たまらなく刺激的に興味をそそる。もっと早くに読みたかったなとつくづく思う。

 2001 1・2 8

 

 

* 日蓮の、われはセンダラ=漁労賤民の子という微妙な表白に関連して、曖昧にあまりに多くが語られてきたが、ここでも、水・海にかかわる日蓮の根の思いに届いた議論は、ほとんど聴いたことがない。すべて陸上の論理なのである。

 2001 1・2 8

 

 

* 例の近世社会の身分的周縁者たちの「叢書」第一冊を、面白く、本を傍線で真っ赤に汚してしまうほど夢中で読み上げた。「神道者・神子・祭礼奉仕人・三昧聖・道場主・虚無僧・陰陽師」などの巻だったが、どれも、目から鱗の落ちるほど納得させられた。虚無僧のことなど、ほんとうによく知らなかったことが分かり、そのことに感動してしまった。中世では「薦僧」でしかなかった存在が、禅の普化宗から、江戸時代中頃には「侍慈宗」化し、武士身分に特権的に変貌して行く。幕府行政とも巧みに切り結びながら、盛んに、私利にちかい権益の質と量を却って広げて行く不思議な成り行きと、ついには、村方庶民の知恵と団結と、(寺社奉行所ならぬ)勘定奉行所の力とで、衰退への道へぐいぐい押し戻されて行く経緯など、小説のように面白い。町方役人などの手では、あの「法閑」といわれるかぶりものを脱がせることは許されてなかった。武芸をつねに心がけ、懐剣小刀の類は身に帯びていなければならなかった、など、あの侘びしげな「薦僧」身分から、町人や農民を排除しつつ、そのような武士身分に準じた独占権益を謳歌し得る「団体」にまで組織を成しあげていった、人と時代との不思議さに驚いてしまう。そういう際に、伝来の権益を保障する旨の「文書」が偽造されて行く、それが、幕府行政をまんまと縛る形になるのも、面白い。むかしに読みいたく刺激されまた教えられた、いわゆる「河原巻物」の類が、いかに周縁身分の者たちに大事にされていたかが、よく理解できる。周縁庶民が差別を受けつつ、じつによく団結して、時代と社会とのなかで人知を尽くしていわば一種の闘争を継続しているのにも、感銘を受けずにおれない。同時に、「本所」と謂われる存在の意義にも驚かされる。神道者の吉田家、白川家、三昧聖の東大寺龍松院、陰陽師の土御門家などである。江戸時代物を書いたり創ったりする人が、こういうきめ細かな研究成果に拠らないでは、誠実を疑われることになるだろう。

 2001 1・7 8

 

 

* 例の叢書の「文化・芸能」巻の総説を読み、ついで「鉢叩き」の考察を読んで、あまりの面白さに興奮してしまい、夢の中でまで、いろんなことを思い続けていた。中世の鉢叩きから近世後期の鉢叩きまでには、大きな、行儀や容態の変遷がある。空也寺の、「本山」として果たした、或いは利用された、したたかな意義というものがある。踊り念仏から茶筅づくりへ、また踊躍念仏へ、そして各国に「末派」を組織し一大集団を形作って行くに当たり、いかに幕府行政や朝廷公家社会の伝統権威を取り込もうと努力してきたか、等が、ありありと実証されて行く、面白さ。

「鉢叩き」に興味を覚えたのは、与謝蕪村に幾つも優れた繪や句があり、わたしは、ひそかに、彼の母方出自に、この鉢叩き末派とみられる丹後の「鉢(屋)」が関係してものと読んできたからだ。そのことは、『古典愛読』にも『風の奏で』でも、また『あやつり春風馬堤曲』その他小論小文でも繰り返し触れてきたが、昨夜読んだ論文は、蕪村には微塵も触れていないし、論考の有り様からしてそれは自然なのだが、なおかつ、わたしの蕪村考察をもかなり力強く支持してくれていたのである。

 わたしが、蕪村周辺に「鉢」(「茶筅」などとも)を感じた最初は、彼の「根」の出自に触れている母を追善の「花摘」連句中に、「母びとは藤原うぢ也」という一句があったからだ。伊勢物語にからめた述懐なのは言うまでもないが、この「藤原」とは、地域によって独特の意義を与えられている呼称であって、転じて「藤内」の呼称にも繋がり、(蕪村に即して謂うのでこうなるが、もともとは「藤内」を意識した「藤原うじ」なのであろう、と。)これは「十無い=八=鉢」と読まれてきた独特の文脈に絡められているのである。蕪村は、母方の出自にこの微妙に古典的な「藤原氏」を置くことで、「藤内」から「鉢(屋)」への道筋を自ら告白的に示していた、と、わたしは今でもそう読んでいる。それかあらぬか、蕪村の「鉢叩き」の繪も句もきわめて優れており、あたかも自画像の深まりをもっている。

 そういう読みを、わたしは或る確信を持って示し続けてきたものの、そういう指摘も推測も、他の研究者や識者から聞くことはかつて一度も無かった。当然ながらわたしの推理に触れて「是非」した議論もなかった、が、今回読んだ「鉢叩き」論考は、かなり、わたしには有力な議論の足固めを得られた気がしてならぬ。それだけでも興奮して眠れなかった、無理もないのである。

 2001 1・10 8

 

 

* 「近世の身分的周縁」叢書の、纏めのシンポジウムを面白く読んでいる。歴史学の論文は、文学の論文よりも専門的なのを沢山読んできたと思うので、研究者達の細部にわたる発言も、難解と言うよりも興味深く、かなり理解できる。この叢書では、近世の専門家達の結集で成っているが、もともとわたしの関心は、ながく、近世以前に培われてきた。近世には臆病でなかなか入って行かれなかった、が、それでも、白石や最上徳内や、蕪村・秋成などを介して接触しては来た。そして「周縁」存在への強い関心を持ち続けてきたことも、少しも隠していない。上からでなく、裾野や周縁から時代を読みたいと思い続けてきたからこそ、ちくま少年図書館のために『日本史との出会い』も書いた。

 そして、わたしの中で、歴史の基底部によこたわる、結局は、死と死者と死骸を介して、社会の構造を理解し時代の変容や文化意志の推移を読もうという思いの強かったことに気づく。人間の基本の分業が、いわば死骸との距離差により決定されてきたという高度に比喩的な、しかし比喩に止まらない根底の理解が有れば、相当に物わかりが、よく、深く、早くなるように思ってきた。

 

* 士農工商などという一つ覚えから、全面的に脱却しないと時代も社会も分業も見えてこない。そんな簡単で簡明な社会ではなかった、近世は。そんな区分から洩れこぼれたおそろしく広範囲な人と職と集団とが実在していた。

 2001 1・24 8

 

 

* ことのついでに、わたしの器械に「メモ」してある「もどろき」の昔のことをここに書き込んでみよう。もう何年も昔のもので、これを黒川創に送ってやったかどうかはしかと覚えないが、秘しておく気持ちは少しも持たなかった。

 還来神社の祭神は藤原旅子とされている。この名前が「旅」と絡んで無事に「また還り来る」と脚色されたのであるらしい、わたしは、そう思う。もう六年以上も昔からわたしの「もどろき」をめぐる読者との交信は重ねられていて、このような神社の実質については、著書に書いていた兄恒彦もなにも知らなかったことと思われる。以下は読者からの手紙に答えた手持ちの調べの「纏め」のようなものであった。お礼に送った本は、出たばかりの『青春短期大学』であった。わたしはまだ東工大に教授室をもっていた。

 

*  前略 ごめんなさい。疲れていてねむいのですが、お手紙がおもしろく有り難いものでしたので、お返事をしないで寝るわけに行きません。長くは書けませんが。

 旅子の父は百川ですが、母は、内大臣藤原良継の娘の諸姉(もろね)です。良継は光仁即位を参議百川とともに謀った人物です。彼等の策謀を宮廷内で支えたのは百川の母であった久米連(くめのむらじ)若女(わかめ)です。諸姉と百川には少なくも娘が二人あり、姉が旅子、二つ下の妹が産子(なりこ)です。姉が生来病弱なために妹がまず光仁天皇

の後宮に入り、後れてほぼ婚期を逸したほどの年齢で姉が光仁の子の桓武の妃として入内しています。そして妹は姉の遺子である後の淳和天皇・大伴親王の養母となって養育し、そのために産子は異数の厚遇を朝廷に得ています。

 注目すべきは若女で、この女人は藤原宇合の未亡人ですが、石上乙麻呂と密通して流罪に遭ったりしています。下級貴族の娘ですがしたたかな策謀家で、百川らもこの母の手引きで動いていた形跡があります。ともあれこの女人の孫娘が、旅子と産子です。

 畑丹波守というのが、ちょっとすぐには分かりません、これから探索しますが、当時の氏姓からすれば「秦」氏と見るほうがリアリティーがあり、胸が騒ぎます。「蓮華夫人」が佳い名ですね、小説の題に生かしたい。

 私は西院で生まれています。これもまた所縁ありげで、徐々に想像が渦巻いて行きます。

 書き出すまでにこの想像を堪能するほど楽しむのがわたしの方法です。また耳よりのことあらば教えて下さい。

 ちょっと妙な本が出来ました。お納め下さい、そしてすぐ本文を読まずに、等分は目次をにらんで正解を探って下さい。百題ほどあります。何点とれますか。お元気で。   平成七年三月二十六日 午前二時過ぎ

 2001 3・3 8

 

 

* 今日起き抜けのショッキングなニュースは、小学六年生が母親を刺し死なせた事件です。引っ越しで学校が変わり、以前の友達との別れがつらいので自殺しようとし、留めて叱った母親が逆に刺されたと。

 転校して友達のいない寂しさは、身に染みて覚えがあります。

 国民学校二年生で父は出征しました。 あのころ、先ず学童を強制疎開しましたね。姉は当時病身で休学中。学童は私一人でした。集団疎開はいややと頑張りまして、当時の大阪市郊外に住む母方祖母と、半年ばかり二人だけで暮しました。寂しかったし 永く永く思えた日月でした。大阪市内に 、夜は花火の様にバラバラと爆弾の落ちるのをボーと見ていた記憶があります。人見知りが激しく、内向で 友達は作れず、偶に祖母の処へ来る伯父や姉からの便りだけを待つ日々でした。寂しかった。まだ 七歳でしたね。

 その後家族たちも疎開する事になり、今度は淡路島の父の実家の離れで、父を待ちながら終戦を迎えました。

 終戦の日、強い日差しを受け、色とりどりの松葉ぼたんが咲き、そして雑音の多いラジオ放送は、何だかさっぱり分からず、説明をしてもらって「敗戦らしい」と理解した、あの天皇の玉音放送。

 母に付いてリュックを背中に買い出しもしました。やはり友達は出来ず、只々苦い思い出ばかりです。父が復員するまで 一年半ばかり住みましたか。

 元に戻りまして。寂しさは充分に理解できます。それにしても「切れる」年齢がこうも低くなるのは、何が問題なのかという事です。あの「十七歳たち」が次々に「切れる」事件を起こしていた頃が、もう昔のことかと錯覚しそうですね。

 

* わたしは十歳になっていた。偶然だが、わたしもまた、現在は大阪府下の高槻市、当時は京都府南桑田郡山村に疎開し、大阪が空襲に遭っている日の炎々と赤く燃えた空の色にちいさい頸を縮めていた。わたしも集団疎開はいやだなと思っていた。にわかに、かすかな縁故を頼んで、じつは縁もゆかりもない山奥のあれた農家にとびこんだのだった。はじめは祖父と母と、やがて母と二人になり、ときどき父が自転車で老いの坂をこえてはるばる見舞いに来てくれた。叔母は引っ越しの最初に一夜を過ごしておぞけをふるい二度とは現れなかった。疎開してすぐの四月から国民学校(小学校)四年生だった。

 小学校六年生は、ひとによっては、そんなに子どもではない。むろん、そんなに大人であるわけもない。しかし自信にも自信喪失にもまぢかにいる年齢で、どっちに転ぶかは危ういのだ。私たちの頃は世の中の人みなが飢えと背中合わせにいたので、転校がいやで自殺したいなどと、暢気な見当違いは言うておれなかったし、飢えていると死にたいどころか生き延びたいと思うものらしい。孤独に弱いのは人の常だが、中学時代のわたしの年上の人は、「孤独を楽しみよし」と微笑んで勧めるほど強かった。

 東工大の学生に聞いたのだが、高校時代の先生から、「十七にして、親をゆるせ」と教えられたそうだ、なんというすばらしい自立の勧めであることか。「十七にもなったら、たとえ親が至らなくとも、ゆるして親を支えてやれ」ということか、これが本当だ。十七ならそれが出来る。体力的にも気力的にも社会的にも出来る。むしろ親が「切れて」も、十七にもなった若者が「切れる」なんてみっともないのである。

 わたしの十七のとき、育ての父親は女と金とに躓いて家出をした。切れたのだ。母も切れていた。わたしは親に先を越されて切れるどころのさわぎでなかった。食うものも食わずに本を読み、短歌をつくり、叔母に茶の湯を習っていた。ぜんぶ、しっかり元を取った。「切れ」ている少年少女たちに、わたしは、そう暗澹とはしないと決めている。大人の責任ばかりとは考えていない。

 出久根達郎さんの上京譚が好きである。「e-文庫・湖」にいただいた『タンポポ』の書き出しに、こうある。

 「中学校卒業後の進路は、一存で決めた。私の家は生活保護を受けていた。保護家庭の子女は、義務教育を修了すると、いやも応もなく働きに出て、稼ぎを家に入れなければならぬ規則だった。国から借りた生活資金は、そういう形で返済しなければならぬ。

 私は就職も就職先も、誰にも相談しないで決めた。昭和三十四年当時の、中学卒に対する求人の大半は、商店員か中小企業の工員である。月給千五百円から二千円が多かった。

 書店員、というのがあった。住み込みで食事付き、手取り三千円。書店なら思う存分に本が読めるだろう、勉強も出来る。私はあとさき考えず飛びついた。菓子屋なら菓子が食える、と幼児が単純に思いこむのと同じ発想である。

  上京当日、私は初めて両親に就職の件をうちあけた。出立(しゅったつ)は数時間後だと告げると、両親は仰天した。行先が東京の中央区月島と知ると、母親が不意に泣きだした。島と聞いて胸をつぶしたのである。鬼界(きかい)ヶ島の俊寛(しゅんかん)を想像したらしい。流人(るにん)ではない、となだめたが、私にも月島がどういう島であるか見当がつかなかった。銀座に近い島、と職安の係員が説明したが、すると尚更もってイメージできない場所であり土地である。船で渡るのか、と母が聞いたが、たぶん橋が架かっていると思う、と平凡な答えしかできない。マムシがいるのじゃないか、と東京を見たことのない母が取り越し苦労をした。人間が多いから蛇はいない、と断言すると、巾着(きんちゃく)切りが鵜の目タカの目で狙っているぞ、とたたみこんだ。

 要するに息子のひとり旅が心配なのである。

 こんな大事を勝手に決めるなんて、親不孝者の最たるものだ、と母親がぐちり始めた。  私はうんざりして、表へ出た。」

 気概、というものである。

 2001 4・15 9

 

 

* 「歴史」「歴史を書く」ことは、人間だけの、たぶん、行為であるだろう。歴史を書くことは、出来不出来や十分不十分を度外視すれば誰にでも出来るとすら言える行為である。克明な、克明でなくても、日記を書く、それだけで歴史記述に似たことをわれわれはしている。他人がそれを尊重するとは限らないだけのこと。尊重される歴史記述もあり知られざるそれもある。時間の経過を事柄が埋めてゆく、それが歴史だと比喩的に謂うことは不可能ではないが、そんな簡単なものでないことを難しい歴史哲学は説いてきた。人間の歴史はといい、このプロジェクトの歴史的な経過はなどというとき、沿革の意味が歴史へ拡大されている。歴史の記述が真正に客観的であることは不可能で、歴史を書くとは、選択し批評する意義である。前後の見境を批評的に誠実に見極める意志が歴史を書かせる。歴史とは記述に限って謂えば主観的な所産であるが、その彼方に真の客観的な歴史があったと想うのは、想像にすぎない。それは歴史とは謂わない、ただの混沌とした時空間があるだけである。歴史は精神の中にしかない。

 だからこそ、本当に大事で難しいのは、しかし看過出来ないのは、「歴史を書く」ことより「歴史を読む」ことなのである。歴史を読む能力こそ、人間のものであり、人生の、社会の、民族の、人類のための羅針盤を決定することになる。世の中にはゆがんだ意図を秘めてむりに「読ませ」ようとする歴史記述が多いことは知っていたい。いや、殆どの歴史記述の下心としてそれがある。その意味では歴史を読む行為も、また誠実を賭した選択であり批評なのであり、自分自身が問われる行為なのである。書かれた歴史を非難したり評論したりも大切だが、自分自身を問うことを忘れていては本末転倒になる。

 

* 朝一番に「歴史」を語った難しそうなメールが届いていた。いい潮に、わたし自身の思いを書いた。

 2001 8・5 10

 

 

* 仕事に追われ先週見られなかった「北条時宗」を昼過ぎに見た。

 ようやく無学祖元が登場、あの役者はわたしの大学の先輩ではないのか。それは、どうでもいいが、時宗は宜しい。時輔は鎌倉武士にしては泪もろすぎる。桐子役の木村佳乃といったか間違いかも知れぬが、このタレントに打掛姿の時代劇はとても無理。時宗妻の祝子は、ただもう神妙にしているのでボロは出ていない。平頼綱役の役者の面構えのまがまがしさは、この先の波乱を予感させて不気味に面白い。何と謂えども、クビライと対決する仕方が時宗と時輔とで変ってくるのが、ドラマの寄せ場であり、評判はどうなのか知らないが、わたしはごく好意的にこのドラマにつき合い続けている。

 おそらく日本史上、第二次大戦が済むまでと敢えて言うが、北条時宗ほど、アジアの国際関係で危機感を嘗め尽くした政治家は、他に一人もいないのである。そこが、みどころになる。クビライとの戦争は一文のトクにもならず、莫大な損費と犠牲を要した。ご家人に酬いうる余力は幕府には無かった。足利や新田が、後醍醐政権が鎌倉幕府を倒したのは、現象的にはその通りの事実だが、根は、蒙古襲来によってもう倒されかけていた。

 あの若さで未曾有の国難に立ち向かった史実には、敬意を覚える。いわゆる神風もものを言ったか知れぬが、毅然と立ち向かった時宗の歴史的功績は評価に絶するものがある。平安時代であったなら、日本は滅びていた。神風だけが幸運ではなかったのだ。

 禅宗という無心の教えがまさに鎌倉に到来したのも幸運であった。渡来僧たちはみなクビライらに逐われてきた、宋の僧であった。大元がどのような国かを、時宗に知らせる姿勢も、彼らは備えていた。情報は必要であった。

 2001 10・20 11

 

 

* いま書きながら耳に聴いていた「海は広いな大きいな」の歌詞の中の、「行ってみたいなよその国」に、またしても耳がとまった。海外への旅をおもう、そんな歌詞では、あの、わたしが国民学校でこの歌を習った頃は、ちがったのである。そこには南洋の島々がありアジアの国々があり、世界があり、日本から外へ外へ領土や政治支配を拡大したい政策の要請がはっき有っての歌詞であった。そのように仕向けられていた。そういう仕向けが空気のように身のまわりをとり包んでいた。いま聴くような無邪気な憧れとは質が違っていた。そういう子ども向けの唱歌や歌謡が数少なくなかった。

 たしかにメロディは純然と懐かしさを誘いはするねが、忘れられない批判や批評は体内に生きている。わたしは「行ってみたいなよその国」とはたいして思ってなかった。「何しに行くのン」と思っていた、世界地図の上に日章旗がピンで刺され続ける日々にも。

 

* 日本は狭い島国である。海外に領土を発展させねばならぬと、たとえば本多利明のような開明的な江戸時代の経済学者は真剣に論策した。その影響下で蝦夷地探検などが発起され、最上徳内のような民間から出た優れて先見的な探検家が活躍しはじめた。徳内が大きな成績を積み上げ、幕政の北拓展開に寄与したのは、近藤重蔵や間宮林蔵らの活躍より遙かに先行していた。徳内は本多利明の最も優れた門弟であった。重蔵も林蔵も徳内のいわば後輩であり、徳内の先導や指導により、徳内の耕し拓いておいた道を辿って活動していたのである。日本全図をつくった伊能忠敬のような人達も、そういう意味では最上徳内の、また本多利明の、さらに謂えばさらに先駆して世界をしっかり見ていた新井白石の、後輩達なのである。こういう江戸時代の系譜を思うべきであろう。と同時に、彼らに働いていた「行ってみたいなよその国」の思いの延長上に、近代日本の拡大政策が出来ていった事実も忘れるわけに行かない。日本は狭い島国なのであった。今もそうだ。その事で最も早く苦労し若い命をすり削り果てたのが、北条時宗であった。時宗のつらさを知っていた戦国大名や天下布武の織田信長や豊臣秀吉は、部下に対して切り取り御免という領土拡大政策であたり、その結果が、秀吉の朝鮮はおろか大明国までもという出征を思い立たせた。元寇の逆を行こうとした。それ以外にもう日本列島に恩賞の土地が無くなっていたのである。「行ってみたいなよその国」とは、思えば、そら恐ろしい意図も託された無邪気そうな唱歌であったことを、海に囲まれた狭い日本の国民は、忘れきれないであろう。

 2001 10・28 11

 

 

 言うまでもないが、自分の内側に無量の過去世と人物達が同居している。架空の世間や人物もそこでは区別無く同居している。時間は直線の延長でなく、球体にとり包まれて渾然融和しているというわたしの時間感覚からすれば、そうしたものたちと「同時代の共存」にちかく感じ取れている。今の気持で言えば狭衣大将も倭建命も福沢諭吉も中村光夫も同じようにわたししの内側で語り合いながら生きてある。むろん、羽曳野も京都も湖北も比良も鈴鹿も、かと思えば釧路もノサップも、グルジアも、紹興も、みなそのように同居してある。昔とか遠方とか言うものが、今や此処にかなり包摂されている。それがあるから、日々の少々の動揺や混乱や違和でキレるようなことは無くて済むのだ。ナンジャイと片づけてしまうのである。

 

* 歴史や歴史上の人物、亡くなった人達と、つき合いがあまりに少なく、むしろ断ち切られ裁ち落とされているのが、若い人達の、いや多くの人達の日々であるように、昔から感じてきた。あんなことでは索漠としないかしらん、ようやれるものだと、不思議ですらあった。

 明治以降の作家や詩人達の多くが、その歩みのあとが、同じ道に歩んでいる人達からも当然のように多く裁ち落とされ忘れられている。それで構わない、自由な処世である。そのかわり、そういう生き方では批評のものさしもひどく貧相にしかもてないだろうなと思う。事実、そうなので、手近なお互いの理解だけでかるく一丁アガリに決めている。自己批評の厚みが段々薄くなり干上がってくるのは、当然だろう。時間をただ直線のようにしかみていないのだから、まさに過去は過ぎ去ったものでしかない。過去や過去の人・業績をも、同時代、同時代人のように親しめる力が、時間観が、無いからだろう。「文藝館」の発想には、一つの球空間のなかで平等に明治から平成までの作者達に、作品を手にして同居してもらおうという意図もわたしは持っていた。昨日の宴会で、二人の小説家から、自作と物故作者の作品群とのある「落差」「異質」を告白されたとき、ああ、これでいいのだ、こういう意識が広く生まれてくるのが大事で貴重なことだと思った。

 2001 11・27 11

 

 

* 真珠湾から六十年が経った。わたしは京都幼稚園に通っていた。「九軍神」という三字をはっきり記憶している。まつわる詳しい事情を知っていたのではない、新聞の見出しにとても大きかった。日清、日露戦争のことも、支那事変だの満州事変だのと耳にし目にし、戦争は茶飯事とはいわぬまでも「する」ものであり、日本は負けたことが「ない」と知っていた。だから米英に対する開戦を深刻には受け取っていなかった。幼稚園生活があまり好きでなかったことに比べれば、宣戦布告からたいした影響は受けなかった。以来六十年。昨日のことのように思われる。

 2001 12・8 11

 


 

* 宇田伸夫氏から続編の「新羅花苑」が贈られてきた。この作者は、韓国と縁のある人か、前作は韓国で大きな評判だという。日本の古代を、三韓勢力が支配し、朝廷もまた大和朝廷でなく蘇我氏の百済朝廷だったという架設のうえに構成された前作であったから、以前から、とかくそういう「朝鮮半島主導の古代日本」という意図的発想の現れるつどかの国では特殊な関心の沸き立つらしい事情からも、頷ける。わたしは、ある種の非文学的な露骨意図に流されて作品が構成されることにむろん賛成でないし、そういう意図的な受取り方で作品意義の歪められるのも好まない。宇田氏の意図が那辺にあったかは知らない。今日もらった作品も、面白く気持ちよく読めると佳いなと願うばかりだ。

 

* 日本列島は、樺太や千島を経ても、太平洋南海諸島をへても、沖縄の列島を経ても、朝鮮半島からも、直接中国やシベリアからも、伝うように降るように多くを受け入れてきたから、どのルートの要素が濃いのか薄いのか、簡単にはまだ明言できないし、少なくも一律一様なことは謂えないことだけは確かだ。推測的に言われてきたわりには、日本語と朝鮮語との重なりは、さほどでないという言語学の報告も出ている。

 なににしても、例えばヤマタイ国にせよヒミコにせよ、大和朝廷をめぐる推測が、ま、興味に惹かれた憶測や私説となって飛び出すのは「言説の自由」でありわるいことではない。ただ、それらが、ねじ曲げられた民族感情の餌食になることは、わたしは好まない。願わしいのは、優れた文学の誕生であり、妙なプロパガンダの先兵に利用されて汚されるのはイヤだなあと思う。宇田氏の力作がそのように非文学的に埋没してゆくことのないよう希望している。

 2002 3/22 12 

 

 

* 快晴の五月。昨日はメーデーのメの字も見なかった。荷風は花火、祭り、の連想から、日本の祭礼がいつしか社会的な祭りへ動くに連れ、提灯行列や万歳やなにやかやと変容してきた明治以来の推移を、淡々と回顧している。そして近代社会と政治との汚濁や混乱を、仮借なくしかしさりげなく「示唆」している。大正七八年の作である。

 藝者組合が祝祭に乗じて練り歩いたところ、見物が殺到し、果ては藝者達を路上暴行凌辱、いのちからがら悲鳴をあげて藝者達が逃げまどい、悲惨な被害者がひた隠しの中で仲間内で見舞われていたとも荷風は書いている。狭斜の巷にあえて沈倫していた荷風ならではの情報であり、批評の言葉はほとんど書かれていないのに、その意思も意図も、つよく伝わってくる。

 以来、ほぼ百年。日本は、「また新たな戦前」の抑圧時代にさしかかっている。

 2002 5・2 13

 

 

* 夜前、おそくからNHK特集で、世にいう「台湾沖海戦」の、虚構されていた幻の戦果の仔細を、ほとほと言葉も喪って、観た。赫々の大勝利として大戦末期に国を挙げて「嘉尚(勅語の表現)」し、「手の舞い足の踏むところを知らなかった(当時大本営の僚官の回想)」乾坤一擲の大空襲作戦だったが、事実上、戦果はゼロに等しく、数百機を駆り出した友軍機はほぼ全て帰還しなかった。米側の調査では、巡洋艦二隻に幾らかの損害を与えた程度の、三次にわたる我が方の空襲の成果だった。だが、わずかな帰還兵士と鹿屋海軍基地と大本営海軍部との、ずるずるとひきずりこまれた「虚構の合作」によって、なんと、敵空母だけでも轟撃沈十一隻、撃破八隻、戦艦その他も無数、という愕くべき「大本営発表」に結果した。

 そのような虚報は、だが、すぐさま、無傷に姿をみせた米空母その他の大艦隊の存在により、実は消散してしかるべきであったのに、これを海軍は一切握りつぶし、むろん国民にも、また「競争」関係の陸軍にも、まして首相にも天皇にも、一切知らせなかった。天皇は勅語を発して海軍の成果を嘉し、首相小磯国昭は起死回生の大戦果を国民の前に出て高らかに祝った。

 その結果として、陸軍参謀本部等は、敵空母の影響を安心して度外視し、レイテ島への友軍集結、有利な大決戦と大勝利を信じて強行し、悲惨に殲滅されてしまった。敗戦への道のりは決定的に縮まったのである。

 この海軍の大戦果に疑問を感じた将校は、実は海軍部にもいた。だが、口にし主張できる空気ではなかった。また、たまたま鹿児島の鹿屋基地に立ち寄っていた陸軍の大本営参謀は、この戦果報告はおかしいと感じて大本営陸軍部に電報していたが、握りつぶされていた。戦果にケチを付け得ない空気があった。フィリッピンを護っていた山下奉文将軍は、その陸軍参謀の話をじかに聞いて、敵空母の全滅など到底信じられないと、陸軍地上勢力のレイテ島集結作戦につよく反対したというが、南方総司令の寺内元帥はこれを一蹴した。海軍の大戦果に、陸軍も負けていられるかという、それだけでの強行であった。致命的勢力である敵空母は「すべて健在」との情報が、海軍の握りつぶしで、陸軍には全く伝えられていなかった。

 大本営とは、天皇直属の戦時下最高参謀中枢で、陸軍参謀本部と海軍軍令部とから参謀が送り込まれていた。だが、終始一貫、海軍は海軍の、陸軍は陸軍の情報を、相手側に伝えようとしないで敗戦時に及んだという。敵が米英軍である前に、日本の海軍と陸軍とが戦争し合っていたようなものだ。同じ日本語が通じ合わなかったのだ、国の運命を左右した軍の最高機能にあって、これであった。

 

* 日本の運命は、こういう大本営や軍部に握られていた。そして、人間はこういうことをしでかす生き物だと思わずに居られない。最大危機の「有時」にして、こうだった。小泉内閣が海軍だとすれば党内抵抗派は陸軍かもしれない。危なくて、何をしでかすか知れたものではない。

 いざという時に、「それは、違う」せめて「それは違うのと違うやろか」と立ち上がって言えなくてはいけないのだが、アメリカでは、反戦の姿勢を見せただけで、学校から追放されかけた学童があり、テロ撲滅戦争に反対した一議員は孤立を余儀なくされている。横浜市議会では、二人の女性議員が議会場での日の丸掲揚に反対し、意見陳述したいという要請を悉くはねつけられた挙げ句、現に議会から除名されている。世の中で価値ある存在として、いわゆる少数意見にも耳を傾けるという習慣が、聡く賢く定着しなければいけないのに、こういう日本だ。

 

* 幻の大戦果にさわぐ気持ちを、バグワンと、「うつほ物語」で静めるのに、明け方まで。そして、目が覚めたとき、恥ずかしながら午まえであった。いくつもメールが来ていた。

 2002 8・20 14

 

 

* 方面のちがうこんなメールもとびこんできた。

 

* 鞍馬の竹伐り会の青竹って、あの青竹は蛇のことなンですか? 吐き気がしてきました。堪えられない祭りですね。

 

* この手の「見立て」祭事は、他にも縄や蔓をもちいて至る所にある。あの茅の輪、巳の輪も同じである。あれは潜ることで生気や精気を身に受ける「あやかり」だが、大縄や大笹を村はずれへひきずって行き焼くなどという祭事は、いわば厄払いに見立てた民俗であり、もし「むざね=正体」を強いて問うならば蛇体の「見立て」であることは間違いない。やまたのおろち以来の山国で水の国である日本では、ごくあたりまえの伝承といえる。

 2002 10・10 15

 

 

* 福田歓一さん(元東大法学部長)から、わたしの新刊『からだ言葉こころ言葉』にお手紙をもらった。本をお送りすると、必ず読んで感想を下さる。今度の本では、最後に入れて置いた「からだ言葉と日本人・ことばと暮らし」のところで言い及んだ、「正座」ということばと慣行にふれておられる。前から「正座」が気になっていたと。

「私の年になると不祝儀など弔問して正座が本当につらくなります。早くから椅座に馴れたせいもあるかと思いますが、八十になろうとする身にはもう立つことがむつかしく、(秦の謂う)由来を学んで、明治体制が江戸時代の武家のならいを強制したこと、それには旧民法の家族法もあります、が二十一世紀に残る災厄のように感じました」ともある。わたしなどより年輩の方から、正座についてこれほど明瞭に辟易の発言をされたのは珍しい。

 わたしは茶の湯を習い始めた少年の昔から、脚の甲高にもよるが、正座がつらくて、じつは「先生」をしていた昔でも、時間が長びくと胡座を余儀なくされた。茶会に出掛けるのもかなり苦行になった。お道具拝見などで、延々と時間が延びる悪習慣に懲り、大寄せの会はひとしお逃げたくなった。

 その体験から、わたしは日本人の座り方に疑念をもちはじめ、利休の時代までに正座習慣などとうてい日本人の日頃に認めがたいことに気付いたのである。老若男女、階級を超えて、正座は尋常な座法でなく、極度の謙譲(如来の脇侍)や、極度に強いられた卑賤、罪人以外に、正座などはしていないと多くの例証にあたって確認した。茶聖といわれる利休の座体を何点もの肖像画や彫像にあたっても、正座例は一点もない。しかし孫の千宗旦が八十代の画像になって正座で描かれる。同時代の尾形光琳描く国宝「中村内蔵之助像」も正座である。ともに元禄の頃で、この頃からは日本人の日常に正座が普通のようになる。

 江戸の武家の城内作法が整い、主従関係が強化され、また厚畳の建物が、またそれに相応した衣服の変化が出てきて、ようやく正座が市民権をもちはじめ強制力も持った。

 そしていつのまにか、この、韓国人ならあらわに「罪人の座り方」とわらうような座法を、日本人は「正」座と名付けるようになった。わたしは、この「正座」ということば、物言いに不満をもった。裏千家の「淡交」誌に連載を頼まれた大昔、はじめて私が利休居士の像に正座例などないことを指摘し、茶を点てる姿勢が正座でと定まっていったのは、時代が下がってからではないかと疑問符をつけた。映画で競うように利休が主人公になったときも、その点からの批評をわたしは書いている。   

 

* からだで覚えると謂う。正座で脚が辛かった、身にしみるそんな体験が、なんでもない、だが大きな事に、気付かせた一例である。人の思想は、こういうふうに作られて行く。知識だけで出来る思想はたかが知れている。

 

* 昨夜もバグワンを読んでいて、頷いていた。論理は、ちいさいものにしか通用しないと。小さいモノゴトには論理は大きな顔をして幅をきかせるけれど、命の底へ触れて行くようなことになると、生死のことや無心のことや、思いも及ばぬ不思議を前にしたとき、論理は何の役にも立たない。そういうものにくらべて論理がいかに小さいか狭いかはハッキリしているのに、人は論理にとかくしがみつくことでエゴ=心を守ろうとする。

 2002 11・9 15

 


 

 

* 病院で待たされるのが必定のとき、何を読んで時間を待つかは大事な選択。今日は、中央公論社版の「日本の歴史」第一巻をもっていた。神話から歴史へ。こういうのを読み出すと、どんな小説よりもとは言わないが、大概な読み物よりはるかにひきこまれ、時間などすぐ忘れてしまう。よくよく歴史を読むのが少年時代から好きで、神話から歴史へといった「歴史の方法」の根幹に触れる学問的な追尋には、へんな話だが惚れ惚れしてしまう。

 2003 1・17 16

 

 

* 夜前は四時半頃まで邪馬台国や神武天皇、崇神天皇の頃を読みふけっていた。

 邪馬台国の九州説、大和説の角逐にはこれまで身を遠のけてきた。わたしの気持ちとしては、歴史的に北九州が先行して大陸半島の文化を受け容れたには相違ないし、現実に大和に統一政権ができたことも事実。そして勢力東遷もまずまちがいないところと想っていたので、卑弥呼の身を、大和におくか九州かという議論自体にはさほど関心がなかった。むしろ「ひみ」が朝鮮語でひとつには光明のような、ひとつには蛇のような意義をもっていることに興味があった。そして大和説には九州説よりなにとなく無理のありそうな感想は否めなかった。今も、これはどっちだってよいと関心の外へわざと置いている。

 天孫が日向の高千穂峰に降臨した神話など、事実としては、むろん信じていない。稲魂に等しかった天孫は、特定の高千穂に降りたのでなく、「高千穂」の文字が示唆しているような農耕の場なら、何処にでもいつにでも降りたって良い神霊であったろうから。

 だが九州には、榊に、玉と鏡と剣をかける祭事なり示威なりが、今に至る皇室の三種神器とまぎれない類縁をもってきたことは、不動の事実。そういうことは頭にある。

 

* 井上光貞氏の本で、神武天皇が、人皇の初めであるより神話の最後の存在と見定めているのは、学界の定説に近い。つづく綏靖から開化までの八帝が架空の非在天皇であることも、もう常識。

 つづく十代崇神、十一代垂仁、十二代景行天皇には実在したと想われる傍証がいろいろに検討されている。半ば以上の常識である。が、つづく十三代成務、十四代仲哀天皇も実在感がかなり合理的に否定されているということを、今回、教わった。

 さ、そうなると、次は倭建命と神功皇后のことになる。

 さきに、わたしのかねての認識をいうと、倭建命神話は創作された傑作、神功皇后は実在したのではないか、と。井上氏の(学説を公正に援用した主観的な歴史記述であり、記述の姿勢は信頼できる。)本では、倭建命も神功皇后も、どうやら実在しない架空の神話的実存であるらしい。まだ、其処へは読み進んでいない。外へ書いて原稿料をもらった最も早い時期の評論ふうエッセイ、「消えたかタケル」の著者として、興味津々。

 2003 1・25 16

 

 

* 木花開耶媛と岩長姫とのことは、『花と風』を書いた三十年も昔から、繰り返し繰り返し語ってきた。「時」の性質の違いとして。人の時間と神の時間として。繰り返す時間と、持続する時間として。点線又は鎖線の時間と実線の時間として。

 むろん神話では、以後の天孫たちの寿命、ひいては人間の寿命の問題として、この姉妹の寓意が語られている。父なる山の神は、天孫にむかい、美しい花の妹だけでなく常しえの岩の姉をもともに娶れとすすめた。だが、ニニギは、あえて花の妹だけを妻にした。父と姉は天孫達の寿命の短かからんことを呪詛した。

    わたしは、だが、この天孫の選択を、「人」としてした最初の英断と見た。彼は永遠持続の神の時間ならぬ、花のように咲いては散りまた咲き返す繰り返しの時間を人間のために選んだ、と。命の新鮮と美とめづらしさとを、そういう「花」の時間にかりて確保したと。散るとは「風」の意義を生かすことである。世阿弥らは、この神話に多くをまなんで、例えば『風姿花伝』をつたえたであろう。

 もっとも、この神話は、南方世界でいわゆる「バナナ型」伝承として普及していたモノと酷似している。やはり、それらも、人間の寿命とからめられている。永遠の石を拒んだので、替わりに神はバナナを与えた。人間の寿命はバナナなみになった、などと類似の伝説は、数多く南の国で採取されている。そういうことは承知で、しかし、花と岩との示唆するところをわたしは「時間」の質差に認めた。

 むろんこの花と岩の姉妹は、美と醜という面ももって対立していた。それを、四谷怪談の基になった「四谷雑談」などの実録は、巧みに転用していた。学者達はそれには触れ得てこなかった。高田衛さんの周到な四谷怪談論のなかで、そういう視線はついに紹介されていなかったけれど、わたしは、紛れもないと眺めている。

 今一つ言えば、岩長姫の「醜」に、岩の上にとぐろを巻いて影向する蛇体の神の寓意の在ることも、ぜひ読み取らねばならぬ。長虫とは蛇の意味であり、「ナーガ」とは東南アジアの信仰の主要なモノの一つ、蛇であり蛇神の意味である。「長い」という日本語の語源も明らかにナーガに発している。ここに現れる山の神も、転じては一本足の案山子となって現れるように、日本では蛇体の神霊である。そして花といえば桜であるが、「サクラ」という言葉にも、例えば近代の鏡花は、遠い蛇影を託しているのである。岩と花の姉妹もその父山神も、本体は水神でもある蛇であり、日本の古い由緒の神社は九割九分が水神海神山神を神位としている。皇室起源の神話には、水の海の山の蛇神がつねにまとわりついたことは、古事記が、日本書紀も、正確に語っている。

 忘れ得ないのは、蛇神には火の神の横顔もある。イザナミのホトを焼いて生まれたカグツチは火の神とされているが、「カグ=カガ」も「ツチ=チ」もカガシやオロチとあるように蛇と同義である。イカヅチやタチの「チ」もそうである。イザナミの死体にたかっていた八種の雷=イカヅチも、八岐大蛇の尾からあらわれたタチ=剣も、また同じである。

 

* 京都で三宅八幡へ詣ってきたが、八幡様の紋は向い鳩である。大概の古社の紋は蛇鱗の六角や変形が多いが、鳩は、八幡の縁起にあらわれる。やはり蛇で、ある時鳩に変じて天に翔びたったと社伝に在る。

 能登島で八幡社の火祭りをみたが、火と燃え立つ高い高い竹の先で、炎とともに御幣が鳩のように夜空へはじけ飛んだ。竹は、鞍馬の竹伐神事にみるように、明らかに蛇体を示している。言い出せば際限のないことだが。低い次元にとどめて時たまの新聞記事にする程度でなく、人間の文化と社会と歴史の基底部にある「蛇」形象の意義がもっと体系的に科学化されないものかと思う。わたしには出来ないが。

 

* 古事記で、日本の神話で、いきなり「天御中主神」が現れたときは、さすが子供のわたしもなんだか理に落ちた話だなと、感心もし素朴ではないように感じた。のちのち、切支丹の徒がこの神様を持ち出して信仰の宥和を計ろうとしたり、古学や国学の連中に西洋の知識とのアレンジふうにこの神様の名を利用する例があったりするのと、出会った。大陸起源の元始天帝の知識を受けており、原初の神話とは言えまい。

 天の岩戸前の神楽を、わたしは「葬儀と甦生」の初例と見て、「遊び」の起源をそこに置いてきた。天若日子の死の場面でそれが繰り返されている、と。「遊び」とは死者の慰霊行為であり、「芸能」の起こりだと。遊び部から遊び女にいたる芸能と売色との久しい伝統をそこに見て、だから久しく芸能の徒が「差別」を受けてきたのだと。根底に死屍と霊魂とがあったからだ。

 井上氏の「神話から歴史へ」で、だが天の岩戸の遊びをそういう風にまでは捉えていなかった。むしろ素戔嗚尊の天津罪の法が詳しく解説されていて、それはそれで興味深いものだった。

 2003 1・25 16

 

 

* 終日、真冬の雨。寒かった。だが雪ではなく。

 

* 歴史では、時代が若ければ若いほど情報が多くものごとが分明に思われるが、日本の三世紀が比較的くわしく分かるのに対し、四世紀はいたって謎の多い時期だという。

 三世紀には中国が比較的安定し、支配や影響が朝鮮にも日本にも及び、朝貢の外交があった。そのために中国や朝鮮側で、日本について記録されるところが比較的豊富であった。日本では記録するにも文字の駆使がまだなく、考古学の資料があるばかり。だが魏志倭人伝や類似の記録が海外に遺され、それらを参照して考古学的遺品の時期も特定できるということがありえた。

 四世紀になると中国の国情政情が急に不安定になり、日本の事情を中国で記録している余裕がなかった。朝鮮半島でも中国の締め付けの緩みに乗じ、高句麗の強大、百済の勃興、新羅も擡頭してくるなど、三韓の角逐甚だしく、日本もこれにつり込まれ、百済とともに高句麗と闘って大敗するなどの事が起きていた。日本側にはない言語的な資料の分を、百済記で補うなどしても、なかなか分かりにくい時代が四世紀であったらしい。

 四世紀の日本はまだ大和の統一国家にまで到らず、しかも、余儀ない形で朝鮮半島への軍事行為は数を重ねていた。そういうことが、分かっているのであるが、そこへ崇神、垂仁・景行王朝から、のちの応神・仁徳・履中王朝への過渡期的な表情で、神話の相を帯びたややこしい仮構時代が浮かんでくる。その前の方のヒーローが倭建命なら、後の方のヒロインが神功皇后で、この二人ともの実在が、歴史学ではかなり明確に否定されている。崇神から応神へ、王朝交替のかげの説明に、この架空の二人が挿入されていたのである。

 その上に、この時期に少なからぬ学問的風波を招致したのが、江上波夫氏の「騎馬民族の渡来と征服」説であった。受けて展開した感の、水野祐氏による、なかなか魅力的な解釈を、もう三十年も昔に熱中して読んだことがある。これらに「大古墳」の時代もかぶさってくる。三世紀から四世紀、五世紀。おもしろい時代だ。

 2003 1・27 16

 

 

* 明け方までに、「日本の歴史」第一巻を読了。応神王朝から継体王朝へ切り替わり、三世紀間に渡る日本の朝鮮経営は潰えた。そのかわりに日本に統一王権がほぼ安定した。三世紀もの間、日本は朝鮮半島の出店の経営にてこずりながら、軍事行動を繰り返していた。一時期は任那を拠点に百済国を属国扱いさえしていた。新羅にも高飛車だった。それも潰えた。後発の新羅がつよくなり百済は衰えている。

 高句麗までも日本は攻めているが、高句麗はつよかった。高句麗の版図は今の北朝鮮国に相当している。この当時の日本と朝鮮半島との交渉は、軍事関係は、秀吉の頃よりも長くまた執拗で、密接であり、多くを得て多くを喪った。だが、その間に日本は地固まったと謂える。

 継体王朝の登場は、劇的で、応神王朝とのあいだに断絶があるのか血縁は繋がったのかは、あまりに微妙。万世一系はかなりあやしいと見られる。しかも継体天皇の三子、安閑、宣化、欽明三天皇の即位事情も複雑を極める。

 わたしは、秦の父に、中学の頃いきなり「花筐」という謡曲を教えられたので、登場する後の継体天皇には自然関心があった。越前に、なんでそんな応神五世の孫王がいたのか、どうしてそんな縁遠い皇子が、大和なる天子の位に近づいて即位が出来たのか。日本の経営した任那日本府が最期を迎えたのと、この継体天皇の最期とが、ほぼ同時期であったというのも印象にのこる。

 

* 十五代応神天皇は「確実に」実在したといえる天皇の最初の人。しかしその前の、崇神、垂仁、景行三代の天皇にも、実在の形跡は、ま、濃いと言える。だが、そのあとの成務、仲哀二代は影が極めて薄く、非在と言える。景行の子とされた倭建命も、仲哀の皇后で応神の母とされる神功皇后も、創作された架空非在の人。この辺で、王朝の大きな交替があった。応神が騎馬民族であったかどうかはともかく、西国から攻め上って崇神王朝にとってかわった事実は、否認できない。応神王朝は、以降、応神、仁徳、履中三大古墳陵をシンボルに、雄略天皇らの「五帝」時代に推移し、中国との密接な関係の中で大和政権を維持しようとした。しかし豪族・姻族間の内紛で王朝は弱体化してゆき、ついに継体王朝に取って代わられている。雄略の頃に取材して、わたしは小説「三輪山」を書いている。

 

* 継体王朝のときに朝鮮半島の拠点をまったく喪うが、一方では我が国に仏教が伝わってくる。仏教との関連で、葛城、平群、大伴、物部、蘇我氏の諸勢力が、朝廷の周囲で烈しく移動し交替していった。継体王朝の六世紀に、日本の神話や歴史の基盤資料となった帝紀や旧辞などが国家的な意志と意図とで集約され整備されていった。

 

* 面白くて、読みやめられなかった。一冊が数百頁の文庫本、図版も多く、井上光貞氏の記述は周到で、説得力に富んでいた。第二巻は直木孝次郎氏にバトンタッチし、聖徳太子から大化改新へ、そして近江朝から壬申の乱へ移動する。記事は緻密の度を増してゆくだろう。この時期に取材してわたしは小説「秘色」を書いている。

 2003 1・28 16

 

 

* 氏姓制度というのは、氏族の格付け制度で、姓(かばね)により判別した。臣があり連があり、他にいろいろあった。支配的な地位を占めたのは臣のなかの大臣、連の中の大連で、前者に葛城や平群や蘇我があり、後者には大伴や物部があった。だがなかなか臣と連の性格の差まで教われない。

 臣は、その名乗りが殆ど本貫たる地名に出ていて、在地豪族として皇室の周辺を取り巻いている。諸藩に相当する。

 連は職掌に応じた名乗りとみてよい。軍事、警察から生産、工芸、神事等。朝廷に、つまり天皇に直属し隷属している。諸省の司々に類する。

 したがって官司制がとられれば、直ちに天皇の親裁に応じて働けるのは連のように思われるが、実際には蘇我氏のような臣が、氏族制よりも官司制を取り入れる名目で、天皇家とならんで司司の上へ出ていた。

 それを可能にした魔術は、天皇家との濃密な婚姻による閥族化に成功し、大連系統の家を、喪うか弱体化させたのである。そしてそれにより天皇家よりも実力を持つに到った。蘇我馬子、蝦夷、入鹿の三代は、そういう存在として大化改新以前の飛鳥王朝の牛耳をとった。推古女帝・聖徳太子も、蘇我氏のちから関係に体よく組み込まれていた。蘇我氏はいわば大蔵大臣として国家の経済をおさえ、軍事や警察の大伴・物部を圧倒したといえる。それだけに、大化改新というのは、よほどの事であった。

 継体天皇の突如とした越前からの大和入りには謎が多いが、彼が地方の豪族に支持されて、大和で衰退していた応神王朝の末裔を力づく引き継いだことは、否定できない。だが、彼にそれを成功させた要因が地方の豪族である以上に、やっぱり大和にいた旧豪族達であったという事実も無視できない。継体天皇の子には尾張の豪族の血をついだ安閑・宣化二帝があるとともに、豪族に囲繞されていた応神王朝血脈の妻による欽明天皇もいて、烈しく長い継嗣争いが決着したとき、欽明天皇の王朝はもう蘇我氏と物部氏の掌中に全く落ちていたし、蘇我は、物部を駆逐したのだった。

 

* 倭の五王では、雄略天皇にあたる「武」が興味をひく。だが彼は後継者を生産できなかった。雄略天皇がかれなりの天皇政権を官司制で稼働させていれば、歴史はかなり別の面持ちをもったろう。彼は颯爽としてすこし乱暴だった。

 美貌の引田の赤猪子は、そういう雄略に河原で犯され、しかも惚れて、ふたたび朝倉宮に呼び出されるのを八十年間も待って、待って、ほとほと年老いた。

 だが老いた彼女は、諦めずに自ら朝倉宮に天皇を尋ねていった。老女の来訪を迎えた天皇は、だが、聊かの老いの嘆きも知らぬ颯爽の天子のままだったと、古事記は伝えている。わたしは小説「三輪山」に、その面白さと悲しさとを書いた。その作は、府県別文学全集(ぎようせい刊)の奈良県の巻に採られている。滋賀県の巻には近江大津京の崇福寺遺跡を書いた「秘色(ひそく)」が採られ、この二作で「湖の本」第三巻を成している。

 2003 1・30 16

 

 

* 昨夜もバグワンと源氏のあと、日本史を読んでいた。大化改新のあと、功労あった左大臣の阿部が病没する。するとすぐ、中大兄皇子は蘇我日向の讒言を簡単に受け容れて、同じく右大臣蘇我山田石川麻呂を殺してしまう。石川麻呂に謀叛の形跡は何もなかったことがわかり、日向は流される罪に当たる。彼は石川麻呂の弟であった。この男の名はその後現れない。

 さて孝徳天皇が難波京で孤独に憤死したあと、その子の有間皇子は甚だ危うい立場にいたが、蘇我赤兄に唆され、中大兄皇太子が執柄する斉明天皇の政権に謀叛を起こそうとする。赤兄は即座に牟呂の温泉にいた天皇・皇太子に訴え、有間を逮捕し、殺してしまう。この蘇我赤兄も石川麻呂(そして日向)の弟であるが、さきの日向とこの赤兄の名は、思料

文献に同時には現れない。日向の時に赤兄の存在は知れず、赤兄のときに日向は現れていない。直木さんの歴史記述では、石川麻呂、日向、赤兄は「三」兄弟としてある。わたしは、日向と赤兄とは名を変えた同一人で中大兄皇子の腹心であり、蘇我赤兄は皇太子が称制しのちに即位した天智天皇の近江王朝でも、大臣として重きを成している。しかも天智の薨去後には継嗣弘文天皇をほぼ裏切って天武天皇の攻勢のもとに死に至らせている。

 そればかりか、この赤兄という「蘇我殿」は、じつは千葉県の久留里にまで逃げ延びて此処に朝廷を開いていた弘文天皇を、天武政権の命をうけて追いつめ討ち取ったという伝承が、久留里に遺っている。御陵と称するほかにも弘文天皇や蘇我殿遺跡は数多く、近代に入っても、滋賀と千葉とで御陵の本家争いが有ったほどである。

 この顛末と推理から入って現代にも及んだ連載エッセイが、わたしの『蘇我殿幻想』(筑摩書房刊・そして湖の本エッセイ創刊第一冊)であった。雑誌「ミセス」に連載し、各地に取材した。ついてくれたカメラマンが島尾敏雄の子息、作家で写真家の島尾伸三氏であった。

 日向と赤兄とは同一人であるという、かつて云われたことのない(筈の)推定を、わたしは、ほぼ確信している。生き方や人を陥れる手口が酷似している。

 この推定を追いながら、わたしは、さらに平将門の乱や、更級日記に書かれた竹芝寺縁起にも推理・推測を繋いでいった。エッセイの体で、淡々と、少し寂しやかに昭和まで書いていった。

 2003 2・7 17

 

 

* 天智天皇という人を、国史に親しんでいちはやく意識した記憶がある。神武、推古、天武、聖武、桓武、後白河、後醍醐。今なら、崇神、応神、継体、また持統、嵯峨、醍醐、一条、白河、後鳥羽なども加わるが、ことに天智天皇には関心があった。母の国の近江に都したことも加わっているだろうが、好きと言うより、無視しがたい重みを感じていた。

 小説「秘色」で近江京の崇福寺址に的をさだめ、斉明朝から壬辰の乱を、現代の視点から幻想的に書いたときも、作品世界に、黒い牛のように重きを成して隠れ住んだのは天智天皇であり、その掌の上で、天武も弘文も、また額田姫王も十市皇女も働いた。ことに十市皇女の表現に工夫した。

 夜前は、天智の称制と即位、近江遷都、そして壬辰の乱の果てるまでを、またつぶさに「日本の歴史」でおさらえした。このあとへ、「蘇我殿幻想」がつながり、そして暫く間をおいて、恵美押勝の乱をやはり現代の愛の物語から絡めて書きひろげた、ま、代表作の「みごもりの湖」がつづく。

 京都に都の成るまえの時代に、「三輪山」「秘色」「蘇我殿幻想」「みごもりの湖」と、けっこう上代を書いてきた自分に改めて気付く。推進力は、「天智」へのいわば懼れまた畏れであったのかも知れない。

 いま一つ溯って常陸国風土記の世界を書いて、これも現代の恋から遙かに溯った幻想の神話的物語が、袋田の滝つまり「四度の瀧」である。また現代ロシアから京都へ、千年二千年をはせめぐる恋物語の「冬祭り」の取材は、もっと民族的に根が遠く深い。

 さて歴史は、飛鳥浄御原京、そして藤原京、平城京へと転じ、律令時代、奈良七代に入ってゆく。光源氏の時代へ到達するのには、まだ分厚い文庫本を二三冊以上読まねばならぬ。

 天智・天武・持統。凄いというに足る時代であった。天皇が自ら「政治」したといえる最も重量感有る三継投が、この、天智・天武・持統。しかし、その陰で、蘇我蝦夷・人鹿、石川麻呂、古人大江皇子、孝徳天皇、有間皇子、弘文天皇、大津皇子と、続々不慮に死んでいった。凄惨。

 天武朝のはじめに、竹取物語に出てくる大納言大伴御行の名が見える。蘇我も物部も藤原も、大豪族の凋落の時機に、辛うじて大伴氏だけが細く生き延びている。太政大臣も左右大臣もいない天皇の絶対権力時代の、臣民最高位に大伴氏が生き延びていた。かぐやひめに命じられ、あの南海の龍の頚から珠を取り損ねて戻った、空威張り大納言のモデル、が御行である。

 2003 2・10 17

 

 

* 理事会は、戦争問題に関連し、北朝鮮の「核」その他にも関連した、初めて議論らしい議論にほんの少し踏み入った。

 四月総会で、もし会員から問題提起されたときに、執行部はどう対応できるのかというわたしの提議から話がはじまり、イラクとの関連で、日本国内に一種の「ねじれ」が生じていることに、わたしは触れた。

 イラク攻撃に国民の七割が反対しつつ、北朝鮮の核に脅威と不安を感じている国民は八割を越えているのが、目下の、世論の結果。国民の大勢が、北の脅威回避ないし解決を、アメリカの軍事的制裁等にもし暗に期待しているとすると、この、対イラクと対北朝鮮の「ねじれ」た姿勢は、今後に極めて難儀な影を落とす。

 日本政府は、「米韓日の協力一致」などと寝言を言っているが、韓国はひたすら北を宥めて、攻撃の筒先はせめて日本へ向けて欲しい本音から、「北向き太陽政策」をとっている。わたしは、それが自然当然な彼らの選択だろうと判断する。

 一方米国は、北の問題は、韓国と日本とで率先対応してくれと言い出すだろう。韓国の駐留米軍もむしろ撤退したいという姿勢を、アメリカはかねて匂わせている。今やイラク問題の何倍も、当面日本の関心事は北朝鮮に向かわざるをえない。

 三好徹副会長は、北朝鮮には、軍事的核装備は事実問題「無い」だろう、「北」不安は日本のマスコミの過剰なミスリードであるとし、北朝鮮国内の「原子力平和利用」にまで日本が口は出せないと、去年暮れの理事会発言と全くおなじ発言があった。それが正確に事実であれば、けっこうであるが、先日の、アメリカの超級ジャーナリストの鼎談を聴いていても、他の情報からも、楽観的に過ぎないかとわたしは思う。猪瀬直樹理事も、森詠理事も、わたしの危惧をむしろ今の判断としてより大事だろうと、三好氏の見解に切り返していた。

 加賀乙彦副会長は、南北朝鮮の宥和のために、われわれはもっともっと手を貸して「上げられる」問題や方法があるのではないかと高見から発言していたが、対岸の火事に同情しているような口つきで、認識が、あまりに甘過ぎないか。

 加賀氏も森氏も、この前の「朝鮮戦争」の勉強をしているというお話であったが、わたしの半島への関心は、いままさに、三世紀から六世紀七世紀の三韓、また日本の任那経営経緯から初発している。

 それ以来の久しい歴史から学ぶところ、あの半島では、「分裂傾向」と「統一意志」とが、かなりややこしく経時的に「ねじれ」ながら、交替し推移してきた。高句麗、百済、新羅といったあの三韓分裂の傾向は、実は、今日の半島にもそのまま受け継がれている。高句麗が北朝鮮になり、百済と新羅とが韓国を形成している現実だが、その韓国の中では、相変わらず百済と新羅との対立めく動きは消えていない。緩やかに統合されているだけである。そして北朝鮮とは露骨に分裂分断されてある。

 朝鮮半島には、いつも「一つの朝鮮」へ統一されたいという欲求も確かにあり、これは、必ずしも庶民・国民の意思という以上に、支配者の覇権志向によっても強まってくる。あの高句麗も大きな朝鮮統一にかなり迫ったし、新羅は統一した。李朝という統一体もあった。

 だが彼らの「分裂」気質もいっこう無くなっていない。それなのに建前は、民族「統一」ということへも簡単に動く。半島が南北に別れている現在、その建前は、容易に「悲願」となる。その悲願に沿うかたちで、今や北朝鮮は、軍事的に南を恐喝し、韓国は有利な経済を背景に、統一の「名目」で北の核暴発を回避したい精一杯の「外交」を展開していると、わたしには見える、金大中以降。

 この韓国の太陽政策とやらを浅く誤解して、日本も思案無しに安っぽく協賛していると、まことに滑稽な国家的危機を日本は自らの手で背負い込むことになる。加賀氏のいうような、なにかを彼らのために「してあげる」などというような時機では、全くない。半島の南と北が手を組んで、まぢかの日本を本気で「仮想敵」「目の敵」にしてきたその時に我々はどうするのか、を、考えざるを得ない時機がもう来ている。

 日本も核をもて、軍備せよ、平和憲法を抛てなどと、むろん、わたしはそんなことは言わない。だが今韓国と手を繋いで揺さぶっても、北朝鮮向きに有効な何一つも出てこないだろう。日本も「悪意の算術」とわたしの定義する「外交」にもっと腐心すべきときであり、なにより時間を無駄にしてはいけない。

 そこで対米国外交の「上げたり下げたり」が真剣な「算術」問題になるだろう。外務大臣には、シッカリして欲しい、という当面の結論になる。智慧をつかってアメリカを動かす以外の選択肢なんか、安保体制の日本には無いのだから、仕方がない。

 北朝鮮の核実験は、パキスタンが肩代わりしているという「現実」をよく考えに入れていないと、甘い楽観で、取り返しのつかぬ事態に日本は追い込まれる。この辺は、わたしは、やはり若い元気な猪瀬君らが公にもしっかり発言していって欲しいと思う。

 2003 2・17 17

 

 

* 直木三十五の「討入」を読んでいると、赤穂四十七浪士のうち、左衛門、右衛門がちょうど二十人もいた。順不同に、早水藤左衛門、三村治郎左衛門、吉田忠左衛門、大石瀬左衛門、勝田新左衛門、貝賀弥左衛門、磯貝十郎左衛門の七人が左衛門、富森助右衛門、岡野金右衛門、木村岡右衛門、片岡源五右衛門、矢頭右衛門七、奥田貞右衛門、矢田五郎右衛門、原惣右衛門、不破数右衛門、寺阪吉右衛門、岡島八十右衛門、吉田沢右衛門、小野寺幸右衛門の十三人が右衛門。

 云うまでもない禁裏左右「衛門府」の官職名に由来する、というより、勝手気儘に、あやかり名乗っている。

「兵衛府」もあった。堀部弥兵衛、堀部安兵衛、村松喜兵衛、間喜兵衛、千馬三郎兵衛の五人が数えられる。

「五位」を示す「太夫」も三人いる。奥田孫太夫、間瀬久太夫、村松三太夫。

 では首領父子は如何。大石内蔵助は、れきとした内蔵寮の次官の名乗りで、主君浅野内匠頭が内匠寮の長官の名乗りであるに近似する。藩主たる内匠頭の方は形式的にも任官していたろうが、内蔵助はどうだったか。子息の主税も、長官、次官、佐官等の地位は示していないが、これも官職名にあやかったとみてよかろう。

 つまり、四十七士のうち、三十人は律令制の官職名を名乗っているのである。

 のこる人数を、順不同に挙げてみよう。

 倉橋伝助、中村勘助、前原伊助、茅野和助の「助」にも、内蔵助のそれに近い響きがある。赤埴源蔵、大高源吾らの「源」の字、横川勘平の「平」の字、間十次郎、近松勘六、間新六、神崎与五郎、武林唯七、杉野十兵次、小野寺十内らの「数」字、そして潮田又之丞、菅谷半之丞の「丞」の字なども、いろいろに推量がきく。小野寺十内の「内」も、よくいう源内、平内、藤内、徳内などの内舎人(うどねり)由来を感じさせる。

 こう数えて、もう一人、間瀬某のいることが分かっているが、直木三十五の「討入」には名乗りが出てこない。名数表など調べれば簡単に分かるが、そういうことをしてまで確かめるのは、趣味が薄れるので、しない。

 むろん、これらは「通称」という類の名乗りで、べつに良雄とか武庸とか助武とか、武張った諱を皆が持っている。諱は、めったに外へ出しも、口に云いもしないのが礼であり習いであった。

 こういう小説の記述を調べているうちには、困ったことも見つけてしまう。

 たとえば「深川黒江町には医師西村丹下と称して奥田孫太夫、同貞右衛門の父子」が潜伏していたと、早くに紹介があり、そして吉良表門から討ち入る人数には、斬り込み役の「奥田」がいる。裏門へ廻った二十四人の内にも、やはり斬り込み隊の人数に「奥田」がいる。父子だから、二人いて構わない。

 さて表門内でのいざこざで、早速「奥田孫太夫」が、逃げる吉良方を「二尺七寸の大太刀、抜討に斬ってすて」ている。これは父親の方らしい。奥田は父も息子も、元禄四天王とうたわれた剣術家堀内正春門の使い手であった。

 ところが困ったことに、やがてこの堀内門の「高弟」として、奥田「孫右衛門」なる侍が立ち現れ、「二尺七寸五分の大太刀」で、吉良の附人木村丈八に斬りつけている。

 これよりずっと先に、奥田の、父は「孫太夫」で、息子は「貞右衛門」と紹介されている、そこへもう一人奥田「孫右衛門」が出てくると、義士の人数が狂うのである。

 これとて直木三十五が、どう間違えているのか、調べれば分かることだろう、が、さ、これを「ペン電子文藝館」に掲載の際、訂正すべきか、自信を持って訂正が可能か、原作の初出にまかせてこのママにするのか、わたしの問題は、自然にそっちへ流れ込む。こういうのも、文藝館主幹としてわたしは決着をつけねばならないのである。

 孫太夫のつもりの孫右衛門か、貞右衛門の間違いの孫右衛門か、じつは孫右衛門が正しくて孫太夫は間違いなのか。史実にふれてくるので、やはり調べねばならないが、そんな穿鑿や確認が、この「小説」に本当に必要な事かどうかも、また、微妙。

 この手の混乱も「原作」たるものの「味わい」だと思う人もあろう。直木はあの世から直してくれと云うか、云わぬか、悩ましい。 2003 2・25  17

 

 

* 松浦武四郎の記念館が松阪にほど近い町にあります。行ってみたいと思いつつ延び延び。日曜の朝、冷たい雨が上がった晴れた空と、「松浦武四郎まつり」の記事に促され、電車に乗りました。

 この日の記念館は、地元小学生の発表の場になっていました。壁新聞、冊子、アイヌの刺繍もあります。彼のルポルタージュは、明治の末まで発表できなかったのですってね。(最上)徳内さんより、ずっと後々も、同じような差別と搾取が行われていたことを、紙芝居や芝居で熱演の子供達が、教えてくれました。

 お作をまた、読んでみます。

 近くにある彼の生家も訪ねてみました。参宮街道に面した家に生まれ、行き来するさまざまな人、様式を見たのが、彼の人生に大きく影響したそうです。今の感覚で見ると、狭い道ねぇと思いながら、曲がりくねる街道を歩いてい

るうち、お伊勢まいりの雑踏や賑わいを描いた上方落語を思い出しました。田おこしがされ、何となし、芽ぶきや水の温みを感じる平らな風景。ときどき、強い浅春の風が吹きます。首をすくませて、地元婦人会サービスの、ショウガを入れたあつあつの甘酒を飲みに、記念館に戻りました。   三重県

 

* いわば優れた大旅行家であった。すばらしい、研究意欲に富んだ紀行文を多く遺していた。アイヌへの理解と真情においても素晴らしいヒューマニストであった。最上徳内の人間味をついだ後輩は、間宮林蔵では決してない、遙かに遅れてきた松浦武四郎だった。 2003 2・25 17

 

 

* 日本史は、長屋王が藤原氏の陰謀の前に潰えた辺を読んでいる。律令初政時の税制、兵制なども細部まで読んできた。

 和同開珎が出来たとき、流通を策して何事からはじまったか。貨幣も初めて鋳造して、いきなり民間にまで流通するわけがない。通貨という感覚が元々無いのだから、物々交換より便利などと簡単に受け容れられる道理がない。政府の肝いりのなにかしら「お宝」かも知れないにしても、得体は知れない、有り難みもいっこう分からない。

 政府は、貴族豪族物持ちたちに、物で、稲や布やあれこれで「貨幣を買わせた」のである。逆さまである。そうしておいて大量の貨幣をもって官位官職をいわば売りに出したのだ。貨幣の高で一位一階を加えてやった。官位を上げたい連中から先ず貨幣をとにかく有り難がらせたのである。「なるほど」という高等な、巧妙な、狡猾な手をつかった。

 歴史は、いろいろ面白いことをしでかしてきた。知識として記憶したい気持はもう無いけれど、自然と膝を打ったり微笑んだりすることが、たくさん有る。

 奈良時代は、もとからそう感じていたが、なかなか天平の「盛期」とばかりは簡明に把握しきれない、どすぐろい渦を幾重にも幾つも巻いていた、ややこしい時代であった。よくもあしくも藤原氏が時代を盛んにこね回した。不比等の四人の子息が南・北・式・京四家にわかれ、武智麻呂・房前・宇合・麻呂らが王族との間で綱引きしていたが、まだしも彼らが存命の間は、長屋王が殺されるぐらいのことで済んだが、そのさきは国家的に紛糾を重ねてゆく。面白いと云うよりも、重苦しい時代に流れ込む。

 仲麻呂・道鏡と、孝謙=称徳女帝との爛熟時代。それはそのまま、わたしの現代=歴史小説「みごもりの湖」のドラマへと変じてゆく。

 2003 2・27 17

 

 

* 三日ほど留守にしていまして、うれしいメールを今、拝見しました。

 待賢門院璋子について書かれたもので、最初のショックは、先生のおっしゃるT先生の『椒庭秘抄 待賢門院璋子の生涯』でした。

 二番目のショックは『繪巻』でした。湖のご本ではじめて拝読しました。うつくしいうつくしい璋子を知りました。

 そして、小侍従を読むようになって、彼女の母小大進が花園左大臣家の女房であり、「久安百首」の作者にえらばれていることを知りました。 花園左大臣家の女房も「久安百首」加えたいという崇徳院の意志を想像するのは、ちょっとたのしい気がいたします。

 たとえば新作歌舞伎にするとしたら、璋子にどの役者を当てましょう。有仁は、白河院は、鳥羽院は……。璋子に若き日の歌右衛門、有仁は現仁左衛門、白河院は先代の仁左衛門、砂繪の爺は小伝次。秀太郎にも何か演ってほしい――。

 「祇園町の真ん中の崇徳院の廟」は、まだお詣りしたことがありません。白峰神宮には、寒い寒いときにまいりました。そのときでしたか、御霊神社にお詣りしましたのは。おくり名に「崇」の字のあるみかどは、みな、「祟り」を畏れられている、崇道天皇も崇峻天皇も……などとおもいながら。

 活字になっていない「承久の変」、拝見したうございます。『繪巻』のように定説を越え、そして、スケールはよほど大きなお作なのでしょう。

 ところで、崇徳院と同じ流され王ですけれど、後鳥羽・順徳両院には、怨霊伝説はないのでしょうか。おくり名に「崇」の字がありませんが。

 「鵺」で、誰も気づかなかった謎解きのヒントをひとつひとつ拾いあげて、くらり、定説をくつがえされましたけれど、「承久の変」も、そうした、読み手を驚かすような発見をなさるのでしょうか。拝見の叶う日が早く来ますように。

 「鵺」は、何か、推理小説のよう。ごく、さりげなくこぼれていて小石のように見えるものが、じつは謎解きのたいせつな証拠のかけら。何気なく読んでいたものが、まったく、様相を変えてたちあがる――。興奮したものでございました。

 あれこれ、かんがえていますと、また、京都にゆきたくなります。

 

* 「崇」だけでなく、謚号の「徳」にも、歴史的に問題があるようだとわたしは思ってきた。仁徳はいいが、聖徳から、孝徳、称徳、また文徳、崇徳、安徳、顕徳(後鳥羽)、順徳天皇に、みな問題がある。この多くに、非運と非業死が絡んでいる。それかれ有ってか、江戸時代の改元で「正徳」時代ができるとき、幕閣主流の新井白石と冷や飯を食っていた林家とに、烈しい議論があった。林家は「徳」字を避けよといい、白石は博識を駆使し徳川を背後にしてはねのけ、正徳の治を実現した。文字に拘泥したというより、上代の人は文字に意義をおっかぶせたのであり、わたしは「文字占い」など一切信じない。

 

* 祇園町甲部の真ん中にある崇徳院御廟は、意外に知られていないし話題にされない。弥栄中学からものの三分も掛からない近くにあった。わたしはその不思議に心惹かれて、『風の奏で』という建礼門院を書いた現代小説のヒロインの家を、その奥隣に設定した。懐かしい。

 2003 3・4 18

 

 

* 国史で、正倉院の珍宝や建築について学んだ。大仏開眼、遣唐使、正倉院。天平の華ではある。正倉院から逸失したもののなかで、王羲之・王献之父子の真跡が惜しまれる。それにしても厖大な量の史料であり珍宝であり文物である。聖武天皇の崩御を悼んで光明皇后や孝謙天皇が数次にわたり施入された聖武天皇居合いの遺品というから驚く。渡来の珍しいモノに混じり、てっきり渡来と見えて精巧に日本で真似て出来た逸品の多いことにも驚く。

 日唐往来でいえば鑑真和上の渡来は、特筆の文化的な大事件であったが、その実現に、硬骨の気概をみせて秘かに自船に和上達をかくまいのせた大伴古麻呂は、また唐朝廷での外国使節席次をめぐって、新羅の下位にたつを嫌って面をおかして抗議し入れ替わったという。新羅は日本への朝貢国であったが、日本か新羅の下位にあったことは事実無かったからである。

 渤海という満州辺に位置した国があり、日本は渤海との国交にかなり意を用いて使節の往来もやや頻繁であった。これは、新羅をはさんで中国流の遠交近攻の外交をしていたとも読めるらしい。同じ意味から日本は、新羅を跳び越えて高句麗つまり今の北朝鮮との間に親交をはかった時期もあったのである。新羅はとかく唐とよくくっついたし、唐の力をかりて新羅は百済と日本に勝ち、半島に覇を唱え得た。

 じりじりと読み進んでいる、欠かさずに。

 2003 3・8 18

 

 

* 「日本の歴史」で読んだ正倉院は、なにもかも興味深かった。計り知れぬ文化史の宝庫、よくぞ大過なく今日に生き延びてくれた。天皇や皇后の持ち物だけではない、下層の官僚や民衆レベルのモノまでが莫大に揃っている。注目されるのは、たとえば消耗品であり現に使用されていた履き物のような品物にも、他の時代に比べ、途方もなく細かに美しい手がかかっていて、手を抜いていない、ことだ。誰が造ったかとなれば、内蔵寮などに隷属していた人たちであろうが、現場を拘束していた政治手腕の「凄み」も想像しないと割り切れないほど不思議である。

 そして藤原仲麻呂=恵美押勝の恣な台頭・専制そして無残な破滅。ことに彼が勝野の濱から幾程もない湖水のなかで石村石楯(イワレノイワタテ)に斬られて死ぬ哀れは、ここをのがれる一人の美少女とともに、長編「みごもりの湖」の一つのハイライトであった。みぶるいがするほど、なつかしい。京都の博物館でこの男の供養した経と出逢ったのが強烈な創作の動機になった。天与とはアレであった。

 

* そして、源氏物語はやがて、明石の祖母尼、母、姫の三世代が、祖父入道との生き別れを覚悟して、ようやく、都近く、松風清き嵐山のあたりに移ってくる。

 2003 3・11 18

 

 

* 日本の歴史が第四巻「平安京」に入った。筆者は北山茂夫。一冊平均が小さい活字での四五○頁ほどある。二十数巻、先は長いが、きっと読み通すだろう。読むのは苦にならない、視力さえ助けてくれるならば。啓蒙書ではあるが、記述は、研究成果をはばひろく汲み取りながら準専門書に近いほど本腰を入れて書かれている。一巻ずつを、名の通った良い学者が自分で書き下ろしてくれているのが宜敷く、各巻競演の体で興深く、力が入る。学風が人柄に溶け合い、記述は個性的である。啓蒙の一般書であるのを利して、部分的に筆者も興にのるべきは乗ってくれている。楽しく、読みやすくなる。

 平安京への第一歩から不安な怨念の渦が巻き始める。わたしは、長い間、井上内親王つまり光仁天皇の妻であった皇后の、また皇太子の、異様な最期に関心を抱いてきた。それが作品として実現しないで、別の「みごもりの湖」に成った。根の遠い深いことを、わたしの読者は分かってくださるだろう。

 不思議なモノというか、書きたいメインのものを「攻め」ているうち、それを逸れて副産物がモノになる。そういう創作の不思議を、何度か体験した。「清経入水」も「風の奏で」も「初恋」も、じつは承久の変を書こうとしていたすべて本命・本願を逸れての「副産物」ばかりであった。文字のママの副産物とは言うまいが、太い根から新しい根を別に張っていった。創作の面白さ、である。

 だからこそ、わたしは、注文されて「これ」を書けと言われても、単純には従わなかった。まるで別の、しかし必然の緊張から新作が形をなして行くこともあるのを、ビビビと感じるからだ。書きたいモノを書きたいように書きたい、路線を決められるのはイヤだというのが、私の本音で、これでは出版主導の作家にはなれないし、ならない、ということである。損な性格であるが、トクもしている。むりに書かされた作品がわたしには無いのである。

 2003 3・13 18

 

 

* わたしの国史は、いま最澄と空海に到っている。この偉大な二人が、仏教者として開発した創造性や新展開ではむしろ貧弱であったこと、しかし、その理解と展開、その事業的な大発展力という点では卓抜であったこと。北山茂夫氏のこの指摘は、かねてのわたしの感想と、しっかり重なる。仏教文化を背負った平安初期の「政客」ですらあったように感じる。桓武天皇の政治には、坂上田村麻呂と、この最澄空海の登場がどんなに大きかったかを思う。

 2003 3・20 18

 

 

* 光仁・桓武・平城の三代、嵯峨・淳和・仁明の三代。一続きでありながら、前者は政治的に天皇親政=平安王政を引き締めて力があったし、後者はその基盤に文化の花をもたらし、やがての平安王朝へと道筋をのべた。しかもこの六代の特徴はまだ和風ではない、明白な唐風。和歌でなく漢詩。連綿のひらがなへはまだ遠く、三筆の真名=漢字文化であった。万葉集以降、古今以下の八代集和歌には親しんでも、この時代嵯峨天皇の好尚に応じて花咲いた文華秀麗集などの勅撰漢詩集のことは忘れがちである。著しい唐風の模倣とはいえ、もう血肉と化し、美しい落ち着いた表現も多々見られて、今読み直してもとても懐かしい。嵯峨天皇はもとより、小野岑守、菅原清公、また有智子内親王など。その周辺に大きな蔭をなして存在感のあった、空海。すべて古今和歌集以前の盛事であった。経国の大業であった。

「日本の歴史」を面白く、身を入れて読み進んでいる。思えば秦の祖父か父のか、蔵書の中にあった質素なつくりの「日本国史」を、綴じ糸がバラバラになるまでわたしは愛読し耽読した。国民学校のまだ丹波への疎開以前だ、懐かしい。いままた、日本史に惹き込まれている。

 2003 3・21 18

 

 

 

* 話はまるで変わるが、日本の歴史を読んでいてキッパリしないのは、女性の名前の読み方。式子内親王をたいていのひとは「シキシ」内親王と読んでいる。もちろん定家を「テイカ」とも読んでいるのは、「さだいえ」ではないと思ってではない。だが、式子内親王の場合は「シキシ」と読むのが正しくてそう読むべきだとすら大勢が言う。常識だという。

 そうだろうか。わたしの「T 先生」である角田文衛博士は、それは間違いだ、そんなふうな読み方が「本来」ではあり得ないと力説され、わたしも、もともとそう思っている、でなければ、藤原良房の娘明子、が「メイシ」ではなく、史料にも「アキラケイコ」であるというワケがない。明子は「アキラケイコ」でありながら、同時期の紀名虎の娘静子は「セイシ」であるなど、おかしいではないか。

 平城天皇に愛された薬子は「ヤクシ」でなく「クスコ」「クスリコ」が正しいと思う。たしかに今どき、明子を「アキラケイコ」と難しく読みはしない、が「メイシ」とはまして読まないだろう。だからこそ平安時代の順子でも彰子でも、今となれば正確なもともとの読みは付けにくいにせよ、やはり「ジュンシ」でも「ショウシ」でもなかった、たぶん「よりこ」「あきこ」などと読んだに相違ない。かりに明子を「メイシ」と称える場合が有るとしても、それは、定家卿を「テイカ」と、父親俊成卿を「シュンゼイ」と呼ぶこともあるのに準じていると思う。清少納言の仕えた定子皇后も、時に便宜にないしは敬って「テイシ」であろうと、親たちはたぶん「サダコ」と名付けていたに相違ない。北条政子にしても、だれも「セイシ」とはいわない。建礼門院徳子も、「トクシ」でなくたぶん「ノリコ」とか「ナルコ」とかが本来の名乗りだと思われる。藤原鎌足が妻に得た采女「安見子」でも、「ヤスミコ」と誰もが読んでいる。常識だといわれるものが真に伝統であるなら、今でも美智子皇后は「ミチシ」雅子皇太子妃は「ガシ」でなければなるまいが。ばからしい。

 気になることを書き留めておく。

 2003 3・23 18

 

 

 もう東京へ帰る伊吹さんと別れ、三四十分、喫茶室でたっぷりコーヒーを飲みながら「平安京」のなかの一章を読んだ。律令制が崩れをはやめ、さながら過酷な徴税吏と化した国司たち、それに対向して郡司や土豪達は、都の権門勢家に土地を寄進し臣従し隷属すらして税をのがれようとし、院宮家をはじめ権門勢家はここぞと挙って不輸(無税)の荘園を増やして行く。そういう難儀な崩壊現象のなかで、わずかな良二千石と讃えられた良吏も皆無ではない。典型的な一人の藤原保則、また菅原道真を、参議に抜擢して宇多天皇は関白基経死後の天皇親政に立つ。この天皇は藤原氏を外戚には持たずに一旦は臣下の列にいて登臨した天皇であった。だが、政局の前途は険しい。この天皇、根は好色の遊び人であった。

 2003 3・26 18

 

 

* 国史は、いましも平新皇将門の、あっというまの壊滅を読み終えた。東の将門、西の純友。

 京の都を震撼した政治的な危機現象であったけれど、ひとり将門純友の「個性」に由来した反乱では決して無かった。実に久しく積み上がった律令制度の危殆のなかで、暴虐暴戻を事とし、公と私の財を奪って豪富を成していた「国司」層の権勢に対する、在地の郡司・土豪・殷富百姓たちの烈しい抵抗。その顕著な衝突と爆発から、後者の側に立って将門は動き、純友にも同様の動機が働いていた。彼等は、現在の国司ではないが国司の土着した後裔であるというところに、複雑な綱引きが働いている。

 反乱自体は抑え込まれたが、それは都からの征討将軍によってでなく、同類の藤原秀郷や平貞盛らによってであった。また小野好古らによってであった。これが結局は伴類や郎党を結集した「武門」の棟梁の生まれ出る契機とはなった。

 幸か不幸か将門には、新皇を名乗る「権威」の思いはありながら、政治の力量は皆無に等しかった。都の公家達にも政治の意欲はなかったけれど、天皇制の権威は生きていて、たとえば官位を「懸賞」に同じ武門同士に相闘わせることで、危機を乗り切る狡さもや抜け目なさは強かに持っていた。時の摂政は藤原忠平、これは兄時平とはちがい何もしないのを政治と心得た「寛厚」の人、あの「小倉山峰の紅葉葉こころあらば今ひとたびの行幸待たなむ」と歌った貞信公である。天皇をあやつり公家をあやつり、怨霊まであやつって兄時平一族を死なせ続け、政権をわが一族一統に集中した。祖父で初の人臣摂政、藤原良房にじつに似ている。悪辣を秘めた寛厚の大臣。

 平将門はこの忠平を奉侍していた根は一田舎武士に過ぎなかったのだ、結果として。

 だが北関東には将門を祀る祠が数多い。彼が反乱の底意と、支持した民衆の深い願望とには、通底する「公家政治への叛意」が生き続けていた。反体制のその人気が「明神」将門に凝っており、「天神」道真の幽霊も、じつは将門の乱に一指を添えて蠢いたのであった。

 2003 3・31 18

 

 

* 源氏物語は「朝顔」まで音読を終えた。全六冊の二冊を読み終えたのである。光源氏の物語の半分がもう過ぎた。雲隠れのあとと宇治十帖とで二冊ある。先を急ぐわけでなく、一夜で多くて数頁。

 だが、こんなにも読みやすいかと驚くほど、声に出して読んでいることの嬉しさ面白さ、満喫。ファシネーションということをわたしはことに大切に思うが、それが源氏物語には溢れていて、音読はそれを何倍にも増して感じさせてくれる。和歌のよろしさ。声に出して読めばこそそれが分かる。時として歌を詠むと声が潤んだり詰まったりする。感情移入しやすくなる。

 そして日本の歴史は村上天皇の天暦の治。源氏物語は、先帝が宇多天皇に、桐壺帝が醍醐天皇の延喜に、そして朱雀帝は朱雀天皇に、実は光源氏の子の冷泉帝がこの村上天皇の治世に相当するかのように書かれている。そういう準拠になっている。

 いまわたしの読み進んできた「薄雲」「朝顔」の辺は、此の冷泉帝の治世に当たっている。源氏物語世界にしみじみと遊びつつも、わたしの頭の中には、将門や純友のことも、上辺は寛厚蔭では陰険な辣腕の貞信公忠平や、その子の小野宮実頼や九条師輔らの政治=非政治が蠢いている。

 2003 4・5 19

 

 

* 延喜の聖代とか天暦の治とかを、かたはら痛く、仰ぎ思うことなどわたしには無かった。延喜の醍醐も宇多上皇も菅原道真を見殺しにし、時平の政治力はなかなかであったけれど、長くは続かなかった。律令は朽ち崩れ、諸国の剣呑と崩壊は目立っていた。それが村上天皇天暦の治世となると、中央の政治は無いに等しく、天皇も后妃も権門も文事と宴遊に興じ、しかも内裏深くにも盗賊の襲うことしばしばで、その内裏も焼亡した。強盗群盗偸盗は都を跋扈し、放火とみられる権門社寺の火災は日常化し、西京の低湿地には水が引かずに疫病は頻発、人はひたすら異神を祭り御霊会に群集し、地方では国司が苛斂誅求をきわめれば、土着した前司たちも武士集団化しつつ、抗争にあけくれ、警察力はこれらと結託して、民衆はひたすら踏んだり蹴ったりの目に遭っていた。それが「聖代」と謳われてきた村上天皇の時代、つまりは源氏物語ではその御代に擬せられている「冷泉帝の治世」なのである。

 光源氏はいまや大殿であり、帝はその光と藤壺の罪の子である。盛大な繪合があり、やがて此の世の極楽のような六条院の建造と、光妻妾たちの集合がはじまるであろう。世は挙げて帝と光大臣の善政に、優雅に豊かに華やいで光り溢れている。

 源氏物語には、村上の治世の大きな特色であった放火も火災も一切書かれていない。暴力による殺人も書かれていない。都や河原に散乱した死骸も一切書かれない。野分は吹いても、疫病に斃死する者は書かれていない。リアリズムをもって成果のめざましい源氏物語ではあるが、表現されているのはかくも目出度く理想的な公家世界のフィクションなのである。わたしは、これを忘れていない。

 

* 『平安京』を一種の熱気ある批評とともに語り終え論じ終えた北山茂夫氏の一冊は、氏の力点や褒貶の率直において、たいそう刺激的に感銘を受けた。光仁と桓武の改革、嵯峨経国の文事、行基最澄空海への批評、良房を批判し基経・時平を評価し、宇多・醍醐・村上の治世に濃い疑問符を書き込み、忠平・実頼・師輔を批判し、将門や純友の乱の必然に見事に道を付けて解き明かし、そして空也の登場に注目した、そういう一連の記述を通底する歴史批評にわたしはほぼ悉く賛同できた。

 さて、次は曲がりなりにも天皇親政の「王政」から、摂関政治定着の平安「王朝」というけったいな家門の時代、第五巻『王朝の貴族』へ日本の歴史はすすむ。記述担当は土田直鎮氏。井上光貞・直木孝次郎・青木和夫・北山茂夫氏の「歴史」観に学んできたが、次巻は或る意味では京育ち・源氏物語好きなわたしには「よく分かる」時代かも知れぬ。紫式部や清少納言の活躍した藤原道長の時代ともいえる。どんな政治がなされ、どのように古代が果てていくのか。

 2003 4・7 19

 

 

* 世界文学史に冠たる源氏物語であるのは、身贔屓なしに万人の認めうる事実だが、その「源氏物語」なる、文字も言葉も証言も、同時代の男達が書いた数多い漢文日記に、只の一度として記載また証言されたことが無いという事実も、凄いではないか。

 公家の日記は宮廷を中心にした男社会表通りを、いろんな意味で支える証言集であり有職故実の基盤であったが、そこに源氏物語の置かれる余地はなかった。今の子供たちの物言いを借りれば、知っていてもシカトされていた。

 新しい『王朝の貴族』の巻でいきなり著述者の土田直鎮氏に教わった。多年史料編纂所におられて、物証や史料にもとづく厳密な記述で知られた人の指摘である、こういうことはアテ推量ですらわたし達には言えないことだ。

 2003 4・8 19

 

 

* 戦後   この言葉を聴くと、私の生きてきた道そのもののような気がします。終戦の年に生まれた私が、物心ついたのは敗戦国の日本でした。過去の日本は間違っていた、アメリカのもたらした民主主義こそが自由で希望に満ちていて正しいと教えられ、そう感じてきました。

 イラクの「戦後」がすでに語られているのを聞くと、瀕死の日本に原爆を落とす以前に日本の「戦後」も語られていたのだろうと思いました。

 娘の大阪の個展を手伝いに行ったあと、大阪城の夜桜を娘と二人で見てきました。ライトアップされた大阪城は輝くように美しく、昔 戦いのとりでであったとは思えませんでした。夜桜は満天にやわらかく開き、その間に鎌のような三日月が鋭く光っていました。そこここで大道芸人が湧き上がる歓声に包まれていました。久々語りあい、小さなビジネスホテルに二人で泊まり、昨日始発の新幹線で東京に帰ってきました。

 大阪城も遠い昔に戦後と言われたときがあったのでしょう。バグダッドの破壊された宮殿も、どんなにか豪華絢爛なものだったかと・・・・。

 なんだか言葉たらずになりましたが、これから職場に向かいます。お元気でお過ごしくださいますよう。 神奈川

 

* イラクの事情は、情報のいかに操作されて頼りないかを日々に証ししているようで、ことさら判断中止を自分に宣告している。米英が大統領宮殿を占拠しようがイラクが反撃の機を窺っていようが、不幸な事態であることに変わりはなく、世界の視線に堪える仕方で早く終わって欲しいと思うばかり。

「イラクの「戦後」がすでに語られているのを聞くと、瀕死の日本に原爆を落とす以前に日本の「戦後」も語られていたのだろうと思いました。」

 上のメールの此処がポイントで、また今も昔もそうでありそうに思う。もっとも、昔のマッカーサーによる日本の戦後支配と同様、イラクの今日がやすやすと明日に手渡されると思うなら、アメリカも愚かが過ぎるであろう。「アメリカのもたらした民主主義こそが自由で希望に満ちていて正しいと教えられ、そう感じてきました。」というようなワケには行かない、イラクは日本のような孤立した島国でなく、むしろアラブ地域のいわば宗主国的な地理をもっている。バグダッドは、あのエルサレムやバチカンに匹敵する都市の名前である。

 2003 4・8 19

 

 

* 清少納言や紫式部ら「女文化」の旗手たちを「受領層」という出自で括ろうとするのは間違いであろうと、土田直鎮氏はいう。受領(国司)や前司(前受領)たちの民衆に対する暴戻と苛斂誅求そして蓄富。それに対する郡司・土豪・百姓の抵抗。北山茂夫氏の歴史記述では、平将門・藤原純友の大乱を象徴的な事件として、もっぱら受領層の問題が語られていた。それは説得力のある歴史であった。

 だが、その一方で、清少納言や紫式部の親たちは、受領でありそれにもあぶれるような、むしろ文人であり学者であったのは明らか。北山氏の力を入れて取り上げていた受領たちとはかなり様子が違う。式部の父藤原為時など、平安朝を通じての超級の詩人であり文士であった。越前守という受領に就任したのも、彼の詩に一条天皇が感動し藤原道長も同情したから実現したようなことであった。清少納言は百人一首の歌人であり、父は梨壺の五人といわれた後撰和歌集の選者の一人であり、その父か祖父かの清原深養父も歌人。百人一首に、小さい一家系で三人もならんでいる例は他にない。こういう文化系の女性達を「受領層」の女達と括るのは、たしかに土田氏の言われるように、へんである。

 受領層が一つの代表的な政治的集団と目されるようになるのは、もっと後々の院政期以降だと土田氏は言う。その辺の吟味は要するだろうが、道長時代の受領層は、必ずしも摂関家などと桁違いな落差に在ったわけではない。道長の正妻二人、倫子も明子も受領の女であった。後一条天皇の外祖母となった倫子は、従一位にも叙せられている。摂関家と受領層とに格差が手の届かぬほど開き、それによって「層」的な個性を感じさせるに到るのは、確かにせめてもう少し後代だといえるだろう。それは何も北山氏の指摘される「受領」の問題性を無みすることとはならず、おのずと別の問題なのである。

 2003 4・15 19

 

 

* 土田直鎮氏の歴史記述は、また他の人達のそれとちがい、とても個性的で一徹で興味深い。この人は東大史料編纂所の(大勢そういう人の棲息するところだが、)巨大なヌシの一人。徹底して史料を読解するところから歴史を確認して行く。わたしたちのような素人は、いかに歴史好きであろうと、よくいって直観と読書でしか歴史は組み立てられない。しかし専門の歴史研究者は、基盤にある史料の原文の読解と解釈とからはじめる。はじめるべきだと土田氏は言う。

 ところが、史料を正しく深く厳格に読むというのがどれほど難しいかは、公家の日記の一行を読み込むだけにでも、途方もない力を要する。そうあるべきだとは承知でも、そんなことのキチンと出来る学者がいたらそれはウソだと、土田氏は断言する。みな、自分で読める程度の都合のいいところを拾い読みして、それで論を立て辻褄を合わせている。いわばそのようなゲームの巧拙で歴史学が成り立っているようなもので、厳格な歴史学にはまだほど遠い、と、いうわけである。

 

* 日本国史は、三代実録で終わり、つまり光孝天皇で終わり、その後は無い。その後の歴史を支えたのは平安時代の多くの「公家日記」であるが、これは今日の我々の私的な日記とは大いに性質を異にする、公的な儀式次第、有職故実の参考書的なもので、具注暦の体を基本にしている。

 官製暦=具注暦が、半年に一巻、巻物に作られる。配布される。一行めにその日の暦記事が書かれてあり、次の二行分は空白。この「三行で一日分」の暦の、その空白二行がつまり日記用であり、人それぞれの書き方で全て漢字書き、とはいえ、まともに漢文ともいえない。これ有るがゆえに辛うじて日本の歴史の「一部」が確保できるという。一部とは、京都の、貴族社会の宮廷行事に周辺にほぼ限られるのである。

 同時代の夥しい公家日記に、「源氏物語」のことは只一度として現れず、たとえば浩瀚な「小右記」中にたった一カ所、「為時女」と注してある女房の記事により、奇跡のように紫式部らしき女の存在が確認されるといった、男社会に偏りに偏った史料が積み上げられるのである。

 

* 史料編纂所とは、ただのそれらしい名称の施設ではない。文字通り史料編纂の作業を明治以来延々と続けて、完成にまだ百年はかかろうかという、克明な歴史記述の営為に明け暮れている。八百年間の一日一日を次いで、何が起きていたかの具体的なコトを、すべて史料文書から抜粋し、その原典を確認し記録して行くのである。怖ろしい量の本がすでに数百巻出来ていて、まだ各時代とも百年もかかるだろうと土田氏は言う。

 一行の日記の正しい読解も容易でないのに、それを刊行して日本の八百年分を網羅するのである。「歴史」記述とは、想像を絶した基礎作業の上に組み立てられるもの。わたしは、そういうことを本のすこしでも知っているので、ことに歴史学に関しては研究者の仕事を尊重し、学恩の多大さに感謝するのである。

 2003 4・17 19

 

 

* 土田直鎮氏は、幾重にもわれわれの「あしき常識」を引っぺがしてゆく。たとえば摂関体制における天皇の存在が、無残に棚上げされていたなどと思うのが誤解であること。摂関や大臣家の私邸内でもっぱら政所政治がなされていたとするなど、とほうもない誤解であること。またたとえば公家政治は遊興を事とし政治は放ったらかしであったなどというのもとんでもない誤解であること。彼等は今日の内閣のように施政方針を公表してそれに従うような政治でこそなかったが、そしてたしかに超スローモーに行われていたが、「上卿」といい「外記政」といい「陣定」といい、日々の「定」の専門的に細やかであったことは事実が証ししている。有能でなければとうてい成しがたい議事と処理とは成され続けていたのである、と。

 おもしろい。また当然そうであったろうと思う。物語の場面からだけ時代を読んでいてはお話にならない。あたりまえだ。むろん、だからとて政治力の過大評価は無理だし、土田氏もその辺は点が辛い。あたりまえだ。

 2003 4・19 19

 

 

* 土田直鎮氏は、世に謂う「十二単」という称呼ほどでたらめで実態のないものはない、ダメだと。これは、さもあろうと思う。源氏や枕の時代にそんな言葉はただの一度も見つけたことがない。

 2003 4・23 19

 

 

* 藤村の大作『新生』をまた読み始めた。買ってきたばかりの藤村集のクンクンとインキの匂いのするまっさらの新刊を抱くようにして、生憎とひどい胃の痛みが起きていたのに、ガマンしガマンし、徹夜してこの作品を読んだのが、高校生の時であった、感銘と衝撃を、昨夜のことのように思い出す。二度目はもう大人になっていた。今回は三度目。

 藤村作品は長編が記念碑的にずらりと並んで行く。晩年の『夜明け前』は超大作、『新生』は堂々の大作、完成度としても自然主義作品と観ても最高傑作の『家』も長編であり、近代文学史の初期の金字塔である『破戒』もみごとな長編である。ほかにも『春』「桜の実の熟するとき』なども長編である。『破戒』のほかは広い意味で自伝的と謂って、大きな間違いはない。藤村は生涯作の殆どを自伝的に書いた。それらの中で『新生』は衝撃の事件を書き込んだ、動機と意図の複雑さにおいて類のない創作、名作である。どんな新たな感想がもてるか、楽しみに読んで行く。

 

* 日本史は竹内理三氏の担当で、鎌倉幕府成立に到るまでの「武士の台頭」である。

「侍」とは貴人貴族の前に地に跪き頭をさげて命に従う者達の「坐」法そのもの。それが侍と謂われた武士のもともとの地位と作法であった。台頭とは、その垂れた頭をあげ、跪いた足を伸ばして立ち上がる謂いである。まさしくその様にして武士達は公家の前に立ちふさがって、ついに屈服せしめた。平清盛による平政権はその最初の達成だが、彼等はまだまだ公家風であった。自らが公家に成り上がることで都の政権を取った。半端物であった。だが、とりあえずは平家が勝ち上がったのである。

 この巻は其処までが語られるであろう。「王朝の貴族」たちとは打って変わって土臭い世界が目に見えてくる。

 2003 4・27 19

 

 

* いま武士のことが、とても面白い。「兵=つはもの」は、もともとは武器を謂った。それが武藝に長けた者の意味になり、兵制の変転に連れて専業の兵が出来てくる。かなりこまかに兵には自弁の武具や携帯具の規定があり、その用にたえるには殷富の百性、つまり土豪級のものしかなれなかった。この武具等の指定のこまかいこと、それだけでも古代の戦の模様が髣髴する。

 侍者という言葉も古くからあり、貴人に仕え地下にさぶらふ者ではあるが、だれもが侍に成れたわけでなく、かなりの兵の首領級が、貴人に近侍していた。後々で謂えば忠平に平将門、道長に源義家のような存在が「侍」であり、武士であった。その武士・侍が伴類・郎党・家来を率いていた。後世の侍や兵とはえらくちがうのである。

 そんなことも昔なら「知識」として喜んで溜め込んだろうが、いまはそんな欲はまったくなく、ただただ面白がっている。なにを知ってもなにを覚えても、おもしろいばかりで、それをどうにか利用しようという気はまるで無い。此処に書いて楽しんでいるだけ、これは、ラクである。「知識のマルだし」ではつまらないのである。歴史年譜をひらたく文章に書き起こしただけで本にたような本をもらうこともある。そういう本が、存外に売れたり、しきりに本になったりする。ツマラン。

 2003 4・29 19

 

 

* 四時まで、日本史を読んでいた。もともと和歌や物語や説話など通じて、また京育ちもかかわって、都の公家社会の方へ大きく偏って知識を蓄えていたため、武士の台頭を丁寧に跡づけて行く竹内理三氏の実証的な歴史記述には、たいへん刺激を受ける。

 荘園の蔓延、その背景になる権勢や大寺院の強欲、国司たちの強欲、それへ対抗の辺境の抵抗・在地勢力の対抗意志が、卍巴とひっからまって、それが、ひょんな成り行きで藤原氏外戚としての掣肘から逃れ出た後三条天皇の即位、そして院政期への移行という大舞台へ変じてくる。

 わたしは、高校で歴史を習うよりもっと早くから、この後三条天皇に多大の関心をもっていた。政治らしい政治をした天皇さんは数少ないが、この後三条天皇は、天智・天武・持統また桓武などと並んで明らかに強力に、なかなかの「良い政治」をした稀有な天皇のお一人なのである。荘園記録所設立で藤原摂関家に対しても厳格に立ち向かった、それだけでも、たいした力量であった。そして院政期の幕をあけた。価値評価は別としても、院政とは摂関政治への対抗であり、その力の誇示に武士を活用したことが、源氏の増強、次なる平家の政略的な台頭から、また衰えていた源氏による鎌倉幕府の成立へ、必然直結する。そういう道筋をおさらえするように丁寧に読んで行くと、眠ってなどいられぬほど面白い。

 ポップコーンのような野球の興奮などはむろん一過性のもので、繰り返しはないのだし、そう思うからひとしおあの場を大いに楽しんできたのだが、こういう読書(だけではない)の質的な面白さは、最良の鯛料理のように、まったく別の「内面」を永く養ってくれる。親しく身に添ってくる。

 

* 六時半に目が覚め、もう少しと思いつつ七時半には床を離れ、少し、私の本のための捜し物などしてから、機械の前へ来た。

 2003 5・5 20

 

 

* さて、「鎌倉幕府」では、頼朝が死に頼家が殺され時政も死に実朝が殺されて公暁も殺された。源氏は絶えて、北条政子と義時がのこった。北条義時は源頼朝をしのぐほどの優れた政治家であったとわたしは昔から思っている。彼の前には後鳥羽院も鎌倉の有力なご家人たちも甘いものであった。義時、泰時という親子政治家は、天智・持統、光仁・桓武、また基経・時平、家康・秀忠・家光らの例に優に匹敵する底力と徹した遺志を持っていた。京都は、この二人に完膚無きまでやられた。

 それにしても歴史とは、人の死んでゆく歴史なのだとつくづく思う。外戚を狙うときぐらいを例外に、どんな人が生まれても歴史はすぐには動かないが、人が死ぬと、忽ち人の世は揺れ動き、時に大いに乱れて、歴史家たちの筆が意気込む。清盛が死んで頼朝が大いに動き、後白河が死んで頼朝は征夷大将軍になる。頼朝が死ぬと機略縦横の源通親は暗躍し始め、実朝と公暁の二重暗殺により北条義時の強い基盤が出来、いずれ北条得宗の独り勝ち天下が出来てゆく。人が死んで行くと歴史が書かれるという真実は、見ようにより辛辣無比と謂える。

 2003 6・2 21

 

 

* 昨夜で「鎌倉幕府」一冊をとうどう読み終えた。小さい字の文庫本の五百頁はなかなかの分量である。この一巻には重量感のある人物が何人も登場した。頼朝、政子、義時、泰時、時頼。法然、親鸞、道元、慈円。後白河院、後鳥羽院、兼実、通親。西行、定家、長明。運慶、快慶。すべてが死んでいって、時代は次なる「蒙古襲来の時代」にかかる。これは単に外敵が日本を襲ったという事件ではない。一つには日本の内政が思想的にも世界地理的にも実務的にも根底から動揺して、ついには鎌倉幕府を滅ぼした事件であった。執権北条時宗は国難を防ぎ得たものの、戦によって寸土をも得なかった。ご家人に恩賞をほどこす術を容易に持てなかった。貨幣経済でなく、土地という所領本位の封建制を求めた武家は、痛い目をみて、そこにまたも公家や非御家人による建武親政がつけいる隙を与えた。鎌倉幕府による「封建制確立の意図」は蒙古の二度の襲来により大頓挫したと謂えるだろう、それを鎌倉幕府の崩壊にまで持って行ったのは、決して後醍醐天皇や公家たちだけの力量なんかではなかった。

 ま、その辺は、これから第八巻「蒙古襲来」をじっくり読んで納得して行く。おっそろしく面白くて、これに対抗できる小説なんて、「源氏物語」くらいのものだと、つくづく思ってしまう。源氏物語は「篝火」も過ぎて「野分」へ。

 2003 6・6 21

 

 

* 元寇といわれた二度の蒙古襲来の始終を、夜前は三時半まで起きて夢中で読んでいた。さまざまなことが頭を去来した。

 日蓮の法華とは何だろう。二度も元の使者を斬った時宗の禅とは何だろう。軍備による防備をアトにしても、神社仏閣への祈祷を第一とした朝廷や幕府を、包み込んでいたあの呪術的な「中世」心理とは何だろう。

 昨今の「有事」問題とも絡み合わせて思うと、やたらややこしくなる。

 小泉首相が北朝鮮との間での平和的交渉を英国首相に説いた際、英国首相ブレアは、けっこうですね、ですが平和的に「何を・どう」交渉するのですかと皮肉に反問され、ただ絶句してきたと聞いている。「口で言うのは簡単だが」というフレーズを乱発して、事は先延ばしにする観念タイプの小泉の弱点が露出した。それが、実は、今の日本外交の欺瞞であり弱点なのだが。

 2003 6・9 21

 

 

* 『蒙古襲来』第八巻は、両統迭立、元弘の変、建武親政、楠木合戦、六波羅探題崩壊、鎌倉幕府滅亡で、巻を終えた。これらはもう子供の頃からお気に入りの歴史劇であり、ことに人の名は多く諳んじて、血を沸かせた。

 楠木正成が、いかに正体不明の日本一著名な忠臣であったかも、この巻担当の黒田俊雄氏は克明に教えてくれる。

 だが、この巻の眼目は、なにゆえに北条得宗独裁の鎌倉幕府が、脆くも全滅に到ったか、だ。担当の記述者はそれを根底の社会基盤からつぶさに解説してあまさなかった。御家人制度を幕府存立の柱と立てていながら、それを徹底的に脆弱化することで独走し得た得宗専権政治の撞着、根のあやまり。それをまた地蟻のように執拗に食いつぶしていった「悪党」跋扈の全国的情況。黒田氏は十分な説得力をもって、個性的な肉声も多々交えながら解き明かして行く。とても面白く興味深い一巻であった。あの大部な『太平記』をまた通読してみたくなった。おお、おお。読みたいものがイッパイだ。永い寿命を願わねばなるまいか。

 さ、次はその『南北朝の動乱』まさに「太平記」の時代に入る。持明院統の京都、大覚寺統の吉野の対立。そして足利尊氏・直義・高師直らに対する護良親王、新田義貞、楠木正成、高畠親房・顕家らの死闘の世紀。源平盛衰記の昔と太平記の時代とは、わたしを夢中の歴史好きにした二つの原点であった。そして、古事記の世界。

 2003 6・21 21

 

 

* 源氏物語は「藤袴」巻に入り、夕霧の禁じられた幼な恋がそろそろ動いて行くだろう。実父内大臣に引き合わされた新尚侍玉鬘の運命も大きく変化して行くだろう。六条院物語は底ぐらい深みに流れ込んで行く。

 そして「日本の歴史」は建武新政の後醍醐失政の根底が、暴かれつづけている。子供の頃に南北朝の激動を耽読したときは、むろん南朝贔屓(というよりあの頃は吉野朝廷であったけれど、)でいながら心の芯のところでは、絶対専政志向の後醍醐にも、新田義貞にも、北畠顕家にも、護良親王にも、楠木正成の最期にすらも、「あかんやっちゃなあ」という嘆息を禁じがたかったのを覚えている。足利尊氏や直義に好意をもつことはこれまたむろん無かったのだけれど、尊氏側の取り回しの確かさや素早さには、後醍醐等のそれと比べて、やはり頷くしかないものは感じていた。尊氏否認というほどの思いにはむしろ成れなかったし、尊氏を「容認」したというだけで爵位も大臣の地位も棒に振ったあれは中島久万吉であったろうか、の話などにもイヤな気分であった。

 例の日野資朝らの「無礼講」にはじまる正中の変のころから、後醍醐は宋学や宋の政治に真似ようという姿勢が露骨であったが、いかにも宋國事情と日本國の現状とを無思慮に混同した真似事であり、失敗は火をみるより明らかであった。南朝贔屓でありながらわたしの同情は終始楠木正成の遺児たちの、菊池武時の遺児たちの、吉野の遺臣たちの北への執拗な抵抗戦の方に傾けられていたと思う。判官贔屓のようなものであった。尊氏の、また孫義満の存在は大きく感じていた。今度の読書でわたしは足利直義の実力にも認識をあらためることだろう。

 昭和にも及んだしつこい南北正閏論のいわば天裁にも、一抹の不審をわたしは感じないではなかった。北朝筋の天皇のもとで、南朝の歴代を認めた。美しい話というよりも、やはり反動的な国体政治に利されただけという印象が濃いからだ。わたしたちにすれば、歴代の通し方など関わりのないことだ。歴史は歴史である。

 建武親政がいかに無残に潰えるしかなかったか、この理解は、のちのちの推移のためにもたいへんに大事なカンどころだと分かっていつつ、妙に苦々しい。平家物語は繰り返し読んで涙するのに、太平記は(浩瀚なせいもあるが)読み返そうという根気が生じない。

 2003 6・25 21

 

 

 「日本の歴史」第八巻は、後醍醐天皇崩御。稀有の博学天子でもあった。自信に溢れた失敗家であった。吉野での崩御は、いまなおずしりと胸に重い悲痛をのこすから、凄いというべきか。

 2003 6・26 21

 

 

* 第九巻「南北朝」読了、いやいや、この巻はほんとうに麻の如く乱れた世の有様に終始し、主上御謀叛あり、悪党あり、倭寇の跳梁あり、南朝の衰運と後南朝の抵抗あり、そして尊氏死に、三代義満による南北合体と北朝の誓約違反があり、義満の皇位簒奪・対明屈従があり、てんやわんやの降参、帰参、裏切り、反逆の連続の中で、確実に農民が商・職人の要素もとりこみつつ、力をつけて行く。絵の具のかき乱れたパレットを眺めているようであったが、いろいろに頭の中で整理されたところもあった。継いで「下剋上の時代」の巻は、ますますやたら厄介になり、守護の力が困惑のなかで突き崩されて行くだろう。

 2003 7・8 22

 

 

* 幸甚  名古屋の女友達は、海部郡で暮しています。あま、と読むとは知らずにいました。今日、新聞で、尾張、紀伊、隠岐、豊後に海部郡があったこと。尾張のそれには、津島、中島などの地名があること。海士が海中で観音を見付けて祀ったという縁起(まるで浅草寺と同じ)をもつ、甚目寺があり、寺に接して漆部神社があることを知りました。

 関心を持ってこういったものを読み、観光でない旅を味わい、考えるようになったのは、秦さんのおかげです。

 

* おかげには痛み入る。が、確かに、ほんのすこしその気でものをみていれば、途方もなく広い深い歴史的な関連に気付いて興味に触れてくるものごとは、身の回りにたくさんある。ことにものの名前に、文字=漢字からはなれて気をつけていると、たとえば安曇とか出雲とか和泉とか熱海とか亜土とか書かれている地名の連関に海部の移動や土着のあとが見えてきたりする。あづみ、いづみ、いづも、あたみ、あど、などと音で先ず読み込むのが大事なのではないか。岩石に影向(ようごう)する=石長姫=石神(しゃくじ)=杓子=蛇頭の連絡など、石神井近くに暮らしていると簡単に思いつきも見えても来るものだ。

 そうそう、利休は正座してお茶をたてたかどうか大いに疑問と疑問符をつけたこともある。元禄より以前で、正座例が図像等で確認できるのは、本尊の脇侍にすこし、罪人、絵巻等の中でもことに卑賤めいて描かれている庶民の僅かな例、ぐらいしかない。そんなことも気付いてみればコロンブスの卵のようであったのだ。

 2003 7・10 22

 

 

 歴史は今は「自検断」にまで発展した室町時代の農村社会に入りつつ、わたしはこの時代を暗黒などと思わず、室町ごころの明るさとともに希望にも火のついていた時代と読み続けている。

 2003 7・23 22

 

 

* 日射しからりと夏本番。バテないうちに、「安倍晴明と陰陽道展」にいってきます。

 龍安寺の蓮が見頃とのこと。

 三宅八幡へも。以前いらしたとおっしゃったので、気になって。蓮華寺、崇導神社も参りました。よかったァ! 全くの独り占め。

 実相院、圓通寺、下鴨神社と考えていたのですが、この時間なら大原がすいてるというので、三千院へ。

 蝉時雨、青葉、夏の風。

 みほとけをあれほど間近にして、動けなくなりました。御陵にお参りして、もうもう、心一杯。北の奥の大原勝林院を横目に、ツウッとはるばる東山七条の博物館へ。

 村上豊さんと天野喜孝さんの絵を見て、あとは端折り、常設展に心入れたのですが、だめ。アタマにもココロにも入る余地がなかったわ。

 

* 怨霊としての菅原道真は、かなり忠平系の流したデマの臭いが濃いが、桓武天皇の皇太弟だった早良親王の怨霊は真実凄いモノだった。おそらくは、同じ父光仁天皇の皇太子が、母井上皇后と共に(桓武を担ぎ出そうとする)藤原氏によって大和五条に幽閉され殺されていた前例も、相乗的に懼れを深めたに違いないが、桓武天皇の後半生はまさにすさまじい怨霊時代であった。そのもつとも恐れられた早良皇太子の憤死後におくられたのが、「崇道天皇」の称であり、京都高野川上流三宅八幡のまだ奥に祭られたおそろしげな山陵が「崇導」神社である。それぁ「独り占め」だろうが、このはしゃぎっぷりではお婆さんではあるまい、物騒なことだ。きくだけで、すこし肌が泡立つ。昏い山気が津々として襲いかかってくる。

 三千院は、苔の内庭にしずまりいます阿弥陀三尊の美しさ、跪坐して本尊につかえる観音勢至の両脇侍が印象にのこる。そして外の石垣と大並木。梅雨の明けた京都の緑はもうむれるように色濃いことだろう。

 2003 8・1 23

 

 

* 夜前、トム・ハンクスらの映画「アポロ13号」をビデオでみはじめた。あのアポロより前、一九六九年七月二十日にアームストロング飛行士たちは人類初めて月を踏んだ。忘れもしない、一九六九・六・一九。わたしの太宰賞がきまった桜桃忌の、ほんのすぐアトであった。日本の敗戦はそのほぼ四半世紀前の今日八月十五日だった。わたしは国民学校四年生だった、母と、丹波の山の中に戦時疎開していた。

 戦争に負けた、それは、山の暮らしから京都へ帰れるということでもあった。だが、もう一年余も、わたしが重い病気にかかって、母の手でかつがつ京都の懇意な医者の家に担ぎ込まれるまで、山の暮らしは続いた。その山の体験があったればこそ、わたしは後年に「清経入水」が書けた。太宰賞がもらえた。あの暑かった敗戦の日から五十八年。思えば思えばあれ以来毎日毎日が「今・此処」の生きであった。「明日」はむろん仮想したが、仮想でない「明日」など在りうべくもないのだった。

 叔母の稽古場の欄間に、「あすおこれ」と扁額があげてあった。御幸遠州流の家元井上冷一風が弟子である叔母に与えた万葉仮名の書であったが、生け花の師が弟子に与えた言葉としては異例の字句だ。叔母が何と読んでいたかは知らないが、何と書いてあるのかと尋ねた社中やわたしに、「あす怒れ」とだけ読み下してくれた。「ふうん」と思いつつ「明日」の意味を感じ取ろうとはしていた。

 さらに遅れて、わたしはこれも叔母が弟子入りしている裏千家「今日」庵の今日という名乗りのことも、よく思ったものである。「懈怠比丘不期明日」の偈に依って、これには、よく知られた逸話が添うている。

 「明日」をめぐっては、二た色の思いを、人はもってきた。「あすなろう=明日成ろう」という希望と、「明日ありとおもふ心のあだ桜」よと、「夜半に嵐の吹」くを戒めた「今日」重視と。何事かを本当に成してゆくには、希望は希望としてその「希」にして架空の夢であるを承知の上、「今・此処」に徹するしかないと、毅い人ほど思ってきたのではなかろうか。海市ほども夢ははかない。夢は心をあやかす蜃気楼、それへ日々の力点をかけていては、影踏みのくるしみに自ら落ちこんでしまう。

 

* 今日、終戦記念日、あの日とこんなに気候が違うと、実感が湧きませんが、あの日はしっかりと記憶にあります。出征中で父のいない父の実家の、離れの疎開地で、照りつける外で、ラジオを囲んだ記憶。雑音のうえ理解できない玉音を聴きましたね。何しろ、住所が・・・浜というほど浜に近く、その庭の真白な砂上に松葉ぼたんが色とりどりに咲き乱れてきれいだなと感じたのだけが、妙にしっかりと連鎖します。

 後に両眼を失った父が先祖の墓参をしたいと、ある夏、まだらボケの母は姉が看て家に残し、まだ元気と思っていた弟の車で東京からずいぶんな長旅をしましたが、何十年ぶりに訪れても、何の感慨もありませんでした。弟はその翌年の秋に他界しましたか。

 はるかなあの当時は、近所に住む父の年老いた長姉が、優しく、空いたお腹をいつも満たしてくれ、後年のその折も、その孫夫婦が歓待してくれまして、心安まりましたが。

 そんな日の今朝、以前にビデオ撮りの1956年のアメリカ映画「攻撃」を、時間がなくて途切れ途切れで、やっと観終えました。

 1944年、ヨーロッパでのドイツと交戦中、話は戦地での米陸軍内部の良・悪の人間性を描いていて、いましがた残る終盤を観ながら、珍しく泣いてしまいました。

 つくずくと戦争はごめんです。

 すぐに巻戻して観直したい衝動にかられています。雑用がいっぱいあるのに。

 

* それぞれの敗戦であった。あの頃は、おおかたが「敗戦」とは謂わなかった、この人もそうだ「終戦」と謂っている。「占領軍」とはだれも謂わなかった、みな、「進駐軍」と謂った。心から敗れ、心から占領されたと身にしみていたら、われわれの「戦後」はいま少し徹したであろうに。これは「死ぬ」意味の同義語を夥しくつくってきた民族性とも関わっている。モノゴトを、ヒタと、直視したがらない。

 2003 8・15 23

 

 

* 少しみなに遅れてペンを出た。久しぶり、夏の間はつい遠のいていたが「美しい人」の顔を見に行った。冷酒、京都の「松竹梅」で小懐石。朱ペンを手に、ずうっと『日本の歴史』を読み進み、読む合間に食事していた。店が明るくて眼の負担にならず、客も少なくて静かだったから、だれに遠慮もなく文字通り耽読した。

 

* 親鸞から数代あとの蓮如は、いろんな大きな点で異なった宗教人であり、その大きな差異を乗り越えた太い共通点が又蓮如の、また本願寺派の魅力になる。同じ浄土真宗とはいいながら、親鸞以降の異端化ははげしく、高田派や仏光寺派の真宗は、寺も教団ももたず、弟子ではなく総てを同朋として受け容れて上下の隔てなくひたすら民衆の救済に当たった親鸞の信仰からすれば、すさまじいまで異端の度がすすみ、むしろそれにより旧仏教勢力との妥協もなり信徒の受けもよくて、親鸞直系の本願寺派=無碍光派は零細と衰弱を極めていた。蓮如は、決然異端と闘い、また旧仏教からの弾圧にも抵抗し、みごとな中世的組織者の天性を発揮する。近江の堅田に、越前の吉崎に、大阪に、京都の山科にと根拠地を移動させつつ、親鸞等には考えられなかった、本山・末寺・道場=講、寄合を組織することで、教線を広大に伸張していった。異端とも闘ったが守護勢力や國人達とも武力的に闘った。その一方で親鸞以来の庶民救済に徹した信仰の本質を、蓮如ならではといわれるユニークな現実認識のもとで、守りきった。

 むろんこんなことでは、とても言い足りていない。彼は途方もない巨人でありカリスマでありながら、謙遜な善意に溢れた指導者であり組織者であり信仰者であった。王道為本といった、スローガンをも戦略的にすらりとかかげながら、中世乱妨の世界を堅剛にいきぬいて、譲らなかった。

 だが、門徒たちは、そんな蓮如をなお超えて、時代の気運と共に強硬に成育した。一向一揆化した。真宗の教えは念仏であり、傷ましいまで圧迫されてきた庶民農民に死後の安寧を確保し確信させたからは、その安心の信仰を現実に圧迫し脅迫するあらゆる勢力の前に、死もおそれず抵抗したのは当然の帰結であった。蓮如もそれを抑えられなかったのである。

 

* 本願寺王国の樹立も一向一揆も奥深く甚だ中世的であるが、それ以上にまた興味津々、眼をむいて立ち向かわねば済まないのは、多くの土一揆・徳政一揆の域をはるかに質的にも超えた「山城国一揆」であった。ただの抵抗や経済闘争ではない。守護勢力はおろか幕府勢力からも断然独立し、徴税権も警察・裁判権もをいわば国民会議により運営し、他からの侵入も容喙も断然許さない「独立国」形成の意欲が、実現していったことには、しんそこ驚かずにおれない。

 2003 9・19 24

 

 

* 大河ドラマ「武蔵」の一の山場である巌流島での決闘を、ビデオで見た。ま、あんなところであろう。日生劇場の「海神別荘」で海の公子を玉三郎の美女とともに颯爽と演じた市川新之助が、いつ知れずそこそこ佳い武蔵に成人していた。勝負が呆気ないのは仕方がない、その前後は一応の緊迫を演出し得ていたのではないか。

 この決闘はやや時代がおくれて江戸時代に入っていたが、わたしの「日本の歴史」は、北条早雲、武田信玄、上杉謙信、そして戦国大名へのし上がっていった先代伊達政宗より以前の五代などを読み進んできて、予備知識あり、俄然読んで面白いところへ雪崩を打っている。やがて織田、松平(徳川)の登場になる。

 第百代天皇が南朝の後小松天皇なのは知られていて、足利義満の頃にあたる。後小松帝は一休の父かともいわれている。後小松のあと、後土御門、後花園、後奈良、後柏原、正親町、後陽成、後水尾ときて、室町時代の中世はいつか近世に入る。

 室町の前半は守護大名の時代で、応仁文明の乱のあと、太田道灌を皮切りに北条早雲の登場から世は戦国大名の時代に移動する。天下布武の織田、天下統一の豊臣秀吉も潰え死に、関ヶ原合戦の頃にやっと野心を鎮めた宮本武蔵の画業が世にのこり、稀有の著述の『五輪書』が書かれる。

 2003 9・27 24

 

 

* いま三谷憲正さんの『オンドルと畳の國』が面白い。韓国朝鮮のことを考えていて、根の問題としていつも違和感を覚える第一は、向こうの知識人達の発言だ。強硬に硬直している例にむやみと遭遇する。三谷さんも触れているが、金芝河という日本でも一時むちゃくちゃに持ち上げられた詩人の日本國の理解など、発言など、ただただ首を傾げさせるトンチキなところが、あるいは視野狭窄と思考の固着が著しい。何十年たっても一つ覚えのような「日帝」極悪だけでは、日本の私民は顰蹙する。かすった程度の批評としては当たってもいようが、かすりもしないで見えていない広大なところへは、およそ何の理解も及んでいない。不勉強なものだ。

 一時、日本文化の何もかもを、すべて「朝鮮」由来ときめつけたアチラからの議論が大流行し、珍妙で強引な解釈が、とんでもなくトクトクと開陳された。興味深い指摘も中にはあって教わったが、『冬祭り』の作者としては頷けない議論が多過ぎた。

 シベリアやオホーツクからの、またダッタンからの北要素が、雨に降られたように日本列島に広く認められる。また稲や蛇の文化を抱いてきた南島づたいの民俗がいかに豊かに日本列島を北上してきたかは計り知れない。渤海や南海経由の中国の文物や言葉も、直に日本を感化し、痕跡も展開もを今に残している。

 いったい朝鮮半島の知識人達は何が本当は言いたいのかと戸惑い、やはりそこに「政治」が顔を出す。過去の政治的関係が顔を出す。当然であるが、そこで急激に知識が感情的に揺れ動いて、スローガン化してくる。金芝河氏の言葉はたんに糾弾のための糾弾と化してくる。三谷さんも書いているが、認識自体が固着して、機械的にある一点に縛られた言葉の連発になり、アホの一つ覚えをゼンマイ仕立てのように繰り返してくる。自国の人を煽る効果はあれども、たとえば普通に生きている日本の私民知性にうったえる中身は干からびきっている。

 

* 藤村の「夜明け前」は文学的に静かに精錬された言葉で、落ち着いて、身の回りと日本とをたいせつに語りつづけている。大人の文学である。韓国や北朝鮮にも、そういう文体の魅力とともに、スローガンに走らない静かなリアリズムの文学があるのだろうと思う、そういうものが佳い感じにもっともっとこっちへ伝わってきて欲しい。

 2003 10・3 25

 

 

* 日本史はいま、毛利元就の戦国大名として伸び上がり伸び切ってゆくサマを、仙台伊達などとも共通する貫高制などもともに、読み進んでいる。

 思えば律令制の昔から、貴族の荘園支配を経て武家の守護・地頭乱入があり、さらに守護大名の下剋上また上剋下の死闘があり、応仁の乱を経過後の戦国大名による領国ないし家臣支配が続いている。死力と秘策は、つまりは、めんめんと上下・主従の格闘であり葛藤であった。根底は「土地」の支配であった。狭い国土。国土が遙かに遙かに広大であったらまた別様の歴史が営まれたか、それは分からない。いま我が家のこの狭くて窮屈を思うと、やはり同じ因果律は働いているなあと歎息される。

 2003 10・10 25

 

 

* 日本史は、第十二巻「天下一統」のところへ入った。まだ全巻の半ばに達していない。それでもぎっしり既に六千頁ほども読んできた。この巻は、織豊政権そして徳川幕府成立までであろうか、世に安土桃山時代といわれた、私の理解によれば「黄金の暗転期」である。中世は近世の前に屈服を強いられる。

2003 10・21 25

 

 

* その前に、林屋辰三郎さん担当執筆「天下一統」の巻頭を読んでいた。

 日本人の過去の歴史観が、著しく下降先途感を基底にしていたこと、島国での鎖国的情況、仏教の末法観、天皇制という三つに緊縛されて、日本人は、上昇して行く明日の歴史を期待しにくかった、と。

 それを突き破り得そうであったのが、戦国時代の末からはっきり意識されてきた「天下」という認識だった、と。

 天下という広さで島国の枠は突破されそうであった。天下という深さで仏教的なまた神や儒教も覆い取れそうになった。天下は天皇よりも強力な「天下人」の可能を導いた。織・豊そして徳川家康は「天下」にしたがい時代を動かし革新した。だが、それも寛永の鎖国でまったく頓挫した、というのが林屋教授の論調であり、概説としてたいへん興味深く説得された。

 そして種子島銃の渡来とキリシタンの世界観の渡来。

 まずは鉄砲に新旧の二種類が日本に、早く、また後れて入ってきたという。たんに「鉄砲」ということばなら元寇の頃に既に、そして不十分な鉄砲というより火砲なら、中国から早めに日本に入って堺で製作されてもいたし、武田や後北条は手に入れ用いもしていた。だが種子島銃ははるかに強力で正確に機能した。武田や北条は、なまじ旧式砲に油断して、織田や松平の新式銃に敗北したとも言えると。これも興味深い解説であった。

 2003 10・22 25

 

 

* 日本人は永らく、歴史は下降線にあると思ってきた。下降史観だ、先々に望みはうすい、と。終末観とは少しタチのちがう史観であった。

 ところが、反転して、先へ行くほど歴史は上向きに良くなると「望み」をもつようにもなった、実はしばしば裏切られたのであるが。

 科学の進歩が、人の歴史観をかなり左右し動揺させたのは明らかだろう。幕末の人は黒船にさえ驚き、汽車も飛行機も知らなかった。明治大正の人は、テレビはもとよりラジオも知らなかった。戦前戦中の人は新幹線をしらなかったし、戦後生まれの人でも自分のパソコンや携帯電話に手を触れたのは昨今のことだ。

 いろんな分野で「便利」になったことが即ち歴史の進歩上昇だというのなら、科学こそは上昇史観に大きく利したと謂えそうだ。だが、それら価額の進歩はがいつも概ね戦争の武器や戦術の開発と歩調を合わせてきたのである。核爆発の恐れやサイバーテロのおそれに戦く今の我々より、宇宙開発など夢にも知らなかった時代の人の方が、不幸だった後れていたとばかりは、あながち、言いにくい。

 さきへ行くほど時代は、環境は、政治は良くなると思っていたい。しかし先へ行くほど悪くなりそうだと感じている人の方が、やはり今日でも多いのではないか。年金などの福祉政策にも期待は持てないし、近隣の平和はあやうい一方だ。

「今・此処」に徹して最善に、と、気力を用いて行くのが結句いちばんのように思われる。

 いつか太陽の寿命も尽きることは科学的に確実であり、太陽の死の前に地球の運命はやけこげた埃ほどのモノでしかない。何が確実かと謂ってこれほど正確に確実なことはないとなると、人間の歴史はやはり「終末への下降」を思うしかないらしい。

 だからこそ、どう生きるか。太陽の死より先に、人間の手で人間らしい尊厳ある生き方と地球環境とを破壊するような「愚」だけは、ぜひ避けねばならない。政治は、洋の東西となく、ほぼグローバルに「悪の相貌」を強めている。せめて日本の政治をすこしでも悪への足取りから引き留めたい。そういう選挙にしたい。

 2003 10・23 25

 

 

* 織田信長のめざましい台頭、徳川家康の辛抱強い奔走、木下藤吉郎知略の活躍とくると、やはり「日本の歴史」は活気づくからコワい。小猿の日吉丸。秀吉の出自と伝説にはだいたいぴたりと比叡山の山王信仰がくっついているのはよく知られていて、林屋教授も触れて居られる。

 そのわりに、彼が侍分の娘を妻にして侍分になり藤吉郎秀吉と名乗った際の、「木下」という姓の由来に触れた説明を、わたしはこれまで知らない。これは、山王神主の家が、代々「樹下(じゅげ)」と名乗った家であったことが意識されているのではないか。この前の『猿の遠景』で言及しておいたが、私の説でいいのか、既に言われていることかちょっと気に掛けている。

 2003 10・26 25

 

 

* 朝鮮半島からのいわば「依頼」に応じて日本は彼を併合したのであり侵略したわけでないといった口説を、新党でも創ろうかという政治家の一人が公にしたらしい。

 タメにもする気の発言であったろうけれど、この問題には、かなり事実の経緯に微妙なところがあったのも確かなのである。明治初期の日朝関係には、政権政府の乗り出しと別に、民間からの関与も幾重にも輻輳し、成功には至らなかったものの、ややこしい朝鮮救援の試みが、なされようとしては、潰えていた。必ずしもその全てが侵略・侵寇の意図をもっていたわけでなく、「善意」とか「支援」とか謂って差し支えない動機も、よほど多めに動いていたのは事実であった。いろんな国論が渦を巻きながら、結局は「併合」を是とするようなところへ滑り込んでいった。それこそが謀略であったかも知れない、判断は難しい、が、その辺の一端をが三谷憲正著「オンドルと畳の國」は資料的によく書いている。この辺の歴史的な推移は、恰好の「勉強」の課題になるだろう。

 2003 10・31 25

 

 

* 信長の生涯は、殺伐ともしつつ清爽の風気にも満ちていた。横死し早逝した人のトクでもあろうか。秀吉の事蹟は読み進むにしたがい不快を溜めて行く。いま彼は強硬に検地し刀狩りをしている。

 2003 11・8 26

 

 

* さて秀吉の人間的な武将的な魅力は山崎合戦で終えて、あとは不愉快がかなり襲ってくるが、それに輪をかけ、家康への敬意は秀吉に臣従し隠忍するあたりまでで、開府以降の大坂圧迫、京都圧迫になると不快感が泓々と湧くばかり。それは即ち彼等の政治力の勝利して行く時期に合致している。政治支配という欲とは無縁に暮らすわれわれには、そんなものが愉快であるわけがない。

 本居宣長は、よく「治者」の理想を人は論じるけれど、治められる自分達にすれば、「被治者」からの理想というものがある、それを人はもっともっと語り考え治者に対して求めるべきであると語っていたのが思い出される。治められる側にはそれなりの理想がある。それが治める者達の強欲や都合の前に見向きもされない、そんな政治の不愉快を、強権者の足下でみなが堪え忍んできたが、今はそうではない、などと思う人がいれば鈍感を羞じたがいい。今もわたしは、不愉快な政治の力の下で怒りを禁じがたい。

 2003 11・28 26

 

 

* 栗本鋤雲の「岩瀬肥後守の事歴」は、力強い名文であった。

『夜明け前』を木曽馬籠の朝夕より窺うだに、日本の幕末は、諸外国列強の虎視眈々に囲まれて、想像を絶する国難にあったこと、或いは第二次世界戦争前の日本にも過ぎていたかしれない。この前の戦争では北方千島や樺太南半を奪われ、琉球諸島を奪われ、また台湾や朝鮮を解放するに至ったけれど、あの維新前の動乱では、日本列島はほとんど何物をも喪うことなく明治維新に至っている。しかし、それは、当たり前のことではなかった。よほどの幸運であった。麻のように乱れていた国情をかいくぐるようにして、列国との通商和親を断行した、幕廷の、ほとんど蛮行に類するほどの果断が有ったからである。

 その衝にまず敢然として当たろうとしたのが、「監察」に抜擢された岩瀬肥後守であり、不運にして退けられてのち、その意を深くひめて引き継いだのが、井伊大老であった。井伊直弼の専断可決は、当時の「公武」の関係からは、到底考えられない朝廷を無視した暴挙であり、国挙って彼を憎んだし、ついには桜田門外に井伊は無残に果てている。

 栗本鋤雲は、岩瀬肥後といわば登試の同期生であった。幕府の近辺にあって総てをよく見聞していた。その鋤雲にして、岩瀬を称賛し井伊を批判する一文の中で、こう書いている。

「大老既に水戸老公始め総て己の見に異なる者を排斥掊撃(ほうげき)し為めに大獄を起し、遺類を芟除(せんじよ)し、諸司百官尽(ことごと)く更新して、門客に斉(ひと)しき者のみを任じたれば、爾時(このとき)赫々の威は殆んと飜山倒海の勢を為し、挙朝屏息足を累(かさ)ねて立つの思を為す程にして、随分恣意跋扈(ばつこ)とも名付く可き人なりしか、

 唯余人の成し能はざる一の賞す可きは、外国交際の事に渉(わた)りては、尤も意を鋭(と)くし、敢て天威に懾服(しようふく)せず、各藩の意見の為めに動かず、断然として和親通商を許し、然る後に上奏するに在り、此一事たるや当時に在りては天地も容れざる大罪を犯したる如く評せし者多しと雖(いへど)も、若(も)し此時に当り一歩を謬(あやま)り此(この)断決微(なか)りせば、日本国の形勢は今日抑(そもそ)も如何なる有様に至りしならん、軽く積りても北海道は固(もと)より無論対州まれ壱岐まれ魯亜英佛の為め勝手に断割され、内陸も諸所の埠頭は随意に占断され、其上に全国が脊負ふて立たれぬ重き償金を債(せめ)られ、支那道光の末の如き姿に至り、調摂二十余年を経(ふ)るも、創痍或は本復に至らざる可く、独立の体面は迚(とて)も保たれまじく思へば危き至極にて有りしか、所謂神国の難有さは、祖宗在天の霊其衷(そのうち)に誘(みちび)きしと見へ、人心危疑恟々(きょうきょう)の日に当り、大老断然独任し胆力を以て至険至難を凌ぎたるは、我国にありて無上の大功と云ふ可し、」と。また、

 「大老曾(かつ)て云ふ、岩瀬輩軽賎の身を以て柱石たる我々を閣(お)き、恣(ほしいまま)に将軍儲副の議を図る、其罪の悪(にく)む可き大逆無道を以て論ずるに足れり、然るを身首(しんしゆ)所を殊(こと)にするに至らざるを得るは、彼其(かれ、それ)「日本国」の平安を謀る、籌(はかりごと)画図(ぐわと)に中(あた)り鞠躬尽瘁の労没す可らざる有るを以て、非常の寛典を与へられたるなりと、大老の他の政績に就て見れば、此一言は真に別人別腸より出(いで)たるが如し、」とも書いているのである。

 

* 鋤雲の書いていることは誇張でもなにでもない。日本列島が分け取りにされる危険は大変なもので、例は、近隣の東洋において枚挙にいとまがなかった。このような形勢を凌いできた明治維新であり、明治以降の日本の文明文化であり、文学藝術も例外ではない。こういう第一期日本の知識人・思想家の文章を多く選んで「ペン電子文藝館」の冒頭を意義あらしめたいと強く願う所以である。

 2003 12・3 27

 

 

* 歯医者はまだかかりそうである。今日も麻酔をかけられ、ほぼ四十分治療。突き抜いた冬晴れの空の下を、上野へ、有楽町へ、そして珍しくビヤホールのニュートーキョーで、牡蠣と帆立と鎌倉ハムとで大きなジョッキを傾けながら。「日本の歴史」は政治家家康の支配意思強硬なことに、うんざりして読んでいる。金地院崇伝だの天海だの、本多正純だの。文治の時期にはいると、いつもこういう狡猾なほど陰険な政治屋が黒子になってうろうろする。愉快でない。

 池袋西武で老酒を買って帰った。

 2003 12・4 27

 

 

* 太平洋戦争の開戦を国民が軍により告げられた日であった。日付を書くまで忘れていた。それほど遠くなったということか。昭和十六年(1941)だった、わたしは毎朝迎えのバスに乗り、馬町の京都幼稚園に通っていた。秦宏一(ひろかず)と、自分の氏名を疑ってもいなかった。

 南山城加茂当尾の共は大庄屋吉岡家から、京都新門前の秦家にもらわれて来たのが正確に幾つの歳の何月何日とはもう調べようもないが、昭和十四年か五年、四、五歳までであろう。

 あれから幼稚園を終えて国民学校に上がり、二年生夏休み頃までの記憶では、生活の空気が、ふしぎにからりと澄んで明るかった。昔の風儀のいいところが家庭内に習慣というより肉体化してのこっていたし、質素ななかに、祖父は祖父の位置を占め、父は父らしく務めていたし、母は主婦というより嫁の立場に精勤していた。母より一つ上の小姑であった未婚の叔母は、自立を模索し稽古事に人一倍精進していた。

 世の中のむずかしいことは、我が家ではてんと話題にもならなかった、お上も我が家のことなど、ただ数の外のその他大勢であったろう。たしかにお国は戦争していたのだが、我が家の生活全部が戦争におおわれてはいなかった。幼稚園で毎月もらってくる、楽しみのキンダーブックの絵本の空気と、さして変わりない今日只今平穏無事の空気が、まだ家にも、幼稚園にも、学校にも世間にも流れているかのようであった。あの透明なエアポケットにはまっていたようなあの頃を、ときどき、とても懐かしく感じる。テレビもなかった。携帯電話やパソコンなど影も無かった。電化製品は極く数も種類も少なく、電器屋だった父は、ラジオ、扇風機、電気行火などが売れたら大喜びしていた。百円札など滅多に見たこともなく、真空管や電池や電球が貴重品であった。三十燭や三十ワットの電球で生活していた。よくて四十ワット。六十ワットは贅沢で、百ワットのでんきゅうなんて眩しくて堪らなかった。

 いけない、いけない。こんな思い出にひたっていると、幾らでも時間が過ぎてしまう。

 わたしたちの町内は、たった数十軒のちいさな両側町であったけれど、どの家がサラリーマンであったろうととても思い出せないほど、親が、大人が、いつも家にいた。店屋が多かったということか、但しいわゆる外国人向けの美術骨董商の多かった通りで、自然戦時中は火が消えたように静かであったが、月給取りの風は何処の家にもまるで感じられなかった。月給取りの生活というのが想像出来なかったような少年時代をわたしは過ごしてきた。

 

* あの頃の不思議に澄んで明るかった、なにかしら人の身動きにも暮らしにも貧しいながら整頓された清潔感のあったあの時代への懐旧の念は、当然ながら、今今の風俗の、情報の溢れかえって騒然・混濁・腐臭への厭悪感にも導き出されているのに相違ない。どうなってしまったのだろうと嘆きながら、ワケはかなり分かっている。機械化の便利と引き替えに、人らしいキマリのある日々をかなぐり捨てたのだ。便利になっているのは間違いない、それなのに世の中は快適かというと、とんでもない、不快でだらしのないさなかにある。機械がしみだしている毒に毒されているのだ、人間が。むろん、わたしも。

 映画「マトリックス」の最初のバージョンに、痺れた、のはその嘆きからだ。

 

* 有り難いことに障子窓の外が、はればれと今日は明るい。日の光に恵まれる嬉しさ。そして目の前であの阿修羅像が息をつめて合掌している。ああ、どうしたらそうっと静かに死ねるだろう。

 2003 12・8 27

 

 

* 日本史は、家康秀忠二代の強圧に蹂躙され煮え湯を飲まされ続けた、後陽成・後水尾天皇や公家・僧侶たちの、あわれをとどめた情況を、にがにがしい不快感を覚えつつ読み進んでいる。京都の朝廷や大寺社に同情して言うのではない、要するに、政治的に強硬な傲慢というものが憎いだけである。いまのアメリカ、いまの小泉内閣。最悪のハリケーン、最悪のタイフーン。ジャーナリストたちの、誇りを見失った沈滞が、輪をかけて悪政の彼等をのさばらせる。ブッシュの顔は、いまや下卑た悪相にゆがんで、世界の不幸をそのまま体現しているし、小泉の顔はいかに平然と人間はウソをつく見本かのように、醜悪の汚臭をにおわせ始めている。日本の不幸、日々に深まる。

 2003 12・12 27

 


 

*「日本の歴史」は第十五巻「大名と百姓」の巻に入る。

 前の「鎖国」は、もっとも濃厚且つ広範囲に世界と触れた重要な巻であったが、鎖国の政策評価はいまなお定まっていない。鎖国は成功した面も喪失した面も大きな、歴史的政策であった。粟散の辺土という島国であり地勢的にはいつもゆるやかな鎖国状態にある国家であったし、それが国民のいわば歴史観にも影響していた。いつも袋の中へ頭をつっこんだようであったのは確かだ。それを瞬時的ではあれ積極政策で打ち破り掛けたのは、信長や秀吉や家康の広い広い世界、球体世界への好奇心の強さであった、欲と二人連れにしても。この辺、さすがに傑出したセンスであった。

 日本を意図的な強固な鎖国国家へ完成させた三代徳川家光が、地球儀や世界地図を前にして、「だから」鎖国必然と意志を固めているのは、気宇という点では先の三人に格段に劣り、了見が狭かった。とはいえ、以降二百年余の鎖国が守った国の安全は、たしかに有った。結束度の高い島国ながら、進んだ文化意志を持っていた日本には、それが出来たから、それを敢えてしたという一面は有る、と思う。十七八世紀の西欧列強の覇権意志は苛酷なほどの暴力で裏打ちされていて、十九世紀に、アメリカが十分に成り立ち得ていた時機の世界史とは次元がちがっていた。家光と井伊直弼とがサカサマの位置にいて指揮していたら、日本の運命は悲惨であったかも知れない。

 さて次は、いわゆる幕藩体制の、民政ならぬ藩政、また知らしむべからず寄らしむべしの幕政が焦点になろう。ここではいやおうなく「治者の横暴」が突出して、いかに「被治者」の自覚が削り取られて行くかの、私民としてはつらい江戸時代を読み進めることになろう。

 2004 1/9 28

 

 

* めずらしく熟睡した。

 夜前の読み物では、小松英雄(筑波大名誉教授)さんの研究書「みそひともじの抒情詩」が、予期したとおり刺激的で、読み進める十分な楽しさを予感させた。ことばに膚接した古今和歌集の追究になるだろう。

「今昔物語」はまだ高僧説話がつづいているが、耳慣れているはずの「久米仙人」のはなしが新鮮に面白かった。むかしのわたしなら勇み立って小説にしようとしただろう、趣向を凝らして。

 日本史「大名と百姓」は、ひたすらに食いついて、日に二頁ずつぐらいじりじりと読み進んでいる。なぜあのように大名達が藩政にいそしみつつしかも大枚の借財を重ねに重ねて窮乏していったか、商人がいかにそれへ介入し、農民がいかに無理に収奪されつづけて、それがかえって大名の貧弱化をさらに助長したかなど、かなりよく理解できて嬉しかった。

 2004 2・22 29

 

 

* なにのアテもなく更けて行く夜を半ば憎みながら、機械にふれ続けていた。二時になる。わたしの背後のソファには黒いまごが熟睡している。この部屋が暖かいから。わたしが、ここで起きているから。安心しているのだろう。しかし、もう眼球が乾いて腫れてきた。階下に降り、バグワンを聴こう。いま、またバグワンはティロパの「存在の詩(うた)」を話している、わたしはじっと聴いている、音読しながら。

 宇治十帖は、いまにも大君が他界するだろう。中君の人生がはじまるのだ。

 江戸時代の歴史に、いちばん必要な究明と理解とは、「大名と百姓」なのだとつくづく分かってきた。両者の間に商業が介入してくる。どれほど豪農にいためられながら貧農は立ち上がって行くか。どれほど幕府や藩や代官達が苛酷に農民をいためながら、しかも大名も武士も貧窮の坂を転落して行くか。なぜか。こういうことを理解していないと、勤王も佐幕も分かるわけがない。

 2004 2・28 29

 

 

 日本史は、加賀百万石の画期的な農政の成功のかげで、お家騒動もあり、農村の構造的な意図的な地滑り政策が進行してゆくドラマなど、地味に地味ではあるけれど、歴史社会の変動が、ほんとうに深いところで意味をもつのは、こういう「生産の原点=農村」なのだと思い当たり、じいっと辛抱して、じりじり読み進んでいる。急ぐ必要も意味もなく、投げ出さずにつづけている。投げ出したらしまいだ。

 よみものは、今は、ボブ・ラングレーの名作「北壁の死闘」を、半ばまで。緊迫感でびりびりしながら楽しんでいる。

 2004 3・15 30

 

 

* 家父長制のいわば大「名主」型の豪農本位であった農村が、藩の存続という強力な要請のもと、むしろ豪農の解体、小百姓の自立、その結果としての年貢貢進の強化と農政の確立へ(成功は容易でなく、ほとんど失敗して行くが。)むかう歴史的な地滑りの跡を、根気よく読み取っている。地味な地味な興味。武士社会での地方知行制が容赦なく潰され、全国的に俸給武士化してゆく苛烈な藩政の変容も、これに帯同する。フウンと唸る。

 2004 3・18 30

 

 

* たわけ と人を罵った覚えはないし罵られた記憶もないが、漢字にする必要があれば、当たり前にその意味を斟酌し、宛てていた。しかし一度として「田分け」と書いたりはしない。夜前、深夜の読書で日本史「大名と百姓」の巻を読んでいて、この語源は「田分け」だと著者である農村研究の権威の断定を聴き、これにもウーンと唸った。田を分けて分けて「生産基盤」を細分化して行くのは農村では愚かと云うよりも危険な所行であった。たわけものの所行であったと謂う。なるほどなあ。

 2004 4・17 31

 

 

* 日付が変わって二時になろうとしている。

 

* 日本の歴史第十五巻「大名と百姓」をついに読み上げた。欠かさずに読みながら、この四百七十五頁に何ヶ月かかったろう。蟻の這うほど身をかがめて、頁をじりじり追っていった。著者佐々木潤之介氏は徹底現場史料に即して緻密に歴史の記述しつづけ、通俗の記事には全くしなかった。おっそろしく地味な細緻な読書になった。ここで退屈しては頓挫してしまうと、急ぐよりも「読む」ことに徹した。佐倉宗五郎、多田嘉助という二人の農民巨人の処刑される十八世紀二つの越訴事件を両眼に見据え、デテイルを理解したとはとても言えない乍ら、農村の変容と形成をあらまし察知した気がする。農民だけの歴史など有り得ない、彼等を苛斂誅求絞り上げながら殺してもしまえない大名に代表される年貢取り立て側の政策や強暴。タイヘンであった。だが読み遂げて嬉しい。あと十一巻あるのだ、次は「元禄時代」である。

 2004 4・17 31

 

 

* あの邪馬台国論争も、どうやら決定的に「大和」邪馬台国説へ落ち着いてきたという。もともと「魏志倭人伝」の記載のままでは、邪馬台国は太平洋の遥か南海になってしまうのだから、適切な読替えが必要だったし、どう読み替えても、それが九州内で有る無理は見えていた。それでも一時は「九州」邪馬台国説が強く、定説化の感もあったが、べつに大和贔屓というでもなくわたしは「大和」邪馬台国が強いと考え、変わりなくそこに留まってきた。今は、科学的な史料の年代推定が高度に精密になり、関連資料の豊富さといい歴史的環境の濃密さといい、ほぼ動かしようもなく多くの事例が「大和」邪馬台国を指示し示唆し支援している。そう言われている。夢の論争に決着が付いてきたのは少し寂しくもあるが、自然当然の帰結のように思われる。

 だが、そうなればなったで、新たに記述して貰いたい歴史の新課題も表に出てくる、いろいろと。落ち着いた解説が、いずれ出よう、楽しみだ。

 2004 4・25 31

 

 

* 児玉幸多氏の担当に変わった「元禄時代」の記述は、うって変わって解説的で、面白く辞典を読んでいるような、総じて事典風の叙述で、歴史語彙をたくさんたくさん提供されている。江戸時代都市生活の物知りになるには、打って付け。

 トマス・ハリスの「ブラック・サンデー」はあまり無理にのらずにゆっくり少しずつ読んでいる。

 2004 56・6 32

 

 

* 児玉幸多氏の「元禄時代」が平易な記述と具体的な話で、とても、いや時にめちゃくちゃに面白い。グスグス笑っているときも有るくらい。四代将軍家綱という人は影のような印象だったが、その時代は、ことに前半は安定していたことなどよく分かる。彼の時代にかなり強く殉死ということを制したこと、彼の時代に大名家等からのいわば人質を不用として元へ返したこと、二善政とされている。大したこととは思われないが、それらがかなり有害無益になっていたことは確からしい。御恩と奉公との主従関係から、幕僚による官僚組織としての幕府になってゆかざるを得ず、三河以来の恩顧の武家・名家だけでなく、各将軍の子飼い有能の近臣官僚も台頭し根付いてきたことがよく分かる。問題の焦点に、旗本層の経済的困窮と意識の沈滞が見えてくるのも時代だ。遊郭と遊女達のことなども、アタマの一方に西鶴の好色一代男や一代女の感銘や見聞がのこっているので、ひとしおそれが落ち着きよく整理される。そういう面白さに、ついつい明け方まで読みふけってしまう。

 今昔物語集も水かさが増す勢いで段々に話が面白い。さすがに想像も創作意思も刺激される。

 2004 5・9 32

 

 

*「日本の歴史」全二十六巻の第十六巻『元禄時代』は、いま「大坂」という都市の検討が済んで、五代犬公方綱吉という歴代将軍でも頭抜けた変わり者将軍の治世を読み込んでいる。「生類憐れみの令」とい稀代の悪政がもし無かったなら、綱吉という将軍はかなり個性に溢れて佳い方面からも記憶されていただろう。何と云ってもあれは狂気の悪令であった。むちゃくちゃ。

 2004 5・28 32

 

 

* 夜前、読みたい本を順繰りに読んだ最後に「日本の歴史=元禄時代」を手にしたら、数頁のあとへ章がかわって「忠臣蔵」と来た。まるまる一章分を夢中で読んで夜更かしがひどくなった。歴史学者が、此処までは言えるという資料的な輪郭を、はみ出さずに解説してくれていて、それなりに手応え有る読み物になっていた。

 大石内蔵助の配慮といい、討ち入り、引き揚げの整然としたみごとさといい、たんたんと書かれてある分、感動させるものがあった。殿中で内匠頭を組み敷いた梶川與惣兵衛から瑶泉院にいたる人物の寸描もおもしろく、原惣右衛門と妻丹の消息や丹自決に到る結末なども、大方はみな知っていることであっても、学者が抑制しつつ記述してくれると、独特の面白さに引き込まれる。

 赤尾浪士の討ち入りの直前に起きていた仇討ちとしては、江戸時代を通じて最も「典型的」とうたわれた「亀山の仇討」事件も、面白い記事だった。

 その前章末に、碁や将棋のことが取り上げられていたのも、碁の好きなわたしには恰好の読み物であった。碁の歴史の古さは感動ものだが、往昔、貴人や上位者が黒石をもったというのには驚いた。歴史は面白い。家綱にもおどろき、綱吉にもおどろいた。この時代になると新井白石がちょくちょく顔を出すのも親しみを覚える。彼と河村瑞賢との関わりも面白く読んだ。

 2004 5・31 32

 

 

* 芭蕉、西鶴、門左衛門の三人を語って日本の歴史『元禄時代』は、巻を終えた。家綱と綱吉の時代を児玉幸多氏の理解に即して率直に語り通され、それはそれでなかなか明快で有益だった。

 元禄時代とはどんな時代であったか、端的には言い難いにしても、これにだけは愕く。農民は粒々辛苦の生産の半分近く、時に半ばを越して年貢=税として藩ないし幕府に強奪されていた。収奪は苛酷であった。ところが一攫千金の町人は、「町人」であるが故に商売の儲けに「税」の負担を全くしていなかったのである。越後屋は今の三越の祖先筋であるが、日に百五十両の収益を上げていた、が、町人商売の収益に「税」は、なんと、かからなかった。一年ではその三百六十五倍の莫大な純益にも、一文の税金も幕府はかけていない。他の名義で「負担金」はとったものの、国是として、町人風情の稼ぎから税金をとるなど賤しむべき事とされていた、農民の収穫には苛斂誅求を極めても、である。農本主義の日本。貴穀賤金の日本。農民こそ堪ったものでなく、そして町人の専らしたことは「お上」への賄い行為であった。いやいや、平成の今でも、その気味は濃厚に残っている。企業による政治献金だ。

 次巻は、家宣時代から吉宗時代への移行が語られる、第十七巻になる。この巻は『親指のマリア』を京都新聞朝刊に連載のさい、参考に熟読した。新井白石とシドッチとの小説であった。

 2004 6・6 33

 

 

* 学士院恩賜賞授与の記念宴があったと報じられている。その中に、『賀茂別雷神社境内諸郷の復元的研究』という研究題目が出ていた。鴨社にはよく知られるように上賀茂と下鴨とがある。別雷社と御祖社である。それにしても境内諸郷の復元とははるかな京都以前を想わせて、秦氏の一人としては胸とどろく悠遠の境涯である。研究とはそういうものである、どんなジャンルであろうと。

 2004 6・14 33

 

 

* NHKの政治討論会を聴き終わって、機械の前へ来た。

 民主党の岡田氏を篤実で精悍な論客であると感じ、小泉総理は、相変わらずその場限りの詭弁を弄している、それがかすかな表情の揺れに透け透けに見える。今の、神崎公明党の至上姿勢は、「与党」であること、それ以外のなにものでもない。

 共産党の志位氏が繰り出す情報や数字は、いつも説得力をもっており、ところが持ち出すのが共産党であるがゆえに聴く姿勢が与党に無い、これは不幸なこと。社民党の福島瑞穂さんは、とにかくも議論を箇条に分け、整理した「ポイント発言」の出来る論客なのであるが、ついつい発言が遮られて半端に終わらされるのが気の毒であった。問答無用にちかい与党の居直りと、論も筋も意義もありながら「与党厚顔の壁」を突破吶喊しきれない野党の限界を、まざまざと。

 だが、分(ぶ)は明らかに野党にある。参院選にそれを反映して小泉暴政に歯止めをかけるのは、まさに吾々の一票一票の力でしかない。自身のためにも子や孫の世代のためにも、投票による意思表示を励行したい。

 

* 共産党が、欧米諸国と日本との法人税率の巨大な格差を、例を挙げて適切に示していた。フランスではたしか七十パーセントほどの法人税率が、日本では三分の一ちかい低さであると。この過度の「法人優遇」を適性に改めるだけで税源はすぐにも豊かになると。

 これを聴きながら、わたしはまたしても我が国の経済観念の素質というか特徴へと思いがとんでいた。 

 勧農抑商 貴穀賤金。農本国日本の、近世朱子学に論拠した幕府政治は、これに徹していたから、結果として苛斂誅求の矛先を農民にむけるばかりで、商人= 大町人(謂わば今日の法人・大法人)たちに「税」を課するのを潔(いさぎよ)しとしなかった。論拠は朱子学に置いていた。この前時代的暢気さの前で、商業資金は大きく偏在偏向し、賤しまれながらも「金」の威力は時代を必然変えていった。家宣と白石との「正徳」の努力は、朱子学ならぬむしろ陽明学にちかい合理性の政治理念でそれを改めつつあったが、八代将軍吉宗は、就任するやそれらを悉くといいたいほど旧に復してしまい、「八木将軍」つまり「米」将軍といわれるほど「米相場」に翻弄されて、ついに改革に成功しなかった。

 彼が切言し実行したのは、倹約の功だけであった。「米」で動く世の中ではとうに無くなっていた。農に基本を置く以上は、米が高く売れなければ、幕政も農民の生活もやって行けない。なのに、米の値段は吉宗が必死につり上げようとしながらも、むしろ下がり気味に推移し、他の諸物価は逆に上がり気味の勢いをやめなかった。これがいわゆる「元禄」景気というバブルの残した、きついツケであった。

 吉宗は尊崇する家康時代への反動政治で時代錯誤を演じて四苦八苦し続けたが、家康・家光・綱吉らの時代と、彼吉宗の時代は、いわば「法人」精力の横溢というサマ変わりを示していたのだから、米相場をいじくるだけでは財源・税源の生まれようはずがなかった。結局は農民が泣いた。水戸のご老公の時代よりも、暴れん坊将軍の時代は、もっともっと農民は結果として絞られていた。政治的に打つ手打つ手が効果を上げなかった。商人の金を借りて大名も旗本も、幕府ですらも、「金」の実力の前に疲弊し呻吟していた。

 今日ほどは幕府内に官僚制度が徹底していなかったけれども、それでも荻原重秀のような勘定奉行は、今の財務金融社会保険庁の全部の大臣長官を占領した形で、悪の限りを尽くしていた。彼は「米」など目もくれず、まさに「金銀」という「貨幣」そのものの質を粗悪に粗悪に改鋳してしまうことで、浮いた金銀を底知れずピンハネした。悪貨で良貨を駆逐し、財政をただただ混乱させておいて、ドサクサに大儲けをしていた。

 この荻原を城中で刺し違えてもという気迫で、ねばり強く指弾し摘発し失脚へ追い込んだのが新井白石だったが、吉宗が将軍になると、直ちに開明的合理的実証的理想的な白石政治を百八十度転換し、まんまと政治の方向を幕府草創の昔に戻すようなアナクロニズムを強行し、吉宗は失敗した。またもやあの荻原と同じ、貨幣の悪改鋳で幕府資金をつくるしか手がなくなった。

 彼吉宗が本当に立ち向かうべき資金源は、町人=法人=大企業の懐にしか実はなかったのである。

 なんと今の時代と似ていることか。あのバブルの時、知ってか知らずか人は「元禄景気」と歌い上げていた。元禄景気には深刻なツケがまわることを、日本の歴史は、三百年前に体験していたのだ。共産党が企業献金という賄賂をやめ、法人から適正な税を徴収すればよいと口を酸くして言い続けてきた背景は、理解できるのである。

 2004 6・20 33

 

 

* 吉宗の時代が過ぎよう頃からの農民の一揆は凄みがある。もはや米ツクリ年貢をめぐるようなものではない、農村に於ける家内手工業の所産を、藩の全面収奪、藩の専売体制から守り抜こうとする凄絶な闘いに変わっている。藍玉といい紙といい、繰り綿といい、さまざまな米以外の生産、かつては年貢対象としては無視すらされていた副生産物の商取引で、漸く愁眉を開こうとしかけた農民の生活を、藩権力は、横合いから徹底的に奪い取る姿勢に出て、藩の一手で大坂等で売りたて、利益は悉く藩の財政に組み入れようとした。農民の抜け売りは即ち死を意味した。

 一揆の生態は変わり、しかし苛酷な支配と収奪とは同じであった。ただ違うのは、それらの闘いを通じて確実に時代はそろりそろりと根から動揺を始めていたこと。農本の一揆ではなく、むしろ資本主義経済へ移行期のマニュファクチュアルな胎動であった。

 民衆は、闘ってのみ権勢から己を守ってきた。たとえ多くの命の犠牲を払ってでも闘う以外に安全と安定への道は開けなかった。そんな中で、安藤昌益のような徹底した共産国家を理論的に力強く説き続けていた稀有の学者が、地の塩として実在していた。昌益の学問の当時として、いや今日でもそうであるが、新しさ鋭さ厳しさはまさに世界史的にもものすごい。

 こういう学者がいま平成の日本にいない。平成の実学者に、哲学者に、真に経世経国の人はいないではないか。金魚のウンコのように名前を連ね、売名半分に、声明を発して結果としてはいつも単に己の名前のみを世に晒して満足しているに過ぎない。こう事繁き巨大現代では、一人二人の存在がなかなか世を動かせないのもリクツであるが、インテリに、鳴り響く気概の感じ難いのも事実。それはそうであろう、そういう人寄せパンダは両方の陣営にいて、結果として得ている彼等が名声や名誉の受け皿は、全く同じ「平成政治の牙抜き政策」の上に載っているのだもの。

 知名人が先頭に立って成功する政治運動など、歴史的にも、無いのである。運動は、怒れる私民のエネルギーによって街角から始動しなければ、役には立たない。ああ、この私語よ、波動を起こせ。

 2004 7・2 34

 

 

* 昨夜には、日本の歴史の題十七巻「町人の実力」を読み終えた。この巻は、奈良本辰也さんの執筆担当巻で、日本史上或る意味でもっとも平穏な、波瀾の少なかった、戦乱などの無かった時代にあたる。歴史というのは源平盛衰とか南北朝とか戦国時代の方が面白そうであるが、そういうことは別にすれば、この巻には実に「才能」と「思想」とが古今に類無く豊かな渦を巻いていたと言えるのである。わたしはかつて、日本史で最も人間の能力において輝かしい人材を産み出したのは、十八世紀後半の五十年と云い切り、なんども原稿を書いた。これを此の巻の十八世紀、徳川将軍でいえば、家宣、家継、吉宗、家重、家治あたりまででみるなら、人材はさらに豊かになる。その中でも、新井白石、安藤昌益、平賀源内、杉田玄白、本田利明、三浦梅園、鈴木春信、円山応挙、池大雅ら、また徳川家宣、徳川吉宗、田沼意次ら、それぞれの人がそれぞれの力で新時代を拓いて云ったと言える。こういう人材が他にももっと綺羅星のように拾い出せるから、この時期はものすごく重い重いものであったのだ。戦争無き時期のみごとな「充実」というものだった。しかもこれらの人材は総て過去を大成する以上に、新時代を可能にし、それぞれの扉を力強く開けていった大材たちである。この人達に一人一人付き合って行くのは、ひと言で言って実に「嬉しい」のである。

 わたしが「親指のマリア」で白石とシドッチを書きたくて書き、「北の時代」で最上徳内とともに田沼意次や本田利明を書きたくて書きこんだのも、その「嬉しい」気持ちが推進力と成った。この巻の読書では、奈良本さんの人物評価に、奈良本さん自身の或る嬉しさがにじみ出ていて、それがまたわたしは嬉しくてならなかった。

 奈良本さんとは、京都祇園町北側の抜け路地の中、割烹「梅鉢」のカウンターで何度も何度も横に並んで声を掛け合った思い出がある。大先輩であるが、とても気さくに話して下さった。その声音や風貌も蘇る中で、価値観を深く重ね合いながら読み通せた一巻、実に読み応えがした。

 次は「苦悩する幕藩体制」である。

 2004 7・10 34

 

 

 寛政の改革、松平定信の施政は、不真面目ではないが、あくまで治者の都合、一つに絞れば年貢の増収をいかに計るかへ行き着く。行き着かざるを得ない失政と不運とに幕府が落ちこんでいて、農村にしわ寄せすることを恥じても居ない、余儀ないこととして追い込んで行く。その悪循環のジレンマに、実績は上がりようがない。

 わたしは昔から定信の保守に否認的で、むしろ田沼意次の時代に可能性を感じていた。その対比を「北」政策にしぼって追究したのが「最上徳内さん」と蝦夷地を「同行」して書いた『北の時代』になった。

 2004 7・20 34

 

 

* 深い息をしている……。

 

* また叱る人がありそうだが、ぬるい浅い湯につかって、米沢藩上杉鷹山、と抜擢された良宰蔀戸(くぐり)太華の改革ぶりを、つぶさに読んだ。あの未曾有の天明再度の奥州大饑饉にも、領内で一人の餓死者も出さなかった藩である。優れた藩主と優れた股肱があれば、むろん問題は孕んでいるものの、ここまでやれるという実績の大きさに驚く。借りたものは返すという誠意の上に立った決死の借財は、多額多年に及んだけれど、明治維新までに悉く完済されて、借金無しの稀有の藩として版籍を奉還したのである。

 そういうことだけではない、鷹山にも太華にも或る政治姿勢が確立されて終生ゆるがなかった。「愛民」の優先である。彼等が疲弊しきった藩を受け継いだとき、鷹山は十七歳であった。その先代は、実にこれでは藩の維持は出来ないと、米沢十五万石を幕府に返納したいと申し出ていた。幕府も慌てたが、それほどどん底の状態で鷹山は幼くて藩を受け継ぎ、徹底的な改革、これぞ寛政の改革という改革をやった。保守派の老臣からはからだに手をかけられるほどの抵抗があったが、これを或いは切腹させ或いは改易したり隠居させたりして、優れた人材との協力で藩政を大車輪に動かしていった。

 鷹山は藩を次の治広に譲ったとき、三箇条の教訓を与えている。時代の限界はあるにしても、その真意、今の総理小泉純一郎を念頭に置いて、読み味わいたい。

 一  国家(日本)は先祖より子孫へ伝へ候国家(日本)にして、(時の為政者が)我私すべき物にはこれ無く候

 一  人民(日本人)は国家(日本国)に属したる人民(日本人)にして(時の為政者が)我私すべき物にはこれ無く候

 一  国家人民(日本国日本人)の為に(良かれと)立てたる君(一総理)にて、君(一総理)の為に(好かれと)立てたる国家人民(日本国日本人)にはこれ無く候

 

* 今一つ米沢藩改革で、先ず真っ先に手をつけた一つは、徹底した人口激減からの回復策であった。天明の飢饉に悲惨を極めたのも、いわば人口激減による農村や生産の疲弊からであった。疲弊の上に饑饉となり、餓死の死骸は大地を覆い隠したと云われる。それを免れた米沢政府の人口増・労力増への施策は凄いほどで、江戸の軽罪人を貰い受けたし、潰れた遊郭の遊女たちもみな貰い受けて農家に嫁がせ子を産ませたし、産まれた子タチへの庇護や補助も徹底したし、他藩の間引きに遭いそうな幼子も、金を払って買い受け、保育所で一括し保育してさらに農家へ展開させていった。

 人口が減ると云うことの怖さを、江戸時代の藩政も幕府政治もじつはいやほど体験しながら、こういうところへ目も手もなかなか届かなかった。

 今の日本の近未来の悲劇的素因は、明らかに人口減のスパイラルが始まっていること。社会福祉は潰滅し、産業人口は薄弱となり、自給率は極度に下降して、他国からの悪干渉や侵略の餌食になって行く。

 すでに、今日もアーミテージはぬけぬけと憲法九条は日米の阻害要因と指摘して、アメリカに好都合な改定を露骨に迫っている。それに対し、小泉を初めとして政府筋も政治家も誰一人与党から内政干渉の抗議の声が出ない。小泉の如きは韓国の美人女優とご機嫌のていたらく、いかに日本国と日本人とが、不幸な為政者をかついでしまっているかを、眼をみひらいて確認すべきだ。小泉政権は国を「我私」し、人民の利益と運命とを軽視・無視してその力を「我私」しているし、国と人民とに傭われて立つ総理であるという自覚を持たない。

 

* 吉田茂という総理は、最後の最後まで「日本国憲法」をがんとして口実に立て、日本の再軍備規模を半年一年でも遅く小さくするために、アメリカに云うべきを云い立てていた。吉田茂の拠点は「憲法」であった。その前文と九条の尊重であった。小泉の自儘政治の拠点は「憲法無視」である。ことに前文の精神と九条の趣旨を意図して蹂躙することにある。なんという落差よ。

 2004 7・22 34

 

 

* 日本の歴史は、今夜にも文化文政から天保の改革を語って水野忠邦の失脚に到る一巻を読み終える。

 教室で日本史をならうより以前から、家にあった「日本国史」という通信教育の教科書がわたしのバイブルなみの愛読書であったが、その頃の日本史は事に人から人へ繋いで行く歴史記述であったので、子供心には浸染しやすかった。

 江戸の執政にも、将軍により何人もの側近が力を発揮したから、歴代将軍の名を覚えるよりも、その有力な執政・側近の交替を見て行く方が面白かったのである。本多正信・正純らを皮切りに松平伊豆守や、榊原・堀田らや、柳沢や、間部詮房・新井白石や、と続いて行く。そして田沼意次のあと、松平定信の寛政、水野忠邦の天保の改革になる。悪戦苦闘して成果を見なかったのは彼等の無能によると言うより、幕藩維持を内部崩壊させる、近世から近代へ向かう時代の必然が、あまりに大きかった強かったということだろう。民心というのもまたあまりに頼りない衆愚性と貪欲とに満たされてもいた。そうさせる政治を徳川幕府がし続けてきたのだから仕方がない。あれで鎖国していればこそなんとか累卵の危うきを辛うじて明治まで保ち得たが、早くから開国していれば西欧のどれかの国によりアヘン戦争なみに支配されたのではないか。

 政治家としては、新井白石、田沼意次、松平定信、水野忠邦を挙げて、それぞれに他の及ばぬ力量をもっていた。

 白石は理想家であり学者・詩人であり、海外・世界への視野と関心をかなり正確に持って近代への幕を開けかけた。あとをついだ将軍吉宗は米相場に苦心賛嘆し、かろうじて洋学への道をふさがずに次代へ繋いだ。

 田沼意次はおそらく江戸時代を通じて、余儀なくもあったけれど、最も開明的に時勢を鼓舞し一つの大時代を創り上げた優れた政治家とわたしは評価する。白石の遺訓を無にせず北の時代も彼の手で開かれた。本多利明や最上徳内は田沼と臍の緒を繋いでいた。鎖国と開国との身を揉むような実験の繰り返されたのが田沼時代であった。

 寛政・天保の改革は派手な田沼政治、豪奢な化政大御所時代への反動として極端な緊縮と強圧管理の政治に走った。走らずにおれない国家的な窮迫があった。白河藩主定信の清んだ白河より「もとの田沼の濁り」が恋しいと庶民に謳わせた。天保の水野はさらに苛烈に締め付け、その悲鳴は無数の落首やチョボクレになって巷にあふれた。水野政治の終焉までを書いた此の巻が「幕藩政治の苦悶」であったことは、さもあろう。そして「尊皇攘夷」の時機がもうそこへ来ている。

 水野忠邦は一度失脚したが、すぐにまた老中首座に帰り咲いた。しかしそれも永く続かず、次の老中首座に座るのは阿部伊勢守政弘、この人が日本の歴史にかつてない欧米列強を前に苦労することになる。歴史は躍動する。

 2004 8・24 35

 

 

* 水野忠邦の天保改革は、内政としてみれば過分に苛烈で、成功したとは云いにくい。しかし、忘れてならないことは、対外認識の深さとほぼ正しかったこととである。アヘン戦争での中国のイギリス等に対する壊滅的屈辱条約や香港の半永久的な割譲などという危険千万をまぢかに実感しつつ、渾身の対応をはかりつづけて、失脚後にも以降幕政の基本軸をほぼ調えておいた歴史的貢献は評価しなければならない。彼の末路はその貢献に酬いるには苛酷に過ぎていた。改革者は、喝采で迎えられ罵詈雑言と投石とで葬られる。しかし夫れにも歴史的な評価はいつかくだり、ダメはダメ、良かった点は良かったと分かってくる。

 さて小泉純一郎はどうか。百年経ったときに百年前の日本経済の立て直し自体は通り過ぎてきた過去のことになっていようとも、国を戦争へないし潰滅へ、国民を自国ないし他国の檻へ送りこんで行く咎は、墓をも暴かれまじき国民的な憎しみを受けかねないのを今のうちに識るべきだろう。このままでは、かりに一将の功成っても日本国と国民とは枯れるおそれ濃厚だ。心ある自民与党の名士登場に期待せねばならぬ。名士はいないか、志士はいないか。

 2004 8・25 35

 

 

* 江戸時代は永かった。だからとても一筋の縄でくくってしまえない。文化も政治も経済も外交も技術も産業も社会生活ももそれ以前の各時代とは比較にならないほど事繁く拡大し交錯し事件が起きた。それでいて天下太平の三百年とか安逸を貪ったとか云われるのはなぜか。

 江戸時代に起きた一揆や打ち壊しの件数は莫大で、しかも列島の各地に頻出している。それにもかかわらず、全体を通じて確実に云えることは、真に「反体制」の動きは滅多に起きなかった。慶安の変だけが幕府転覆を考えていたが、その策略はあっけないほど未熟でばからしいほど簡単に征服された。このほかには、目前の敵、たとえば吉良上野や、悪代官や不正な豪商・業者や土地と人身支配の富農などへは詰めかけても、「その上」の体制を破壊したいと考えた武士も庶民も農民もいなかつた。これはおそろしいほどの事実であり、いかに封建幕藩体制や天皇制が雲の上の存在であったかが分かる。

 結局、農民にややゆとりが出来、町人にやや蓄えができ、それで藩や幕府はなにとなく安泰(ではなかったのだが、)そうに出来ていたなかで、一番きついワリを喰ったのが直参・陪臣をとわず全国の下級・下層の武士達であったから、彼等がやむにやまれぬ不満をエネルギーにして倒幕という維新活動へ熱中していったのは、まさに三百年めの「正直」というものだった。

 明治維新はいわゆるフランス革命のような民衆の力による革命ではなく、軽輩武士が悲鳴とともに藩を動かしたり同志に固まったりして、ゆさゆさと時代を動かしていった結集の結果であった。従って出来てきた明治政府は当然のようにそういう武士・士族の手にあやつられて、自由民権もまことに手ぬるいところで挫折した。なにしろ明治最初の知識人達はほとんど軽輩武士の出であった。政府高官、元勲といわれる人たちも、木戸・西郷・大久保・伊藤・山県など大方がそうであった。公家の三条実美、岩倉具視などもいわば余分な混じり物のようで、明治大正歴代の総理で公家から出たのは西園寺公望がただ一人ではないか。

 大逆事件は時代を震撼したけれど、国家によるフレームアップ(でっちあげ)に近い、公による意図的な弾圧手段になったもので、2/26事件等にしても、国家の体制を覆すことは勘定に入っていなかつた。

 

* 日本とは、所詮はそういう国として二千年を生きてきた。ありがたいというか、なさけないというか。

 2004 8・27 35

 

 

* 早く寐ようと思いつつ、昨夜も、結局枕頭八冊をそれぞれ読み進んで、四時近かった。いちばん気を惹かれて沢山読んだのは日本史の、薩長が「国事周旋」に乗り出してきて、新撰組が京都に露表してくるあたり。長門も薩摩も外国軍艦の武力に散々に打ち負かされて、尻ぬぐいのベラボーな償金を幕府が支払うなど、滑稽にもわらえてしまう成り行きも多く、尊王攘夷が必ずしも「反幕」ですらなかった「敬幕」ですらあった時期から、まちがいなく「反幕・倒幕」へ推移して行く動向、とうてい有り得ない攘夷の「実」が、天誅だの外国人襲撃だのたんなる目先の感情からの激発ばかりで少しも「事実」の見えようがない経緯、つまり無意味に近い「小攘夷」から、むしろ開国し富国強兵をはかって世界に覇権を示そうという「大攘夷」へと、雄藩の一部志士たちが動いて行く「開化・開明」への足取りなど、が、とてもおもしろかった。雑知識でこそ埋められてあるわたしの「維新前後」であるが、雑な知識がきれいに整理されて行く快さに惹かれるのである。

 

* ああ、そうだ。そうだった。幼かったわたしは、ある日、近くの東山線の古本屋で、欲しくて堪らなくて、あれで親によほどせがんだのであろう、分厚い一冊の古本を買ったのを思い出す。題は正確でない、内容は正確である。明治の皇族や元勲を初めとする、維新に寄与した志士や知名人達の網羅列伝的な紹介で、すべて位階勲等と写真つきの記事が並んでいた。ああそうだ、あれは『明治大帝』という題の本で、今いう記事はその附録のようにして明治天皇の事跡のうしろへ分厚くくっついていたのだった。

 なんでそんな本を。その理由はわりとハッキリしていた。「人」への興味だ、歴史が好きで通俗の国史教科書を耽読したのも、興味を繋いでくれたのは(昔のこと、当然だろう)人物への関心や興味であり、人物を批評することで幼いなりに日本史が身に付いていた。「人」を覚えていると流れが見えてくる。明治維新ほどの歴史的に複雑な経緯をわたしは本能的に大勢の人物の名前と経歴を通して「雑知識」として貯えたのである。いまでも多くの名前をそれぞれの軽重にしたがい記憶している。それが、たとえば今読んでいる「日本の歴史」を吸い込むのに、大方役に立っている。

 

* この「人物」への抜きがたい興味関心で、一つ実を結んだのが、小学館から出た大きな叢書『人物日本の歴史』で、この企画と人物選定に、わたしは、編集者感覚で熱心に協力したのである。わたし自身もその中で「佐々木道誉」「山名宗全」を書いた。大勢の筆者が参加し、バラツキはあるものの今でも参考に資することのある、なかなかの叢書だった。

 2004 9・11 36

 

 

* 田中美知太郎先生の「古典教育雑感」は、まさしく謦咳に接して間もない頃の、どことなく一刻な言表と読ませて頂いた。

 歴史記述への接し方で、われわれはどうしても通俗な時代区分に盲従しながらよんでいるものだが、いわば水平思考で発想を転換すると、ギリシア・ロマの時代と近代・現代とを「同時代」とも読め・読まねばならない展望が見えてくる。ギリシァ・ロマの古典時代に学んだ近代史家トインビーはそういう提唱をしているし、田中先生はそれを強く継承されている。

 わたしはトインビーにも田中先生の著書にも残念ながら疎かった方であるが、この「同時代」感覚を非常に早く、我流でもっていた。そもそも時間を線的な延長として捉えずに、空間と時間とともに風船のような、宇宙のような「球体」にとらえて、その膨張と縮小とで「歴史」を読めばいい、そうすれば、球の大小にかかわらず歴史とは大きな大きな「同時代」なのではないかと「空想」してきた。だから、わたしは小説の時空を何千年隔てていようと同時代感覚で書くことを繰り返してきたのである。紫式部も後白河院も新井白石も最上徳内も、わたしと同時代人であると思える仕掛を「歴史観」として持っていた。物の譬えに「桜の時代」と置いて「古今集」と「細雪」とを同時代のものと読むなども、その応用であった。それは、田中先生に教わったのではない、だが田中先生の此のエッセイにもそこへ鋭く通じて行く論旨があり、懐かしかった。

 2004 9・14 36

 

 

* 「日本の歴史」はついに『明治維新』の巻に到達、江戸時代を通過した。神話・原始の時代から二十巻、一万頁近くを読み越えてきた。そして気付くのだが、明治維新から現代までの歴史記述を通覧した体験をわたしは持ってこなかった。むろん断片といっても莫大な知識をこの百数十年について蓄えてきたに相違はないが、歴史記述で通読したのは、大学受験の頃に「京大日本史」という叢書をたぶん通読したのが一度きりだろう、それも近代史まで行っていたかどうか。なんだかおかしいが、「未知」の歴史記述に入って行くどきどきする気分である。

 2004 9・25 36

 

 

* ひさしぶりに平家物語をあらまし囓りなおした余韻が残っているが、今一つ「明治維新」がすこぶる面白い。慶応三年はまことに日本史上稀有の波瀾と緊迫の年であったが、徳川慶喜と会津桑名藩ら幕府勢力、とくに岩倉具視がかきまぜては引率していた公家勢力、土佐の山内容堂、越前の松平春嶽らの藩主勢力、そして雄藩薩長ことに薩摩の大久保一蔵と西郷吉之助の頑張り。これらの渦の中で時勢と世界と日本とを見据えて中央突破を果たしたのは大久保と西郷との胆力であり先見であり確信であった。そのはげしい渦巻きを眺めていると興奮を禁じがたい。

 いま、日本と米英とが戦争したことすら知らない若者が一杯だという。縄文や弥生の時代も大切であるが、近世・近代史を真っ先になんとか教室で教えられないものかと思う。

 2004 9・28 36

 

 

* 明治維新の原動力はと聞かれれば、主として薩長土肥等西国雄藩の下級軽輩武士という相場になっているが、彼らだけで、幕府に勝てたわけではない。そこに「草莽」と総称された農山村や宿場町の指導者層の身を挺し私財を捧げた熱い参加があった。その一例は藤村の「夜明け前」に描かれた、中津川はじめとする東山道、中山道、木曾街道等の本陣や庄屋たちの奔走がある。藤村の父に当たる作中の青山半蔵もその熱意の一人であった。彼らのいずれかは志士となり活動し、半蔵等は心と金品とで懸命にこれに関わった。

 そういう指導層たちだけではなかった。長州が再度幕府軍の征討に遭いながら、これを一蹴しえたのは、長州の軍にはさまざまな庶民階層が諸隊として組織されていて、彼らは自らの故国を守りつつ自身の社会的な地位や実力を底上げしてゆきたい熱望をもっていた。幕府軍にくらべて雲泥の差で意欲が燃え上がっていた。

 西郷、大久保あるいは木戸、伊藤、山県ら薩長の維新指導者らはこういう庶民を組織することで藩権力にも優位を示して、敬幕から反幕、さらに倒幕へと歩をすすめたのだった。彼らは民衆の力を知っていた。恐れてすらいた。

 明治維新とは、少なくも国家万民の維新であった。

 だが、維新が成り、天皇制統一国家の官僚制度等が整い来るに連れて、薩長中心の士族新政府は、国民を大きく裏切り続けてゆくことで、中央集権の苛酷なほどの実を得ていった。慶応三年から四年を経て明治となり、三年四年にいたってなおそういう国民の不満から起きる一揆や打ち壊しは鎮まるどころではなかった。初めは反幕で、後には反新政府で国民は屡々蜂起し、しかも、確実に新政府の統制と軍力により抑え込まれた。看板に大きな「偽り」を露呈しつつ、それを糊塗し、むりに正当化することばかりが積み重ねられてゆく過程は、じつに無惨というか口惜しいというか、褒められた仕儀ではなかった。

 それでも、安政以来の不平等条約の改善を断乎として念願したのは筋道であったし、そのために岩倉具視以下木戸・大久保らをはじめ新政府開明官僚派が、つまりは新政府最高指導者等の大半が、大使節団を成して、アメリカを皮切りにヨーロッパ諸国へのいわば修学旅行に出、条約改善へのこまめな前交渉に当たったのも、やはり「英断」と言わねばならないだろう。

 西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の維新三元勲はその名に恥じない威力を維新の実現に発揮し、さらに維新新政府の性格づくりに強引な権力を発揮した。坂本龍馬が此処に加わっていれば、少し様子は変わっていただろうが、明治維新を曲がりなりに国家万民の力をかりて成し遂げ、国家万民の名目のまま薩長政府を強引に仕上げて、国民に極端な貧乏籤をあてがい泣きを見せたのも、また彼らであった。

 

* 学校の歴史教育は、なるべく公正な支点を確保しつつ「明治維新から昭和敗戦」までを真っ先に教え、それから応仁の乱以降江戸時代を教え、そして先史時代へ溯ってから順に降って好いであろう。現在、近代・現代史が教室で取り残されるように、この方法では源平と鎌倉、南北朝がわりを喰いかねないが、わたしは、それで構わないと思う。近代現代の百五十年をもっと正当に真っ当に真っ先に教えるべきだと思う。

 2004 10・5 37

 

 

* 自転車で、近所の、舗装された未開通道路坂を三往復疾走し、ついでに、一周百メートルと分かっている住宅区の廻りを十周してきた。それからぬるい湯につかって、また誰かさんが怒るぞうと首をすくめながら、「明治維新」の歴史記述を楽しんだ。楽しんだのは読書の快感からであり、読んだ中身は明治新政府の賤民制廃止の実態といい、相変わらずの華族、士族、平民という封建身分制度の現存といい、新刑法における懲罰の身分による露わな不公平といい、もう腹の立つ不快な政策ばかり強行されて行く経緯であるから、アッタマに来るばかり。わたしが、「私」に奉仕しない「公」など要らない。「公」は「私」にたいしてこそ奉仕すべしという「私の私」を護りたい思想は、明治維新の最初から「公」の陰険な凶悪意図により蹂躙され続けていたのである。それを、辛抱よくじりじりじりじりと権利を獲得してきた「私」が、昭和の敗戦でさらに千載一遇の好機を得て「私民の私権」を相当に拡大し得たのに、ハブルの慾夢にうつつをぬかすうち、いつ知れず、またしてもひどい「公むの裏切りにあいつづけて。私の「私」は今や、やせ細りきっている。

 そういう歴史的な無念を抱いて読むのだから、やはり湯の中では危険かも知れないと、自戒自戒。

 2004 10・6 37

 

 

* 明治の新政府は、すこぶるひどい政治をした。国民大衆をコケにしたことでは無類の悪政をしいた。けれど、大変な大時代のあの過渡期にあって、国際社会における我が国を、例えば深刻な「不平等条約」から救い出そうという基本の態度などでは、結束して打ち向かったし、国土内に無定見に外国軍隊のため(旧藩時代に)割譲していた土地も、政府は断乎取り戻していた。対外政治として、護るべく攻むべきは、かなり正しく実行していた。国のアイデンティティには、国益には、幕末苦痛の体験を生かして、かなり揺るぎなくよく目覚めていた。

 今の政府与党のそれを見ていると、イラク出兵の憲法違反といい、大量破壊兵器の口実が無意味と化した今でもあくどいこじつけで「対米阿諛の外交姿勢」をむしろ誇示していることといい、明治新政府ほどの強悪政府にもまだ劣った基本の虚しさで、わたしを絶望させる。

 

* 明治初期の日本の一特色は、中村光夫先生の指摘されていたように、「知識人」が概ね意欲的に国家レベルで機能し得ていたことだった。福沢諭吉も西周も新島襄もその他明六社によった知識人賢人達も、その見識や発言や提案が、幾らかという以上に国と世論に感化し得た。

 現今の知識人・自称賢人達はどうだろう、おおかた「顔売り」パフォーマンスの域を出ない。

「九条の会」には私も賛同の名を連ねているが、世間の表面に顔を出した「顔ぶれ」の大方が、いわゆるオルガナイザーにはなれず、なる気もまるでなさそうな、ただの「人寄せパンダ」「お喋りパンダ」に過ぎない。わるくいえば、憲法をダシにした知名人たちの売名行為だけで終わるオソレの(今までにも例は幾つもあった、)十分な、「僕達、云うだけは云ったんですよう」という「自己免罪」行為に近いものに陥る危険性が、たぶんに見える。

「憲法九条」を本気で護るつもりなら、それは、さしづめ政府与党に対する「戦争」に等しい。それだけの気概と作戦と組織立てが必要な筈だ。「べ平連」とははっきりちがう。自然発生の自主参加風市民運動でやれるかどうか、ことは憲法の変更であり、力及ばぬ時は仕方ないでは済まぬ性格の闘いではないのか。だが、そういうことは、あまり考えもしない、仕様ともしていないように見える。

 ボク達はこんなふうに「声はあげていますよ、えらいでしょう、責任は果たしたつもりですよう」と、顔と名前とをただ晒して満足しているだけにして欲しくない、したくない。改悪させては絶対的に行けない限り、そんな大事な戦争なら、ぜひ勝たねばならない筈なのに。勝つにはそれなりのちからが、あたまが、要るだろうに。賛同者の名前は、それは大勢だ。各界からの名前が出ている。名前で勝てると思うのは謙虚なようで傲慢に近い。

 こういう運動で本当に大事なこと。大江健三郎や梅原猛や井上ひさしや鶴見俊輔らの「名前と顔」とを出せば「済む」のではないということ。賛同者全体から、或る慥かな「運動体」が、あたかも実行機関として、「各種作戦団体」として、機能的に組織され、具体的活動を国民・私民の中へ浸透させて、根本の趣旨を実現達成するのでなければテンで意味がない。「私民」社会にその意図と方法と行動とを拡大し、広く参加させなければ、ほとんど無意味なのだ。さもない限り、それは、例えば日本ペンクラブが常套の、「やらないよりはマシです」「やったということは記録され、いつか記憶されるんです」からと自己満足して出し続けている、殆ど無効な「声明」行為と、何の変わりもない。「いつか」とはいつなのか、その時に「日本」は無くなっているか、権力者と、家畜化された私民とだけの不幸な強健牧場になっていルカも知れない、「記憶」されるだけで何がいいものか。

 

* 民権運動等々の運動を省みるとき、政権政府与党は渾身の結集度で、かれらの欲望達成に陰険なほど、悪辣なほど全力を注いできた。例外がない。今の政権与党も政府もそうだ。

 その一方「私民」「万民」の運動や闘争はどうしても散発し分散し結集しなかった。結集を様だけ弾圧することに於いて権力の智慧の出し方は的ながらいつも天晴れ悪知恵の限りを尽くしてきた。例外がない。だが民衆は、時に一揆やデモでかすかに要求を通したことがあつても、いつもそれに倍々する制圧と不利を喰らうのが常であった。そのくせ、明治新政府以来、権力がシンに恐れたのはほんとうは途方もない大衆の結束とその時の強力なのであった。だから分散させ、連絡を絶って許さず、勢いの切り崩しで力を弱くさせようと智慧と悪法とを用いたのである。例外はない。

 それなのに、憲法九条ほどのものを守ろうとしながら、ただフワアッと起って顔をさらせば大衆はついてくるなどと言う望みは、厚かましいというものである。

 

* 日本人の中でさえ、ブッシュかケリーかといえば、小泉・武部・外交官・政治家を始めとして国民の中ですらブッシュ指示の法が多いのだという現実と闘わねば済まないというのに。傲慢に近いと言わざるを得ないのである。

 

* 政府与党は嗤っている。どうぞどうぞ「おえらい先生方、お好きにお顔を売って下さい。いずれ大きなお顔には忘れず勲章と年金をさしあげますからねえ」と鷹揚にせせら嗤うだけで、毛筋ほども、「九条の会」なんぞを怖がらない。当たり前だ、なに一つもその「連中」には、「機能」も、そのための「組織」も、無いからだ。

「顔」など、こういう時、決定的には役に立たない。働く「頭」と動く「手足」とが連動し機構化しない限り、声明やポスターだけ出しても無意味に近い。事実、この手のパフォーマンスの何が成功例として記憶されているか。ほぼ唯一「ベ平連」ぐらいなものだが、あの活動には、不十分ながら「頭」と「手足」との働きがあった。だから曲がりなりに成功した。それも海外向きの展開であった。「憲法九条」問題と質はちがわないが、事は異なっている。

 お飾りの顔も、ま、いいだろう。しかし少なくも顔の中から、小田実のような人が「普通に」機関車として働いてほしい。普通とは書いて字のごとく広く「私民」社会に浸透する意味ではないか。そこで「戦闘隊形」を創り出さないではお話しにも何にもなるまい。

 麗々しく恥ずかしげなく「人寄せパンダ」はむなしい「顔」を売っているが、必要なのはその蔭ではたらき闘う「私民自身」だとは、まだ誰も云わない、作られる気配もない。異様に観念的に空疎な打ち上げ花火でしかない。なにもアトに続いてこない。働かない。

 

* この私の声にいくらかでも賛同の人は、パイプがあれば鶴見俊輔氏や小田実氏や井上ひさし氏に届けて欲しい。講演会だのシンポジウムだの只の売名以上に出ない花火のような行動だけでは、持続した粘りづよい戦は出来ないし、絶対勝てない。明治維新は少数の志士が成功させたか、とんでもない誤解である。広く草莽の私民が動いたから出来たのだ。壇の上から壇の下へえらそうに講演しているだけで実現する「勝利」など、どこに有ろう。

 

* あーあ、いやんなっちゃったあ、おどろいたァ。

 2004 10・10 37

 

 

* 正使岩倉具視(右大臣)以下木戸孝允、大久保利通等、政府開明派の大半を挙って、「廃藩」直後という大事な時機に、あえて訪米欧の大旅行に出た明治新政府の意図は、信じられないほど壮大で、また差し迫っていた。

 文明開化のための諸視察、諸勉強もむろん大きかったが、それ以上に、安政以来の極端な「不平等」条約の期限を控え、独立国としての対等化を一致し切望していたのが彼等の真意、この大旅行では、その改定交渉のための小当たりな打診や折衝こそ、一の大目的だった。

 だが最初に訪問したアメリカは、打診と謂うより改定即時協約をもちかけて来て、しかも日本側の希望を全面否認するどころか、従来に倍々する更に不平等で恣まな条件を多数提案し、一方では明治維新の成果をおだて、またすかし、甘い世辞顔をにやにやと見せながら、もう一方の実務では、強硬きわまる権利拡大のみを脅迫してきた。

 わるいことに、在米公使森有礼も実力者大久保利通も、ここは凡てアメリカに譲って文明開化の度を進める利をとるべしと、正使岩倉や木戸孝允を熱心に説き伏せに掛かった。信じがたい危機であった。

 だが、あわや調印のまぎわとなり、彼等一行に、正式の外交調印の資格が文書的に保証されていないと分かり、慌てて大久保等が帰国して事を整えようとした。だが西郷隆盛ら留守政府は頑としてこれに反対した。ことに政府顧問として傭われていた米国人の一人が、そのような協約にもしアメリカ一国と調印し、たとえアメリカが何らか有利な見返りを用意したにもせよ、国際法上の「最恵国待遇」規定を利して、他の各国は、当然同条件での改定を日本国に強要確保して、しかも何ら他の有利な見返りを日本に対し与えずに済むことになる、とつよく警告してくれた。

 一方、アメリカで大久保等の戻るのを待っていた一行のうち、木戸孝允は、日々に、アメリカの姿勢と底意とに疑問と不快と警戒の念をつよめ、ついに断乎「協定調印に反対」して岩倉正使を説き伏せていた。木戸の滞在日記はスリルに満ちている。

 かくて結果的に日本国はアメリカ一国との先行調印を破談にし、一行はヨーロッパへ旅程を延ばしていった。まことにスリルに満ちた折衝であり、経緯であり、判断であり、日本国の近代におそろしいほど微妙な岐れみちが、落とし穴が此処に在った。虎の尾を踏む男達は、安宅の関の弁慶等一行だけではなかった。

 

* 中公文庫『日本の歴史』は、戦後日本の、まだむちゃくちやに今日ほど反動化のつよくなかった、自由な学問的雰囲気の中で編成され、執筆されていた。

 ことにこの「明治維新」の執筆担当者井上清は、明晰に、口ごもることなく多くの問題点に的確な意見も述べていて、小気味よい。時代と公権とにおもねる筆致も口吻もなく、公正な歴史記述とその解釈や批評が成されている。今ではもう此処まではっきり批議してくれる自由な気概の学者が、居ないかも知れぬと憂慮される。それだけにこの一冊はことにシリーズの中でも、貴重品であると、わたしは現段階で此処にこの一冊をつよく推奨しておきたい。

 歴史ほど、その時々に公の権勢におもねり書き換えられてしまうものはない。その悪影響は計り知れない。

 その意味でもこの一冊は、比較的、時代の好環境にあって、好筆者を得て、好記述を実現していると私は胸をなでおろすほど歓迎している。現代日本人は「近代日本史」にこそ、真っ先に我が身のアイデンティティを確認し、学んで欲しい。しかし昨今、歴史教科書記述等に殊に、ある種の意図でねじ曲げるように歴史を「私」していかねない風潮が見えている。そういう際だからこそ、わたしは、一冊残らず一行もあまさず、ペンを片手に読み続けてきた厖大な中公版『日本の歴史』の記述に、総じて、或る安心と信頼とをともあれ表明できるのが幸せである。日本史に心ある若い人達には、あまり昨今の新しい意図的歴史に近づかずに、少し時間の距離を置いた安定した自由な歴史記述に接してほしい、それも戦前や敗戦直後のものは避けて欲しい。あまりなイデオローグによる歪曲が強すぎるオソレがあるからだ。

 

* 前冊「尊王と攘夷」から今度の「明治維新」にかけて、身の震うような感銘と、眼から多くのウロコの落ちた嬉しさに、わたしはある種の興奮を抑えられないで居る。

 2004 10・14 37

 

 

* 夜前は、明治六年の、西郷隆盛、板垣退助らの征韓論が、岩倉具視、大久保利通らの反対により劇的に潰えて下野する経緯に、思わぬ夜更かしをした。興味津々、大河ドラマはこういうところを何故やらないのか、源平だの安土桃山だの忠臣蔵だのばっかりで。新撰組など歴史ということからすれば所詮は徒労の負け方端役。徳川慶喜のドラマは大事だが、それとて維新政府のありようを「批評的」「批判的」に私民の視座から再構築して初めて意義を生じるもの。

 何が何でも征韓論に没頭した西郷隆盛には、殉じて死のうという、或る意味では弱気が生まれていた。彼は死に場所を求めていた。戦争を仕掛に仕掛けて、それにより彼を大棟梁と敬慕してやまない士族たちに「働き場」をつくってやりたいと。士族独裁政権への彼のそれが熱望であった。岩倉・大久保達は、だが、国民皆兵への道をしっかり整えていた。そして新政府の莫大な経済負担であった旧大名や士族末端に到る家禄、秩録支給を廃止したかったのが反西郷の彼等だった。

 国民皆兵の徴兵制度が確立されれば、士族のもつ特権身分も存在意義も雲散してしまう。士族達の悲鳴に似た焦りを西郷は背負っていた。征韓論で朝鮮征服を実現し、其の勢いで新政府を士族独裁政権に造りかえたい。だが岩倉・大久保たちは、士族の嘆きよりも、国民の一揆的反抗の方をより大きく正確に恐れていた。その為にも中央集権政府の絶対安定と確立を必要とした。外にはおそろしいほどの「不平等条約」が在り、内には財政逼迫が堆積し、へたをすれば外国の内政干渉や政治介入の不安も現実に有った。樺太には邦人へのロシア軍による圧迫や虐待があり、台湾にも問題がある。

 そもそも征韓論の謂う朝鮮を一時的に征服しても、得られる経済益はしれたもので、まして民衆の蹶起があれば対応にどれだけの負担が掛かるか、すべて不可能という大久保利通の明白な反対理由に応戦できる根拠は、西郷ら征韓論者にもてるワケも無かった。

 それでも三条実美は西郷等の士族の武闘におそれて、天皇の征韓論上裁を求めようとし、発狂か佯狂か、病状に陥って岩倉が俄に太政大臣代理となり、断乎征韓論を許さぬとする「天皇上裁」を確保してしまった。維新当時の言葉で言うと、岩倉・大久保は巧みに天皇つまり「玉」を手中に取り込んで、優勢だった征韓論をガンと潰したのだった。確乎とした大久保利通の道理と策とが勝利した。彼は征韓論派の領袖と西郷にくみする近衛師団その他の士族達の大量の下野帰郷を、むしろ奇貨おくべしと軍の整備をはかる一方、のちのち悪名高い国民管理の大元締めになる「内務省」新設を企図して、初代の参議・内務卿となり、ついに中央集権独裁政府の確立に大きな一歩を印した。木戸孝允もこれを支持した。大久保が勝ち木戸が支持し西郷が負け、つまり士族は行方を失い、武士達の時代は体裁の総てを一応失ってしまった。大きな大きな日本のドラマであった。

 西郷の敗死におわる明治十年の西南戦争は、もはやこの征韓論勝負の後産のようなものであった。

 

* 木戸孝允は筆まめな元勲であった。元勲木戸孝允ではなんだか馴染めないなら、長州の攘夷志士桂小五郎で知られた男だ、彼の日記は面白いだけでなく、実に貴重な明治維新の証言集である。主観的なことは否めないにしても、ものはよく見ていた。病弱に陥った晩年は、西郷や大久保のようには一方を率いる場に立たず、ほぼ筆頭の参議でありながら今でいう大臣、卿として大蔵や外務などを統べる地位には就かなかった。おのずと副首相・副首班格であった。彼を視点に、明治維新を西南戦争まで描き出せば、真実大河ドラマとして価値高いであろう。但し、何かに阿(おもね)った偏した解釈ではダメだ。彼も「公」の大雄であり、「私」民ではない。複眼が必要だろう。

 

* そんなことを想いつつ夜更かしをむしろ楽しんでしまった。ま、西郷や大久保の必死の角逐からすれば、声さえ揚げておけばそれでいいんです、あとは皆さんが銘々に好きに対応されればいいんですという程度の「九条の会」なんてシロモノは、気ラクなモノではないか。

 大久保と森有礼とはあわやアメリカに日本の不平等条約を倍加したまま売り渡す間違いを仕掛けて、木戸孝允は必死でこれを制した。かしこい大久保にもハヤトチリはあった。その大久保は、朝鮮に無理な戦争支配をたくらんだ西郷を断乎制止したが、征韓論が強行されていたら、日本の近代は、或いは諸外国の干渉によりズタズタにされて、又も内乱に陥っていたかも知れない。木戸も大久保も西郷もみな必死に闘って最善を尽くそうとはしていた。憲法九条ほど大事な護りたい拠点を護ろうというのに、アドバルンはあげましたよ、見上げてどうぞ銘々に考えてごらん、と。たしかに、しないよりはマシである。だが、憲法九条を何としても悪しく改定しようとしている連中のしつこさの前に、それはあまりにノホホンとした、自己満足行為で終わりそうなのを、わたしはアホラシイと言うのである。だから、しつこく「闇」に向かい言い続けるのである。

 2004 10・18 37

 

 

* 森銑三先生は最上徳内をそれは高く評価されていた。ご研究の跡を読んでいっても、至当の判定だと思われる。後々の近藤重蔵や間宮林蔵にくらべて知名度は低いのかも知れないが、蝦夷地探索の実蹟や見識や及ぼした裾の高価の広さ、またその時機の早さと行動半径の厖大に広さ、アイヌやロシア人との接触の深く的確なこと、その殊功は問題にならず大きい。彼を最も優れた日本人の一人と指名して顕彰したのは、シーボルトもまた大きい存在であったし、現代ではドナルド・キーン氏も最上徳内を大きな存在として著書に取り上げられている。

 村山市楯岡の百姓から江戸に出て、経世家として評価高い本多利明の門に入り、天文数学医術測量に加えて天与頑健の体躯をもって、師利明名代の体で田沼意次のとき初度の蝦夷地検分の幕吏一行に加わった。しかも一行の敬意を一身に集めるほどの働きをし、当時の有司がことごとく史上から抹消された後にも、幕府の蝦夷北方政策体行の事実上の柱、中心人物として、千島はウルップ島まで、カラフトもその北端近くまで行き間宮海峡の存在をほぼ推定し確信していた大先駆者、大冒険家であった。間宮林蔵の幕府密偵のような国粋的密告者に陥ることもなく、むしろ若年より視野を遠くロシアとヨーロッパにまで向け、実学と博物学とにも向けて、シーボルトが江戸滞在期間には、二人協力して辞典編纂にも励んだ。蝦夷地やカラフトのきわめて正確な地図が世界の学術書に表されて広く感銘を与えた最初の貢献者が、じつに最上徳内であったことを、シーボルトはその大著に徳内の頁大肖像画も掲げて特筆し、感謝している。

 

* わたしは江戸時代の開明的な或る面を代表する系譜として、十八世紀初期の新井白石と後期の最上徳内をとてもとても大きな太い一筋と考えて、どうしても彼等二人は小説として書き置きたいと願っていた。白石とシドッチを書いた「親指のマリア」(京都新聞)と、最上徳内及びその時代を書いた「北の時代」(世界)とは、わたしがまだまだ「誰かさん」であろうと燃えていた時期の入魂の遺産である。

「歴史」からわたしは学びたかった。森銑三先生との出会いは、まさしくこの小説「最上徳内=北の時代」の連載であった。先生の最晩年に、わたしはそのご入院の病牀にまでお出入りさせて頂いたのである。

 心ある人なら誰も識っている『森銑三著作集』全十三巻のたまげるほどのすばらしさを。どんな小説全集より安心して身を預けて面白い学問的な追究が、其処に満載されてある。

 2004 10・19 37

 

 

* 井上清氏担当執筆の「明治維新」の巻は、再読し三読したい一種の名著であった。勇気というか気概というか、立つべき視点というものを毅然と与えられた気がする。

 それにしても西南戦争と大西郷の窮死まで、つまりそれは士族勢力の潰滅までだが、凄まじい「ご一新」であった。讃美ではない、むしろ酸鼻の大時代であった。大久保内務卿独裁下での一例をあげて、言論表現の徹底的な弾圧法令とその仮借ない実施をみるだけでも血が煮えてくる。しかしまた敢然と政府を批判し続けてやまない言論ゲリラの反骨もなくならない。此の道の先には、憲法発布や国会開設が待っているのだろう。自由民権運動は、民選議会への運動は、既に澎湃と起こっている。士族本位の運動が、ようやく、人民私民の政治参加への意志・意欲になろうとしている。言論があんなにも徹底して弾圧されたときに、言論も表現も鍛えられた。みな、二年三年の入牢を覚悟で為されていた。熱い時代であった。

 いま平成の知識人も文化人も言論人も新聞も雑誌も、ゆるフンドシの右顧左眄、我が身に名誉や勲章は歓迎しても、縲紲の危険も犠牲も払う気全くなし。栄誉・名誉の「自己免罪符」発行を以て「賢人の行い」としている。麗々しく「九条の会」などと顔写真を並べているだけの、いささかの泥もかぶっていない綺麗な綺麗な白旗のしたへ、だれが命がけで集まるものか、馬鹿げている。

 明治維新から憲法九条が出来るまでに、どれほど広く「私民」の苦闘死闘があったかを歴史に省みれば、「あれはあれだけでいいんです、我々が銘々に声を揚げれば、自然発生で世論は盛りあがる、それでいいんです」とは、政権に固執する者達の悪念凝ったものすごさに較べて、なんというのんきなトーサンの弁であろう。戦争反対という、核反対という、言う以上はその反対自体が巨大な悪意志に対する戦争なのであり、戦争ならば勝たねばならない、勝つためには自然発生なんかでは所詮勝ち目がないということを、自由民権運動の無惨なほどの潰滅は教えているのだが、当節の「賢い」人達は分かっていない。

 

* 「天下万民」をみかたにつけなければ維新の大業に勝利できないと、幕府より先に気が付いた薩長土肥や岩倉具視たちだから、幕府の力に未練と過信を持っていた勢力を崩壊へ追いつめ得た。大久保利通も木戸孝允も天下万民の一揆する力を恐怖すらしていた。だからこそ、新政府の基礎を固め始めるやいなや、今度は、天下万民の政治的エネルギーをとことん奪い尽くして骨抜きにするための政策を積み重ねた。大西郷率いる旧士族の力よりも天下万民の一揆が怖かったから、西南戦争では西郷を挑発し挑発して鹿児島から引きずり出し、大久保は勝った。象徴的なのは、明治の新兵制下に組織された「土百姓」の軍隊の護るたった城一つを、旧士族軍選り抜きの精鋭が、いくら攻めてもビクともしなかった決戦であった、それが、西郷隆盛の、雪隠詰めのような城山切腹窮死へ一直線に結びついた。

 もう大久保には、天下万民は身方と言うより、徹底支配すべき相手でしかなかった。「内務省」がフルにそのために稼働し始めたとき、天下万民は苦しみに喘いで、しかし闘う力はあの戦前戦時にも、まだ命脈を保っていたのを忘れてはならないだろう。

 西南戦争前後の日本列島で続発した一揆の数も激しさも、あの江戸時代のそれを大きく越えていた。一揆の質も変わっていた。天下万民は徐々に政治に目覚めていた。そういう一揆の勢いは、少なくも安保闘争で樺美智子が国会前で殺された頃までは続いていた。

 民衆は常に「一揆する」権利を持っている。頭の高い「声明」ごっこでは政治の閾値は越えられはしないことを、歴史は正確に教えている。

 そんな事を、じつは腹の底までよく識っているのは、政権を握って離さない連中なのである。なんという皮肉。なんという不幸な国民。

 2004 10・21 37

 

 

* 明治十三年ごろの、東京の「店」の軒数を多いのから並べて行くと、どんなのが並ぶか、見当がつきますか。あっと驚く、びっくり仰天。

  古道具屋 4740   古着屋 4546  古鋼鉄商 2703   質屋 1946   損料貸し(レンタル) 1915  屑屋 1396

  これが「ご一新」の「花の東京」に最も溢れていたお店であった。この「読み」は難しくも興味あるところ。明治十年過ぎの東京をこの数字によって「理解」し「展望」しなさいという課題が、おもしろく成り立つ。東工大時代にこのような数字を知らなかったのは残念。教室にいた諸君にアイサツさせてみたかった。

 2004 10・25 37

 

 

* 井上清氏の『明治維新』に感じ入って、愛読三嘆のあと、こんどは色川大吉氏の『近代国家の出発』を読み始めて、早や本半ばになる。この巻がまた素晴らしい。

 明治十年の西南戦争から憲法発布・国会開設に至る明治半ばの十数年史である。

 こう言うと、近代国家の成立へ「曙光と希望」とのかがやかに晴れ晴れとした時代のようでありながら、その陰惨・陰険の政治動向。それに対抗する草莽崛起の鮮烈な自由民権民衆運動。政党成立への複雑な人渦と権利思想の成熟と大弾圧。

 こういう歴史を、色川さんのように毅然決然とした視野と視線と視認に導かれて読み進む、嬉しさ、面白さ。

 だが、いかんせん、憲法は人民による人民の憲法ではなく、天皇絶対神聖の欽定憲法となり、思想表現と人権の主張には容赦なき弾圧が熾烈に熾烈化し、政治と豪商とのつかみどりのような利権癒着は天文学的に膨れ行き、そして塗炭に喘ぐ民衆の窮乏と絶望はこれぞ地獄苦と言わねばならないのだから、読んでいても、もう腸の煮える歴史だと言うしかないのである。

 しかも読み進んで行く手応えと感銘とは、何物もこれに叶わない。

 なんで「こういう歴史」を、せめて高校で率直に教えられないかと痛嘆するが、歴史というのは往々、いや常に、権力の手に邪まされ、私され、歪曲されてきた。

 だがそういう中で、民間の一出版社から民間気鋭の誠実な学者達による、さながら「後生に対し自ら歴史の証言台に起つ」ような、真摯な的確な「歴史記述」は、これこそ「宝」というべきではないか。

 いかがわしい近時の「歴史ひねくりまわ史現象」を強く突き放し、世の読書子は、絶版にならぬ今のうちに、この中央公論社版「日本の歴史」シリーズを、全巻は大変にしても、せめて幕末尊王攘夷編から明治維新編を経て近代現代の巻巻を、子孫への贈り物として残して欲しいと思う。それらが、少なくも今後編まれるであろうどんな新企画よりも、遥かに「信頼できる姿勢」で書かれていると思うからである、わたしはそれを確信している。

 2004 11・2 38

 

 

* 『日本の歴史 近代国家の出発』の担当筆者色川大吉氏にお願いの手紙を出した。

 

* 拝啓  私的な、しかし日本ペンクラブの一理事としても、少し改まったお願いで率爾の手紙を差し上げますことを、どうかお許し下さい。

 私は、ただいま日本ペンクラブで「電子文藝館」を担当しております。そのことは後ほど話させて頂きます。私ごとから少しお聴き下さいますようお願い申し上げます。

 もう昔、というほどになりましたが、中央公論社が『日本の歴史』という大部の叢書を出しましたことはむろんご存じの通りです。創作上のいろんな必要もあり、文庫本になってから全巻を買い調えまして、歴史好きの私には愛読のシリーズでした。ですが、さすがに全巻は読み通したことなく、それを妙につまらなく物足らなく感じておりました。

 で、実は一昨年より、第一巻から毎日少しずつ、一行あまさずに読み始めました。失礼な言い草ですが、このシリーズが、ほぼ准専門書的な教科書でありながら、担当執筆されるみなさんの相当に個性的な筆致と歴史記述とで、十分信頼に値するもののように感じていたものですから、厖大な量でありますことなど全く苦にならず、とても興深く読み継いでまいりました。一つには、この読み方で通して行きますと、従来、どうしても読み落としてきた幕末から明治、明治以降の日本史へも必然入って行けて、それが第一の大きな期待でした。

 そして事実、「尊王攘夷」から「明治維新」へ入って参りまして、私は、もう興味深くて深くて夢中に読み進み、そして今、ちょうど色川先生の「近代国家の出発」をもう三分の二ほど読ませて戴きまして、じつは、強い「催し」に迫られました。このような手紙を何としても書きたくなりました。

 お忙しいなかを申し訳ございません。私はこの「日本の歴史」読書の感想を、自分の日記に書きつづり続けて来ましたが、つい二三日前には、御本に強く触発され、蕪雑ながら、こんなことを書きました。ご免なさい。

        (略。十一月二日の項に。)

 お恥ずかしい次第です。で、この辺からお願い申し上げるのですが、最初に申し上げましたように、私は、日本ペンクラブで現在、「ペン電子文藝館」なるインタネーットによるパブリックドメインの提供・発信を担当している自称「e-OLD」です。この事業を理事会に提案し、そして開館して、来月末の「ペンの日」で満三年になります。

 趣旨は日本の近代文学文藝の「流れ」を、全分野、広範囲に視野に入れまして、幕末から平成にいたる作者・筆者たちのよく選ばれた作品を広く世界に「無料公開」して行こうというにあります。すでに、福沢諭吉に始まり、河竹黙阿弥も三遊亭円朝も仮名垣魯文も、しかし栗本鋤雲も中江兆民なども、明治の思想家達も文豪も、それ以降今日までもほぼ網羅して行く一方、歴史の地下に湮滅させてはならない優れた隠れた書き手達の名と作品も丁寧に拾い上げて、スキャンし、句読点に至るまで校正を重ね、現在もう約五百五十人、作品は六百五十作ほどを「電子文藝館」の名において公表し続けています。島崎藤村より井上ひさしに至る十四歴代会長作品はもとより、あらゆるジャンルを洩らさず、加えて蕪村研究の潁原退蔵や近世人物に詳しかった森銑三の論考なども、いちいち総て読みました上で、「招待席」に続々招き入れています、昨日も今日も明日も。つまりペンクラブ創立以前の永い歴史も洩らさない姿勢を、責任者として、私は取って参りました。

 その他にも明治以来の「出版編集」「反戦反核」二つの特別室も設けて、相当の充実を見せております。

 で、先生の懇切で興味津々の歴史記述を耽読し愛読しております内、感動の余り、こんな感想と希望とを持つように成りました。これも私の日録のままですが。

 

* 小田実氏の翻訳詩「南京虐殺(J.ローシェンバーグ)」とエッセイ「『フーブン』の詩人の重い答」とを一作品として「電子文藝館」反戦特別室に送りこんだ。ズシンと重いメッセージである。

 永井荷風の珠玉の翻訳詩集『珊瑚集』をぜんぶスキャンしてみようと思う。美しい文化財である。

 翻訳された文学には二つある。日本の作品が翻訳されていった例。もう一つは海外文学が優れた日本語に翻訳された例。前者はわたしの手が届かない。後者は、この『珊瑚集』もしかり、鴎外の『即興詩人』や山内義雄の『狭き門』など詩でも散文でも文化財が幾らもある。全編とは行かなくても、ひときわ優れたものを拾い上げ植え付けてゆきたい。

* 今一つ考えているものがある。近代以降の、「自由と人権のために」放たれた記念碑的な建白や発言の類である。ペンの精神に照らして素晴らしいもの、時代に先駈けたもの、時代を超えて伝えたいもの、が拾い出せる筈。

 植木枝盛らの「民権数え歌」や「国会を開設する允可を上願するの書」や「日本国憲法案」や「日本国民及び日本人民の自由権利」など、また櫻井静の「国会開設懇請協議案」や松沢求策らの「国会開設上願書』等々。

 時代を超えてその真実の失せないもの、永く人の胸を鳴らし続けて欲しいものを、ぜひ掲載し記念したい、特別室を設けてでも。残す理事任期をこれに絞るぐらいに力を注ぎたい。 

 

 御本を読みながら、ふつふつと湧く感銘や、実は口惜しさにも駆られまして、上のような視点から、文藝とか文学とはたとえ少し逸れましても、少なくも「ペン」を駆使した「自由と人権」への苦闘と成熟の跡が記録として此処に遺せないか、伝えて行けないか、と思い至りました。この半永久的なペクラブによる文化事業のなかへそれらを「招待」し、後生にも是非読んで知ってほしいものがある、あるに違いないと思い至ったのです。

 ただ、私の今のちからで、どういう建白や上願や草案や檄文や起草をほんとうに価値あるものとして選ぶか、見つけるか、手にはいるのかに戸惑います。分からないのです。

 どうか、その趣意の、資料選択やコピーの入手可能な方法などについて、お教えいただけないでしょうか。たったこれだけで済む要件にながながと書きましたけれど、私の希望をお分かり戴こうとするあまりと、お笑い、お許し下さいますよう。

 お手づからがご無理ということもございましょう。こういう件でお力を添えて若い学究などご紹介下さいますだけでも、せめてお願いしたいと思い居ります。

 くだくだしく申し上げて恥じ入ります、相済みません。熱意の他何の他意もございません。どうかご教示下さいますよう重ね重ねお願い申し上げます。自由民権運動このかた昭和の敗戦に至るまで、「自由と人権」に触れた主権在民に繋がる資料や文献を、たくさん此処に集めてみたいと念願しております。

 自然にも人事にも、いろいろ穏やかでない世情です、呉々も御大切にと念じます。

 「ペン電子文藝館」のURL  http://www.japan-pen.or.jp/bungeikan/   念の為 付記させて頂きます。

 2004 11・4 38

 

 

* それにしても明治十四、五年ごろからの自由民権運動や自由党などの政党・政社への凄惨で熾烈な徹底的残虐弾圧のむごさ、あくどさはどうであろう。他の何もかも忘れ去ってしまうぐらい陰惨苛酷の不快さに、シンから参ってしまう。弾圧の鬼県令三島通庸、監獄地獄の鬼官僚金子堅太郎、絶対政権へ冷酷なまで緻密に民衆制圧を画策して余すところ無かった鬼官僚井上毅、かれらの上にのり天皇制絶対専制政治に君臨した伊藤博文や岩倉具視。

 それに対峙し、国民の自由と権利とのために闘い闘い、しかも無惨に敗れ去っていった近代草莽の知性たちの哀しみや存在感。そんな中には北村透谷もいたし、彼と美しい許嫁を競った平野友雅もいた。颯爽かつ清冽な詩藻と闘志に満たされた細野喜代四郎もいた。何人も何人も何人も忘れがたい、思想の人たちがいた。

 2004 11・5 38

 

 

* なんとも気勢は上がっていないけれど、気分の基調はどうも明治十四から十七年ごろの陰惨な人権殲滅らしい。むかむかしています。ひどい時代だったなあ。二度とあんなところへ戻って行ってはいけない。

 井上清も色川大吉も鴉は初見参ですよ、これまで何一つ知らない。

 いま、徒然草に続いて、柳田の「先祖の話」を音読しています。「山の人生」とも思いましたが、あれはいきなり怖い子殺しの話が出て来るんでね。それをまた、色川さんの本で紹介していました。掌説で「雪」だったか、両国の橋の浪人父子を書いたことがありますが、気分が辛いですねえ、罪なき貧苦の話題は。必ず背後に、政権の険悪が隠れている。

 あの透谷が法被(はっぴ)の袖や背に「時・めぐり・来る」の意味を隠し文字に書き入れ、車を引いて針や糸の行商の体で、関東の村々に自由民権を説いてまわったという話に、鴉は、いま泣きたいほどです。   糖尿鴉

 2004 11・5 38

 

 

 

 

* あたりはグレイ。 

 昨日は紀宮様の婚約発表で、自然に顔がほころびました。

 環境は天と地ほども違っていても、同じ世代の子育てをしながら、常に関心がありました。団地間近で美智子様から優しい微笑みを受けたあの出会いがあったからかもしれません。我が家の末っ子も同じ年齢で嫁いだなあ、と。ほのぼのとうれしい気分です。 泉

 

* 皇室のことを想うのは、つらいものがある。天皇という「玉」が、いかに都合良く「神聖」に転がされ転がされて、維新政権や明治新政府により、その後の軍国政府により、無惨なまで犯され「悪用」されつづけてきたか。歴史を知れば知るほど複雑怪奇な虚しさに陥る。

 天皇制というのが無くては日本人はやって行けないかのように錯覚させられているが、現に総理小泉純一郎の頭に、天皇の神聖だの尊厳だのの何が有るというのか。政権維持に邪魔になれば盲腸かのように簡単に切除手術するかも知れない。もう政治的に利用価値は無いと踏んでいる政治家達の本音は、顔色に出ている。

 何でもないこと、明治以前に、江戸時代以前に皇室の存在価値は戻っているのだ。あれどなきが如くに。平和にというべきか。美智子皇后にも徳仁皇太子にも親しみや敬意を個人的にもつことは自然にたやすいが、どうか藩屏としての新華族復活などに囲繞されず、雲の八重垣に押し籠められないで欲しいとだけ、切に願っておく。

 

* 風雨。けれど、空気は乾燥し眼は痛む。

 2004 11・15 38

 

 

* 色川大吉氏の歴史記述になる『近代国家の出発』を読み終えた。二十数巻、一万ページを越す「日本の歴史」をここまで孜々として読み進めてきたのは、この巻にはたと出逢わんがためであったかと思うほど感動し、教わり、そして切に口惜しくもあった。せめて刊行された当時にすぐ読んでいたら、わたしの血は煮えて、別の方角へ脚は走り出していたかも知れない。

 若者よ、忘れずに、見つけて読んで欲しい。若者でなければならない、日本の未来はきみたちの手にあるのだから。

 わたしは、今日は歌舞伎見物だ。なんということだ。

 2004 11・16 38

 

 

* 今夜からは隅谷三喜男氏担当の『大日本帝国の試煉』の巻を読み継ぐ。いきなり朝鮮問題から日清戦争になる。この戦争が、日本史に、また世界史に与えた影響はあまりに深刻。

 2004 11・16 38

 

 

* 日本の近代が西欧列強との極端な、ウソのような不平等条約にがんじがらめに縛られたまま始まったこと、そこからの脱出は明治の国民と政府との悲願であり、これだけは呉越本音も共にしていたが、そしてじりじりと回復していったが、忘れてはならないのが、それほどの同じかそれ以上の不平等条約を、日本国は、かさにかかって朝鮮半島に対し強硬に押し付けてはばからなかった歴史的事実。朝鮮支配を通して国際的に日本国の重みを主張しようと、明治政府も民間も画策し続けた歴史的事実。

 その必要から、日清戦争は起きた、起こされた、のであった。帝国主義こそが日本の近代史を蔽うが、そのテコとしてあくまで利用されたのは「朝鮮」への支配欲であった。これは、辛い話だ、頬被りして忘れてしまっていいことではない。

 2004 11・17 38

 

 

* いわゆる「大東亜戦争」宣戦布告の昭和詔勅があった日。日本軍はハワイを空襲し、マレー半島に上陸した。一九四一年の今月今日だった。

 あの日も迎えのバスで、馬町の「京都幼稚園」に通っていたと想う。給食のはこびこまれる一種独特の匂いが園内に流れるとき、また嫌いなものがその弁当に入ってないかとヒヤヒヤしていたのを思い出す。ま、師走にまさか茄子はついてなかったろうが。

 翌年の四月八日頃、「京都市立有済国民学校」に入学した。幼稚園では「秦宏一」だったし、それ以外の名は記憶になかったのに、たしか「一年黄組」と胸に吊された名札には「秦恒平」とあり、なんとも肝の冷えたことを思い出す。

 昭和十七年四月、「広い」と思った運動場の南側に、桜が「はなはな」と咲いていて、北側の「大きい」と思った「軍艦」のような白堊の校舎中ほどに、椋の大樹と、大きな銀杏の木が二、三ならんでいた。椋の根方、木蔭に石柱で囲った中には、塚と小燈籠が起ち、のちに、木曽義仲の愛妾のひとり山吹御前の碑であると識った。

 その頃までに日本軍は、仏印やタイと軍事協定し、香港全島を占領し、戦艦大和を竣工し、マニラを占領し、ビルマに進撃し、戦時の大増税案が出され、日独伊は新軍事協定を結び、シンガポールを占領し、食糧や物資の統制令がしかれ、ジャワ島に上陸し、ラングーンを占領し、ジャワのオランダ軍を降伏させ、ニューギニアに上陸し、わたしの入学式の数日後には、バターン半島を占領していた。

 たが入学して十日ほど後、四月十八日には早くも米陸軍機は日本本土のうち東京・名古屋・神戸を初空襲した。一月後に日本政府は、朝鮮に徴兵令施行を決定したのであった。この年の歳末に掛けて、戦雲はすでに暗く日本列島を蔽いかけ、大晦日、大本営はガダルカナル島撤退を余儀なくされた。敗色はもう蔽いがたい。

 だが、わたしの遠い遥かな実感では、いやだった学校に馴染んでゆくに連れ、この、少なくも昭和十七年中はまだ家の内も外も或る不思議な明るさ静かさと、古きよき時代の行儀良さや清々しさとで、朝顔の花のように新鮮であった。

 2004 12・8 39

 

 

* 三十六計「寝てる」に如かずと、何故かこんな句が夢を支配して、二時まで寝ていた。昨夜のお酒を抑えるためにもその方がいいのだとリクツをつけて。何の不快感もなく目覚めた。夜前は、日本史の伊藤博文ハルビン駅頭での暗殺から韓国併合という理不尽の歴史を夢中で読んでいた。

 柳田国男のホカヒやヒラカの話も、何度読んでも興味深い。歌舞伎で勘九郎がお得意の「法界坊」あの名前の由来をすぐ言える人はいないだろう、ならば、柳田国男の『先祖の話』など読むといい。「ほかひ」は「ほかふ」「ほがふ」など古語であり津々浦々に今も潜んでいる語彙である。盆の棚などの、端の方か埒外に、粗末ながら供物が置かれて外精霊(ほかじょうろ)たちを迎える。ふつうの供物は家族等がのちにお下がりとして食べるが、ほかひの食べ物等は戸外にうち捨てられ、犬猫や、あるいは人の来て持ち去る料ともなる。この持ち去る人らへの通称が「法界」坊、おっそろしく差別的な名付けである。

 縁やゆかりを皆失ったような老人を悪罵して、「柿の葉め」と貶める風もあったそうだが、これは柿の葉にほかうことと連繋した、とんでもない罵倒であった。こういう民俗が行われたかげに、つまりは「先祖」とは誰のことか、どこまでが先祖霊か、という難しい問題がからんでいる。

 2004 12・11 39

 

 

* 十六日というと半端な数のようだが、民俗行事的に十六日はゆるがせに出来ない意義をもっている。正月十六日も、夏の盆の十六日も。ほかにも有る。たいがい先祖の魂祭りと関連している。それかあらぬか、十六日というと、わけもなく、ふと遠いなつかしいものを感じている。

 わたしたちが昭和三十二年の十月十六日に大文字山に登ったのは、むろん偶然であったけれど。

 2004 12・16 39

 

 

* 田中 正造  たなか しょうぞう  1841.11.3 – 1913.9.4  下野国阿蘇郡小中村(現栃木県佐野市)の名主家に生まれる。明治十一年(1878)「栃木新聞」創刊、翌年県会議員に当選、直ちに中節社を組織し県の自由民権運動の中心的役割につき、明治二十三年(1890)第一回総選挙で衆議院議員に当選、六回連続議員の地位にいて終始藩閥政府を痛烈に批判していたが、史上最も悪質な公害の一つ、足尾鉱毒事件に議員の職をすて近県民衆の為に独り挺身奔命、ついに明治三十四年(1901)十二月十日明治天皇に直訴したが、政府はこれを「発狂」として顧みなかった。 掲載文は直訴状の大要をとったもの、正造の懇望で草稿を書いたのが名文家で知られ後に大逆事件に斃れた幸徳秋水かと云われている。田中正造は最も優れた草莽の偉人であった。

 

 足尾鉱毒明治天皇直訴文 大要

 

 草莽(さうまう)の微臣田中正造、誠恐誠惶頓首頓首、謹んで奏す。伏(ふし)て惟(おもんみ)るに、臣田間(でんかん)の匹夫、敢て規(のり)を踰 (こ)へ法を犯して

鳳駕(ほうが)に近前する、其罪(そのつみ)実に万死に当れり。而も甘(あまん)じて之を為す所以(ゆゑん)のものは、洵(まこと)に国家生民の為に図 (はか)りて、一片の耿々(かうかう)竟(つひ)に忍ぶ能はざるもの有ればなり。伏て望むらくは

陛下深仁深慈、臣が狂愚を憐みて、少しく乙夜(いつや)の覧を垂れ給はん事を。

 伏(ふし)て惟(おもんみ)るに東京の北四十里にして足尾銅山あり、其採鉱精銅の際に生ずる所の毒水(どくすゐ)と毒屑(どくせつ)と久しく澗谷(かんこく)を埋め渓流に注ぎ、渡良瀬(わたらせ)川に奔下して沿岸其害を被(かうむ)らざるなし。而(しか)して鉱業の益々発達するに従ひて其流毒益々多く、加ふるに比年(ひねん)山林を濫伐し、水源を赤土(せきど)と為(な)せるが故に、河身変して洪水頻りに臻(いた)り、毒流四方に氾濫し、毒屑の浸潤するの処(ところ)茨城栃木群馬埼玉四県及其下流の地数万町歩に達し、魚族斃死(へいし)し田園荒廃し、数十万の人民産を失ひ業を離れ飢て食なく病て薬(やく)なく、老幼は溝壑(こうがく)に転じ壮者は去て他国に流離せり。如此(かくのごとく)にして二十年前の肥田沃土(ひでくよくど)は、今や化して黄茅白葦(こうぼうはくゐ)満目惨憺(まんもくさんたん)の荒野と為れり。

 (略)

 人民の窮苦に堪へずして群起して其保護を請願するや、有司は警官を派して之を圧抑し、誣(しひ)て兇徒と称して獄に投ずるに至る。而して其極や既に国庫の歳入数十万円を減じ、人民公民の権を失ふもの算なくして、町村の自治全く頽廃(たいはい)せられ、貧苦疾病(しつぺい)及び毒に(あた)りて死するもの亦年々多きを加ふ。嗚呼(あゝ)

四県の地亦陛下の一家(いつけ)にあらずや。

四県の民亦陛下の赤子(せきし)にあらずや。

 

  臣年六十一、而して老病日に迫る、念(おも)ふに余命幾(いくば)くもなし。唯万一の報効を期して、敢て一身を以て利害を計らず、故に斧鉞(ふえつ)の誅を冒(おか)して以て聞(ぶん)す、情切(せつ)に事急にして涕泣言ふ所を知らず。伏して望むらくは

聖明矜察(きやうさつ)を垂れ給はんことを。

 2004 12・16 39

 

 

* 「大正デモクラシー」も、「白樺」登場まで読んできた。

「白樺」も大方読んできたが、今まで心に残っているのは、「白樺」派であろうがなかろうが志賀直哉の『暗夜行路』を筆頭に、いくつかの短篇。日記。武者小路実篤は一時愛読したが、胸に刻み込んで離れないという程の作はない。『友情』や『愛と死』など子供心にも甘いと思い、谷崎『刺青』時代の短篇にも遠く及ばないと感じていた。それでも、ま、初期の物か。『真理先生』『馬鹿一』など後期の作は、その頃は面白く読んでいたけれど、いささかばからしくもあった。滝沢修ら演じる『その妹』のような舞台が気に入ったことがある。有島武郎の『ある女』は、文学史にも突出した名作。海外の文学にならべて遜色ない本格の作で、「白樺」であるないが問題にならない。長与善郎では『竹澤先生といふ人』をそれは愛読したものだ、感化も残っているだろう、だが、今また読み返したいとは思わない。里見トンでは結局『多情仏心』が只一つか。気取った軽みの文体をわたしは自然な物とは受け取れないで来た。

 白樺のもちだした、人道も個性も自由も、貴族末流、氏素性の特権に結局は乗っかっての立言であったのが、ファショナブルで弱く、ただ西欧の美術をしっかり輸入し紹介してくれた恩恵、総じて文化運動としては感謝するところ大きい、彼等だからそれは可能だった。谷崎や芥川や川端では出来なかった。

 2004 12・17 39

 

 

* 色川大吉さんの『自由民権請願の波』は、正しくは「国会開設請願」であるが、それを云うなら「立憲政体請願」でもあり、だから「自由民権」と、当時の政治運動の称を借用した。

 現在の我々は「民主主義」憲法をもっているが、明治憲法は立憲君主政体をとなえ、従って民主主義とは謂えなかった。だが憲法解釈の正当な議論として「民本主義」は云い得たのである。明快にそう説いたのは、吉野作造であった。

 自由民権運動は、天皇制否定など考えに殆ど入れていなかった、つまり「民主主義」への運動ではなかった。だが、たとえ欽定憲法であれ、憲法に基づく「政治・政策の目的」は「国民」であり、「国民の」権利・福祉と安全のために憲法は機能するのだから、「民本主義」は当然で至当との議論は、説得力を持った。成り立った。自由民権運動とはこのいわば「民本主義」運動なのであった。それが大正・昭和・敗戦を経て、やっと「主権在民の新憲法」へ受け継がれ、初めて「民主主義」になれた。その価値の重さ・大切さを忘れたくない。

「請願の波」を読んでいると、やはり、今日のインテリたちの政治発言や声明や講演やシンポジウムの類が、いかに民衆の動力とは乖離し遊離した、ただの売名的平和ボケであるかが、イヤでも分かってくる。切実感がてんでうすく、例えば「憲法九条」の凄いほどの重さや価値高さや大切さ、それを喪失してしまう大変さの実感が、まだお偉い顔ぶれ達の間でさえ成っていない、のである。

 あれほどのエネルギーが諸国に結集されてもなお、日本の権力は「私の民」の願望など踏み蹴散らして、ついに太平洋戦争の敗戦にまで強引にひきずっていった。いまもなお似たハメに我々は引きずり込まれようとしているのに、相も変わらぬ「人寄せパンダ」の人気講演会など幾ら開いてみても、焼け石に水に近い。会場は熱気でムンムンしていたなどと謂っても、会場を出たとたんに、帰りに何処で何を食べていこうか、飲んでいこうか程度で褪めて行くこと、つまりはカルチュアセンターなみ、わたしの理事会なみなのである。結束と継続と日常活動の伴わない運動が成功したタメシは、歴史に徴して、絶無なのである。

 2004 12・19 39

 

 

* 民本主義を明快にとなえて時世を揺るがした吉野作造にも、限界があった。かれは民衆が政権の座に着くことはよしとせず、「よき指導層」の政権を、「民衆」は監視出来るし監視すべきだという、吉野はそういう「立憲民本主義」者であった。これに対し山川均らは、政治の主導権を民衆が、国民が持たない「建前の民本主義」の脆弱さを批判し、やはり「民主主義」「主権在民」でなければならないと説いてやまなかった。よく覚えていたい。

 2004 12・20 39

 

 

* 九州にいると朝鮮半島は風のようにいつも身内にそよいでいるだろうと思う、旅人して九州をめぐった時でさえそう感じた。

 昼間、テレビの講座で、日清から日露戦争当時の「日韓関係」を講義していたが、極く最近に身を入れて読んでいた歴史記述と当然大きく深くかぶさり、暗澹とした気分だった。どう言い逃れようもなく、かつての日本専制支配政府と軍とは、列強と共謀し、また日本だけの途方もない横暴から、大韓国を民政・外交・経済的に蹂躙し尽くし、ついには併合した。国土と国政とを奪い取った、保護するとの名目を、恥ずかしげもなくつけて。「いかなる屁理屈であろうとも大韓国に武力干渉出来るきっかけを作れ」と云うような公電が日本政府から出先機関に何度も出ていたのだ、言い逃れようがない。朝鮮半島の人には不幸な申し訳ないことであったと、思う。

 だからといって今、拉致問題で北朝鮮政権のやっていることに、黙ってはいない。黙っていてはいけない。

 2004 12・20 39

 

 

* 機械の前にいて、足の爪先がちぎれそうに冷えている。

 幸徳秋水による「万朝報」明治三十三年の社説『自由党を祭る文』を入稿した。自由民権運動と板垣退助の自由党とは切っても切り離せないものだった、だから彼が紙幣にも登場したのだが、自由党の自由民権は段々に膿み潰れるように潰滅したものだ、ことに伊藤博文が「憲政政友会」を結成して専制帝国主義政党の看板を掲げたとき、自由党転じて板垣を総裁とした憲政党は、当の板垣党首を置き去りに、昨日まで自由党にあらん限りの圧迫を加え続けた伊藤を総裁に戴く政友会に埒もなく合流してしまうのだ。

 幸徳秋水は「万朝報」で、これを痛烈に撃った。

 ついでに、日露戦争の開戦前に幸徳傳次郎と堺利彦という優れた思想家であり記者であった二人が、連名で明治三十六年に書いた『退社の辞』を、同じく内村鑑三の筆を折る辞などとともに、「反戦・編集・主権在民史料」として「ペン電子文藝館」に送った。

 色川大吉さんの『自由民権 請願の波』を、委員校正を終え本館掲載にまわした。

 

* さ、日付が変わった。ぬるま湯で湯ざめの風邪をひかぬうちに、階下で一息入れて、やすもう。 

 2004 12・27 39

 

 

* ハマちゃんとスーさんの映画も途中で失敬して、鶴田知也の叙事詩文学『コシヤマイン記』に、打ち込むように、起稿と校正とを進めていた。もうとうに日付が変わっている。さすが歳末、深夜のメールもはたと途絶えている。

 この鶴田の小説を、あたりまえのアイヌものと読んでは、作者の北海道に於ける労働運動の体験の深さを見落としてしまう。アイヌをよく調べよく識って書いているのが分かる。わたしは「世界」に長く連載した『最上徳内=北の時代』で、徳内サンにならいアイヌに没頭していた。その体験に、いまのところ鶴田の作品は背いていない、丁寧に情愛と敬意をもって書いていて、そこに労働者として資本家の暴威と直面してきた作家の思いがにじんでいる。アイヌの「カムヰ=神威」崇敬のもつ意味も正しく捉えられていると想う。偉大な自然神から半神としてのアイヌラックルに伝えられた威力は、まさしく本来の「おとし魂」のように各部族の酋長(オトナ)に分かち与えられており、それ故に、良きオトナへの部族の忠実と結束と勇気とが保たれる。それは、織田信長に木下藤吉郎が忠義を行い明智光秀が謀叛したのとは同じタチの道義ではなかった。アイヌ世界は神威の統べた世界であり、少なくもその神威にだけはいかなる異種の部族も威服し崇敬の念を共有していた。部族間の協働も、また対立も、だからこそあり得た。

 昭和十一年の芥川賞を得ている。すこしクセのある日本語で叙述しているのがエキゾチックな味わいを成している。この短くはない作品の起稿を、年末年始の仕事にする。スキャナの精度は劣悪で、頼りなくトビトビに字を追いながら全面書き直している。アイヌ語でのカタカナのフリガナが多く、目がひんまがりそうである、が、読む楽しさには恵まれる。

 コシヤマインはアイヌの伝説的な勇士であり、シヤモ(日本人)の暴虐に立ち上がり猛威をふるう悲劇的な戦士でもある。彼が闘った時期の松前藩は、騙し討ちを主にしたアイヌ討伐と支配を重ねていた。そのあくどい姿勢は、同じ日本人ではあれどとても許しがたく、危うくわたしは日本人が嫌いになりそうになる。

 2004 12・29 39


 

* 快晴。「日の光」きららか。

 

* あけましておめでとうございます。メールありがとうございました。

 志位委員長が新年のあいさつを申し上げております。

  http://www.jcp.or.jp/2005_newyear/index.html

 日本共産党は、くらし・憲法・平和-希望のもてる政治に、2005年も奮闘いたします。

 今年もよろしくお願いいたします。日本共産党中央委員会

 

* たまたま同報するアドレスのなかに日本共産党のがまじっていたので、こういう返信も来た。で、委員長の映像と声の入る年頭所感を聴いてみた。耳新しいことは何もない。そして感想は、ある。

 日本の歴史を、近代史を、今まさにわたしのように気を入れて復習している者には、いまの共産党でも社民党でもほんとうに物足りないのは、党勢がこんなに無惨に壊滅状態にある理由をよく掴んでいないらしい一点だ。

 歴史を丁寧にたどってみるがいい。ことに私民や働く人達に密着しなければ成り立たない政治運動や、いわゆる市民運動の場合、いくら一過性に盛り上がったとて、すぐにアトカタもない泡のように潰されてゆくのは、「組織」的に運動エネルギーが構築されていないからで、「団結がんばろう」と拳をふりあげるあの姿勢が、ただの形骸、ただの空洞に化してしまったからである。いくらイデオローグを羅列してみても、その意欲を、国民が団結して持たねば、力にならない。

 そのことを一番よく知ってきたのは、大久保利通や岩倉具視以来の藩閥や専制明治政府の保守主義者であり、伊藤博文や山県有朋や、桂太郎や、政友会系の体制支配主義者たち、平民宰相といわれた原敬も、がそうであった。その伝統をまともに嗣ぐ自民党政権の人間達は、陣笠に至るまで優等生並みにそれをよく知っている。昔の伊藤や山県等よりも賢く、ムリはしないで、徐々に、国民の政治エネルギーが横並びに手を繋いで団結しないための方策を、万全なほど時間をかけてとり続けてきた。その効果が、たとえば社民党の潰滅になっている。

 この三十年の日本の保守政治家達のみごとに成功した際だった一例が、いわゆる組織政党である社会党潰しであった。完璧に成功している。

 なぜそうなったか。社会党や共産党自体が、上澄みのイデオロギーを叫ぶだけで、それを支持して押し上げる組織の構築をあっけらかんと手放したからだ。その意味では、二代続き女性党首を戴いた社民党体制は、上澄みインテリののんきなカーサンによるお遊び飾り物政党にちかいのである。利敵に徹してしまった、無思慮の敗残であることにいまだに気付いていない。

 共産党の志位さんの挨拶は歯切れがいい、が、自分たちでやれます、金づるとしての「赤旗」だけ買ってくれ、と言うているに過ぎない。第一、われわれのことを「草の根」と呼んでいる。支持してくれ、党と党員でやるからと言っている。

 できるものかと言いたい。

 私民を政治的に手を繋がせてゆく地道な努力を欠いて、上に乗っかっているだけの革新政党なんて、そのまま自己矛盾でしかないし、期待は持てない。志位さん、福島さん。むかしの革新運動に粉骨砕身した先輩たちの「方法」をより改善して、「団結がんばろう」の声に実体を蘇らせなさい。

 大正の恐慌あとにも、完全に潰されてアトカタもなくなりかけた労働者の力が、また蘇ってゆく力強い段階も、歴史は教えている。もうバブルから抜けだしていい時機、それを保守政権におんぶにだっこで批評していても仕方がない。農民とサラリーマンと女性と私民と、何よりも学生の力を、また掘り起こすのだ、分裂していないで。

 2005 1/4 40

 

 

* さて明治維新は「革命」であり「民主主義」が期待されていたか。それはわたしは、はっきりノーと思っている。大変化ではあったけれど革命ではなかった。また慶應から明治への交替期にある種の合議政治を思った人も、天皇という「玉」を否認どころか利用することだけが考えられていた。民主主義ではなく、天皇制絶対専制主義国家へと新政府を壟断していた薩長も岩倉具視も積極的にその方向へ国の舵取りをしていた。

 次に、維新を成功させたのは、或る面では「下級士族」たちのようであるが、彼等下級武士に本当の政治エネルギーを与えて後ろ支えしたのは、いわゆる「草莽」=主として農村の知識も文化も余力もあり国家改革をぜひに必要と望んでいた豪農・地主層たちであった。昨日の俳優座の芝居のパンフに誰かが「草莽」を下級武士層のことと書いていたのは間違っている。下級武士は下級武士、草莽は草莽。藤村の「夜明け前」にはそうした「草莽」たちの維新への燃える熱意と、維新後に裏切られてゆく悲しみや憤懣が書かれている。藤村の父に擬せられた青山半蔵はそれゆえに狂うのである。

 しかしいかなる下級士族も草莽の民も「民主主義」は考えていなかった、辛うじて可能性があるとすれば、殺された坂本竜馬と「徳川にかけそこなひし一ッ橋」の退隠した慶喜ぐらいか。

 維新日本にのしかかつていた圧力は列強の帝国主義と不平等条約。幸いに維新の元勲達は必死にこれだけははね除けようとしてくれた。しかしその方法として富国強兵で日本列島をガードするよりなかった。天皇を神聖犯すべからざる「玉」「現人神」として国民に拝ませ、そうして国対を統制管理して帝国主義日本国に一致させなければ、たしかに日本は危なかった。「民主主義」など少なくも天皇と藩閥政府周辺には有り得なかったし、板垣退助等の自由党も民主主義を叫んだわけではない、自由民権の許容される立憲帝国主義であった、当初は。主権在民ではなかったのである。

 だが新政府の圧政は反撥を生んだ。「自由民権」が私民の声となり、その勢いを支えたのは、もはや衰え果てた士族エネルギーではなくて、またもかの「草莽」であった。そこからより下辺へひろがった。自由民権の運動が鍛えられた民意の表現になって行くのは、東京や京都のような都会からとはいえず、秩父や群馬や土佐や熊本やであった。そこから草原を焼く炎のように拡がった。

 

* 昨日の舞台の一つの悲歎の声は、発布された待望の憲法が、やっぱり欽定憲法であり日本国は天皇が統治すると第一条に書かれていたことにあった。裏返せば「主権在民」「民主主義」に憧れる私民の声も思いも芽生えていたということである。

 だがそれは容易に成らなかった。成させまいとする明治藩閥政権の鞏固な意思を嗣いだ保守政権がガンとして生き延びてきたからだ、あれだけの戦争を跨ぎ越して。

 

* 北村透谷へ目がいっている。「ペン電子文藝館」やわたしのこの「私語」もいくらかお役に立ってきたのだろうか。

「わたしは当時を体験していないので、あの頃どうして学生たちが団結して『大学粉砕!』なんて叫ぶことができたのか、関心があります。」

 わたしも実は何も事情が分かっていない、知りたいと思う。現にその渦中にいたはずの猪瀬直樹などが書いてくれてよさそうなものだが、彼等もひろい意味で「転向」したのであった、ろう。

 2005 1・6 40

 

 

* ゲーテやバルトークのように藝術家にして指導的な地位にあった政治家もあり、一概には云えないけれど、わたしは物書きとしてはいつも野党的な精神を大事に喪いたくないと思っている。だからだいたい野党に支援し、与党には批評批判の視線を向けている。しかし日本の野党はなんとも頼りがいがない。社会党にはタダタダ、ガッカリさせられたし、共産党は、このメールの人の嘆くような、見放すような、何とも言えない臭い頑迷さがつきまとう。柔軟な知恵者がいれば、いい勢力の野党になれるリキをもてそうな党なのに、ひからびたチーズのように固くて臭い。

 大体に於いて保守の政治家が本気で怖れてきたのは、野党なんかではない。国民大衆の怒りである。明治以来、藩閥政権も保守本流政権も、民衆の政治的なエネルギが結集することを最も怖れて、その兆しが有れば素早く弾圧し、分断離間をはかり、愚民政策にひそかな力をそそいで絶大の効果を上げてきた。

 何を小泉政権等が喜ぶかと云って、韓流だのよんサマだのブラピだのキムタクだのと云ってくれている間は、大安心の大安泰なのである。あのピーピー・キャアキャアのエネルギーがあれらのアイドルから眼を背けて「国会」を睨み始めたら、どんなにビビるか知れたものではない。保守政治の知恵者達は、いかに革新政党に国民を組織させまいかと、最高の悪智慧を使い続けてきたのであり、それをこそ「政権政治」とハッキリ心得ていた。

 野党が、労働者の組織が、市民活動が、大きく山を動かしかけたことは、この日本の近代史にも何度となく有り、それはすべて「大衆が横に手を広げて繋いだ」ときに限られている。野党の自力で何かが出来たことは、まず絶無。社民党も共産党もそういう過去から少しも学ぼうとしていない。

 憲法。それは大切だ。だが憲法だけでは何も動かない。憲法が大切だと思う国民が動かなければ、憲法そのものは一票にも成らないのである。福島瑞穂も土井たか子も口を開けば、憲法。彼女達は自分のちからで憲法が守れると思うのだろうか。共産党も同じこと繰り返しのアホダラ経を唱えるけれど、国民に向かいどうか自ら動いてくれとは云わない。アカハタを買ってくれ、あとはわたしたちがやりますから、などと云っている。オケヤイ。

 こんな野党である間は、日本に野党の力はのびない。保守勢力の渾身必死の悪宣伝で、総評を潰され、日教組をつぶされ、国労を潰され、あれもこれも完膚無きまで潰されて、それこそが「保守政治」の実体であったのだと、志位も福島もまるで分かっていない。もうそろそろ本気で目覚めて「日常の組織活動」を、観念でなくオルグで培わねば、大衆は動かない。大衆が動かなくて政治は変わらないよ。

「九条を守る会」もおなじこと。壇の上からえらそうな人達が説法して大衆が動く力になるなどと思っていては、お話にもならない。

 

* わたしはかつて左翼陣営に身を寄せたことも活動したことも、一度もない。根から源氏物語や能・歌舞伎や茶の湯や和歌俳句や文学の人間である。そのような人間でも、歴史から学べば、ものは見えてくる。野党のすべき事は一つしかないのだ。「よんサマ」騒ぎなどをただの風俗と観ているようでは、政治家は務まらないよと云いたい。愚民化政策はもののみごとに的を射続けている。ついでに野党をまで愚民にしてやったと政権与党は頬笑んでいるのが、共産党も社民党も見えていないみたい。アホやなあ。

 

*『あたらしい憲法のはなし』という小冊子を文部省が昭和二十二年八月に発行している。わたしが小学校五年生の夏休みに刊行されている。この年の五月三日に日本国憲法は施行され、この日が憲法記念日になっている。日本国政府が新憲法にどんな理解をもちどんな価値を感じていたかが、ハッキリする。

 その小冊子と「日本国憲法」とを「主権在民史料」特別室に併載することにした。これは特に大事な史料である。

 2005 1・13 40

 

 

* 昨日『大正デモクラシー』の一冊を読み上げ、第二十四巻『ファシズムへ』を今夜から読み始める。以下、太平洋戦争、戦後、の二巻で終えるが、さ、花の散る頃まではかかるだろう。日本史を読み始めたのがいつ頃か、もう見当もつかなくなったが、わたしの日々を、これはこれでしっかり立たせていた。力になっていた。

 2005 1・17 40

 

 

* 大越哲仁会員の協力で、初期自由民権運動の中心的役割を果たした植木枝盛による、『日本国々憲案』が手に入った。欽定憲法が成る前のいわば「在野の憲法草案」として、最も優れかつ完備したもの、第一級史料なのである。有り難い。

 2005 1・21 40

 

 

* 柳田国男の『日本の祭』を読んでいて、かすかにかすかに記憶を呼び覚まされるときがある。夜に夜をついで日々の数えられていたことは、知識としても納得していた。王朝の物語を読んでいて、一日が朝から始まるなどとはとても思われない。そういう、実感とまではいかないが予感ないし推知は、たとえば祇園祭の「宵山・宵宮」でもう体感していたのだ、あの祭りのもっとも華やいだ時間は、祭礼当日の鉾巡幸以上に、前夜の宵山・宵宮にあることを、子供心にありあり感じていた。(遠い異国の例をあげて正しいかどうかいささか危ぶむけれど、クリスマスは暮れの二十五日と承知しながら、イヴの二十四日を盛大に祝いあうのも、それに等しくはないのか。)

 正月用に蛤を買いに行くのが、わたしの恒例のお役であることは何度も書いているが。新門前の秦でも保谷の秦でも、その蛤汁を大根人参紅白の酢なますなどとともに「お祝いやす」と家族一礼して祝うのは、きまって大晦日の宵の食事からであった。お正月サンは大晦日の夕暮れにはもう訪れているのである。

 柳田は言う、前夜の夕暮れから翌朝までが一続きの正月の年霊迎えの祭りであったと。だが、なんとなく、前夜と早朝とにいつしかに二分されてきた。それでも気持ちはどこか、もとのまま「一続き」に、この除夜から元朝へは床に入って寝ることもごく短くか、またはなにとなく通夜のうえで、極く早朝から「祭」の気持ちで雑煮を祝う風が、いまも多い、広い、と。

 たしかに我が家でも、今でこそ平気で元朝を日が高くなるまででいぎたなく長寝しているけれど、新門前の秦では、「なんでやの」と子供心に堪らないほど元旦だけは、とびきり早く起こされ、ガチガチ身震いしながら顔を洗い、かなり厳粛に雑煮を祝ったのを憶えている。あれは、前夜の宵から元旦早朝まで「一連の正月祭」をしていたのだった。そういうふうには、なかなか思い至らなかっただけで、おそらく秦の父も母もそんな意識はなかったろうと思う。意識が有れば、あの父なら一席弁じて、説明してくれるぐらいはあったろう。

 一つの証拠とも謂えるだろうか、昔から「初夢」とは元日の晩から二日の朝へかけて見る夢だと教わっていた。なんで元朝に見る夢ではないのだろうとまでは、子供なりに不審に感じた。そうなんだ、大晦日から元旦へは、寝ないで大歳神を祭る、それが古来本然の「祭」であったのなら、夢など、見ようがなかったのだ。

 

* 柳田は、「まつり」とは、「まつらふ」だと謂っている。その日ばかりは神霊の「お側にいて、なにかと奉仕する」のが「まつらふ」「まつる」意味だと。「まつはる」「まつはりつく」とも繋がっていようか。よく分かる。そして「祭」と「祭礼」とは、歴史も形もちがう。祭はいわば近親者が「お側にいて何かと奉仕する」が、祭礼には無関係な見物が参加する。

 

* いろんなことを思い出すものだ。が、ふしぎと、心身が澄んでゆく気がする。

 2005 1・24 40

 

 

* 昭和史は、はなはだ、しんどい。国際的な視野なしにはものが言えないし、見えない。中国大陸の軍閥の状況だけでも、蜘蛛の巣のようで、それへ日本、英、米、ソビエトなどが勢力と覇権を争って絡みついている。それが日本国内の経済にも思想にも政治の葛藤にも直結してくる。明治の日本はまだ把握しやすかったが、大正から昭和へ、そして太平洋戦争前へ、日本はまるで糞づまりのように息苦しい。ファシズムが魔の綱のように日本国と国民を束ね上げてゆく。

 コミンテルンの指導で日本共産党が勢力を扶植して行くが、無産政党活動への強烈な政権によるテロリズムが働いている。拷問と虐殺がむしろふつうの手段として特高や憲兵や警察に普及しきっているのには、怖毛を振るわずにいられない。「主権在民」など、夢のまた夢、ただのまぼろしの如くであった。あんな世界へ、われわれは立ち戻らされてはならない。

 2005 2・2 41

 

 

* 昭和に入り、太平洋戦争まで。日本は病める経済・財政の時代であった。途方もない大恐慌、いまのバブル崩壊の不況を何層倍も深刻にした恐慌が、いまから思えばウソのような、金解禁とともにやってきた。金解禁がなければまだしも、台風が来ても窓は閉じてあり桟を打ち付けることもできた。ところが、アメリカから吹いてきた恐慌の大嵐をうけて、待ってましたとばかりに「金解禁」で窓という窓も入り口もみな開いたのだもの、日本経済という家は恐慌台風にぶっとばされた。しかも政策的にデフレ政策をやった。デフレスパイラルで物価は猛烈に下がり、ものは売れない、失業者は蚊のようにわいて出た。「ファシズム」の時代は経済逼塞のトンネルの中へねじ込むように来たのである。

 もしも、である。大正の末に、田中義一という歴代最悪陸軍大将の政友会総裁が「総理大臣」をやらず、その次の内閣で、井上準一という大蔵大臣が、もう少し資本主義がドツボにはまりかけていることに気付いていてくれたなら、太平洋戦争の起こる前に、日本は舵をちがう安定の方向へ切り替え得ていたことだろう。

 歴史の「もし」はお笑い草であるが、歴史が「繰り返す」とは、なみでない「真理」にちかく、その「似た繰り返し」の中で、あの田中義一に並ぶ言に小泉純一郎でありそうなことに、もっと怒りと用心の身構えをわれわれは持たねばならぬ。

 ほんとうに「国のため」に政治をしているのなら、ほんとうに「国民のため」にこそ政治をしているのでなければならない、と、そんな鉄則を小泉総理大臣は何より絶えず「憲法」に聴いていなければならないのに。

 2005 2・10 41

 

 

* そして「ファウスト」そして「デミアン」そして「今昔物語」のファルス(笑話)に吹き出し、まさに私の生まれた「昭和十年」に至る、わが近代史の現代史と成り変わりゆく「ファシズムと大恐慌の時代」。今まで心づかなかったが、わたしを「預け子のちに貰ひ子」として南山城当尾の大庄屋吉岡家から預かるまでの、秦の両親たちは、明治三十年以来、ああ、いったいどんなに窮乏と苦辛との庶民生活を生き凌いできたかと、想えば思えば息がつまってくる。

 貨幣の価値変動ひとつをとっても、とてもわたしらの想像を絶した、いやおうなしの体験を父達はして生き延び、そしてわたしを迎えて育ててくれたのだ。ああ。

 2005 2・11 41

 

 

* 興味ある理事会であった。

 あらかじめ、こういう文書で「電子文藝館委員会」としての報告を、理事会に提出しておいた。三項を用意していたが、その第一を掲げてみる。

 

*  昨年十二月理事会で新設を報告し諒承された「主権在民史料」特別室には、以降、下記、

 

 藤村操「巌頭之感」  田中正造「足尾鉱毒天皇直訴」 北村透谷「精神の自由」 色川大吉「自由民権請願の波」  幸徳秋水「自由党を祭る文」  堺利彦・幸徳傳次郎「万朝報退社の辞」  徳富蘆花「勝利の悲哀」  文部省「あたらしい憲法のはなし: 日本国憲法全文」  植木枝盛「日本國國憲案 附・大日本帝国憲法」

 

その他をすでに展示し、今井清一「関東大震災」等々、次次にいまも手がけている。

 標題を「検索」するという読み取り手段からも、系統的な目次構成の必要はなく、目に触れ手に触れた史料から随時に集積してゆくのが効率がいいのは、他の諸展示と同様である。収拾は、「直接史料」に限定せず、趣意において深く鋭く「主権在民」の思想や理想に触れてゆくもの、さよう時代を刺戟したもの、を大小となく取り上げて行く。委員会に一任されたい。

  試みに一点の別添史料「日本皇帝睦仁君に与ふ」を、予備稿の体裁で理事会に提示する。率直に、(此処に加えて掲載するかどうか、等)理事各位のご感想を参考にうかがいたい。(前文は、秦が書いている。)

 

* この史料は、無署名であるが、中央公論社刊『日本の歴史』第22巻「大日本帝国の試煉」のP422以降に歴史記述の一環として掲載されているもので、その限りで根拠のないものではなく、まともな歴史学者のまともな意図に於いて大多数読者に早く(昭和四十九年)に提供され版も重ねていたモノで、わたしが勝手気ままに創出したモノではない。紹介のために仮に書いた前文も、史料を歪曲することなくごく普通に書いてみたモノである。

 以下に、そのまま紹介してみる。

 

* 主権在民史料特別室

 掲載の史料は、明治天皇の誕生日(天長節)を期して米国サンフランシスコ総領事館の入り口に貼られ、現地でも、日本へも、多数配布された「天皇への公開状」。天皇制への正面切った批判として画期的な一文は当局を震撼した。米国では「不敬罪」が適用できないのを利したテロリズム・アピール。この年明治四十年(1907)は、株式大暴落を皮切りに暴動・争議相次ぎ、「日本社会党」結社禁止、「平民新聞」発行停止、さらに桂太郎内閣は韓国皇帝の退位を強行、苛酷な不平等条約を押し付けるなどの挙に出て、帝国主義の拡大に奔命していた。この情勢がやがてフレームアップ(政権のでっちあげ)される「大逆事件」へ結びついて行く。民主主義へむかう最も暗澹とした時代の、本史料は不健康な「時代の病症」の一露出であった。日本ペンクラブと電子文藝館はかかるテロリズムを決して容認しないし、自由と人権の抑圧政治にも断乎抵抗する。

 

日本皇帝睦仁君に与ふ

 

  「暗殺主義」第一巻第一号 明治四十年十一月三日

 

 日本皇帝睦仁君足下 余等無政府党革命党暗殺主義者は、今足下に一言せんと欲す。

 足下知るや。足下の祖先なりと称する神武天皇は何物なるかを。日本の史学者は彼を神の子なりといふと雖も、そは只だ足下に阿諛(あゆ)を呈するの言にして虚構也。自然法のゆるさゞるところ也。故に事実上彼また吾人と等しく猿類より進化せる者にして、特別なる権能を有せざるを、今更に余等の喋々をまたざる也。

 彼は何処に生れたるやに関しては、今日確実なる論拠なしと雖も、恐(おそら)く土人にあらずんば、支那或は馬来(マライ)半島辺より漂流せるの人ならん。

 今は足下は、足下の権力を他より害せられざらんが為めに、而(しかう)して其権力を絶大・無限ならしめんが為めに、其機関として政府を作り、法律を発し、軍隊を集め、警察を組織し、而して他の一方には、人民をして足下に従順ならしめんが為めに、奴隷道徳、即ち忠君愛国主義を土台とせる教育を以てす。而して其必然的結果として生じたるは貴族也、資本家也、官吏也。如斯(かくのごとく)にして日本人民は奴隷となりたる也、自由は絶タイ的に与へられざる也。足下は神聖にして侵すべからざる者となり、紳士閥は泰平楽をならべて、人民はいよいよ苦境におちいれり。

 自由を叫びたる新聞・雑誌記者は、入獄を命ぜられたるにあらずや。単に憲法の範囲内に於る自由を主張したる日本社会党すら、解散を命ぜられたるにあらずや。こゝに於而(おいて)吾人は断言す。足下は吾人の敵なるを。自由の敵なるを。吾人徒(いたづ)らに暴を好むものにあらず。然れども、暴を以而(もつて)圧制する時には、暴を以而反抗すべし。遊説(ゆうぜい)や煽動の如き緩慢なる手段を止めて、須(すべから)く暗殺を実行すべし。

 睦仁君足下。憐なる睦仁君足下。足下の命や旦夕(たんせき)にせまれり。爆裂弾は足下の周囲にありて、将(ま)さに破裂せんとしつゝあり。さらば足下よ。

 

* わたしは、さきに、電子文藝館委員長としてこれを委員会(二月七日)に提示し、率直な意見を請うた。わたしの予測にはすこし反したぐらい、委員会では、当然「主権在民史料」特別室に掲載すべきであるとの意見が多く、逡巡を表明した一人もなかった。わたしはさらに慎重を期したいと思い、と言うよりも、この際日本ペンクラブ理事諸公の反応が知りたくて、今日の理事会に上のような趣旨で提出した。だれがどんな意見を言うかに強い関心があった。井上ひさし会長がいみじくも言い当てたように、リトマス試験紙を、ないし一種の踏絵をあえて突きだしてみたのである。

 

* 真っ先に井上ひさし会長が、積極的な賛同を示された。井上さんなら当然だと思い、それでも「ほおっ」と思い、さてと続く賛同意見が有るのだろうかと見ていると、中西進副会長からつよい反対意見が出た。以下、浅田次郎氏や数人からも、日本ペンクラブが誤解を受けるといった反対論が出た。いずれも、奥歯にもののはさまった理由らしきものが語られた。しかし、とはいえこれは稀有な好史料であり、何らかの形で是非活かしたいというような史料への賛同はついに誰からも出てこなかった。いろいろ条件をつけ、つまり「慎重にしよう」という意見であった。井上さんが言うように、「すこし自己規制」のかかった、ま、危うきには近寄らぬがいいと聞こえそうな意見ばかり。工夫をこらしてでもこの史料をぜひ活かしたいというのは、井上ひさし会長一人であった。このことは、現在の日本ペンクラブを指導している気の「理事会の空気」を、そのままあらわしていて、多くは沈黙して意見を述べなかった。述べるにも値しないつまらぬ問題だとも誰一人言わなかった。

 

* とくにわたしを驚愕させた中西副会長の二つの意見は、記憶に値する。

 一つは、この史料と出会った中央公論社刊の『日本の歴史』は、ある特殊な時期の最低レベルの歴史記述で「学問」の名に全く値しないヒドイモノであると極言されたこと。

 これに対し、わたしは即座に、歴史叢書をわたしも何種か瞥見しているが、この全二十六巻の日本の歴史は、逐一通読してきて実感している、誠実な姿勢で「各時代」をよく読んでいて、むしろこれ以降の歴史ものにこそ、後退また後退の体制妥協が露わではないかと反論した。中西氏は苦笑いして黙った。

 今一つ、中西進氏は、上の史料に反対する一つの理由は、「無署名」であることだと。

 これにもわたしは即座に、古代学者の中西さんらしからぬ暴言ではなかろうか、上古来の童謡(わざうた)や歌謡や落書は、悉く「無署名」であるが、その史料性を否定されるのか、と。

 中西氏はヘキエキし「無名」と「無署名」とはちがうとか、上古と現代とではちがうとか、口の中でいうのが隣席ゆえに聴き取れたが、まともな議論とは思われない。中世の「このごろ都にはやるもの」という落首にしても、江戸にも、明治にも、大正昭和にも「無署名」のまま優れて光った批評的史料はいくらもある。むしろ、署名も出来ない命がけで弾圧の手をかいくぐって「主権在民」への道を、やっとやっと築こうとした国民の意向のあらわれではないか、この史料は、と。

 明治四十年当時、こんなものが日本国内で出されていたら、フレームアップされてどれだけの弾圧ないし虐殺の被害者が出たか知れない。アメリカからの海を越えた投書で政府にも手が出せなかったことにこそ、無道な「時代」が表現されているのだった。

 しかも幸徳秋水の帰国を待ちかねたように、日本の政府官憲がやってのけた大でっちあげの国の犯罪が、即ち「大逆事件」であったことは、堂々たる歴史大事典等でも明記しているのである。

 

* これだけのことは、此処に参考までに「書き置く」ことにする。各新聞社の記者達も傍聴取材しているペンの理事会であり、秘密会でも何でもない。参考意見を知りたかった目的だけは達した。

 井上会長は会の後、「きわめて有効なリトマス試験紙でしたね」と言葉をかけてきて、いい工夫を加えてぜひ取り上げましょう、と。ま、それで、足りている。

 次いで、もう一項目の「提案」も挙げておく。 

 

* 「憲法改正」問題はこれからの日本の最重要急務となってゆく。「会員」の「声」をも電子文藝館「広場」に多く迎え入れる工夫をしたい、と同時に、電子文藝館委員会は、理事会に「提案」する。

 「憲法改正問題」で、日本ペンクラブの見解や主張を、具体的な問題点とともに広く表明できるよう、また会員に伝え得るように、実質的な「小委員会ないし検討会」を設け、継続取組みの姿勢を明白にしてもらえないか、と。

 ペンの月例会でも随時に報告し、例会を単なる懇親会だけに終わらせず、臨時の「会員討論会」にも転用できるフレキシブルな道もぜひ開かれたい。

 

* 現執行部体制も理事任期もやがて終わり、新しくなる(かもしれない)ので、此の件は「承っておく」と、阿刀田専務理事の約束で、無審議に終わった。これはこれでよい。「提案」は理事会に記録されねばならない。

 

* 珍しく大岡信氏が出席されていた。大岡さんの顔を見ているうち、わたしは反射的に竹西寛子さんを思い出していた。また亡くなった中村真一郎さんや山本健吉さんなどを思い出していた。みなさん古典から現代文学までを通じて日本文学にほんとうにくわしい。しかしこういう人の名も顔も、めったに日本ペンクラブの催し物で見ない。ことに海外の来客との文学的な催し物で、ほんとうに日本文学のひろく深く分かっていそうな人が責任ある発言や発表をしているのだろうかと、ふと、うそ寒い気がした。

 2005 2・15 41

 

 

* 井上光貞「神話から歴史へ」 直木幸次郎「古代国家の成立」 青木和夫「奈良の都」 北山茂夫「平安京」 土田直鎮「王朝の貴族」 竹内理三「武士の登場」 石井進「鎌倉幕府」 黒田俊雄「蒙古襲来」 佐藤進一「南北朝の動乱」 永原慶二「下剋上の時代」 杉山博「戦国大名」 林屋辰三郎「天下一統」 辻達也「江戸開府」 岩生成一「鎖国」 佐々木潤之介「大名と百姓」 児玉幸多「元禄時代」 奈良本辰也「町人の実力」 北島正元「幕藩制の苦悶」 小西四郎「開国と壊夷」 井上清「明治維新」 色川大吉「近代国家の出発」 隅谷三喜男「大日本帝国の試煉」 今井清一「大正デモクラシー」 大内力「ファシズムへの道」 林茂「太平洋戦争」 蝋山政道「よみがえる日本」

 

* 以上が、責任執筆制、中央公論社刊「日本の歴史」全26巻の陣容である。ことわっておくが、わたしはこの中ではただ一人奈良本辰也さんとは、何度か祇園町北側の路地中にあった「梅鉢」という、当時人気の飲み屋で並んで酒を汲み、歓談し、またわたしの著書もお送りしていた。その他は、ごく最近色川大吉氏と手紙で二度三度交信しただけで、それも色川さんを存じ上げていたわけではない。この中の一冊を読んで、電子文藝館にご助力をお願いし快諾して頂いたというに過ぎない。

 但し、ここに並んだ歴史学者の名前にも、幾らかずつの仕事にも、わたしはかなり親しんできたから、まるまる知らない人達というのではない。中にはとても親しく著書に学んで、学生時代から多々教わってきた先生方の名前が、井上、直木、北山、竹内、石井、佐藤、永原、林屋、岩生、児玉、奈良本氏ら、軒並みに並んでいる。

 わたしは上の、各巻ほぼ五百頁に及ぶ文庫本シリーズを、第一巻からはじめて、各巻隈なく毎日欠かさず赤いペンを片手に、この二年読み継いでいる。随時の感想は、「私語」にも繰り返し繰り返し書き込んでいる。わたしはこの厖大なシリーズを、幼来「歴史好き」「歴史読み」の、いわば私なりのキャリアを全投入し、「現に、読み続け」てきて、今、第24巻半ばに到っている。わたしはこれを、「読まず」に言うのではない。

 

* 昨日の日本ペンクラブ理事会で、中西進副会長が、この「中央公論社版」日本の歴史シリーズを、はっきり名指し、指さして、(本が其処に置かれていた。)「此のシリーズは、過去最悪最低の時期の最も程度の低い、学問とはとても言えない歴史記述であり」、そういうものに参照して日本ペンクラブが「史料」を得ようとするのは、極めて危険な、間違った方法だと発言されたことは、電子文藝館のこととは離れて、当節の学者を代表する一人であり、文化功労者でもある見識あるべき人の「放言」として、ちょっと我が耳を疑うところがあったし、その思いは、強まりこそすれ、少しも弱まらない。

 氏は、どういうつもり、どういう認識と覚悟あって、上の人達の仕事を、ああも罵倒に等しい物言いで葬り去ろうとされたのか、あらためて、ぜひ伺ってみたい思う。氏は、はたしてこのシリーズをみな親しく「読んで」発言されたのか。それほど侮蔑的に「評価」される歴史学的力量をお持ちの上で、各社取材記者もいる公開の席で発言されたのだろうか。わたしは氏の専門領域での業績に久しく敬意をもち、もう三十年来親しくお付き合いを願ってきた。同じ理事の中では最もお付き合いの長いお一人である。

 が、昨日のああいう罵倒発言には、なにかしら冷静な学者らしからぬ感情的な偏見、それもモノは読まないでする先見的偏見が働いているように観じられ、苦々しかった。

 

*「歴史」は魔の領域で、時代により観点により思想基盤により、いろいろ変動をみせることなど、百も承知している。だからこそ、それに応じてものを見ることもあるにせよ、安易には同調せず、どのような歴史観や歴史認識に敬意を払いまた学ぶか、を、読者は、自力でも判断しなければならないと思っている。その点わたしは、近時歴史教科書がらみに評判の、いろいろな歴史いじりの風潮に深くは関わろうとしなかったし、うさんくさい、思惑の多いもののようにも感じてきたのは事実である。

 但しわたしは学者でも研究者でもない一私民であり、歴史好きな一読者に過ぎないから、自分なりの理想や願望も「主観」として持しつつ、いろんな歴史記述から有益な示唆を得ようとしてきた。そういうことは、戦前の「国史」にも本をボロボロにするほど親しみ、高校の頃には「京大日本史」というシリーズに学んだ昔からの、わたしの多年自然な姿勢である。そういう歴史書・歴史研究遍歴の末に、「徹した通読」というかたちで改めて第一巻から読み直していった、上の中公版「日本の歴史」は、一般読者対象の啓蒙参考図書でありながら、一人一人の責任筆者の誠実な筆致で、なかなか優れた感銘を与えてくれると、わたしは観察し「推服」してきた。つまり中西進氏の「侮蔑的な評価」とは、ほぼ正反対であった。

 わたしは、今はやめているが、吉川弘文館の研究雑誌「日本歴史」の久しい購読者で、研究論文を読むのを、なまじな小説などより遥かに楽しんでいた。そうして接した現代の研究水準から推しても、さすが、上に挙げられている学者達の歴史記述と歴史観には、研究の実状とおおきく齟齬するところのない、むしろ悠々ツボをおさえ、つとめて「正確」を期しものとた印象づけられていた。どこからも、中西氏のような罵倒は出てこなかった。

 

* おもうに、歴史学の世界にも、「右」の「左」のという渦巻や学者間の抗争はあったかも知れない。国文学の研究でさえ、しつこい喧嘩沙汰が場外にまで見えてこなかったわけでなく、まして、ことが魔物の「歴史」理解となれば、あり得たに違いない。わたしは局外の門外漢だから詳しくは知らないが。

 中西氏ほどの学者も、そういう色眼鏡にわざわいされて、日頃のなにかしら嫌悪感を、此処に挙げられたような「学者」「研究者」達に対し思わず叩きつけられたのかも知れない、が、氏は、歴史学の専攻ではあるまい。しかしまた歴史学と無縁には進みえない学問領野を専攻されてきた筈でもある。どういう尺度と良心から、一人の、此の、代表的な栄誉をすら与えられた一科学者として、ああいう聞き苦しいことを、大声で公開の理事会で口走られたか、わたしは、しんそこ驚いた。困ったお人だと思った。その辺に、掃いて棄てたいほどいる凡々とした教授先生ではないのである、氏は。学問の自由と品質とを先頭で守って欲しいお一人なのである。わたしは氏の暴言には、同じない。氏のためにも、あれは失言であったろうと惜しみたい。

 そしてわたしは、今の時節なればこそ、多くの読者が、若い読者たちが、今一度此の中公版「日本の歴史」シリーズに立ち返って、現代の悪政にもみくちゃにされている日本国民の足下を、自己の足下を見直して欲しいと願っている。

 

* 昨日の理事会では、「漢字」問題も話題になっていた。此の件はおいおいにまた書くことにする。

 2005 2・16 41

 

 

* 今井清一さんの「関東大震災」を校正中。震災も凄いが、何と言おうと震災救護に名を借りた戒厳令、そのどさくさになされたまさにもの凄い朝鮮人への迫害と殺戮、さらに便乗して社会主義者や労働組合員への弾圧や検束と拷問。軍と警察との、いや国家体制そのもののテロリズムがこのときとばかり暴風のように、猛火のように荒れた。こういうことを隠そう、国民に忘れさせようと、政治がはたらき歴史記述が変質して行く。

 2005 2・26 41

 

 

* いま、大内力氏の『ファシズムへの道』を読み終えようかというところ、この巻も力作・力筆で感銘を受けている。芥川龍之介の自殺が昭和二年夏のこと。「ぼんやりとした不安」と遺書に書かれていた。ぼんやりとした状態は、忽ちに苛烈な軍国主義と警察国家へ奔騰してゆく。そのなかで自然科学は世界的な仕事を続々生んでいたし、文学も或る意味では極度の逼塞から不思議な活況へ推移している。だが科学者や文士たちの根底を捉えていたのは、トータルな批評精神ではなかった。小さな自己のうちへ首をすくめて、時代の暴風をやりすごすという、または迎合するという生き方になっていた。

 抵抗の精神は衰微し、多くが「転向」へ落ちこんでいった。

 昭和十年暮れにわたしは生まれた。妻は十一年の春に生まれている、二・二六事件に一ヶ月余り遅れて。自分たちの生まれた時代について、あまりに無関心で無知識のまま過ごしてきた。驚愕している。

 2005 2・28 41

 

 

* そうそう、夜前、『家畜人ヤプー』完結版の全三巻を読み終えた。らくらくという読書ではなかったが、或る意味では読むに値し、一度は全部通して読んでおきたい、これは、「神話」であり日本と日本人への苛烈な「批評」書でもあるとの思いを、また新たにした。柳田国男の『先祖の話』『日本の祭』とずっと併読していたのが、思いも寄らないでいた新たな批評の視座をわたしにもたらしてくれた、偶然がとても幸いした。

 そして今夜には「日本の歴史」の『ファシズムへの道』最終章を読み上げることになる。いよいよ次巻は『太平洋戦争』だ。歴史と言えばわたし自身、つい近代現代はワキに置いたまま昔のことにばかりかまけてきたが、「通読」を経て、幕末から現代までも熱心に読めたのは大きな大きな嬉しい刺戟だった。

 2005 3・1 42

 

 

* 歴史が『太平洋戦争』の巻に入り、読みやめられない。朝刊がポストに投げ込まれる音を聴きながら、「蘆溝橋」事件が泥沼の「支那事変」へ突き進む様々を読んでいた。軍の、ことに陸軍の大怪獣のような我が儘な暴れようで日本国は真っ逆さまに破滅へ落ちこんでゆく。内閣が次から次へ変わって行き、その一つ一つに陸軍の横暴は甚だしい。国家予算の43パーセントが軍に占められ、国民生活安定の対策にはわずか1. 数パーセントという、政治のありとあらゆる局面で軍国の国策に随順することの強要されていた時代。これでは、眠れないのである。

 

* このシリーズ本にも、「魯」でなく、「蘆」溝橋と表記され、さらに、この橋のまぎわに、同じ名の、小さな町村が実在したことも書かれている。この名前は、事件自体はいまなお分明でない闇をはらんで解明されていないらしいが、この蘆溝橋事件が拡大して、底なしの泥沼のような長期日中戦争になっていったことを思うと、歴史上の表記だけは、正確に定めておいたほうがいいと思う。

 2005 3・3 42

 

 

* 『太平洋戦争』ともなると、開戦にいたる息詰まる経緯、真珠湾攻撃からしばらくの間の息もつがせぬ日本軍の戦果また戦果の果てを知っているから、余計息苦しい。が、引きつけられ、読みやめられない。「戦争と平和」第一冊には申しわけ程度に目を向けただけで、戦争史に釘付けになったまま帰宅した。

 2005 3・11 42

 

 

* わたしが生まれた昭和十年(1935)頃、日本は文字通り準戦時体制に置かれていて、軍部の横暴は日増しに猛烈を加え、わるい政財界人が結託して自己の勢力をのばそうと暗躍していた。学問の世界へもすさまじい干渉や弾圧の手がのび、そういう際にも軍部の走狗となり吠え廻る、ごろつき同然の「自称学者たち」もいたのである。

 京都大学の瀧川事件のように、マルクシストでも何でもない、ま、こころもち自由な精神をもって学問を積んでいた法学部教授、その著書など時の大審院長 (最高裁長官なみ)が優良書として人にも推薦を惜しまなかった、そんな学者が、よしない私怨がらみにごろつき学者に噛みつかれるようにして議会の非難を受け始めると、その優良著書すらたちまち発禁にあい、文部大臣鳩山一郎は京都大学に対し、瀧川幸辰(ゆきとき)教授の罷免を強要、大学自治の原則をへし折るように反対を押し切り強行したのだった。言うまでもない鳩山一郎とは、あの民主党と自民党とに喧嘩別れしている鳩山兄弟の祖父であり、戦後には首相になった人物である。彼はそののち敵陣営から贈賄嫌疑でねらい打ちされ、弁明にこれ努めたけれど辞職に追い込まれている。

「準戦時体制」とはいかがなものか、それとも知らず、今の日本の政権与党等は、まさしく「準戦時体制」を想定した立法措置や基本的人権抑制を見込んだ体制づくりを考慮に入れて画策している。

 瀧川事件では、京大法学部は全教授が辞表を出し、助教授・講師・助手に至るまでそれにならい、学生は瀧川罷免反対に立ち上がり、東大・九大・東北大なとの学生も運動を起こしていった。

 だが、京大の他学部はひそとも動かなかった。他の大学も声一つたてなかった。運動を盛り上げたのは学生達だけであった。そして政府の分断・切り崩しにあうと、数人の教授達が節を曲げずに教授の椅子を蹴っただけで、他は総て政府のむろん実意なき甘言を口実に、すべて復職し、ことは絶えたのであった。大学自治の基盤は極めて軽薄であったが、問題は、今日ならどうかである、が、むろん遥かに軽薄の度は増していて、大学全体が政権の意図の前に政治的には「走狗」というに近い。学生にしても、起って烈しく抗議するほどの運動が起きも拡がりもしないであろう。

 知識人はどうであったか。みな「個人の良心に従う」という美名のもとに亀の子のように首をすっこめ、何一つしなかった。

 個人の良心・良識の目覚めるのを待つだけ、そのきっかけになればいい、運動の組織化は必要ないと、「九条の会」の有力メンバーである井上ひさし氏は、わたしの質問に対し明言していたが、近代史を顧みて、「個人の良心」とは、首をすっこめて身の保全をはかれるだけの亀の甲羅以上の何物でもあり得なかったのは明晰な事実であり、政権側の者はいかほど混濁・腐敗していても大慾ゆえに結局結束して常勝し、野にある者達は、ひたすら小異に拘泥対立し分散し私闘して、結局のところ「個人の良心」という墓穴に隠れ、暴風雨に曝されたのである。結束なしに勝てた政治的勝負など、只の一つとしてなかったのだから、憲法改悪に勝つためにも、力と意思とを有効に結束しなければ、ひどい結末は目に見えている。自分独りの良心にだけ恥じないのを誇って、世の中がさらにさらに悪くなるのに奴隷的に甘んじなければならなくなるのが、目に見えている。

 2005 3・21 42

 

 

* ひたすら昭和十年頃の日本史に没入していて、頭の中では、そのころの絶望的な日本国転落への道筋と、近時現下の日本の危うさとが重なり重なり、堪らない気分になる。昭和十年は、一つには美濃部達吉の天皇機関説が軍と右翼と神がかり学者達との暴力で蹂躙圧殺され完全に葬り去られた年でもあった。一つの健全健康な憲法学説が、国権により削除されただけではない、それをバネにして、(以下、大内力著「ファシズムへの道」より、)陸軍は、参謀本部が中心になり、「わが国体観念と容れざる学説はその存在を許すべからず」と声明し、(川島義之)陸相は政府に強硬策を申し入れた。つづいて三月二十日と二十四日、貴衆両院は機関説排撃を決議して、ついにみずからの墓穴を掘ったのであった。

 陸軍はご丁寧に八月三日、「国体明徴声明」をだしたが、それは、

 「恭(うやうや)しく惟(おもん)みるに我(わが)国体は天孫降臨し賜へる御神勅により昭示せられるところにして、万世一系の天皇国を統治し給ひ、宝祚 (ほうそ)の隆(さかん)は天地(あめつち)とともに窮(きわまり)なし。……もしそれ統治権が天皇に存せずして天皇は之を行使するための機関なりとなすが如きは、これ全く万世無比なる我が国体の本義を愆(あやま)るものなり。……」

といった神がかり調だった。学問はこうして神話のまえに屈したのである。

 美濃部(達吉)は著書を発禁にされ、検事局の取調べをうけた。検事はさすがに不起訴処分にしたが、貴族院議員を辞し、謹慎を余儀なくされた。そのうえ十一年(1936)二月二十一日には右翼団体の暴漢におそわれ、負傷させられた。

 これよりまえ(昭和十年)八月三日と十月十五日の二回にわたって、政府は国対明徴の声明をだし、天皇機関説の「芟除(せんじょ)」を誓った。十一年一月には(天皇機関説を支持していた法制局長官)金森(徳次郎)が辞職をして、この間題はようやくけりがついた。(二・二六事件直後の)十一年三月には文部省は『国体の本義』をつくり、「我等臣民は西洋諸国に於ける所謂人民と全くその本性を異(こと)にして」「その生命と活動の源を常に天皇に仰ぎ奉る」ことが、以後の教育の中心思想と定められた。万邦無比の大和民族という選民は、実は、こういう無権利の民だったのである。

 この機関説排撃は、日本の学問や思想のうえには重大な意味をもった。これによって国体は一種のタブーとされ、もはやまともに日本の社会について研究したり論じたりすることはできなくなったからである。天皇はこれによって神格化され、国民はそのまえにいっさいを捨てることを要求されるようになった。それは戦争に国民をひきずりこんでいくために欠くことのできない地ならしだったのである。

 

* こんなさなかにわたしは生まれ、二・二六事件、文部省の「国体の本義」表明の直後には妻が生まれていた。凄いときであったなあと驚愕する。

 こういうことに全霊で触れていると、たいがいなことが只単になまやさしい、ふやけたことのように思われてくる、それもまた危険なことで、何としても「今・此処」のこの生きの命を十分活躍させねばならない。

 2005 3・21 42

 

 

* 近代天皇制の確立にいたる「新しい権力のしくみ」を、逐一、いま井上清氏の『明治維新』に学んでいる。漠然と明治維新とはいうが、どのような幕藩時代の制度と差が生まれたかを具体的に知らねば、維新の判断をもつことが出来ない。新しい権力のしくみを知ることで、「自由民権請願の波」の起こりも「憲法制定や国会開設」にいたる道筋も見えてくる。日本ペンクラブがことごとに一つの主張一つの姿勢を示してゆく背後の積み上げとして、そういう歴史の展開への正しい目配りが必要なはず。それが力となり支えとなり、つよい主張に繋がるようでありたい。文藝館にあえて「主権在民史料」特別室が必要と判断したのは、それ故である。

 もしわたしがこの文藝館の事業を、いわば同業者組合である日本文藝家協会で担当するなら、こういう特別室はもちこまなかったろう。世界平和と人権擁護と確立をねがうペンクラブなればこそ、それが必要と考えたのである。

 2005 3・27 42

 

 

* 大戦末期の、極度をなお超えた国民の困窮。学徒動員。米機による無差別絨緞爆撃などを克明に歴史記述を介して辿っていると、それ自体他人事(ひとごと) でなく、国民学校の生徒で田舎に疎開していたとはいえ、小なりとも渦中にわたしも生きていただけに、身を刻むように、読書が痛い。キツい。もう少し、もう少しと息を喘ぐようにして一字一句校正している。凄い! とはこういう体験にのみ謂いたいと思う。

 だが、日本の銃後にいた子供もたいへんであった、その何層倍も苛酷に、命を刻々ナチの人種迫害に脅され曝されて生き抜いてきたユダヤ人児童達の映像はもの凄いというしかない。つらいと分かっていてわたしは機会が有ればそんな映像にも眼を曝すのを半ば義務のように観じている。

 

* どこへも出ない。今日イッパイは、この線上の仕事を二つ三つ廻しながら各個に進めて行く。

 

* 「大平洋戦争総力戦と国民生活」の無惨なかぎりを読み終えた。ああ親たちは、大人達は、たいへんだった、よく育ててくれたと頭がさがる。それにしても、苛酷な軍国ファシズムの準戦時体制から無策極まる総力戦へ、そして原爆投下二発、とは、ひどかった。だが過去完了のこととは思われない。「有事」を予期した準戦時体制の準備を政府与党は明らかに考えているし、そのためにこそ支障のない、都合の良い「憲法改正と新国体」を、既に中曽根もと首相等をはじめ、具体的に模索している。

 憲法を適切に、箇条によっては改めねばならないことは、制定後の時久しきを経て当然だろうが、そのどさくさに、改めてはならない憲法の生命線はぜひ守らねばならないのだが、だれが守ろうとしているのか。

 学生はいないも同然、労組は無いも同然、野党は消えたも同然、知識人はただ個人の良心にだけ頼んで、つまりは亀の子のように首をすくめて安全で事足れりとしている。ああ若い人達よ、君達の子や孫達を悲惨な地獄へ向かわせるな。

 

* 孫のやす香は、指折り数えて今年は、この春は、大学へ入学する。どんな学生になりどんな学問に向かって行くのだろう。よき船出せよ。

 2005 3・30 42

 

 

* 「横浜事件」のことは、此処でも時折触れてきたが、某新聞から、四枚ほどで書いてくれないかと頼まれた。ややこしい事件なので、事件の説明など始めたら紙数はすぐさま尽きる。お互いにそれを承知で頼み頼まれたのだから、何とかサマにしたい。言いたいことはヤマのようにあるが、新聞原稿はむずかしい。

 だが横浜事件は過去完了の言論弾圧事件ではない、むしろまた新たな人権の苦難時代、主権在民の圧殺されて行きそうな時代の一つの端緒として記憶されかねないコワイ事件である。そうならないためにも忘れてならないこれは「国の犯罪」であった。

 2005 4・3 43

 

 

* 少しずつだが、仕事が片づいてゆく。今は蝋山政道氏による「よみがえる日本占領下の民主化過程」を読み上げてしまいたい。これで明治維新いらい敗戦後の新憲法にいたる近代の歩みの主要な部分、印象的な部分に、都合七つの論考を通して「大筋」が貫通する。「主権在民」を願ってきた近代日本の「苦闘」があとづけられる。繰り返し繰り返し読まれてもいい優れて啓蒙的な歴史記述であり、記述の姿勢は真摯でかつ国民の必要な足場と同じ足場で書かれている。

 むろん中央公論社版『日本の歴史』そのものが繰り返し読まれて欲しいと声援をおしまないが、総てを拝借するのは無理な相談。そしてわたしは、この七個所の抄出に自信をもっている。だまされたと思ってでもいい「日本の近代」を知りたい人は、とくに中学高校の先生や高校大学生はこれを読んで欲しいと切望する。もうやがて、「ペン電子文藝館」の「主権在民史料」室に出揃う。わたしの任期内のいちばん今力こぶの入った仕事である。七人の先生方へ深い尊敬と感謝も、此処に。心より書き添えておく。

 2005 4・6 43

 

 

* 敗戦、すぐ宮様内閣として東久邇宮が組閣、わたしは丹波の山の中で国民学校三年生の夏休み中だった。

 二学期の十月には幣原(しではら)喜重郎内閣が出来た。この人は戦時中にかなり骨のある外交の筋を通そうとした。

 二十一年五月には公職追放された鳩山一郎に頼まれて吉田茂が第一次内閣を組織した。わたしはあいかわらず戦時疎開先の丹波で母と二人暮らしていた。この年の秋にわたしは腎臓病をえて、母が咄嗟の判断で緊急京都の樋口医院にかけこみ、危ない命を助かった。

 翌二十二年五月三日新憲法が施行され、三週間後には社会党の片山哲連立内閣が出来ていたとき、わたしは母校の小学六年生で、初代生徒会長に選挙されていた。

 小学校をいままさに卒業し、六三制の新制中学進学を目前に控えていた三月十日、京都府出身の芦田均が片山内閣をついで、連立内閣を組織した。中学一年の秋、ようやくわたしは与謝野源氏を耽読し、茶の湯の稽古に興趣を覚えていた十月には、第二次吉田茂内閣が出来た。

 

* この頃までに印象に残るのは、官公労、三公社五現業でのスト権がGHQ指令により剥奪されていたこと。労働者であることに違いはないのにと感じていた。

 いま、われわれの平和憲法が、占領政策の一貫として押し付けられたのだから自発的に改めようと声高に息巻く人たちは、それなら、こういう別方面で押し付けられた占領政策についても、白紙から考え直そうと言うだろうか。誰も言わない。言うてしかるべき政党が疲弊しきっている。おそまつ。

 働いている人達、使用されている人達に、スト権を乱発せよなどとわたしは絶対に思わないが、誰にでも自分たちの基本的人権を守ろうと闘うに足る足場は、平等にあたえられていなければならない。そう思う。

 2005 4・8 43

 

 

* 中日新聞・東京新聞の、北九州でもおそらく、今日の夕刊に、「横浜事件再審決定に思う」と題されたわたしの一文が出ている。広く読まれたいと願うので、此処にも掲載しておく。

 

* 反・主権在民国家    秦 恒平

 

 「国(公)の犯罪」は、まちがいなく有り得る。「私」の犯す罪より罪深く、歴史的に、事実、幾度も有ったのである。開戦や敗戦をいうのではない。例えば国権を笠にきた弾圧やフレームアップ(でっちあげ)のテロリズムがあり、最たる一つに明治の「大逆事件」が思い出され、また昭和敗戦前の「横浜事件」が思い出される。横浜事件のほうは、粘りづよい運動と法の手続きにより、戦後六十年、最近、やっと再審査の細い明かりが見えた。だが、往時の被告たちは、もう、一人もこの世にいない。

 大逆事件も横浜事件も、官憲の事件捏造と不当裁判の経緯はあまりに錯雑、詳細はしかるべき歴史事典などをお調べ願いたいが、ともに大規模な弾圧事件であり、国権による犯罪という暗部を多分に持っていた。ことに横浜事件では、神奈川県特高により、「中央公論」その他の筆者・編集者たちが、何の根拠も証拠もなく約五十名も検挙され、凄い拷問と自白の強要で、力づく「事件」に作り上げられていった。表向きは共産主義思想の猛烈な禁圧とみせて、実は、「戦争政権」背後の勢力争いに陰険に利された、著作と編集への「テロ」の疑いも持たれてきたのである。

 この数年関わってきた日本ペンクラブ『電子文藝館』に、故池島信平の「狩りたてられた編集者」という一文が掲載してある。大意、こんなふうに書き出されている。

<昭和二十年三月十日の空襲は壊滅的で、私は雑司ガ谷の菊池寛氏の家に転げ込み、居候した。或る日、本郷の焼跡を通りかかると、当時、『日本評論』編集部員の渡辺潔君と出遇った。「いま『文藝春秋』をやっているんだ。君等に会ったら、聞こうと思っていたんだが、やたらにこの頃、編集者が横浜の警察へ引っぱられているが、いったい、なにがあったんだい」と聞くと、渡辺君は、「実はぼくにもよくわからないんだが、うちでも美作太郎、松本正雄、彦坂武男の三人が引っぱられた。こんどは僕のような気がするんだが、なにが当局の忌諱(きい)に触れたのか、わからないんだよ」と、深刻な顔をしている。これが世にいう「横浜事件」で、前年あたりから、『中央公論』『改造』『日本評論』の記者諸君が続々検束されていた。身に覚えのないことで引っぱられるという恐怖は相当なものであった。>

 私は、これが「過去完了の事件」とは言いきれないのを、今、懼れている。昨今の政権与党の政治手法や法の制定は、個人の「保護」とか人権の「擁護」とか美しい文字をことさら用いながら、その実は、言論表現や報道取材の自由を、また私民の基本的人権を、またもや専制と監視下に抑圧する意図を、ポケットに隠した銃口のように、国民の方へ突きつけている。権勢保持の「公の犯罪」を、そのようにして法の名の下に「国」として犯しかねないのを、私は強く懼れる。「反・主権在民」政治の、津波にも似た不意の来襲を、心から懼れるのである。いましも用意されている国民投票法案のごとき、明治八年の讒謗律(ざんぼうりつ)や新聞紙条令などジャーナリズムの徹底監禁政策をホーフツさせる、信じられない条文に溢れている。

 だが、それ以上に私の気にかけ懼れているのは、物書きはもとより、新聞・雑誌の記者・編集者、出版人に、あのような「横浜事件」の悪夢再来を阻もうとする、自覚や意思や方策が、声を揃え手を携えて立ち向かう気概が、有るのだろうか、という一点。

 罪無き言論人や編集者を無惨に巻き込んだ「横浜事件」は、決して過ぎ去った過去完了の弾圧事件ではない。うかと油断すれば、即座に、また新たな基本的人権の苦難時代、主権在民のなし崩しに圧殺されて行く時代の、一序曲として位置づけられかねない、コワイ事件なのであった。忘れてはなるまい、横浜事件は、私民の平和を侵す「公の犯罪」、主権在民を阻む「国のテロリズム」なのであった。「国」という権力機構は、国民に禍する「罪」を、じつに容易に犯し得るのである。公と称して国を「私する」からだ。

 監視されるべきは、国民が公僕として傭っている、「政権」「政治」の方である。

 2005 4・12 43

 

 

* わたしたちの暮らしている保谷の今日など、どの道を通っても花がいろいろに目について、わたしは立ち止まってはデジカメにおさめつづけるのだが、いかにも都下の「郊外」という風情で、ああ下保谷も歩きようでは佳いなあ、などと初めて感じたような次第。

 この郊外の「郊」という語は、紀元前はるかな周の昔の、城内・郷(城門外)・郊外の別を言い伝えている。

 モンテクリスト伯とは、むろん伯爵。モルセールは子爵で、ダングラールは男爵。トルストイの「戦争と平和」には、公爵、伯爵など掃き捨てたいほど出て来る。亡くなったダイアナ妃の実家は古い伯爵家だったらしいが、トルストイの家もたしか伯爵である。幸い日本ではこういう爵位の華族が消え失せてくれて、それだけでも敗戦の洗礼は有難かったが、戦争前はうるさいほど華族や新華族がウジャウジャしていて鼻持ちが成らなかった。

 こういう公・侯・伯・子・男爵という爵位の名の淵源も、やはり周の独特の封建に在った。封建主義は臣下を各地に封じて支配させるが、周では臣下でなく一族を配して、その大小により公・侯・伯・子・男を名乗らせた。おっそろしい大昔のはなしだ。

 百人一首にもあらわれる菅公・貞信公・謙徳公だの、あるいは江戸城に参集する諸侯だの、そういう言い方にもその余翳が見えている。上の例など忘れても差し支えないものだが、それにしてもいろんなものを、われわれの世間は、はるか昔からうけていて、すっかりそれを忘れている。働き盛りな壮者ほど傲慢にそれを忘れることで自己主張の我が世の春を謳歌しがちだが、しっぺい返しはすぐに来る。

 2005 4・23 43

 

 

* 明日は上海空港から日本へ帰るという日の車の中で、通訳氏は、大岡信氏と私とに「先生方、<一言堂>ということばを知っていますか」と聞かれた。二人とも、一呼吸おいて知らないと返辞した。その方がその場にふさわしいと直感したのかもしれぬ。

 中国はその頃も、しかし今でもまだ「一言堂」のようである。自然発生のような民衆の反日・抗日デモですら、まさに「一言堂」の中の「一言」にしたがって起こったり止んだり、差し引きのあざやかに露骨なことは、驚かされる。二十数年前、四人組が追放された頃の華主席時代にも中国は一言堂です、分かって欲しいとさも訴えていた。あれから主席も総理も何度か代わり、やはり中国はまだ容赦ない「一言堂」を堅持し、国民は政権の一言のもとに揺れに揺れ暴れに暴れる。

 それも不幸だが、日本国民もあまり、今、幸せとは言えない。

 

* なぜか今日はとても疲れてしまった。朝が早かった。

 2005 4・23 43

 

 

* 猪瀬直樹著『ゼロ成長の富国論』が贈られてきた。忙しい中でも彼は毛筆で大きく献辞を書いてくれる。財政赤字、人口減少、労働意欲減退。この三つがいま日本をじわじわと苦しめている、これは江戸の昔に、かの二宮金次郎(尊徳)が対策した三つだ、と著者は議論を展開している。

 さて、わたしに一つ「感想」のあるのは、人口減少のこと。

 猪瀬氏の本文早々に、こうある。一九七四年(昭和四十九年)の人口白書に、「出生抑制にいっそうの努力を注ぐべきである」と、「世界第六位の巨大人口」をこれ以上増やさぬよう警告していた、と。

 わたしは同じこの年八月末で、十五年余勤めた医学書院を退社し、そして九月早々新潮社から書き下ろしシリーズに『みごもりの湖』をだし、雑誌「すばる」巻頭に長編「墨牡丹」を発表した。つまり、もう会社にわたしはいなかった。だが、まだ会社にいた時代、昭和四十三年一月生まれの秦建日子がまだ生まれていなかった、少なくもなお二三年以前に、「人口問題」で、じつに印象深いハッキリした一つの「記憶」を持っている。

 その頃わたしは雑誌「公衆衛生」編集にあたっており、編集委員の橋本正己先生がおられる芝白金台の国立公衆衛生院に、頻繁に通っていた。目黒の自然植物園の少し先にある、ちと壮麗に威圧的な大建築と振り仰いでいたが、あれが我が国「公衆衛生学」のいわば本丸であった。

 其処で、あの荻野式で産まれたという荻野博士ご子息先生とも初めててお目に掛かったし、曽田長宗院長をわずらわせた『農村保健』の大きな分担執筆企画でも苦労した。

 いろんな先生のお世話になった中で、とくべつ優しい方であった、小児保健室長林路彰先生のお顔を見て帰るのを、いつも楽しみの一つにしていた。

 ところが、その優しい先生に、珍しくわたしは言葉強く叱られてしまった事がある。「お子さんは」「一人、娘がおります」「そのあとは」「………」で、先生は顔を曇らされ、「秦さんのような家庭が、子供を一人しか持たないとはいけません」と、それから暫くの間、日本の人口の確実に減少して行く大きな不安について話されたのである。

 正直なところ、わたしはビックリしながら、むろん林先生が本気で言われているのを疑いはしない、が、確かに「実感」はもてなかった。なにしろ当時の日本は、どうなるかと思うぐらい人口膨張の一途だったから。

 しかし、わたしたちは、やがて、建日子の誕生を期待した。人口問題からではなく、姉の朝日子が一人子のままでは寂しかろうと考えたのである。

 上の「人口白書」が厚生省の公式見解を示していたのは間違いないが、公衆衛生院の権威ある専門家は、その少なくも数年前に既にわたしのような者にも、将来の人口減少と危機性について、ハッキリした見通しを持っていた。その是非や批評はべつにして、わたしのこれは「一証言」として書いておこう。

 たぶん、このまま推移すれば、数十年先には日本の人口は五千万人ぐらいにまで半減か、それ以上に減少して行くのではないかとすら推定され、危ぶまれている。林先生はすでにあの頃危ぶまれていた。そうなっては、日本の繁栄などはるか過去の話になってしまい、それどころか極東孤立の地で、日本国の「健康な独立」が保たれているかどうかも、まことに危いのである。

 

* 人口減少は江戸時代農村では屡々起きた大問題で、深刻な飢饉との悪循環を引き起こし、凄惨な地獄図を諸国に展開した。またそれに対応対策した能吏も、二宮尊徳より大分以前から、実は何人も史上に現れている。

 美作久世の早河八郎左衛門正紀(まさとし)、磐城白川の寺西重次郎封元(たかもと)、関東代官竹垣三右衛門直温(なおはる)、同じく岸本武太夫就美(なりみ)、常陸の岡田寒泉らで、ことに岡田、寺西は異色生彩ある「名代官」だった。寺西はことに人口確保に奇策をもって奔走し、「生めよ増やせよ」に一定の効果を挙げた。その著『子孫繁昌手引草』は、近代戦時日本にも活用された形跡がある。他国への人買い、つまり流行らぬ遊郭の遊女達を買い集めて自領の農村に縁づけて子を産ませ、それを保護支援するようなことまで熱心にはかった。

 人口減少は一気に進むと、もう取り戻せない重症に陥る。危険で怖い「難病」であるから、よほど本気で食い止めないと、まんまと亡国に繋がること、必至。

 

* 猪瀬氏の著に関連して、もう一つ触れておきたいのは、いわゆる預金利息が、非常識なほど久しく久しく無利子状態に、都合よく放置されていて、銀行等金融機関の厚顔と傲慢と強欲にのみ利している現状。これが、ひいては財政赤字にも人口減少にも労働意欲減退にも固く結びついている機微と要所にまで、適切に此の著者の視線が差し込まれていないのは遺憾千万。

 この状態はまさに政権与党と銀行等金融との合作共謀馴れ合いの、国民に対する強悪そのものなのである。旺盛な猪瀬直樹の「批判と洞察」とが国民寄りに此処へも早く及んで、輿論を正しく喚起してもらいたい。

 2005 5・2 44

 

 

* 猪瀬直樹著『ゼロ成長の富国論』が贈られてきた。忙しい中でも彼は毛筆で大きく献辞を書いてくれる。財政赤字、人口減少、労働意欲減退。この三つがいま日本をじわじわと苦しめている、これは江戸の昔に、かの二宮金次郎(尊徳)が対策した三つだ、と著者は議論を展開している。

 さて、わたしに一つ「感想」のあるのは、人口減少のこと。

 猪瀬氏の本文早々に、こうある。一九七四年(昭和四十九年)の人口白書に、「出生抑制にいっそうの努力を注ぐべきである」と、「世界第六位の巨大人口」をこれ以上増やさぬよう警告していた、と。

 わたしは同じこの年八月末で、十五年余勤めた医学書院を退社し、そして九月早々新潮社から書き下ろしシリーズに『みごもりの湖』をだし、雑誌「すばる」巻頭に長編「墨牡丹」を発表した。つまり、もう会社にわたしはいなかった。だが、まだ会社にいた時代、昭和四十三年一月生まれの秦建日子がまだ生まれていなかった、少なくもなお二三年以前に、「人口問題」で、じつに印象深いハッキリした一つの「記憶」を持っている。

 その頃わたしは雑誌「公衆衛生」編集にあたっており、編集委員の橋本正己先生がおられる芝白金台の国立公衆衛生院に、頻繁に通っていた。目黒の自然植物園の少し先にある、ちと壮麗に威圧的な大建築と振り仰いでいたが、あれが我が国「公衆衛生学」のいわば本丸であった。

 其処で、あの荻野式で産まれたという荻野博士ご子息先生とも初めててお目に掛かったし、曽田長宗院長をわずらわせた『農村保健』の大きな分担執筆企画でも苦労した。

 いろんな先生のお世話になった中で、とくべつ優しい方であった、小児保健室長林路彰先生のお顔を見て帰るのを、いつも楽しみの一つにしていた。

 ところが、その優しい先生に、珍しくわたしは言葉強く叱られてしまった事がある。「お子さんは」「一人、娘がおります」「そのあとは」「………」で、先生は顔を曇らされ、「秦さんのような家庭が、子供を一人しか持たないとはいけません」と、それから暫くの間、日本の人口の確実に減少して行く大きな不安について話されたのである。

 正直なところ、わたしはビックリしながら、むろん林先生が本気で言われているのを疑いはしない、が、確かに「実感」はもてなかった。なにしろ当時の日本は、どうなるかと思うぐらい人口膨張の一途だったから。

 しかし、わたしたちは、やがて、建日子の誕生を期待した。人口問題からではなく、姉の朝日子が一人子のままでは寂しかろうと考えたのである。

 上の「人口白書」が厚生省の公式見解を示していたのは間違いないが、公衆衛生院の権威ある専門家は、その少なくも数年前に既にわたしのような者にも、将来の人口減少と危機性について、ハッキリした見通しを持っていた。その是非や批評はべつにして、わたしのこれは「一証言」として書いておこう。

 たぶん、このまま推移すれば、数十年先には日本の人口は五千万人ぐらいにまで半減か、それ以上に減少して行くのではないかとすら推定され、危ぶまれている。林先生はすでにあの頃危ぶまれていた。そうなっては、日本の繁栄などはるか過去の話になってしまい、それどころか極東孤立の地で、日本国の「健康な独立」が保たれているかどうかも、まことに危いのである。

 

* 人口減少は江戸時代農村では屡々起きた大問題で、深刻な飢饉との悪循環を引き起こし、凄惨な地獄図を諸国に展開した。またそれに対応対策した能吏も、二宮尊徳より大分以前から、実は何人も史上に現れている。

 美作久世の早河八郎左衛門正紀(まさとし)、磐城白川の寺西重次郎封元(たかもと)、関東代官竹垣三右衛門直温(なおはる)、同じく岸本武太夫就美(なりみ)、常陸の岡田寒泉らで、ことに岡田、寺西は異色生彩ある「名代官」だった。寺西はことに人口確保に奇策をもって奔走し、「生めよ増やせよ」に一定の効果を挙げた。その著『子孫繁昌手引草』は、近代戦時日本にも活用された形跡がある。他国への人買い、つまり流行らぬ遊郭の遊女達を買い集めて自領の農村に縁づけて子を産ませ、それを保護支援するようなことまで熱心にはかった。

 人口減少は一気に進むと、もう取り戻せない重症に陥る。危険で怖い「難病」であるから、よほど本気で食い止めないと、まんまと亡国に繋がること、必至。

 

* 猪瀬氏の著に関連して、もう一つ触れておきたいのは、いわゆる預金利息が、非常識なほど久しく久しく無利子状態に、都合よく放置されていて、銀行等金融機関の厚顔と傲慢と強欲にのみ利している現状。これが、ひいては財政赤字にも人口減少にも労働意欲減退にも固く結びついている機微と要所にまで、適切に此の著者の視線が差し込まれていないのは遺憾千万。

 この状態はまさに政権与党と銀行等金融との合作共謀馴れ合いの、国民に対する強悪そのものなのである。旺盛な猪瀬直樹の「批判と洞察」とが国民寄りに此処へも早く及んで、輿論を正しく喚起してもらいたい。

 2005 5・2 44

 

 

* 世界史は、初期キリスト教会史に入っていて最も興味深い。グノーシス派など異端信仰の登場にわたしはかねて興味を抱いてきた。哲人皇帝マルクス・アウレリウスがキリスト教をつよく抑えたことも知っていた。しかもその皇帝の「自省録」をわたしはわたしの主人公の一人であるシドッチ神父に「愛蔵」させることで、自分の気持ちにある種の意義を添えたかった。

 2005 8・2 47

 

 

* 地名  メールなにより嬉しく、何度も何度も拝読しております。ありがとうございます。

 地図をよぉく見ました。滋賀郡、志賀町ですのね。比良(=じつは長等山)の山裾…茶畑はないように思いますが。和束や童仙房が、あんな風景ですわ、今でも。あの時代、滋賀(志賀)=茶どころのイメージだったのでしょうか。

 さて、名張市は、“伊賀”という世界的に通用する宣伝・経済効果より、“ナバル”にこだわって合併から降りましたが、雀は、世界遺産となったのに、本宮町が田辺市に入って、本宮の地名をなくしたことにショックを受けました。今日、大塔町がなくなると知って驚いています。来月、西吉野とともに五條市に合併するそうです。 雀

 

* 雀さん。栄西禅師が大陸から茶の種をもたらした遥かな以前より、日本列島に野生の茶のあったことは、『日本を読む』の「茶」の項に書いていますでしょう。そして日本の文献で、最も古く「茶」を貴人に献じたと伝えている一つは、その「志賀里」の長等山崇福寺の事蹟だったのです。あの界隈に、ささやかでも「茶」にかかわる風土や採集のありえたことを想像させるに足ります。

 地名変更の歴史も古いですね。好字を宛てて変えたり、一音地名を二字に書き換えさせたり、いま読んでいる日本書紀にも、もとの地名由来が「訛」って、似た、または似ても似つかぬ地名に変じている例が満載されています。

 江戸から東京の時代になり、東京の大中小の地区名もものすごく変わりましたが、よく観ると、大が中に、中が小になって残存している例も多い。新宿区市谷河田町の「市谷」や「牛込」「本郷」「駒込」「根岸」の類の「中地区」名はたくさん温存されていますし、田無と保谷とが西東京市に変わっても、田無も保谷も中地区名、小地区名で残っています。

 本宮も大塔も、おそらく歴史的に最も親近した地点では適切に伝えられるのではないでしょうか。あまり安易に変えられない方が当然いいですが、大阪も歴史的なら、河内、和泉、摂津も歴史的でした。長野も歴史的なら信濃も歴史的な地名でした。一時的に不便になり愛惜の情も湧きますが、じつは地名ほど同じことを繰り返してきたものは無いのかもしれません。歎くより、覚えて、伝える…こと、かな。  湖

 2005 8・26 47

 

 

* 水府流の泳法が磨かれたように、軍務がらみに武士たちが泳法に励んだのは自然のことだが、宇治川の先陣争いなどみても、武具を身につけているのだから無理ないだろうが、泳ぎの達者で向こう岸についた話は、戦記物にもめったに無い。抜き手を切って泳ぐ話は時代がよほど降る。しかし夏の水浴びや川遊びや慣習めく信仰行事があったのは当然。とはいえ、概して昔の川はともすると水葬の場にもなりやすかったから遊び場は限定されていたと思われるし、海水浴に人が出る話もわたしはあまり記憶していない。

   風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける  

という家隆の百人一首のうたは、むろん背後に水信仰の行事があるものの、その含みのママに夏は水浴びだという暑さしのぎの気持ちも読み込まれていないわけはない。

 有名な、蕪村の

   春の海ひねもすのたりのたりかな  

には三月の節句時の先祖祭に海ばたに出てみそぎをする習慣があり、これが夏になると土用波ののたりのたりに禊ぎの習いもあった。海がのたりのたり来るときは、それにのって先祖霊もくるという、蕪村はただ風情だけで句をつくっていたわけではないということは、もう以前に源氏物語須磨の記事とあわせて書いたことがある。この時の海が水泳の遊び場でありえたとは思いにくい。海への畏怖は昔の人ほど深かった。

 2005 8・30 47

 

 

* さて日本ペンの、拡大臨時理事会。

 有益に、まことに日本人の会議らしく、すべて従来の「現状」を容認・再確認して、ちょっぴり新たな「覚悟」の程を付け加えて終わった。日本の大人達の会議の定例をゆくもので、誰も困らない傷つかないし、特別これといって何も変わらない。しかし「意見交換」出来たのはけっこうでした、という仕儀。さすがに六年も七年も理事会に出ていると、およそそういうことで終わるのは毎度のことと分かっているが、それでも、わたしには少し別の期待があった。今日は、「中国」認識を、理事たち相寄り、真剣にぶちまけながら、今後十年二十年を見越した「中国ペン」ないし「中国」「中国人」と付き合って行く、基本姿勢や認識をさぐり合う会議だといいがと。

 

* それで、わたしは、質問した。

 ペン本部三階の会議室は、全出席者が大きな丸い輪卓に内向きに着席し、輪の中の空いた真ん中に、円卓が置かれている。つまりテーブルが、二重の同心円を成している。そこでわたしは、こう聞いた。

 この真ん中の円卓に相当する「日本ペンと中国ペン」との関わり「だけ」を小さく議論するのか。それとも、外側のより大きな輪である「日本と中国」をも視野に入れ、関わりをもたせながら大きく議論するのか、と。

 井上ひさし会長は即座に、「日本ペンと中国ペン」と「だけ」の議論ですと限定された。ああそうか…。それじゃ議論に重い稔りは期待できないと思った。

 

* われわれ「日本ペンクラブ」は基本姿勢として、いわば「政・ペン」癒着を嫌い排している。政権からの干渉は退け、政府国家との二人三脚は考えに入れていない。当然である。われわれは「表現者の自由」の立場にある。だからまた遠慮なく政府批判も出来るし、そのかわり懐工合はとかく淋しい。誇らかに貧しいのだと言っておこう。

 一方中国は、明らかに「政・ペン」一体、政治は文学者(芸術家)団体の自律も自由も、最後的には認めていない。もし幸いに「中国ペン」が、「日本ペン」と同様、自律的自由を確保しているなら、はじめて両国の「ペン」は相互の関係を対等に自由に考慮し討議しあえる。

 しかしながら、現に「中国ペン」は、名目「国際ペン」のメンバーでありながら、多年ボイコットして、多額に上る年会費も全く支払っていない。「国際ペン」に対して、ほぼ全面非協調・反抗対抗の関係にある。「日本゜ン」はこれに苦慮して仲介の労を執り続けてきたのであるが効果をあげることが出来なかった。

 余儀なくというか自然にというか、こういう中国内の硬い姿勢に反抗するように立って、中国を亡命し国外に在住する中国人文学者達の集団が、「中国ペン」とは全く別立ての「独立中国語ペンクラブ」を組織し、これが「国際ペン」の舞台で容認・承認されているのである。中国本国がそれを認めるわけがなく、しかも「国際ペン」は海外組織の中国人文学者たちには発言を許し、「中国本国ペン」は、「国際ペン」の舞台でことさらに疎外されてきたのである。

 日本は、「中国ペン」に関わるこういうややこしい久しい問題を終始憂慮し、「国際ペン」での微妙な関連議案には、何度かの場合賛否投票「棄権」という形の態度表明を続けてきた。

 だが、もうそれでは「とても済まなく」なってきた。

 それで、どう今後への態度を決めればよいか、と、それが、本日理事会の主なる議題なのであった。

 

* 中国は、今も「一言堂」国家に相違ない。これは現中国の政府中枢の人からわたし自身聞いた発言なのであって…。主人公(国家・政府)が「右」と言えば、堂内の全員はみな「右」を向き、「左へ」と言えばみな「左」を向くというのである。「一言堂」とは言い得て当たっており、しかも日本人の我々が投げた批評でも皮肉でもない。

 但し、中国が自身それを政体・国体として選んでそうしている限り、彼等のその選択に対し、表向きも裏向きにも、われわれには干渉の自由はない。ないと思う。

 と同時に、そういう一言堂の中の「一つの頭数」に過ぎないらしい「中国ペン」と、政治的な拘束からほぼ完全に自由に振る舞っていられるわれわれ「日本ペン」との間に、何らかの「自在で円滑で自主的な協議や取引や協力関係」が本質的に深く結び得られると考えるのは、遺憾にも、かなりの度合いで「お伽噺」なのである。

 まことに余儀なく、「政・ペン」が癒着し「支配と被支配」の関係にある「中国ペン」であると心得もせずに、友好声明をどう繰り返し送り続けてみても、末端の所で空回りしてしまい、本当の力を持った核心部にメーッセージは届いてくれない。その繰り返しをわれわれはやってきたのだ。「中国ペン」を大事に思うなら、より一層今少し向こうの「有力で有効な力ないし人との折衝」が要するに不可避・不可欠になっていると、わたしなどは、当然に考慮し憂慮するのである。どんな誠実そうな個々の文学者と親密につき合えても、たとえ制度的なことの話し合いも出来ても、決定権力には遠く届き得なかった。あらゆる仕組みは、末端の一存では変えようのないお国柄なのだから仕方がなかった。

 

* 言い換えれば、こと中国との関係で、「ペンクラブ」同士の関わり「だけ」では、どうにもなりかねるという根底の「政・ペン」撞着に、もっとはっきり気付きたいと思うのである。日本の知識人はあまりに単純でお人好し過ぎはしないか。

 ましてや、例のあの「六カ国会議」を眺めていても、ことはすべて「極東の政治的軍事的経済的力関係」を土台に、運ばれ、そこでの日本の孤立化は目だって著しい。その反対に、「中国の覇権がらみの近未来戦略」は、あの会議の内外で、硬軟とりまぜ、顕著にめだってきているではないか。あの国では、ペンクラブや文学者の動向すらも、その戦略の歯車の一環にほかならず、もしあの国の政策や国益がそれを「是」とすれば、「中国ペン」の「国際ペン復帰」なども「年会費の皆済精算」なども、たぶん一日にして成るだろう。逆にいかに個々の文学者たちの誠意や意欲が働こうとも、中国政府の気が働かぬ以上、向こうのどんな団体や組織は、海外にのがれて活動する以外に動ける「道も手段も」無いのである。有るなどと思うのは甘すぎる。海外にのがれて「独立ペン」別組織が現に働きいている、それが最大の理由なのは、明歴々の事実でないか。

 

* 井上ひさし会長の、「ペンはペンだけ」のことを議論するのだという前提は、あまりに、現在と近未来の極東情勢への洞察と身構えに欠けている。

 前の戦争で日本が大陸に如何に暴虐無惨を働いたか、それへの「心からの謝罪の念を真っ先に、日本ペンは動きたい」という氏の立言には敬服するし、同じ思いは、わたしにもあればこそ、「ペン電子文藝館」に、「主権在民への永い荊の道」七編を掲げ、日本国民としての反省も遺憾も籠めたのである。

 だが、その一方、このまま進んで、二、三十年後の「日本」の、世界的な、殊に極東での苦境を想えば、自ずから又たべつの平和と安全のために例えば「中国」を真剣に考えねばならないこと、余りに当たり前。「ペン」だけを切り離した議論の、殊にしにくい「中国」なのだという認識は、避けて通れない筈なのである。

 

* わたしは一文学者として、中国国家の「人権圧迫」や「公然の核保有・核執権」や「一党独裁」に強い怒りと批判をもっている。ところが日本ペンは在来、それらに対し、おなじ状況がアメリカで起これば「原則的に」抗議声明してきたのに、こと中国に対しては、わたしの理事として記憶する限り、ほとんど何ひと言の抗議申し入れもしてくれなかった。この「日本ペンクラブ」の依怙贔屓めく、「対中国事なかれ・甘やかしの柔弱親善・友好姿勢」に、わたしは常に不満であった。

 もし事を、われわれの子や孫の時代まで及ぼして思うなら、対中国の太い基本線は、「平和と協調」でなければならぬと考えている。確信している。戦争など夢にもしてはならないし、出来ないし、したくない。

 しかし、それならそれで、テコでも引き下がらない「強硬・毅然たる友好」の姿勢も堅持」しなければ、やがてアジアブロックの政治と経済の覇権は中国の一手に堅く握られ、韓国も北朝鮮も、ロシアすらも、また台湾も余儀なく、極東粟散の辺土「日本国」の追い落としに手強く纏まってくる、固まってくる、と見た方が、より慎重である。たとえ中国経済や国内事情に、一度二度の烈しい揺り返しが来ても、である。

 そしてアメリカは自国のトクにならないことには、日本を守ってやろうなどとは、まず、手は出すまい。

 

* 話し合いは話し合いで、「しないより確かにマシ」だし、現状の手法をみなで再確認したのも宜しいに決まっている。が、同時にそんなことだけなら、たぶん平時の理事会でも、時間がゆるせば、そう難儀な申し合わせではないのである。事実そういう三時間の結末であった。よくもあしくも「まあよし」をよしとする日本的な会議であった。何十人も文学者が集まれば、オオッと仰天する不規則発言でもありそうなものだが、なんという出来た人達か。

 

* 「歴史的に」などという場合も、言葉遣いはもう少し厳密でありたい。

 中国との関係が「二千年余に及ぶ」という認識もなるほど大事だし、今日の実感生活に於いて「二千年」とは気疎いだけという視線もある。

 しかし「近代百二十年」のアジアの歴史はせめてよく視野に収めてとわたしが言うと、そりゃ「二千年」と「同じじゃないか」という笑い声も聞いた。大雑把なものだ。戦前昭和を通じた国際情勢やファシズム・軍国主義、思想弾圧など大きなうねりの、今又揺り戻しが来ているという落ち着いた観望が出来ていないと、言うこと為すこと、単に、今日目先の軽く薄い「情報」マンの評論に過ぎなくなってしまう。

 

* 中国の問題は単純でない。複雑な「政権函数」と「悪意の算術」で、中国は、いましも世界戦略を着々布石しているとわたしは推測する。推測という以上に、実感をともなう畏怖にも進みつつある。

 だからこそ、日中は鞏固に態勢を崩さぬ「友好・親善」、だからこそ日本は、慎重一途に「国益としての平和と安全の確保」へ、かなり「強硬な対策」をと、わたしは切に願うのである。われわれ「親」世代の思いは、いつも自由自在で、もう少し広く大きく「子や孫ら次世代」を慮る姿勢でなければならないと思う。そんなのは「日本ペン」の仕事ではないと思う者は、「ペン憲章」を読み返すがいい。

 

* 実のところ、仮に「ペン」を離れて相対的にもっと大きくものを言うなら、いま、「中国ペン」を是非とも「国際ペン」に復帰させねばならないかどうかなど、必ずしも大きな事ではない。一日本人としてなら、拉致問題や核問題ほど本質的な大問題でそれは「ない」のである。そうしっかり見据えた上での「ペン問題」の話し合いならば、その話し合いの土台は、やはり「ペンだけ」なんかでありえない。それでは木(中国ペンの動向)を見て、森(中国の態度)を見たがらないのである。森をしかと見ながら、樹をどう育てるか、枝を払うのか、切り倒すのか、別の何かを植えるのか、の思案でなくては、率直に言えば時間のムダになりかねない。

 なぜ中国の核や人権抑圧に「日本ペン」は黙っていて、同じことがアメリカ等に起きれば抗議声明するのか。すべきはアメリカにも中国にもきちんとすべきでないか、というわたしの抗議には、だが、何の反応も誰一人からも出なかったことを書き添える。

 

* 何処へも寄らず帰る。地下鉄茅場町から銀座まで三好徹さんと一緒だった。話が弾んだ。

 2005 8・31 47

 

 

* 『日本書紀』という名は「日本書の帝紀」の意味である。「日本書」とは日本の歴史のこと、「魏書倭人伝」とか「韓書」「後韓書」というの類。日本書紀では、天皇帝王の治世で巻が送られ、記事も帝政の経年で書かれてある。その定例を読んでいると「朔」という字が必ずあらわれる。何年何月の「朔=ツキタチ=ついたち」に、と。昔の暦では一日とは「月立ち」であった。今では京都の月行事の「八朔」にこの字がその意味でのこっている。

 2005 9・1 48

 

 

* 田原総一朗の番組で小泉首相も出席の党首討論があった。例の田原の傍若無人な司会ぶり、傲慢なほど強引なひきまわしのために、却って議論が整然と成り立たない。彼自身が前提にもっている自説へ自説へと誘導している印象がじつに不愉快。貝殻追放(正しくは陶片追放)したい政治家も多いが、田原のように無意味にエラソーな、騒がしいマスコミ屋も、可能なら貝殻追放したい。ビートたけしや島田紳助には藝があるけれど。

 

* 陶片追放のことは、よく知らない人も多くなっている。前五世紀ごろ、古代ギリシアの都市国家ポリスで行われていた市民による一種のバランス回復の権利投票であった。犯罪者を投票で追放するのではない。犯罪までは犯していないが、社会に不都合なほど不均衡に威を張り、出過ぎた存在、僭主になるおそれある存在を、やがて来るであろうそれ故の市民ヘの難儀や災難を避けるべく、予防的に「陶片」にその名を書いて、市民権は奪わないが一定期間追放したのである。国外へ逐われたのである。

 おもしろい方法である。真に力ある者の力を予防的にそぐことには反動の負荷もともなうが、概して過剰な力は傲慢・放恣・抑圧へ繋がりやすいのを、賢明に市民は避けたのである。避けるマイナスと黙過するマイナスを、歴史に学んだ市民達は、どっちが恐るべきか知っていた。せまいポリスだからできたことであろうが、その趣旨は、もし活かせるなら、活かせる世間では今日の日本でも活かしてみたい気がしないではない。さしづめ、テレビ社会ではどうか。

 2005 9・4 48

 

 

* ありがとう  昨日携帯にメールをいただきました。ありがとうを繰り返します。メールの送受信ができるのですね。安心しました。一方通行はイヤですから。

 雨が昨晩から降り始めました。庭先の藤の茂みに鳩の雛が二羽孵っています、あの雛たちに雨はつらいだろうと案じられます。まだ二日ほどは雨が降るでしょうから。

 速度の遅い台風が再接近する可能性は七日あたり、病院に出掛けられる日とか。そしてわたしも大阪へ本当に久し振りに舞台公演を観にいく予定なのです・・気に懸かりますが、当日の朝まで考えても仕方ないので脇に置いておきます。

 丹念にHPを読めない数日があって、ふっと遡って記載を読んでいましたら、なんと「京大中国史の人からも聴きたいもの」とあります。わたしのことか? しかも聞きたいではなく、「聴きたい」とある。

 ・・これは「挑発」でもある・・ 一歩も二歩も退いて、さて、わたしにそれに答える能力があるだろうか?・・と考え込んでしまいました。

 中国を語ることは、わたしにはそれはそれは困難。もう長い時間が過ぎてしまいました。今も史学科の懐かしい図書室、人文研究所への坂道、膨大な文献がある図書室を懐かしく思い出します。が、それは感傷にさえ届かないほどの短い時間だけわたしに与えられて、遠い過去にありました。

 以下、書いたことは、個人的にあなたに書いたものです。再読していない、思いつくままの文章、寛恕してください。

 

 中国の歴史は、東アジア世界にあって、決定的な優位をもって支配する国家の歴史でもありました。が、その支配者は、統治民族は、必ずしも中華である中国人、厳密にいう漢民族ではありませんでした。中国の王朝の歴史は漢民族と周囲の異民族との興亡の歴史でもありました。

 唐は、確かに強大な国家だったかもしれない。が、西域を支配したとはいえなかったと思います。

 大まかな意味で東ユーラシアを束ねた世界的な規模の国はモンゴル族でした。

 「(いまの)「中国」という大くくりは、戦後の中共建国以後のことです。それまでは、厳密に統一中国はなく、群雄と一民族支配の繰り返しでした。」

と指摘されている、実にこの点での根本的な視点が見過ごされてきました。群雄割拠の時代は周辺民族の国家が乱立した時代でもありました。

 秦、漢、隋、唐、宋、元、明、清と中学生で機械的に王朝を暗記するのですが、この時多くの認識が排除されてしまいます。モンゴルの元、そして満州族の清は明らかに異民族、辺境民族の王朝でした。これらの王朝が成立するまでの期間に実はさらに多くの異民族による支配がありました。

 群雄割拠と異民族の支配、それらは「全国的」規模でない場合が多いわけですが、春秋戦国、五胡十六国などの時代も忘れてはいけない大事な時代でした。また王朝支配が確立してからも常に塞外からの脅威がありました。

 

 中国の版図と言っても漠然としてしまいますが、中国人の社会から離れた地域、現中国の新疆やチベットを見るだけでも、異なった歴史観や政治意識が容易に現れてきます。

 チベットを例に挙げてみましょう。

 1951年、共産党軍がラサに入り、支配を強めていきます。

 59年ラサで武装蜂起、約八万人が殺され、ダライ・ラマがインドに亡命、約八万人がこれに続きました。中国政府はダライ・ラマに代わるパンチェン・ラマを立て宗教的な要として政治的支配を強めようとします。彼が死んだ後、幼い新たなパンチェン・ラマを立てましたが、目下幽閉され行方も分からなくなっているとか。

 宗教があまりに強い力をもつチベットに対して、寺院などを破壊し、特に文化大革命の時は凄まじい弾圧がありました。中国語を話せないものは優位に立てない社会、現在中国人の移住が積極的に行われ、移住してきた漢民族の人口が無視できないほどになっていること、チベットはインドとの軍事的緩衝地帯であり、30万の軍隊が存在すること、核施設? の4分の1がここにあること、などなど、やはり見逃せないのです。

 果たして現在の中国が、どこまで、統一中国であるのか。わたしには分かりません。

 大くくりにした統一中国という形が、理想形かどうかは全く別次元の問題で、チベットを例に挙げたように多くの問題を抱えています。

 歴史的に行われてきた辺境の「中国化政策」 中国語の普及、漢民族中国人官僚の派遣と地方政治の確立、宗教に対する弾圧や懐柔、極端な場合には「し民政策」民族強制移動政策・・異民族支配に伴うさまざまな政策は現体制下にもあるのです。

 社会主義、共産主義のユートピアが幻想と、共産党幹部とて認識していても、現時点で国家体制の根幹を取り替えることはできないのでしょう。が、自らが抱える矛盾を改革していけば、その先にあるものは、やはり「変化、変革」でしょう。

 

 資本主義生産のあり方、近代産業革命以後の社会矛盾に一条の解決の光であったはずの、社会主義、共産主義体制が、宗教を「否定」し、上部構造である精神や個々人の個々人たることを・・どこかで過小評価したことは、やはり否定できません。

 外国という敵、帝国主義に対する戦いで ナショナリズムと結びついて正義の戦いとして、それが結果的にナショナリストから政権の座を獲得したのが、中国やベトナムでした。が、現中国において民族主義、愛国主義がいつわが身に切り返される「内部からの剣」になるかもしれません。

 

 同時に中国自体が、あまりに重大な国内問題をかかえていることも事実です。現在の中国共産党による一党独裁体制・中央集権、それは彼らの言うもっとも基本的な下部構造であるはずの経済分野で、既に既に共産主義計画経済を放棄して、辛うじて存続しています。

 急激な経済活動の変化によっておこる矛盾・・トウ小平の指針以来、「富めるものはよりいっそう冨み、貧しいものはよりいっそう貧しくなる」ことが加速化しています。沿岸地帯は昔から経済的に恵まれ、それと対比されるのが内陸部の貧困です。貧困地帯の真ん中であっても、地下資源が豊富な地域では急速な開発がなされています。官僚制度の腐敗 (共産党員の腐敗) に加えて、経済構造のきしみ、徴税制度の不備などさまざまな対策の遅れが中国社会に与える影響を見過ごすわけにはいきません。

 社会主義、共産主義のユートピアが幻想であると、共産党幹部とて認識していても、彼らは現時点で国家体制の根幹を取り替えることはできないでしょう。

 

  * 中国の問題は単純でない。複雑な「政権函数」と「悪意の算術」で、

  中国は、いましも世界戦略を着々布石しているとわたしは推測する。

  推測という以上に、実感をともなう畏怖にも進みつつある。

  だからこそ、日中は鞏固に態勢を崩さぬ「友好・親善」、だからこそ日本は、

  慎重一途に「国益としての平和と安全の確保」へ、かなり「強硬な対策」をと、

  わたしは切に願うのである。

 

 中国は世界戦略を進めている、と指摘される脅威が、確かにあります。

 最近の領土拡大や天然資源を窺う姿勢、中東やアフリカでの石油資源獲得の強力な活動(つい最近、アフリカで部族間対立、大量虐殺が資源と関わりあるのを見ない振りして、利権獲領得に奔走した中国のことに触れている番組を見たりしました。)、膨大に膨れ上がった人口と改革以後の人々の生活の変化は、さらに一層このような傾向に拍車をかけていくでしょう。

 この経済活動の迷走爆発と、建て前での政治体制の維持、この乖離がどうしようもなくなった時、「大中国」が建て前を棄てた資本主義国家「大中国」のまま存続するのか、あるいは内部矛盾を露呈して、体制を変え、周辺部のチベットなどを手放すことになるか・・ただしこの場合は後々の不安要素を存続させますが。

 香港の新聞などからちらっと覗きみる範囲で、厳しい監視体制を潜って「反乱」があることも窺えますが、これらが大規模なものになった時、どのように変化していくでしょうか。中国では王朝が崩れるとき、黄巾の乱、白蓮教の乱、太平天国の乱など多くの乱がありましたが・・。

 90年代初めのソ連崩壊と、それに続く東欧諸国の政変が、あまりにあっけなくなされたこと、そしてその「後遺症」が意外に少なかったことを思い起こします。KGBや軍などの権力機構の強固であるはずの組織が、あっという間に呆気ないほど簡単にその機能を失っていきました。永遠なるものなし、変わらざるものなし、の思いを深くしました。

 

  * やがてアジアブロックの政治と経済の覇権は中国の一手に堅く握られ、

  韓国も北朝鮮も、ロシアすらも、また台湾も余儀なく、極東粟散の辺土「日本国」

  の追い落としに手強く纏まってくる、固まってくる、と見た方が、より慎重である。

  たとえ中国経済や国内事情に、一度二度の烈しい揺り返しが来ても、である。

  そしてアメリカは自国のトクにならないことには、日本を守ってやろうなどとは、

  まず、手は出すまい。

 

とあなたが危惧される点は、体制如何を別にしても、考えられます。

 ソ連崩壊の後、政権をとったものは旧政権共産党そのものではなかったけれど、旧政権の中枢部に位置を占めていた人たちも多くいました。従来の対立の構図を振り払わず、最近の中ソ軍隊は合同演習を行ったり、北朝鮮問題、六カ国会議でも微妙なバランスをとっています。

 中国がどのように変化していくか、史実の中から多くを学びたいと思いますが、予測など可能なはずなく、地方に住む風来人は論旨一貫せず、ただ朧ろな感想めいたことをやっとやっと書くばかりです。お許しあれ! 

 本当はもっとたわいない、遊び心のみ書いていたいのですが。何故か、今日は台風接近のニュースを聞きながら、こんなことを書いてしまいました。    鳶

 

* よく書いてくれました、感謝。多摩のE-OLDさんのメールへの、感謝でもあります。

 こういう、狭く観ても極東を統べて行こうと現にしている「中国事情」を眺めていれば、日本ペンクラブが単純に「中国ペンクラブ」と「海外独立中国ペンクラブ」との仲にたってどっちに「イエス」か「棄権」かなどという配慮そのもののある種の虚しさには、気付いていなければならないのである。中国にすれば、たかがペンクラブ的な小団体の帰趨には何の関心も無いか、或いは覇権に役立てる手駒としか考えていないだろう事、明白だ。論理は見え見えで、二つの中国は認めない、同様に二つの中国ペンなどあり得ない。中国との安定と友好を先に考えるのなら、その頑固な建前にはウカとは手が出せない、へんな出し方をすると中国はカサにかかって反撥してくる。

 しかしながら、中国の覇権的本意を許容してはいられない。核、とんでもない。近隣国への覇権的干渉、とんでもない。利が在れば既成事実積み上げ方にどこへでも割り込んでゆくこと、とんでもない。領土的野心も、人権抑圧も、とんでもない、とんでもない、許せないのである。その許せない気持をも「含めて」考えない限り、先日理事会の示した「ペン問題」だけに限定した中国討議など、ただの机上の空論なのである。井上ひさし会長の認識にわたしは疑問をもつ、この問題では。

 なお、現在チベットは独立国家でなく、中国の地方の省になっている。本来のチベットは三分割されて、いわゆるチベット自治州に二百万人、そのほか青海省などに分散してチベット族が四百万人も住んでいるという。

 また京大中国史というのはなく、昔は文学部史学科東洋史。中国だけでなくインド、西アジア史なども含まれており、その伝統は現在に至っているが、中心は中国であったという。

 2005 9・5 48

 

 

* 世界の歴史を読んでいると、ときどき眼の覚めることがある。ヘェ、そうなのかと。

 中国史で、「公侯伯子」の爵位の起こりや、「郊外」の初出にフーンとおどろいたり、ブルジョアよりもはるかに遠く、古代ローマにすでに「プロレタリア」の称呼が通用していたこと、「達者(パーフェクト)」という言葉がキリスト教のある種の混乱期にある種の覚者の意義で通用していたこと、など。

 求めて得る知識ではないが、自然に飛び込んでくると、ひとしお興がり、楽しむ。嬉しくもある。

 むかし、「徳(バーチュゥ)」とは、たとえばコロンブスやマゼランのような大航海時代の「船長」こそが備え、また絶対に備えていなければいけない資格であったと教わり、あれが、「一文字日本史」の冒頭に「徳」を置いた動機になった。

 先日観た映画で、潜水艦の艦長が戦死し、引き継いだ副長が、敵攻撃から身をかわす必死の漕艇に際し、ウカと、「おれにもどうすればいいか分からないが」と口にした。

 後刻ベテランの士官(チーフ)にものかげで、「ああいうことを艦長は絶対口にしないで欲しい、それが兵士の命を危険に陥れるからです」と警められていた。艦長は「徳」つまり、絶対に深く広く正しい判断と言葉と人格を持っていなくてはいけなかった、今も、そうであろう。

 「徳」乏しく唇薄き政治家に率いられている「国の不幸」の身にしみる秋(とき)である。

 2005 9・29 48

 

 

* 鞍馬の火祭を夫婦でみてきた囀雀さんのレポートが届いている。わたしたち夫婦のもう二昔まえの体験とも重なるもの、もちろん多い。

 鞍馬の、と謂うので山上の鞍馬寺の祭りのように感じやすいが、寺と祭りとは普通になじむ物言いではない。一つには鞍馬寺を鞍馬神社かのように錯覚する人もあるぐらいだから、「祭り」と謂うて違和感がないとも言える。

 鞍馬寺は、たとえば延暦寺や知恩院が寺であるのとおなじお寺とは謂いにくい。いわば魔天狗の棲むお寺でもあるからだ。すばらしい仏像も捧持している一方、することなすこと神事と呼びたい「竹伐り」そのほか、異色に富んで天文の不思議ともこの寺は関わっている。火祭りも、だから…と想うのは、当たってもいそうで、だが少しちがうのである。

 鞍馬の火祭は厳密には鞍馬寺の行事ではなく、麓の「由岐=ユキ」神社の祭事である。大きな重い「筌」の形の大松明が、「サイレヤ・サイレウ」の雄壮にしていくらかエロスの匂いもする掛声もろとも、燃えさかる火の粉を闇にふりまき山々谷々から湧くように流れ動いて一所に密集、波濤のように狭い石段を駆け上がる先は、この「ユキ神社」拝殿の前庭であり上庭である。石段は狭くて急。

 

* 火祭りは火熱で世界をあたため、春到来をうながす祭りであるが、鞍馬の火祭には明らかに山国の祭りであるにかかわらず、海の風情と風習に根ざしている。日本海を経て鞍馬道にいたる道筋には自然の経緯があり不思議はない。そもそも村人山人の火を燃やしてかつぐ大松明の形、「筌」は、あきらかに漁労の道具、魚を追い込む道具であり、それを担いで出る男達の帯をしめないはでな女衣裳と見える長襦袢の着流し姿は、漁師のもの。相撲の力士達の長襦袢すがたもまた、もともと漁師のいでたちであった。褌と謂いサガリと謂う、浦島太郎が漁師であったことをたちどころに思い出させる。鞍馬の火祭由来は、西南海の海の男達の祭りであった。神社名の「ユキ」は「壱岐」に通うている。梁塵秘抄は、壱岐の島を「ユキ」の島と発音している。漁師の漁に、「火」は信仰と必要の最たるもの。鞍馬の火祭の淵源は「海」の生活にあったと言いきれるだろう。

 2005 10・23 49

 

 

* ゆうべも、読書で、しっかり夜更かしした。

 世界史はいま中国の「晋朝」の頃を読んでいて、つまりわたしの『廬山』恵遠法師や、好きな陶淵明また王羲之・王献之、泰安道らの生きた時代。場所も紹興・会稽など訪れたところであるから、親しみ深く、また此の時期の歴史・政治・社会も文化も、かなりにハチャメチャに無残な場面多く、つい、身につまされて読み進んでしまう。

 その上に『アラビアンナイト』が途方もなく面白く、読み出すとやめられない。全編のなかでも大長編の、まるで蛸の脚のように話の拡がって行く野放図な物語の組み立てようにあっけにとられながら、ひきずりこまれている。「ひらけゴマ」などと絵本のたねにされて、子供の読み物と誤解される気味もあるが、どうしてどうして、これぐらい露わなエロスと大人たちの欲望の赤裸々に渦巻く説話世界は他にあるものでなく、それでいて、アラブというのかイスラムというのか、何とも言えない美意識も世界観も、怒濤の勢いで読者の胸の奥へ突入してくるから、こりゃもう、かなわない。少し纏めて千夜一夜物語について自分の感想を書き留めておきたい気がする。

『雄略天皇紀』がまだ盛んに続いている。モロワの『英国史』もおもむろに佳境へわたしを誘惑している。そして『旧訳聖書』がすこしずつ煩瑣な掟の草むらから抜け出て行きつつある。鏡花は、少しずつ読んでいる。

 2005 1・18 50

 

 

* いま、アンドレ・モロワの『英国史』に引き込まれている。イギリスがイギリスに成るまでに、あの島国にはラテン・ケルトの人達と、アングロ・サクソンの人達との久しい烈しい角逐があった。北欧からの仮借ない侵入もあった。

 わたしは、イギリスという国に親和的な気持ちも、とくに反感ももっていないが、民主主義ということを考えるとき、この島に発展した政治思想や仕組みには思い惹かれる多くが、他国に比して、確かに在る。学ぼうというほどの気はもうなく、しかし、せっかく大部の「世界の歴史」を読み進めているのだし、西欧の纏まった歴史ならイギリスとフランスとを別途に読んでみたいと思い立ち、書架の本を枕元へ移動させた。モロワの記述には独特の風格が感じとれる。

 いま「世界の歴史」は、インド。

 インドは、その「歴史」を統一的に把握することの実に困難な、ケッタイな国である。歴史感覚を受け入れなかった国とでも言おうか。隣の中国はこれまた「歴史」そのものを実に愛好し編史・修史の事業は古来夥しいし、日本もそこそこ歴史編纂には国家的に取り組んできた。むしろ近代以降に権威と良識あるそういう修史の発起が国民的に起きてなかったのが、歴史的怠慢とすら思えるのだが。

 インドは、まさに摩訶不思議。「0」を発見し、いまだに公然と階級差別し、佛教を追い出し、核爆弾を保有している。インド史のなかで、ゴータマ・ブッダを除いて何人の偉大な個人の名をあげうるか、わたしは、アショカ王、達磨、そしてバグワンを挙げ、ガンジーもタゴールもそれに較べて小さいと思っている。いま、インド古代の推移を追うている。

 2005 11・28 50

 

 

*『日本書紀』は、顕宗天皇紀についで仁賢天皇紀を読み進んでいる。この「オケ・ヲケ」兄弟天皇は父を雄略天皇に殺されて丹波から山陽道へと逃げ隠れ、人に使われて暮らしていたのを見つけられた。皇統を問うときには問題はらみの二天皇で。

 ことに仁賢天皇は、天皇として初めて諱「大脚(おおす)」を明記されている。それまでの天皇に諱は現れない。仁賢が兄で、顕宗が弟であったが、清寧天皇の皇太子に挙げられたのは当然兄が先であった、が、兄は固辞して弟を先ず即位させ、その皇太子となり弟天皇の死後に即位している。弟の先帝顕宗には諱が伝わらない。小さい問題のようで、気になる事蹟であり、実在如何の確認に気になるところがある。

 そして次へ来る武烈天皇が、さらに次へ来る継体天皇が、さらにその後へ続く安閑・宣化両天皇との継嗣関係がすべてフクザツで、次の欽明天皇との皇統に、いささか難儀そうな波瀾がある。この辺の皇室はややこしく、神武以来の万世一系など、夢のまた夢に過ぎないとされている、歴史学では。

 

* 国家君主となった人物で、人類史上もし最良の理想的人物をあげるなら、問題なしにインドのアショカ王(阿育大王)ということになるだろう。支えは佛教であった。アショカも若い頃は相当に残酷な王であったが、佛教に帰依し、これ以上は考えにくいと思うほど仁慈の善政を広範囲に徹底して行い、遠方の諸国へも「法の政治」を説いて使者を広く送ったりしている。

 それからみると、自民党の、また現小泉内閣の悪政など、極めつけ、目を覆わしめる。

 文明国では、多くの時代と年数をかけ営々として私民の福利・安穏のための諸権利を積み上げてきた。

 手近なところでは、わたしの会社時代にしても、結成五年目の労組は年々の結束による労使交渉で、少しずつ少しずつ当然の権利を労働協約化して獲得・確保しつづけ、いろんな面から生活は改善できた。満足ではなくても希望がもてた。

 いま、大企業へ進んでいる何人もの卒業生の話を具体的に聴いていても、いましも、確保してきた多くの諸権利を、まるで着ている着物を剥ぐように奪い取られている。死語になっていたかの「搾取」が、またも身震いするほど冷淡無比に進行していて、しかも働き手達は立ち竦み、戦き、諦めて、経営の為すがままに利益をへらされ負担をふやされ、沈黙し疲労困憊して、不満をただただ溜めている。だが、組合は無いか御用組合かで、密やかな愚痴以上の改善発言は、要求は、誰一人も「出世に障る」のをおそれて、しないのが普通になっているという。

 こういう時代にしてしまったのは、一つには保守政権であるが、一つには野党の崩壊、一つには働き手達の陰湿なエゴイズムが巧みに政見や経営利益の力に衝かれ、その政治エネルギーが離散分散解消させられてしまったためである。何よりの不幸は、働き手たちが人間としての勇気と尊厳の自覚を欠いてきた情けなさ。また彼等を守ろうとしないでむざむざ自壊していった野党指導者の徹底的な無能ぶり。

 日本の少子化はすすみ、あと十年刻みで、若い働き手達の負担は増加の一手をたどるだろう。経済力も、ひょっとして防衛力も、他国の人に依存する傭兵と傭労の余儀ない時代がちかづき、そのとき、極東諸国の勢力関係は日本国と国民にたいして信じがたいほど苛酷な負担状況が生まれているだろう。アメリカは日本を簡単に見放して損も無くなるだろう。もっとも懼れ、もっとも頼らねばならない最後手段として日本人は「核軍備」を議題化してゆくに決まっている。

 その時になって、日本の保守政権は、健全野党の非在がもたらしたノーチェック政治の垂れ流し汚染と病害に、震え戦くことになるに決まっている。ひと言で言えば、日本に、真の知性と責任有る知識人が育ってこなかった結果である。政権の暗黙の目くばせを受け、なりふり構わずマスコミの力を利して政治権力の代言人を勤め、野党の存在を潰滅へ潰滅へと悪意を持って導いた多くのテレビ人間たちの大罪は、まだ、多くの人達の目にハッキリ映じていない。

 日本の社会は確実に潰れつつある。働き手の安寧や福利が守られない国に、どんな未来が可能なものか、ちょっと落ち着いて考えれば分かる。まさにその逆を行く発言が、武部自民幹事長の国民の安全に真っ向背を向けた、不良マンションなどの悪者捜しは経済の邪魔だという発言に露出している。いまの政治は国民の方を全然向いていない

 2005 11・29 50

 

 

* 応神天皇以降の日本書紀では、何といっても、朝鮮半島、百済や新羅や任那地方との折衝・交渉・戦闘・外交に大きな焦点の一つが出来ている。言えることは、複雑な国と国との位取りにふりまわされた「不信と離反と闘争」の繰り返しであること。日本国は海を越えての侵掠は受けていない。むしろ優位に侵攻し前線として南端の任那等を経営して百済を助けたり新羅を責めたり高麗と折衝したりしているけれど、安定していない。いつも揉めている。日本の高官の中に明らかに他国の賂(まいない)を取っている者もいる。

 その一方で、日本は、半島を経て入ってくる文物や文化から学ばねばならぬものを多く持っていた。菅原道真の進言から遣唐使を廃して一種の鎖国に入った平安時代まで、日本の極東政策は、懼れや不安を抱きかかえ、容易でなかった。今日と、少しも変わらない。同じなのは、あの頃も今も「日本は優位」にあるという不自然な勝手な思い込みだけ。

 粟散の辺土の危うい背伸びを、平安時代は、賢か愚か、辛うじてかわして地に足をつけ独自の文化に華咲かせたが、平成の自民政権は、国民をどこへ連れて行くやら、これまたハンドルもブレーキからも手を放したラリった政治をしているのではないか。

 2005 12・13 51

 

 

* 余語では積雪が1.5メートルにもなったようです。まだ寒くなるなんて。

「少年」の文庫化、とてもよいことと手放しで嬉しい。サインしてくださいね!

 早くから、あまりに早い時期から、「歌」を、活動の中心から切り離されました。「歌詠みからはずれた」ことについて、その機微について、一流のテレ、衒いで語られたことがありましたが・・それでも紛れなく、その「早や書き」が評価されていることが、凄い。例えば岡井隆さんは昭和の代表的な歌人の一人にあなたを選びました。稀有の資質を既に既に十代に結晶化されたのです。そしてそれに続く一連の小説群を紡がれたのです。

 わたしの作品を、ゆっくり拝見、は恐いです。内容に関しては言葉の一つ一つ何度も見直し、置き換え推敲しました。稚拙と思える表現もそのほうがいい時はそのままにしました。

 けれどもわたしはぐずぐず迷って廃棄や切断を果たせなかったと恐れます。寧ろ自分の中で増殖していく言葉とイメージを取りこぼしたくないために、余分なものを付け加えてしまったかもしれない。が、これはどうも・・というものは遠慮なく指摘して下さい。切り捨てて下さい。勝手な希望ですが敢えて書きます。ああ、叱られそう、一喝されそう。

 文章に関すること、絵を描くこと、つくづく二兎を追う愚かさを思いますが、何とか折り合いを付けています。・・絵も棄てられません・・今は人物の下絵をほぼ決めて、これから集中的に進められるかという段階です。

 羽ばたくこと、これは旅行することと限りません。言葉も絵も拙い羽ばたきですが、わたしの内部の羽ばたき・・といえない・・やはり足掻きですね。

 部屋に篭もって・・この家は一階はリビングしかありません、そこに食卓もパソコンもテレビも本も絵のパネルも、要するにほぼすべてが混然、乱雑とスレスレで暮しています。広い家は欲しいけれど、所詮人間坐れば半畳、臥して一畳。もっともそのように悟りきれないで、物に追いかけられている現実です。

 「インド古代史」を楽しんで読まれたとのこと。インド史、古代、に思いを馳せるのに、現実のインドに行ったことがわたしにとって大いに意味があったと思います。

 近頃変化が激しいインド社会とはいえ、日本の街や村から消え去ってしまったぬかるみの道路やほの暗い町、底暗い農村部など、わたしたちの骨身にもはや染み渡っていない何かを、人の営みの、人間存在自体の動物的な生理(排泄や死、死体etc)を否応なく突きつけられるわけですから。

 「インドには歴史認識がない」云々と言われてきましたが、眼前の、生きるのに精一杯の群衆の塊をみると、さて歴史認識とは何か、それさえ曖昧模糊、意味のない問題提起のようにみえてきてしまうのです。今は急激な変化の時期に入っています。「近代化」に、どのようにあの社会が変わっていくか、興味深い。

 インドに「嵌まった」とは異なりますが、広いインドをまだまだ訪れたい。西北部のラジャスタンや南インド、そして一度では到底理解しがたいガンジスの岸辺の営み、ヒンドゥーの信仰の世界、そして何気ない日常の人々の暮らし。

 来週は京都にいらっしゃるのですね。歌舞伎、そして師走の都を楽しんで。風邪ひきませんように。  鳶

 

* 一方で、サクソン、デーンのイギリスと、ノルマンのイギリスとの混在し葛藤し交替してゆく、近代以前の英王国史を読み、他方でインド古代史から西域史、そして絹街道の成立とともに中国南北朝の、主として「禅譲」という革命方式を飽くなく悪用した「南朝」交替現象の凄まじい歴史を読んでいる。

「歴史認識とは何か、それさえ曖昧模糊、意味のない問題提起のようにみえてきてしまうのです」と鳶は付け加えている。「意味のない(掴みにくい)問題提起」を断続し連続して「人間」の「曖昧模糊」そのものを確認すること。それが「歴史認識」では無かろうか。中国史という歴史認識の権化のような中国悠久の「騒々しい変容」をつぶさに学んできた鳶に、鴉はしっかり教わりたい。

 2005 12・15 51

 

 

* 篠田正浩監督「写楽」再見は、期待に応えてくれた。着眼も脚本も宜しく、なにより登場人物達が文句なくすばらしい。俳優のことではないが、俳優も真田広之はじめ、ピチピチやっているし、寛政抑圧の風俗「江戸」のおもしろさも満喫できる。風俗を創り出している当時のマスコミの雄の蔦屋を中心舞台にしているのが、真っ当な選択。

 其処へ来て、わたしや妻には、歌舞伎場面、舞台裏の場面が、みな心親しい。画面の舞台で「暫」を演じる千両役者団十郎を一瞥、「あ、富十郎」などと妻がすばやく口走るほどだもの。芝雀の雪姫も、団蔵と富十郎とで対決の「床下」もある。それらがみな劇として映画にからむ。

 で、登場するのが、蔦屋を芯に、山東京伝、喜多川歌麿、十返舎一九、曲亭馬琴、鶴屋南北、葛飾北斎そこへ東洲斎写楽が加わる。風俗の華美を取り締まる幕府の立役者には筆頭老中松平定信をいまの三津五郎、腰巾着の才人太田南畝に竹中直人。脚色にはかなりいろんな都合もつけてあるけれど、それは映画のこと、構わない。こういう人物が一堂に同時代人として活躍したわが日本の「十八世紀後半五十年」は、まことにまことにどえらく眩しい「天才」たちの半世紀であったことを、わたしは四半世紀も以前に何度も指摘して書いた。作品としての一結晶は、岩波の「世界」に長く連載した「最上徳内」であった。

 上の連中は、いわば藝能・美術の分野だが、学問・思想・博物・探検・天文・実学・経世、あらゆる分野に、この五十年が輩出した凄いヤツラは数え切れないのである。

 上の連中のもの凄さが分からない人も多くなっているが、歌麿も北斎も南北も馬琴も、当節のヘナチョコな文化勲章が何十人かたまっても太刀打ちできないような天才たちであった。写楽の如きは奇蹟のようにあらわれてまた巷に消えた。いまも実像を追いかけて、有象無象たちが売文に奔走するほどだ。

 篠田の「写楽」はこれら鳴り響く連中をみごとに統御して一編の映画として結晶させ、少しも大味にしていない。岩下志麻もやはりよかった。とにもかくにも吉原風物をとりまぜ濃厚に淀み猛烈に爆発するある時期の「江戸」の魅力を、画面に取り留めてくれたのは、有難かった。

 2005 12・29 51

 

 

* 八犬伝は、岩波文庫の第四冊めに入った。アラビアンナイトも今は、ロマンチックな面白い王子と王女の恋物語を楽しんでいる。鏡花は「註文帳」を読んでいる。この物語の凄みがうまく伝わってくると嬉しいが。日本書紀はいま大王といわれた欽明天皇紀。いよいよ佛教公伝の目前。英国史は、征服王ウイリヤムにより、サクソン・デーンの島国にノルマンの王朝が幕をあけて、中世的な折り合いをつけている。

 世界史は、いま大同石窟を創り出した北魏が、洛陽へ遷都していったあたりを面白く読んでいる。大同は、紹興とならんで、最初の訪中国時の大きな嬉しい目玉であった。大同へも紹興へも、戦後日本人として初めてその地を踏んだといわれた。まさにそれに相違ない五体の痺れ震えるような歓迎、熱烈に凍り付いたような歓迎、であった。大同の駅を出た瞬間、吾々の一行が自覚したのは、自分達が大きな擂り鉢の底に立ち、周囲にはびっしりと幾重にも取り巻く現地中国人の視線そして沈黙があったということ。

 しかし大同の旅泊は、寂しくもまた興奮に満ちていた。そして市街の巨大な九龍門、そして上華厳寺、下華厳寺の豪壮・華麗。底知れずひろがる炭鉱。その上に、二キロに及ぶ奇蹟の大同石窟五門に充満した大小の石仏達の偉容・異彩。

 わたしの感動は、帰国後に「華厳」一作に結晶した。あの小説は、わたしの心の震えを刻印して、完璧であった。

 そしてバグワンに聴く日々はつづく。つづく。

 2005 12・29 51

 


 

* 夜前、「イギリス史」と、中国の「随」の破天荒な治世とを読んだあと、『南総里見八犬伝』岩波文庫の五巻を読み終えた。ついに八犬士が出揃ってきた。今朝起きて、床の中で第六巻冒頭、犬江親兵衛仁が神女伏姫に愛育され、いましも姫の父里見義実の危急を救ったくだりを、面白く読んだ。続きが読みたい読みたいとなり、しかも音読に堪える筆の巧み。西欧の『モンテクリスト伯』に匹敵する巧緻の構想、加えて神変不思議。

 物知りの標本のような馬琴ゆえ、うそかまことか面白いことを瑣事ながらいろいろ教わるし、舞台がいまの主に東京都中心の関東一円で、地名がいまに通っていて、それも珍しく興を惹く。まだ当分のあいだ楽しめるのがありがたい。

 2006 1・20 52

 

 

* はしご  天と地を結ぶ梯といえば、Jacob’s ladderもありますね。弟が嗣ぐ、ぶさいくな姉は退けられ美しい妹が選ばれるというのは、万国共通なのでしょうか。

 天橋立にある橋立明神は海神だそうですが、天橋立が海橋立、天浮橋が海浮橋としたら、天照大神も海照大神ということになりますね。

 ガイドさんいわく、籠(この)神社は伊勢神宮と相似建築なので、三重県の人を案内すると喜ばれるとか。30年毎の御造替は1845年以後行なわれていないようです。

 また、丹後には三重県と同じような地名がいくつもあり、大江山には元伊勢という内宮外宮に天岩戸まで揃ったところがあるそうですね。  囀雀

 

* なにげないが上代史の機微に触れている。丹後という国は、出雲と伊勢・大和との底深き中継点になっていた。「四道将軍」が派遣されたとき、東海道や西海道などのほかに「丹波(丹後)道」がきっちり加えられていたことの意義は深刻であった。しかも「海=天=アマ・アメ」というイディオムも。

 2006 4・28 55

 

 

* 夜前、アンドレ・モロワ最良の代表作といわれる『英国史』上巻(新潮文庫)を、とうどう読み上げた。ちょうどエリザベス朝の終焉で大きな一区切りがついた。

 イギリスという島国が、ヨーロッパで、いかに異色に富んで風変わりな弱小強国であったかが、かなりよく飲み込めた。人類の近代・現代の創造に、イギリス風個性がつとめた役割は、政治・経済(資本主義・覇権主義)にも、またいわゆる主権在民思想にも立憲君主制にも議会制度にも、途方もなく大きい。そしてシェイクスピアに代表される人間理解の厳しさ。

 下巻が楽しみ。そしてむろん彼の「フランス史」「アメリカ史」が待っている。みな昔に通ってきた道だが、新しい思いで通り直したい。

 憲法や共謀法等で感想や異見をわたしがもつのは、現代法の専門家に準じた知識からであるわけがない。わたしの認識や判断や意見の下敷きには、人類の歴史への思いがあり、それによって得てきた、鍛えてきた「人間」への思いがある。条文の実際など、また運営の如何など、を知識として知る知らないは、存外に問題としては軽い。「人間の運命」や「人間の幸福」についてどう身を寄せ心を用いているかが、はるかに大事な理解や直観や警戒心を生む。うすっぺらな紙切れ同然の目先の知識や勉強だけでは、足りるわけがない。そこが真に「現代人」として生きるか、今をときめく「現在人」として知性を失うかの分かれ道である。

 現在人は掃いて捨てるほどマスコミをうごめいているが、現代人は少ない。「今・此処」に生きるとは軽薄な現在をアプアプ呼吸する意味ではない。運命としての現代を、歴史的に実存在として生きるのである。

 2006 5・26 56

 

 

* 総会の一時間は、事務的に終えた。会員の自由討議に一時間を用意してあったが、結果的に、饒舌きわまりない司会者と、あいつぐ理事達の発言とで、少なくも四十分ついやして、会員からはせいぜい五人が散発的に、あまり聴くに足りない私的な話をしたにとどまった。アホらしくて尿意を二度も催した。

 いちばん驚いたのは、中国と日本との関係について、浅田次郎理事のした、例によって、自分は中国の旅で不快な思いをしたことがない、国民同士は十分仲良く分かり合えるし、理性的につきあっていけば日中の将来に不安なんかないと思いますという、およそそのような発言であった。

 そうかもしれない。が、氏のその様な発言を裏付ける分厚さが、言葉の端々からも微塵も実感できなかった。

 中国はほぼ七千年の歴史的な文化をもち、その諸民族の興亡の経緯を一貫して、海外や異国への覇権意思にもの凄いものがあったのは、間違いない事実・史実であり、それにはあの国民のすべてあずかり知らぬ事、とも言えなかったのである。

 あの国の革命や興亡は、かなりの頻度で、奇態な信仰や呪いがらみに起こり拡がり実現してきた。紅衛兵でも日本バッシングでも分かるように、ほんのちょっとした刺戟や暗示からでも暴発しうる政治的素質を中国の民衆はもっている。似た素質はじつは日本人ももっていて、致しようもなく自分たちも含め「民衆」とはそういう面を持っていて、だからこそ安直に「一般論」にされてはならないはずである。まして指導的な立場を自任していそうな人ほど。

 浅田氏の感想は、ああいう公式の場での常務理事発言としては、あまりに軽く薄いもので、黙っていた方がマシであった。今少し、スタンスの大きい歴史的な知性を、ペンの理事は必要とするのではないか。「日本オール読物ふうペンクラブ」に陥り、また安住しないためにも。

 2006 5・31 56

 

 

* 竹島問題がとやかく騒がしくなってくるより遙か以前から、わたしは、日本と朝鮮半島国とのあいだで、必ず問題がややこしく脹れていくのは、竹島どころか「対馬」(ないしは「隠岐」も)の領有問題だと思いもし、言いもし、書きもしてきた。竹島など問題が小さいとすら、もっと対馬のことを恐れてきた。

 いま対馬では、韓国の観光客をより多く迎え入れ、別荘地を売ったり売ろうとしたりする傾向が露わであると報じられているが、日本政府の無定見と失政は、此処へまで及んできている。

 注意しておきたい、日本がかつて鎖国に入っていったとき、秀吉や家康が最も忌避した大きな一つに、九州のキリシタン大名が、自領を割譲し、基督教の教会領や聖職者達の私有地としてゆるし始めたことがあった。国際的な治外法権の地を無思慮にゆるし始めたとき、起きてきかねない、領土問題。それは途方もない危険を予期させた。禁教と鎖国は絶対的に必要と、当路の者は真剣に、国内で起きてしまう領有問題を恐れたであろうと思う、わたしは、その恐れようは、歴史的に見て正しかったと考えている。

 今一つ、明治以前からの不平等条約の下で、海外の投資をゆるして単に開港された地元の少々といわず、もっと広い範囲で、海外資産により日本の土地が買い込まれかけたときの日本政府の苦慮は、いまでこそ誰も覚えていないが、凄かった。正確な数字上のことは今すぐ言いにくいにしても、じつは外人に売られていた国内の土地を買い戻すために、国は、莫大な補償を支払ったはずであり、それによって、実に実に辛うじて我が国列島内に於けるややこしい「領土問題」の紛糾を、明治政府は必死で回避しえたのであった。

 どんな地元の打算と、どんな外務省や政府のバカな怠慢とが、加上しあっての事態か知らないが、「対馬」問題は、必死に阻止しておかねばならない近未来への取り返し付かない「禍根」になる。世論が早く起きねばいけない、話題にされねばならない。

 

* 今の外務大臣は、わたしの眼には、百二十パーセント信用がならない。はっきり言って無能である。無能だけならいいが、加えて傲慢に尊大な独善は、この私以上だと言っておこう。わたしは一介の私民でしかない。危険さにおいて無能で尊大な外務大臣ほど、この時代に危険な存在はない。彼は私民ではない、公僕だからわたしは言うのである。この僕、僕たるの意味を知らないと。

 2006 6・9 57

 

 

* 昨日、とうどう『日本書紀』三十巻を全巻音読し通した。これは黙読していては途中で投げるオソレ有りと、最初から音読した。読み終えてみて、ウン、よく読んだという満足感がある。

 日本国が、大昔から朝鮮半島ないし中国と、善縁も悪縁もいかに深いかを、しみじみ知った。決して粟散のむ辺土として東海に孤立していたのではない。ひしひしと外交関係に揺れに揺れていた。戦闘含みのきつい駆け引き・位取り。淡泊に互いに遠慮して付き合ってきたとはとても謂えない。しぶとい、あくどい、かなりこんぐらかっただましだましの付き合い方をしながら、体面を気に掛け気に掛け、実力行使もしたし、脅したりすかしたりされ合い、し合っていた。神話の時代からすでにそれが始まっていた。

 そんな中で国の律令体制と本格の都づくりへ、半歩一歩ずつ近寄って、日本書紀の「最現代の政治」が日々実践されて行く。想像以上に福祉にも気を配っている。秩序というものを位階や冠位や服装で創り上げて行く努力。

 その一方では瑞兆を重んじ、風雨の神などへの祈祷も欠かさない。そして徹底した紀年経時の歴史記述のスタイル。

 読んで良かった。古事記はその前に読んだ。

 さ、今度の古典は何を読むか。長い長い『太平記』を読もうか。

 2006 9・2 60

 

 

* ニューヨークの超高層ビルの二つを、吶喊した航空機が瞬く間に崩壊させたのは、何年か前の今日ではなかったか。以来、世界は病んで崩れつつある。日本も病み頽れつつある。いま譬えていうなら、世界は操縦機能をみうしなった航空機のようにあてどなく彷徨飛行している。われこそ操縦士と操縦桿にしがみつくアメリカの、濃い色眼鏡の視野狭窄は、危ない限り。しかし、アルカイダも何のアテにもならない。

 墜落するならすればいいと自暴自棄の声なき声がもう上がっているとも懼れる。「危ない、危ない」。漱石が、三四郎君の先生が、近代日本の行く手をそう警告したときとは、比較にならない大危機がとうから来ていて、危機慣れさえしかけている。「危ない、危ない」。

 そういうとき、じぶんではもう何も出来ないのではないか、それならいっそ黙って目撃しながら、世界が爆発する前に死にたいものだ、などと情けないところへ頭を隠そうとする自分に気づいて、それが情けない。見るほどのことはみな見終えたと嘯いて平家の勇将知盛は海の藻屑と沈み果てたけれど、何ほどのことを見たといえるだろう。

 あれから八百何十年、人間の賢いような愚かなような歴史は、知盛の想像を絶した世界を演出しつづけてきた。気の遠くなる永遠を人は当たり前のように期待しながら諸変化を受け容れてきたけれど、もうもうドンヅマリへ来ているのではないかと懼れている人は、たぶんまだ少数であろう。人はもっとノンキに創られている。それが幸か不幸かは分からない。

 ああ、イヤになったと、しんそこ思うことが、数増えてきただけは真実である。

 宗教は働いていない。哲学は生まれても来ない。政治は権力と利益をとりあうゲームになっている。そして隠微に増える暴力的な犯罪。

 

* いま宋の大政治家「王安石」の事蹟を学んでいるが、思えば中国の歴史に、少なくも理想の働いた唐末までとさまがわりし、いわば資本主義が勃興して中国的思考を大きく変転させたのが「北宋」であった。儒や老や佛がまがりなりに政治の内側に働き得た時代は、宋により覆され、しかも宋は、北から南へ、そしてモンゴルの強力に潰えた。そんな中で渾身の政治力を発揮しようとした世界史的な大政治家であった、王安石は。

 しかも彼は中国の歴史の中で、政治家としてはおろか、人間としても最低の者として後世までそれ以上は無いほど悪く悪く否認され続けた。

 彼は中国人の九割以上を占める農民の声を聴き、僅か一割に満たない数で勝手な世論を構成していた士大夫(知識人=官吏・地主・大商人・名族ら)の既得権を抑えようと、数々の「新法」を発揮し励行して、いくらかの成果をあげた。しかし士大夫階級の抵抗は強かった。そして新旧両法党の混乱が「宋」という王朝を毀してしまった。

 王安石の改革を指示した宋の神宗は、英邁な帝王であった。だが、士大夫の最たる一人は皇帝を責め、「政治」というのは「士大夫の利と安穏のためにこそなさるべきです」と諫言していた。そういう発想の政治が、世界的に、宋代以降にうまれて、今のアメリカも日本も、「ひとにぎりの利権の持ち主のための政治」がなされている。只一人の王安石もあらわれない。

 いちばんひどいのは、知識階層が、政治におもねっていること。

 2006 9・11 60

 

 

* いま、東京都以外の大きな街は、ふつう「市」と呼ばれている。大阪市、神戸市、名古屋市、横浜市、西東京市などと。この「市」のことを特に顧みて穿鑿することはまず無い。

 宋の頃まで都街は、主として「坊」に区分されて、その広い一画は高い塀で囲われ、門はごく僅か、晩になると閉じられて坊の者は出入りを堅く制限されるのが普通だった。

 そんな坊から成った都城のなかに、商業専一の区画がありそこが「市」であったけれど、重農・農本の国から商業資本に重く大きく傾いていった宋の頃から、坊の門戸が開かれがちに、いつか坊の壁もとりはらわれた。都城そのものが「市」的繁昌に包まれて行く時代へ変わっていた。吾々今日のナニナニ市にも、そういう史的推移の定着のあとが疑われもせず残っているわけで、人間万事が「金」の世の中に変わってきたのは、決して今今のことではなかった。

 2006 9・14 60

 

 

* また浴室でチンギス・ハーンの没後、中国に「元」王朝の成ってゆくまでを読んでいた。西トルキスタンに出来ていた世界の大十字路のことは、前巻『西域とイスラム』で読んだ。

 2006 9・19 60

 

 

* アンドレ・モロワの『英国史』、おもしろい。いま「第六篇君主制と寡頭制」の「結論」に近づこうとしている。イギリスはいろんな革命を実験し実見してきたが、宗教も政治も議会も産業も経済も、みな革命し、またそれらを綜合した独特の「感情革命」をも遂げていた。「第五篇議会の勝利」を経てきて、とうどう「第七篇貴族政治から民主制へ」手が届いた。

 イギリスの歴史を嘗めまた噛み砕くように読み継いできて、日本の民主制の未熟な退潮反動傾向を観ていると、ああまだ時間が、実験も体験も、あまりに足りんわと頭を掻いてしまう。

 しかし歴史というのは、なにも五百年掛けた先駆を五百年掛けねば後輩は学べないという情けないモノでもない。だが、現実はあまりに情けない。

 2006 9・24 60

 

 

* 中国の歴代帝国のなかでも「宋」は、けったいに不出来な帝国であったけれど、歴史を大きく変えた文化国家でかつ重商資本主義型の帝国として、また前半の北宋から南渡領国を半減して南宋を成し、その間に世界史上帝室の悲劇としては最悪無惨な靖康の異変も体験した。北地から遼に金にそして元に攻め立てられて、最後にフビライの「大元」に完膚無きまで攻略され滅亡した。その滅亡は平家が壇ノ浦で潰滅したのとそっくりよく似ている。そしてその悲惨さへの挽歌が、例えば「正気の歌」などが、なんと我が幕末の攘夷思想に巧みに取り入れられて、明治維新への足取りを刺戟していたことなど、歴史はいろいろに老いた私をまだまだ新たに刺戟してやまない。面白い。

 2006 9・27 60

 

 

* 昨夜おそく、建日子がきて暫く歓談、また戻っていった。床に就いたのは二時半。それから何冊も本を読んだ。

 太平記では資朝卿についで俊基朝臣も鎌倉の手で斬られた。源平盛衰と南北朝の物語は少年の昔から網羅的に頭に入っている。

 音読しやすいのもあたりまえ、「太平記読み」は「平家読み」についで室町時代以降盛行した。ほんとはもっと声を張って読みたいのだが真夜中のこと、憚る。

 漢文、唐詩、宋詞、元曲と謂う。元という帝国は極端に尻すぼまりに衰えた国だが、ジンギスカンの子孫の帝王達には、歴代酒色にすさむという悪癖とも宿痾ともいえる遺伝があった。ああいうモンゴル第一主義の北方民族も、手もなく中国化してしまう中国の懐深さに感嘆する。

 宋というのはダメ帝国でもあったけれど、どうしてどうして、とても無視できない「文化」と勝れた官僚政治があった。「科挙」という制度のよろしさを宋ほど仕上げた帝国はなかったし、人物も多彩に豊かだった。

 2006 10・1 61

 

 

  •  「美しい国創り内閣」の発足 (安倍内閣メルマガ創刊準備号より)

 こんにちは、安倍晋三です。

 私は、毎日額に汗して働き、家族を愛し、未来を信じ、地域をよくしたいと願っているすべての国民のための政治をしっかりと行っていきたい。そのために「美しい国創り内閣」を組織いたしました。

 

* はなはだアバウトで論理を欠いた提唱であるが、「国民のための」の一語を記憶しておく。関連してわたしの持論を書いておく。

 日本の法律のすべてに、「国民による国民のための」という角書きを付けて欲しい。立法の時も改正の時も例外なく。それにふさわしい「法」を起こし、運用して欲しい。まちがっても「政権・公権力の政権・公権力による政権・公権力のための法律」は、断じて御免蒙る。

 ところがこの五年十年のうちに建てられた、名前だけはもっともそうに美しい法律には、法の下に国民・私民をねじふせ、法の下に公権力の野放図な安定をはかるそういう悪法が平然と強行成立されてきた。

 安倍内閣が真に「国民のために」何をするか、目を離すまい。

 

  •  かつて、日本を訪れたアインシュタインは、「日本人が本来もっていた、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらのすべてを純粋に保って、忘れずにいてほしい」という言葉を残しました。

 

* アインシュタインの「ご挨拶」を無にする気はないが、久しい歴史のいまだかってどの時代においても、こんなアバウトな日本人観で日本人が理解できた時代は存在しない。せめてわたしの『日本を読む』を読んで考え直して欲しい。

 政治家がこういう一概でうわっつらの美辞麗句を利用するとき、秘めた悪意にこそ警戒しなければならなかった。

 安倍氏の言には、相対化する智恵が働いていない。もしそれを一方の「美徳」と観ずるなら、他方に日本人の抱え持ってきた「悪徳」「欠点」の認識も働かねばウソになる。人間は一人なら美徳の持ち主らしいのに、人数が増えれば増えるほど悪徳の平然たる発揮者に変容して行くものだ、付和雷同そしてご無理ご尤もの「日本人」であったし、今正にその頂点へ来ている日本だとも認識できていないのでは、優れた宰相とは謂えまい。

 そもそもなぜ引き合いにアインシュタインか。他国を訪れた人たちの「ご挨拶」は、俳諧のへたな挨拶句よりもっと空疎な美辞麗句に流れて無難なことは、当然の儀礼とされている。むしろ日本の宰相として謙虚に聴くなら、上杉鷹山などの厳しい国政観などを、新井白石などの現実と理想とを兼ねた政治姿勢などを引用してこそ、困難の前に「身を引き締め」られたろう。

 

  •  日本は、世界に誇りうる美しい自然に恵まれた長い歴史、文化、伝統を持つ国です。アインシュタインが賞賛した日本人の美徳を保ちながら魅力あふれる活力に満ちた国にすることは十分可能です。日本人にはその力がある、私はそう信じています。

 今日よりも明日がよくなる、豊かになっていく、そういう国を目指していきたい。

 

* 私もむろんそう信じたい。望みたい。総理は、歴史観においてつまり「上昇史観」の持ち主であるのか、ただ期待がそうなのかは、俄に推測できないけれど、日本人の歴史観は、早くも安土桃山時代までは顕著に永続して「下降史観」ばかりであった。誰も天皇以上にはなれずに、官位にも極官が重い不文律になっていた。土地という所領をどう多く望んでも、日本列島には限りがあり望みはガンとして物理的に阻まれていた。そして末法末世の観念がいつも人を現世的に弱気にした。ますます「魅力あふれる活力に満ちた国にすることは十分可能」などと信じられた日本人は、権力者にすらいなかった。政治・経済・思想において頭打ちは目に見えていたからだ。

 安土桃山時代になり、キリスト教が入ってきた。天皇以上の「神」の存在に人は仰天しながら、頭の上のひろがる思いをした。信長も秀吉も家康もみな内心の癪の種を落としていた。そして世界の広さが目に見えてきたとき、秀吉のように、足らない土地・領土は、他国切り取りで拡げればよろしいという姿勢に出た。日本国は天皇に任せておくが、世界へ出て世界の王になるのは勝手だというぐらいに秀吉が考えたのは、日本人がはじめて具体的に「上昇史観」を手にした事実上の最初だった。だが、それも鎖国でしぼんでしまい、徳川幕府の搾り取り政治・管理政治で、まただれも「希望」など見失った。人の歴史は下降していった。

 安倍総理の、上の、ノー天気なほど楽観的な姿勢には、じつは、歴史観の思いつきに等しいほどの貧弱、というより欠如が心配される。信じるのも目指すのも口先では簡単だが、「日本人にはその力がある」と言うとき、日本人をほんとうにノヒノビと内発的に、力強く、日々幸せに政治が生活させているか、まっさきにその反省がなければなるまいに。今の日本は、ひと頃よりも半世紀分ほど反動的にあと戻りしている。変わったのは機械的な便利さだけで、便利という実体には、少なくも五分の利に対し五分の猛毒が籠もっていると想わねばならない。大学は品位と自負をうしない、思想も哲学も払底し、宗教は衰弱。そして教育は政治の玩具にされている。                     0

 

  •  世界の国々から信頼され、そして尊敬され、みんなが日本に生まれたことを誇りに思える「美しい国、日本」をつくっていきたいと思います。

 

* 戦争時代の教科書にも新聞にも先生のお言葉にも少国民達の綴り方にも、こんな言葉ばかりが氾濫していた。

 北朝鮮の放送が、いまもいつもこんな調子で声高に喋っている。安倍さんのこれは、「北朝鮮みやげの日本語」なのかと失笑する。

 アメリカ仕込みの憲法だとおっしゃるが、憲法には人間の理想と祈願も籠められているし、憲法が憲法であるあいだは、総理はそのもとで総理なのだと忘れないでいて欲しい。

 わたしに言わせれば、戦後、アメリカに仕立てられ、アメリカふうに徹底して動いてきたのの第一番が「自民党」ではないか、と。

 同じリクツをつけるなら、自民党改正ないし廃棄の方が、「先」であって当然だろう。

 

* >>国公立というものは、法律関係において特別権力関係にあります。(簡単に言うと法律の手続きなく、ある程度の人権を制限することができる関係のことです。父は国立大学の憲法学者ですが、この意見には否定的……

 私(秦)も否定的です。

 昔の、高等学校や帝大に根付いていた大学自治や学問思想の自由という理想は、日本では崩され続けて今日に至っていますが、どの段階で見ても、公権力の抑圧や抑止政策が本質的に良く働いた事例は皆無で、時代の悪しき傾斜に追い打ちを掛けた嫌いがあります。

 国公立に属するがゆえに多少の人権が制限されたり抑圧されたりしても当然という考え方は、けじめや歯止めがきかなくて、これまた「無惨な歩み」をみせてきました。公務員個々人の良識と道義心と忠誠心が求められること自体は理解できますが、公職にあるから憲法の認める基本的人権までが阻害されては逆立ちであろうと思います。

 >>憲法と言うものは市民の人権を守ると言う意味よりも公権力の力を制限する目的のものです。

 運用という意味ではそうかもしれませんが、理想において、やはり国民の権利と安全を確保するための憲法であると私は思っています。

 したがって現実に公権力のシンボルのような総理大臣や都知事が、憲法に制限されるどころか、憲法を、呼応して足蹴にしていることで、憲法軽視の風潮を助長しているなど、犯罪そのもののように私は感じていますが、どうでしょう。

 少なくも国公立・公職・公務員というものが、度を超して公権力に隷従させられる傾向の強まって行くのは、おそろしい気がしませんか。

 2006 10・5 61

 

 

* 入浴、「宋学」「朱子学」を読む。すこぶる興味深し。宋以前、中国には体系をもった哲学は存在しなかった。佛教の体系に比して、儒も道も思想の構造としては散漫だった。北宋にいたってやっと周学が成り朱子学が成った。十三世紀の思想体系としては宋学は世界に冠たる重量を誇っていた。禅宗とは想像を超えた親縁関係にあるが、朱子学は、禅とちがい絶対の境地よりも、時間・空間・運動などをトータルに相対化した把握に長けて実践的である。理を謂い礼を謂い、生活に理想の規範を与える。あくまでも儒で、禅とは質的に異なっているが、通うモノをもっている。

 禅の達磨だと、瞬間から瞬間を内発的に生きるというところを、宋儒なら、無極から太極へ、太極から無極へ動き静まり、それが生活だと謂うだろう。中庸、そして礼と理と。想像したよりも宋学の境地は現実に足場をおいて難解ではない。達磨なら「あなたこそ真理だ、どこへ動いて行く必要もない、行ってはならないのだ、真理は我が家にあるのだから」と言うが、宋学は「運動」に世界の働きを、また人の働きを観ている。

 2006 10・7 61

 

 

* 湊川の戦に果てた正成をわたしは「あかんやっちゃなあ」と嘆いたこともあるが、正成は、昔から今まで好きである。身近である。しかしながら太平記の称賛する正成とは異なるべつの正成像、実像のあることをも、わたしは積極的に受け容れている。

 太平記は憚ってそうは描かないけれども、楠木が鎌倉の被官であったこと、根は鎌倉方に在ったこと、鎌倉に背いて後醍醐天皇との間に連繋が出来ていったこと、それはそれで少しも可笑しいとも、卑怯だとも思わない。この時代降参と反逆とは少しも珍しくない当然の処世であり、そういうことをしていない有力武士の方が少ないぐらい。

 それに正成が「悪党」と呼ばれる悪党の意味は少しも悪人の意味ではなく、この時代を特色に満ちて生きた一部土豪や下層武士たちのじつに興味有る処世を謂うたまで。

 わたしには、なにより正成たちが、観阿弥世阿弥など猿楽の徒とも血縁というにちかい連絡を保っていたらしいことも、すこぶる面白い。彼の武略・知謀の根底には、根生い地生えの民衆の支持もあったことを推定しなければ理解が拡がらない。

 「あかんやっちゃ」とわたしの嘆くヤツが、この南北朝・太平記の時代にはいっぱいいて、尊氏も義貞も北畠もみんな例外ではないけれど、正成のそれは、共感に値するモノも最後まで持ち得ていた。生き疲れたんやなあと思っていた、子供の頃から。湊川にたつ途中、「わが子正行」を「青葉しげれる」櫻井の駅で故郷に帰した「訣別」の真意にこそわたしは感じ入って、その後の南朝の善戦に固唾を呑んだ。 

 幼稚園国民学校のはじめごろ、近所の子供達の競って唄ったのが「青葉茂れる櫻井の里のわたりの夕まぐれ」であった。源平合戦と南北朝。やはり時代の覆いかけていたネットからは、遁れ得なかった。それでもわたしは、軍国少年とはほど遠い心根を抱いていた。同じ頃にひそかに読んで胸の奥に畳み込んでいたのは、白楽天詩集の厭戦・反戦の長詩『新豊折臂翁』でもあった。「京都」育ちのわたしを、文学へすすませた原動力は、「平家」と「折臂翁」とであった。

 2006 10・9 61

 

 

* 宮崎市定さんの責任編輯された「世界の歴史」の『宋と元』を再読して、また新たに多く眼の鱗を払った。面白かった。ゆっくり時間を掛けて読み終えたが『宋』という帝国の世界史的意義にとことん触れ得て大満足。夕日子に下書きさせた「徽宗」ほど物哀れな末期を遂げた帝王はすくないが、宋というと彼の帝王としてのイメージの不出来が印象をかげらせがちなのだが、一方、彼ほどの優れた帝王画家は古今に類が無く、わたしは少年の昔から彼の筆と伝えられる「桃鳩図」や「猫図」にイカレていた。お見事と言うしか無く「国宝」ありがたしという気になる。

 宋の絵画はたとえ議論が在ろうが、北のも南のもわたしは敬愛し親愛する。精到くまなき白磁や赤繪や青磁などの陶磁のすばらしさ、書風の個性的な大展開、宋詞から元曲へ展開する白話文藝の絶頂。そういった文化的なことには多年に仕入れた知識があったけれど、優れた「科挙の実施」による中央集権の官僚政治体制の独自さ、製鉄の飛躍的な発展を基盤にした商工業の画期的な拡充、そして印刷に置いても羅針盤試行においても、火薬の使用においても、宋は、ヨーロッパ近代の漸くの追随を尻目に数百年も先んじていた。

 そして朱子学という思想体系。それらはいろいろの批判や批評を浴びながらも、現代の吾々の今日只今にも具体的な看過や影響を与えていて死に絶えて乾燥した博物館型の文化でも文明でもなかった。

 そういうことを、またしみじみと感じ得たのは、別に今更にわたしの日常を変えるような何ものでもないけれど、頭の中が少し新鮮に帰った気さえする。

 

* さ、歯医者に出掛ける時間になった。

 2006 10・11 61

 

 

* いま、しかし、いちばん面白く読んでいるのは中公版「世界の歴史」の『ルネサンス』だ、ことに会田雄二さんが執筆担当している冒頭の百頁ほどのおもしろさには肯かされる。再読三読で文庫本には黒のボールペンで一杯傍線。その上に新しく赤いボールペンで線を引き、入浴しながら夢中で読む。高校で必修の世界史を教えないまま卒業させようとした学校が数多くバレてきて大問題になっているが、高校生には日本の近代史を必修にして欲しいし、世界史はギリシァ・ローマの歴史とルネサンスとを必修にして欲しい。一年間で世界史を教えるなど無理なことだ。同じことは日本史にも言えるが、日本史は明治維新から敗戦後のオリンピック辺りまでを誠実に大きく歪めないで若い人達に伝えて欲しい。そのためには本当に優れた本が欲しい。

 2006 11・1 62

 

 

* 呉王夫差 越王勾踐 字が合ってたかな。会稽の恥を雪(すす)ぐ話は、太平記で読むのが俗耳に入りやすい。美妃西施の苛酷な運命。双方の王に侍する真の忠臣たちの苛酷な明暗。わたしの音読の原則は最低、見開きの頁を次ぎへめくるまでは必ず読むのだが、ここは興に惹かれて長く読む。それでもまだ半ば。中国の話に触れて書こうとすると、漢字再現に行きつまる。時にハンレイ無きにしもあらず、ではしまらないなあ。

 

* いま、支那と書こうとしたら出てこない。固有名詞のはずなのに東シナ海になる。

 作家代表団で初めて井上靖夫妻団長に率いられて訪中したとき、二つ、奇異な思いをした。一つは、支那と言うなと、万事御世話になった日本中国文化交流協会の事務局から教えられ、お土産の著書にもし「支那」の字があれば抹消し、「中国」に書き直して下さいと。ヘンなことを言うなあと思った。

 わたしは「貰ひ子」された先がたまたま「秦」家であっただけで、だから招待国の副首相でいわば国会議長役にあった周恩来夫人に、「秦先生はお里帰りですか」と人民大会堂の会合でにこやかな諧謔の挨拶を受けても、此の「チン・ハンピン」つまり秦恒平は「そんな気もしていますが」とにこやかに答えてもとくに実感はなかった。だが、「秦 チンがCHINA=チャイナになった説」にいつも一票を投じてきたのは確か。

 中華思想の国に相違ないにしても「中国」なんてヘンな呼び方と思い続けて、口にするつどイヤだった。中華そばより支那そばの方がいいし、支那料理の方が中華料理より美味そうだ。支那人でなんでいけないのか、理由はいろいろ聞いているが。

 最近戴いた大久保房男さんの本に、全く同じ不満が縷々述べられていて、思わずクツクツ笑ってしまった、大久保説にわたしは同調する。これからは支那と書いたり言ったりしたいと思う。親愛こそあれ侮蔑観など全然無い。支那の人も、聞くところいっこう「支那」を不快に感じていないようで、何で遠慮するのですか、分からない、という支那人は少なくないとか。さもあろう。

 

* もう一つの支那訪問で気になったのが、団員の肩書だった。わたしはその時、東工大教授でもペン理事でもなかった。「作家」でいいじゃないか、いちばん端的でいいじゃないかと胸を張って思っていたが、歓迎してくれる向こうの人のために、別にさらにエラソーな肩書がないかと聞かれ、「ありません、そんなもの」と「作家」で通した。ま、それしか無かったのだから威張ってみても仕方ないが。

 一度目から二十年たって、二度目に訪問したとき、支那の物書きさんに名刺をもらうと「一級作家」と肩書つきのエラソーな人に出逢い、ひどく違和感を覚えた。何によって一級の二級のと差別するのだろう。もし年功だったりすれば嗤えるなあと思った。若く死んだ一葉や啄木は何級になるのかなと想った。

 2006 11・13 62

 

 

* 夜前おそく、アンドレ・モロワの名著『英国史』上下二巻を読了した。本はわたしの書き入れと傍線とで真っ赤になった。以前にも二度読んでいるが、今度はゆっくり時間を掛けた。しかも休みなく興味津々いろいろ納得して読んだから、すっかりイギリスの歴史が好きになった。

 英・独・仏・伊。みな中世以来のヨーロッパでは偉大な文化的行跡をのこしてきたが、いま日本国の政治のていたらくを情けなく嘆くばかりの毎日に、英国をストレートに礼讃する気もしないけれど、歴史的に「絶対王政」をゆるさず、王よりも議会がつよく、しかも概して帝国としての安泰をゆるがすことなく、国民の利益や自由をほぼ尊重し優先さえして政治体制をつねにそれに合わせ、バランスよく融通させてきた英知に感嘆する。羨ましい。

 明治政府が、ドイツよりもイギリスの政治と制度と歴史を学んで近代日本の道を付けていてくれたらと、つくづく残念に思う。

 ローマ法王とも背き、つねに距離をおき、英国独自の「国教」をもちながら、新教徒を育みまた追い出し、世界の植民地と英帝国との政治的な関係もじつに「うまいこと」やってのけて、国運を傾ける大波乱にはついに巻き込まれなかった英国。

 わたしは法王・司教らの腐敗した公同大教会も嫌い、絶対王政も嫌い。イギリス人のことはむろんよく知らないが、歴史では英国はすばらしく多くを教えてくれる。

 イギリス留学から帰ってきた上尾敬彦君にいろんな話が聴きたくなっている。

 2006 12・16 63

 

 

* 毛沢東と紅衛兵の時代を、多くの同時代支那人たちの証言であぶり出す、テレビ映像での報告を観て聴いて、感慨無量だった。紅衛兵に関する詳細な総括本はかつて読んでいた。だが、あらためて証言の数々に接していると、興奮に肌に粟立つ思いがある。「大躍進」での毛沢東の深刻な失政、その後の劉少奇と鄧小平の台頭、この二人の追い落としに豪腕をふるった毛沢東の「紅衛兵」策動。すさまじい政治の権力闘争。操りに操られた国民の狂奔と失望と卑屈。

 中国は「革命」の国であるが、古来の革命のいかに数多くが一種の催眠的な呪術的な策動や煽動にのっかってのものだったか、一つの「国民性」があらわれている。

 紅衛兵のあとへ「文化大革命」がつづき、毛沢東が、周恩来が死んで、「四人組」のもの凄い時代がきた。だが、四人組は克服された。逮捕され投獄された。わたしが井上靖夫妻らと日本作家代表団で訪中したのはその「四人組追放」直後だった。上海でも北京でもまだ武闘のアトがなまなましく観られた。国中が大字報で溢れていた。我々日本の作家達を人民大会堂で接見したのは、いわば国会議長職に就任間もない故周恩来総理の未亡人だった。

 明日であろうか、第二部に、「造反有理」と予告があった。ぜひ観たい。「造反有理」の四文字は、ただに中国でだけ流行ったのではない、昭和四十年代半ば過ぎまで、あらゆる日本の労使紛争の現場で、壁や紙や地面にまで殴り書きされた、いわゆる「過激派」のスローガンで「開けゴマ」ですらあった。

 2006 12・25 63

 

 

*「世界の歴史」第七巻、松田智雄ほか執筆の『近代への序曲』を読み終えた。ダンテ、ミケランジェロ、メディチそして偉大な人文主義者エラスムスらの「ルネサンス」、ルター、トゥイングリ、カルヴァンらの「宗教改革」と血腥い葛藤。そして北欧、仏独西、法王のローマのさまざまな躍動・蠢動・支配欲。新興ネーデルラントの台頭、エリザベス女王とシェイクスピアの陽気な大イングランド序曲。大きな大きな序曲。モロワの『英国史』を読んだアトでもあり、なまじの読み物よりもはるかに「世界史」のこの巻は興味深かった。今が今の自身に繋がる「人類史の跫音」を聴く感銘、言葉にならないほど深い。広い。

 次は、わたしの最も厭い嫌う『絶対君主と、人民』との死闘が始まる。福沢諭吉がどんな意味で謂った謂わぬにかかわりなく、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」とわたしは堅く信じている。支配せず支配されない人生でありたい。出版資本のねじけた文学と作者支配に抗して自立したわたしの「湖の本」の努力を、さも浅はかに嗤う人も世間にいないではないが、こういうわたしの「志操」を知らないだけのこと。

 2006 12・26 63

 


 

 

* 正月は例年だが、新聞を全然見ない。テレビもニュースを観ない。たまたまその場面だけ、往年のバタやん田畑義夫の「帰り船」を聴いて、当時の「歴史の厳粛」今更に泪溢れた。「浪のせのせに揺られて揺れて 月の潮路の帰り船」と歌詞も優れているが、何と言おうともこの演歌調の深部から、はるか海外の戦地をのがれ日本へ日本へかろうじて引き揚げる同朋たち命がけの思いが噴き上げてくる。それに熱く泣く。幸せにも何の関わりもなかったわたしも、あの頃、日々のラジオの「たずね人」放送に、耳押しあてるように聴き入った。

 2007 1・4 64

 

 

* 紀田順一郎さんからメールを貰った中に、「中公版『日本の歴史』についてのお言葉があります。私もあのシリーズは通史もののベストで、以後の類似企画には陰りが生じてきたと思っておりました。わが意を得たという思いです」とあり、嬉しかった。学問的にも最悪の水準とペンの理事会の席で発言した学者があり、呆れて顔を見返したことがある。何を考えているのだろうと思った。一万四千頁、読んでの言とは思えなかった。わたしは全巻を読んでいる。今となっては望みうる最良の志で一貫されていると、わたしは、ことに幕末から現代までの八、九巻の熟読を、若い人達にこころから奨めたい。

 2007 1・12 64

 

 

* 九大の今西祐一郎教授が『和歌職原抄』を下さる。有り難いことに、『神皇正統記』で名高い南朝の忠臣北畠親房の原著『職原抄』版本も付されてある。

 聖徳太子の官位十二階制定このかた、日本の官僚社会は、ガチガチに位階官職の世間である。「官職相当」の位階にかかわる知識は、その世間に生きる人達には米の飯ほど必須であった。『職原抄』はその簡要の専門解説書であるが、さらに要領・要点を、百六十五の「和歌仕立て」に覚えやすくしたのが『和歌職原抄』。分かりよく謂えば、官職上の「位取り」を慣習的にまちがえず心得させるのに、和歌の体を手引きに利用する。

 公家にとどまらず僧綱、武家その他に及んでいて、古典を読むのにとても便利に使える。「官職位階は昔から色恋にも劣らぬ人間の関心事であった」とある「解説」第一行が、多くを言い尽くしている。「位こそなほめでたきものはあれ」とは清少納言のウソ偽り無い実感であった。『源氏物語』をはじめ登場人物が実名であらわれることは、ほとんどない。光君、薫大将のような綽名か、頭の中将や大将の君というふうに、衛門督や左大臣や頭中将というふうに、官職や位階で呼ばれていて、その「昇進」が、物語の年立てに重要に関わってくる。「官職の事は先づ彼職原抄を学知よりよろしきはなきとぞ。しかれども職原抄ひとりよみがたし。唯これをこゝろえんとならば先此和歌職原を暗(そらん) ずるにあるのみ」と序にある。

  右大臣 相当りたる 位をば 従二位とこそ いふべかりけれ 

  左大臣に あたるくらゐは 正二位ぞ 近代はまた 従一位も有

といった感じに、和歌仕立ては各般に微細に及んでいる。およそ「今日」には金輪際役立たないようなものだが、さにあらず、今日でも、総理は総理、外務大臣は外務大臣で足り、官庁や企業でも、局長、専務等だけで通用している世間はある。ま、とにかくも古典世界の逍遙にはよい手引きであって、「和歌」仕立てを便宜に用いている。さまがわりの「和歌徳」ものとも謂え、茶の湯の『利休百首』なども、この類。

 今西教授のご厚意で多彩にこういう基本書を頂戴し続けてきた。ありがたいこと。

 2007 1・13 64

 

 

 ☆ オデュッセイの本はお手元にありますか? なければ送りますが、如何? こちらのは筑摩の世界文学全集の1、昭和45年版 高津春繁訳です。  鳶

 

* たぶん在ったはずと。書庫を探します。なかったら、頼みます。

 カッスラーの、ダーク・ピット版がべらぼうに面白くて、読み進むのを惜しんでいるくらいです。『オデュッセイ』をぜったい読みたいという気にもさせましたから、読書の功徳、どこへ転じるかしれません。

 ドレのドン・キホーテ画も楽しんでいます、が、ツヴァイクの『メリー・スチュアート』を始めから読み直していて、これにぜんぶ持って行かれそうです。フランスの女王が夫王に死なれ、ただのスコットランド女王に戻りましたが、彼女の紋章にはイングランド女王である主張も描かれていますとか。これからつづく、イングランドのエリザベス女王とのながいながい暗闘。

 世界史の読みは、いまその辺をもう通り過ぎ、英国の短かった絶対王政が、議会とジェントルマンたちにより潰されて行くところです。英国史ほど、立憲天皇制民主主義国日本の学び甲斐のある歴史はないでしょうに。なにをやっているのでしょう、われらの「日本」は。

 民主党の三人男が、嵐の船の上で演じてみせる「生活維新」とやらいう愚劣な芝居を観ましたか。情けない。

 あれで何か訴求力があると信じ、演じているのですかねえ、あんなヘタクソな茶番を。そもそも「維新」などという文字も意義も死語にひとしい。「野党全共闘」をでも敢行しない限りとうてい勝てない与党との戦を前に、具体的な政策と政略、高度の説得がなければならぬ、今。あれでは皮肉なことに高度の利敵茶番にすぎません。

 脱線しました。

 お元気で。 鴉

 2007 1・16 64

 

 

* 優れた女性が激突した史実は、数多くない。

 我が国では清少納言と紫式部とが並び立ったとははいえ、面と向かい合ったわけではない。少納言が退職した後へ紫式部が就職してきたような時列であり、一方的に紫式部が娘の大貳三位あいてに猛烈なかげぐちを叩いただけで、まともに激突という場面は無かった。紫式部の夫になった男を、清少納言がちょっとしたことでおちょくった事があって、紫式部は面白くなかったのだろう。

 この二人にも、珍しく共通の好みを示したことがある。二人とも「梨」の花を好んだが、梨の花は寂しくて映えないと、同時代はあまり評価していなかった。紫清大輪の二名花、個性強烈なこの二人ともが、寂しく白い梨の花を佳いと眺めていた。わたしには、これが懐かしい。

 

* 海外でも、よほど優れた女性二人が歴史的に激突した例となると、ざらには見つからない。

 何と言っても最大・最強の一例が、イングランドのエリザベス女王とスコットランドのメリー女王の命を賭した衝突だった。

 メリー・スチュアートは生まれて直ぐ、もうスコットランドの女王であり、やがてフランスの王太子妃となりフランスの女王にもなった。メリーはその紋章に、自分はイングランドの正当な王位継承権ももった者だとデザインし、それがエリザベスとの確執の原因をなしていた。

 エリザベスの方はいわゆる庶子身分から王位をうけついでいて、その地位確保の危うさはなみたいていでなかったが、しかも英国史上もっとも安定した王朝の繁栄、王権の安定、国民や議会の協調を実現した女王だった。

 あらゆる歴史のドラマのなかでも、この二人の運命的な角逐は華麗で残酷ですさまじかった。伝記を書かせれば他の追随をゆるさないツヴァィクの『メリー・スチュ

アート』はとりわけ目をみはる力作で、最高級の文学的・藝術的成果である。二人の天才的な女王がゆくはてのカタストロフは、凄惨でもあり強烈なものがある。ツヴァイクの『マリー・アントワネット』も面白いが、歴史的・文学的な意義からは『メリー・スチュアート』とは雲泥の差であろうか。

 2007 1・ 26 64

 

 

* 『絶対王政と人民』の一巻を読了。フランス革命は必至だということだけは、肝に銘じた。どの時代もどの時代も、洋の東西をとわず、何と生きにくい生を最大多数の人民は身に負うたことか、今も身に負うていることか。

 

* 「格差是正」と、もし本気で民主党が考え、社民党も共産党も願っているというなら、なぜ、何より先ず誰にも分かりよく、根源の「労働基準法」や「労働組合法」の精神と実質を復活させ、団結して労働者の権利をまもるよう国民に働きかけないのか。

 それなしでは、いまの働き手は、言わず語らず政府・政権政党と企業の意向に媚びてしまう。阿(おもね)ってしまう。言いなりに過重に働き、過労ないし過労死に陥る。自分だけは出世というお恵みをいただき格差不均等から救抜されたいとはかない夢を見る。

 卑屈で利己的な、勘定高いがアテはずれに終わるばかりの錯覚を、饐えた苔のように「日本」の地表にはびこらせてしまうだけだ。

  「働く」という行為は、相当のふさわしい権利で守られて当然なのである。当然のその前提をながい歴史の中で構築してきた努力が、労働者のための幾つかの基本法には盛り込まれていた。だがそれを一首の安易な裏切り打算の故に、かえってなし崩しに骨抜きにされてきた。情けなくももうそれに気づくことも出来ない労働者たちよ。

 近代現代の日本史も世界史も学ばない日本の働き手は、こういう利己主義の卑屈さを、すっかり「習い性」にしてしまった。政権からいえば、いまほど「愚民化政策の奏功」した時代は無い。

 政権は国民を愚弄して鼻づらをひきまわす「餌」として、かつても、今も「3S」を切り札にしたと言われている。証言もある。スポーツ、セックス、ショウ。

 

* 東京都が実現した「東京マラソン」をマスコミは大々的に無批判に賛美したが、ああいう催しの成功度は、都の施政・行政の数々の抑圧的な欠陥とよく見比べて計って貰いたい。お祭り騒ぎに参加した人たちには大々的なリクリエーションであり、楽しさがわたしにも伝わってくる。

 そのかぎりでは分かりいいイベントであるが、その一人一人の胸や頭の中に、石原都政がこの数年傲慢な顔つきで強行した、都職員や都民への甚だしい人権抑圧の批判がもしたわいなく漏れ落ちていては、それではあまりに脆弱な、ただの「現在の享楽」であるに過ぎず、本当の意味で「現代」に責任を持つ者とは言えない。しかもそういう人たちは、ただ一つのそんなスポーティなイベントに満足したからと、次の選挙に軽率な投票をするか、簡単に棄権して選挙の意義を無にしてしまう。実はそれが「ねらい」ですらあるであろう「愚民化」の意図に難なく踊らされてしまいかねない。

 

* 優れたスポーツ選手をわたしは敬愛する。激励を受ける。だが、わたしはあれも忘れていない。国民的な大スポーツマンの某氏が、今は昔、もし社会党が政権をとったらぼくたちは野球を続けられるでしょうかと、大まじめにテレビでコメントした、あの言葉を。 2007 2・21 65

 

 

* 今日の朝刊に東京女子大の佐々木教授が、松たか子演じる蜷川版『ひばり』の「少女ジャンヌ・ダルクの究極の真実に迫る三時間半」への感想を寄稿していた。わたしの関心は、蜷川幸雄の演出などに驚いてみせることには、無い。世界史の中で「ジャンヌの登場と退場」がトータルにみせている「意義」だ。その点で、佐々木涼子氏の理解も紹介の文も、今一つも二つもものたりない。

 

* もう一度ことわっておくが、わたしはアヌイの原作を知らない。舞台の収束が、アヌイの創意によるものか、ひょっとして蜷川版の解釈と改造とによるのか。

 わたしが前に指摘し問題視したのは、ジャンヌの火刑半ばに、舞台が突如としてシャルル王太子ランスでの戴冠式の場面に転じ、新国王の尻について「旗持ちジャンヌ」がさも颯爽と扈従する結末のつけかた、だった。

 佐々木氏の文章により氏の評価を読み取ろう。

 

* 「即席の芝居をしているはずの人物たちが現実の厚みを得ていく。薄っぺらなシャルルに威厳が加わり、虚構はいつか真実と見まごう迫力を持つ。ジャンヌを演じる松たか子は透き通るような肌を紅潮させ、目からは深い輝きを発し、顔の造作までが変わって見える。幕開けの時とは別人のようで、まさしく変容。見ものである。

 だが、それからがドンデン返しだ。司祭の情にほだされたジャンヌは信念を曲げ、生き延びる道を選ぶ。しかし孤独の中で、真にジャンヌになること、そのためにジャンヌとして火刑台で死ぬことを自ら選択するのである。怒号と火炎、蜷川ならではの盛り上がりの最中、声が響く…戴冠の場面を演じ忘れた!

 そう、これは芝居の中の芝居だったのだ。その虚構のからくりを逆手にとって、フィナーレは荘厳な戴冠式である。フランス存亡の危機にはひばりが出現して空高く歌い、人心をまとめて国を救う。ジャンヌ・ダルクはそのひばりだとアヌイは言わせる。こうして嘘とまことの網の目をくぐって、聖少女の実存と象徴を目がけ、劇は一直線に駆け昇った。

 繊細な日常性と透徹した懐疑が持ち味のアヌイの戯曲に、蟻川演出は陰影と立体感をつけ、戯曲に欠けていた味をも添えた。乱舞する台詞が隅々まで聞き取りやすく、解釈にプレがないのがいい。」

 

* だいたい、少女を働かせて或る特定の一祖国「フランス」を救わせる「神」など、真の信仰のまえでは単にノンセンスである。神は、フランスやカソリック教会に「専属の雇われもの」ではあり得ない。謂うまでもなくフランスの神も、イギリスの神も、同じ神であり、祭り上げてきた「教会」の素性だけがちがっている。

 まして一人の至らない愚かしい王太子シャルルごときを「国王」に「してやる」ために純真な少女を遣わす、または利用する「神」などに、どんな真実があるものか、考えればその愚はすぐ分かる。祖国を救った、王太子を国王にした、などという事に「ジャンヌの存在意義や価値や感動」があるのではない。そんな道理はどこにも無い。現に、ジャンヌは祖国を救いきれはしなかったし、国王にしてやったシャルルの傲慢と強欲とにより、また教会としての責任逃れの誓詞をジャンヌからだまし取ったカソリック司教らの悪辣な欺瞞により、まんまとイギリスの手に高値で売り飛ばされただけではないか。

 

* もしジャンヌの実存を問い象徴的な意義を問うなら、彼女の問題は、「戴冠式以降、火刑に至る筋道」の中にこそ実在するのであって、神がかりに王太子を見つけたり、旗と刀とをふりまわして戦陣を馬ではせたり、シャルルの戴冠に従い嬉しそうにまさに「旗持ち」をしていた事実などは、いわば清純な一少女による「幻想に近いオカルト」にすぎなかった。

 もし「神」がそれを演出するのなら、同様の少女や少年を、イギリスに対して与えても何も矛盾しない。彼らにも祖国があり王になりたい連中はウヨウヨいたのだ。

 

* もし「神の意志」といえるものが真実働いていたというなら、それは、ジャンヌ・ダルクが、あのばかげた戴冠式の「以降・以後」に身にあびた、王族や貴族や教会の高僧たちからの底知れぬ悪意と欺瞞、その醜悪を「身を以てまざまざと暴いた」ところにこそ認めねばならない。

 ジャンヌが王や教会にどんなに惨い目に遭わされたか、それへ、我々は憤怒し、「人間性」への侮辱を感じ、感奮しつつ最大の非難を加えたいと、そのように人に、人間に、心から思わせたこと、何が「人間の尊厳」を根本から損ない侮辱し破壊しているかに気づかせたこと、「ジャンヌの核心」はそれであった。それであって意義深く尊いのであった。

 

* 列聖されたのは五百年後だが、「ジャンヌ無罪」をローマ法王庁が宣告したのは、実は火刑後かなりに早い時点であった。何故か。

 カソリックの本家本元が、ジャンヌにより暴かれた教会の偽善・欺瞞に、いち早く蓋をしなければならなかったのである。

 時代はまだ中世を脱しない十五世紀のことだ、そして愚かしくも紛糾した英仏百年戦争のようやくの収束も、ジャンヌの死のあと、速やかに来た。

 だが、もっともっと大きなちからでやって来た嵐は、法王庁のまず膝元イタリアから始まった「ルネッサンス」だ。

 「ルネッサンス」こそは或る意味、宗教改革の思想的・実践的な痛切な先駆であった。ヒューマニズムの前陣だった。昂然たる「反教会」の大きな大きな渦巻きとして、ルネッサンスは、イタリアからフランスへ、ヨーロッパ各国へ広がった。

 渦の中心で、文化的にも政治的にも思想的にも多大に働いたのがエラスムスらの「人文主義」であり、ついでルターらの「宗教改革」であり、イギリスには「名誉革命」をもたらし、さらには「フランス革命」を、必然喚起した。

 

* ジャンヌ・ダルクを「祖国を救った聖少女」などという見方は、あまりにけちくさく、しかも全く間違っている。ましてや「シャルルの戴冠式」など、ほとんど何の意義ももたない。

 アヌイが、蜷川演出の舞台通りに原作を書いていたのなら、アヌイの真意は、わたしが謂うたように、ジャンヌが「真に偉大なジャンヌ」たり得るのは、「戴冠式の済んだあと火炙りに遭って死んで行くまで」のところ。それ以前の、さも「神」との対話などは、少女の幻想にすぎぬほどほぼ無意味という「正確な中仕切り」を立てて見せたのだと、わたしは読み取る。

 それとも、もし、あの幕切れの趣向は、アヌイの本意を無視した蜷川氏が、「蜷川版・ひばり」のためにだけ敢えて変改した所行なら、蜷川幸雄という演出家の浅い商業主義的なセンスだけの芝居に改悪した情けない堕落であり、近代の幕をひらいた「人間の歴史」として、ヒューマニズムの歴史として、は読めていないという、ま、この世間にはありふれた商売上手の結末であったに過ぎぬ。

 2007 2・24 65

 

 

* 太平記は、いましも新田義貞の軍勢が鎌倉へ乱入、ついに北条政権、鎌倉幕府が撃滅されようと。

 太平記は、すさまじい合戦につぐ合戦で、勇壮というより時に酸鼻を極め、武士たちが、潔いとはいえ凄惨に次から次へ討死し、割腹し、命果てて行く。

 かつて、平家物語には見ない「血」が太平記ではどすぐろいまで流れると書いたことがある。そもそも平家物語の中で「割腹」「切腹」の場面を、粟津での木曽最期のあたりでしか、他ににわかに思い出せない。

 極言かもしれないが、十二世紀の平家物語の死闘で、敵の頸は斬るが、まだ自身切腹という死の行儀が一般に成立していない。

 ところが十四世紀の太平記の戦闘では、ここぞに及ぶと武士は、名誉を重んずる武士はなおさら、ためらわず腹をかっ斬っている。主が割腹すれば、従も、ぞくぞくと後を追っている。

 三百年の間に武士の倫理が、どうおぞましくとも、どう潔くとも、ともかく凄絶な行儀を確立してきている。

 そして不思議なことに、予期したこともなかったのに、ときどき、太平記を声に出して読んでいるわたしの声が感動に震えてくる。涙も溢れたりする。

 

* ドン・キホーテは頭の「おかしい男」に想われがちだが、そう想う者たちのほうが「よほどおかしい」ときもあるのを、セルバンテスは残酷なほど厳しく表現している。たしかにありとある騎士物語を読破のあげくその世界に完璧なほど自己同一化しているキホーテは異常であるけれど、その異常を通して、泰然と昂然と彼は世俗世間の愚昧と傲慢と無知を「批評」している。それに気づけばこそこの大作は生き生きとおもしろい。加えてサンチョ・パンザのキホーテとは逆さまを向いた率直な俗欲のおもしろさ。弥次喜多のような「悪人」ではない、愛すべき俗人の素直さ。たいした人間の「把握」だ。

 

* 中国の歴史では、割勢された「宦官」たちの国政を壟断して憚らなかったあれこれに、ひっきりなしに驚かされる。わたしは、概して漢や唐より、宋やことに明の歴史にいま興味があるが、明時代はことに宦官の害がひどかった。

 だが宦官は中国だけのものではない、むしろ世界的に有力諸国では顕著な例がたくさん見られる。それよりも驚かされるのは、あれほど中国の文化文物や法制を憧れ真似た我が国には、忌まわしき宦官の制が、纏足もそうだが、ついに芽生えもしなかったこと。これは誇ってもいいことではないか。

 2007 3・6 66

 

 

* 世界史を読んでいると、ときどきビックリするような大政治家、名宰相にであう。そしてそういう人たちの末期が、概して悲惨なのが哀れ。いま、明末の言語道断な頽廃を、身一つの国家への忠誠心から、目をみはるほど建て直してあまりある成果をあげた張居正の事跡を読み終え、没後の不運・悲惨を目のあたりにしたばかり。

 

* 安倍総理は往年の従軍慰安婦の存在を否認するかの言辞を弄し、アメリカからも非難されている。「ペン電子文藝館」にわたしがとりあげて発信した小説のなかにも、従軍慰安婦とみていい幾場面もを描いた作品が一つ二つならずある。またそれが「稼ぎの売春」で軍として制度化されていなかったと仮にしても、それら女性の徴発に軍ないし日本国の意向の強硬に働いていた事例は数え切れないであろう。歴史に学んで謙虚・聡明であらねばならぬ一国の宰相の言辞としては、聴くに堪えない醜悪で軽率で無情なものだとわたしは悲しむ。「美しからぬ気性の総理」で恥ずかしい。

 大臣ばかりか総理もこれだとは、分かっていた。彼の就任時、わたしはせめて拉致問題一つだけを目に見えて進展させたなら、少しも早く退陣して欲しいと望んでおいた。今も同じ思いで苦々しく睨んでいる。

 2007 3・9 66

 

 

* 太宰賞がきまった一九六九年の六月十九日の桜桃忌は、わたしの二度目の誕生日になった。あれから一月も経つか経たぬかアポロ十三号が月へ往き、月から生還した。人類の世界史を大きく区切る大事件で、歴史は、少なくも二十世紀は、それ以前とそれ以後に、截然と切り離された観があった。二十世紀は、遅くもアポロ13号までで果ててしまい、一九七十年以降は科学の発達を目盛りにみれば、すでに別の新世紀、二十世紀「以降」に推移していた。

 十九世紀末から二十世紀の半ばまでに、科学の歴史は、過去の全部を遙かに倍々する発達を遂げ、しかし、遅くもアポロ13号以降は、さらに驚異的に、ほとんど信じられないほど科学的成果を積み上げた。それ自体がじつは人類の現在未来の安寧や幸福をおびやかし地球と人類との破滅の臭気をすらもたらしかけていると、心あるものなら誰もが深い危惧におびえている。楽天的に未来を仰望することはもう許されていないのではないかと。許されていない、と。

 

* そういう時代・時勢に、文学・藝術とは何でありうるか。創作とは何でありえて、どう表現され享受されるのか。

 2007 3・13 66

 

 

* NHK教育テレビの、アヌイ作・蜷川幸雄演出・松たか子主演の『ひばり』を観た。どうやらその撮影はわたしたちの観た同じ日のものらしかった。主演者のではない、記憶に残る誰かの一つの科白の揺れ、また王太子シャルルの鬘のもげた滑稽なミス一つ(まさか毎日あんなことは起きていまい。)が、そのまま出ていた。

 わたしはむろん遠眼鏡をひっきりなしに愛用していたけれど、さすがにテレビは、ときおりジャンヌの表情を精緻に見せてくれる。それがけっこうだった。

 今日の録音技術にしてなお救われないほど、例えば司教役らの滑舌下手がきずになっているものの、何という松たか子の自然な真実感に富んだ集中力・演技力であったか、おそろしいほど大量の科・白を、音楽的にまた彫塑的に創作していた。言葉とからだとで一分の空疎な隙間もなくみごとに満たし、彼女が、いまや日本の若い「主演舞台女優」の力を完きまで発揮しているのを再確認した。すべて豊かで正確だった。真摯に演じていた。

 

* 再度つぶさに観て、先日書き置いたわたしの「ジャンヌの誠実、近代への誠実」は再確認できた。何一つ書き直す必要がない。

 念のため書き加えるとすれば、大審問官らは「神=教会≠人間・人間性」の信仰と権益に固執し、ジャンヌは「神性=人間の自覚」に到達したのである。

 劇は、ジャンヌにより王太子シャルルがやっとランスで戴冠したことが、戴冠式までのジャンヌの「ひばり」のような囀りこそが、後世に記憶されるのだと言いたげであるが、大審問官が、自分たちのジャンヌへの勝ちを内心の恥辱として呻いていたように、それは大きな「反語」であり、本当にジャンヌの体現した大切な真価は、空疎で政治的な戴冠式から以後のジャンヌ、人間的な自覚を神への帰依にみごとに託しきった「ジャンヌの死生」にあることを物語っているし、またそうでなければ軽薄な「ひばり」の囀りに終わってしまう。

 中世の神にしがみついた大審問官や司教やローマが、ジャンヌに対し真実懼れていたほとんど自壊の自覚を、やがてルネサンスが痛烈に衝いて、人文主義・ヒューマニズムの近代へ怒濤のように人と時代とを押し流す。そして「神は死んだ」とまで言われるところへまたも近代は煮詰められて行く。

 ジャンヌは近代をぐっと引き寄せた、もっとも純真で清潔な、しかし熱い魂の「先駆者」であったと、わたしは言うのである。

 今夜、舞台をもう一度見直し、さらに確信できた。

 ローマにいち早く反旗を翻したイングランド。その代表者のような貴族が、結果的にジャンヌに内心の理解を吐露し、ジャンヌに頬にキスされてたじろいでいたのは、印象的な場面だった。この英国貴族は、カソリック・スペインから派遣された大審問官が、「人間的であること」を「悪魔」のように憎悪し敵視するのを、内心軽蔑し、またフランスの司教たちのローマ法王庁に全面依存のさまに「虫ず」を走らせていたのは、「議会」を育てていた「イングランド」の貴族なるがゆえに、意味深いし興味深い。

 

* おもしろい、優れて良い舞台劇であった。もう一度拍手を送った。

 2007 3・26 66

 

 

* 世界史は、清の、順治帝を過ぎて、世界史的な名君の一人康煕帝の時代を、興味深く読み進んでいる。太宗いらい、清の建国がこんなに確乎とした足取りをもっていたのかと、実は眼から鱗を落とし落とし、おどろかされてばかりいる。

 どうも「清國」はその末期から近代中国への交代期に先入見が出来ていて、妙に情けない國のように感じがちで来たのだが。焼き物ぐらいにしか関心が向かなかったが。

 少なくもその前半期の皇帝たちの姿勢ないし施政に対し、たいそう「失礼していた」と悔いてさえいる。

 2007 3・27 66

 

 

* 昭和も戦前世代のご老人の中にはのこっている常識だろう、「民主主義」という言葉に小学校四年生ではじめて出逢ったわたしなど、文字通りに解して、いやそう教えられていたく感奮したけれど、じつは文字通りに解して、デモクラシーとは全くさかさまの原意であることに、不快や戸惑いや嘲弄をすら読み取った「学」のあるお年寄りが多かったはずだ。吉野作造のように「民主主義」の四字を忌避し「民本主義」と呼んだ人もいた。

 「民主」とは中国語での原意が、文字通りに「民の主」つまり皇帝や王やいわば県知事や領主・大名等々のことであった。「民意を主に」した政治体制ではない、「民衆を支配する主公」が意のままの政治や行政の体制が、「民主政治」なのであった。

 思えば日本國政治の現状、安倍内閣や石原都政が我々国民・私民・都民への仕向けも、原意のママの「民主政治」に公然動いている。そして詰問されれば、安倍も石原も、シラジラとした顔と口付きとで「本来の民主主義にのっとり適切に政治・行政に励んでおります」と答えるだけだ。

 戴いた興膳宏さんの本には、「民主」も「共和」も一例、呆れるようなそんな真っ逆さまな理解例が満載されていて、「参ってしまう」読者が多かろう。

 あすの都知事選挙もさぞや「民主」的な結果を迎えることと期待し、また悲観もしている。「日本」はどこへ向かって落ち込んで行くのだろう。

 2007 4・7 67

 

 

* もう一つは、清国が、いよいよ太平天国の大乱に見舞われる。この巻の担当筆者のザクリザクリと中国、その歴史と文化と中国人を解剖し論評する角度も切れ味も、とほうもなく興味をそそるのである。

 中国人は、所詮「福禄寿」だと説かれて、たしかに飛び上がりそうに教えられる。また、ここで触れなおしたい。

 2007 4・22 67

 

 

* 世界史の明・清を、またインドやイスラムをやがて通り過ぎようとしている。此の巻では担当筆者がはきはきと中国ないし中国人を論評してくれ、興味をそそられた。ことに久しく久しい中国人の歴史を通じて、彼らの人生観・処世観を一貫して謂えば、実に「福・禄・寿」に尽きているという断案に唸らされた。

 「福」とは子孫を得ること、「禄」とは地位ないし財の豊かなこと、「壽」はむろんあくなき長命の願い。じつは他に理想も思想もなにも無い、在って無きに過ぎない、「福禄寿」の満足こそが中国人には理想なのだと。徹した現実・現世の満足。

 なるほど彼らの隠すに隠せない中華と覇権の姿勢は、此処に、此の願望・欲望に根ざしているのか。

 中国は一貫して世界の王者の意識を捨てなかったし、今なお彼らはさの再認識の度を強めている。中国の、他国を「朝貢国」と遇して断乎変更しない中華姿勢は、徹底している。贈り物をもって礼を厚くしてくれば、応えて多くの、貢ぎ以上の下賜品を与える。それがそのまま有り難い「貿易」になるという他国と交際の仕組み。頭を下げて持ってくれば、受け入れて、それ相当のものをむしろ余分に与える。先に持ってくるのが「外夷」の朝貢國なのだ。応じて与えるのが「中国」なのだ。

 中国ほど王朝は変遷変更されながら歴史的な態度を大きく変えない國は世界中他に無かったと、この世界史シリーズではどの筆者も繰り返していた。なるほどねえ。

 2007 4・30 67

 

 

* 「世界の歴史」の『明・清』の巻を読み終え、次は第十巻、『フランス革命とナポレオン』だ、当然やがてアメリカの登場になる。近代の大きな展開。

 このシリーズ、小活字で各巻五百頁を越す。少しも慌てないで一巻に数ヶ月掛けても、じっくりじっくり楽しんでいる。世界史をよく知らずに「現代」をよく理解することはとても無理。

 2007 5・2 68

 

 

* フランスの大統領選は案外大差になるかもしれないが、接戦、と謂うより分かりよい闘い。名前は覚えにくいが、移民氏と女史で分かる。しかも移民氏は反移民、女史は移民容認。

 歴史的にいえば移民氏ははっきりブルジョア資本主義のディドロ百科全書派系、女史は明らかに人民ルソー系。

 フランス革命はこの二派に加えて、重農主義。この三派の協働でみごと端緒についた。いまでこそ重農主義は枠外であろうけれど、フランスで今しも闘われているのは、日本の戦後のある時期でいえば、ちょうど自民党と、左派社会党プラス共産党との対決。アメリカ主導の今日の世界情勢からは、ブルジョア資本主義系の移民氏の勝ちはかなり堅いだろうが、もし女史の人民エネルギーの結集と改革とが勝ってくれれば、今日世界に与える衝撃とムード変更の効果は、想像以上に大きい。但しそれは中国とロシアとの覇権主義をイヤな形で顕在化してしまう「反人民的な反動」への引き金にもなりかねないが。

 フランス革命は、ルソーのかなり孤独な、しかしかなり効果的なプロパガンダで、人民エネルギーが先頭に立ち爆発して成功し、さらにある種の徹底、過剰とも観られた徹底まで見せた。けれど時勢と世情の落ち着きがみえてくると、ディドローらの穏健で均整のとれた上昇安定楽観的資本主義へ体勢を立て直し、それがほぼそのまま今日の世界情勢にまで続いてきている。

 アメリカがフランス革命を気運にみちびき、フランス革命がアメリカの独立を支えたように、フランス百科全書派のブルジョア資本主義が、今や世界を混乱させるほどに満開爛熟したのも「アメリカ」でだった。そしていま、比較的アンチ・アメリカのフランスが、もう一度ディドロ型の移民氏と、ルソー型の女史との「一騎打ち」を展開している。歴史は繰り返そうとしているのか、人民の、やはり叶わぬ屈服に終わるのか。

 

* ルソーの『告白』がだんだん面白く展開して行く。まだ彼は、少年。今の日本や世界を眺めていると、ルソーの思想は、お伽噺めく空想のように思う人が多かろう。しかし、ルソーの思想と先導なしにフランス革命が成功したとは全く思われない、思われていない。彼の思想は、人民の力を構築し爆発させるだけの素朴すぎるほどの起爆力に溢れていた。人民の、不平等格差への絶対的な怒りを彼自身が共有していた。彼は貴族でもブルジョアでも学歴人でもなかった。つらい格差に揉まれて熱烈に独学した天才的な思想家だった。体験や実践の天才でなく、直観と洞察で人間の本性を鼓舞しうる思想力をもっていた。わが日本のいまの社民党や共産党には、ルソーの確信と怒りと理論とを、ホンのかすかにも受け継いだ思想家が、完全不在。なさけない極み。土井たか子も社会党を投げ出し、失敗した。

 2007 5・6 68

 

 

* 毎夜読んでいる『総説旧約聖書』は、本格大部の研究成果。わたしなどにはかなり高度にすぎた精密なものだが、例の、頁をペンで真っ赤に汚しながら食いつき、いまいわゆる冒頭「モーセ五書」の解析と諸説を読み進んでいる。同時に『旧約聖書』本文を、もうずいぶん先まで読んできて、おかげで方角も知れない曠野に、道案内がついた心地がしている。

 たまたまそういうことになったのだが、もう一つ、『世界の歴史』は「フランス革命とナポレオン」を亡き桑原武夫さんの啖呵を切るような筆致で読んでいて、気がつくと、併行して読んでいるルソーの『告白』が、うまいぐあいに対になってくれている。ルソーのもだんだん面白くなっている、幾クセもある文体で述懐であるが。

 今日の流行り言葉でいえば、ルソーほど、人間・社会・政治の「格差」「不平等」を心底憎んだ人はいないだろう。わたしなど、その一点でルソーの歴史的・今日的有意義を思い、日本の政治家の口へ「ルソー」をねじ込んでやりたく思う。

 同じくは、『千夜一夜物語』世界にも啓蒙的な解説本があればなあと思いつつ、文庫本の各冊に詳細な「註」をも、克明に楽しんでいる。まだ半途にいる。

 2007 5・12 68

 

 

* 五・一五。なんら軍人テロに弁護の気もわかない。しかし、テロはじつに「国民」による百万の助命嘆願でほとんど容認され、一国の総理らを撃ち殺していながら、処罰もウソのように軽く見過ごされた。軍の横暴と宣伝に、愚かな国民が盲従したのだ。この民度というものの低さ、以来七十数年、明らかに国民の敵かもしれぬ政権に国民がよりかかっている。    

 

* 「話せば分かる」と犬養毅総理は言い、「問答無用」と陸軍将校らは撃ち殺した。いま、「話せば分かる」と言って「話して」くれる宰相を我々はもっていない。「問答無用」とばかり悪法案をもう自民党政権は幾つたてつづけに乱発してきたことだろう。

 夜前おそく社民党の女代議士がイラク派兵二年延長決定に反対し、緻密に克明に質問を重ねてよく聴かせた、が、阿倍総理の答弁はまったく一語として答弁になっていなかった。なさけない。       

 

* 「ミラボーとともに革命をはじめ、ナポレオンとともに革命を葬った」といわれるシエースは、フランス革命最大の論拠となった『第三身分とは何か』というパンフレットの著者であった。

 第一身分とは僧侶、第二身分とは貴族、第三身分とは平民。この上に国王や王妃の宮廷があった。

 シエースは、第三身分とは何か、「すべてだ」と断言した。事実、人数からすれば、当たり前だが、第一第二身分はほんの一握りだったが、ただそれだけの意味ではなかった。彼は第三身分こそ「国民」の意義を全面的に満たしていて、その人権と安寧とを政治的にはかる主導の権利をもっていると提唱し、三つの身分が「合同」の欺瞞的な「三部会」が招集され第三身分に他する露骨で陰険な差別がなされ結果的に閉め出されたとき、奇貨おくべしと、がらんどうの広い球戯場に第三身分だけの「国民議会」を宣言し、憲法をもち、はじめて絶対王政に対する事実上の「革命」を緒につけた。

 「国民議会」の強襲的な立ち上げは、シエースのはやくから思い描いて明言もしていたシナリオであり、王や貴族、大司教たちの強欲が、シナリオの実現に火をつけたのだった。

 フランス革命をここで復習するのではない、わたしは特大の興味で読んでいるだけだが、一つ、此処に書いておこうと思った。

 シエースはこう言っている。革命前夜の空気を無視出来ないけれど、一般論として現下の日本にも適用できる、そうありたい、ことだ。

 

* 「哲学者の任務は、政治の目標を確立する点にあり、あらかじめ(思想の上で)その目標(能力・核心・確信・高水準)に到達していなければ、この任務を果たすことはできない。………政治家の義務は、哲学者の(真に良き)提言を地上の条件に適応させる点にある。」 シエース

 

* 今の日本は封建時代をぬけだし、ありがたいことに事実上「第三身分がすべてだ」と謂える「国民」の国だ、少なくも憲法の大義においてそうだ。

 それを何とか過去の特権の復権と第三身分支配へと安倍内閣や与党政権は躍起になっている。事実の積み上げがそれを示していて、わるいことに「すべて」であるはずの「国民」は眠っている。

 どこを探してもシエースの言うような「哲学者」の真摯な提言や目標確立もみられず、どこをどう探してもそんな「政治家」はいない、かのようである。

 わたしは早くから、ここ数十年の現代日本には偉大な哲学者、哲学そのものが払底していると指摘し、嘆息してきた。梅原猛や鶴見俊輔にしても趣味的に小さな範囲で小声で何かを呟いていても、「国民」はその名前すらほとんど認識していない。その悪影響として俗欲でまず蠢いてしまう、しかも大半は頭脳の明晰でない代議士たちが、手前勝手な「ゆがみだらけの理想」で国民の運命を、国民の手を縛っておいて盗人のように平安や幸福や人権という価値を、懐から強奪するをもって「政治」と心得ているしまつだ。

 「哲学者」を自称する者の勉強と発憤とを願う。同じ事は「宗教者」にも言いたい。今日宗教者とは「トーク」の瀬戸内寂聴尼ひとりか、これまた寒心にたえない。

 

* 「間に合わない」ことに真実恐怖し対策しなければならない時機に地球と人類は来ていて、この五十年を徒手拱手していたら、『デイ・アンド・トゥモロー』ようの大危機が現実問題だと、あのアメリカの元副大統領が率先世界を行脚している。たとえていえば彼が現代の哲学者・宗教家を体現しているのだ、そして彼の危機の提議を政治家が率先聴いて邁進しなければ、憲法改正も国民投票も株高もあらゆる便宜・便利もへちまもみな「間に合わない」荒波に埋没してしまうだけである危険を、地球上の「全国民」は背に負うている。いまこそ、哲学も政治も国民も、敢然と「十目の石を先ず捨てて十一目の起死回生」をはからねば、もう「間に合わない」かもしれないのだ、いったい、われわれは、何をしている気だろう、惰眠のままに。

 

* われわれは日々を生きて暮らしている。腹が減れば食わねば成らず、食うためには稼がねばならず、仕事は誰の目の前にも山と積まれていて、それが幸福の或部分も不如意の或部分をも成しているし、恋する人は恋を悲喜こもごも享受し、創作する人は創作に悲喜こもごも腐心する、代議士は選挙区を歩き、老境は老境をまた悲喜こもごも歩んでいる。それはそれで大事であり手をはなせないが、喩えればそれらは地球環境と人類の存亡という、しかも今や時間をはかって近未来に予測されている、間に合うか合わないかの危機に比し、大きな巌と一粒一粒の砂とのようだ。砂も大事、いや砂が何より大事なら、巌が真っ逆さまに奈落へ転落するのを、間に合ううちに防ぎたいではないか。

 2007 5・15 68

 

 

* 学校で教師が生徒に日本の「憲法」について授業すると、当局に注意ないし警告ないし禁止されるという実例を、新聞は報じている。これはもう「現代先進国家」という資格からの転落ではないか。

 国家公務員こそ現行憲法への忠実と誠意とを誓約しているのではないのか。小泉・安倍内閣の、いや中曽根内閣の頃からの「国賊的な政治」の行方が露骨に露骨になっている。

 国民は多くの情報を手にすることは、当局と比してきわめてきわめて難しいが、それだけに恐れず直観を、勘を、洞察を働かせる訓練が必要だ。

 

* フランス革命の早い時期に、これぞ「すべて」といわれた、「第三身分=国民」主導の立憲国民議会が、憲法の前文に相当する「人権宣言 人間および市民の権利宣言」で確認した、第一条は「権利の平等」であった。第二条は「自由、所有権、安全、圧政への抵抗」であった。第三条では「主権在民の原理」が確認・規定され、全十七箇条の基本はこの三箇条に要約されていると、京大教授であった桑原武夫は言い、「これはあらゆる近代的憲法の源流をなすものであって、近代社会創出の基本原理となった。そしてこれは、一九四七年に制定されたわが日本国憲法にまで継承されている」と確言している。源流の理想を認めて汲んで誇って、何が恥ずかしいか。示唆してくれたアメリカに感謝してもいいが、押しつけられた云々の言いぐさは、本筋をあまりに逸れている。

 上の三箇条に「戦争放棄」が加わっていることを、われわれは世界史の前に誇って好いのであり、死の商人、死の政治家たちの餌食にまたまたならないように、「圧政への抵抗」精神を、実践へ、とわたしは願う。                        

 

* わたしは十分心して、バグワンのこういう言葉に聴いている。

 「実際のところ 知識を通して知覚する場合には 正しく知覚しているとは言えない あらゆる知識はさまざまな投影を生む 知識というのは偏見だ 知識というのは先入観だ 知識というのは断定だ おまえはその中にはいって行きもせずに結論をくだしてしまっている」。

 「知識は過去からしか来ない」とも。

 それでもなお、わたしは歴史は軽視しない、過去にとらわれなくても。  

 2007 5・18 68

 

 

* 十分眠らなかった。『フランス革命』が興深く、手放せなかった、一度は灯を消して寝ようとしたのだが、また灯をつけ読み始めた。桑原武夫担当のこの一巻、なまじな小説より百倍もおもしろく刺激に富んでいる。

 フランス革命というとバスチーュにはじまり、ルイ十六世の処刑 王妃マリ・アントワネットの処刑、そして恐怖政治とぐらい概略は知っていても、ほぼ日を月を追うかのように推移・経過の必然を詳細に覚えていたのではない。

 岩波新書で『フランス革命』を、ツヴァイクの『マリー・アントワネット』『フーシェ』を、モロワの『フランス史』を読んできたが、桑原さんの歴史としての記述のおもしろさはまた格別。

 ことにロベスピエールという人材の大きさや重さを、はじめて共感ももろとも教わった。これまではへんに恐れるように名を記憶していた。ルソーを愛読した希有のこの革命家に畏敬と共感をもったのは、桑原さんの学恩である。ルソーのような、ロベスピエールのような哲学・思索・洞察・実践者を「日本」はついにもてなかった。

 ルソーの『告白』も桑原武夫訳。訳がいい。夜ごとに佳境へ。全二巻の岩波文庫を読み終えたら、『エミール』よりも『社会契約論』『人間不平等論』など読んでみたい。

 睡眠を奪ったもう一つは、やはり『イルスの竪琴』第二巻。英語を逐一追っていると深夜の睡魔に降参しそうなものなのに、あとをひくようにいつまでも手放せない。この物語のもう一人の主人公レーデルルという公女の魅力をこの巻では先ず追って行くのである。

 『オデュッセイア』と部下たちの、神にのろわれた苦難の海行が、神話的に続いている。もっと昔に読んでおきたかった。彼ら受難の大海放浪はトロイからの帰還時のこと、せいぜいあの海域でのこととわたしは多寡をくくっていた。だが、カッスラーの読み物の中で、それがアメリカの西海岸にも至る大航海であったとつぶさに示唆されていて、俄然読んでみたくなった。読み始めると、そんな詮索を超え、やはり神話伝説のおもしろさに毎夜惹かれている。

 旧約聖書は途方もなく麻のように乱脈、殺伐としている。エホバ神への契約の恐れが、その導きとともに、時に血なまぐさく続いている。この大昔の訳本では「エホバ」としてあるが「ヤハウェ」が正しいらしく、『総説旧約聖書』にしたがえばイスラエルの神の名は、古くは「エロヒーム」など今一つ二つべつのの名でも呼ばれていたそうだ。すべてわたしの初めて歩いてゆく道である。

 ついでというのではないが、会社へ同期で入社した粂川光樹君の、明治学院大学名誉教授としての大著、『上代日本の文学と時間』も読み始めていて、これにも教えられる。視野をひらかれ深められている。感謝。

 万葉集の全ての歌を、そして出来たら八代集の和歌をぜんぶ「音読」予定に組み入れたくなった。

 そして桶谷秀昭さんの『人を磨く』も半分ほど読んだ。桶谷さんらしい。

 

* 読書は、わたしには今は「シャワーを浴びる」ような爽快な楽しみ。「知識という垢」はむしろ洗い流される。良い本は、ああ生きていて良かった、良かったと思わせてくれるし、そのどれもこれも直には体験できない世界。天に輝く星星を眺めているような嬉しさ。それだけで、足りている。「今・此処」がきれいに洗われ拭われ、無心を無のまま満たされる。

 2007 5・21 68

 

 

* 『太平記』がおよそ成ったとき、日本の中世は太平どころか、ほど遠くなっていった。平家物語、太平記、そしてわたしはさらに応仁の乱のころへ次なる関心を重ねて行こうとしている。

 

* フランス革命はおびただしい恐怖政治の犠牲の血を流し続け、ロベスピエールもサン・ジュストも断頭台に果てた。彼らは「サン・キュロット(長いズボン)」のしかも小ブルジョワや農民の支持を得て、革命の完成に奮迅の努力を重ねたが、「キュロット(半ズボン)」の貴族や大ブルジョアの権力支配へ落ちついて行く歴史の流れを、阻みきれなかった。基盤が狭く薄かった。「キュロット」は多く殺戮されていたが、「サン・キュロット」の力を突き抜いてブルジョア資本主義への動向を決定的にする勢力は、「平原派」と呼ばれる中間勢力として多数残っていた。

 わずか五十日後には断頭台に斃れる運命のロベスピエールら「モンテーニュ派」の巨人たちが、革命の「絶頂」として実現した「革命祭典」の演出は、それはそれは大がかりにかつ緻密な意向で構成されていた。責任編者の桑原武夫さんも謂っている、まさしくそれは近代オリンピックやまた北朝鮮の好んで行うあのマスゲームのみごとな濫觴・嚆矢というべきものであった。「恐怖政治を必要とした思想」には少数の権勢により人民大衆の支配が二度と為されてはならないという「不動の理想」が働いていた。理想は、だが、持ち堪えられない。

 フランス大統領選に敗れたロワイヤル女史には、どの程度かは確認できないがこの理想が生きていたかと見受けられる。当選したサルコジ大統領は、むしろフランス革命を事実上終結させた軍政皇帝ナポレオンとブルジョア資本主義との継承意志が見て取れなくない。

 2007 5・22 68

 

 

* ロベスピエールが「最高存在の祭典」と名付けた世界史的なマス・パフォーマンスを主催し、フランス革命の絶頂に立ったときの彼の思想はこうであった、と。

 『民主的な政府の根本原則は「徳」である。それは祖国とその法(=憲法)への愛以外のなにものでもないから…。人民が弘くあがめているものなら、(たとえカトリック信仰のような)宗教的偏見であっても、まっこうからそれに反対してはならぬ。人民が成長して、すこしずつ偏見を克服してゆくには、時が必要なのだ。合理的な哲学や理論指導では美徳は養われない。立法者にとっては、実際的な効用と価値とをもつものは、すべて真実だ、たとえ神の存在とか、霊魂の不滅といったものが、たんなる夢でしかなくとも、それらはやはり、人間精神の思いついたあらゆるもののうちで、最も美しいものであろう。』

 「最高存在」という表現に、カソリックの「神」をあえて彼はほのめかしていた。

 そして五十日後に彼は、断頭台を自身の血で濡らした。最後の迫ったときロベスピエールは言っている、

 「私は(もうこれ以上)生きる必要を信じない。徳と摂理だけを信じる。私はこれまでになかったほど、(自分が)人間の邪悪から独立しているのを感ずる」と。

 彼ロベスピエールを、復讐とブルジョアの利益の為だけに断罪した者たち、革命憲法を改悪し、世界を物質と金銭との欲望に売り渡した「テルミドル反動」派の言葉も、耳を澄まして聞いてみよう。改悪憲法の説明に当たったボワシ・ダングラの以下のことばほど、赤裸々にブルジョワ支配を表明したものはないと、今日の歴史家たちは断案している。安倍内閣の声が重なっている。ボワシは言う、即ち、

 

* 『われわれは最良の人々によって統治されねばならない。最良の人々とは、最も教育があり、法の維持にも最も関心(=利益)をもつ人々である。ところで、このような人々は、ほんのわずかの例外を除いて、財産を所有し、その財産が所在している国に愛着をいだき、その財産を保護する法律に忠実で、その財産をまもる安泰を重んずる人々のうちにのみ見いだされるであろう。』

 『持てる人々の統治する国は社会組織だが、持たざる人々の統治する国はたんなる自然状態である』と。

 ロベスピエールらのフランス革命の理想を蹂躙し、王政復古をも辞さないブルジョワたちはこう叫んだのである。

 

* これが、「美しい日本」を叫んでいる安倍内閣の考え方そのものであると気づく人はいないのか。

 日本の野党も、「持たざる」国民も、学ぶべき歴史にも学んで、一握りの「持てる者」に奉仕するばかりの政権を打ち倒そうと、日本の現状に、世界の現状に鋭い視線を射し込まねばならぬ。

 上のボワシの言葉は、ほとんどブッシュやサルコジや小泉・安倍の徒の科白そのものではないか。

 わたしは党派心のない、持つ気もない、その意味ではダメで力ない只一人の老境にすぎないが、血は沸き立つのである。沸き立つ血が、言葉になる。だが言葉だけではモノゴトは大きく動かない。行動力ある若い知性にわたしは心から期待する。

 

* やす香のお墓参りをしたことは、言葉にならない或る「ちから」になった。もののあはれは、ちからにも安心にも繋がっている。

 2007 5・24 68

 

 

* よく寝た起きぬけの暫くは脚が軽いので、出来るときはつい寝坊する。

 午後一番に「臻」くんが機械を見に来てくれる。晴れていて気持ちが良い。腫れていてと、機械が、さきに謂う。気持ちわるい。

 夜前、思いがけず録画の映画に引き込まれて二時になり、それから本を読んだ。音読の大拙、バグワン、太平記三冊のほか、世界史とマキリップだけにして寝たが。

『ナポレオン』が政治にも天才的であったことはわかるが、その天才は彼一人の権力構成がいかに正確で強圧的であったかにあり、王政・王党を倒した「革命」精神を利しつつ、自身、世襲是認の終身第一統領から帝政へと強硬に駆け上ってゆく。彼が、国民に「自由」はいらない、「平等に扱えばいいのだ」と謂うとき、頂点に立つ彼の絶対強権下での平等にすぎなかった。

 あやしげな政治屋ほど、ともすると彼の天才ぬきに、凡庸に、ナポレオンの強権支配をまねたがる。みな、そうだ。好き勝手に憲法をかえたり勝手に解釈したりしたがる。

 『フランス革命とナポレオン』の経緯をていねいに見返していると、いままさに日本国民として迫られている憲法改悪へのあしどりの、隠された、いやもはや露わに露わな政権の強権意志が目に見える。ナポレオンは「宗教協約」をローマ法王と結んで、さらに強権城を守る堀を確保したが、そのローマ法王庁がとほうもない教権・強権により中世を近代へ自壊させたことはだれもが知っている。ナポレオンとローマとの一見「美しい」取引ははなはだ強度のエゴを互いに持ち合っていた。いま安倍自民が、権力志向を徐々に露わにしている創価学会系公明党と巧みに結託している。似ている。歴史的な脈絡をちゃんと得ている。おそるべし。

 そして「第三身分」の我々は、またもまたも闘わねばならない、条件はなはだ悪く。

 この際政権が真剣に恐れて弾圧を着々派嘗ている対象が「インターネット」にあることを、われわれ国民・私民は、絶対忘れてならない。われわれに身を守れる武器は他にない、「インターネット」しかない。他のすべては権力が握っている。マスコミをすらも。

 2007 5・27 68

 

 

* ナポレオンは大西洋の孤島セントヘレナで死んだ。歴史の必然を最大限に体現した一人の人間。  

 

* 『ナポレオン伝』の著者スタンダールは言う。桑原武夫の要約に従う。

 人間が未開状態から脱するときの最初の政体は専制政治であり、それが文明の第一段階である。

 貴族政治がこれにつぐ。一七八九年以前のフランス王国は、宗教的・軍事的貴族政治であった。これが第二段階。

 代議政体はきわめて新しい発明で、印刷術の発見の必然的産物だが、これが第三段階である。

 そして「ナポレオンは、文明の第二段階が生み出した最高のものである。」     

 スタンダールの目は、この天才に対する偏愛によって曇ってはいない。ナポレオンはたしかに「革命の子」でありつつも、「第二段階」を脱却しえなかった。内心つねに人民(の結集し団結する力)を恐怖していた彼は、民主主義を理解ないし実現することはできなかった。

 

* あのように卓越した資質をふまえて、あのようにつよい自信をもつ人間は、もともと民主主義には適しないのである。彼は平静な時代でも、「第二段階」の「名君」にはなったであろう。要するに彼は人民の政治的発言を封じておいて、しかも人民の利益を洞察し、これに満足を与えたいと考えた。そして、その方針は或る程度まで成功した。それはつまり「家父長的」ということである。そう、『世界の歴史』第十巻の桑原責任編集巻『フランス革命とナポレオン』は言う。説得される。

 そして再び、凡庸で程度の低いナポレオン批判に対し、スタンダールは静かに言い切る、「俗物には、精神的とは何かということがわからない」と。

 

* わたしはこの巻を読み終えるよりずいぶん昔に、ソブールの『フランス革命』のほかに、『フーシェ』の評伝を読んできた。わたしが、あらゆる人間のなかで最も厭悪し軽蔑する人間の彼は最悪の代表者であり、フランス革命の全経過ですべての巨人や賢者や才能を裏切り続けて地位と権力を得たヤツである。ナポレオンが二度目の退位宣言に署名を余儀なくされたのも彼の大臣・警察長官であったフーシェの反逆ゆえであった。

 

* なんとこの世間には、フーシェのように狡猾に立ち回って、地位と権力と虚名へすり寄って行くヤツの多いことか。われわれの身の回りのちいさな組織においてさえ、そういうイヤな例は見られる。それの見えない目は、見ようとしないだけのことだ、阿諛であり追従である。派閥への無意識ないし意識的な追従と自己喪失が働くから見えない、いや、見ないのである。

 2007 6・5 69

 

 

* 戦略爆撃の歴史は浅い。だがその過酷な爪痕は、ゲルニカをみても、重慶をみても、そしてわが広島・長崎をはじめとして全国津津浦浦に及んで惨憺たるものがあった。飛行機は戦争の歴史を真っ黒に塗り替えた。東京大空襲、大阪大空襲、横浜大空襲。日本にもう戦力のないことを見極めてからの容赦ない兵器実験の殺戮に航空機は使われた。小田実の『百二十八頁の新聞』と一対たらしめるべく、いまも『戦略爆撃と日本』という今井清一氏の文章を校正している。だれもが読んで記憶して戦争に反対しなければならない。

 2007 6・8 69

 

 

* 『ニューオーリンズ・トライアル」という「銃」を主題の裁判映画をおもしろく二日掛けて観た。ジューン・キューザックとレイチェル・ワイズの若い二人を芯に、ダスティン・ホフマンとジーン・ハックマンの大物が対決する。銃社会を維持すべく陪審員を大がかりに監視し籠絡し勝つためには超巨額の金を動かす、その悪辣な策士社会をジーンハックマンが好演し、弁護士ホフマンも陪審員の一人キューザックと恋人レイチェルも死力を尽くす。

 陪審員制度の背後にこんな闇社会がほんとうに蠢くのかどうかは知らないが、わたしは今毎夜、「アメリカ」がアメリカとして成り立ってゆく歴史を読み続けていて、頭の中でその興味が幾割かを占めている。アメリカの歴史をよく知ることは、今日を批判する前提としてほぼ絶対的に必要なこと。

 世界の映画で日本で観られる多くがアメリカ製、そしてフランス映画がついでいるようだ。アメリカ製の現代映画は、どんなにくだらなくてもアメリカを証言していると思って観てきた。『勇気ある追跡』でも『ダンス・ウィズ・ウルヴズ』でもそうだ。『ダーティー・ハリー』も『ランボー』も『ダイ・ハード』もむろん『マトリックス』や『アメリカン・ビューティ』もそうだ。

 アメリカ史に触れて行きながら、映画好きのわたしの楽しみは色濃さを増す。 

 2007 6・9 69

 

 

* アメリカの歴史を読むのは二度目だが、わたしの生まれた年からちょうど三百年前ぐらいが、建国の沸騰期。他の諸国とちがい何かしら歴史記述もからっとして、物珍しい。

 植民地から独立戦争、合衆国へ。しかし各州の自立性も日本の府県などとは全く違っている。名に覚えの大統領が、ワシントンから何代目かまでつづく。アダムス、ジェファソンやアンドルー・ジャクソン。モンロー。ことにジャクソンのアメリカ民主主義のいかにも健康な樹立ぶりなど、好もしい。また学びたい。いまのブッシュ政治など、建国時のアメリカの理想からすると、頽廃もきわまれりという凄さ。

 

* ジャクソンはほとんど学校教育もまともに受けていない。大統領としての裁決に、All Correct と書くべきを Oll Korect と書いて、以来、「OK」という物言いが広まったなど、面白い。オーライより、オッケーの方に戦後児童のわたしらは馴染んできた。こんなところに語源ありきとは。

 とまれかくもあれ、此のジャクソンという大統領からは、原点に返るほどに学び直したい多くがある。官僚登用における「インスポイルス・システム」と「メリット・システム」との柔らかに懸命な混用なども。

 彼は、官僚には真面目でさえあれば他に特別の才能はいらない、それよりも官僚が同じ地位にしがみついて固着し、頽廃し、怠惰と犯罪に奔る方がよほど国を危うくすると考えていた。大は政府・自治体から、小は団体・組織・企業まで、まことその通りだ。勇退し退蔵する人間はきわめて少ない。とびつき、しがみつき続けたい。そして官軍きどりに威を張りたがる。とてもOKではない。醜い。

             

* 上尾君がイギリスにいた頃、わたしはアンドレ・モロワの『英国史』を読んでいて、彼も向こうで読んでいたようだ。いまハーバードにいる「雄」君も、在米中にアメリカの歴史をおよそ頭に入れておいてはどうかなあ。わたしが今読んでいるのは、中公文庫の第十巻ぐらいか『新大陸と太平洋』という一冊。これなら簡単に手に入るのでは。新潮文庫にたしかモロワの『米国史』もあるが、中公文庫の方が明らかに読みやすい。

 2007 6・24 69

 

 

* 南北戦争の、さながら犠牲となり、アメリカ合衆国を守り民主主義を守りぬいた第一等の大統領リンカーンが、一俳優の凶弾に斃れた。「南北戦争」の経緯・推移、じつに興味深く一気にみな読み通した。建国後、ワシントン、ジェファソン、それにジャクソニアン・デモクラシーのアンドルー・ジャクソンら何人もの優れた大統領に恵まれた若きアメリカの幸運を思う。

 リンカーンらとくらべるなど噴飯ものとはいえ、我が国いまの総理大臣の人と政治の紙より薄く低級なことよ。彼は日本を、国民を、ドブに捨てる気か。「人民による、人民のための、人民の政治を地上から絶滅させないため」に安倍自民党政権は何もしていない。その真っ逆さま強行している、あざとい欺瞞の言葉で。

 2007 7・1 70

 

 

* 夕食後、しばらく昏睡。起きて浴室で、アメリカ史、南北戦争後の、リンカーン暗殺後の、アメリカ史上「再建の時代」といわれた困難な、乱脈な数十年に読みふけった。戦争では大健闘したが大統領としては暗愚であったグラントら凡庸な指導者がつづいたのも不幸であったが、北部の利に固執する共和党と、南部の白人支配に固執する民主党との軋轢も、奴隷制廃止後の黒人問題で混乱を招きに招いていた。だんだんと、今日の日本の与党政治の党利党略に先駆していたようでなさけなく、目前日本の民主主義政治の、いかに脆弱で未熟であるかを、ふつふつと思い知らされた。

 2007 7・1 70

 

 

* 夕食後、ストンと二時間ほど宵寝した。湯につかりながら、インディアンとのアメリカ人、ないし連邦政府との互いに苦難多かりし折衝の歴史を読んだ。

 アメリカでは、黒人と比するとはるかにインディアンの方がよく待遇されている事実に驚かされた。少なくも一応対等に受け取られている。インディアンを母親に持つ人がフーバー大統領の副大統領にもなっている。売買の対象にしてはならない農地を一人当たりに与えられて、狩猟・漁労の生活から農業への画期的転換もなされてきた。インディアンは白人と闘って決して負けてばかりは居なかった、勝つことの方が多かったという。連邦政府は、インディアンとの戦争では出費ばかりかさみ、時には一人のインディアンを殺すのに平均二百万ドルも使っていた。これは、ひどい。

 インディアンに与えられた農地の経営に白人が雇われていた例もあり、時には三千人ほどのインディアン族に与えられた土地から、莫大な石油が出たり金を掘り当てたりしている例もある。

 不幸な烈しい戦も無数に繰り返されたインディアンと白人とだったが、むろん、あくどいのはいつもと言えるほど白人側であり、インディアンの英雄たちの反抗も熾烈であった。連邦政府が徐々にインディアンに州民と同等の特権や市民権やアメリカ人としての立場を認めていったのは、はるかにその方が賢明な措置であったから。

 その点、黒人問題は、南北戦争が済んでも根本的ないい解決に到っているとはいいにくい。

 今度の大統領選挙に、黒人大統領か女性大統領が出来る可能性があるといわれる。すくなくもブッシュの党には一度退いて貰いたい、が、とにもかくにもアメリカの現代が、日本の現代、世界の現代に大影響しすぎるのは、避けがたい不幸でもあり、なんとか不幸中の幸いな展開が期待・希望される。

 2007 7・7 70

 

 

* 安恬舒適、疾痛札癘の無きを、蘇東坡は吟じていた。心やすらかで楽しく、と。札癘は流行病のこと。

 いまテレビで聞くと、十九世紀の百年にアメリカは海外で三度戦闘して四千人を喪い、二十一世紀の六年半ですでに四千人を超える兵士を海外で死なせていると。アメリカ大陸の「外」には干渉しないといった「モンロー主義」を、少なくも思い出すべきではないか。一人の悪魔のような大統領があらわれると世界は、こう動いてゆく。それほどのアメリカであるという事実に、アメリカ国民は責任を感じて欲しい。

 ブッシュにただ追随した小泉純一郎の愚かさ、いままた安倍晋三の酷薄。日本をアメリカと心中させてくれるな。

 宗教や宗派信仰がこんなにも人類を困らせた世紀は過去にあったか。なかったとは言い切れず、いま、それに輪をかけている。

 2007 7・8 70

 

 

* 今日世界史の暗澹たる一時期、ブルボン王政復帰を、堪らない思いで読んでいた。

 ナポレオンのワーテルロー敗退とともにフランス革命は、ルイ十八世のブルボン王政復古により完全に蹂躙された。一切を「革命以前に戻す」という、とほうもない「正統主義」のまえにフランス革命で得た人権と自由と平等は、亡命していた王と貴族たちの悪しき政治家の手で完膚なく奪い尽くされてしまう。

 歴史の容赦ない揺り戻し。こんな時代に遭遇したフランスの民衆はどんな気持ちであったろう。王や貴族が奪われていた領地や財産や封建的特権を当然奪還したのだという理屈を、わたしは聴く気にならぬ。王とか貴族とか政治や制度の特権者を、わたしは徹底的に嫌う。吐き気がするほど嫌う。自身の努力と寛容によって才能によって得たものではないからだ。 

 2007 7・13 70

 

 

* スポイルズシステムと謂うたか。アメリカ建国期のジャクソン大統領は、まだ國も若く小さな政府であった時代で、官僚の能力というものに過大な期待をもたなかった、誠実につとめれば誰にでも出来ると考え、むしろ悪く馴れて腐敗する方が危険だという考えから、政権が変われば官僚も総入れ替えした方が良いというほどの考え方であった。それがスポイルズシステム。今でも共和党から民主党に、またその逆になったとき、主なスタッフは総入れ替えになっているのではなかろうか。たんに内閣の顔ぶれが変わるだけでなく。

 これではしかし不味いところも出てくる。國が大きくなり大きな政府になってくると、そこに熟練とか熟知という効用もものを謂う。のこすべきはのこすというメリットシステムが併用され始めたという。

 

* 持明院・大覚寺両統が交替に皇位についた昔にも、似たような人事は起きたらしい、それどころか源氏物語にも政権交代で優遇や冷遇の人事は明らかに語られている。これらとジャクソンのいうスポイルズシステムとは同一には考えられないが。

 昨日読んでいた太平記で、鴨社の基久・貞久の間でしきりに繰り返された祭主交替劇を読んだ。両統の確執に、一人の美女も絡んでいた。

 とかく人事というのは権力の代名詞になるもので、いじってみたいのが常のようである。いじられたいのも常のようである。ゴマすりがあらわれる。いやなものだ、端で見ていても。

 2007 7・17 70

 

 

* 秦恒平・湖の本エッセイ41 『閑吟集 孤心と恋愛の歌謡』の跋

 好色古典の第一等に西鶴の『好色一代男』を挙げられて異存はない。元禄の世之介が恋の手習いについわたしも見習い、思えば想えば空恐ろしいほど「恋の手管」を学びましたといえばむろんウソであるが、日本の古典全集につねに加えられる、すてきに粋にポルノグラフィクな室町小歌の『閑吟集』からは、もっと深く、もっと懐かしく、「恋愛の孤心」を悩ましく教わったのは決してウソでない。愛読して真実面白い歌謡の集では閑吟集の右に出るものは無い。 

  よほど心嬉しく繰り返し書いてきたが、どうしてももう一度書きたい思い出がある。

 医学書院の頃の上司で殊に鷗外研究者として名高かった長谷川泉と、作家のわたしを、名古屋大学の小児科教授であられた鈴木栄先生が定年退官の記念に、わざわざ、伊勢桑名の「船津屋」に一夜招待して下さった。船津屋は泉鏡花の名作『歌行燈』の舞台になった料理旅館で、そのころ名古屋の老舗「中村」が経営していたが、鈴木先生の招待に終始付き添って賑やかに晴れやかに宴をとりもって呉れたのは「中村」の若女将であった。鏡花の作から抜け出てきたような美女であった。美女はみずから襷がけ勇壮に大太鼓まで堂々と打って聴かせ、一夜明けた翌日は千本松原へ案内してくれた。木曽、揖斐、長良の大河が一つに落ち合う窓外の見晴らしもみごとなそれは佳い宿であったが、美しい人の面影はもっと魅力深く胸にのこった。

  わたしは東京へ帰ると、簡略ながら葉書で中村の若女将にも礼状を書いた。そしてその奥に、ただ「三六」という数字を添えたのである。

 折り返しやはり葉書できちんとした返事があり、これにも「一二三」とただ添えてあった。

 その暫く前にわたしは「NHKブックス」で『閑吟集─孤心と恋愛』を出版しており、それが宴席で話題になっていた。閑吟集は「思無邪」の詩経にならい三百十一の歌謡歌詞をを聚め、市販のテキストはみな番号を振っている、即ち三六も一二三も言わず語らず閑吟集の小歌を示していた。

 

  さて何とせうぞ 一目見し面影が身をはなれぬ    三六

 

  何となるみの果てやらむ しほにより候 片し貝   一二三

 

 この相聞こえの応酬は、イヤ間違いなくわたしはきれいにフラレたのであるが、この返辞の妙にすこし説明を加えないと読者は理解されないであろう。「船津屋」で歓待にこれ努めてくれた若女将の実名が「なるみ」さんであった。またそれは愛知県の鳴海という女将の地縁をも意味していた。むろん「あなたの仰せにしたがえば、末はなんと成る身でございましょう、片想いのままで堪えさせて下さいまし」と謂う仕儀に相成る。真に一流の女将はこういう聡い藝と才と美貌とを兼ね持っていたのである。惜しいことに、天魔も魅入られたか「なるみ」さんは、若くして天涯の鬼籍に奪い去られ、逢えない人になってしまったと、もう、とうに風の便りに。

 こういうこともあった、何人かから寄せられた本の感想の中で、便箋裏の隅の隅にいと小さく算用数字で、307 と。走り書きに。うそかまことか。

 

  泣くは我 涙の主はそなたぞ   三○七

 

 小説につかってもいいなと思った。

 閑吟集とは、こういう、今日ただ今のセンスでもとても面白く受け取れる室町小歌でいっぱいである。オウと、おもわず声を放つほどアケスケな性(セックス)の表現にも溢れていて、しかも読み解けば解くほど小気味よく、表現は清潔で純情、纏綿の情趣と風雅に満たされている。そして全編の奥底を流れて、

 

  ただ人は情あれ 槿(あさがほ)の花の上なる露の世に            九六

 

  世間(よのなか)は霰よなう 笹の葉の上の さらさらさつと ふるよなう  二三一

 

といった感懐がある。みごとにある。閑吟集の真価は、背景にある「中世」を豊かに批評しながら、その次元も超えた男女の愛、人間愛に満たされていること。わたしは、それを縦横無尽に心をいれて読みほぐしてみた。わたしの読み・解きに拘泥される必要はない。またそれだけに、この本では前冊『愛、はるかに照せ』とちがい、思うさま自由自在に読んで悔いをのこしていない。文字通り閑吟集はわが座右最愛の愛読書であり、気恥ずかしいほど一体化している。願わくはそれがこの本でプラスに成っていて欲しいものである。

 作者は「不詳」としておくしかない。連歌師宗長の擬されたこともあること、何の確証もないことのみ言い置くにとどめるが、小説家の恣に別世界を思い描き、ひとり楽しんでいることもある。

 よくよく性にあっているのか、わたし自身のもの思いをこんなに代弁してくれて多彩な詞華集はほかにない。ひとつには、閑吟集の置かれている時代、中世というよりその後半分、かつては、あるいは今でも「暗黒」などといわれかねずにいる室町時代に、わたしは、不思議と子供の頃から、つまり国史を愛読し始めた頃から、暗黒どころか「花ごころ」のような明るみや希望やぬくみを感じていた。むしろ鎌倉時代や江戸時代の方に息がつまったのである。この本の中でも繰り返し書いているが、わたしは、日本の中世を、室町時代を、武家封建制度の「確立してゆく」経過とは評価してこなかった。ちょうど逆様に、武家封建制度の成り立ってゆくのを「渾身の力で妨げ続けた」時代と読んできた。そこに京都と公家と擡頭する民衆の力との「合作」を感じ「花」を感じ、可能性や希望を感じ取ってきたのである。わたしが、日本の「藝能」とそれを担い歩いた人たちへの共感や興味を持ち続けてきたのと、そういう時代の「読み」とは、いつも表裏を為しまた成していた。

 梁塵秘抄を書き平曲を書き能を書き閑吟集を書き茶の湯を書き、そしてタケルや赤猪子にはじまる敗北者や、蝉丸らに始まる藝人や、切支丹やアイヌや朝鮮人や、また葬制にはじまる被差別への観察と批判とを書き続けた強い催しもまた中世と京都に集約された貴賤都鄙の軋轢や葛藤にあり、民衆・平民の希望と鬱屈とにあった。その思いの行きつくところは、所詮、安土桃山時代を指さして「黄金の暗転期」と憎むほどの歴史観になる。鎌倉時代、南北朝時代、将軍の時代、守護大名の時代、戦国大名の時代を通じてあんなに武家封建制度の成るのを懸命に妨げ続けた希望を見捨てた者たち、特権の富ゆえに政治的エネルギーを武家に売り渡し民衆の時代を裏切った特権町衆。彼らの手で「中世」は「近世」武家封建制度の贄とし差し出され、さながら黄金色の繁栄がきたかのようであったけれど、実は黄金色の暗転期を招いたのだと、わたしは嘆いた。おそらく閑吟集の著者も、「桑門」にして「狂客」であった彼の胸裏にもまったく同じ歎きが忍び寄っていただろうと、わたしは共感措くあたわざるものにより胸奥を濡らすのである。

 「四度の瀧」「三輪山」「冬祭り」「みごもりの湖」「秋萩帖」「古典愛読」「加賀少納言」「或る雲隠れ考」「花と風」「梁塵秘抄」「清経入水」「女文化の終焉」「趣向と自然」「初恋(雲居寺跡)」「日本史との出会い」「風の奏で」「能の平家物語」「慈子」「閑吟集」「茶ノ道廃ルベシ」「親指のマリア」「最上徳内 北の時代」などのわたしの仕事は、およそそういう感懐に膚接して創られてきた。そうありたしと願ってきたのである。

 高校の頃、国語の先生であった碩学岡見正雄先生の名著に『室町ごころ』がある。わたしはそれをかなり年がいってから読んだが、いうに言われないはんなりと柔らかな歴史観であった。精到隈なき軍記や藝能研究者であられた、亡くなるまでよく読んで気遣い引き立てて下さった。作家になってからもわたしは先生に答案を出し続けていたのである。小心な生徒であったわたしも、はや七十余。

 なお壮年の詩人杜甫は、日々の務め帰りに曲江のほとりで酒に憂さを晴らし、酒手の借りの尽きぬのを侘びつつ人生七十古来希と放歌したのは、いまのうちに心ゆくまで酔いしれたいということであった。同じ言葉で閑吟集の著者が、いや同時代を生きた閑吟集中の民衆も挙って感じていたのは、

 

  何ともなやなう 何ともなやなう 浮世は風波の一葉よ   五○

 

  何ともなやなう 何ともなやなう 人生七十古来希なり      五一

 

であった。「何ともなやなう」をこう繰り返すのは、歎きか居直りか絶望か希望か。全く同じ表現で二十一世紀のわたしは日々呻いて、歎き、居直り、絶望し、だが希望も捨てまいと足掻いている。藻掻いている。みなさんは、どうであろうか。

 いずれ引き続いて、同様十二世紀の『梁塵秘抄』もお届けする。『閑吟集』ともども、安価に手に入れておいでの方の多いのは存じているが、どうか重ねて「湖の本」でもご支援下さらばとても助かります。出血止めに、分冊にしたいともよほど考えたが余分のご負担かけたくなく、ながく便利に愛読・愛蔵していただくには一冊がよいと決めました。

 いま新ためてこの一冊を編み、繰り返し読み返して気づくのは、まるで自分で自分を出し抜くかのように、閑吟集をダシにして、隠れ蓑のようにして、わたし自身をアケスケに、あまりにアッケラカンと暴露してしまっていることだ。誰の感化だろう、昔男か、光源氏か、世之介か。もう遅すぎる。

  ところで「湖の本」は、さしあたり白壽、百壽を数えあげたいとながい歩みを少しも止めずに来たが、このところ、右脚を事故で傷めたこともふくめ、糖尿病の悪影響が、緑内障にも白内障にも皮膚神経にも腎臓にも露表し、体力的によほど覚束なくなってきた。そんな中、今年、また日本ペンクラブの理事改選があり、選挙された。十年務めてきた。落選したらたとえ会長推薦があってもやめると決めていた。だが会員の意向はもう二年やれと。京都美術文化賞の方の理事もまた二年の任期延長が決まったようだし選者もつづけよということらしい。しかし「電子文藝館」からは自身で退いた。十分やった。作業を続けるには視力は衰え、句読点がまるで読めない、魯魚の見錯りも防ぎようがない。せめてわずかな視力は自身のために大事にしたい。

 もう二年で金婚。「湖の本」もうまくすると九十九巻ぐらいに到達するか知れない。頑張ってみるかねと決めた矢先、運動がわりの自転車で怪我してしまった、見通しのない坂と坂の底で自転車同士衝突、奇跡的に双方がゆっくり起きあがり、わたしは右脚を傷めただけで済んだが、いつまでたっても歩行に痛みが脱けない。脚が腐り始めている気がする。

 うかつなことだがそうなって、ハタと気がつく。なんてちっぽけな世間に跼蹐して十年もああよこうよと働いてきたか。文藝家協会やペンクラブの会員であることすらてんで意識になかったむかし、わたしはもっとひろびろと生きていた。教授でも理事でも、なまじ頼むと言われると精一杯打ち込んで、あげく、いやがられる。損な性質なのである。

 最近も、つくづく述懐している、賢い人は嗤うだろうと。おまえはあまりに矛盾していると。

 例えば一方で小田実さんの『百二十八頁の新聞』を心から電子文藝館に推奨し、掲載し、また言論表現委員や電子メディア委員をつとめて発言し提案し、小泉や安倍政権を非難し、野党ぶりを批判し、現代史や世界史の読書に熱中し、私生活でもガンとしてガンコに暮らしている。

 が、その一方で「静かな心」を求め、バグワンや鈴木大拙に無心を聴き、心=マインドという分別・理屈を嫌い、言葉の虚妄にしばしば飽いて「闇」に沈透 (しず)く沈黙と静安を好み、観劇と読書と、時にこころよい飲食に安らいでいる。そしてすべては夢と、ほぼ信じている。

 おかしいよおまえ、と、面と向かって言う人もいた。どっちかがウソだと。それならいっそどっちもウソだと言うがいい。所詮は、夢。

 自分が、いわば乱れた麻糸を神の掌でまるめられたような存在であるのを、身のそばにおいた一葉の肖像画を見ていて感じる。わたしの小説『お父さん、繪を描いてください』を手近に置いている人なら、下巻の百四十二頁の繪をみてください。自殺した「お父さん」が有楽町地下道のラーメン屋でものの二三分とかけずに描き遺してくれた顔だ。あらゆるモノはこういうすけすけの無にひとしい存在なのだと「お父さん」は教えていった。

 おつに澄まして山の中で隠者のように生きていたいと思わない。十牛図の第十の境はヒマラヤではなく、人の行き交う街市の雑踏なのである。

  その雑踏にいて、何といってもわたしを励ますのは文学だが、その「文学」というものが、すっかり変わって来た。ひとつこんな時代の証言をお耳に、いやお目にかけよう。

 わたしの文学修行の一端が、講談社版『日本現代文学全集』百何巻かを毎月一冊ずつ書架に揃えてゆくことであったことは、何度も書いた。第一回配本が谷崎潤一郎集であったから買い始めたのである、谷崎と藤村と漱石とは二巻を配本の予定だった。一人一巻には明治このかたの錚々たる作家が並んでいたし、詩歌も評論も戯曲も随筆も緻密に収録され、さながらに「近代文学史」であった。

 わたしは作品も読んだが、数百人の著作者たちの「年譜」を繰り返し繰り返し熟読した。作品に対し先入観を過剰に持たずに、作者へのいい理解が得られた。よく書かれた年譜は最高度の研究成果に等しいのである。

 こういう大全集の最終配本はふつう「現代名作選」ということになる。鷗外や露伴や漱石や藤村や潤一郎や志賀直哉らからみれば、まだ遙か下界に近いところで頭を擡げてきた若い有力な作者たちの作品がそこに揃う。講談社版の「現代名作選」は上下二冊、第百五・百六巻に用意されていた。二の方が最も新しい作家たちである。

 いま手近にその最終巻を持ち出していたので、目次をご覧に入れる。年配の方には懐かしく、若い人には最後の最後に大江さんの名前など見て驚かれるだろう。

 阿川弘之『年年歳歳』金達壽『塵芥』大田洋子『屍の街』山代巴『機織り』島尾敏雄『夢の中の日常』耕治人『指紋』埴谷雄高『虚空』井上光晴『書かれざる一章』三浦朱門『冥府山水図』西野辰吉『米系日人』杉浦明平『ノリソダ騒動記』長谷川四郎『張徳義』小島信夫『小銃』安岡章太郎『悪い仲間』吉行淳之介『驟雨』霜多正次『軍作業』松本清張『笛壺』有吉佐和子『地唄』石原慎太郎『処刑の部屋』小林勝『フォード・一九二七年』深沢七郎『楢山節考』大江健三郎『死者の奢り』開高健『パニック』城山三郎『神武崩れ』福永武彦『飛ぶ男』大原富枝『鬼のくに』で一巻が編んである。

 前巻の最後が芝木好子の『青果の市』だった、昭和十六年下半期の芥川賞作品。つまり前の一冊は明治の嵯峨廼屋御室いらい太平洋戦争までの忘れがたい文藝秀作を盛り込んでいた。

 そう思って後の一冊を見ると、水上勉も曾野綾子も瀬戸内晴美の名前もない。直木賞作家はたぶん一人も入っていない。それが文学不動の常識だった、読物作家、エンターテイメント作家、推理作家などは此処に全く「文学作家」たる市民権を得ていない。本巻に吉川英治も直木三十五も山本周五郎も当然脱けている。ただ一人井伏鱒二の直木賞というのは、誰の思いにも見当はずれの授賞だった。

 この最終巻の発刊は昭和四十四年六月、この年この月にわたしは小説『清経入水』で第五回太宰治賞をもらっている。選者は石川淳、井伏鱒二、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫の満票であった。作家として登録されたちょうどその頃の、上の人たちがなお新人作家であったことになる。むろん、わたしはこれら全編を読んで鼓舞された。そこに「文学」があった。

 たまたま手近な同じ第九十二巻を手に取ると、河上徹太郎、中村光夫、吉田健一、亀井勝一郎、山本健吉の五人で一冊。批評家五人、すばらしい顔ぶれだ、熟読し勉強した。いま河上先生の『私の詩と真実』巻頭の一文を読み返しても、清水を顔にあびるよう、凛乎とする。批評が文学になってる。

 もう最期を予感されていたころの中村真一郎さんが、ある人に、一点を凝視し、「こんな世の中になっちゃあ、文学はもう終わりですね」と溜息とともに吐き捨てて去っていったという文章を読んだところだが、わたしが十年間日本ペンクラブ理事会に出ていて感じ続けたのが、それであった。文学はめったに話題にもならない。

 そんな評価は時代後れのアナクロだという議論もあろう。だが文学をダメにしたのは時代後れのせいか、ミソもクソも読物もやみくもに儲けの種にし、文学はお払い箱にしたせいか、答えは明らか。

  加えて電子メディアの猛毒にあてられ、ますますことはひどくなっている。「くだらない雑文ですが」読んでくれというメッセージを最近も「mixi」でもらった。「くだらない雑文には、興味も、割く時間もありません」と断った。遜っているつもりにしても、そういう姿勢は気持ち悪い。

 ペンクラブに電子メディア委員会を企画し創設したときから、わたしには以下の根本的危惧があった。

 一つは、市民使用のインターネットは遠からず国家権力の忌避するところとなり、陰に陽に個人のインターネット運営は、監視や警戒の対象として法規制が強化されてゆくに違いないこと。

 もう一つは、似而非の文学・文藝が氾濫し、「文学・文藝」の真価がもう問われることもなく無惨に崩潰し、立ち直りには想像を超えた長期間を要するだろうとこと。

 さらにもう一つは、放埒な自己表現の麻痺薬にアテられ、若い世代の精神に多大の毒がまわってしまい、未来の日本は幾世代にもわたり軽薄きわまりなく頽廃してゆくだろうこと。

 そしてさらに、(きわめて陰険な)サイバー・ポリスと(きわめて広範囲な)サイバー・テロとの死闘の時代が、もうはじまっているが、いっそう熾烈になり人間の精神的環境と機械的環境とを不可逆に汚染・荒廃させてゆくだろうこと。

 あえてもう一つ、インターネットに限らずパソコンは、概していえば老人のための「電子の杖」としては甚だ有用だが、自堕落に若い人たちに広がっていいツールではなかろうというのが、早くからの私の大きな危惧であった。のみこむには毒があまりに強いのである。

 と、まあ 毎日、溢れるようにわたしは書いている。ことばが湧いて奔出を求めてくる。「今・此処」に生きている、その証のようにことばが波になって攻め寄せる。変な譬えだが若い母親の乳が張って吹き出してくるように。疼くように。すこし意図してこのことばを「演出」してやれば小説、私小説は積み重ねられる、が、そうしない。原料のまま自身をただたんに順序も秩序も演出もなしに此処に置いておく。いわゆる「原稿」に置き換え「仕事」にするといった欲はもう持たない。そんなことにたいした意味はない。「闇に言い置く私語」そのまま。それでよろしい。自身で創った「作品」は小説も評論も詩歌もエッセイももう百冊以上積み上げてある。「私語」は無秩序に原料のまま此処に積んでおく。わたしがやがていなくなっても、映画のように誰かが死後もう暫くのあいだ此処に「わたし」を見ていてくれるだろう、そしてその人たちもいずれ消え失せる。ぞっとしない話だが、今の人間たちみんなが一斉に消え失せるかもしれないのだ。

 荀子は「解蔽篇」で、人は文化に生き、もろもろの「蔽」つまり襤褸を着込んでゆく。脱がねば純真も静かな心もないと教えている。漱石は『心』を書くとき、荀子の解蔽篇を識っていた。そして岩波本の第一号にあたる『心』を、望んで自装し、表紙にわざわざ窓枠を入れて荀子の心の説を掲げた。それに初めて言及したのは、東工大でわたしの先任教授であった亡き江藤淳である。

 謂うまでもない「襤褸にひとしい言葉」を物書きは書いている。書いている。書いている。商売だと居直って書いている。誇りをもって書く者も誇りなどかなぐりすてて書く者もいる。襤褸は日々に厚い。

 一期は夢よ。無秩序の自由や自在にわたしはみな、明け渡す。「抱き柱」は、要らない。

 2007 8・1 71

 

 

* あまりたくさんな『閑吟集』へのお手紙で、感謝してバンザイの体だが、歴史学の小和田哲男さんから、「戦国武将、信長、秀吉、家康の時代を勉強している者として、一一八から九ページのあたりの記述にハッとさせられました。自分なりにとらえ直さなければと思った次第です」とあるのに、感謝した。いちばん戴きたかった指摘であった。わたしはそこでこう書いている。

 

 ☆ 十五世紀の百年は、足利義政による応仁文明の乱をまんなかに抱きこんで、いわゆる東山時代なる禅趣味貴族文化を、破産に導いて行きます。前にあげた宗祇、珠光、雪舟といった人材の独創は、明らかに東山文化の似而非ぶりへ、内から外からつきつけた厳しい反措定としての、ほんものの性根をもっています。三人に先行して反骨一休の禅をおいてみればもっとよく頷けるところです。

 さきに、この時代、自然な趣向をうるに好環境だったかどうかの判断がむずかしいと私が言いましたのは、一般の説とはかけちがうかも知れないのですが、いわゆるまやかしの東山文化なるものと、雪舟、宗祇、珠光らが精神の重みをかけて求めたものとの、拮抗と隔差に、この時代の創造的環境としての意味や評価を見なければならぬと思うからです。

 一つの見当として、あの申楽の能の天才世阿弥の存在が、十六世紀へと近づいてくると、さすがに変容変質を強いられて、能の中に、傾(かぶ)きの要素が近づき浸透してくる。それ自体は積極的な「趣向」要因なのですが、世阿弥が理想とした幽玄な〝花〟の美しさが、彼の直接の後進の手でより深められたとばかりは言うわけに行かず、むしろ雪舟、宗祇、珠光らの方が世阿弥の高邁と深玄そして優美とを、それぞれの分野で承け嗣いだ感がある。

 世阿弥を世阿弥として消化も吸収もできなかった体質として、私は反庶民的な禅趣味に終った東山文化を否定的に考えています。さらに言えば東山文化と闘った雪舟の藝術は、狩野派がこれを受けとってやがて官僚的画風へ変質させ空洞化させます。宗祇の藝術は『閑吟集』という異色の子をなして、その後は、俳諧の芽がそして芭蕉の新芽が芽ぶくまでのあいだ、立ち枯れを余儀なくされます。幸い珠光の茶だけが利休の茶へ大きく育つのですが、しかもそこで躓いた。利休は秀吉の手で裁断され、後継者は茶の道を容易に立て通せなかった。あげく頽廃の繁栄へと今日にまで導いた。

 この三様の挫折。それは信長、秀吉、家康の成功と当然に表裏していました。武家の側からみれば、十六世紀の戦国大名時代そして安土桃山時代は上昇そして勝利の時代でしょう。が、民衆の側からみれば、全く同じ時代が雪舟、宗祇、珠光らの余儀ない変容変質へと下降そして敗亡した時代でした。

 安土桃山時代は、実は、私の表現を用いれば、〝黄金の暗転期〟にほかならなかったのです

 2007 8・3 71

 

 

* 世界の、また日本の「歴史」をつぶさに顧みつつ悔しいのは、あまりに大多数私民の惨めに虐げられ続けてきたこと。フランス革命以後の近代社会は現代に至るまでいわゆるブルジョア優位の、本位の政治体制で商工業金融資本主義を擁護し続けてきた。農民や零細労働者の生活の悲惨は、反革命以降の近代・現代の覆い隠しようのない現実であり、日本列島でもようやく身の置き所のなさに気づいた人たちの抵抗で、先日の自民大敗を実現した、やっと実現した。小泉純一郎の政治は、西欧の近代史への露骨な追従であったし、冷血な政治手法であった。わかりよくいえば十八世紀のイギリス・トーリ党のブルジョア擁護・農民差別政治の、ほとんど模倣に近かった。

 

* わたしがしてもいいのだが、本来なら社民党筋の勉強家が試みて論策すべきことがある。少なくも明治維新以降の日本で、できれば室町時代の國一揆等の挫折このかた、「民衆はなぜ負け続けるのか」を地道な踏査であとづけ、そこから学び取るべきを学んで民主主義を再構築しなければ、所詮日本は過去の悪習へあとじさりあとじさりして私民は軛にかけられてしまうだろう。 

 2007 8・4 71

 

 

* 深夜、映画『日本のいちばん長い日』を観、朝、妻ともう一度観た。

 この映画をわたしは機会が有れば繰り返し観てきたが、今日は、ひとしお痛切に六十二年前を想起し、溢れるものを堪えられなかった。

 何にしても「此処」からわたしも歩き出したという実感がある。

 敗戦の日とともに思い出すのは、誰よりも強烈に阿南陸軍大臣のいちはやき自決であった。他のことは御前会議も何も一少年の耳目には容易に届くわけもなかったが、新聞の報じた陸将の自決は峻烈に敗戦と結びついた。

 わたしは敗戦を呆然と心細くは聞きながら、必ずしもくらい一方の思いではいなかった。丹波の山村の、日盛りの農家の前庭へ出て「玉音放送」なるものの聞き取りにくい機械的な音声を耳の端に聞き止めたあと、「戦争に負けた」らしいという実感に被さってきたのは、「これで京都へ帰れる」というかすかな開放感だった。わたしは飛行機のように両手を広げて夏空の下をぐるぐると駆け回ったように覚えている。                    

 

* 映画は、この手の大作の中ではかなり緊密な緊迫をよく劇化していて、ほとんど「映画」を観ているという感じを与えないほど、場面のいちいちから訴えてくるものが血肉化されている。今から思えばわらうしかない場面すらも、わたしを嗤わせるよりは、深く傷つけ悲しませる力を帯びていた、わたしは、日本の最期という「儀式」を受け容れるように画面の前でせつなかった。

 

* 六十二年。かるい感慨ではない。たやすい道のりでもなかった。先人へのいたましい哀悼と感謝の思いが厳然とある。靖国参拝をパフォーマンスの具に供し、しかも戦争体験をだるま抜きのように忘れ去ろうとする賢しら人たちの、戦前復帰を思索し画策する者たちの、愚と傲慢を憎むのである。             

* 三発めの核爆弾をも日本人と日本の国土とが受けずにすむために、何の努力が必要か、たやすい問いでないのは分かっているが、問いかつ行動しなければ済むまい。             

 

* 異様な暑さへも我々は刮目し対処しなければ。あの敗戦の頃の日本では、一夏に三十度を超す酷暑はせいぜい多くて数日であったように覚えている。しかしこの植生豊かな日本にして、四十度という夏がいずれ常態になるかもしれない。命も守らねば。地球も守らねば。そのためにも一人一人が聡明を保たねばならない。   

 

* わたしたちはこの日を、有り難いという感謝の気持ちで勘三郎らの納涼歌舞伎を楽しませていただく。 

 2007 8・15 71

 

 

* 一八七一年の「パリ・コミューン」の偉大な逃走と悲惨を極めた壊滅とを読んだ。或る意味ではほぼ百年前のフランス革命を乗り越えて行く優れた理念と方向とを持っていたが、また民衆の闘争のかならず陥って行く杜撰さも抱いていて、それゆえに反動王政の狡知と実力の前に凄惨な死の破滅を体験した。

「民衆の闘いは何故敗れるのか」 いま、この歴史的な反省が具体的になされて、その反省の積み上げから賢く学ばねばいけない、もう最期の機会かもしれない。だが、誰も本気で自分は民衆の一人だとも本気で考えていない、なにかしらバカげた錯覚で自分は別だと思っている。

 

* バカげたはなしだが、例えば去年の夏の甲子園以来、いったいわれわれは何人の「王子」を称賛してきただろう、「ハンカチ王子」「はにかみ王子」「なんとか王子」と。どうしてこうも人は「王子」だの「王女」だの「王さん」だのが好きなんだろう。そんなものが真に人のタメになったことなど、一度だってありはしなかったろうに。なさけない。

 2007 8・21 71

 

 

* 世界史が、「ブルジョア」の世紀から「帝国主義」の時代へ入って行く。十九世紀後半から二十世紀前半へ。わたしが生まれる頃までの「百年」ほど。とても興味がある。

 明治維新から、わたしの生まれる一九三五年ころまでの「日本史」は読んだ。これから「世界史」を読む。

 2007 8・22 71

 

 

* わが幼年時代の雑学の仕込み先として、絶大に楽しませてくれた『日用百科寶典』は、文學士玉木昆山閲、小林鶯里編、東京の尚榮堂刊、明治三十九年八月に編纂者小林識の「自序」があり、目次なみの詳細な「索引」が本の前についている。

 奥付はなく、うしろに「諸君は小川尚榮堂出版図書を悉く讀まれしや」と、図書目録がずらあと満載してあり、これまでが、今となっては興味深い。本文は一 ○八三頁ある。

 「凡例」には、「巻中を類別して左の二十類とす。」とあり、國体及皇室 教育 宗教 文学 国文及国語 英文法 歴史 地理 法制 経済 社会 科学 数学 商業交通 農工藝 軍事 生理衛生 家政 音楽遊戯 雑  とある。国際海外知識は項目として意識もされていない。

 ここしばらく、この「寶典」の薄れた活字を霞んだ眼で追ってみようと書庫の奥から持ち出してきた。酔狂なことだが。

 

* ときどき繙いて、浮世離れのした我一人の思い出をたのしんでやろう。

 2007 9・1 72

 

* 今日数える皇統では、後二条、花園、後醍醐、後村上、長慶、後亀山 そして百代後小松天皇と続いて、北朝の光厳、光明、崇光、後光厳、後円融天皇は数えない。

 しかしわたしの愛読した『日用家庭寶典』では南朝の長慶天皇を数えずに、上の北朝天皇たちが数えてある。南北朝のことは、明治三十九年の本にして、なお結着されていなかったのだ。 

 2007 9・2 72

 

 

* グラッドストーンという自由党の宰相が、イギリスの十九世紀末から二十世紀へかけて数次の政権で活躍した。

 この人は、ビクトリア女王に嫌われながらも圧倒的な国民の支持を何度もつかんで、三次もの「選挙法改正」で、貴族から農民に至るあらゆる所帯主に選挙権を確保し、主権在民の議会主義に大きな前進をもたらした。

 徹底的にいじめぬいてきた属国アイルランドの国民にも同情し、あらゆる反対を押し切って、アイルランドの自主独立への画期的な路線をつけたのも、彼、グラッドストーンだった。

 自由党は、軍の統帥権を、国王から議会へという目の覚めるような大改革のために、上院の横暴を実に我慢強く繰り返し押し返して、断然実現した。

 その点、日本の貴族院はひどい存在で、日本を戦争へかりたて、天皇の名で、大きなわるさをした。なさけない。

 必ずしも好きなとも言わないイギリスであるが、議会政治の歴史を確実に積み上げてきた一面には心からの敬意を覚える。

 2007 9・10 72

 

 

* 今夜から息子の新しい連続ドラマだとか。題も覚えられない、なんだかガサツな出演者の前売り口上を、さっき、ちらと見聞きした。しょせん静かに人間の内奥の闇を覗き込む手の仕事ではない。

 

* 十時から半過ぎまでみていたが、浴室へ。

 第一次第二次バルカン戦争から、オーストリア皇太子夫妻の暗殺までを読み、さらに第二次インターナショナルの推移を読んだ。帝国主義の支配者側の強欲非道の暗闘をイヤほど読んできた。これから暫くは、下からの抵抗の動きを読んでゆく。日本からは日露戦争のあと、片山潜が参加している。議長と二人壇上に立ち、万雷の拍手が五分は鳴りやまなかった有名な話は聴いてきた。

 2007 10・18 73

 

 

* 大作『ヒトラー 最期の十二日』を、多大の興味で観た。いま、世界史は、第一次大戦前のイギリス帝国主義によるインド植民地化の強圧の歴史と抵抗のあらわれを読んでいるが、この巻を通過すると第一次、次いで第二次の大戦になり戦後の世界になる。なぜヒトラーのドイツが第三帝国といったかはおよそ承知しているが、より詳細に現代史へ入ってゆきたい。そうすればこの映画の意味ももっと見えてくるだろう。『ニュールンベルク裁判』までも観たくなる。『シンドラーのリスト』もいい作であったが、今日のは、まともにヒトラーの終焉を描いていて凄みがあった。だがもっともっと周辺の歴史から煮詰めていってもう一度ここへ来たいものだ。

 

* もう眼が限度へ来ている。やすみたくなった。

 2007 10・21 73

 

 

* 独特の議会制度を打ち樹てていったイギリスという國には敬意を惜しまないが、近代の「帝国主義英国」の強欲で狡猾であくどい独善支配も群を抜いていて、他国を一段も二段も抜き離している。ことにインドへの徹底的な苛斂誅求にはおどろくほか無い。

 インドという國がまたややこしい。中国はあれだけ大きな國だが、中国の歴史には意外に単純なわかりいいものがあり、とんでもない誤解は避けて通れるのだが、インドはあまりにややこしく、ややこしさの中に我々の常識とはよっぽどちがった、よく謂って伝統、わるくいえば理不尽が多すぎる。支配者イギリスのコモンセンスからすれば径庭の甚だしい差異も、彼らをしてインド人蔑視に向かわせたに相違なく、だからといってその狡猾に過ぎた統治の貪欲は、明らかに非道。

 だがインド人社会のあのカースト問題だけでなく、言語を絶した女性差別のさながらの生き地獄ぶりにも、憤慨を抑えることは出来ない、わたしでも。

 よくもあしくもイギリスという國は、歴史で謂えばつい最近までまこと世界を牛耳っていたんだなあと、愕きながら世界史を学んでいる。毎日、毎日がおどろきである。

 だが、その手のオドロキは、いわば啓蒙されているだけで、表面的である。いささかもどう学ぼうとイバレルことではない。じつは物知りになったというほどのことですらない。擦過傷をうけてその痛みで、ああ生きているんだ俺はと自覚する程度である。

 

* だが『ゲド戦記』やバグワンや、また『ヨブ記』から受けとる自覚は、身内に食い込んでくる。血管注射のように痛く受け容れる。鈍感に慣れて枯れてゆく心身のために、わたしはそういう種類の読書を、まだまだ大切にしている。

 2007 10・22 73

 

 

* 世界の国々の名前は、由来を聞けばもの畏ろしげなのが多かろう、わが「日本」にしてそうだ。

 「中華民国」など、ひときわ恐れ入る。日本人はまだしも日本列島を「粟散の辺土」とも自覚もしてきたが、中国は臆面もない。西欧列強や日本の帝国主義に好き放題にされていたときも、なお彼らを対等どころか「朝貢国」として遇し、常置の外務省を設けるなどもってのほか、ただ臨時の総理衙庁に「洋務」をとらせ、そこは腐敗官僚の巣窟であった。外国の新任大使たちを謁見もせず、謁見しても過剰に過剰な皇帝への礼拝を強いた。最初にそれを押し破って、たんに三礼にとどめて謁見を強いたのが、日本の副島種臣であったという。

 

* 中国がやや神経をとがらして宗主国の権利を主張し、戦争にまで及んだ例は朝鮮半島とベトナムだけだった。日本と日清戦争、フランスと清仏戦争を闘い両方とも大敗して、ベトナムは奪われ、朝鮮の独立を認めた。儀礼的な「中華」の面目だけを保持し、周辺宗主国を列強の蚕食に任せていたのが、十九世紀の中国だった。

 二十一世紀の中国は、どうか。どうか。

 目を離してはいけない最強の覇権国が今や日々に膨張しつつある。英仏独露など歯牙に掛けていない。米国をすら呑んでかかろうとしている。近づく「北京オリンピック」が、のちのち顧みて、なにかしら怖ろしい歴史の曲がり角にならないといいが。悪意の算術にほかならぬ「外交」術にかけて、今、中国の右に出られる大国は、無いと思う。

 

* 自民・民主の「大連立」など、もし風聞が事実なら、危険志向もきわまれり。大政翼賛会の悪夢が思い出される。ここまで反動化の逆戻り意志は潜行し、またついに露表してきたということ。

 私民たちよ、公権力の大同に巻き込まれてはならない。本当の野党を育てないと危ない。福田康夫は早くも馬脚をあらわして、ともあれ、しくじった。

 

* そんなことではないのかと推測通り、大連立はあの「大老害」中曽根康弘の吹きこんだ駄法螺であったようだ、福田康夫の判断力ミスは被いがたい。

 2007 11・3 74

 

 

* オーストリア皇太子夫妻がセビリアで暗殺された。ハプスブルグ家の衰退一途を象徴していたような皇太子と、彼に愛されて三人の子をなしていた宮廷不遇の妃との最期だった。オーストリアとドイツはセビリアに過酷に迫り、ロシアとフランスはセビリアの背後にまわる。第一次大戦の火ぶたがあがる。もう現代史といわねばならない。

 

 ☆ 鴉へ  鳶

 二日早々にメールを戴いていましたのに、今日になってメールを開きました。

 映画館でぐっすり寝てしまう、とは、「おじさん」してますねえ! 損したような、でもそれ以上に幸せ気分かもしれません。能を観て眠るとは少し違うかもしれませんが。

 何とか日々を暮らしています。

 今は豚ばら肉(脂肪が少ないのを選んで買いました)を煮込みながら書いています。

 ちょっとした時間には先日骨董市で買った錫の急須を磨いています。紫の染めや泥大島の着物に袖を通したりしています。騙し騙し、楽しんでいる

ようにみえるでしょ?

 一番のテーマにしたいとおっしゃる、そのテーマが「大衆や労働者農民らの抵抗運動が常に道半ばに破綻し崩潰した、<破綻と崩潰の研究>・・」だと書かれているのは、驚きでもありました。同時に意味を重く受け止めます。が、それにしても「破綻と崩潰」の研究とは悲しい響きです。

 失礼は承知で書きますが、あなたの日常にそのテーマが一番であると、わたしはそのようには認識してきませんでした。底辺にあるものへの眼差しは十分存じています、分かっています。が、何よりも行為者として、抵抗者としてのあなたの姿、ここに ? マークをつけたら叱られてしまいますが、わたしには想像できない部分もあります。少なくともお兄様が組織に属して闘ったのとは大きく異なります。(それは反面教師として、鏡面には私自身の姿も映っています。)

 重量感のある『民衆の抵抗運動の研究』をするためには、元気で気力があること・・特にその気力の強さが不可欠でしょう。たとい微かな仄かな光明であっても、未来の方に確かな確信があれば、人は地道な忍耐を求める仕事に邁進するでしょう。現代は、現在はどのような状況にあるか。ぬるま湯に浸かってみな中産階級と言っていた状況は吹き飛ばされて、組合運動、労働運動は腑抜けになって、既得権利さえ底なしに失っています。いつの間にやら格差格差と寒々しい状況です。

 若い人たちの間にどれほどの抵抗運動の力が潜んでいるか、存在しているか・・? 大いに期待したいのですが。

 わたしたち団塊の世代にほぼ括られる研究者が、学園闘争の後、さて民衆の歴史、抵抗運動の歴史研究にどれほどの成果を挙げてきたのか、残念ながらわたしは殆ど無知です。

 「鳶は若い。一つ、重量感のある研究を始められよ。」と書かれています。Mixiに書いたやや固い内容の文章のほうをHPに載せていただいていますが、その方がわたしらしい文章なのか? など思ったこともありました。

 社会的な問題への関心は常にありますが、寧ろ自分の中心課題としないようにしてきました。およそ政治的な人間ではないと知っていますから。探求・・ただしそれが「行動」に結びつかないこと、それは恥ずかしいことでもあると、今も思います。関心あることの微小な証として、そのような作業をす

ることは可能かもしれない、保留しつつ考えます。

 同世代の辺見庸の『独航記』や、昨年買った『抵抗者たち』という本が手元にあります。著者は米田綱路(よねだこうじ) 1969年生まれで戦後の空気を知らない世代、その人が記すことのかなりを、例えば花岡事件、国鉄解体とリストラ、三里塚闘争など、わたしは本当に表面的にしか知らなかったことに、逆にショックを受けました。

 戦後日本の経済成長の中で急先鋒に立ち、働いてきたのはあなたの世代であり、わたしたちの世代でした。そしてそれなりの経済的恩恵も受けてきました。

 懐かしい昭和と、映画などでさまざまに郷愁に誘われても、そしてそれは確かに懐かしいけれど、父や母、亡くなった人たちが懐かしいけれど、其処に戻って暮らしたいとは思えない。それは既に過去、過去の幻影、ともすれば自分で作った勝手な幻影。

 平成になって、既に十九年、来年は二十年とは、恐ろしい。

 勝手なことを書きました。書くよりも、飛んでいって会いたいですよ。

 良い季節を楽しまれますように。

 こちらでは今年の紅葉はまだまだです。京博の狩野永徳展が今月半ばまでなので、早めに出かけねばと思っています。

 

* 歴史記述を顧みていて、世界の近代であれ、日本の近代であれ、民衆や働き手達の闘いは、悉く中途で挫折している。

 前車の覆轍をすこしも身にしみて顧みないで、またぞろ無防備に無思慮にことだけを起こして「勝つ」用意が無い。しかし、それらから学ばねばならない。決して挫折と崩潰の理由は複雑怪奇でなく、箇条書きにしてでも纏まるだろう。だが、大衆は、労働者達はそれに学ぼうとしなかった。そして潰えてきた。悔しいことだ。

 小沢と福田の密室合議は、とほうもないまたしても挫折と崩潰を導き、国民や私民の議会制民主主義にかけてきた希望をシャボン玉のように吹き消した。

 歴史から学べば、かなり多くの愚が避けられる。挫折と崩潰との歴史を書くのは情けない悲しい気弱いことではない。ほんとうに成功するためには、きちんと押さえて前者の轍を踏まないために。私民への愛情ある学者や批評家なら、少し努力し勉強していい論文にして欲しい。フランス革命の成功の前には、歴史的な文献になったいくつものパンフレットが書かれた。

 政権の座にありついた連中を権力者だと思うことがそもそも間違いではないか。その権力を彼らに与えている、与えうるのは、権力の源泉は、われわれ私民の腹中にあり胸中にある。それを忘れているから、いけない。

 2007 11・5 74

 

 

 ☆ 鴉へ  鳶

 二日早々にメールを戴いていましたのに、今日になってメールを開きました。

 映画館でぐっすり寝てしまう、とは、「おじさん」してますねえ! 損したような、でもそれ以上に幸せ気分かもしれません。能を観て眠るとは少し違うかもしれませんが。

 何とか日々を暮らしています。

 今は豚ばら肉(脂肪が少ないのを選んで買いました)を煮込みながら書いています。

 ちょっとした時間には先日骨董市で買った錫の急須を磨いています。紫の染めや泥大島の着物に袖を通したりしています。騙し騙し、楽しんでいる

ようにみえるでしょ?

 一番のテーマにしたいとおっしゃる、そのテーマが「大衆や労働者農民らの抵抗運動が常に道半ばに破綻し崩潰した、<破綻と崩潰の研究>・・」だと書かれているのは、驚きでもありました。同時に意味を重く受け止めます。が、それにしても「破綻と崩潰」の研究とは悲しい響きです。

 失礼は承知で書きますが、あなたの日常にそのテーマが一番であると、わたしはそのようには認識してきませんでした。底辺にあるものへの眼差しは十分存じています、分かっています。が、何よりも行為者として、抵抗者としてのあなたの姿、ここに ? マークをつけたら叱られてしまいますが、わたしには想像できない部分もあります。少なくともお兄様が組織に属して闘ったのとは大きく異なります。(それは反面教師として、鏡面には私自身の姿も映っています。)

 重量感のある『民衆の抵抗運動の研究』をするためには、元気で気力があること・・特にその気力の強さが不可欠でしょう。たとい微かな仄かな光明であっても、未来の方に確かな確信があれば、人は地道な忍耐を求める仕事に邁進するでしょう。現代は、現在はどのような状況にあるか。ぬるま湯に浸かってみな中産階級と言っていた状況は吹き飛ばされて、組合運動、労働運動は腑抜けになって、既得権利さえ底なしに失っています。いつの間にやら格差格差と寒々しい状況です。

 若い人たちの間にどれほどの抵抗運動の力が潜んでいるか、存在しているか・・? 大いに期待したいのですが。

 わたしたち団塊の世代にほぼ括られる研究者が、学園闘争の後、さて民衆の歴史、抵抗運動の歴史研究にどれほどの成果を挙げてきたのか、残念ながらわたしは殆ど無知です。

 「鳶は若い。一つ、重量感のある研究を始められよ。」と書かれています。Mixiに書いたやや固い内容の文章のほうをHPに載せていただいていますが、その方がわたしらしい文章なのか? など思ったこともありました。

 社会的な問題への関心は常にありますが、寧ろ自分の中心課題としないようにしてきました。およそ政治的な人間ではないと知っていますから。探求・・ただしそれが「行動」に結びつかないこと、それは恥ずかしいことでもあると、今も思います。関心あることの微小な証として、そのような作業をす

ることは可能かもしれない、保留しつつ考えます。

 同世代の辺見庸の『独航記』や、昨年買った『抵抗者たち』という本が手元にあります。著者は米田綱路(よねだこうじ) 1969年生まれで戦後の空気を知らない世代、その人が記すことのかなりを、例えば花岡事件、国鉄解体とリストラ、三里塚闘争など、わたしは本当に表面的にしか知らなかったことに、逆にショックを受けました。

 戦後日本の経済成長の中で急先鋒に立ち、働いてきたのはあなたの世代であり、わたしたちの世代でした。そしてそれなりの経済的恩恵も受けてきました。

 懐かしい昭和と、映画などでさまざまに郷愁に誘われても、そしてそれは確かに懐かしいけれど、父や母、亡くなった人たちが懐かしいけれど、其処に戻って暮らしたいとは思えない。それは既に過去、過去の幻影、ともすれば自分で作った勝手な幻影。

 平成になって、既に十九年、来年は二十年とは、恐ろしい。

 勝手なことを書きました。書くよりも、飛んでいって会いたいですよ。

 良い季節を楽しまれますように。

 こちらでは今年の紅葉はまだまだです。京博の狩野永徳展が今月半ばまでなので、早めに出かけねばと思っています。

 

* 歴史記述を顧みていて、世界の近代であれ、日本の近代であれ、民衆や働き手達の闘いは、悉く中途で挫折している。

 前車の覆轍をすこしも身にしみて顧みないで、またぞろ無防備に無思慮にことだけを起こして「勝つ」用意が無い。しかし、それらから学ばねばならない。決して挫折と崩潰の理由は複雑怪奇でなく、箇条書きにしてでも纏まるだろう。だが、大衆は、労働者達はそれに学ぼうとしなかった。そして潰えてきた。悔しいことだ。

 小沢と福田の密室合議は、とほうもないまたしても挫折と崩潰を導き、国民や私民の議会制民主主義にかけてきた希望をシャボン玉のように吹き消した。

 歴史から学べば、かなり多くの愚が避けられる。挫折と崩潰との歴史を書くのは情けない悲しい気弱いことではない。ほんとうに成功するためには、きちんと押さえて前者の轍を踏まないために。私民への愛情ある学者や批評家なら、少し努力し勉強していい論文にして欲しい。フランス革命の成功の前には、歴史的な文献になったいくつものパンフレットが書かれた。

 政権の座にありついた連中を権力者だと思うことがそもそも間違いではないか。その権力を彼らに与えている、与えうるのは、権力の源泉は、われわれ私民の腹中にあり胸中にある。それを忘れているから、いけない。

 2007 11・5 74

 

 

* 待合いで、たくさん世界史の「第一次世界大戦」総力戦の国際状況推移を読み進めてきた。東洋では対中国支配に日本は漁夫の利を得て、ほとんど狡猾なほど悪意の算術で外交を切り回していた。いまの日本の外交と大違いだ。高価な金銭を支払って大量の石油を買い、それを外国の戦争行為への支援に無料で提供し、しかしそんな戦況はちっとも好転していない。それを称して「国際協力」だと。失笑ものである。

 第一次大戦のころの露仏英三国協商に加わってイタリアも、ドイツ・オーストリアを裏切り、さんざ断り抜いてきた日本も、中国の利を固めると戦勝後の講和へ加わるべく、ちゃっかり参戦に踏み切っている。列強も、ドイツも、社会主義者まで内閣に加えている。

 いまは、孤独な平和への提唱者だったロマン・ロランの挫折し掛けながらも、ねばりづよく「平和への良心」たろうとする発言や行動を見守っている。すぐれた知識人や文化人の多くも戦争に協調を唱える人たちが多かった。だが、国民の疲弊は各国ともに目を覆うばかりのひどさ、日増しに深い。タンク、飛行機、潜水艦、毒ガス。戦場だけが被害を受けるのではなかった。

 

* 最近、テレビで、小沢昭一がインタビューを受けていた最後の最後の一言に、「戦争はいけません、しちゃいけません」と語っていたのが、胸にしみた。また今、毎夜読んできた亡き観世栄夫さん傘壽直前の遺著、『華から幽へ』でも、実に力強く、戦争への反対を語って、平和のためになら何でもする、何でもしてきたと言い切るのを、繰り返し聴いた。生きがたい時代を、真摯に生き抜いてきた真の「大人」真の「藝術家」真の「藝人」の性根の確かさ太さに、こころからの敬意と共感をわたしは覚えた。

 

* 歴史に学ぶことを忘れてはいけない。忘れはて、また気も付かないでいるどんなに多くの大事なことに、気づかせてくれるか。

 

* むろん、気づくだけでは何にもならない。今年ノーベル賞を受けた地球温暖化を警告し続けてきた団体の責任者、インド人の博士が創り上げた「報告書」の科学的な重みを縷々述べていたのを、わたしも聴いた。だが、問題は「報告書」に従って起こす決断であり行動でありその遵守であるが、そのためには強烈な「政治」の施策と指導と達成がなければいわば紙片の山を築いたに過ぎなくなる。それが問題だ、各国の政治が糾合されて一致団結して「報告書」を「活かす」のが、問題だ。

 が、わたしはどうにも楽観できない。人間を、人間のエゴと怠慢とを日々に思い知るとき、わたしは、だんだん集団としての人間の誠意が信じられなくなっている。その人間たちが形成している国家のエゴイズムは、もっと甚だしい。そこで蠢いている現代の政治家たちのエゴイズムたるや、さらにさらに甚だしい。

 三十年で北極がなくなるというコマーシャルがすげない程、当たり前な声音で流されている。誰がその暗い意味について、おそれ、うれい、たちあがり、手を打って、実現するのか。

 若者よ。知性の人たちよ。体力をもった人たちよ。才能と実技にたけた若き有名人たちよ。その個人技をりっぱに達成したときには、人びとが盛んに拍手しているその瞬間に、一言でいい「地球環境」について世に広くうったえ勧めて欲しい、政府と政治家とを動かしましょうと。昨日の野口みずきのマラソン力走は素晴らしかった。あのすばらしさが生む影響力や感化力で、一言アピールしてくれたら、信じられない力への一押しになるはずだ。彼女にはわるいが、ただゴールを新記録で走り抜けただけでは、それでおしまい、それだけだ。人々を感動させたのは素晴らしいが、感動した人たちの、人間の「寿命」が残り少なくては、やはり、はかないではないか。

 2007 11・19 74

 

 

* 昨日、日本史には女性崇拝の騎士道の顕著例は見あたらない、その意味でもドラマ『瑤泉殿の陰謀』に注目したと書いた。それを妻と話題にしていたときも、むろん『南総里見八犬伝』のことが出ていた。

 ただしあの場合はただに慕わしき女性ではなく、厳格にいえば八犬士たちの「母」が崇拝されている。無垢の無欲のまま女人を思慕し拝跪し男が身をささげた高貴なほどの事例は、残念ながら見あたらない。坂崎出羽守には欲と面子がある。「狐忠信」の静への思慕などを辛うじて数えておくか。

 第三部も、おもしろく観た。

 2007 12・31 75

 

 


 

* ヒットラーと「SS国家」を読み進んでいるが。国家自体が狂を発しているようで、気が、暗む。イタリアのムッソリーニといい、ソヴィエトのスターリンといい、第三帝国へかけのぼるヒットラーといい。人間が人間を権力で徹底的に支配する快感に惑溺してしまう時代。あのころだけに限られているとは言えない。支配する者もイヤだが、存外に支配されたがる人があまりに多くて、それで過酷な「彼ら」の支配が可能になるとも見えてしまう人間の歴史、それが、情けない。

 

* 年賀状の中に、今こそ「大連立」絶好の機会と期待している人がいた。

 昔からよく知っている、やや世代上の人であるが、この人など、ヒットラーのような支配者が圧倒的にあらわれ、一律に人間を絞って染め上げてくれるのを、「大安定」とでも思って率先忠誠を誓い、「ハイルヒトラー」などと手を高く上げ長靴を打ち鳴らして至福の顔つきをするのだろうかと、ヤンなっちゃう。

 わたしはイヤだ。

 2008 1・5 76

 

 

* 『翁』だけで失礼し、目黒から山手線で上野へ。最終日の『ムンク展』に十五分ほど行列して入る。一点一点詳細に観ようという気ははじめからなく、「ムンク」が諒解できればよかった。ああ、そうか。さもあろう。そう思いつつかなり広い会場と沢山な展示に納得して、出た。お山を一人で歩く気はなく、そのまま池袋に戻って、メトロポリタン・ホテルの地下「ほり川」で美味い鮨を食い、売店で妻の服を物色しておいて、保谷へ帰った。

 往き帰りの車中、ナチスドイツとのかかわりから「ユダヤ」の歴史と、ユダヤ人に対するあまりに無惨なナチスの絶滅政策にいたるさまざまな思想的・政治的無道の経過に読み耽っていた。それと「翁」の能とが並列で同居しているわが脳裏の繪図は奇態であるが、どちらにも真っ直ぐ「気」を向けることが出来る。

 2008 1・6 76

 

 

* ヒトラーの自殺、そしてヒロシマ・ナガサキの原爆投下で、第二次大戦終わる。『世界の歴史』はもう一巻。

 2008 1・8 76

 

 

* 絶対王政もイヤだが、世界史を第二次大戦の終局から戦後体制にまで読み進んできて、なにがいちばんイヤかといって、「ファシズム」ほどイヤで怖ろしいモノはない。十把一絡げに括り上げて、生き地獄の業火に投げ込んで行く支配と権力の体制。それはやはり「帝国主義」のひときわ悪辣な変種であり、ナチドイツほどである・ないは別としても、我々日本人も軍国支配に奈落まで蹴落とされた。

 

* 天皇や皇帝がいるから帝国主義と謂うのではないことを、よく理解しなければならない。「グローバリゼーション」というとなにか世界の安定と平等を誤解するヒトも多いけれど、あれが実は「帝国主義」の一つの同義語なのである。

 例えば困っている国に金を貸すかわりに港や鉄道や河川の利用の権利を得て、其処を足場になにもかもを絞り上げて行く。「高利貸し」の徹底した収奪と支配との機構、それが「帝国主義」であり、その最たる本家は、謂うまでもないイギリスであり、フランスであり、その何倍もの勢いを第一次大戦後に得ていたアメリカであった。

 ヨーロッパは衰弱し、アメリカ帝国主義が世界を席巻してきたが、対抗して中国がかつてない実力を持ち始めているのが現在であり、ロシアも復帰しつつある。

 かつてのドイツやイタリアやロシアや、今の中東勢力など、みないわば英仏米の帝国主義からの苦し紛れの反動で藻掻いて出た、毒性の強い亜種の帝国主義を演じて失敗したり擡頭したり抵抗したりしている。

 

* 怖いなあと思うこと。

 「ヒトラーの最期」の瞬間まで、じつは彼はドイツ国民の多くから見放されていなかったという事実、支持もあり信頼すらあり、まだヒトラーに希望と誇りとを持っていたドイツ国民が少なからずというよりも、多く存在していたということである。

 ファシズムの長いモノにぎりぎりと巻き上げられていて、その苦痛が希望かのように錯覚できる人間が、いないどころか、大勢あの瞬間にもいたという事実をわたしは恐怖する。そういう心理の人たちこそが、ともすると「大連立」といったファシズムに希望をもつのだから。 

 

* そして今や誰でもない、地球が痛めつけられている。憤然と地球の反撃が加速度を帯び始まっている、のに、むろん私も含めてだが、みな、まだ、タカを括っている。まさか。まさか。まさか。そう思っている。

 

* 第二次大戦後の世界に特徴的なのは、よかれあしかれ巨人的な政治家がいないこと、とは誰もが気づいている。そしていったい、どういう政治家を人はいま期待しているのだろう。ヒットラー、スターリン、毛沢東。「大連立」などを期待している人は、いっそ彼らの再来を待っているのだ。わたしは、断然、御免蒙る。戦時宰相のチャーチルも遠慮する。

 これだけアメリカ不信のわたしであるが、総合点としては、あの「ニュー・ディール」のフランクリン・ローズヴェルトの業績に、説得されるモノが多い。

 

* いま、「九条の会」などが引っ張って「憲法」の話題が小さくない。

 憲法に期待する人は、一つ覚えのように「ワイマール憲法」を言うし、もっと溯って「マグナ・カルタ」このかたの革命的な英国憲法を讃美する。わたしも讃美する、けれど、あのワイマール憲法を高く掲げたドイツは、ヒットラー第三帝国のナチズムの人質になり虐殺されるまで、ほとんど条文の理想は護られてこなかった。店晒しにホコリをかぶっていた。

 理想的な憲法が理想的な政治に結びつくという確信は、かなり錯覚に近いことも残念ながら、事実なのである。

 日本の憲法は自慢してもちっとも構わない勝れた前文、条文を持っているけれど、総理大臣や東京都知事等第一に遵守義務のある連中が公然と軽蔑の言葉を憚らないというケッタイな関係にある。憲法の前に、政治家の質、国民の質が問題なのである。その点で、不安なのは日本人はあのヒットラーを最期までおおむね支持していたというドイツ人と気質的に近いモノを持っていかねないことだ。

 2008 1・9 76

 

 

* 四人組が追放され、華國峰が主席だった中国に招かれて、北京の人民大会堂で、周恩来夫人(当時、いわば国会議長に相当する副主席だった。周恩来首相が亡くなって間がなかった。)と会った。「秦恒平(チンハンピン)先生は、お里帰りですか」と諧謔のアイサツを受けた。

 井上靖夫妻以下のわれわれ作家代表団は、滞在仲、何度か演劇や舞踊を観に劇場に招かれたが、「長征」を主題にしたものに一度ならず出会った。

 いま、あの戦中の中国での国共合作や対立、そして二次三次の「協商」を経ながら蒋介石の勢力が優勢から劣勢へ転げ落ちるように大陸を追われて行く、まさしく毛沢東共産党の中国に成ってゆく推移を、「世界の歴史」で読み進んでいる。世界をして瞠目させた中国共産党の戦時戦後「解放区」政策の、奇抜にして合理的な成功など、興味深い。

 2008 1・12 76

 

 

* 今日は、これから築地、眼科の診察。

 

* 病院へ出がけの寒かったことは。ダウンのフードをかぶりたくなった。『世界の歴史』は、「鉄のカーテン」「冷戦」そして「朝鮮戦争」勃発まで来た。

 :検査無しの眼科診察ははやくすんで、よかった。両眼とも「眼圧」問題なく、かすかなアレルギー(花粉症など)がみられるが、しつこかった「結膜炎」は良好に治癒傾向と。三人目の医師で卓効を得たのがありがたい。「ドライアイ」はなんとかかわして行くしかあるまいが、点眼薬は四種類に、二つ減った。

 空腹の快感をかかえたまま、寒さにも背を押され、街歩きはやめて一直線に帰ってきた。「ひとりから」の原田奈翁雄さんの電話に、あやうく間に合った。久しぶりに元気な声を聴かせて貰った。

 2008 1・21 76

 

 

* ずっと「世界の歴史」の社会主義圏を読んでいた。「人民公社」「大躍進」より以前の毛沢東中国の一見みごとな「政治的」成功にはおどろくが、筆者(蝋山芳郎氏)の主観的評価があまり称賛に傾いて少なからず意図的に甘い気せぬではない。毛沢東の劉少奇と交代して一旦下野以降の、よく纏めた、よく検討し追究した「中国現代史」が読みたい。ソ連でのフルシチョフの登場から退場までのスターリニズム一掃へのソ連や東欧のあがきぶりにも関心があった。

 なににしてもこの中公版文庫本の刊行から、すでに三十数年経っている。現代史という以上は、日本史も世界史もその三十数年にこそ学びたいものだが、良い記述の歴史はまだ書かれていないか。

 2008 2・1 77

 

 

* 山中裕先生に戴いた人物叢書『藤原道長』を夜前、読了。

 本書の一つの意図に、道長への久しい「誤解」を解く、道長個人という以上に平安王朝の「摂関政治」といわれた政治体制への機械的な誤解を解くということがある。道長の人物は、彼の政敵とまでは言わぬまでも歯に衣きせない批判好き本家筋の藤原実資による『小右記』に、もっぱら拠って描かれ気味であった。だが、それではどうも偏跛に流れる。

 また道長の体現していた摂関政治は一人独裁の乱暴なモノでなく、むしろ律令制に応じ「陣定(じんのさだめ)」を基盤の「合意・衆議」を原則として重んじていた。またさもなければあれほど満ち足りた穏和な時代は出来上がらなかった。『大鏡』も『栄華物語』も道長讃美をこととしているにせよ、またそれなりの説得力はもったのである。その証左たるに足る道長自身の『御堂関白記』(この後生の名付けは間違い。彼は関白にはならなかった。)が豊富に「道長自身」を表現してくれている。

 山中さんは、道長の栄華を肯定的にあとづけされ、たしかに彼の「内覧」に任じて以降の栄華と幸福とが分かりよく示されている。

 

* その一方、彼道長の「栄華」なるものの数量的・文化的な解説もほしかったし、源義家ら武士「侍」の実態や当時地方勢力の胎動なども、また都の治安・不安の実情なども相対的にもっと知りたいところ。

 十一世紀初頭の平安文化はすばらしい、が、当時の京都が放火もふくめて火災の巣であったこと、いわゆる庶民と貴族との格差が天文学的であったことなども、見ないでいてはこまるわけである。

 栄華という以上、例えば道長個人の国家から受けていた報酬・給与がどれほどのものであったか、具体的に示されていたら、驚愕のあまり読者は卒倒するだろう。

 2008 2・6 77

 

 

* 播磨の「鳶」さんから、文庫本の『蕨野行』と劇化された上演ビデオ、それに、中国の現代史をアメリカ人夫妻の特派員が共著した大冊とが、贈られてきた。感謝。

 『蕨野行』を今は妻が吸い込まれるように読み進んでいる。わたしは、映画がじゅうぶん自分のなかでこなれて定着するのを待ち、それから観て、読んで、みる。

 その前に、中国現代史の方を、今夜からの読書に加える。

 「中国」という国は、たぶん今世紀の我が国にとって、とてつもない重荷になり、さまざまな方面からたぶん苦しめられるだろうとは、この「私語」にもじつに早くから、懼れて言い及んできた。この本は、おそらくわたしの難儀な予測を、いやが上に例証してくれるであろうと、かなり憂鬱でもあるのだが、通らずに済まない、「地球温暖化」にも優に現実に匹敵する「中国」なのだからと、覚悟して読んで行く。これから地球上で超弩級の火花の散る地域は、もう間違いなく東洋、極東であるだろうと予測する。

 2008 2・8 77

 

 

* ヒッタイト王国の興亡を、考古学や文献解読の苦心とともに、巧みに劇的に解説しているテレビ番組にも、惹き寄せられていた。

 『世界の歴史』のなかで、その頃の諸国のはげしい浮沈のさまも読み通してきた。

 この数年、わたしの毎日は、『日本の歴史』二十六巻ほぼ壱万三、四千頁、『世界の歴史』十六巻ほぼ八千数百頁の「縦列の読書」で括られて来た。

 日本人の、そして人類の「歴史」を、わたしは絶対視はしないけれども、謙虚に尊敬せずにおれなかった。それが基本にあるから、たとえば『蕨野行』の深さやすばらしさや特殊さが、理解できる。

 いくらものを識っていても、じつは仕方がない。そう腹をくくった上で、ものと向き合う「らくな姿勢」が出来る。そう大きく間違わないですむ姿勢が出来る。

 2008 2・9 77

 

 

* 今日が「建国記念日」といわれても実感がない。

 「紀元節」だったころは有ったか。祭日という感じはたしかに有った。「紀元節」という文字面に、身を寄せるとも寄せないとも無い、そこはかとした象徴美はあった。「建国」といわれると、「無理」を感じてたじろぐ。

 応神・仁徳以前に実在否認されていない天皇は只一人もいない。応神もどうか。仁徳もどうだか。大陸で「倭の五王」と文献に認識されていた中で、やっと五人目の「雄略」天皇がほぼ間違いなく「大王武」として確認できる。彼は歴世二十一番目の天皇だが、小説『三輪山』で書いたように、赤猪子伝説と倶に登場の雄略天皇は、まだ、半身を神の世界に包まれたように印象されている。

 2008 2・11 77

 

 

* 偶然だが、中国のものを、二冊併読している。

 一つは興膳宏さんに戴いた『中国名文選』で、序章「中国の文章を読む」についで先ず「孟子」次ぎに「荘子」今は「史記」を読んでいる。ほんの抄読で物足りないが、とりまとめ全十二章でいわゆる中国「文言」の推移には、適切にふれることが出来る。面白いし、有り難い。

 もう一つは現代中国を語る『新中国人』。

 夫妻であるアメリカ人ジャーナリストのN.クリストフ S.ウーダンの共著で、原題は『CHINA WAKES─ THE  STRUGGLE  FOR  THE  SOUL  OF  A  RISING  POWER』とある。一九八三年七月頃からの体験・見聞・取材に基づいている。この日付は、まだ若き法律学徒だった夫クリストフが、ウーダンとの出会いより早く、英国留学から米国へ帰郷途次に、モンゴル経由の汽車から中国朔北の古都「大同」に、初めて途中下車した時を示している。

 「大同」とあるのに、わたしは先ず感慨を得た。わたしが井上靖夫妻、巌谷大四、伊藤桂一、清岡卓行、辻邦生、大岡信氏ら、また日中文化交流協会の白土吾夫・佐藤純子理事らと、中国政府の招きで訪中し、北京到着数日の滞在後に、夜行列車で、戦後初の日本人一行として向かった先が、雲崗石窟で名高い「大同」であった。一九七六年、昭和五十一年十二月初め、酷寒、だった。

 あの折の感動は忘れない。そして、唯一の訪中国記念の小説『華厳』は、この大同を舞台に書いた。華厳寺の大壁画に取材した明滅亡の歴史小説であった。手だれの読み手達ほど、諸手をあげて称賛してくれた。

 何度も書いてきたが、此の訪中時、中国全土の壁という壁は「大字報」つまり糾弾ステッカーで覆い隠されていた。熱烈歓迎されて宿泊した北京飯店では「昨日も」ここで「武闘」があったと聞かされた。文化大革命に猛威をふるったという「四人組」が逮捕追放されて間がなく、周恩来首相が亡くなって間がなく、遺体はまだ公然安置されてわれわれも対面した。人民大会堂では国会議長格の周氏夫人が我々を迎えた。主席は若い華国鋒だった。いたるところで高らかに国歌が放送されていた。北京だけでなく、北の大同ですらそうだった、南の杭州、紹興、蘇州、上海、みな同じで、紹興の秋槿烈士の碑の前では、一行の車に投石すらあった。我々は咄嗟に下車して碑前に黙祷し、車を進めることが出来た。

 

* その六年半後に、この『新中国人』の一人の著者が大同の土を初めて踏んで「中国」に接していたのだ、わたしは、わたしの初訪中後の中国史が読みたかったのである。幸いにも『文化大革命』を回顧し総括した実録ものをわたしは一冊だけ読んで、あらましを承知しているがその後のことは知らない。

 二十年後の訪中では、別の国へ来たかと思うほど中国はもう変容・変貌して見えた。

 驚くほど大冊だが、読み始めた印象では「中国」の中国人にとって問題点と、例えば我々日本人らにとって中国や中国人の何であるかという問題点とを、近未来向けにかなり適確に観察し予想しているように思う。しっかり読みたい。

 2008 2・11 77

 

 

* 夜中、とうどう『世界の歴史』を読み遂げた。

 『日本の歴史』第一巻にはじまって『世界の歴史』第十六巻まで合計四十二巻。小さい活字のそれぞれ五百頁以上あり、二万何千頁。

 読み終えて、ほんとうに面白かった、嬉しい。全頁に紅いペンを手にして臨んだ、斜め読みはしなかった。

 学校では、日本の十八世紀以降今日に至る近現代史は「必修」にして欲しいが、指導する人たちの精神に中正を求めるのが容易でない。世界史は、やはり近代に重きをおいて伝えて欲しい。「帝国主義」の邪悪を見つめて欲しい。

 2008 2・16 77

 

 

*  色川大吉さんから、先生提唱の造語として知られた「自分史」の纏め『わが六○年代 若者が主役だったころ』を頂戴した。この題だけで賛同する。

 わたしはあのころも社会運動の面ではまるで「主役」ではなかったけれど、時代は「若者」が前面に立ち、ことに老年は、聡明にその尻押しをしているときが健全だという考えに終始変わりない。「九条の会」のように老人達が顔を売って、遠巻きに若者が黙りこくっているというのでは、逞しいエネルギーは盛り上がらない。

 色川さんの「自分史」はこの前に『廃墟に立ちて』を頂戴している。わたしよりきっちり十年一世代の先達である。わたしは六○年に安保デモに参加し、そして父親になり、六二年夏からひっそりと独りして小説を書き始め、六九年に太宰賞作家として立った。わが六○年代が、たしかに在った。

 そろそろ三月初めの「憲法九条談話」の用意もしなければ。

 2008 2・17 77

 

 

 

* さて、憲法に関連した舌代を書いておかねばならない。シビアな書き物になりそうだ。世界史を読んで、わたしの憲法観はすこしキツクなったように思う。

 2008 2・21 77

 

 

* 『若者が主役だったころ わが60年代』を読んでいると、社会や世界や政治や藝術への共感や交響が、生真面目にストレートだったんだと思い当たる。

 色川大吉さんはわたしより一回り年上だから、学徒兵の体験があり、敗戦の思想的な生活的な浪を直接かぶっておられる。貧乏も、親の貧乏でなく自身の窮乏生活をされている。それにもかかわらず、かなりの近さで自分も受容できていたあれこれのあることに思い当たる。

 たとえば色川さんの挙げられる日本映画への感動や、やってきた京劇への傾倒と賛嘆なども、多少の時間の遅速はあれ、同じようにわたしも眼を輝かせたなあと思い出せる。

 わたしはむろん色川さんの何もしらずに、『日本の歴史』の近代の一冊からご縁をえたのだが、氏は若い頃新劇の演出にも脚本にも、それゆえにまた演技や演劇の論や鑑賞にも一家言があり、それらの生真面目で真っ直ぐな表現にも親しみを覚え、心を惹かれるのである。

 2008 2・22 77

 

 

* 声が届いてくる。

 

 ☆ チベットの叫び  2008年03月17日20:23   恭  e-OLD播磨

 長い間「mixi」に文章を書かなかった。が、チベットの暴動のニュースを聞き、今日は思い立って一市民わたしの感想を書く。

 地を低く這う唸りは 既に既に確かに聞こえていた

  10日 ラサ市内のデプン寺の僧侶のデモが始まった

  11日 同じくラサ セラ寺の僧侶のデモ 翌日はハンガーストライキに入った

  14日 同じくラサ ジョカン寺で抗議行動

    そして群集が市内の中国系銀行や商店を襲撃、暴動発生

  15日 中国政府は死者10名と言う

  16日 中国政府の発表はいぜん10名 亡命政府に依れば30名

  17日 午前のニュース 中国政府の言う死者は13名 

    夕方のニュース 中国政府16名 亡命政府は80名と

            四川省でも15名の死者という

 チベット自治政府代表は軍は一切兵器は使っていないと語っているが 日本人旅行者が撮った写真にはラサ繁華街北京公路を占拠する戦車、一軒一軒虱つぶしに家を捜索する警察や軍の映像 そして密告、摘発を奨励する通達 「あなたたちチベット人よ またこの地に根付いた中国人よ 当局に密告せよ 五族共和のこの中華人民共和国に何の恨みか! チャンパ・プンツォク自治区主席は言う 中国政府の対応は正当である 暴動、叛乱を起こす破壊分子は排除されなければならぬ、と。」

 北京オリンピックのマスコット人形の一つは、おお、チベット山羊だった。 

 それにしても各国は生ぬるい思惑ばかり 。

  オリンピックは開催されなければならぬ。 

  中国経済が失墜すれば さらに世界は震撼するぞ。

 日本政府も穏便な意見に終始する。  

 そして同じ仏教徒が弾圧されているのに 日本仏教会は何の対応か??

 チベット自治区に限らない。

 チベット族は既に分断されてきたのだ。  

 河西回廊蘭州から遥か南に連なり 四川・貴州の山々から西に幾筋も幾筋もうねり突き進むカム、アムドチャンタン高原の荒涼 カイラス抱くンガリの地 広大な大地チベット文化圏は軽んじられ、陵辱され・・

 亡命政府の活仏ダライラマ14世は語った。 

  文化的虐殺が行われています。

  我々は自治権の拡大を求めているのです。 

  独立ではありません 。

 

 叫びは 空高く 谷深く 届け。

 民族の誇り・自由 そして平和。 

 ひたひたと滲みわたり 燎原を渡ることを。

 

* この「mixi」の声に、自分は「当事者ではない」「胸の痛みに沈んでいるより、自分の『生』を全うしたい」という趣旨のコメントがくっついていた。わたしは共感しない。

 

 ☆ 紫式部や源頼朝や後醍醐天皇が「当事者でない」というなら分かりますが、たとえば今チベットの問題に「当事者でない」といっていられる日本の大人は、むしろ例外でしょう。それは、分かりやすくいえば、「中国」問題に「当事者でない」と云うているのと同じであり、今、どうして日本人が「当事者としての関心」を「中国」に対しもつことを嗤えるでしょう。それで、どうして「自分の生」を全うなどできるでしょう。

 近い将来に、日本列島が中国権力の快適な別荘地とされて、日本人がそれに奉仕するサーバントになるかも知れぬと仮におそれたとしても、今の中国覇権や支配の実情からして、まんざらの只の悪夢でもない。

 ギョウザの毒についての中国の態度一つにも、日本人はいま「当事者として」の関心をもっているし、それはさらに、その背後や彼方に広がる「対中国大問題」を、政治的にも経済的にも軍事的にも予感させているではありませんか。

 そもそも「自分の『生』を全うする」とは、いったいどういうことですか。

 われわれは、地球環境や主権在民や人類の基本的人権など、答えまた応えうるものには真摯に、地球大の視野をも持ちながら、応えまた答えねばなりません。チベットと中国についても、全く同じです。

 そしてまた、「生を全うする」といった「観念」が、何の足しにも成らない空論で終わりがちなことを、わたしはおそれます。

 「胸は痛むけれど」どうしようもないではないかとは、しばしば聞かれる、またつい自分でも云うている俗論です。そこで立ち止まって「ごめん」とあやまって、それでも「全う」できる「自分の生」って、在るんですか。

 失礼ですが、共感しかねます。 湖

 

* 延安に長征し抗日に結束していた頃の中国共産党は、客観的にみて、思想も実践も洞察にも優れていた。毛沢東も稀代の能力と誠意とで働いていた。『論持久戦』などの分析・判断・論に見せていた毛沢東の対日抗戦の精微ともいうべき情勢推移の読みなど、卓越していた。その頃の中国共産党は、がっちり底辺に到る「人民との合作」姿勢をくずさず、指導力も政治力もみごとだった。驚嘆に値した。世界史的な成果をあげていて、なによりもソ連主導のコミンテルンと一線を画して独自に歩んでいた。

 そういう初期共産党の成功と実力と、その後に三千万の餓死者をうむような大躍進の大失敗をふくめた共産党の内部矛盾や腐蝕の進行状態とを、乱暴に一重ねにしていては判断をあやまってしまう。

 

* 横手一彦さんのインタビューの中で、石堂清倫氏が伝えてくれている話題はことごとく傾聴に値し、瞠目にも値するが、わが敗戦前後のコミンテルンに一辺倒だった日本共産党への、中国共産党からの批判・批評の適切さに、わたしは驚愕した。

 日本共産党には戦中に有名な「転向」という現象がある。

 戦後日共に君臨し続けて最近亡くなった宮本賢治は、最後まで転向しなかった希有な一人であったが、二万三万もの主義者達は、獄中、官憲に転向を強いられ、殆どが転向してきた。

 戦後の日本共産党は、転向しなかった論理と実践者とを高く高く評価し、中軸に据えて存続してきたらしい。転向者の思想はむしろ蔑まれ、評価されず容認もされなかったらしい。戦場に闘って虜囚とならないという日本軍のモラルと、転向しなかったのを高いとみて転向者をわきへ押しのけた党運営とは、似ている。

 

* 中国にも、獄に囚われた共産主義者が、国民党勢力によりつまり「転向」を強いられる例が多々あり、それに対し、共産党中央は党議を建て、獄中転向をむしろ暗に勧奨し、有能な党員は獄から解放されて一時も早く党活動に復帰せよと指示してすらいたというのである。転向により思想的に差別などしないという党議の保証を与えていた。

 日本の共産党の転向に対する姿勢とは、まるでちがう。

 この場合中共の高度の政治判断には合理性すら感じ取れる。

 

* 日共は、ソ連のコミンテルン指導を絶対的に崇拝していた。そのコミンテルンの指導に従い、戦中戦後の日共が中心的な課題にしていたのは、則ち「天皇制廃止」であった。石堂氏らの眼には、じつに架空の目標としか映じなかったし、それがどんなに日本では困難で不可能なものか、それのために党の党たる誠実を賭して懸命であろうというのは、軍や政権の偏向より以上に、国民の支持からして殆ど得られないであろう非現実の闘争方針であった。

 中国共産党は、これを嗤っていた。批判していた。成らない目標をムリに掲げていると。その判断は我々にも納得が行く。コミンテルンのソ連は、そういう日本に混乱の種をまきちらすことで、関東軍の対ソ連への軍事行動を牽制したいという国家的エゴを持っていたが、日共はそれに利用されていたという批評すら出てきている。

 中国共産党は、日共の「天皇制廃止」等の放心に対し、「有理」「有利」「有節」の三面に於いて「過っている」と説いていた。毛沢東もこの「有理有利有節」を重んじていた。日本人の社会運動には往々、これが、全て欠けている。三者の根底で最も大きくモノを言うのは「大衆の目線」であると中共の論理では強調されるのだが、日本でのあらゆる社会的行動や活動や革命的激動に、最初から漏れるか急速に失せてゆくのが、この「大衆の目線」に即した要望で働くという姿勢だ。

 歴史をつぶさに読んでいって、いつも感じるものがあり、その巧みな説明が付けかねるのだったが、なるほど「有理」「有利」「有節」を起動させ、支配し支持する「大衆の意志と目線」が、頑強な分母として揺らいではならないのだなと、分かる。

 

* その意味から、皮肉に今の中国を、中国共産党を観ていると、「大衆の目線」という分母は壊滅してしまい、党の党利党略が大衆の政治的エネルギーを抑え込んでしまって、不自由至極な人権の抑圧を専らにしている。

 今のチベット問題も、むろん、そうだ。チベットが、チベットはわれわれの国だ、故郷だという声を、むろん聴く耳なしに中国はかつても強圧し、いままた強圧していて、指導者は以前も今回も「コキントウ主席」その人である。たいへんなことだ。

 中国共産党はもう「有理有利有節」のモラルをかなぐり捨てている。

 2008 3・17 78

 

 

* 「有理・有利・有節」という事に触れて、昨日の続きを此処に書いておく。

 石堂清倫氏は、あの戦争末期に中国の共産主義者と接触した際に、日本に帰ったら何をやるかと聞かれたという。

 石堂氏は答えて、日本では戦前期共産主義者の大半の者が、「君主制(天皇制)廃止」という党の最高スローガンを放擲し、戦争に参加した。何でそうなったかを党幹部と反省課題としても相談し合ってみようと思う、と。このスローガンは、コミンテルンの指導に出ていたと云うこと、日共はまともにこれを信奉したということ、を、昨日にも此処に触れておいた。

 石堂氏の思惑を聞いた中共側は言下に、それはつまらんことではないか、はなから出来っこないことを言うてみた、してみたが、やはり全然出来なかった、出来るはずのなかったスローガンじゃないか、と。そしてこう付け加えたという。

 日本人は『資本論』の研究なんかは優秀だけれども、政治は全く赤ん坊だと。

 中国の彼らはこう云った、自分たちは、政治スローガンを決定する場合に、一定の基準を持っていると。

 これを伝えている「わたし・秦」は、素早く此処で断っておくが、以下に云う中国共産党の「一定の基準」とは、決して二十一世紀の今日のそれを示すものでなく、日本の敗戦前・敗戦後の時期において示されていた大きな原則だということ。今日の中国共産党をも蔽っているとは、とても思われないこと。中国の共産党も共産主義も指導者の資質や思想は全然変貌変質している(であろう)ということ。

 混同してはならない。

 で、「当時」の中共の指導者らの、先ず真っ先に「有理」を説いて曰く、「例外的な少数の優秀な前衛の眼ではなしに、大衆自身の眼から、ことを決しなければならない。一定の政治的スローガンを考えるならば、まず大衆の目線でそれが道理に叶っているかどうか」を確認する、こみれが「有理」だと。

 「これだけでは不充分で、そのスローガンを採用することで、運動が拡大し、プラスになるか利益になるかを、前衛ではなしに大衆の目線に従う」、これが「有利」だと。

 「最も政治的なのは、仮に道理に叶って利益になる運動でも、実際には節度がある。どの程度までかを大衆自身に判断させる、これが、有節」だと。

 この三つの条件が実現した場合にのみ、政治的スローガンとして提出すべきだと、彼らは「一定の基準」なるものを、石堂氏に対し語った。

 なるほどこれに徴して云うならば、あの時代、あのころの日本の大衆に「天皇制廃止」などが、有理で有利で有節である何物をも持ち得ていなかったのは明瞭だった。そして獄中転向は、党議に背くものとして卑しめられながらも転向へ殆ど雪崩を打った。中共の政治センスからすれば、まさにノンセンスな政治スローガンの故に、戦中戦時下の日共は影も形も喪っていたのである。

 

* わたしは共産党にも共産主義にも全然縁もセンスも共感すらも持たない人間だが、たまたま横手一彦氏の研究書によって読みえた上のような対照的な「共産党」のありようの差異をたいへん面白いと感じた。

 と同時に、現在の中国共産党や共産主義は、とうていかかる大衆の目線に本筋を置いたような「有理・有利・有節」からは、萬里も隔たっていそうに実感せざるを得ないと、言わずにおれない。

 現在の中国がたとえばチベットに対してしていることは、かつてイギリスがインドその他に、フランスが東南アジアその他にしてきた「帝国主義」となんら異ならないと見えている。だから抵抗も起きていると思わざるをえない。

 そういうこと。それをわたしは云いたかった。

 2008 3・18 78

 

 

* 中国を「批判」ばかりするのではない、何といっても政治に大きな躓きもあったけれど、また中国というあの広大無辺の国家に、世界史的に稀な経済的進展を実現してきた政治力は、先進西欧側諸国とて顔色ないという事実を、過小評価は出来ないし、それをまた懼れるのである。

 なぜ懼れるかとなると、それら成果が「有理・有利・有節」に則って「人民大衆の目線」に基盤を置いて民主的に達成された成果だとは、とうてい言えないことを知っているからだ。中国には大衆の「有理・有利・有節」に即した民主憲法どころか憲法そのものが有名無実だし、基本的人権など、解放後の早い時点から、共産党の独裁と党利党略の前に弊履ほどの値打ちもなく蹂躙されてきたのは、世界の視線が憂えている、真っ赤なウソではない明白な事実なのだから、その点を批判非難されて胸を張って誤魔化すのは、やはり道義も情理もないゴマカシなのである。

 ただ、それを補って余りある経済の伸張だと評価している人民が大勢いる事実に、目を背けているわけに行かないところが、対中国の適切で適確な姿勢を見付ける上の難儀であり、慎重も要するところである。ウーン、難しい。

 

* しかしチベット問題では、たぶん数千、ないしは萬にも到るほどの逮捕者が出て秘密裏に残酷に処理される懼れがある。従来の例からして、ある。国外のジャーナリストの取材活動を徹底的に拒絶しているときはなおさらである。

 昨日わたしはペンの理事会を休んだが、この点に関してペンは抗議声明を適切に決めてくれただろうか。ぜひそう在らねばならないはずである。

 下のサイトの報じている「四川省ガバ県でのデモに対する武力行使結果の」惨状は、中国政府側の報告をむざんに裏切っていると、マイミク氏のお一人に教えられた。より広くに伝えたい。

  * http://www.tchrd.org./press/2008/pr20080318c.html

 2008 3・19 78

 

 

* チベットの教主ダライ・ラマが来日、ホンの短い時間に大切な言葉をのこしていった。真実の「自治権」を切望すると。

 

* 中国がチベットやウイグル地区にしていることは、いわば漢民族を大量に送り込んで、現地に根付いた「モノ・コト・ヒト」を根こそぎ強烈に枯らしてしまい、文化的にも政治的にも宗教的にも社会的にもまったくべつものの中国支配地にしてしまう、まさに侵略と支配を決定しようとしているのである。これが「帝国主義」だ。

 これは、主としてアメリカが推進してきた「グローバリゼーション」という名の世界画一化的制圧行為を、いっそう露骨に、人権の根底まで蝕む形で、強引に「チャイナイズ」してしまおうとしているということ。

 

* この「私語」を漏らし初めて、十年になる。十年前から、わたしは「中国」こそ「問題」だと言い続けてきた。日本にとってまさに問題の超大国であり、いまや経済大国の最たる右翼である。

 中国を「分かる」のは難しく、ことに日本の政府や、政治指導者、経済指導者らは、中国を、故意にと云いたいほど都合よく見錯りながら、錯誤に錯誤を重ねてただもう商売を考え諸問題の「先送り」に熱中してきた。少なくも此までは日本はあの広い中国で、最も稠密な商売網をひろげて成功してきた儲け上手であった。

 日本の文化人・知識人も、多く、また敗戦後久しく、中国のご接待・熱烈歓迎に媚び続けている。中国の日本と日本人に対する敵意や軽蔑の深さから目をそらして、「自分」だけは別だと甘えたフリをしつづけ、老朋友ぶりを演じているが、中国の指導者や国民のある種の徹底した現実主義は、日本の偽善的なお人好しブリをむしろあからさまに嘲笑し軽蔑して止まないのが実情であることを、よその世界人の方が冷ややかに見定めて高みの見物をしているのである。

 

* 今、中国の実力からすれば、聖火リレーの混乱ぐらいにひるみはしない。それどころか、ガンとして覇権に執着して路線の変更などしないだろう。怖い他国は、もう無いのだ、中国には。

 ヨーロッパは、せいぜい首脳の開会式ボイコット程度しかできないだろう。かつてソ連のオリンピックをボイコットしたようなよくも悪しくもガッツは、日和見日本はもとより、何処の国にも無いことは、やがてハッキリする。フランスなど、勇ましげであっても、存外裏で台湾との商取引をチャッカリ進めているのかもしれない、その派手な前歴のある国だ。

 

* ダライ・ラマが血を吐くほどに求めても、他民族地域の真の「自治」など、中国は絶対ゆるすまい。ダライ・ラマは明らかに「独立」という二字を避けて通っているのだが、「自治」は独立の意欲の裏打ちが無ければ果たせまい。世界の輿論を興すことはなかなか難しいはずだ、「独立」への真の気概と切望がなければ。

 だが、独立にしても自治にしても、第三次か四次かの世界戦争抜きには、所詮不可能なのではないか。そしてそういう事態になれば、日本の運命もまた、チベットの現況に歴史的に近づくことになる。アメリカは日本をけっして助けてなどくれない。アジアのことはアジアでやってくれと、太平洋のかなたへさっさと退くのがオチだ。

 それほどに中国は力をもう備えている。その現実を直視して、日本は日本の長期展望の根本の「自治」を講じなくてはなるまいに、何なんだ、あの党首討論での自民党総裁のヒステリックな無意味な「泣き言」は。

 日本国民の、日本国民による、日本国民のためのステーツマンシップは、滴も、いまの政治に認められない。少なくも一日も早く日本国民の直近の民意をさぐって、政策のある総選挙へ踏み切って欲しい。

 

* 明日、読み直す。絆創膏で目の上を吊っていない今、目は、霞に霞んでいて読み返せない。

 2008 4・10 79

 

 

* 久しい哲学の歴史があり、一つの結節、大きな「理性」の結節がカントの手で結ばれた。「弁証法」のヘーゲルがすぐあらわれ、要するにカントまでの、「世界と人間の理解に、普遍的で一定の前提をもちたがる」考えは、遂げ得られないだろうことを宣告した。世界理解は歴史的に変動するのが当然だと喝破した。

 ヘーゲル哲学に低頭する思いのあるのは、要するに弁証法のわかりやすさであり、歴史がその基盤にあるという理解の示唆的なところ。歴史を大切に感じてきたわたしの根の思いは、ヘーゲルに刺激されている。

 

* ヘーゲルが、世界は広大な「斜面」であると表現していたことにも、わたしは感化されてきた。人は、娑婆という斜面を、登ったり降ったりして暮らしている。ときには座り込んでいる。「斜面」とは階段のイメージに近い。上と下とのセンスが、階段や斜面の基底にある。社会的な階層を思うのも早わかりだが、むしろ人間の個々の欲深さが世界を斜面や階段に「傾け」てきたのだ。

 早稲田の文藝科で小説の創作ゼミを二年間アルバイトしていたとき、ある学生が「スワリンボくん」という人物を小説に書いた。階段があれば中途に座り込んでしまう青年を創り出し、わたしはその思索の底をかきさぐって、何度も発言し表現したことがあった。

 人はふつう斜面や階段をよぎなく上下しうろうろしているものだが、座り込むという態度もある。存外に賢者であるのか、とほうもない愚者であるのか。それはわたしが決めつけることではない。

 わたしが「哲学する」ことには心を寄せながら、「哲学・学」という哲学屋の攪拌業に冷たいのは、侮蔑的なのは、かれらが「歴史」をまるで停止した死機械のように分解しているに過ぎないからだ。

 

* ジャン・ジャック・ルソーは『エミール』の中の早い段階でこう云っている、

 「自分の意志どおりにことを行なうことができるのは、なにかするのに自分の手に他人の手をつぎたす必要のない人だけだ。そこで、あらゆるよいもののなかで、いちばんよいものは権力ではなく、自由であるということになる。ほんとうに自由な人間は自分ができることだけを欲し、自分の気に入ったことをする。これがわたしの根本的な格率だ。」(今野一雄訳)

 大事なところを言い切っている、が、かすかに思うのは、ルソーのこの思想を支える分母社会はかなり狭い、小さいようだという歴史的な限界である。

 純然の理だけでいうと、みごとな気概である。

 しかし彼はあまり優れた社会人ではなかった。社会と(自由な)自分との経験的な対話は乏しかったように感じられる。純粋培養された「理」が立派に語られる。

 「社会は人間をいっそう無力なものにした。社会は自分の力にたいする人間の権利を奪いさるばかりではなく、なによりも、人間にとってその力を不十分なものにするからだ。」

 この指摘にわたしは経験的にも思索的にも共感を惜しまない。が、人間達の「今・此処」の苦渋は、そういう評論だけして立ちすくんでいられるものでない。

 ルソーより以降の世界史は、人類史は、社会の毒がじつは自分自身からもにじみ出ている辛い自覚や反省を強いられてきた。

 ルソーには「自分が社会」でもあるという生活的自覚より、純理的「思索の精微」へ退避する傾向はなかっただろうか。

 2008 4・13 79

 

 

* 新刊『酒が好き 花が好き』の跋文「私語の刻」を、此処に置く。「身の要」をもとめて書いた文章ではない、「老境の自由」として書いた。

 

* 私語の刻     

 

賀正  平成二十年歳旦  述懐

 

  しやつとしたこそ  人は好けれ    閑吟集

 

  春ひとり槍投げて槍に歩み寄る   能村登四郎

 

  我は我と言ふことやめよ 奴凧    湖  

 

        平和を願い 皆様のお幸せを願います。  秦 恒平

 

述懐    (平成二十年二月一日)

 

 白きうさぎ雪の山より出でて来て殺されたれば眼を開き居り  斎藤史

 

 手で顔を撫づれば鼻の冷たさよ   高浜虚子

 

 寒ければ寒いと言って 立ち向ふ  湖

 

述懐   (平成二十年三月一日)

 

 弔葬を喜(この)まざるに、人道は此を以て重しと為し、すでに中傷せられんとす。

 心を降して俗に順はんと欲すれば、則ち故(=自己本来の心)に詭(たが)ひて情(=自然)あらず。

 堪へざる也。    嵆康

 

 よく晴れし冬の日窓をおし開き鼻の先よりまずあたたむる         山崎方代

 

 底ごもる何の惟(おも)ひに野の霜のかがやきにゐてもの恋ふるらむ  湖

 

 ホームページの「生活と意見 闇に言い置く私語の刻」の月替わり冒頭に、こんな「述懐」を置いている。先達の言も吾が「思い」として拝借・述懐している。

 此の巻は、しばらくぶり、のびのびと心やりたく、好きな「酒」と「花」とに、春を言祝いでもらった。少年このかた嗜好と体験に同伴したのは「茶と酒」であったし、長じて思索と思想を先導した処女評論は、『花と風』(筑摩書房刊 湖の本エッセイ②)であった。

 すべてさて措いて、この近日、思いを占めてくるべつの「花」の話題にふれてみようか。もう記憶した人も少ないアメリカの女性詩人・小説家ガートルード・スタイン(一八七四~一九四六)、「ロスト・ジェネレーション」の名付け親であった優れた思想家でもあった人に、

 「薔薇は薔薇であり薔薇である」

というフレーズがあった。

 リアリティ(あるがままの真実)を問えば、則ち、こうなる。他に言うべき何もなく、日々に無数の言葉を用いていればこそ、スタインのこの透過・透関にわたしは頷く。哲学屋や宗教屋や理屈屋は言うにちがいない、それは言葉の反復にすぎないと。「言われ得ない」ものの在るを、知らず認めえないで、ただただ「言われ得ない」ことをあれこれ言い散らす人たちがいるが、そういうことが究極何の足しにもならないと自他に廣く分からせるのが、じつは「哲学」最後の目的なのだと、二十世紀最大の哲学者のひとりヴィトゲンシュタインは吐露している。間違いないであろう。際限ない議論、際限ない哲学。出てくるものは、似たり寄たりの繰り返しで、所詮「薔薇は薔薇であり薔薇である」を超えない。

 「生きるとはどういうことか」を「問え・問え」と、よくテレビで説法している有名なセンセイ方がいる。「生きるは生きるであり生きるである。」これ以上のことは、誰にも言い得ない。言い得ないことを言え言えと強いる人に、もし同じことを問い返しても、何の足しにも成らない難渋の観念をとくとくと繰返すのであろう。人生の、「邪魔」という魔である。

 だが、応えうることには、また答えねばならぬことには、根限り応え・答えて成さねばならぬ、大切なことだ。ただ、とうてい答え得ない問題には、ブッダもイエスも何一つ答えようとしていない。まして問いかけたりしない。「薔薇は薔薇であり薔薇である」。

 だが、なぜ反戦か、反核か、なぜ憲法の前文や九条を守るか、なぜ列強の帝国主義を憎むかには、答えられる。応えねばならぬ。

 日本の憲法はすばらしいか。すばらしい。ではイギリスの憲法は。アメリカの憲法は。あのワイマールの憲法は。みな、立派な憲法である。日本の憲法も立派だから、立派なまま、われわれはその前文や九条を変えたくないというのか。そやろか。違うのと違うやろか。

 

 世界史上、だれもが称賛してきた、憲章や憲法や国際的な宣言が、幾つも在る。例えば、誰もが、あの「議会国家」として誇らしい歴史を持った英国を、真っ先に思い出す。絶対王政という政治体制を拒絶し続けて、あの「大憲章=マグナカルタ」などを実現したイギリス国民の、苦心惨憺・苦闘と主張の全経過を幸いにも我々は知っている。しかし憲法のハナシは、そう簡単なもんじゃない。

 アメリカの独立、そして独立宣言という「根っこ」から立上がった「合衆国憲法」も、また理想的な叡智の叫びだった。じつに元気いっぱいの気分で、アメリカ「建国の理想」と、エネルギーの真剣さに感歎する。原則を押し建て、「修正」という名の追加条文を適切に継ぎ足して行く。感歎、また感嘆。

 ワシントン大統領といい、ジェファソンといい、フランクリンといい、またアンドルー・ジャクソンといい、またリンカーンといい、初期の大統領や指導者が、率先して憲法を信愛し、深い敬意を払って、真剣に遵守した。これが印象に残った。称賛に値した。日本とは大違いだ。そうはいえども、アメリカのその後の歴史も長く、容易でなく、そしてあのブッシュに至っている。米国にも決して尊敬できない昨日があり今日があった。

 「フランスの憲法」は、どうか。フランス革命は、激動と混乱との推移の内に、ルイ王朝の絶対王政を倒し、革命期の恐怖政体と帝王ナポレオンの強烈な覇権王朝と、反動的なブルジョワ国家への、めまぐるしい転進、また変貌を経た。革命当初の、三色の理想に彩られた憲法は、繰り返し改悪され、変質し、理想は、欲深きブルジョアたちの手で蹂躙されてきた。そのフランスが、あのイギリスと、競いに競って帝国主義の牙を強欲に磨き続け、弱小の後身国を蚕食しつづけた史実は、誰も否定できない。

 では好評嘖々のワイマール憲法は、どういう状況下で、どんな政体と国民とにより「國の憲法」として奉じられてきたか。あのヒットラーが、ベルリンで最期を迎えた日の、あの第三帝国の憲法が、なお、あの、いわゆるワイマール憲法の末流であったという無惨な事実を、我々は忘れることが出来ない。

 それだけではない。ヒットラーが夫人とともに自殺した正に最期のベルリンの、最期の第三帝国国民の、意外なほど大勢が、なお、ヒットラーを支持し、彼が、益々「強いドイツ」を推進し拡大し、威厳を世界に輝かしてくれると期待していた驚くべき事実がある。実に実に驚かされる。歴史的にも最も優れた「民主・平和と人権」の憲法を持していた事実と、あのヒットラーに寄せていた国民の「信頼」という事実とは、いったい「何」を意味していたのであろう。

 ワイマール憲法は、どう生まれたか。第一次大戦でドイツを降伏させた戦勝国、ことに英仏米三国にロシアを加えた主導大国のほとんど脅迫によって「ベルサイユ条約」が調印され、引出物かのように「民主共和憲法」つまり「ワイマール憲法」は発効した。この憲法は、人民の主権と政治的自由を強調する、世界で最も自由な憲法であり、経済上でも「経営評議会」を認めて、経営に対する労働者代表の参加権を、正式に許可していた。経営上に、労働者の権利を認めたことは、「産業における民主主義」として、その先駆的意義は画期的だった。

 しかしながら、このお飾り憲法の下でのドイツのナチ化、ファシズム化、警察国家化は、何の会釈も斟酌もなしに、ベルリン陥落からヒットラー最期まで、「同時に併存」していた。「憲法」の理想など、ほとんど一顧だにされてなかった。たとえ、ワイマール憲法に、日本国憲法の前文が、また九条の戦争放棄が書き込まれていたにしても、間違いなく、弊履の如く顧みられなかっただろう、それが、ヒットラー前後のドイツの歴史だった。日本もまた、今、同じ道を歩んではいないか、どうか。

 さて、イギリスとフランス、やがてアメリカも同様だが、彼らの國の憲法が、「理想」において、「国内」運用においていかに素晴らしかろうとも、「国際的」には憲法など何処吹く風と、「無道の侵略」を恣にした世界史的事実は、誰も見過ごすことは出来ない。彼らのいわゆる「帝国主義」の傍若無人、他国の領土や国民に対する侵略・人権や財産の無視は凄まじく、しかも彼らの憲法または民主的な革命精神は、その国家的エゴイズム・帝国主義の抑止には、まるで無力・無効果であった。

 アフリカ諸国への、スエズ周辺国への、バルカン諸国への、インドへの、中国への、南海諸島への、英仏米の「帝国主義」の侵略は、大航海時代のイスパニアやポルトガルなどのそれに何倍も何十倍もする悪意と傲慢に充ち満ちていた。「帝国主義」という資本主義に発する概念・言葉を、その國が王室や皇室をもった帝国であるという意味に誤解してはならない。

 かつて英仏という國は、弱小国とみると、まずは「経済援助」や「武力による保護」の名目で、つまり金や武器・兵隊を貸し与え、見返りに、港や、河川の沿岸都市や、交通の要衝に、貿易や武力展開の拠点を要求し、その権益を強引に拡大させながら,遂にはその國の政権を骨抜きにし、いつのまにか占拠し、保護国や植民地にしてしまった。狡猾で強引で強欲なその支配拡大と強化を、即ち「帝国主義」と謂うてきた。そうした暴君的な領土と勢力の拡大政策にかけては、第一次世界戦争を過ぎて、第二次大戦の勃発に至るまで、殊に英国とフランスとの地球上での我が物顔は、途方もないものであった。その、蔽いようのない地球全体にわたる強欲と非道ぶりについては、歴史を顧みれば、容易に、嫌ほどの実例が見いだせるが、彼らの祖国の憲法は、憲章は、甚だ紳士的で民主主義的で、まず、ご立派なというしかない。そしてアメリカもこれへ、第一次世界戦争後のベルサイユ条約体制に乗じて、圧倒的な経済の優勢を力に、割り込んだ。やがて英仏もドイツをも圧倒していった。

 いま「憲法」と、米帝国主義との関係で言おうなら、中南米諸国、いわゆるラテンアメリカ諸国の憲法は、どこもかしこも、アメリカの独立宣言やフランスの革命憲法から、美しい理想の限りを引き抜いてきて作りあげた、世界でも、最も進歩した内容の憲法であると認められている。労働立法も、社会保障立法も備わっている。そのラテンアメリカ諸国が、国運をかけて歴史上に証明してみせたのは、「優れた条文の憲法」を持つことと、「優れた理想の政治」を持つこととは、全く「別ごと」であるという不幸で無惨な現実であった。その云うも憚られるさんざんの政情不安の背景には、アメリカの「帝国主義的な圧力」がつねに働き、しかもそれが各国の民主主義的な動きや希望を抑圧し、云いなりの政権を、経済的・武力的にアメリカが援助していた例が、殆どであると言うにおいては、何をかいわんや。

 ではさて「日本の憲法」に想い及んで、いったい何をどう考えればよいか。

 だから「九条」が大切、「前文」はもっと大切。微塵異存はない。頑張らねばならない。

 しかしながら、憲法改訂に反対して、ただ憲法条文の現状存置をはかろうというだけでは、冷えた「抱き柱」に、ただ抱きついていることになっている。すばらしい憲法をただ持っていても、悪しき政府や政権は平気で憲法とは逆様の党利党略へ國の運命を誘ってゆく。わるいお手本はいたるところ強国・大国の足跡として歴史を汚し続けてきた。

 総理大臣に、都知事に、大臣に、代議士に、われわれの憲法をしっかり守らせるぞ、護らないなら、公僕の地位は決して与えないという、もっと勝ち身に出た攻撃の運動が燃え上がらねばならぬ筈だが、だが、いま、たとえば国会を取り巻き、国会や政府をゆさぶるほどの国民の政治エネルギーが、何処に有るか。農民はやっとやっと参議院に「捻れ」国会を呼び起こしたが、三分の一以上の非正規社員を平然と見下し、日本のサラリーマンたちはいったい自分たちの國をどこへ道連れにする気か。

  例えば、一つわたしに提案が有る。あらゆる「立法」の際の「無条件・当然の前提」として、どの法律の名称・名前にも、むろん憲法にも、率先して、すべてに、こういう角書きを悉く付けるべし、と。「国民の、国民による、国民のための」と。「国民の、国民による、国民のための・日本国憲法」「国民の、国民による、国民のための・個人情報保護法」などと。

 そして一々の法律が、この不動の前提である「民主主義」「主権在民」そのものの「国民の、国民による、国民のための」という「意義」に適合していなければ、我々はそれを、「法」「法律」「規則」として、断乎認めないのだという、大きな強いコンセンサスを固め、絶えず、国会にも、内閣にも、裁判所にも、遵守させねばいけないのである。反対する似而非の僕輩は、必ず選挙で落選させ、厳しく淘汰しなければいけないのである。「九条を守る」といった「抱き柱」に抱きついて安心を得ようと云うだけの運動は、弱いなあと、わたしは感じている。

 その「弱さ」の象徴でもあるかと思うのが、そもそも「九条の会」設立に、見映えのしない「顔」写真をならべた、何人かの「老人」たちのあの、顔、顔、顔。時代の主役も先導も「若者」であって欲しいのに。老人達は、それをうしろから支える役であって欲しいのに。

 ちょうど今、底辺史学者といわれ、秩父困民党など、自由民権運動の克明な研究その他で日本の歴史学に新分野を拓いた色川大吉さんにの文字通り、『若者が主役だったころ わが六○年代』と題された「自分史」を、わたしは熱い気持ちで読んでいる。若者は、歴史を顧みても行き過ぎやマズイ面も露呈はしながら、それでも、やはり若者こそが声を上げ、身を働かせて「民主主義」「主権在民」を動かす時代がまた来て欲しい、さもないて二十一世紀日本は、ただ強権と支配との時代反動の坂を転げ落ちてゆくのではないか。そうしたくない、と、なにより、いま、わたしは願っている。

 2008 4・19 79

 

 

* オリンピックの聖火リレーは、「中止」すべきなのである。オリンピック委員会がこの無意味な世界的騒動を座視してきた無見識に、わたしは愕く。日本は、キッパリと、こんなバカげた事態に対する見識として聖火リレー中止を決めてよかった。無意味で、本来の趣意からあまりに懸隔している。なんらの意義もない浪費に陥っている。

 オリンピックなるものが、そもそもの成立から断然政治的な意図的所産であったこと、それがスポーツ平和の祭典などと神聖化されすぎてきたしっぺい返しが起きている。

 

* この際に、日本国民が心して省みるべき、一つの「秘められた悪意」に気づくべきだろう。

 「3S政策」である。

 セックスの容認・開放、スポーツの慫慂・振興、ショウ・スクリーンの放任・開放。

 もともとアメリカで企図されたせいさくだが、日本の敗戦後政治ではっきり意図してこの軟化政策がとられたのは、もはや秘密でも何でもなく、これぐらい成功した占領政策はなかったし、日本政府もそれをまんまと引き継いできた。これらゆえに日本がどれほど変容し変形してきたかは、少し落ち着いて眺め直せば誰にも直ちに明らかに思い知られるだろう。セックス、スポーツ、ショウ。絶妙の魔薬であった。

 この三つの政策には、われわれが理屈抜きに大いに歓迎できるメリットがあった。否定できないことであった。

 セックスの開放は、その陰険な抑圧に比べて、明らかにわるいことではなかった。だが、人間の秘めていた欲求から意図的に施錠が全くはずた結果の、精神的・生理的影響の深さ大きさもまた計り知れなかった。抑制の利かない犯罪の現代をも、たしかに、招来し実現した。民衆のもっていた政治的エネルギーを不能化するちからとさえなってしまった。

 

* スポーツに関係して、わたしには象徴的に思い出せる一事がある。国民的な英雄の一人かのようなプロ野球の長嶋茂雄選手が、ある選挙で社会党が大躍進したときであったか、「社会党が勝てばプロ野球はできなくなるのでしょうか」といった趣旨を大まじめに発言したとマスコミ報道された。「3S政策」の秘めた政治意図の中心である「愚民化」が、こうハッキリ現れてきたのにわたしは驚愕し、寒心した。

 いま、「スポーツ」とさえいえば、水戸黄門の「この紋所が目に入らぬか」式に、ウムをいわさぬ善と力の象徴のようにされているが、それでホントウに好いのだろうか。

 わたしは以前にも言った、超一流のスポーツ選手に優れた政治感覚も私民センスもあって欲しい、そしてなにか晴れの場面で、たとえばマラソンで優勝のインタビューとか、たとえ一言で好いから、「環境」について、「人権」について、「憲法」について発言してくれたなら、莫大な費用を節約しながら、大きな関心を呼び起こし、ことに若い仲間達に問題意識が喚起できるだろうにと。イチローくん、谷亮子さん、浅田真央ちゃん、マラソンのキューちゃん、卓球の愛ちゃん、相撲の高見盛関等々。彼らが市民的見識をも発揮してその影響力を、かれら本来のスポーツの場からじかに発信し発言してくれたらいいのに、と。但し長嶋茂雄的な間抜けたはなしでは困るのだが。

 

* おなじことは、ショウやスクリーンの世界でもいえる。演劇の世界には、優れた思想家達が多かったが、今はどうか。少し寂しい気がする。

 国会に陣笠の一人になり数だけに数えられる愚な存在にならないで欲しい。自分の力のいちばん発揮できる場から一人間として発言して欲しいのだ。

 聖火リレーに関しても、大の大人の星野仙一監督などには、もう一歩踏み込んで、こんな愚かしい茶番はスポーツの精神に大きく逸れすぎている、と発言して欲しかった。よしましょうよとまで発言して欲しかったとは云わぬが、オリンピックにさえ出ればいいと云う現代世界ではないという自覚が見受けられない。

 善光寺の意思表示は評価できる。市民が危ながって店の戸も閉めるような「聖火祭典」の無意味さは、むちゃくちゃ、ではないか。

 2008 4・25 79

 

 

* 天長節といい天皇誕生日といい、いまは「昭和の日」とやら謂う。いまの皇室にも確執らしきがあるという新聞種や週刊誌種に接すると、ああそうかなあ、やはり人の世のうちなんだと納得する。

 先日、いっしょに仁左、勘三、玉三のいい『勧進帳』をみたあとで、妻が、あの勇将義経にして安宅の関ほど心細げになるのねえと慨嘆していたが、平家物語から源平盛衰記にそして義経記に変容するにつれて「義経矮小化」は蔽いがたくなって行く。

 いまの皇室を観たり扱ったりのセンスにも或る意味凡常化はすすんでいるのだろう、たぶん当然の成り行きなのであろうと思われる。三島由紀夫の割腹などにはそれへの苛立ちや嘆息があったと思う。

 凡常化は、だが、自然に穏和に促進されていっていいと思う。醜悪にはならぬ程度、ま、新聞テレビや週刊誌の報道に記事になりながら「世の常」になじんで、へんなけじめの抜けて行くのが日本史の行方であるなら、受け容れたい。

 なかなかそうはいかないかも知れぬ火種は、小さな炎をもう溜めているとも眺められる。確執の程度から皇位継承の騒動にならないことを日本国のために願うが、いずれそれは数十年さきのはなし。日本の自然環境も政治環境も機械環境も、そのうちには別途の騒動をおこすにちがいない。皇室の無常で平淡な矮小化は、そのかげでホントウにホントウに最も好い意味で平和に進んでいてくれるといい。

 2008 4・29 79

 

 

* カントで大纏めにし、ヘーゲルで近代への新たな足場が築かれ、キルケゴールからサルトルにいたって、現代への新しい哲学が、「実存」という自覚を得てきた。二十世紀は、久しくも久しい哲学史の全容が、おもちゃ箱をひっくり返したように、またもう一度品揃えして見本市をひらいた時代。世界の多様化に応じたか。お好きなのを選びなさいというようなもの。仏教で、持仏・持経を好きに選んであがめ、あが仏尊しでやってゆく、そんなようなことに、哲学も、ならばなれという二十世紀であったが、その賑やかな「哲学・学」の店晒しを経て、やはりわたしに懐かしく親身に思われるのは、少年の日に出会ったサルトル、カミュ、ボーヴォワールらの「実存と自由と不条理」。

 それらを大事に感じながらの、「禅」ないしバグワン・シュリ・ラジニーシの「無心」を。

 

* まがりなりに「世界史」を、知識のためにでなく、理解のために通読した。「科学史」をつぶさに通読した。そして「哲学史」を見続けてきた。ありがたいことにわたしは「藝術史」を自身のために早くに学んできた。

 人が人として人生という土俵に上がったとき、生きてゆくとき、政治社会、自然科学、哲学、そして藝術という四本柱は、「目付柱」として基本・基準の必須であった。抱きつく柱ではない、あくまでも目付けの柱。

 その四本柱も、いま大相撲本場所の土俵上には無いように、「無くてすむ」のが理想である。「要らなくてすむ」のが理想である。必須の有を殺(せっ)した、無。そういう老境に入ってゆく。

 2008 5・3 80

 

 

* ほんとうにすばらしい何かに出逢いたいと思う。現実の日々の中で出逢いたい。書物の中ですぐれた価値に出逢うことは出来る。新しいのにも昔のにも。逢ってなつかしいと思う人も、すくないながら無くはない。そんなのではない、新聞やテレビの日々を伝える報道や現実の影像の中でいいものに出逢いたいが、もともと報道されるのは異様なものが主になる。世情安穏で変哲もないとき、いちばん困惑するのは歴史を記述する歴史家だろう。異様で異常で人の心を騒がせることだから報道され、記述される。そうとは識っていて、それでも心和んで励まされることに出逢いたいと焦れてしまうのは、よくよく異様なことばかりが多いのだ。

 2008 5・8 80

 

 

* 黒澤明の昭和二十二年頃、わたしの小学校六年生頃の映画、原節子の『わが青春に悔いなし』を、うち震えそうな感動で観た。戦前京都大学の滝川教授事件に取材した久板栄二郎の脚本で、主人公は、まさしく戦争の「時代」だ。

 上等の脚本とは思わないのだが、原節子の変貌・変容をつらぬく悔いなき青春の、戦い抜く生気・生彩。それを引き出した藤田進演じる非合法の戦士。それを方向付けたのは弾劾されて京大を退いた自由主義の、父・元教授だった、「自由のためには犠牲に堪え責任を持て」と彼は娘に訓えていた。対照的に、時流に迎合していった河野秋武演じる検事の卑屈で妥協的な人格。

 滝川事件をはじめ、昭和のはじめ大学の自治と自由ははげしく弾圧され、気骨ある教授の多くが放校され隠忍した。そのことに胸も震えて怒りながら、わたしは、日本史を読んできた。滝川事件のことははやくに学んでいた。

 

* 敗戦、教壇への復帰。闘って死んでいった自由の闘士。あとをついで、第二第三第四の後輩は、ほんとうに、現れたか。

 現れたともいえるし、大概は映画で河野の演じたような、如才ない世渡り男たちばかりが世間にはびこっての「今日」だ、とも謂える。情けない。

 政見の違いはいい、思想の違いもいい、むろんマイホーム大事もいい、豊かな生活を望むのも好い。が、我も人もの「基本的人権」を守り抜く気概、卑屈にでなく幸福に生きられる自由への譲らぬ気概、それを喪って、ながいものに巻かれながら自分だけは少しでもいい目を見ようなどという者ばかりがはびこっては叶わない。

 いまは農民の日々に根を下ろした原節子、かつては大学教授の教養豊かな娘の原節子、のちには非合法の罪に自身も下獄し夫は殺された原節子は、ヤニさがって訪れた夫の友人河野の墓参を凛とはねつける。はねつけるだけの人生が、リアルにもイデアールにも映画に表現されていて、映画は渾身の力で河野の演じている男どもへの、侮蔑と警戒とを表現していた。原節子の美しい「顔」が示した、凄いほどの、怒りと非難・軽蔑。

 この怒りと非難・軽蔑にしか値しないような今日、政治の現実、企業社会大半の現実等を思わざるを得ない悔しさが、わたしをうち震えさせたのである、映画の間も、済んでからも。

 

* 冷静にわたしは思う、こう怒り続けるわたしは、たぶん病気なんだろう、正常ではないんだろうと。ハハハ

 2008 5・10 80

 

 

* 「あの疫病、飢饉、地震、戦争の時代に日本の平等思想が醸成されたということ、不思議でなりません。どうお考えでしょうか。」

 

* わたしには「当然」に思われるが。下降史観を強いられ続けた日本で、それが極限へ来れば、恨みがち、歎きがちに切望されるのは「なぜ平等ではないのか」という呻きに裏打ちされた革命志向になる。しかし政治的に革命のエネルギーを持たない日本の人たちには、信仰という「抱き柱」は、それしかない幻想として魅惑の吸引力をもった。安定して幸福な人は、平等など意識もしないで我が世を謳歌するのが人の世の「常」なのでは。「無常」の思いは多くの場合極度の不幸の自覚にひきがねを引かれてきたように思う。

 2008 5・12 80

 

 

 

* 色川さんの自分史『廃墟に立つ』は、おもしろい。同時に青春の意義が、この敗戦直後の頃と、例の「六十年代」を経ての昨今とを見比べて、おそろしいほど様相を変えてしまっている「事実」に、殴り倒されるほど痛い感慨を持たずにおれない。

 「学生」という世代が、色川さんたちの時代は、それはひいてはわたしたちの時代ともまだ言いうるのであるが、いかに精神的にも行動の原点的な力としても機能していたか。

 天皇制の残存という占領軍の政策に見合って、どれほどの代償を日本がアメリカに貢いだか、と、それを顧みるだけでも、あのころの日本人の一人一人が「時代と日本の運命」とに関わっていた。まだ小学生であった、新制中学生になったばかりのわたしでさえ、関わっていたのだと実感する。

 天皇の戦争責任を問わないという占領軍の決定を、たぶん当時日本人の八割九割はよろこんだと思われる、幼かったが国史好きなわたしも、ほおっと安堵の息をはいた実感のある記憶をもっている。しかしその安堵を「質」に取られて、どれほどの貢ぎを日本国民は世界に、いや当面はアメリカに対し支払ったかを想うと、フクザツ過ぎる苦みに今なおタジログのである。

 2008 6・10 81

 

 

* 「法を以て理を破るも、理を以て法を破らざれ」と初めて読んだとき、仰天した。

 「いかなる人間の情理も法の力で押し破ってかまわない、いかに人間の情理があろうとも法を破ることはゆるさぬ。」これが、「禁中並公家諸法度」などを京都に強要した江戸幕府の鉄則だった。家康の言ったことだが、「秀忠の時代」に、これが冷酷なまで貫徹されて、後水尾上皇は切歯扼腕、いかんともしがたかった。

 だが、なんという凄い、そう、物凄い暴力だろう。法治国家なら当たり前などと思っている出来損なったのが賢いつもりでいるから、此の世は住み辛くなるばかり。

 2008 6・29 81

 

 

* 夕食後に、妻とすばやく池袋に出、「さくらや」で、破損してしまったマウスを二つ買ってきた。妻のマウスを借りて仕事をしていた。用事のあと、となりの服部珈琲舎で美味いコーヒーを楽しみ、帰りの電車では別々に坐ってわたしは相変わらず『伊藤整氏の生活と意見』を読んだ。

 珈琲舎で妻は、「服部」をどうして「はっとり」と読むんでしょうと聞いた。「服部」は、「はとり・べ」のこと、律令制以来の職掌由来だよと答えた。「はとり」は「機織り」からと書いた辞書が多いだろうが、絹布を糸にといてゆくのを「はつる」「はつり」と謂ったのとも関わるだろう。

 2008 7・20 82

 

 

* 静かな心のために 六  秦 恒平

 

  座禅の坐が「静坐」なのはあたりまえだが、じつは座禅の「禅」が、まさに「静」の意味であった。ディヤーナ。「禅那」と訳された。寂静、静寂。

 座禅は静かな境地にまず没入する。

 天台の『摩訶止観』もまず寂静を説いて開巻している。その境地を慕い、例えば藤原定家は法名に「寂静」を得ている。寂もしずか、静もしずか。まず坐して静寂になろうとするのが座禅であると説明しても、大きなあやまりは無い。

 まえに名をあげた荀子は、「耳目の欲を闢(さ)け、蚊虻(ぶんぼう)の声を遠ざけ、閑居し静思すれば則ち通ず」と、やはり「解蔽篇」の中で言うている。

 問題は、どこへ、または何に「通」じるのか。「通」じるとはどういうことか。ものごとがうまく行くことか、それともよく聞く「悟り」にでも至ると謂うのか。

 後漢の名士陳太丘は世事に退蔵し、つまり世間の栄誉を拒み避け、ただ「四門に礼を備へて閑心静居」した、つまり賢良の人の訪れは歓迎しつつ閑静の日々を過ごしたといわれる。五柳先生こと晋の詩人陶淵明また、「閑靖にして言少なく」栄利を慕わずに世を避けて暮らした。

 こういう隠棲閑居の日々に可能であることが、「則ち通ず」の意味なのか。

 荘子は「それ虚静恬淡、寂寞無為は、天地の平なり、道徳の至なり」と説き、「虚」はすなわち「無心」の意味としている。

 管子もまた「心を虚にし意を平らにし、以て待ち須(ま)つ」と言うている。この管子の「待ち須つ」とは、陶潜(淵明)のいわゆる「則ち通ず」への予感や期待であろうと思われる。

 このように中国の哲学が、多く「虚=無心」「静=禅那」を重んじてきた伝統には、佛教、ことに大乗仏教、わけても禅の教えの東漸がたいへん大きく影響していた。ほとんどインドをむしろ逐われてきた佛教、大乗仏教が、西域をへて滔々と中国に流れ入り、長安・洛陽の両都をふたつの芯に、大唐国にいたる栄枯盛衰大小さまざまの王朝により、異様なまでに尊崇支持されたのは顕著な史実であった。ことにボーディ・ダルマ(達磨)により伝えられた禅は、「心」の洞察において革命的な視野を中国人にもたらしていた。「虚」も「静」も、「心」において何であるのかが問われることになった。

 人の「心」とは何か、大切なのか、頼れるのか。

  わたしは、さて、自分の「心」を信頼し帰依しているだろうか。あなたは、どうか。

 こんなことのあったのを、わたしは忘れていない。

 日本ペンクラブの理事会で、政府与党による「教育基本法」の安易な改正意図が危惧されていたある日、当時の会長で理事会を主宰する哲学者梅原猛氏が、慨嘆して、「大切なのは、学童生徒にもっと心の教育をすることだ」と発言した。

 またかと思った。

 即座に、「あまり安易に<心>を無謬の価値かのように謂うのは危険であり、或る意味で<心>こそが諸悪の根源であると心得て発言して欲しい」とわたしは言い、一瞬ざわついた、が、たまたま京都から会議に参加してわたしの隣にいた瀬戸内寂聴尼が、間髪をいれず「それは秦さんの謂われるとおり」と発言されたので、「心」の話題は一気に他へ押し流された。それきりだった。

 だが、一場のたんなる話柄では済まぬことであった。

 思えば梅原氏発言の前後左右、世をあげてどこでもかしこでも、新聞・テレビ・ラジオ・雑誌・広告にも、「心」一字の魔術的なほどの氾濫は目に耳に有り余っていたし、今も少しも変わらない。

 「心」さえ持ち出しておけば、あらゆる場面であだかも免罪符か「ひらけゴマ」のようであったし、今もそうなのである。

 わたしに言わせれば、これは、あらくれた意馬心猿を解きはなって世間を奔走させているのと同じ、じつは暴挙のようなモノであり、反省の時機はとうにとうに来ているのに、だれも知らぬフリをして、同じ旗棹を無責任に振っているのだった。哲学者も教育者も政治家も科学者すらも、口を開けば「心」であった。宗教者、まして佛教者ですら、瀬戸内さんのような人を例外に、テレビの講座などで、とくとくと仏典や文献のただ口うつしで「心」を説いている。 06.2.20

 2008 7・21 82

 

 

* 北京オリンピックの開会劇を観た、さすがの大構想が、多彩な光の波瀾で描かれ、たいしたものであったが、ある種の単調感もなかったわけでない。人と金とは、たぶん時間も、豊富に用いられていて、気がつけばこれは、東京オリンピックとかシドニーオリンピックという都市の経営するオリンピックとは全く異なる「中国」オリンピックだということだった。北京は場所貸しすぎない。

 中国という国一国の歴史が、世界史の多くの割合を占めることは誰もが知っている。すばらしい文化と伝統と発明とを持っている。問題はこのオリンピックが中国の大きな変化に繋がるかどうかだが、そういうことはよそものの空頼みで、期待できない。

 中国ほど数千年を超える歴史を持っていて、これほど単調に同じことばかり繰り返して変化のない国は、世界でも稀なのである。漢も唐も宋も元も明も清も中共も、みんな同じ帝国主義を飽きもせず繰り返している。子だくさんの福、金儲けの禄、そして長寿。それだけの国だ。ぞんがい呆気なくつまらないのである。ところがまた凄いほど懐は深いのである。

 あまり本気でつきあいたくないお国だということは、小はギョウザ問題から、大は温暖化問題拒絶まで、不愉快な例は枚挙に遑がない。しかも私自身じつに多くを中国に学んで恩恵を受けている。ただし今の若い人たちもそう思っているか、怪しい。

 2008 8・8 83

 

 

* 八月十五日 金 敗戦の日

 

* 今の天皇さんが即位された第一声が、「日本国憲法を護る」という誓約であったことを、わたしは忘れない。深い敬意と賛同の念をいまも持している。

 これと同じ誓約は、総理大臣も国会議長も最高裁裁判長も、以下あらゆる公務員が就任・就職に当たって為し果たすべき「最高の義務」であると考えるが、みなさんはどうお思いであろう。

 天皇皇后両陛下は靖国神社には行かれない。憲法を護っておられるのである。小泉純一郎という総理は率先して日本国憲法を足蹴にして恥じない男であったと、わたしは脳裏にしっかり記録している。

 

* 天皇の誓約と対照的に、東条英機の終戦時日記が明記していた時局認識には、国土と国民への思いが完全に欠けている。それを思う。

 アメリカは、広島と長崎で足りなかったら、確実に更に原爆を投下していたに違いない。彼らには戦争を終わらせるためにという、その根底の思想には明らかに容認できないものが混じるにせよ、分かりいい名分をもっていた。今でも彼らの多くが持っている。

 だから間違いなく、あの天皇と内閣との決断がなければ、さらに百万もの国民は残虐に殺され、国土は放射能と地獄の炎とに痛めつけられていた。東条英機の判断力はあまりに狭隘な視野の中で、明確に間違っていた。

 今日、それを胸に刻んで、二度と東条英機のような地獄行きの指導者をゆるさず、二度と小泉純一郎のような憲法蹂躙の総理を持つまいと心に誓いたい。

 2008 8・15 83

 

 

* また話が変わるが、五人の総裁候補が記者会見していたのを、だいぶ腰を据えて聴いていた。

 なかで、やはり石破某候補は危ない。

 日米が同盟国として日中よりはるかに近いという認識は、他候補にも力説する人がいた。建前の常識ではその通りだろう、だが、外交事実ないし外交史実からみれば、石破某の云うように、日本が困ればアメリカは必ず助けてくれる、アメリカが困れば日本は何をアメリカの為にしてあげられるか、それが大事、などとは、シラっとした建前論なら知らず、本音とすれば「愚」の一語に尽きる。

 

* アメリカだけではない、大国はみな他国を助けるために存在してはいない。自国の為に小国や他国をどう利用するかだけを考えている。それが外交の本性であり、即ちわたしの持論である「外交とは、高度に悪意の算術」なのである。

 アメリカの外交は。悪意の算術。ロシアの外交は。悪意の算術。中国の外交は。悪意の算術。北朝鮮の外交は。超悪意の算術。ヨーロッパ諸国の外交は「悪意の算術」のおそるべき坩堝であった、実例をわざわざ挙げなくても、みな分かっているではないか。

 都合が悪くなれば「同盟」などというものが、いかに屁理屈でボツにされるか、世界史に学べばいやほど出会う。いま目の前の六カ国会議だけでもすぐ分かる。

 どこの国も悪意の算術に余念無いのであり、国の意向としてはそれが甚だ普通なのである。だからこそ、そんな諸国の悪意の算術のただの「餌食」にならないため、日本には日本のしたたかな外交が必要になる。

 石破某の曰くは、ただの赤子の寝言を出ない。高村などというヘボ外相もおなじようなチャランポランの見識で重席をいつも汚している。

 外交だけは、ふつうの人付き合いの誠意のようなものでは遣って行けない、高度のかつ独自の算術・算学を駆使しなければ、あの疲弊して息絶え絶えの北朝鮮にすらコケにされる。現にされている、アメリカですら翻弄されている。

 外務大臣で真価を発揮するのは、聡明なワル智慧の利く、ヒトのわるい人格者でなければならない。そういう人物も歴史上には実在したのである。その手の遣り手は他国も手玉に取ったが、自国民も騙すときは騙した。

 2008 9・12 84

 

 

* 東工大の教室で、四年間つづけて、どの教室でもわたしは明治の「大逆事件」につよく触れた。主観をまじえぬよう心がけながら、いわば「事典」的な事実を、努めて詳細に話した。話すのが自分の義務だと感じていた。個人や私民の犯罪以上に我々が懼れねばならないのは「国の犯罪」であり、注意と監視と抗議の意思表示を忘れないようにと学生諸君に訴えたのである、むろん授業に絡めてである。わたしは東工大で漱石の『こころ』を取り上げ続けていた。あの小説と大逆事件とは明治の終焉へ向けて、近代の自壊と崩落へ向けて、時期的に重なっている。

 そんなときわたしは、石川啄木の『時代閉塞の現状』や弁護士平出修の小説『逆徒』や、迸る熱意の徳富蘆花講演『謀叛論』、さらには与謝野鉄幹の詩『誠之助の死』なども熱心に話題にした。これらはみな「大逆事件」に自ら接した叡智と感性と勇気による同時期人たちの、誠意と慨嘆と情熱の発言・発語であった。「現代」の我々に向けた、忘れがたい大きな「時代の証言」であり「批評と抗議」であった。

 これら全て、「e-文藝館=湖(umi)」は論考・小説・講演・詞華集の欄に掲載している。こころある若い人たちの目に、胸に、どうか届けたい。

 2008 9・16 84

 

 

* 書いて外へ出してきた初出原稿は、コピーし、カードにもデータを記録して掲載原本ともども保存してきたけれど、コピーの類が、劣化して読み取りにくくなってきた。今のうちにスキャンして機械に入れてしまわないと難儀なことになるが、あまりに厖大な量で、茫然としている。パソコンで書いたかなりの量は機械にのこっているが、ワープロ段階の昔のものは、さてディスクすら見付けるのが容易でない。

 いまも『北の時代』を岩波「世界」に連載していたちょうどその頃新聞に書いたコラム原稿をさがしたけれど、機械とはいえ「ワープロ」時代のことで、もはや簡単に探し出せない。せめてコピーを見付けたいのに三十余年も前で、整理もわるく、見つからない。

 

* 何を探していたか。当時岩波「世界」の若い編集者氏が毎月のように原稿を受け取りに家まで来ていた。原稿が無くてもよく話しに来て楽しい酒にもなった。妻はそういう来客達の接待にいつも追われていた。

 そんなある日、わたしは「世界」君に、いまの日本、近未来の日本で難儀な負担になる問題は何でしょうねと尋ね、編集者氏は言下に「教育」と言い、わたしは即座に「世襲」と言った。わたしの挙げた二字一語に「人類の歴史」の重なっていたこと、ことに日本史における世襲の「重負担」が意味されていたこと言うまでもない。

 以来三十年、「世襲」はいまや、わたしの憂慮していたとおり、例えば政治世界でもっともイヤな有毒瓦斯に成り、腐臭だけでない実害をもたらしている。麻生新内閣の閣僚の大半が世襲議員である。そしてそれが日本の政治の強い力どころか、どうしようもない空疎・脆弱・特権化の害毒に結びついている。小泉・安倍・福田、麻生。彼らの世襲の血はすこしも国民のタメにならない。

 

* 三十余年まえ、あのころまだ生まれてまもなかつたろう、ボストンの「雄」君が、いま、同じことを沈痛に話題にしている。

 

 ☆ サラブレッド  2008年10月03日09:31   ボストン 雄

 ・ 昨日の昼,DさんとランチにLE’sへ.フォーを食べ,店を出ようとすると雨が降って来た.急いでハーバードのCOOP書籍部に行き,本を物色する.

 もう止んだかなと思って外に出てみたが,雨は却って激しく降っていた.諦めて裏口から抜け,向かいにあるハーバード関係のグッズの置いてある店舗へ.そこで僕もDさんも,「ハーバードカラー」の臙脂色の傘を選んだ.せっかく来たついでに,あれこれ見ていたが,その間にも同じことを考えてか,次々と人が入ってきては傘を購入していた.

 レジに向かうと,僕の前に年老いた女性が,ひとり、買った傘の支払いをしようと、手に、白と臙脂のストライプの折り畳を握っていた.だがレジ係の初老の男性は,その人の選んだ傘には値札がついていないからダメという.同じタイプのならここにあるよと別の傘を見せるのだが,「それは臙脂色だけでしょ.私は,このストライプが気に入ったのよ.この白が入っているのじゃなくちゃ嫌よ」と主張する.渋々,レジ係はレジを離れ,傘置き場に商品を探しに行った.

 やがてレジ係は所望のストライプの傘を持って戻ってきたのだが,いざ老婦人のクレジットカードを通すと,「あれ? これはダメみたいだよ」と.

 「ああ,今月は病院に行ったりあれこれ使ったからだわ」と婦人は絶句.現金の持ち合わせも,他のカードも持っていないということで,傘を置いてそのまますうっと店を出ていった.

 正直言って,あまりに待たされイライラしていた.しかし,いくら今月病院に行ったからといって,傘一本買えないとは...背中を小さく丸め,髪もまばらな後ろ姿を見て,なんだか気の毒で悲しくなってしまった.

 言うまでもなく,アメリカは格差社会だ.この傾向はきっと永く変わらないだろうし,最近の金融破綻によるアメリカ経済の悪化は,貧困層を一層追い詰めることだろう.

 ・ 小泉政権が「自民党をぶっ壊す」といってあれこれやったが,結局壊れたのは弱者の生活基盤だけだった.そんな格差社会を,日本人は望んでいただろうか? 病院に行っただけで,雨が降っても傘一本買えない社会を,望んでいる人などいるだろうか?

 そんな弱者に向かい,「人生いろいろ」などと無責任な言葉を吐き,自分は息子に地盤を譲ってさっさと引退する政治家を,何故高く評価している日本人が未だに多いのか.

 先日,研究者交流会で後半に話していた某東大教授は,「日本はこのまま黄昏を迎えるのか,それとも痛みを伴った改革を受け入れるのか」と話していた.しかし,黄昏を迎えようと,痛みを伴った改革を進めようと,つねに痛みに晒されるのは弱者だ.そのことに,あの演者は気づいていない.いや,気づいて分かっているのかもしれないが,自分は高みの見物を決め込んでいた.

 ・ 昨日の深夜,日本の情報番組を観ていた.長渕剛と志穂美悦子の娘である長渕文音が今度映画デビューするそうで,その映画「三本木農業高校・馬術部」の宣伝を兼ねた特集だった.あの二人にそんな大きな子供がいたことも知らなかったし,たいそう美人だったのにも驚いたが,そんなことよりも,この映画の原作となったドキュメンタリー映像に深い感動を覚えた.長渕自身,インタビューで,

 「果たしてこのドキュメンタリーを越える映画が作れただろうかと思ってしまい,役作りに悩んだ」と答えていた程だった.

 (以下,内容について書いているので,映画を観る方は読まない方が良いかもしれません)

 この映画は青森県の十和田市にある三本木農業高校の馬術部にいた湊香苗さんという高校生と,盲目のサラブレッド「タカラコスモス」との間の交流についてのドキュメンタリー映像を元に作られている.

 タカラコスモスは中央競馬に17回出場した牝馬だが,1勝も挙げられずに中央競馬を去った.しかし,その後,乗馬として大学馬術部に引き取られ,そこで才能を開花させ,この大学を全国大会で優勝に導くほどだった.

 ところが,程なくして,タカラコスモスの目に異常が現れ始める.治療を試みるも回復せず,以前からこの馬に興味を持っていた三本木農業高校の教諭により引き取られ,さらに治療に専念するが,ついに完全に失明してしまう.

 湊さんは,この盲目のサラブレッドの世話を担当させられた.視力を失ったタカラコスモスは不安と苛立ちで全く人を寄せ付けなくなり,身体を拭かせることさえ拒んだ.しかし,湊さんが世話をするうちに,次第に湊さんに心を開くようになっていく.

 なんとかタカラコスモスに活躍の場をと考えた顧問教師が,タカラコスモスを繁殖牝馬として北海道に2ヶ月間送り,奇跡的に子供を授かり出産する(「奇跡的」だったのは,人間では70歳にも相当する高齢であり,しかも初産だったため).湊さんは,この子供に,タカラコスモスと自分の名前「香苗」の一部をとって「モスカ」と名づけた.

 盲目のタカラコスモスが誤ってモスカを踏みつけないように,モスカの首には大きな鈴が下げられていた.鈴の音が少しでも自分から離れると,タカラコスモスは狂ったように啼いて辺りを探す.

 盲目のタカラコスモスの世話で,ただでさえ手一杯なのに,その上小さなモスカの世話まで加わって,湊さんは大変そうだった.「一度でいいから遊びに行って見たい」と湊さんは語っていた.

 「デートなんかしないの?」とのインタビュアーの問いに顔を赤らめながら,「彼氏なんていない」と答える湊さん.本当に朝から晩まで,この二頭の親子の馬の世話に明け暮れていたのだろう.

 しかし,やがてモスカが別の厩舎に引き取られる.サラブレッドは小さい頃に親と引き離さないと,その後の調教が困難になるかららしい.

 引き渡しの日は、朝から親子を引き離すことになっているらしいが,モスカは柵を越えて再びタカラコスモスの居る厩舎に戻ってしまう.しかし,夜にはとうとう引き離され,悲しげな啼き声を上げながら,モスカは去っていった.湊さんは号泣しながら「モスカはわがままだから,きっと向こうでも迷惑かけるに違いない」などといいながら,タカラコスモスのいる厩舎に行き,「モスカ,行っちゃった」と言うのが精一杯のようだった.

 タカラコスモスは目が見えないので,大会には出場できない.湊さんは,大会に参加する際には常に他の学生が世話をしている馬を借りて出場していたが,やはり息が合わないのか,落馬することも多かったようだ.そんな湊さんを後輩達は「下手くそ」といって哂ったらしいが,湊さんは笑ってやり過ごしていたという.

 偉いなあ,と思った.

 「目の見えない馬の世話をさせられて嫌じゃなかった?」とのインタビュアーの問いに,「なんで私だけ,という気持ちはあった.でも,もし目が見えていたら,タカラコスモスと私は会えなかった」と湊さん.

 一番胸を打たれたのは,湊さんの高校生活最後の馬術大会のシーン.それまでタカラコスモスとの出場は許されなかったが,最後の大会だけ,タカラコスモスと出場することを認められる.この大会は,速さや障害物などで競うものでなく,馬術の技術を競うものであったので認められたのだろう.

 ただし,当日の朝になって,タカラコスモスは前右脚を捻挫してしまう.直前まで冷やしたり痛み止めを注射して,なんとか大会には出場できたが,演技を始めてすぐにタカラコスモスは脚を引きずり始めた.さらに,目が見えないので,枠にぶつかったりもした.しかし,その中でもタカラコスモスは最後まで演技をやめず,湊さんの手綱捌きにあわせて停まったり後退したりと演技をこなした.湊さんとタカラコスモスの息は本当にぴったりと合っていた.

 「普通の馬だったら,あんなことは絶対にできない.かつて「女王」と言われた馬の意地であり,湊さんとの絆の深さゆえだろう」と顧問教師は語っていた.

 湊さんの高校卒業で,タカラコスモスとの生活は終わる.卒業式を終えてまっすぐに厩舎に行き,タカラコスモスに卒業を報告すると,この日のために縫ったというタカラコスモスのための防寒着を着せ,厩舎を後にするところでドキュメンタリー映像は終わる.

 ・ 失明し,絶望の中で奇跡的に授かった子供さえ奪われてしまうとは,惨い話だ.しかし,それが「サラブレッド」ゆえの宿命なのかもしれない.サラブレッドは文字通りthoroughbredだから,徹底的に品種改良された血統の馬なのだろう.

 しかし,血筋が良いからといってそれに甘んじたのでは真の競走馬は得られない.幼い頃に親に引き離され,しかるべく教育を施されてきたのだろう.おそらくタカラコスモス自身も,そうした経験をしているに違いない.

 ・ 最近,麻生太郎だの,小泉ジュニアだのの話題で頻繁にサラブレッドという文字を目にする.別に僕は子供が親の職業を継ぐのが悪いことだとは思わない.親の背中を見て育つうちに,次第に同じ職業を選ぶ人もいるだろう.歌舞伎の世界など,未だに世襲がほとんどだろうし,それでいて名優を生み続けている.しかし,それは幼い頃からの厳しいトレーニングがあってのこと.

 政治の世界に果たして「サラブレッド」は必要なのか? あまり好きな言葉ではないが,「昼の光に,夜の闇の深さが分かるものか」.医者に行っただけで傘も買えなくなるような人の気持ちが理解できるのか? もしサラブレッドが政界に必要なのだとしたら,それは真のサラブレッドであって欲しい.

 もし本当に政治家として育てるのならば,幼い頃からそれなりの教育が必要であるし,せめて自分の地盤を譲るなどということはすべきでないと思う.

 麻生太郎は「ずっとほうっておかれたので,生まれは良いが育ちは悪い」などと自ら言っているし,小泉だって離婚して息子の面倒など殆ど見ていなかったのではないか? 地盤を譲られただけで簡単に政治家になれるようで,果たして良いのか? 職業選択の自由があるから,政治家の子息が政治家になることを阻むことはできないだろうが,せめて同じ地盤から出馬することは禁止してはどうか.

 安易に「サラブレッド」などという言葉を,「政治家には使って欲しくない」.

 

* 「世襲」には、トクだから世襲したい、ソンだから世襲させておくという、過酷な二面がある。

 両方を合わせて言えることは、つまり「手分け」の「手直し」をしないのである。人間根源のエゴのつくる、「つよい我欲」と「よわい立場」とを、「世襲」の二字は本質として体している。

 「世襲」こそ日本を悪くしてきた。そう言い切れる過去が、伝統藝能伝習の一部を除いて、日本史の総体を成してきた。藤原や源・平という世襲もあれば、人外を強い強いられる世襲もあった。表裏一体、つまり人間の世界に固定した「手分け」を全然「手直ししない」エゴが、強烈に絶対的にモノを言い続けてきた。

 もし今日只今のまま悪しき世襲慣例を看過し続けると、大きな「トク」にしがみつく者等の対極に、またもやおおきな「ソン」を過酷に世襲させられる生まれながら不幸不運な階層が固定して行くだろう。反省のない安易で強欲な世襲は、格差の極端な不幸をなによりも「日本」という国に与えてしまうのである。

 深く深く懼れねばならない。聡明に手直しを急がねばならない。 2008 10・3 85

 

 

 ☆ 科学の話ではありませんが。 京 バルセロナ

 恒平さん

 視点の異なる人たちの意見が二つ三つ加わるだけで、どんどん話が面白くなってきますね。どんな反応が聞こえてくるか、毎日興味津々「闇」を開きました。他人に期待しておきながら自分はだんまりを決め込んでいる、いつもの「mixi」の無愛想さでは、ちょっと済まされないものを感じますが、自分の考えが口を突いてくるほど纏まらないのも正直なところです。相変わらず、一度に入ってくる情報があまりに多いのですよ、「仁」さんの話には。

  東工大は出たけれど、科学や研究者の話になると途方に暮れます。バイト以外の私の就いた職は、バイクのサスペンションを製造する日系企業の即席通訳と、現在の事務職。仕事が人生の中心なら、私の七年半の大学生活は、まるまる「無駄」と言えるかもしれませんし、大学の学問を最重要視するなら、私は人生の挫折者と言えるかもしれません。が、私はそのどちらとも思っていない。

 私にも、東工大を出て例えば証券会社に勤める人に、東工大を出た意味を問うた時期があり、「工業大学は出たけれど・・・」と自らを嘲笑する時期もありましたが、三年前受けた企業の面接で、学歴と職歴の不協和音を指摘された時、いつの間にか、東工大を出て証券会社に勤めたっていいんじゃないか、と考えている自分に気がつきました。「無駄」を許容できるようになったんですね。

 「仁」さんも昔は、根底では「無駄」な雑学の推進者でありながら、常に人生への悲観を口にしている学生でしたから、若手研究者が《不思議なくらい自分の人生設計を考えることに絶望している》のは、それだけ余裕がないからではないでしょうか。みんなどこかで「無駄だって必要」と思っているに違いないのです。それを確信もって公言できるのは、無駄も報われることを知っている、自分の「今」を肯定できる人なのかもしれません。

 

 「国家国民のための研究」

 

 以前これについて書かれていた「司」さんには申し訳ないのですが、これを聞いて私が連想したのは、「軍国国家の秘密研究機関で生物兵器を開発している研究者たち」でした。「国家国民のため」という言葉は、分かりやすいようですが、とても分かりにくい。みんなそれぞれ様々な方向を向いて生きているのに、この言葉によって、突然一括りにされ一方向に向かって前進しているような錯覚を覚えさせられるのです。

 その実、どの方向に向かっているか分からない。友人を見て、同僚を見て、家族を見て、自分の周りを見回して、果たして私たち、そんなに同じ方向を仰いでいるでしょうか。自分のためになることが妻のためにならなかったり、同僚の利益が自分に不利益を生んだり、良かれと思ったことが相手を怒らせたり、世の中そんなことだらけだと思うのですが。

 この言い様にひっかかる理由は、もう一つ、私の仕事上の経験が関わっているからかもしれません。今は裏方の仕事に移りましたが、 4年前まで、海外で盗難にあった人や、お金の足りなくなってしまった人をアテンドする職にいました。呆然として日本の住所も思い出せない人、憮然としたまま一点を見つめている人、わなわな震えて泣き出す人、やり場のない怒りをぶつけてくる人、色々な人がいました。その中に数は少ないのですが、威張り散らす人がいました。自分は被害者だから、困っているから、何から何までお膳立てしてくれて、出費も代りに被ってくれるのが当たり前と思う人。自分のやるべきことはむろんやらずに、何でも他人に責任を押しつける準備があるのです。そういう人の決まって口にする言葉が、「日本国民が困っているのに」でした。

 この言葉、実際言われてみるまで気づかなかったのですが、会話の途中で突然言われると、本当にびっくりするものです。そして面白いことに、私は今でも覚えているのですが、「日本国民が困っているのに」というセリフのもとにお金を借りに来た4人のうち、4人全員が、二年経っても三年経ってもその返済をしていない。彼らの借りたお金こそ「日本国民」の税金なのに。

 「司」さんは恐らく、私の見た人たちとまた対極にいる人々を見て、「国家国民のため」という言葉が口を突いてきたのだと思います。ただ「国家国民のため」という言葉は、もっともらしく聞こえて、実は責任や目的を明らかにしたくない人たちに利用されやすい言葉でもあることを、意識していたい。

 自分のやっていることが税金で賄われていることに気付くことは、とても大事なことです。その上で、基礎研究など「国家国民」に囚われずに研究してもよいのではないか、ボストンの「雄」さんのような研究者に任せてもよいのではないか、と私は思っています。  「雄」さんの《しかし、その価値判断は、傲慢とも取れるだろうが、どうか研究者にお任せいただきたい。》に、私は彼の研究に対する強い覚悟と責任を感じるのです。

 

 科学や研究とは随分反れた話になってしまいました。

 毎晩時間切れで、気が急いたりもして、もう一つ書きたいこともあったのですけれど、今回はこの辺で。

 金木犀や吾亦紅の話を聞くと、日本がとりわけ懐かしくなります。先週は母から「秋刀魚一匹78円」の話など聞き、遠くの秋をますます感じています。恒平さん、迪子さん、どうかくれぐれもお大事にお過ごしください。 京

 

* 「笠」さんや「京」さんの声で、話題が少し広く寛いだ場へ動いた感じがする。科学とも研究とも自分はいまのところ関わっていないと感じる人も、畑ちがいと感じる人も、「国民」「税金」ということになるととても無縁でない。そしてまた思いが湧くかも知れない。

 この六月五日付け「司」くんの一文にわたしはあえて意見を付さなかった。「これは、注目する人があるだろう」とだけで。容認にも否認にもいろんな手がかりを含んでいると思い、しかも門外漢のわたしがモノをいうより、もっと適切な発言者がわたしの近くには大勢いると感じていた。

 

 ☆ ちょっと一休み  2008年06月05日20:10  司

 最近、自民党の無駄遣いプロジェクトチームなるところが無駄遣いをなくそうとばかりに、色々な資料を要求してきている。

 その中の一つに、様々な公的研究機関に対して、本当に国の研究機関として必要なのか、民間に任せられないのか、というのがある。

 以前、研究機関の企画部門にいたこともあるが、私も、組織全てとは言わないけれど、「本当に必要なの?」と思う事が、とても多くあった。

 研究機関と言えども、国民の税金を使って仕事をしている以上、自分の研究ではなく、国家国民のための研究をすべきであって、そこに異論を挟む余地は、ほとんど無い・・・はず。

 「国家国民のための研究」というのが何なのかという論点があるけれど、「これは国家国民のための研究ではない」というのであれば、そのことを、きちんと骨を折って説明をするのも研究者の仕事のはず。

 これを言うと、「それは研究職の仕事ではない」と堂々と言う研究者の多いこと。

 もちろん、そんな研究者ばかりでは無いことも事実だけれど、研究者には税金を使って飯を食わせてもらっている感覚の薄い人が多いなぁというのが、私の感想でした。

 

* 「司」くんがいいかげんを口走る人でないことを、わたしはあの大学の頃から、よく理解している。ことに心して行政の要所に身を置いている現在、いわゆる放言はしない人である。

 

* ここで、一つの語彙問題としてとりあげておいた方がいいのは、「国家」のことは措くが、「国民」ということば。

 じつはこの一語は、中世まで、いや古代へまでも溯って、いろんな内包が有った。そんなややこしいことは措いても、なお、わたしがよく謂う「私の私」の「私」にこれが関わってくる。当然、「公」とのかかわりゆえに、ややこしい座標が浮かんでくる。

 わたしは「国民」とか「市民」とかいう物言いとべつに、「私民」という言葉が、ないし理解や概念がもっと用いられていいと腐心してきた。その理由の一つに、「国民」と謂ってしまうとき、それが「国家」と対の「公民」性と、もっとプライベートな「私民」性とがごちゃまぜになってしまい、我が田に水をひくだけのために「国民」の一語がいろいろに濫用されてしまう不安が有ると考えてきた。

 

* 「司」くんの発言にある「国家国民」という四文字の、「国家」の方はともあれ、「国民」というのは、「私の私」でいえば、先の私なのか後の私なのか、公民なのか私民なのかが、しかとは分別されていない。そこへやみくもにとりついて「国民のため」論が始まると、水掛け論がはじまるだけで容易に収束しないのではないかという心配を、わたしは持ってきたのである。いまも持っている。

「国民のために」という名の下に国家権力が侵してきた「国の犯罪」は、すべての「私民犯罪」とつりあうか凌駕していないかという不安をも、わたしはいつも歴史的視野において持ってきた。大げさか、な。

 そしてこういう問題意識に論点が推移して行くと、今日の「京」の提起は、さらなる整理を促し促されるだろうなという期待になる。

 幸か不幸か、「司」くんも「雄」くんもまだ発言を控えている。

 2008 10・18 85

 

 

* 西武ライオンズが八回逆転勝ち越しの一点、さらに巨人ラミレスの内野ゴロで九回決勝の瞬間を観た。第一戦に勝ったとはいえ終始ジャイアンツが押し気味であった。若い渡辺監督のライオンズはよく勝ち抜いた。投手も野手も、選手という選手をほとんどわたしは知らない。巨人では原監督、上原投手、阿部捕手ぐらい。西武では誰一人知っていたという選手がいなかった。

 わたしの野球は「プロ」野球でなく、「フロ」野球で始まった。少年のあの頃、銭湯へ行くと脱衣棚の扉に大きく書いた番号で、「3」か「16」が欲しかった。大下弘か川上哲治か。それでまだ空いている早くに銭湯へ行った。

 

* じつはセとパとの決勝戦とは忘れていて、湯につかり大野晋さんの『日本人の神』を熱心に読んでいた。のぼせかけた。

 その前は「篤姫」を観ていた。若い名も知らぬ女優がいい芝居を懸命に演じていて好感をもっている。ただ、ドラマの原作であるか脚色であるか分からないが、必ずしも適確な歴史の把握であるか、かすかに不審も覚えている、が、主演女優の存在感は、なかなかけっこう。

 なににしても日本の近代の幕あきには問題が多々ある。その問題がいまの自民の保守政治にもイヤな感じでまとわりついている。

 わたしが言いたいのは、はっきりと「いま、『中世』を再び」である。

 2008 11・9 86

 

 

* 根をつめすぎるのか。歯が痛む。目も霞む。

 

* 一休みに階下のテレビで、ポンペイ遺跡から石膏により死者たちの最期の肉体を文字通り復元したのを観た。あの噴火の凄さは史上稀な烈しさで、火砕サージの奔った速さは時速二百キロ、たった十キロ距離のポンペイはたった三分で呑みこまれた。シミュレーションと再現ドラマにも泣かされた。

 心幼いことだが、わたしは、歴史上のこういう惨事の数々を念じて思い起こし、ケチな悪意に汚されるわが身のちいさな不快など、笑殺する。不幸なことに、そういう哀しみの極限例はなんと記憶に多く堆積していることか。

 ヒロシマ・ナガサキ。アウシュビッツ。沖縄。東京大空襲。関東大震災。世界中に起きた無惨な虐殺・餓死・弾圧のかずかず。不条理で無道・極悪な無差別殺人。冤罪のママの死刑。全く無意味な被差別。

 ああ、わたしたちのただただ醜いだけの「子」難など、何であろう。

 

* さ、また読書の寝床へ、そろそろやすみに行こう。

 2008 11・24 86

 

 

* 中世──。半世紀近くを経てきて、いま、ひょっとしてとても大事な視点・視野は「中世」への再認識ではないかと考えてきたが、若い作家にも中世を書いている人がいる。山城国一揆。それは大きな主題だ、目の付け所によれば革命への可能性が見えてくる。往年の真継伸彦さんの先へ伸びてゆく仕事が生まれてくるといい。そのためにはやはり「中世」観の鍛錬が先立って大切だ。

 2008 11・25 86

 

 

* 入浴しながらモンタネッリの『ローマの歴史』を読んでいて、わたしは湯船から起ち上がってバンザイしたのである。嬉しい読書はしばしば体験しているけれど、こんな嬉しさの読書には、老醜をべつに人目にさらすわけでなく浴室の中でひとりバンザイして少しもさしつかえあるまい。但し、ひとりで喜びたくない、この「闇に言い置く 私語の刻」を共有して下さる大勢と一緒に、拳をにぎって高く上げたいと思う。

 ただ、今夜は明朝の歯医者の約束があり、もう、やすまねばならない。できれば早起きして、出かける前にここへ「私語」して協賛を求めたいと思う。若い読者に訴えたいと思う。

 2008 12・5 87

 

 

* 昨晩の続きを書きおく。なぜ、これを喝采と共に引用しておくか、この時節に鑑みて、明瞭だと思うが。

 とてもいい本である、引用を許して頂くと同時に、全編を読まれるようにみなさんに奨める。

 少し長めであるが、嬉しくなる一章であった。わが仲間である日本国の平民・私民たちよ、とりわけて若い人たち、働く人たちよ。戦争には賛成しないが、民主主義は守ろうではないか。

 

 ☆ SPQR  モンタネッリ著 藤沢道郎訳『ローマの歴史』(中公文庫)に聴く。

 

 前五〇八年、共和制成立以来、ローマ人は至るところに記念碑を建てまわり、それに必ずSPQR(セナトウス・ボプルス・クエ・ロマーヌス)の四字を印する。「元老院とローマ人民」の略記である。

 元老院については述べた。そこで人民について述べよう。最古のローマでは、人民という言葉は現代とは違って、全住民を意味しなかった。パトリキ(貴族)とエクイテス(騎士)の二階級だけが人民の範疇に入る。

 パトリキはパトレス、すなわちローマ市建設者の後裔だった。ティトゥス・リヴィ  ゥスによれば、ロムルス(=ローマの創立王)は市の創建に際して百人の家長(パトレス)を助力者に選んだ。かれらはもちろんよい地所を先に抑え、国の主人として振舞った。初期の王はどんな社会問題にも悩まされずにすんだ。全人民が王と同等、王も人民の一人で、宗教上その他の役割を皆から委されているだけだったからである。

 だが、タルクイニウス王朝の始まるころから、ローマには、主としてヱトルリアから、異人種の群れが流れ込むようになった。父祖たち(パトレス)の子孫はかれらを不信の目で眺め、元老院を自分たちの家系の占有物としてその砦にたてこもった。これらの家系はそれぞれ、草創の祖先の名を冠していた。マンリウス、ユリウス、ヴァレリウス、アエミリウス、コルネリウス、クラウディウス、ホラティウス、ファビウス……

 かつての開拓者の後裔とそれ以外の新参者という二種の群れが共存し始めた時から、ローマ市内の階級分化が始まった。すなわち貴族(パトリキ)と平民(プレプス)である。

 ちょうどアメリカの貴族(パトリキ)、ピルグリム・ファザーズの家系が、次々に押し寄せる新移民の波に埋没してしまったように、ローマの貴族も、量においてはすぐに圧倒された。だがローマの貴族はずっと長くこの埋没に抵抗した。数では劣勢だが抜け目のない階級の常として、自己の特権を巧妙に守り続けた。つまり、特権の一部を平民にゆずり、それによって平民もその特権を守るようにしむけたのである。

 セルヴィウス王の時代には、階級はさらに分化した。平民の中からブルジョアジーが分れ出たのである。これは数も多く、財力に富んでいた。王が五階級の金権体制を創り、百万長者の階級に圧倒的多数の投票権を与えたとき、貴族は大いに不満だった。成り上り者が、金に物を言わせて威張るのだ。だがタルクイニウス驕慢王を追放して共和制を建てたとき、かれらは単独で他の全階級を敵にまわすのはまずいと思った。そしてあの富豪たちを味方に引き入れようとした。富豪たちを釣るには、元老院の門を開いてやりさえすればよかった。

 富豪たちは騎士と呼ばれていた。すべて商工業の経営者で、元老院議員になることが終生の夢だった。だから民会ではいちいち貴族に味方した。役職につけば惜しみなく私財を提供した。娘を貴族の家に嫁がせるために、女王様のような持参金もつけた。貴族たちはかれらの名誉欲を最大限に利用した。ついに騎士が元老院議員になれる日が来たが、その時も貴族の一員として遇されたのではなく、その同僚(コンスクリプトウス)として迎えられたのである。そこで元老院は、「父たちとその盟友たち(パトレス・エト・コンスクリプテイ)」から構成されることになった。

 貴族と騎士だけが人民で、他はすべて問題外の平民(プレプス)だった。職人、小店主、事務員、解放奴隷等は、この状態にもとより満足ではない。だから共和ローマの最初の百年の歴史は、人民の概念を押し拡げようとする人びとと、それを血統と富の限界に止めておこうとする人びととの間の、社会闘争の歴史でもある。

 共和国宣言の十四年のち、前四九四年に、この闘争ほ開始された。王制下に獲得した領土をローマがすべて失い、ラテン連盟の覇権をも放棄しなければならなかった時のことである。悲惨な戦が終ってみると、平民の状態は絶望的だった。地所は敵に占領され、戦場に出ている間の家族を養うために、借金はかさんでいた。この時代に借金といえばたいへんなことである。債務を払えなければ自動的に債権者の奴隷にされ、倉庫に監禁されても、売りとばされても、殺されても文句は言えない。債権者が複数の場合は、その哀れな男を殺してその屍体を分ける権利さえあった。そんな極端なことにはまずならなかったとしても、借りた者の条件はひどすぎた。

 こういう状態を改善するために、平民は何ができたであろうか。民会では下位の階級に属しているため、百人隊の数が少なく、従って票数も少なくて、自分たちの意志を通すことはできない。そこでかれらは街頭や広場に出て、もっとも弁の立つ人間を代表として、借金の棒引き、土地の再配分、司政官選出の権利を要求して騒ぎ始めた。

 貴族も騎士も元老院もこの要求に耳を貸さなかったので、平民はスクラムを組み、町から五キロ離れた聖山(モンテ・サクロ)に登り、畑でも工場でも働かない、軍隊にも出ない、と宣言した。

 ちょうどこの頃、新しい敵がアペニン山脈から姿を現わしていた。エクイ一人、ヴォルスキー人という蛮族が、肥沃な土地を求めて、アペニンの山々から雪崩を打って低地へと押し寄せ、すでにラテン連盟諸市を圧倒していたのである。

 尻に火のついた元老院は、聖山へと使者を何度も派遣し、市の防衛のために協力しようと平民に要請した。メネニウス・アグリッパは、平民を説得するために有名な寓話を考案した。すなわち、一人の人間があって、その手足が胃袋に怨みを抱き、食物をとることを拒んだ。そのうち栄養が尽き果て、相手の胃袋も死んだが、手足の方も死んでしまった、という話である。

 だが平民の態度は変らなかった。債務奴隷を解放しその借金を棒引きにせよ、平民を守るための司政官の選出を認めよ、さもなければわれわれは絶対に山から降りはしない。エクイ一人だろうがヴォルスキー人だろうが勝手にローマをぶっつぶすがいい。

 元老院はついに折れた。借金は棒引き、債務奴隷は解放、そのうえ毎年平民から二人の護民官(トリプヌス)と三人の造営官(アエディリス)を選出することになった。この選出権はローマ無産階級の最初の大収穫であり、その後の闘争に大きく役立った。前四九四年は、ローマと民主主義の歴史の中でひじょうに重要な年となった。

 平民の復帰で祖国防衛戦が可能になった。ヴォルスキー、エクイ一両蛮族とのこの戦争は六十年続いたが、今度はローマは孤立していなかった。ラテン-サビーニ系同盟諸市だけでなく、ヘルニキー族もローマに忠誠を守った。

 戦局は一進一退した。その中でひときわ目立ったのはコリオラヌスという若いローマの貴族である。有能な武将だがごりごりの保守派で、政府が飢えた民衆に穀物を分配しようとした時、激しく反対した。選ばれたばかりの護民官はかれの追放を要求した。コリオラヌスは敵に走り、その将となる。連戦連勝、たちまちローマの城門に迫った。

 この時もまた元老院は、つぎつぎに使者を送り、コリオラヌスの攻撃を思い止まらせようとしたが失敗。しかし母と妻が涙ながらの嘆願をくり返して向つてくるのを見ると、かれは部下に退却を命じた。部下は怒ってかれを殺す。だが有能な指揮者を失った敵軍はけっきょく敗走したと言う。

 この混戦のなかにエクイ一族が現われた。すでにフラスカーティの町はかれらに蹂躙されており、ローマと同盟諸市との連絡も断たれてしまった。この難局を乗り切るため、元老院はT・クインティウス・キンキナートゥスを独裁官(ディクタトール)に選び、全権力を委ねた。かれはただちに出撃、包囲されていた味方を救い出し、前四三一年、決定的な勝利を得た。ローマに凱旋してすぐに辞任、畑を耕しに帰宅した。独裁官の権力を行使した期間わずかに十六日。

 しかしその間に、新しい戦争の火の手が北方ヴェーヨの町から上っていた。エトルリアの中心都市の一つであったヴェーヨは、この機にローマを決定的に叩きつけようとしたのだ。エクイー – ヴォルスキー両族に対する防衛戦の間も、この町はローマにいくつか意地悪をした。ローマは歯がみしながら耐えていたが、両蛮族を撃退してしまうと、矛先をヴェーヨに向け直した。これも苦戦となり、再び独裁官を任命しなければならなくなった。マルクス・フリウス・カミルス。この独裁官は名将である上に人情家でもあって、大変革をやってのけた。すなわち兵士に給与(ステイペンデイウム)を支払うことに決めたのである。それまで軍役は無料、家族は故郷で飢えに泣いていた。カミルスの改革に兵士たちは奮発し、戦意倍増して一挙にヴェーヨを攻略、一木一草まで破壊しつくし、全住民を奴隷としてローマに送った。

 大勝利であり模範的な懲罰だった。ローマ領は二千平方キロ、四倍に拡大した。ローマの人心は驕り、戦功赫々たる独裁官に嫉妬と疑惑を抱くに至る。カミルスがエトルリア諸市を次々と陥落せしめている間、ローマでは、あれは野心家で、戦利品を私しているという噂が流れていた。それを知ったカミルスは独裁官を辞任、弁明にもどる気にもならず、そのままアルデアに亡命。

 ガリア人がローマに押し寄せなかったら、カミルスはその地で、中傷に名声を傷つけられたまま、忘恩のローマ人を呪って死んだであろう。だがガリア人はもっとも頑強な最後の敵だった。すでにフランスからなだれ込んで、ポー河流域の平野を埋め、ポイイー、インブリー、ケノマニー、セムノネース等と呼ばれる自分たちの諸部族にその肥沃な土地を分配していたが、そのうちの一部族がプレンヌスの指揮下に南へ移動、キウシを占領、アッリア河でローマ軍を破り、ローマへと進撃してきた。

 永遠の都にとって不名誉きわまりない戦だったに違いない。歴史家たちは多くの伝説で煙幕を張らねばならなかった。その一つ、ガリア人がカンピドリオの丘に夜襲した時、ユノー女神の聖なる鵞鳥がいっせいに鳴き騒ぎ、マンリウス・カピトリヌスを目覚めさせ、かれは守備隊を率いて敵を撃退した、という。事実ほ、鵞鳥が鳴こうが鳴くまいが、ガリア人はカンピドリオの丘にも他の地区にも、かまわず侵入してきたのだ。市民は近所の山中に避難していた。だが、元老院議員は避難せず、威儀を正して元老院の木の腰かけに坐っていた、と歴史は語る。議員パピリウスは、いたずらなガリア人にひげをひっぱられて、象牙の笏でそいつの顔を張りとばしたのだそうだ。敵の大将ブレンヌスは、ローマの市街に火を放ってから、退散料として莫大な金を要求し、秤を突きつけて迫った。議員たちが抗弁すると、かれは秤皿を踏み、分銅を投げて、あの有名なせりふを叫んだ。「ヴァエ・ヴィクティス!」だまれ、敗者! そこへまるで奇蹟のようにカミルス登場、「祖国は鉄で再建する、金は無用!」と見得を切り、天から降ったか地から湧いたのかさっぱり分らぬが、一軍を率いてガリア人を敗走させたのだそうだ。

 事実はどうか。ガリア人はローマを劫掠したのだ。そして強奪した金銀財宝を鞍にのせローマから引き上げた。かれらは兇猛な野盗であって、政治路線も戦略もなかった。攻撃し、掠奪し、退却し、明日を思いわずらうことがなかった。かれらはローマを荒らしまわったが、破壊はせず、もと来た道をロンバルディーアの方角に引き返した。その間にアルデアから急遽呼び戻されたカミルスが、陣容を建て直した。おそらくガリア人とは一度の小ぜりあいもなかったろう。かれが帰任したのはすでにかれらが引き揚げた後だったから。

 さてカミルスは、旧怨を水に流して再び独裁官に就任、トーガの袖をまくり上げて市と軍の再建にかかる。かつて中傷した連中が今やかれを「ローマの第二の創建者」と呼ぶ。

 だがこの外患をのりこえるなかで、ローマは十二表法を制定し、内憂克服の峠を越したのである。これは平民の勝利を意味した。

 それまで法律は神官に独占され、神官職は貴族(パトリキ)に独占されていた。平民は聖山から降りてからも、法律の公表を要求し続けていた。市民の義務は何か、それに背いた者はどんな罰を受けるのかを、万人の前に明らかにせよ。当時、裁判の基準は秘密であり、その基準を記した法典は神官たちに保管されており、しかもそれが宗教儀式の規則と混同されていた。殺人犯でも、神様の機嫌が好ければ無罪放免になるかも知れず、出来心で一羽の鶏を盗んだ哀れな男が、神様の機嫌が悪い日に当ったために、串刺の刑に処せられるかも知れない。神々の意志を解釈する役割が貴族に占有きれていたから、平民はいつも不安であった。

 ヴォルスキー、エクイー、ガリア等の侵攻と、聖山総引揚げを武器とする平民の闘争と。この両面の圧力に押されて、元老院はさんざ抵抗をくり返したが、ついに譲歩を余儀なくされ、議員三名をギリシアに派遣、立法者ソロンの業績を調査研究させる。帰還後、十名より成る立法委員会(デケムヴィリー)が作られ、アッピウス・クラウディウスを長として、十二表法を編纂した。これがローマ法の基礎となった。時に前四五一年、ローマ建国以来約三百年。

 だが、事は円滑に運ばなかった。元老院は十人委員会に全権を与えたのだが、この権力の座はまことに心地よかったので、一年間の任期が切れたのちも、解散しようとしなかった。歴史家の語るところ、悪の張本はアッピクス・クラウディウスである。この委員長はヴィルギニアという平民の美女に惚れ込み、権力を利用して彼女を奴隷に落し、言うことをきかせようとした。娘の父ルキウス・ヴィルギニウスは抗議したが、アッピクスは取り合わない。憤激した父は、こんな男の言うなりにさせるくらいならと、娘を剣で刺し殺し、その足で軍営に駆けつけ、事の顛末を訴え、専制者を倒せと煽動する。平民は憤って再び聖山への総引揚げを敢行、軍も大いに動揺した。そこで元老院は緊急会議を開き、十人委員会の解散を、おそらく内心ほくそ笑みながら、決定した。アッピウス・クラウディウスは追放され、権力は執政官(コンスル)に返還された。

 こうしてローマの民主主義は巨大な前進を見た。SPQRのPは、現代の「人民」に大きく近づいたのである。

 

* このように人は闘い、闘いとってきた、西紀はるか以前から。

 闘いとったものを、もっと大切にしようではないか。

 ローマ帝国になると鬱陶しいが、「それ以前」のローマ、「帝国以前」のローマに心惹かれてモンタネッリの本にいきなり手を出した。昨日此処を読んで、わたしは嬉しかった。

 2008 12・6 87

 

 

* 誰の口からも、「労働組合法」の精神に立ち帰れという提言が出ない。雇用の安定化をいうなら、労働者のための憲法ともいうべき、中でも労働組合法がなぜ必要だったかに立ち帰るのが、迷いなき本筋なのに、誰もが唇寒しとばかり口にしない。

 人をつかって働かせる人間達の心事に節度も愛もなく、欲得だけが先行しがちなモラル低い時代に、力も金もない働く人たちの共同の、同心の決意がなくて、どう身を、家族を、未来を守れるというのか。

 世紀前はるか、ローマの平民、何の権利もなく文字通り「生・殺」与奪を少数の貴族と騎士(資産家・商売人)たちに握られ、不当な不如意不自由不平等を強いられていた平民達は、ついに団結し、聖山(モンテ・サクロ)に立て籠もり、たまたま迫ってきた他国からの国難にも一糸乱れず権利と安全を求めて闘い抜いた。ついに要求を貫徹したうえで、勇んで国難の排除に奮闘し、それにも勝った。

 民主主義への世界史的な画期的な一歩であった。

 支配者達が、この際に弄したさまざまな嗤うにたる詭弁は、しかし、いま二十一世紀になおわれわれ平民は聴かされている。また意気地なく聴いている。そのため益々ヒドイ結果へ追い込まれている。

 百年に一度の危機だ危機だと麻生総理たちは言うけれど、その危機とは、彼ら支配の立場にある保守政治家や貪欲な経営姿勢への危機だという認識に過ぎない。こんな態度は間違っている。正しくは百年に一度の労働者や平民家庭の危機なのである。危機は深刻なのである。そしてその深刻な危機こそが、結果的に国益をさらに損なうのである。

 モンタネッリの『ローマの歴史』から、もう一度見てみよう。この「順序正しさ」を確認したい。

 

 ☆ 尻に火のついた元老院は、聖山(モンテ・サクロ)へと使者を何度も派遣し、市の防衛のために協力しようと平民に要請した。

 だが平民の態度は変らなかった。債務奴隷を解放しその借金を棒引きにせよ、平民を守るための司政官の選出を認めよ、さもなければわれわれは絶対に山から降りはしない。エクイ一人だろうがヴォルスキー人だろうが勝手にローマをぶっつぶすがいい。

 元老院はついに折れた。借金は棒引き、債務奴隷は解放、そのうえ毎年平民から二人の護民官(トリプヌス)と三人の造営官(アエディリス)を選出することになった。この選出権はローマ無産階級の最初の大収穫であり、その後の闘争に大きく役立った。前四九四年は、ローマと民主主義の歴史の中でひじょうに重要な年となった。 モンタネッリ『ローマの歴史』より

 

* 「国益」が先だと、支配の声は念仏のように唱えるが、たいていは彼らの私利私益の同義語なのである。そのためには私民・平民の死骸を平気で踏みつける。

 ローマの平民達の声を聴くがいい、基本的人権をまず保証せよ、「さもなければわれわれは絶対に山から降りはしない。エクイ一人だろうがヴォルスキー人だろうが勝手にローマをぶっつぶすがいい。」

 こうでなくては、ならない筈だ。

 

* わたしはもともと政治的な人間ではない。むしろ政治などに背を向けた人間のようにすら思われてきた。大きくは間違っていなかった。しかし、決して「滅私奉公」といった「公」本位の思想の持ち主ではない。「私の私」を大切にし、「公」とは、そんな「私(私人としての、また私民としての、私)」を誠心誠意守る奉仕機構としてのみ存在を許容している。こっちが主人で、そっちはあくまで「公僕」という考えでいる。

 労働者とは、そういう私民・平民の最大多数として存在する、いわば国の主人ではないか、なにを萎縮するかと、そうわたしは給料を貰っていた昔から考えを変えていない。

 わたしは、命がけで命のかかった権利を要求して山に籠もったローマの平民の子孫である。王や貴族やブルジョア経営者の子孫ではない。麻生は「私の私」たちの公僕に過ぎない、有効に働かないならわれわれこそ彼を馘首できる。

 もうその時が来ている。

 2008 12・7 87

 

 

* こんなにおもしろい本にまだ出逢えるんだと、ほくほくしながら、モンタネッリの『ローマの歴史』を「カトー」まで読んだ。何世紀にも及ぶ歴史であり、諸民族角逐の激動史でもあって、元老院にも執政官にも将軍にも敵対する諸国にも無数の「人」が登場する。ことにローマでは、姓の数が甚だ少ないので同姓同名も平気の平左で現れるから、その愉快にふりまわされるこっちの混乱ぶりまでが面白い。

 ローマ「帝国」になるとウンザリだが、少なくも西暦以前のいわば初原ローマは、活気があり面白いなあと、以前、浩瀚な『世界の歴史』に組み付いたときから思っていた。「ローマ」の歴史を、いい本で、もいちど読んでみたかった渇きが、いま、癒されている。

 一つには映画好きなわたし。この手のものは「駄作でも観ておく」と決めてきた西洋史映画で、記憶の中に、相当量の「ローマ」種の歴史映画が溜まっている。いいのもグズなのもまじるが、モンタネッリを絵巻を繙くように読んでいると、スクリーンで観ていた情景や人物が甦って、時に心地よく符合してくれる。シェイクスピアの史劇にも、ハタと向き合える。

 

* バグワン流にいえば「歴史は過去のもの」で、実存の秘密には触れないのだが、嗜好にひっかけて謂うなら、「歴史」は酌めど尽きない美酒にひとしく、どんなに人類の愚と不幸とをあらわした歴史からも、譬えようのない刺戟の美味が酌める。

 いやいや、歴史に、愚と不幸いがいのどんな聡明や幸福が酌めるというのか、それはたいがい錯覚であり、人類はせっかく手にした聡明や幸福もあっというまに永い永い暗い愚と不幸の手に手渡して、平気でのたうって苦しんできた。それが分かる。歴史が聡明と幸福の連続であったりしたら、歴史を読もうという気はたぶん起きないだろう。

 2008 12・17 87

 

 

* 晩になり、延々と、「あの戦争は何だったのか」というTBSの番組を観ていた。こういう番組は、その時代を生きてきた者として、義務かのようにわたしは真向かって観る。今夜の番組は、徳富蘇峰をもちだし、当時の新聞記者や軍務局の上級将校をもちだして、真剣に取り組んでいた。概ね異存のない進め方であったけれど、蘇峰の、あの当時のありようや言説にも、敗戦後になっての理解にも、反省が薄く素直に頷くことは出来なかったし、事態の推移に理解ある記者や将校のそれらも、無惨に押し流されていた事態の恐ろしさは、歴然。

 まして「統帥権」という魔物の跳梁は、肌に粟立つ仕掛けであり、明治憲法の抱き込んできた「癌」というしかない。

 武器を持った軍人は、所詮、戦をしたがる。またそれがあらゆる国の軍に謂いうることだとすると、では、軍なくしてどう国と身とを守りうるのかという問題が消えてなくならない。

 外交という「悪意の算術」に天才的に長け、外交を全うすることで「すべて守れる」のであれば、守りたい、有り難い。だが、日本の外交と政治の拙劣は、実に蔽いがたいものがある。

 おそろしい事態は、現に今も在る、ということだ。

 2008 12・24 87

 

 

* 歴史上にも、好きな人あり嫌いな人物もある。「平時忠」の名で行跡の思い出せる人ももう少ないだろうが、「平家にあらずんば人にあらず」などと傲語したイヤなやつである。その時忠の歌一首に、千載和歌集「釈教歌」の巻で出会した。勅撰集というのは歌人達の存在証明の役もしている。

 

* モンタネッリの『ローマの歴史』が面白いのは、人物に視点がほぼ定まっているから。

 むかし、小学館の編集者が尋ねてきて日本史の大きな叢書を企画したいがと相談を受けた。『人物日本の歴史』がいいでしょうと奨め、人物の選定でも手伝った。わたし自身は中世の二人の武人を担当し、これは有り難い仕事になった。

 昔の啓蒙歴史、通俗歴史は人物本位の経歴と逸話の記述が多く、わたし自身もそれをやや軽侮していた少年期をもっていた。律令とか荘園とか幕府とか式目とか封建とかいった制度本位の歴史がいいと。

 むろんそれはいい、が、制度を働かせるのも人であり、歴史上の人物に関心や興味を持ちながら歴史の推移や記述にふれる大切さ、なにより面白さを見直す気持ちになっていた。さてこそ『人物日本の歴史』がいいと強く奨め、その企画にも加わっていった。企画は大成功だった。

 『ローマの歴史』のおもしろさが、それである。よく語られよく書けていて遺憾がない。

 2008 12・25 87

 

 

* モンタネッリの『ローマの歴史』読了。最終盤はかなり早足で、早足自体、ローマ終焉の収拾不能な大混乱が象徴的に伝えられてある心地。

 

* 「社会階層凍結政策」がローマ「終焉」を加速させた。

 日本風に翻訳すれば「身分」の固定だ。農民を土地と地主に縛り付けて農奴化し、職人を世襲の絆に繋いだ。富裕層として登録されれたものは、どんなに貧乏になっても高額の税金を払いつつづけねばならない。払えないと刑務所行き。

 身分の凍結とは、言い替えればむざんな国家「解体」傾向への必死の「固定」化だった。断末魔のあかきだった。

 「各人が自己の運命の決定者たることを確認し、法の前での万人の平等を保証し、(皇帝たちの時代ですら=)市民は、ただ臣民であるだけでなく主権者でもあると見なしていたローマ法の精神は、ここで死んだ。」

 「上から見おろしてもっともらしい理屈をつければ、ローマは使命を帯びて生まれ、それを果し、それとともに死んだと言える。その使命とは、ギリシア、オリエント、エジプト、カルタゴなど先行諸文明をまとめあげ、ヨーロッパと地中海全域に普及し、根をおろさせることである。哲学でも藝術でも学問でも、ローマの創造したものは少ない。だがその普及の道を開き、その防衛軍を提供し、その秩序正しい発展を保証する厖大な法律体系を用意し、その普遍化世界化のための言語を完成したのは、まさしくローマだった。

 政治形態についても、ローマは何も創始しなかった。君主制と共和制、貴族政と民主政、自由主義と専制、これらはすでにみなよそで実験されていた。

 だがローマはそのすべての模範を生み出し、どの政治形態においても、実践と組織の天才を発揮して、みごとな成果をあげた。コソスタソティヌスは行政機構をコソスタソティノポリスに移すが、このローマ的機構はその地でなお千年にわたって生き続けるのである。

 キリスト教すら、世界に覇を唱えるためには、ローマ化しなければならなかった。沙漠を通る細々とした道でなく、アッピア、カッシア、アウレリア等、ローマの技師によって造られた堂々たる街道を通ってはじめて、イエスの教えが地上を征服するのであると、ペテロはよく承知していた。」

 

* 刺激的にも本質的にも堪らなく面白かった。

 日本が、うえに謂う古典的な「ローマ法の精神」を学ばず、学び得ずに、近代の寸の短い支配主義思想に学んで「主権在民」に程遠い政体をいまなお一部の利益者が飢えたように追い求めて執拗であること。

 現代日本の不幸の根は、じつに深く日本人の体質に食い込んでいる。

 

* 次は、これも戴いていながら読めてなかった、辻邦生さんの超長編作『背教者ユリアヌス』、ローマの皇帝の一人に、取り組むことにしようか。

 2008 12・27 87

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