* 「人間とは何だろう、生きるとは、老いるとは、死ぬとはなんだろう、といつもいつも胸に問うています。就職してから2年半、ずっと問い続けています」とメールの裾に書いてきた。親しい、東工大の元女子学生の若い友人が。思い切ってこう返事を送った。
* あなたは反芻するように繰り返しこう書いてきました、「人間とは何だろう、生きるとは、老いるとは、死ぬとはなんだろう、といつもいつも胸に問うています」と。
「老いる」「死ぬ」のことはすこしワキに置きますが、前半の問いは、じつは「無意味な問い」であることに気づいています。
少なくも「生きる意味」なんてものは、無い。意味づけするまでもなく「生きている」ことが「生きている」意味なのだと。そんな無意味な問いに、どれほど大勢が無駄に悩んできた・無駄に悩んでいることかと呆れています。
「生きる意味」なんて、問うべき問題では無い。「生きる」のに「意味」は無い。「何だろう」と、答えのあるはずもない問いを重ねているまに、「日々生きる」実質を見失うなんて、なんて無意味なんだろうと。
「問う」ことは、ことにより極めて大事ですが、「問い癖」になって、本質を逸れたところで、つまり「問うているぞ」という自意識だけが残存し続けて、かんじんの「日々の生き」が荒んで行くのは、はなはだ無残なことです。「意味を問う」のをしばらく落として、やめて、日々をきっちり「生きる」のに精力と誠実を注ぐこと。わたしは、そう考えるようになって、すうっと明るい場所へ浮かび出た気がしています。もっとも、もともと、そういう「問い」はあまり持たなかったけれども。
あなたを煩わせているのは、つまり「マインド=思考作用=頭脳=心」なのだと思う。こういう心が、「静か」になれない。そんな心は捨ててしまった方がいい。
他の人になら、こんなに乱暴そうなことは敢えて言わない。あなたは「気づく」のではないかと思い、言いました。お元気で。
* 明らかにバグワン・シュリ・ラジニーシにわたしは教わっているが、しかし「生きる意味」とやらを問うている大勢に出会うつど、変な気がいつもしていたのは確かだ。
「生きる」から意味が生じてくることはあっても、生きる意味を問う意味など、無いはずだと。
1999 8・5 4
* つい先日も誰方かが、「あなたは作家になるべき人であった」と言われたが、何故とは問い返していない。そうかも知れないが、分かるとも分からないとも言える。
これでわたしも、ずいぶん大勢の作家を識ってきた。作品だけでの作家も多いが、接した人も多い。深く敬愛し畏怖した人もあれば、まるで信頼しない作家も少なくない。作品を深く認めて尊敬する人となると、そんなに大勢いるわけがない。これは仕方がない、誰もがお互いにそんな按配であるに違いない。
そういうことは別にして、それでも自分は、よほど他の作家たちとはちがう神経をしているようだと思うことがある。資質的にひとり己れを高く謂うのではない。変わっていると想うのであるが、作家はたいてい変わっている存在だった、昔は。この頃はフツーの人の方が多いのかなと思うぐらい無頼な人は少ない。面白くもない。わたしだって、そう見られているかも知れないが。
自分の変わりようを、うまくは表現出来ない。文学を愛している、が、自分の人生をもっともっと強く愛している、それに執着しているのかも知れない。人生で出逢った大勢の人、大勢ではないかも知れないが、親密に触れあえてきた何十人、百何十人かも、五百何十人かも、千人かも知れない、「魂の色の似た」いろんな人たちへの思い出を、ほんとうに大事に大事に感じ続け、文学への愛もそれを超えはすまいと自覚している点で、わたしは変わり者の素人作家である気がする。
そういう人たちが先ず在ってわたしは「文学」してきた。死んでしまった育ての親たちも、実の父母も、兄も、異父姉兄もそうだが、生きて元気な何人も何人もの一人一人と、わたしは、いつでも、どこにいても、向かい合って生きて来れた気がする。一人一人を、ONE OF THEMなどと思ったことはない。兄の言葉を信奉して用いれば「個と個」「個対個」の一期一会である。
1999 12・16 3
* 義経記は、寂しい物語の筈である。なにしろ平家物語のなかで最もはなやかな名将としての活躍が、ほとんど割愛されている。幼少の悲劇と末路の悲劇で尽きている。そういうツクリが特異なのである。その寂びしみが分かるので、わたしは兄頼朝を少年の昔からほとんど憎悪し、義経や義仲の身の程に声援し涙してきた。
「身の程」ということを、この何年かしみじみと思い続けてきた。書いてきた。もともと寂しい作品ばかりを書いてきたなとつくづく思う。寂しさは薄れてもいないし失せてもいない。もてあますほどに身をさいなんでいる。何故だろうと、われながら不審であるが。
すぐの身の側に、おそろしいほど真っ暗な深淵が、いつも口をあいている、見えている。身をその闇に翻せば万事済むのにとよく思いながら、そうはすまいと顔を背けている。兄もそんな気持ちであったのだろうか。
1999 12・18 3
* 面白い感想だ。「だらしなく」という言葉に関連し、こんな返事をした。
* 鏡花に出逢ってくれて、うれしいこと。
「だらしない」という言葉。これだけでも、奥が深いんだよ。
「だらしない」は、じつは、「新しい」を「あたらしい」と読むのがまちがいで「あらたしい」でなければ元々の意味が通らないように、「しだらない」が、元々なのです。
「しだら」は、地名にも「設楽郡」などがあるけれど、大道芸の「ささら」の元の名称、またそれを生み、担い続けた人たちの称なのです。おそらく用いる日常語が異色過ぎ、多くの人によく聞き取れなかった、それを「しだらない」「ふしだら」などと言ってきたのが、「だらしない」に転じてきたのでしょう。
「しだら」がどういう世界に繋がっているかを読みこんで行くと、「海」や「水」や、また「蛇」にも突き当たります。「蛇」問題は、なにも生身の蛇とだけ関わるのでなく、多くの形象やイメージとからんでいます。
もっというと、「林」「林田」といったよくある姓の背後にも、むろん全てではないが、かなりの率で、溯ると「囃子」「囃す」という芸能に突き当たって行く例が多い。これもまた「水」「海」の芸能に総括されやすく、どこかで「蛇」信仰ともからんでいます。
ものごとも一枚ずつ皮を剥いでゆく= discoverと、おそろしいほど遠くまで深層や真相が覗けてくるから、面白いともいえ、不思議さに身震いもされるのです。注意深く生きていると、ものが、思わぬ姿で、これまでとは別の言葉を語りかけてくるものです。
湖の本の「次」を入稿したので、今年は、一足お先に「上がり」です。寿司でもつまみたくなったら、連絡下さい。
1999 12・22 3
* マインドで書かれた人生論=生き方論が多かった。どこまで行ってもなにも解決しない、するわけがない。「心」を無に仕切った人の生きそのものに触れたいと思う。なかなか、無い。それならいっそ古人が「自然(じねん)のことあらば」と謂っていた自然の方へ歩みたい、「問う」ことすら忘れて。いま瞬時、日なたの、草野の匂いや色にさゆらいでいる嵯峨野の風情が、胸にとびこんできた。その一瞬は、百万のことばよりも美しくて深かった。
1999 12・23 3
* 「配慮」という言葉を、わたしは、いささか神秘的なぐあいに感じ用いてきた。わかりよくいえば、「心配り」の利いている「広がり」「範囲」「エリア」「領分」でもいいだろう。その広がりの広い人は配慮の広く行き届く人と言うことになる。精神生活が所有できる有限世界で、人によりおそろしく広さ狭さに差が出来る。
知識の意味でもいえるし、愛の意味でもいえる。知識一方の配慮空間も在れば、いわゆる「思いやり」で「気が利く」配慮空間もある。配慮の性格で人の性格や生活感覚も見えてくる。理知的に賢い人なら配慮できるのだとも、優しい人なら配慮は十分だとも、偏して言うワケには行かない。そして、配慮の良さ悪さというのは、自分の配慮空間と他人のそれとが接触し、いわば重なり合ってきたり侵しあってきたりした時に、個性的に露見してくる。
さらには、どこかで、こんな「配慮」なんて領分争いになりかねない精神と言うよりも心理的な日常からは、きれいさっぱり脱却しなければならないのだろうと思う、むずかしいことだが。
だが、せめては「配慮」とは何かを、知情意のどの角度からも調え持っていなければならないように感じている。わたしに、それが、出来ているとはとても思われない。あっちへ揺れこっちへ揺れる。揺れから目を背けていないのだけが取り柄なのだろうか。そんな取り柄が毒なのだろうか。これも、闇に言い置くことである。
2000 1・16 5
時間を、簡単に「線的延長」では捉えたくない、空間と別物としても捉えたくない、そうではなく、内と外の境目の見えない「透明な風船のようなもの」のなかで、「時空」は「間」抜きに、融和的に遍在し、膨らんだり縮んだりして存在するのだと、わたしは、かなり早くから、大学を出たか出て暫くのうち、よく考えていました。「時」を、つとめて前向き後向きと関係なく、「空」の中で「空とトータルに」感じたかった。そのように考えることで、たとえば歴史上の人とも「同時空」「同時代」を分かてるという、歴史物を書くときの足場というか、立場を得て行きました。「絶対二元論」などと内々に称して、盛んにそういうことを書いたり喋ったりしていた時期が有りました。
したがって「時空とは文字通り「時間」と「空間」の意味ですが」と君が書いているのとは、少し違い、「時空」は、「時・空」一如と考えていました。「間」を置くのは人間の「便宜」に過ぎないと。佛教的であるかどうかは少し考慮の必要がありますけれど。文学的な「想像」の所産に過ぎないですが。
「数学」から「人間」から「文学」へ、またその逆も、可能と。
直接に文学へ移動して行くよりも、勉強してきた数学好きの線で進むのがいいのではと、二年か二年半ほど前に、君を、院の数学へとけしかけて、よかったとわたしは思っています。君のメールに顕れている、「人間」への関心と批評とを、面白くも、心強くも、思います。
外国語と、その日本語への翻訳の問題は、たとえば仏典を中国語に翻訳しようとした中国人の苦心惨憺からも、また西洋語の「概念」に日本の訳語を付けていった、幕末から明治への日本の知識人たちーー西周のようなーーの大きな苦労からも、複雑に察しられます。仏典でも、漢語に訳しきれないものは、そのままの梵音で遺していますね、「般若波羅密多」のように。
日本でも、幸いにカナモジがあったので、「ラヂオ」のように、訳さなかったのが多いでしょう。本多勝一がそんなことを言っていたとは知らなかったが、「ラヂオ」「スウィッチ」「ボールペン」などは何と謂う気でしょう。外来語の定着し切っている例えば「スプーン」のような言葉を、「鬼畜語」とは、了見の狭いはなしですね。
わたしには、「言葉」への愛情が有ればこそ、「適切な」外来語の使用には何の抵抗もありません。そんな、意訳も難しいような外来語は知らないから使いようがないが、「デ・ジャ・ヴ」なんてのは、「ニュアンス」なども、強いて訳したくない時があります。言葉は、会話・文章ともに、だれも百パーセント知解し正解してその場に臨んでいるわけでなく、それでも、おおよそは間違いなく伝わっている場合の方が、圧倒的に多い。単語の一つ二つを知らない、分かりにくい、あやふやだから言語生活が成り立たないなんてことはない。言葉は万能ではないのです。そんなことは言葉で飯を喰っているほどの人間なら、誰でも知っています。アイマイを基本性格にしている日本語の場合は、ましてです。(目で補い身振りで補い状況が伝達を助けても呉れます。)だからこそ日本人は「外来語」や「外来文字」を、たっぷりと身内に喰い溜めてきたので、もし、昔の人が漢字や漢語を「鬼畜語」などと愚かなことを言って拒絶していたら、日本文化はどうなりましたことか。
そんなわけで、これは読者は辟易するなと思っても、表現上作者のわたしが必要と思えば、よほど「不適切」でない限り、遠慮しないで外来語であれ難漢字であれ使用しますよ。
簡単な返事ですが、夜更けてきて足腰が冷えるので、この辺にします。また何でも言うて下さい。
2000 1・17 5
* この人の言うとおりである。みんな遮二無二、なにかしら世に出てやっているつもりであり、作家や詩人や批評家や哲学者でもみんなそうである。よほど得意なつもりであんなにやってるんだなあと思って眺めていると、ときどき、笑えてしまうことがあるが、なにがなんでも遮二無二やっている。なかなか本人は「転がるように進んで」いるとも気付いていない。それどころか何かしら理屈がついてまわる。なに、自分だって似たもの同士のような按配で、やりきれなくなるし、恥ずかしくなる。
2000 2・20 5
* 一生に一度きりのことなら、無理が利く。何度も繰り返されることの一度一度を、生涯に初めての一度かのように立ち向かうこと、それが「一期一会」という思想である。同じ人に何度会うのも、一期一会のように毎度会う。それが人との間を大切にするわたしの思いではある、が、相手あってのことで、たがいに「かなふ」のがなかなか難しい。そこを「かなひたがる」と醜い無理が出る。剣道の先生のご指導は聴くべきである。
スリランカは政情必ずしも波静かではない。大事なく、無事に帰国して欲しい。
2000 3・19 5
* T 君。東工大の花を見に、四日火曜日、家内と出かけました。花はまだ寂しかった。スロープの辺がうんと変わっていて、懐かしい大きな櫻の樹や、翠のモコモコした植え込みがみな無くなっていました。ガッカリしました。
T 君。「政治の話など、これからの我々の将来に深く関わってくることですが、これほど「どうにもならない」と思うことも少ないと思」うという気持ちは誰しもの嘆きですが、そのまま終われば、自身にも、また子供や孫の世代にも極めて不誠実になってしまう。「どうにもならない」というのが、実は「なんにも自分ではしようとしない」ことの只の言い訳、セルフ・ジャステファイに過ぎないのは明らかだからです。インテリほど似たようなことを言い募り、政治からの撤退を記章のように得意げに胸につけたがるけれど、そういうこと自体が「政治」をますます一握りの者たちの好き勝手にさせてしまい、自分の生活や人への愛をも総崩れにさせて行く。
われわれに何が出来るかと目に見えて言えることは確かに少ないが、せめては「選挙権」での意思表示を怠らないことだけは「市民の誠意」というもの。事実、みなが投票すれば、民意が幾らか、また大きく反映するということは、必ずあるし、事実それに近いことはあった。怠けた自己放棄の言い訳に、「政治」を見放したような科白を軽々しく身につけてはいけない、それは自分の顔に唾をかける卑怯で怠惰なな言い訳、自分では何もしないでいる事への自己弁護以外のなにものでもなくなってしまう。
選挙にだけは行ってくださるように。わたしたちは、母の死んだ当日にも、総選挙は棄権しなかった。未来を案じるからです。
君は、此処のところだけを軽率に誤らなければ、その余は、まったく不安のない、健康で立派な市民、家庭人、勤務の人として信頼しています、わたしは。
お酒もだめ、ご馳走もだめになってしまいましたが、元気でいます。機会あるときはまた顔を見せて下さい。自分を見失わないために、ピアノも山も、また新しい何かの趣味も大切に。
2000 4・6 5
* もう就職四年目かな、男性からもメールが来た。なかなか微妙な内容であった。「精神的な向上心のない者は莫迦だ」という、例の「K」をいじめる「先生」の言葉を、肯定的な口調で引きながら、なんだか鬱陶しそうだ。「恋はビューチフル」などという言葉が大嫌いだと言う。以下のように返事を書いた。
* だいたい、恋がビューチフルであるわけがなく、あばたもえくぼに他ならず、且つ苦しい嘆きと動揺に満ちた不安のかたまりです。幸いにそれをすらビューチフルと錯覚させる「蜜毒」を恋ははらんでいる。そういうものです。それでもなお、嘗めるに値した毒ではある。
「精神的に向上心のない者は莫迦」などと考えることは、無駄です。そんな考えそのものが人を不必要に苦しめ苛めることを、漱石は知っていた。いいえ、気づきかけていた。「K」も「先生」も、マインドに毒され切ったほんものの「莫迦」でした。精神的向上心などという頑張り方には、成果が期待できない。自尊心しか生まない。無心でなく、価値無き有心のかたまりでした、漱石作『心』の男たちは。だからこそ漱石は、ただ独り、女にだけ「静」という意味深長の実名を与えて、「何」が大切かを示唆したのです。静かな心=無心と。
親愛なるイチローよ。
大嫌いになるべきは、「精神的向上心のない者は莫迦」という言葉の方です。これは、害だけがあって、益も実質もない、一見美しいが見当を失したミスリードの空疎なスローガンだとわたしは思っています。真っ先に落としてしまった方がいい頑迷なマインドで、この「道」の行き詰まりであることは、『心』の男たちが、その末路が実証しています。
やすやすとした気分で、また顔を見せにおいで。
2000 6・5 6
* 論理はいわば容易いし、一種の無限運動である。だが論理ではなかなか把握しきれない領分を、人は「闇」のように抱いている。闇に差し込む「光源」は、じつは論理でなく、悔恨と苦痛に似たある「渇き」のように思われる。
2000 6・14 6
* ゆうべは、二時半まで息子と妻とで、「仕事」や「人生」について和やかにいろいろ話し合えた。このあいだから、「精神的向上心のない者は莫迦」かどうかで、「努力」とか「ガンバル」とかに言い及んだ元学生君とのメールの往来があったが、たまたまある新聞が、息子の「ショカツ」という番組中のある台詞に関連して、署名記事をのせていたことから、こんなメールを先日息子に送っていた。そういうことも、改めて親子の話題になった。
三十過ぎてちゃんと自立した息子に、こういうことを言い送ったりするのは、いまだに言い続けているのは、よほど愚かしい親ばかで、いっそ異常に思う人も多かろう。私自身自分を嗤う気持ちをもっている。だが、言いたいのなら言えばいいと、息子から拒んでこない限り、よそ人の思惑は考えない。それが流儀というわけではないが、ありのまま、したいまま、である。どっちみち世間の物差しでは、かなり可笑しく生きているの文士なのだから。
* おはよう 建日子。 元気ですか。
さて、私の三ヶ月目の診察日が二十一日に迫りました。新参患者なので、健康保険証は携行していたく、戻してくれるように。血糖値は安定していて問題ないように感じますが、運動不足は相変わらずです。それでも最高86キロもあった体重が、78キロに落ちています。75位になれば自覚的には理想的で、それも夢ではない。
今日二十七日は、三百人劇場で「罪と罰」を観ます。三時開演。
帝劇の「エリザベート」を楽しみにしていましたが、わたしが座長の会議日と重なって残念ながらお返ししました。観てみたかったが。六月後半は、きみの父親は、気楽にしています。
新聞に、きみの「ショカツ」の或る台詞を引いて、コメントしている「先生」がいました。母さんが送るでしょう、コピーを。「頑張らないで」というのが、題でした。
「頑張らないで」を、あっさり肯定的に見ての評論でしたが、わたしの考えは少し違います。「頑張った」というこの言葉は好きでないので、「努力した」とやや方角を変じて言いますが、ほんとうに努力した人だけが、「努力しない」ことの真の価値を知っているのだと。ほんとうに頑張った・頑張れる人だけが、「頑張らない」ことの大切さを心から分かっているのだと、思っています。バグワンにならっていえば、よく泳げればこそ、泳がなくても水になじめるし、水に浮くことも出来る。泳げないのにいきなり水にやすやす浮こうとしても、沈み、流され、溺れるだけです。
世を挙げて、若い人たちに殊にラクに楽に怠惰に生きよう・生きられると思っているムキが、露骨に見えています。きみも、そうでなかったとは言いにくい。今もそうでないとは、まだ少し思いにくい。
「ラクにやりたい」とばかり思っていればこそ、「頑張らないで」という台詞が、お互いに安易に安直に口にも行動にも出てきて、それを聞くのが耳に心地よく、後ろめたさも薄れるのでは。安心なのでは。努力しないことの都合のいい自己弁護、言い訳、口実になり、怠け者同士で傷をなめあって、ますますイージーになって行く。そういう一面が近時ますます憂わしく瀰漫していることを、よく承知し見極めた上で、「頑張らないで」と、例えばあのドラマの若い刑事さんは言うていただろうか。作者は書いていただろうか。
今朝、チャイコフスキーコンクールで優勝してきた若い諏訪内晶子が、大学でも今でも、佳い音楽を創るためにも政治思想史を勉強している、どういう潮流や歴史からこの国のこの曲は必然生まれて来たろうかということが知りたい、必要な努力です、と話していました。拠って立つほんとうの歴史的基盤を知っているかどうかは、自分をただの根無し草にしてしまうかどうかの、分かれ目になりましょう。
「頑張らないで」と言われると、直ぐ嬉しがって簡単にそのまま鵜呑みにしてしまう風潮ですが、「頑張らない」方が「良い」のは「何故」なのかとまで、思索も直観も届いていない。それでは言葉や台詞が耳ざわりが佳いだけの、軽薄なものになると、そう、きみも思わないか。
なぜ「頑張ってはいけない」と言うのか、その根拠を実感し深く思って言うているのかどうか、新聞に書いていた「先生」にも、きみにも、聴きたいね。
わたしは、「頑張らないで」と、誰よりも、自分で自分に言っています、この頃になって、やっと。ガンバルのに疲れたからではない。頑張らないことの本当の佳さが感じられるようになってきたからです。頑張ってこなかったら、これは分からなかったろうと思う。
2000 6・19 6
* 数日前に、こんな「落首」を書いた。
* 仕事がない。貯金もない。僅かな貯金に利息がない。これでは金は使えない。民需拡大って何のこと。延々つづく、ゼロ金利。そのうえ貯金を吐き出せと、國の施策に智慧がない。慈悲もない、ない、情けない。
じつはイジメと知りながら、他国の顔色うかがって、西の諸国へ貢ぎ金。イジメラレっ子「ニッポン」の、無策の策は国民の、頭をおさえクビ切りを、リストラなどと言い替えて、文士崩れの作文で、景気の先をアヤフヤに、飾れば飾る言い逃れ。
もうこの上はお仲間の、市民・農民・労働者、腹をくくって居直って、死んでも金は使わぬと、言うてやろうじゃないかいな。
森は隠れる、野中は荒れる、中川渡る人もなく、小泉濁る土砂降りの、暗い日本の先行きは、公明ならぬ超保守の、不自由非民主、神の國。あまりといえばあんまりな、戦後日本のどんづまり。ほんにワルイは景気でなく、政治家不在の政治屋世界、吠える田中のかかしにも、哀れや党議の猿ぐつわ、歯ぎしりしても役立たずと、いつか誰もがあきれ果て、言われなくとも選挙は朝寝、昼寝、宵寝で棄権して、日本列島沈没のXデーの来る前にどうぞ死なせて死なせてと、祈る神様仏様。というような悪夢から、早く醒めたい、この次の、選挙の機会に一票の重みを誰に賭けまくも、賢き選択が是非したい。
2000 7・19 6
* 『畜生塚』も『慈子』も、いわば世の掟を超えた、道ならぬ恋を書いている。そういう中でわたしの思いは、いつも「身内」とは何かという根底を探っていた。
社会では、実に惨憺たる事件が陸続と山をなしている。少年達のいたましい惨劇もあとを断たない。
それらの多くが、渇くような孤独や孤立の地獄苦を負いながらの事件であることは目に見えている。東工大のような恵まれた一流校の学生達でも、「寂しいか」と問えば、愕くべく多数が、大方が、切実に「寂しい」と内心を書き綴っていた。
過剰なまでに人は孤立し、孤独は現世の業病と化していることを、わたしは三十年問言いつづけ、書きつづけてきた。
わたしを突き動かしてきた思想は、幼くからの「島に立ちて」の「身内」観であった。「自分」には、親兄弟もふくめて「他人」たちと「世間」とに取り囲まれている。その両者から「自分」は真の「身内」を求め続けて生きるのである。
「身内」とは、何か。
その、わたしの答えを確かめたくて小説を書き、戯曲を書いてきた。その前に、大勢の人たちと出逢ってきた。どんなに一つ一つの出逢いを大切にしてきたかと思う。古めかしいイメージだと笑われるだろうが、その根のところに、盆の供え物の蓮の葉に、一瞬玉と散る露が、みごとにちいさな湖をなして清冽であったという幼時の視覚が働いている。あれに「身内」のありようが見えた。それからすれば、今、世間の人々はあまりにバラバラに孤立し、孤独に渇いている。
* 本は、山ほど世間に溢れているし、いわゆる先生たちも溢れている。宗教の本も山ほど在る。それなのに、人の孤独や孤立という辛い状況に、哲学として寄与してくれるような示唆は、余りに乏しいではないか。
いつでも、思う。なにを観ても聴いても思う。ああ、この人は「身内」が欲しくて堪らなかったのだ、ああ、この人達のこの幸せこそ「身内」の悦びであったのだと、およそ、それで本質まで分かりきれる。
いくらか、数はまだ少ないが、それに共感してくれる人たちが、いつ知れず「湖」の本に、わたしの思想に、溶け合ってきたのだと思っている。人の魂に触れて鳴り響く文学でありたかった。人の人生に深く関わりうる本が書きたかった。今もだ。
2000 8・24 6
* 人には、「もののあはれ」に柔らかに反応し、しおれたり、はずんだりする何か不思議な能力がある。このせわしない現代生活では、大方の人が、そんなものは押し殺して、むやみやたら忙しい忙しいと得意がっていたり、悩んでいたり、追いまくられて、痩せている。時代の病である。そういう病を通過しなければ済まない世代もあり、一概にわたしは否定しない、が、胸の内に「花びらのように」ある、ふしぎに柔らかい美しいものを全て見失ってしまうのは、ひからびてしまうようで、恐ろしいことだ。
* わたしが言うと少し可笑しがる人もあろうが、「わたしは、わたし」と言い募ってガンと曲げないことを誇りにしている人があると、そんな「わたし」が何だろうと、滑稽な気がする。そういう「わたし」に限って、つまりは卑小な日常的ガンコさ以外の何ものでもなかったりする。他者への柔らかい思い入れが乏しいのである。外からのはたらきかけで自分が変わるのを小心に怖れているのである。我執。
ある程度まで己を頑固に護らねばならぬことは、実際に多々あり、むしろ護らずに妥協しすぎるのが日本人の大きな欠点の一つと思っている。しかし個性的で人間的な自己主張には、芯のところに、「花びらのように」柔らかい、美しい静かさが置かれてあるものだ、「かなしみのような」ものと言い替えても佳い。
度し難い頑固な人の我執には、「はなびらのような」柔らかみが、美しさが、静かさが、硬く乾いてしまっている。干上がっている。喩えが妙だけれど、武士の情けのようなものが欠ける。それに気が付いていない。
兼好法師が、「友」として選びたくない一つに挙げたのが、「むやみと身体健康な人」だった。そういう人は他者への配慮がとかく欠けると。同感である。
「わたしは、わたし。変えられないし、変える気もない」などと言い放ち、「わたし」は「わたし」がいちばんよく分かっている、放って置いてと胸を張ってしまう人は、兼好さんの言葉に従えば、共に歩むにとかく物騒である。怪我をする。
「わたし」という「我」の、いったいどれほどを「わたし」は分かっているだろうか。途方もないことだ。自分で自分がなかなか掴めず見えずに、日々、うろうろしているではないか。少なくもそのことを、幸いわたしは自覚している。
* 「御宿かわせみ」の澤口靖子の演じた、たしか類とかいった女は、花籠さんのメールにあるように、少し翳りのある落ち着いた「大人の事情」を、しっとりとあはれに、まさに「花びらのように」優しくみせていた。男の目で望んだ都合のいい女と批判しうる視点を否認はしない、が、それも含めてと言って置くが、いい女であった。わたしが、現実に伴侶に選んだり作品などの夢の世界で共に生きてきた女たちは、おおかたがそういう魅力=ファシネーションをもっている。
頑固であることなど、なにの自慢になるわけもなく、「わたしは、わたし」と底浅く言い張る図はみにくい。バグワンに日々に叱られ叱られ叱られているのも、そんな「わたしの、わたし」である。「わたし」に執していては安心して死ねない。安心して死にたい。
2000 9・17 7
* 老いた親たちをことごとく見送り、人のわざをし終えて一息つく寂しさは、体験してみないと分からない。あんなに衰えていた親でも、やはり親として頼みにしていたのだったと分かる寂しさと心細さ、うす寒さ。ひとりでこれからは立っていなければと思うのである。
2000 10・11 7
* 新内閣の顔ぶれが揃いましたわね。
TVや雑誌で、久し振りに見た有名人に、「えっ、こんなんなっちゃったの!」と思う時がありますの。太った痩せたでなく、老いた変わらないでもなく、[顔]ですの。良くなった・悪くなった、ただそれだけの感想ですが。
上坂冬子さんは「抗老期」とか。同い年の小田島雄志さんは、「ぼくだと[交老期]だ。」と笑ってらした。
* たしかに、新内閣で久しぶりに見た大臣の顔が、あんまりひどいので可哀相な気がしたりした。本人は、「まさに」フンゾリカエッテいたけれど。上坂冬子の言いそうなことだが、老に抵抗しようという気はわたしにはない、小田島氏の方に、老と交わる方に、賛成だが、わたしが言えば順老期、慣老期、観老期、待老期かな。平老期を迎えたいものだ、自然に。
2000 12・7 7
* 失恋したらしい青年の「うーん、参りました。傷心です。けっこうきついです」と呻く、長いメールを受け取った。「なんでもかまいません。叱られても結構です。すこしお話をください」と言ってきた。よくよくであろう、が、どれほども適切なことが言えるわけではない。ただ、いろいろと独り言のように話してみるのを、聴いていてもらうしかない。彼の気持ちは痛いほどわかる。恋の相手とはわたしは一面識もないが、奇遇にもそのご両親とは浅からぬご縁のあることも、メールで知れた。初めて知った。だからと言って、どうしてあげようもあるわけでない。世間は狭いなと、また呆れて思うばかりである。
* こうして吐き出してくれたので、すこし安心です。いま、いつもより遅めにメールを開きました。きみが、あの親愛な* *さん夫妻のお嬢さんと出逢っていたとは。それにもビックリしています。お嬢さんとは会ったことはないのですが、亡くなったお父さんとは、どことなく魂の色が似ていました。死なれて寂しかった。奥さんとはいちどだけパーティーで挨拶しました。品のいい美しい奥さんだったと覚えています。奥さんが湖の本を読みつづけて下さっているのだと、払い込み用紙の住所で思い当たりました。お名前などは知らなかったので、しばらく気が付かなかった。
真剣に恋をすると、百冊ぐらいのいい本を熟読したより多くを得、だが、また、かなり多くを失ったりもするよと、よく大岡山(東工大)で話していました。失ったものは、だが必ず深いなにかを添えて帰ってくるよ、とも。それから、失恋しそうなとき、失恋してしまったとき、あきらめるのを急がなくてもいい、そういうときは自分の心に問を発し続けて、恋のリアリティー(本性)をよく納得してみること、エネルギーが自分の中で存外にもう切れていたか、まだフツフツと煮えたぎっているかは、まず自分で自分に聴いてみることだ、とも。
人間はなまもので、恋を感じているときは、そのなまものが、よかれあしかれ発光しています。自分にも相手にもその光がまだ感じ取れるかどうかの視覚は、微妙だけれど、直観の利くものです。なまものであることは、うとましいことではなく、生きている喜びに通じている。だが悩ましくて堪らないことでもあります。そして耐えるのは、きつい。
きみの恋が、質的にもどの過程にあったのか分からないので、わたしは見当違いを言うかもしれないが、恋を恋い重ねて、豊かに成れる人がいます。一度の恋に命と人生を賭ける「若きヴェルテル」のような男性はむしろ極めて稀で、またわたしは特に称揚しません。きみのもう三十近い年齢からみて、この恋が、なお実りの可能性を感じさせるのなら、捨てるのは惜しいではないかという気も、わたしには、あるなあ。
君は、風貌の魅力ほどには、自身の内面のちからを人に伝えるのは上手でないと思われます。内から外へ開かるべきパイプが、個性的に迂回しているか、屈折しているか、全開していないか、その辺は微妙だけれど、とにかく出てくるタマが、とかく、カーブしたりドロップしたりしがちなため、素直なバッターほど、タマが見定められずに空振りさせられるのかも知れない。悔しいしイライラもするだろうなあ。短期の勝負には凄い武器であめけれど、長い付き合いとなると、もうバッターがバッターボックスから出てしまい、なかなか打ちに来てくれないかも知れませんね。
へんな言い方だが、きみ、苦手意識を他人にもたせるのがウマイとも言える。男社会ではそれもごく有効なのでしょうが、恋する女の人は、そういう変化球はもともと女が用いるハズなのにぃと、案に相違して自分が翻弄されていると拗ねるかも知れない。今度の場合がそうだなどとは言いません、知らないのだから。一般には、そんなところが男女の間にまま有ると言うのです。
君の言葉が、打ち出すタマごとに発射速度の異なるピストルかのように女性に対し作用することは、あり得る話です、その揺さぶりに女の気持ちが、快感からいつか苦手感に沈んで行くのも、全くあり得ぬ事ではないでしょう、多少きみに自覚も有りましょう、か。
しかし人はそうそう変身できない。要するに「魂の色の似た」同士なら、よほどのことがあっても、お互いに相手を「受け取れ合える」と言うに尽きるのかな。
人生は底知れぬ穴です。必ずしも穴が深いとも浅いとも分からない。底知れないのだから判断できない。そこを判断し勇気をもって底知れないところへ踏み込まねばならぬのが、我々の業であり、ひょっとして人間にだけ楽しめる特権かも知れない。
いくらでも話し相手をしてあげるよ。遠慮なくメールください。時間さえ折り合えば顔も見に行く。世紀末のぎりぎりにする体験にしてはきつくて重いが、新世紀へ、りっぱに活かしましょう。
* ああ、とてもとても、旨く話せているとは言えないが。
2000 12・18 7
* 京都では、十二月二十一日を「終い弘法」とも謂い、東寺に、ひときわの市がたつ。駄洒落をいうようだが、冬至でもある。わたしは、昭和十年(一九三五)のこの日に生まれたので、今年は、新世紀到来を十日後にひかえて、満の六十五歳になる。その日とその歳とにうち重ね、「秦恒平・湖(うみ)の本」も、創作とエッセイを通算して、第六十五巻めを無事刊行できた。心より御礼申し上げる。
遙かな昔に「西暦」というものを覚え、二十一世紀を迎える元旦は、満六十五歳と十日めに当たるンやなと指折り数えて、そんな日を自分はほんとに迎えられるのかと、なんだかぼうとした気持ちになったのを、ありありと思い出す。その頃、世界の人口が十一億人だと、啓蒙的な家庭事典には書いてあった。そのうちの一億を日本が占めたか占めそうな按配であったのも、ある種の驚異であった。
思えばわたしは幸せに今日まで過ごしてきた。いい教育も受けたし、いい家庭ももてた。お宝の藏はもたないが、小さいながら狭い庭に書庫は建てた。成りたかった小説家になり、三十余年の間に百冊におよぶ単行本等が出版できたし、いい読者に恵まれて「湖の本」という稀有な文学環境を、十五年に及んでなお維持し持続している。世にときめく人からすれば憫笑される程のことのようであるが、わたしは、この境涯を深く誇りに思っている。何故か。わたしは、本をこそ売ってきたが、自立心と自由は誰にも渡さなかった、これまでは、少なくも。幸せなのは何よりそれである。
誰も、わたしを有徳人とは思うまい。「多数」の世間に背を向けて有徳でいられるわけはなく、だが「不徳ナレドモ孤デハナシ」と偽りなく思うことの出来る、それが幸せでなくて何であろうか。「逢ひたい人がいつでもいる」と、或る催しに請われ、テディベアのお腹に妻の描いた花の繪に添え、そう書いた。それが我が宝である。
このところ、宗教学の山折哲雄氏とつづけて対談し、「自然に老いる」ことについて考え合ってきた。無事に本になるかどうかまだ微妙に思われるほど、話題の行方は厳しく交錯して、わたしはそういう議論こそ必要なこと、面白い対談とはそういうものと思うけれど、要するに「老い」を語る難しさに、まだ戸惑いがあるのだ、少なくもわたしには。
ひょんなご縁で「八十路過ぎ」られた俳人の句集『芒種』を頂戴したのも今年だったが、ちょっと類のない優れた句集で、対談にも、何句も取り込ませていただいた。引きたい句は多いが、なかでも、
明日への信いくらかありて種子を蒔く 能村登四郎
が、胸に響いた。「橋なかばにて逝く年と思ひけり」も「春愁に似て非なるもの老愁は」も「花疲れ生きの疲れもあるらしき」も胸に来た。だが、とりわけ先の掲句に、ふと立ち直るものの身内にある気がした。我と我が身への信より、もっと大きい何かに「信」そのものも預けておき、明日へなお、ほんの少しでも「種子を蒔く」気があるのだった、わたしには。
2000 12・21 7
* 晩、「知ってるつもり」とかいう関口宏が司会の番組で「法然」を取り上げていた。さほどの「理解」を示したものとは見えず、常識的な「知識」の取り纏めに終始していた。大方の法然論は、みな、そうである。売れているという梅原猛氏の『法然の哀しみ』も、壮大な読み物だが大差ない解説に終始している。それがいけないとは言わぬが、梅原さんも顔を出していた今夜のテレビ番組は、法然よりもよほど寸法の短い紹介番組であった。
法然の「南無阿弥陀仏」を、ただ鵜呑みに有り難がるので、かえって、そこでコツンとものが止まっている。行き止まりになっている。仕方がないから賛嘆しておくことで終わってしまう。「南無阿弥陀仏」という六字念仏とは何なのか。ほんとうにそれは有り難いものと、例えば、今の我々は、どこまで、どう真実信仰しうるのか、そこの徹底を避けているから、悩ましい深みが見えてこない。
バグワンの言葉に、何年も欠かさず耳を傾け続けているわたしには、法然の南無阿弥陀仏にも、常識的な通念とはべつの受け取り方が胸に宿っている。法然の易行とは、阿弥陀信仰を六字念仏に煮詰めて与えたことであるのは、一枚起請文によってもまことにその通りだが、事実は、ただ我々に対し「安心」の「抱き柱」を提供したのではなかったか。
西方浄土も阿弥陀の本願も、仏教の創作にすぎない。法然がそんなことに気づいていないわけがない。法然の撰択本願の論の建て方はおそろしく論理的であるが、根本に、証明不可能な「信」の仮設を据えている。そんな論理的「信」の設営でいっさいが保てるとは、法然は考えていなかったろう、が、簡明無比の「抱き柱」を与えて真に「安心」させるための基礎作業としては、そんな議論めいたところも経てこなければ、至り着いた「一枚起請文」のリアリティが成り立ちにくい。「一枚起請文」の無比の簡潔は、世界の信仰のなかでも類のない、みごとにたやすい堅固な「抱き柱」を我々に授けたいという「愛」に満ちていたのである。そんな「抱き柱」など無くても安心の成る者には、「南無阿弥陀仏」も必要のないことを、宗教者法然が知らぬわけはない。
* 法然を否認して言うのでは絶対にない。深く深く感謝して上のことをわたしは言うのである。この正月、菩提寺「光明山」の寺報に書いた「わたしの信、念仏、法然」は、感謝に堪えないきもちを書いたものである。
2001 2・18 8
* 最近とみに思うことは「人はどうして生きているのか?」ということです。最近、僕は人生について深く考えます。
人は皆、どうして生きているのでしょうか。 生きていてもそれ自体が哀しいことではありませんか? なんで生きているのか分からなくなります。 別に欲しいものなんてないし、あると言えば山奥に土地を買うことぐらいでしょうか。誰にも邪魔されず自給自足で暮らしたいと思っています。 もう人生というものがなんのためにあるのかわからなくなっています。 お叱りを承知の上で先生にお聞きしたいです。「先生はなんのために生きているのですか?」 教えてください。
* おおよそこういう趣旨のメールが飛び込んだ。東工大の学生でも卒業生でもない。あんまりけっこうな現実でもないし、ある意味で誰もが一度も二度も突き当たってきたものだろうが、わたしは宗教家ではないので、こういう悩みから救済しなくてはなどと気負い立つことはない。こういう質問には、はっきり言ってあまり動かされない。
* 今回の質問には、あまり関心がありません。その理由を言います。
「生きる意味」「なぜ生きるのか」と、若い人たちから何度も同じ質問を受けてきた気がしています。わたしも昔はそうだったろうか。正直のところ、そういうふうにはあまり考えなかった。
あらゆる質問の中で、答えにくいというよりも、答える必要のない、答えるのが無意味にちかい質問が、これだと、わたしは考えてきました。
日々を生きるのに意味などありません。意味を問うて、どんな答えがあると予測しているのか分からないが、どんな答えもありえて、だから、そんな答えに意味も意義も乏しいのです。人それぞれでしょう。人は意味を求め、意味が分かって生きているのではない。どう生きているかで、人それぞれの意味が日々に垢のように生じているに過ぎません。そんな問いにわずらわされて四苦八苦するのはつまりません。相応の苦しみと、また相応の自覚と努力とで永い歳月を日々生きてきたと思うし、その積み上げが、わたしの人生です。積み上げないうちから意味を求めても無意味です。たとえて謂えば、相撲を取りもしないで、もし優勝したらどうしよう、いや、優勝できなかったらどうしようと夢想し危惧しているようなものです。小説など一行も書かない人が、芥川賞を取ったらどうしよう、いや、取れなかったらどうしようと苦悶しているようなものです。へたをすれば、自分の怠け心をただ甘やかしたいために、深刻げにそんなことを「問う」てみるだけのハナシになりかねない。どう問うても、出るはずのない答えなのだから。
「生きた」結果として優れた意味や価値の生じることは仮にあり得ても、日々を「生きる」こと自体に即意味のあろうわけはないのです。意味は、人が歩んで創るのです。人それぞれの器量と努力により創られる「意味」が、甚だしく質も量も異なって来ることも甚だ自然なことです。寿命もものを言うでしょう。そこに、終点の見えにくい道程がひらかれて在る。
山奥でひとり暮らしたいなら、暮らしてみればいい。それにも用意が、努力が要る。真剣にそれを努めればいいでしょう。
生きる意味を問うなんて、日を背に負うて、自分の影を踏もうとするぐらい、無意味です。わたしは、そう考えています。
よけいな詮索に煩わされずに、一期一会の気持ちで日々生きて行けば「意味」はあとからついてくるし、しかも、そんな意味は、死ぬまで、死んでからでも、そうそう誰にも評価できるというものでない。だから無意味なのです、生きる意味がではなく、それを「問う」ことが。生きてもいないで「問う」ことが。
以上です。無意味な「意味問い」に心労するのはおよしなさい。
* 死にたがっているような青年に、こんなブッキラボーな返事では突き放す感じでもあるが、「生きる理由」「生きる意味」など問う意味がないと思っているわたしに、他に答えようはない。
2001 3・22 8
* 秦さん、ご無沙汰しております。だいぶ暖かくなってきましたね。今日などは外を歩いていて汗ばむほどでした。お元気にお過ごしでしょうか?
年度も替わり、またあらたに後輩もむかえ、いつの間にやら社会人4年目になってしまいました。
仕事上は、まあまあ順調だと思います。まだまだ身につけるべき事、勉強すべき事は多いですが、それもまた、目的がはっきりしているためか、楽しく感じます。
学生の頃、仕事とは生活してゆくための必要と、社会の中で生きて行く条件としてするものであり、人間としての本来の生活や、生きる意味は、それとは別のところにあると考えていました。(あくまで自分自身においては、ですが。)
でも、現在の自分の目には、日々に立ち現れる様々なこと、それと関わってゆくことが、実は、人間として生きることの、重要な大きな部分なのではないかと映るのです。
生きる意味とは別のものであると捉えていた仕事の中での、一見些細なこととの関わりもまた、紛れもなく生きていることの一部なのだと。
逃げの心理なのかも知れません。
この世界の真の姿を、ただ深く追い求めることこそが、生きるということ、という思いも、ごまかし難くあります。
それでも、日々の生活の中での様々なことを、関われば関わるほどに確かに返ってくる手応えを、実はただ意味のないこととである、とも言い切れないのです。
詰まらないことを考えているのかもしれません。。
でも、そんなことを考えながら、今は良いけれど、ほんとにずっとこうやって生きていくのかな?などと、正体不明の焦りのようなものも、時に感じてしまいます。
それでは、どうぞお元気でお過ごし下さい!
* こんにちは!
今夜のきみのメールは、アイサツは、少なくもわたしには、まさに期待した通りのものです。日々の大半の時間をそれに注ぎ込む「仕事」が、面白くも楽しくもなるほど、いろんな意味で生産的で健康で力になるものは、無いはずなのです。それでこそ、いいのです。
わたしは、狂気のように忙しい勤務の時期を永く体験していましたが、会社環境はとにかくとして、いつも仕事には満足し、たとえ不満に始まった仕事も、工夫して、自分なりに面白い満たされたものに作り替えてゆくようにしていました。だから、創作にも打ち込めたのです。仕事の不満の埋め合わせとして創作へ逃げたのではなかっのです。編集者として評価されていたそのことか創作者への力になってくれました。きみのいまの心境を、嬉しいなと読みました。元気で。健康にだけは留意してください。いつでも声をかけてください。
2001 4・9 9
* 「演劇界」誌に、田之助さんの連載が始まり、ファンの女友達が毎号コピーしてくれますの。第二回は大好きなお相撲の話。武蔵山の引退で男女ノ川が横綱になった事や、安芸ノ海が双葉山を倒した時、桟敷で見ていた事。出羽海、高砂、双葉山、羽黒山、平幕優勝の出羽湊…
そう言えば、函入りの「羽黒山」と書かれた本が実家にあります。父も昭和ヒトケタ生まれですから、同様に熱中していたのでしょうね。雀が柝の音好きなのは、子供の頃、TVの大相撲中継がつけっ放しだったからだわ、きっと。囀雀
* 懐かしい名前ばかり。ラジオの時代、相撲興行に一度だけ父に連れられ、吉田山の辺であったか大テント張りの中で土俵を遠くからみた。仕切り直しに退屈したのを朧ろに覚えている。あの頃は力士のしこ名だけで相撲の贔屓をしていた。名前というモノに深い関心をわたしは持っているが、例えば文士や画家達の、また昔の文人たちの雅号もそうだったし、力士の名や、役者の名乗りや、祇園の芸妓達の座敷名などから、また源氏物語の男女達の源氏名や、なにより皇室歴代の諡号からも、名前には不思議な美学と神秘に近いものを子ども心に感じていた。お相撲さんの名には、早くから感じ入っていた。双葉山、羽黒山、安藝ノ海、出羽海、玉錦、名寄岩、照国など。それからすると、今日の力士たちの名乗りには、願い下げにしたい醜いほどの名も少なくない。
2001 4・19 9
* 真に自己の実在=リアリティーに目覚め気づくことのない限り、生きてあること自体が夢で、実体はないと同じと、ブッダは言う。その通りに違いない。夢の一字はなにかしら美しい物事の代名詞めいて口にされてきたが、夢はたいてい悪夢か虚妄にすぎず、夢がほんとうに人間を良くした例は、よく吟味すれば絶無なのではないか。貪欲。瞋恚。愚癡。いずれはそこへ突き当たって、ただ醒める。安心は残らない。不安だけがのこり、目前に死が来ている。
わたしも人後に落ちず夢を書いてきたが、夢を頼みにしたり美化して書いたことはないつもりだ、虚妄そのものと見つめて書いてきた。
おもしろい、興味深い事実がある。日本の古典は多く夢を書いた。源氏物語はあれで実に少ないほうであるが、更級日記の著者は夢尽くしのように夢を書き込み、浜松にも寝覚にも夢を印象深く多用している。他の物語もまた、概ね然り。
ところが、夢の文字を一つも使わない有名な古典が「二つ」現存するのである。今は、明かさないが。
2001 7・7 10
* 電子文藝館がらみに諸要件が一時期輻輳するのはやむをえない。それは覚悟している。覚悟しながら、執着はしていない、一所懸命やるけれど、思うように進まぬ事はありうる。そんなとき、難しくは考えない、必ず不成功すら含めて成るように成って行くからだ。ことを急く必要はなく、ただ、何もしないで放っておく空白だけは作らぬ方がいいのである、ものごとは。成し遂げたいのであれば。
* ことを複雑に複雑にして行かない方がいい、簡明にはじめて、精緻にしあげてゆけばよい。基盤は大きく深く作っておけば、建物は分かりいい構造から進化すればいいだろう。
2001 7・19 10
* 昨日、鰻と酒とを肴に暫くぶりの対話を楽しんできた元の学生君は、公務員生活四年目のやがて二十九歳、独身。まだ三十に一年余もあましている。わたしは、その年、まだ作家ではなかった。やっと最初の私家版を作ろうとしていた、貧乏所帯に過ぎた出費であったが、娘一人を育てながら妻は一言も苦情など言わなかった。三十三歳半で受賞したとき、私家版をもう四冊出していた。
以来東工大を六十歳で定年退官した時まで、その三十年の間に、わたしの第二時代=壮年期は在ったわけだ、そしてもう三十年をこれから生き延びねばならないこの高齢化時代である。
三十歳までの三十年は、わたしの場合は満たされた準備期であった。幸せであった。次の三十年間に比べれば蕾の少青年期であった。六十歳過ぎてこれからの三十年は、ほんとうに苦しいと思う。壮年期の三十年間のように生きられるわけがない、少なくも生理的・肉体的に。社会的にも場は極端に狭められてゆく。
だが捨てたものではないし、捨てていいわけのない三十年と感じている。六十年生きてきた蓄積は確実にあるのだから、まるで「べつの表情」をもった老境のアクティヴィティが不可能であろうわけがない。笑い話のようなものだが、成功による名誉や栄誉を求める気持ちが白煙のように失せ果てているだけでも、どんなに気はラクだろう。力をつくして、しかも結果を求めすぎない。そういう老境に入っている。双六を上がったのではない、上がらないのでもない、双六そのものが失せたのだ。
「分かる人には言わんかて分かるのぇ。分からん人にはなんぼ言うても分からへんの。」
新制中学の昔に、一つ上の「姉」はこう教えてくれた。森毅のような碩学をも仰天させた、これは確かに達観でもあるが、ある種の危険思想でもあったとわたしは思っている。だが、概ね真実であったとも思う、六十五年を生きたわたしが今そう思うのである、ちょっと残念だが。
そして、今、この言葉を幼稚にもじれば、「成るものは自然に成る。成らぬものは、どうあがいても成らない」と。問題点は、ある。ここだ。ことの成る成らぬを、どんな時点やどんな事象が、われわれに、いやわたしに対して告げてくるのか、だ。
それを分かりも悟りもせず投げ出すのでは、愚かしく、それが分かるまでは、愚直に手を尽くして努めるべきであろう。
同じことは、先の、「分かる人・分からぬ人」に関しても言えると思うのだ、だから中学三年生の少女に過ぎなかった「姉」の明快な断定を、わたしは幾らか危険と感じつづけてきたのだが、その辺が、あんたは不徹底やと、もし幸いに顔の合う機会がこの人生に遺されて在れば、わたしは笑われるだろう、その人に。
2001 7・24 10
* スキャンしながら日本の歌をたくさん聴いた。なんでこんなにもの悲しい歌が多いのだろう。歌声に昔へ引き込まれるのは、わるい気持ちではないが、すこし警戒したくもある。プラトンが理想の「国家」から音楽を追放しようとした気持ちが、いくらか分かる。音楽によって動揺するものを人は胸の奥に隠している。人は、簡単に動揺する。
2001 7・31 10
メルマガだの息子の芸能界入りだのグッズだの何だのと、ひゃらひゃらした部分での小泉人気になど、わたしは、目もくれていない。大勢がどうっと駆け寄ってゆくことに正しいものは、まず無いのである。大勢がどっと寄る、それこそは普通うさんくさくて低級なものの証拠でもある。
2001 8・1 10
* 蒸し風呂に入るような二階へ、昼過ぎになって上がった。昼過ぎまで珍しく寝過ごした。むずかしい、夢を見ていた。
神さまから、としておこう。人生の早い時期に、意味もなく、一つの小さなピンを貰った。八ミリ四方ほどの黒いつまみの画鋲のようだったが、それを服のどこかに刺してくれた。わたしは、ほとんど意識もしなかったし、身につけているとも忘れ果ててながく生きてきた。わたしの夢中の人生は、多彩で、波乱にも内容にも運不運にも恵まれていた。その意味ではけっこう結構な歳月ではなかったか。しかも、その結構さに、わたしは好都合より不都合感を、清明よりは混濁を、宥和よりは窮屈を、静かさよりは騒がしさをどうやら感じ始めていた。何なんだ、これは。
そしてわたしは、初めて自分が身に帯びている黒いピンに目をとめ、それを抜いてみた。 すると、日々の暮らしが、多彩も波乱も運不運も落とし喪い、なんだが、ゆたゆたと有るとも無いともはっきりしないが、冴えないなりに晴れやかな、ものに追われないゆるやかに静かな時間空間にのんびりしていることに気がついた。いくらか物足りなかった。で、黒いピンを刺し戻してみると、また、ものごとが忙しく回転し始めた。ワッサワッサと生きている自分へ戻っていた。が、どうも、そんな騒がしさの底を流れている気分は、イイものではないのだった。いやな毒が感じられた。ピンをはずすと、みーんな忘れたように、ゆったり暮らしていた。
* 「黒いピン」の夢だ。わたしは、まだ、黒いピンを捨ててしまえていない。ときどき抜いたりまた刺したりしている。それが恥ずかしいことに思われる。黒いピンを抜き捨て去ってわたしは死ねるのだろうか。刺したまま死ぬまで生きるのだろうか。
2001 8・14 10
* 聴く耳のない馬に念仏を称える気はしない。聴く耳のためには語りたいし、自分も聴きたい。わたしが、高年齢対照のカルチュアーセンターを引き受けたくなく、喧しくて騒がしくても学生達には話したかったのは、若い彼らの方が明らかにじつは聴く耳を持っていたから、彼らの人生は今始まるから、であった。だが、若い人がみなものを聴こうとしているワケではなく、かなり早く耳をとじたがるようになる。と言うか、自分に都合のいい声を選り分けて受け入れるようになる。先日、若い歌人の写真歌集にこの場で苦言を呈したが、今日、「褒めなかったのはあなただけで、大勢が褒めて評価してくれました」と手紙を送ってきた。バグワンではないが、大勢がどっと均しなみに言うことは、どこか可笑しいというぐらいの気で、ただ一人の声にも耳をかす気がないと、自己満足にしかならない。自己批評。それが失せたり薄れたりしては、聴くべき耳はふさがるのである。
2001 9・5 10
* 「無知は罪」という言葉を人のメールで読んだ。そうだろうか。「知らぬが仏」というのは、おそろしく尊い表明でもある。半端な知識のほうが軽薄な罪をおかしやすい。なまじな知は、知性に反する。そんなところへ落ち込むまい。
2001 9・12 10
話は、いとも分かりよい。テロは許せない。アメリカの気持ちは分かる。だけど報復の先はどうなるの。ここでストップする。むずむずするような割り切れない撞着。だが、真実とはそういうものだ。きれいに割り切れるものに真実は宿っていない、それは真実の滓でしかない。撞着や矛盾があればこそ真実なのだ。人は目を背けるわけにゆかないのである。
2001 9・17 10
* 今は昔のはなしだが、ひとと歩いていて、路上に汚物があった。わたしは、黙ってひとを庇うように通り過ぎた。通り過ぎたところでそのひとが、「きたないわね」と言い、わたしは、黙っていてほしかった。きたないと聞いたばかりに、きたなさにまともに襲われた。言うて詮無いことは言わない方がいい。だが、それも、ものにより、ことにより、ひとによる。三猿で済まされぬこともある。言わずに済むことは言わない。潔い。ぜひ言いたいのなら黙らぬ方がいい。
2001 9・25 10
* ピュアーなものが、欲しい。自分から失われてゆくのがそれという懼れが、いつもあるから。だが、ピュアーとは、センチメンタルなものの意味でないことは、知っていなければならぬ。たとえば涙は、ピュアーの保証ではない。反射的な生理でもあり、涙もろさは何か価値あるものの保証ではない。お涙頂戴という批評語で人はそれに気づいてきた。感情のあふれやすいことは、人の善さとは何の関係もない。涙もろいが酷薄な悪人もいないわけでない。
2001 10・1 10
日本の詩の伝統はなんといっても和歌を基本に育ち、近代に入っても錚々たる業績が積み上げられている。或る意味では近代詩のそれより層は厚いし質も優れている。影響力からすれば、近代の短歌や俳句は、現代詩より質的にも勢力は旺盛なのではないか。藤村や晩翠や泣菫や有明の詩を読んで「感じ」られる人はもう払底しかけている、が、子規や晶子は生きている。左千夫・節、茂吉・赤彦・文明、また白秋や牧水や夕暮や空穂や迢空や、ひいては佐太郎、斎藤史らに至る豊かな短歌の「詩的」表現には、和歌世界を乗り越えてきた力強い魅力がある。日本語の詩人が真に底根ふとく豊かに詩の妙境をねがうならば、「短歌」「俳句」や、さらに「和歌」「歌謡」からの栄養をも、意識的に深く丹田に蔵してもらいたい気がする。短歌的な詩や俳句的な詩がよいと言うのではない。文化の素養は分厚い方がいい、把握と表現をつよくするためには。
2001 10・1 10
* つい先日、「いま、表現が危ない」というシンポジウムを、われわれの言論表現委員会主催で開きました。これは「いま、報道が危ない」の意味でつけた題でした。報道されていることと、その背後からの別の報道や情報を、幸いにわれわれの委員会や仲間達は、さすがにその筋のプロたちで、かなりえぐり出すようにして所有していますし、わたしのような何も知らない仲間にも分かち合ってくれます。いままさに「報道・情報」は、真実という点で「危なく」偏して流布されています。程度の差はあれ、いつの時代いつの時点・事件でも、実はそうでしたが。君が、そういう方角から、なにかを考え始めたのを喜んでいます。
その上で、わたしなど、「報道・情報」というものが、如何に表向き、如何に裏側にわたろうとも、所詮は「正しい正しくない」と謂った議論に耐えられるものでなく、相対化の視線や姿勢でクリティックしなければお話にならぬもの、割り切って謂えば、信じてしまってはならぬもの、と、久しい「歴史」にも教えられ、冷淡に距離を置くようにしています。所詮は人間のマインド(利害の分別)が作りだしている「幻影に近い事実」に即した情報であり報道であり、正しいも正しくないも、堆積する時間や時代の中で結局はルーズに「意味を変えてしまうもの」であるのは、当たり前の話です。少なくも「同時代情報」のもつ頼りなさの例は、歴史的に枚挙にいとまがない。その辺を、よく心得てかからないと、結局は、自分を見失って、「情報(に操作された)ロボット」になってしまう。
本質的には、情報も報道も「まぼろし」です。正しいも正しくないも、本当も嘘も、つまりは無いこと、まぼろしであったことに、どんなに多く気づかされてきたことか。深く生きる意義に照らして謂うなら、まさに「虚仮」に向き合っているのです、われわれは、日々に。しかも、そうと承知の上で付き合っています、そういう「虚仮の情報」と。便宜的に。
それが、わたしの思いです。
村上龍は現実の人です。現実は、真実をなにほども保証しないと識っているわたしは、聞いて面白いものは聴きながら、とらわれないでいます。
何が大事か、わたしにとって。やがて人生を幕引きする身にとって、大事なのは、現実の「我」をきれいに見捨てる、かき消す、ということです。地獄も望まないが天国も望まない。テロも戦争も、芸術も哲学も、虚仮であると思っています。そのうえで、日々を虚仮に楽しもうと。長く時間をかけた山折哲雄(宗教学)との対談『元気に老い、自然に死ぬ』春秋社が刊行になりました。大いに語っていますが、それとても虚仮であると分かっています。真実は言葉にすれば途端に真実でなくなる。それこそが、すべて偉大な人の知っていた真実なのですからね。 秦恒平
2001 10・12 11
* そういえば、今、わたしの身内でジンジンと何かをたぎらせているのは、三十四年も昔に書いた『清経入水』校閲の余韻のようだ。ほんとうの処女作ではないが文壇的にはまちがいなくこの一作でわたしは家の中から外へ踏み出した。その作柄は、たしかに世の常のものではない。だが、まぎれもなくわたしの創作する力が、若々しく漲っている。読み進むに連れて自分でも興奮してくるが、身の芯の深くに支えきれないほどの寂しいものも凝っている。「非在」のものに恋をしていた、わたしは。それこそが眞実在かも知れぬと心渇いて求めていた、それが、大嫌いな「蛇」のような「鬼」であろうとも。
2001 10・19 11
* 泥酔の泥とは、どろどろの泥のことだと思うだろうが、この泥とは、もともと、どろどろのどろのような「虫」の名前だと中国の本に出ている。拘泥の泥もそうである。
「清ら」「清げ」とは、ともにりっぱに美しい意味であるが、「清ら」にくらべ「清げ」はやや下り、二流のよろしさである。こんな微妙なところも古典では読み分けて行くと自ずから批評が見えてさらに興味深い。
2001 10・25 11
* なにもかも、どこかで有機的につなぎ合わされている。わたし自身のこのような毎日の思いも、また、つなぎ合わされたなかの一つの小さな結び目である。思想も人生もこうして形を持って行く。
2001 10・28 11
言うまでもないが、自分の内側に無量の過去世と人物達が同居している。架空の世間や人物もそこでは区別無く同居している。時間は直線の延長でなく、球体にとり包まれて渾然融和しているというわたしの時間感覚からすれば、そうしたものたちと「同時代の共存」にちかく感じ取れている。今の気持で言えば狭衣大将も倭建命も福沢諭吉も中村光夫も同じようにわたししの内側で語り合いながら生きてある。むろん、羽曳野も京都も湖北も比良も鈴鹿も、かと思えば釧路もノサップも、グルジアも、紹興も、みなそのように同居してある。昔とか遠方とか言うものが、今や此処にかなり包摂されている。それがあるから、日々の少々の動揺や混乱や違和でキレるようなことは無くて済むのだ。ナンジャイと片づけてしまうのである。
* 歴史や歴史上の人物、亡くなった人達と、つき合いがあまりに少なく、むしろ断ち切られ裁ち落とされているのが、若い人達の、いや多くの人達の日々であるように、昔から感じてきた。あんなことでは索漠としないかしらん、ようやれるものだと、不思議ですらあった。
明治以降の作家や詩人達の多くが、その歩みのあとが、同じ道に歩んでいる人達からも当然のように多く裁ち落とされ忘れられている。それで構わない、自由な処世である。そのかわり、そういう生き方では批評のものさしもひどく貧相にしかもてないだろうなと思う。事実、そうなので、手近なお互いの理解だけでかるく一丁アガリに決めている。自己批評の厚みが段々薄くなり干上がってくるのは、当然だろう。時間をただ直線のようにしかみていないのだから、まさに過去は過ぎ去ったものでしかない。過去や過去の人・業績をも、同時代、同時代人のように親しめる力が、時間観が、無いからだろう。「文藝館」の発想には、一つの球空間のなかで平等に明治から平成までの作者達に、作品を手にして同居してもらおうという意図もわたしは持っていた。昨日の宴会で、二人の小説家から、自作と物故作者の作品群とのある「落差」「異質」を告白されたとき、ああ、これでいいのだ、こういう意識が広く生まれてくるのが大事で貴重なことだと思った。
2001 11・27 11
* インスピレーションが湧かなくて仕事が出来ないと嘆いてきた人がいたので、返事した。「インスピレーションはかき立てても待ち望んでも来ず、忘れていると突如来る意味で、悟りのようなもんです。悟ろう悟ろうとしても悟れるはずがないように。インスピレーションのことなど忘れ果てて没頭する、燃焼するほうがいい」と。悟りたくての苦行など、ノンセンスとは言わないが、何の役にも立たない。要するに朦朧として悟りへの渇望を忘れていたい算段に過ぎない。それほども腐食性の強い自我の欲望なのである、悟りたいとは。インスピレーションに期待するのも同じで、一つのニゲである。来るものは来るし、待っていても来るわけがない。
2002 1・15 12
* 騒がしい。これは、醜いとか、きたないとか、ひどいとか云われるのと同義語に近い、手厳しい批判であった。静かに清いものは、美しく豊かである。静かとは、動きのないことを云うのではない。動くものもまた深い静かさを湛えていることは、大河の流れはやいのを観てもわかる。鳴り物が騒がしいわけではない、みごとなシンフォニイをだれが騒がしいと批評するだろうか。騒がしい人がいる。弥次喜多は騒がしい。おかしいから笑わせてもらうけれど、あの騒々しさは願い下げにしたい。だが、そういう人物を創作していた作者の心事は、必ずしも騒がしかった限りではないだろう。存外に寂々しいものを抱いていたのかも知れない。騒々しいも寂々しいも同じ「そうぞうしい」という読みである。逆転の機微のあることを昔人は知っていただろうと奥ゆかしい気がする。
2002 1・21 12
* こういうメールをもらった。嫌な気分を和らげられるのが有り難い。公よりも私の一人一人が堅実に幸せに成り、知性に溢れて、の日本を「私」の国にしたいものだ。日本の「公」は、政府も国会も、雪印のような大企業も、腐りかけている。一人一人の「私」が優れた民衆力をもって日々に堅実に生きられるように「公」を駆使するのでなければならない。「公」のために「私」が在るのではない、幸せな「私」を可能にすべく「公」こそが「私」に奉仕するというのが当然のことだ。
2002 1・30 12
* 徳、孤ならず。そう聴いた。わたしは、昔からこの教えに懐疑的である。孤独な人は徳がないのか。わたしは、時には逆さまに感じてきた。不徳にして不孤、とわたし自身を律したこともあった。真に徳高きは、むろん尊い。しかし、汚らしいほど如才ない、真実は悪徳と異ならないかたちで身の周りににぎやかに人を寄せた徳人の多いことに、わたしはイヤ気がさした、今もそうだ。そんな意味でなら、いっそ世間の目に不徳と見えようが構うものかと思ってきた。
孤独と孤立とはちがうだろう。孤立しないように。しかし孤独には本質・本真のヒヤリとした美味がある。
「強くなりたいです」という声に、わたしはシンとする。わたしも強くなりたかった。強くはなれなかった。バグワンに出逢って、だが、わたしのよわさは、よほど鍛えられた。強くなどなろうとしなくていいのでは。エゴだけを育てて終いかねない。
* 両手両足を車輪のようにふりまわして行動しているように、わたしは、見えるだろうと想う。事実わたしは、自分のしたいことをそんな具合にし続けてきたし、今もしつづけている。滑稽なほどしつづけている。
だが、自分のしたい目的、例えば「電子文藝館」自体にはなにか価値があるであろうけれど、それに熱心に「従事している」わたし自身の行動自体には、何の価値も無いこと、少なくもそれに自分は価値を置かないこと、を、当然と思っている。
人間は、およそ、どうでもいいことばかりをしている、毎日。生きる上で不可欠なのは、飲食と睡眠。それ以外はほんとはどうでもいい。どうでもいいことを、どう「して」生きるか、どう「しないで」生きるか、それが人生だが、そこのところに生き方の差が現れる。鈴木宗男のような生き方がある。老子のような生き方がある。「なんじゃい」と思い棄てられる生き方もある。「しがみついて」放さない生き方もある。どっちの生き方のために「強くなりたい」か、が問題なのだ。 2002 3/19 12
* 作業しながら、昼にはトム・ハンクスの「プライベート・ライアン」に感動した。夜はジュリア・ロバーツとデンゼル・ワシントンの「ペリカン文書」を、もう十度も見ているだろうに、緊張して、面白く見た。ま、見たと云うより聴いていたのだが。いい映画だ。「プライベート・ライアン」にせよ「ペリカン文書」にせよ、これほどの映画作品なら、どんな端役で出た人でも誇らしいであろう。作品とはそういうものであらねばならぬ。
わたしが、作品というのは、AとかBとかいう結果そのものを謂うのではない。それは「作」なのだ。「作品」とは、その AとかBとかの「作」が身に体し帯びている「品位」という意味、「気品」という意味だ、「作品」があるかないか、それが問題なのだ。優れた作には作品がある。優れた人に人品や気品があるように。
2002 3・30 12
* 男は女はというおおまかな議論は好きでない。男にも女にもいろいろな人がいる。ほんとに、いろいろな人がいる。会社員だったむかし、「男は嫌い・女ばか」と、ま、思っていた。「女ばか」とは「女好き」の意味で、裏返せば、聡明でなく「かしこがる=我は顔の」女は嫌い、という意味だった。「男は嫌い」とは、男同士は、いやでもいろんな場面で競わねばならなかった、それが気重だとの意味であった。
男の場合、「ごますり」と政治家の国民無視だけは、断然嫌いである。ほかは、たいてい目を背けて済ます。つまり、他は、たいてい、その場になれば自分でもやりそうだから。
男にしろ女にしろ、これと、決めつけられる物でない。自分で自分を「うそはつかない」の「善人である」のという人がいたら、男でも女でも、とても、好きになれない。そんなことは、他人が言うことだ。人はふつううそつきだし、十人に九人以上は善人などと言えはしない。せめては、見え透いた言い訳はしないようにしている。
2002 4・28 13
* まだ松緑「勧進帳」の気迫がわたしのなかで余韻を響かせている。先輩や玄人からみればむろんまだまだぎくしゃくがあったろうし、流暢ではなかったかもしれないけれど、感動を与えるのはそういううまみだけではないことの、あの「勧進帳」はみごとな一例であったのだ。うまければいいなら、技術の問題であるが、藝術・藝能には、力がいる。力とは、時に誠意であり、時に無心であり、時に熱血である。松緑の弁慶にはその三つともが生きていたとわたしは観た。だいじなことだと思う。
2002 5・9 13
* 基本的にあなたの姿勢は紳士的で不満はありません。しかし不安はあります。
恋はエネルギーですから、爆発的に強烈であれば、現在の幸福が、経緯はともあれ過去を凌駕するものです。あれやこれや「相対化」がされているとすれば、双方の恋の温度が高まり得ないまま、なんとなくお互いに「思いやり・やり」つき合っているのかと思われますが、まま、こういうつきあいは、温度の冷え行くに任せて消滅することになりやすい。そこが不安です。紳士淑女の恋も恋ですが、恋は危険なエネルギーであるところに魅力も真実もある。
タクラマカンを二人で見てくれるのはいいと思います。当日で入れなかった例は以前にいくらもありました。小劇場ですから。無駄足をおそれるなら前売りがいいでしょう。
この時代です。過去を清算しきれないまま生きる男女がすべてとすら言えるでしょう。それを乗り越えて行ける現在の熱、それがすべてでしょうね。自分を殺した妙な思いやりや紳士的な遠慮が、彼女をかえって冷えた不安に湯冷めさせている原因かも知れないのは、念頭に。
2002 5・20 13
仕事というボールは、握っていたら埒があかない。仕事は捗らない。向こうへ向こうへ投げ返さねば仕事に成って行かない。
2002 5・21 13
* わたしの一番若い友人の読者君は、変わりなく溌剌としている。いい恋もいい自由も身につけて欲しい。彼も言うように学生を一般論で見下げてもらっては困る。また見下げられて萎縮されても困る。世の中をほんとうに刺激し動かしてゆくのは、政治家よりも学生であるような時代が来て欲しい。二十歳になれば、若いの何のというハンデをへんに意識しないで力を蓄えて欲しい。蛮勇も、許される時期がある。あまりに佳い意味の蛮勇がすたれて、自棄の暴力や無気力な逸脱ばかり。乗り物を暴走させて迷惑をかけていたりする、あんなのは臆病と未練の裏返しに過ぎず、時代を沸騰させるエネルギーとしての蛮勇でも何でもない。
2002 6・10 13
* 恋がうまくいかないので、自分の気持ちに締めくくりをつけるため、けりをつけるために彼女に逢うという。青年よ、止めた方がいい。恋はフェイドインで始まり、もし終わるしかないなら、フェイドアウトが自然。少しでも懐かしい佳い記憶を大事にしておくためにも。
2002 8・31 14
捜すといえば、人生はあてどない捜し物の連続で、この先もまだ捜す気かと我と我が身をときどき嗤ってやる。暢気にしていよ。すくなくももう過去を捜すな、未来にまだ隠れた何があるかは知らないが、できれば「今、此処」をありのままに捜すがよい。
2002 10・7 15
噂などというのは、おもしろづくに下卑てゆくものだ、三昔近くもたっているが、今にしてお気の毒さまと思うばかり。
2002 10・23 15
言葉は、言葉の意味だけで訴えるのでなく、発せられる情況と発する誠とで響く。言葉で生きる者はそれを心得ていたい。
2002 10・29 15
なにか「伝えずにおれないもの=モチーフ」を力強く持った作品は、映画でも、小説でも、毅い。
2002 11・1 15