ぜんぶ秦恒平文学の話

湖の本について

創刊 の弁 第一巻「定本・清経入水」巻頭に

友人であり多年の読者でもある石川の井口哲郎氏より、「帰去来」の印をおくられ た。「帰りなんいざ、田園まさに蕪れなんとす、なんぞ帰らざる」と陶淵明は『帰去来辞』に志を述べた。「雲は無心にして以て岫を出で、鳥は飛ぶに倦んで還 るを知る。」いまこそ、親しんだこの詩句に私は静かに聴きたい。
文学と出版の状況は、ますます非道い。良い方向へ厳しいのでなく、根から蕪れて風化と頽落をみずから急 いで見える。
幸い私は、この十数年に都合六十冊を越す出版に恵まれてはきたが、また、かなりの版がもう絶えてもい る。その絶えかたも以前よりはやく、読んでいただく本が版元の都合一つで簡単に影をうしなう。数多くは売れないいわゆる純文学の作者はあえなく読者と繋が る道を塞がれてしまう。私は、「帰ろう」と思う。
もとより創作をさらにさらに重ね、機会をえて出版各社から本も出し、商業紙誌にも書いて行くことは従来 と変りない。が、もともと私家版から私は歩き出した。今、私にどれほどの力があろうとも思えないが、望んでくださる読者のある限り、その作品が本がなくて 読めない…という事だけは、著者の責任で、無くしたい。「帰去来」の思いを心根に据えて、ていねいにこの叢書を育てたい。
読者は作家にとって、貴重な命の滴である。その一滴一滴が、しかも、たちまちに大きな湖を成すことを信 じて作家は創作している。作家と作品とは、そのような母なる「うみ」に育まれ生まれ出る。
本は、簡素でいいのである。版の絶えている作品の本文を正し、時には新作にも必要の場をひらき、そして 紙型を手もとに本の常備をはかりたい。作者から直接に(出費を願って)読者へ、また、読者から直接に(作品を求めて)作者へ、もっぱら口コミを頼みに、可 能な限り年に二、三冊。「創作」の自由と「読書」の意志とがそうして細くとも確かに守れるのなら、そこへ、私は「帰ろう」と思う。久しい読者との、さらに は新たな読者との重ね重ね佳い出逢いを願わずにおれない。
昭和六十一年 (1986年) 桜桃忌に     秦 恒平

エッ セイ叢刊の弁 第一巻「蘇我殿幻想」巻頭に

「私にどれほどの力があろうとも思えないが、望んでくださる読者のある限り、その作 品が本がなくて読めない…という事だけは、著者の責任で、無くしたい。」そう書いて、ちょうど三年前に、小説・戯曲シリーズの『秦恒平・湖の本』を刊行し はじめた。その「刊行の弁」に私は、こうも書いていた。
「読者は作家にとって、貴重な命の滴である。その一滴一滴が、しかも、たちまちに大きな湖を成すことを信 じて作家は創作している。作家と作品とは、そのような母なる『うみ』に育まれ生まれ出る」と。
この三年、言うまでもないが、私は孤独ではなかった。刊行の作業は予想を超えて厳しいが、どれだけ多く のご支持に支えられて来たことか。それは、無謀とさえ見られた『湖の本』がすでに三年・十二冊を送り出し、幸いに今後の継続を可能にしているばかりか、あ らたに『湖の本エッセイ』の刊行もごく自然の流れで、読者に待たれるようになった事実が証ししている。感謝にたえない。と同時に、このような、いわば悪戦 苦闘に内在し潜勢している「批評」的意味を、すくなからぬ方々が察してくださるのだと思いたい。けっして「湖」が広くなったとは、言わぬ。しかし、深く なっている。「念々死去」(井口哲郎さん印刻・裏表紙)は、即ち「念々新生」と。よい繰返しの一度一度を、一期を賭して繰返したい。
これからは、「小説」のシリーズに「エッセイ」のシリーズが伴走することになる。私のエッセイは、小説 と両翼を成している。それも読者は、よくご存じであった。既刊の数多いエッセイ集を、長編以外は、すべて傾向に応じ「感覚」的に再編集して、まとまり良 く、読んで楽しいものに造りたい。それでも「エッセイ」の増刷は望み難い。初刷本が、たぶん最後本となろう。
平成元年(1989年) 桜桃忌に        秦 恒平

湖の本エッセイ「20巻」到 達の弁 「死から死へ」巻頭に

創作シリーズが42巻に、そしてエッセイシリーズも20巻に達した。夢のように思われる。支えて下さった読者のお蔭というしかない。心より御礼申し上げ る。
御礼の気持ちをどう表現したものかと思った。
そんなときに、兄北澤恒彦に死なれた。父母をともにしたただ一人の兄であった。われわれは生まれながら に両親をはなれ、それぞれに他家に生い立った。わたしが兄に初めて逢ったときは、すでに齢四十半ばであった。その兄が、昨年十一月二十二日に自らの人生を 自ら閉じた。わたしは予感しながら阻むことができなかつた。阻もうとしなかった。まさに「死なせ」たのである。兄は知る人ぞ知る、京都に根をおろした市民 活動家であった。
一九九九年は、まことに多く「死なれ」た年でもあった。七月二十二日に知った江藤淳の処決には、ことに 心乱れた。兄ほどの、同世代の文学者だった。
「死から死へ」この四ヶ月を、わたしは、どう「生きた」か、それをエッセイ第20巻にありのまま記録して みることで、「死なれ・死なせ」ながら「生きて」行くものの日々の思いを示したい、そんなことは、もう此の機会を措いて無いと思った。ホームページに書下 ろしの、それも記念の、かなり大冊になるが、どうぞ御覧下さい。
二OOO年 立春          秦  恒 平

* エッセイ第二十二巻『能の平家物語・死生の藝』が、平成十三年三月に刊行され、鈴木信二氏撮影のみご とな口絵「十六」も添えて、いま、たいへんな好評を得て、読まれています。能が、どんなふうに平家物語のいろんな異本を利して創り上げられていたかを、著 者の息づかいのままに語りおろしていますし、十六編のエッセイも能の本質にせまって尖鋭に筆を用いています。ぜひご覧下さい。 送料とも、2000円。

* エッセイ第二十一巻『日本語にっぽん事情』が、NHKK「ブックレビュー」に採 りあげられるなど、非常な好評で新しい読者を増やすことが出来ました。著者が自信の「日本語と京ことば」の論考に加え、「日本語で読む・書く・話す」事に 関して刺激的な発言をしています。著者六十五歳、湖の本通算六十五巻の記念の一冊になりました。

* 創作第四十三巻『もらひ子』第四十四巻『早春』が、すでに平成十二年中に完結 し、第四十二巻『丹波』とあわせて大きな『客愁第一部』をなしていました。かなり異色の生い立ちから、敗戦後の新制中学二年生夏まで、幼少来、青春前期ま での、克明な、記憶に基づく記録です。今書いておかないと忘れてしまうという強い動機で書いています。

* 創作第四十二巻に『丹波・蛇』を、平成十一年十一月末に、刊行しました。前者は 敗戦前後のいわゆる疎開生活に焦点を結んだ自伝の一部を成します。この少年時代の二十ヶ月が、作家生活への基盤とも推進力ともなったことの自覚を動機にし ています。後者は「丹波」と深く連携して作者の思想形成に寄与した、じつに重い主題を、敬愛する泉鏡花論に重ね、金沢市での石川近代文学館主催講演会で話 した周到な講演録です。併せて異例ですが「参考」となる妻迪子の「姑」一編を敢えて加えました。意とするところを、作品によりお汲み願います。

* エッセイ第十八巻に『中世と中世人一 、中世の源流』を、第十九巻には『中世と中世人二、日本史との出会い』を、刊行しています。好調に注文も入っています。

* 予定を変更し、創作シリーズの第40 41巻に『迷走』三部作を刊行しました。三一書房の経営争議と いい、中央公論社の身売りといい、電子書籍コンソーシアムの動きといい、出版社また出版の在りよう、本の本質的な形が変容して行くらしき成り行きなど、い ろんなことが刺激的に起きています。そんなときに、あのオイルショックの一九七四年、私が二足の草鞋をぬいだ年、あの年の大争議に壊滅的に揺れた一出版社 の迷走を、編集管理職の目から書いた、「展望」連載の三部作は、かなりの意義をまたも今日に対して持ちうると思ったからです。師走早々に上巻、年明けて早 いうちに下巻を送り出します。まず「亀裂」では、指導的な学者による研究論文偽装の不正に巻き込まれ行く編集者の苦渋を、次の「凍結」では、中間管理職が 上から下からのしめつけに遂に課長組合を願望してゆく珍な悲喜劇を、最後の「迷走」では大春闘の渦巻に潰滅的に叩きつぶされる管理職たちのはかない右往左 往を、著者の実体験のままにありありと再現しています。歴史的ないわばこれは今日へ問いかける証言小説です。
労組の指導者諸氏、管理職諸氏、労働者諸氏の一読を願います。

* 創刊十五年余、もろもろの回想や奮戦の記を、かい摘み、「読み物」「参考」ふう に、此の章の末尾に随時書き次いで行きます。

* 小説も、エッセイも、一冊が二千円(送料100円含む)です。送金がありしだ い、既刊の六十八巻、ご注文ご送金があり次第、即日、指定の宛先へ郵送いたします。(発行者 秦宏一)
* 郵便振替  「湖(うみ)の本」版元   00140 – 8 – 168853

* 湖の本 要約

1 『湖(うみ)の本』は、秦恒平による既に入手しにくい作品、版の絶えている小説 作品を主として、年に四、五冊、同じ装丁の簡素な形で順次刊行します。新作や戯曲を加えることもあります。長編に限って上中下などに分冊し、間隔をややつ めて詰めて刊行します。べつに、エッセイ・批評のシリーズも、継続刊行しています。一冊の分量は優に市販単行本に匹敵しています。発行者、秦宏一。
2 「読みたい本が、品切れ・絶版のために読めない」ということの無いのを、なによりの原則とします。
3 既刊の作品を読もうと思って下さる読者は、住所・氏名・電話番号・作品名と希望の部数を明記し、郵便 振替を利用して送金の上でご注文ください。
4 以後、継続配本をご希望の方は、「継続して」とお示し願います。その旨をすでに伺ってきた方々には、 刊行のつど、きちんと配本しております。
5 創作・エッセイとも、現在の刊行時頒価は、各一冊「二五00円」「送料一00円」です。第二刷以降の 創作①~④は「二000円+送料」ですが、初期在庫本には「一三00円」の巻が多く、現在では、著しく割安になっています。残部が少なくなっています。初 刷のうちにご入手をお勧めします。全巻揃いは、珍しい蔵書になります。
6 「継続して」ご予約、またお親しい「いい読者」をご紹介いただければ幸いです。
7 表紙絵は、このホームページ表紙に左右にならべた城景都氏の名作を、氏のご厚意により用いています。 右 が創作シリーズの、左がエッセイのシリーズの表紙絵です。

* 既刊 創作シリーズ

(現在は第106巻まで。
各巻末に率直な「作品の後に」が付く。)

1 清経入水(定本・校異 第三刷)  第五回太宰治賞作品。「まずもって第一等」と、井伏鱒二、石川淳、臼井吉見、唐木順三、河上徹太郎、中村光夫ら選者一致で推された異彩の幻想。「展望」昭 和四四年八月号。(2000)
2 こヽろ(戯曲・漱石原作 第二刷) 加藤剛主演・俳優座公演の為に書かれ超満員の客を呼んだ。漱石原 作を 蜥_に批評して熱い議論を招いた「読み」に、著者原質の「身内」観が迸る。昭和五六年春、書下ろし。(2000)
3 秘色(ひそく)・三輪山(第二刷) 動乱の近江大津京に、古事記悲恋の三輪山に、千年の時空を駆け て、現代を旅する寂しさに不思議の虹をさしかける、歴史のロマン。受賞第一作「展望」と、「太陽」に初出。(2000)
4 糸瓜と木魚(第二刷) 正岡子規と浅井忠との一期の親交を、一点のスケッチ画から手さぐりしつつ、胸 に刻まれた少年の昔の恋を検証して行く語り手が、必然、小説家に育ち行く。「すばる」に一挙掲載。(2000)
5 蝶の皿・青井戸・隠沼(こもりぬ) 妖しくも美しい支那の皿、朝鮮渡来のみごとな井戸茶碗、また魅惑 のマジョリカ。陶磁の美にひかれて渦巻く人間の愛と感動。前二作は「新潮」に、そして「太陽」に初出。(1300)
6 廬山・華厳・マウドガリヤーヤナの旅 美しい小説、美しさに殉じた小説と芥川賞候補に推された代表作 の一つ「廬山」他、説話の妙味の仏教文学。「展望」「文芸展望」「あるとき」に初出。(1300)
7・8 墨牡丹(上・下) 最高の日本画家、村上華岳の愛と精進との画生涯を、国画創作協会の俊英らとと もに、批評豊かに清明な感動を乗せて描いた芸術家小説。第六章百枚を書き下ろし完結。「すばる」昭和四九年秋に一挙掲載。(各1300)
9 慈子(あつこ)(上) 徒然草の世界へ惹かれつつ、不思議の泉涌寺来迎院の一家に迎えられ、愛される 青年。少女慈子との、歴史の時空を超えて結ばれて行く「身内」の愛と激情。絵空事の真実を問うて時空交錯の独自の創作手法も、注目を集めた。昭和四五年書 き下ろし、筑摩書房刊。(1300)
10 慈子(下)・月皓く・底冷え もっとも多く深く読者を著者の小説世界へ誘い入れ、愛と美と倫理の悠 久を問いつづけた「慈子」ほか、魅惑の京都を描く美しい短編。「すばる」等に初出。(1300)
11  畜生塚・初恋 結婚とは何なのか。真の身内、運命をわかち合う愛の可能を夫なき女と妻ある男はど う探り、るのか。京の風土に培われ絵空事の真実が光る。ともに絶賛を受けて「新潮」昭和四五年二月号と「あるとき」 に初出。(1300)
12 閨秀・絵巻 植村松園を書き切って亡き吉田健一の破格の絶賛時評を得た「閨秀」と、源氏物語絵巻の 成立のかげに保元の乱を孕んで傾国の恋の渦巻く「絵巻」。「展望」および「海」に初出。(1300)
13 春蚓秋蛇(掌説・短編集) わずか四枚に揺るがぬ小説世界を構築し息つがせず二十七篇を連ねた掌説 集
「鯛」と、雨月を慕う短編「於菊」「孫次郎」「露の世」。「海」に初出および「芸術生活」に連載。 (1300)
14・15 みごもりの湖(上・中) 新潮社新鋭書き下ろし作品。名作の名をもって高い評価を受けた。湖 国を舞台に恵美押勝の乱に生きた悲運の皇女東子と、山中に姉を喪った女子大生とが紡ぐ、時空交錯の「死者の書」。その構成の妙が大いに迎えられた。昭和四 九年九月刊行。 (各1300)
16 みごもりの湖(下)・此の世・少女 人が人に死なれ人を葬る切ない意義。著者独自の、時空を深く大 きく微妙に編み上げて行く手法が、主題の切実さとあわせ、注目された。作中作「此の世」習作に併せ、小品ながら印象深い処女作「少女」を収録。 (1300)
17 加賀少納言・或る雲隠れ考・源氏物語の本筋 紫式部集を締め括った謎の「加賀少納言」は、ロシア語 の 日本短編選にも採られ、手練れの読み手を堪能させた。本文なき雲隠巻を人渦に描く、京の旧家。魅惑の源語取材に、著者縦横の表現が楽しめる。「太陽」 「新潮」「文学」初出。 (1300)
18・19 風の奏で=寂滅平家(上・下) 平家の最初本はどう成立したか。一門に死なれ多くを死なせた 女院徳子と祇園の女將徳子とを打ち貫いて、芸と芸人との根の哀しみを奏でる現代と歴史との合奏叙事詩。古典に対する 著者独自の深い読みの魅力が平家研究 者の間でも評価を得た。「歴史と文学」に、二回分載。(各1300)
20 隠水の・祇園の子・余霞楼・松と豆本 妻ある男と夫ある女との「もう一つの結婚」が、可能か。大胆 に美しいと驚かせた問題作。短編の名手永井龍男の絶賛を得た書き下ろし「祇園の子」に加え、京言葉のままリアルに 書かれた微妙な犯罪心理篇も。「海」 「太陽」などに初出。(1300)
21 四度の瀧・鷺 独擅場のエロスの夢に根のモチーフが絡んで。壮烈な袋田大瀧、四季に訪れたい四度の 瀧に秘めた、常陸国風土記の疼き、日本の疼き。著者五十歳の記念に豪華に美しく一読者の手で出版された書き下ろし作品の復刻に加え、文芸誌「ASAHI」 創刊に寄せた、奈良松屋三名器の謎が、もの畏しく渦を巻く凄艶にエロチックな幻惑。(1300)
22・23・24 冬祭り(上・中・下) 東京・中日・北海道・北九州・神戸・河北新聞等に同時掲載の連 載長編。ロシア の黄金の秋から冬の気配の京都へ。民俗の不思議と魂のエロスとを宿す凄絶な愛の行方は。数千年の根の哀し みに、美しいヒロインは死を賭 して極限の命を生き抜く。 (各1800)
25・26 秋萩帖(上・下)・夕顔・月の定家 十世紀宮廷の一閨秀を愛して、国宝秋萩帖の秘密に千年を 彩なす恋。後撰和歌集の歌人を現代の京都に生き交わす不思議の京女。雑誌「墨」に連載。また源氏「夕顔」巻の背後 に入水死の美女を追う、寂しい大学教 授。俊成・西行の薫陶を胸に百人一首を撰ぶ老定家。いずれも北嵯峨の 風光に奏でる無限思慕の三篇。「中公文芸」「太陽」に初出。付録に、歴史小説論「虚 像と実像」も。(各1500)
27 誘惑 人と人が出逢う・知りあう・愛しあうとはどういう「関係」なのか。小説が小説を抱きこみ、何 が事実で何 が真実なのかを問いつめる。虚構のトリックが幻惑する、奇妙にねじれて、なまめかしい純な不倫愛。独自の「身内論」に貫かれ、方法的な意欲に 溢れた問題作。「すばる」に初出。(1500)
28・29・30 罪はわが前に(上・中・下)・或る折臂翁 娘に語る、真の「身内」を求めた三姉妹と の、初恋。飾らぬ筆致で痛切に描く起承転転の愛。書き下ろし筑摩書房刊。また著者幼来愛読の「反戦白詩」を簡潔な文章に託し た異色の処女作、ここに作家 の根が見える。( 各1500)
31 少年(歌集) 高校時代をピークに少年期の短歌を自ら編み、何度も版をかえてきた。清潔な抒情にこ められた初々しさと的確な表現で代表作の一つと評価され、現代百人一首(岡井隆撰)にも採られている。歌論エッセイ 『歌って、何!』(湖の本エッセイ 11)と同時刊行。上田三四二、竹西寛子の、歌集と歌人に寄せた文章とともに、歌詠みでもあった生母への鎮魂の文も併録。(1500)
32・33・34 北の時代=最上徳内(上・中・下) 間宮林蔵より遙かに早く、老中田沼意次による天明 蝦夷地調査の最初から、幕府北方政策の事実上の主軸として卓越した業績をあげつづけた、学殖豊かな探検家の生涯を、現代の一作家とふしぎな一少女とが、あ たかも同行し対話しつつ検証して行く、特異な手法を駆使した歴史・現代長編。後に書いた新井白石とシドッチの長編と対を成し、日本の近代の幕明きを見据え て、岩波の「世界」に長期連載された意欲作。 (各1900)
35 あやつり春風馬堤曲 蕪村を卒論にえらんだ女子大生が、指導教官ならぬ「作家先生」にあやつられた よう に書き送りつづける、克明で大胆でエロチックな蕪村論考の書簡。丹後の海に壮大に透けてみえる日本の根を予感しながら、無言の男は可憐の少女をどこ へ誘い込むのか。湖の本のために書き下ろした新作。(1900)
36 修羅・七曜 謡曲の題をとり、指定された美術品に触発され、かつ現代に取材した人間修羅の業を、正 確に 原稿枚数を揃えて連載せよという雑誌「なごみ」の依頼に応えた、趣向縦横の短編小説集。挿し絵入り。加えて、木にはじまり火におわる七曜の別に応じ た、華麗な幻想の掌説七話。(1900)
37・38・39 親指のマリア=シドッチと新井白石(上・中・下) 京都新聞の朝刊連載小説。六十余年 ぶりに潜入 したローマ司祭シドッチと碩学にして高邁な詩人政治家新井白石との、小石川切支丹牢における「一生の奇会」を、世界史的な背景のまえで感動豊 かに描き切った歴史小説。シドッチの運命を支えた長助、はる。白石の意欲 と識見を支持した老中間部詮房や長崎からの三通詞。「かくありし」を超えて深く 「かくあるべかりし」人間劇を通じ 近代開幕のバトンを、将軍吉宗に白石は託した。(各1900)
40・41 迷走(三部作 亀裂・凍結・迷走) 専門書出版社の中間管理職たちの労使のはざまに描き出す 笑えない喜劇的な悲歌。著者には珍しい私小説であり、1974年の歴史的な大争議の一角から挙げた悲鳴の証言録である。著者はこの年の八月末、退社して二 足の草鞋を脱ぎ、以後創作生活一筋の日々に転じた。「編集者」を主人公とする当時ではまことに珍しい作品と批評された。(各1900)
42 丹波・蛇・姑 「丹波」は敗戦前後のいわゆる疎開生活に焦点を結んで、自伝の一部を成す。この少年 時代の二十ヶ月が、作家生活への基盤とも推進力ともなったことの自覚を動機にしている。「蛇」は「丹波」と深く連携して作者の思想形成に寄与した重い主題 を、敬愛する泉鏡花論に重ね、金沢市での石川近代文学館主催講演会で話した周到な講演録である。併せて異例だが「参考」に、妻迪子の「姑」一編を敢えて加 えた。(1900)
43 もらひ子 「丹波」への疎開生活以前、誕生このかたの記録および敗戦後に丹波から京都へ帰るまでのすべてを語る。(1900円)
44 早春 戦後の小学 校、新制中学への青春前期を語る。(1900円)
45 ディアコノス=寒いテラス ・ 無明  愛は可能か。いわゆる障害者少女の容赦ない闖入に動転し翻弄される家庭を描いて、深刻な問題提起により衝撃を与え た書き下ろし作品と、人間の暗部を剔るように暴いて見せた旋律の掌説集。(1900円)
46 :懸想猿(正続) 書き下ろしシナリオ
47 なよたけのかぐやひめ・他
48 49 お父さん、繪を描いてください 書き下ろし
50 51 逆らひてこそ、父 上下巻  書き下ろし
52 自筆年譜 全書誌 小説二篇(けい子 ひばり)
(以下 エッセイ巻を含む 通算「100」巻以降の巻数となる。刊)

101 凶器 書き下ろし 2800円
103 私 随筆で書いた私小説      以下、現在=2016.09 通算 第131巻まで刊行済み 以下続刊

* 既刊 エッ セイシリーズ

(各巻末に忌憚無い「私語の刻」が付く。)

1 蘇我殿幻想・消えたかタケル 千葉県の久留里に、弘文天皇陵かと伝えられた古墳 がある。弘文帝は壬申の乱に滋賀県の近江大津京で敗死し御陵もある。異様なこの齟齬を起点に、大化改新前夜から昭和に至る或る 一筋の伝承の不思議を、事 件と人物と場所を綯うように解くように操って飽かせない、歴史幻想。「ミセス」連載。著者エッセイのいわば処女作は古事記に視線をあてなから、すでに日本 史への基本の姿勢を見せている。昭和 四四年「芸術生活」に初出。(1300)
2 花と風・隠国(こもりく)・翳の庭  花と風との二文字を縦横に読み込みながら、平安古代から中世への流れを文化の素質に即して批評的に解いて行く。文芸としての批評、作家の批評を意識して磨 いてきた著者の代表的な文章。雑誌「春秋」に二年連載。「隠国」は以後の民俗学的な創作の姿勢を先取りした初期の批評。「婦人公論」に初出。「翳の庭」は 毎日新聞社の豪華本『坪庭』を飾ったエッセイ。(1900)
3 手さぐり日本ー「手」の思索 著者により初めて名付けられた、日本語のうちの「からだ言葉」ーー。な かでも 「手」に熟した言葉ーー「手加減」「手ごたえ」「上手・下手」「手を出す」「相手」「勝手」「手順・手続き」などーーは、殊に数多く、その含蓄は 豊かにまた厳しく日本と日本人とを示唆してあまりある。雑誌「技術と人間」に初出のこの尖鋭な文明批評は、連載中から論壇時評にもとりあげられ、批評の代 表作の一つに数えられてきた。(1900)
4 茶の道廃るべし 利休のことばを題に掲げ、裏千家の雑誌「淡交」に連載中から大評判を呼んだ、熱い茶 の湯愛にもとづく痛切な現代茶道への体験的批評。刊行後も増刷に次ぐ増刷で、手にして読んだ読者からは圧倒的な 共感を得てきたが、なぜか、突然に絶版に なった。幼来茶の湯に実地に親しんできた著者ならではの、また日本文化への歴史的な展望を得た著者ならではの発見に富んだ議論が展開されている。 (1900)
5 京言葉と女文化・京のわる口 京生まれ、京育ちの著者が、京都を離れてからも片時も思いを放つことの 無かった「京都」観は、日本人と日本語と日本文化の基底部を支えてきた素質としての「京言葉」批評に結晶したといえる。「女文化」という独自の観察も、 「わる口」という名の批評語機能にたいする洞察も、それらすべては著者がいかに「京都」の現代と歴史とを生きてきたかに根ざしている。「京都」を考える最 も奥深い手引きを得ることが出来る。「週刊朝日」および「京都新聞夕刊」に連載。(1900)
6・7・8 神と玩具との間=昭和初年の谷崎潤一郎と三人の妻たち(上・中・下) ・ 谷崎感想11篇  文豪谷崎の生涯に最も豊かに名作群を産出させた昭和初年。その時期に谷崎や佐藤春夫やその家族から深く親愛され信頼された或る夫婦あてに夥しい手紙が集中 していた。自ずからそれは谷崎文学の機微にふれて貴重な証言や韜晦の弁に満ち満ちている。「谷崎愛」とまで定評ある著者の誠実で周到な「読み」により拓け ゆく谷崎の人と文学との魅力。谷崎学への大きな寄与が発表の当時から高く評価されてきた。六興出版より書下ろし出版。他に、一篇ごとに谷崎文学の深層へ視 野をひらいた感想の数々を精選した。(各1900)
9・10 洛東巷談=京とあした(上・下)・京都私情 雑誌「朝日ジャーナル」に連載された「洛東巷談」 は「京都」の皮を剥いだといわれたほど、痛烈で深切な洞察と発見に満ち、歴史と現代にしっかと足をかけた発言は、いわば過去と現代と未来の「日本」をも論 じて類なく秀逸と評価された。「京都私情」には実兄北沢恒彦との往復書簡を含んで「京都」への微妙な愛を幾篇にも綴っている。(各1900)
11  歌ッて、何! 創作シリーズ31歌集『少年』と同時刊行の、いわばいろんなスタイルの歌論集成。 対談あり座談会もあり講演もある。朝日新聞の短歌時評は、歌壇外からの初の起用。ことに雑誌「短歌」新年号の座談会発言は、誇張でなくその一年間、歌壇の 内外で大反響をよびつづけた。(1900)
12・13・14 中世の美術と美学(上・中・下)=《女文化の終焉=十二世紀美術論(上・下)・趣向と 自然=中世美術論(上・下)・光悦と宗達》 『女文化の終焉』は美術出版社の美術選書に書き下ろされた。院政の百年を俎上に、「時代」と「美術」を新鮮に 豊かに把握し、新人小説家の本格的な批評として称賛をあびた。「女文化」という捉え方も著者独自のもので、追随する研究者も現れている。『趣向と自然』は 雑誌「芸術生活」に連載後、古川叢書の一冊に。日本の「創作原理」を、相反する趣向と自然という「好み」の良き均衡に見据えながら、中世三百年の美術と美 学とを一の「時代」論として提起した。著者の茶の湯体験が活きて息づいていると言われた意欲作。併せて「光悦」「宗達」論を添えた。(各1900)
15 谷崎潤一郎を読む=夢の浮橋・蘆刈・春琴抄 「まさに眼光紙背に徹した批評の一傑作」と時評が称え た独自の「読み」は、名作の表情を一変させ、原作をより面白く豊かに読ませる。作品批評とは原作がいっそう適切に面白く読めるような発見でなければならぬ という著者の確信により、批評そのものもまた優れた読み物に成ったとも言われた、代表作の一つ。(1900)
16 死なれて・死なせて 「死」を扱った本の大方は、自分の死について語るのが普通だが、此の本は初めて、身近な愛しい人、かけがえない人 の死を見据え、その意表に出た把握が大きな評判を得た。「死なれ・死なせ」た大勢に愛読され、また贈り合われた。顧みて「他」を語るのでなく、著者自身の さながら「自伝」かのように構成されながら、人は死なれ・死なせつつ、だが「生き」て行かねばならぬことを、古今東西の多くの「悲哀の仕事」に注目し説き 明かしている。それは同時に著者の文学の根を自ら洗う、あたかも「索引」になっている。(1900)
17 漱石「心」の問題 名作『心』の先生は、自殺したときに何歳だったか。奥さんは。私は。コロンブス の卵に似た当然の解明から、誰もが読みとれずに来た「奥さん」「私」のその後の愛が「子」の誕生にまで至っていると、革命的な読み替えに成功した全部の議 論をまとめた、未公刊の新刊。これ以外に読めない、決定的と、研究者や学者からも賛意殺到の一冊、ぜひ湖の本② 『戯曲・こころ』と併せて興味津々、お読 み願いたい。(1900)
18 中世と中世人(一) 小説「迷走」の最中にNHKラジオで連続放送された「中世文化の源流」を巻頭 に、「最初の中世人たち」というべき、平清盛、西行、後白河院、俊成と定家、鴨長明、後鳥羽院らを個々に論じた、興趣に富んで定評ある著者の中世観。同題 の平凡社刊単行本のちょうど半量を収録し独立の一巻に仕立てた。(1900)
19 中世と中世人(二)  ちくま少年図書館の一冊として好評を得、版を重ねた『日本と出会い』を復刊した。「後白河天皇と遊女乙前」「法然と親鸞」「足利義満と世阿弥」「豊臣秀 吉と千利休」という四組の中世的な出会いを介して、日本と日本史との根底の問題に社会の表裏から厳しく突っ込んだ本質的な歴史論議であり、少年の周囲の教 師や親や知識人にまで高い評価で迎えられた渾身の努力作であるとともに、作者にとっても大きな結節点を成した一冊である。 (1900)
20 死から死へ ホームページに書き下ろしの「秦恒平の生活と意見 闇に言い置く・私語の刻」から、平 成十一年七月二十二日、江藤淳処決の日に始まり、同十一月下旬の兄北澤恒彦自決に至る四ヶ月間を切り出して、死なれて・死なせてなお著者の「生き」の日々 を率直に筆を枉げることなく録した、新たなスタイルのエッセイ集。二倍大強の大冊。(1900円)
21 日本語にっぽん事情 NHKブックレビューがとりあげて好評大評判を得た、京ことば論に根ざした著者独特の日本語論。(1900円)
22 能の平家物語 ・ 死生の藝 二 十編の能をとりあげ、その創作に平家物語がいかに関わりいかに活用されて、いかに面白い趣向と批評とが成り立ったかを縦横に論じている。しぜんに平家物語 の成立をも通観できる。併せて、著者の深い理解に導かれた縦横無尽の能藝論輯。(1900円)
23 詩歌の体験=青春短歌大学 上  東工大教授時代の教室の、すこぶる愉快な活気と二十歳の青春に贈った著者ならではの人生の味わいと愛情を、クイズの形で深刻にまた面白く解きに説いた異色 の短歌大学。(1900円)
(以上 既刊・以下続刊)

* 秦恒平の エッセイ集(市販)一覧

(*印の本は、湖の本エッセイに復刻既刊)

『花と風』 評論集 書き下ろし 筑摩書房  1972/9 *
『女文化の終焉ー十二世紀美術論ー』 長編評論 書下ろし  美術出版社  1973/5  *
『手さぐり日本ー「手」の思索ー』 長編評論 連載 玉川大学出版部  1975/3  *
『趣向と自然ー中世美術論ー』 長編評論 連載  古川書房 1975/3  *
『日本やきもの旅行ー九州ー』 紀行 書下ろし  平凡社 1976/3
『谷崎潤一郎ー<源氏物語>体験ー』 評論集  筑摩書房 1976/11  *
『優る花なき』 随筆集 ダイヤモンド社 1976/12
『神と玩具との間ー昭和初年の谷崎潤一郎ー』 長編評論 書下ろし 六興出版 1977/4  *
『少年』 歌集 不識書院 1977/5  *
『梁塵秘抄』 NHKブックス ラヂオ放送  日本放送出版協会 1978/3
『中世と中世人』 評論集 平凡社 1978/6
『顔と首』 評論集 小沢書店 1978/12
『牛は牛づれ』 随筆集 小沢書店 1979/3
『日本史との出会い』 ちくま少年図書館 書下ろし 1979/8
『京 あす あさって』 随筆集 北洋社→講談社 1979/12
『極限の恋』 対談集 出帆新社 1980/9
『古典愛読』 中公新書 書下ろし 中央公論社 1981/10
『茶ノ道廃ルベシ』 長編評論 連載 北洋社→講談社 1982/1  *
『面白い話』 随筆集 法蔵館 1982/6
『閑吟集』 NHKブックス 書下ろし 日本放送出版協会 1982/11
『春は、あけぼの』 評論集 創知社 1984/1
『からだ言葉の本ー付・辞彙ー』 長編評論 連載 筑摩書房 1984/3
『洛東巷談・京とあした』 長編評論 連載 朝日新聞社 1985/2  *
『愛と友情の歌』 詞華鑑賞 書下ろし 講談社 1985/9
『枕草子』 カセット古典講読 ラヂオ放送 NHK 1985/9
『京と、はんなり』 随筆集 創知社 1985/9
『絵とせとら論叢』 評論集 創知社 1986/2
『京のわる口』 随筆集 新聞連載 平凡社 1986/9  *
『秦恒平の百人一首』 私判と小説 平凡社 1987/11
『茶も、ありげに』 随筆集 淡交社 1988/10
『谷崎潤一郎』 筑摩叢書 筑摩書房 1989/1  *
『京都感覚』 評論集 筑摩書房 1989/2
『一文字日本史』 長編評論 連載 平凡社 1989/6
『美の回廊』 評論集 紅書房 1990/12
『死なれて・死なせて』 死の文化叢書 書下ろし 弘文堂 1992/3  *
『名作の戯れー「春琴抄」「こころ」の真実ー』 評論集 三省堂 1993/4
『日本語にっぽん事情』 随筆集 連載 創知社 1994/7
『青春短歌大学』 講義録 書下ろし 平凡社 1995/3
『京都、上げたり下げたり』 随筆集 清流出版 1995/5
『作家の批評』 評論集 清水書院 1997/2
『猿の遠望』 評論集 1997/5
『東工大「作家」教授の幸福』 随筆集 平凡社 1997/7
『能の平家物語』書下ろし評論 朝日ソノラマ 1999/11
『元気に生き、自然に死ぬ』山 折哲雄氏と対談 春秋社 2001/10

(以上現在 なお共著本は数えきれず、掲げない。また湖の本での初公刊・新刊も有る のは、ここに掲げていない。)

湖の本・私語の刻

* いつごろ「湖の本」を発想しただろう。はじめてはっきり口にした場面なら記憶している。筑摩書房の三人か四人の編集者と、当時社屋は駿河台下にあった ので、あの辺のにぎやかなそば屋へ昼飯にでかけた。そのときだった、話はもう店内の賑わいにかなり散らばっていて、よほど声を張らないと聞き取りにくいく らいだった。わたしの視線の真ん中にいたのは前沢(中川)美智子さんだったと思う。わたしは、自分の本を自力で再編集復刻して、本が無くて困っていると 言ってくる読者のために自分の手から送って上げられる気がする、ただ採算はとれっこないので、ま、贅沢に遊び回る私ではないので、遊びの金をつかうぐらい の覚悟でやってみようかなと。前沢さんが賛成したとは覚えていない。賛成するわけはなかった。
とにかく、幸運なことにわたしの本は、太宰賞いらい、人が驚くほど出版された。何年もの間、年に四冊も 五冊も六冊も出ていた。小説は慎重をきわめて書き、エッセイや批評は大胆に書きまくった。そうはいえ日に五枚、年に一八OO枚程度だった、書いた分がほと んど単行本になっていった。だが、たくさん売れる作風ではない。「秦さんには熱い読者がいるから」とよく編集者にいわれ励まされたが、そういう作者には不 特定大多数の読者は容易につかない。自然、出た本はすぐ無くなり、その後は手に入りにくい。版元に増し刷りを強いることは出来ない、割高についてしまうの だ。
版元の肩代わりをわたしがして上げよう、そうすることで、作品と読者とへの「作者の責任」を取れないか と思った。「読みたい本が、本が無くて読めない」という情けない思いを、読者に、とくに地方に住むいい読者たちにさせるのは、今日の出版による、余儀ない とはいえ大きな責任放棄だとわたしは感じていた。
わたしは、泣き言を言って引っ込むのが嫌いなたちで、出来そうもないことを人に頼るのも好きではない。 赤字出血は仕方がない、飲み食い遊びを控えればかなりの足しになるわけだし、俺になら本は作れるからと、元編集・製作者だったわたしは自分で自分に鞭をあ てた。あててみようと思っていたちょうどその頃に、その蕎麦やへ、筑摩の人たちと行ったのだった。少なくも昭和六十年より少し以前のことだった。そして昭 和六十一年四月に、事を起こしたのである。以来、十五年、六十七巻、出血はとまらないが命脈はなんとか保っている。
* 昨日(平成十年五月二九日)、嬉しいことがあった。横須賀のKさんが手紙をくれ た。小田急の美術館で村上華岳の墨牡丹などを観てきたと。十数年前に、近代美術館で華岳展の特別講演を引き受けたとき、会場にみえていてあとで挨拶を受け た。わたしに『墨牡丹』の作があり、それが好きで、今度の会場へも本を持参で出かけたという。たいへん有り難い熱心な読者で、大勢の新しい読者をわたしの 方へ引き寄せてきてくれた。ことに、四人の仲間が芯にいて、私はその四人の読者に横須賀や横浜から東京會舘まで来てもらって、「湖の本」を刊行することに ついて忌憚無い賛否を、参考意見を、聴いた。じつは四人とも、必ずしも賛成ではなかった。なにか後援会めく組織のようなものの出来そうな気がしていたらし い。ところが私は、読者と作者とは一対一、個対個の出逢いだから、会や会長や会員は欲しくないと告げた。また既に単行本を持っている方にも、ただの二度買 いはさせない、相当な新しい工夫や慎重な手入れもしたいと説明した。読みたいのに本が手に入らないなどというのは、作者としても作品に、読者にも、申し訳 なくいかにも残念であると気持ちを告げた。新しい仕事を書きまた出版して行くかたわらで、巷の版元には到底できないことを作者がやるしか方法がない。
意見を聴くというより、自分の出来上がりつつあった気持ちを、具体的に読者の一部の人に対し、口にして みたかった、そうして決意を固めたかったのだと思う。なんだか四人をダシにつかった気もしたが、四人とも賛成して応援すると言ってくれた。事実、すごいほ どの応援だった、滑り出してかなりの期間、たいへん盛大に助けられた。有り難かった。そしてもっと有り難いことに、そういうグループや読者は、あちこちに 大小の渦を巻くように現れ出たのだった。
それとて十年たち十二年たつと、その渦が、無くなるとか減るとかでなくて、べつの渦の群へと移り動いて 行くということは起きた。女の人たちの集団には微妙な力学が働いていることがあり、あれあれと思う間に渦が消えることもある。当然かも知れないが、Kさん らの渦も例外ではなかった。いつか姿を見失うようになっていた。そのKさんの、久しぶりの便りだった。

* そうはいえ、十二年間、すでに五五冊、一度も逸れることなく購読し続けて下さる 読者が、やはり現在でも一番数多いという事実が、重い。
やはり『墨牡丹』がご縁だったが或る画家の奥さんが電話を下さり、たまたま湖の本へ、いよいよ漕ぎだそ うと決心したばかりだったので、初めて電話口でそれを告げた。申し込みます、継続して送って下さいと言われた、それが継続予約購読者の第一号となったが、 そのKさんへは、今もなお続けて送本している。湖の本がこんなに永く維持できたのは、こういう多年継続の読者にがっちり規模を守られて来たからで、まさに 「身内」の思いを持たずにおれない。このKさんとは、たしか、一度だけ夫君の画展でご挨拶をしたことがあった。有り難いこういう方々に、永い間支えても らってきた。

* 本は具体的な「形」なしにありえない。本造りには永い経験も体験ももっている私 だが、編集者の感覚と造本者のそれとはやはり微妙にずれている。著名なある装幀家がわたしの或る本を扱ったとき、それは美しい品のいい、しかし白い本にし てくれた。出来てきたとき、美しさには満足したけれど、床の間に飾って手にはとらないような本になったとも思った。あっというまに手垢に汚れてしまう。事 実、結果はひどかった。書店に平積みの本は上から順にただ汚れていった。
変形本や大判すぎた本が書棚におさめにくくて困ることもある。本をどのかたち、どの大きさに決めるか、 厚さをどれほどにするか。そういうことを一つ一つけっていしなければならず、そこをクリアしないと一歩も進まない。値段にしても、部数という読みの難しい 要素はあるにせよ、本の物理的な形と容量とが大きく左右してくる。あれだけ考えていながら、こういうところの決断はたやすいものではない。ハードカバーは 考えていなかった。しかし、「雑誌」ではないと自分では考えていた。「優しい手触りの、本」が望ましい。
そんなときに、倉持正夫氏から「くらむ」という、自作の小説のための不定期刊行物が創刊になり贈られて きた。ごく薄いものだが、A5判で、端正に物静かな、まさに優しい手触りだった。表紙に気配りがあり、ぜんたいに柔らかく優しく涼しげに創られていて、あ あこれだと感動した。本分は二段組だが、私は単行本の組と同様に一段でゆったりとA5判の大きさを生かした組み版を希望した。しかしA5判の、表紙のそう 堅くない、組み版はそのまま紙型をとっておけば全集に再編可能なものにしようと決心した。分量は「くらむ」の頁数では無理で、百頁前後は、ないし以上は必 要だと、自作のあれこれの量からも、決めていた。むろん第一冊には太宰賞受賞作「清経入水」を、可能なら桜桃忌を期してと考えた。この作には若い友人の原 善君がつくった詳細な「校異」がある。これを添えて「定本」にしよう、さらに「作品の後に」という、読者へ語りかける長いめのあとがきを添えて、それらで いわばサービスをしたいと思った。

* 表紙絵は籤とらずで現在の、城景都氏の絵を拝借する気で、躊躇なく手紙でお願い した。どの作品ともためらいなく心に決めていた。快諾してくださり嬉しかった。「芸術新潮」に当代の細密画を論じた頃から城さんの作に心惹かれていた。線 がよく、色を要しないで版がとれるのも有り難かった。装幀は高校の頃から親しい、画家の堤さんと相談し、基本の形で合意したところで、文字を置いてもらっ た。とてもよくやってくれた。同様に、魂の色の似た同士に感じてきた、石川県小松高校の校長先生だった心友井口哲郎氏を煩わせ、彫っていただいた「帰去 来」の印字を裏表紙に入れるのも、最初からの希望だった。

* 大問題は印刷製本の委託先だった。もとの勤め時代に懇意だった印刷所に見積もり をしてもらったが、思惑よりかなり大幅に高い。赤字は覚悟とは言え、無理の過ぎたのもぶざまでイヤだ。そんなときに、友人の小林保治氏がどういう縁からか Kという印刷所を紹介してくれ、新宿の鳥料理の玄海で会食し、印刷と製本までを依頼することにした。製本所との直接取引は最初から避けて印刷所経由でとわ たしは決めていた。
活版、そして紙型を必ずとる。それが原則で、紙型は或る意味の遺産にという気があった。増し刷りに紙型 が使えるぐらいなら有り難いが、ただ版を遺しておくために紙型に執着した。
結果としてこの印刷所とは四冊しか付き合えなかった。組み版と印刷とは問題がなかったが、製本があまり にひどくて、一冊に千三百円読者から送金してもらうには、背文字は歪み、本は汚れ、背筋にみにくい皺がより、恥ずかしい思いにたえかねた。最初の「清経入 水」から、一部を作り直させた。二冊めの「こころ」は比較的よくできて来たが、三冊めの「秘色」のひどかったこと、注文製本の半分ほどが、これにお金を払 うのですかと反問されたら縮み上がってしまうような乱暴な製本で、まさにこの「製本」の一点でこの印刷所との縁は保ちがたいと、泣きたいほどだった。簡素 ではあれ清潔な、気持ちのこもった本に、読み捨ての雑誌でなくて保存したいほどの個人全集に仕立てたかった私の気分は、粗雑な仕事のまえに気力も萎えかけ ていた。仲介してくれた小林氏には申し訳なかったが、不出来な製本を甘受することは黙過することは絶対にできず、べつに街なかの工場を当たってみようかと まで悩んでいたときに、文芸春秋の現在の出版部長である寺田英視氏に、親切に凸版印刷を紹介され、あっさりと渡りに舟が着いた。重ねて第四冊めの「糸瓜と 木魚」に、K社が紙型を取り忘れねしかも紙型分も請求してくるという事が起きた。それ以前に、有るべくもない既刊本がゾッキ本のていで神田の店頭に出てい るということを報せてきた読者もあったが、一冊買いの読者がまとまった本を売りに出せるわけがなく、印刷所か製本所から流れる以外に絶対にないことだっ た。決心は固まった。

* 以来十一年(現在は十三年半)、凸版印刷の親切な対応で、ほぼ、つつがなく刊行 できている。ほぼと限定したのは、何としても製本で、似たようなひどい仕上げが混じることがあり、背筋中央に文字をが入れて表紙をなぜきちんと折れないの か、なぜこんなに表紙を折り曲げたり汚したりしてくるのか、なぜ背筋に捻れや皺をよせて平気なのかと、職人技の地に落ちたのを嘆くコトしきりだった。毎度 毎度、くどいほど事前によく頼み、この近年、やっと綺麗に仕上げてくることが多くなった。仕上げが綺麗だと、用意したままどんどん発送できる。仕上げがわ るいと一冊一冊ためつすかしつ点検し選別して送らねばならない。倍も三倍も時間が掛かり体力を費やし、読者に申し訳なさに身も細るほど嘆き且つ怒らねばな らない。最初のK社は、それを全然理解してくれなかった。ちょっとぐらいの汚れ捻れはなどと言って改善させる気遣いをしてくれなかった。読者から支払いを 受ける私たちとしてはとんでもない話だった。週刊誌を買う人ですら、積んだ下の方からきれいな本をもって行こうとしている。百パーセント叶わぬまでも、私 は、拘ってきた、感じのいい造りに。わがままで言うていたのでは、ない。金銭的にどんなにサービスされるよりも、きれいな本の方を優先したのはわたしとし ては選択の余地なく、当然だった。凸版印刷は、さすがにケアがこまやかで、見違えるほど改善されていった。

* 謄写版刷りの一冊も含めるとわたしは四冊の私家版を出していた。最初の二冊は非 売品だった。三冊めから人にも勧められて形ばかりの定価を刷り込んだ。しかし無論というべきか売れもせず買って呉れとも誰にもいわなかった。只お一人だ け、当時東大の保健学科で助教授をされていた木下安子先生が金封に五百円札を入れて、下さった。私の著作にお金を下さった第一号であった。忘れない。湖の 本に定価をどうつけるか、難しい問題だった。「千三百円」は当てずっぽうで決めた。送料はもらわないと決めていた。郵便振替も、手数料は版元が負担して読 者にはかぶせないと決めていた。

* 柔らかい造本なので、簡単な封筒で送ることは出来ない。一冊本は、二冊本は、多 部数の人はと、封筒の用意にも迷った。最初は判型のA5に合わせた普通の封筒を用意していて、そんなものでは忽ち柔らかくて華奢な本は傷んでしまう。そう いうこともいざとならないと気が付かぬありさまで、結局はすべて馴染みの各社の編集者に知恵を借りたり紹介を願ったりして賄いがついた。

* 誰に聞いても口の揃うのは、本に差込の「刷った挨拶」と「書いた挨拶」だ。刷っ た挨拶は、十種類にもなる。
継続予約で入金済みの読者へ、同じく未入金の読者へ、注文で入金済みの読者へ、同じく未入金の読者へ、 そして寄贈者へ。これらは、ま、普通である。前回配本にまだ入金のない読者へ、これまでにこれだけの未払いや不足額のあったという読者へ、の挨拶もある。 このほかに「前回送本」「趣旨送本」「依頼送本」と勝手に呼んでいる三種類の挨拶も用意してあり、これがこのシリーズの維持にはどうしても欠かせなかっ た。

* 最初に百人読者がいたとして、次回は、減る人と増える人とが同じで前回維持であ るが、初めの内は手をかけなくても僅かでも勢いで右肩上がりが期待できるけれど、そんなのは長く続くものではない。口コミしか頼れない以上、手をかける必 要は発行巻数を増すにつれてますます必要になる。一度送金してくれて、継続の意思の判明しない人、もういらないと明記していない人には、必ず次回を送り、 気に入らなければ送金の必要も返送の必要もない、だれか本の好きそうな人に払い込み用紙も添えたまま差し上げて下さいと送る。一つは現物で広め、一つは一 度でも入金した人への御礼のつもりもあった。一冊分の支払いで二冊届ける結果になるほうが多いが、それでもよいとした。そして、このおかげで「継続」して 下さった方が、かなりある。無ければ減る一方になる。注文は受けていないが、この本はこの人にはどうかと趣旨または依頼を添えて送るのも大切だ。むろん気 が動かなくても返送にも送金にも及ばない、誰かに差し上げて下さいと明記してある。こんな本をだしましたからと、本をみてもらう、手にとってもらう。手紙 での通知は殆ど役に立たない。代金をはなから諦めて本を届けてしまう、それでなければ新しい読者には逢えない。だが、そういう送れる先を見つけ出すのはナ ミたいていの苦労ではない。この苦労が、十二年、維持させてきたと言えば言える。それと「紹介」を願う事である。紹介が紹介を生んで全国に連鎖の網目が出 来ている。これが有り難い。感謝しきれないほど有り難い。手繰って行けば、多い人なら数十人にも、もっと多くにも、輪が広がっている。

* この仕事は読者への対応と、わたしの文業のより広範囲に知られること、読まれる ことを願っているし、その一活路として、どっちみち利益など上がらないのだからと思い切って在庫分確保外に、全国の国文学国語学等の教室や講座あてに実物 を寄贈し続けるということも、敢えてしてきた。全大学がどれほどあるか知らない。調べれば分かるというものの、大体はDIARYの後の方に挙がっているの が主要大学だろうと思い、二種類ほどの手帳を照合して、二百二十校ほどに刊行のつど送ってきた。不要であると返答のあった大学も二三はあったし、送り先が 大学図書館に変更されたところも二十校程度有るが、大方は歓迎されて受け取りの礼状は回を追って沢山戻ってくるようになっている。

* 購読者との間でトラヴルはないか。想像以上にトラヴルの率はひくい。郵便事故で届いていなかったのに 代金を請求したような場合は、やむをえない。また分かってももらえる。届かないといわれれば、発送した記録が手元に有ろうとも、すぐ、もう一度送ってき た。うっかりと、入金されているのに未入金扱いで送本して叱られることもあり、未入金が確かなのに送金済みと想っている先もあり、いずれも調べれば分かる ことで、誠実に対応して大過なく済んできたと思う。
いちばん問題なのは、「継続して」とは言われていない読者の注文を受けて受け渡しの済んだ、その次回の 刊行時に本を送るかどうか、なのだ。送らなければ配本部数は減って行く。送っても、注文した覚えはないと言われればそれまでだ。では返送してくれとも言え るものでない。そこで、一度でも買って下さった人には、例外なく次回本も送ってきた。ただし「前回お買いあげいただき有り難く、もう一度今回お送りする が、お気持ちの動いた場合はご送金有り難く、さもなくてもご返送には及ばない、適宜御処分下さいと送るのである。入金率は当然低いが、本は何かの形で人目 に触れることだしそれで良しとした。数は少ないが、おかげで以降ずうっと継続読者として定着した読者も、長い期間には相当に多数で、そういう読者が既刊の 本を買いそろえて下さる例も少なくはない。実物の本をとにかく見て貰う、手にとって貰うということを敢えてしない限りジリ貧になるのは目に見えている。 「注文していないのに送られてきた」と、挨拶の文面を無視して叱られたことは度々あったけれど、返本返送を要求したりしたことは原則として一度もなく、つ まりは一冊買って貰った次の一冊は差し上げたものと覚悟してしまえば済む話だった。見ようによれば二さっを一冊分の送金で買い上げられたと思えば、ま、仕 方なしとしてきたのである。結果としてこれが永年の刊行を維持できた一つの手法であったと今は思っている。そこで生じる若干のトラヴルを怖れていては、自 滅して行くだけであった。作品と本とに自信をもって、押すべきは押さねば維持できない。それは情熱に類することであって、商法ではなかった。収入増には結 びつかない、ただ「本」を撒くことにしかならないのだ。だが、撒かれた「本」が口コミのタネになり「湖の本」の存在が少しずつ知られて行くと、数は増えな くても、大きく減って行くのを防いでくれていたという実感がもてるのである。
こんな仕事が来年には十四年になる、その息の長さは、代金が回収できなくても「本」そのものに旅をさせ ることで購えていた。そう思う。

* エッセイ18『中世と中世人一・中世文化の源流』跋 私語の刻

前回配本の三部作『迷走』は一九七四年春闘の体験を「私小説」として書いたもの で、大勢の方から、びっくりしたとお便りを戴いた。こういう小説も書いていたのかと、編集者や同業の人にも見落としていた人が多かった。四半世紀も隔てて かえって読みやすかったか、びっくりするほど「面白かった」「よかった」の声が多く、例外として、舞台になった元の勤務先医学書院の昔の同僚たちには、か なり送ってみたが大方黙殺された。思い出したくもなかったか。どうまわりまわってか、共産党の中央の方角から「共感」の手紙が舞い込んだのが面白い体験 だった。大方の人が最後の「迷走」に驚かれたようだ、さもあろうと思う。
この巻初のNHKラジオ放送は付記したように、社をあげて管理職全員が「迷走」していた、まさしくその 真っ最中にたしか生放送していた。日曜日だから出来たことだが、ずいぶん私も、担当の人もハラハラした。私小説とはいえ、作品の「私」を、こういうことを していた作家としては表現しなかった。あの頃は一種の噴出期であったものか、放送だけでなく書き下ろし小説や連載も輻輳していて、何といっても『みごもり の湖』の仕上げと『墨牡丹』の書き出しに私は目の色を変えねばならない日々であった。
この「中世と中世人」一は、平凡社刊同題単行本の半量に当たっていて、他にも数多い執筆分を編成すれば「二」にも「三」にも成るので、まずは単発で「一」 をお届けしようと決めた。
それよりも「迷走」と「中世」とは疎遠無縁かということだが、私の内では深く関わり合っていて、極めて 意識的にあの当時「中世」を迎え入れていた。そのことは全編を通して論旨にかなり濃厚に露われているはずで、亡くなった宮川寅雄先生が「ポレミーク」に興 味深く読みましたと、お手紙にもまたお目にかかったときにも仰っていたのが、長短ともに私の「中世」観や論を言い当てていると思う。なにかと闘っていたの である、私は、いつも。若気の至りとも、当然とも、思っている、今も。
平家物語や梁塵秘抄や閑吟集や徒然草を私は書いてきた。能・狂言や茶の湯と少年時代から親しんできた。 昔は暗黒時代とさえ言われた室町時代のなんともいえない「はんなり」した室町ごころに惹かれて、そこに時代変革の可能性と安土桃山での黄金色した暗転の挫 折も読んできた。よく私の紹介に「王朝」「平安文化」に親炙と書かれてきたが、私の思想は「女文化」がいったん「終焉」した所から生まれ育っていた。「花 と風」の論も、「趣向と自然」の論も、芸能好きも、みな、そこに根ざしていた。
ことさらに言う、ということも避けていないし、今ならばちがうという考え方も無いではないが、むろん、 そのままにしてある。すべてがおよそ二十年から四半世紀も以上前の仕事である。四十歳前の仕事である。
ラジオの仕事は嫌いでなく、独りで録音室にとじこめてもらえば、赴くままに好きに話せる。時計だけを横 目で睨んでおればいい。「中世文化の源流」をと注文されても、話せることは私の中では限定される。「時代を読む」「私の思いで読む」しかない。歴史と限ら ず文学芸能美術の何を問われても、基本は同じであった。「梁塵秘抄」もそうだった、「枕草子」もそうだった。「京ことばと日本語」を話したときもそうだっ た。テレビにも数えれば二十数回出て話しているが、そういう話し方が多く、そういう話し方を求められることが多かった。
何度も書いているが最もはやく接した日本の古典は、国民学校で担任の女先生にいただいた訓み下ろしの古事記で、ついで百人一首であった。新制中学で与謝野 晶子により源氏物語に早く接し、父に謡曲を習い叔母に茶の湯を習った。自前で原典を買って読んだのは岩波文庫の徒然草が一番、平家物語が二番めだった。こ れらがその後の私をどれだけ鼓吹し激励したかは、感謝の言葉もない。
人物への興味も大きかったし、好みがちょっと変わっていた。源氏よりも平家、平家では清盛に関心を持 ち、後白河院が面白いなどというのも、小説に書けば真っ先に清経だというのも、妙といえば奇妙だった。誰に遠慮のいる立場でもなく、学究として語るのでも ないから、思いはみなわりにはっきり露出している。それが面白いともそのつど批評された。
「花月西行」の旅は平凡社「太陽」の企画で、編集の出田興生氏との取材行脚だった。この人は、朝日新聞文 芸時評で吉田健一氏が全面を費やし私の「閨秀」を絶賛してくれたよりも何日も先だって、「展望」に発表のこの小説を読むと直ぐ会社にまで訪ねてきてくれた 実に心嬉しい有り難い読み手であり編集者であった。今も家族ぐるみに懐かしい交際が続いている。感謝している。出田さんも平凡社を退かれ、『中世と中世 人』を出版してくれた福田英雄氏は亡くなられた。
この巻でいちばん書いた時期の遠いものは、処女エッセイ集『花と風』のために書き下ろした「俊成と定 家」であろう、その頃に私は「定家と世阿弥」について本を書くように依頼されたが、実現しなかった。今でこそいわば人気の題目で人物だが、昭和四十五、六 年ではまだ「定家」も「世阿弥」も「西行」ですらもそれほどは言われていなかった。「中世」論に盛んに火がついたのも、私の『花と風』『女文化の終焉』 『趣向と自然』より少し遅れ、幾らかは当時の政治情勢や労使関係が絡んでいたと覚えている。
個人的に言えばそのおかげで、私には小説の著書と両輪を成してエッセイや批評の著書が沢山書けた。いく らでも仕事があり、書けば書いたものはみな単行本に成った。時代であった。
今年は作家三十年の節目の年だが、本の出ない年になりかけている。初めてのことである。原稿が無いのではない、本の何冊分も蓄えてあるが、時代が時代でお 話にならない。三一書房で『能の平家物語』をと書き下ろしたのも争議で潰えた。今は、あまりにも反中世的な時代である。学生も労働者も闘わない時代の風 は、なんとも、なまぬるい。しかしこの湖の本は、はや赤阪城も撤退して千早の山籠もりめくが、もう少しもう少しは時代に風を送りつづけたいと願っている。
次号は創作とエッセイとの通算第六十巻になる。
驚いたことに日本ペンクラブ理事に、会員選挙された。前期は梅原会長指名十人枠の内の推薦理事だった。 私が三十人の理事に選挙されるワケはなし、万一また新会長に推薦されても今度は辞退と、二月のうちに辞表を書きいつでも出せるよう用意していた。ところが 選挙で選ばれたと突如通知が来た。桶狭間の奇襲で頸をとられたほどの驚きで、辞退のなんのとゴネる気にもなれない不意打ちであった。私のような者に投票さ れた方があるとは、正直鼻をつままれた心地だが、謙虚に努めてみるしかあるまいと思う。任期二年、もう本は出せそうにないが、二十一世紀まで、六十五歳ま で、いやおうなく文壇の端に籍を置くことになった。東工大教授を退く日が私の人生のちょうど二学期半ば、「文化の日」に当たると言って退官したのが三年前 の春であった。今度のペン理事任期の果てる日に私の二学期が終わるものと思いつつ、ゆっくりと、衰えかけた足腰をいたわりながら歩んで行こう。
幸いなことに、此の時代は、「ホームページ」という世界に開けた原稿用紙と発表の場とを私に与えてくれ た。現在私のホームページには普通の単行本の七八冊分もが書き込まれている。現在容量で、悠々と四百字用紙一万三千枚は書き込める。手続きをとれば三倍も 四倍も書き込める。現在一日十数人平均が私のホームページを開いてくれている。単行本になっていない私の小説もエッセイも日々の手記も読める、無料で読め る。コンピュータも二階と階下で二台連用し、順調に稼働している。私は書かずに隠居したのではない、今も私の「中世」を闘い続け書き続けている。電子メ ディア対応研究会の座長役もつづけて行くだろう。ペンは署名用、親書用にしか使っていない。旅さきでも、メモに器械を使うようになるだろう。器械になんぞ 溺れない、囚われもしない意志を持っている。器械ゆえに文学が変わるとも人間が変わるとも、少なくも私はちっとも思わないし恐れてもいない。文房具に過ぎ ない。

* エッセイ19『中世と中世人二・日本史との出会い』跋 私語の刻

「ちくま少年図書館」に一冊書くようにいわれて、真っ先に思ったことは「少年」とは 何だろうかという不思議であった。どきどきするような不思議であった。目の前にやがて高校へ進もうかという娘と、小学校高学年にさしかかった息子とがい た。自分自身の内にも明らかに「少年」が住んでいた。「少年」とは眩しいものであった。
このような本を書こうときめて、私は、なによりもそんな眩しい「少年」の手に、ずっしりと重いもの、重 すぎるかも知れないが確かなもの、私自身が本当に大切に考えているものを、包み隠さずに手渡したいと考えた。読書は、一度きりで済ますものではない。少年 である「きみ」が、今読み、年を経てまた読んでも、同じ「質感」で読み返せるものを手渡したいと願った。正直のところ、少なくも高校生から大学生になって 行くであろう「少年」に、青春のうちに、もう二度三度読み返してもらえるような本にしたかった。
もう一つ、歴史から疎く過ごしてきた親世代に、「少年」に帰って読んでみて欲しい本にもしたかった。 「こういう日本史が大切なのではないでしょうか」と、じつは大人に訴えたかった。「こういう日本史が学びたかった」と大人から言われたかった。
幸いこの本は、けっこう版を重ね、よく読まれた。ずいぶん長い期間印税をもらいつづけた記憶がある。
『日本史との出会い』と題しながら、四組の、人と人の出会いを介して、焦点を十二世紀から十六世紀、いわ ゆる「中世」に引き絞った。日本通史や概説にわたしの気は全くなく、「日本史の理解」に目的があった。「日本と日本人の理解」に目的があった。「現代の理 解」に役立てたかった。平安時代では気遠い。江戸時代では船頭が多すぎ、こういう組み合わせを一ダースは作らねばならない。どれだけ組み合わせを作ってみ ても、時代を染め上げている「江戸」というパラダイムからは逃れられない。そこへ行くと「中世」は、乱世なりに自由が渦巻いていた。古代をはらみ近世を予 感しながら渦巻いていた。この本に挙げた四組で、かなり十分に「日本史」に迫れると思った。
人の世には、やむを得ず優劣と強弱があり、勝敗に繋がって、自然に表裏ある社会が出来てくる。ものには 表と裏があり、片一方を欠いてもう片一方のありえようわけがないが、こと歴史の記述では、とかく優かつ勝の強者の側が一面的に書きつづられて、裏を支えた 劣かつ敗の弱者側の歴史は、闇に葬られがちになってしまう。それでいいのだろうかという思いを、わたしは、京生まれ京育ち、二十余年もの青春時代にいつも ぼんやりと感じてきた。京都という貴賎都鄙の尽く備わった都市では、その気で目配りすれば、そういう問題意識が容易に持てた。
ここにあげた四組の人の組み合わせがそういう意図からも出ていることは、たやすく察していただけるだろ う、法然と親鸞の二人は他の三組のような対比ではないけれど、この二人が救おうとしたのは、ともに気根の劣った自力を頼むことのとうてい無理な大勢の心弱 い人間たちであった。
わたしの文学は、一つには「島に立ちて」の身内観、二つには「死なれて・死なせて」の死生観、三つには 「人間差別」を不当として追究すること、を、主題にしてきた。この三つめの主題に、自覚的に、ねばり強く取り組むことになったのは、小説では『初恋』か ら、エッセイではこの『日本史との出会い』から、と言える。『初恋』『風の奏で』では芸能の受けてきた久しい差別、『冬祭り』『四度の瀧』では葬と墓との 受けてきた実に久しい差別、『最上徳内=北の時代』では少数民族の受けた不当な人種差別、『親指のマリア』では宗教に対する差別への抗議を執筆の動機にし てきた。この「ちくま少年図書館」の一冊はそれら創作の要をなす意義を負うていると、作者自身がはっきり自覚し、そういう実感を、心こめて「少年」たちに 伝えたかった。少年の背後に立っている「教師」や「大人」に伝えたかった。
時代は変わった。だが、本当にすっかり変わり果てて、もうわたしのこの本は昨今ないし未来日本の現実に 寄与しないのだろうか。いいや、そうは思わない。取り上げた四組の人と人の組み合わせは、いささかも古びていない。この組み合わせを無にしたり軽くしてし まう兆候は絶えて無く、フレッシュに必然の面もちをすこしも変えずに、現代に毅然と対峙する強さを保っている。問わるべきは彼ら八人に寄せてのわたしの 「歴史の読み」だけであるが、それは、読者の判断にゆだねよう。
このような理解が大事だと思われたなら、どうか、若々しい「少年」の読み手たちに、この一冊を次から次 へ、手渡してあげて下さい。
編集部でふったものものしいほどの「ふりがな」も、苦笑しながら、そのまま活かした。ふりがなを外し漢字を増やした方が読みよい気さえしたが、「少年」を よく知っていた編集部の経験を今度も尊重した。
今日は、娘朝日子の三十九歳の誕生日である。女のいっとう美しい三十代のわが娘を、とうどう顔も見ない で見送ることになる。どこでどう暮らしていることか、孫たちと共にどうか健康でと祈る。息子建日子の方は三十一になる。九月末から、暫くぶりに作・演出の 舞台を、下北澤で幕をあけるという。テレビ仕事の方が目下は忙しいようである。娘や息子に、この『日本史との出会い』がどう生きたのか、聞いてみたことは ない。  1999.7.27

* 創作42『丹波・姑・蛇』跋 作品の後に

東工大の教授室をすっかり引き払って以後、「お寂しいでしょう」と言って下さる方 もあったけれど、まったく、それは無かった。あれ以上もう一日も教壇に立てるとは思えないほど、申し訳ないが「歓」を尽くし切っていた。それに、親しかっ た大勢の学生諸君とは、相変わりなくその後も現在も親しくしていて、もう教授と学生とではなく友人のように付き合っている。年が明ければ、やがて四年にな る。わたしは六十四歳になる。
六十で定年退官後、心境的になにかわたしを新しく刺激したものがあるとすれば、一つは、パソコンで作品 や文章を書き始め、十数年ものワープロ生活をすっかり切り替えてしまったこと、それのみか仲良しの学生君に「ホームページ」を開いてもらい、それを原稿用 紙ないし発表誌のようにして旺盛にものを書き始めたことが、大きい。
いま一つは、そうした創作物や文章を介して、しきりに、自分自身の拠って立ってきた、ことに生い立ち や、青春期ともいえない早春期の己れについて書いてみたい気持ちが、びっくりするほど強くわたしを衝き動かしたことを、いま新ためて感じる。この三四年の あいだというもの、珍しくと謂っていいと思うが、わたしはまるで「私小説」作家のように自己表現、そうでなければ自己点検の文章ばかりを意図して書き続け てきた。妙なものいいで気は引けるが、ことば通りに「こんな私でした」とつぶやき続けてきたわけだ。
今回の『丹波』がその一環であること、謂うまでもない。
この体験がなければ、わたしは『清経入水』『或る折臂翁』『猿』『懸想猿』はとても書けなかった。『冬 祭り』や『四度の瀧』は書いたであろうが、それさえわたしの「丹波」に深く支えられていると思う。たんに物語の舞台が提供されたのではなく、体験と思索と の根を与えられた。この巻の最後に敢えて『蛇』一編をおさめた根源の理由も、あやまたずこの作品『丹波』が指し示している。
「蛇」はわたしにとって、ただ苦手の長虫であるだけでなく、いわば「日本」いわば「人間の歴史」を考え る・受け入れるのに、不可欠な視野であり視線であり視点なのであった。最近になって、やっと「蛇」を考慮に入れはじめた論考も出て来たけれど、あまりにも 遅かった。しびれを切らして「差別」を主題にしたアジア太平洋ペン会議に演題を送り込んだときも、多くの人が何故にとただビックリされたのであるが、迂闊 な話だったとわたしは思う。日本は山もふくめて「水」と「海」の国であり、それならば「蛇」の問題は社会と文化との隈々にまで浸透し瀰漫している。わたし は、それを作家生活の三十余年を通じて、小説ででも批評ででも、言い続け書き続けてきたのだった。「世襲」への問題提起も「いじめ」の理解にも、蛇はふか く絡みついているのである。
「丹波」への戦時疎開は、また、育ての親への自然な距離のある視線を育ててくれたようだ。わたしのような 生まれ育ちのものには、実の親も育ての親も、想像以上に重い存在になってのしかかる。わたしは、それらから自力でのがれようと努めつづけたので、多くの一 般の方々からすれば、或いは信じがたいような親に対する乾いた視線をもっている。よくテレビの番組などで実の親や別れた親を捜しに探し、求めに求めて、涙 ながらの対面といった場面をしばしば見ている、が、人も訝しむぐらい、わたしは、比較的そういう感情に走らなかった、制御できた、と謂うよりそこから身を 避け続けた。育ての親に対する没義道なほどの批判の目も言葉もながく捨て去らずに創作や文章のなかで駆使した。三人の父、母、叔母を死なせてしまって、 やっと、わたしのなかで何かしら安堵ににたバランスが生まれて、ああ、今までと違ったものが見えてきた、書けるかも知れないと思えるようになったのであ る。十九年可愛がった猫に死なれ、そして退官した年の秋に、最後に義理深い母に九十六歳でとうどう死なれてしまった。
わたしにも、そして義理のある老人たちを三人とも慎重に介護して見送った妻の迪子にも、ふわあッとした 或る悟りのような心境が生じて、それが、こういう『丹波』に成り、また妻の『姑』が成ったのだった。わたしは妻の手記ーむしろ創作かーを、ほんのつい最近 まで読まなかったが、旅の車中で初めて読んで素直に感謝した。わたしの知らない母もそこには生きていた、生きて語っていた。懐かしかった。「これは佳い」 と思い、すぐさま、この巻の構成が頭に浮かんだ、躊躇わなかった。
折しも、久しい心友である石川近代文学館の井口哲郎館長から、「泉鏡花」を話しに来るようにとお勧めが 来ていた。講演ためのの原稿は、すぐに出来た。わたしの『丹波』がこの講演の内容を喚び起していることは何方にも明かであろうと思われて、この稀有の 「水」と「海」との世界的な作家を、躊躇うことなくわたし自身のモチーフから語って見せようと心にきめたことであった。
話は変わるが、今年になって、岩波版「志賀直哉全集」月報に小文を書いたのを機に、配本の作品分全十巻 を一気に読みあげた。直哉自身が小説ないし文学と自覚している作品の実に大多数が、いわばエッセイに近いのを再確認した。しかも優れた感銘を与えてくれる 文章・文体の文芸であることをわたしは疑えなかった。
わたしは自分の書いてきた最近の「私」文学が、果たして志賀直哉のそれのように読まれ得るものかどうか を、厚顔にも問うてみたくなった。直哉の小説のほとんどが、べつだん面白い話ではなかったように、もともと「私」を語った文章がめざましく面白い物語にな ることは、そう有るものではない。それなのに直哉は「小説の神様」と謂われた。小説の神様とは思わない、が、文学の神様に近い「藝」は確かに生きている、 人と為りの、ある種異様な独特さにおいて。わたしは、そうは行かない。だが、つまりは谷崎潤一郎や泉鏡花のとはまた別途の文学・文芸の可能性を、志賀直哉 が、源氏物語ふうにではなく枕草子の伝統に沿うように、きっちりと遺して行ってくれた意味にわたしは気づくことが出来た。この道もまた自分の道だと思う。
文筆生活三十年のささやかな記念に『能の平家物語』(朝日ソノラマ刊)が出せた。限られた枚数で二十曲 を語って、自ずと平家物語をも独特に語り得たと思っている。『清経入水』以来の、また一つ、結び目を成したと喜んでいる。

* 以下は「出版ニュース」歳末号に請われて書いたものである。

*  再び・作者から読者へーー作家の出版
秦恒平・湖(うみ)の本 十四年の歩み

結果として私版の文学全集を成しつつある「秦恒平・湖(うみ)の本」の刊行に、読書界から、このところ、関心を寄せて下さることが増している。何故だろう か。
一九八六(昭和六十一)年の桜桃忌を期して創刊第一巻『定本・清経入水』を出した、その巻頭に、大略以 下のような所感を私は掲げていた。

*
「帰りなんいざ、田園まさに蕪れなんとす、なんぞ帰らざる」と陶淵明は『帰去来辞』に志を述べた。いま こそ、親しんだこの詩句に私は静かに聴きたい。
文学と出版の状況は、ますます非道い。良い方向へ厳しいのでなく、根から蕪れて風化と頽落をみずから急 いで見える。
幸い私は、この十数年に都合六十冊を越す出版に恵まれてきたが、また、かなりの版が絶えてもいる。絶え かたも以前よりはやく、読んでいただく本が版元の都合一つで簡単に影をうしなう。数多くは売れないいわゆる純文学=芸術の作者はあえなく読者と繋がる道を 塞がれてしまう。私は、「帰ろう」と思う。
もとより創作をさらに重ね、機会をえては出版各社から本も出し、商業紙誌にも書いて行くことは従来と変 りない。が、もともと私家版から私は歩き出した。今、私にどれほどの力があろうとも思えないが、望んでくださる読者のある限り、その作品が本がなくて読め ない…という事だけは、著者の責任で、無くしたい。
読者は作家にとって、貴重な命の滴である。一滴一滴が、しかも大きな湖を成すことを信じて作家は創作し ている。作家と作品とは、そのような母なる「うみ」に育まれ生まれ出る。
本は、簡素でいいのである。版の絶えている作品の本文を正し、時には新作にも必要の場をひらき、そして 本の常備をはかりたい。作者から直接に(出費を願って)読者へ、また、読者から直接に(作品を求めて)作者へ、もっぱら口コミを頼みに、可能な限り年に数 冊。「創作」の自由と「読書」の意志とがそうして細くとも確かに守れるのなら、そこへ、私は「帰ろう」と思う。久しい読者との、さらには新たな読者との重 ね重ね佳い出逢いを願わずにおれない。
*

いつごろこの「湖の本」を発想しただろう。最初にはっきり口にした場面なら、よく記憶している。筑摩書 房の三人か四人の編集者と、当時社屋は駿河台下にあったので、あの辺のにぎやかなそば屋へ昼飯にでかけた。
「自分の本を自分で再編し復刻して、本が手に入らず困っている読者に、自分の手から送って上げたい、 が、採算はとれっこない。ま、贅沢に遊び回る私ではないが、遊びの金を宛てるぐらいの覚悟でやってみようかな」と。
筑摩の人が賛成したとは覚えていない。賛成するわけはなかった。
幸運にも、太宰賞いらい、人が驚くほど私の本は数多く出版されていた。何年もの間、年に四冊も五冊も六 冊も出ていた。小説は慎重に書き、エッセイや批評は大胆に数多く書いた。日に五枚、年に千八百枚程度だったが、右から左に単行本になっていった。
だが、たくさん売れる作風ではない。熱い読者がいるとよく編集者に励まされたが、そういう作者に、不特 定大多数の読者は却ってつきにくい。出した本はさっと無くなり、その後は手に入りにくい。版元に増刷は強いられない、割高についてしまうからだ。
で、版元の肩代わりを私がして上げよう、そうすることで、作品と読者とへの作者の責任を取れないかと 思った。「読みたい本が、本が無くて読めない」という情けない思いを読者に、とくに地方在住の佳い読者たちにさせるのは、今日の出版の、余儀ないとはいえ 大きな責任放棄だとわたしは感じていた。
泣き言を言って引っ込むのが嫌いで、出来そうもないことを人に頼るのも好きではない。赤字出血は仕方が ない、飲み食い遊びを控えれば足しになるわけだし、手持ちの技術で本は作れるからと、むかし編集制作者だった私は、自分で自分に鞭をあてた。慎重に計画 し、八六年六月に創刊にこぎ着けた。予想外に反響と支持は大きかった。幸運だった。
以来、十三年半を経て「湖の本」は、創作42巻、エッセイ19巻、通算61巻に達している。この間に出 していった市販の新刊著書も、通算すれば百冊に及ぼうとしている。現役作家として終始働いてきたし、江藤淳の後任として東工大「文学」教授も定年まで務 め、今は日本ペンクラブ理事を二期め、京都美術文化賞の選者も十数年務めている。九八年四月からは新たな文学活動の「場」としてホームページ『作家秦恒平 の文学と生活』を開き、約三千枚の各種の原稿を日々更新しつづけ、また発言しつづけている。
そういった中での、多年「湖の本」の停滞なき持続には、どんな意味があるのか、意味はないのか、その評 価は当人のする事でなく、ただ「事実」を挙げるにとどめたい。
「作者から読者へ ー 作家の出版」と表題して本誌に寄稿したのは、創刊から半年後の、一九八七年初めだった。「湖は広くはならないが、深くなった」と、作品を介して読者と作者 との直の関わりが支えた「刊行事情」を、率直に報告した。エッセイのシリーズが創作に伴走し始めたのは、もう二年後、やはり桜桃忌に、第一巻『蘇我殿幻 想』を読者の手に届けて以来だが、これが成功した。巻頭に私はこんなふうに述懐した。

*
この三年、言うまでもないが、私は孤独ではなかった。刊行の作業は予想を超えて厳しいが、どれだけ多く のご支持に支えられて来たことか。無謀とさえ見られた『湖の本』がもう三年・十二冊を送り出し、幸いに今後の継続を可能にしているばかりか、あらたに『湖 の本エッセイ』の刊行もごく自然の流れで、読者に待たれるようになった事実が、それを証ししている。感謝にたえない。と同時に、このような、いわば悪戦苦 闘に内在し潜勢している文壇や出版への「批評」を、すくなからぬ方々が察してくださるのだと思いたい。「湖」が広くなったとは、言わない、しかし、深く なっている。良き繰返しの一度一度を、一期を賭して繰返したい。
これからは、「小説」のシリーズに「エッセイ」のシリーズが伴走することになる。私のエッセイは、小説 と両翼を成している。それも読者は、よくご存じであった。
*

そうはいえバブル景気は砕け散り、出版と読書にも深刻に影響した。「湖の本」も継続読者の葉の散り落ちるような脱落に見舞われ、一と頃の三割がたも人数が 減ったし回復できていない。だが製本部数は減らさなかった。思い切りよく全国の大学の関係講座や図書館に寄贈して行った。資金的な出血をすこしでも押さえ たいのはやまやまでも、もともと利潤の上がろうわけがない私家版であり、私の仕事をより広く知ってもらう意味では、「大学」に寄贈と決めたのはすこぶる正 解だった。在庫をもち、読者の希望に応じ即日送り出すという当初の思いも、間違いなく果たし続けてきた。城景都氏の傑作画に飾られた簡素に美しい造本も、 旅行者には恰好の友とされ、また作品内容を吟味しては贈り物に利用されることも多くなっている。僅かながら外国にも読者があり、石垣島から稚内まで、口コ ミひとつでひろげた読者の網は、目は粗いけれど、日本列島をくまなく覆っている。部数は減ったが、現在九割五分までが親密な「継続」購読者であり、作家、 批評家、編集者、新聞記者、学者、研究者、教師、他の芸術家にも支援を得つづけてきた。
だが苦心も工夫も必要だった、それでも維持するのは大変だった。
最初にもし百人の読者がいたとして、次回は、減る人と増える人とが同数だと前回分維持であるが、初めの 内は、手をかけなくても、勢いで右肩上がりが期待できた。だが長くは続くわけがない。口コミしか頼れない以上、手をかける必要は巻数を増すにつれ、ますま す深刻になった。
一度送金してもらっても継続の意思の判明しない人、次は要らないと告げられていない人には、必ず次回本 を送った。気に入らなければ「送金の必要も返送の必要もありません、本の好きな人に払い込み用紙も添え差し上げて下さい」と、送った。本そのものを人目に 広めたく、また一冊でも勝手下さった読者に感謝の気持ちもあった。一冊分の支払いで二冊届ける結果になることがずっと多くても、それでよいとした。このお かげで、その後「継続購読」して下さった方も、かなりあったのだ、無ければ、部数は減る一方になる。
注文は受けていないが、この本はこの人にはどうかなと、趣旨または依頼を添えて送るのも大切な工夫だっ た。気が動かねば、「返送・送金に及ばない、誰かに差し上げて下さい」と明記のうえ送った。こんな本を出しましたからと、本を見てもらう、手に取ってもら う。手紙だけで頼んでも何の役にも立たない。代金の送金をはなから諦めて本を届けてしまう、それでなければ新しい読者には出逢えないのである。
だが、そういう「送れる先」を見つけ出すのが、何よりナミたいていの苦労ではなかった。この苦労を厭わ なかったのが、十三年半を、かつがつ維持させた。そこで生じる若干のトラヴルを怖れていては、自滅して行くだけであった。作品と本とに自信をもち、押すべ きは押さねば維持できない。それは情熱に類することであって、商行為ではなかった。収入増にはまるで結びつかない、いわば「タダ本」を撒くことにしかなら ないのだ。だが、撒かれた「本」が口コミの材料となり「湖の本」の存在が少しずつ知られて行くと、数は増えなくても、大きく減って行くのをなんとか防いで くれていた、と、その実感が今にして持てるのである。
親切な読者に「紹介」を願うことも諦めてはならぬことだった、紹介が紹介を生んで、思いがけぬ連鎖の網 目が広く出来てくる。これが有り難い。感謝しきれないほど有り難い。手繰って行けば、多い人なら数十人にも、もっと多くにも、輪を広げて貰ってきたと思 う。
どんな内容の本が、どんな順番で、刊行されてきたか。読者との約束事がどうなっているか。それは私の ホームページ
http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/
の「湖の本の事」という頁で御覧願いたい。最新刊の創作第四十二巻は、未刊の新作『丹波・蛇』を平成十一 年十一月末に刊行した。前者は敗戦前後のいわゆる疎開生活に焦点を結んで、自伝の一部を成してゆく。この少年時代の二十ヶ月が、創作生活への基盤とも推進 力ともなったことの自覚を動機にしている。後者「蛇」は、「丹波」と深く連携して作者の思想形成に寄与した重い主題を、敬愛する泉鏡花論に重ね、金沢市で の石川近代文
学館主催講演会で話した講演録である。併せて、異例だが「参考」に、妻迪子の「姑」一編を敢えて加えてあ る。
ところで先ごろ新宿紀伊国屋ホールで「オン・デマンド出版」のシンポジウムがあった。講演したP.グル マン氏の話を聴きシンポジウムの各パネラーの話もつくづく聴きながら、いつのまにか「秦恒平・湖の本」が出版時流の最先頭をきって走っていたのだと思い当 たった。本が売れないと出版社は言い訳をするが、売れる本だけを売れるにまかせ、売れにくい本でもなんとか売ってゆこうという工夫も努力も棚上げしていた に過ぎないのだし、これでは出版文化の実質が腐ってきたのも無理はない。私は、そんな非道い澱みから身をのがれて、自力で、読者と連帯のきく潮目に棹をさ してきた。べつの見方をすれば赤坂城や千早城に籠もった楠正成の悪戦苦闘に異ならず、落城はもう目前に相違ない、が、はからずも「紙活字本」にかわりうる 「電子本」が、出版の流れを大きく動かそうと登場してきた。六波羅探題も鎌倉幕府も安閑とはしていられなくなっている。
だが目下は、私一人の事情で思い、また、私と立場の近い純文学作家、愛読者と実力とを十分手にしている 作家たちからすれば、著作権があいまいで不利の予想されるな電子本方式よりも、各自に工夫を凝らした「湖の本」方式で絶版本に息を吹き返させ、新刊も世に 問える「場」も手中にしてゆく方が、実質、実りがあるのではないかと、そんな気もしている。
ただ、我が「湖の本」の場合、既成の文芸出版社の露骨な敵意にも堪えねばならなかった。私を世に送り出 した筑摩書房にさえ、作家生活三十年の一冊を、何を出すとの一顧の検討もなく拒絶されてしまう。文庫本一冊の企画もないことと「湖の本」の十四年・六十余 巻の持続とは、どうみても「質」的に均衡をえていないと、私が言わなくても然るべき人が怪訝に思ってくれる。グルマン氏らの報告や討議の中でも、物哀しい まで既成の出版権力への遠慮が語られていたが、いわゆる「出版資本」の固陋な認識やバッシング意識は想像を絶して根強いのである。同じそういうことが、実 験段階に入っている「電子書籍コンソーシアム」にも「オン・デマンド出版」にも生じないこと、排除と独占の論理で新世紀の新出版モラルが汚れないことをぜ ひ願いたい。

* 湖の本エッセイ20 『死から死へ』の跋

東工大の院に進学直前だった田中孝介君が、保谷の私宅に来て、わたしのために最初のホームページを開いてくれたのは、一昨年、一九九八年の三月十一日で あった。「湖の本」の二種類の表紙繪で「ページの表紙」を飾り、デザインも文字も目次もその場でわたしが希望し、田中君はてきぱきと希望通りに立ち上げて くれた。帰宅してから、彼はさらに細部を調えたINDEXを電送してくれ、右も左も分からないわたしは連日連夜メールで質問し、煩をいとわず田中君はどん な初歩の問いにも手を取って導くように励ましてくれた。さらに最近には、院を卒業し富士通に勤務の林丈雄君が、いっそう便利に豊富に目次を大改造してくれ た。林君は、かつてわが教授室で死骸同然だった最初のパソコンに、初めて息を吹き込んでくれた学生であった。田中君、林君、有難う。ほんとうに有難う。
このホームページの主旨は、「湖の本」出版を多年なお継続中の、わが「文学と生活」を、インターネットで、より自在に多様に公開して行くにあった。宣伝活 動ではなく、長短の小説、エッセイ、批評、講演録等を初稿段階から文字通り「公開」しながら、徐々に作家秦恒平の文業のあたかも所蔵館のように充実させて 行こうという、いわばわたしの原稿用紙であり、発表の場であり、全く場所をとらない作品の所蔵庫なのである。無用な写真や絵画や音楽の類はむしろ厳格に排 除し、来訪者が思わず音を上げるほど「作品・文章」のみを満載している。前回配本の『丹波・蛇』も、このホームページに先ず掲載された初稿に、更に入念に 手を入れた作品であり、批評であった。
ホームページが稼働し始めたのは、せいぜい一昨年三月下旬からであったが、今はおよそ四千枚分の文章が 書き込まれ、いつでも、世界中のだれにでも、インターネットで自由に読んでもらえる。五月からは田中君に勧められてアクセス・カウントも始めた、が、情報 網を借りてホームページを宣伝したりはしてこなかった。一昨年の十一月末でアクセス数はやっと「千」を数え、開始以来二十一ヶ月を経た今年一月中には「八 千」に大きく近づいて行くだろうが、数字がどれほどの意味をもつのか、わたしには判読できない。一日一日、水かさを増すようにビジターの増え続けているこ とだけが分かっている。
このホームページは何度も云うが「倉庫」のようなもので、簡単に「読める」分量ではない。ビジターは関 心に応じて好みのページを覗いたり、自分の器械にダウンロードしたりプリントしたりされているようだが、耳にする限り、最も関心をあつめて、毎日欠かさず 読んで下さる人もあるのが、今回、この一冊に四ヶ月分を切り出してみた「私語の刻・闇に言い置く」ページ、わたしの「生活と意見」を忌憚なく日々に書き継 いでいるページ、らしい。
敬愛する上田秋成に『癇癖談(くせものがたり)』という趣向辛辣の談話集があって、これが念頭に有った、ただし書きざまに同様の伊勢物語を模すなどの趣向 は考えず、ただ率直に、筆を枉げずにと心に決めていた。文藝として、心して書こうと考えた。
器械に向かう習慣は、ワープロから数えれば二十年近くになる。しかしワープロは只の文房具であった。だ がパソコンでのホームページは、たとえ原稿用紙に字を書く感覚であっても、インターネットに転送の瞬間から、世界中で同じ条件で読まれ得る可能性を帯びて いる。そうはいうものの、その「世界」は,あまりに濛々と,捉えようのない濃い深い「闇」に等しい。「闇に言い置く」のとすこしも変わりないほど、目の前 には、只の液晶のスクリーンしか見えていない。「他者」は遙かに遙かに彼方の闇の奧に隠されてある。
公開される「日記」というものを、かつては日記として不純なのではないかと疑っていた。だが、公開を意 識しないで書いた昔の日誌などを読み直してみると、人に読まれないと思うぶん、かえって浅く薄く自分自身を甘やかした・偽った記述が無いでもないと、何度 も気づかせられた。「闇に言い置く」とはいえ、インターネットに書き込む行為は、書いたままが即座に他者に読まれる「覚悟」なしに出来ない。その重みに堪 えてなお率直に忌憚なく「書き置く」のなら、それはそれで容易ならぬ、己を賭した営為だ。己が誠意と自覚とを自身で鞭撻しなければ書き継げる「場」ではな かった。そして、いつしかにこの「私語の刻」が、大勢の人との親しい「対話の時」とも成ってきたように思われるのである。
こう「生きています」と胸を張るには貧しく、緩く、狭苦しい日々に過ぎないが、自分が、何に、どのよう に反応し感応して心象風景を成しているかは、いやおうなく此処に、全てではないが、多くを露出してしまっている。一昨年三月頃から今日只今まで、その質量 の日々に莫大なことは、ホームページを覗かれれば歴然としている。
その中から、江藤淳の処決以降、兄北澤恒彦の自決までの四ヶ月を、『死から死へ』と題し、哀悼の意とと もに、何とか自身の生きの命に意欲あらしめたいと願って切り出した一冊を、湖の本エッセイ第二十巻とし、謹んでお届けします。
大冊になりましたが、当方の勝手でしたこと、頒価はいつも通りで変更ありません。
ご健勝を祈り、兄の喪に服して新年のご挨拶を欠きましたことを、謹んでお詫び申し上げます。

湖の本 166巻 蛇行 或る左動變

あとがき

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