2026年7月26日、津久井やまゆり園事件から10年経ちました。悪夢のような事件から十年の歳月が過ぎ、日本は少しでも社会的に弱い立場の人たちにやさしい国になったでしょうか。弱者叩きが益々ひどくなっているように感じるのは私だけでしょうか。
『読者の仕事』の中で、この事件の衝撃を受けて書いた「弱者の仕事」という一文があります。助けを必要としている弱者が世界にどうしても存在しなければならない理由を、一人でも多くの方と共有できればと思います。弱者を排除しようとするとき、世界は滅亡に近づいていくでしょう。
五、弱者の仕事 『いのちの遺産』 山瀬ひとみ『読者の仕事』より抜粋
「母」について語ったあとは、社会的にいわゆる「弱者」と呼ばれている人々について、正確には「弱者」にまつわる愛のかたちについて書かなくてはならないと思います。そう思い至った理由は、障害者に限らず、生活保護受給者、ホームレス、難民などの「弱者」を自己責任と攻撃する論調や、少数者に向けるヘイトスピーチが声高になってきている昨今の世相を、深く憂慮するからです。
二〇一六年相模原の知的障害者施設津久井やまゆり園で、侵入した男が入所者十九人を殺害し二十六人を負傷させた凄惨を極める事件のあったことは生々しい記憶です。犯人は「障害者は不幸を生むだけ」「障害者はまわりを不幸にするからいないほうがいい」「障害者は世の中のお荷物、世の中からいなくなるべきだ」「安楽死させる法制が必要なのに国が認めてくれない」という、ナチスさながらの優生思想の持ち主でした。
この犯人を生み出すような思想はいつでもどこにでもあります。歴史から戦争がなくならないように、強制収容所が絶滅しないように、しぶとく蔓延(はびこ)る差別という人類の宿痾です。「弱者」は常に流動的な差別関係において生じます。男にとって女、親にとって子、教師にとって生徒、雇用主と使用人、健常者と病人、介護者と被介護者等々、状況によってたやすく入れ替わる。そして、弱者を叩くのは別の弱者である場合がほとんどです。弱いものが自分の弱さに耐えられずに、優越感を得ようと自分より弱いものを鬱憤のはけ口とする構図ほど醜悪なものはないでしょう。この弱肉弱食の世界が広がるほど悪しき強者は高笑いします。奴隷どうしが争えば、王は安泰でいられる。彼らの理想的な支配環境が出来あがるからです。
先の事件の差別犯罪者への糾弾が世間に沸騰したのは当然として、病人や障害者が健常者同様に生きる価値ある存在であることについての心魂に徹する説得力のある言説にはあまり出会いませんでした。「役立たずは死ね」と言い放つ憎悪にみちた単純な言葉がわかりやすいのに比べ、その邪悪な主張に反論するには、何十倍もの長い文章が必要だからでしょう。間違ったことを言うのは手短で強烈な罵倒の連呼ですみますが、正しいことを伝えるのは至難の技です。神の前に、あるいはヒューマニティーの基に、ありとあらゆる命が平等に大切であるという真理は、真理であるゆえに決して言葉では、まして単純な文言などでは伝えられません。それは言葉を超える何かだからです。
私はふつうの市民として、犯人のような優生思想を絶対に認めない立場の一人であるので、犯人が「他人の金を使うだけで、迷惑をかけるだけの世の中のお荷物」と断じる人びとが、そうではない理由を、力及ばずとしても考えてみたいと思います。
ここに『いのちの遺産』(神山復生病院 一九九九年)という一般には流通していない一冊の私家版があります。二百数十頁ほどの文庫本で、副題に「神山(こうやま)復生病院創立110年」とあるように、日本で初めてのハンセン病専門病院の創立からの歴史をまとめたものです。同窓会の社会福祉活動のバザーで、たしか五百円で購入しました。謂わば義理で買った、素人の文集のようなこの一冊を何気なく読み始め、震えるような感動とともに読み終えました。
初読から三十年近く経っても、本棚にこの一冊のための場所を定めていて、時々その本の背表紙が目に入ると、思わず頭を下げています。本にお辞儀をするというのもおかしな話ですが、気高いとか崇高な、といった形容でしか語れない人間にたいして、私なりのささやかな挨拶なのです。
優れた聖職者が世間から忘れられるのはなぜでしょうか。愛はそれが大いなるものであればあるほど無私であり、この世に痕跡をのこさない秘儀なのです。愛の成就は愛する主体が名もなき者のまま、あとはかなく消えて愛だけが残ることとも言えます。
だからこそイエスの愛に生きた聖職者たちが、ハンセン病差別の根深かった時代の日本で「役立たずの不幸なお荷物」であった患者のために何を為したか、そのことをただただ知ってほしい。私は、私たち人間は今も昔もそして未来も大きな過ちの中に、世界というひどい場所にいることを悲しみ、それにもかかわらず希望もあることを信じてほしいのです。この本の中には犯人の歪んだ人間観を完膚なきまでに否定する一つの答えがあります。
ハンセン病、いわゆるらい病は、有史以前から存在していました。現在のように完治可能な特効薬の出来るまで、気の遠くなるほど長い年月、人類にもっとも忌み恐れられた病気の一つでした。身体が膿み爛(ただ)れ、鼻や唇が欠け、手足の指も損なわれ、失明し、目を背けたくなるような外見と病状の果てに死に至る伝染病でした。らい病は「伝染力」の非常に弱い疾病です。空気感染しませんし、患者に触れただけで罹患するものでもありません。遺伝もしません。しかしながら当時は親兄弟の縁まで切られる悲惨な死病でした。
聖書の記述を読んでもよくわかります。天刑病とされ、この病に犯された人々の肉体的精神的苦悶は言語に絶するものがありました。イエスこそ初めて、らい病で苦しむ人々に救いの手をさしのべた存在(神)なのです。
日本では、光明皇后や日蓮がこの病気に恩情的であったくらいで、らい病患者は、強い偏見の中、世間から見捨てられ、ほとんどが物乞いをしてただ死を待つのみという状況でした。
ハンセン病が克服された後に生まれた私のような世代には、この病気がなかなかわからないので、『いのちの遺産』の中の患者大川正隆さんの手記から、病状を想像してみたいと思います。
手も足も普段の三倍はあろうか、と思えるぐらい重たく腫れ、頭部から顔面もぱんぱんに腫れた。顔面の腫れはきつく、口を開け指で瞼を上下に引っ張らねば、見える様にならなかったが、それが悪く、前にも増して腫れ上る結果になった。その腫瘍も化膿し、腫れが引いた時やや安堵した。しかし、膿の匂いは口の中にも広がった。口の中の腫瘍も破れたのである。頭から顔を包帯するのにも、頰や唇に包帯はできないので、ガーゼに軟膏を塗り、唇形に切ったものを唇に貼り、又顔は、眼だけを開けて被った。手は爪の下が黄色に膿み、爪は、右手親指の爪半分を残して切り落した。腕から肩へと腫瘍ができて破れ、足は甲の所から足裏部にかけて、やはり腫瘍ができ、腐って破れたから、裸同然の姿で治療を受けた。傷に付着したガーゼを交換する時、痛さに涙をポロポロ落した。厳寒に傷の手当は寒く、寒さも傷にしみた。治療は約一時間かかった。症状は驚く程早く悪化したが、腫瘍が腐り切ると熱が下がり、新しい皮膚がケロイド状にできて、包帯が除かれた。私よりはるかに症状の重い人が一五、六名はいた様に思う。死んでいった人の中には、一〇代、二〇代の人が多かった。
この記述を読んでいて、ため息が出るのは私だけではないでしょう。ハンセン病は末期においては、咽頭が冒され呼吸困難に陥ることも多いといいます。はたで見るのも耐えられないほどの七転八倒の苦しみの末、治療の施しようもなく窒息死に至ります。
しかしながら、無惨に身体の損壊されてゆく病苦そのもの以上に患者を絶望させたのは、今まで息子や娘として、夫や妻として、父や母として、兄や妹として、家庭の中で愛し愛されて当たり前であった日常が、ふつうの社会生活が、すべて喪われてしまうことだったでしょう。その心の痛みのほうが、比較にならず残酷だったかもしれません。
ある日を境に、自分に落度もないのに病気になり、強烈に差別される立場に突き落とされます。周囲に蛇蝎(だかつ)の如く嫌われ、恐れられ、あげく友情も恋も職業も失い、自分のもっとも信頼していた家族から棄てられ、故郷を放逐され、災いの家族に及ばないよう自分の名前すら棄てさせられるのです。この冷酷無比な、徹底した病魔による収奪は耐えがたいものであったに違いありません。
松本清張の『砂の器』は、この病になった父親が、息子と一緒に故郷を追い出され、物乞いの果てに行き倒れになったことから始まる悲しい犯罪の物語でした。最近のテレビや映画では、差別的表現とされてこのあたりがぼかされています。しかし、この病気への筆舌に尽くしがたい差別が厳然と存在していたことへの国民あげての無関心が、病人を見殺しにする罪であったことを決して忘れてはなりません。この作品には患者の子であった犯人だけでなく、差別を黙過し続けた私たち日本人という目に見えない共犯者がありました。
宮本常一の名著『忘れられた日本人』(岩波文庫 一九八四)の「土佐寺川夜話」の章にこのような一節があります。
…この道がまた大変な道で、あるかなきかの細道を急崖をのぼったり、橋のない川を渡ったりして木深い谷を奥へ奥へといきました。
その原始林の中で、私は一人の老婆に逢いました。たしかに女だったのです。しかし一見してはそれが男か女かわかりませんでした。顔はまるでコブコブになっており、髪はあるかないか、手には指らしいものがないのです。ぼろぼろといっていいような着物を着、肩から腋(わき)に風呂敷包を襷(たすき)にかけておりました。大変なレプラ患者なのです。全くハッとしました。細い道一本です。よけようもありませんでした。私は道に立ったままでした。すると相手はこれから伊予の某という所までどの位あるだろうとききました。私は土地のことは不案内なので、陸地測量部の地図を出して見ましたがよくわかりませんから分らないと答えました。そのうち少し気持もおちついて来たので「婆さんはどこから来た」ときくと、阿波から来たと言います。どうしてここまで来たのだと尋ねると、しるべを頼って行くのだとのことです。「こういう業病で、人の歩くまともな道はあるけず、人里も通ることができないのでこうした山道ばかり歩いて来たのだ」と聞きとりにくいカスレ声で申します。老婆の話では、自分のような業病の者が四国には多くて、そういう者のみの通る山道があるとのことです。私は胸の痛む思いがしました。
このような気の毒な患者たちは、一部のやさしい人間の施しで生き延びていたのではありましょうが、所詮は行き倒れの最期でした。そこに救済の道を開いた人間がありました。
『いのちの遺産』の記述に導かれながら、神山復生病院の誕生からの歩みについて簡単に述べていきましょう。
日本で初めてのハンセン病患者のための病院設立は、日本人によるものではなく、異国からの修道士によるものでした。明治六年(一八七三)来日して、日本各地で伝道していテストウィド神父は、明治二十年(一八八七)呻きながら自殺しようとしていた三十歳くらいの婦人を助けます。
彼女は重いハンセン病を患ってすでに失明していました。夫に棄てられ、水辺の板の上のボロにくるまって、一日一杯のご飯だけを与えられる生活の果てにいのちを断とうとしたのでした。テストウィド神父は彼女の看病をしながら、充分な世話してくれる病院を必死にさがしましたが、公立の病院も私立の病院も彼女を拒絶しました。そこで神父自らが、彼女のように路頭に迷う患者たちの世話をし、心の支えとなることを決意します。大変な苦難を経て明治二十二年(一八八九)五月二十二日御殿場市神山に神山復生病院を開設しました。
特効薬プロミンが日本で生産されるようになる一九四八年に先立つこと六十年あまり前のことです。当時のハンセン病は完治する希望のない悲劇的な伝染病でした。
国は、神山復生病院設立から二十年後の明治四十二年に「らい予防法」を制定しました。少数の国立療養所に当時五万人ともいわれた患者を順次強制的に収容しようというものです。
同じ病院ではあったでしょうが、神山復生病院とは設立の目的に天地の差があります。日本にも患者のために献身的な慈愛深い人々はいましたけれど、明治政府の「らい予防法」の目的は、あくまで患者を社会から排除し、周囲に伝染を防ぐことにあり、患者のためのものではありませんでした。患者に断種や堕胎を強いるなど、牢獄に閉じ込めるに等しい扱いをもたらすものでした。
《らい予防法がぼくたちにとってつらかったのは、それがぼくたち患者の面倒を見ようという法律ではなく、社会から、らいの患者をなくそうという法律だったということです。個人的に誰の罪であったとは言いません。「時代の誤り」だったと思います》という在院者の証言からも明らかなように、らい予防法は全体主義に後押しされた、明らかな民族浄化政策でした。
テストウィド神父は病院設立の許可を当時のカトリック教区の司教に得るにあたり、自分もこの病に罹患して死ぬことの許しも願っていました。
ハワイ州モロカイ島の、ハンセン病患者のためにつくしたことで有名なダミアン神父は(死後列聖されています)長年自分の手で患者の世話を続け、この病気でいのちを落としました。テストウィド神父はダミアン神父の死の二年前から交流がありましたから、彼がハンセン病に罹患したことは当然承知していました。ハンセン病患者の病院をつくり患者のために働くことは、すなわち自身にもダミアン神父と同じ運命の待ち受けることは覚悟していたということです。
テストウィド神父は司教への手紙で、患者たちの身体の損なわれていることにショックを受けたことを隠さず詳細に綴り、それでも「私の愛する患者たち」と共に生き、共に死ぬ道を選びたい決意を伝えました。
ハンセン病に罹患することは、ある意味死ぬことより恐ろしいでしょう。長い激越な病の苦しみを経なければならないからです。テストウィド神父の、未来を病魔に委ねる凄まじい覚悟を前にして、自分がいかに愛薄き人間であるかを思い知らされます。ハンセン病が完治する今日でさえ、私はハンセン病の患者と握手をしたら、伝染しないとわかっていても後でこっそり隠れて手を洗うかもしれない神経質で非科学的で偽善にみちた人間、差別心から抜けられない恥ずべき俗物だからです。「らい予防法」も多かれ少なかれ私に似た人間集団の制定した恥辱の法律です。「神の法」はこの「人間の法」を嘆くでしょう。
テストウィド神父のその後の病院設立に向けての行動は、困難につぐ困難の茨の道でした。外国人である神父が病院を設立するためには、日本の法律手続きをクリアし、資金を集め土地を捜し、建物を建て、働く人を見つける必要がありました。何事にも言えますが、ゼロから一にすることは、一から二や三にすることより遥かに険しい道です。無から有を生じさせることは偉大なことです。
医学の進んだ現在の日本でさえ、伝染性疾患専門病院を建てるとなれば近隣の理解を得るのは難しいことです。まして当時のらい病は単なる病気以上の禁忌、恐怖現象であったわけですから、土地を見つけることは困難を極めました。しかし、テストウィド神父は、あらゆる障碍を乗り越えます。ついに静岡県御殿場の神山に七千坪の土地を購入出来たことは奇跡のようでした。
多額の寄付を集め、日本人信者や医師の協力も得て、二階建て家屋に二十人の患者を収容し、ようやく病院が動きだしました。しかし、次々に壁にぶつかります。陸の孤島のような病院の敷地から、街道に出る道の通行権を地主から拒否されたこと。重症患者が多かったので患者が亡くなれば墓地に埋葬する必要がありましたが、共同墓地への埋葬を猛烈に拒絶されたこと等々……。らい病患者は、死んでからでさえ差別されていました。その尽きることのないトラブルに立ち向かいながら、設立わずか二年後、テストウィド神父は病に倒れます。香港での療養を命じられ「必ず皆の元に帰ってきます」と言い残して旅立ちましたが、不帰の客となりました。死因は胃癌。四十二歳の刀折れ、矢尽きるような若い死でした。
それでも一度動きはじめたミッションは頓挫することはありませんでした。テストウィド神父の志を継いで病院は続いていきます。ヴィグルー神父、ベルトラン神父、ドルワール・ド・レゼー神父、岩下壮一神父……。神山復生病院にとくに関わりの深かった五人の神父たちの名を前にする時、私は畏敬の念に打たれます。彼らの献身の結果の、過労死とも戦死ともいえる生涯に対して、感謝というなまぬるい言葉など簡単に口に出せないのです。
東京大司教オズーフがテストウィド神父の後任のヴィグルー神父にあてた書簡には、こう書いてありました。《彼等の衣食住の経費を同様に貧乏なミッションが、貴師に与えることができないのは申し上げるまでもない。貴師はその資金をテストウィド神父が求めた同じところに、すなわち摂理の金庫の中に求めるより他に途はないのである。お気の毒ではあるが、貴師は親愛なるライ者諸君のため、かれらと同じく乞食をしていただきたい*1》
その時代の宣教師たちは質素で厳格な生活をし、彼らの口にあわなかっただろう米と漬物だけを食べ、患者たちのために尽くしました。テストウィド神父を引き継いだヴィグルー神父は、患者数を急激に増加させましたが、野心的な聖職者にありがちの、受洗者を得ることをミッションの目的にはしませんでした。患者に信仰を強制せず、病院を心が浄化高揚される祈りの場所と考えた人です。ヴィグルー神父は病気によりフランスに帰国しました。
三代目、フランス人ベルトラン神父は亡くなるまで二十年にわたり粉骨砕身、獅子奮迅の仕事ぶりで、この病院の基礎を固めました。患者たちは小さな村のようなものを形成し、自分たちのものは自分たちで生産するという自給自足の生活をしていました。神父は患者のために演劇、バンド、オーケストラなど文化的な娯楽を奨め、外気に当たることが効果的な治療であると考えられていたので、戸外の活動も奨励されました。
しかし、患者が同じ河川から水をひいているという村人からの苦情は絶えません。井戸を掘るものの、なかなか成功しない問題があり、他にも病院の購入していた土地を日本人に不正に転売されたり、敷地の名称や境界線の裁判沙汰がありました。神父は自分が外国人であること、ハンセン病院長であることの世間からの反感を、その一身に背負ったのです。
当然のことですが、気の毒な立場の患者が、すべて正義の人とは限りません。質(たち)の悪い患者が入所して神父の生命が危険にさらされたり、他の患者を煽動しての、神父が搾取しているという事実無根の告発までありました。
当時、ハンセン病の擁護者として著名なラウル・フォルロー氏が、それまで訪問した世界中のハンセン病院の中で神山復生病院が最も称賛すべきすばらしい病院であると感動していたにもかかわらず、一部の荒れた患者たちからの悪意の攻撃に、ベルトラン神父は《悲しみから立ち直ることはなかった》とあります。
自分がハンセン病に罹患して死ぬ覚悟で患者に尽くしても、なお当の患者たちから背かれてしまうのですから、ベルトラン神父の絶望は深かったと推測されます。神父はそれでも最後まで患者のために懸命に働き、多くの苦難に耐えましたが、細菌感染のため結局五十歳の壁を超えることなく亡くなりました。故国の土に還ることもなく神山の地に患者と共に眠っています。
後継のドルワール・ド・レゼー神父はフランスの貴族出身で、七十歳から亡くなる八十二歳まで院長となります。この時にもまだ病院の水の問題は解決されずに、神父は井戸を掘って給水する試みを何度も何度も行いました。そして騙されたり失敗したりを繰返します。ド・レゼー神父の人となりを伝えるのは、井深八重さんの文章が一番適切でしょう。
井深八重さんは誤診により患者として入所し、病気の疑いの晴れた後に神山復生病院の看護婦となる数奇な運命をたどった方で、ナイチンゲール賞はじめ数々の福祉関係の賞を受けています。
当時のハンセン病者は今日では到底見ることも出来ないような重症者の多い時代でしたが、そんな中で同胞さえ、親兄弟でさえ、捨ててかえりみないこのような病者のために、地位も名誉も学問、財宝などすべてを捨てて、この子等の為には如何なる苦難もいとわぬ迄に捧げ尽くされた宣教師達、そして今、眼のあたりに見るドルワール院長の人柄に私はすっかりうたれてしまいました。
信仰の故とは云いながら、故国を遠く、風俗習慣すべて異るこの見知らぬ国へ渡り、このような病者をわが子と呼び、御自身もその親ともなって尽して下さるそれらの偉業に対し、日本人としてだまっていてよいのだろうか、私はしみじみと考えました。何のとり得もない自分ではあっても、何か出来ることをしてすべての日本人に代ってこれらの大恩にはご恩返しをしなければならないと、前後を顧みずただこの一念に燃えたちました。もし許されるなら、このお年を召された院長のお手伝いをして病院のために働くことが出来れば本望であると心の中に考えておりました。
そんな事を考えていた矢先、ドルワール師は私を呼んでおっしゃるのに、『あなたは、どうも、この病気ではないように思う。それで、もう一度専門医の診察をうける必要があると思う。』ということで、当時、世界的にも有名であった皮フ科の大家、土肥慶蔵博士を紹介して下さいましたので上京、約一週間の精密検査をうけました。…中略…そして、結果は『異常なし』という診断とその証明書を頂いたのでした。ドルワール院長は非常に喜ばれ、おっしゃるのに『あなたがこの病気でないことがわかった以上、あなたをここにおあずかりすることは出来ません。あなたは、もう、子どもではないのですから、自分で将来の道をお考えなさい。もし、日本にいるのが嫌ならば、フランスへ行ってはどうか。私の姪が喜んであなたを迎えるでしょう。』とまで云って下さいました。然し、私の心は既に定っておりましたし、今自分がこの病気でないという証明書を得たからといって、今更、既に御老体の大恩人や、気の毒な病者たちに対して踵
(きびす)をかえすことができましょうか。私は申しました。『もし許されるならばここに止って働きたい。』と。
母国に貴族としての恵まれた生活があったにもかかわらず、まだ貧しく遅れた国であった日本の最底辺、忌み嫌われたハンセン病患者のために生涯を捧げるドルワール・ド・レゼー神父の、近寄りがたい聖職者としてだけでない、人間味、温かみの伝わる一文です。そして、ド・レゼー神父に「打てば響く」生き方をなさったのが井深八重さんでした。私たちすべての日本人に代わり、神山復生病院に一生を捧げて「ご恩返し」をしてくださったわけです。花の盛りの二十二歳、当時にしては珍しい高い教育を受け、英語教師をしていた良家の娘が患者となり、誤診判明後は看護婦として、七十年にわたりハンセン病病院と患者に献身しました。一度奈落に落ちたと思われた人間が、かくも素晴らしくその人生を切り開いていったことに、深い感動を禁じ得ません。
この神山復生病院を語る際に、決して忘れてはならない名前が日本人の岩下壮一神父です。昔、「人間は一瞥でわかるものです」と私に教えてくれた先生がいました。たしかに遺された岩下神父の写真を見ただけで、美しい魂を感じられるのです。
岩下壮一は大実業家岩下清周の息子として生まれ、東京帝国大学を銀時計で卒業後、ヨーロッパ各地の大学への留学を経て、神学校で教鞭をとっていました。著作も多く、近代日本のすぐれた神学者、思想家でもあります。
昭和五年(一九三〇)、ド・レゼー神父が《天主教の神父の仕事の中で、癩病院の院長より下の役はありません》と言っていた病院長に就任したとき、周囲は大変驚き残念がりました。岩下神父には教会の中で出世栄達する道も、東大教授となって学者として大成する道も(完璧な英語とフランス語を話しドイツ語にも堪能で『神学大全』を当然のようにラテン語で読みこんでいた逸材でした)、さらに父の跡継ぎとして岩下家の事業を担う道も期待されていましたが、神山復生病院を援助していた父親の遺志を継いで初の邦人院長となったのです。
岩下神父は、《見殺しにするより他に途はない》患者の窒息していく断末魔を見送った夜をこのように書いています。
私は其晩プラトンも、アリストテレスも、カントもヘーゲルも皆ストーブの中にたゝき込んで焼いてしまひたかつた。考へてみるがいゝ、原罪がなくて癩(らい)病が説明できるのか。又霊の救ひばかりではなく、肉身の復活なくてこの現実が解決できるのか。生きた哲学は、現実を理解し得るものでなくてはならぬと哲人は云ふ。然らば凡てのイズムは検微鏡裡の一癩菌の前に悉
(ことごと)く瓦壊するのである。私は始(ママ)めて赤くきれいに染色された癩菌を鏡底に発見した時の歓喜と、之に対する不思議な親愛の情とを思ひ起す。その無限小の裡に、一切の人間のプライドを打破して余りあるものが潜んでゐるのだ。私はこの一黴菌の故に心より跪いて、「罪の許し、肉身のよみがへり、終わりなき生命を信じ奉る」と唱え得ることを神に感謝する。
(「御復活の祝日に際して*1」 『聲』六六三号 カトリック中央出版社 一九三一)
神の視点から世界をみれば、人間は微細な癩菌一つさえ思いのままにすることはできません。それが岩下神父のよく云っていた「人間の分際*2」でした。
明治の上流階級出身であった神父は、病院のために多大の私財を投じると共に、東奔西走して寄付を集め、病院設備の改善、患者の生活向上、医療体制の充実に情熱を注ぎました。またこの病気に対する社会の理解を得るために原稿を書き、講演を行いました。
差別と偏見にさらされていた患者の、未感染の子どもたちを育て、学齢に達すると特設の小学校で教育を与えたことは、大きな功績でした。患者たちの野球チームを組織し、神学校の学生と交流試合を組むなど、患者と、生きることの喜びを共有しようとしました。患者たちから「神父さま」ではなく「おやじ」と親しみをこめて呼ばれていたことからも、その一端がうかがえます。
しかし、時代は戦争へと向かいつつありました。神山復生病院にとってどん底の時代であったかもしれません。まだハンセン病の特効薬は存在せず、やがて食糧も薬品も不足していきます。日本軍は大陸に侵略を進め、国家総動員法によって少年少女まで戦争に駆り出される中で、生活のほとんどを寄付に頼って生きる患者は国家にとっては迷惑で「役立たず」な存在でした。外国人排撃の機運が高まり、ミッションを締め出して、患者を国立の施設に入れるように政府から迫られると、岩下神父はこれを拒絶して患者を守り抜きました。
あの時代は一介の神父といえども、軍国主義の渦に呑み込まれることは避けられませんでした。岩下神父は当時の世界のカトリック教会がそうであったように反国家、反戦の立場をとらず、皇室には最大の敬意をもっていました。ただ神父にとって何より大切なのは時世ではなく目の前の一人一人の患者でした。
政府は大陸に宣教していた教会を政治利用しようという意図のもと、岩下神父に「華北宗教事情視察」の要請をします。しかし、岩下神父は政府のいうままに動くその危うさを思い、公式の立場で行くという要請を断り、個人として視察に出かけました。
岩下神父は、日本軍が大陸の教会や宣教師に対して行ったことを知り、衝撃をうけます。その一カ月のひどい経験に疲れ果て、重い病を得て帰国。肋膜炎に腹膜炎を併発、帰国後ひと月も経たず患者たちの祈り声の響く中、神山復生病院の二階の自室で静かに五十二歳の生涯を終えました。一九四〇年、大政翼賛会発足、日独伊三国同盟調印の年のことです。
ある年の初夏、機会がありまして、私は岩下家の墓所に詣りました。その墓所は富士山の裾野のS女子学院の敷地の一角にあります。S女子学院は岩下家が、所有していた二十一万坪もの広大な土地を修道会に寄付して出来た学校でした。岩下神父の両親とシスターであった妹と一緒に岩下壮一神父は眠っていました(岩下神父の墓は裾野のこの個人墓から東京府中カトリック墓地に移されたそうですが、ここにも墓がのこっています)。
墓所の正面には父岩下清周氏の銅像の乗った墓石がありその前に岩下神父の母、妹、岩下神父という家族三人の長方形の小さな石棺が横一列にならんでいます。右端に岩下壮一之墓と刻まれたものがあります。修道女の手向けた季節の白い紫陽花が目にしみるようでした。
この岩下家の墓所に佇んだとき、私は他の場所で経験したことのない厳粛に包まれました。鬱蒼とした木立に囲まれた、昼でも小暗いその場所は、全き静寂でした。清く洗われた心静かな場所でした。その静謐をみたしているものは、おそらく「祈り」です。「祈り」は形のないものですが、積み重ねられた祈りは、歳月の波にも流されずたしかにそこに在ったのです。気高い闘いの果てに歴史の中に消えていった聖職者たちの祈りが地層のように堆積しているのでした。
岩下神父の死後の太平洋戦争の戦禍は周知のとおりで、国民生活窮乏の中、食糧、薬品の不足、過労などにより、多くの患者が結核で亡くなりました。それでも何とか終戦を迎え、戦後一九四七年に、神山復生病院はクリスト・ロア宣教修道女会に引き継がれます。一九四八年には日本で特効薬のプロミンが生産されるようになり、翌年から神山復生病院で使われるようになりました。ハンセン病が治る病気になったことは劇的な変化でした。一九五三年「らい予防法」は改正され、患者の強制隔離から、入所勧奨というものになります(それでも、らい予防法が廃止されるのは、まだ四十年以上も先の一九九六年、平成八年のことですから、政治的な患者の差別は長く続きました)。
ハンセン病は過去のものとなりました。ハンセン病施設も今ではその役割が高齢患者の介護施設となり、いずれは不要のものとなるでしょう。それと共に患者たちの凄まじい苦難の歴史も、またその患者たちに人生を捧げ、共に立ち向かった人々のことも忘れられつつあります。
しかしながら『いのちの遺産』に描かれた神父と患者たちの記録は、単なる過去の不幸な出来事を超えて、今も私を奮い立たせてくれる力があります。神山復生病院とは如何なる場所であったか。在院していた患者、藤原登喜夫さんの証言を引用します。
十二歳の時から療養所に入って、九年くらい、療養所に生活して、ようやくそこが自分の居場所だと思えてきた頃、血を吐いた。それで、「自分の一生が終わってしまうのかなあ」と、その時感じた。そうすると、目が冴えて、神経が研ぎ澄まされて、眠れなくなる。「死んだらどうなるんだ」、ということが頭を離れない。このまま無になってしまうのか、自分の一生ってなんだったんだろうか、と。そんなとき、ふとまわりを見ると、司祭もシスターたちも、外国人も日本人も含めて、本当によく、献身的にわたしたちの看護をしてくれていることに気付いた。それも、ただ「かわいそうだ」という程度のことで出来るような看護じゃなかった。それが遡れば明治二十年から、代々ずっとそういう人たちがいるわけだ。そこまできて、「この人たちがそうさせているもの、そういう人たちを動かしているものは何だろう」と、考えたとき、「もしも命を取り留めることができたら、その職員を含めてシスターたち、そういう人たちが信仰しているものを、勉強してもいいんじゃないか」と、こう思ったわけだ。だから、クリスチャンになった一番のきっかけといえば、「カトリックの信者になる」ということを思ったわけじゃなかった。その人たちの行いを見て、「キリストの代理者」みたいな人を見たということだと思う。
知っているかどうか分からないけど、聖書というものも難解なものです。特にぼくたちが子供の時などは、外国語を話してはいけないと言われていた時代だったから、イエスやアダムのことを言われても、それはおとぎ話での話としか思われなかっただろう。それがそうじゃなくて、実際にわたしの面倒を看てくれた人たち、その人たちがすばらしかった。それによって、カトリックの洗礼を受けることが出来たと言うことだろう。
神山復生病院を訪れたある記者は、患者が幸福に見えたことに感銘を受けています。社会と絶縁せざるを得なかった患者が、共に苦しみ、共に生きて死んでくれる存在を知ったことで、心からの平安を感じていたのではないかと思います。神山復生病院は、ハンセン病という沈む船に一緒に乗ってくれる同伴者に出逢うことのかなう稀有の場所でした。
ひとがひとを愛しおおすことはほとんど不可能なことです。しかし、ごく稀に、ごくわずかの人間は愛を遂げることができます。神山復生病院は、そういう愛の奇跡の場所であったと言えます。人間が徹して無になった時に、初めて顕れる光明がありました。神山復生病院の場合は、世界のあらゆる場所に赴き、最底辺に喘ぎ苦しむ人々のために、いのち果てるまでただ黙々と仕えるキリスト教修道会のミッションたちが、愛の媒介者でした。
津久井やまゆり園で、ハンセン病患者たちのような「世の中のお荷物」への残虐な殺戮を繰り返した犯人は、自分の刃でじつはテストウィド神父、ヴィグルー神父、ベルトラン神父、ドルワール・ド・レゼー神父、岩下壮一神父、井深八重、そういう人間たちをも殺していたのです。それは人類が自分で自分の首を絞めることでなくて何でしょう。犯人の男の主張するところの「役立たず」の人間を殺すことは、世界を支えるほどの愛に生きる人間たちを殺すことです。彼は、愛が自分の手にしているすべてを棄て、もっとも弱い人間になることだと知らなかった。
ハンセン病患者は気の毒でかわいそうな存在、あるいは唾棄すべき厄介者と見られてきましたが、彼らは世界からある仕事を託された、選ばれた人間だということもできるのです。重度障害者たちも、ハンセン病の患者たちも、「役立たずのお荷物」どころか、彼らにしかできない仕事をしています。
世間の底に隠れて目に見えない「愛」を照らし、育み、輝かせるという「弱者」にしかできない仕事です。人間の愛と祈りを全身で受けとめるという仕事です。愛の仕事です。健常者の代わりに筆舌に尽くし難い苦難を背負ってくれた彼らは「愛」を創る人びとと言えます。彼らの存在がなければ、神父たちの中に在る「愛」がここまで花開いて輝くことはなかったでしょう。弱者は底知れぬまでの苦難と愛の受け手であることにおいて偉大な存在です。「弱者」の存在は地球から愛を亡ぼさないための天のはからいです。
愛には愛する対象が、つまり愛を受けとめる存在、愛の生きる場所が必要です。マザー・テレサはただ一つの仕事をした聖職者でした。目の前の一人の行き倒れた「役立たず」の人間を手厚く看病し「あなたは神に愛されている」ことを伝え続ける、それだけで多くの人間を救ってきました。そしてマザー・テレサは、彼らは神の姿であり、自分は彼らから、自分が与えた以上の多くのものを与えられたと語っています。神は人間の望むようなかたちで「役に立つ」ことなどあり得ないからこそ「神」なのです。弱者を役立たずと罵るとき、ひとは神を役立たずと侮蔑しているに等しいことに気づくかなくてはなりません。
患者と神父たち、彼らは、突き詰めれば、人間には愛することと愛されることしかないことを、それさえあれば充分であることを教えてくれます。何もかも失い、明け渡した人間でなければ、愛を全的に受容することはできませんし、彼らのために自分のいのち尽きるまでのすべての時間と力を投げ出す覚悟があって初めて、ひとが隣人を愛する不可能が可能になるのです。愛は、このような極限においてのみ見ることのできる神秘です。
人間はすべて、おしめを替えてもらう「役立たず」の赤ん坊として生まれ、おしめを替えてもらう「お荷物」の老人か病人として死んでいく。愛されるために生まれ、愛されながら死ぬ存在あってこそ愛のいのちは続いていく。この神の摂理を思うと粛然とします。役に立たない弱者たちが抹殺されるとき、世界からいっさいの愛が消えていくのです。
そして最後に、このような凶悪犯の命も犠牲者たちと同じように大切なことを書いておかなくては「神の法」の正義ではありません。こんな邪悪な人間は死刑にしてしまえという排除の論理は、結局この犯人の思想の根と同じだからです。この犯人を許すことは、私を含めたふつうの人間には容認できないもので、感情の限界を超えています。しかし、犯人が罪を心底悔い詫びたとき、神山復生病院を支えた人びとなら必ず彼を許すでしょう。彼はこの犯罪に至るまでの人生において「愛」を受け損ねた気の毒な、不幸な人間でした。彼の犯罪に至る動機には、自分より役に立たないのに周囲から愛されている障害者たちへの激しい嫉妬が根底にあったろうと私は想像するのです。彼が死罪に相当するほど「世の中のお荷物」となった自分を大いなるものの前に明け渡すとき、彼は初めて愛を受ける準備が出来るのです。犯人に、被害者と被害者を愛していた人びとに許しを乞うその日が来ることを祈るしかありませんし、世界には彼のためにさえ祈りつづけ、愛そうとする存在のあることを信じてほしいと願うのです。
人間はたとえばハンセン病、たとえば戦争、たとえば天災を前にすればほんとうに為す術もなく無力です。現実の前に敗北するしかないのです。それでも、すべてを喪っても、どんなに凶暴な力に打ちのめされても、破壊され得ないものがあることを、神山復生病院を通りすぎていった人々は教えてくれます。神父たちはこの世の価値観で患者を救うことは出来ませんでしたが、それ以上のものを、「聖なるもの」としか言いようのない何かを患者たちと分かち合ったのでありましょう。
ハンセン病は幸いにも克服されました。しかし、同じような災厄はエイズやエボラ出血熱、新型コロナウィルスなど世界のどこかで今も続いています。将来私やあなたが致命的感染症に倒れたり、あるいは戦争や強制収容所で苦しみ喘ぎただ死を待つとき、無惨な犠牲者、犬死にさせられる民衆の一人として、世界から見棄てられることに絶望してはならないのです。私にもあなたにも、最期まで寄り添ってくれる存在、悲しみ、祈り続けてくれる存在、決してひとを一人で死なせない存在はあります。
聖書の「人その友のためにいのちを棄つる。これより大いなる愛はなし」という言葉のままに生き、名もなく死んだ人たちは、今までにも無数に存在し、現在にも未来にも存在します。そしてその場所こそ愛の聖地でした。忘れられていく、名もなき聖地でした。
私は神山復生病院に顕現した「不屈の人間愛」を心から讃えたいと思います。そしていかなる栄誉栄達とも無縁のまま、神の道具となり歴史の底で忘れられた彼らミッション達に「よくぞ日本に来てくださいました」と、深く頭を垂れ、『いのちの遺産』という一冊の文庫本にも時々お辞儀をして暮らしています。これは、ハンセン病という災厄に苦しんだ人々の悲話ではなく、病をものともせず無上のいのちの至福に生きた患者と聖職者たち双方の、栄光への讃歌なのです。
*1 輪倉一広「岩下壮一の思想形成と救癩」(『福井県立大学論集』第35号 二〇一〇・七)より転載
*2 小坂井澄著『人間の分際 神父・岩下壮一』(聖母文庫 一九九六)参照