1.あなたなら、どう答えますか
ここに「古池や( )とびこむ水の音とある、虫食いの( )に漢字一字を補って、一句の表現を完成するように言われたら、おおかたの人は、即座に「蛙」と入れるでしょう。あの芭蕉の句と知っているからです。「久方の( )のどけき春の日にしづこころなく花の散るらん」にしてもそうです。百人一首をよく知った人には、「光」とより他に一考の余地もない。
けれど芭蕉とも紀友則とも知らず、歌も句も初めて読んだ人なら、これは思案をしなければなりません。ただのクイズではない。句や歌の全体を、くりかえし音読さえしながら、たった一字のために「思い」を詩的に練らなければ、適切な字に行き当たることが出来ません。原作どおりの表現に行き着くのか、原作者も思い及ばなかった、まるでべつの佳句や秀歌へ辿り着くのか。原作者や原作について、幸いなにも「知らない」ばかりに、そのときその人は、みずから、一人の詩人、歌人や俳人に、なってみずに済まないのです。
ましぐらな矢に真二つ裂かれたるリンゴの( )の散るやうな逢ひ 東 淳子
逢ふことが「栄養」となり夏こえてうつすらと( )をおびゆくからだ 松平 盟子
東京工業大学で工学部「作家」教授を楽しんでいました四年間、優秀な理工系の学生に、
毎時間、講義の本題とは別に、欠かさずこういう出題を試みつづけ、たいへん人気があったのです。で、ある日、右の二首をならべて「同じ一字」とヒントを与えました。けれど、これは難しかった。五四三人中、原作者の表現どおりに漢字を入れたのは、たったの五人でした。いろんな漢字が出た。半数が、両方に「紅」と入れ「赤」も「朱」もありました。でも、リンゴは真二つに裂ければ白いんですね。「実」では、字足らずになります。
さあ、原作を「知らない」あなたなら、どう答えますか。
学生たちの多彩な回答の中に、これならどうかなと思う、三つの文字が混じっていました。「愛」「肉」「蜜」の三字です。原作者の表現を必ずしも言い当てるだけを期待していたのではありません、が、三文字には原作の一字がちゃんと入っています。どうぞ紙にでも書き並べてください、三首ずつ。どれも、なかなかのものだと思われるでしょう。
けれど、そんな、まるで「掛け替え」がけっこう利きますねといった感想をもたれては、
原作者は、しぶい顔をなさるはずです。俳句や短歌は、十七の、三十一のパーツ(部分品)
を、自在に取り替えて成る器械のようなものか。そうのようでもあり、断じてそうではないと、作者なら言いたい。そこに「詩=ポエム」の秘蹟があるわけで、一字一句に「抜き差しならぬ表現」を与えていると言いたい。当然です。
挙げた二首の現代短歌は、東さんも松平さんもともに「肉」という表現を与えていました。そこへ「愛」ではどうか、「蜜」もいいではありませんかと、自然科学に日々懸命の学生諸君から、べつの「詩」が表現されてきた。作者と作品とをダシにし、まことに申し訳なかったのですが、学生諸君を主に考えるなら、ここに生かされた「センスdeポエム」は、詩の体験は貴重なものだとわたしは考えました。その教室での実験を、やがて、『青春短歌大学』(平凡社)という本にもし、大学の外でもよく読まれました。
正岡子規に、「いくたびも雪の深さを尋ねけり」という佳い句があります。滋賀県のある中学の先生が、わたしの方法に学んで、この「雪」の文字を虫食いにし生徒に出題されました。「海」「水」などと出て来ても、面白くはない。すると一人の生徒が、勢いよく「愛」と手をあげました。わあっと歓声が教室を埋めて、いくら先生が「雪」と説明しても、「愛」もいい「愛」がいいとみな言う。ここには微妙なメリットも、しかしデメリットも感じられます、が、それでもなお、中学生たちの体験した「センスdeポエム」の値打ちは、認められるのではないでしょうか。
さ、あなたも、この頁で「詩人」を体験して見てください。アテものでは、ない。調べ回って答えてもトクはしない。次の号で、結果を報告しながら、作品を、しっとりと一緒に鑑賞し、よく味わいましょう。作者の名前も伏せておくことを、ご承知ください。
眺めよき場所に席とり待つと言ひき遊びのごとく( )をば語りき
淋しい日一人の( )を仮想する
3 字あまりと定型
A 手をとりてゐし子のわれをまどろませおきてしづかに(息)ひきゆきしか 和泉 鮎子
B 良夜かな赤子の寝息(麸)のごとく 飯田 龍太
国民学校に入りたてのころ、この国には昔から短歌と俳句というものがあって、短歌は五七五七七の音構成を、俳句は五七五の構成を約束ごとにしていると、添い寝の叔母に教わったあの新鮮な感動は、あれこそはカルチュアショックでした。けれど、すぐ覚えました百人一首のなかにも「有明けの月と」「ものをこそ思へ」などといわゆる「字あまり」時には「字たらず」の作もあり、それにはそれの魅惑や必然があることを覚え、型と型破りの妙味を通じて、また一歩ずつ和歌や俳句に近付いていけたことを思い出します。
和泉さんの短歌は、鍵に位置した一字を伏せてしまうと、ちょうど柔らかい紐がくずれたような、いわば蛇行を見せます。「ゐし」「おきて」などは句から句へ跨がって、歌の姿をさながらにぐずつかせています。何を、どう歌っているのだろうかと、眼目の一字を伏せたばかりに、表現の完成に戸惑われた方が多かったのではないでしょうか。意味を取りながらみれば、この歌、七・五・八・四・八と読める乱構成になっています。
ところが、これが、「母、ないし親」の夢の間に「息ひきゆきし」臨終を、まどろんでいて見とり過ごした痛切な悲しみを、そんな親から最後の最期にもらった娘への愛深いいたわりのようにとらえ直す事で嗚咽に耐えている歌であったと読めてみますと、ろ「き・き・き」と響く「字あまり」の嘆きがみごとに意味を帯びてくる。 言うまでもなく事実死に行く親が、介護に疲れ親の手をとったままふと寝いった娘を、「お疲れだね、すこしおやすみ」と寝かせてくれたなどとは思いにくい。しかし、しいてそうも思ってみることで、作者は冷たい涙に温度を添え、久しい親への思いを、反芻しているのでしょう。とてもとても綺麗に割り切れた思いではなかったのです。そう思います。「しづかに」という四音には切なる祈りが籠っています。「まどろませ」という使役語法には、諦められない親への甘えが滲んでいます。
「息」と入れた人が23人、いちばん多数でした。体験的に共感できたのでしょうか。
「身」「戸」「手」も多かったが、かえって定型の一音なのが、調べの障りになってくる。「息ひきゆきしか」の語勢に負けてしまう。歌の歌わんとする切なさともかすかに齟齬ももちます。
臨終に「幕」は言えており、「杖・影」という死出の旅立ちも目に浮かびます。ことに「杖」は悲しくも佳い一字ですね。ここは「字あまり」を思ってみるのが、詩的なセンスでしょう。ほかに、「這・寝・終・紅・声・命・襖・箱・裳・神・腕・愛・裾・足・殉・扉・靡」などがありました。回答の人数がぐんと増えました。
飯田さんの句は季節は月の秋ですが、とらわれずに、採りました。これはまた定型句の面白さで、一読したときあっと声が出ました。「かな」という切れ字と「赤子」との間に無限の余韻と含蓄があり、平和な月の光はそこに輝いています。そこを味わうのが切れ字のよさで、最近世上の句にあまりこれが生かされていないのを私は寂しく感じています。
「の如く」とは譬えですから、人により何が飛び出てもおかしくない、解答はずいぶん多くの文字になりました。そうは言え「定型」を念頭におけば一音字を選ばねばならない。一音ならば、いろはでもあいうえおでも、順に宛てるという便法があり、私の学生たちは、困るとこれをやりました。「赤子の寝息」なら何行音でしょう。
二音字から並べましょう、「歌・春・羽・花・華・蜜・珠・玉・雪・鈴・靄・風・綿・虫・桃・母・笛・水・魚」など、どんなものか。それぞれに感じは出ています。ある人には蜜のように甘く、また桃のようにあてに、また珠玉にも想えたのでしょう、それで佳いと思います。「調・鼾・証・扶・仏・雫・兎・童」また「漣・湖・虫の音」などと字あまりが過ぎると、このきっぱりした句の締まりを弛めてしまいます。
では一音字ではどんな解答が。「詩・無」が多かったが、すこし無理か。「香」も多く、これには感心しました。「羽」も苦心の一音ですね。「意・絵・蚊・雅・子・瀬・火・譜・帆・艪」などの中で、ハ行の「帆」が、美しい。赤ちゃんが月光の空を可愛い帆をあげて夢の航海をしているなんて。「瀬も艪も絵も」佳いですね。
原作は「麸」でした。ちいさくて、可愛くて、やわらかな静かさが「良夜」に祝福されている感じ、これもまた、意表に出ておもしろいですね。・
両作同解の、船橋市高橋萬里子さん(68)、おみごと。
A 厠なるスリッパうるわしく整えり明治の( )いで たる後に
B 公園で撃たれし蛇の無( )味さよ
欄外に
A「杖」の清水市佐野小枝さん(75)
B「帆」の福島県鏡石町の深谷和世さん(58)
前回
B「城」の安来市大森延子さん(72) を、
出題者「名解」に選びます。
*センスdeポエム 詩歌を体験
4 詩は、簡単ではない
秦 恒 平
A 厠なるスリッパうるわしく整えり明治の(男)いでたる後に 玉井 清弘
B 公園で撃たれし蛇の無(意)味さよ 中村 草田男
「今度は易しい出題ですね、易し過ぎませんか」と、編集担当のSさんが言いました。思わず、にやりとしました。
虫食いの箇所に入るべき字は、漢字が一字の約束です。前回の俳句の例では、原作者の気持ちをわきへ置かせてもらえれば、じつに沢山な回答例が出ました。なかなかの名答もありました。それだけに、原作どおり「麩」と入れた解答はごく僅かでした。ある意味であの句の虫食い部分は、さまざまに取り替え可能な、十七あるパーツ=部分品の一つに相当していた感すらありましたね。
ところが今回の題は、二つとも、めざす漢字がほぼ決まっていて、なるほど「易しい」と言えます。でも、一字に絞らねばならず、悩ましいことに、簡単には一つに絞りにくい、少なくも二種類の解答文字候補が、すぐ想い浮かんできます。
短歌では「男」と「女」です。俳句では「気」と「意」です。ハテ、編集のSさんは、どう宛てて「易しい」と考えていたのでしょう。たしかに、ここまでは「易しい」が、ぜひ一字だけを選んで、決定してもらわねばなりません、これがラクじゃない。ラクに考えては間違うのです。決定的表現は、どちらなのか。作者はどう決定していたか。
言うまでもなく厠は「かわや=便所」です。公衆便所に「スリッパ」は無い。和風の旅館客室なら有るでしょうが、洋風ホテルの客室には無いし「厠」が似合いません。夫婦や若い親子でこんな感想は持たないでしょう。「舅・姑」でも、いつも同居なら湧いてこない感想ではないでしょうか、来客風に久しぶりに訪ねてきたのなら別ですが。つまりこの「明治の」と冠された人物は、少なくも作者の自宅ならば「来客」なみの人か、お寺での法事や料亭などに、大勢で会合したなかの、親族とか先輩や上司とかが想像されます。
解答は「明治の女」が断然群を抜いて多く「*=嫗=おうな」が次ぎます。
短歌の形からみて、ここは三音に読める漢字一字でなければならず、そうかといって「娘」「婆」「童」「心」は苦しく、また「館」「習」「厨」は逸れており、「鏡」に、もし、鑑つまりお手本のような偉い人の意味を添えるのも、少し無理が過ぎるようです。「母」「人」「仁」「客」など、字足らずでに読みにくくする必然性も不足していますね。さりとて「母の」などと、二字宛てるのは約束を外しています。僅かに「姑」を字余りのまま読むのは可能です、が、自分の姑や舅を「明治の姑」「明治の舅」と、ふつう、謂うか、どうか、どうでしょうか。「姑」が、「舅」のきっちり三倍数、解答されてきました。
ところで解答なさる皆さん、みな女性です。だから短歌の作者も女性と思い込んで「女」「*・嫗」が多かった。あまり「当たり前」過ぎると迷いつつ。「明治の女」に限ったことかと思いつつ。要するに、意外性がなにも無いのですね。
作者は男性、そして「明治の男」でした。凛とした「詩」の印象は豊かにこちらにあります、なにかしら深く頷ける。中に「軍人」と答えていたお一人も、きっとそんな思いで一首を再現したかったのでしょう。「男」と解答したのは、たった四人でした。「易し」いと思ったところで踏ん張り、詩としてどうかと、もう一度感じ考えて欲しかった。
さて草田男俳句の一傑作では、「無気味」「無意味」それに「無趣味」ぐらいしか、そもそも熟語がない。「無趣味」は、ちょっと首をひねりますね。他に「為」「奇」「漏」だけ。ほぼ全解答が「気」と「意」に集まり、「無気味」が「無意味」の約三倍でした。
東工大の学生たちの多くは、「公園」を人工の、「蛇」を自然のシンボルのように読んで来ました。「後から来た者」と「先に棲んでいたもの」とも読み分けました。蛇は季節が来て土中から現れ、人は、人の慰安や娯楽を気色悪く妨げる敵かのように、蛇を簡単に撃ち殺したのです。
この俳句の作られた実際の時代や社会や政治環境を考えに入れますと、もっと微妙な弾圧や無抵抗をも読まねばなりません、が、それを考慮しなくても、深い構造性を一句に認めて、これぞ深読みの利く、深読みへも誘い込む、批評に富んだ含蓄の名句です。なんとももの哀しい、手の施しようのない憤りに近い無力感とともに、撃つ側の、意識すらしない酷さ、撃たれた蛇の気味悪さが、共に立ち上がります。どっちへ、どう身を寄せて読み込もうと読者の、あなたがたの、自由です。詩は、作品は、それを妨げません。
しかし、こうは言えないものか。「無気味」と読み切った瞬間から、それは生身の蛇ののたうち苦しむ生物現象だけが、死にざまの激しさや怖さだけが、意味を持ちます。撃った者へ、なんで撃つのか、なんで撃たねばならないかと、と問いかける場が消えてしまう。一面的になり、ただ「蛇」の句になり、「人」が抜け去り「公園」という社会の意味が抜け去り、「撃つ」「撃たれる」という意味深い関係性が見失われて、詩が、せまい薄いものに、簡単に、あまりに易しく、ただ落ち着いてしまいます。
草田男は、きっぱり「無意味さよ」と指摘し、なにかしらこの情景から見逃してはならない「意味」を暗示しました。「蛇」の死だけが「無意味」ではなく、撃つ者と撃たれたものとの「関わり」そのものの「無意味さ」にも、嘆きと告発を籠めたのです。
短歌・俳句両方を原作どおり読んだ人は皆無でした。思いを、深くめぐらせて下さい。
A この世から去るにあらねど( )去るといふこと深く噛みしめて立つ
B 少しおくれて( )しき人の入り来る
欄外に
A「男」と答え、「女かなと思いましたがそれでは当り前に過ぎると思いました」と付記された、北海道茅部郡森町の佐藤美智子さん(65)さんを明解とします。
前回と同行数です。「*」の二カ所は、「温」の「サンズイ」の代わりに「女」ヘンです。どうにかして下さい。
センスdeポエム 詩歌を体験 秦 恒平
A この世から去るにあらねど(職)去るといふこと深く噛みしめて立つ 筑波杏明
B 少しおくれて(涼)しき人の入り来る 川崎展宏
5 実感と約束
筑波さんの短歌に、もし、みなさんと、ほぼ同世代男
性が回答されていたなら、かなりの高率で「職去る」と
いう、退職、失職または定年退職体験が反映していたで
しょう。ましてこのリストラ時代であれば、苦い思いを
噛みしめ、覚悟を新たにした人の日々に多いことが、身
に厳しく私にも察しられます。
けれど、「職」と思案された人は、たった四人だけで
した。吃驚しました。大多数のみなさんに、「職」から
去るという実感が薄かった、単純にこれはそういう事実
現実の反映なのでしょう。「この六月末で三八年勤めた
職場を退職」された方は「職」と回答されている。なる
ほどな、そうなんだと、創作の機微を教わりました。
詩歌は、根底の実感が「言の葉」となり、花咲き実成
るものです。詩歌がまこと鬼神も動かすとすれば、ただ
の巧みさではなく、作者のつよい「実感」が、鬼にも神
にも、人の胸にも、働きかけるのだと思われます 作者
には「職去る」ことが、「この世から去る」に等しい重
みで実感を迫った。けれど、みなさんには、自ずと、み
なさんの別の「実感」が湧き起こったわけです。
「家」「村」「国」を、虫食いの箇所に補ってみて下さい、
いずれも実感豊かな、力ある一首が、立ち現れます。結
婚や就職や合縁奇縁で、希望をもって翔び立って行くの
も想像できます、が、離婚や死別や時代の波をかぶって、
苦しい事情から、住み慣れた実家・生家や、故郷・婚家
や、此の国からさえ、「去」って行く。じつに深い。この
方が「この世から去るにあらねど」の前置きが悲痛に響
きますね。この場合「去る」のは、原作者同様に、「自分
が」という実感ですね。
「人」「君」「友」「汝」や「夫」も「妻」も、「親」であ
っても、「別離の情」を深く噛みしめれば、これも痛切
です。「去る」のは、自分でなく「他者」です。みな、
ほぼ甲乙ない佳い一首として味わうに足りますね。
「今、立、消、尚、捨、連、逝、魂、感、皆、世、剥、
先、時、我、己、軈、主、過」など、「明日」も、どれ
も、少々またはかなり無理ではないでしょうか。
川崎さんの句、いろんな読みが可能です。「場所」でイ
メージが変わります。「はいりくる」と私は柔らかに読み
ますが、「いりきたる」かも知れません。「愛しき」人と
の入浴説までありましたが、難しそうで、結局原作どお
りに読んだ人が多かったのは、なぜでしょう。「季語」の
約束に気づいた人が、句意を酌みつつ、季節感を涼しく
探られたのでしょう。俳句の重い一関門なんですね。
少しおくれて「恋」しき人の入り来る など、学校
の生徒から中高老のどの世代にまで、胸轟く共通の体験
句でしょうね。似た感想の方が大勢ありましたが、残念、
季語を欠いてしまいます。
「愛、親、床、懐、美、麗、優、珍、新、久、羨、慕、
彩、覚、奇、欲、古、覇、一、来」も「凛々」も、
季節感を示す文字ではないのが、つらいところです。
そうなると自然「涼しき人」の登場です。「清しき人」も
「すずし」と読んで、とても佳い。季語ぬきなら、いっ
そ「眩しき人の入り来る」が光っています。「妖しき」「淋
しき」もなかなか意表をつきます。
「忙・姦」しき人では情景が騒がしい。原作者は、正反
対な、見るから心静かに、慌てず騒がず、わるびれもせ
ずに、人にやや遅れて、なにごとかのもう始まった場所
へ、しんとした魅力を湛えての登場を見ています。「上
品な、奥床しい女の人が御主人の少しあとから入ってき
た」という世古登美子さんの読みも、あ、そうなんだと
思わせ魅力満点ですし、遅刻しながら「涼しい顔」して
という批評もちょっと面白い。痩身、清潔、すてきな一
男性を、私は、第一感、想ってみました。
少年の日以来、男女を問わず、ああいいなと思うこう
いう人を何度か見ています。会議場でも、劇場や能楽堂
でも、集会でも、クラス会・同窓会でも、稀にこういう
人を、今も見かけます。
刻限にやや「おくれて」と読めば、或る一つ事にみな
の気の揃った場所と思われます。まったく知らない同士
ではないかも知れず、しかし知らない同士の寄合いで、
思いがけず清風入り来るような感銘が、さあっと一座に
「涼しく」生まれたともいえる。人格による「涼」感で
す。そういう稀有の価値を求め、作者の目もからだも機
敏に働きます。新鮮に佳きことを待ち迎え、すばやく捉
えています。まこと心涼しい清い句ではありませんか、
俳句の妙味に、わたしは手を拍って悦びました。
A 年たけて世のあり憂さを知りしとき悲しかりにし( )と思はむ
B 何事も無かつたやうに( )を打つ
ABとも原作どおり答えた方は、今回はお二人、高松
市の中村成子さん、東京都豊島区の中野明子さん、でし
た。拍手。
出題者から、名解の方として。
B「涼」とともに、Aに対し「この世から去る」に並ぶほど重いものは「家」だと思
う、「出家」とも謂うとされた、高岡市の川端美代子さん。
Bの読みで文中紹介した、和歌山県太地町の「床しき人」世古登美子さん。
志村さん、行数を数え数え書きましたが。自分では前回どおりに本文76行のつもり。
センスdeポエム 詩歌を体験 秦 恒平
A 年たけて世のあり憂さを知りしとき悲しかりにし(父)と思はむ 岡野 弘彦
B 何事も無かつたやうに(水)を打つ 高橋 陽子
6 秘めた劇的なもの
岡野さんの短歌に「世のあり憂さ」とあるのは、普通
に読めば、人の世を生きて行く憂さ辛さ、でしょう。け
れど「夫婦仲」「男女の仲」とも読めるのが「世」の一
字です。「世を知る」チャンピオン、西鶴『好色一代男』
の主人公が世之介と名乗ったのは、王朝以来の「世」の
伝統を踏んでいます。
それにしても、「と思はむ」は微妙な表現です。、きっ
と思うであろうなあという未来の予想なのか。父はさぞ
悲しかったろうと、今こそ自分はそう認めている、分か
る、という意思表明なのか。
もう一つ「年たけて」の読みも、。これを自身の現在と
理解するか、もっとこの先を意味するかで意味が動いて
きます。わたしは、作者もまた「世のあり憂さ」を現に
体験しているのだと、前者に読みます。両親の過去の夫
婦仲に自身現在の嘆きを重ね見ながら、かつての父の身
になり「悲しかったろうな」と、今しも理解している。
ごく普通に父親の「世渡りの苦労」を読もうとも、そ
れは人それぞれの味わいですが、作者は、きっと若い日
にそんな「父」のことを、辛辣に非難の目で眺めた苦い
体験をもち、「年たけて」胸痛く今は思い当たっている
のでは。せつない寂しい一首です。作者が女性なら、「母」
でも、しっかり成り立ちますね。「母は六十で亡くなり私
は六十三に。突然そんな気分になりました」と川崎市の
福田さん、よく分かります。「君」でも、いい。
「父」と答えた方が、二人。「思春期の頃あれほど反抗し
た父でしたが、ごめんね」と古川市の板橋睦子さん、ほぼ
正確です。「母」が五人。「君」は一人。
実はもう一つの読みが可能なのです。父である作者が
我が子に、お前も大人になれば、きっと俺の気持ちが分
かるだろうさ、と。父は、かつて自分の父からそう言わ
れていたのを、今、我が子に繰り返して「悲しい」と。
ところが奇妙にもこの歌、「夢、性、生、恋、愛、縁、定、
運」などで埋めても、原作ほど秀歌ではないが、漠然と成
り立ちます。「夢」の解答がぐんと多かった。「現・我・老・
塵・己・事・業・昔・雲・常・命・道・憐・瞬・世・罪・
国・泡」などは、少し無理ですね。漢字二字は反則ですよ。
高橋さんの俳句には、「水を打つ」と、半数近くが原作どお
り、断然多い。佳い句ですね。しかし、また、寄せられた別
解答のどの字が入っても、およそは成り立つ。読んでみて下
さい。「蠅・藁・畑」など佳いではありませんか。「麦・稲・
粟・露・砧・蛇」など季節感はあるが、やや特殊か。いっそ
「蚊」が面白いけれど、字足らずです。「報・刻・面・麺・撥
・針・釘・鐘」になると季語とは読めない。それでも多少甲
乙はありますが、まったく句であり得ないとも言えません。
原爆の日に打ち鳴らす「鐘」を複雑な思いで聴くと説明され
れば、なるほどなと感じ入ります。ただ「塩・鼻・白・革」
では、意味が取りにくいと思いました。
「無かつたやうに」とは、なにかが有った…の含みで、遠い過
去のことでなし、それもあまり愉快でないこと、気のくさる、いやな
気分なのでしょう。それを「何事も無かつたやうに」作者は静めて
いる、幾らかは静まっているフリをしている。
では何をするのがこの際「詩歌」にふさわしいか。どうやら人そ
れぞれである現実を、皆さんの解答は、はっきり示しています。
「大事の後か、小さな屈託か、心の内をかおに表さずに静かな柄
杓の扱いで水打つ姿」「耐えるため、打ち消すために野良に無心
に畑を打つ」「煮え湯をのんだ心の傷をやっと昇華して夫の帰宅
前に打ち水」「いやな客の帰った後にサッサッと水を打ちさっぱり
忘れる」「亡き母のしていたように」「思えばくやしい、にくらしいの
気持も夕方にはおさめて、お帰りなさいを装います」などと聞くと、
句の意図はよく汲み取られています。
わたしは、やはり原句の「水を打つ」が、優れて美しく、
深くて面白い気がしています。
さりげなくて大きな把握のうちに、畏怖を覚えるほど女性
の丈高い静かさ、聡い魅力をにじませています。この句は、
あまり具体的すぎると、浅く説明に落ちてしまいます。家で
「水」を司るのは女性です、その永遠の能力を静かに呼び込
んで、内心のほむらを賢く静めている。その姿勢自体が、し
かも、なお反撃や謀反の気息を秘めてすらいて、凄い。
大きく掴んで写生的に表現してあるので、自然、さまざま
な「ドラマ」を、読者は句の奥に読みとる自由を与えられて
います。想像が利きます。その想像が、「読む」「読み込む」
という創造性にちゃんと繋がって行きます。
詩歌の妙味は、内なる「劇」との遭遇、と言っては言い過
ぎでしょうか。
A 射的場にビリケン人形うち落しわれに呉れしが( )に死にき
B 秋黴雨ことりことりと( )の居て
ABとも原作どおり答えた方は、今回はお一人、宮城県古川市
の板橋睦子さん、でした。添えられた感想も的確でした。拍手。
出題者から、名解の方として。
Aに、「母」と読み、年齢とともに適切に読み込まれた、川崎市の
福田千江さん。
Bに、「野良に出て無心に畑を打つ。自然に触れて心癒され」と読
まれた、玉野市井上久仁さん。
センスdeポエム 詩歌を体験 秦 恒平
A 射的場にビリケン人形うち落しわれに呉れしが(戦)に死にき 稲葉 育子
B 秋黴雨ことりことりと(妻)の居て 奥田 杏牛
7 背後の深みを
稲葉さんの短歌はドライに、感情を抑制気味に詠われ
ていますが、詠嘆は深い。どこにも辛いとも悲しいとも
ナマな説明はしてありません、その分、しっかり伝わっ
てくる「思い」があり、短歌の表現として成功もし感銘
を与えます。「われに呉れし」「死にき」と敬語抜きの端
的さ。これで、「し」「き」と過去を示している存在が、
作者と世代をともにして親密であった人だと察しがつき
ます。「呉れしが」は、呉れた人がとも、呉れたのにとも
読めますし、語感的に兼ねて読んでいいでしょう。
「港の夏祭り。夜店につれていってくれたその人は、キュ
ーピーをうち落して私に握らせてくれた。その秋、彼は入
隊した。暮れに大東亜戦争がはじまった」と秋田市土崎港
の寺山さんは書いています。
圧倒的に多く「戦」で死んだと読まれ、作者の表現を
共有しています。父世代の「死」とは想いにくい、やは
り同世代の兄、友、恋人、許嫁ないし夫であろうと読ん
で胸に迫ります。心嬉しいお祭り日だったのでしょう。
「夕・既・已・俄・先・朝・心・山・幸・徐・円・都・
宵・現・病」などは、みな該当しませんね。「ビリケン人
形うち落し」が深めに読めないとちょっと厳しい、その
意味で難しい出題かも知れません。
「ビリケン」は、似ていても「キューピー」とは別もの
で、米大統領タフトのビリーの名に由来し、とんがり頭
とつり上がり目で、アメリカでは人気の「幸運」を招く人
形でした。それを「射的場」で「うち落し」て「呉れ」た
のですから、遊びめいてはいても、作者の追憶には「敗
戦」と不運な「戦死」を、省みて嘆く姿勢が一貫してい
ます。さりげないが、たいへん優れた表現です。
奥田さんの俳句も、虫食いのままでは、やはり難しい。
「あきばいう」でなく「あきついり」と読まれたいと、作
者に確かめました。それ自体は、いわゆる季語であり理解
に苦しむものではありません、秋の長雨という言葉もある、
実感もあります。
問題は「ことりことりと」という絶妙な俳句表現から、
はて、「何」をどう読みとるか、ですね。
多い順に並べてみましょうか。
「妻・鳥・母・猫・鳩・夫・馬・人・姑・鶏・鵙・駒・鹿・
何・連・亀・虫・孫・君・犬・漏」と、一つ一つ虫食いに補
ってみて、「駒・馬・鹿」は大きいし「漏」の字は読みとりに
くいが、大方は填るといえば填ります。だがやはり、これは
人間、それも一般の「人」や「連れ」ではなく、もっと身近
に、「秋黴雨」に降り籠められて一つ家の中にいる誰か、であ
ろうと思いたいですね。小動物や小鳥では、やや可憐に気遠
い。むろん戸外ではありえません。家の中の「秋露入り」の
静けさにあって、親しく深く意識しあえる同士でしょう。作
者が、男なら「妻」で女なら「夫」の、なにかしら物に触れ
ながらしている仕草や、姿勢や、気配とともに、かけがえな
くお互いを受け容れている「人生」が感じられます。味わい
深い愛がある。幾山河をともに生きてきた老夫婦と読んでい
いでしょう。
「母」でも「姑」でも、また「君」でもわるくはない、十分
成り立って佳い句に感じます。が、それでもなお、お互いに
「妻」「夫」と感じ合える同士のしんみりとした静かさは、秋
雨ですらが恩寵のように優しく想えます。
では作者が男性だから「妻」なのか。妻が夫の存在を「こ
とりことりと」謂う風に受け容れるものかどうか。どうも少
し寂しい風情になりますね。夫の仕事か昼寝か、いずれにし
ても安閑を妨げまいと、それでも用事に静かにいそしんでい
る「妻」の気配を、安堵して「夫」が感じている句、それで
こそ、より佳く生きてくる表現と解しましょう、いかがです
か。
「ことりことりと妻の動く音。近くに行くとおおい熱いお茶
を呉れないかとタイミングが良い。動かずに居て黴が生えな
いかしら、と」とユーモラスに切り返す広島県福山市の藤井
豊子さん。破顔一笑。
三月号分出題
A ( )の字の中いっぽんが猫となり子は遠き地に中年となる
B 声美人に見舞われている( )子かな
四月号分出題
A 去り難くひとり( )にをり子の許に遠く移ると夫に告げつつ
B ( )な泣きして春暁の夢醒むる
ABとも原作どおり答えた方は、今回は五人、兵庫県龍野市の
堺昌代さん、大阪府柏原市の堤暢子さん、新潟県松代町の相沢
ヨシさん、札幌市の佐々木順子さん、広島県福山市の藤井豊子
さんでした。
出題者から、名解の方として。
Aに、「戦」で多くの別れがありましたと読み、Bに、「母」と読ん
で、「子の年もあまり若くなくあるが、しかし母の老いをいたわる
気持と共に母がいて呉れる安らぎもある日々」とされた、渋谷区千
駄ヶ谷の朱やすみさんを。
志村さん これで何行多いか、或いは少ないか、これで良いか、折り返し報せて下さい。前回より十行減っているはずです。書き直しの折りに「出題」します。
何字詰めで何行というのが、いちばん理解しやすいです。
年間の優秀なんてのはあまり好みではないけれど。全回解答を寄せて下さった中から、
ABとも原作どおり答えた方 、名解と推賞された方の、回数の多い人を選んで下さい。同数なら、ABとも原作どおり答えた方を優先して下さい。任せます。
センスdeポエム 詩歌を体験 秦 恒平
A (川)の字の中いっぽんが猫となり子は遠き地に中年となる 山田 佳永子
B 声美人に見舞われている(障)子かな 寺井 谷子
8 さりげない批評
山田さんの短歌は、「ユーモアもあり、ペーソスもあり、
我が家も御同様」と名古屋市の山田正子さん。かく言う
私方も全くその通りでして、回答者の大勢も、みな身に
しみておられるのが、おかしいやら、ほろ苦いやら。
さりげなくすらすらと表現されていますが、上三句の、
このままで自立した川柳ふうの明るい軽みと、下二句の堅
牢な感慨とが、したたかに「転調」の妙を発揮し、批評味
にも誠にも富んだ、佳い歌が出来ています。
「三、母、苗、子、老、描、家、獏」などは、「川」の字
にくらべるとね、無理ですね。ほぼ全員、原作どおりの
正解でした。新月刊の記念に、平易な、けれど実感豊か
な作を採りました。歌とは「うったえ」の意味ですが、
大勢の思いを、しんみりと代弁してもらいました。
「川の字の中いっぽんはアメリカで今新しい川の字を書く」
さて「中いっぽんは抜けて寄り添う人の字に」ウーン「つ
かず離れず二の字でゆこう」かなと、高岡市六十八歳川端
美代子さん。人も二も、いいですね。「川の字で満ち足りて
いた遠い日。いま私は二匹の猫と『小』の字、時に『ツ』の
字に」と、秋田市の寺山百合子さん。「するりとぬけた1本
は遙かな地で……残された親の嘆きともとれる、つぶやき」と長
崎の楳崎良子さん。「楽しさと淋しさを感じさせる歌。親というの
は子供がいくつになっても何処にいても何かにつけ想ってしまい
ますね」と札幌市の佐々木順子さん。
「川の字のころ、子どもに手がかからなくなったら、どんなに自由
で幸せかしらと夢見ました。でもその幸は手に入れた途端に色褪
せて、アッ!あの時が幸せだったのだと…。何と愚かな私」と春日
部市の五十四歳の村田菊子さん。新たな幸せを元気にこの先に
求めてください、人生のゴールはまだ遠い。
「三日間、四六時中頭にあり呪文の如くブツブツ云って出し
た答です、『成る程』です」と徳山市の高嶋久詠さん。
寺井さんの句は、ゆるやかに季節感を追う一方で、ちょっ
とした推理も楽しみたいですね。「声美人」などと女性に皮
肉の言えるのは、「女ね」と、先ずは家妻が申しました。
咄嗟には「状況」把握が難しい。一つには「子」の読み方
に思い込みがあり、何とかして「コ」で熟語を探してしまう。
また簡単に見付かるわけです、「息子」「迷子「赤子」「吾子」
「芸子」「幼子」「末子」「甥子」「綿子」「笹子」「亥子」など
と。この分で行けば「春子」もよし女の「子」の名前はみん
な入ります。雅号の虚子でも誓子でなかなか面白い句になり、
ちゃんと意味は成します、季節感はありませんけれど。
でも、漢字は、いろいろに読めて面白く、また難しいもの
です。「扇子」あり「初子」も「雉子」も「茄子」も「長子」も
あります。そして、「障子」があります。
作者には「声」だけが聞こえています。
「見舞われている」のは、我が子にしても、幼児や赤ちゃんで
はない、女の子でもない。見舞客を「声美人」と皮肉る意味が
ないですもの。
見舞われているのは明らかに「男子」です、これ、ちょっと
ピリッと来ますね、「君子」と来ると、さらに皮肉が効いて可
笑しいですね。ともあれ年頃の息子をガールフレンドが、お舅
さんをよその婦人が、いいえ、いっそ夫のもとへ若い女客がと
想像すれば、状況はピタリです。チンと「障子」がしまって、
別室でお茶の用意などしながら、奥さん、すこし神経が戦いで
います。病床でなくてもいい、寒中見舞いでも陣中見舞いでも
いいわけです。
大事なのは「見舞い」「見舞われている」人を直かに謂い表さ
ず、その二人の場から自分(作者)を隔てている小癪な「障子」
を持ってくる、そこに何ともいえない俳味が、おかしみがにじ
み出てきます。しまっている「障子」あけられない「障子」に
シンとした「季」の空気も感じとれます。
もっとも、もっと素直に心優しい読みも届いています、「病で
臥している作者に、障子ごしに美しく可愛い鳥の声が」見舞っ
ていると。いいですね。大阪市の大橋三和さんも、病ゆえに見
舞いの「声美人」と「障子ごしに言葉を交わす」と読まれてい
ます。風邪でもうつすまいというのでしょうか、これも作者は
病床の人という読みになります。
場所を病室と見定めて、怪我でしょうか「長子」のお見舞い
に「外まで聞こえる華やかな女性の声」を、ふと「とまどうよ
うな、羨ましいようない」父親の感慨と読んだ人もありました。
初春「初子」の「おなご正月」に、八十八の曾祖母から幼い
人たちまで賑やかに集い寄り、「はたはたずし、卵酒、なたづけ
がっこ、貝焼き鍋」はては「なまはげ」までやってきた、楽し
かりし昔を懐かしんでいた人もありました。
原作のまま「障子」と創った方は、今回わずか五人、うち四
人は短歌の「川」も。おみごとでした。
苦心の一字を一心に探られた中では、断然「息子」が多かった。
未来のお嫁さん候補かも知れない来客に、はや、かすかに身構え
たお母さんの心理に、思い当たるもの、大勢がお持ちなンやなあ
と、ひやりとしました。
A 去り難くひとり( )にをり子の許に遠く移ると夫に告げつつ
B ( )な泣きして春暁の夢醒むる
ABとも原作どおり答えた方は、今回は四人、大阪市東住吉区の大橋三和さん、大阪府堺市の北村昌子さん、札幌市の佐々木順子さん、広島県徳山市の高嶋久詠さん、でした。
出題者から、名解の方として。
Aに、ウーン「二の字でゆこう」と歌い、またBで、「声美人は愛想がいい、垣根ごしに『アラ、お風邪?お大事に』と綿子の人に明るい声をかけている。山繭などのオシャレで温かな綿子が好き」と読んだ、高岡市の川端美代子さん。またBで、「声美人に見舞われている君子かな」と斬り込まれた愛知県豊橋市の木村房子さん。感謝。
志村さん 以上で組んでみて下さい。あまり高踏でもいけず、あまり低俗でもいけず、うまく読者の体験や実感に触れながら詩心を挑発し喚起するのは、難しいけれど、想像以上に面白く創意工夫で、楽しんでいます。ことしも、よろしく。 秦