* 年賀状のほとんどが印刷物で、念入りに工夫したものは数えるほどもない。おまけに今年は干支が巳で、やたら出てくるのが、ぞっとしない。メール便の賀詞が格別に多くなったのも時代である。数十枚はハガキで手書きし返礼した、が、メールの使える人には、同文同送、あっという間に大勢に送れた、「e-OLD」にはラクであった。
* あらたまの
新しい年、新しい世紀になりました。おすこやかに、佳き年でありますようにと、お祈り申しあげます。また、今年も佳いお話を、湖のお部屋でお聴かせいただけますよう、おねがい申しあげます。
友人が「第九」のコーラスのバスのパートに出るから聴きに来てというので、何か、お定まりという感じですが、大歳の夜を、「第九」を聴きにゆき、今、帰ってきたところでございます。
こちらに力がないとき、ベートーベンはちょっとつらいのですが、さいわいにあまり、重厚という感じでない演奏でしたので助かりました。
筑波はさきほどから、ぽつぽつ雨が落ちてきて、あたたかなしっとりした空気が快く、心静かにあたらしい年を迎えることができました。
これから、『源氏物語』を亡きひとたちといっしょに読んで、寝ることにいたします。なかなかはかどらず、やっと、「須磨」の冬の夜の物思いのところでございます。わたくしは『源氏物語』の冬に、とても心惹かれます。小侍従にも、冬に佳いうたが多いものですから、小侍従は、『源氏物語』のよい読み手であったかなどと、想像したりしています。
湖のお部屋に、「お身体に楽をさせて」というお便りを寄せられた方がいらっしゃいました。ご健康のことで、きついことをおっしゃったおひともいらっしゃいました。わたくしも同じ思い。どうぞどうぞ、おたいせつになさって、ご無理をなされませぬよう。
あらたまのとしのはじめのよごとのつもりが、まあ、くだくだと。ワインの酔いが残っているようでございます。お許しを。
佳い年でありますように。
* 迎春
静かで平安な新年を迎えられたこととお慶び申し上げます。
イタリアのミラノも、新しい世紀に遭遇する晴れやかさに満ちています。
イタリア語でおめでとうは、 auguri。街のあちらこちらでこの言葉を、イルミネーションで、はり紙で、目にします。残り雪のある商店街を歩いていましたら、前方から来た若い女性が、店のなかにいて声の届かない人に、大きく口をあけて「あ・う・ぐ・り」と形にし、楽しそうに手を振りました。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
* 一陽来復 新しい世紀を機にまことの萬象維新を庶幾う。
* あけましておめでとうございます。
湖の本エッセイ21、124ページ志賀直哉のこと同感。
志賀直哉はソシュールの言語学でいう parole(個人的な言葉)を lanngue(民族や国に固有の言語体系)にまで高めた人、いまはlanngueもなければ、paroleもないめちゃめちゃな状態になっています。
個人的希望としては、私は秦さんには、今年はいい短篇をひとつ書いて欲しいと思っています。川端康成賞だって、むかし永井龍男さんが『秋』でおとりになった頃とくらべて、ひどくレベルが落ちている。ご健筆を祈ります。
* 新世紀を迎えて
昨夜、研究室で秦さんの短歌のメールを読みました。
確かに新年は静かに何事もなかったかのようにおとずれました。”大いなるもの”も、きっと訪れ来ていると思います。
今年は卒業、就職、そして留学と、私にとって大きな転機となる年です。あせらず、大きな気持ちでこの新しい年を迎えたいと思います。
ただし、修士論文の締め切りまで後わずか! ちょっとあせっています・・・
秦さんも、ますますのご健闘、お祈りいたします。
* ファン
[湖の本]創刊からのお付き合いでないのが残念ですが、十数年の間、届くご本の「私語の刻」で、その時々の、お考えやご生活を垣間見ながら、お作を読んできて、本当によかった。作品世界も、お人柄も。充実が深まり、現実が濃厚にありながら、透明感が増して。変化はしても、変質してはいない、秦さんの、魅力的な世界に、十数年経って、ようやく気が付きました。「It’s a wonderful world」
評価の定まってしまった過去の人ではない作家秦さんのファンは、今、ともに、ここで、同じ時を生きて、毎日、互いの息を感じているのが、心身に大きな宝物。
今年も、これからも、解らないながら、読み続ける(それしかできない)ファンでいます。
* 元旦は寝正月
ゆっくり目覚め、遅めのお雑煮をいただき、一息ついているところへ、今年が年男の二男が、お年玉を持って新年の挨拶に来てくれました。専門学校を卒業して就職した翌年のお正月から、彼はこの母にお年玉をくれ続けています。息子にもらうお年玉、なんて嬉しいものなんでしょう!ぷっくら膨らんだポチ袋に、の優しさがいっぱい込められていて、母冥利につきます。
「おばあちゃんはな、お年寄りやし、もう仕事もしてないから、お年玉をあげような」。
長男と二男がまだ幼い頃、お正月に実家に行く時は、少ないお小遣いを貯めたなかから、祖母へお年玉をあげようと子供たちに提案していました。五百円にも満たないお年玉でしたが、母(祖母)はとてもうれしそうに、大事に懐に入れていました。
子供心にもうれしい出来事として記憶されていたのかもしれないと、手にあるポチ袋を眺めながら、二十年も昔のことを懐かしく思い出しています。
出かけることもなく、夕刻に三男が帰宅するまで「寝正月」の元旦となりました。
四日からの仕事に向けて、今日からは体も始動させねばね。なにをいっても体が資本ですものね。元気に過ごせるように自己管理は重要課題ですよ。ご自愛なされてくださいませね。
* 賀正
正月休みということで、今夜はちょっとお喋りします。
湖の本の最新刊、学ぶところ多く、特に「書かで言ふぞ」には、のけぞりました。毎晩、受験勉強を片づけた後で「生活と意見」を覗いています。むうッと唸ったり、ええッと驚いたり、あァーと感動したり。時々ぶわっと長い文章が載っていると、ずるずる睡眠時間が削られてしまいますが、さすがにナポレオンほどではありません。寧ろ身体がウズウズしてくるぐらいです。今はじっくり我慢して、あと二ヶ月のマラソンに全力を注ごうと思います。
先日、八重洲の大きな本屋に行きました。大学の下見に行った帰り、新幹線の乗り継ぎに東京駅で降りて。カルチャーショックを受けました。新潟では如何せん読みたい本が手に入らなくて、街に一軒しかない古書店でさんざん買いあさったけれど、まだ足りません。京都では、古本屋などもきっと僕の街なんかよりはずっと充実していることでしょう。大学の正門から時計台を見上げて、俺はこの学び舎に通うんだと自分に言い聞かせました。
そうそう、同志社大学が地下鉄駅のすぐ近くにあって、たたずまいの品の佳さに思わず声を上げました。秦さんが迪子さんと出逢った頃とは装いを異にしていたのかもしれませんが、幸田康之と品部迪子と、そして絵屋菊子と槙子と、魅力溢れるキャストに相応しい舞台だなと納得しました。
それにしても昨年は競馬がつまらなくて、却って受験生にはよかったかもしれません。今年は名馬と名手が演出する素晴らしい興奮を、淀のターフにこっそり忍び込んで味わいたいものです。さて、これからいつものように覗きにいきますね。春には桜が咲いたと報告できるように頑張ります。秦さんも「湖」の開拓に励んでください。迪子さんともども、お身体には気をつけて。
* 「貼り付け」というパソコン機能のすばやさの、何と嬉しいことか。器械は機械的だというが、郵便葉書の年賀状の方が、概して機械的であった。いま一部分書き写させてもらったこれらほど、気持ちをのせてハガキの年賀状を書くのは難しい。おそらくは、器械で書く方が素直になれて容易なのではないか、書き過ぎてしまうオソレがあるほどだ。
2001 1・2 8
* 外気が氷点下10℃まで下がり、どうも肺の辺りがすぅーっとして気分悪いので、昨夜は、家から5分の丘の上にある「緑の湯」という温泉に行きました。温泉といっても、銭湯に毛の生えたようなものですが、800円で、露天風呂もあり、ちょっとしたお出掛け気分が味わえます。
夜の9時前でしたが、たいそう混み合っていまして、北海道ですからさしずめ、ジャガイモを洗っているような状況とでも言いましょうか・・・。少しだけ鉱物の匂いのする湯船につかって、のびのびと手足を伸ばしました。辺りは濛々とした湯気に包まれ、湯船と洗い場の境界も定かではないところに、人型のシルエットがぼぉと浮かんでは消え、湯船の中には黒い胸像のようなものが、あちこちに朧気に点在しています。そういう夢の中のような空間に長い時間を過ごし、とてもよく暖まって、お湯をでました。
脱衣場で体を乾かしてロッカーに戻ると、あったはずの小銭がない!!
早速現実の世界に引き戻されました。湯上がりの裸体でロッカーを開けてタオルを出し、脱衣場へ行って戻るまで、ほんの一二分です。いいカモだなぁ、油断したなぁ、すっごい手並みだなぁ、とんだお年玉だなぁ、いろいろ考えつつ、ロッカールームを後に出来たのも、貴重品を持たず車のキーが無事だったせいでしょう。
「緑の湯」には、番台の奥に休憩コーナーがあって、ソファー、テレビ、ゲーム機、自販機、あんま機などなどが狭いところに並び、売店では、紙蓋付きのコーヒー牛乳などを売っていたりして、これはもしかして、意図的にレトロな雰囲気を演出しているのかな、と思ってしまいます。私は小銭を盗られて100円しかなかったので、飲みたかった紙蓋付きのコーヒー牛乳が飲めませんでしたが、100円で飲めるものを捜し、紙コップのカルピスを飲みました。カルピスを飲むなんて、小学校以来でした。火照った体に冷たいカルピスが美味でした。
駐車場に戻り、車を運転しながら丘を下っても、ぼーっとした気分が抜けなかったのは、湯に漬かりすぎたためか、レトロな雰囲気にあてられてしまったものか、どちらだったのでしょう。
面白い年明けになりました。 maokat
2001 1・3 8
* 続いて、院卒の元女子学生と同じところで逢い、東武の「美濃吉」に移動して、ゆっくり、食べて、呑んで、いろんな話を楽しんだ。口数の少ない静かな人なのでわたし一人が話していたようなものだが、それはそれで、何の問題もなく、とても寛いだ気分になれた。京料理に、彼女は白いワインを、わたしは赤と、それから日本酒を少々。パソコン誌の専門記者であり教わることも多かったけれど、他方、わたしの気持ちには、この人に、また新しい可能性をそろそろ開拓して貰えるのではないかという、内心の希望的観測ないし期待があり、やや激励したい動機を抱いていた。過剰にならない程度にそういう話もした。
教室の頃はいつも十時か十時半方角に席をしめていて、大きな階段教室でも、視線のまっすぐ来る学生だった。よぶんな飾りのない真っ直ぐな「挨拶」の書ける人だった。教室では腰掛けているので勝手に小柄な人と見ていたが、じつはすらりと、わたしほどの背丈のある、たいへんスタイルのいい女性で、勤務三年を経て都会的ないいセンスのインテリジェンスを感じさせてくれる。
シグマリオンの実物をみせてもらい、使い勝手も教わって、まず、これが欲しくなった。二月過ぎて新しいパソコンを買うときには、御一緒しましょうと、応援を約束してもくれた。こころづよい。
美濃吉の正月料理は今ひとつで、気の毒だった。口直しに、もういちどメトロポリタンに戻ってお茶をのんだ。
同じ有楽町線の小竹向原で別れ、わたしは直通で保谷にもどった。
インタビューも気持ちよく済み、若い友だちとのデートもかなり長時間和やかに楽しんだ。やはり東工大にいた夫君は、今日は会社に出勤であった。彼もホームページなどは専門家で、知恵を借りたり助言して貰えそうなのが有り難い。
* 年賀状がまだまだ届く。あまり元気そうでないメールの人も何人かいて、気になる。気や心を病んでいるか病み掛けている人というのは、決して少なくない昨今である。世紀末も通り過ぎたこと、なんとか明るく願いたい。北海道へ旅した三十前の女性読者から自筆でホテルの便箋何枚にもびっしりと旅の思いを綴ってきた手紙が、読み応えのあるいいものだった。ほそいペンで、海辺の風景が細密に描かれた一枚も入っていて、いかにも心落ち着いて優しい佳い旅に想われた。繪の巧い人はいいなと羨ましい。
2001 1・6 8
* 初春の阿波路を走る
県内十三郡市のチームが健脚を競う、徳島駅伝。箱根駅伝も素晴らしいデットヒートを見せてくれましたが、こちらもそれに負けないものですのよ。なんていったって、阿波路を三日間をかけて駆け抜けるのですから。最終日はラジオで完全実況中継をしてくれましたので、仕事をしながら楽しむことができました。
オリンピック出場の犬伏孝行選手や、箱根駅伝に出場していた選手たちの顔もあり、沿道の応援にも力が入っていました。
長丁場になるこの駅伝では、同じ選手が異なる区間を再度走ることもあります。今年は犬伏選手が出身地の麻植郡コースと、アンカー直前のコースの二回を走り、おおいに沸きました。もちろん総合優勝は麻植郡チームでしたが、なんと、郡部の優勝は、一九六一年の第七回大会以来、四十年ぶりとのことでした。
中学生の区間や女子の区間が特別にもうけられていて、親子や姉妹、兄弟で出場ということも。今回の出場選手たちの中には、都道府県対抗女子駅伝の選抜選手もいて、期待がおおいにもてそうです。弘山晴美さんや市橋有里さんたちを目標に、さらなる飛躍を誓う彼女たちの活躍を祈りたいと思います。
明日には雪模様になりそうな東京だそうです。寒気にはご用心ご用心!御身ご大切に、暖かくなされてお過ごしくださいませ。
* 二三日前に読んだメールだが、しっかり日々に働きながらの、この共感、楽しみよう。無用の議論のための議論ではない。人が生き生きと生活している、それが美しい。
2001 1・10 8
* 朝いちばんに佳いメールが三つ入っていた。
* 朝の月
今朝、起きたら月夜でした。満月です。日の出は 7:01。
明るくなってみると、車も家も、屋根が真っ白になっています。霜かしら。
朝御飯の、茹で卵の殻が、珍しくつるりとむけました。福で明けた朝です。
* プラスに。
hatakさん。 やっつけ仕事を終えて、帰宅する前にちょっと書いていきます。
村上泰子さんの「サロマ湖から」読みました。
北海道の冬の天候を「今日の天気は、パイ生地のようにグレーの雲が重なった下に、水色のクリームが一層はさまっているという風。」とは。住んでいるだけによく分かり、唸りました。その後の、「ざくざく」もパイに効いているし。
さらに、「哀しみは時が癒すと言いますが、悲しみは心の底に静かにしずんでいるだけで、また雨が降ったり風が吹いたり木の葉が落ちれば、池の水のように悲しみ色に戻ってしまいます。」には、今澱が沈んで行きつつあるところだけに、こういう表現が良くできるなぁと感心しました。
いろいろな人の文章を読むのは楽しいですね。次に何がでてくるのか、楽しみにです。
台湾に申請していた特許が受理されました。漢字ばかりの特許証が送られてきました。
特許→専利、ウイルス→病毒、知的所有権?→智慧財産。なんとなく類推できます。
日中は幾日かぶりに気温がプラスになり、雪が解けて水たまりが出来ました。今はまたかちんかちんに凍ってしまいましたが・・・。これから、その上を車で、スケートのように滑って帰ります。 maokat
2001 1・11 8
* 雪景色の朝 お目覚めいかがですか。
子供の頃、水道が凍って、大慌てで、ヤカンの汲みおき水を沸かし、走り回る朝が、何度もありましたわ。
今は、朝の氷も風物詩程度に、快適な生活になりましたが、それでも毎年、霜焼けになりますの。
今週は、可燃・不燃ゴミに加え、空びん・空缶、スプレー缶、古新聞・古雑誌・段ボール、布製品と、毎朝テンテコマイ。
着飾ったおばさま方と、今一番興味ある事について、お喋りしていた時、旅行、宝石、ファッション、お芝居などと華やかな中に、最後まで黙っていた婦人が、周囲から尋ねられ、「私 ? ゴミ。」と答えたのを覚えています。7年前の事。囀雀
* 沢村宗十郎の死を嘆いて、歌舞伎を観るのがもういやになりそうと言ってきた人の、日毎の、こういう、短いが具体的な事と風情とに富んだ雁信を、わたしは楽しんでいる。概念的にでなく、経験的にものごとに目を向け心を向けて暮らしている人の生き生きした視野がある。これも一種の「徒然草」なのであり、纏めて並べてみれば、とてもいいものに成っているだろうと思う。当人も気づいていないこれは一つの才能なのである、へんに意識しない方がいいが。
2001 1・14 8
* 今朝嬉しいことも有った。心したしいペン会員のお一人からメールをもらった。気分直しに、ここに書き写させていただこう、嬉しかった。
* 『親指のマリア』とくと楽しませていただきました。
とても一言では形容しがたく、いずれ、感想を。闇の中から浮かび上がる心象のマリア像を、網膜に焼き付けました。父(パードレ)のおよび(親指)をはみだす、あおの聖衣は、間違いなく、シチリアの母(マードレ)なるアズッロ(紺碧と藍)の海と直感しました。
殉教の章「彼は、見た目はぼろぼろに衰えながら、胸の底の一点だけは清々しく洗いあげて、ほうっと芯から明るんだ長助の目に心ひかれた。魂にも色がある。その色が似ているからか、容貌も体格もまるで別でいてヨワンと長助に通いあうもの、優しい感じ、があった。」
美しい、じつに美しい「生まれ清まはる」ような、はっと胸をうつ言葉です。白石、ヨワン、長助のトリニダードを、読みての私に仮託、具現した一瞬かと、錯覚したほどです。
時代考証はもとより、正確、懇切丁寧で、歴史観・歴史認識、東西の文明交流など、作者と種々のテーマを有難く共有することができました。
今冬はことのほか冷えます。御身大切に。
次は『最上徳内』を読んでみます。
* 『親指のマリア』は、実際に読んで下さった方からは、概して、こういう読後感を得て満足していただいている。立場的な信仰を固守しているたとえばカソリックの人からは、またプロテスタントの人からは、一部不承の声も聞いたけれど、わたしの造形した新井白石、シドッチ神父の「魂の色」を重ね合わせた東西の知性と精神の対話に、かつて見なかった批評を読みとって下さった人も少なくなかった。例えば京都の清水九兵衛さんは世界的な彫刻家だが、顔が合うとよく言われる、「ぼくは『親指のマリア』が好きですよ、よかったなあ」と。
残念ながら、だが、わたしの読者達は「いい読者」であるがゆえに、数多いとは言えない。数多い読者を得られないのは作品の責任であるという議論の建て方の有るのも承知しているから、わたしは、黙って、今のような生き方を続けているのである。それでも、こうした嬉しい朝にも恵まれるのである。
2001 1・23 8
* 血圧の上がりそうに政府与党に怒るからか、なだめるように四国からメールがきた。ありがとう。
* 月様
今日は一日、冷たい雨が降り続いていますよ。風邪のウィルスが苦手する湿度のあるのはありがたいけれど、肌寒いのは…ン?
用心、用心、ご用心。先手必勝とばかりに、転ばぬ先の杖ならぬ葛根湯のお世話になりながら、どうにか今年はまだ風邪の洗礼は受けずに過ごせています。寒中見舞いにお肉を少しばかりお送りいたしました。風邪につけこまれないように、力を蓄えてくださいね。
朝、テレビで放映されていた、中国の旧正月の祝い事を見ながら、お正月を旧暦でお祝いしていたのは、いつのころまでだったかなあと、思いだしていました。(小学校の中学年かな?)
自然の四季を愛で、宇宙の彼方の星めぐりに夢を馳せることができていたのも、旧暦に生きていた昔人の風流に習っていたからでしょうね。桃の花の咲かぬ時季の雛祭り。七夕だって、天の川は見えないことが多いんだものね。なんだか味気ない気がしてなりませんのよ、新暦は。でも破壊が進んでいる現在の自然環境では、サイクル自体に変調をきたしていることを見過ごしてはならないと思っています。 節分のころには寒さも一段と増すことでしょう。寒い辛抱はなさらず、暖かくお過ごしなされてくださいませ。ご用心、ご用心!ですよ。 花籠
* 有明海の海苔が全滅にちかいらしく、いまごろ政府も慌てている。見直しの対象からも外していた諫早での、この自然からのリベンジというか、自然の惨殺状態というか、何をやっているんだろう、政治というヤツは。 2001 1・25 8
* 千葉の勝田さんに、また、『閨秀』などのスキャン原稿を送っていただいた。
* お元気なご様子で何よりと喜んでおります。
息子さんのお知らせ、ありがとうございました。いつでしたか、秦建日子作『孫』をテレビで拝見した後、専門家のおやじさんは厳しいんだなぁと「私語の刻」を読んでおりました。『孫』の中で、車椅子に乗った息子が、いかりや長介の父親に向かって、「おやじ、ありがと・・」と言った場面一つで、田舎のおじさんには充分満足でした。
『pain』を、見てみたいと思います。
創作シリーズ11、12、13、お送りします。一つ読んではホーッとし、すぐ次を読んではもったいないような気がして、ゆっくりやっています。それぞれに浸ることが出来、いいのですが、『閨秀』の中で、姉のこまが嫁ぐ日母にしがみついて「おおきにどしたな、お母ちゃんおおきにどしたな」と繰返し泣いた場面が忘れられません。
『電脳社会の日本語』(加藤弘一著)読みました。著者に敬意を表します。e-old には、益々わからなくなりましたが。
「身分的周縁シリーズ」手に入れました。神道者、神子、三昧聖・・面白いですね。素人にはすこしくどいですが、読んでみる気になってます。
いつもいろいろ、本当にありがとうございます。
今年もご多忙と思いますが、くれぐれもお大事に、ご健勝をお祈りしております。
* こういうメールが貰えるようになっただけでも、パソコンに馴染んでよかったと素直に思う。「e-OLD」たちが「電子の杖」をついて、村中で楽しみあっている地方のニュースも今日テレビで見た。森内閣の「IT革命」政策など何事とも正体も意図も不明だが、「e-OLD」たちの「電子の杖」をなるべく軽く丈夫に使いやすくしてもらいたいと思う。
2001 1・27 8
* 昨日の大雪は如何おすごしでいらっしゃいましたか。
私は吹きぶりの一番激しい時間帯に娘を連れて買い物に出かけていました。港区というのはやたらに坂の多い区で、大きな坂道を転げ落ちそうになりながら普段の倍の時間もかかって、歩いていました。「きゃー雪が目に入っちゃう」などと騒いでいる娘を見ながら、もう十年以上昔、ドイツに住んでいたころをふと思い出しました。
当時二歳の娘に下着やセーターを何枚も重ね着させて、帽子に、毛足の長いブーツまで履かせて万全の態勢で雪のなかに連れ出した瞬間、娘は「お顔が寒い」と泣きじゃくったのです。お顔ばかりは服を着せるわけにもいかないので、娘をドイツの厳しい寒さに慣らすのには本当に苦労しました。あのころは、泣きながらも母親の手をしっかり握りしめてけなげについてきていた娘が、今は生意気に、「帽子なんてダサいものはかぶらないから」などと宣言し、「また荷物持ちなの?」と文句を言いつつ、ついてきます。それでも娘は雪のなかを歩くのが結構楽しそうに見えました。格好だけはおしゃれで大人にちかづいても、まだ充分子供なのだと感じて、私は少し幸福に浸りました。
* なんという温かい文章だろう、と、思わず書き込ませてもらった。顔も知らない読者だか、何十年来の人のように心温かい。
2001 1・28 8
* 「雁信」今年の分から、第二頁を使っている。いいメールをもらっているなと思う。何方の私信とは概ね分からないはずで、そう配慮しつつ、表現の温かさと巧みさとをそれぞれに汲んで悦んでいる。よく選んでいる。 2001 1・29 8
* 午すこし前に、久しい馴染みの友人と池袋で会い、やがて友人の愛嬢も新聞社支局の仕事場からはせ参じてくれて、何年ぶりかの昼食と歓談をゆっくり楽しんだ。和食の店が二つ満席で入りきれず、ホテルのイタリア料理にようやく席を得たが、残念なことに格別に味ない店で、気の毒な思いをした。ワインはわるくなく、友人とわたしとでボトルを二本、きれいにあけてしまった。オードブルとデザートがセルフサービスで、いっそこの二つで酒を飲むだけでいいと思ったほど、パスタも肉もまずかった。ま、それが目的ではなかったし、いろいろと話せて満足した。支局というのは、少ない人数で手分けし、かなりオール・ラウンドに飛び回らねばならない。車をとばして、広い埼玉県を駆け回っていると言うから、えらいものだ。就職試験に合格したとき、わざわざ玄関まで報告に来てくれた。わがことのように悦んだものだ、わたしも妻も。もう五年目だという、転勤も一度経験してきたわけだ。近くへ娘が帰ってきて父親はほんとうに嬉しそう、羨ましい。
* 別れて、すぐ、保谷へ、いやいや西東京市、へ帰った。「ぺると」で深炒りのコーヒーを飲んでから帰った。
2001 2・3 8
* 小山弘志氏にも堀上謙氏にも関弘子さんにも逢っていたが、緊急の電話を受けた元の学生イチロー君と恋人との、俄かの約束があり、みな失礼した。新宿で若い人のこころよい話を聴いた。察したとおりにおめでたであった。わたしの妻の健康という問題があり、双方で仲人役は遠慮をするが、式と披露宴のために力をかしてほしいとの依頼だった。よろこんで食事をご馳走し、乾杯し、歓談し、お土産に伊予柑を貰って、大江戸線で帰宅した。
* さすがに、こころもちホッコリしていたので、夫婦ともお気に入りのトミー・リー・ジョーンズ主演の「追跡者」をテレビで見た。ハリソン・フォードとやった「逃亡者」とどっちが先か知らないが、明かな姉妹編。しかし、終始好調のテンポで面白かった、いい骨休めになった。なんとなく林君達の余韻がここちよく胸に残っている。今日は嬉しい日になった。
わたしの学生たちの結婚情報、年毎にどんどん増えて行く。初めて東工大「文学」教授として教壇に立ったあの年に、初めて学部に入学してきた学生が、もう妻を得て、着実に勤務先で地歩を固めていたりする。
2001 2・4 8
* 東工大出の、ひさしぶりに逢う米津麻紀さんが友人と一緒に来てくれていて、とても嬉しかった。林丈雄君らと同じ総合Bの教室にいたすてきな美女で、東芝に勤め、なんだか掘り下げた難しそうな研究に従事している才媛である。大學の頃教授室にきてくれて、どんな研究を今しているかを、とても分かりよく熱心に話してくれ、印象に深く残っていた。
弓道をやっていた。その仲間が三人でわたしの授業を二年続けて聴きに来ていた。池波正太郎の小説が好きで、その縁でだろう、中村吉右衛門が好きだと言っていた。あの大學で歌舞伎役者の名前を口にする学生はさすがに珍しかった。もう七八年逢っていなかったが、メールは通じていて、気持ちも親しく、遠くなったと思ったことはなかった。
それでも実際に顔を見ると、とてもとても嬉しかった。幸せそうであるのも、嬉しかった。
* 電メ研委員で、「朝日ウイークリイ」の編集長をされていた高橋茅香子さんも、友人と二人で来て下さっていた。これも予期せぬことで、嬉しいことであった。妻の友人で湖の本をながく応援してくれている母娘も、仲良く来てくれていた。有り難いことである。 2001 2・7 8
* 今朝は日本晴れ。昨日のうちに建日子らの芝居への讃辞が幾つか寄せられていたのも有り難かった。久しぶりに北海道からも。
* 立春過ぎて。しばらくご無沙汰しておりました。ご多分に洩れず風邪を引き、先週はついに仕事を一日休みました。ウイルスの研究者が、なぜこれほど簡単に、我が身へウイルスの侵入を許してしまうのか。アカザ(Chenopodium amaranticolor)という雑草がウイルスに罹りやすいため、よく実験に使いますが、今の私はまるで「動くアカザ」になった気分です。
札幌では雪祭りがはじまり、あいかわらず真冬日が続いています。節分の日に、風邪をおして茶の稽古に出かけ、お多福が枡を持って鬼を追う「福来者有智(フクハウチ)」の軸を見、初釜に使った嶋台でたっぷりと濃茶をいただいて来たら、風邪が治りました。
立春の朝は、雪がやみ日が射しました。窓の外に雀のつがいがとまり、羽毛をいっぱいにふくらましてさえずるのを、ふくふくと聴きました。そういえば日も長くなったような。冬も折り返し点を超えたようです。
「弓をたしなみ、池波正太郎の小説が好きで、その縁でだろう、中村吉右衛門が好きだと言っていた。あの大學で歌舞伎役者の名前を口にする学生はさすがに珍しかった」。池波氏の小説を地でいくような人がいるのですねぇ。池波正太郎を料理にたとえるなら、ざっくりと切ったふろふき大根。藤沢周平は、きめのこまかい「かぶらむし」。どちらも冬の夜には暖まります。まおかっと
* 昨日はどうもありがとうございました。メールにて失礼致します。でも早くお礼を申し上げたくて・・。
お会いできて本当に嬉しかったです。
帰りにご挨拶をして帰ろうと思ったのですが、もうお帰りになった後でした。気が付かず、失礼を致しました。
受付でお世話になった女性にはお礼を申し上げたのですが建日子さんはお忙しそうでしたので、お邪魔をせずに帰って参りました。建日子さんにもよろしくお伝えくださいませ。
pain、良かったです。扱っている題材は重いものだったと思うのですが、それを感じさせすぎずに、でも考えさせるというような絶妙な運びに、”やられた!”という感じでした。
どう言えば的確に表現できるのかは分かりませんが、好きでした。また来ようね、と、2人で話をしました。とても魅力あるお芝居だったと思います。建日子さんの中に、秦先生の血が流れているのだなあ、と感じました。うまく言えないのですけど。
場面転換や台詞のテンポのよさもあって、1時間半のお芝居も長くは感じませんでした。良い席を取っていただいたお陰でもあります。何から何まで本当にありがとうございました。先生がいらっしゃらなかったら入れなかったかもしれません。本当にいろいろとありがとうございました。また、お会いできる日を楽しみにしています。
昨日は会社の研修で随分落ち込んだりもしましたが、先生にお会いできたり、良いお芝居を見られたりで、心が落ち着きました。頑張ろうと言う気に改めてなりました。
たくさんの感謝を込めて。。。
P.S. 歌舞伎はいかがでしたか?
* そして、この池波・播磨屋好きな人とはまたちがった方面で佳い感性を抱いている以前の女子学生が、わたしと「ぜひ話したいことがあります」と懐かしい便りをくれていた。若い人たちのためにわたしが役立つのなら有り難いと思う。
2001 2・9 8
* 同僚にクシャミの兆候が出てきましたから、そろそろ苦手な花粉症の時期になりはじめたのではと、心配しています。対策は早めになさってくださいね。
「母」を書いてから、不思議と阿波弁が口をついて出るようになりました。こちらへ帰って十四年余りにもなるのだからといえばそれまでなのでしょうが、それでも、地元の人ではないでしょうと、おしゃべりの後でへんに確信?を持って言われていましたの。ふるい方言を思わず知らず使っていて、「この意味わかる?」と。沖縄出身の店長の反応に笑いころげています。ああ、笑い皺が…。
今夕七時、教育テレビの「日本の言葉」で徳島県が。時間に間にあえば見ようと思っています。
「あるでないで?」 有るのか、無いのか、判断に苦しみそうな方言だけれど、京都にもよく似たニュアンスの言葉ってありましたよね。
* 「あるでないで」は、おもしろい。「あるんじゃない ?」かナ。
2001 2・11 8
* 春芝居というのは、やはり、睦月のうちのことでございましょう。いま話題のひきこもり症候群ではありませんが、春芝居も観ないで、二月になってしまいました。かくてはならじ、陰暦でしたら睦月のうち、明日、春芝居を観にまいります。演しものは、「Pain」でございます。
谷崎の「恐怖時代」、これもずっとずっと前、観ました。若衆姿の菊五郎が表情も変えず、というより、無表情で、つぎつぎ人を殺めてゆくのが、こわいというより無気味でした。血をぬぐった刀に自分の顔をうつして髪を撫でつけたりして。
「十五夜物語」も、雀右衛門と梅玉、それに松江のを、これも十年くらい前でしょうか、観ました。雀右衛門の妻がとてもよかった。苦界に身を置いた女らしいくずれ、やつれと、われとわが身わが心にじれているさまが、ほんとうにあわれでした。月のひかりがよい感じに扱われていたのを、覚えています。たしか、観世栄夫の演出だったとおもいます。
帰ってから戯曲を読み、夫役は孝夫、妹役は、などとかんがえたりいたしました。「恐怖時代」のときは、戯曲を読もうなどとおもいもしませんでした。忘れたいとさえおもいました。
今、文楽が国立劇場でかかっていますので、これも観たい、先生の観劇記を拝見しますと、今月の歌舞伎座も観たいとおもいますし、きれいな絵にも逢いたい……。
いま、読んでいますのは、齋藤史先生の『風翩翻』。
「源氏」は、やっと「少女」でございます。秋好中宮や朝顔斎院への振舞いが、以前はとてもいやで納得できなかったのですが、今、読み直してみますと、藤壺に死なれたあとのどうしようもない心のうつろを抱いての彷徨と、ふっと、なみだぐまれます。
亡きひとと読むご本に「源氏」を選んでよかったとおもいます。「源氏」とおもいましたきっかけは、先生の「桐壺更衣と宇治中君」でした。
今晩は早寝でございます。あす、よい状態で、舞台に逢いとうございますから。 香魚 2001 2・12 8
* 昨夜、湯豆腐に地酒の夕食を摂っていると、パラパラと小さな音がし始めました。
今朝は雪景色。晴れ。空気が、気持ち良く冴えています。武蔵野はいかがですか。
雑誌で、筝曲「銀世界」が紹介されていました。
同じ色 重ね重ねて白妙の げに麗しや飛石に 草履の跡も面白く
そと打ち払ふ 数寄屋笠 待ちに待ちたる 鐘の音の 静かに響く四畳半
寒さ忘るる炭手前 つもる話も打ちとけて 茶の湯の友の冬籠り
豊かにもるる釜の煮え 開く小窓や庭先の 眺め尽きせぬ銀世界
お風邪など召しませんように。
* だれの新作か分からない、むかしのものに比べると、縁語掛詞の駆使のまったく無いいかにも今日的語彙による描写に終始している。それでもこういう世界を、風情を庶幾している人たちが現にいる。わたしには分かる。その一方で、昨日の党首討論を報じている朝刊記事に、不快を抑えがたいわたしもまた露わに此処に存在している。逃れがたい現実というのではない、逃れ去ってひとり心地よいという境地を求めてよいことと思わない自分が在る。わたしは、それを我が悪しきマインドのさせることとは考えない。現実から、この巷から、走り去って山林抖籔の生活へのがれて何かが事果てるわけでも解決するわけでも良くなるわけでもないと思うだけだ。落とすべきマインドは、そういう葛藤のさなかで落とさねばならないのだろう、と。
2001 2・14 8
* 広い湖(umi)の読者から届いた声。ありがたく読みました。遠くへ投じた小石の波紋が岸まで戻ってきた、そんな嬉しい気分です。
八年越しの論文、ついに今日投稿しました。ポストへ投函した途端、気が抜けてどっと疲れが出、午後はぼんやり。終業後、職場からまっすぐ温泉(緑の湯)へ。今日は冷え込みは厳しかったものの天気は良く、日没を見ながらゆっくりと温泉にひたりました。
湯船に入って手足を伸ばすと、頭にはいろいろなことが浮かんでは消えていきます。「五時を過ぎてもまだ明るいなぁ。日が長くなったんだ・・・。花を待つには早いけど、札幌の雪間草は蕾ぐらいついたかしら。家隆?さんが詠んだ雪間の草は、きっと低温で花芽分化したんだなぁ。そういえば、福寿草は雪の中で低温を感じて蕾がつくんだったっけ。反対に春菊は高温で花がつき、ミョウガは日が長くなると、オクラは日が短くなると花芽ができる・・・一口に花が咲くといっても、その仕組みは植物によって千差万別。神秘的だなぁ・・・」と、とりとめもないことを考えているうちに、すっかり疲れもとれました。
明日は春の学会の講演原稿締め切り日。来週は会議で筑波です。 まおかっと
* 斯く在りたい。現実に翻弄され埋没し己れを見失って、あげく苦悶しなくてはならない時節というものも必ずあり、そこを通過するのをさけるのとは事実不可能である。わたしの元の学生君たちも、いままさに日々の塵労をこそ生き甲斐として働かねばならない時機にあるが、それにはそれで誠実に直面して、塵労じたいを生産的なものになし得る踏み込んだ工夫を、日々重ねてもらうしかない。逃げ出せ、捨てよとはわたしは言わない。だが、どこか芯の一点に「清」ないし「静」なる価値ある空白を抱いていてほしいと思う。
放心のどこかで( )を使う音 時実新子
これぐらいな句なら記憶していられるだろう。入浴の時でも、手洗いのときでも、やっと床に入ったときでもい、ふうっとこんなふうに句を思い浮かべて、さてこの虫食いの一字はなどと考えてみるのもわるくない。
禅は梵音のままで、意義は「静慮」「清思」である。ないしはその慮も思をも落とした状態である。そういう状態を芯の一点に人は抱え持ちながら、日頃気づかないまま怱忙に明け暮れる。よほど怠け者は知らず大方は明け暮れざるを得ないから明け暮れているのだが、この芯の一点にふと立ち返れる瞬間を持ち得れば、どんなに穏やかに静かになれるだろう。『こころ』の「先生」は「静」という名の「奥さん」を愛しながら、ついにその「静かな(無)心」を持ち得ずして自決した。漱石はそういう理屈だけは察していたから、他の者には「先生」「私」「K」などと名付けながら、三人の男がひとしく愛した「お嬢さん=奥さん」にだけ「静」という美しく価値ある名前を付けていたのである、東洋の禅の、道の、遠い伝統を憧れるほどに意識しながら。
この人にはそれが役に立ちそうだと思うと、わたしは、大学の頃と同じに、上のような虫食いの詩歌を「清=静」のよすがに呈題している。役に立っているかどうか分からないが。
2001 2・15 8
* 朝は雨風、午後は雪の、大荒れの一日でしたが、お変わりなくお過ごしでしたか。
鹿児島では、もう新ジャガの収穫が始まったらしいですが、我が家に届くのは、しわしわになったジャガ芋です。秋に収穫した、そのまま、自然にしておくからです。しわしわの中にある窪みから、芽が出ていて、調理には手間がかかりますが、台所で感じる四季です。
しわしわのお芋は、味が濃くなって、ホクホクして、新ジャガとは、別のおいしさが好き。良い野菜は、生で堅く、火を通すと柔らかいのだそうです。
* こういう柔らかい感じの便りに、ふっと気が和む。むだなことは、なにも書かれていなくて、すみずみまでホクホクしている。
2001 2・17 8
* 御礼とお詫び 年の始めには結構なお歌をお送りくださいまして有り難うございました 昔 お正月を迎えた時の感じを思い起こしたことでした 近ごろは息子宅の子育てヘルパーで行ったり戻ったりの日々にて落ち着く間のなく 御礼が今頃となりお詫び申し上げます 大好きな二月を留めておきたい此の頃です。
* わたしより幾つか年上のひと、まさに「e-OLD」である、それも最近にメールを使えるようになったおばあちゃんである。叔母の茶室へ通い、いい茶の湯をほんとうによく心得た絵のような佳人であった。句読点をはぶいて、ゆったり書かれたメールの、ごく自然に「子育てヘルパーで行ったり戻ったりの日々にて落ち着く間のなく」とある「間のなく」など、昔の語感と教養とが品よくあらわれている。今なら、百人の百人まで「間がなく」と「が」を使うだろう。このメールでも分かるように、ほんとうに「が」でなくてはならない、そうあるしかない「が」は、意外に少ないものである。いつのまにか安易に「が」で語ってしまう。胸の痛いところである。
大好きな二月、とある。京都の二月は凍てて痛いほど寒かった。紀元節のころの寒さはなかった。またしてもあつい粕汁に焦がれている。
2001 2・21 8
* 本の出来予定が予想より一週間ほど遅くなり、その分、ぐっと気づまりがほぐれ、息をついている。少し散らかっている、というよりも何が何でどれがどこにと分からないほど幾重にもものの積み重なった器械の周辺を片づけ初めてうまくはかどらず、ゲンナリしているところへ、見透かしたように「エントロピー」を語るメールが届いた。東工大の頃から志をしっかり定めていた「文化財保護・修理」の畑で、とくに繊維や染色の研究と実地の仕事をつづけてきた院卒女性である。歌舞伎や能の装束にも、また古代裂などにもつよい興味を抱いていると教授室で話してくれた。そういう方面になると武骨な理系男子たちは見当もつきかねてか、かなり揶揄的に攻め立てていたが、かるくかわして悠揚迫らぬ落ち着きぶりで、その対照に思わずわらえたのを懐かしく覚えている。その場にいた男子学生たちとも、みな、今も付き合いがある。今での対比もおもしろいだろうが、今なら、彼女と彼ら、もう少し話題も噛み合うことだろう。
いいメールなので、ゆるしてもらって、ぜひ書き込んでおきたい。
* ご無沙汰しております 秦先生。
ずいぶんと長い間ご無沙汰しておりました。ご無沙汰しておりましたものの、お送り頂いている「湖の本」やHPを読みながら、先生に、「あ、そうですよね」とか、「私はこう思いますが」とか話しかけているつもりになってしまい、なんだか直接にご連絡差し上げていないことを忘れてしまい、こんなに長らく失礼してしまいました。
実は、昨年の師走に娘が生まれました。平成12年12月12日という、なんだか誂えたような誕生日ですが、予定日より二週間遅れの出生でした。
仕事が三年目でようやく軌道に乗り、自分でも「仕事をしている」感じを掴みはじめたところだったので、残念には思ったのですが、思いきって1年間育児休業に入りました。できれば、近くの実家に預けて働き続けたいと思っておりますので、親の年を考えますと、そうそう出産を遅くするわけにいかないなぁ、との思いもありましたので。
仕事は本当にやりがいがあり、主に文化財保存の有機物関係の業務です。地味でも、そのモノが「自分に語りかけてくれてる」という実感は、感動的です。
もちろん寡黙な相手の場合もありますが、時折、饒舌に、「これこれの時期にね、こういう考えから、こういう風に、手を入れた人がいるの」(修復履歴の検証をしていると、こういう感じになります。)と、話してくれる相手の時もあり、これが醍醐味となっています。
もちろん、モノだけの相手をしていればすむわけではなく、モノが文化財だけに、人との折衝やぶつかりが大きい職場でもありますが。
それでも今は毎日家にいて、家の窓から夕日の見られる幸せを、実感しております。
鎌倉に戻ってきて一年少し。
風にも春の匂いがし、空の湿度の含み方や飛んでくる鳥の姿などから、家の中でも四季の感じられる場所で子供を育てられる幸運を、感謝している毎日です。専業主婦も悪くないなと思いつつ、専業主婦をするのに少しばかり恐怖を抱きはじめている自分もいます。
先生は「エントロピー」という概念をご存知でしょうか?
簡単にいうと「乱雑さ」を表す概念で、エントロピーが大きいと乱雑さが大きいことになります。熱力学で、いかに効率よく熱を仕事に変換するかを追求する中で生まれた概念で、この概念を一躍普遍化した法則が、「エントロピーは増大する」というものです。つまり、放っておくと乱雑さというのは大きくなっていくものであるぞ、というものです。私など、自分の部屋の散らかりようを考えると、えらく納得いきますが。
実は、この法則は閉じた系の中においてのみ有効なので、こういうたとえは厳密にはふさわしくないのです、が、この法則がいかに人の心を掴んだかは、これを転用して、情報のエントロピー増大(内緒話は広がるのです)を計算する学問的分野の確立されてしまったことからもわかると思います。
前ふりが長くなりました。
ところで、広いキャベツ畑や大規模プランテーションは、一種類の作物しかないため、エントロピーは小さい状態にありますが、こういう畑は、とても病虫害に弱いそうです。そして雑木林のようなエントロピーの大きい植物群は、とても丈夫で変化に強い。
つまり、専業主婦にとして家にいると、精神状態はシンプルでとてもエントロピーの小さい状態になります。エントロピーの小さい状態は、工業的には非常に望ましい状態で、そのものの有効活用をするために、いかにエントロピーを小さくするかを追求するのは、とても重要な課題になっているくらいです。(部屋だって片付いている方がいいわけですし、雑種の畑より大規模プランテーションの方が便利だし、内緒話は内緒だから価値がある。)
ですが、この状態は外界からの影響に弱いわけです。
実際、家にいると些細なことにくよくよしやすくなり、この状態を続けていくには、かなり精神力が必要だなぁと痛感しています。結局、専業主婦に憧れつつも(家で毎日夕日を見られるのは本当に魅力的)、自分は、外で働くくらいしか能がないのだろうなぁ、としみじみ思っています。
近況報告を書くつもりが、なんだか随分長く、まわりくどく、なってしまいました。
先生には、ついつい学生気分の甘えが出てしまうようです。無沙汰の失礼とともに、長文の失礼についてもお詫びいたします。
季節の変わり目、どうぞご自愛下さいませ。
* こういうメールも在るので、ある。事務と取引と連絡とのためだけの器械では、もうなくなっている、パソコンは。
毎時間、わたしの意地悪な突然の「挨拶」に応えて、せっせと教室で考えを書いていた昔を、さも思い出してくれたような、いやいや、もっと和やかな美しいメールである。こういうメールを「書いて」みる、この自己表現や表明は、本来「文芸」の特質に繋がれている。これが文芸なのである。もう少しで随筆作品になり、小説の一部にもなり、そんなことをしなくても、このまま文芸なのである。こういうメールをいろいろ集め束ねて西鶴は、『西鶴文反古』という草子を、作品を、生み出している。
かならずしも悠々閑とはしていなくて、この人なりに日々の葛藤とも直面していることだろう、が、こういうメールを「書いて」くれることで、何かが、静かに、内側で、堅固になったり溶けて流れたりする。それは分かる。こういうメールには「受け手」のあることも大事なので、かつてないこの「双方向性」を、どんなに大勢がたのしんでいるかは、今日想像に余るものがある。嬉しいメールであった。お子さんの可愛い日々と、夕日の目にしみて美しい平和な日々が目に見えてくる。それにしても、わたしの部屋の「エントロピー」を如何にせん。
2001 2・23 8
* 昨日の夜、名古屋の元学生君が電話をくれた。思わず二十分余も話し込んでしまい、後で気づいて気の毒をしたと思った。二十八歳だという。仕事は仕事できっちりやっているが、休みを得ては、新しい出会いの何人もの友人たちと楽しく遊んでいるという。人によって言うも言わぬもよく考えているが、この人には、躊躇無く、堅実な家庭をもつことを心がけるよう、意識して、助言した。人によれば余計なお節介になる。人によれば必要な助言になる。
2001 2・24 8
* 二階へ上がってメールを開くと、こんな、遠く西の方からのメールが届いていた。
* そうか 魔法の粉だったのか。
昨夜七時半からのNHK TV、 新三津五郎をかこんでの歌舞伎入門的な番組の中で、水谷八重子が、玉三郎や母である初代八重子のことをこう表現しているのをききました。
「あの人たちは、舞台に現れたとたん、観客の頭上に魔法の粉をふりかけるのだ。」
あまりにひとのほめそやすものはつい敬遠しがちな悪い性分でして、たまさかの歌舞伎見物にも玉三郎だけは避けていたのですが、仁左衛門の襲名興行だけは致し方もなく、(なにしろ朝から晩まで電話をかけつづけてようやく手に入れた切符でした。憧れの仁左衛門でした。)期待に胸躍らせて舞台をみつめる私の眼に、揚巻に扮した玉三郎が登場したとたん、他の一切の人物がスーッと色あせ遠のいてゆきました。並んで立った白玉の福助はいうまでもなく、お目当ての助六仁左衛門その人までもがーー。
それは呼吸するのを忘れるようなひとときでした。
したたかに酔わされました。
依怙地にそっぽを向いていた狭量を恥じると共に、天分、精進、華などの言葉でもとうてい言いつくせない、あの圧倒的な魅力のことは、以来ずっと胸から消え去ることはありませんでしたが、なるほど「魔法の粉」だったのかと、妙に頷けるものがあったのです。
あの瞬間、私もまた玉三郎の魔法の粉を浴びて、しばし夢の世界をさまよっていたのでありましょう。そして、それこそが、客の舞台に求めるものでもあるのでしょう。
わかりきった芝居を、この役者ならどう演ずるか、どう楽しませてくれるかと期待に胸をときめかせて幕の開くのをじっとまつーー。そういう想いは、何も芝居だけではなく、文芸でもと、けさの朝日紙上では、長谷川櫂氏の文章にも教えられました。
誰もが知っている題材をどう詠むかどう捌くかこそが、成否にかかわるのだ、と。
「この世界に新しいことなど一つもありはしない。何かを新しいと賛美するのは、その人が無知で傲慢なだけである。文芸とはどれもそうした諦念の賜物だろう。」という文章を読みながら、三寒の日曜日を過ごしております。
* 今夜は頭が少し重いので、内容に触れては何も書かないが、隅から隅まで共感するし、よく分かるつもりだ。わたしの方へ何を呼びかけようとしているのかも。感謝。
新三津五郎のこのテレビ番組は他にも感想を寄せてくれていた。
* NHKの土曜特集で「ようこそ歌舞伎の世界・華麗に襲名十代目坂東三津五郎」というのがあり、湯上りにゆっくりと楽しみました。
初心者が親しむためには、贔屓の役者を持ち、その所作を楽しむことから始めては、と。一度来ていただければ、けっして離さない。それだけの力量(演技力)は発揮している、と。
稽古の風景なども放映されていましたが、語る一言、一言が静かな口調のなかにも迫力があって、う?ん!と肯きながら目の保養をさせてもらいました。
実物にはとうていお目にかかれないでしょうけれど、月様の観劇感をも重ね合わせて(テレビ内容だけではなく)楽しんでいます。お抱え専属案内人?をもっているって、なんて素敵。
2001 2・25 8
* パソコンの「先生」田中孝介君の久々の声を電話で聴き、嬉しくて、二十分ほど話した。NTTコミュニケーションにいる。
どっちもが不服かも知れないけれど、わたしは西武の松坂投手が田中君に感じがよく似ていると思い、この思いにとても満足している。しなやかな長身で、いい笑顔である。
電話とパソコン等の器械の連携環境が、いま、めまぐるしく動いている気がしているが、どう捌いて、よりよい環境下に両方を用いてゆけばよいか、まだまだ「先生」について教わらねばならぬことは多い。電話が嬉しくて長話したが、彼はまだ社にいたのかも知れず、気がつかぬことをしてしまった。申し訳ない。
2001 2・26 8
* 雛の日
今日は娘の初節句です。明日から主人が海外出張で留守にするため、旧暦で祝うつもりで何も準備しておりませんでしたが、姉が小さなケーキを持って来てくれました。ケーキを前に、今晩はささやかなお祝いをします。
雛人形は、母の、昭和初期のものを譲ってもらえるとのことで、買わないつもりだったのですが、小さな事情が生じて、先日デパートに買いに出かけました。
そこでつくづくと感じたことは、私のような貧乏人が目だけ肥えてしまうと(と、いうほど目利きでもないのです。商売柄否応なく目につくことはついてしまう程度です)本当に哀しくなる、ということでした。
「衣装着のお雛様」と謂われる、いわゆる首師と衣装師の分かれたタイプのお顔は、今年のメイキャップの流行を反映してか、なんと、お内裏様の下まつげがしっかりと描き込まれて、なんとも品のないものばかり。辛うじてこれならば、と思ったお内裏様も、紺地に白い兎の柄の着物を着ているのです。空いた口のふさがらない私に、売り場の年輩の女
性は、 「江戸小紋ですのよ」。
なぜ、天子さまが江戸の、それも「小紋」など身につけねばならないのかっ、と頭に血が上りかけ、抑えるのに苦労しました。まだまだ未熟な私です。
もう少しなんとかならないものか、と、呟く私は我ながら相当にイヤな客で、売り場の主任と思しき女性が代わりに出て来て、
「今、原物はありませんが」
と言いながら、パンフレットで100万もするお雛様を見せてくれました。本当にものがよければ、一生ものですし、算段して清水の舞台から飛び下りてもよいがと覗き込んで、
「この塗りのところは、漆ですよね」
「いえ、カシューです」
カシューは、漆とよく似た成分を含んでいて代用漆として用いられていますが、写真をよく見ると、カシューにしても光り方が妙なのです。言わない方がと思いつつ、口にどうしても歯止めがかからず、
「これ、カシュー100%じゃないですね、ウレタンが入っていますね」
ああ、自分が店員だったらこんな客には絶対に来て欲しくない。
そのときふと、横の写真に品のいい立ち雛があるのに気付き、その私の視線を感じたのか、店員も、
「あら、それよろしいんじゃないですか」
と勧めて下さり、私もこれなら100万出してもいいかもしれない、と思ったのですが、すかさず横から男性の店員が、
「お客さま、それは今年はもう売れてしまいました。ちなみにお値段は550万円でしたが」
もう何も言えずに、その場で一番品のいい木目込み人形を買って貧乏人は早々に退散いたしました。本当は木目込みでなくて、衣装着のお人形がよかったのですが、ふっくらとしたその木目込みの引き目おたふく顔が、その場では一番うるわしく見えたのです。台は、もちろんウレタン入りのカシューですが、お値段は薄給公務員にちょうどいい程度で
したし。
ところで、延々と書き連ねてきたのは、私の愚痴ではなく(そう思われても仕方ないですが、)こういう部分から、伝統や文化が崩壊していくのでは、という懸念です。
子供は、自分の持ったものを基準にものを考えはじめます。ウレタン入りのカシュー塗りしか知らない子に、漆の質感を、その魅力などを書いた文芸作品をよく鑑賞できるでしょうか。小紋を着るお内裏様を見て、西陣というロケーションに思いを馳せられるでしょうか。お台のすべてを漆で塗るのがコスト的に不可能なら、木地枠でいいではありませんか。そして、枠のほんの一部、熟練職人でなくても容易く塗れる部分に、中国産でもいい、ほんものの漆を塗ることがどうして考えられないのでしょうか。
織りの着物が不可能なら、色無地でも、いい生地のものを着せればいいではありませんか。なぜ、品のない柄のそれも小紋を着せなければならないのでしょうか。
私の仕事は、古いものを保存することですが、本当に保存しなければならないのは、もの自体ではなく、それを創りだす技術なのではとの思いが、日々強まっております。ものだけを後生大事にしていても、今、それをもう創りだせなければ空しいなあ、と、並んでいた下まつげの長いお内裏様に、なんとも言い様のない思いを抱きました。
伊勢などの「遷宮」という、あれは、技術のみの伝承の最たるものなのではないでしょうか。
そんな中で、一つの方向性を示してくれる事象にも出会いました。
先日、着物の展示会をやるので出てらっしゃいよ、と姉の友人が声をかけてくれたので、
「冷やかしだけになっちゃいますけど」
と、出かけました。毎日家にこもりきりの私のために、主人も子守りを引き受けてくれましたし、場所も自転車で5分ほどでしたので。会場が、近くとはいえ古い邸宅街の中に、昭和初期に建てられた能舞台まであるお屋敷、というのにも心惹かれたのは確かです。
そのお宅は、今はお年を召したおばあさまが、お手伝いさんと一緒に住んでいらっしゃるだけですが、昔は、お能ばかりでなくこういう展示会も盛んに催されたそうです。ご親戚の方の「売ってマンションにしなさいよ」との言葉に耳を貸さず、死後には市に寄贈すると決めておいでのおばあさまも、見事な方ですよね。
展示されていたのは京都の中堅作家の作品で、冷やかしで行った私でも丁重に扱って下さるあたり、「京都」を感じました。文化財保存という仕事柄、京都の業者さん・・・という無骨な謂い方は似つかわしくありませんが、いわゆる「中京」との付き合いは多少ありまして、その方も「京都」独特の、やわらかく、一見あたたかく、そして芯の骨太を感じる方でした。
作品について質問すると親切にいろいろ教えて下さり、少しも私に知識があるとみてとると、
「なんでそんなに知ってはるんですか」
と、こちらをいい気持ちにさせて下さり、私の勤め先などを知人から聞いて取ると、今度は、
「なんであの頃はああいうもの使いはじめたんですか」(これがやわらかな京言葉なので実に耳に気持ちよいのです)
と、接着剤について強烈な質問をぶつけてこられる、勉強熱心。久々に、「ああ、京都だ」と雰囲気を堪能しました。
少し話が脱線しました。
その方が、私の気に入った月下美人の訪問着を見ながら、こんな話をされたのです。
「十五で私の先生に弟子入りした時、先生に私は聞きました。『こんなに町で着物を着る人を見かけなくなっている今、着物を作る意味はあるんでしょうか』と。先生は言われました、『家に畳の部屋のある限り、着物の廃れることはありません』」(京言葉を使われないように話して下さっているんですね。)
なるほどと深く相づちを打つと、
「でも、いまマンションには畳の部屋のないとこが多くなっているんです。」
「・・・・・」
「この訪問着も、正座の時でなくて、立っている時に美しいように考えたものなんです」
地紋は大きな変わり市松で、深い紫紺の中に大きな白い月下美人を染め出してあるものなのですが、この花が、膝より少し下にある。正座をすると隠れてしまう位置ですが、立っていると白い足袋とのバランスが素晴らしくいい。
「着物も少しづつ変わっていかないと」
それはそれは微妙に心打たれる話でした。
でも、新しく変わる着物を支えているのは、鮮やかでしっかりとした色数の多い染めを、きちんとこなせる技術なのです。そういう着物を、気骨ある女主人の住む古い家で展示する。文化財というのは美術品的な世界ですが、生活の中に溶け込んだこういう文化の伝承の仕方が、一番エレガントな気がしてなりません。
「文化財保存」という言葉の、なんと曲のないことでしょうか。
随分と長くなってしまいました。またしても「えらい」メールですが、先生の「メールを下さい」のお言葉に甘えて出させて頂きます。今後とも、どうぞおつきあいいただければ幸いです。
* 書かれてあることに異存はない。意識して、ものごとにきっちり対っている。
注意してあげたいと思ったのは行文で、ことに、先日来触れている、「が」という助詞の無意識な多用で、文章のややがさつくのは推敲したいなと思った。例えば「私が」というふうにあったのを、何箇所か「私の」に改め、響きと格とを少しく静め正すように直してみた。一般に一例で謂うなら、「先生が言われるには」と「先生のいわれるには」では、品格と敬意とに差をなしている。もっと大事なことは、「先生の」と敬意を秘めて静かにでると、しぜん、アトへ「おっしゃるには」とゆかしい敬語までが導き出されてくるのである。その辺に、文章の自在と品との生まれ出る道がついている。それへも意識を深くむけて、みやびな話題によりふさわしい表現をとすすめたい。気持ち一つで出来る書き手だと思うから、言い添えておくのである。
2001 3・3 8
* 損
雛の宵は、雨降りになりそうです。予報画面には、雪ダルママークがあちこちに。寒くなりそう。お大切に。
昨夜の映画は、大好きな役者が、珍しくブルース・ウィリスを吹き替えていましたの。声を聴きたさに、ラスト40分程度を見ましたが、思った通り声が似合わなかったわ。内容もつまらないし、映像の美も無い、小林恭二さんの声の聞けただけが、幸せ。睡眠時間が減った上に、心のコップに、濁った絵の具が流されたわ。これを掃除するの、大変なんだから。
白酒は召されたか♪
主人は仕事の後、飲み会だそうで、雀は一羽。鮎正宗に塩せんべいと、ハードに飲んでおります。
作家A氏の、舞台朗読に相応しい作品の条件を書いた文章を読みました。
[そんなに、こ難しいこと ? 秦さんのお作は、『七曜』をはじめ、心の中で朗読して、心底美しく、気分良く酔えるわ。]
と思いましたわ。
塩田ミチルさんが、お嬢さんをもらいたいと言う男性に、「同じ重さだけチョコレートをちょうだいね」と言ったほど、チョコ好きなことも知りましたわ。
[銀座百点]を読みながら、今度、銀座を歩くのはいつかしらん、と、ウキウキ雀。お幸せに。良い夜を。
* ほめてもらって言うのではないが、やわらかに言葉が紡ぎ出されていて、独自の想世界をもった雀さんである。
2001 3・3 8
* 今日は天候の変化が激しく、雨も小休止でしょうか。曇って寒いですね。
朝から先ほどまで、トリプルAからダブルAに格下げされた日本国債と株価値下がりに関連の政治責任を追求したテレビに釘づけでした。結局のところ、各専門家の話から光の見える展望もなく、カオスとはこんな状態をいうのでしょう。責任の擦り合い。
こんな「絵」 覚えていますか。
娘に話しましたら、即刻、これでしょうと図録を持ってきました。
やはりルーブルにあり、作者は不明、フオンテーヌブロー派、そんなに大きくない板絵です。なんとも面白い構図で、裸婦なのに劇場の桟敷にいる貴婦人にも見え、無理して見れば、お風呂に入っているようにもみえます。一人が相手の乳首をつまんでいる図はなんとも滑稽なのですが、二人共しごく真面目な表情でこちらを向いています。背景にはキ
チッとした服装の婦人が暖炉の傍で、縫い物をしているのです。こんな絵をみると芸術的評価は無視しても、作者のドラマを推測させて印象に残ります。
夢の中?
* この絵、わたしも、なにかで観た記憶がある。深層意識のなにかでも読みとれる作品かも知れないが、それだけの気もなく忘れていた。ドラマの「風立ちぬ」の幕開きで、三姉妹が布団蒸しのような巫山戯遊びをしながら互いの「胸」の大きさを話題に笑い転げているのを観たときに、女ばかりの家ならこういうことも有るのだろうなと想像し、そのときに、ちらと此の絵のことを思い出していた。それを今思い出した。このメールの人が、なんで、こんな絵のことを話題にしているのか分からないが、向こうは女性であるだけにドキリとしてしまう。オイオイという感じ、元気にしていますかと、なぜだか尋ねたい気がする。
2001 3・4 8
* かしこ・ごめんくださいませ
秦先生 「の」の用い方、お教え頂きましてありがとうございます。ほんの一文字ですのに、ずいぶんと文章がやわらかくなりますね。こういうことを、ご指導いただける自分の幸せを感じております。以前のホームページでもこのことに触れていらっしゃいましたが、少しだけ「国語の先生」の俵万智さんの言い分を肩代わりすれば、(個人的に思い入れの深い歌人ではないのですが。)確か、私の習った小学校の国語の授業では「主語を表す助詞」には「は・が」が挙げられており、「の」は含まれていなかったように思います。また、翻訳調の学術論文では、原因と結果を明確にするために「が」を多用する傾向もあります。ですので、学童期には教えられず、文章をものする人たちが多いインテリ層(?)では「が」が使われやすいために、「の」の存在感が日本語の中でかなり希薄になってきているのではないでしょうか。自戒をこめて。
日本語のやわらかさについてもう少し連想すると、手紙で「かしこ」を書く時に、肩のあたりがやわらかくなります。
仕事上での手紙の末尾には性別を出さないように、との考えから「敬具」を書き記す常識がありますよね。キーボードで「敬具」と打ち込むのではなく、「かしこ」と手書きで記す手紙を書く時は私個人の手紙であり、それがどんなに気張った内容であっても「かしこ」を書く時に、背負うものが自分だけである身の軽さを感じます。
業務書簡は、たとえ添え状であっても肩の張る部分があります。
もう一つ、電話の最後の「ごめんくださいませ」も同じ優しさを持ちますね。職場では電話を「失礼いたします」と切ります。実は最近まで、個人の電話でも目上の方にはそう言っていました。
ですが、先日年輩の女性から電話を頂き、最後に「ごめんくださいませ」と声の聞こえた時、そのやわらかさに息を飲みました。
思えば、先生と同じ年齢の母は、道端で人と別れる時も「ごめんください」と言っていたように思えます。横にいて何度も聞いていたはずなのに、学習能力の低い私は、他の方から直接にその言葉を向けていただくまで、全く身につかなかったようです。
「かしこ」
「ごめんくださいませ」
この二つは、女が個人に還るときにだけ用いることのできる、やわらかい言葉。この二つを用いることの小さいけれどあたたかい感動は、本当はこうして文章に綴るよりも、短歌にでもすべきもののようでもありますね。もちろん、私にはその能力はないのですけれど。
風が強く吹き荒れていますが、光は力を持って春の訪れを告げています。本棚の上から私の手先を見つめていたミケ猫が膝にのってきました。そろそろお昼ご飯の時間のようです。
この風の強さです。花粉症、ひどくならぬよう、お労り下さい。
* 反応の、はやいこと。遠くからの読者ではない。東工大のわたしの教室にいた、院卒の、いまはお母さんでもある。
繰り返すが、「の」の使い方には伝統がある。昨日書き抜いていた石黒清介さんの歌では、この「の」が昔ながらに美しくしばしば用いられているのに気のつく人も多かろう。「が」にも「は」にも、ときに必要以上の強調や特定の気分がつきまとう。もう一つは、昔の人の気をつけて発音していた「が」の発声が、ますます汚くむき出しになっているのも、気がかりである。昔の国民学校の教室では、しばしば「が」を優しく発声せよと練習させられた。かすかに鼻音にしたのである。 2001 3・5 8
* すさまじい風に吹かれ、花粉に目も鼻もプンプン。怒りのぶつけようがない。西の方から黄砂の便り。
* 大陸からの便りはすごいです。今日は雪が降るかもしれないとの天気予報でしたのに。白い舞姫の姿はみえなくて、黄色いマントをひるがえした春告げの騎士団登場です。山も街も淡いセピア色に霞んでしまいました。天がこぼした少しの涙は、騎士たちの足跡をそこかしこに残していきました。遠来からの来訪者、黄砂。花の春、間近を喜びたいけれど、外に洗濯物が干せなくなってしまうの、ほんとにコマッタちゃんだわ。西東京へはお伺いしたのかしら?
* 昨日、ぬくいな思たら、なンや今日はえらい冷えて。降るしよぉ。
今ぁ、ニュース見ててンけど、黄砂やってンてぇ? 小学生の頃なァ、グラウンドが空中ごと濁ったようになってンさ。
「中国から砂が渡ってくるんや」テ、センセ教えてくれてん。
[ひゃぁ、あんな遠くから、海越えて来ンねンなぁ]思て、教室の窓から、外、見ててん。家帰ったら、洗濯もンやり直してンやんか、おかはん。でもなァ、[うちら、大陸に向いとるンやな]テ、大きい気ィなったン覚えてますわ。
太田(大阪)府知事、まだ、あんな事言ゥとる、あほかいな。おなごにでけんことあんねんで。ようさん。
2001 3・7 8
* 先生、メールありがとうございました。文章の本当はわかりませんが、日頃、言葉づかいに気をつけるようなりました。話すことと囃すことは「仲間」と思い、ともに勉強してゆこうと思います。
〓京都にいくだけで、その空気にふれるだけで、時の流れがゆっくりになります。浅草ではできない新しく古風な囃子ができそうです。
〓いつもそうですが、建日子さんのお芝居を観せていただくと涙がでます。心の奥の方、人には言えない部分からだと思います。今回もでした。冬と春の隙間、過去をもう一度考え直しました。今後の活動目前の私の背中をおす舞台でした。感謝です。
* 歌舞伎囃子の先代望月太左衛門の娘さん、当代の姉の太左衛さんのメール。エネルギッシュな公演活動で、邦楽の世界に大きな場を占めている人。芸大の院を出て、講師も務めている。小柄なからだから底知れない「音」を噴出させる。もう久しい湖の本の継続読者でもあり、建日子の芝居にはいつもお弟子さんと見に来てくれる。今度は母上も連れて見えたという。ありがたい。京都でも教室をひらいているそうだ。本拠は浅草。川開きの花火に呼んで貰ったこともある。
2001 3・8 8
* 今日は、さすがに疲れを感じている。そんな日、こんなメールに、気がふっと和む。
* 御無沙汰している間にすっかり春がやってきていました。時折意地の悪い寒気がやって来ては心身を引き締めていってくれますが、御身体は大丈夫でしょうか? 先日の静岡出張の朝は、自宅から見える家々の屋根が白く、息も凍っておりました。
湖の本を受取りました。いつもありがとうございます。ちょうど読みたいなぁ・・と思っていたところ。
今春は娘もいよいよ進学先を決めねばならず、さりとて希望どおりにはとうとう合格出来ませんでした。結局、去年と同じ東京の大学をもう一度受験しなおして、いよいよ一人暮らしの運びとなりました。とうとう1年間予備校に通わせて、地元の大学の学費も払い続けた親バカを残して行ってしまいます。ゆくものあれば来るものもあり、いつまでも寂しがっていることもないでしょうが。
2月3月はそんな事で おおわらわだったのです。28日、1日と上京し不動産屋巡りをしてきました。東京の、といっても娘の学部は神奈川になるのですが、住宅事情は驚異的です。特にこの時期だからかどうか・・くたくたに疲れて最後の最後で決めたマンションは少し予算オーバーでしたが、なんの要求もせず、私にお任せの娘には「せめてこのくらいは」という気持ちになってしまったようです。安全で健康にと、親の願いは何処も同じでしょう。日本も安全とは言えなくなってしまいましたが。当地など、このところ毎日のように恐ろしい殺人事件の記事があり、とても嫌な気持ちになります。
話はかわりますが、以前松江の近くに暮らしていた事もあって、小泉八雲が好きなんです。宍道湖に漁に出かける村びとたちが、昇ってくる朝日に柏手を打つ姿を見て、八雲は『美しい日本人』と表現しましたが、そんな『美しい日本人』を見かけることが少なくなりました。
それでも私的には、青年のはにかんだ微笑みや高齢者といわれる老婦人の立ち姿に『私的美しい日本人』を見つけることがしばしばあって、優雅な気持ちになれる一時があります。そういう日は ◎ の日です。秦先生のお話にも『私的美しい日本人』が沢山出てきて・・それでご本を読むと ◎ の日になれるんです。
今日、愛犬と散歩に出かけましたら、産毛の木蓮が膨らみ、沈丁花が咲いていました。白木蓮、沈丁花、大好きな花です。恥ずかしながら、娘がまだ幼い時に野中の白木蓮があんまり綺麗で花盗人をしようとしたことがあります。その時、幼い娘が半べそをかきながら「お母さん、やめようよ?、とっても悪い事をしている気分がする」といって私を叱ってくれました。春になって木蓮を見る度に思い出しますが 彼女は憶えているかしらん。
そうそう、木蓮にはもう一つ、思い出が。小学校の参観日に、着物を着た母が木蓮の帯を絞めて来たのが子供心に誇らしかったのを憶えています。家に帰ってすぐ衣桁に母の着物を見つけると、木蓮の帯を探したものです。
「私はこの花が大好きなの」
これが新しい帯を買った父への言訳でした。(まだ、母がおさげ髪で、体重を気にしていた頃のお話。)
母の実家にも大きな白木蓮の木があって、これがお婆さんの家の目印のようなものだったのですが、こちらは「花が咲いとらん時は大きいばっかでしょうもない」という可哀想な理由で伐られてしまいました。一年中咲く花がよければ、造花で良いでしょうに。
まぁ、なんてだらだらと長いメールに! 湖の本の発送を終えてお庭の梅でもご覧になっておられるのだとよろしいのですが、きっと忙しくお過ごしの事と思います。おゆるしくださいね。ご本ありがとうございました。
* こんにちわ。タイミングの良さに驚きましたわ。先程[湖の本]が届きました。明日、早朝(故郷)に発ちますの。早速鞄に入れます。今回はややハードに、「迷走」(上下)を友に、と考えておりましたの。決心はもろくも春風に蕩けて、秦さんの能の世界を、亀井広忠・大倉源次郎の、ハンサムな舞台姿を思いつつ、楽しみますわ。
「丹波」からの三部作も、読み返すと、以前と違う箇所が、心に語りかけてきます。「飲むほどに満足。そして、また、飲める。」これは、昨晩飲んだ、[澤の井]のラベルに書かれたキャッチコピーですが、秦さんのお作も、同じですわ。お疲れが残りませんように。
2001 3・12 8
* おはようございます。昨晩は返信を頂き嬉しかった。個対個のネット通信といっても多くの皆さんにお返事を出されるのは大変なことでしょう。ありがとうございました。
昨日は湖の本と一緒に早々にベットにもぐりこんで、平家物語というギャラクシーの壮麗なきらめきを飛びながら見たような気がしたところで、眠りというブラックホールの重力に落ちてしまったようです。日月の白拍子やら公達の群星の瞬き、能装束の海が花畑、といった素敵な夢を観ていました。絵巻物の時間は横方向に流れますが、平家物語が星雲
であるという秦先生の作が、とてもとても気に入っています。
山中で年老いた白拍子にあうような、ゾッとする様な孤独で美しい時の堆積を感じます。静寂が闇ではなく光の渦のように凄い力で押し寄せてくる・・まだ読み始めたばかりなのに。
私がこの本を手にしなければ知らなかった事、幻視していただけの世界が生き生きとして開けてきます。シンクロするってきっとこんな感じなんでしょう!心地よく「水」を感じています。素敵なご本をありがとうございます。
> 東京へみえる機会がふえそうですね。
同じように慰めてくださいますね。
風花まで舞いました・・青森では雪虫、と言っていたように憶えています。御身体大事に。鍼灸をお薦めします。
アカウントネームが変った事 お気付きだったでしょうか。親しい人の勤める会社は、国内大手企業の中では社員の個人メールを管理しない数少ない会社だそうです。私用メールチェックソフトは多く出ていて、利用している企業側の言い分はヘッドハンティングや機密漏洩の防止だそうですが。以前から気になっていて、せめてアカウント名を・・と変えたところ『外人みたいでいい』と喜んでくれました。私のメールは漢字名で出てくるので、とても目立っていたようです。
* 『能の平家物語・能 死生の藝』の、どう受け入れられるかは少し好みに左右されるかも知れず案じているが、まずは、ほっとしている。それもそれ、末尾のアカウントネームのこと、じつはわたしのが紛れもなく「秦恒平」と麗々しくどこへも届いているのではないかと、それでいいようなものだが、気にもしている。nonameとしている人もあるが、名無しというのも寒い感じなのでせめてhatak とでも替えたいのに、恥ずかしながら替え方を心得ていない。前から気にしながらそのままになっている。
2001 3・13 8
* いましがた、三井建設とか三井不動産とか三井の社長や会長をしていた鬼沢正という人の電話を受けた。京都建仁寺について書いた昔の文章を読んだらしく、しばらくあの界隈のことを話し合った。関連の何か書いたものがあるかと言われると、なんだかやたらとあるような無いような。電話ではよく話がわからなかった。
2001 3・13 8
* しばらくぶりの嬉しいメールをもらった。若い人のメールは若い人の楽しさがあり、同年輩の人からは、特別の波長が琴線をゆるがしシンクロナイズしてくる。
* お元気にお忙しそうで、何よりとお慶び申し上げます。
いいご本が出来て、快調にお送りいただいて、受け取った人たちが、嬉しくて、楽しんで、こんないい話はありません。ありがとうございます。美しい製本をされている職人さんにも人のつながりを感じ、心より敬意を捧げます。
ご無沙汰致しておりますが、こちらはほぼ毎日ホームページを拝見して、ウム、ウム、ウーム、と勝手につながっているような気になっていて、ずるいかなぁと思ったりしています。
先日、友人に秦さんの話をしたら、読んでみたいというので、郵便為替で「湖の本-贈りもの」注文書をお送りします。
よろしくご高配ください。
創作シリーズ13、14、15、16.txt」送信します。
「みごもりの湖」ゆっくり読めました。
「少女」もいいです。ポケットにねじこんだ海老フライは、きっと、あの老いた犬と半分づつ食べながら、また何か話をしたのだろうと、あの頃の本郷の町並みを思い浮かべました。
春になるのに、花粉には困ったものです。遠ざかっているのが一番ですが。
そのほかも、くれぐれもお大事にしてください。
* おんぶにダッコで、たくさんスキャンしていただきながら、わたしの時間が追われ追われで、校正が進行していない。落ち着いて読み直してゆきたいと、常に念頭に置いている。スキャンが苦手なので、ほんとうに勝田貞夫さんには助けられている。ありがとうございます。
2001 3・13 8
* 花粉症如何ですか? 暖かくなったので恐らく悩まれてることと思います。が、あまりひどい状況でないことを願うばかりです。
一昨日、本が届きました。15年を迎えようとしている!!15年、一口に言って納まらない、十分に重い歳月です。
3月もまた足早に過ぎようとしています。世の中のこと、あまたあれど・・そうですね、最近のニュースのなかではアフガニスタンのバーミヤンの仏像破壊がわたしにとっては一番でした。実際に行ってもう見ることは叶わなくなってしまいましたが・・アフガニスタンは高校時代からご縁が、意識の上ですが、あった国。外国の勢力を追い出していよいよ国が落ち着いていくかと思えた時から、なんと一転して国内ゲリラ同士の争いへ・・・その国の現在の状況は本当に辛いものがあります。宗教は人を救うといいながら、なんと人を傷付け、憎しみあわせるものでもあるか、と思います。イスラムの教えの何が正当か、異端か・・は別として、自由について、女性の生き方をどう見るかにおいて・・わたしはタリバンの、イスラムの支配は嫌です。
先のメールでわたしは「ロマネスクに疲れたらしい」というような意味のことを書いたと思うのですが・・・そんな単純な結論は出せるはずもなく、今月に入ってからの自分の迷いや疲れは、ひたすら「眠る」ことで宥めて暮らしてきました。もう少し元気が出たら、きっと勢いづいて旅に出るでしょう! 但し、やはり桜を心いくまで楽しんでからです、そうしないと出発できません。
元気にお過ごし下さい。大切に。
* バーミヤンの仏像破壊はいやな話題だった。仏像だからではない、仏像自体は偶像に過ぎないから信仰の本来からは無くなってもべつに問題はないが、偶像といえどもその時代の人間の手と思いとのまさに「文化」の所産であるからは、消え失せれば取り返しつかなくなり、後生の学びうるものが烏有に帰してしまう。野蛮なことだ。信仰が人を傷つけ合わせるとは、真実情けない。宗教性は必要だが、宗教は、まして宗団・宗派は不要だと思ってきたし、バグワン・シュリ・ラジニーシも切言している。イスラムに関してもこのメールの人の思いにわたしは同調する。
2001 3・16 8
* 東洋女子短大の北田敬子さんに戴いた、ことばを考える会共著の『対話』は興味深いインターネット考察で、読み始めて、やめられない。北田さんの巻頭論文のわが「e-文庫・湖」への転載を許してもらえたので、早い時点でスキャンしたい。北田さんはロマンチックな詩人でもあるが、この学術的な散文の的確で明晰に読みやすいことにも驚嘆している。一つには日々に感じていることで、分かりが早いとも言えるが。今朝一番にもらった北田敬子さんのメールも、ぜひお許しを得てここに紹介したい、多く広く読まれて欲しい。私のことに触れた箇所よりも、インターネットやメールの「表現」にかかわる箇所がことに大切だと思う。そして、それにふさわしい「工夫」のますます必要であるという点も。これは、大げさに言えば画期的なところに深く触れた「希望」のメールであり、引用されて佳い内容に富んでいる。
日々に幾つも内容のゆたかに佳いメールが届く。だが、問題も無いわけではない。自筆の手紙でも肉声の電話でもない電子メールには、ワープロ書きの郵便とはまたちがった表現上の問題や事故も起きやすい。わたしは、それに興味を持つ。興味は尽きない。
* メールをありがとうございます。
随分のご無沙汰の上に、突然拙い本などお送りいたしましたご無礼をお詫び申し上げなくてはと思っておりましたのに、「私語の刻」でも触れていただきましたこと、何と御礼申し上げたらよいでしょう。秦様の元には数々のご本が送られて来るに違いありません。見つけてお読み下さったことに重ねて深く感謝いたします。
> 御本の巻頭論文、さっそく拝見しました。こういう検討がいろいろに始まってゆか >ねばならぬ時期と考えていました。わたくしの電子メディア研究会でも、その方へ >関心を振り向けようとしています。
秦様のご紹介下さる数々のメールを拝読しておりますと、メールそのものが貴重な作品である場合のとても多いことにあらためて驚きます。元学生さんとおぼしき若々しい文体、長く深く読書と思索を続けてこられたに違いない達意の文章、軽妙洒脱な含蓄ある短信など、「雁信」のページはおことば通りさまざまな表現のショーケースのようです。全く書き手のことを知らなくても、文が自ずと語る場合のいかに多いことか。それが手紙ではなくメールだから可能になったのではないかと思えてなりません。少なくともああして公開され、不特定多数の人々に共有されることで幾度も新たな命を与えられることになる文章は、インターネット時代の申し子といえましょう。「書簡集」として大仰な装丁を施され書店に並ばなくとも、余程多くの読み手との出会いに恵まれるに違いありません。
皮肉なことに、最近メールのやり取りや日記、雑文などをそのまま活字にして出版する風潮も出始めています。私は店頭でそれらを立ち読みしますが、まず買うことはありません。紙の上に印字されたとたんに、オンラインではさぞ生き生きしていたであろうことばが、平坦な駄文の羅列に見えることが多いからです。メールはいわば生きたままやり取りされる鮮魚のようなところがあります。こちらの海からそちらの海へ。あるいは湖から湖へ。その泳ぐ様をモニター上で知らぬ者同士も自由に眺める贅沢をする。それが秦様の「雁信」のページと、私は感じております。
想像いたしますに、それでも公開されない文章の方がずっと多いのではないでしょうか。書かれた文脈を外れると意味をなさないものや、プライバシーに関わることを多く含むものなど、個人から個人に手渡されて役目を全うするメールは数限りないと思います。そうして人の目に触れずに幾千万の文章が、日々綴られラインを行き来していると思うだけ
でも圧倒されます。これまでも手紙の行き来は無数にありました。しかし、これほどまでに個人が自由に書く時代は嘗て無かったのではないでしょうか。消えるには惜しい文章がネット上を行き交うとしたら、その実践の上に、表でひらく精華もあるはずと期待できるかも知れません。
「権威」が印刷され出版されるものだけを認知する時代は、そう長く続かないようにも思います。
> ホームページの試みも、いろんな方の電子メールをあえて取り纏めて公開させてい
>ただいているのも、いくらかはその資料を提示したいからで。どのように「表現」が >質を変えるのか変えないのか、新しい書き手の登場にむすびつくものかどうかと、「e- >文庫・湖umi」はいま呼び水・誘い水を一心に用意しています。
新聞紙上でも秦様の試みが取り上げられているのを拝読いたしました。高揚した面もちでその切り抜きを手渡してくれたのは、パソコンともインターネットとも無縁の暮らしをしている私の母です。母は目が悪いので、今からモニターと格闘するのは無理でしょう。強いるつもりもありません。私でさえ長くモニターばかり睨んでいると目がショボショボしてきて、頭痛にも襲われます。
やはり電子本の普及には、画面上での読みやすさが最大の課題ではないでしょうか。縦書きや、エキスバンドブック形式など、様々な試みも進んでいますが、未だ幾つものステップを踏まないと読みやすい表示に辿り着かないのが少々辛いところです。
秦様のサイトにお伺いして私がいつも思うのも、この点です。誠に不躾な物言いをお許し願いたいのですが、「e-文庫・湖」にある作品の配列、レイアウト、目次、リンクなどが、今少し整備されたら、読者はさらに増えるに違いありません。ウェッブデザインという分野と文学とは、歩み寄り、手を携えて進んでいくものではないかと期待しております。私もこのことに関心とエネルギーを注ぎながら数年暮らしております。
ある長さを持って初めて意味をなし感興を呼ぶ文学特品に相応しい表示(アウトプット)を考案していくのは是非若い人々の進出し開拓する分野として発展して欲しいものです。特に、女性はこの分野に適性を持つ人が多いように思います。私事になりますが、自分の個人サイトの「新・三行日記」というものの背景画像を、私はあるときから小学六年生
の娘に任せてみました。毎月変わります。彼女は誰にも教わらずに体得した画像ソフトを自在に使いこなして、その月に相応しい背景を提供してくれます。書き手である母親の注文にも耳を傾けて、工夫をしてくれます。彼女自身も自分のサイトの主催者ですから、親子とは言え私たちは同志、あるいはライバルでもあります。この切磋琢磨を楽しみつつ、私は次の世代の動向に注目しているところです。
捨てたものではありません。比べるのは余りにもおこがましいと十分自覚しつつ、秦様がご子息の舞台に感じていらっしゃるであろうことに少し似ているかな、とも想像しております。
> あなたの巻頭論文などもこう新刊でなければすぐにも頂戴したいぐらいです。おゆ >るしがあれば、嬉しいことです。
掲載して下さるのですか。(それとも私の読み違いでしょうか。)もし掲載していただけるのなら、光栄です。手元のテキストファイルを整備し直し、近日中にメールに添付してお送りいたします。また、私自身のサイトにも同文の掲載を予定しておりましたが、それでも構わないでしょうか。
ネット上に散らばる幾多のサイトが呼応し緩やかに連携を保ちつつ、新たな言語表現の地平を切り開いていくものなら、この時代に生まれた幸運を祝ってもよいような気がして参ります。本日お送りいただきましたメッセージに強い励ましをいただきましたこと、あらためて深く御礼申し上げます。
春未だ浅い日々、何卒ご自愛専一にお過ごし下さいませ。 北田敬子
2001 3・18 8
* ミンダナオから
hatakさん フィリピン・ミンダナオ島のダバオにいます。札幌を出る時は-10℃。ここは+30℃なので気温差40度です。体がびっくりしています。
今朝は午前3時に起きてマニラから国内線に乗り、朝7時にダバオの空港に到着。それからすぐに調査を始めました。途中昼食をはさんだだけで、午後7時まで、ずっと畑を回っていました。こうしてパソコンに向かっていても眠くて瞼がくっつきそうですが、メールを書いてから寝ることにします。
調査を終えて山奥の畑から道なき道をジープで下ってくるころ、ちょうど日が沈んできました。空が紫色になり、太陽に暖められていた大気が少し冷えて、あたりにうっすらと靄がかかりました。やがてすべてが黒いシルエットになりました。闇を切り開いてジープがようやくコンクリートの道に出、街の光がぼんやりと見えてきた時の感じを、どのようにお伝えしたらいいでしょう。不思議な気持ちでした。「郷愁」と言う言葉が最も近い感じだと思います。幼い頃の感覚が一瞬だけ強烈によみがえりました。街に戻るまでそんな心持ちでジープの窓から外を眺めていました。路端の粗末な家の縁側に家族が揃って暗闇でモノクロのテレビを見ている光景、家に帰るところなのか真っ暗闇の中を歩いている人々、車のヘッドライトの先に浮かんでくるのはほんの一部の光景で、その向こうに広がる闇の大きさ深さを怖いほど感じました。昼間はどんなに太陽が輝いていようとも、ミンダナオの夜はまだ闇が支配しているのです。
この感覚をどうしても今お伝えしておきたかったのです。これが北田敬子さんがご指摘された、「メールはいわば生きたままやり取りされる鮮魚」、メールの効能なのでしょう。
明日は6時に出発です。4時間のドライブをして、島を西海岸まで縦断します。
電話がつながりましたら、またメールします。 maokat
* もう寝ようと思うところでこういうメールを開くのは、嬉しくも心地やすらかなものである。
2001 3・19 8
* 凍み渡り
おはようございます。「凍み渡り」とは、積雪の表面の凍った上を歩くことを言います。放射冷却の朝、またはしんしんと冷え込む夜道を歩く時の、楽しい寄り道。新雪に足跡をつけることと並んで、子供の頃の(いえ大人になってもですわ)遊び。
土産物店に、新潟方言の番付手拭が出ていました。地方が違い、知らないものもありましたが、雀の両親でさえ懐かしがる、古い言い回しを、いくつも思い出させてくれました。
今年は、苺の新品種ができて、只今売出中。「越後の苺、越後姫」といいます。「い」と「え」の区別できない越後人にとっては、難しい早口言葉です。
* 囀雀さんのメールには字数制限があるようだ。だいたい、この程度で届く、いつも。制限の中で具体的なことを話してくれている。ちょっとした徒然草のように話題が纏まり、掬すべき雅致を生む。最初はかなりあらっぽい、うるさいほどゾンザイな書き手であったのを、囀雀などと雅号を献呈したり苦言を呈したりしているうち、メールに一種のスタイル=作風ができてきた。そり是非はともかく、大方は削除してしまうメールのなかでも、保存しておきたいものの一つになっている。もし、纏めて番号でも付けて並べれば、想像以上に起伏に富んだ「平成雀文反古」が生まれるだろう。
2001 3・20 8
* IBMの布谷智君と銀座三越で会い、帝劇地下モールの、鰻の「きく川」で早めの夕食をした。三つついた鰻の一つを布谷君に献じて、わたしはビールを少し呑んだ。気持ちよく話せていい食事の後、日比谷の「クラブ」に行き、蒸留酒はだめだというのでメドックのワインを、二人で一本あけ、ゆっくり、いろんなことを話し合ってきた。
まだ二十五だという。わたしは、死んだ秦の母の享年までだとちょうど三十年生きねばならないのである。「老年」「老境」が甚だしく永くなってしまった以上、それを衰老の時期だなどと謂うてはおれないのだと、つくづく思う。
* 環境問題でも、若い彼は学部にいた頃から意見のある人だった。諫早の問題なども話し合った。
2001 3・24 8
* 「生きている」
やさしい春の雨です。
光の中、レンギョウの咲きこぼれている様も大好きですが、けむったような衣張山を遠景に、柳の新芽に雨のふる様も大好きです。春眠暁を覚えず、とは縁がなく、春はいつでも早起きになります。もしかしたら、春になると冬眠から起き出す動物に近いのかもしれませんね。
あたたかな知らせも次々に舞い込みます。恋愛がうまくいきはじめた、赤ちゃんができた、結婚するよ・・・。幸せの知らせは、寒い日にシチューをお腹に入れたときのように、体の中から、私をあたためてくれます。シチューが人をあたためるのは、煮込んだ時間までも溶けこんでいるからという話を聞いたことがあります。幸せの知らせも、それを培った時間を溶かしこんで舞い降りてくるのかもしれません。
先日の話題で、何のために生きるのか、について拝読しました。お答えが、私の思いに近いもので、なんだかとても安心してしまいました。
今ではタフなおばさんになりつつある私でも、繊細な思春期には「なんのために生きてるんだろう」なんて思ったこともありました。そのころ、国語の教科書に谷川俊太郎の「いきる」という詩が載っていました。記憶が定かでないので「生きる」だったかもしれません。全てを覚えてはいないのですが、生きていると出会う小さなほろほろとした日常をひとつひとつすくいあげていったものだったように思います。
その中の一行に「生きるとは 木もれびが明るいと思うこと」とあったように思います。
これを読んだとき、本当に木々の間から光がこぼれ落ちてきた気がして、「ああ、こういうものを拾い上げていくことが幸せの一つなんだ」と思った記憶があります。
人間は「生きる」ものではなくて、「生きている」だけのもののように思います。
以前にお送りしたメールの中で、生意気にも、いつでも「見る」べきものは「見」た気がしてしまう、と書きましたが、「この世」という壮麗なオーケストラに一員として加えてもらい、かつ、その奏でる音楽を毎日楽しませてもらっている身には、いつ「この世」のオーケストラからお払い箱になっても、「もう十分に楽しませてもらった」と感謝して立ち去っていかれる気がするのです。もちろん、私はこのオーケストラのすべてを理解したわけでもなく、すべてを見せてもらったわけでもないのですが、お裾分けでも十二分すぎるほどすばらしかった、という気分です。
そして、そんな「この世」に立ち会わせてもらえたのは、「生きている」からだと思うのです。決して、能動的に「生きる」からではなく、「生きている」から。
春というのは特に、人生のお買い得感を募らせる時期ですね。
この雨が花粉を洗い流してくれるといいのですが・・・。御多忙とのこと、先生には長生きしていただかないと流麗なオーケストラの構成が崩れてしまいます。どうぞ、ご自愛下さいませ。
* 日曜日。朝、目覚めて家事を済ませた後 テレビ朝日で、田中長野県知事の明快なお話に、一つ一つうなずきながら聴き入っていました。「権限」を尽くして地方行政をあるべき方向に迅速に動かしているので、「権威」はいらない、と。拍手したい思いでした。
庭のゆきやなぎはほのしろい線をさまざまに交差させて揺れています。木蓮はもう白い花びらを惜しげもなく一面に散らしてしまいました。また春が通り過ぎていくのかと、ぼんやり庭をながめています。
今日は安息日。少し家事をして、夕方は近くに住む母達と夕食しようかと思っています。
* 雨の日曜日 如何お過ごしですか? 急速に暖かくなったので、暖かいのは嬉しいのですが、逆に体調の狂いそうな感じがします。
昨日は中国、四国で地震。普段より長い揺れを感じました。神戸の時よりは、やや揺れは少なく物が倒れたりはしませんでした。
梅、桃、桜をいっしょに楽しめるこの日々・・・最近お母さんを看取った友人と、泣き笑いしながら花を楽しもうと話しています。年に一度日本に帰ってくる友人と会う約束もあり、この半月は忙しい・・。そして4月12日、シリアやヨルダンへの旅に出ます。
* 老いも若きも女性が豊かな言葉を持ち豊かそうな「時」を紡ぎつつ、憩いまた旅をしている。海外へという便りは、またうわさ話は、まず、ほとんどが女性のもので、男性は、会社の出張で海外へというハナシすらめったに聞かなくなっている。すこしもヒガム気はないが、「少年H」で、焼夷弾のふりそそぐ空爆を思い出し、闇市の騒音と国中の疲弊をうちひしがれるように思い出したあの半世紀昔と思い比べて、深い深い息をついている。よかったという安堵と、不運に死んでいった戦陣への感謝と、また、いちまつ、こんな平和そうなままで、日本は、世界は、いつまでやれるのだろうというそぞろ不安とが、心裏を交錯する。
2001 3・25 8
* 豪華本『四度の瀧』をだしてくれた和歌山の三宅貞雄氏、週末に上京と。ひさびさに歓談できそう。四月には金沢か
ら文学館の館長井口哲郎さんも国立劇場の「婦系図」へ、と。うまく出会いたい。
2001 3・25 8
* 今日、色々と考えたこと。
ご無沙汰しております。
今日、来年度予算が成立しました。私自身は、昨年6月くらいから、約10ヶ月間を経ての成立です。予備費や経済対策、補正予算など色々紆余曲折がありましたが。
いずれにしても、予算が成立したことにはほっとしております。審議がしっかり行われたのか、とか、そんなに沢山のお金を使って何をやるのか!等々付随する批判は幾らでもあるでしょうし、我々自身に正直に回答出来ない問いも多々あるのは事実です。
最近、特に思うのは、世の中には色々な事があるんだなぁ、という事です。良いこと(私が“良い”と思うこと)、悪いこと(私が“悪い”と思うこと)、どうでもよいこと(私が“どうでもいい”と思うこと)、一つの物事を中心に渦巻く周辺事項は、世の中の人の興味を掻き立てるのに充分です。
物わかりが良いつもりも無いけれど、世の中で批判されている事(つまり新聞紙上で批判されていること)であっても、いわれのない批判を受けていて、かわいそうだなぁと思う事も多くあります。逆に、何でもっと批判しないのだろう、ということも。
情報の公開は、今後どんどん進んで行くでしょう。しかし、全ての情報を全て無色透明の状態で享受する事は100%あり得ません。
私も含め、人々の心底からの“思い”がとても重要だと思います。誰であっても、そういった人々の心底からの“思い”を、批判したり中傷したり無視したりすることは避けなければ、いけないと思います。そうでなければ、人々が“思い”を持つこと自体を、止めてしまうかもしれないからです。悲しいかな、未だ我々の国では、このようにでもして、そもそもの“思い”を持つ行動自体を、暖かく保護してあげなければいけないのだと、思います。
そういった意味で、独断的な行政は、人々のやる気を失わせるだけで無く、無用な対立と緊張を生み、効率的な行政を阻害します。自らの“思い”は、まずその“思い”と反する“思い”を持つ人間に対して向けられるべきだと思います。そこでの対立は、“無用な”対立ではあり得ないと思います。昔からやられている(?)根回しとは、正にこのことかもしれませんね。根回しも、公開でやれば、素晴らしい討論となる(かもしれない)でしょう。
少しずつ、人々の“思い”が目に見える様になってきました。この動きはとても、とても大事にしなければいけないと思います。そして、我々自身も自らの“思い”と他人の“思い”をぶつけ合い、新たな“思い”を作り上げる事に慣れなければいけないと思います。そのようにして作り上げられた“思い”は、何よりもこの国、あるいは我々の町の行く末を託すのに充分な“思い”となっているはずです。
何を言っているのかよく分かりませんが、色々な情報が私の頭の中を駆けめぐって、こんな文章になってしまいました。予算成立のけじめの文章を書くつもりだったのに・・・です。
思い出したように、こんなメールを先生に出したくなりました。先生の“思い”と反する部分もあるかと思います。
また、思い出したようにメールをさせて下さい。
それでは、お体に気を付けてお過ごし下さい。
* この青年からもらった幾つも幾つものメールの中でも、きわだってわたしを喜ばせた、今日の、このメール。そうは、うまく行くまいなと懸念する部分も、むろんあるけれど、まっすぐにものを見て、感じて、少しも潤色せずに書いてくれている。噴出する自前の言葉をかなり正確に用いている。そういうことのいかに難しいかを、わたしは幸か不幸か知っている。優れた青年たちの誰もがこのように語れるとは限らないのだ。おおかたは、こうは書けないのだ。もっと深く迷い、何に迷っているのかすら、いつか見失って行くのだ、痛ましいほどに。
この彼も、迷っていなくはないし、日々の状況に戸惑い怒り悩んでいるはずだ、が、そういう自分自身がいつも自然に見えた状態で生きられる人だ。
だが、そこで惑乱し悩乱してしまう人もいる。遙かに数多くが、そうなのだ。ものごとをまっすぐ深く見たりするなんて、危険なのではないか、安易すぎないかと怯える人は、けっこう数多くいるのである。
このメールを肯定しようと否定的に読もうと人それぞれだが、彼の関心や姿勢はべつの次元にある。この青年国家公務員は、学生の頃から、自分をつよく表現できただけでなく、自分と相反する考えや行動の人がいて、その人にとっては、自分が自分で感じているのと同じほどつよくその人自身の考えや行動に自負・自信を持っているだろうことに、いつも柔らかく理解を示していた。同時に相反するもの同士の話し合いが不可能だとも、決して思わない、それを避けない強さがあった。そのころから、そうだとわたしはこの青年を見ていた。口にもしただろう。それは年ごとに定かになって、わたしは、それがいつも嬉しく、頼もしかった。いつまでも、いつまでもと、今も夢見ている。
彼には記念すべき今日今夜のこの感想には、おそらく、想像以上にはげしい自分自身への「挨拶」が籠められてあるとわたしは感じ、息をのんでいる。一日の終わりに、つよい、厳しい、しかし心優しいものに触れ得て、幸せだと特筆しておく。ありがとう。おやすみ。
2001 3・26 8
* 東工大から花便りがあり、もう七分どころではない咲きようだとか。心誘われる。和歌山の三宅貞雄氏が明後日にわたしに逢うために、わざわざ山形へ旅の前に東京に立ち寄られる。これはもう「花」をご馳走する以外にもてなしようがない。
2001 3・28 8
* 三時半、お茶の水駅前で和歌山からの三宅貞雄氏と会い、花見は上野か千鳥が淵か東工大がいいかと聞くと、言下に東工大へと。それならばと秋葉原経由、目黒経由、大岡山へ向かった。桜は九分から満開へという絶好の花見どき。本館前から、教授室のあったもとの建物へまわり、事務室で中村さん、高木さんという懐かしい事務室の顔をみたあと、緑が丘の方までゆっくり散策してきた。
今年は開花が小一週もはやめで、まだ入学式にもなっていない。学生たちの姿もほとんどなく、大学の花見ではかつて一度もなかった、爛漫の桜並木のしたに人影の全然ないという静寂の花見が楽しめた。
新館の建設で魅惑のスロープがまったく殺されてしまい、青い芝生も美しく咲いた桜の木々もかた無し。淋しい限りであった。
* シチューの「林」へまわり、久しぶりに、この店の、牛のほほ肉、牛たんのシチューを、わずかのビールで堪能した。旨い店。三宅さん大満足の体に、わたしも嬉しく。
* 大岡山から三田線直通にのり日比谷へ戻ったころには、とっぷり宵闇が落ちていた。帝国ホテルの「クラブ」で、ブラントンとシーバス・リーガルとを交互に、久方の歓談に時を忘れていた。酢漬けの鰊、サーモン、打ち上げには「なだ万」から稲庭うどんを取り寄せて、三十年になる久しい読者との再会をこころから楽しんだ。
三宅さんは、あす、山形へ。山形までいっしょにと三宅さんは思っていたらしいが、それは遠慮した。今夜の泊まりは八重洲のふじやホテル。近くまで送って、有楽町から帰ってきた。
2001 3・30 8
* ブルブルブル。雪とは恐れ入った。寒い寒い。マウスをにぎった手が冷たい。ストーヴなんて仕舞ってしまった。しまった! 三宅氏は、山形で震えあがっているだろうな。 2001 3・31 8
* こんにちは。いつも「湖の本」を楽しみにしております。北海道の*です。昨日エッセイ22が届きました。いつも見返しへの辞をいただき、有り難く、お礼申し上げます。
こちらはようやく春らしい風が吹くようになりましたが、まだまだ雪も多く、朝には気温が零下に下がります。桜が見られるのは5月下旬、それも色の薄い蝦夷寒桜(山桜)です。
御地では花見の盛りでしょうか。上野や墨田川沿いが賑わう様子と、青いテント住まいの人々との対比が思い浮かびます。
なかなかHPを拝見する機会を得られなかったのですが、ようやく辿り着きました。盛りだくさんにトップページが膨らんで、どこから読み始めたら良いのか、少々迷ってしまいました。それにしても遠大な目標を掲げられたことと驚くばかりです。
私の住んでいる町は北海道でも一番の山奥、人口1,900人余と静かなところです。
古書店はおろか、雑誌でさえ購う事がままなりません。もっぱら通販と出張時の纏め買いの繰り返しです。最近はインターネットで色々な事を楽しむ事もできるようになりましたが、やはり活字は、画面ではなく、紙で読みたいというのが正直なところです。
「湖の本」も、書架の一隅にその存在を確かにして納まっています。本の背を眺めながら、こんな状況でも本を読むことのできる幸せをしみじみと感じています。
これからは時折このHPを覗かせていただきます。
思いつくまま書きましたがお許しのほどを。ご自愛ください。
* 嬉しいメールだった。わたしの姓とおなじヨミの、珍しいご苗字の久しい読者で、なんとなし親戚のようにながく感じてきた。そういう人の、はるばるのメールで、一気に近くなった。人口1900人!! うわあっと感じ入る。なんだか、ゆかしく、なつかしい。男性としか、年齢もお仕事もなにも知らないできたが、日々の、季節のお便りを待ちたい。
2001 3・31 8
* とうとう三月も終わりになりました。宿題が大変遅くなって申し訳ありません。たったこれだけのものを纏めるのに一ヶ月近くもかかってしまいました。
纏めながら、高等学校で美術の専門教育として、如何してもしなければならないことは何か?を考えつづけていました。そして、やはり「写生だ」と思いました。「観察し、忠実に写しとる」これを繰り返し行うことで「観る力を養い、造形の力を培う」ことが何より重要な基本だと言えそうです。大学でだって同じですね。
しかし、実際には毎日毎日写生の繰り返しをするのは退屈なものです。ここで秦さんがたびたびエッセイで言っておられる「一期一会」の精神が重要になるのですね。
以下、学校の独立に至るまでの経過を書きましたが、わざわざ読んでいただくほどのものではないかと思いながら、宿題なので送ります。
* 京都の陶芸作家で、銅駝美術高校の校長先生であった、昔、一緒に平凡社のやきもの取材に九州の窯場を巡り歩いた江口滉さんが、「美術専門教育の高校」について、実体験にもとづき銅駝校の歴史的な沿革を書いてきて下さった。一二項の追加で、じつに貴重なすばらしい資料になる。一気に興味津々、読んだ。いま追加をお願いのメールを送った。京都でやっている雑誌「美術京都」の論説原稿としてもぜひ欲しい。
* 日々に新鮮な刺激を受けることができる。わたしに、このインターネットが今もし無かったら、それはそれで別の工夫もしているに違いないが、このホームページに満載されている多くが、つまり「無い」日々なのだと想像すると、やはり、おどろくのである。液晶の影のような文字や映像でどんな実感に触れたものが得られるものか、などと、したり顔の人もいるけれど、そういう肩肘張った偏見は、お気の毒というしかない。インターネットのために、それだけが唯一の価値のように囚われたりしていない人間なら、これを生き生きと利用し活用することは、難なく、できるし、またそういう者には、インターネッが無かったら無かったで、これまた別の活況が工夫し出せるのである。とらわれるから、感想が偏ってしまうのだ。
2001 3・31 8
* 今日はお酒でなく、お茶の話です。4月は私にとって名残の茶の時期ですの。5月に新茶ができると、静岡の茶園から、煎茶と紅茶を一年分一括購入します。すぐ売り切れてしまうので。
人に差し上げたり、自宅で振舞ったりしたあと、100gずつの袋になっているのを、大きな密閉容器に入れておきます。 春、容器の底が見えてくると、新茶の頃とは違い、みごとな吝嗇雀になり、大事に大事に喫んでいます。
* こういうメールに、気が和む。
* 今日は寒い中、桜が満開でした。先生は花見にお出になりましたか?ぼくは、用事の合間に少し、桜並木を歩きました。けれど、こうも寒いと桜を見ても春になった気がしません。 とはいえ、、もう4月なのですね・・・。
ぼくは、先日体調を崩し、仕事もますます厳しくなってゆき、心身とも参っています。
ある日、もう駄目だと思い、短編小説を購入し、半年ぶりに読書をしました。
裏表紙のあらすじに魅かれ、購入したのは、「天平の甍」。実はこれが初めての井上靖の作品です。
単純な言葉でしかいいあらわせませんが、登場する留学僧各々(日本に鑒真を連れてきた僧、膨大な経典を写経した僧、中国全土を放浪した僧、そして、還俗妻帯して家庭を築いた僧も含めて)のシンプルでストレートな人生に圧倒されました。
作中、栄叡という僧について、「瑜伽唯識を業となす。」という記述があり、瑜伽唯識という言葉への脚注に、瑜伽(主観客観の合致した境地)、唯識(天地の実在は心からであって、すべて客観的なものは空であるとする唯心論)とありました。
こういう思想を以って彼・彼らが生きていたということ(その結果栄叡が鑒真の人生を実際に動かしたこと)に対して、時代の違い以上に、ロマンチシズムを感じさせられました。案外、人生を歩むには、こっちの思想の方が、より適しているのでは?(ロマンチシズムなんて言っているから、ぼくは、いつまでたっても甘ちゃんを脱却できないのですが、24時間サラリーマン生活を続けるうちに、いつしか「行動」という言葉に疎くなり、そういう感想が出てきてしまいました。)
筆が収まらなくなりそうなので、この辺で失礼します。それでは。
* 知能的にはわたしなどお呼びも着かない秀才だが、勤務に負われてか「半年ぶりの読書」で井上靖に「初」の出逢いと聞くと、少し淋しい。べつに井上靖でなくてもいいのだが。作品への引っかかりどころにも、知的な、マインディな関心がちらつくが、作品『天平の甍』に無心に没入したのではなさそうだ。己れを虚しくして他の世界に没頭してみる幸福は、忙しい日々ではなかなか得にくいのだろうが、だから没入度が深まるという接し方もあるのではないか。「こういう思想」と簡単には言い換えられない生きた魂の呻きのようなところに耳を澄ましたなら、「ロマンチシズム」といった言葉にも簡単には翻訳しきれない苦悩や感動がくみ取れる。秀才は薄く結論を急ぎすぎるのかも知れぬ。
* 中学時代の日記が出てきたと、昭和二十五年三月の一年上級生の卒業式当日を叙した文を書き写し、メールで送って来た人もいる。わたしとは無縁な場所での日記とは言え、女子中学生の何十年昔の日記は、具体的で、文も素朴で、面白く心を惹かれた。
2001 4・2 9
* 日ざしは明るいが、風がある。花はどうだろう。新年度に入り、各地各所に人事といわず、いろんな「かわり目」の渦が巻いているだろう。さらっと、気の入ったこんな季節の便りが届いた。お許しを願い、披露させていただく。
* かわり目。
小雪が舞ったかと思えば、ぽかぽかの日和。桜も少し驚いているのでは、と思うような日が続いています。でも、そろそろ花粉症も治まる頃ではないでしょうか。
昨日、所属する国立研究所が独立行政法人に移行し(正確には一昨日ですが、)研究所の名称から一斉に「国立」が外されました。ほかの研究所は独法化しても「国立」を名乗れるにも拘わらず、文化財を扱うという、およそ世の中の研究所の中でもっとも「国」の信用を借りなければならないこの研究所に限って、唯一「国立」の称号をはく奪される事態には首をかしげてしまいますが、これがいわゆる「とかげのしっぽ切り」というものなのでしょう。それに相応しい、弱小の研究所ですし。
育児休業中ですが、辞令を受け取りに久しぶりに顔を出した職場では、新しい人的体制が整備されつつあり、覚悟の休業だったもののこの状況の中に身をおけなかったのは、少しばかり口惜しいような気もいたしました。
新しい業務内容に関する公式文書等にざっと目を通しても、研究所内の攻防、合併することになった相手研究所との攻防、ひいては所属庁との攻防と、さまざまなものが読み取れ、平安の昔からお役人が一字のために身を削っていた歴史が、もはや文化となって沁み通っているのが感じられて、当事者としては、それで煮え湯を飲まされてむっとしながら
も、この歴史的諧謔を少しばかり笑ってもしまうのです。
正確には覚えていないのですが、藤原道隆が病に倒れ、息子の伊周が文書内覧許可をもぎ取った際、お役人が「関白の病中の間」と書こうとすると、そばから伊周派の高階信順が「関白の病の替」と書かせようとして失敗する、という有名な話がありますよね。当節のお役人はそんなに根性はないため、気がつくと高階の子孫(?)の言葉通りに宣旨が変
わっていることがままあります。してやられた!と。
こういう楽しさを味わえなかったのが、すこしばかり残念ですね。
あとは、業務内容は当面かわりませんし、休業することに大した心配もしていないのですけれど。
それよりも、こんなときに休んでいる人間が出て、周囲には申し訳ないなぁと、そればかりが身の竦む思いです。
職場が上野で、ちょうど満開のときに行ったわけですけど、なぜか山のように積もっていた業務や雑用をこなしていると、預けてきた母乳のストックが底をついた、という連絡が入って飛んで帰ってきてしまったため、花見は来年までお預けになりそうです。昨年の花見の季節は海外出張中で、ポトマック川のほとりの桜を見ていました。
今年は鎌倉で、窓から山々の桜を眺めていられる幸せを堪能しています。
なじみがあるせいか、染井吉野よりも山桜のほうが、私にとっては愛着があります。耽美的な染井吉野より、野趣があるせいでしょうか。山桜の下には、屍体は埋まっていなさそうですものね。
いずれにしても、この風ではすぐに散ってしまいそうですね。寂しい限りです。
書き始めると、まだまだ長くなってしまいそうです。このあたりで、失礼させていただきたいと存じます。どうぞよい春をお過ごし下さいませ。
* 東工大の卒業生から、大鏡や栄花物語の匂いのする逸話などまじえた花便りを聴くのだから、楽しい。鎌倉山の花の景色も目にみえてゆかしい。煙草というものに全く縁のないわたしには、こういうメールに触れるときがまさに「お茶の一服」なのだ。
2001 4・3 9
* こんな嬉しいメールをもらった。身の幸せ、有り難く、お許しを得て書き込ませていただく。
* 桜と雪がいっしょに舞った日に、お送りいただきました『湖の本』エッセイ22「能の平家物語」を読みおわりました。ためいきと共に。
ずっと遠ざかっていた、というよりは正しくは一度もきちんと対峙したことのない世界に呼びいれていただき、心の底に沈んでいた無数の小石の間にじわっときれいな水がしみいった気がしました。「十六」の面の写真の見事なこと! 面といえば、中学生のときに演劇コンクールで岡本綺堂『修善寺物語』を出すにあたり、面をつくる仕事場を訪ねたことを思い出しました。私は妹のかえでの役を演じたのです。
そんな他愛もない個人的な思い出をふいに浮かびあがらせてくれたのは、エッセイ全体に流れる筆者の息遣いでしょう。小督や巴に再会できたのも嬉しいことでした。
「私語の刻」で、ほっと息をつき、『pain』について触れられているのが、ことのほか嬉しく、ああ、このように書けるのだと感じいりました。舞台は好きで、脈絡なく観ていますが、なかで『pain』は忘れられないものを残してくれています。
数日前にフィレンツェ歌劇場の『トゥランドット』を観て、次にチケットを買ってあるのが山海塾であり黒テントです。
来週は17年ごしで自宅近くのコミュニティ会館に演奏家をおよびして開いてきた「タウンコンサート」で、今回は田口真理子さんという若いピアニストの演奏です。900円で本格的な(こういう言葉は好きではありませんが)リサイタルを地元で聴いてもらおうというもの。こういう流れに身をまかせていると『湖の本』は、確かなもの、絶対に必要なものへの憧憬を思い起こさせてくれます。
ありがとうございました。
* 心豊かに生きている嬉しさを、このようにして、身に抱いていたいと思う。
* いま湖の本の十五年記念に原稿を用意している小説は、未発表の作で、心祝いには、だが、いくらか深刻に推移していて、心配もしている。いまいまに俄に書いたものでなく、しつに長い間、躊躇うようにこれまた身に抱いていた。さ、どうなるか。
2001 4・3 9
* 創作シリーズ17「加賀小納言」「或る雲隠れ考」「源氏物語の本筋」お送りします。
お蔭様でゆっくり読めます。どこまで読めているのかわかりませんが、面白いです。「かげ」小納言とは、さすが紫おばさんてぇのは、やるもんですね。田舎のおじさんは、他では味わえない満足をしています。いつもながら感謝で一杯です。
「電脳社会」の文字のこと、本当にごくろうさまです。
素人考えで叱られそうですが、コンピュータを文字に合わせるべきで、文字をコンピュタに合わせてはいけません。
日本の文字が、世界中の文字が、大切にされるよう祈っています。
BTRONのOS「超漢字3」の講習会というのへ行ってきました。空いていて、講師1対受講者1でした。とろい生徒に親切に教えてくれて、これはよかったです。
桜に雪、地震も近づいているようで不気味です。お大事にしてください。
* 千葉の勝田さん、こういう感じのよさを「なんどり」と、母など謂うていた気がするが。「まったり」という重めの濃さでなく、駘蕩として暖かにかすかに日差しの揺れている日溜まりの宜しさ、か。お目にかかったことが、ない。日々をどうぞお大切に。
2001 4・4 9
* 秦さん、ご無沙汰しております。だいぶ暖かくなってきましたね。今日などは外を歩いていて汗ばむほどでした。お元気にお過ごしでしょうか?
年度も替わり、またあらたに後輩もむかえ、いつの間にやら社会人4年目になってしまいました。
仕事上は、まあまあ順調だと思います。まだまだ身につけるべき事、勉強すべき事は多いですが、それもまた、目的がはっきりしているためか、楽しく感じます。
学生の頃、仕事とは生活してゆくための必要と、社会の中で生きて行く条件としてするものであり、人間としての本来の生活や、生きる意味は、それとは別のところにあると考えていました。(あくまで自分自身においては、ですが。)
でも、現在の自分の目には、日々に立ち現れる様々なこと、それと関わってゆくことが、実は、人間として生きることの、重要な大きな部分なのではないかと映るのです。
生きる意味とは別のものであると捉えていた仕事の中での、一見些細なこととの関わりもまた、紛れもなく生きていることの一部なのだと。
逃げの心理なのかも知れません。
この世界の真の姿を、ただ深く追い求めることこそが、生きるということ、という思いも、ごまかし難くあります。
それでも、日々の生活の中での様々なことを、関われば関わるほどに確かに返ってくる手応えを、実はただ意味のないこととである、とも言い切れないのです。
詰まらないことを考えているのかもしれません。。
でも、そんなことを考えながら、今は良いけれど、ほんとにずっとこうやって生きていくのかな?などと、正体不明の焦りのようなものも、時に感じてしまいます。
それでは、どうぞお元気でお過ごし下さい!
* こんにちは!
今夜のきみのメールは、アイサツは、少なくもわたしには、まさに期待した通りのものです。日々の大半の時間をそれに注ぎ込む「仕事」が、面白くも楽しくもなるほど、いろんな意味で生産的で健康で力になるものは、無いはずなのです。それでこそ、いいのです。
わたしは、狂気のように忙しい勤務の時期を永く体験していましたが、会社環境はとにかくとして、いつも仕事には満足し、たとえ不満に始まった仕事も、工夫して、自分なりに面白い満たされたものに作り替えてゆくようにしていました。だから、創作にも打ち込めたのです。仕事の不満の埋め合わせとして創作へ逃げたのではなかっのです。編集者として評価されていたそのことか創作者への力になってくれました。きみのいまの心境を、嬉しいなと読みました。元気で。健康にだけは留意してください。いつでも声をかけてください。
2001 4・9 9
* フィリピンから戻り、すぐに学会を二つこなして、日曜に札幌に戻ってきました。
年度が変わり、私たちの研究所も「独立行政法人」になりましたが、将来大きな波にぶちあたると予想しています。その時に、船と一緒に沈むか、自分で泳いでいけるか、これからの気の持ちようにかかっていると思っています。行政改革の名のもとに、今回バッサリと切られてしまった分野の中には、採算は合わないが国の存続のためには必要不可欠なものが多く含まれています。文化、医療、科学技術、トカゲのしっぽを切ってトカゲが倒れないといいのですが・・・。
三年前にお送りした紀行文を、プリントアウトして持ち歩き、空いた時間に手を入れてきました。初稿のプリントアウトは、修正で真っ赤になりました。二稿は説明不足が目立ち、書き加えを随所にしました。三稿では、助詞の「が」を他に置き換えるなど、整文に配慮してみたつもりです。推敲を通じ、この三年間で文章のスタイルにやや変化が出てきたことに気づいています。前に書いた文を改めて読み返してみると、装飾過多で、句点が頻用されているのです。前者は過剰なサービス精神、後者は当時並行して書いていた学位論文の影響です。しかし、これをすべて直してしまうと、別物になってしまいそうな気がして、なんとか折り合いをつけてみましたのが、この原稿です。
もう少し手を入れてみた方がいいのか、判断に迷っています。ご助言をいただけますようお願いいたします。
雪の下から、黒い土が顔を出しました。畑ではトラクターがウォーミングアップをはじめ、街を歩く女性たちは、待ちきれずに半袖を着ています。札幌にも遅い春が来ています。
* 最後にこういう二、三行の添えられて自然なところが、この書き手の人品なのであろう。
* 暖かくなり、明け方、お布団の中で猫の様にのびをして、ふくらはぎがつれたりで寝過ごしました。まだ 少し痛いので、今日のバド(ミントン)はパスばかりでしょう。 ハイ お歳です。
* いったい、幾歳なんだろう。
2001 4・11 9
* おそめの花便りが届いて、少し心しおれた。
* 花吹雪が水面を染めております。
市民公園沿いの五キロほどの放水路の両岸に、約千本のソメイヨシノの並木があり、毎年幾度も訪ねますが、この春は、とりわけあでやかな花の姿でございました。
七十年ほど前、放水路の完成にあわせて、一人の人によって植えられたこのさくらは、今では、その人の名を冠して呼ばれ、「日本桜の名所百選」の一つにもなっておりますが、私には、亡き父母をしのぶ大切なよすがでもあるのです。
亡くなります一月あまり前、父は、折りから満開のこのさくらへと、母を伴い病室を抜け出しました。私は二十代半ばでしたが、ふたりが一緒にでかけるのをみたのは、それがはじめてのことでした。命の終わりを悟って、最期に父は、母にふたりだけでこのさくらを観ようと誘い、母もまた、黙ってあとに従ったのでした。
咲き盛る花を仰ぎながら、そのときふたりの胸中をよぎったものは何であったろうと、私の想いはいつも、ここで止まります。何故か母に訊く事もためらわれているうち、四年余り前に母も旅立ってしまいました。
今年のことのほかの花粉症と、思うようにはかどらぬ体調に疲れて、お見舞いのお礼の遅くなりましたことを、心からお詫び申し上げます。ありがとうございました。
* 夫婦、親娘。それぞれのものを、それぞれに抱いている。年々歳々、花は相似て。
2001 4・12 9
* 伊賀上野、晴れてはいても、ひんやりした一日でした。上野市へ出かけましたの。芭蕉と荒木又右衛門の生誕地。鍵屋の辻。最近は、榊莫山さんで有名。別名白鳳城の上野城、俳聖殿、高石垣からの眺め、満開の桜。あちこちに見かけるカラフルな忍者は、観光スタッフですの。電車に、くの一がペインティングされ、循環バスの屋根に忍者人形が伏せ
ています。4月は、NINJAフェスタ。1日の辞令交付式の市長、先日の市議会も、忍者の扮装で行われたそうですの。古い店構えの和菓子店の奥から、「は?い。」と出てきたのは、くの一。いい和菓子がありました。そうそうポスターをみかけましたの。「桂文枝 チャリティー寄席」5月24日(木)18:30?上野市蕉門ホール。名張への終電、21:58に間に合う、21時終演とお聞きしたので、伺うつもりですの。囀雀
* 三十一日の午後、わたくしは東京に出ていました。二十八階の窓から東京の櫻に舞う雪を、雪にかすむ櫻を見ていました。
夜、隅田川添いの高架道を走るバスから、隅田公園の花を見おろして、時の間、夜櫻をたのしみました。雪がやんで春の月とおもえぬ冴えた半月がてりわたりました。昼間、雪に濡れた花にかがやいて、まさに雪月花の一日でした。
そのときは知らなかったのですが、この日、わたくしがビルから花と雪を見ていたころ、一代の名女形の歌右衛門が、あちら側に旅立っていったのでした。
現身をはなれたばかりの歌右衛門のたましひが、ながめていたのですね、この日の櫻を雪を月を。一代の名女形の最期のためだったのですね、この日の花も雪も月も。
先生が、にほふやうな若女形時代をおっしゃるのを、身のほど知らずに、羨み申しあげ、妬ましく存じあげたりしておりました、わたくし。
最後の舞台は、吉右衛門が相手役でお静の方でしたが、それを観られたのをしあわせにおもいます。
先生の「繪巻」の待賢門院、歌右衛門で観とうございました。
「二ノ矢をのこしてはいけません」
頭の中に、むねに、いま、このおことばが、しーんとひびいています。
歌右衛門のあのほそい手に、二ノ矢は、一度たりとも残されたことはなかった。おもわず、わが手をぎゅっとにぎりしめてしまいました。
2001 4・14 9
* 源氏と平家 子供の頃、公達あはれの平家よりも、鹿も四つ足の源氏の方が好きだったり 義経や八幡太郎義家の物語や お芝居を又見たいと思ったりしました でも学校で白いはちまきになるのはいやで六年生まで赤になりました。
ご先祖様のあまり遠くない人の名に頼と付く人がいたからかもしれません 私の中では講談社の絵本で終わっているのをよしとしているようです
こんなメールを・・・と思いましたが 子供の頃しかお付き合いさせていただいておりませんので そのうえ子供っぽい性格ですので 子供番組を見ているとでも思ってくださいませ。
* お話相手ができるなら、こんなに嬉しいことはありません。むかしでも、ただあこがれていただけで、ろくにお話ができたわけでなく。長生きして、こんな器械にも触れるようになったおかげです。
白、朱、緑、黒それに黄金(きん)色。中国でもそうでしたが、京都で育ち、自然や文物にふれてきましたので、やはり、色彩は、この五色が日本的だなあと感じています。祇園さんの御神輿の色は美しいなと思っていました。松緑、白砂、なぜか神子さんの朱の袴、そして照った黒楽茶碗。
桜色がぬけていました。わたしは桜が好きです。**さんは桜いろの人でしたよ。お声も好きでした。銀の糸のひびくように感じていました。丹波に疎開してからも、耳にありました。
東京の桜もことしはおわりましたね。 お大事に。いつでもお話ししたい。
2001 4・14 9
* 千葉の勝田貞夫さんとの、出光美術館での出逢いが、よかった。ひっそりと静かで、展示を一人いや二人占めだった。中国の磁器も漆器も青銅器も充実していた。福富草子などの絵巻もよく選ばれていて、満足できた。この美術館へ来れば、まず、まちがいなく「立派な」ものに出逢える。勝田さんにも喜んでいただけただろうか。
帝劇地下の「きく川」でたっぷり鰻と冷酒。これは、まあまあ。鰻屋だから、もうすこし旨い酒を吟味していいように思う。
日比谷の「クラブ」に席を替え、ゆっくり話せて楽しかった。初対面という堅苦しさはすこしもなく、いろんなことを遠慮なく話し合えたと思う。お互い同年の老人、元気に生きて行きたいとわたしは思っていた。
けっこう遅く、家に帰った。
2001 4・17 9
* 「演劇界」誌に、田之助さんの連載が始まり、ファンの女友達が毎号コピーしてくれますの。第二回は大好きなお相撲の話。武蔵山の引退で男女ノ川が横綱になった事や、安芸ノ海が双葉山を倒した時、桟敷で見ていた事。出羽海、高砂、双葉山、羽黒山、平幕優勝の出羽湊…
そう言えば、函入りの「羽黒山」と書かれた本が実家にあります。父も昭和ヒトケタ生まれですから、同様に熱中していたのでしょうね。雀が柝の音好きなのは、子供の頃、TVの大相撲中継がつけっ放しだったからだわ、きっと。囀雀
* 懐かしい名前ばかり。ラジオの時代、相撲興行に一度だけ父に連れられ、吉田山の辺であったか大テント張りの中で土俵を遠くからみた。仕切り直しに退屈したのを朧ろに覚えている。あの頃は力士のしこ名だけで相撲の贔屓をしていた。名前というモノに深い関心をわたしは持っているが、例えば文士や画家達の、また昔の文人たちの雅号もそうだったし、力士の名や、役者の名乗りや、祇園の芸妓達の座敷名などから、また源氏物語の男女達の源氏名や、なにより皇室歴代の諡号からも、名前には不思議な美学と神秘に近いものを子ども心に感じていた。お相撲さんの名には、早くから感じ入っていた。双葉山、羽黒山、安藝ノ海、出羽海、玉錦、名寄岩、照国など。それからすると、今日の力士たちの名乗りには、願い下げにしたい醜いほどの名も少なくない。
2001 4・19 9
* 戴いていた著書などへの、読み終えての礼状も、気にしていた全部を送り出したし、綺麗に散髪もした。さて、明日は聖路加の診察日。遅刻して乃木坂へ言論表現委員会に駆けつける。
そして日曜日は神奈川県まで結婚披露宴に。初めに長い祝辞と、宴半ばにもういちど、教室での授業を「再現」して話せという希望であったが、新郎とねばりづよく話し合って、最初に、乾杯より前に、すこし長いめの祝辞をという段取りに落ち着いている。長い祝辞は客の受けがわるいものだが、さ、どうなるか、おめでたく話してあげたいが。
あまり好きでない散髪を済ませたので、いま、気分にちょっと余裕がある。
2001 4・19 9
* 明日の式場は寒川神社。電車を四回乗り換えて行く。知らない、慣れない電車で場所であり、午前の結婚式にはもし遅れてはご迷惑なので、披露宴にだけ間に合うよう参会する。それでも朝早いので、今夜はもう階下へおりる。
2001 4・21 9
* 小田急厚木でJR相模線に乗り換え、宮山下車。相模一宮の寒川神社へ着いたちょうどその時に結婚式を終えてきた羽織袴の新郎、白無垢に角隠しの新婦が、人力車で晴れやかに披露宴の会場に乗り込むところであった。新婦が先に気づき、路上と車上とで笑顔をかわした。なにしろ遅れたくなくて早め早めに動いてきたので、一時半の披露宴に一時間の余裕があった。わたしの総合B講座の教室に林丈雄君と一緒に出ていた木村亮平君らがいて、おしゃべりしながらのんびりと待った。
* 仲人はなく、雛壇には新郎新婦だけ。双方の友人の司会者が愉快に二人を紹介して、すぐ、わたしの祝辞となり、頼まれていたとおり十五分か二十分たらず、ごく静かに話した。二人の希望で、あらかじめ臨席のみんなに以下のようなものを、いろ紙に刷って配ってあった。
祝辞にそえて
よき( )ふたりあしき( )ふたりあからひく遠朝雲の窓の静かさ
わたくしがいなければだめになってしまう、と思わせておくも( )の手なり
しづかなる悲哀のごときものあれどわれをかかるものの( )食となさず
しやつとしたこそ ( )はよけれ
(虫食いにした箇所に漢字一字を補って表現を完成してみて下さい。)
二つ目の短歌は沖ななもさんの、三つ目のは石川不二子さんの作である。林君のことはよく、新婦美保さんのこともそこそこ識っていて、話題の流れをそれらしく用意して置いた。
* 新郎の友人が「乾杯の歌」を朗唱して、みなで乾杯したのが、洒落ていた。ついで新郎新婦がすべての参会者を紹介したのもわるくなかった。参会者は半分余りが親類縁者で、残りが大学または演劇活動の仲間達。大人は、主賓のわたしがほとんど一人だけ。じつにさっぱりした客組で、他に、先生方も上司も会社同僚も無し。
色直しの後、戻ってきたタキシードの新郎と花嫁衣装の新婦とが、いきなり二人で「芝居」をはじめたのにはビックリした。岸田国士の「恋愛恐怖症」であったかと。波打ち際の効果音に包まれて男女が心理的なアヤのある会話を展開し、行きつ戻りつ、最後には抱擁し接吻する。度肝をぬかれた客も多かったと思うが、拍手喝采で終え、なによりであった。稀有の大胆な演出。
ソプラノの歌を一人が歌い、イラン人の来客および新郎新婦の友人が一人ずつ要領を得た祝辞で結んで、両親達に花束贈呈、宴を終えた。さすがに気を入れていただけあり、趣向に富んだ、しかもさらりと若々しく事の運んだ、おめでたい宴会であった。
* かつての国幣中社であるすがすがしい寒川神社に一人参拝し、また宮山駅から厚木へ、そして海老名で小田急急行に乗り、新宿に帰り着いたのがもう宵の七時。
今日の新郎新婦に呼び出され、「結婚します」と告げられて「それはそれは」とご馳走した和食の店に入り、ひとり気持ちよく盃を挙げた。特別メニューで心配りして貰った、「おめで鯛」の酒蒸しをじっくり骨まで楽しんでから、池袋まわりで帰宅。
なにしろ片道に二時間半もかかる遠方であったため、鞄に校正の仕事を持参していたのが、かなりの長さの作品ぜんぶを読み切ってしまったのは、能率が良かった。
2001 4・22 9
* 木曜日に雪が降ったためか、風邪を引き、金曜の午後からずっと寝ています。今はだいぶよくなりました。
先ほど目覚めるまで、ふわふわと石垣島を浮遊していたようです。元職場で実験をしたり、珊瑚礁の海で泳いだり、飛行場へ行って「でも帰ろうかなぁ」などと思ったり。自由にさまよっていました。熱で理性のタガが緩んだ分、魂の一番行きたいところへ飛んでいったものでしょうか。また、「マブイ(魂)」が抜けてしまいました。もう一日養生して、科学者に戻らなければ・・・。
hatakさんもお大事に。体型「も」スマートになってください。maokat
* 「e-文庫」八頁、真岡哲夫さんの紀行「会議は踊る」は、佳境に入っている。maokatさん、お大事に。
2001 4・22 9
* 「雁信=電子メール千華萬趣」の頁が、心豊かな佳い頁になっている。
2001 4・23 9
* 連想ゲーム : 白は湯豆腐か障紙 赤い神宮の鳥居 緑久しい常磐の松 きれいな人の髪の色 路地の奥にも立派な師匠 正月初釜 まめに磨いたろいろより 真塗りのおなつめ、また台子、 水面に映える金閣より むかしむかしの仏さん むかしむかしの金蒔絵。 絵に書いた桜は 誰のがええやろか、 かく言うわたしが桜なら、きれいなうちに塩にまぶせばよかったのに。
* 古稀をひかえたおねえさんの、艶な文である。どきどき。
2001 4・25 9
* 名古屋の四人組 : 昨日は、御園座「小笠原騒動」の千龝楽。今回、雀は見ませんでしたが、南座初演を一緒に見た二人の女友達が、二人とも点が辛い。橋(之助) & 染(五郎)やり過ぎ、役者だけで遊び過ぎ、と。舞台も、外も、仲良しこよし。雀は、そういうの、いや。
TV で、伊東四朗・小松政夫の舞台ドキュメントを見ましたが、アドリブに見えても、本当に良く稽古され、練られた動きと、絶妙の間。雀の見たいのはそういう喜劇、体を動かす笑いなの。贔屓の翫雀さんには、汗をかいて絞ってほしい、身体も芸も。狐の化身が狸に見えるんですもの (ご本人が、狐より狸が好きとの事)。囀雀
* 扇雀丈に誘われてはいたが、ちょっと気乗りしなかった。四人の組み合わせが固定すると、さび付いてきたり、ねじがゆるむもの。一期一会の繰り返しは容易でないからだ。 2001 4・25 9
* 昼前に布谷君、またご足労願い、ノートと切り離したデスクトップの方の仕上げをしてもらった。DVDを観られるようになった。音楽も落語も聴けるようになった。いま志ん生の、好きな「天狗裁き」を笑いながら、今までのノートでこれを書き込んでいる。また自前のCD-ROMを焼き付けることも出来るようになった。40G。ウインドウズの98と2000とを入れてもらった。
何もかも全部布谷君がやってくれた。有り難いとも何とも言いようがない。ノート一台とちがい、大きなディスプレイと洒落た顔をした本機とスピーカーが並び、まことに格好がいい。あとは、キーボードの使用に慣れなければいけない。
* 夕過ぎて、下保谷の「フィレンツェ」で夕食した。料理よりワインが旨かった。ワインよりも、布谷君との落ち着いた四方山の会話がのんびりとして楽しかった。保谷駅でどうやら無事に有楽町線に乗ったのを見届けて、なんと、保谷駅から家まで、歩けば十五分の道を、ゆっくりゆっくりとだが、駆け足で駆け通して帰ったのは、もう二度とあるまいと思っていた奇跡的な出来事だった。走るなんて、昨今、ものの十メートルも無理だったのに。生きていると、おもしろいことが、あるものだ。だが、おかげで今はへとへとに草臥れている。草臥れきったまま落語を聴いて笑いながら、のんきにこの「私語」を書いていた。ゴールデンウィークである。
明日は、中学時代の友人に会う。横須賀に住んでいたが、故郷の金沢に帰るという。名残を惜しむことになる。その前に、早めに家を出て街でとも一人歩きを楽しみしていたが、この数日の睡眠不足と今の疲労とを考えると、明夕まではしっかり休息するのが賢明なようだ。
2001 5・1 9
* 甲府放送局ご重役の倉持光雄さんから、澤口靖子のいい写真の出ている雑誌特集を送ってあげるとメールが来た。ご親切である。 2001 5・1 9
* 夕刻より出て、銀座三越前で細川弘司君と逢う。「やす幸」でおでんを食べて話し、それから「クラブ」で飲みながら話した。昔、安宅コレクションという有名な、すばらしい世界的なコレクションがあった。そのコレクターの安宅氏から才能を認められ、北陸から京都へ西洋画の勉強に出てきたのが細川君で、当時画壇の重鎮であった人たちにも評価され、新聞などに「天才少年」として大きく報道されるような才能だった。わたしと同じ新制中学に転入してきたのである。
数奇なと謂っていい人生を経てきた。一時はイラストレーターとして業界内で声名高く大きな賞を繰り返し取っていたが、病弱でもあった。そういうことをわたしは何一つ知らないまま、中学時代の天才画家を捜し求めていた、そして近年にまったく偶然に恵まれて再会したのである。
その彼が、北陸へ帰って行くことになった。理由はいろいろあるが、家庭の事情といえる。激励したくてわたしから呼び出したのである。
よく話せた。楽しいと言うよりは幾らかもの悲しくあり、言葉と思いとを尽くして激励し、いっそうの奮起と再起とを期待した。私の目から見ても、才能は失せてなどいない、ただ悲運の連続であった。
別れたくないようであった、そして、或る地下の喫茶店で細川君は手ずからセルフサービスのコーヒーをテーブルに運んでくれ、そして、持参の古い古いスケッチブックの、あいた紙三枚にわたしのボールペンをつかって、わたしをスケッチしてくれた。彼は、空間を描くことで人物でもモノでも深々と捉えて行く。三枚のスケッチは、いかにもわたしをとらえながら、わたしの存在し呼吸している空間を尖鋭な線で彫琢し尽くしていた。しみじみとした感動のままに喫茶店の前で、右と左とに別れてきた。
たかが北陸と東京であり、再会を期することはやすい。だが、身内にこたえる「別れ」であった。おそらく、数年前にわたしたちが再会して以後、彼が心をひらいてものを語った、語り合えたのは、わたし一人であったろうと思われる。それほど彼の藝術家としての孤独はいたましかった。そのいたましい彼を、わたしは、貪欲なほどに観察し考察し仮構して、まるでべつの人物として組み立て続けてきたのだ、むごいことだが、また、それほどの愛情もまた無いのである。
2001 5・2 9
* 夕刻より出て、銀座三越前で細川弘司君と逢う。「やす幸」でおでんを食べて話し、それから「クラブ」で飲みながら話した。昔、安宅コレクションという有名な、すばらしい世界的なコレクションがあった。そのコレクターの安宅氏から才能を認められ、北陸から京都へ西洋画の勉強に出てきたのが細川君で、当時画壇の重鎮であった人たちにも評価され、新聞などに「天才少年」として大きく報道されるような才能だった。わたしと同じ新制中学に転入してきたのである。
数奇なと謂っていい人生を経てきた。一時はイラストレーターとして業界内で声名高く大きな賞を繰り返し取っていたが、病弱でもあった。そういうことをわたしは何一つ知らないまま、中学時代の天才画家を捜し求めていた、そして近年にまったく偶然に恵まれて再会したのである。
その彼が、北陸へ帰って行くことになった。理由はいろいろあるが、家庭の事情といえる。激励したくてわたしから呼び出したのである。
よく話せた。楽しいと言うよりは幾らかもの悲しくあり、言葉と思いとを尽くして激励し、いっそうの奮起と再起とを期待した。私の目から見ても、才能は失せてなどいない、ただ悲運の連続であった。
別れたくないようであった、そして、或る地下の喫茶店で細川君は手ずからセルフサービスのコーヒーをテーブルに運んでくれ、そして、持参の古い古いスケッチブックの、あいた紙三枚にわたしのボールペンをつかって、わたしをスケッチしてくれた。彼は、空間を描くことで人物でもモノでも深々と捉えて行く。三枚のスケッチは、いかにもわたしをとらえながら、わたしの存在し呼吸している空間を尖鋭な線で彫琢し尽くしていた。しみじみとした感動のままに喫茶店の前で、右と左とに別れてきた。
たかが北陸と東京であり、再会を期することはやすい。だが、身内にこたえる「別れ」であった。おそらく、数年前にわたしたちが再会して以後、彼が心をひらいてものを語った、語り合えたのは、わたし一人であったろうと思われる。それほど彼の藝術家としての孤独はいたましかった。そのいたましい彼を、わたしは、貪欲なほどに観察し考察し仮構して、まるでべつの人物として組み立て続けてきたのだ、むごいことだが、また、それほどの愛情もまた無いのである。
2001 5・2 9
* 利根川裕さんのお手紙が届いた。テレビでながく馴染んだ人が多いだろう、が、テレビ人ではなく作家である。その作品をこれから読む。源実朝。
利根川さんには、以前、氏名をラベルにした新潟であったかの清酒一本を頂戴した。ここしばらくお目にかかっていないが、お元気のようである。
2001 5・4 9
* 行く春やおもき頭をもたげぬる
蕪村のこの句さながら、ものうくて、プランターに培う著莪の花殻を摘み捨てたりして、ぼんやりしているうちに、五月になってしまいました。
大阪へゆくことがありますと、時間さえゆるせば立ち寄っていましたのが、中ノ島にある東洋陶磁器博物館でした。好きなもののひとつに白磁の梅瓶がありました。なぜか、やさしくなだめられ、魂まるごと抱きかかえられるような心地がしました。もう、五、六年も逢っていません。
つらいお別れをなさったのですね。そのおひとも、あの梅瓶のようにと申すのは失礼ですが、一人の目利きに見出された逸材でいらっしゃるのでしょう。にもかかわらず、「悲運の連続」に見舞われたそのおひとをおもう先生のお心に、また、「空間を描くことで人物でもモノでも深々と捉えてゆく」そのおひとに、ふと、あの梅瓶が重なるようです。少し、さびしいひかりをまとうて。
「浜松中納言物語」、おもしろいですよ、と、メールでおっしゃってでしたけれど、わたくし、まだ、読んでおりません。「浜松の女人達は、尼姫君も唐后も吉野の姫君も、ひたすらいとおしい魅力の持ち主である。この作者の女人造形には心を惹かれる。蜻蛉の夫人も紫式部や清少納言ですらも、どこか鬱陶しい。だが、架空の女人はいいものである。」
このおことばに、「浜松」の女人たちを想像し、先生の書かれた、いえ、つくられた女人をおもっています。
「どこか鬱陶しい」とおっしゃる蜻蛉の君や紫式部。どなたでしたか、「可愛いげがない」とおっしゃっていたのを思い出しました。清少納言も「架空の女人」と比較すれば「鬱陶しい」ということなのでございましょうか。
とすると小侍従も。どうしましょう。鬱陶しくないひとなど、現実には存在しないとおもってしまうのは、ちょっと、つらいことですもの。
こんな、とりとめもなことをつづっていますうちに、「おもき頭」に、すこし、風が通い出したようです。
2001 5・4 9
* 大分・湯布院温泉に金鱗湖という小さな湖がある。湖畔に森を抱いた良い宿があり、湖の汀に移築した古い民家で、「天井桟敷」という喫茶店を営んでいる。湖から緑匂う庭を抜け、二階の扉を押して店に入ると、ひんやりとして、外のにぎわいが遠ざかる。高天井の豊かな空間には「グレゴリオ聖歌」。珈琲の香りに満ちている。奥の八角の大テーブ
ルに座り、珈琲をたのむ。テーブル中央に大きく花が盛られ、心楽しい。白いカバー付きの応接椅子に深く腰掛け、深煎の珈琲を飲む。由布岳を象ったケーキの甘みもよい。窓の外から、春の日のテーブルなかばまで斜めに射し込み、暖かく、まぶしく、眠い。ふっと、寝入りそうになったとき、「八角磨盤空裏走」という禅語が浮かび、眠気が一気に晴れた。窓には、五月晴れの由布岳。空を飛べそうな春である。(by maokat)
* 小型のVAIOを旅先で駆使し、喫茶店でキイを叩いてこういう文章を記録しているらしい、わが友のmaokatさんは。
* VAIOは、SONYのパソコンです。CIXFという小型のもので、サイズは15×25cm。鞄に入れてどこにでも持っていけます。ハードディスクは10Gあり、出先にプロジェクターがあれば、プレゼンテーションにも使えます。前の職場で、海外出張用に持たされていたのですが、気に入って自分で買いました。喫茶店などでキーボードをたたいている人って、ひんしゅくかなぁ、と思いつつ、外で書くことが多いこのごろです。
札幌は晴天が続いていますが、夜はまだ3℃ぐらいになります。温室の植物の管理が難しい季節です。白樺の芽吹きがはじまり、白い樹皮に淡い緑の若葉が映えて、しばしうっとりします。花見の名所、円山公園では連日花見客がジンギスカンをして、「朝から晩までラムの焼けるにおいでたまらない」と近所に住む友人が言ってました。所変われば、花見もかわりますね。
2001 5・5 9
* 連休の昨日 今日 五月晴れの日が続いていますね。ゆっくりとした日々を送っていらっしゃるのでしょうか。
前半は家族5人で渥美半島 知多半島の旅をしてきました。天候には恵まれませんでしたが、心は晴れ。80前後の母と伯母をいたわり、30前後の二人の娘とさざめきあい、ひとときひとときが大切なものと思われる旅でした。
一泊目の知多半島の南にある田中屋という小さな宿では、しゃこ かにのゆでたもの 伊勢エビ ひらめ サザエのおつくり すずきの塩焼き(これがたまらなくおいしかったのですが) エビフライ など自然の味を生かしたお料理に歓声を上げました。
二泊目の、内海にある「ふくさ家」は、石庭のすぐ先に波が打ち寄せる潮騒の宿でした。能舞台もある風情のある宿で、美しく調理された海の幸をじっくりと味わいました。
食べてばかりいたのではありません。
地元の心優しいタクシーの運転手さんに案内されての渥美半島巡りは、自然に恵まれた農村の暖かさを感じさせてくれました。ふくさ家さんで特に出してくださった貸し切りのマイクロバスによる知多半島巡りは、小さな半島にこれほど醸造の 焼き物の文化があり、信仰が根づき 温泉宿が栄えているのかと驚くばかりでした。
杉本健吉美術館で画伯にはあえませんでしたが東大寺 平家物語 など、足の悪い伯母の手をひいて一つ一つ味わいました。
新美南吉記念館をおとずれたときには、「おじいさんのランプ」のランプを木につるして割っていくシーンを思い出して、涙がにじみました。
名古屋での母の(人形)個展はすこぶる順調で、伯母も娘も、とても元気な様子です。
後半は現実の生活に備えて、ふだんできない仕事 家の中のかたづけなどに忙しく過ごしています。
今日は連休最後の日 やっとパソコンに向かいました。1階にパソコン(NEC 98 Lavie 私が娘に買ったもののお古)をおろしました。2階とどちらが、使いやすいのか、試してみます。
* 女ばかりのこういう豊かな旅が楽しめる時代で、いいことだ。昔なら真ん中にデンと、男が大あぐらをかいていたことだろう。いまはどんな施設に行っても女性達が旺盛にいきいきと楽しんでいる、ように見える。
では女が優位の女文化か、女社会かといえば、実質はどんなものか。世の中、「男の手」と「女の手」が手を尽くして綱を引き合っている。お互いに涼しい顔をし合っている。だが、男の力の相対低下は否定しにくい。
2001 5・6 9
* 毎日、ホームページを拝見していると、ちっともご無沙汰しているよう気がしませんが、ご無沙汰しました。
「湖」の発信局改造のご様子、すごいと思いました。あの方はきっと神さまです。
「風の奏で─平家寂光一上」(スキャン原稿)お送りします。おじさんには知らないことだらけで、立止ってばかりいて捗りませんが、いちばん楽しい時間です。
「超漢字3」は、いいです。電源を入れて20秒で立上がります。(わたしのMac G3は1分25秒かかります)厖大な漢字はともかく、ハイパーテキストの機能で、註が付けられ、註のまた註といくらでも関連事項をその場に付け加えられるのが何より魅力です。これで「平家物語」や「湖の本」を遊べる!とほくそ笑んでいます。
緑が精一杯の色をして、いい季節になりました。お元気でお過ごしください。
* 有り難くて楽しい、また好奇心をそそられる千葉の「おじさん」の声である。疲れが和らぐ。「超漢字」わたしも今度の機械に、入れてみたかった。デモンストレーションもみているので、面白さは分かる。別OSのトロンになる。ウインドウズとの兼ね合いを機械の中でどう領国分割するかが問題で、わたしの手には負えない。
2001 5・6 9
* お元気ですか? 連休が終わってほっとしています。長い連休と言っても主婦は一年中が連休のような、仕事日のようなものですが・・・わたしはよほど一人でいる時間の欲しい人らしい。
もっと早く帰国報告をしなければなりませんのに遅れてしまいました。
旅のことがもうかなり遠く感じられる・・。途中で体調を崩したり大変なこともありましたが、気力は大いに充実した良い旅でした。これまでトルコやイタリア、スペインで見たローマ時代の建築物に加えて代表的なものをかなり見ることが出来ました。パルミラ、パールベック、ジェラシュ、ペトラなどなど今思い返しても心が躍ります。日の出前にパルミラの遺跡に出かけて歩き回ったこと、気力だけでペトラの長い道を歩き続けたことが、私にとっての旅のハイライトでした。アラビアのロレンスに出てきたワデイラムの砂漠に行けなかったことが心残りでした。砂漠にどうして心惹かれるのか、説明は出来ませんが我が心ながら不思議なものです。同時に以前シルクロードを旅した時のような、さまざまなことも再び痛感しました。
オランダ経由の帰りのアムステルダムでは、フライト待ちの時間を利用して美術館に行きレンブラントやフェルメールの絵も見ました。ゴッホ美術館に行けなかったのは残念ですが、いつかそんな機会もあるでしょう。
オランダは以前、と言ってももう20年近く前ですが、ライデン、ハーグ、デルフト、ロッテルダムなど回っていたのにアムステルダムは駅を通過しただけだったのです。家並みの美しい静かそうな良い町でした。
桜から若葉の季節へ。私の庭の牡丹も散って、今は薔薇が見事に咲き始めています。マーガレット、ラヴェンダーも。連休中に山に行って楓の彦生えを採り、庭に植えました。
逃げているような、大地に根のつかないような日々かもしれませんが、それもまた私の現在の日々。少しづつ前に進みます。
こちらの美術館で「親指のマリア」の絵葉書を売っていました。早速部屋に飾りました。
良き日々をお過ごし下さい。大切に。
* 自分には思いも寄らない行動力だが、そんなことは、人それぞれで。それよりも、この一文に流れている命のリズムのようなものに、わたしは、魅される。なにかしら確かなものを感じて、嬉しくなる。人はそれぞれに生きて行くもので、生き方に干渉してみても始まらない。しかし、わたしはこの頃、命というものの美しいことに少し気づき始めている。
2001 5・7 9
* 歴史の授業で詩を教えるということ。
秦先生 少しご無沙汰してしまいした。
先日先生にメールしました後の4月初旬、日暮れ後に自転車を漕ぎながらふと山際を見上げると、やわらかなサーモンピンクの大きな月があり蕪村の「のっと」という表現はこういう月をいうものなのだ、と納得しつつも句の全体を思い出せず、「先生に伺わなくちゃ」と思いながらもこんなに日が経ってしまいました。
もう月ものっと出る季節ではなくなってしまいましたが・・・。しかも、今日は雨でせっかくの満月も見えないようです。ただ、鮮やかな色とりどりの新緑に雨のかかる様は瑞々しくて私の大好きな景色でもあります。
そう言えば、娘の生まれたのも満月の夜でした。
人もただの一生物だなぁ、と痛感させられるほど、その夜は病院でも出産が次から次へ続いていたのを思い出します。
月の満ちる夜に新しい命が誕生するのは、不思議なほど生き物全体の共通点ですね。
ところで、「のっと」出る月の句はなんと言いましたっけ?
先生のホームページで、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」を取り上げられておりましたが、私は中学・高校を通して、この詩を何回も習いました。国語でも歴史でも。
異常に感じるのは、この頻度です。
芸術として完成度の高いものであることは疑いようもありません。ですから、国語で習うのは納得はいきます。けれど、ただでさえ近現代史を教える時間がない、と言われている今の歴史教科書の中で、例えばリットン調査団の記述すら消えてしまっているような教科書の中ですら、中学でも高校でもくり返しこの詩を教えること自体に、私は疑問を感じるのです。
歴史の教科書の中で、他に詩を取り上げていた記憶はほとんどありません。それ故に、今までの教科書では、ある種の意図が働いて、この詩を取り上げてきていたという感触を覚えております。
与謝野晶子は素晴らしい詩人だったと思います。
彼女のあの詩を発表することは、あの時点では、かなり勇気を必要とするものだったと思われます。世の中は、「お国のため」にロシアに戦いを挑むことが大きな流れになっていたのは事実だったはずです。そのあたりの流れを「坂の上の雲」ではしっかりと描いてありますよね。
そんな中で、彼女の詩を発表することは、相当に気力が必要だったでしょう。
しかし、従来の(少なくとも私の習った教科書では)日露戦争に関しては反戦的な取り上げられ方ばかりで、戦いに向かう大きな事実経緯を詳細に書いてなかったように思えるのです。
すると、与謝野晶子のこの詩は、普く流布している反戦ムードの中での単なるファッションに見えてしまう。これでは、与謝野晶子に対しても失礼ではないでしょうか。
彼女は、詩を発表する、それも時流に抵抗するような詩を発表する、その「発表」という事実の中で、激しく生きた人だったと思うのです。そして、こういう「詩」にかける情熱は、国語の中で教えることこそが相応しい。歴史の教科書の中で、それも安っぽい反戦ファッションとして取り上げるべきではないはずです。
かといって、この新しい教科書でのとりあげ方が正しいとも思えませんが、彼女の詩を逆のとりあげ方をして、日露戦争へ向かう時代背景を教えたくなってしまった「つくる会」の意図もあながち否定すべきものとは思えないのです。
私としては、基本的には、歴史の教科書の中でいたずらに詩などをとりあげるべきではない、ましてや安っぽく取り上げるべきではないと考えています。
(古代の叙事詩など、史料となるのならば別ですが)
そして、今までの教科書がそういう作りだったからこそ、反動でここまで書いた教科書が登場してきた理由もわかるような気がするのです。ただちょっとあまりにも極端ですけれど。
でも、与謝野晶子を題材にして、この時代の価値観自体が今と異なっており、その中での、彼女のこの行動だったのだ、と言いたかったのでは、と解釈しております。ここまで書かなくても、とは思いますけれど。
またしても長くなってしまいました。
明日の「細雪」が見ごたえのあるものでありますように。
やわらかな雨音を聞きながら・・・
* 東工大に来ていたことに女子学生達には、こういう、くっきりとした文章で意見をしっかり述べる人が多かった。この人もそうだった。わたしのような「文学」教授には、それは有り難かった。わたしの教室では与謝野晶子のこの詩は取り上げなかったが、与謝野鉄幹の「誠之助の死」は、大切に毎年取り上げた。この詩一つのあることて、わたしは鉄幹を意識してきた。晶子の問題の詩とは好一対である。晶子の詩が先行し、鉄幹の詩はさながらに呼応している。前者が日露戦役の頃にうたわれ、後者は大逆事件のフレームアップ(でっち上げ)で死刑された一介の医師をあざ笑う体で、痛哭している。この夫妻が、つねづね何を考えて語り合っていたかは明らかだろう。
* 「のっと」出るのは「月」でなく「日」で、蕪村でなく「むめがかや」の芭蕉であろう。
2001 5・8 9
* 花の春らしい便りがとどく。
* ずいぶんとご無沙汰をいたしておりましたが、わたしもようやく風邪をなだめることが出来たようです。約一ヶ月かかりましたの。ゴールデンウィークの忙しさにも、今年は不況で増員が望めず、治りを長引かせていたようです。不況の風はまた一段と厳しさを増し、店長会議のときに、経営者から、社会保険の解除や人員削減などの案が提示されたとのこと。きつくなりそうですが、気分的に落ち込まないようにと思ってはいますのよ。
先日の休日。友人と花三昧の半日を過ごしました。新聞やテレビでも報道されていた、民家に趣味で植えられているシバザクラを観に行ってきました。絨毯を広げたか、あるいは友禅を流したような風に見事なくらいに植えられているのですよ。たくさんの人が訪れては感嘆の声をあげておりました。もちろん、わたしたちもです。
その後、蘭の栽培で有名な河野メリクロンへ。「プリンセス雅子」と命名された蘭もありますの。蘭のお蕎麦をいただきました。美味しかったですよ。帰りに、高越山(親しみをこめて、「おこうっつあん」と呼んでいます)へ。千メートル級の山ですが、その頂上に記念物に指定されている船窪のイワツツジの群生があるのです。
裾野では木の葉は大きくひらいて緑も濃いのに、登るにつれて、葉はかぼそくなり、芽生えたばかりのように柔らかに、風景は早春に戻っていくのです。お好きな藤が、垂る房も見事なほどに咲いているかと思えば、谷川沿いに植えられている桐の花が天に向かい、負けじと咲き誇っていました。紫女(花)の競演です。
「ツツジ」で想像されるのは?たぶん、低木を思われていらっしゃるのではないかしら。ところが、びっくりです。二メートル以上もあるかと思われる大木が群生しているのです。まだ少し時期には早くて、四、五本しか咲いていませんでしたが、ツツジの間にはアセビ(馬酔木)もあり、それは満開で甘い香りがしていました。ツツジも、花が咲いていたからこそ認識出来たようなものですのよ。花の無い時期に一度訪れていたはずの彼女なのに、冬木のような、それを見ながら「あの木は何の木ぃえ?」と、問い掛けてきたのですから。
時期には早くて、平日ということもあり、人影も見当たらない静かな山を、二人で満喫して来ました。イタドリを見つけて、ポキンと手折って食べてきました。懐かしい味に、山野が遊び場だった子供の頃を思い出しました。感覚が似通っていて、同じものを見ていられる。そんな友人がいてくれることの幸せをうれしく思った半日でした。
* こういう景色の中に久しく身を置いていない。花も山も匂うようで、読んでいてくつろいだ。江戸の香のする便りも。
* 今日は神田祭で賑やかな一日でした。時代行列と呼ぶそうなのですが、都内の道路を馬車がパカパカ歩く姿は異様な感じがして、何度見ても面白いです。明日は神輿宮入なので今日以上の賑わいになると思います。
とうとう機械を組み立てたということですが、その後の調子はいかがでしょうか。ゴールデンウィーク中に声をかけていただければ遊びにいくこともできたのですが。機会があれば是非見にいきたいと思います。
ところで、ADSLですが先生のお宅でもサービスを受けられるようになったようです。(会社によっては6月からです。)
http://www.biglobe.ne.jp/service/adsl/acca/index.html
にbiglobeでのADSLの情報が載っています。月々5800円になっています。一度ご覧になってはいかがでしょうか。
2001 5・13 9
* ニュージーランドは本当に素晴らしいところです.こんなに心休まる旅行はありませんでした.食事,中でもワインは最高です.料理は非常にシンプルなのですが,味付けがアメリカなどとは違いとてもおいしいです.
最高峰マウントクックの写真を添付しますのでご覧下さい.
今年になってからウクライナ人と香港人が研究所に来まして,いろいろと文化の違いを感じています.二人とも私より若いのですが,日本の文化と言っても都会の文化に興味を示していまして,宗教や神社やお寺の話にはあまりなりません.彼らにとっては珍しい建物といったぐらいの認識のようです.ウクライナ人からは、なぜ六本木で遊ばないの?と言われましたが、関心のないものはしょうがありません.
それでも熱田神宮へ連れて行って,鳥居は何かと聞かれて,神社の門だとしか説明出来ないのは自分でも恥ずかしいと思います.それにこういったことを英語でしゃべるのは非常に大変です.英語力も磨かなくてはならないし,日本のことも知らなくてはと言うことで、最近はテレビ,ラジオの講座をこまめにチェックしています.また最近は便利な本がありまして,日本の文化について左のページに日本語で,右のページに英語書かれてある本がありまして、読んでいます.
それでもいろいろな人が言っているように、やはり頭の中でまとまっていないことをいくらしゃべろうとしても、それは無理ですね.
日本語で考え、話すこと,これはいつもしっかり出来なくてはと思っています.
* わたしには、特に嬉しい応答である。最後の一行など、前回に送った湖の本エッセイ22「日本語にっぽん事情」の表現をそのまま受け止めてくれている。「日本の文化について左のページに日本語で,右のページに英語書かれてある本がありまして」の一冊には、平凡社の『日本を知る101章』がある。わたしも「能」「庭」「畳」「幕の内弁当」を書いている。英文はこのホームページの中の「e-文庫・湖」に収めてある。「鳥居」もたしか載っていた。この手の本の最も早い時期の一冊は旧八幡製鉄が製作していて、書評紹介役を依頼されたことがある。
よく言うことだが、わたしが、外国で外国人からたとえば半導体やコンピュータについて聞かれて分からないと答えても問題なくゆるされる。だが、たとえ専攻は理系の人であれ、例えば源氏物語、例えば禅や神仏について聞かれて一言も応答できないと、堪えがたく恥ずかしい思いをするという。
このメールの青年が、社会人数年に満たぬうちに、こういう体験や感想を伝えてきてくれるようになったことを、やはり、素直によろこびたい。
送ってきてくれた「最高峰」の写真はすばらしい、が、何メートルほどかは書いてない。だいぶ理系ぬけして来ているのかな。
* お変わりありませんか。雀は元気に遊び、歌舞伎座で久し振りに会った女友達と、芝居がはねてから、少し話をして、ホテルへ帰ってきました。例の田之助さんの連載より、─戦前楽屋で流行した投扇興は、行司も装束をつけ、呼び出しは、たっつけ袴をつけた大掛かりなものだったそうです。歌右衛門さんは<魁>、七代目幸四郎は<へるくみ>(お相撲の照国がご贔屓だったため)、六代目は<音羽山>というしこ名だったそうですわ。
今月、夜の部で、音羽屋は、二度死ぬ。江戸の芝居がない、上方言葉での團菊祭は、なんだか変な感じがします。囀雀
* これはまた文系そのもの。囀りが冴えている。
2001 5・14 9
* 今年からお茶の会の地方ブロック青年部長をやることになり、週末に総会と呈茶席を持ちました。この時季の札幌は花が次々と咲いて、何を使うか迷うほどでした。藤原雄さんの小さな蹲(うずくまる)に、風車、カタクリ、山荷葉を入れてみました。
「遠山無限碧層々」の色紙は、高い境地を表していましたが、実際は幽玄の境地ではないですね。初対面の私に、ご熱心にいろいろ吹き込んでくれる、子分を連れて肩で風を切って歩く、いろんな人がいるものです。全国どこでもそうなんですねぇ。やれやれ。
翌日は、職場の花見で公園へ。桜ではなく梅の花です。北海道は梅前線が桜前線に抜かれてしまうようです。満開の白梅と七分咲きの紅梅の下で、仕出しのお弁当を広げ、朱杯で大吟醸をつぎ回り、柳桜園のお茶をササッと点てました。茶碗の中に花びらも舞い込み、お茶に全く縁のない研究者たちが「おいしいー」といってお代わりをしてくれました。
「お茶の世界」以外の人が純粋にお茶を楽しんでくれる。茶ノ道廃ルベシです。
* 人によってどうか分からないが、わたしには目に見えてくる情景であり、情景を把握している書き手の余裕が文章を生かしている。メールとはいうが、「つれづれぐさ」になりうる風韻を帯びている。
2001 5・16 9
* 24日木曜日11時、関空からイタリアに向けて旅立ちます。今回はオーストリア経由。イタリアはそろそろかなり夏らしくなってきていますので、その暑さ、乾燥の程度にどれだけ順応できるか分かりませんが、多分最初にシチリアに行きます。これまで南イタリアは行ったことがありませんので、小さな町や村を丹念に廻ってみたい。ひょっとしてギリシアに・・?とも思っています。その後、フィレンツエで暫く小休止してフランスのロマネスクの教会、巡礼の道に・・。
私の健康と意欲次第で、無理せず旅を過ごすつもりです。
この一年を振り返って・・何と慌ただしい・・文字どおり、心、荒れている一年だったのかもしれないと感じています。荒れているのは旅から得たものを整理しきれていないので、それらが雑然と積み重なりつつあるということです。その時その時、せめてもう少しでも整理しなければ、そして立ちどまらなければと反省しきりです。
もう少し旅を集中的にしたら、いちど「閉じこもりたい」心境になるでしょう。
昨日、初めて石本正さんの『絵をかくよろこび』新潮社刊を読んでいましたら、イタリア、ロマネスクと、あまりに好みが一致!?しているのに、驚きました。
7月11日、日本に戻ります。帰ってきたら祇園祭りに行きたい。元気に行ってきます。
大切に、大切に。
* 気をつけて。南イタリアを舐めないように、かなりの荒さと聞いていますから。無事の帰国を祈ります。
旅に目的を持ちすぎたり、旅の整理が過度に必要に、また負担に感じられたりするのは、一種の衰弱です。自分一人の中で黙然と消化すればよろしい、他人は、私的な纏めにも整理にも特別の期待はしていないし、期待するのもおかしい。一枚の澄んだ「鏡」になりきり、写ったものは写し、去るものは去らせて忘れ、それで、よろしい。「旅」を過度に意味づけるのはおかしいし、楽しんで帰ってくれば、それでよいのではないか。ドンマイです、マインドの塊りサン。
帰国すると、わたしの、読んだことのない小説が「十五年記念」で届いていますよ。凄まじい掌説集もね。
* メール嬉しく読みました。今から本を楽しみにしています。とても楽しみにしています。旅には「花と風」を携えて行こうと思っています。外国ばかり行きながら、さて日本回帰?みたいでしょうが、一緒に持っていくことじたいが、自分にとって意味あり、そして離れたところにいると、いっそう日本を考えるものですから、心強いヒントをあらためて本から、あなたから受けられるでしょう。また、マインドの塊だなんて言わないで下さいね。
これまでの旅の整理がついていないと嘆くのは、衰弱か・・一瞬、そして今もなかば以上は理解できていないのですが、そうか、そういう指摘も有り得るんだ、と考えることにします。ただしそれ以上に私が怠け者で、というのが単純な原因・・これは心の衰弱ではなく、なんだろう。ただの怠けで流れるままなら、私は達人?なんだけれど。
* あなたが、カソリックの国の方角へ向かうのだということを、意識しています。シチリアなどと聞くと、どうしてもシドッチ神父が懐かしい。それにこの二三日、コンピュータで、DVD映画「ジャンヌ・ダーク」を観てしびれています。
わたしが、フランスやイギリスやカソリック教会に、そして信仰の問題にふれた、生まれて初めての体験は、大戦争以上に、戦後の中学時代に見せられた天然色映画「ジャンヌ・ダーク」でした。イングリット・バーグマンでした。今度観たのはバーグマンとはまるでべつのミラ・ジョボヴィッチ主演ですが、ダスティン・ホフマンが共演していて、優れた作品になっています。国会の討論にも目も耳も向けていますが、そういう関心が白濁してしまい、映画のさしむけてくる問題の方にクリアな、リアルな実在感を覚えています。王位や教会による肉体や精神の支配をきつく嫌い厭う気持ちは、この映画で芽生えました。
わたしは、多くの儀式や装飾を身にまとって拝跪と服従を強いる、宗教というよりも権威宗団を信用しない。仏教は釈迦をはなれ、カソリックはイエスを裏切っています。日本には法然や親鸞やのようにありがたい導師がいて優れた抱き柱を与えてくれました、が、バグワン・シュリ・ラジニーシを介して、今、わたしは禅ないしは「静かな心」に惹かれています。
* この人のような生活も旅の体験もないので、つい、夢を託するような気分になる。旅をすれば「奥の細道」を書かねばならぬといったことは、ない。ぜひ書きたくなれば、そのときはいいものを書けばいい。
2000 5・21 9
* せっせと仕事に励んでいたら、声援が翔んできた。
* お祝いをしましょう。桜桃忌には一ヶ月弱早いけれど。
昨日は息子の十九才の誕生日でしたの。相変わらず元気なわたしの「オーラ」は、バランスがよく、とても強いらしいのですって。ホントかな? でも、嬉しいな、ということで。月様もご一緒に祝ってほしいな、と。お肉を少しばかりお送りしました。今回は、脂が少なめでシャブシャブ用に薄切りにしたものと、霜降りのスキヤキ用とを、セットしてみました。食べくらべてみてくださいね。体力増強?で、暑さと、控えているお仕事を乗りきってください。病いにはご油断なさいませぬように。くれぐれもご自愛を。ご本、楽しみにお待ち申しあげております。 花籠
* 今夜半にはうちの息子がこっちへ来るという。明日、いっしょにご馳走になれれば二倍も三倍もおいしいだろう。桜桃忌までには送れるだろう新しい作品が、花籠さんを喜ばせ得るかどうか。発送の用意もまだ峠を向こうに眺めている。
* hatakさん。
昨年末急逝した上司の、残された家族が故郷の宮崎に帰られることになり、今日は官舎の引越でした。雪の中で通夜をした家も、今は花盛り。天気良く、暖かく、荷物はあっという間にトラックに積まれて行ってしまいました。がらんとした家で、車座になってお茶を飲み、六花亭の菓子などつまんでいると、窓の外にエゾリスが。向こうの芝生にはタンポポが群生して、風が吹くたびダンスのようにゆらぎます。花も「たくさん」が好きだった故人を思いました。
フォントサイズが大きくなりましたね。読みやすくなりました。HPをひらくと、文字がダダダッと、溢れ出てくるようです。間欠泉のようです。はじめて見る人は、すこし恐いかも。
ご講演、稔りありますようお祈りしてます。
2001 5・22 9
* ジャンヌ・ダルクは私も感動した映画でした。暗い暗い映画なのに、画面に引き込まれました。「グランブルー」と同じ監督リュック・ベッソンの作品と知っていましたか。全くタイプの違うあの「タクシー1」「タクシー2」もそうです。
つい先日、日本を舞台に、広末涼子、ジャン・レノ主演で映画を撮ると、三人揃っての記者会見を観ました。
もし、次回、何を選ぶか迷われた時は、
「オールアバウト マイマザー」
「エリザベス」
「恋に落ちたシエクスピアー」
を、是非にとお勧めです。
昔、「紳士協定」というユダヤ人差別問題を扱った佳い映画がありました。紳士協定、最近この言葉が気になります。
2001 5・23 9
* 「私語の刻」を拝見しますと、お忙しいようすが伝わってきます。近くにおりましたならば、湖の本の発送作業のお手伝いをしたいところです。真夏のようかと思えば急に涼しくなったり、おかしなこの頃です、ご無理をなさらずに。
ところで、藤田理史さんの「牡丹」(作業頁に仮掲載)を読みました。どのように推敲がすすむのか楽しみです(などと言っていられる立場ではありませんが)。
e-magの創作欄のはじめの方に、藤田さんの書いたものがありますね。あれを読んでいるとき、わたしの祖母の話であるような錯覚を何度も起こしました。
わたしの母方の祖母の場合は藤田さんの(作中少年の)おばあさまほどのブルジョワではないのですけれど、むかし、韓国併合当時のソウルに住んでいて、医者であった祖母の父は李の王様の診察をしたとかしないとかで、ま、そこそこのお嬢様だったようです。子供のときより敗戦で引き揚げて来るまで朝鮮にいましたから、選民意識もあったろうし、それがひいては個人としての優越感をより強くしたのかもしれません。おまけに生来の負けず嫌い、女学校では顔にできたおできが膿んで長く休んだとき以外、常に一番であったと、本人の口から聞いたことがあります。結婚も「軍人さんとしたかった」とのたまっておりました。祖父は職業軍人でした。
これは実は大変な計算ちがいで、終戦ですっかり没落しました。それはそれは貧乏、貧乏の日々(こちらは今日まで順調に継続しております、はい)。祖父がどこだったか、外国で拘留されているあいだ、祖母は見知らぬ土地でひとり生きる術を身につけなければならなかったのでしょう、でもどこか学び間違えた。ごみを捨てない、溜める、とっておく。これまた藤田さんのおばあさまと酷似しています。もののない時代を知っているから、という理由は祖母の場合少し違うように見えます。整理整頓が極度にできない、要は面倒くさがりなのだと思います。
こういった話はどこの家庭にもありそうですね。
「牡丹」の今後を楽しみに思っています。
この間、何冊かまとめて注文いたしました湖の本、まず、「四度の瀧・鷺」を読みました。
「四度の瀧」は伊勢崎から水戸まで、知っている土地が舞台で、身近に読みました。
水戸にも二、三度行ったことがあります。茨城県に住んでいたこともあるのです。偕楽園には梅の季節に行きました。もう、六年くらい前のことです。花粉症の薬を飲んでいて、普段の生活は支障なく、呑気に見ごろの梅を愉しんで帰った翌日、ひどい目に遭いました。そういえば杉だらけだったような気がしました。「ああ、もう、二度とは行かない、四度などとんでもない」という苦い思い出があります。
「鷺」は、もうわくわく、わたしの知る中では「蝶の皿」にちかい作品だと思いました。
ところで、川端康成についての講演はいつなさるのですか?
* 書きたいことのある手紙は、こういうふうに極く具体的に、魅力的に、自然に書かれる。むりをして書くと、ご挨拶が羅列される。手紙が文藝になるとならぬとの勘所といえようか。川端さんの話をするのは、忘れているが年末か年始かの辺であった。その辺で二つ講演の予定があり、両方とも難題。つまり、するだけのことをすれば、いい仕事になりうる。お金にはならない。
2001 5・24 9
* こんにちは。イチローです。
失礼だなんて、とんでもありません。あの日は、先生の声を聞いたとき、初めて自分の結婚式なんだという実感が沸きました。
新生活は、以前の生活に比べて、会社に近くなった分時間が増え、家事をする分時間が減り、合計で時間がマイナスになりました。どうしても連絡がおろそかになってしまいます。
時間はマイナスですが、中身はモノクロからカラーになりました。
* 最後の一行が気に入った。
2001 5・30 9
* 朝いちばんに届いていたいくつものメールの中から。おのずから、異なるべつの「人と暮らしと表現」が見えてくる。
* 雨 湿った日が続いて、気持ちも少し鬱状態。これほど気持ちが沈んで自信がなくて後ろ向きになるのは、鬱状態なのだなあ、と客観的に思えるようになったときから、少しずつ浮かび始めています。
この月曜日には、新宿スペースゼロで、野村万作・萬斎らの狂言をオフィスのスタッフ3人とみました。徒歩2分。仕事が終わってからでも十分行かれる距離。出し物は「キツネ塚」と「月見座頭」でした。
キツネ塚は、少し睡魔に襲われつつの鑑賞でしたが、月見座頭は狂言にしては異色のテーマかと思われました。
満月が正面のスクリーンに映し出されたり、舞台の始まる前に虫の音が座席後方から聞こえたり、いろんな手法を取り入れた演出がされていました。
客席は一瞬漆黒の闇に包まれます。座頭の世界です。万作の演じる座頭が、近くの野辺に月見にいきます。座頭ですから、虫の音に耳を傾ける月見です。
そこへ都からきた若い男が声をかけ、酒宴が始まります。歌を歌うなど座頭に取っては思いもかけない至福の時もおわり、二人は別れを告げます。
ところが、幸せな気持ちに酔って虫の音に余韻を味わっている座頭を、先ほどの若い男が打ちのめします。座頭は別人と思い、観客には同じ男の仕業であることが分かっています。投げ出された杖を探し出し、とぼとぼと帰っていく座頭・・・。
4人そろって新宿の雑踏に戻ると、気のせいか、秋風のような涼しい風が吹いていました。少しの時間、秋の夜を楽しんできました。
* もう一段「座頭」への感想が欲しいが、それを書けない・書かないところに、「楽しんで」と書いておくところに、この人の「鬱」への抵抗が出ているのだろうか。「月見座頭」は深い人間の闇にふれて、不気味に不条理ともいえる狂言。ふっと、小説が書きたくなる。
* 梅雨のはしり。もう、好天の日は運のもの。しとしと雨は可愛いけれど、じゃあじゃあ雨は、いややわ。今日はそんな日。気が重い。想い。
気候の温暖化で、ふるさとでは、ホタルが早くも蒼い線を描いていると、便り。柳にせせらぎ、懐かしい風景。私もホタルに。
映画「ホタル」は、特攻隊で散った魂がホタルとなって戻ってきます。ありきたりの平凡な表現法だけれども、これ以外にはないでしょうね。在日韓国人の特攻隊員をテーマにしたのが、深みを増しましたか。戦争経験者だけの回顧に終わりそうで、日本映画は若者の観客動員が少なくて、気の毒です。いっしょに観た娘は結構感動していましたが。
この二日ほどスポーツによく活躍して、筋肉痛、片腰痛に。運動過剰? もう、これ以上歳を重ねたくないヨ。年寄りなんてわびしい。せめて気持ちは二十年は若く持ちたいもの。ナンの事はない、長男の歳じゃないの。アツカマシイ。
多忙な日々が続くようですね。運動も怠りなく。
少し余裕の時間が出来るので、『マガジン』をじっくり読んでいきます。
* 日々帰山情。そういう思いを抱いた人らしい。雨、ホタル、ふるさと、映画、戦争の思い出、筋肉痛、老境、主婦の余裕。自然な連想が自然に流れて、自問自答するように、書かれた事柄以上のものも行間ににじませている。ほとんど随筆作品になろうとしている。
* 髪を結う 伸びた髪をくくりながら覗いた鏡に、過去に迷い込んだ雨の朝。十七の頃、放ったらかしの雀の髪を、母が、登校の朝、カーラーで巻いて、カールを崩さないように、ポニー・テールに結わえてくれた事が、何日かありました。母は、独身の頃、職場であらぬ噂を立てられ、悩んだ末に、高田馬場に住む伯母を頼り、数年間、東京で一人暮らしをしたそうですの。雀の髪にリボンを結びながら、上京を決めた母に、祖母が何日も、こうして髪を結ってくれたと話してくれました。雀の髪は、あの頃の長さ。囀雀
* こういう「私語」を素直にすうっと豊かなものに培ってゆくと「小説」世界にが浮かび上がることも、ある。こういう短章を五十、百と書き置いて、ある統一感でならべてみると、いわば「自分史」が構築できるだろう。感想にせず、この人のように具体を書くことだ。わたしは、ずうっとこのところ、感想をだけ書いている。
2001 5・31 9
* 本メールは、BCCにて多数の方に同時発信しています。
向暑のみぎり、ますますご健勝のこととお喜び申し上げます。・・・という、堅苦しい挨拶は抜きとして、皆様、お変わりありませんでしょうか。本年は、年賀状も出さずに申し訳ありませんでした。
一部の方には、すでにお知らせしていますが、私、本日(6/3)より、ブラジルへ旅立ちます。
というのも、ブラジル・***社が新しく開発するリージョナルジェット旅客機、「ERJ-190」の開発に参画するためです。滞在予定は半年。さらに伸びる可能性は大きいです。
ブラジルはこれから冬になるので、「冬→春→冬→春」という風に、夏を経験しない一年になりそうです。
しかし、開発としては、計画の一番最初から携わることができ、滅多にないチャンスであり、期待でいっぱいです。
「この機体のこの部分は、俺が作ったんだ!」といえますしね。
少し、補足します。
今回開発するERJ-190は、現在流行しているリージョナルジェット機(ハブ空港を経由しなくても、ダイレクトに地方空港に行くことのできる、地域間旅客機)で、約100人乗りです。当社(******)は、数年前からブラジルの***社とリスクシェアパートナーとしてこのタイプの飛行機の開発に携わっています。
さらに補足します。
***社は、リージョナルジェット機の市場では、カナダのボンバルディア社に次いで第2位のシェアを誇っています。
入社当初より、現在まで先人が築いてきた作品(T-4)の耐用命数(寿命)設定・IRAN点検間隔設定見直しといった、人間でいうところの「主治医(人間ドック等)」の仕事を担当してきましたが、今回は文字通り、飛行機の「父・母」として、産みの苦しみを味わいにいってまいります。
まだ3年目で、経験不足、力不足は否めませんが、皆様が安心して乗ることのできる飛行機を目指して、がんばって設計・解析をしてきます。
主担当の仕事は、主翼の損傷許容性解析、疲労強度解析といった、「飛行機が、ちゃんと規定の運用寿命間、安全に飛べることを保証する」解析作業となります。
今回設計する飛行機が日本の空を飛ぶようになるには長くかかること(十数年後?)になると思います。アメリカではもっと早くに飛ぶと思いますので、気長に待っていてください。
それでは、皆様の益々のご発展とご活躍をお祈りしつつ、私の出発の挨拶とさせていただきます。
* 「夢」ですと目を光らせていた青年の夢が、いよいよ叶うらしいと、以前に聴いていたが、いよいよの鹿島立ちである。粗忽なところも浮薄なところも微塵もなく、自分のことばと思いで深く考えてゆく学生だった。松園女史の絵が美しいと言っていた。妹をつれて家まで話しに来てくれた。わたしは安心している、信頼して。元気に行っていらっしゃい。健康をとだけ祈ろう。
2001 6・3 9
* 「栗花落」で、「つゆり」と読ませる苗字があるそうですが、私はその名の方にまだお会いした事はありません。字面はとても綺麗で、よく出来た当て字です。
近隣に広がる畑には栗の木が多く、この時期あまり心地良くないにおいが家の中にまで漂い、鼻をついて梅雨入り間近いわと、毎年覚悟させられます。梅雨さなかは、もっと濃厚になります。今朝もその匂いで、眼が醒めました。花も匂いも姿も実も何もかもイイワネとは言い難く、ままならないものです。人間様も然り。マロングラッセも栗ご飯も大好きなのに。
* あの花の匂いは、季節感は濃いがいい匂いとは確かに言いにくい。だがあの葉も造形的に鋭いし、栗の材は堅くて質感に富んでいるし、青い毬の木についた見栄えもわたしは好きだ。なにより栗の実の木質の甘みは、トマトのような水けの味わいよりずっと好きで、わたしはよく、人を、トマト型と栗の実型とに分けて話す。栗が好きだ。栗の活躍するサルカニ合戦のおはなしを引きずっているのかも知れないが。だが、あのおはなしが好きであったかと言うと、そうでもない。おとぎ話にはどれも相応の毒がこもっていて、子供心にうちこんで歓迎した感心した面白かったというものは思い出せない。
2001 6・5 9
* 梅雨入り 雨戸をあけると日曜日に植えたコスモスの花が、思いがけず明るくおおらかに咲いていました。小さな鉢に根っこをちぢめて咲いていたのが、小さな花壇でも、土にのびのびと根を張ったからかもしれません。根っこが縮まっていては大輪の花を咲かせることは無理・・・ と、自分にも言い聞かせました。
クリとトマト おもしろい比較ですね。私はどちらも好き。あおい栗の実をいただいて、余りの美しさにスケッチをして日本画にしあげ、たしか四条烏丸の銀行に飾られたことがあります。たった一度人様に見ていただいた絵でした。
クリは歯ごたえがあって、噛みしめるほどにまろやかに甘い。トマトは冷やしてまるかじりするのが好き。ぷちっと表皮の歯ごたえがあって、甘酸っぱい味と香りがじわっと口に広がります。でも今スーパーで売っているトマトは、味もかおりもありません。
クリのような人は、あこがれ。針もあるし、殻もある。せめることも守ることもできます。
トマトは針もないし、殻もない。つっつかれるとつぶれてしまう。
あなたはなすもトマトもお嫌いでしたね。トマトにはなりたくないと思いながら、さあ、今日も。
2001 6・8 9
* 「湖の本」の創刊15年を,心からお祝い申し上げます。おめでとうございます。どんなにか深い想いをかみしめておいでのことでございましょう。私の書架にも67巻の「湖の本」が静かにいま並びました。
明日は久しぶりに新幹線に乗ります。車中で届いたばかりの67巻目を拝読させていただくのを楽しみに。
ここ半月ほどパソコンの具合が悪く、このメールも届くかどうか心配なのですが、急いでお祝いを申しあげたくて・・・。
* おかげでと、頭を垂れる。のべにすれば凄いほどの人数が「湖」に遊んでいったが、しかも今も購読してくださっている大方が、この人のように「全巻継続購読」の人たちである。それが嬉しい。最初から継続の人も、途中から出逢って全巻を揃えてくださった人も。
* 先日と言ってもいつになりますでしょうか? メールをいただいておきながら、返事を出せずにおりました。どうもすみません。
先生のほうは、HPを見せていただいている限りではお元気そうで何よりです。私のほうはと言いますと、「元気」です。(笑)
今日メールを送れるのは、この火曜で、一ヵ月半ほど続けてやっていた二つのコンペが一段落したからです。この一ヵ月半、ほとんどの日を終電で帰るというサイクルで過ごしていました。まぁ、その前も他の物件で、それにこれからもそうなんですがね。(笑) たまには「仕事」がイヤにもなりますが、概して楽しんで仕事をしています。
このような状況は新聞等にも載っていますのでご存知かと思われますが、マンションブームと言いますか、住宅ブームと言いますか、住建物建設ラッシュによるものです。つまり私の部署の仕事は山のようにあるのです。
こんな中で自分で納得するものはなかなかできないのですが、今は勉強と思ってやっています。この勉強におぼれ、目的を失わないようにするのが大変ですが、何とか今までは切り抜けてきています。そろそろ次のステップとも考えていますが、一歩体を動かすまでの余裕に、まだまだの状況です。
最近感じることです、が、語りたいことは山ほどあるのに、言葉を失いつつある気がします。語る言葉を自分の中で探しているようで、実は自分と外部との関係の中に探しているのではないかなぁ、とふっと思いました。最近そういう脳みそ搾り出すような議論と言いますか、触媒作用のある関係をもてていないと言いますか、、、まぁ、あまり欲張らず、自分自身を楽しんで行こう!と、思っている今日この頃です。では。
* 一安心のいいメールがとどき、今日は良い日です。いまどき、きみがヒマでは困るわけで、忙しさとうまく付き合ってくれていることと想像していました。元気、なによりです。こういうときはむしろ好機、言葉を外向きにむなしく模索するよりも、自身の内側へ思いを沈透(しず)かせ、自身を深く問う方を勧めます。わたしも元気。湖の本の第六十七冊、創刊満十五年記念の巻を発送作業中です。
静かに酒が飲みたくなったら声をかけてください。日比谷辺で逢いましょう。
2001 6・8 9
* 立待月 夏の訪れの近いことを感じさせる晴天でしたが、お変わりなくお過ごしですか。
先日、新聞の家庭欄で、76歳の男性が、「老いても妻は家庭の花だ。夫婦は二世というけれど、来世よりも今、この時をいたわり合い、大切にしなければと思う。」と書いてらした。こう言ってもらえる奥様に、愚かものは言葉もありません。
暑さと貧血にノビています。満月がすこぅし欠けてきました。夜風と月明かりに誘われて、眠れない夜などは、散歩したくなりますが、夜2時では、lunatic。
ご本に、たくさんの反響がおありのことでしょう。お幸せな日が続きますように。
2001 6・10 9
* 昨日、ニュースを聞くともなく聞き流していましたら、ポリウレタン工場でホスゲンが漏れて何人かが中毒症状、という言葉が耳に入り、「うわ、恐いね」と言いかけ、相手を探して口の中で言葉が空転しました。主人は同じ東工大ですが、情報系専攻のため、化学物質の名前を出してもさほどはわからないのです。職場に行っても、説明抜きでこの話を「やれやれ」と話せる相手は同じ専門の上司、一人だけです。普段は、異分野ばかりの中で働くことを楽しんでいても、突然惻々と寂しさがわき上がるのはこういうときです。山歩きの景色を楽しんでいて、ふと足元を見たら、あまりの高度にひるんでしまった感じと言いましょうか。
ホスゲンは、化学兵器にも使われる毒ガスですが、シンプルな化学構造とその反応性の高さのため、プラントの中ではしばしば使われるものです。解毒剤もあるので、早めに処置すればほぼ問題はないので、今回の工場でもそのような処置が行われたと思いますが、以前に、某大学で卒研の学生が死んだことがある程度には、毒性のあるものです。
そこまで説明すると、一応は理系の主人は「ああ、第一次大戦でドイツが使ったやつね」と理解してくれましたが。
もちろん、今はメールという文明の利器がありますから、この件について話したければ、学生時代の仲間にメールを出せばいいのですけれど、同じ空気の中で、さらっと流す程度の話を同じ土台で話せる相手がいないのは、やはりちょっぴりさみしいものですね。いつもは気にならない、むしろ、わかりあえない程の発想の違いが楽しいものなのですが。心が弱っている時には、少しばかり心もとなくなるようです。
先生には叱られてしまいそうな気の弱いメールですが、異分野との交流を楽しんで下さっていた先生だからこそ、こういう小さな心のささくれにもご興味をお持ちいただけるかも、と思い書いております。
相変わらず、ご多忙とのこと。どうぞご自愛下さいますよう。
* こういうことって、近い同士にもやや遠い同士にもね自然に起きてしまう気うとさなのだろうなと、思い当たり、おもしろく思う。わたしの興味は、こういう気分を、こういうふうに表現できる「言語」生活にも向かう。精神が窮屈だとこのようには書き表せないものである。ああ彼女は元気であるなと安心する。
* お土産は要らないと言っても、差し上げます。さてナンでしょう。
利尻富士とレブンアツモリソウを含めた高山植物群を観るのが、今回旅行の目的でしたし、ツアーのタイトルもそうでした。いつもの事ながら、詳細にお勉強もしないで無造作に出かける私、大半はものぐさから、少しは初対面の感動を大切に、との思いがあります。
利尻富士はどっしりとと言うより、可愛く、さながら富士山のお孫さん。残雪が幾筋かの山襞にあり、蒼空に終日全容を見せてくれました。前日までは雨風の強い寒い悪天候だったとか。
里はボタン桜が満開の最北の晩春でした。
夜には、点描画の様な満月が水平線上に。こんな月を観るのは初めてです。
さて、お土産ですよ。
旅行前には、そんなワケで、「レブンアツモリソウ」の写真も観ていませんでした。レブンの付かない「アツモリソウ」は正式には分かりませんが、多分包皮と呼ばれる部分は赤紫で、「レブン・・・」よりは小振りの親戚同士の感じ。これは他の土地でも観られるのでしょう。
「レブンアツモリソウ」 もうお気付きでしょう。あの平敦盛が兜を付けた姿(顔)になぞらえた命名なのです。記憶にある「清経入水」を持ち出し、「能の平家物語」のその部分を読み返しました。熊谷次郎直実に組み敷かれて、見上げた、あなたのペンになる少年敦盛の顔のイメージそのままの花です。よくぞ名付けたと言いたい。微かにクリームがかった色白の平家の公達、「レブンアツモリソウ」兜に隠し持った「小枝」と言われる笛らしき物は、残念ながらそう都合よく見あたりません。世界で、この礼文のこの一角にしか群生しない花らしく、大事に大事に保護され、盗掘にも気配っています。
このまま学名だそうです。風や雨に弱く、すぐに赤茶けてしまい、花を付けるのに四年はかかり、花の時期は短く、五月半ばから、六月半ば位と聴きました。相当神経過敏な花です。遠路はるばる、最高の天候に恵まれ、素敵なお花に出会えてよかった、よかった、の旅でした。
今、何してるの。相変わらず活字に蹲っていますか。元気にしていますか。永い間アッテいない感じ。帰ってからスーと気が抜けたみたいです。又、メールをください。
* 家族旅行が楽しそうで、羨ましい。北海道の礼文・利尻寄りへは行かなかった、わたしの最上徳内は東蝦夷地へまず探索の足を運び、わたしは東へ東へと海岸線に沿って取材の旅をした。納沙布岬まで行き、国後の見えるところまでは行ったが、そこで釧路へ引き返して船で東京に帰った。ずいぶん昔のことだ。礼文で、敦盛ですか。なかなか。
2001 6・11 9
* あじさいが美しい色を楽しませてくれます。玄関にいけた花も、元気。
ディアコノス いろいろな意見が寄せられて興味深く拝見しています。
ある方の「精神障害」「知的障害」の定義は、ちょっとちがうかと・・・。この方の「知的障害」はダウン症のことをおっしゃっているようですが、染色体異常もほんとうにいろいろあってダウン症ばかりでなく、知的に遅滞のないものもあるのです。ここで、「妙子ちゃん」をどんな障害かと断定する必要はないでしょうし、私は、知的障害と思春期に始まった精神障害の混じったものでは、と、思っていました。「結婚したい」という情動が異常に高ぶったことや「死」への願望のあったことが、「節子」とその家族を特に困惑させたので、そのことが問題だったのですから。
それから、セロテープ 排水溝の方は、「心の病」と思われます。(全く同じことを見聞きしたことがあります、「お茶」のけいこにだけは、最後までかよっていたところまで・・・。)難しいですね。早期治療でよくなる可能性もあるものを、家族がすべて背負っているのですね。
2001 6・12 9
* 橋本博英氏の回顧展が青山で開かれてますね。秦さんのホームページも拝見し、講演録も読みました。
個人的なことを話せば、私の祖父も画家で、中学の美術教師をしながら絵を描いていました。
橋本氏の絵は以前に画集で見て、知っていましたが、初めて観たとき、本当にびっくりしました。祖父の絵にそっくりでした。題材も橋本氏は丹沢、祖父は八ヶ岳にアトリエをかまえ、画布を外に持ち出して制作する姿勢も、タッチも本当によく似ているのです。
祖父は私が高校の頃になくなりました。私が美術部に入って、油絵を描きはじめたのを知ってとても喜んでくれました。もっといろいろ話したいと思っていた矢先に死んでしまったような気がします。
橋本氏の絵は正直、それほど上手いとは思いません。(生意気ながら)上手いだけの人ならもっとたくさんいると思います。まず、素人が風景画を描こうとすると、あのような画風に近いものができると思います。
しかし、私はそこが肝要なところで、橋本氏は絵を描きはじめた人の素朴で、純粋に対象を視る目をずっと変わることなく持ち続けた人なんだと思います。印象派とよばれた画家達から時代が下るにつれ、自然のなかで光のうつろいや空気の質感を表現しようという本来の目的が、点描のような分析的手法にすりかわっていったという絵画の歴史もありますが、絵を生業とすればその世界での評価を得るため、意識しないうちに絵のための絵を描いてしまうことが多々あるのではないかと思います。
私がいちばん感動したのは、橋本氏のスタイルがぶれない、筋の通ったところです。失礼ながら不器用にもおもえるほど…。
後半、丹沢にアトリエをかまえてからの、山の小道を描いた作品などは対象物との間にしっとりした空気、水蒸気のようなもの、空気の質感ともいえるものが感じられてきます。風景を描く人であれば誰でもみな、この境地を一つの目標にしているような気がします。見えない空気が描けたら…。
画集にみるところ春や新緑といった、新しいはじまりが感じられるような季節を好んで描いたようですが、個人的には秋や落ち葉の積もった林道も見てみたかった….。
講演録も読みました。カンテラの例え話が好きです。
絵そのままの、静かで、誠実な人柄が伝わってきます。
* 嬉しいメールであった。
2001 6・14 9
* すみませんご心配おかけして。暗い話ばかりでもありません。だいじょうぶです。
仕事が辛いのには明らかな理由が幾つかあるんです。去年異動して以来、上司に恵まれないこともその一つ。いつもどこか重苦しい雰囲気が漂っていて。理不尽なことを言われたり、感情的に高圧的に。
プライベートでは、中学以来の友人が複数の病気を抱え、その医療費支援のために貯金が底をついてしまいました。どうしようもなく制度のはざまで。他に頼る先がなくて。毎日大変な状況へ耳を傾けることが心労となっています。辛い思いをして働いても、蓄えが残らないことも悔しくて。(もちろん彼女の孤独と辛さとは比較にならないのですが)。
仕事のつてで、医療ソーシャルワーカーに相談したり、公的な窓口に相談したりしてもらちが明かず、つい先頃、トップクラスのソーシャルワーカーさんにつなぐことができ、今少しホッとしているところです。
一番気にかかっていることを、ちょっと吐き出しました。
すごくお目にかかりたいです。でもお忙しいことでしょう??ご都合のよい場所、日にちに合わせます。
* 「医療費支援のために貯金が底をついてしまいました」には驚いた。それでは「辛い思いをして働いても、蓄えが残らない」だろう。過剰であるか、そうではないのか。この人もまた「ディアコニッセ」の一人というに、ちかい。分かりきれない一面もある。
2001 6・14 9
* 桜桃忌の今日が湖の本記念日でした。おめでとうございます。
メールを送らせていただいて、又、HPをいろいろに読ませていただきました。15年前とは格段の違いで読者とのつながりがありまして、 これはお手紙を書くのとは又違う、身近なものを感じます。
先生とのご縁が復活できましてより、私はずうっと興奮状態で御座います。丁度1年前からパソコンをやり始めましたが、今回ほどやっておいて良かったと思ったことはございません。世界が大きく開けた気分で御座います。
湖の本45の50ページに創刊の時の事が書かれて居りました。途中お休み致しましたのが、とても心苦しく、辛い思いを致しました。以後私がどうにかなりますまでは、どうぞ末永くお付き合いくださいます様にとお願い申し上げます。
開かれております文学サロン、平安の頃のサロンを思い浮かべましてロマンチックな気分で居りました。こうしたサロンがありますことは、素人でも書いてみようかなと嬉しく夢が持てます。初めてのことですが、私も投稿してみようと思っております。
又、創作シリーズ44「早春」を頂きたく、よろしくお願い致します。
明日からは又しとしと雨のようで御座います、どうぞ御身お大切になさってくださいませ。
2001 6・19 9
* ご尊父のプロフィールを温かい筆致で「e-文庫・湖」に寄稿された田代誠氏から、お人柄、文章の感触にひたっと添った、じつに手触りの温かい、楽長次郎の名品「無一物」によく似た茶碗一枚と青柳の茶が届けられ、ありがたく頂戴した。
2001 6・20 9
* イタリアからフランスへ、ひとりこつこつと旅している友人の、いつもながら知性と実存感のいい手紙が、絵はがき一葉も添えて届いた。
2001 6・22 9
* 毎日、ポレミックなご発言を読ませていただいております。先端情報としても、とても有難いものです。(国際討議の)英訳文も拝見しました。タイトル(Publishing without Publisher)はうまい訳だと思いました。秦さんのように、本丸がしっかりしていて、なお、攻めにも転じられるような若い力があれば、と思います。
昨日の私語で、「群れを好まず」というご発言は、同感です。私もそういう生き方をしてきたつもりです。
ふと、群雀のこと、ひばりのこと、カラスのことが頭をよぎりました。
いま、朝6時ころ。ハシブト鴉の胴間声に、今朝の異変は感じておりません。チュンチュン雀の百羽、千羽。高く高くひとり天まで上る「ひばり」。東京の鴉(ハシブト、ハシボソ合わせ)は、15年前は数千、いまは、二万羽弱ほどとか。衆寡を敵せず、一千万のニンゲンどもに臆せず、堂々と戦う鴉は「アッパレ」ではないでしょうか。何らかの数のサポートは欠かせないものの、徒党を組まない「独立自尊」の強い生き方でこそ真のリーダーシップが発揮されるでしょう。都会の鴉がそうであるかどうかはともかく、私は、数種の声音の使い分けで、ときおり、きらわれ鴉と交信しておりますが、あの胴間声だけで、東都ネットワークを仕切れるのですから、インターネット網どころの話ではないと思います。「一声、数里」やがて万里となりましょう。鴉は海を渡りませんが、渡り専門の鳥仲間は多くおります。”Free as a bird”.
* 秦さま。先日の「私語の刻」にあった、某出版社からの依頼の「京都学企画」に「京言葉」への視点が欠けていた、うんぬんは、同感です。少なくとも、秦さまのこしかたの大半と大方の創作(推察)が、「京ことば」へのこだわりの延長線上にあるからだと思います。こだわりは、うらやましくもあります。
私は、幼児時の疎開体験、トータル2年間ほどの外国旅行・移動時間をのぞけば、ほぼ東京的な言葉のみ。あげく、ものたらず、ポリリングイスティックな、ごちゃまぜのコトタマとなりました。元は、関西風と名古屋弁あたりがルーツらしいのですが。
あらえびす、にも、「みやび」とは違う鄙びの趣があります。そういったことを含めて、ごちゃまぜの言語生活(=ニンゲン生活)に、つい三十年前には、日本のいたるところで生き生きとしていた伝統的な「方言」文化(書きことばにも通じる)が、いつのまにか、迷子になったことが、大問題かも知れませんね。みんなが、横並びの「標準語=普通語(プートンホア)」「TVことば」「ネットことば」「グローバル・アメリカ英語化ことば」になっていくのは、空恐ろしくもあります。いかに、いまの「ことば」こそが、いまの「言語文化」であると受容しても。
「ことば」はまず、「話しことば」が元。文藝の世界でも、しかり。好みの問題もありますが、言文一致にこそ、楽しみを見出せるというものです。昨夜は、久しぶりに、対訳「ロミオとジュリエット」をめくりました。何と、話ことばが、時代の方言が息づいていることか。
こだわりを持ちつづけてください。秦さんしか書けない「はなしことば」のような「はんなりe-文藝」を期待しております。一ファンより。
* こういう中身の濃いメールを、こう紹介させてもらうのは、この「場」を介して、わたし独りの「私語」でない私語の輪もひろげて良いと思うから。こういう声との交信の中に、わたしの「文学と生活」はあり、また「場」の厚みも生まれてくる。賛成だけでなく、反対の声も届いてくれば、それなりに反応したい。議論もしたい。根底の処では、表層の「暮らし」わざである。それだけを大事にしているわけではない。根底をいつも感じているから、表層でも活溌でありたい、そういうことである、ネットの日々とは。
2001 6・26 9
* ogenkidesuka?
France no tabikara modottekimashita. France deha ju-suukasho no kyoukai wo otozure subarashii tokiwo sugoshimashita.
Europe ha vacance season ga hajimatte umiya yamano resort chi ha dokomo ippaidesu. atsuinode ie de yukkurishite karadawo yasumerunoga ichiban no zeitakudesu. taisetsuni
2001 6・27 9
* 七月朝一番に。
* 昨夜、どうして政治討論を面白く聴けたのか、あなたの、出席者が「自分の仕事として発言している」で、そうなんだと、納得しました。体験上での旧体制の与党への批判、又は展望に実感が籠もっていて、聴かせてくれたのでしょう。
最近は、内部から暴かれて具体的に知る悪習慣、悪体質に、国民はただただ呆れて、批判の眼を向けていますが、少し若返って、剪定された、風通しのよい政治をと、期待を持って見守るしかないのですね。
若者達、政治家をミーハー的に見ないで、政治にもっと関心を持って欲しいですね。 読者
2001 7・1 10
* お能とお謡 いつのまにかお祭になりました お能を題名にするほどなにも知りませんのに お能を見ながら、舞っている人が恒平さんなのか、隣で眠っている人が舞人の仮りの姿なのか、眠っている恒平さんの夢の中に本当の舞人がいるのだろうか などと思ってみたりしていました 河村先生に仕舞を習っていた友人はとてもじようずで何度も見せてもらいました 薪能にも何度か行きました お謡は元日に本家で鶴亀を聞くのが恒例でした 母からほんの少し、学校でもほんの少し習いましたが長続きしませんでした そんな私でもラジオ屋さんのおじさんのお謡が聞こえてくると じょうずやなあ 舞台にいる人みたいやなあ といつも思いました
* テレビでも観ていたか。こどものころに御姫さんのように憧れていた上級生が、いまは東京の近郊から、こうしてメールをくれる。お祭りとは、むろん京の祇園会のこと、神輿洗いがはじまったであろう。なんだか、うとうとと夢のようにあわい印象の文面が、しみじみ懐かしい。「ラジオ屋さんのおじさん」とはわたしの父のことで、父は謡曲ができた。能舞台に素人ながら地謡にかり出されたりしていた。この人は、父の妹であるわたしの叔母に茶と花を習っていた社中で、長年お稽古に通ってきていたから、父の謡を、茶室でもれ聴いてもいただろう。優に五十年は逢っていない優しい優しい人だが、いまは、メールで心やすく話し合える。おもしろい時節である。
* 賀茂川の夕涼み なんて、お好みではないですか。こう暑いと、三条や四条の橋の上の夕涼み、どちらかと言えば、通りすがりの四条大橋での涼風が、とてもとても懐かしく。あのあたりから、白川沿いに歩いて家に帰るのが、程よい散歩道だったなあと。祇園祭の神事が始まったとのニュースを観たので、ふと京の夢へさそいました。だからと言って今は、夏の京都は用事のない限り、行く気がないけれど。
* これも懐かしい幼なじみの、東京近郊で暮らしている人からの「帰山情」である。夏は、懐旧のおもいをひとしお誘うのであろう。
五十年になるが、四条の橋の上に歩をやすめ、川面をのぞき、北山や比叡山をながめ、南座、菊水、東華菜館、そして床のならぶ先斗町へ視線を送っていた、あの体感へ立ち返ることはいとたやすい。あっというまに、あそこへ帰れる。好きだった女の子たちが次から次から次から何人も何人も姿をみせて横に立つ。何の違和感もない。思い出は全てが静かにいまも光る宝である。手にもつ必要のない宝である。
2001 7・1 10
* 大学受験をめざしている少年の、どこか、ほっこりと、うっとりと、「夜更かし」のメールが、心懐かしく届いていた。朝一番に聴く「こんばんわ」である。
* こんばんは。 けぇろけろ、遠くで蛙が鳴いています。少し淋しそう。
6月は雨がよく降りました。ですが、意外と梅雨時の蒸し暑さには悩まされず。
僕はちょっと異常なくらいの痩せ型で、半袖の服がやや苦手なので、この時期もけっこう長袖でねばります。今年の初夏は思ったより涼しく、気持ちよく過ごせました。そろそろ暑さは本腰を据えてきそうです。上着を買う時は、おとなしく半
袖の服を選ぶことにします。
今夜はちょっと蒸しますが、夏らしい夜気も静かにやってきています。
夜気は、昔から好きです。夏休みになると、夜でもふらっと外に出ることがよくあります。幼い頃に住んでいた田舎町の夏祭りを、懐かしく思い出します。
家族で祭りに遊んだ記憶はありません。よく可愛がってもらっていた近所の女の人に手を引かれて、ただもう歩き回ってばかりいたのを、よく憶えています。
その田舎町に、家の墓があります。父と母はお盆にお参りに行くようですが、僕はちょっと都合が合わなそうです。残暑の頃に軽い一人旅で行ってこようかなと母に話しました。母も頷いていました。
片づけるものを早めに片づけて、「情熱大陸」を見ました。諏訪内晶子さん。僕はクラシック音楽をとんと理解できないので、彼女を「好き」とは言えませんが、心から「尊敬」しています。素晴らしい演奏で、世界中の人々を魅了してほしい。
僕は「音楽好き」ではありません。ただ、或るロックバンドを、心底「愛して」いるだけです。文学でも美術でもない、はたから見ればただの俗なる「ジャパニーズ・ポップス」ですが、僕にとっては何にも替えがたい真の「藝術」です。
ひさびさに秦さんの小説を読み返していました。
秦さんの小説は、とにかく疲れます。よくよく腰を据えてとりかからないと、文脈をあっというまに見失ってしまう。30分も経つと、僕の集中力はいっぱいいっぱいになります。
ですが、のめりこみすぎないので、かえってけじめはつくとも言える。たとえば石川淳の長編などを読み始めると、まさしく虜になってしまい、これはこれで大変な思いをします。20分と時間を決めて本を読み、風呂に入り、そして眠りに就く。読書は僕の生活には大切なものですが、「今」は最優先すべきことではないので、よくよく気をつけながら付き合っています。
「絵巻」から始めて、短編をいくつか読み継ぎ、「ディアコノス」で息を呑みました。ちょっと間を置いて、この半月ほどは「慈子」「罪はわが前に」「みごもりの湖」の黄金コース(と勝手に名づけています)を辿り、昨夜読み切りました。
自分でも呆れるくらい、何度も何度も同じ場面で涙がぽろぽろこぼれました。「みごもりの湖」の最後を読み終えて、思わず「ありがとうございました」と呟きました。素晴らしい作品を読む悦び、幸せに、感謝しました。
特に「みごもりの湖」は、前にもメールで書いたと思いますが、文句なく秦さんの最高傑作、日本現代文学の名作です。難解さも群を抜いており、そこがまたかえってそそられますね。秦さんの思うツボでしょうか。
短編・中編では「初恋」と「或る雲隠れ考」を「清経入水」なみによく読んでいたのですが、今回あらためて感じ入ったのは、「青井戸」「隠沼」、それから「祗園の子」の「義子」、そして「華厳」と「絵巻」。
「華厳」は、冒頭のシーンからもう眼が霞んで、読み終えるのに一苦労でした。「絵巻」の方は、ヒロインがとても素敵で、こちらは涙よりも鱗が落ちる思いです。珠玉の短編群の中で、「華厳」と「絵巻」は、秦さんの<美しい小説>の間違いない双璧です。華岳も松園も好きですが、楊徳領と藤原璋子の名前も、忘れずにいたい。
黄金コースの三作では、いつもヒロインよりも迪子さんに肩を持ってしまいます。いや、ヒロインはもちろん魅力的なのですが…負けず劣らず、迪子さんも素敵だなと。ヒロインの前に立ちはだかる迪子さんを、時に怕いとすら思います。
すぐ傍にいる女性(ひと)の情念は、すごいものがありました。年上の人だったのですが…お酒が入ると、文字通り「豹変」しました。
秦さんの小説に描かれる迪子さんを読むつど、この「情念」のことを考えます。
慈子に向かって振り向こうとする…芳江さんからの電話を「お受けしたくないわ」とうったえる…槇子に「余呉の旅は、ありえなかった」と手紙を書く…ふっと、怕くなります。
そして、この<怕さ>を心底畏れる慈子や槇子に、胸をうたれます。たまらなく愛しくなります。頼りなく当尾の姿を探し求める慈子に、また、幸田に「姉は、赤ちゃんを」と言葉を呑む槇子に。
迪子さんの存在が、秦さんの小説にしびれるほどの魅力を添えていると思います。
他にも書きたいことはいっぱいあるのですが、ちょっと多すぎて、まとまりません。ほどほどにしておかないと、とんでもない夜更かしをしてしまいそうなので…。
「生活と意見」、毎日読んでいます。ときどき「朝日子」の文字を眼にすると、ぐっと胸がつかえます。朝日子さん、どうしているのだろう…秦さんのもとへ戻ってほしい、と余計なことを考えてしまいます。ごめんなさい。
東京はものすごく暑かったと聞きます。季節の変わり目、体調など崩さぬよう、迪子さんともどもお元気でいてください。
* 作品を読んでくれる人とともに生きるのが「作者」である。著作権は言うまでもなく大事な大事な作者の権利に相違ない。だが、こういう「いい読者」より前に、先に、置くべきものだとは、「真の作者」なら考えない。
読者の「顔」を知らない作者がふつうなのである、不思議なような、当然なような、ことだが。
声高に著作権だけを突出して語るような作家は、出版してくれる出版・編集者の「顔」だけしか知らないし、知ろうとしていない。それが特徴だ。読者とは、権利への対価を支払うべき、ただそれだけのための「人数」に過ぎないと、ただの「頭数」のように見ている。そういう作者ほど、作者とは、作品の出版を、出版・編集に対し「許可する」存在だと胸を張り反り返る。著作権者なのだと鼻息の荒い若気の作家たちほど公然と息巻くが、ものがよく見えていない。作者に対して出版を許可するのは「出版者」であり、作者はこの力関係を錯覚している。さよう錯覚させておくのが「編集者」の技量なのでもある。本本当の本性は、作者とは出版の「非常勤雇い」に過ぎない。本を出させてやっているなどと思っていても、本当は、出してもらっている。出すも出さぬも、絶対権は出版の側が握っている。作者も腹の芯では力関係が分かっているから、だから顔の見えない読者よりも、目の前の出版・編集の顔色のままに、傲然とまたは卑屈に、依存し追従し、ただもう「売れる」ことでのみ恩と義理を返そうとする。まともな「いい読者」たちの顔を知っていたらとても恥ずかしくて出せない仕事も平気で書ける・出せるのは、「読まれる」ことより「売れる」ことを一義に、作者は雇い主に媚びて業界での延命をはかるしかないからだ。クレバーな読者の顔をなまじ知ってしまうと、恥ずかしくなるから、知りたくないのだ。
これが、バブルこのかたの、従来「紙の本」出版社会での基本の図であったし、この図を出版はそのまま「電子の本」時代へも持ち込みたいとかなり本気で取り組んでいる。それに気付かない作者たちは、覚えたての「著作権」で権利意識をふりかざしながら、たとえば作者・読者・出版の構図が見えていない。電子の本と紙の本との本質的な素性の違いにも理解がない。「本」と呼ぶ以上は単純に延長線上に並んでいる気でいる。世間知らずなことは百年前と変わらないのが物書きだ。
* 読者の「顔」を知っている、現代では稀有なわたしは作者の一人だと思っている。出版の売り上げ増のために書くのでなく、知己である読者に恥ずかしくない文章や作品が書きたい。受賞いらい、いささかもその態度を、襟度を、崩さなかった。メールの少年のような、こういう「一人」「一人」のあるかぎり、わたしは「作者」だ。このような読者と同列に、心して、わたしを育てまた認めてくださった諸先生の「顔」をも忘れない。優れた日本の古典の作者たち。また漱石や藤村や鏡花や潤一郎、直哉や、荷風や康成や、太宰賞の各選者や瀧井孝作、永井龍男や、福田恆存や、下村寅太郎や、森銑三や、井上靖や、そういった人たちから「ノー」と首を横に振られるような「レベル」の仕事は、たとえ出来ても、しないのだ。わたしの「湖」は掌に載るほどの小ささだが、湖岸の景色は美しく、湖水も深く冴えている。まさに「みごもりの湖」を、わたしは胸に抱いている。
2001 7・2 10
* 毎日HPを読むのが楽しみで。先生を身近に感じられます事が、又とても張り合いになっております。球体の客室にそうっと私もお尋ね出来そうに思います。
思えば思うほど、読者の声を聞いてくださる作者はそうはいらっしゃらず、又読者の方も聞いて下さるとは思ってもおりませんでした。昭和も60年、初めてお返事を頂きました時の飛びあがるほどの興奮を思い出します。独自に大変な「湖の本」出版を続けられている強い意志に、並々ならぬおもいを改めて噛み締めております。どうぞどうぞ末永くありますように!楽しみにしております。
「ディアコノス=寒いテラス」の巻を友人にプレゼントしたいのですが。近江生れ、京都育ち、横浜在住。感性の豊かな方でございます。一昨年は祇園会につれていっていただきました。
暑さのなか、どうぞ御からだおいといくださいませ。
2001 7・3 10
* 今日は通盛、敦盛の能を観に行きますと、朝一番に、四国の人。『能の平家物語』もお供するらしく、写真「十六」と舞台の「十六」とが交響することかと、懐かしい。
茹だっていないか、青空と山風とをそちらへ送りますと、伊勢の名張から。感謝。
2001 7・5 10
* 二三日前に、いいメールが来ていた。
* お元気ですか。毎日暑いですね。わたしの職場は冷房の効きが悪いので、冷房病の心配のない夏です。
今日は玉三郎さんの舞踊公演に行ってきました。地唄の「雪」と長唄の「羽衣」、「鷺娘」でした。300人くらい入る劇場でした。地唄を踊るにはぎりぎりの規模だったのではないかと思います。わたしは後ろから二列目でしたから、地唄のときは遠めがねを使いました。
何といっても「鷺娘」に期待していました。ビデオで幾度も見たはずなのに、泣けました。生の力はすごいですね。踊りとしては、しっとりした地唄や、長唄といっても能がかりの「羽衣」に比べ、歌舞伎舞踊ならではの見るものを飽きさせない趣向に富んだ「鷺娘」は、うわべの派手さゆえに底の浅い感があるのではないかと思っていたのですが、どうして、からっと飛躍する世界が、見る側の解釈を自由にしてくれます。玉三郎さんも、雰囲気を大事に踊ってくれています。
踊りを見ていて、わたしの「さぎむすめ」、最後のところをもうちょっと直したいなと思いました。話の中で路子が「鷺娘」を踊りますが、ほんとうは引き抜きやぶっかえりのある演目を踊れるはずないし、そうとわかって書くならば、もっともっと幻想のリアリティーを突き詰めなければならないと思っています。でも、それを書いて伝えるには精進が足りません。いやはや、そうそう思うようにはならないものです。
清潔な文章のことをいつも考えています。今はまだ実体がつかめません。いつか腑に落ちるときが来るのでしょうか。川端康成は通俗な内容を美しく書いているなと思っていましたが、改めて読んでみると、その文章はあまりお手本にならない気がしてきました。ガラス細工をつなぎあわせたような文章は、安易にこちらへ持って来ようとすると、ばりんと割れてしまいそうです。
「書くことは泥を吐くこと」、身にしみる言葉です。わたしはまだまだ泥を吐ききれていない。
日本の少女がヘッセのもとに、いつもあなたがわたしを見てくれていると信じています、という手紙を送ったそうですが、わたしは秦さんに同じことを申し上げます。1.7.8
2001 7・10 10
* 帰国。 日本に戻ってきました。
10日、朝7時フィレンツ発、ボローニャに立ち寄りウイーンへ。ここで5時間近く待ち日本へ、いつもながら長い道中で、帰ってくるまで前の日からほぼ2日間、あまり眠っていません。家に辿り着いてさて、洗面所やそのほか、とにかくこれから掃除しないと・・眠いのですが。早速、ホームページの最近の文を読みました。お元気そうで安心しました。
2001 7・11 10
* 暑いより熱い日。階下のクーラーは来客のない限り、身体の為にと、午後四時頃から就寝までつける事にしています。
昨日のあの熱気に負けまいと、まるで暑さの我慢大会の如く、変な処で頑張り、ほとぼり出る汗をシャワーで流し、扇風機の暑い風を受けながら、さすがにショートキュロットでソファーに座り、久しぶりに読書とビデオ三昧の一日でした。夏場の家事は、早い時間に済ませておかないと、老年には堪えます。
処で、夢は睡眠に浅くなった明け方に観るのでしょうか。この四、五日 はっきり覚えている佳い夢を観ます。醒めないでと想いたいほど。
今日も暑くなります。フウーーー
* 愉快なメールではあるが、クーラーは適温で常用しないと、老体が、温度差や高温に負けて行く。家にいる限りは、生活の場だけでも早めに26度ぐらいの常温に一日中設定して、安定してからだを労らないと、くたくたに疲労してしまう。医学常識からも、この朝昼にクーラーなしというのは、超高温季節に自虐的にからだをいじめているのと同じだ。冷やしすぎは禁物だけれど、恒温状態がからだのために大切。クーラーがないとか、節約のつもりなら、別の話だけれど。老年を大切にとなると、しなくてもいい我慢大会はしない方がいいのでは。
* 草も揺るがず。 暑中お見舞い申し上げます。
秦さんのストレス性胃痛?の原因が、自分以外にあるというのも気になりますが、何という、国の、地球の喘ぎざまでしょうか。警鐘は鳴り続ける。どこへ漂着するというのだろうか。ガイア号は。
いまはただ暑さと鬱陶しさを避けて、沈思黙考したい、いや、心と頭を空っぽにしたい。緑陰で。
秦さんの<バグワン>もずーっと先から気にかかっております。
いま、ヘッセの『シッタルダ』の世界にいざなわれ、久方ぶりに深くゆっくり読んでおりますが、樹の下陰での瞑想に心を馳せる。 やはり、覚者(ブッダ)に触れ、近づくしかないのだろうか。暑さと鬱陶しさを払底、自覚・体得しうるのは。
昨日は、朝から、金まみれの話、不景気な話ばかりで、うんざり気味。ランチは新宿角筈の中村屋で、熱くてちょっぴり辛いインドカリーを、夕餉は、近くの冷房のきかない中華ソバヤで、熱いネギ中華に三斗の汗を流した。これ、ただ、先亡の夏バテ防止の智慧なり。インドカレーは、ことのほか夏の胃にやさしいという。夜は松田優作『それから』を鑑た。優作演じる代作(代助)の眼に、シッタルダの懊悩をほぼ完全にとらえることができた。
明日は、五日市のログハウス・アシュラムで第三回目のヨガ・瞑想の伝授を受ける。アメリカで「和尚」に会ったこともある義弟のヨガは、呼吸法、瞑想をまぶし、<抱っこしあって揺れている、双子の枇杷のように>やさしい、どこまでも無理がない。声は静謐、眼に濁りはない。
いま、バグワンの目を見つめる。深い、深い、どこまでも深く(哀しく)大きい。バグワンの双眸は一点を見つめるかのようで、さにあらず。収斂にあらず。収縮にあらず。青山を茫洋ととらえ離さない、達人の放散。
壁にかけ、あかず朝の目礼を交す、ラマナ・マハリシの温容(写真)は、微笑みを絶やぬ。眼はどこまでも奥が深い。足裏は仏足のやわらかさを保つ。ホンモノの裸足のヨギやサドゥーの足裏は柔らかいという。
クリシュナムルティの声はあくまでも静かで低く深い。
タゴールの眸にも何かを感じる。ミラレパにも。
2年前に教えを受けた、シュリシュリ・ラヴィシャンカルの眼にも吸い込まれそうになった。
そろそろ、四十五年におよぶ、似非精神生活に答えを見出す時期かも知れない。子供のころから、断続的に真似事名を繰り返してきた、ヨガや瞑想や呼吸法に、「形」を捨て、「中味」をとりださなくては。
心底から、もの静かな「男たち」の語り口に耳を傾けたい。
一つ年上の義弟は、「2時間のヨガや瞑想より、半時間のハンモックのまどろみの方が、ずっと心地いいでしょう」と静かに微笑んだ。明日もまた、ハンモックに揺られたい。かつて若き日の父が蓬莱島で揺られ揺られたように。
シッダルタ・秦恒平は、57の夏に何を想い何を書いたのだろうか。いま、覚者へ近づいているのだろうか。孤独の行者として。
私も何か書かなくては、そろそろ。
御身大切に。また、どこかでお目にかかりましょう。一期一会もさらによし。
平成13年、太陽暦・文月のある朝。57歳の一読者より。
追伸:出版関連の人と話していたら、「街の本屋が、ブックオフで、見た目完璧な新本を半額以下で買ってきて、在庫扱いで返本しているのも、大いに問題(つまり、出版・流通経路より、ブックオフ仕入の方が儲かる)。伝票も何もあったものではない」と嘆いておりました。
* 満五十六歳の十二月末誕生日に『死なれて・死なせて』を脱稿し、三月に出版し、四月からは東工大で「文学」教授の教壇に立ち、以後四年を大岡山で過ごした。バグワンに出逢ったのはその頃だったか。わたしは上のメールの人のようにいろんなインドの聖者たちのことを知らない。瞑想したこともヨガに接したこともない。ただもうバグワンの言葉を、翻訳本という制約も承知の上で、繰り返し音読し続けてきたに過ぎない。いまや、とくに何かをバグワンに求めて読んでいるのではない、理解しようとしているのでもない、義務でもなく渇望でもなく、無意義の帰依というべきか。
2001 7・14 10
* ディアコノス、そして山瀬さんの作品、読みました。感想は改めて書きます。
今日は祇園祭りに出かけます。まだ時差のせいか睡眠が不規則でつらく、眠れぬ夜が明けました。が、気力は充実しています。毎年、済ませないと落着かないことがいくつかありますが、祇園祭りに行くこともその一つ。
* おだやかな休日を過ごせました。
五日市のログハウスは、秋川渓流を眼下にのぞみ、真下のとなりやの斜面の敷地に、月見草が群生している。ぜいたくな借景。いえ、誰のものでもない自然。人の手が加わらない山里の景観はいい。
「月見草 はらりと地球 うらがえる」(鷹女)
夕闇よせて、山の方の養沢に、蛍を見に行った。禅寺の境内から、川筋をおりて、蛍の二つ三つほのかに見える。待つこと楽し。
寺では、静かな読経が続く。
「すっときて ついと流るる ほたるかな」(舎羅)
むかし、父親が蚊帳のなかに入れてくれた蛍が懐かしい。冷光が幽玄の涼味を運ぶ。
でも、雨がほしい。夕立が恋しい。慈雨を待つ、干天の唐黍、トマト。実りも小ぶり。トンボが群れるまで、まだまだ。
「向日葵の 背を向くほどの いまの夏」(拙句)
帰りしなの、粗びき蕎麦がうまかった。蕎麦麦酒の薬味のような刺激も喉にここちよい。
帰宅すると、香港から帰化して商いをする友人から、「むかしは、7月にコートを着ていたよ」と電話があった。そんなこともあったかなあ。冷夏の記憶も薄い。
* 寝坊して朝明けの一番に、すがすがしいメール。ゆうべも、深夜までつぎつぎにメールが来ていた。
* いろいろなこと 若い時はいろいろなことに関心をもちました 邦楽にはあまりご縁がありませんでしたが 子供の頃から音楽は好きでした 20代には労音に入会し 毎月有名人の演奏を聴いたり バレーを見たりしました 歌舞伎は兄によく連れてもらいました 松竹新喜劇も、文楽も好きでした お能もそのうちにはいりますが回数は少なかったと思います スポーツは小学生時代は運動会が大好きでしたが他は努力して出来るものと出来ないものがあり最も出来ないのが登り棒でした 水泳も好きでしたが、卓球は高校時代チーム戦の補欠で東京まで行きました
お相撲は祖父の代からのフアンで 今も応援する力士がいます 野球は昔中日フアンでしたが 今は高校野球です
しかしこれらとはうらはらに 実は持久力のない虚弱児でした それなのに人並に頑張ろうとし続けたので いまでは全く虚弱おばあちゃんになりました そして5年ほど前に大たい骨骨折、人工関節(左)の状態になってから 大方は夫の車で、一時間ほどの所だけ出かけます 京都へは気候のよい時の法事だけいきます でも昔も今もいつも良い友に恵まれ 楽しめるものが沢山あり、心豊かに過ごせるのは幸です 5月はじめからの風邪が この頃やっと少し良くなってきたかの状態で ながく失礼していました 涼風一日千秋の思い切なるこの頃 どうぞお大切になさってくださいませ
* 午後は理事会に出かける。心涼しく済ませたいが。
2001 7・16 10
* 草花が涼風に揺れて、これからまだ本物の夏が来るの?
信じられない程に、どんどん気温が上昇して、冷房の放熱が拍車をかける悪循環。人が作った地球環境に人が慌てふためいている。私は「バベルの塔」を想い浮かべます。大半の人間は浅はかです。戦争もいやだけれど、これは文明と引き替えの恐ろしい危機です。
* まったく。
2001 7・17 10
* 海開きで明日から海は賑やかになりそうなので(夏休みになるでしょうし)、今日は友人と大洗に行ってみました。人も少なくて、曇っていて、日焼けの心配もなくて好都合でした。駐車場もまだ無料でした。海の家も閑散としていました。明日からはこうは行かないだろうと思います。
海水はかなり冷たくて、磯遊びして、「しったか」という貝を捕っていました。おいしい貝です。こんなところが女の所帯臭さでしょうか?波をかぶったのをきっかけに海に浸かってきました。
* 遠方からのこういう読者のメールに、気が晴れる。朝地震で、そのまま起きた。睡眠は三時間あまりか。地震はどうしようもない。どうしようもないことは、在る。
* 昨日、文藝春秋の寺田さんの電話で、しばらく話した。先日にも電話をもらい、わたしが留守で妻が受けていた。初めて我が家に見えて以来、三十年ちかい。編集者と作家というより、身内のような気がわたしはしている。湖の本のこれほどの持続にもこの人の力添えが莫大に働いている。また新刊分の初校が出てきた。今年の秋口は多忙になりそうだ。今日が国民の休日であることもとんと忘れていた。何の日 ? 分からない。
2001 7・20 10
* 例えば、高校時代の世界史は、何を習ったのか記憶になく、殆ど映画から、彼方の欧米を美化して憧れていました。その後は何十年間の子育て、貧しい生活に追われ、そんな事は頭の片隅にもなく、子供を午後三時に昼寝をするようにし向けて、テレビの「ヒッチコック劇場」を観る、至福の時空間でした。内容は忘れてしまいましたが、オープニングの音楽は、今もウキウキと思い出せます。
子育てしながら、学ぶ人はいますが、私には目先しかなかったようです。今になって悔やんでも後の祭。
聖書にある「バベルの塔」 全能の神が、神の領分を侵そうとした人間への報いとして、国々の言語を統一しなかったとか。宗教、人種、言語、侵略、風習、芸術、土地が繋がっている為のヨーロッパの複雑な歴史、こんなものに目覚めて注目したのは、そう遠くではありません。今、関心のある一つであるのは、確かです。
脈絡なく、読みやすい物をボチボチと本を読んでいます。すぐに、眠くなりますが。
* 意識的に生きる、ものごとに「気づき」ながら生きる・生きようというこういう人が、ふえているのだろうか。減っているのだろうか。
* ご訂正有り難う。(コペンハーゲンの海と日本の海とを比較してはいけない。)正確にはそうです。比較するときの基本でしょうね。対象を同程度にしないと比較にはなりませんから。感情の感覚での比較かしら?
日本も他はしらないし、デンマークも広くて、それほど他に行っているわけではないし、正確にはコペンハーゲン近郊の海岸でいいのかな? それとロシアの黒海やアゾフ海の水も海岸もきれいでした。ロシアには5度ほど行って滞在しているけれど、ドン川は澄んでなくて濁っていたので、泳がなかったわ。
黒海やアゾフ海も静かできれいでした。一晩バスに乗って、山を越えていきましたね。途中は、空から見ると一本の線にしか見えない、巨大な街路樹で、延々とその中を通っていきました。夜中、星だけが見える幻想的な広野をドライブしていきます。遠くに一点の明かりが見え出すと、それがだんだん近く大きくなり、やがて猛スピードですれ違っていきます。戦争の時はここを軍隊や戦車が行軍したのかと、変な想像をしていました。
水がきれいと言うよりは海岸がきれいというのか、人が少ないというのか?日本にもマナーのきちんとした閑かな海水浴場はたくさんあるでしょう。でも、この近くにはないのです。
国外でしらないうちに写っている、広い海岸でぼーっと海を見ている後ろ姿は、自分ではなく、何かの写真集のような感じに見えます。
ホームページは見ております。いつもお仲間とたのしくお忙しそうで、と、拝見しております。私も今年の夏は元気です。仕事の間を縫ってぼんやりとしに、ふらりとドライブしてきます。遠距離を考えているけれど人を誘うのはうるさいから一人で行きます。これで何かあるとみんなにびっくりされるでしょうが、私はそれでいつでもいいのです。
夏ばてしないで、お元気で、おいしいもの召し上がって!
* 湖の本が満十五年で、その前にまだそれ以上の作家生活があり、わたしは読者を宝物のように、身内として大切にしてきたから、久しい文通だけでも、顔など一度も見たことが無くても親しい友人や親族のような人がいっぱいある。秦さんはいいなあ、と、バカなことを言って羨ましがる人もいるが、魂の色の自然に似ている・似てくる愛読者と作者とが、心を許し合うのはそれが本来の自然であり、こういう自然さとはまるでちがう感覚で、読者とは本の買い手としか思わない作者ほど、極端な話、本を二度三度と読むなら二度三度の著作権料を支払えなどと言い出すのである。読んでくれる人は有りがたい存在であり、それだけではない人生の同伴者でもあるのだ。そういう人との作品を通じての出逢い、それが読者と作者なのである。漱石という人はそういう読者に親切な作者であった。
2001 7・22 10
* 上尾敬彦君としばらくぶりに会い、有楽町の「きく川」で鰻を食い、「クラブ」でブランデーを飲み歓談してきた。宵から晩というのになにしろ暑いのには参った。
2001 7・23 10
* hatakさん 札幌も大暑で確かに暑いのですが、それでも東京の大暑に較べれば、涼やかなものです。
論文も、実験も、何もかもが止まり、胸の中で、黒い糸を絡ませたりほぐしたりしながら日を過ごしていました。
まだ心は上の空ですが、手は動き、文書を作ったり、ルーティンな仕事をこなしています。恩師の思い出を、先日文章にしました。この方は、先に亡くなられた上司の指導教官でもあり、仲人でもあった人で、葬儀には札幌まで来られ、私と一緒に骨を拾ってきました。こういう巡り合わせは予想だにしませんでした。
そちらは異常なほど暑く、南の方では潮位が高まっているそうです。例年の異常気象ですが、何事も無くと祈るばかりです。お大事に。お元気で。メールありがとうございました。
*「聴松」という名の「泪の茶杓」
一九八八年三月、茨城県つくば市の研究所の暗室で、私は上司のT室長と電子顕微鏡を使って植物ウイルスの観察をしていました。翌月に、私は沖縄県にある日本最南端の研究所に一人で赴任、T室長は研究所を退いて大学へ移られることが決まっていて、仕事の始末や引っ越しの準備に慌ただしい毎日でしたが、真っ暗な広い部屋で蛍光色の画像を見入っているときだけは、静寂な心地で研究に集中することができました。
「君はお茶を習っているんだよね。お茶の道具は何が好きかね?」
暗い部屋に突然、室長の声が響きました。私は口数の少ない室長がめずらしいと思いつつ、前年の冬、十日間ほど家元を訪れ、それまで魅力を覚えなかった茶杓に、多彩な個性を発見し、深く魅せられたことを話しました。ひとしきり家元での稽古や、雪の京都の話をしましたが、観察が終わって暗室を出るなり、私はそんな話をしたことなどすっかり忘れて、また忙しく実験に取りかかりました。
私が沖縄に、T室長が大学に赴く日が近づきました。春雨の降る土曜の午後、人気のない研究室で実験をしていた私に、荷物の整理をしていた室長が、「餞別をあげよう」と、書棚の奥から小さな包みを出してきました。
「君はこれから沖縄で、おそらく何度も壁に突き当たるだろう。それを一人で解決するのは、決して楽ではないが、そんな時には、まあこれでも見てがんばりなさい。」という言葉を聞きながら、包みを開けると、桐の小箱から先代家元の茶杓が現れました。中の詰筒には、太さの揃った特徴的な手で、「聴松」と、銘が。
T室長の母上は、岐阜で千家流をなさり家元の稽古にも通われていた方で、茶杓は、母上のお形見の品であったとい
うことを知ったのは、ずっと後のことです。お茶杓一本を胸に沖縄へ赴任した私は、十二年を過ごして札幌へ転勤しまし
た。T室長は東京大学を定年退官され、現在は茨城県で後進の指導に当たっておられます。お茶というものは、お茶席
の中にだけあるのではなくて、時として思わぬところから、忘れ得ぬ体験をさせてくれるものです。私は、一本のお茶杓あったがゆえに、仕事も稽古も続いてきたのかもしれないと、時々思っています。 maokat
* 今宵会ってきた上尾君もお茶を習い始めている。おや、この店には花が活けてないな、おや、ここには佳い繪がかけてあるな、この壁はこのままではもったいないほど間が抜けているな、この掛け軸の字はなんと読むのかしら、などと自然に思いが行くようになれば茶が身近まで来ている。そういう気が働かない内は、茶の湯とは英語のスペルを覚えるように点前作法の手順を覚えれば済むもののように思うものだ。MAOKATさんは、会ったことは一度もなくても、きっと佳い茶を楽しめる人であろうと思う。
2001 7・23 10
* 週末あたりから、ほんの少しだけ気温が下がると予報官の話ですが、如何なものでしょう。草木は微動だにしません。
景気低迷で、デフレの傾向。百円均一の店、ユニクロ(あなたは行った事がないでしょう。それが、バカにした物じゃないのです)の繁盛する昨今ですが、程々のお値段で、実用的でない、お洒落で、楽しい品物が、全く姿を消していました。生活に関係ないお店はどんどん姿を消していると我が家の情報通は言っています。
痛みの伴う改革が打ち出され、混沌として、先行き不安を抱えた昨日は株価が大きく下がり、地球上で現実に高揚しているのは、気温だけ。これまで生きてきて、どの時代が住みよかったかと問われれば、これまた返事に窮しますが、老いも若きも良かったと言える二十一世紀になるのでしょうか。
* こういう意識を、七十近い一主婦がもつ時代になっている。
2001 7・24 10
* 「暑い暑いも聞き飽きて」と思っていたら、hatakさんから、タイミングよく「暑い暑いも言い飽きて」とメールありました。
一昨夜の暑気払いの集いで、’You might on my head,today’s hot fish’ (言ふまいと思へど今日の暑さかな)の語呂合わせを披露したら、同年輩の誰も知りませんでした。昔からの駄洒落でしょうか。「煩悩」を何やら言いえて妙ですが。
新宿御苑の森が、深夜、周囲90Mの範囲に2-3度の冷却気を放散しているという記事がありました。都会の木々や森もたいへんにご苦労なことですが、森や植樹、街路樹群がもっともっと都会にあれば、とつくづく思います。
むかし、山奥の雑木林を一山もらって、毎夏の緑陰生活を楽しんでおりました。やがて、養鶏場用地に売られ、そして、見返りに、東京郊外に、庭木もわずかな小さな家が一軒建ちました。元の山がその後どうなったか、雑木林が一つ無くなったことは確かです。そんなことが日本のいたるところで続いてきました。元には戻りません。山には、手入れの行きとどかない、杉・檜の殖林の痕跡ばかりが目だちます。殖産、興産、開発の名のもとに、つい10年ぐらいまで日本の山々から、川辺から、雑木林が消え続けていきました。世界では今でも伐採が進んでいます。その付けの一端の一端が、四十度の酷暑としたら?
木々や森との共生・共存は人間だけのものではありません。生きとし生けるもの、みな、今の日本(地球)は熱い、と感じているはずです。三年ぶりに来日したインド人も、昨夜、電話口で、’Japan, very hot!’ と言っていました(インディアン嘘つかない)。
ひとつだけ、確実に涼しくなる方法を。出かけるときに、麦わら帽子をかぶり、濡れタオルを首に巻くか、ランニングを濡らす。少しは持ちます。ただ、みんなががそうすると回りに熱が放散され、かえって暑くなるでしょう。
みてくれも なりふりもなき 暑さかな
子供の頃、都電にのると、ステテコ、団扇姿のオジサンも珍しくはなかった、ような。
どなたか、納涼のメール、それも、懐かしい、縁台での夕涼みといった、日本の夏の涼味をお届けいただけないでしょうか。
* もの書きや出版・編集者が「環境」を語るなら、いちばんに日本の紙資本が外国でやり放題にやってきた製紙用森林伐採の問題ではないのかと、日本ペンの理事会で水をさしたことがある。諫早だけが環境問題ではないのだ、本や雑誌や新聞やマンガのために、どれだけの木を伐ってきたか、伐った分の補いを日本の出版や新聞や物書きはどれだけ真剣に我が事として考えてきたか。日本の作家たちがその方面で発言してきたのを、わたしは知らない。そしてことは、「京都議定書」へも関わってくるのだが。
2001 7・25 10
* 「えらい暑おすな」「ほんまに暑おすな」「ほな、おきばりやして」「へえ、おおきに」と、こんな挨拶、まだ町中で聴けるのでしょうね。母のよく言っていたこの手の挨拶、記憶にあります。「おきばりやす」が単に「頑張ってください」かと思っていながら、この暑い時に、ナンで気張るのかと、何か違和感がありました。先だって読んだ京都のお年寄り(あなたではありません)の言葉で納得。「お気を張って」の意味だったのですね。
大体祇園祭の頃から旧暦お盆の頃までは高温多湿で、食中毒など、身体に気を張って暮らしていたのですね。
そして又、母が毎年同じ事を言っていました。大文字のあたりからボチボチ涼風がたって、夜は楽になり始め、地蔵盆になったら、もう暑さも和らぐから、一ケ月の辛抱や、と。
京都の夏は暑いと私も含めて皆さん敬遠しますが、今や、日本列島の大半に有り難くないお株のお裾分けとなる昨今です。
* 気張っている毎日なのかも知れないが、気にしてはいない。電子文藝館のメールの往来は、元凶はわたしであるが、かつてなく活溌に。今は仕方ないと、リストの皆さんには煩わしいだろうがご辛抱願っている。
2001 7・26 10
* 私の夏は大体怠け者の夏、というパターンです。
昨年ここに越してきて、油絵の教室もないし、あれもなしこれもなしと、どこにも参加しませんでした。今年は少しだけ積極的?に、自転車で出かけられる範囲で可能なことをと、中国語と日本画の教室に行き始めました。それなりに楽しんでいます。毎週あるといいのですが。
中国語は30年以上前、学生の頃を思い出しながら、ただし漢文ばかり読んでいただけに、とにかく耳で聴くこと、正しい発音が習得できるかどうかの二つが、課題です。参加することにしたのは、講師が中国人の同じくらいの女性だったから。そして最近の中国の急激な変化に関心をもっているからです。
日本画は、結局は絵を描くという行為自体油絵とも同じという、単純な言い訳をしながら、でも楽しんで出かけています。なんと薔薇を描いているのですが・・。
それ以外は相変わらずの「読書」と、辞書と首引きのフランス語、イタリア語。
外出する以外、ここではほとんど毎日人と顔を合わせることもありません。選挙期間中も選挙の車に行き合ったこともなく、夕方買い物に出かけても途中で人に会うことも殆どありません。家の前に新しく家が建てられていて工事していますが、作業する数人の姿を見掛けるばかり。寂しいといえば寂しい・・。
* 「前向き」の、My life in summer だとある。「寂しいといえば寂しい・・」か。フーンと、言葉を喪う。日本も廣い。日本の女性もほんとうにいろいろだなあと思う。ひとしなみにどうやら言えることは、芯は寂しそうだと。それは女も男も、だろう。東工大で若い数百の学生に「寂しいか」といきなり書いて答えさせたら、大方が「寂しい」自分に気づいていますと応えてきた。あのときも愕いた。
* 今朝、黒川さんの「もどろき」を読み終えたところです。読みやすい文章だったので短時間で読み終えたのですが、お父様、お母様、お兄様に関することだけに、とても複雑な気持ちでした。あなたがこれまで書かれていないこと、お兄様との交渉、黒川さんの目を通して見たさまざまなこと、などなど。そして同時に創作としての「読み方」をも頭の片隅に置きながら・・。
p74の父の文章・・「だが、同時に生まれることはなべて不用意ではないのか・・私の社会主義も革命もこの決着のつかぬものの悲哀を排除しない。私たちはいかなるプログラム、いかなる歓喜の中にあっても無限に悲しい。」、それに続く父の活動と逮捕、p79のお母様の短歌、p80「私は幽霊となる道を選んだ」・・活動を続けた人がなおそう書かずにはおれなかった、その意味の重さ、切実さ!・・、最後のp159のバシュラールからの焔の話、などが心に残りました。
* 恒=黒川創は、元気にしているだろうか。
2001 7・30 10
* 外出や通院にことよせての<美味美酒礼賛>、お薬がいやがりませんか。読んでいるほうは、<旨そうな>雰囲気がよく伝わりうらやしくもありますが、御身大切に。
家人が箱根の湯治から帰った翌夜、蒲鉾で知られる<小田原鈴廣>から新鮮な乾物が届いた。同封されていたPR誌の『ごとし』というタイトルに、「仕事師」を連想した。何のことはない、すぐに気づいたのだが「如し」なのだ。思わず苦笑した。何だこりゃ、まさか夏ボケではあるまいし。
言葉は活きているし生きている。とつおいつ、ゆきつもどりつ。言葉は使う人の連想をひきだし、心もようを素直に顕す。書き手の<こころおもひ><こころまどひ>を正直に伝える。そして、読み手の<こしかた><いきざま>へ、あるがまま、出力、連結される。怖くもあり楽しくもある。
秦さんの『闇のパトス』推挙の弁を読んでいても「のやうな」ことを覚えた。粗削りでもいい、腹の底から吐き出された言葉が、いっとう伝わる。読み手の「哲学」(訳語の原義「智愛」ではなく、「こころおもひ」)を映し出せるかもしれぬ。修辞や隠喩は副次の媒介手段でもあろうか。
* ことばが、全く頼りにならないとまで思わないが、ことばは頼みすぎては危ういものだと、いつも思う。十分不十分という意味でなら日本語と限らず、ことばが十分なものである道理がない。老子の鉄則、真理は決して語られ得ない、語られたときもはや真理ではない、というのは頷ける。禅は語らない。語るにしてもあさっての方を向いて途方もないことを言う。バグワンも、真理は、比喩的に詩的にしか寓意できないから真理だといい、多くの寓意・寓話でわたしを愕かせてきた。
だからこそ、明確に書けると庶幾して書かれた文学が、どこか説明過多に軽薄に流れたり生き苦しくなるのも、無理がない。説明し始めれば、説明に説明が要るようになる。人の心理を説明しようとする文学もある。川端康成はそうだ、たえず心理を反省し解釈し説明してくれる。その手際に人は感心するのだが、うるさいなあと思うこともある。谷崎は、そんな必要があるかねと、春琴や佐助の心理などむりに書くことすらせず、事柄をきっちり書けば心理など書けてしまうものだと言ったものだ。
* アルジャーノンに花束を
7月の暑さは無茶苦茶でしたが、ここへ来てたまに涼しい日もあって一息ついております。ご様子はHPより拝察させていただき、お元気でなによりです。
遅ればせながら「アルジャーノンに花束を」を観て参りました。
7/17の「私語の刻」に批評のあったときから気になっていたのですが、その数日後、劇団の関係者から是非観てくださいとの連絡が私達ミュージカルの仲間にありました。その方は私達(* *大学養護学校の卒業生を中心としたミュージカル公演活動)の舞台監督をして下さっていて、仲間なのです。お願いするようになったあとから分かったことなのですが、この方にも知的障害のあるご家族が居られるそうで、それもあって「アルジャーノンに花束を」へは格別の思い入れがあり、とても大切にしている作品、と言ってられます。
私は読書家ではないので「アルジャーノンに花束を」の原作は読んだことがなく、話のあらすじも知らなかったのです。観ていろいろの感想を持ち、いろいろと考えさせられました。
原作はかなり以前に書かれているにもかかわらず、むしろ当時以上に科学のあり方や、知的能力と情緒との関係などに現代的な問題提起をしていて、作者の慧眼に感心しました。
観劇後にアンケート記入を始めたら、唐突に私は息子がなつかしく、いとおしく、早く家に帰って会いたくなりました。
「ああ、彼は大丈夫、”彼のまま”で居てくれてる」ほっとしました。
知的な能力を改善しようとする試みは絶えません。それは今やSFの世界を抜け出して、現実味を帯びています。
医学(薬)や訓練である程度改善され知能が高くなったとしても、それは人為的なもの。普通の人はなにもしなくても初めからそのレベル。どこかで無理した分ひずみが出るのをどうするか──これに近い問題(弊害)は現実に私の近くで起こっています。
そこまでして知的能力にこだわる意味は何なのだろう? 知的障害のある子どもの親にいつも突きつけられている問題なのです。(私は最初からあまりこだわっていない少数派でしたけれども。)
毎日知的障害のある息子と暮らしていると(私はIQ嫌いなので、彼のIQ値を正確には知らないのですが、50以下であるのは確か。)テストで計れるような能力以外の大切なものを沢山教えられます。だからといって一般論としての知的能力の重要性を否定はしませんけれども。
今原作を読んでいます。みなさんが読みにくいと言われる最初の文章も私は息子の文章や会話で慣れているのでお茶の子さいさいです。
京都の夏を思い出しつつ── 2001/8/3
* 不十分な言語や文字をもちいて、あらまし、平静に適切に思いを伝えることの出来る言語生活こそ、与えられた嬉しい恵みだと感じる。それも出来ない、なし難い人もいる。このお母さんの落ち着いた的確な物言いのかげに秘められた思いは、簡単に汲めるものではない。映画「レナードの朝」であったろうか、やはり似た主題で悲しい、いや野蛮なとすらわたしは感じたのだったが、経過を見せつけられた。つらいものだった。「なつかしく、いとおしく、早く家に帰って会いたくなりました。『ああ、彼は大丈夫、”彼のまま”で居てくれてる』ほっとしました」と読んで、思わずぐっとこみ上げた。
2001 8・3 10
* やっと娘のイベント(結婚式)から開放されました。安堵と共に良いお芝居を見たい「アルジャーノンに花束を」を見ようと。
盛大な拍手をされてきたと「私語の刻」で読ませていただいてから、ずいぶん日が経っているようで心配しましたが、取り敢えず、三百人劇場へ問い合わせました。嬉しい事にまだ公演していました。開場前に並び、補助席で見ることができました。楽日二日前でしたのに好評らしく、階段に座布団席も出ていました。
チャーリイを演じた平田さんは静かに、超高知能を手に入れた青年の寂しさを訴えてくれました。「いろんな事を話せるようになったら友達ができるようになると思っていた」との言葉は、辛すぎるものがありました。母さんの悲しみを通して、チャーリイの置かれた立場が理解できます。日頃私の接している生徒たちのお母様の、悲しみや辛さがダブって見えてきます。
原作が立派ですが、脚本演出が良くて、スピディな舞台運びで、一つ一つ自然体に心に響いて伝わってきました。良い舞台を紹介していただきありがとうございました。
原作は昨年キイス文庫で読んで以来、心にひっかるものが有り、時折思い出して考えていました。そしてこの間の湖の本45『ディアコノス=寒いテラス』を読んだときには、二つの作品が重なリ迫ってくるように感じて読んでいました。
映画「レナードの朝」も、このアルジャーノンによく似たテーマでしたが、科学の発達にやりきれない思いがしたことを覚えています。
もう一作、4.5年前でしょうか ジョディ・フォスター主演の映画「ネル」を見ました。記憶のあいまいなところも有りますが、周知の「アベロンの野生児」をリメイクした作品だとの事でした。少年を社会復帰させる努力をしたイタール博士を映画では、医師が、野生に育った少女の言葉を理解し、心を通じ合わせていくのです。我々の言葉を教え込むのでなく、文明社会に連れ戻すのでなく、彼女の純粋さに医師の方が心を開いていく。もとの美しい森や湖の自然に帰って生活をする事ができるようにする。その人、その人そのものを大切にしていくことができる社会が、本当の文明社会なのだろうと思わせられた映画でした。
「人並みでない」その事への強い拘りを持つことが、違う人に対しての差別を生み出し、我々と同化させる事が親切のように思い込んでしまいがちになるのです。
「アルジャーノンに花束を」も40年も前に発表された作品ですし、「レナードの朝」も「ネル」もずいぶん以前の作品です。アメリカでは前からこのようなことを、ともあれ論じあう事ができたのですね。日本でも、もっと多く「自然に」考え、話し合っていかなければならないことだと思います。
『ディアコノス』を仲間の先生たちに読んでもらい感想を聞きたいと思いながらも、人選で躊躇したりして、ぐずぐずしています。「自然に」が難しいのです。
石原都知事は特殊学級を減らし、先生の配置を少なくするとの策を取りだしたとの事。障害児も普通学級で一緒に勉強できる事は良い事で、期待したいところですが、そのための何の思索=施策もなく、人員の増加も無いのでは、子どもたちがどうなるかは目に見えます。経済効率だけが先行していいのでしょうか。人を大切にする事の、アメリカとは次元が余りに違いすぎると、貧困さに悲しくなります。
まとまらない文ですが、舞台の余韻が消えないうちにメールさせていただきます。「私語の刻」を読ませていただき、世界を広く見、考える事もでき感謝しています。
* もしE-MAILでなかったら、この妻の親友は、こういう手紙をわたしにくれたかどうか。作家に手紙を書くなんて。どんなに大層なことと思ってか、いやほど大勢から聞かされてきたが、メールは、ほぼこういう意味のない拘りを解消してくれる。そしてまた、こういう手紙を書いてみる、たとえ発信を躊躇ってしなかったにしても、だがこれだけの自問自答はやはり貴重な体験をかたちづくるだろう。過去の何十年のうちに、手紙やハガキなど数えるほども書かなかった人が、メールを使い始めて、盛んに、嬉々として久しい友人たちと交信している例は、よく聞いている。人間は用事や用件だけの手紙よりも、話し合うように書ければいいのにと思ってきたのだ、暗に。それが実現している。物事には表裏あり利害得失あるから賛美ばかりは出来ないが、胸の開く思いをしている人の多いのは確かである。
このメールをくれた我が家の友人が、学校の昔から作文や日記書きに精出していた人であったかどうか、わたしは知らない。たいがいは、そうではなかつたが、メールによりそういう力を開放されたと感じている。このメールも、過不足無く穏和な文章で言いたい限りは言われている。すばらしい。こういうメリットが、社会化し時代化してくれば、わたしは文藝の発芽が機械の上で可能になってくる機運を疑わないし、期待している。わたしが、いくらかは、いや大いにわらわれながら平気でこの電子メディアに関わっているのは、大きな一つにそういう「歴史」の今萌芽期を読みとっているからだ。
2001 8・5 10
* 立秋 暦のうえでは秋。「暑中見舞い」は変かしらと思いつつ、この暑さですもの、まだ夏本番としか言いようがないですね。阿波踊りが終われば、吹く風にも少し秋を感じられる気がしてきます。さほど変わらない気温なのでしょうが、不思議とそう思ってしまうのですから、人の感覚っていいかげんなものかもしれません。でも、この「いいかげん」な感覚こそ、季節の移ろいを身近に感じるには大切なもののように、私は思っていますの。東京は少し気温が下がったようですけれど、まだまだ暑さに油断なさいませぬよう、御身お大切に。お肉を少しばかりですが、暑気払いにどうぞ。 花籠
* ありがとう。風の音にもおどろかれぬる という気配ではまだないようですが、どなたも、お大事に。
2001 8・8 10
* あやしげに仕上がった例の「ものつくり大学」のことが、こそっとも話題にならない。ものつくりのすばらしい専門家が生まれくることを願っている。職人藝の伝統に立つ東京工業大学に四年半奉職したのもご縁であるが、家のペンキ塗り一つでも今時の職人仕事に失望したことはある。東工大院卒「就職主婦=母親」の次のメールが厳しい。
* たましいを研ぐ。
秦先生。8月に入り、暑さも少し休んでいるようで、しのぎやすい日が続いておりますが、いかがお過ごしですか。私もやや夏バテ気味でしたので、この涼しさで生き返る心持ちです。もっとも、立秋とは名ばかりのようで、週末にはまた暑さがぶり返すそうですけれど。
一昨日、わが家のポストにちらしが入り、流しの砥ぎ屋さんが近所に来る、と言うことでしたので、かつお節削りの刃を持って出かけました。他の刃物については、お世話になっている砥ぎ屋さんがあるのですが、そこは預ける日数が少し必要で、毎日使うかつお節削りはなかなか出せずにいたものですから、その場で砥いでくれる流しの砥ぎ屋さんなら有り難い、と出かけたわけです。幼い頃は、こうした砥ぎ屋さんが時折来て、その場で砥石を使って鮮やかに砥いでくれたものですが、最近は全く来てくれることはなくなっており、久しぶりだな、と思いつつ出かけたのです。 しかし結果は惨澹たるものでした。世間知らずな私は、電動の砥ぎ機というものがあることなど知る由もなく、預けたとたんに発電機をまわしはじめた砥ぎ屋さんを訝しく思いつつ見ていたところ、なんと物凄い勢いで回転する円形の砥石様のもの(?)刃を当てているではありませんか。今さらやめてくれ、とは言えず、仕上がったかつおぶしの鉋と2本の包丁は、持ち主にとっては胃がきりきりするような状態になっていました。
言うまでもないことですが、包丁が爽やかな切れ味を保つには、刃の端が鋭くなっているだけではなく、面が平滑になっている必要があります。電動の砥ぎ機で、旋盤のように砥がれてしまった包丁は、刃こそ鋭いものの、刃の横面はムラになっているのが反射の加減でよくわかります。手で触って感じる程度ではないのですけれども。
包丁というのはそもそも何層かの鋼で構成されていますが、この各層は反射率が異なり、故に平滑に砥ぎ上がった包丁は刃の際に内側の層が一直線にあらわれて、すうっと一筋の縁がついたように仕上がるものなのです。ところが、今回砥ぎ上がった包丁は、これらの層がわらわらといった感じに現れており、見ただけでも感覚的に、これは切れまい、と思わせるものになっているのです。
この包丁で試しに胡瓜を切ったところ、案の定、刃はきれいに入るものの、滑りがどことなく悪く、するっと下までおとせない。もちろん、切れはするのですが、切りおろす際になんとなく軽い摩擦を感じるのです。気にする私が神経質すぎるのかもしれないのですけれど。
胸の中をなんとも重く湿っぽいものが漂います。この砥ぎ屋さんが意図を持って、つまり、手軽に稼ごうとして刃物には悪いとわかっていながら、こういうことをしているのならまだ救われる気もするのです。ところが、この砥ぎ屋さんは親切な方で、かつお節削りの刃を乗せる台が、少し緩んでいるから、紙か何かを噛ませた方がいい、とか、きれいにかくためには、かつお節を濡れぶきんで包むといい、とか、いろいろと教えてくれるのです。そこまで知っている人が、なぜこんな砥ぎ方をするのか・・・最も、プロであるべき人が、そのプロフェッショナルをどぶに捨てるような方法で商売をしていて、本人は哀しくないのでしょうか。
話はまだ続きがあるのです。家に帰ってきて、削り台からの刃の出方を調整しようと、木槌でこんこんやっていたところ、砥ぎ屋さんのいう通り、台の空き方と刃の大きさが微妙にずれている。原因は、刃をおさめるべき場所の切り口が荒れているからでした。切り口は、恐らく3回にわけて台から引いたと思われ、その息継ぎ部分がそのまま荒れているのです。ほんの少しやすりをかければ、あるいはやすりをかけて減る分を計算して木を引けばよいだけですのに。このかつお節削りを買った時は、結婚したばかり。一番お金がない時期で、お店の中から一番安いものを買ってきたのですが、値段の違いはこういう部分にあらわれるのでしょう。安かろう悪かろう、は納得できるような気もしますが、やはり気鬱になるのは、こういう品を作った職人さんの心です。木材を扱うプロでありながら、木の切り口の始末もしない・・・これは、料理人が鍋を洗わずにそのまま次の料理を仕込むようなものではないでしょうか。こんな作業は大した手間でもなく、そしてプロならば「そうしないと気がすまない」というこだわりがあるはず。このような心の荒れ方は、私には全く理解できないものです。
吉川英治の「宮本武蔵」に、「御たましい研ぎどころ」と看板を出す研屋が出てきますね。なまくら武士となまくら刀ばかりが増えている昨今の世があまりにもひどいので、自分は「刀」ではなく「御たましい」を研いでいるのだ、と敢えて看板を出している。職人さんというものは自分の領分にそのくらいプライドを持っているのではないでしょうか。だからこそ、私は職人さんというものに昔からとても敬意を払い、払い過ぎるが故にそれが高じてかつて「東京職工学校」であった大学に入り、今も職人さんと直接関わる仕事をする次第とまでなったのですけれども。
職人さんだけでなく、プロというものは普く自分の持ち場に関して、譲れない自らの基準を持っているものだと思うのです。常に「たましいを研いで」いるとでも言いましょうか。けれども、最近はそういう心の持ちようをしてくれるプロが少なくなっているのかもしれません。それがあまりにも哀しく、私の心を重くするので思わず、これこそが今の日本の病み方を表しているなどとまで感じてしまいます。
お忙しい中、長いメールで失礼いたしました。天候がなかなか安定せず、夏風邪も流行っております。どうぞお身体をおいたわり下さいませ。
* 次は、家庭の六十過ぎたらしいいわゆる専業主婦のメールである。
* 腰痛 八、九年も前ですか、介護中の決して体重の軽くはなかった母を中腰で抱き上げようとして、初めて腰を痛め、整形外科で検査を受けましたが、診断は老化に依る椎間板のクッションの摩滅でした。骨密度の方は素晴らしいとお墨付きを戴きましたが。右腰は過労になると痛みます、が、ヘルニアではないので、手当としては熱をとる冷シップ以外になく、まあその程度のものなんでしょう。痛みの度合いにも依りますが、怖れて安静にしているよりも、筋肉を作る為によく動く方がいいようです。これは膝痛にも言えます。
姉妹三人+一人で参加の、北アルプス白馬方面の短いツアー旅行でしたが、それぞれの体力に合わせてトレッキングをして、楽しみました。まだまだ、多くの高山植物が咲き乱れて、歓声を挙げました。腰痛で医者通いの老人の行動ではないですよね。分かっています。山の魅力はその比ではないのです。
リフト、ロープウエイを乗り継ぎ、降りた処が標高千八百*米。午後の事もあり、蒼空には程遠かったけれど、ほぼ三千メートル級の幾つものピークを眼前に望み、もう腰の痛みを忘れて、妹とガレ場の急坂をカモシカの如く、四十分ばかり登りつめて、神秘の八方池に辿り着きました。永年恋いこがれた池との出逢いです。感激で、このまま天空に吸い込まれてもいい、と、大仰な事を想いました。ウソではないのです。ちまちました雑念はすべて空に霧散しました。
自然に帰す。
人間すべて原点に戻れば、世の中の些細ないざこざは皆無でしょう。大自然はそう想わせます。
主婦仲間と、紅葉の頃に再度訪れるプランもあります。
* 専業主婦と就職女性のバトルが、ときどき報じられる。そもそもの比較がアバウト過ぎる。
専業主婦には、文字通り家計のやりくりと子育てとローンに追われて必死の専業女性がいると同時に、いわば家庭は安泰、ヒマもあり体力もあって、子育て準卒業、亭主とのことは程々にという、旅に遊びに楽しくてたまらない「片業主婦」もびっくりするほど増えている。街にも観光地にも外国にも、そういう片業主婦がどんどん出ている。仲間で群れて出ている。
就職女性にも、未婚の人と就職主婦・母親との違いは大きい。後者の頑張りにはかなり血も涙も汗も滲んでいる。
バトルすることも無かろうにとは思うものの、いまの時代、いちばんけっこうなのは「片業主婦」のように思えも見えもすると謂えば、言い過ぎだろうか。必ずしもこれは批判でも非難でもない。厳しいところを通過してきた世代女性がボーナスを得ているのかも。昔には、少なくも絶無に近かった。けっこうなことである。
* 四国の若い「就職・母親主婦」から、暑気払いにと美しくも旨そうな牛肉がたっぷり贈られてきた。働いて汗のにじんだ贈り物である、ひとしお旨い。感謝に堪えない。
* 昔のクラスメートが、多年の趣味を生かして一枚のCDを贈ってきてくれた。こんなメモがついていた。楽しいではないか。楽しむ人は男性も楽しんでいる。感謝。
* 暑中お見舞い申し上げます。猛暑の毎日ですがいかがお過ごしでしょうか。私はカビ臭いレコードをパソコンでせっせとCDに化かして暑さを凌いでおります。
月に何度かは河原町界隈に出掛けますが毎月2日曜日の1時からは四条木屋町上るニュー・トレッカビル2Fのメキシコ料理店「マリアッチ」での月例レコード・コンサートに出て二次会でテキーラを飲んでおります。
7月に創立50年を迎える「京都中南米音楽研究会」のメンバーになって40年、よくもまぁ飽きずにと我ながら呆れております。
アルゼンチンタンゴ狂徒ですが、きょうは手持ちの音源の中からラテン、フォルクーレ、フラメンコなど取り混ぜて一枚作ってみましたのでどうかご試聴ください。市販の復刻盤CDと違い無修正のため針音やノイズが耳障りな曲が殆どですが録音年代に免じてお許しのほど。
暑中見舞いのつもりが独断と偏見の選曲CDで却って酷暑に輪を掛けるのではといささか案じております。何はともあれ時節柄くれぐれもご自愛ください。不一 2001年盛夏
* 臨場感に飛んだ、まさにライブ感覚の面白い盤である。聴きながら書き込んでいた。これがわたしの休息でもあり、表現である。 2001 8・9 10
* 秦先生、お久しぶりです。ホントにお久しぶりです。
今日は上司の歓送迎会で一旦外に出てお酒を飲んで職場に帰ってきました。4月以降様々な、本当に様々な案件が転がり込んで来て、心の余裕無く過ごして参りました。今日はお酒が入っているせいか、この様にホントに久し振りにメールを書く気分になっております。今日は、多少は早く家に帰れるでしょうかね。
先生からは色々と期待されている事を知りつつ、また友人知人達からも色々と期待を受けている事は知りつつ、日々の生活に埋没してしまっています。“期待されている”と思う事で自分を奮い立たせる日が何日も続きました。これが良いこととは決して思いませんが。
『ディアコノス』読みました。靖国問題や教科書問題にも大きな関心を寄せています。小泉首相は、大丈夫でしょうか。やはり、私は田中大臣より扇大臣の方が、信頼出来ると思います。
世の中には様々な関心事があります。それら対して妻とは意見を闘わせますが、外に対して発せられません。妻も教育問題に大きな関心を持っています。日本は大丈夫でしょうか。無性にこの仕事を放り出したい気分に捕らわれる時があります。
何を偉そうに、と言わないで下さい。自分が居なくては、とでも思わないとまわりの人間と戦う事も出来ません。戦わなければ何も変わりません。でも、本当に戦わなければいけないことの1%も戦っていない自分がここに居ます。
愚痴になってしまいました。書きたい事の少しも書けていませんが、そろそろ終わりにします。こうやって時間が経って結局、何も言葉を発せずに引き出しにしまわれてしまう事柄がありますが、24時間という限られた時間の中で、社会生活を送るには仕方の無いこと、と割り切らざるを得ません。最後に“仕事で” 某業界紙に寄稿するべく書いた原稿を送らせて下さい。年末年始に新婚旅行に行ったイタリアの事を書いています。思いを風化させないうちに、と振り絞って書いた一つです。
以上です。酔っぱらいの文章で申し訳ありません。
* どうしてどうして、酔っていない時と同じか、それ以上に率直に、言葉がメリハリをもって紡ぎ出せている。ああ、やっているなと嬉しくなる。希望をもちたい。
我よりも長く生きなむこの樹よと幹に触れつつたのしみて居り 斎藤 史
残念なことにこの機械に、WZEDITOR.EXEのファイルが見あたらなくて、せっかくの旅の文が読めない。幾度インストールしても、途中で機械が凍り付いてしまう。
2001 8・10 10
* 「まちづくりの視点」と題して、こんな原稿が届いた。著者の了解を得て、「e-文庫・湖」のエッセイ欄にもらおうと思っている。
* だいぶ前になるが、機会に恵まれ、ローマの街を訪れた。学生時代に何度か、といっても二,三度、好んで足を運んだ都市である。就職後初めての今回の訪問でも、ローマは相変わらずローマであり、二千年の時を経てなお、生活に溶け込んで生き生きとした市街は健在であった。
デコボコの道やまがりくねった道、(あれッ美空ひばりみたい。)見通しの悪い交差点に加え、段差だらけの歩道。それなりに贅沢したつもりの四つ星ホテルに泊まったのに、今にも止まりそうなエレベーター、そして重たい窓とドア。その一方で、寒空のもと、街には花が溢れ、行き交う人々の元気な声、街角の広場に開かれたお祭りさわぎの市場に並ぶ色鮮やかな野菜の数々、どのどこの店先もの目をみはる美しい色使いなど、ローマを彩る色彩・空気・もの音の織りなす景観のなにもかもが楽しくて、あっと言う間に(白状します、新婚の旅の)滞在期間は過ぎてしまっていた。
もちろん日本にも、長い歴史の街や住人の旺盛な声溢れる街など、心惹かれる都市・市街は沢山ある。身近な日本の内だからこそ、興味も持ち理解も得たくてそれらの街々を見てきたつもりだ。人の暮らしに添い寄りながらじっくりと熟成されたような街、四季に応じて景観も階調も静かに変えてゆく繊細な表情の街など。
どちらが良いというわけでなく、だが、ローマの街と日本の街には根のところで大きな何かの違いがある。
ローマ人(という概念があるのかどうかは別として・・)は、街に存在するむろん植物も、人工の建物でさえも“自然のもの”と見ているのではないだろうか。これが、私の辿り着いた結論である。ある土地や、そこに植生し生息する植物動物は、私たち日本人も“自然”として見ている。だが建物やそれに付属するもの、つまり人間の手が作り出したものは“自然”とは見ていない。
ローマ人は家具や壁紙などのインテリアを替えることで、古い建物も自分のものに機能させている。単に壊れにくい建物だから、あるいは古い物を大切にしている文化だから、と言えばそれまでかもしれないが、山さえ切り崩し、土地を意のままに造成することも厭わない日本人の私たちにしてみると、彼らとのこの違いを、根本的な思想の違いと考えた方が、私には理解しやすい。
日本では“親に貰った体を自分で傷つけるなんて”と批判する。ローマの人々には、土地も植生も、そして建物ですら全て神様から授かったもので、軽々しく変更し変容することは、×では無いが、何でも○というわけでは無い。“神様に戴いたものを人間が傷つけるなんて”というわけだ。むろん手続き(どの様な手続きかは分からないが)を踏んで、本当に必要なものだけを神から賜った土地の上に作らせて貰うという、厳かな、もしくは敬虔な思いがあれば話は別なのだろう。
木々や緑が特段多いとも思わないが、イタリアの街を歩いていると、様々なモノに対するイタリア人のそんな思いが満ち溢れているようにしか思えない。
省みて、我々にもこの思いがあるかと考えると、答えに窮してしまう。実際には、ただ政策的な意義や経済効率などを一生懸命説明しつつ、色々なものを作りまた壊していはしないか。
先日、以前に行って気に入ったレストランを久しぶりに訪れてみたら、更地になっていた。久しぶりとは言え三ヶ月ほどのことであった。レストランの潰れるのは経営の問題でもあろうから仕方無いとしても、建物まで壊さなくてもねぇ、と思う。この世に永遠に存在しうる何一つ無いのは百も承知の上だが、二千年の時を経て未だ生き生きした街が世の中にはあると考えると、心強くあるのとともに、余りに早い街の変貌や改造には、どこか人の思いの軽さも感じざるを得ない。地に足をつけた謙虚な「まちづくり」をこそ、この(爛熟気味の)成熟社会は心がけて行くべきではないのか、という思いを強くした。
* いくらか見解を異にする人もあろうかと思うが、また一つの見解であろう。「日本の昔の建築でも、自然そのものとして建てられた例は、多いですよ。東洋や日本では、人間をすら自然の点景とながめ、自然に生まれて自然に帰ると思ってきたようです。自然=じねん、とは即ち死=帰る意味も持っていました。この辺はまたいつか話し合いましょう」と感謝の返事を送った。「ひきよせてむすべば柴の庵にてとくればもとの野はらなりけり」という慈圓の歌もある。ただし、みな昔のこと。今日の都市の建築は、自分の設計図だけは熱心に作られていても、隣近所や道路・町並みとの調和を無視した醜悪な建設があまりに多い。民度の低さと荒れとを露わにし過ぎている。
2001 8・11 10
* 光る秋 今朝の札幌は晴天。目が覚めて窓を開けたら、無数の光るものが飛んでいました。朝日を受け、南から北へ、輝いていたものは、とんぼ。すいすいではなく、流星のように、まっしぐらに、次から次へと、飛び去っていきました。
夕刻。友人を送った帰りに、北の空を見ると、手稲山の稜線が金色に輝いて、刷いたような雲が茜色に。澄んだ景色に運転の手をとめてしばし見入りました。
秋はきた、と感じました。
立秋を過ぎ、関東はしのぎやすくなりましたか?お大事に。 maokat
2001 8・12 10
* 元気でおります。
恒平さん、久しくメールが途絶えて心配をおかけしたようです。年齢相応の故障はありますが、ま、贅沢は言いますまい。いよいよペンショナーと呼ばれるようになりましたが、身も口も達者な方だと思っています。5月から10月までの観光シーズンは、その口を生かして終日観光バスのマイクを握っています。ガイドは一種のエンタテイナーとでもいいますか、、、笑いをとりながら客をケムに巻くおしゃべりも楽しいもので、、、。その間を縫ってカナダの新聞と日本の雑誌への定期的な寄稿といった、気楽なセミリタイヤメントなのです。
ホームページは拝見していますから、恒平さんの近況はよく伝わっています。一方通行になってしまい、これも”片便り”というのでしょうか。湖の本も読ませてもらっています。そのわりに読後感といった個人的な反応を書き送らないのは失礼な気もするのですが、それは32年の昔、太宰賞受賞のニュースを聞いたあの時の感懐につながるのかもしれません。友人がいよいよ世に出て、文学のプロ、アマを問わず不特定多数の読者に恵まれた執筆生活に入る、、、失敬をかえりみずに言えば作家としての”巣立ち”だと思ったのです。もう自分などが見当はずれの批評を書き送らなくても、、、という気持ち。期待通りその才能が世に認められ、旧友のひとりとして我が意を得た思いであったあの時のことが記憶に甦ります。現在はユニークな出版形態の中で”特定多数”のすばらしい読者の支持を受ける数少ない幸せな作家だという認識です。
2年前に初めてHPを開いてビックリ仰天の思いだったことが、一つあります。私の知る恒平さんは、常に時の流れに超然として”我が道をゆく”おもむきがあり、そんな世離れしたところに秦作品の特徴があるのだと解釈していたものですから、「生活と意見」のようにドロドロした時流に棹さす時評には「へえー」という気がしたものです。いや、それがどうこうというのではありません。「フムフム」と頷きながら呼んでますからね。
ところで、新首相の小泉さんとやらにも困ったものです(海外居住者にも選挙権がありますので、すこしは悪態をつく権利はあるでしょう)。靖国13日参拝などと、足して2で割ったようなのはお笑い種です。強行か、止めるか2つに1つであるべきでしょうに、、、。
わたしの岳父は57年経った今も南海トラック島沖の、みな底に眠ったままです。かりに遺骨が収容されても靖国の社とやらへは帰らないでしょう。実のところ、そんな神社が東京のどこにあるのかさえ私どもは知らないのです(知りたくもなし)。初めての子を宿した新妻を残して散った人の無念が晴れることはないでしょう。そのお社を肉親の霊の鎮まる所と信じる人達を誹謗する気はありませんが、遺族などという言葉でひとくくりにしないでほしいものです。
* 久々にカナダからの友の声を聴いた。
2001 8・14 10
* 私は黒いピンをはずすと 物足りないどころか 不安になります。落ち込みさえします。ゆったりとしたありのままの世界に身を置くことができないのです。黒いピンを刺して 約束事 を果たし、課題 をこなし、役割 を演じる ゆっさゆっさとしたせわしない時間にいるときのほうが、気持ちが安定するのです。まさに マインド のかたまりですね。
黒いピンを抜いて 静かにたゆとう世界に身を置いたときに 気持ちが楽になれるようになりたいのです。
いつとはわかりませんが幼い頃 黒いピンをそっとつけられた思いがします。ああ、私の周りに何人も、黒いピンを、そうとはしらずにつけている人たちがいます・・・。あなたのお話でそれに気づきました。黒いピンを 意識して時々はずしてみることにします。
* 思うままには取り外しできない、その存在に自覚的に気づきもしていない、のが「黒いピン」のようです。ある時期まで、抜こうにも抜けないのが「黒いピン」のようです。まして抜けたらかえって不安になる人には。しかし、あなたはとにかく一つの視点を持ったのではないでしょうか。ドンマイ (don’t mind !)を呪文のようにとなえてでも、マインドまみれの多忙な日々を少しでも軽く明るくしたいもの。深い楽しみをもてることも大切かと。
2001 8・16 10
* お躯の変調、お案じ申しています。ご無理が積もり、夏の疲れも積もってのことでしょうか。どうぞ、おたいせつに。
わたくしの黒いピン、気づかせていただいて、抜いた、抜けたつもりでしたが、抜けていません。
どうしてこんなに騒がしいのか、そう、おもっていました。どうして、いつも心落ち着かず、充足感がないのか、さびしいのか。そう、おもっていました。黒いピンの存在に気づきもせず。
子供のころ、乳歯がなかなか抜けなくて、歯医者さんに抜いてもらいました。麻酔注射をされ、それでも痛くて痛くて。
黒いピンは独りで抜かねばなりません。耐えられますかどうか。
今日、ひぐらしを聞きました。七階のわが部屋に、昨夜は、翅の先が茶色のとんぼが泊まってくれました。
わが心の騒がしいのはわが心から。
ヒットラーもどきの総理大臣や都知事の言動は、騒がしいでは済まされぬこと。隣り街にある私立学校は、例の歴史教科書の採用をきめました。
* 「黒いピン」をハッキリわたしの眼に見せて、奔走奔命している人が、疲労困憊している人が、心身消耗している人が、何と多いことか。得意そうな人も有れば悲しそうな人もいる。赤い羽根運動のときの比でなく、もう、わたしの眼には、われも含めてと敢えて言うが、無数に「黒いピン」を刺したまま、無数に人の右往左往しているのが見えている。こんなに黒い世界であったとは。
2001 8・17 10
* 庭の隅に 小さな野草園を作ろうとしています。小田急の各駅停車の乗り場の入り口に「野草」を取り扱っているお店があります。今日は「ほととぎす」を二種類、「おみなえし」それから赤いききょうなど五種類ほど求めましたら、「あしたば」をおまけにそえてくれました。水をたっぷりとあげないと、この季節、なかなか根づいてくれないかもしれません。朝の仕事が増えました。田舎で育ったせいか、野の草や花に手を触れていると心和みます。もうひとつの小さな花壇は紫サルビアと黄色い花、玄関の鉢植えも洋花なのですが・・・。
昨日京都は五山の送り火。幼かった三人の娘達と昔 出町柳のあたりの賀茂川べりで眺めました。ただただ美しいもの・・・ と。今は、亡くなった人にとらわれ過ぎないように、魂をそっとあの世に送り返す火なのかと・・・思います。
2001 8・17 10
* もう、全快で元気モリモリですか。
痛みの状態がどうなのかは、分かりませんが、一般的には、男性はお産の経験がないので、痛みに弱いと聴きます。経験のある私でも、脹ら脛が長時間(と言っても数分らしい)攣れたときは、あまりの痛さに脂汗を出します。わりと頻繁にやってきます。マア、だましだまし付き合っています。
昨日、桜木町の商店街をお買い物の自転車でサーと通り抜ける私を、大声で呼び止めてくれた人は、二十年も前にアルバイト先で一緒に働いていた十歳は若い奥さん。その後二度ばかりスーパーなどで、彼女から見つけてくれて立ち話をしていますが、今回は五、六年ぶりの再会。
自画自賛になりそうですが、私にとっては、とても嬉しい事なので、「ジコチュウ」の汚名返上の為にと・・・
「あなた、よく分かったわね」から始まり、殆ど忘れかけている私に嬉々として話すので、聴いてみると、少し後輩だった彼女達にとても親切だったから、逢えたのが嬉しくて、と、言ってくれるのです。寝耳に水とはこの事です。
(余談ですが、昨日の夕刊に、「寝耳に水が入る」か、「寝耳に鉄砲水などの大きな音が聞こえる」か、語源の選択は難しいと結んだコラムがありました。)
主婦向けに何時でも休めるメリットがあり、私は数年勤めましたが、半日でキャンセルする人もいた程に人使いの荒い、厳しい職場だったので、目立たない、何気なくの心づかいがきっと好印象を与えて、親しんでくれたのでしょうね。横一列の女性ばかりが八割の仕事場では、良くも悪しくも多くを体験しました。
ネ、見直してくださいネ。かわいいでしょう。
このまま秋が来るかしら。まだ、無理ね。京都はそろそろ地蔵盆だから、涼風がたってると、身体が楽ですね。天然クーラーに勝るものなし。
* 「男性はお産の経験がないので、痛みに弱い」とは、言えているのかなあ。お見舞いのもらいようも、読者も、いろいろだ。痛みは全身にしつこく残って、大儀にだるいが、ちょっと元気をもらった心地。
2001 8・18 10
* 西風が運ぶ浪速の37度。秋まで、彼岸へ避難して、仮死で、夏期を過ごしたい。西の暑さに耐えかねて、雪国育ちの雀が飛んだ、先は西方、バケ雀。ビル火災で、救援がそこまで見えているのに、熱さに堪えきれず窓から飛び降りる。その気持ちがわかります。ヒートアイランド大阪の熱を連れてくる西風が原因らしいのですが、25度ー35度の日が殆ど休みなく、しかも今年は長丁場。熱中症にもなりかけましたし、西日本の暑さに降参、疲れた、眠い…。台風の風になってきました。備えをしておかなければ。雀
* この悲鳴がただのユーモアではないほどの暑さらしい。異常だ。その西の方へ、父の十三回忌法事に今から出向く。すぐ帰ってくる。黒いマゴ猫と家の、無事を祈りながら。台風が来ている。だが、この分なら傘をささずに出掛けられる。
2001 8・20 10
* 恐風 台風より怖く、秋風より寒い風、リストラ風が主人の首筋に吹きました。49才で出向したまま退職です、53才で。よい声で囀れない雀のメールが続くかもしれませんが、聞いていて頂けますか。
* とうとう始まった、例の「痛み」というヤツが具体的に。
2001 8・24 10
* 二十一日、「天神さまの美術」を見にゆきました。駅から平成館までのわずかな距離でしたのに、ジーンズの裾がじっとり濡れてしまいました。しかし、不快な気分を忘れさせてくれるものが、ひしめいていました。地獄めぐりのおびただしいのに、だいぶ、消耗しましたけれど。
こうした大勢のひとのあつまるところに出かけたのは、ほんとうに久しぶり、そう、歌右衛門の亡くなった雪月花の照りあった日以来でございます。少し、人に酔うたようでした。
帰り、なまあたたかい強い風と横降りの雨に、奇妙なかきたてられようをしました。
元気を出して、もう少し、小侍従さんとのおつきあいを続けたい、深めたい。そうした気持ちになっていました。香魚
2001 8・24 10
* ひさびさに、夜更かしです。 めずらしく、涼しい一日でした。
台風の影響か、週のはじめにけっこう雨が降りました。金・土は例によってかんかん照りでしたが、夏は少しずつ過ぎていくようです。
今年は桃が美味しい。猛暑のおかげなんだそうで。あたりはずれのある果物ですが、今のところ裏切られていません。この暑さもちょっとは許してやれそうです。
勉強半分でもありますが、古典が面白くなってきました。「源氏物語」、今日「総角」に入ったところです。少しずつしか読めないので、「匂宮」から始めました。とりあえず「夢の浮橋」まで、秋のうちに渡っておきたくて。
音読で進めています。時間も負担もかかりますが、原文で読むことに馴れていないので、眼で字面を追うだけでは、どうも身が入らない。それでも岩波文庫版は丁寧に主格目的格が示されているから、なんとか大意を汲み取れています。細かい部分はどうしてもわからなくて、そのまま読みきってしまいます。
与謝野晶子訳で読んでいたのとは、やはり違いますね。なぜか情景が現代語訳よりも鮮明に浮かんでくるんです。それから、言葉の響き、文体の流れが本当に美しい。秦さんの文章に近いものを感じます。
古典に「親しむ」というにはまだまだですが、受験勉強だからといって身構える癖はなくなりました。少しシンドイ思いをしながら、楽しんでいます。
晩年のエジソンは「発明は1%の才能と99%の努力である」と語ったそうです…このことについて、或る人がこんなことを言っていました。
…自分は中学生の頃に英語の授業でその言葉を先生から教わった。その先生は、要するに努力が一番大切なんだというようなことを話していた。しかし、本当に努力が何よりも大切なら、エジソンは「発明は100%の努力である」と言ったのではないか。なぜ「1%の才能」と敢えて言ったのか。…
英語では、「1%の”inspiration”」と表現されていたそうです。それを、日本の人たちは「才能」あるいは「ひらめき」と訳してきた。
…しかし、そもそも”inspire”という動詞は、「鼓舞する」という意味を持っている。つまり、この”inspiration”は、自分をかきたてるもの、動機、のことを言っているのではないか。確固たるモチベーションこそが、99%の努力にあと1%欠かせない、最も大切なものなんだと、エジソンは言いたかったのではないか。…
その人の話を聞きながら、これは秦さんのことだ、と僕は思っていました。
少しずつですが、自分の触れたもの感じたこと、誰かの言葉、作品…いろいろな物事が繋がって、僕の中に何かを残していってくれます。その残ってくれた「何か」を糧にして、僕も何かを残していきたい。
またちょっと長くなってしまいましたね。
本当はもっと書きたいし、もっとたくさん送りたいのだけれど…それは来年の話ですね。でも、去年よりは時間の使い方が上手くなったのかなと思います。
僕も秦建日子さんの「救命病棟24時」見ましたよ。ドラマそのものを初回から見ているんですが、設定に自信があるのか、毎回脚本家を替えているようです。(最近のテレビの中では)それなりのキャストが揃っているだけに、脚本によって出来に差のあるドラマです。建日子さんの回は、キャストを使い切れていなかった印象を受けました。秦さんの戯曲「こころ」のような脚本を書ける人になってほしいなと思います。
迪子さんともどもお元気でいてください。僕も頑張ります。
* めまぐるしく動き廻り、騒がしくじゃれ合うチビッコ ギャング達。ソフアーの部屋は遊びの陣地になってムチャクチャ様代わりしています。健康に育っていて、友達扱いのオババとしては何より嬉しい。少々疲れましたが、一晩ぐっすり休んで回復しました。こんなのを三人育てていた頃を懐かしく、想い出します。
息子は多忙で昨日の内に帰阪、台風は今日、葛飾区の嫁の実家へと去ります。
今朝は、暖かい緑茶が懐かしく。
もう秋。
2001 8・27 10
* 作業中に、馬場一雄先生からすばらしい葡萄が贈られてきた。日大病院長なども退かれてずいぶんになる。この頃はどういうお仕事をされているのだろう、学術会議になど出ておられるのだろうか。初めての「五つ子」を保育された頃から、いや、それよりも遙かな昔、まだ東大小児科で1500グラム以下の未熟児保育例の一つもなかった頃からの、四十年ものお付き合いになる。日本の未熟児新生児学の歴史そのものである馬場先生の紹介状のおかげでわたしは「徒然草」の勉強に東大国文学の書庫に入れてもらえた。そして「慈子」が出来た。恩師といえるお一人である。幾色ものすばらしい葡萄の房をずしりと手に持ち、ひととき、感慨にふけった。
2001 8・27 10
* やっと四月帝劇「細雪」の楽屋で撮った、澤口靖子との写真が出来てきた。それほど長くフィルムが写真機に入っていた。部屋の中であるしと、案じていたが、三枚とも、とにもかくにも澤口靖子がじつに美しく撮れていて、どうもわたしや妻は一緒でないほうがよかったが、ま、照れくさいほど嬉しいことである。この機械にもすでに彼女の写真は何枚も入っているが、ときどき、画面一杯にうつし出して見ている。煙草で休息よりよほど佳い。
で、ADOBEを使って機械の中へ複写し終えた。
2001 8・27 10
* 屋根の上の・・・は、森繁久弥がまだ溌剌としていた初演の舞台で観ています。「サンライズ、サンセット」のテーマ曲がすてきによかった。当時はユダヤ人のこと、独特の風習、習慣を分かっていなくて、今いま観ればもう少しは理解できるかなと、テレビの放映はビデオに撮ってあります。すぐにも観たいし、楽しみです。
今日は日本橋から銀座へ出て、ひとり、都内で一館封切りの「蝶の舌」を観てきました。気になって上映館へ行ってみると、運よく入れ替えの時間でした。吸い込まれるように、シニア料金で観てきました。
観たかった映画が観られて、今日は満足。映画館で一人で観るのは初体験かも。七十にして自立のハシリでしょうか。平日なのに、いい映画は大入りです。
映画は、1936年のスペイン内乱が始まった時点で「END」マークになります。七、八歳位の男の子の精神的な成長を描いてゆくのですが、子供が主人公なのに、しっかり成人向きの映画です。この世の儚いこと、人間のしょせんは孤独なこと、それに「蝶の舌」など自然の不思議。初めて教わる数々に導かれ、心の繋がったかと思える老教師との微妙な交流。光美しい風景、情緒豊かなお話。ホノボノと、ほっこりと、穏やかに、時には、眼が潤み、共鳴しながら観ていましたのに、最後に母親から仕掛けられて発する少年のショッキングな言葉。その少年の顔のアップで終わります。
その言葉は・・・
スペイン内乱は重いテーマとしてたくさんな映画になっていますが、ピカソのゲルニカを識っている程度ではとてもとても不足ですね。
* 息せき切って書いたというメールで、漢字が黒々としている。なにかしら気分は伝わってくるが、いま、映画館へ足をはこぶ気にはちっともならない。映画は好きだがテレビで足らせている。
2001 8・27 10
* いま届いたこんな深夜のメールも読んだ。
* 「闇」が好きです。闇の中に 深く深く漂うときに 私は すべてを取り去った私になり 闇の中でしか 聞こえないもの 見えないものを 感じます。
ときどき 闇の世界に戻らないと 何かを失ってしまうような 不安にかられます。
人は闇から 生まれ 闇に戻っていくものだからでしょうか。
ADSL はまだよくわかりませんが、インターネットで囲碁の対局も楽しめるのでしょうか?電話代がかからないで インターネット サーフィンが楽しめるようなものなのかと・・・想像しています。
今、三島の「禁色」をはじめて読んでいます。ちょっと露骨で汚い感じです・・・。
2001 8・29 10
* 日曜美術館のビデオテープを久しぶりに観ました。
何年前でしょうか。我が家では最初のビデオデッキ β だけの頃です。「洛中洛外図の時代」のタイトルで、真野響子さんの司会です。ホウと声が出ます。ほっぺからおとがいにかけて、ふくよかに揺れています。相当雑音が入りますが、これは永久保存版としましょう。冒頭祇園祭の場面から、なんとも郷愁を誘います。
早朝、涼しくていい気持ちの処へ、テレビのニュースは今朝未明の歌舞伎町雑居ビル爆発火災を告げています。二十一人の死亡者が出る大事故です。西武新宿線の新宿駅の傍、半年程前にも、その近辺のなんとか横町が全焼の大きな火災に出くわしていますが、何時ふりかかる事故とも言えず、新宿族としては、何やら不気味です。
* 死者は四十数人に達しているとテレビは告げていた。
2001 9・1 10
* 電子文藝館、良い形になりそうですね。加藤さんのご苦労を多とします。
メーリングリストでも書きましたが、「秦・加藤論争」は、とても大事なことだと思います。
文藝館のお手伝いも、ままならず、電メ研の会合にも、なかなか出られず、すみません。
8月は、20日の夜に東京に帰り、21日は、歌舞伎座で納涼歌舞伎の第1部、第2部(第2部は、妻と一緒)を拝見したところで、「台風11号が、甲府方面にも近づいている、終夜放送をしたい」という放送部長の連絡を受け、急遽、21日の内に歌舞伎座から甲府に直行。局長が不在でしたので、そのまま、泊まり込みで対応。雨に弱い甲府盆地(大小の河川と扇状地でできている)であり、台風11号が、速度の遅い、長時間雨を降らせるタイプの台風でしたので、テレビ・ラジオの放送のほかに、インターネット版災害報道も、甲府局としては、初めて実施しました。
(大兄も、台風と京都で遭遇され、大変でしたね。でも、金沢廻りで帰郷などという優雅な旅も実現できて羨ましいです)
さて、溜まっていた大兄のホームページの「私語の刻」を、失礼ながら駆け足で拝見していて気が付いたことを書きます。
1)マウスの調子が悪い、動かないとのこと。なかのボールにゴミが付いていませんか。アルコールを含ませた脱脂綿でボールを綺麗にふき取ると、機嫌良く回転してくれますよ。
2)「私語の刻」の「8/8(つづき)」のところで、「散り花」についての、私のメールが引用されていましたが、「新口村」は、「梅川忠兵衛」で、「お染久松」ではありません。「お染久松」は「野崎村」です。
私も、息子も甲府の教習所を8月中に無事卒業(息子は、30日卒業)、私は、24日に免許証まで戴きました(夏休みの教習所は、息子のような年頃の男女ばかりで、おじさんは、私一人でした)。
老人夫婦が、過疎地に住む場合、買い物、診療所などに通うのに車は必要ですし、車がないと田舎では自立した生活ができないと言うことで、長年、車公害反対の報道をしてきた立場上、免許証を取らないと言ってきたのに、節を曲げて免許証を取得しました。但し、車の使用は、地域限定で、生活に必要な最小限度にしようと思っています。
では、拝眉の機会を楽しみにしております。 倉持光雄
* 倉持さんのメールは、わたしをいつも和ませてくれる。うわべはせかせか話す感じなのに、精神の息づかいが深くて穏やかなのである。倉持さんにくらべると、わたしなど、すさまじい内面生活で、精神的にやくざに生きている気がしてならない。氏は、副放送局長さんであるから、このまえの台風などの折りは激務であったにちがいない、歌舞伎好きの彼が舞台と奥さんとをひょっとして置き去りに、途中から甲府まで飛んで帰ったかと思うと、お気の毒だが、そういうことまでも活気にして暮らしている人だ。もう長い長いお付き合いである。
2001 9・3 10
* 長野に出張中の卒業生が、旅先からメールをくれた。
* こんばんは。今、長野にいます。出張中(&仕事中)です。ここはずいぶんと寒いです。
一月程前に、先生にメールを送った直後に、会社の事業改革の一貫で、ぼくの所属する課が潰れました。製品を10年間造り続けて行きましたが、最期はあっという間。
それから一月あまり、感慨にふけるわけでもなく、仕事があるようなないような、ぼんやりとした日々が過ぎて行きました。
最近ようやく他課の支援が始まったと思ったら、またも連日深夜までの仕事の日々です。失笑。
半月程まえ、通りすがりの本屋の店頭にあった、丸谷才一の「笹まくら」が目にとまり、読みました。徴兵忌避者、という、意外にも想像したことのなかった言葉に興味を持ったからです。(タイトルにもひかれました。)
作品が書かれたのは70年代、戦争が終って30年ちかく過ぎなのに、徴兵忌避者である主人公は、おびえ続け(という
よりおびえ始め)ていきます。そのことに驚きました。
というよりも、、、戦争は、一人の人間の中で終ることがあるのだろうか?という疑問が沸きました。戦時中の体験(=殺人)を決して語ろうとしない元兵士がいると聞きます。終らないのでしょう。
昨今の騒動の背後にも、終らないからこそ、が有るのでしょうか。
けれど、ぼくらの世代は傍観者以外にはなりえないのではないか、と、時々感じます。その無力感のようなものに不安を感じます。明日自分が火事で焼け死ぬと決して想像せず不安にならない火事場の野次馬。
ADSLですか。ネットワークの高速化・拡大化が目指すものは、「全体との一体化」なので、恐くて使う気にはなれません。(それこそコードレッドなどのワームやエシュロン機関の格好の餌食です。)
それから、先生のホームページは、確かに、巷のHPと比べたら不便ですが、先生が作られているのは、新聞記事のような単なるデータベースではないのですから、無理に変えることはないと思います。親切=コンビニ、ですよ。世の中がコンビニだらけになるとは思わないし、思いたくもありません。(新婚旅行でヨーロッパ各国を周りましたが、本当に日本はコンビニが多すぎると思います。)
ただ、先生が不便ならば、あるいは、先生がHPについて、展望を持っていれば、言ってもらえればアドバイスくらいはすぐにできます。
HPは、基本的に会社に依らない言語(HTML)を使って書かれているので、実質的にはネットスケープのシェアのことなど心配は無用です。いつ何が起きてもいように、全ページを、ご自分のMOに保管することだけは、常にお忘れなく。そうすればいつ何時たとえniftyが潰れても、すぐに移管できます。(保管用のMOは保管時以外は器械から外しておきましょう!最近の悪いウイルスは、器械に繋がっているディスク等も潰すことがあるので。)
(器械の話ならこれだけ熱弁振るえるんですが、それだけでは、情けない。)
またメールします。それでは。
* 勤め初めて数年。予想以上に世情がけわしい。印象的なのが「無力感のようなものに不安を感じます」という「のようなもの」だ。文章の問題としても実感としても「無力感に不安を感じます」のだろうと思うが、どうしても「のようなもの」と言いたい漠然感が近時世情に下這う気流らしい。
よく読めばいろんな内容のある、若い人の気持ちの波動が伝わるメールである。芹沢光治良の「死者との対話」や梅原猛の「闇のパトス」が反射的に胸を押してくる。前者には若い世代への愛と反省が、後者には若い当人のもがき苦しみが書かれていて胸の扉を激しく打つ。このメールの書き手にも読んで欲しい。
2001 9・5 10
* 秋が厭きの掛詞なんて、私の辞書にはありません。あの酷暑から解放されて、朝夕人並みの心地がして、夜は虫の音と合奏する両のキーン、キーンの耳鳴りにも挫けず深い眠りに誘われます。ゴクラク ゴクラク。
数年前、お歳を忘れての過労から耳の病に罹り、後遺症として激しい耳鳴りに襲われました。暫くは不眠症、心身症に罹り奈落の底でした。処方は入眠剤の服用以外にないのですから。
ある日ある時、耳鼻科の女医先生のアドバイスを受けて、自分の気持ちを180度転換出来ました。耳鳴りは老化現象、その歳まで生きられたのは、ボーナス、神からのプレゼントと思いなさいと。
発想の転換を身をもって経験しました。途切れず響く耳鳴りとは、今ではとても仲良しです。
と、余談が長くなりましたが、余談つづきに、四季の中では一番いいな、秋。暑からず寒からず、収穫多く、新米、秋刀魚もよし、ずあい蟹のとれとれも美味しく。空は高く、月見もいい。ススキもいい。紫の花がいい。氏神様の秋祭り、冬への梯、冬祭りが懐かしく、佳かった。
夢の旅にも出たい。食欲も満たしたい。生きている証に。長生きのボーナスを戴きに。
* 折しもこの十月初め、山折哲雄氏との対談『元気に老い、自然に死ぬ』という、最も難しいことを題にした本が出るので、新刊の「湖の本」に簡単なチラシを入れてくれと春秋社に頼まれた。このメールの七十近い読者など、さしづめ「元気に老い」の見本のような人か。「収穫多く、新米、秋刀魚もよし、ずあい蟹のとれとれも美味しく。空は高く、月見もいい。ススキもいい。紫の花がいい。氏神様の秋祭り」などと並べたところは、「村の鎮守の神様の」と唄って育った世代のオールド・テイスト過ぎるけれど、はるかな郷愁にはつながる。だが私にはこの秋は、そうはノンキではない。しっかり黒いピンを刺されたまま奔命奔走することになる。わるいことに、かなり心身の疲労が表に出ている。九月は、わたしには数十年、うすい垢に似た夏バテをだましだまし処理する月でもある。
2001 9・6 10
* 9日の日曜日は、地元の人たちと御坂山地(富士五湖地方と甲府盆地を区切る山塊)にある「節刀(せっとう)ヶ岳」という1700メートルほどの山に登ってきます。甲府盆地から見ると綺麗な三角錐の山頂が見える山で、天気が良ければ、登山途中で富士山が見えるはずです。10日の月曜日は、会議が、いくつかある曜日で、身動きできません。
さて、秦さんが、上司小剣の名前の読み方を知らなかったと知って、なにか微笑ましくなりました。「弘法も筆の誤り」という感じです。
私は、高校生から大学生になる時期、60年代には、「大阪」をテーマにした小説を読みあさっていました。織田作之助、上司小剣、水上滝太郎など。ほかにも読みましたが、いまは、思い出せません。
織田と上司は、新聞記者出身ではなかったでしょうか。織田の作品のうち、「青春の逆説」でしたか、あれは、新聞社の採用試験の場面があったような気がします。いま、手元に作品がないので、確認できませんが・・・・。新聞記者の印象は、作品の上だけだったでしょうか。水上滝太郎は、サラリーマン重役でしたか。東京生まれで、出張だか、赴任だかの生活をテーマに「大阪」「大阪の宿」などという作品を書いています。
藤本義一、田辺聖子、野坂昭如、和辻哲郎なども「関西」という括りで読んでいました。秦さんの作品も、そういう関係で読み出したのではないでしょうか。
ですから、上司小剣は、若い頃から親しみがありました。それを、電子文藝館に入れて下さると聞いて、嬉しくなりました。
NHKに入り、記者として、地方に赴任する際にも、「第一希望」を、大阪としたのも、そういう縁でした。そして、本当に大阪赴任となりました。大阪の4年間の最初は、休日には、「織田作」の作品の舞台を訪れました。新世界、じゃんじゃん横丁、夕陽が丘など。やがて、京都、奈良、神戸など、大阪以外にも関西の魅力に浸り、関西生活を楽しみました(その割には、大阪勤務は、4年間で終わり、東京の報道局社会部勤務となってしまいました。そして、警視庁の所轄署廻り=いわゆる、「察廻り」時代に、ロッキード事件の発覚です。最若手の社会部記者たちは、田中角栄、小佐野賢治、児玉誉士夫宅などの張り番でした。大阪時代の最後は、金大中事件関連、朴大統領狙撃事件関連などでした)。
上司小剣の名前から、余計なことを想い出してしまいました。では、またの拝眉を愉しみに。
* こういうメールからも、ちょっとした短編映画を見る興趣をわたしは覚える。お勤めの人だから語弊があるかも知れないが、自由人の佳い境涯がここに在る。
2001 9・6 10
* 秋咲きのばらに隠れよ 睦みの絵 の、句に、ご本人から解説が届いた。ポンペイ展に行き、また現地へも旅した記憶など、有るらしい。
* 勉強したことも、ガイドの本を読んだ事もない、さして関心もなかったのです。興味を持つものが沢山有りすぎて、別世界でした。メールの文章がわりになるかと書いた内で、一句でもお目に留まるものがあったなんて、感激です。
娼館の壁面を飾っているわりには、汚く醜い画ではなく、むしろ共感を呼ぶ、明るくおおらかな壁画です。絵は小さいです。その手の絵は好まない女の私にも、そんな場面をきらりと想像させました。ポンペイ当地でのそんな館の入り口に面して、道路に、文盲にも一目で分かるそれむき出しのモザイク画の看板があり、照れ臭くて凝視は出来ないまでも、ホウと、ローマ時代のおおらかさを思い、印象深いものでした。
当時の壁画はフレスコ画ではなかったのに、泥土に深くうもれて、酸化をまぬかれ、運よくタイムカプセルを抜け出て、当時の色そのままに観る事ができたのよと、友人に教わりました。
* 片業主婦はこうして優雅な見聞をこつこつと積み上げている。いいことである。できる人は、すればよい。できなかった時代があまりにも長かった。やっとそういう時代なのだ。
だが他方、倒産し自殺して行く世間もある。中学教師が、風俗産業を介して教え子たちの年ごろの少女を金で買い、手錠をかけ、走っている車から突き落として殺す。
隠遁したいとは考えない。なにから、どう隠遁するのか、できるのか。しかし、いくつかの試みはできるだろう。一つは、この「私語の刻」をすとんと真如の「闇」に落とし見喪い切ってしまうこと。これに懸けている時間と意欲とを、絵空事の世界へ自由に解き放ってやること。コンピューターを切り捨てること。退蔵し、蓄えた本を読んで楽しみ、一冊ずつ捨てて行くこと、お金を大いに使って楽しむこと。黒いピンが刺さっている間は、言うは易く出来にくいのは分かっている。しかし黒いピンを抜いてしまう日は来るだろう。出来れば抜いたそのあとに、元気に老いて行けるもう暫くの年数がのこればいいが。嬉しいが。
2001 9・9 10
* 「罪はわが前に」「ある折臂翁」「秦恒平における美の原質 笠原伸夫」「事実と小説 対談林富士夫」「『罪はわが前に』をめぐって 対談笠原伸夫」「作品の後に」(のスキャン分)です。ぼんやり暮らしてきたおじさんは、いっしょ懸命読みました。口はばったいですが、よく書かれました。書かれぬところを、ほんとによく書かれました。近江八幡へ貞子を送って行き、タクシーの中から見せて貰えた「姉さん」の姿は、おじさんにも見えました、ありがとうございました。
「ある折臂翁」は、西澤書店版『雲隠れの巻』に好きな「廬山」や「少女」達と載っているのを持ってます。も一度「少女」を読みました。
バグワンを読んでるハタワンも読んでます。長くなるのでこれでおやすみなさい。いろいろご多忙のご様子、くれぐれもお大事にして下さい。
* ほろりとした。懐かしいメールは、ロサンゼルスからも届いた。
* 8日の『日本語にっぽん事情』(湖の本エッセイ21)ブックレビュウを観ました。
元気そうな顔で写っていましたけれども、少し前の写真ですね。
本は好評で良かったですね。
10月に、また行きます。その時にお会いしましょう。
飲みすぎないように。
迪子さんによろしく。
* 黒いピンが身に疼くように痛む。今は、だが、抜けない。
2001 9・10 10
* こんなメールも来ている。わたしの「黒いピン」の夢の話を念頭に、それとはなく、わたしに「椅子」をさし出してくれているのだろう。あなたは立ったままで長くいすぎますと。
* 何やら台風待ちの昨日今日、何があろうと自然には逆らえないと、ぼんやり空を仰いでいます。
それでも、気候の落ち着いた頃には、恒例のミニ同期会を開くべく、電話やメールで連絡し合って、「元気に老い」の元気印といきたいもにです。何はともあれ、旅行は気の置けない学友達とが、何より楽し。幸いメンバーにまだ脱落者はなく、この頃は一年一年を大事にと想うようになりました。
十日ほど前の「天声人語」ですが、あまり似ているので、長いですが、そのまま送ります。
以前、たまたま手に取った雑誌に、こんな母親の告白が出ていて驚いたことがある。彼女は、自分の子どもが可愛くないという。好きになれないという、それどころか憎らしいとさえ思う、と。
事件をめぐる談話というのではなく、日常生活でのことで、母親はそのことを悩んで、相談を持ちかけていた。虐待をはじめ、子供の受難が続いている。背後には、先きの母親のような悩みが広くあるのだろうか。
泣きやまない幼い子どもの話から始まるアランの『幸福論』を思い浮かべた。乳母は子どもの性格や好き嫌いなどいろいろ考えるが、そのうちピンを見つけてすべての原因はそこにあったことがわかる。
名馬ブケフアロスを献上されたアレクサンドロス大王の話が続く。暴れ馬でだれも乗りこなすことができなかったが、大王はピンを見つけた。名馬は自分の影におびえていた。大王は馬を太陽の方に向け、落ち着かせた。
アランはこういう。「苛立ちだの、不機嫌だのは、往々にして、あまり長いあいだ立ちどうしでいたことから生ずる。そういう時には・・・・・・道理を説いたりせずに、椅子をさし出してやることだ。」
そして、「人間の性格はこうだなどと言ってはならぬ。ピンをさがすことだ」
このフランスの哲学者のように、できれば、実際的に考えたい。母親達に椅子をさし出してやるべきか、あるいは、どこかに刺さっているかもしれないピンをさがすのがいいか。 しかし、目に見えないピンがこの社会に刺さっていると、事態は容易ではない。
* すこし雑然としていて分かりにくくもある。どこの何からいきなり「ピン」になるのかが分かりにくい。が、言わんとすることは察しがつく。
* 台風もまだその影響をみせずに、静かな秋の夜です。
帰りに駅の売店で、小さな萩 紫式部 ふじばかまの苗を、ついつい求めてしまいました。帰りを急ぐ人でこみ合う電車の中で、ふじばかまの素朴な花を見つめていると懐かしく 涙が出るほど優しい気持ちになれ心和みました。田園の思い出が心の底に眠っているのかも知れません。
* そうはいえ、もう十一時半、風雨強かるべしといった戸外の物音である。無事であれと。
2001 9・10 10
* 台風十五号は、大雨を降らして去りましたね。どうやら、雨漏りもなく無事でした。
あちこち友人達からのメールは、「元気にいられる時間を大切にしたい」意味の一言が、どこかに入ります。身近に病人や怪我のある人がいると、身に沁みて。元気にしています。あなたも。
台風通過の間、洋裁をしながらビデオに録った映画を二本みました。二度目でもやっぱり佳くて、感動の涙がまたジワーときました。映画ならではの物語の不自然さはありますが、これは、これ。機会があったら是非、トム ロビンスとモーガン フリーマンの「ショーシャンクの空に」を。
気がついたら台風が去って、ブラウスが一枚出来上がり。
* いまどき「洋裁」なんて言葉が生きているのかと、なにやら「ミシン」の音まで聞え、年輩のほどの察しられる、しかし若々しく書かれた屈託ないメールで、いまどき「e-OLD」の生活感覚が面白い。「気がついたら台風が去って、ブラウスが一枚出来上がり」とは、イキのいいこと。こんどの「湖の本」発送には、十月刊行の対談『元気に老い、自然に死ぬ』のちらしを同封するが、この表題は間違っていないようだ。
* この夏、とくに六月と七月は大変な暑さが続きました。その息苦しいような熱と光のなかで、七月の終わりに私の父の命も燃え尽きてしまいました。昨年暮れに入院して以来七ヶ月あまりの闘病でしたが、最期はほんとうにあっけないものでした。
父が亡くなりましてからは雑用に追われる毎日ですが、ふとした瞬間に父との思い出が甦り、自分でも予期していなかったほど大きな喪失感にうちのめされています。父は何冊かの本を書いた人ですが、文学にはまるで無縁な人でした。そんな、ほとんど意識のない父の病床で、私は先生の『華厳』をよく読んでいました。心の通い合うことの少なかった父と娘ですが、それでも先生のご本のなかから父に一冊選ぶとしたら、この作品だと思っておりました。
本日は湖の本の申し込みをお願いいたしたく。暑さのなかで先生に郵便局までご足労をおかけするのは恐縮でございましたが、少し涼しくなりましてお願いしやすくなりました。注文のなかの何冊かは友人へのプレゼントです。
創作シリーズ 1.清経入水 3.秘色・三輪山 12.閨秀・絵巻 21.四度の瀧・鷺 36.修羅.七曜 そして37.38.39.親指のマリア
エッセイ 11.歌って、何!
以上の九冊です。おついでの折りによろしくお願い申し上げます。
* この切ないメールを読んでいて、脳裏をよぎるのは、今はむかし、東工大生たちに虫食いに漢字一字を補わせた、こんな現代短歌だ。供養にもなるまいが、この人にも贈っておく。この人は父を看取り見送れて幸せであったともいえよう。完全に父を見失ったまま生き別れ死に別れた父と娘も世間には少なくない。
女子(をみなご)の身になし難きことありて悲しき時は( )を思ふも 松村あさ子
独楽は今軸傾けてまはりをり逆らひてこそ( )であること 岡井 隆
父として幼き者は見上げ居りねがはくは金色の( )子とうつれよ 佐佐木幸綱
<( )>島と云ふ島ありて遠ざかることも近づくこともなかりき 中山 明
思ふさま生きしと思ふ父の遺書に( )き苦しみといふ語ありにき 清水 房雄
子を連れて来し夜店にて愕然とわれを( )せし父と思えり 甲山 幸雄
亡き父をこの夜はおもふ( )すほどのことなけれど酒など共にのみたし 井上 正一
* こういう後ろへ少し殺伐とするが、加藤弘一氏からこんなことを教わった。これは、私しておくよりも廣く知られていてよいことだと思うので、お許しいただき、書き込んでおきたい。
2001 9・11 10
* えー!
秦先生、こんばんは。
>で、疲れます。お大事に。わたしのホームページは、当分はこのままにしてお
>き、むしろ、どこかでそっと幕をひくことも、すこし頭にあります。 秦
そうですか。
ぼくは先生のHP…正確には、「生活と意見」をよく見ます。「見る」のはほぼ毎日。「読む」のは二日に一度くらい。
読んで、そのまま頭の中で話をします。
いまの生活の中で、例えば、丸谷才一の『笹まくら』を読んだ、ということは誰にも言えません。例の教科書について、意見を持っても、口にすることはありません。意見があるなんて誰にも言えません。ジャンルは違いますが、泉鏡花の名も口にすることはまずありません。
何度思い返しても、誰かに「口を閉ざせ」と言われたわけでもないのに。
でも、これは単に口を閉ざしているだけなんだと思っています。
それでも、先生のHPを読んでいるときだけは、自分が気になっていることについて、会話ができます。
幕をひかれたら残念です。
* 東京を過ぎた台風が、北にも訪れ、あとには深い秋を残していきました。
心身とも消耗戦のような毎日。案じております。ご無理をなさいません様。
南の友人から届いたメールには、「(沖縄の米軍拠点)嘉手納基地では、五段階ある警戒態勢のうち、湾岸戦争中にもなかった最高レベルの警備態勢「デルタ(D)」になっている」とありました。戦争状態です。「基地従業員といえども、日本人は嘉手納基地に入れない」とのこと。「有事」の際に沖縄県民は基地外に置き去りにされるということが、はっきりした瞬間でした。
先の台風に追われ、瀬戸内を旅しました。いつか文章をお送りいたします。どうかお元気で。
* 少し心配かけてしまったようだ。べつだんタナトスに親しんでいるのでも、囁き誘われているのでもない。たえず相対化しながら、「枯野」におりて佇んだり寝そべったりする時をもつ、それだけのこと。疲労は季節的に毎年のこと。
しかし、自然なスローダウンに委ねるだけでない、意思にもとづいた「幕ひき」が、ほんとうに必要になれば躊躇しないだろう。とは謂え、「潮時」の判定には、どんな理屈をつけても、多少の、いや多大のエゴイズムがつきまとうものだ。しかも、それにしても潮時というヤツ、度々何かにつけわれわれの人生を訪れていたのに、たいがいは見過ごしたり見送ったりして「後悔」の種になった。
2001 9・13 10
* 一頃、「ものぐるひ」の考察に、継続して関心していた時期がある。「繰り返す」という行為のふしぎと論理とを考えていた。自分が、もの狂いの度を増しているか、もの狂いを忘れ果てているのか、この評価容易でないが、こんなメールが先日の台風さなかに来ていた。
* 午後になって、雨が横にしぶき、篁が身を揉むように揺れに揺れているのを見ているうちに、かきたてられてしまって、外に出ました。膝丈のジーンズにスニーカー、骨が十六本ある頑丈な男物の傘という身拵えです。
近くに公園通りといって、いくつかの公園をむすぶ遊歩道があります。公園はわりと木深く、遊歩道も森のなかのような雰囲気のする小径です。
そこを、傘を風にもってゆかれぬように握りしめ、びしょぬれになってあるきました。風に揉みしだかれ、枝や葉をもぎとられている樹々のにほひ、ざわめき。うらみ葛の葉が蒼ざめた白をひらめかせ、落ち散らばっている枝が道を走ってゆき、草むらは白いひかりを放って風に乱され――。
桜が一本、根もとが折れたというか、根こぎにされたというか。生木のにほひを著く放っていましたから、倒れてからいくらもしていなかったでしょう。根もとはごつごつしていましたけれど、太幹はつやつやとしていて、おもわず撫でてしまいました。あはれでした。
もう一本、松。三メートルかそこらのところから折れていました。折れ口がささくれだっていて、いかにも強い力にねじ伏せられたといった感じでした。
人っ子一人通らない嵐の道をあるきながら、今、心臓発作か何かで、ここでふいに、命終るのもわるくないとおもいました。はげしい雨風に洗われて、なまぐささも失せましょう。あるじの手を離れた傘は、樹々にぶっつかったりしながら、森の奥へ、虚空へ飛び去る……。
ところどころ、樹々のいたわりのないところに来ますと、立っていられないくらい。よろめいたり、傘もろとも風にさらわれそうになったりしました。
小一時間、嵐の森をあるいて、ぐっしょり濡れとおりましたが、ふしぎな心地よさにひたされました。
帰ってきて、紅茶を飲みながら、湖のお部屋をお訪ねしました。「野分」というおことばに、あ、「野分」だったと気づきました。
野分のあとの夕日。藍色濃い富士山がながめられました。
罹災した方をおもえば、こんなのんきなこと、申すべきではないとおもいましたが、樹々とともに嵐に巻かれ、濡れとおった感覚、昂りのおもむくまま、お話し申しあげてしまいました。
* こういう真似をしてみたい人と、失笑する人とが、いることだろう。「心地よさ」よく分かる。危ないとも思うが、「生き生き」とは、こういう体験であるのかも。
2001 9・13 10
おそろしく蒸し暑い半日であった。家に帰ったら、熊本の未知の人から「湖の本」の購入方法をメールで問い合わせが届いていた。送った本が届いたというメールも来ていた。
* 本日、お願いしておりました湖の本九冊を頂戴いたしました。お忙しいなか、一冊ずつにご署名までいただきましてほんとうにありがとうございました。友人にプレゼントする本が惜しくなりそうです。
また、私語の刻でお励ましの短歌をいただきましたこと、大変心慰められました。アメリカのテロで突然父親との別れを強いられた多くの方々のことを思いましても、しずかに病床の父を看取ることのできましたことは大変幸せなことであったと思います。
これからしばらくは先生のご本に埋没して、美しい時間を過ごしたいと思っております。
2001 9・13 10
* やがて午前一時半、やっと、電メ研会議内容をとりまとめ、書面での理事会報告を書き上げた。開いてみたメールボックスに、古い読者から、懐かしい旅の報告が。『みごもりの湖』で、ヒロインと時を分かち合った懐かしい懐かしい旅先の一つ。これは見過ごせなかった。
* 湖北に行ってまいりました。
HPを必ず読む毎日、とても身近に感じて嬉しいのですが、どうぞお身体おいといくださいませ。そして夜更かしも余りなさいません様に。時にドキドキしたり案じたりしております。
この三日に、先生もご存じのお友達と電話でお話ししていますうちに、二人で、近江に行きたくなりまして、急に、八日九日と、たとえ一泊でもと、行くことに決めました。
『みごもりの湖』で知りました湖北菅浦の、隠れ里。今も裸足になって参拝するという須賀神社へ。その奥には淳仁天皇を祭るという船形古墳があるともいいます。不便な所ですし、選んで、そこにだけ行くことにいたしました。
湖面にへばりつくような小さな集落には、今も四足門が東西にあって、古さが残り、「惣の掟」が現代になお残っているかのようでした。一回り歩いても直ぐに済んでしまうほどの小集落には、まるで時が止まったかのような静かなゆったりとしたものが流れて、お年寄りばかりが、縁台に座って楽しげにお話しをされていました。ぷかりぷかりとタイヤかゴムたらいの一人乗り船を湖面に浮かばせ、のんびりと糸をたらす人も。そぞろ歩いていましても、やはり何となくよそ者という感じは拭えません。
この夜は、二人して、神社隣の民宿泊まりでした。カランコロンと久々の下駄を履き、ひたひた打ち寄せる湖面のふちを歩いて、四足門外を十分ほどはなれたお風呂までの道行です。仙人草の花も咲き乱れ、不便さは忘れてゆったりした時の流れに、身も心も解き放たれていました。
翌日は一日に四本というバスに乗って、木之本へ着きましたのが、午前十一時近く。お電話での連絡を入れておいて、菅山寺に入りました。道真公ゆかりのいろいろの中に、お顔だけの古い十一面観音様が痛々しく、村の方々に大事に守られていました。胸にしみました。湖北にはこうして信心深い人達に守られておわす観音様が多く、思いがけない出会いに恵まれます。
もう一箇所気になっていました、小谷寺へ参りました。ここでも上品なお年を召したご婦人が二人客を待っていてくださいました。お前立ちの仏様を動かされて、小さなお厨子を開いてくださると、十五から二十センチほどの、弥勒様、いいえこちらのお寺では如意輪観音様とのこと。渡来仏だそうで、ちょうど広隆寺や中宮寺の半跏思惟像にも、そっくり。金銅製のそれは素晴らしく美しいお姿で、もう何も言えず、ただただ手を合わせて暫くは離れがたく心奪われておりました。ここには、他にも、あの茶々が父浅井長政を模して納めたと伝えます優しいお顔の小さな木像や、お市の方の念持佛という小さい愛染明王像が安置されていて、とても佳いお寺さんでした。
タクシーをここで返してしまっていまして、仕方なく河毛駅まで二十分というのを頼りに、途中道を間違えたりして四十分も歩いてしまいました。所々に気温は32℃とかいう表示も目に付き、すこし恨めしく、風もない草むす道を黙々と歩いたのでした。
近江でのひととき、いまは、別世界の中の事のように思い出されます。帰りまして翌日から大きな台風、そしてあのニューヨークのテロ騒ぎがつづいて、近江湖北の旅が遠い夢に漂っている様です。
長くなりました。どうぞお大事にお過ごし下さいませ。
2001 9・13 10
* 秋雨前線に、今朝、初めてブルッと冷気を感じました。
シニアクラスは六十歳以上なので、最高齢は何歳の方なんでしょうか。二ヶ月の夏休みが終わり、その間一度もプールへも海へも行かなかった程度の私のこと、面倒で、面倒で、中止か続行か迷った末、マアもう少しヤッテミッカと気を取り直し、電車に乗って水泳教室に行きました。顔見知りの人達は、揃って元気に顔を見せていました。お互い再会のご挨拶はオーバーに、
「あなたも、無事に生きてたのネ」
その間ワンポイントレッスンに通い、自称「腕を上げた」人もいました。差がつくヨ。全くの初歩から初めて、一年半、今は、型はともあれ二十五米をクロールで泳げるランクのコースにいます。何年も通ってそのコースの古顔らしい、高齢のご婦人の姿を見かけないのが、ふと気になりました。七十まぢかの手習い、さて、私はいつまで続くやら。
* マスコミはテロの、報復のと、それ一色。お楽しみのご婦人方との落差はモーレツで、一瞬くらくらっとする。著名な秋の展覧会に余裕で入選したという通知も届いている。同年輩の奥さんである。
2001 9・14 10
* 今週、トルコから帰ってきました。
帰ってから2日後に、イスタンブールで観光してきたその場所でテロがありました。死者も出ており、危ないところでした。各地でテロが続き物騒な世の中です。
小泉首相は威勢のいい事を言っていますが、どうなることかと心配しています。
* 勤務二年目の若い友人。危なかった、と、首をすくめている。五十過ぎの人からも。 2001 9・14 10
* アメリカは何やら報復という名のもとに、世界中を巻き込む正義のための第三次世界大戦も辞さないような気がしますね。恐ろしいことです。
救出活動に軍隊が出動するわけでもなく、本当に全力を挙げているのかしらと、生き埋めになっている多くの人のことを思うと、はがゆい、つらい思いです。原因究明や報復より、まず命の救出かと思うのですが・・・。
混乱を防ぐためでしょう、アメリカは楽観的な表明をしていますが繁栄のシンボル 世界の経済の心臓部の破壊が、大恐慌の予兆でないことを祈っています。実際に受けた損害とその保険金は天文学的な数字でしょうし、何日間も金融がまひ状態にあることが、はかり知れぬ影響を与えること必至なのではないでしょうか。
日本は軍隊派遣に関してはアメリカの作った憲法のおかげでノーと言えるのでしょうが、大戦になれば沖縄を含めいろいろな意味で巻き込まれぬ筈はありません。不気味な相手を最低限の犠牲で攻撃できればまだよいのですが、テロの影はアメリカ全土に、いやアメリカを支援するすべての国に襲ってくるのでは等と、言い知れぬ不安を感じています。
トゥ マッチだったのです。アメリカの繁栄は。
不安 恐れは・・・でも突き詰めてみれば、平和な日々にもあり、戦火の中にもあり、世界の情勢がいかなる状況であっても所詮 私の気持ちの中にしかないものかもしれないなどと思ったり・・・。こんな日はバグワンが心を鎮めてくれそうです。いま どうしていらっしゃいますか?
* ブッシュへの支持率が90パーセントを超えているという。アメリカの気持ちは分かるが、おそろしい。軽々に便乗して報復への緊迫を他国が支持したり煽ったりするのが、おそろしい。人がどっと押し寄せる、吾も吾もと。それだけで、そのこと自体のいかがわしさが暴露されているとバグワンは教える。
* 器械が安定して、とにもかくにも、ほっとしている、今は。疲労で右の耳の芯が痛む。もうやすもう。
2001 9・14 10
* マイカルの倒産。
何年か前、横浜本牧に時代の先端を行くようなマイカルタウンが出来た時、前身があのニチイとは、夢にも思いませんでした。
京の三条通古川町入り口のあたり、誰だったか忘れましたが、東映の剣豪俳優のお屋敷か別宅跡に、衣料スーパーニチイが出来て、母などは四条まで出る程でもない買い物に重宝していました。古川町へ食料の買い出しの行き帰りに気軽に入れて、気軽に買えるお値段のお店だったのです。
ごめんやすと、ガラス戸を開けて、一対一で応対されない気安さが、非常気に入ったらしいのです。お布団やシーツががこんなに安いと沢山買い込んだりしていていましたね。懐かしく思い出しながらも複雑な気持ちです。
この倒産が、バブル景気のツケであるのはたしかで、やはり日本経済の行く先がどうなるのか、好転するのか、停滞するのか、もっと落ち込むのか目先さえも見えず不安です。専門家の先生方でも、予測が当たらないらしいから。
* 具体的に書くと、文章は、こういうふうに過不足のない勢いをもつ。それがあると、抽象的な感想にも「感じ」が添う。
2001 9・15 10
* 秋の長雨といいますが、残暑と雨が続きます。どうかお健やかに。
先日、夕方過ぎて、ずいぶん蒸し暑くなったかと思うと、夜半バラバラと大きな雨音がし、たっぷり降りました。地震のおまけつきで、睡眠不足。
翌日も、一時でしたが白いカーテンを天から一気に下ろしたような雨が降り、午後になってようやく止み間になりました。何気なく窓の外を見ますと、いつもと違う遠い山なみに霧が這っています。ひといろと見えていた景色は、いくつもの山が交互に重なってできたシルエットでした。日没を迎える時刻。まさか夕霧ともいわないでしょう、けれど。
* 美しい表現をもっている。「曲輪文章」と題してあるのが、おもしろいではないか。名張の風景であり、また文楽大好き「囀雀」さんの心象風景なのであろう。静かに、だがすこし、さわいでいる風情か。
2001 9・15 10
* 近々にラスベガスの友人を訪ねてアメリカへ行こうと予定している人からの、こんなメールが飛び込んでいる。
* 聴いてください。この度(訪米訪問を)予定しているラスベガスの友人から、今回のテロに対するアメリカの「報復」に関して、日本の協力が何も得られないのはどういうことか。いつの時もそうだ・・・と、すごい剣幕で怒って来ています。日本国は憲法が許していない以上武力の提供こそ出来ないけれど、これまでも、相当な資金援助をしてきたし、今回も出来るだけのことはすると小泉総理は言っていますと申しても、だめです。他の国は武力をだすのに・・・と。アメリカの人は日本のことをこんな風に思っているのかと・・驚きました。
* わたしも少なからず驚くけれど、かなりアメリカでは広範囲な本音なのだろうとも想像する。その彼らの本音に、やみくもに付き合う必要は無いとも、堅く考えている。双方にエゴイズムがある。地球上に「国」という国境と利害の単位を造ってしまった人類の、これは業である。国際平和は、表面でだけ、だましだまし慣れ合って辛うじて成るもので、本音は、むきだしのエゴである。大国が小さな自国を善意で護ってくれるなどと考えていては甘過ぎよう。何かしらどこかに利得が生じない限り、大国の善意など最後的には幻想に過ぎない。小国はましてと言っておく。この危ない時期に、そういう本音をぶつけてくる先へ、楽しげに遊びに行くのは考え物ではないか、わたしなら行かない。
2001 9・15 10
* 数日前、ニューヨークの事件をお話しになったあと、「こういう時、とびきり美しいものに触れたくなる」とおっしゃって、「初咲きの櫻をみた醍醐の三宝院」をはじめ、いくつもの佳きものをあげておいででした。
その、ひとつひとつをたどりながら、なぜかそれら佳きものがなつかしくおもわれてきました。わたくしも訪うたことのあるところがあったからではありません。それらが、はや、失われたもののように感じられたからです。なみだぐんでしまいました。
第三次(「だいさんじ」と打ちましたら「大惨事」と出ました)世界大戦ははじまろうとしているのでしょうか。現在は、すでに、地球の滅ぶ前夜なのでしょうか。
テロルは絶対によくない。わるい。ゆるされることではない。そう、わたくしもおもいます。
けれど、テロルでない殺戮はよいのか、「正義」という名のもとに、おそらく地球上最大の富と武力をもつ国が、ベトナムで、中近東でおこなってきた度重なる大量殺戮は悪ではないのか、とも、おもいます。
たまたま見ましたテレビで、どなたか、「これだけ追いつめられた人たちがいるのだということを改めておもった」というようなことをおっしゃっていました。力づくでねじ伏せられ、肉親や大切なひとたちを殺され、生活もたちゆかぬまでに蹂躙され尽くしたひとたちの怨嗟をおもいました。自分の命すら惜しくないというところまで尖鋭化していった「追いつめられた人々」をおもいました。窮鼠猫を噛む挙に出ざるを得なかった心情をおもいました。
繰り返しになりますが、テロルは悪、絶対にゆるされることではありません。
けれど、為政者たちが、何のためらいもなく、そして威丈高に「報復」ということばを口にするのを聞いていて、さむくなりました。彼らからは、知性や理性、叡智といったものが、かけらほども感じられません。まるで、中世の血に飢えた暴君のお化けがあらわれたよう――。そして、どこかで、死の商人がにんまり笑っている――。
こんなことをかんがえていますと、小侍従の世界にもなかなか入ってゆけません。彼女も戦乱を体験しています。けれど、彼女はそれらをついに和歌として詠まなかった。頼政の敗死も、忠度の討死も。
* イスラムの過激な原理主義で動く論理や感覚をわたしは理解しかねる。その側面でのアラブ・イスラムが西欧の歴史と強力とで圧迫され、蚕食さえされ、そして大きな差別を受けながら利用され続けてきた結果としての、怨嗟、貧困、テロ容認の姿勢等に、気の毒なものを覚えるのも事実である。そこで、感傷と柔弱とに陥ってはならないが。
イスラムが分りにくいのは一つには不勉強なのであるが、東西と両極でものを考える近代の意識において、なかほどに位置しているアイマイな盲点として放置してきたことも理由の一つに考慮される。
では、アメリカのことは好く分かっているか、むろんノーである。とてもすきなところもあり、とても嫌いでいやなところも多い。いずれにしても、共感よりは反感の方の重い国に、一年また一年変じてきたのがアメリカのようだ、わたしの中でも。
上の心やさしいメールは、相当のところを衝いている。「死の商人」にぴしりと触れているのは確かである。
* こんな中で、今日午後のペンクラブ理事会がどんな議題で輻輳するか、期待したい。わたしは、会議時間の不足を考慮し、書面報告にして置いた。また明後日晩には、言論表現委員会と人権委員会の共催で、シンポジウム「いま、表現があぶない」が開かれる。どんなタイトルにしようかと猪瀬委員長が聞くので、こう応えたのがそのまま採用されたようだ、むろん通常創作的にいう「表現」ではない。個人情報保護法等の抑圧的な立法措置への対抗の意味をこめている。わたしも会場から少し発言することになるだろう
2001 9・17 10
* 早めに出掛けようと思っていたが、気になるメールが二つ入っていた。この際、これは急ぎ紹介に値すると思い、おゆるしを願って書き込んでおく。
* 日曜の「生活と意見」、この事件を契機に、日本が軍隊を持つべきだなんて言う人がいるんですか。まだ、パニックの渦中なんだと思います。
最近、NHK教育で、再放送ですが、ロシアの、徴兵にゆれる若者たちのドキュメンタリーをやっていました。多くの青年が、徴兵され、チェチェンに送られ、文字通り無駄死にします。徴兵を拒んだ青年は、周囲から、「お前は国を守ろうとしないのか?」と糾弾されます。この言葉は、非常に恐ろしい。そして、徴兵を拒んだ青年の、「敵は誰?」という疑問は圧殺されます。
仮にラディン一味が今回の主犯だとして、彼らが殺されたとして、そしたら、もう二度と今回のような事件が起きないと思うのでしょうか? 「敵はラディン」で片づけられるのか。
今回のような、数年がかりで自爆しようとする人々のテロは、先生もおっしゃってるように、軍隊でどうこうする筋合いの話ではないと思います。
アフガニスタンの人々が、ソ連、タリバーンに続き、アメリカにも攻撃されることになるのは、あまりにも哀しすぎます。
* 一人の東工大卒業生の声である。声は、他にも、いろいろあろうと想う。「恐ろしい」「哀しすぎる」と、感情を露わにした反応がほの見えているが、徴兵年齢に相当している若い人の声として、実感がある。聴く耳、欲しいと思う。
もう一つのメールは、イスラムに触れている。これを、ゆっくり読み返したくて出掛ける時間を遅らせた。
* アラブやイスラムについて「論じる」ことは、到底出来ません。イスラムの宗教が何かも、私たちには、単に知識としてさえ何も分かっていないに等しい。無知は罪悪といわれても、それさえ責められようがない状況です。
イスラムは解らないと私が決定的に感じたのは、イスラムの寺院に訪れた時でした。偶像を許さない、ある意味では潔い、潔ぎよすぎる神への垂直的な志向だったと思います。それは垂直的志向いうより、隔絶された遥かな高さからの絶望的な拒否でもありました。少なくとも私にとっては。
それは十分に予測出来たことでした。神の家・・教会、寺院はその宗教の象徴でもありますから、そこに足を踏み入れた時に感じられるものは、直感的ながら、直感だからこそ、確信に近いものでした。良い悪いではなく、ただ平均的な一日本人、私の感想に過ぎないですが。
あらゆるものに仏性、霊が宿ると、曖昧ながら私たちは自分の根を浸しています。私たち日本人は「唯一の神」を求めない民、それどころか、厳密な意味では、ほぼ「無神論」の民。逆に、そこに柔軟性を獲得したと、おそらく「錯覚して」もいます。
イスラムにもさまざまな宗派があり、イスラムの国といっても、その社会の在りようは異なりますが、現在問題になっているイスラム原理派の目指すものは、明らかに反動的だと思います。・・に帰れ、・・に戻れ、と常に現れる動きは、その動機の純粋さは見過ごせないにもかかわらず、反動の種を内部深く抱え込んでいます。イスラム原理派の説く社会の中で、女である私は生きたくありません。教育や仕事から遠ざけられることは、閉ざされた屈従の生を意味します。閉じ込められ窒息して死にます。自由、リヴァテイもフリーダムも全て含めての「自由」を、出来る限り「広範な自由」が欲しいです。
もちろん責任も伴います。許容性のない世界は、前進できません。
今回の同時多発テロ以後、多くが語られ、論じられてきました。更に私が付け加えることなど、あるでしょうか?
今も次々と新たなことが報道されています。
追われたユダヤの民へ、イギリス帝国主義から「贈られた国家」イスラエル、そして「父祖の土地」を追われたパレスチナ・・・中東の憎しみの連鎖を破ること、それが不可能に近いのを痛感します。
収奪され続けてきたさまざまな国の「文明国家」への憎悪、南北問題の深刻さ、「文明国家」内部の矛盾・・・こう書き連ねながら、今回の事態を暗澹たる気持ちで受け止めます。
テロ、野蛮な行為、いやこれは戦争だ、これに対しては戦う以外有り得ないのだという動き。国家とは、その領土、資源、人、財産を「守る」のが最大の任務だということも十分に知りながら、アメリカの人たちの多くが、今、ブッシュ政権を支持し、数年にわたる戦争を支持していることに、危惧を感じます。彼らが支持することの「必然」は半分は理解しながらも。
テロを決して認めたくない。そして戦争も。憎しみの連鎖はさらにその連鎖を増殖していくだけです。悲しみの連鎖も忠実に影を添わせていくのです・・。
私自身は高校生の時、アフガニスタンの人との交流から、アフガニスタンに特別な親近感を持ってきました。ハッダやバーミアンに行きたいと思い続けて、未だ果たされない夢は夢のまま・・バーミアンの仏さまとはもう会えなくなってしまいました。カブール博物館の多くの仏像も既に破壊されたり、闇のルートから売られてしまったと聞いています。ソ連軍撤退のあと、平和な国家建設が、ああやっとスタートするのだと感じた、あれも一瞬の夢でした。
暗殺されたマスードを撮り続けてきた日本の写真家長倉弘海氏は今、何を感じておられるでしょうか。アフガニスタンの人と結婚してカブールに暮らした遙子さん、個人的には全く面識こそありませんが、お会いしたい方の一人です。シリアやヨルダンの地方で、鉛筆やボールペンを欲しいと近寄ってきた少年少女のひたすらな眼差し、都会で靴磨きさせてとやってくる少年たち、土産物を売る子供たちを思い起こしながら、怠惰な「お気楽主婦・・片業主婦」はいったい何を語ればいいのでしょうか?
アメリカの知人は、「ブッシュは狂ってる!」と言っていますが、彼は、自分がアメリカ社会の中で少数者であることを痛いほど分かっています。先の大統領選挙の微妙な「天の定め」から、いったいアメリカは、世界は、何処に向かうのでしょうか。
先の湾岸戦争直前、アメリカでは多くのホームレスの人を見掛けました。あの後、九十年代、IT産業に支えられて好況
を享受したアメリカがこれから直面する危機は、どのような道を辿るのでしょうか。
アメリカの人たちの多様さ、柔軟さ。唯一の「世界の警察国家」である側面を非常に嫌悪しながら、同時に人々への親しみを込めて、私はあの不思議な国アメリカを見続けたいと思っています。無力感の方が大きいですが、せめて目だけはしっかり見開いてものを見なければ!
これは「論」ではありません。きわめて個人的な、とりあえずの、感想です。
* 前にもらったメールが、一通りのことに終っていたので、そこで投げ出さないで、もう少し本音が聴きたい、すこし「論」じて欲しいと押し込んだのへの、返事。感じの深い、優れた文章で、そういう文章の読めることをだけでも感謝し喜びとする、が、事態は陰鬱、根深く錯雑していて、おもわず天を仰いでしまう。小泉総理たちも、ノーテンキに軽々しく口を利かずに、人類の悲劇に対して謙遜に英知を発露してもらいたい。アメリカも日本も、反省・深省ということが先に立ってしかるべきなのに。
2001 9・17 10
* こほろぎ かかわりの深いハワイ現地法人旅行社が扱うツーリストの、帰国便の始末がやっと済んだ。11日の事件から1週間。先の予約キャンセルの痛手は相当に大きいし、見通しも暗い。
昨夜は夜中の3時に目が覚め、何とはなしにFENを聴いた。ふだん、夜更けは音楽番組がほとんどだが、いまは語気の強いニュース、レポートと解説が、延々と続く。何故かふだんより格別に聴き取りができている分、やや重たくなって、日本の民放DJに切り替えると、平和ボケの他愛無い話ばかりだった。
ラジオを切って耳を済ますと、こほろぎが一心に鳴いていた。日曜の夜、奥多摩の温泉からの帰りしな、電車に一匹のこほろぎが無賃乗車していて、戻りは大丈夫なのかと見ていたら、向かいの乗客の登山靴で片脚を踏まれ、足をひきずっていた。もう鳴きはしないだろう。
一心に啼くこほろぎと一つ風呂 真下喜太郎
胸がしめつけられたが、仕方ない。秦さんが紹介した虚子の「遠山に日の當りたる枯野かな」も哀しいけど、彼岸がある。
もの置けばそこに生まれぬ秋の陰(かげ) 虚子
予言のような惹起の陰影がただよう。
帰宅後、米国の知人から回ってきた、朝10時にみんなして行う平和祈念のメッセージの代わりに、マタイ福音書の祈りの節句を心して三度繰り返した。今宵はテレビも見ない、ラジオも聴かない。おねむになったら、お休み、グンナイ、グンナイ。
* アメリカのあれは「報復」ではない、「テロ撲滅」の闘いだと木元教子がテレビで熱心だった。言葉通りには、その通りであって欲しい。だが、それならば、今用意している予算の多くを投入してでも、グローバルに、この時こそ「警察行為」による操作と追及で輪を絞ってゆく、そして逮捕や一網打尽にいたる、迂遠なようでも的確な方法がなぜ採用されないかと思う。空爆にしても地上戦にしても、いつたいどこの何を狙うのか、狙えるのか。無辜の民のただとばっちりで命を落とす危険ばかり予想される愚策では、迷惑が大きい。「テロ撲滅」には賛成だ。結果としてテロリストたちは逃げ失せて、こおろぎのようにひ弱い一般人ばかりが、踏みつぶすように殺される最悪の事態は避けてもらいたい。避けさせたい。日本の政治家はなぜそこから発想しないか。
* 話はかわりますが、アメリカの行方がますます不安になってきました。戦争に対するエネルギーがマグマのようにたまっていて、今や爆発しそうな予感。
大戦はささいなことから始まった歴史があります。長期戦がいかに地球を破壊していくか、経済も 文化も 人の心も ぼろぼろにして、いくつかの映画にあったように、放射能に汚染されて廃墟と化した地球にならない保証がどこにありましょう。
アメリカは戦争といえば自国外で行われるという錯覚を持っているのではないでしょうか。
報復という言葉はきらいです。怨念 をもって仕返しをする という感じがして。
株価が下がり、本当のパニックはこれから始まります。アメリカがくしゃみをしても風邪をひいた日本。食料の大部分を頼り、すでにいちごがないとか。タマネギも 大豆も ピーマンも・・・・みなアメリカから来ています。
共に死ぬのは嫌です。大恐慌が起きる予感がします。
今 何をしたらよいのか、きたるべき大パニックに向けて何を準備したらよいのか、大変なことが起きている恐ろしさを感じるのですが・・・
仕事は順調です。今の所。少し自分のお金も蓄えさせてもらおうと思っています。今のうちに。それでしばらく食べられる 生活できる 蓄えをしておきましょうか・・・・と。
おいしいワインでも飲みたいですね。
少し悲観的だったかもしれません このメール。
* その辺に渦巻いている尋常で多数の憂慮であり、けっして無意味ではない。「アメリカは戦争といえば自国外で行われるという錯覚を持っているのではないでしょうか」という指摘は鋭い。今度の場合でも、またしてもニューヨークやワシントンへはよもやとタカをくくってもっぱら海外で「報復」撲滅」「戦争」をやる気でいる。その海外に、日本も含まれていることを忘れるわけに行かない。 2001 9・18 10
* 参議院予算委員会での質疑を、すこし聴いた。この内閣は危ない、小泉は危ないと思わずにいられない。どうすれば、どうすれば、どうすればと切言することで、いかにも口つきは真剣そうであるが、問題提起ですらない内容のない空疎な答弁ばかり。アメリカの報復戦争へ、なんとか、どうかして、憲法解釈をねじ曲げてでも、軍行動へ踏み出すチャンス=好機かのように、小泉内閣は浮き足立っている。戦争やテロに巻き込まれかねない国民の不安をそっちのけに、ひたすらアメリカに気に入られたい、気に入られたいと腐心している。
* 新聞もテレビも、自前でニュースを取材し組み立てていない、どこかの官辺から提供ないし漏洩されてくる情報を、クリティクなく、疑問ももたずに、これがニュースだと、ただもう垂れ流している。本当は報道しなければいけないニュアンスの微妙な報道が、きれいに淘汰されてしまい、いわば公の用意したものだけで、マスコミの中味が満杯になっている。官邸筋発表・記者クラブ筋のニュースに隠れて、生きた報道が絞殺状態で表に露われてこないのだ、なかなか。ブッシュに八割九割の支持を米国民は与えているという報道は一律に為されているが、べつの調査ではほぼ逆転しそうなブッシュ批判もあるらしい、そのことは、きれいに割愛されている。偏り報道がまかり通って世論を操作しているのが不気味に怖い。
* 米国が勝手に始めようとしている戦争の、前線基地となる沖縄米海兵隊基地では、「18日午後、倉庫から水陸両用戦車や軍用トレーラーなどが次々と出されて整備され、長期遠征に備える兵士の姿が確認」「キャンプ・ハンセン内の都市型戦闘訓練施設では、数十人の海兵隊員が建物の影に潜む敵との遭遇を想定し、実戦さながらの訓練を実施」「米本国以外では唯一の第三海兵遠征軍司令部が置かれる具志川市のキャンプ・コートニーでは、長期遠征に備えた装備袋を携えた兵士の姿が多数見られた。通常は許されている基地従業員らの基地内売店への出入りが禁じられるなど、基地内は緊迫感が漂っている。」と、地元新聞は伝えています。緊急時に自衛隊が米軍施設を守る法案が出されるとも。
米軍が戦争を始め、日本は米軍施設の警備をする。じゃあ、基地の回りの日本人(沖縄県民)を守ってくれるのは誰?政府は、まず、米軍基地にテロ攻撃が発生した場合、どのようにして自国民を守るかについてこそ協議を始めるべきなのに、首相は真っ先に米国に可能な限り協力すると言いました。この瞬間、沖縄県民は、テロの標的になりました。しかし、首相は基地周辺の日本人のことなど全く考えていなかったでしょう。56年前に地上戦が行われた際、日本軍は沖縄県民を全く守ってくれませんでした。今回もその状況は全く変わっていませんね。浮ついていないで、足下を見てほしいものです。
タリバンの本拠地、アフガニスタンのカンダハールから脱出中に、国連難民高等弁務官カンダハール事務所の千田悦子さんという方が書いた手記に、こんな指摘が。
「何の捜査もしないうちから、一体何を根拠にこんなにも簡単に、パレスチナやオサマ・ビンラディンの名前を大々的に報道できるのだろうか。そしてこの軽率な報道がアフガンの国内に生活をを営む大多数のアフガンの普通市民、人道援助に来ているNGO(非政治組織)NPOや国連職員の生命を脅かしていることを全く考慮していない。」「それでも、逃げる場所があり、明日避難の見通しの立っている我々外国人は良い。ところがアフガンの人々は一体どこに逃げられるというのだろうか?」「世界が喪に服している今、思いだしてほしい。世界貿易センターやハイジャック機、ペンタゴンの中で亡くなった人々の家族が心から死を悼み無念の想いをやり場の無い怒りと共に抱いているように、アフガニスタンにも、たくさんの一般市民が今回の事件に心を砕きながら住んでいる。アフガンの人々にも嘆き悲しむ家族の人々がいる。」「不運続きのアフガンの人々のことを考えると、心が本当に痛む。どうかこれ以上災難が続かないように、今はただ祈っている。そしてこうして募る不満をただ紙にぶつけている。」
結局被害を被るのは、人の死に心を痛めている、どこにも逃げられない市民です。これは戦争を仕掛ける側も、仕掛けられる側も、同じです。これから起こるであろう空爆で、メディアは麗々としたミサイルの軌跡を映し続けることでしょうが、その向こうで確実に人が死んでいることを忘れないつもりです。
なんともやりきれない気分。長々と書いてしまいました。午後は、近左さんの襲名展を覗き、美しい蒔絵で心を洗ってくることにします。
次台風が来ています。お大事に。
* 国内外で、無差別な報復軍事行動を厭わしいとみるグループ活動が報じられ始めている。声が運動に成長してゆく段階の必要なこと、いうまでもない。アフガニスタンの内部事情にも悲惨な抑圧や虐殺があり、さらに追い打ちに無差別攻撃を受ければ、庶民だけが潰される。日本政府には、日本国内で日本人を何らかの暴力的侵害から先ず護るという義務がある。その姿勢、大いに向いている方角が違うのではないかと、国民への無責任さを感じてしまう。
2001 9・19 10
* 二本の酔芙蓉が今を盛りと花数多く、この曇り空、この時間でまだ純白のまま、酔えずに素面です。それも上品に、姿美しく、見飽きず、和ませてくれます。昨日の名残のしぼみかけた花々が赤く色を添えています。はなやかな赤で終わる命がいいですね。人間もこうありたい。
ところが花に見とれていたせいですか、朝から年寄りっぽい「忘れ」をして、落ち込んでいます。具体的には余りにも単純な事で、恥ずかしくて言えませんが。年寄りだと自覚したくないですが、自覚させられました。ある一瞬、ある一刻が記憶の中から消えて真っ白になる自分が恐くなりました。
* こういう怖さとは、苦笑しながら、もうひっきりなしに付き合っている。今考えていたこともすぐ忘れる按配で、ことに人の名が正確に覚えられない。「はなやかな赤で終わる命がいいですね。人間もこうありたい」には、負ける。わたしの庶幾する末期は温かい枯野色である。
2001 9・20 10
* 寒いですね。 季節の移ろい。長袖、お布団と、秋は毎年突如入り用となります。朝寝坊をしてしまいます。
今朝観たメール「アフガンの子ら」そのまま私の気持ちです。
昨日、国連大使黒柳徹子の生出演での映像を観ていました。アフガンには三年雨が降らないと言っていました。あの荒涼とした土地も以前は緑豊かであったらしいです。やせ細り、眼だけが大きく飢餓の特徴を持つ乳児を見るにつけ、産児制限のすべ、知識もなく子供を産まねばならない女の人、産まれた乳児、歳端のいかない子供たちの軍事訓練と、眼をそむけてはいけないのに、そむけたくなります。近くは湾岸戦争、ベトナム戦争そしてあの第二次大戦とエゴの巻き添えを食うのは、女、子供です。
このたび、テロ人種とアメリカとの「確執」の知識は苦々しく世界中に伝わったことでしょう。根の処の解決がなければ、あくの強い人間のする事、エンドレスです。以前、南米の独裁者の二代に及ぶ復讐劇の映画を観た時、人の恐ろしさ、こだわりをひしひしと感じました。
2001 9・22 10
* ひとつ、とても嬉しいメールがありましたので、お気持ち休めに読んでいただきたく、お送りいたします。
いつも貴重な情報をありがとうございます。みなさんの熱い思いが伝わり、とても勇気づけられます。
今日、友人が戦争反対のビラをまくと言っていたのでついていきました。四条通の京都外国語大学のあたりでジョンレノン「イマジン」をバックミュージックに、ハンドマイクで「暴力では解決できない。このままでは日本もまきこまれてしまう。世界全面戦争をさけるためには平和憲法を守って、話し合いで解決を」という内容で、2人でかわりばんこに話しました。「ビラには小泉首相とブッシュ大統領の住所・電話・ファックス番号がかいてあります。そこにあてて自宅や職場から平和の発信を」と呼びかけると、ほとんどの通行人が話をきいてくれている様子でした。ビラも積極的に受け取ってくれ、車の中から「くださーい」と要求してくださった人もいました。警備員が近づいてきたので「やばいのかな」と思いきや、なんと丁寧におじぎしてくださいました。
家に帰り夕刊を見ると艦隊がインド洋にむけて出発したとかかれていて、緊張しました。こんなんではだめです。マスコミがひどいから、街角の人は「なんで戦争しんなんねん。えらいこっちゃ。でも仕方ないのかな」と思っている人が多いという感触です。「仕方がない」はずがないということをわかってもらい、みんなの声なき声を集めましょう!
本人の了解を得ていないので名前はとりましたが、京都に住む若い女性です。友達とたった二人で街頭にたつのが、たいしたものだと嬉しくなりました。 高橋茅香子
* ジョージ・W.ブッシュ大統領に。
President George W. Bush: president@whitehouse.gov
ディック・チェニー副大統領に。
Vice President Dick Cheney: vice.president@whitehouse.gov
2001 9・22 10
* 『青春短歌大学』拝受。すこぶる知的刺激のご本をありがとうございます。数編、クイズにチャレンジしましたが、はずれもあって、それよりも「答え」を先に見る、見たい心の急(せ)きように、いまの自分の魂のふらつきがある気がしております。
テロが起きて、すぐ「報復やむなしと言っていたのに、いまはアフガンの子らが可哀そう、戦争はいけない、ってなあに」と、だいぶ年下の妻に一喝されました。妻は、はなから、暴力否定、戦争否定。ぐうの音もなし。反省しきり。乳飲み子としてかすかに体験した戦火の断片を、それも語り継がれただけのものを後生大事にひきずってきたのは、何だったのか?
それにしても、やりきれないのは、侵攻作戦のシミュレーションを得意げに熱っぽく語る評論家の多いこと。実戦経験のない、痛みを知らない彼らの発言に、とてつもなく怖さを憶える。
口先では何とでも言える。団体が出す声明もしかり。腹を据えて考え、何かをしなくてはならない。自戒を込めて。
* 「何かをしなくてはならない」と分かっていて何もできない、誰もかもの陥っているジレンマ、が、見え透いている。インターネット上で「声明」がまさにワールドワイドウェブとして広がることは、何かをするのに相当するだろう。これはよいと思えば、声明文を「同報」で自分の知人たちに飛ばすことだ、その連鎖が大きなことをする。この「私語」にも、二つの「声明」を載せてある。コピーして貼り付けてメールして欲しい。
2001 9・23 10
* 徳田秋聲の「或売笑婦の話」を読んだ。佳かった。淡々と出始めて、どきりと終わり、大げさでないのに劇的であり、純文学の優れた興趣をしっかり表わし得ている。うまく「つくった」話なのだが、散文に妙味と落ち着きとがあり、作り話だけどと思いつつ、ふうんと唸らされる。佳い文学に触れた嬉しい気持ちと、ほろ苦い生きる寂びしみとに胸打たれる。この胸打たれたのが響いたのだろうか。いまも、胸は安定しない。午後には美術館へなどと思っていたが、無理か。晩には一つ日比谷で会合がある。朝日子の披露宴会場と同じ場所で、フクザツな気分。
だが、こんな嬉しい便りもある。博士になった弓の射手さんである。
* さて、今回の湖の本はあの懐かしい「虫食い短歌」ではありませんか!嬉しくて、懐かしくて、主人にも読ませています。「自分が学生の時にこの授業があったら、きっと選択していたなぁ」などと申しておりました。(主人は私より6期先輩なのです。)
現在は、二人で楽しく「補習」を受けているところです。講義料、近々納入いたします。一人分で恐縮ですが…。
そういえば、この3月には* *さんも結婚して* *さんになりました。来年の1月には* *さんが結婚します。みな、名前が変わっても元気にしています。
夏はあんなに暑かったのに、ちゃんと季節は巡って秋がやってくるのだなぁ、と感心しながら風邪を引きかけています。先生は、どうぞお気を付けくださいませ。
2001 9・25 10
* 松坂市で、給食に牛肉を使うのをやめたそうです。肉で有名な松坂がと驚きました。雪印騒ぎから変わらないパニック。怖い、買わない、食べない、ではなく、そういう考え方で口に入るものを作っている人こそ、怖い。草食動物を肉食にして、共食いさせる。それも市場に出せない病気の肉や骨を食べさせて…。ペットに、そんな食事させますか。動物ではなくモノとしか思っていない。こんな事を考えついた人、賛同した人、作った人、売った人、使った人を救う方が先決らしい。
* 皮肉な「救う」が利いている。囀雀さんの囀り、(或いは囀り雀の身近にいる呟き雀さんかも。)冴えている。
* 今は昔のはなしだが、ひとと歩いていて、路上に汚物があった。わたしは、黙ってひとを庇うように通り過ぎた。通り過ぎたところでそのひとが、「きたないわね」と言い、わたしは、黙っていてほしかった。きたないと聞いたばかりに、きたなさにまともに襲われた。言うて詮無いことは言わない方がいい。だが、それも、ものにより、ことにより、ひとによる。三猿で済まされぬこともある。言わずに済むことは言わない。潔い。ぜひ言いたいのなら黙らぬ方がいい。
2001 9・25 10
* 松茸が採れ始め、すき焼きの季節になりました。名張のギフトに「松茸&伊賀牛」がありますが、今年は狂牛病と聞いただけで牛肉を食べる気がしなくなるンですって。
一頭の病気の牛よりも、大規模経営(農・酪・漁)の中で行われている、病気が出ないようにする方法を聞くほうが、よほど食べる気が失せます。
アメリカで農薬散布に待ったがかけられていますが、これで病気や害虫が発生して不作になれば、遺伝子操作が正当化されそう。薬品で燻蒸してても農薬漬けでもいい、大豆やとうもろこしを輸出してほしいと日本は言うことになるでしょうね。
* アメリカ映画は、原住民、軍事独裁者、共産主義、金儲けアジアと次々に敵を拵え、ヒーローを生んできました。
「狂信者」相手にアメリカの完全勝利を描く今回のシナリオのラストシーンは、きっと大統領演説。10年前の失敗から、今回の敵は誰も反論できないテロに設定し、種を蒔き攻撃させる。生中継の衝撃映像が世界の同情と感情の一致を簡単に短時間で得させ、国民の団結と大統領支持も一気に得ます。
「悪い事は全てあいつがやったんだ。俺が退治したんだぞ!」と称賛を浴びたいアメリカは、「泣いた赤鬼」。
アメリカこそが正義であり、力と言う。神の代理という気でいるのは、双方同じ。
* シビアな、剔りの利いた意見が次々にメールで届いている。
2001 9・26 10
* from札幌・hatakさん
先週は、前年より17日早く大雪山系に初冠雪、週末は峠にも雪が降りました。今日の札幌は快晴。空気の透明度が高く、スーッと陽が射しこんできます。モントリオール、エジンバラ、高緯度地域に位置する街は、ときおりこういう光景を見せてくれます。
三連休も、実験植物の世話で遠出もままならず、札幌で過ごしていましたが、小さなお茶の会によばれ、一〇三歳立花大亀翁のほのぼのとした横ものに見入ったり、峠越えのドライブで高原に半日を遊び、童心に還ったりしておりました。
『青春短歌大学』を玄関先で開封し、ぱらぱら立ち読みしていたら、そのまま小一時間経ってしまいました。時を忘れる本ですね。あぶないあぶない・・・。
湖の本、東工大の講義、このホームページ、そして電子文藝館。次から次へと湧きいずるアイディアと、それを実現される力にただ感嘆するばかり。オリジナリティー・プライオリティーが命の研究者としては、何を食べたらこういう発想が出るのかな?と羨んでしまいます(美味しそうなメニューが闇に言い置かれていることもありますが)。
「大規模経営(農・酪・漁)の中で行われている、病気が出ないようにする方法を聞くほうが、よほど食べる気が失せます。アメリカで農薬散布に待ったがかけられていますが、これで病気や害虫が発生して不作になれば、遺伝子操作が正当化されそう。薬品で燻蒸してても農薬漬けでもいい、大豆やとうもろこしを輸出してほしいと日本は言うことになるでしょうね。」との、ご意見。植物病理学研究者として傾聴しました。
一番安全な食品はやはり国産ですが、一億人の胃袋を養う農家のほとんどが、高齢者。この足腰の弱さでは、ヨーロッパなどで制度化されている有機栽培などできません。農業も一番大切なのは人づくりなのですがねぇ・・・。
お礼かたがた、近況お知らせしました。心臓に優しくしてあげてください。 maokat
* ありがとう。
* 野島善勝氏、佐伯彰一氏、鈴木栄先生らの便りがたくさん。中には、学部の頃からの恋をはぐくみ続けて、ちかぢかの結婚をよろこばしく告げてきてくれた女性も。二人とも、よく知っている。二人ともに会っているし、二人とも湖の本を買ってくれている。「結婚したら湖の本は二人でシェアすることになりますねえ」と書いている。けっこうですとも。結婚するときは必ず報せますと最後の授業の日のアイサツに書いてくれていた。
2001 9・26 10
* 秦先生お元気でお過ごしでしょうか。私の方は、とうとうスペインへの修行を決意しました。
8月末にやっと会社をやめ、現在は留学の手続きとスペイン語、スペイン文化、起業の知識などの勉強中です。
渡西予定としては、11月3日成田発となっております。11月5日からスペイン語学校の授業が始まるので、まずはゆるゆると起業のネタを探してきます。
計画は1年間で、最初の4ヶ月間はマドリードの西200kmほどにある地方都市サラマンカにて滞在、その後は南のアンダルシア地方のどこかの都市(おそらくグラナダ、セビーリャ、マラガのどこか)に残りの期間滞在することになるでしょう。
帰ってきてからは、見つかった起業のネタにもよりますが、共同経営者になる人間と、私の資産、知識、ノウハウなどにより、しばらくは関係企業に就職する可能性が高いと思います。ま、人生どうなるか分かりません。だから楽しいわけですが。
もし、秦先生がスペインに来る機会があれば、ご連絡ください。ホテルの予約と観光案内程度ならできるようになっていると思います。
お身体にはくれぐれもお気を付け下さい。
* 生きているだから逃げては卑怯とぞ( )( )を追わぬも卑怯のひとつ 大島史洋 という出題に、東工大の、総じて千人ほどの解答のなかで、原作とはちがうが明晰に「自分」と書き込み、気持ちよい挨拶を返してくれた院卒の元学生君。とても気持ちのいい青年だった。けれんなく自分自身を追って、人生の闘いへ鹿島立ち、幸あれと祈る。
* 秋らしくなったかと思いましたのに、ここ二・三日は、汗ばむほどです。そのせいかどうか、風邪が流行っているようです。
ご本ありがとうございました。虫食い短歌は愉しいけれど、難しくて、頭を悩ませては、う?ん…。
狂牛病のニュースが毎日報道されて、お客様が激減し、状況は最悪に。不況に追い討ちをかけるような、現状がこのまま続けばどうなるのかと不安になりますが、流れに身をまかせるしかないと。農水省などの確たる報道がなされて欲しいものです。いいかげんな調査、翻る事実に、人々の不安は増すばかり。きちんと説明するとお客様は安心してくださるのですから。
テロ関係にも、心配は膨らんでいます。二男はいま**の部隊で、調理関係の教育実習中です。修了すれば乗船勤務の可能性もあり、母としてはやはりね。希望すれば、元の勤務先に復帰もできるらしいとのことで、「帰っておいで!」とコールしています。
小泉発言に対する米国の思惑。日本の考えの甘さは今に始まったことではないけれど、巻き込まれれる渦の大きさを見落としているような気がしてなりません。
機械の調子が悪いとのこと。大事にいたらねばよろしいのですが、そのことでお体に負担が増大するのではと、そのことが心配です。どうぞ、くれぐれもご無理はなさいませぬように。
* 政治や政策が、まさしく一人一人の市民の日々に暗影を落としている。アメリカへの一将功成って、日本の市民にただ万斛の涙を強いることなかれ。
* 「僕の味方しない奴はみんなテロだ」とか、無茶苦茶言って。でもそれが星条旗の波と「USA」の大合唱と、90%の支持率になったンですものね。
だいたい大統領選から胡散臭かったじゃない。支持されたくって「強いアメリカ」ってばかり言って、国際会議でわがまま勝手して。強くなければオトコじゃないなンて、今時ふッる?。お坊ちゃんの見栄とファザコンで戦争すンのよ。大統領の才能も器もないわ。
「味方してくれたらお金をやる。いやだって言ったら苛めるからな」の、小学生並み。ワシントンへ駆け付けた順番と、何をしたかを細かく閻魔帳に書いといて、後々、ねちッこォく苛めンのよぉ。呟雀
* この批評、まさに、しかり。新手の雀さんが増えたようで、批評合わせの様相、歓迎。囀、呟の両「雀」さん、二人とも器械の都合で長く書けない。そこが、またいい。器械には長く書いてしまうという悪しき誘いがあるから。
* 辞める辞めない辞められない=星野、野村、長嶋。
おはようございます。昨夜は近鉄戦と中日戦をTV観戦。3点負けてる9回裏。ランナー2人、代打逆転サヨナラ満塁ホームラン、見ました! 近鉄ファンではないけれど、それまで中継を見ていたから、なおのこと感激。諦めない、前向きで元気で、最後は笑顔が弾ける、こういう生中継こそ見たいのよ。
琴光喜の、優勝パレードの自粛。武蔵丸なら分かるけど、かわいそうだわ。車の上で撮影だけしたと聞いて、もっとかわいそう。愛知県出身力士の優勝は玉の海以来、もし大関になれば、東海では双羽黒以来と報道され、なンか、前途暗そうで余計かわいそう。囀雀
* こっちの雀さんも、批評厳粛。同感。夏目漱石は、明治天皇の亡くなったとき、こどもたちと鎌倉の海へ遊びに行っている。隅田川の花火が中止になったり、音曲が停止になったり、それにも、余計な無慈悲だと日記に書いている。まして、琴光喜の嬉しい初優勝のパレードを自粛してアメリカ人が喜ぶとでも言うのか。過剰反応である。こういうところが、日本人はひ弱いというか、何というか。
2001 9・27 10
* 『青春短歌大学』お送りいただきありがとうございました。ちょうど虫食い短歌の本が欲しいなあと思っていたところに届いた湖の本でした。秦さんの虫食い短歌のお蔭で、歌が身近なものになってきました。慌だしい毎日のさ中、立ち止まり、歌の空欄に入る語を思いめぐらして、切なかったり、悲しかったり、涙したり。
今日が終わると、また明日。時の経つのは早く、わたしは相変わらずです。進歩のない自分から目をそらすことはできず、ちょっとずつでも前へ進もうと、沈みがちな気持ちをなんとか奮い立たせています。歌が身にしみます。ゆっくり読んでいこうと思います。一語一語に向き合って。
どうか、おからだを大切に。
2001 9・27 10
* 小泉さんがアメリカへ呼び出され、見させられた現場と、被害者の家族。あれは、アメリカが見世物として利用してるの。原爆ドームとは全然違うのよ。
「許せないッ!自衛隊は危険を伴ってでも」。
思う壺よ。うそくさい熱血をうまく利用されちゃって。はっきり言って、あの瞬間、日米双方の政権政党、「待ってました!」。テロテロテロで、戦争ができる、死の商人に儲けさせてやれる。おこぼれ頂戴。小泉総理の構造改革って、軍需景気期待の下心なですよ、大化けものです。で、留守宅では、高祖議員を辞めさせ、オベッカ法案準備が一気に進んで。アメリカと日本で、「10年前にできなかったことがやれる!」って、嬉々として表舞台へ出てくるヤツらが大勢いるわ。靖国、靖国、靖国。
* おはようございます。昨日のNHK総合の「テントでセッションゲスト:澤村藤十郎」が、国会中継で放送されませんでした。紀伊国屋の贔屓まで「敵」にまわしたアメリカは、「多国籍軍で」って言わなくなったの、何で。単独でやれば、他国の上空通過や基地使用で機密を盗んでおいて、アメリカの機密は漏らさずに、作戦実行も早いわ。11月末迄に勝つつもりじゃないかしら。テロ後の大量の失業者も個人消費の落ち込みも、クリスマスとアメリカの劇的勝利でお化け景気になるだろ、なんてね。そして「兵糧責め」に凍結してるタリバン資金をみーんな没収すれば、軍事費用を他国や国民に頼らなくて済むのよね。うまい!!。
* 平成落首、これが、いまどき女性たちの逆巻く言論の自由。読みのシンラツ。
2001 9・28 10
* 土佐へ出張していた人が、土佐から土佐鶴を送りましたよとメール。そういえば、ここしばらく家に日本酒が絶えていた、意識して置かなかった。白玉の歯にしむ土佐の清酒が届くとは、ありがたい。以前なら二日か三日で飲み干した一升瓶だが、せめて五日にのばして嬉しく楽しもう、糖尿人には明らかに毒と承知しながら。
2001 9・28 10
* 政府の有識者会議が、「高齢期を迎える団塊の世代が、社会への貢献を続けられるよう、自立支援を行うように」と報告したらしいです。
政府への貢献って、「医療費使わず、介護・施設の世話にならず、長々年金受け取らず、行政に迷惑かけず、消費はばんばん」って、事かしら? 肩たたきやリストラ停年がこんなに早く来ると、政府は思ってもなかったでしょ? 当事者はもっとそうよ。年金給付までがこう長くては、景気浮揚に協力したくてもできないの。団塊の世代に生まれた夫は、「人件費が安くて、素直で、体力があった20?30代にもてはやされたほかは、たいてい迷惑がられてるよ」ですって。
* 知性の声というものでは、ないか。
2001 9・29 10
* 秦先生 「湖の本」お送りいただきまして、ありがとうございました。お礼が遅くなってしまいましたが、本の方は到着直後の夜に、お気に入りのスプマンテをちびちびやりながら、最後まで飲み干して・・・ではなく、読み干してしまいました。ハードでも買わせて頂いたのですけれど、やはりあの手軽なしなやかさが、アルコールと相性抜群だったようです。
授業では、見えなかったことが今さらながら見えてくる面白さをしみじみと味わわせて頂きました。あれから、もう9年も経つんですね。早いものです。
実は今日、自分の誕生日で、いよいよ三十路を目前とすることになります。今まで淡々と年齢の階段を上がってきましたが、29というこの年で初めて年齢というものに感慨を覚えました。年を取ることが嫌だとも思いませんけれど、ただ、自分に責任を持たなければ、という年ではありますね。もう無闇に「知らない」「できない」を叫べないな、と。歯を食いしばってでも知っているふり、できるふりをしなければならない場面も出てくるだろうな、と。
雲は夏あつけらかんとして空に浮いて悔いなく君を愛してしまへり 柏木茂
こういう瑞々しく若い歌を、昔は鮮やかに目に浮かぶ情景と共に好んでいました。それは、その時にはこういう情景を自分のものとして手に入れることが可能であったからだ、と、いま再びこの歌に出会って思うのです。
夫がいて、娘が生まれて、猫がいて。一生打ち込める仕事もある。今の自分は十分豊かな人生を与えられて、そして何よりあの頃よりも、人生を、自分でハンドリングできるような感触も掴み始めている。いよいよ生きることの醍醐味を味わえる予感がしています。
でも、この歌と再会して、確実にもう二度と手に入らないものを目の前におかれてしまった、という思いにとらわれました。「あつけらかん」とした「悔いのない」愛は、二度と私の目の前には現れないでしょう。私の手持ちの愛は、もっと密度の高い、ときに持ち重りすらする、けれど大事な大事なものです。
そして、もし万が一、今の愛が崩壊してしまって、もう一度夏の雲の下で恋愛することがあっても、それは「あつけらかん」とはしていないでしょう。今の手持ちの愛の記憶がある限り。
二度と出会えないものがある、という認識は、やはり29という自分の年を痛感するに十分でした。でも、そういうものがある、と認識することが、嫌なわけでは決してないのです。二度と会えないもの、二度と得られないものが存在する、という思いは人生を慎ましく、より豊かにするようにも感じるものですから。
金木犀が香りはじめましたね。
ロンドンにいる主人に、会社から緊急帰国命令が下りました。世の中は、日本にいて季節を楽しんでいられる私たちが感じているよりもずっと緊迫してきているようです。
長い間かかってこんなに繊細な言葉や文化が築かれた日本の行き先が迷走しないよう、願わずにはいられません。
先生も、お忙しいとは存じますが、どうぞおからだをおいたわり下さいませ。
* ありがとう。こういうメールが、わたしのホームページの、豊かな財産である。ここに、生きた言葉がある。こんなメールもいま飛び込んできた。
* ニューヨーク市長 同時多発テロ事件より以前に、最近のニューヨークの治安が現市長の働きで、大変よくなり地下鉄にも安心して乗れる様になったらしいと、娘から聴いていました。ニューヨークは一度は覗いてみたい所でしたが、非常に犯罪の多い都市であるだけに怖れをなして敬遠していたのです。今回のテロ事件で画面に頻繁に出る惨事もさることながら、あのごった煮のような都市を風通しよくした市長はと、ことあるごとに注目していました。
昨日(28日)の夕刊の記事でほぼ明らかになり、そう多くもない活字から、グット胸に迫るものがありました。
川村二郎の世間話 (週一のシリーズより抜粋しながら。)
二十三日に東京で開かれた「米国テロ被害者追悼・お見舞いの会」をテレビで見て、楠本定平ニューヨーク日系人会会長の挨拶が心に残った。楠本さんはアメリカ ミノルタ社名誉会長、大学の大先輩で、東京に見えるとよくご一緒する、と。
いつもと変わらない穏やかさで、メモなしで淡々とした口調も、いつもと同じだった。しかし、ひとことひとことに、ニューヨークの惨事を体験した人だからこその重さと、そして暖かさがあった。
昼夜兼行で捜索を続ける警察官と消防士、病をおして陣頭指揮にあたるニューヨークのジュリアーニ市長。楠本さんの言葉から情景が目に浮かび、何度も目頭が熱くなった。楠本さんからその夜、市長の人となりを改めて聞いた。
検事から市長になるとき、犯罪都市として悪名高かったニューヨークを安全な街にすると公約してその通りにしたこと。
警察官が殉職すると、残された家族と半日を過ごすこと。勇み足をした警察官が訴えられると、敢然と弁護すること。「彼は部下を信用してとことん守る男です。警察官も消防士もそれを知っていますから、この人のためならと必死になるんです。意気に感じて働くのはアメリカ人も同じです。市長は間もなく任期が終わり、待っているのは前立腺癌との闘いです。ニューヨークと市民のために一身をささげること以外、彼は考えていないでしょう。上に立つ者はどうあるべきか、教えられるところが多いですね。」
楠本さんの言葉を聞きながら、「坂本龍馬の魅力をひとことでいうたら、私心のないことやろな」といった、司馬遼太郎さんの言葉を思い出していた。
そう、結んでありました。今再び読みながらも、又、胸があつくなり、同じ地球にこんな人がいるんだと感動で目頭がうるみます。
* わたしの謂うのはこれだ、こういう身にしみる人間愛が、小泉総理の言動からは感じられないのである。心ないインベーダーかのように。
2001 9・29 10
* 朝一番のメールが十一本。「電子文藝館」関連が五つで、責任上、すぐの応対が欠かせない。今、が大事の時機。残る半数はプライベートだが、それぞれに、胸に届いて有り難いメールであった。中には、さあ、何年になるだろう、九年十年にもなるのではないか、東工大勤務の初めの頃に教授室へも顔を見せてくれていた元の男子学生から、懐かしい長いメールが届いていた。じつはこの人のホームページをはからずも見つけてい。フルネームなく確認出来なかったものの東工大での私にふれた文章が目に入った。で、わたしの方から、ひょっとしてあの「* *君」かしらんとメールを入れて置いたのである。
当たりだった。この人のことは、よく記憶していたのである。ホームページも、髣髴とさせる面目を備えていたので、ほぼ確信があった。
メールは、じつに読み応えのあるもので、かつ、イスラム問題にも適切に強く触れた内容であり、お許しを願って差し支えない範囲で、ここに書き込ませてもらう。みなで共に考えて良い内容を含んでいる。
* 秦 先生 大変ご無沙汰しております。東工大の卒業生の* *です。大変ご無沙汰しております。このたびは,私のWebの掲示板に書き込みしてくださいまして、ありがとうございます。驚き、懐かしく思い、また、インターネットの威力というものを切に感じました。先生におかれましても、ますます、ご健勝のご様子、嬉しく思います。
実は、先生には文学的なものもさることながら、仕事面においても教えをいただいております。といいますのは、今年の春に駒場の東京大学の大学院を出たのですが、はて仕事がない、研究職はない、という状況でした。そのとき、理工系の出版ならば、これまでの研究経験を活かせるのではないかと思い就職いたしました。経験を活かせるから、というのは実は表向きの理由で、秦先生も、また私の尊敬している現代詩人の方々の多くも若い頃は編集者をしながら本を書かれていた、というのがこの職業を選んだ第一の理由だったのです。狙いどおり、編集者の先輩方は思想的にユニークな方が多く、楽しく仕事させていただきました。もっとも私の場合、小説や詩を書きたいというよりも、ものを考えたい、できれば自然科学の研究をやりながら考えたい、という思いが強く、結局、今年の九月から* * * *研究所という基礎研究所で、物性理論を展開した摩擦の研究をはじめました。それでも、短い間でしたが出版社では、二冊の専門書を企画することができました。一時でも本作りの現場を知ることができたのは、先生のお陰と思っております。また、先生ご指摘の、出版業界の問題点についても、肌身に染みてわかりました。この点につきましては、また機会がありますれば..。
話が前後しますが、学部時代の私にとって、秦先生の講義を受けること、そして先生の研究室にお邪魔することは、特殊な、大変に貴重な体験でした。漱石のこと、谷崎のことをどれだけ理解できたかについては自信はないのですが、友人を交えていろいろなお話ができたのは、まさに一期一会、得がたい時間でありました。先生が東工大にいらっしゃってはじめて、私にとって (多分、他の多くの学生にとってもでしょう、) 東工大が単なる専門学校ではなく、大学として存在したといっても過言ではないでしょう。朝に下宿で読んだ小説の著者と昼に対面し、茶道の話や「家畜人ヤプー」の話をすることは、科学者になるために必須のことではないかもしれませんが、私が今の私になるためには必須でした。今ごろになって感謝の気持ちをお伝えすることになり、申し訳なく思っております。
私は三年半前に結婚しました。ときどき、研究室に一緒に伺っていたあの頃の友人たちは、どうしているのだろうと思います。
ところで、今回のテロ問題、先生のご主張の一つ一つに頷いております。
六年ほど前、半年間ほどイスラミックの施設でアラビア語を週二回、習っていたことがあります。サウジアラビアはお金持ちであり、かつ、お金の使い方を知っているようで、なんと教科書代三千円以外は無料で教えてくれるのです。当時は代々木のモスクが改装中だったためか、その建物には東京中の様々な国籍のムスリムの人たちが集まっておりました。どうして、イスラーム的なものに心ひかれたのかわかりません。基本的には、ラテン系の極まったような人たちであるアラブ系の「ノリ」に魅了されたのでありますが、一方、政治、文化、すべてにおいてキリスト教的な考え方に支配されている (とくにクラシック音楽と自然科学をやっている関係から) 西洋文明を相対化したかったのだと思います。
それはさておき、東京のムスリムの皆さんは、とても親切にしてくれました。別に新新宗教ではないし、宗教の専門家ではなく普通に暮らしている人たちですので、冗談も通じるし下品な話にも応じてくれるのですが、その根底にこの私には希薄な、敬虔という態度がありました。私は幼稚園は北米のユダヤ教の幼稚園に通っていまして、生まれて最初に祈るということを知ったのはヤハウェが相手なのですが、そのときの神聖な感覚を思い出しました。
敬虔という言葉を軸に考えると、イスラームもユダヤもキリストも、とても似たもの同士だと思います。何が言いたいかと申しますと、今回のテロの問題は、宗教の問題、ましてや「文明の衝突」などという妄想の世界に引きずりこんでは、東京のムスリムの皆さんのように普通に暮らしている人たちが大変迷惑するのではいか、ということです。現に、アメリカのムスリムの皆さんには被害が出ているそうです。
タリバーンの語源である「ターリブ」とは「学生」のことである、という知識は今ではすっかり有名になってしまいましたが、私の通っていたアラビア語学校では、「アナターリブ (私は学生です)」などというように、習いはじめに出てくる基本用語です。タリバーンがアメリカにやられる、ということになったら、クルアーンを一度でも読んだ人なら、 (アジアのムスリムはクルアーンを通して正統アラビア語を知る。) 「イスラームの同胞がやられる」という想いになることと思われます。そのささやかな気持ちを増幅して、宗教間の対立にしてしまっては、騒乱を望む人たちの思う壺でしょう。
それから、パキスタンなどの周辺イスラーム国における対米感情についてですが、湾岸戦争と同じことを繰り返すことになるでしょう。
私は、アラビア語を習ったあと、エジプトを一ヶ月ほど旅行しました。在東京エジプト大使館勤務の友達が本国に帰ったので、遊びにいっただけなのですが、湾岸戦争について、あるいはアラブ諸国の対米感情について、痛いほど知ることになりました。
まず、エジプトは親米とされているのですが、エジプトの外交官たちは日本のようにアメリカに全てを依存するかのような感情は持っていません。イスラエルという西洋主導の人工国家がすぐ隣にあって、一時はシナイ半島を奪われたことからも容易に想像できます。彼らはね日本に対しては、明治維新をやりとげた立派な国だという認識を示してくれました。エジプトでも同様の近代革命を起こそうとしたのですが、当時の宗主国イギリスに潰されたという経験があるからでしょうか。アメリカに対しては、日本は米で、農業国エジプトは麦で、市場開放を迫られている同様の立場であるという認識のようです。スーパー 301 条についてどう思うかと問われ、答えに窮しました。
このような難しい話は外交官だからするのでしょうが、一般の人たちは、湾岸戦争で大きなダメージを受けているようでした。旅をしていて、一番親しくなったルクソールの青年は、湾岸戦争に従軍させられたそうです。エジプトは一万人出兵して、千人亡くなったそうです。これは凄い割合だと思います。同じ村の友達が戦死したことを、その母親に伝えにいかねばならなかった、という話を聞いたときは、私も涙しました。彼らにとってみると、アメリカのせいで同じアラブの同胞と闘う羽目になった、という認識です。同じことが今回も起こらなければ良いのですが。
一方、日本に対しては上流階級とは別の意味で非常に良い印象を持っているようです。彼らの知っている日本語といえば、トヨタでありソニーであり、つまり工業製品です。子供の頃に見たアニメーションに、「未来少年コナン」というのがありましたが、日本とは、そこに出てくる「インダストリア (工業国!)」というイメージでしょうか。政治に口を出してこないで、ひたすら壊れない機械をもたらす国、日本。
もう一つ、今度、また西洋に対して戦争をはじめるなら、俺たちも加担してやるぞと激励されました。それではなんだか寂しい気がして、彼らに、名古屋特産の味噌煮込みうどんを作ってあげました。気味悪そうに食べていましたが、感想を聞くと、「うまい」と言ってくれました。
それはさておき、ある意味、日本は従来のままの工業国という役割以上の役割は、果たしてはいけないのではないかと思います。パキスタンやアフガニスタンの人たちの、現在の日本に対する感情は、以上に述べたエジプトの人たちの感情と大きく異なるようには思われません。
逆にいうならば、現状では日本は仕方なくアメリカの弟分になっていると認識されている筈ですから、日本がイスラーム過激派のテロの標的になるとは考えにくいです。日本の国益を考えるなら、今回も、何もしないのが良いと思います。ベトナム戦争のときと同様、日本はアメリカ軍に基地を提供しているのですから、それ以上の何かをする必要はないはずです。当然、いかなる国の人に対してであれ、テロや戦争の犠牲になった人に対しては、最大の哀悼を示すのが人の道でありますが。
Web に転載されてある先生へのお手紙で、「強い国にならなくても良い」という意見がありましたが、まさにそのとおりだと思います。願わくば、湯豆腐などという淡白な食べ物を愛する人びとが東の果てにいる、ということが、もう少し世界に知れても良いのではないかと思いますが。そういえば、「おしん」はアジア・アラブ各国で大人気だったそうですね。そういう国で良い、そういう国が良いと、思います。
大好きなイスラームに係わることだからでしょうか、気がつけば秋の夜長に長々と書いてしまいました。
先生も最近はとくに激務のようでありますが、お体には十分お気をつけください。
* 今時の大学生はと、わるい印象を持たれている人に、一概には言って欲しくないと、こういう秦サンへの久々の「アイサツ」を読むと、思う。東工大だからとは思いたくない。こういう言葉を若い人の内奥から引き出してくる誠意と愛とが教育の場にあれば、すこしも不可能ではない。こういう学生たちに教わっていたのは私の方であった、より多く。 2001 9・30 10
* 『青春短歌大学』をありがとうございます。このご本が出版されたとき、わたくしも秦教授から出された問題に、一所懸命になってとりくんだものでございました。ことばに対する感覚を問われ、語彙の貧しさを問われたご本でございました。
けれど、せっかくの「湖の本」ですのに、目を傷めてしまって、まだ、拝見できません。
目が痛いのでお医者さんにゆきましたら、左の目に傷があるとかで、読書もパソコンも控えるようにと、わたくしにとっては、無理難題でしかないことを言われてしまいました。「e文庫・湖」の三原誠作「ぎしねらみ」も、縦書きにしてプリントさせていただいてありますのに、これもおあずけです。『青春短歌大学』も、以前、拝見したときを思い出しているだけで、もどかしくて。
目を休めるために、冷たい水を含ませたコットンを目に乗せて横になったりしています。グレン・グールドのゴールドベルグを聴きながら。
目を閉じていても、薄い墨流しのような、けむりのようなものが目先にちらついています。子供のときからそうでしたけれど、もしかしたら、わたくしには、ものがちゃんと見えていないのかもしれない――。近視に乱視、それも左右の視力がたいそうちがうそうで、人間関係でも、自分の感情でも、バランスをとるのがへたなのは、この目のせいかもしれません。
こんな状態ですのに、金沢に行く用があり、時間をつくって、鏡花記念館に行ってきました。
うつくしい装幀のご本、紅葉の朱が入っている原稿、それから、鏡花自身の推敲のあとが、こまかに残っている原稿……。目の状態のよいときに見たうございました。
記念館のすぐそば、「照葉狂言」の舞台になったお宮さんにお参りし、浅野川に出ました。先生もこの川面に目を放たれた――。街中の川ですのにきれいな川を、しばらくながめていました。
近代文学館にもゆきたかったのですが、時間がなくて。
一閑張の箱を買いました。おいしいお菓子も買いました。
帰ってきましたら、ベランダのすすきが、はらり、穂をほどいていました。そのうち、目もよくなりましょう。
* 早くよくなられるよう祈ります。わたしにもよそ事でなく、日に日に眼の状態のわるいのを自覚している。眼鏡を替えれば済むのか、よくないことが生じているのか。十月二日には聖路加で一年ぶりに眼科診察を受ける。それにしても、この「金沢」の懐かしいこと。そうそう鏡花の頼まれ原稿の締め切りが今日までであった。書き上げて仕舞わなくては。
* いかがお過ごしですか。「爪切りもいけません」と旅行会社の人に言われてシンガポールへ発った主人からは、何も言ってきません、一安心。
で、出かけることにしましたの。月夜が続きましたが、潤んだ月になった夜、夢うつつに雨音を聞きました。明け方まで降ったようで、アスファルトがたっぷりと濡れたままでしたわ。
♪雨降りお月さん 雲のかげ お嫁に行くときゃ誰とゆく 一人で唐傘さしてゆく
お馬ではなく電車に揺られて。冬に旅した湖東ふたたび。秋もなお、趣き豊か。
彦根で、A席最後の一枚を手に入れ「彦根城能」を堪能しました。「黒塚」(昭世)、先に「鐘の音」(万作)。ご贔屓の亀井広忠さんも出てらっしゃいましたわ。
彦根城でつく鐘の時刻に「鐘の音」が始まり、万作さんの声より先に本物の音。昼に城を見に行った時に聞こえてきて、歩いていくと鐘がありました。昔は係の武士詰め所だったという聴鐘庵でお薄を頂き、眼下に広がる町並みと湖水輝く琵琶湖、向こう岸までの景色を楽しみました。風は微かで見事な晴天。観光地とは思えない程、どの店もおっとりとした人々がいて、どこを訪ねても秋草がさまざまに活けてありました。
博物館へは昼間見学に行ったのですが、見学順路は能舞台楽屋の前を通っていました。スタッフがシテ方の部屋へ入るところだったので、ドキドキしました。舞台に向かうドアも開けたままでしたので、幕の内側も見えました。200年前の能舞台を博物館の庭に移築復元したもので、松羽目も雰囲気があります。風も入り蚊も飛んできます。席は正面中央最後列、といっても、とちりの「り」で一段高くなっていました。
夜の公演なのでカラスが鳴き虫がすだくのが、「黒塚」に合っていました。闇も、といいたいところですが、ビデオ収録のためライトを煌々と点けていたのが残念です。
能は19:45に終わり、少し歩いて隣の大名庭園へ行きました。「虫の音+観月+庭園と城のライトアップ+箏曲演奏+野点」のイベントが21:00まであると聞いて…。池には舟も出て、月が照ったり雲に隠れたり、照明効果抜群でした。
お恥ずかしい事ですが、ちゃかぽんを知らずに彦根へ行きました。直弼公が柳が好きだったという事も知らずに。夜、庭園から埋木舎を通ってひとり歩く松並木。お堀の水は静まり、空には月。玉男さんの遣う城明け渡しの由良之助のイメージ。歴史好きな父に話してみましょう。
むっとして戻れば庭に柳かな でしたかしら。
帰りは各駅停車の旅。彦根を出て、草津、柘植、亀山、津。ここで近鉄に乗り換えて、伊勢中川から名張へ。乗り換え5回。景色を見たり、考え事したり、眠ったり、本を読んだり、吊り広告眺めたり、乗降客を観察したり。駅弁にお茶お菓子の電車の旅が大好きですの。今回は居眠りできませんわ。本数の少ないローカル線。乗り越したら大変ですもの!
甲賀辺りで雨になりました。少し肌寒い山懐の、いま、柘植駅ホームにいます。
* 携帯電話でのメールを何度か送ってこられたのを、繋いでみた。ひょっとして、いまどき、こういう時間を紡いで織りなせる人が、いちばんの「達人」なのかもしれないなあと、塵労の日々が、うそうそとイヤらしくなってくる。それには参る、が、塵労のまま超えてゆく魔法のあることも、朧にわたしは知っている。
* SF小説の話でごめんなさい。病、老、死のない楽園が地上に実現した話。
地球が養える人数が計算され、「生まれる」人はいないの。地上の世界だから自殺はできて、そういう人がいたら「生む」許可が出るのよ。
やっぱり「生まれる」根本にあるのは、悲しみなんですわ。
「生まれた」時代のネーミングがいろいろあるでしょう。サンパチ組の雀は、自称「化学物質人体実験世代」。
* なるほどね。「闇に言い置く 私語」が、さながらに織りなしている、私・秦恒平の文学と生活。生活はあるが、文学はどうしたと声が飛んできそうであるが、ひょっとして、今、この「生活と意見」ほどの文学があるのだろうかなどとノーテンキに思っていたりする。
2001 9・30 10
* どうしていらっしゃいますか?どんよりとした日曜日。
むしょうに「黒いピン」を抜きたくて、庭に出ました。キンモクセイの香りが一面に漂っていて、胸の奥まですいこむと、ピンが少し抜けていく気持ちがしました。雑草を抜いたり、お隣の家にあいさつしている木の枝を刈り込んだりしていますと、もう正午。
今、天使の歌声 といわれるシャルロット チャーチという十代の若い歌手の、オペラのアリア集をきいています。透き通った声は、うるおいや情感にはかけるのかもしれませんが、気持ちの底に淀んでいるどろどろしたものを、清冽な流れに変えてくれます。ちょうど能の笛の音のように。
* 一昨日、親しい人と少し話もしたく、時間を合わせて都内を歩きました。麻布十番は初めてでしたが、一度行けばもういいかな。
乃木坂の地上は初めてで、廃業すると書かれていたレストランは何処かしらとキョロキョロして。六本木まで芋洗い坂を歩き、饂飩坂の案内柱を見て大笑い。国文出のその人はむろんサラリと読めました。そそのかされて青山一丁目まで歩いていました。
東京に移り住んだ時、坂の多さに驚きましたが、最初に覚えたのは通勤途中の渋谷道玄坂、宮益坂。菊坂は一葉、団子坂は鴎外、無縁坂はお玉さん、暗闇坂、根津権現坂、谷中のさんさき坂、粋な神楽坂、馬場には漱石縁の夏目坂。二人で、まだまだ沢山の坂を踏破していますが、いつも目指して行くのではなく、ふらりと出逢ってきます。ちょっと都心の地図を覗いてみても、多くの単純な名の坂が眼に入り面白い。
今、黒柳徹子さんの「アフガン訪問」を観ています。以前は一面のすいか畑だったと謂います。砂漠化した大地、犠牲を強いられる女、子供たちが悲惨です。
* 差し出し不明思い当たらない先からの、「とにかく見てください」というメールを開いたら一面の記号だけであり、咄嗟に削除した。「y0083m@」だった。必要も心当たりもある人は、文面は化けて読めなかったので、あしからず。
2001 9・30 10
* 知り合い曰く「六十五歳を過ぎると、人間がくっと体力が落ちる」ということですので、失礼ながら御不調もあるいは、お年のせいもあるのかと存じます。(ごめんなさい)サラリーマンでしたら、定年を過ぎてのんびり暮らしているところですのに、宿命で、とても激しい働きかたをなさっているようにお見受けいたします。どうかご無理をなさらず、やさしい毎日をお過ごしくださいませ。
新しくお送りいただきました『青春短歌大学』に、数日、夢中になっておりました。私の親族はほとんどが短歌か俳句を趣味にしてよく作っておりますが、私はどちらもただの鑑賞者ですので、苦心惨憺いたしました。うまく言葉がはまるまでの謎解きは、時の経つのを忘れるほどで、挑戦しがいがありました。お選びになった短歌のなかで、私が昔から好きだった歌、「死の側より照明(てら)せばことにかがやきてひたくれなゐの生ならずやも 斎藤史」を見つけたときは嬉しくて、得意な気がいたしました。ほんとうに素敵なご本をありがとうございました。
十月の新刊『元気に老い、自然に死ぬ』も書店に注文したいと思っております。
新しいもの、いくつか書いております。そのうちの一つは、七月に亡くなりました父への供養のために書きたいと思っています。絶世の美女と謳われ、その不吉なまでの美しさゆえに、波乱にみちた人生を送らざるを得なかった私の祖母にあたる人のことを、今、色々調べているところです。
少しまえに、お送りいただきました湖の本はまだ何冊もございますが、惜しみ惜しみ読んでいくつもりでございます。秋が深まるにつれて、読書の喜びも一入です。今晩も雨の音を聴きながら、赤ワインを少々味わいつつ、『青春短歌大学』の劣等生を挽回とばかりに、『歌って、何!』を読むのは、私には至福のひとときです。
* 少なからず照れてしまうが、作物が、読者のもとで歓迎されていると知るのは嬉しい。「年のせい」と言われてもわたしはべつだん「失礼」を感じない。「激しい働き方」をしているのは明白であり、そのことは自負するより羞じているが、拘泥しないで、激しかれと迫られれば激しく、静かにと内側から催すものが在れば、したがうまでである
2001 9・30 10
* 作家高史明さんのメッセージが届いていた。この際、ここに書き込み、伝えたい。去年の十一月にわたしは、高さんに戴いたメールにこう応じていた。高さんは、その一文も今日のメールに添えておられる。それから先ず書く。
* 高史明様 秦恒平
このような回路でお話が出来るようになったのを、嬉しく思っています。実務的な手紙のほかに、ずいぶん話し合えるメールです。ホームページでも、闇に言い置く感じでいろいろと書いています。書ける場がこのように手に入ったことも、私の場合は天佑の思 いでした。
自分ひとりで書いているだけでは惜しくなり、広場を持とうと思いましたが、掲示板のようなむやみな書きっ放しではいけないと思いました。こういう場が、少しでも文藝を培うに足る畑となれるならばと。
ときどき、襲われるように不安になります。安心が得たいと戸惑っている自分をもてあますことがあります。育ててくれました母の享年まで生きられるなら、なお三十一年。言葉を喪います。「今」の重みを担うしかないなと思います。お導き下さいますように。
寒くなりました。お大切に。
* いのちの深い願い 高 史明
私たちは、いま何処にいるのでしょう。
二〇〇一年の九月十一日、世界中の人々は、テレビの前にくぎ付けになりました。飛行中の旅客機が、ニューヨークの世界貿易センタービルの陰に現れたかと思うと、不意に旋回して、音もなく滑らかな壁面に吸い込まれていったのです。
黒煙が吹き上がりました。まるで、新しいテレビ・ドラマを見るようでした。実際、旅客機が、アメリカ経済の象徴でもあるビルに激突する情景を、誰が現実のことと信じましょう。
だが、この情景は現実だったのでした。この日、アメリカで同時多発テロが発生したのです。ハイジャックされた旅客機が、二機同時に世界貿易センタービルに突っ込み、ニューヨーク最高のビルは数千人の人々を呑みこんで崩壊しました。また、ほとんど同時刻に世界最強を誇るアメリカの国防省にも、真っ黒い猛火が吹き上がりました。
この瞬間から、世界中の時計が、かつて誰も聞いたことのない不安な時を刻み始めています。世界のいたる所に報復の大合唱が起きたのです。
ブッシュ大統領は、このテロを自由と民主主義に対する戦争行為であると規定したのでした。それとともに十一世紀末、西ヨーロッパに起こった十字軍という言葉が、悪夢のようにマスコミに登場しています。報復のための軍事行動が、世界的に発動されたのです。いまアフガニスタンのタリバン支配地域は、一触触発の危機にあります。アメリカは、かの地にテロの元凶犯が匿われていると見なしているのでした。日本も、後方支援という名目でもって、アメリカの報復作戦に参加するために、重火器携帯の自衛隊を出動させようとしています。
現代戦争の特徴は、総力戦だと言われていました。あらゆる場所が戦場になり、あらゆる人が戦場に駆り立てられるのです。報復の大合唱とともに重苦しい不安が、世界中に浸透しています。世界中の母親が、思わず愛児の顔を見つめたことでありましょう。報復の大合唱は、この合唱に加わらない者もまた、テロリストと見なされかねない勢いなのです。保育の現場でも、無邪気な子どもたちを前にして、深いため息がもれ出ているのではないでしょうか。
だが、いまこそ、まっすぐに子どもたちを見つめていいのです。怨みに怨みをもって応えるなら、ついに怨みが止むことはないのです。それがお釈迦さまの教えでした。
そもそも自爆テロに走った若者たちの胸中に渦巻いていたものからして、近代文明の登場とともに、繰り返し、かの地の人々に強いられてきた積年の血と涙に対する怨みと、恐ろしい貧困下の屈辱と絶望ではなかったでしょうか。報復は、さらなる報復を生み、世界中に何百万という新しい犠牲者を作りだすことでしょう。
お釈迦さまの教えが、深く思い返されます。「すべての者は暴力におびえる。すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」テロ根絶のためにも、いのちの原点が見直されていいのです。赤ちゃんが果して報復を考えるでしょうか。最近の新聞にはアメリカでも、怨みに怨みを持って応えるな、という声が起きていると報じていました。
長い間イギリスの支配下で苦しんだインドには、世界的な詩人タゴールが生まれていますが、その詩人のいのちを見る眼差しが思い起こされます。彼は、赤ちゃんから、わたしはどこからきたの、と尋ねられた母親のこころを通して答えるのです。「あさのひかりと いっしょにうまれた/天からの はじめての いとし子よ/せかいの いのちの 川にうかんで ながれて とうとう わたしの/こころの きしべに のりあげたのよ!」(はじめ) 母と子の出会いは、いのちといのちの出会いです。この出会いこそが平和の原点です。また、原点こそが、永遠に変わらない子育ての原点だと言えましょう。
阿弥陀さまは、いま不安の深い私たちをまっすぐに見つめておられます。
二〇〇一年十月二日
2001 10・2 10
* 懐かしい以前の学生が二人、懐かしいメールを送ってきて呉れた。一人は昔の学生ではなかった、現在博士課程三年生の女性である。一年飛び越えで大学院に進んだ。もう一人は修士課程を卒業して勤務していたが、雄志を胸に、研究もかねて外国へ鹿島立ちしようとしている、もと合気道の全国チャンピオンである。
* 秦さんはお変わりありませんか?先日は湖の本エッセイ23『青春短歌大学』をお送りいただいて、ありがとうございました。というより、以前より湖の本をお送りいただき、本当にありがとうございます。電車に乗る時間が短くなって、読む時間が細切れになってしまっていますが、わたしの通学の友になっています。特に今回お送りいただいたのは、あのときの授業を思い出して、「挨拶」に答えてみたり虫食いを埋めてみたりして、つい、電車を乗り過ごしてしまいそうな勢いです。
久しぶりに、あの授業で覚えた自分に向き合う時間を、取り戻した気がします。教室で毎時間の返答はつらかったけど、充実した時間でした。あの時とは自分の周りの環境、人間関係などなど今は異なっているので、まったく違った答えや読み方、挨拶への返事が出てきます。もう、6年経ってしまいましたから・・・。
ずいぶん前のメールに、「近況を」伝えるようおっしゃっていたのに、ちょうど研究室の引越しのごたごたが年明けからあり、メールのマシンの変更で、新しいパソコンに前のアドレス帳を移行せずにいたため、かなりの方と連絡が疎かになってしまいました。(言い訳ですよね。すみません。)
わたしは、ただいま、博士課程3年。来春の学位取得をめざしています。データがそろわないため、まだまだ実験をせざるを得ない状況ですが、そろそろ博士論文に本腰を入れようとしているところです。
わたしは「腐食疲労」という現象について研究しています。金属に一度加えられても壊れない程度の弱い力を、何度も繰返し加えると壊れてしまう現象が、「疲労」といわれています。飛行機の事故や原子力発電所の冷却水漏れの事故の原因として、名前の出てくる現象です。その「疲労」現象が、水中で、「さび」の発生するような「腐食」と共時に共存すると、とても厄介なことになります。
これまでも、数々の研究がされていますが、わたしの注目点は、雨が降ったりやんだりする場所に置かれている場合や、結露して薄い水の膜に覆われたり、温度があがって乾燥してしまったりする環境で、この「腐食疲労現象」がどんなメカニズムで起こるのか、ということです。降雨、結露、乾湿繰返しというのは腐食界(?)では現在注目されている環境のひとつ「大気腐食環境」として、いろんな研究が盛んに行われています。(そもそもわたしの所属している研究室が、腐食(さび)の研究をしている研究室です。)
金属がさびる(腐食する)とき、溶液にどっぷり浸かっているよりも、表面に乗っている水溶液の厚さが薄くなるほど、すなわち乾燥していくほど、さびる速さが速くなることが知られています。どんどん早くなって水の厚さがもっと薄くなると、今度は、さびる速度ががくっと遅くなり、完全に乾ききってしまうと、さびはストップする。これが「疲労」と一緒に起こるとどうなるか?これを調べているのですが、まだまだ、課題山積みです。
学生生活がやっと終わりそうです、が、先のことはまだ決まっていません。春頃に大慌てしているかもしれませんが、今は何か無理して行き先を決めようという気がしません。取りあえず、今は、学位取得のみに目標を定めています。
こんなところです。秦さん、お体にお気をつけて。また、メールします。
* 研究の機微にふれて披露するのはどうかと心配だが、とてもとても、彼女たちのやっている研究は精微を極めて、計り知れないものであるはずゆえ、わたしも興味深いところをそのままに書き込んでみた。わたしは、こういう話を学生から聴くのが好きだ。自分の限られた関心や知識や判断を確実に相対化してくれるからである。こう教わらなければ、こんなことは、わたしの目にふだん見えてこないし、考えつきもしない。しかし、こういうことが確かにあると知るのは、不用意に己一人の鼻を高くして暮らす日々の愚を示してくれる。
こういう学生が、授業の後で友人たちと教壇へ近寄ってきて、「秦さん、歌舞伎というのを観てみたいんです」と声をかけてくる。「うん、行こう」と、わたしは躊躇なく切符の手配も、幕の内の弁当も手配して、おそろしく見やすい良い席に横に並んで「弁天小僧」の通し狂言を楽しく観たのであった。学生たちのためにこうして金を使うのは少しも惜しくなかった。「腐食疲労環境」に真剣に首を突っ込みながら、彼女の脳裏の一点に稲瀬川勢揃いのつらねの美しさも生きているかも知れぬと想えるのは、幸せなことである。
* 「青春短歌大学」受け取りました。有難うございます。始めのほうを読み進めていくと、ありあり学生時代を思い起こし、あの頃の良かったことや、自分の愚かさを、今の自分と比較して感慨にふけってしまいます。そのため、なかなか頁が進みません。
> いよいよですね。着々と、歩一歩を歩んでゆく君なので、実行するであろうと想っていました。
実行するというと聞こえは良いですが、現実ないし日本からの、逃避かもしれません。今は、そうなってしまう怖さに日々おびえて暮らしている気がしてなりません。
そう考えると、会社勤めを続けるとは、自分が社会の一員であることの証明と安心感とを求めることでもあるんだと思います。つまり、日本における会社勤めは、欧米社会(だけではないですが、)における、あたかも「教会」のような、宗教的な要素を含んでいるということなのでしょうか…。日本という島国特有の宗教観や社会構造の上でビジネスをしていくには、大きな課題です。
* 何を掴んで帰国してくるか、その日までも元気でいたいと思う。学生たちのことを思ってこう時間を過ごしている間、微塵も緑内障なんてことは思いもしなかった。ま、そういう風に生きて行こうと思う、これからも。 2001 10・2 10
* 子どもたちの悲鳴 『青春短歌大学』を、ありがとうございました。今、嫁いだ娘が持ち帰り しっかりと楽しんでいる様子です。
自閉症の子にやりたきをやらせをり( )をとぎ一粒の( )も零さず 真行寺 四郎
この虫食いは、理解できました。
教室の、おなじ子供の正直な悲鳴を聞いてください。
小学1年生、重度の自閉症と診断されている男の子です。
指先に触る感触が好きで、教室に入ってくるなりパソコンのキーを叩きます。これは故障すると困るから、触らないでねと言いますと納得してやめることができます。まだ言葉が出てこないので、自分から話すことはなく、嫌なことがあると、大声で拒絶します。
3週間前頃より非常に気持ちが不安定になり、片時も母親より離れることができなくなりました。少しでも姿が見えないと、パニックになり、大騒ぎをしてひっくり返ってしまいます。先週頃はひどくなり、ご飯もおやつも何も食べなくなってしまって、お母様にしがみついていたそうです。
不安が、長く続くので心配でした、が、その原因が分かりました。NewYorkのテロ事件のTVの放映です。ひっきりなしに繰り返される、爆破の画面です。戦争へ動いていくための「正義への証明」でしょうか。納得いくまで繰り返し見せるのでしょうか。その子供の目にどんな恐怖を植えつけたかと思うと、腹立たしいものがあリます。
字は読めませんが、アナウンサーの口調で、関連事項だと分かるのです。関係のニュースが流れると泣き出して大騒ぎになるそうです。言葉で恐怖を語れない子供には、パニックを起こして訴えることしかできないのです。好きなパソコンのキーでも、説明してとめれば触るのを我慢できます。けれど、その子供に「報復」はどう説明できるのでしょう。
子供たちのために平和的解決を望みます。大国の面子も捨ててください。大国へのへつらいはもっと捨ててください。命令を出す人たちの安全はプライドは保障されるでしょう。一番弱い子供たちのところに、途方もないひずみが、しわよせが、行くのです。
「私語」を読ませていただいて、同感したり、溜飲を下げたりはしていますが、余りにも痛ましい子供を見て、もっと大きな声を出したい気持ちです。
* さすがにアメリカでは、影響が深刻に出て自粛したようだが、日本では、平気で映しに映していた。そして、やはりアメリカに追随して遅れて自粛した、のか、どうか。むごいことである。「もっと大きな声を出したい気持ちです」というこの先生の声が輪になり渦になりしないものか。昔なら、まず学生が立ち上がっただろう。学生にエネルギーのないことは、東工大でもつくづく情けなく感じていた。自治会すらよう持たない学生たち。自治会はしゃにむに押しつぶす大学当局。からだもろくすっぽ自由にならないわたしなどが、こういう場で「私語」していても、ことは大きくは動かないと思うと情けないが、言いやめることはしない。
2001 10・4 10
* 「北」の時代=最上徳内。……いい日本人を、ありがとうございます。これからも、いい日本人を、書いてください。
朝顔が小さく涼しくなりました。お大事に。勝田貞夫
* 長大な三巻をことごとくスキャンして送って下さった。なんという嬉しい有り難いことだろう。
2001 10・4 10
* 「A君。なんだかこのメールがブラジルに通じるということが、信じられな い思いで、君を思い出してもついメールには手が出なかった。きみのこのメールがほんとにブラジルから届いているのだとすると、驚異を覚えます。ま、それぐらい旧人であるわけ、私は。すると、その気なら、わたしのホームページで、「私語の刻」や「e? 文庫・湖」も読めるのかなあ。不思議でならない」と、昨夜に返事を書いた。その「返信」が来た。
* 私も同感です。それも、光の速さ(!?)でメールが届きます。※理論上ですが。私も、旧人の部類です。はっきり言って、ブラジルに来るまで、本当に日本のホームページを読めるとは思いませんでした。驚異を感じます。
それはそうと、閑吟集の秦先生だったら、聞いてくれると思って、書きます。
今晩、筆卸なるものを体験しました。
肌を重ねるという行為が、実にいいものだとは感じましたが、別にまぐわうことが、いいとは感じませんでした。そういう意味では、半分しか楽しくなかった。
やはり、思いやりのないまぐわいは、意味がない。何と言うか、恋愛小説みたいなものを期待していたのに。
今度、恋人ができたら、もっと思いやりのあるものをやってみたいです。やっぱり「恋」がないと(気持ちがこもってないと)、どんなものでも、愛着は湧きません。※仕事も然り。
馬鹿なことを書きました。それでは、失礼します。
* こういうメールを、元の学生君からもらえる先生は、ざらにいないだろう。相手の女性のことが分からないのでその人への配慮は別事として今は触れずにおくが、このA君のメールを、わたしは、清潔な気分で読んだ。嬉しいし豊かな気分で読んだ。うまくは説明できないが、不思議に希望を覚えて胸がふくらむようだった。性には病気もついてまわる、気をつけよとだけ付け加えて、また気持ちよく返事した。
2001 10・6 11
* アメリカの爆撃は、続いています。心配したとおり、一般市民に犠牲者が出始めています。国連関係の施設も「誤爆」され、NGOの4人が亡くなりました。
アメリカの攻撃開始を前に、アメリカの治安当局は、「報復をすれば、100%報復テロがある」という状況認識を上に上げていて、ブッシュ大統領らは、それを承知で、攻撃に踏み切ったわけです。「暴力の連鎖」は、承知の上という権力者たちの判断です。そして、「誤爆」をふくめて、一般市民の死者です。
政治や戦争を質す(正す)のは、「表現者」の役割でしょう。
ブッシュ大統領は、アメリカのCNNなどのテレビを利用し、一方ビンラディン氏も、「中東のCNN」と言われるテレビ局「アルジャジーラ」を利用して、世界にメッセージを届けるという「メディア合戦」を繰り広げています。今回の事態は、インターネットもテレビも操っての「メディア合戦」の様相を濃くしています。
世界各国の「表現者」の集まりである、世界ペン、あるいは、日本を含む各国のペンは、こうした権力者たちの「メディア」合戦が、今後の表現に及ぼす点までふくめて、幅広い人権擁護のために、発言すべきでしょう。
秦さんのメールには、下記のようにありました。「メディアウオッチャー」のことなど、そのまま電子文藝館の「意見」欄に入れたいぐらいです。ああいう発言が次々に連鎖しながら、「ペンクラブ」の意向を反映して力になって行く、しかも、また別方角へ自然に話題転移してゆく、そういう付け合わせ「連歌」のような展開に期待したい、と。
権力者のメディア利用ばかりでなく、市民サイドのメディア利用が、秦さんの言うような方向に展開して、冷静で、落ち着いた世論形成ができるように人類の英知が働かないものかと痛感しています。
* お忙しくお過ごしのことと存じます。
12月は三宅坂文楽と木挽町で「妹背山」競演との事で、「杉酒屋」「道行」を思い、大和へ、雀一羽。三輪明神から長岳寺まで歩いて参りました。
季節もよく、昨今のウォーキングブームで、山の辺の道は賑やかです。
誰も居ない玄賓庵の庭で、「三輪」の僧気分で、カミサマを想いながら新米のおにぎりを食べました。想像の世界に浸る雀のお気に入りのひととき。
午前は国会中継のラジオを聞きながらの人、午後は競馬中継を聞きながらの人に出会いました。「俗塵を持ち込まないでよぉ」なぁンて、逃げてきた雀が言えたこッちゃないか。
* いろんな世間がある、あり得る。そのことが気持ちを廣くしてくれる。
* 土砂降りの中を池袋へ。メトロポリタンホテルの喫茶室で、久々に勝田さんと会い、場所をかえてなんと九時近くまで歓談、歓飲、歓食。昭和十年生れのおじさんが二人でいろんなお喋りを楽しんだ。焼酎の「無一物」。和食。終始の雨には遠方へ帰られる人にお気の毒であったが、心おきなく話し合える時間にたっぷり恵まれて嬉しかった。
2001 10 10 11
* 年末に予定しているイタリア旅行も、この世界情勢では難しいかなと、溜め息まじりに毎日重苦しいニュースを見ております。相変わらず激しいお仕事ぶりのご様子でいらっしゃいますが、どうかご無理なさいませんように。片隅の読者の切なる願いです。
先日は「私語の刻」のなかで、緑内障の可能性がおありのことと拝見しまして、心を痛めますとともに、少し安心もいたしました。緑内障と伺い、厄介でも、闘いようのあるご病気で、ほんとうによかったとほっと胸を撫で下ろしています。 昨年六十枚ほどの短編を書きましたときに、眼の病気の人物を書く必要があって、いろいろな医学書を読みました。そこには遺伝子で決められたものや救いようのない眼病があまりにたくさんあって、思わず身震いしたことを憶えております。緑内障は完治する病気ではありませんが、進行を抑えることのできる、将来に希望のある病気ですので、病名がわかりましたことは何よりの幸運でいらしたと思います。
先生のほうが私より遥かにお詳しいことと存じますが、緑内障は四十代以上の三十人に一人が患う、よくある病気でございます。私のごく親しい関係のなかで、ざっと数えただけでも五、六人はいるでしょうか。私の大学時代からの友人は二十代から発病していましたし、親から受け継いだという遺伝性の緑内障の秀才の友人もいます。歴史学者の叔父は発見が遅かったので、かなり進行していましたが、それでも昨年、長年の研究の集大成の本を仕上げて満足していました。それぞれの病人が投薬と眼圧の検査を受けながら、元気で普通に生活を続けています。
そして私の夫なのですが、今年の会社の健康診断の眼底カメラでひっかかってしまいました。緑内障の疑いがあるということで、視野検査までしました。軽微の所見で近視のせいか、検査に不慣れなのか、病気によるものかは、半年後の視野検査をしてみないとわからないということでした。今はとりあえず灰色の状態です。
夫の三十分ほどの視野検査を病院の廊下で待っておりましたら、ふらふらになったご婦人が検査室から出てきました。視野検査は疲れるもののようですね。
健康に絶対の自信をもっていた夫は、少し落ちこんでいましたが、緑内障を早期発見できたとしたら、勿怪の幸いと慰めているところです。
先生の「私語の刻」のなかの、こんな文章にとても心うたれました。
「学生たちのことを思ってこう時間を過ごしている間、微塵も緑内障なんてことは思いもしなかった。ま、そういう風に生きて行こうと思う、これからも。」
私は先生の自由な心のありかたが羨ましくなりました。ささいなことに心も生活も乱れて悩みまくる私の精神は、自由とはほど遠いところにあります。病気から無縁でいられる人間はいませんが、そういう重苦しさや失望に縛りつけられることなく、先生のように心静かな、陽のあたる枯野の境地にいたいものだと、つくづくそう思います。
今日インターネットのあるページのなかで、不謹慎ながら、笑える一文を見つけました。 内容は、ブッシュ大統領はテレビ映りではものすごくウサマ・ビンラディンに負けているから、アフガニスタンの制空権をとることよりも、そっち(見栄え)に気合をいれたらどうか、というものです。先の見えない戦争に突入したブッシュ大統領に対するやけくそのようなコメントで、思わず笑ってしまいました。テロリストと大国それぞれの「正義」の武力戦争など、不毛でしかありませんが、批判のしかたにもいろいろあるものです。
お見舞いのメールが長くなってしまいましたが、文学史に残るお仕事である「電子文藝館」の立ち上げでお疲れになりませんように、くれぐれもご自愛くださいませ。
* なんとなく、クスリと笑わせてくれる、空気穴のうまく通った文章世界をもっている人である。意表に出たものが、自然にある。緑内障でよかったでしたわと慰められるとは思いもしていなかったが、慰められてみると、これは賢い励ましである。有り難い。
* 突然のメールにて失礼いたします。松山に居りました ***子でございます。 「湖の本」 いつも ありがとうございます。
8月に転勤になり 13年振りの引越しとなりました。早くご連絡をしなければならなかったのですが、遅くなりすみません。
引き続き 下記の住所まで「湖の本」を送っていただきますよう、よろしくお願いいたします。もし8月?の間に「湖の本」の発刊がありましたら、お手数をおかけしますが お送りいただけませんか? 重ねて よろしくお願いいたします。
私事ですが、関東に住むのは始めてです。四国から出るなんて、思ってもみなかったのですが、不況だリストラだというご時世、私の勤める会社も雇用確保のため組織の見直しを始めており、その流れの中での転勤となりました。
中学3年生の息子と二人、日本語の通じる所ならどこでも暮らせるさ!!と、上京した次第です。 (この子は「湖の本」刊行の年昭和61年9月に生まれました。)
何年住むことになるか(もしかしたら定年まで・・・)。でも ?住めば都? と楽しみたく思っています。
* 十六年も、湖の本をはさんで四国と東京とでお付き合いを重ねてきた。本を68冊も買って戴いていた。丁度第二巻の『こころ』を出した頃に生まれた男の子がもう中学三年生も二学期半ばだと。感慨深い。お近くへ、ようこそと、千葉県下の住所を眺めながら、心温かくいる。
2001 10・11 11
* 先日は『青春短歌大学』を送っていただき、ありがとうございました。リストラに毎日怯える、そんな中、しばし、我に返るタイミングを頂きました。
ところで、早速本題に入りますが、ぼくは昨日・今日と非常に興味深い記事を読みました。それをご紹介したいのです。
それは、国連難民高等弁務官事務所カブール事務所所長山本芳幸さんという方と、作家の村上龍の対談です。
これは10月1日に行われた対談で、アフガニスタンで長いこと(多分5年以上)仕事をしてきた人の、今の報道に対する様々なコメント、事実関係の指摘があります。
内容的に、意外なものと言うわけではありません。が、今の日本でこの記事に匹敵する情報は、得ようにも得られず、そんな中、テレビで「アフガニスタン国内からレポート」という類の番組の「現地の人々の声」というものを見聞きしているだけでは、自分で気をつけていても、どうしても一面的な情報ばかり入ってしまいます。記事を読んで、今まで自分が北部同盟とタリバンを同格に扱っていたことに気づかされました。
さて、記事ですが、無断転載禁止だとのことなので、JMM(村上龍のメールマガジン)のバックナンバーページで、読んでみて下さい。ほかにも見ていただきたいところもありますが、キリがありませんので、上記だけご紹介します。
風邪が流行っています。ぼくもやられました。先生も気をつけてください。
* つい先日、「いま、表現が危ない」というシンポジウムを、われわれの言論表現委員会主催で開きました。これは「いま、報道が危ない」の意味でつけた題でした。報道されていることと、その背後からの別の報道や情報を、幸いにわれわれの委員会や仲間達は、さすがにその筋のプロたちで、かなりえぐり出すようにして所有していますし、わたしのような何も知らない仲間にも分かち合ってくれます。いままさに「報道・情報」は、真実という点で「危なく」偏して流布されています。程度の差はあれ、いつの時代いつの時点・事件でも、実はそうでしたが。君が、そういう方角から、なにかを考え始めたのを喜んでいます。
その上で、わたしなど、「報道・情報」というものが、如何に表向き、如何に裏側にわたろうとも、所詮は「正しい正しくない」と謂った議論に耐えられるものでなく、相対化の視線や姿勢でクリティックしなければお話にならぬもの、割り切って謂えば、信じてしまってはならぬもの、と、久しい「歴史」にも教えられ、冷淡に距離を置くようにしています。所詮は人間のマインド(利害の分別)が作りだしている「幻影に近い事実」に即した情報であり報道であり、正しいも正しくないも、堆積する時間や時代の中で結局はルーズに「意味を変えてしまうもの」であるのは、当たり前の話です。少なくも「同時代情報」のもつ頼りなさの例は、歴史的に枚挙にいとまがない。その辺を、よく心得てかからないと、結局は、自分を見失って、「情報(に操作された)ロボット」になってしまう。
本質的には、情報も報道も「まぼろし」です。正しいも正しくないも、本当も嘘も、つまりは無いこと、まぼろしであったことに、どんなに多く気づかされてきたことか。深く生きる意義に照らして謂うなら、まさに「虚仮」に向き合っているのです、われわれは、日々に。しかも、そうと承知の上で付き合っています、そういう「虚仮の情報」と。便宜的に。
それが、わたしの思いです。
村上龍は現実の人です。現実は、真実をなにほども保証しないと識っているわたしは、聞いて面白いものは聴きながら、とらわれないでいます。
何が大事か、わたしにとって。やがて人生を幕引きする身にとって、大事なのは、現実の「我」をきれいに見捨てる、かき消す、ということです。地獄も望まないが天国も望まない。テロも戦争も、芸術も哲学も、虚仮であると思っています。そのうえで、日々を虚仮に楽しもうと。長く時間をかけた山折哲雄(宗教学)との対談『元気に老い、自然に死ぬ』春秋社が刊行になりました。大いに語っていますが、それとても虚仮であると分かっています。真実は言葉にすれば途端に真実でなくなる。それこそが、すべて偉大な人の知っていた真実なのですからね。 秦恒平
2001 10・12 11
* 牛の忠信 体調のほうはその後いかがでしょうか。血糖値をコントロールするのが快感になってきていらっしゃるのではと、雀は勝手な想像をしてますの。お健やかな毎日でありますようお祈りしております。
さて、飛騨高山に日本一の太鼓がお目見えというニュースを見て、常々、ああいう大太鼓の胴や革はどういう材料なのかしらんと不思議に思っていましたが、カメルーンから樹齢1300年の木を切って運び、このためだけに特別に大きく育てた和牛の一枚革を張ったと聞きましたわ。
観光のためだけで? ひッど?い! 囀雀
恐怖 「これをやりたかったんだよ」「ペンタゴンを壊し損ねたのは惜しいよなぁ」と言いながら、オウムは、ニュースを見ているのでしょうか。ニューヨークやワシントンで、どんな報復テロが行われるかという恐れから、交通機関や人の集まる場所に行くことのできない人々がいるのは、あの頃の東京と同じ。
個人情報を投げ出してでも、危険な人々の潜伏場所が露わになるなら、そうしてほしいという方向に国民の意識は進むでしょうか。
ところで米大リーグに、新庄とイチローという、ともに阪神大震災の経験者が、二人。野球での活躍と「がんばろうN.Y」が、若い彼らの今後に、いい影響をもたらすと信じています。呟雀
* この二つのメールが、一つのメールアドレスで届いてくる。どういう人だろう、一人か二人なのか。おもしろい世の中である。「牛の忠信」は謂うまでもない吉野山の「狐忠信」を踏んでいる。母狐の皮で張られた小鼓の音色に母を恋い慕う子狐。牛の皮の太鼓では、だれが泣いているのか。
2001 10・12 11
* お元気そうでなによりですわ。お褒めにあずかり囀り雀、恭悦に存じます。甘いものの分、お酒がお預けになってしまいましたかしら。
三輪明神へ行ったときに「ご神水」へも行ってみましたの。長い道筋はきれいに整えられ、新しい灯籠がずらりと両側に並んでいましたわ。見れば大阪の製薬会社各社からの奉納。水と薬。切っても切れない大事なものですものね。道修町の「しんのうさん」は「神農さん」、ここが元と初めて知りました。菊原初子さんが亡くなったことで、「春琴抄」の時代がまた遠のいてしまったかしら。囀雀
* 言葉や文というのは不思議で、文は人なりと昔からいうものの、その解釈は難儀である。この囀雀さんも、ご当人と顔を合わせてみればスチャラカチャンチャンかも知れないが、失礼、ただ囀っているような中に、ふしぎと色気もただ者でない知性も表現されている。メールの妙味である。笑い話だが、わたしでも、知らない人は片岡仁左衛門のような人が書いているのかと想っていたと言われたことがある。孝夫が怒るだろう。ところが実物に会ってみたら高木ブーみたい、失礼、なので驚いたらしい。
* 昨日のことより、今日の作業が押せ押せ迫っているので、そちらへ顔を振り向ける。 2001 10・13 11
* おはようございます。ホントご無沙汰しております。
まず、湖の本ありがとうございました。もとの本もいただいた覚えがありますが、今回のをまた読み返しております。学生時代に感じなかったことを発見しています。
もう前になりますが、先生に、「先生と呼ぶことはない」と言われましたが、未だ「先生」と呼んでしまいます。私も既に社会人となり、先生も先生をおやめになって長くなりましたので、そろそろと思うのですが、なかなかその気になれません。これは甘え以外の何ものでもないように感じられますが、お許しください。
ゼネコンでは設計事務所の設計者及び建築家の人々を「先生」と揶揄して呼ぶこともあり、最近の私にとって良いイメージがないのですが、私は彼らにそのような呼び方はしておりませんし、先生と呼べる人も少なくなってきている私の周辺の状況も含めて、当分の間、先生と呼ばせてください。
さて、私が担当しておりました集合住宅(=マンション)が、9月末に竣工し、建築主の方へ引渡されました。私の初めての竣工した実作となります。法規や近隣問題、現場とのやり取り、コストなど、学生時代では関係ないようなこと、コンセプトと、現実に立ち上がる空間との差異など、いろいろ学びながら竣工させた思い出深いものとなりました。
つきましては、是非、先生に見ていただいて、感想などをいただきたく思います。私が案内いたしますので、お時間の都合をつけていただければ幸いです。私の方の都合は、極論をすれば平日でもかまわないのですが、週末のほうがありがたいです。今週末でも来週末でもいつでもかまいません。もっと、わがままを言えば今週末がいいです。お考えください。
また、先生に話を聞いてもらいたいこともあります。
自分の心がとても騒ぐことがありました。正直に言いまして、恋の悩みです。自分で先生に「相談に乗って欲しい」と書こうとして、「そうではない、話を聞いてもらいたいだけじゃないか。先生にこの状態の論理的説明をしてもらいたいだけではないか」と感じました。しかし、それでも、聞いて頂きたいのです。いや、このようなことを書いておきながら、お会いしてそのことを一切お話できないかもしれません。勝手な私をお許しください。
上記二点の件で、是非先生にお会いしたく思っております。よろしくお願いします。
* むろん、わたしは創作された建築もみたいし、彼にも逢いたい。常平生はホントご無沙汰していても、こういうふうに声がかかる。「先生」でも何でもないが、嬉しいことである。
2001 10・15 11
* Sold Out 身の回りからだんだんなくなる、「売り切れ」。蕎麦屋、寿司屋、菓子屋などの売り切れ御免、米、味噌など一年に一度しか作れないもの。名残の茶もそうでしょう?
「在庫にせず品切れにせず」がビジネスでしょうが、いつも消費と供給が一致するはずなく、余った物は? 足りないときは? と考えると、いつでも同じ物が有って「売り切れのない日々」の不自然さも感じます。自然の産物も、人の手で作るものも、機械で作るものにも、限度というもののあるのを忘れて過ごしていますわね。囀雀
* 霜降まぢか。 ご機嫌はいかがでしょうか。
今日、名張で「恋重荷」(九郎右衛門、宝生閑)「千鳥」(万作、萬斎)が上演されます。すぐ近くのホールですが、切符があっと思う間に売り切れましたのよ。見ることができませんの。観阿弥ゆかりの地という事で「移動芸術祭」の会場に選ばれたそうです。
師走、木挽町の「源氏」は、末摘花:勘九郎に、光の君:玉三郎。「妹背山ー道行・御殿ー」は、お三輪:玉三郎、橘姫:福助、求女:勘九郎、入鹿:段四郎、鱶七:團十郎、豆腐買おむら:猿之助との事。
早いもので霜降も間近。くれぐれもお大切になさって充実のお仕事お続けくださいますよう。囀雀
* かるく揺すられ、そして気が和む。静かにもなる。こういうメールを書き続けるのは、日記の域をこえた批評行為となり、日々の張り合いになっているのではなかろうか、雀さんの。初めからこうではなかった。ただの浮いた「囀り」が多かったように覚えている。「書く」ことで動いてゆく、何かがある、あった、のだろう。
2001 10・16 11
* 秦先生 秋真っ盛りという感じのお天気ですね。一年で一番好きな季節です。空が高くて、空気がひんやりとしていて、息を吸い込むと鼻の中が冷たさでつーんとする感じがとても好きです。つい一週間くらい前までは、金木犀の匂いもしましたね。トイレの匂いといって嫌いな人も多いですが、ぼくは大好きです。懐かしい気持ちになります。
さて、昨日一級建築士の実技の試験がありました。今年で終わりにしようと、かなり頑張りました。模擬試験等も合格圏内にはいっていました。まだ、最終的な結果はでていませんが。
周りを気にせずゆっくりやろうと思います。ただ、周りを気にせずというのはけっこう難しく、考えてみれば自分は小さいころから、人との比較の中で生きてきたように思います。自分で決めて、自分の考えで動いているように見えたことも、実はけっこう人との比較の中で決めてたように思います。
組織の中で、周りの目を気にしないでこつこつやっていくことは僕にとってけっこう難しいことに思います。ただ、そういうスタンスも持たないと、このままじゃダメになりそうな気がします。周りとの比較でしか物をみれなかったら、とうぜん仕事だって中身のあるものにはならないですよね。
考えてみれば、学生の頃専攻の教授からいわれたこと、以前先生にメールでしかられたことも、結局同じことだったように思います。30に手が届くころになっても、結局変わってないんだなあ、と思うと、寂しいです。今はほんとうに考え方を変えて行かないと、自分が苦しいだけだな、と思います。変えていく過程も苦しいとおもいますが。
とりあえず試験が終わったので、発表まではゆっくりします。
先生から送っていただいた本もちょっとしか目を通していないので、ゆっくり読みたいと思ってます。
* 数日前にもらっていた。この人の嘆息は、若い人に限らず、人の世の中で「位取り」に揺すられ揺すられて生きているインテリには、何処へ行ってもついてまわる苦しみである。むろん、人によりそんなことは苦にしない(ように)生きている人も少なくないだろう、いや、少ないと思う。幸い私は、もうそんな嘆きも悩みもほとんど痕跡のようにしか持たない。だが、その苦痛は体験してきたからよく分かる。
東工大の教室で、ある日、「位」という語を漢字の熟語にして、一つだけ書け、そしてその所感もと命じると、その日、授業の済んだ後に数百人の学生が最も多く提出してきたのは、さて、何だったと思われるか。
それは「位置関係」「位置」であった。一位でも首位でも優位でも地位でもなかったのである。これは痛切な一つの精神状況を示している。東工大ほどの優秀校の選り抜きの学生達が、人との「位置関係」に不安や孤立感や焦慮や不如意や憤りをすら感じていたのだ、優越感どころの騒ぎでなく、一つ間違うと落ちこぼれてしまうのだ。かなり参ってしまう学生が多かったようだ。
一つには他者を知ろうとしない、知る機会を活かしていなかった。だからわたしはひたすらものを書かせて、次の時間に選んで読んで聴かせた。むろん、誰とは知れない配慮をして。これで、大勢がラクになった。みな、似たようなことを考え、似たようなことで不安や悩みを抱えていると知れてきたからだ。退学しようと決めていた人が、頑張って院にまで行けたのは秦さんのあの授業のおかげですと、何人かに感謝してもらったが、退学してしまう人もわたしの側から一人出してしまった。悔やまれる。
このメールをくれた秀才も、やはりまだ「位置関係」に悩んでいる。マインドで生きているとどうしても、こうなりやすいが、なかなか「ドンマイ」とはゆかぬものである。『青春短歌大学』を、虚心に読み直すと佳いと思うよ。元の学生君達がメールを今も大勢呉れるのは、彼の当時の教室での「挨拶」習慣が、自然に生きているのだと思う。そう言う人も何人もいる。
次のメールも、そう。この人は大学二年生で文学概論に出てきた頃は、毎日のように大学をやめてしまおうかと思い詰めていた。すっかり元気になって、スペインで幸せに暮らしている。
* 秦恒平さん。 この夏にコンピューターを買い、再びメールが使えるようになりました。
恒平さんが湖の本を送ってくださったこと、母から聞きました。本自体まだ私の手元に届いていませんが、ありがたく読ませていただきます。湖の本をようやく自分で購入できる身になって初の本、私にとって特別です。郵便が、無事届いてくれますように。
アメリカで起こったこと、想像を絶する出来事でした。にもかかわらず、この地で私たちと周辺がまず思ったのは、
「今起こったことより、これからブッシュがやろうとすることの方が恐ろしい。」
残念ながら、懸念が現実のものになりつつあります。
恐ろしいのは、アメリカの国民の90%以上が、アフガニスタンへの攻撃に賛成し、それを正義のためと考えていること。
正義のために闘っていると信じきっている人間ほど恐ろしいものはない。(アメリカの死刑制度も、もしかしたら、これらの正義に支持されているのかもしれない、そう思い到ったら、背筋が寒くなった。)テロリストを正当化する気持ちはさらさらないけれど、恐らく彼らの大半も、彼らの正義のために闘っている、と信じきっていたのではないだろうか。
世界はいつも、アメリカの都合でまわっている。
武力行使を憲法で禁じている日本に向かって、アメリカのために戦わないと公然と非難する。一昔前、かのビンラディンを軍事支援し、タリバンの勢力増大を助けたのはアメリカだった。ソ連占拠後のアフガニスタンが、タリバンに政権略奪された結果、アフガニスタンの人々の生活から、自由が、教育が、音楽が、文化が、極端に奪われ、途方もなく苦しい生活が強いられてきたことを、アメリカという国はどんな正義で言いつくろえるのか。アメリカの国民はタリバンを育てたのがアメリカだと、まさか知らないわけではないでしょうに。
アメリカはいい。自分たちの大統領を、政府を、自分たちで選べるのだから。アフガニスタンの人たちは、それすらできない。押し付けられた独裁政権の下で苦しみ、挙句の果ては、「ビンラディンが、タリバンが、いる国」と言う理由で、攻撃される。苦しむのは、いつも弱い市民。理不尽ではないか。
アメリカがこれまでイスラム社会に落としてきた、例えば1ヶ月あたりの爆弾数、それによって失われた無垢な命の数、悲惨な生活にあえぐ人々の姿を、アメリカの人々は知らされているのだろうか。それがどんな正当そうな理由のもとに行われても、罪のない人間にとっては、それは理由もなく殺されたことにしかならない。マンハッタンで亡くなった人々のように。
ニューヨークのマンハッタンで働いていた人間の命が奪われることは許されず、貧しさで生きていくのが精一杯な人間の命の奪われていることは、知らず知らされず、しかも国民としてそれを許してしまうのか。罪なきイスラム教徒の命の奪われるのは、非難しないのか。アメリカは、あまりにもinnocentだ。自分たちがしていることを、わかっているのだろうか。
世界がテロリストの思惑に落ちている。アメリカの報復は、アメリカへの憎しみを掻き立て、今までそうでなかった人間すらをも過激な思想に導いている。失うものもないほど貧しい彼らの国が、地が、生活が、(彼らにしては)理由もなく、さらに破壊されてゆくのを前にして、どうして、アメリカに憎しみや反発を感じ得ないでいられるだろう。
彼らは恐怖におびえ、アメリカをテロリストの国と信じ、復讐を誓う。
アメリカは新たなるテロを警戒し、アメリカ国民はその恐怖に脅かされる。
どこまで走れば、気がすむのだろうか。核兵器を持つパキスタンにクーデターが起き、反アメリカ政権が誕生するのも、時間の問題かもしれない。
この事件では、メディアから受ける影響の恐ろしさを、つくづく感じた。日本、アメリカ、ドイツ、スペイン、フランス、イギリス間ですら、ニュースや新聞での取り上げ方は異なった。自国の都合の悪いことは触れないにしても、その国その国で、見る角度、注目すること、取り上げ方、知らされる内容が違う。だから、それを受ける国民間にも差が生じるのは、当たり前なのかもしれないけれど、私たちはみな、ほんの「一握り」知らされてきたことを「すべて」と信じ、善悪を判断してしまうかと思うと、やけに恐ろしかった。
それにしても、アメリカにこんなに気に入られようとしている日本のザマは、嘲笑を誘うほどで、見ていて情けない。
この事件で、あれほど騒がれていた外務省のスキャンダルは、陰に隠れてしまった。会計に携わる現地職員の話からすると、此処は、それ程ひどくないらしい(つまり、ある)。彼らが時折催す配偶者も含めた食事会は、最近そのレストランの格をワンランク落とし、一人当たりの奨励額7000pts(感覚的に12000円ほど)ぴったりで済んだ、と感心していた。
彼らの、地に足をつけられず中途半端で退屈な生活を見ていると、外交官にならなくてよかった、こう虚しい生活では、せめて高い給料でももらって贅沢な生活でもできないとやってられないだろうと、そう思っていたから、給料、待遇の差も大して気にならなかった。でも、こう金銭スキャンダルの内情ばかり聞くと、満足していた自分がほんとうに馬鹿に見えて、意味のないことと分かっていながらも、自分の給料を円に換算せずにはおれない。
私の年収は130万円に満たない。スペインでの事務職の平均に達するか、ぐらいだ。現地職員の給料の1.2?3倍の住宅手当をもらいながら、文句言い言い、私たちに家探しをさせる人、何かにつけ「安い!日本じゃ、、、なのに」の話をする人。比較的人間関係がうまくいっているから、「無神経な人たち」ぐらいで済んできたけれど、それも最近、神経に障りだした。皮肉にも、外務省非難の風に当たるのは、窓口に出る現地職員。外務省改新(改心)アピールのため、窓口受付時間延長の指令が出れば、そのために働くのは現地職員。仕事は楽しいけれど、ずっと続けていけるものではないな、と思う。
いずれ日本に住むことも、二人でよく話すけれど、目下自分は何をしたくて何ができるか、いつも念頭におきながら、自分に磨きをかけています。
とにかく、よい日々を送っています。恒平さんはいかがですか?インターネットも使えるようになったので、また秦さんのホームページを訪れたいと思っています。それでは、またすぐ。
* これは「挨拶」そのものである。元気である。懐かしい。自分の脚であるき、自分の言葉で生きてきた人だ。
2001 10・17 11
* 雨のち秋日和 きのう、冷たい雨とつよい風の中を、「信濃の一茶」を観てきました。あるグループの企画で、半分おつきあいで行ったのですが、どうということない芝居でした。
役者ではとぼけた味の島田正吾、新派の女形の藝を見せる英太郎に、心がひかれました。老いても枯れるどころか、俗臭ふんぷんたる一茶を、コミカルな味つけで見せようというもののようでしたが、観終えたあと、先生のおことばを借りれば、「ほっこり」した気分には、なれませんでした。
芝居のあと、グループの人たちには失礼して、ひとりで銀座に出、旭屋で『元気に老い・自然に死ぬ』と、『斎藤史歌文集』を求め、プランタンでハーブティーを買って帰ってきました。せめて「先代萩」だけでも観にゆきたいと、先生の歌舞伎座の観劇記をおもいだしながら。
先日、京都にゆきました折り、月輪観の行のときのものらしい、掛物を見つけました。
随心院の、あれは境内の外なのか、はずれなのか、百夜通いの伝説の榧の樹のほとりに、大ぶりの箪笥ほどの、お堂めいたものがありました。中に、神鏡とも見えるものがくらい光を放っている――。こわごわ、さし覗いてみましたら、壁に、掛けものがかけられていました。縦四十五センチくらい、幅三十センチくらいで、漆黒といいたい黒い地に、銀箔をおいたのでしょうか、大きな銀の円がにぶくひかっていました。小さなお堂も掛けものも、ごく近年のもののようでした。ここで、そうした修行をなさる方が、今もいらっしゃるのでしょうか。
その銀の月をみているうちにふらふらしてしまい、そーっと離れてきました。
「炭疽菌」のこと、恐ろしうございます、飛行機激突テロどころでなく。
足音を殺した忍者のような刺客が、世界中にちらばっている気がいたします。さっきすれ違った、顔も気配も記憶に残らぬ一人の手から炭疽菌が撒かれているかもしれない――。滅びへの速度がにわかに加速したような。
きのうの雨があがっておだやかな秋日和になりました。プランターに、数珠玉がどっさり稔りました。二年前、廣澤池、遍照寺へまいりましたときに、拾った幾粒かが増えたものです。
たいへん、お忙しくて、お躯にも無理を重ねていらっしゃるごようす、どうぞ、おたいせつに。
同人の冊子を送らせていただきます。目の調子がよくないのと、つまらぬ雑事にふりまわされ、あげく、何もする気が起こらなくなって、くにゃんとなっていたりして、だいぶ、遅くなってしまいました。
* 物静かに美しい日本語で語りかけられるこういうメールに、それこそ「ほっこり」として憩うことができる。
2001 10・19 11
* 三時間半の睡眠で、六時から機械の前に。早起きすると仕事ははかどる。早く寝ればいいのだが。明日は元学生君の設計担当処女建築の竣工したのを、設計者の案内で見に行く。さぞ嬉しいことだろう、楽しみにしている、が、うかとメールを消去してしまったらしく、西武新宿線の何駅で待ち合わせであったかを確認しなくては。携帯電話にかけても只今運転中だという。運転中には携帯に出ないというのは、聡明なことである。明日でも間に合う。
2001 10・20 11
* e-友の勝田貞夫さんが、名酒「越乃寒梅」を一升贈ってきて下さった。恐縮し、謹んでお礼を申し上げた。
* そんなによろこんで戴いてうれしいかぎりです。新潟出の女房が手に入れてくれました。
月を眺めてひとりで飲む、なんてぇのは、ほんとに羨ましいです。飲める人、尊敬します。
只今「あやつり春風馬堤曲」で、蕪村を尊敬しています。辞書見て地図見て遊んじゃってます。「浦島朋子」さんのようにはいきませんが、おじさんも宿題?やってみました。座興に提出してみます。酒、まずくなったらごめんなさい。
ウマレタ村ヘ一日ガカリ/ 川ヲ渡ッテ堤ヲ行ッタ/
クニニ帰ルトイフ女/ 後ニナリ先ニナリ/ ハナシモシタ/
姿モイイシ/ ナントモカワユイ/
ソレデナ/ 女ノ気持デ歌ヲツクツタ/
ココハ摂津ノ毛馬村辺リ/ 名付テ春風馬堤曲/
寒くなって、炬燵を入れています。お大事にしてください。
> —。湖
いいサインですね。
2001 10・20 11
* 秋たけなわ 短い尾を曳いた飛行機雲の消えたあとには、爪のような月。薄い枇杷色からブルーグレーへと暈し染めにした、シルクシフォンのような夕暮れでしたわ。
朝夕の冷え込みがキツくなりましたね。晴れた朝、窓を開けて見る山の景色はそれはもううっとりする程ですけれども。
鼻や喉を痛めないよう、お風邪など召しませんよう、どうかお大切に。
* 西武新宿線沿線の鷺ノ宮に新築成った四階建て、広壮なマンションを見に行った。買いに行ったのではない、柳博通君が担当し設計した竹中工務店施工の文字通りの柳君処女作なのである、めでたい限りで、さぞ喜ばしいであろうとわたしも嬉しくて出掛けていった。外回りも見、中へも入り、モデルルームをつぶさに見せてもらった。抑制の利いたすばらしく清潔な外観と内部構成で、整斉感に富み、けばけばしい嫌みが微塵もない。生活感覚を身につけて趣味ももった大人が自在に暮らし活かすことの出来る、しっくりと落ち着いた建物であり部屋であった。白から銀色へ、かすかな濃淡=ディスコードで直線を活かし、緻密なタイルとガラスとが沈静にかがやく建物の中では、温かみのある木材質の自然色が統制よく控えめに呼吸している。このあとは、この清潔な素地の上へ住人の好みで自身の色彩や物を自由に配すれば佳い。どんな好みをも受け入れて落ち着かせる用意が行き届いている。うん、これはこれは、柳君らしい自信に溢れたまっすぐな行き方と、静かさをうまく活かした毅いセンスとで、本人は六十点と謙遜したけれど、わたしは、十分好もしく出来た成功作だよと褒めるのに何の抵抗もなかった。
その昔、わが教授室に現われて、よしよしとばかり部屋の模様替えをしてくれた。借り物の猫のように落ち着かなかった新米教授が、急に主=ヌシのように落ち着けるようになった、その日から。懐かしい想い出である。柳君はまた専攻の課題で、茶の湯も楽しめる或る作家の私邸というふれこみの設計図を書き、その模型を教授室に運び入れて飾ってくれたりした。茶室が付属していたが、これでは水屋が狭いよなどと文句をつけ、ほんものの茶室を見に出掛けたこともあった。
三十前の独身青年の次の飛躍への処女作かと思うと、感心してしまった。
* で、新宿線で移動して、それからは、また別の柳君の話題で、八時半まで飲みかつ喰い、とことん話し合ってきた。美しい人の静かな言葉にも迎えられた。ビールと冷酒と焼酎。言うこと無しの数時間を、ゆっくり、柳君と久闊を叙してきた。
2001 10・21 11
柳君は、いま、なにをしていても自分が一番若い部類に属していると話していたが、わたしも、ある時期、なにをしていても、どこにいても自分が一番若いと感じて、安心なような物足りないような思いをしたものだ。だが、ふと、気がつくと、わたしより年上の人の少なくて、だれもかれもが自分より若いことに愕かされる事が増えている。愕きながら、すうっと気持ちが冷えて落ち着いていることもあり、肩をすぼめるように寂しいときもある。
* 今日は良い日であった。良い日というのは向こうからただ訪れてくるものではない。自分からも歩み寄ってゆくから訪れてくる。 2001 10・21 11
* 小鳥のさえずりが聞えてくる。七時過ぎ。二時半に灯を消し、三時半に目覚めてまた「うつほ物語」蔵開き上の巻を読み、また灯を消したが眠れそうになく、四時半に二階に上がって今まで次の「湖の本」入稿のためにスキャンした原稿を校訂していた。メールを開くと、夜前遅くに書かれたメールが一つ届いていた。
* とても涼しくなりました。お変わりありませんか。
わざわざ、メールいただきましてありがとうございました。演奏会は、また是非機会がありましたらご連絡させてください!
仕事は、12月中旬で退職することにしています。
****は、研究所がたくさんある地域ですが、そこで、実験の助手などのアルバイトをたくさん募集しているようです。しばらく主婦を満喫して、4月くらいから定時で帰れるような仕事を探そうかと思っています。
彼は11月から仕事が始まりますので、引越しや各種手続きに追われていますが、元気にやっています。
****は緑が多くてとてもよいところです。散歩やサイクリングを楽しもうと、今からわくわくしています。
先生も、相変わらずのご活躍のようですね。急にがくんと寒くなるときもありますので、くれぐれもお大切になさってくださ
い。 それでは。 2001.10.21
* この人の退職は結婚のためであるが、不況ゆえにリストラを心配するといった、東工大卒業生にはかつてなかったような厳しい風が、世間に吹き起ころうとしている。日本の道をあきらかに過っている小泉内閣と与党とは、今まさに為さねばならぬ課題を棚上げ同然に、アメリカに、というよりブッシュ個人に追随して右往左往している。テロ撲滅には結局は役立たないのは察するにやすく、せいぜいビンラディンを捕えて殺すだけの話に終るか、別のもっと大きな火種が爆発して戦火もテロ禍も拡大するかの、いずれかへ展開して行くだろう。ブッシュ一人の満足満悦をあがなうためにバカな金をつかっている。同じ金をいかすにも、時機があろうに。壊滅的な破壊に手を貸す金づかいでなく、人の安全と建設や復興にあてる金にすればいい。誰の悪知恵だか「旗を見せよ」といわれたなどと迂遠な口実で、バタバタと急きに急いて、愚かしい奔命を重ねながら、狂牛病一つにもろくな対策が立てられない政治。不況は悪化の一途という、ザマはない政治。或る哲学者は「小泉は、あの東条よりも危険だ」と語っていたが、十人に九人などという狂気の沙汰の支持率を与えた国民にも問題はあまりに多い。異常なのは内閣もそうだが、国民にもそれがある。もう気がつかねばいけない。
2001 10・22 11
* 今朝は初めてストーブをつけました。
目覚めても、いつもならぬくぬくとお布団から思いきりよく抜け出せない、毎日が日曜日の我が家も、早立ちの人に合わせて六時にとび起きました。
今日は一日私の時間です。
永く永く何人分かの食事の用意が頭から離れる事がなく、まだ食材をやや買いすぎで、嫁いだ子が冷凍室を覗いてびっくりしていますが、それが楽になってくると、皮肉なもので体調が比例して退化しています。老化症状(というのは妹が同じ症状で、私は放っていましたが、彼女は医者に看せています。老化で内臓が痙攣をしているそうです。)に悩ませられます。ホンの十分位ですが、蛇が胃裏でくねくねとのさばっている様で痛みを伴い、呼吸器が押されるのか息苦しく、あの足の攣れを少し軽くしたような痛さで、なんとも異様な症状です。
忘れた頃に現われていたのが、この処続きました。昨夜中はソレが現れ、落ち込みが重なりました。悲しいかな「老化」と「ナニ」につける薬はないのですね。覚悟で付き合います。ドンマイ。馴らされて、苔むしてきました。何時綺麗になるかなと思っています。
夜中の訪問者のおかげで、珍しく朝ご飯はまだなの、お腹が空いてきました。
今晩十一時から「夢伝説」マレーネ・デイートリッヒがあります。
自然に逆らわず、穏やかに流れたく想うこの頃です。あれこれ強がりを言っても、何が起こるか分からない歳と、切実に想うのです。元気にしています。
* このような症状を初めて聞いた。何だろう。やはり診察を受けておいた方がいいのでは無かろうか。世間が騒がしすぎ冷えすぎている。健康で元気でありたい老人環境が息苦しく窮屈になっている。じつはラクでありすぎるのか。いいや老境のマインドが微妙にものに障るのであろう、ドンマイ、ドンマイと行きたい、ほんとうに。
昨深夜、眠れぬまま床の中で眼を見開いていた。完全な闇であった。この頃この真の闇をパッチリ眼を開いて見るのがわたしのお気に入りの「行」である。とても安楽で平和で落ち着きどころに在る意識。なによりもわたしに五体が皆無に失せている。感覚も失せている。ただ闇を見ている、いや闇に在る「意識」以外のいかなる私も存在しない。空の空に意識だけが眼のように在る。形ある何の影すらもない。これでこのままこの意識すら失せたならどんなに安らかであろう。そう願いながらいつか寝入るのだろうか。寝入ると夢が来る。夢はいやだ。だが夢の話をこう書いている今のわたしが夢のなかにいるのも間違いないことだ。ほんとうのわたしは、あの闇にみひらいて在った「意識」以外になにも無いのだなと思う。
* 昨日から雨が降り続いています。午後、友達から電話があって長い時間彼女の人生相談に乗って・・人を元気付けたら、何だか自分がとても疲れてしまいました。テレビの画面はテロ以後のアフガンやパキスタンのことを放映しています。常に関心を持ちながら暮らしています。
お忙しそう、睡眠時間を確保して無理なさいませんように。大切に。
2001 10・22 11
* 昨日の建築家柳博通君がメールをくれた。この思いは後々のためにも記録に値する。
* 秦先生 こんばんは。昨日は鷺宮まで足を運んでいただき、どうもありがとうございました。初めての担当作品で、目の行き届いていない部分もたくさんあり、お見せするにはためらわれたのですが、見ていただかなければ助言も得られず、それによる成長もありえないと思い、見ていただくことにしました。
会社の人からの批評はテクニカルなものが多く、「そのテクニカルなものが何を表現するためにあるのか」といった話題には至りません。つまり、ものそのものの納まりは評価できても、コンセプトの実体としての建築への納まりの話題にはならない事が多いのです。
私としては「うまく納まっている」ということの向こう側に見える「何か」に、興味を持ちたいし、持ってもらいたいと思っているので、これからも、その「何か」がもっと見えてくるような努力を続けていきたいと思います。
先生の、色に対する批評が、自分の意図したとおりの指摘であったことは、自分の自信となりました。
今回の色の選択は、素地色を使うというものとしていました。金属であれば素地の銀、塗装済みのものは色あわせをし統一する、建物全体は好き嫌いの出る強い色を使わず白とする、といったように素地色を選ぶことによって、建物全体が生活の素地となっていくことを意図したのです。また、これらのことが、中庭のウッドデッキの木質とゴシキナンテンの緑をより一層ひきたてることになったと思います。
「自然」というものをどう扱うかは難しいですが、今回は、抑制された色が自然との対比を作り出し、より大きな全体の構成を成功に導いたと感じています。
次回の作品においては、より大きな環境にも目をやり、かつ小さなところにも優しさを持ったデザインのできるよう努力していきたいと思っています。
夜の食事もたいへん楽しくいただけました。 本当に、どうもありがとうございました。 柳
* 昨日に書いて置いた感想と、およそ、呼応している。昨日はそんなことは話さなかったが、住宅建築は人が暮して真価が生きてくる。人がいない内からやたらにものの形や色彩で主張が多くては、入居して人の手を下しふれてゆく楽しみが奪われる。小説にも、書ききって仕舞われると呼吸をやどす隙間が無くて風通し悪く息苦しいものになる。辻邦生という優れた作家に、ややそういう呼吸困難を感じる秀作があった。そういうことと共に、建築はさように人間の生活の場になるからは人間の生活と心理については、十分な観察と洞察が必要になる。昨日の建物で言うと、子どもは一人の家庭が想定されたモデルルームであった。小さな子なら男女でも二段式で暮らせなくはないが。それはそれとして、ベッドのある子ども部屋の壁と親夫婦の寝室の壁とは軟らかに一枚で隔てになっていて、隣家との境のようにコンクリートではなかった。子どもがもう小学生であったりすれば、まだ若い親夫婦の寝室は、少し落ち着きの悪い神経をつかう夜々になるだろうなと想った。
春琴抄のなかで春琴が火傷をするとき、床の側に湯の沸いた鉄瓶があるのは都合が良すぎるではないかと、若い学者が書いていたが、電気暖房でなかったむかしである、冬は就寝前には火鉢に埋み火して、用心のためにも鉄瓶や薬缶を掛けて置くのは常識の範囲内である。そういう人の暮らしの時代に応じた知識や思い入れがなくては文学は深く読めない。建築でも、きっと似た意味で「人間の暮し」についての理解が分厚く設計や施工の基盤に置かれていなければならないだろう。建築ほど多くの各種の理論や考察を受け入れる藝術はないかも知れない。そして、建築家がいちばん勉強の足りなくなりがちなのは、建築理論の方であるわけが無く、じつは人間理解、生活理解の方である。こういうものは、日常の自身の生活感覚も大事だが、多くは見聞と読書、それも優れた表現の小説をたのしんでよく読む習慣がぜひ必要であろう。それが欠けると、つい建築物の構想に力点がかかりすぎて住人の暮らしが冷え込んで仕舞いかねない。みな忙しくてそういうヒマはないと言うかも知れぬが、大事なことではあるまいか。
2001 10・22 11
* からすの行水 ご覧になったこと、おありでしょうか。
わたくし、今日はじめて見ました。
近くの公園の端のほう、松やくぬぎなどが、ちょっと森めいた感じに植わっていて小暗いところがあります。そこにできた水溜りで、からすが二羽、水を浴びていました。
何度も、浅い水に身体を浸して身体をふるわせては、立ちあがり、羽ばたきをして、ひかるしぶきをあたりに散らしていました。木洩れ日に、濡れたからすの漆黒が、折々、つやつや玉虫色を帯びてひかり、「髪はからすの濡れ羽色」、それは
それはうつくしい見ものでございました。
そばでいっしょに眺めていたお掃除の老人に、よく見られることかと聞いてみましたところ、「からすの行水っていうけれど、見たのは初めてだ」と言っていましたから、めずらしいことなのかも知れません。諺とはちがって、ていねいなものでございました。
からすの飛び去ったあと、櫻落ち葉の浮いている水溜りのふちを、きじばとやそのほかの小鳥たちが何かをついばんだり、水を飲んだりしていました。
たいへん、お忙しくしていらっしゃる先生に、のんきなおしゃべりをしてしまいました。
やっと、目の調子が少しよくなり、「ぎしねらみ」を読みました。ふたりの少年の心のふるえに、心ふるえました。
ただならぬお仕事の量、ただならぬお疲れのごようす、ただただ、お案じ申しあげるばかりでございます。
* からすの行水というと、そそくさと粗略なものと思っていた、が、ほんとはどんなふうなのかと、わたしも想っていたことがある。印象的な報告で、記憶に値する。
2001 10・24 11
* 文化の日にスペインに発つ河村浩一君と新宿で歓談、歓飲、歓食。学部三年生の最終授業で別れてからもう六年七年が経っていたが、昨日別れたようにお互いにすこしも空白感がない。沢山話したし沢山飲んだ。お店の人に心配させてしまうほど。一年で帰国する予定だから、また此処で逢おうと約束した。芹澤光治良の対話とは違い、幸いわたしはこの人を戦地に送り出すのではない、それが嬉しいことである。中世以来のまず大学都市に入って勉強するのだという。スペインは少年時代からの念願の国で、まよいなく出かけて行くという。この合気道の全国チャンピオンを送るのに、わたしは何一つ心配しないで済む、健康にだけ留意して呉れればよい。それほど信頼している。
2001 10・25 11
* 今、わたしの心をとらえているのは、いったい何であろう。
* 「私語の刻」を読みますと、秦さんお疲れのごようす、心配です。
秦さんの電子版湖の本や、「e?文庫・湖」は、さらにまた今度の電子文藝館も、優れた文藝に触れるよい機会です。
「ばかなことをしている」だなんて、とんでもない。秦さんの「湖」は拡がっています、わたしのひと雫の加わるのがゆるされるならば。
ネットで小説を読めるようになることは、市場のニーズにかなっていると、わたしは思います。読みたい本を書店に注文すると「品切れです」という回答ばかり返ってくる昨今ですし、図書館でも、全集の類いは奥に整理されてしまう始末です。本が売れないという現状において(売れないのは本だけではありませんが)、まず人の目に触れることが大事だと思います。それが手許に置きたいという購買欲につながってゆくと思うのです。優れた文藝は消耗品ではありません。折にふれて味わいたいものですからね。
音楽CDだって、聴いたことのないものは買いません。ラジオでかかっていたり、映画の挿入歌になっていたり、テレビで見たりしたものを、いいな、と思えば買います。これって、極めて一般的な消費者の意見だと思うのですが、どうでしょうか。
高史明さんの「いのちの声がきこえますか」は、大きな問題を明晰に明解に論じてあって、わたしにはとても興味深いものでした。わたしがいいと思っても、人はまた違うということはわかっていますが、あんまり示唆に富んだ論だったので、近しい人に紹介しました。ひとりにはテキストデータで、もうひとりにはプリントアウトをして。夏前のことです。未だ何のレスポンスもありませんけれど、彼らが読みたいと言ったわけではなく、わたしが勝手に渡したので、仕方ありません。いつかふと思い出して読んだときに、何か感じてくれれば、それでいいかな、と思っています。
それと、こちらは「何か読みたい」と言った友人あてに、秦さんの「蝶の皿」と三原誠さんの「たたかい」、「白い鯉」を送りました。「面白かった」とひとこと返事がありました。釣り好きのその友人は、「白い鯉」を読んでふつふつと釣り熱がわき、次に開高健を読んだそうです。ま、いいかな、と思っています。
文藝館の岡本かの子は、やはり「老妓抄」でしたか。代表作ならそうでしょうね。わたしは「鮨」という小さな作品が好きです。これを映画にするなら配役は誰で、フラッシュバックはこんな風にして、などと考えてしまいます。
きのうは「陰陽師」という映画を観ました。原作も漫画もテレビドラマも未見で、予備知識なく観ました。久しぶりに映画館へ行きましたが、さしたることもなし、野村萬斎さんのいい声と姿勢のよさだけが見どころでした。萬斎さんがジャパンアクションクラブ出身の真田広之さん相手に、機敏な立ち回りを演じたところはなかなかで、萬斎さんを観に行っただけのわたしは満足でした。
平安のお話でしたが、現代劇を観ているようでした。”そこはそういう抑揚で言うんじゃなくって”などと心の中で役者に注文をつけながら、観ていました。しまいには”顔が平安時代じゃない”とまで(これは無茶かな。でも「L.A.コンフィデンシャル」というアメリカ映画で、キム・ベイシンガーが、1950年代の顔をしていたという例もありますから)。
鬼やもののけに妖しく怪しい感じはありませんでした。「清経入水」を読んだ者としては、蛇や鬼を描くならば、という気持ちは禁じ得ません。あからさまにCGを多用して、サイコキネシスエンタテイメントにしたかったのかも知れませんが、過剰なのは、かえって希薄な印象を与えますね。
安倍清明や陰陽道はたいそう人気があり、いろいろなところでとりあげられていますが、あやかしあやかしと、しつこく言われると全然あやしくないですね。過剰な表現は禁物、と自戒を込めて。
前回のメールで気弱なことを申しましたが、わたしは元気です。できることがあったら、いつでもお手伝いします。デジタルプリプレスの仕事に携わる者のはしくれとして、校正の難しさは身にしみているので、絶対間違えないとはなかなか申し上げられませんが、こんなわたしでよければ、遠慮なくおっしゃってくださいね。またぽつぽつ書いている文章を見ていただくための余裕を、秦さんにとっておいていただきたい、ということもありますので……。
わたしは秋の花粉にやられていますが、秦さんは大丈夫ですか?
* 季節が巡ってくると、確実に鼻がぐあいわるくなる。季節の乾燥度のせいだろうと思ってきた。ある時期になると確実に治る。これは、ひょっとして秋の花粉症であるのかなあと、今、はたと思い当たった。とすれば、ずいぶん多年の患者である。目はさほどでない。
こういうメールを深夜になってみつけると、ふうっと呼吸が温かになる。いいものを選んで自由に、読みたければ読んでもらえるように。だからバラエティイーも豊かにと願っている。あまり、しかし、作業に足をとられて前へ進まないと言うのでも本末転倒になると恐れていた。懼れが現実化しているのか、「規則的・機械的」な作業に拘泥っていると能率があがらない。そして正確にも行かないのでは困惑する。
2001 10・25 11
* 昨夜は録画で、見知った俳優は一人もいないけれど、比較的最近のマイナーなフランス映画を観ていました。
愛のイザコザよりも、ちょっと複雑な台詞が面白く、そんな中で皮肉を篭めたこんな言葉が気を惹きました。アメリカ映画は些細な事に大金をかけて作り、フランス映画はお金はかけられないが、深い思想のある物をつくる、と。
ケースバイケースでそう一概に言えるものでもありませんが、今のアメリカには、映画の世界だけでなく、唯我独尊の驕りがみえみえで、そんな物も含めて肯いていました。
そんなで、ニュースを見ていなく、先ほど新聞で寂聴さん断食の記事を読みました。納得、それなりの意義がありますもの。
2001 10・27 11
* 夫のリストラで、もう、気儘な贅沢がしていられなくなりましたという、或る便りも。
2001 10・27 11
* こんばんは。
御所(ごせ)駅から葛城の径を三時間歩いてきました。なかなかキツくて顎が上がりましたわ。途中で見つけた菓子屋のお饅頭が、餡たっぷりで形は、大和三山のようにかわいらしく、道道食べながら雀はゴキゲンでした。人のいない道で、明るい秋の日差しなのに、どこか悲しげでした。
高天彦神社は諦め、土蜘蛛の塚や九品寺、京の上下の賀茂のお宮の総本宮、高鴨神社を訪ねました。日陰にあったお地蔵さんのところにきた瞬間、ひんやりと別世界に紛れ込みました。藪のなかにひとつ実っていた烏瓜の赤が、目にしみました。囀雀
* 葛城と金剛とのみえる御所の山沿い道を、わたしも、もう今は昔、上田秋成の戸籍をさぐろうと、二度訪れて、よく歩いた。なつかしい。葛城といえば天智天皇の幼年期はこの辺で守役の手で育ったのではないか。何とも言えぬ古代の、いや上古の奥行きを感得できる風土風景であり、また行きたくなった。こういうメールがこういう時刻に舞い込んでいるところがパソコンの嬉しさで。ハッキングに興じているような人にはとうてい分かるまい。
2001 10・27 11
* うまくいえないのですが、戦争と死という極限の状態を経験した人と、平和と衣食住足りた生活にひたっている人は、ものの感じかた、考え方の深さ 厳しさが、自ずとちがってくるでしょうね。
満ち足りた半世紀に 今、しっぺがえしが来ようとしている気がします。「唖の娘」のつくりあげた「人間魚雷」にまた載せられるときが迫っているような・・・。
* 寒中にここに一人で立っていたら、あっという間にフリーズドライになりそうな、葛城の「風の森」。
一人、高天彦神社の美しいご神体山を背にして、重なりあう大和の山々を見下ろして、(本当に誰もいない葛城の道でしたわ !) 「全部俺のものだァ !」なンて、豪族って、こんな気分でいたのかしらと雀は想像しましたの。ですが、同時に、山岳地帯の戦いを熟知したアフガン兵の前、にソ連が撤退し、今回、米英の「精鋭」部隊も苦戦しているニュースが「土蜘蛛」と重なり、苦い思いがしましたの。囀雀
* ここへ「土蜘蛛」の連想できる知性を、わたしは、只の知識でない、只の正論でもない、民衆のうちに潜んだ苦い批判精神の反映のように感じる。裏の、蔭の、弱者敗者の、いつも、いじめるよりいじめられる側に置かれてきた者のシンボル、土蜘蛛。タリバンの進行の有り様も暴力もテロも、わたしは決して容認しない。その一方で彼らを土蜘蛛のように生息させている「硬直した正論の喧しさ」にもウンザリしている。
* お変わりなくお過ごしですか。
TVの「素晴らしかったですねぇ」という声に画面を見ると、名古屋からの生中継。慌てて窓に駆け寄ると、夕焼けが燃えるように赤く、つかの間で消えましたわ。
さて、CS放送のBBC,CNN契約数が急増しているそうです。NHKニュースはひどい出来だし、一応、民放も少しは見ますが、雀はこのテロ以来、CNN,BBCを中心に見てましたの。ですが、事件当日からの数日間はともかく、ブッシュ、ブレアのように、仲良し報道になっていては意味がないでしょう。アルジャジーラは無理だとしても、中国、ロシアなどのニュース番組を見てみたいわ。呟雀
2001 10・30 11
* Trick or treat ベランダから川面は見えませんが、川霧かと思う朝の景色。蛇口から出る水がすっかり冷たくなりました。穏やかに晴れた昼下がり、雀は日向ぼっこの誘惑にかられましたわ。ふさふさの尻尾があったら、くるりんと丸まって、あの日溜まりで日がな一日うっとり過ごしてみたい。
昨夜のような晴れた月夜に黒猫になって歩き回ったら、魔法のひとつも使えそうでしょう? ハロウィーンの夜をいかがお過ごしでらっしゃいましたか。キッチンに、食べられることのないままカボチャが転がっていますの。一陽来復を祈って、冬至にふかして食べることにしましょう。囀雀
* 気の和むメールである。
2001 11・1 11
* はるばると「秦恒平さん」への「挨拶」が届いた。ここに書かれていることは、この人自身で記憶している以上に、わたしは、よく胸に刻んで覚えている。ああそうかと思い当たることよりも、そうであったなあと思い出すほうが、濃く、強く、よく逞しく生き延びていってくれたと、喜びは深い。沢山な心配を掛けられたとは思わない、豊かな感銘を幾度も幾度もわたしのために残していった学生であった。母への溢れる愛と、父への根深いこだわり。わたしはそれに対し何を言いもしなかったが、他の学生達にもそうするように、じっと傍観していた。見てくれているから安心と、思われていたかどうかは知らないが。
就任し、文学概論を初めて暫くのうち、馴れないことに疲れ、学生達の気持もなかなかつかみとれず気落ちしていたような時であった、ある夕方、家に帰ろうと図書館前を門の方へ歩いていたわたしに、向こうから、溢れる笑顔で駆け寄ってきて、全身でとびつくほどに晴れやかに挨拶してくれ、「文学概論の教室に出るのが嬉しくて楽しいんです」と叫ぶように語りかけてくれたこの人を、わたしは忘れないだろう。そんな学生がいるのかほんとに、と、胸に灯がともった。まさかに、うそを言う人の表情でも声の弾みでもなかった。わたしもまた、学生達に日々救われていったのだ。
いまこの「挨拶」を読みながら、わたしは、何度も涙をぼたぼたこぼしていた。若くして死んでいった人も、いる。生きていることを本当に大切にしなくてはと思う、無念に死んだ若い人達のためにも。
* 弦楽四重奏のコンサートに行ってきました。 1.11.3
22年前の”Rosamunde”にはかなわなかったけれど、弦楽四重奏の、” Rosamunde”のコンサートに行けたことで、充分でした。
ミュンヘン時代に録音したカセットを見つけたら、そこから昔話になり、その後すぐ、夫が、弦楽四重奏のコンサートを探してくれたのでした。
あの当時、私はまだ7歳、千葉もまた田舎の市原市に住んでいました。国鉄に乗るにはその1時間前に家を出て、千葉駅までさらに1時間電車に揺られるという、寂れた工業団地でした。
そんな曇り空の団地生活で、ある日、母が私と兄二人を、クラシック音楽のコンサートへ連れて行ってくれることになったのです。昂揚と緊張で躍る胸を、父の手前抑えても、まだ、ドキドキしていました。
学校が引けてすぐ出発した私たちは、3時間の旅といえども、コンサート会場である日経ホールに、かなり早く着きました。そこで突然、母が「夕ごはんを食べましょう」と言い出したのです。生まれて母と一度もレストランで食事をしたことのなかった私は耳を疑い、嬉しいよりも申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。メニューを前に何をどう見てよいのかわからず、それでも目だけは数字にいってしまう。結局、だれが言うでもなしに、私たちは一番安いビーフシチューを食べていました。生まれて初めてのビーフシチュー!そのおいしかったこと!肉が入っていたかなんて、ぜんぜん問題ではありませんでした。
食事の後ホールに入ると、なにやら母は、「演奏者への質問」を書き始めました。演奏の合間に、演奏者への質問コーナーを設けるというのです。司会者が、集めた質問用紙の中から4、5枚選んで質問し、演奏者に答えてもらう、というものなのですが、選ばれた質問を書いた人はその場で舞台にあがって、演奏者のサイン入りのカセット(パンフレット?)をもらえるという、すてきなおまけがあるのです。一人一枚ということで、母は、私たち3人と、誘いに応えてやってきた東京の妹の分4枚を、せっせと書いていました。
この幸運な二人目に選ばれたのは、なんと私の兄でした。内気な兄はなかなか立ち上がらず、私たちをはらはらさせましたが、舞台で演奏者の大男たちと握手をしたときの兄は、うらやましいより誇らしい兄でした。そして、なんという運でしょう、最後の5人目に当たったのは、母の妹でした。慣れた足取りで舞台にあがり、堂々と握手をするバイオリン奏者の叔母を、どんなに誇らしく思ったか!
生まれて始めてのコンサート、そうこれは、忘れもしないライプチッヒのゲバントハウス弦楽四重奏団でした。ひげもじゃのゲルマン大男たち(私の映像では、なぜか彼らはひげもじゃなのです)が奏でる音色は、重厚でもの悲しく、いまだにあの深い響きは忘れられません。
あのコンサートに、母はどんな思いで私たちを連れて行ったのでしょう。不機嫌極まりない夫を後に、往復6時間もかかるコンサートに、翌日学校のある小さな子供二人を連れて行く、狂気!!。あの時の母は、必死以外の何ものでもなかったのだと思います。
文化から断ち切られてしまいそうな自分たちの生活に、切迫していた。必死で自分たちの行けそうな、でも質の良いコンサートを探し、必死で子供たちを連れ、必死で質問を絞りだして書いた母は、恐らく、楽しむ余裕もなく、必死で演奏を聞いていたに違いありません。
18年間、幾度となくあのとき聴いた曲を思い出しました。メロディーは口ずさめるのに、曲名がわからない。どうにかして知りたい、そんな気持ちを抱き続け、4年前ドイツ、ミュンヘンにやってきました。図書館に通い、懲りもせず弦楽四重奏の CDを4枚ずつ借りてゆく。そんなことを続けて、とうとう再会したのは、シューベルトの弦楽四重奏a-moll D804,op.29 Nr.1の”Rosamunde”でした。22年前、母と一緒に聴いた、ゲバントハウス弦楽四重奏団が奏でた曲でした。
今年、バルセロナで最も素晴らしい演奏が聴ける演奏会の、会員になりました。
好きな演奏会に自分で行けるようになったことの意味は、とてもとても大きく、母がここにいたなら、一緒に連れて行きたかった。手紙にそんなことをぽろりと書いたら、「かわいそうに。あの頃、もっと連れて行ってあげたらよかったね。」と返されたけど、あのひとつの演奏会にあれだけの意味を与えることのできた母に、私は感謝の想いしかない。
1年が10年がそして20年が過ぎて、何とはなしに思い出した事柄が、自分にこんなに意味のあるものだったと、ある日突然気づくときの驚きと感慨。一生懸命すぎて、よく人を疲れさせた母だけど、それでも今は、素直に感謝できます。
久しぶりに、思い出に耽りました。
思い出に耽る理由は、ほかにもあります。
<この人は大学二年生で文学概論に出てきた頃は、毎日のように大学をやめてしまおう
<かと思い詰めていた。
大学を何度もやめようと思ったことは忘れもしないのに、この文章を読んだとき、何だかとてもドキッとし、ああそうだったんだ、ああいう時があったんだ、苦しくて妙に懐かしい気持ちに襲われました。毎日が苦しくてたまらなかったけれど、ほんとうに大切な時代だった気がします。
* * * * *君は、あの苦しくて大切な時代のすべてでした。おかげさまで、彼のホームページを見ることができ、長年のしこりを少しほぐすことができました。元気で、自分の好きなことをやっているのが、何より嬉しかった。彼と共にしたものはあまりに大きく、美しく、悲しく、深く、あの闇から抜け出せたのは、アルフレットに逢ってからだった気がします。
今の私の生活は、動揺させられないほど満たされ幸せだから、* * *君に連絡をとってもいい気がするけれど、彼の幸せな生活を動揺させることにならないか、との思いもあり、まだ連絡していません。なんて思うのは、私の思い上がりですね。* * *君、どのような感じでしたか?
東工大の想い出に寄せて。
東工大でできた友達、いえ作った友達と言ったほうが適切でしょうか、私にもふたりいました。“唯二の友だち”、一人は私の高校の親友と結婚し、一人は京大の院へ進みました。* * * * *と* *、二人とも秦さんの「虫食い」詩歌を熱心に埋めていた学生です。そういえば、恒平さんも覚えていらっしゃるのではないでしょうか?次の話を。
雨模様の朝、人気のない、あれは神護寺だか西明寺だったか、階段を昇っていくと、一人の青年が膝をついてカメラを覗いている。目線を上に追うと、そこには母親らしき人が静かにたたずんでいた。なんて母親想いの青年、なんて優しい風景、そっと足を止め息をとめたら、立ち上がった彼がこちらを振り返った。その青年は、なんと* * *ちゃんだった。
その彼が、今年7月14日、京都で亡くなりました。祇園祭の宵山が、ちょうど彼の告別式の日になりました。サイエンスに携わる者にとって一番の成果であり誇りである、雑誌natureに論文が載った矢先のことだったそうです。肝臓癌とわかり、手術から肝機能不全に至るまで、あっという間だったらしい。
なぜ、あの彼が。と、同時に思い出されるのが、あの風景なのです。息子のまなざしにやさしく応えていたあの母親。一人っ子で両親にすごく可愛がられてる、と自分でヌカしていたくらいだった。* * *ちゃんの孤独な闘い、死なれた両親の悲しみを思うと、胸が苦しくて、痛い。
前回も、今回も、恒平さんへの言葉もないまま、ひたすら書いてきた気がします。伝えたいことがありすぎて、と言うのはよい言い訳で、ひとは結局、誰かに聞いてもらいたい、知っておいてもらいたいのですね。井上靖の「猟銃」にもあるように。
秦さんが、東工大の元学生たちと、いまだに膝をつき合わせているのが、とても嬉しいです。
スペインへ行くのが夢だった少年、今ごろスペインに向かっているでしょう。驚嘆、落胆しながらも、満足のいく1年をすごして欲しいです。どこからそういう力が湧いてくるのか、こういう話を聞くと、素直にすごいなあ、と思います。* *子
* 合気道のチャンピオンもスペインに発って行った。みな、みな、元気でと祈る。機械の奥から藤山一郎が清潔な声を張って「長崎の鐘」を、いま、歌っている。
2001 11・3 11
* 冬のはじまり 日曜日、ゆっくり目覚めました。窓を開けると、大きな雪粒がたくさん降っていて、地面は真っ白。初雪。七ヶ月ぶりの雪景色です。あわててスノータイヤを引っ張りだし、車も冬仕様に衣替え。その雪も午後にはすっかり融けてしまいましたが、半年近く続く冬のはじまりを、少し嬉しく、ちょっぴりおっくうに感じました。
ご不調の様子、どうぞお大切に。講演がスムーズに進みますことをお祈りしています。 maokat
* 札幌はもう、雪。
2001 11・5 11
* 予定通りスペインに何事もなく到着しました。
今は、毎日スペイン語の語学学校に通っています。授業は全てスペイン語ですが、きちんと理解するまで教えてくれるので、私も一所懸命にやっています。
食事もビールもワインも皆おいしいです。歴史のある教会や大学などの建造物がとても美しいです。もう少し語学の勉強が落ち着いてきたら、市内を色々回ってみるつもりです。
昨日の朝、マドリードで、バスク祖国と自由というテロ集団による爆弾テロがあり、警官が一名亡くなったようです。また、南の方では、洪水の被害があるようです。でも、私のいるサラマンカは今の所安全なようです。
先生もお身体にくれぐれも気をつけて下さい。またメールします。
2001 11・7 11
* 少し安心 眼科の結果が、お薬で、ということですこし安心いたしました。じつは、私ももう三年ほど前からドライアイで眼科にかかっております。先日も、私の前のひとが、緑内障で手術と医師からいわれたのを控えの席できいたばかりでしたので、案じておりました。今日から冬と暦は告げております。どうぞ御自愛くださいませ。
* 有り難く。目は大事にしたい。
2001 11・7 11
* 時雨のつくばより 公園に散り敷いた櫻紅葉をひそひそ時雨がわたっています。
お目が、おくすりでよろしいという程度とうかがって、ほっとしております。わたくしも目医者さんからのおくすりで何とかしのいでいますが、無茶はいけませんと言われております。
鏡のお話、月輪観をおもいました。が、鏡になりきられるとおもうと、少し、こわく、少し、さびしい。
観劇のごようすをうかがって、わたくしも国立劇場にゆきたくなりました。秀太郎の「小せん」、よいでしょうね。わたくしがはじめて見た小せんは、門之助でした。花道を縄を打たれて曳かれてゆくときの、素足のさむさに涙したことを思い出します。
朴落葉の溜めてゐる雨 足裏を濡らしてのがれし遊女もゐにけむ
とほき祖(おや)にあそび女などのゐざりしや湯あがりのにほふ足の爪剪る
香 魚
* 目薬をさすと鈍い頭痛が起きる。いずれ慣れるのか。
2001 11・9 11
* 狂牛病による不況も、たぶん原因の重きをなしていたのではないかと察せられて、胸が塞いでいます。
食肉卸業者同士の殺人事件はお聞き及びのことと思いますが、殺した当事者(その場で自殺)が、勤務先の縁者なのです。その方を知っている先輩の同僚は、いまでも信じられないことだと申しています。温厚で、いつも笑顔の腰の低い方だったと。殺された方は今日、そしてその方は明日のお葬式です。
あらゆる方面に影響が出てくることを覚悟しなければ。流れのままに、とは思いますが、暗く、深いこの激流はいつ変化を見せてくれるのでしょう。
* 言葉を喪ってしまう、つらい、ひどい事件でしたね。政治の見当違いと、行政の貧困、経済政策の無責任な遅延が、こういう惨い渦を、これからどれほどあちこちに巻かせるかと思うと、暗澹とします。あなたの上にもどんな荒い波が被るかと思うと胸が凍えます。ご家族が智慧と力をあわせて対応し堪えて乗り越えて下さるようにと祈るよりないのが恨めしく。健康をと。まずはそれを祈りますよ。
2001 11・11 11
* エヤーバス墜落 今回はテロと関連はないらしいと発表がありましたが、事故の墜落であっても多くの人の命を奪ったことに違いなく、ニューヨークの災難、二度ある事は三度あるなんてジンクスを、こんな時には思わずにはいられません。わざと軽く躓いたりして、三度目の難を逃れようと、この歳でも子供っぽくすることを思い出しました。もう当分、度肝を抜くようなニュースには出会いたくない心境です。
グレーゾーンですか。インシュリンを使っていてその状態ですから、くれぐれもお大事に。
* テロでなくてもテロと同じほどのテロ効果を持ってしまった衝撃に、声もない。なんという時機になんという事故を。しかしテロであって欲しくない。まだ分からない。
2001 11・13 11
* 午後、池袋で人と会い、かなり辛い、厳しい事情の相談を受けた。相当な落ち込みと見えた。時間を掛けて、いろいろ話を聴き、わたしも話して、どうやら方針と活路とを見いだすことが(暫定的にと言わねばなるまいが、)出来た。帰りがけには、あんなに初め暗かった顔に笑顔すら見えるようになっていた。要するに、心の餌食に身を貢ぐなと言っただけである。ま、用いた言葉はもっとあったけれど、核心に触れていただろうと思う。
笑顔が出れば、自分も晴れ晴れする。晴れ晴れした気持になれましたと喜んで帰っていったが、先のことは、とてもラクではあるまい。しかし、一山は越えただろう。諸悪萬苦の根源は心である。よけいな、腐った、自分を苦しめる以外に甲斐のない虚仮の心根は抜き棄てるにしくはない。
* 喉が渇いたので、ビヤホールへ行ったら、店が潰れていた。それならと、二階の精養軒に、ボジョレーの新酒が入っていたので一本綺麗にあけ、帰ってきた。
2001 11・14 11
* いつのまにか、今夜も午前サマになっている。明日は、今日はというべきか、恵比寿で子松時博君が名古屋勤務から戻ってきて、仲間達数人と音楽会をする。二度目。一度目は会議で行けなかった。明日は聴きに行こうと思っている。シューマンやショパンを弾くという。白柳秀湖の小説を読んでいると、目黒駅から恵比寿麦酒会社の工場が見えていたという。明治四十年のことである。山手線はまだ単線であったのが、複線化工事をはじめ、その時に恵比寿新駅が計画されている。それまでは山手線は客車よりも、貨物に力が入っていたらしい。その恵比寿の麦酒会館だかが子松君たちの演奏会場だという。初めて行く。そのあと、保谷に引っ返して、今度は地元で映画があり、これは息子の大の推奨作品なのである。
2001 11・16 11
* 恵比寿三越の奥の、麦酒記念館内ホールで、子松時博君らの仲間による、二回目の「恵比寿ガーデンプレイスミニコンサート」を聴いてきた。先ずバイオリンと子松君のピアノで、マスネーの「タイス」やカタロニア民謡など三曲、まず無難だが、会場がいわば開け広げなので雑音が入る。バイオリンをもっとつよく鳴らした方が効果的ではなかったか。静かな選曲では負けてしまうおそれがあった。次いで、子松君のピアノソロで、シューマンの「森の情景」より一曲、ショパンの「バラード三番」は、学部の頃以来の子松ミュージックで、ショパンは少々手荒くはなかったろうか。三番目はクラリネットとピアノのモンティ「チャールダッシュ」は無難だが、バイオリン同様にクラリネットがおとなしくて平板に鳴っていた。ボーカルとバイオリン、ピアノで、これには子松君とどうやら妹とが、ピアノ伴奏を一曲ずつ交代した。これは肝腎のボーカルが声量とぼしくて、魅力に欠けた。最後に女性二人でのピアノ連弾があり、バッハの「メヌエット」ほか三曲に、「アンコール」の声がかかってもう一曲。可もなく不可もなく、ピアニストの一人の長い髪が美しくしなやかに見えた。これできちっと一時間。まじめで、素朴で、清々しい演奏会であり、音楽の質よりもみんなの、会場の、雰囲気にとけ込めて楽しかった。子松君とは久闊を叙し、健康を祝して、別れてきた。せっかくエビスビールの本場へ来たのだもの、ビアホールへ入り、ソーセージ一本で中ジョッキを楽しんでから、また延々とエスカレーターの歩道を通り抜けて保谷まで戻ったのが、五時十五分。
2001 11・17 11
* この秋は何故か二回も嵯峨野を訪れました。水曜日は東京に転勤で移動した友達と逢って嵯峨野に・・よく歩きました。以前行ったときの記憶となにやら符合しなかったり、それでも大いに嵯峨野を満喫しました。さすがに紅葉の時期とあって、週日でも人は多かったです。渡月橋のたもとで買った桜餅、美味しかったです。
今日は少し体調が悪く、部屋にいます。
全く一人の週末が、稀ゆえにとても貴重に感じられます。何もしない、と言っても本、テレビ、など布団の中で見ながら過ごしています。先程までNHKで沢口靖子の「お登勢」を再放送で見ていました。これは途中まで見て、イタリアに行ってしまって見ていなかったので・・。あのような純粋さが自分にあるだろうかと、自問しますが、答えは分かりません。
アフガニスタン情勢は急激でしたが、不思議なほど驚きませんでした。北部同盟がカブールに迫って或程度の時間が過ぎたとき、アメリカなどの意図や牽制と別に動く力を予感していました。
以前のような過ち、権力抗争、を繰り返すことなど、決してないようにと願っています。
かなり前のことになりますが、マリアのことを聞かれたことがありましたね。あの時はイエスの母マリアのことだったと記憶していますが、マグダラのマリアは今でも関心の外でしょうか? 私は絵画の主題にあらわれるマグダラのマリアが時折気に懸っていましたが、ラテン語の先生が、マリアがイエスの「妻」だったのではないか・・と言われて、ああそうかもしれないなどと思ったり・・。
またメールを書きます。今夜は暖かくして眠ります。
* ほうっと懐かしい心地のするメールであった。嵯峨野の光が目の底にたまっている。嵯峨野というと自然に慈子を思い出す。どんなヒロインもわたしは愛しいが、慈子はひとしおである。それでいて慈子がどんな顔をしていたのかわたしは覚えがない。ときには澤口靖子のように思われるが、時にはむかし愛した少女達のどれかのようにも想われる。
2001 11・17 11
* すっかり日が落ちるのが早くなりました。空気が乾燥し澄んでいるのでしょうね。見惚れる程の三日月ですわ。
新聞に子供の発した一言投書欄ってありますでしょ(今時の子供の名前ってスゴイのがありますわねぇ!)。
花火大会で月の近くに上がっているのを見て、「見とってみィ。お月さんそのうち壊れンでェ!」というのが、気に入ってます。
* くすんと笑えた。夜前、二時前頃、屋根に出てしばらく獅子座流星群を拾い取ろうと見上げていた。二時よりもあとが本番だと分かっていたが、寒いのと首の痛いのとで、なかに入った。不思議といえば不思議だが、なんでもない自然現象である。眼を凝らしていると大空に星のそれはそれは多いことにあらためて驚かされた。だんだんに、闇の底から浮かび出るように見えて来る。あれが美しい。晴れ晴れと夜空が清らかであった。
* 少しずつ、家の中も冬支度に入ってきた。暖房の用意も。
2001 11・19 11
* ぬくぬくと暖かい日が続いていたせいか、私のお気に入りの山もみじと欅の盆栽が、少しも色づいてはくれなくてがっかりしています。十一月というのは、私立や国立小学校のお受験シーズンであることを先生はご存じでしょうか。私がよく利用する都バスは沿線に私立の有名小学校や幼稚園が多くございます。
先週のことでしたか、私がそのバスに乗っていますと、幼稚園に向かうらしい母親と女の子が二組乗り込んできました。その制服を見れば、ある私立初等科のお受験で有名なミッション系の幼稚園であることがわかります。
バスに乗り込むと、一人の女の子があたり憚らぬ生き生きした声で、連れの少し背の高いほうの女の子に訊ねました。
「カナちゃんは小学校どこか通った?」
そう質問された、賢そうなようすの背の高い女の子は、
「それが、じつは通らなかったのよ」と、口調だけはすっかり大人のように答えました。声が元気いっぱいで、バス中の乗客に聞こえるでしょうに、まったく気にしていません。
そこで質問した女の子の母親がすかさず、
「まあ、ナツコのいじわる。あなただって受けたところ全部通らなかったじゃないの」
と、自分の娘をたしなめました。母親に叱られた女の子は、きょとんとして母親の顔を見上げましたが、自分が禁忌事項に触れたとは夢にも思っていないようです。
横でこのやりとりをみていた私は、笑いをかみ殺すのにとても苦労しました。二人の女の子たちのあっさり不合格を受け入れているさまがおかしくてたまりません。あどけなさをたっぷり残しながらも、六歳の童女なりの分別があります。
「お母さまはがっかりかもしれないけれど、わたしそんなこと知ったこっちゃないわ」とでもいう雰囲気でした。
しばらくして女の子たちは母親に手をひかれてバスを降りていきましたが、私は久しぶりに心から笑ってしまいました。この少女たちがあと十何年後に大学受験を経験しても、「入試なんてなんじゃい」というこの心意気を忘れないでいてほしいものだと思います。公立の小学校では学級崩壊だのイジメだのと空恐ろしい問題ばかりですが、この愛らしくて、ちょっとしたたかな女の子たちなら柳に風と受け流してしまうでしょう。
どうか二人とも元気な小学生になってねと、陰ながら応援せずにはいられませんでした。将来に明るい展望を抱けなくなるニュースばかりの昨今ですが、二人の女の子はその日一日、私をとても幸福な気持にしてくれました。
先生が開館にご尽力なさいました電子文藝館は、あのかわいい女の子たちのような、未来の子供たちのものでもあります。学校の宿題の提出でさえ電子メールを使う時代ですから、電子文藝館という新しい読書スタイルの登場は必然のことでございましょう。今までこのような「場」が与えられていなかったことが不思議なくらいです。
また電子文藝館は、過去の名作が手に入りにくい現状を打開する意味でも、文藝の愛好者にとりまして大きな福音となります。電子文藝館が今後益々発展していかれることを信じて疑いません。作家活動のうえに、時代の先鞭をつけた画期的なお仕事までなさいます先生のスーパーマンぶりに、ただただご尊敬の気持を深くするばかりでございます。
お仕事が一区切りつかれましたら、お好きなかたとおいしいものでも召し上がって、お疲れをおとりになるのでしょうか。どうぞお大切にお過ごしくださいませ。
このたびは電子文藝館の開館、心よりお慶び申し上げます。早速訪問してみたいと思います。
* 少し褒めすぎであるが、励ましてもらったと思い感謝する。では、また次へさらりと歩を転じたい。
2001 11・26 11
* 名張の囀雀さんも、さかんに大和や近江や尾張や大阪へ出歩いている。じつに佳い場所に居を据えているものだと羨ましい。ご主人と、思い思いに別の方角へ出掛けて行きながら、ぐるっとまわりまわってどこかで出逢い、いっしょに帰宅するような風流な風情を共演しているようすも、なかなか佳い。
テロの騒ぎで海外旅行の落ち込んでいる今どき、身近な日本の秋を満喫して楽しんでいる人はどうやら少なくないようだ。
* 日の光がまぶしく部屋に入り込み、いい気持ちです。
談山神社へ行き二上山を見て以来、ボーと昔を、ルーツを想っています。
ちょうど飛鳥と山を挟んで反対の河内(今の羽曳野市)で育った母や大伯母の口から、ニジョウサンの名をよく聴きました。ニジョウサンを人の名と永らく思っていたお笑いもありますが。
此処での一学期間の疎開は、まだ二年生、祖母と二人きりで寂しく、学校の記憶が何も残っていません。
駅で貰ってきた近鉄の地図を見ていると、覚えている懐かしい駅名が幾つかあり、今になってその地理関係が分かり、そうなんだと肯いています。
古市、道明寺、富田林、白鳥(日本武尊の白鳥陵があり、白鳥になり、羽を曳くように留まったという伝説から、羽曳野の市名が生まれたとあります)等々、墳墓の多い処です。当時はアベノや、京都へはどうして行けるのかしらと思っていました。
地図に誉田八幡宮があり、母の生家は逼塞してからお宮さんの前に移ったとか、あそこでよく遊んだなあとか、街なかからは珍しく思えた野菜やぶどう畑を歩き、応神天皇陵の汚れたお堀の横を通ってお墓参りに行った記憶も微かにあります。
祖母からは、中将姫のお話や、同年輩で女学校の頃にはもう名前の知られていた与謝野晶子の噂話、坊城さんへ行儀見習で住み込み、お手水の時には袂を持ってかしづいた話など、今になればもっと聴いておけばと悔やまれます。
八幡様を訪れたい願望は、多分夢で終わると思っています。
* 日本ペンクラブの図書室ご案内どうもありがとうございました。過去の素晴らしい作品がインターネットで読めるのは便利だと思いました。また、インターネット上で公開すればいろいろな人に関心を持ってもらえると思います。ただページをめくるような訳にはいかないので、ワープロソフトにコピーをして読むと、読みやすくて良いと思いました。
先日は本当にありがとうございました。先生の前で演奏するのは数えてみましたところ、先生の退官の年以来ですので6年ぶりです。昔に比べるとだいぶ整った、聞きやすい演奏をするようになったと思っていますが、どうでしたでしょうか。また今回は多彩なプログラムでしたので、楽しんで頂けたと思っております。遠いところですが、また是非入らして頂きたいと思います。
週末は奈良の当尾の里へ行ってきました。浄瑠璃寺と岩船寺へ行きましたが、特に岩船寺は静かで良い雰囲気のところですね。行きがけに月ヶ瀬を抜けて行ったのですが、ここは梅だけでなく紅葉もきれいな場所だということが分かりました。写真を添付しますのでよろしければご覧下さい。
寒い日が続きますが、どうぞお体には気をつけてください。またお会いできるのを楽しみにしております。
* 当尾はわたしの実の父の里で、わたしは、生まれ落ちると暫く当尾で育ちました。吉岡家は当尾村の大庄屋で、浄瑠璃寺や岩船寺は村の中にあります。明治の廃仏毀釈の騒ぎの時、寺の仏像の金箔を剥がしに盗賊が襲ってくるのを、わたしの曾祖父や祖父達が身をもって守ったと聞いています。また当尾にはたぶん柿がたくさん色づいていたと思いますが、柿を地場産業として村に持ち込んだのも祖父達であったと聞いています。あなたは、そういうところを訪れてきてくれたわけで、何となく、感謝しています。元気で。湖の本も、頁をめくって、ときどきは読書にも身を入れてください。
岩船寺の写真、あなたが何処に立ってシャッターを押したか、よく分かります。懐かしく、有り難く。感謝。
* ま、こういうメールを読みながら、よぎなく、わたしも想像の旅をしている。
言うまでもないが、自分の内側に無量の過去世と人物達が同居している。架空の世間や人物もそこでは区別無く同居している。時間は直線の延長でなく、球体にとり包まれて渾然融和しているというわたしの時間感覚からすれば、そうしたものたちと「同時代の共存」にちかく感じ取れている。今の気持で言えば狭衣大将も倭建命も福沢諭吉も中村光夫も同じようにわたししの内側で語り合いながら生きてある。むろん、羽曳野も京都も湖北も比良も鈴鹿も、かと思えば釧路もノサップも、グルジアも、紹興も、みなそのように同居してある。昔とか遠方とか言うものが、今や此処にかなり包摂されている。それがあるから、日々の少々の動揺や混乱や違和でキレるようなことは無くて済むのだ。ナンジャイと片づけてしまうのである。
* 歴史や歴史上の人物、亡くなった人達と、つき合いがあまりに少なく、むしろ断ち切られ裁ち落とされているのが、若い人達の、いや多くの人達の日々であるように、昔から感じてきた。あんなことでは索漠としないかしらん、ようやれるものだと、不思議ですらあった。
明治以降の作家や詩人達の多くが、その歩みのあとが、同じ道に歩んでいる人達からも当然のように多く裁ち落とされ忘れられている。それで構わない、自由な処世である。そのかわり、そういう生き方では批評のものさしもひどく貧相にしかもてないだろうなと思う。事実、そうなので、手近なお互いの理解だけでかるく一丁アガリに決めている。自己批評の厚みが段々薄くなり干上がってくるのは、当然だろう。時間をただ直線のようにしかみていないのだから、まさに過去は過ぎ去ったものでしかない。過去や過去の人・業績をも、同時代、同時代人のように親しめる力が、時間観が、無いからだろう。「文藝館」の発想には、一つの球空間のなかで平等に明治から平成までの作者達に、作品を手にして同居してもらおうという意図もわたしは持っていた。昨日の宴会で、二人の小説家から、自作と物故作者の作品群とのある「落差」「異質」を告白されたとき、ああ、これでいいのだ、こういう意識が広く生まれてくるのが大事で貴重なことだと思った。
2001 11・27 11
* 亀裂・凍結・迷走・・三部作 ほんとうにご苦労様でした。「森課長」さんは、どうしているかと思ったりしています。
あの頃(昭和四十九年・オイルショック、大学紛争)から日本中がやり過ぎで、今も世界中がやり過ぎです。
いつだったか、学校の先生が、忙しい忙しい、放課後は部活もあって忙しい、とあんまり言うので、それなら「夕やけを見るクラブ」なんかを作ったらどうですかと言ったら、いやーな顔されました。おじさんはすぐあやまってしまいました。
寒くなって椿が似合うようになって来ました。お大切に。
* 勝田さんにまたスキャンして戴いた。あの頃は、あれは何という時代であったのか、「やりすぎ」て後退に後退を強いられていった愚かな闘争、というよりも、迷走の時節だった。あの頃の社内で攻防した連中の殆どが、管理職も組合員も定年退職して行っている。亀裂・凍結・迷走・・三部作。よく書いて置いたなあと思う。
「いそがしい、いそがしい」と、そう言いさえすれば免罪符を握ったような顔の人が多い。大概ないそがしさではわたしは驚かないが、イヤなのは、口を開くとやたら「いそがしがる」人、「忙しがってみせる」人。わたしでもお忙しそうですねと言われて、べつに否定しないが、挨拶替りに忙しい忙しいなどとは言わない。つらくなれば、それをむしろ楽しんでやろうと思う。その方が気も楽になる。「夕やけを見るクラブ」なんて、勝田おじさん、やるものだ。
「寒くなって椿が似合うように」とは、ピタリである。我が家にももう椿の花があちこちに。毎年、おなじ嬉しさで椿の季節を迎えるが、勝田さんとうまく気息があい、心地よい。
2001 11・28 11
* 少し早起きをして(液晶劣化の)ほの暗い闇に向かっています。今日新しい器械を買ってきます。早く使える所まで行くとよいのですが・・・。
一昨日は会社の器械にウィルスつきのメールが30くらい侵入して、駆除するのに半日費やしました。ウィルス対応ソフトで調べた結果、全滅できたようでほっとしています。風邪と同じようにウィルスが蔓延していますのでご注意下さい。添付書類つきの英語の題名のメールが来たら、知っている人からのものでも、開けないで捨ててください。ウィルス対応のソフトは入れていらっしゃいますか?大切な書類がなくなってから箱にならないよう、必ずお使いになりますよう。
文藝館 時折訪れています。
仕事については鋭くご指摘くださった通りで、大きな商社との連携の話が入ったこと、新事業を他のライバル会社に先に展開されそうなことに悩んでいます。悩みや愚痴は力不足の表れと、省みています。
* 商売のことはわたしに分かるはずがない。気になるのはウイルス蔓延の風潮。今日も二つほど削除した。
2001 11・29 11
* いま「ヒーロー」を超人気だったと書きかけて「超」をやめた。いい表現でないから。ところで、さきごろ、「立ち上げる」ということばを秦さんが使っているのには失望しましたと読者の一人に叱られた。
だが、わたしこれを思慮して使っている。近来の新用語の中で、「立ち上げる」は、文法も間違いでなく、含蓄があり、巧みで有用な方の語の一つと評価し、その上で自分も便利に用いている。この言葉に代えて「立ち上げる」意味を伝えようとすると、かなりのむだな言葉数がいる。コンピュータ時代には、また企画の時代には、なかなか効用のある旨い一語だ、「立ち上がらせる」よりも、と考えているが、どうだろう。
2001 11・29 11
* 夕方から浅井菜穂子ピアノリサイタルに、サントリー小ホールへ。湖の本の読者である浅井敏郎氏のお招きで、菜穂子さんはお嬢さん。ミラノ・ヴェルディ国立音楽院ピアノ科を首席で卒業しイタリア政府よりピアノ教授の学位を得ている。国内外でリサイタル活動を展開し、モスクワ国立フィルのソリストであり、国立シンフォニーオーケストラと、連年チャイコフスキーやベートーベンなどを共演し、ロシア総合芸術大学の「音楽博士」を授位されている。もうわれわれは何度も聴いていて、新聞に感想を書いたこともある。
今宵の演目は、前半でベートーベン「ピアノソナタ第30番」バッハ=ブゾーニ「トッカータニ短調」、ことに後者がよかった。後半は、ハイドン「皇帝讃歌の主題による変奏曲」ベートーベン「ピアノソナタ第32番」で、これもあとのベートーベンが上出来だった。前から四列中央に席をもらっていた。挨拶するピアニストとはっきり視線の合う位置で、となりの妻と席を交替した。元新潮編集長の坂本忠雄氏に声をかけられた。以前にも同じこの会場で会っている。
菜穂子さんのピアノは文学的な解釈にはしらず、極めて音楽的に音をじつにしっかりピアノから掴みだし、構築的におおらかに盛り上げて行く。堂々としている。
* リサイタルの前に全日空ホテルの「パティオ」で、赤ワインでイタリア料理。コースのほかにイタリアのパルマ生ハムも一皿。ホールの見渡せるいい席に案内され、きもちよく夕食ができた。
リサイタルのあとは車で日比谷まで行き、「クラブ」でブランデー。エスカルゴ、銀杏。そして、わたしは、かやく飯も。妻は文庫本で森瑤子を読み、わたしは湖の本の校正をすすめ、ゆっくり、のんびりしてから、丸の内線で帰った。遠藤周作夫人の手紙が届いていた、これで歴代会長作品が九作になる。ありがたい。歌人の二人からも、その他にも、文藝館関係のメールが溜まっていて、応対に追われている内に、もう午前二時。そうそう、名古屋勤務の卒業生が千葉へ転勤してくるとも。顔の合う機会がふえるだろう。
2001 11・30 11
* 医学書院の昔に部下であった友人も、管理職を経てもう定年になっている。定年後も、人により、まだ働いている。電話をくれて、明晩、会うことに。湯冷めか、少し寒気がする。はやく寝よう、今夜は。
2001 12・2 11
* 早く寝るどころか夜更けまで校正などして、眠れず、疲れて昼まで起きられなかった。午後、めいっぱいいろいろと片づけて、夕刻から、医学書院の向山肇夫君と会うべく街へ。久しぶりの久しぶりで、さすがに話題は尽きず、酒を飲まない男を相手にけっこう楽しい酒を沢山飲んだ。しょうのない糖尿患者だが、これでバランスは考え用心しているので、結果的に血糖値は、正常を、安定して保っている。用事らしい用事も向山君は用意していたけれど、それはまあたいしたことでなく、たくさん話せたのが何より。あの会社ではめずらしく人品のよろしさをきちんと保ち続けて定年に達した友人で、今も嘱託で医学界新聞の編集長をしている。入社してきたときからわたしの係りや課にいて、長い長いつきあいである。
たまに、こういう楽しいこともなくては、もたない。今日は、これだけ。
2001 12・3 11
* 月曜日、新しい週の始まりです。私の月曜日は、午後から中国人が来てことばの練習、これはお互いの勉強。そのあと夕方は頼まれて数ヶ月だけ数学を教えています。ずっと人と話し続けるのは月曜日だけです。
冬の寒さはまだあまり感じません。やや遅れた今年の紅葉に山々がまだ名残の色を燃え立たせています。庭のレモンが黄色になってきました。かぼすやすだち、レモンなどがあって、今の季節は醸造の酢をあまり使いません。
12月になるとキリスト教徒ではないけれど、何となくクリスマスの雰囲気で赤い花に緑の布などを使って、部屋が暖かになりました。
日本画とは何か・・繰り返し言われるテーマながら・・分かりませんわと逃げたくなりますね。でもあなたは司会という立場でなくて、発言したくないですか?如何でしょうか?発言を引き出し、話の方向や取りまとめをしなければならないのは大変な役ですが・・個人的には、あなたに思いっきり発言して欲しいな。
2001 12・3 11
* もう十二月だというのに、なかなか冬らしくなってくれませんね。暖かくてありがたいと思う半面、キリッとした寒さが待ち遠しくもあります。
このメール、四国は香川県で書いています。一ヶ月間の予定で、企業での研修に来ているのです。
こちらは何もないところですが、東京とくらべて空気は清々しく、先週の満月も、はっとさせられるくらい綺麗に見えました。残念ながら、獅子座流星群は見逃してしまいましたが。
久しぶりに、見知らぬ人たちの中に単身で入ってゆく機会で、普段の生活では受けられない刺激を、いろいろと受けています。平均年齢30歳弱という非常に若い職場で、私のように社会人四年目ともなると、もう立派に中核として仕事を任されていて、自分の職場とはえらい違いという感じです。(まあそういう職場はちっとも珍しくないでしょうけれど。)
もの作りを、ほんの少しですがお手伝いする機会を得て、こうして作られたものが、出荷されて、全国に送られて、買われていくのかと考え、ふっと、社会の一員というか、輪の中の自分を実感しました。不思議と嬉しい気持ちでしたね。普段の仕事では、書面ばかり相手にしているためか、ほとんどそうした感覚を持つことはないのですが。
ものを作って売ることの楽しみは、お金儲けばかりでなく、生み出したものを他の人に受け入れてもらう、認められることにあるのかな?、などと今更ながら思ったりしています。
パソコンでバッハの「ゴールドベルク」を聴いています。せめてCDラジカセは持ってくるべきでした。
それではまた。お元気で!
* 特許庁勤務の卒業生、フーン、こういう研修にも行くのか。いいことに思う。わたしの「湖の本」など、とても「売る」の「お金儲け」のといえる仕事ではない、十六年も続いているのが不思議なほどだが、「ものを作って」人様に「届ける」「送り出す」という点では、作品も作る、本も作る、一人一人に挨拶を添えて、手づから送り出すということでは、まさしく人と人の出逢いの「場」づくりである。「生み出したものを他の人に受け入れてもらう、認められる」嬉しさに満ちあふれているから続けられているので、価値観の違う人からみれば、愚の骨頂のような出血サービスだろうが、ものごとの有り難みは金勘定でだけ計れるものではない。こんどの新刊も、楽しまれるものになっていると思う。
卒業生たち、いろいろな社会に出てゆき、地の塩のように働いている。一月にはまた結婚式に招かれている。今度は女性。池波正太郎と歌舞伎の中村吉右衛門が好きだといっていた、美しい笑顔の、弓をひく、麗人である。難しいテーマをかかえた研究者でもある。 2001 12・6 11
*1年間の育児休業が終わり、12月の最初に職務に復帰いたしました。育児にかまけていた1年間、論文こそ何報かまとめましたものの仕事の感覚は忘れているのでは、と、心配しながらの出勤でしたが、意外にも以前より頭の中の整理が素早く行われるようで、大局的に要領を得て仕事ができている気がしています。気がするだけかもしれませんが。
ただ、思うに、子どもを相手にしていると時間をするする吸い取られていくので、その合間を縫って生活しているうち自然に物事の要領を掴みやすくなる、という効用があったのかもしれません。今までの私が、あまりにも仕事に時間を費やしすぎていたのかもしれませんけれど。
ホームページで書いていらした日本画論、まとめられたのでしょうか。仕事柄、とても興味があります。
私が(文化財保護という)この仕事に関わりはじめて日本画に触れ、一番感動したのは「裏彩色」の存在でした。絹という「透ける」素材を生かしたこの技法は「日本やなぁ」と思わせるに十分なように思えます。黒髪の生え際や水に泳ぐ魚の鰭など日本画の中でも最も優しい表現と思っていたこれらの部分が、この技法によって描かれていると知って、本当に感動した記憶があります。素材あっての技法で、技法を生かす素材ですよね。そしてこの「素材ともちつもたれつの技」という流れは、今でも日本の中に脈々と受け継がれているように思います。
小さなプラスティックのパーツを見た時、そこに施された細かな造型が射出成形によって大量生産されたものなのだ、と確認できると、日本の底力はまだまだあるんだ、と私は安心するのです。こんな扱いにくい面倒な材料をこんなに細かく造型できるのだ、日本はまだまだ大丈夫だ、と。
プラスティック成形はそれ自身を扱う技術もさることながら、金型の精度にかかっており、それで大森あたりが世界的に金型成形に名を馳せているわけですから。
主人は海外に出かけるとすぐにビルのエレベータの製造会社をチェックするという癖があります。エレベータを水平にピタっとそのフロアに一発でつける技術は、コンピュータ制御や機材の組み立てなど、総合的な技術力が端的に表れる場所なのだそうです。あちこちに行く度に、その国の主要都市のビルの中にいかに日本製のエレベータが納品されているか確認してきて嬉しそうに報告しています。
日本画の話から、随分とそれてしましました。お忙しい先生にお目汚しの文章で申し訳ございません。
冷え込みの厳しくなる季節、どうぞご自愛下さいませ。
* 転居いたしました。と言いましても、ほんの数分歩いただけのところへですが、そこへ家を建てて越しました。育児休業の最後を、この引っ越しでばたばたと過ごしましたが、おかげで子どもを預かってもらっている実家に近く、便利に過ごしております。
家というものを建ててみると、自分の人生をつかさどる力学が面白いように解明されていく過程を体験したように思います。自分がなにを重んじているか、簡単なことを言えば、日照か利便性か静けさか。そういう自分を構成してきた小さな要素が、ほんの一つの壁を動かすだけにしても、明るみに引き出されたりしました。
また、ただ何気なく使ってきたユーティリティと言われる水周りなどが、どういうふうな重さと注意深さで作られているか、あらためて痛感され感謝したりしています。
この総合的な構成物である建築というものは、住む人の建てる人の人生を深々と照射してくるように思えます。高い買い物で、えらく労力もかかるものでしたが、それでも自分の人生や生き方を見つめ直させるものだった、実感しています。そして自分一人が生きていくということに際して、どれだけ周りからの力が集合されているか、つくづく教え込まれたようにも思います。
残念ながら家を建てることに「憧れ」など持たずにいたため、メーカーさんには「夢のないお客さんだ」と言われながらも、現実的に家を建てていくことを通じて人生の構成要素とも言えるものを認識できたのは本当に得難い体験でした。言葉足らずで、この経験の中から深々と「掴んだ」と実感したものを十分にお伝えできないのがもどかしいのですが、家を建てる、というのは私にとっては、世間が考えているような「おめでたい」「すてき!」などというものではなく、「人生の力学の解明」とでもいうかのような体験でした。
最後になってしましましたがそういうことで引っ越しましたので、今後、湖の本は新しい住所にお送りいただければ幸いです。瑞泉寺の参道です。お近くにいらっしゃることがありましたら、お声をおかけ下さい。山門の中なので、すぐにわかる場所にありますから。
お寒い京都、どうぞお気をつけていってらして下さいませ。
* はしばしの表出に少し力の入りすぎた気味もあるにせよ、きびきびと感想のことばが「生・活」している。こういうことばを掌にすくいとり、そっと口に含むほどに玩味していると、鼓舞される。教室にいた頃と、変わりない「人」の姿まで髣髴とする。それにつれて、またたちどころに十人も十五人ものいろんな若い人達のあれから以後の歩みや消息が脳裏に甦ってくる。みな元気かな、げんきでいろよと呼びかけている。わたし自身も、これで、ま、元気なのだろうと思う。
2001 12・10 11
* 結婚式に出席してくださるとのお返事をいただき、大変嬉しく思っております。お会いできるのを楽しみにしております。
お願いがございまして、このようなメールをお送りしております。お願いと言うのは・・・・結婚式の時にぜひお言葉をいただきたいのです。本来は、お電話もしくはお手紙でお願い申し上げるのが筋なのですが、なるべく早く先生にご連絡申し上げたかったことや、引越しの用意で部屋でゆっくりお手紙をかける状況ではないこともあり、大変失礼とは存じますが、メールを使用させていただきました。失礼をお許しくださいませ。
ぜひお一言を、いただけませんでしょうか。大学時代の私を一番良く理解してくださっている方は、実は秦先生だと思っておりまして・・・。ぜひお願いしたいのです。
ご来席下さる方々の顔ぶれや、お言葉をどのようなタイミングでということをお話ししておくのが良いように存じます。
いらしてくださる方々は、友人が多いのですが、その他は会社の人です。会社友人、中高時代友人が多いので、私の大学時代を知る人は実は少数です。更に、1月19日は大学のセンター試験ということもあり、出身研究室の教授助教授は式に参加されません。大学時代をご存知の先生は、秦先生しかいらっしゃいません。
ご言葉をいただくのは、乾杯の後、新郎新婦を知っている上司、恩師のお話のところです。新郎側は会社上司が話をする予定でいます。といっても、仲人も立てていないような、くだけた形式の披露宴ですので、あまり固く考えてくださらなくて結構です。アットホームな、柔らかい雰囲気の結婚式を目指して準備しているので・・・。
いかがでしょうか・・・?
秦先生にお話しいただければ本当に嬉しいのですが・・。お返事いただければ幸いです。
大切なお願いを申し上げますのに、メールで失礼致しましたこと、重ねてお詫び申し上げます。
ぜひ、よろしくお願いいたします。
* 二年生の一年間は、階段教室の階段や教壇の上まで学生の座りこんで聴くような、人いきれで気の遠くなりそうな教室だった。この人もそこにいた。次の年には三十数人の特別講義で、そこへも前年の仲間達と一緒に、ほとんど休みなく、また一年間聴きに来てくれた。この年の「総合講義B」というこのわたしの教室はことに和やかに、そのまま親しく今も付き合っている学生が、何人もいる。女性だけでも七人の内五人が親密に、湖の本もずっと支えてくれている。男子では、このホームページを作ってくれた、そもそもパソコンをただの箱から生き物に作り替えてくれた林イチロー君などがいたのである。
その林君の結婚式に今年よばれ、また美しきエンジニアから祝辞を求められている。若い人達を主体にした堅苦しくない披露宴は、なかなか楽しいのである。若返る気分がする。祝意を身いっぱいにはらんで参会したいと返事をした。
2001 12・13 11
* 雪がちらついた気がした一昨日は、氷点下。今朝はひさびさのお湿りです。
「石川県に、雷注意報」と聞いて身をすくめた頃、大阪では「天神さまの美術」が終ってしまいました。
北陸の冬将軍は、雪を降らせる前に雷で知らせ、去っていく時も雷を轟かせます。「雪起こし」を聞いて覚悟を決め、数ケ月間、雪に閉ざされて暮らし、そして「春雷」に顔を輝かせ、伸びをして外へ出、天を仰ぎ雪囲いを解く。あれはたまらなく嬉しい雷さまなンですのよ。
2月の木挽町と4・5月の文楽は「菅原伝授」の通し。仁左に、怨霊になる「天拝山」を演ってほしいなと思っています。
* こういう「冬」到来の雷様や春雷のうれしさを、わたしなど、なにも知らない。北の雪国で生まれ育った人からこういうことを聴かされると、しんと冴えた思いがする。
* 利き手も、多数派の右利きのために普段は気にしなかつた。社会の、多くの不可欠なツールが右利き用に作られているために、受話器にしても切符機にしても左利きの人達はずいぶんと不自由や不如意を感じてきたであろうことを、人に言われるまで思いも寄らなかった。
むかし、富山の女性に雪のふるのは美しいと言って、とたんに「あんなもの、イヤ」と言われたときの驚きを思い出す。
2001 12・13 11
* 胸の深くからラクになるような、嬉しいメールが卒業生から届いていた。待っていた。
* 幸福を追っています。 秦さん、こんばんは。ごぶさたいたしました。
先週土曜の夕方、石神井公園の会社の先輩宅へ招かれ、行きがけの西武線で寝過ごして、保谷駅で乗り換えました。上り電車を待つ数分間、秦さんにお会いできるかもしれない、と、ちょっと、どきどきしました。一、二か月にいっぺんくらい、秦さんにお会いする夢をみます。
いろいろご心配をおかけしましたが、心身の負担になっていたことを一つずつ解決していき、いま、幸福な日々を実感しています。引っ越しをし、彼との新生活をはじめました。
先頃、両親を、伊吹山のふもとの彼の実家へ連れて行きご挨拶。長浜の、古い蔵をそのまま使った小料理屋で、自然食のコース料理を美味しく戴き、二家族でやんわりとくつろいで、日本のかつての野原のようすや畑仕事の大変さについて語り合い・・、それで事実上の結婚です。簡単ですね、ふふ。
雨上がり、風に洗われた琵琶湖岸の星空は冴え冴えとうつくしく、冷え込んだ翌朝は金いろの光のなか湖面にしっとりと靄が立ちこめ、大層なカメラを抱えたおじさんたちが、5時起きでやってきた、いや4時起きだと言いながら、夢中になってシャッターを切っていました。
ぬけるような青空、澄んだ空気と光、まぶしいほどの紅葉、大らかな山襞とゆたかな水面…。
結婚式はしていませんが、それにふさわしい、光あふれる、それに人も自然も何もかもがやさしい、1泊2日の旅でした。
引っ越し先は賃貸マンションで、***駅から歩いて15分近くかかりますが、いろいろな意味で願ったりかなったりの住まいです。3方向が窓で、***川が近いために東側には広々と空が見えます。寝るときは必ずカーテンを開けておくのですが、早朝ふと目覚めると、みごとな朝焼けや明けの明星が目に飛び込み、目覚めと驚きと快感が同時にやってくる、という贅沢を味わえます。本格派の自転車を手に入れたので、早起きができた日には、2人で多摩川沿いを走らせます。西側には多摩につづく丘陵が望め、その上に富士山が顔を出しています。一番ちかいスーパーに行くには、梨畑のなかのうねった小径を通らなくてはなりません。月のない夜は懐中電灯を片手に。(距離はほんのちょっとですけど)
部屋のなかでは楽器の練習もできます。洗面所がやたら広いので、写真に凝っている彼は暗室を作ろうとたくらんでいます。
実家を出てから、雑多な街中のアパート暮らしを2軒体験しましたが、私にとって、自然を見聞きし、ふれること、自然の静けさにひたることがどれだけ切実なものかということを実感しました。そして、世の中の人は案外そうでもない、ということも知りました。人間にとってある程度普遍的な欲求だと思っていたので、ちょっと意外です。意外と思った自分を、世間知らずとも認めましたが。
引っ越し先は以下の通りです。(略)
とりあえずのご連絡と思ったのに、なんだか長くなりました。マキリップを久々に読んだことや、辻邦生の「嵯峨野名月記」のことなどもお話したかったのに。でもまた今度にします。
ほんとうにご心配おかけしました。力になっていただきました。ありきたりの言葉しか出ませんけれど、感謝の気持ちでいっぱいです。
* 久々にこの人の、本来持ち合わせているのびやかな文章に接し得て、お祝いの気持にありがとうという感謝すら籠めて嬉しかった。佳い結婚式ではないか、それもまた佳いと思う。わたしたちも、似た結婚式を二人だけでしてきた、親の代りに、若王子山頂、校祖新島襄と弟子達のお墓に立ち会ってもらって。
この若い人達が琵琶湖の朝の美しさに心身をときはなって結婚してきたことも、「みごもりの湖」の作者には心親しい。あの世界からは伊吹山も長浜も比良も鈴鹿もつねにまぢかい。なによりも琵琶の湖が懐かしいくらい器のようにしんとしずんでいる。
2001 12・14 11
* サラマンカより。 秦先生お元気ですか。12月に入って、引越しだのなんだのと、かなり忙しい毎日を送っています。引越しと言っても同じサラマンカ市内です。
最近こちらはまた一段と寒くなり、昼間太陽が出ていてもマイナス3度を指しています。天気予報の話では、夜にはマイナス10度になるらしいです。
こちらの生活は既に一ヶ月半が過ぎ、かなり慣れてきましたが、これというものがまだ見つかりません。まぁ、あせらずにやっていこうと思っています。
とりあえず、日記は欠かさずに書いています。パソコンでですが、一日に必ずA4で1ページ以上書くことにしています。実は、そのうち先生に読んでいただけたらと思いながら書いています。
年末年始は学校が休みなので、スペイン国内を旅行しようと思っています。
日本もクリスマスを控えて寒さも一層増していることと思いますが、御身体にはくれぐれもお気を付け下さい。
2001 12・15 11
* 理事会の後、帝国ホテルでの、講談社野間賞の授賞式に出てきた。瀬戸内寂聴さんが野間文芸賞。ほかに新人賞が二人、児童文芸賞がひとり。驚いたことに四人とも女性。最近の文学賞は女性のものと相場が決まっているみたい。
選評を聴き終えたところで退散し、四国から夏に転勤してきた「湖の本」十五年来の読者をロビーに迎えて「クラブ」に入り、ブランデーとバーボンとで、軽い食事と四方山話を楽しんだ。
私の作品との出逢いは、奈良の帝塚山に学んでいた頃の「みごもりの湖」で、「清経入水」も人に勧められ、ちょうど朝日新聞が「湖の本」創刊を報じたのをきっかけに、書店経由では手に入らぬと知り、じかに購読を申し込んできたのが、初め。後年に、あやめ池の母校帝塚山へわたしが講演に行ったことも、知っていたという。
その頃からの四国でNTT勤めだったのが、世の転変で、東京品川へ転勤とバタバタ決まったのがこの夏で、十六歳の、湖の本と同い歳の少年と二人して、高知からはるばる上京してきた。東京で暮らすのは初めてだが、スムーズに適応しています、と。このリストラ時代に、むしろラッキーに人生の曲がり角をうまく曲がってきたのだと言えようか。
歓談の後、クラブから送り出して、わたしは少しあとに残り、客もいなかったのでクラブの人達と暫時談笑。わたしが、この週末には六十六歳になると言っても、みな冗談だと請合わないのに、びっくりした。クラブの支配人の小柄な小父さんを、わたしは私より幾つか年輩だと見ていたのが、幾つも年若いという、これにも仰天した。誕生日にはシャンパンを用意しておきますからなどと、小父さん、結構な挨拶を言ってくれる。
*このクラブで知り合いと出会ったことはかつてなかったが、今夜は、どこか集英社筋の子会社に出ていると聞く家の近所の編集者が、何人かで別室で客を接待しているか何からしいのと、一緒になった。仕事で酒を飲まなくてはならないのはつらいなあと、ふと、同情した。
2001 12・17 11
* 空は白んでいますが、まだ部屋は暗い。一日、一日、朝の表情はみな違います。雲の動き、月の満ち欠け、星の運行・・・などなど、心奪われて、飽きることありません。
明日はお誕生日ですね。よい年月をかさねられるよう、心から祈ります。健康であって欲しい。
メールでの指摘。胸衝かれる思いで読みました。「家」「周辺」そういう限定と違う次元での「今」「此処」を考えていくということ・・。「家」「周辺」を中心にして私が「今」「此処」を考えていたのは恐らくほぼ正確にその通りでしょう。「解き放たれる」のは環境からではなく、マインドからと、あなたは私に告げたいのでしょう。この点に限っては、本当に全面的にそのまま受け止めます。そして同時に私自身の生き方、在り方を探っていきたいと・・もうずっと長い間考えてきたのですから。決してそれは「無謀」なものではないと思うのですが。
今日はラテン語。まだこれから少し勉強、です。
* 「生き方、在り方」と書いてあるが、そんなもの、在るのかな。観念=マインドの分別、に過ぎないのでは。生きる、在る。名詞でなく、動詞で。生きる・在る、ことには意味・意義はないし、「もっともっと」と先へ目的を望むのは疲労と衰弱のもと。まして、わたしなどの年齢では。「今、此処」を平静に満たす、写しとる。借り物のことばみたいだが、異様な決心や計画へ自身をドラマチックに運んでゆかないように。日々を、意図して劇場にしないように。そう自身にも願っている。どんまい。ノホホンと軽やかに。口先だけでなく。
2001 12・20 11
* 誕生祝いを妻がくれた。札幌から、「初雫」という酒米でつくった北海道一の清酒が贈られてきた。二十日の作業後に、乾杯した。うまい。三十分で二十一日になった。
* hatakさん おめでとうございます。良いお誕生日をお迎えでしょうか。
札幌は早くも真冬。屋外はマイナス10℃、氷と雪の世界です。ここ何日もプラスになったことがありません。
今日はお米と相撲のお話です。
北海道に稲穂を実らせる、それは内地からやってきた人々の夢でした。古くは元禄五年に、函館近郊で稲を育てた記録があり、以来連綿と試行錯誤が続けられますが、北海道での稲作は軌道に乗りませんでした。五月まで雪に覆われ、九月には霜が降り、四年に一回冷害に見舞われる厳しい気候に打ち勝てる品種が見つからなかったのです。
明治二年に、政府の招きで北海道開拓の方針を勧告しにやってきた米農務長官・ケプロンは、北海道での稲作を禁じてしまったほどです。
しかし明治六年になって中山久蔵という人が、現在の札幌南方で「赤毛」という寒さに強い稲を試作することに成功、不可能に見えた稲作に一条の光が見えました。その後明治大正昭和にかけてブリーダー(育種家)と篤農家の執念ともいえる努力が続けられ、寒さに強い品種がつぎつぎと世に出されてきました。あまり知られていませんが、現在では北海道の稲作生産額は一兆円を超え、作付け面積、生産量とも全国一の「米どころ」となっています。
北海道でお米が穫れるようになると、つぎに市場は美味しいお米を求めました。またまたブリーダーは涙ぐましい努力をします。平成5年に出た「きらら397」、平成8年の「ほしのゆめ」という品種は、それまでの「不味い道産米」から「美味い道産米」へと市場の評価を覆しました。
しかし市場の欲求はとどまるところを知りません。
今度は折からの地酒ブームに乗り、道内産酒米で本格的な地酒をという声があがりました。耐寒性低蛋白米「北海278号」は、こうした声に答えるべく産み出された品種です。
稲の育種は相撲と一緒、出世するに従って名前が変わります。相撲の新弟子さんが簡単なしこ名をもらうように、稲では、「北海278号」といった風に育成地と番号をとって名付けられます。何年もかけて試験が繰り返され、そのすべてに勝ち残り、相撲でいえばとっくに横綱になったころ、稲ではようやく品種名がつけてもらえます。これまでに十数年の歳月と何十人という研究者の手を経ています。しかし最終的な評価は市場が下します。「こしひかり」のような歴史に残る大横綱になるのは並大抵のことではありません。多くは市場に名を残さずにいつの間にか消えてゆきます。
道産酒米「北海278号」には、「初雫(はつしずく)」という品種名がつきました。北海道の蔵元がその「初雫」で造った日本酒をお送りします。この名が永く世に残れるか、ご賞味下さい。
また一年ご無事でお過ごし下さい。良いお年を。 maokat
* 嬉しい、おもしろい、鑑賞に堪えるすてきなお祝いのメールである。お酒をみると大きく「278」とラベルが貼られ、何のことか分からなかったが、メールが追っかけて来ていた。専門家が書いてくれているので、安心して面白いなあと感心する。夕食の時は、正月にとふと惜しむ気になっていたが、もう三十分で六十六かと思ったとき、いま戴かずに何の意味があろうと、喜んで栓を抜いて、妻と盃を挙げた。どことなしフルーティーに新鮮芳醇の純米酒、最高である。maokatさん、ありがとう。
* 12月21日お誕生日おめでとうございます。先生のご健康とご多幸をお祈りいたします。
先生に初めてメールをさしあげましたのが、昨年の12月23日でした。思いがけずお返事を頂戴してどんなに感激したことでしょう。もう一年が過ぎてしまいました。この一年は母の原稿の上に、私のとても長い原稿までお読みいただきありがとうございました。「e?文庫・湖」にまで掲載していただき、光栄でございました。
お誕生日に、どうしてもと、ささやかではございますが鯛を送らせていただきました。先生のお口にあうとよろしいのですが……。ご笑納くださいませ。
私は先週からひどい風邪をひいて、なかなか咳がとれません。湖の本のご発送など益々ご多忙のことと存じますが、くれぐれもお身体お大切にお過ごしくださいますように。
* 名作「細雪」で育った私は、籤取らずに花は桜で魚は鯛が好き。あの作品のあの箇所を読み解いたことがいわば我が初の谷崎論のお手柄であったと大先輩に褒めて戴いたが、好きだから出来たことだと思う。鯛で祝ってくださるなんて何と嬉しいことだろう。
* 床に入り、目覚めての一日は仕事のこと忘れて、ゆっくり木挽町や銀座、日比谷で楽しみたい。が、留守をしていて「鯛」が機嫌をそこねませんように。
2001 12・21 11
* 朝一番に「おめで鯛」が贈られてきた。片身は一塩、片身は昆布しめの尾頭つき、柏手をうつて頂戴した。妻が用意の赤飯で。
* 六十六歳のお誕生日 おめでとうございます。昨年よりも 一昨年よりも、ますます心もお体もお元気な様子、とても うれしく思っております。
六十歳という山頂、登ってみれば 来し方が見え、行く道も見える場所なのでしょうか。今日は お誕生日の記念として六十歳の山頂に向かう者として『元気に老い 自然に死ぬ』(春秋社新刊)を書店で求めたいと思っています。
いっそうお元気に歩まれる六十六歳でありますよう。
* なにはともあれ、よかったな、誕生日おめでとう。
まだ数日、本の発送にお忙しいのですね。ペンで字を書くのは手紙でもいやそうなあなたが、一枚一枚に言葉を添えていかれるのですから!大変でしょうが、それはとてもとても意味あることなのだと思います。終わったらほっこりして下さいね。
私は元気。昨日は頑張って?勉強して行ったのですが、クリスマス前だからと、先生はラテン語の聖歌をプリントされてきて、それを解説。アヴェ・マリアの変遷などとても興味深く・・スペインなどでの強烈な印象が思い起こされました。
* 早朝から誕生祝いのメールつぎつぎに届いていて、中には「@ニフティ」からも。
2001 12・21 11
* たくさんなメールが届いていた中でも、嬉しい誕生祝いの一つに、猪瀬直樹氏の電子文藝館のための原稿があった。これはもう話題作である。衝撃の力ある評論として注目をあつめるだろう、中味は今は明かさない。ありがたい、嬉しい。いま日本中でいちばん忙しい一人でありながら、配慮してくれたことに感謝します。
* 新潟のお餅をお祝いに贈りますと言ってよこした人も。餅は大の大の大好物、よろこんで。
2001 12・21 11
* 昨日逢えなかった建日子からお祝いのメールをもらっていた。前々日にわざわざ来てくれて食事もいっしょに出来ていたので、あれで十分。忙しい年頃は忙しく働いた方がいいのだ、怪我せず、風邪ひかず。それだけでいい。心ゆく日々を過ごして欲しい。
そしてバルセロナからも。
* 66歳の誕生日おめでとうございます!
今ごろ、白い息を吐いているところでしょうか。バルセロナも例年にない寒さ。肌を切る空気の張り様に、どこか懐かしさと心地よさすら感じています。
先週はめずらしくも小雪に見舞われ、街は大打撃を受けていました。小雨が降るだけで、必ずどこかの信号が停まる具合ですから、雪で町中の信号がとまったのも、不思議はないかもしれません。信号どころか、街灯も家の灯もエレベーターも暖房も消え、ラジオ局の緊急電流すら切れて街はまさに闇夜に包まれました。いえ、渋滞に巻き込まれた車のラ
イトだけ点点と。
「寒さで住民が暖房をフル回転させた」のが、国際都市バルセロナの大停電の原因だそうです。地震の一つでも起きたら、この国は一瞬にして瓦礫の下でしょう。
それにしても、日本でスペインのような太陽が降り注いだら、きっとスペインでは考えられない不都合が生じるのでしょうね。おもしろいものです。人間の知恵や工夫って。
恒平さんが今日もよい一日を過ごされるよう、願っています。
* 外国のハナシって面白いな。
2001 12・22 11
* おめでとうございます。みなさんにこんなに祝って貰える六十六歳はそうはないと思います。益々の、明日への力が湧いてきているご様子が目に浮かびます。心よりご健勝をお祈りしております。
(電子文藝館)『伊藤桂一:雲と植物の世界』 おじさんも、ぼろぼろ、くしゃくしゃになって泣きました。国民学校の頃、何も知らず、慰問袋を作ったことを思い出しました。
「馬はだまって戦に行った/馬はだまって大砲ひいた/馬はたおれたお国のために/・・・ /馬は夢みた田舎の夢を/田んぼ耕す夢みて死んだ」という歌も思い出しました。どなたの作か知りませんが、そうだったのか、「東聯」だったかも「沼好」だったかも、と涙が止まりません。感想など言える才覚はありませんが、この小説に出逢えたことを心から感謝します。ありがとうございました。
* ああよかったと思う。伊藤さんの作品の一二に好きな作品を選ばせて戴いた「任せるよ」て言われて。何とも言えず佳い小説なのである。伊藤桂一さんの温顔がずうっと目から去らないまま読める。伊藤さんを現実知らない人にもまちがいなく、同じ感銘を与えるだろう、この千葉の「おじさん」と同じに。 2001 12・22 11
* 栃木からまたたくさん苺を頂戴した。また新米も戴いた。三重からはいろいろな甘い菓子を二つずつ多彩に頂戴した。新潟のお餅もパックに詰めた包みを沢山戴いた。心温かい降誕前夜である。
2001 12・24 11
* シチリア産の珍しいワインを戴いた。マフィアの島ではない、わたしには「親指のマリア図」を新井白石の目の前にもたらした、あのシドッチ神父の生まれ故郷である。ラグーザ玉がシチリア人の夫と共に帰国し、日本の女流画家として幾つもの秀作を遺しているシチリアである。
わたしの小説でも、この島の特産ワインを日の恵みと共に文化史的な宗教史的な背景と共に書かずにおれなかった。シチリアは知らない国だが、よく知ってられる世界的な彫刻家の清水九兵衛さんは、わたしの小説の中でいちばん『親指のマリア』が好き、しかもシチリアがよく書けているのでとても好きと云われる。一度行ってみたいなあと思いつつ、ま、機会はあるまい。
で、戴いたワインを元日の晩にご馳走になろうと「来年」のことを想って、鬼に、笑われている。たっぷり栃木の「苺」も戴いている。ワインに合うだろうなと想っている。 2001 12・26 11
* 今回はどのようなご本かと楽しみにしておりましたら、焼物についてのエッセイでした。焼物についてもお詳しいのは当然のことなのですが、あらためて先生の守備範囲の広さに驚いております。女というものは日常的に器に触れているせいか、焼物の類が大好きです。それでもただ好きというだけでは、教養がついていきませんので、このエッセイを読んでもっと勉強したいと思いました。
先生のご本を読むたびに、私の心のなかに美しいものの増えていくのは、何よりの喜びでございます。素敵なご本をありがとうございました。先週から風邪のしつこい咳に悩まされて年末の大掃除を一日延ばしにしているのですが、もう一日風邪ということにして、一気に読んでしまいたいともくろんでおります。悪妻の極みですが、年末年始に御馳走を作るということで、家族に許してもらうつもりでございます。
「頑張って」というお励ましは「書いて」ということと解釈しており、粘り強く書き続けていきたいと切望しています。
今年も残すところわずかとなりました。どうぞよいお年をお迎えくださいませ。
2001 12・26 11
* 「優先順位を考えよ」と言われたことがあります。あと幾日と数える昨日今日、優先順位をかんがえず、目の前にある仕事(これがつまらぬ雑事だったり、義理人情に絡まれて致し方なくだったりということが多いのですが、)に追い立てられ、時に気のおもむくまま好きなことをしたりして過ごしたきたツケが、まわってきた気がいたします。
そう、おもいつつ、書庫の整理をしていて、つい、読みふけってしまい、前より乱雑になってしまった周りにため息をついたりしております。
わりとあたたかなこの年の瀬でございますが、風邪などひかれませぬよう、おたいせつにお過ごしなされますよう。
* 優先順位はおのずからあるものだが、このところわたしの優先順位は、すわりこんだその場の目の前から、となっている。機械の前にすわると、我を忘れて誘い出されるままにつぎつぎ仕事をしつづけている。階下に降りれば、書斎でも、台所ででも、べつべつに仕事がある。それをその場で片づける。仕事に追い立てられている気はしていない。どうやら仕事の尻を追い立てている気分でいる。 2001 12・28 11
* 夕暮短歌も読み終えたので、クラブも開けているというので、今宵独りで出掛けようと着替えているところへ、筑摩書房を退社した日比幸一氏の懐かしい電話。今から逢おうよと誘い出し、奥さんもいっしょに五時半、大泉学園駅で待ち合わせて、日比谷へ。もう以前に若きアーサー・ビナードや建日子も一緒に池袋の美濃吉でにぎやかに食事して以来だから、さ、何年ぶりか。そんな何年ぶりといった空白感は少しもなく、いやもう、よく話し食べて、飲む方は、奥さんはすこしいける口だが日比さんは昔のようにさほどはやれず、もっぱら機嫌良くわたしが飲んでいて、あれれという間の時間切れ十時半に、残り惜しく出てきた。同じ道を通って帰宅。
とりたてて何の用事も話題もなく、ただもう出逢って「歓談」に時をうつしてきた。定年退職ではなく、自発的な五十五の退職で、これからの三十年を元気に楽しんで暮らす気構えとみた。退職を祝って「乾杯」したのがピタリ時宜にかなっていた。
* 思いがけない再会と歓談とやや深酒とで、帰りは少し眠かった。今夜はもう休もう。 2001 12・28 11
* 今日は母のおせち作りを手伝いながら、合間に式の準備を進めるという、まさしく師走といった感じの、忙しい一日となりました。
式でお客様をお迎えするうさぎの作製を進める予定です。家族には、**に似すぎている、と笑われてしまいましたが、当日受付に置いてあるうさぎの感想をぜひお聞かせ下さい。新婦作製です。ウェルカムボードも作製する予定(まだ作っていないのですが)なので、ぜひぜひご覧下さい。
お忙しいと思いますが、お体にお気をつけ下さいませ。
良いお年をお迎え下さい。
* 新年の華燭、幸あれと祈りながら、新世紀の第二年をやがて迎えよう。
2001 12・31 11