ぜんぶ秦恒平文学の話

交遊録 2002年

* 二台の機械から新年の挨拶を送る内に、返礼を受けている内に、はや二時間が過ぎていった。何と謂うことはない。めでたい。暮れのうちに堀上謙氏から富士山にのぼる朝日の写真が届いた。

 

* Re: 新年を迎えまして。恩田英明

いつも美しいものを見続けていたいものです。

さむき夜の灰の窪みの燠明り桜花びら散りたまるごと

 

* 新しい佳い年のためにおよろこびを申しあげます。

おからだも復調されたごようす、これもおよろこび申しあげます。

今年も忙しく、お仕事をなされることでございましょう。どうぞ、おすこやかに。

今年も、お話をどっさりお聴かせいただけますよう。

晴れわたった空に星さやかな新年になりました。   香魚

2002 1・1 12

 

 

* 旧年を見送ったところで、二台の機械を使い、四百人以上に、上記の年賀メールを送った。新刊の「湖の本」の跋にも挨拶しておいたので、ほとんど新たな年賀状は書かなくて済みそうなものだが、やっぱり、そうも行かない、毎年百枚以上ハガキで追加することになる。加賀乙彦、三好徹、角田文衛、清水九兵衛氏ら三十人ばかり返礼を書いた。申し訳ないが返礼だけで済ましている。妻が投函しに行ってくれた。わたしは、まだ、そんなにも元気旺盛ではない。

わたしの賀詞には、愛子内親王への祝意を籠めて置いた。光輝といった文字はつねは敬遠しているが、皇太子はじめ皇室一家の気持はそういうまばゆさの中にあるだろうと御慶の気持を表して置いたのである。

 

* 秦さま。あらたまの和歌、拝受、拝誦。多謝謝。お名前とお人柄にゆかりのある「平」(たいら)というのは、とてもよろしいですね。父の名前にも一字ありました。

池大雅と賢夫人を描いた土岐愛作の佳作『花咲く扇」』をゆくりなく読み返し、そのあと、「中国語会話語彙集」を繰っていたら、こんな言葉に出会いました。

「不登大雅之堂」。

解説に、「自分の作品などを謙遜する際によく使う」とあります。この現代中国語慣用表現のもとがいつの時代まで遡るかは不明ですが、大雅の「雅」は、宮廷芸術のあでやかさの「みやび」というより、俗事を離れた「おくゆかしさ」にあるのだろうか、彼の大らかな南画に独自の「雅」(平安)が籠められているだろうか、とふと思いました。

「雅」の元の形声は「み山がらす(雅鴉)」のこと。そして、「平常」の意味を持ち、「詩経」の六義の一でもあるとか。この「み山がらす」は、胴間声でなくくちばし(牙)の大きい、都会に棲みついた「はしぶとがらす」。そういえば、このところ、あまり声が聞こえませんね。東京都の捕獲大作戦が進んでいるのでしょうか。み山を借景とし、少し平らな里わに住み着き、野原に都や町を築いてきた私たち。山のはしぶとがらすは、いつの間にか、かつて平らではあったが今は平らではない、まるで山のような里(都会)へやむなく降りてきて、あげく、定番の「敵役」にされてしまったのでしょうか。

(「雅」は、上声では今年の干支の「馬」とありました。)

中原、中華の国よりの賀状に「春夏秋冬四季平安。 東西南北八方吉慶」と。まずは、平安を祈りましょう。

 

* 年の終わりの日の入りを紀伊で眺め、京・烏丸御池に宿をとり、夜が更けるに従って増す京の寒さに、震えつつも心のどこかで楽しみ、歩いてきました。祇園で晦日蕎麦で食べてからだを温め、八坂さんへ行き、知恩院、永観堂へと足を伸ばし、それぞれの鐘を、ひとつ、ふたつと聴きました。

磨かれた古代の鏡のように月が輝き、新たな年の夜明けを見届けるかのように、まるく静かに、さきほどまで空の高みに出ていました。 囀雀

2002 1・1 12

 

 

* 本当に世界から戦がなくなり、「正春光輝 悠々東雲」になりますよう、祈ります。

今年も勝手ながら、むむ、六六、無無のご活躍を楽しみにしております。

心よりご健勝をお祈り申し上げます。

 

* 六六老のたいらかな言祝ぎ。良い年明けのメールです。

狂雲子一休さんに免じて以下お許しを。

一昨年から昨年暮れにかけて、室長、前室長、前々室長と、「無数の波の一つが、海に」帰っていきました。皆若く、不惑、半白。心に重い波を抱えて年を越しました。

「2002年は戦争の年」と米国大統領は語り、テレビが報じる「誤爆」の名の下に人命が奪われてゆくことにも、鈍感になりつつあります。しかし、身近な人に逝かれてみると、それと同じ悲しみが、いや、もっと理不尽な悲しみが、彼の地に起きているのだと思い知らされるのです。

そしてこれから起こるのは、モグラ叩きのような「洞窟つぶし」。もちろん、寒さを避けて隠れ住む民間人も巻き添えになります。57年前に沖縄の地上戦で繰り広げられた米軍による「洞窟(ガマ)」の掃討戦と同じ事が、また米軍によって繰り返されようとしています。あの時、日本軍は住民を見捨て、57年後の日本政府は、今度はモグラ叩きに加担する側に立っています。

「国際社会で名誉ある地位を占める」ことは、戦地に自衛隊を派遣することでしょうか。「今度こそ」などとつまらぬことを考えずに、武力で迫る頼朝に、秘蔵の絵巻=文の力で応じようとした後白河法皇の老獪さとしたたかさを見習ってほしいものです。「今度こそ」うまく成してほしいのは、槍ではなくて絵巻の方です。

大晦日は著書のゲラ刷り校正を投函して仕事納め。年越し蕎麦を作り、お茶一服自服して、秋に訪れた畠山記念館のことを文章にしてみました。書くのに夢中で、気づいたら年が明けていました。紅白もカウントダウンも何もなく、静かに新年を迎え、満足して床につきました。とんだお年玉ですが、お送り致します。 (「e-文庫・湖」の「紀行」頁に収録。秦)

元旦は、締め切りが迫っているので、午後から研究室で実験。雪に埋まっている温室やボイラーの見回りもして帰宅後、オザワ&ウィーンフィルのニューイヤーコンサートを嬉しく聴きながら、お雑煮でお祝いしました。

穏やかな一年になりますことを、hatakさんのご健康をお祈りしています。 maokat

 

* 碌でもない、碌々の六六郎の気でいるが、千葉の勝田さんは親切に「無無老」に読んで下さった。

 

元朝の見果てぬ夢や憂=う=有の初め

 

* 札幌の真岡さんの言われること、つくづくと、頷いて聴く。こういう落ち着いた知性が民間にはあり、国会に払底しているのが情けない。

2002 1・2 12

 

 

* あけましておめでとうございます。おはやばやとメールありがとうございます。熊野本宮にて奉納演奏させていただきました。大晦日、、大坂から夜の道を車で移動しました。お社の明かりとそこに集まる人々を見た時、ほっとしました。

帰り道、朝にむかってゆく中で、先生のメールを読ませて頂きました。胸にしみました。私にとっての熊野行きの意味は・・。よくわかりませんが、何かを乗り越えるためのプロセスだと思いました。先生のメッセージに救われました。ありがとうございました。

 

* 事情は分からないが、元旦に、熊野の宮居に鳴り響かせて、望月太左衛さんの鳴り物は、寒気に冴えわたり神秘的であったのだろう、その興奮の中で、「藝」道の不思議にも身震いしていたのかも知れない。

2002 1・2 12

 

 

* 雪のお正月

明けましておめでとうございます。佳い年をお迎えのことと存じます。

あたり一面銀世界のなかから、今年はじめてのメ?ルをさしあげます。昨夜からの雪が今もまだ振り続いていて、もう三十センチほどは積もったでしょうか。これほど大雪のお正月も珍しいことです。シ―ンと音のない世界に沈み込んで、今年はどれだけの美しいものと出会えるかなと、そんなことを思っています。

先生の新しい年に佳いこと、美しいものの多かれと祈りつつ。

 

* 名古屋は記録的な大雪と報じられている。この人の在所は名古屋からまだずっと北のように想われる。せっかく、ゆかしげなファイルが添付してあるのに、相変わらず私の機械はWZEDITORが不良で使えず、あいにく秀丸に移しても化けてしまい、読めない。まま、これがある。ファイルにしないメールで送って欲しい。

2002 1・3 12

 

 

* 華燭の卒業生が、三年生の前期に毎時間書いて提出していた、原稿用紙にして総量25枚ほどを、克明に機械に書き起こしてみた。とても気持のいい、また紛れもない「人」のよく表れた佳いエツセイに出来ているので、感心した。十年近くもむかしの感想であり、今の思いでは書き直したいところも多かろう、が、わたしはそんな必要すらないように思った。これは、いわば純然とした一つの根雪に相当している。借り物でも偽りでもない素直な、柔らかな述懐になっている。わたしが贈れる、最良のお祝いになるであろう。

よく書いたものだ。この学生は二年生の前後期に「文学概論」を、三年生の前後期に「総合講義B」をわたしの教室で受講していた。わたしがもう一年早く就任していたら一年生前期だけの「総合講義A」も聴いていたかもしれない。そんな中の、或る前半期だけの手記を書き出して、25枚も、ある。確実にこの学生一人で二年間に原稿用紙でほぼ100枚以上を書いていたことになる。間違いなく書いていたと思う。洩れなくそれらを当時のわたしは読んでいた。だから印象は、深く、つよいのである、この女子学生に限らず。

 

* 少なくもこの三年生の教室には、三人ずつ六人の二つのグループ女子がいた。一人はやがて二人目の子が出来ると年賀状に写真を添え、知らせてくれていた。一人は結婚し、大学の先生をして、ときどき美しい良いメールをくれる。一人は京都大学の院に行き数学を専攻してもう卒業し、いま短歌を創り始めたから見て下さいと送ってくる。東芝に勤めた吉右衛門フアンの一人は、もう二週間ほどで結婚するから、私に来て欲しいと言っている。もう一人は風の便りにやはりちかぢかに結婚とか。

そしてもう一人は、わたしの教室に初めて入って「十年」ですと、懐かしく、こまごまと書いた年賀状を今日くれている。 NTTに勤めている。六人の中では、いちばん創作的な力量のある詩性の人だ。

この教室の男性諸君とも、林丈雄君をはじめ何人もと今も仲良くしている。あの一年、わたしは、たいした講義が出来ていたわけでもないのに、とてもいい気持であった。

2002 1・4 12

 

 

* 素敵なお祝いのお言葉、ありがとうございます。なんとなく当時を思い出して、涙が出てきてしまいました。特に辛いというのでもなく、悲しいというわけでもないのですが、気が高ぶっているのでしょうか。

当時は寝たきりだったとしても生きていた祖父は、亡くなりました。もう2年近くになります。祖父を支えていた力強かった祖母は、それからめっきり体力も気力も落ちてしまいました。実際は祖父も祖母を支えていたのだと理解しました。

祖父は亡くなるしばらく前、”頑張ってねお父さん”と話しかけた叔母に、もう頑張れないよ、とつぶやいたそうです。祖父も、自分がいなくなったあとの祖母が心配で頑張っていたのでしょう。心配通り、祖母は今寂しさに押しつぶされそうになっています。

当時、私が寂しさに関して書いた時には、祖父が亡くなるなんて随分先の事だろうと思っていたようですね。光陰矢のごとしとは良く言ったものです。祖父にも花嫁姿を見せたかったと思います。

余談から入ってしまいました。

以前自分が書いた文章を見るというのは、本当に恥ずかしいものですね。全然変わっていない部分、少しずつ変わってきている部分、いろいろで、興味深い反面、恥ずかしいですね。

随分悩みながらでも一歩ずつ進んできて、その先に今があるのだと思うと、一瞬たりとも無駄には出来ないなぁ、と思ったりします。頑張らなくちゃ。

といっても、私は頑張りすぎるのが短所でもあると言われます。我慢の限界まで我慢してしまうようで、それが時には良くもあり、悪くもあります。何に付けてもそうなので、今年の目標は、

”自然体”

です。無理は禁物、自分らしく。

その意味では、今までの自分も大きな気持ちで受け止め、恥ずかしさもちょっとよそに置いておくのが良いかも知れません。

ご挨拶、宜しくお願い申し上げます。

恥ずかしいようなくすぐったいような、隠しておきたいような、そんな気持ちで当日も拝聴いたします。

以前の文章を探したり選んだり、お時間をとらせてしまったのではと思います。どうもありがとうございます。当日もどうか、宜しくお願い申し上げます。

 

* 「実際は(臨終ちかい)祖父も(あとに残る)祖母を支えていたのだと理解しました。」という一文は重い。まことに存在の重みを適切にこの人は、今しも、とらえているのである。成長したなあと心から悦ばしい。もう、わたしは、この人へのお祝いの気持を尽してしまった。わざわざ結婚式の人前で話す必要もないほどに。こういう人を育てた、こういう人を息子の妻に迎える、そんな親御さんに「おめでとうございます」と言いに行くのである。新郎クンに言いに行くのである。

また一人自分の子を送り出すような気持である。

2002 1・5 12

 

 

* 秦さん。  富小路禎子さんが、亡くなりましたね。

5日の朝刊で知り、あっと声が出ました。75歳。もちろん直接お会いしたことなどありませんが、「秘かにものの種乾く季」が、とても印象に残っています。

年末はのんびりと、年始はそれなりにあわただしく過ごしました。

今日の初出勤を控えた昨夜、靴を磨きながらいろいろなことを考えました。

年末年始、実家へ帰れば親戚の噂話も耳にします。それぞれ、誰一人として、平凡に生きている人はいないと感じ、私が去年、頭を悩ませたり心を痛めたりしたことは、それと比べ、些細なことだなと思います。

いつか何のために生きるのか、という問いに、Webページで答えを書かれていましたね。そうか、と思いました。何のために、ではないんだ、と。

私たちの時間、体験できる事象は限られている。なら、そのなかでのびのびと、自由にやろうと決めました。去年から、あまり我慢しないように、と意識しています。刹那主義に堕ちるつもりはありません。

今年の目標は、無意味なタブーを作らないこと、です。

昨夜は年初にふさわしく、前向きな気持ちになりました。長い年末年始の休みで、最も充実した一日でした。

それから、今年もやはり、「そんな少年よ」を読み返しました。毎年違った気持ちになります。

 

* ああ、これは変わりない、秦教授への、とても佳い、嬉しい、年始の「アイサツ」である。ほぼ七八年は経っている、教室で二年間いっしょに過ごしてから。

歌人富小路禎子の死は、わたしにも少なからずショックであった。顔を合わせていたかも知れないが、認識して挨拶を交わしたこともない人だが、短歌の幾つかには感じさせられた。教室でも二度三度虫食いの出題歌に選んでいた、その一つを、この女子学生は印象深く記憶していたという。短歌に対して最も感度の高い学生で、実作にも興味をみせて実践していた。今でも、と、期待している。岡井隆や河野裕子にアクティヴな関心を示していたが、富小路歌に対する気持もよく分かる。とうに結婚している。

こういうメールをもらうと、すぐ目の前に向き合っているような存在感を覚える。

それは、こんな、三首の連作の体で出題した歌の最初の一つだ。

(   )にて生まざることも罪の如し秘かにものの種乾く季(とき)   富小路禎子

誤りて添ひたまひたる父母とまた思ふ(   )を吾はもつまじ

急ぎ嫁(ゆ)くなと臨終(いまは)に吾に言ひましき如何にかなしき(   )なりしかも

「平凡に生きている人はいないと感じ、私が去年、頭を悩ませたり心を痛めたりしたことは、それと比べ、些細なことだなと思います。 / いつか何のために生きるのか、という問に、Webページで答えを書かれていましたね。そうか、と思いました。何のために、ではないんだ、と。」

わたしにだって分からないことだらけで、だから「闇に言い置く」ようにいろんな独り言を書いている、毎日のように。またそれを読んで、めいめいの自問自答に少しでも刺激にしてくれている人がいるとは、勿体ないことだ。

わたしが誰の発言にどのように反応していたのか、むろん覚えている。

「何のために生きるのか」と悩んでいる若い人に出会うのは、苦しいほど切ない。日を背にして自分の影を踏もうと焦るようなものだ、罪深い落とし穴のような問いだ。

しっかり生きるためには一番先に捨てるべきそれは無意義の問いなのである。

何百億年だか光年だか知らないが、ビッグバンによって宇宙は生まれたと科学番組で語っていた。子供でさえ問う、では、宇宙の生まれるそのビッグバンの以前は宇宙でない何が在ったの、と。そんな問いにどう答えられてもとめどない。そういう問いは、発しても仕方がないのである、少なくも人間の今、此処を生きることに関しては。答えてもいけないのである。

わたしは、神のことも含めて、答えようのない質問は自分になげかけない。黙って自分のうちなるブラックホールをのぞき込みたい、そこへ無事に安心して帰りたい、という願いの方が切実である。それが容易でないということだけを、理解しかけている。

水平に過去へ未来へ目をはなすのでなく、垂直に「今、此処」を確かに踏んで生きていられれば嬉しいと思う。そのような思いが、いくらか彼女に響いていっていたのなら、あるいはその人をあやまる種であるのかも知れないけれど、わたしたちは「対話」し「アイサツ」を交わし続けていたということに相違ない。

「今年の目標は、無意味なタブーを作らないこと、です。」

賛成だ。

タブーでもあるが、ま、自分を、激励よりは要するに拘束してしまう惰性に流れた「努力目標」だの、日課や習慣的な「約束事」などに自分をことさら縛らせ、「被虐の奮発」を、どれほど多く重ねてきたことか、わたしも。「今、此処」から目が離れて、いたずらに向うに向うに「目的地」を幻想したその手の「タブー」は、大方が、麻薬的な習慣性の毒になる。楽しんだり励んだりしているつもりで、自身を悪く縛って苦しんでいるだけのことに、なかなか気づけない。欲が絡んでいるのだ。しかも逃避か執着かのどちらかであるに過ぎないそういう「約束」に、「タブー」めく過大な評価をあたえることで、自己暗示をかけてしまう。「なんじゃい」というさらっとした相対化が、できない。

ただ、自身を怠惰の容認へ突き落とすような放心や刹那主義もまた毒の一種であるが、彼女は、そこもきちんと「前向き」に見ているようだ。

そして、「今年もやはり、『そんな少年よ』を読み返しました。毎年違った気持ちになります」と。

東工大で一緒に正月を迎えた諸君はだれもが覚えていてくれるだろう。必ずのようにわたしは井上靖の詩「そんな少年よ」を読み上げることから、新年の授業を始めた。懐かしいその詩を、わたしも、此処で読み返そう。

 

そんな少年よ  ─元日に─   井上 靖

 

これといって遊ぶものはなかった。私たちはただ村の辻に屯ろして、

棒杭のように寒風に鳴っていたのだ。それでも楽しかった。正月だ

から何か素晴らしいものがやって来るに違いないと信じていた。ひ

たすら信じ続けていた。私は七歳だった。あの頃の私のように、寒

さに身を縮め、何ものかを期待する心を寒風に曝している少年は

いまもいるだろうか。いるに違いない。そんな少年よ、おめでとう。

 

俺には正月はないのだと自分に言いきかせていた。入学試験に合

格するまでは、自分のところだけには正月はやって来ないのだ。そ

して一人だけ部屋にこもって代数の方程式を解いていた。私は十三

歳だった。あの頃の私のように、ひとり正月に背を向けて、くろずん

だ潮の中で机に向っている少年はいまもいるだろうか。いるに違い

ない。そんな少年よ、おめでとう。

 

私は何回もポストを覗きに行った。私宛ての賀状は三枚だけだった。

三枚とは少なすぎると思った。自分のことを思い出してくれた人はこ

の世に三人しかなかったのであろうか。正月の日の明るい陽光の中

で、私は妙に怠惰であり、空虚であった。私は十五歳であった。あの

日の私のように、人生の最初の一歩を踏み出そうとして、小さな不安

にたじろいでいる少年はいまもいるだろうか。いるに違いない。そんな

少年よ、おめでとう。

 

私は初日の出を日本海に沿って走っている汽車の中で拝んだ。前夜

一睡もできなかった寝不足の私の目に、荒磯が、そこに砕ける白い

波が、その向うの早朝の暗い海面が冷たくしみ入っていた。私は父や

母や妹のことを考えていた。ひと晩中考えた。なぜあんなに考えたの

だろう。私は十九歳だった。あの朝の私のように、家へ帰る汽車の中

で、元日の日本海の海面を見入っている少年はいまもいるだろうか。

いるに違いない。そんな少年よ、おめでとう。

 

* 「『そんな少年よ』を読み返しました。毎年違った気持ちになります」と。今年はどんな気持ちになったものか、井上先生のこの豊かな詩を、あの当時にわたしが選んで読んだままの思いを、今なお分ちもっていてくれる卒業生がいる、すばらしいでははないか。

この詩を初めて読んだ或る年の感銘は大きかった。むろんわたしは大人であった。働き盛りであった、が、井上靖に正月を祝ってもらった七つの、十三の、十五の、十九の少年の気持で温められていた。

 

* もしかして、いまこの井上靖の詩にしばらく思いを静かにした新しい友人たちがいるかも知れない。すべての友人達のために、わたしは、今ひとつの井上靖の詩を贈りたい。この詩を、若い諸君の胸の上に最後にそっと置いて、わたしは、あの教室から、あの大学から、去ってきた。

 

愛する人に    井上 靖

 

洪水のように

大きく、烈しく、

生きなくてもいい。

清水のように、あの岩蔭の、

人目につかぬ滴りのように、

清らかに、ひそやかに、自ら燿いて、

生きて貰いたい。

 

さくらの花のように、

万朶(ばんだ)を飾らなくてもいい。

梅のように、

あの白い五枚の花弁のように、

香ぐわしく、きびしく、

まなこ見張り、

寒夜、なおひらくがいい。

 

壮大な天の曲、神の声は、

よし聞けなくとも、

風の音に、

あの木々をゆるがせ、

野をわたり、

村を二つに割るものの音に、

耳を傾けよ。

 

愛する人よ、

夢みなくてもいい。

去年のように、

また来年そうであるように、

この新しき春の陽の中に、

醒めてあれ。

白き石のおもてのように醒めてあれ。

 

* 野心と意欲とに溢れていた東工大の小さな研究者たちに、この詩は、静かに過ぎたかも知れないが、学部を出、殆どの人が大学院を二年ないし四年以上かけて出て、社会という手荒い日常の中で、わたしの知る限り当然ながらラクラクと過ごしているような卒業生は、昨今、いないのである。そういう人が、今又この詩に立ち戻ったとき、詩と自身との距離をはかりながら、感慨は深いであろう。

あんまり佳いメールをもらったので、わたしもまたこんな詩に自分を曝してみたくなったのである。

そこへまた一つの、ごく珍しい人の「アイサツ」が届いた。

 

* 新年明けましておめでとうございます。

新年のメールをいただきましてありがとうございました。

私は調査研究を主な仕事として、日々働いていますが、成果物であるレポートは使い古された言葉ばかりで、どうも具合が悪いなぁと思っています。

かといって、新しい言葉(事実をより正確に伝える言葉)が使えるわけでもないので(使い古された言葉の威力も想像以上に強いのです)、何となく使い古された言葉を選んでしまうのです。

と書いていますが、実は言葉が使い古されているのではなく、調査研究の枠組みそのものが古くなっているのかもしれないと思えてきました。

先生にいただいたメールを拝見しますと、短い言葉でぴしりと意を尽くせているような気がして、感に堪えません。

それ故、上の独り言みたいな感想を書いてしまった次第です。どうぞお許しください。

本年も何卒宜しくお願い申し上げます。

 

* かなり大事なことを指摘している。「文学」を事としている者には、ゆるがせに出来ないのが、要するに「使い古された言葉ばかり」で書けば、手ひどい通俗読み物に堕してしまうこと、これは覿面の見分けどころで、どれほど高名な大家のものでも、「通俗読み物」は、要するに「使い古された言葉ばかり」で書かれてある。ほとんど例外がないほどである。

優れた文学作品では、それが無い。在ってもその場合は真の意味で「使い古された言葉の威力」を生かしている。ここがまた微妙な第二の見分けどころであり、「夕方・夕刻」ふうに書こうが「黄昏・薄暮」ふうに書こうが、言葉をつよく生かして「使い古された言葉の威力」を駆使しているか、屈して無自覚・無批判にだらしなく悪用しているか、の違いになる。これまた読めば一目にして瞭然たるものがある。わたしは今「小説」の文章を謂っている。そしてこの問題を突き詰めてゆくと、必ずやこの卒業生クンが、彼の仕事の領分のこととして指摘している、即ち「調査研究の枠組みそのものが古くなっている」のに比類される文学・創作上のある認識不足や反省・自己批評の不足の問題に突き当たるであろうと、私は推知している。

思いがけず本質的なことをこの人は伝えて来て呉れている。感謝。

2002 1・7 12

 

 

* 今日は又、ごっついモノが届いた。

まず英文で書いてみよう。 Photo-induced Phase transition in spin-crossover complex

和文で謂うとこうだ。

スピンクロスオーバー錯体の光誘起相転移

平成13年度の小川佳宏君の「博士論文」である。その分厚い冊子を送ってきてくれた。まず題だけ見ても、分からない。中は日本語だから読めるけれど、理解を絶している。最後の98頁に、「謝辞」が書いてある。大勢の先生の指導や援助や、また先輩学友達の支援で研究の成り立ったことが分かり、胸が熱くなる。その前に「出版リスト」「発表リスト」が三頁にわたり掲出されているが、何度も何度も論文が書かれ発表されて、博士論文成立に至っていることが分かる。更にその前に「関連図書」が62項目も挙げてある。殆どが欧文の文献である。その前に「配位子の記号表」という一頁があるが、もうこれは手に負えない。その前の見開きに、論文の「第6章 まとめと展望」がある。読んでみるが、歯が立たない。立たないけれど何となく、ウーンと感嘆してしまう。

 

* 小川君は、わたしが退任の最後の一年、「総合講義B」の教室にいた。その頃から同じ教室にいた相思相愛の人と、最近結婚して、九月に、ドクター卒業と同時につくば市の研究施設へ就職し、初々しい婦人との新居を構えたところである。

夫人は修士卒業後に古河電工に勤務し、初のボーナスでわたしを呼び出し、小川君と二人して、神楽坂でぜんざいを振る舞ってくれた。

小川君はこんな難しい研究をしながら、一方で日本の古典に興味をもち、読み続けている。

2002 1・8 12

 

 

* ホームページを拝見いたしました。メールを取り上げていただき嬉しかったです。ありがとうございました。

先生が感想で書かれたことまで、考え及んでいたわけではありませんでしたが、先生の文章を読むことで、日々の違和感自体、今の自分にとっては失ってはならないものなのではないかと思い至りました。

先生の感想の引用:優れた文学作品では、それが無い。在ってもその場合は真の意味で「使い古された言葉の威力」を生かしている。

全くおっしゃるとおりで、「使い古されているから」駄目な訳ではないんですね。

また、先生がおっしゃる「認識不足や反省・自己批評の不足の問題」も自分にとっては耳に痛く響きました。ありがとうございます。

これからも、ホームページ拝見させていただきます。

 

* こうして対話の進んでゆくことが、有り難い。

2002 1・9 12

 

 

* 新しい年が、もう10日目になってしまいました。如何お過ごしでしょうか?早く書きたいと思いながら、気ぜわしく今日まで過ごして、疲れがかなり溜まっていますので、メールを書く代わりに、書いてある日々の「断片」を、少し送ります。ただしこれはただの近況報告です。これからラテン語習いに出かけます。

元気に元気に過ごして下さい。

 

* 言葉は不思議に性質を替える。同じメールでも、こういうふうに真っ直ぐ語りかけるものと、思案し論述したようなものと。どちらも必要な選択であり表出であるが。上の「断片」は、師走から正月へかけての日録の体でもあり、もっと自在に、或る意味ではとりとめなく、形にもとらわれず書かれている。ぜんぶ取り纏めて云えば、そのようなスタイルの「詩」編のようでもある。真っ直ぐ語りかけられている気になる。かなり長いので、日録はここには引かない。「詩」のように読める「作品」らしい箇所は拾って、「e-文庫・湖」に写しておく。

 

* 『元気に老い』 春秋社のご本、昨日やっと手に入り、うれしく帰りました。

今 ざっと目を通したところ。

はじめはそれぞれのモノローグとも言えそうなほど それぞれに深く話されていた内容が 回を重ねるにつれてお二人の会話として絡み合ってくる様子を感じ取りました。

熟読するのを楽しみにしています。

お写真も懐かしいものでしたが、目線がちょっとうつむき加減ですね。

忘れかけていた黒いピンを思い出しました。

お正月もピンがぐさっと刺さったまま。新年から黒いピンを三本くらい刺して心騒がしく生きています。

身近な人が亡くなる新年です。あしたは義父の弟の奥さんのお通夜。我が家の老人達は今のところすばらしく元気に老いています。

 

* この本のことは、なぜかポコリと意識を洩れ落ちていた。わたし自身「老い」の苦痛にまだ痛切に煩悶していないまま、「老い」を語るのは、つい希望的観測か自己激励めくので、暫く、向こうへ押しやっていたかったのだ。

 

* 悔悟は十本の指では足りない程ありますが、今更嘆いても十代には戻れませんものね。

この歳まで、自身、家族も含めて人とのかかわりで、多くの辛苦を嘗めてきたと思います。これも個々の尺度ですが。

これから先は何が待っているかも分からず、いい事がそうそうある筈もなくそれが人生でしょうし。それをどう楽の気に持ち変えるかの気働き、が、老後を生きる指針みたいなものだと思っています。

例えば、以前一年足らずの葛藤を経て、酷い耳鳴りのプレッシャーを克服しています。今も最初の兆候と変わりなく、頭を振動さす程の季節外れの蝉しぐれです。でも、私は気持ちの変換が出来ました。夜、安眠もできます。

今朝向かいの奥さんのお話で、私と同じ症状の友人が安定剤も飲み過ぎで効かなくなり、もう死んでしまいたいと嘆いていると言います。私の経験を又々話して気持ちの変換を助言してあげてと、伝えました。私が普通に暮らしているので、彼女は耳鳴りがもう治っていたと思っていたらしいのです。

あまり欲はありません。

もう、夢観る歳ではないけれども、夢はいつも追っていたいのです。

 

* いろんな人生がある。当然である。自分の道を自分で歩んでいる。これも当然である、が、この当然は難しく、じつは誰にでも出来ているわけではない。だから愚痴が出る。

 

* 肺を病んで入院し退院し、空気の佳い、息子の家にも近いところへ引っ越し、と、ご主人が膝を骨折入院されたと、年賀状に。こういう例がなんだか今年はひとしお数多いように感じている。大事に日々を送らねばと思う。

2002 1・10 12

 

 

* 昨日今日、なま暖かい。明日には、ぜひ散髪しておかないと。土曜は、結婚式である。

2002 1・16 12

 

 

* また五時に目覚めて起きてしまい、いろんな用事をはかどらせて一日が過ぎた。散髪もした。明後日の心用意もした。人を祝うという気持はいいものである。

2002 1・17 12

 

 

* 今日結婚式を挙げる東工大の卒業生、女性、は、もう十年近く前だが、わたしの教室で、一番重んじたい「心ことば」は、「心の支え」ですと書き、当時、寝たきりの祖父と介護の祖母とをいたわりながら、人間の生きる寂びしみというものを、いま覚え始めていますと書いていた。

そして、今年になって、結婚直前のメールのなかで、今にしてはっきり気づいていることですが、「あの当時、祖母が祖父を支えていただけではなかったのです、寝たきりの祖父が、介護の祖母を支えていたとも言えるのですね」と。

簡単な一行であったけれど、すこぶる感動した。そういうことの分かること、それがどんなに大事で難しいことかということ。

 

* 人間存在は、根底に深い寂びしみを抱いている。「いろんな寂しさがあるのだと、大学に入ってから気がついてきました」「寂しさに心して触れ、自分のそれだけでなく、人の寂しさにもいたわりの気持のもてることで、人は一回りずつ大きくなって行くのでしょうか」「わたしはまだ寂しさ一年生ですが」とも書いていた、あの二十歳の学生が、いま、立派な社会人になり、優秀な研究者になって来つつあり、そして妻になろうとしながら、あの元気だった祖母を、余命少なかった祖父が、病床から支えてもいたのだという「夫婦」の機微に思い当たって、今しも自身の結婚式に臨んだということ、それに心打たれ、わたしは、心から祝福した。「良き日ふたり、あしき日も二人、おめでとう」と。

 

* 目黒迎賓館ちかくでの結婚式も披露宴も、それはそれは心地よいものだった。

八十人あまりのうち、家族親族と、少数の会社上司とを、わたしも、除けば、全員が新郎新婦の友人達だった。二人とも同じ大企業の、同じ場所で、同じ上司のもとに研究生活をしているらしい。それにしても会社の同僚、大学の、高校中学の友人達が、あんなに和気藹々と大勢集まるというのは、羨ましいほど佳いものだった。白人も黒人も何隔てなく混じって、披露宴の経過は、さながらのシンフォニイであった。調和と変化があって底抜けに楽しく、腹の底から大笑いする場面が幾度も幾度もあった。新婦は朗らかに美しく、新郎はスマートにナイスな青年だった。彼は大太鼓を、プロと一緒にみごとに乱れ打ちして、わたしたちを感嘆させた。

またすてきな黒人男女の、それはそれは美しくも力強い幾曲もの歌声に誘われて、いつか新郎新婦も踊り始め、会場の全員も立って、手を振り足をならして大喝采しながら踊った。自然に湧き上がるように、そういう雰囲気が生れていた。

媒酌人もなにもない、ひな壇には新郎新婦が二人いて、宴の真っ先に、新郎がみずから挨拶したようなからっとした披露宴だ、すべて新郎新婦二人で企画し心用意して出来上がった元学生君達のこういう結婚式の楽しさを、わたしは、もう四度も知っているが、今日はひときわ晴れ晴れと美しく盛り上がり、そう、まさしく自然な趣向がよく生きていた。わたしの祝辞など、どうというものではなかった。

おもしろいのは、大学時代の先生は、いや学校時代の先生は、わたしが唯の一人であったこと。今日は国公立の共通一次試験なのであった。九大の先生も東工大の先生も、この日は総動員で試験場を担当していたのだろう。

 

* 三時から結婚式、四時から七時まで披露宴。あまり心地よかったので、帰路にひとりべつの店に入って、お祝いの冷酒「松竹梅」で、少し贅沢した。美しい人にもお酌してもらい、帰りにはオーバーを着せかけてもらった。なにもかも心嬉しいいい気分だった。

そうそう、新婦の友人である懐かしい昔の学生達とも、三年生の教室で別れてこの方の顔を合わせた。一人とは、だが、以前から親しいメールのやりとりがある。もう一人とは連絡がずっと取れていなかったが、今日メールアドレスを交換して再会を喜び合った。三人とも、わたしの教室にいた頃は仲良く一心に弓を引いていた。みな美しい人妻になった。

2002 1・19 12

 

 

* 結婚式では、とても素敵なご祝辞、ありがとうございました。途中でやはり涙が出そうになってしまい、こらえるのに必死でした。祖母は、秦先生のお話の間、ずっと泣いていたようです。その祖母の後姿を見て、祖母が随分小さくなってしまったのに驚きました。

当日同じテーブルにおりました、Uさんは、ずっと秦先生のファンだったようで、本は全部読んだんだ、今日秦先生がいらしててとても驚いた、と、興奮した面持ちで帰り際に話していかれました。お話しされましたか?

親は、とても興味深いお話だったと申しておりました。多分、普段の私とは少し違う印象をもったのかもしれません。身に余るお言葉で、恐縮してしまいましたが、でも、とても嬉しく拝聴いたしました。

ありがとうございました。

これからもぜひ、ご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます。そして、“メール友達”としても、末永くお付き合いくださいませ・・。

 

* 結婚式でお目にかかれて、とても嬉しかったです。

受付の仕事をしていたので、あまりお話しする時間がなかったのが残念でしたが…。どうぞ失礼をお許しください。

先生のスピーチ、懐かしい気持ちになりました。

あのころ悩んだり苦しんだりしたことが、時間を経た今、果たして解決しているのだろうか?と、自分の書いた文章を読み返してみたい気分です。

この年末年始はとても静かで寂しいものでしたが、彼女の結婚式に出て、少し晴れやかな気持ちになれました。

2002 1・21 12

 

 

* 何となく慌ただしく暮らしています。大寒を迎えているのにあまり寒くないのは、やや奇妙な感じがしますが、まだまだ寒さはこれからなのでしょう。私は明日から一週間、旅行です。関空から夕方の飛行機で発ちます。ツアーの気楽な旅なので・・これから準備をする体たらくです。

旅はタイ、カンボジアの遺跡巡り、もちろんアンコールワットがハイライトの旅です。乾季で比較的旅行しやすい時期ですが、夏の暑さが体にこたえないように、元気に、意欲的に旅を楽しんできたいです。日本の日常からちょっとだけさよなら、です。

 

* こう気軽なことが出来ればいいなと羨みもするし、しかし、差し迫って、もっともっとしなければならぬことを抱えて日々生きて行く方が佳いのではと、思わぬではない。ヒガムわけでなく。

2002 1・22 12

 

 

* 昨日は冬の嵐、雷まで鳴りひらめきました。今日はうってかわって春のようなひかり、しめった土や濡れた落葉がやわらかくにほっています。

おっしゃってくださった百五十首を抽いています。ゆうべは選び入れた作品が、今日みると、どうしようもないものに見えたりして、行きつ戻りつしております。

つかいたい文字が、器械では出て来なかったり、よしんば、苦心してその文字にしたところで、器械がうまく受け手にそのまま伝えてくれるかというお悩み、承っていてせつなくなります。

じつは二ヶ月くらい前、岩波書店の電子辞書の部門に当てて、メールを送りました。

外出時に便利そうなので電子辞書を求めにゆきました。そして、「広辞苑」まるごと入っているという辞書で、気になっている単語をひいてみたのです。

ところが、というべきか、やはりというべきか、「せみ」「かもめ」「ろうそく」が、「蝉」「鴎」「蝋燭」になっていました。こうした日常語ですらこうなのですから、他は推して知るべしといったところでございましょう。

それで岩波書店に、「広辞苑」まるごとという宣伝文とはちがう、これはウソ字ではないか、「新明解」の幾種かはウソ字でなかったのに、なぜ「広辞苑」はウソ字をつかうのか。今後、改める予定があるなら、それを待ちたいので、知らせてほしい。

そう、申しやりましたところ、返事がありました。

コストや電子化する側の意識などから、なかなか、変更できないというようなことでございました。

予期した返事でしたけれど、やはり、がっかりいたしました。

以前、ワープロを使っていましたときには、「作字」ということができ、ときにはちっとバランスのよくない字が出来あがったりしましたけれど、何とかしのぐことはできました。器械が高級?になると、それもできないというのが、わたくしの頭では、ふしぎ、納得のゆかぬことでございます。

百五十首を抽きながら、ふりがなの多いのはやめよう、化けてしまいそうなのは、どうしようかしらなどと、かんがえたりしております。

器械の前でうたたねをなさって、お風邪ひかれませんでしたでしょうか。そう、申しあげるわたくしも、舟を漕ぎ、はっとすることがございます。

曇ってきましたけれど、空気がやはらかで、気分のよい午後でございます。ずっとずっと以前、FM放送から録音したグレン・グールドの「ピアノソナタ」K331のテープ(わたくしが、グレン・グールドに出会ったのはこのときでございました)を聴きながら、このメールを書いております。

 

* 作字は、かりに出来ても見苦しく、また送信しても化けてしまうようだ。文字セットから図版貼り付けにしても、他の文字の大きさと頑なに差が出たりする。文藝作品ではいかにも見苦しくて辛い。文字コードを与えて標準化を遂げている字は、事実もう何万もあるが、「有る」というだけの話で、たとえば「電子文藝館」を少しも楽にしてくれてはいない。繪に描いた餅の儘で、マイクロソフト社などが、機械に実装備してくれない限り、広い範囲では役に立たない。自分の書いたものを自分だけで利用する分には、かなり出来るが、送信すると、話は全然「別」なのである。そういう「別」の話ばかりが主として文字コード委員会では巨細に及んで進行しており、わたしは、それにはそれで敬意を表しているが、さて、日々に困っていることも困っている。コンピュータはインフラであると云われても、少なくも当面の我らの関心事に関連しては、インフラどころか不備不具機械と云わざるを得ない。

この「広辞苑」読者の声が岩波書店その他の出版者の連帯した声と化して、文化庁や文部省を動かし、他国の業者世間に響いて行くことを期待したい。

2002 1・22 12

 

 

* 一昨日は暖かく、芸大前から谷中を抜けて、日暮里近くの朝倉彫塑館まで足を伸ばしました。此処は何故か心が落ち着き、何度でも行きたくなる処です。当時と云わず今でも珍しい鉄筋と日本家屋をうまく合致させた、とてもユニークな建築物です。

しばしば本で目にする馴染みの代表作「墓守」が先ず迎えてくれ、「時の流れ」と題する裸婦像は清潔感に溢れ、大隈さんの巨像があり、「九世団十郎の像」にはうんうんと肯き、二階には無類の猫好きだってと言うだけに、とりどりのポーズの猫ちゃんに魅入られ、コレクションの陶磁器もすばらしく、意匠を凝らした三階の客間。自然湧水を利用した中庭は、説明書によると「五典の庭」と呼び、自己反省の場として作られたといいます。儒教の五常を造形化した仁、義、礼、智、信の五つの巨石が配置されて、

仁も過ぎれば弱となる  義も過ぎれば頑となる  礼の過ぎれば諂いとなる

智の過ぎれば偽りとなる  信も過ぎれば損となる  と。

何よりわたしの好きなのは、緑地になっている屋上です。高層ビルからの眺めとは一味違い、遠くは新宿高層ビル、東京タワー。サンシャインはやや近く、不忍池の変なマンションは目のあたりです。ここは下町を襲った東京大空襲の難を免れたらしい。

大木になったオリーブの葉がそよそよと揺れ、冬の薔薇一輪が咲き残り、都会の喧騒が一分も届かず、遅かったせいか、私達二人しかいなくて、しばし放心の時間を楽しみました。

 

* 東京という都市には、その気になれば、喧噪を避け得たいい環境が有る、少なからず。ふしぎなことに、そういう場所へはあまり現代東京人は寄ってゆかず、だから静寂も明浄も保たれている理屈だが、なんでわざわざと想うほど人は繁華と雑踏に揉まれたがる。静かさが苦手なのではないかとすら推してしまう。

2002 1・24 12

 

 

* 千葉の勝田さんが、限定本『四度の瀧』のうしろの作品年表をスキャンして下さった。いや、只のスキャンではなく、もう少し別の工夫なのかも知れない、が、まだ十分に腹に入れていない。この機械ではWZEDITORが使えないために、ファイルで、開けないものがよくあらわれる。大いに不自由している。

作品年表づくりは厖大で、たいへんな難作業であり、昭和六十年の正月辺までは、年譜も年表も詳細に出来ているけれど、その後には、まるで手が着かないまま。

もし、用意できてある作品カードをどしどし書き込んで行ける「表」が出来て、どんどんと新たに、規定のその表に記入して行けたら、どんなに溜飲が下がるだろうと、前から、そのための「枠組み表」がつくれないものかなあと、夢見て来た。勝田さんに送ってきて戴いたディスクに、そのヒントがあるのかどうか、時間をかけ、ゆっくり見せてもらおうと思う。有り難いことです。御礼申し上げます。

 

* 小春  輝く半月の傍らに、くっきりとオリオン座。その分冷え込むのでしょう。雪がちらつく日が続きます。

先日などは、目覚めたときにはいつもと同じ、凍って灰色に沈む町並が、30分もたたないうちに、きらきらと一面の銀世界に変わりましたのよ。

翫雀さんの小春、時間の都合で最初の部分しか見られなかったのですが、習った通りの楷書の芝居が見易く、暗い芝居に、彼の愛敬と淡白さが救いとなりました。昼は朝比奈と矢の根の五郎。そのせいでしょうか、喉を荒らしてらしたようで。五郎がお人形のように可愛らしく。あの丸まっちいところが、好き。寒雀

 

* 大津絵   阿保の菓子店で買ったパッケージに、ナマズのイラストのあるどら焼き風の菓子と釣鐘煎餅(瓦煎餅と同じタイプ)。

「河内屋が中座でよゥやったもンや」と文雀さんから伺いましたが、松竹座での「大津絵道成寺」を見て、木挽町で感じた違和感が解りました。小さな舞台の庶民性が、大津絵の素朴さや役者のサービスを一段と強調し、掛け合いも濃密になり、パロディにも手を叩いて笑えますの。

豪華な劇場でリッチに楽しむ演目、小さなこやで、ほろ酔いで楽しむ演目がありますわね。太左治さんの太鼓が瓢逸でよく、立鼓は朴清さん。囀雀

2002 1・25 12

 

 

* 寒中お見舞い申し上げます。東京より緯度が高いにもかかわらず、こちらバルセロナでは、そろそろ春の気配を感じています。これが、いわゆる「社会」の勉強で習った「地中海性気候」なのですね。ミモザやアーモンドの花も真近です。

去年のうちに書き残しておきたかったことを、年越させてしまいましたが、恒平さんのホームページだけは、欠かさず追っています。本やコラムを読んで、昔ほど共感あるいは感銘を受けることが少なくなってきた現在でも、恒平さんの言葉は、ずしんと響くことが多いのです。もちろん、私が恒平さんの言葉を聴こうとする耳をもっている、ということも大事なのでしょうけれど。

昨年末、東工大文学教授秦恒平さんの前任者であった、という単純な理由から、江藤淳のエッセイを手に取ってみました。そこに登場する東工大、秦さんと江藤さんの勤務された大学が同じだったとは露ほども感じられない、そのおかしさにくすりと笑わせられながら、私たちは幸運だったと思わずにはいられませんでした。

「東工大から慶應に移って来て、どこが一番違っていたかと質ねられれば、まず建物と便所の清掃と維持管理が違う、とでもいうほかないような気がする。」

江藤さんは、東工大についてほとんどコメントをされていません。それでは江藤さんが東工大をどう評価されていたかわかるわけはない、その通りなのですが、その後の勤務先である彼の母校の学生についての誇らしい話と、19年勤務された東工大が「汚い便所」に集約されていること、そのこと自体に「彼にとっての東工大」がよく表れている気がするのです。一文学者にとって、東工大の学生はその「便所」ほどに染みる存在ではなかった。

見る人によって、その人が何を見るかによって、同じはずのものが驚くほど違って映る。今まで白く(黒く)見えていたものにも黒く(白く)見える可能性のあることを、ここ異文化で強烈に教えられて以来、よく感じます。そして、色とはもともと持っているものにも増して、それを見る人間自らに強く与えられるものではないかと考えるようになりました。白を見る準備のある人間に、黒の存在を気づかせるのは難しいし、黒を見る意欲のある人に、白はなかなか見えない。(エッシャーのだまし絵など思い出しませんか。)そして白が見える人には、白はひとしお白い輝きを、黒が見える人には、黒はいっそう黒い輝きを見せるのです。

東工大の学生も、自分に耳を傾け反応してくれる一人の人間に出逢ったからこそ、こうして内なる言葉を発し始めたのではないでしょうか。理数系、工業大学の学生というだけで、まるで人間味に欠けるように評価され、下手すると、自らそのレッテルを貼る危険すらあった学生たちに、いかに自分たちが人間臭いか気づかせたのが、秦さんでした。

かく言う私は、6年間最後の最後まで、入学当初の嫌な思い出を断ち切れず、「東工大の人間なんぞ」という気持ちを持ち続けた一人でした。秦恒平さんの講義を通じて「東工大にも共感できる人がいる」と感じた後ですら、私自身が「東工大の人間なんぞ」に、胸のうちを開く準備がありませんでした。

今、秦さんに寄せられる元東工大生の「挨拶」を読みながら、「この人たちと知り合っていたら、もっと豊かな学生時代を送っていただろうか」と、静かに問いかけることもあります。

 

実は、秦さんに是非お話しておきたいことがあります。父のことです。

 

定年退職とばかり思っていた矢先、子会社を立ち上げるための、名ばかりの長として、父が四国 * * に単身赴任したことはお話したでしょうか。母は「春が来た」と言って喜び、私も、父の自立に役立つのではないかと、手を拍きました。スペインに来て半年目のこと、父に何度か励ましのメールを送った覚えがあります。その後母から、「?を送ってあげたら、電話で“ありがとう”だって。何だか気味が悪いわ。」とか、ゴルフとテレビしか暇つぶしを知らなかったはずの父から、「週末は、お寺巡りをしたりして、結構楽しく過ごしている」などの便りを聞くようになりました。初めのうちは、赤面したくなる

ような稚拙な文面にばかり目が行った私も、いつからか、下手でもいいから、「父が私に書こうとしている」ことを嬉しく思うようになりました。何せ、父と私は相手を想って言葉を交わしたことなどなかったのですから。

そして一昨年、夫と夫の両親とで日本を訪れた頃から、風向きが大きく変わりました。父が私たち一行に同伴したほんの数時間が、思いのほか、心地よいものだったのです。むろん私は、「父は外面がいいから。」と流しかけたのですが、その時の父に対する夫の率直な印象を聴いて、不思議と、父を否定的に見ようとする力が抜けたのです。

去年の夏、父と夫と、四国の山地を旅行しました。就職一年目の短い休暇をやりくりし、母と京都で祇園祭を過ごす計画を立てていたところ、「それなら一足延ばして四国にも」という話が出ました。全く自然の成行きで、一昔前には考えられないことでした。

この旅行、とてもよいものになりました。

待ち合わせの朝、父が嬉しそうに持ってきた、凍った麦茶とビールの入った袋。その袋の中に、3つのコップとお絞りが用意されているのを見たとき、父がこの旅行をどれほど楽しみにしていたか分かった気がしました。父はむろん大張り切りで、私たちは始終楽しい気分でした。つねづね母の写真撮影にはうんざりする私が、この日は父のデジタルカメラに静かに耐えることができました。ゴルフ以外に父が初めて自分で見つけた楽しみ、そう思うと微笑ましく、私はむしろほっとしたのでした。最終日の夜、旅館風の小奇麗な山の一室で川の字になった私たちは、よくある普通の親子でした。

簡単なことでした。父を受け入れるのは、こんなに簡単なことでした。

どうして今までそれができなかったのでしょうか。旅行中幾たびも、父でありながらまるで知り合ったばかりの人のような、不思議な感覚に襲われました。誰もが最善の顔でいたのは確かです。でも昔なら苛苛したはずのことが、大して気にも留まらない場面に幾度となく遭い、一種の感慨を覚えずにはいられませんでした。確かに父も私も変わりました。

でも、何より変わったのは、父に対する私のまなざしです。

父への鬱積を吐き続けた母を責めるつもりはありません。母は充分苦しんだのですから。でも、父を責める気持ちも、もう昔ほどありません。結婚してすぐ、相手の笑窪をあばたとしか見ることのできなくなってしまったこの夫婦は、二人がふたりとも不幸だったはずですから。そしてこの旅行を通じて感じたもう一つのことは、夫婦とは、似るものだ、ということでした。

この夏以来、夫が安いインターネット電話をセットしてくれたこともあり、毎週末母と父と電話で話しています。週末何をしたか嬉しそうに話す父、私の電話を楽しみにしていることがわかるから、私も嬉しい。「毎週電話をありがとうね。」そんな言葉が素直に交わされます。これも「離れている」という状況が創り出した錯覚かもしれません。錯覚でもいい、でも虚構とは思わない、今の私はその錯覚を大事にしていきたいと思っています。もちろん母のことも。

 

最後に、一言加えたいことがあります。大学受験で、東工大、慶應を含め4校を受けましたが、その中で「トイレが汚い!」と驚いて帰宅した大学が1校ありました。それは、日吉の工学部の一校舎、今でも覚えています。

お元気で。 * * 子

 

* 挨拶の挨も拶も、ともに強く押す意味である。挨し込み拶し返す。つまり禅の問答は挨拶なのである。わたしは、東工大の四年間、とても答えにくい答えたくないであろう質問をあえて強いることで、学生達の「言葉」を引きだし続けた。いきなりでは反撥が強かろうと、自分の名前について書いてもらったり、故郷の懐かしい山や河の名前を書いてもらって、書くことに抵抗の薄れた頃から、途方もないことを聞き続け、すると、ものに憑かれたように、みなが書き続けるようになり、まるで書くために学生が集まるようになった。何と四年間にのべ五千人がわたしの授業に登録し、原稿用紙に優に三万五千枚を越す「挨拶」が提出された。先日の結婚披露宴でわたしの祝辞を聴いた隣席の主賓のお一人は、わらいながら、告白を受ける神父さんのようですねと云われたが、学生からもそう云われたことがある。かならずしもわたしはそれが良いこととも思わないけれど、「言葉」を績み紡がせること以上の「文学」の授業はないと考えていたのである。

このパルセロナからの「挨拶」には感慨深いものがある。前段の江藤さんのことや日吉の校舎のことは、ま、措いて置くが、後半の、父上とのいわば「和解」のこと。これはこの人の長い間のトラウマのようであった。私との出会いにも、意識して、また無意識にも、トラウマを埋めたい気があったかも知れず、ただ、わたしは、この女子学生の「父嫌い」に関しては、終始一貫「黙って」聴くにとどめた。父上については何も知らないのだし、そもそも人が人について知る・識ることなど、よほどの人についてでも甚だあやしくも浅いことを感じていたから、軽率に同調しないことで彼女の実感を尊重していたのである。

こういうメールを、とうとうわたしは取得しえた。どんなにわたしが嬉しく思っていることか、書いている当人にも分かるまいかと思う。ふうっと、久しく溜めていた溜飲をさげた喜びがある。遠いスペインからのメールを読みながら、わたしは、何度も何度もわたしの自身の娘達の、せめて心身の健康を祈っていた。そしてこの人の久しい父上との齟齬の回復されたことを心から嬉しいと思っていた。

 

* もう人は大勢知っていることだし、わたしの学生は大方知っているから話すが、わたしは一人の娘と、娘の生んだ二人の孫とも、十年以上?、逢わない。顔を見る機会も文通もない。いろいろな事情があったからで、娘とわたしたち両親とに直接のあらそいがあったなどということはなく、つまりは、娘の夫とわたしたちとの齟齬に発して、へたをすると娘が離縁されそうな懼れから、すべて身を引いて交通を遮断したままなのである、が、三十代という娘の女盛りを見ることなく過ぎ、まして孫娘の上はもう中学を出ようか、中学に入ろうか、その辺も覚束ない記憶なのだが、そういう可愛い盛りをまったく見ることもできずに過ごしてきたのである。わたしたちは、これを不幸に感じているが、娘や孫の気持は忖度できない。

ただもう運命を恨めしく感じているだけだが、察しられるように、わたしは東工大の学生諸君に、どれほどこの寂しい恨めしさを慰められたか知れないのである。

事実は小説よりも奇なところがあるが、わたしが東工大教授に突如として慫慂されたとき、娘の夫★★★(現在は青山の国際政経学科の助教授か教授らしい。)は、大学にポストを求めて浪人中であった。わたしへの教授選考会申し入れを聞いた彼は、言下に、「パンキョウでしょう」と云ったが、それが「一般教養」への蔑称だとすら、わたしにはあの当時理解できなかった。やがて彼の方は紆余曲折あって、筑波大技官の地位を得たものの、甚だ不本意な成行きであった。娘が、「高より先に、お父さん就任しないで」と電話で呻いたことも忘れられない。そういうことどもが、つもり積もって、不幸な、力づくの「生き別れ」にされた。坊主になって手をついて謝れとまで婿殿にわたしたち夫婦は云われたのだ。何をわたしたちがしたというのだろう。わたしたちが貧しく力無く、そして

彼の目の前で国立大学の専任教授に迎えられたということだけである。

妻は娘を取り返したいと云ったが、わたしは、そうは考えなかった。夫婦は、まして子までなした娘は、夫や子とともに生きて行くのが自然なことと、自分から、娘の手を放した。手を放さなかったら、娘の離婚が実現していたかもしれぬ。

その決意にいささかの悔いもない。が、孫達は、孫たちの祖母は、むろん祖父であるわたしもだが、不当に受けてしまった離別の不幸は計り知れない。孫達は我々祖父母を忘れ果てているだろうか、いやいや下の孫娘など、かろうじてわたしたちに一度抱かれたことがあるきりの、赤ちゃんであった。この孫達の父親は、早稲田の政経に学んだ昔から、夫君譲りの教育哲学の学徒である。ルソーやモンテスキューの研究者である。「教育」とは「ヒューマニズム」とはいったい何だろうと思う。どんな学生をどう育てているのだろう。「闇」の底へ、事実のみを「言い置く」のである。

 

* バルセロナからは、ついでに、こういうことも教えて来てくれた。これは、役立てたい。

 

* 追伸  ドイツ語のウムラウトで苦労されているようですね。ウムラウトはウムラウトで記されるのが最も美しく、また本来の姿であるのですから、これからお話することが良い解決策になるとは思いません。ただ当のドイツ人たちにとっても、ウムラウトが打てなかったり化けてしまったりすることは多く、その場合どうしているのか、参考までにお伝えしておきます。ドイツ人同士でも、メールを送る場合は、たいてい下の様式を使っているようです。

 

aウムラウト → ae  Aウムラウト → Ae

 

oウムラウト → oe  Oウムラウト → Oe

 

uウムラウト → ue  Uウムラウト → Ue

 

エスツェット(ギリシャ語のベータに似た記号)→ ss(小文字)、 Ss(大文字)

 

* スペイン・サラマンカより   秦先生、お元気ですか。

こちらで無事新年を迎え、毎日スペイン語の勉強に追われています。それ以外はなかなか進みません。文化面での違いは多いものの、それをいざ仕事にしようとするとなかなか難しいです。なんと言っても、今住んでいるサラマンカはスペインではあっても、日本人の考えるスペインとは文化がだいぶ違います。仕事は真面目だし、時間も正確、肉ばかり食べています。闘牛はあるけど、フラメンコはありません。

しかし、そこはそこ、なんとかその中で、今はあがきながら仕事のネタを探しています。

3月中旬からは、南のセビーリャへ居を移す予定です。それまでは、スペイン語を学ぶ方が優先しそうです。元々語学は苦手だったので、今回は、なんとか克服しようと思います。

来週はグラナダとコルドバへ旅行に行ってきます。サラマンカとは違う南のスペインを少しだけ見てきます。

こちらでは、インフルエンザが流行っています。ニュースで言っているくらいなので、かなり流行っているようです。学校でも何人か休んでいます。日本ではそんなことはないかと思いますが、くれぐれもお身体にはお気をつけ下さい。

それでは、またメールします。

 

* 送別の食事したのが昨日のように思われるが。ブラジルの飛行機野郎の方はどうしているだろう。

2002 1・26 12

 

 

* 昨日朝、帰ってきました。石本正さんの展覧会が京都の大丸で行われていて、最終日と知っていましたので、関空からそのまま出かけました。今回は作品の殆どが裸婦で、しかもここ1、2年の精力的な集中的な仕事でした。裸婦を描き続けること・・は今の私には、必ずしも理解しきれない要素がありますが・・芸術とポルノ云々はここでは脇に置きます・・81歳という画家の年齢と女性への「感動」・・やはり男の人を理解するのは大変だわ。感動して欲しいのは女性の本音でしょうが・・。

帰りの電車ではさすがにうたた寝もしたりして、とにかく帰宅しました。暑いのは大の苦手、さらに旅行中の定番の感ある消化不良にも苦しめられましたが、スースー眠って睡眠不足は克服し、宅配された荷物も整理し、たまった新聞も点検し・・一息ついたところです。

気楽な旅と私がメールに書いて、「気をつけて」というタイトル、本文なしの返事を下さいましたが、あの・・・だけには、考えさせられましたよ。「気楽」は、ツアーというお任せの部分だけで、決して気楽な旅であるはずはないのでした。タイやカンボジアへの旅なのですから・・。

旅を終えて思う事は、まだ混乱していてとうてい言葉に表せませんが・・。行ってよかったと思います。遺跡も、そしてなお内戦の傷痕に苦しむ人たちの暮らしも・・地雷などあってはならないと・・鮮烈に胸に響きました、ずっしりと堪えました。涙が出ました。

寒さはこれからが本番。器械の部屋、出来る限り暖かく、夜、本を読み過ぎないで、風邪など引かないで、自分に甘く???過ごして下さい。これは老婆心でしょうか?大切に

 

* アフガンへも行く気でいるらしい、NGOでもボランティァでもないこの詩人と呼ばれたがらない女詩人は、片雲の風に誘われ、内奥の闇をただかき混ぜるために、半ば呻きながら旅を続ける。タイやカンボジアから関西空港へ戻り、石本さんの展覧会の最終日だというだけで、家とは逆方角の京都へその足で立ち寄って観てくる。これは、元気というようなものではあるまい。

わたしなんぞ、唯摩居士でもあるまいに、根が生えたように家から動かない。不健康の極みか。

2002 1・29 12

 

 

* 昨日、婚家の母から私達宛てに手紙がきました。私達の結婚を心から嬉しく思って送られた手紙でした。

その中には、あなたと結婚したことが息子の最大の親孝行です、などと嬉しいこともかかれていました。読んで、心がほんわりと暖かくなるような手紙でした。

秦先生は、わたくしの「所感」、を、婚家にも贈って下さっていたのですね。そのことに触れてあり、それを読んで、”あなたが昔から自分の娘だったような気がする”、”自分と似たところが多い”、”安心して2人を見守っていける”と言葉を続けていました。そうして最後に冒頭の言葉がありました。

嫁の立場で、更に遠くはなれている姑と分かり合えるというのは難しいことだと思います。最初が肝心だと云いますが、今回も限られた時間の中で自分を分かってもらうのは、殆ど不可能だと思っていました。

でも、そんな心配を先生が取り払ってくださったのだと思います。手紙の文面から、私を信用してもらっているのが伝わってきました。本当に安心しました。義母のその気持ちは、秦先生のお蔭です。

どうこの感謝の気持ちを伝えてよいものか、言葉が見つかりませんが、本当にありがとうございました。

義母も申しておりました。秦先生のお祝いのお言葉は本当に素晴らしかったと。先生の言葉は、じんわりじんわりと、みんなの心に染み込んでいっているのですね。ゆっくりと、暖かく。ありがとうございました。

 

* こういうメールをもらった。嫌な気分を和らげられるのが有り難い。公よりも私の一人一人が堅実に幸せに成り、知性に溢れて、の日本を「私」の国にしたいものだ。日本の「公」は、政府も国会も、雪印のような大企業も、腐りかけている。一人一人の「私」が優れた民衆力をもって日々に堅実に生きられるように「公」を駆使するのでなければならない。「公」のために「私」が在るのではない、幸せな「私」を可能にすべく「公」こそが「私」に奉仕するというのが当然のことだ。

2002 1・30 12

 

 

*  秦 先生(1月29日午後1時38分送信)大荒れの日曜日、五時起きをして長野にゆき、昨夜帰ってきました。

ご入院中の齋藤史先生に、思いがけず、お目にかかることができました。

お声は変らず澄んでうつくしく、そして、歯切れのよいお話ぶりで、遠いところをよく来たと、よろこんでくださいました。

齋藤先生のお見舞いにあがる前、面会時間までに時間があったので、魁夷美術館にゆきました。

あまり、興味を持ったことのない作家でしたので、初めて目にするものがほとんどでした。

そこに、川端康成の「片腕」の装幀試作というのが展示されていました。紺と水色の地に白い鳥が翼をひろげている二枚でした。これが「片腕」の……と、見ていて、ふと、制作年代に目が止まりました。「1965年」。えっ、わたしはこのころ、若気の至りの或る成り行きに後悔し、鬱々としていたときだった――。

少女のころに「片腕」に出会ったなどと、どうして思いこんでしまったのか。

父が毎月、本屋さんに届けさせていた何冊かの雑誌で、ずいぶん、いろんな作品を読み、多くの作家に出会いました。石川淳、大岡昇平、内田百ケン(あの漢字がなくて)、林芙美子、高見順、三島由紀夫、井上靖、それから……。川端康成の「山の音」や「千羽鶴」「たまゆら」なども、雑誌に連載されているのを読んだように覚えています。父に「文字の虫、何でもかじる」と、叱られたり、あきれられたりしたのも、今はなつかしくて。

父在世のそのころが、わたくしのしあわせな少女時代でございました。その少女時代に、どきどきしながら覗いた魔界のいくつか――。

おとなになり、もう大人の苦しかった時代に読んだ「片腕」を、少女のころのことと無意識に混同し、写真の修整のように、記憶を変えていたのでしょうか。自分の記憶が不確かという以上に、かくあれかし、という願望のままに、気づかずに、記憶を塗り替えているらしい自分を知り、とても不安になりました。

先ほど、「湖のお部屋」をおたずねしました。

器械と漢字のこと、アメリカ生れの器械なのだから仕方ないという人もけっこういますし、「鴎」でも「掴む」でも、いいじゃないのと、鈍い人もいます。だんだん、慣らされて、そのうち、現在の中国の、あの奇妙な文字になってしまったらと想像しますと、ぞっといたします。

紹介していらっしゃる加藤弘一氏の「要約と指摘」を拝読しました。こうなったらよいなと、わたくし如きでもおもいますけれど、「広辞苑」の電子化の部門ですら、仕方ないといった雰囲気の対応でしたことを思いあわせますと、なかなか、たいへんなことのようにおもわれます(わたくしは「大辞林」のほうが好きなのですが、この電子版がなくて)。

齋藤先生の歌集『風翩翻』の「翩翻」の旁が、別々の「ハネ」でしたことに、はっと胸をつかれましたが、どうなってゆくのでしょう。何とか、よい方向に向かってほしいとねがっておりますけれど。

外務大臣の首のすげ替え劇も、戦争の出前をしている大国も、みんないや、と、目を瞑りたくなりますが、つむって済むことではありません。

壁にかけた写真の見返り阿弥陀さまのおん眼が、今日は、おやさしくなくて――。

 

* このわたしの、闇に言い置く「私語」が、めざましい力をもつなどということは、発想自体が否定している。それでも強いて言えば、わたしは、指一本で釣り鐘を押している。楠木正成が多聞丸の時代に、釣り鐘を指一本で動かして見せたという逸話を、子どもの頃の絵本でとても印象深く胸に沈めた。わたしが、いろんな方のメールをお許し願ってここへ多彩に取り込んでいるのは、釣り鐘の揺れの少しずつの幅のように心強く思うからであり、私一人が私語しているだけではない花やぎもふくらみもが自然目に見えてくるからである。

2002 2・2 12

 

 

* 真っ白な朝です。

霜降り肉はダメな雀ですが、秦さんの例の黒薩摩の大皿に盛られたそれは、絵として、いいなァと思います。あのお皿、雀なら、三角に握った塩むすびをびっしりと、波のように並べてみたい。

輪島の黒い角盆を一枚持っています。自転車の籠に箱のまま放り込み、あちこちの集まりに持って行きましたが、和風のものはもちろん、オードブル、サンドイッチ、ケーキなども映えて、かなり活躍しました。同じ牛肉でも、色とりどりにせん切り野菜をたっぷり敷いて、ローストビーフですわ。やさしいもの、ふんわりしたものが似合います。囀雀

2002 2・3 12

 

 

* 黒織部   大阪も午後から雪という予報でしたが、逸翁美術館は、呉春の「白梅図屏風」で迎えてくれました。門、建物、茶室、庭、「歌切と和物道具」に、背中の下のほうがぞくぞくしました。また、逸翁「幻の茶会」(この主茶碗が、黒織部菫文)道具組に、涙ぐみました。

翌朝、「題名のない音楽会」で<トリプルピアノ>(前田憲男、佐藤允彦、羽田健太郎)のゴキゲンな演奏に再会、普段は表情の変わらない名アレンジャー前田さんが、演奏の終わり頃、口の端を緩ませ、ノッテるお顔を見せたことでなお満悦。

晴れやかに春が始まりました。秦さんもどうかお幸せに。

 

* 底なしのような「雪印」の食品詐欺行為の報道をうんざり見せつけられてから、こういうメールに触れると、ほっとする。ほっとしたくなる、と言うべきか。

2002 2・4 12

 

 

* 今日は名張の宵えびす。

必ず一日は吹雪くそうですが、もう厳冬も終わりかしら。

夜半、雨は暖かさを連れて音もなく降り、日が昇るにつれて止みました。

山裾から霧が芽ぐみを促すように上り、天は青いガラスをトルコ石に替えました。

包み込むような潤い豊かな大気に「初春」を実感します。

「お正月」の歌詞が、雪に埋もれる新潟では分からず、東京では寒すぎるような。

新宮市の女性が作詞したそうです。

旧暦、そして紀伊半島の陽光の下なら、雀もあのように遊ぶことでしょう。囀雀

 

* 詩のようなメール。

2002 2・7 12

 

 

* 千葉の勝田おじさんが、わたしの作品年表のために、パソコン上で便利な表組みを繰り返し工夫してくださっている。まだ、うまく、仕上がらないが、送られてきているサンプルは実に佳いのである。この表枠がそのまま利用できて、どんどんと書き込めれば最高なのだが、記入されてある内容の文字だけはコピーして貼り付けられても、肝腎の表枠が例えば一太郎に貼り付けられない、消えてしまう。記事内容は寧ろ新たに書き込めればいいので、表枠が勝田さんの創られてあるまま、幾らでも書き足して行けて、しかもその各欄に必要記事が書き込めれば、どんなに有り難いことか。

わたしの年譜は「読める」ほど詳細だが、作品年表も厖大で、どっちも昭和六十年(1985)で途切れている。あとのものを書き起こすのに、パソコン上に表枠が出来ていれば、遺漏なく書いてあるカードを書き込んでゆけば良く、むろん、漏れの挿入も可能、新たに書き増し書き増しして行ければ、どんなに便利だろう。千葉のE-OLDは意欲的に試行錯誤してくださるが、保谷のE-OLDは意気地無く、「表」などというものにチャレンジしたことが一度も無い。

2002 2・9 12

 

 

* メールで、あそこへ遊びに行きます、ここへ行きます、お気楽主婦たちでのほほんと温泉一泊ですなどと、聞かされていると、なんだ、世は太平なのかと、太平を少し憎む心地も湧くから妙だ。わたしの両肩は石のように重く硬く、首が回らず、目は霞んできている。E- OLDは、それでもこの仕事を楽しんでいるのだが。

2002 2・12 12

 

 

* 深夜のサイクリングをおいさめになったのは、千葉のE-オ―ルドさんでしょうか?

嬉しいこと、と。どうぞ、大切になさってくださいませ。

はやいもので、今年もまた2月14日がやってまいります。

ナイショにね。

昨日、こちらは20センチ近い積雪がありました。* *山も真っ白に輝いております。

春はもう少しあとのようですね。

2002 2・13 12

 

 

* いま嬉しいのは、帰宅して開いた十あまりのメールのなかに、昔々、昭和五十年ごろか、会社勤めをやめて翌年一年だけ東横短大に「文学」の話をすべく非常勤講師を頼まれたときの学生が、はるばる広島県の奥地から、突如初メールをくれたことで、題もよし、「お待たせしました!!」と。久しい時の間を感じさせない素朴なぶっつけの声だ。

 

* お待たせしました!!  やっとメールを送ることができます。まだ初心者なので子供(中一)に聞きながらうっています。**はまだ寒い日がつづいています。仕事は、8時からの日と9時からの日があり、毎朝エンジンを先にかけて車を暖めてからでかけています。お返事お待ちしています。

 

* 四半世紀以上も昔の、たった一年間週一度の授業であったが、その子のことは、などと言ってはわるいもうベテランの主婦であるが、はっきり覚えている。とても懐かしく覚えている。純朴な、しかも際だって美しい学生で、あれでまだ二十歳前であったろう。次の年も来て欲しいと大学はアテにしていいたらしいが、わたしは、強引にやめさせてもらった。書く仕事に大いに乗っていたし華やかなほどに忙しかった。それに通うのに二時間以上もかかるのだ、保谷から等々力までは。で、やめるときに、学生達が大勢私の著書を抱いて署名をもらいに来てくれたりした。この人もその中にいて、わたしは、ちらと顔を見て、なんだか識字も書いたように思うが、何を書いたかは忘れた。帰ろうとし外へ出ると、一人で追いかけてきて何か言葉をかけてきた。何を言われたのかは覚えていないが、なんだか真剣そうに頬をあかく染めて、くりくりと瞳を光らせてものを言う顔だけは長く覚えていたし、今も覚えている。

コンピュータとは、すばらしい機械なんだなあと今更のように今日は嬉しくて、わたしはご機嫌である。

いま写真の写る電話が盛んだが、写真など見られたくもなく、あまり見たくもない。少なくもあれ以来二十七年ほど経っているのだから、果然変貌していかねないし、少なくともふけているわけだ、あの昔のママの記憶でメールをこれからも楽しみあう方がどれほどロマンチックであるか知れない。

2002 2・16 12

 

 

* boo  オリンピックでのアメリカ人観客の「boo」ではありません。

いつだってオリンピック期間中の雀は不機嫌。ですが、今回は―「ふ・ゆ・か・い」ですッ!

この時期、米国が開催を辞退しなかったことだけでも腹立たしいのに、「悪の枢軸」と彼らが言うところの北朝鮮と同等の開会式をして国民感情を高揚させ、景気は上昇、ヨーロッパと共に日本へ圧力、買収容疑でロシアを蹴落とし、核実験はする、ヒトの未来より今のカネという京都議定書代替案を示す。東アジアに乗り込んで、二代目<知性不十分>は何をやらかすの ?

マーガレット王女も「核の弔砲」とはお気の毒なこと。

 

* ヨーロッパでは、ぎっくり腰を「魔女の一突き」と云うそうですが。経験者ならではのうまい表現だといつも感心します。ぎっくり腰でも、椎間板ヘルニアでもないのですが、股関節と臼蓋の重なりが先天的に少し浅いらしく、それに老化が加味され、過労するとそのあたりが炎症を起こして痛みます。

一昔以上も前、体重のあった母を抱き抱えた時、ギクッときたのが初回で、この症状はまさに魔女の一突きでした。医者に行き、二日もすれば平常に戻る為、常はあまり念頭になくて、その後もう一度突かれ、それから七年間安泰だったのに、今回やってしまいました。女性は痛みに強い筈なのに、参りました。

(お気楽主婦が群れて行って)讃岐の金毘羅さんのご機嫌ナナメだったのかしら。

幸い患部は片足だけですが、最高に痛い状態は、夜、お布団に横になると両足の何処を少し動かしても頭まで響く痛さです。こんな時は夫の手も借りたくなく、ひたすらマイペースで寝起きしたいのです。

自転車の片足漕ぎで整形外科へ行き、シップと痛み止めを二回服用で、前回同様うそのように痛みが退いて、今はしっかり治まりました。歩行よりもなるべく自転車を使い、体重はこのまま横ばいで増やさず、重い物は持たず、水泳を、なんてご忠告を戴きました。

自覚する持病を三つ抱えては、一病息災とうそぶいてもいられなく、元気に老いるのはほんに難しいけれど、気持ちの切り替え素早く、ノホホンと、それでも以前よりは年寄りらしく意識して、大人しくするつもりです。

家にいる時間が多く、文藝館を訪れています。

2002 2・16 12

 

 

* 「松の段」前半だけでも、溢れる哀しみがたまらなくて。あちら側の「身内」に逢いたい、でも、こちら側にまだ「身内」がいる。双方に引かれ、やじろべえのように危うくこの世の生を保っているだけ。見終わったら、CSで志寿太夫さんの「保名」(立方は音羽屋)をやっていて、また、涙がこぼれました。

平野啓子の語りは、思い入れと自負過多で、不自然。あれは余計でした。

2週間ぶりの外出です。一羽で、奈良の「入江泰吉・杉本健吉・須田剋太」へ。今日の「日曜美術館」の、ですのよ。

梅葆玖・櫻間眞理・箏曲の「楊貴妃」競演を観て帰ります。囀雀

 

* 妙なもので、昨日は、終日「松の段」の節がかすかに、しかし絶え間なくあたまの芯のところで鳴っていた。身びいきではなく荻江壽友のつけた曲は力に満ちていて佳いのだ、わたしは、観世流の野村四郎が謡う「清経」と、壽友の唄う「松の段」のテープを愛していて、大学の頃も教授室でひとりよく聴いていた。

2002 2・17 12

 

 

* 山笑う   昨日は、写真美術館から新薬師寺、志賀直哉旧居へと歩き、春日大社を通り抜け、二月堂・三月堂へ寄って(名張からも松明を寄進しているそうです)、新公会堂の能楽ホールへと向かいました。

「楊貴妃」は、京劇、箏曲、能の順で上演され、終わって外へ出ると、薄暮の奈良公園は、春浅い雨にしっとりと濡れています。傘を広げた雀は、目の前のカジュアルな洋服の男性が、梅葆玖さんだったので驚きました。駅に向かうバスの中で、パンフも筆ペンも持ってたと気が付きました。間抜けな雀。 若草山が、薄緑の山際を、雨に煙らせて、笑っていました。囀雀

 

* 四国の花籠さんが元気に便りをくれて安心した。しかし状況は厳しいようだ。小泉さん、ブッシュにゴマをするのが政治ではありますまいが。

 

* 月様 ご心配をおかけしまして申しわけ御座いません。おかげさまで、先週の土曜日に金具も外れ、今週一杯、自宅でリハビリです。26日から、ようやく仕事に復帰いたします。

病院帰りには、報告がてら仕事場に顔を出していましたが、景気は相変わらず不調のようです。いえ、一層落ち込んでいるのではないかしら。次々と発覚してくる不正が、またもや追い討ちをかけているように思われますが、今回は他の産物にも原産地を偽っていた事実が判明していますね。経済の不安定さに、生き残りをかけての手段かもと思えなくもありませんが、消費者にとっては何を信じればよいのか分からなくなってきているのが現実。

辛抱のいる時代になってしまいました。どうにかして欲しいと思っても、今の国政に期待はできないですもの。国民のことなど、どうみても考えているようにはみえない国会論争にうんざりしています。

昨日、友人が誘ってくれて、彼女の所属する手話サークルの方々と梅林に出かけてきました。聾唖者の方たちもご一緒にです。梅は満開には少し早かったのですが、山間の馥郁とする香りに包まれて、清しい気分になりました。帰りには喫茶店で、急きょ、初級手話講座が。指文字の「あいうえお」だけしか覚えられませんでした(笑)。

花を愛でながら、隣接の杉を見ると、びっしり花芽がついていました。花粉症には辛い季節到来です。月様は、まだ大丈夫かしら? 早い目のご用心をなされてくださいませ。御身おいといくださりませ。花籠

2002 2・18 12

 

 

* 「松の段」のこと、呆れられましょうが、テレビがありませんので、見られませんでした。先生のお話、湖のお部屋を訪れた方々のお話から、ぼうと想像していました。

歌詞が拝見したくて、「湖文庫」にお載せくださるようお願いしようかとおもっておりましたら、うれしいこと、ホーム・ページで拝見できて。

縦書きに直してプリントさせていただました。ちいさな声で音読してみました。紅枝垂れのひまに、うつくしいかなしいものがあふれてきました。

先生の『谷崎潤一郎』を読みましたとき、はじめて、「細雪」を読んだ、知ったという気がいたしましたが、さぁ、それもあやしいものでございます。この詩を拝見しますと。

川端康成のご講演、いずれ、「湖の本」か「湖文庫」で拝見できましよう。たのしみにしておりますけれど、ご無理はなされませぬよう。

 

* 頭の芯のところで、繰り返し荻江の節が遠く遠く繰り返し鳴っている。川端に関する講演も、なにのことはない、谷崎との比較で話をすすめたのである。わたしには川端を語りたいという欲求がほとんどなくて、一時間半の話題など持ち合わせはなかった。「講演録」にはもう入れてある。そんなに期待されるほどのことではなかった。

なににしても、定期検診も済ませて、ほんとうに一息ついている。睡眠を取り返したい。

2002 2・19 12

 

 

* 偶然、TVで見た神代植物園の梅園。懐かしさに胸が締めつけられました。立春。春節。もう雨水ですのね。梅見はなさいましたか。

小雨降る猿沢の池。松の根元にあるベンチにひとり腰を下ろすと、驚いた鷺が一羽、音を立てて飛び立ちました。木立ちの向こうに、五重の塔が変わらぬ姿で立っています。開発で変わる景色も、写真家は、巧みにフレームに切り取るのですね。

人生では、それを心で―in a happy frame of mind―初めて知りました。

 

* ―in a happy frame of heart  と、わたしなら。

 

* 奈良に近づくにつれ、車窓から見える山々は、動物の冬毛が抜け替わるのを思わせる、色合いと質感になっていきます。なンだか山もかゆそうに見えました。

一方、この時期、「おいしい春、志摩しょう」と観光キャンペーン中の伊勢志摩。英虞湾近くの小学校では、自分が核入れした真珠を卒業式に着ける計画があるそうです。この核保有ならいいでしょう?

2002 2・20 12

 

 

* 朝のコーヒーを飲みながら、縦に直してプリントしました「川端康成の深い音」をゆっくり、拝読しました。

「声に出して読みたい作家・作品」というお話に、いろいろ考えることがございました。

ふっと、「母を恋ふる記」と「雪国」の最初のところを音読してみました。「母を恋ふる記」は、ごく自然に一ページ、二ページと読みすすめられ、そのままずっと読んでゆけそう、そう、おもいました。音読したら、今までのとはちがう「母を……」を知ることになりそう、そう、おもいました。

「雪国」は、「信号所に汽車が止まつた」で、もう、続けられませんでした。今まで通りの黙読でも、読みなおせば、また、新たな「雪国」があらわれてくるでしょうが。

 

* たいした事ではないかも知れないが、今度の講演で、川端康成について、かつて言われたことがないかも知れないところを話してきたつもりである。川端の文章については、みな、言い尽くされている気がして盲点になっていると思ってきた。

2002 2・21 12

 

 

* 「文藝館」の起稿と校正とをお願いし、きちんとやってもらいながら、何のお礼も出来ないで久しく放っていた人に会い、せめてものお午食をご馳走させてもらった。ご希望の昼の「三河屋」は少し混んでいたが、しばらく待って、一階に席が取れた。

ボジョレーのハーフは、わたしがほとんど一人で飲んでしまったが、食事の方は豊富にうまかった。老舗の洋食店で常連客も多いようだし、昔は知らないが今では上等なレストランになっていて、それで「三河屋」といった名乗りも微笑ましい。その人とは初対面であったが、もともと、コンピュータで困っていたときに、「私語」を読んで「通りがかりのものですが」と、適切に教えてもらい助かったのが、ご縁であった。もう二年ほどになるか。文学少女かなあと思っていたが、二十年来の校正やパソコン運用のベテランであった。大きな企業に勤めていたのを、思い切ってこの春のうちにもっと動きやすくはたらきやすい若い人達のグループ会社のようなところへ転じるという。機械に強い友達は心強い。

 

* 二時間ほどかけたゆっくりの食後に、銀座三越前で別れ、わたしは一人でDVDの店で立ち読みならぬ物色に小一時間も過ごした。目移りして何も選べずに出た。手洗いが使いたく風月堂に。八百円のコーヒーの、値段に比して不味いのに憤慨しつつ有楽町線で保谷まで、寝て帰った。のんびり駅のエレベータで夕暮れの家路についた。エレベータで一緒だった四十恰好の感じのいい奥さんふうの人が、どこまでも、私より二十メートル先を歩いてゆく。おやおやと思っているうち近所の大きなマンションへ入っていった。こういうこともあるんだなと、妙におかしかった。

2002 2・22 12

 

 

* 「細雪 松の段」にこんなに感想を寄せてもらえるとは、期待していなかった。

 

* 二月十六日の「私語の刻」で、講演のあとにお具合が悪くなられたという記述を拝見して、大変心痛めておりました。その後、お変わりございませんでしょうか。お忙しいご様子ですが、どうぞご無理をなさらないでお過ごしくださいますよう蔭ながらお祈り申し上げております。

オリンピックでは日本勢の不振が話題になっていますが、新撰組の近藤勇にこんな言葉があると聞きました。「道場で強い人が真剣勝負で強いとは限らない。しかし、道場で弱い人は真剣勝負でも弱い。」世界選手権でも強くなかった日本選手が、オリンピックという本番で弱かったのは当然といえば当然のことでございましょう。

ベルリン映画祭で金熊賞を受賞した宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」が最近の日本の金メダルといったところかもしれません。私はアニメには興味がなくてこの映画を観ておりませんが、「いつも何度でも」という主題歌はいい歌だと思います。歌詞のなかの「生きている不思議、死んでいく不思議」という言葉に、なぜかとても心惹かれるのです。人が生きていることも、死んでいくことも考えれば考えるほど、ほんとうに不思議としか言いようがありません。

「生きている不思議、死んでいく不思議」などと書きましたのは、実は、先日再放送されました芸能花舞台の感想を申し上げたかったからでございます。芸能花舞台「松の段」は、生きていることと死んでいくことの境目の不思議な夢幻の世界でした。

「生と死」の境目は、人生が夢と出会う場所とも言えるでしょうか。生と死、人生と夢という相容れないものがふれあうとき、えも言われぬ美しさに充たされます。私は溜め息をつきながら、谷崎の『細雪』を想い、そして先生の魅惑に溢れた数々の小説と同じ世界に酔いしれておりました。

「松の段」は日本舞踊よりも地唄舞のほうが似合っているようにも思いました。武原はんが舞っていたらという先生の感想はそのまま私の願望でもあります。今となっては叶わぬことではありますが、武原はんほど「松の段」の詞の精神を理解し、身体で表現できる踊り手はいないでしょう。武原はんにとりましても代表作になり得たもので、残念でなりません。

武原はんに憧れたなどと大それたことは申しませんが、実は趣味で地唄舞を習っております。眼ばかり肥えていて実力のほどはひと言「噴飯もの」なのですが……。それでも十年くらい先には、「松の段」の一部分だけでも舞台で舞ってみたいという蛮勇に近い高望みを抱いてしまいました。「松の段」の楽曲をどこかで買うことができましたら、是非私の地唄舞の先生にも舞ってくださいとお薦めしてみたいと思います。

とりとめなく書いてしまいました。先生が一日でも長くこちら側の世界にとどまられて、人生と夢の出会う境目の世界を書き続けてくださいますことを願ってやみません。どうぞ日々お健やかにお過ごしくださいませ。

 

* ま、過褒ではあるが、なにとなく松子夫人のために、よろこびとしたい。

このメールに関連して今思うことは、この人の「生と死、人生と夢という相容れないもの」というフレーズである。昨今の私の内奥では、この辺が問題になっている。人生もまた夢ではないかと、多くの人が思ってきた。そのように最期に言葉にした表現は辞世の歌などに多い。ああいうものは特殊な強いてする表現だという考え方もあろう。ともあれ、わたしの内側で、相容れるか相容れないかは別としても、人生は夢そのもので有りそうだとの実感に日々迫られている。真相はそのようだと。夜中、真如の闇に眼をみひらいているうちに、自分が無に帰している境地にときどき入れる。夢も人生も無い。無いものを有るように思いこんでいるのが人生であり夢であるのではないか。

2002 2・22 12

 

 

* 夢も人生も無い。無いものを有るように思いこんでいるのが人生であり夢であるのではないか。

そう、そうなんですね。あなたの声が深く響きました。

明日は、娘が空に飛んでから七年目の日です。母とお墓参りに行ってまいります。大好きだったピンクの春の花を持って。

生きていたことも夢。

空に飛んだことも夢。

私が今想い存在していることも夢。

そう、何の実体もない自分の生を、実在だと思い込んでいるのかもしれません。

すべて夢だと思えば、闇に漂うことも、空に飛ぶことも、何の違いもないものなのではないかと。

歓びも、哀しみも、すべて夢。できることならば、美しい夢を見たいと。

黒いピンを体中に刺して過ぎた1週間が、ようやく終わります。

 

* 「空に飛んだ」という把握と表現に、やや頷きにくいものがある。「死なれて死なせて」は、そんなもの言いで済ませられる体験なのであろうか。いいや、そんな風にでも言わずには辛すぎると謂うことか。

 

* 知り合いのご主人が無類のクラシック音楽愛好家。永年蒐集したテープ、CDを一人で聴くよりも、楽しみを分かち合いたいと、月に一回の手作りコンサートを始めてもう三年半。近所の公民館へ誘われました。

サロンというにはあまりにも質素ですが、奥様の趣向で、今日は椿や桃の花を活け、豆雛を其処此処に飾り付け、ささやかに茶菓も出て。二十人ばかりの常連を前に、その方の豊富な知識の解説も交えて、音響よく、マーラー、シューベルト、モーツアルト等の音楽が、三時間ばかり。浸ってきました。

殆ど持ち出しで、控え目なご夫婦の方針にも好感が持て、来月も是非にと、約束をしました。

真紀子さん、小泉総理、鈴木宗男。この歳になると、第一印象の90%が当たりですが、この三人も、違わず当たり。

2002 2・23 12

 

 

* 「私語の刻」が楽しみです。秦さんが最近の田中・鈴木問題に言及されているのを拝読して我が意を得たりと嬉しくなります。おっしゃるとおり、殆どの評論家も政治家も所謂識者も、事の本質が見えていないと言わざるを得ません。

問題は異なりますが、秦さんがペンクラブの消極的な態度に飽き足らない思いを抱いていらっしゃることにも共感しています。社会的に影響力のある方々がもっと発言してくださることを願っています。唐突にメールを差し上げて失礼かと存じますがお許しください。御身お大事になさってください。  (72歳)

 

* この「私語」は、相当広く読まれているらしく想われる。アクセスの数にはとらわれていないので、カウントも取っていないが、いわゆる「通りがかりに」連絡のはいることも少なくない。それでも「闇に言い置く」という独語の気持は変っていない。

2002 2・25 12

 

 

* 今日はすっかり春めいた青空が広がっています。憂鬱な花粉症の季節がやってまいりましたが、昨日の私語の刻を読んでひとつ気になったことがございまして、お節介で失礼とは存じましたがメールさせていただきます。

先生は花粉症のための薬を飲まれているとのことですが、それはどういった種類の薬なのでしょうか。薬については、医学関係の出版に携わっていらした先生のほうが、素人の私よりもはるかにお詳しいことと思いますが、アレルギーを抑える抗ヒスタミン剤やステロイド系の薬と緑内障の薬の併用は厳禁だったように記憶しております。たしか緑内障の症状を悪化させる場合があると聞いたことがございました。お医者さまの許可があったり、緑内障の薬と併用しても害のないものをお飲みでしたら心配はございませんが……。もしアレルギーに効果のある漢方薬や健康食品のようなものをお使いでしたら、お教えいただけませんでしょうか。飲めない薬がいろいろあって苦労している緑内障の知人に教えてあげたいと思います。

 

* こういうご注意は、有り難い。一瞬ギョッとしたが、幸いわたしの服用していたのは「甜茶としその実油」の健康補助食品だった。これが効いているともいないとも何の確証もなく、わたしも何らの判断もなく、妻が言うままに空気を吸うように服用しているだけである。だが、緑内障とかぎらず、薬というのは、是には効くがあれには害になるという例が少なくない。用心しないと。

2002 2・25 12

 

 

* お忙しいなか、湖の本二冊お送りいただきましてありがとうございました。思いがけずご署名まで頂戴して感激いたしました。「谷崎愛」「静かな心」秦先生の息づかいが感じられるようでした。大切に読ませていただきたいと存じます。

わが家では一昨日遅ればせながらやっとお雛さまを飾りました。日本の美しい習慣なのですが、いざ飾るとなると押し入れから引き出して、いくつも箱をあけて組み立てなくてはならず、なかなか億劫です。それでも何とか飾り終えると、部屋のなかの華やぎに心浮き立ちます。

毎年お雛さまの季節になると、私は昔ヨーロッパで見たいくつもの日本の古い雛人形を思い出します。とくにスイスのベルンの街角で見た雛人形は忘れられません。

私と幼い娘、そして婚約中の彼と彼女の四人で、夜道を歩いていました。ベルンの中心を流れる水の澄んだアーレ河に架かる橋を渡ると、河沿いの道に一軒の骨董屋がありました。暗闇にぽっかり浮かぶショーウィンドウの光のなかには、一対の内裏雛が飾られていました。西洋の絢爛とした装飾品に囲まれながら、しみじみ静かで華奢でみやびでそれは素晴らしいものでした。はるばる海を渡ってきた内裏雛を、四人は溜め息まじりに長いこと見つめていました。

そのとき一緒にいた彼と彼女は、数年後なんとも不幸な別れかたをしました。しかし、思い出の傷口から甦る、あの内裏雛に見とれていた瞬間の二人の映像は、今でもせつないくらい幸福です。

 

* 内裏雛むきあふことのなきあはれ  という句を、いつか、どこかで見つけた。作者が誰であったかなど思い出せない、雑然とした投句欄でみたのかも知れないが、句は一読哀れであった。小説の書けるこの人のこの遠いヨーロッパの一場面からも、なにか胸をうつ響きが聞こえる。書くといいと思う。

2002 2・27 12

 

 

* ちょうと゛十日前のこんな日録が遠くから届く。

 

* やっと「細雪の世界」を見る。切ない。情感、余韻。どこかで突き放して、ある距離をもって見る。そうしないとわたしは泣き崩れるだろう。谷崎が妻、松子に、彼女の妹重子に寄せた想いを、そのまま重ねて想い致せば・・わたしは遠く遠くはじき出されたところから、「異界」から、嘆くしかないのだから・・生きながら「異界」にわたしは位置している。

同時に、最近テレビで見た「細雪」「おはん」の映像も重なり、互いに影響しあいながらの感想をもった・・これは吉永小百合が雪子、おはん両人を演じているのでどうも結び付けて考えてしまうらしく、ダブルイメージという感じもするが。映画の中の雪子にはしたたかさ、もっとも強い、女性であるゆえのしたたかささえ感じられた。そのしたたかさをどう考えるかは・・生き方の姿勢の基本を問うことにも繋がるので微妙だ。その点に限れば、谷崎の美の世界を全面的に肯定しているわけではない。

「美しいもの」は同時にわたしには恐ろしくもある・・。但し「おんな」の生きかたについて言いたいとすれば、違う感想も大いにもっている。美しいものは、もっと超越している・・? 生身のおんなに何を見る?

嘆きながらわたしの時間は過ぎていく、消えていく。

日曜美術館の入江泰吉の奈良の風景も。

昼前からテレビのアイスダンスを見てしまう。自分に全く不可能な世界の一つだからこそ、ただ感心しながら見てしまう。ダンスする男女から発散されるもの、彼らが表現しようとしているものをわたしは受け取る。現実からいささか距離をもって、心だけの欲望をもって。

 

* 松子夫人はどう思っていられるかと、わたしは、あの頃も想像していた。谷崎が逝き妹重子さんも逝った。死なれて生きることはどんなに重いことだろうと思っていた。そういう思いの人は少なくないであろう。

2002 2・28 12

 

 

* 雨後  ついこのあいだまで、雪がちらついていたとは思えない、暖かい雨が、時に音を立てるほど激しく、夕方まで降り続きました。小鳥が、驚くほど低い所で、高音で囀っています。早口。まるで恋に憧れるティーンですわ。

相当乾燥していましたから、虫たちは、きっとてぐすね引いて雨を待っていたことでしょう。掘りやすくなった、温かく湿った土を、うきうきと退けながら、地表に出てくるのかもしれません。

ひなまつりの思い出話に花が咲いた美容院で、「染めてみませんか」と言われました。白髪が春の陽光に目立つらしいの。

 

* いつ知れず、滑り入るように三月になった。こういう詩のようなメールを、この人は、知り人の何人かに同報でいつも送っているのかも知れない、日々のアイサツとして。ほとんど毎日送られてきている。置きならべれば、一編の草紙になっているだろう。

 

* 名古屋から千葉へ転勤してきた東工大の卒業生が、岐阜のうまい栗菓子をメールに前後して送ってきてくれた。

2002 3/1 12

 

 

* ATCに七本の原稿を入稿した。正月以来の奮闘期をやや脱した感がある。かるい虚脱感のまま休息している。岡山の七十に成られるE-OLDから、旨い清酒を二升も贈って戴いた。久しい「湖の本」の読者である。私の著書のずらりと並んだ書架の写真や、愛蔵されている限定版の「三輪山」の写真などもいっしょに贈ってもらった。恐縮し、喜んでいる。

2002 3・2 12

 

 

* 岡山の有元毅さんに頂戴した名酒を、気に入りの信楽の瓶に小出しして、少しずつ頂戴している。

2002 3・3 12

 

 

* 広島の奥地から「今、大変です」とメールが来て驚いた。「今、大変です。 庭のチューリップは、元気に葉がのびています。私は、合併のことでいそがしくすごしています。明日は、委員会の傍聴にいきます。ここで合併協議会にはいるかどうかの採決が行われるのです。この目で、しっかり見届けたいとおもいます」と。ほっとした。元気がいい。元気がなによりだ。

 

* 京の新内  弥栄流新内家元・枝幸太夫をちょっとだけ聴きました。「江戸情緒新内流し」と、客席通路から「蘭蝶」をやりながら舞台へ。「明烏」のいいところだけ少しやって引っ込み、あらためて舞台で「籠釣瓶」の縁切りの場。

冷水で洗い上げ、締まった白い肌を、軽く拭ったまま出したような、江戸。ガーゼ一枚くるんだ感じの、京。囀雀

 

* こういう便りも楽しい。いいことやってるなあと思いつつ、お裾分けにあずかる気分。字面だけでも気持ちがいい。

2002 3・3 12

 

 

* 浪速の春  この間の会で、「お水取りが終わって、天王寺さんの彼岸会が来なんだらほんまに春が来た言ゥ気になりませんな」と桂文枝さんが語り始めた「天王寺詣」。

文楽劇場へ行った折り、四天王寺へも行ってみました。虎の門だけでなく、猫の門もあるのですね。足を伸ばして竹本義太夫の墓から庚申堂まで歩き、その門前で、甘納豆と昆布佃煮を買いました。うららかな春の日差しが差し込む、昔ながらの店先で、佃煮屋のじぃさんと常連客のじぃさんが交わす会話が、ちょっとノスタルジックな芝居か映画のようでした。

 

* こういう日々と感性とをもって生活する人も現にいると知っていることで、わたしは大きなバランスを与えられている。鈴木宗男や自民党の天下だけでは堪らない。

2002 3・4 12

 

 

* 古の人の植ゑけむ杉が枝に霞たなびく春は来ぬらし

現在一千万ヘクタールにもなる針葉樹の森林を造ってしまった原因は、軍需要材の大量伐採にあります。戦争で荒れ果てた山を早く回復させたい。その材で家を建て国を復興しよう。出発点はよかったのですが林業が立ちゆかなくなると、山には手入れをしない木が放置されました。膨大な花粉は、私には戦争と経済成長に翻弄された「植え捨て」の樹々

たちの叫びに聞こえます。

杉がいけないとなったら伐ればいい、確かにそうですが、伐るなら伐るで、ではどのような木を植え林を造るのか、そのお金と手間暇は誰が負担するのか、それを伐る前に考えておかなければ同じ事の繰り返しになってしまいます。

私は、できてしまった生態系とどう折り合いをつけてゆくかを考える道もあるのではと思います。

春を待つこんなよい時季に耐え難い不快感を強いられているのは確か。杉花粉のアレルゲン遺伝子は既につきとめられていますから、農学研究者の課題は、その合成をうまく押さえ込む方法を考えること、アレルゲンを含まない杉を育成することです。

人麻呂の時代のように、杉と人とがおおらかに共生できることを願っています。 まおかっと

 

* 期待どおりのメールが北海道から。感謝。「むかしむかし、そのむかし椎の木林のすぐそばに、ちいさなお山があったとさ、あったとさ」と、あの時代にしては軽快な歌を聴いた。「これこれ杉の子起きなさい」と「お日様にこにこ声かけて」杉の子の眠っていた杉山はサカンに生育した。植林したのである。原因があって、今の結果がある。

2002 3・6 12

 

 

* 今年は早く暖かくなったようで梅が満開です。昨日袋田の月居れ峠という小さな峠に行って見ましたら、温泉ができていました。ゴルフ場を作っていたら偶然に湧出したそうで、それをもらって町営で温泉を経営していました。村の銭湯という感じでした。茨城は道だけはどこも立派で、感心します。お元気で。

 

* 袋田ときくと懐かしい。また瀧をみたくなる。温泉も懐かしい。妻と行ったなんだか面白い名前の旅館の温泉が、まんまんといい湯であった。好きなのに、それほど温泉を知っているわけではない。

2002 3・6 12

 

 

* 腰のご機嫌はいかがですか? 陽射しは日一日と春めいて、また こころ騒ぐ頃となりました。

通勤電車はもっぱら文庫か新書を読んでいます。先週は 猪瀬直樹氏の「ミカドの肖像」(小学館ライブラリー)を、今週は 村上護氏の「漂白の俳人 種田山頭火」を読んでいますが、奇しくも 「ミカドの肖像」に登場する堤康次郎と、山頭火が、同時代に生きていたことに気が付きました。

1917年(大正6年) ロシア革命のあった年に堤康次郎は軽井沢の開発に着手、後々のプリンスホテル・西武王国への第一歩を踏み出し、一方 山頭火はその前年、故郷の山口を捨て妻と一人息子を連れて熊本へ移り住み、放浪行乞の人生のはじまりとなる。それぞれの生い立ち・生きようがあって、あとあとの生き様があるのだと思いますが、同じ頃に人生の切換ポイントを押していたことに、なにか感慨というか、衝撃(ちょっとおおげさ)をおぼえました。

私のイメージの大正時代?昭和初期(戦前)は、何か全体に靄に覆われたような、いつも曇天の空という感じです。でも 大正時代に生きた人々、特に女性は、背筋をピンと張って、まっすぐ前を向いて歩いていたような気がします。(瀬戸内寂聴さんの小説に拠るところ大ですが。)

西洋文明を消化し、近代から現代へのジョイントの時代だったのでしょうか?この時代の男たち(事業家や軍人や政治家)の生き様を追ってみることにも興味が湧いてきました。

ところで、インターネットで検索をしていたら、鈴木宗男のホームページというのがありました。なんとなく クリックする気にはなりませんでしたが・・・

 

* おもしろいメールであった。ああ、しかし、目の痒さよ。そうそう目薬ばかりさしていられないし。明日は花粉が凄いほど舞うらしいのに、また乃木坂まで会議に出る。

2002 3・7 12

 

 

* 恒平さん(と呼ぶのは二人しかいないそうですが。)

壁のカレンダーの桜を観ています。京都正法寺とはどこにあるんでしょうかね。別のは香雲亭とあり、これも知らない・・・。

懐かしい円山公園の枝垂桜、枯死した初代を引き継いだ二代目の、花も咲かせずひょろっと頼りなげな幼木を、毎朝ちらと見ながらあの道から八坂神社の境内に入り、石段下に抜けて弥栄中学に通ったのは、なんと、もう50年以上も昔の話になります。まあ、よく育ったもの、いや、桜も人も・・・という感慨があります。

住まいに近い平安神宮の枝垂れは、人目に付かない横手の柵をこっそり乗り越えて ”ただ見”、ついでにそこから徒歩5分の動物園も有料入場したことのない、そんな少年時代でしたが。

こちら何十年ぶりかの暖冬でしてね。これで裏手にあるオンタリオ湖の水位がどんどん上がるようだと、ちょっとえらいことになりますが・・・。

3月20日の京都美術文化賞選考委員会に出席のため入京されるとか。ということは、19日に東京を出て京都に2泊し、21日に帰られるということになりますか?

となると、実は私の京都滞在日程と見事にタイミングが合うことになるんですよ。3月18日に関空に着き4月22日迄の滞在です。19日から暫くは旅行の予定もなく家内の実家西大路四条におります。恒平さんの日程と合えば久方ぶり、多分、15年ぐらいをあいだにおいてお会いすることができようかと・・・。

昼間はどちらも予定でつまってしまうことでしょうが、私の方は19、20、21日といずれも夕方から空けておくことができます。そちらのご都合、行動予定と滞在ホテルをお教えください。  カナダ ナイアガラ発

( わたしもギックリ腰、付き合いのええことで。笑えてきまっせ、これは。)

 

* ナイアガラ近くに住む中学以来の友人が、ほとんど、お隣感覚で声をかけてきてくれる。昨晩書いていたわたしの日録を見ていてくれたのだ、風の便りでもなく、郵便の通信でもない。このすばやさが、すごい。NGOのいちばんの武器はまたは利器は電子メールだと聞いている。メーリングリストに十も十五も加わっていて、のべ数千人と意見交換をしているという人もいる。日本ペンクラブも、そういう身の軽さで、たとえば、声明にしても、メールのウエブを組織してゆく打ち込みが欲しい。声明してホームページに載せ、新聞に小さな記事にしてもらい、それで事足れりではつまらない。十人ずつのメルトモを持っているとして、一つの声を十人に伝え、伝えられた人がそれぞれの十人に伝えて、三度も波及してゆけば、大変な数になって行く。それが「広報」というものである。

 

* さて京都で、うまくカナダからの ツトムさんに逢えるかどうか。

2002 3・9 12

 

 

* 新潟の年少の友人藤田理史君が念願の九州大学法学部に合格をきめた。よい才能が筑紫で開花するのを心から楽しみたい。

2002 3・9 12

 

 

* 「老の坂から篠村へ、・・できれば、杉生・田能を越えて」是非行って来られるといいと思います。

ごぶさたしております。(いつも乍らほぼ毎日ホームページを拝見していると、ぜんぜんそうは思えませんが)人生劇場いろいろありまして、いろいろに時は過ぎて行きます。やっぱり行くのがいいと思います。腰、お大事に。

 

* メールの日付を読むと、もう十日。目は、ぼうっと瞼から重い。睡魔ではない、花粉の影響だが、睡魔に等しい。目を閉じているのがいちばんラクだが、そうもしていられない。「老の坂から篠村へ、・・できれば、杉生・田能を越えて。」いま、わたしの頭の中はほぼこのルートに覆われている。憑かれている。懐かしいが、怖くもある。京都の東山区は故郷であるが、寄留地でもあった。それなら同じ意味と比重とで「丹波」もわたしの故郷である。しかもこの丹波からわたしは自分の文学世界を立たせた。処女作は丹波に生まれ、受賞作も丹波に生まれ、その中間にもうひとつの「丹波」作品があった。それが、いま、わたしを蜘蛛の巣のように捕縛している。

2002 3・10 12

 

 

* ホームページを大増頁のために、設定の作業に半日を費やした。ただし、最後の段階でうまく行かないまま必要な手順が停滞している。卒業生諸君も、社会人になり二年三年と経てくれば、社内でも先輩格でひときわ忙しいだろうと、尋ねたいことがあってもなんとか自力でやってみようと、極力煩わさないようにしている、が。

 

* そんな中でも、結婚して幸せになった女性たちもいれば、恋に傷ついて相談してくる男性達もいる。若いことが輝きであるのは確かだが、輝かしい季節にはかげの部分もあるものだ。

2002 3・11 12

 

 

* 花粉症対策には杉を伐ればよい――。あ、とおもいました。自然でないことが過ぎて、いろいろ不都合なことが起っていますもの。狂牛病にしましても、草食動物の牛に不自然な食べもの、それも肉骨粉なんて、つまりは、同類相食むという残酷なことをさせて、それで、済むはずがありません。

とはいえ、わたくしたちは、少数の菜食主義者を除けば、日々、おさかなを食べ、お肉を食べ、卵を食べて、わが命を養っています。「いただきます」は、そのいのちへのご挨拶、感謝のことばと、教えられましたが、いつかうち忘れ、惰性的に「いただきます」と言っていることが、省みられます。

先日、何度目かの『秋萩帖』に、雨夜尊」のお名、ふっと立ちどまりました。「都名所図会」、あれが文庫本で出ましたのを、折り折り拾い読みをしてたのしんでいますが、「雨夜内親王」(「あまよのみこ」とふりがなが)というおひとに出逢いましたのを、おもいだしたのでございます。こちらは光孝天皇の姫宮で、やはり「御目盲ひたま」うてでした。

齋藤史先生の「鬼供養」十五首について、書いたところで、その十五首の中に、

喚び聲われにひびきて逆髪の冬木木みだるる山の斷崖

という一首があり、お能の「逆髪」を、蝉丸を思うたりして、『秋萩帖』のいずれがうつつともゆめまぼろし、とおき世のこととも分きがたい世界に、雨夜内親王の古物語が重なり、ふはふはと。そして、少しづつ、わが鬱も薄らいでゆくような。

2002 3・12 12

 

 

* 市の大ホールで日本語版オペラ「カルメン」を上演するのを知って一人で観てきました。ホールまでは二分咲き、三分咲きの桜のトンネルのサイクリングロードを自転車で片道三十分かけて。

今日始めて出会ったこの「音研21」というのはどんな団体か詳細には分りませんが、オペラやコンサートを無料で提供するらしいのです。結成十四年、もう十二回目とか。全く知らなかったのが残念です。

どんなに穿ってみても、何の宗教臭も政治臭も見当たらず、単に各音大出の人々のボランテイアととれます。舞台装置は完璧、衣装もほどほどによく出来ていて、プロのようには無理としても出演者の意気込みは充分あり、たっぷり三時間楽しみました。どうして無料なの、少し入場料を払わせてヨと思いながら、とにかくいい気分になりました。

この世には反吐が出る程に嫌悪感を与える人々もいれば、真剣に音楽を追求し、多くの人に楽しんでもらうだけを目的に、無料公演をするなんて人々もいて、こんなグループに出会えた今日は、世の中がバラ色にも桜色にも見えてきました。

 

* こういう、いい思いの人も世間にはいる。

ひきくらべて、外務省という役所の陰湿で陰険なことはどうだろう。鈴木宗男に同情する気など微塵もないが、田中真紀子に楯突いて追い出し、鈴木を隠し球で潰した。繰り返し書いているように、そもそも田中真紀子外相の最初のロシア課長人事を潰した当時の川島次官と内閣官房、官邸。その次ぎには、自分の仕える大臣を指さして、国会内で、国民の目の前で、虚偽の嘘つき呼ばわりした、それこそが虚偽であった当時の野上次官と、その無法行為を目の前で黙認した小泉総理や福田官房長官らこそが、問題だ。混乱の元凶であり、改革刷新の先ず槍玉に挙げられるべき者達は彼等だと、またも繰り返しておく。伏魔殿とはいかに正確な批判であったか、よくもあんなところで孤立無援で敢然と闘い抜いたと、やはり田中真紀子という政治家の肝の太さを称えたい。だれが、出来たか。河野や高村に出来たか。誰一人出来なかったことを田中真紀子はやり抜いたので、鈴木も潰せた。外務省が伏魔殿であることもハッキリ国民の目に見せ得た。感謝したいとすら思う。「この世には反吐が出る程に嫌悪感を与える人々もい」ると、上のメールの人が言い切るのは、たぶんこういう官僚社会や政治屋どもを指しているのだろう。

2002 3・17 12

 

 

* お身体、大切にして下さい。

たいへんご無沙汰しております。たったいま学会のビブリオグラフィーの原稿を出し終えて、年度末の仕事も何とか山を越え、ほっとひと息しているところです。(今日はこれから、学校の図書館の文化セミナーの宣伝に、市役所にでかけます。)

その後、何の連絡も申し上げず、たいへん失礼しておりましたが、このところ、「私語の刻」に、ご体調の不良を訴える記事の多いのが何としても気にかかり、メールを差し上げることにしました。どうか、くれぐれもお大切にして下さい。

私の方は、全然順調とはいきませんが、それでも何とかやっています。3年程前に体調を大きく崩して、その後、まだ全快とはいかないこともあって、体力の不足しているのがツライところですが、それももう自分の心がけ次第かもしれないと反省しているところです。

ずいぶん前にお話した単行本は、そんなわけで一向に進まず、何とかしなければとプレッシャーばかり感じる悪循環に陥っています。でも、これもたぶん言い訳。みんな、そういう苦しみを乗り越えてうちこんでいると思うので、それをしていない私は、実のところ、ただの怠け者です。

とは言え、国語教師としての目の前の仕事は何とか片付けていて、昨年は教科書準拠のワークブックの分担執筆、次の仕事は教材研究です。6月にはささやかな共著(30人くらい)が柏書房から出ます。

いま窓から見える伯耆富士大山は、とても綺麗です。そういう自然に恵まれ、いい学生もいっぱいいる、そんな申し分のない環境と言えば言えるのですが……、なぜでしょうね、気持ちが晴れません。人間はどこにいてもひとりなのだと自分に言い聞かせているのですけれど……。当地に来て8年、まだ孤独の深さみたいなものに包まれていて。強くなりたいです。

愚痴ですみません。元気なお便りを差し上げないと先生の体調にも悪いかな。そう思ってお便りを差し控えたりもしていたのですが、そうすると全然お便りできなくなるので、今回は思い切って。

そうそう、こちらに来て、雪をよく見るようになりました。落ちてくる雪だけをぼーっと見つめているときの、ちょっと舞い上がるような感覚が好きです。宮沢賢治の感覚が、少しわかった気持ちになったことがありました。もちろん、いまはこちらも、もう春です。やわらかな風に吹かれるのが、とても気持ちいいです。

では、くれぐれもお身体大切にして下さい。遠くからだけど、時々気にしています。

 

* 東工大よりももっと以前からの若い「戦友」である。懐かしい。そして嬉しく有り難い。

 

* 徳、孤ならず。そう聴いた。わたしは、昔からこの教えに懐疑的である。孤独な人は徳がないのか。わたしは、時には逆さまに感じてきた。不徳にして不孤、とわたし自身を律したこともあった。真に徳高きは、むろん尊い。しかし、汚らしいほど如才ない、真実は悪徳と異ならないかたちで身の周りににぎやかに人を寄せた徳人の多いことに、わたしはイヤ気がさした、今もそうだ。そんな意味でなら、いっそ世間の目に不徳と見えようが構うものかと思ってきた。

孤独と孤立とはちがうだろう。孤立しないように。しかし孤独には本質・本真のヒヤリとした美味がある。

「強くなりたいです」という声に、わたしはシンとする。わたしも強くなりたかった。強くはなれなかった。バグワンに出逢って、だが、わたしのよわさは、よほど鍛えられた。強くなどなろうとしなくていいのでは。エゴだけを育てて終いかねない。

2002 3・19 12

 

 

* さて明日は、いまごろ、カナダから帰国している中学時代からの友人とまだ話しているか、祇園あたりのどこかクラスメート・ママさんのクラブで、人の歌うカラオケ自慢に手を叩いているだろう。

2002 3・19 12

 

 

* オハヨウ! 床からの抜け出しが順調になり、パソコンも調子がいいようです。

これまで下谷には縁を持ち、出かける機会も多くあったのに、上野で満開の桜を観たのは、初めてです。

あの強風下で犇いてお弁当を開いている姿は何かを想像させて滑稽でした。私はちょっぴり覚めすぎかな。

知る限りでは、一は千鳥ケ淵、ニは小金井公園です。

今日は二人で、所用がてらに千鳥ケ淵の花見をしてきます。

 

* 花は盛りをのみ見るものかはとまで言う気はないが、花粉に負ける。それにしてもあの烈風砂塵にまかれて、地面に桜のためには害悪のビニールを敷き、飲食し談笑し歌舞している人達の酔狂は真似できない。だが、嗤う気も少しもない。

人はリラックス「しなくてはならない」と口にし、盛んにリラックス「しよう」としている人達の、撞着。「しなくてはならない」ようなリラックスとは、即ちプレッシャーであり執着であるにすぎない。世の中でいちばんリラックスしているのは、はためにはどうあれ、すべき仕事、本来の仕事に打ち込んで難なくそれが楽しめる人であり、いやな仕事から離れたときにだけリラックス気分になれるような人ではない。日記をみていると過剰に忙しそうですね、と言われることもあるが、本人はそれがリラックスとまで強がりこそしないまでも、たとえば花見やデートはリラックスで、仕事は苦渋などとは、まるで思いもしていないのである。

だが大岡山の花見にも行きたい、今年も。花見の雑踏が嫌いなわけではない。

2002 3・22 12

 

 

* 明治座での「伝統芸能の若き獅子たち」のBS放送、遅ればせながらビデオで。

タバコは美声に障るゾ、(大鼓打ちの)広忠クン。

今の<伝芸>美青年人気に、芸能当初の有様を想います。伝統芸能に無縁だった若い女性が、たまたま見た「文楽鑑賞入門ー人形ー」に映った玉男さんの弟子、吉田玉翔クンに一目惚れして、さっそく彼のサイトにアクセスしたという話を友人から聞きました。

昨年、雑誌グラビアで見た(落語の、桂)文枝さんに一目惚れした雀。ヘンかなァ。

 

* 藝能当初を探るのは容易でないが、能ははやくから男の藝であった。歌舞伎はそもそも出雲於国というぐらいで、女が活躍しながら、風俗的な禁令から野郎歌舞伎になり、役者買いといえば、絵島生島の事件のように女が歌舞伎役者を贔屓にしたのであった。雀サンはその辺を囀っている。これは謂えていて、そんなに今今のはなしではない。宝塚の男役に女の子達が騒いできたのの、ほんの普通の裏返しではなかろうか。もっとも囀雀サンの「文枝」好きは渋い。文枝は、わたしの、秦の養父の若い頃に、生き写しではないかと思うほど似ている。そしてもう高齢であり、広忠や玉翔の父親なみである。

 

* 主人が、帰ってきて、「会社を辞めた」と言いました。もともと自己都合でなくリストラですから、会社側は次の会社を紹介し、その会社も交えて、60才までの給与交渉も済んでいました。さまざまな書類を書き、最後の書類に判を押すだけとなった時、自分から全てご破算にしたそうです。堪えて堪えて、ついに、という、よく分からないけれどそういう心境らしいのです。事務職の父はOA化で、製造技術職の主人は構造改革で、同じ54歳での退職。

 

* こういう痛いメールも届いている。どうなる此の国。

2002 3・28 12

 

 

* 新アドレスでごあいさつ  ホームページを拝見しています。先生の広く大きな宇宙に 吸い込まれて行くような喜びで読ませて頂いています。思索に触れる このような素晴らしい(一部には辛い気持ちで読む部分もありますが)世界が開かれているのを識るにつけても もっと早くパソコンに慣れるべきだったと大いに悔やまれます。ご創作はもとより多方面でのご活動ぶり 驚嘆、感心するばかりです。私はいま 時間が余る立場になってきました。退屈はしませんが つい怠惰に過ごしがちです。もっとキチッとした目標を決めて日々を過ごすべきと自戒しています。

昨年は東工大の折りから満開の桜をご案内いただき また 長時間に亘ってお話を伺うことができ嬉しゅうございました。改めてお礼申し上げます。三十年前 保谷の駅の陸橋からお手を上げてご挨拶いただいた あの時の感動が重なるように思い出されました。

中性脂肪とか 尿酸とか嫌なものが増えています。僅かな酒 中々すぱっとは止められません。先生も 糖尿のご心配 お体どうぞおいといなさってください。

メールアドレス このメールのように決まりました。大きい画面で見やすくなりました。前のアドレスは解除しました。

間もなく京都の創画展 「ひさご」で昼をすませ 絵を見て 少し京を散策 春秋この行動、定着しました。

また メールさせていただきます。

 

* まさしく三十年の友であり読者である人からの、すこしこそばゆいほど嬉しいメールであった。いままでは、奥さん名義のメールであったから、めったに受信も無かった。いいご隠居になられているはずだ、懐かしい。

2002 3・28 12

 

 

* ご無沙汰いたしております。お元気ですか? 先週初め、九段の法務局に行きましたら、すっかり桜が咲いていて驚きましたが、それからあれよあれよと言う内に、当地のお堀の桜も開きました。

四月一日にまた三人がデンマークから里帰りで、楽しみですが、あれこれその前にもう私はダウン状態です。

どうぞお元気で、お気が向かれたら、お遊びにお運びください。

 

* なかなか東京を離れて旅をさせてはもらえない、すっかり東京人になってしまった。 2002 3・30 12

 

 

* やっと散髪できた。千葉のE-OLDさん、わたしを引き離して、どんどん高等技術へ進んでゆかれる、そのお裾分けの恩恵にあずかりながら、自分の進歩の無さに苦笑してしまう。喫茶店「ぺると」のマスターもまた懸命にわたしのホームページのために智慧を絞ってくれているのに、なかなか、それが技術的にわたしに受容できず、モタモタしている。本の発送を終えてからのことだ。

2002 3・31 12

 

 

* コーン婚  春も朧ろな空の下に、緑の見本帖のようになった山。ところどころに桜色。そして人の暮らす地が、ひろびろと霞んで、視野の果てまで延びています。蕩々と、逝く川も。古都橿原のホールロビーの大きなガラス窓越しに、すべて、ひとながめ。のォんびり、のどかァな、大和の景色のなか、桂文枝さんが語るのは、長屋の男たちが得た、花見の季節の婚姻ばなし。ひとりは幽霊を、もうひとりは狐を女房に。「葛の葉子別れ」なンですねェ、「天神山」って。<身内>をおもい慕う、ひとときでした。

 

* 室町時代に「狐草紙絵巻」がある。狐の化けたとしらずに女房となかよく暮らす男が、伴侶は狐と知るや怖じ惑い疎んじる常の成り行きだ、が、絵巻をはじめて観て、惚れているのならなんで狐ではいけないんだと思った。うらみ葛の葉の信田狐のはなしで、わたしは子どもの時から狐の母=女房に同情した。

2002 4・4 13

 

 

* せっかく春になったのに体調を崩しています。最近運動する時間が減ったためだと反省しています。

来月また恵比寿で演奏会を開きます。5/26(日)15:00?17:00です。詳しい事は又ご連絡を差し上げます。お忙しいとは思いますが、楽しい演奏会にしますので、どうぞよろしくお願いします。

今回はピアニスト数人と大阪より木管五重奏団を呼び寄せます。木管五重奏はご存知ですか?明るく楽しい楽器の編成です。フルート、オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットから成り各楽器の個性を生かした曲が多いです。弦楽四重奏のようにいかにうまくまとまるかというのとは、少し世界が違うような気がします。むしろ個性のぶつかり合いです。+ピアノという編成の6重奏(テュイレという作曲家です)も演奏します。非常に難しいのですが楽しい曲です。

今回つれてくることはできませんでしたが、非常に素敵な人が兵庫にいます。上記の木管五重奏の仲間の一人でクラリネット奏者です。ゴールデンウィークに会ってきますが、なかなか東京で遊ぼうと口説くのが難しいです。

関西人には、向こうのノリの良さに合わせた爽やかな弁舌がないと、難しいのでしょうか?関西の女性の惹かれる人はどんななのでしょうか?何かアドバイスがありましたら教えていただきたいです。

大阪学という本を読んでいましたら、とにかくかざらず本音を言うのが関西人だということがかいてありました。あと非常に考え方が合理的だそうです。確かにそういう面は私の友人も強いです。あと、自分を落として受けを狙うのが特徴だと思います。

それでは、演奏会よろしくお願い致します。

 

* 関西といっても、京都と大阪と兵庫とではずいぶん違っていそうに思う。妻は兵庫で生まれ大阪で育ち、京都で大学生活をし、親たちの根は和歌山県。複雑なモノである。しかも東京がいちばん長い、もう四十年過ぎている。あまり参考にならない。弱ったな。

2002 4・5 13

 

 

* いいメールが幾つも来た中でも、心地よいニュースが舞い込んだ。女性である。

 

* ご挨拶  秦恒平さま、こんにちは、ご無沙汰しております。**です。お元気ですか?明日は東工大の入学式ですが、本館前の桜は青々としています。しかしながら、サークルの勧誘のためか、桜の下には例年通り青いシートを敷いて場所とりをしている学生もいます。

秋にメールをお送りした後、なんとか博士論文を仕上げることができ、3月に、無事、学位を頂きました。

また、4月より、同じ学科内の別の研究室で助手として働くことになりました。建物の中で1つ下の階への移動でしたが、同じ学科内とはいえ、専門分野が異なるので、新たな挑戦が始まります。幸い、新しい研究室では暖かく迎え入れてくれたことと、学生と年齢が近いので、ストレスを感じずに過ごせています。本当にありがたく思っています。

先日、引越ししました。住んでいたところが学生専用であったため追い出されました?! 新しい住所は以下の通りです。(連絡が遅れて申し訳ありません。)(略)

引越しの荷物を詰めているとき、秦さんに、約6年前に頂いたお手紙を見つけました。飛び級のご相談をした時のものです。

あの頃は、先に進みたいんだけど、自分自身で一歩踏み出すことに躊躇していました。その時、いろんな方に相談しても、みなさん「すごいね」という言葉がほとんどで、かなり萎縮していたところ、秦さんからの手紙には、機会を逃すことがあなたの気質に合うだろうか? との問いかけがありました。この言葉が、あの時の私への決定打でした。

また、それまでたくさんの「飛び級」の学生をご存知だからこそ、デメリットも、苦労する点をもご指摘いただいたおかげで、新たな仲間になじむことができ、今では、学部までの同級生と大学院からの同級生と、2倍の友人が増えました。私の財産です。

それでは,今後ともよろしくお願いします。

 

* こういうことになるものと、安心して三年生から院へ後押しの出来た学生であった。なにしろ何百人の大教室の中から、教壇へとことこと友達を連れて寄ってきて、「先生、歌舞伎に連れてってください」と申し入れる人であった、毎日やっていることといえば、わたしなど計り知れぬことばっかりの、あの工学と物理の大学で。喜んで、三人だったと思う、歌舞伎座へ連れて行った。それは楽しかった。

じつは何の「博士」と聴いても理解できないし、こういう博士が、こういう先生格が、もう何人もいる。わたしのそんな助言だか激励だかが少しでも役に立ったのなら、嬉しい。

 

* 今年はあいにく、お天気とわたしの時間とがチグハグして、とうとう退官後初めて、東工大の桜を見損なった。頭のどこかに、シンボルですらあった講堂わきの佳いスロープが、桜樹や緑樹もろとも昨年無残に殺されていたのが、気を滅入らせていたとも言える。桜の根本に青いビニールシート。あれが桜のためにはたいへんな害毒と、天下の桜博士で桜医者の植木の大先生が、先日テレビで悲しんでいた。それにくらべて、酒飲みのヘドにしても排泄物にしても、「こやしになるだけですから」と涼しい顔だったのが可笑しかった。

2002 4・8 13

 

 

* 「懸想猿」正編では、フランソワ・トリュフォーの「隣の女」という映画を思い出しました。

小説を書くためのシナリオ修行だったというこの作品を読んで、劇・映画のためのシナリオと、小説の違いを、なんとなく感じました。ですから、「懸想猿」にあった「小説を書くといい」という講評は、さもありなん、です。

先日、たらの芽のてんぷらを食べました。やわらかくておいしいこと!近所のおばさんが、採れたてを両掌いっぱいに持って来てくれたのだそうです。

春は、あと、ふきのとうもたのしみです。どこかから戴けるのをあてにして、ですが。

家の前の土手を臨めば、左にソメイヨシノ、右に花桃が、路に沿ってずらっと並んでいます。ソメイヨシノはすっかり散ってしまいましたが、花桃は、濃い色の花弁をつけて、まだ頑張っています。

東京の劇場へは遠いけれど、山の暮らしもなかなかです。

ころころと気温の差の激しい毎日ですが、風邪など引かぬよう、お気をつけください。

 

* 庭といえるほどの庭ではないが、横長に二軒続きの細長いところに、もさもさと木や草が生えていて、いちばん大きくなっているのが、西(イリ)の、桃の木。食べた種を放り込んで置いたのが芽を吹いて、どんどん、という程ではないが小屋根より随分上へ行っている。お隣へも枝をはるのが気兼ねである。けっこう、という程でもないが、花をつける。先に育っていた木蓮より大きくなっている。

わたしたちは東の棟に暮らしているが、こっちの細長い庭には細長い書庫が建っていて、庭はその屋上。昔帝国ホテルの総支配人をしていた読者から、よく歳暮にもらっていた盆栽の梅なども、面倒が見続けられないので、日当たりのする此処の土へおろしてしまい、大きくはならないが根付いて、季節には満開の花を咲かせる。

今は色とりどりのチューリツプなどがいっぱい咲いて、雪柳も。金雀児はあまりはびこったので抜いた。狭い幅の細長い屋上庭園で、足元をふさいで危なくもあるので。とにもかくにも半端な庭だが、季節ごとに、ちょっとカメラを持ちたくなることもある。だが、わたしは、たいていそれも忘却している。

2002 4・13 13

 

 

* セヴィーリヤより  すっかりご無沙汰しております。3月は、こちらではかなり大きなお祭りがあり、面白かった反面観光客が多過ぎてまともな生活ができず、苦労をしました。そんなお祭りもやっと終わり、今は普通の生活に戻っています。

今はとりあえずスペイン語の勉強と料理の勉強をしています。スペインの料理は日本人の口にも合うものが多く、なかなか面白いです。まぁ、なんとか精神だけは平常に保って生活しています。

日記の方も続いており、もう少しで300ページになりそうです。まだ先生にお見せできるような段階ではないですが。

そちらはいかがですか。最近は異常気象で桜もかなり早く咲いてしまったとか。くれぐれもお身体にはお気を付けて下さい。それでは。

2002 4・13 13

 

 

* 福岡からの初便り  暖かいでしょ暑いだろと、遠く離れた仲間たちには言われています。が、思ったより冷え込みはきつく、天気もころころ変わります。

逆に、新しく知り合った人たちは、新潟って寒いよね、まだ雪があるの、と。「新潟出身です」の一言でずいぶん覚えてもらったから、トクといえばトクな立場です。あまり気負わず、ゆっくり大学に馴れていこうと思っています。

「懸想猿」ありがとうございました。顔を歪めながら、ぐんぐん惹き込まれました。

今は「蘇我殿幻想」をひさびさに、こちらも惹き込まれています。秦さんの作品を「麻薬」と表現した人がいたそうですね。同感です。

福岡に着いて間もなく、「元気に老い、自然に死ぬ」を買って読みました。山折哲雄の文章は一度読んだことがあります、受験国語の問題文として。なかなか読み応えのある印象だったのですが…この対談、山折氏が何を言いたいんだか、よくわかりませんでした。秦さんのほうは論旨がはっきりしていて、とてもおもしろかったのに。

特に忙しいというのでなく、新しい生活に落ち着いていないだけなのですが、落ち着かないなりにどうにかやっています。身体は元気そのものです。

「生活と意見」、おもしろく、またとても勉強になっています。毎日覗くのが楽しみです。お忙しいようですが、迪子さんともども、お身体を大切にしてください。

 

* ようしと、わたしは一声入れた。気象情報でも分かるように、九州は、日本列島のお天気の入り口でもある。九州から始まっていろんな情報が東へ北へと運ばれてきたのが日本の歴史だ。たとえば「竹」がそうだ。竹は民衆の工芸の木とならんで大とも取らない工芸素材であったが、植物としての竹も、竹の手芸も、九州の南の方から北上してきたのである。わたしの年少のこの友人が、あわてず騒がず北九州の学窓から何を睨んで何を発信してくるか、落ち着いて楽しみに待ちたい。彼が大きくなるまで生きていたいとよく思う。

2002 4・14 13

 

 

* 運動が大の苦手なのに、小学生の頃、ドッジボールで、どうしたわけか、一人生き残ったことがあります。取れそうにもない男の子のボールを、正面から受けて、落球。ゲームセット。

いつか、「まだ、書かない」とおっしゃるモティーフが形をとって示されたとき、その質量と重さを受け止める、精力も、知性も、私にはないでしょう。それでも、秦さんから、手がしびれて取り落とすほどのボールが放られるのを待っています。

 

* ありがたい。だが、二十三十代、四十代、五十代。人はそれぞれの過程で器量に応じた必然の生を生きたり表現したりする。ゆるやかな融通性も持ち合わせながら、人生はほぼ不可逆的に流れている。「夜明け前」を書こうという藤村に「若菜集」を望むのは筋がちがう。質は通っても表現の姿勢がちがっている。「渋江抽斎」の鴎外に「舞姫」を望むのも、「幻談」の露伴に「一口剣」を望むのも自然でない。例外的に「瘋癲老人日記」で最晩年の谷崎潤一郎には、ほぼ処女作「刺青」と畳み合えるものがあった。「たんぽぽ」の川端康成はどうであったろう。

ともあれ、「いま・ここ」での「いろんなこと」をわたしは真っ直ぐ迎え入れ、楽しんで自分の一生を過ごしたい。書いたものを、どう人が、読者が、受け取られるかは、その人たちに任せたい。「人のため」に書きたいと書いてはこなかった。「人のため」になりなさいと教えた昔の倫理に、わたしはとうに背き果てている。「懸想猿」の頃に、作家になれるかどうかは、極めて前途不透明だった。太宰治賞が向こうから飛び込むなんて夢にも思わなかった。賞を受けたときでも、筆一本でいつか立てるかどうか、よく分からなかった。わりとあざやかに二足の草鞋を脱いだとき、むろん「湖の本」を予測もしなかった。東工大教授を頼まれるとも夢にも思わなかった。そして「ホームページ」や「電子文藝館」などインターネットでこのわたしが活動するなどとも。そもそもわたしが京都という街から離れて暮らせるとは親たちも信じなかったし、多くの友人達も信じなかったものだ。だが。みな実現してきたことだ。なら、この先にどんな展開があるか、わたしにも分からないのである。だから楽しめるのである、毎日が。「元気に老い、自然に死ぬ」と山折哲雄さんと話し合ったのは、つい先頃だ。どうなって行くか、分からない。それがいい。六十六。いま一編の名作か、灼熱畢生の恋か、となれば、さあ、さあ、さあ。さあ、どっちだ。決まっていると簡単には言えないが、鏡を、見なくても、我ながら苦笑は禁じがたい。名作は独りで書ける。恋も独りでできるが、見よいものではない。ゲーテの真似はできそうにない。

2002 4・15 13

 

 

* 19日、成田へ送りまして、ロンドン経由でコペンハーゲンの家に着いたと今朝の4時頃電話が入りました。それでやっと安心して眠りました。今日は夜勤で、今は帰ってきて、お香を焚いて、楽しんでいるところです。

若い夫婦は、見ていて気持ちのいい本当にいい関係です。

私は動物好きなので、小さい人は大好きです。可愛いし、私が育てたい気分です。育児が人生で一番楽しいことだったと思います。今でも。

 

* 申し分のない幸福そうなメールと読める、が、小説家は、見逃さない。非在の存在。書き手の夫がここにいない。その事の照り返しが子や孫のうえへ、ペットへ、輝いている。育児が人生で一番楽しかったのは「母」のおのれであり、「妻」のおのれは痛ましく脱落・欠損している。こういう夫婦の少なくないこと、残念だが多数例識っている。無意識にも意識しても、子どもに、気持ちの上で縋り、ぶら下がろうとすらしている。それが幸福ということであると、却って自分を説得し納得させようと努めている。相変わらずの「日本」の母である。夫もよくない。だが妻の、老いてなお「母」への退避は痛ましい。「老夫婦」の時間が長ぁい長ぁいものになって行く中で、日常的にコツコツと積み溜め固い石と凝ったような「寂しい夫婦」乖離現象は、二十一世紀、深刻な孤独をますます助長するようだ。「親子」か「夫婦」か。こなれない難しい議題だが、二者択一ではないという自覚が、ま、落としどころか。

 

*  雨の日曜日   今朝、夕べから泊まっていた母の家を出るとき、「ひょっとすると仕事がたまっているので、今夜は独りで食事をするかもしれない。」というと、母は、少しさびしそうな顔をしました。

孫の世話はしましたが、私についてはほとんど同居の伯母や祖母に任せていた母が、八十歳を目前にした今、孫娘たちの不在も原因なのでしょうけれども、しきりと私と一緒にいたいというようになったのです。

そうは言っても、わざわざ日曜日は母と過ごすためにとあけておくと、自分は仕事の取材だからと日帰りや一泊くらいの旅にでかけてしまうこともあるのです。

「やはり、仕事があるので、悪いんだけれど今日は家で食事をするわ」と、電話をかけると、「悪いんだけれど なんていわないでほしいわ。もっとあまえてちょうだい」と言われました。

そう、母を尊敬してきましたが、本当に甘えた記憶は数少ない気もします。二十歳しか離れていない母娘なのに、母一人娘一人なのに、互いに求める気持ちが、微妙にずれてきたような気がします。

幼いとき、ほんの少し甘えたいと思うと、「仕事で忙しいから」と言われた思い。助っ人のいない離れた土地での、年子三人の子育てで、まだ二十代だった私が甘えたいと思ったときに、「あなた母親でしょう」と言われた思い。あれから、母の気持ちは、ひたすら孫かわいさに向かっていた気がします。

もう甘える年ではなく、母をいたわりたい、母に甘えてほしい、と思う今になって、「甘えてほしい」といわれても・・・。

さまざまな事情があり夫と別れて、母の家から数分のところに住むようになって、三年。「近くに帰ってきてくれるなんて、思っても見なかった。なんて幸せなのかしら」と言われるときの、ぴりりと塩辛い思い。

結婚生活を続けていたとき、母と一緒にくらしたい・・・母がそう願っているから、という思いが心の奥にいつも澱んでいました。

母が大好きです。母の生き方をずっと憧れの思いで見つめてきました。母を幸せにしたい思いをいつも持っていました。

けれども、この呪縛されたような思いは何なのでしょう。月曜日からまた始まる窮屈な仕事の生活の前日に、独りの自由な心の時間を持つことさえ、母と一緒にいてあげられないという小さな罪悪感にぐらついてしまうのは、なぜでしょうか。

いいえ、ひょっとして私の方が親離れしていないだけの話かもしれません。母は私が行かないことをそれほど寂しいとも思わず、同居の姉(伯母)と二人で、テレビを見ながら談笑しているのかもしれません。

しかし、私は母の無意識の呪縛につながれて、母の近くに来る人生を選んだのかもしれないと、ふと思うこともあるのです。母は決してべつにそう望んではいなかったのですが。

とりとめのないおしゃべりをお許しください。

今日は、本当は娘・・・ なくなった娘について書き進めたかったのです。

けれども、あまりにもそれは重いテーマです。

両親の離婚 離婚に到る両親の葛藤の日々 三姉妹の真ん中、姉妹との関係 内向的な性格で特に父に疎まれていたこと  発病 など。雨の日 くちなしの花を見るたびに、祈るような気持ちで、冷たく細い娘の手を引いて病院の中を歩き続けた日を思い出します。細い雨がくちなしの花をぬらし、甘い香りを漂わせていました。

病院の夏祭り、うれしそうに踊っていた娘の哀しい姿。

退院、初恋、幸せな日々、そして就職活動 過労 再発・・再入院、完治しないままの退院・・自ら病気を理由に出産を諦めた新年 机の上にあった幼稚園時代の親友の赤ちゃんの写真 病気の悪化 絶望

空に飛んだ日。

娘を産んだこと 娘を育てたこと 娘に死なれたこと  自分を責め、苦しんだこと。

もう、とらわれていないつもりです。そして少しずつ、あるいは一気呵成に書くことで、娘を産み、育て、死なれたことをありのままに受け止めてみたいと思っています。

これから母に明るく電話をして見ます。つらいことも多かった人生を支えてくれた母ですから。甘え下手の私ですけれども。

母とでもなく 娘とでもなく 独りでいるときにいちばんくつろぐ私は 相当な偏屈者なのかもしれませんね。

雨の日曜日。玄関にラベンダーの鉢を置きました。

疲れて帰ってきたときにラベンダーの香りに癒されるように。

 

* 「母と娘」とでも題して、「雨の日曜」の素直によく書けたメールで、首尾の整いもある。なかなかこうは書けないものだ、文章に自然な力が出たか。この内容、ひょっとして朝のわたしの「私語」が刺激したかも知れない。胸の底から噴出せずには済まない動機をこの人は抱いている、モウンニング・ワークが続いているようだ。

2002 4・21 13

 

 

* 親機が大破とはどんな状態なのか、本当に困りましたね。サポート体制を早急に確保できますように。

わたしがバグワンからどんどん遠避かり???

そう解釈されるのは単にメールのことばを鵜呑みにされていますよ。

わたしが「勉強」し我が身を何かに駆り立てようとしているのは、生きている証拠。生きる僅かの努力です。それだけの単純なこと。落ち込んで無気力だったら・・嫌でしょう?そういう無気力ではなく、異なる意味で無常観を抱えて転変をみつめて、生きる根底で、わたしの内部で、バグワンの言葉は静かに響いていますよ。

 

* 勉強に、我が身を「駆り立てる」のでなく、勉強を「楽しんでいる」のでは「生きている証拠」になりませんかね。所詮無益な夢だもの。無常とはそういうことでしょ。そんな無常から大きく目覚めて、常の定(じょうのじょう)の体(てい)で、帰れ海へ、ちいさな波よ、かすかな波頭の一つよ、と。

なににしても「駆り立て」ればシンドク疲れる。疲れるとはマインドの餌食になっていること。ドント マインド、ドンマイ。そういうこと。どこへ急ぐ。いまここを、自然にゆったり楽しんでは、たとえここが地獄であろうと。ま、そういう気持ち。

 

* 楽なことと楽しむこととはちがう。楽なことなら楽しめるというわけではない。

2002 4・26 13

 

 

* 望の月でしょうか、中天に浮かぶ朧ろ月。

最後の最後まで、花をかがやかせていた巨木が、みずからのふりこぼすはなびらにつつまれながら、しずかに倒れました。齋藤史先生が、とうとう……。

昨日のちょうど今ごろ、まだ夜深いというか、明け近くというか。

史先生のたましひがふはり、地上を離れたとき、やわらかな、おぼろ月のひかりがひろがっていましたでしょうか。

身辺、いよいよ、さむくなりまさってゆくようでございます。

 

* 与謝野晶子以降の大歌人、真正の詩人であった。全うされた生涯と想うことで、黙送している。処女歌集をのぞけば、斎藤さんの頂点の大きな一つは、「ひたくれなゐ」であったろう。わたしはその帯の文を書かせて戴いた。実に重厚に大きな栃の木の鉢を戴いているし、全歌集や単行の歌集も何冊も戴いている。普通の歌人にはどうしても、五・七・五・七・七と「数えた」ように、その上に「言葉が置かれ」てくるが、斎藤さんの歌はそういうことが感じられず、音数句数など感じさせない渾然と一首であった。わたしは歌人と呼ばず、詩人と、より大きく呼んできた。 2002 4・27 13

 

 

* 仏像と純ちゃん  みうらじゅんの本業は、よく目にしていましたし、ウルトラマン世代の雀は、仏像とウルトラマン、仏像と怪獣、と結びつける彼の絵に、興味本位、面白半分で、吉祥寺パルコでの展示イベントを見に行きました。10年ほど前でしたでしょうか。彼が小学生のとき作ったスクラップブックを見て、軽い物言いをして、おもしろおかしく描いてみせてるけど、違うな、と、襟を正し。それからなんとなく気になっていました。先日のNHKの番組で、京の生まれ育ちと知り、やはり、と納得がいきました。一番は東寺ですって。行ってこようかな。

 

* 昨年来取り組んでおりました『IP?VPNのしくみ』がやっと出来上がりました。お手元に届きましたでしょうか。対象は企業ユーザー向けとなっておりますが、第5章や第6章の暗号化あたりだけでもお目を通していただければ幸いです。

ところで、先生のホームページ一新されましたね。フレームを使うと多少画面の幅が小さくなりますが、操作性が向上します。ずいぶんと使いやすくなったと、私は感じています。

一方パソコンは、あまり使いやすくなりません。私のメインで使用しているPCが2,3日前に突然故障してしまいました。原因はマザーボードがダメになったようです。すぐに修理ともいかず、代替のマザーボードを入手してから取り組む予定です。その間は、ノートPCで作業していきますが、予備のPCやWEBサーバの必要性を身をもって感じました。ではまた。

 

* 「マザーボード」とは何かが分からないので、事情は具体的に分からないが困惑は分かる。コンピュータを使い始めてから、四機使い、一機めはあまりに古い機械でだめだったが、二機めはそうでもなかったのに二三度も秋葉原に運んだし、三機目も運んだ。四機目は組み立て機で、大きくて運べない。五機目はペンの事務局から昨日運んできた。

こんなことでは、まだまだ安定したインフラとは言われない。「みづほ銀行」のていたらくを見ても分かる。だが、それでも、便利だ。どんなに仕事を助けられてきたか計り知れない。芝田道さんの著書が役に立ちますように。

 

*  外付けからスキャナーを外し、MOだけを取り付けることでMOが使えるようになった。スキャナーと交代してソケットを差し替えるのは面倒だが、いずれ、三つ連携のケーブル設定を見つけだすだろう。そうなっても、ホームページの転送や、メールのタメには、外付けディスクの利用を一時断念して機械を「ネットワーク設定」に戻さないとインターネットが使えない。厄介だが、しようがない。

外付けとMOとが機械に連携すると、バックアップも取り出しも、たいへん便利になる。もともと周辺機器は、プリンタも含めて、みなこの子機の方にあった。

2002 4・28 13

 

 

* 昨日は肌寒く、夕方には雨も降りました。そちらは上天気のようですね。

GW中に、「天神さまの美術」と「榊莫山展」、そして見たかった台湾映画「聖石傳説」のために、名古屋へ行こうと思います。

GW明けには香港映画「少林サッカー」が封切られます。これも見たい。くッだらない、しょうもない、マンガみたいな、おバカ満載、香港お得意爆笑映画で、涙流して笑うンだ。

 

* いま「涙流して笑」いたい、笑っている日本人が多かろう。有事法、メディァ規制法。イヤな流れがそのまま濁流化している。斎藤史であったろう、時代の「濁流」をみつめて歌った若き日の詩人は。

2002 4・30 13

 

 

* 午前中の青嵐が止んで、つくばは雨になりました。

 

濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ  齋藤 史

 

「有事法、メディァ規制法。イヤな流れがそのまま濁流化している」というおことば通り、イヤな濁流が、すぐそこに迫っているような。

暗澹たる思いがいたします。

亡き父が、ロシア文学の徒というだけで特高に追われた時代に逆戻りしそうで、怖ろしうございます。

大勢のひとが血と涙であがない、わたくしたちに贈ってくれた「自由」は、たった、五十余年で、失われようとしています。血と涙を流してくださったひとびとに、何と言ったらよろしいのでしょう。

しずかな雨のけはいに、亡き魂を感じております。

 

* 斎藤さんの夫君は、2.2.6事件に連座された軍人であった。自決し又死刑にされた青年将校達は少女であった斎藤さんのいわば友だちであった。上の歌は、斎藤史の出発を告げてほとばしり出た痛切な批評であった。「ひたくれなゐの生ならずやも」と歌った人の根底の視覚である。

2002 4・30 13

 

 

* 千葉県の高校の先生が「月刊国語教育」にまた漱石の「こころ」について書いたのを送ってこられた。手紙があり、わたしの「こころ」の説が、小森陽一氏の発表よりも時期の早かったほんとの「新説」であったことを知り、「驚きました」と。よく誤解されているが、小森氏の説が公表される以前に、氏からの驚きと興奮の手紙を貰っている。わたしが、上の、三宅貞雄氏に出して貰った五十歳記念の豪華本『四度の瀧』の跋文に書いていた「こころ」の新説を読んでの手紙であった。その時には電話でも小森君と話している。自分もいま同じような趣旨の論文を用意していると書かれ話されていたのである。

「私」と「奥さん=静」との男女関係や子供や結婚にまで最初にはっきり言及したのも、わたしであった。そのお陰でずいぶんあちこちでやられていたようだが、今日では、もう否認できる人は居ないも同然になっている。わたしは学者ではないから、学界でのオリジナリティーなどどうでもよいが、事実はその通りだったのである。

2002 5・2 13

 

 

* 布谷君から電話が貰えて、ほっと一安心した。ディスクの全破損か部分破損かは前者寄りの予測だが、大方はMOディスクにも残してあるし、ハードディスクの入れ替えで事が済めば有り難い。ディスク持参で明後日に行ってあげるということで、地獄で仏の思いがする。この子機の仕事の遅さ・重さにはまいってしまう。

相次いで子松君が会いたいと電話をくれたので、明日昼前に池袋で昼飯を食う。恵比寿の演奏会で顔を見て以来だ。山登りよりも音楽らしい、この頃は。

2002 5・2 13

 

 

* 昼前に、池袋で子松時博君とひさびさに逢い、パルコの「船橋屋」で天麩羅と甲州の酒「笹一」をご馳走した。ひとしお細く背が高くなっている気がした。もう二十九だという。光陰矢の如し。しかし昔とすこしも変わりなく歓談二時間。五月末の恵比寿での音楽の催しに誘ってもらい、新しい仲間達のことも聞いた。山登りより、このところ音楽寄りであるらしい。珈琲もご馳走して、喫茶店でさらにお喋りを楽しんだ。池袋の人出、たいへんであった。

 

* けさは黒いマゴに四時半に起こされ、そのまま起きて、太宰の「桜桃」を校正し、夫馬基彦会員の小説を通読念校したりしたので、体力も考慮し、子松君と別れるとそのまま家に帰った。

2002 5・3 13

 

 

* 秦先生 世の中、ゴールデンウィークですね。観光地に住む身としては、内心あまり有り難くない季節ですが、鮮やかな若葉の色や香りに包まれていると、そんな思いを慎まねば、という気もしてきます。

「山粧う」は秋の季語でしょうが、今のこの季節の若葉も様々な色を示しますね。

そうそう、秦先生に一度伺おうと思っていたのですが、春は「山笑う」秋は「山粧う」冬は「山眠る」 夏の山はどんなことをしているのでしょうか。夏だけ思い当たらないのです。

随分とごぶさたしておりました。

「仕事と育児の両立」という言葉は大嫌いですが、今の私はまさにこういう状況にあるようです。

正直なところ、仕事をしている間は育児をしていないのですし、子どもの相手をしている時は仕事はしていないのですから、どちらも手抜き(主に育児のほうですが)をしているに過ぎないのが働く母親の実情のように思っています。決して「両立」なんてことはあり得ないですよね。

育休をとっている間にずいぶん考え抜いて、仕事を再開したつもりでしたが、それでも押し寄せる現実に自分を見失うまい、と踏み止まるだけで精一杯の数カ月でした。

どうやら私は、同世代の他の女性よりも「遊び嫌い」のようです。学生時代に歌舞伎だコンサートだと遊んでいた身としては、先日、指摘されて少し驚きましたが、確かに何日間でも家の中にこもっていても苦痛でないことは確かです。子どもを生んだ女性が、家の中にいると息が詰まる、などと言っているのを聞いてもピンときませんし。

家の中でも本を読んだり、調べものをしたり、おいしいものを作ったり編み物をしたり、庭仕事をしたり、たくさんの楽しいことができますよね。つまりこの性向は、専業主婦向きなのかもしれません。

毎日、私が帰ってくると満面の笑みで迎えてくれる娘を見るにつけ、「仕事をやめようかな」という思いが頭をよぎります。そのときに、家にいるの好きだし、とさらに後押しされるわけです。

けれど、仕事をはじめて5年目。特に職場に復帰してからは、急に仕事が面白くなりはじめたのです。教習所で免許をとっておっかなびっくり運転していた自分ではなく、自分の手足のように車を動かす、そういう時期が来ますよね、暫くすると。ちょうど、いま、仕事上でその時代が来ているようです。そしてそこで得られる知識、思考、方法論などは、子どもに伝えてやりたいものでもあるのです。

そうは言っても、仕事をやっていれば「なんでこんな下らないことに時間を割かれるのか」という日もあるわけでして、そんな日は「仕事をやめる!」に大きく気持ちが傾きます。そのあたりのバランスをどうにかこうにか飼いならしつつ、ようやく秦先生にメール差し上げる余裕ができてきたので、さっそくお便り差し上げている次第です。

ホームページで拝見しましたが、子松君、お元気なのだそうですね。実は、彼とは同じ学科の同期です。一度もお話したことはなかったのですけれど。それでも、かつての同級生のたよりを聞くというのは嬉しいものですね。

あの頃にはほとんど感じなかった男女差ですが、社会に出ると、やはり男性陣のパワーに圧倒されます。そんな思いもあって、女が子どもをおいてまで仕事を続ける意味がどこにあるのだろう、と考えこんでしまうのです。

先生の「男は嫌い、女はバカ」言い得て妙ですね。わたしも「おバカだな」と言われる女でいたい一方、仕事の上では嫌われるくらいになるべきなのでしょうけれど。

あいかわらずのご多忙、どうぞご自愛下さいませ。まぶしいほどの五月を堪能なさいますよう。

 

* しっかりと便りらしい便りをもらったという手応えがある。安心して聴ける佳い「挨拶」である。夏の山は「山燃ゆ」であろうか。最近読んだ夏の歌に「山喘ぐ夏」という句があった。木を伐り過ぎた山か。

2002 5・3 13

 

 

* 昼過ぎ布谷君が家まできてくれて、親切に新しいハードディスク(40G)を入れてくれた。作業はすこし難航した。前のディスクは完全に破損していた。なぜか、最終的にやはり「電源を切る」のがうまくなかった。余儀なく、MS-DOSプロムプトから切ることにした。不具合の原因にならないことを祈る。

今、新しくソフトを入れ始めて、大方はうまく行くのだが、転送にぜひ必要なFFFTだけがうまく設定できない。前にも、とことんてこずったので、脂汗が流れそうだ。設定できたときは設定事項を「メモ」して置かなくてはと思いつつ、ついその日その日の仕事が優先してしまい、こうなってから、後悔する。 2002 5・4 13

 

 

* 俳句も短歌も、もっぱら受け手の方におりました。時折、「らしきもの」を作るために言葉を並べ、ああ、自分には才能がないな、と溜息をついておりましたので。(そればかりはわかるのですが)

ただ、自分の思いを表出するために言葉を探す、という行為は、純粋に快感ではありますね。

最近、がちがちと思われがちなあの学問の世界ですら、得られるものは実に官能的な快感であることに気がつきました。人間は結局、官能的快感に結びつくもののみを追求してきたのかもしれません。

お言葉に甘えて下手くそな手すさびを、ときおり送らせて頂こうと思っております。

山藤の間借り上手や友に似る

春蝉の突然鳴く夜ひとり飲む

髪洗い 実験結果を解き放つ

出土したばかりの漆器に風薫る

 

* 第三句が面白い。上の感想も面白い。

2002 5・4 13

 

 

* 「やったぜ」にこちらの胸もすく。日々パソコンに惑わされている身にはこの気持ちよくわかります。

漆の若先生(と勝手に名付けておりますが)の述懐も、実に興味深い。私の場合は官能的というよりも、スポーツの快感に近いものがありますが・・・。

連休は、風邪引きでずっと寝ておりました。ようやく起き出して、炉の灰の始末を。番茶で練って、寝かしました。半年先の炉開きが楽しみです。北海道には霜注意報。hatakさんもお大切に。

 

* maokatさん、健在。囀雀さんも。

 

* 雨の名古屋 今回の「榊莫山展」で、初めて目にした、中国のスケッチと、「大和八景」「伊賀八景」。大和、伊賀、それぞれの八景には、「あぁ、あそこだァ!」と思う景色が描かれ、くっ、と涙が浮かびました。

また、お爺さんや少女が出てくる映画をおもわせる中国のスケッチにも、目頭が熱くなりました。

静かに降る雨のなか、しばらく歩いて見つけた、アジア風のカフェは、レトロなジャズが流れ、のォんびりおっとりとした若い女性が、二人。

熱いチャイに角砂糖を二つ落として飲みました。

2002 5・7 13

 

 

* 静岡の病院に転じていた九十すぎの石久保豊さんが、自宅らしき住所から新茶を贈ってこられ、嬉しくなった。容態は不明とはいえ、退院されたか。石久保さんの小説二編、短歌選。わたしは「e-文庫・湖」のなかで大切に思っている。

やはり静岡の読者から例年同様に新茶が薫り高く贈られてきた。感謝。

2002 5・11 13

 

 

* ご挨拶  突然メールをお送りいたしますことをお許しください。私の携帯でも送信出来るのか試してみたかったのです。いつもご直筆を添えて、ご本をお送り戴きまして有り難うございます。何もお返事を申し上げないことをお許しください。

*

早速お返事恐れ入ります。こんな遅い時間にお邪魔してご迷惑であったと反省しておりました。またあらためて先日戴いた「無明」のページを繰っていたところ、私の名前を発見して驚きました。あのように仰言って戴くのは身に余ります。いつも「私語」は何はさておき真っ先に目を通しますのに。

私の携帯はロングメール契約なので、発信は5800字余可能、受信も同じと思います。秦さんのホームページはさっき試してみましたが、タイトルだけしか出ません。ずっと前から関心はあったので、この間隣家の奥さんのところで開いて貰って少しだけ拝見しました。彼女が興味を持ち、毎日読むわと言っていました。

携帯のメールは以前から友達とよくしていますが、器械に弱いので、通り一遍のことしか出来ません。機能を充分使っていません。一度オフィスへ行って説明を受けようと思っています。それでホームページを見られるようになるかも知れません。が、いづれパソコンを買うつもりでいます。長話をいたしました。どうぞお元気でますますご活躍くださいますように。

 

* この人はわたしの「湖の本」継続購読予約の第一号読者。ご主人の画会で一度ご挨拶し、どこかの講演の場で他の大勢と一緒に、本に識字署名したことがあったかも知れない。もう十六年も昔のこと、そして今も「湖の本」を支えていただいている。

ホームページで「タイトル」だけとは、たぶん城景都氏の美しい絵が二点出て、その「タイトル」というか表紙のどこでもいいクリックしてもらうと、目次ペイジが現れるのだが、表紙のどこでもいいから「クリックしてください」という表示が隠れていて見えなかったのではないか。

また、わたしのホームページは、現在約30MBに肉薄する分量を収録している。画像写真はほとんど使用しない、文字ばかりのホームページだが、1MBは日本字でだと50萬字、従って約1500萬字相当が入っていて、400字原稿用紙に単純に換算すると37500枚になる。どう割り引いても原稿用紙で三万五千枚分ほども収録されているので、普通の機械で全部ダウンロード完了するのに、しばらく時間がかかるかも知れない。表示完了のメッセージ前に操作すると、ファイルの後半が途切れていたりすると思われる。

2002 5・13 13

 

 

* 先週、2週間ぶりに実家に戻ったら、演劇の案内がエム・フィールドから来ていました。是非、観にいきたいと思っております。ただ、今回はウィークデーの夜になると思いますが、当日券でも入れますよね? まだ先の話ですが、今から楽しみにしております。

それと、もう一つ、秦先生にご相談したいことがあります。

今、付き合っている彼女に対して今後どう接していいのかわからないのでお話をしたいと思いました。

実は昨日彼女とそのことについてお互い真剣に話し合いました。すぐに結論を出す、ということは全くなく、ちょっと距離を置いた方がいいのかな、とお互い今回の結論に達しました。

理由は、主に二つあります。

一つは、お互いの考え方のずれ。当然個の人間ですから考え方は全く同じではないことはわかっているのですが、彼女の方は僕とのずれに違和感を感じ出しているようなのです。

僕はどうしても変えられないところは受け入れ、変えられるところはゆっくり自分のペースでいいから変えていこうとする考え方なのですが、彼女は無理に変えるとその人の人となりが壊れてしまう、と考えているようなのです。

それともう一つ。恐らくこちらの方が大きな理由だと思うのです。

昨年2月から僕と彼女は付き合い始め、1年と3ヶ月ほどが経ちました。しかし、彼女の心の中には解決できていない、以前の彼の存在が常にあったようなのです。彼女自身過去の思い出として整理しようと努めてはきたようなのですが、今だ解決できていないようなのです。

このような気持ちで僕と今後付き合うことに不安と申し訳ない気持ちで一杯になってしまっているようなのです。

僕は、彼の存在は付き合う前から知っていましたし(会ったことはないですが)、ゆっくりでいいから一緒に前に進んでいこうと思い、今日まで来たつもりだし、これからもそうしていきたい、と考えています。

実は昨年の今ごろも彼女は気持ち的にまいった状態になっていました。恐らく5、6月ごろに以前の彼とのつらい思い出があったのだと思います。

そんなこともあり、僕としては一緒に解決していきたいと思ってはいるのですが、ちょっと距離を置いて見守ることにしました。僕自身辛いですが、彼女はもっと辛いと思います。

6月の2週目には彼女の26歳の誕生日があり、二人でお祝いすることにしました。但し、プレゼントは、なしで。

そして、建日子さんプロデュースの「タクラマカン」も二人で観にいくことにしました。

僕はこれからも彼女のことをずっと大切にしていきたいと思ってます。

秦先生、僕、間違っていますか?

とりとめもない文章になってしまいもうしわけございません。秦先生にはいつも突然長文を送ってしまい失礼だとは思っているのですが、ほんとにすみません。

今はすべきことをして、できる限りのことをして、頑張るのみです。

秦先生もお体を大切に。それでは失礼致します。

 

* 基本的にあなたの姿勢は紳士的で不満はありません。しかし不安はあります。

恋はエネルギーですから、爆発的に強烈であれば、現在の幸福が、経緯はともあれ過去を凌駕するものです。あれやこれや「相対化」がされているとすれば、双方の恋の温度が高まり得ないまま、なんとなくお互いに「思いやり・やり」つき合っているのかと思われますが、まま、こういうつきあいは、温度の冷え行くに任せて消滅することになりやすい。そこが不安です。紳士淑女の恋も恋ですが、恋は危険なエネルギーであるところに魅力も真実もある。

タクラマカンを二人で見てくれるのはいいと思います。当日で入れなかった例は以前にいくらもありました。小劇場ですから。無駄足をおそれるなら前売りがいいでしょう。

この時代です。過去を清算しきれないまま生きる男女がすべてとすら言えるでしょう。それを乗り越えて行ける現在の熱、それがすべてでしょうね。自分を殺した妙な思いやりや紳士的な遠慮が、彼女をかえって冷えた不安に湯冷めさせている原因かも知れないのは、念頭に。

 

* 思ったままを答えた。若い男性世代の恋の不調の多さを恐れている。いい青年ほど、いい女性たちから体温が低いと感じられていはしないかと心配する。昔のように大人が仲に立って取り持ってはくれない時代だ、その時代が紳士的な青年たちを立ちすくませないようにと祈りたい。

2002 5・20 13

 

 

* 有島武郎のAn Incident(ペン電子文藝館招待席)を読みました。

子どもに対して、自分にこんな感情があったのだろうか というような激情 を感じたころを思い出しました。

愛しく 尊い存在であることは十分に分かっているのですが 激情はプラスばかりでなくマイナスにも働く・・こと、 夫婦に子どもが存在することが、必ずしも幸せばかりもたらさないこと、 さらに、ある子どもに対して、親としてあってはならない 不条理な憤りの激情がおきたこと・・その後必ず陥る自己嫌悪。

母親にも こんな気持ちがないとはいえないのです。虐待をするのが必ずしも父親ではない のです。

太宰の作品「桜桃」(文藝館招待席)に続いて 子どもに対する 親の偽らざる気持ちの一端が吐露されている有島作品と 感じました。

 

* 有島武郎の小説に対する読者のこの感想は、踏み込んで強いものがある。こうはなかなか言えない・云わないところを、突っ込んで率直に言っている。作品の力かがさせているのだろう。

 

* 五月雨も五月晴れも、6月の話と思っていましたのに、なんだか太陽暦に季節の方が合わせてくれているような陽気が続いていますね。

昨日は出張、日帰りで岡山へ行ってきました。観光などできないスケジュールでしたが、ほんわかとやわらかな街の雰囲気はやはり伝わって来るのでした。なだらかな山に囲まれて、瓦の家の多い街でした。

いつも思うのですが、私には観光旅行の醍醐味がわかりません。観光地に生まれ育って、観光客の身勝手さばかり目にしてきたせいでしょうか、観光のために街を訪れるのではなく、仕事で出かける時の方が何倍も充実しているように思えるのです。仕事で用事ができている限り、その街が「おいで」と言ってくれているんだな、という解釈をしてしまうのです。

単なる遊び下手なのでしょうね。年をとれば、気軽に街を歩く楽しさも理解できるようになるのでしょうけれど。

またも下手な俳句を勝手ながら送らせて頂きます。

最後の句だけ季節が違いますが、毎日通勤途中で痛感している思いです。たくさんのマンションやアパートや家々で布団を干している。布団を干すということは、布団を取り込める時間、まり日のあるうちにその家に主婦がいるということ。電車の窓からこの風景を見る度に私は胸が傷むのです。仕事を続けている限り、疲れた平日の家族にあたたかな布団を提供することはできないので。

今日はよい天気です。世の中にも、それに見合うだけのよいニュースなどあればよいのですけれど。

卵孵す燕のごとくデ-タ読む  (燕のやうに、か。平談俗語がいい。)

雨の匂い不思議と日なたの心地がし  (不思議といわずにその感じが出てほしい。)

五月雨の合間に泣く子を抱きしめて  (合間に がわかりにくい。幾つにも取れる。抱きしめて は、しまらない。)

やうやうに忌憚なく言ふ三十路夏   (ウーン)

蒲団干す窓の数だけ主婦ありき    (理に傾いて、平凡。ありき の過去完了形も気になる。)

2002 5・22 13

 

 

* こういう長閑なたよりもある、が、ほんとうに長閑なのか、何かに耐えて長閑そうなのかが分からない。ときどきは悲鳴のような苦しい声も届くので。

最近にも、三人のメールで、偶然同じ「現実逃避」という文字を読んだ。怺えきれず漏れた本音と聞こえて、事情はよく知れないが、胸に痛みがのこった。ありふれたとも、この時節だからとも謂えるのだが、「ゆったり自然に」「いま・ここで生きるよう」にとバグワンのいう深い意味と警告とが、切に思い返される。

 

* 滴るような緑濃い山。汗ばむ肌を乾かす風。小さな橋の途中で、若い男のコが自転車を止め、お喋りに興じています。緑を映して、川はさざ波をたてて流れ、釣り人がひとり。

ビールがおいしい好天の土曜日いかがお過ごしですか。

さきほど、ラジオのクイズで、築地だかどこだかの、なんとかいう寿司店で、今週一番人気があったネタはなんでしょうと。寿司っていうと、すぐ、ウニだのトロだの言うでしょ。そう思って聞いていたら、イサキですって。

ソラマメ場所の大相撲も明日が千穐楽。おなか空いてきたわ。

 

* 大相撲もまるで見なくなった。武蔵丸が全勝できるかだけの関心も、掌をさすアンバイで、土。昔の栃錦は別格として、北の湖、千代の富士、北勝海、小錦、貴花田のころまでが、わたしのお相撲時代だった。もう、余分なものに打ち込んでいるヒマが残っていない。あちこちから「退席」したい。相撲より映画がいい。能狂言より歌舞伎がいい。肉食より酒がいい。肩書きよりラクがいい。

2002 5・25 13

 

 

* ロサンゼルスの親しい人から、湖の本に二万円の送金と、懐かしい手紙が届いた。四十数年という歳月が我々の間に横たわっている。われわれに大切な人にも、死なれている、その間に。繋いだ糸がピンと張っている。思えばこのような糸が無数にいろんな人との間に張られて、生きてきたのだなと思う。たるんだ糸も、切れた糸も、こんぐらかった糸も有るにせよ。

 

* この年になると、寂しい話題にも事欠かなくなってくる。晴れやかに思い直し思い直し我が身を励まして日々を過ごすよりない。せめて「無用の習慣」のトリコに我が身を縛らせないようにしたい。自在にゆったりと生きていたい、流れるように。寝食のようにほんとに必要なことって、そうは多くない。ゆったりと自然に、楽しみたい、いま、ここを。

2002 5・28 13

 

 

* ご無沙汰しております。お元気ですか。暑くなってきましたね。当地では厳しい花粉の季節は過ぎましたが、なんだかわからない花粉の、まだ飛散しているのは感じられます。スギやヒノキほどひどくはないのですが、いろいろな花粉に反応するようで。

秦さんにお逢いしたいな、と想います。

「ペン電子文藝館」久間十義さんの「海で三番目につよいもの」を読みました。軽妙な文章で、すいすいと読ませながら、描写は、的確で揺るぎなく、嬉しくなってしまうほどの見事さでした。それでいて作者は筆に酔っていない。彷佛とさせる「赤頭巾ちゃん気をつけて」のようなペダンチックさもない。よい作品との出逢いは、喜びです。

お逢いする日までに、もうちょっと痩せるよう頑張ります。

 

* 顔を見たこともない人で、痩せたが佳いかどうか見当も付かないが、久間氏の作へのこの反応は嬉しい。単行本一冊をまるまるスキャンして校正したのは、この人のこの作品がひとつだけ。わたしは、佳いと思った。

2002 5・29 13

 

 

* 原稿をまとめられ、ほっと一息なさっていますか?

・・・だからラクなんですというHPの文章を読みながら、あなたは老い支度ではなくって「老い」を生きてらっしゃるのか・・と、ふっと感じます。オーイ、老人扱いしないで欲しいなという反論も聞こえてくるのですが・・。如何? まだまだ健康に留意されて長く生きてください。食べ物が美味しい、美味しいものが食べたいと思われるのは生きる意欲の表れ!!そういうわたしも、ああ何か美味しいもの食べたい派で、困るのですが。

夏日の気温になって来ましたが、肌寒さを感じない今の気候は、意外に、わたしには過ごしやすいのです。人よりいくらか汗の量が少ないらしいですが、汗を掻くのは嫌い、とても気になりますが、梅雨はあまり苦痛でなく、雨の中を歩くのも楽しい時があります。

ほとんど「閉じこもり」生活をして、反動で弾き飛ばされるようにしてどこかに行きたくなります。今週は大阪まで春の院展を見に出かけるつもり。

 

* 幸いわたしにはもう定年退職は無い。医学書院を退社したとき、三十九歳だった。東工大教授を退官したのは、規定の六十歳誕生日を過ぎた年度末で、すぐ作家生活に戻って六十六歳半に至っている。いつも思うことだが、秦の母は享年九十六歳であったから、その歳まで、わたしは三十年を生きねばならぬ。そのためには、「元気に老いて」ゆく以外に道はない、だから山折哲雄氏との対談本を、『元気に老い、自然に死ぬ』と題してもらった。「老人扱い」するなどころか、老人だとまともに思うことから始まっている今の生活だ。いたずらに若がってみて何になろう、元気な老人でいようと心がけている。「秦さんはいつも元気そうだなあ」と、先日も京都で清水九兵衛さんらに驚かれてきたが、年齢差を思えば、清水さんも石本正さんも、みな、ほんとうにお元気である。梅原猛さんにもぜひ元気でいて欲しい。

ただ、老人の元気と青年や壮年の元気とは質が違う。それを勘違いして無用に元気がっていると間違いが起きる。骨は弱くなっているし、心臓も視力も衰えている。これでわたしは無茶はしていない。そして「元気な老い」はぜひ夫婦揃ってでありたく、片方が欠けてしまったら、もたないと思う。その点はわたしは弱気である。また親しい人たちにも元気でいて貰わないと、此の世に在る意味が寂しく薄れてゆく。或る意味でわたしの日常は機械の前での「閉じこもり」生活と見えるかも知れない、事実は近いけれど、想像力もあるし、非現実へつながる地平をいつも胸の内に持っているので、「反動で弾き飛ばされるようにしてどこかに行きたくなり」はしない。かぐやひめの月世界へも、世之介の女護島へも、寝覚の嵯峨へも、もっともっと広く遠くへ時間を超えていくらでも行って楽しめる。それは夢ではない、それが夢ならこう書いている今のわたし自身も夢なのだ。

問題はそんな夢から覚めたいのか覚めたくないのか。ハッキリしている、こんな一切の夢から大笑いで覚めるときが私に訪れてほしい。求めて覚められるものでないと分かっている。待とうとはせずに待っているけである。さ、どっちが早くくるか、深いおそれ、は、ある。ある。

2002 6・4 13

 

 

* 絹のように温かいメールの新しい友達がまた一人。

2002 6・6 13

 

 

* 湿度の少ない晴天で、庭の草花が風に揺れている様は、気持ちを和ませます。モンシロやアゲハ、蜂もよく止まります。ヤモリ、トカゲ、ミミズ、去年は手のひら程のカエルが住み着いていました。

そう言えば、昨日、里帰りの娘が、マンションのベランダにあるレモンの木に大きな青虫が居座って、気持ちが悪くて駆除出来ず、鳥肌が立つなんて、話をしていましたが、いい歳をして情けない主婦です。それでもご贔屓イタリアのサポーターになって、男性並の応援を送っていました。終盤きびしく鋭い審判で、惜敗でしたネ。さすがW杯の主審です。今晩の対ロシア戦、勝てればいいけれど。いいゲームを期待して、楽しみます。

 

* 興奮 マイナーな世の中、あまりにも落ち込んでいる日本を明るく興奮させた勝ち点でした。もし、決勝リーグに出られれば開催国としては、熱狂のルツボでしょう。W杯二度目の出場とは思えない程、経験のあるヨーロッパに互するこんな若者達に大拍手です。中でも中田の統率力は素晴らしい。

 

* オリンピックとまた違った刺激に、国を挙げて湧いている。冷淡だったわたしでも、悦んでテレビの試合を見て拍手している。昔は、サッカーってなんと退屈なゲームなんだろうと呆れていた。とろとろとろとろとボールを蹴転がしていた、日本での話である。外国との差が有りすぎた。それが三浦選手が海外に出ていった頃から、ドーハでの惜しい惜しい暗転を経て、目を見はる面白い技とガッツと組織プレーを見せてくれるようになった。ゴールが有ろうと無かろうと、目が離せないほど中味が熟してきた。たいしたものだ、敬意すら覚える。トルシエ監督の不屈の姿勢が感化している。日本人のわるいところで、外人いじめでさんざんトルシエ叩きが続いたのは苦々しいことであったが、よくやってくれたと感謝する。正直の所ベルギーにもロシアにも負けるだろうと思っていた。引き分けたり勝ったりしてみると、ゲームそのものからその自然さがリアルに納得できる。此処まで来たらチュニジア戦にも引き締まって突貫して欲しい。

小泉首相の観戦の昂奮ぶりはそれでよろしい、が、政治は、断然よろしくない。苦々しいかぎり。サッカー熱のかげで、政治改革、景気回復のもともと低い熱が冷え切らないよう、日本の舵をしっかり握って貰いたい。「感動した!!」と、あなたが選手や力士に叫ぶのと同様のことを、あなたに対して国民が叫べる政治をしてもらいたい。

2002 6・10 13

 

 

* ごぶさたしています。先日、二十歳になりました。大学にというよりは九州の空気にようやく馴染んできて、毎日を楽しんでいます。その中で節目を迎えられたのは、本当によかったと思いました。

大学の授業は…今はいわゆる一般教養が大部分です。科目や内容いかんよりも、教授によって「当たり外れ」があります。そして、「外れ」のほうが多いというのが正直な感想です。

自分の友人を見ていて、「学生が本を読まない」というのはたしかです。ただ、彼らはきちんと物を考えているし、したたかでもあります。「学力低下」という言葉がはやっていますが、学生はずいぶん見下げられているんだなと実感します。

法律、今は主に民法ですが、これはおもしろいです。さすがに懐が深そうです。じっくり腰を据えて、ものにしていきたいと思います。

サークルはサッカーを選びました。正規の体育部ではないから、気を張らずに参加しています。女性とまったく縁のないところなのが、珠に瑕かな。

サッカーといえばW杯、おもしろいですよね。もともとスペインが好きで、大学でもスペイン語を学んでいます。無敵艦隊といわれながらいつもぴりっとしないのですが、今期は勝ち進むと見ています。水曜日にNHKで南アフリカ戦が放映されます、お仕事の合間にでもぜひ見てください。粗削りですが、攻撃は見応えがありますよ。

いま付き合っている女性が、同じ法学部の一年生ですが、なかなか刺激的な人です。もともと理系だったこともあって、数学が好きでパソコンも好きだといって、知識も技術もとてもかないません。彼女の影響で今でも数学を少しやっています。こだわりのない爽やかな人で、出会えてよかったなと思います。

一息に書き上げてしまった感じですが、とにかく元気です。秦さん、今日は講演だったようですね。疲れをあとに残さぬよう、大事になさってください。どうも最近は全国的に暑いようですしね。今週の半ばから九州は梅雨入りだそうです。迪子さんともども、どうかご無事で。

 

* わたしの一番若い友人の読者君は、変わりなく溌剌としている。いい恋もいい自由も身につけて欲しい。彼も言うように学生を一般論で見下げてもらっては困る。また見下げられて萎縮されても困る。世の中をほんとうに刺激し動かしてゆくのは、政治家よりも学生であるような時代が来て欲しい。二十歳になれば、若いの何のというハンデをへんに意識しないで力を蓄えて欲しい。蛮勇も、許される時期がある。あまりに佳い意味の蛮勇がすたれて、自棄の暴力や無気力な逸脱ばかり。乗り物を暴走させて迷惑をかけていたりする、あんなのは臆病と未練の裏返しに過ぎず、時代を沸騰させるエネルギーとしての蛮勇でも何でもない。

2002 6・10 13

 

 

* 二日続きの雨で、紫陽花の色が引き立っています。葉っぱには絵に描いたように、マゴ(お宅の猫ではないです)が喜びそうな大ぶりのカタツムリがいました。長袖を引きずり出したりお布団を重ねたり、気候の変化についていくのに気ぜわしい昨日今日。

どうやら症状も小康状態で、家事などは順調にこなせます。動き過ぎないようにセーブしなくてはと気を引き締めながら。良くなってくると何かいい事ないかなと、欲張りばーさんになります。

チュニジアも強いから、さて明日はどうなるか、心臓によくないです。

時々自分を変な人だと思います。

 

* 年寄りの冷や水を浴びすぎて危険な痛みに見舞われているらしい。体力だけは若くありたいというのは無理で、無理を通す心理には「老いへの恐怖」がしのびこんでいる。老いとは仲良くし、自然に手なづけねばいけない。

2002 6・13 13

 

 

* 林丈雄君がメールをくれた。丸山宏司君もメールをくれた。丸山君は明日の昼の芝居を柳博通君と一緒に観てくれるらしい。わたしは晩の方に予定があり、しかし、体疲労がかなりしつこく襲ってきている。いま労っておかないと、対談の準備と京都行きとに差し支えそうだ。その前に神経をつかう約束の原稿が少なくも二つある。「ペン電子文藝館」の方の仕事も溜まっている。「e-文庫・湖」へ小説の起稿もあるのだ。

辻井喬氏の小説が二つ出稿候補として送られてきた。読んで、どちらかを選びたい。葛西善蔵の校正、萩原朔太郎の校正、森玲子さんの俳句の校正もある。スキャンも溜まっている。六月のうちにぐっと捗らせて佳い七月を迎えたい。

2002 6・21 13

 

 

* 心嬉しい便りは幾つもあった。ことに本省でもうはや責任有る地位に進んでいるらしい卒業生クンからのメールは、とても確かな読みごたえがした。立場上もあるだろうから、あまり引き合いにしては迷惑かも知れないが、気をつけて。

 

* 4月に更に忙しい部署に異動してから(異動の話を先生にしていなかった様に思います。申し訳ございません)、時間的にも、精神的にも辛い・・・というか、圧迫された生活を過ごしています。

色々と考える事はあるけれども、とりあえず何とか頑張って過ごしています。*君にも色々と励まされながら。

お気遣い何かとありがとうございます。時々、自分の仕事の役割を見失う事があります。大きな枠組みの中での、私たちの役割や全然違う視点から見た世の中の事など。先日、私の知り合いもいま話題の事務局へ異動辞令が出たようです。面白い仕事かもしれないけれど、かなり辛いのではないでしょうか。色々な意味で、頑張って欲しいと思います。

毎年の事ですが、最近、学生の官庁訪問が始まっています。昨年くらいから、私も学生さんと話す機会を与えられる様になっています。あまり偉そうな事は言えないけれど、それなりに話し込む事の出来る相手には、大きく2つの事を心がけて伝える様にしています。

1つは、役所に入って“自分が”何をやりたいのか、明確な意識を持つこと。どんな街が良い街だと思うのか。なぜ、その街が良い街だと思うのか。こんな簡単(だと思うけれど・・・)な質問にも窮する人が結構います。「霞ヶ関の駅を降りて、この街をどう思った?」という質問にさえ答えられない。

もう1つは、仕事のやり方について。折角国家公務員になるのであれば、国民から信頼される様な行政組織にしたいと思いませんか?と。逆を言えば、今は“ん ? ”という状況ですよ、と、正直に。少なくとも、私は“仕事のやり方”を、国民に信頼されるような形に変える事も、若い官僚の大きな仕事だと思っています。社会から信頼されていない、こんな組織を、信頼される組織に変えたい。こんな思いを持った人と一緒に仕事をしたいと思います。

*君は今週が仕事の山の様子。彼とも話をして、夏までには是非セットすることで同意しています。先生のご予定もあるかと思います。*と相談の上、またご連絡致します。

 

* とても嬉しい。学生たちに、いつまでもいつまでも「ご馳走」できるのが、わたしの健康法である。

 

* 榛原にて  室生寺、長谷寺に挟まれた榛原駅に降りてみました。残念ながら、観光案内所は休みでしたけれど、[旧伊勢街道]の案内も濃やかに、本居宣長宿泊という旅籠が駅近く。その先、おばァちゃんにつられて○○温泉と暖簾のある銭湯に入りました。出ると目の前には、<揚げたてコロッケ80円>の仕出し屋。隣は酒屋。自販機ビール有りマス。出来すぎ!

「左あをこえみち、右、いせ本かい道」の石標が、おかげ灯籠と並んで。名張・青山阿保越え、室生古道美杉越えの道とのこと。

絶え間無い霧雨、大和富士ほかの山々が夕さりに霞み、人恋しい寒さに季節を忘れました。松虫ではないけれど、このままずんずん山中に入り込み、死んでも悔いなしといった風情です。

榛原も室生寺同様に、台風の被害に遭った神社がありました。鬱蒼と繁る古木の杉のなか、明るく陽の通る隙間が痛々しい、しんみり寂しい神社に詣でました。やはり、旅はひとりに限ります。

車窓からいつも気にかかっていた看板<宇陀川>という銘の、和菓子を買ってみました。白餡に大納言を合わせた餡の、焼き菓子で、大きさも程よく、おいしかったァ。

 

* 電子メールで、こういう生きのいい文章に出逢うと、これまた、嬉しい。とはいえ、この手紙のかげに籠もった寂しそうな息づかいも見落とせない。この人は、女性。しかし能の「松虫」は男だよと言ってあげたい。

 

* 建日子さんとつかこうへいさんの出会いのエピソードがよかった。こういう話が大好きです。

きのうは、先々週から続いた検診が終わり、結果は悪いところがなくホッとした。近くに医療生協の診療所があって、医師も設備もあるていど整っている。なにより、算術としない懇切な医業がいい。薬も安易に出さない。地元の個人、法人が2000名余出資して医療生協(組合)をまかなっている。私も少しづつ出資金を積み増ししながら、ときおりお世話になっている。それでも、出資しない患者や無料に近いお年寄りがだいぶ多いので、出せる人は出していかないと経営が難しくなる。

こういう方法がうまくいくと日本の医療も捨てたものではない、と思う。お年寄りや子供の患者が多く診療も手厚いが、それは「やさしい、安心できる医療」の証明であって好感がもてる。

昨晩は、仕事を早めに片付けて、久しぶりに手料理の独酌となった。といっても、ありあわせのつまみに一工夫程度であるが、少しはこだわりがある。外食が続くと、外のメシが味気なくなることがある。

一、支那竹(水煮のメンマをおかかでいためる。味付けは醤油と味醂。水気がなくなる前に酒をいれ少し蒸す。火をとめてゴマ油を少々加える。)

二、ワカメと胡瓜とシラスの和えもの(やや甘酢が好みで、きのうは寿司酢を用いた。天塩を少々。味の素を少しふった。冷蔵庫で冷やしておく。)

三、冷奴(木綿ごしを好む)半丁(おかかと練り生姜)

四、生姜(こうじ味噌。生姜はほどほどにやわらかく洗い水気をとる。「諏訪の郷」という無添加の安手の味噌がけっこういける。)

五、ゲソのバターいため(残り物のイカの一夜干しを、バターと胡椒でサッといためる。塩は不要。)

六、トマトの薄切り一ヶ。

七、トウモロコシ(三本百円を丸ごとふかす。少し固かったが、甘みは十分。塩を少しふる。一本を食し、残りは明朝。)

八、お酒は、缶ビールを二本。(ビールから焼酎に切替えはじめているが、検査終了日の「かつえからの解放感」には、ビールの喉ごしがいい。)

毎晩、こういうわけにはいきませんが、これで、好きなビデオ(映画)でも観れれば御の字です。

 

* 思わず、にやりと来る。関西弁でアイサツすれば、「やってはりますなあ」かナ。

2002 6・25 13

 

 

* もう一つ、心はずむことがあった。敬愛する牧者の野呂芳男さんが、身近な人たちの熱意と技術的な参加で、ホームページを開かれた。インターネットに野呂さん自身はまだ「抵抗」があるよし、それは、なみの文士などが言うぶんには好きにすればよいが、教会をもたれたという人には、インターネットが教会だと思って欲しい。難しい神学の旧著を復刻保存されるのもいいだろうが、いちばん牧者として願われるのは、インターネットでさえも、生きて胸をうつ肉声を聴かせて戴きたい。ホームページの「管理者」という人からリンクの申し出があったのをよろこんで、わたしは、それを伝えて貰った。

 

* インターネットへの「抵抗」ということはよく聴くのです、どの世間でも。わたしは、端的に言ってそれは執着または怖れ・囚われの一種だと思います。肯定も否定も、大方の場合は、同じモノへのとらわれた両極の形で現れます。凡庸な信も不信も信仰の両面であるように。そういう執着からどう自在になって、信仰そのものが無化できるかどうか、真の安心がどこにあるか。

野呂さんほどの方がそんなやすい「抵抗」に安住してては困るなあ。たかがインターネット、抵抗心をおくほどのものじゃない。だから便利は便利で、利用し活用しています。

野呂さんの為されようとしていることにこそ、インターネットは力を発揮するでしょう、発揮しなくては成らないとすら思います。「インターネットが教会」だと「思う」ことは、簡単に出来るはず。事実その通りなのです。「私語」を「闇」に発信し続けていて、それを感じます。生きた「今ここ」の言葉を送り出して欲しい。わたしは聴きたい。紙の本の電子化は、記録保存以上のものではあり得ないでしょう。

メールで、多くの声を聴き、深い声を発してほしいものです。ホームページが形作られかけているのを見ましたが、もっと体温を高く熱く、神学者でなくて、真の牧者のすはだかに爆発する声を、乱暴ななほど生き生きと伝えてきて欲しいとお願いしてください。

いつか野呂さんと、お互いのホームページで、同時・交互にメールを往来しながら、何か大きな議論になり、読者がどちらのサイトでもそれを読んでくれるという、そういうファイルも力をあわせて創作したいものです。 秦生

2002 6・25 13

 

 

* 寝に行こうと思って念のためもう一度確かめたら、卒業生君のこれまたとても嬉しいメールが来ていた。みな同じ学年で同じ教室にいて同じように教授室で話し合ってきた、専攻はちがえども。

 

* こんばんは! 秦さん、お久しぶりです!湖の本ありがとうございました。「なよたけ」ゆっくりと声に出して読みたいと思います。

なんだか暑くなったり寒くなったりですね。

このところ、ご多分に漏れず、サッカー漬けの毎日です。今日は韓国負けてしまって残念!!

恥ずかしながらこれまで、韓国にそれ程興味を持っていなかったのですが、あの気迫あふれるプレーに、にわかに興味が出てきました。

考えてみれば、日本人は、アメリカやヨーロッパの事情には詳しいくせに、お隣さんにはあまり目が向いていない気がしますね。逆にアメリカやヨーロッパの人たちは、日本のことなど、実はほとんど知らないみたいで、韓国の人たちは、良かれ悪しかれ、日本のことは気になって仕方ないように見えるのに・・

建日子さんの「タクラマカン」、土曜日昼に観てきました。

あの設定のような状況を、実感としては知りません。両親が京都育ちということもあってか、話には何度か聞き、読みもしますが、「あの国」にすべてを託すしかないような、そんな悶えるような絶望的な心境を、想像や推測や知識以上のものとすることは、今の私には、無理そうです。

思い浮かんだのは、このところ報道されている、北朝鮮からの亡命者たちのことです。

でも彼らはまだ救いのある状況なのでしょう。中国に逃れることが出来ていたのですから。真に思いを致すべきは、彼らの背後にいる、国から出ることも出来ない、数知れない人々でしょうね。

望まずして世界から孤立し、未来への展望もない閉塞した社会。

多くの貧困の極にある人々と、少ない富を独占する一握りの人々からなる社会。

そこで貧にあえぐ人々は、豊かな生活を享受する同国民を、外の世界の国々を、一体どんな気持ちで眺め、受け止めて生きているのか。想像を絶します。そこには、「浜辺育ち」と「町育ち」の関係と、どこか共通するものがありそうです。

一番共感できる登場人物は、「ツキノ」でした。「町育ち」でありながら、忌み嫌われる「浜辺育ち」の中に入り、向けられる猜疑の眼差しを、ほんの少しずつ少しずつ、溶かしてゆく。命をかけて救ってくれた人を前に、触られて「体が腐る」と泣くしかなかった、「人の心の分からない」「ひとでなし」だった自分。その自らの姿を、鋭く身中の棘として、おそらくは、真の「ひとでなし」とはなんなのかを問い続け、行動し続けたのでしょう。

しかし厳としてある、「この国」の硬い現実は、そうしたツキノの想いとは関係なく、彼女と彼女の関わる人々を、容赦なく押し流していってしまいます。

必死にかけずり回った末に、ようやく就職させたハルキは、初の給料で恋する女性へのプレゼントを買おうとし、訪れた店先で、あっけないほど軽々しく、撃ち殺されてしまう。「彼女の船になりたい!」と叫びながら。

そして最後には、ほかの四人さえも、自身の部隊で葬ることになってしまう。

・・なんという不条理でしょう。

最後に「ケイ」だけが銀行襲撃に加わらず、ひとり「あの国」へと旅立ってゆく展開には、正直とまどいと、どこかに何か引っかかる感覚がありました。

ハルキやカラスたちの死は、図らずも全て、ケイが起点となってしまっています。ケイを想う気持ちゆえにハルキは職につき、結果命を落とし、それが引き金となって、ジジイはケイを挑発して保険金を残そうとし、保険金が出ない怒りにかられた末に、カラスたちはツキノの部隊の前に散ります。

仲間たちの死に、「死なせた」との思いを、ケイは生涯痛烈に抱き続けるでしょう。

そのケイだけが、ジジイの保険金とともに、あの国へ旅立ってゆくなんて。・・一体彼女は、どうやって生き抜いてゆくというのでしょうか。

ツキノはそのケイに、「私には、何が足りなかったのか」との言葉をかけて送り出します。それが「この国」の法律では、重大な犯罪に当たることを承知の上で。

ケイの旅立ちは、容易には変わらないであろう「この国」の未来への、力およばなかったツキノの想いの実現への、一条の光のようにも思えます。

ですがそこにあるのは、確かな勝算などではあるわけもなく、空気のひと揺れで消えてしまいそうな、幻のような光。ただただ、信じること祈ることしかできない、宗教にも似た飛躍です。

「人間を信じてみようかと思います」と言って、ツキノは裁判に臨んでいきます。とことん行動の人だったツキノの口から、ただ「信じる」との言葉。

ケイの旅立ちは、ツキノの、そして作者の祈りなのかもしれないと受け止めました。

長くなってしまいました。

またお時間のある時にでもお会いしたいです。それでは、お体くれぐれも大切になさって下さいね!

 

* 的確に観てくれている。これほどのことを二時間の中で受け取ってくれている、正確な言葉と文とで。作・演出家は、謙遜な思いで感謝していいだろう。

ツキノをこう評価した観客は珍しいのかも知れない。アンケートではどうなのだろう。わたしは根性が曲がっているのか、ツキノの真情を好感を持って察したことはあまりなかった。ウサンくさい気がしていた。「なるほど」そう見るか。胸を少し突かれた。

この人の感想がより広い範囲へ敷衍されてゆく確かさにもわたしは希望をもつ。有り難うと言いたい。そして相変わらずしっかりと健康な声音を聴くおもいを楽しんだ。

2002 6・25 13

 

 

* 意識的な生活者というのだろうか、つぎのようなメールをもらうと、きりっとした気分になる。

 

* 湖の本、ありがとうございました。ゆっくり噛みしめるように読んでおります。端正な日本語に触れていると、心まで洗われていく思いがします。最近は、本屋に立ってもこのような文章に出会えることが少ないのですけれど。

6月上旬、ドイツに一週間ほど行ってきました。はじめて子どもを置いていくことが心配でしたが、タフな子でけろっと留守番してくれていたようでした。

今まで何度か海外出張はしていたのですが、いつも一刻も早く帰ってきたくてなりませんでした。ですが、今回ばかりは不思議と「まだいたい」という思いに捉われました。行き先はベルリンでしたが、日本人の妙な英語も理解してもらえ、かつ排他的でなく、植生が日本に近く、なによりこちらのロゴスが通じる、そんな心地よさがありました。日独伊三国同盟は、結ばれるべくして結ばれたのかもしれない、などと思いを巡らしたりもしました。目の保養になるようなナイスガイもたくさんいましたし!

今の仕事は、打ち込む甲斐のあるものはありますが、それでもたくさんの問題は抱えており、中でも、研究者の母集団の少なさ故に研究の質の向上が困難で、研究上の問題意識を共有できる人のほとんどいない点が寂しくてなりませんでした。

しかし、ドイツでは、拙い英語で伝える問題意識が吸い込まれるように理解してもらえる快感があり「専門性」という絆の強さを再認識いたしました。おかげで少しリフレッシュして、新鮮に仕事に取りかかれている毎日です。出かける前は、きりきりとしていたのでしたが。

最後に、またしても下手な句をお送りいたします。お目汚しにしかならないかしら、と思いつつ。

ミマンの歌は「険しき」でしょうか。少年期の少し過ぎた青年がやや眉間に皺を寄せたような沈思した表情が好きなもので。

お風邪気味とのこと。どうぞどうぞ、お体をお労り下さい。今日一日何もせずに休まれても、そのぶん寿命を伸ばしていく算段をなさったほうがいい場合もありますから。

 

梅雨寒や十年過ぎしこと気づく (やや曖昧か)

 

半熟の想いを包みジャスミン香

 

帰国して長く思えり夏至の夜  (把握弱く表現も弱い)

 

知り合いの草花多しドイツ夏  (把握弱く表現も的確でない)

 

いとしけれど活けてはならじ夏野花  (把握弱く表現が不的確)

 

短夜に不眠の小海老となり閉ざす  (把握弱く表現が不適切)

 

心持ちのゲルになりゆく半夏生  (「の」が不要か)

2002 6・30 13

 

 

* お身体、健やかですか?

今し方ホームページを見て驚きました。29日、土曜日わたしは友人と久し振りの京都を楽しんでおりました。近代美術館のカンデインスキー展を見て、花見小路で釜飯のやや遅い昼食をとり、前日金曜日に高島屋であなたが見たという三浦景生さんの作品も見ました。6月中にいらっしゃるらしいことは書かれておりましたが・・近いところに「存在」していた偶然を、振り返って深く感じています。

つかさんと建日子さんの出会い、面白く読みました。

「ハマ」と「マチ」の意識のズレ、(これはシンボリックな譬えと受け取れば、)わたしの街でもありますよ。ハマのひとは荒いからとよく聞きます・・ただしこれは階層的なものでしょうか? とにもかくにも経済的なことと限らず、さまざまに考えさせられます。

講演録も読みました。知識人、哲学、日本の近代の歩み・・軽い話であるはずなく・・けれども避けられない今日的な問題に繋がっていますね。高史明さんの講演もよいものでした。先週、外出の際の文庫本・・電車の中で読むのです・・に、ルース・ベネデイクトの『菊と刀』を読返していましたので、比較しながら興味深くホームページの文章が読めました。

新しい月が始まりました。梅雨空が続いていますが、どうぞ良い日々をお過ごし下さい。

 

* もうよほど前になるがやはり妻と京都に行き、錦を歩いて錦天満宮の境内で牛の頭など撫でていたらしいのを、たまたま東京の読者に見られていた、らしい。のちに、あそこにいらしたでしょうと聞かれて、日数を数えれば間違いないようであった。そういうことがあるものだ。一日違えば三浦景生さんの展覧会で鉢合わせしていたかも知れぬ。

2002 7・1 14

 

 

* 蒸し暑き夜が続いています。風邪気味だとのこと、少しはよくなられたご様子に安堵しながらも、天候不順の折りのことゆえ、くれぐれもご用心。

青葉の京都はいいですね。紅葉よりも好きですよ。

休日も時間的に旅行が無理な最近は、映画を観ることが多くなりました。先週のお休みには「アイ・アム・サム」を観てきました。

知的障害を持つサムと娘の、お互いを求め合う愛と、思いやりの心。周りの人間関係にも変化をもたらす純粋なサムの愛。障害を持つがゆえに偏見の目で見られる本人たちのことを、哀れみや同情心を持たずに観ることができたことを嬉しく思いました。少しの怒りはありましたけれどね。最後のハッピーエンドまで涙をボロボロこぼして観ていました。「花籠」によい水が満たせました。

今日、久しぶりに寄った本屋さんで「ミマン」を見つけました。虫食い短歌の前ページに、徳島のことが掲載されていましたね。紹介されていた蓮の花は本当にダイナミックですよ。背丈を越すほどの茎丈と、その葉の上に揺れる花。早朝に、一面の蓮田にピンクの花びらが開く様は見事! というしかないのです。残念ながら、今はそういう風景を目にすることのない生活になってしまいましたけれど。懐かしい思いで紙面を見ていました。

出題されていた、短歌。雑踏の中で見つけた「わが子」の顔は、少年の面影を残しながらも、もう一人前の凛々しい顔をしていたのかな?

話は変わりますが、最近、ようやく「月」様のホームページを拝見することができるようになりました。というのも、六月の四日からネットへの接続が出来なくなっていたのです。原因はいまだに分かりませんが、たぶん環境の悪さからのものと思われます。ヤフーのADSLでの接続でしたが、不通の問い合わせにもメール使用とのことで、携帯電話では無理なこともあり、解約をしてNTTへ変更を申し込みましたが、その時の説明では、限界が4~5で、わが家は4,5のギリギリの位置にあるらしく、「接続しても途中で通じなくなることもあるのでその旨了解しておいてください」とのこと。ヤフーも回線はNTTを使用していましたから、原因がそれであれば同じことの繰り返しになりますものね。

現在はケーブルテレビで、インターネットへの接続をしています。

2002 7・1 14

 

 

* 秦先生 是非お会いしたく。

いよいよ暑くなってきました。

役所の7月は大きな人事異動の時期。私のところも替わる予定で、新体制で落ち着くまでは、バタバタとした日々が続く事と思います。

さて、柳とも相談をしたのですが、是非、先生とお会いして色々とお話を、と思っております。ついては、調整役を柳に仰せつかりましたので、先生のご予定を確認させて頂きたくメールを出しております。

やはり、土曜日の方がそれぞれ落ち着いて過ごせるので良いかと思いますが、7月の何れかの土曜日でいかがでしょうか。これらの日であれば、今のところ私も柳も大丈夫です。

場所は、3人の住まい等を考えると吉祥寺か、あるいは新宿かと思っておりますが、いずれにしてもどこか良いお店があるのであれば、何処へでも出て行こう、という気でおります。もしお任せ頂けるのであれば、私と柳で良いお店を探してみます。

取り急ぎ、ご予定の方を先に、と思っております。よろしくお願い致します。丸山

 

* よろこんでいる。どこへ連れてゆこうか。

2002 7・2 14

 

 

* 日立の重役、最後は日立セミコンデバイスの鑑査役まで勤めて、とうどう会社生活から引退した友人が、『鑑査役短信』なるプリントの冊子を送ってきてくれた。以前に、「なにか書けよ」と奨めておいたが、やはり立場上か、わたしのように「闇に言い置く私語」ではなく、企業内の公的な言葉を取りまとめたようだ。自然と、情報や資料や数字での判断や見解や見識が書かれる。そうか、彼の持ち前の読書等から得た知識を介して、彼の思いがやや重々しく公的な出で立ちで出てくるのは、やむを得ないだろう。だが次回は「私語」による述懐や意見や思索を読ませて欲しいと返事を送った。

彼とは、弥栄中学から日吉ヶ丘高校まで一緒、大学も専攻も別々だったが、後年に東京で再会、他の友人達とともに何度も旧交を温めた。その中には昭和石油の社長になったのも、原子力関係の大きな組織で上の方までまだ勤めているのも、いる。片岡我当のような大きな歌舞伎俳優もいる。

これらの新制中学仲間十人足らずで、「文藝春秋」同期生たちのグラビア頁に写真を撮られたことがある。祇園さん、八坂神社の境内に並んでいい写真になったし、新制中学の同期だけで、よく顔ぶれがこう揃いましたねえと感心してもらったりした。

みな少しずつ役員生活からもリタイアして行く。わたしは、理事や選者や委員からはいつリタイアしても構わないが、それ以後もいつまででも、仕事の出来るうちはして今までどおりしてゆくだろう。幸福なのか、それだけシンドイ仕事なのか。

2002 7・3 14

 

 

* 先生から勧められた中村光夫「知識階級」を読みました。

大変、心動かされました。

勧めてくれた先生に心から感謝しております。

 

* 東工大の卒業生からの端的な挨拶である。嬉しい。若き社会の新知識人たちに、ぜひ読んで置いて欲しい、かならず何かをもたらすであろうと思う論考で、しかも読みやすい。中村先生の奥様がこれをとご希望になったことに深く頷いている。有り難いこと。

2002 7・4 14

 

 

* 「天体観測」は、昔の「夏物語」風のドタバタの軽いドラマ(これがさんまと大竹しのぶを結びました)でなく、(私は観ていませんが)むしろ評判のよかった長瀬智也主演の「白線流し」の系統で、建日子さんの脚本がしっかりしていて、これからが楽しみです。

テレビ局とは企業であるだけに恐ろしい処で、視聴率が低いと、ストーリーを変えて、予定より少ないクール数に打ち切るケースも間々あるらしい。尤も視聴率を稼いだ折には、スポンサーからハワイ旅行のご褒美が末端の裏方にまであったのを聴いています。不景気な昨今ではどうですか。

日曜日のNHKで放映の、お好きなミポリン(実は私も、昔から歌手でなく女優としてのフアンです)が、ベストセラー小説「アルケミスト」の世界を追体験して、スペイン、モロッコ、エジプトへと旅する番組がありますよ。

2002 7・5 14

 

 

* アメリカの懐かしい友達から、また東京へ出てきた時の河田町新婚新居のアパートの大家さん、そこのお嬢さんから、メールが届いた。まだ小さかったお嬢さんの子供達がもうとうに大学も卒業している。「キョウコちゃん」などと呼ぶどころか、うかうかするともうおばあちゃんになっていかねない。参るなあ。

2002 7・8 14

 

 

* 熱帯夜の余波もなく七時間、子供並に熟睡して早めに眼が覚めました。寝相も子供並でーす。

今朝は蒸していますが、もう洗濯も終わり、道端にてんてんと散らばった深紅のばらの花びらの掃除、鉢の水遣りも終えました。手早く雑務を済ませて、後の時間をゆっくりと自分のものにするのが好きです。

最近のアメリカの映画やドラマをみて気がつくのですが、アカデミー女優賞をとったハル・ベリーを筆頭に、はっとする様な美人の黒人女優が増えて、市民権を得ていますね。混血で、うまく優性のDNAが出てきたような。内容は相変わらず有色人種差別が下敷きになっているのが多いですが。

今、BSで多分イギリスのTVドラマだと思いますが、「紅はこべ」が始まりました。あれは子供の頃、ペラペラの汚い紙の本で、心をときめかせて何度も何度も夢心地で読んだ本です。パーシー卿なんて夢想の男性像でしたし、その時に、ドーバー海峡がフランスとイギリスに横たわると、地図がしっかり頭に入ったと、懐かしんでいます。あちらのドラマは作りがしっかりしていてます。ジェラリュード・バリュデユの「モンテ クリスト伯」なんて、とても面白かったし。

なんだかとりとめもなく。

 

* とりとめの有る無しは別にして、気持ちの佳い寝覚めから一仕事のアトに、こういうメールをいろんな知人や仲間達に同報で送っているような主婦・老主婦が増えている。新風俗といえようか。黒人女優の美しさにしびれることがたしかに増えて、わたしも楽しんでいる。名前はめったに覚えられないが。

わたしはBSは敬遠して受け入れていない、が、「紅はこべ」とは。記憶から完全に消えていたものが、深海からのたよりのように浮き上がってくる。明らかにアレは小学校の六年生頃に本を借りて熱中した。

2002 7・9 14

 

 

* 朝、駅前の交差点を、おおあくびをしながら大急ぎで渡っている若者に出逢いました。思わず振り向いて、何ともうらやましかったです。できるうちは、世のため人のため半分くらいは自分のために頑張ろうとは思っておりまが、疲れます。自分の体のことなぞ何も考えずに遮二無二働いていた頃がなつかしいです。

『元気に老い、自然に死ぬ』やっと終わりまで行きました。「むずかしいよなぁ」と、こういうのがわかる人は、ほっといていいんじゃないのかなぁ、と思いました。何でもいいから、今ここで、少しでも効く『抱き柱』を抱かせてあげたい人がたくさん居るのに、悲しいです。もいっぺん読んでみようと思っています。『──跋にかえて』を読んでいて、「あれぇ!?」と恐縮してしまいました。

ついでにもうひとつ。お陰様で『高史明:真実のいのちを深く見つめる』などを読ませて頂き、一度やってみたかったことを始めました。東京大空襲で、隅田川は『死者またも浮く慟哭の黒き川 宗内数雄「句集隠りく」鎮魂』だったそうです。わたしの家も焼けました。昭和のおじさんは「平成納経」と名づけました。どこまでできますか、恒沙を拾うようにやっています。平家の人達は大変だったろうなと思います。

毎日本当にご苦労様です。毎日々々元気を貰って感謝しています。暑くなりました。『外へ出歩かないような生活』賛成です。お大事にしてください。

2002 7・9 14

 

 

* 涼をもとめて  子供の頃、氷河というのはただ白いものだと思っていました。大人になってスイスで初めてほんものの氷河を見たときに、白さの奥から濃厚なブルーがにじみ出ているのを知り感動をおぼえました。地球の歴史を刻んできた氷河のなかに、広大な海があり空があるような印象がしたのです。純粋な氷河ほど青いのだと教えてくれたひとがいました。

酷暑の予感がひたひたと迫りますこの頃ですが、あの青い氷河を思い出すたびに心があらわれ清々しさが甦ります。

先日「e-文庫・湖」に掲載してくださいました芹沢光治良にかかわる講演は、友人に送りましたところとても喜ばれました。ありがとうございます。

川端康成についてのご講演も読ませていただきました。私が以前から川端康成の作品について漠然と感じていたものをお教えいただいたようで、大変面白うございました。

昔彫刻家の高田博厚が川端康成の肖像をつくったことを回想して、こんなことを言っていました。

「川端康成、ごつい顔でしょう、目も。顔がごついんだけど、中からくる力が弱いんで閉口したんです。非常に弱いですね、中からくるものは」

私が川端文学に感じるある種のもどかしさはこんなところにもあるのかもしれません。なんて美しいひとだろうと近づいていくとたしかに美しいのですが、触れるとなぜか淡雪のように溶けてしまう。私にとって川端文学はそんな女性でした。ですから迫るよりは眺めるだけでいいと感じ続けて、熱い読者にはなれませんでした。私の感性が川端美学を理解し愛好するほど繊細でないとお叱りを受けそうですが……。それでも先生の静かな語り口を読むうちに、私の川端文学への接しかたも少しは許されるような気がしてまいりました。

お暑さのなかでも、先生のお心のなかにはきっと清らかで涼しい歌や句がたくさんおありのことでしょう。どうぞお身体のほうは、くれぐれもご無理なさいませんように。

 

* 夕風や水青鷺の脛をうつ  蕪村

夏河を越すうれしさよ手に草履  蕪村

石も木も眼にひかるあつさかな  去来

是ほどの三味線暑し膝の上  来山

おほた子に髪なぶらるる暑サ哉  園女

 

* 彫刻家高田博厚の川端洞察がおもしろい。

2002 7・9 14

 

 

* セビリヤにいた河村浩一君がイタリア一ヶ月の旅を楽しんだ後、今度はマドリッドに住むという。底抜けに健康で楽しそうな、元気な勉強ぶりのようである。

明日は、丸山宏司、柳博通君と逢う。楽しみだ。

2002 7・12 14

 

 

* 卒業生の丸山・柳君と新宿で逢った。朝から飲食を節して、歓談に備えた。美しい人の気持ちよく迎えてくれる店で食事し、歓談し、ついでうまい酒の飲める別店に移って、さらに歓談。いちばん気のおけない二人と、いちばん心の開ける店で、時間の経つのを忘れていた。ほどよく別れることも若い人を相手のときには大事なこと。で、大江戸線に一人乗り、きもちよく寝てしまい、光が丘まで行きました。目がさめ、尾崎紅葉の「金色夜叉」岩波文庫を読み始めたのが、どんどん読めそう。先入見を持ってしまっていたが、「金色夜叉」の文章は流石に秀逸であり、これだけ冴えた堅固な文章で書かれた小説が通俗であるわけがない。それに気が付いた。

2002 7・13 14

 

 

* 前夜、柳君に、小説を書いてくださいとやられて来た。何を言うても言い訳に聞こえるだろうと思いながら言い訳していた。柳君は「楽しむ」というきもちを大事にしていると言っていた。これは今のわたしの気持ちにつよく触れてくる。

2002 7・14 14

 

 

* そこそこに歓迎会は失礼して、クラブで野村敏晴君とゆっくり歓談。彼の会社で作った『舞踊』がとうどう出版になった、そのお祝いをしたようなものである、写真が主で、森田拾史郎撮影。それに多田富雄氏と私が巻頭に文章を寄せている。遙か昔の原稿であり、野村君はだいぶ苦労した。「ヘネシー」をからにし、「ブラントン」と「山崎」を、二人とも終始生のママで。わるく酔いもせずに、気持ちよく十時過ぎに地下鉄で別れた。

2002 7・15 14

 

 

* バグワン・シュリ・ラジニーシ

秦恒平様 はじめてお手紙をだします。昨年より「闇に言い置く」を読んでいます。バグワン を検索中に先生のページに出会いました。

僕は、昭和11年生まれ、技術分野で会社を定年、文学青年のまま現在に至っている人間です。電子計算機開発の企業世界卒業です。

太宰、花田清輝、鶴見俊輔、奥野健男、などの各位の書き物を読み、「京大学派」が西ならば、東は「東工大自由人」の感があると日頃感じてきました。

昭和58年買って読まなかったバグワンを、60過ぎて、読みました。

人間の「業」を人間自身が「昇華」しようとする「傲慢」を、彼の「話」に老荘思想の如く魅かれながら感じます。

オーム教と比較されたこともあるそうですが、バグワンは「自信」にあふれ、例えば、太宰の「壊れそうな花びら」に通じるところは無い。

一月に一度でも先生のバグワン随想 といいますか、チラリと・・・バグワンについての書き置くの「行」を期待したいのですが。お疲れ、ご多忙の毎日をかえりみず失礼のメールですが、バグワンの話を聞きたい。失礼の段 謝です。

 

* メールを有り難う存じます。同世代の方からバグワンに触れて頂いたのは珍しく嬉しく存じます。

もう十年ほどには成りましょうか、一夜も欠かさず、バグワンの言葉を私自身の声に置き換えて、少しずつ少しずつ聴き入り、繰り返し繰り返しいささかも躓くことなく聴き入っています。「存在の詩」「般若心経」「十牛図」「道・老子」「一休」「達磨」その他、手に入れたものを順繰りに。私が読み、妻もこの頃近くで聴いています。

オームなどとの関係は、絶無と思います。いささか語彙的な模倣はしたかもしれませんが。

バグワンは透徹していますし、私は、つとめて彼を、知解し分別しない、したがって変に信仰することもない。何かを「解釈」するために読んではいません。安心のためにという方があたっています。バグワンに抱きつくことはしていません。一緒に呼吸しています。

私にならってバグワンを読み始めた人はごく稀で、あまりつづいていないようです。そんなものでしょう。怖がっている人もいましたね。私は「喜んで」います。

二十年ほど前、大学生の娘が、仲間と騒いで読み始めていたとき、私は一瞥もしませんでした。娘もやがてバグワンの何冊かに埃をかぶせて、物置に放り込んだまま嫁ぎました。偶然にみつけて、あの頃、娘達はなににかぶれていたのだろうという好奇心から開いてみました。すぐ、これはと感じました。そして、座右のバイブルとなり、友となり、手放していません。バグワンは、やっと二十歳になる娘には無理だったろうと感じました。哲学として知解してしまえば、それだけのもので終わりますから。

嫁いだ娘の、父親達に呉れた大きな贈り物になりました。

私語の刻に、ときどき触れますが、「説明」してはいけないと思い、ふみこんだことは言わないでいます。

また話しましょう。お元気で。

わたしは若い人達と仲良くしていますが、殆どが東工大の卒業生です。徹して理科ダメ人間でしたのに、有り難いことです。コンピュータを使えるように教えて貰いました。いまもなお。

 

* 灘と吉野 雨もよいの朝。予報も前夜とは変わり、涼しくなりそうで、出かけてみようと支度をし始めたら、すさまじい雨になりました。落雷で近鉄京都線の信号が故障したそうで、祇園(何必館)でなく、兵庫県立美術館の華岳を見てきました。

真新しいビルの並ぶ新しい街に、かすかに潮の匂いが漂ってきます。海岸に建つ美術館には、六甲の山並みと、灘の海を、それぞれ眺めることのできるデッキがありました。華岳も、建物も、よかったですよ。

帰りは道頓堀の松竹座で、松緑・雀右衛門・仁左の「吉野山」を幕見。楽しかったけれど、すこし張り切り過ぎて、バテました。囀雀

2002 7・17 14

 

 

* 電話で、布谷君があす午後に来て、機械を見てくれるという。

2002 7・19 14

 

 

* 午後、布谷智君が来てくれて、ついに親子機械のネットワーク機能を完成、その状態で子機連結のスキャナーやプリンターの「同時使用」も、全部可能にしてくれた。これで、布谷君が組み立てで親機を設置してくれて以来、はじめて、二つの機械環境が一体化した。すばらしい。

あとは、引き続いて「ぺると」と森中隆志氏の助力を得て、ホームページをますます活用しやすいモノに仕立てたい。「e -文庫・湖」を「ペン電子文藝館」方式の組み立てにし、さらに「私語の刻」を一ヶ月単位で検索可能なように作り替えてゆきたい。

2002 7・20 14

 

 

* 午後、布谷智君が来てくれて、ついに親子機械のネットワーク機能を完成、その状態で子機連結のスキャナーやプリンターの「同時使用」も、全部可能にしてくれた。これで、布谷君が組み立てで親機を設置してくれて以来、はじめて、二つの機械環境が一体化した。すばらしい。

あとは、引き続いて「ぺると」と森中隆志氏の助力を得て、ホームページをますます活用しやすいモノに仕立てたい。「e -文庫・湖」を「ペン電子文藝館」方式の組み立てにし、さらに「私語の刻」を一ヶ月単位で検索可能なように作り替えてゆきたい。

 

* 二時半に来て布谷君は数時間奮闘してくれた。それから一緒に保谷を出て、街で夕食し、歓談三時間。二人で、好きに落ち着いて話せるコーナーがうまい具合にあてがわれ、酒も焼酎も、しみいるうまさで満足した。嬉しかった。

布谷君とは、彼が自らもう退官まぢかいわたしの教授室に現れてくれていなければ、ご縁はなかったろう。彼は、わたしに或る希望をかけて、ものごとを説きに来てくれたのだ、それは今で言う「環境問題」に触れていた。耳を傾けた。やがて別れたが、退官後にも幸い連絡が取れていた。彼は息子の芝居を見に来てくれ、その時同窓の友人田中孝介君を紹介してくれた。田中君が、先ずわたしの保谷の家に来て、わたしのパソコンにあっという間にホームページを建立してくれた。今のホームページの基盤は田中君が確立してくれた。

その後、布谷君は様々のホームページ再構築を工夫してくれた。彼の手で大きく我がサイトは「格好」よくなっていったし、機能を多彩に付け加えてくれた。そして、遂に布谷君自身の手で親機を組み立てて子機との間にネットワーク可能の環境を生み出してくれた。今日はそれが、いわば完成した記念日となった。感謝の極みで、嬉しい。少々のご馳走をしたぐらいではとてもとても追いつかない。

2002 7・20 14

 

 

* 炭火と黄金  しばらく前のことです。友人から「田之助さんが人間国宝よ!」とメールがあり、あわてて新聞を広げました。

なかに截金の若い女性の名があって、雀はあの場面が脳裏にぱぁっと広がり、読んでいるときと同様、息を止めました。呼吸をしている炭火の赤。それに応えて動く黄金。汗だくの少女。まなざし。すぐにメールしたかったのですが、うまく言えなくて断念。そして、ご本を捜そうとして「あれ?」。タイトルが出てこないンですよォ。何冊も引っ張り出して、広げてと、いつも通り、ひと騒ぎになりました。「畜生塚」。読んでからまたメールします。

 

* 祇園祭を筆頭に、各地の夏祭りが知らされてくる。梅雨あけ、真夏。勤めに出なくていい身には、夏の活気はわるいものではない。アスファルトの道を喘ぐように熱気を呼吸しながら、濡れた褌を白い布袋にずしっと提げながら、疏水べりを、武徳会の水泳から家へ歩いた小学生の昔の、真夏。草いきれの赤土道を、山から山へ、なにとなく物陰からの生き物をおそれおそれながら、借りていた農家へ帰っていった、丹波の山奥の真夏。

 

* 布谷です。昨日はごちそうさまでした。

ネットワーク(ADSL)復旧が最優先事項だったのに、既に修復済みだったので、あまりお役に立つことは無かったですね。

にもかかわらず、夕食ばかりか お土産まで持たせていただいて…(^_^;)。

忘れないように本日の作業内容をまとめますと、

?NEC Lavie にNETBEUIというソフト(プロトコル)を導入

→ UMIとLavieがつながる

?NEC Lavie で使っていなかった赤外線や通信ポート(COM1)を停止

→ スキャナがADSL接続時でも使える

?UMIからNEC Lavieにつながれたプリンタを使用できるようにする。

→ 但し、UMIから印刷するにはNEC Lavieに電源が入っていることが必要

?UMIのシステム・バックアップを取ってCD=Rに焼く

→ 今後、何かあっても安心(でも何も無い方がベスト)。

となっています。今日の作業によって何か不具合が発生していましたら、またお知らせください。

 

* 有り難う。そのほかにも、幾つか操作を教わった。一太郎のファィルで立原道造と黒島傳治の詩集と小説をATC に昨夜のうちに送ったのも。うまく送れていたなら、これからディスクでの郵送をいちいちしなくても済みそうだ。

2002 7・21 14

 

 

* 愛読者と編集者  パソコンの復旧おめでとうございました。わが家にも三台のパソコンがございますが、たいていどれか一台が思うように動いてくれなくて、家族の誰かが交代でなぜだろうと頭を抱えております。便利とはいえ、パソコンは私には今だ得体のしれない機械です。

先日お送りいただきました「川端康成 瞳の伝説」は、寂しい色調におおわれていました。とくに終章では川端康成という素晴らしい作家を喪失した哀しみが切々と胸に迫り、思わず涙が溢れてしまいました。

ただ、追悼のエッセイとしては、ある種きれいごとに終始してしまったような物足りなさを感じています。色々理由を考えまして、たぶん筆者の伊吹和子さんが、本音ではなく、有能な編集者の立場に徹して書かれたからだろうと想像しました。

私は純文学の編集者という職業をよく知らないのですが、作家のような病的な個性とうまく距離をとっていかねば身が持たないのではないかと思います。不用意に愛読者として近づけば、渦に巻き込まれて大火傷してしまったにちがいありません。私が伊吹さんのように間近に川端康成に接していれば、とくに三島由紀夫事件のあとで自殺されるのではないかと毎日不安でいたたまれなかったような気がいたします。谷崎潤一郎や川端康成との純文学黄金期の編集者であった伊吹さんの職業人としての幸福を思う反面、ものを書く人間とものを書かずにサポートする人間の違いなど考えさせられました。編集者から作家になったかたは多いですが、編集者にとどまることを選んだかたの証言として「瞳の伝説」は私には大変興味深いものでした。プレゼントに心よりお礼申し上げます。

それから最後に編集者ではない愛読者として、秦先生にひとつお願いがございます。

どうか入浴しながらの読書はおやめください。絶対にいけません。入浴中の事故で毎年どれだけ多くのかたが命を落とされるかご存じでしょうか。湯船にどっぷりつかる日本の入浴習慣では、血圧の変動が大きく、倒れたときには溺死ということもあり得ますしそういう実例も聞いております。昨日まで大丈夫なことでも、今日は危ないのです。とくに年齢を重ねるにつれて、入浴は命がけと思われたほうがよいそうでございます。ご家族のかたのいないときのお一人の入浴もお避けになりますように。

こういうのをいらぬお節介というのでしょうが、一読者の偏愛と杞憂と笑ってお許しくださいませ。

 

* 叱られてしまった。あまり行儀よくもないので、気にしていたし、何といっても光源が十分でないので目を気づかっていた、が、その余のからだへの悪影響は思案の外にあった。むしろ良かろうと思っていた。

わたしは何もしないで放心から無心へなかなか入って行きにくい人である。作業に没頭している方が無心にちかい安心の境地にいやすい。その点、わたしが苦手としてきたのは、ひとつは散髪。一時間拘束されてしまうのがイヤ。それと、ぼやっと入浴する時間。で、散髪屋ではこの頃はあっという間に寝入る事にしているし、浴室では本を読むか、何か数多い一連の何かを数え上げている。その間は落ち着いて、他の雑事をみな忘れている。赤穂浪士のなかで、何右衛門、何左衛門と名乗っていた何人が思い出せるかとか、外国映画の題名を思い出せる限り数え上げるとか。そういうのを限界までやっていると殆ど無念無想みたいな安定感を得ている。何もしないでハダカで湯船に拘束されているだけの時間はあまり楽しくない。家の浴室なんて、温泉の大浴場とちがい窮屈でしようがない。

しかし、浴室でひっくり返るのも賢いことではない。ご注意に従うとしよう。

 

* 伊吹さんほど豪華に幸せな文藝編集者は珍しいが、ご苦労も察するにあまりがある。川端康成について書かれたモノは、ずいぶん読んでいるから、伊吹証言をそのままそれだけで受け取るようなことはないが、伊吹さんの気持ちは分かる。谷崎潤一郎の方は、多少とも私自身が深入りして書いたり調べたりしてきたから、伊吹さん一人思いの「われよりほかに」を、尊重もし斟酌もし、ま、距離も置いてきた。川端に関しては、わたしにそれほどの動機がないので、気楽に読んでいる。ことに川端の晩年を彼女は接し見守っていたのだが、同じ晩年の証言では、まるっきり違った内容と色合いの仰天するような証言もすでに幾つも出ている、それを知った上で、伊吹さんのモノは伊吹さんのモノとして丁寧に受け入れたのである。長編なので校正にも時間がかかったが、もう今日明日にも「ペン電子文藝館」の仮サイトで委員間の校正段階に入る。

 

* あれれ、まだ十時ぐらいと思っていたのに、もう午前一時をまわっている。よほど今日はわたしは変調だった。

2002 7・21 14

 

 

* 器械の復旧ができたようで、安心致しました。

古今集など読まれているようですが・・和歌集を読むことは、心洗われる貴重な時を過ごされていること、疑いなし! 換え難い時間だと思います。わたしは、歌詠みはできませんが、数少ない手持ちの和歌の本の中で、久保田淳、川村晃生偏の『合本、八代集』を時折ぱらぱらと拾い読みしています。散漫ながら散漫な楽しみ方もあるものです。西行や定家なども・・。和歌には「酔える」楽しみがあります。ぐずぐず情緒に流される危険にも陥りやすいですが、それをも好き好んで楽しんでいる時があります。

ホームページのメールで、お風呂のことを書かれていましたが、夏、熱いお風呂に入ることはわたしには思い付きません。寒い時期と比べて血管の収縮など比較的心配することは少ないでしょう、けれど、やはりさまざまに健康に関しては慎重に過ごした方がいいと思います。

梅雨が明けて・・あまり梅雨らしくない梅雨だった気がしますが・・梅雨明けのカーンと暑いなかを、祇園の山鉾が巡行するのを見るのが好きです。でも、今年は雨にたたられました。あの朝は寒冷前線通過で激しい雨風、そして雷に目を醒まされました。四条河原町での鉾の「辻回し」が楽しみで、なんと言われてもこれは例年の欠かせない楽しみ。日々を時折彩る小さな楽しみと、旅行が出来るいくらかの支えがあれば、恐らく他の多くのものは望みません・・。自分の心の中は別として。

何の変化もなく? 日々が過ぎていますが、あと一週間で娘が帰ってきます。昨年のテロ以降、ビザの申請条件がかなり厳しくなって、娘が通っているような小さな規模の学校、語学校でも滞在期間は一年までなど・・ビザが取れない状況で滞在を続けたくないという彼女の意見と、一応技術の基礎は身につけたということが重なって、今回はイタリアを引き上げ、日本に戻るのを決心したようです。帰ってきても、当地では仕事のあるはずがなく、今後どうしていくのか、わたしも考えてしまいます・・。が、将来のことは将来に。今しばしは、娘の帰ってくるのを楽しみに暮らしています。

 

* 何時間もかかる県外から必ず祇園祭のあの鉾の「辻回し」を見に来るなんて、京都の者には考えられない元気さだ。わたしでも、梅雨明け、あの暑い暑い日照りの中の「辻回し」など、三度と見たことはない。祭礼はむしろめったに見ないというあたり、兼好法師の弟子筋である。

『合本・八代集』とは佳い蔵書。いま私が頂戴し続けている大古典全集に、惜しいことに『古代和歌集』が欠けている。古今と新古今、それに和漢朗詠集は入っているが、八代集からのせめて選集が欲しかった、一冊か二冊にして。『国歌大観』は字が小さく本が重く、扱いにくいし読みにくい。

世の中には、いろんな人がいて、生き生きと暮らしているのが分かる。

 

* 南の旅人より  こんにちは。さすが九州、半端でなく暑い日々です。いや、「暑い」よりは「熱い」のかもしれません。じりじり肌を焼かれるような熱気は、新潟にはなかった気がします。

先週、祗園山笠のお祭りを見にいきました。御輿をかついで街の真ん中を突っ走る男たちの、まさしく熱気。いいものを見せてもらいました。

大学はもう夏休みです。入学してからの3ヶ月、とにかく新鮮でした。高校のころまでは周りに人がいるのが当たり前だったけれど、浪人の1年間はほとんど人がいなかった。浪人したことで、たくさんの友人知人と接していられる今を、楽しめるだけ楽しもうと思えるようになりました。

春に手紙で東京へ行きたいと書きましたが、まだ早いかなという気でいます。それよりも、今は九州のことを知りたい気持ちが強いのです。北九州の小倉ではちょうど夏競馬ですし、久留米に住む友人からもぜひ遊びに来てと言われています。8月は2週間ほど新潟へ帰ります。東京行きのことは、秋の試験が終わってからまた考え直すつもりです。

読書は法律関係がもっぱらで、文学から少し遠ざかっていました。最近はひさびさに古井由吉を読んでいます。当分は法律の本を中心にするつもりですが、そろそろ「ペン電子文藝館」からいくつかプリントアウトしようと思っています。

建日子さんの「天体観測」、3回目を見てみました。秦さんのおっしゃるとおり、マイルドはいいのだけれど、どうも表面を撫でるばかりでパンチ不足だなあという印象です。登場人物が多すぎるのはもう変えられないから、1回で無理に全員を出そうとせず、焦点を絞って描いたほうがいいと思います。

ホームページが停止しかけたと知ったときは、どうなることかと心配でした。復活どころか、今まで以上に機能しはじめたとのこと。ほっとしました。

それでは、迪子さんともども、お元気でいてください。

追伸 「なよたけのかぐやひめ」、とても勉強になりました。文学部の女友達が手にとっておもしろそうねと興味を示していました。彼女にプレゼントしたいので、もう1冊送っていただけませんか。よろしくお願いします。

 

* この学生君も元気旺盛。嬉しくなる。出逢う(といってもメールだけで、顔を合わせたことはない。私の場合は、九割九分が、自然、そうである。)たびに、新しい息吹を伝えてくる。活気だ。

2002 7・22 14

 

 

* 毎日暑くて、どうにかなってしまいそうですが、いかがお過ごしですか。この暑さは9月まで続くのでしょうね。長い夏を前にして、げんなりしてしまいます。

「なよたけのかぐやひめ」は、勉強になりました。秦さんの作品からは、多くの知識を得ることができます。そこから、わたし自身の世界をひろげたいと、いつも想っています。

「ペン電子文藝館」のお仕事についての秦さんの「私語」を読んでいますと、ひろく、アナログからデジタルへの移行の煩雑さについて考えます。わたしの仕事も似たようなところがあります。これまで使用してきた、いわゆる「版下」を、デジタルなものに変えて行く作業は、オペレータの根気にかかっています。一般企業にPCの普及し出した数年前、楽になる、だの、人を減らせる、だのという声をよく耳にしましたが、そんなことはありませんね。結局、要求されることが増え、仕事量は変わらないか、これまで以上だな、というのが実感です。

わたしの身を置いているDTP業界の末端でも、無知・無理解が甚だしくあります。現時点において、PCで作業することの利便が実感できるのは、”データの汎用性”のみです。それさえも、周囲に環境が浸透して、はじめて発生するものですが。

「電子文藝館」、ご苦労の多いことと存じます。ともあれ、北条民雄の「いのちの初夜」をたのしみにしています。

昨日は、「天体観測」(秦建日子脚本)を、はじめて観ました。過去にあった青春群像ドラマの数々を憶い出しながら、そして、自分自身の25歳に想いを馳せながら。

率直な感想は、暗いなあ、です。輪になって、皆、沈鬱な表情でしたね。世相を写しているのでしょうか。

仲間といえば、わたしの場合大学時代のサークルメンバーです。が、ドラマのように、ああしょっちゅう顔をあわせることはできません。関東近郊に住んでいる者だけ、集まっても、年に1、2回です。ですから、集まると、飽かず語ります。呵々と賑やかな酒宴になります。個々に抱えている問題はあるでしょうが、ぐっと飲み込んで、楽しく過ごします。

そんな友人たちから届く手紙や電子メールの文面に、呻きのようなものの読み取れることがあります。辛い、苦しい、と書いてあるわけではありませんが、たわいない近況報告として見過ごせない何かがあります。共鳴するわたしの中のものが、そう解釈させているのかもしれません。でも、きっと皆、一人で闘っている。わたしは彼らに「洪水のように 大きく、烈しく、生きなくてもいい。」と、言ってあげたくなります。「白き石のおもてのように醒めてあれ。」と、半ば自分自身に言いきかせながら。

秦さんの「私語」で、井上靖の詩「愛する人に」を知り、わたしはほんとうに救われたのです。

それでは、暑気にやられぬよう、お気をつけください。

2002 7・24 14

 

 

* 東京は猛暑。札幌もちょっぴり夏模様です。短い夏を惜しむように、週末は花火大会が。遠くに音を聞いております。

湖の本「なよたけのかぐやひめ」。頂いてから、少し物狂いになりまして、どうしても跡見をしたく、一月かかって跡見に行って参りました。hatakさんのご趣向とはすこし異なるかも知れませんが、私にはこんな会であってほしいのです。

明日からは泊まりで夏の学会。40分の講演もあります。

相変わらずご多忙な様子。歯を大切に、ご自愛下さい。maokat

 

* 「竹ノ幻想」という文章が届いた。この人のこと、かっちり書けている。が、スパッと本丸へとびこむような大胆なカット、または倒置法があってもいい。経時的に順繰りにものごとを踏んでゆくと、その説明で、本当に書きたいことが出てくるまでに余分な手間暇がかかる。せっかちな読者はそれを待っては呉れないで、投げ出す怖れがある。

わたしは「竹取物語」のモチーフに、愛しい娘または少女に死なれた人の鎮魂の願いがあったろうと推論して、それを「なよたけのかぐやひめ」の底荷に入れた。maokatさんは、打てば響いて、そこへまっすぐ反応し、「竹ノ幻想」を書かれたらしい。「e-文庫・湖」15頁へ掲載した。

2002 7・27 14

 

 

* 「昨日」の隅田川川開きの花火に誘ってもらいながら、「今日」だとメールを読み違えたために、気付いたときは七時半、間に合わなくて、惜しいことをした。残念無念。ぼやっとメールを読み間違えた。

2002 7・28 14

 

 

* さるすべりが赤々と燃えて、せみしぐれがじーんと響いています。こんな季節になっていたのですね。お元気ですか。

住民基本台帳の問題は、個人のプライバシーを侵害する上でも、個人の安全を脅かす上でも、大きな危惧を感じています。

今でさえ銀行の個人情報やNTTの個人情報などが、流出しています。想像を絶するような悪用をする人たちがいくらでも出てくるでしょう。小泉内閣は、比較的高い支持率を保持しながら、実は日本を大きく変えている恐ろしい内閣のような気がします。

歴史の流れは、数十年たって初めて見えてくるのでしょうが、現在、渦中にいると見えにくいのが怖いのです。

今日はまた一週間分の元気をためられるよう、静かな休日をもう少し味わいます。

2002 7・28 14

 

 

* こちらも、お江戸同様、雷雨で大変でした。

さて、降って湧いたような「新札」の話。ペイオフ対策でタンス預金にしている旧札を吐き出させる魂胆やて、誰かが言ゥてました。

経済効果て、あほちゃうかぁ。それやったら、紀伊國屋文左衛門か、尾張宗春公の肖像にしたらどないやのン?

2002 8・2 14

 

 

* もう何十年戴いている「茶道の研究」で、湖の本の読者の生方貴重氏と谷村玲子さんが、それぞれ、これも頂戴している著書「利休の逸話と徒然草」「井伊直弼修養としての茶の湯」により茶道文化学術賞を受賞されているのを見つけた。二冊とも受賞して至当な優れた著作であった。前者は平易な口調で話しかける書き方ながら奥行きがあり、谷村さんの井伊直弼論は見事な研究成果で感心していた。湖の本は、こういう人達によっても支えられてきたのである。才能に優れた読者が数えられないほどで、生形さんは推薦して日本ペンクラブに入ってもらっている。

 

* 米子工業高専の助教授をしている平沢信一君からは、筑摩の「国語通信」に載った芥川「羅生門」論に添えて久しぶりに手紙をもらった。早稲田の文芸科にいた人で、一年下に角田光代がいた。文芸科の人とも数人今もおつき合いがあり、湖の本を支えてもらっている。東工大の学生君達より何年か以前からのご縁だ、そういえば、そうだ、湖の本を創刊した一九八六年から二年間、わたしは早大文芸科の小説ゼミを手伝ったのだった、二年で勘弁してもらった。平沢君は一度二度わたしの作品論も書いてくれている。

 

* そういえば原善君と、ちょっとご無沙汰だ。作新短大から上武大教授へ転進して、さらに今度は東京に帰れるようですと朗報も届いていたのだが。実現したのだろうか、それなら報せてくれそうなものだが。相変わらずチョー多忙なのであろう、今でも。目をむくほどアチコチかけもして講義に駈け廻っているのだろうか、健康で、元気でいるといいが。

2002 8・3 14

 

 

 

* 夕過ぎて、卒業生の一人と約束して逢い、涼しいいい店で、心地よい、親切の行き届いた和食を食べた。ゆっくりと、いろいろ、歓談してきた。冷酒の「天狗舞」を四度も替え、美しい店の人にも何度も何度もお酌してもらい、ご機嫌であった。上尾君も勤めて五年だという。責任という二字をもう重く背負ってゆくときだ、大人だ。そのように見受けられた。同じ東工大で勉強した人も、一人一人に会ったり話したりすると、進路はじつにバラエティーに富み、さすがにと思うほど堅実に歩んでいる。

今日便りを貰った人は二人めの赤ちゃんを七月三十日に出産したと、いかにも幸せにおっとりと心優しく暮らしている。そういう人もいるけれど、大方は社会に出て、それぞれの地歩を男女の別なく占めている。老境へゆっくり身を沈めてゆく者にも、それはとても良い刺激であり希望である。

昨日は一日息子が家で仕事していた。連ドラは、好調に好評を得て、新聞などもむしろ成功例に取り上げている。真面目にやってマットウに評価されだしているのだとすれば、いいことだ。

若い人達にきもちよく席を明け渡しながら、じじむさくならずに、楽しんで過ごしてゆきたいなと思い思い帰宅した。

2002 8・5 14

 

 

* 「バルセロナの娘より」懐かしいメールが届いた。昨晩逢った「息子達」の一人からも。

 

* スペインという国の家庭的風習に、週末の過ごし方に、馴れてゆきつつも馴染みきれないまま、いわばお嫁さんの立場で夫の両親と、はからずも臨時の同居期間に入っている。夫との住まいの内装工事のために。様子がわかりよく書けていて、はらはらもし、ちょっと微笑ましくもあり、「娘」奮闘中である。

 

* さて、先ほど触れたマンション改装工事の話です。

話が出てから決まるまであっという間でしたが、これは私にとって、また大きな飛躍、新たな覚悟でした。確かに、改装を必要とするほどバス、キッチンは古汚いものでしたが、全改装ということは、今後もそこに長くいる心積もりがある、ということです。4年前スペインに暮らす覚悟でやって来たものの、今思うとそれは「来る覚悟」であり、「居る覚悟」ではなかった。どこか、バルセロナに長く住み続ける事実を、受け入れたくなかった自分がいました。今ようやく、バルセロナの暮らしを前提に、地についた一歩を踏み出したのかもしれず、少し複雑な心境です。

ところで、4月に開始するはずだった工事は、この7月にようやく始まり、8月いっぱいは休暇の時期なのでストップです。スペイン風に焦らないことも、覚えてきています。

仕事の方ですが、一言では言い尽くせません。憤りと失望の連続と言えばそうかもしれません。それでも反面教師というのでしょうか、そこから汲み取れるもののあることは救いです。ただ、ここに長くいれば、人間が腐ってしまうことは、ほぼ確かな気がしています。外務省の役人に限らず、公務員の多くが、なぜこうも役立たずで無愛想になっていくのか、そのワケが本当によくよくわかるのです(現地職員は公務員でもありませんが)。永久就職と言われ、みなの憧れの勤務ですが、身の引き際が大切だと、よくよく心しております。

本当は、いくらでも触れたいことがあるのですが、それはまた今度お逢いしたときにでも。9月下旬から10月上旬にかけて、夫と帰国します。今回は、ぜひ夫同伴でお逢いしましょう。言葉を超えて伝わるものに期待して。

恒平さんの「私語の刻」欠かしません。湖文庫の「ドイツエレジー」、感じ方こそ異なったものの、彼女の述懐があまりに身近に感じられて、思わず私まで、ほろ苦い懐かしさを感じたものでした。「ペン電子文藝館」も素晴らしい。遠藤周作の「白い人」は凄かった。一昔前までなら、顔をしかめて終わりそうだったこの作品を、すごいと思った自分にも、正直びっくりしました。石川達三「蒼氓」は、南米移民たちと仕事上関わりを持っていなかったら、未だに別世界のことのようにしか感じられなかっただろう、と思え、今さらながら何も知らなかった自分を恥じました。北条民雄の「いのちの初夜」も。  バルセロナの娘より

 

* 四年前を思い出す。「来る(行く)覚悟」で「居る覚悟」ではなかったのだと気付き、今は「居着く覚悟」が出来てゆくようだと。聡い言葉である。

 

* 秦さん  今晩はどうも有り難うございました。お久しぶりのはずでしたが、そういう感じせず、とてもくつろいだ楽しい時間を過ごさせていただきました。料理もとても美味しかったですし。

とくに黄身梅肉につけた鱧は最高でした! 鱧はサッパリしてるので、醤油と梅肉だけだと、ひと味足りない気がしていたのですが。

30を目前にして、仕事もなんとか軌道に乗り始め、知らないことを学ぶのに忙殺されていた日々より、これからの生活や仕事のことを考える時間が増えています。それなりの手応えも充実感もあるのですが、このままの日々を重ね続けるだけでは、遠からず限界が来そうな感じです。このご時世に贅沢かも知れませんが。

まだまだ蒸し暑い日が続きそうですが、どうぞお体をご大切に!

 

* 今、此処を大切にしながら、少し向こう先へも目配りして、足取り確かに。安心して見ていられる。ぜひ良い家庭も培ってほしい。この秋には茶会で濃茶手前をする予定と。茶杓を削ってみようかとも。理工系の難しい特許申請の審査をしている人である。そういえば札幌のMAOKATさんも優れた生物病理学の研究者で、茶の湯のたしなみは深い。

2002 8・6 14

 

 

* 弔辞

西池季昭先生。私の、今、此処に在りますのは、先生にお別れする皆様の哀しみを、代表して、お伝えするためではありません。ただひとえに、私一人の悲しさ寂しさを、申し上げずにおれないからです。

先生を、弥栄新制中学の教室にはじめてお迎えしたのは、一九四九年、昭和二十四年、「数学」の時間でした。

つたない印象で申しあげれば、生まれて初めて、ともに生きて行ける、若々しい優れた「大人の人」に出会った! という感嘆でした。五月になると飾る、五月人形の「大将」さんのように、「立派なセンセやなあ」と云う、嬉しい、心のときめきでした。

次の年には、先生ご担任の三年五組になり、身も心も、ピーンと引き締まって嬉しかったのを、昨日のことのように思い起こします。お若かった。それはそれは、光るようにお若かった。しかも先生は、私どもの思いには、いつも揺るぎなく、確かな大人であられました。落ち着いて、端正で、先生と一緒にいられれば「絶対に安心」という気持ちでした。

先生は、終始一貫して、人間的に、人間の尊厳を第一に、私たち生徒を、真表てに受け止めて、愛してくださいました。多弁ではなく、黙ったまま、よく一人一人を、クラスだけでなく学年の全部にわたって、見守っていてくださるのが、日頃の言葉のはしばしから窺え知れて、それゆえに私などは、軽率に奔りがちな身を、気持ちを、自身で律する習いを得たように思います。学校でだけでなく、夏にはお家で勉強させてくださいました。初めて解析の初歩を習いました日の、夢中の緊張ぶりが思い出されます。何度も、瀬田川へ泳ぎにも連れて行って下さいましたね。あの頃の仲間達と逢うつど、きっと話題にしては先生のご健勝を願い続けてきましたのに。

弥栄中学を卒業の時に、先生は、「在学中の活躍を感謝します」と、私の記念帖に書いてくださいました。先生のクラスから立候補して私は生徒会長を務めていましたし、かなり賑やかに日頃大きな顔もしていたことでしょう、きっと。そういう私を、また、先生は、「秦は孤独を愛することも知っているから」と、批評されたことがあります。そういう見方をしてくださった方は、弥栄中学の頃、親友達にすら一人も無かったでしょう、私は、驚きました。私は、ひとり短歌をつくり始め、そしてひそかに人を想っていました。

卒業の記念帖に、「贈る言葉」として西池先生、あなたは、こう書いて下さいました。記念帖は、今でも、書斎の、すぐ手の届くところに、いつでも見られるように置いてあるのですが。

先生は私に、こうおっしゃった。二つ、あります。

「知る事と行う事は別のものであつて、決して別のものであつてはならない。」「又、君は馬鹿正直だと云われても、要領のよい男だとは云われないように。」

先生は決して、「知行合一」といったお定まりの言い方はなさらなかった。「知る事と行う事は別のものであつて、決して別のものであつてはならない。」

この美しい簡潔な物言いこそ、先生の、「お人」そのものでした。私は、永く永く、今日まで、この戒めに、心底推服して生きて参りました。知るだけでも、行うだけでも、弱い。そうなのですね、先生。

そして、「君は馬鹿正直だと云われても、要領のよい男だとは云われないように」という、ご教訓は、前のにも増して、以来五十年の、私の人生を、文字通り導き戒めるお教えとなりました。如才なく此の世を生きることを、わたしは、あのときから、捨てにかかったのです。今も尚、捨て続けています。

それはそれは、いろんなことを試みて生きてきました。先生は、その大方を、昔のままに、ずうっと、ずうっと、ずうっと見守っていてくださいました。それどころか、私の著書を買い続けて下さるなど、惜しみなく、莫大なご援助さえしてくださり、一言も、批評がましいことは口にされないまま、お目にかかれば、あの目で、優しい目で、いつも大きく「ああ」と、声に出して頷いてくださいました。私もたいてい、黙って頭をさげていただけですが。先生。有り難うございました。嬉しゅうございました。

あなたは、ただ「西池先生」というだけの先生では、なかったのです。まさしく本来の「先生」という二字は、あなたそのものでありました、私たちには。それは、そればかりは、ご来席の多くの皆様の「思い」と、まこと、「一つ」であるに違いない、と、信じられます。

心より感謝をささげ、やがて、いつかまたの「西池教室」に加えて戴けるのを楽しみに、励みに、私どもは、生ける限りを今一段も二段も努めてまいります、お教え頂いた「人間の誇り」を、大切に、そして、自由に。

どうぞ、西池季昭先生。今からこそ、おすこやかに、おやすらかに、と、私は、心の底より、先生の永遠のご平安を、お祈り申し上げます。さようなら、と。とんでもない。これからも、いつまでも、ご一緒に私は居ります。どうぞ、見ていてください。じっと見ていてくださいますように。

平成十四年八月七日 元弥栄中学三年五組 作家  秦恒平  六十六歳

 

* カナダの田中勉君から。

 

* 鎮魂の記

恒平さん  日課の水泳から帰宅したばかりです。西池季昭先生ご逝去の報に接し、その昔の懐かしい思い出がふつふつと湧き上がってくる思いでおります。父、母、兄、姉、友人 そして師、異国にあって、一人として臨終を看取ることなく、見送りさえ叶わなかった身を悲しく思います。

自分の人生に大事なかかわりを持つ、今は亡きその人の思い出を語ることは故人への供養にもなるだろうと、以下を書き記します。

西池先生との出会いは昭和24年4月。丸刈り頭の中学2年坊主が担任教諭として迎えたのは見るからに若々しい新任の先生でした。級友も担任教諭も代わる新学年には新しい期待に胸ふくらむ軽い興奮があるものですが、この年は、畏敬すべき兄貴といったルーキーの先生を迎えて、さあ、これからどんな1年が展開するのだろうかとワクワクするような春だったのを覚えています。クラス仲間にはテルさんこと西村明男や福盛勉がおりました。

理由の知れない組替えで、2学期になると私は給田緑先生のクラスに入ることになりましたが、その後卒業に至るまで、私は西洞院の菅大臣神社によく出入りしたものです。

なかなかの読書家とみえて、先生の書庫には古今の名作が並んでおり、その中から立派な布張り装丁の「漱石全集」や石川達三の「日蔭の村」などを借り受け、後生大事にうちへ持ち帰ったりしたものです。

弥栄中学で過ごした3年間を中心にした戦後の京の青春自伝を自分自身のために書き残しておきたいという突き上げる衝動のようなものはあるのですが、なかなか手に染まず・・・。

先生に最後にお目にかかったのは9年前でした。ご自宅にお訪ねし、奥さんにもお会いしました。先生は私同様晩婚でしたから、末っ子さんはまだ学生だったかの記憶があります。

訪問の目的のひとつはその頃私が手がけていた浜大津市とナイヤガラのある都市との姉妹都市提携に助力をお願いすることでした。当時先生の末弟季節(すえとき)氏は滋賀県教育長の要職にあり、そのコネクションで大津市との縁結びを、というのが私の狙いでした。

季節氏は53年の昔、まだ堀川高校生でしたが、よくあの琵琶湖瀬田の和船遊びに付き合ってくれた”おにいさん”で、その後京大に進学、野球部でレギュラーのキャッチャーをつとめ関西六大学リーグで鳴らしたスポーツマンでした。

9年前の西池先生との再会でも、もちろんその頃の話が出ました。舟遊びの帰りに夢中で獲った瀬田の蜆貝にも話が及びました。「ああ、あれなあ・・・もう絶滅してもうたで・・・」

浅瀬の湖底にもう蜆貝の姿を見ることはないでしょうが、その昔、青春前期の懐かしい夢を紡いだ琵琶湖の思い出ばかりは今も消えることはないのです。 つとむ

 

* 十時の「のぞみ」に乗り、四時九分の「のぞみ」で帰ってきた。神式の葬儀で、正面の遺影も菅大臣神社名誉宮司の礼装であった。

 

* 橋田二朗先生夫妻や宮崎伸子先生にお目に掛かった。千総の役員から引退の西村肇君や、卒業以来という谷本優君らにも。ご出棺を見送って、その脚で京都駅にかけこみ、帰ってきた。弔辞など、ほんとうに読みたくはない。「がんがん照り光化学スモッグ」の熱暑。行き帰りとも眠りもせず、「湖の本」の校正をしていた。あれやこれや、疲れた。

池袋パルコの船橋屋でひさしぶりに天麩羅をたくさん食べて「笹一」を二合飲んでから帰宅。左アキレス腱の痛みは差し引きしながら、無くならない。今夜ははやく休みたい。

2002 8・7 14

 

 

* 嬉しいお便りを戴いている。励まされている。

 

* 「ペン電子文藝館」は本当にありがたい事です。北条民雄「いのちの初夜」、書いた人も偉いですが、それを世に出した人も偉いと思いますし、またそれをこうして電子の文藝として読ませてくれた人も偉い! と思います。全編そうですが、「人間ではありませんよ。生命です。」の一言にずしんとしております。(「僕にもう少し文学的な才能があつたらと歯ぎしりするのですよ」)感謝御礼申し上げます。

秦恒平「知識人の言葉と責任─今、なぜ、芹沢光治良作『死者との対話』が大切か」+ 中村光夫「知識階級」をまとめて拝読しました。出来る人がそうでない人に何をしたらいいのか、を、さぐっている現場の者にも、力を貰えたように思います。重ねて御礼申し上げます。

暑い時は外に出るのは止めましょう。どうかお大切に。

2002 8・9 14

 

 

* メールを沢山戴いていたが、気落ちして返事する元気もない。明日からは、しばらく休むことができる。逢いたい人は、いる。だが暑いときは出歩かないでと言われている。

 

* 『源氏物語』は、光源氏が、つぎつぎ、たいせつなひとに死なれてゆく物語――先生にうかがったことばでしたでしょうか。それが身にしみ、しみじみ納得されるこのごろでございます。おさびしくしていらっしゃいましょう。おからだのお具合のあまりよろしくないごようすも気遣わしうございます。

平塚らいてうの生涯を描いた記録映画の自主上映計画があり、それに首をつっこんでしまい、忙しいやら落ちつかぬやら。

らいてうという人、そして彼女を描いたこの映画にも、疑問・不満がないわけではありませんが、この映画を多くの人に観ていただきたいとおもっています。どうこう申しましても、日本の女性解放運動の嚆矢は彼女によって放たれたのですから。それなのに、「らいてうって誰」という人も少なくないありさまですので。

もうひとつ、映画のことを。

池袋の新文藝坐でパゾリーニの、ギリシア悲劇を素材とした映画、それも二本立ての上映がありました。それを知ったのが最終日のお昼ごろ、どうしても観たかったので、あわてて出かけ、最終上映にかろうじて間に合いました。

堪能しましたと申したいところですが、パゾリーニの毒に消耗してしまいました。そもそも、ギリシア悲劇、それもパゾリーニ監督のを二本つづけて観るなんて、無茶なことでございました。

先生はシルヴァーナ・マンガーノという女優さん、お好きでしょうか。オイディプスを描いた「アポロンの地獄」のヒロイン、イオカステに扮していました。ぞっとするようなうつくしさでした。眉を剃り落としていました。目が強調されるとともに、妖しさも感じられました。

最近の時代劇で、既婚女性を演じる女優さんたち、おはぐろはもちろん、眉を落としていないことをおもいました。

昨日は立秋、まあ、どこに秋が、と呆れるような一日でございました。けれど、今朝、めずらしく早起きしてベランダに出てみましたら、あ、風が軽くなっている、ほんの少ぅしだけれど。

春はひかりから、秋は風からって、ほんとうでございますね。今の時間、もういつもの暑さになってしまいましたけれど。

11桁の番号、まだ届いていませんが、来ましたら、受取り拒否ということができないかと、かんがえています。

と、暑苦しい話になってしまいました。暑さ疲れも溜まって来るころでございます。おたいせつにお過ごしなされますよう。

 

* シルヴァーナ・マンガーノ。凄みの妖気と美貌。今の気持ちには刺激が強い。美しい人に出逢いたくて、暑いほこりっぽい東京をさまようことであるが、わたしは、今は、ひたすら心優しい人と出逢いたい。ひらつからいてうは、久米正雄の「破船」のヒロインであるが、むしろ夏目漱石「虞美人草」の藤尾として印象づけられている。「三四郎」の美禰子のようにも印象づけられている。アンコンシァス・ヒポクリシー。実像的には、これではらいてうにやや気の毒なところと、褒めすぎのところとある。伝記も読んでいて関心をもった女丈夫である、が、これまた刺激が強い。

女性運動のさらに早い段階での先覚者としては、中島湘烟と福田英子が忘れがたい。ことに湘烟女史の生涯には気凛の清質と高邁、そして劇的な旋律感が感じられて、心を惹かれる。景山英子はこの湘烟に刺激されて世に出てきた闘士であった。藝術的には樋口一葉があり上村松園があり、与謝野晶子も続いたし他にもいたではあろう、が、女権拡張と女性解放への先鞭はというと、わたしは、たちどころに、いまあげた二人の存在についで、らいてうら青鞜の人達を思う。そして後の宮本百合子。

2002 8・9 14

 

 

* いろいろ沢山世のため人のため、ほんとうにご苦労様です。でも、「揺れ揺れて・・倦怠感・・」はやはり注意信号ですから、どでーっと横になるのがいいと思います。

九十九里へ地引網でとれた魚とか野菜とかを貰いに行ってきました。行き帰り、もう稲穂が出ていました。老人ホームにも盆踊りがありました。早く涼しくなるといいですね。一番に、いろいろお大事にしてください。

 

* 感謝。

2002 8・9 14

 

 

* 留守の内に、京都の橋田二朗先生から電話をいただき、妻が長時間お話を聴いた。五十年の上を越す莫逆の友、先生よりすこしお若かった西池先生に先立たれた胸の窪みは深いようだ、よく分かる。お気の毒に思う。

2002 8・9 14

 

 

* 今晩は、大文字。瞼の裏に火の色が見える。西池先生のことを想っている、いま。

2002 8・15 14

 

 

* 田中孝介君と新宿で和食を食べた。ゆっくりと、心行くまで歓談した。すっきりと、また背が高くなったかと思うほど立派に成人していた。もう少年ではない、しっかりした青年の顔と姿で、二十代の後半を佳境に向かっている様子が、物言いの端々に窺われ、頼もしかった。ストレスに立ち向かって、いま占めている場所と仕事にしっかり踏み込んでいる自覚をもっている。彼の年頃でいちばん心行く嬉しいことは、ちょっと荷の重いほどの仕事をし遂げたぞという瞬間であろう、それがあって自信を持ち人にも真向き合って言葉や思いを交わし合える。田中君はほとんど無口に近い少年であったけれど、今晩など、よく、たくさん、自分自身の気持ちも話してくれた。かなり幅広く話題を転じていっても気合いのとぎれることがなく、コンピュータのプロではあるが、絵画の前衛性や理論的な冒険について触れても、耳を貸してくれた。

 

* 絵の画面の未開拓なのが二つあると思ってきた。無設定球体の全表面、そして闇、である。闇の方は、だが、ネオンや花火ですこしだけだが試みられている、まだまだ極めて不十分で不安定で未熟であるが。球表面絵画は、理論的にも克服出来ていない。実作品は、神のツクリ給いし地球以外には、十分なモノは出来ていない。三十年ほど前に「芸術生活」に論考を発表以来、追試例もきかない。

しかし、無条件無設定の球体を、いまコンピュータのなかに創作して、無限定空間に浮かばせること、その全部を眺めうる位置を設置設営すること、も、不可能ではない筈だ。そういう球体を用意して、その全表面を「分割しない一画面」とした一つの絵画作品を、「CG」作品として創作し鑑賞させることがもし出来ると、絵画は、新たな表現の場をもつことになる。これは単に闇を画面にして絵画を描くのとは異なる試みである。あくまでも、完全な凸面である「球体の全表面」を活かせるかどうかだ、球面には上下左右がなく、遠近法の効かない面の性質を帯びている。平面と球表面とは面の性質が全然異なっているのである。

そんな話をして、だいぶ、田中君をそそのかしてみた。父上が画家でもあるのを知っているし、かれと一緒に西洋美術館に入ったときの絵画への向かい方をそれとなく見ていたからである。

とにもかくにも、料理も佳いが、話している方が楽しかった。よかった。東工大の卒業生諸君は、こういう話をわたしにいつも機嫌良くさせてくれる。なんという「秦さん孝行」な人達だろう。田中君は、だが、お酒がだめ。お店の美しい人も、わたしに、たくさんは召し上がるなといってお酌してくれるので、少なくした。

大江戸線の都庁前で田中君は本郷三丁目の方へ乗り換えた。九時だった。楽しかった。 2002 8・17 14

 

 

* 久しぶりに文藝春秋の寺田氏と電話でしばらく話した。かかってきたので手を止めて話した。

2002 8・19 14

 

 

* 幻の大戦果にさわぐ気持ちを、バグワンと、「うつほ物語」で静めるのに、明け方まで。そして、目が覚めたとき、恥ずかしながら午まえであった。いくつもメールが来ていた。

 

* 日差しは強いですが、いい天候です。朝からよく動きました。

先ほど「私語」を読みました。日にちを置くと多い活字を読むのに時間が掛かります。

痛みは如何ですか。相当の痛みだったのね。同病で、痛みよく分かります。過度でも、適度な運動が足りなくても、なりますね。足の親指をくるくる回してもらうと、治まる効果はあります。失明後の父などは、毎日欠かさず柱を持って何千回もの駆け足をして運動不足を回避していました。カッコわるいなんて思わなければ、ドラマや映画を観ながら、簡単なラジオ体操の類でも効果はあるのだけれど。

 

* 当地は台風のむしろ恩恵とも言えるような、涼しい風が吹いています。二週間通しの出勤となったお盆期間が終わり、例年のように、二日連休を楽しんでいます。

足のこむらがえりは、もしかすると冷えからきているのではありませんか?

昨年の夏から、下半身(両足)の筋肉がそんな状態になりはじめました。身動きもならず、「痛い!痛い!」のうめき声をあげながら、痛みの和らぐのを待つしかない状態が続いていました。病院で弛緩剤をいただいて服用。

そんな話をしていると、「冷えると、よくなるんよね。」とアドバイスしてくださる人もいました。

「ああ、そうなんだ」と、原因らしきものが判明した? ことで安心感が持て、兆候が出始めると、マッサージをして温め、なだめてはお風呂へ。今ではお薬も必要なくなりましたけれど、初めてこの痛みに襲われたときには、先々のことを思い、とても不安になりました。加齢による体の変化を見落とさないようにせねばと、心しています。

暑い夏の、汗がひくときに体温を奪われての冷えは、気持ちいい感じがしますが、結構、芯まで冷えていて、要注意ですよ。 ご無理なさらずに、どうぞ御身お大切に、ご自愛なされてくださいませ。

 

* まちがいなく、この「冷え過ぎ」症候群であろうと思う。肩の痛むのも、ちょうど背後の高みからクーラーの風が吹き付け続けているせいだろうし、冷気が下へ下へ溜まってアキレス腱が硬化した痛みだったと思われる。あかく炎症ぎみですらあったので冷湿布したのは逆で、冬の長靴下を昼夜つけて、浴室でもよく患部に熱湯をかけたり入浴したりして、ずいぶん軽快している。

以前、電車に乗り吊革をもっている肩へ、真上からの冷房風があたるつど、びりびりと痛んだことがよくあった。冷房は怖いという実感がありながら、同じ事を繰り返してきたのだから、愚なものである。

こういうメールも、納涼感に満ちている。どんな暮らしをしているのだろうと不思議だが、つまりこんな暮らしをしているのだろう。

 

* お江戸の3日間で外食は8回。そのうちの半分は、ふたりで摂りました。ひとりよりずっと健全で、しかも、おいしい食事になりますもの。それぞれ違う女友達が相手でしたが、ほとんどの人が、気になる今時の言葉の話をするのです。TVやラジオでムムム…と思う時はありますが、普段聞いているのが、関西弁や伊賀弁ですから、彼女たちのイライラに少し驚きました。身近に接する人が使うと、余計に不快感を感じるのでしょうか。6月に俳優座劇場で行われた「ら抜きの殺意」最終公演も、相変わらず満員だったそうです。

昨日は台風の影響か、涼しい日でしたから、ひさびさにオーブンを点け、お江戸で遊んでくれた女友達にお礼のケーキを焼きました。今回は、餡入りの和風スポンジケーキです。

「貝のひもが好きな、変な子だったのよ」と笑って彼女は言います。

「わぁ、リッチ! 私は、たくわんのシッポが好きだったもの」と答えると、彼女は

「かまぼこ、卵焼き、カステラ…端っこってなぜかおいしいものね」ふふ、と微笑んで。

ケーキを贈るとき、いつも端を切り落としています。味見の意味もありますが、あれもカリッとしておいしいンですよ。パンのみみも大好き。

 

* こういう人が、時には時事問題でシャープな喝を入れてくるから面白い。すくなくもこの囀雀(わたしが謹呈したあだ名)さんのメールは、具体的である点に最良の美点がある。メールが文藝の性格をもちうるとすれば、わたしがもらう数多いメールのなかで、この人の「囀り」は傑出した特色を発揮している。しかしまあ、どういう暮らしをしているのやら。ひょっとしてわたしと同年輩のジイサンが創作しているのではないかなどと勘ぐると、インターネットという時空間の奇態さが実感できる。まさか。

2002 8・20 14

 

 

* こんな言葉を伝えてきてくれた人がいた。ただ、ありがとう、とだけを言うにとどめた。

 

* 最近は、喉元まで政治のいやなニュースが詰まっている上に、年頃の女性が相次いで無惨に殺されるニュースに、気分が悪くなり、先生ならずとも気分が鬱々とされているかたが多いことと存じます。私の友人は精神衛生に悪いので「ベッカムと愛子さまのニュース以外は見ないことにした」と言いました。私もその話に思わず笑いながら同感でした。イギリスの美形や丸々太った可愛い赤ちゃん、それにつけ加えて多摩川のアザラシ、行方不明のタマちゃんくらいしか映像で見たいものがないなんて溜め息まじりの日々でございます。

「常人は黙していても許される。しかし作家が沈黙するのは嘘を言うことになる」

これはノーベル文学賞を受賞したチェコの詩人サイフェルトの信念だったそうです。私はサイフェルトの回想記しか読んだことがないのですが、その解説を読みますと、政権に抵抗を続け八十歳でもチェコ政府の強要にたてついて、心臓発作をおこし入院。1986年八十四歳で亡くなったときの葬儀も国葬でこそありましたが、警察の厳しい監視下で行なわれたとあります。

生涯のほとんどをチェコの不幸な弾圧の時代に生きて、なお希望を失わず精神の自由を守りぬいた文学者は、遠い異国にいる秦先生のお身内のひとりかもしれません。どの時代、どこの国においても、真実の作家というのは金輪際幸福な世渡りなどできない人種なのでしょう。しかしその栄光は作品として残っていきます。先生はもっとも美しい日本語を書く文学者のおひとりです。どうぞ読者の喜びのためにますます書き続けてくださいますように。生意気な物言いとは存じますが、どうしてもお伝えしたくて……。

暑さのなかにも急に秋の気配が滲んできました。くれぐれもご無理なさいませんように。

 

* 鞭撻をうけたものと心より感謝して、心身を毅く持したい。わたしなどは、はるかに不甲斐ない者の一人でしかないが。

2002 8・21 14

 

 

* 夏も終わり初冠雪  いましがた、帰りがけに外の寒暖計を見ると、針は13度を指していました。夕のニュースでは黒岳に初雪と。観測史上最も早い初冠雪だそうです。朝夕にはストーブの試運転。夏も終わりました。

昼休みに区役所へ行き、住民票コードの葉書を返却。戸籍係には相談窓口もなく、カウンターでの立ち話でした。

「住民票コードの削除請求をしたいのですが」

「それは法律で定められたものですからできません」

「ではこの葉書の受け取り拒否はできますか?」

「できますよ。いただきましょう。ごくろうさまでした」

図書館で本を返すような簡単さに、少し拍子抜け。

 

* 住基ネットのことは、これから一年の間の「粘り勝負」になるだろう。「公」も、陰険な報復をはかったりせず、冷静に「私=国民」の動向や意思表明に、謙虚であって欲しい。

2002 8・23 14

 

 

* かき氷  この雨が上がると、また夏の気温が戻ってくるようですが、それも日中だけでしょう。数日前は暁の寒さに目が覚め、眠い目をこすりながら押し入れに這い寄って、肌掛け布団を出しました。

昨日はくしゃみの朝でした。

郵便局へ行くと、ふみの日のサービス中。今月はかき氷ですって。若い局員さんが、ガリガリと手回しの器械で、氷を削っています。かけているのは、子雀が食べていた頃と変わらないシロップ。懐かしさに思わず手を伸ばしましたが、おいしくないンですよォ。涼しさのせいかしら。それとも、子供のこころを失くしてしまったから?

 

* 昼夜通しの楽しさをひさしぶりに味わいました。毎年開催されている、神戸の「東西落語名人選」に初めて行ってみました。初めてのくせに欲張って、昼夜通し。1時から9時過ぎまで落語浸けで、しかも、ツレの女友達に急な仕事が入ったため、雀は一羽で。

昼夜あるときは、ネタが変わるのですね。口も回るようになり、熱演の続く夜の部を見ながら、なンだか昼のお客は損してるわァ ! と思いました。

文枝さんは「胴乱の幸助」そして夜のトリは「天王寺詣」で、いつもはなさらない、覗きからくり入りでした。

 

* わたしにだけ語りかけてくるのかどうか、こういうメールは、タバコを吸わないわたしには、恰好の「かき氷」なみの休息になる。もっとも歯の弱かったわたしは「かき氷」は昔から苦手。

見えるように、想像を誘うように、そしてガラがわるくなく、文章に節度も品もある。おそらく、書いている当人はそういうことに気付いていないだろうが。

2002 8・24 14

 

 

* ミマンの連載が終了とは本当に残念です。ふつうのファッション誌になってしまいそうですね。

「北の国から」はテーマの音楽を聞いただけで涙腺がじーんと震えますね。じゅんとほたるが幼かったころ、どうしてこんなに自然でひたむきな演技が出来るのかしらと、驚くように見入ったものです。じゅんとほたるの人生はその後も決して順調なものではなく、いつも哀しみが根底を流れていますが、かつて4年ほど住んだ北の国の美しい自然や生活と重ね合わせながら、いつもこのドラマにひきいられています。

日々人間関係の渦の中に巻き込まれながら、泳ぎ続けています。手足を休めると溺れてしまいますから。

お元気でお過ごしくださいますよう。

 

* 夏休みも過ぎて行く印象のメール。「日々人間関係の渦の中に巻き込まれながら、泳ぎ続けています。手足を休めると溺れてしまいますから」と聞くと、カミュの「不条理」を思わずにいられない。「シジフォスの神話」の中に、透明なガラスに突き当たり向こうをめざして飛び続けねばならない、飛ばねば落ちてしまう蠅の話だったか、を、高校生の時に読み、この比喩は理解できた気がしたものだ。以来、自分がそのような「蠅」の一匹であり続けてきた気がする。

だが、どうだろう。飛ぶことをやめてみたら。泳ぐことをやめてみたら。本当に地に落ち、本当に溺れるのだろうか。いまのわたしは、飛ぶことをあえてやめた「蠅」に近い。そうあろうとしている。「ペン電子文藝館」で、なんで遮二無二頑張るんだろうと思っている人もいるかも知れないが、頑張ってガラスに額をこすりつけ飛び続けているのでは、ない。飛ぶことなんか止めたから、楽しめているに過ぎない。どうでもいいことばかりの中から楽しめることを楽しんでいるに過ぎない。もっと楽しいことが出来たら、「ペン電子文藝館」も弊履の如く顧みないかも。「ペン電子文藝館」の値打ちがなくなるのではない。わたしが変わるのだ。

2002 8・27 14

 

 

*  残暑の夜に  もうすぐ秋というのに、暑さはしぶといですね。先日福岡に戻ってきました。元気にしています。

2週間ほど新潟にいたのですが、人も街もあんまり懐かしくて、懐かしんでいるうちにこっちに戻ってしまったという感じ。父と母はもちろん、久しく会わずにいた友人たちも変わりなく元気で、楽しい2週間でした。

いまは本当に「南の旅人」なんだなあという実感が、日々強まっています。九州の人、言葉、景色、どれをとっても新鮮そのものです。馴れることとは別に、いまの新鮮な気持ちを大切にしていきたいと思います。

電子文藝館、素晴らしい作品ばかりで…堪能しました。

「死者との対話」「時代閉塞の現状」そして「知識階級」。これが本当の「歴史の勉強」だと思いました。「闇のパトス」もよかった、いまの梅原猛からはちょっと想像のつかないおもしろさでした。

「いのちの初夜」には息をのみました。読み終えたあとの気持ち、どう言葉で表現したらいいものか…ただ、秦さんがこの作品を選んでくださったことを、心から感謝します。

「遠い聲」にも圧倒されました。死刑囚を扱った小説はいくつか読みましたが、どれもこの作には及ばないと思います。

ずっと読みたかった「夢の浮橋」もよかったけれど、「鱧の皮」と「醜婦」が新鮮でした。ぐんぐん惹き込まれました。最も印象に残ったのは、この2作かもしれません。

また時間を見つけて、いろいろ読ませてもらいます。

「天体観測」は見ています、が、両親は「見ていて疲れる」と、厳しい意見です。面白いと言って欠かさず見ている友人も何人かいます。ただ、建日子さんは本当にあれで満足しているのかなあ…と、毎回思います。

書きたいもの、少し進めました。が、いまは敢えて待っています。9月に試験があるのも理由のひとつですが、九州の地でもう少しがまんしてみます、どんなものに出会えるかを。

次の「湖の本」、楽しみにしています。ただ、身体には気をつけてください。迪子さんともども、どうかお元気で。

 

* 朝いちばんにこういうメールに触れると、顔一杯に心地よくシャワーを浴びるような嬉しさを覚える。すかっとした青春が感じられる。

 

* ♪届いた短い手紙…「結婚するって本当ですか」という歌がありました。初めて読んだときも、そして今回も、「結婚したかったわ」に「なんでェ?!」。

違うのに。幸せになれないのに。

今朝のラジオで、DJの「夏休み、最後まで残る宿題は?」という問いに、リスナーは、算数ドリル、工作、自由研究、日記、そして読書感想文と答えていきます。頷く雀。

奥付に1989年とありますから、最初に読んだ時、雀は26才でした。あの時も、そして今も、「秦さんらしい」と思う「畜生塚」。

囀るのが難しい! 感想文に悩んだ子雀時代に戻ります。少しづつメールします。

 

* わたしの畜生塚は、小説らしい小説としては処女作にちかい。書いたのは1989年よりも二十数年むかしのことだ。わたし自身が三十になっていなかった。この囀雀さんの「畜生塚」感想は、この人自身をはからずも語っているのかも知れない。結婚しても「幸せになれないのに」と思っているらしい人は多い、あまりにも。それは分かる、わたしにでも。そして、いろいろなリクツをつけてその状態とあらがっている。古くして新しい難問だ。

2002 8・30 14

 

 

* メールで写真や図像を送ってくる人が増えているが、ひらいてみるとたわいなく、先方の思うほどは伝わってくるものが無い、なんじゃ、これはということがママある。胸にしみいるほど美しいか、こちらの関心に突き刺さってくるモノがいい。美学の要諦だが、自分のいいと思うモノが人にもいいという保証はないのだ。個人的なモノは「闇に言い置く」にとどめた方が佳い。

2002 8・31 14

 

 

* 神雨霑灑。  吉野川川上、丹生川上神社上社の額に彫ってあるそうです。雨女としては、ぜひおまいりしたい神社です。

今日も、尾鷲に雨の予報。名張もここ数日で随分降って、昨日などは、あっと思う間もなく、ばらばらッと大粒の雨。濡れ雀になりました。

「晨」という文字を思い出す今朝の空。虹が消えてゆきます。そちらは熱帯夜が続いているようですが、お体の調子はいかがですか。ご自愛のほどお祈りいたします。

 

* 日射  昼寝のあと、ひとしきり遊んできた子雀を迎えたのは、笊に盛られた、茹でたての枝豆や玉蜀黍。畳に差し込む日の翳る、こんな頃には、唐芋に変わります。

数年の芝居通いで、手拭が小さな箱いっぱいに溜まりました。この春の晩れ、全ておろして、毎日、台所で使っていますが、夕日を浴び、ぺったり座って、洗濯したそれを畳んでいると、おしめを畳んでいる錯覚におちいります。バリバリとした手触りが、柔らかくなって、日射しが変わったことを知らせます。三日前に、鈴虫の音を聞きました。目の前の田では、稲刈りが始まっています。

 

* 殺風景なこの「私語」のなかへ、こういう新鮮な景色が加わってくれると、われながらほっとする。

2002 8・31 14

 

 

* 東大倫理学の竹内教授から久々に心嬉しいメールを貰っていた。

2002 9・6 14

 

 

* 9月に入ってからの文章を読みました。忙しそう・・そして歯の治療が終わったようで、わたしさえホッと読ませていただきました。歯医者に行くのは本当に嫌なものです・・できることなら、絶対に行きたくないところが歯医者、です。だから、本当によかったなと、思います。自分の歯と言えなくても、でもしっかり噛んで食べて、元気に暮らしてくださいね。

こちらも今日は雨が降り、やっと残暑の厳しさから解放された感じ、でもまだまだ・・やはり暑い。自分の中の軋みを感じながら夏が過ぎようとしています。昨年9月11日のテロから一年、特集されている番組を見ています。

 

* ずいぶん広い範囲の大勢の人がこの「闇に言い置く 私語」わ聴きに来てくださっているらしい、その実感がある。

それにしても「北の国から」で積み残しになった感のある、ゆきこ叔母さんの息子のダイスケが、どこの誰とも確認できないメルトモとの、あてどない恋に確信して、かたくなに携帯電話のちいさなスクリーン世界とキーを叩く音とだけに沈没・没入しているサマは、凄かった。地獄のようだ。

2002 9・7 14

 

 

* 今日のニューズの一つは、原善が、武蔵野女子大に四月から勤務という報で、ま、半年も経っての知らせではニュースでもあるまいが、ま、彼多年熱望に熱望してきた東京の大学に籍ができたわけで、同慶にたえない。どんな地位で着任したのかも実は分からない。助教授で来たのか教授でか、言わないのである。何にしても目出度い。なにしろ女子大のこと、無比の慎重と、格別の勉強を祈る。武蔵野女子大は、四半世紀も昔に、同じ保谷市内のこと専任教授としてぜひ通ってくれないかと頼まれ、お断りした。同じ市内でありながら実は通うにひどく不便でもあった。

2002 9・11 14

 

 

* つくばの人から、山内義雄訳「モンテ・クリスト伯」の岩波文庫版が揃って手に入ったので送ってあげると連絡があり、楽しみに待っている。このごろ宅急便があまり早くない。木曜日に渡した本がやっと日曜に届いている例がある。

 

*  湖  昨日届いています。作業終了お疲れ様。

あちこちの部屋へ入る都度、何かの用事に手をとられて時間を費やしてしまいます。幸い動き易く、夏仕舞いに取り掛かリ始めました。

今も私の戸棚で探し物をしながら、厚めの湖「死から死へ」が眼に入り、読みはじめて何十分か居座ってしまいました。栞には、メールはまだ(始めていないの)ですか、とあります。この頃は父も存命だったと思い思い、ぱらぱらとページをめくっていました。お兄様が亡くなられたと知り驚いたこと等、想い起こしていました。

「私語」は今日まで日数にすれば通算何日分になるのでしょうね。それに笑ったのは、外飲(アルコール)食の多い事。

映画の処で立ち止まり。

男優の名前を羅列。マリリン・モンローとクラーク・ゲイブルの「荒馬と女」が「美女と野獣」とあったのはご愛嬌。これはジャン・マレーでした。

バート・ランカスターはお気に入りですね。未だ見終わっていない「終身犯」でとてもよく、「ニーベルングの裁判」もとてもいいし、いい役。本人も意外のご指名だったというタイプ違いの「貴族の肖像」もよかった。

話変って、監房もので「ショーシャンクの空に」は観ましたか。あれは「グリーンマイル」と並ぶ程の感動でした。夜中のBSで舞台「モンテクリスト伯」があるのでセットします。とりとめもなく、おやすみなさい。

2002 9・15 14

 

 

*  一昨日、「アフガニスタン展」を観てきました。

少女のころ、好きで好きでたいせつにしていたガンダーラの菩薩さまの写真がありました。きれいな口ひげをそなえていらっしゃって、少女のわたくしのあこがれの対象でございました。もしかしたら、その菩薩さまに逢えるかとおもったのですが、日本にはいらっしゃいませんでした。けれど、東洋と西洋のたましいが出逢って出現したすばらしいほとけさま、それから、そこに生きていたひとびとに逢うことができました。

高いところに安置されたほとけさまのおん眼にわが眼をあわせたくてしゃがんでいて、踏みつぶされそうになってしまいました。あんなところで蹲うのは、はた迷惑なことと反省しましたが、あの浄くてやさしいまなざしに見つめていただいたよろこびは、今もからだのなかで鳴っています。

湖のご本、お届けくださいまして、ありがとうございます。「湖のお部屋」で、「私語の刻」をうかがっていましたので、この度はもう一度と、「私語の刻」をまず、拝見いたしました。「治安維持法」という、さも、社会の安寧を目指したかの名をもつ法律のもとで行われた残虐非道を思い出したことでございました。

最後の「赤坂城はそろそろ撤退して新しい千早城に次の手だてを……」、以前にも、洩らしていらっしゃったおことばですが、心にかかります。

「グリーンマイル」、わたくしは映画館で見たのですが、もう、死刑執行の場面で眼をつむり、耳をふさいでしまいました。それまでの感動も失せてしまい、へとへとになって、客席のくらがりから出てきました。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」という映画も、やはり、死刑執行場面を、これは「グリーンマイル」よりもっと、くどく見せたものでしたが、これも、神経にこたえました。

今日はこれから、映画上映サークルの仲間と、「山の郵便配達」の上映会を致しますので、出かけます。

涼しくなって、少し、元気が出てきました。

 

* 「治安維持法」という美しい名前の残虐法のことを、日本人はもう歴史的な痕跡ほどに忘れてしまった。小林多喜二から田宮虎彦の「絵本」等に至るまでの多くあの悪夢の時代の小説を、もういちど大勢の目の前にくりひろげて多くを考え直して貰いたいと思うが、一人では手が回らない。

 

* 電気椅子での死刑執行場面は、ことに意図的に悪執行官が手抜きしたためにひどいものだったが、不思議にわたしはじっと凝視していられた。映画の意図と善意とが見えていたから。

それよりもこの映画「グリーンマイル」に唯一人の牧師や神父も顔を出さず、主役のジョーからも自身の死刑執行に際し牧師との会見は不要と無視されていたこと、心ある主任執行官に立ち会い祈って貰えれば十分と握手を交わしていた、あのような取り扱いに意義深いものを感じていた。教団的な宗教の形式主義や偽善への嫌悪感、宗教の根幹である「愛=慈悲」はもはや既成の集団宗教や聖職者には無いのだという断念の痛さ。それを、わたしは、一等厳しく感じ取った。誠実な愛。それが主題であった。オカルトとは思わなかった。奇跡映画とも思わなかった。

2002 9・16 14

 

 

* 今日は三連休の最後の日ですが、娘はアルバイトに出かけて・・一人の時間を楽しんでいます。昨日は赤穂の海に行って久しぶりに小豆島を眺めました。釣りに付き合っていたら、真っ赤に顔がなりました。夏が終わろうとする今ごろになって、日焼けなど論外ですのに。魚は鯵やサヨリや黒鯛、鰯など・・穏やかすぎる瀬戸の海ですが、たくさんの人が休日を海辺で過ごしていました。

帰ってから久しぶりにゆったりお風呂に入って、マッサージやら、顔パックやら、そのせいか体がツルツル気持ちいいのですが・・ブルンブルンと贅肉は困ったものです! また、「おもしろい人やね、あんた」と書かれてしまいそうですが、関西弁の微妙な語感をどう解釈したものやら・・恐いなあ!

HPの文章の中で毎週「天体観測」に就いて書かれています。わたしはすべてではありませんが、途中からはずっと見ています。娘が好きな番組なのです。彼女の場合はボストンの高校時代からの友達を頭において見ているようです。最終回が楽しみ。

社会的な問題への観点が抜けていると、指摘されていましたが・・テレビという「制約」もあるでしょうし・・でも痛切なものも感じられます。いつかそんなものが自然に滲み出てくることがあるのを期待しましょう。

若い人が社会的、歴史的なことに無関心とは必ずしも言い切れないと、これはわたしの娘に限ってですが、思います。所謂「勉強」は嫌いな子でしたが、南アなどの人種差別のことから始まって、ナチスのことなども深刻に考えているのが分かります。寧ろ人間のあまりに暗い部分を見て欲しくないと、弱いエゴイスチックな母であるわたしは懸念もしますが、随分多くのことを彼女と話したり、本を薦めたりしています。

日ごろのリズムが変ってしまった夏以来の生活です。娘が起きてくると、「おはよう、何食べる?」とわたしが聞くらしいのです・・無意識に言ってるんですね。おかげでやや太りぎみと、ぼやかれています。考えてみると、食べさせることが主婦の大きな役割??・・必ずしもすべて肯定的な意味で、「主婦」という職業?を思っているわけではありませんので、いささか複雑な気持ちになります。大いに反省もしています。

「小さな子ではないのですから遅く起きてきたら、食事など自分で準備しなさい。」

これは当然で、いえそれ以上に自分の過去ほぼ三十年さえ異なった視点から見直さなければいけない部分があるということ、です・・優しいがいいとは限らないでしょ?

彼女は目下、暫くニューヨークに行きたい、その一心でアルバイトで飛行機代を稼いでいます。

以前も書きましたが、殆ど詩を読んでいません。その関係の雑誌も読んでいません。ましてや「詩壇」にどんな人が云々も・・。新聞批評に稀に詩集に触れている時も、その本を注文して取り寄せない限り、ここでは手に入りません。だから、詩に関しては高校生並み・・。

今度の湖の本「私の私」・・今日の午前に読んでいたのです・・の中で触れている啄木の全集を読んだのは、一回生の時。宮沢賢治なども若い頃から好きです。朔太郎のいくつかの詩も、その他、そして「ペン電子文藝館」で送って下さった立原道造、彼の詩は中学からずっと好き。勿論、リルケも。それに連なるヤコブセンやさまざまなフランス詩人の作品には、高校生の頃からかなり影響されました。ブレイクやエミリー・デイッキンソンやホーソンなどは英語と日本語で。最近買ったのは「嵐が丘」の作者、エミリー・ブロンテの詩集。

自然にゆっくり読んでいけばいいのでしょうが、何が「お薦め」ですか? 何も読まなくていいと思えるほどに不遜でも怠惰でもありませんが・・。図書館で読める範囲で少し読んでみようと思っています。虚心で読んでみます。

九十に近い母はすこし斑ボケの症状がみえるようになりました。この夏は転倒して怪我をしたりで大変でした。

 

* 時たまに届くこういう便りは、顔の見えない分、いろんな想像を働かせて読める。つい「おもしろい人やね、あんた」なんぞと失礼なことを呟いてしまう、それも、おもしろい。

2002 9・16 14

 

 

* 先程『戯曲・こころ』を読了いたしました。うならされました。今も心の中で、うなっております。

静の「本心」はKにあった、という読みは全く思いもよりませんでした。もしそうだったとすると、その再来とも思える「私」に静が心ひかれるという流れは、自然に感じられます。

また静のKへの接近も「技巧」ではなく「本心」だったとすれば、先生の「遺書」を公開することに静が同意するのも、うなずけてきます。

ただ、むしろ積極的に静を「私」に託すのだとすれば、なぜ先生は「遺書」を静にだけは見せるなと言ったのか、がやはり気になります。秦先生のお説では、「せめてものただの歯止め、最後の愚痴」ということになるかと思いますが。

また、先生の変化の原因がKの変死にあるとすると、自分の責任だけはなくなると言った、静の「私」への発言はどう位置づくことになるのかも気になります。

何ともぶしつけな読後感想になってしまいました。ご無礼をどうぞお許し下さい。これらは自分自身の宿題として、また頭を冷やして考え直したいと存じます。

 

* 議論の深まることを期待したい。

 

* 年頃の娘が十二時を過ぎても帰宅せず、母親は不安で落ち着かず寝るに寝られず、ところが大抵娘ときたら、街はまだ宵の口よ、お付き合いなんだから、なんて自転車かタクシーでノホホンと帰宅する、顔を見れば瞬時に胸のつかえが消える、数え切れないほど経験しました。

当時の拉致事件は生々しく記憶にあり、二十五、六年もの永きを待ちに待った結果が、半数以上の死亡も腑に落ちず、死因も分からず、これ程無残に、肉親の方々の嘆きは如何ばかりかと、貰い泣きをしてしまいました。

又ここに、一言で云えば、人間のエゴをみました。

南北に分割された近くの国を憂いて、日本はそうならなくてよかった、と何十年も昔、中二の日記に記していたのを思い出しています。

 

* まことに、まことに。各局の報道を聴いたり観たりしているが、胸は落ち着かない。

 

*  北朝鮮に攫われてしまったひとたちのこと、ほんとうに酷くて理不尽で、と、どうことばを重ねても足りません。

今朝の新聞に泣きくずれている老いた悲劇の父の写真が載っていました。このひと、この一家の不幸は、もちろん、北朝鮮の行為に起因するものですけれど、日本政府の無能・怠慢が、それに拍車をかけたことも否めません。このたびの悲劇の責任の一半は、日本の政治屋、役人ばらにあります。

彼らは自分以外の不幸や傷みに極めて鈍感というか、想像力がまったくはたらかない種族です。そして、無為無策にうち過ぎ、さしたる働きをしないのを是とする種族でもありましょう。でなかったら、四半世紀間も、他国に連れ去られたままの自国民を、ほったらかしにしておけるはずがありません。

この国は、国民をたいせつにしない。つくづく、そうおもいます。

拉致問題ばかりでなく、オームの被害者にも、神戸・三宅島の被災者にも、国はろくな救いの手をさしのべていません。

オームの場合は、あの危険な集団があんなに巨大化しても、サリン事件が起こるまで、手をつかねて傍観していました。その結果の惨劇ですのに、誰一人責任をとった人はいず、働けなくなった被害者は生活保護で、かつかつ生きている有様です。

わたくしも、いつ、災害に遭って、助かったのはいのちひとつということになるかわかりません。原発事故で、心身ぼろぼろということになる可能性も低くはありません。

でもそのとき、この国の酷薄な政治・行政から、どれほどの救助が期待できましょう。ホームレスになってよろぼい歩き、のたれ死にするか、湖に死体となって浮かぶか。

ゆうべは、睡眠剤の力を借りて、やっとねむりました。

 

* 「私」が自覚し、「私」の権利と尊厳を「公」に対して認知させ「私」に奉仕せしめる自覚的な努力が、真に必要なのである。これが本質的なことであり、「滅私奉公」などとんでもない。

2002 9・18 14

 

 

* スペインでの滞在もあと残すところ約1ヶ月となり、今までの滞在に関する報告書など、自分なりにまとめているところです。

また、まだ食べていない料理や行っていない名所など、残された時間とお金でできる限り制覇しようと思っています。

先日は、マドリード近郊のアランフェスという町へ観光に行って来ました。スペインの国鉄主催のイチゴ列車というツアー旅行だったので、なんと本物の蒸気機関車に乗って、現地まで行き、列車の中では、イチゴのサービス付き(もちろん料金に込みでしょうが)で、面白かったです。

アランフェスという街は、16世紀のフェリペ2世の時代に、王の避暑地として壮大な王宮が築かれたところで、その王宮なども見て参りました。川沿いに建てられた王宮は、涼しげで、当時は王家の人々が船遊びを楽しんだようです。(もちろん今も観光船がしっかりそれをネタに商売をしていました。)なかなか良いところでした。

先生の方はいかがお過ごしでしょうか。東京も秋の気配が近付き、そろそろ肌寒くなってきているのではないかと思います。くれぐれも風邪などお召しにならぬよう、お気を付けください。

 

* 美しい人の親切にしてくれた店で、愉快に送別の食事をしスペインへ送り出した東工大院の卒業生が、好きで好きでたまらないスペイン一年の修学旅行から、やがて帰ってくる。前途に幸あれと思いながら帰国を待とう。

2002 9・19 14

 

 

* 東工大の女子卒業生が、わがホームページの「看板を借り」まして、「闇に言い置く」というホームページをつくり、日々発信している。教室で虫食いに漢字を補ってもらったなかの「幸福を追わぬも卑怯のひとつ」という大島氏の短歌や、また無くなった富小路禎子さんの短歌などを語っていたりする。もう久しく顔は見ないが、まぢかに呼吸している心地がして嬉しい。

2002 9・20 14

 

 

* 矢張りまず最初に若い人が半数以上も死亡しているのを、誰もが不審に思い、いやな予感が的中しそうで、それでいてあちらから確答を得るのは、まず、無いのではと予測されます。まあ、無い話でしょう。この不透明さはやりきれませんね。あちらの国もこちらの国も、同等に信頼の外にあります。

この晴天を無駄にせず、大山の洗濯から始まり、布団干し、庭の手入れ、お風呂の大掃除と大童、それから彼岸の入りに備えて恒例お萩作りの準備で買出し、今小豆を煮てあんこを作り終えたところ。

私のこの手作りお萩、塩をちょっぴり効かせてあっさりしているせいか、皆に好評で、明朝にはもち米を炊いて、いっぱい、いっぱい作ります。

食べたいでしょう。はい、お一つどうぞ。

そして、お墓参りに行きます。

 

* 人々の日常生活って、おもしろいなと思う。平和であって欲しい、何と言おうとも。 2002 9・20 14

 

 

* ただいま栗と格闘中。この時期、父は必ず、栗と新米を送って寄越します。今夜のお月見は、栗ごはんとまいりましょう。

さて、スポンジが要らないファンデーションが発売されたというニュースに、どういう事? と思いましたら、イオンの働きを利用したスプレーで、顔に、むらなく均一に塗ることができるのだそうです。これからは、「塗る」から「吹き付ける」化粧へと、変わるかもしれません。

「車の塗装技術にあるよ、それ」と主人。

塗装! ま!  そンなもんでは、ありますけどねェ。

 

* こういう生き生きした日本語で話してほしいと言うことだ。

日本語といえば先日、妻と、テレビを観ていて、いやアナウンスを聴いていて大笑いしてしまった。池袋のサンシャインシティーだったかへ、「世界中の犬と猫とが集まりました」と話していたのだ、むろん犬猫展に、世界中からいろんなのが来ている意味とは分かるが、日本語で言うと、こうなるわけだ、これで通じると。

揚げ足を取れば、というよりもし察しをつけなければ、「世界中の犬と猫とが集まりました」とは、誤解しようのない程、明瞭に言葉通りの意味になる。実現すれば怖いほどの壮観だ。

2002 9・21 14

 

 

* 坐りんぼ君&ダンプ君、すごい短編だなァ! と嘆息。と、同時にジベタリアンが頭にちらつきます。ベンチでも、男性がハンカチを敷いて女性に勧める… ついこの間まで、青春ドラマにあったような気がしますが、昔話なのですね。

斜面と段。これも考えさせられました。簡単に感想のことばが出ません。

すわる、に因む話をひとつ。

地方のホールかなにかで「三番叟」をするからと呼ばれた囃子方が、「床几出しといて」とホール関係者に言ったところ、当日、舞台中央で彼らを迎えたのは、縁台…。

「三番叟」を見る度、思い出しては噴き出しそうになります。

 

* 坐りんぼ君とダンプ君、というのは講演「私の私」の最後の方に話している、或る早大文藝科学生の創作で、ゼミの段階でとりあげて、褒めた小説。

この作品には繰り返し触れてきて、しかも作者の名前を忘れている。調べればすぐ分かる。今の作家角田光代と同じ教室であったか、一年上だったか、男子学生であった。「斜面と段」もその作品に関連して触れていることで、ヘーゲルの世界観にかかわっている。

「坐りんぼ君」は、どこかしことなく階段ががあると座りこんで倦むことのない青年で、その当時はまだごくの少数派であったが、増えるだろうとわたしの予測どおり、以降、大都市の至る所で、階段と限らない「ジベタリアン」がはびこっている。

ポンと変わって三番叟の床几のハナシ、わたしも笑ってしまった。

2002 9・22 14

 

 

* 明日は午後、NHKと会い、そのあと卒業生クンの一人と久しぶり急に会うことになった。明後日はこれも久しぶりに千葉の勝田おじさんと会う。

そういえば二三日前に嬉しい絵葉書が北海道から届いた。わたしの退官後に退学していた元の学生クンが長く家に引っ込んでいたのが、また大学に通い始めたという。いま北海道を自転車で廻っていますと言う。以前にも一度流氷を見に来ましたと葉書を呉れたことがあるが、今度のは大学に通い始めたという朗報入りであった。彼とも出来れば早い内に一度逢いたい。

 

* 男性危機の時代ですね。強い引力を持つ男性が少なくなり、それに反して女性は強くなり、それでもその上を行く男性を求めるので、アンバランスになるようです。

 

* こんな犀利な断片を含むメールも来る。なるほど、これは謂えている。

 

* おまえ、こんなとこで何しとンねん?

立っとンねん。

立って何しとンねん?

立って…立っとンねん。

桂文枝の語る、一節だが、これは、強いのか、弱いのか。

2002 9・22 14

 

 

* 鶯谷駅から坂をおり広道を越えて少し奥へ入ると、むかし小林保治氏に連れてもらった鶯泉楼とかいった中華料理の店がある。

その先へ歩いてゆくと道が分かれるところに、風情のおもしろい何かの店があった。妻と散歩していたのはあのあたりの寺の、佳いと聞いていた藤の花を捜していたのだった。そして気まぐれに妻は眼鏡屋に入って、洒落たサングラスを買った。

道の奥の方に何軒も寺があった。これはもっと昔だが筑摩書房の辰巳四郎氏に「根岸」へ行きましょうと寿司屋に連れてゆかれたのがこの界隈で、この辺が「根岸」なんだと覚えたのも懐かしい。以来、わたしは鶯谷の少し向こう寄り、さきの中華料理の店あたりから先は「根岸」と覚えてきた。むろん地理にあたって確認したわけではないが。下谷とか根岸とかいろいろ耳にはしても、字では読んでも、正確には知らない。正岡子規のゆかりで、漠然と「根岸」にしてしまっている。

もっと奥の方であったか、古い大きな鰻屋へも連れてゆかれたことがあった。夏祭だか、なんだか町内に夜祭りがあったときで、町なかの深い闇に、寄合場の提燈が赤い色をしていたのが、遠い日の幻のようにとても懐かしく思い浮かべられる。あの辺にちょっと住んでみたい気もする。

明日は勝田貞夫さんと鶯谷駅で出逢う約束。

2002 9・23 14

 

 

* 湖の本、お送りいただきましてありがとうございました。日常のせわしなさにかまけて、お礼が遅れましたがいただいた本だけは即座に開いてしまっております。今回は小説でないせいか、なんとはなしに講議を受けていた時代を思い出しつつ読ませて頂いています。

一昨日の中秋の名月は、残念ながら雲があっておぼろでしたね。

1才9ヶ月になる娘は、2ヶ月ほど前から「おっきさま」を認識しはじめました。彼女が起きていられるのは、せいぜいで立待月くらいなので、大好きな「おっきさま」に会えるのは月のうち半分くらいなのです。昼間に出ている月は、どうやら違うものにカテゴライズされているらしく。

十五夜は、かわりに月の歌をたくさん歌って聞かせました。「出た出た月が」から「雨降りお月さま」「のんのんおつきさま」など。月を歌う歌は多いですね。もう少し大きくなったら、おだんごや衣かつぎ、栗ご飯を一緒に作りながらの

お月見をしようと待ち構えているのですけれど。

その一昨日に、どなたかが新聞に「アポロが月についてから誰もが月に夢を抱かなくなった。月なんて月並みだから。」というような内容を書いていらして、ホンマになぁ、と、ここばかりは関東者の癖に関西言葉でうなずいていました。こうやって、科学によって少しずつ昔からの夢が保たれなくなっていくのかもしれませんね。もちろん、科学によって生まれた夢や救われた夢もあるのでしょうが。

私など月を月並みにする作業の、恐らく先鞭をつけているに違いなく、私の今の研究のメインテーマは、漆ではなく糊なのです。(漆はものが持ち込まれると否応無しに関わっているわけですが。)糊の方は、少しずつ趣味的に携わっていたのが、いつの間にかずるずると面白さのあまり深みにはまっております。

表具をつける時に用いる少し変わった糊をご存知ですか。数年以上、普通の糊を腐らせておく・・・という。この糊、地酒のごとく各表具屋さんで作るのですけれど、実は何ができているのか、さっぱりこんとわかっていない。

それで、少しいじりはじめたら、これが様々で面白い。糊の炊き方や保管環境で全く異なっていたり、完全に一致していたり。先日、理系の学会で一部を発表したところ、ある食品企業の方にはその会社で開発した栄養剤用の物質に似ているかも、と言って頂いたり。

でも、この糊、実は文化的側面も持っているのです。

表具屋さんに、丁稚さんが弟子入りすると、最初の仕事の一つは毎日の糊炊きなのです。そんな中で大寒の日に糊を炊いて、仕込みをする。その糊が出来上がるのはだいたい10年後ですが、その頃職人としても一人前になって暖簾わけしていくのです。弟子に入った年に自分で炊いた糊を分けてもらって。

こういう文化は、既にこの職人のサイクル自体にやや破綻の来ていることも確かなのですが、化学的にこの糊はこうですよ、ということでさらに後押ししてしまうかもしれないな、といくばくかの不安は胸によぎります。よぎるだけで、やめないのが、テーマにとりつかれている研究者の業なのですけれど。

もっとも、日常の行政的依頼業務のほうが圧倒的に多い毎日では、このテーマも細々としか進んでいなわけでして。

パンの焼ける匂いがしてきました。あと少しで蜂蜜の入ったパンが焼き上がる予定です。朝ご飯の準備をはじめます。

またも長文のメールとなってしまいました。

お体のほう、あまり無理なさらずに。今後の湖の本のためにも。

追伸

東工大で「位」を含む語を作らせたら「位置」が多かったとのこと。先生のご推察もかなり正鵠を射ているかと思いますが、もう一つ。理系のテクニカルタームなのです、「位置」という言葉は。彼らにとって(私にとっても)「位置」はごくごくなじみの深い言葉です。

追伸2

相も変わらず下手な俳句です。お目汚しですが。

蜻蛉や魔のささなくてひた語る

六年過ぎ風立つ無言の刀自の家

待ちわびた返事舞い込み麻を着て

梅雨入りや十年過ぎしこと気付く

 

* 一つの「生活」がくっきりと「あいさつ」され「表現」されている。流れがあり、思いがある。動きがあり、センスがある。

「位置」ということば、また「位置関係」ということばが、理系のどういう馴染みのテクニカルタームか、もう少し具体的に聴きたい。なるほど、ありそうなことに思われるが。

2002 9・23 14

 

 

* 引き続いて学生君と、同じ池袋の精養軒で、ビールとワインとでゆっくり話し合った。どうしてもというので、ご馳走になってしまった。

2002 9・23 14

 

 

* 天気晴朗。千葉の勝田貞夫さんとのデートは、思いがけない展開に。

鶯谷駅のわきで、まず一献で蕎麦をたぐったのは予定通り。他に客なく、ひさびさの邂逅、ハナシもはずんで、店内静かでよかった。

ところが三連休あとの火曜日は、お目当ての博物館が休館。西洋美術館も。で、余儀なく、しかしそれにも気は向いて、タクシーで浅草へ。合羽橋や菊屋橋の辺を通って雷門へ。いいおじさんが二人で仲見世を通り、浅草寺にお参りしたあと、六区へ迂回して、牛肉の米久へ。

途中、小芝居の劇場がちょうどはねて、役者達がみな路上に出、ご贔屓の帰るのへご挨拶という場面に出くわした。勝田さんは花形役者と握手。演芸ホールも覗いたが、きわどく昼席がもう終わる頃で、夜席は始まると九時まで、これは断念した。太鼓の音がドン、ドンと二つ鳴って、二人で近江牛の老舗にあがる。古びた店の内だが肉はうまい。

さらに表通りを言問通りを越えて吉原の方に歩いていったが、不案内で、見当もつかないのと勝田さんの足腰も案じられ、ふりむきざまタクシーに乗り、地下鉄日比谷線の入谷まで。そこで勝田さんと別れ、わたしは歩いて鶯谷駅まで元へ戻り、何処へも寄らずに帰宅した。

2002 9・24 14

 

 

* お変わりございませんか。湖の本をご送付いただき、ありがとうございました。毎回どのような作品を読ませていただけるか、とても楽しみなのですが、今回の講演集も読みごたえのある充実した一冊でございました。今の時期にこの内容のご本を出された理由を、ひしひしと感じておりました。

「知識人の言葉と責任」は私語の刻でも読ませていただいておりましたが、「私の私」とともに、政治性のある力強いメッセージを受けとめました。愛する日本の国への、心底からの憂いと批判に、震えるようでした。

「マスコミと文学」のなかの、「文学」が文学らしくあればあるほど、ひょっとして「マス・セール」とは縁を持ちたくても持てない疎遠なものを本来抱き込んでいるのかも知れない、という一文に、先生の姿勢の一端がうかがえました。先生はご自身を少数派に属するとお考えですが、まさに文学者が多数派に属することなどあり得ない話のように思います。世の中の大多数が好むと好まざるとにかかわらず、富と権力につかえるように動いているのに、真実の芸術家は一途に精神の自由につかえるのですから、孤独は宿命のようなものかもしれません。しかし、だからこそ多くの、私のようなどっちつかずの平凡な人間は、芸術家に熱い尊敬と憧れと共感を抱くのです。どうぞ今のまま、この世界の深さと美しさを思う存分自由に強く生きていかれますことを。

話はかわりますが、以前先生にお話した母の本が仕上がりました。近いうちにお送りさせていただきたく存じます。

9月に入りましてからも、相変わらず気の滅入るニュースばかり、その上急に涼しくなりまして、風邪をひいているかたが増えています。どうぞお身体大切にお過ごしくださいませ。

うっすらと悲しみがはりついてどうしようもないとき、私は澄んだ秋風のなかでお気に入りの一冊に読み耽る、夢見心地のようなバレエのビデオに酔う、モーツァルトの恋の音楽を涙ながらに聴く、この季節ならではの栗のお菓子、栗蒸し羊羹やモンブランの濃厚な甘さを味わう、そんなことで、ささやかな幸せを取り戻しています。

 

* メールを下さるのは、言うまでもないわたしではない別の人であるが、ホームページの訪問客には、何処のどなたの文章とは分からぬまま転載させてもらうと、その内容が、そのままわたし自身の日々の生活に加わって、わたし一人では思い及ばないひろがりや厚みや楽しみに展開する。わたしは、そういうことを、いつも考えている。わたし自身にも「うっすらと悲しみがはりついてどうしようもないとき」がある。だがわたし自身は本に読みふけることはあっても「夢見心地のようなバレエのビデオに酔う、モーツァルトの恋の音楽を涙ながらに聴く、この季節ならではの栗のお菓子、栗蒸し羊羹やモンブランの濃厚な甘さを味わう」わけではない。だが、それをこう書きうつしてみると、わたしの日々にそれが加わって、加わったものがそのまま読者のほうへ展開する。こういうメールの人とも話し合っているわたしの日々が立ち現れる。わたしの言葉とわたしの行動だけでは漏れ落ちてしまうものが、わたしに付け加わって、生き始めるのだ。自分のことだけを書いている日記では、こういう膨らみが出ない。小説という文学には、今謂う是に近い機能がある。だから読んでいて体験が増したように感じる。

わたしの脚は二本しかなく、動ける範囲は知れている。わたしの言葉もそうである。行為もそうである。思いもそうである。この「私語」のなかに他者の言葉や行為が追加されながら、それもまたわたしの言葉や行為に連なってくると、少なくもわたしは、わたし自身ではなかったわたしを、わたしに対し付け加えられる。これもまたコンピュータやインターネットの働きであるだろう。

2002 9・24 14

 

 

* 「握手」をしてもらった芝居小屋は、むかし「安来節」をやっていた「木馬館」だと思います。また行ってみたくなりました。それにしても何も知らない本籍だけ浅草にんげんで、恥ずかしい限りです。秦さんと歩けた鴬谷~浅草は、ほんとに嬉しかったです。どうもありがとうございました。(これは「超漢字」OSで送信しています。おかしかったらごめんなさい。)

2002 9・24 14

 

 

* 東工大卒業生女子のホームページ「闇に言い置く」を読んでいたら、教室で出題した井上靖の詩「別離」にふれて書いていた。何年の昔だろう。そして、ああもう一歩で、あなた短編小説が書けるよ、ここでこういうふうに立ち止まり書き置いて忘れてしまわないでと、独り言で、唆していた。

詩はとても佳い詩なのである、そして読みは必ずしも易しくない。井上先生がこういう独り言の記事を読まれたら、喜ばれるだろう。

 

* スペインから夫とともに帰国した卒業生が、来月はじめに逢いたいという。通訳して貰わないとご主人とは話せない。ウーン、この出逢いを楽しむには無心にならないとね。 2002 9・25 14

 

 

* 電車のなかです。お作は、何度も読まないと、わかりません。それでも、大きくて、広くて、深ァい湖の、その波打ち際をぴちゃぴちゃ叩いて、うわぁ~って言ってるンだと思っています。

わかンないンですよ、ほんッと。ですが、何年か経って読む、また、何度か続けざまに読む、辛い時に一気に読む…その都度、心が、しっかりごはんを食べた感じになるのです。

先達て、「畜生塚」を、一度、二度、三度、と、続けて読んでいるときの、楽しかったこと! わたくしでも分かる、音やリズムの心地好さ、言葉の美しさ。何度読んでも、飽きません。

 

* 感謝。

2002 9・25 14

 

 

* 昼前に銀座三越前で、スペインから帰省の卒業生とそのハズバンドであるスペイン人アルフレッドと出逢い、一丁目の銀座アスターで昼食かたがた初対面、久闊を叙した。

なにしろ夫人に通訳して貰わねばならない、しかし夫君もなかなか日本語への理解がありげで、そんなには不自由がなかった。ま、わたしからいろんなことを質問しながら、なごやかに食事ができた。

海老が二度も出て二度とも指を汚さねばならなかったのは閉口だった。料理はまずまずだが存外量がなかったか。ウエイトレスの行儀の佳い店で好感は持てたし、静かな一郭に席を得たので、話しやすかった。

夫人は背が更に高くなったかと思うほどほっそりし、健康そうでなによりだった。夫君は年かさに落ち着いた知的な人。カソリックの多い国で、確信の無神論者なのもわたしには興味深く、その辺でもっと深い話し合いもしてみたかったが、ま、仕方ない。

台風にかすられた尾瀬から戻ってきたばかりで、次ぎには又山に行くのだという。日本の植生の、こまやかな緑色に惹かれるという、さもあろう。日本の緑はたしかに美しい。

もう少しどこかへ付き合ってもよかったが、夫妻の時間を奪うのも憚られ、二時前には銀座の路上で別れて、有楽町線で帰った。

2002 10・3 15

 

 

* モンテクリスト伯、楽しんで読まれているのが伝わってきます。文庫本がないってHPに書かれたのはいつだったでしょう。あの時本屋さんに2冊を除いて揃っていたので、注文して送ろうとしていたら、筑波の方から本が到着したと書かれてあったので・・本は自分のために取って、これから読んでいこうと思っています。

今日は栗ご飯を炊こうと、栗の皮を剥いていたら、手が疲れました。食べきれないほどあると、保存のために皮剥きしなければなりません! 楽しみ半分、疲れ半分です。届けて下さった方には・・言えません。有り難うございます、ひたすら有り難うです。皮を剥いて水に浸してアク抜きしたら冷凍庫に入れます。

八月、九月と「日録」も書かないで過ごしてしまいました。日付なしの散らし書きだけ少々。たくさん本も読みたいし、器用に物事が進みません。少しずつ、少しずつです。

明日は友達と京都に行く予定です。美術館めぐりと、錦かデパ地下で食料を買って終わってしまうでしょう。

どうぞ良い日々をお過ごし下さい。

 

* 涼しい日と真夏日とが遠慮無く交替するので疲れが出やすい。気を付けないといけない。

2002 10・3 15

 

 

* こんなメールで少し気分を持ち直したい。

 

* やっとかめおもだかやッ!  おもだかさんが御園座に出るのは、相当、久し振りだそうで、こんなかけ声がかかりました。名古屋の松緑襲名披露は、菊五郎劇団に、猿之助、梅玉という顔合わせ。

冒頭の、時蔵・梅玉の「毛谷村」をパスして、雀右衛門の「鷺娘」から、昼の部を見てきました。菊五郎劇団の長唄囃子連中が揃い、気持ち良く酔えますが、ジャックは動けなくなったわァ!

襲名披露は、昼が猿之助を迎えての「対面」、夜が梅玉を迎えての「土蜘蛛」。菊五郎親子の「京人形」で昼が終わりましたが、思ったより空席がありました。

帰りに、津で、寿三郎展を観てきました。

源氏絵巻縁起では、なにものによっても癒されることのなかった孤独感の中に、生涯を送った、彼のことを、表現したかったとのこと。人形の造形や、細かな仕事が目を奪いますが、昔の日本には、こんなに豊かな布の文化があったのだと、つくづく感じ入ります。織り。染め。刺繍。職人技。手仕事の素晴らしさ。ちりめんが多いので、余計にそう思いますが、まさに、趣向と自然の、美意識。

 

* わたしも今日は昼過ぎからの芝居に出掛ける。楽しませてもらいたい。

2002 10・5 15

 

 

* 終夜つよい雨がふりつづけ、朝八時、まだ雨音のしじにやまず。雷までも。午後には雨も上がるだろうと予報はあるが、秋雨というより雨台風の感じに、風も。暑い暑いと言っていたのが、もう十月中秋。

 

* 雨の高台寺  嵐の日、京都に行っておりました。

新聞もテレビも見ませんでしたので、時折、ザッザッと降る颱風性の雨を、そうと気づかず、「雨もまたよきかな」などと気取っていて、帰りは嵐と道連れということになってしまいました。止まり止まりしながら時々うごく新幹線の中で、退屈しのぎに歌仙を独吟で巻いたりいたしましたが、東京まで五時間は長うございました。

連れがあったのと、つまらぬ用があって出かけたものですから、おもうような行動が取れず、それでも折から特別拝観というのを催していた高台寺へはゆくことができました。

『初恋』の「私」と雪子をおもい、『風の奏で』をおもうはずでございました。が、書院に展示されている、霊屋の厨子から外された漆の扉や、そのほかくさぐさの宝物を拝見しているうちに、不意に不整脈、そして頻脈に襲われてしまい、息がつまってきそうになり、あわてて、外へ出てしまいました。

連れが秀吉は好かないというのに同調して彼のわる口を言ったせいかも知れません。

あのへんにある喫茶店に入り、しばらく休みました。

『冬祭り』の母と子に逢いにもゆけず、長楽寺へもゆけず、喫茶店の窓から雨の降るのをながめていました。

霊屋の天井に消えかかっている迦陵頻伽と飛天に心がとまりました。

お庭の萩は盛りを過ぎていましたが、雨の雫をあつめてふっさり枝垂れていました。冬子たちのお墓のあたりの萩をおもいました。

捜しもののお話、わたくしもも時に人生の四分の一、いえ、三分の一くらいは捜しものをしているのではないかとおもうことがございます。「神さまは、捜しものをする時間までは恵んでくださらない」ということばも聞いたことがございます。

天に翔けたか地に潜つたかと捜しものばかりしてゐる 今は指貫(ゆびぬき)

こんなうたができるありさま、それだけ整理整頓されていない暮らしをしているということになりましょう。捜しもののお話をうかがって、あ、先生でも、と、失礼ながらおもったことでございます。

『モンテ・クリスト伯』、わたくしも読もうと、古本ながらぴかぴかのを入手しました。十一月にはデュマ生誕二百年を記念して映画「モンテ・クリスト伯」が公開されるそうでございます。映画と小説はちがいましょうが、ちょっと心をそそられます。それから、岩波から「デュマの大料理辞典」というご本も出ているそうでございます。

 

* 昨日、「まつと利家」を後半視ていた。なんだかかんだか女達のホームドラマのように進めてきて、それなりに定着していると見た、わたしは単純に、お気に入りおね役のノリピー酒井法子を見ているだけだが。

信長、秀吉、家康と続いた天才的な三人の武将によって、自分は何をえられたろうと、子供の頃からよく想った。言い換えれば好きか嫌いかだが、感情的には、覇者などみな嫌いである。高台寺はだが好きなお寺の一つで、念頭の故郷に深く埋めこまれ、因縁も濃い。テレビエッセイで、ゆっくり語り歩いた朝早やの撮影や放映も思い出すが、記憶はもっともっと遠く子供の頃へとんでゆく。萩の寺、高台寺。はるか昔の、雲居寺。『初恋』は、はじめ「雲居寺跡」と題していた。その題でちょうどふさわしい未完の長編が、まだ書きかけの昔のまま二百枚もほこりをかぶって家のどこかに隠れているはずだ。捜すといえば、人生はあてどない捜し物の連続で、この先もまだ捜す気かと我と我が身をときどき嗤ってやる。暢気にしていよ。すくなくももう過去を捜すな、未来にまだ隠れた何があるかは知らないが、できれば「今、此処」をありのままに捜すがよい。

2002 10・7 15

 

 

* 久しぶりに小林謙作君とメールで話せた。今度逢うことになりそうで、楽しみ。

2002 10・9 15

 

 

* 夜前、気分が悪いほど疲労していたのに、寝に行く前に、卒業生のホームページをのぞいて、「闇に言い置く」私語の大方を、逆順にずんずん読んでいった。一日一日を区切ってときたま読むのでは、大きなものが掴みにくい。面白く興味深く、しかも一気に読み直して行けるほどの量であったのも幸いしたが、「いいよ、これはこれでいいんじゃないか」と頼もしかった。強い雨が、土を岩を叩いてしぶきを上げるように、生き生きと、ときにはランボーな物言いもものともせず、書いている。男性ではない、女性である。結婚もしている。

気合いがいいのと、根が研究室育ちの技術者でも実験者でもあり、社会に出てからの視野や体験も広がっている。読書と観劇の積み重ね、この人はただならぬものをもち、当然、フレッシュである。わたしのようなオールドファッションのダサイおじいさんは、その勢いに吹っ飛んでしまいそうな、奔流のような生活感を、心身にしっかり帯びている。投げ込んでくる球種もフクザツで、ソフトボールの投手のように凄い速さで、ブアッと来る。勝手に本文はここへ引用できないから、紹介も抽象的になるけれど、なんだか、「やれやれッ」とけしかけたくなったほど、楽しい刺激を受けた。

うちの脚本家の先生も、これくらいきびきびと若々しく、しかも若さに甘えないシビアなコメントを、万般、彼のホームページで読ませて欲しいものだ。どうしてるかな。

 

* またべつの卒業生の、久しぶりのメール、長いメールが今朝届いていた。下書きをしたか知らんと思うほど、とほうもなく、ま、微妙なことがらが、きちっと書かれてある。さきの卒業生もこの卒業生も同じ教室にいて、アイサツのたしかなことでも対照的な双璧といえた。この人も女性で、結婚している。

このメールは此処に書き込めない。わたしは、読んで三十分ほど考え込んでいた。いい考えが浮かぶかと思ったのではない。ま、いっしょに考えているハタさんがいるよと、少しでも安心してもらいたかった。

 

* 有名な建築会社に勤務の男性卒業生からは、今月一日から六日まで勤務先主催の展覧会があるので来てくださいと誘われていたが、いろいろ用事に煽られ、行けずじまいだった。用事の中には、スペインからスペイン人の夫君と一時帰国した卒業生との会食もあった。あの夫婦ももう向こうへ「帰国」した。柳君、行けなくてわるかった。仲間の丸山君は、これから本省予算の時期になり、国会も始まって気も体も休まる日がないだろう、風邪など引かぬよう、大事に。

2002 10・13 15

 

 

* 秦さん、お元気ですか。わたしは、秋の花粉にあまり反応せず、ほっとしています。これなら、気にせず外出できます。

先日、ビデオに録画しておいた「北の国から 遺言」を観ました、ほとんど泣きどおしで。

今回は特に、消費社会への批判が濃くあったなと感じました。廃材を集めて家を建て、賞味期限切れのお弁当をこっそり持って帰り、人糞発電まで試みていましたね。

今の日本は、個人消費が冷え込んでいると言われますが、今までが消費しすぎだったのだと思います。これくらいで丁度いいのです、いや、相変わらず盛況している高級装飾品店のニュースを見ますと、まだまだ、です。

地球環境のことを念頭に置いたら、物を大切に使おうと考えるのが自然で、個人消費を促して景気を回復させようというのは、ズレている気がします。物を大切にして、リサイクルもうんとして、それで回る経済を、これからは模索していかなければならない、というのは、素人考えでしょうか。

1970年代後半に活躍したイギリスのパンクロックバンドに、セックスピストルズがいます。彼らの曲、「アナーキー・イン・ザ・U.K.」を、当時のイギリスの世相と絡めて紹介した番組がありました。数字をきいてびっくりしたのは、若年層の失業率の15%を超えていたことです。大不況だったのですね。イギリスではじまったパンクロックムーヴメントは、若者の怒りであったという説明に、納得しました。あのすさまじくロックンロールスピリットに溢れた曲は、そういう時代に生まれたのかと。

「ブラス!」という、イギリスの映画を観たことがあります。舞台は80年代、サッチャー首相による改革の嵐吹き荒れる中、閉鎖の危機に瀕した、とある炭坑のブラスバンド部の話です。全編をとおして物語を覆っている経済的な困窮は、救い難く、今日の日本を観ているようでした。

炭坑の閉鎖により、坑夫たちは失業しますが、既に予選を通過していたので、ブラスバンドの全国大会へ出場します。炭坑と年月を共にしてきた、伝統ある部の誇りをかけて。見事優勝するという映画的な結末は、しかし、彼らの状況を変えるものではありませんでした。肺を病みながら指揮をとったリーダーの、壇上でのスピーチは、大きな経済を守るため、その基礎である小さな経済をばったばったと切り捨ててゆく政治を、静かに、整然と批判して、素晴らしかったです。小泉首相に聴かせてやりたいほどでした。

二、三年前、イギリスは好景気だと言われていました。映画に描かれていたあの不況から、どうやって抜け出したのでしょうか。

わたしの英会話の先生は、イギリス人で、日本人女性と結婚しています。その奥さんによりますと、出逢った頃、先生は服をあまり持っていなかったそうです。また、イギリスの粗食は有名ですが、外食もあまりしないそうで、イギリスで外食するとなると、先生の家族の女性たちは、美容院で髪をセットしてくるそうです。それほど気合いの入ることなんですね。ちなみに、この先生は、ノートを、一番上の欄外から使っています。

もし、贅沢をしない人たちの国が好景気なら、その経済を、日本は真似できないのだろうかと、目下、イギリスの経済に興味津々です。

秦さん、お忙しいお体、ご無理だけはなさらないで下さいね。

 

* 群馬の遠くから、シャープな佳い便りである。一方で金を使えといいながら、一方でそれがとりかえしのつかない環境破壊を加速しているとしたら、滑稽な話だと、わたしも思っている。ひどい混乱と撞着と矛盾とが渦巻きながら、失業と不景気と、そのくせ小さな贅沢とは同居している、都市生活。何処に不景気なんてあるのか知らんと思わせる都会の表情も、少し注意深くみると、どすぐろく疲労している。疲労の中で、なにを人は病んでゆくか。精神である。いたましい。

2002 10・18 15

 

 

* 百まで、きっと。  今にして思えば、第一子の私に対して、父は良き父であらんと思い、また、母は良き母であろうと願い、それぞれに、心を砕き、時間を裂いて、行動に移してくれました。

ありがたいこと。ですが、夫婦としては、愛しあっておらず、ぎくしゃくした数年を過ごした後、父と母になったことで、互いにほっとしたのではないかと思うのです。そんな夫婦の間で、取るべき位置、態度、行動など、無意識のうちに考え、怯え、憶病になり、つい、はしゃいで、失敗する。

その繰り返しは、今も変わらず、「あぁ、まただァ!」と天を仰ぐのです。

 

* この告白はとても重く真率で、無垢。こういう例はだが無数にあることにより、ますます世の中をつらいものにしている。

2002 10・18 15

 

 

* いきなりですみません。まごまごしているうちに着いてしまいまして。「・・お酒じゃぁなあ」と呟いたら、こうなりました。ご笑納ください。

『丹波』へ行かれて、ほんとによかったですね。『コワーイ気持』も少しわかる気がします。秦さんが何をおっしゃるか楽しみです。大切な大切な『丹波』ですものね。

私の(戦時)疎開は『湯河原』ですが、よく憶えていません。いやなことばかりだったので、脳味噌が、ひとりでに消したがっているのかもしれません。裏のみかん山に登って、軍用列車がトンネルに吸い込まれて行くのを独りで見ていました。木の窓は全部閉まっていました。

さらさらと秋がいそいでいるような気がします。くれぐれもお大事に。

 

* コシヒカリをたっぷり頂戴した。お礼を申し上げたお返事が上のメールで、わたしは、此処にもいわば「メール文藝」の一例がみえると、感嘆久しうした。段落ごとに一行アキがあるから、もっと詩的に美しく読めるのを、わたしの勝手な便宜でつめているが、どのセンテンスひとつをとってもこの「chiba e-old」さんの文藝のナミでないしなやかさが見えている。

「私の(戦時)疎開は『湯河原』ですが、よく憶えていません。いやなことばかりだったので、脳味噌が、ひとりでに消したがっているのかもしれません。裏のみかん山に登って、軍用列車がトンネルに吸い込まれて行くのを独りで見ていました。木の窓は全部閉まっていました。/ さらさらと秋がいそいでいるような気がします。」

愛誦に値する。

2002 10・20 15

 

 

* おかえりなさい 京都はいかがでしたか? 比叡の山もうっすらと秋の色がつき始めていたのでしょうか。

洛北岩倉三宅町に三年暮らしました。秋は彼岸花が野辺に燃えて、三宅八幡のお祭りを楽しんだものです。

隣の家に、連休に空き巣が入りました。ご夫婦でカナダに行った間のことでした。隣にいて、まったく気づかなかったのがショックで。日曜日にセコムをつけます。お二人でお出かけのことがありますから、ご用心ください。まさかホームページを読んでお留守を知って・・・ と言うことはありえないと思いますが、この世の中物騒なことだらけ。十分お気をつけください。在宅のときに賊に入られるのも気持ち悪いですね・・・。

 

* セコムの工事と一緒にADSL接続 成功しました!  初めのうち、どうにもわからなくて、電話サービスに相談してもうまくいかず、結局AOLのサービスに聞いたところ、送付されてきたCD-ROMを入れればすぐ接続できるとのこと。そのとおりにしたら、難なく出来ました。格闘すること五時間あまりでした・・・。

確かにホームページの検索がすばやく出来ますし、「電子文藝館」を何十分訪れていても、接続時間を気にする必要がなくなりました。遅ればせながらこれからが楽しみです。

セコムの工事も、朝の九時半から夕方五時半までかかりました。大の男が物も言わずに二人がかりで動きっぱなしの大工事でした。セコムをセットすると、窓から入る風の中でまどろむこともできなくなります。物騒な住宅地になってしまいました。

母たちが自分の住まいに引き揚げたあと、新しいセコムの機械の上に、何か忘れ物があると思って、見ると、小さな「ばった」さんでした。そっとつまんで、霧雨の闇の中に返してあげました。

ともかく今夜からは安心してぐっすり眠れます。明日の朝、お寝坊しないように少し早く休むことにします。

 

* よそ様の暮らしを覗き込ませてもらっているようなメールだが、実感豊かでおもしろい。先日帰省帰国した卒業生の、はるかスペインからのメールも届いている。八ヶ岳体験がおもしろい。

 

* 帰って来ました、バルセロナに。  今回の日本滞在は、色々な意味で、重いものとなりました。

一つは、恒平さんとの再会。お逢いした後、私はずしーんと落ち込みました。疲れて褪せていた自分を認識させられたからだと思います。(通訳しながらの) 夫と三人の食事が難しい状況を招いたとしても(夫に逢っていただけたのはとても嬉しかったのですが)、それ以上に今回の私は、何も話せずに終わりました。

興味深い話題は本当にいくらでもあったのに、ここ数ヶ月、日常の疲れにまみれていた私は、そのおもしろさすら忘れかけていたのでしょうか、何も口を衝いて出て来ませんでした。

半年を経過した義理の両親との生活には心底疲れていました。でも疲れる理由は、実はいくらでもあるものです。そして、これからも絶え間なく出てくるでしょう。疲れているという立派な言訳と伴に終わってゆく人生が、どんなに多いことか。かなたの夢と今の無能さをひしひしと感じて、あの日私は恒平さんと別れたのでした。

ここでちょっと「山」の話を。

お逢いした翌週、八ヶ岳をたずねました。「八ヶ岳」はその響きがとても好きで、いつか必ず登りたかった山の一つでした。

予定では、朝六時三七分一番早い千葉発の特急「あずさ」に乗り、茅野10時前到着。10時25分の諏訪バスに乗れば、遅くとも11時半には登山口である、美濃戸口から登り始めているはずでした。それがお茶の水駅の信号故障により、各駅電車でも70分で着く新宿に、70分遅れで到着。新宿からも高尾まで各駅電車の後を走らなくてはならず、茅野到着は100分遅れ、結局美濃戸口に着いたのは13時すぎでした。

山に昼過ぎに着いた上、雨も強くなり、かっぱを来て登山者データを記入した私たちは、本当にいそいそと出発しました。実はこれが間違いのもとでした。

私たちが目差していたのは、赤岳でした。赤岳の頂上小屋に泊まれれば願ったり、無理なら手前の行者小屋に宿泊する予定でした。

出発時一つの標識に「阿弥陀岳  赤岳」とあるのを見て、赤岳方面への道がいくつかあるのを知っていたにもかかわらず、いずれ両方面への分岐点に着くだろうと、よく確認もせずその方角に向かったのです。

おかしいと思ったのは、しばらく登ってから。本の説明と違い、かなり急な尾根道続きなのです。それでももう私たちはかなり山の上の方にいましたから、そのまま登り続けることにしました。ところが上に行くに連れ、雨がみぞれに、みぞれが雪になり、霧が出て来たのです。山頂が遠くに見え始め、あそこさえ超えれば、行者小屋に下る道があるのはわかっていました。戻ることも考えましたが、それもかえって危険でした。

山で、それも山頂付近で霧が出たときの怖さはよく聞いていました。急な尾根道をずんずん登る鼓動より、恐怖の鼓動が心臓を支配しました。私は山頂ばかりに目がゆき、霧で遮られてゆく前方に、霧の向こうに浮かんだ尾根の険しさに、そして頂の遠さに戦きました。しかし、降りしきる雪に、落ち着きを保っていた夫の手が凍り始めると、私にも不思議と勇気が湧き、後は私が先導することになりました。

「助かった、あとは何とかなる」と思ったのは、阿弥陀岳山頂に登り詰め、赤岳方面と行者小屋方面の二つの標識を見つけたとき。行者小屋方面をしかと確認し、雪の中慎重に下りだしました。

行者小屋に着いたのは16時20分。出発してから3時間10分が経過していました。かっぱからはみ出た前髪はばりばりに凍り付き、夫の手は魂を失ったように、血が通っていませんでした。

私はストーブの前に張り付き、興奮と寒さで震えていた心身に落ち着きが戻るまで、じっと座っていました。外は闇、一段と強くなった雨の音が、屋根を叩いていました。

前日の予報に違わず、翌日は天気も回復したので、私たちは赤岳頂上のすぐ手前まで登りました。山頂は濃い霧に包まれていたため諦めましたが、そのすぐ横に聳える阿弥陀岳はくっきり拝め、その尾根線の険しさをしかと目に収めました。そして、霧の晴れた横岳、硫黄岳を縦走してから、美濃戸口に下りることに決めました。赤岳から横岳、硫黄岳と続く白い尾根線を見渡すと、昨日の恐怖が思い出されました。行く道行く道、その恐怖を吐き出すがごとく、険しい山頂の威圧感を話すと、夫はこう言いました。

遥か彼方を見ないで、目の前の道を見れば恐くない。ほら、道は続いている。山は、山頂がいかに遠いか困難かを考えていると登れないけれど、目の前にある道を一歩一歩着実に踏み進んでいたら、いつのまにか山頂に着いている。そういうものだよ、と。

確かに、遠くを見ると道がすっと消え、とてもたどり着けそうにないけれど、目の前を見ると、道が見えてくる。一歩が踏み出せる。そして一歩を踏み出せば、またそこから一歩が踏み出せる。

何でもそうだよね。芸術家になりたい、作家になりたい。そう考えても、気が遠くなるばかりで、何をしていいのか分からない。良いものができないからと何もしなければ、何にもならない。こつこつと作品をつくり、物を書き、気がつくと評価されていて、気がつくとプロ、成功者と言われている、そういうものではないかな。そして頂上にたどり着いたその本人ですら、その頂上の高さに驚き、今からその道をもう一度登れと言われてもとてもできない、と感じることの方が多いのではないかな。

登山にたとえた話は今までも聞いたことがあったけれど、今回ほどそれが身に染みたことはありませんでした。恒平さんに逢ってからの胸のしこりも消え、山を降りるときは、久しぶりに晴れやかな気分でした。

無茶をしたといえばそれまでで、人に進んで語れる話ではないのですが、これは是非、話しておきたかったことです。

 

* 「山」にことよせて何かを告げている。いや自分自身に納得させている、ようだ。むりに分かろうとは思わないが、なにかしらモノは見えている。

それにしても、山、無事でよかった、よかった。

通訳してもらいながらの食事、わたしは、特別疲れはしなかったが、彼女は大わらわであったのかも知れず、いやいくらか放心していたのかも知れない。お疲れさんでした。足元を見て、歩一歩。佳いスペインの家庭人になるか、どうか、これからが決めるだろう。まだ三十にも手が届いていない。若さが豊かな財産であることを忘れずに、元気に生きて欲しい。

2002 10・21 15

 

 

* 明日夕過ぎてから、唐津焼の「西岡小十と八人の会」のレセプションがある。世話人の一人が石川県鶴来の銘酒「万歳楽」醸造元の小堀甚九郎翁で、「湖の本」の久しい読者。この人が会に顔を出してくれと声を掛けてきた。賛助出品の八人の中には、茶杓削りで名高い西山松之助老先生も有れば、茶碗を自作する細川護煕氏も藪内の家元も加わっている。西岡老人は茶碗が佳い。唐津のごつい水指や花生けがそうは好きになれないが、この人の井戸や朝鮮唐津の茶碗には品格が感じられ、ま、高くて百五十万円ほどの売値は、それぞれ三分の二か半額が良心的なところだろうが、ま、三越だから、上乗せ分がキツイのは仕方ないか。

鶴来から出て見える小堀さんや、西山さんの顔を見に行こうと思っている。

2002 10・21 15

 

 

* 『モンテ・クリスト伯』読書記?でしょうか、拝見しながら、わたくしの〈モンテ・クリスト伯〉は何か、いや、〈モンテ・クリスト伯〉を持っているか、と、かんがえてしまいました。

こんなふうに読んだ作品をわたくしは持っているか。おとなになってからのそれは、なくはない。でも、先生ほどに熱く読んではいない。まして、子供のときから続けてとなると、ない、というしかありません。

いま、何度目かの『一言芳談』を読んでいます。齋藤史先生の

さびしくて今宵雪のそそぐを聞く とうとひびきて打たむ鼓(こ)もあれ

に逢ったとき、あ、これは『一言芳談』にある、比叡の社でなま女房が「ていとうていとう」と鼓を打って、「とてもかくても候。なうなう」と言ったという、その鼓。とおもいました。

史先生のこのうたについて書きたいとおもいまして、もう一度と、あちこち、拾い読みに読んでおります。

往生は一念にもよらず。多念にもよらず。心によるなり。

お寺さんに「心は、頼れますか」と問われたお心をかんがえております。

 

* 一言芳談とは、なつかしい。この「なま女房」のはなしは印象に濃い。「心によるなり」とは、心にどう振り回されず生きてきたか・これたかに依るということであろう、か。

2002 10・22 15

 

 

* いつも「湖の本」を読んだり、ホームページの「闇に言い置く=私語の刻」を読んだときに、いろんなことを想います。メールを書こうとしてキィを叩きはじめると、想いの漠然としていることに気づきます。文にするには、「把握の強さ」がないとダメなんですね。

でも、想っている。アラブの戦争のこと、アメリカのこと、日本の全体主義に向かっているように見えること、柳美里さんの判決のこと、芝居のこと、映画のこと、そして、書くこと。少しでも、言葉にできたら、と想っています。

先日の「私語の刻」、バルセロナの女性の、山のお話に共感を覚えました。わたしも、一歩一歩、足を前に出すだけです。

NHKの「アクターズスタジオ・インタビュー」で、創作について何かアドバイスを、と言われたロバート・デニーロが、「言えることはひとつだけだ。他人の望むものを、はじめから創れる人もいるが、自分のやっていることの他人に受け容れられるかが、心配で仕方のない人もいる。今はまだ失うものは何も無いのだから、自分の感性を信じて努力することだ。そうしてはじめて、人と違うものが創れるんだ」と言っていました。

今書いているものに対して、これでいいのだろうか、と疑問を感じていたわたしは、涙が出るほど嬉しくなりました。

日々、いろんな言葉に、勇気づけれられています。

2002 10・23 15

 

 

* 有楽町へ出て、妻と小一時間お茶を飲み、妻だけ帰宅し、わたしは、約束の時間に、医学書院の向山肇夫君と小林謙作君を帝国ホテルで迎えた。小林君とは、1974年のわたしの退社以来であったが、そんな空白はお互いにほとんど問題にならなかった。長時間、三人で四方山の歓談、の、メインの話題は小林君の父君の遺著復刊のお祝い。わたしはわたしの胸の内で、今日届いた見本の新刊の自祝。楽しい時間が持てた。

小林君にもう一軒と誘われて、姉妹でやっているというカラオケのバアに寄った。歌は謡わなかった。ふくよかな姉ママが、親切に、ヤボな男三人の話題に付き合ってくれた。店の名は「典子」と。

小林君に池袋まで車で送られて、めずらしく遅い帰宅になった。

 

* 知るところではないが、小林君の話では、医学書院退社後、社内で、よほどいろいろ私の評判もあったそうな。気の毒に、私の真意など、あの頃、社内の誰一人も、何も、知りも、分かりもしなかったであろう。あの頃のわたしには、ただ創作だけが有った。夢中であった。具体的には「みごもりの湖」と「墨牡丹」があった。

創作その他の文壇活動に打ち込むためには、会社の仕事上でうしろ指を差されてはならないから、ノルマはきっちり果たしていた。他のことは、勤務上のことも人間関係も、まるきり関心がなかった。おっと思うほどの昇任人事が内示されても、むろん即座に断った。医学書院で地位を得たいなど、思ってもいなかったのだ、片腹痛く感じた人たちがいたかも知れない。

噂などというのは、おもしろづくに下卑てゆくものだ、三昔近くもたっているが、今にしてお気の毒さまと思うばかり。

2002 10・23 15

 

 

* 時間があったので鶯谷で下車し、いつも通る博物館のわきでなく、両大師のほうの静閑な道をひっそり歩いて、上野駅公園口改札の外へ。北関東からわざわざ出てきた読者と会い、目の前の西洋美術館に入り、ウインスロップ・コレクションを観て貰った。わたしも二度目を、今回はゆっくりと観た。ギュスターヴ・モローに主にわたしは目が行き、その人はビアズリーの繊細で尖鋭な線画を喜んでいた。それも見るから佳いもので、少し重いロセッティーやバーン・ジョーンズのタブローより目にしみた。

レストランの「すいれん」が満席で人だかりしていたので、常設展もぜんぶ観てまわった。ひとまわりして展示場を出ると「すいれん」が空いていたので、おそい昼食にした。いつもならせいぜい私を含めて二三人が普通の静かな店内が、満員盛況。そのなかで、ラストオーダーまで話し合っていた。メールだけの初対面なので、さほどは深い話題にはならなかったが、話されることは一つ一つきちんと気が入っていて、気持ちよく聴けた。

芳賀徹夫妻もレストランに見えていて、しばらく話せた。

四時過ぎていたが、腹ごなしに公園をひとまわり歩いてまた上野駅にもどり、その人と別れて、まっすぐ帰ってきた。そういう日曜日であった。

2002 10・27 15

 

 

* 朝、新聞を読まなくなりました。読むと、胸が痛くなったり、気分がふさいでどうにもならなくなってしまうことが多い、いえ、多すぎるからでございます。

でも、今朝はちがいました。先生のお書きになったものが、載っているとうかがっていましたので。

日ごろ、折りに触れておっしゃっていることでございましたけれど、一つにまとまり、ていねいに説かれていますのを拝読しますと、すとんと胸におさまり、新たな発見もあり、まさに「再読」のおもむきでございました。

柳田国男の、「国民が選挙権を大切に用いる為には、「国語」の力を付けるしかない」というくだり、そして、それをもとに展開された先生のお考え、さらに、今の、ことば、本をかんがえますと、わたくし如きでも、慄然といたします。

「ご本」といい、「本屋さん」といって育ちました。本をまたいだり、雑に扱うと叱られて育ちました。

図書館には「古事類苑」「廣文庫」といったような資料を見にまいります。ときに、まだ読んだことのない――詩ですとか小説、エッセイなど――を借りてくることもございます。でも、気に入ったものは、けっきょく、本屋さんに注文することになるのが、常で。

市の図書館は、おっしゃるように「貧寒」たるものでございます。ベストセラーは複数購入とかで、同じ本が三冊も四冊もあるようで、一時の熱がさめると、それがうらぶれた感じで棚に並んでいます。 また、「安倍清明」についてのアニメや清明読本みたいなものはけっこうあるのに、陰陽道についての専門書は見あたりません。

さきごろ、「源平盛衰記」について知りたいことがあって、ネットをうろうろ探していまして、「日本文学学術的電子図書館」というのに逢いました。 ペンクラブの電子図書館で払われているようなたいへんなご苦労が、この「学術的電子図書館」にもあるのではないかと、おもいました。

電子図書館の、今、これからのことを、読み手もかんがえねばと、今朝の論を拝読して、あらためておもったことでございました。

2002 10・27 15

 

 

* (齋藤史の)辞世詩、読みました。ありがとうございます。なんと言っていいのか分かりません。

どうも私は詩や短歌を咀嚼するのに時間がかかるようで、学生時代に触れた短歌の読みも、当時はずいぶん浅かったなと思っているところです。きっと何年かしても同じことを思うでしょう。しかしこういう経験を、もう5年も前になるのですが、していたことが、現在の生活を豊かにしているなとつくづく感じます。

金色の獅子、覚えていらっしゃらないかもしれませんが、私もその「獅」は正解しています。空白に文字が浮かび上がってきました。かつて父はずいぶんと強かったのですが、いまや……。私がずうずうしくなったということだと認識していますが。

実は本業の原稿が切羽詰っていましてこのメールを書くのも逃避のひとつです。しかしこういうときこそ、何か自分のために書きたくなります。テスト前になると机の上を片付けたくなるようなものです。

 

* 節度の美しい、ムダのない行文。こころづよくなる。「生きている」と思う。

 

* 恒平さん 今日は、アメリカ、イギリスそしてスペイン政府の、イラク攻撃に反対するデモ行進に行ってきました。アフガニスタン攻撃に対するデモ、イスラエル、シャロンのパレスチナ制裁に対するデモ、これで、少なくとも3回目になります。参加者は決して多くないけれど、それでも、反対の声を上げる人間が、街のそこら辺の人々の中にもこれだけはいる、ということを知ることができるのは、小さな救いです。デモをして何になるのか、どれだけ意味があるのかわかりません。でもこれだけはっきり反対の意志があるのに、何もせず何の声も上げないでいるのは、どこか違う、何かしなければいけないと思う。いつも当たり前のようにデモに赴く夫は、帰り道そう言っていました。

今日、日本とスペインとの時差が、7時間から8時間になりました。一日一時間多かったのに、日が暮れるのが早くなり、なんだか損した気分でした。この夏時間冬時間の制度も2007年には見直すとか。

 

* 良い「夫」だなと嬉しくなる。「妻」の方も意識は深い人。ここにも「生きている」人たちがいる。

 

* ありがとうございました まっすぐ帰りました。少し休んで、やっと、腕のしびれから解放されたところです(相当凝っていたようです)。

絵も、お昼も、ごちそうしていただき、ありがとうございました。食事を(少し)残してしまってすみませんでした。うまく噛めなくて。矯正をはじめて三年以上経ち、普通に噛む感覚を忘れてしまっています。

くどいようですが、わたしはオーブリー・ビアズレーの作品を観られて嬉しかったです。それと、ギュスターヴ・モローは初見でしたが、とてもよかった。常設展示にありました肖像画も。18世紀頃の肖像画を見るのが好きなので。

かなふはよし、かなひたがるは悪しし、と思い、普段どおりにしていたつもりです。それにしても、わたしは話下手でした。

お忙しい中、お時間を割いていただきながら、とりとめのない出逢いになってしまったと、気にしています。わたしの方は、「頑張るぞ」という決意を新たにできました。

データベースのことは、ご遠慮なく。ただ、WINDOWSを触らなくなってしばらく経つので、どの程度アドバイスできるか不安です。

恋ができないのはなぜでしょう。ジュリー(沢田研二)や染五郎には、恋してる気分になれるのに。恋は、理屈でなく、難しいです。今日は、眠る前にこのことを考えます。それでは、おやすみなさい。

 

* 途中、文学への、創作への思いの部分は此処には書き取らなかった。それはこの人が自身で培い育てた方がいい。

2002 10・28 15

 

 

* 早速有り難うございました。

ランチとおしゃべり、誘われればあまり断りませんが、一人で過ごす時間の貴重さがいっそう感じられることが多い・・気疲れて帰ってくることも。ついでに野菜を買ってきました。最近は田舎ではさまざまなところに道の駅という野菜や果物を販売するところが設けられています。丹波黒豆のぷりぷりした枝豆や、和ニンジン、水菜、かぶ、柿などを買いました。

タブローとスケッチの喩えは的確にわたしにも理解出来ます。本当にそのとおりですね。スケッチの類は自分の心に引っかかった言葉を、書き留め、取り出すだけでも次から次へ・・まあ、そんなに簡単にはいきませんが、自然の流れになって出てきます。これは傲慢か? ただし、詩的言語が必ずしもその「自然」だけに頼って作られていくものではないと、わたし自身は考えてもいますので、それなりに立ち止まったりしています。

2002 10・28 15

 

 

* 秋の夜 さらさらと深まることもなく日々が過ぎていきます。家に帰り、一人でいる二、三時間をただただ無為に過ごしています。電子文藝館の招待席 秋の詩が多いようですが、今日は山村暮鳥の、「赤い林檎」

林檎をしみじみみてゐると

だんだん自分も林檎になる

をじっと見つめていました。

私の目の前にも赤いりんごがあり、ぼんやり見つめている私は、林檎になることも出来ず、ルーティンワークに疲れ切った平凡な一日を終えようとしています。

いつまでたっても確固とした自信をもつことも出来ず、焦燥感に追いたてられながら、結局何も深く見つめることも出来ず、軽薄にアバウトに日々を過ごす私自身を、別の私が嘲笑しているような気がします。秋は深まっていくのですが、私の毎日は上滑りにさらさらと流れています。

あしたも早く起きて、大学のエクステンションセンターで講義をしなければなりません。ともかく、何も飾らず、自分の言葉で話してこようと思います。話しべたの私に、90分 120分という講義が毎週1、2回あるのは結構プレッシャーでもあります。そろそろ休みます。早く休まないと・・・・。

少し沈んだ気持ちの秋の夜の独り言です。

 

* 真面目に生きている人が、かくも、多く、疲れている。

2002 10・29 15

 

 

* 蹄鉄屋の歌  小熊秀雄

 

泣くな、

驚ろくな、

わが馬よ。

私は蹄鉄屋。

私はお前の蹄(ひづめ)から

生々しい煙をたてる、

私の仕事は残酷だろうか。

若い馬よ、

少年よ、

私はお前の爪に

真赤にやけた鉄の靴をはかせよう。

そしてわたしは働き歌をうたいながら、

──辛棒しておくれ、

すぐその鉄は冷えて

お前の足のものになるだろう、

お前の爪の鎧になるだろう、

お前はもうどんな茨の上でも

石ころ路でも

どんどんと駈け廻れるだろうと──、

私はお前を慰めながら

トッテンカンと蹄鉄うち。

ああ、わが馬よ、

友達よ、

私の歌をよっく耳傾けてきいてくれ。

私の歌はぞんざいだろう、

私の歌は甘くないだろう、

お前の苦痛に答えるために、

私の歌は

苦しみの歌だ。

焼けた蹄鉄を

お前の生きた爪に

当てがった瞬間の煙のようにも、

私の歌は

灰色に立ちあがる歌だ。

強くなってくれよ、

私の友よ、

青年よ、

私の赤い焔(ほのお)を

君の四つ足は受取れ、

そして君は、けわしい岩山を

その強い足をもって砕いてのぼれ、

トッテンカンの蹄鉄うち、

うたれるもの、うつもの、

お前と私とは兄弟だ、

共に同じ現実の苦しみにある。

 

* 懐かしい詩を「ペン電子文藝館」で見つけました。

泣くな、

驚ろくな、

わが馬よ。

私は蹄鉄屋。

私はお前の蹄(ひづめ)から

生々しい煙をたてる、

私の仕事は残酷だろうか。

若い馬よ、

少年よ、

私はお前の爪に

真赤にやけた鉄の靴をはかせよう。

そしてわたしは働き歌をうたいながら

・・・・

学生時代2年間、コーラス部に入っていました。六大学合同音楽祭(そんな名前ではなかったと思うのですが、ともかく六大学のコーラス部が競演する音楽会でした。)の、合同合唱曲だったのです。作曲家の名前は忘れました。メロディは初めの部分を覚えています。これが大ホールに響き渡るはずでした。

でも、ともかく六つの大学のインスタント合同合唱、まるでエコーのように、輪唱のように、左右のテンポがすっかりずれてしまったのです。でも失敗とも思いませんでした。精一杯歌いました。この歌を。小熊秀雄という方の詩だったのですね。遠い昔の歌の一節を、青春時代のひとかけらを今日は思い出すことが出来ました。

ジャネット ベイカーの「オン ブラ マイフ」が、CDプレイヤーから聞こえています。ほっとするひとときです。

2002 10・29 15

 

 

* 「お題・私の私」と題してあるので、「闇に言い置」かれた別人の一文ながら、これは「頂戴する」としよう。公務員君の提示した議論の幅を、さらりと拡げて、あざやかなエッセイがここにある。ありがとう!!

 

* お題;私の私 2002.10.30

そのメーカーは私がまだこの部署に配属されて間もない頃から「担当」していた。要はここの記者会見には必ず出席、人事と新製品の情報もおさえ、お座敷があればその手配もする。そういう役割である。

この業界は誰もが知る歴史ある2大メーカーと気鋭の人気メーカー計3社が大きなシェアを持っており、それ以外は文字通り「それ以外」の扱いを、店頭でも誌面でも受けている。ところが最近、そのそれ以外から、このメーカーが頭ひとつ抜け出した。何よりなかにいる人たちに自信と元気が出てきて、はたで見ていて気持ちがいい。担当していて良かったなと思う。

今回の新製品もなかなか魅力的。担当者の前で私は言った。「自腹で買いたいと思った初めての御社の製品です」。

その発言を受けてかどうかは知らないが、後日そのメーカーの担当者が「個人的にお話があります」ときた。

仕事上での付き合いに個人的な感情を持ち込むのをご法度とは言わないけど、だってそしたら職場恋愛なんて成立しないからね、かなりの覚悟が必要だ。こう切り出される話はたいてい、利益供与がらみ。その「お話」ははたしてそうであった。私がほめたその新製品を「差し上げたい」というのだ。

そんなの受け取れませんという私をさえぎって「1年間のモニター、ただし返却義務なし」ということにしたいそうだ。敵も考えたようだ。

モニターなら、仕事の一環として私がこの話を受けることは不自然ではない。つまり公の私を縛るルールはなく、むしろ誌面作成の都合上は、受けたほうがベターという見方もある。言葉を額面どおり受け取って上司に相談すればきっと、「受けたらどう?」となっただろう、おそらく。

しかし私の心がそれを許さない。こういったものを貰う必然性がない。自分をジャーナリストとは思わないが、常に取材先に対しては読者の代表として接したい。

モニター。言わんとすることは理解できるけれど、やっぱり大枚はたいてそれを買って触って初めて読者の気持ちが分かるんだと思う。もっと個人レベルに落とすと、それほど親しくないひとから高価なものを貰いたくない。

結局断った。

公(social)な私を措いて、私(intimate)な私の判断を優先させた。それで、それなりに長い付き合いのメーカーと関係が悪くなるならそれでいい。私は所属する会社の社員であることよりも、独立した個人であることを優先させたい。 結論。 私の私は気持ちで判断し、公の私はルールで判断する。

 

* この颯爽とした「結論」へも、またべつの声が届くといいが。

2002 10・30 15

 

 

* 初雪 hatakさん  昨夜来みぞれが時折雪に変わりまして、札幌に冬がやって参りました。

ずいぶんとごぶさたをしておりました。御本を頂きお礼も申し上げぬまま何をしておりましたかといいますと、「モンテクリスト伯」を読みふけっておりました。「岩窟王」という字面と音が嫌いで手を付けずにいた本が、今は題名が変わっていたのですね。「闇に言い置く」で盛んに取り上げられまして、ふと読んでみたくなり、あとはすっかり引き込まれてしまいました。この年で夢中になって本を読めることを幸せに感じました。ダンテスの復讐劇は圧巻ですが、その他にも、ノワルティエ氏の「そうだ、そうだ、そうだ」の眼力に、人間の生きる力強さを感じ、現実の悲しさから目を背けるために仕事に没頭してゆくヴィルフォールなどには、我が身を省みて人間の弱さを痛感しました。ほんとうに人物が良く描けているものです。

夢中になって「モンテクリスト伯」を読みながら、聚光院へ利休居士の墓参に行ったりもしました。また先日は父の三十三回忌に帰省しまして、ついでに出光 (美術館)で、高野切と蘭亭序を堪能。見努世友が質量共に素晴らしかった・・・。ついでに一度食べてみたかった「きくかわ」のうなぎも堪能。こちらも質量共に素晴らしかった。

根津青山で濃茶も練り、サントリーホールでは『TEA』というオペラの世界初演を観てきました。

ずっと前「闇に言い置く」で「グリーンディスティニー」という香港映画が話題になりましたが、その音楽を担当していたタン・ドゥンの作曲指揮でした。茶経を求めに中国へ渡った日本の皇子が皇帝の娘と恋に落ち、茶経争奪の中で最愛の人を失う。日本へ戻った皇子は今日も禅寺で空の茶碗を持って空の茶を点て、「茶を育てることは難しい、茶を摘むことは難しい、だが茶を味わうことはさらに難しい」とつぶやいて空の茶を味わう、というストーリーです。水面を叩く音、こぼれる水の音、紙を破く音、紙の幟で風音を作ったり叩いたり、随所にタン・ドゥンのいう「有機音楽」がちりばめられていました。

春先から抱えていた論文を書き上げ、共著者に査読をお願いして手放したら、身も心も軽くなりました。

その勢いに加え、根津美術館の茶室で同席した、竹久夢二の絵から抜けだしてきたような女性に聞いた「かげろう」という銘の茶杓の話。父の法要。父方の家の祖先が住んでいたという甲賀の寺の話。そして深夜に帰宅し目が冴えてしまった時に良く聴く、NHK深夜放送の語り物。これらが渾然一体となってストーリーが出来ました。一度だけ訪れたことがある父方の故郷、甲賀の山里にこんな風に住んでみたいという気もします。

今日突然辞令が出て、昇格を告げられました。室長待遇、大学でいえば教授職にあたります。さて悦びを告げるとしたら誰がいるか考えまして、誰もいないことに、唖然。私の「公」はそこそこに充実しておりますが、「私」は何もないということをはっきりと気づかされました。hatakさんには顔をあわせられません。

どうぞお大切に。

 

* ファイルが一つ付いてきているのは「創作」らしく、これから開いてみる。清々しくも心豊かなこの人らしい日々をメールに読み、嬉しくなる。自足という二字の最も佳い意味を、朝一番に感じさせて貰った。

そして昇進。自然当然に滑り入るように来た慶事だろうと想像する。何一つとして故意も無理も不自然もなく、こういうのが、ほんとうにほんものの昇進である。ますます、おつとめ下さい。嬉しい。ふとノーベル賞の田中耕一さんを想い浮かべたりした。かくも親愛なるmaokatさん男性の顔を、わたしは一度も見たことがないのである。

2002 10・31 15

 

 

* 南も冷たい秋風です。  おひさしぶりです。もう十一月なんですね。例年より冷え込みが早いそうです。気温そのものは新潟も福岡もあまり差はありません。ただ、新潟は何かというと雨風に見舞われたもので、福岡では冷えても天気は荒れずにすんでいます。

先月の半ばから講義が再開しました。大学では楽しく過ごしています。思ったよりずっと自然に、今の生活にも九州の土地にも馴染めているようです。母は、家の中がもっと寂しくなるかなと思っていたけれど、そうでもなかったと笑っていました。受話器を通してでも、元気でいることを自然にわかってくれているようです。

「私の私」「知識人の言葉と責任」、じっくり読みました。自分には何ができるだろう…と思いました。「小説を書きたい」という憧れはあっても、「小説をとおして伝えたい」という動機が、たとえば以前の我が作品にはありません。憧れだけでは何も進まないとわかっています。秦さんの言葉の一つひとつが、「伝えたい」動機に溢れているのを感じました。

「筑摩現代文学体系」の97巻を、古本屋で見つけました。竹西寛子、高橋たか子、富岡多恵子、津島佑子をおさめています。ほとんどは短編ですが、どの作家のどの作品にも、それぞれに「小説をとおして伝えたい」動機が読み取れます。自分には何ができるだろうと問いかけながら、丁寧に読み進めていこうと思います。

九州大学の学生のうち、7割は九州の出身だと言われています。ちなみに北海道大学での道内出身者は4割程度とのことです。

自分のクラスは50人ほどで、そのうち福岡県の出身が30人を超えます。女性が男性より少し多いことも関係あるのでしょう。特に女性は自宅から通ってくる人がほとんどのようです。驚いたのは、九州以外の出身が4人しかいないこと。うち2人が山口、1人は沖縄です。さすがにこのクラスは極端ですが、「新潟出身」はとにかく珍しい例ではあります。

日常会話に標準語はありません。新潟では、父や母の世代でもまず標準語で、「新潟弁」は田舎でしか聞けないものです。或る友人が、以前東京へ行ったとき、道ゆく誰もが標準語で話しているのを聞いて、なんだか気味が悪くなったと言っていました。彼らにとっては、九州の言葉が自然なもののようです。

福岡の人は、世代も地元も関係なくまるまる福岡弁です。しかも小倉の人は北九州弁で、長崎の人も熊本の人もそれぞれに訛りを持っています。そして、彼らが一堂に会しても、言葉は統一されることがありません。

もちろん九州の訛りは全体に似ていますから、彼らはそれで会話が成り立っています。が、こちらにとっては大問題でした。会話が聞き取れなかったのです。

「けん」や「ばい」などの特徴的な語尾はご存知と思いますが、それ以上に彼らはすごく早口です。聞き損なうと、「**しとるけん、**やよってから、**せないかんばい?」と、語尾だけわかって、自分が何を答えたらいいかわからないという。わからないので、「うーん…」と考えるふりをしてみると、「まあ、どうでもええけど。それよりさ」とすぐに話が変わってしまいます。最初のうちはついていけませんでした。

馴れるまでは、自分でもどこか身構えていたようです。思ったように話すことができず、不安を覚えたこともありました。それが、九州だからこその今の仲間たちなんだと感じるようになりました。まだ知り合って半年ですが、素直に信頼できる人がいます。そんな出逢いがあってこそ、南での旅はかけがえのないものになると信じています。

少し長くなりました。でも、九州でのこと、ほとんどお話していなかったので。法学のこともいろいろ考えているのですが、これはもっともっと勉強を積んでから言葉にします。

今の文学集がひと段落したら、また「電子文藝館」のお世話になろうかと思います。「生活と意見」を読みながら、何を持ってこようか探しているところです。

この秋は、一段と競馬がおもしろくなってきました。九月の末には新潟の競馬場で大きなレースが行われて、実はこっそり見に行きました、試験後の休みを利用して。

レースがまた名手のすばらしい活躍で、最高の思い出になりました。ああ新潟に生まれてよかったと思いました。

体調には気をつけながら、とにかく元気にやっています。迪子さんともども、お身体をどうか大切に。

 

* 「小説を書きたい」という憧れはあっても、「小説をとおして伝えたい」という動機が、たとえば以前の我が作品にはありません。憧れだけでは何も進まないとわかっています。秦さんの言葉の一つひとつが、「伝えたい」動機に溢れているのを感じました。/ 「筑摩現代文学体系」の97巻を、古本屋で見つけました。竹西寛子、高橋たか子、富岡多恵子、津島佑子をおさめています。ほとんどは短編ですが、どの作家のどの作品にも、それぞれに「小説をとおして伝えたい」動機が読み取れます。自分には何ができるだろうと問いかけながら、丁寧に読み進めていこうと思います。

この辺にとても大事なことが籠もっている。この前にも画家の「モチーフ」とわたしたちの謂う「モチーフ」の違いに触れたが、「伝えたい意欲」とはモチーフに直結している。どうかして伝えたいと思いもしないで、ただおもしろ可笑しく書けばいいと言う小説が増えているとしたら、文学は衰弱していると言えよう。

この青年は、書いているように「新潟」の出身。法学部。さればぞ、問題の「拉致」でも、わたしたちを超えた「言葉」や「思い」があるのでは。それも聞いてみたかった。

2002 11・1 15

 

 

* もう一つの「闇に言い置く」を訪れました。そうそう、と頷けるものと、そうでもないものと。にしても、まあ、強い強い。気の弱いわたしは、恐る恐る読みました。

彼女はBARBEEBOYS というロックグループのファンだったのですね。わたしも大好きで、そこの元ボーカリストの出ていた芝居を観ました。暗い舞台の上の美声の持ち主は、彼女の言うとおり、昔と変わっていませんでした。

表出はさまざまですね。ネット上をうろうろとしていると、日ごと月ごとにテーマを決めて書かれたものによく行きあたります。皆、「せめて書いて表現」したいのだろうと想います。

第二次大戦後、ソビエトで捕虜になった日本兵たちが、連日過酷な労働を強いられる中、いつ帰れるとも知れぬ故郷を、家族を想い、歌を詠んでいた、という話をよく憶い出します。日本語は厳禁、見つかれば仕置きのあるのは当然で、まともな食事を与えられない中で罰を受ければどうなるかわからないにも関わらず、詠まずにいられなかった彼らの、命を賭した創作に、わたしは身の引き締まる思いがしました。

群馬は寒くなってきました。秦さんも風邪をひかぬよう、お気をつけくださいね。

 

* 九州の便りを読みながら、この当時少年の創作に関心を寄せてくれていたこの群馬の人を思っていた。そこへメールが来た。わたしのサイトを場に、いくつもの目に見えない交感がWEBを成してゆく。ひとりで心細く悩んでいる人の余りに多いこのごろ、わたしの「闇」に、ある温度が湧いてくるのなら、それもいいだろう。

2002 11・1 15

 

 

* 秦さん、こんにちは。寒くなってきましたが、お元気ですか? この週末は久々天気も穏やかで清々しいですね。

つい先日(10月31日)、ついに30代に突入してしまいました。これまでの誕生日とは、ちょっと違った感慨ですね。以前秦さんに、30までは準備期間で、それからが人生本番、というようなお話をして頂いた記憶があります。ある意味では、とうとうスタートラインに立った訳です。気の引き締まる思いが、少しします。

4日の振り替え休日、根津美術館でお茶会です。初めての炉の濃茶点前、稽古では曲がりなりにもなんとかという感じでした。当日は、お客をもてなす心持ちで点てられれば良いのですが、人前に出るとそんな余裕はなくなってしまうかも知れませんね。

「私の私」読ませて頂きました。

「公」と「私」との関係、今でも決して良好とはいえない状況でしょうね。どちらかが強い弱いの問題より、うまくかみ合っていない、機能していないという印象です。本来両輪として回転すべきものが、それぞれが逆に回転しようとしてるとさえ見えてしまいます。

無論ここでの「公」は、国家のみならず、民間企業なども含めてです。

国は、政府は、会社は、一人一人の生活を幸せにしようとしているか?

一人一人は、自分の属する公を、より充実しようと願っているか?

私には、両方ともNOであると思えます。

国や会社は、その集合体全体の存続、繁栄を指向し、一人一人の幸せは、あくまで結果に過ぎません。

一人一人にとっては、自分たちの生活が守れれば、国や会社の充実は、決定的な関心事ではないでしょう。

そんな風にすれ違っている存在であるにも関わらず、今の世の中でも、「公」なくしては「私」が社会を存続させることは難しく、「私」なくしての「公」は、そもそも存在意義がなく、また非常に危険でもあります。

そうであるならば、お互いの垣根をもっと低くできないものでしょうか。

「公」を構成する人々も、本来「公」そのものなどではなく、見る角度を変えれば、やはり「私」な訳ですし、「私」も、生活のあらゆる側面で「私」でいられるものでもなく、ある局面ある局面では、「公」としての振る舞いをしているのです。本来的に両者は、なんら別のものではないはずなのですから。

これからFluteの演奏会に出かけます。

それではまたメールいたします。どうぞお体お大事にして下さいね!

 

* 男性の国家公務員クン。温厚で穏当、このようであれれば、本当にいいのにと思う。わたしなど、年甲斐もなくジレて、気短かにものを言い過ぎているのだろう、いささかならず恥じ入るが。

むこうが二十歳のころに出逢った若い友人達が、おおかた三十歳というおりめへ駆け寄っている。

自分が二十歳になったとき、特別な思いはもてず、大学にいて道半ばの気持ちだった。三十の時は、とほうもなく心細く、しかももう希望も意欲も持って具体的に走り出していた。いつ、どこに、大事な踏切板があるのか見えていなかったが、毎日、孜々として何かへつっかかっていた。有り体に言えば、一日も欠かさず小説を書いていた。仲間無く、先達無く、文壇へ何一つ手がかりもなく、そもそも投稿する気さえなかった。

だが出版社勤めで編集と製作を担当していたから、印刷所とは毎日付き合っていた。9ポ活字にその頃会社は一本90銭支払っていた。刷代紙代その他の請求書を仔細に点検し、値切らぬまでもクレームをつけるところまで、わたしの役職であった。

いつでも出してあげられる注文仕事のあるわけでなく、仕事が欲しい欲しいと印刷所の外交さんはデスクに寄ってくる。よし、このわたしの原稿をあげるから、会社並みでやってよと、小説を束にして渡し、簡易な製本まで、みんなやってもらった。それがわたしの「私家版」の最初で、三十前に、なんと、医学雑誌や週刊誌と同じB5版、但し縦二段組み、9ポどころか小さい8ポで組んで、一頁に、原稿用紙六枚ほどをつめこんだ。活版私家版の第一冊『畜生塚・此の世』だった、巻頭には「歌集・少年」も、これはゆったりと組入れていた。ワケ分からずに谷崎潤一郎や志賀直哉に送りつけたのは、こんな型破りな本であった。

二冊目は、鴎外研究で知られた長谷川泉編集長の助言で、四六版にした。本らしくなった。巻頭に「蝶の皿」をおさめ、メインの作はのちに「慈子=あつこ」と題をかえた長編「齋王譜」であった。この時、もう谷崎潤一郎に死なれていた。

 

* もし一生の内で、「頑張る」などという好きになれない言葉をつかっていいのは、あの「三十歳」という一つの峠をはさんだ年頃ではないかと、わたしは肯定している。よく頑張りますねと、じつは今でも言われるけれど、わたしは今は頑張っていない。遊んでいるようなものである、あの昔に比べれば。

2002 11・2 15

 

 

* 羽衣 いらしたのですね。「いや疑ひは人間にあり、天に偽りなきものを」「あら恥かし、さらばとて」・・・。初めての能を、羽衣を、観たときの、体を、閃光が走り抜けて行ったような感動を忘れることはできません。

この連休は、二つほど仕事の将来にもかかわるシンポジウムがありました。迷って、結局参加しないことにしました。そろそろ人生の最後の季節に向かって準備を始めないと。

知人が末期がんに侵されています。年齢の近い女性で独身のまま社会的に貢献してきた人です。彼女の存在は個人的にも多くの人に影響を与え、その活躍は評価されてきました。でも、今ある大学病院の病床で残された小さな命の灯を、かすかに燃やしています。母の友人で「呆け」の始まった人がいるとききます。

走り続けてきました。限りない仕事の発展と可能性を求めて。モウンニングワーク=悲哀の仕事でもあった施設の仕事も順調に進み、地域での支持を集め始めています。業界の団体での今年での出版も終わり、これからの研修活動の有用な教科書になっていくことでしょう。

結局、この一年、有能な、支えてくれる片腕には恵まれませんでした。有能な人は、「海外の児童文学を翻訳する仕事」に自分の将来を絞りたいと会社の展開の業務からは離れていきました。

連休、一時帰国している娘と多く語る機会がありました。11月19日には一緒にイタリアに経ちます。こんなひととき、幸せを感じます。

シンポジウムを欠席した日は、DVDで、マリオ デル モナコやシミオナート プロッティなどの出演した昔のNHKイタリアオペラを家族そろって、みました。ときどき涙して。

背伸びして前へ 前へ進み、大きく 大きく手を広げようとしてきた仕事の方向や規模について、身の丈より少し大きい程度のものに見直すときがきたかと思っています。「この分野の仕事はしない」という決断や勇気は、決して後ろ向きなものでも敗北でもないと思いたいのです。絞り込んだ仕事を、より質高く、内容の深いものにしていきたい。限りある命ですから。人生最後の季節が目の前に来たと、身の引き締まる秋の気温や黄色く染まりだした庭の木々を見て、実感しています。

 

* ややハイな感想かも知れず、気分の表明として、あえて言っているとも読めるが、年がいって仕事を続けている者には、或る程度通有の、いわばブレーキをかけているというコトか。はためには満帆とみえる航海にも、航海者の胸の内は、いつもあやしく揺らいでいる。あたりまえである。そして一瞬の後に、仕事上の活気に火照ってくると、ばあッと何もかも忘れ、昨日までと変わりなくまた吶喊している。そういう繰り返し。それが凡人の冥利なのであろう。

2002 11・4 15

 

 

* むかしのものを読んでいると、形見の品というのでもなく、これを私と思ってなどと、ちょっとしたものを渡している。鏡とか念持仏とか。指輪とか。そういう習慣がこっちにはないので、そんなもんかなあと思っていた。

このまえ、「ペン電子文藝館」の岡本かの子「老妓抄」を校正して貰った人がある。初対面もしていない、ウェブ上の通行者で、アルバイトしたい、そのテストにとメールで言われて、校正を頼んでみた。機械は便利で、電送だけで用が足りる。

きっちりしたとても良い仕事であったが。ただ、希望の価格で今後も支払い続けてゆく力が日本ペンクラブになく、テストだけで終わらざるをえなかった。お礼に、銀座の三河屋で、わたしがご馳走した。その日が初対面で、その後は会っていない。その人は失職したばかりで、少し気の毒であった。今日、久しぶりにその人から今朝メールが届き、新しく再就職できましたと。ほっとした。

ところで元の話題だが、昼ご飯を一緒に食べた日、この人はわたしにプレゼントを持ってきてくれた。女性であり、若いとは分かるが、年齢をいう自信はない。貰ったのは、就寝時に眼におく「アイピロウ」で、よほど柔らかい砂が細長い袋にゆるやかに入っていて、自在に顔面に馴染む。そのうえ両眼をふさぐと何ともいえない静かな芳香を漂わせる。強い香りではない、あるかなきか、たしかにある、佳い香りである。それを、二つも贈られて、以来、それが欠かせない。読書を終えて疲れた目をとじ電灯を消すと、すぐ両眼に横たえる。そうしないと落ち着かない。

気に入ればいるほど、そのつど、ああこれを呉れたのはだれサンだと、名前を自然に思いだす。それでいてその人の風貌などはもう香りほどにかすかに成ってしまっている。だが毎晩必ずその人の名は、つい思い返す。

こういうことってあるんだ、もしもこれが愛する人、恋しい人からのもらいものだったりすれば、どんなにいいだろうなあと、その人には失礼ながら想ってしまう。人にものを贈るのに、それはそれなりに気を遣う。誤解されてもいけないだろう。日頃目を酷使しているに決まっているわたしに、眼に優しい香りの佳いモノとは、今にしてわたしは感心してしまう。有り難い。新しい職場に楽しく定着されると佳いなと思う。職と職場をみつけるのも難儀な時節だ。よかった。

この人は、パソコンのベテランであるらしい。そういう時代なんだなあと、それにも頷いている。

たしかに贈り物は難しい。めったにしないくせに思う。よく思う。

2002 11・5 15

 

 

* 澄み渡る空気  急に寒さが増して、先月終わりには青嵐だったもみじが、見事に紅葉し始めました。京都が無性に恋しくなる時期です。

ホームページに「小説の仕事をしていると、身のまわりの空気が澄み渡って弾んでくる。時を忘れる・・」と書いていらっしゃるのを読んで、本当に嬉しかったです。評論も日誌も・・文学的な営為であることは十分に弁えておりますが、やはり本領は小説にあって欲しいと、これはわたしならずとも願っていることでしょう。もっともこんなことを書くこと自体大いに礼を欠いたこと、僭越と思いながら、つい書いてしまいました、お赦し下さい。どうぞ澄み渡った、弾んだ気持ちを大切に、仕事が進まれますように。

そして一日一帖の割り合いで源氏を読まれるとか! これは「大計画」ですね! 最初はいいですけれど・・若菜のあたりになったら、わたしだったらもうギブアップでしょう。まあ、その時は数日で一帖で・・春までの、冬の楽しみですね。何よりも音読の耳に心地よい楽しさ。語るのは我か彼かというような「音読の物語」のもつ呪縛性さえいっそう強まるのではないでしょうか。バグワンは暫く少し脇に置かれるのでしょうか?

わたしの「作業」は捗っていません。文章を書くこと、それを再構成すること、「編集」することに関しては、原稿用紙に書くのと違った便利さを享受していますが、やはりデジタルでなくアナログ的な思考や作業に頼りたいと痛切に感じることがあります。コピーして全部を目の前で見る形で、俯瞰的に全体を見ながら再構成したいのですが・・

目下わたしの器械は問題続出です。人に頼んで他でコピーしてもらったりすればいいのですが、今の段階で殊に身近の人には読まれたくないのです・・家族にも友人にも。わたしは臆病で神経質で、表現者としてはおそらく失格でしょう。

一番大事なことは、何を伝えたいかということ・・その衝動、衝迫力はありますが。足踏みしながら、それでもあれこれ考えあぐねて時間が過ぎていきます。去年あたり、よく言われましたね、お気楽主婦って。わたしはそれを返上しようと努めているのかしら!?

先週は外出が多く、そして今週も金曜日、土曜日と姉たちと京都、奈良に行きます。美術展の梯子も疲れますが、気合を入れて? 楽しんできます。レンブラント、一遍聖絵、メトロポリタンなど、そして勿論もみじを楽しんで・・。奈良は数年ぶりに正倉院展を見て、あとは散策するでしょう。そして美味しいもの食べたいという欲張りも、でもこれはよほどでないと、もうなかなか驚きませんが・・日頃は質素ながらも楽しんでいるのですから。

風邪など引きませんよう、目、大事に大事になさいますよう、大切に。

 

* 源氏物語は、ずるずる読んでいても必ず挫折する。なにか、機械的に自身を迫めつけていないと途切れるおそれがある。それでわたしは、昔から、読み出す限りは「一日一帖(以上)」を自分に強いた。この人のメールにもあるように、「若菜」上も下もそれだけで中編小説ほど長く、此処を乗り切るのがきつい。しかし此処まで来ていると、物語世界にも浸染されていて、それに力づけられいる。頓挫したことは一度もない。

この人は、アバウトに読み違えているが、わたしは今度は、別の迫め方をしようとしている。一日一帖ではない、「音読で毎日」である。音読では一日一帖は無理である、声が続かない。永くかかってもイイから「音読」を楽しむのであり、二日め、桐壺更衣の死を読み終えている。声に出して読むのが昨今のはやりだそうだが、音読習慣をわたしのようにもう十数年毎日欠かしたことのない人は、少ない。始めても、みな、一時の気まぐれでやめているようだ。

むろんバグワンの音読は、やめない。幸い傍にいる妻が、バグワンをいやがらない、この昨今は進んで聴いているらしい。ときに感想も言うが、賛嘆の気持ちが汲み取れる。

言うまでもなく、源氏の音読は「美しい」体験である。心地よい音楽に遊ぶようである。同時に、こちらの理解や味読の度が如実にためされる。

むかし、娘の大学受験勉強を手伝って、古典は声に出してどれほど正しく読めるかがポイントだよと、本を積み上げ、片っ端から音読させ、聴いて間違いを正すという、それだけのおつき合いをしたことがある。娘は、おぼえているだろうか。声に出してまともに読めてしまうなら、かなりものは見えている。

 

* 雑誌「ミマン」に、もうずいぶん昔のことだが、電子メールに関して原稿を頼まれ、電子メールは、一種の「恋文効果」によって人を魅するであろうと書いた覚えがある。携帯電話の若いひとたちのあの夢中ぶりを、もし一言で尽くすなら、恋文、または擬似恋文に浮かれているのだと解説出来るだろう。われわれのような、フツーの大人でも、電子メールでは、意識無意識の別なく自然に「闇」を介して恋文的にものを書いているのに気付いている人は多いはずだ。わたしなど、電子メールと限らず、手紙は、たとえ事務的なものでも、多少は恋文のように書いた方が佳いと、勤め人の頃から実行してきた。べつの言葉でいえば「ハート」で書くということだろう。「手紙は恋文」とわたしは思うことにしている。わたしの恋文は日本列島の多くへ無数に飛んでいる。

上に戴いたメールでも、自然に恋文めいて覗き込む人はいるだろうが、これも少し軽薄な口をきけば、顔の合わない「メルトモ」メールの自然な流露なのである。ハートが感じられる。

 

* 電子文藝館の入稿・校正にまつわるエピソードに触れ、ああ、頑張ってばかりでなく、楽しんでもおられるのだなあ、とほっとして、嬉しくなりました。

昨夜は、二つ年上の作家氏とうまい酒を酌み交わしました。水上瀧太郎の「山の手の子」も読んでおられ、麻布のお屋敷で少年時代を過ごした話も出ました。ほんのちょっぴり私にも楽しみのおすそわけをいただきました。「公と私」のそれぞれの想いを、とくに近現代史の流れのなかで吐露しました。実生活の哲学というべき珠玉の短文語録を残したフランスの評論家・アランを、彼は引用し、楽天的に生きる喜びを、「公と私」にも敷衍していたような。秦さんのメール論議に参加できなくても、これも受け売り・あてがいぶちの楽しみの一つかとも。

原民喜「夏の花」選択・評価の慧眼、感じ入っております。今朝の新聞の金言に「速く書くことのできる人の欠点とは、簡潔に書けないということだ。」(英国の小説家・詩人、ウォルター・スコット)とありました。「私語の刻」の達意の短文、毎日楽しみにしております。おみちびきありがとうございます。

 

* これも或る意味の恋文を頂戴した気分である。思いの流露。それが手紙では自然な作法か。

2002 11・6 15

 

 

* 「蛇と公園」の中で 「四度の瀧」のことにも触れて居られましたので、今、また読み返しています。

水戸の夜のドライヴの場面を読み進みますと、私は決まって遠い昔の日のことを思い出します。「知ってたら 言(ゆ)ぅて」と言われた この言葉。45年経った今も脳裏から消えません。

永平寺大遠忌に参詣の後、白山スーパー林道で紅葉を楽しみ、白川郷で合掌造り集落、ここでは民家にも入って散策して来ました。人が多くて、写真で見る風情とは随分違いました。

岐阜の休憩場所で、小器に入った”うるか”を買って帰り熱燗で一献飲りました。初めて食しましたが、歯が軋むような、舌が痺れるような不思議な食感で、家族らにも奨めてみましたが好んでは食べてくれません。そんな肴で一合の酒で赤くなります。

百万遍知恩寺での 古本まつり、若い友人の車で出かけてきました。秋声全集の端本など と、北沢恒彦さんの「方法としての現場」を手に入れました。「家の別れ」は、以前、読みましたがこの著書は知りませんでした。

一月に、東京に行く予定です。お目にかかれますと本当にうれしいです。

急に寒くなりました。どうぞ お大切になさってください。

 

* このメールも、胸を静かにふるわせる。ご本人にしか決して分からない、むろん、わたしと出逢うよりもはるか以前の思い出に、そっと触れておられる。そういう思いを触発するように、わたしの作品=小説がはたらいたのなら作者冥利で、友人としても嬉しい。「四度の瀧」は、かくも京都=上方の男であるわたしが、珍しく茨城の袋田の瀧を書いた妖しくも時空を超えた恋の物語。その物語へ利用させて貰ったのが、たまたま贈られてきたばかりの未知の歌人篠塚純子さんの第一歌集「線描の魚」であった。

2002 11・6 15

 

 

* 日本酒を贈ります。  秦さん。ある蔵元は秋に購入希望者からお金を集めて米を買い、それでお酒を造ります。この仕組み、「酒蔵トラスト」と呼ばれています。出資者には山廃仕込純米大吟醸が、春から合計三升、無濾過生原酒、原酒、熟成原酒の順に宅配便で送られます。

近いひとからこの話を聞き資料を取り寄せましたところ、商売上手なのか数え違いなのか、申し込み用紙が一枚多く入っていました。

勝手ながら今日、私の自宅のほか、秦さんのところへも送るように申し込みました。来春、富山県西砺波郡から荷物が届きます。

飲みすぎをすすめるようでちょっと心が痛みますが、ぜひ楽しんでください。おいしいはずです。

 

* おおきに。佳い香りがもう届いたような気がする。「文学概論」満員の階段大教室の、向かって左端、前から七八つ上の席から、いつも教壇へつよい視線を送ってきた白い顔を想い出す。何年前のことだか、思い出せないほどになったが。

ありがとう。

年はわたしの半分に満たないが、あの頃のみなは、もう若いとばかり言っていられない場所へ出て仕事をしている。気持ちの上できつい坂へかかっている。たぶんお酒の味はわたしの方が厚かましくも堪能できるかもしれない。だが、酒など一滴も口にしなかった、したくてもそんな余裕の無かったのが我が三十前後であった。その頃が、だが懐かしい。その頃ではないか、わたしが「慈子」の初稿に没頭していたのは。

来る春が、楽しみである。

やはり元の学生クンに、栓をあけるのは来年のお正月にしてください、ぼくらも呑みに行きますからとシチリアのワインも預かっている。もう幾つ寝るのかな。

2002 11・6 15

 

 

* 絶対にいけません。いやだな とか、おっくうだな と思うのは、天が教えてくれているのだと思います。欠かせぬ事も、欠かせましょう。

しとのこと云えませんが、私は冬用の「ニトロ」を新しいのに変えて財布に入れました。

何べんでも言います。寒さ、自転車、無理、はだめです! 絶対にいけません!

どうか、どうか、お大事にしてください。

 

* しない積もりでしているのが、無理不自然。楽しめる無理や不自然のあるのも知っているが、たかが小さな用事のための無理は、叱られて当たり前だ。恐縮。

2002 11・7 15

 

 

* スペインに勉強に行っていた卒業生が、一年余を経て帰国したと昨深夜に連絡があった。落ち着いたら私とも逢いたいと。どんな土産話があるだろう。

五島美術館の「名碗展」招待券を卒業生の二人からそれぞれに希望してきた。男性と女性と。

茶道具の中で、何といっても最も興味深いのは茶碗である。茶碗ほど微妙に「空間」を餌食に生きている道具は少ない。茶室という時空を、源点になって、支配してくる。展覧会の陳列棚では、嘆賞するには限界ありといえばその通り。五島でも出光でもサントリーでも、茶碗となるとガラスケースに陳列している。致し方ないが、茶碗の魅力は掌に抱いて唇をつけた時、最高に生きる。ま、ないものねだりしても仕方がない。

男の卒業生は、「先週末、お茶会に参加してきました。そんなに緊張するでもなく点前する事ができましたが、大盛況で、朝から夕方まで休む間なく、けっこうハードでした。良くもこれだけ人が集まるものだと感心してしまいました」と。たしか根津美術館の茶室をつかったようで、あそこの茶会は、いつも大寄せで賑わっている。

女の卒業生はいま心に傷を負うている。ひょっとして偶然に、国宝の青磁「馬蝗絆」や「満月」、木の葉天目や青井戸や、楽初代長次郎の「無一物」「大黒」などを、二人が偶然にならんで熱心にのぞきこむかも知れない。それぞれの思いに、無比の名椀がどう呼びかけるか、楽しみだ。明日が公開の初日である。

2002 11・8 15

 

 

* 刊行した「湖の本」新刊講演集『私の私・知識人の言葉と責任他』への、ドカーンと響くような言説が、メールで届いた。ちなみにこの講演集の内容は、「私の私」「マスコミと文学」「蛇と公園」「心は、頼れるか」「知識人の言葉と責任」の五つを収めている。

東工大の教室で、「アイサツ」という形式でわたしと「対話」していたのを記憶している諸君は、銘々の生活の場で、少し、この新たな起稿者に付き合って欲しい。ものすごいまで忙しくしている中で、こう腰を据えてアイサツを返してくれた人に、感謝します。

 

* さきに、この「闇に言い置く 私語の刻」に、「私の私」を題材にした感想・意見が書かれていました。

それに関連して、返答ないし感想を、私も、講演集『私の私・知識人の言葉と責任他』を題材にし、書きたいと思います。

「湖の本エッセイ25」は講演録集ということもあってか、秦先生の編集能力が遺憾なく発揮されている一冊となっている、と感じました。

これは私が自身の「表現活動」において、表現としての「編集」を発見したことによるのかもしれません。例えば制度に対する講演録を編むということ自体も、編集であるばかりでなく、五つの講演を集めながら内の二つをタイトルに用い、また、「私の私」のみに質疑応答が収めてあることにおいても、表現の場に触れた明白な編集意思を感じます。新しい小説やエッセイを創るのと同等の創造行為に類するものだと確信しています。「編集」に関するこの上の考えはまたの機会に譲るとして、少なくもこの「編集を読み」落とすと、この本に埋め込まれた大きな流れを読み落とすような気がします。

 

「私の私」は「3部+質疑応答」という構成をとっています。これは重要なことだと思います。「手」があり、「私」があり、「外」が話の展開をします。そして「黒い影」の話が、ポンッと投出されたまま終わります。そのあとへ、この講演録でのみ聴衆(高校生)との質疑応答が載せらたことによって、より具体的に秦先生の思いが語られます。

まず、第一印象から述べます。

さきの「投稿」での「私の私」に関する議論で、私は、あの「仮面」のことを思い出しました。

大学の頃、秦先生の教室で、「仮面」について問われ、それへのアイサツに、「私は仮面をかぶっていない」と書きました。あれから十年経て、「仮面」に対する自分の考えは変わりました。

私は、仮面をかぶっています。仮面をかぶらない私は存在しない、という考えになりました。つまり、「仮面をかぶっている私」という考え方が暗に前提している「仮面をかぶってない素のままの私」なんてものは、いないのではないかと今では考えているのです。

これは、「仮面をかぶっていない私」と謂うのと、同じようでいて、まったく違うところに自分が来たな、という感想を持ちます。「仮面をかぶってない素のままの私」が全ての状況に対処していく・いけるという考えと、それぞれの環境・状況に対して、それぞれの私=「仮面をかぶっている私」が対処していくというアプローチでは、180度違からです。この考え方をすると、現実に起こる事象には統一性があるわけではないので、環境(時間・空間)の差異によって、秦先生の言葉に借りて言えば、”位置取り””立ち位置”により対処が変わり、一個の私の中に矛盾が生じます。しかしこれは避けられない現実、もしくは受け入れるべき現実、なのではないでしょうか。

(離れた議論になるので突っ込みませんが、この「現実」と「受け入れ方」によって、多様性が生まれてくると思います。)

このような「仮面」に対する考え方から、「私」とは、矛盾を常にはらんでいる「曖昧な全体」を形成しているものなのではないか、そういう「おぼろげな全体が一個人なのではないか」と感じ始めています。

例えば関係を距離と大小によって切り分けたとします。

「対他の関係の大小」によって曖昧な「私」の形は、関係の強くある方向の一部は大きく成長し、逆に関係の小さなところは収縮していきます。そのような、他の世界との距離の取り方で、出っ張りや引っ込みが作られます。そのような関係の中で生ずる「私」の中の矛盾は、矛盾する要素同士で距離を取ろうとするでしょう。それによって対他・対自関係の両面によって、異常なほど不思議な全体が作られるでしょう。

イメージで謂うと「こんぺいとう」のような突起のある不定形な全体というか、アメーバのように全体の形を変えるものです。その変形した形を「仮面」と感じることがあるのだと思います。

こういった考えを下敷きに、前提に、「私の私」を考えてみると、(前のメールで説かれていたような)「私」の延長上に「公、つまり私の私」が存在するという考え方は、適当でない、のではないかと感じます。

逆に、最奥にある「私」、譬えて謂うなら、玉ねぎの皮をむききった中に残る芯としての私=「仮面をかぶってない素のままの私」、と「公」を対(つい)にして考えることも可能で妥当ではありましょうが、その対概念は、「私」が持っている「関係」の中の一つであると考えたい。

先述したように、集団の中の私は、集団という錯綜する「関係」の中に置かれます。当然その中での自分の位置取り、立ち位置は重要なものとなります。これは「単体」として在る時の私にはまったくありえない状況です。これを考えただけでも、単純に、私の集団化による公は、私の欲望の先にあるとはいえないでしょう。

 

つまり、他の何者も措いて、「私だけ」があるという考え方に対し一番違和感を感じるのは、「私」に対する絶対的な信頼です。つまり、対概念として公と私を考えるときに、「そんなことはないんだ、私だけがあるんだ」というのは、私を単純化しすぎていて、問題を曖昧にしているのではないかと感じるのです。

重要だと感じるのは、先ほど書いたような、アメーバのように伸びちじみする「私」が、どのようにして対他(対多)関係を作っていき、単体のアメーバとして「私」を束ねていけるのか、ということだと感じます。

絶対的な「私」に信頼を置くより、相対的に変化している「私」に関心を集中しておいくことが、より正確な「関係」を造ることができると思うし、正確な「私」像を把握できるのではないでしょうか。そのとき初めて、豊かな「私」が作り出されていくのではないか、と考えます。

次に「外」に関して考えてみましょう。

「私」に関して先のように考えるこの私は、どんな人間関係においても線を引くことは好きではありません。アメーバのように変化する境界という意味でのみ、「線」はあるべきだと考えるからです。

しかし、一方で、私も、好むと好まざるとにかかわらず「線」を引き・また引かれてしまう場合が、多々あります。線を引くとは、すなわち、こちらとあちらを作り、内と外を形成することです。これは単体としての私だけを考えていたのでは理解できない事柄でしょう。さらには私(内部を持っている実体としての「私」を仮定すれば、特に)といった瞬間に「わたし」と「あなた」を切り分ける線を引いていることになっているのかもしれません。とすれば、好むと好まざるとにかかわらず、自分が直接的に関与するかはともかく、内と外とに線を引いているのです、現実に。そういうことが一つの「手」として存在する社会的ともいえる「つながり」の中に、「私たち」はいます。

ここでそれは、私の「手」ではない、私は「まっ黒い影」にはならないと言っただけでは済まされません。

つまり、私はいつのまにか、どちらかに「据えられている」のです。このどうしようもない事実に「意識」を据えなければならないのではないでしょうか。講演「知識人の言葉と責任」て使われている「知識階級」なるものを形成する(してしまう)人々は、特によく深く意識せねばなりません。知識階級の歩んだ道のりによって、いろいろな形で不可効力的に「線」は引かれてしまっている、引いてしまっている可能性が高いからです。

「線」は、様々な方法で引かれてしまいます。地形というわかりやすい方法もあれば、言葉という見えない境界によるものもあります。ですから、空間(物的空間・言語空間など)が作り出す世界、すなわち観念が形成する世界には、「世界の境界」には充分に十分な、過度なほどの注意が必要です。

最後に「黒い影」に関して。

「私の私」において、「手」「私」「外」という流れと、ある意味独立した形で、黒い「影」が存在していると思います。それは「手」「私」「外」という考えから生み出される得体の知れない恐怖として描かれている気がしてなりません。内と外とを作りだしてしまう「線を引く手」があり、それを引く力を「黒い影」が象徴している、と感じます。逆からいえば、手によって「私」が不用意に「線」を引き、不用意に「内と外」を作り出し、「外」の世界の暴走を見て見ぬフリをすることが、或る恐ろしい「黒い影」を育てることだと、語っているようです。

ここで象徴的だと感じるのは、「黒い影」が実体を持たない「影」として表現されてあることです。実体を持たないがゆえに「得体の知れない力」となって常に「私」に覆い被さってくるように感じます。その「影」はしかし、存在します。内と外という切り分けを飛び越えて、全ての「私=人=市民」の上に得体の知れぬ「力」を圧のように行使します。しかも、それは決して、いいえ容易には、誰にも掴み取れないモノのように。少しややこしく謂いますが、つまりこの「黒い影」は、内外を引き裂く線引きの結果に生まれてきてしまう、線を飛び越えてしまう見知らぬ「第三の存在(領域)」といえるのではないでしょうか。

外の世界の暴走による「得体の知れない第三の存在」を、どうすれば、作り出さずにいることができるのでしょうか。現実を見回してみると、実はこのような「黒い影」は、常に私たちの周りを徘徊しているのではないか、と恐怖感を覚えます。すでに、そういう切迫した状態におり、さらに加速させる社会へ走りだしているような気がしてなりません。

とても怖いです、この影が。

引かれてしまう「線、内・外」をどのように「無化」できるのか、そういう方法、見方を開発していく努力をしていかなければならないと感じています。その解の一つが、「仮面」との関係において書いたような、線を引かずに自分自身を常に変形させていくことなのではないか、と思います。それが「私の私」を、より認識し、線引きを無化する=私を大きくしていく方法のような気がするのです。

以上、思いだけが先行し、まとまりのない文章となっていかと思いますが、私の思いをつづりました。さらなる意見をいただければ光栄です。

 

* わたしが、東工大で、学生諸君に三万五千枚ものアイサツを書きに書かせたのは、彼等の内側から自分の「言葉と思い」とを自然に引っ張り出すためであったが、その趣旨は、良く生きた。さもなければ、だれがそんな厖大な手記を書き続けるものか。

上野千鶴子さんの本によると、東大の学生達のレポートを読んでいると、自分が講義した内容の巧みな「要約」ばっかりで、自分の言葉で自分の考えを書いてくる者の皆無に近いのに、驚いただけでなく怒り心頭に発して、何時間か、教壇から学生達に「吠えた」と書かれている。上野さんとは立場も違ったが、わたしが、「文学概論」といった講義をするひまに、学生諸君に書かせ書かせまた書かせ、さらに詩歌の虫食いを埋めさせ、さらに文学の機微を彼等のお得意な「論証」という誘惑で鑑賞させたのは、学生達が、引き出しかた次第では、蜘蛛が糸を吐くように自分の「思いと言葉」を見つけだすに違いないと確信していたからである。要は、引き出し方なのである。大学の先生方は、多くこういう方角から学生を誘発することに手薄、気乗り薄だと、わたしは感じていた。先生方から学生への信頼も薄かった、概して。

どっちみち、高校を出てきて、成人したかしないかの学部の学生たちである、が、何の、彼等はすでにして「研究者に準じた」自負と、知性をもっていた。それが言葉で綴られてたとえ幼稚で未熟であったとて、それ自体は問題でない。要領のいいそらぞらしいオウム返しでしか者が言えない書けないより、はるかにイイのである。

 

* 今日のこの「十年後」の元学生君が、社会人としての現場から投げ返してきた言葉が、たとえどうであろうとも、こういうふうに考えを纏められるのは、それはもう、すばらしいことである。会社に同居している大勢をみてごらんなさい、仕事から離れての言葉を、こう一心に紡げるなんて人は、なかなかいるものでない。田中耕一さんのようにノーベル賞を取るかどうかは別としても、こういう人達が、自分の言葉と思いと、願わくは今ひとつ行動とで、世の中を支えていってくれる。そう、頼りにしたい。

わたしもまた、この提言に応じてアイサツが返せるように考えてみたい。

 

* 人のサイトから引くのは気もひけるが、こういう「言葉」を紡いでいる人もいる、闇の奥へ。そこからひとすくい掌に受けてきたこういう文章も、紹介したい。

 

* (前略)少し迷ったがダウンジャケットを着た。部屋を出て階段を下り駐車場を横切る。思っていたよりも風が冷たく、空は相変わらず暗い。角を一つ曲がり、二つ曲がったところで白い何かがふわふわと降りてくる。

雪だ。足が止まる。11月上旬東京都心。通り過ぎる見知らぬ女性が「鳩の糞かと思った」とつぶやく。雪は1分ほどで止んだ。雲は高速で流され、ジャケットの胸元を結ばれた水滴が滑り降りてゆく。

もしかして、と私は思う。「生」とは、こういうことではないか。それは静かに天から降りてきて、刹那確かに存在し、そして跡形もなく消える。立ち会ったひとの記憶には残るが、それも新しい記憶によって葬られる。その場にいなかったひとにとっては聞き流すだけの物語。

すべての用事を済ませ帰路に着く頃にはすでに晴れた晩秋の夕方。東の空に拭き忘れたような雲が残っていた。帰宅しテレビで見た気象情報では、初雪は北関東で観測されただけだった。

2002 11・10 15

 

 

* お察しの通り、日々忙しくしております。

妻も、土日も無く、働いております。

私も妻も何をするわけでもなく、普通に仕事をしているだけ、のハズですが。

二人とも、子供を欲しいと思っていますが、それもままなりませんね。

新たに投稿の人の「私・公」に関する文章を読んで、自分の思考力、発想力等々、格段に落ちている事に気が付かされました。当たり前です。正直に話すと、この1年間でまともに読んだ本の数は、5本の指で充分数えられます。

じっくり、ゆっくり新投稿の「メッセージ」を汲み取ろうと思います。

今日も、未だ仕事です。また、ご連絡します。

 

* この卒業生のメールが、とても嬉しかった。こう「気が付かされ」それがごく自然に率直に表白されていて、まったくイヤミがない。このとおりなのだろう、このとおりにものの言える、柔軟で温かいこの人の気持ちに、わたしは信頼を寄せてきた。気稟の清質最も尊ぶべしと。

2002 11・12 15

 

 

* 秦先生、大変ごぶさたしております。いつぞやは、いつもご連絡もろくにしないのに、突然お電話をしまして、ご心配をおかけしました。父も母も年をとり、若干糖尿病の気が・・・といったことはありますが、楽しく暮らしております。

先生にお電話をしたころは、家族にもいろいろ心配をかけ、母は寿命が縮まったと申しておりました。当時単身赴任をしていた父も私の起こすさわぎのために、急にこちらに戻ってくることもなんどかありました。相変わらず、人には甘えて迷惑ばかりかけて、自分は人のために何もしてあげない、エゴ娘のままです。

今はおかげさまで、私の方は、幸せです。いつだったか、建日子さんのおしばいを、学生のころゼミが一緒だった男の子をふたりつれて見に行ったときに、先生にお会いしました。そのときに一緒だったうちの一人の子と、最近お仲良くしています。とてもいい子です。

先生も奥様もお元気でいらっしゃいますか。ご無理をなさらず、日々お過ごしください。

 

* どうしているかな、幸せに佳い勤務と日常を楽しんでいるだろうかと想っていた、早い時期の卒業生から、メールが届いた。元気そうで、ほっとしている。この学年の人とは、「総合B」という講座で、お互いにとても親しんだ。この人が、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を放送劇にしたテープは、いまでも大切にして、時に聴いている。早くに外資系の大手企業に勤めて、もうベテランに近いだろう。授業のアト何人かで五島美術館や山種美術館に行ったりしたが、この人は、館のタイムアウトになっても、気に入った作品の前からなかなか動かなかった。感極まると、よく泣いた。「とてもいい子です」と来たナ。

 

* この時期、昼の東福寺を訪ねたいと、毎年のように思い、そのまま冬を迎えます。

一度だけ訪れたのが、紅葉の盛りの、日暮れ間際。通天橋は人混みを通過しただけ。とっぷり暮れたのち、あちこちを。人気の失せた境内。見上げる建物の影。中から漏れる光。前を行く雲水さんの足音、衣のシルエット。夕闇のなか歩いた東福寺は、いくつものティンパニが響き渡るようでした。

今は、清水寺など、たくさんの建物がライトアップされ、釣瓶落ちの日と駆け競べして訪ねる必要もないようです。

 

* 京の秋か。清閑寺やあの御陵の紅葉はもう燃えて燃えているだろうか。学生の頃、十一月二十六日に妻と鞍馬へ行ったのを覚えている。酔いそうに全山が紅かった。京都へ行きたい。

2002 11・12 15

 

 

* 先生からじきじきにメールをいただき、仕事どころでなくなってしまいました。(笑)お持ち帰りの仕事は、この時間も放置されたままです。なんでもいいから、何かお話したくなってきました。

久しぶりに、ホームページ「私語の刻」を見ました。今でもすぐ怒り、よく泣きます。

あのころの授業で先生の話されていた、当時はよくわからなかったけれども、今はしみじみそう思う言葉は、「神様は不平等だ」というものです。不平等とは、幸、不幸を人と比較しているのではなく、ただ、どの時代に、どの家族のもとに、どういう素質を持って生まれてくるかといったことは、だれもが本人では如何ともしがたく、一生その縛りからは解き放たれない、という意味で、そう思います。

先生の若きお友達(!)の何人かが今年30歳を迎えているようですが、私もその一人です。先生は「よく頑張りますね」と、今でも人にいわれるとおっしゃっています。私も昔から、頑張りやさんと人にいわれますが、無自覚でしたので、頑張ってはいませんでした。自分の人生でほんとによく「頑張った」と肯定できるのは、就職してのここ数年です。

30歳前後には、先生も「頑張って」いらっしゃったということですが、私ももうしばらくは頑張ることになりそうです。なんとなく、今は頑張らないと落ち着かないのです。「頑張る」は好きになれない言葉とおっしゃるのも、なんとなくわかるつもりなのですが、わかっていないでしょうか。自分の運命を受け入れて、生をまっとうしたい、と思っています。

しかし、自分でも何を頑張っているのか、よくわかりません(笑)、というと荒っぽいのですが、頑張るテーマはそのときどきで変化しています。

文化祭で放送した「銀河鉄道の夜」のテープを、ときどきいまも聴いてくださっていると知り、とてもうれしいです。幸せです。このようなものの世界は、いつも心の片隅に居場所はあるのですが、創作意欲というものがありません。当時も、作りたいから作ったというよりは、好きで調べたことがきっかけで作ることになった、という感じでした。だから、かえって力がはいってない自然なものが出来上がったのかもしれません。

最近は、ひたすら好きな音楽を通勤時に聞きつづけて、うるおいを保っています。

占いの勉強は依然続けています。Systems Engineerのお仕事は、つらいこともあるし、それに割いている時間が異常に長いので、手放しで好きというには抵抗がありますが、かなり好きなんだと思います。コンピューターが社会のインフラになってきて、それらが動く仕組みを垣間見られるというのが、楽しいです。

でも今一番楽しいのは、お付き合いしている人とすごす時間です。今までこんなに週末が待ち遠しかったことはありませんでした。好きだけど、タイミングが悪いとか、自分にゆとりがないとか、そういう問題がないのがよいのだと思います。これは年の功です。(30歳で年の功などというな、と怒られそうですが)。そろそろ落ち着きたいと思っているんですけど・・・・どうなることやら。

先生がいつかおっしゃっていた、「大切な相手に、すべてをぶつけてはいけない」という言葉、つくづくそう思いますが、難しいです。(泣)。ほんとに落ち着けるのだろうか。。

とりいそぎ、第二弾でした。

 

* いろんなことを云ってあなたを混乱させていたかも知れないね、あの頃は。でも、あなたはあなたの佳い道を本とうに気持ちよく歩んできたように想像しています。娘を、世の中へ嫁がせた、ような心地できました。娘などというのはちとサビシイかな、いかにジイさんであるにしても。呵々。

幸せに、気持ちよく落ち着けるといいですね。神様のことは云わないけれど、「大切な人に、すべてをぶっつけてはいけない」というのは、これからも、あなたには妥当した言葉かなと。そして健康。心も、からだも。いい栄養をとってください、ハートのために。 湖

 

* 人に合わせ、その時、その場に応じたことを云うから、わたしの話したという言葉が、自分自身にいま、へえっと新鮮に戻ってくる。朧に、その時、その場のことも思い出されてくる。「神は不平等」「大切な人に、すべてをぶつけてはいけない」とは、普通は逆にいうところだろうが。この人は数学を専攻していた。「数」が何を含蓄しているかを学んでいた。「数」の不思議、根元の不確かさ、そこから立ち上がる規則性について思索の可能な場にいた。この人が「占い」に関心をもっていたのも、それと関係している。数奇の運命と云うではないか。幸田露伴の名作「運命」の初稿での表題は、同意義の「数」であった。さ、どう落ち着くか。幸せに落ち着いて欲しい。

2002 11・13 15

 

 

* 数年前まで、冬になると、祖母のあつらえの半纏を着たきり雀でした。身体機能の低下から、祖母が縫うことを諦めて、もう何年になるかしら。

市販の化繊綿のものは軽くて落ち着かず、綿のトレーナーは重いうえに思うほど暖かくなく、流行りのフリースは静電気が起きて、なんとなく落ち着かず…思い付きに、古い羽織を普段着の上から羽織ってみたら、暖かくて、軽くて、肌触りも、気分もよくて。この冬、雀はこの格好で、伊賀におります。

昨日は黄砂だったそうですが、今日は、強く乾燥した北風が吹き荒れています。

2002 11・13 15

 

 

* 七階のわが窓から富士山が眺められる季節になりました。今の季節は、富士山の右肩にお日さまが吸われるように落ちてゆきます。そして、寒茜の空にくっきり浮かぶ濃むらさきのシルエット。

ごぶさたいたしました。

闇に言い置かれるおことば、湖のお部屋を訪れた方々の声。しんと胸の底にとどいたり、わが頭には納まりきれなかったり、ご返事を差し上げたくなったり。

どなたかもおしゃっていましたが、どうぞ、ご無理をなされませぬように。

2002 11・14 15

 

 

* 秋のたより  ヨーロッパの秋には、なぜか、たまらない淋しさがある。美しい黄葉の写真は幾度も見てきたけれど、胸を締めつけられるばかりで、しみじみ見ていたいと思ったことはなかった。

先週末、ピレネー山脈に行こうと思ったのは、この秋の帰省で訪れた尾瀬が忘れられなかったから。燃える草紅葉に、色彩とりどりの林。秋は「寂しい」というのに、「華やか」という言葉がすぐ浮かんだ。

私たちは、あの日本の秋をスペインに見つけたくて、山に向かった。

朝十時、ピレネーの谷間にはもう午後の光が射していた。これだわ。胸をひりひりさせたのは。木々は黄金色でも、その放つ光があまりにも褪せている。この黄土色を含んだ黄葉がもう少しでも赤味を帯びていたら、ヨーロッパの秋も、また別の風情を見せるのかもしれない。  ヨーロッパの秋には廃頽の匂いが漂う。

海のことも話したい。

スペインに来るまで、「海」は私にとって哀愁を帯びた暗いものだった。「海は広いな大きいな、、、」歌いながら、どこか悲しかった。「浜辺の歌」のように、思い出し懐かしむ場所だった。海辺に青年がひとり背を向けていれば、青春のほろ苦さを感じた。

スペインの海、地中海には、それが感じられない。暗さがない。海はひたすらあおいエメラルドグリーンで、人影のない冬でも、あっけらかんと陽に照らされている。こういう海が在るの、と驚き、呆れもした。

「彼は、海辺に腰をかけていた。」

こんな文も、その人の背負ってきた背景によって、全く違うものになってしまうことに、驚いてしまう。

 

* 行文。文を行(や)る。気を入れすぎるとゴツゴツする。メールを送ってきた人は、上の文章をみて送った原文とは微妙にちがっているのを知るだろう。最小限推敲するだけで、きばったものが、すこしだけでも和らぐ。語尾の「のだ」という強調や漢語系は意識して避けた方がいい。「のだ」は議論ならともかくエッセイには無用にちかく、漢語系は効果的に正しい使用はむずかしいもの。

2002 11・15 15

 

 

* 推敲ありがとうございます。「私語」のお返事、まさに「打てば響く」大変ありがたいものでした。というのが、実は、今回私は意識して「~のだ。」調で書いたからです。

小学校の頃から、私は作文でもなんでも「~だ。」で書く傾向にありました。「~です。」「~ました。」より、自分がよく表れている気がしていたのだと思います。

それが、この何年間、語尾に意識が向くようになりました。感情で吐かれた言葉、乱暴に放たれた言葉、わめかれた主張は、耳を傾けられにくいことに気がついたからです。せっかくいいことを言っているのだから、もう少し静かに話せば、もっと聞いてもらえるのに、と思うこともままあります。このような言い回しには反感を覚えやすいことにも気がつきました。対照的に、朝日子さんのパリ滞在記など、ころころと鈴が鳴るように心地よく、すっと読めたものでした。そんなこんなで、この1年ほど、静かに話すことを心がけてきました。

ただ、最近読んだものに「~だ。」と言い放って爽快な文章があり、また使ってみるのもどんなものだろうと思ったのです。確かに、私が書いた「~のだ。」はごつごつしています。今回書きながら感じてはいましたが、今読み返すと、そう、肩に力が入っているように見えるな、と。

もう遅いので、今日はこれまでにしますが、とにかくすぐお返事したかった次第です。感謝を込めて。

 

* 金井美恵子という同業の人がいる。小説は読む機に恵まれないが、何であったかエッセイであろう、「のだ」文章に厳しい感想が書かれていて、自分のことは棚に上げて賛意を覚えた。もうどれほどの昔になることか。

「語尾」はほんとうに難しく、それが日本語の難しさだと思う。日本語は語尾で結局させる言葉で、そこまで聴かないと是か非かも分からない。つまり言葉を濁す、口ごもることに意外に効果を生める。また是か非かを其処へ来て強調もできる。その一つが「のだ」であり、一時期の人は「で、あるのである」などとも云った。なんでもかでも「候べく候」と書くのがはやった時代も、それを筆くせにした人たちもいた。

自分の書くものもむろん含めて、ずいぶんムダな語尾を不用意にムダに付けているのに、気付く。その辺の推敲がきれいにきまると、文章は、さらりと静かになる。

娘の朝日子にはいつも心してこういうことを習わせた、子供の頃の読書感想文などを読みながら。だからと言えよう、大学時代までに、極少ないながら代筆して貰ってもとくに見咎められない文章を書いてくれた。どこかで他の人達と一緒に文庫本に入っている、「李陵」「徽宗」はわたしの名で朝日子が下書きを書いている。こういう学習が今にも役立っているといいのだが。

建日子にも、そういう注意はやはり「思想の科学」に寄稿の少年時代から繰り返したが、これは身に付いたとも付かないとも云いにくい。ホームページのコメントなどときどき覗いているが、文章としても中身も、たわいないなあと苦笑されることが多い。ま、少し気を入れて書く、たとえば「タクラマカン」の開幕前に書いたパンフの挨拶など、気張らずによく書けていた。まだ気を入れた長い散文はみたことがなく、小説と称する小品も、わたしはまともに読んでいない。

2002 11・15 15

 

 

* 職場で思うように仕事が進まなかったり評価されなかったりに、気が滅入ってしまうことは誰にもあることだが、反応の度が過ぎると、つらい自己破損へ自分で自分を追い込むことになり兼ねぬ。このところ、東工大卒業生の同期の、つまり勤め初めて同じ時間経過の三人から、そういう訴えを聞いた。内の二人はカウンセリングを受けたり暫く仕事から離れたりしていた。いろんな凌ぎようがある。その人に適したうまい凌ぎ道をせひ見つけて欲しい。「モンテクリスト伯」なんてのを読み始めて、読み終わるまではイヤなことは考えない、忘れている、というのもいいだろう。「待て、しかして希望せよ」と最後にサインが出る。そのサインの説得力はリアルで大きい。しかもべらぼうに面白い小説である。

2002 11・17 15

 

 

* 秦先生、お忙しそうですが、どうぞあまり根を詰めないでください。私のような、とりとめもないメール相手には、返信も辞退いたします。どうぞ、気の向いたときに、「一服」読んでやってください。(実は、「寸憩」2、というSubjectにしようかと迷ったあげく、おそれおおくてやめました。)

休日は、半分はいい子と一緒にすごしていますが、半分は私のものです。

先日、上野の森美術館に、ピカソ展を見に行きました。ピカソがごく若かったころの絵で、日本では初公開でした。まだいわゆるピカソっぽくなく、しかし無駄なく力づよく情感にうったえる絵でした。うっとりするものがいくつかありました。天才とは、こういうものかと思いました。

その前の週には、渋谷のBunkamuraにエッシャー展を見に行きました。

かつて自分が写生をしたときに、ものの遠近感とか立体感ばかり強調されてしまって、ふんわり情感あふれる絵をかくことができず、そういう絵を書いて展覧会で入選するような子がとてもうらやましかったものでした。今回エッャーの絵をみて、そんなことを思い出し、今までエッシャーをすきだと思ったことはなかったですが、今回はじめて親しみをおぼえました。(かなりエッシャーに失礼でしょうか。(笑)。

ちなみに、エッシャーは、数学者たちに興味をもたれたことがきっかけで、有名になったと聞いています。私は数学の才能はなかったのですが。

昨日、「早春」(湖の本44)読みました。

そういえば、我が家に文藝春秋のあることはまずないのですが、(芥川賞が発表されているときに、あることもある、くらいで。)95年の芥川賞が発表されているときのものがたまたまあって、その本に、先生が弥栄中学校の同窓生の方々と写っておられました。「!!!」と感激したものです。その年の夏休み、私は京都に遊びに行き、八坂神社の、先生が写真をとられていた場所も一人で訪れて、写真にうつっていた提灯などが記憶にあたらしく、さらに感動したものです。

「早春」のなかに、was bornとか、先生が人間を観察するのが好きだったとか、以前読んだときにはあまり印象に残っていなかったキーワードがあり、先日先生にメールで、「神様は不平等」とか、「美しいものは人ばかり」、と、まるで新たな発見のようにうれしくお話したのに、先生にとってはずいぶん昔から重要なキーワードであったかと、苦笑いしてしまいました。そんなひとりひとりのつぶやきに、律儀に応対してくださる先生のご意志に、動かされます。

実は日々のお仕事におわれるままに、まだ目を通していない湖の本が何冊かあります。今読みかけているのは、中世と中世人(二)です。

私もまた、歴史、地理がもっとも苦手な生徒でした。意味のない年号の暗記がまったくできなくて、高校時代は世界史で、23点という自己最低点を記録したことがあります。興味のない地名の暗記も同様でした。理系が得意だったのは、覚えることが少なく考えてとけばよいから。

浪人時代、模試で一番高得点なのは、たいてい「現代文」という科目でした。漢文、古典はやっぱりおぼえなくてはいけなかったので、だめでした。

最近は、時間の流れを意識することが多く、また、出張などで外国人にお世話になると、自分が日本人であることを強く意識したり、いずれ子供を育てるかもしれない、と思うことで、日本の文化、歴史を知りたい気持ちが大きくなってきています。

また、四柱推命のバイブル、滴天髄とよばれる本があり、漢文で、シンプルな美文であるがゆえに、難解とされているらしく、ふれてみることもせず、夢見がちにあこがれています。

今、人生を一年とすると。。。梅雨明け直前、でしょうか。

 

* おもしろい子!!   「早春」はわたしが戦後に丹波から京都市内へ帰った小学校五年生の三学期から新制中学二年生の夏休み前までの、自伝と云う洒落たものでもない、「記憶の記録」である。

最後に出てくる「今、人生を一年とすると。。。梅雨明け直前、でしょうか」という述懐は、東工大の教室で、そんなことを考えて貰ったのだ。一学年に当たる四月一日から翌年の三月末日までを即ち自分の「一生」とすれば、今日只今何学期のどの辺りを生きているかと問うて見たのである。これは、とてもおもしろい、興味深い回答と感想で満たされたアイサツであった。四月の一日二日という者もいたし、もう二学期が終わるという変に生き急いだのも何人かいた。各学年で、合わせると千人ぐらいが答えたのではなかったかと記憶している。

このメールの女の「子」が、あの頃にいつ頃と自覚していたかははきと記憶にないが、「梅雨入り」というようなことであったろうか。もう十年たち、「梅雨明け直前」か。足取りが早いかおそいか、三十歳ではまだ少し早すぎている気もするが、ま、六月のうち、二十日過ぎぐらいということなら分かる。

先日「私・公」を論じてねばり強かった同年の青年は、学部の一年生かまだ二年生であったか、すでに二学期の初め辺りを生きてますなどと云い、教授室で秦さんに少し絞られたはずだ。だが彼も、いまは、同じく「梅雨明けの、まだ前」ぐらいとと思っているのではないかなあ。人生の梅雨は、そうはカンタンにアケないぞ。

2002 11・19 15

 

 

* アイピロー。あの中に入っている砂のようなものは、亜麻の種なんだそうです。この種には冷却効果があるんだとか。

香りの由来は、乾燥させたラベンダーの花です。ラベンダーの香り成分にはリラックス効果がありますので、以前お送りした香油も、どうぞお使いになってみてくださいね。

再就職した新しい仕事のほうは、時間を忘れるほど、楽しくやらせて頂いてます。機械のこと、DTPの決まり事は少しずつ覚えてきたので、あとは「どういったデザインにするか」です。以前の会社で、デザインやコピーを見る目は培っていたつもりだったけれど、実際自分が作る段になると難しいんですね……。そんなことを実感する毎日です。

乾いた冷たい風が吹くようになりました。風邪も流行っているそうです。お身体、どうかお大事に。

 

* 「アイピロー」ですか、あれは。なるほどいい香りだけでなく、ひんやりして眼に気持ちよく、無しでは寝入れなくなっている。感謝。

2002 11・20 15

 

 

* 殆ど唯一、毎日のように、ふと深く息のしたい時に開くサイトを、思うところ有り、卒業生の何人かにしらせた。むろんご当人の了解を得てのことである。

 

* よけいなことのようですが。秦恒平  このごろ、ほぼ欠かさず私の読んでいる、或る人の「闇に言い置く」です。佳い一服になっています。勇気づけられる日も有ります。

日によりバラツキはありますが、ストレートに真率に書かれた、いわば自分で自分にしている「アイサツ」とも読めます。鋭いちいさい礫がパッと飛んでくるような刺激を、老人の私でも感じます。机をならべていたあなたには、また別様の届きようかも知れませんが。

人それぞれに、こういう「日々」もあると。

とても忙しい職業のようですが、必ず毎日、短く書く、と自身に課しているようです。自分を見失いようのない舵取りでもあります。

こういう「闇に言い置く」独り言も、簡潔でいいですね。良い「闇」が無数に深まるのをひそかに期待してしまいます。

はじめは、秘密で、ひっそり書いていたようです。あなたに報せる了解は得てあります。そういう「段階」へ来たという自覚のようです。しかし、読み手のことは意識しないで書くのが、だいじ。

 

* ご無沙汰しております。メールありがとうございました。お変わりございませんか?

ご紹介いただいた「闇に言い置く」、拝見しました。日付の新しい方から読んでいったところ、女性だとは思わなかったのですが、途中でわかり、余計に面白く刺激をいただけました。今後も覗きに行こうと思っています。

仕事の方は、少々、周りの“ガツガツ”したやり方に息切れしそうな時もあるのです。しかし、私の勉強不足がそうさせていることは明白で、頑張るしかないと言い聞かせている毎日です。春からしばらくは「期待」と言う言葉に甘えてゆるりと時間を過ごしすぎていたのでしょう。今は結果が出せずに焦っています。こつこつやっていくしか道は無いのは分かっていますが...

学内はずいぶん様変わりしています。秦さんがいらっしゃった西4号館も改修工事が始まっています。建物の外側は残っているのですが、ほぼ枠だけの状態です。小さな部屋をつなげて大きな講義室をたくさんつくるのではないかと思われます。学内全体、工事ラッシュ、久々訪れるOBは変わりように戸惑っているようです。

こんなところです.

秦さんの「闇に言い置く」を拝見していると、時折体調がすぐれないときの様子が出てきてドキッとします。どうぞ、無理をなさらないよう、お気をつけ下さい。それでは、また。

 

* 早速のぞいてみました。ぴしぴし痛く、背筋が伸びて、すこし胃まで痛くなりそうでした(笑)。でも、自分に対する厳しさは尊敬します。

最初は男の方かと思ったのですが、「S川くんへ」を読んで、ああ女性だったかと。そういわれると、男性の方がやさしくて、女性の方が大胆なのが、最近の傾向なのでしょうか。本来そうかもしれませんが、表立ってきたという意味で。

最近では、30歳前後が、社会の中で、自分の立場を明確にして、ものをいいはじめる、そんな年頃なのでしょうか。

仮面について、やはり同年の男の子二人が秦先生の「闇」をおとずれて発言されていましたし、自分が「梅雨明け」と錯覚したのも、社会参加をしていかなければと思うようになったせいだと思います。戦後を生き、「社会性」「自主性」と新制中学のはじめから発破かけられてきた先生方からみたら、ずいぶん遅い目覚めでしょうか。親鸞が法然とであったときは、たしか20代後半、やはり自分の思うとおりに一通りもがいた後の出会いだったのですね。

それで思い出しましたが、先生、例のお題(生涯を一学年と見立てて、現在何日頃を生きているつもりか。)には、私は確か教室では、4月の1日とか2日とか、ごくごくはじまってすぐの日を答えました。うーん、梅雨ももう終わりと思ったのに、ちょっと合間に青空が見えただけでしたか。そうですよね、いくらなんでも。

湖の本「中世と中世人(二)日本史との出会い」、後白河院と乙前の梁塵秘抄のお話、法然と親鸞のお話、を読みました。今まで、過去と現在とに共通する、普遍的なもの、を、ほとんど知りもしない歴史の中に見出すことはもちろんありませんでした。今回これらのお話を通し、今も昔も、物事の本質を突き詰めてゆく人は、同じ境地にたどりつくのだと、そして、その人たちが、よけいなものをとりはらった後に見出す真実というのは、非常にシンプルなものだと思いました。そしてまた、魂のこもった先生のお仕事を尊敬しています。

かつて、プラネタリウム用の番組「銀河鉄道の夜」をつくるときに、賢治の『銀河鉄道の夜』をテーマにした、かなり昔の雑誌を読みました。そこでは、別役実氏と、天沢退二郎氏の対談および、銀河鉄道の夜の各シーンに対するコメントがのせられていました。私はこのお二方については、その対談で初めて知り、今もそれ以上のことはあまりしらないのですが、それでも、天沢退二郎氏が賢治の思いに、できるだけ忠実に読み解こうとされているのを感じました。一方、別役実氏のひとつのコメントをみて、氏自身のひらめきというか想像力は「おおっ」と思わせるものではありましたが、「…と宮沢賢治は思っていたのではないか..」のような記述が最後にくっついているのをみて、不愉快に感じました。

ほんとうのところはわかりません。別役実氏の推察があたっていないとはいえません。すくなくとも、私などは賢治についてはあまり知らず、氏はよくご存知のはずですから。でも、私はそのときそう感じました。

最近先生が、報道に携わる人の無責任な言動について、触れられています。

自分も、職場などで人に勝手に決め付けられて、軽んじられるのはたまらなくくやしいです。しかし、自分の発言に責任をもつということ、相手の立場を考えるということを、私自身もこれまでの人生で恐ろしいくらい軽んじてきました。30歳を前に、大切な人を苦しめて、ようやく過ちに気が付きました。

仮にもメディアを通して公に発言する人は、それが人に与える苦痛を「知りませんでした」ではひどい。。。聞き手がそういう発言に疑問をもてないで、それに甘えてそういう報道が成立している、というのもお粗末でありますが。

 

* すばやい反応で、また研究生活にある人からは大学の様子もきけて、この「私語」を聴いている卒業生達は感慨があることだろう。

私たちがよくかたまって話し込んでいた、沢口靖子和服の正装写真にドアを守られていた秦教授室も、もう無い。一九九一年の十月一日からその部屋はドアを開放し、四年半後の九六年三月末日にドアは閉ざされた。桜が咲こうとしていた。

2002 11・25 15

 

 

* もうひとつの「闇に言い置く」を教えていただいて、ありがとうございます。

短い文章でその時々の「思い」を表現していると思います。ふつうの事に潜んでいる、ふつうでない事を見透かしている、もしくは見透かそうとしている感じがします。何気ない文章ですが、「これ以外にはどんな思いを持ったのだろう」と、こちらに思わせる何かがあり、一つ二つと読み継いでしまいますね。

内容を読んでみると、私と変わらず忙しい毎日を送られているようで、親近感が沸きます。(笑)

しかし、私とはなにかが違う、そんな気がします。

なんなんでしょうね。

「強さ」「苛立ち」・・・そんな言葉が浮かんできます。でも、僕とは質が違うような、そんな気がします。

忙しさを理由にしたくはありませんが、今日は頭がうまく回っていないようです。

今週末に展覧会に行く予定です。茶碗と建築(吉田五十八設計)、両方楽しみです。

では

 

* お久しぶりです、こんばんは。最近めっきり寒くなりましたね。先生、風邪など引かれていないでしょうか? 我が家は夜の暖房&加湿器で風邪知らずです。

メールありがとうございます。教えていただいたWebを見てみました。彼女の「闇に言い置く」文章、先生の言葉を借りて言えば、地に足をつけて血の通った言葉を連ねている、そんな印象です。ぼくらと同世代なんですね・・。

このWebの、観劇記には、引っかかりました。この人にとって、芝居はもしかしたら、ツールなのかもしれない?

ただ、いまのぼくにとっては、それっきりです。人それぞれの日々に、興味はありません。いま、ぼくは、いかにすれば自分の生活をリアルなものにできるか、いかにすれば自分に好き嫌いを増やせるか、そういうことに腐心しています。

夏に、歌と写真を始めました。

歌のレッスンでは、指導の先生にコテンパンに言われます。「あなたは人に向かって喋ろうという気がない!」今の課題は、人に、喋るように、歌うことです。表現の手前で足踏みです。

一方、写真は手軽かつ奥が深いという、ぼくのような人間に便利な表現手段です。そして、写真にとって、全ては獲物です。この写真のお陰で、緊張とか、わくわくといった感情に、久しぶりに出会いました。

こういうことをふとした拍子に親に漏らしてしまったところ、「夢も希望もないのか」と言われました。暗に、仕事のことを言われているらしく、残念。この世の中、成すものと成さざるものとで構成され、どこへ行っても、ガムシャラだけが愛される。

ぼくは、ぼく自身になんとか価値を与えるべく必死です。

911以降、「良心の使い道がない」ということの問題について考え続けています。

このような日々を、送っています。

寒い季節、湿度を保ってウィルスを殺菌し、風邪など引かれぬよう。それでは。

 

* 思いも寄らない「人の言葉」を聴いては、驚いたり呆れたり刺激されたりすることを、教室の若き学生達は、想像以上に求めていた。それほど他者の胸の内がみえなんいと悩ましげであった。位置とか位置関係というのは、理系の学問に馴染んだ学生には、そんなに特別の言葉ではないのですと、以前に聴いた。その意味はじつは理系感覚に疎い私には分かっていない。「位」一字を含む熟語を一つ選んで理由を述べよと言った答えの中にも、そういう理系独特のかつありふれた説明は見いだせなかったように思う。やはり、それよりも、他人は何を考えているのか、それが分かるともっと気もラクになれるだろうに。人なかで自分の立っている位置や位置関係がつかめないで悩ましい。そういう嘆きが最も多く聴かれたことは、今も印象に濃くのこっている。

すくなくもわたしの教室や教授室に来ていた卒業生達は、こういうそれぞれに様子の違った自分を提示してくれることで、何かを思うきっかけにしたことだろう。「余計なことかもしれませんが」と断りながら、やはり余計なことをしたのか、そうでもなかったのかは、わたしは気にしていない。

さて、蒔いた種の「闇に言い置く」さん、ホームページに「私事」という一行を加えている。

 

* 私事 小闇 → 1972年東京生まれ * ♀ * 会社員 * 辛党

 

* 「小闇」はよかった。百万の小闇が寄って溶けて一つの闇になる。いのちの、ブラックホールである。

 

* 美空ひばりの「津軽のふるさと」は、よかったですね。

「ペン電子文藝館」開館満一年、こころよりお慶び申し上げます。

新島襄:「同志社設立始末」には涙が出ました。中戸川吉二:「イボタの蟲」いいです。

「招待席」だけでも、数えたら99ありました。しなければならない日常のことをしたら、こうゆう処へ入り込むのを楽しみにしています。おじさんには、ここでしかお目にかかれない作品ばかりで、本当に有難く、厚く御礼申し上げます。

恙なくお過ごしで何よりです。

私の腰痛はずっと以前からのものですからご懸念無くお願いいたします。動ける内は動こうと思っています。気が向くと佐倉へ行きます。ぶあいそだけどうまい葛餅屋があります。

やっぱりそろそろ冬です。くれぐれもお大事にしてください。

2002 11・26 15

 

 

* 今日、またのぞきにいきました。同年の女性の「闇に言い置く >オンナコワイ」。

こわいだろうな、私も怖がられそうだと思いました。「ああ、なんでオンナのひとがいるの~。」とはっきりいっていて、「こんなことを気にする自分は本当に小さい。」といって 、とくに言い訳もなし。

私の場合は、ついつい背伸びをしてしまいます。

ちょっと過去のものまで足をはこんでみました。この方の個性が目にしみてきました。きれいに簡潔にまとまったサイト、率直な思い、人がどう思うかに影響されない強さ、現実にしっかり根ざした「LIFE」。こつぶでぴりっと光っているサイト、この人もそんな感じの方のように、想像が膨らみます。

よし、負けないぞ。でも、きっと私のこのしずかな闘志はほとんど気づかれることもないでしょう。これだから、女はこわい?

私が公に、「闇に言い置く」場合は、どんな感じになるだろう。。

大切な人たちに、触れたくなるけど、大切な人たちは、どう思うだろうか。言葉だけが、一人歩きしないだろうか。優等生にならないだろうか。悪意ある人のコメントに、うまく対処できるのか。いや、なにもうまくやる必要はないか。醜い自分が浮き上がったときに、どう思うのだろうか。熱心に議論をもちかけてくる若者や、好みでない訪問者に、きちんと応対できるのだろうか。感情にまかせて、暴言を吐いたりするのではないか。。。うーん、公はきついなあ。

あらためて読み返す自分の言葉、読む人の中に映る私、それらをはりあわせて、色や形の見えなかった私の器ができてくるのかなあ。読む人の心の中に、際立っていたい、だから自分に正直に、率直に話すけれども、読む人を強く意識し、読む人に影響される。

先生の「BEING」は……まだよくわかりません。私は感じること、感覚に、とても頼っていて、それを「私」と感じます。私が無い、という感覚(笑、やっぱり頼っている)はよくわかりません。

あ、闇をのぞいているとき、無心なときは、そうすると、私がない、ですね。そういうことでしょうか。それで「DOING」と「BEING」の違いも、理解したつもりになりました。

さて、送信しよう、その前に、先生のホームページみました。同年の仲間のメールがつぎつぎ届いているのですね。

いつも長くてごめんなさい。

 

* この卒業生=女性のメールなどは、かなり自身仮説の「小闇」サイトへ接近している。それでも、「メール」の表出と、「闇」に掛けた独白=私語の表現とは、性質を異にしている。メールは読み手の存在あっての言葉だが、「闇に言い置く」とき読者はいない。いないと厳しく考えていた方がいい。そして強くなければ書けない。こんなところで他者を意識した飾りを考えたりするなら、そんな行為は止めた方がいい。ノートに書き付ける日記より、「闇に言い置く」方はゴマカシが利かない。ゴマカシていることは自分自身には分かるのだから、そうすると微妙に文章は赤面してくる。そういうものだ。

 

* 源氏物語から言及されていること、女の女による男のための文化、考えさせられますね。現代は男の男による男女のための文化みたい・・・確実に社会は変化していますが、それは認めますが、女がいくら元気だなんだと騒がれても、本当のプロとして第一線にあるのはやはり男ですね。そして所詮男の世の中よといい出したら途端に時代錯誤と非難される。表面的にはそうです。が、やはり男性社会です。この先をあまり書くと「叱られそう」なので・・

源氏・・の続き

光の恋の遍歴が犯す行為、レイプだと書かれていますが、生物的な構造からは変えられない部分があるにしても、性がレイプでおわるかどうかは、オスである男性の行動如何に懸っているでしょう。それはほんの些細な、しかし極めて繊細な、優しさがあるかどうかの、その一点で。欲望に始まり、レイプに近い行動で局面を迎え、その後こそが・・。だからきっと多くの女は「優しい男」がいいと口を揃えて言うのです。わたしもそうです。

女の女による男のための 女文化、今かてそうやん・・と書きたい部分もあります。男性的な要素が強く現われる文化、女性的な・・の文化、時代は変化していきます。

 

* 光源氏の空蝉に加えたレイプと軒端の荻に加えたレイプとは、ずいぶん味わいがちがう。

空蝉に対しては、空蝉自身も心の深くでゆるして受け容れたほどの、その後の永い久しい交感と交流とがこの二人にはあった。夫に死なれ尼になっていた空蝉を、光源氏は六条院にむかえとって節度のある世話をしている。空蝉も光のそういう優しさを受け容れている。

軒端の荻は、空蝉の衣をむなしく抱かされた若き源氏が、身代わりというよりも行きがけの駄賃かのように犯して置いて顧みなかった女である。ずいぶんひどいと思う、が。

この女二人の分かれは、何であったか。それは源氏の「女に対する敬愛」のあり得たかあり得なかったかで分かれている。この辺が「女文化」の一ポイントになる。皇后定子が清少納言らに、あれほど熱心に「枕草子」を、「枕ゴト=日常の心得ゴト」のマニュアル化を推進させたのも、此処へ繋がってくる。

男の性行為は、おそらく敬愛無しにも動物的に敢行なされうる。それをさせるのは女の責任だというぐらいの「女への敬意」を王朝の貴族男子たちは逆説として持っていたように想われる。「女の女による男のための文化=女文化」は、在っただろう、やはり。

このメールの人の、「性がレイプでおわるかどうかは、オスである男性の行動如何に懸っているでしょう。それはほんの些細な、しかし極めて繊細な、優しさがあるかどうかの、その一点で。欲望に始まり、レイプに近い行動で局面を迎え、その後こそが・・。だからきっと多くの女は「優しい男」がいいと口を揃えて言うのです。わたしもそうです。」という微妙なコメントに応える、わたしの、また少し別の「読み」である。女の人が、このポイントをころっと忘れていることが、存外のケースを世間に多く産んでいる理由ではないかなどと、もし言ったら、源氏かぶれが過ぎているとやられるかな。

尊敬できるけれど、性的にまでは敬愛できない・しない女性はいっぱいいることだろう、男達には。性的にも敬愛できる女性こそ、理想の女性であると、明らかに源氏物語の男達は確信しているし、逆もまた言えるのだろう。レイプ云々は、一つの入り口でしかないという、この人のコメントは、とても微妙で、精妙なのである。「空蝉」「花散里」など、いわゆる美貌と言うに当たらぬとされる女達の、この物語における意味は、男達の主張や願望や自己都合のためにとても役立っている。男のための、と、わたしが女文化を批評的に規定するのはその意味でもある。

源氏物語の音読は「夕顔」に入っている。びっくりするほど感じのいい文章で、夜気の濃い「帚木」「空蝉」からは、夕まぐれへ戻って、夕顔棚の目先がぐっと清しくなった。だがやがてまた物語は深夜のドラマに入って行く。

 

* 日本のフェミニストはまだまだ成熟していないというのがわたくしの感想です。フェミニストを名乗っている人の多くは、被害者意識が強すぎるし・・・そうでない人は違う意味でフェミニストを馬鹿だ、時代錯誤だとして無視したり。女の足を引っ張るのは女だと言うのも、半分以上は本当。

わたくしも意識の中では大いにフェミニストなのですが、時々たまんないなあ・・これは方言?・・・と考えたくなりますね。わたくしが中途半端な人間だから。もっとフェミニストだったら、殆どすべての男は批判の射程内ですね。男の人は気づいていない、分かっていない・・。だからきっと糾弾、批判する! ああ、恐いでしょ? まあ、人間は矛盾の塊です。わたくしはフェミニストになりきれません。ますます矛盾だらけの女になりそうです。

 

* ときならぬ、ご婦人達の「しゃべり場」になってきた。くわばら、くわばら(これって、どんな語源なんだろう)。

2002 11・27 15

 

 

* ブラジルより。 ご無沙汰しています、不肖の弟子です。変わらずお元気そうで、何よりです。

アイサツ。世俗の意味でのそれすら出来なくなりつつある今日この頃、不摂生を反省する今日この頃、です。

私は、現在、世俗にまみれて、遮二無二仕事に打ち込み、「ああ、俺の夢は叶いそうで叶わないなぁ。」と、秋の夜長をしみじみ噛みしめる日が多いです。

飛行機を造りたいのに、いや、造っているはずなのに、

「こんなはずじゃない。こんな単純作業の繰返しじゃない。もっと、すばらしいエレガントな仕事をするんだ!いや、そういう仕事があるはずだ!!」

という、「夢」という名の妄想が、私を縛ります。これを私は「向上心」と名付けてはいますが・・・うーむ、情緒不安定です。

なんだが、愚痴なんですけど、でも、秦先生だと言えてしまうから不思議です。

 

* 健康にだけは気をつけような。

2002 11・28 15

 

 

* 朝一番、夜前に貰っていた佳いメールを読んだ。

 

* 秦さん、こんばんは!

五島美術館の名碗展、見に行って来ました。

別室で解説講演をやっている裏でならば、多少余裕があるかと思いきや、凄い人出でした。展示室にはいるまでに30分以上の行列で。

展示内容には、かなり圧倒されてしまいました。どれもこれも力のある作品ばかり。

南宋時代の油滴天目や室町の白天目、黄天目など、存在すら全く知りませんでしたが、良いものですね。じいっと見入ってしまいました。

名前だけは知っていた長次郎の茶碗も、現物自体が初めてですのに、あれだけ揃っていると壮観で。楽茶碗はやはり人気のようです。いつも大勢の人だかりでした。

初めて見た長次郎の黒楽でしたが、とても厳しいお茶碗ですね。点前をする方にも、茶を飲む方にも、精神の集中と緊張を強いるような。それが修行としての茶道には、ピッタリなのかも知れませんが。格はどうあれ、自分が頂くなら赤楽の方が・・などと贅沢なことを考えてしまいました。

ですが個人的には、華やかさと無骨さが同居しているような志野のお茶碗が一番でしたね。なんとなく志野というと白のイメージでしたが、赤みがかった釉薬のものが幾つか出ていて、その微妙な色具合がまた見事で、茶碗の姿形とも相まって、いつまで見ていても飽きない感じでした。

焼き物も面白そうですね。素人が作っても案外と味があるものが出来たりするようですし。普段家で使っている茶碗は、亡くなった祖母の手作りなのですが、黒い瀬戸で、何とはなしにいい形をしていて、かなり気に入っています。

機会があったら陶芸にチャレンジしてみようかと画策中ですが、ちょっと調べてみても、案外費用のかかるものらしく、二の足を踏んでいます。。

そろそろ初雪も見られそうですね。暖かくしてお過ごし下さい!

ではでは、また。

 

* あの東京工業大学で、わたしなどには何を学問しているのか見当もつきにくいほど難しそうな研究に取り組み、大学院を卒業後も、それを抱えたまま勤務にいそしんでいる卒業生のメールである。茶碗を観て、これぐらい懐に余裕のある感想が自然に出てくるのは、勤めはじめて程なく茶の湯の稽古をはじめ、先日も、根津美術館の茶室をつかった茶会で、客の前で手前もしてきたような経験をつんだ嬉しい「成果」といえる。「焼き物も面白そうですね」と。ついこの間、「おもしろや焼き物」という湖の本をこの人にも送っていた。わたしとしても、ほうっと笑みのこぼれる嬉しさである。しっとり落ち着いた日々を過ごしている一人であり、だが、なかなか、こうは行っていない人も多い。こうは落ち着かないでいる人の方が残念ながら多いのは、やはり時節の過酷さ故のようであるし、また仕事=勤務=職場というせっぱ詰まった一本の脚で日々を歩まざるを得ない人に多い。揺れたときにバランスがとれないらしい。

名碗展の招待券をあげたもう二三人が、何を見てきたろう、元気でいるといいがと願う。

わたしも、会期中に行ってきたい。案の定の人出らしいが。

 

* こんな幸せなカップルも。

 

* 先生お元気でいらっしゃいますか? 日々の生活に追われ、すっかりご無沙汰、大変失礼しております。

昨日で結婚一周年を無事迎えました。おかげさまで二人とも大きな病気もせず、元気に暮らしています。毎日会えることを嬉しく、ありがたく思いながら過ごしていたら、あっという間に一年過ぎていました。

主人も(ちょっと照れますが)頑張って仕事しています。詳しいことは私にはわかりませんが、昨年11月に就職して、半年弱しか経っていない三月の学会でも、きちんと成果を発表していましたし、論文も投稿できる段階に入っているようです。(1年に1本出すというのは大変なことのようです。)

毎日遅く帰ってきては、それからでも専門書に目を通しているような状況で、妻としては身体が心配なのですが、若いうちにいろんなことを吸収したいと思っているのか、とても精力的に研究をしているようです。

という感じで、主人の仕事が時間的に不規則なので、私の仕事は再開せずに、専業主婦をしております。でも、全く外に出ないのも・・と心配してくれたこともあって、近くのジャスコで、お中元とお歳暮の受付の短期アルバイトをしています。 (今日も仕事をしてきました!)

そのおかげで、当地にも、主婦(と学生)の知り合いが出来て、今も一ヶ月に一度、みんなで集まるような良い仲間にめぐり合えました。

主人との付き合いは、もうすぐ丸六年年経ちますが、同じ家に住み、疲れているときも良いことがあった日にも一緒にそばにいられることが、今はとても幸せに感じます。そして二人で生活する上での協力を、惜しまずしてくれる姿勢に、とてもとても感謝しています。

主人の家の両親(祖父母)にも、実の娘(孫)のように大事にしてもらっています。こちらもそれに応えようと頑張っていますが、なかなかお料理の腕は上がらず、レパートリーも増えません・・(笑)。来年への努力目標です。

まず、一年、二人で暮らすことが出来ました。これからもよろしく、とお互いで言い交わしたところです。

先生の「湖の本」の送られてくるのを、二人で楽しみにしています。先生のお誕生日ももう一ヶ月もないですね。

今年も寒い季節になりましたので、奥様とともに、どうぞどうぞお大事になさってください。

 

* この幸せな二人のことは、教室の昔からよく知っている。将来は結婚するとも聴いていたし、優れて落ち着いた家庭を造るに違いないと、間違いなく信じられるカップルであった。

2002 12・2 15

 

 

* 最後の一枚になったカレンダー、松篁さんの「柿紅葉」の色好いこと。小枝の小鳥は頬白か、ひたきか。灰色の背景に淡い白のはだれが雪を予感させる。まだ十一月の風情もはなやかに、柿紅葉のされたあかみや黄色みの、目にも、思いにもほうっとあたたかいこと。卒業生達の、いろいろにメールをくれるつど、よそへやってある子供達の便りのように胸がことこと弾む。

2002 12・2 15

 

 

* 寒さに震えた昨日でしたが、今日は暖かい日差しに恵まれてホッとしています。良いお天気だと、一日の持ち時間が長く感じられて嬉しくなりますの。同じ二十四時間だというのに不思議ですよね。

新刊本「からだ言葉・こころ言葉」。読みながら、思わず「クスッ」と笑ったり、ニンマリしたりしているところを他人様がみたらどう思うかしら? 好きな閑吟集の中からもいくつか小歌が載せられていて、なんだか懐かしい友に出会えたようです。

「脛かじり」

母の細い? 脛をかじっている息子(まだ来年も、なのですけれど)に、「あんたが就職したら、母は扶養家族になって『今日は遊びに行くからお小遣い頂戴!』って暮らすのもええなあ」って言ったら、なんて応えたと思います?

「ウン、ええよ。お小遣い二万円あげる」ですって。その息子、朝がなかなか起きられないのです。

「就職難のこの時代、遅刻ばかりしてるとすぐクビになるよ」

「母が起こしてくれたらいける!一回千円でどう?」

「エーッ、いつまで起こさないけんの?ええかげん親離れしてよね。けど、月三万円の目覚まし時計になるんもええかもなあ」

母の面倒はみるものと思っている息子の「心意気」が言葉の端々に感じられて嬉しくなるのですが、まだまだその言葉に甘んじることはないでしょうけどね。

気温の変化に油断の出来ない日々、どうぞ御身お大切になされてくださりませ。湖の本、楽しみにお待ちいたしております。

2002 12・2 15

 

 

* ほぼ九割九分まで「湖の本エッセイ26」の発送を終えた。まるで祝って戴くように読者から純米の清酒を二升贈ってもらった。晩に、片口にとりわけて頂戴したが、総身に沁みるほどうまかった。木の片口に二杯、正味で二合ほどを、あっというまに吸うようにのみほした。清水のように、喉の奥まで澄んで光る気がする。感謝、感謝。

いまその人から、こんな、お心づかいも有り難い、嬉しいメールが届いた。谷崎先生もお口にされたお酒であろうか、身のわきから、わたしをいつもぐいと見据えておいでの写真にも、一杯差し上げたい。

 

* 秦 恒平様

「私語の刻」に毎日元気づけられています。それにしても働き過ぎになっていらっしゃるのではないかと心配しています。小説の中のこととは言いながら、「迷走」を読んだころから、腕利きの編集者として活躍しておられた秦さんを心に描いていましたが。

お体に障ってはいけないなと気がかりではありますが、酒がお好きと分かっているのでやはり送ることにしました。日常用のお酒ですが、県南の、室町酒造と谷崎潤一郎が疎開していた県北勝山町辻本店御前酒のものとをお送りします。一週間以内には着くと思います。

 

* お酒だけではない、メールにはファイルが付いていて、「四度の瀧」冬風情、と見える写真。お心入れである。お酒といいなつかしい袋田の瀧といい、おかげで、佳い気持ちの打ち上げになった。

2002 12・3 15

 

 

* 哀しみ悼みてあまりある便りも来た。いままで「慈子」の序章をずうっと読んでいた、そこへ。

 

* 妻の事

「死なれて死なせて」なども使いながら、* *市の市民講座で死と癒しについて語っていた妻ですが、11月29日に息を引き取りました。辻邦生と並んで秦さんの文章を愛していた妻ですが、ご子息の芝居も楽しみにしていました。

私が癌の告知をした後、知り合いの看護婦にも私へと同じように、「人の何倍もいろいろ経験させてもらえて悔いはない」そう語っていた妻でした。

癌と告げたときは「そう」、余命いくばくもないことを告げたときも、「わたしは大丈夫だからあなたこそ帰り気をつけてね」という調子でした。私が化学療法について俄か勉強して転院を薦めたときも、「そりゃあ私も望みを捨てたわけじゃないから、いろいろ試みてみるけど、そんな勉強に時間を費やして欲しくないの」そう言い切るのです。

闘病記やさまざまな手記を私も読みましたが、この八ヶ月妻を見てきてはっきりわかりました。書きたい、書かずにいられないというのはやはり我執が、欲望が原動力にあること。しかし、その行き方だけでなく、淡々と受け止めて書かず語らずの境地もあるということ。書くという表現行為は、書かないという表現行為にいわば敬意を払わなければいけないということ。静かに読書していた妻を見るにつけ、自分ならどうしただろうと想像し、やはり書いている私を思い浮かべていました。

この期間の経験が、私の今後の書く行為にどう影響するか、楽しみでもあります。

とにかく、ここ数日お目にかかる方たちが口々に妻への共感を語るのを耳にし、改めて私を大きく支えていてくれたことを痛感し、同時に本当に多くの方から愛されて慕われていた妻の姿が浮かんできました。人間的スケールにおいては、私は妻の足元にも及びません。大体が女性に男性は及ばないと思いますが、とりわけ我妻は度量が大きすぎました。本当に私には過ぎた女房だったのだと思います。

宗教色を廃して、大学の同僚たちを中心にお別れの会を開いていただく事になりました。身内だけで密葬にし、願っていた形で多くの方からお別れのメッセージをいただけそうです。これも妻の力だと思っています。

本当は妻と一緒に、秦さんを訪ねて文学を肴に語り明かしたかったのですが、それも叶わなくなりました。

一言だけお知らせしておこうと思ったのに、長々と書いてしまいました。すみません。

いつか、書かないことに拮抗できることばを紡むことができたら、秦さんのページ(e-文庫・湖)にも投稿させてください。

寒くなりますので、ご自愛下さい。

 

* なんということだろう、声もない。この人のいまこれを私に告げている胸の内を想うと、胸も裂けそうに痛い。どうしようもなく、繰り返して念仏しおえた。わたしよりも幾つも若い夫婦なのであった。奥さんには一度もお目に掛かれなかったが、この人とは何度か。それでもゆっくりとは逢えていない。もしもこんど顔をみても、ああ、なんという寂しいことであろう。

「朱雀先生」の死を知らずに出張の旅先から京都へたちより、来迎院で「慈子」の口から先生の亡くなられたのを聴いた。わたしは庭の茶室に隠れて泣いた。慈子が来てそばに座った。雨の中を家の裏の御陵下へお墓参りに出た。「お利根」さんは「みんなに死なれて」と若い二人の前で顔をおおい、わたしは「死なれて」という物言いに生まれて初めて耳をとめていた。そういうところをわたしは、いましがた、読んでいた。いま、幾重にも悲しい。幾重にも悲しい。

 

* * * さん。 いはでおもふぞ と。奥さんは、そういうふうにあなたの前で生きておいでだったのでしょう。いまは悲しむなとは言えない。わたしでも、こんなに悲しいのです。お子さまをどうか気を付けて上げて下さい。それを心の杖にして。抱き柱はいらないと書いたわたしですが、心からあなたがたのために祈りたく、念仏を申しました。

いつでも声を掛けて下さい。  秦 恒平 2002 12・3 15

 

 

* 雪空のカナダから  恒平さんと呼ぶ人はもうそんなにはいないでしょうが、私の耳には「こーへい」と呼ぶ仲之町のお母さんの、ちょっとカン高い声が今も懐かしく響いてくるのです。

同じ12月生まれながら、20日ほど先立って67歳の誕生日を迎えたばかりです。子供らが巣立ったあと、夫婦二人だけの”ねぐら”をこちらでは Empty Nestということは前に言いましたっけ?我が家の12月は妻が6ヶ月に及ぶ京都暮らしを始める季節でして、カナダ側はオス一羽となるのですが、ま、一家4人いずれも息災でいるのが何よりです。

私の日常は、日課となった水泳のほかは、雑文書きやステージショー制作の依頼がポツリポツリとある程度で、恒平さんのこなしている仕事を思えば、量的にも質的にも比較は烏滸がましいのですが、まだまだ迫り来る老いをあるがままに受容する、などという悟りには遠く、それにあらがう姿勢が我ながら見えるのです。

人生、Productiveでなくなると、もう生存の価値なし、というのが持論ですので、あと何年健在でいられますかね。もちろん Physical に、ではなくて、Mental な意味において、です。

現今の日本は何でもある国ですので、珍しくもないものですが、海産の品を送らせていただきました。14日前後に到着の見込みです。ナイアガラ瀧近くにある「雪国」という日本料理店経由のルートを使いましたので、私の名前ではなく経営者名(* * * *)で行きますが、怪しい品ではありませんのでご不審のないようご案内いたします。

カナダ ナイアガラ つとむ

 

* はからず、友あり遠方より来て、励ましてくれる。幾山河越えさり行けば寂しさの果てなむ国ぞ。

2002 12・3 15

 

 

布谷君から九時頃に電話が入ると。夜前は帰宅がずいぶん遅かったらしい、「すいません」とメール。とんでもない。こっちの方が恐縮している。

話は別、それにしても「すいません」はよくない。東工大の教室でも教授室でも書いたもので「すいません」日常会話で「すいません」は大勢からしばしば眼にし耳にした。世間でもそうかも。ま、口で言うとき「すみません」よりも「すいません」の方が音便っぽく何よりもラクに発声できる。耳では許容しているが、眼で「すいません」は宜しくない、それで正しいと思いこんでいる若い人が、いや随分の大人にも、いる。これはやはり「済みません」の意味であろうから、書き言葉としてはちゃんと「すみません」が良い。見苦しくない。布谷君にもそう注意した。

2002 12・5 15

 

 

* そろそろ九時になる。なんとか、布谷君のリモートコントロールで、ドライヴに食われたフロッピーディスクが吐き出され、機械が元へ戻りますように。こういうことになると、再設定のとき至るに備えてね現設定の細部を備忘のメモにしておけばよかったと後悔する。その気はいつもあるのに、つい目先の仕事へ仕事へ先に走ってしまう。

 

* 電話での指示通りに機械を働かせ、画面が出るようになった。噛みこまれたフロッピーディスクは、現状では排出の手だてがなく、土曜日昼過ぎにまたわが家までご足労願えることと相成った。感謝に堪えない。マイコンピュータからのディスクドライヴのクリックで、フロッピーデイスクの内容は取り出せることも分かり、不幸中の幸いであった。難しい操作をしたようであるが、神戸の芝田道さんがすぐメールで教えてくださった(但しわたしでは出来ない)ことを布谷君がテキパキ指示してくれたのだろうと想われる。芝田さん、感謝します。

 

* ごぶさたしております。WEBを見ました。

>* 親機がクラッシュしたと思われる。フロッピー・ディスクをドライヴが食い込んで排出しないまま、non-system disk or error の状態に。

電源を入れますと、PCのBIOS(非常に基本的な処理をするプログラム)は、フロッピーディスクにWindowsがあるものとして、 ①まずフロッピーディスクにアクセスします。フロッピーディスクが挿入されていなければ、②ハードディスクにWindowsがないかとアクセスします。

①、②の順序を変えることができますが、BIOSの知識が必要になりますし、どのようなマザーボードを使っているかにもよりまして、操作が異なります。親機を設置した卒業生と連絡が取れれば、電話の指示で②、①の順に変更することは可能なんですが。

とりあえず、気が付いた事をメールいたします。

 

* 事のついでに、どうも飲み込みが悪くて出来なかった、親機から子機へ、子機から親機へのファイル移動を、具体的に教えて貰って、今も、この四日五日分の私語を、その手で移動したところで、これは大いに今後助かります。有り難う。忘れないうちに手順を箇条書きに書いておかなくちゃ。箇条書きに限る。

2002 12・5 15

 

 

* これは嬉しい。

 

* 先週末に五島美術館に行ってきました。大変な人出で、車は停められない、入館まで三十分列に並ぶなど、これで美術を味わえるのか? というような状態でしたが、幸い、閉館時刻が一時間近く延長されたので、最後はゆっくりと、少数の中で見ることが出来ました。

さて、展覧会の内容ですが、二つの点で、大変興味深く見ることが出来ました。

まずは、体系立った展示方法により、茶碗の歴史といいますか、時代的変遷を追うことが出来たのが、私のような茶碗素人には大変助かり、かつ、役に立ちました。このような時代的変遷にそって、何度も何度も展示室を回ることによって、形や色の移り変わりを、段々と、知識ではなく、感覚として捉えることができるようになっていきました。これだけでも二時間近くいた甲斐があったと思います。

しかし、私が、最もおもしろかったのは、その点ではなく、ある一つの茶碗のあり方に、惹かれたからでした。それは、名前が出てきません(申し訳ないです)が、展示室の左奥にあった、桃色と白の茶碗です。

この茶碗の印象は、「実体がない」というものでした。

まず、形が、茶をいただくことにおいて非常に素直な形をしており、(私は茶道のことを知らないので、素直とは言い切れないものがありますが、お許しを。)強い主張が出ないほどに作りこまれています。これは面白みを出すことに対して、つまり表現を作り出すことに対して、貪欲でありながらも、茶のあり方からは決して外れない意思があって、できるものだと感じました。

そうでなければ、なんでもない形が、あそこまでの力を発揮するとは思えません。

次に色です。

順序は逆になりますが、今回の展覧会で、一番興味を持ったのは、この「色」のことでした。

様々な色の茶碗があり、それぞれのカタチに対して、どんな色の可能性があるのかをまざまざと見せつけられた気がします。しかも、名碗は、その関係を自然に、切り離せない一体のものに仕立て上げられています。

しかし、最も興味を持ったのは、形とモノの関係が切り離されてしまったかのように見えたこと、見えた茶碗、でした。一言で言えば、モノとしての存在感を強める色ではなく、モノとしての存在感を消し、色としての存在のみを作り出すことのできる色がある…ことを、見たのです。

心を惹かれたその茶碗は、桃色と白色の塗りが重ねあわされ、かつ、その塗りの重なり方が違う現れ方をしていました。まず桃色の下地に、白い斑点が浮き上がる胴の部分が絶妙でした。

その斑点の中心には小さな突起があることによって、その白い斑点は桃色の「上」に浮き出ているのか、もしくは桃色を透かして「下」地としての白が見えているのか、どうにでも見えるのです。私には桃色を透かして下地としての白が見えている、と認識しました。

さらに、茶碗の上端の部分には、胴から続く桃色の「上」にまた白が塗り重ねられているのです。しかしここでは先ほどのような斑点のような「模様」ではなく、筆のようなものによる荒い「塗り」となっているのです。つまり、胴部の斑点状に見える白と、上端部の塗られた白との、形における上下の対比的な使われ方と、同じ白が下地でもあり最表層を作る色でもある、厚みにおける上下の反復的な使われ方によって、色の重なりがあたかも無限に反復していくかのような構成を作り出しているのです。

この、素直なカタチと重層する色によって透明感と柔らかさを獲得した茶碗は、モノとしての強さではなく、色に塗りこめられた硬い粘土=モノの部分があたかも存在しないかのような、桃色そのものの柔らかな強さ(弱さ)を現し出していたように感じました。それが、「実体がない」という印象を持たせたのではないか、と考えています。

こんなに文章に書いてから言うのもなんですが、当日は、その茶碗の前に何度も吸寄せられ、ただただ見入るばかりだったのです。

先生のお誘いのメールに、「茶碗ほど「空間」を喰って生きる生き物は珍しい」とありましたが、なんとなくそれを感じることが出来たように思います。アフォーダンスというものかもしれませんが、個々の茶碗のあり方が空間を規定し、人をその空間の中に引き込んでしまう力があると感じたことが、「空間を喰う」ということに繋がっていくのではないか、と思うからです。

ありがとうございました。

 

* 茶碗をしみじみ観たのは、この卒業生、たぶん初めてではないか。まして、わざわざ「茶碗を観に行った」のは。だが、そんなこと信じにくいほどの観察であり鑑賞であり把握であり洞察である。それもガラスケース越しに観てのことである。感心した。

むろん、初めての見参であることを露わにした「茶碗素人」である証拠は、露呈している。釉薬のことはともかくとしても、この人は、茶碗という「焼きもの」を観ながら、「火」の、「焔」の成していた魅惑と不思議には、一言も、触れていない。そして何度か、色を「塗る」とも言っている。釉がけはあるが、塗っての彩色は、たぶんあの会場の名碗には一枚もない。だが、それは彼の場合ほとんど問題ではない。素直に観て感じたままをてらいなく語ってくれている。

そして、じつは、美しい着物を着て連れだって沢山来ていた、いわゆるお茶を教えたり習ったりしているご婦人達の、誰一人間違っても用いまい、しかし大事に大事な「空間」とのかかわりという茶碗根底の魅力に、彼は、手づよく意識的に接している。ここが勘所であろう。

「茶碗ほど「空間」を喰って生きる生き物は珍しい」よとわたしが伝えておいたのは、この人が現役の建築家として、現に大きなマンションなどの設計図を次々に書いては建設を実現しているからであった。彼は意識有る「空間マン」であるから、いれものである茶碗の抱き込んだ空間性、身の外側へ張り出している空間の張りの魅力が、よく分かるはずと思っていた。わたしの売りことばを、彼は精確に買いとって、入場券を上げようかと打てば、響くように下さいと言ってきた。二枚上げてもよく、わたしも一緒に出掛けてもよかったけれど、一枚しか上げず、一緒に行こうかとも、わざと言わなかった。一人で、向き合ってきて欲しかった。それで、よかったと、思う。このアイサツには高点を上げたい。なにより、誰かが誰かを評していた言葉を借りれば、天皇を論じるために宮城の廻りをジョギングしているような所もやや有った青年が、タッチの強い言葉で厄介な対象をつかみ取ろうとし、ほぼ成功しているのが、素晴らしいし嬉しいのである。

歴史的な流れに沿って、先ず、茶碗の造形や機能に一定の大づかみが出来ているし、観察が「茶」のありようにかなり深く触れている。わたしのいう「趣向と自然」のかねあいをよく観ている。造形の意欲としての趣向の面白さを、自己主張としてでなく活かす自然さ。その辺に「茶碗」たる魅力だけでなく、「茶」の味わいをもくみ取りかけている。それが、佳い。

おそらく、えっ「火」ですか、あ、そうだと声を上げてから、彼は「火」「焔」のことも黙って次のステージのために胸に畳んでおくに違いない。つまり、又の機会が私にも楽しめるのである。

2002 12・6 15

 

 

* 布谷君はるばる来訪。3.5インチディスクドライヴからディスクは取り出せたが、ディスクそのものが、電気的には働いているのに、挿入されたディスクの排出機能が「ヘタッテ」しまっていて、気を利かして途中で買ってきてくれた新しいドライヴに置き換えた。それで、済んだ。済みました。感謝。

天気が良ければ一緒に街へ出たかったが、彼も次の約束あり、雨もよいで寒々しい天候なのであきらめた。

2002 12・7 15

 

 

* この師走、ほんものの「師走」になろうとしている。からださえ保つなら楽しいことだが。

 

* 師走の街は華やいでいて心浮き立ちます。先日銀座を歩いていて嬉しい買物を二つしました。

一つは未読だった先生のご本です。あるデパートの前で行なわれていた青空古本市で見つけました。先生のご本は見つけたらかならず買うことにしていますし、初めて手にする『東工大「作家」教授の幸福』でしたので、喜んで購入いたしました。(新刊『からだ言葉・こころ言葉』はアマゾンで注文しています。)先生の小説を読んで文藝の至福を味わうというのとは少し趣を異にするご本ですが、私はとても愉しみました。

先生が優秀な編集者でいらしたことは容易に想像できますが、教育という分野におかれましても(中略)学生を見る目の温かさに胸うたれました。

自分の経験に照らすと、大学で先生方に教えていただいたことの意味がほんとうにわかるのは、卒業して何年も経ってからです。先生のご指導を受けた学生さんたちの心のなかは、年を重ねるごとに先生の言葉がじんわり滲みていくにちがいありません。

また、このご本は個人的にも大変懐かしさをおぼえました。私が学生時代に知っていた多くの東工大の友人たちの学生気質のようなものが、今でもあまり変化していないような気がいたしました。

二つ目の買物は伝説の名歌手の一枚のCDです。ヴンダーリヒというテノール歌手の名前は、今では知る人ぞ知る名前になってしまったかもしれません。生きていれば先生より少し年上という人ですが、三十六歳の若さで酔っぱらって階段を踏みはずして亡くなってしまったので、活躍したのは十年間だけのことでした。

ヴンダーリヒが死んだときには「時代がわたしたちにプレゼントしてくれた最高のテノール」を失ったと世界で嘆き悲しまれたそうです。私は小さな子供でしたので演奏を聴いた記憶はなく、母などから噂を聞くばかりでした。それが偶然昔の録音を現代の技術で復刻したCDを見つけました。

シューマンの「詩人の恋」を満足する演奏で聴くことはめったにないのですが、酔いしれてしまいました。バスやバリトンの声では絶対に味わえない、極上のテノールならではの心がとろけるようなやさしさ、蜜がしたたり落ちるような甘さに溢れています。しかもヴンダーリヒはドイツリートにかかせない、精神性、文学性もそなえていて、「一瞬の好機」で夭折してしまったことがほんとうに惜しまれる歌手です。

あまりお金を使わないで豊かな買物をして幸せに浸っておりましたところ、待望していました湖の本を頂戴しました。今回も読みごたえのある何ともおいしそうなご本で、なるべくゆっくり少しずつ味わいたいと願いつつ、きっと仕事を忘れて読み耽ってしまうでしょう。(中略)先生が京都という日本文化の要の街にお育ちになったのは決して偶然ではなく、神さまの特別のはからいだったとしか思えません。今回のご本も、やはり血のなかに京都を抱えた先生ならではの文藝の冴えと重厚な古典批評が堪能できますことでしょう。

あとがきに紹介されていました日本ペンクラブの「電子文藝館」については、おこがましいのですが、日本人の一人として、その素晴らしいお仕事に対して厚く御礼申し上げたいと存じます。そして、先生の地道な活動をお助けの奥さまにも心から感謝申し上げたく思います。

先生は文壇とか政府とかメディアの関心などというものを気にかけてはいらっしゃらないでしょう。しかし、これほど日本文化に貢献する有意義なお仕事が、ただ先生お一人の超人的読書量に支えられ、無報酬で、大々的に宣伝されることもなく行なわれていることに、私は愕然としてしまいます。

昨今の日本は、文化的なものの正しい評価がまるで出来ない嘆かわしい国になりました。小沢征爾がどんなに望んでも日本の音楽界に戻ってこられなかった、その一事をもってしても明白です。

しかし、チャップリンが映画で「時は偉大な作家である。常に正しい結末を書き記す」と言いましたように、後世の人は「ペン電子文藝館」に恩恵を受け、それが一人の文学者の独力でなされたことに深く頭をたれるにちがいありません。しつこいようですが、心からありがとうございますと申し上げます。

そして最後にわがままな愛読者としての希望を申し上げることをお許しください。

先生は以前の「私語の刻」に「しびれるような女の小説が書きたい、その方へと帰りたい。なにがいいといって、やっぱり女にいちばん心惹かれる。いい女を創りあげてみたい」と書かれていました。先生の頭のなかにあるいくつものストーリーをお一人だけでお愉しみにならず、新しい「しびれるような女の小説」を少しだけでも読ませてくださいますように。

久しぶりに先生にメールを書きまして何とも長くなってしまいました。駄文を読まれて目がお疲れになりましたら、ほんとうに申しわけなくひたすらお詫び申し上げます。

この冬はインフルエンザが大流行するとの予測もございます。どうかご無理をなさらず、お身体お大切に奥さまと静かな年末をお過ごしくださることをお祈りしております。

 

* あんまり恐縮な箇所を途中少し外させて貰った、それは私一人でひそかに頂戴しておく。「一瞬の好機」とある一句は、わたしが昔、そのように「死」を迎えたいと書いていたのをこの人は記憶されていたのだろう。いろいろ褒めて貰って言うのではないが、非常にレベルの高い「読み手」であり、また「書き手」でもある。こういう人たちとの全国的な数多い出逢いをもたらしただけでも、「湖の本」は心行く仕事になった。幸せであった。

おりしも必要あって「慈子」を読み返しているときなので、この慫慂は有り難くも心につよく響いてくる。「書きたい、書かずにいられないというのはやはり我執が、欲望が原動力にあること。しかし、その行き方だけでなく、淡々と受け止めて書かず語らずの境地もあるということ。書くという表現行為は、書かないという表現行為にいわば敬意を払わなければいけないということ。(死の間際まで)静かに読書していた妻を見るにつけ、自分ならどうしただろうと想像し、やはり書いている私を思い浮かべていました」と、いうメールを先日貰ったとき、この一節にわたしは静かに佇んでいた。そして「書く」ことを、思っていた。

 

* そのあと、こんなメールもわたしは貰っていて、返信もした。

 

* ご多忙の中、生殺与奪の魂を「機械」へ依存しなければならない時世。トラブルは解消されたと拝察いたします。それでメール致します。

芥川の「蜘蛛の糸」みたいな「線」に頼って情報の宝を託す。

物を書き、話し、対話し人間と人間が時間と空間を共有する。蜘蛛の糸の上で。恐ろしい世界です。紙は長持ちする。機械は故障する。磨耗。品質。

今の日本に、若者に誰が「ものづくり」を教えているか。

黒潮の底の流れを知る。ことはない。ただ表面の流れにのみ目が移ろう。時流のみ目が追う。薄氷の上を歩いている。電子の世界を知って「バベルの塔」を築いていますね。すぐ「リカバイ」出来るから物事の「本質」を真剣に知ることも出来ない。「浅薄な世界」に魂を乗せているように思います。ハードの脆さを誰も知らない。磨耗。バグワンは磨耗をどう見たか。

山折哲雄。彼はバグワンをどう見るか。失礼を省みず。

 

* 情生於文 文生於情 なにもかも、それほどのことではありません、無いも同然、意識の浮游ですもの。こだわりなく遊べるのです、だから。湖

 

* 情生於文 文生於情 ありがとう。打てば響く天の月  浮遊。8文字を大切に。

 

* バグワンを介して言葉を交わすことのある数少ないメールの人で、面識も知識もない。だが、さきのメールは、切っ先が急所に触れている。わたしは、危うくかわしただけ、かわせてもいない。危ないことだ。

この「闇」をもし訪れてくる人は、ただわたし一人のことばでなく、もっと多くを豊かに聴かれるであろう。

200212・7 15

 

 

* 小説「慈子」は美しい文章の究極だと思っています。一つと限られれば、『みごもりの湖』が好きです。佳い高校生活だったのですね。

私の高校三年間は何だったのか、何の感慨も沸いてこない高校生活でした。ガリガリとお勉強をするで無く、知識欲も無く、友人を多く求めるで無く、クラブを楽しむで無く、歳並におしゃれに、お稽古事に励むで無く、三無どころか、五無の時期です。三年生で茶道を習う機会にも恵まれましたが、一年限りのご縁でした。

自主的に行動したものはなく、毎日淡々と同じコースをハメを外さず通学するマジメを絵に描いた覇気のない高校生だったなあと。

今を踏まえて人生をやり直せれば、と時には思います。

 

* いろんな高校時代がある。「高校三年生」とうたいあげた流行歌があったが、青春は、けっして甘いばかりではない。灰色のようにしみじみ嘆いていたこともあった。あの当時に、読んでいた本は、土に水のしみるように身に付いている、今も。谷崎と源氏と高神覚昇の「般若心経講義」そしてバルザック「谷間の百合」やデュマの「モンテクリスト伯」など。いやいや、もっともっと。斎藤茂吉の「朝の蛍」や若山牧水の「別離」なども。

「十二月八日」なればこそ、こういう回顧もなにかしら身内に音楽を蘇らせる。

2002 12・8 15

 

 

* 大雪のあとを踏みしめて、新宿に出、スペイン遊学一年余を経て帰国した河村浩一君と食事し歓談。帰国して直ぐ再就職先をさがし、早くも就職は決定した。さすが。

お祝いも兼ね、ゆっくり食べ、飲み、話してきた。写真もたくさん見て、スペインやイタリアのおもしろく興味深い話を、たっぷり聴いた。疲れて近国の旅行先から帰ってきた家近くの路上で、数人の強盗に不意を襲われ、頚をしめられながら、あわや助かったこと、その際、身につけた武道のたしなみから、おそらく相手には生涯響くだろうほどの反撃を加えておいたことも聞いた。彼は合気道の国内チャンピオンなのである。生化学や薬学の畑で仕事をしてゆくようだが、またスペインで「料理」の腕も磨いてきたという。なんとも頼もしい工大生である。まだ三十に少し間がある。独身である。

一日も欠かさず日記を書いてきたらしい、かなり赤裸々に書いたというそれも、いずれ見せてくれるそうだ。

 

* いま、河村君から、「スペインのユネスコ世界遺産」に関するレポートがメールで送られてきた。デジカメでとったという綺麗な写真も数葉挿入されているが、写真をそのままホームページへ持って行く手順や技術がわたしになく、残念だが文章だけ、「E-文庫・湖」の「旅の日々」に収めた。まさしく理系の報告書のようにきっかり書かれてあるが、エッセイとして読まれるように体裁は和らげた。

2002 12・9 15

 

 

* こんばんは。そちらもお寒いことと存じます。

「湖の本」の新刊、ありがとうございました。少し前に届いていましたが、秦さんのパソコンの復旧してから連絡、と思っていました。ゆっくり読ませていただきます。振込は、近いうちにいたします。

討入りもまだなのに、今日は大雪ですね。昨日のうちにスタッドレスタイヤを買っておくべきでした。明日の朝、道路が凍っているかもしれないと考えると、憂鬱になります。勤務先は、かなり遠いので。

泉鏡花を読んでいた高校生の頃、雪の嬉しくて仕方のなかったことを想い出します。駅まで歩く傘の中で、落ちて来るひとひらの向こうに、鏡花の描いた金沢の積雪を望んでは、足跡を残すのがもったいなくなったりして。

「古今独歩の美しい幻想境を歩む一方、愛憎の念と共に日本の虚栄虚飾社会に批評の視線を鋭く刺し込」んでいると読み得る、体験も学習も、持っていませんでした。美男美女ばかり登場する物語に、ただあこがれていたのです。

今は、天守に棲み、そこからも追われた彼らのことを想います。「龍潭譚」を、また読みます。

佳いお年をお迎えください。

 

* 雪というと、二つのことを反射的に思い出す。一つは徒然草のなかで、ある雪の日、なにかを消息したさきの女から雪のことに一言もふれていないような情けない人の言うことがきけますかと、兼好サンやられていた。もう一つは、雪の話なんかしないで、雪なんて嫌い、こりごりよと嘆いた富山育ちの看護婦サンのこと。一概なことは言えないのだ、人の世は、と教わった。鏡花が北国の雪を本音ではどう眺めたり思い出したりしていたか、すぐには思い出せないが、雪景色は美しく書いている。鏡花が急に読みたくなった。「由縁の女」なんかが。

2002 12・9 15

 

 

* 大雪だったようですが、お怪我などなさいませんでしたか。激しくなった風の音に、明日はちらつくかも知れないわね、と床に就きましたら、先ほど、山の向こうが白く霞み、見る間に一面真っ白。霰です。

冬景色の嵯峨野、行ってみたいなァ。

と、そこへ、イラク査察の臨時ニュース。八日明け方の放送です。寒さが続きます。どうかご自愛のほど。

2002 12・10 15

 

 

* 湯に浸かってまた上がってくると、始末の必要なメールが来ていた。二三返信した。

 

* つい一筆であります。「映画」。

駆逐艦の艦長とUボートの艦長との映画「眼下の敵」は何回見ても面白く、サラリーマンの世界で「部下をどう見て鼓舞するか」、「リーダ」とはといった模様を見せてくれました。一流のものの見える艦長で、敵への畏敬と尊敬がありました。ロバートミッチャム、クルト・ユルゲンス。米と独。魚雷を感でそらす。〔戦争〕にロマンが無いと潜水艦の艦長はぼやく。男の人生の詩を無意識に語る。また映画の音楽も素晴らしい。映画の話を読んでメールをしました。

「雨月物語」。原文は読んでいませんが、映画で見て、原作の基盤が深いと思いました。

つい先生の時間を盗みました。

 

* この人は東工大の卒業生ではない。若い人か。

2002 12・11 15

 

 

* 夕方には、また、日比谷で、久しぶりの若い人と逢って、旨いウイスキーをしっかりのみ、そこそこの食事をし、なによりも静かに、ゆっくり歓談。髪をきれいに切っていた、「秦さんに逢うので」。疲れもとれて、ほうっと心楽しい時間。興味ある話題が互いにしっかり選べて、話が、きちんと繋いで行ける安心感。これが嬉しい。この安心がないと、乏しいと、対話に途方に暮れ、疲れる。

昼間の人とちがい、美術にはあまり親しめないが、優れた演劇の、優れた言葉にはつよく惹かれるというこの人の述懐は、印象的であった。一種の「音楽」として文学・文藝を考えてきたわたしの思いに触れてくる。わたしは演劇の「舞踏」性に惹かれてそこから歌舞伎や能へ近寄っていった。しかも演劇言語の魅力にいつも餓え渇いている。なかなか満たされない。演劇言語の迫力と魅惑で観せてくれる芝居は、やはり私には鏡花であり三島であるが、そしてやはり歌舞伎と能だが、たとえ翻訳されていても、シェイクスピアの総ての芝居が、言語そのものの演劇性でつよく魅するものがある。わたしのひそかに手に入れたいと願っているのは、シェイクスピア劇の字幕つきで良くできた沢山なビデオである。

この十五日には、井上ひさし作の群読らしい忠臣蔵を俳優座劇場に聴きに行く。

 

* 何でもいい即席でわたしを唸らせる上手な「ウソ」を書いてみるように、学生達に書かせたことがある、その昔に。みな、閉口した。いざとなると、とてもほんとうのように「うそ」は上手に書けるものでない。ものを「書く」志のある今夜の若い友達に、今日のデートを短く「ウソ」に書くよう求めておいた。「講義を受けにきた」などと色気のないことを言うから、それならと、昔ながらの「アイサツ」を突きつけたわけである。

 

* 有楽町駅まで歩き、地下鉄に乗った。お連れサンは飯田橋で降りた。降りぎわにかるく握手。家に帰ると、たくさんメールが来ていた。郵便も来ていた。奈良あやめ池に暮らしている高校の昔の友人から贈り物が届いていた。茶道部にいた二つ下の人で、卒業以来一度も逢わないが、湖の本をずっと購読し、私より一つ上級生だったお姉さんにも勧めてくれている。

湖の本の払い込みには、「楠木の籠城に応援します」と多額の送金をして下さる読者が今日はことに多かった。こうしてみると、わたしは、今日一日は、ま、だいたい何もしないで心楽しんだのである。よかった。

2002 12・12 15

 

 

*  こんにちは。年の瀬に向かって 次第に時間が加速しているようです。

1~2ヶ月前 HPで秦先生の著書を知り 「茶ノ湯スタルベシ」から・・数冊拝読させていただいております。先日は「蝶の皿」「春はあけぼの」と 両側に置いた状態でした。そんなこと不可能なのに両方読みたい気持ちに急かされていたのです。

それほどまでに・・・。「春は、、、」を途中まで また「蝶の皿」へ。また戻り。。。をくりかえし。そして後から もう一度読み直す。こんどは ゆっくり読み進めていくのです。

ごめんなさい。こんな失礼な読み方をして。いままで 存知あげなかった分を取り返すように 夢中でした。あまり本を読まない私が ここに来て取り付かれているようです。

「春は、、、」のような解説でしたら もっともっと興味が持てたのではないかしら? 文系が苦手で数学の教師(15年ほど)をしていました。そんな私が弟妹たちには いつも「本」のおみやげを持って帰りました。 遠いむかしのことです。

今年は還暦。長いこと 表千家流をたのしみ ここに来て秦先生の「湖の本」に出会えたことは 茶の湯ばかりでなく 読書の楽しみも倍加いたしました。ありがとうございます。

表紙もステキです。バッグに持ち歩いたり 汚れないように大切にきれいな包装紙で上表紙をかけます。とても気分がいいです。

”感謝のこころをお伝え致したくメールを書きました。”

どうぞ ご自愛くださいますように。  愛知県  * * * *

追記: 私語の刻は毎日のように読ませていただいております。感謝!!

 

* 始めまして、随分前に 『茶ノ道スタルベシ』が話題に出てからさがしておりますがありませんで、このたび版元に注文との書き込みに本屋さんに注文したり、自分でパソコンから注文したりしましたがダメでした。どのようにお願いすればよろしいのか是非教えていただきたく、失礼ながらこのページをお借りいたしました。どうぞ宜しくお願いいたします。

 

* 秦恒平著「茶ノ道廃ルベシ」の入手は、至極簡単です。郵便局から、「振替」で、

00140-8-168853  湖の本版元 宛て 一冊2000円 お送り下さい。他の巻も大方同じです。郵便局から入金の通知ありしだい、すぐ、著者が識語署名して本を送ります。

 

* 少し長いメールですが。

魅力ある「私語の刻」に僕のメールが載り、汗が出てくる恥ずかしさと嬉しさを久々に経験いたしました。またご多忙の先生の「時間」を盗むことになりますが、僕のある素性です。お忘れ下さい。

昭和11年共に九州小倉生れの親友が東工大卒で幼稚園から今に至るまで交友が続いております。彼から花田清輝、奥野健男の太宰治論の話等を聞く度に僕は影響されながら今の僕があるような者です。僕の専攻は機械工学でしたが大学は九州で、川崎 * * 線の電子計算機の会社を4年前に定年です。

先生を慕っておられる今の東工大卒の方々とは時代が違いますが、先生は魅力のある方々を「文学」を通して「人間たるもの」を教えられた。羨ましく、また、うべなるかなと思います。「短歌・俳句」の一字を考えさせる授業は凄いといまでも思っています。余談になりましたが。

上杉吉昭様から個展の招待状を僕も頂きました。先生の私語の刻に以下のことが書かれております。

「上杉さんは温雅に清潔な風景をよくされる人で、基本のデッサンが隅々までい生きて堅固な把握が出来ており、すこしの動揺もなく、画面がしーんと奥深い。それが大きな魅力で、また一つの壁になっている。もう一つ突き抜いて欲しいものもある。」

最後の二行は、他人では本人へ言えません。同感です。

先生が「絵に志のある方」を上杉さんの個展へご案内された。ああ人というのはこんな「先達」を一生に一回はしたいなあと深く感じた次第です。

私事ですが、上杉さんとは2年前にたまたま小田急線の秦野駅から登った弘法山で氏が写生をしているときに会った一期一会の出会いでした。不思議なご縁です。

今日はトニオクレーゲルのような気持ちでメール致しました。

 

* よほど若い人と思っていた。同行の年代であった、失礼しました。

2002 12・13 15

 

 

* 好きな政治家はめったにはいない。心持ち贔屓にしている人が数人か。

最も嫌いな一人の保守党党首野田某が、馬脚をあらわし、党を尻目に自分一人で自民党に復帰したいとひそかに画策していたとやら。そういうヤツだとかねて予言していた。扇千景の党首で大臣がねたましくて、何かというとモジモジうずうずしていたが、党首の座はやっともぎとった。大臣はアテがはずれた。その辺は小泉総理の眼は利いていた。打算のマインドしかない政治屋。ハートの欠けた、人間の言葉を、保身のためになら平気でふみにじる安い政治屋。そう疑わなかったが、茶番を演じてくれた。あんなのと比べれば、鳩山由紀夫の方がはるかに佳い。次の選挙では落とすべき何人もの中の、最もけちくさい一人である。

 

* こういう永田町的な人種へのひどい厭悪感を、自分がよほど若くからもっていたことを、処女長編の『慈子』を校正しつつ読み直していて、痛感した。朱雀光之と肇子、そしてお利根さんたちの深い身内感、また肇子の亡くなったあとへ加わった慈子や「わたし」の来迎院という静寂な小世界の、徹して世離れた設定には、なにかしら此の世ならぬ時空への、身を絞るほどの憧れと、そうでないものへの徹底的な厭悪がはたらいていた。桶谷秀昭さんがこの作品や「畜生塚」をびっくりするほど評価されたのは、一つにはその背現実のリアリティのためであった。

だが、わたしには、わたしの書いた幾つもの小説は、「作品」ではなかった。文学のために書いたモノではなかった。

どんなにか、慈子を「わたし」は、宏は、愛していただろう。いや、今もだ。時の勢いで、わたしはあれから随分馬齢を重ねてきた。あの頃のあれほどの愛や感動の炎を、もう、わたしはかきたてる力を喪つているに違いない。「お利根さんの話」にいまも耳を傾けながら、身の傍に慈子をありあり感じ、わたしは、しばらくの間泣いていた。こういう変な作者はあまり世間にないだろう。わたしにはそれは一作品なんかでなく、わたしの命の燃える場所だった。其処でわたしは生きた。ほんとうに生きた。

「愛は錯覚に過ぎない、だが価値ある錯覚だ」とわたしは戯曲『こころ』の「K」や「先生」に言わせていたが、慈子と共生していた頃、「絵空事の不壊の値」ということをわたしはよく胸に抱いていたのを思い出す。

2002 12・13 15

 

 

* たかが師走 されど師走  暖かい日差しを浴びてガラス磨きに専念。日々に、たとえ夕飯のお献立であろうと何かを考え、何かを行動するのはボケ防止の条件とか。どんなお婆ちゃんになろうともボケだけは回避したいものです。

今、「私語」を読み「慈子」の箇所では泣いてしまいました。

折りしもCDで、イタリアカンツォーネ「カタリ カタリ」を聴いていたのも加味したかも。大好きで、聴く度に意味なく涙が溢れます。

友人たちが最初に読んだのも慈子です。「絵空事の不壊の値」が、秦さんの小説全編を貫いているのでは。そんな作者がいいのよ、とつくづく想います。

 

* 日吉ヶ丘高校にいた最大の収穫は、間違いなく「来迎院」でいつもさぼっていたこと。それが『慈子』になった。こんなところへ、好きな人を置いて通いたいと。光源氏が母に譲られた二条院の邸に手を入れ、「かかるところにおもふやうならむひとをすゑて住まばや」と切望したのを、もう身に切なく覚えていたのだろう。読み直して百パーセントいい気分というのではなく、むごい小説であると胸も痛くした。この小説で、一度は女性の読者をうしない、しかもまた女性の読者を多く得た。男性の読者もえた。もう少し易しいツクリにしていたらと言われたけれど、それの出来ないのがわたしの本領か。

2002 12・14 15

 

 

* ソウルへ仕事で行くと言っていた人。気を付けて。ピョンヤンからは、すぐの都会だ。

2002 12・14 15

 

 

* こんにちわ。 三鷹在住の友人が、「ジブリ美術館ができて、三鷹も、変わンないけど、変わったわ」と笑いました。いまや美術館へ向かう道になった、玉川上水沿いの、あの小道。拡げられ、舗装され、“風の散歩道”と名付けられたようす。

あたたかな雨が、音もなく川面を打つ桜桃忌、細い、土の道を、万助橋まで歩いた東京暮らしの昔を、遙かの地で懐かしく思い出しました。

強く吹く寒風に、空気も、川の水も、一層澄んで感じられます。今朝の霜は、八時を過ぎてもまだ溶けませんでした。お風邪などお召しになりませんように。

2002 12・15 15

 

 

* カナダに久しく在住の友が、京都の母校に、ホームページがあるよと、高校も、次いで中学のも小学校のもアドレスを教えてきた。高校にも中学にも、すぐ「ペン電子文藝館」の掲載一覧をメールで送った。

卒業した小学校が、全校で討入りの義士ほどの人数も無くなっている。中学も三学年の合計が八十人あまり。わたしの頃は、両校とも六百から八百人ほども通っていたのである。わたしの小学校とお隣の粟田小学校が近く統廃合の予定とも風の便り。なんだか、すうすうと風に背をなぶられるようである。

 

* 今、少し長めのものを書いています。まだ足りない部分があると思っているのですが、どう付け足すかというところで悩んでいます。慌てずに、推敲を続けます。

映画「荒馬と女」の、「迷ったときは、立ち止まればいいんだ」というクラーク・ゲーブルの台詞が、印象に残っています。これからどうしてゆけばいいのだろうという索漠とした不安が、ふっとやわらぎました。でも、それはほんの一瞬、すぐにじりじりと焦燥が頭をもたげてきます。そんなとき、井上靖の「愛する人に」を想います、「白き石のおもてのように醒めてあれ」と。

外は雨です。ちょっとだけ、大好きな香港のアクション映画を観てから寝ます。おやすみなさい。

2002 12・16 15

 

 

* なんとなく休息している。山内謙吾「三つの棺」平林彪吾「鶏飼いのコムミュニスト」小島勗「地平に現れるもの」の三作が、スキャン未了でのこっている。事務局に新たに入ってスキャンを手伝ってくれていた人が、早々の壽退職となり、おめでたいが、痛い。この辺で今年の「ペン電子文藝館」作業を収束したいが、スキャンは残ってしまうかも。

歳末は忙しく追われている人が多い、あたりまえだろうが、わたしはプライベートな仕事をしばらく機械の上で楽しみたい。「湖」の送本を月初めに終えられ「よかったわね」と、妻に。おかげさまで。たしかに気持ちは、やや、ゆっくりしている。

真岡哲夫さんにお祝いを戴いた。かなり照れくさいが励みにしたい。

 

*  今日の札幌は、午後から雪になり、窓の外を見ると、大粒の雪が、暗闇にまっすぐ降り積もっております。

昨日、少し早めに、お誕生日のお祝いをお送りしました。ご健康に留意され、来年もまた美味しくお酒を楽しめますようお祈りしています。

「ペン電子文藝館」、「湖の本」、「闇に言い置く」・・・。たくさんのお仕事を独力で切り拓いてゆく姿勢は、プライオリティーやオリジナリティーを尊ぶ研究者の私からみても、かくありたいと思う理想の姿です。「湖の本」に掲載されている初期の作品は、今の私より若い頃、仕事の寸暇を盗んで、昼のバーのカウンターで書かれたりしたとも。そういう軌跡を、「湖の本」ですから水脈と言った方がいいでしょうか、辿ることで、私も充実した日々を送りたいと願っています。

暮れから新年にかけ、ご多忙と思います。風邪も流行っております。くれぐれもお大切に。いつか、お目にかかりたいですね。

 

* 京の名割烹「千花」も松前の最上等「よろこんぶ」を例のように送ってくれた。

2002 12・18 15

 

 

* 二十八日の「とうどう光源氏め」に、おもわず、わらってしまいました。たのしんで読んでいらっしゃるごようす、それに、男性の読者ならではの口吻、光源氏へのまなざしがうかがわれるようで。

はじめて「若紫」を読みましたときは、光源氏の行動を果敢とおもい、愛情薄き父や継母のところへ引き取られなくてよかった、とおもいました。そして塔に幽閉されていたおひめさまが、白馬に乗った王子さまに救い出されるという、西洋のおとぎ噺を重ねていたのですから、幼稚な読者でございました。

光源氏のいやらしさは空蝉をつまみ、軒端荻を手折ったときの言動で充分知らされていましたのに、「若紫」では、夕顔に死なれ、恋にしおれた貴公子の面ばかりを見ていたのでございましょう。わたくしも「若紫」の巻、好きでございます。のちに紫上になる少女の身に立ってですけれど。

『痴人の愛』には、ちょっとした思い出でしょうか、聞かされた話があります。

母がほんの小娘で父のところへ来たとき、二十歳も年上の父は、母のために、まず「婦人公論」を毎月とってくれ、次いで『痴人の愛』を読ませようとしたのだそうです。ところが母は、『痴人の愛』を、「こんないやらしい本」と投げ出してしまったと、晩年の母から聞きました。

そのときは、あえなく挫折してしまった父の妻教育と、おかしく聞いていましたが、 先生の、「若紫」の巻の源氏の振る舞いについて、「存外、男はこういうことをやりたがるものか」というご感想に、ふっと、目のひらける思いがいたしました。

 

* 特大上等の紅鮭を頂戴した。切り身大に包丁が入っていて、妻が助かる。冷凍された大物に、家の包丁で両身一尾を調理するのは難しい。ご親切。昨日の、極上北海道の純米酒によく似合う。

それはそれにしても、「親切」とは物騒そうな言葉だが、むかし、思案のあげく、「わが親を切ってでもするほどの厚意」と半ば苦しく釈してみた、が、どうかな。

2002 12・19 15

 

 

* おめでとうございます  今日がいつより光に満ちた一日でありますように。

新たなチャレンジに邁進していらっしゃるご様子。

昨夜、まぁるい月がにじんで浮いていた空。雨になりました。それもかなりの。

今ほど、旅サラダというテレビ番組で、しまい弘法の生中継をしていました。秦さんのお仕事が一層実り豊かになりますよう、お幸せでお健やかな日々をお過ごしになれますよう、これから東寺でお祈りして、来迎院へ参ります。

 

* 戴いたお酒と紅鮭と、赤飯とで、朝、ささやかに夫婦で朝食。村上華岳の「裸婦」図のパスネットを添えて妻にパドャマを貰った。わたしは、この間に買って置いたフランスの腕時計を妻に。今日は雨、そして雪かもと。夜向きへの外出は避けることにし、わたし一人でお招きの「小町」の能を観て帰ってくることにした。夜は、DVDで映画でも観ながら旨いワインを飲むとしよう。年相応にさらりと誕生日をすごしたい、息子の健闘を祈りながら。

 

* 札幌は今日も零下ですが、陽も射して良い一日です。私は次の論文が大詰めで、北大の先生と相談しながら、研究室で執筆中です。休日の静かな研究室で、世事のことを忘れ、論文に熱中している時間を幸せに感じます。今書いている原稿は、ウイーンの学術誌に投稿するか、もう少しがんばってアメリカの学会誌に投稿するか、どちらかになります。年内に書き上げてしまいたいのですが、どうなりますことやら。

夕方、今日から始まる映画「モンテクリスト伯」を観に行こうかと思っています。 誕生日をお祝いしながら・・・。

 

* 昨日のアキ時間に映画「モンテクリスト伯」を観たかったが、映画館へ行ったら開始後三十分、で、諦めた。その代わりに買ったDVDが、アカデミー作品賞の「アメリカン・ビューティ」と女優主演賞の「ロリータ」だった。

 

* 小闇サイトでも、見出しにさりげなく、「お誕生日おめでとうございます」と。わたしへの祝意だと思いこむところが、気のよさか、図々しさか。信じている。

2002 12・21 15

 

 

* 数字が左右対称です。1221。足すと六になります。中国で大事にする数と聞きます。

電子であろうと紙であろうと生きる今の感動を感謝します。

雨降りて降るなら雪の師走哉  研一

 

* 感謝。秦建日子からも、「誕生日おめでとうございます。昼間に電話をしたのですが、お留守でした。こっちの仕事は、それなりに進んでいます。年末帰ります。風邪などひかれぬよう。建日子 拝

追伸.母さんにローストビーフのお礼を伝えてください」と。そちらも、どうか風邪には用心して。

2002 12・21 15

 

 

* 雨集のしまい弘法  東寺から、来迎院、曼殊院、詩仙堂、金福寺、法然院と回って、青蓮院に入ろうとしたところで、顔見世に来た友人から電話があり、辰巳稲荷側の甘味小森で落ち合いました。おしるこを食べ、大丸で笹屋伊織のどら焼きを買って。

人影のない冬景色の、濡れそぼった様は、それぞれに魅力的でしたが、今回は、金福寺が気に入りました。今度は雲龍院を訪ねてみたい。

清閑寺も来迎院も、そして新門前通も、ミーハー雀が覗いちゃいけない聖域と、長いこと憚っておりましたが、行って、よかったです。

昨日、出がけに郷里から切り餅が届き、大丸の洋菓子売り場で、おいしそうなチョコが目に止まりましたので、合わせてさきほど、黒猫の宅配でお送りしました。ほんのわずかで恐縮です。ご笑納を。

2002 12・22 15

 

 

* 「もう二人乗りの自転車は危ない」:あったり まえです。

「スローで走れないのが 危ない」:冗談ではありません。

「そして息が上がり、・・・・・」:しょうがねえなもう。

 

* また叱られました。

2002 12・22 15

 

 

* 三連休  どうやら雪も降らずに慌しく過ぎて、クリスマスも関係なく、その後数日は多分気忙しく、今年も暮れていきます。何を急ぐわけでもなく、これ程師走をのんびりと過ごせる気分になったのは、何十年振りでしょうか。新年の為に大げさな用意をしないと決めたのが、非常に気持ちを楽にしました。

それでも元旦には子供達が年賀に来てくれるので、最低のお祝いの用意はしますが。

例年この頃は多忙で酷い風邪を引き、それを押してマニュアルとおりに夢中で働いていたのが夢の様です。

何歳まで生きられるのか、生きなければならないのか。最近はそう永生きもしたくないな、なんて・・・

いやなことはなるべく避けて、ゆるゆると生きたい気分です。

眠いです。日付の変らない内に休みます。おやすみなさい。

 

* なるほど、或る程度の年齢になって行くと、男女の別なく、こういう心境へ推移してゆくわけか。「TVタックル」で政治家どもが、政治評論家もしたがえ、喚き合っているのをさっきまで見聞きしていたが、暖炉のうえに降り落ちる屑雪のような言葉がちらついていただけだ。生でも死でもない。いやなことはなるべく避ける、というわけには行かぬ日常であるが、いいのいやのという価値判断をそんなもののためにしたくないとは思う。自分になにが大切だろうか。 DOINGではないと、先ず心得たい。BEINGへひたと目を向けていたい。

2002 12・23 15

 

 

* お目がお疲れのようで、少し心配ですね。私は、このごろ、床についてからの読書を少なくして、オーディカセットを聴いてうまいを求めるようにしております。イヤホンの声が自然の寝入りを誘う。区切りをつけてどこまで聴くといったこともありますが、おおかたは、朝気がつくとイヤホンがはずれてころがっているといった、そんなこともなげです。

先日、ブルックナーの室内五重奏を聴きにいって、半分ほど寝ておりました。後日、あるオーケストラのベース奏者にその話をしたら、ステージから気持ちよさそうに寝いっている聴衆もけっこう目に付きます、それでいいのでは、と言われ、ホッとしたような。

いま聴いているオーディカセットは、前に面談したインドの聖者、シュリシュリ・ラビシャンカール、それから昔のクリシュナムルティの録音テープ。バグワンはビデオテープで、スチル画面に近く座したままのぬしの双眸に魅入られ深い声音を楽しんでいますが、くぐもる英語の声を聴きとろうとすると眠くなってくる。

昨夜は、ラビシャンカール師の”Buddha, Manufestation of Silence ”を聴きながらいつしか、いつにもまして夜と仲良くなっていたんだと思います。憶えていないのがいいかも知れませんね。頭を空っぽにするには。内容は、「いきつくところ、言葉はいらなくなる」、秦様が「私語の刻」で紹介された仏陀の「拈華微笑」に通じるかとも。「花をつんではおつむにさして。。。みーんなかわいい小鳥になって。。。」そんな光景が目に浮かびます。

ラビシャンカル師の声音は、かなりのオクターブの高さ。バグワンやクリシュナムルティの低く静謐な声とは異質でも、実に、同類のたゆたいがあります。30分の録音でも、活字にすればさほど多くない。多くを語らず、ゆるやかにおだやかに、吸呼気も次第にゆるりと、そんな感じがします。私の乏しいヨガの経験でも、インドのヨギは、ブリージングイン(吸気)、ブリージングアウト(呼気)の按配を念入りに教えてくれました。「あるがままに」= as you are,  as it is,  ”be” , ”being ” といった導きも繰り返し繰り返しありました。まだ身についているとは自覚しておりませんが。御身おいといください。

 

* 今日も寒い師走の日でしたが、美味のお酒はたのしまれましたか。

漱石から始まり哲学の「言葉」へ展開していくこの頁は、つい見ます。それは自分のその日の節目であることもあり、偏りを確かめるヒントでもあります。広い知識を基盤に自分の価値を大切にされており、自信に満ちた内容は、読む人に光ります。

開高 健の短編「珠玉」を読み初めて、老子の言葉を知りました。「道ノ道(イ)ウベキハ常ノ道ニアラズ」です。

ことば。道を「言葉」に置き換えてたらどうなるか。

 

* どのように真理らしきことも、言葉にし口にしたとたん、真理からは遠いまがいものになる。だいじなことほど、沈黙してあらわすより無い。「わかる人には、なんにも言わんでもわかるのん。わからん人には、なーんぼ言うてもわからへんの」と、わたしが生まれて初めて心底尊敬した一つ上級の中学三年生女子の言葉である。仏陀もキリストも、これぞという機微にふれた深い問いには、つねに沈黙でしか応えていないとか。

何度も書いた気がする。ホフマンの「黄金宝壺」はわが愛読書であるが、あのなかで、壺に満たしたその水に、言葉という言葉を書いた紙を浸してゆくと、ことごとく文字は溶け流れ消え失せて何も残らない。むかしむかし、初めて読んで、そこのところで厳粛さに総身にちり毛立ったのを覚えている。むかしむかしというのはワケがある。お金がないから、岩波文庫も星一つ(当時15円)のものしか買えなかった。その時代の買い物だ。

わたしは「言葉」を否定しているのではない。魔法の水にひたしても簡単に消え失せ流れてしまわない宝の言葉が書けるだろうかと、シジフォスのように書こうとしてきた。わたしが通俗なただの読み物を厭悪するのはそのためだ。

 

* 慈子  この作品は私にとって特別な宝物です。出会えたことに深い感動を持ち続けています。繰り返し味わいたいと思っています。現実は日々雑務に追われる俗世界。まだ帰宅の電車の中です。十時。

 

* 3月の南座夜の部は「源氏物語」(團・新・福・菊五郎・菊之助)。木挽町で「浮舟」(仁左・玉・勘)がでるようです。

冬の小雨。暮れ方の曼殊院、宵闇の祇王寺。嵯峨野の夜道、嵐山。

点在する灯りに細かな波がきらめき、瀬音途切れた先、カーブを繰り返す暗い道の向こうに、水を落とした広沢池…。きりきりとした空気、しずかなくらさの冬の京も好き。

ですが、ご本を読んで、春はあけぼの、春到来が一層楽しみになりました。この春、京では三月末に桜が咲き、いっぺんに春の花が揃う有り様でしたとか。

 

* いろんなところから、いろんなときに、いろいろ励まされる。不徳ナレドモ孤デハナイと、つくづく有り難い。

2002 12・24 15

 

 

* スペインの空をわたって、はるばると、深夜に、佳き声有り。齢三十の主婦卒業生。

 

* 恒平さん  家の改装工事が終わり、この二十日、とうとう我が家に引越しました! 今日コンピューターが接続でき、八日間心にとめていた恒平さんのお誕生日へお祝いの気持ちを、やっと伝えられます。67歳のお誕生日おめでとうございます。これからも恒平さんの一日一日を、遠くから共に楽しみにしております。どうぞくれぐれもお身体大切に。

恒平さんにメールを送るつもりで開いた矢先に、恒平さんからのメールを受取りました。気にかけていただいていたと思うと、とても嬉しいです。

この一年、容易ではない年でしたが、きっとだからこそ、とても良い一年になりました。何かを克服した後の達成感というのかしら。何はともあれ、現在、自分の時間と空間をもてることのありがたさ、そこから生まれる心のゆとりをひしひしと感じています。そして何よりも嬉しいのは、八ヶ月半にわたった義理の両親との生活で残ったのが、疲労でも嫌悪でもなく愛情だったこと。今まで、自分の存在が家族の誰にも関心をもたれない孤独さと惨めさにしがみついてきたけれど、関心を持ってもらうためには、私自身彼らへの関心を持ち、彼らと時間を共有しなければならないんですね。そう言えば、毎年どうにも耐え難かった十二月二十五、六日の「家族の集い」も、今年初めて、「二日間の我慢」と思えました。

まだ家の中はがたがたしています。八ヶ月半、無しで済んでいたからこそ、預けていた倉庫からものが運び込まれる度に、これらは本当になくてはならないものなのだろうか、と思わずにいられませんでした。必要ないから捨てればよいとは一概に言えず、要らないのに要る、という矛盾と向き合っています。物のもつ価値は必要性にのみあるのではないから難しいですね。

今日はこの辺で。どうぞ良いお歳をお迎えください。 京

2002 12・29 15

 

 

* (出勤しない日は、家族の起きて来るまでのこの時間が私の時間なのです。朝八時)

十二月中旬、小樽に行ってきました。屋外の作業だったので、少し時間にゆとりを見て出かけたのですが、少し吹雪いたものの作業は順調に進み、最後に数時間小樽市内を歩く余裕もできました。そして雪の街に魅せられてしまったのです。

スキー場のようないかにも雪を楽しみなさい、という場所ではなく街自体が雪に包まれる時、それがどれほどの魔力があるか私は目眩がしそうでした。

粉雪、とは象徴的な意味でなく、本当に雪が小麦粉のようなサイズで落ちて来るのだということも初めて知りました。寒がりの私は、昔から冬になるとあたたかな街を思い浮かべてきたものですが、街一面が白を基調に色調統一された時に人に与える絶大な効果には、浅はかにも思いいたらなかったのです。

函館にかつて数回出かけているのですが、一度も雪に遭っておらず、ただ、必ず一緒に行く先輩が最後の函館出張で、歩きながらこんな話をしてくれました。

「GLAYの、Winter Again を知っている?」

「歌ですか? 知りませんけど」

「その中にこんな歌詞があるんだ、『生まれた街のあの××を、あなたにも見せたい』  さて、××には何が入るでしょう?音で3音、字で二文字。ちなみに、GLAYは函館出身なんだ」

暫く考えていましたが、「ゆき」でもなし「ふゆ」でもなし。虫食い質問の秦先生なら、お分かりになりますか? その二文字が、どれほどのインパクトのあるものか、私は今回の雪の街で痛感しました。

答えは「白さ」です。

小樽で一面の銀世界を見ながら、この街が恋人の生まれ育った街で、「生まれた街の白さを、あなたにも見せたい」と言われたら涙が出てしまいそうだ、と痛切に感じていました。残念ながら、色気も何もない仕事上の出張でしたが。

小樽の雪を見ながら、函館の歌詞を思うのもなんですけれどね。

函館は坂の街で、だからこそ海と街が一面に白くなる光景がより一層美しく見渡せるのでしょうから。

職場に帰ってきて、先輩に「白さ」を実感した、と話すと、「そうでしょう。私はGLAYは全く買っていないけど、人にはそれぞれ そこに持ち込んだら凄い!誰もかなわない!という土俵があるんだよ。 血に流れているもので。ヒロちゃん(彼は沖縄出身の島袋寛子のファン) に「花」を歌わせると凄い、とかね。キミにもきっとあるはずだよ、そういう土俵が。」

十年前の私だったら(先生に習っていた頃ですね)うるうるして、「私の土俵ってどこだろう」と思うようなコメントでしたが、いたずらに夢見ながら自分探しするよりも、日々を淡々と社会の歯車になって送るほうに価値を見い出している今の私では、そう簡単には影響を受けることもないわけで。

先生の土俵は、京都でしょうか。

またしても長いメールとなってしまい、申し訳ありませんでした。

お体がご不調とのこと、どうぞおいたわり下さい。

明日は大つごもり。よいお年をお迎え下さいませ。

 

* なにとなく誰にも、ひとに話しかけてみたい時がある。そんな時の、わたしは受け手として、聴き手として、わりに適した方の存在である。GLAYもなにも歌も知らないが、函館の冬は目に浮かぶ。一度行ったのは六月で雪は降っていなかったが、山の上にいて雪を感じた。ただもう一切が白かった、眼の底で。

「いたずらに夢見ながら自分探しするよりも、日々を淡々と社会の歯車になって送るほうに価値を見い出している今の私」という述懐は、わたしの卒業生たちのなかでは、最も早く届いた一つであろうか。是非をにわかには言うまいが、健康な人の握力のようなものを感じる。

そして、次のこの人の健康さも、すばらしい。

 

* 年の瀬も押し迫り、お忙しくお過ごしのことと思います。

先日は本当に有難うございました。

やっと私のスペイン滞在の日記を少しずつ校正し、昨年の11月、12月分ができあがりました。お暇な時にでも読んでいただければと思います。

改めて自分の日記を読み返していると、1年前の自分と現在の自分との違いに気付き、とても面白かったです。わずか1年の間に、心境も変わっていれば、色々な体験をしたものだと思いました。何と言っても、最初の頃の、スペインについてほとんど知らなかった自分を見て、驚きました。1年前でも、私はスペインのことを割と知っているのではないかと思っていたのですが、現在に較べれば、無知と言って良いレベルでした。それが日記を読んでいて、明らかとなりました。逆に言えば、この1年でそれだけ様々なことを学んだということの証なのでしょう。改めて良い1年だったのだと思いました。

それでは、良いお年をお過ごしください。

新しい職場での勤務は1月16日からになるので、それまでの間に、1月以降の日記も校正して行き、先生のところへ送れるよう、頑張ります。

 

* 日記を書いておくようにと、旅立ちの日に言い、約束を果たしましたと先日聴いていた。本文は「e-文庫・湖(umi)」の「自分史のスケッチ」に収めておく。

一人一人がみなそれぞれに生きる。あたりまえとはいえ、だから人の世はおもしろい。北朝鮮の人達のように均しなみの日々を強いられている国民は気の毒というしかない。僥倖のようにして帰国できた五人の拉致被害者達の、内心の、爆発するような「歓喜」をわたしは信じている、いまは表現されなくても。それでももう抑えようもなく表現されているとみている。わたしは、感動している。

幸福な喜ばしい「私」の日々のために、悪しき「公」を許容してはならない、その極悪の見本を、いま我々は「海彼」に見ているが、日本もまたそういう国であったのだ、昭和初年には。敗戦までは。忘れては成らないが忘れられている。だから私は、「ペン電子文藝館」の「招待席」に、時代を証言してくれる優れた遺産の作品を、一つまた一つ、心して選んでいる。平出修「逆徒」佐々木俊郎「熊の出る開墾地」黒島傳治「豚群」葉山嘉樹「淫売婦」松村延造「ラ氏の笛」山本勝治「十姉妹」木村良夫「嵐に抗して」金史良「光の中に」里村欣三「苦力頭の表情」などの小説は、そう簡単にもはや読みたくても見つからないが、今一度も二度も読まれて佳い作品だと思う。

宮本百合子も小林多喜二も徳永直も読まれなくなっていて、しかし、こうした文学からの声に耳を塞ぐことで得られていったのが、あのバブルであったことは、明瞭な史実であろう。バブルははじけたけれど、政治家だけではなく、多くの国民が、働く人々を筆頭に、学生も、庶民も、まだ目が覚めていない。まだ自分の「手」をさえじっと見ようとしていない。

2002 12・30 15

 

 

* 大晦日  お元気ですか、よく冷え込み、七時から七時半に床を抜け出すのが定りになりました。今のお日様を明日まで持たせて欲しいのに、雲行き怪しく、どうやら雪の元旦を迎えそうですね。

昨日の内にごまめ、好物の薄味の栗きんとん、丹波黒の黒豆を沢山作りました。かつお節と昆布の出汁を沢山とり、野菜の皮むきを終えて今一休み、これからお煮しめにかかります。

風邪を引かないコツは人混みの中へ出ない、過労に陥らない。歳をとるとそのあたりは避けて通れて、安泰に新年を迎えられ、元気にしています。

午後は娘夫婦の車で、たらば蟹と毛蟹を買いに寺泊までひとっ走りします。元旦は大阪勢を除いて集まってくれますが、孫は電話の声だけになり、これは寂しい限り。

どうぞいいお新年をお迎えください。

2002 12・31 15

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