ぜんぶ秦恒平文学の話

交遊録 2000年

* ちょうど二年ほど前に田中孝介くんと布谷智くんとが、保谷を訪れてくれた。あの日もいろいろと器械を設定していってくれた。もう一度田中君が来てくれ、ホームページ設定という、わが私史に画期的なことが実現した。あれから二年、学部を卒業前だった二人が大学院の卒業式を無事終え、また二人で我が家に来てくれた。数日前から、なんだかそわそわするほど心嬉しいことだった。二人とも立派に就職先も決まっていて、二重におめでたい。歓迎せざるべけんや。

* すこし遅めのお昼を妻に用意してもらい、ワインで乾杯、歓談一刻。ただ、わたしは口をつけただけ。二人は、いろんな面で対照的な仲良しであるが、わたしの相の手に乗ってくれて、それぞれに楽しく話してくれる。専攻の学問のことなどは、聞き届けるにはとても力及ばないが、とにかく気が合うので、間もいいのである。
 お定まりのように二階へ上がり、澤口靖子がいっぱいの部屋で、今日はカラースキャナの使い方を習った。手順のメモも器械の「メモ帳」に書いた。メモは別の紙にペンで書くものとわたしは思いこんでいた。「メモ帳」はメモのためにあると言われ、やっと気がついた。こういう迂闊さで、ほかにも、ナーンダというような簡単なことを、面倒くさくも遠回りしてやっていたのを、簡便で速やかにできるよう、幾つも手直ししてもらえた。この始末であるから、どうか、「秦サンはパソコンを駆使している」などと冷やかさないでもらいたい。

* カラースキャナで何をしてみたか。一月末に帝劇の楽屋で澤口靖子と並んで後藤和己氏に撮ってもらつたスナップ写真を、大きく器械に取り込んでみた。いやもう、綺麗に入った。
 写真をみると、わたしが、ボーッとしていたことがすぐ分かる。膝においた両手先が赤ちゃんか子供の手のように、ホワンとまるく、握るでなく伸ばすでなく、お茶の先生だった死んだ叔母がみれば怒りだしそうな、無造作というより無意識で無自覚な膝に置き方をしている。これでも茶名をもらって資格も裏千家教授なのに、このザマ。嬉しそうな顔もできず、きりっともせず、隣の靖子ちゃんのはんなりとにこやかなのに並んで、眠い河馬のようにぼんやりしている。なさけない。
 しかし、器械の画面いっぱいにカラー写真が、ぱっと咲いた。いい気持ち。これは田中君が教えてくれた。ついでに、大学院を中退して就職試験に東京へ出た頃のわたしのスマートな黒白写真も取り込んでみた。さらには、娘の朝日子がまだ小さかったころ、弟の建日子がまだ一つぐらいのころに、二人ともをわたしが抱き上げて三人で笑っている写真もスキャンしてみた。いちばん朝日子の笑顔の可愛い写真で、大好きだ。ホームページに入れるつもりではないが、自伝的な作品の一部に、京都や丹波の写真が入れば佳いかもしれないなと、今ごろ思っている。

* 布谷君は、麻雀をどこの誰とも知れない連中といきなり勝負できるような設定が可能だと、やり始めてくれたが、そんなことをもし始めたら、わたしは仕事が出来なくなるので願い下げにした。ただ、碁のでき親しい人と、二人で碁が打てるなら佳いなと、これも今頃思っている。

* 池袋まで見送り、中華料理を奢ってお祝いにかえた。もっとも、わたしは食べられないので、注射のあと、チャーハンを一人前とって、わたし分の料理は二人に分けて食べてもらった。それぐらいで、若い二人はやっと満腹してくれるだろうと思った。
 食べられず飲めないのは淋しいものだ。ふかひれのスープには、つい手がでた。二人ともそうそう飲む方でないので助かったが、うまそうに好きな老酒などやられたら傍観しているのはつらい。
 楽しかった。うれしい一日だった。
 2000 3/29 5

* 昼前、スペインからの「新婚」旅行で日本へ里帰り帰国した昔の女子学生と、三年ぶりに池袋で逢い、「甍」で昼食をし、メトロポリタン・ホテルの喫茶室で、ゆっくり時間をかけて話した。ちっとも変わっていない、スリムでキュートで元気溌剌。スペインでの生活が一年半、その前に一年間のドイツ暮らし。自分の意志にきちっと身を添わせて、自分の前途を悔いなく設計してきた人だ。話も楽しく、向こうの國のことを、尋ねれば、分かる限りはきはき教えてくれる。佳い批評も入る。
 武蔵野らしいところをぜひ歩きたかったと、彼女の希望で白金の自然教育園をゆっくり一回りし、環状線で有楽町に戻って、ビアホールの「レバンテ」で乾杯し、握手して別れてきた。
 三年前、ドイツに発つまえにも池袋で食事をして、元気で行っておいでと励ました。一年間の勉学の間に、一度も欠かさず約束の「ドイツ便り」を送ってきた。これには感動した。その間に、やはりドイツまで勉強に来ていたという夫君と出逢ったのだ。今度は、その夫と、夫の両親もいっしょに日本に伴ってきた。
 そんな中で、半日を「秦サン」と屈託無く楽しそうにくつろいでくれた。こういうことは、なにも、わたしには珍しいことでなく、学生がわたしに逢いたいと言ってくれば、分け隔てなく、男女の別なく付き合ってきた。これからも、誰とでもそうするだろう。それでも、今日のデートは、ひときわ懐かしかった。スペインは遠い、今度はいつと簡単には予期できない。
 2000 6/8 6

* そうそう、昨日今日はいい便りがつづいたのだが、その中に、昔、丹波から母が機敏に京都へ連れ帰って、家にも戻らず清水坂下の樋口医院にかつぎこんでくれた、その樋口医院の女先生からも嬉しいお便りが届いた。本を送ったからだ。むろん昔に診ていただいた男先生はとうの昔に亡くなっているが、あとを嗣がれたこの娘先生にも、高校時代に何度も診察してもらっていた。ご健勝だろうかという気持ちもあったが、お手紙が届いた。わたしのことも記憶していただいていた。
 ごく幼少の一時期、わたしは建仁寺の南門の近くの谷村という産
婆さんの家に預けられていた、それも覚えておられた。その辺のご縁で男先生に診て貰えるようになったのかも知れない。父母の家からはかけ離れた松原通の樋口医院との縁が長い間よくつかめなかったのが、少し見えた。それも嬉しく、懐かしい。
 中学で理科を学んだ女先生が、丁寧なお便りに添え、糖尿病のお見舞いにと「宇治上林」のお茶を送ってきて下さったのには、身をちぢめて感謝した。気っぷのいい、人気のあった当時は若い若い女先生だった、正月に友だちとお宅へ押し掛け遊ばせてもらったりした。この先生のおかげで、中学時代、わたしは苦手なはずの理科がおもしろく、沢山な基本の知識を蓄え得たと思う。

* そして今日は、尼崎から、親しい読者の引っ越しを知らせる元気で優しい手紙が届いた。昔、近くの大泉学園に住まいがあり、ご主人の転勤で北海道へ、そして兵庫県へと移って行って、また引っ越し。この、京都で大学時代を過ごした久しい読者は、豊かな学殖と趣味に恵まれていて、逢う機会にはなかなか恵まれなかったけれど、そのまま往復書簡にしたいほど文通の楽しめる、すてきな友人だった。パソコンを使っていないので電子メールが役に立たないが、知識やヒントをもらったり、調べ仕事でものの頼めたりする、そういう点ではじつに信頼できるインテリジェンスの持ち主なので、どれほど助けてもらったか知れない。作家冥利というものである。
 勝るとも劣らないちからを持ったもう一人の、やはりこの尼崎の人と同年輩の友人が、いまはヨーロッパを旅して歩いている。いま機械に書き込み最中の『蝶の皿』冒頭部を飾っている修道院の回廊の写真は、その人が旅の途中で送ってきた。シルクロードへ行ってきて、長い旅行記を送ってきたこともあるが、上質の詩編をかなりの数美しく鏤めながらの、文学的に優れた「作品」だった。出版事情さえよければ、出して出せるモノだった。この人も、いま兵庫県に家がある。京都大学を出ている。夫君の大学勤務につれてよく引っ越しをするのも、尼崎の友人と似ている。

* 自閉的に高校時代を過ごし家族を哀しませていた青年は、ついに立ち直り、自力で社会と接点を築いて行き、今は、最も新しい音楽CDのための作詞家として、つぎつぎに作品が売られている。CDをもう三枚ももらって聴いている。”S.E.S”という若い女の歌手が三人で歌っている、ホットで、新しい、英語混じりの新鮮なものである。この青年とも、ついにまだ一度も逢っていないけれど、この数年、じっと遠くから声を、声なき声を、かけつづけてきた。
 いろんな、出逢いがある。どれにもとらわれないで、どれも心から楽しんで、育んで行きたい、わたしはそういうふうに生きてきたと思う。「あなた、もてますね」などと、およそ見当ちがいなことをワケ分からずに言われることもある、が、そんなモノではない。

* 新婚旅行から、やがて、夫と住むスペインに帰って行く、もとの東工大院生もいる。もうやがて赤ちゃんの出来る人もいる。もうやがて妻を得る人もいる。みんな、幸せにと、心から祈りたい。「身内」のような大勢にこうして触れているとき、うっとおしい雨も忘れている。
 フェリス女学院大教授の三田村雅子さんにもらった『枕草子の論理と構造』を、今日、かなり読み進んで、面白かった。
 人も好き、本も好き、だが、言葉の貧しく空疎な、森野中のような政治屋は嫌いだ。
 2000 6・10 6

* 午後、仲良しの元学生君二人の案内で、はじめて秋葉原電気街で、買い物。器械を修理に運ぶときは昭和通口へ出ていた。電気街は、雰囲気がまるでちがっている。ここへ独りで来れば、半日ぐらい釘付けだなと思った。
 MOのための買い物で、布谷君が予め目星をつけて、安い買い物を見つけて置いてくれた。MOでバックアップを確保し、外付けハードディスクの負担を解除することで、全体の容量を倍増させようという、わたしの希望。もう一つ希望を持っていたが、一度に遣ってしまわずにと、田中君にも布谷君にも言われ、MOだけの用意をしてきた。これを私一人の力でうまく接続できるかどうか分からない。やってみる。出来れば、パソコンに収容している全部がバックアップ出来る。どんなに安心か知れない。
 このあと、作品や「私語の刻」を全部、ディスクに保存して、希望の読者に譲って上げることを考えている。そのための用意もしたい。

* 秋葉原から上野に移動し、三人で国立西洋美術館に入り、十七世紀オランダ絵画展を見、常設展もぜんぶ見た。田中君が、丁寧に一点一点絵画に見入っていて、わたしが好きなヴォイスの「陽気なバイオリン弾き」に強い共感を示してくれたのは、嬉しかった。布谷君の、絵画鑑賞に今ひとつしっくり入りきれない様子なのが、それも彼らしい感じがして微笑ましかった。
 ご縁あって、レンブラント、フェルメールをこれで三度も見に来た。もう少し充実した展覧会だともっとよかったが。

* 精養軒で、三人で洋食を食べた。二人とも呑まないのでわたしも呑まなかった。料理はそれなりに珍しく美味かった。二人の会社の日常をいろいろと聞いた。二人とも、きっちりフレッシュマンで、気持ちよかった。

* 帰ったら、各務原の川崎重工勤務の飛行機青年が電話をくれていた。夏休みが取れるので、千葉の実家に帰ったら、秦サンに逢いたいがという用件だったらしい。松園女史の繪の話をして以来だ、早くおいでと、メールを。
  2000 7・15 6

* 影山雄一君が、妹で、東工大の新入一年生でもある奈津子さんを連れて、一年半ぶりに、暑い保谷の家にまで話しに来てくれた。数時間、あっというまに時間が経った。
 影山君が教授室にやってきたのは、学部一年生も早々のことだった。はっきりと話題を用意して訪れ、曖昧な話には納得せず、なあなあで話を終えることのない、気骨ある哲学青年だった。哲学学と哲学との落差に不満をもっていた。下村寅太郎先生の著書など、また西洋哲学史などという本を貸したりした。
 今は、各務原の川崎重工で、少年以来憧れの飛行機を造っている。この前に来てくれたときは、酒をくみながら遅くまで閨秀画家上村松園の話などした。それをもとに、大阪朝日の主催した「松園記念展」のために、ながい松園論を纏めた。その掲載された大きな図録をおみやげに持って帰ってもらった。
 影山君の妹は、若々しい気さくないい少女で、楽しく話せた。わたしの東工大の本なども読んでくれていて、話題に窮することの全くない上客だった。専攻は「材料」だという。学生に、よく専攻を訊ねると「材料です」と返事されて、二の句が継げなかったものだ、兄貴の「機械」はまだしも見当がつくけれど。そういうところが、あの大学の興味尽きない特色であった。「専攻は」「材料です」でけっこう見当のつく人は、かなり理系である。
 奈津子さんには、雄一君のぜひにの示唆もあり、『閑吟集』そして『親指のマリア』をお土産に上げた。

* こんばんは 東工大OB、* * です。返事が遅くなったので、なんとなくご心配をおかけしてしまった気がします。
 今週は火曜から金曜まで、出張で、愛知県にある、ブラウン管の製造事業所に行っていました。21:22名古屋発のひかりで帰ってきて、今は地元駅前のデニーズでメールを書いています。バイオノート+携帯の組み合わせなので、向こうでメールは受信していたのですが、なかなか時間が取れずに返事が書けませんでした。すみません。
 今やっている仕事は、ブラウン管の開発の仕事で、毎週愛知まで行って、サンプルの試作をやっています。なかなか試作レベルが上がらず、非常に苦労しています。
 それともうひとつ、これはやりたい! と言って自分で手を挙げた仕事があるのですが、こっちは、上に書いた仕事があるのに「やりたい」とか言うもんだから、上司にちょっと睨まれてしまって、参ったなーという感じなのですが、自分で「やりたい」といった手前引き下がれないものがあって、上司とそれなりにうまくやりながら、なんとか仕事を進めていきたいと考えています。
 長期的には、ブラウン管ではなくて、新しい表示デバイスの開発をやりたいと思って、若手数名のチームで勉強しています。1年くらいで、具体的な形でoutputを出す気でいます。死んでも結果を出したいです。5年後ぐらいに商品化が実現したら、いいなーと思っています。出来ると思います。
 会社に入ってからの自分を振り返ると、学生の頃ポリシーとして持っていた、「自分の意思を」という姿勢が、だんだん希薄になってきたな、という気がします。会社に入った当初は、あまりやりたくない仕事も文句を言わずに引き受けてやる、ということ自体がちょっと楽しかったりもした(それまでそんなことしたことなかったから(笑))のですが、やっぱり、そればかりが僕の望んでいる人生じゃないな、という風に感じ始めました。仕事って、上司に言われたことを効率よくこなして良い評価をもらう、ということが目的なのではなく、あくまで「人生の一部」であって、もっと自分の意思や信念を反映した、熱かったりどろどろしてたりするものであるべきだと、思うようになりました。
 そうじゃないと、面白くないと思うんですよねー。秦さんは、どうお考えですか ?
 
* おとなしいが、自分の言葉と考えを、突出するように書いて表現出来る学生だった、このメールの人は。微妙に憚りありそうな仕事の細部は省いて、書き写した。

* おはよう**君。  出張帰りのデニーズでメールというのに微笑っています。こんにちわ。
 元気な声が聞こえてきます。瞼に、君の鉛筆の字が甦ってきて、懐かしいな。
 むろん、私には、理解に遠いことだけれど、君が、いろいろに思案し思索しながら奮闘、ないしは悪戦苦闘しているようすが、汗の玉の散るように目に浮かび、それはそれで、溌剌としていると、悦んでいます。そういうものです、仕事とは。「職場」という時空間での仕事とは。踏み込めば、面白い面も溢れているのが職場、その面白さが、なにかの拍子に瞬時に沸騰したり雲散霧消してしまったりする。だからこそ、バランスをはかりはかり、まるで「いたずらっ子」をあやしたり宥めたり叱ったりしているようなのが、「仕事」というものです。
 興味をそそる工夫を、研究を、製作を、していますね。
 君は、何でも出来る人です。ゆったりと、多彩に、アタマを働かせて、ますます生き生きと日々を新たにして下さい。いつでも、声かけて下さい。  

* 社会に出てからの適応が、大きな負荷になるのは、だれもが予測していただろうが、それでも、「職場」によって体験していることが、かなり似てもいても、また、それ以上によほどそれぞれに異なっている。みな、じりじりと工夫を重ね辛抱も重ねて意欲をかきたてることに意識し腐心しているのが分かる。このホームページをの「場」を利用して、意見交換をしてくれればいい。
  2000 7・22 6

* 八月下旬吉日の卒業生結婚式に、乾杯と祝辞をと「お願い」のメールが来て、むろん、慶んでお引き受けした。「お酒の役で申し訳ないが、お酒となれば秦サンでないと」と嬉しいことを言ってくれる。
 2000 7・23 6

* この春に新就職した新社会人君が、元気ハツラツのメールをいま送ってきた。一級建築士の試験を受けたところで、ほっとしてお酒をのんだらしい、ご機嫌サンである。剣道に一心に励んでいた人で、昨日訪ねてくれた景山君とも剣道部で知り合いだと分かった。
 こうして、いまもって、少しも変わらず元学生たちと大勢いつも話せるのが、わたしの、特製のビタミンになっている。

* 秦先生、こんばんは。お久しぶりです。
 今日は一週間ぶりにお酒が飲めて、秦先生には大変申し訳ないのですが、少々酔ってしまっておりますが、こうしてメールを打っております。
 実は、今日、一級建築士の学科試験がありまして、僕は、この一週間大好きな酒を絶っていたわけであります!
 試験の結果は『神のみぞ知る』ということで、また結果の出る9月頃(もうその頃は、先生も忘れてますね!)に、お知らせ致します。
 社会人になって、早や3ヶ月以上が経ちますが、やはり忙しいですね。学生時代とは訳が違います。第一に自分の時間がない!
 とは言っても、貴重な昼休みには、先生のホームページは欠かさず見ております。いつも先生の意見を拝見するのを楽しみにしております。この間の衆議院総選挙(かなり前ですが…)の意見も、「なるほど」と読んでおりましたが、秦先生にメールを送るにはそれなりの意見を述べなくては、と思い、つい時間がないのを言い訳にして、今日まで来てし
まいました(もちろん選挙には行きましたよ)。
 僕の会社では新人に対する研修制度が大変よろしく?、6月には簿記3級の試験を受けさせられ、今は「宅建」の研修を朝8時半からやっているため、一級建築士を受ける我が身にとっては非常に厳しいものでありました。しかも僕の所属している部署は大変忙しく、次の日に帰宅というのは日常茶飯事であり、挙句の果てには上司に、「早く仕事を覚えろ!おまえは覚えるのが遅い!」と言われる始末。
 でも、自分のやりたかった仕事ができ、仕事自体も新人では最先端のことをさせてもらっており、しかもとても楽しいので、「はい、頑張ります!」と言って、努力している毎日です。
 そんなこともあり、秦先生にはメールを出そう出そうと思ったのですが、今日になってしまいました。
 久しぶりにメールを出そうと思ったのは、試験から解放されて先生に報告しようと思ったこともあるのですが、『闇に言い置く』を見て、“景山君”という文字をみて思わず、「あれ?大学時代の剣道部先輩かな?」と思ったこともあり、送らせて頂きました。機械学科ということもあり、そうだと思うのですが…もしそうだとしたら、景山先輩によろしくお伝え下さい。僕は、景山先輩を尊敬していました、冗談ではなく。実は景山先輩は大学に入ってから剣道を始めた初心者だったわけです。僕は小学校1年から剣道をやっていましたので、1年の時から試合に出していただきました、が、景山先輩の剣道に対する思い、というか真剣さには心打たれるものがありました。
 先生の『闇に言い置く』を読んで思わず、あの時の映像が浮かび、私事ではありますが、書いてしまいました。
 今、メトネルのCDを聞きながらこれを書いております。ロシアの作曲家です。ご存知ですが? メトネルが好きという訳ではなく、このピアニストのファンなのですが…それも最近なのですけど…
 話がかなり脱線してしまいました。
 明日久しぶりに出勤します。試験のために金曜日お休みをいただいていたので…。やはり受けるからには合格したかったからです。明日からは100%仕事に打ち込みたいです。と言っても「宅建」がありますが…
 社会人は入社して3年が勝負だと世間は言いますが、その通りかもしれません。今、正直きついです。というか会社に試されている気がします。「こいつの限界はどこまでか」、と。この重圧に負けないよう、というより、むしろこちらの方が気持ちを大きくして、仕事に、そして、プライベートに頑張りたいと思っております。あくまでも自分を見失わないように…
 かなり長くなってしまいました。それでは、失礼致します。

* 気のいい若い性格が、「お酒」に乗って、乗せられて、たぷたぷと出ている。こういう人が、実は、積極的に粘り抜く。小手よりも、いつも面を打って勝つ。
  2000 7・23 6

* 名古屋に勤務の学生君が、湖の本にポンと大金を払い込んできてくれた。ありがとうよ。

* カナダの友人が、若い頃に送った手紙の実物を、今となっては「大事なもの」だから、作家本人の手に戻しておくよと送ってきてくれた。すぐに、それはそれはと読む勇気なく、ためらっているが。なにしろ、ひどい字だから。有り難い心遣いにお礼を申し上げる。
  2000 7・24 6

* 九十一、二歳になる老女の読者があり、文芸の篤志高齢者たちの同人雑誌に、創作や随筆を毎号寄稿されている。その最初の頃から、この「押し掛け弟子」さんは、きちんきちんと批評を請うてこられる。ま、わたしからは母親の年に当たる人で、丁寧に見続けてきた。とうに亡くなった夫は映画監督であったと聞いている。この人は歌人であったように思われるが、昔のことは知らない。巧みに実情の和歌を手紙に添えてこられる。
 この老女、書かれるものが、陳腐で稚拙な素人の作文ではない。かといって円熟の老境を渋く表現した作品でもない。
 女の家へ、女友達の訪ねて行くわという、もう近くからの電話があり、女は男を大急ぎで寝床から追い出し追い帰して、かろうじて鉢合わせを免れた。だが女友達は、女が茶菓の用意などしているうちに、「温もり」の残った女(たち)の寝床に横たわり、そして女に「今まで寝ていたの」と聞くのである。
 二人とも離婚してきた。女は、いつか、新しい男を家に迎え入れる暮らしになっているが、この女友達には話していない。
 女友達の方は、べつの女と出ていった夫がその女に死なれて、また「元の鞘へ戻りたい」と言ってきている。男の親たちも、それを望んできている、という。女友達は、女の寝床で、顔を隠してしばらく泣いていたらしいが、元の夫を受け容れようという気に「今、なった」ことを女に告げるのだ、女(たち)の寝床の「温もり」に触れて、女友達は自分の体に「まだ」残っていた「女」を自覚したと言うのである。
 女はそんな告白を聞きながら、今の今、寝床から追い帰した男のことを考えている。なにが「温もり」なもんかと思う。男は、ただただ「女」を求めているだけで、温かい配慮も情愛も持っていないと思うのだ、女は、女友達が帰っていったあとで、彼女の前には男も寝ていた寝床から、枕をつかんで壁に叩きつけるのだった。

* これだけの話が、そう、原稿用紙で十枚ほどにきちっと書き上げてある。文章も作為も技巧もじつに若い。わたしなんかの、とてもよくするところではない。今今の四十代女性の作と聞いても疑わない、根底から若い文章で、そつがない。かなりの作品を読んできたが、これまでで最高の出来に感じた。ビックリした。もう一度言うが、とうに九十歳を過ぎているおばあさんの小説である。

* 小説より長い随筆も面白かったが、この人、辛辣な批評家なのである。ピンからキリまで世相の批判で、なかなか軽妙に書けていて、何度も吹きだした、朗読するのを聞いていた妻も吹きだしていた、が、もしこれが「顧みて他を言う」ばかりの「評論」調でなくて、なによりも自分自身の「述懐」「自己批評」を通じて人生を顧みるていの文章に成りえていれば、この人の高齢と知識と見聞の広さ深さからして、平成の『女徒然草』が可能になる。辛口が外へ外へばかり向いてしまうのは、賢い証拠でもあるが、深度が浅くなる。「そう思いますよ」と、小説はしっかり褒め、随筆には苦言を呈して手紙を上げた。手紙はまだ届くはずもないのに、ホテルオークラ製の、いかにも糖尿病患者を心配したらしい野菜のスープがどっさり送られてきた。このおばあさん、今でも、「友だち」とお酒を飲みにお店に行く。男友達なのである、たぶん。わたしの「秦文学研究会」に、男友達を誘ってきちっとした和服で参加されていた年もあった。わたしも妻も、心からこの人を敬愛している。いつまでも健筆を楽しんで欲しい。
  2000 7・25 6

* 数日夏休みしてきたというある人のメールに、さぞ真っ黒になってこられたでしょうと、月並みなアイサツをしたら、打って返して、「因幡の白兎のようです。見てみますか」と。ドキドキッとした。
  2000 8・8 6

* ゆうべ、今こそ秦さんは京都へ帰ってきてはどうかと、深切で熱烈なメールを京都の男性読者にもらった。病気に門を開いて白い旗をかかげてしまうな、という鼓舞であり激励であった。ありがたい。
  2000 8・13 6

* ここでは詰めて書き込んだが、もとは、改行と行アキの利いた、Eメールのお手本のような気持いいメールが、親しい若い友から届いていた。呼びかけを、「おはよう」と読み替えて、朝早や、心嬉しくいる。そう、この社会に出てまだ三年に満たない人たちの日々は、何としても「動いて」送り迎えられている筈だ。「動かなければ、出逢えない」日々である筈だ。動きながら、考える。むかし聴き習った「歩きながら、考える」が、わたしにも、ながいあいだ、貴重な箴言であった。
 学生たちがわたしに秘かに洩らした多くの嘆きの中に、友人たちと、「もう少しでいい、もう少し堅い話がし合えたら」というのが、あった。胸を打たれた。そう思っている人はとても多いのに、現実に、自分からそのように友人にぶつかって行くのをためらってしまう。嫌われ疎まれるのではないかと思ってしまうのだ。わたしの教授室は、いささかでもそういう話のできる場としても好まれていたかも知れない、わたしとではない、たまたま同室した他の学友たちとの間で、だ。
「考える」と謂っても、漠然と「思う」ことは「考えている」のと少しならず異なる。考えるには、「何を」とでも問い直したい或る主題に行き当たらねばならないが、それが簡単ではないのだ。何でもいい、考えていることを書いてと教室で学生に言うと、かえって大方が閉口した。しかし例えば「人の命は地球よりも重いか」と聞けば、それについて「考え・書く」ことは出来たのだ。わたしのしたことは、手を添えて立ち上がらせるように、そういう問いを発して「考える」機会を提供し続けたというだけだ。
 この友人のように、時折にでもふっと立ち止まり、いや歩調のなかで静かに考え直しいる人がいる。よかったなと思うのである。九月を待って楽しみに逢おうと思う。
 2000 8・14 6

* 途中の三鷹まで、保谷に来ていた息子の車で送ってもらった。府中の大国魂神社で、東工大の院を卒業して社会人三年生の結婚披露宴があった。とても気持ちの佳い宴席であったが、その理由は、以下に披露する、今日の新郎が1995年度の私の教室で「挨拶」に応じた文章が、雄弁に語ってくれているのではないか。この年、彼は学部の三年生だった。「挨拶」という、挨も拶も、強く押す意味。禅の問答が然り。すべて当日咄嗟の押しを咄嗟に押し返した、教室での肉声の「正確な記録」である。断っておくが、これが即ち授業内容ではない。学生達の私語と居眠り封じの、なかなか効果的な日課であった。全部を、彼の鉛筆書きから、わたしが、お祝いにと、器械で書き起こした。
   
* ”was born”という受身形に就いて語れ。

 ”was born”は、単なる受動である。受動の使役ではない。強いられた受動ではない。親ないし神様から生命を「受けさせられる」のではないのだ。生まれる者が、生を享ける準備をした後に、生をもらい受けるのである。生まれる者と生む者、このどちらか一方の準備が欠けたら「生まれる」ということは起きない。強いられた受動ではない、意志の働いた受動なのだ。
 これからの人生でも、しばしば、これと同じようなことに出逢うと考える。たとえ自分が自分の意志と意欲とでやったことでも、それは、どこかで「相手から・他者から」も与えられた物や事であり、同時に「自分の気持から」やり遂げたことであるのだと思う。
 日常生活の言葉の殆どには、自動的・受動的・使役的な言い方がある。しかし「生まれる」には受動の言葉しかない。人は、人生の最初に、此の世で、他者とどう関わって生きて行かねばならないかを、「そのように」教えられている。そして人生の最期には「死ぬ」という自動的な言葉だけが置かれている。おそろしいほど意義深いことだと思う。

* 頭脳と心臓。どちらかに強いて「こころ」とフリガナし、「心」のイメージを語れ。

「頭脳」に「こころ」とふる。心臓は内蔵の一つで考えることは出来ない。頭脳は脳という臓器のもつ「考える作用」を意味している。本心では「頭脳」が「こころ」だと思っている者が多いだろうが、東工大生はけっこうひねったことを言いたがって、「心臓」が「こころ」だと答える者が、たぶん半数はいるだろうと予想する。「心」のイメージは、思考より感情。感情はその人の本質を担うものであると思うし、だからこそ、心は、簡単には入れ替えられない。丸出しにも出来ない。人と向き合うとき、自分の心が向こうに丸見えであれば、丸腰で戦場に立っているようなもの。
 藏の中のもの(心の中のもの)はその家(その人)にとって一番大事なものであろう。ただの知人なら家には入れても、藏にまで出入りさせにくい。信用された人だけが藏にも入れる。気前のよい人は藏からものを持ち出して見せるが、藏全体を把握していないと、そのものの本当の値打ちは分かりにくい。家が貧しくなれば藏の中のものを売ることもするし、裕福な時はさまざまなものを仕入れて新たに藏に入れる。「心」のイメーは、今のわたしにはこんな所です。
 
* 何を、今の、また未来の「たのしみ」に持つか。

 今、私の最大の楽しみは「知識を得る」こと。日々の生活でのいろんな体験も楽しみだが、知識を得る楽しみはそれらに勝って持続する。専攻学の知識だけではない、むしろ専門外の知識に非常な興味を覚える。言葉を強めれば、私の学ぶ専門分野の存在そのものを否定してくるほどの、他領域の知識にも興味を覚えている。最近一年ほどは、宗教や政治、経済など世界中の現在存在する諸問題に知識を求め、新聞をむさぼり読み、ニュースを聴きながら、何の脈絡もなく頭の中に語彙や情報を蓄えている。今はこれだけでも十分楽しんでいる。
 人間としての未来の楽しみは、その「得た知識」を活かして社会の一員として生活して行くこと、そして更に、愛する人と、私人として家族としての建設的な日々を得ること、究極、この二つになると思う。前者の楽しみの、まだ半ばも知らないが、数年後にはより多くを、またさらに数年後には、後者の楽しみも…と、そんなことを考えるのも、今からの楽しみである。

* 「血」に就いて語れ。

 私の中には、人間の血、日本人の血、父母の血が流れていて、私の人間性を決める血は、この順番に重要だと思ってきた。しかし最近、私は、自分が日本人である以前に「父と母との子である」ことを、はっきりと、大事に、認識するようになってきた。
 私が日本人であることは、他人が私を認識するのには役立つだろうが、私の人間性を決定づけるものではない。私が自分自身をより深く確認するのにも、「日本人の血」が第一義に役立つとは思われない。
 大事なのは、肌の色や国籍ではない。どのような「家庭」に自分が育ったか、どんな教えを受けてきたかといった、誕生以後の「経過や体験」だ、いわば、それら「親の」が、愛が、と言い直してもいいが、私を決定してきた。以前にも増してそれを私はく感じ感謝するようになっている。
 人を生まれた場所や、肌の色、目の色などで差別するなど、全くバカバカしい。
 
* 「事実」を信じるか。

 私は事実を信じます。しかし他人が、或る事実を信じていないという事実も認めます。自分には事実でも他人には事実ではないという事が、起こりうるものだと思う。仮に自分がそういう場面に出くわしても、私は彼がその事実を認めていないことを受け容れられるし、そんな時でも私は自分が認めている事実認識を、安易に棄てはしないという確信がある。今までもそうであった。
 私は自分のスタンスを崩さないまま、他人のスタンスを受け容れられる。そういう中で事実がより確かに真実に変わることもあるし、真実が脆くも崩れて想像の産物に変わる場合もあろう。それを評価するのも自分自身だと信じている。
 歴史の中では、何度も、事実そのものが変化しました。他人の意見に惑わされず、自分の意見に頑固にならず、自分の考えをしっかり持っていることが大事なのではないでしょうか。
 
* あなたは「惜身命」か「不惜身命」か。

「惜身命」です。「不惜身命」は確かにカッコよく、宣言としては聞こえがよいが、それだけでは浅薄な気がする。同じ人生を歩むなら、「惜身命」と心がけて生きた方が、充実した人生を送れるように思う。
 まだ身命を賭けるものが見つからないから「惜身命」なのでは、ないつもりです。私は今、「こういう事を一生やって行きたい」と思う事が、漠然とではあるが、在ります。だが、それに直ちに「不惜身命」などといえば、軽率で甘いと思う。本当にその道を極めた人たちは、”その道”に関しては、非常に臆病で慎重であるという。人生についても同じ事が言えるのではないでしょうか。生きることに、真剣に一心な人ほど「惜身命」であるに違いないと私は思うのです。貴の花関の「不惜身命」を聴いたときに、彼の考えはまだ甘いなと、考えました、少しですが。
「惜身命」で生きることは、つまり「不惜身命」に生きることへ繋がります。逆も言える。「惜身命」に繋がらない「不惜身命」ではダメで、その逆もやはりダメなんですね。このことは、今日の授業から得た収穫であり、私の意識を非常に高めるものでした。

* 自身の集中力、想像力、包容力、魅力について語れ。

 人に言わせると、私は集中力があるらしい。中学や高校の同級生や先生からも、よく言われた。しかしこの東工大では、私は平均以下の集中力しかもたない。それは確信している事実である。集中力は、或る事を成し遂げる際には非常に大切なものであり、集中力をもって行動・行為している時は、時を忘れ、他の何も忘れてしまう。
 しかし私の思うに、集中力のある人は、自分のカラの中に閉じこもる人でもある例が多いのではないだろうか。実際私も、人との付き合いなどより、一人で動く方が性に合っている気がする。しかし、果たしてこれで「魅力ある人間」と言えるかどうか、私には疑問である。
 想像力の豊かな人は人間性も豊かであろうし、包容力のある人は優しく穏やかな人間であろう。すばらしいと思う。しかしそれらも「度」が過ぎれば、その人の魅力を半減させてしまうこともある。バランスがとても大切だと思う。
 私は集中力も想像力も包容力も魅力も、持っているかも知れないし、不足しているかも知れない。しかし現在、それが「どれほど」であるかは、私には、たいしたことではありません。それらをバランスよく、自分の中に蓄えて行きたいし、そう出来るのではいかと希望を持っています。これは、今、強いて自問自答しても結果は出ないのです。小さく自分自身について判断してしまうと、それ以上の向上心が無くなって、満足し、安住してしまいそうです。やる気さえ無くしてしまいかねません、それは恐ろしいことです。ただ前を向いて生活して行きたい、若いうちはそれが良いと思うのですが、いかがでしょうか。
 
* 言いようのない不安について。

「言いようのない不安」の反対語は、「揺るぎない自信」だと思う。不安がどこから出てくるか分からないから「言いよう」もないわけで、対策は、そんな不安を上回る、からだをいためつけるほどの自己鍛錬、が第一だと思う。高校時代の部活でも、そういう練習で不安を克服していた。受験への不安も、死にものぐるいに問題を解いて打ち消していった。将来への不安にも、毎日を一心に生きることで打ち勝って行きたい。それしか無い。
「言いようのない不安」は自分自身への不信感から生まれる。決して外的な原因による、外から見える形のもの、ではない。内的な原因、自分の心の中で対決も解消も可能な不安だと思っている。
 不安が現実になるかも知れないが、たとえ現実のものになろうとも、自分を鍛えることで打ち消すことが出来る。不安の上を越す元気をもって、自分を生かせばよい。不安を抱いたままの毎日より、不安と闘ってうち負かしていった方がどれだけ良いか分からない。
 昔、父とこんな話をしました。一度しかない人生、暗く、不安を持ちながら生きるより、明るく元気に生きた方がよっぽどいいね、と。
 不安なときこそ、元気に明るく。「言いようのない不安」に悩むよりその方がよっぽど健康です。不安は必ず取り除けるものだと思うのですが。
  
* 春が好きか。秋が好きか。

 私は秋が好きである。派手でなく地味でなく、明る過ぎず暗過ぎず、暑くも寒くもない。一年中でいちばん目に優しい、心に優しい季節だと思う。
 先日京都へ行ってきました。台風の到来にも負けず、京都の町を歩きまわってきました。建築の勉強で行ったのですが、私はむしろ京都の風景や時間の流れの奥行きに感動し、建築の事など忘れている有様でした。あの緑の美しさ、山の美しさは、東京の庭園などではとても味わえないものでした。
 日本の秋のよさは、全体の何ともいえない調和に在る。春は櫻しか思い浮かばないのに、秋は、山が、木が、枝葉が、また水も空気も、人間までもが、調和の中で息づいている。どの一つ一つを取り出しても大したことのないものが、全体に大きく調和して美しくなっている。日本人であるゆえの、これは好みなのだろうか。
 今日の講義は「竹取物語」のお話がとても楽しくて、こちらの文の方がおろそかになってしまいました。
  
* 劫初より作りいとなむ(  )堂にわれも黄金の釘一つ打つ 与謝野晶子  虫食いに漢字一字を補い、所感を述べよ。

 (聖)堂。聖なるものを招き入れる場所。そこで人々は自身を省み、将来へ向かう気持を確かめる。そんな場所が聖堂である。人間が「劫初より作りいとなむ聖堂」とは、紛れもない「この地球のこと」であり、人間はもちろん、草木や動物などすべての生き物が太古よりこの「聖堂」で、何かを信じ生活し未来への希望を抱き、そして亡くなってきた。ここで何かを信じ、人間としての生活を懸命に送ることで、この聖堂をより大きなもの、より頼りがいのあるもの、より強固なものにすることが出来るのです。その点で、人も草木や動物も、同等の存在なのです。
 この聖堂のために、たとえ一本でもよいから釘を打ちたい、できることなら黄金色に輝く釘を打ちたい。この一本の釘を打つために全ての生物は、生きているのではないでしょうか。
 此の世に生を受けた者として、この「聖堂」を、先人達と共に作り上げ建設して行くことは、人生の最終的な目標となりうると考えます。私もまた黄金のとは言いませんが、よく磨かれたふつうの釘を打ち込めたらと願います。与謝野晶子のゆるぎない、強い決意の感じられる歌ではないでしょうか。   (原作は、「殿」堂)
  
* 「死後」を信じるか。

 この世の中で分からないものの一つが「死後」のことだろう。「死」は誰にでも必ずやってくる出来事であり、考えない人はいないだろう。中学生の頃初めて死をまじめに考えた。死後をただ怖れ夜も眠れない日があった。幽霊を怖がったりもした。高校生も半ば過ぎた頃から、こんなふうに考えるようになった。死によって全てが終わるのでは、ない、ようだと。
 最近宗教の本をいくらか読む機会があった。私は信仰をもたないから、完全に信じること、頼りにすることはできないが、 “死後”に関しては信じたいと感じている。
 死後のこと、天国、地獄、極楽などは、「ある」「ない」の二つに一つ。とすれば、私が不幸になるのは、「ある」のに「信じない」時だけである。「ない」のに「信じる」場合も不幸のようだが、実際に死後が「無い」のなら、何も問題はない。
 それなら「ある」「ない」いずれにしても、死後を信じて現在の死の不安や怖れがなくなり楽しく生活できるのなら、信じる方が、全体的に良いはず。「死後とは現世の私を反映させる世界。たとえ今不幸でもしっかりと今を生きていれば、死後の世界で報われる」と思っている。宗教的な解に至っているわけではない、「至りたい」という程度である。
  
* 「祈る」か。

 小学校以来野球をしてきました。スポーツ選手にとって、祈りとは何か特別のもののように感じられます。
 九回表二死ランナー無し、点差は十点いや二十点でもいい、そんなときバッターは一体何を思って打席に入るか、考えたことがありますか。高校野球ではよくある光景です。高校最期の試合、補欠の三年生が代打で打席に入る。彼は打席に入ってしまうと、実はもう試合の逆転などを願ってはいないのです。ヒットを打とうという一種俗な欲望も消えています。ただ純真に、ただ無心に「バットを振る」のです。頭の中は真っ白です。その時の彼は確実に「祈っている」のだと思います。
 何に対して ? 何を ? と問われても答えられません。その打席に入ったことのある、いや、過去三年間一生懸命に練習をし野球を愛した後に、そんな打席に入った時にのみ、人にのみ、感じることの出来る境地なのです。
 彼は確かに祈っています。しかし九割九分九厘、その願いは受け容れられません。けれども真実の祈り、本当の祈りを知った彼は、他の人に絶対に得られぬ「何か」を得たのです。
  
* 生きているだから逃げては卑怯とぞ (  )(  )を追わぬも卑怯のひとつ  大島史洋   短歌一首の虫食いに、漢字各一字を補い、所感を述べよ。

 短歌の意味として見れば、一番良いのは、「明・日」であろう。しかし「義・理」という二字も捨て難く、これについて書かせて欲しい。
 私の高校の数学の先生は、野球部の部長でもあった。この先生は「義理」あるいは「仁義」など、「義」という言葉をよく使われ、これに反する事をした時には烈火のように怒られた。普段は私たちと酒を飲んだり、野球部で悪さをした時も、学校側や高野連に対してよく庇ってくださる先生だったが、義に反すること、例えば礼儀知らずな行動、他人の人間性をけなす言動に対しては甘くなく、そんな時は、「仁義を欠かしちゃだめだよ」と必ず言われたのが私の耳に残っている。
 一人で生きているのではなく、他人と関わり合って此の世を生きているのは、誰もが認めるところ。たとえどんな悪い事をしようとも、どこか「義」にかなった事であれば、あるいは義にかなっていなくても、その後に自身が「義」に適った行動をすれば、それは、つまり、他人に対しても義理を尽くした事になるのではないだろうか。
 法律に背けば法律に罰せられる。時には生きることもやめなくてはならない。しかし、その彼に対して必ずしも「卑怯」の言葉が当てはまるとは限らない。しかし「義」を人間の「心の法律」だと考えれば、これに反したものは、法律では罰せられなくても、彼は間違いなく「卑怯者」のレッテルを貼られるに違いない。  (原作は、「幸・福」)
 
* 「幸福」は人生の目的か。

 私は今、意識して「幸福を人生の目的」とはしていませんが、究極は幸福を目的としているのでしょう。誰しも不幸よりは幸福を望むもので、私も例外ではないのです。
 しかし具体的な幸福、例えば結婚や金持ちになる事などは、そのままそれが人生の目的とはなりません。敢えて言えば、もし人生の目的になる幸福があるとして、それは「死後の幸福」であると思います。別に宗教的な意味ではありません。死ぬ間際に、死んだ後に(意識が存すればの話ですが、)自分の人生の幸福を感じられること、これが、人生の目的と成りうるのです。
 人生の真実を知らぬ若者の意見と思わないで下さい。私にとって人生とは、まだまだ先の見えぬ、不確かなものなのです。そのような「旅」に、何らかの目的を与えるとするならば、その目的も不確かなもの、夢のようなものにならざるを得ないのです。今の日々の生活の中で、二年後、三年後のささやかな目的を、そのまま「人生の目的」とするのでは、あまりにもスケールが小さく、そんな人生では、何か心寂しい気がしてならないのです。幸福を「死後」に持ち越そうという私の真意はそこにあります。
 
* 今年に、言い残したこと。(綜合B 最終講義日に。1986.2.1)

 私は、今、というよりこれから五年の間、人生の中でも最も重要な五年間を過ごす気がしています。いや、もしかしたら、重要でなくなるかも知れません。私の言いたいことがお分かりでしょうか。
 私は、恐らく、今自分の乗っているレールの上を平々凡々と進んで行くか、自ら新しいレールを選んで乗り移るか、言葉で書けば簡単なことですが、そのどちらの道を選び取るかによって、私自身が、社会にどう存在するか、人間としてどう生きるか、が、決まってくる、決まってしまう、と思うのです。
 もっと気楽に考えればと、自分でも、思います。好きなように生きればいいと言われるかも知れません。私の父は、私に、まわりを気にしすぎる、自分をアピールしなければ社会ではやって行けないぞと言います。
 自分を主張するのと自分勝手にするのとは、紙一重です。他人から見れば、私は、いわゆるエリートコースに乗っているのかも知れません。このまま大学を、大学院を卒業し、どこかの会社で一生を過ごすことは、確かに小さな苦悩や選択が数多く存在はするでしょうが、結局、今乗っているレールを逸れているとはいえないでしょう。
 まだ結論は出ていませんが、ここ二、三年のうちに出さなければ、まわりの状況にただ押し流されていってしまう気がします。紙一重の差を確かに把握したいと思うのです。
 先生の退職なさる来年三月三十一日まで、教授室へお話を聴きに行くことが何度もあるかと思いますが、温かく迎えて下さいますよう、よろしくお願いします。
 
* 四年半の歳月が流れ、親愛なる「マルちゃん」のその後も、わたしは、ずうっと見つめてきた。また、わたし自身のその後も、ホームページや、「湖(うみ)の本」の各巻を通して、いつも伝えている。二人は、あれからも互いに「挨拶」を送り続け、交わし続けてきた気がする。幸せなことだ。
 今ここに、彼が最愛の伴侶(高校時代の同級生)を得られるまでの、まことに「みごとな素地」が、少なくも五年前にもう、正確に、彼自身の言葉と表現とで書き記されていたことを、改めて知り得た。「会心の思い」で喜びたい。つたない言葉でわたしが彼を語るよりも、彼自身に自分を語らせた方がいいと、わたしは思い、彼も同意した。二十一新世紀へ彼と彼女を送り出す、佳い一日になった。
 新郎新婦に一問、呈しておきたい。
 
   明日への(  )いくらかありて種子を蒔く   能村登四郎
   
 この良き日も、彼らのいい友人達、小学校以来のいい先生がたの「お力添え」で成った、そのことを彼は本当によく知っている。
 おそらく、すでに考え方の変わったり動いたりした所もあるだろうが、また新たに考えてみればいいことだ。数年前のいわば「自己証明」を、とらわれずに今後に活かしてほしい。
 新婦に、これを心からの「お祝い」として呈した。この中に、すでにして、新婦への愛と信頼がもう書き込まれていたと読みとれる、立派な表明だからである。
 また、新郎のご両親ご家族に、ひょっとして肉声では話さなかったかも知れないすばらしい息子さんの、いわば「尊敬と感謝」のこれらの言葉を、かけがえのない心からの「お祝い」として差し上げた。同じことを、新婦を久しくお育てになった
ご両親ご家族にも差し上げ、心からの「お祝い」にした、この上なく安心なさるであろうと信じて。
 
 佳き日ふたり あしき日も二人 おめでとう

* 二次会は失礼して、また国分寺易までタクシーで戻り、車中で寝入って気が付いたらお茶の水駅。新宿までトンボ返しに戻り、和服の美しい人に迎えられて懐石料理を、ゆっくり堪能した。食べながら『チャタレー夫人の恋人』をも、嘗め味わうように嬉しく読み進めた。帰りにもまた美しい人に見送られてきた。とても心満たされた。
  2000 8。26 6 

* 『早春』は、もう本が届いての郵便やメールが読者から届いている。 OCRを具体的に教えてもらった千葉の、同年の勝田さんは、湖の本エッセイを全冊揃えて買って下さった。ご厚意に恐縮し、深く感謝。いただいたメールが愉快に面白く、お許し願ってご披露したい。

* 「湖の本」44 『早春・京のちえ』 いただきました。月曜日郵便局が始まったら送金いたします。
 ハードもソフトも、壊れると、パソコンオジサンはほんとに困ります。やたらに多い線をはずし、机をずらし(わたしは炬燵ですが)、挙句モニタなどは持ち上がりません。つなぐのはもっと面倒で・・お察しします。ご健闘をお祈りしています。
  > いつか、どこかで・・
 お心にかけて戴き恐縮です。お会いできるなんて夢のようです。
 実は、書き言葉とちがって、話し言葉になると、江戸弁と相州駿州あたりの「・・づらぁ」と千葉の「・・そうだっぺよ」とそれから秋田の「んだ、んだ」と(学生、インターン時代に国立秋田療養所に行ってたことがあります)まぜこぜになったままで、われながら「ほんとに、きったねぇ、(品)しんのねぇ物言いだなぁ」と恥じています。
 「ほんまのことは言わんでもええの。言わんでも分かる人にはわかるのん。分からん人には、なんぼ言うても分からへんのえ。」なんて聞くと、「やっぱし、都のしとはちがうなぁ」と思います。ここのところ、秦さんの本を読んで、「どうだべか、ちったぁじょうしんになれたべか」なんて思ってます。本日の自己紹介は「このぐれぇ」で失礼します。
 ご多忙拝察、お大事にしてください。くれぐれもお大事にしてください。

* 嬉しくなってしまう。京都の秦恒夫さんとも、まだ一度も逢わないまま、親類のような気分で、わたしはいる。親類のような人が、いっぱいいる安らかさは、得難いものである。ほんものの親類よりも遙かに佳いのである。

* 今日のうちに、二度メールをもらった、新しくて古ぅい読者もいる。その人のメールも興趣に富んで、不思議の深みもある。

* プリンタはやはり致命傷だったのですね。 暑いなか大変ですね。
 海津姓は、本々は琵琶湖の北の泊の「刀鍛冶 海津萬兵衛」が、殿様の換藩で福岡の小倉城主になったおり ともに小倉に移り住んだということでのようです。小倉には海津姓は本家と分家の二軒しかなく、現在の当主は「元」義父で(変な言い方!)十六代目です。「元」義母は没落した名士の娘というプライドの高い激しいお義母さんでした。この人が口癖で 平家の子孫というのですが・・では、私の娘はやはり平家の子孫ということに??
 海津という地名は全国に幾つかあるようです。聞いたことですと 天孫系の人々が古代大和朝廷を打ち立てる迄に、海から征服者としてやってきた時に前線基地、駐屯地として港を開いて行った場所が、海津と地名のついた由来と言う説です。
 また、実家の地方の海津姓は、これも少ないながらあるのですが、古代の豪族とのことで意外に古いところで一つところの出自なのかもしれません。本居宣長・平田篤胤などは海津を「あまつ」と読んでいるようです。釣りの好きな方には『黒鯛』が。
 「うみ」という言葉には惹かれます。
 1年は浜名湖の細江という所に暮らし、その後静岡にまる8年、この地方を「とおぅとうみ」と呼ぶことばの響きが好きでした。
 さっき『初恋』を読んで、泪してしまいました。その後は清清しく、暖かい思いもしました。
 私の育った津の乙部も花街で、子供の頃よく芸子置き屋にも出入りさせてもらいました。母と仲がよかった近所のおばさんを 母が呼ぶまま「潮路」さんと源氏名でよんでいたのが今は不思議です。父の里は分部という在所で、何を分かったのであろうと考えてしまいます。
 これからも 自分の(魂の)色に出会いに、先生の御本を拝読させていただきます。どうぞ御自愛なさって。

* 琵琶湖の北のほうに「海津(かいづ)」という泊がある。長編『みごもりの湖』で、ヒロインと、切ない旅をした。懐かしい。ご縁があるかと訊ねた。大昔らしいが、近江の海津の出である人と、ご縁がったようだ。近江だけでなく遠江にも。国学の人の「あまつ」の読みは、これは分かる。「海=アマ=天」は、日本人の感覚では一繋がりだ。近江の湖を想ってそぞろ母の国を懐かしんでいるところへ、『みごもりの湖』上中下三巻を送って欲しいと、若い人から注文のメール。有り難いことである。なにか大事なものが、魂の色の似た人たちに届いて欲しい。

* 新刊の『早春』に、いっぱい「彼女」がいて呆れている、羨ましい、というメールも女友だちからきた。わたしには「彼女」なんていう人はいない。男女を問わず一人一人が一人の人である。
 作品の主人公と同名の人から、こんな嬉しいメールももらっている。「彼氏」ではない、一人の有り難い友である。申し訳ないが、涼しやかな雅懐に触れてもらいたい。

* 『湖の本・早春・京のちえ』ご恵贈たまわり有難うございます。連作、強記博覧。。。畏れ入ります。
 ところで、小生の兄は直樹、私の名(秀樹)のいわれは、中支より父が「森の木よいよよ秀でよすくすくと。。。。」と和歌に遺したもので(無事復員しましたが)、いねではなく、杉の伸びるさまをイメージしたようです。ちなみに亡父の名は佐平。官名・兵衛の名残がわずかに残るような時代でもありました。。。。
 暑さにはまいりました。心頭滅却するより、つい生ビールか冷酒のほうへ。。。秦さんも少しはやれるようにご本復されましたでしょうか?
 今夏は、「伝西行筆、新古今集切、一巻」(未詳歌切れに酷似の手になる)ひょんなことで、入手、所蔵できしました。しばらくお休みしていた、K博士主宰の「古筆友の会」にも再入会しましたので、自分でも少し勉強して、それから、鑑てもらおうかと思っております。
 西行、俊成、定家のことについて本を少しめくっております。秦さんの『秋萩帖』も興味深く拝読いたしました。書道芸術の「一流の現代人」」(S51.4)の文も、いろいろ啓示を受けました。趣味の域を超えた学恩を感謝申し上げます。ようやく秦さんの、文学、美学(美術)入門といったところです。
 8月下旬に、台湾へでかけ、珍しい絵画(個人蔵)、故宮の明清の書画名品鑑賞してまいりました。
 『湖の本44』巻末のメッセージ、つつしんで拝読いたしました。多謝。
 残暑厳しきおり、ご自愛ください。

* 生きている甲斐はあるものである。兄の死が惜しまれてならない。自然に老いたいものである。
  2000 9・2 7

* 今朝は、初秋のけはいです。
 南側の向こうに見える元地主の敷地の、建物なら十階もありそうな二、三本の楠がザワザワと騒がしく音をたて、我が家の酔芙蓉も今朝、たった一つ、初花のお目見え。大きくなった二本の木には数知れない蕾がついていて、当分楽しませてくれます。そろそろ花も夏から秋のものへと変わる頃と実感させます。
  秋は一番好きな季節だけれど、我が身と重なり寂しさも一入。
  元気にしてます。

* 朝一番にこういうメールが入っていると、空をわたり窓をうつ風の音とともに、秋を覚えそめる。数日前に九十を過ぎた老父を見送った人のメールである。「い」の落ちた「元気にしてます」に、失せない京の物言いが感じられて、懐かしい。

* 「器械の無機質に屈しないしなやかな表現」は可能だと「私語」していたのへも、これは吾妻の向こうから、こんな声が届いていた。

* まだ、ワープロで作品を書くひとがめずらしかったころ(ことに短歌を書くひとには少なくて)、友人に、ワープロでなんか書いているとうたや文章がチャチになると言われたことがありました。よいものが書けるか否かは、書く道具に関係ないと反発しました、何年くらい前になりましょうか。
 一人前に大きかったペン胼胝が、器械でものを書くようになって、いつの間にか消えていました。もう、この器械なしの生活はかんがえられなくなっています。
 けれど、その器械にふりまわされることも多くて、魔女マックに、悪態をつくことがあります。あまり、ひとを手こずらせるものですから。
 ほんとうに、魔女。いなくては困ると思わせ、従順にいうことを聞いてくれるかと思えば、狂風一陣、どう手を尽くしても知らん顔。あげく、ふいに、ころっと機嫌が直るやら。「ほんにお前は性悪な」、こんな謡の一節が思い出されたりして。
 ご本が届きました。ありがとうございます。
 おかしなことでございます。お月さまをしばらく見ていないと申しましたそのつぎの夜、昨夜のことですが、地球照を抱いたほそい月に逢いました。何か、語りかけられているような、何かのはからいのような、ふしぎな心地で、宵の月を見ていました。

* 不思議なことであるが、人さまの、こういうメールが、あくまで人さまのもので終わらず、このように「私語の刻」に書き込んでみると、そのまま「わたし」自身の「日々」を反映し表現していることになっている。遠くからの声をただ聴いているのではないのだ、「わたし」が此処に在ればこそ発信して貰っている。わたし自身とは異なりはするけれど、どこか通い合う魂の色がうち重ねられて、それも「わたしの日々」になる。この「私語の刻」には、顧みれば大勢の人の多くのメールが取り込まれていて恐縮しているけれど、もしそれらが全部このページから消え失せていれば、わたしの「生活と意見」も、「私語」の潤いも、どんなにか寂しく乾いたものになっていることか。「メール」を大切に感じている一つの理由である。実務本位の事務万能には終わらせていない
  2000 9・3 7 

* 日の果てに、心待ちのメールが、季節の香りとともに色うつくしく舞い込んできた。

* 吾亦紅あなたはお好き?
  吾亦紅あなたはお好き話しつつ行く
 いつ、どこで読んだ、誰の作とも少しも覚えてはおりませんのに、ふとこの句が口をついてでましたのは、時々行く喫茶店で、窓辺に生けられた吾亦紅をみたときでした。
 竜胆や松虫草と一緒に、臙脂の花が、秋の訪れを、まだまだ残暑は厳しいけれど今年もようやく秋がきましたよ、と告げてくれているのを嬉しくみつめながら、知らず知らず呟いていたのでした。
 御無沙汰しております。
 秋の気配に少し元気がでてまいりましたので、久しぶりにお便りをさしあげます。
 「湖の本」第44巻、嬉しく拝受いたしました。そして今日、一気に読了させていただきました。
 ありがとうございました。
 魅力的な少女が一杯登場して、胸ときめかせている秀樹少年と一緒に、私も、どきどきしながら拝読いたしました。
 人生の意義は子供時代の混沌にある、と、これもまた、いつかどこかで読んだ言葉をふと思い出したりしながら。   
   
* 「風伝白秋」と、今度の配本の挨拶に、みな、手書きした。白い秋に「吾亦紅」の花ことば・花だよりである。むろん、この花、大好きである。東福寺内の「十万地蔵」境内に、楚々として吾亦紅の紅かったのを、あれは『底冷え』であったか『誘惑』であったかに、書きとめたことがある。「吾亦紅あなたはお好き」とヒロインに語らせていたかも知れないと思う。懐かしい。
 このメールの人とは、ただ一度逢ったことがある。銀座で小一時間の食事の後、遠くへ帰って行く人を東京駅まで送った。もう何年になるか。
  2000 9・5 7

* 夜更けてから霧になりました。
 七階の住まいから、霧の籠めている外をながめていますと、ふしぎな浮遊感にふはふはして来ます。この浮遊感が快いときと、不安になるときとがあります。今夜は快く感じられます。少しも仕事ははかどりませんのに。
 わたくしが立って外をながめる場所が、いつからか、鶯張りの床になりました。と、申しましても、誤解なさらないでください。背丈も体重も標準以下でございます。
 『金島書』を読んでいて、遠流に処せられた恨みのようなものがないのに、おどろいております。ほんとうになかったのか、語らなかったのか。都恋しの思いは、はばかりなく謡っていますのに。
 小侍従の、

  しきみ摘む山路の露に濡れにけりあかつき起きの墨染めの袖

を、うたいこんだ一節がありますのも、うれしい心地がしております。
 先日、湖のお部屋にご紹介くださいましたわたくしのメール、「俗謡」の「俗」が、はずしてありました。ピシッと打たれました。うれしいご指導でございます。
 少し、霧が深くなったようでございます。明日は、いえ今日は、東京へ出る予定があります。そろそろ寝ることにいたしましょう。今夜から「蕪村書簡集」でございます。肩に寄り来るたましひといっしょに読みますのは。
                              
* 『金島書』は世阿弥の佐渡流謫の感懐を、主に七篇の謡いものにし語り置いた極めて貴重な世阿弥資料であり切迫の述懐であり証言である。こういう作物に、まして小侍従の傑出した一首などを配して、この廿世紀末の霧の一夜がインターネットのメールで伝えられてくる。この世間は広いだけでなく奥行きもしっかり有る。 
  2000 9・9 7

*  源九郎狐  おはようございます。
 「四の切」を”聴かせて”くれた豊竹呂大夫さんが、亡くなりました。目の前で(肉体表現も含めて)、もう一度聴くため、来月の東京行きを決めた雀なのに。苛められ、蔑まれ、長いこと孤独だった子狐。初音の鼓が義経の手に渡って、漸く両親に会え、静が鼓を打つことで親の声を聞けた。「嬉しやな」は、鼓を貰えたことと、義経・白拍子・獣が身分を超えて[身内]になれたことの、歓喜。雀はそう聴いて泣いた「四の切」でした。
 さらりと語る一言の向こうに、大きな宇宙。異世界に連れて行くことのできる太夫を、また一人失い、昨日から泣雀です。

* 風の奏でのように藝風は時代をわたって流れて行くが、またその時々に優れた藝人を喪って行かざるをえない。そういう哀しみを、「身内」を喪うように感じているフアンがいるのだ。親子夫婦兄弟親族が「身内」ではない、魂の色の深い似通いを実感できない仲らいは、親子夫婦兄弟親族であれ、「他人」に過ぎない。この厳しさによってしか、人は本当には「孤独や孤立」から救われることはない。
  2000 9・10 7

* 千葉の勝田貞夫さんが、わたしの『猿の遠景』が好きですとメールを下さった。作品のOCR複写をどんどん手伝って下さり、湖の本で三巻もある『神と玩具との間』をもう全部複写してメールで送ってもらっている。どうすればそんなに早く出来るのか、魔法でも使われるのかと驚くばかりである。嬉しい。有り難い。奥さんと一緒に玉三郎を観てこられたともメールにある。いいなと思う。歌舞伎でも帝劇でも俳優座でも、妻といっしょなので、安心し、落ち着いて楽しめる。一人ではつまらない。もっとも能だけは付き合ってくれない。目の玉がデンクリ返るほど眠くなるというのだ、わたしでもそうだが。
 2000 9・12 7

* まんまろき月   逢えないとあきらめていた十五夜さまに逢えました。銀箔のお月さま、照りわたっていますのに、ちょっと翳りを帯びているようにながめられます。
 そちらは、どのようなお月さまでございましょう。
 母がお花を飾り、おだんごを供えて、お月見をしていましたのは、いつごろまででしたでしょう。
 不出来なむすめは、何もお供えしないで、ただ、ながめているだけ。ベランダのすすきは、まだ穂を出していませんし、秋海棠に紫苑、風露草くらいしか、お月さまに見ていただくお花はなくて。

  まんまろき月みるごとに愛(は)しけやし去年(こぞ)の秋よりきみに逢はなくに

 『早春』の、あの少女、とおもったり、少年のこころの世界とおもってみたり。
 今夜のお月さまのおかげでございます。
 雲が出てきました。「月はくまなきをのみ」でございましょうか。よいお月見になりました。                 

* 引かれてある短歌はわたしの高校一年生の時の作、「姉」に逢いたくてたまらなかった。
 こういう風情をすっかり忘れて暮らしている人も、人が、多い昨今だが、大事なものを置き忘れているのではないか。

* 雨の上がった昨夜、雲間から出た十五夜の月を眺めました。天は泣き過ぎ、被害の大きな雨でした。名張は大丈夫。そちらは。泣雀

* 名古屋の若い友人が高台の寮にいるが、「四囲水におかされています」と。高松城の水攻めのようで、「泳げるかい」と聞いてしまった。

*  (院展)で誰かの作「冬の通天橋」で、暫し立ち止まりました。秋でないのが気に入りました。娘に教え、今この中で、そこと分かる人はいないよ、と。案の定、後ろで「清水寺」と言っている人がいて、教えてあげたいのをグット我慢。画題は「洛南」でした。永らく観ていませんが、京都の薄雪を置いた景色が大好きで、今も、通学途上の白川筋や祇園さんの社、円山公園、知恩院、平安神宮、銀閣寺、きりなく思い出せます。それだけを観に行きたいぐらいです。いい絵を観せて戴き二人で喜びました。ありがとう。一緒ならもっといいのに。
  西村敏郎先生、繪の好きなお友達の話ですと、良い絵を描いてたそうです。

* 朝起きると、こういうメールが届いている。殺風景に過ぎがちな東京暮らしの日々を、ほっと、しばし忘れられる。
 今日は元の学生君と、その、院展や博物館へ行ってくる。あとはお茶の水で「企画会議」とやらに初参加。どんなことになるのやら。
 2000 9・13 7

* 千葉の勝田さんが、次々に湖の本エッセイの巻々を、OCNでスキャン原稿にして送ってきて下さる。時間の余裕を得て校正し、ホームページに取り込んで行く。こころからお礼を申し上げる。
 ここ久しくメールの不調で連絡の無かった姫路からも、かろうじて、また声が届き始めた。
  2000 9・19 7

* 朝一番に読んだ。

* 数日前、石清水八幡宮に行ってまいりました。小侍従の父方は代々、石清水の別当を勤めていますし、小侍従自身も、出家後、あのお山に庵をむすんでいたと申しますので、あの、最晩年の名歌の生まれたところを見たくて、思い立ちました。
 とても親切な神官の方にお逢いできて、いろいろ教えていただきました。小侍従の庵跡は、本殿にわりと近いところ、いまは、みどりがさやさやとうつくしい竹林になっていました。宿坊の一つとして江戸時代まであったとのことですが、礎らしいものは見られませんでした。
 急な傾斜の篁に入り、しばらく、竹のさやぎと香につつまれていました。精神の静謐が得られた晩年であったろうという気がしました。
 その夜は京都に泊り、翌日、稚児ヶ池にゆくつもりでございました。清水寺の地主神社のわきの道に「稚児ヶ池七丁」と彫った碑がありましたので、念のため、お寺の職員さんに尋ねましたところ、独りでゆくのかと問われ、うなづきましたら、とんでもないという顔をされて、止められました。清閑寺からの道もおもったのですが、清水寺のご本尊の三十三年ごとの御開帳ということのせいでしょうか、かなり、人の行き来があるようなので、気分を損なわれたくないと、このたびは、諦めました。
 あちこちのお庭や道の植え込みの萩が、まだ、ふっさり花をつけてうねっていました。足は自然に、『冬祭り』のヒロインのねむる山へ向かっていました。途中のお店でお香をもとめ、入口にざっくり活けてあった龍胆と吾亦紅をわけていただいて。
 萩は白がさかり、紅も土にこまかな花をこぼしていましたが、大きめの色も深い花がなよやかにうねっていて。そして、曼珠沙華の緋。
 鏡のお水は澄み透っていて、射し入った陽のひかりがゆらゆらちらちらもつれていました。あの方のささやき。そうでございましょう。
 たっぷりたっぷりお水をかけてさしあげました。
 あ、蜘蛛の巣が。たいているお香のけむりがすじをなしてただよい、秋のひかりを受けているのでした。
 わたくしのたいせつな亡きひとたちも、いま、ここに来ている。わが肩のあたりにそよめいている。鏡塚の女人はゆるしてくださいましょうね、わが死者たちの振る舞いを。
 こよない時間でございました。

* ありがとう  よろこんでいます。あのひとたちも、さぞ、うれしかったでしょう。でも、あのやまに、うかとひとりでまぎれこまぬように。まもってくれるとはおもいますが。

* 目をそっととじれば、そのままわたしはあそこへ帰って行く。うそのように、ちいさな二つのお墓。鏡の水。逢はばなほ逢はねばつらき秋の夜の萩の花ちる道きはまれり。また季節はめぐってきた。
  2000 10・7 7

* 「和可菜」では、布谷君を中にはさんで三人で歓談、これは大いに楽しかった。大学をもう数ヶ月で退官という頃に、今のうちに話しておきたくてと教授室を初めて訪れてくれ、環境問題で熱い気持ちを、気持ちだけでなく日々の彼なりの実践を、話してくれた。建築の柳君たちともとても熱っぽく議論していた。わたしは興味深く共感しながら聴いていたし、めずらしく大学まで訪れた妻も、学生たちのそういう議論の場に加わって、その時が布谷智君との初対面であった。
 彼は無用のゴミも出さない作らないという生活を工夫していた。故郷福井での原発にもつよい関心をもち視線を送り続けていた。パソコンやワープロにメリットを覚えているわたしに、その器械がふるくなり廃棄の時期がきたときに、どう処分すればいいのか、有害物質のおそるべき大量発生にどう対応できるのかの研究は、少しも進んでいませんと警告していた。
 そして同じ問題は、現在なお、さらに増大したまま、生産との比較でいえば、閑却も甚だしい。パソコンという器械そのものが多彩なツールに分解され拡散をつづけて行く過程で、現在のパソコン本体が廃棄されて行くとき、例えば液晶周辺に含まれている猛害物質をどう処理するのか、もう数年後にはその問題に悩まされる「怖れはあります」と彼は心配する。わたしたちも、なんとなくそれに気づいている。
 こういう学生と、やがてわたしは大学をやめていったん別れたのだが、メールのおかげで、ご縁は途切れなかった。
 布谷君はちょっと面白いモノのを書いて、見せてくれたりした。東工大の若い研究生でなければ出てこないような材料をつかった短い小説が、長めに展開しそうな様子も見せていた。しかし大学院にすすもうという前後からは、学業に追われ、そういう余裕はなくなったらしいが、息子の芝居を田中孝介君を連れて見に来てくれ、わたしの「e-OLD」生活の開幕に多大な恩恵をもたらしてくれた、わたしの「先生」田中君を紹介してくれたのだ。この田中君が、布谷君に輪をかけて親切な人であった。
 布谷君は、そういう若い我が友人である。東工大の生活がわたしにとり「幸福」であったのを、誰でもない、じつに大勢の学生、元の学生諸君が如実にその存在と親切と親愛感で証言してくれている。わたしの喜びと誇りである。大学に在籍したのは四年半だった。退官して、もう四年半が過ぎている。
 2000 10・8 7

* もうやすもうかと思う夜更け、メールが入ってきた。

* こんばんわ。
 先週末に御本を受取りました。有難うございました。大変お忙しい中を早速に送って戴きましたこと、本当に嬉しかったです。なんだか 催促をしたようで申し訳なくもありますが。静岡に行っておりましたので、土曜日に。あちらは夕方になると天気がくずれましたが関東地方もそのようなお天気だそうですね。この連休のお出かけにはやはり傘をお持ちでしたでしょうか。
 今夜は満月には少しだけ若い月がみえております。月光でも虹が架かるそうですが、未だ見た事はありません。懐かしく『清経入水』を読ませて戴いて、秋の夜長の想いも冴え、今しみじみと月を眺めておりました。
 『初恋』も『清経入水』も深い傷を洗うような痛みと、なんとも言い表せない清々しさを与えてくださいました。
 私の記憶にある少女時代、故郷の風景にも差別はありました。あれは夢だったかと思うほど遠くて、意識しなければ思い至ることも無い、『恐れから』の地域社会の小さい事件は、始終起こっていました。大人達の蔭口などでそれと知れます。私が差別を受ける側の環境で育ったわけではありませんが、『恐れ忌む』感情を持つに至るちいさな世界の中にいたように思います。
 始めてこの小説に触れた18年前は、紙切れ1枚の身分証明書を持ってこの世界の外に在るかのように、小説の美しさだけを感じておりました。とても新鮮だったのです。馬場あき子著の『鬼の研究』や法政出版の吉野裕子著『蛇』を読んだのも、この頃でした。子供の頃から(祖母に育てられた赤子時代の昔語りに聞く「おろち」に呑まれそうになったというエピソードも)なんとも蛇とは縁が深いようなのですが、そんな事とは無関係に興味も憶えました。惹かれるように三室山を訪ねたのが秋の信楽へのドライブで、その折に、『秘色』のお礼に盃を求めたのです。
 私の中には確かに鬼やら蛇やらを『恐れる』と同時に『焦れる』想いがあるのですが、信仰に見られるように、日本人の何割?かの人々にとっても同じこころもちがあるのではないでしょうか。何年か前に、謡が趣味の叔父に『鬼の研究』を薦め、お節介にも本まで渡した事がありますしたが、血の繋がリのないこの人の表情に、『恐れ焦れる』感情をよむ事はありませんでした。
 『お父さん、蛇って本当はおとなしいのよ』
 小さな女の子の言葉を、今回も、繰返し読返していました。
 休日明けに郵便局より振込いたしました。遅くなり申し訳ございませんでした。
 11月には奈良・大和路に旅行を計画いたしております。元興寺の天平の甍から始めて、山辺の道、三山、神社巡りとプランを組んでいますが、帰りに、比叡山を廻って来ようと考えています。紅葉も綺麗なことと楽しみにしています。この時期、琵琶湖がはっきりと見えるとよいのですが。
 それではこのへんで失礼いたします。舞台見物の事、とても素晴らしいですね。楽しみも長時間の座席に耐えられる体であってこそですもの。おかしな言い回しですけれど そこそこ健やかでお過ごしください。肩凝りとは私も縁が切れません。
 おやすみなさい。

* 少女とあるのは『清経入水』のなかの、幼かった娘、朝日子のこと。どうしているだろう、幸せでいて欲しいが。せめて個と個との電子メールがつかえれば嬉しいのだが。孫のやす香やみゆ希も、もう器械になじめる年齢になっているだろう。突然、やす香から、ジイヤンやマミーにメールが届いたら、どんなに嬉しいだろう。 
  2000 10・11 7

* おはようございます。
 アパートの同じ階に、皇学館大学の教授がいらっしゃいますの。
 単身赴任してらしたのが、私たちが入居して半年後。見事な手跡の熨斗で、新潟の名産を、ご挨拶にお持ちになり、「あら、わたしも新潟なんです。」とお話ししましたのが、ご縁の始まり。
 偶然にも、伯父の陸軍少年兵の仲間というご縁。文学博士だそうですわ。
 先日、フォーマルウェアでお帰りになったので、(結婚式かしら)と思いましたら、「今日は神嘗祭でしてね。学生達と、伊勢神宮へおまいりに行ってきたんですよ。」そうでした、気付かなかったの。ばかね。

* なんとも味なメールで。むだがなく、爽やか。

* メールを、こうして、ときどき転載させてもらっている。私的に迷惑にならぬよう、むろん、重々配慮している、が、「これは、だめ」なものには、頭か末尾かどこかに、「だめマーク」の、 @ を、付けて貰うことにしている。
  2000 10・19 7

* 「余霞楼」を読むのが、少し楽になりましたの。京ことばに、気を取られる割合が減り、その分、怖さが増しました。妻が、娘が、あのまま「幸せに暮らしました、とさ」では、終わらないでしょう。フランスの古城に置き換えた、ミステリーができそう。既に、腕のある、女流作家の手で、書かれている気もしますわ。
 怖いのは、全く駄目。ホラー、サスペンス、怪談。いいえ、もっと、ちっぽけな事が、何度でもフラッシュ・バックするの。記憶力がいいのは、こういうときだけです。

* 車中です。隣では、二人の少女が、面接試験のリハーサル中。18歳。暗記してきた棒読みの標準語と、生き生きとした、私語の関西弁。
「今、一番関心があるのは、ゴミ問題です。母も『これはどこに捨てるのか』と言っています。」
「何で、お母ちゃんが、標準語やねん!」
「どない言うたらええのンか、分からん。」
「最近の事件で、あなたが思うことは。」
「えっ! 事件? 事件テどんなン。」
「よゥけあるやン、(発掘の)捏造とか、大統領選とか、森内閣の支持率のこととか。」
「あ。それやったら捏造にしよ。」
「突っ込まれたらどないするン? 名前知っとンのかァ? 」
「う…。」
  可愛い首、傾げて悩んでいます。

* 晴天。静岡の空気、贈ります。富士山が見えています。
 先日、文雀さんが、「あぁンな『小栗判官』がおもろかったンかぁ。」とおっしゃるの。「あれじゃ、説教節にならん。浪速節の元やで。あんた、のぞきからくりテ見たことないかぁ?」と、実演して下さいました。「あぁいう泥臭ァいもンは、国立では無理なンや。」
「金丸座は? 」
「あかン。中座みたいな、こやが、ええンや。」
 工場の、水耕栽培で作られたトマトを「清潔で、キレイ」だと、喜んで食べていたの。同じトマトの、昔の”ほんまもん” を、「キタナイ」と見るようには、なったらいけない。
 秦さんのお書きになる”芸能”の事、これからも考え続けますわ。囀雀

* この雀さんの囀りは、毎日途切れない。はじめはウルサかったが、一つ一つが短くて、その気で観ればじつに具体的な中身があり、わるいけれど、なにかのおりに活用できる、ないしは一人の個性が刻印されている。逢えばどんな雀っ子か婆さん雀か分からないが、旅中らしい車内からたてつづけのこんなメールに、ほうっと身内が温まる。雀さんのメールが圧倒的に多く保存されている。
  2000 11・10 7

* この土曜日に国立辺へ出てこないかと、東工大出の丸山宏司君から誘いのメールが入っていた。はいはい。行きますよと返事した。
 2000 11・15 7

* 湖の本創作シリーズ、「創2戯曲こころ.txt」、「創3秘色・三輪山.txt」お送りします。この頃は(スキャン)減速して、誤認識をできるだけチェックしながらやってみています。パソコンの辞書には「ない漢字」が困ります。日本の「トロン」は正しいと思います。
 繰返しこの作業をしていると、だんだん面白くなってきます。
 理解の程度は問題ですが、『戯曲こゝろ』を読んでから、加藤剛の「お奉行さま」が「先生」とまぜこぜになったりします。ばかなこと云ってすいませんが、ついでに、『秘色』では、「十市皇女」を上村松園に描いて貰ったら、いいだろうなぁと思いました。「湖の本名場面図」なんてぇのを夢みます。気持ちのいい、うまい絵でなければなりませんが。
 生物学的年齢は如何ともし難いと思います。ご無理が重なりませんよう、くれぐれもお大事にしてください。

* 知己の弁である。「生物学的年齢は如何ともし難い」とつくづく思う。しかもなお、「自然に老いる」とは老い衰えてゆくことの容認以上に、「元気に老いる」意味でありたいなと、つくづく願わしくなっている。
  2000 11・16 7

* 夕方から国立市まで出かけた。もと建築科の丸山君と柳君とで呼んでくれた。ボジョレーヌーボーの旨い赤を二本も明け、おいしい西洋料理をご馳走になった。三時間ほども三人でゆっくり話せた。八月に丸山君の結婚式で逢った、それ以来だが、お互いの忙しさで小一年も昔のように思われるが、また、教授室でしょっちゅう話していたのがつい昨日のようにも思われる。二人とも学生時代の持ち味をすこしも損なうことなく、それぞれの場で自分の足場を固めながら日々暮らしている。ご馳走になったから言うのではない、気のあった親友二人に迎えられて、しんみりとものの言い合える時間は、まさに至福。神に感謝を捧げたくなる。
 2000 11・18 7

* 読むたのしみ
 友人の本の校正を手伝いに荻窪までゆき、遅い夕食をのんびりとって、はるばるもどってきましたら、十二時過ぎていました。女にあるまじいことと、母がおりましたら叱りましたでしょう。叱ってくれるひとが、年々、あちら側に行ってしまって、さびしいかぎり……。
 今宵も寝る前に、湖のお部屋を訪ねました。
 「これまでに読んだ書物を死ぬまでにもう一度ぜんぶ読んでみるということ」というおことばに近いことを、わたくしもかんがえたことがございます。
 若いころぺーじを繰り、読めたつもりでいた本、本当は読めていなかったにちがいない本を、読み返したい、と。
 挙げていらっしゃるご本に、そうそうとうなづき、それを読んだ少女時代を思い出しましたが、書名だけしか知らないご本、そういう書物があるとも知らないご本も、ありました。どんなにたくさんのご本を読まれたことでございましょう。
 「懐かしい本」というおことばは、胸にひびきます。なみだぐむほど。
 旅もそうでございます。まだ見ぬ土地へのあこがれも強うございますけれど、心惹かれて幾たびかというところも多くて。

  こまごまと散りゐる萩の花踏みて生きてある身のはかなきすさび
  墓石にまゐらす水もたちまちに吸はれて久しく逢ひに来ざりし
  鎮まりてゐるやさまよふ夜のなきや手をおけば古き塚のふくらか
  黄泉還りの水にかつがつよみがへり逢ひにゆきにき愛しみあひにき
  黄泉還りの泉の底にもつれあふ陽と水のかげ もうかへり来ぬ
  からつぽのわれを誘(おび)きて少しづつ遠のく鳥が音 いま山ふところ
  忘れ来し扇手草にしてゐむか塚より出でてあそびてゐむか
  水引草(みずひき)をもてあそぶ風のありしことにほふ言の葉聴きたりしこと
  人間(ひと)として在るは束の間拾ひたる櫻紅葉を散らしなどして
  黄泉還りの水を浴びたる躯(み)の冷えてゆめとおもへばゆめにてありけむ

 放恣な想像、お気に障りましたら、おゆるしくださいませ。お能がうたに詠めないのと同じ、お作をうたにはできなくて。
それでも、『冬祭り』の女人の跡訪うたときのこと、試みたくて、四苦八苦しております。
 お読みの『源氏物語への招待』の出版社、お教えいただきとうございます。新刊で手に入れるのが無理ならば、古書
店にたのみたいと存じますので。
 肩に来るひとたちに読む『源氏物語』、やっと、「紅葉賀」になりました。藤壺宮との源氏は、とても好きですけれど、これから読む源典侍との源氏は、いたずらが過ぎるようにおもっていますが、読み返してみたら、違うでしょうか。読み返すたのしみは、こういうところにもありますのでしょうね。
 「e-m湖umi」も、縦書きにプリントして、読むたのしみにひたっています。お骨折りを思いつつ。
 どうぞ、お身、お大切に。

* おはようございます
 昨日は思いのほか暖かな日でした。
 久しぶりに庭に出るとすっかり荒れ果てていて愕然!積もったはなみずきやさるすべりやイチジクの葉をかき集め、伸びたノウゼンカズラの枝を切り雑草をとり、庭のかたすみを耕して、娘と二人でチューリップの球根を植えました。
 木の葉や土にふれると、わたしの中の自然もよみがえる気がします。 
 2000 11・27 7

* こんにちわ。御無沙汰してます。先生の日記を拝見していて、まさに同感と思ったことがあったので、メールします。29日の分にあった、映画「バトルロワイヤル」のことです。
 僕もニュース見ていて、これほんと? こんな映画が公開されちゃうの? と思いました。キャスターの筑紫さんは、良いものであれば残るし、出来が悪ければ淘汰されるというようなコメントで、暗に、淘汰されることを期待する口調だったように僕は思いました。詳しく内容はしらないけど、まったく呆れました。
 最近立て続けにハリウッドの出来のいい映画をみていたせいか、なんか日本映画はどうかしちゃってる気すらします。ちなみにそれらは、黒人ボクサーの冤罪を扱った「ザ ハリケーン」、ユートピア幻想とそれが崩壊する様をブラックに描いた「ビーチ」、それにアカデミー作品賞を取った「アメリカンビューティー」です。中でも「ハリケーン」はよかった。機会があったら御覧になって下さい。
 最近本も読み出しました。(発作的に読み出すことがあるのです。)遅ればせながら『ワイルドスワン』を読んで、中国に興味をもって、今、『大地』を読んでます。
 昨日は代休を使って天竜市の秋野不矩さんの美術館にいってきました。絵はもちろんですが、建物もまた絵の雰囲気にあっていて、とてもよかったです。
 明日は友人の誘いで、絵画館で行われる茶会に顔を出してきます。茶会なんて行ったことないので、愉しみです。
 では。またお会いできること、愉しみにしています。

* 大きな会社で大きな建築設計を手がけている東工大卒業生のしばらくぶりの便り。なんだか、ぐうっと、わたしの領分に接近してきたようで、嬉しくなる。さぞ忙しいことだろう、そんな中で秋野不矩の繪を見に行ったなんて。茶会になんて。
『大地』とは。中国が、うかとすると、歴史を繰り返してまたワン家の昔に戻らねばいいがと思う。
 同じ建築の若い友人の近況も伝えておこう、先日食事をご馳走してくれた一人で、銀座で会おうとしていたが、流れて、夜勤に勤しみながらの佳いメールだった。

* お疲れ様です。メールのやりとりを何の返答も出来ず、ただ数時間遅れで確認するのみであったことをお許し下さい。
 現在、私は(建築)確認申請提出中で、月曜に区役所に行き、その訂正を持って木曜にもう一度行くといった図面の訂正を週二回の締め切りペースで行っておる毎日です。建築は思想だけでは建たず、技術もしくは法律で建つのかと、ほとほと感じている毎日です。
 さらに、今日は、私の課は忘年会で、強羅にあるうちの会社の厚生施設へ泊りで行っており、会社に残っているのは私がひとりぼっちです。オオ、哀しいです。私も行く予定でしたが、役所対応のために、今日も泊りを覚悟で仕事しているところなのです。
 しかし、私の担当している物件なので、自分が納得できていないうちは忘年会も楽しくはなく、これで良いかとも思っています。自分で自分の生活をコントロールできるように、様々な意味での「技術」を身につけていきたいと思います。言葉は悪く自分では気に入っておりませんが、上の人は「技術がなければ負ける」とよく言います。私も、勝ち負けではないですが、ゆとり(対応力と謂った方がいいかもしれません)を持って、物事に対応できるよう努力していきたいです。
 ○は、お寿司を食べたのですか。。。。
 わたしは社食で。。。オオ哀しいので、この先は言いません。
 では、次回御会いできるのは新年のご挨拶に伺う時になるかもしれません。21世紀への準備はゼンゼンできている様には思いませんが、大きな夢を持って新しい世界を作りたいなぁ、などと思っています。
 少々疲れていることによる、支離滅裂な文章をお許し下さい。では

*こうして、孜々として働き、かつ、心豊かに心身を養っている青年たちのためにも、いい新世紀であって欲しいと願わずにおれない。このところ、近未来の、荒廃し尽くした不毛でバイオレントな世界を映像にしたアメリカ映画をたてつづけにテレビで見て気が滅入っていた。しかし「マッドマックス2」などは、何度観ても不思議に身にしむものがあるのだ。バイオレントに過ぎているかも知れないが、それが映画表現の痛烈な効果になっていて、訴えてくる神話的なひらめきがある。今度の深作映画「バトルロワイヤル」については、わたしは「観ていない」のだから批評しない。筑紫哲也の言うように、良く出来ていれば必ず人に訴えうる。わるければ、存在理由をそれ故に喪う。盗撮が顰蹙の話題になっている。写真撮影も表現の自由であると居直れるか、バカな。しかし、「公然の盗撮」としか、それだけとしか言いようのない映像に対して、言論表現の自由などと言わせていいとはわたしは思わない。
 往々にして「言論表現の無条件・利益追求の自由」が、真に価値ある「言論表現」を冒涜している事例が多い。「児童ポルノ」の規制が言われたときに、雑誌や出版が「言論表現の自由」を守るという口実のもとにそれらの「販売や制作の自由」を抱き込みたがっていたのなど、適例ではあるまいか。そういう利に飢えた態度が野放図になり、官憲の法的規制策にまんまと口実を与えてしまう。世論までを敵にまわしてしまう。
 早急に日本ペンクラブは、ペン憲章の確認のためにも「真に守らるべき言論表現の自由とは何か=ペンの反省」を主題に大きなキャンペーンを企画すべきだが、理事にも会員にも、大小の出版人・編集者が大勢いる。さ、彼らがそういう企画に乗ってくれるか、むしろ阻止にかかるか、判定は難しいな。

 2000 12・3 7

* 一つ嬉しいことがあった。オーストラリアの学會から帰国したmaokatさんが、おみやげの洒落てスマートなワインを「はやいめの誕生日のお祝いに」と贈って下さった。このごろは、すっかりワイン党になって、赤いワインをよく飲んでいる。こんなメールが添ってきた。

* 豪州葡萄酒
 hatakさん  豪州から札幌に戻った私を迎えたのは豪雪。しゃれにもなりません。
 シドニーの空港売店で、淡い緑の豪州ワインをみつけました。味のほどはわかりませんが、細いシャンパングラスに注ぐと、きっと見栄えがするはずです。スマートな一本をお送りしましたので、ご賞味(ご鑑賞かな?)下さい。ちょっと早いバースデープレゼントです。
 今日から当分は机の上の書類の山と格闘の予定。簾ならぬブラインドを巻き上げて、藻岩山を望みながら「雪見仕事」としゃれてみます。  maokat
 2000 12・5 7

* 土曜に後炭の点前を稽古し、充分に休養して体力気力を漲らせ、今日は依頼原稿の仕上げをしています。徹夜も辞せずでこの時間まで続いていますが、「兆している鬱に、どうにかして抵抗したい」の言葉に思わず立ち止まりました。
 朝起きて、パソコンを開き、「私語の刻」を読んでから一日を始める、という生活がすっかり定着しました。もう2年以上も続いているんだなぁと、今改めて思っています。もし「生活と意見」がなくなったら、「秦恒平の文学と生活」が更新されなくなったら、なんと味気ない毎日になることでしょう。そう思っている読者はきっと沢山いるはずです。
 アメリカの大学で、ふらふらになって一緒に仕事をした共同研究者は、メールの最後に、必ず「働きすぎるな、よく食べ、よく眠れ」と書いてきます。時差の関係で夜中にそんなメールが来ると、ほんとうにうれしく、励まされます。オフィスの机で交互に仮眠をとりながら実験を続けた仲間だけに、言葉に重みがあって身にしみます。
 さ、私は朝までがんばります。秦さんも抵抗を続けてください。よく食べ、よく眠ってください。秦さんには「よく飲め」も、おまけにつけときましょう。

* ありがとう。よく晴れた月曜日。今日は言論表現委員会に、会議室のある乃木坂に行く。帰りに、「ル・サンキエーム」か新宿の店に寄ってこよう。
 2000 12・11 7

* ゆうべ遅くに、懐かしい若い二人から、真率なメールが来ていた。

* ちょうど2週間前に帰国しました。帰国後は仕事漬けです。寝る暇もありません。旅日記は書けそうにありません。
 12/10の朝日新聞の、折々のうたに、面白い短歌が載っていました。ちゃんとは覚えていませんが、、、人が死ぬと、その人の中にいた何人もの死者が、永遠に死んでしまう、、、そんな歌です。(平成12年の歌だということに驚きました。)
 旅行に行く度に、色々な人と出会います。そしていつも「この人とはもう一生会わないんだなあ」と思いつつ、わずかな時間をともにします。別れは、永遠の別れです。
 今回の旅行で、すばらしい出逢いがありました。望んでも叶う出逢いではありません。本当に幸運でした。
 そして、もう逢わない、逢えないと知っていても、ただその嬉しさは残っています。ぼくが生き続ける間ずっと残っています。
 何かに感謝したくて仕方がありません。

* くじけてはいませんが、もっと、自分のやむにやまれぬ感情を見つめてみたいと思います。生い立ちからくる今の私の弱さ、汚さ、ごまかしを検証しなくては、と。
 とても(勤務に)疲れるので、おっくうでなかなか手がつけられないのですが、泥沼のような(ある意味でそうなんです)今の状態から抜け出るには必要なこと、と感じています。
 私には「家の呪縛」のようなものがあります。感性を育まれ、価値観を養われた家、家庭をとても誇りに思い、大好きなのですが、実家にいると見えないなにかで心身をからめられて、何もできなくなってしまうのです。ぬくもりにホッとしながらも、強迫的な観念がおそってくるのです。家を出た今もなお、それから逃れることができずにいます。
 その正体を見極めたいと。
 両親へのコンプレックス、兄の存在、ストイックな人道主義を自分で理論立てて課してきたこと・・・、いろいろあります。
 人の目にふれる何かを書くにはまだ早い気がいたします。
 やむにやまれぬ内面のものを見つめるなかで、絞り出さずにはいられないものを表す努力をしてみます。私にとってよい訓練であり、「呪縛」から解かれるすべになるかもしれません。そのなかで、こそっと秦さんに送らせてください。打ち明け話、いいえ懺悔に近いものかもしれません。「耳のついた壁」とのお言葉に甘えて。

* 幸せなことに、二十歳代のこういう思いが、胸に届いてくる。偶然だがこの二人の男女には、わたしの見たところ似通った、純なところがあり、美点にも或る壁にもなっている。見えているものがあり、だが手は届いていない、いや、まだ何かをおそれてか、手をそれへ着けていない。
 あとの女性の声をこう聴きながら、自分の娘も、朝日子も、このように感じていたのかも知れないなと思ったりする。

* 「雁信」の数々が、そのまま、真率・情愛のことばを偽りなく届けてくる。そしてそこにも「文藝」は生きている。
 2000 12・12 7

* 失恋したらしい青年の「うーん、参りました。傷心です。けっこうきついです」と呻く、長いメールを受け取った。「なんでもかまいません。叱られても結構です。すこしお話をください」と言ってきた。よくよくであろう、が、どれほども適切なことが言えるわけではない。ただ、いろいろと独り言のように話してみるのを、聴いていてもらうしかない。彼の気持ちは痛いほどわかる。恋の相手とはわたしは一面識もないが、奇遇にもそのご両親とは浅からぬご縁のあることも、メールで知れた。初めて知った。だからと言って、どうしてあげようもあるわけでない。世間は狭いなと、また呆れて思うばかりである。

* こうして吐き出してくれたので、すこし安心です。いま、いつもより遅めにメールを開きました。きみが、あの親愛な* *さん夫妻のお嬢さんと出逢っていたとは。それにもビックリしています。お嬢さんとは会ったことはないのですが、亡くなったお父さんとは、どことなく魂の色が似ていました。死なれて寂しかった。奥さんとはいちどだけパーティーで挨拶しました。品のいい美しい奥さんだったと覚えています。奥さんが湖の本を読みつづけて下さっているのだと、払い込み用紙の住所で思い当たりました。お名前などは知らなかったので、しばらく気が付かなかった。
 真剣に恋をすると、百冊ぐらいのいい本を熟読したより多くを得、だが、また、かなり多くを失ったりもするよと、よく大岡山(東工大)で話していました。失ったものは、だが必ず深いなにかを添えて帰ってくるよ、とも。それから、失恋しそうなとき、失恋してしまったとき、あきらめるのを急がなくてもいい、そういうときは自分の心に問を発し続けて、恋のリアリティー(本性)をよく納得してみること、エネルギーが自分の中で存外にもう切れていたか、まだフツフツと煮えたぎっているかは、まず自分で自分に聴いてみることだ、とも。
 人間はなまもので、恋を感じているときは、そのなまものが、よかれあしかれ発光しています。自分にも相手にもその光がまだ感じ取れるかどうかの視覚は、微妙だけれど、直観の利くものです。なまものであることは、うとましいことではなく、生きている喜びに通じている。だが悩ましくて堪らないことでもあります。そして耐えるのは、きつい。
 きみの恋が、質的にもどの過程にあったのか分からないので、わたしは見当違いを言うかもしれないが、恋を恋い重ねて、豊かに成れる人がいます。一度の恋に命と人生を賭ける「若きヴェルテル」のような男性はむしろ極めて稀で、またわたしは特に称揚しません。きみのもう三十近い年齢からみて、この恋が、なお実りの可能性を感じさせるのなら、捨てるのは惜しいではないかという気も、わたしには、あるなあ。
 君は、風貌の魅力ほどには、自身の内面のちからを人に伝えるのは上手でないと思われます。内から外へ開かるべきパイプが、個性的に迂回しているか、屈折しているか、全開していないか、その辺は微妙だけれど、とにかく出てくるタマが、とかく、カーブしたりドロップしたりしがちなため、素直なバッターほど、タマが見定められずに空振りさせられるのかも知れない。悔しいしイライラもするだろうなあ。短期の勝負には凄い武器であめけれど、長い付き合いとなると、もうバッターがバッターボックスから出てしまい、なかなか打ちに来てくれないかも知れませんね。
 へんな言い方だが、きみ、苦手意識を他人にもたせるのがウマイとも言える。男社会ではそれもごく有効なのでしょうが、恋する女の人は、そういう変化球はもともと女が用いるハズなのにぃと、案に相違して自分が翻弄されていると拗ねるかも知れない。今度の場合がそうだなどとは言いません、知らないのだから。一般には、そんなところが男女の間にまま有ると言うのです。
 君の言葉が、打ち出すタマごとに発射速度の異なるピストルかのように女性に対し作用することは、あり得る話です、その揺さぶりに女の気持ちが、快感からいつか苦手感に沈んで行くのも、全くあり得ぬ事ではないでしょう、多少きみに自覚も有りましょう、か。
 しかし人はそうそう変身できない。要するに「魂の色の似た」同士なら、よほどのことがあっても、お互いに相手を「受け取れ合える」と言うに尽きるのかな。
 人生は底知れぬ穴です。必ずしも穴が深いとも浅いとも分からない。底知れないのだから判断できない。そこを判断し勇気をもって底知れないところへ踏み込まねばならぬのが、我々の業であり、ひょっとして人間にだけ楽しめる特権かも知れない。
 いくらでも話し相手をしてあげるよ。遠慮なくメールください。時間さえ折り合えば顔も見に行く。世紀末のぎりぎりにする体験にしてはきつくて重いが、新世紀へ、りっぱに活かしましょう。

* ああ、とてもとても、旨く話せているとは言えないが。
 2000 12・18 7

* 昨日もらった、たくさんなメールから、やはり、この人のこの一通を読み直しておく。「e-湖」の「雁書」一頁に、記録に値する佳い「電子メール」わたしの心に残った「電子メール」のうち、差し障りのない、お許しの得られるものに限り、配慮して集めてある。

* お誕生日おめでとうございます。
 札幌は大粒の雪が、静かに、厚く降り積もっています。
 今月になって身辺がにわかに慌ただしくなり、しんどい毎日です。親しくお世話になった方と突然お別れし、海外から励まし続けてくれた友人が急遽入院手術、心身共に参ってしまいましたが、仕事は休む暇を与えてはくれません。今もとっくに締め切りが過ぎた書類を疲れた頭で考え考え、作っています。
 また一年、秦さんの言葉に接し、瀑布のように音たてて流れ落ちる膨大な文章に打たれて、清らかになっていきたい、と思っています。また何かを紡ぎだしたいとも。
 あと十日、無事に芽出度く千秋楽を迎えたいものです。
 早く新世紀に突入して、春を、花を、見たいですね。 
 2000 12・22 7

* おめでとう御座いました。21日、よい一日をお過ごしになられたと思います。心より、御元気でいらしゃることをお喜びしております。
 おしゃべりしたいことは沢山あったのですが、そのうちお目にかかってとか、こんなこと別にとか、思っているうちに一年が終わってしまいました。一年、本当に速かったと思っています。
 でも、今年は、いい年でした。仕事も一生懸命しました。褒めては戴けないと思いますが、違った方面の仕事をしました。ご興味はないと思いますが、例えば、2日前は、乳児院の赤ちゃんを、抱いてみました。
 2歳になるのに、まだ9ヶ月の発達しか、していない子どもでした。人の目を見ない子どもです。子守歌を歌って、ゆっくり抱いていると、じっと目を見て、そのうち胸に顔を埋めて、また時々じっと目を見て、ということをするようになり、観察者をびっくりさせていました。
 何故、そういうことをするかと言いますと、保育者への教育からです。接し方の、具体的な方法の実践です。こんな小さな未発達な子どもでも、自傷行為をしなければならないほど愛情に飢えているということを、乳児院の担当者に理解してもらわなければ、ならないわけです。知的障害児ではなく、情緒障害による発達の遅れを理解してもらったわけです。
 でも仕事は仕事として、ゆったり抱っこしていると私自身も幸せな気分で、仕事だということを、一瞬忘れます。見ていた一人が、うらやましい、自分もそんな風に抱っこしてもらいたいと言っていました。みんなお母さんが恋しくて、どんな年になっても、郷愁があるのです。私からはみんな寂しいのだろう、という理解になりますが。
 愛情と淋しさはいつも一緒なのでしょう。
 これはほんのひとつ。頼まれた仕事でした。いつもこんな風に、日常を書いては、くだらないことと消去してしまいます。今日は、このまま送ります。お風邪をひかないように。

* とても、ふさわしい仕事をしているなと思える人の、優しいメールであった。クリスマスということを、ふっと思い出した。
 さ、これで、もう今年の外仕事はみな済んだと思いたい。仕事ではないが、もう一度芝居を観る機会がある。短い原稿はもう三つ四つ書かねばならないが、それは休息しながら家でできる。
 2000 12・22 7

* 天皇さんが六十七に成られた。皇后さんもお年をとられたが、お揃いでお元気でと心よりお祈りする。このご夫婦は、好きである。同じ頃に結婚し、同じ世代を生きてこれた、好かったと、内心に悦ぶ思いが深い。

* 未知の女性から初めてのメール、作家であるわたしへの熱い厚意に溢れたメール、そして湖の本既刊の中から五冊の注文、を戴いた。三十余年作家をしてきたから、未知の読者からも無数の嬉しいお手紙をもらっている。親しい心友も身内のような人もそんな中から大勢出来ている。今日のメールは、それでも、特筆ものの一通であった。差し支えない限りを引かせて貰うと、「湖の本の存在は以前から存じあげておりましたが、どのように申し込んだらよいのかわからず、欲しくて絶版になってしまっている本は古本屋で捜すようなことを続けていました。しかしインターネットという便利なものができて、先月から機械オンチの私も秦先生のホームページを見ることができるようになりました。そこで、早速湖の本の購入を申し込ませていただきたいと思います」とある。有り難い。ところがその湖の本を「継続」予約はしないと、わざわざ断ってある理由が面白いのであった。ほとんどの本はもう備えているので、「だから」というのではないのだった、だから、面白いと思った。わたしにも、少年時代にそういうことがあったが、この人は母親になって主婦している現在でもそうだというのだが、読みたい本がたくさん身の傍にあると、いちど読み始めると、夫婦の生活も母子の生活も破綻しそうなほどどうしても読みやめられないタチだというのである。

* 昔から適度にとかほどほどということができなくて、私は激しい本の読み方しかしてきませんでした。小学生のころ、友達の家に遊びに行って新しい本を見つけたら最後、友達をほったらかしにしてその本を読み終えるまで、てこでも動かない子供でした。友達は私が来るときには、新しい本を必ず隠したものです。結婚して子供が生まれても相変わらずで、乳母車に乗せられた娘は本屋を見ると瞬間的に泣くようになりました。母親が本を手にとると、長時間ほっておかれることが赤ん坊でもわかったのでしょう。私が本を読みだすと、外界の音がいっさい遮断されてしまい、夫や子供が何を言っても全然聞こえなくなってしまいます。今まで家庭が壊れなかったのが不思議なくらいですね。ですから、次々に湖の本に埋もれてしまうと、文字通り寝食を忘れてしまいそうで、家族がお腹をすかせることになりかねません。

* 第二の理由もあり、気恥ずかしいが、こう書いてある、「第二の現実的な理由は、秦先生の作品は繰り返し熟読しなければならないということです。秦文学は巨大な山のようなもので、私の力では一度では読みきれません。丁寧にゆっくり味わいながら、一冊一冊心に刻んで読んでいきたいと思っています。継続というかたちではなく、自分のペースにあわせて、お送りいただいた作品を読み尽くしてから、次の本を注文する方法にしたいと考えています。身勝手を申しますが、私の命の続くかぎり、先生の作品の熱烈な支持者であることは間違いございません。なにとぞよろしくお願い申し上げます」とあり、身を縮めつつ有り難い。メールはまだまだ尽きなくて、ま、激励と思い嬉しく読んだけれど、惜しむ思いで、この場には書き写さない。こういう嬉しいことが物書きの仕事にはあり、期待に応えたい気持ちになり、またそれに溺れまいという自戒も深い。感謝は心から、姿勢は平静でといつも思う。

* イタリア、フランスを旅していた人から、ヴェネチアの、またアルプスの、特にモノクロームでの美しい写真が贈られてきた。カラーにもいいのがあるが、モノクロのがすばらしく美しい。またホームヘページに使わせて貰いたいが、しばらく間があいて、写真の活かし方など忘れてしまっているから、よろしくない。
 2000 12・23 7

* 『墨牡丹上下.txt』お送りします。これも又、好きになりました。「…真の美は名匠の作る芸術の中に宿る」というのが、わかったような気がしています。入江波光、榊原紫峰、土田麦遷、小野竹喬、石川利治、みんなの絵もいつか見られるといいな、と思います。ありがとうございました。
 私語の刻の「自分の中で爆発を待つマグマのあるのを、じっと感じている。だが急がない。急がない。」にあやかって、来る新世紀は、うそでもいいから元気出して暮そうと思っています。
 いいお年をお迎えください。どうぞお大事にしてください。

* 拝復 仰有る通り「いろいろ気をつけて暮らさねばならん」のであります。残念ながら、日常のいろいろ不愉快な症状も、ひっくるめて、年齢的な現象、現実なのであります。ヒトは、その認識が遅れがちだと思います。
 数週間前、突然友人の奥さんが脳出血で倒れ、あたふたしておりました。元気印そのもののような人でした。老人ホームにも同じ様な人がたくさんいます。つまり、お互い、そうゆうとしなのであり、そう差がないのであります。
 診療所に通って来ていたお年寄りに、「きんのは、なんだか具合え悪くて、出掛けて来なかっただよ」と云われたことがあります。ちょっとへんな話ですが、その方が、むしろ賢いと思います。大学教授よりも、偉いです。(実際に、それを無理して会議に出掛け、亡くなった医学部の教授の方がいます。)
 それで、「今日は何だか気が向かねぇ」というサインを、もっと大事にしなければならないのであります。
 とかなんとか。今日はいい天気なのに、家でごろごろしています。秦さんは、どうかくれぐれもお大事にしてください。

* 勝田貞夫さんの有り難い激励と警告とで、心して聴いたハズなのに、悪寒とは。朝起きてからも前頭部にかるい痛みが囁き続けている。
 2000 12・27 7

* ゆうべ芝居から帰ったらびっくりするほど多くメールを貰っていた。

*  クリスマスを、おだやかにお過ごしになられたようで、日記を読みながら嬉しく思っておりました。
 e-umi も拝見しております。他のところも読まなければと思いつつ、どうしても詩歌のページばかり開いてしまいますが……。
 清沢冽太さんの『浄土やさしきか』が一番好きです。いきものの持つ二律背反性を見通す目、そのことを17音で教えて頂いたような気がしました。秦先生の、「句の気合いに、禅機を感じている」には、大納得です。
 山中以都子さんの『歌』は、何度読んでも涙がこぼれます。「ちいさくて丸い、なにがなし幼さの残る筆跡」のところで、盛岡の駅舎に掲げられた「もりおか」というはかなげな字が思い出されるのです。(私は啄木に憧れて、節子の出た盛岡第二高等学校へ入学した女です。)
 辻下淑子さんの「娶りしと風の便りに聞きしよりわが還るべき原野は失せぬ」。自分が生き続けてゆくためにこれだけはどうしても認識したくない、って現実がありますよね。それを言っちゃあおしまいよ、というべき現実が……。私の場合のそれ、まさにこの歌に詠まれているのです。哀しいというより、もうチカラが抜けた。先生が以前「通すべき私など、どれほどのものか」というようなことを日記に書いていらっしゃいましたが、本当ですね。あーあ。
 先生にお声を掛けて頂いたのが嬉しくて、歌か句を書かせて頂きたいと思っていますが、どうしたものか、なかなか出てきません。気負い過ぎてるのかなあ……。
 最近の大きなトピックスは、(あまりいい話ではないですが……)女子職員に言葉でセクハラをする上司がおり、私も何年も前から被害に遭っていたのですが、思い切って先月の中旬、取締役へそのことを直訴しました。具体的には「セクハラによる神経障害」という診断書を会社へ提出したのです。それから何度か取締役と面談を重ねた結果、セクハラ上司は退職と決まりました。少しスッキリしています。
 最後に、物を知らなくて本当に恥ずかしいのですが……バグワンという方の本で、まず最初に読むべきは何という本でしょうか。お話が出てくるたびに、強く興味をかき立てられて、ぜひ読んでみたいのです。どうか、お教えください。
 マゴちゃんはお風邪だったのかな……。おちゅうしゃだったら、いたいいたいね。
 空気が乾いています。先生も、奥様も、くれぐれもご自愛くださいませ。またお便りさせて頂きます。どうもありがとうございました。

* ご無沙汰しております。e-magazine湖(umi) に投稿するべく、書いてみました。「日々多忙の中から、発言できることが有れば、利用して下さい」という言葉に励まされ、書いてはみたものの、こんなに大変だとは思いもしませんでした。私は「文学」を学んだわけでもないので、紀行くらいなら書けるかなと思ったのですが、書き始めてすぐ、簡単ではないことに気付きました。
 e-magazine湖(umi)は、「文学・文藝サロン」であって、「文学表現」の場とのこと。旅行記ということで、今年の三月に大学同期の友人と卒業旅行にカンボジアに行った様子を記そうと思ったのですが、ついつい、写真を掲載した方がよっぽどわかりやすいのではと思ってしまいます。実際、そういうホームページも多いと思います。でも、先生はそれを文字だけで「文学表現」しろとおっしゃる。私の拙い文章で、私の言いたいことが本当に相手に伝わるのだろうか、と何度も書き直して読んでみても、納得がいかないのです。私の感じた気持ちが、どういう方法であれ伝えられないのはもどかしい限りです。今頃になってようやく「国語」をきちんと学ぶべきだったと思いました。
 もしよろしければ、先生の御批評が頂ければと思い、勝手ながらメールで全文を送信させていただきました。お忙しいところ、お手数をおかけしますがよろしくお取りはからいのほどお願いします。
 P. S. ホームページを拝見させていただきました。全部目を通したわけではありませんが、真岡哲夫さんの文章がわかりやすくて良いです。あのような文章が書けたらと、うらやましいです。勉強になります。

* 博士課程で研究生活に励んできた真面目な学究である。学部の頃から、本当に人に役に立ついい薬品をつくりたいと目を輝かせていた。たしかお祖父さんが一代で立派な国文学・歴史学の出版社を興されたのではなかったか。旅行記をこれから読む。楽しみ。

* ここ数日の舞い上がった日々を日記風に。
 12月24日   夫が出張のおみやげで買ってきた赤福もちを食べながらのんびりと、秦先生のホームページ「私語の刻」を見ていた私は、驚きのあまり赤福もちを喉につまらせそうになる。23日の記述のなかに自分のメールが紹介されているではないか。今までいろいろな読者のメールが紹介されていたのは知っていたが、まさか自分の書いたものがそういうことになるとは想像もしていなかった。自分のつたない文章が電波にのっていることが恥ずかしくて、穴があったら入りたいと思う。しかし、私のメールを一瞬でも喜んでくださったと思うと、光栄で。うれしい。
 12月25日   朝、夫を会社に送り出し、洗濯をすませると娘を連れて映画に行く。有楽町で「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観る。十時半はじまりではあるが、ほぼ満席状態。泣ける映画ではあったが、あまりに救いがなく人にはすすめられない。盲目の主人公が空想のなかで歌い、踊る場面はすばらしい。あちらの歌手は歌うときにこれが人生最後の歌だと感じて全身全霊で歌うから、日本の歌手とは気迫がちがう。娘は「疲れた」と感想をもらす。映画がすんだので銀座で食事でもと思っていると、母から携帯に電話が入る。父が動けなくなって、母ひとりの力では動かせないので手伝いに来てほしいとのこと。急遽実家へ向かう。父は長く患っているが、この一年はとくに進行して時々動けなくなる。実家につくと母と私と娘の三人で床に倒れている父親を起こしておしめを替える。ずしりと重く、絶対に動こうとする意志のない身体を支えていると、ほんとうにこれぞ重荷であることを痛感する。母を助けた帰り道に郵便局により、湖の本の振込をすませる。帰宅して秦先生のメールを見る。
 12月26日   午後四時頃、湖の本が届く。なんとやさしい本だろう。読む人間のことを一番に考えてくださった本だ。いつも身近に置けてどこにでも連れていける大きさで、読みやすく、眼に気持のよい活字です。すっかり有頂天になる。誘惑に負けて、ほんの少しの時間のつもりで一冊を手にとって読みはじめ、はっと気づくと外はもう真っ暗。夕飯の支度を忘れました。あわてまくって料理をつくり、いつもより一時間おくれの夕食となる。この調子でいくと、年末の大掃除が予定どおり実行されるかどうか、はなはだ微妙な情勢である。

* いわば、わたしは、こういうふうにして、「大勢の人といっしょに暮らしている」のだなと思う。そんなふうに思っているわたしは、やはりヘンな作家なのかも知れない。作家というより、わたしは生活者として、自分がどう「今、在るか」を大事にしていると謂えるのだろう。バグワンの感化もある。

* 一両日前になるが、このままエツセイとして、貰えないかなと思ったほどのメールも届いていた。

* クリスマスは何が何でもクリスマスするのだ・・・と、朝からりきんで、さぼっています。
 19歳になる娘は、勿論もうサンタクロースを信じてはいません。けれどこの時期になると決まって二人の話題になるのが、娘がまだ幼稚園児だった時にやって来たサンタさんのことです。
『あの事だけは、いまだに不思議やなぁ』と娘は言います。
 当時、実家には樅の木がありました。私が小学校の一年か二年のクリスマスに 亡くなった父が買って来てくれたものです。何年かは12月になると庭から掘り出して、家の中に鉢植えのように置かれて飾られておりましたが、やがて家に入りきらなくなり、庭の片隅で成長しつづけました。
 その年は、12月に入って父の命日も近くなり、急に樅の木が恋しくて、幼い娘にプレゼントしたくて、屋根にも届く樅の木に梯子をかけて飾り付けをしたのです。
 田舎の事ですし、まだ洒落てイルミネーションで飾るお宅も無かったので目立ったのでしょう。25日の朝、新聞をとろうと庭に出てびっくり致しました。ツリーにプレゼントがぶら下がっているではありませんか。
『手袋を買いに』という絵本でした。メッセージカードには、「長い間このツリーでみんなを楽しませてくれて有難う!おかげで、おじさんの仕事も大変楽でした」と書かれていました。
 幼い娘にとって、その不思議がよほど嬉しかったのでしょう。無垢な心に受けた感動が、大人になった今も(あれは、どこのおじさんがした事なのかしらん)という思考へは向かないようですから・・・。あの時、私の母は、『この町にも粋な事をする人がいる・捨てたもんじゃないわねぇ』などと言い、私はというと、明け方に塀や門を越えて、見咎められれば家宅侵入の危険を犯してまで『夢』をプレゼントしてくれた「おじさん」が気になり、随分と心当たりを訊ねてみたのですが、結局解らず終いでした。
 ですので、『時に魔法は成功するものなのだ』という夢を、未だに持っていられるわけです。
 名古屋は午前中は雨が降っておりました。夜にはもしや雪?の期待もありましたが、さっぱりとお昼からはとびきりの晴天となりました。東京も素晴らしく晴れたクリスマスだったようですね。マゴの風邪、悪く無いと良いですね。小さい生き物は愛おしいです。

* 柔らかい平易に佳い文章である。わたしに向けて、独りで楽しむようにと送ってもらうメールなのだが、占有するには惜しい。どの人も、昔の学生君はべつとして、顔を見たこともない友人達である。
 2000 12・27 7

* いただいたメールの最後に置かれている「みづうみ」という字を見ていますと、いろいろな湖が浮かんできます。そのときそのときの心でながめた水の色、物語り、お作にあった湖、それから、遠い記憶のものとも、夢ともまぼろしとも分かず、たちあらわれ、ひたひたと足首を濡らす冷たい水。このまま冷たい水に抱かれて湖底にやすらぎたい。そうおもったこともありました。思いつづけていますと、涙ぐまれてきます。

   銅鏡のごとき水面を見あげゐつ水に棲むともなほさびしくて

 ずっと以前にこんなうたを詠んだことなど思い出されて。
 ちょっと、つらいことがありまして、閉じ籠っていました。器械もいっしょに働かなくなってしまい、ひとりで寒がっていました。お送りいただいた『日本語にっぽん事情』のお礼も申しあげませず。
 器械の不調は、わたくしの扱いの不手際からだったようで、理由もわからず、ふと、もとにもどり、何やら化かされたような気分でございます。
 けれど、久しぶりに訪うた湖のお部屋のあるじの、ご健康が気づかわれます。お医者さまのお目のとどていることは存じていますけれど、案じられてなりません。どうぞどうぞ、おたいせつに。
 夕方は茜の空に黒紫の富士がうつくしうございました。そして、今は、こぼれるような星空。わたくしの鬱も少しづつ、薄らいでゆくようで。
 2000 12・28 7

* 恋する青年が、素直に率直に相談してくる。そして素直に率直に動いて、事態を好くして行くのを、遠くでわたしは意気をつめ、感じている。どうなるかは、神ぞ知る。若い、気持ちのいい人たちに、すてきな新世紀が来て欲しい。
 2000 12・29 7

* 勝田様  舌下錠のお世話になりましたこと、お叱り恥ずかしくて、お礼すら言いにくいぐらいです。済みません。心します。
 家中のいたるところ片づきません。片づかなかったのが「二十世紀」と総括して、「二十一世紀」に手渡します。
 今日明日と無事に過ごしたい、かすかな強迫観念と付き合っています。
 人様に教えられまして、バグワン・シュリ・ラジニーシの古本ですが、『一休道歌』上下巻が、いま、手に入りました。
 お天気のいいうちに、お役目の白味噌と蛤を買いに池袋へ出かけてきます。 秦生

*  勝田様。重ねて有り難く。
 路上、中年の婦人がだれかに、今日は寒い寒いとこぼしていました。自分だけじゃないらしいと安心しました。
 買い物はさっさと済ませました。池袋の西武も東武も、食品売場の例年はもっともっと人が多く活気に溢れ返るのに、今年は歩きやすい感じで面食らいました。いつもの年ですと、何を見ても、旨そうで食べたくて買いたくなるのでしたが、今年は、何を見てもふっと顔を背けるような気分で、用事だけ済ませて、売場を抜け出しました。
 いつも家内や息子に正月用の贈り物を探してやるのですが、それだけでなく、自分で自分に何かをとデパートを歩きまわるのですが、そういう気の張りがなく、おしるしだけのセットものを買い、さくらやへ寄り道しても、とても品選びなど出来ずに、保谷へ戻りました。保谷の最近気に入りのコーヒー豆を売る簡素なお店で、苦いコーヒーをたててもらい、本を少し読んで帰ってきました。元気のない時は、それ相応にやり過ごすのがよかろうと思い、しばらくテレビをみていました。
 あすには息子が帰ってきて、正月は親子三人で静かに過ごせそうで、何よりです。
 いま、江戸時代の、社会の周縁部に身を置いていた人たちの実証的な論文集を、面白く興味深く勉強しています。第一巻は民衆社会の宗教者たちを論考しています。神職・神道者、神子、祭礼奉仕者と読み進みまして、これから三昧聖について読んで行きます。ひっくるめて周縁宗教者たちのことですが、これらの他にもいろいろ在り、本当に庶民生活の底知れぬ深みにふれながら歴史を識るには、欠かせない世間です、が、なかなか研究が公開されてきませんでした。
 面白半分にではなく、貴賎都鄙といわれる貴と都とだけで日本を考えてしまうのは、危険な偏向だと思ってきました。それにしても、今手にしている吉川弘文館からの叢書は、わたしの関心にとても深くよく応えてくれるので、大満足しています。ほとほと仕事をして夜更かしのアト、さらに寝床の中で明け方までこういう本を読み耽るのですから、毒を呑んでいるようなものでもありました。二時までに消灯するようにします。
 バグワンは、マインド(頭脳・思考・知識等)を批判します。禅の人といっていい覚者=ブッダです。このわたしはまた、マインドの塊のように生きてきましたので、毎日毎晩、バグワンに叱られ叱られて暮らしています。「般若心経」「十牛図」「老子」「達磨」など名薬を服するように何年も日々に欠かさず音読し続けてきました、なるべく知解を排して。苦しみを、とても救われています。
 またインシュリンの注射に階下におります。ありがとうございました。秦 恒平
 chiba e-oldってのが、いいですね。わたしも、west-tokyo e-old と名乗りましょう。お元気で。

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