* やがて雪かと。妻も、黒いマゴも、寝入っている。息子は元日夕方に来ると云う。
「小闇」が、元旦「闇に言い置く」特別編として井上靖の詩を載せた。大教室で、正月早々の授業で読んだ。この詩は大勢が感銘をうけ、励まされ、記憶に残している。何一言のたいした説明もしなかった、が、……そういうことだ。わたしも此処に書き写しておこう。井上先生も喜んでくださるだろう、みんなも喜びを分かちたい。
* そんな少年よ -元旦に- 井上 靖
これといって遊ぶものはなかった。
私たちはただ村の辻に屯(たむろ)して、棒杭のように寒風に鳴っていたのだ。
それだけでも楽しかった。
正月だから何か素晴らしいものがやって来るに違いないと信じていた。
ひたすら信じ続けていた。私は七歳だった。
あの頃の私のように、寒さに身を縮め、何ものかを期待する心を寒風に曝している少年はいまもいるだろうか。
いるに違いない。そんな少年よ、おめでとう。
俺には正月はないのだと自分に言いきかせていた。
入学試験に合格するまでは、自分のところだけには正月はやって来ないのだ。
そして一人だけ部屋にこもって代数の方程式を解いていた。私は十三歳だった。
あの頃の私のように、ひとり正月に背を向けて、くろずんだ潮の中で机に向っている少年はいまもいるだろうか。
いるに違いない。そんな少年よ、おめでとう。
私は何回もポストを覗きに行った。私宛ての賀状は三枚だけだった。
三枚とは少なすぎると思った。
自分のことを思い出してくれた人はこの世に三人しかなかったのであろうか。
正月の明るい陽光の中で、私は妙に怠惰であり、空虚であった。私は十五歳だった。
あの日の私のように、人生の最初の一歩を踏み出そうとして、小さな不安にたじろいでいる少年はいまもいるだろうか。
いるに違いない。そんな少年よ、おめでとう。
私は初日の出を日本海に沿って走っている汽車の中で拝んだ。
前夜一睡もできなかった寝不足の私の目に、荒磯が、そこに砕ける白い波が、
その向うの早朝の暗い海面が冷たくしみ入っていた。
私は父や母や妹のことを考えていた。ひと晩中考えた。
なぜあんなに考えたのだろう。私は十九歳だった。
あの朝の私のように、家へ帰る汽車の中で、元旦の日本海の海面を見入っている少年はいまもいるだろうか。
いるに違いない。そんな少年よ、おめでとう。
(井上靖全詩集 新潮文庫 より)
* 「小闇」の、元旦の「私語」も、去年、心萎えて苦しんでいた若い友人達のために、勝手な私のはからいであるが、届けたい。
* circle 2003.1.1 実は辛い一年だった。とりわけ花粉全盛期は心身ともにキツく、世の中すべてが霞んで見えていた。花粉のせいだけではない。考えてどうなるわけでもないことに、ずいぶん、時間と神経を使っていた。
アホだったなぁ。
気分が高揚したり落ち込んだりは、これからもあるだろう。けれど、今後あれほど沈むことはない。それだけ辛かったからだけではない。もう、何があっても立ち直れるという自信がついたから。
自分ひとりで抜け出せたのではないことも、よくわかっている。私の周りのひとやものごとや現象は、私に落ち込むことも、そこから時間をかけて立ち直ることも、赦してくれた。それが、どれだけ私を楽にしたことか! こういったものたちとゆるやかにつながり、幾つもの円を描いて、私は生きているのだと強く感じた。
だから幸せな一年でもあった。辛くて、幸せ。このふたつを、きっちりと色分けすることは、今はできない。
2002年のその日の私のように、大切なひとが立ち止まっていたなら、声をかけたり背中を押したりはせずに、そのひとが自ら動き出すまで、隣で待っていたい。そして、いつかそのひとが、立ち止まる別のひとのそばで待ってくれればいいと思う。そこでひとつ新しい円が描かれ、それがまた、次の円を生み出してゆく。
* なにやら、すこしムズカシイ私語ではあるが、静かに吹っ切れた安心がよみとれる。そういう安心を、だれもがもちたい。
2003 1・1 16
* あら玉の… 年の初めのお慶びを申し上げます。
いつもお心にかけてくだいますこと、本当にありがたく、心よりお礼申し上げます。
伊勢外宮内宮、そして朝熊山と、山頂の八大龍王社へお参りしてまいりました。
清らかな大気と水。海山の美しさ。空の青さ。そちらにもお届けしたい。 三重県
* 頌春!! あけまして おめでとうございます。
お早々と 新年のご挨拶を頂きまして 恐縮でございます。「湖の本」は 私にとって すばらしい出会いでした!!!
「春はあけぼの」 今年は古典で読んでみようと思います。(朗読しながら。。。)
”先生のご健康と益々のご活躍をお祈りいたします。”
お陰さまで茶の湯の楽しみ方にも たくさんの道標を頂いております。 感謝!! 一杯です!! 愛知県
* 新年おめでたうございます。
先生の歌、高等学校を出てすぐに渡米し、あまり日本文学にふれあう機会が無かった私には少し難しいのですが、先生のお気持、少しはわかるような気がいたします。
今年は日本にも、アメリカにも試練の年になりそうです。
アメリカに子や孫を持ち、日本に多くの親類を持つ私としましても、世界の平和は一番の願いです。たいした苦労もせずのんびりと生きてきた私のわがままな願いでしようか。 米国
* 白と青 あけましておめでとうございます。
新潟の大晦日は軽く雪が積もりました。お昼ごろには晴れてきました。
信濃川の分水路に沿った土地は高台になっていて、大きな堤防が宅地と水路をつないでいます。水路沿いというよりは堤防沿いに、散歩道が舗装されています。
アスファルトの上は雪に覆われて、ジーンズの裾が少し濡れました。眼下に広がる堤防も雪の白で埋め尽くされていました。陽射しに当たって白が目に眩しく、両岸の白い輝きにはさまれて、水面の青が綺麗でした。
「慈子」が電子文藝館に載りましたね。ここ数日また読み返しています。お利根さんの長いながい話が終わり、若い二人が思い出の山窪を訪れたところです。まだ先の楽しみですが、慈子がお利根さんに「お母様」と呼びかける場面で、いつも胸が熱くなります。
ごめんなさい、「春はあけぼの」も、薦めていただいた「逆徒」も、実はまだ読んでいません。秦さんは複数の書物を並行して読まれるようですね。自分はひとつ読み出すと先が気になって、読み切らないと気がすまない…一日に読書だけで50時間とれればなあと、しょうもないことを考えています。
年に一度は「横田めぐみさんのお父さん」をテレビで見かけていました。通っていた中学校の付近でめぐみさんは拉致されたらしく、見覚えのある住宅街が映し出されたこともあります。
正直なことを言えば、拉致問題に関心はほとんどありませんでした。ずっと「ニュースのひとつ」として見送ってきました。そもそも日本人はもっとひどいことを朝鮮や中国でやってたんだ…とニュースを見るたびに思っていました。
蓮池さんや曽我さんが、だんだんタレント扱いされていくのを見ると、マスコミは相変わらずだな…と残念です。服を買っただの掃除をしただの、そのたびにマスコミに追いかけられていては迷惑でしょう。まだ生存の確認されていない被害者、その情報を待っている家族もたくさんいます。報道すべきことはもっとあるはずです。
北朝鮮にかかわる問題を、かつての自分のように「ニュースのひとつ」でやり過ごしてはならないと思います。日本人は、拉致を遥かに超える残酷な罪を朝鮮人にも中国人にも犯してきた。その歴史を今まで以上に重く受け止めています。
「雪国」というより、「雨国」ではないかと思っています、新潟は。県全体ならともかく、10年を過ごした新潟市では、雪は大して積もりません。
なるほど雪が降り氷点下にでもなれば、路面の凍結から交通網はストップします。が、これはいわゆる除雪路(道路に沿って温水の出るホースが敷いてあり、路面の雪を溶かします)が新潟市にはないからで、積雪の多い地域はちゃんと除雪路が活躍しています。
新潟市では、地下水をひくと地盤沈下が起こってしまうため、除雪路を設置できません。いっそ地下鉄でもあれば便利なのですが、地下鉄をつくるには人口が少なすぎます。
中学や高校のときなど苦労しました。通勤時間帯にも15分間隔でしかバスの来ない街です。積雪があると平気で1時間は遅れます。授業の遅刻は仕方ないとしても、歩道の真ん中でバスを待っているときほど寒いものはありません。しばしば強い風が吹き、顔面に雪の大群が殴りつけてきます。…やっぱり「雪国」っぽいですね。
話を戻します、「雨国」について。一年をとおして、とにかく天気が変わりやすい。天気予報はたいがい「曇り」か「雨」。「晴れ」マークが出ても、翌日になってみると朝から雲行き怪しく、まあいいかと傘なしで外出するとざあっと降られる。特に秋深くなると雨嵐がしょっちゅうで、11月あたりで自転車は出番が少なくなってきます。冬も実際には雪より雨のほうが多かったように記憶しています。
逆に福岡では雨が少なくて、つい先日も水不足ですねえと心配顔のアナウンサーを見かけました。おいおい冬も水不足かよと、テレビの前でびっくりしました。
25日の新潟行フライトは、「到着地の天候不純のため」出発に10分遅れて欠航となりました。雨風がひどかったそうです。夜の便だったため、急いで直後の東京行に変更して、最終の新幹線で帰りました。東京駅に着いたのが最終電車の10分前。大慌ての帰省でした。
福岡には5日の夜に戻る予定ですが、予報は4、5、6日と続けて雪だそうです。6日から講義も再開するし、どうにか降らないでほしいなあ…というところです。
あっという間でした、2002年。受験があって、九州へ飛んで。戸惑いながらも馴れるうちに楽しさを見出せるようになり、いい一年でした。気持ちよく締め括り、気持ちよさを引き継いで新年を迎えることができました。
一人暮らしに病気はしんどいと聞くので、そこだけは気をつけます。秦さんも、迪子さんともども、お身体を大切にしてください。 新潟県
* なんという気持ちの佳い、達意の文章だろう、悠々と書いていて的を外さない行文。この最も若き友人の未来が豊かなものであるよう、いつも祈っている。
2003 1・1 16
* 謹んで初春のお慶びを申し上げます。
毎年新年を迎えるたびに、『慈子』の書き出しを思っておりました。私はあの冒頭の一頁ほどぴんと寒くて心清まるお正月をほかで経験したことがございません。文庫本の『慈子』は本がばらばらになるほど読みましたが、何回読んでも「世にも美しい小説」で私の魂の宝物でございます。
本年が佳い一年でありますように、先生と奥さまのご健康とご多幸を心よりお祈りいたします。 品川区
* 明けましておめでとうございます。初めて開くメールに元旦の先生の賀状あり。
我流の歌にしますと、
元旦の寒き書斎に書をひらくポーンと音のたえなる羊
有難うございました。
知るよしもない昔の静謐な京都の正月を読みました。
うまいお酒を僕も飲みます。
今年も、文学の輝きと寂しさを読ませていただきます。
* メールのお年賀ありがとうございます。今年も、よろしくお願い申し上げます。
世の中がそうすぐには良くなるとは思えませんが、目の前の、自分の持ち場で、せめてそこそこ頑張りたいと思っています。
天寿を全うする人たちの、老人ホームで暮す「次善の策」を、一人でも、これで良かったとなるように、と思います。(「効率」優先、手不足、心不足は続くでしょうが。)
昼から青空が出て、めじろはめじろで柿を啄んでいます。佳い年でありますように。 千葉県
* 今日のメール中 「ありとしもなき抱き柱・・・・・・・・・・・」
意味が解りません。気が向かれたら教えて下さい。 京都市
* 底知れない不安のままに、在るはずのないモノに抱き縋って、ただ救われたいと永い夢を見てきたけれど、夢醒めて、そんな抱き柱などあるわけもなかったと、今しも森々と、あきらめている。たのむモノなど何もない、だから安心なのだ。
* Hello Hata-san, I found these photos from back in 1957. The trip to Ise. ロサンゼルス
* これには仰天した。四十五年前、親しくしていた池宮夫妻と池宮夫人の姉大谷良子さんに誘われて、大学生だったわたしは、エディ池宮氏運転のマイカーで伊勢志摩へ一泊の旅に連れて貰った。その時、姉妹と撮った写真二枚が、ファイルで贈られてきた。ウワァッ、これには仰天。三人ともわたしより幾つも年輩で、わたしは変梃な「コヘちゃん」であった。鉛筆のように細い、冴えない青年の出来損ないが、当時としては抜群にモダンな洒落た姉妹に囲まれて映っている。二枚とも、わたしの映像を消去すればとても魅力ある写真なのだ、ウーンと唸ったまま、声も出ない。だが懐かしい。
叔母の稽古場に通っていた大谷さんは、その後アメリカに渡って結婚し、そして亡くなった。その旅では、むろん池宮さん達は夫婦であり、廣い座敷に蚊帳を二つ吊ってもらって寝るときは、わたしは大谷さんと一つの蚊帳で寝たのである。そう、ただ並んで二人で一夜を寝たのである。小川「三四郎」クンのように、用心も隔てもなかった。ぐっすり寝た。なんという、懐かしい……。
さて、この写真をどうすれば保存できるのだろう。
2003 1・1 16
* わたしが、わたし独りの言葉を言い置くほかに、いろんな人達の言葉をも書き置くのは、それもまたわたしの範囲、配慮の及ぶ世界であるから。人は一人では生きていない。
* 2003年、明けましておめでとうございます。
当方、元旦の朝、近くの三上山(標高432m)に登り、初日の出を拝みました。あいにくの厚い雲が茜色に染まるだけでしたが、参拝者から期せずして「万歳」の唱和で、清清しい朝となりました。三上山参拝者は600人ほどでした。
最近、地元滋賀銀行が文化活動に設けている「しがぎん経済文化センター」の嘱託を片手間でしていますが、その機関誌で、秦さんの滋賀にちなむ作品を取り上げることになり、作品紹介の原稿を読む機会があって、懐かしいことでした。
「湖の本」が、息長く続いていまして、近年の出版界の惨状を見聞きするにつれ、その独歩の営為がますます輝いてきます。
また昨年から友人ら五人で奈良・大峰山系の奥駆道の全線踏破を実行中です。昨年一年で完結のつもりが長引いて、今春には満了の予定。この山遊びの中、そのメンバーの一人が山歩きの本「奈良80山」を京都の仏文系の小出版社青山社(この社長も奥駆講の一員)から刊行するという付録が生じました。
また元旦、近所の伊沙沙神社(草津・渋川、旧中山道そい)に初詣し、境内の焚き火にあたるさい、薪にする直前の青い孟宗竹の切れ端をもらってきました。本日午後から箸を削ります。
すこし仕事し、すこし遊ぶ。
といったぺーすが、やっと形をなすところです。いい年になりますように、祈ります。 滋賀県
* 明けましておめでとうございます。ペンクラブの電子文藝館も、ますますの充実振り。本当に頭が下がります。しかも、影響力もじわじわ浸透している気がいたします。今年もよろしくご指導のほどお願い申し上げます。 理事
* 夕刻、近くへ初詣しましたが、長い行列を並ぶ気もなく、横から軽く拝んできました。これでご利益がある筈もなく、いいの、いいの即席信者だから。お稲荷さんより規模は小さいけれど、奉納の琴演奏もあり、着物姿も多く、縁日のお店が並んでいてお正月の雰囲気が充分ありました。 お隣の真言宗智山派の総持寺が立派でした。
今朝は雨戸を開けて、あらーと声を挙げました。なんていい具合の薄化粧なんでしょう、もう溶け始めて。凍てつくけれど大雪の降らない京の街なかの大好きなこんな雪景色の八坂神社 知恩院 青蓮院 白川橋のあたりの景観が懐かしく胸を打って浮かびます。行ければ いいなあ。
ノンベイさんの今頃は朝酒が程よくまわっている頃でしょう。たった二杯きりのお猪口で饒舌になり、蟹さんをたっぷりと身内に迎え入れ、孫からのオメデトウゴザイマスの声を嬉しく聴き、てんてこ舞いながらまずは目出度く新年
を向かえ、今日はのんびりと、箱根駅伝とラグビーでも観戦します。 神奈川県
* 明日は小・中学時代の同窓会が故郷であります。岐阜に嫁いでいる幼馴染みから、会ってたくさん話がしたいね、と電話をもらいました。
三歳の頃に母を亡くして、辛い思いをしていた。幼稚園時代、いじめられぬために、色んなオモチャを男の子に渡していた。仲良く遊んでくれて嬉しかった。
今の年齢になってこそ、口に出せるようになったのかなと思いました。裕福なお家だったし、継母との折り合いも悪くはなかったように見えていましたから、私などには羨ましいくらいでしたけれど。
明日は幼い頃にかえって、いっぱい話しをしてこようと思っています。 徳島県
* はつはるのおよろこびを もうしあげます。
日が照っているのに雪雲がはしり、はらはらと雪が降ってきました。むかし京都で遭った風花は雲がなかったけれど、これも風花と言うのかしら。銚子の初雪でした。
3ヶ月ほど銚子を留守にいたしました。本年もよろしくお願い申し上げます。 正月二日 千葉県
2003 1・2 16
* ロサンゼルスから電話がきた。四十五年前の写真は、いかがでした、と。チョコちゃんの声、今も若々しい。アメリカから日本への電話はアメリカ国内電話よりもよっぽど「やすい」そうで、一分間が「三銭」という風に聞こえたから、これにも仰天した。電話だものと、ハラハラしていたのがウソのようで、世間の狭いことを痛感した。
Mrエディ(チョコちゃんのハズバンド)が、我がいわゆる「電子の杖」を愛用して、盛んに勉強中で、その余波・余録があの伊勢参拝の写真の転送に成ったらしい。わたしより少なくも五つ以上年長だ、適格者である。池宮家と電子メールが使えるようになったのも、ごく近年のこと、うんと近くなった。
千代子夫人は裏千家ロサンゼルス支部古参の人で、大先生である。いつまでも日本の風を忘れるどころか、楽しみ育てて、ときおり日本へ遊びにやってくる。
お姉さんがわたしの叔母の稽古場に通っていて、わたしは、茶室の中では「権威者」然として、よく代稽古をした。わたしは茶の湯が好きでよく学んでいたし、稽古もした。叔母にならうだけでなく、自分でも大人の手をとって教えていたことも役に立った。大谷良子さんは稽古場ではわたしにも畏まっていた、が、一歩外へ出るとわたしは根っから「三四郎」クンで、おはなしにもならなかった。
* 筋も人も、むろんまるきりのフィクションだが、しかも大谷さんを懐かしく思うわたしの作品に、「月皓く」がある。ことに大晦日に、叔母のもとへ永いお別れの挨拶に来たヒロイン薊子と語り手と三人の除夜釜のあと、若い二人は連れだって、除夜の鐘の鳴る圓山から清水寺まで初詣に行ったことだけは、間違いなく大谷さんとわたしとの二人の場面であった。その場限りでいえば、わたしは、青春の有るひとこまを記念したい気持ちで、ありのままの気持ちでありのままに書いたのである。
その当時、叔母宗陽の稽古場に来ていた、少なからず異色の社中がおおたにさんでなく別に一人あり、いわゆる街娼婦であった。わたし自身は、ああいう時代ではあり、稽古の場でなに一つ他人と別扱いにはしなかったが、ムズカシイ小母さん方には、とかく噂をする人がいた。三十すぎに感じていたが、もっといつていたか、若かったのか本当のところは分からない。むろん大谷さんとは何の関係もない別人だが、後年小説にするときに、二人のイメージを、輪郭を重ね焦点を結ぶように融和させ、あえて、サマの変わった一編を趣向した、それが「月皓く」であった。好きな大谷さんのイメージにかりて、もう一人の社中に、稽古場で辛い思いをさせた思いを、わたしは償いたかった。せっかく熱心に稽古に通ってきたその人を、とうどう来にくくさせてしまう空気が稽古場にあった。叔母はこだわる人でなかったし、わたしも随分気を配っていたが、防ぎようがなかった。
その気分の負い目を、後々に、わたしはあの小説で、清めたいと願ったのだろうか。
それとても、除夜釜のあとのあの初詣デートが、大谷さんとの間になければ、ついぞ思いつかなかったであろう。小説のモチーフは、やはりアレを懐かしく書き置きたかったのだ。
この間、「ペン電子文藝館」のために、加能作次郎の「乳の匂ひ」を校正しながら想っていたのも、あの除夜の清水参りだった。場所も似ていた。加能の小説など知りもしなかったが、どこか、かすかに似通うモチーフの秘めてあるのが思われた。
大谷さんは、五つ六つわたしより年上であったから、わたしはただ純真に慕わしく想っていたにすぎないし、ほかにも何人も稽古場で好きな人はいた。だがプライベートに交際のあった叔母の社中の、他にあるべくもなく、大谷さんとそれが出来た一要因は、妹である池宮さん夫妻の存在と、その家庭に出入りしたからだ。そこには、世間知らずなわたしがカルチュア・ショックを受けるハイカラで豊かな暮らしと、明らかに「アメリカ」の匂いがしていた。エドワード池宮氏の仕事は、よくは分からないが、米軍内で、何というのだろう物資調達のようなことと関わりがありげだった。そして千代子夫人も茶の湯のお稽古に熱心だったし、姉妹は揃って扇雀(いまの中村鴈治郎)や鶴之助(いまの中村冨十郎)の熱々のファンだった。
わたしが強い洋酒や、例えばティシュペーパーにすら初めてお目見えしたのは、池宮家でであった。妻との結婚を、誰より早く相談したのも、家に連れて行ったのも、まず大谷さんのいる池宮家であった。妻にも、最も古い親しい友達なのである。
* アメリカに渡り、結婚されて、そして信じられないほど早く大谷さんに我々は死なれてしまった。ながく、信じられなかった。面影も声音なども忘れようがない。その懐かしい人と、仲良し池宮夫人とのあいだに挟まって、風にそよぐ一筋の蘆のように頼りなくひょろうと細いわたしの混じった写真が、二枚も、太平洋を超えてわたしの機械に飛んできたのだから、ビックリしたのは当たり前。だが、懐かしかった。嬉しかった。胸に波打って溢れくるものが有った。Mrエディの「電子の杖」に、心から感謝と喝采を送りたい。
いやいや、思いも掛けずいろんなことを書きおいたものだ、「闇」になれば、こそ、だ。思い出すことは幾らも有る。
2003 1・2 16
* 昭和30年ごろ新聞の書評で、「あすなろ物語」を知り、初めて井上靖をしりました。木曽馬籠の檜の幾つかある種類の一つに、「あすなろ」がありました。金沢の木は「あすなろ」と聞いたように記憶していますが、そうだとしたら井上靖と縁があるようにも思います。
氏の、とつとつと喋る言葉の音を先生が記憶されていること、お仕事を通して氏の優しさと肉声にも接しておられる話は、何回も読ませて頂きました。昭和の終わりごろの井上靖展のときは稀にみる大雪であったことも思い出します。
言葉「あすなろ」の話題を今日はありがとうございました。
* 池宮さんとの電話でも、お茶のことから「今日庵」の「今日」の話になった。明日は絶対に来ない。自分の足が踏みしめているのは、常に永遠の「今日」しかない。「いま・ここ」を大事に生きねば、と。早く逝った人達のためにもと。
2003 1・2 16
* あけおめ&ことよろ 「メリクリ」と言っていた若者たちが、一週間もすると「あけおめ」「ことよろ」と言ってますね。
今年も毎日美味しいご飯が食べられますように。
そしてうんとうんと笑えますように。 米原万里
* むかしむかしモスクワの作家同盟本部の食堂で初対面した、元気な人。いまは同じペン理事として会議で席を並べている。
* 竹村八重子(先生。日吉ヶ丘高校の頃の英語の先生。湖の本をずうっと応援してくださっている。)の孫、竹村 * * 子です。大変ご無沙汰致しております。秦さま、如何お過ごしでしょうか?
私は、ベルリンで生活し始めて、1年と4ヶ月がたちます。今は、ベルリン自由大学の大学生です。地理学と日本学を勉強しております。
京都からドイツに発ってから、本当にあっという間に時間がたったような気が致しております。
異国で生活の基礎を築くこと、外国語での授業、課題、日常起こる些細な出来事、違う文化ゆえのその新鮮な驚きや戸惑い。
ドイツに住むようになって、私は日本をますます好きになりました。いつかこの素敵な日本のことを何らかの形でドイツの人にも紹介したいと強く思います。
相変わらず精力的であるでしょう秦さまのご活躍を思います。秦さまのHPも、またちょくちょくのぞかせて下さい。
外国語での生活において、その行為が私には時に必要です。
それでは、どうぞ今年もよろしくお願い致します。最高気温でも零下という日々の続く、寒いベルリンから、新年のご挨拶でした。
* ドイツに行きたいという話を、からすま京都ホテルの喫茶室で、八重子先生もご一緒に、聴いた。きちんと実現している。若さの元気にきちっと働く知性がともなえば、すばらしい日々が光り始める。
* 明けましておめでとうございます。新年早々のメールをありがとうございました。今年もよろしくお願い致します。
今年度まで東工大で大学院生として研究を続けて来ましたが、春からは就職し、新しい一歩を踏み出すことになります。
12月31日、除夜の鐘付きと初詣でに、実家近くの幼馴染と毎年欠かさずに行っておりますが、今年は特に感慨深いものがありました。同期に比べ遅れて社会人となる不安と、今年が特別な一年になるであろう期待からでしょうか。
今月中旬に予定されている博士論文の発表会をもちまして、私の研究には区切りをつけるつもりでいます。残された学生生活は短い時間ではありますが、大切に過ごしたい気持ちでいっぱいです。
昨年11月に出会った女の子とは、結局恋人になることはできませんでした。しかし、女性としてだけでなく魅力的な人でしたし、出会えたことはとても幸せだったと思っています。短い時間ではありましたが、学ぶことが幾つもあり、
また新しい一歩を踏み出すキッカケになりました。
「一期一会」の言葉から、一つひとつの出会いを大切にしたいと常々思って生活していますが、その出会いと同じくらいに「別れ」は大切なものだと改めて実感しています。別れは確かに辛いことですが、それから目をそらさずに真正面から受け入れて、正しく「昇華」出来る人間になりたいと思っています。
最後に。
「闇に言い置く」ではなく、短い日記をつけるようになりました。そんな大それたものではなくて、その日考えたことを2、3書き留める程度のものです。その一日を反省する意味だけでなく、後で読み返して振り返ることで、考え直したり、初心に帰ったりでき、また明日への指針や力に変えています。
秦先生、どうか今年もお元気で。
* 帳面に書き付ける日記は、まず自分のへたくそな字をみることからイヤになったのを思い出す。うっかり違うことを書いても書き直しにくくて、それが奇妙な自己不信のタネにもなった。その点、機械は、想いようで、自分の書く文字列を対象化してくれる。ウソでも書こうならそれはウソだと、機械の文字が怒ってくる。まして、それが「闇」の底や彼方で人目に触れているとなると、性質にもより逆がありうるかも知れないが、わたしはかえって厳しく律しられ、それが書いている安心感になる。
2003 1・4 16
* 暮れに、友人阿見拓男氏の奥さんの訃を聴いた。新年、この奥さんの大学以来の親友の詩人(大学の先生でもある。)が、哀悼の詩を書いて送ってこられた。
阿見氏と詩人とにおゆるし戴いたので、その詩を、此処に書き入れたい。
また英文学者であるこの女性は、機械の上にあらわれる言葉の生み出す、いい効果にも、あしき影響にも、研究者として眼をむけてきた人。それは、「e-文庫・湖(umi)」のような試みがこれから増えてくるためにも、また日々の電子メール流行の風俗にも、本質的に大切な視線ある。
* 幻影 北田敬子
記憶をこねて
形作るのは
あなたの影
思い出を弄んで
紡ぎ出すのは
あなたの幻
「偶像を作らないで」
「美談を語らないで」
「本当の私を探して」
あなたは身を翻し
遠ざかる
呼んでも
声が出ない
手を振っても
あなたは見ない
ここよここよと
叫び続けたのに
夢の奥
微風に髪をなびかせ
透き通るあなたの瞳
ほころぶ唇
むき出しの白い腕
とても若かった頃へ
帰ってゆくあなた
「偶像を作らないで」
「美談を語らないで」
「本当の私を探して」
何も知らなかった者へ
あなたからの便りが届く
足掻いても覚めない夢は
虚空に砕け散る
Illusion by K.Kitada
Molding my memory
I form
Your shadow
Handling my knowledge
I weave
A vision of you
“Don’t make me an idol”
“Don’t tell a fairy story”
“Look for the truth”
You turn and go
Far away from me
I call in vain
In my voiceless voice
I waved my hand
Never to catch your attention
I kept crying
Here am I!
In the depth of a dream
Your hair’s waving in breeze
Your eyes transparent
Your lips slightly open
Your bare arms white
You are going back
To where you were very young
“Don’t make me an idol”
“Don’t tell a fairy story”
“Look for the truth”
To the one who knew nothing of you
Your message arrives
The dream from which I struggle to wake
Shatters in the void January 2, 2003
* じつは、この詩をこう機械に入れるまでに、技術的な問題が生じて、北田さんとは数回もメールで折衝しながら、問題は未解決のママ、やっと実現した。双方の使用しているOSの差異が生み出している「不思議」かも知れぬと推測されているが、分からない。むずかしいものだ。
2003 1・4 16
* 河村君のスペイン日記から十一月分の最初の一週間を読んだ。とにかく具体的。日々の生活が目に見えるように分かる面白さ。ことに、こんなにも食うかと思うほど、克明に食事その他の飲食が、食べ物飲み物のひとつひとつまで記録してあり、関心のほどがうかがえる。語学学校の授業の内容も、同窓の各国人たちも名前まで正確に書いてあり、これに観察が追々加わってくれば面白さはさらに増すだろう。小さな店の名前まで、通りや広場の名前まで、きちんと書いてある、えらいものだ。「明日」には「トレド」へ小旅行するらしい。またパソコン利用についてもいろいろと興味深い折衝が書けていて、この分だと、河村君の「スペイン暮らし」にどっぷり付き合うことになるだろう。わたしのように海外に出ない者には、これぞ「電子の杖」である。それにしても、よく書いたモノだ、一年あまりを書けばわたしの「湖の本」の八冊ほどにも成りそうだ。適宜に目次と見出しを付けた方が便利だろう。
2003 1・4 16
* 2003年も、4日間が過ぎてしまいました。
昨年から本や書類を積み上げたままの書斎を片付けていると、母と伯母が来ました。少し残ったおせち料理をつついて、子どものことなどいつものように話した後、母たちも押入れの中をのぞいて、ごそごそと探し物をしたり整理したりしていました。
久々の暖かい日差しも翳ったころ、片付けものの手を休めてコーヒーを飲み、またしばらく子どもが小さかったころのいつもの話をしました。
「(母親の私が骨折で入院して)預かっていた間、本当に良い子達で、けんか一つしなかった」というのが母の話。
4歳 3歳 1歳の3人、私の前ではよくけんかもしたし、わがままもいったし、機嫌の悪いこともあったし、子育ては決して楽しいことばかりではありませんでした。夫の帰りはいつも遅く、午前様。社会からぽつんと取り残されたような気持ちがしたり、完璧な母を目指そうとして子どもをしかってしまう自分に対し自己嫌悪に陥ったり、北海道での日々は、かわいい盛りの子どもたちに囲まれながらも、何かもの寂しい日々でした。30歳になるかならないころでした。
この経験から、むしろ母親にむかい「がんばっているね」「よく育てているね」という言葉が、夫から 自分の親から必要だったのではないか、サポートしなければならないのは、まず母親なのではないか、と、後日思ったのです。今でさえ、母のこの一言が繰り返されるたびに、なんとなく気力が抜けてしまうのです。
今年はこのように平凡に始まりました。
あしたは、娘夫婦が昼過ぎに立ち寄るそうです。月曜日から、また目の回るほど忙しい仕事仕事の日々が始まります。
ペン電子文藝館の金史良作「光の中に」を読みました。作者の消息は1950年以降「不明」とありますが、まだ闇の中にいるのでしょうか・・・。
今日読んだバグワンは、 「誰かほかの人が困難を抱えているときには、あなたはいつもいいアドバイスを与えてあげる。だが、もしその同じ困難が自分に起こると、そんなに賢明にはなれない。・・・・なぜあなたの知性は、誰かほかの人が窮地に陥っているときにばかり良く働くのだろう? そのわけは、そこに一定の距離があるからだ」 と教えてくれました。
迷いがあるときに、別の自分になって今の状態を少し遠くから見つめてみる必要があるようです。そして時々、第三者の少し醒めた目で自分のしていることを批評してみることも必要なのでしょうね。
イタリアの娘にメールを送ってから休もうと思います。おやすみなさい。
* 離見の見は、たやすく言い得て、最も成しがたい一つである。気は付いても、其処でとまってしまう。そして自分に甘くなる。全身に我が手で黒いピンをさし、痛さに背をおされて奔走しつつ、生きている醍醐味かのように思ってしまう。若い内はそれに堪えられ、結果もついてくる。いつまで若いか。問題はそれだけである。
2003 1・4 16
* 東工大の教授室に来て、いつも黙って座ってゆく学生が、少なくも二人いた。他の学生が同席でもそうでなくても、いつも同じように静かに黙って話を聴いていた。ときどきわたしから話頭を向けると、ごく簡単に答えてくれるが、自分から話すことは滅多になかった。
一人は、それでもときどきはしゃいだ。酒がいっしょだと饒舌にすらなり、よく呑んだ。そして、何かに苦しんで、わたしもよく分かってあげられなくて、中退していった。
ほとんど口を利かないおとなしいもう一人は、わたしが退官のときに、「秦先生のこの教授室が無くなれば、わたしにはもう大学に居れる場所がないです」と言い、胸を打たれた。その学生のことが忘れられなかったが、退職して暫くのちに家に電話すると、大学へは行っていないということだった。部屋に閉じこもっていた。外へ出て人に逢うのがイヤなのです、と。けど秦先生となら逢えます、と。折悪しく、うまくなかなか逢えなかった。ある年には、北海道知床の端まで行き、オホーツクの流氷を見ていますと絵葉書が来た。少し寂しく少し安心した。そんなハガキを二度ほどもらったが、復学した気配は無かった。留守に電話して父上らしい人から、不在を告げられたこともある。すこしは出歩けるようだ、それならよしと、安心するように努めた。
去年の秋、また北の旅先から葉書が来て、それには、また別の大学に通うことにしましたとあった。ほうっと、しばらくハガキの文面を見つめていた。良かったという気持ちと、やはり東工大には戻らなかったかというかすかにつらい気持ちとが、わいた。そして逢いたいなと思いつつ、なかなか電話出来なかった。ハガキでは埒があかない。
で、いましがた、一別以来数度目の電話をした。私のクセで、マサヤという名前をミチヤ君と呼び出し、訂正されたそれが当人であった。こころなし声が太くなり強くなっていた。何処へ行ったかと思えば「東大の駒場」に通っている、科学哲学を勉強すると言う。
また逸機したくない、「明日逢うか」と言うと「逢いに行きます」と。よし、今年初の外出に久々のマサヤ君だ、あの調子だからなかなか進んでは話してくれまいが、それは慣れている。再度の門出を祝いたい。
2003 1・5 16
* 当尾の便りが入った。柿の大樹を写真で見せてくれた人から。
* 当尾の柿のY先生の家 はじめまして。小学校の教員をしています。私のホームページの写真をご覧になられたようで・・・。たしかにあの柿の木の写真は 吉岡先生のお宅で撮らせてもらったものです。吉岡先生は、私と同じ職場で教鞭をとられている女性の先生です。
柿の木は、町の観光マップにも載っているほど有名な木です。昔は2本あったそうですが、1本枯れてしまったようです。しかも、この夏、台風でとうとう写真にある松右衛門の木も折れてしまいました。とても残念なことです。
秦様やペンクラブのホームページとリンクさせていただきたいと思っています。よろしくお願いします。
* 卒業生のメールが来た。にこにこし、少し、にやにやした。なるほど、今なお生きている作品なのだ。
* 近況 ジョージ・オーウェルの「1984年」という小説を読みました。1949年に書かれた、35年後の近未来の、管理社会を書いた作品です。(有名な作品なのでご存知かもしれません。)
1949年…54年前に書かれた想像の世界にも関わらず、その詳細の描写があまりにも現代や、自分の会社生活に当てはまり、引き込まれるように読みました。
興味深い概念が登場しました。作中には「二重思考」という概念が登場します。この社会では、政体が2足す2は5といえば5であると受け入れなければならず、かつ、ロケットを作る際には2足す2は4である。この矛盾する二つを、同時に、無意識に、受け入れることを、「二重思考」として、強制されています。
二重思考という考え方自体には目新しさはないかもしれません。単に「矛盾を受けいれる」ということは、生活のうえで手段として行うこともあります。けれど、その行為が持っている究極の目的が、思考そのものを無意味にしてしまうことだと、この作品がよく著していました。
また、この社会では、言葉も管理され、単語が極力まで減らされていきます。これにより、政体に反する思考を行えないようになっていきます。(文字コードの行く末を案じます…)
そして、この社会で書かれているものは全て監視の下にあります。そのため、「誤った」言動を行うことによって、ある日突然社会から文字通り抹殺されてしまうことが起こります。(個人情報保護法案の目指しているものの一つは、インターネット上の情報管理です…)
オーウェルのこの作品を読んで、一々ここが今にそっくりだ、と呑気に驚いただけではありません。
この予想された(実現されつつある)未来社会は、結局は、「技術」が進歩していく中での「権力」のありうる姿を描いたわけで、避けられないところがあると考えます。
しかし、この予想された社会に向かう中で、少なくともどういう心構えを持つか、ぼくはどうやって何を見るか、考えるきっかけになりました。
* いいきっかけである。また別様の視線が生まれたということ。
科学哲学を志すという再起の東大生と、今から逢いに町へ行く。話題が一つ出来た、か。
2003 1・6 16
* 何年も逢ってないなんて、感じられなかった。下村寅太郎先生に頂戴した昭和十六年八月版の『科学史の哲学』をお祝いにあげた。これは歴史的名著と名の高い本であり、科学と哲学とを、ヨーロッパ文化の根底を成した数学の思索から構築してゆこうという、数理哲学者であった下村先生の独擅場である。ヨーロッパ文化に実に豊かに美しいほどの視線をさしこんでおられた。初めてかの地を踏まれた紀行にすでに文藝としてもみごとに先生の思索は彫琢されていて、間然するところ無く驚嘆したものだが、峰理哉君はその科学史の哲学をいましも勉強しているのである。
一別来のそれはたくさんなことが話題になり、以前よりは少し多く彼も話してくれて、三時間ちかい昼飯がたいへんけっこうであった。もっともっと居座ればもっともっと話せたろうが、なにも一度に言い尽くしてしまうことはない、これからも機会がある。むかし、わたしの教授室に現れたときの儘の鞄を背負っていた。背はわたしよりずっと高く、体重は私よりも十キロも軽い。すこし顔付きは昔よりふっくらして、流行のレンズの小さな眼鏡。よしよし。
* どこへも寄らず、わたしは真っ直ぐすうっと家に戻った。
仕事始めで、大勢から電子メールのわたしの賀詞に、返礼があった。ブラジルのヒコーキ野郎からもあった。新聞社の人からも、また電メ研の人やペンの人からも。
2003 1・6 16
* 元旦早朝から実験をはじめ、一段落して、沖縄でゆっくりしょうがち(正月)を送っています。
那覇の水神様、波上宮に初詣。おみくじを引きました。土地柄、表には日本語、裏には英文で書いてあります。
運勢 末吉 Your Fortune: Good
学問 危うし全力を尽くせ study: Work hard, or you’ll lose.
いつも学問が危ういと出るのは何故でしょう?
午後からは、日本最大の水族館に出かけます。もうしばらくのんびりと・・・。
寒波悪天候、お大事にお過ごしください。 maokat
2003 1・6 16
* 新年あけましておめでとうございます。
お心遣い、いつも心に染みています。ほとんど毎日、心の内で秦さんに語りかけています。
あれからまた一揺れあって、(略) つらい年明けでした。
部屋探しを本格的に始めました。
仕事は、創造的なことに携わる自信が今はないので、派遣会社に登録し、単純な入力や校正作業をまわしていきつつリハビリするつもりです。年内は新聞社に出向きました。今日から数ヶ月は出版社ではたらきます。
今からしばらくがしんどい時だろうと予期し、深呼吸して、なるべく考え込まぬようにしています。
とにかく、今年は堅実にいきることを目標にかかげました。大きな活躍を望むでなく、きちんと稼いで、健康に、自分を大事にして生活すること。無気力無関心、欝と怠惰からのがれていくこと。
ここ数年、なんだか色々なことがありました。
本を読んで、音楽を聴いて、絵をみてたのしんで、小難しい物思いはしばらく脇へのけたいです。
五島美術館と、それに山種のチケットまでいただいて、ほんとうにありがとうございました。お礼も感想も、時宜をわきまえずにすみません。ほんとうにすみません。
五島美術館には平日の午前中をねらったにもかかわらず、大変な人出で驚きました。行く前は、茶碗のよさが私にわかるだろうかといささか不安でしたが、実際に目の前にしてそんな心配は吹っ飛びました。やはり、何でもほんものに会うべきですね。
踊りだしたいような愉快なものから、雪の日の静けさをおもうもの、いびつな形のなかに緊張感を感じるもの、夕暮れていく空の下での焚き火のにおいを思い出すもの、宇宙のような(その時代はそんな観念はなかったでしょうけど)深い色味をたたえたものまであって、あれほど多様な印象と気分を味わえるとは意外も意外、向き合っていて愉しい時間でした。
伯庵茶碗は寂しくて寂しくて長く前にしてはいられず、志野茶碗はやわらかさが心地よく慰められるよう、が、今の私に一番印象強く、手元に欲しいとおもったのは、腹にずしりとくる黒楽茶碗でした。あの手応えと存在感。
それから、陽射しのあたたかな日でしたので庭をひとめぐりし、紅葉がまっさかりでしたからなかでもひときわの蔦紅葉を一枚拾い、栞にいただきました。
今日は簡単に、とにかく何とかがんばっていますとお伝えするだけのつもりが、お話しているように楽しくなってきて、つい書いてしまいました。
気分の変動が烈しいのです。日中の仕事のおかげで、とことん落ち込むことは避けられそうです。堅実に、一歩一歩ふみしめて、目の前の道をゆっくりいきたいです。
* 「ばかですね」と自分で自分をわらってみせる、それすらも自己欺瞞となり、自分を明るく幸せそうに励ますことに慣れ、憂き辛き悲しき苦しきモノの真実みを抑え込んでしまう、と、反動で、身内に沸騰する本音が、本心が、堪らず反撥してくる。人は時には見苦しくジタバタとあばれてみてよいのではないか。五島美術館「名碗展」の感想などにこの人の美質は学生の頃と少しも変わらず生きている。物のよさを把握する感性は生き生きしている。だが日々の現実にむきあうとき、いわば健康そうな幸福そうな「正」に抱きつくことで、却って憂鬱や不幸の「負」に反動的に主導権をにぎられてしまう。避けようもなく自身の「いい人」状態に、逆に苦しめられる。「抱き柱」を敢然と捨てるときだろう。科白無用。両手両足をふりまわし、ひたすら悪戦苦闘した方がラクになる。
* おくればせながら、新しい佳い年の、およろこびを申しあげます。
おすこやかに、そして、「澄み渡り弾んでくる空気」が、先生のお身のまわりに立ちこめる日々でありますようにと、願うております。
* そうありたい。外へ出す出さぬは、べつとしても。
2003 1・7 16
* 無沙汰であった原善クンが年賀状を送ってきた。「15年間の地方版の苦難を乗り越え、漸く叶った東京版で、新年のお慶び申し上げ」るとある。つまり東京郊外の女子大学に、とうとう教職が得られたという報告。永らく、悲鳴に近い「苦難」をつぶさに聞き知り見知ってきた。「おめでたい」ことである。毎日ご亭主を遠くへ送り出していた夫人もほっとされていよう。よかった。
* あけましておめでとうございます。正月スキーに乗鞍へ行って、昨日帰ってきました。雪が激しく、宿に閉じこもらざるを得ず、おかげさまで、「春はあけぼの」を、小説読むように一気に読みました。いや、読まさせられました。友人に芥川研究者がいて、大変端正で明快な文章を書きますが、このように随所につややかでめくるめく表現を見せつけられると、彼の文章がまるで無味乾燥のようにも思われ、勉強させる文章より、何よりも読ませる文章を突きつけてくる作家の恐ろしさを感じました。すばらしい御著を給わり、本当にありがとうございました。読ませてやりたい教え子・友人が何人かいます。郵便局へ行く時間がとれるようになりましたら送金申し上げますので、よろしくお願いいたします。ますますのご健勝、ご活躍を祈念申し上げます。
* 有り難き仰せである。
2003 1・7 16
* ブラジルから。
* またまた失礼します。
> 春、(すでに)指頭に在り。微風、(静かに)松を吹けり。
ですか。失礼しました。
>> 来る春をすこし信じてあきらめてことなく「おめでたう」と我は言ふべし
>> ありとしもなき抱き柱抱きゐたる永の夢見のさめて今しも 六十七歳
> それよりも、「抱き柱」について考えて下さい。きみも目に見えぬ「抱き柱」 を頼んで、しがみついているだろうと思うが、いかが。
・・・(絶句) 図星です。
きっと、秦先生は、皆様にメールを出していると思っていたので、ここまでピンポイントで指摘されると、驚きで言葉を飲んでしまいます。
私が、母によく言われるのが、「山のあなた」という詩です。確か、中学校の教科書に載っていた、翻訳詩なのです。
「山のあなたの空遠く、幸住むとひとのいふ
(中略)
山のあなたのまた遠く、幸住むとひとのいふ」
ある人が、「山の向こうに幸せがあるよ」と言うので、山を越えていてみたが、幸せは無かった。すると、またある人が「山の向こうのもっと遠くに幸せがあるんだよ」といった…という趣旨だったような。
また、母に、「あなたは、獏です。夢ばっかり食べている。」といわれることもしばしば・・・
「三十にして立つ」を迎える今年。初心に返らねば。
なお、やっと、面白そうな仕事の「テーマ」にありつけました。頑張ります。
* なんとか問答めいて多少おかしいけれど、あっというまにブラジルの職場から届くのも、いと、をかし。
2003 1・7 16
* 今日は朝早く用事で大阪まで行き、思い立って京都で日展を見てきました。以前日展の会場で感じた迫力、少なくとも量的な面だけでも迫力を感じなかったのは、わたしの感性が鈍くなっているからでしょうか?
その後平安神宮に寄りました。三ヶ日の混雑は嘘のように静かで、清々しかった。年配の方が多く、ちょっと離れた京都会館脇のベンチではお弁当などを食べていたり。真っ青な冬の空の下ののどかでさえある光景が・・見方によれば寂しくもあるのですが・・わたしは幸不幸のあやめも分からず、感じず、ただ冬の日ざしと、神宮の庭の空気を吸ってきました。
夕方・・今し方帰ってきました。やがて薄暗くなる時刻です。
2003 1・8 16
* しずかなお正月をお過ごしのことと拝察しております。この新しい年も豊かに先生のお仕事が積み重ねられていかれますことと、大変喜ばしく楽しみでございます。
四日には銀座のデパートで開かれている古書市にまいりました。最近の書店はよほど大きな所に行かない限り、売れ筋ばかりのみんな同じ味のファーストフードのようになってしまいましたので、こういった催しは嬉しいものです。とくにデパートという限られたスペースに出されるということで、個々の店で充分選んだものが並べられていて佳い本が多いという印象がございます。
古本ではありますが、誰かに愛され、意思をもって残された数々の本を見て、私は二時間ほど幸福な時間を過ごしました。先生のご本も熱い読者のために、目立つところに一段場所をとって並べられていました。先生のご本は、作者ご存命にもかかわらず、立派な風格がありすでに古典の領域に入っていると感じられました。
秦恒平著書はかなり持っているつもりですが、それでも未読のものがまだまだあり、エッセイなど四冊購入いたしました。先生のお仕事の質と量にあらためて驚嘆いたします。『慈子』の豪華限定本も初めて発見しました。先生直筆のお言葉が書かれ味わいのある挿絵の入った贅沢なご本で、しばらく見とれていました。
愛読者としてはもちろん欲しくてさんざん悩みましたが、どうも読むより後生大事に飾る本になりそうで断念いたしました。私の悪い癖であまり本をきれいに保てないのです。一冊目の文庫本『慈子』は持ち歩き、線を引いたり書き込んだりしたあげく、ばらばらに。単行本として持っていた二冊目は、昨年母に貸しましたら「返したくない」と親権発動されてしまいました。
読むということに重点を置くと、私にとって湖の本のあの形態ほど最適なものはございません。活字の組み方も読みやすく大好きです。そこで新年早々先生のお手をわずらわせて誠に申しわけございませんが、また湖の本を注文させていただきたくなりました。
『慈子』上下二巻と『墨牡丹』上下二巻の計四冊を、郵便局に御用のあるような機会にお送りいただければと、よろしくお願い申し上げます。
本ばかり読んでなんたる悪妻と笑われるでしょうが、年末年始はよき家庭人をしておりました。わが家のお正月の恒例行事といいますと、家族三人でパイ作りというのがございます。パイ生地を練るというのはかなりの力仕事ですし、時間もかかるので、主人と娘を手伝わせるというよい方法を考えだしてもう何年になるでしょうか。
娘はままごと感覚で粉をこね、日頃料理と無縁の主人もこの時だけは腕まくりして、パイシートをたたんだり延ばしたりしました。オーブンからのおいしい匂いが台所に充満するころ、半日がかりのパイが出来上がります。焼きたて熱々のアップルパイを主人と私は濃いコーヒーで、娘は香り高い紅茶でいただきます。おせち料理の淡白さに飽きたころ、濃厚な西洋菓子の甘さに包まれるのもなかなかよいものでございます。
今年も先生の書かれた言葉の海のなかを漂いながら、生きていくことができましたら、心から幸せに思います。どうぞお身体にはくれぐれもご注意なさいまして、お元気でお過ごしくださいますようお祈り申しあげます。
* 『慈子』の限定版は、大判で函に入り、橋田二朗画伯の繪が沢山挿入されていて豪華な本であった。単行本が千円としなかった頃に三万円近くしていたから、贅沢なモノであった。それなりの見栄えであるが、言われるように「読む」には「湖の本」の軽く簡潔で柔らかい本がなによりである。
ツカの出た厚い重い固い本は、読みにくい。先日出してくれた『からだ言葉こころ言葉』のように、手の切れるような堅い紙の堅い表紙では、著者でさえ愛おしさがもちにくく、本が可哀想だ。ツカ出しよりも、紙は柔らかくしなやかなのが佳いのである。頁をひらいたまま置けるような製本が上等なのである。
ときどきモノの分からない人がいて、湖の本が、手触り柔らかい軽便な雑誌ふうであることを、まるで本格の本でないからダメのように軽蔑気味に云う人もいるが、立派に一冊一冊が書籍なのである。そして、これ以上に持ちやすい読みやすい本の作りはそうあるまいと思うほど、実際的に造ってある。本を読んで愛し、手に持って愛してきた者が、いちばん読みやすいようにと、わざわざ心こめて選んだ形である。
もっとも、製本は委託した業者がするので、職人さん次第で、出来不出来の幅が大きい。ことに初期のものに不出来が多く、さらに、年数がたって背に糊やけも出ていて恥じ入る。なるべく綺麗に出来た本を探そうとするが、叶わないときもあり、申し訳がない。
ま、本を読むのが好きで好きでという担当編集者が、心をこめれば、世間の本ももっと読者に優しい佳い感じになるだろうに、頭デッカチの装本家や下請け任せにするから、読みにくい固いものが平然と出来てしまう。
このメールの人のような読者に出逢えるのが、本も嬉しく、著者も冥利につきる。
2003 1・8 16
* 沖縄から、珍しい人のメール。
* あけましておめでとうございます。朱虹です。東工大でお世話になりました。年賀状をいただき、どうもありがとうございました。近況報告もしないで、本当に失礼いたしました。いただいたいくつかの「湖の本」を、宝物のように大事にしております。心から御礼申し上げます。
ホームベージを開いておりますので、御覧になっていただければありがたいです。
先生とご家族の皆様にとって、健康で明るい年でありますようお祈り致します。 かしこ
* 長春にある東北師範学校で、日本文学、ことに漱石を学び、「こころ」で論文を書いたという。東工大で、わたしの研究室の研究生として勉強していた。学生と同じように日本語で「アイサツ」書いていた。教室にも教授室にもよく出入りし、多の学生達とも顔なじみであった。可愛らしい人であった。
* 髪を切りました という声も。「髪切っておもひの外にあたゝかし」と、ひょいと口をついた。
2003 1・10 16
* 秦先生。東工大で先生のもとで楽しく学んだ、***です。
昨日、頂いた年賀状を拝見しました。申し訳なくも、嬉しくも、「メールが届かなかったから」と言っていただいたので、こちらからメールを送ります。べつのアドレスです。いつでも反応できるアドレスなので、こちらに宛てていただければ幸いです。
さて、勝手に私事を書き連ねますと、今は都市基盤の或る「整備公団」の本社におりまして、忙しく仕事をしている毎日です。そのため、かみさんには申し訳無いのですが、平日はほとんど「母子家庭」のような状態でして、いやはや何ともという状態です。
ただ、先生の「とても幸せそうで」と(家族の写真に)頂いた言葉が、仕事の忙しさとは別に、「そうだよな」と、かみさんとしみじみ確認するきっかけともなりました。
思えば、先生の前で講義を受けていた時には、自分の前には、どんな未来が待ちうけているのか、今の暗闇から出るには、どうすればいいんだろう、なんて思っていた気がしますが、相変わらず、未来の姿はおぼろげにも見えるのか見えないのかという状況ですが、少しづつ、自分にも続けたいもの、貫きたいもの、守りたいもの、共感したいものが増えてきているようで、いい日々を送ることができているのかなあとも思えます。
さて、とりとめがなくなってきましたが、変な話、やはり先生の一言は、的を得ているというか、鏡のようというか、
不思議なもので、これからも勝手ながら、先生の存在を意識して、何とか日々を送っていきたいもんだなあと思っております。
これからも健康に留意して、御活躍の程を。陰ながら、応援したいと思っております。
雑文失礼いたしました。では。
* 授業を始めた年、彼は二年生だった。まる二年間つきあった。よその大学へ転じたいと、適当なところを捜して歩く歩き方も、個性的な、気の優しいガッツのある男っぽい好青年だった。なにしろこの春届いた年賀状の家族写真の好ムードったらなかった。メールで出した賀状が届かなかったので、ハガキでいいねと褒めた。ま、よかった。
* 今年もご健康で在られますよう。そして私も そう在りたいと念じています。
建日子さんの「最後の弁護人」シリーズが 15日から始まるそうで大いに 楽しみにしています。「天体観測」は回を追うごとに ドラマの展開に魅き入れられて 待ちかねて拝見しました。
朝日子さん 建日子さんのお名前を見ますと (和歌山の家の前の)プールで泳がれた小さい時の記憶が甦ってきます。35歳に成られたのですね。連続ドラマの脚本家として 堂々とご活躍されて嬉しい限りです。どうか益々ご立派に成られますこと 期待申し上げています。
先生が 中国ご訪問の折 私の長女に「切り紙」をお土産に頂きました。その小さかった長女に 二人目の男子が誕生しました。里帰りして私宅で静養していました。騒がしい限りでした。そんな事で少し気疲れ(私は何もしないのですが)したのでしょうか 体調がいまひとつ確りしませず 今月 上京の予定にしていましたが 少し先に延ばして 元気を待ちたいと存じます。
矢萩冬菁氏の書展や 万葉の日本画展も この機会にと楽しみにしていました。残念です。
三月ごろには上京致したいと存じます。お目にかかって佳いお時間をご一緒させて頂けますれば幸甚です。
風邪が流行っています。くれぐれもご自愛ください。 三宅貞雄
* 同年輩の人の不調は、こちらの身にもこたえる。無茶をするつど千葉の勝田貞夫さんの叱ってこられる気持ちが分かり、申し訳ない。わたしが今案じているのは天皇さんである。どうか、ご無事でと。無遠慮に、病状にからめたテレビ番組などあると頭に来る。
明日は三宅さんにかわり、矢萩さんの書展をみてこれるといいが。またぐあいがわるくならないといいが。
2003 1・10 16
* 朱虹です。メールをいただきました。どうもありがとうございます。
「ペン電子文芸館」のページを“お気に入り”に登録しました。先生がお選びになった作品なら、ぜひ読ませていただきたいです。
先生のホームページを拝見しましたよ。「闇に言い置く」私語のページが毎日とても楽しみです。今日昼間何回かアクセスしましたが、昨日の文章の中の“胸が重苦しい”とか、“具合は悪い…”とか、“左の胸の上にドテッと泥でも塗りかぶせた…”の表現が気になり、さすがに心配しました。その後更新された内容が読めましたので、ほっといたしました。毎日先生の文章を待ち望んでいる方が大勢いらっしゃるのではないかと思いますので、くれぐれもお体をお大事になさってくださいませ。
沖縄に住ませて頂いてやがて8年になろうとしていますが、まだよく分からない部分がたくさんあります、ですが、ここは私と家族にとっては住みやすい地といえます。
海は言うまでもございませんが、彩雲も星空もすごくきれいです。お金では買えないウチナンチュ的人情の暖かさや空気の新鮮さ等をとてもありがたく思って日々を過ごしております。中途半端なものですが、レインボー・アカデミーのHPの“行雲流水ー朱虹日記”の頁で、毎日ではなく、気が向いている時、沖縄での日常を書いております。事後報告で申し訳ございませんが、去年お本をいただいた9月18日に先生の事を書かせていただきました。
ところで、名前ですが、“虹”と“紅”は、日本語で同じく“コウ”と発音するし、中国語でも同じく“Hong(ホン)”と発音するので、よく間違えられます。私は先生を崇拝するあまり、自分の名前まで妥協してしまいました。“朱紅”のままでもかもいませんが、一応本当は“朱虹”で、“あかい虹”です。日本の虹も、中国の虹も七色ですが、わたくしは単色の“虹”でございます。
これからも時々メールを送らせていただきたいのですが、お仕事のお邪魔ではないかと心配です。どうか昔のように、ご指導賜りますよう宜しくお願い致します。 かしこ
* 返信の宛名に「虹」でなく「紅」を書いてしまった。名前の表記で「妥協」してくれるなんて、何という厚意だろう、朱虹さん、ごめん、そして、ありがとう。日本語の表現がとてもうまくなった。崩さない日本語で、うれしい。こういう日本語を中国の人にも伝えてほしい。
2003 1・10 16
* たくさん、実のあるメールが来ていた。なかには、読んでいて、つらいのもあった。人、まさに、さまざま。
* こちらで新しい年を迎えるようになってから、あの新年の身の引き締まる思いを感じなくなっていましたが、恒平さんから御挨拶を頂いて、正月の朝の、あの静かでひんやり張った空気を思い出しました。正月は好きではなかったけれど、今思えば、いい空気だったかもしれない、と。
冬に忘れ去られ、このまま春になってしまいそうだったバルセロナに、今寒波が襲ってきています。先週末、くす玉のように開き出したミモザに驚いたところでしたが、今度はミモザの花が驚いている番かもしれません。
ところで、去年の暮思い切って、**君へメールを出しました。恒平さんに**君のホームページアドレスを教えていただいてから、まる1年。書きたい気持ちを抑え、少し待った方がよいと思っているうちに、互いにそれぞれの幸せを追って生きているのだから、それでよいのではないか、書かなくていいのではないか、と思うようになりました。ホームページで彼が幸せに生きている様子が分かるのだから、と。
ところがしばらくして、彼には私の様子が見えないことに気がつきました。彼が知りたいか知りたくないかは別にして、同じ機会が与えられていないことに、何だかフェアでない想い。当時、私たちはいつも同じ土俵の上にいたのだから。返事をくれるかくれないかは、どちらでもいい。私の様子を知らせよう。
返事は来ないと思っていました。でも、それは諦めとは違う何か。なぜなら彼から私への言葉が欲しかったのではなく、彼に私の様子を知らせたかったから。
それが、忘れた頃にというには早すぎるけれど(実際忘れていました)、今日、**君から返事がきました!**君も、一年前に恒平さんから、私がスペインで幸せに暮らしていることを聞いていたとのこと。彼も、彼の近況を教えてくれました。恒平さん、私がどんなに嬉しかったか、分かっていただけるでしょうか。二人が互いに、互いが欠けた、別のパートナーとの幸せな生活について語る日がくるなんて。
今、ホームページを作っています。義理の両親のコンピューターでは、メールだけは日本語で打てたのですが、その他が日本語がだめだったため、引越が終わるまで取掛かるのを待っていました。恒平さんが教えてくださったホームページも参考になります。私と同学年か一年したの彼女(そう言えば、去年私は30ではなく31になりました)、私とはまた全然違うのでしょうが、共通点もたくさんあって、時々おかしくなります。大きな違いは、彼女は東工大の生活を楽しめたこと、私は楽しめなかったこと。彼女のホームページ、去年の12月ごろからアドレスが変わったのか、読めなくなってしまいました。もしお分かりなら教えていただけるでしょうか。
湖の本のこと。私への誕生日祝いの小包が届かなくて、それ以来、私へ郵便を送ることをぱったりやめてしまった母のことは、お話したかと思います。つまりせっかく実家に送ってくださった湖の本も、私の手に届かなくなってしまったこと。ただ、こうして恒平さんの本が私の手元に届かなくなってしまったのが、残念でなりません。海外へ送る場合、郵送料も違うでしょうから、いちいち調べなくてはならないなど、かなりの手間になるのでしょうが、そしてそれを承知の上でお聞きしますが、バルセロナに直接送っていただくことは不可能でしょうか。
今週の初め、見慣れた近所の塀(の繪)が、アメリカの国旗に変わっていました。「まったく!今時分、親米だなんて!」と鼻息を荒く近づいたら、星条旗の星がすべてナチスのシンボルで描かれていることに気がつきました。グッドアイディア!と笑ったものの、笑い事ではすまされない、事実イラクの行方が心配です。イラクだけでなく、世界の。
お身体、くれぐれもお大事になさってください。
* 海や大陸を越えて、これほど簡単にお互いの思いが伝わる、こんな体験をするとは、夢にも思わなかったが。「世界」という二字の意義が、子供のころとは質的にも変わったか。ヴェルトシュメルツということが盛んに言われた時期があったが、それ自体は今も昔以上に顕在すらしているが、在りようは、随分様変わりしている。
* おはようございます。朱虹です。メールありがとうございました。
先生のご指摘を読んで、“あらま~、たいへん”と言わんばかりに口をあんぐりあいてしまいました。ニュアンスがわからないまま、ずっとその言葉を使っていました。後でトコトン直します。どうもありがとうございます。
“このごろ文学は何を勉強していますか”と聞かれて、頭を抱えました。そうですね、子供と一緒に児童文学しか読んでいないのでは、だめですよね。頑張ります。この間「こころ」を改めて読みましたし、今から島尾敏雄の「死の棘」読んでみようかなと思っております。
そう言えば、夫が“今年東工大の恩師が集中講義しにいらっしゃる、最近研究は進めていますかと聞かれました、頑張らなくちゃ、先生に失望させたくない” といっておりました。いいなあと羨ましかった。私も秦先生から“このごろ文学は何を勉強していますか”という大事な一語を頂きましたので、とっても嬉しいです。お言葉を励みにまた日本文学を読む時間の持てるように頑張ってみます。
それと“紅”を“虹”に戻してくださり、どうもありがとうがざいます。 かしこ
* あらまあまあと困らせたのは、彼女の「旦那」という表現を、普通に「夫」のほうが宜しいのではと注意したのである。わたしの好みを強いたかも知れないが、「旦那」は好きでない。「主人」も好きでない。ついでに言うと、朱紅メールを結んでいる「かしこ」を、いつ、どういう場合に学習したのだろうと、少し微笑ましく興味を覚える。いまの日本人女性の手紙やメールで、「かしこ」という結びは稀有。わるくは、ない。むしろ残されてよい風かもしれぬ。だが、珍しい。
* ことしこそ心を入れ替えて「T」型人間になりますと、わざわざ言ってきた卒業生がいたが、たぶん勘違いで、ことしこそ「T」型の一本足から、何かしら二本足になろうという宣言でなかったろうか。
仕事の社会にはいると、どうしても仕事に追われて寸暇もなくなる。
事実は、時間は生み出しも創り出しもできるもので、むしろ、言えるのはこういうことだ。たとえ時間を創り出し生み出しても、その時間を生かすに足る「すること」「なすこと」こそが創り出せていないし、生み出せていないだけだ。どうしても「したい」ことがあれば、死にものぐるい大車輪に寸暇なく忙しいと見えていた中からでも、小刻みの十や二十分の見いだせないなんてことは、有るものでない。「何がしたい」か、それが無ければ、一日の大半が暇であろうとも、寸暇無く忙しくしているのと同じほど、時間は消費されている。「時間がありません」ということを「一本足」生活の言い訳にする人がいると、それは、時間が在っても「したい」ことが無いだけではないですかと、腹の中で反問している。
ものごとに深い意欲や関心をもつためには、生き生きと暮らしていなければならない。そうでない状態が即ち「退屈」というものであり、退屈は、ひまな人の専売ではない。じつは大忙しの人も「忙しさに退屈」している例は多い。意欲が基本である。それがあれば時間が創れる。体験して、それは信じている。
2003 1・11 16
* 「禁じられた遊び」のメロディにのせて、「枕草子」の、春は、夏は、花は、星は…の名文を歌詞にして、テレビで歌っていました。あの文は、そういう “うた”い方と、ちゃうのンとちゃうやろかぁ…。
今朝の名張は、珍しく凍らずに、湿り気が地に残ったままで、薄い雲も、これから、晴れそうな気配。
京・文博(文化博物館)の「川端康成のコレクション展」も見たいけれど、こんな天気の日は、今朝、TVで、いとうせいこうさんが訪ねていた、東寺。いいでしょうねぇ。
明日は若草山山焼き。ひろびろとした場所で羽をひろげてこようッと。
* この気軽さが、根から衰えてゆくのは気を付けないとと、我が身のために思う。「億劫」という病気がおそろしい。
* 夫婦生活の荒廃にうち沈んでいる若い人もいる。職場で結婚し、奥さんは退職した。退職しない方がいいとわたしは勧めたが、幸福感にひたっていた人は、永遠を信じたのだろう。離婚に直面する紛糾のさなか、女性の足をひっぱるのは、「新たな自立」のための就職が難しいこと。同じ例でわたしは他の大人からも辛い相談を受けたことがある。その中年女性は今も必死に頑張っているが、生活の基盤の方が、情緒よりも、感情や感傷よりも優先してしまう。生活の基盤が築けないと、現に暮らしている「住まい」から、どう辛くても動くに動けない。酷寒のなか、びしょ濡れのきものを身にまといつかせ、吹きさらしの冷たい床に転がっているのと同じだ。一刻も早く濡れた着物を脱ぎ捨てて、どんなに粗末なものでもいい乾いた衣服に替えて、その場を立ち去らねばいけない。まだまだ若いなればこそ、それをわたしは勧めたい。
だが、本人は、そうは割り切れない。無理もない。
* かわいそうに。しかし、また、よく堪えているな、意外としっかりしていると褒めたい気持ちもあります。
就職、別居、一人で生活してゆく気力、出来れば新しい恋。
一人で立つ。
口惜しい気持ちは捨てられないし、憎しみも捨てられない、が、それ自体を、マイナスのエネルギーでなく、プラスのエネルギーにする道は有るのではないかな。奮発。
しかしもう、かかわりの「人(たち)」は無視する方角へ歩き出した方が、トクです。思いを自分自身の上に集中し、問題の人間関係は吐き捨ててしまいなさい、少なくも今は。
その場所で毎日顔をあわしあわしの時間は、分秒の一刻みゴトに鋭い針が柔らかいあなたの心臓を刺すでしょう。のがれなさい。おや・きょうだいに、この破局を伝えるのが恥ずかしいと謂った見栄や体面も残っているようだが、もうそんな時節ではないでしょう。弁護士や家裁に相談してもいいほどです、たとえ万が一つに元へ戻る可能性があるにしても、其処にいつづけたままではあなたが不利でしょう。
結婚して「退職」した、そこからあなたの立場の弱さが始まっています。退職は避けたかった、この時期だからなおさらでした。就職に全力をつくし、生活の基盤を築くのが現実の急務です。生活が立てば、結婚でなく、今は、恋をしなさい。
事情はわからないが、出来るなら今は親にすがりなさい。助けをお借りなさい。この先で親孝行して返せばいい。
吐き出したいことは、わたしに吐きかけなさい。受けてあげるから。
* わけ分からずに全面的にこの人を容認しているのではない、この人の弱さが招いているものもきっと有る。が、今は「解釈」の時でなく、立ち直る気概が必要だ。能力も意欲も、なによりも弱者への愛情を、この人はもっている。
2003 1・11 16
* 今日もまた一歩も動こうとはしなかった。
* わたしの学生諸君は、それを読んで一瞬カタマッタであろうか。「ウソをうまく書く」のはじつに難しい。教室で、このアイサツだけは総倒れに皆へこたれたのが可笑しかった。あのとき、わたしは、みんなに一つヒントを与えた、書き終えてからだが。覚えているかな。それは、此処では繰り返せない。
* インスパイアを欲していた先日の「私語」に触れてか、こんなメールを貰っていた。なるほど。
* inspire(inspiration。霊力、精神 )とperspire(perspiration。発汗、努力、肉体)は二律背反ではなく、抱き合わせ、バランスの妙を指していると考えます。一個の宿主に寄生しあう、共生というか。エジソンが残したとされる金言でも「1%の才能(inspiration)と99%の努力(perspiration)」とありますが、キリスト教文明ではインスパイアは「霊」的な働きを指すことが多く、perspireも対比してよく用いられます。
私は、「吸気」の原義も持つinspireにたいして、perspireを「吐気」(expiration)と比べ置いております。かつて、呼吸法の合宿でインド人のヨギに、ヒトが誕生した瞬間、吸うのと吐くのとどちらが先か?と設問され返答に困りました。答えは、「うぶ声」=「吐気」が先とのことでした。いらい、ほぼ意識せずに呼吸を繰り返しておりますが、吐吸、吸吐の連綿が、いのちを続ける唯一の方法です。
2003 1・11 16
* もう寝に行こうとおもっていたところへ、「結婚します」と、新年早々のめでたい知らせが届いた。堅実な幸せな家庭を築き上げる人だと信じている。よし!!! おめでとう。
2003 1・12 16
* 寒雀 若草山の山焼きも、京の東寺も大きくて。
豊かな芽吹き。つぎはお水取りかと。
小さな、ひとつのことで、春を感じる、素直なこころに戻って、ゆったりと、幸せに、羽を広げてきました。
おっしゃるとおり、雀は、冬が好き。寒さと色のなさが、好き。春を「待つ」ことに、心地好さを感じる性質かもしれません。
* 羽が丈夫なんだ、奈良へ京へと、よく翔ぶこと。
* 先週は正月早々、すっかり風邪をひいてダウンしてしまいました。久しぶりにちゃんと薬を飲み、もう大分良くなりましたが。
今日は習っている先生の初釜に行って来ました。料理とともに日本酒もずいぶんと色々な種類が振る舞われました。お茶の先生も、お酒が飲めないとやって行けなそうですね。
能について教えていただきありがとうございました!
挑戦といいますのは、観てみたいな、という意味でした。
以前から、人間の内面を赤裸々に表現したような能面に興味がありました。あれをつけて演じられる能は、きっと精神性の深いものなのだろうと思っていました。それで入門書を買ったりもしましたが、それ以上踏み込めていませんでしたので。
流派なども、何だかよく分からなかったのですが、教えていただいて少し整理ができました。観世能楽堂等、ホームページもあるようですね。公演予定も出ているようですので、チェックしてみようと思います。
ではでは、風邪がはやっているようですので、くれぐれもお気をつけ下さいね!
* 着々。東工大の院を卒業した、落ち着いた青年。もう二三日はやくこのメールが届いていたら、今日の梅若の「翁」をいっしょに観せてあげられたのに。
2003 1・13 16
* hatakさん お許しを得ましたので、『琉球の御茶屋御殿考』を余所にも掲載させて頂きました。
先日三年ぶりに首里城を訪れましたが、国営の修復事業も大分進み、現在は、御所で言えば後宮に当たる建物群の復元にとりかかっていました。この後、御茶屋御殿を含む離宮にまで復元事業が進むかは何とも言えませんが、復元される時には、茶道史的な考証をふまえて、ちゃんと使える茶室を造ってほしいと願っています。
掲載して貰ったHPを運営している私の友人は、もう社会に出ているのですが、お茶の「香り」を科学的に究めるため、また大学院に戻って博士課程に進もうとしています。海外では、こういう例が多く、彼らが実社会でテーマを見つけて大学に持ち込み、その解決法を研究することによって、成果が社会へ還元されています。「産学」連携の良い例ですね。
日本の場合、再就職先が見つからないなどの理由で、大学院の門は社会人に開かれていませんが、友人にはがんぱってほしいと思っています。
ボーナスを元手に、注文した秦さんの本が、本屋からぼつぼつ届き始めました。
『元気に老い、自然に死ぬ』 スタートから両者の意見が噛み合わずに、最後まで対談が続くのだろうかとハラハラしながら読みはじめましたが、意見の違いを認め合ってなれ合いのない緊張感があり、一気に読み進みました。「老人院」や「老人党」という発想は新鮮でした。生々しい発言、「若い娘」とゆたんぽの関係には吃驚しましたが・・・。
自分の老後は想像もつきませんが、昨年読んだ『モンテクリスト伯』のノワルティエ氏にとても勇気づけられました。体の不自由を克服する精神力にです。不自由があっても、あきらめて「木食」に走ってはいけないのだと思いました。側に孫娘ヴァランティーヌのような「若い娘」がいてくれればなお良いかも・・・。このノワルティエ氏を楽しみに映画『モンテクリスト伯』を見に出かけましたが、彼もヴァランティーヌも映画には登場しませんでした。しかも、アルベールの父親はモルセールではなくダンテスだった。そして二人(ダンテスとメルセデス)はよりを戻すのだ、という結末です。確かにダンテスはアルベールを「父親のような」目でみていますので、着眼点は面白いと思うのですが、実の父親だったというのでは、話に奥行きがないですよね。ダンテスにはエデがいるからこそ結末が美しいと思うのですが・・・。
『なよたけのかぐやひめ―「竹取物語」より』
パラパラとめくっただけですが、絵が美しい。特に、最終頁の富士山の絵に見入りました。英語の勉強も兼ねて、今日から読み始めます。
華岳の画集も届きましたので、こちらも楽しみに。
明日明後日は一年の研究成果を検討する会議。月末からはニュージーランドで国際学会です。
お大切に。 maokat
* なるほど映画屋サンの安直に考えつきそうな「モンテクリスト伯」だなあと、映画見なくてよかった、と。いわれているようにノワルティエ老人の剛健な理性は感動的で、彼と孫娘への愛とを欠いた、ということはまくしみりあん・モレル青年をも欠いた「モンテクリスト伯」では寂しい。たしかにダンテスとメルセデスとのことは胸に傷口の残る哀しい恋だが、やはりMAOKATさんの言うように、この大作のモチーフは「希望」であり、希望の象徴はメルセデスにかわる「エデへの愛」である。待て、しかして希望せよ。映画の趣向は安い。
2003 1・14 16
* 雪見風呂 星も、月も、冴え冴えと美しい日が続きますが、昼のニュースで、北野天満宮の梅花に積もる雪が映り、たまらず、電車に飛び乗って、榊原温泉へ。
足元から吹き上げる雪に身震いしました。凍りつきそうな道を行き、吹雪の中で、露天風呂に浸かってきました。目に入るのは白い色だけ。
でも、やはり温泉ですね。家の内風呂ですと、上がってちょっとの間に、爪先や足首が冷たくなってしまって、いつも、眠りにつくのに難儀しますのに、ポカポカの夜でした。
風邪が流行しています。どうかお大切に。
* 朝いちばんにこういうメールに触れると、夢を代りに見てもらってるようで、ふうっと気持ちが引き締まったり、温まったりする。こんな風に暮らしている人もあるのだ。世の中にとかく自分一人の暮らしが有るように思い、それとの同一化の中で惑溺してしまうということが、ある。狭いようでも世間は広く、人の暮らしもさまざま有る。
2003 1・16 16
* 再び、と、新たに 諏訪湖の御神渡りが数年ぶりに見られたそうで、それほどの冷え込みだったかと、驚きました。
「慈子」「冬祭り」の印象が、「修羅」より勝っていて、先日のメールいらい「修羅」を、ようやく、今日、読み終えました。辞書や地図を傍に、読み進み、また戻り。秦さんのお作は、どれも、ぱっぱっと読むことがし難くて。
毎年、帰省していても、「懐かしい!」という以外に「あ、これ、忘れてた」「気付かなかったわ」「わ、堪まンないなァ」というのと同様のことが、お作を読む都度、心を襲います。
* 読み返し読み返ししてもらえるのが、作品も作者もなにより嬉しい。
2003 1・17 16
* 寒いが、シャンとしている。小闇が昨日は書いていない。風邪か。
2003 1・20 16
* 留守宅への電話で、藤間由子さんの死を、それも急死を、告げられた。娘の抄子ちゃんから報せてきたと。つい前日まで踊っていたというのに。よほど、わたしに、通夜にも葬儀にも来てほしそうだったわと聴くと、由子さんとも本当に久しかったと思う。「新潮」に書いた「或る雲隠れ考」の頃からだ。ご馳走になったり歌舞伎を何度もみせて貰ったりした。先代の成駒屋の藤十郎で祇園のお梶を踊った新橋演舞場での会が、華やかであった。
わたしに詞を書かせ、荻江寿友の曲と出演で、「細雪松の段」を国立小劇場で舞ってくれたのも懐かしい。わたしより、どれほどの年上であったか訊かなかったが、最近も電話で「湖の本」を注文してきてくれたり、まさかに亡くなるとは思えなかった。ハイカラでセンスのいいちゃきちゃきの抄子ちゃんが、いきなり新橋で芸者になり、演舞場の温習会であでやかに鳴物で活躍したときも、おっかさんは是非にとわたしを招待してくれて、わたしは桟敷で酒をのみながら見ていたが、面倒見のいい人だった。
勘三郎と玉三郎とで、夕霧伊左衛門をやった日は、歌舞伎座の一番前の真ん中に席が取れていて、わけて中村屋とは縁があるらしかった由子さんは、わたしに、そういう席から役者と目の合うような感激の楽しさを仕込んでくれていたのだろう。
寂しい夜一人の京都になり、疲れていたが、おそくにホテルのバーへゆき、とびきりうまいウイスキーを、ダブルのストレートで、二種類。一つは「響」の 12年もの、もう一つはジョニーウォーカーの樽詰めしない原酒というのを。一人っきり、照明をおさえた廣いカウンターで、ほんのすこしブルーチーズを小皿にもらい、しんしんとした気分で、一時間ほど、黙って酒を友にしていた。寂しいが、佳い、独り酒であった。高価なこともトビキリだったが。
ひとりは寒いほど寂しいが、寒さが佳しとも感じる。
夜中にも目が覚め、日本の歴史、神話から歴史への「神話」の所を、ペンを片手に、明け方まで読みふけっていた。こういう時間も好きだ。
2003 1・21 16
* ストレスの種は何も無いはずだが、かすかにかすかに腹痛がある。この半月ほど見え隠れに続いている。便通などは寧ろ快適なので、やはり本人も気付かないストレスが来ているのだろうか。ひとの負担にもいささか気を遣いすぎているか。
し残しているといえば、そんな仕事は山のようにあり、それを気にしていては堪ったモノではない。それは関係がない。
藤間由子に死なれたことか、遺族に結局声も掛けていないことか。だが掛けたからどうなるというのだ。これは怒りに近い感情であり、忘れられるなら忘れた方がいい。
2003 1・22 16
* 大寒過ぎの京 京都の、諸々の風景と会話と散策と、一人飲む「響」の音と言葉と、訃報の悲しさと、日本画の彩を読みました。
幅の広い仕事をされており、繊細で且つ剛毅な筆をとっておられる方にも「寂しい」ひとときがある。青春のこころの「炭火健在」。本で読むのではなく、電磁波で共感する。リアルタイムで瞬時に感動の呼応あり。魔法パソコンが無ければ、紙面でこの紀行文を読み、同じ感動をおぼえるが、それまでに僕の老いが進む。呆けていたら不可能です。昔の一年を一時間で過ごす時代であろうか。現代は「一瞬一生」であろうか。
「さびしい」という言葉に勇気が出てきます。
先生の京都の文学紀行から漱石の木屋町での句を思い出しました。
「春の川を隔てゝ男女哉 」
感謝しながら。バグワンを今日は読もう。
* ちる雪のわれも沈透(しづ)いて水のうへ 遠
2003 1・22 16
* 朝の光 hatakさん
寂とした京の旅、冷え枯るる述懐に、「雪間の草」をみせばやと思います。
今朝目が覚めると、外はめずらしく快晴。居間は、東の窓から差し込む朝日に満ちていました。FMのクラシックを聴きながら朝食を摂ろうと、オーディオのある棚に目をやって、美しいものをみました。寝る前に、何気なく飾っておいた村上華岳の画集、『太子樹下禅那之図』のページ、若き釈尊が悟りを開かれ、苦行をされた森から今出てこようとしています。木々の向こう、晴れ晴れとしたお顔にまで朝日が届いて、光輝いていました。銀色にうねる木々も生き生きとした光を発し、思わず手を合わせました。
朝日と夕日、どちらが好きかと問われると、迷うことなく夕日が好きと答えます。でも今日の朝日には、光に満ち溢れる力を感じ、美しいなぁと感嘆しました。
京のお寺の梅の木も、この光を浴び、枝の節々では、もう小さな芽が分化をはじめているはずです。ただそれに気づかず通り過ぎているだけ。
華岳の絵は、仏もはんなり。冷え枯るる中にもはんなりはあるのですね。
どうか暖かくお過ごしください。 maokat
* この繪は、何必館長の梶川芳友が奮い立った、そして遂に手に入れた、この繪のために何必館を建てた、そういうドラマに裏打ちされているが、もう、こんな伝説は忘れて、やはり華岳その人の魂に沈透いて行くべきだろう。
昨日の展覧会で受賞者の岩本和夫の繪を褒めたとき、「華岳のわかる方に褒めて戴けるのが嬉しい」と頭を低くした。
華岳――。わたしは一瞬ぼうっとした。シーンとした。あの瞬間、わたしは、あとでひとりになれる場所を訪れたいと思ったのかも知れぬ。
華岳の作品で心服する作は多い。信じられないほど数多い。そういうことは、そうそう他の画家にはないことだが、国画創作協会の土田麦僊、榊原紫峰、小野竹喬、入江波光らは例外に属する。本当に、好きな作品が多い。しかしわたしの場合、やはり華岳において圧倒的に好きな繪の数が多い。
昨日、しかし、わたしを一瞬ほうっとさせた脳裏の名作は、繪専卒業制作の「二月の頃」であった。吉田山から銀閣の方をみた田園と、山。現在の風景とはまったくちがう昔の景色であり、人っこ一人の影もない。少なくも無いものとして、わたしは、其処にそよいでいる風のかすかな声を聴いていた。なんという寂しくて静かに暖かい繪であろう。もしこの景色に放つとすれば、人影でなくより若い作品の佳い大きい「牛」の繪かなあと思う。天才の若描きが懐かしかった。
* 華岳の観音図を手に入れました、ぜひ観にいらしてくださいと、誘われたことがある。旅の道をすこし転じて、見に行った。見せてもらった。昔のことだ。あの人に逢いたい。
2003 1・22 16
* バルセロナに「小闇」発生。掲げた看板は、「一期一会」と。言うまでもない、東工大の卒業生である。秦サンの教室にいた学生なら、この思想の意義はきちんと識っている。
* 恒平さん ホームページを開始します。 4項目書いたらお知らせしよう、と思っていました。
実は日本の小闇さんの様式にそっくりです。小闇さんは嫌な気がするだろうか?と自問したのですが、実際彼女のページを見た後では、これ以上シンプルで気に入ったものは浮かびませんでした。真似をされるほどよい、ということで許してもらえるのではないかと期待します。不愉快だったら彼女にはごめんなさい。
4項目書いた後で、「闇に言い置く」つもりでというのは、なかなか難しいものだと感じています。私はまだまだ読み手を意識しすぎている。でも、昔書いていた日記とは違う緊張感があり、書いていてとても楽しいのも本当です。今はまず、何度も何度も読み直しては修正する私の悪い癖を、何とかなくしていきたい。受けた印象、出来事には新鮮さも不可欠だから。
あとは「にぎやかなお店で、おいしいツマミを食べた。とてもスペイン的でよかった」という文章より、「グラシア通りにあるタパタパという名の店で、ムール貝のレモン蒸、鱈のコロッケ、カタツムリ、、、を食べた」と具体的な事実が書かれている文の方が、読んでいてずっと面白い、という恒平さんの言葉、忘れていません。これも、易しくはないけれど。
初めは週に少なくとも1つ、2つ書けることを目指していますので、時々覗いていただけたら嬉しく思います。少し怖い気持ちもありますが。怖い気持ちがあるということは、やはりまだ「闇に言い置くつもり」になれていないと言うことですね。
出久根 達郎「佃島ふたり書房 抄」(電子文藝館)を読みました。この人の新聞のコラムは、正直面白いと思わなかったのですが、これはぐいぐい引き込まれ気がつくと読み終わっていた、という具合。抜粋であるのが、残念でたまりませんでした。一部を見て、全部読みたいと思われるようになったらすごいものですね。
お体の調子、よい方に向かわれること心より願っています。
* 一文だけ紹介しておく。それからわたしの希望をあとへ添える。
* 晴れ、時々にわか雨 2003.01.16
私が住んでいる地区は、バルセロナ市でも”Ensanche”と呼ばれている。動詞ensancharに「広げる、大きくする」と言う意味があることから想像されるように、この地区は、19世紀半ばの大掛かりな都市拡大計画のもとに整備された。ちょうど、観光客を惹きつけてやまない、迷路のような旧市街のすぐ外側に当たる。ついでに言えば、バルセロナの人々にとって、建築家Antonio Gaudiより、この都市計画を進めたIldefons Cerdaの業績の方が意味深いに違いない。
この地区が、現在のバルセロナの街を特徴づけているのは、バルセロナを一度でも空から眺めた人には明らかだろう。見事に碁盤の目が広がっている。この碁盤、一辺が133mの正方形で、その間の道路幅は約20m。ピソと呼ばれる建物が、このロの字の縁を取り囲むように隙間なく並び、そこに私たちが住んでいる。
初めのうち、このロの字に沿った舗道を歩きながら、頭上が気になって仕方なかった。何せ、どのピソにもバルコニーがあり、そのどれもが舗道に突き出ている。つまりこの地区では、人は必然的にバルコニーの下を歩かされる。このバルコニー、それほど利用価値はないのだが、植物を飾るほかに、きれい好きのカタロニア人が家の中の塵やパン屑を外に向かって払う場にもなる。道路とは反対側のバルコニーになると、生ゴミ、ビン缶なども平気で投げられる。そんなバルコニーの下を落ち着いて歩ける方が不思議だ。
そんなある日、とうとう頭にびしゃびしゃびしゃっ、ときた。憤慨し、すぐ車道側に寄って上を見上げた。抗議の姿勢を見せることで、少なくともどんなに無神経な人間がそこに住んでいるか、周りに知らしめるつもりだった。それなのに、来る人来る人気にも留めず通り過ぎてゆく。ぼたぼた落ち続ける水を前に、挙げかけた拳の行方に困った。
しばらくするうちに、バルコニーからの雨は決して珍しくないことに気付いた。ちょっと気を留めさえすれば、降る場所、降る時間帯さえあることが分かる。彼らの多くは一日の決まった時間に、手すりの植木鉢や床の鉢に、たっぷりと水をやるからである。雨の少ないバルセロナには、雨樋などあるわけがなく、じょうろからこぼれた水も鉢植の土を通った水もみな、外側に傾いたバルコニーの縁から落ちてゆく。
不思議だったのが、あれほど苦情好きなスペイン人がそれに対して抗議するのを、見かけたことがないことだった。まともに頭に降りかかれば、怒らないわけがない。降る場所、降る時間を覚えて歩いているとは到底思えない。頭の上に目がついているわけでもあるまい。
彼らが見ていたのは舗道だった。目の前に線状に濡れたアスファルトがあると、みなそれだけですっと横によけて行く。歩調が緩められることすらない。みながみな、実に見事に。
些細なことだけど、なぜかこのことは、私には強烈で、笑いを誘わずにはいられない。この国には、自分の撒いている水の行方など思いも及ばず、庭の水やりに精を出す人々がいる。それを批判せず、黙って避ける人々がいる。怒っても仕方がない。これがスペインなのだろう。
私も最近、にわか雨に降られることはめったになくなった。もう憤慨して見上げたりしない。時々、無意識によけている自分に気がついて、一人にんまりしている。
* 繰り返しの一度一度を生涯の一度かのように。一期一文 一期一日 一期一人 ですね。
よく読み返して、きちっとした文章で書きおく姿勢がいいと思います。文章というのは手を抜き始めると自堕落になって行くのは早く、元へ戻すのは不可能なほどに至難です。これら書き起こしは、とても清潔感のあるあなたらしい知性と感性です、初心を常心に。
四つとも読みました。わたしの気持ちでは、小闇誕生の思いです。豊かな光を生み出す光源としての闇が無限に息づくこと。非科学的かな、うまく言えないが。
文章で自分を呪縛しないこと、いつも文章に対して自分自身が自在に自由であること。それが文章を生かします。書き過ぎると、その過ぎた分に言い訳をはじめたり義理を感じたりするようになり、だんだん自分を窮屈に追い込みますので、のびのびと柔らかに。匂いのいい、香りのいい闇の深みを発信してください。
とても嬉しく。とりあえず祝電。
こちらの小闇さんが、別に、読んだ本と観た芝居も書いています。あなたには希望があります。一期一語 日本の私たちが、バルコニからの小雨におどろくように、きっとあなたが接触して印象的だった「スペイン語」の単語や物言いが有るに違いない。一つ一つずつ、あなたのおどろきや笑いや感嘆・憤慨などの気持ちをのせて、短く紹介し続けてくれませんか。別項目を立てて。短くていいのです。
このスタイルが簡明・清潔で、「十分」と、私も思っています。
* いま、心親しい何人もの若々しい顔が想い浮かぶ。きみも、あなたも。一日のわずかな時間、ひとりの「闇」に降り立ち、極く短い選ばれた言葉を「言い置く」のは、どうですか。読者を意識せず、身内の闇に自身の言葉を光る矢のように響かせて。
* 関東の快晴の朝、「闇に言い置く 私語の刻」を拝読。高校の時に知った単語「Substantial」を思い出しました。我今あることの充実感といった読後感です。
大学での教室風景と文学を読み取るためのヒント。作家と読者。機微。英語に機微を翻訳できるだろうか。
あわせてバグワン「禅の十牛図を語る」真の生の探求のくだりの、余韻嫋嫋。
太平洋の海の青空の青を眺められ、短い昼寝をされ、ご健康でありますように。
失礼を省みず。1月25日 川崎市
* 「生き急いでいますか」ときく人がいた。
2003 1・25 16
* バルセロナのオレンジ、東京の藍。
バルセロナより丁寧なメールをいただいています。
あれを真似と言ってしまったら、
あらゆるサイトはほかのあらゆるサイトの真似になるでしょう。
嬉しい、以外の何ものでもありません。 小闇@TOKYO
* なるほど、メールが出せるようになっていた。このたぶん無縁であったろう一学年違いの同窓生がどう出会ったかは分からないが、心嬉しい。
2003 1・25 16
* Thank you very much! すぐのお返事、ありがとうございます。一番の励みです。続けていこうという力が、新たに漲りました。
東京の小闇さんからも返事を頂いています。東工大のみなさんにはもちろん、公開していただくのは一向に構いません。ホームページに載せるということは、そう言うことだと思いますから。
スペインの言葉、物言いについて、たいそう面白いテーマだと思いますので、是非書いてみます。
「書き過ぎると、その過ぎた分に言い訳をはじめたり義理を感じたりするようになり、だんだん自分を窮屈に追い込み」というお言葉、まさにその通りと受け留めています。
よいものを書くにはよい文章を読むことが不可欠。海外にいては、なかなか難しいことかもしれませんが、電子文藝館や恒平さんのページが、その源になってくれるでしょう。
お祝いのお言葉、とても嬉しかったです。ありがとうございました。
2003 1・26 16
* 小闇@TOKYOの「読んだ本」や「観た芝居」は充実している。簡潔の魅力と興趣。「闇に言い置く」付録の体でありながら、つよい支柱となって、全体として三本足の安定を見せてくれる。小闇@バルセロナの「一期一会」は、ぶっつけ本番で歩み始めたばかりだが、継続を力に、生彩を放つだろう。
この人達はヒマ人では全くない、小刻みな時間の上をかけずりまわってその日その日を築いている。だから「闇に言い置く」欲求が生きてくる。創り出している、ゆとり。
2003 1・26 16
* あけましておめでとうございます。新年の挨拶がなく申しわけありませんでした。年末には * * と一度先生のところへ挨拶に行きましょうと話していたのですが、年が明けるとまたバタバタと忙しくなってしまい、立ち消え状態になっておりました。
私は、年末年始に二週間半ほどイタリアに行っていました。友人が、今年には帰国することに決めたからです。
この2年で4度目のイタリア・ミラノになりました。4度目となると観光や建築見学に割かれて「しまう」時間も少なくなり、また、むしろミラノの普通の生活に近いものに触れ、落ち着いた日々を過ごすことができました。とはいっても、ナポリやジェノバ、マントヴァなどに行き、建築を見、オペラを観る、様々な意味で充実した日々でもありました。
今回の心に残っているものは、マントヴァのゴンザーガ家のドゥカーレ宮・テ宮、ナポリで観たオペラ「ドン・ジョバンニ」です。
前者は建築そのものにも動かされるものがありましたし、芸術家・建築家=ジュリオ・ロマーノとパトロン=ゴンザーガ家の関係も考えるものがありました。今までは建築もしくは建築家の背景となるもの(パトロンやその社会)に対して興味を持つことがほとんどなかったので、自分でも少しの驚きとともに、今でもふっと考えたりしています。
「ドン・ジョバンニ」の方は、内容ではなく、舞台演出・セット=舞台装置に驚きました。
舞台が蹴上げ板のない階段状の客席によって前後に隔てられ、時にはその隔てられた前後で、違う風景が作り出され同時進行していくのです。蹴上げがないことによって簾上となった階段状客席を通して奥が見えるようになっているのです。また、その場その場のストーリー展開に直接関与しない演技者が、その客席に座っていたり、最初
から最後まで「死者」がそこに座っているのです。観ているそのとき(特に前半)には「なぜ?」と思うこの舞台装置も芝居が進むに連れ、「この客席は「死」を見通すフィルターだ」と気付かされ、ストーリーが演技・セリフ=歌とともに「出現」しはじめるのです。
ストーリーを解釈し、現代的な舞台装置=空間に落とし込んだ良いものだったと思います。
先生から知らせていただいた二つの「小闇」、一つは時折覗いていますし、新しい方も見せていただきました。
二つとも、まったく違う目で違うことを違うものとして書いている。同じ「闇」という言葉を使いながら、違う闇を作り出していますね。その闇の質の違いに興味を持ちます。
また僕は、「日常」を発見している文章にハッとさせられます。日常は、日々常に回りにあることでありながら、誰も知らない内容を多く含んでいます。これを発見し表現へ転化することに、ハッとさせられるのではないでしょうか。私の場合、この表現が「文章」であり、さらには「空間」となるのですが。
知らせていただいた「小闇」を私の友人たちにも教えてかまいませんか。
また、挨拶に伺いますので、スケジュールなどを調整できましたら、連絡します。失礼します。
* 打てば響いてくる。生きている。
2003 1・26 16
* 春待つ渓谷 風が鳴り、いっとき吹雪いた今日、月ヶ瀬の梅を下見して、温泉でぬくもってきました。
見張らし台に立つと、眼下の湖は顔を伏せた美女のように翡翠色を翳らせていて、梅は紅白それぞれに蕾の色を増し、春風を待っています。
重畳する山々は色もなく、粉雪が舞うなか、ぐっすり眠ったまま。
梅を剪定していた地元の方が「ぬくいとこ置いといたら、すぐ咲きますよ」と、枝を何本か持たせてくださいました。
「猪肉あります」「月の寒梅」という張り紙を見ました。温泉、しし鍋、地酒…この時期、ますます魅力的。 三重県
* いいなあ。
2003 1・28 16
* 秦 先生 ご無沙汰しております、東工大の* *です。
すでに、インターネットがなければ仕事にならない世界にどっぷりと浸ってしまっています。そんな中で、「闇に言い置く」という「表現」にインパクトを感じてしまい、ついついメールを返信させて頂きました。
インターネットについてそれほど深くは考えもせずに、これまでずいぶんと利用してきました。ただ聴いてる側の私にとっては、インターネットは、確実にこれまで遠かったものを近づけてくれたと感じております。それは、「知識」であったり、「人」であったりしますが。
発言する側には、縁がないというよりも私は怖くて近づかないようにしておりましたが、「闇に言い置く」ものであるという解釈は、そうした私のインターネットに対して感じている様を、言い当てている気がいたしました。
心の中だけで呟いていることと、闇に向かって話すことは、違う気がします。それらによる結果が、両者で同じ場合もあれば異なる場合もあると思うからです。そう、「王様の耳はロバの耳」の話をふと思い出しました。
小闇@TOKYO の本日の「工学博士」には、ちょっと納得できない部分もありますが、それは「闇に言い置」いてあるだけですから、それはそれでいいのかもしれません。そうであれば、私も「闇に言い置」いてみたくなりました。
ここまで書いていて思いました。「闇に言い置」く(書く)ことは、楽しいことなのですね。
先生のメールを、心地よく聴かせていただいたからこそ、メールを書きたくなったようです。自分も真似してみたくなって。これは、カラオケ心理と同じですね。
* 博士課程も終えて大学院研究科に籍を置いている好青年のメール。たしか、むかし、本当に人類の役に立つ薬剤を創り出したいと「あいさつ」の中に書いていた。
* 寝るまえにふらふらサーフィンしていたら、おつというこんなサイトの記事にぶつかった。「見ました」というコラムである。その一項目として。もう何年も以前のものだと思う。
* 秦恒平著『東工大「作家」教授の幸福』3月19日(日)
* 昨日末娘と図書館に行った時、ふと手にとった本に、個人的な興味が湧いて借り出しました。秦恒平著『東工大「作家」教授の幸福』(平凡社)。凄いタイトルで、何だ?と思って開いてみると、作家の著者が一般教育の文学論担当教授として東工大に招かれ、1992年から4年間教えた記録でした。理工系の学生相手に、毎回テーマを与えて、考えさせ、書かせ、いいものを発表して学生同士がお互いの考えを知れるようにする授業です。これが、専門以外の刺激を求める学生に受けて、成功しているのです。私も、同じようなことを音大の西洋文学で試みていますが、この先生の方がはるかに本格的です。講義の他に、授業の冒頭に課題を与えて、書かせるのですが、その課題は「さびしいか」とか、「死なれたか」という短いもので、講義が終わるまでに書き上げさせるのです。学生は、見た目の快活さからは計り知れない、寂しい内面を吐露し、大事な人を失ったショッキングな経験をびっしり書いてくる。教室には300名から500名もの学生が、溢れかえっているのですが、そのほとんどが、参加してくれる。席がなくて、教壇の横の床に座っている学生もいるほどの盛況ぶり。氏は、書かれたものはすべて読み、問いかけがあれば、次回に教壇から答えたり、みんなに紹介したいものがあれば読み上げたりする。「死なせたか」がテーマの時は、数日前に未生の子供を死なせた女子学生が慙愧の念を綴ってきたりする。氏の講義は、学生が青春の揺れ動く気持ちを吐き出す場として機能していたようです。理系の方が、そういう場に飢えているのかもしれません。「頭脳と心臓のどちからに<こころ>のルビをふれ。また、他の学生がどちらにルビをふったか比率で予想しろ」というような課題の時は、大方の予想を裏切って、7割が心臓にルビをふった(1年生の場合)ことにも、一種の反動のようなものが感じられます。学生の予想では、逆の比率なんです。他の学生は頭脳にこころの座を認めるだろうけど、自分だけは、ハートこそが自分なんだと言いたい学生が多かったわけですね。
「父に」という課題に女子学生が書いた文は、今度大学に進学する娘をもった私は複雑な気持ちで読みました。こんなのもあるんです。
「『父。安心して死んで行けるようにするから、何も心配しないで、疲れたら死んでいいよ』と言えるようになりたいです。」
私は、「疲れたら死んでいいよ」の言葉が凄く突き放したようで、おーっと思ったのですが、家内に聞かせたら、「ファザコンだから、逆にそう言うんでしょ」と言う。読み返したら、家内の直感が当たっている。引用の前の部分はこうなのです。
「父は好きです。…小さい頃から遊んでくれたし、料理も上手。父の考え方は私は大かた同意ができます。…私は父が好きです。友達はみんな父親なんて別に好きじゃないと言いますが、私は父と仲良しです。でも普段は気づきませんが、最近父が急に老いたように感じる瞬間があり、そういう時は非常に心細くなります。今まで私の上から私を見下ろしていた父が、だんだん私より小さくなって消えてしまうような恐怖を感じます。そんな時は父が死んでからの事 etc を考えてしまうけど、父が死んでも平気なように強くならなくてはいけないと思っています。」
家内は何でこの部分を読まないで分かったんだ?私はこの部分を読んでいるくせに何で分からなかったんだ?こういう文は私はどうも客観的に読めないようです。
2003 1・29 16
* 島崎藤村記念館について お身体のほうはよい方向へ向かっていますか? 心配することも嬉しいですが、心配しない方がさらに嬉しいことです。あまり身体のムリはなさらないように。
以下に、昨日送りました(うっかり消去されたという)メールを再送いたします。
ふっと「私語の刻」を見に行きましたら、藤村記念館のお話が載っていましたので、少し思ったことを。かつて、先生とは話した内容かもしれませんが。
まず、島崎藤村の作品は未だ読んだことがありません、が、藤村記念館には行ったことがあります。谷口吉郎による、自身戦後初めての作品です。敷地は藤村生家跡地ではありますが、既に家屋はなかった状態からはじめられたそうです。
建築作業は(戦後の民主主義の確立に燃えていたであろう)地元の有志によってなされた、といったような感動的な建物であることも、語るに足る事実としてありますが、私にとっては、作り出された空間が、関心の中心に置かれています。
私にとって藤村記念館は、とても心静まりながらも、揺り動かされるような感動を与えてくれた建築です。一言で言えば環境設計の理想形となります。
まず配置計画は、生家が建っていた場所を全て「空き地」として残し、その空き地を見るため、もしくは感じるための場所を用意するだけの建築となっているのです。建築そのものは一間(一間半だったかもしれません)の巾で奥行き方向が六間くらいだったでしょうか。そのような、縁側状の細長い薄い場所が生家跡地と併置され、否応なく外を見るような空間形式となっているのです。さらに、細長さを利用して、奥に像が置かれています。
この空間は、欄干や窓の大きさ、腰壁の高さなどによって細長さを強調する空間、つまり遠近法を強調する空間となり、像との距離を撹乱しながらも、像への視点の集中を強めています。
つまりこれら二つは、「細長い」と形容される空間の特性を十分に生かしているのです。生家跡地を含めた敷地全体を知覚させる細長さの特徴である「薄さ」が作る空間と、建築内部(正確には土間であり半外部的な空気環境であるが)における細長さのもう一つの特徴である「奥行き」の作る空間とが重ねあわされ、一つの全体を作りあげているという、単純でありながらも重層した空間となっています。
そのような「細長さ」を作り出す具体的な操作によって現れた二つの空間によって、見る者に知覚させようとしているのは、「既にない」生家の跡地であったり、像までの「何もない」空間の距離です。これら二つによって、今は亡き藤村への自分の思いを感じるようにと意図されているのではないか、と私には感じられました。
自然環境とは、単純でありながらも複雑なシステムなり構成なりを含んでいるものと考えることができます。とすれば、藤村記念館はそのような自然環境に近い人工環境を作り出すことに成功しているのでないか、多様な読みを許容する自然な複雑さとでも言うべき何かをはらんだ、建築というよりは環境というものを、作り出しているのではないか、と深く感じています。
これらのことが島崎藤村の「文学」とどのようにリンクしているのかは、まったくわかりません。(文学と建築の一対一対応などあるはずもありません。)しかし、谷口自身すばらしい随筆を書いていたことを考えれば、この建築がその他の建築家が作った場合よりも、藤村文学からの強い影響を受けているでしょう。
谷口はこの後、多くの記念碑を作りました。そこで表現されるべき「記念性とは何か」を繰り返し考えつづけた建築家とも考えられ、この建築が後の谷口の作品を規定していくことになったのではないか、とも思われます。近代主義建築勃興以降(機能主義以降)の大命題の一つでありかつ近代主義建築の思想とは矛盾をはらむ記念性にまっこうから立ち向かわざるをえなかった建築家となっていったのではないか、と考えたりします。
先生の一言で、心の奥底に沈澱していた「藤村記念館への思い」がふっと沸いてきました。そのため内容に矛盾や飛躍があることをご了承ください。しかし、ただただあの感動に押されて、言葉を吐露してしまった私を作り出してしまう「藤村記念館の力」はつたわってくれればいいな、と思っておりますが、どうでしょうか。
* 卒業生柳博通君の、現に建築する日々に勤しむ人の、堅固な「アイサツ」である。ふとしたことが、抱いていた彼の感動を湧出させた。感動を抱いていて、少しも枯れ乾いていなかった、それが嬉しい。こう聴くだけでもたいへんユニークな建築の相貌が見えてくる。柳君の言うように、谷口吉郎という人の「記念性」への理解の深さと造形の適切は、定評があった。その深みを、谷口自身の文学的な感性が培っていたのもよく知られている。「ペン電子文藝館」では、金澤の文学館長井口哲郎さんの研究成果である、谷口の「年譜」をおさめ、わたしがその校正をした。幾つもの谷口のエッセイも興味深く読んだ。
このようにして、天からの授かり物のように突如親しい若い友人のたよりが舞い込んでくる。嬉しいことだ。
* 柳君のアレンジしてくれた教授室にいた頃、いま沖縄にいる中国人で研究生だった朱虹さんも、よく顔を出し、柳君のことも覚えているという。ある日建築の話になり、朱虹さんがいつかベランダのある家に住みたいと言うと、柳君がそれは「広い家」願望ですねと心を読んだ。朱虹さんが東工大のドクターだった夫君やお子さんと当時どんな家に暮らしていたかは知らないが、つまり「ベランダ」か「テラス」かは、無かったのだろう。先日の朱虹のメールに、今は大きな「ベランダ」のついた家に暮らしていますよとあった。わたしの部屋で、いろんな学生達がそれぞれの出会いをもち、記憶が生きている。それも嬉しい。
2003 2・1 17
* こんばんは。冷え込みの厳しい毎日が続いております。いつもご健康でいらっしゃいますように!!お祈りいたします。
「闇に言い置く」も、新聞より興味深く拝見させていただいてます。
先週「みごもりの湖」を読み終えたころ 友人から「五箇荘」へ出かけたメールが、写真と一緒に送られてきました。全くの偶然でした愛知川・能登川・五個荘を見下ろした写真・武家屋敷などなど。うれしいことにますます「みごもりの湖」を膨らませることができました。
始めのころ 目まいがするような 訳も分からずに読み進んでいました。「此の世」との行きつ戻りつのロンド形式のようにも思えて。。。カノンのようにも見えたころには 引き込まれてしまいました。「加賀少納言」「雲隠れ考」も含めて 古典の世界へ興味深く導いていただきました。
遅ればせながら「茶ノ湯・・・」のご著書からの出会いに始まり、これほどまでに夢中になれたのは何なのか? 不思議です。お茶を通じて、この年令になったからこそ 引き込まれたのかもしれません。私にとっては先生のご本は まさに「今が旬」なのです。
文章を追っていく心地よさは「文の息使い」なのでしょうか?どう申し上げてよいものやら 言葉が見つかりません。
何かをお伝えせずにはいられない気持ちをお察しくださいませ。感謝!! 愛知県
* 有り難い、嬉しいことである。
* おだいじに ご様子をうかがっていて、とても心配になりました。お医者さまはきっと、ご無理が過ぎますとおっしゃるでしょうけれど。わたくしも無理がきくからと無理をしなさんなと、お医者さまによく叱られます。
万三郎の「杜若」を観ました。とてもうつくしくて、先生のおことばをお借りすれば、はんなり。
脇正の一番うしろという席でしたけれど、たんのうしました。面は、若女でしたでしょうか。あかるくて。
「杜若」、何度か観ていますが、こんなに佳い気分になったのは初めてでございます。頻脈もどこかへ行ってくれました。
ワキ僧を鏑木岑男が演じていましたが、足元がきれいでなくて興ざめしました。ことに、ながいこと坐っていて立ち上がったときは、ちゃんと歩けるかしらとおもうほど、数歩はよたよたしていました。
元日早々、乗っていた車が接触事故を起こし、といっても、双方の車がちょっとへこんだだけですが、いやな気分になってしまい、ずっと、熊の穴籠りさながら、どこへも出ず、劇場のようなところへ行ったのも、千駄ヶ谷の能楽堂が今年最初でした。
途中で挫折してしまった『源氏物語』の音読、先生のあとを追いかけて、「桐壺」から出直して読みはじめました。いま、やっと「葵」でございます。先生が、折々、闇に言いおいてくださるご感想にたすけられて、新しい『源氏物語』を読んでおります。
石川淳のお話、おもしろうございました。そうとは知らず、わたくし、何かを書くのは、トンネルをやみくもに掘っているような感じ、出口がみつかるのかどうかもわからない、などと申しておりました。 茨城県
* もう「葵」とは、速い速い。わたしは、まだ「葵」の次の「賢木」の後ろの方を読んでいる。なにしろ夜の遅くなので、家人の眠りを妨げないようにと、あまり長くは読まない。気持ちよく永くかけて読んでゆこうと思う。少しも負担にならない、一日の終わりのいかにも美しき楽しみである。
* 日本の古代の歴史、天皇の歴史、教授の幸福、その他海外生活の素描など断片的ですが興味深く拝読しています。日ごろ無関心に読みすごした「言葉の深い意味と由来」など、この島国日本の自然と人間の文化の成り立ちや、軌跡を知ることが出来ます。文明の恩恵にどっぷり浴す平和なるこの国は、マルコポーロの「黄金の国」かと思う。
「寒い毎日」ですが清清しい今日の天気、太陽が沈む前にご自宅を発たれ、画廊、美術館、本屋その他、友人との歓談などで時間をつぶし「会場」へというてもありますが。「ご意見」の一文でございます。 神奈川県
* 昨日、こんなメールを戴いていたのだが、出掛けずじまいだった。あげく、気分悪くなり寝てしまったのは、「ご意見」を無にして、恥ずかしい。
2003 2・1 17
* 谷口吉郎の建築美観 馬籠への講演依頼のお話から多くの楽しい文章に接する事が出来ました。
馬籠へはここ3,4年の間に永昌寺に眠る友人の墓参や友人の案内で2回訪れました。
藤村の菩提寺のこのお寺は恵那山を大きく見る温かい自然の中にあり、円空木彫りのお堂もあるところで、二回目の時はお寺の離れで2泊させて頂きました。ご講演を聴きに行きたいぐらいであります。
藤村記念館の設計が谷口吉郎の設計になること、その紹介の文中にある「谷口自身すばらしい随筆を書いていたことを考えれば、この建築がその他の建築家が作った場合よりも、藤村文学からの強い影響を受けているでしょう。」を読んで、谷口吉郎著「雪あかり日記」という谷口若き日のドイツ紀行の著書があることを知りました。
数年前の修学院離宮参観の時には、谷口吉郎著、佐藤辰三写「修学院離宮」の氏の随筆を読んでから修学院を参観しましたが、未だに氏の文章の一節が心に残っています。
「修学院離宮を音楽にたとえるなら、このような「庭の足音」こそ、その作庭の第一主題だといいたいほど、いつもこの庭の鑑賞には、足音が余韻をひいて、耳の奥に残るのを感ずる」。
何回も訪れる東京国立博物館の東洋館は、池の向こうに均整な様式の美を見せてくれます。会社時代に金沢で6年ほど過ごしましたが、石川県立美術館も氏の設計であることを今回知りました。
ふとしたきっかけから、断片的な見聞が線となり面となっていく妙味を感じながらこのホームページを読ませていただいております。 神奈川県
* こういう「展開」が、或る意味で、ウエブサイトの理想的な開発なのかもしれない。深い「闇」を介して感想や知見やある種の境涯が行き交う。それがわたしの日々の糧とも喜びともなる。失礼や無礼を敢えてしてわたしが、この「私語の刻」に多彩にいろいろな言葉や声音を書き加えているのは、このようにして、より大きな協和・共鳴が成り立ってゆくこと、一足す一が、やがて七にも八にも成ってゆくであろうことを期待するからだ。そういう総てを「闇」は無尽蔵に包含できる。
* こんにちわ 大変ご無沙汰しています。東工大のときに講義その他で大変お世話になった * * です。お体の調子はいかがですか。
先ほどHPを拝見していたところ、僕の書いたメールが載ってて、びっくりしつつもとてもうれしく懐かしく感じました。じつは、「そういや前に、秦さんにデニーズからメール書いたことあったよなあ。。。」なんて思いながら、HP拝見していたところだったんです。自分の書いたメールを読んでいると、面白くない仕事をそういう風に感じないようにしながらこなしていた、あのころの息苦しい自分の気持ちが思い起こされてきて、ちょっと感傷的になってしまいました。当時は、そういうやり方以外に選択肢がなかったんですよね。
ということで、僕は、相変わらず危なっかしいながらも、何とか楽しくやっています。ご迷惑でなければ、またメールを送らせてください。
ではまた。秦さんも末永くお元気で。
* 迷惑どころか。いつでも喜んでメールを待っています。仕事のますますの前進も。
優秀な印象深い学生くんであった。名前も書いてくる鉛筆の字も署名もよく覚えている。あの教室からやがて十年か。こういう便りが届く、それ自体がわたしの「生ける甲斐あり」である。このままコンピュータを使い続けていて、こういう研究者の、エンジニアの成果にわたしもあずかれる日が来るのだと思うと、もうちっと元気に健康そのものでいなければと思う。柳君も書いていた、「心配する」より「心配しないで済む嬉しさを」と。はいはい。
* 松樹千年終是朽 槿花一日自栄為 ―白居易―
昨夜横浜中華街で旧正月のカウントダウンを経験しました。
中国風獅子舞はなかなかの迫力でした。
私の生家新潟の山の中でも旧正月をいまも祝います。
世界は焦臭い状況ですが秦様にとって良き年であることをお祈りいたします
2003年2月1日
* 神戸の芝田道さんと二月十三日に昼飯の約束が出来た。東工大で教壇に立ったその時に『死なれて死なせて』という本を出版した。それがご縁で文通が始まった。東工大のずうっと以前の卒業生であることは、そのご縁とは直接関係はなかった。はやいものでもう十余年になろうか。パソコンの方面の専門家で著書もあり、なにかと教えて貰ってきた。親切な導き手である。初対面になるが、そんな気がしない。
2003 2・2 17
* 米スペースシャトルの墜落はショックを受けましたが、それよりも米のイラク攻撃、どんなレベルで展開するのか、四月頃に楽しみにしていたシチリア旅行を延期せざるを得ないと、思い始めています。巻き添えになりたくないもの。
北朝鮮も含め国欲の不穏な空気に包まれて、いやな予感がします。
2003 2・2 17
* 暮れ正月に飲み過ぎたか、日本酒がとんと品切れであったが、千葉の、地酒だろうか「天の原」を三井化学の卒業生が熨斗をつけて送ってきてくれた。愛知から千葉へ転勤して、千葉県の地誌に興味がもてそうだと言っていたが、歩いたのかな。感謝。
2003 2・4 17
* 寒い毎日が続きますが、いかががお過ごしですか?
> 東工大から海外に出てスペインで結婚した卒業生が、闇に言い置く「一期一会」を発信し始めました。
興味深いホームページのご連絡ありがとございます。ついこのあいだ私もスペインに行ってきたので、共感できるところや気づかなかったことがあります。確かに熱狂的なフラメンコなどを好む人達ですね。
この人の様に、自分のそのとき考えたことを書いて言い置くのは、いいことだと思いました。「書く」ということで曖昧な部分がだいぶなくなり、自分の考えがまとまると思います。
最近仕事の上で、ますます自分の意見を述べる場面が増えてきました。こなす以外の仕事が本当に大きなものになってきました。資料やデータを見ながら、机の上で悩むこともしばしばです。現状を把握し、それについて自分の意見をはっきりと述べることは本当に難しいです。今まで意識して訓練してこなかったのがいけなかったのかもしれません。
さて、千葉のおいしいお酒を見つけましたので、お送りしました。もう届きましたでしょうか。百人一首の変形で、洒落た句が箱に書いてあります。
それでは、暖かくなりましたらまたお会いしたいと思います。
* 「小闇」@バルセロナのお知らせありがとうございました!まだ、ちらっと覗いた位ですが、小気味良い文章ですね。メール頂いた時に出ていた文章、とても良かったのですが、その後大分整理されてしまったようで、ちょっとお行儀良くなられてしまった気もします。
最近は(結婚前の)いろんな準備に追われまくって、休日もほとんどなく、予想以上に忙しい毎日を送っています。やはり新しい生活を組み立てていくのは大変なものですね。
神前式セミナーなるもので、「白無垢は死に装束で、懐刀を胸に入れ、一度死んで別の世界に飛び込む覚悟で結婚してゆく」とのお話を伺いました。
確かに、安定した一つの形を一度バラバラに崩して、そこから新たな何物かを創り出してゆくのは、どこかにその位の覚悟を要求するものだと、徐々に感じつつあります。
正直、結婚されている方々を見る目が、以前とはちょっと変わりました。それぞれにこういう所を越えて来ているんだなあと。
話は変わりますが、もしよろしければなのですが、結婚披露宴にご出席頂けないでしょうか。私の人生のなかで大切な時期を暖かく見守って下さっている秦さんに、もし見届けて頂けるのでしたら、とてもとても幸せです。
本当に、もしもしご無理のないようでしたら!
節分過ぎたというのに、寒さは一層厳しくなったようです。どうぞお体にはお気を付け下さい。
* みな、と言っていいかは別としても、卒業生達、少しずつ歩を運んで、新たな段階へ元気に歩んでいる。表情も声音も言葉も、そして人柄も、みな、ありありと私の中にすぐ再現できる。
結婚。彼らの出逢う当面の大きな「機会」がこれだ。通って来た人も、今からの人も、いる。やはり、この歌にものを言ってもらうのが、いい。いつしれずこの現代短歌一首が東工大のわれわれの合い言葉のようになっている。
生きているだから逃げては卑怯とぞ幸福を追わぬも卑怯のひとつ 大島史洋
お祝いの席によばれるのは、何度目だろう。
東京とバルセロナの二人の「小闇」たちもホームページにしっかり言葉を紡いでいる。むろん言葉そのものは目的ではない、日々に「いま・ここ」で生きる証しを、二人とも、足下を照らす灯しのように個性的にかかげている。表現も言葉も環境も、生き方も、異なっている。それでいい。追うべきを追って行け、と。
* 小闇@TOKYOがこんな歌一首を、今朝の前置きに書き込んでいた。「生き急ぐ私を更に急くような風花の舞う立春の朝」と。生き急ぐ、のは、およし。「生きている」で、いい。
「私の私」と題した本文に、こんなことも書いている。
* これまで、「公の私」と「私の私」を区別するとき、常に「公の私」を意識していた。ああ今私は「公の私」として振舞っているなと。ところが昨日は、違った。明らかに、業務時間中の私が素に、つまり「私の私」に戻ってしまったのがわかった。その瞬間、私は誰にも見せたことのない、私自身も知らない表情でいた。それは私が普段意識しているよりも、もっと頭脳より遠く心臓に近いところで、考えるとか思うではなく、感じていた。
昨年10月私は、『私の私は気持ちで判断し、公の私はルールで判断する』と結論付けている。訂正したい。「私の私」は判断などできない。ただ心の動くのを感じ、そうだったのかと思い知るだけだ。不意に己の心を知らされて、それを受け止めながら生きる。それが、私の私。
私は、目下取り組んでいる仕事も新鮮で楽しく、それ以外にもさまざまなことがあってとても幸せだ。調子に乗っているかもしれない。いずれなにかバチがあたるかもしれない。でもそれでいい。「私の私」は今、そう感じている。
* 背景は読者には見えないが、「感じ」はわかる。すこし踏み込みが深いか深すぎるかも知れないが、「いま・ここ」のセンスがいわば白熱しているのだ。そういう瞬間風速に直面した稀有の感じを「生き急ぐ」とも感応しているのだろうか。それなら、いい。それにしても 『公の私はルールで判断する』は、なかなか謂えている。企業や組織で活躍している同窓の諸君にも頷いている人が少なくあるまい。
* 奈良のあまいもの 水筒にお茶をいれ、奈良駅へ降り立ったのは昼過ぎ。
駅前の和菓子店では、三笠山。そして、古風な看板を見つける度、一店舗で一つずつ和菓子を買って、奈良のまちを歩きました。最中、くるみ饅頭、揚げ饅頭…。あんこ、あんこ、あんこ!どれもみなおいしい。
大和の地酒も、雀を惹きつけますが、このあと、春日大社を歩き回るのに、重い。酒屋では、こぼれ梅の小さな袋を買いました。粕汁、粕漬、溶いて甘酒、板粕をあぶっておやつに、と、酒粕は子雀から馴染みですが、こぼれ梅は初めて。おいしいですね。
* 春日大社の丸窓の梅林は、まだほとんど花開いていませんでした。
月ヶ瀬でいただいた梅が、いま花盛り。紅白混ぜて、選んでくださったので、本当に絵のよう。見惚れています。近くへ寄って分かるほどの、ほのかな香り。はつはる気分いっぱいです。3日経ち、4日経ち、あまりに変化がなくて、諦めかけていたところでした。
春節、節分、立春と、日ごとに開く花の数が増え、「時宜」とは、こういうことなのかしら、と思いました。
* 暮れにもらった鉢植えの梅がまばゆいように玄関に咲いている。花枝のかげで沢口靖子の「秦恒平様」と添えた額の写真もあいかわらず美しい。
そういえば、酒粕にまだ出逢わない。酒の肴に酒粕をあぶるほど、へんな酒飲みの、わたし。
* 相変わらずあの世の兄が、「kitazawa」と名乗り京都の精華大学のアドレスでサイズの大きいメールを呉れる。わるいねと謝って削除している。携帯電話の番号で宝酒造に関するらしいサイズの大きいメールも届くが、削除。ワケの分からない広告らしいメールも多数。削除。
2003 2・5 17
* 横浜高島屋で「万葉歌を描く」現代50人展を観ました。万葉集の詞書と「画」がありました。画に集中出来ませんでした。読むと観るは本質的に相容れないことを知りました。
高山辰雄「弭の音」の前で足が留まった。弭なる漢字を初めて知りました。古事記、読んで見たい。「蛇」という言葉の真奥を知りたいと思った。
先生の政治論も感銘するところ多々あり、溜飲が下がります。 川崎市
2003 2・5 17
* クライストチャーチより
hatakさん
南半球・ニュージーランドのクライストチャーチで一週間を過ごしました。
5年に一度開かれる国際植物病理学会(ICPP)に参加、昨日ポスター発表が済み、先ほど最後の行事・ディナーパーティーを終えてホテルに戻ったところです。
この会議、5年前はスコットランドのエジンバラで開催されました。その時私はまだ沖縄にいて、会議で出会った人の縁で、コーネル大学・ハワイ農業試験場との共同研究が始まったのです。
あれから5年、私の声に耳を傾けてくれたコーネル大の先生は、リタイア。一緒に仕事をした仲間にも会えず、私自身も札幌に転勤になり、5年間で一つの仕事が終わってしまったのだと会議場を歩いていても寂しい思いがしました。
時代の流れは、講演内容にも現れていました。5年前のエジンバラでは、植物が病原菌をやっつけるジーンサイレンシングという現象がつぎつぎと解明されている途中で、講演を聴く人々に熱気が感じられました。しかし、今回の講演内容から明らかになったのは、ジーンサイレンシングの解明については、もはや病原菌を扱う植物病理学会という学問分野がリーダシップをとる時期は終わりを迎えつつあり、研究の主体は、これまで複雑で手がつけられなかった植物側に移行してしまったということでした。
しかし、一研究者としては、世界のトレンドがどうであれ、自分の研究テーマに真剣に取り組まなくてはならないな、と痛感しました。やはりどの国にも、こつこつと努力をして、いい仕事をしている人がいるのです。そういう人の発表を聞くと、さあ帰ってから僕も実験をするぞ、とやる気がでてきます。
いつも海外に携行する本ですが、今回は谷崎源氏ではなく、御作から『墨牡丹』を持ってきて読んでいます。
「製作は密室の祈りである」との華岳の言葉。
定説や常識という甘い誘惑から厳しく自分を隔し、わが手だけを信じて孤独に実験台に向かう、研究も密室の祈りなのかもしれません。
「闇に言い置く」を拝見しておりましたら、酒が品切れとのこと、ニュージーランドのワインをお送りします。これまで街で飲んだものは、みな淡泊な味でしたが、さてどんなものが届きますやら。
これから2時間ほど仮眠し、夜明け前にホテルを立ち、15時間飛行機を乗り継いで、夜に札幌に帰り着きます。
一日札幌で働き、火曜からまた会議で出張です。風邪を引かないようにしなければ。
hatakさんもくれぐれもお大切に。暖かくしてお過ごし下さい。 maokat
* 気持ちよく生きて在る人が、此処にも、一人。気分がいい。無事の旅を祈ります。
2003 2・7 17
* 英治記念館の梅 昨夜の雨が春への潤いをもたらして快晴の今日、「岩石は堅い」にはじまる文章を拝読いたしました。
いい加減なところのある僕は思索の深みをしかとは把握できませんが、着眼大局の尺度が読書にあるとすれば、その尺度で興味深く読ませて頂きました。
読み進むにつれて 戦後まもない頃、情報受信の主流がラジオのみであった昭和30年代の番組で笠信太郎の話を聞いたことを思い出しました。
内容は世界情勢の中でのものの見方のようでもあったように記憶しますが忘却、しかし氏がある男の名前を出した。
ケンブリッジ大を卒業後、教師をし、テームズ川の岸でハシケ人足を続けた英国の哲学者でO・S・ウォーコップ。
「岩石は堅い」を読み哲学的なこと、思想に飢えていた頃の忘れかけていた自分を思い出した次第です。テレビ、新聞、雑誌、インターネット情報の豪華な着物を纏う今の時代では見つけることの出来ない「炭火」が自分の中に残っていることの嬉しさ。
吉川英治記念館の梅開花も間近でしょうか、先生の来館を待っておられるかもわかりません。
梅見酒が楽しめますように。 川崎市
* 青梅の梅花をながめ、沢の井の酒を汲み、英治記念館や玉堂美術館をおとずれ、清流に胸を洗わせた昔の一日を思い出す。「ミセス」であったか、もう「ミマン」になっていたか、一日、編集部に誘われて出掛けた。懐かしいほどの春日和であった。
だが、山々の色は。わたしははじめ、その濃く濁ったようなおちこちの黄色の山が、なにごとか、気付かなかった。それは、杉花粉の枝々の威嚇的に揺れる沈黙のさまであった。思わず震えた。うへぇッ…。
あれを思い出すと、たしかに、英治記念館の風情もっともうるわしき梅の佳節なれども、二の足をふむ。けさも、病院でもらっておいた花粉対策の点眼薬をいつでも使えるように身近に取り出したところ。
2003 2・9 17
* 教えていただいた小闇@TOKYOさんのHPですが、シンプルで文章がとても冴えていて、いつも楽しく拝見しています。
HPを読み耽っているとまるで、自分があの教室にいて、あの特有の濃密な空気の中で、今、秦さんの声で挨拶が読み上げられているような、そんなイメージに捉われてしまいます。
あの教室で、文章を書く楽しさを教えていただいて、もう随分経ちますが、いまでも文章を書くことへの欲求を感じることがあります。たとえば月に一回、業務報告の文章を書くときなんかです。毎月月末に「…一次試作はパネルの外周についた傷のためNG。原因は不明だが推定されるのは…」なんて味気ない文章を書いているんですが、それでも不思議に楽しかったりするんですよね!
自分が書くことを求めていると気づくのは、たとえばそういう時です。
* ほかまで手が回らなくても、東京とバルセロナの小闇のモノは、読んでいる。学生のアイサツは、ピークの頃は、一週間で単行本の二冊ほども提出され、どんな場所ででも赤いペン片手に読んでいた。そうでないと翌週の授業時間に追いつかなかった。負担だが、苦痛ではなかった。楽しんで、呆れたり共感したりして読んでいた。今でも、卒業生の呉れるメールは、いちばん楽しい。
2003 2・10 17
* ものつくりの世界では、「間違い」を前提に、幾重にも「細工」を施す。人間の思考論理即製品、商品となるプログラム「ソフトウェア」の世界、技術の世界、では「矢」が多ければ多いほど「信頼性」が高いと評価される。矢の予備を何本にするか、経済効率で決めるか。考えているうちに「納期厳守」で矢の本数が決まる。運がわるいと、「みずほ」のような混乱を起こしてしまう。
「藝術の世界」と「コンピュータ技術の世界」を、「矢の本数」に置き換えて見た。それぞれの世界で「粋」をめざす。自分はどちらの世界で生きてきたか。ふとこんなことを思いました。
工学の世界では、「一本の矢」は許されない。
自分が全責任を持てる文学の世界なればこそ、一矢が生きる。
どの世界であれ「一本の矢」を頼むような気持ちを持ちたい。
蕪村が詠んだ句が「須磨」であることを知り、源氏物語の「須磨」と重ねあわせて、豊な気分に浸ることが出来ました。王朝の時代に心で遊んだ蕪村は、源氏を読んでいたのですね。須磨の浦の波は春の海となり、源氏の弾く琴の音が、昭和の世に宮城道雄の曲となったのでしょうか。
源氏物語は、古文で高校の時に「須磨」を読んだだけですが、桐壺から読んでみたいと今日は思います。
この「闇」で、「日本の歴史」の古代国家の素描から、21世紀の國際国家まで、2000年の視野を持つことが出来ます。 神奈川県
2003 2・11 17
* 十一時前、東京會舘で、神戸の芝田道さんと初対面。しばらく喫茶室でお茶を飲み、やがて帝劇下の「香味屋」で昼食しながら、四方山の歓談。『死なれて死なせて』を出した直後からの、もう十年できかないおつき合いで、たまたま東工大出身の人とも知り、機械のことでは、しばしばメールで助言をもらっている。
昭和四十三年に東工大に入ったと。その年に我が家では建日子が生まれている。これからも機会が何度も有ろう。あわただしくて、さしたるおもてなしも出来ず恐縮した。
2003 2・13 17
* 先月お送りいただきました『墨牡丹』堪能いたしました。一度目を夢中で読み終えまして、早速本屋に村上華岳の画集を買いに走り、二度目は絵を眺めながら読みました。芸術家小説の名作で、村上華岳もどんなに喜んでいることでしょう。華岳の墨牡丹さながら、清らかになまめかしく匂うような文章に酔いしれて、時の経つのも忘れました。幸福でございました。
『慈子』も一場面一場面が、美しい絵で溜め息をつきながら味わっております。
新しい湖の本にもどんな豊饒な世界がひろがりますか楽しみにしていますが、どうぞご無理なお仕事はなさいませんように。明日は花粉の量がすごいという予報で、私もくしゃみの一日となりそうです。
* 朝一番に、有り難いメールをもらっていた。「墨牡丹」というと、わたしは亡き立原正秋をなつかしく思い出す。また福田恆存を慕わしく思い出す。村上華岳が好きな文学者であった。華岳を縁に親しくできた。信頼が出来たとすら言いたいほどだ。
2003 2・14 17
* 亡くなられた画家幸田侑三の未亡人から「遺言」で出来た清楚な画集を頂戴した。銀座の文春画廊での知求会の頃から繪にしたしみ、幸田さんはわたしの湖の本を愛読して下さり、今は奥さんが購読し続けて下さっている。清々しい静謐な静物の名手で、わたしは、好きだった。何点もの絵がいつも眼の底に生きている。画家とは斯くあるべしと、一切の社会的な場にはでず、佐藤多持氏らとの知求会にだけ謹格な美しい作品を毎年数点ずつ出されていた。亡き歌右衛門をさらに優しくした、みるから静かな人柄と見受けたが、繪は、それだけでない底に力が籠もっていた。だから茄子をみっつ描いただけの絵にも静かな迫力が漲った。
近いうちには回顧展も成るらしい。知求会で奥さんにも数度お目に掛かっている。一つ一つ「遺言」の果たされてゆくのを、じっと見守るばかりだが。
岐阜の吉田修三画伯、京都の麻田浩画伯、神奈川の森田曠平画伯、東京の橋本博英画伯、そしてこの幸田侑三画伯。優れた画家の友人に死なれてきたことを思う。みな、わたしの文学のこよなき理解者でもあった。
* むろん、ものを書くのに、ひるんではいけない。筆をまげてもいけない。意気を喪ってはそれよりも多くを喪うことになる。
2003 2・14 17
* 恋を手放した寂しい打ち明け話を聴いた。
* 繰り返し読みました、聴きました。
わたしはジタバタと見苦しくやりぬくタチです。
大学院より結婚を、親や故郷より妻を選んで、親との修羅場もくぐり抜けてきました。その方が行く先がいいと確信有ったわけでなく、若気の至りかも知れませんでした。その方がたぶんいいだろうと思うことを、先々をあまり考えもせず、自分が寂しくならない方を選びました。
その逆の選択もありえます、その方が良いと思った方を選ぶと云うことです。あなたの選択を疑いはしません。選択したら堪えねばならない。
わたしは極度の貧乏をえらびましたが、妻が側にいました、以来ずっと。わたしは、エゴイストなので、自分の願うように妻も願えば二人とも幸せだと、リクツにならないことを考えていたのでしょう。
自分と離れてはこの女性は不幸だと、あなたは思わなかった、願わなかった、もっと別の、それ以上の幸せがこの人には有るのだと「思いこん」で。それは一つの「優しい」選択でしたが、そんな優しさなんか「クソくらえ」という気持ちも有りませんでしたろうか。
いまいまの事情や状況は判りませんが。矢は弦を本当に放れてもう追うに追えないないなら、次の恋は、頑強に燃え立たしめよと励ましたい
2003 2・18 17
* 秦先生、私はあいかわらず、元気です。先生こそ、お体お大事に。
第三回と第四回の「最後の弁護人」(注・息子秦建日子脚本の連続ドラマ)見ました。先生のコメント、私も時間をかけて感想を述べれば、同感、にいたると思いました。でも、テレビ・ドラマとして、軽快なテンポできれいにまとまっているので、とても楽しい時間をすごせました。即席恋愛ものなどを見ていると、いろいろと腹が立つので(笑)、いつもはテレビドラマをほとんど見ません。「北の国から」は別です。あれは大好きです。魂がこもっているように思います。
先週末、「戦場のピアニスト」を見ました。強く印象に残りました。「ショコラ」も以前みました。私もあれは気に入りました。「理不尽さと戦う」「さすらいの」「魔女」というキーワードで、なぜか感情移入しています。(笑)最近で好きだったのが、「ビューティフル・マインド」「ブリジット・ジョーンズの日記」
小闇@TOKYOさんのLife on the web、ときどきのぞくのを楽しみにしています。おう、この人もはちゃめちゃだけど頑張っている(かなり失礼でしょうか)と。私はこの人に大いに救われています。
恋愛は、進行中です。私にとって、神様から差し出された救いのような人だと最近思います。そばにいるだけで、その子の発するα波や遠赤外線(が出ているわけないか。。)で癒される。。。感じです。
「闇に言い置く」の、私は、今はやめておこうと思っています。言葉が一人歩きしてしまうのと、人を意識せずに書くのは無理かな、と。
以前差し上げたメールにも似たことを書きましたが、先生が「自分」というものは無いとおっしゃるのに同感したというか、私には、自分の「感覚と感情」が有るだけだと、今、感じています。感覚の記憶、それに伴う感情、でしょうか。自分の「考え」などというものは無い、とくに、最近のように情報に不自由しない中で、「考え」にオリジナリティはほとんど無いなと思います。今の私は、感覚の記憶、感情を整理するために、言葉を使う必要があります。感覚の記憶は、日々たまっていきます。また私の感情は不安定で強烈です。今まで、自分の「思い」にばかり忠実に動いてきただけに、いろいろ頭をぶつけることも多かったですし。
自分の身内には、整理されるのを待っている記憶と感情とが渦巻き溜まっていると感じます。恋愛の相手の一言がきっかけで、過去のわだかまっていた記憶がよびもどされ、整理せざるを得なくなる。秦先生にお話しようと、自分の状況を整理する。私に、過去の記憶を呼び戻し整理させる影響力を、ダントツに持っているのが、恋愛中のその子と、先生です。また、私の整理を必要とする記憶の多くは、だいたいこれまでの恋愛の相手あってのことで、とても公にできるものではありません。
そして、今は、もっといろんなことを「知る」ために時間を使いたい。自分の意思にもとずいて動いてみて、いろんなことを感じたい。分かって欲しいとか表現したいという欲求は、そんなには強くない。正確にいうと、今のところ、恋愛中のその子と秦先生と、それくらいの方にありのままの自分を理解して受け入れていただければ、それで十分(十分すぎ?)、という感じです。家族にも認めて欲しいんだけど、分かって欲しいというより、分かってあげたい、という感じです。
ここ数年、仕事も恋愛も追われて動いてきました。その前まではいきあたりばったり、衝動的に決めて、動いていました。今年くらいから、無風になり、すこしずつ追い風が吹いてきています。意思的に動いていきたいと思うようになりました。そのように動いて、いろんなこと感じて知っていくうちに、「闇に言い置き」たくなるかもしれません。以前のそういう時期には、日記をかきまくって、先生に、すごい量の手紙を書いて、読んでいただいていましたから。。
* 言葉の一粒一粒がむくむくと生きている。幸福や不幸とはまた別ごととしても、こういうふうに「生きて」いる若い魂を、わたしは、まぶしく眺めて愛さずに居れない。
2003 2・19 17
* 相模女子大の馬渡教授が、土佐の文旦をものの二十も贈って下さった。赤ちゃんの頭ほどある。黄金色に照って清らに薫っている。体に良く、食して旨く、季節の恵み、人様の厚意。有り難い。
2003 2・19 17
* 今日は娘との齟齬や、これまでの曖昧な・・曖昧にしかできない悩みのすべて、そして偏頭痛にまけて・・何年ぶりでしょう、午後の数時間を半分眠りながら過ごしました。偏頭痛は治り、悲しみはそのままですが、暮れていく空の気配にただじっとしています。
HPの評論のなかに、学生たちの大勢が答えた、「孤・病・兵・貧」の順に怖れるという文章を、朝、読みながら、わたしならどう答えるか、ふと考えていました。手ごわい質問で本当は答えようがないのですが。いかにもおばさん的感想? ですが、軽く聞いてください。
「兵」は。兵役にとられるわけでなく、亭主も同じ。息子はいない、と、まず極めて利己的な状況を思って、長い間平和や戦争について思ってきたことも、結局わたし個人の力ではなにもできない・・と・・反戦集会やデモに参加するのは可能でしょうが。北朝鮮の核の脅威に対しても、わたしたち日本人のいい加減さは改めて述べる必要がないほど。個人的レベルに押し下げて、「兵」は四つの中から脇に置きます。(これがおばさんたるところ、凄いなあと自分も思う。)
一番怖いのは「病」ですね。たとい何億円あっても病院のベッドに身動きできない体では・・! 臆病は年齢とともに増大し、今やテレビの注射の画面にさえびくっと震える始末。痛いのも、不安自体も、ああ嫌。本当に。まだ、できる限り元気に生きたいのが、本音。
二番目「貧」。人間稼業を半世紀もしていると、お金があったら…と思う場面に何度ぶち当たるか、誰しも身をもって、悔しい思い、万感の思いの経験あり。そしてそれがどんなに人間を変えるか、影響するか、十二分に知らされています。知らない人は、ラッキーですが。若いときの苦労は買ってでもと言いますが、お金に、貧乏に、苦しめられ続けることは、人性を汚す場合もまた多々あること、見逃せません。頑張っても頑張っても苦労の報われるとは限らないのが、現実で。ああ、もうおばさん的思考は・・! 困るなあ。「病」と同列に「貧」も怖いとしかねない。
三番目に、「弧」。みなが孤独と言うとき、その絶対的に負の側面をばかり、直に連想している。中学生、高校生の立話しでも、孤独は暗い,寂しい、悲しい・・すべて否定的。でもね、人間本来一人なんだよというのも真実。一人でいて、その時見えてくるものもある、そこから人への痛切な思いも確かめられる・・そんな風に言ってみたい。もっとも彼・彼女たち、根底ではそれもとうに分かっているらしい。わたしは「弧」を抱えて、背筋正しく生きていけたらと切に思う。これは痩せ我慢だろうか?
あまりに俗的と言わないでくださいね。今日はもう時間がありません。馬鹿なことを書いて、少しわたしは何かを紛らわせた・・。
* 病・貧・孤・兵…ね。大人は、年が行けば行くほどこうなる。「兵」を、とにもかくにも、わきへ置いておけるのは日本の有りがたさ。そしてやがては怖さに。
2003 2・19 17
* これは嬉しい便りだった。この卒業生、音楽の趣味は上等だが、かつて美術について自分から口にしたことは一度もない。音楽の好きな東工大生はたくさんいたが、概して美術には冷えていた気がしている、そこへ、ピカソと来たぞ来たぞ、嬉しくなってしまう。
* こんばんは。寒さも少し和らいできました。お元気でしょうか?
久留里は、寮から、車で一時間とかからないところです。水がおいしく酒蔵が何軒かあります。実はお送りした大吟醸を飲んだことがないので、味が分かりません。少し甘めだと思いますが、どんな味でしたか? 別の酒蔵に、濃いめの辛口で食事にぴったりのお酒も見つけました。今度お送りします。
週末に、渋谷BUNKAMURAのメトロポリタン美術展に行ってきました。ピカソやボナールなどの近代の画家が展示されていました。
生で見る絵は、画集より迫力がほんとうにありますよね。部屋の中に置かれるということを前提として作られていることが分かります。
おなじピカソの作品も、前衛的なものと、分かりやすい作品とが両方展示されていました。中でも「白い女」というのは本当に美しい作品でした。ピカソは通常の描き方も十分心得た上で、さらなる表現を求めて、目で見る実体とは異なる絵を書いていったのですね。
ピカソの前衛的な作品も迫力と説得力があると思います。特にスペインで見た生のゲルニカは4×10mぐらいあるとても大きいもので、絵自体はのっぺりしていて、牛や人もデフォルメされているのですが、悲惨な情景の迫力に驚きました。
それでは。お時間がありましたらまたお会いしたいです。
* ひょっとして優しいお友達に誘われたかなと、希望をもってしまう。彼はゲルニカを観ているのだから、なみの初心者ではないが、日本で、東京や近郊の生活で、わざわざ美術館には行きそうにない一人であった。だから、とても意想外に嬉しくなる。感想も、思わずにこにこしてしまうほど分かる。よかった。会社勤めに追われ、好きなアルプスにもなかなか登れないだろう。山小屋暮らしで、こけももから彼が自分で造ったお酒を何度も貰ったが、ああいうこともさせてやりたいなあと思うけれど、やはりわたしの希望は、彼と良く力をあわせてくれる、いい奥さんだ。彼には奥さんが似合う。
2003 2・19 17
* 周りに似た者が多く、山坂を行きつ戻りつ楽しんでいます。運動をする老人は多少の怪我はあっても回復して、同年よりは身体の状態が若いのは立証されます。還暦過ぎると例外はあってもほぼ人は何かの老化症状を抱えています。私の場合五十台半ばに、耳の病を得て以来、老化を自覚しましたから無理はしません。
長時間の大手術後、部屋に運ばれた麻酔の覚めない病人を目の当たりにした時、ガンに侵された弟を身近に見た時、以来、人生観が変わったのは確かです。もうこの歳、大事をとって長生きを望むか、楽しんでマットウするか。どんな終幕かは神のみぞ知るところ。
寒さが戻りましたね。
2003 2・20 17
* 昨日、東工大同窓のひとりがわたしへのメールで、小闇@TOKYOの「闇に言い置く」を「はちゃめちゃだけど頑張っている」「私はこの人に大いに救われています」と間接のエールを送ってきた。此処へ転載することで、送られた当人にも届き、すぐさま、「どなたかわかりませんが『はちゃめちゃだけど頑張っている』と評してくださった方、どうもありがとう。最高の賛辞です。そしてたぶん、あなたは正しい。」』と、謝辞が発信されていた。「はちゃめちゃ」の癒し・救いか。若い人同士はうまいこと云うなあ。
2003 2・20 17
* 忙しい合間に、あてがいぶち?(テレビ)で鑑賞する映画、それにまつわる秦さんの独り言と挿話が大好きです。ほっとします。寅さん映画の石田あゆみ評、つづいて名を連ねた女優。自分とぴったしかんかんだった時のひとりごち、うーん。映画評なんて堅くるしいものは置いといて、こんなストレートな好き嫌いがいいですね。それと芝居を観るたしかな目と好みがあって、ひとつのきわだった場面を心象の風景に刻み込んでくれます。映画や芝居や小説では、絵空事である全体の筋や運びの面白さは大事でも、心に残るのはやはりひとつのシーン、せりふであるかも知れませんね。
昨日は色気のある仁左衛門がよかったですが、ふだん、男優への言及にくらべ女優のそれがずっと多い? これ
も気に入っております。ニタニタ。 東京都
* ついでに云うと昨夜の寅さん、石田あゆみもさりながら、やはり十三世仁左衛門の稀有な映画という点で忘れがたく、また佳かったのである。むかし、寿海、寿三郎を頭分に、蓑助(後に三津五郎)、鴈治郎、冨十郎、延次郎(後に延若)らと轡をならべて当時の我当(後に仁左衛門)が、独特の鼻へ抜ける口跡で頑張っていた頃から、色気のあるオッサンやなあと好きだった。一つには中学同窓に同年の秀公(現在の片岡我当)やその姉がいて、先代我当はその父親だったから馴染みも感じていた。云うまでもないその秀公の次弟がいまの人気女形秀太郎、末弟がさらに人気抜群の現仁左衛門である。
彼ら三兄弟の姉が一つ上の学年にいて、三年生の文化祭で、「修善寺物語」のヒロインを演じ、それは松嶋屋指導であったに違いなく、わたしの見た生まれて初めての「本格」歌舞伎の少年版であった。その前年は、わたしの演出した劇が全校優勝したが、その年は問題なく「修善寺物語」が全校の人気をさらった。そういった思い出をもちながら、もう功も名も遂げていた老松嶋屋が「寅さん」に出るというのは興味津々だった。映画館に行くほどヒマではなかったけれど、後にテレビで観て、「よろしぃなあ、やっぱり」と嬉しかった。品のいい顔立ち、あれはそのまま現在の我が友我当の顔である。
わたしは、前々から、我当にはテレビの現代ものでの、すばらしい出番がありうるのではと渇望してきたが、まだ機会がない。風貌と品位からも、彼は舞台のほかにもっとさらりと気楽に演じられるテレビ劇での活躍場面が可能の筈だ。昨晩の寅さんで懐かしい彼の父上を観ながらも、何度も「ああ似てるなあ。仁左衛門や秀太郎よりも、断然似ているよ、味わいが」と嘆声が出た。いくぶん今の我当にカタイところの無くはないが、楽屋で顔を見ても、まして背広など着て一緒に写真をとっても、彼はりゅうとして美しい紳士の顔をしている。もっと働かせたいなあと云うのがわたしの願いであって、それもゆうべの寅さん映画をみなおした本音であった。彼に直接そんな不躾は云わないけれど。
* いま、「湖の本」の久しい継続読者でもある人から、自分の仕切っている或るNHK番組に出てくれないかと、電話があった。美術系統の番組には数多く出てきたけれど、文学系統のものは気持ちの上で避けてきた。詩歌や歌謡の方でだけ出てきた。今度も詩歌の話題だけれど、昔のようにはテレビに気がはずまない。いつも本音で本音を話すようにしてきたが、番組によってはゴアイサツを強いられる。それがイヤだ。
2003 2・21 17
* 関西の熟年主婦のメールに反応し、海外のわかい友から。
* 「孤、病、貧、兵を怖い順に並べ、その理由を述べよ」と。十年前、自分がどう応えたのか、まったく憶えていない。問われたことすら、忘れていた。はて、今の私ならどう考えるだろう。
「孤」を四番に、これは迷わなかった。残り3つの選択肢を前にすれば、意外にも、すんなりと答えが。病、兵、貧。つまり怖い順に、病、兵、貧、孤。当時の応えはこうでなかったハズ、という変な確信も持った。
「病」「兵」、どちらも自分でどうにもならない上、生命の危機につながる。「病」は「兵」に比べても、究極は「自分事」で。だから一番。
「孤」を、他の3つと分けたのは、「孤」が「問題」になる社会には、ある意味で恵まれた生活があるから。病気が蔓延し、人々が次々と息絶えてゆく地域、貧しくて食べるものもない国、戦争でいつ殺されるか分からない社会で、果たして「孤」は問題になり得るだろうか。
唯一私が経験したかもしれない「孤」を、今回迷わず4番においた自分、そして、これほど簡単に順位をつけた自分に、今、少しばかり驚いている。今日の昼、夫に同じ質問をしたら、同じ応えが返ってきた。
* こういう難儀な「アイサツ」を、四年間に二百以上も学生達になげかけつづけ、学生達もよくこたえた。学生もわたしもその時から感じていただろう、五年経ち十年経てば、いま考え今言葉にしている内容が、さまがわりするだろう、変わらないことも有るにせよ、すっかり意見が変わることも多いだろう、と。
わたしが若い人達に問いかけていた数々は、むろん自身にも問うていたし、年寄りにも大人達にも問うていたのだ。「何に嫉妬するか」「踏み絵は踏むか」「寂しいか」「いま何を真実愛しているか」「自分とは何か」「神が必要か」「なぜウソをつくか」「惜身命か不惜身命か」「学問に譬えれば結婚は何学か」「未清算の過去とどう付き合うか」「あなたにとって死とは何か」等々。
学生は、わたしのいわゆる「講義」を聴きながら、その時間中に上のように挨(お)しつけた問いに、拶(お)し返すように短く書いて応えねば、単位が貰えないのだった、毎時間、のべ人数五千人の学生はそうして身内の「泥を吐いて」いたのである。原稿用紙にして、三万五千枚も。
2003 2・22 17
* 季節の便り、二つ、三つ。
* 今日は斑鳩寺の春会式。あいにくの雨です。クスリ貰いに病院で待ち時間、です。年だな、ふふふと言われてしまいますね。花粉症、悩みませんよう。 関西より
* 今朝起きて、霰が積もっているのを見たときはゾッとしましたが、そのあとは思ったほど荒れません。でも、寒ゥ。
昨日、TVニュースで、いかなご漁の様子が流れました。東京にいた頃、兵庫出身の友人が嬉しそうに「くぎ煮が届いたから~」とお福分けに来てくれたことを思い出します。春のたよりが一通、また一通と届きます。どうか、ごきげんよくお過ごしくださいますように。花粉は、平気でらっしゃいますか?お大切に。 近畿より
* 徳川美術館の雛人形展がニュースになりますが、お江戸の三井文庫でのお雛様展は、ちゃんと3月2日までなンですって?
毎年ではないようですが、母は今でもお雛様を飾っているみたいです。転勤族でしたから、TVの上に置くことのできる、小さな内裏雛ですけれど。
雪景、曇天、半纏、粕汁、おこたに行火、かゆい霜焼け。お節句は、雪に埋もれ、銀灰色にうす暗くなっていた部屋に、半眼の春が訪れるようでした。今は本当に暖冬になりましたねぇ。 中部より
* 仮面列島 顔は見なくても、むろん久しい読者であるからどこのどなたと分かっていて交信している。何処の誰とも分からない相手をえらんで、(それしか無いのだろうし、それがそもそもの問題だが。)出会い系サイトの何のと危ない淵にすり足で近寄っているのは、此の世の地獄のさまとも想われる。自分も自分を仮装し、向こうも向こうで仮装しながら、それでいて近寄りも、そこに仄かな信頼をすらおいて危険に陥っている。報道は再三再四警告しているけれど。昨日も街の横断歩道待ちの間にみまわすと、たちどころに携帯電話の若い人を十人以上見つけた。むろん知った仲間と話し受発信しているのだろうが、じつは、そうでもない例があまりに多いとも伝えられる。異様。それは譬えて云えば「仮面舞踏会」に等しい。日本中が巨大な仮面舞踏に湧いている図かのように、街中で携帯電話を握りしめた姿をイヤほど見かける。そして郊外の静かな路上でも、まだ大声で、いい大人までが電話しながら歩いている。
* 半田市を取材した、地方TV局製作の旅番組が、立て続けに3本放映されました。新美南吉の故郷、「ごんぎつね」の舞台だそうで、ごんたくれの「権狐」でしたのね。
小説の舞台の地を訪ねることは、どこか、距離を置ける作品でないと、しにくい。臆病です。思い入れだけで、深く読み込んでいないから。浅い、軽い読者が訪ねるなンて失礼だ、早いゾ、と。泉涌寺を訪れるのに、何年もかかりました。赦していただけるかしらと恐る恐る…でも、行って良かったと再読して更に強く思いました。 読者
* バス停「泉涌寺下」から徒歩で即成院へ上がる。東へ丈六釈迦堂に抜けてゆく。この両寺とも本尊がすばらしい。参道へ出て月輪校の前から泉山拝跪聖陵の碑にむかって左へ低く折れた隠れ道を下ると、朱塗りの観音寺橋。渡ってもよし、渡らずに右へ行ってもいい、高校生の「わたし」が初めて小学生の「慈子(あつこ)」と出逢う、泉涌寺来迎院前の石橋がある。木立の向こうには泉涌寺金堂か白砂の海に浮かんでいる。わたしの本当の故郷がある。
2003 2・22 17
* 次のメールは特筆に値する。わたしは不明を恥じながら、とてもとても嬉しい。落ち着いた柔らかい筆致も嬉しい。この人のメールは在学の昔からほぼとぎれなく受け続けているが、勤めて、赴任して、そして転勤を体験した頃から目立って内容にも筆致にも落ち着いた佳い趣味が加わってきていた。彼とはいつでも逢えるが、楽しみが増えたし出掛ける先にも幅ができた。それも嬉しい。
* 秦先生 こんばんは、**です。
ここ数日は冬の寒さが戻ってきました。風邪などひかれていませんでしょうか。
さて、(渋谷の)美術館ですが、一人で行ってきました。
社会人になり、ドイツ、スペインを旅行するうちに絵画の素晴らしさに目覚めました。(恋人の誘いではなく)期待を裏切ってすみません。
さらに、恵比寿ガーデンプレイス内の東京写真美術館に行ってきました。フランスのエルネスケンという写真家の展覧会をやっていました。
自分の周囲の若者達の姿を写真で撮り、それをつなぎ合せて架空のストーリーを作っています。プロの写真家の作品を見ると、写真は単なる記録ではなく、人物の心も写し取るものなんだと思います。被写体の心が、表情、しぐさに表れる瞬間を逃さないからいい写真が撮れるのでは、と思っています。恋人役の女性をとっている写真が多いのですが、その表情の豊かなことと、シャッターチャンスを逃さない腕は素晴らしいです。
* やはり社会に出て数年、多くがよい落ち着きと幅とを見せ始めている。一樹百穫という言葉の示すところをわたしは心丈夫に感じている。
2003 2・22 17
* 風邪が抜け切らなくて、昨日の9時ごろから休んでしまいました。今朝、仕事の緊急電話で眠りを破られ、その対応で一時間くらい電話をかけたりして、また眠りました。こんなに眠れるのでしょうかと思うくらい、体が芯から疲れていて、浅い夢を見ながら夕方を迎えました。
明日は娘の八年目の命日なので、墓参りは仕事の間に抜けて行ってこようかと思っています。死なせた娘のことは一日も忘れたことはありません。夫婦のいさかいやさまざまな葛藤の後の離婚、最初の会社で社長が交代したとたんに始まった私への猛烈ないじめ、娘の発病、起業、娘3人と力をあわせて生きて行こうと思っていたとき、起業一年で先行きも見えず不安だったとき、の娘の突然の死でした。
最後の日曜日、娘がケーキを焼きたいと言いだしました。二人で焼いたシフォンケーキは少しふくらみが足りませんでしたが、おいしいケーキでした。「またつくろうね」と約束しました。
娘とピアノを弾いて歌を歌いました。シューベルトの「野ばら」、カロ ミオ ベン、アベ マリア など、彼女の好きな歌を歌いました。
娘は自分で弾くと言いました。ベートーベンの悲愴ソナタが好きでした。でも、指がつかえてしまい、うまく弾けません。哀しそうにしているので、「エリーゼのために」なら弾けるでしょう? というとつっかえながら弾き、でも満足できないようでした。
「ピアノも弾けなくなっちゃった」
「だいじょうぶ、また練習すればひけるようになるから」ということばは慰めにはならなかったのでしょうか・・・。あの最後の日曜日は忘れることが出来ません。
その後耐えて耐えて八年を生きてきました。事業もなんとか順調に進み、業界でもなんとか存在を認めてもらえ、母や伯母も何とか元気二人の娘たちもそれぞれ伴侶を見つけて元気にしています。
やっと起き出したのが午後四時。きょうは今の平穏な日々に感謝しながら、死なせた娘のことをしのび、静かに過ごしたいと思います。
お風邪をひかれませんように。このところ「罪はわが前に」を繰り返し読んでいます。
* この人のメールを初めて受けて、数年になる。事業に忙しい日々らしく、しかし、死なれ死なせた娘さんのことは話題から離れない。無理もないトラウマの最たるもの、お気の毒である。瀧井孝作のような「弾力(はずみ)のある気持」とちがい、ひしと思い出を抱きしめている。無理もないが、気の毒である。
2003 2・23 17
* 「孤・病・兵・貧」が、ときならず関心事になっている。
* 「孤・病・兵・貧の恐怖につき、強いて順位をつけ、さらにその一項のみに所感を述べよ」。当時私が在籍していた理工系短歌もとい単科大学の「文学概論」の講義で出された課題。そのときは「兵、病、貧、孤」と並べたような記憶があるが定かでない。ちょっと過去を漁ったら、あっさり答えが出てきた。そのとおりであった。
今はどうか。「(兵、病)グループ、(貧、孤)グループ」であることは間違いないが、当時ほど簡単には並べられない。変わっていないのは、自分ではコントロールできないものが恐いこと。つまりここでは(兵、病)グループ。
当時と何が変わったのか。それはリアリティだ。例えば当時、病は現実的ではなく、それらへの恐れにあまり差がなかった。ところが今は現実味を帯びている。
会社の健康診断、血液検査で再検査を強要された。白血球の数が多い。結局はシロだったが、そのときはうへーと思った。自分の体が自分の意志では動かせなくなることを考えた。恐かった。その直後、とても近いひとがいわゆる不治の病と共存していることを知る。
そしてもっとリアルになったのは兵だ。地下鉄にはサリンが撒かれビルには旅客機が突っ込む。ミスチルではないが「何が起きても変じゃないそんな時代」だけれど「覚悟はできてる」とは続けられない。そう、そんな時代。
孤は、いい。恐くない。むしろそうありたい。表層の淋しさを埋めるためにつながっていたいと願っても、叶うとそれは突然束縛に姿を変える。取り返しがつかない。私にとって孤とはすべてから解き放たれるイメージ。
* 何度も書いてきたが、学生諸君は、三年経ち五年経ち十年経つにつれて、かつてわたしの突きつけた「問い」への「解」を、「応答」を、いろいろに改め改め、或る緩やかな旋回体験を持ち続けるだろうと予期していた。その時その時にむろんリアリティーはあるのだ、が、それが一定(いちじょう)のリアリティーでなく不定(ふじょう)のものであるというわけ。言い換えればその時時の感想でり、そう簡単には「思想」にならない。
それでいいのである。なまじな「思想」など抱きしめてしまうと、川浪に逆らって上流へ泳ぎ続けるような人生の愚と不自然を演じてしまう。
思想という言葉をわたしは久しく尊いものの一つに数えていたフシがあるが、今はちがう。思想で守れるのは小さな「我=エゴ」の「思考」に過ぎない。感想であろうと思想であろうと所詮は「青空」を覆って流れる「黒白の雲」のようなもの。雲のきれめに眩しく光る澄んだ「空」がみえるとき、あ、そうなんだ、あの無窮の青空が本来の自身であり、雲は、自分を何かから覆い隔てているはかない思考や思想の芥のような、執着のようなものだと感じる。
そんなことを、だが、若い日々を一心に生きている人達に云ってみても、奇妙な誤解や蹉跌を強いるだけかも知れない。六十七は六十七で、三十ではない。だから老若の会話が生きて緊張しうる。
* 愕いたことは生涯に何度も何度もある。感嘆したことも呆れたこともある。新制中学から高校へ進んだ頃か、それより前か、わたしは、やや窘めるようにわらって教えられたことがある。「孤独て、えぇモンえ。なんで孤独がいややのん」と。
翻訳すると、それは、「人はいっつも逢おてばっかりいんかてえぇの。逢おてのうても、逢おてるのとちっともちがわへん気持ちて、あるやろ」と。
一つ年上の人であった。少年のわたしは愕いた。それは公案のようにわたしの胸にその後もいつも突き立っていた。この人は、わたしに漱石の『こころ』を与えて新制中学を卒業し、いつか家の事情でか、わたしの知らない遠くへ、日頃の居を転じていたのである。
* 『こころ』の先生は孤独で自殺したのではない、孤立して死んだ。孤立したら人は死ぬかもしれないが、孤独は孤立ではない。
わたしに孤独はいいものだと教えた人の、わたしより一つ下の妹は、またべつの不思議なことをわたしに教えた。独りになりたいときは「地下室」へ降りると。むろん譬喩である。
よほどイヤな辛いことがあっても、この妹は、「なんじゃい」と呟いてその「地下室」に降りてゆくというのだ、地下室とはすなわち、高浜虚子の有名な句の、「遠山に日のあたりたる枯野」にひとしい世界の意味であった。「なんじゃい」は、何ともいえぬ現実への寂しい捨て台詞とも聞こえるが、「地下室」である「枯野」への「開けゴマ」でもあるのだった。
大事なのは、妹のいわく、その孤独な別世界に、あたかも遠山がひらけ日も柔らかにあたっているという「懐かしさ」であった。先の一文で「私にとって孤とはすべてから解き放たれるイメージ」とは、そういう「孤独」のよろしさを謂っているのだろう、しかし骨を噛む「孤立」とはそれは異うものではないか。人は「孤立」の意味で多く「孤独」と謂っている、便宜的に。孤独は、孤立ではない。
わたしにそれを教えた姉と妹は、元気でいるだろうか。
2003 2・23 17
* 寒い日々ですが「瀧井孝作」を知りました。俳句。飛騨高山の方。「文章」とは何か。点が線となりました。
永井龍男。「龍」。「瀧」。登る。下る。 柿と栗。字は永遠の光があります。 川崎市
2003 2・23 17
* 孤と宗教 2003.02.23 友人に仏教徒がいる。渡西(スペイン)7年目、拒み続けた勧誘に折れて以来、彼女は熱心な信者だ。
こんなことを言うと本人は怒るだろうが、彼女が信者になったのがよく分かる。長年一人で住み、独りでがんばってきた。よき友達はいても、毎日の些細な出来事を日本語で話せる相手ではない。一時、私をノイローゼにさせるくらい電話をかけてきたことからも、孤独な様子が手に取れた。
彼女の話によれば、ヨーロッパには、こちらに来てから仏教を信じるようになった日本人がかなりいるらしい。今は彼女自身、各地のお寺を飛び回り、そこで知り合った人々との往き来に忙しい。聞けば、みな何か自分の目的をもって住みにきた、意志の強い人々。そういう人間だからこそ、また強い心の支えが必要だったのかもしれない。「抱き柱」とは、こういうものなのかなと思った。
先日、その彼女がある話題に触れたことから、「孤病貧兵」について訊いてみた。彼女は一寸も迷わず、「孤」が一番、と言い切った。予想された返事だった。その後で、「病」と「兵」は、自分ではどうにもならないことだから怖くない、ときっぱり。そのせいだけ、と言うつもりはないが、宗教の威力を感じさせる返答だった。 バルセロナ
* 此の「孤と宗教(信心・信仰)」という問題は、更にいろいろの異なる思いを誘う話題のように思われる。「抱き柱」という言葉もこの人は用いて問題提起している。わたしは昨日、「孤独は孤立ではない」という見解を述べておいた。孤独を愛するという物言いはあるが、孤立を愛するとは云わない。孤独なときは自分自身に神や仏を感じるが、孤立していると神や仏にしがみつくかもしれない。一概には云えないが。
2003 2・24 17
* 松浦武四郎の記念館が松阪にほど近い町にあります。行ってみたいと思いつつ延び延び。日曜の朝、冷たい雨が上がった晴れた空と、「松浦武四郎まつり」の記事に促され、電車に乗りました。
この日の記念館は、地元小学生の発表の場になっていました。壁新聞、冊子、アイヌの刺繍もあります。彼のルポルタージュは、明治の末まで発表できなかったのですってね。(最上)徳内さんより、ずっと後々も、同じような差別と搾取が行われていたことを、紙芝居や芝居で熱演の子供達が、教えてくれました。
お作をまた、読んでみます。
近くにある彼の生家も訪ねてみました。参宮街道に面した家に生まれ、行き来するさまざまな人、様式を見たのが、彼の人生に大きく影響したそうです。今の感覚で見ると、狭い道ねぇと思いながら、曲がりくねる街道を歩いてい
るうち、お伊勢まいりの雑踏や賑わいを描いた上方落語を思い出しました。田おこしがされ、何となし、芽ぶきや水の温みを感じる平らな風景。ときどき、強い浅春の風が吹きます。首をすくませて、地元婦人会サービスの、ショウガを入れたあつあつの甘酒を飲みに、記念館に戻りました。 三重県
* いわば優れた大旅行家であった。すばらしい、研究意欲に富んだ紀行文を多く遺していた。アイヌへの理解と真情においても素晴らしいヒューマニストであった。最上徳内の人間味をついだ後輩は、間宮林蔵では決してない、遙かに遅れてきた松浦武四郎だった。 2003 2・25 17
* 「丹波・蛇」を持って、京へ日帰り旅。今宮神社、千本釈迦堂(ミーハーでしょ?)と回り、北野天満宮へ。おいど、いやエライ失礼なコト言いました、お土居、見てきました。アマカメラマンもおらん、静かななか、ほぉっと歩いて。ほんまええですなぁ(500円払ゥてんから、当たり前か)。梅の匂いに包まれてきました。もう散り始めてますの。にわか雨か思たら、花びらですもん。
今宮のあぶり餅、初体験。美味しいものと、京らしい空気に触れ、笑顔と力を得ました。 雀
2003 3・1 18
* 三日ほど留守にしていまして、うれしいメールを今、拝見しました。
待賢門院璋子について書かれたもので、最初のショックは、先生のおっしゃるT先生の『椒庭秘抄 待賢門院璋子の生涯』でした。
二番目のショックは『繪巻』でした。湖のご本ではじめて拝読しました。うつくしいうつくしい璋子を知りました。
そして、小侍従を読むようになって、彼女の母小大進が花園左大臣家の女房であり、「久安百首」の作者にえらばれていることを知りました。 花園左大臣家の女房も「久安百首」加えたいという崇徳院の意志を想像するのは、ちょっとたのしい気がいたします。
たとえば新作歌舞伎にするとしたら、璋子にどの役者を当てましょう。有仁は、白河院は、鳥羽院は……。璋子に若き日の歌右衛門、有仁は現仁左衛門、白河院は先代の仁左衛門、砂繪の爺は小伝次。秀太郎にも何か演ってほしい――。
「祇園町の真ん中の崇徳院の廟」は、まだお詣りしたことがありません。白峰神宮には、寒い寒いときにまいりました。そのときでしたか、御霊神社にお詣りしましたのは。おくり名に「崇」の字のあるみかどは、みな、「祟り」を畏れられている、崇道天皇も崇峻天皇も……などとおもいながら。
活字になっていない「承久の変」、拝見したうございます。『繪巻』のように定説を越え、そして、スケールはよほど大きなお作なのでしょう。
ところで、崇徳院と同じ流され王ですけれど、後鳥羽・順徳両院には、怨霊伝説はないのでしょうか。おくり名に「崇」の字がありませんが。
「鵺」で、誰も気づかなかった謎解きのヒントをひとつひとつ拾いあげて、くらり、定説をくつがえされましたけれど、「承久の変」も、そうした、読み手を驚かすような発見をなさるのでしょうか。拝見の叶う日が早く来ますように。
「鵺」は、何か、推理小説のよう。ごく、さりげなくこぼれていて小石のように見えるものが、じつは謎解きのたいせつな証拠のかけら。何気なく読んでいたものが、まったく、様相を変えてたちあがる――。興奮したものでございました。
あれこれ、かんがえていますと、また、京都にゆきたくなります。
* 「崇」だけでなく、謚号の「徳」にも、歴史的に問題があるようだとわたしは思ってきた。仁徳はいいが、聖徳から、孝徳、称徳、また文徳、崇徳、安徳、顕徳(後鳥羽)、順徳天皇に、みな問題がある。この多くに、非運と非業死が絡んでいる。それかれ有ってか、江戸時代の改元で「正徳」時代ができるとき、幕閣主流の新井白石と冷や飯を食っていた林家とに、烈しい議論があった。林家は「徳」字を避けよといい、白石は博識を駆使し徳川を背後にしてはねのけ、正徳の治を実現した。文字に拘泥したというより、上代の人は文字に意義をおっかぶせたのであり、わたしは「文字占い」など一切信じない。
* 祇園町甲部の真ん中にある崇徳院御廟は、意外に知られていないし話題にされない。弥栄中学からものの三分も掛からない近くにあった。わたしはその不思議に心惹かれて、『風の奏で』という建礼門院を書いた現代小説のヒロインの家を、その奥隣に設定した。懐かしい。
2003 3・4 18
* 春の坂道
雨雪に降り籠められた日の翌朝、青い空が誘います。
雨に霞む名張川に見惚れたあくる日、水音豊かな川に沿い、山ふところへ。雨上がり、雲一片もないトルコブルーの空。眩しさを増した日射し。時折吹く穏やかな春風。浄瑠璃寺は、まさに浄土。
当尾の石仏をめぐり、岩船寺へ向かう山中、梅の花の元で、大和の眺望を楽しんでいると、鴬が鳴きました。初音です。二メートルを超える野生の蝋梅が、七、八株まとまって、満開のところがありました。圧巻。その香りの強いこと。驚きました。
そこから数メートル降りたところには、花芯の赤い蝋梅が同様に咲いていて、陽に透けた花の妖艶さに、言葉なくのけぞりました。
加茂駅へ出て、笠置温泉(かささぎの湯、ですって)で疲れを癒し、きじ釜飯に舌鼓。
木津川に沿って、伊賀上野を回って帰りました。 囀雀
* 当尾の里は、わたしの父祖の代々庄屋として在った地。いまも在る。生まれて三年あまり、祖父母や叔母叔父たちと尻枝という在に育った。
2003 3・5 18
* 今朝読んだ小闇@TOKYOKの以下の一文に同感して笑ってしまった。しめくくりが、利いた。
* 理解されなくていいけれど 2003.3.4
花粉症だ。今年は仕方なく病院へ行って検査をし、スギ花粉にアレルギー反応がありますと宣告され、処方された薬を飲んでいるので今のところまあなんとか暮らしている。けれど日ごとに気温が上がり風の強い日が続けばもうやばいんじゃ、と気が気でない。 もはや信じ難いのだが世の中には花粉症ではない人もいる。そういう人のほうが多いようだ。もちろん私の周りにも花粉に鈍感な人はいて、明日の天気に花粉の飛散を憂う私をヘンナノという風に見る。
「ああ、明日は花粉の量が『非常に多い』。誰か死ぬかもしれないよ」
「大袈裟だなぁ」
私はこれっぽっちも大袈裟なつもりはない。症状が重くなれば本当に命すら危ないのではないかと、いくらか本気で思っている。当然噛み付く。
「そうなのかぁ。でも花粉症じゃないからその気持ちわからないよ」
どこかで聞いたセリフだ。
いつだったか食事の最中に、
「生理だからつらいとか言われても、俺にはわかんないんだよなぁ」と言った人がいた。
何を言うのだろうと思った。つらいと言ったのはもちろん私ではない。なのに当事者でない私に突然そういう話をすること、それから、自分の身には起こらないことを、それを避けては通れない私に、「わかんない」と言ってしまうデリカシーのなさに唖然とした。
そのひとも、花粉症持ちの気持ちがわからない、と断言していた。
いずれにせよ、理解してくれとは言わないけれど、これは、頼む。「立場が違うから」わからないのなら、黙っていてくれ。私ですら「男はつらいよ」などと聞かされても、グッとこらえている。
2003 3・5 18
* 安保理の報告と演説を聴いていて、寝るのがおそくなりました。あけがた、寝入りばな、に猫に一度起こされて、また寝たものの安眠できず。こめかみに軽い痛み有り。
蜂の巣のように、心・身、いろいろに、わんわんと、騒ぎ立とうと。ペンの仕事にしても、なおこの先、時間をやりくりしながら相変わらず忙しいことでしょう。ですが、公私に義務感も習慣性もあえてもたず、流れにまかせて逆らわないだけのこと。何か一つにだけ向かう贅沢が許されていない以上、一つ一つから、いちばんここちよい「もの・こと」を受けとれるようにとノホホンと願っています。限られた僅かな残り時間になにが出来るか。何が受けとれるか。一つと限られたら一つをどう選ぶか。自然に定まるところを受け容れるつもりです。あれもこれもという年齢では無くなっていますから。
20033・8 18
* メールありがとうございます。やはり一番うれしいです。
菊村到『硫黄島』を読みました。戦争を思い出し、「硫黄島玉砕」のニュースを思い出しました。「小国民」は「本土決戦」で負けたら男はみんな殺される、という話を信じていました。戦場を経験し、戦友を失った元兵士のひと達は「・・自分が仕合わせになったり楽しい思いをしたりすることが・・できない」というのは、今でも聞く折りがあります。黙って聞いています。そして「ご苦労様でした」と頭をさげています。
「電子文藝館」五百でも千でも続くようにと、ごむりの無いようにと、勝手ながら願っています。
春が来るといいですね。どうかお大事にしてください。 千葉県
2003 3・8 18
* お見舞い 頭痛、歯痛などのご不調ご案じ申し上げております。
先生と私の母はほぼ同年配ですが、母も風邪をひいて治るとすぐ歯が痛くなる、花粉症が出て、蕁麻疹が出る、五十肩も腰痛も眩暈も白内障も腎臓も高血圧も……など次々にもぐら叩きのように何か出てきております。若い時分から丈夫な人ではありませんでしたが、年を重ねるにつれあちこちガタがきていると嘆いています。娘としては病気がないという健康体を望めなくても、とにかく対症療法をしながら、低空飛行や片肺飛行でいいから一日でも長く飛び続けてほしいと願うばかりです。
私は、今週末にお稽古しております地唄舞の発表会がございます。発表会といいましても、舞台にのるのではなく、某料亭のお座敷で踊るのですが観客が近いので悪戦苦闘中です。家族に、下手さに衝撃を受けないよう、驚かないようにと申しましたところ、「大丈夫、みんなで他人のふりして観てるから」と言われてしまいました。他人のふりをするくらいなら、観にこなくてもよさそうなものですが、「世の中には下手を観るという楽しみもある」のだそうです。本当に悪趣味な人たちだと憤慨して、ポーズを決めた姿はきれいよと先生に褒められたと言うと、「つまり踊っていないときはきれいということね」と結論づけられました。
こうまで言われたのですから、せめて本番では着物姿だけでも美しくと念入りにお化粧して、弱りめの母や仕事疲れの夫やお気楽娘に大いに笑いを提供しようではないかと開き直っています。
先生の「闇」の記述を拝見していまして、先日モダンバレエに夢中の知人が、面白いことを言っていたのを思い出しました。二万回くらい練習して本番を迎えると、突然音も聞こえなくなり、客席も照明も舞台装置も見えなくなる瞬間があるそうです。そのとき時間はとまり自分という存在も消えてなくなり、ただ「踊り」だけがあるそうなのです。自分が「空」になる境地というのは地唄舞の人にもあるようで、長くお稽古されている方から、一瞬すべてがなくなることがあると伺ったことがあります。(私の練習量では無理な境地のようですが……。)洋の東西を問わず、ダンサーに共通する至福のときなのかもしれません。
前述の知人は、ダンサーとは観客が未来永劫いなくても、たった一人でも、踊らざるを得ないから踊る人と言っていました。作家というのも、書かざるを得ないから書く人間でしょうか。
今日歩いていましたら、風のなかにふわっとやさしい花の匂いが漂ってきて、春が近いことを感じ、それだけですっかり有頂天になりました。どうぞご無理なさらず急がれず、もぐら叩きなさりながら、ゆったりお過ごしくださいますことを願ってやみません。
追伸 先生はお母様のことなどおありで睡眠薬はお嫌いでしょうが、先生くらいのご年齢ですと睡眠薬を使われる方がとても多いようです。(母もその友人も幸いぼけることなく常用しています。)お医者さまによりますと、年をとると眠れないことの害の方が睡眠薬の害よりずっと大きいそうでございます。もう自力で眠ろうと頑張る必要はないということなのでしょう。ですから就寝前にはうんと退屈なものをお読みになるか、さもなければお好きな本を堪能なさって、時には睡眠薬ですとんと眠ってしまわれたら如何かと……。私は苦しくて眠れぬ夜が続くと時々お世話になります。
* こういうメールの、書かれた内容はもとよりだが、書き方・文章や表現にわたしはいつも誰にでも目を向けている。メールでも、しかとした人それぞれの文体的特色が出るから、たとえ署名をはずして何処の何方とは分からぬようにしておきつつ、わたし自身は歳月を経てその署名のないメールを読んでも、内容に助けられ、文章からもすぐ何方のものと見極めがつく。文体は指紋のようなものと謂うが、たしかにそうなのである。
「闇」というわたしの「私語の刻」のキーワードが、いろいろに吟味されて行くのが頼もしくも面白い。ダンス(を観るの)が好きで、こういう証言にも頷く。なにとなく、ああ春が来るなあと感じさせてもらった。
2003 3・11 18
* 一つ、心から残念なことを書き記しておかねばならない、遠い北陸へ移り住んだ一人の友が、音もなく行方知れなくなってしまったこと。
2003 3・11 18
* 暮れに気に入って買った白地に薄紅色の暈しのあるシクラメン、約三ヶ月間よく花をつけてくれました。連日寒い寒いとはいえ、さすがに窓辺の三月の暖かい日差しに、今日あたりは勢いが無くなり、45°程にたらりと傾いています。たった千円ぽっきりの鉢なのに永らく楽しみました。 埼玉県
2003 3・12 18
* 身近な人に死なれたと、読者の家族から、また、しらせがあった。兄が自殺したと。つらいことを思い出した。明らかにイタズラの兄のアドレスでのメールも、しばらく来ない。それよりも甥の恒=黒川創は、いったいどうしてるのだろう、毎度本を送っても音沙汰が何もない。兄の遺著が出来たのかどうかもフッツリ報せてこない。そんなに忙しいのだろうか。ウインから帰ってくる弟の猛も、兄のトコロに泊まるようでもない。
2003 3・12 18
たった今、群馬の読者から電話が来て、湖の本の間が開いているが元気にしているのかと。有り難く、恐縮。少し早く送れるかと思ったが、たしかに三ヶ月以上、間があいた。
2003 3・13 18
* 日々、新生活と結婚式の準備にかなりの時間と神経を使ってしまいます。いろいろ調べたり、考えたり、手続をしたり・・・新しく家庭を作るためには、やるべきことが一杯あるのですね。と、今さらながらに思っています。適当に流してしまっても、何とかなるのでしょうけれど、どうせなら、ひとつひとつちゃんと受け止めながら進めて行きたいです。
今週ようやく招待状が刷り上がってきましたので、来週には発送させて頂きます。
つきましては、披露宴でご挨拶を頂戴できませんでしょうか。
遠いところをご足労頂きます上に、わがままで恐縮してしまいますが、いかがでしょうか?
それでは、季節の変わり目、くれぐれも体調崩されたりなさいませんように。
* 華燭。いい返辞をしたい。
2003 3・13 18
* 秦さん 快くお引き受けいただき、ありがとうございます!
披露宴の細かい内容は、まだ準備をはじめたばかりで固まっていませんが、お話頂きます前後の状況など、はっきりしてきましたら、ご連絡させて頂きます。
> 木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな 前田夕暮
ええ、本当になかなか遠くもあるかなという感じです。そのためか、いまだに明確な実感は持てていません。ですが、結婚式の準備が進み、新居が段々と形になってくる、その過程の中で、少しずつ少しずつ、何かが蓄積されている感覚はありますが。
ぜひ4月中にでも、久々にお会いして、ご紹介などさせて頂きたいです。
* 今朝に何より嬉しくふさわしいメール。そして「小闇」の声を聴いて。
今朝は七時に起きた。歌舞伎座の昼が予約してある。染五郎の「操り三番叟」、そして仁左衛門、玉三郎らの大作「浮舟」とは、懐かしい。結びに、夫婦して大好きな「勧進帳」が松本幸四郎と中村富十郎。義経は誰であったか。
2003 3・14 18
* もう、こんなメールを貰っていた。まことに照れくさいほどであるが、こういう声や言葉にも励まされながら生きて行かねば、萎えて行くばかりでも困ると思い、わがための自賛のつもりで書き込んでおく。
むかし「慈子」書き下ろしていたとき、兼好自賛七条から話をほぐしていった。ある注釈書は、自賛は自慢ではないとし、人がほめてくれてよいところを褒めてくれないのでするのが自賛だとあり、苦笑したことがある。褒めて貰っているのを麗々しく書き込む必要は無いのだが、ま、気の弱りそうなときには、嬉しくて、と。
* 本日湖の本エッセイ『東工大「作家」教授の幸福』を頂戴しました。ありがとうございました。昨年末に単行本を購入して読んだ記憶も新しいのですが、早速また面白く読み直しております。私が大学生の頃にオーケストラの活動を通して交流のあった多くの東工大生の、優秀ですこし翳があって、誠実なのに不器用でシャイだったことなど思い出しまして、なつかしく時にほろりとしています。
私はずっと先生の小説世界に心酔してまいりましたが、先生の息づかいや眼差しがよりなまなかたちで感じられるエッセイなどの文章にも魅了されてまいりました。小説も、「私語の刻」の日記のようなエッセイのような文章も、私には貴重な財産で、どちらか一方だけを選ぶということはできません。
先日の私語の刻で、先生は中野重治のことに触れられ、「操觚者」でありうれば幸せと書いていらっしゃいました。私は先生のお仕事の領域の広さ、質の高さにただもう圧倒されておりましたが、エッセイ、評論、ホームページの私語の刻、ペンクラブの電子文藝館の創設など、すべてが先生の渾身の作品なのですね。そしてそのどれもが極上
の文藝作品、藝術作品であることは疑いようもございません。私は秦恒平という文学者にめぐり合えた幸福をこれからも日々かみしめてゆくでしょう。湖の本を積み重ねてゆくたびに、ありがとうこざいますと、先生だけでなく神さまにも感謝しています。
さて、話はかわりまして、お気にかけていただきました地唄舞の発表会ですが、15日に無事終わりました。もともと、最後まで間違えずに踊れればという志の低さで臨みまして、何とか目標達成です。地唄舞の先生が「わからなくなってしまったら武原はんになったつもりで、ポーズとってじっとしてて」と言われたのでそのつもりで踊ったのがよかったのでしょう。意外なことに、家族には他人のふりをされることもなく好評でした。家族に極端に地唄舞を観る目がないのと、お座敷に牡丹色の着物が映えた効果かもしれません。
会のおやつは青山にあります菊屋の、自然薯をすりおろして作った皮にたっぷり餡のつまった大きめのお饅頭をいただき、踊りのあとには料亭の季節のお料理の数々を堪能しました。* * 座のオーナーの方の料亭ですが、デザートに出たお汁粉が小豆の甘味まで感じる繊細な美味しさでした。
しかし、この会の話題は少しも甘くなく、アメリカの戦争と北朝鮮のミサイルのことでした。六十代、七十代の地唄舞を愛する市井の物静かなおばあさま方が、かんかんです。
「アメリカは戦後処理なんて楽天的に考えてるみたいだけど、そんなに都合よくすぐ終わるとは思えない」
「あの大東亜戦争だって日本は一週間でアメリカに勝つつもりではじめたんだから」
「ブッシュさんは自分の子供が戦争に行かないから」など、怒ること怒ること。ブッシュ大統領もよくよく戦争をはじめる愚かしさを考えていただきたいものです。もうどうにもならないのでしょうが……。
世界情勢の混沌にうんざりしつつ、今日はひととき、先生の若い魂への優しさや静かに温かい想いにふれる喜びを味わわせていただきました。発送のお疲れなど出ませんように、ご自愛くださいませ。近いうちに桜も咲きますでしょう。
* 話題がゆったりうねって変わって行く呼吸が楽しく、「武原はんになったつもりで、ポーズとってじっとしてて」は、なんとも面白い。先生の、じつにうまい口説きようである。
それから食べ物の話がうまそうで。わたしが今日元気だからか、なんだかわたしも食べたくなった。
そして「おばあさま方」の戦争にかんかんも頼もしい。
そういえば、今日の理事会に「平和のモカシン」資料を配付して共感を得たいと思ったが、なんと、「これはいいねえ」と共感を示したのは小田実氏がただ一人であったのにはガッカリした。女性作家委員会などが、いち早く反応してくれていいアピールだと思ったのだが。
* なかなか会えない女友達が、南座へ芝居見物に来るというので、京へ。
人気の夜の部「源氏物語」だと思ったら、昼のみどりを見て帰ると言います。
「よーじやと辻利でお土産を買いたいから、『保名』抜けるわ。代わりにどう?」
「もゥらい!」。
幕開きの「扇屋熊谷」(團十郎、菊之助)が終わる12時半まで空きました。彼女へのお礼に、鞍馬口通りのわらびもちを買い、すぐ近くの蕎麦やが11時半に開くのを待って、おひる。
朝から、冷たい雨。菜種梅雨かしら。
「保名」は奴が出る型でした。
買い物を済ませた彼女とタッチ交代。そのあと「紅長」(菊五郎)の間、こちらは、上賀茂、下鴨の両宮で瀬音を聞き、四条の菊水へ舞い戻って終演を待ちました。舞妓さんを乗せた人力車が、雨上がりの四条通を何台も通ります。花灯路の宣伝だそうです。
「何時の新幹線?」
「指定は取ってないわ」。
八坂さんの門を潜り、公園を突っ切り、大鐘楼、安養寺、辨財天、長楽寺。ねねの道の賑わいに、二人同時に、無言のまま、大谷参道を右折。
タクシーを拾い、駅で、右の新幹線乗り場、左の近鉄乗り場へと別れて、帰りました。
* わたしには、こういう楽しみの一部始終がわかる気がする。なにもかも、どこもかしこも、懐かしい。
2003 3・17 18
* 「湖の本」届きました。
秦先生: ご無沙汰いたしておりますが、お変わりございませんか? 私は2月末に質の悪い風邪(お腹にきてしまいました)にかかりましたが、元気にしています。
昨日、手元に「湖の本」が届きました。あの授業の内容ではありませんか! 授業風景を思い出しました。とても懐かしいです。しかも、自分の書いた文章が載っていて、何だか恥ずかしいような…。その文章の中身については、今も考え方は変わらないかな? 多分、これからもずっと変わらないと思います。不思議と。近いうちに送金しますので、お待ち下さい。
先日、弓道の昇段審査を受けて、参段を取得しました。ずっと昇段審査をサボっていた(何と、10年も!)のですが、義父も弓道をやり、しかも私と同じ段位だったので、一緒に受けることにしたのです。結果は、私だけが合格してしまったのですが、義父は「しっかり練習して、次回受けるよ」とやる気満々です。親子3人(義父、主人、私)に加え、主人の親戚の子も昨年から同じ道場に通っているのです。それぞれ、いい刺激になって精進できればいいな、と思います。
まだ寒い日が続きますが、家のすぐ傍でウグイスの鳴く声を耳にしました。春が近付いているのを、肌で感じながら生活しています。暖かくなったら、近所にある多摩川のサイクリングコースを主人とサイクリングしようか、などと考えています。
先生も、どうぞご自愛下さいませ。それでは、また。
* お舅さんとお嫁さんとが弓道の腕前を生き生きと仲良くきそっているなんて、なんと羨ましい。なんと微笑ましい。なんと健康なことだろう。専業主婦ではない、東工大で博士になり大学の先生である。清々しい人であった、むかしから。嬉しい便り。
* 小闇@TOKYOの今朝の「私語」も、見当違いかも知れないが、新しい湖の本を手にしての述懐であるかも知れない。卒業して、数年ないし以上。一人一人に共有されていそうなトコロを巧みに書いている、のかも知れない。
* 記憶の栞 2003.3.17
ついさっきまでのことなのに、とても昔のことのような気がする。
良い小説の読後感と似ている。全編は茫漠としているが、栞をおいたページのシーンや言葉は一文字一文字を覚えている。全体としては途切れ途切れで、ディテールはリアル。夢だったのではないかと思うほどに。
カーテンコール、改札、終電。古い地図、空き店舗、学割、グレーと赤のリバーシル、あるいは茶色とマスタードの。冷蔵庫の杏仁豆腐、水の入ったグラスと錠剤。あたたかい静寂。昔の写真、ピアスの穴。光、凍った湖、造り酒屋、コーヒー。行列、新しい地図、胃薬。暗闇に点在するテールランプ雨に煙って。目薬。
それでも返す返す記憶を洗い、反復し、自分の居場所を確かめる。
起動。メールのチェック。電話をメモに。駅ビルのパン、自動販売機のグレープフルーツジュース。メールの返事、あれやこれや。打ち合わせ。ぐっとこらえる、我慢する。何枚かのA4用紙。カラーペン。自分ひとりでできることできないこと。メモ出し。電話。二進も三進も行かないけれど。明日の地図。呼び出される。言葉の強さと誰かを信じたいと思う気持ちの弱さ。
書き出しても書き出しても、部分でしかない。たくさんのことがあって、そのすべてを事実として受け入れるだけの容量がない。遠い記憶は近いそれによって上書きされる。消えはしないが薄れる。
忘れてゆくことが、今、怖い。 小闇
* 忘れていっていいのだと思う。忘れたものが、また別の表情を湛えて蘇ってきたときに、新たな自分との対話が生まれる。だいじなことは、げんきであること。幸福を追わぬも卑怯のひとつ、と。
2003 3・18 18
* 小闇@バルセロナの「南蛮(イスパニア)言葉」が面白かった。
echar una cana al aire / エチャール ウナ カナ アル アイレ
「白髪(cana)を空へ向けて捨てる(echar)」と、どんな気分がするだろう。年を忘れて、若返った気分? さて、その時にすることと言えば、、、「(異性と)羽目をはずして遊ぶ」。これがこの句の意味になるが、若者には使われないらしい、……と。
なかなか、どうしてハメは外せないもんです。それにわたしは「白髪を空へ向けて捨てたい」ほどは白髪を早くから気にしてこなかった。女の人は、決してそうでないらしい。バルセロナの小闇も、白髪にはショックを隠せないと書いている。
* そよ風が運ぶ
先日、大宇陀町のいい最中にであいました。
昨日、TVで「第三の男」を見ました。
そして、今日、ご本が届きました。
どれも、材料が吟味され、手間も暇もかけた餡が、たっぷりと大きな皮に詰まっていて、あっさりとして、しっかり甘くて、それでいてくどくなくて、後味が良いの。
ペンが、何かとお忙しそう、と案じておりました。ご本嬉しくいただきました。
彼岸というのに、肌寒い日が続きます。お疲れの出ませんよう、ご自愛ください。これからも、いいお仕事ができますこと、心よりお祈りいたします。
2003 3・18 18
* 今夜も冷え込んできました。(3月も後半なのに。。。)ご健康でいらっしゃいますことを いつもお祈りしています。今日 ”湖の本”が届きました。ありがとうございました。注文することを忘れていた私は少し不安。「私にも送っていただけるだろうか?」と。
”届いたー!” ほっとしました。
つい二日前 恒例の総会茶会を済ませたばかり。立礼席の席主を何とか切り抜け。一息も二息もついて。これで遠ざかっていた「湖の本」もまた読めます。
『丹波:もらひ子:早春』の中の”秀樹くん”に、十分に楽しませていただきました。
南東北の田舎育ちの私には”学校ほど面白いところ”はなかったのでした。どんなに熱が出ても はしかにかかっても 学校へ行きたくて泣いていた自分を思い出してみたり。一学年240名の名前も顔も記憶の中にあり。よく駆け回って遊んだ昔と重ねて読みました。
が ”秀樹くん”には何もかも敵いませぬ。”秀樹くん”より8~9才ほど遅く生まれていても。交通も情報手段の乏しいあのころ。「京都や丹波」と「東北」の”子どもたちの遊び”にさほどの違いのなかったことに驚かされ。うれしくもあり。冬は陽だまりで。暑い夏は海・川で。どんなところも子どもたちの遊び場でした。そして今 わが家の近くの小さな公園にさえ「遊ぶ子ども」の一人といないを複雑な思いで見ている自分。
京都は憧れ。何度でも訪ねて見たい街。そんなこともあってか ぐいぐい引き込まれて。”秀樹くん”の中学時代の頃からは 明らかに「京都」と「東北」は異なり始めていくのです。文化・歴史の違いでしょうか。
ひとり言を書いてしまいました。どうぞ ご自愛くださいますように。 愛知県
* ありがたい。
ヒデキ でなく、フデキな少年だった、わたしは。どう不出来であろうともそれなりの過去が堆積されてある。それも我が命のあるあいだのことで、やがて誰一人の記憶にも残りはすまいし、ハカナイとも今のわたしは思わない。すべて自己満足に過ぎぬとも苦笑される。せめて苦笑でなく、からりとした哄笑のなかで終えて行ければと思うけれど。懐かしい昔がある。帰りたいか。いや。帰れないからこそ懐かしいのである。やはり「今・此処」をジタバタと見苦しく生きて行くのがいいと、したい。
* 『東工大「作家」教授の幸福』、早速読ませていただきました。
あまりの可笑しさに吸い込まれて、一気に読んでしまいました。工学部「文学」教授に就任の経緯が手にとるようにわかりました。S君の「信じられない話」には吃驚仰天し、「恥の上塗り」には、失礼ながら笑いを堪えることができませんでした。
また虫食いの字を当てはめる問題も楽しませていただきました。単行本100冊分におよぶ学生諸君のレポートを読むのは、さぞや大変であったと思われます。
理系の学生は、文芸に疎いと一般には思われていますが、そんなこともなく、この本を読めば二十歳前後の若者の皆同じように悩み寂しいということが、よく分かります。私も、講師をしている女子大で、知識ばかり詰めこんでいましたが、来月からはもっと話を聞いてやらねばと反省しきりです。
この本に書かれたことは授業の「導入部分」に過ぎないのでしょうが、教授室を開放し学生との交流が盛んであったこと、そして現在もそれの続いていることは、すばらしくも、羨ましくもあります。
楽しく読ませていただきました。ありがとうございます。
東京工業大学の略称が、東京工大であったり東工大であったりしましたが、「東工大」に決まったようです。
さて、大岡山の桜も、もうすぐですね。お楽しみ下さい。 兵庫県
* 東工大卒の、わたしの学生諸君よりも、大先輩。
2003 3・19 18
* ご本いただきました。
三日ほど、茨城県北西部の、栃木県と境を接している山村に行っていました。
古文書が読めるようになりたくて、筑波女子大学で一年間、その方面の勉強をしてきたのですが、その研修旅行というのに参加したのです。
山地を西から東に流れる那珂川に沿うた、わずかな東西に細長い平地(といってもどこをあるいても坂道ばかりでした)の村に残っていた文書の一つで、享保年間に藩から出された村の改革案。それを、三月がかりで読みました。
これがたいへんなもので、そこに住む農民たちのためのものではなく、いかにしてこの寒村から年貢を多く取り立てるかという視点に立っての、臆面ないとしか言いようのないものでした。農事に精出せというのはともかく、日常の生活にまで立ち入って、何時に起きよ、酒は飲むな、質素・倹約をむねとすべし。婚礼や葬式に人を呼ぶのはどの範囲まで、料理はしかじかと、事こまかに規定しているのです。年貢は何をおいても収めよ、収められぬのは心がけよろしからざるゆえ。そういう心がけよろしからざるは、つづまりは子や妻を売る羽目になる等々。
その、かつて苛酷な藩政にあえいだ村の実地見学ということだったのですが、そこは、たいへんな過疎の村になっていました。人口五千人そこそこ、小学生は五十人そこそこ。道で行き交う人もまばらで、その多くは年長けたひとたちでした。
数少ない家々の大方は、かなりりっぱな、それも比較的新しくつくられたもののようで、一見、のどかで裕福な村のように見えますが、手入れのゆきとどかぬ畠や、住むひとがいなくなって固く閉ざされたままの家が目につきました。
建てられてから四百年経つという家を見せてもらいました。どこが、と、おもうほど、戸や窓はみんなアルミサッシ、天井や壁は合板の板張りになっていました。所々に残されている黒光する板戸や柱、手斧で削った太い梁などに、その古さがうかがわれるといった状態でした。
子供はみんな都会に出て行き、独りでこの家に住んでいる八十歳の女あるじは、いい建物をだいなしにしたと言われるけれど、こうしなければ住んで行かれない。天狗党探索のために槍であっちこっち突かれた天井の穴からは、天井裏のゴミが落ちてくるけれど、修繕するには莫大な費用がかかる。安物の合板を張ったけれど、けっこうな出費となった、などと言っていました。
「わたしといっしょにこの建物もなくなるでしょう」と、べつにさびしそうでもなく、さばさばと言われましたが、古くて大きな建物を、もてあぐむところもあったのではないかとおもいました。
封建時代には領主の飽くなき収奪に遭うて疲弊し、いままた、過疎の波に洗われて少しづつ、崩壊してゆく村。日本の処々方々にある村の姿なのでしょう。
その過疎の村に、山を崩してダムが造られはじめていました。村のひとたちは、観光で村がにぎわうと期待し、工事車のために谷にいくつか架けられた橋を、便利になると、とてもよろこんでいました。
たぶん、どこにでもある安手の観光地が出現し、ほどなく飽かれることになるのでしょう。便利になるといっても、車が動かせるひとにとっての便利でしかない――。
うれしそうにしているご老人には言えないことでしたけれど、さびしい想像をしてしまいました。
帰ってきましたら、ご本が届いていました。ありがとうございます。「一樹百穫」、一樹は見えてきますが、「百穫」は見えて来ません。不敏なことでして。
旅のあいだ見なかった新聞にあった、ブッシュが48時間後に戦争を始めると宣言したという大見出しに、息をのみました。
9.11は、ブッシュにとって、またとない奇貨であったという気がいたします。いつのまにかイラクを攻撃する権利があるような具合にもっていって。
「彼の国は悪だ」と言われたら最後、大国の蹂躙のままということになるとは、おそろしいことになりました。先生のおっしゃるように『「現実の死傷」の予想』が、今や予想でなくなってしまいました。
この世にある難病、たとえばエイズやガンなどは治せなくても、人を多く、しかも的確に殺せる武器はどんどん発達?し、造られています。わたくしがそうした難病に罹って死ぬ確率よりも、最新型の爆弾か化学兵器で殺される確率のほうが高くなりました。
何ということもなく、
しづかなるあかつきごとにみわたせばまだふかきよのゆめぞかなしき
が、くちずさまれます。
あしたは、サリン事件の日。あのとき、わたくしは歌舞伎座へ昼の部を観にゆこうとして、はっきりした説明もなく地下鉄が止められているのをいぶかしみ、銀座の空をヘリコプターが幾機となく飛び交うているのを、いぶかしみながら、歌舞伎座に急いでいました。
あれは、この世が壊れてゆく、その初めだったのでしょうか。 香 魚
* 一日の終わりにこういう佳いメールをもらった。興深く共感多く、そしてまたブッシュ的な現世の淵に引き込まれる悲しみも覚えた。
2003 3・19 18
* とうとう、戦争が始まってしまいました。
独裁者の存在はゆるされるものではありませんが、われこそ「正義」と思いあがる独善も、他国を戦乱の巷と化して省みない神経の荒さも、これまた、ゆるされるものではありません。
人間ひとりびとり――自国の兵士も含めて――が、ブッシュには見えていないのでしょう。わらったり泣いたり、本を読んだり、お菓子を焼いたり、恋人と抱きあったりしている生きた人間が。
彼の地は、いま、砂嵐の季節とか。砂嵐に天も地も暗い荒野に、わたしも立っている。火薬のにほひ、血のにほひが闇の彼方からただようてくる――。
常に何処かに火のにほひするこの星に水打つごときこほろぎのこゑ 齋藤 史
二〇〇〇年の年頭に発表されたうたです。 筑波
* 斎藤史のなんて佳い歌であろう。この下の句をわたしはいつも胸の一点に抱いている。
2003 3・20 18
* 明日はお彼岸の中日で、お墓参りです。娘と一緒に、恒例の牡丹餅(春はこう呼びますね。猪の形に似ていて牡丹が語源とか)を、沢山作りました。お一つどうぞ召し上がれ。
2003 3・20 18
* 現役学生クンの投稿に。
* 小説、ゆっくり読みました。これは、言わねばならんことが、山ほどある。わたしが文藝編集者の場にいて投稿されてきたこの作品をみれば、純文学としても読み物としても、即座に「没」です。その理由を挙げると、つまり山ほど有る。ま、いきなりサマになるということは、難しいのだから落胆しなくていいが、自信作の積もりだったら冷たい水で顔を洗った方がよろしい。
書かれてあること、これまた学生たちの書く小説では山ほど有る、ごく普通のありふれた中身です。それは構わない、それならそれなりの魅力を別のことで発揮すればいい。一つは、文体と文章で。一つは、展開の妙で。一つは生
き生きとした情景や状況の表現で。一つは、読後に残る深い共感と余韻で。つまり作者ならではのモチーフで。そして、佳い題で。
その、どの一つも及第していない。文章は無数に推敲の余地がある。
展開は平凡な経時的報告で、小説としてはいちばんのポイントになる「合い鍵拒絶」の心理的生活的な面はなにも分からない、ただ彼が二度と来なくなったという意志表示だけ。
これは、「あたし」という女の側からしかモノが書けない不自由さにより、彼の内心や行為に筆が使えないのだから、彼が喋らぬ以上は当然の結果です。ここに語りの視点・立場という問題が出てくる。一人称の物語は、意外に難しいのです。これは物語なのです、作者が神の立場には立っていない。「あたし」の語りだけで終始してしかも面白く深くというのなら、もっと強烈な把握が必要です。
冒頭に「列車」とある。「電車」ではない。アパートが車内から見えて、駅にも近いとある。例えば環状線内的な都会なのか、アパートのほかには田園的風景の拡がる郊外電車の眺めなのか、新幹線列車の沿線なのか。一例が、こういうトコロも把握していないか表現されていないか、「列車」一語の語感に、責任が取れていない。その他、此処でほんの半行一行あると情景が具体化して物語が生きるのにという描写が、たくさん落ちている。
なにより、短編小説は、作者の動機からなにが感銘として、或いは問題として投げかけられてくるか、それはモノゴト的具体でも、カンジ的気分でもいいが、つまり何を書いたの、ということ。むろん演説の必要もなく、つまりはそう
いうモノの何も無いことの表現でもいいけれど、作品であるからは、話が面白かった、話の筋はとくべつ面白くないけど作者の書き方に胸打つモノは有る、読んで良かった、といったどれかが読者に届いて欲しい。上手だなというだけ
でもいい。
このカタカナの題は、いまどきありふれて新鮮でないから、読み物としても惹かれないし、純文学にもなりにくい題です。題は、頭のはげるほど思案します、書き手は。大事です。
どっちかと言うと、これはとてもエンタテイメントでなく、私小説的独白です。それならそれで文学としての藝が大切。
最後に重いこと、一つ。男性作者が「あたし」で書くには、「女」が見えていない。それはまずいきなりは無理です。男が「男」として物語ることを避けず、そこで表現の技術を磨く方がいいかも。
私は、私小説ふうにフィクションを書くことで作品にある種の安定したリアリティを確保したかった、書きかけた頃。だから妻子の名前は実名をあえて用い、立場の揺れを防ぎました。妻子は迷惑したけれど。
未熟な習作時代は、自分からあまりかけ離れると、ウソもまともに書けない。女の「あたし」にしてみたら、うまくフィクションになれる、という簡単なモノではないからです。新潮の昔の編集長は、筆名で書くことすら作品を弱くすると私に禁じました。ずばっとハダカになったと見せて思い切った別次元を創り出せということです。人からは、よくもあそこまでホントのことをと、言われるほどのウソが書けるには、それなりの仕掛けと覚悟が要るのです。「あたし」へ逸れて斜に構えると、「あたし」の「あたし」らしさの表現にふりまわされ、他がみんなお留守になる。この作品はそうなっています。そしてごくありふれた普通の若者の普通の付き合いと普通の別れとになっている。これでは感銘は残らない。真っ向から自分(の何か)を彫り込むように。私小説を書けという意味ではない。
というわけで、これはかなりマジメに胸におさめて欲しいし、落胆する必要は少しもない。いきなりは書けない。
「付き合い」小説でもいいが、それは「恋愛」小説ではない。新世紀の恋愛小説が、どういう傑作をもたらすか、それを読んでから死にたいモノです。たとえばの話。
2003 3・20 18
* 御本届きました。ありがとうございました。
今日は用事で上野に出かけ、途中「米英、イラク攻撃」の号外を手渡されて、暗い気分で帰ったところ、郵便受けに御本を見つけました。以前新聞で東工大での授業の記事を見て、「こんな授業を受けたいな」と思ったことを想い出しました。明日から楽しみです。
かなり前ですが、平凡社で出された「秦恒平の百人一首」を本屋さんに注文したところ、絶版といわれてそのまま諦めていました。他に方法がありましたらお教えください。
「最後の弁護人」が終わってしまいましたね。とても楽しみました。今風に言うと、私、推理劇オタクなのです。本も好きです。見るだけの側の人間として、創る側の方の才能に感心し、憧れます。
「最後の弁護人」でひとつだけ気になったのはスタッフ・キャストの名前が見にくかったこと、私が親だったら怒りたくなります。
もう一度お礼申し上げます。 市川市
* 幸いに「最後の弁護人」は総じて好評であった。その他の連続ドラマが、たいてい根無し草のようにふわふわした筋書き本位のツクリモノなのに比して、画面の質(クオリティ)本位に「表現」に徹したのがよく、一つの「作品」としてだんだんに落ち着いて仕上がっていった。文学的に謂えば、推敲が利いた。「ムダを省いてテンポを的確に、独特の映像化文法をもつこと」とよく本人に話してきたのが、それなりの成果をもった初の仕事になった。建日子のホームページで、落ち着いて「総括と反省」をしていたが、その語調も、ようやくミーハー的未熟を抜け出そうとしている。観衆におもねったような、意を迎えた客寄せトークばかりしていたが、三十半ばの「作家」の言葉とは読みづらかった。自分で自分と静かに語り合うのを、聞く人は聴き、読む人は読む。それでいいのではないか。彼が自分で自分を意識して「作家」と書いていたのを、はじめて読んだと思う。そこまで来れているかどうかは別として、自覚は必要であった。「どうせ」型の言い訳はもう通らない。
落ち着いて、マジメに。それだけで仕事はずいぶん良くなる。次の飛躍へはまたその時々の覚悟が出来てくるものだ、アセル必要はない。
2003 3・21 18
* 布谷君来訪、午後いっぱいかけて親機にプリンタを接続稼働可能に、また子機のCドライブを通して部分的な不具合に対しOSという「命」を吹き込んでくれた。Cドライブが刷新されて失ったのは、ニフティサーブぐらいもので、主要なDドライブのそのままが生き残った。外付けもスキャナも新たに子機に設定した。おかげで新しい機械を買いに秋葉原まで行かずに済んだ。夕飯に一緒に出たかったが、布谷君は秋葉原で買い物したいと、帰っていった。休みの日に遠方まで、有り難いことであった。ほんとに有り難いことである。
2003 3・21 18
* 50代の秦さんと、ティーンの学生さんは、陽光輝く春の日射しか、熱い炎のよう。まるでカツレツか天プラ。雀は、胃の辺りを押さえ、前屈みに心身ともに参りました。
秋が好き、夕日が好き、水にひかれる雀が、調子を崩して、今はただもうその熱に圧倒され、いつよりも読めず、進めず。ご本を閉じてしまいました。
いまは「もらひ子」の途中。しばらくほかのご本を道草(菜食)します。
2003 3・23 18
* 千葉の卒業生が、地元の清酒を二本贈ってきてくれた。絞る前の、自然に雫する酒を吟醸しており、フレッシュそのもの。くうっ、と、酔う。ありがとう。
2003 3・24 18
* 待っていた「私語」がバルセロナから聞こえてきた。
* カタロニア国 2003.03.23
戦争が始まってしまった。この日の来るのを予測しなかった人は、いなかったかもしれない。個人の無力さを痛感し、諦めに似た思いを抱いている人々も、どれだけいるだろう。それでも、デモに繰り出すバルセロナ民衆の波は途切れていない。褪せないエネルギーに、正直、私は驚かされた。
わずか27年前、スペインは40年間続いたフランコ独裁政治に幕を閉じた。
「(戦争反対などと言っている此処の人間は)独裁者の国に住んだことがないから、民主主義がどうってことかわかってない。」と批判した人もいたが、とんでもない、彼らの多くが独裁政治下を生きてきた。この戦争にまつわる出来事も、彼らの記憶に「あの時代」を強く呼び起こさせている気がする。
フランコ時代、バルセロナを中心とした「カタロニア」地方は、彼らの言語「カタロニア語」を禁じられ、首都マドリッドの反逆児として、厳しい制裁を加えられ続けた。4分の1世紀を経て、その歴史は忘れ去られるどころか、カタロニアナショナリズムに姿を替えて育っている。
今その「カタロニア州」では、スペイン政府与党と手を組むことの多い州政府与党「保守党」まで、戦争に反対を表明している。カタロニアが恥知らずのスペイン傘下にいるなんてとんでもない、という思いと同時に、人々は新たなアスナールという独裁者到来に反発している。
反戦を訴える人々の署名を見たら分かる。「バルセロナ」に続く国名に、「カタロニア」と書かれているものがどれほど多いことか。
あるカタロニア人が呟いていた。あの独裁時代、我ら市民を憐れんで、我々を独裁政治から「解放」しようとした無法な外国がなくてよかった、と。
* この数日前、フランスに発したらしい反戦のメッセージに、私の所へとどくまてに四百人近くが署名していたが、気付いた人も多かろう、何人も何人ものスペインの人たちが、「スペイン」という国名の代わりに「カタロニア」と書き込んでいたのを。バルセロナの「小闇」がそれに触れて一言「私語」無くてはなるまいにと期待していた。
2003 3・24 18
* こんばんは、 **です。春うららの一日でした。気分がうきうきしてきますね。
どういたしまして。千葉のお酒第二弾も喜んで頂いてうれしいです。
「福祝」とべつの、もう一本「上総掘り」は個性的な濃厚辛口です。かといって、きつい味がするわけではないです。どちらの方が先生の好みでしたでしょうか。
上総掘りは深い井戸を掘るための技術で、良いお酒の源になっているそうです。干ばつの多い外国にも技術輸出されているそうです。大型機械を使わず掘るところが良いみたいです。
またご連絡致します。
* 昨日の内に、少しずつ少しずつと言いつつ、ほぼ「福祝」を一本飲んでしまった。血糖値を案じたが、今朝、111は、理想値。「上総掘り」とはなにごとならんと思っていた。東工大の卒業生であるなあ。感謝。京都から帰って、ゆっくり戴こう。
2003 3・25 18
* 三原誠の娘です。
先程「日本ペンクラブ」のサイトにて父の作品をアップして頂いているのを拝見いたしました。母から秦さまが私が生まれる前の父の作品をアップしようとしてくださっているということは伺っており、毎日チェックしていたのです。
母はもちろんPCはからっきし・・・ですが私はネットも毎日見ているのでここのところ、どきどきしながらPCに向かっていました。
秦さまのお気持ちに深く感謝いたします。
今回の戦争については私も人生初めて「?」という疑問符が拭いきれず自分なりの方法で意思表示をしています。
父は生前「お前の子供の世代は知らんが、お前が生きている内には戦争があって欲しくない」と、自分勝手な(?)言葉を口にしていました。今、残念ながら私も、父が目にすることもなかった私の子供も、戦争を目の当たりにする状況になってしまいました。
そんな中でこの父の書籍になっていない作品を「日本ペンクラブ」のwebにアップして頂き、広く会ったこともない人に読んでもらえる機会を与えてくださったことは、今の私にとって生涯忘れられない事となるでしょう。これは決して父の名を売るとか作品としてとらえて欲しい・・・という感覚とは異なったもので、亡くなった父と生きている私を繋ぐ一本の線のような気がします。最後まで精一杯生きたいと願い最善の治療を受けながら死んだ父の思いと、戦争によって不意に余儀なくされる他人による突然の「死」を思うとき、何か、出来ないの? というもどかしい私の思いを繋げてくれる線です。
見た人、読んだ人がどう思うかは分からないし個人にゆだねたいと思いますが、遺族としては「こんな感情があったんだよ」と伝えられる場が今日あることを、亡くなった父にまっ先に報告したい気持ちでいっぱいです。まさかこんな形で自分の書いたのもがPC! を通じてあらわになるとは夢にも思っていないでしょう。
差し支えなければ個人的にこのサイトリンクをさせて頂きたいと思います。私は自分自身のHPがあるわけではないのですが、あくまで個人的に。
なんだか興奮して言いたいことだけ申し上げてしまいましたが、母はダメでも私は一応アドレスがありますので、上記の件ご承諾頂ければと思います。
気温差の激しい季節柄、お身体ご自愛ください。
* よかった。どうぞ、よろしいように。「ペン電子文藝館」はいかようにも利用され吹聴して頂けると有り難い。この作品は校正した同僚委員からもたいへん好評であった。少しでも誤植のない物にしたいと、わたしの気持ではまだ読み直している。
* 三原誠「たたかい」を読みました。歩調取レーで通り過ぎて行く桜木二等兵サンの頷いた顔とうしろ姿が目に見えます。まだ、涙がとまりません。この一編の「招待」が叶ったこと、逢えたことに感謝いたします。ありがとうございました。
『東工大「作家」教授の幸福』も、毎日ポケットに入れて出かけています。幸福になるということは、えらいことだなあと、たいへんなことだなあと、それをのり越えた人がなれるのかなあと、少しづつ、だいじに読んでおります。もしおじさんもこの教室の隅にしゃがんでいたら、やはり「出席票」の裏に何か書きたくなったと思います。出そうかだすまいかまよいながら、幸福を追うひまはなかった人の病は なんて。
秦さんの教室は、今でも、維摩の部屋のような、ほんとに一樹千穫~萬穫ですね。一樹蔭一河流。感謝しております。
どうも、かなりの速さで呆けていってるような気がしてなりませんが、頑張ってはいます。
春遅し今年の桜間に合わず ゆうべも「人一生の卒業証書」を書いております。くれぐれもお大切に。 千葉県
* どんな卒業証書だろう、読ませて貰いたい。
* 留守に、いいメールが来ていて。よかった。
2003 3・26 18
* 心に残る言葉 2003.03.25 エレベーターから教授室に続く薄暗い廊下を、何度往復しただろう。灯りが点っていたから、その人がいるのは分かっていた。息を潜めて扉に耳を寄せる。胸の前まで上げた拳を扉すれすれに下してみる。その繰り返し。中の人は、その気配を感じてもおかしくはなかった。近づいてくる足音があれば、エレベータ脇のトイレに避難。深呼吸するにはふさわしくない臭いがした。
その日は、そのまま帰った。
ノックしたのは、その2週間後だっただろうか。その人は、私を静かに迎え入れてくれた。朝な夕な、独り語りかけてきた胸の内も、その人を前にすれば何一つ話せなかった。いや、もう話す必要は感じなかった。
私が悩みを抱えてやってきたことは、お分かりだったのだろう。その人は、不意にこう言った。「みんな、自分が一番大変だと思っているのですよ。」
言われ方、言われる人によっては、ひどく憤慨したかもしれなかった。にもかかわらず、その人から発せられたその言葉は、私にとても静かに入ってきた。否定の色も肯定の響きもなかったからだろうか。不思議だった。
あれ以来、苦しいこと辛いことがある度に、この言葉を思い出す。人にはそれぞれ、その人の大変なことがある。自分より下を見て元気づけられるとか、共感を覚えるとか言うのではない。この言葉を思い出すと、不思議に、大変と思っていたことが、それほど大変ではなく見えてくる。 バルセロナ
* この「教授」がわたしであったと、ハキとは言えない。こういう位置にわたしの研究室はあったけれど、大なり小なり広い学内では、あちこちで似たようなものだったろう。ゴマンと教授はいたのである。
ここに書かれていることは、たとえ、どの教授がそう言ったにしても、「言葉そのまま」では通用しない。ものは言いようで、落胆もさせるし険悪にも成る。きわどいところだ。が、「みんな、自分が一番大変だと思っているのですよ」というところは、誰にも有る。悪いのではない、あたりまえで、無理ないとすら言えること。だからこの教授の「物言い」が、時に小さからぬ意味をもつ。卵の殻を、雛は内から親は外からつついてピタッと合うと、無事に殻がカラリと割れる。難漢字が一字有るので書けないが、「ソッ啄同機」の会得である。狙ってできることではない、が、ちいさな親切心があればそれだけでも可能になる。
人が人に親切であるなんて何でも無いようで、あまり、そうではないものだ。道を譲るぐらい出来ても、顔を見てものを言うのに不自然に親切がれば、もうそれでオシマイなのである、容易とは思われない。今はカタロニアの心熱き女よ、えらいことを覚えているなあ。
* 今度の本はわざとつけた題であるが、何とも。中を読んでくれる人は、すぐさまその意味が受け取れるだろう、が、読まずに題だけみてウヘエッと投げ出した人もいたことと思う。「東工大『作家』教授の幸福」と来たもんだ。この幸福は、だが、甘いものではなかったと思う、学生諸君には。生涯でこれほど露骨に訊かれたくないことを聞かれ続けた日々は少ないだろうと思う。冗談にして逃げるわけに行かない聞かれようで、聞かれたままに即座に「書く」というのは、一種の拷問であったろうと思う。上司や親では聞けない。わたしだから聞けたのだと思っている。
*故郷の「山」「川」の名前をあげ、今「故郷」とは何かを語れ。 *自身の「名前」について語れ。 *身にこたえて友人から受けた批評の一言を語れ。 *身にしみて学校(大学は除く)の先生に言われた言葉を思い出せ。 *「別れ」体験を語れ。 *「父」へ。 *何なんだ、親子って。 *今、真実、何を愛しているか。 *何を以て、真実、今、自己表現しているか。 *寂しいか。 *今、心の支えは在るか。 *真実、畏れるものは。 *不思議を受け容れるか。 *秘密をもつか。 *なぜ嘘をつくか。 *もう一人の自分へ。 *「位」の熟語一語を挙げて所感を。 *「式」の熟語一語を挙げて所感を。 *仮面を外すとき。 *親に頼るか、子を頼るか。 *結婚と同棲 *死刑・脳死・自殺を重く思う順にし所感を述べよ。 *自由とは。 *(漱石作『こゝろ』の先生に倣って)「恋は( ) ( )である。だが( ) ( )である」 *漠然とした不安について述べよ。 *人間のタイプを強いて一対(例・ハムレットとドンキホーテ)の語で示し、所感を述べよ。 *何が恥かしいか。 *「日本」を示すと思う鍵漢字を三字挙げよ。 *何に嫉妬するか。 *セックスについて述べよ。 *絶対なものごとを挙げよ。 *家の墓および墓参りについて述べよ。 *わけて逢いたい「 」先生。 *科学分野に「国宝」が在るか。 *清貧への所感を。 *「性」の重み。 *いわゆる「不倫」愛に所感を。 *「参ったなあ」と思ったこと。 *自身を批評し、試みに、強いて百点法で自己採点せよ。 *「挨拶」について。 *今、政治に対し発言せよ。 *東工大の「一般教育」を語れ。 *心に残っている「損と得」を語れ。 *他を責める我を語れ。 *報復したことがあるか。 *仮面をかぶる時は。 *結婚とは学問分野に譬えれば「 」学か。 *一生を一学年度と譬えた場合、あなたは現に何学期の何月何日頃を今生きているか。 *「脳死」「死刑」「自殺」の重みに順位をつけ、所感を述べよ。 *国を誇りに思う時は。 *嬉し涙・悔し涙を流した記憶を語れ。 *「心臓」と「頭脳」のどちらI「こころ」とふりがなせよ。何故か。また東工大の他の学生がどう選ぶか、比率で推測せよ。 *「心」とは何か。 *何から自由になりたいか。何から自由になれずにいるか。 *生かされた後悔、生かせていない後悔。 *ちょっと「面白い話」を聴かせよ。 *話せるヤツ、または、因縁のライバル。 *今「思う」ことを書け。 *いま「気になる」ことを書け。 *疑心暗鬼との闘い方。 *あなたは信頼されているか。 *あなた自身の「原点」に自覚が有るか。 *自分の「顔」が見えているか。 *なぜ嫉妬するか。なにに嫉妬するか。 *兵役の義務化と私。 *何が楽しみか。 *心残りでいる、もの・こと・人。 *Realityの訳語を一つだけ挙げよ。何によって・何を以て、感受しているか。 *「童貞」「処女」なる観念の重みを評価せよ。 *自分に誠実とはどういうことか。あなたは誠実か。 *何があなたには「美しい」か。 *何でもいい、上手に「嘘」を書いてみよ。 *あなたの「去年今年貫く棒の如きもの」を書け。 *「生まれる=was born」根源の受け身の意義を問う。 *井上靖の詩『別離』によって、「間に合ってよかった」という、出会いと別れの運命を問う。 *「魔」とは何か。 *「チエ」に漢字を宛てよ、何故か。 *「風」の熟語を五つ選び、風を考えよ。 *「死後」を問う。 *「絶対」を問う。 *「祈り」を問う。 *生きているだから逃げては卑怯とぞ( )( )を追わぬも卑怯のひとつ この短歌の虫食いに漢字の熟語を補い、所感を述べよ。 *上の短歌に補われた多くの熟語回答例から、もう一度選び直し、所感を述べよ。 *「劫初より作りいとなむ( )堂にわれも黄金の釘一つ打つ」という短歌に一字を補い、その「( )堂」とは何か。「黄金の釘」とは何かを語れ。 *落語「粗忽長屋」を聴かせて、即、「自分」とは何か。 *「春」「秋」の風情を優劣せよ。 *今、何が、楽しいか。 *「血」について語れ。 *集中力・想像力・包容力・魅力。自身に自信ある順にならべ所感を記せ。 *「事実」とは何か。信じるか。 *「絵空事」は否認するか、容認するか。 *「幸福」は人生の目的になるか。 *「惜身命」と「不惜身命」のどちらに共感するか。何故か。 *毎時間読んでいる井上靖散文詩の特色を三か条で記せ。 *五年後、新世紀の己れを語れ。 *今期言い残したことを書け。 *公園で撃たれし蛇の無( )味さよ この俳句の虫食いを補い、その解釈を示せ。 *命は地球より重いか。 *命にかえて守るもの、有るか。 *喪った自信、獲た自信。 *仮面と素顔の関連を語れ。 *漱石作『こゝろ』で「先生」自殺のとき、先生、奥さん、私の年齢を挙げよ。 *漱石作『こゝろ』で「先生」自殺後の、未亡人と私との人間関係を推定せよ。 *目から鱗の落ちたこと。 *「私」とは何か。 *あなたは卑怯か。 *自分が自分であることを、どう確認しているか。 *「情け」とはどういうものか。風情・同情・情熱のどれを、より大事な情けだと思うか。何故か。 *「死ぬ」「死なれる」重みを不等記号で結べ。何故か。 *「本」を読む、とはどういうことか。 *漱石の「恋は罪悪、だが神聖」になぞらえて「金は( )、だが( )」である。何故か。 *あなたにとって「大人の判断」とは。 *踏絵を、踏むか。何故か。 *人の「品」とは、どんな価値か。あなたに備わっているか。 *「自立」を語れ。 *むしって捨てたいほどの「逆鱗」があるか。 *性生活の、生活上健康な程度を、人生(10)に対し、どの水準に設定(予定・願望)したいか。何故か。 *「未清算の過去」があるか、どうするのか。 *「神」は、(人間に)必要か。 *罰は、当たるか。 *あなたの価値観とは、つまり、どういうものか。信頼しているか。 *いい意味の、男の色気・女の色気を、どうとらえているか。 *二十一世紀は「 」の世紀か。何故か。 *みじかびのきゃぶりきとればすぎちょびれすぎかきすらのはっぱふみふみ このコマーシャル短歌の宣伝している商品を推定せよ。 *秦さんに今期言い残したことを書け。 *「死後」は必要か。 *命とは。命は地球より重いか。 *運命天命未知不可知を「数」と呼び、その「数」を見出す・拓く方法や意思を「算」ないし「易」と呼んだ東洋的真意を推測せよ。 *迷信の意義、迷信とのあなたの付き合い方は。 *「情け」とは。「情けが仇」「情けは人の為ならず」「情け無用」のどの情けを重く見ているか。 *「縁」とは。 *「不自然」は活かせるか。無価値か。 *「工」一字を考えよ。 *「花」の熟語を五つと、好ましき「花」を語れ。 *「( )品あり岩波文庫『阿部一族』」の上句の虫食いに一字を補い、かつ所見を述べよ。 *仮想敵を語れ。 *「父」とは。 *虚勢・嫉妬・高慢・猜疑・卑屈 自身の蝕まれていると思う順番に並べ替え、思いを述べよ。 *「常」一字を英語一語に翻訳し、日本語「常」の熟語を幾つか添えて、自己観照せよ。 *人生は「旅」であろうか。 *第一原因として「神」を信ずるか。 *証拠・証明が無ければ信じないか。無くても信じられるとすれば何故か。 *直観は頼むに足るか。勘・直感と直観とは同じか。例を添えて述べよ。 *日本のいわゆる「道」を考えよ。 *親は子を育ててきたと言うけれど( )手に赤い畑のトマト一首の虫食いに一字を補い、作者(俵万智)の親子観を批評せよ。 *二十一世紀を語れ。 *最期に、秦さんに言い残したことを。
* 四年間。抜けているのも、年度により重ねて問うたのも多かろう。なんだ、くだらない、答えられるか、と思われては話にならなかった。クソッ、こんなこと聞きやがって、書いてやらあと反撥してでも思ってもらう必要があった。いい挑発。それが教室から失せていては熱は発しないだろう、双方に。
2003 3・27 18
* 闇を読み、つい筆をとります。
東工大の学生は垣間見てものびのびしています。かぎられた学生かもしれませんが。
秦教授の授業のアイサツを求める「題」の豪華絢爛たること。「題」を読むだけで学生の驚きと、自分を見つめる姿がほうふつとします。
弁慶が「脇役であった」ことを知りました。
義経の隠れし御堂や櫻哉 川崎市
2003 3・28 18
* 一気に春爛漫になって参りました。
今回の湖の本『東工大「作家」教授の幸福』、楽しく読んでいます。自分が理系人間なので、学生さんの気持ちに共感できます。私もその教室に居たかったなあと、学生さんの幸福が妬ましい。
それでかどうだか、以前に書いてそのままパソコンの中で、「習作」のタイトルをつけて保存していた文章を、急に秦さんに見ていただく決心がつき、このメールに添えさせていただきます(うまく届くかどうかわからないが)。秦さんの作品に触発され、自分の覚えている”京都”を記録したいと思いはしたのですが、私の書く文章は研究レポートみたいになってしまいます。とにかく読んでみて、ご感想をいただければうれしいです。
* 文章での表現はともかくとして、内容が面白い。土地勘がはたらくからであろうが、筆者の個性というか、性格が、蝸牛の角のように随所に出てくる。「自分史のスケッチ」として、うまくすると、よく纏まるかも知れないが、表現に一々拘りつつ読むので、まだ全部とはいかない。
2003 3・29 18
* これも卒業生だが、こう書いている。「想い」が生きて言葉になっている。言葉が先ではないから、多少見えを切ったようであろうと、生き生きと生きることが、美しく生きることも、出来る。「言葉」なんかに負けるなと若い人達に言いたい。あれだけ言葉を書かせておいたのも、真意はそこへ向かうのである。
* 哀しみの季節 2003.3.29 私が暮らす狭い範囲でも、申し合わせたように花が咲き始めた。梅、沈丁花、辛夷、蒲公英、百日紅、連翹、雪柳、山吹、名を知らないそのほか、たくさん。長距離列車で通学していた頃、3月下旬頃から車窓の景色が急に華やかになるのを見て、春の訪れということを実感したのが、つい数年前かのように思われる。
春。咲く花だけが私を喜ばせる。長く寒かった冬が終わり気温が上がり、新しい生活が始まり人に出会う。けれどそういう季節でしかないなら、春はとてつもなく哀しい。いつか「春」「秋」の風情を優劣せよという挑発にのったことがある。そこでそれまでぼんやりと抱いていた私の思いは、初めて文字になり、以来一貫して変わらない。
咲く花に慰められ、ようやく春を生き抜く勇気を持てる。おそらく多くの、いやいくらかのひとたちも、そうではないのか。見よあの桜の、私たちの哀しみを精一杯引き受けたような気丈な白さを。 小闇TOKYO
2003 3・29 18
* 鍋叩き 2003.03.29
「皆さん、26日は22時から22時15分まで灯りを消し、鍋を叩いて抗議をしましょう。」
カタロニア(スペイン)のメディアが呼びかける。
22時、灯りを消してテラスに出る。我が家のテラスは、一辺約130mのロの字型建物の内側に面している。中央は、ロの字の内側に住む人々の、共有の空間。
トコトン、トコトン、トコトン、ドンドコ、カンカンカン、、、冗談に思えた「鍋叩き」が始まった、と思えば、もうあっちからこっちから。四方から放たれた音は、横の、向かいの建物にぶつかり交わって、中央の空間にこだました。
慌てて家の中に入る。手探りで、アルミの鍋蓋とシャベルを引っ張り出し、再びテラスへ。
カンカンカン、ピピッピピッピッピー、トコトン、トコトン、タンタンタン。思い思いの音が響き渡る。一人一人が演奏者となり聴衆となり、中央の闇の舞台に聞き入った。
鍋蓋を打つ手に疲れを感じながら、私は思わず涙ぐみ、同時に込み上げてくる笑いに体を揺らした。こんなデモがあるなんて。粗野で不真面目に見えたその表現にこそ、人々の平和への願いの深さと自由さが表れていた。
この日、ここの人のこういうところが好きだと思った。 小闇@バルセロナ
* いい「便り」ではないか。
2003 3・30 18
* 小闇@パルセロナの「鍋叩き」は快信で、しばらく興奮した。日本でも、大きな団地などで自治会がやるといいのに。デモに出て行くのよりはるかにからだはラクで、参加しやすいし、一体感や連帯感も生まれよう。但しいささか迷惑する人もあろう、乱発は困る。バルセロナでは十五分間の間と限定しているが、十分間でも十二分ではないか。
2003 3・31 18
*「春の雨。圓山の花は、咲き初めているだろうか」。数日前の「闇に言ひ置」かれたのにとらえられたといいましょうか、連想になずんでいたといいましょうか。
「圓山の花」は、多くのひとには名所の花であり、幾多の文学、美術、藝能に描かれ、登場している花でもあります。
けれど、先生には、まず、幼いころからの思い出に染められた花、と、いう気がいたします。その花が、花の樹が、また、文学や美術、藝能などに色濃く染められてもいる――。神さまは、よいところに、おさな子秀樹の居場所を定められたものでございます。お作の数々をおもいますと、天の配剤ということをおもわずにはいられません。
「春の雨。圓山の花は、咲き初めているだろうか」に、籠められた思いのほどをおもうております。
わが記憶と父や母から聞かされたのをかんがえあわせてみますと、わたくし、少なくとも十五、六回は家移りをしています。父親の転勤に従ってなどというものではありません。父の放浪癖というにしては、ほとんどが東京都内をあちこちしていたようで、父母ともいない今になっては、居所の定まらなかった、あるいは定められなかった理由を知るすべもありません。
そうした育ち方をした身には、わが成長とともに在った、ひと、本、がありません。
頼政と名づけてともにあふぎたる樹ありき今もつむれば見ゆる
こんなうたを詠んだことがあります。その樹とともに在ったのも、ほんの一時期でした。
住んでいる建物ととなりの建物との間、樹にとって心地よい場所ではなさそうなところに山桜が一本、植えられています。日当りがよくないせいか、「はなびらおほきに」とはゆかず、花はちいさく色も淡くはかなげなのですが、「枝ほそくて」樹の姿のとてもうつくしくしい一本にも、いくひらか、はなびらがしろくひかりはじめました。わたくしのお花見が始まります。
* 黒きマゴの我の湯舟で湯を飲めるただそれだけの嬉しさに笑む 遠
2003 3・31 18
* viejo verde / ビエホ ベルデ 緑色(verde)には、若々しさ、瑞瑞しさ、自由、豊かな自然などのイメージがある。ところが緑色に年寄り(viejo)を形容させると、「緑」も「年寄り」も大変身する。その変身後の姿とは「スケベ爺」。「冗談(chiste)」が「緑色」を帯びると、これも「猥談(chiste verde)」となる。
* 遠い異国から「南蛮言葉」を発信してくれる。上の、緑色にはまいった。「緑の老人」が「スケベ爺」になり、「緑の冗談」は「猥談」になると。この伝では、「緑の黒髪」は如何。「緑の日」「緑の羽運動」は如何なるか。
みどり色には、緑、碧、翠の少なくも三文字をわたしも使い分けるが、なに、たいした確信があるのではない、気分に応じている。いずれにしても人の嫌う色ではない。 スペイン語のverdeとて、それ自体は特殊な意味合いはあるまい、に、取り合わせで上のように変わるとすれば、よくよく洞察しなくては。それにしても「スケベ爺」だけでは不公平であろう。viejoが男性名詞かどうか知らないが、「スケベ婆」とも意味するのだろうか。年がいもなくの意味で「緑の黒髪」と日本で謂うのではないが、やたら髪黒々の老婆というのも気味が悪いか。
色彩感覚と、平然と普通に口にしているけれど、よく思えば国により風土や慣習により、そう平易なものではないということを教えられた。
2003 4・1 19
* じつは、いま、書き込みたいことがいっぱい有る、が、妻が近所を歩いて花を見たいと言うし、わたしもそうしたい。今晩は、ある初対面の家族と会う。その前に桜の盛りを見て行きたい。
夜前、深夜に映画「イル・ポステイーノ」をわたしが一人起きていてビデオにとり、今またそれをコマーシャル抜きの映像で妻と見て、深い感銘をうけた。こういう映画を「佳い映画だから、できれば見逃さないように」と薦めてくれる人にわたしは敬服し感謝する。今はそれだけを言い置く。
* じつは、いま、書き込みたいことがいっぱい有る、が、妻が近所を歩いて花を見たいと言うし、わたしもそうしたい。今晩は、ある初対面の家族と会う。その前に桜の盛りを見て行きたい。
夜前、深夜に映画「イル・ポステイーノ」をわたしが一人起きていてビデオにとり、今またそれをコマーシャル抜きの映像で妻と見て、深い感銘をうけた。こういう映画を「佳い映画だから、できれば見逃さないように」と薦めてくれる人にわたしは敬服し感謝する。今はそれだけを言い置く。
もう一つ、小闇@TOKYOの下記の「私語」も、ぜひ、我が闇の奥へ発信しておきたい。
* 判断ミス 2003.4.2 68歳の戦争ジャーナリスト、ピーター・アーネットがスポンサーであった米NBCとナショナルジオグラフィックに一方的に契約を破棄され、即日英デイリー・ミラーに雇用されたのは既報の通りである。契約の破棄はイラク国営テレビのインタビューに応じたことで両社に広告主からの圧力がかかったせいとされている。
本日夕方、私は“「判断ミスだった」 NBC解雇のアーネット記者が寄稿 ”という記事をアサヒコムで読み、どうもスッキリせず、デイリー・ミラーのサイトを見に行った。
This war is not working.と題されたアーネットの記事はすぐに見つかった。英語は平易で私でも読める。読んで思った。私ならあんな見出しはつけない。彼が判断を誤ったと言っているのは「米国内の右翼に在バグダッドのリポーターを批判する機会を与えたこと」についてだ。つまり私は間違っていない、と言っている。見出しに引くべきことを多く、彼は簡潔な文章の中で書いている。I’m not angry. I’m not crying. But I’m also awed by thid media phenomenon.だとかThat was my Waterloo.だとか、Now the reality is being played out on battlefield.だとか。
アーネットをこうするしかできなかった米国メディアのアホさ加減は言うまでもないが、日本の大メディア・アサヒコムの書き口も大いに気になる。
多くの日本人はアーネットと同じように米国メディアの報道姿勢には疑問を感じている。テレビ画面の左下に、何かを待っているような、各社横並びのバグダッドからの中継映像が映し出されることに辟易している。それがわからないのだろうか。判断ミスか?
記事の本文にも「2度目の転落」「間もなくバグダッドを去る予定」「インタビューで語った内容に【は】自信を示した」といった表現。朝日とザ・合衆国メディアCNNの仲は今に始まったことではないし、いろんな見方の報道があったほうが健全―そう、米国人ジャーナリストのなかに、ピーター・アーネットがいるように―だから、その一点のみにおいて私はアサヒコムの論調を支持する。
* 映画はチリのノーベル賞詩人パプロ・ネルーダを大きな姿で登場させ、「詩」のいのちの「隠喩=メタファー」をさながら主題として描いていた。優れていた。莫大な知識や概念にはるかに優る一行の「メタファー」が人を根から動かす。この映画は稀有な共産党映画でありながら、しかも詩を讃え湛えてみごとであった。
ピーター・アネットたちの言葉に、どれほどのメタファーが生きていたか、生きているか、何が人を動かすか。
2003 4・3 19
* そこへバルセロナの小闇からも、嬉しい便りが届いた。
* 久々の読書 2003.04.02 最近、書くことに一生懸命で、読む方が疎かになっていた。
読みたい気持ちはむしろ有り余っているのに、読みたい(日本語の)本を、本屋でちょいと買ってくることが出来ない。日本語であれば何でもよいかと言うと決してそんなことはないから、結局読む本がない状態。コンピューターに向かう時間をあまり増やしたくなかったのも一因だが、とにかく本の感触を手にしながら読みたかった。
そんなわけで、日本ペンの「電子文藝館」と「e-literary magazine湖umi」をゆっくり訪れたのは、久々のことだった。案の定、時を忘れさせてくれた。(これを内心恐れていたのかもしれない。)よいものに触れると、最近はことさら「それを書いた人」に想いがゆく。作者ほど作品の中に生きている人間はいないのでは、と。
自分の書いたものに或る硬さを感じるのは、きっと私自身が硬いから。何とかしたいと思いつつ、すぐにも何とかなるものではないよう。模索の時。
* 生き生きとした言葉を創りまた読み続け聴き続けたい。
2003 4・3 19
* 六時前に、わたしひとりで、約束の、池袋メトロポリタンプラザ八階の「甍」へ。或る一家、ご夫婦と長男(23)に食事に招かれていた。特別の用件があったのではない、この家族ではお気の毒に最近長男(26)が自殺し、両親の悲嘆をみかねて息子が、会って励ましてもらえまいかと電話をくれていたのである。父上とは、一度だけお目に掛かっていたが、もう久しく湖の本ではおつき合い頂いていて、奥さんと息子とは、まったく初対面。ま、そんなことはべつに気にしない方で、二時間半ほど、お酒もいただきながら、歓談し懇談し、そんなことが少しでもお役に立ったのなら言うことはない。
父上は大学教授。息子はこの頃は久しい自閉症気味からもめざましく立ち直って本を書いたり詞を書いたり曲を作ったりしている。そこまでよく頑張ったと思う。親御さん達もよく頑張られたと思う。
2003 4・3 19
* 東工大蔵前会の会員から、大岡山の桜を撮った写真が大きくおみごとに届いていたので、卒業生諸君で、もう母校に出向いていそうにない人達に同報で発信しておいた。もっとも相当な量なので、人によっては迷惑かなと心配しながら。
2003 4・3 19
* 大岡山の桜便りに、すぐさま声が帰ってくる。午前一時半頃の「あす」というのは今日のことかも知れないが、会社をやすんで花を見に行くというのも。そぞろ気がうごくが、わたしは日曜にでもと思っている。
* 春は色から 2003.04.03 枝枝から透けて見えていた風景が、ある朝突然、桃色を帯び、萌葱色に笑っている。陽の光に、空気の感触に、すでに春の到来を告げられてはいても、春をその朝ほど「ここ」に感じる瞬間はない。まだ形にならない生命が、待ちきれずに、色となって出てきてしまったかのようだ。
昔、ある染織家の話を、国語の教科書で読んだ記憶がある。最も美しい桜色を染めるのは、莟でも花びらでもなく、莟の頃の幹の皮であると。
東工大の桜たちも、その内をうすくれないに染めているだろうか。 バルセロナ
* ご無沙汰しております。ホームページは欠かさず拝見しております。お元気そうで何よりです。また、先生のホームページから伝わる小闇@バルセロナも、楽しみにしています。彼女も頑張っているんだなあと、陰ながら応援しています。
大岡山の桜の載っているURLをお教えくださり、有難うございます。早速目を通しました。やはり大岡山の桜は美しいですね。僕は長津田キャンパスでしたので、大岡山の桜は1、2年生の頃しか見たことがありませんが、未だに心に残っています。実は先週末、大学時代のサークルの友人の結婚式があり、東京に参りました。余興で歌を歌うことになっていたため、前日に大岡山で練習があったのですが、それには間に合いませんでしたので大岡山には行かなかったのですが、惜しいことをしたと後悔しています。
しかし、岡崎の桜もなかなかですよ。岡崎城のある岡崎公園はこの地方では桜の名所として有名で、近隣から多くの人が訪れます。岡崎城の前を流れる乙川のほとりには桜が並び、実に綺麗です。研究所と私の家のある方角とは逆になるため、なかなか見に行けないのですが、明後日あたりに見に行こうかと思っています。
昨日、研究室の秘書をされていた方が出産のため実家のある横浜へ帰られるということで、研究室の皆と美味しい料理の出る居酒屋へ行ったのですが、そこで魚(アナゴかもしれません)と桜の香のついたもち米を蒸して桜の葉で包んだ上から出汁のきいた餡をかけたものを食べました。口の中いっぱいに桜の香が広がって実に美味でした。
先生にはメールでお伝えしたかもしれませんが、今年になって名古屋の合唱団に入りました。やはり研究所だけでは逢う人も限られてしまうので、週に1回位は全く違った人たちと交流を持ちたいという気持ちからなのですが、なかなか楽しいです。先月上旬に法政大学の合唱団との合同演奏会を名古屋で行いました。久々にステージに立ち、緊張するとともに何にも変え難い言い知れぬ喜びを感じました。やはり歌は良いですね。しかし、汗のひかぬまま打ち上げ会場に行ったのが悪かったのか、質の悪い風邪をひいてしまい、未だに咳が続いています。
しかし、それにしても一緒に歌った大学生たちの若さにはびっくりしました。自分が大学生の頃、こんなに若かっただろうかと驚くばかりです。自分の中ではまだ大学を出て日が浅い気がしていたのですが、いつの間にかこんなにも時が経っていたのですね。その間にみんな色々なことをそれぞれ経験し、それぞれの道を進んでいったのだなあと当たり前ながらしみじみ感じます。
バルセロナの彼女も、かつては机を並べた仲ですが、彼女の人生と僕の人生は今では全く違います。それをどう他人が評価するかは僕の知るところでありませんし、そのような評価をされること自体僕は嫌ですが、彼女も僕も懸命に生きていることに変わりはないつもりです。
また、何かありましたらメールさせていただきます。前にも先生にメールで申し上げたかと思うのですが、こちらの地酒で「空」という酒があります。なんとか手に入れて是非送らせていただきたいと思って探しているのですが、普通
の酒屋では扱っていないようで、つてをたどってでないと手に入らないようです。そのうち手に入ったら送らせていただきたいと思っています。楽しみに待っていて下さい。
では、くれぐれもご自愛下さい。
* 同じような研修室にいたのでは無かろうか、バルセロナもこの東大で博士になった(と思う)彼も、わたしの大教室にいた。なにかのおり、三人で目黒の駅の地下あたりで鮨を食ったような思い出がある。今は岡崎のなにやら難しそうな研究所で意欲溢れる難しそうな研究生活をしている。けれど研究一途でなく、音楽や、佳い食べ物やお酒への関心・興味もひろげているのが楽しい。
* こんばんは。** です。(名前だけでお分かりになられるでしょうか?)
桜、懐かしく拝見させていただきました。うちの目の前の桜も近くの公園の桜も今日、もうすぐ満開に
なりそうなかんじでした。
湖の本もいつもありがとうございます。毎回毎回、ご丁寧に心のこもった手書きの四字熟語、送る人すべてに書かれているのかと思うと、秦先生らしいし、とても嬉しいです。少しづつ楽しませて頂いております。みな大切にとってあり、読みたいときに読めるようにと。
秦先生はどんな毎日をお過ごしですか?
私は典型的なママ生活。日課が家事とお買い物と公園で遊ぶこと。。というかんじでしょうか。8ヶ月の子と2歳8ヶ月の子との慌ただしい毎日です。
一人目の子の出産を機に社会からいったん離れたのですが、ちょっとつてがあって、着メロ制作のバイトをし始めました。子育ても一段落したわけでもないし、能力的にも今の私にはタフなお仕事なのですが、今後の可能性も含めて私の「耳」がものになったら(「耳コピー」といって楽譜のない音楽を自分の耳で聞いてパソコンで音にするのです)、自分も楽しいし力になると感じ、がんばっています。少し不安だったりするときもあるんですけどね。。
今日は懐かしく、なんとなく気が向いて(失礼な言葉ですみません)、メールさせていただきました。またときどき余裕のあるときにメールします。
大学の友達にはたまに会うくらいです。**ちゃんとも、もうしばらく会っていません。月日のたつのは早いですね。。。
季節の変わり目、先生も体調崩さないよう、あまりご無理なさらないように。。それでは、また。
追伸:
先生がDocomoの携帯をお持ちでしたら、よろしかったら私が携わった曲、ぜひダウンロードしてみてください。少しお金がかかるけど。。
* ほんわかとしている、これがこの卒業生の最良の美点であった。院も出て、家庭へ直行は惜しいようでありながら、この人にはいちばん美しいほどの進路であり、それでも、こういう仕事に就く気なら、すぐにも就ける。さぞ優しい暖かい音楽が聞こえることだろうが、わたしは携帯は使っていない。妻に薦めるかな。
* 大岡山の桜の写真、拝見致しました。ありがとうございます。
東工大構内の風景、とても懐かしく感じられます。
こちらは、本日が入学式でした。午後からはガイダンスです。初めて担当した学生が先月卒業したばかりで、気持ちの切り替えが難しいです。
取り急ぎ、お礼まで。
* 東工大の卒業生ではないが、他の国立大学の院生が研究室へ助手のような按配で来てくれる制度があり、この人は、みるからに静かに懐かしい、とびきり優秀な近代文学の研究生で、わたしの研究室でも、大学からの帰り道にでも、方角が同じでよく文学の話ができた。楽しい時間がもてた。映画ビデオの「山の音」わ貸してくれたのが、今も画面と一緒に懐かしい。今は、名古屋の講壇で立派に大学の先生をしている。助教授か。あの白銀の細糸のような静かな声音で、どんな講義をしているだろう、一度そっと聴きに行きたい。
* 先生、先~生!メールが届きました。どうもありがとうございます!大岡山の桜だなんて、も~う、もう、うるるんです! 沖縄の八重桜は雰囲気も色彩もどちらかといいますと桃の花に近い、濃い化粧をしているようで、テンションが高い。
そ~う言えば、大岡山の桜があったんだ。過ぎ去った青春と共に記憶はみんな先生のお部屋にあるものの、いつのまにか、大岡山の桜のことは薄れ、遠ざかっていた。それが、今日もこんなに綺麗に咲いているのと写真で分かった。相変わらず綺麗で、控えめで、お上品で、本当に綺麗ですね。…ありがたいわ。先生、どうもありがとう!藤井さん、どうもありがとう!
ところで、近いうちに番組のことで東京に出かけるかもしれません。桜は待ってくれないかもしれませんが、先生にぜひお会いしたいわ!
そう言えば、先生は喜納昌吉さんのことご存知ですか。今日は電話でお話しましたが、番組にお力を貸してくださるそうで、とても嬉しかったです。嬉しくて、嬉しくて、先生に言わずにはいられないほどです。喜納さんの歌も好きですし、なんとなく喜納さんからは、「肝苦りさ(ちむぐりさ)」といって、つまり、胸の痛むような「沖縄の心」が伝わってきます。
私は今、色々な素敵な方に巡り合えているの、だから、頑張りますとも!
では、また近いうちにご報告します。ありがとうございました。 かしこ
* 焼酎でもやっているのかな、元気そうな朱虹さんの便り。いろんな人がいたなと、嬉しくなる。藤井さんの桜の写真を伝えて、こう喜んでもらえれば、よかった。
2003 4・4 19
* 夜来の大雨がまだ降りついでいる七時四十五分。六時前に雨の音に起きてしまった。雨降ってさらに地堅まりますように。今日迪子はわたしと同年になる。まだ若い。歌舞伎座を楽しもう。
この雨に、あの満開近かった桜たちがどうもち堪えて洗われたように輝くか、かえって楽しみだ。そろそろ、雨の音も静まるだろう。大岡山の花便りは、思いの外に反響した。いいアイサツも聴いた。沖縄からは「焼酎なんて」と華やかな抗議も届いた、テンションの高かったのは嬉しかったから、と。「ハハハ。テンションの問題ではなく、朱虹さんのまごこころが華やいでいただけ。元気で。湖」
2003 4・5 19
* starting over 2003.4.4 小闇@TOKYO
21時。改札を出るとアスファルトは濡れていた。水滴がベージュのコートをまだらに染める。駅前はずいぶん変わった。守衛所の前からの風景も、私の記憶にあるそれよりすっかり綺麗になっている。
鈍く左へ折れると、視界に拡がる桜。
太い幹から地面に今にもつきそうなほど低く下りた枝のそこここで今を盛りに花は咲いていた。雨に拡散された光をはねかえす花びらの一枚一枚は、外濠や靖国で見るそれよりも色の濃度が高い。追いたてられるように片づけをする学生たちは、私よりどれくらい若いのか。
私は前夜の仕事のことを考えていた。待って待って待ち続けた数時間。うんざりしていた。いらいらしていた。おそらく今ここでごみをまとめている彼らには、今の私の生活は想像の外にある。そして私も、彼らの生活をもうなぞれない。
白く浮かぶ時計台を頂く建物を右へ折れ、坂を下る。左手にはすっかり近代的になった「西」の建物群がそびえる。秩序なく停められた自転車だけが当時のままだ。さらに階段を下りると正面の建物のガラスの扉の奥には紅白の幕。それを左後方へ流し、養生の脇をすり抜ける。何をまた作っているのか。学食の前を緩やかに登りながら右へ曲がる。視界は再び桜に遮られる。オーケストラの練習は続く。登りきったその向こうに図書館。窓の明かりは消えていない。
懐かしく振り返るほどの想い出も、もう一度と願うほどの日々もない。ただ、戻れないのだとだけ思った。
こんな風に、大岡山へと桜を見に来ることはもうないだろう。
地下鉄の駅から地上へ出る。まだ雨は止まない。家へと足を速める私は見慣れつつある桜並木に少し安心する。今ここで生きていて、これからも生きていく。振り返ってばかりはいられない。続けなければならないこともあるし、始まることもある。
* そう。「今・ここ」で生きていて、これからも生きていく。振り返ってばかりはいられない。続けなければならないこともあるし、始まることもある。題が佳い。
2003 4・5 19
* 先日は母にもあたたかなメールをどうもありがとうございました。
母も「実はお会いしたことがないのよー!」と申しておりまして。ご都合のよろしい時に是非お声をかけていただければと思っております。現在は母と私と私の息子(小3)の3人暮らしで、家の中は男子小学生色が強く、おそろしい状態になっておりますが、こわいもの見たさがおありならぜひ・・・。ポケモン解説をえんえんと聞かされますー!
いい季節ですので谷中、千駄木あたりでお茶でも飲んでお目にかかれればうれしく。ちなみに最寄りは根津ですが上野、日暮里も同じくらいです。覗いてごらんになりたいお店などございましたら、調べておきますのでリクエストくださいませ。
とあるbbsにペンクラブのリンクを貼らせていただいたところ下記のような感想を友人が書き込んでくれました。
> ふと目が覚めたので… 三原誠さんの「たたかい」読みました。在野の兵隊さんたちを、少年の視点で描いています。その少年の視点によって、いまの私たちにも想像しやすいお話だと思います。
> 全編、戦時中とはいえ、のんびりした感じなのに、 最後は「あぁ」と感じる、戦争の暴力がありました。声高に反戦を訴えてる作品ではないですが、ハッと思いました。
> ここに出てくる兵隊さんは、きっと私たちの身近な祖父や叔父だったかもしれない。
> ふつうの人が、戦争に巻きこまれていく感じが淡々と描かれたいい作品でした。
>リンクしてくれてありがとう。お時間のある方はぜひ読んでくださいな。ペンクラブのサイトでは他にも反戦をテーマにした作品が読めるみたい。
> ちょっと漢字は多いですが、久しぶりに辞書なんか使うのも楽しいかも。
こんな不思議なやりとりも秦さまの「電子の杖」の魔法ですね! ありがとうございます!
* 谷中の桜たちも、ことなく咲き輝いていてほしい。
* 岡崎城さくら便りに驚き。 こんばんは。一日が終わる頃 毎日のように”闇に言い置く”をお訪ねします。
お元気なご様子と、新聞より確かな毎日を確認して。
きょうは”岡崎城のさくら便り”を拝見しました。○○研のお方かと。驚いたり 親近感を抱いてみたり うれしくもあり。私もさくら便りを書かせていただきます。
私の住まい近く 伊賀川の堤防(土手といった方が)沿いの桜並木を歩くこと一時間余り。やがて岡崎城に辿り着きます。川幅が狭いのと 桜が丁度良い年頃 ウイークデイはお人が少ないこともあって、それはそれは みごとです。1200本といわれています。
途中 古い町並みと一号線に遮られますが やがて岡崎城に到着。このあたりからお花見の人々でにぎやかになり 乙川(菅生川:すごうがわ)に合流。視界が広がり お花見気分は絶頂になってきます。
名鉄駅ちかくになるころソメイヨシノに混じって大島桜の淡いみどりの葉っぱと白い花びらの色合いがまた素敵です。
今夜は雨。花が散り始めると 伊賀川の狭い川面は花びらで埋め尽くされます。
ただ今 『秋萩帖』を読ませていただいてます。 私には少し難しいのですが、それなりにゆっくりゆっくり拝読しています。ご健康をお祈りいたします。 愛知県
* 岡崎から関西へ、そして詩を書いている人も。岡崎で研究生活の卒業生も。懐かしくまばゆくこの花の便りに目をとめているだろう。
* 雨、なお、しとど。寒くはない。
* 今日は奥様のお誕生日とのこと。おめでとうございます。以前先生のお宅にお邪魔した際には、美味しい手料理でもてなして頂き、また私のつたない話におつきあい下さり、有難うございました。奥様の御健康と御多幸を心からお祈り申し上げます。
バルセロナの小闇さんと食事に行ったのは、池袋の天ぷら屋であったように記憶しております。
目黒駅の地下の寿司屋に行ったのは先生と私の二人だけでした。目蒲線(もう目黒線になってしまいましたが)の中で先生に「親指」を竪てた時のことです。その頃先生は、「最近君たち位の年齢の人を街で見かけると、皆この
講義を受講している人の様に思えて、うちの奥さんと歩いていても手を繋ぐこともできないので、この講義に出ている人は、街で私を見かけたら黙って親指を竪てて下さいよ」と笑っておっしゃっていたのですが、たまたま目蒲線で向かい合わせの座席に座り、先生がこちらを御覧になって「おやっ?」という表情をなさったので、私が親指を竪てたのでした。そのまま電車の中で少しお話した後、「何か食べに行こう」とおっしゃって目黒駅の地下の寿司屋に入り、御馳走になったのでした。先生のおっしゃった通りに指を竪てた話をすると、いまだに両親などからは笑われますが、あのとき指を竪てていなかったら、こうして先生とメールをやり取りすることもなかったのかもしれません。不思議なものです。
ところで、先生のホームページを拝見して、岡崎の方からのメールがあったのには驚きました。考えてみれば、先生の読者は全国にいる訳ですから何の不思議もなかったのですが、私の中では東工大と先生の結びつきが強いせいか、その事に思い至りませんでした。岡崎にも先生の読者がおられるのは、なんだか心強く感じます。おそらくその方は「分子研」と書かれたのではないかと思いますが、私のいるのは生理学研究所と言います。同じ敷地内に3つの研究所があるのですが、分子研が一番先にできたせいか、近隣の方は3つを特に区別せずに分子研と呼ぶことが多いようです。
この方のメールを拝見して思い出したのですが、私が研究室の皆と行った居酒屋は伊賀川の近くにあります。車で通り過ぎただけなのでじっくり鑑賞できなかったのですが、こちらの桜も大変に綺麗でした。岡崎公園の方が観光客が多いせいもあり、個人的にはこちらの伊賀川の方がじっくりと桜を楽しめるような印象を持ちました。今日は朝から雨が降っていて、先程ようやくあがりました。今日は桜を見に行くのは時間的に余裕がないかもしれません。
明日にでも行こうかと思います。
明日は先生は大岡山の桜を見に行かれるのですね。またホームページで御感想を伺えるのを楽しみにしております。それでは。
2003 4・5 19
* 二時間ほど前、東京から帰って来ました。隅田川沿いの高架道を走るバスの窓から満開の櫻を見ながら。
川のこちら岸は、下から街灯のひかりを受けた梢の花が闇に浮かぶのを見おろす、という、ふしぎなお花見、ちょっと、異様で、ぞくぞくいたします。
川面には、赤いちょうちんを掛けつらねた花見舟が幾艘もただよい、向こう岸の櫻並木は、大勢の人が行き交うていますのに、何のぞめきも、バスの中にはとどいて来ない――。
家のそばの山櫻はかあいそうに、前の日の春の嵐に、かなり、太い枝を折られてしまってしました。暗い土の上に、うつくしい振袖が乱雑に脱ぎ捨てられているようで、いたましくて。
十日に歌舞伎座、昼の部だけですが、切符がとってあります。観劇記を拝見しましたら、夜も観たい――。
* そう。夜も佳い、なかなか。
歌舞伎は役者の層も幅も厚く広く藝は鍛えられてあり、むずかしい理屈をこねて高望みしない限り、現代最も楽しい時空間をいつでも用意してくれる。雀右衛門、芝翫、鴈治郎、富十郎、我當、秀太郎、仁左衛門、幸四郎、猿之助、吉右衛門、玉三郎、勘九郎、団十郎、菊五郎、三津五郎、左団次、梅玉、魁春、福助、と、これだけの名前が並んでいれば「夢」は幾らでも観られる。佳い夢で役者だけが魅せるのではない、自分の好きと器量が夢を濃くも熱くも楽しくもする。そういうことは、今ではもう能狂言でも容易でなく、新劇でも大衆演劇でも難しい。人形浄瑠璃がまだしも魅力を枯渇していないだろうと思う。
2003 4・7 19
* 土曜日は真冬への逆戻りかと思いましたが、 日々、春への確かな足取りが聞こえます。
大岡山の桜の写真、どうもありがとうございました。わくわくしながら、早速見に行かせていただきました。
6年間、毎年見ていたとはいえ、やはり東工大の桜は壮観で、懐かしく誇りに思いました。
つくばは、まだ新しい都市だけあってか、 桜並木も整備されているとはいえ、 まだまだ「壮観」な風情には程遠く感じられます。それでも近くの遊歩道に咲く桜は、まだ7分咲きくらいですが、春を感じるには十分です。土筆も元気に伸びています。
「湖の本」ありがとうございました。東工大時代の講義室を改めて思い返し、涙があふれました。何もかもに行き詰まり、前が見えなくなっていたあの頃、先生の授業にだけは、自然と足が向かっていたことを思い出します。精神的不安定には今も時々なりますが、主人のおかげで乗り越えています。
先生のホームページにも時々足を運んでいます。
「最後の弁護人」も毎週楽しみにしておりました。
病院にも通われているとのこと、どうぞどうぞお大切になさってください。
暖かくなり、花粉症も大分治まってきたので、来週辺りにはベランダガーデニングを再開しようと思っています。ガーデニングと言っても、野菜ばかり。ちょっと食い意地が張っています(笑)。でも、採りたての野菜は香りが違っておいしいです。
* わたしたちもこの近所の花の名残を惜しもうと、夕まぐれにかけて、散歩に出た。
先日とは逆方向、ひばりヶ丘のほうへ歩いてみた。探梅ならぬ「探花逍遙」には、例えば花の名所の千鳥ヶ淵や上野や大岡山へ行ってばあっと夥しい花盛りを眺めるのと、すこしちがう風情がある。武蔵野の面影をしのびつつ、宅地や畑地や街地をそぞろ歩いて行き行くうち、あちらにこちらに家木にまじって絢爛と咲く桜の花木に行き当たる。
あああそこに、ああここにも、向こうにもと。一人だと寂しいかも知れないが、妻と、目配りしながらお喋りしながら、この道をまがりあの道へ寄り、宅の、公園や学校の、広場の、建物のかげへも裏へも足をはこんで、びっくりするほど巨大な桜樹や並木やまるで守護神のような家桜にずいぶん多く出逢う。いつしかに思いも寄らぬ遠くへ来て、見知らぬ初めての道を楽しんで歩いている。夕暮れて行くにつれ花影は濃く重々しくなり、街の明かりが花を匂わせる。
妻もわたしも今年は溢れかえった花見はしないで、こんな保谷の里桜を尋ね歩いて花季節を終えることになるようだ、いや、まだ分からないけれど。
2003 4・7 19
* 電話が二つ来て、訪ねたい、逢いたい、と。春はやはり賑わう季節。自分では外へ出て行かない方と思っているのに、先日協会の事務局の人に、「ほんとに、よく出歩いてられますねえ」と感嘆されてビックリした。わたしのこの「私語」を読んでいる限りそう思えると。
「え、見てるのかい」と聞くと、読んでいますと。今日、訪ねたいと電話の人も、ホームページを見ていますのでと。そういえば、今週は珍しく空いていると書いたかな。
「出歩いている」とは、言い換えると、仕事をしていないことになる。言い換えると一向に稼いでいないことになる。その通りで、不自然なほど極端に稼いでいない。根は怠け者なので、そう思うから数十年怠けなかった。いまもべつに怠けてはいないが、お金に縁の遠いことしかしていないのである。
むかし学生が書いていた、「清貧」なんていやですね、「豊かに清いのがいいなあ」と。豊かではないけれど、妻と二人でぐらい、そう貧しくなく楽しんでやって行けると思う。老いの春か。
2003 4・7 19
* 戦後 この言葉を聴くと、私の生きてきた道そのもののような気がします。終戦の年に生まれた私が、物心ついたのは敗戦国の日本でした。過去の日本は間違っていた、アメリカのもたらした民主主義こそが自由で希望に満ちていて正しいと教えられ、そう感じてきました。
イラクの「戦後」がすでに語られているのを聞くと、瀕死の日本に原爆を落とす以前に日本の「戦後」も語られていたのだろうと思いました。
娘の大阪の個展を手伝いに行ったあと、大阪城の夜桜を娘と二人で見てきました。ライトアップされた大阪城は輝くように美しく、昔 戦いのとりでであったとは思えませんでした。夜桜は満天にやわらかく開き、その間に鎌のような三日月が鋭く光っていました。そこここで大道芸人が湧き上がる歓声に包まれていました。久々語りあい、小さなビジネスホテルに二人で泊まり、昨日始発の新幹線で東京に帰ってきました。
大阪城も遠い昔に戦後と言われたときがあったのでしょう。バグダッドの破壊された宮殿も、どんなにか豪華絢爛なものだったかと・・・・。
なんだか言葉たらずになりましたが、これから職場に向かいます。お元気でお過ごしくださいますよう。 神奈川
* イラクの事情は、情報のいかに操作されて頼りないかを日々に証ししているようで、ことさら判断中止を自分に宣告している。米英が大統領宮殿を占拠しようがイラクが反撃の機を窺っていようが、不幸な事態であることに変わりはなく、世界の視線に堪える仕方で早く終わって欲しいと思うばかり。
「イラクの「戦後」がすでに語られているのを聞くと、瀕死の日本に原爆を落とす以前に日本の「戦後」も語られていたのだろうと思いました。」
上のメールの此処がポイントで、また今も昔もそうでありそうに思う。もっとも、昔のマッカーサーによる日本の戦後支配と同様、イラクの今日がやすやすと明日に手渡されると思うなら、アメリカも愚かが過ぎるであろう。「アメリカのもたらした民主主義こそが自由で希望に満ちていて正しいと教えられ、そう感じてきました。」というようなワケには行かない、イラクは日本のような孤立した島国でなく、むしろアラブ地域のいわば宗主国的な地理をもっている。バグダッドは、あのエルサレムやバチカンに匹敵する都市の名前である。
2003 4・8 19
* きのう「放浪絵描き」と称するメールが入り、心当たりはなく、すこし立ち止まる思いがあって、メールは開かぬママそのメールアドレスに「不審」の返辞を送ってみた。今日あらためて返信が入り、その人のアドレスやドメインをそのまま使った、ウイルス性の悪メールだったと分かった。その人は二十三歳のまさに放浪絵描きで、三年ほどをかけて今も海外をさすらい歩いているという。しかし丁寧に創られたウエブサイトも持っていて、繪も、写真でたくさん出ている。女性のスケッチなどにしなやかな優し味がうかがえて、単に放埒な我が儘な絵描きと思われない、なんだか懐かしい気がした。ウェブの世界ならではの出会いかも知れぬと、大切にも心嬉しくも感じている。
2003 4・9 19
* 春高楼 教育TVで「日本語であそぼ」という番組が始まりました。「英語であそぼ」のすぐあとです。最後に「今日の名文」(ナレーターは榊寿之アナ)というコーナーがあり、初日から順に、「知らざぁ言って聞かせやしょう」「菜の花や月は東に日は西に」「我輩は猫である。名前はまだない」ときて、今日は「春高楼の花の宴」でした。
名張の桜の名所は、造成した公園など、人工的で新しい場所ばかり。
近隣には、上野城跡などの古い桜並木や、鄙びた山の桜などがふんだんにあります。山里で、しずかに、花見を楽しみます。
* さりげない短文だが、題から言葉へ花へ古城の桜へ山里へと、はんなりしたリズムをもっている。飾ってなくて、美しい。佳いメールだ。
2003 4・10 19
* イラク国連大使は「ゲーム イズ オーヴァ」と。緒戦はそうだろうが、隠れた戦争は此の後もイヤになるほど長くつづく。砲撃や爆撃が終われば終わりとは、とても行くまい。
* 戦局 2003.04.09 バルセロナ
正直なところ、書く気が起きない。頭にあるのは、戦争のことばかり。ニュースを聞くほど考えるほど、言葉を失ってゆく。
そんな状況でも、カタロニアテレビ放送局のバグダッド特派員は、よい報道を続けてくれている。彼は、イスラエル、パレスチナ紛争の報道でもそうだった。こういう報道を聞けるのは、ともかくも有難い。
昨日、報道関係者たちが泊まるバグダッドのホテルに、アメリカ兵が発射した。何国もの報道関係者の証言によると、少なくともその前4分間は、辺りで何事も起こっていない。ぐるりと回っていた照準が、ホテルの窓際にいたカメラマンの前にくると、ぴたりと止まり、発砲されたと。3人の報道関係者が死亡、そのうちの一人はスペインの記者だった。上の特派員は、その10分前に、殺された彼と彼の部屋で話していたという。彼の力強い報道を聞きながら、今この人は泣いていると思った。
その一人の死を、私たちは衝撃をもって聞いた。それなのに、比較にならないほど多くのイラクの人たちが、殺されたことすら気付かれずに死んでいる。戦争は、なぜこうも人の命を軽んじてしまえるのだろう。そこで殺された人は、「(人)数」にしかなれない。
何のための戦争だったのだろう。イラク攻撃の目的だったはずの大量破壊兵器もフセインも、見つからないまま。これもすべて、アメリカがイラクに対して「戦争予防戦争」するための、想像の産物だったのだろうか。
予防どころか「戦争挑発戦争」だった。この戦争の終りは、次の戦争の始まりを意味しているようで、その歓喜も不気味に映る。
2003 4・10 19
* 逢いたい人がいつでもいる、というのは豊かな糧である。大切にフォロウしていないと、時間の算術に翻弄されて、永遠にすれ違いもせず、別れて行く。時間は誰にもたっぷりあるようで、ちがう。二人で三人での組み合わせとなると、時間とは貴重な薬剤のように手に入りにくくなる。
* 曇天 昨夜の霜注意報を疑って、今朝から嚔雀。冷え込んだ分、オツムが働き、「客愁」三部作を読み終えました。
いまにも落ちてきそうな空の下、駅前に並ぶ、桜吹雪を浴びた黒いタクシーの黒いボディ、古い桜の、盛を過ぎた花の色かたち。毎年、見惚れる美しさです。
日曜は、知事&県議選。知事候補4人のうち3人は、北川県政継承と主張。票を得たいだけじゃないのぉ?横浜在住の友人は、「やっと選挙になったと思ったら、元町のあほぼっちゃんと、田嶋陽子よぉ。もう、どうしよう」と嘆いています。
2003 4・11 19
* ロサンゼルスから帰国の池宮さん夫妻がせっかく東京のホテルに入ったと知らせてくれたのに、この爆発音のような咳き込みのまま旅する人の安寧をおびやかすことは出来ない、残念残念。
2003 4・12 19
* 御本を手に関東関西を回って、行く先々の桜を愛でてきました。東京では市ヶ谷の並木、千鳥が淵、両国など。関西はちょっと寄った円山公園の夜桜が華岳の絵そのもので、あの「とろーり」とした絵の中に入ってしまったような気がしました。
最近は、両手に抱えきれないほどの物を持って、行方も定めずやみくもに歩き回っているような気分。右手の仕事
は順調ですが、左手の方は落ちたりかすめたり。そのせいで全体の歩みも危うくなっています。六月にお茶で大きな
行事をしなくてはならず、胸に黒いピンを刺されています。秦さんのように、マインドから解き放たれることはありません。「茶ノ道廃ルベシ」まさに渦中です。
今日は夜から霧が出て、部屋の窓から見える風景が潤んでいます。ようやく雪が見えなくなりました。消えるとき
は早いものです。
明日は石狩へ用事があり、ドライブをします。お風邪早く快復されますように。
2003 4・13 19
* 青天に乾杯 春に買う、一年分の煎茶がそろそろ尽き、新茶が待たれます。お茶をいれて、羊羮を切って。
投票に行ってきました。主人は、その足で、ビールを買いに行きました。昼は、蕎麦に日本酒、夕方、野球中継を見ながらビールというつもりでしょう。県議選は、十数箇所の地区で無投票になりましたが、当地は定員2に4人が立候補したので、連日賑やかでした。
2003 4・13 19
* 朝の一番、ビタミン剤をのむように、小闇のサイトをあける。いまのわたしには望んでも得られない「若い」言葉と暮らしが織り成されていて、それを此の「「私語の闇」に導きいれることで、わたしは過ぎし青春の香りを呼びもどす。
三十七年前の三十のわたしは、妻との日々をこうは経済的に豊かに過ごせてなかったけれど、やっぱり元気であった。年譜を見ると、三十歳のこの日、掌説「閉塞」を書き、また小説「鱗の眼(のちに誘惑)」を書き起こそうとしている。満員の西武池袋線で毎日通勤しながら、車中、「別冊淡交」の『書』に恍惚とし、またエンゲルスの「賃金」論を読んでもいた。春闘さなかであった。
* リセット 2003.4.13 目を覚まして鍋一杯にお湯を沸かし、沸くまでに新聞をとりに行って、茹でたパスタにトマトソースを絡めて朝食。牛乳との比率1対1のコーヒーももちろん。家中の窓を開けて風を通す。洗濯機は3回転して狭い物干しはきゅうきゅう。春の色の服がたなびく。
セーターを仕舞い代わりに半そでの服たちを手の届くところへ。捨てる服もいくつか。掃除機をかけて投票へ。花の散った桜並木は人も少なく、颯爽と過ぎていく自転車だけが目立つ。気温も上がって花粉もなくなった。来週から乗ろうかな。
入学おめでとう の飾りの目立つ小学校の体育館で若草色の投票用紙にHBのエンピツで文字を刻む。当落への影響より投票率を上げたい。そのままスーパーへ寄ってアボカド、レタス、ヨーグルト、豆腐、みつば、セロリ。それとチーズ、ピザソース、強力粉。緩やかな坂を上り下りして汗をかく。帰ったら、ビールだ!
ところが冷蔵庫にビールがない。仕方なく買出しへ。今度はTシャツに着替えてさっきとは違うスーパー。ビールのほかワインも買って帰り道には薬局でトイレットペーパーも確保して、帰宅。
開けた窓からは川沿いを走る電車の音。車の音と違って心地よい。バイクの音ほどではないけれど。視界の桜はすでに葉桜でベランダに立つ私に薫風が吹く。万緑薫る。おしゃべりなFMに突っ込みいれつつメールを書いてソファでうとうと。
鞭打って明日からの朝食のおかず作り。これからの季節は野菜がおいしくなるのが嬉しい。茄子ピーマントマト玉葱南瓜。夕食はピザ、玉葱とスモークサーモンとたまご。アボカドと豆腐のサラダ。ビールで酔っ払ったのでワインは止めておく。
もらい物の薔薇の香りのなんとかを入れた浴槽で膝の裏をマッサージ。気楽極楽。ドライヤーをあてて髪が伸びたのに気付く。どうしようかな。
アイロン。ハンカチとシャツと。ニュース速報は開票即当選確実を告げる。分かっていたことで気になるのはむしろ北海道と神奈川の知事選、それと札幌市長選。
統一地方選特別番組見ながら今度はチューハイ。
久し振りに何もしない休日。リセット。明日から会社、ちょっとは頑張ろう。 小闇@TOKYO
2003 4・14 19
* 来客の予定をお断りしておいて良かった、この咳き込みの状態では、対座はお気の毒。肺炎の心配を忘れぬようにと幾つもメールを戴いている。吹きすさぶ闇夜の木枯らしのように胸の奥からのどもとへ咳が駆け上ってくる。凄い景色を呑み込んでいるようで面白い。
* 晩になっても体調に改善や回復の兆しがない。高い熱ではない、咳もときおりは静か。だが始まるととめどもなく、我が耳にもゼイゼイヒューヒューは聞き苦しい。仕事もおおまかな事ならまだしも、作品の最終の仕上げに使うヤスリや木賊の目が粗くては困るので、長時間取り組んでいられない。疲れもする。困惑すると睡魔に身をあずけて床へ行く。
古い古い友人からめずらしく電話がきたが、咳き込んで応対できなかった。アメリカからの客人とも、電話で会話が成らない。明日の甲斐扶佐義の写真展オープニングも失礼するしかないが、金曜日は糖尿の定期検査の日で、これは行かないとインシュリンその他の補給が利かなくなる。その翌日も芝居に招いて貰っているが、辞退、やむをえまい。
2003 4・14 19
* 勝田貞夫さんが、一枚のCD-ROMに、なんと「湖の本エッセイ」の第一巻から第二十巻を全部収録し、まるい表紙の左半に表紙繪、右半に二十巻の目次、中央に本の表紙と同じデザインで色と字体も同じく「秦恒平」「湖の本」と、まことにスッキリと創ってきて下さった。じつは、電子版の湖の本は、わたし自身が入念に校正していない、だからこれが一人歩きされては困るけれど、早く校正し終えて、この形で希望される方に頒布できるといいがとは、以前から思ってきた。校正を完璧にし「定本化」を急いでおかないといけないが、二十冊分は容易でない。私自身が納得できないと校正は終わらない。
1 蘇我殿幻想・消えたかタケル 2 花と風・隠国・翳の庭 3 手さぐり日本 4 茶ノ道廃ルベシ 5 京言葉と女文化・京のわる口 6・7・8 神と玩具との間 – 昭和初年の谷崎潤一郎の三人の妻たち- 上中下・谷崎感想 9・10 洛東巷談 上下 11 歌ッて、何! 12・13・14 中世の美術と美学(女文化の終焉・趣向と自然・他) 上中下 15 谷崎潤一郎を読む 16 死なれて 死なせて 17 漱石「心」の問題 18 中世と中世人上 19 中世と中世人 下(日本史との出会い) 20 死から死へ
これだけが一枚の円盤に悠々と収録されてしまうのだから、何とも言葉がない。湖の本エッセイは、このあとへなお七巻が刊行されている。刊行を待っている紙の本エッセイや紙の本になっていない雑誌等初出原稿のものが、まだ大量に出を待っている。みなわたしの子供達である、捨て育ちでいいとも言えるが、見てやれる面倒は見てやりたい。勝田さん、お心入れを有り難う存じます。
* エッセイでなく小説や創作のシリーズは、すでに湖の本で四十七巻が刊行されていて、校正は出来ていないのが多いが、電子化は全部済んでいる。いずれ新作もなお加わる。
本当は創作もエッセイも全部一枚の円盤に入る。あまりのことに、のけぞってしまうが、そこまで用意出来るのにまだ相当の時間が掛かる。円盤一枚か二枚(二枚目には「闇に言い置く私語」)をそっとその辺の棚に置いて、それならばと此の世に別れて行ければ、どうだろうかな。
現金なものだ、こんな夢想に耽っていた間は咳も静かだ、と気が付いた途端、胸の底から龍でもひくく唸るような木枯音が噴き上げてきた。まいったな。
2003 4・14 19
* お風邪が大変なごようすでご案じ申し上げております。咳の風邪はことに苦しいものでございましょう。どうぞゆっくりお休みになり、一日も早くご回復なさいますことを心よりお祈りしています。そして願わくば奥様にうつりませんように。
都知事選は予想通りの残念な結果でしたが、さらに、イラク国立博物館からメソポタミアの秘宝十七万点が略奪されたというニュースにはひどく失望いたしました。これが単なる「アリババと盗賊」の末裔の貧すれば鈍するの暴挙なのか、それとも考古学専門の窃盗団の仕業なのかはわかりません。七千年前の四代文明の秘宝はイラクだけでなく、人類全体のかけがえのない宝ですのに、無為無策のアメリカ軍にも憤りを感じています。アメリカは石油利権のために油田は守っても、文化財などどうでもいいのでしょうか。
もちろんこの事件の背景にはフセイン政権のもたらしていた悲惨な状況もあるのでしょう。イラクの民衆というとニュース映像に流れるサダム・フセインの支持を叫ぶ人々や倒れたフセイン像を踏みつける人々の印象が強いのですが、私がヨーロッパで出会ったイランやイラクの亡命者たちは、彼らと顔立ちも表情もまるで違う人々、別の人間でした。知識人、文化人といったカテゴリーに入るでしょう。温和なたたずまいや国際的な知性とマナーを身につけ、だからこそ独裁国家を追われたと想像されました。これらの人々がもし母国にとどまっていることができたら、博物館は守ることができたのかもしれません。
ドイツに住んでいた頃、一時期通っていたドイツ語の講座に何人かのイラク人がいました。ドイツ人の教師がドイツ語の初歩的な質問で「あなたはどんな家に住んでいますか」と訊いたときに、初老のイラク男性が「バグダッドでは大きな家に住んでたんです」と呟くように答えた、その一瞬の表情の翳りを今でも思い出すことができます。アメリカの戦争の結果、もしこういう亡命者たちが一人でも二人でも帰国できるようになるのであれば、多くの生命が喪われたことにもわずかな救いはありますが……。
戦火の中の人々はもちろんのこと、今も世界のあちこちで喘いでいる亡命者たちのことを思いますと、先生の小説を楽しみにしている私の人生はもう豪奢といえるほどで、泣けてきます。しかし、私自身がもし亡命する立場になったとしても、私は先生のご本を一冊抱えていくでしょう。愛する美しい日本と日本語があり、私はそれだけで絶望せずに異国に生き続けていけるように思います。どうかお大切にご養生くださいまして、春を楽しまれますことを念じております。 品川
* 過剰な褒美ではあるが、感謝する。結果としてはそのように読んでもらえるのを一つの願いとして書いているのであるから、ことさらな否認はしないが、自分でも不十分は分かっている。だからこそよけいこういう言葉の前にわたしは謙遜でありたいし、強く鞭打たれているに等しいと堪えてもいる。
書き上げた新作に過剰な期待の寄せられてくるのを、苦痛にも感じている。申し訳ないが、という気持ち。読者には、明らかに批評や評価の厳しい物差しと、人により異なる目盛幅とがある。しかし書くとき、それは一切気にしない。わたしが「今」書きたいように書いている、十年前、二十年前とは、むしろ異なった作品、似ていない作品、ちがう書き方で書きたいと思っている。あの作品に似ていると真っ先に思われるようではならない。その意味では、過去の作品の理解者や愛読者の好みに逆らうかも知れぬ結果になってむしろ当然なのが「新作」というものであり、とくに今回はと、いつもいつもそう思いながら提出してきた。
よぎなく、というより、心して私が創作中も意識してきた読者(代表)はといえば、むろん一致して太宰賞を下さった選者――石川淳・井伏鱒二・臼井吉見・唐木順三・河上徹太郎・中村光夫の諸先生であり、瀧井孝作・永井龍男先生であり、吉田健一先生であった。この人達にはわたしは答案を書き続ける義務があると思ってきた。だが、どんな具体的な編集者の顔も読者の名前もわたしは思い浮かべようとはしないで来た。仕上がった作を最初に読み通すのは何十年来たいてい妻の仕事であったし、今回も難儀な関所は通して貰ったようだ、むしろわたしの方で、先は急ぎませぬ故と、まだ関所の中で赤ペンを握ったまま勧進帳の読み直しをしている。勧進帳のあらばこそと、真っ白な巻物に書き続けてきたわけだ、推敲は念入りにしたい。待っていて欲しい。
* アフガニスタンでもそうだった、イラクでも、文化財や埋蔵文化財が大量破壊されたり強奪されたりするのではないかと心配していたが、こういう心配が杞憂に終わることは少ない。その点、日本の敗戦時、繊細では沢山やられたが、戦後占領では比較的保護されて幸せであった。ソロモンの栄華にわたしは憧れないけれど、数千年ないしそれ以上者時間が愛おしんでくれた文物は、まさにパブリックドメインであり人類の資産なのである。その生まれた土地土地においてその長寿と安全を守ってやるのは、いかなる「現代」にも課された責務なのに。
今ひとつの亡命者たちのことでは、いろんな判断の尺度が出てくる。まことに気の毒な人達も、気の毒と見えてそうではない人も、また歴史の変転そのものに救われた人も呪われた人も、混在する。フセイン体制に追われたけれどフセイン体制と同じことがしたくて故国に返り咲くような人達の新イラクであって欲しくはない。それはほぼ間違いなくアメリカの傀儡以上には出ないであろうから。
* 「胸の底から龍でも低く唸るような木枯音」とうかがいますと、気管支炎に悩まされていたころをおもいだします。ほんとうに苦しかった――。
家の近くにあるプラネタリウムの庭に「ゆるぎ石」というふしぎな石の彫刻があります。重さ50トンという大きな四角い石ですが、指の先でぐうっと押すと、初め小さく、次第に大きくゆらぐのです。弥次郎兵衛と同じ原理なのだそうで一点で支えられていると、聞きました。
ペンクラブのアピールを拝見しながら、このアピールが、ゆらゆら、世論を動かし、やがて、政治を石を動かす力となり得ぬものか、50トンの「ゆるぎ石」を揺らす指先のようにと、おもいました。
お咳が早くおさまりますように。
ベランダの著莪が、はやくも、一りん、咲きました。 つくば
* 多聞丸(楠木正成の童名)が指一本で釣鐘を揺らしたという絵本での話はいたく記憶にのこっているが、その寓意は理解できても物理学の証明は知らないのである、今だに。「ゆるぎ石」の方は何となく。釣り鐘であれ揺るぎ石であれ、ペンその他の各組織のアピールが動き出して目に物見せてくれるといいがと願わずにいられない。どうせだめだから、では、いけない。今朝の「小闇」の私語でわたしが褒めたいのは、投票率をあげるために都知事選に行ったという一言。ありがとう。母の死んだ当日にも妻と交替して総選挙に行ったわたしも、今回は、からだを運べそうになく棄権したのである。
じっとしていると静かなのに、少しからだを平行移動させると、敏感な番犬のように咳が吠え出す。
2003 4・14 19
* いまやすもうという時に、遠くバルセロナからメールが来た。これは、力のある声だ。
* game over 2003.04.21 どうしてか、親戚の集まりに拒否反応を示してしまう。考えている程悪い時を過ごすわけではないのに、気持ちよく出かけられた事がない。機嫌が悪くなって損するのは私。なんとかしたいと考えていたら、ふとある夏の経験を思い出した。下を見て励まされるのは、あまり好きではないと思いつつ、それでも励まされてしまうほど、あれは強烈な経験だった。
その夏の盆、当時の彼の里、九州の小島に渡った。母親の手一つで育てられ、東大、一流企業に進んだ彼が、島の、母親の輝く星であることは誰にも想像できた。けれど、三十過ぎた息子が彼女を連れて島に帰郷する意味まで、当時の私は考えなかったし、考えたくもなかった。
蒸暑い夜を、彼は客間に、私は母親と床を並べて過ごした。お勧めの洗剤を使った洗濯の仕方から、大学院をやめるつもりはないのかの質問まで、された話は具体的だった。食事もお風呂も男から。料理を運ばれる先から、一人でどんどん食べ始める彼に、私は目を疑った。お盆に親戚が集まれば、母親と嫁が台所を離れるのは、男子供が食べ終わる頃。かろうじて後者に交ざったものの、私の膳は私がよそい、どこにいても何をしても居心地悪かった。
間違いない。その母親にとって、私はもう嫁同然だった。
この人とは結婚できない、と思った。
「私は、自分の子供には、食事は皆が揃って食べ始めるものと教えます。その母親が、父親の里では皆が食べ終わった後でしか食べにこないとなると、子供は疑問を持つでしょう。その時どうしますか?」
「子供も話せば、世の中には色々な家があるってことを分かるはず。」
「私が嫌だと言ったら、どうしますか?」
「お願いして、我慢してもらう。」
この人とは分かり合えない、と思った。
2003 4・22 19
* バルセロナから送られてきた次の「私語」も、もやもやしたところを突き抜いている。ただの見聞としてよそごとのようには描かず、自分の体験とともに率直に書いている。顧みて他を謂うだけでなく、訴求力も新鮮さもおかしみも、突出してくる。
東工大の教室でもよく注意した。シラッと上から脇からタダの評論はしないでくれ、いつも自分の立場や座標をこそ突き抜く気持で批評してくれと。それで文章も生動してくる。
* あるヌードの情景 2003.04.22 バルセロナ
水泳の授業は好きだったが、着替えが嫌だった。コンクリート剥き出しの暗い四角い空間は収容所を連想させ、鼻腔を塞ぐじめじめした感触は、足元からもひんやり這い上がってきた。着替えが嫌な理由は、一つ更衣室にあった。
さらに嫌だったのは、着替えそのもの。タオルを巻きスカートで隠しながら、時には早業を使ってみる。脱ぐ順番を間違えてはダメ。ズボンが多かった私は、それだけタオルを巻く回数も多くややこしかった。だから、泳ぐのは好きだったけれど、着替えは嫌いだった。
ところが6年前、留学中のドイツで、あるショッキングな光景に出合った。
待っていた友人のいる合気道部が終わり、彼女に連れられて更衣室に入った。着替えの邪魔にならぬよう、ベンチの片隅にちょこんと腰掛ける。その私の目の前を通り過ぎたのは、何を見間違えよう、巨大な裸体だった。信じられぬ気持ちで目を伏せると、友人が服を脱ぎながら話し掛けてくる。祈る気持ちで顔をあげたものの、彼女は私の目の前で最後の一枚を脱ぎ取り、「ちょっとシャワーを浴びてくるわ」と消えた。気がつけば、更衣室の中を幾つもの裸体が往き交っていた。
見てはいけないものを見てしまった。しばらくは、そう信じていた。素っ裸の女性たちが、服を着ているときと変わりない様子で、更衣室を歩き回っている。私にはあまりにもショックで、それを見てしまったことすら申し訳なく思った。
着替えはオープンに。それが当たり前であることに気がついたのはいつだったろう。もう憶えていない。毎週末行くバルセロナのプールも同じ。私にも、もう戸惑いはない。
友人にその話をしたら、不思議そうな顔をした。「更衣室って、男女分かれているのでしょう。じゃあ、なんで隠す必要があるの?」
確かにそうなのだが……
* 銭湯の女湯なんてどんなだろう、か。もっとも昨今の温泉風景をテレビなどの写真で見ていると、タオル巻きで、時には水着で入浴している人達がいる。あんなの、へんにきたならしく興ざめであるがと、此のわたしは思うなれども。
2003 4・23 19
* あちこちからメールをもらっている。
* こちら、あまり元気とは言えませんが、相変らず何とかやっています。気がつくと一日が終っている感じの、とにかく忙しい毎日の授業と雑用に加えて、昨年の夏ごろから手伝い始めた宮沢賢治全集の総索引語彙抽出で、このところ、気の休まるときがありません。七月の終わりに、小さな学会での研究発表も頼まれているのですが、これも、いい話題をと苦しんでいます。
GWに、友達が、当地に来てくれるかもしれないのを、楽しみにしていたのですが、飛び石連休のため実現せず、たいへん残念な思いをしています。たぶんGWは、索引の仕事を中心に過ぎてゆく事になるのでしょう。それにしても20年近く全集編纂に関わってきた人たちと一緒にする仕事なので、蓄積の差を思い知らされる事ばかりです。
仕事から離れて、うまく気晴らしができるといいのですが、そんなふうに器用なタイプではないので、ますます自分を追い込んでしまうのが、困ったところです。
話は変わりますが、先日、お送りいただいた『東工大「作家」教授の幸福』のなかで、井石淳くんの「すわりんぼ」についてのエッセイを、とても懐かしく読みました。先生が、あの小説を授業で紹介された頃には、僕もまだ小説家になりたいと思っていて、拙い作品とも言えないものを書いては、先生に読んでもらったのを、思い出します。文芸科の機関誌「蒼生」にレポートを推して下さる速達のはがきをいただいたときの気持ちが、不意にどこからか甦ってきました。
僕ももうすぐ四十歳になり、この年齢になると、これからの自分が進む道筋のようなものが、自ずと決まってくるように思います。ぼくは小説家にはなれなかったけれど、たぶん宮沢賢治を中心とした批評・研究活動を続けていく事になるでしょう。そのためにも、今回の全集の索引の仕事を何とか乗り切りたいのです。
今日、当地はちょっと寒々とした天候です。このところ気温の変化が激しいようなので、先生も、お身体にくれぐれもお気をつけ下さい。あまり風情のある文章ではありませんが、近況報告として、思い切って、お送りします。
* 早稲田文藝科の昔の、若き友人。こつこつと気の入った仕事で存在を示している。文運あれ。あの二年間の、彼は、彼女は、みな、どうしているだろう、文運あれ。
2003 4・24 19
* ありがとうございます。
次男が勤め先から持ち帰った風邪がうつり、軽い症状が続いています。
実は昨日の朝メールを送ろうと思いましたが、例によってぐずぐずしているうちに、夜、逆にメールを発見して、その偶然に少女のようにどきどきしてしまいました。同時に、もっと早く送るべきだった、と思いました。
時々ホームページを覗いて、若い人たちとの交流を眩しく、本当にまさに眩しく、拝見しています。昨日の朝バルセロナからの game over を読んで、なんとなくふうっとお話しできそうな気がしたのです。結婚以来何かにつけ私を身構えさせる、ある感情を。
バルセロナの彼女は賢明だったのでしょうね。一方で、年に数回の里帰りの時だけのことだから、とあまり深く考えない人も多いのではないかとも思いました。でも時間をかけても変えられない根源的な違いを、彼女は彼に感じたのでしょうね。彼女から見ると私などはさぞ節操がないということになるでしょう。
エンジニアの父は九州出身でしたが、因習や慣習に全くとらわれず、私たち姉妹4人は母中心の自由で楽しい家庭で我が儘勝手に育ちました。環境としては言うことなく、成らないことがあるとすればそれは本人の努力不足、と自覚していました。4人とも成長し大人の話もできるようになって、でもまだ誰も結婚していない頃、よく 「今が一番楽しい、幸せね」 と言い合っていました。
入社の内定通知が来た直後に母が発病し、3ヶ月後に亡くなりました。これは、もう世の中にこれ以上怖いものはないと思ったほどの衝撃でした。2年後、結婚いたしましたが、母の死が大いに影響していたと思います。
特定の政治思想を持つ彼との結婚については、相当考えたつもりでいました。周囲にはそのほか学歴、家庭環境などの違いを挙げて将来を危惧する声も聞こえましたが、特別強い反対はありませんでした。父はひょっとすると自分の再婚話で手一杯だったのかもしれません。
以後34年。
「長い結婚生活の間一度や二度は離婚を考えたことが・・・」とはよく聞くセリフですが、とんでもない、私などは少なくとも100回はあります。短気な私は喧嘩のたびにそう思うのです。夫は気づいてないでしょうが。
口論の原因の根を探っていくと殆どが思想信条ーーというより組織の内か外かの問題です、おそらく(というのは私は勉強不足で詳しいことは知らないからです)。そして極端なことをいうと、万一政治形態を選択するような場に遭遇したら敵対することになるでしょう。そういう二人が夫婦でいていいものだろうか、と悩みます。いまさら、ですが。 その上、自分も賛成していないのに、それへの批判を聞くと一種の痛みを感じてしまう、これがかなりきつくて、事あるごとに身構えてしまうのです。離婚を考える度に、一人になったらさぞ楽になるだろうなーと思います。
さらに私の肩を重くしているのは、このことを誰にも話せないことでした。彼を知る、あるいは知っていた人に話すのは夫に対して礼を失するし、身内には心配を押し切った自分の意地があって・・・。夫が悪いわけではなく、分かり切っていたことを私が選択したわけですし、日常的には夫として父親として合格点を軽く越えていますから。
秦さんにお話しする決心をして少し気が軽くなって、次男と二人だけの昨夜の夕食時に初めて息子にこの話をすると、「難しいことはわからんけど、うちの場合は思想の問題というより性格の問題でしょう」 と片づけられてしまいました。うちの息子はこの程度です。
さて、連休がもうすぐですね。結婚以来なぜか5月の連休には我が家に私の姉妹家族が集合する習慣になり、毎年16,7人の人間が出たりはいったりするのです。最近は姪や甥の家族が増え、こちらも年を取ったこともあってとても大変です。今年はさらにうちの長男に家族が加わり、どうなりますやら。
楽しみでもあり、億劫でもあり、です。
ではまた、お身体お大切に。 千葉県
* こういう流露感にあふれた述懐にふれると、わたしは、書かれてある中身以上に、書いた人の人柄を懐かしく想像してしまう。ながい文通で身内のように知り合っているようで、こんなことも初めて聞くほど、何も知らない。逢ったこともない。だが、こうして、ひとつのゆっくり空間が「闇」をへだてて生まれてくる。
小闇@バルセロナの「game over 」には、ほかにも共感の声が届いていた。きっぱり書かれていて、人の胸をいろいろに打ったのだろう。
2003 4・24 19
* 雨の夜 目覚めたのが、深夜、また、夜の明ける前。そして、雨音。幸せな心地がします。今朝のように温潤な雨の夜は、特に。
「清経入水」を読み終えた昨日、すぐさま、最初に戻って読み返したくなった思いを押しやって、「三輪山」に、寄り道しているところです。このところの気候では、あの辺りは、きっと、時を忘れて佇んでしまう、美しい景色のはずですから。今は止んでいますが、今夜から、また、雨の予報。
小雨降る山の道、せせらぎ、谷あい、滝、青葉…好い時節です。
* きつね この週末にオープンする和泉市のホールは、こけら落とし公演に、文雀さんの「葛の葉」や、文枝さんの「天神山」を出すそうです。どちらも「身内」を想う演目で、しかも、好きな演者。ヤッター!
ちょうど、青磁花生「万声」をはじめとした名品が、和泉市久保惣記念美術館で展示されているところですし、葛の葉神社も、行ってみたかった。来週、信太へ行ってきます。
来月に大阪で行われる萬狂言も、「狐づくし」。佐渡狐、釣狐、狐塚…これは、ちょっとしんどいなぁ。
* いま、一服の清涼剤。十一時半。
2003 4・25 19
* 一年ぶりに里帰りをしてきました。
車中で読ませていただくつもりで『中世の美術と美学』を持参して。難しいながらも自分なりに読ませていただいてます。能の「葵上」は姿なき光源氏がかげの主役 霊の鬼面には極度の悲哀を鑑賞しなければとのこと。昨年の秋に観た能「葵上」を思い出しました。
受験のための歴史・文学でしたから 院政百年・白河上皇などほんのすこしは分かっていても 歴史も文学も苦手な私に興味を呼び覚ませてくださることが とてもうれしいのです。「これからでも遅くない!」と自分に言い聞かせてゆっくり ゆっくり読んでいます。躓きながら 読書の手ほどきを教えていただいているようです。
下巻の方には 「十牛」の絵が掲載されているのを見つけて 早く読み進まなければ! と時に焦ります。
去年の里帰りも丁度この時期でした。沿線から見える山桜の見事さに心奪われ 今回もこの時期を選んでの<ふるさとへの旅>となりました(親孝行を兼ねて)。
JR常磐線の水戸を過ぎる頃から 北へ向かう沿線の左右は松や杉の間に木々のやわらかな新芽の色合いがやさしく迎えてくれてうれしい。やわらかなみどりと山桜のふるさとはまさに『穆々仲春』でした。四月半ばからこの時期まで 山桜がたくさん咲き出します。高萩あたりから 勿来 いわきまで。。。もちろんその先も咲いているのに違いないのです。見え隠れする海岸線もなつかしい!
その突端にも山桜が咲いているのを見ると 潮風にも強いようです。
”吹く風を 勿来の関とおもへども 道も狭(せ)に散る 山桜かな”
昔から たくさんの山桜が咲いていたらしく いろいろな色合いの山桜が楚々として咲いています。微妙な山桜の色を数えてみました。ピンク・薄いピンク・白・薄みどり・・・ひとーつ ふたーつ・・・八種類ぐらいの山桜の彩り。それに加えて葉っぱの色も異なります。(表現力の乏しいのが残念です。)
四月はじめにソメイヨシノを楽しみ! 今 山桜のやさしさに満たされました。このあたりの真冬は葉っぱのひとつもない木々の姿もたまらなくいいのです。(水戸から水郡線で郡山へ向かう沿線はもっと良く。)これからは山藤の花も楽しませてくれます。
大津港あたりに来ると 五十年も前の遠足(小学校二年)を思い出していました。五浦海岸の荒磯の突端にある岡倉天心の別荘・六角堂に腰掛けたこと 雨が降ってきて別荘に上げていただきお弁当を食べたことなど 今となっては貴重な経験。岡倉天心がどんな人か 横山大観の五浦海岸の絵などを知ったのは高校の遠足で再び訪れた頃のことでした。
山桜の見事さをお伝えいたしたく 長々と失礼をいたしました。奥さま共々ご自愛くださいますように。 愛知県
* 読者の一人一人と、学生達の一人一人と、友人の一人一人と、(亡兄恒彦の好きな言葉であったが)「個対個」で「一緒に生きている」という気持は、安らかである。「個対個」も、向き合うというより、横に並んで同じものを一緒に観るといった気持でいる。するとこのような海山花の景色が、またわたし自身のものとしても眺められる。
2003 4・27 19
* なんとか元気とはいえるかどうか疑問ですが、できる限りのことはしております。いろんな面で行動にも出だしております。ご心配おかけして申し訳ございません。今はやるべきことをやる、というスタンスで無理に出るようなことはしないようにしています。まだ病気は完全ではないですが、毎週道場で子供たちを稽古して、そして再び勉強もしております。無理はしないようにしています。恋愛もできればしたいので積極的に行動にでたいと思っています。
人間悪い事もあれば良い事もある。みんな同じですよね。それをどうとるかは本人次第なのですよね。
自分が甘いことは承知です。開き直ることもある意味必要なのかもしれませんね。
過去のことが相変わらず忘れられませんが、これも時間が解決してくれることを待つばかりですが、それと同時に新たな出逢いを探したいと思っています。
ご心配おかけしてすみません。でもメール頂いて非常にうれしかったです。ありがとうございます。
“道”はありますよね。
* 水面に浮かび上がろうと藻掻いているのが、いたましくも有るが、この藻掻きの力の中に生まれてくる「道」のあるのを、信じている。藻掻くのは生命力のある証拠。
ひとつだけ、「やるべきことをやる」というこの「べき」に足を取られないといいと思う。そんな「べき」というほどのことは、誰にだってぞろぞろ有るわけがない。とらわれないで。
腹が空いたら飯を食い、渇いたら茶をのむ。腹が立ったら怒り、面白ければ笑う。こういう「行為」は、「べき」ことではない。自然の行為であり、自然に従うのは安らかである。「べき」に拘泥すると不自然な「行動」に出たり走ったり無用に頑張ったりしてしまうが、心身のやや休息と平静を求めているときは、殊にそれは避けた方がいい。その程度のことで坦々と歩いているうち体力も気力も湧いてくるだろう。この人に言うというより、自分自身にわたしは言っている。
2003 4・27 19
* 春も晩れ、藤、菖蒲、露草など、寒色系の花が美しい時期となりました。勘十郎襲名で賑わった文楽劇場も、今日が千穐楽。「妹背山…」が出ています。
先日の観劇では、住大夫が言う、定高の台詞「お役目ご苦労に存じますゥ」の語尾が、実際の吉野川を見たせいで、より、リアルに聞こえました。
定高が散らした、桜の花びらが川面に流れ、転がる雛鳥の首。唐招提寺の庭の苔に、一輪落ちた深紅の椿を思い出しました。
落ちてなほ黄の蕊抱く椿かな
蕊を護り、諸共に。命尽きても、倶に居る、幸せな花だったンですね。
* こういう便りが入ると、はっと、我に返る。
2003 4・27 19
* 明日の午前中に不細工に梱包された宅急便が届く予定でございますが、あやしい物ではございません。日本酒の「空」を送らせていただきました。届きましたら、すぐ冷蔵庫にお入れくださいませ。
以前岡崎に住む東工大の卒業生の方でしたか、「空」を手に入れてお送りしたいと書いていらしたのを拝見して驚きました。「空」は私の夫が時々仕事関係の方からおみやげに頂戴するのです。昨日も夫が「空」を持ち帰りました。「空」は個人で手に入れるのはとても難しいお酒だそうです。購入してお送りすることができませんので、いただき物で大変失礼とは存じましたが、本日送らせていただきました。卒業生の方が何とか手配されるまでのつなぎとして、先生に味わっていただけましたら幸いでございます。
冷酒として味わうお酒のようですが甘口です。先生のお好みは辛口と想像しておりましたが、『おもしろや焼物』の中で、
甘口の酒を温ため、好きな相手と宵寝の枕辺に水がわりに据えて、さしつさされつ寝腹這いで酌み交わせたら「最高」だろう
と書かれていましたので、甘口も召し上がることを発見いたしました。私もいつかこんなことをしてみたいと憧れるのですが、幸か不幸か相手がおりません。(この状況は夫婦というより不倫が似合います。)
「空」は蒸し暑い夏の宵に、縁側で団扇を片手に涼みながら、ガラスの酒器で味わうすっきりしたお酒という印象でしょうか。気の晴れぬことの多い世界を忘れて、しばらく酔われますことを……。 東京
* ちょうど「成政」の一升を干したところへ、嬉しいこと。
いろんなお酒がある、ほんとうに、いろいろある。わたしの好みなど、たいして違いの分かる人でなし謂うほどのことはない。それよりも体調と情況。真清水をひくように飲み、しかもほうっと酔いの深いお酒が嬉しい。「空」か。何だろうと、言葉で言い表したくない、感じたい「空」である。
岡崎の読者から朝の一番にメールがあった。卒業生が岡崎で研究生活をしている。岡崎から出て姫路で暮らしている久しい読者もいる。そして岡崎の清酒を下さるという。嬉しい偶然ではないか。
2003 4・27 19
* 飛び石の狭間の今日、最高の天候ですね。もうお酒も美味しく飲めるようになりましたか。
飛び石といえば平安神宮の神苑と円山公園が浮かびます。まあ、贅沢な遊び場でした。
昨日息子宅に電話をしましたら、京都の泉涌寺までお墓参りに行ってくれていて、青紅葉の美しい南禅寺にも寄り、孫達があの階段を大はしゃぎをして上り下りして遊んだと云います。子供の頃に連れて歩いた同じ道を、子供が子供を連れて楽しんで、そして歴史好きの苗床が作られるようです、京の昼寝。
桜の時期も過ぎて、不思議な程京都は静かだったといいます。
* 南禅寺の「あの階段」というのが分かりにくい、が、やわらかい新緑の京都は、花にも紅葉にもひけをとらない。西の龍安寺というと石庭ととびつきやすいが、外の、あのひろい池庭を池をめぐって胸郭をひろげるように深く呼吸してそぞろ歩くのが佳い。妙心寺という禅寺も境内のそぞろ歩きに佳い。人っ子ひとりいない風だけのそうそう流れる文徳天皇陵の門徳池の界隈、鳴滝の山辺もなつかしい。
* 名酒「空」到来、忝なし。楽しみ。
2003 4・28 19
* これは考えさせ、また驚かせる一文であり、ウイーンで在外公館員を体験し、今は大学院生活をしているらしい甥の北澤猛の意見なども聴いてみたい。
* 犬の遠吠え 2003.04.27
大学に入って驚いたのは、一人一人の学生に「東工大生」という強い意識が感じられたことでした。今思うと、最後まで自分の大学に微塵の誇りも感じられなかった私もどうかしていましたが、彼らの様は当時の私に「驕り」としか映らず、彼らの成すこと話すことが青臭く耳につき鼻について仕方ありませんでした。私は、自分の大学名を出さないこと、学問の話をしないことに異常な気を遣い、そのせいか、大学6年間で学んだことはすっかり忘れるという、計り間違えた結果を招くことにもなりました。
そんな私でしたが、ここ最近、あることに気付くようになりました。知識のある人がその知識をひけらかすより、知識のない人が知識があるように取り繕う方が、遥かに始末が悪いということを。東工大生は確かに鼻につきましたが、今思えばそれだけ勉強し研究し、その分野に関しては誇れるものを持っていたと思います。
こんなことを言いながら、私の周りは、実は大学に行くことが当たり前な人々の集まりでした。私の属してきた社会がどんなに小さかったかに気づいたのは、実は、海外の在外公館に勤めるようになってからのことです。
いわゆる「外交官」と呼ばれている人々の3分の2が高校卒であることを知ったとき、正直、私は自分の常識が覆されるほどの衝撃を受けました。高校卒だから、外交官試験に受かっていないから悪い、そんなことを言いたいのではありません。人間には、そのようなものだけでは測れない部分があることを、私たちも心のどこかで認識しているはずです。
問題は、高校卒業後、学問にも技術にも芸術にも政治にも経済にも何にも関心がなかったため、解雇されないと言う理由で安定した公務員を「利口に」選んだ人が、海外勤務を希望したことによって簡単に「外交官」という肩書きを手に入れてしまえることにあるのです。
それを機に外交官らしくなろうとするのなら、まだ救いはあるでしょう。それもせず、自分の中身のなさが露見するのをひたすら恐れるがため、ただただ虚勢を張り、人を罵倒し、侮辱し、重箱の隅を突いてみせる。それが、一外交官のすることでしょうか。困っている旅行者を馬鹿者、日系人を犯罪者、西欧人以外の女性を売春婦、芸術家を詐欺師呼ばわりすることで、自分を保とうとしているその人が、一体「外交」の「ガ」の点点ほども役立っているというのでしょうか。
「芸術なんていう無意味なものには、何の関心もありません。あんなものに一銭でも払うのは、どぶに金を捨ててるようなものです。」この言葉が、以前文化担当だった領事の口から吐かれたとき、私は顔から火が吹くほど恥ずかしくなりました。一体どんな顔をしてここの国の文化に貢献する要人に会い、一体どんな話をしてきたというのでしょう。 私たちの多くは無知にも、ほんとうに無知にも、こういう人たちにぺこぺこし、こういう人たちと知り合ったと言っては喜んでいるのです。その人の言うとおり、その人たちはある意味で勝者かもしれません。今までその人たちをばかにしてきた人々や世の中を、今「外交官」と言う立場で見返している気分になっているのですから。
不適所不適材。そういう人たちが能力を遥かに越えた地位についてしまうことの弊害と、そういう人たちが権力を持ったときの恐ろしさを、今ここで身に染みて感じています。
* 腹に据えかねた感じが露出している。「犬の遠吠え」という題が批評なのか自嘲なのか、批評なのだろうが、その裏に一抹「ごまめのはぎしり」という口惜しさもにじんで読めるのが、本当にせつない、じれったい。反射的に川口大臣の冷え切った不感症ふうの表情が脳裏を腹立たしく去来する。
2003 4・28 19
* 3月の歌舞伎、先生と同じ日だったこと、びっくりしました。私は源氏物語は現代語訳もまだよんでないのですが、まんがの「あさきゆめみし」というのは読みました。どれほどまんがの作者の思いが入っているのかわかりませんが、「あさきゆめみし」で、一番すきだった女性は浮舟でした。
ちょっと前に、本屋さんで、ふと与謝野晶子の源氏物語が目に入ったので、買いました。読み始めたところです。
勧進帳、弁慶がかっこよかったです。ごっつい人だという印象はなかったのに、弁慶がとても大きく見えたので、「幸四郎」が、あの松本幸四郎だとしばらく気が付かなかったほどでした。(すみません、素人をとおりこして、一般常識もないもので。。)。あたまを上下(前後?)させて、感涙にむせぶすがたが印象的でした。
最後の花道にかかるところで、女の人が「まってました!」と掛け声をかけていて、思わず私も、2階席で立ち上がって見ました。
三番叟の染五郎、ああ、若くていいなあ、と思いました。
湖の本のあとがき、読みました。嬉しかったです。
被害者意識が強い、人に求めるばかりで自分からは人に与えない、ともかく自分はケチだなあ、年齢的にもそろそろもらうことより、与えることに重きをおかないと、行き詰まってきているなあ、と思ってた折の「一樹百穫」でした。最近は、そういったことを意識しています。学生時代に先生に蒔かれた種は、ようやく私の中で芽吹いてきたとも感じます。学生時代、先生が多くの女子学生に感じてた、しっかりとしたもの(具体的な生活の体験や観察からきたもの?実感?)は、自分の中には乏しかったように思います。他の多くの男子学生に感じていらしたように、私も、こころもとない、というか、何も見えておりませんでした。当時、(生涯を学年暦に譬えると)現在の自分は4月の1-2日を歩き出したばかりと答えていたし、ほかの、「お題」には、何を返答していたのか、まったくおぼえていません。学生時代の友達に、あのときあなたこんなこと言ってた、とか、こんなことあなたにに言われた、というのを聞いて、何も覚えていないけど、そのとき言ったというなかみを聞いて、意外と変わってないなとは思いますね。最近は、先生に出したメールも、人に話したことも、よく覚えているように思います。
話はかわりますが、実は、この間の(千葉)県議会議員選挙、行けない理由も投票したくない理由もなかったのに、行きませんでした。(投票したい人もいませんでしたが。)昨日は選挙があることも、当日まで気が付かなくて、すでに予定を入れており(おつきあいしている人のお誕生日をお祝いしました。今日で31歳です。私は先月31歳になりました。)、選挙にいきませんでした。
県議会の時は、とうとう投票にいかなかった私を見て、父に、「おまえはすじがとおってないから、自信も持てないんだろう」と言われて、「だってめんどくさいものはめんどくさいんだもん」などと、わけわからないこと言っているそばから、父の言う通りだと思って、反省しました。
どうも、何をするのも腰が重くて、もともと覇気はないのですが、さらに、生活の乱れが、そのまま精神や身体の不健康となってでてきている気もします。思い返せば、学生のころから授業はさぼってばかり、さぼってなかった先生の授業も遅刻の常習犯でした。逆に忙しいときに、調子づいた勢いにのって、あれもこれも一気にやりすぎる、ということもあります。
大変遅い自覚ですが、健全な生活、日々規則正しいリズムをつくる、といったことが大事かなと思い始めました。もともと自制心ということばが自分の辞書になくて、なにかに夢中になると、気の向くままにのめりこむ、あきたら、次のことにどっぷりつかる、という傾向がありましたが。よくここまで会社勤めをしてこれたものです。それに、そういったことは人から言われて知っているはずなのに、やっとそうする気になるなんて、ずいぶん頑固なものです。自分のことながら、おかしくて笑ってしまいます。
最近、『経済ってそういうことだったのか会議』という本を読みました。竹中平蔵さんが大臣になる前、佐藤雅彦さんという人と一緒に会議をした内容をまとめた本です。2000年に出版されています。今まで、経済、金融、そういった方面の話は、用語を聞いても、まったく自分の感覚を刺激することなく、そのままもう一方の耳から抜けていってしまうし、うさんくさそうだなあ、と思っていました。しかし、この本の冒頭で、「佐藤さん、エコノミクス(経済学)って、もともとはどういう意味かわかりますか」「佐藤さん、エコノミクスって、ギリシャ語の”オイコノミコス”から来ているんです。オイコノミコスとはどういう意味かといいますと、共同体のあり方、という意味なんです。」ということばで佐藤氏がだまされてしまうように、私もころっといってしまいました。
その後は、お金とは何?、税金とは?、株とは?、アメリカとは?といった素朴な、根本的な問いに対して、定義というよりは、感覚的にわかりやすく、説明してあります。それ以来、新聞やニュースから自分の中に入ってくる情報量が増えました。
そういう目でみると、今まで、イラクとアメリカの戦争に関しても、経済的な思惑等により強行した、といった側面が、前よりはっきり見えるように思えます。しかし、何を知ったとしても、自分の立場では、この戦争には反対。自分の愛する人が、建前上正義ということで、だれを責めることもできず、本音の部分はベールにつつまれていて、責任の所在も、自分の立場も明確にできないまま、一部の人間に利用されたような形で殺されてしまうなんて、許せない。
決断をしたリーダーは、それほど、がけっぷちにたたされていたということでしょうか。確かに、大きな企業、地域、国家をしきる人となれば、常にがけっぷちにたっているようなものと思います。そういうときに、まちがった判断をしないために、宗教などの力を借りる、というのは、一つの方法かなとも思います。「平和のモカシン」にも共感しました。
犬の遠吠え、読みました。「知識のない人があるように取り繕う」、のは、ほんとに大変です。(実感。笑。)バルセロナの小闇さんの、一期一会、素敵ですね。バルセロナで感じていること、が、私にもとても新鮮です。「ヨーロッパ人は休むために働き、日本人は働くために休む」=「ヨーロッパ人は仕方なく働き、日本人は仕事を楽しんでいる」も面白かったです。
でも、私が以前みたイタリア人、フランス人、スイス人、みな、仕事の比重は日本人より小さかったですが、仕事も非常に楽しんでいました。むしろ、日本人より楽しんでいると感じました。サンフランシスコに1年、2年の期限付きでやってきていたヨーロッパ人で、特殊な環境だった、というのもきっとあると思いますが。
そういえば、着メロ・ママが * * ちゃんでしょうか。彼女はほんとにゆったりしていますよね。自分はとてもせっかちなので、学生時代は、 * * ちゃんといると、まったくテンポがちがって、転びそうになってあせるときがありました。笑。ゆったり、こころ静かに過ごす(=定常的に)のは、難しいです。何かに気付いてしまえば、簡単なのかもしれません。
また、メールします。 千葉県
* 話す言葉を学生は持っていないと「先生方」は慨嘆されていたが、急所を針でつつくと血しぶきするほど、とめどなく出てくる感想を若い人ももっている。この人ももう学生からすると若くはない。が、まだ若い。
* 嫉妬 2003.4.27 ねえ嫉妬について書いてみてよ、と言われたのを覚えている。わりと最近の話。たぶん男女関係の嫉妬について、という意味でそのひとは言ったのだと思う。けれどもっと広い嫉妬についてその昔、書いたことがある。階段状の大教室、教壇から向かって左側前から5番目か6番目の隅の席で紙片に書いたことがある。
「自分の能力や努力を超えたものだと痛烈に思い知らされる。限界を知らされてしまったやり切れない気持ち。それが自己消化できず、嫉妬という感情になる」。
書いてみてよと言われて即応できなかったのは、その感情と久しく触れていなかったからだ。触れれば瞬時に鮮やかに甦る。
その5枚のファクスは私の私を黙らせるに十分だった。公の私はできることをしたし、それ以上やるのは許されない。けれど感情を支配するのは私の私だ。黙り込んだ私にそばにいたひとは「悔しいんでしょ」と言ったがそれは半分しか当たっていない。思っていることを言ってと言われても説明したくない。
言っても仕方ないことを言えば愚痴になる。思っても仕方ないことに心を割けば嫉妬になる。くだらないことに時間をかけている場合ではない。けれどさらっとは流せない。何事もなかったように振舞えないのは私が小物たる所以である。
* 具体的な事情は鮮明でないが、思いは強く伝わってくる。大物でも小物でもたいして変わることのない機微に痛い針を刺されている。
だれもだれも、まじめに生きている人ほど、胸に苦しい言葉を紡いでいる。この苦しいは、例の良薬並みの苦さと同じだと思っていてもらおう。
そしてこういう達人もいるから楽しい。
* 先生こんにちは。体調はもう大丈夫ですか? 僕はおかげさまでぼちぼちやってます。
5月にアメリカの東海岸でやる学会に行くことになっているので、英語のヒアリングの教材をがんばって聴いていたのですが…あきらめました。まともに役立ちそうな気配は微塵もありません。
ということで、GWは勉強は放っておいて、マウンテンバイクで100kmぐらいの範囲に小旅行に行ってみるか、なんて思ったりしています。会社までの通勤に利用するだけでは、マウンテンバイクも泣いているというもの。
でも一方で、3年ぐらい音信不通だった女の子(ある日突然もう連絡しないでくれといわれた子)から急にメールが来るようになって、旅行に行っちゃうと連絡取れないからやっぱりやめとくか、なんて考え始めたりして、結局予定がぜんぜん決まっていない今日この頃です。
2008 4・28 19
* しばらくの私はまるでなんの欲求もなく、もの考えることを厭い、テレビから流れてくる気分にひたすら身をまかせたり、イライラの解消を過食に求めたり、おぞましい生活ぶりでした。
自分の存在すら隠すような心境で小さく縮こまっていたところに、久しぶりの人とのコミュニケーションが強烈に心にひびいたのも事実で、職場でのただの挨拶も、飴玉を一つ二つもらうことも、自信を取り戻させてくれました。
変わろうと欲し、頭を使うことを思いだし、理想のイメージを描いた、「はじめの一歩」ですね。この位置に戻ってこられて嬉しい。
ここからが問題なのでしょう? 気を詰めていきますよ。
幸福ーー、定義はときどきによってさまざまでしょうが、いまの自身に幸福とは何かと問えば、
「思ったとおりに行動する」
実にシンプルな定義になります。
心と体の実行力を養うことが、幸福を追う日々のテーマです。手始めに、早朝の運動と英語の勉強をはじめました。あまり欲張ると大変なので、まずは続けることを目標に。
* どん底の苦境から「一人」に立ち返り、やっとここまで動き出してきた。よく戻ってきたと喜んでいる。へんに固い殻に逃げ込んで竦んでしまうよりよほどいい。
* 万華鏡をごらんになったことはありますか。麻布十番に万華鏡の専門店があり、なかなか素敵なのです。ご興味がおありかどうかわかりませんけれど、普段、秦さんご自身では訪れる機会がないところに、ご一緒するのも楽しいかと思っています。いかがでしょうか。
* 謹んで辞退。頭の中が万華鏡で、ときに煩わしいぐらい。ことさらに覗きたいとは思わない。ま、眼くらましのようなもの。キラキラ、ギンギラは、己が頭の中の蜘蛛の巣で沢山だ、疲れてしまう。妻は、其処はずいぶん楽しいらしいわよというが、心惹かれるのは静かな闇の方である。
2003 4・29 19
* 銘水 「私語の刻」には最近、小闇さんや教え子さんの力強いメールが載っていて、明快な論調に小気味良さを感じています。
先週ふとしたきっかけから、銘水といわれている水を汲んでみました。住宅地の中にある小さな水汲み場は、棗型の立ちつくばいに、樋から水が落ちているだけの簡素なもの。近所の人が気軽にペットボトルを持って集まり、いつも小さな行列ができています。
普段はそれを横目に通り過ぎるのですが、先日はふと飲んでみたくなり、二三人の行列を待ってみました。私の番になり、樋の横に置いてあった赤いほうろうのコップで水を受け、無造作にごくりと飲みました。いろいろな風味や味を期待していたのですが、その水は拍子抜けするほど何の味もせず、ただ口中に水の重みが広がり、すとんと喉に落ちていきました。
手持ちのペットボトルに水を汲み、持って帰って紅茶を一服、そしてお抹茶を一服。
これがとても美味しいのです。紅茶は紅茶の、抹茶は抹茶の、本来の味がしました。良い水というのはこういうものかと感心しました。なんの変哲もないことですが、うれしくて一筆。
まだ全快ではないご様子。お大事にお過ごし下さい。 札幌
* あとあとまで、うまかったなあ、と記憶される「うまい酒」のうまい理由を、うまく説明してもらった気がする。真清水を含んでのどへ引くような、しかも酔い深く静かな酒の味わいと、この銘水の質のよさとは、通い合っているかも知れない。
2003 4・30 19
* この「私語」が、私、六十七歳の己れのみの述懐や筆録で一貫していれば、年を重ねて、単調な一本調子の繰り返しに陥るおそれは十分有る、それなりに避ける工夫は凝らすけれども。この「私語」の「闇」が、幸い多彩に或る輝きを帯びるのは、何度も言ってきたが、いろんな年齢や地域や背景を異にした「声々の乱反射」で闇空間を彩ってきたからではないか。諸般の事情を考慮してむろん気を付けて選別し調整もしてのことだが、一つには「声の主」もまた自身の声を闇の彼方で聴き直し、そして思い直し考え直していてくれることもある。問題をかかえた若い人の場合、それも大切だ。「みんな自分がいちばんたいへんだと思っているようですよ」と、それとなく示唆もし刺激もできる。二つには、秦さんの「闇」の中ではという限定が付くにせよ、「ああ、さまざまな人の暮らしや思いがある」ということを、おのずと表して、相対化も重層化もできた「闇」の濃さになってゆける。三つには、そうしてわたしは「不徳なれども孤ではない」という安心や嬉しさも得ている。「闇に言い置く 私語」のいわば社会化が可能になる。
そのためには「闇」を埋めて信頼がひろがっていないとお話にならないのである。
2003 4・30 19
* 「大人の言葉」になるにはすこし時間がかかりそうですが、私なりの「小闇」を紡いでみようと思います。逃げるなよと覚悟をきめました。焦りもコンプレックスも覆い隠さず、未熟さを恥じたとしても、ありのままでいいではないかと思うと、急にラクになりました。歳相応のもの(底荷)の欠如(主観的でしょうか)が、私を臆病にしていたのでした。正直言って何を書けばいいのかわからない、
そんなところからのスタートですが、よい鍛錬になりましょう。先に立つお二人の「小闇」のように、力強い言葉をもてるようになりたい。心底そう思います。
ホームページの作り方を調べてみました。結構面倒なんだなあ、というのが、機械に弱い私の印象です。秦さん、スゴイ、と感じ入ってしまいました。 (これは、誤解。秦注) 多分私も、まもなく慣れるでしょうけれど。
というわけで、少し時間をください。
それから、「東京の小闇」のアドレスを再度お教えいただけませんか。実は情けないことに、弱っている間は少々痛くて、読む勇気を失っていました。漬物石のような重たいコンプレックスを抱いています。これはもう仕方がない。
ただ、その気配を感じながら見ずにいるのと、その重みを感じながら自分の方位を見出して歩くのとでは、重量が違うことがわかります。あああようやくです。ほんとうに。
漬物石は他にもたくさん、大小かたちもさまざまに目に入ってきますが、とにかく、もう逃げまい。未熟な自分から逃げまいと、心の底に堅固な石を置きました。自分を大切にしよう。
これは余談ですが、コンプレックスを感じても、嫉妬は感じていないような気がして、ちょっと不思議に思っています。コンプレックスと嫉妬、あまり深くも考えず、いっしょくたにとらえることが多かったですが。「東京の小闇」からヒントをもらい(秦さんのHPから)、自分が渇望するそのものの絶望的な限界を悟ったわけではないからか、と、とりあえずの納得を。
自分の心はなかなか見えません。
* 最後の一行「自分の心はなかなか見えません。」これがこの人の到達であり、これこそが本当の出発点なのであろう。容易でない、こう覚悟して踏み出して行くのが。手探りで闇へ歩んで行く勇気がもてないから、つい「自分の心だもの、自分の心はよくわかっている」と、飾り立ててしまう。この人の書くものは教室の昔からほんとうによく憶えているが、この一行まで、ながくかかった。よかった。
2003 4・30 19
* 家出する娘たちの急増と、危険な誘いの深淵が、テレビで特集される。繰り返し。同じ情況。心寒くなりながら、事態は悪化の道を滑り落ちている。
凄いようなおばさん(実際はすばらしい指導者)が、一家一族の嘆きと怒りの的になり引きこもりと反抗との限りを尽くしてきた一人の娘の、凶暴なほどの暴れを、ピタリと言葉ひとつで抑え込み、説き聞かせ立ち直らせて行く事例も、テレビでみせてもらった。
その一方、エイズの「感染爆発」がひしひしと迫っていて、そのつぶさな情報をスタジオに集まって見聞きする若者たちの、しだいにこわばる表情も、NHK は丁寧に報じてくれた。もう同性愛者や麻薬注射常習者に限局されたエイズではない。若者に蔓延している性行為をともなう無自覚な「付き合い」現象が、すでに感染拡大の基盤になり、局面は、文字通り「普通」になっている。ワールド・ワイド・ウェブのインターネットなみに「感染爆発」を目前にひかえて、或る年代へ来ると、アジアだけでエイズ患者は数千万人に及ぶオソレと、疫学は推定している。悲惨な病症が防御不能に成るであろう人類の危機を明らかにゆびさしている。
ところが、NHKの報じていたデータは、小学生ですでに性体験があり、中学高校ではじつに八割が性行為の体験をもっているとしていた。それも、数人を相手にし合っているという数字の高さ、凄い。対象は仲間内と限らず、巷に溢れ出て、自然よろしからぬ大人たちを相手にしている。性犯罪の常習者や麻薬関係者もいるだろう。性的悪感染の危険因子は、文字通りWWW的に拡大して行く。梅毒等の性病だけでなく、エイズが割り込んで拡がって行く。
* 「親はウルサイ」と、テレビにあらわれる少年少女は平然と、当然のように、その一つだけで自分の行動を自己弁護し、正当化し、かえって胸さえ張ってみせる。
親の存在は、どういう意義をもち、どう働いてきたのか。
大学の教室で、中高校の先生方から最も感銘を受けた言葉をと問うたとき、一人が、「十七にして親を許せ」と、教わった言葉を挙げてくれた。大教室が揺れたのである。
今に限らない、歴史的にも多くの子供たちは「十七にして」最も烈しく(愚かしく)親を許さなかった。つまり親から自由になる本当のすべを知らなかった。反抗し暴発した。家出、暴力、とじこもり、愚連隊、犯罪。真に「自立」していい年齢ではないか「十七にもなれば」と、その先生は教えたのであろう。みな、分かっていて、出来ない、わたしだって例外ではなかったと思う。
だが、もはや瀬戸際までひどいことになりつつあるのだ、エイズの危険、無差別な性行為からくる「付き合い」症候群、犯罪の手に落ちる危険、は。
スタジオに来ていた数十人の若者たちが、エイズの真の怖さを識るにつれ、みたこともないほどの真剣な、ほとんどひきつったような表情に固まっていったのは、強烈な印象だった。自分だけは「べつ、関係ない」とはとても、いってられない伝染の網目の濃さと広さと速さ。
大学高校世代のフリーセックスが人間解放の錦の御旗のようにいわれてきたのが、わたしの三十代半ば、昭和四十年代ではなかったか。そのころ会社の中で、ある入社して間もない大卒青年が、ある同世代の大卒女性をさして、「あれはフリーセックス」だと舌打ちし指弾するのを聞いたとき、ああ、確実に世の中は変わってきていると感じた。言われていたのが、能力のある落ち着いた女性であった。だが、聡明でも何でもないヤングのフリーセックスもそろそろ拡がっていたのだ。インテリが先導していたとすら言えようか。
「この世代が人の親になって行く頃が、いちばん日本は危ない時代になっていると思うよ」と、わたしはよく妻と話し合った。歴然、予言は的中している。
親世代がそうなりかけていた以上、今の子世代・孫世代のそれに拍車がかかっているのは、けだし当然だろう。恋愛不能・付き合い症候群が、早稲田でも、東工大ですらも見えていた。性から先に入って、恋心は後続するか欠落のママ。それでは、所詮はかないのである。
そのようなはかなさをこそ「人間」とみて、その境涯を綱渡りして生きることも「おもしろや」と言う者、いないではない。理解できないことはない。だが、それは所詮「反人間」の転覆を抱き込んだあまりに風流すぎる境涯であり、いわゆるジコチューであるを免れないだろう。ドンファンとはちがう。ドンファンは、真の恋・愛をもとめてつねに飽き足りずに遍歴を重ねる。付き合いのための性ではなかった。
* すこし転記をためらい、しかし、上の話題と関連して、やはり読んでもらっていい一つの親子の衝突だと思うので、あえてより広く遠くの「闇」へも転送したい。この親子に限らないで、視野を現実に広げるなら、厳しい議論が世代によりいろいろと有るであろう。メールではない。公開のサイトからである。
* 報復 2003.04.28
「誰があなたを訪ねて来たと思う?」もったいぶってはみたものの、電話口の母は、私に考える暇を与えなかった。「大石先生よ、あの大石先生。」
大石先生。美人でユーモア溢れる高校の保健室の先生だった。予備校時代、助けられた、この人には。この人こそ、初めて、私が身内の恥を話せた人だった。
高校3年の夏、学校でもませて悪ぶっていた男子生徒と、よく口を利くようになった。誘われて出掛ける回数も増えたが、どうせ相手は軟派青年、私にとっては気楽な遊び友だちでしかなかった。
ところが母親が心配し出した。ことあるごとに、如何に軟派でいい加減な男であるか強調しすぎていたらしい。母には、見かけも電話の応対も気に入らなかった。そこへきて彼は私が好きだと言う。厄介なことになったと思いながらも、卒業を目前に、私は「自然清算」を疑わなかった。
それが狂い出したのは、卒業して日も浅い3月の終り。母親が突然切り出した。
「担任の吉村先生に会って来たのよ、、、お母さん、あなたと××君のことがあんまり心配で心配で、先生に相談しに行ったの、、、そうしたらね、先生も残念だって。あなたみたいな子が××君とつきあうなんて、、、それでね××君の両親に電話します、と言ったら、それだけはやめてください。先生の方からしますからって、、、」
卑怯者。
胸の底の底から沸き上がる憤りは、マグマのように暗く深く沸沸としていた。母はあの時、自らの手によって、18年間培ってきた私との信頼の絆を断ち切った。自分の心の安泰を求めるばかり、自分が犯したことの重大性に気付いていなかった。愚かだった。
「今日が最後。会って分かれてきなさい。」
言われるまでもなく終りにしたかった私は、その日彼と会って、それからの1年、御茶ノ水の予備校で週1回会う約束をした。 バルセロナ
* 広い世間に無数に例話はある。無数にバリエーションもある。これはその一つの告白である。ありていにいえば、これがまさしく「十七にして」親を許した例になるか、許さなかった例になるか、これも意見の分かれる所だろう。この一文はきびきびとアイマイなところなく書けている。ヌケているところも、だが有るだろう。
2003 5・1 20
* 連休の感じもなく日々が過ぎて、今朝はひどい雨風でした。前線が通過して、でもまだ不安定な空模様です。
ボタンの花をスケッチするのに追われています。と言ってもすぐ疲れるので休み休み・・頭の芯が痛くなります。
以前描いたボタンの絵を見るとあまりの未熟さに悲しくなるほど。せめて今年描く絵は少しだけ進歩? しないと・・。何枚描いても、結局は自分の絵なのですが。長谷寺のボタンの光景を思い出しますが、行っても見るだけ・・人が多ければ絵も描けません。花を描き続けていると・・なんで花なのか、という疑問もふっと浮かびますが、しばらくの間は花に追われるでしょう。本を読む時間だけは確実に減ってしまい、これはこれで大いな嘆きなのです。 兵庫県
2003 5・1 20
* いま、ショパンを聴いています。
今日、「戦場のピアニスト」というロマン・ポランスキイ監督の映画を観てきたところでございます。その映画で、ショパンの曲が効果的につかわれていましたので。
第二次世界大戦下のワルシャワが舞台、主人公はユダヤ人のピアニストと申しあげただけで、先生にはおわかりでございましょう。主人公の経験させられた辛酸が。実際にあった話をもととしたそうですが、父母きょうだいのすべてを喪い、辛くも生きのびた主人公、よく、心を病まなかったものとおもいます。彼が多くの人にたすけられたのは、彼のナイーブな人柄、そして音楽、だったとおもいます。
彼を助けた一人、ドイツの将校も音楽によって心通い、いのちがけで、ユダヤの青年ピアニストをたすけました。このドイツ将校は自身「月光」を弾いていましたから、その方面の素養もあったのでしょう。けれど、この、主人公をはじめ、幾人ものユダヤ人を助けたドイツの将校は、戦後、ソ連の戦犯収容所に入れられ、心身を病んで1952年に亡くなったそうです。主人公はこの命の恩人を救うべく奔走したそうですが、叶いませんでした。
平和な時代でしたら、この二人、パブか何かでゆきあい、グラスを傾けながら、音楽談義、ということもあり得たでしょうに。
ワルシャワの爆破された廃屋に、「月光」が流れる場面、うつくしくて、かなしくて、ぼろぼろ泣いてしまいました。これが人間の仕業かと目をつむり、耳をふさいでしまう場面もありましたが、はずかしいくらい、泣かされました。そして、破壊し尽くされた街、路上に転がる、飢えて死んだひと、銃弾を浴びた亡骸に、イラクの街が、ひとが、重なってきました。いつまでたっても、殺し合いはやまない。それが、人間の性とは、おもいたくないけれど、絶望的、今の状態は ――。
よい映画を観たあとのよい気分とともに、こうしたことも思われて。 茨城県
* 東京の小闇の今朝のきびきびした「声」を面白く聴いた。メールの大方は年輩の方たちであろうと察しているが、この人は若い。この番組、知っている。が、いつも素通りしていた。こういう意味合いもあるかと、これは姦しがっていた男としては、一つ喰らった気分。
* 姦 2003.5.1 テレビを見る習慣がない。平日は朝7時からNHK、休日は目が覚めてから起動するまで情報番組か討論番組。そこへ喰い込むのが「おそく起きた朝は・・・」(日曜9時半フジ系)という番組であった。今は昼の時間に移り、「おそく起きた昼は・・・」とタイトルが変わっている。
よくあるトーク番組だ。磯野貴理子と松居直美と森尾由美という30歳代半ば以降の3人が、視聴者からの葉書などをねたに30分しゃべる、というもの。強力にこれを奨めるひとがあって見るようになったのだが、ものめずらしさもあって最初は楽かった。しかしここ1年ほど、独身の磯野と子持ち既婚の森尾、松居という構造がはっきりし、しかも後者こそが幸福というステレオタイプの思想が透け見え、つまらなくなってきていた。最近見てません、と奨めてきた人に言ったのは桜が咲く前だったか。
その推薦人が、前回見た? と聞いてきた。見てないよね、きっと。とも言いながら。「松居直美、離婚したんだってね」。
私の口をついて出たのは「俄然面白くなるなぁ、番組」であった。嫌な奴と思われたかもしれないがまあいい。独身、既婚者、離婚経験者。女3人の関係は、これくらいのほうが、なかにいてもそとで見ていてもスリルがあって楽しい。バラエティ番組ならなおさら。
先日出席した結婚式で、私を含め3人しかいなかった10歳代後半時代の同級生(女)はすべて既婚となった。ひとりは子供がいて仕事はしていなくて、別に彼女を揶揄するつもりはないが、彼女から提供される話題のすべてに私は、職場の同僚からの年賀状に子供の写真がでかでかと印刷されていてコメントに窮するようなそんな感じ。その結婚式の主役だったほうは、まだ子供はなく仕事は続けるようで、それについては私と同じだが、きっと独身時代の彼女とよりも、 DINKSのひとことでくくられる今の彼女とのほうが数多の違いが噴出する。楽しみだ。
女3人寄れば、の「姦」の字で、平日午後2時のホテルのケーキバイキングや新聞の隅に埋め草で載る婦女暴行事件だけを連想する時代は終わった。私はこの「一字」に、観察に値する微妙な人間関係、という意味を持たせたい。 小闇@TOKYO
2003 5・2 20
* その後、経過も良く、昨日無事に退院しました。右目のみの手術で、未だ視力も完全には回復しておりませんが、これも徐々に良くなると思います。
そもそも、眼圧が高いと言われたのは高校3年生の時で、その後、薬を使いつつ10年以上経過を見てきたのですが、昨年くらいから視野が欠け始めてしまいました。
高校の時、硬球を眼にぶつけたから、とか、就職して夜も朝も無い生活をしているから、とか、原因は色々と考えられはしますが、色々考えても仕方ないですよね。
先生もご承知の通り、一生の病気ですので、気長に付き合っていこうと、だからこそ、「眼が悪いので○○は出来ません」とか「△△は無理です」とか、出来るだけ言わないように、と思っています。
何より、ストレスがいけないとのことですので、私の性格上、とても難しいことではありますが、色々考え過ぎずに、やっていくつもりにしています。
取り急ぎ、退院のご報告まで。色々とご心配をお掛けいたしました。
* 今日の一の安堵、一の喜び。
「よかった、先ずは。予後をますます大切に。
わたしも毎日眼圧をさげる点滴を続けています。幸いにも、さて、仕事をセーブせよとか、パソコンはいけませんとか、は、言われず、ああそんなことは特に気にしないようにと医師に言われています。それで、ほっとしていますが、油断はしないようにと気はつけてます。
同病はなんとか言うじゃないですか。緑内障二人三脚で、いっしょに堅実に歩いて行きましょう。君の先はわたしより遙かにながい。うまく付き合って、緑君に暴発させないように。
緑内障は、いわば食い合わせ、クスリの飲み合わせ、つまり禁忌もあると聞いています。わたしは知らなくて気にしていないけれど、分かっていることは避けるべきで。何か先生たちに教わったら、わたしにも教えて下さい。 湖」
* 他の人が担当だった仕事を4月1日から引き継ぐことになり、内容もあまりつかめないまま追われる毎日を送っていました。今日やっと一区切りがつき、落ち着いてメールが書ける状態となりました。
しかし、「元気か」と先生に尋ねられ、「元気です。」と答えられない初めての自分がいることに気付き、そのことにショックを覚えたため、メールがかけなかった、というところもあります。
実際元気はないですね。。。。
現在私の担当しているものは、初の或る社内プロジェクトで、関係者が多く、その調整で、いろいろな状況に向かい合わざるを得ないことになっており、当惑しまくっております。
会社組織のあり方などというものも考えてみたりして、自分にはどうしようもないのか、と力を落としてしまいます。自分がなりたくない姿を見せられつづけることが、こんなにつらいのか、とつくづく感じています。
ヒトには、物事を論理的に考えるのがいかに難しく、さらに、それを他に伝えるのはより難しいということをわかっていて、さらに、不合理があることをわかっていて、さらに、傷つく自分がいます。自分がここでなにをやりたいのか、が見えなくなっていると、感じられてしまっていて、非常に悔しいです。
先生も組織にいらっしゃったので、多かれ少なかれこういう事を感じたことがあるのではないか、と思います。
いやぁ、ほんとぶっちゃけ、どうしたもんでしょうねぇ!!!
PS.物凄く散漫な文章になってしまい、申し訳ありません。送らないことも考えましたが、送ってみます。
PS2.藤村の講演会はいつ行われるのですか? できれば会社を休んで、聞きに行きたい、とおもっています。
* それが「会社」ですよ、伸び上がって行くときには必ず有る・ぶつかる、君の存在以上に「必然の壁」です。仕事を仕上げて行くときには「必ず有る堀」です。珍しくもない障碍です、ほんとうは壁でも堀でも障碍でもなく、それが「通り道」なんですよ。「なんだ、通りにくいけど通ってやらあ」と覇気をもつより、しょうがない。
会社員でいるかぎり、一足一足歩き続ける。苦しいときに走ってはいけないし、立ち止まるのも危ない。自分を観察している自分になり、誰かさんではないが、自分で自分に、ドンドコドンドコ太鼓を叩いてあげるんです。
それと「時間」を味方に付けておくこと。そして何百時間かすれば「通り抜けてらい」と、それまでは雨も槍も勝手に降らせておく。
自分で自分を追い込まないこと。潰れる人は、これで潰れています、例外なく。
君にも言おうか。「みんな、自分がいちばん大変なんだと思っていますよ」と。「いまがチャンスだぞ」と、むしろ小さく励まして、君のために盃をあげましょう。
ps 知った顔が講演会場にいると、アガルからね。フフフ。がんばれよ。 湖
* みどりがきれいです。
秦先生 先生にお見せできるような絵はあるだろうかと自分に問うて、とてもじゃあないけれど見せられないと、恥ずかしく、メールも沈黙してしまい失礼いたしました。もう五月ですね。家と会社と大学の三角関係は予想以上に体力を消耗し、よれよれとしながらも通っています。研究所(=美術の予備校)の頃と違って、比較的サイズの大きな絵を長めの時間をかけて描いています。まだデッサンとドローイングを一点ずつ描いたくらいです。教授のコメントもなんだかむつかしくて、意味が半分くらいわからなかったり。いろんな意味で研究所とは違う所だとわかってきた、今はそんな感じで日々を過ごしています。でも芸大を、もう一度受けようかと心の隅には思っていますが。
* みどりがきれいですね。
まだ、あなたの繪をぜひ観たいとは想わないが、ぜひ観せたい繪はあるのです。その前でもあとでもいいが、あなたにとって、これぞ最良の参考書かもしれず、最良の警告書でもあるものが、在る。あなた、活字を読むのはニガテではないと思うのですが、この機械はadslになっていますか。ダウンロードが早いようなら、送って上げます。しかし観せたい繪はよう送りません。いまのあなただから、藝大に挑戦したいあなただからこそ、観せたい。
一度、我が家へ来れる余裕があるといいのですが。我が家は、わたしと家内と黒いマゴの一匹だけ、狭苦しいが気楽な家ですから、窮屈は全くないでしょう。接待はしませんし。卒業生はずいぶん何人も来ています、これまでも、今でも。その時にあなたのデッサンも観たいもの。
職場にもしっかり足場を持っているのはえらい。ねばり強くやってください。 湖
2003 5・2 20
* 秦先生へ 春らしい陽気な日が続きますね。私は先週金曜に風邪をひいてしまい、ようやく昨日治りました。おかげでゴールデンウィーク前半はほとんど寝ていました。春風邪、あなどれないです。先生も気をつけてください。
さて、今日(二日)はだいぶ気分も良かったので、渋谷Bunkamuraのミレーらの名画展に独りで行ってきました。ミレーだけでなく写実主義の画家の絵が展示されておりました。
ミレーの名画はさすがにすばらしいです。離れてよし、近寄っても緻密に描かれているのがよくわかり素敵です。人の表情も情景もまるで目の前で見ているかのようです。ただ写真でこういう晴天ではない風景を撮ろうとしますと、はっきりしない画像になり、とても見られたものではないです。朝焼け、夕焼け時をねらって写真を色づかせることもできるのですが、それでも赤くなる程度です。
写真と比較してみると、ミレーの描いた風景は写実的でありながらも、作者の意図を独特の色使いで表現しているのではないかと思いました。絵にしかできない芸当です。
先生はご覧になられましたか。もし行かれたのでしたら感想をお聞かせください。
それでは、失礼します。
* この展覧会は観ていない。この卒業生は学生の頃高い山小屋でアルバイトをしていたから、大きな自然や山岳風景をよくカメラにおさめていた。教授室へもよく見せに来た。その体験がミレー鑑賞にゆるやかに繋がっているのが、朝いちばんに飛び込んだメールに印象的。
それにしても、「昨日治りました」なんて明快な宣言、なんと若々しい。富士の裾野の裾野のようにわたしの風邪後遺症は乾性の咳をしつこくひきずっている。妻は医者へ行けと勧めるが、医院のせまい外来は二次感染の方がおっかない。
2003 5・3 20
* 目をやすめ、一息入れる、ねこの額にも及ばぬわがベランダに、いま、都忘れがいっぱい咲いています。順徳院の故事はともかく、すっきりした気分のよいお花。
著莪も次々、静かな花をひらいてくれています。
ところで、「ねこの額」と申しますけれど、狭くはありませんのに、どうしてでございましょう。わが家のねこたち――木彫り、陶製、ぬいぐるみ、銅製、とりあつめましたら、さあ、何ひきおりましょうか――に、問うても返事をしてくれません。これがねこのねこらしいところでございましょう。
先生のところの黒いマゴ少年でしたら……。
* 黒いマゴも、美青年になった。たまたまざらりとソファに拡げた濃い桃色の毛布と空色の毛布とのはざまに漆黒の細身を横たえて、金に黒瞳をまるくみひらいてわたしの顔をじっとみていると、美しさに息をひく。
五月の花は彩り多く種類も多く、テラスにも物干しにも書庫の屋上の土庭にも、隣棟の広くはない庭にも、青葉を奏でるように花がたくさん咲いている。チューリップのように過ぎて行く花も、著莪などの盛りの花も。都忘れもその辺りに。
2003 5・4 20
* アジア人 2003.05.03 バルセロナ
スペインのメディアに対する怒りの電話を受けた。その人は、”SARS”の代わりに使われている”アジアの肺炎”という呼称を聞く度に「はらわたが煮えくり返る思い」をしていると言う。これは、スペイン人が抱くアジア人への根強い差別の表れにほかならない、と。
アジア蔑視は、隠しようもない事実である。おまけに、日本人も韓国人も中国人もスペイン人にとってはみな「中国人」であるから、アジアの中でも別格意識をもつ日本人にとってはさらに耐え難い。それに加えて、自分も他のアジア人を差別している矛盾に気付かされ、その怒りは行き場がなくなる。
“アジアの肺炎”という呼称には、言われてみれば「あそこら辺の訳の分からない未開のアジア」というニュアンスがあるかもしれない。毎日繰り返し聞かされれば、アジア→アジア人→病原菌という連想は生まれるだろうし、メディアなら、その辺配慮があってもよいことなのかもしれぬ。
正義に駆られた怒りの声を聞きながら、この人はここ(スペイン)で辛い思いをしているに違いないと思った。きっと、これまでも、これから先も、この人はこうやって傷つき闘ってゆくのだろう。
例えば一人のスペイン人に不当な扱いをされた時、それを自分がアジア人だから、スペイン人はそういう国民だから、と括ってしまえば、一番落ち着くのかもしれない。人が人を不当に扱う理由はごまんとある。それらすべてに目を背け、「アジア人」「スペイン人」に拘われば、そこから得られるものは、さらなる人種への嫌悪と心の傷でしかないだろう。
西欧に住み、アジア人であるがための差別を経験しなかった人なんているはずがない。差別の理由が「アジア人」だったとしたら何だというのだ。私たちがアジアの人間であるのは、彼らがヨーロッパの人間であるのと、なんら変わりはない。卑屈になって欲しくない。あなたみたいに、存在し得る悪意を受け逃すまいと、そんなに真正面からぶつかって行っては、自分が辛いだけだと思うよ。
* 現場の感想は、抑制されかつ率直であればあるほど、教えてくれる。わたしが逆立ちしても「アジアの肺炎」という表現も、その一語でへこんでいる現地日本の人達の気持ちにも思い届かない。バルセロナの「闇」を越えての声が、このところ矢のようにしっかり奔って来る。
2003 5・4 20
*「初めて一人で暮らした部屋は地方都市の外れ、学校の裏門から畑を突っ切ったその先にあった。新築の2階建てのアパート、106号室。1階で、周りより少し低い土地に建っているにもかかわらず真南に向いた窓のせいで、太陽が出ている限り、部屋の中は白く明るかった。
黄色いカーテン、実家から持っていったベッドとチャンネルを回すタイプの赤い小さなテレビ。白い扉のクロゼットの中には服と本が半分ずつ、廊下に据えられたキッチンには小さな冷蔵庫、その向かいにこれも小さいながらトイレとは別のシャワールーム、隣に洗濯機二槽式の。キッチン右手つまり玄関の脇には大きなすりガラスがはめられた上げ下げ窓があって、そこを開けると部屋には気持ちのいい風が通った。」
東京の小闇が書いている。へえッと声が出た。わたしの新婚の住まいは、市谷河田町の元のフジテレビ裏の崖下だった。六畳一間の中に半間幅で押し入れと同じ深さのガス台の置ける流しがついていた。押入が一間。トイレも浴室も無し。家賃五千円。給料は最初の三ヶ月は八割支給の九千六百円。交通費も自弁。しばらくは、カーテンも卓袱台もなく、ラジオの空き箱に風呂敷を置いて二人で飯を喰った。そんなものだと思っていた。昭和三十四年。
それからどれほど経っているのかな、小闇さんの学生生活まで。眼をまるくするほど豊かで明るい。
娘夫婦が初の新居を長津田に持ったとき、妻と見に行ったが、その豪勢に物の豊かに揃っていて文化的なのに、仰天した。こんなに揃えておかないと結婚できないのかあと、少しは呆れた。
スタート地点での格差は、しかし、先々をべつに証明はしない。わたしたちは、あの凄まじいビンボーから、何の苦もなく社会生活していた、そんな物だと思いこんでいた。今になればあれで、たいへんなトクをした気がする。
2003 5・4 20
* 今日(四日)は、東京へ出ていました。東京行きのバスに乗ったのですが、両国あたりから高速道路が混んでいるとかで、向島から一般道を走ることになりました。
ふだん通らないところを通るのがうれしくて、外をきょろきょろ見ていました。東京の下町といっても、バスが通るようなところは、四角いコンクリートの建物が多く、風情のある風景ではありませんが、地名を読んでいるだけでもたのしくなります。向島は露伴の蝸牛庵のあったところ。今戸は廣津柳浪の『今戸心中』、花川戸、あ、助六! カッカッと、歯切れよい下駄の音も高らかに花道を来る黒の着流しに、紫の鉢巻。
古い地名が残されていたからこそ、こうしたあそびもできましたけれど、失われてしまった地名の多いこと。歌舞伎座のあるところも東銀座。「木挽町」は消えて、いいえ、消されてしまいました。
郵便番号簿を見ていてたのしいのは、京都で。古い地名がどっさり残され、生きている、という感じがいたします。地名のいわれのあれこれ想像されるもの、何と読むのかかんがえてしまう地名……。字引にあそぶ感じ。
都忘れは慈子の花――。齋藤史先生のお宅のご門のところにも、ひとむら、咲いていました。
* 早春、卒寿を数ヶ月過ぎた母を見送りました。心ひそかにこうあればいいなと願っていたような静かな旅立ちだったこと、この一年半、自分なりに手を抜かずに介護したという思いがあって、比較的静かな気持ちでおりましたが、日が経つにつれ居ないことが寂しくなっています。
紅梅の一輪灯り母在らず
俳句は毎月十句の出句に苦しんでおります。ときに完成した形で浮かんでくる…本当に浮かんで来ると言うのがぴったりなのですが…ことがありますが、そういうことは極くごく稀なので。
お彼岸の頃、全くの不注意から左足踝を骨折し、患者さんから見舞の言葉をいただく毎日でした。やっとシーネ固定からテーピング応用の装具となり、歩きやすくなったところです。
「としだから」という言葉を使うと、暦年齢そのものになってしまう感じがするので嫌なのですが、今回ばかりは皆に言われてもやむをえないと思っています。
どうぞ、秦さんもお元気で。 都下
* 風邪もこわく怪我もこわい。跳んだり奔ったりはイヤなほうでなく、むしろ高校頃までは内心得手にしていたのだが、もう、とても無理は利かない。今でも階段を四段ずつぐらい駆け上がる方だが、愚なマネだと思うようになっている。
この人はお医者さん。わたしとおっつかっつの年配だろうと思う。俳句をされていると知ったのはだいぶ前。「ミマン」連載のおりに一句採った記憶がある。
亡くなった秦の両親や叔母のことは、なにしろ家の真ん中に位牌があってひっきりなしに前を通るつど、思い出す。ひと頃よりもずうっと一緒に暮らしているような実感さえある。ときどき、小声で呼びながら通っている。
2003 5・5 20
* もう一つ。遠くへ行って、二年ほども消息のなかった友人が、近況を告げるながい手紙を金澤からくれた。よかった。
2003 5・6 20
* いまどき山口瞳の『礼儀作法入門』を読んで「かっこよく」なろうという卒業生の朝メールに、礼儀にとかく欠ける秦サンはびっくりした。「さからはず家業の大工となりし子に( )儀作法を強ひるな妻よ 前田米造」という短歌を思い出す。断然「礼儀作法」と多くの学生は答えたが、原作は、行儀作法。行儀はたいせつだが、礼儀にはとらわれ過ぎるなと教室で放言したかもしれない。くさい偽善に陥りかねないと今でも思う。
2003 5・7 20
* 霑 博物館の難波宮のことや、信太の森を訪ねたことなど、メールしたいと思っていたのですが、このところの急な気温上昇に、血圧が追い付かず、蒸し暑さに眠れず、目を回していました。
昨日になって、やっと、扇風機を出し、半袖に着替え、ほっと凌ぎをつけたところです。
さきほど雷鳴とともに、ばらばらっと、真っ白な雨脚。まさに、篠突く、ほどの。
お仕事いかがおすすみですか。そちらも気温が高いようですね。くれぐれもご自愛ください。
* 朝一番にこういうメールは、涼風にふれるよう。メールをはじめて呉れはじめた頃は、「囀雀」と渾名を贈って騒々しいほどだったが、たちまちに変貌して、こういう短いメールを、文藝化できそうなほど便り上手に。この人が、歌舞伎の中村扇雀丈のメールアドレスをこっそり教えてくれたのである。
* 島崎藤村のお話を楽しみに読ませて頂いております。
前田米造の歌、ふと考えさせられる芯を持っています。
礼儀という偽善(化しやすいものの蔭)に、日常生活の行儀が忘れ去られていることに気づきました。自分を省みて行儀とは体で憶えるもので、礼儀は頭で知るのみで忘れるか、不都合の場合の隠れ蓑にする。
大闇も楽しく、小闇の新緑も興味深く読んでおります。ついメールしたくなりメールの筆をとりました。 神奈川
* 「小闇の新緑」とは、なにとなくメタファめいて心嬉しい表現。
* 北陸の友人と電話で三十分ほどもおしゃべりした。珍しいこと。手紙をもらった、が、返辞はメールで書けない。で、電話にした。世間話ではなく、やはり、すこし議論めく話題になり、両方で少しずつ熱くなった。よけいなことばかり考えている脳みそを掴みだして、捨てちまえだの、一度死んでしまえ、そして生まれ変われだのと、ヒドイことも言った。自分で自分に言い合っているみたいであった。
2003 5・8 20
* 晩、勤め帰りの卒業生と、巣鴨の寿司屋で盛んに喰いかつ飲んで、歓談。肴も鮨も旨かった。この店は酒器が佳い。なごやかにではあるがお堅いハナシに終始し、目の前の鮨職人くんも勝手が違ったか知れない、いきなり源氏物語や徒然草で入ったからなあ。わたしが持ち出した話題ではない。漫画の話でもない、角川の原文対訳で読み始めていま「夕顔」だと言う。たまげた、が、例外ではない。いま筑波の研究室にいる博士過程のの卒業生も、日本の古典に在学中から関心を持ち、ひとりこつこつ読んでいた。東工大の学生君たち、ホント興味深い。
* 業界の人間関係に、身に針を立てているような、もういい年の人のつらいメールも来る。
* どんなときにも波があります。生きているとは波打っているということのようです。高い低い長い短いは仕方がない。うまく付き合ってゆくことです。そのためには、いまさら流れを溯らないように。流れにしたがいゆったり泳いで下りたい。岸や堤にも目をとめながら。元気回復を祈ります。
追伸 あなたの鬱屈はたいてい対人関係または他者にあるようですね。これは自分で種蒔いてきたことで、ま、自分の影のようなもんですよ。それが自分で分かっているから不快感が旋回する、自分の中で。社会的な地位への執愛もいくらか有るかも知れない、だれにでも有りますがね。それが黒い太い痛いピンでしょうかね。
なんじゃい、こんなもの、と、広々と日の当たりたる心奥の野におりて、ときどき深呼吸するといい。元気出して。
* 読んでいる頁に指をはさみ、前の頁を繰りながら、「清経入水」を読みました。
“客愁三部作”とあいまって、読むたび、陰が濃くなります。
残り三分の一というあたりから、「迷走」が心に訴えてきました。すこし待ってて。その前に、「冬祭り」を。
毎朝、新聞連載、鴎外作「山椒大夫」とはまた別の楽しみをもって、村田喜代子さんの「百年佳約」を読んでいます。
* こういう人も。いろいろである。
栃木の読者で書き手を志している若い女性読者から、何本目かの小説も留守に届いていた。プリントの書き出しを少し読むと、初めの頃とは比較にならない推敲の効きであり、少々効き過ぎて、局所で分かりにくく固まっているとも。文章にへんに身振りの出た感じが作品を息苦しく寸足らずにしている様子。
* そうそう、朝一番に読んだ「東京の小闇」の、編集者と書き手との「論」には、少し考えてみたいことが、ある。トロくて無責任な書き手のせいで、連載にアナがあきかけ、編集者として代わって記事を書いた、その後も書き続けた、その方がトロイ無責任な書き手に好き勝手されるよりよっぽどいい、と考えているらしい。よく読み返して間違いの少ないように思案したい機微に触れている。
編集者にもいろいろある。小闇の場合は技術系の専門誌であり、本人もその専門なので「書ける」蓄えがある。そういう例は特殊であり、一概には言えない。私は医学研究の出版社で編集者だった。医学とは程遠いわたしは美学専攻の卒業生であったから、また、そうでなくても、代わりに書いちゃうとなんて不可能だった。不可能だからしないのか、出来ても「編集者」だからしないのか。
雑誌には「雑誌記者」という言い方もあり、週刊誌などそうだが、編集記者が原稿を書いている例はいっぱいある。ややこしいのである。だが、考えてみたい刺激を感じた。
2003 5・9 20
* イカカ 2003.05.08 バルセロナ
イカカ。これは、日本のある大手の企業名。どこの会社か想像がつくだろうか。実はYKKをスペイン語読みしたもの。なんとも可笑しな響きで、私は聞く度にイッシッシと笑ってしまうのだが、スペイン人にとっては恐らくもっと。「y caca (イ カカ)」、訳せば「そして、うんち」。
この手の話は溢れているが、改めて考えるとまたおかしい。が、自分の名前ともなれば、笑ってばかりもおられまい。
「ちか/chica/女の子」ならまだしも「ちこ」は「chico/男の子」。「みちこ/mi chico/私の男の子」になると思いがけぬ問題が。「みちこをお願いします。」彼女のオフィスに電話をかけた男性が、ホモセクシュアルと間違われ「あなたのchicoの名前は?」と聞かれたとか。
* あとへ続くが差し障りキツイので割愛する。笑って、笑って、でもねと、笑いが凍る。狩野探幽という江戸初期の大画家がいた。この探幽という雅号、中国の人が読めば、とてつもなくエッチなんだそうだ。そんなことを昔に聞いた。担がれたのかも知れないが、見当は付く。ま、その場限りのお笑いとしておくのが無難、各国の言葉で例話はたくさん見つかるだろう。
2003 5・10
* 花粉はまだ少し飛んでいますが、秦さんは大丈夫ですか。わたしはいろんな花粉に反応するようで、まだ外出を控えています。そんなわけで、春は、屋内にこもっています。気分の鬱々となってしまうのは、人とあまり逢わず、変化の乏しい毎日のせいかも知れません。
そんな折、友人が出産祝いのお返しを持って訪ねて来ました。生まれたてのときは、細くて、しわしわで、何と言って褒めようか困ってしまうような赤ちゃんだったのですが、一月経ったら、ぷぅっとふくらみ、美人の母親にも似て、とてもいい顔になっていました。長い睫のまぶたを閉じて終始眠っていましたが、つぶつぶと白くて、ときどきおもしろい顔をしました。ずっと見ていたい赤ちゃんでした。
踊りの先生の、やっと歩き出したお孫さんも、頬のぱんぱんにふくらんだ、まんまるい赤ちゃんです。今まで接することのなかった小さな人たちを、この頃、かわいいなと思います。こういう角度から、わたしの恋の、変化しそうな、しなそうな。
以前、柳美里さんの裁判のとき、(どうしても書きたいなら)「牢屋に入る覚悟で書く(べし)」とおっしゃっていましたね。最近わたしは、書くことで、周囲の人の心を悩ませるかもしれないという恐れを、少し抱いています。既に書いたものは、母が読んだら、胃に穴の空くくらい悩むかもしれません。これから書きたいと思っているものも、近しい人との関係の変わってしまう可能性をはらんでいます。創作に向かう気持ちを、理解してくれる人と、してくれない人といるでしょう。近しい人たちが、そのどちらなのかはわかりません。幸か不幸か、周囲に読書好きの人はほとんどいませんし、わたしの創作に興味のある人もいませんので、今すぐどうこうという話ではありませんが、秦さんは、これまでどのように折り合いをつけて来られたのですか。書きたいと思う者の気持ちは、同じように書きたい(描きたい、撮りたい)と思ったことのある人にしか理解してもらえない気もして。
軟弱な悩みですが、あえてお訊きしました。一人で考えて結論を出してしまうのは、わたしの悪い癖だと思いましたので。でも、今のわたしには、伝えたいことを伝えられるようになることの方が、先決ですが。 群馬
* この問題にぶち当たらない人はいないだろう、が、概して読み物の人は、この問題から迂回し、立ち向かわずに背をむけているように思う。敢然とだか、気をつかってだか、韜晦してだか、とにかくストレートやカーブやドロップやスライダーやチェンジアップで投げ分けても、この問題に向き合っているのは、藝術的な仕事ないし私小説的に真剣な人に多かった。藤村も花袋も漱石も鴎外すらもこの問題とは濃厚に縁があった。それが「文学」なのだから仕方がない。
ただ、モデル問題をよく起こした藤村の時代と違い、今は法整備が人権の保護へ厚く優先的にすすんで、昔ならアイマイに見過ごされた表現も、今では法が出てきて制約する。私は、それ自体は当然で必要で、そのように人権が守られるようになったのは成果だと考えているから、それ自体に反撥はしない。その上で、どうしてもこう書かねば済まぬと美や真実や藝術の前に殉ずる気持があるのなら、それはつまり「牢屋に入る覚悟で」と思うばかりである。じつは、現にわたしはその問題に突き当たっているのである。
ただわたしは、わたしの配慮や工夫を、藝としての工夫を怠らぬように努める、いつも。真正面から火花の散るように衝突しないで来れたのは、その為かも知れないが、それだけではない。わたしが、作中のモデルらしき人に手痛いかも知れぬ表現を敢えてするのは、わたし自身その人を深く敬したり愛したりしている人に限るのである。だから敢えてするのであり、勝手な思いかも知れぬが、そのために起きても仕方ない問題にまでは、達したことが無かったのだと思っている。ま、キレイゴトに近いことを言っているとも言われよう。憎んでいるが故に烈しく攻撃し、傷を与えたいとすら煮えたぎるモノを、今の私はもうサッパリうち捨てた……などとは、やはり言えないのである。なまぐさいのである、まだまだ。
しかしまあ、イヤナヤツのことなど何故わざわざ作品として書く必要が有ろうか、とは確実にそう思っている。訴えられそうなまで露わに書くとすれば、それは対象を敬愛している場合だ、深く。
この気持は、上に上げた人たちの中で、島崎藤村に近いように思う。藤村は、たしかにヘンな妙な文豪ではあったけれど、本格の人であったし、偽善者呼ばわりした芥川に比べても、もっと険しい人生と闘って生き抜いた人であった。漠然とした不安を、嘆息しながらでも乗り越えて行ける健康な脚力を持っていた。彼の筆の前に、普通の意味では傷つけられたどれほど大勢が居たか知れないが、その加害から来る痛みにも、藤村は被害者のように耐えぬいた。その辺に「偽善」かぎつけられる妙な分別があったのだ。
2003 5・10 20
* 近づいてきた卒業生の結婚式を想い、いろいろと過ぎし日々の彼とわたしとの、言葉のやりとりを顧みて過ごした。こんなにも一緒に生きてきたんだと、新鮮に驚いた。
2003 5・11 20
* マシンの調子が悪くて、この半月の連日連夜、整備・調整に追われておりました。後でわかったのですが、不調の原因は「便利なソフトと見せ掛けた“ウィルス”(一般にはトロイの木馬と呼ばれています)をインストールしてしまった」ことでした。。。情けない。。。
5月3日の深夜、ニフティに繋がらなかったと日記にお書きになっていましたが、私もあの日は(ただでさえマシン不調だったので)大いに慌てましたよ。実際はニフティではなく、ADSL回線業者がダウンしていたようです。
近況ですが、、、流れ流れて、また無職に逆戻りしてしまいました。先月までは単発の校正仕事が入っていたのですが、現在は何もありません。
部屋でじっとしていると、黒いピンが刺さっていることに気付きます。父母が、恋人が、私を捨ててどこかへ行った理由。私の落ち度。そうして、かわりに迎えに来てくれる誰か、私が悪かったわけじゃないと言ってくれる誰か、を待っていることにも気付くのです。私の黒いピンは、ただの自己憐憫なのでしょう。
ああ、我ながらつまらない奴! そんなことより仕事を探せ! と、一方で思っていたりもしますけれど……。
独り合点なことばかり書いてしまいました。すみません。
日中があたたかいもので、半袖でいたら、鼻風邪をひいてしまいました。夜はまだ少し冷えますね。どうかご自愛くださいますよう。 千葉県
* この人は、パソコン専門の技術をもった人のようで、わたしも何度かメールで助言を得ている。もし、ホームページの立ち上げや、営業用のソフトを設定したい人があれば、プロとして委託・依頼されて役立つのではと思う。生きにくい世の中になっている、頑張って欲しい。
2003 5・11 20
* バルセロナの小闇が、こんな書き出しで。
* あれは塩野七生さんの本だったか、面白い話が載っていた。イタリアの小学校の社会の教科書には、日本についての記述が二つだけある。そのたった二つのうちの一つが、「日本の通りには、名前も番号もない。」だとか。
言われるまで気づきもしなかったが、極く限られた地域を除けば、確かにその通り。ただ、そう言われたところで、なぜそれがイタリアの教科書に取り上げられる程のことなのか、よく分からなかった。
「日本では住所を教えてもらっても、目的地に辿り着けない。」日本に住む(あるいは住んだ)外国人の驚きは大きいと聞く。確かにその通りだと思う。彼らだけでなく、私たちでさえ辿り着けやしないのだから。「いったい郵便屋さんはどうしているの?」呆れた声に思い浮かぶのは、表札はあっても住所が出ていない家や、表札すらない家々。確かに不思議。
* 東京へ出てきた頃、同じことでわたしも「途」惑った。わたしの生まれ育った京都市では、「通り名」だけは克明なほど完備していた。住所としては、区名の次に先ず必ず「新門前通」とか「花見小路」とか「四条通」とか「松原通」とか、次いで町名番地がきた。あの街では住所さえ聞けば家の在る位置まで見当がついた。だから、いきなり「日本では」というように出されると誤解も起きる。東京が「日本」ではないとぐらいに伝えて欲しいものだ、海外にいて日本紹介の筆を用いる著述家たちには、特に。
厳島や、その他各地の「神祭」「奇祭」を興味深く伝えた番組があった。そこまで不思議をいわないまでも、まこと「東京が日本では、ない」という根幹を忘れないでいたい。「白装束」のキャラバンが延々と行列して山から山へ移動している。ああいうことをして、ほぼ列島をどこへでも、どこまでも行ける、その事実を見せつけられていると、日本は山国なのであるとつくづく思い知らされる。東京が「日本」と思いこむ危険は深い。新聞小説だった『冬祭り』でわたしの言いたかった大きな一つはそれであった。
2003 5・12 20
* 和泉の観光案内所は駅前になく、矢印に従ってアーケードへ入ると、ここの駅前商店街も寂れていて、空き店舗を観光案内所にした体です。
まずは、和泉の由来、泉井上神社へ。初夏の陽射しに、小栗街道を歩くのは止めて、葛葉稲荷神社へ。本当の舞台は鏡池と聞き、そちらへ訪ねてみると、手を加えられた池と、新しげな資料館があり、中に流れる音楽は…もしや。瞽女唄。久しぶりです。
近くに、狩人に追われた狐が鼠に化けて走ったといわれる「ねずみ坂」があるそうで、その鼠を保名が懐に入れて、匿ったと言います。
聖神社から信太の森を抜け、久保惣記念美術館へ(そういえば「葛の葉」の機は、木綿でしたわ)。青磁花生「万声」、武蔵筆「枯木鳴鵙図」、書画…コレクションの名品を揃えた特別展、不審庵と残月亭の写しの見学で、2時間が瞬く間に過ぎ、ティールームの大きなガラス窓の向こうに広がる景色を眺め、サービスの熱いコーヒーで一段落。
観光案内所で。駅前の中華食堂で。資料館の係員や、美術館の庭師と。ハコモノの展示や資料ではない、人と交わした話が、そのあとに観た、文楽と落語の「葛の葉」に映えた、日帰り旅でした。
* けっこうな気楽な人と、思えば思われるにしても、ヒマとお金さえ有れば誰にでも出来るこういう暮らしではない。こういう風に打ち込んで楽しめるのは、キツーイ才能でもあるのだ。羨ましく感じることもある。
2003 5・14 20
* 結婚 2003.05.14 小闇@バルセロナ
結婚してから明日で3年が経つ。昨日、昼に刺身の御馳走を食べた後、そのことを思い出した。特別な日ではないのかと聞かれれば、やはり特別な日だろう。待ち遠しく構えていなかったのは、私たちにとってはきっと、ほかの日もその日も同じように大切だから。結婚を境に、生活面に大きな変化がなかったのも一因かもしれない。あの時既に、共同生活を始めて2年近く経っていたのだから。
彼の土地スペインで共に生活することを決めたとき、私たちは結婚する道を選ばなかった。労働許可を取るにも、周りの人々の了解を得るにも、結婚は何より楽で有効な方法だった。にもかかわらず、私は彼の家政婦として雇われる形で労働許可を得、親も周りも納得させられないまま、反対を押し切ってやって来た。
滞在・労働許可を得るために結婚を急ぐカップルは多い。それも一つの選択、否定はしない。親を納得させることが、重要でないとも思わない。でも私たちは、それらのために結婚することを、私たちのために避けたかった。こだわった。
待ち受けた生活は、それまでの訪問とも留学とも根本的に違うことが分かっていた。接する人間にも環境にも、それまで見えなかった要素が見えてくるだろうこと、気にならなかったことが気になってくることが想像できた。だからこそ、私たちはまず、私がここバルセロナで無理なく生活してゆけるかどうか見定めたかった。その環境でも私たちの関係が保たれるかどうか、待ちたかった。その上で、私たちが結婚したければしようと。
3年前、彼の両親の金婚式を機に、結婚することにした。なぜ結婚話が出たのか、実は不思議である。私たちは実にうまくいっており、だからこそ、むしろ結婚の必要性を感じていなかった。むろん結婚に利点があったのは明らかで、逆に、それを否定する理由もなかった。
結婚を何よりも喜んだのは、両親だった。そして私にとって、そのことが思いの外嬉しかった。親には辛い思いをさせたし、私たちもそれだけ大変だった。でも、今でもあの時の私たちの選択は賢明だったと思っている。あの時結婚を選ばなかったことも、その後結婚を選べたことも。
* いつでも今までも感心してきたけれど、あらためてこの一文にわたしは感心した。ちょっとガンバッテイルと感じる読者もあるかも知れないが、この人がこう言うと、このとおりなのである、大体が、つねに、そして自然に。
* something white 2003.5.14 小闇@TOKYO
私は多くのところで父に似ており、母に似ているのは声と度胸と脹脛(ふくらはぎ)の形くらいである。ところがもうひとつ、母に似ているところがあると、しみじみ思い知らされた梅雨のはしりの午後3時。今日のこの衝撃を私は忘れない。
洗面台の前の大きな鏡に映る私の頭頂部に、見慣れない光が一筋宿っていた。
白髪であった。
毛先はまだ黒く、根本部分だけが白い。これから白髪になります、と言っているようだった。
ただそういう年齢になっただけなのか、ストレスなのか、判断できないのがもどかしい。誰かに指摘されたのでなく、自分で見つけたのがせめてもの救いだ。
いつかこの日がくるとは思っていた。父の白髪は60歳に近い今もかなり少ない。母は真っ白に近い。増える白髪を嘆く母の隣で「30歳なんてまだ若いじゃない」と言い放った自分自身をよく覚えている。私はまだ幼稚園児であった。時間は経たが、30歳というのは、そう、まだ若いのだ。けれど25歳や20歳とは違うということを自分の身体の一部に宣告されると、じっと手を見るというか毛を見るというか。
白髪を見つけたことより、それに衝撃を受けている自分自身に何より驚いている。この白髪対策として染めるとか坊主にするとかいう案が浮かんだが、どちらも違う。たぶん何もしない。そのうち私の気持ちが白髪に追いつく。
* この柔らかい息づかいとテンポとが、また、気に入った。この人にはもう「書く」ことが「文藝の提示」へ、自然に成ってきている。風邪はどうかな。
* いま一人、先日巣鴨で鮨をたべて飲んだ卒業生にも、こういう「表出」が待たれる。構えずに自然に書けば、また自ずからな個性がサイトで光ることだろう。
2003 5・15 20
* 香りは・・・記憶のなかに。ただよっています。
>読み直していました。
おおお!そんな恐ろしいものを読み直さないでください。あの当時仰っていたこと、今よくわかります。古典に少しふれ、日本語はこんなにも柔軟なものかと。ここ数年で親しんだ岡本かの子、林芙美子、幸田文など、女流の方の読み物も刺激的でした。
今はとりあえず、読み手を意識せず思いつくままに書こうとしています。着飾らぬよう。未熟さをひどく感じさせられる作業で、嫌気がさしそうになります。が、くじけません。
今日はつい先ほどまで大学の頃の仲間と***君の結婚披露宴で演奏する曲の練習をしていました。披露宴に招かれた当初、また演奏を頼まれた当初は、できるかどうか心境に不安がありましたが、今はグッドタイミングできっかけをもらったと感謝しています。感性のままに音を紡ぐ楽しさに立ち戻るきっかけ、気のおけない友人と語らうきっかけ。音符のひとかけらになってしまいそうなこの楽しさを、ずいぶん長く忘れていた気がします。祝福の気持ちが伝わりますように。
喘息はおさまりましたでしょうか。また、まもなくお目にかかれるのはうれしいです。晴れの日にめぐまれますように。
2003 5・18 20
* Kさんへ 2003.05.19
2ヶ月と一日。ローマ字の国の郵便受けにも、今日、日本語の本が一冊舞い込みました。海の向こう、空の彼方の日本から。正確で迅速な日本。忘れかけていたその距離を、どこか懐かしく感じています。
郵便局の半ストが続いていたのは知っていましたから、私の方では「そのうちきっと」と待ってもいられましたが、こちらの郵便事情を知らない方を思えば、やはり気懸かりでした。
ここでは、ストライキでない状態こそ、普通ではないのかもしれません。そして可笑しくも、封書一つがこれほどかかっても無事に着くことに、逆に私は驚かされてしまうのです。
思いがけず、覚える機会のあったホームページの作り方。何の気なしに触れたメールに、励ましの言葉を頂けば、私のページも瓢箪から駒のように生まれました。
書くのが楽しいです。でも、ゆっくり。やることは大抵何でも速い私なのに、書くのはどういう訳か遅いのです。だから毎日は無理。それも言い訳にすぎませんが、今のところこのペースです。
ページの頭に「バルセロナ発信」であることが分かるような何か、、、これもまだ思案中です。
私のページも、木曜日以降更新していないことに気づけば、このメール、送る代わりにページに載せさせていただきます。読者を意識せずに、などと言いながらも、Kさんが読んでくださることを意識しないのは難しいですね。
まずはお礼まで。東工大「作家」教授の幸福。
東工大「文学」学生、かの私たちも幸福でした。
* よかった。
2003 5・20 20
* 朝いちばん、京都へ発つまえに、おもしろい、いい感想を読んだ。
* 推す 2003.05.21 バルセロナ
職場の上司が言う。「こんな所、ずっといるもんじゃない。みんな、ここを踏み台にして、どんどん外に出て行ったらいいんだよ。必要なら、推薦状、どんどん書いてやるから。」
書いてもらう側としては、有難い。でも、果たしてそうかしらん。誰にでもばんばん叩き売りするような推薦状の信憑性とはいったい。適切に評価されているとは思い難い。推薦状とはそんなもの、内容より、どこの肩書きの××氏が書いたという事実の方が大事、と言われれば、そんな世の中の傾向も否めはしない。
でも推す側は?そんなに誰彼なしに推薦できるものなのだろうか。とんでもない人を推すことになっても、恥ずかしくないのだろうか。いや、(大組織に限れば)上の人間は往々にして下の人間を把握していないから、推した側も推された側も、気に留めるどころか、そのもたれ合いに満足すら感じるのかも知れぬ。
もちろん、上の立場であるがために、時には気が進まない人間の推薦状をも書かねばならない事実があるのは、私もよくよく知っている。いったいあの二人は、あの時何をもって私を推したのだろう。今でも私の研究室の教授を思うと、少し気の毒になる。と同時に、この不出来で不熱心な学生にも恐らく何かしらの長所を見出し、推薦状をしたためてくださった二人の教授に、私は多大なる感謝の念を禁じ得ない。それなしに私の留学は成り立たなかった。
実は、「推薦状」と聞いて思い出さずにおれないのが、この留学試験である。
あの日、筆記試験を受けた私たちは、一つの教室に詰め込められ、次の面接試験を待っていた。一人また一人、ほぼ等間隔に、知らない顔が消えてゆく。そこへ、そのリズムを破るように、面接官のスチュワート先生が入ってきた。こわばった顔、一瞬にして冷たい空気が吹き抜ける。名前を呼ばれたのか、研究室名を挙げられたのか、英語訛りの日本語に、私たちの耳はそれと分かるくらい尖った。恐る恐る手を挙げた該当者は二人だったか、三人だったか。
「あなたたちの研究室の先生は、なぜ皆に全く同じ推薦状を書くのですか?」同じ文面だったことも知らない筈の学生はうろたえた。「なぜ?分からない?私も分からない。なら、先生に聞いてみてください。」スチュワート先生の冷ややかな沈黙に、何かしら言わねばならぬと思ったのだろう。一人の学生がしどろもどろに答えた。「多分、みんなに公平であるように、、、」
「それが、公平ですか。」スチュワート先生は大きく鼻を鳴らして出て行った。
それを公平と呼ぶのか。あの問いの鋭さを、私は今も忘れていない。
* 人が人を推薦するというのが、いかに重い決断であるかを忘れて、いかにも安直になされることで成り立って行く組織や団体のあることを、いま、わたしは日本ペンクラブにいて、推す側にいる我が身のこととしても、イヤほど知っている。人の世の世渡りは、その安直さによってこそ支えられているかのようだ、が、「スチュワート先生」の憮然とした憤慨を思うと、少し笑えてすぐさま笑いは凍り付く。
2003 5・22 20
* ひさしぶりに花籠さんから便りがあり、追いかけるように、桜桃忌にはまだ間がありますがと、元気づけに、見た目も美しい四国の牛肉をたっぷり贈ってきて戴いた。感謝。
* この二日間の東京の小闇の文章が、さすがに書くことに意識が深まっているというか、烈しい中身にも静かな筆致で的確にものを言うように書いている。こういうコラムのために、彼女自身が担当している雑誌に、半ペイジでももらえて連載できるといいのになあと想った。
書くとうまくなる。しかし、うまくなるだけではダメで、書き続けて慣れてしまわず、ウブな「意識」を持続するのが難しい。一期一会である。一期一会をはずすと、文章がなにかしらに「かなひたが」ってしまう。「かなふはよし、かなひたがるは悪しし」である。小闇は、よく「かなっ」て書いている。表へ向いた署名もののコラムでも、こう書けるようになればいい。
* 小癪な喪失感 2003.5.22 小闇@TOKYO
携帯用に買ったノートパソコンが故障した。しかも出先で。動かないパソコンはただの重りである。用途のなくなったACやらカード類やらも鞄の中で場所をとるだけ、ただただ、むなしい。
もともとバッテリーと本体の接触が悪く、バッテリー駆動時に本体を動かすと電源が落ちることが何度かあった。今回は起動中プロセス中に瞬断。やばいなと思ったらその通りで、もう起動しない。MBRがイカれたようだ。
ハードディスクに入れたデジカメのデータを思う。遊びのものならまだしも、仕事関連。デジカメのメモリーカードをフォーマットしていなかったことを森羅万象に感謝する。
このパソコンは買って1年1ヶ月。通常なら保障期間を過ぎているので修理は有料、しかし、今回はこんな事態を予想してたわけでもないが、3年保障が売り物のメーカー直販サイトで買っていた。これぞ不幸中の幸い。
パソコンが重りと化して堪(こた)えたのは、書けないことであった。もうそこまで、私は取り込まれている。
書くことだけではない。知らず知らずに私の生活の中に入り込んでいる、あるいは私が首を突っ込んでいるものは、とても多い。ひとたび、ずかな時間であってもそれを失うと、存在感に気付く。まったくパソコンめ、こんな小さなハコのくせに。でもたいてい私を振り回すのは、日ごろは「こんな」程度としか意識していない、モノやヒト、なのだ。
* あす、東工大の院を卒業した上尾敬彦君が結婚する。華燭の披露宴に招かれている。顔なじみ、音楽仲間の何人もがきっと来るだろう。
この数年にこういうめでたい席に、五度、招かれている。来てわたしになにか話してくれるようにと、声をかけてきた。
男子といわず女子といわず、わたしが、学生たちと就任時も退任後も、またみなが卒業して以後にも、すこぶる親しみあってきたことを、今もそうであるのを、疑う人はいない。
しかしそれは、学生諸君との間に徹底して限定されている。あの東京工業大学の当局は、よほどこういう「先生」は望んでいなかったとみえ、わたしが『青春短歌大学』を出そうが『東工大「作家」教授の幸福』を出そうが、本をどれだけ謹呈しようが、学長も学部長も、私の属していた科でも、笑ってしまうほど「完全に沈黙」のままである。今度の本など、およそ学内へ六十冊ほども「先生」方宛て謹呈しておいたが、ただ一人の葉書一枚の挨拶もなかった。これはまことに興味深き現象であり、それがまた一つの「東工大」の顔というものらしい。
本がつまらないなら仕様がない。じつは、わたしは、全国大学の図書館や文学系の研究室に、湖の本を謹呈寄附しているし、少なくも二百五十程度のそんな大学の半分以上からは、きちんきちんと挨拶がある。挨拶がむしろ段々丁寧になってきている。今度の本など、私的に読んでのわざわざのお褒めも、随分大勢から戴いている。手紙など戴いたことのない藝術院の伊藤桂一さんからもお褒め戴いた。自慢するワケじゃないが、そういう本には出来ているのである。
学生とは深切に大切につきあっても、そのかわり教授会や学内政治には徹底的に「欠席」(むろんその手続きをしてだが、)し「腰をひき」続けたような教授は、仲間として信用が成らなかったということかも知れぬ。それは分かる。
2003 5・23 20
* 新橋第一ホテルで、上尾敬彦君の結婚披露宴があった。新郎は特許庁、神父は日立製作所。仲人さんは立てずに、正面に新郎新婦が座り、わたしは、真ん前で、二人と顔も真向かう席にいて、指名されて祝辞を述べてきた。むかしの学生くんたちが何人もいた。特許庁の中での尾君の後輩にも、わたしのメールボックスに今も名のある青年が一人居て、びっくりした。フルートのいい曲を熱心に演奏してくれた三人とも、むかしの東工大生だった。
やっぱり今日も東工大の専攻の学問を指導された先生は一人もいず、「恩師」は一般教養の私一人。この前にも四人の結婚式に招かれて出ているが、最初の一回だけ専攻の教授が出ていて、他は、ぜんぶ大学母校の「先生」は私一人であった。なんとも特異なことに思われる。
* 花嫁と両家の親御さんのために、上尾君との「挨拶」メールを少し編集して持参し、それを手にしながら上尾君のために用意の祝辞を述べた。
2003 5・24 20
* 表現と道具
ごぶさたしています。福岡に住んで、もう一年。過ぎてみるとあっという間ですが、それなりに変化がありました。恋人と別れたり、バイクの免許を取ったり、少し単位を落としてしまったり、新しい恋人に出逢ったり…
一年間法律を学んで、「自分はあまり法律に向いていない」と感じています。「まったく」ではなく「あまり」なところが、いいのか、悪いのか。よく勉強した民法はとれなくて、あまり力を入れなかった憲法はとれた。勉強しないほうが有利なのか、法律学は。成績表を見てちょっと苦笑いです。
成績のことはともかく、法律は本当におもしろいです。
父は、父も法学部を出たのですが、「法律はおもしろい。法律が生活をつくるからだ」と言ったことがありました。そのときはよくわからなかった。法律って悪さをはたらいた人にしか関係ないんじゃないの、と。
父の言っていたことが、少しわかってきました。
文学は「表現のための日本語」、法律学は「道具としての日本語」。そう区別しています。
法律はしばしば数学にたとえられます。具体的な事実・事例(数学でいえばクイズ・問題)に、抽象化されたルール=条文(公式)を当てはめ、合法か違法かを判断する(解を導く)。数字から日本語に変わってはいるけど、これはいかにも数学だなと、自分でも思いました。
本当の答えは実は存在しない、という点も、数学に似ています。どんなに細かく分析しても割り切れない、あるいは解の現れない問題がある。同じように、どんなに新しく理論を組み立て条文に修正を加えても、現実の事例を覆いきれるものではない。
しかし、この「道具としての日本語」は、限界があるからといって投げ出すことは許されない。実際に使うのは法律家であっても、法律は人々の生活のための「道具」であるからです。日々に「道具」を練磨していかないことには、いずれわたしたちの生活が成り立たなくなってしまう。
今はまだ「道具」のいろはを「理解する」のがやっとです。とても「使う」まではいかない。けれど、せっかく飛び込んだのだから「使う」ところまでいってみたいという気持ちはあります。辿り着けるかどうかはわかりませんが、とにかく挑むに足る力をつけるべく、地道に学ぼうと思います。
二人の「小闇」をおもしろく読んでいます。特にバルセロナは、大学でスペイン語を学んでいることもあって、惹き込まれることが多いです。
本家の「闇」も勉強になっています。長編小説が完成したと書かれていましたが。ずっと楽しみにしていました。これからも楽しみに待っています。
来週で21歳になります。特にあらたまることはありませんが、怪我と病気に気をつけつつ、変わらず九州を楽しみたいです。秦さんも、迪子さんともども、お身体を大切に。
* 法律について、この選挙権を得て間もない青年は、「運用」という使い方に眼を向けている。法の実務家たちには必須の姿勢で視線だろう。
一方、わたしが、法律に関心をもたざるを得ないのは、何よりも「立法」という政治的行為の方。ペンの言論表現委員としてわたしは、もう、かるく十年以上も数々の議論の場にいた。中でも最も多く関わったのが、何とも残念な口惜しい経緯を経て、「悪法」と思わずにおれない沢山な法律の「成立」に立ち会ってきたこと。暗澹たる思いで、政治の都合一つで、国民の合意しにくい悪法の次々誕生するのをみつめ見送ってきた。それからあとの話だ、その法律が法曹により「使用」され、いろんな問題に絡みついてくるのは。
法は、「悪しく作られてしまう」のが先ず何より恐ろしく、そしてそれが「ますます悪く使われるかも知れぬ」ことを怖れる。法曹人は「法を使う」技術人間として法律を「道具」にしてくれるが、そんなことは市民には出来ない相談・不可能であり、それならば市民にとっては、なによりも「立法」に対する鋭敏な認識や判断や行動が必要になる。
おお青年よ。「法律が人の生活を作るから、おもしろい」なんて。人の生活は人が作らなくてはいけない。その人が、良い法をつくるのでなくてはいけない。そう思うよ。
2003 5・24 20
* 今日はご主人の一周忌を終えてホットした友人が、感謝を込めて大勢の女仲間を招き、お得意の自家製パンを焼いてお昼を招待してくれていますので、横浜小机まで行ってきます。それはそれは美味しいホヤホヤ、ホカホカの色とりどりのパンです。多分賑やかな半日になります。女は強いデショ。
* 女は強いデショ、って。
なるほど、夫を死なせて一年、とうとう始末しおえて、これからは気儘な女天下、お祝いにパンをたくさん焼いて、女大勢で奇声=気勢を上げようと。凄いモンです、感服感服。
* 目を転じれば、胸に届いてくる佳い述懐もある。この闇を透過して心寄せの読者も増えている若い小闇の文章を、二つ転写してみたい。
* くるくるおたより 2003.5.25 小闇@tokyo
どうってことない会話がそこへ流れた。
「親に買ってもらったものの中で、一番嬉しかったものはなに?」。
クリスマスや誕生日のプレゼント、お年玉とは縁のない家庭で育った。何かをねだって買ってもらった記憶はひとつしかない。
小学校3年生だったと思う。
私は「くるくるおたより」が欲しかった。カーボン紙を使って型に刻まれたキャンディ・キャンディのイラストを紙に写す、という印刷機のようなものだ。何度も何度も親に頼み込んで、おもちゃ売り場までようやくたどり着いた。B5判くらいまで扱えるものと、はがきサイズまでのものがあった。当然大きいほうが欲しかった。そう伝えたけれど母は頷かなかった。ねだり慣れていない私は黙って下を向く。買ってもらえるだけいい、でも、どうせなら大きいほうが欲しい、でも・・・。
しばらくそうやって立っていて、父が母に、「いいから、大きいほうを買ってやれよ」と言うのが聞こえ、涙が零れた。
買ってもらえたのは、結局小さいほうだった。
胸の苦しさ、周囲の賑わい、床の色、その上に落ちた涙。甦る。思い出してみて初めてそうわかったことではあるが、私はつっ立ったまま、どんなに願っても手に入らないものがあるということを学んでいた。その事実は10歳の私には残酷であった。そしてその記憶は、今の私に残酷。
「君がちゃんと泣いたところを初めて見たよ」。一番嬉しかったのは中学入学時に買ってもらった一眼レフカメラだという元カメラ少年はそう言う。私だってちゃんと泣いたのは数年ぶりだ。
なぜあのとき大きいほうを買ってくれなかったのか、今、母に尋ねてみたい気持ちもある。でも忘れているのなら、私からは触れまい。20年を経てまた私が泣いた理由など、母は知らないままでいい。
* この元の東工大生女子には、生彩に飛んだ「意識」がいつも目覚めていて、今・此処での「配慮」の動機を、かなり過去の体験にもっている。少なくもそれらを忘却していないで、それを力の根に掴み用いている。同時に近未来や未来へのそれを「投光器」として生かしている。教室で書いていた文章を、このところ、たまたま見つけて読み直してみると、現在時点を軸芯にしつつ、過去から未来への意欲の在りどころを意識して探索している。それが、十年経った今の「闇に言い置く」文章にも歴然としている。
「思い出してみて初めてそうわかったことではあるが、私はつっ立ったまま、どんなに願っても手に入らないものがあるということを学んでいた。その事実は10歳の私には残酷であった。そしてその記憶は、今の私に残酷」と呟いて「20年を経てまた」本当に泣いているこの「小闇」の「理由」が、分かるような気がしている。この若いレディーは、女は強いの弱いのとは口が裂けても言わない。「一番嬉しかったのは中学入学時に買ってもらった一眼レフカメラだという元カメラ少年」との対話の中でも、人として生きる根の哀しみに、あたかも歴史家のように意識を集注しているから。決して貧とか富とかは問題にもなっていない。だからこそ問うておく、「なぜ、あきらめる」かと。
* 消費税今昔 2003.5.23 小闇@tokyo
今日も昼食のタイミングを逃した。午後3時、会社近くの駅ビルでパンを買う。合計493円。財布にはあいにく100円玉も10円玉も中途半端な数しかなく、1000円札に1円玉を3枚添える。
私の記憶は14年前へ飛ぶ。
消費税が導入されたのは1989年。こどもが100円玉を握ってアイスクリームを買いに来ても、明日からはもう売れない。駄菓子屋のおばさんのこの話、誰もが一度は耳にしたはずだ。消費税率の3%は、100円が103円になるという事実で強く印象付けられた。
財布に溢れる1円玉の扱いに慣れてきたころだった。あれは何だったか。アイスクリームだったかもしれないし、何か別のものであったかも知れない。私は祖父から1000円分のお使いを頼まれた。祖父はスーパーの袋詰めカウンターにおかれているようなビニール袋に入った1000円札を、私に手渡した。
受け取ったときには気付かなかったのだが、検めるとそこには1000円札のほか、1円玉が3枚入っていた。何だろう、と思い、しばらくして消費税だと気付いた。
当時70歳を超えていた祖父も、消費税は購入金額に応じて課せられるものとは知っていたはずだ。1000円なら30円ということも、理解していたと思う。けれど、1000円分目いっぱい買い物をした孫娘が、いざ会計の段になって困らないように、と、あわてて付け足した消費税分は、刷り込まれた+3円だったのだろう。
自分がどう買い物をしたのか覚えていない。多分1000円きっちりは使わず、3円はほかの小銭と一緒に祖父に返したと思う。
祖父はその4年後に亡くなった。税率が5%に引き上げられたのが、さらにその4年後。祖父にとって消費税は生涯3%であり、そしておそらくは3円であった。
* 芭蕉は「しをり」というもののあはれを、ぽっちり露を含んだ風気を、貴んだ。その露の香気を彼は知っていた。小闇のこの記憶にもそういう露が宿っている。ほんとうに「Life is a show time」であろうか。
* 市電 {時々行く古本屋のご主人が『これに載ってますねん』言わはって。あんた好みのおじいちゃんでしょ?」と添書きに、女友達から「大阪人」という雑誌が送られてきました。
どれどれ。ほんま、大好きな、神楽坂の履物屋「助六」のおじいちゃんとおンなしタイプやァ。今度たンねてみよ。
雑誌には、市電の古い写真に添えて、実相寺昭雄さん、文枝さんのインタビュー記事もあり、思いがけない嬉しいプレゼントでした。秦さんのお作にも、効果的に市電がでてきますね。お作の魅力を増している、大事な風景のひとつです。 大阪
* 雨の午後、四時になろうとしています。庭の薔薇はほぼ咲き終わり、草取りは蚊に悩まされる頃になりました。郵便物と夕刊を取りに行く以外、もう今日はじっと部屋に。
朝から食器を漂白して、徐々に次の食器に・・とけっこう時間を計りながら作業しています。思い立ってするのですが、本に飽きたら台所にという程度で、でも後はすっきり実に気持ちいいものです。
図書館から「アースシーの風・・ゲド戦記V]を借りて読み始めました。が、これまでのストーリーを改めて読み直さないといけないかもしれないと思っています。
同志社のキリスト教の精神は、ここに学んだ人にどのような影響を与えているのか、・・先日宗教関係のボランテイアの人の話を聴いたのですが、その人が同志社出身でしたので・・ふっとお聞きしてみたくなったのです。 兵庫
* 同志社のキリスト教には、何の知識も関心もなかった。むしろ新島襄のなかに根付いている、明治の第一次知識人に共通の姿勢、即ち軽輩武士の上昇の生気や儒教的な素養から来ている意志力、凛烈の寒気に堪えてひらく梅花のような意気に、惹かれていたかもしれない。
わたしは子供の頃から、家の人にもない仏界の異薫に惹かれるタチであったし、それも超えて、ただ生死の道に雪ふりしきるような人生と思うにつれ、宗団宗教にははっきり背を向けてしまうようになっていた。あげく宗教的な信仰・信心とは、つまり身勝手に抱き心地の良い都合の良い「抱き柱」を抱いて、当座の浅い安心を得ながら、あえて無明長夜の永い夢見から覚めるのをただ怖れて逃避しているだけのこと、と、思い切るようになってきた。
2003 5・26 20
* 昭世の会 お能の会、ありがとうございました。わたくしは、おかげさまで、佳きものに逢い、堪能いたしましたけれど、当日の演者友枝昭世は、佳き見手のお出がなくて、気の毒なことでございました。
昭世の「藤戸」、佳かったというより、凄みがあって圧倒されました。
前場、ワキがたいへんな速さで謡い、語りもとても早かったようにおもいました。宝生閑のこの役は前にも観たことがあるのですが、同じ演者かとおもうほどで、動きにもメリハリがあるというのか、はっきり、大きく動いていると感じました。
シテのほうは対照的に、極端に動きを抑えた演技で、それなのに、ワキの佐佐木盛綱を追いつめ、時には、丁々発止とわたりあっている感じがあって、現代のせりふ劇を観る思いがいたしました。
昭世はふつふつと沸き上がる憤り、かなしみを、なにもしていないと見える演技で表現していました。ほんとうにみごとでございました。
言いなだめられて橋懸をもどってゆく姿に、なみだがこぼれました。
後場。酷く殺され水底に沈みゆくさまを再現してみせる漁師の亡霊の胸に吹いている冷たい風をおもいました。水底の冥さ寒さが感じられました。杖を持ちかえたときにひらいた掌、ぞっとする冷たさでした。
たぶん、彼はいくたびとなく、理不尽に殺されたそのありさまを、再現していたにちがいありません。さればこそ、人の噂にもたち、母が盛綱を問いつめることにもなったのでしょう。
お囃子も謡も佳く、堪能いたしました。ただ、ワキと二人のワキツレの謡が、揃わないところがあって、ちょっと興をそがれましたけれど。
終ったあと、拍手がありませんでした。それだけ、みんな、ほうーとしていたのでしょう。よいものでございますね、余韻があって――。笛方が幕に入るころになって、拍手がありましたけれど。
『能の平家物語』にある盛綱観をおもったりしながら帰ってきました。
いま、ハリーポッターという、子供むけの魔法使いの本を読んで、ぼんやりしております。
* 結婚披露宴と重なってしまい、せっかく昭世師のお招きであったけれど行けなかった。それで、この人にならと思える人に代わって貰った。それもまたよかった、昭世も不足は言うまいと思っている。
2003 5・27 20
* 幼い頃の自分史を、この前は、京育ち京大卒の女性から読ませて貰った。やはり京大卒、東海育ちの人の長い、優れた文章を送ってもらった。「e-文庫・湖(umi)」に公開する気はなく、わたしにだけ読んで欲しいという。三分の一もまだ読まないが、ほぼ一糸乱れぬ筆致で、かなりの速度でぐんぐん書き進められている。わたしの「丹波」「もらひ子」「早春」と同じに「記録」であり「記憶の保存」であるような書きっぷりながら、動機はとても強く、それだけに飾り気なく、けれんみもなく、真率にぐいぐいと進む。そこに書き手の知性と思い入れの情感が迸出している。
* さ、今夜は、もう、やすむ。
2003 5・27 20
* 暑かった。強い紫外線を気にしながら、真っ青な空と森でした。今日は岡山県高梁市の西方、広島県境に近い吹屋という紅殻壁の集落にスケッチ旅行に行って、夕方戻りました。日本の樹木は、森林はやはり美しい、豊か。さまざまな問題を抱えているのも知っていますが・・この山河は嬉しい。 兵庫県
* つい一筆を取ります。小闇の一人の、「親と欲しいものの無言の会話」を、新鮮な気持ちで読みました。心打つ響きと香りと余韻がありました。
先生の教え子は羨ましいと思います。小闇への愛情と「凛」とした姿が「闇」に光ります。
今日は京都でしょうか。いいお酒を「本」を朋として嗜まれますように。 川崎市
2003 5・29 20
* 若い小闇たちのことばが、薫風を裂いて響く。
* 黄色 2003.05.27 バルセロナ
「、、、でもあなた、典型的なあちらの人には見えないわ。」
「???」
「典型的な顔をしてないと思うの。」
「してますとも!」
「いいえ、違いますよ。ところであなた、どこのお国?」
「日本です。」
「ほうら。あなたって中国人のように黄色くはないでしょう、、、」
「中国人だって黄色くないですよ。」、、、
近所の年配の御婦人と交わした、昨日の会話。
意表をつかれた、初めて言われた時には。「黄色人種」という色分けの効果。驚くかな、ここには、私たちの肌はバナナの皮のように黄色い、と信じてきた人々が当たり前のようにいるのである。私も夫(スペイン人)もそれを聞く度に、腕を並べて笑ってしまうのだが、時には、その腕を見つめ真剣に告白してくる人も。本当に黄色いと思ってたわと。姪っ子が見せてくれた最初のクレヨンの絵には、黄色と橙色の人間が並んでいた。ほーら、よくみてごらん。それ以来、彼女の描く絵に黄色い人間は見られない。
今はどうだか、私の周囲の大人は、色による人種分けを、挿絵つきで教えられたと言う。白、黒、黄、赤に加え、なぜかオリーブというのもあったらしい。(このオリーブはいわゆるオリーブ色ではなく、赤紫がかった黒オリーブの色)
例のご婦人も、私が「黄色」くないことに初めて気付いて驚いているくらいだから、実際中国人が黄色いかなど、確かめたこともあるまい。人の思い込みなど、いかにいい加減なものだろう。自分の目で見、経験する大切さを改めて感じるとともに、その目も心して開かれていない限り、青が黄色にしか見えないこともあるのだと。
* クレヨンに( )色といふ不可思議の色あり誰の( )とも違ふ 松平盟子
こんな虫食い短歌を出題したことがあった。「肌」という作者の表現に、学生諸君の多くが思い至り、この短歌は大きな教室でかなり人気をえていたと思う。
ま、繰り返し言われてきたことであろうが、やはり現地で体験している人の「報告」には力がある。
つねは白人といわれる人をためらいなく「赤人」と呼んでいた江戸時代の探検家もいた。ロシア人だからというだけでもあるまい、潮紅を呈した白人は都内の電車でもよく見かけるから、最上徳内らの「赤人」には素直な実感があったかも知れない。
* ありえない 2003.5.28 小闇@tokyo
安くて健康的な食事をとれる店であってほしいという私たちの願いもむなしく、会社近くに新装開店したのはコーヒーショップであった。スタバドトールタリーズエクセルシオールベローチェ。どこまで増殖するつもりか。コーヒーは決して嫌いではないが、人はコーヒーのみにて生くるにあらず、だ。
大通りを渡って蕎麦で昼食を終え職場へ戻る途中で、その一店に寄った。190円のカフェラテをテイクアウト用の紙コップに入れてもらう。紙袋に入れようとする店員を制してそのまま受け取り、店を出て気付いた。
上げ底。シアトル系コーヒーショップの台頭以降、多少の上げ底では驚かない私ではあるが、そのカップには驚愕した。カップは小さいのに、上げ底分は一人前かそれ以上なのである。思わず口をついた言葉は「ありえない」。
週刊文春に連載中の棋士、先崎学のコラムに「今風に言えば『ありえない』、私なりに言えば『論外じゃ』」というようなくだりがあって、なるほど「ありえない」はそういう意味なのかとも思ったが、少し言葉が足りない。いまどきの「ありえない」は、すでに起きている事象に使う。
あの雑誌があれで「完売御礼」? ありえない、××のパソコンが販売台数トップ? ありえない、万景峰号運行再開? ありえない。こんな具合である。
……野外ステージから300m。座ったり寝そべったり。脱いだ靴の脇のビールの缶は空になっている。振り返れば花火。両脇のスピーカーからの音を掻き消すように、遅れて響く雷のような音。あるいは。
……蚊取り線香の残り香のなか目を覚ます。うつぶせていた頬にシーツの跡。外海に続く入り江の際に建つ木造2階建てのその二階、開けた窓からは西日が射す。遠くからバスのクラクション。ぼんやりと思考の再開を待つ。
もはや『ありえない』は、午後3時の職場で夢見がちなこういう状況には使えない。あきらめているわけではない。こういうことは『あるかもしれない』と言えばいい。
*「棋士」の辺に今少し言葉が足りている方がより分かりいいだろうが、おもしろいところを、素早く見ている。
もう一つ読ませて貰おう、これはわたしにも、かなり深刻に関わりがある、この小闇とは逆側の、ガンコジジイとして。少しくつらいものがある。
* よしゃ! 2003.5.29 小闇@tokyo
義理の妹が今年の冬、母親になる。その一報を聞いて私は「よしゃ!」と思う。プレッシャーから開放された。とりあえずは。
カテゴライズすれば私は長男(第一子)の嫁である。結婚してまる六年、めったに会わない義理の両親からの「初孫期待波」はひしひしと感じていた。直接言葉に出されない分、なんだか後ろめたい気持ち。間向かっていると土下座したくなるような。誰かに強要される類のものでないのは百も承知なのだが、まあ、そういう場に身をおくと私にもいくらか長男の嫁としての責務(旧式)が頭をもたげる、ということなのだろう。
で、「よしゃ!」である。なんだか役所関係の書類とか交通費の清算とか会社の机の配置換えとか、そういう、避けられないけれどでも面倒臭くてずるずると後回しにしてきたものを、不意に通りかかった誰かに、「やってあげようか」と言われ「えっホントに?!うわー助かる!このご恩一生忘れません」と答えるのに、かなり近い。
残る問題はひとつ。この事実を私の両親にどう伝えるか。私は長女(第一子)である。弟も妹も独身。義理の妹は私と同い年。それと知れば実家方面から私へ寄せられる「初孫期待波」はますます強まるであろう。本音を言うなら、「ほっとけっつーの」というところなのだが、このあたりの出方は慎重に検討したい。
* 代弁されたと思う若い人達、ウーンと唸る親たち。両方の顔が見える。小闇フアン!! のわが息子殿は何と読んだであろうか。せめてこの程度までには頭に置いているのだろうか。
* 風 かのひとのうしろよりふく/はつなつのはつなつの/かぜとなりたや
「ビールいかがっスかぁ~!」
雲は少しずつ風に吹き流され、日は傾き、長く伸びる売り声は、空へ吸い込まれていく。広い野球場で、風に髪を梳かせ、ミットにまっすぐ収まる速球や、打球の音を聞いていたい。
体調はいかがですか。新月、大潮、そこに台風。どうかご自愛のほど。 名張
* 若い(のだろうと想っているだけだが、)女性の「夢」見ることが、こんなにも昔からは変わってきている。いいではないか。
* はい、私は元気でおります。ベルリンより。
お元気でいらっしゃいますでしょうか?
すぐにお返事をさせていただこうと思いつつ、毎日大学の課題に追われ、ゆっくりとメールを書かせていただく時間がありませんでした。
そうです、私は今ベルリンで大学生の身分にあります。30歳になってまた勉強を始めていますもので、何をするにもこれ時間がかかりまして。ドイツ語の単語や慣用句を覚えるのも一苦労です。
それでも、私はこちらでの生活をとても楽しんでいると言えます。また遠からず追ってメールをさせて下さい。色々お伝え致したいことがあります。
私は元気です。
* 恩師の孫娘さんである。お祖母様といっしょに志望を京都で聴いて以来、着実に実現している。躊躇など、むかしから美徳ではなかったのだ。まして今は果断、慎重な果断こそが日々を新たにする。
人よ、ああ、唯これを信ぜよ。
すべて眠りし女(をなご)今ぞ目覚めて動くなる。
○
一人稱(いちにんしよう)にてのみ物書かばや。
われは女(をなご)ぞ。
一人稱にてのみ物書かばや。
われは、われは。
与謝野晶子の予言と実践は実現され拡大されている、と、そう言い切っていいか、どうか。ともあれ晶子の詩句をあえて「ペン電子文藝館」におさめたわたしの共鳴と共感は大きいのである。
* 京都に行かれたこと、忙しい五月でしたね。でもとても楽しんでいらっしゃる、よい京都行き、だったでしょう。十分休んで、お体休めてください。
小闇さんの黄色人種の話、考えさせられますね。知人でアイルランドの人と結婚して、赤ちゃんが生まれたとき、姑さんがまず発した言葉は「オー、ブラウン!」だったとか。特に白いアイルランドや北欧の人からみれば、ハーフの赤ちゃんがブラウンなら・・アジアの日本人や中国人はどんなブラウンだろうか? と彼女と話したことがありました。
姫路
2003 5・30 20
* ご祝辞で「夫婦で挨拶を深めて」とのお言葉を頂きました。
ここ数日、二人で生活を組み立ててゆくということは、その中での互いの行動などの一つ一つが、まさに「挨拶」というべきものなのかなぁと感じています。日常さまざまな局面での、押し合いの微妙な力加減一つで、良い形にも悪い形にもなり得るようですね。
* 挨・拶とは、押しまた押し返す原意である。東工大では学生諸君の一人一人と、徹してこれを繰り返してきた、問答として。
* これからが、厳しい「常の日」のはじまりです。
新婚船出のあとのほぼ半年から一年は、お互いに、ほどよくバカになり寛大であり合うようにしないと、傷つき合うことが意外なほどふえます。何故かならば、結婚前での互いの理解など、結婚してからの互いの新発見・新体験にくらべれば物の数ではなかった、と分かるからです。ええっ、こんなことは知らなかったよと、イヤでも沢山お互いに知るからです。夫婦だけの一対一でなく、それぞれの一の背後に、知らなかった多くの現実が付随していると、イヤほど知り合わねばならない。これを乗り越えるまで、航海は安定しないのがふつうで、だからこそハネムーンが必要だと云うのでしょう。賢くうまく乗り越えてゆかれるように。
お二人のご健康を祈ります。 秦
2003 6・2 21
* 名張の旧市街を流れる一間ほどの水路に、この時期、青竹で作られた菖蒲筏が、繋がれます。澄んだ水が豊かに流れる水面にゆらゆら。
おばあさんが「あぁ、また暑くなンねんなぁ」と呟きながら、ぽくぽく歩いてゆきました。 囀雀
2003 6・2 21
* もう数十年、息子や「小闇たち」の年齢よりも多く遠いむかしのことであるが、今朝読んだ「東京の小闇」の述懐は、かつてのわがことのように身近に実感できる。同じ体験があったのではない、環境も境遇も日々もとてつもなく異なっていたが、世に出て行こうと心決めた頃の、清々しくはあれど不安も迷いも無いでなかったあの頃が思い出される。こういう反芻を是としない人もあろうけれど、それが「今・此処」をリフレッシュする力だとは、疑わない。
* 一期一会 2003.6.2 小闇@TOKYO
半年後に就職することが決まっていた。だからかもしれない。始発で研究室に通う生活に辟易していた。実験も理論計算も、得意でも好きでもないことにとうに気付いていた。そこをぱっと飛び出す勇気がなく、整った学歴にも未練があって、ただ卒業の日を待っていた。
その時期になっても、私は家庭教師のアルバイトを続けていた。医者の家で、イメージの良い沿線の急行停車駅から十分歩ける距離なのに、毎回ベンツで送り迎えをしてもらっていた。ある日リビングのテーブルの上に、奥さんが事務処理をしていた医者先生の給与明細があった。月給25万円とは随分少ないなと思い、250万円の見間違いであったことに気付く。
私の見てきた世の中の狭さを痛感していた。
迷った挙句の内定だった。技術職は回避したいが、まったく新しいところへ身をおく自信もなかった。これまでの経験も生かせるような、換言すれば、この会社は私を採るだろうと確信できるところの入社試験を受けた。手を打ったのだ。
内定の知らせは、薫風吹き抜ける非常階段の上、携帯電話で聞いた。ほっとしただけで、嬉しくはなかった。それまでの世の中から逃れられるという安心感しかなかった。
雑誌や本を買う金銭的な余裕も、それを読む精神的な余裕も失っていた。研究室通いのベースキャンプとなっていたあの部屋で、読んだ雑誌の数など知れている。そのうちの1冊の巻末のグラビアを、私は忘れない。
衝撃的だったのは企画なのか、写真なのか、文章なのか、はっきりしない。こういう仕事があって、それをこなすひとがいるという事実。私にしてみれば逃げてゆく先の世界でも、やはりそこにはそれが好きで仕方ないひとたちがたくさんいる。今思えばあたりまえのことに、気付いた。
そうでなければ、また同じことを繰り返すところだった。
その雑誌は卒業と就職の間に処分した。が、そこで出逢って、得たものは、私の中に残っている。あれほど静かに、力強く訪れた転換点は、ほかにない。
* 分かるなあと思う。
ところで、この一文中、少なくも「換言すれば」という一語だけは、出来ればべつの物言いにして欲しかった。
大学で、講義を筆記させる美学の二人の先生が、とくに助教授先生が、ひっきりなしに「換言すれば」をやる人だった。それを思い出した。「換言センセイ」と内心呼んでいた。なんで「言い換えれば」とか「いわば」とか、ほかにももっと適切な耳に馴染む物言いが出来ないのか、そこからこの文章が錆をふくんで仕舞わないかと、講義を清書しながらいつも思っていた。ほかにも、こういう例がいつも幾つもあった。漢語の効果的な使い方は難しい。
井上靖は「夕方や夕暮れといういいかたが好きだ、薄暮や黄昏ではなく」とものにも書きつける作家であったが、此処ぞというときは、薄暮や黄昏を躊躇なく上手につかう人でもあった。
ベースに、日本語の、和語ふうの表現を置きながら、突出の効果にうまく漢語がつかえればいい。無意識に慣れてしまった漢語の多用も、気張って意識しての多用も 、文章の息の根を縮めてしまう例がおおい。なだらかに息をするように文章は書きたい、基本的には。
* 六時間半一度も目覚めず、五時にサッサと起床が出来る程の寒からず暑からずのいい気候になり、今一仕事、気がかりの咲き終わった皐月の剪定を終えました。六月のヨーロッパはこんな気候なのかなと想いつつ、イタリア語のCDを聴いています。
英語は多少の馴染があっても伊語は大変。「ハリーポッター」が「アリーポッターレ」だし車がマッキーナ、砂糖はズッケロ、大学はウニヴエルスイター、出口はウシーター等々初体験ばかり。
単語を覚える程度の軽い気持ちで始めたのが、オオチガイ。お勉強から遠ざかって半世紀、加えて記憶力の見事な衰退とで、このお婆さんは今、向こうなら幼稚園児程度の文法や男性、女性名詞にまつわるスペルの変化に悩まされています。大丈夫かしらと思いつつ、まあ、歳なりにマイペースでボチボチと。 北多摩
* 日本の社会は、首相が「アメリカのポチ」だなんぞと云われながらも、なんとも懐の深いような浅いような、多岐にわたった自由と平和を謳歌し呼吸している私民の、今も、多そうな社会ではある。これを否認する理由は無い。無条件に祝いたいともとても思わないけれど。「私民」生活はこう穏やかでありたいと望んでいけない道理は、ない。
2003 6・3 21
* 崇徳院の御廟におまいりしてきました。それから弥栄中学校も。秦少年のあるいた道を、わたくしもあるいてきました。
それから熊野神社近くにあったという、保元の乱のとき、崇徳院方の本拠だった白河院北殿跡というのを尋ねましたが、これがなかなかわからなくて、難儀なことでした。
けっきょく、京都大学の熊野寮のあたりということがわかり、たいそう、古びた建物をながめ、おそらく退寮した学生たちが捨てていったのでしょう、おびただしい古自転車や自動車、机(半分開いている抽斗から、煙色のねこがびっくりしたらしく飛び出してきて、こちらもびっくり)、ふとんなどに、おどろいたり、あきれたりしながら、そのあたりをあるいてきました。
熊野神社のすぐ北に「春日上通」の標識を見つけて、胸がなりました。崇徳院の御廟は、最初、保元の乱の戦場だった春日河原に建立されたという説を聞きましたので。
頼長の首塚という桜塚を訪うたり。血腥いお話ばかりで、かなり、消耗してしまいました。
待賢門院の御陵も法金剛院も、お花が咲いていませんでした。蓮にも菖蒲にも早かったようで、それもまたよいとおもいました。だぁれもいなくて。ことに御陵の前で、ぼやっとしていた一時間ほど、佳い時間にめぐまれました。
お花が咲いてないと申しましたけれど、木の間に隠れている御手洗のあたりに、雪の下のかすかな花がありました。 茨城県
* ことに懐かしく読んだのは、法金剛院や待賢門院御陵のくだり。こういう史跡を訪れて感慨を持ってくれるような人は少ない。春日上通りなんて鄙びたところをさまよい歩いてくれる人は、もっともっと少ない。祇園甲部の崇徳院廟なんて、なんであんなところにと、偶然にも見つけた人は驚くことだろうが、見つけてくれる人すら今は無いに等しい。奇特な便りを折しもあれ、朝一番に読んだ。少し、胸のあたりがシンとした。
2003 6・4 21
* テハヌー(ゲドの妻)の、「アースシーの風」322ページのことば、「死んだら、あたし、あたしを生かしてきてくれた息を吐いて戻すことができるんじゃないかなあ。しなかったことも、みんなこの世にお返しできるんじゃないかって気がする。なりえたかもしれないのに、実際にはなれなかったもの、選べるのに選ばなかったものもね。それから、なくしたり、使ってしまったり、無駄にしたものも、みんなこの世界にもどせるんじゃないかなあ。まだ生きている途中の生命に。それが、生きてきた生命を、愛してきた愛を、してきた息を与えてくれたこの世界へのせめてものお礼だって気がする。」
そのように心底から思えたら、わたしも完結できる。深く感じ考えさせられます。 兵庫県
* このテハヌーの述懐はよく記憶している。けれど、少しことばのアヤかのように、やや、わたしはゆるく感じ取った。死ぬという推移だか転帰だか新生だかわからないが、いずれにしても「お礼」といった表現にも少し甘やかな情感の先行を感じた気がする。「……たら」「完結できる」というのもマインドの分別心に感じられる。「完結」とは何事を云われているのだろう。つまり「死んでもいい」という意味か。死ぬのは死ぬのであり、「死んで」いいもわるいも無いように思われるが。
2003 6・4 21
* わくわくの顛末 2003.06.05 バルセロナ
有用微生物群、略してEM(Effective Microorganisms)の素晴らしさを語っている知人の、鼻息が荒くなる。
「、、、EMはね地球を救うのよ、地球を。」
熱っぽい説明に加え、EM絶賛の雑誌を見せられれば、私もついつい眉唾物かと構えてしまう。
その知人に限ったことではない。自然界の仕組みや働きは驚くほどうまくできているから、知れば知るほど面白くなるもの。日常の知恵が科学に裏打ちされ、関心を持たれてゆくのは決して悪いことではない。
言うのも恥ずかしいが、それが、私の専門分野。のハズだった。では、微生物について少し説明してください。今そう言われても、正直途方に暮れてしまう。あの莫大な時間と贅沢な環境に、私は何も学ぼうとしなかった。
自分のやりたい専門分野を模索し、大学を選んだ頃の私は、ご多分に漏れず期待に溢れていた。アルコール発酵を知れば、静かな樽の中で起こっているはずの、目には見えない盛んな反応の泡粒が見えてきそうで、わくわくした。場所をとる大きな洗濯洗剤の箱が、ある時から急に小さくなっただろう、あれはアルカリ環境でも生きる酵素を発見した東工大の教授のおかげなんだよ。そう説明されれば、よく分からぬままにも、実生活に貢献できる素晴らしさに夢が広がった。
あのわくわくは、どこに行ってしまったのだろう。
東工大の人間が、雰囲気が嫌いだったから。一切をこのせいにしてきたけれど、本当にそれだけだったのだろうか。私の興味もわくわくも、それほど根こそぎにできる力が、一体彼らにあったのだろうか。十年を経て今、初めて疑問が首をもたげる。
私が入学した年、新学部である7類が誕生。理学部1類の二学科と工学部3類の二学科が、バイオに関わるという理由で、合併された。
民芸工芸に惹かれるように工学部に惹かれた。どれほどの差があったかは知らない。大事だったのは、実用的であると感じることこそ、が、私をわくわくさせていた事実。
大学2年に向けての学科選択、私はあっさり理学部を選んだ。厭らしい人間関係に疲れ果てていた私は、すべての期待を忘れ、その人たちから逃れられればそれでよかった。天涯孤独の気分だった私と彼とが、学問熱心な彼の希望に沿って同じ学科を選んだのは、自然の成行きだった。彼は留年し、私は彼の行きたかった学科に一人進んだ。
あの時工学部に進んでいれば、意欲的に勉強していただろうか。興味津々と研究を楽しんでいただろうか。恐らく、そうはならなかっただろう。いや、もしそうだったとして、今さら一体何ができるのか。
東工大を選んだのは私であり、私をわくわくさせた工学部を、選ばなかったのも私だった。すべてが私のせいだったと言いたいのではない。でも、もう東工大のせいではない。おめでとう。
* この「おめでとう」は効いている、幾重にも。遠くからわたしも言おう「おめでとう」と。それにしても、ずいぶん、永くかかったじゃないか。
2003 6・6 21
* 住んでいたのが大字と字の両方つく田舎でしたから、中学から先は、電車やバスでの通学を強いられました。車内で。ホームで。本を読む先輩が、男女限らず素敵に見えたものです。
外国ものか、日本文学か。古典? 近代? 流行作家? 文庫にランクがあり、小説より詩がカッコ良いとされ、見栄も半分、本は必携でした。
四六時中ケータイという男性には、恋心も起きないわ。
自戒も込め、鞄に一冊ご本を入れて、奈良へ。
夢中になって、八木を乗り越し、布施まで行って、石切、生駒、奈良ルートに変更です。ドジねぇ。
列車が行く先には、生駒の山並。ご本を膝の上に開いたまま、窓の外を眺めました。
奈良に着くと間もなく、屋内にいても震えるほどの雷の音。若草山を借景の庭園に降りしきる、車軸を流すような雨を、大きなガラス越しに、見つめながら、心はどこかをさまよっていました。
草いきれも落ち着いた緑が雨に濡れた風情の、美しいこと。鳥が一羽、梢で、ひとの言葉に聞こえる囀りを繰り返しています。生紬の単衣に風が通り、目の前をつぅいつつぅい、燕。
三月堂、二月堂、鐘楼、大仏殿…緑に溺れそうな奈良でした。 囀雀
* この人も、おそらく現世は虚化=コケと思っているのだろう。
2003 6・9 21
* たまたま食べ物にふれたメールが二つ。一つずつなら読み過ごしておくが、二つ並ぶと別の趣が生まれる。一つは若い女性、一つは年配の男性。
* メインディッシュ 2003.6.8 小闇@tokyo
家で食事をするのは平日の朝と休日。休日は2食で、昼と夜だけ。週末最後の食事を終えた日曜の夜、平日朝のおかずをまとめて作る習慣は、一人暮らしを始めた頃からのもので、十年ほどになる。
今夜は炒め物(鶏レバー茄子香菜+辛みそ)、煮物1(おからひじき油揚大豆+出汁柚子胡椒)、煮物2(浅蜊新じゃがたまねぎ+出汁醤油)、焼き物(卵ブロッコリセロリ+塩胡椒粉チーズ)。これとご飯と納豆とにんじんジュースを5日間の朝食とする。電子レンジ無くしては考えられない日々。
作るのはどれも副菜と言うべきもので、メインディッシュはない。なぜだかメインディッシュはその場で作りたいと思っている。実家の母はそうしていた。卵焼きとか鮭とかそんなものであったが、朝5時半に父と私が食卓につく前にもそれを準備していた。
今、私は朝にその時間を作れない。忸怩たるもののある一方、この生活で毎朝うつろな目つきながら朝食をとってから出勤していることは、ちょっと自慢したいとも思う。
休日の朝はパスタ。茹でて瓶のソースと和えておしまい。それとコーヒー。夕食は掃除も買い物も終わってから取り掛かるので30分程度しかかけられず、なんだかいつも同じようなものになってしまう。豆腐サラダとか刺身とか餃子とか茹豚とか。冬場なら鍋物。実質、メインディッシュのみ。プラス、ビールかワインか日本酒か。ホントは煮込み、とか、ロースト、とか時間のかかる料理もしてみたいのだが、なかなか。普段夕食をとらないのであまり重いものを胃が受け付けないのも理由の一つだが、バーミックスとティファールが泣いているようにも思う。
もうちょっと料理に時間を割いてみたい今日この頃。野菜のおいしい季節だしなぁ。
* 梅雨入りまぢか、待ち金届かず、もめごと多し、風じゃ引きずり、胃の腑も機嫌をそこね………..こういうときは、気分転換、厨房に入るに限る。
献立は、 1)昨夕好評の、1キロ100円の下仁田の屑こんにゃく、ささがき牛蒡と牛バラ肉の佃煮風煮付け、 2)これまた残りのマグロの生姜煮(にこごり)、 3)スナックエンドウ(過日、百姓の友人から贈られていらい大好物。さっと2~3分湯どおし、冷まして、塩か、醤油、マヨネーズをつけパクツク)、 4)インゲンの白和え(すり鉢見当たらず、百円ショップへ行った。店員に尋ねると、ごくごく小ぶりのママゴトのような鉢に思わず笑顔がこぼれた。足で抑えることもなし。 5)これでは、洋風好みの若いよヨメはんにはあまりに渋かろう? と、おまけに、初挑戦の「洋風変わり白和えサラダ(木綿豆腐、ショルダーベーコン、ピーマン、ジャガイモ、ヨーグルト、すり白ゴマ、砂糖、醤油。 6)もひとつおまけに、イカフライ(これだけが出来合い)。 7)ご飯は、大麦を入れてある。
しめて、一時間ほどの調理、弾むと早いし、楽しい、膳を囲むが待ち遠しい。酒は胃にやさしい焼酎。
帰りなんとて、家もなく、慈愛受けたる父母もなく、……….むかしは、庭に山椒を植えていて、香りと色を添えたが、今のコンクリの借家ではままならず。2週間ほど休みのなかったヨメさんに、夕方ラドン温泉に行かせ、帰るまでに仕度手抜かりなし。代償は、夕食前の白髪染め、こればかりは頼まないと。
ま、いいか、こんなもんで十分だろう。今宵一番の肴は、クロサワの「虎の尾を踏む男達」。
秦さま、所蔵の「在外秘法・肉筆浮世絵」(学研、限定版。一函)、よろしかったらお送りいたします(美品)。かさ張って重いですが。いつも「湖の本」をいただいてばかりで。 中央線
* わたしは「食べる人」で、この二人のようなことは、ま、ほとんど経験がない。上の子や下の子が出来て妻が悪阻に悩んだ頃は、わたしが、会社勤めから早めに帰って簡単に食べ物の用意をした。ことに下の子の生まれる直前は破水の心配があり、二月以上も妻は安静に横臥して、一日でも多く日の経つようこらえていたから、その間は、全部食事の用意をわたしと娘とでした。娘はまだ八歳にもならなかった。とても上の、白髪を気に掛けている男性のような手の込んだ藝はなかった。
この頃、家では朝昼晩とも少量にしている。抜くこともある。体重が78キロになった。ピークの頃から8キロほど下がり、もう3キロ落としたい。鉛筆ほどの昔に戻りたいとは思わないが。うまいものを「少し」食べたい。酒の入る余地をのこして食べたい。そういう思いでいるから、上のような文章はやや眩しい。
* ふと喋りたくなりメールをいたします。
結婚式のご挨拶を読み、会場の情景が浮かぶ如きでした。お二人は恩師あり。
恵まれた若人がふとつぶやく「ことのは」に自分の鏡を見るようです。羨ましいと思う大学に居ながら孤独を決め込み悩む。そんなルソーの「告白」の如き体温が「闇」に流れる。
この「闇」を覗く、目を通す、読むことで僕は自分の揺らぎ具合を感じ、幾つになっても所詮、蟹の甲羅の穴を掘っている自分に安心感を持つ。
文学の造詣深い方々の文章が時たまエセーの姿で光り、それは京の木屋町の風のように美しく川面も揺らぐ。
「本」というのは読まなくても読んだ人の「感動」が何故か伝わって来ます。原文を読む。然しペダンテックな言い方
ですが、秦さんの「源氏物語」の音読が聞こえる。
有難うございます。闇に。 神奈川県
* 感動 と書かれている。いちばんの栄養である。
2003 6・9 21
* 小闇に揃い踏みしてもらおう。こういう問題提起の方が、今さららしく「しまいこんでいた歌」を歌えと説くようなロートル狂言より鋭く何かへ言いつのっている。どちらもやや舌足らず寸足らずに言い及びの短い憾みはあるが、察して読むと何かがあ痛っと受け取れる。
* 明るい裸 2003.06.10 小闇@バルセロナ
午前五時、Spencer Tunickのヌード撮影に集まった人、五千人。
一ヶ月前に見たTunickの作品には、正直、ひどくがっかりさせられた。感想は、一言「で、だから?」。作品のメッセージを読み取ろうとする、盛んな脳の働きも、「置かれた」裸体の無表情さに遮られる。アメリカでは逮捕されてまで撮ったらしい街中のヌードが、これか、と。
今回の撮影は、バルセロナ市のお墨付き。
テレビの映像に見る限り、彼の被写体に向ける視線にも、インタビューに臨む眼差しにも、逮捕され裁判に挑む男の顔つきしか感じられなかった。せっかくの生きた裸体の一団も、彼自身そう呼ぶように、彼の演じる舞台の”Installation”でしかなく、彼にとって最も重要なのは、そんな奇抜な舞台を発案し設置したことであろう。
彼の写真がアートと呼べるか、私は大いに疑問を抱く。
その一方で、この撮影はかなり私の興味をそそった。これだけ大勢の人が、そんな朝早く起きてまで、わざわざ「裸になりに行く」意味。人々の、「人前で裸になる」ことへの欲求とは、いったい。
面白そう、自然体の裸になるのがなぜ悪いと思ってきた。自分を変えたい、体へのコンプレックスを克服したい、自由になりたい、みな同じであることを感じたい、夢だった。原動力は、それこそ十人十色。
印象的だったのは、ヌードたちの一斉にして爽やかな笑顔。何かから解き放たれたような、あっけらかんとした雰囲気。あんまり自然で、あんまり不自然。でも、嫌らしさも美しさもない、こんな明るい裸もありかなと。洋服を着ていることがばかばかしくなり、布切れで隠すことこそ恥ずかしく思える、そんな錯覚を覚えさせる威力が、五千の裸体からは発せられていた。
* once upon a time 2003.6.10 小闇@TOKYO
悲惨な事件で、こんなこと、ないに越したことはない。肉親、そしてその八人の子供たちには、お気の毒としか言いようがない。ただ、国はここまで謝罪したり、賠償したりするんだなと、うまくいえない気持ちになった。私の知っている言葉に当てはめるなら、切なくなった。
学校は安全な場所でない。小学校二年生の夏休みにそれを知った。
何メートルか先にいる担任の先生も、帰り道の辻にある交番の警官も、たどり着いた家にいた私の両親も、その日の私には、無力と映った。私は何も言わなかった。言葉にしたところで、周りを煩わせるだけで、その日より前に戻れないとだけ思っていた。文部科学省や池田小学校の教員がそうしたように、振る舞いや金銭で償われたとも癒されたとも思えない。私は、死ななかったからだ。
死ねばよかったとは決して思わない。けれど、黙っていたことが本当に正しかったのかは、今もわからない。時間をかけてわかったのは、そうやっていろいろなことを抱えながら、ひとは生きている、ということだ。
トラウマとかPTSDとかいう言葉でくくられること、だからあなたはそうなのね、と浅くまとめられることを、私は望まない。その後の私にどう影響したかなんて、私だけがときたま、そう、こういう事件が報じられるたびに思えばいいことなのだ。
そう意地を張るんじゃない、と、よく言われる。たいていのことはその通りだが、どうしても譲れないこと、ここで突っ張らなくては生きてゆけないと思うことも、いくつかある。
それが間違っているのなら、いつか自身でそう気付きたい。そうすればこの、墓場まで持っていく話のうちの最も古いひとつも、ただの昔話として昇華する。
* 歌は人さまざまに、歌う人は歌っているが、歌えなかった、歌う気もなかった人も大勢いる。歌うと歌わないとの間にどんな世間の掟や柵が介在しているのか、その追及と改善こそが本当の「劇」の問題なのだ。わたしを育てた父も母も「しまいこんでいた歌」は持っていた。さあ歌えと言ってみても歌えない人は、それだけでは歌えっこないのである。言葉を引き出してくれる備えや設えを世の中が持とうとしない限り、歌える人は少ない。歌えと言うだけでは思想にも運動にも屁のつっぱりにもならないのである、わたしはそう思う。弱い人を弱いままにしておいても歌い出せるものではない。小闇たちはそれを分かっていると思う。
2003 6・11 21
* もう店じまいして階下にと思っていたところへ、嬉しいものが飛び込んできた。此処に謂う「幸福」とは、「ペン電子文藝館」に掲載したホヤホヤの湯気の立っているような中島敦作『幸福』のことである。そして「幸福」とは、何とはなしに東工大のわが卒業生と元教授秦サンとの間に置かれた、気付け薬のような二字にもなっている。「生きているだから逃げては卑怯とぞ幸福を追わぬも卑怯のひとつ 大島史洋」という短歌からこれは発している。
バルセロナの小闇にいまわたしは一喝を喰ったほどの気分で、シャンとした。中島敦のこの「幸福」という面白い小説は、「ペン電子文藝館」 http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/ の「招待席」または「小説」欄で、すぐ「無料」で読める。まして嬉しいことに、わたしが「今・此処」にいて日々心血を注いでいる「ペン電子文藝館」に遙かな小闇は、すかさず眼を向けてくれていた。
* 自身・自信 2003.06.12 小闇@バルセロナ
中島敦の『幸福』が面白かった。私には図らずも「今の今」をゆくテーマで、ここ数週間頭の中を反復していた思考が、筋と輪郭を与えられ、少し極端な形で目の前に放り投げられた感じだった。ほら、こういうことだよ、と。
まったく、作中の「下僕」には先を越されてしまった観。
人と人との位置関係とはこういうもの。私が一昔前には理解できなかった人間関係の構図を、中島敦は分かりやすく説明している。
この「下僕」のように、どんな言いつけにも従順にひたすら働けば、評価されるか。病気になれば、それまでよく働いたと言って、負担を軽くしてもらえるか。
「彼の主人は哀れな下男が哀れな病気になつたことを大変ふさはしいと考へた。それで、此の下男の仕事は益々ふえた。」
世の中には、こういう理屈も存在する。
例えば、善意でもってへりくだれば遜るほど、知らぬ間に他人からは「その様」にしか扱われなくなっている。おどおどすれば「その様に」、罪悪感を持てば「その様に」、自分をダメなやつと思えば「その様に」扱われる。そんなことって、ないだろうか。
上下左右関係を越えて、自分を相手に尊重させる。これが案外大切で、難しいことに、気づいていた。「おりこうさん」によく仕事をこなせば、善意で親切に人に接すれば、自動的に得られる類のものではないことも。
人の評価ばかり気にしているうちは、ダメ。人の目を恐れているから。
人がどう思うかなどは少しほっておいて、まずは、自分がどう考えるか。自身の地盤が固まってゆけば、逆に、ちょっとやそっとの批判や賞賛にも、足元が躍らされることはない。自信とは、そうやって自ずと表れてくるものだろう。
人の評価ばかり気にして生きてきた私も、どうにかそのことに気付くようになった。「周りのことを考えて」を、「周りが自分をどう思っているか」気にして、と履き違え、反省を自己批判と勘違いして育ってきた私には、自分がよいことをしていたと思っていた分、修正も難しい。
でも考えてみれば、今の私に、他人を恐れる理由があるだろうか。よくよく考えれば、そんなものなどほとんどないことに気付く。そして気付いた分だけ、今私は自由だ。
痩せ衰へた・空咳をする・おどおどと畏(おそ)れ惑ふ・哀れな小心者ではなくなっていた中島が描く「下僕」、自信に満ちた鷹揚な敦の描く「下僕」、を前にした作中の「主人」はどうであったか。誰よりも「恐れ」を抱いていたのは、実は、失うものの多い「主人」ではなかったか。
夢の世界と昼間の世界と、何(いづ)れがより現実か、とは。現実とは、そんな夢のようなものなのかも知れぬ。しかし男の夢も、また待っているだけでは訪れない。それを紡ぐのは、自身。
* 「でも考えてみれば、今の私に、他人を恐れる理由があるだろうか。よくよく考えれば、そんなものなどほとんどないことに気付く。そして気付いた分だけ、今私は自由だ。」と。言い切ったものだ。わたしも、平生これに近い気持ではいるけれど。。
ふと思い出すのは、捨聖の一遍智眞。元寇の頃に諸国を念仏一途に遊行し、稀有の達成を得ていたこの宗教者は、同時期の日蓮が声を限りに法華経こそ唯一の神典、これに拠らねば国難は眼前にと、だれでもない北条時宗や幕府の権勢、また朝廷貴族に対し説きまくっていたのとは真反対に、元寇にも権勢にも権威にも全く見向きもしなかった。一遍には「南無阿弥陀仏」だけの徹底した信と行があり、私民・民衆との踊躍念仏に没頭、いかなる奇跡や自力の迷妄も、すげなく明晰に否認していた。彼一遍が一心に念仏すると、よく紫雲がたなびいたり花が降ったりしたといわれるが、「花のことは花に聞け、われは知らず」と一瞥も一顧もしなかったという。
一遍は、そういう点では中島敦の描く「下僕」の基底部分で生きていたのではなかろうか。真に自由な存在であった。彼は阿弥陀如来に呼びかけていながら、特に極楽も地獄も謂わない人だった。空也が市聖といわれ、一遍は捨聖、なにもかもを清潔に捨ててしまっていた。バグワンふうにいえば何かに偉大に「降参」し、エゴをすべて落としきっていた。禅の「心身脱落」に同じ境地で「南無阿弥陀仏」を、わたしふうに謂えば「楽しみ」切っていた人だ。
空也、法然、親鸞、一遍。この念仏の歴史は真に貴い。彼等はどこかで真の禅に通い合っていた。ことに一遍智真は徹していた。わが及び難き理想の人である。この人だけが、おそらく、「南無阿弥陀仏」をも抱き柱としてでなく、楽しみとして身に帯びていた。南無阿弥陀仏「で」成仏すると一遍は言わない。南無阿弥陀仏「が」成仏するぞと透徹し、しかも「私民」的な禅に達していた。そう思う。
2003 6・12 21
* 柑橘類を食べようとして、果汁がしみて初めて気付く、小さな傷。「つきささる血の出ぬ傷は数を増す」という句を見たとき、肝を潰す思いがしました。
そそっかしいから、だれかれなしに、そのような傷をつけておきながら、自身はといえば、誰に、どうして、それどころか、傷ついたことさえ忘れる、雀。
* たふとむもあはれむも皆人として( )思ひすることにあらずやも
今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその( )思ひ 窪田空穂
そういうものだが、それでよいとは、やはり言えずに、人は窮する。
2003 6・13 21
* 中島敦の「幸福」を読みました。氏の「斗南先生」を読んで何か親近感を感じておりましたが、「幸福」は僕には哲学のようなそして人間への「祈り」のような読後感でした。ジェキルとハイド。
スティーブンソンに興味を持ったのでしょうか。氏の爽やかな教養ある作品は多く読んでおりませんが、短編を読むと色々な景色を見る心地がします。幸福。題が深遠です。太宰 治は家庭の幸福を諸悪の根源のように語った。その通りと豊穣なる今の時代に思う。
しかし数々の太宰の短編は具体的な「言葉」が光る。中島 敦のこの作品は「闇の闇」。般若。「幸福」の主人公は指三本を無くして働き、徒労の世界と「夢」の世界に生きている。舞台は昔の日本の、いや列強の植民地であるが曖昧模糊を人間の姿へ写像した物語即ちお能である。
またついメールいたしました。つい話したくなりまして。
しかし、「雨上がる」はいい作品です。役者がいい。共感します。 川崎市
2003 6・15 21
* マトリックス 「夕刊」のキアヌ・リーブスの弁によると、撮影前に監督ウオッシヤウスキー兄弟(知りませんが、ロシア系?)から、哲学書を沢山読んでおくように云われて、ショーペンハウエルやニーチェ等々を読んだとか。
人類の視点がコンピューターに変ってきたこと。予言者さえもコンピュータ、ネオは人類の都市ザイオンが監獄に見えてきて、救世主として旅をし、そのコンピューターに理解を深めていく。
二部と秋封切の三部と合わせてたった72時間の出来事。
競争社会の中で、思いやりある選択を意識的に行う事、これが背景だとインタビューを締めくくっている。
うちの娘は、お母さんにはあの現実と仮想の社会の交錯するのが理解出来るかしらねと、チョイトバカ扱いですが、この若夫婦は大のフアンです。この間のテレビ放映も当日の視聴率一位で、今、映画館も待ちかねたフアンで溢れていると。 西多摩
* ただに「現実と仮想の世界」という二元に見立てて、バーチャルに見えている方を「仮想」世界だと眺めていると、「マトリックス」の設定に逆さ吊りにされてしまう。簡単に現実とコンピュータ世界との二元かのように思わせながら、「哲学」を意図しているらしい実は「反哲学」的な人間観は、もっと深い闇の真実を説こうとしているかと、わたしは観ている。ニーチェやショーペンハウエルで解ける哲学的構想ではなく、それら哲学を根源から再否定するむしろ「禅境」に接した、全くべつの理解を映画は底の方で示唆している。二部三部は知らないし、第一部だけで少なくもわたしへの「問題提起」はほぼ完全に出来ていて、魅力を感じる。「スターウォーズ」「エーリアン」「ターミネーター」等々の近未来宇宙がらみのSFものとは、問いかけの質の微妙さで、一線を鋭く画した作品だと思う。人が、真実の己れに気付いて自覚することの、覚醒することの本義にも触れていて、それはバグワンの説き続けている禅境、ブッダフッド、の「気付き」にほぼ同じいと言いたいほどだ。たくみに基督教の世界観や終末観を謂うがごとくして、むしろそれが批判されている対象なのではないか、根の深みでは、と想われる。エージェントたちは基督教的な「悪魔」かのようでいて、時に基督教的な「神」そのもののようにも描かれている。その神のような悪魔のような存在自体が解脱を求めている、真実の自覚=気付きへ「脱出=悟り」を願っているかのようにも映画は描いている。この問題は、さらに深められ得る。
2003 6・16 21
* 永らくご無沙汰いたしまして失礼いたしました.実は暫く前からやっとパソコンを手に入れて、あれこれと練習していたのですが、やっとメールとインターネットが出来る段階でいます.秦さんのホームページも早速のぞいてみましたが、あまりの膨大さにびっくりしました.一度に読むのはとても無理だと思い、しばらくは友達と簡単なやり取りを楽しんでいました.が、それにも少々飽きてきているところです.パソコンの使い道はもっと奥が深いのでしょうが、自力では限界を感じています.やはり一度は講習を受けにいった方が良いかしらと考えています.
息子はパソコンでイラストの仕事をしているので、かなり精通しているはずなのに、母親の面倒までは見切れないとEった案配でなかなか教えてもらえません.デジカメとプリンターも娘婿がプレゼントしてくれましたので、何でも出来てしまう筈なのですが、今のところはメールばかりです.新しいアドレスをご連絡するのが遅れて申し訳ありませんでした。メールをしてくださったご様子ですが、有り難うございました.今後ともよろしくお願いいたします。
* 電子の杖を愛用し始める人が、日一日と増えてゆく。習うより慣れよ、か。
2003 6・16 21
* 野球 2003.6.16 小闇
巨人ファンでも虎キチでもない。プロ野球にはあまり興味がない。そう言うと、さすがに女の子だねと言われるがそうではない。男子諸君にだって野球に興味のない人はいるし、私は体育の授業で野球を経験している。マネージャーではない。バッターボックスにも立ったし、守備にもついた。ライトだけど。
10歳代後半、クラスには女子が3人しかいなかった。体育の授業は男女混合。水泳も長距離走も柔道も一緒にやった。そのひとつが野球だった。
野球がどんなスポーツなのかは知っていた。投げて打って捕るものだという程度には。しかし自分でやるとなると勝手がわからない。「内角高めだと必ず振るよな」と言われて自分の癖に気付くレベルだ。
バッティングセンターへ初めて行ったのが、その頃。勉強のつもりであった。
一番球速の遅いところでまず、と、言われたのだがこれが全然当たらない。
バットを短く持つこと、ピッチャー返しを心がけることと、事前に嫌になるほど言われていたが、それ以前の問題であることに私も同行者も初めて気付いた。
なので野球は私にとって、別世界、のスポーツ。
しかし、今思うと、野球の授業があった当時、私はまだ裸眼であった。視力を矯正していたら、もう少しましだったと思いたい。仕切りなおしたほうがいいのか、再び触れずにいたほうがいいのかは、未知だ、が、ボウリングよりもビリヤードよりもダーツよりも、いま行きたいのは、バッティングセンター。
* 妙に、これが、おかしくて気に入った。
* 柳昇さん 今月初め、こちらの民放のドキュメンタリー番組で「現役最高齢」として、海女さん、助産婦さんとともに取り上げられてらっしゃいました。あんなに本を読んだり調べものをなさってるのに、ひけらかすことなく、瓢瓢と。その出だけで、のどかで、楽しい、朗らかな気分にしてくださる方。とても好きでした。
武蔵野市関町にお住まいだったと知って驚きました。三鷹に居た頃、何度か通ったに違いないのですもの。昨年、「カラオケ病院」を拝見したのが、最初で最後になりました。寂しくなりますわ。 雀
* わたしも好きだった。本格の落語ではないが、話藝としては至藝と謂うに近かった。
* 昨日は、ペンの会場でありがとうございました。お蔭様で楽しい一時を過ごす事ができました。
さて、話題になった「ちゃんぽん」の話ですが、長崎に四海楼という中国料理店がありますが、そこのオーナ陳平順さんが、明治32年頃、長崎で苦学していた留学生のためにボリュームと栄養のある料理をと作ったものだそうです。広東語「しゃんふぁんー吃飯」が、語源だそうです。巷では、ちゃんめん(ちゃんぽんめん)と、野菜肉などスープの中ににポンポン入れるからだという説もありますが、平順さんの説が正しいようです。改めて、故郷について知らないことを実感いたしました。以上お礼を兼ねまして、メールを初めておくらせていただきますが、無事着きますように。くれぐれもお体を大切に、、、。 茨城県
* チャンポンという長崎の食べ物について、昔、ソ連作家同盟の今は懐かしい亡きエレーナさんに「チャンポン」の語義を訊かれ、答えられなかった。エレーナさんには日本の訪ソ作家たち、どれほどお世話になったか知れない。
この教えてくれた人は、日本ペンクラブ会員で児童文学の鶴さん。この人が文藝館に牧南委員を紹介してくれた。三人でおしゃべりに花を咲かせた。
* 兄弟からは邪魔扱いにされ、娘もあまり得手ではなく、永らく蓋も開けずに物置と化したピアノを処分しようと。これで少し部屋がはんなりとするのではないかと、楽しみです。
中学生の頃、偶々古いオルガンが家にあり、大好きで我流で弾きながらもピアノを習いたい気持ちを親に云えず、どう行動すればいいのかも分らず、その反動もあった気がします。
隣の大きな酒類問屋のお屋敷には、当時としては珍しくピアノがあり、お嬢様の弾く音色を羨ましく聴いていた記憶もあります。
後になりましたが「湖」届きました。 北多摩
2003 6・17 21
* 弁当箱の蓋 2003.06.17 小闇@バルセロナ
中学1年生だった。弁当を食べていたから、あれは、放課後に部活を控えた土曜日だったのだろう。友人のきついトーンが、箸に近づけた頭の上から降ってきた。
「ねえ。なんで、そうやってお弁当を隠しながら食べるの? お母さんが作ってくれたお弁当が、そんなに恥ずかしいの?」
不意を突かれた私は、「隠しながら食べている」と言われたことに、何より驚いた。私が隠している? そんなハズはない。見回すと、誰の弁当箱も、見えるのは前に立てかけられた蓋の図柄だけ。
私が「隠している」のなら、みんな「隠していた」。なぜ彼女が、私だけに言ったのかは分からない。偶然横にいたのだろうか。皆より大きく深かった弁当箱の蓋は、誰のものより立ちはだかって見えたのだろうか。あるいは、いっそ、こそこそ食べていたのか。
蓋を立てかけるのは、必ずしも隠すためではない。そうでもしなければ、逆に蓋の置き場に困るだろう。でもそれと同時に、確かにそれは、それぞれの「盾」になっていた。私の知っている弁当の時間には、たいてい、弁当を他人の目から守ろうとする雰囲気があった。
食べ物がなかった母親の時代や家庭ではない。なぜ、自分の弁当を隠そうとしたのだろう。彼女の言葉は、ぎすぎすと反復した後、私の胸に共感という「余韻」を残した。
あれ以来、私の弁当箱の蓋は、弁当箱に立てかけて置かれることがない。
*
* 無理しないで 2003.6.17 バルセロナ
一足先に出た私たちは、諏訪(長野県)近くの別荘で、大学の親友2人の到着を待っていた。夜十時、電話が鳴る。はやる気持ちを抑えるように、ゆっくり受話器を取る。期待は見事に裏切られた。今、実験を終えて帰宅した二人は、これから長津田(神奈川県)を出ると言う。急いでも、着くのは真夜中。翌日が帰宅予定だった。楽しみに楽しみにしていた私は、泣きそうになって、いつものセリフを呟いた。
「無理しないで。」
何度、このセリフを吐いてきただろう。私の溢れる期待が、相手の重荷にならないように、期待された相手を、追い詰めることにならないように。そうやって、自分の気持ちにいつも蓋をして、相手を想っているつもりになっていた。
「×××、だめだよ、そういうことばっかり言ってたら。『楽しみにしているから、ちょっとくらい無理してでも来て!』って言われれば、疲れてても行こうかなって気になるのに。『無理しないで』なんて言われちゃ、なんだ期待されてなかったんだって、行く気なくなっちゃうよ。」
がつん、と殴られた気分だった。彼らが到着するまでの間、私はその言葉を、噛み下し噛み下し呑み込んでいた。 私の、よき批判者であり理解者であったその彼も、もうこの世にはいない。
もしも逢えるなら、その時は「無理しないで」なんて、決して言うまい。
* この、バルセロナから届いた二編は、どちらの内容も身にしみた。お弁当とかぎらず、自分の食べているものは、そうそう人に見られたくないものだ、この小闇とちがい、わたしのように戦中・戦後の貧窮欠食の時節に少年時代を過ごした者には、だれもの家が苦心惨憺の食生活を工夫もしやりくりしていたのだから、まともに見られた物でない食い物を食っていた。お弁当のなかみは、作ってくれた親のためにもすこし庇って上げたいほど貧しく、だが、それなりに美しく工夫されていて、わたしは母の苦労を感じていた。
それよりも、また、あとの「無理しないで」がこたえる。これはわたしの今も日々に用いている心用意の言葉の一つなのだが、こう指摘されると参る。つまり、その通りであろうからだ。わたしは、これでも「人に強いる」のがとてもイヤな性分であり、(責任逃れでもあるが、)イヤがられるぐらいなら自分でかぶって先にやっちまおうという、とても頼朝には成れない義経風の貧しい小型なのである。医学書院にいたときでも、わたしはそういう管理職であった。部下を追い立てて働かせるよりも、部下の何歩も前をせっせと仕事をして歩いていた。時には走っていた。その方が、自分の気が楽であった。集中力では人に負けなかった。
だから今でも「何か」が人と約束されそうなとき、きまってわたしは「無理しないで下さい」と言い添えたり書き添えたりしているようだ。ようだではない、そうなのだ。たしかに無理してでも来てと想っているときでさえ、(それはめったに無いのであるが、)そう言っている「無理はしないで」と。無理をされると気がツライのである。ツライのを堪えないのはエゴイズムだと言えよう。そうなのだ。
それでも、上の小闇と同じに、決して「無理しないで」でなく、「無理でも何でも」と縋りつき呼び寄せたいほどの人は、亡くなってしまった人は、いる。ああ、いるなあ、何人かはいるんだなあと、思わず今も心しおれている。死なれた者は切ない。生きている間に「少々の無理はしておけばよかった」のか。
2003 6・18 21
* 明日は桜桃忌。太宰賞を受賞して三十四年になる。すべて亡くなられた選者(井伏鱒二、石川淳、臼井吉見。唐木順三・河上徹太郎・中村光夫)先生方に、いま、わたしは顔向けが出来ているだろうか。瀧井孝作、永井龍男、福田恆存、吉田健一、中村真一郎、藤枝静夫、井上靖、宮川寅雄、立原正秋、和田芳恵、下村寅太郎、森銑三、上村占魚、篠田一士、杉森久英、上田三四二、圓地文子、辻邦生、のような懐かしい先生・先達・先輩がたの面影が髣髴とする。自分で自分に臆病に小心に「無理をしないで」とブレーキをかけずに、いつも厚意を寄せて下さった人達にもっともっと甘えておけばよかったのにと、今にして思うことではある。
*「猿の遠景」は以前より読みたいと思いながら未読でございましたので、早速読みはじめ夢中になりそうです。強烈な作家の眼を通して、より深い絵画の見方をお教えいただきたいと存じます。
何日か前に、映画の「マトリックス」についてお書きになられていましたが、この映画は、七年前の日本のアニメ映画「攻殻機動隊」押井守作の所謂「パクリ」だとご存じでいらっしゃいましたか。私は知りませんでした。このアニメも「マトリックス」も観ていないのでなにも感想を申し上げられませんが、両方観た人によりますとかなり真似ているそうです。しかし、オリジナルとコピーがいつもそうであるように、「攻殻機動隊」の方がよい作品だそうです。アニメながら人間とはなにかという哲学的な問いを持ち、ストーリー運びも「マトリックス」より上だということでした。「マトリックス」の東洋的な雰囲気というのは、ルーツを考えれば当然のことなのでございましょう。
今日坂道を歩いておりましたら、くちなしの花の匂いに気づきました。娘が母の日にプレゼントしてくれました小さな香水が、雨上がりのくちなしの花に似た悩ましい香りですので、ふっと立ちどまって眺めてしまいました。近くには満開のアジサイも。
梅雨のこもったような気配のなかで、風情のある花々です。
お忙しい毎日でいらっしゃいますが、どうかお大切にお過ごしくださいますように。 都内港区
* 「今日坂道を」以下が、季節の香りがして心地よい。
さてアニメ映画というのには縁がないので悩ましいが、見られたら観たいな。ま、映画に触発されてわたしの頭のなかに出来ている「思い」の方が大切なのではあるけれど。劇画ででもあれば、これも縁はないけれど、誰か好き者に頼めば探してくれるだろう、が、映画では「どもならん」か。
2003 6・18 21
* 桜桃忌の朝一番に山形県の読者から、例年のように輝く桜桃が二キロも贈られてきた。みごとに甘くおいしく、それでもこらえて、五顆だけを朝の食事がわりに嬉しく戴いた。身の幸である。
2003 6・19 21
* こんな面白いメールが飛び込んできた。
* 湖の本ありがとうございました。昨夕、京都の仕事より帰ってきてポストの中に見つけました。実はまだ封も切っておらず、そんな状態でお礼だけ申し上げるのは気がひけるのですが、どうしても先生にお伝えしたいことがあって、そちらのほうが本当の目的でメール差し上げてしまっております。
私の父は、母校の、それも似たような専攻で教鞭をとっていたのですが、それ故に私の中での京都との出会いも「京都大学」が最初でした。京大がなにゆえにあれほどノーベル賞受賞者を輩出するかについて、父はこともなげに小さな私に言ってくれた記憶があります。
「京大は開けたアカデミックというけれど、あそこには実は文化的な伝統に基づいたヒエラルキーがしっかりある。それだけに、力のある若い者は反発するし、逆にそうして反発することで新しい芽が育っていく」
その後、京都とはいろいろな形でいくつもいくつもの繋がりが出来あがっていきましたが、仕事を通じてさらに深く京都という土地を見ることのできる今の境遇に、京都に想いのある人間として、本当に感謝しています。
昨日の仕事は、京都のある工房で、私が研究している物質への職人さんからの「評価」をお願いするというものでした。
この業界には複数の工房がありますが、その中でもピカ一の技術と企業姿勢を見せる工房さんで、新しい材料や技術を率先して取り入れてくれ、試してくれるところです。それは昔ながらの技術に対して自身絶大な自信があるからなのですが。
そういう工房ですが、私がそこにいる職人さんと、直接はやりとりできない。いえ、その場では直接お話しできますが、何かをお願いするとき、また新しい研究を始めるとき、逆に職人さんのほうから私に質問があるとき、必ず上を通さなければなりません。悪意があるわけではなく、下の人間がやっていることは100%把握していないと気が済まない。
でも、不思議なもので、上から締め付ければ締め付けるほど、こっそり私にアクセスしてきて、「作業中こんな感じなんですけど、なにが起きてるかわかります?(京言葉で)」と、実際の作業中の様子を科学的な切り口からも見ようとする一群の職人さん達もいるのです。
不思議なことに、そういう見えない死闘があるような工房なら工房ほど、よい技術が育つ。父の言葉を思い出したのは、こんな様子をまざまざと見せつけられたからです。
京都はすごい。やっぱりすごい。見えないエネルギーが渦を巻いている。
昨日訪問した工房さんには、私が仕事に就いたのと同時期に工房に帰ってきた「若」がいるのですが(「中京のぼん」という言葉をこの仕事について初めて知りました)、彼の父親に対するライバル心もすさまじい。下の上に対するこのエネルギーの凄さ、京都ですね。温暖な三浦半島の鎌倉に生まれ育った田舎もんは、「ほぉ・・・」と溜息をついて目を見張るばかりです。
そして、それらのエネルギーが、表面には全く出てこないのも・・・すごい。京都です。
でも、時代の流れなのでしょうか、そういう工房の「職人気質」の部分に対して、外からの圧力も大きく、一部の人たちなどは、今のような工房システムを解体して、もっとシステマティックな職人養成所を作った方がよいなどと考えているようです、が、国立養成所出身の歌舞伎スターがいますか? 私は、心秘かに反対しています。昔ながらのやり方というのは、悪弊があったとしても、最も洗練されたやり方であり、多少時代に合わなくても、続けていくべきだと思っています。
その中でしか生まれないものがあるはずですし、そういうものこそ、日本の日本たる最も大事な部分の気がするので。
こんな京都の凄さを、手を入れるとぬるぬると底なしに生温かいものが続く京都の一面を、かいま見ることができる境遇が、つくづく有り難いと思っています。
私が「生きているっておもろい」と思い始めたのは、ついこの数年です。仕事と育児は、人生の大きな醍醐味を見せてくれる要素の一つですね。
ただ、少しだけほろ苦くも。
私と同時期にこの業界に帰ってきた工房の若、入った頃は実に忌憚なくお酒を飲んだのに、相変わらず楽しいお酒ではあっても、お互い少し靄がある。生きていって、それなりの垢をつけると、話せないことも増えますね。計算しないと言葉が出ないことも増えますね。
でも、それも面白い。
話は変わりますが、実は私は口頭で伝えるよりも文章で伝える方が好きな人間です。下らないことはぺらぺらと喋るのですが、本質的にはおしゃべりは苦手です。
でも仕事をしていくうちに、「言わなければ伝わらないんだ」と、できるだけ自分の考えを口で伝えるようになってきました。が、最近立て続けに、話の最中に「そんなん、一生懸命言わんでもわかりますよ。」と二人の人から言われました。
どちらも京都です。
先生がよくお書きになっている、上級生の女の人と同じですね。京都だと言わないでもわかってもらえる。わかる人には。 本当は、一昔前には日本全体がもう少し京都寄りで生きやすかったのかもしれませんけど。
京都という街の凄さを身にしみていると、誰かに伝えたくて、誰よりも秦先生、と思ってしまいました。長文、お許し下さい。私が見たものなど、ほんの一部でしょうけど。
落ち着かない天気が続いております。どうぞご自愛くださいませ。
気のつかぬ忘れ物あらむ花菖蒲 鎌倉夫人
* おさえられると、反撥する。その反撥のエネルギーが創造的に働くか、ネガティヴに歪むか、それは人と環境とで変わるだろうが、この場合の「おさえる」は、今日流行りの無人格的な「管理」「支配」とは意味が違う。人と人との愛憎こもごものぶつかり合いが上から下へ、下から上へと働く。最後は人間である。等間隔に並んでいるわけでない人間の世間では、その不等間隔に発生する「複雑力」を、創造的なエネルギーに変える・変えられる性根と才能の太さが、どうしても必要になる。そんな場合がある。
この辺では、むしろ男子男性はやや臆病に身をまもりがちになり、女の人の元気を自嘲的に羨んでみせたりしがちになるが、それでは、元気はもっと衰えてゆく。男の卒業生からも声が出て欲しい。
忘れゐてそれも安気や梅実生(うめみしょう) 保谷騒人
2003 6・19 21
* 次の「東京の小闇」の一文は、細部の推敲でもっと美しく出来るはずだが、このままで何かしら小説世界へすうっと滑り込める筆致を得ている。井上靖の散文詩をたくさん読んでもらった、その佳い余韻がこの人にのこっている。そう思う。創作かも知れない。
* そして船は行く 2003.6.19 小闇@TOKYO
そう遠い昔の話ではない。六、七年前。初めて訪れたその島には、九月としては冷たく、強い風が吹いていた。半袖の私は外にいられずに避難する。駅に寄生しているような食堂では、あっという間に食事が済んでしまう。コーヒーを飲もうにも、その店のメニューにコーヒーはなく、喫茶店も近くにはない。高速バスが出るまで時間をつぶしたい私に、街はあまりにもそっけなかった。
省線の駅は小さな港の脇にあり、港からは規則正しく、フェリーの汽笛が聞こえていた。
一週間の旅のうち、その街にいたのは三十分だけだった。風から逃げるようにしてバスで移動した別の港町から、翌日、私はその島をあとにした。フェリー乗り場を探す私に、年配の女性が、どこからきたの、と、声をかける。
「神奈川です」「香川の何処ね」「いえ、神奈川です」。
随分遠くから来たね、と言い、私が対岸の街への切符を買うのを見て、「ここだっていい街なんよ」と付け加える。
思えば時間なんていくらでもあった。滞在を延ばしても、誰も何も言わない。ないのは金だけだった。
私は遊覧船のようなフェリーで、その島を去った。前日の風が嘘のように静かな薄曇。海面からの照り返しがきつい。一時間の小さな航海は、退屈だった。
二度と来ないと思っていたその港町はすっかり、別の街であった。駅舎は新しくなり、それを囲むように建つビルは私の記憶にない。変わらないのは限界まで湿気と生臭さを含んだ風。その風にまとわりつかれて聞いた汽笛を、今は15階からガラス越しに見下ろしている。
「もう戻れない」ことを強く意識したのは、島を出て二、三日あと、東京へ戻る深夜バスのなかでであった。私は一睡もせず、窓を横切る水滴の軌跡を追っていた。目に鮮やかな景色をいくつも見た旅なのに、私に吹いた風のことばかりを考えていた。
以来、なにか新しい、不可逆な将来への決断をするとき、必ずあの旅の終わりを思う。
その反芻は数限りない。遠慮がちに響く汽笛。桟橋にはまばらに灯がともり、湾に沿った道に車の姿が少なくなっても、船は変わらずゆっくりと港へ入り、そして出て行く。
* 「バルセロナの小闇」もこんなメールを。「闇」でお逢いしています、と。
*「一期一会」、書き始めた頃は、他人に伝えたい気持ちの方が先でした。
でも最近は、何よりも「自分のため」に書いている、という想い。
「書く」ことが、これほど「私のため」であったとは、驚きでした。
自分の思考が深まると同時に、複雑になるのではなく、むしろ明瞭になっている気がします。
ただ、読み物にはなっても、文藝には遠いなと。よい文章を読むことが大事ですね。そうそう、漢和辞典が欲しくなりました。この夏の帰国はよい機会だと思っています。
こちらは「黄」桃が主流で、日本の桃の、あの香りよき瑞々しさには叶いませんが、一口大に切って、葡萄酒に浸して食べるとおいしいんです。今まで「赤」を使っていましたが、「ロゼ」が思いのほか合うことに気づいて、今週一瓶買ってきました。 バルセロナ
* たしかに、「一期一会」をこの人が書き始めた頃は、オイオイと声をかけたいこともあるほど、よそごとのような「評論」をしていた。が、途中からそれがグイと方向を転じ、しっかり自身の足許から、体内から、ハートから問題を自分へ向けて発射するようになり、見違えるほど力が出てきたし、読ませる勢いがついた。楽しみにしている。
そうだよ、辞書は大切に。辞書を引くのを億劫がっていると佳い読者にも、引いてはいい書き手にもなれない。漢和も必要だし、いい日本語の大辞典一冊は、海外生活には特にたいせつだね。
2003 6・20 21
* カナダより 先便でお知らせしたニュースの再確認になりますが、いよいよ(京都市立)粟田、有済の両小学校が統合されることになり、両校は来年3月をもって閉校になります。統合されて誕生する新小学校名は、「白川小学校」と決定したそうです。この9月には京都市教育委員会経由、市議会での議決を経るスケジュールになっています。どちらかの校名を残すことは吸収合併の印象を与え学区民を納得させるのが難しいということなのでしょう。
白川小学校は粟田校の現校舎に改築の手を加えて4月に開校の運びになりますが、有済校の跡地(校舎)をどうするかについては情報がありません。
ま、信じられないような話ですが、130年の昔から現在につながる歴史の糸をプッツリ断ち切られる傷みを感じます。時代の流れとはこんなことなのでしょうか。/// 勉
* 故郷のニュースを、カナダの友人に教えられるのも、WWWの時代なればこそ。統合合併のことは洩れ聞いていたが「白川小学校」とは初耳で、個人的には、佳い名前だなと賛成だ。白川はわたしちの胸の内をいつも流れている。小波立つ瀬の音や色・形までが眼にやきついている。わたしにとっても、京の川と謂えば「白川」こそ一番である。
合併統合にはもはや驚きようもない。あの日、母校有済校に入っていって、あまりの静けさにびっくりし、実は全校全学年を通じて生徒数が、赤穂浪士討ち入りの人数になりましたよと、教員室で聞いたときの仰天で、もうみんな諦めていた。時節・時代である。人の世である、変わりゆくのである。
田中勉君は粟田校の出身。これがいつか、母校は「今の白川校」と、「一つ」に謂えるわけだ、それも佳いと思う。
2003 6・22 21
* またおいしい桜桃の箱入りを贈って下さる方があった。今年の桜桃はうまいだけでなく、とても美しい。
2003 6・22 21
* 留守の内に、福田恆存先生の夫人をはじめ、今日も何人もの方から「湖の本」に手紙を戴いていた。
* 昨日の小劇場「花柳春の会」のことを書きもらしたが、それはもう第一部を観た山田あけみさんからのメールに委細尽くせていて、繰り返すまでもない。
2003 6・23 21
* 村一つ洗うてすぎし大夕立
吹き降りの激しさに目が覚めました。音が止むと、サイレンが規則的に二回。
水滴の、大きな跡がたくさんついた窓を開けると、冷えた水気を含んだ、しずかな風。
髪を洗いたくなりました。 伊賀
* 雨。外へ出なくて済む日の雨が、好きである。聴雨──。胸の内を洗いたい。
* 先週末に夏の賞与が支給されました。この不況下で、賞与カットなど相次ぐ中ではありますが、私の会社は、すこぶる経営順調で、規定賞与+αでもらうことができました。(以前勤めていた会社は今回賞与なしだそうです。)
お約束通り、湖の本版元宛に、今までの不義理の分を些少ながら振り込みいたしました。
ところで、今の会社に勤めてやっと5ヶ月あまりが過ぎ、仕事にも慣れて、自分の都合で時間もとれるようになり、今回、NPO法人を設立することにいたしました。
スペイン関係のものになります。
目的は、スペインの「ゆったりと流れる時間」を日本、特に首都圏の忙しい人々に広めることとし、まずは、スペインの文化・習慣などを伝えるセミナーなどを、都内の区民会議室などを利用して開いていく予定です。(スペイン料理の講習会なども検討しています。)まだ、メンバーは10名前後ですが、年内にはNPO法人として設立できる見込みです。
それに先立ち、来る7月12日に、夏休みのスペイン留学説明会を開くことになりました。もし、先生の周りにスペイン留学などを考えている人がいらっしゃいましたら、お声をかけていただければ幸いです。現在の会社は続けたままでの、就業後&週末の活動で、かなり忙しくなっておりますが、楽しく活動しております。
梅雨どき、湿度の高い日が続きますが、体調にはくれぐれもお気を付けください。
* 若い力である。
2003 6・25 21
* トリップ 小鳥の囀り、始発列車の音。窓を開け、新聞を取りに行き、また布団にもぐる。ひんやりとした風がうぶ毛を撫でる。
漂泊の思ひやまず…の、朝。
一度行って、もういいという観光地は沢山。そのうちまたと思いながら、それきりの場所が、かなり。何度も訪れる好きな処が、いくつか。
再訪したくなる魅力にあふれ、訪れる都度、変わらない穏やかさや静けさに休らい、あらたな魅力にまた捉えられ―旅も、読書も、生の舞台も…同じ。なくてはならないもの。
どうかお健やかに。お仕事がすすみますように。
2003 6・27 21
* 猿図、気に入りました。 「猿の遠景」、届きました。わくわくしながら読みました。
これに限らず、秦さんの作品を読むたびに思います、日本史を学んでいてよかったと。大学受験にけっきょく日本史はいらなかったのですが、受験以上に役に立ってくれています。ありがたい。
高校の日本史の先生とはどうも相性が悪くて、しょっちゅう叱られていました。「教科書なんてあとで読めばいいや」と机の上に文庫本を開くたびに、「きみ、授業に関係のないものはしまいなさい」なんてよく言われました。たちの悪い生徒でした。
この「あとで読めばいいや」と思っていた教科書、読んでみたらおもしろくて、また驚きました。秦さんの小説やエッセイに登場する様々な人物、事件、文献、たくさん見つかって、それを探し当てただけでうきうきしたものです。
法律学のテキストを読み始めたころ、とかく読みにくくて苦労しました。埴谷雄高の「死霊」を読んだときのような、綿密でまわりくどくて、だんだん頭がくたびれてくるという感じに近かった。
今また「死霊」を読み返していますが、大学に入る前より遥かにすらすら読めている。思わぬところから読解力がついている実感があります。
今年から始まった刑法など、おそろしく難しい。最もわかりやすいとされる教科書を使っているのに、読んでは忘れ読んでは忘れ…これで試験やるのか、受かる気がせんなあという心地です。
それなりにたくさんの「日本語」に触れてきたつもりでいましたが、甘かったようです。
前回のメール、言葉が足りませんでした。
秦さんのおっしゃるとおり、「悪しき法」にわたしたちの生活がつくられることは、あってはならない。法をつくるのも使うのも「人」です、法の正邪は「人」で決まる。もっともらしい顔つきで悪法を成立させていく「悪しき人」は許しがたいと思います。
ただ、「法律が生活をつくる」というのは、紛れもない実感です。
今まで当たり前のように思っていた様々な事柄は、すべていろいろな法律によってかたちづくられています。
たとえば自動車のナンバープレート。
自分の動産を登録する必要はない。自分の本とか、ペンとか、服とか、これらを「不動産」=土地と同様いちいち登録していたら、とても間に合わない。しかし、同じ動産でも自動車は例外に属する。高価でかたちの大きい動産なので、不動産と同等の扱いをする、と。
車にナンバープレート、あまりにも当たり前のことですが、法律的には例外にあたります。それだけ高価な買い物なんだな、と自分のバイクを見ながら改めて思いました。実際、長いローンを組みました。大切に安全に乗りたいものです。
自分の生活と法律学が、思った以上に密接に関わっていることを、日々感じています。
雨が断続的に降っています。夜が蒸し暑くて、少し寝苦しくなってきました。身体は元気です。事故に気をつけて、いい夏を過ごしたいものです。
電子文藝館の充実、すばらしいです。もちろん続けていってほしいのですが、あまり無理して疲れをためないようにしてください。迪子さんともども、どうかお元気でいてください。
* この青年のメールを中学生の頃からもらっている。メールの文体の確かなことは大人も及びがたいものがあった。そして着々と歩一歩を進めてきて、健康。わたしの最も心よろこぶ遠方の友の一人である。どのように成人してゆくだろう、彼のことを思う都度、わたしは長生きがしたい。
2003 6・28 21
* この辺りは人口のドーナツ化に伴って、もう遥か昔から小、中学生の減少を聴いていましたし、高校の区域も頻繁に変わったのも、多分そのせいでしょう。
白川は、神宮道の渓流橋で疎水から離れ、四条の疎水で再び合流するまでの間が、得も言われぬ風情を見せていますね。仮設のプール、蛍狩り、友禅流し、さやさや流れる柳、行者橋、巽橋のお花見、そして通学路にと、今昔の思いで。高層マンションなどは反対運動などがあるので阻止され、両岸の景観は辛うじて昔を留めてはいますが、それでも、少し少しと変わりつつあるのに気が付きます。
そうそう、古川町の南側の入り口で時の大スター、マーロン・ブランドの「八月十五夜の茶屋」だったかの撮影も観ています。その時、あなたがお気に入りの市田(ひろみ)はんが通訳を務めたと聴いています。父や母に、東京からのお客様が、お近くにいい処がありますねと感嘆の声を挙げたとか。母親などは何処を旅行しても、これほどの景観はないとあの住まいに満足でした。
粟田から有済までを繋ぐ「白川」小学校、うまい命名、佳いですね。 白川筋
2003 6・28 21
* 京の近代美術館は、喫茶から展覧会場に再入場できて、いいですねぇ。オープンカフェになっている方で、一息入れました。若い女店員さんが、だれもみなとてもいいンです。しあわせ。
絵と工芸品をもう一度愉しみ、前に停まっていたタクシーをたのんで、法然院、南禅寺、粟田神社、知恩院と回って、八坂さんの前まで。
風に吹かれての展望も含め、粟田神社の空間が、新たなお気に入り。京は祇園祭り一色のように思っていましたが、粟田神社には茅の輪。これを無事越して、いよいよ、夏…。
* ウーン。懐かしい京のたより。
2003 6・30 21
*「バルセロナの小闇」が夫君ともども日本に里帰りしてきたようだ、今朝、おみやげのおいしそうな生ハムと、カタロニア民謡「鳥の歌」等をパウロカザルスのチェロで、贈ってきてくれた。ホワイトハウスコンサート(1961.11.13)の録音盤だ。「この三月、アメリカがイラクに攻撃を仕掛けた日、その日最期のラジオの曲に、このCDの『鳥の歌』が流れました。ホワイトハウスにも、カザルスの平和の音色に耳を傾けようとした時代があった。そう思うことは、私をひどく悲しくさせました」と書き添えている。「京(今日)は恒平さんに、そのカタロニアの民謡をお送りします」とも。「おからだ大切になさってください」とも。
六月三十日とあるから、もうお母さんの家に着いているのだろう。故国を胸イッパイ楽しんでまた元気にバルセロナで幸せに。
今、カザルスの「鳥の歌」を聴きながら書いている。ありがとう。ありがとう。盤の中で拍手がなりやまない。おお、アメリカのホワイトハウスの拍手なのである。写真前列中央には在りし日のジョン・ケネディ大統領とジャクリーン夫人の姿が在る。
2003 7・1 22
* 矢の束 先日の南座文楽の「熊谷」は、端場と後の太夫休演。どちらも五十代の太夫が代わりを勤め、結果、人形、三味線も含めて、殆んどが同世代。しかも、これからの中心となる人ばかりです。培ってきた伎芸が花となり、手に汗握るせめぎ合いと、調和の爽やかさ。まっすぐで彊い光の矢が、束になって胸の奥に入ってくるようで、泣きたいのに、悦びで、頬が緩み通しでした。
後半一時間を任され、汗みずくで懇篤な語りをした津駒大夫が、すぐあとの「釣女」で、本分の太郎冠者をノンシャランと演じてみせたことにも、拍手。
* こういう親切なフアンに底から支えられて、伝統芸能は元気を保っている。プロ批評家の心根卑しい右顧左眄提灯持ちの感想より、よほど信頼できる。
2003 7・2 22
* lalala・・・ 2003.7.2 小闇@tokyo
へえ、と思った。小田和正による「勝手にシンドバッド」のコピーを聞いた。違和感は、さほどなかった。小田和正って歌上手いなあと思い、それから桑田佳祐って相当上手いなあと思った。コピーとしては非の打ち所がなく、小田節も随所に聞かれた。
桑田佳祐による「LOVEマシーン」も聞いた。違和感はまるでなかった。桑田佳祐って歌上手いなあと思った。まるで持ち歌のようだった。
こうやって一目瞭然と言うべきか聞けばわかると言うべきか、すぐにその実力を判断される世界で働くというのは、それなりに大変なことではあっても、自信があれば、これはとても面白いことなのだろう。
「いやあ桑田佳祐も小田和正も歌上手いですね」と、それを聞かせてくれたひとに言うと、そのひとは「そりゃプロなんだから」と返してきた。
確かにプロ。
けれど最近はプロ意識の欠如も目に付く。例えば政府の少子化対策のリーダーにも、せめてその万分の一でも、公僕であることを自覚してもらいたい。
この件に関して、私はその人物を一時期宰相としてしまった国民の一人として、多少の義務感をもって何か書き置いておこうと思っていた。けれど書けば書くほどその程度の低さに情けなくなり、先が続かない。
そんなさなかに聴いた小田氏と桑田氏の歌は、当たり前には聞こえなかった。
* 後半に頷いて。前半は、わたしには分からない。小田和正という名前も初耳だし、桑田佳祐の名前、というより「笑ってもっとベイビー」とかいうすさまじい「騒音」を小さい頃の息子建日子の、悲鳴に似た金切り声でイヤほど聴かされて以来、トラウマになっている。あのころから日本語の発声がグチャグチャになったのではなかろうか。
2003 7・2 22
* 雨もよい。潤んだ大和の山々のうるわしいことといったらありません。
京の近代美術館では、技量に感心して終わる繪、また、名を先に見て“確認”してしまう繪のなかに、一枚、遠くに認めたうちから、清んで潤った親身な空気に心ひかれ、その前に立って見ると、もっと佳かったという繪がありました。知らない名でした。
* ふと、うらやましい。
2003 7・3 22
* 秦先生 二つのことを書きます。
ある朝の感動。
小学、中学、高校そして学生時代をへて社会人となり企業の世界へ。色々な友人、恩師、同僚、先輩との出会いがあり、読書を通し時代を越えて作者との出会いと琴線の触れ合いがあり、そのことの余韻を、今朝(昨朝)読んだ「闇」で噛み締めることが出来ました。
忘れえぬ人々、いつも自分の中に居る作家や小説の登場人物と共に自分の歩いている人生へのある洞察を明瞭に鏡に写して頂いた気持ちです。
若い人への言葉は「人生肯定の言葉」となって、歳に関係なく自分を豊かに照らしてくれます。
瑣末なコメントのメールで恥じますが、「書きたくて書き」投函です。
岡崎界隈の美術館
数年前の京都のある朝、京都近代美術館の前にある京都市美術館の庭を散歩した。宿を出て春の朝の東山を見たかった。桜が美しいときの朝だった。
美術館の正門の右側の庭で写生をしている人が居ました。桜と画家という風景を撮りたくて話しかけました。
「朝の桜は清い。昼は駄目だが朝は活きている。ごみごみした京にも朝は桜も清い」
この時の画家の言葉を思い出します。
翌年、白雲神社での氏の個展の知らせがあり、岸田陽三さんの御所の「御門」を描いた絵八点を見ることができた。
大切な出会いのことが、「闇」で思い出されました。 川崎市
* 「闇」の底でこのように出逢っている意識が、在ること。力づけられる。
* 松風に、(冬祭りの)冬子、法子を想い。 今朝、家を出たときは、晴れていましたが、京へ着く頃には、こぬか雨。しんみり降る、人けの途絶えた石山寺へ参り、歩いているうちに、蹲って埋もれてしまいたくなりました。
堪らえて、また、歩を進め、門前に停まっていたタクシーで、この日曜が最終日の北野恒富展へ。此処の常設は小倉遊亀。周囲に広がるのは、一面、雨にけぶる庭の緑。世離れた美術館で、二時間近く経つまで夢うつつでいました。
後ろ髪ひかれる思いで瀬田駅に戻り、山科で湖西線に乗り換え、時刻表と地図を手に、ご本をともに、旅している最中です。
比良は諦めましたが。 ざあざあ降りに降り、木立も苔も一段と映えた安曇川(あどがわ)彦主人王(ひこうしおう)陵。隣の田中神社にもお参りして、南舟木、本庄橋、北舟木、やな……そして、ありました、杉に囲まれた阿志都弥(あしづみ)神社が、雨女の私を迎えるかのように、しとど降る雨に、あじさいを盛りと咲かせて。
川島にある、八十近いご夫婦が営む店で、美味しい鮎を地酒で頂いて、駅に戻り、終点まで乗り、まッ暗な山懐にある無人の永原駅で、そのまま京都行きの入線を待って。各駅停まりの電車で、京には八時に着くそうです。
元気です。訪ねてよかった。
京都到着時刻は、21:04。旅のズッコケぶりがお分かりでしょう?
恒富展に「蘆苅」、遊亀の展示室には「少将滋幹の母」の挿絵の原画が出ていて、力のある相撲取りに圧されるような迫力によろけ、修正がかなりあることに唸りました。「冬祭り」の挿絵もさぞ、と思われて、その前を離れるのが惜しくなりました。
来週、京都文化博物館で始まる「安倍晴明展」に、村上豊さんの挿絵原画が出ると知って、俄然行ってみたくなりました。 奈良県
* 携帯のメールをつかって、旅中のときどきに話しかけてくると見える。ほんとうに元気だといいが。
冬子といい法子といい、いまは、いや、とうから、いやいやもともと、此の世の人ではないが、私の中では消え失せたことのない虚仮の心妻であり愛しい娘である。安曇川は懐かしい。前夜に現実の妻と鞍馬の火祭りを見て、次の日に比良へのぼり、安曇川の浜里へ。その間も終始冬子も法子もわれわれの身近に同行していた。舟木の宿でも共寝していた。法子は身を変えて琵琶湖の波間に消えても行った。杉に囲まれた阿志都弥(あしづみ)神社には神代文字の碑石があった。
また、何時の日か行きたい。
そういえば少し気になっていることが、ある。この際に闇に言い置いておこう。娘が、神学者で牧師、私には大事の友であり読者である野呂芳男氏にむかい、自分はあの『冬祭り』の「法子」のようなものですと告げたらしい。なにかしらファザーコンプレックスに似た気持ちを表明していたのか、そういうことにとくべつ興味もなく、野呂さんに「何ですか、そりゃ」とも問い返さなかった。娘の結婚する少し前だ。娘はその頃までに、たてつづけ「魂の色が似ている」と自身云っていた二つの恋を御破算にし、人に薦められ、わたしたちも同意した今の夫のもとに、飛び込むように嫁いだ。
娘は、朝日子は、父親から離れたかったのだろうか。父の小説に自ら呪縛されていたのだろうか、此の旅をしているどこかのメールの主のように。それが幸せだったのか不幸せだったのか、分からない。
朝日子もいつか安曇(あど)の浜へ、里へ、また比良へ、深い夢をみに訪れる日があろう。一人でか、娘たちを連れてか。願わくは健康な心で、幸せを抱いて訪れてほしいものだ。
2003 7・4 22
* 産院で絶え間なく産まれる赤ん坊を見ていると、ホントニ日本は少子の国なのと、疑いたくなります。人生のスタート台のようなベッドに居並ぶ愛くるしく無心の赤ちゃんをみていると、皆幸せになってねと、心から願わずには居られなくなるのは、きっと歳のせいでしょう。
連日自転車で産院へ往復しますと、夜はパタンキュウの熟睡で、今朝もゴミ捨てで出会ったご近所さんに、昨夜はよく降ったわねと声をかけられても、エエ? と返事に窮する程、何も知らない。
出産するや、思惑違いの初体験に出会い娘は戸惑っていますが、この経験がなきゃと、先輩顔であれこれ伝授しています。
まず、出産後の第一声が、こんな激痛でよく何人も産んだわね、との言葉でした。確かめなかったけれど、畏敬の意味だったのでしょう、多分。
女子の場合、結婚しない人より結婚した人、出産しない人より出産した人の方が、人間性のよさや忍耐力が自然に備わると、つくづく思うのです。間違ってはいないでしょう。
* さあ、此の最後の所は、このところの問題発言とも絡んでくるから、わたしは沈黙する。いや、はっきり言って賛成しない。
一概な事を言ってはいけない。
かりに一概に言うとして、森喜郎のあんな恥ずかしい発言を、一國の宰相が、たんに「言論の自由でしょう」とは、小泉が総理大臣という国民を代表する地位にあるだけに、その知性のうすっぺらさ、誇りのなさに呆れるのである。責任を持って生きていない人間の卑怯さがあの薄笑いの表情に顕れている。あれは答えていない、答えたくないので、ただヒラリと逃げただけの卑怯で中身のない発言だ。愚者の森のよりも、賢者ヅラした小泉の発言を聞いたとき、こんな男に國を任せているのかと、わたしは恥ずかしかった。
ケネディなら別のことを言ったろう、チャーチルでも周恩来でも、別のことを言ったに違いない、森を窘めて。太田「元気」発言も含め、聞くに聞けない現実であるけれども、美智子皇后や雅子皇太子妃の意見が聴いてみたいものだ、あれが言論の自由なのか。そんなことでは、そうも命がけで護るに値しなくなるのをわたしは懼れる。
2003 7・4 22
* 産院で絶え間なく産まれる赤ん坊を見ていると、ホントニ日本は少子の国なのと、疑いたくなります。人生のスタート台のようなベッドに居並ぶ愛くるしく無心の赤ちゃんをみていると、皆幸せになってねと、心から願わずには居られなくなるのは、きっと歳のせいでしょう。
連日自転車で産院へ往復しますと、夜はパタンキュウの熟睡で、今朝もゴミ捨てで出会ったご近所さんに、昨夜はよく降ったわねと声をかけられても、エエ? と返事に窮する程、何も知らない。
出産するや、思惑違いの初体験に出会い娘は戸惑っていますが、この経験がなきゃと、先輩顔であれこれ伝授しています。
まず、出産後の第一声が、こんな激痛でよく何人も産んだわね、との言葉でした。確かめなかったけれど、畏敬の意味だったのでしょう、多分。
女子の場合、結婚しない人より結婚した人、出産しない人より出産した人の方が、人間性のよさや忍耐力が自然に備わると、つくづく思うのです。間違ってはいないでしょう。
* さあ、此の最後の所は、このところの問題発言とも絡んでくるから、わたしは沈黙する。いや、はっきり言って賛成しない。
一概な事を言ってはいけない。
かりに一概に言うとして、森喜郎のあんな恥ずかしい発言を、一國の宰相が、たんに「言論の自由でしょう」とは、小泉が総理大臣という国民を代表する地位にあるだけに、その知性のうすっぺらさ、誇りのなさに呆れるのである。責任を持って生きていない人間の卑怯さがあの薄笑いの表情に顕れている。あれは答えていない、答えたくないので、ただヒラリと逃げただけの卑怯で中身のない発言だ。愚者の森のよりも、賢者ヅラした小泉の発言を聞いたとき、こんな男に國を任せているのかと、わたしは恥ずかしかった。
ケネディなら別のことを言ったろう、チャーチルでも周恩来でも、別のことを言ったに違いない、森を窘めて。太田「元気」発言も含め、聞くに聞けない現実であるけれども、美智子皇后や雅子皇太子妃の意見が聴いてみたいものだ、あれが言論の自由なのか。そんなことでは、そうも命がけで護るに値しなくなるのをわたしは懼れる。
2003 7・5 22
* 岡山の読者の有元毅さんから、素晴らしい実入りの葡萄二種類を頂戴した。生協で桃が届き、妻はメロンも買ってきた。美しい果物が目の前に華やいでならぶ。いやなニュースの毒を洗い流したい。
2003 7・5 22
* 話題が展開している。最初にメールを貰った人は、娘さんの出産のめでたさに、つい嬉しく気が大きくなり「結婚・出産」派のいわば自賛に走られたのだろう、落ち着いて考えればそういうことにに固執するお人ではなかろうと思っている。むろん再論があれば聴きたいが、それはそれとして、話題が別の角度から前向きに膨らむのは、この際、大事なこと。朝一番に入っていたメールを取り次ぎたい。
* 結婚 出産 「女子の場合、結婚しない人より結婚した人、出産しない人より出産した人の方が、人間性のよさや忍耐力が自然に備わると、つくづく思うのです。間違ってはいないでしょう。」
本当に刃物で首をなでられたような思いがしました。
私は結婚して離婚しました。出産して育てた子どもに死なれました。それは、私の心の中で喜びと哀しみ、希望と絶望のような相反した感情を熟させ、何も体験しなかったころよりも、心の幅も襞も広くこまやかになったように思います。立場の異なる人への、少なくも理解の姿勢ひとつにしても。
この方は娘さんが結婚して出産されたようですね。それでしたら、「私の娘は、結婚や出産によって人間性や忍耐力をますます培われていくことでしょう」と、あくまでも「個人的なこと」としてお祝いの気持を表現されればよいのではないかと思います。おそらく、おっしゃりたいのはそういうことなのでは・・・ と。
子育て支援の仕事をしています。結婚・出産した40代、結婚・離婚を2回して出産しなかった30代、結婚して出産していない30代2人、結婚も出産もしていない50代 5名が組織の運営をしています。残念ながら、たまたまこの集団に限っていえば、結婚・出産した人が人間性のよさ、忍耐力についていえばもっとも備わっていない気がします。結婚・出産していない人は最も温かく忍耐力のある人です。でもこれを一般論として言うつもりは全くありません。
ステレオタイプなものの見方は、優しい判断を強ばらせます。そしてもっとも恐れるのは、「・・・の人の方が」という不用意な物言いで「・・・ではない人」の心を深く傷つけていくことです。 川崎市
* すこし教科書っぽくお行儀の良いご意見だが、わたしの最初の反応に、ほぼ同じい。と同時に、やはり此の域に止まっていては、昨夜、「小闇 @tokyo」がオソレていたように、なにかしら煽られて、「子供をたくさん産んだ女性」と「子供を産まない女性」との間で「無駄な小競り合いが起こることを、私は悲しむ」という事態に、まんまと陥る。これは不幸な同士討ちというに近い。
根の問題は、やはり今日日本人の、日本の「社会」や「歴史」への対応力・変換力の不足、認識不足にあると考えたい。或る学者が指摘していたように、昔のまんまの世の中の古い仕組みや習慣を、つまり男型の働き者社会を、温存したまま、適切にうまく男女協働型社会へ切り変えて行こうともしないで、ただ女の労働力をだけ勝手な都合から男社会が受け容れているのでは、そのようなオソマツな現状では、とてものことに女が安心して、機会にも恵まれて、「結婚したり出産したり出来る」ワケがない。「少子化」現象とは、全くその当然な結果なのである。
* これは都下の男性から、少し角度も場面も異にした、いわばシュート球である。私的な襞にも触れてあるので、お名前はむろん出さない。津々浦々にありそうな場面である。
* 鄙の村八分: 最近ひいきで訪ねる小さな田舎料理屋がある。その夜は私が先客、そして地元の常連三人が集まるべくして集まり、店を占めた。私だけが新入りだった。
その日はなぜか人恋しかった。仲間に入れてもらいたかった。それと、うれしいことに、私を含む四人が同い年生まれだった。(数年前、近くのスナックで、四、五年長上の兄さんらに割り込もうとして、すげなくされた。開戦前に生まれた彼らのよそものへの団結心は強かった。)
その夜の顔ぶれは、一人はアイヌの血をひく職人。一人は介護の仕事をする女性。もう一人は東北出身の不動産屋。酒の肴は近国への人種差別に及び、私はためらいもなくわずかに異種の血を継ぐことをアイヌさんにもらした。となりのアイヌさんとは馬が合いかけたが、東北さんは温顔のまま、俺は○○人が嫌いだと言い切った。それで口をつぐんだ、うまい酒に問答は申し訳ない。
一人置いた介護さんと若い女性の話になった。私は、身の回りでたくさん触れ、悩みも聞いている、いわゆる結婚・出産適齢期女性の、不安定な体とこころについて語った。結婚を強く望んでも、そうならない、できない女性、子をなしたくてもなせないひとたち。捨てられ失恋ばかり繰り返す女性。老若男女あわせての周囲の冷たい目と突き放し。
こういう時、私は、自分の境涯、境遇、日常のカルテでしか語らない。まじかに触れてもいない、じかに聞いていないことまでは語らない。それと、女性の話になるとほぼいつも女性の味方をする。意気地のないおとこどもが群がって威張り散らす世は、いつまで続くのだろうか。「女の平和」のおとしどころも知らないで。それで、昔から何度も「おんなの肩ばかり持ちやがって」「もてたいんだろう、いいカッコすんなよ」という酔余の暴言も頂戴してきた(昔はあたらずとも遠からずだったかも、でも今は絶対に違う)。
介護さんとはおだやかに話ができた。ただ、ふだん抑え気味の根っこの激しさが、口の端からもれることもあるのだろう、矮小、誇大せずに淡々と、等身大で話しているつもりでも、そう受け取られないことが多い。酒が入ればなおさら? 昔のラヂオのようにガーガー、ピーピー、チューニングがきかなくなってきて、新入りへの風当たりを感じたので、その話も、チョンにした。
仲良くやっても村八分、でも仲良くしたい。毎日、毎晩、きっと狭い日本中いたるところで、こんなもんなんだろう。 西多摩
* 「の方が」という意見をもつことの全部がいけないとは思わない、人間差別に直結しないなら。
たとえば、わたしは、「文学作品」と「読み物」を見るときは、前者「の方が」質的に遙かに高く比較にならないと考えている。しかし、「読み物」の或る面白さや効用を否認したことはない、たとえそれが暇つぶしや退屈凌ぎにケッコウというだけでも。そして物書きで蔵を建てたいなら、明らかに後者「の方が」前者より勝っていると言うだろう。
また例えば「京都の方が東京より」と考える事例は、良きにつけ悪しきにつけいっぱい有るし、「東京の方が京都より」と肯定したり否定したりする場合もいっぱい有る。ただ、絶対的一概になど、「の方が」とは何についても言えないし云わない「方がいい」と思っている。近ごろの若い者は、近ごろの学生は、理系の学生は、文系は、などと一概に言えば言うほどその認識は硬直して間違いを拡げて行く。
だが価値観を捨てよとは言わない、むしろ自身の価値観を自身でいつも批評し批判せよ、鍛えよと言いたい。
2003 7・6 22
* 三十にして初めて与謝野源氏を読んでいる卒業生の、アイサツが届いた。かなり的確に読むべきを読んでいるので嬉しくなる。
* 与謝野源氏・中間報告 秦先生、もう少し読み進んだら。。。が待てずに、返信してしまいました。
私は、源氏の恋に気をもむ紫には、近しいものを感じます。源氏のことは、先生が「源氏め、ついに紫を。。。」とか、「あさきゆめみし」を読んだ子(恋人か?)が、「ぼくは、源氏は完璧だから嫌」などと言うのを聞いていたのと、すばらしすぎるヒーローとして描かれているのだろうと思っていたのと、自分はまんがのときのはあまりリアリティを感じなかったのとで、物語に惹かれるとは思ってなかったのです、が、晶子の源氏を読んだら、とっても好きになりました。
好きになったのは、空蝉の衣を抱いて源氏が眠ってしまったところからでしょうか。
あとは、リアルな人物描写が、とても印象に残っています。
まだ幼い紫と出逢って、若紫が、「もうねむいといっているのに!」という姿、源氏に少し心を許しつつも、どこか警戒して「鳥肌」がたっている様子。こういうのは、沢山の子を成したという晶子の訳による効果でもあるのでしょう。
最近心に留まったのは、朝顔の女王を自分のものにできなくて、心をくだく源氏に、不安や嫉妬をもてあます紫上。帝に自分が実父であることが知れたころ、夢に亡き藤壺中宮があらわれて、夢からさめても静かに泣いている源氏。それに気付いて隣の紫上がみじろぎもしないでいる寝室のようす。新年用に、それぞれの奥さんに新しい衣裳を源氏が選んでいて、明石上に選んだものと、自分のそれとを見くらべて、紫上が侮辱されたように感じ、そして新年の夜を源氏が明石のもとで過ごして、きまり悪げに紫上のもとに戻る様子、など。そんないろんな情景が、自分の目で見ているかのように伝わってきて、それらの人々に親しみを覚えます。
また、源氏が運命の低調なときに、神秘的に明石に出会い、その後二人は心を許しているのかいないのか、しかし、互いに縁を感じ、それをとても大切にし、つかずはなれずの微妙な関係を続けて相手への特別な思いを保っている様子など、それぞれに個性的な人々と、それらの人々の関係に、リアリティを感じます。
また、当時の貴族の生活、作品にあらわれている、作者の徹底した知性と洞察力と人間に対する愛情、スケールの大きさ。この作品に出会うことで、これから、ひたすらに生きていくことの中にも、希望(逃げ場??)のようなものを感じることができました。素敵な出会いをみちびいてくださった先生に、感謝、です。
恋愛は、いろいろありますが、学ぶことは多いです。今、相手の身辺にいろいろあって、大変な時です。そのようなときに、だまって見ていることしかできない自分の無力さを感じます。でも、そういうものだろうとも思っています。
* これはもう源氏物語をほぼ正確に楽しめる読み方へ入っている、そう言える。繰り返してまた読みたく成るであろう、が、まだまだ一度目の先は長い。投げ出さずに、佳い湯にゆったりと身を預けるようにして読み進んで欲しい。
2003 7・6 22
* 七月七日 月
* 七月七日「月」と書いて、ちがう、「星」と書きたいなと、ふと子供のように思っている。雨もよいに曇って、涼しい。梅雨はまだ上がっていないらしい。
* こんなメールが東工大卒業生男子から届く。ほほう…と、思わず頬がゆるむ。
湖の本新刊『猿の遠景・母の松園』に触れて書いてあるからではない。教室で別れて優に十年、院を卒業し就職して以降に彼のこういう側面の拓けて行くのを知ったが、此処まで展開してきた、それが嬉しいのである。
十余年前から教授室へ現れる常連の一人であったけれど、毛筋ほどもこういう方面の好みは見られなかった。わたしの湖の本を卒業後からずうっと続けて購読してくれることすら、思いなし申し訳ないような気の毒なような気持を暫くもっていたものだ。何と云っても東工大生の主なる関心と、わたしの著作世界とには、かなりの距離がある。「学生さん達がみな読者になってくれるでしょう」と云う人がいるが、それは甘い見当違いである。
それでも今、数えてみれば三十人近くが「継続」して送金してくれている。応援しつづけてくれている。心から感謝している。
* こんばんは、千葉の**です。
繪についてお話を送って頂きましてありがとうございました。
『繪』について、興味を持ち始めたところだったので、ちょうど良かったです。
前半の猿についての話は、驚きました。皇太子(現在の明仁天皇)の一言からこんなにも深い話に広がっていくのですね。証拠も残っていない過去のことを、時代考証をふまえて『答え』の見当をつけていくのが興味深く、一気に読んでしまいました。私も此の「猿」の繪を見に行きたいと思うようになりました。
それよりもびっくりしたのは、鏑木清方さんの話です。
テレビ東京の『美の巨人たち』という番組で、ついこのまえ鏑木清方さんと一葉女史の墓について放映されていました。はっ、とするような美人画で、そのうちに鎌倉へ行きたいと思っていたところでした。
上村松園さんは不覚にも知りませんでしたが、機会を見つけて見に行きたいです。
なかなか、周りに美術を好む人がいないこともあり、こういった話を紹介していただけるのはありがたいです。繪以外でもお勧めの美術、藝術などありましたら、またご紹介下さい。 それでは、失礼します。
*「母の松園」は、わたしの松園論の大きな纏めのように成っているが、全体を、家へ遊びに来た東工大の卒業生に話しかける体裁にしてある。彼は飛行機製作に昔から志を持っていた学生で、その思いを現に遂げて、今はブラジルに渡り、熱心に飛行機作りに従事している。ブラジルへ行きますと告げて家に来た日に、そのように「松園」にふれて話したのも本当のことで、飛行機青年はまた「松園」の繪の好きな東工大生でも、事実、あったのである。
彼が教授室に来ると、教室でとは逆にわたしが質問ぜめにあい汗をかいたが、質問の多くが「哲学」がらみであった。いろんな学生クン達がいたのである。
* 今朝のメールの君も、たしかにいかにも東工大生ではある一方で熱心なクラシック・ピアニストであった。だが「繪」の話はし合った記憶がない。あの「猿の遠景」を「一気に読んでしまいました」とは。わたしのものとしては読みやすく書けているにしても、展開は歴史や民俗や海外にも及んでいる。嬉しい。なにより伝毛松「猿図」が観てみたいと云っている。こういう気持になるのが嬉しい。東京国立博物館でときどきは展示するからぜひ機会を捉えて欲しい。
そして鏑木清方のあの美しい世界に既にふれて心を動かしていたこと、観たいと思っていて、それが松園へも及んでいると云うこと。ほんとうに嬉しい。
「上村松園さんは不覚にも知りませんでしたが」に、わたしの久しい読者ならビックリされるだろう、しかし東工大の教室ではそういうものであった。いつも鉄棒をひきずって赤鬼青鬼のように大家然とのしのし歩いている現代作家や批評家でも、ほとんど名前すら知られていなかったからわたしは当初仰天したが、思えば当然でもあった。梅原猛でもほとんど知らなかった。井伏鱒二は知っていても唐木順三や河上徹太郎は誰も知らなかった。そういう世間も有るのだから、一概なジコチュウは云えないのである。
現に逆に彼等学生諸君の世界での大科学者や研究者のことを、わたしたちは全然知らないのである。だからこそ、わたしは学生に教わる気で何でも喜んで話を聴いたし、私からも彼等の気付かない世間のことを、出来るだけ伝えていた。そして接点を探っていた。教室も教授室も、あれは一種文化交流の場であった。
*「バルセロナの小闇」は、いま、夫君とともに日本に帰ってきている。好きな山歩きなど、旺盛にいろいろ楽しんでいるだろうか。怪我のないよう、存分に楽しんでいってくれますように。ご両親もたくさん喜ばせて上げて欲しい。
2003 7・7 22
* かささぎの橋 気温が30度くらいでも、湿度が高いと熱中症を起こすそうですね。今朝は、雲が蓋をしたように、蒸し暑い空気が籠り、山の端が滲んで見えるほど。朝から立ちくらみばかりしていました。ようやく風が出て、雲を押し流し、日が射してきたので、空気が乾き始めています。
星が見えるといいのですけれど。
体調はいかがですか。お幸せにおすこやかに七夕をお過ごしください。 伊勢
* 七夕に 昨日、大和高田市のおだまき最中を思い出し、外出先から寄り道したのですが、前回訪れた時も、かなり寂れていた商店街が、もう痛々しいほどで、店は見つかりませんでした。
留守の間に、字名(あざな)も懐かしい、故郷の菓子店から、笹団子と粽が届いていました。親戚からのお中元でしたが、束がそのまま、段ボール箱に紙も敷かずに入っています。
うちのほうの粽は、7×12センチほどの二等辺三角形で、味付けをしない餅米を入れて蒸し、食べるときに、砂糖を加えたきなこをつけるのですよ。 和泉
* かささぎのはねうちかはし置く橋をわたらめいまはまぼろしなれば 湖
2003 7・7 22
* 心嬉しいメールがもう二つ届いていた。一つは新作を内々に読んでくれた編集者から。
* さて、
辛い──それはそれは辛いお話なのに、
引きずられるように一気に読んでしまいました。
……「辛い」というよりは「怖い」物語。
とくに、病んで、「お父さん、繪を描いてよ」と言う妻がおそろしかった。
この修羅の妻こそ「描けない画家」の哀しさを一身に背負ってきたのではないか
──辛い、哀しい、怖い夫婦の数十年を凝縮した、凄い言葉ですよね。
呆然としつつ、とりいそぎ思うまま書き送ってしまいました。御寛恕くださいませ。
* 有り難い。これで作者としては満たされる。本に成る成らぬは二の次でよい。
* そしてもう一人は、昔昔に医学書院の社宅に暮らしていた後輩。いまは仙台で大学教授として活躍している。湖の本も最初から応援してくれている人。メールの交信はなかったが、昨日から仙台・松島方面の旅情報をインターネットであさっているうち、たまたま彼女の勤務している大学のスタッフ案内にも行き当たった。そしてメールアドレスを得たのでアイサツを入れたところ、折り返し返事が来た。
社宅では、もう一人の友人といっしょにわたしたちの部屋にきて茶の湯の稽古をしていた。この人はその方もなかなか落ち着いていい作法をした。眼鏡を掛けていて分かりにくかったが、眼鏡をはずすとそれは美しい人なので驚いた記憶がある。
ちょうどもう建日子が生まれようかというとき、妻は破水のオソレ有り絶対安静を言い渡されて、それで稽古も中断してしまったのが惜しかった。建日子が生まれたときに、二人からお祝いに戴いた白玉の湯呑みのとても品の佳いのを、あれ以来、一つも傷つけることなく、正月がくると家族そろい、それで福茶を飲んできた。だから毎年の初春には必ずこの人の噂をしてきたのである。
わたしの退社と踵を継ぐように退社し大学院へ進んだともれ聞いた。社会学の、今は大学教授である。湖の本の創刊と同時におつき合いが自然と復活していたが、会社以来もう二十九年、一度も逢っていない。
メールというのは、たしかに有り難い利器ではある、節度良く使うならば。
* 仙台から松島へ。妻は松島を観たいと言う。わたしは久しぶりに瑞巌寺も訪れたい。それから仙山線に乗って列島の背骨をくぐり抜けて山形に行き。うまくすれば楯岡の「あらき蕎麦」にまた行ってみたい。たいていは話だけで立ち消えになるのだが、夢見ている。お茶のお弟子も、ぜひ声を掛けて欲しいと言ってきているが、わたしはまたそういうのが苦手で、出掛けたにしてもすうっと通り抜けてしまいそう。つまり迷惑になりはせぬかと気遣ってしまうのだが、此の気遣いは、あまり良い性格ではないのかも知れぬ。
* 「湖の本」が届きました。ありがとう存じます。これから、読ませていただきます。
4日ほど留守をして帰ったところです。今週末は東京に先週末は軽井沢や、信濃追分におりました。こちらには月曜日の夜から木曜日までの3日ほどしかいないのです。2時間に一本くらいの、単線の**本線に乗って、田園風景をながめながら、とことこ東京までまいります。
今は、緑が見事に瑞々しく、ときおりその中に白鷺が舞い、みとれるほどの美しいコントラストです。ですから、できるだけ電車に乗るのは風景の眺められる日中と、決めています。
その東京から2時間圏内が、私の体力と気力と時間の限界で、それを保ちながら、放浪ばかりしています。今回の出だしの4日には、竹橋の美術館にいき「地平線の夢」という絵画展をみました。久しぶりに心が重なりあう感動がありました。カンディンスキーも、ミロも、クレーも、哀しいほどに、私にはわからないといいいますのに、私の生きた時代とは重ならない昭和13年、14年頃の、未知でもあった若い芸術に驚くほどの興奮をおぼえました。
私は、以前北海道に住んでいました。出身は宮城県です。いまの地元の集まりには、最初少し顔を出してみたのですが、独特の、排他的で大変なものがあり悩んだすえ、すぐに、東京の方での活動にしましたので、地元の方々とは、それ以来ぜんぜんおつきあいはないのです。ここで私は大学受験生あいてに夜は、数学の家庭教師をしていますが、その仕事も、一段落しましたら、居は、東京か、どこかに移したいのです。
創作は本当に自分を、どのように見つめ、どのように生きていくか、ということだと思います。まだ、自分が澄み切るために必要な水の深さを知りません。この年になってなお、と思えばあせるばかりです。
ご本の題名に惹かれます。なぜ、「湖の本」なのかと、HPを見せていただきながら、みいだせなかった謎を考えながら、しばらく「湖の本」の中ですごさせていただきます。ありがとうございます。
* 初めてと謂っていいメール。なかで心を惹かれたのは車窓の風景。凡山凡水の日本の景色ではあれ、このところの気疲れを癒すには、電車に乗るのが佳いなあと思っていた。新潟の北の村上へも行きたいと昔から想っていながら果たしていない。今度も目指す瀬波汚染の宿が満室満室で諦めた。「こころ」の先生とKとが夏休みに九十九里浜をヘトヘトになるまで歩いている、あれが頭の隅に或る憧れになっている。
2003 7・7 22
* 幸甚 名古屋の女友達は、海部郡で暮しています。あま、と読むとは知らずにいました。今日、新聞で、尾張、紀伊、隠岐、豊後に海部郡があったこと。尾張のそれには、津島、中島などの地名があること。海士が海中で観音を見付けて祀ったという縁起(まるで浅草寺と同じ)をもつ、甚目寺があり、寺に接して漆部神社があることを知りました。
関心を持ってこういったものを読み、観光でない旅を味わい、考えるようになったのは、秦さんのおかげです。
* おかげには痛み入る。が、確かに、ほんのすこしその気でものをみていれば、途方もなく広い深い歴史的な関連に気付いて興味に触れてくるものごとは、身の回りにたくさんある。ことにものの名前に、文字=漢字からはなれて気をつけていると、たとえば安曇とか出雲とか和泉とか熱海とか亜土とか書かれている地名の連関に海部の移動や土着のあとが見えてきたりする。あづみ、いづみ、いづも、あたみ、あど、などと音で先ず読み込むのが大事なのではないか。岩石に影向(ようごう)する=石長姫=石神(しゃくじ)=杓子=蛇頭の連絡など、石神井近くに暮らしていると簡単に思いつきも見えても来るものだ。
そうそう、利休は正座してお茶をたてたかどうか大いに疑問と疑問符をつけたこともある。元禄より以前で、正座例が図像等で確認できるのは、本尊の脇侍にすこし、罪人、絵巻等の中でもことに卑賤めいて描かれている庶民の僅かな例、ぐらいしかない。そんなことも気付いてみればコロンブスの卵のようであったのだ。
2003 7・10 22
* 25歳の女性は母子家庭に育ち小3まで学童保育だった。幼い日友達もいなくて一日じゅう虫をつぶしては土饅頭の墓をつくり、おそなえの枯葉ばかり集めていた。でもインベーダーゲームはやらないしテレビもあまりみなかった。まわりからは愚鈍だとバカにされ続けてきた。中学生になって威圧的な女性体育教師に猛然と反発し本気で殴りあった。でもグレなかった。そして友達より先に親離れし自分の脚で立てるようになっていった。いまでは友達の悩みの聞き役。
彼女の話を聞く初老の男性は、小学校の卒業時、母親が担任から「こんな扱いにくい子ははじめて」と吐き捨てられた。中学では廊下でたたされる時間が半端でなかった。先生にもずいぶんドつかれた。悪い子の見本として朝礼で何度も名指しされた。でも、本当は勉強は好きでも授業が面白くなかっただけだった。
男は、25歳女性から知り合いの学童保育のオンナ先生の話を聞いた。小学生でも茶髪はいるし、タバコも吸うと。
すごく反抗的な小3の男の子に何やってんのと叱ると、「おれ人間やってんだ」とうそぶかれたという。この子の親は教師とか。
男は、洟垂れ小僧が「人間やってるんだ」というのは気色悪いが、その通りなら、何とか心に手が届きかけているのでは? とふと思った。
一見ふつうの子、いい子って何だろう。校長も、学友も、近所のオジサン、オバサンたちも、ニュースキャスターもTVではいつも「いい子、ふつうだった」とのたまう。よっぽどそっちの方が気味悪い。「少年の心の闇」なんて陳腐なこといまさら言わないでほしい。
「人間やる」ってことは心に「闇」をかかえているってことではないですか。だから、少年も人間、「闇」を持つのが当たり前。 初老男性のメール
* 朝早くから、テレビは、十二歳少年の幼児突き落とし殺しの話題一色。一般論におきかえて少年を非難しても庇っても、ほとんど何の用もなすまい。まっすぐ、やはり特異にしてかつ根の拡がった「個」の問題として、徹してこの少年の心の闇を洞察しない限り、まわりをうろうろ駆け回り、囀るだけになろう。上辺見た目からの印象などをせっせと収拾していては、逆に見落とすことが有るだろう。
殺されてしまった子は、ただただ痛ましい、災難も極まっている。
殺した少年の「個」を、はやばやと一般化しなしくずしてしまっては、見落とすと思う。心理的な分析や論評に、わたしは多くを頼まない。むしろ詩人や作家達の「追体験」的なイマジネーションに期待する。ルポルタージュではない、創作に期待する。
* 少年 一階下に、今場所の千代大海のような、はち切れそうな体駆に、ランドセルを背負っている男の子がいます。階段の下、仲間とたむろして、カードゲームに興じている最中でも、こちらにいちはやく気付き、彼一人、はきはき通る声で挨拶します。
先日、町角で同様に、声をかけられ、びっくり。ちゃんと知ってて声をかけてるんだァ! 蜜柑が一帯に実り、陽光に照り輝いている畑で、なぎ倒されたような気のはずむ衝撃。
こういう少年に、「世界は善意と好意だけでは成り立っていない」なンて、一国の宰相がシラーっと言っている画面は、見せたくないわ。 讃岐
2003 7・10 22
* 仙台、松島は、いいご旅行のようでしたね。瑞巌寺に、私達が行ったのは日曜日でしたのでので、ひとひとひとでした。
銚子には、朝日の見える湯、夕日の見える湯とある旅館があります。昔の文人たちが泊まっていったそうです。
今海岸には、緋扇水仙が咲いていてきれいです。夕陽の燃えるような色です。先週は熊野峠の樹木の中でながめたら、枝枝の隙間に夕陽はまるで朝の光のように神々しく耀いて、海と山との夕景はどれほど異なるかをつくづく感じました。
* 落ち着いた文面が、心地よい。言葉は心の苗だ、たしかに。
子供の頃から地図を眺めて、わたしを惹きつけたのは、銚子と襟裳岬と能登半島の先だった。襟裳岬は先端まで脚をいれてきた。あとの二つはまだ知らない。銚子はうんと近く成った。
2003 7・10 22
* 昨日はずいぶん気温が上がり、夜更けて一雨ありました。
松伯美術館や大和文華館をゆっくり見て歩きたいと思っていて、そのまま。そして遅ればせに。まったく遅ればせに。
松伯美の、なんて慕わしく、静かであたたかいことでしょう。ご本を友に、松園さんの素描と下絵展を見て、今、吹き抜けで珈琲をいただいているところです。
* 松伯美術館も、また中野美術館も、大和文華館も、みなすばらしい。心を養って、物情騒然の世間から少し身をひいて歩いている人達を、わたしはニゲている人とは考えない。誰がどう眺めても政局にアクセクしている代議士達の世間に懐かしさを覚えるわけには行くまい。だがニゲてしまえるものでもない。少しでも我が身のためにもあの世間をよくしたいと願うなら、次の選挙でキッパリした票を投じることだ、何といってもそれが一つの大きな決断である。
2003 7・11 22
* 銚子のこと少し 平地が続く町のわりには小高い山の斜面に私は住んでいるのですが、ここから海はみえません。今朝、あらためて二階からながめてみましたが、遠くの緑と家並だけでした。
散歩する坂道の、五分ほど下ったところから覗けるところにだけ、光って海があります。海のそばまでは、車で十五分ほど走るでしょうか。潮騒や、潮の香りはその日の風の向きによります。高台に吹く風は、四方それぞれの違った匂いです。
海からの風がいちばん快いのですが。
醤油工場からのもろみの醗酵する匂い、立ち並ぶ水産加工場からの生臭い匂い、上方に広がるキャベツ畑からの堆肥の匂い。この四種類のいずれかが、銚子の、とくに私の住む地域に、それぞれの日に風が運ぶ匂いです。
利根川河口は、駅から近くです。そこには、銚子大橋といって、茨城県と千葉県とを結ぶ長い橋がかかっています。先日、友人がその茨城県側で画の個展をしたので、見にいった帰り、いつもはタクシーのところを、気候もよかったので、私は、歩いてみました。橋を渡りきるのに、ちょうど二十五分かかりました。
河、あるいは海の表面を渡って吹いてくる風を身に受けながら歩くのは快かったのですが、なにしろ県境なので、交通量が多く、白い線で区別しただけの歩道はとても狭く、おそろしいほどではありました。途中でひきかえすこともできず、車の流れを中断してタクシーを拾うわけにもいかず、また、立止まって水底を眺め下ろすには、通り過ぎるドライバー達の好奇な目を覚悟しなければならず、林の中をひとりで歩くより困難だと知りました。
でも、渡り終えて、二十五分と知った悦びがありました。
* 目に見え、耳に聞こえ、嗅覚もはたらき、脚にも筋肉のはずみを感じるメールで、身の回りの地元をこのように印象的に書いてくれるメールは、有るようで少ない。
2003 7・11 22
* 「遠」は茶名ですということですが、秦様は茶道のお師匠さんでもいらっしゃるのでしょうか。「湖」のときは、湖の本の著者、という意味に違いないし、そして、あとは、どのような号があるのだろう、と、あれやこれや考えるのは、愉しいことです。
地名、人名、草木の名、など漢字の美しさに惹かれます。
私は大学時代、裏千家のお茶のサークルにいました。今は点てることも、いただく機会もありません。それなのに、陶が好きなので、お茶碗を買ってみたり、昨年は茶杓を買いました。銘は「まほろば」。本箱に飾ってあります。
* 大学でも、よく、ものの「名」ということに触れていろんな話をした。襲名、家代々の名字、力士のしこ名、平安時代の色名、名利名聞、名を惜しむこと、名を諱むこと、名を贈ること、名を授けること、名を変えること、魔法のなかでの名、真言、タントラ。際限がないところを、時々に話した。ものに名があるとは、思えば不思議なことである。茶杓の銘、茶碗の銘。興味深いものである。銘をつけるのは、かなり難しい。
西山松之助さんは夥しい数の茶杓を見てきた人であり、自身削ってもおられるが、銘をつけるのも上手である。一本頂戴してあるが、銘を忘れている。やれやれ、困った無茶人になったもの。
2003 7・11 22
* 当地に、月に一回お坊さんがいらっしゃるので、座禅をしています。老子の話がほとんどです。本も買ったばかりです。
「なごみ」はとても好きな本で、お茶をしなくなってからも、ときどき読んでいました。「淡交」も読んだことがありますし、「銀花」も愛読書でした。
私は昔から自分を語ることが苦手です。でも、こうしておしゃべりして耳を(目を)傾けていただけることは幸せだと感じはじめてもいます。
人生は美しくあらねばならないと考えています。そのためにもできるだけ、いいものを見つめていきたいと。しかし、きれいごとばかりいっていると、一笑される世の中であることも知っています。
* このメールで気がかりなのは「人生は美しくあらねばならないと考えています」とあるマニフェストで、何でと反問したい。せいぜい「美しくありたい」で宜しいのでは。手にいろんなものを持ってもかまわない。ただ、いつでも、惜しげなく捨ててしまえるようでありたい。「ねばならない」ことなど、むしろ無いものとして生きていたい。
2003 7・12 22
* 雨隠れ 2003.7.11 小闇@TOKYO
降ると聞いてはいたが、ここまでとは思っていなかった。雨は宵の口の街を霞ませ、まるで夜半。それは見慣れぬ風景を、いっそう、私を拒んでいるように見せる。
この時間、この街にいるのは、何年ぶりか。
そう好きな街ではない。
十代の最後の秋に、一度訪れた。来たくて来たわけではない。行事だった。宿が何処にあったのか、部屋の造作がどうだったか、記憶にない。
その建物の脇にあった公園は、覚えている。真ん中に砂場、鉄棒と、動物を模した腰掛け。夜、幼い宴会を抜け出した私たちの上に、枝を存分にひろげた大木が覆い被さる。その下にある電灯が、丸く温い光を投げかけ、その枝々に奇妙な力を与えていた。
強い風が吹き、ざーっという音がして、枝から放たれた葉が円を描くように舞う。
空気は冷たく乾いていて、葉は黄色く照らされていた。それでもそれは、桜の散る様に見えた。
人間以外のものに恐れをなしたのはあれが初めてで、そして最後であった。
車を降り暖簾をくぐり、カウンターに席をとって、肩の濡れた上着を脱ぐ。
「窓に見えるのが高瀬川、だからさっきのは鴨川」。
季節も天気もなにもかもが違うのに、あの情景を思い出していた。ふと、雨の中、19歳の私が立っているような気がして、確かめにと外へ出たくなる。
けれどいやしないのだ。あの頃の私はもうどこにも。責めるように道を、窓を、屋根を叩く音にじっと、じっと、私は「今」に佇んでいる。
* 掌説というのではない、一歩その手前あたりにある述懐として、惹かれて読んだ。四条高瀬川畔の旗亭「すぎ」を思い出した。この書き手の一つの特色として、過去と現在とを楕円の焦点のようにとりつつんだ時空に在って、述懐を構造化してゆく手法、があるようだ。「だ」「のだ」という硬い言い切りを、この一文は一カ所にとどめている、それも無用に肩肘張ったガンバリを打ち消すのに効いている。「けれどいやしない。あの頃の私は、もう、どこにも。」でも良かったのかも知れない。微妙、としておく。
* 帰国中のもう一人の小闇は、故国を、家族とのまどいを、夫君もともども楽しんでいるだろうか。
* 自分を素直にあらわしたい まっすぐにあらわしたい いままた湧き上がる願いの、源を知ります。
バグワン・シュリ・ラジニーシ、の講話、明日、書店をのぞいてきたいとおもいます。
音読のお話は、とても心が開かれました。
好きな詩を、私も音読してみて涙が流れる思いがすることがたびたびあり、そうする心をこのごろは失くしていました。今、大手拓次の詩を読み続けています。朔太郎のエッセイ「大手拓次君の詩と人物」を読んで大変興味をもっていたからです。ほるぷ出版の詩集がやっと手に入ったのです。
きょうこの町は朝から霧に包まれています。夏は、すぐ近くに隠れているようです。気温がぐんぐんあがりはじめ、緑が濃さを増しています。
2003 7・12 22
* 新宿の鳥 雨降る新宿は、夕刻のネオンも煙り、歩きまわれば羽根まで湿って、もう飛ぶこともできず、日中も白鷺に姿を変えて緑の田に舞うこともできませんでした。ひっそりと息をつめて都会の夜を窓越しにながめます。
それにしても夜11時まで開いている書店があるので驚きます。しかし、久しぶりに必要とした雑誌「なごみ」がないので残念です。それならば、と、メールのお話にあったホフマンのこわい本でも、と思いましたが、それもありません。そして「存在の詩」の書店には、電話が通じません。せっかく、ご紹介くださったり、思い出させていただいたものたちに、まだ、手はとどきません。”ません、ません”のメールで大変失礼ですが。
* はぐれたように都会の夜をとんでいる鳥、鳥、鳥。ものは追い求めても遠のくばかり。澄んだ一枚の鏡のように、ゆったりと落ち着いて、映るものはくっきりしっかり映し、通り過ぎる者は、追わない。戻ってくれば、また余念無く映して何の他意も無い、鏡。
2003 7・13 22
* となりまちは、夏祭り。大降りに降った雨が止みかけた昨夜、花火があがりました。音が雲に反響して、四方からの波動に揺さぶられるようでした。
春先、梅雨どき、また秋霖の、薄ら寒い雨の中に居るのが、好き。あちこち出かけては、好きな季節を、心身のすべてで味わい、愛しみ、元気をつけています。梅雨が明けてしまうと、暑さに、息をすることだけで、精一杯手一杯になりますから。
肌寒さと高い湿気、よそでの強い冷房など、おからだに障らないかと、案じております。どうかご自愛ください。
* 今年の梅雨寒は相当なもの。膝下から足先へ今も冷え冷えしている。女性に違いないが、独身か人妻なのか分からない。勤めているようでもない。「生・活」という二字が、やや気がかりだが、気楽な療養の人なのかも知れない。私の仕事が役に立っているのならいいが。
* 買おうとした「なごみ」には目的はなかったのです。本屋にはよくいきます。古書店にも。雑誌のコーナーにいくことなどめったにないのですが、通りかかるといつも目にとびこんでいた「なごみ」、、、ぱらぱらとページをめくるだけで静かなやすらぎに満ち、それを毎月求めて買っていた時代にはどのような自分であったか、と、思い出されてきたりするのでした。
それは、どこからかあたたかな風が吹いてくるような思いでもありました。
戦後すぐ建てられたというバラックのかまぼこ小屋のような建物、軋む階段を上っていくと、いちばん奥の部屋から男性合唱団の練習している声が聞こえ、そのいくつか手前の部屋の扉を開けようとする頃には、もう、炭の匂いがしていました。開ければ、すでにお湯の滾る音。私は、18、19歳でした。静謐に心をとかし、揺らしていた音と匂いでした。
それを読んでいた頃の私のような若い店員さんが、一生懸命探してくれて、”「なごみ」はありません。”というのです。いつも、あって、表紙だけみて通り過ぎていた本が、きょうはない、というのです。
ですので、私には何月号という、目的があったわけでもなかったのです。あなたはどのような人ですか、のご質問に惑い、かつての自分をたぐりよせようとしていたのでしょうか。それは、見当違いであることをも知ってはいるのですが。理由もなく、「なごみ」を探す日でした。
* どこの塒へ帰って行こうという鳥の一羽なのだろう。目の底に、金彩をきらきら散らしたような静かな闇が見えてくる。
2003 7・14 22
* それでは、冷酒でも一杯口に含んで寝ることに致しましょう。
明日は、大事なお出かけとか。お帰りの頃は、例のお好きな地下、ですか。あの店の主人は北海道の人だそうですね。あのビルにあのこだわり。「なごみ」ふう。しかし、夜にはギャルのなんと多いこと。座るところもやっとのにぎわい。銀座店もしかり。それも、お楽しみでしょうか。
カップ酒に、握り飯。窓外に青い田、舞う白鷺。
その風情の方が愉しいことでありますでしょう。 おやすみなさい。 はぐれ鳥
* どういうことだろう。これは。
2003 7・14 22
* 「小闇」はもう書けているかなと思ってサイトを開くと、いつもより少し早く、書けていた。むかし「未清算の過去を語れ。どうする気か」と不躾なことを学生諸君にいきなり突きつけた。二十歳の青春が、けっこう未清算の過去を抱いていて、複雑な反応が書いて示されていた。それとは、少し違うようで重なるようで、あれから優に十年が過ぎてきた。
* 清算の世代 2003.7.15 小闇@TOKYO
少子化についてここ何日か考えていた。政治家の発言とそれを取り巻くヒステリックな反応が拍車にはなったが、それ以前から気にかけていたことではある。
積極的に子供を持たない、その理由。仕事があるから、出産・育児の環境が整っていないから、経済的に無理だから、きちんと躾ける自信がないから。あるいは「自由を謳歌」したいから。どれも個々の理由としては、体をなす。
しかし、全体としては何にもなっていない、と私は思う。
政府や地方自治体が躍起になって「少子化」に取り組むのは、あちこちで言われているように、子供、つまり将来の労働力の数が今のままでは、これまでの日本という仕組みが成り立たないからだ。そういう全体論に、先ほどのような私たちの個の事情を織り込む余裕はない。だから「出産奨励金」なんかで、手を打った気になっている。
旧来の仕組みを無理に現在に当てはめようとすると、本質を見失う。私たちの世代は、それを知っている。
ひとつ、仮説を立てたい。私たちの世代、つまり70年を挟む世代は、「清算の世代」である、と。
義務より権利を主張するように教わったのも、いじめで自殺者が出たのも、私たちの世代が最初だ。寡黙に、後回しにされてきた諸々の清算を重ねてきた。それは今も続く。長い過渡期。
だから私たちは、その清算を安直に強いる世代の要請に、そう簡単には頷けない。もうたくさんだ。
その代わり、私たちは私たちの後の世代に期待しない。何も求めない。あなた方の世代の後始末をしきれない、と言われれば、そうですか、と受け止める。
言うまでもなく、その世代に生まれたことと、個人として今を生きることは別だ。was born と go on が違うように。個を主張しすぎるのは米国思想にかぶれているせいだと批判する声があるのは知っている。おまえたちは只乗りの世代だろうという声も。私だって10年後には「五児の母です」と言っているかも知れない。
それでも敢えて言いたい。私たちの世代は、少なくとも私は、いつまで清算が続くのだろう、と思っている。
* この私の「闇に言い置く私語」を毎日のように読んでくださる人数は、想像を超えて多いらしい。その中には東工大の卒業生達も、毎日とは行くまいが、まじっている。かつては教室に机をならべて書きに書いた仲間達だ。彼や彼女たちは「清算の世代だ」と自覚したこの「小闇@TOKYO」の重い述懐を、いま、それぞれの場所でどのように聴いているのだろう。
2003 7・15 22
* ようやく 鴎外作「雁」の、紅雀を蛇が飲み込んだくだりが、朝刊に、二日間にわたって載ったのを読み、キモチ悪くなって、落ち込みに拍車がかかっていました。ようよう浮上。
いつもはTVで見ただけでノビてしまいそうな祇園まつり。ひょっとしたら、涼しいのでは? 行ってみようかしらと思えるほど、当地は気温が上がりません。あんまり肌寒いので、ケーキを焼いたのですよ。
ケーキが日を経て、しっとり落ち着くように、何度も読んで、ようやく「猿の遠景」が身心の内にしずまり、融けてきました。
2003 7・18 22
* だからダメなんだよ 2003.7.18 小闇@tokyo
長崎で男の子が殺されたその現場に、中学校の教師が書いたとされる手紙が備えられたらしく、それがニュースになっている。通信社が配信するほどの。
私は鳥肌が立った。その手紙の内容に心打たれたからではない。それをニュースとしてしまう、報道の緩さにである。
その手紙が本物であるという確証を、どうやって得たのか。
愉快犯はなくならない。絶対にいる。その手紙が、報道の翻弄を目的としたものでないと、どうして判断できるのか。甘すぎやしないか。
大手の新聞が投書欄に、その新聞社をからかうことを目的にした作り出された投書をそれと知らずに掲載し、物笑いになったのは最近のことだ。
もうひとつ言うなら、その手紙は全国に報ずるに値する内容なのか。「僕ら大人がこんだけまわりにいて、助けてあげられなくて、本当にごめんね」と綴られるその手紙に、私は吐き気こそ覚えるが、シンパシーは感じない。
こんなこと言ってるから、だからダメなんだよ。
間違いなく、少なくともこの後十年は、同じような事件が続く。時代の要請だ。そのたびに「僕ら大人」は謝るだけなのか。「僕ら大人」には、それ以前にすることがあるだろう。反省文の提出は、その後だ。
* もうこの卒業生に、わたしはわたしからの「卒業」証書をあげたい。もうわたしの学生でなく、少なくも一人のエッセイストになった。三百もをこうして書いた。一日も欠かさず書き続けて、アバウトな物言いをすればその七割が読むに値するモノを含んでいるし、そういう書き方が出来ている。立派に及第している。
むろん作風がちがうから個人的に気になる筆致の違和感もないではないが、それは問題にならない。むしろ作者と読者の関係として、わたしが「読者」してきた、そう出来たということである。
編集者としても優れている、姿勢が良い。畑はちがうけれど、わたしがかつて勤務していた出版社で、こういう自覚的な、シャンと立った編集者はさびしいほど見られなかった。編集者が意欲をもち自覚を喪失しないで居るのは、想像を絶して難しく、力のある人は人で傲慢になり、力の乏しい人は人で給料とだけ仲良くなる。一期一会、一期一日、一期今・此処という仕事のほんとうに難しい仕事が編集者だ、すぐ「慣性のベテラン」になる。それはベテランではない。底荷をくくっている意識がボロボロなのだ。灰の縄のように。小闇は書いて自分を磨いてきた。荀子ふうに謂うなら「解蔽」してきた。まつわりつく身のボロを念々に脱ぎ捨ててフレッシュであろうとしていた。新生していた。これはキツイことだが、不可能ではない。もう「小」闇ではない。とうに独りで立っている。
こういう若い人材をこそ日本ペンクラブにエディター会員として迎えたい。
* 上の一文で、わたしは、此処に同感する。こう言っている。
間違いなく、少なくともこの後十年は、同じような事件が続く。時代の要請だ。そのたびに「僕ら大人」は謝るだけなのか。「僕ら大人」には、それ以前にすることがあるだろう。反省文の提出は、その後だ。と。
同感する、とともに「十年」という直観に関連しては、わたしはちがうことを考えている。「百年」そして「時代の(日本の)自壊」だ、と。世襲社会が世襲し拡幅増殖させている「毒」は、解毒の手段もみつからず悪循環の脚をはやめている。「百年」という余裕をわたしが見たいのは、この若い人よりも心萎えて希望をもっていたいからで、過酷に謂うのではない。「十年」で日本は潰れるかもと予言されているようで、おそろしいのだ。わたし自身は、医者に顔を見せるつど「十年しか生きられませんよ」と言われているから仕方ないが、せめて子供達の孫達の世代を中途で葬られたくないと願ってしまうのだ。「要請」か。時代は、日本はさんな力をもう持ってはいまい。哲学、地を払ってすでに風化し、宗教、それは末期に抱きつく柱をめいめいに幻想しているだけだし、科学、それは例えば携帯メールを巷の黴にしてはびこらせるばかりだし、政治、それは無責任で汚い打算の自己中評論にひとしくなっている。
わずかに望みをかけたいのは、藝術だ。すばらしい繪や彫刻が生まれて欲しい。すばらしい演劇が興って欲しい。すばらしい映画に感動したい。すばらしい音楽に心神を洗われたい。そして……文学のことには口を噤んでおく。
* いま挙げたどのジャンルでも、圧倒的に触れてくる魅力の質とは、一言にして芯の「詩」の魅力だ。美術も映画も演劇も音楽も、根源で詩を奏でたものが勝っている。レオナルドでもセザンヌでもロダンでも。光悦・宗達、華岳・曾太郎でも。来迎図でも百済観音でも。そして「マトリックス1」や「アメリカン・プレジデント」でも、「タイタニック」や「ベン・ハー」でも、「グラン・ブルー」や「冒険者たち」でも。また「橋」でも「グリーンマイル」でも。さらに歌舞伎の「勧進帳」でも能の「羽衣」や「清経」でも、「冬のライオン」でも「野鴨」でも「ワーニャ伯父さん」でも。「アルジャーノンに花束を」でも。そうそう秦建日子の「タクラマカン」ですらも。そしてバッハやモーツアルトやベートーベンに限らず、わたしには美空ひばりの「わたしは街の子」から「愛燦々」「川の流れのように」に到る歌唱も、「夕焼け小焼け」や「この道」なども。
魅力の質は「詩」のファシネーティヴな醇と純に在り、独特の寂しみにおいて心を洗いまた励ます。そして堪え抜く力をくれる。
道に迷っているのではない、わたしは。ただ、しんしんと雪のつもるようにこの時代に生きていることが寂しい。かなり、それを興がっている自分が憎い。だが、まあ、あと十年だと言われるのなら、まあ、なんと今はおもしろおかしい時代であることか。
2003 7・19 22
* 高津の富 先だって、「抜け雀」を米朝さんで聞いて、あ、これが、そぉかぁと。
画廊の女あるじが寄越した、短い挨拶の中に三度も「ぜひ」と書かれた、フレスコ画の個展案内が気になって、御影へ行ってきました。
技法も材料も、こみいったものではなく、その分、不自由、不便なもののようで、‘難しさに挑戦する楽しさ’というような画家の心持を、感じる個展でした。
帰りに、高津神社へ恒富の筆塚を見に寄りましたら、浮かされるようなお囃子が聞こえてきました。夏祭りの真ッ最中。来週はいよいよ天神祭です。 浪速の者
2003 7・19 22
* 深夜三時半。疲れはてて朦朧としている。メールを見てみると、二人から。いいんですか、そんなに夜更かししていて、ご婦人は健康に障りませんか。
よけいなことだ、自分のことを考えたがよかろう、と、反省。
*「闇に言い置く」に転載された「東京の小闇」さんの、「だからだめなんだよ」と、それにつづく先生の「私語」を拝読しているうち、なみだをこぼしていました。
東京の小闇さんの、長崎の事件と同じような事件はあと「十年」はおこりつづけるという考えと、先生の「百年」ということばと、その持つ意味。「時代の (日本の)自壊」に、立ち会わせたくない、いとしい存在――。
さらに、先生のおっしゃる「圧倒的に触れてくる魅力の質とは、一言にして「詩の魅力だ」に、つよく共感しつつ、先生がつぎつぎ、あげてゆかれる〈「詩」の魅力〉ある作品を、ひとつひとつかぞえるように読んでいるうちに、なみだがこぼれてきました。
(死ぬときは)「鴨川の瀬に洗われた石ころを掌に握っていたい」、わたくしには掌に握っていたいものが、ない。なんと、さびしい。
霧になったようです。外の灯りがぼうとやわらかくなりました。 筑波
2003 7・20 22
* 夏休み、ぜひぜひ、お取りなされますよう。
どこかへふらりお出かけになる。校正刷りなどおもちにならず。という夏休みでしたら、どんなによろしいかと、お忙しくしていらっしゃるのを、存じあげる者は、おもいます。
崇徳院は「流され人のうた」という題で書き始めたのですので、あと、一、二回で終らせなければと、おもっています。
待賢門院のことにも触れたいとおもっています。きっと、魅力的なひと、藝術面にすぐれた感覚をおもちだったにちがいありません。皇子三人を見ても、そうおもいます。
法金剛院のお庭は女院の指示でつくられたと、この前、あそこにゆきましたとき知りました。
のこされている青女の瀧が、女院の意向に添った、あるいは、こんなふうのと希望されたものであるとしたら、剛毅なところももっていたおひとかも知れない。
それに何より、『繪巻』の璋子。
お酒は。すぐ、「金時の火事見舞い」になってしまうのがはずかしくて。
いつでしたか、歌舞伎座の夜の部を観るのに、早くゆきすぎて近くの喫茶店に入り、コーヒーを飲んでいましたら、年配のきものをすっきり着こなした女性が、独りでビールを飲んでいました。
その様子のよかったこと。
時間になったので外に出ましたら、そのひとも外に。そして、そのひとも歌舞伎座に。いいな、これからはじまる芝居の場面のあれこれをおもいながら、ビールを飲む。外はまだあかるい――。
いつも、いかにもたのしそうに、おいしそうに、お酒を召し上がっていらっしゃるごようすをうかがいますと、こちらまで、よい気分になります。
と、冷やしてあるワインを飲んで寝ることにいたします。
* 中西進さんから、メールの人のことを、「優秀な人です」と以前に聞いた。氏の教室を聴講していたことでも有ったのだろう。
『繪巻』とは、ま、懐かしいような恥ずかしいような旧作を持ち出してくれて…。待賢門院は史上の醜聞に染め上げられたまさに「美しい人」であった。崇徳・後白河という相闘った兄弟の母であるが、この兄弟の父は一人の鳥羽天皇ではなかったらしい。崇徳院の父は、鳥羽天皇には実の祖父の白河院であったと、史上隠れもなく取りざたされていた。確かなことか、それは言えない。
「美しい人」の醜聞は、わたし一人の思いであれ雪いでみたいと、一連十作ほどの短編を繋いで言葉での「繪巻」にしてみた。豪華本にも造られた。
わたしにそういう動機を与えたのは、一枚の歌留多の繪であった、待賢門院堀川の。仕えた女房であり屈指の歌人であり、西行と親しかった。たしか兵衛という妹もいた。堀川の歌は百人一首に入っていてわたしは子供のころから愛していた。
ながからむこころもしらず黒髪のみだれてけさはものをこそおもへ
その愛していた歌留多の堀川は、見事な立ち姿で瀧のような黒髪をみせて向こうを向いていた。顔は見えなかったが、だからこそそれが女房堀川でありながら待賢門院その人の姿かのように眼にやきつけられた。こんなに「美しい人」を醜聞にまみれさせておいて好いわけがない。で、『繪巻』は書いた。竹西寛子さんとの対談でもこの作品がまず話題になったのを懐かしく記憶している。
「繪巻」の題は源氏物語繪巻にもかかわっている。いま至上の国宝として名の高いあの源氏物語繪巻の誕生に待賢門院はあきらかに深く深く関わっていたと謂えるからであり、おのずとこの小説は、源氏物語繪巻の成立秘話としても書かれている。物思い多い少年の日からもちこしてきた、それは一つのわが執念であり願望であった。
2003 7・21 22
* おはようございます。
曇り空
夏の日差しに抵抗されなくてよい朝になりました。
明け方の眠りをさまし
鳥の声も聞こえない密室
外は雨でも降りそうな、、、
時計をのぞかなければ、
朝ともゆうぐれとも区別のつかない空のいろ
どのような色であっても
わたしの足はもうすぐドアの向こう
どちらの方向に歩き出しても
きっと辿り着く先はひとところ
わたしの足のおだやかに向くひとところ
すでに自らの意思でもない自由さで
強いられたものでもないひとところ
文学館をひとつ
美術館をひとつ
旅の切符を買いにひとところ
* 旅人、旅の人。どんな夢を見ているのか。
* 新日吉の猿を見てきました。 地図とパンフを広げ、ただいま、昨日の京の旅の復習中。
と、タクシーに乗り込むなり、馬町へ、言うと、土用だったからか、「そういえば、あそこに、鰻の絵馬の三島神社っていうのがあるんですよ。ええと、この角の…あれぇ」
マンションになっていて、隣に小さな祠だけ。
新日吉神社と、正林寺を初めて訪ね、お参りしてきました。養源院、法住寺、来迎院などは、もうとっくに時刻を過ぎていましたし、御陵はうんと手前でフェンスが閉まっています。土日祝はそうしているみたいで、遥拝でした。
2003 7・21 22
* 娘夫婦の来訪が一週間のびて、ぽっかりとできた数時間。長梅雨の昼、体を横たえてうとうと眠ってしまいました。突き立った黒いピンを全身からひき抜いて休むときの、心地よいこと・・・・。
生きていれば十年後は六八歳になります。そのときを定年にしたいのです。まだ貯金も少なく会社も人に譲るには小さすぎます。老後の保障がまだできていないのです。六八歳からさらに生きることができれば、十年後に今の母の年齢になります。その十年間を母ほど元気でいられるかどうかわかりませんけれども、海外を旅し、国内を旅し、美しいものを見たり聴いたり、金銭的にも悠々と過ごせたらと思うのです。
フィレンツェ市内にはプチホテルがあり、小さなこぎれいなお部屋が安く借りられます。ドゥオーモの横にあった部屋からは、鐘の音や馬のひずめの音、人々のざわめきが聞こえて、それらを聞きながら、おじ、娘たちと昼寝をした至福の時を思い出します。お二人でいらっしゃるとしたら、プチホテルのほうがよいかと思います。簡素ですがおいしい朝食も出ますし。
娘が滞在している家の大家さん(高校の画の教師ですが)は学生対象の貸室も持っています。ただし食事はつきません。私には一室、本当に簡素なベッド、旧い木の机だけの部屋が用意されていて、ドゥオーモの見える窓には藤が緑の翳りを作っていて、いつもいつも心休まるのです。
ヨーロッパ、特にフィレンツェは時がゆっくり流れていて、いつ行っても変わらないものがあり、日本にいるよりも温かくほっとした思いがすることがあります。
* 海外へ心誘われることが、たまに、有る。しかし、旅行線を延ばすことには関心が無く、落ち着いた都市か街にしばらく滞在し、また帰ってくるというのがいいだろうなと、メールに書いていた、それへ、読者からの示唆である。実現はすまいけれど、昨日も息子は黒いマゴの面倒ならみてやるよと言っていた。あの「打ち合わせ」作家サンののべつまくなしの奔走をみていると、ちょっと安心しては任せられないし。
行くとすればフィレンツェや、もう一度、サン・ペテルスブルクがいい。グルジアのトビリシもとても懐かしい。そうトビリシのようなところに二週間ほどホテル住まいが出来ればいいが、あそこへの飛行機便はややこしかったし、またコーカサスを飛び越えての着陸がおっそろしく凄かった。飛行機が木の葉のように揺れた。
2003 7・21 22
* 海の色 hatakさん
秦家の二階も、今年はあまり暑くないようで何よりですが、農業関係者としては冷害が気になるところです。ごぶさたをしております。
先月末大きな茶の行事を終え、ようやく日常の生活に戻ってきました。
『茶ノ道廃ルベシ』をもう一度読み返したいと思います。中に出てきます「精衛海を埋む」のくだりを。
海といえば今日は海の日ですね。四年前までは、石垣市水泳協会理事長の仕事で、海の日は遠泳大会を開催していました。私が関わったのは二年間で、初年は竹富島からカヤマ島まで、翌年は竹富から小浜島まで、約10KMを一日がかりで泳ぎました。私はバタフライで泳いで、周りのものをあきれさせていましたが、なんだか四年前というより遠い昔の出来事のような気がしています。そのころの写真を一枚添付してみました。地元の人はこの色のみを海の色と言います。
また折を見てメールを致します。どうかお体をおいたわり下さい。 maokat@札幌
* maokat@札幌のメールを、心待ちにしていた。元気そうで嬉しい。海の写真、大きくして眺めた。佳い翡翠のよう。石垣か。ニライカナイという物言いを脳裏にかすめさせ、海の気を深呼吸した。そういえば今日はべつの場所で二度も「われは海の子」の歌声を聞いた。千里寄せ来るのは「潮の気」だとうろ覚えしていたが、歌は「海の気を吸ひてわらべとなりにけり」と歌っていた。
2003 7・21 22
* 卒業(かも知れない) 2003.7.21 小闇@TOKYO
今、目の前にしている岐路へ一歩踏み出せば、それは句点になるかも知れない。そしてそれきり、次の段落を始められないかも知れない。
これまで、すべての卒業は読点であった。卒業式の会場でパイプ椅子に座っていても、時間切れ、以外に何の感慨もなかった。行く先は、とうに決まっていた。高等教育機関であり、会社。自分で決めたこととはいえ、当然の範囲から、まあこのあたりで、と、選んだもの。
そして選んだのが学校や会社だから、行動には結びつかないものの、「嫌ならやめればいい」という選択肢がひとつ手の中にあることが、抱き柱でもある。
その抱き柱のない、突然の卒業宣告に私は戸惑っている。それは谷底に落とされる獅子の子のような。獅子でも子でもないけれど、でも、立ち止まっている。
どうせなら思い切り後ろ向きになろう、と、卒業アルバムを年代順に繰ってみた。小学校六年生の私は生真面目そのもので、中学校三年生の私は生意気そのもの。その先のアルバムからは貌が変わる。
特に大学院の卒業アルバム、間違って二冊買った人から一冊もらったそのアルバムの私は、今とそう変わらず顎を上げ涙袋を際だたせ、そして当時の私にはかなり珍しくあっけらかんと笑っている。
そんなに研究室がイヤで卒業が待ち遠しかったのか、と人ごとのように思い、同級生の写真に目を転じれば、皆、それなりにサワヤカに笑っていた。カメラマンがうまかっただけのことだ。
結局卒業なんて、そんなものなのかも知れない。でもなあ、で、冒頭へ戻る。なんて言っておいて、腹はもう決まっている。そう、そんなもの。
* そう、その通り。慌てずに、アクティブに。
2003 7・21 22
* 庭
細見の展覧会を見て、美術館の茶室で一服したのが一時近く。いつもなら東へ向かうところですが、連休で混んでいると聞いて、近くの蕎麦店で昼食を摂りながら、地図を広げました。
「そうだ、妙心寺へ行こう」。
着いたら、ちょうど法堂の見学時刻で、あれあれと、流れるままに。そのあと、退蔵院の庭を歩き、腰かけて水音を聞きながらしばらく過ごしました。半夏生 (はんげしょう)の白が眩しい等持院で、また、同様に。
蓮が見頃と教えられた法金剛院へ着いたときは、とうに拝観時刻を過ぎていました。
先月の「日曜美術館」で、細見美術館を紹介していたのを、じつは、見ていませんでした。でも予備知識なしでも、選ばれたひとつひとつは、強い力で訴えてきます。さらに、年表や解説を読みながら、最初からもう一度見ていくうちに、コレクターの人となりや心の動きが感じられ、対話しているような、悦びと愉しさが加わりました。
地図を持っていても迷い、辞書で単語の読みも意味も分かったのに、わからなくて、何度もご本を読む私ですが、知識は「体験に付き添うようにして、ややうしろから、深切に伴走して来」てくれる実感でした。
* 羅列された固有名詞は、おおかたの人には印象や記憶を喚起されるモノではないが、ありがたいことに、この親切な読者があたかも私に代わって尋ねまわり巡り歩いてくれる先々が、わたしには目に見えてくる、ありありと。美しく。「そうだ、妙心寺へ行こう」と書いてあると、瞬発、わたしの深い望みが実現したような気がする。
落葉はく音ききてよりしづかなるおもひとなりて甃(いし)ふみゆけり
繪筆とる児らにもの問へば甃のうへに松の葉落つる妙心寺みち
下しめり落葉のみちを仁和寺へ踏めばほろほろ山どりの鳴く
こんな歌をつくりながら西山をあるいていたわたしは、十七歳であった。まさに半世紀が流れ去っていて、しかも眼前にある。「うちのお寺やし、いきましょ」と、退蔵院にもちかい或る塔頭のひとつへ誘われたことも、はるかな昔に、あった。禅寺の庭のあの命の溶けてゆくような深い清寂といったら。
京のかけねなく誇っていい時空は、「自然な趣向」「趣向の自然」を完成した多くの庭、庭園。そして老舗の和菓子。
* 日々アクセク働いている、ボランティアしているわたしにとって、さながらわたしに代わって、行くに行けない京や近江や大和をこう歩いてくれる人は、申し訳ないが、真実有り難い。魔法にかけられたようにわたしは甦る。
2003 7・22 22
* 水を見るのが好きですので、「闇に言い置く」の瀧のお話、おもしろく拝読いたしました。
「裏見の滝」、存じませんでした。以前から瀧の裏側に立ってみたいとおもっていました。ゆけないところではありません。機会をつくってゆくことにいたします。
鬼の出る刻限にはいまだ間のありて橋の裏側の溜めてゐる闇
こんなうたを詠んだことがございます。橋は一條戻橋 「裏見の瀧」は、「恨みの瀧」でしょうか。
2003 7・23 22
* 雨降り・・ 東京も雨でしょうね。七月も下旬というのに、蒸し暑さは感じるものの、 カッとした夏の暑さが南で足踏み。
戒光寺、真如堂,日野法界寺・・・みなあまりに懐かしい思い出につまって泣けてしまいます。学生の頃の真如堂、黒谷への道、そしてベビーバギーに子供を乗せて長い午後の時間を毎日「さまよった」日野や醍醐。
京都に生まれ育った人の、土地への愛着や一歩引いた姿勢とは異なって、「よそ者」に徹して、でもとても強い、執着とさえいえる感情を京都にもちます。故郷以上に 強い牽引力を感じます。ああ、ここが「戻っていく処」だとも。そして日々の現実として、まだ京都は遠い。何故かじっと暮らしております。 兵庫県
2003 7・23 22
* バルセロナの小闇が、やっと「一期一会」のメッセージを送ってきた。バルセロナに帰った、のだ。
* 過日は、お電話・メールをいただきながら、今日までお返事も差し上げず、大変失礼致しました m( _ _ )m
実は、あの日(9日)夕方急遽入院して、昨日退院した次第です。******でした。医学書院にいらしたのでご存じかもしれませんが、別にどうということはない病気の由です。
そんなわけで、お返事が今頃になってしまいました。
9日には、わざわざ土樋キャンパスまでお越しいただき、恐縮するやら嬉しいやらでした。ふだん私がおります泉キャンパスは、市街から1時間ほどのところです。奥様にもお目にかかれるせっかくの機会でしたのに・・・。
ぜひまたいつか、立石寺の蝉の声を聴きにいらしてください。 仙台
2003 7・23 22
* すしや 鴈治郎さん、我當さん、仁左と見てきて、次は、翫雀さんで権太を。雀は胸をふくらませています。
それぞれ工夫をこらすので、いっときも目が離せない上方式。きりりと型美しく、一緒に台詞を言って流れに乗る快感の、江戸前。
「つら上げンかぃ」も好いけれど、菊五郎さんの「つら上げろぃ」を見たくなりました。 囀雀
* ピリッとして、忽ちに舞台が眼の底で動いてくる。上方の「いがみ」で、江戸では音羽屋も成田屋も少しちがった気風で「鮨や」を演じる。どんどんよく鳴る太鼓の成田屋、団十郎の権太が、意外に大味にあわれで良かった記憶がある。菊五郎だと鋭くなる。勘九郎が面白く演りそうなものだが、観たことがない。
2003 7・24 22
* 花火大会 7月26日(土) 秦先生、ごぶさたいたしまして、申し訳ありません。恒例の隅田川花火大会です。いつも通りですが、もしよろしければ、お出かけください。お待ちいたしております。追伸、ご報告したいことたくさんありますが、別便でさせていただきます。
* そうら、来た!! 隅田川花火へのお誘い、望月太左衛さんから、屋上特等席へのお招き。雨、大丈夫かな、例年は梅雨などとくに上がっているのだが。
嬉しい。何をほっぽらかしても、行きたい明後日。
太左衛さんはいつも間際に声を掛けてくるクセで、妻とも、たぶん前日だろうと心待ちにしていたが、一日早かった。ただし、妻の体調がやや落ちている。明後日の夜までに元気になるかな。花火の行きはよいよい、帰りはなかなかたいへんなのである。
* >> 梅若万三郎の「三井寺」も観たいのですが、翌朝二十二日には木曽まで話しに行かねば成らず、前夜の能楽堂に出掛ける余裕は、たぶん、ありません。松濤の観世能 楽堂で自由席ですが、招待券が二枚ありますよ、もしどなたかとおいででしたら送ります。万三郎は能を美しく創るシテの一人と思っています。真夏のこと、そうは混む まいと思います。>>
もし、ご都合がつかず、他に手をあげる方々もいらっしゃらなければ、友人と一緒に喜んで伺わせていただきます。とても上等の鑑賞者とは言えませんが、よいものを観たいと思っています。
夫は幸い緑内障ではありませんでしたが、先生と同じで視野検査を嫌がっています。時間がかかる上に何だかそのときの体調に左右されるおおざっぱな検査に感じられるそうです。検査技師の方はコンピューターでちゃんと正確なものを出せると力説したようですが、理系人間の夫でも、ほんまかいな、というところらしいです。
先日友人が急に眼が見えなくなる瞬間があると、青くなって病院にいきましたところ、老視ですと診断されてがっくりしていました。若くても老化は着実に始まっていることを実感しつつ、私も毎日パソコンの前で何時間も過ごして乱視がすすんだような気がしています。先生もどうかお眼ばかり酷使なさいませんように。 品川
* 佳いものや佳い人に出逢えないのはくやしいものだが、かわりに機会を生かしてくださる人があると、ほっと安堵する。
* 万三郎は 月例の招待券です、少しも気にせず、空いていたらどこへでも厚かましく腰掛けて、すこしでも気持ちよく御覧になってきて下さい。
券は、郵送しますが、費用など全く無用で、心遣い決してしないでください。
三井寺では、つい泣いてしまいます。かわりに泣いてきてとは言いませんが、もし月明が舞台に感じられたら悦んで下さい。万三郎があなたがたのために好演してくれるのを祈ります。
あすは糖尿のために定期診察を受けに行きます。病院よりも、そのあとのことばかり楽しもうとしていていけない患者です。
お大事に。きれいに梅雨が明けるといいのですが。 賢治が、寒い夏はおろおろ歩きと書きそうです。
2003 7・24 22
* 宮城県に強い地震があり被害が拡がっている。地震、恐い。あの松島や仙台が揺れたんだなあと首を縮めながら、気遣っている。
* 天神船 船上では、三味線とお囃子が途切れることなく演奏され、船がすれ違う都度の、大阪〆。おいしいお弁当のあと、冷たい水羊羹が配られ、お酒やビールなど、ふんだんに調えられていました。
浴衣や和服に、揃いの法被。川辺の、また橋の上の人たちに手を振り、あちこちであがる花火に歓声を上げ、ユーモアイッパイの会話にみんなで笑い声を立て。
船のエンジン音と、ビル、高速道路、重機を視界から消したら、 落語で聞く、屋形船の遊びそのまま。風邪もなにも、吹ッ飛び、雀は、まったく元気。
* 難波の天神船に幸い乗せて貰ってご機嫌のメールだが、よほど「涼しい」夏祭りでもあったらしい。
冷夏、地震、政局、犯罪。
2003 7・26 22
* 筑摩書房の中川美智子さんに手紙をもらっていたので、返辞と原稿とを送った。信州馬籠の方からも手紙が来た。演題を送り、交通について問い合わせた。
で、二時。妻にはやや今夜の花火はきついようだ、一人で行くことになる。涼風に吹かれて美しい天をふりあおいでこよう。母親の代わりに息子でも一緒に付き合ってくれるといいのだが、例の打ち合わせ打ち合わせ、と。
2003 7・26 22
* 銀座から地下鉄浅草線に乗り、例年のように花火人気に沸く満員電車で、浅草まで。ことしは、少し少女達の浴衣の感じが落ち着いていた。
たいへんな人出、浅草で路上へ吐き出されて、とっさにどっちがどっちと方角を惑うありさま。それでも仲見世を通り浅草寺に遙拝し、間違えずにめざす所へ辿り着いたのが、折りも良し、七時前。佳い感じに出迎えられて、ビルの屋上に好きな場を選んで、いろいろと振る舞いにあずかった。
日本酒。おでん。漬け物。握り飯。その他いろいろ、みな親切にしてくれて、太左衛さんも気軽に顔を見せては、わたしに、娘の真結ちゃんを紹介したり、なにかと、気を配ってくれ、至極居心地が良かった。
そして花火は、言うことなしの美しさ、豪華さ。八時半まで堪能した。宝生流の東川光夫氏も来ていて、長谷川操さんも。二人とも久しい「湖の本」の読者であるが、長谷川さんとは初対面、男性だと思いこんでいた。楚々とした和服の美しい人であった。
花火の魅力は、言いようがない。あわれの美であろうか、何度も何度もあまりの宜しさに拍手しながら、いつもほろりと寂しかった。妻といつも一緒で、独りきたのは初めて、それもこたえていたが、花火そのものに譬えようもない哀情の美しさがある。江藤淳の自殺した頃に花火を観たのも、その延長上で兄が自殺したような気がするのも、遠い昔でまた昨日のようである。ひとりで、しんとして見上げていると、美しければ美しいほどわたしは寂しい気がしてならなかった。で、奨められるほどに酒を飲んでいた。
太左衛さんは、階下まで見送ってくれた。ありがとう。
花火の後の浅草は人で溢れている。わたしは鶯谷まで歩いて行こうと決めていながら、気が付くと、「米久」の店で特上のすきやきを喰っていた。酒は櫻正宗。うまかった。浅草では此の店によく入る。
言問通りでもう車が拾えたので、鶯谷まで行ったのは覚えている。しかし、次に気が付くと西武線の秋津にいた。降りて保谷へ逆戻りした。
寝過ごしていろんな所へ行ってしまうのは、イヤではない。体験としては新鮮である。酔っぱらったフリして、いやいやホントに酔っているのであるが、妻に電話してくだを巻いてみせるのも面白い。ほとんど相手にされないのも面白い。
* さて、これからは何が何でも、藤村の話にメドを立てて置かねば。
2003 7・26 22
* 今日は朝日子さんの誕生日だったのですね。
昨日が娘の父親の六十歳の誕生日でした。娘に直接別れを告げることもなく、再婚して二人の息子の父となった人。娘には「捨てられた」という思いが残っていて、それはいつまでも大きなしこりになっているようです。相手の家庭の事情で、真ん中の娘が亡くなったときも「香典」が振り込まれているだけでした。下の娘については共通の友人を通じて結婚式の日取りや場所を知らせましたが、一切音沙汰ありません。
父親はほかの家庭を持つと娘を忘れるのでしょうか。私のことを実の父は思ったことはあったのでしょうか・・・。父に私の存在を一時でも思い出してほしかった。娘の父に娘のことを思い出してほしい・・・。朝日子さんがうらやましい思いです。朝日子さん、お父様に似た方なのでしょうね。きっと何か書いていらっしゃることと思います。
昨日は娘夫婦が訪れ、母たちと五人ですきやきをにぎやかにつつきました。お元気でお過ごしくださいますよう。
* お気にかけていただいてうれしいです。祇園祭りのたびに思い出が溢れます。おかげさまで昼夜気を張り詰めて仕事をしておりますので、いたって元気です。楽しみはやはり読書です。なにしろ夜の受付の仕事は不定期で毎月初めにスケジュールを渡されます。昼の三越はこの二か月ほどお中元の繁忙期で、昼夜かけもちは本当にしんどかったです。土曜は夜だけなので昼はあいていますが、家事がたまりにたまっているので泣きたくなることがあります。まるまるの休みは月曜だけですが、振り替え休日の場合は出勤です。
この前雑誌で川本三郎さんの文の中に秦先生のお名前を拝見しました。川本さんは林芙美子について書かれていますが、私も成瀬巳喜男の映画がだいすきで、林ファンになりました。「浮雲」「稲妻」が特にすきです。長くなってしまい失礼致しました。またぜひお便り下さいませ。もし行けたら八月末に京都へ、と考えています。ありがとうございました。
* もう少し前に、日経新聞のサイトレビューで、「日本ペンクラブ電子文芸館」の記事を拝見いたしました。
そのとうりですね。本当に良いことをなさっておられます。ご立派です。せめて私はこれらの名作を一心に読破せねばなりませんのに・・・・羊村さんの句集は一番に拝見いたしましたが・・・・努力いたします。お元気でご活躍のほどを・・・・
* すこし酔って帰ってきました。ごく近所で毎日曜日ジャズを歌うご夫妻と知り合いになり、焼酎をいただきながら聞いてきました。
ちょうど、無性に人を恋しくおもう気分のところでした。秦さんに甘えたメールを送ったら笑われるかも、とちらと思っていたら、メールをいただいていたので、うれしくて。
この数週間でめざましく元気になりました。
健康感を取り戻したいま、いかに自分が参っていたかがわかります。数週間前の自分さえ、今の私からみれば途上にありました。参っているさなかにその自覚がないのは、危険かもしれませんが、私にとっては救いでした。
声をかけてくださること、どれほど有難いことか。どれほど嬉しいことか、いつも胸にあります。ほんとです。
HP、PC上でできたものを、yahooのサーバーにつなぐ作業が残っています。しょうじきにいえば、すこしこわいのです。かざってはいません。かえって、読まれることを思うと、そがれるものがあります。それもウソになりはせぬかと、自分の弱さを振り払おうと。
ごめんなさい、こんなこと。ちょっと酔っているのです。おゆるしください。ひと恋しくて。
* この人、やっと、こういうふうに思いが流れ出るようになった、強張って守っていたものが。元気になってきたのは確かだろう。この人も、いわば「こころ」派の人であるから、その意味では「こころ」に対しては慎重に懐疑的に、少し冷淡に付き合って欲しいなと思う。いつかまた結婚したいと思う人に出逢うだろう。その時までに、少し用心して自身の「こころ」を忘れるていたほうがいい。むしろ「からだ」をいたわり、優しく励まして鍛えておくのがいい。慰め、また鍛えた方がいい。「こころ」に従順な人は「からだ」を傷めてまで「こころ」をふりかざすが、そんな「こころ」のアテにならないことは甚だしいのである。「こころ」派の人で「静かな心」の人のめったにいないことでも、わかる。
2003 7・27 22
* しばらくぶりに「小闇」に揃い踏みしてもらおう。
* 祭りの頃 2003.07.26 小闇@バルセロナ
隅田川の花火を見たことがない。
そもそも、祭りや行事を知らない子供だった。そう言ったものに興味をもつのは、俗物な父親のすること。我が家には、いつの間にかそういった雰囲気があった。
憧れる気持ちのなかったはずはない。祭りの日の、子供たちのひそひそ声。「○○時に、××の前だよ。」最後だけ、聞こえよがしに言い放って別れる彼らには、未知の世界を覗きにゆこうとする大人びた姿と、それを誰かにしゃべっておかずにはいられない子供っぽさが交差していた。祭りで逢うのも遇うのも、学校で会うのとは、「あう」意味が驚くほど違うのを、私なりに感じていた。みんなが持っているものを持たず、みんなの見ているテレビ番組を見ないのが当たり前だった私は、その日も、ひとり取り残された。
果実狩りが流行った時期、新聞の折込広告に、家ではけちをつけた。
「いちご狩りって、食べ放題って言うけど、どうせコンデンスミルクなんかをたっぷり渡して、すぐお腹を張らせるに決まってるのよね。」
「おみやげつき、っていうけど、そんなにたくさん持って帰ったって、冷蔵庫に入りきらないし、悪くするだけよ。」
「大したことない。」 私たちは、そう決め付けることに慣れすぎていた。けれど、ゼロと、ゼロでないものとの間にある隔たりは、決して縮まらない分、むしろ広がってゆくのだろう。他人は大したことない、というものにも、どこか人知れぬ憧れを募らせている自分を私は感じた。
母親との、物理的、経済的距離からかもしれない。ここ数年で、随分「ミーハー」なことをした。ドイツでの苺狩りに始まり、ライン川下り、セーヌ川下り、保津川下り、地域の祭りに屋台の味、、、たとえ一度経験すれば充分なことも、経験することはとても楽しいことを思い知った。私のひねくれ返った心が、それを楽しむのを妨げずに済んだのは、何より驚きであり、嬉しい。
海外から里帰りして、反応を窺いつつ、何気なく話して聞かせれば母はもう昔の母ではなかった。私すら、気づいてあげられなかった。
そう、母だって羨ましかった……。ああ、母が「くだらない」「くだらない」と言っていたのは、「くだらない」実感からではなかった、「くだらない」と言うしかなかったから。節約がすべてだった母は、「くだらない」と云うことで、何もかもぐっと諦めていた違いない。
「苺狩りにでもどこにでも、もっと連れて行ってあげればよかった。あななたちには本当に可哀想なことをした。」
最近の、母の潤んだ口癖に、涙ぐまないでよ、と思う。母はできることをしてくれた…。涙が溢れそうになり、つい、ぶっきらぼうな応えを返す。
* わたしを育ててくれた秦の親たちのことをも、読みながら思い出していた。この小闇も、思えば久しい道を来て、やっとこんな風に書けるようになった。よかったなあと思う。
* 夕涼み 2003.7.27 小闇@東京
大きな鉢を買ってきた。
1メートルを超す観葉植物が二鉢ある。四年目のベンジャミンと、七年目のパキラ。夏はベランダに出し、冬は部屋に入れている。
そのベンジャミンの鉢に、ひびが入った。悲劇は事前に防ぎたい。前に住んでいた街の交差点にある陶器屋へ行き、四千円で鉢を買う。
仕方ないのだが、持ちづらくて、重い。15インチのCRTディスプレイのような大きさと重さ。涼しくても七月、汗が流れる。途中何度か持ち替えて、やっとの思いで部屋へ運び込んだ。
缶ビールのプルトップをあけて一息ついて、ベンジャミンの根元にシャベルを入れる。それまで土の形を保っていた鉢が割れた。割れても、土はこぼれない。根が鉢の形に絡みついていた。
新しい鉢に植え替えたベンジャミンは、まるでサイズの合わないジャケットを着せられた子供。
今度はパキラ。育つがままに任せていたが、枝をいくつか切り落とすことにした。大きな葉の陰で育たない枝を救うのと、横へ横へと広がっている枝葉を縦方向へ誘導するのが目的だ。
このパキラは二年前の冬、死んだように見えた。すべての葉が落ちた。捨てなくては、と思っているうちに春になり、新しい葉がついた。できることなら、これまで通り、好きなようにさせておきたい。が、鉢で育てる以上、これ以上の放任は環境が許さない。四十人学級の担任の気持ち。
切り過ぎ寸前で鋏をおく。さっぱりして、よかったね。
ベランダで涼む彼らが部屋から見えるように、夜になっても、カーテンを開けたままにしておいた。さっきから、川沿いをゆく電車の音に加え、彼方より花火の音が届いている。不意に近くで、打ち上げの音。向かいのビルの窓ガラスに、蒼い光が映った。
* 余裕を持って書いている。書くことでますますこの人は確かな生活者になっている。ベンジャミンやパキラ。その他もろもろの植木鉢とわたしの妻はいつも楽しそうに格闘しているので、書かれている感じがよく分かる。
二人とも、何とはなく、「花火」にふれて書いている。闇をへだててたしかに呼応する挨拶の声がきこえるようだ。
朝日子からも、自然で柔らかな彼女の持ち味であった散文が届くといいのだが。
みんな元気でいて欲しい。
2003 7・27 22
* 夏でしょうか
早朝の私の庭に虹がたちました。
おもいっきり水を撒いたのです
いちめん霧の世界
きりさいて一瞬の光
姿をあらわした夏
暑くなりそうです
きょうもお元気でお過ごしください。
* 朝一番に、鳥の声。季をかなでるメール。むかし、早起きして、露ばんだ朝顔の濃紫や紅い花をみた嬉しさを思い出す。京都では三四日前に梅雨は明けたと、電話で聞いた。 2003 7・29 22
* 「お静か」なのは、一週間くらい前にメールを送ってから、ずっとメールを待っていたのです。
確かに静かな毎日、静か過ぎるほど。
暑さにボッとしていません。この夏は、梅雨明け宣言が出ても、燃えるような暑さの夏がきていませんもの、これでは稲が腐ります・・夏野菜も豊かに生長しません。
明日,知り合いのカナダの人が来て、あさっては京都へ案内することになっています。それまで日ごろサボりがちなさまざまな家事に精出しています。客室がない目下の住まいでは、人が来て泊まってもらうだけでもう大騒動。でもきれいにして迎えたいですから頑張って掃除しました。あとは食料の買出しです。
英語は付け焼刃の勉強をする余裕もないので、必要になりそうな単語だけでもせめて書き出してチェックしようと思っています。
京都を半日案内、さて何処にと思案して、月並みでも清水寺や八坂の塔、三十三間堂あたりかしら? 東寺もいいし。おいしいご飯も食べたいし。
八月になったらほっこり、のんびりしたい。旅も!
* とんでも無い忙しさです、今日はよく寝てくれたので、ママ共々昼寝が出来ました。出産後原因不明の酷い湿疹が出て、病院通いをして薬を飲むので、残念ながら良く出る母乳を飲ませられずに、搾乳して捨てています。もう少しのシンボウ。
一ヶ月検診があったり、暴れん坊の沐浴のこともあり、婆ちゃんは、今少しお手伝いという事になりそうです。
洗濯、授乳、おしめ替え、だっこ、買い物、三食の用意と一日が過ぎて、世の中から隔離された日々です。床上げが過ぎて、やっとママが赤ちゃんをダッコして歩いてあやしながら寝かせられるようになり、一手引き受けだった婆ちゃんは少しラクになりました。
*
カットグラスの花瓶に 初めて生けたのは カサブランカ
ユリは強靭に咲き続けた
次に大きなアザミを飾った
カサブランカもアザミも とても男性的と娘が言った
頭が痛くなるほど力強く誘う匂い・・これは災厄でもある
わたしは小さな悲鳴をあげそうになる
花瓶の水の 小宇宙に 波が生まれ立つ 波が騒ぐ
甘い花々 変貌を遂げるものたち
セロリの匂い 人参の匂い ニンニクの匂い
スープ 早く 仕上がって
だめだめ とことこ ことこと 煮え立って 一晩ねかせて
明日になったら もっと美味しい
オリーヴは植えてから十三年経って実が取れるようになる
頑固なオリーヴ ゴツゴツ節くれだって 不器用に枝を曲げ伸び広がる
柚子は十八年、だから柚子の馬鹿と言われる
柚子は優しい
オリーヴも柚子も 好きだ
夜明けは まだ 感じられない
世界の胎動 確かなピクピク
わたしの中でも共鳴している 共振している
風の船に乗って あなたのところまで 行きたいよ
それからもっと遠いところまで
窓を閉ざす 梅雨前線が南下して 肌寒い空気がやってきた
さりげない言葉で 何を伝えようとしていたのだろう
真率に、ただし人を傷つけることなく
思い切り伝えたいことがあるのに・・
やはり言葉は音声にも文字にもならない・・
人と人との ありようは・・
わたしは 待っている 待ち続けている
退いてしまいそうになる
わたしは確かに 此処にいるのに
あなたの表情は読み取れないし 遠い
月の破片 仮設のテントの下の わたしの人生
寸足らずの恋しさや思考が乾燥しちゃいそう
拭い去ろうとして 拭いきれなかったものが
遂には ああ パラパラと サラサラと 粉になって 吹かれていくか
言い得ないことが この空に跋扈跳梁している わたしを脅迫している
あなたの航跡を辿ろう
あなたはわたしの点景ではないのだから 内部なのだから
ヴァイオリンの表板の音の振動を裏板につたえるために
共鳴箱の内部空間に 魂柱、
なんとそれは昆虫と同じ発音になる・・こんちゅう・・という赤モミの材の
小さな柱・棒が置かれる 魂柱がヴァイオリンの音を決定的に左右する
わたしの心とあなたの心を伝え共鳴交響しあう、そのための魂の柱よ
* 秦さん、ご無沙汰しております。いつも御本を、識語付きで頂きまして、有り難うございます。最近物忘れが多くて、先日変えたばかりのパスワードを忘れてしまい、悪戦苦闘の末アドレスごと変えましたので、お知らせいたします。実は、別のメールのページでいろいろと書いたのですが、これがまたしつこく前の、忘れたパスワードを要求するので、ほとほと疲れてしまいました。
2003 7・29 22
* 本日万三郎「三井寺」招待券を頂戴いたしました。お忙しいなかお送りいただき感激です。今から月明かりを感じて楽しみにしています。ありがとうございました。
明日は母とその友人のおばさまのために、映画「永遠のマリア・カラス」の指定券を買う予定です。素晴らしい映画だそうで、一時間半待ちの長蛇の列と聞いています。いつ聴いてもマリア・カラスの歌は肺腑をえぐる魂の叫びです。椿姫を歌って第二幕で観客を泣かせることのできた唯一のソプラノでした。
映画といえば、先生お気に入りのアネット・ベニングですが、私も大好きです。とくにラクロの『危険な関係』を映画化したもの(邦題を忘れてしまいました)のなかの可愛い悪女ぶりはすこぶる新鮮で魅力がありました。機会がございましたら、是非御覧くださいませ。
* 映画の邦題が分かれば、飛んでいってでもDVDを探したいほど。原作ラクロの「危険な関係」は手に入ると思うけれど。佳い題であるなあ。
名古屋市大の谷口先生が、東工大でわたしの授業を手伝ってくれていた頃、川端研究者として知られた彼女の貸してくれた「山の音」のビデオ、なんだか、今急にあれが、あの原節子の「菊子」が観たくなった。いい映画だった。あれも「危険な関係」であった。山村聡よりもニヒルな上原謙が印象的だった。みんな亡くなって、原節子ひとり、どこかに、静かに隠れ住んでいると聞いているが。
* 早速のお返事有り難うございます。実は秦さんから入っている気がしたので、ラジオ体操の後開いてみました。ADSLにはしました。料金が一定になる手続きもしてあります。問題は私の技術と理解力なのです。メールしか出来ないのも飽きるし、器械がもったいないですから、そのうち講習を受けて、絵を描いたりするようにもなりたいと思っています。なにしろ日々家の雑用に費やす時間が結構ありますので、その辺のことと上手につきあいながらです。
「電子の杖」とは上手い表現ですね。周りには本当の杖をついている人をよく見かけますし、足が不自由な方が多いですね。そうならないように気をつけているつもりですが、「電子の杖」はこれから大いに楽しみたいと思います。
* 「電子の杖」を買い求めた「E-OLD」が日々に増えて行く。うまく付き合えば空飛ぶ絨毯にもなるし、贅沢なただのゲーム遊び器にすぎないまま、飽きられもする。若い人達でなく、老境に入っていく人たちにこそ、パソコンが「謙虚に杖」になって欲しい。学校へ通って、などわたしは奨めない。強いられた技術の知識は、人間が機械に使われてしまう悪しきプレッシャーを生みかねない。機械も傲慢になり人間は卑屈になる。機械に詳しいなど、行き過ぎるとヘンに下卑てしまう。分からないことをタップリ余しながら大人しく付き合っていれば、人それぞれ程の佳いいい友達づきあいが生まれる。大事なのは技術の知識であるより、それとも共に、どう暮らしている、生きている、か、だ。
2003 7・30 22
* 煙雨 乾いてぱりぱりの空気もダメですが、湿気が大の苦手。水になってくれれば、途端に大好きにかわるのですけれどね。
昨夕、我慢できないかのように降り始めた雨は、徐々に激しさを増し、主人は雨音に眠れなかったようです。わたくしは、夜半に窓の際に移動して、その音を子守り唄に、熟睡。
午には上がるという予報でしたが、まだ降りしきっています。神社やみささぎに佇んだり、奈良の南の山峡をひたすら辿ったり、五條辺りを歩きたくなるよう。雨量豊かに降り注ぐ、町は、しずかです。
2003 7・30 22
*映画の話を お元気ですか。秦さんの隅田川の花火をご覧になっていた日、わたしは大学の先輩の結婚披露があり、つくばへ行っていました。そこで誰かに風邪をうつされてしまって、微熱と喉の痛みがありますが、明日には、よくなりそうです。
「アメリカンプレジデント」、わたしも見ました。現在の”アメリカンプレジデント”に見せたい話でしたね。環境問題については、マイケル・ダグラス大統領と正反対のことをしていますからね。
もう前のことですが、レオナルド・ディカプリオという若い俳優が、アメリカの映画関係者に声をかけ、世界の地球環境保護運動に協力するよう、ブッシュ大統領へのアピール集会を行ったと、記事になっていました。素行の悪さばか
り報道されるレオナルド・ディカプリオですが、ちょっと見直しました。あの、気のちがった大統領にもの申すのは、勇気のいることでしょうから。
そして他にも、ネオコンとやらが幅をきかせる中で、戦争反対の発言をした有名人たちを、わたしは尊敬します。ティム・ロビンスにスーザン・サランドン、ショーン・ペン、ダニー・グローバー、ダスティン・ホフマン、シェリル・ク
ロウ・・。彼等は有名であるということに、責務を感じているのかもしれません。
「アメリカンプレジデント」の、アネット・ベニングがはじめてホワイトハウスヘ入る冒頭シーンで、警備の人に向かい、「(大統領たちが)キャプラみたいだといいんだけど」と、眼を輝かせていましたね。イラクに戦争をしかけていたころ、ハリウッドに対し、戦意昂揚映画を作るようにとのお達しが、国からあったと聴きました。アメリカ政府の、映画の影響力を看過していない証拠ともとれますが、だったら、「アメリカンプレジデント」を観たのでしょうか。キャプラの「スミス都へ行く」を、ティム・バートンの「マーズアタック」を観たのでしょうか。
「マーズアタック」は、火星人の地球に襲撃してくるブラックコメディです。ジャック・ニコルソン扮する大統領は、ついに眼の前まで来て銃を向けた火星人たちに、「なぜ殺しあうんだ、なぜ違いを認めてわかりあおうとしない」と諭し
ていました。大統領渾身の演説に、ぽろりと大粒の涙をこぼした火星人は、ですが、直後に大統領を撃ち抜きます。なんという皮肉、そして、なんという批評性。
ああいった映画を作るアメリカと、ブッシュのアメリカ。今、アメリカはバラバラに見えます。
話を変えまして、「羅生門」はわたしも大好きです。高校生のとき、国語の教科書に「薮の中」が載っていたので、先生が授業中にビデオを見せてくれました。
迫力があって、藝術的で、筋まで面白いので、とにかく感心しました。芥川と黒沢明という、素晴らしい藝術家の出逢いだったなと思います。
淀川長治さんが、どこか外国の映画館で「羅生門」を見たときの話を、エッセイに書いていました。観客の中にリー・J・コップという俳優がいて、上映が終わると、「日本ではいつもこんな映画を作っているのか」と驚いた顔をして訊いてきたそうです。きっと、淀川さんは誇らしかったに違いありません。これが日本の映画ですよと、わたしも外国の人に言いたいです。そこで芥川の「薮の中」を読んでいると、映画の展開の意外さを、もっと堪能できるのに、と思います。
「私語の刻」に映画の話が出てくると、うずうずしてしまいます。映画はいいですね。
それでは、またメールします。
* こういうメール、読んでいてうずうずする。淀川長治さんのところが、いい。「淀川さんは誇らしかったに違いありません。これが日本の映画ですよと、わたしも外国の人に言いたいです。」と。ぐっと胸にきた。わたしでも言いたい。
この人の挙げている映画が、およそみな分かり、俳優達もみな分かる。それに驚いている。この人は小説を書いている。アネット・ベニングは「アメリカン・ビューティー」にも出ていたらしい、いま検索して知った。ラクロ原作作品の映画の題が分かると、それもDVDで確かめられるのだが。
* 「アメリカン・ビューティー」のケビン・トレーシー扮する夫の妻キャロリンがアネット・ベニングだった、髪型がかわるだけで、「アメリカン・プレジデント」のあの女性とは、がらりと演技も雰囲気も変えている。流石である。この作品はアカデミー賞最優秀作品賞を得ているが、苦い味の渋い映画である。 DVDを買ってきて観て、このかなりいかれた妻の役なのに、なんで好感を持ってみていたのだろうという不審が解けた気がする。
「危険な関係」についても、親切な情報が二度三度届いた。
2003 7・30 22
* あちこちひっくり返してアネット・ベニングの出演した原作『危険な関係』の映画のカタログを見つけました。
邦題は「恋の掟」です。原題は男性主人公の名をとって「ヴァルモン」監督は「アマデウス」の名匠ミロシュ・フォアマンでした。「危険な関係」はスティーブン・フリアーズ監督がミッシェル・ファイファー、グレン・クロースという豪華キャストでも映画化していますが、こちらの方は私は佳いと思いませんでした。原作が名作であればあるほど、映画は原作を超えられません。忠実に作ろうとして失敗した例だと思います。
「恋の掟」は切り口が面白く、アネット・ベニングは批評家にスパークリング・ビューティーと表現されていましたが、悪女メルトゥイユ侯爵夫人を清潔に溌剌と演じていました。女の魅力的な笑顔がどんなにスゴイ武器になるか、アネット・ベニングに教えられたような記憶がございます。
>> いまでも、帝国ホテル辺を往来されていますか。
帝国ホテルは昼食やお茶などに利用することが多いです。最近は不況のせいか、ゆっくり坐ってしずかに話ができるレストランや喫茶店が本当に少なくなりました。最後の牙城である銀座、有楽町界隈が渋谷や原宿のような子どもの街にならないことをひたすら祈っています。
* 映画という藝術が愛されていることがよくわかる。映画のことに触れると、メールが賑やかになってくる。
わたしは銀座・日比谷・有楽町あたりを、東京ではともあれ大人の落ち着ける街と思い、交通の便もわるくなく、ペンの例会や理事会もあり、親しんできた。この人の云われるように、わたしも、いくらかヒヤヒヤしながら願っている。よく行く店やクラブもこの界隈にほぼ集中している。次いでとなると、一足飛びに浅草をあるいているときわたしは意外に深くくつろいでいる。
2003 7・30 22
* 落ちる砂 新潟県
鬼と、田植えを競った男がいました。負ければ娘をやる約束。山の端に沈む夕日は思いの外早く、思わず彼は、股覗きのまま、夕日に延引を懇願しました。
願いは叶えられましたが、植え終わった瞬間、二つに割れた田に、男は飲み込まれてしまいました。
30年間、ホスピス活動をしているお医者さんが「生命と、いのちは違うような気がする」とおっしゃったのを聞いた日の夜、ふと目覚めて思い出した昔話です。
砂時計。落ちる砂は生命、増えてゆく、いのち。脳細胞の活動が落ちる砂で、下の砂はこころ、かしら。
* しづまれ しづまれ 虫さされ…と、テレビコマーシャルは歌っている。
落ち着けない僧ほど、ヒマラヤににげる。そして街での自分の評判を気にして街を恋いこがれ、心さわぐばかり、と。
2003 7・31 22
* 朝一番の宅急便で、なんと、嬉しい贈り物が届いてビックリした。バグワンの声と姿を入れたビデオ一本。さらに、選り抜きの映画ビデオが五本、どれも未見の垂涎もの。なんという…。
さらに加えて備前の釜で焼かれた大振りなぐい呑み一つ。藤原啓を伯父に持った人の作だという。荒削りに大きい作柄、見込みにすこし自然釉が溜まっている。
なぜ、こんな厚意を受けるのだろう、ありがたい。なにも考えず、ただ、悦んで頂戴する。
同じ便で、早くも湖の本の再校が出揃ってきた。ウーン。これで、ますます日々の時間がズッシリ重くなる。八月はキツーい一月になる、今、速達が藤村記念館から。のっぴきならず事は前へ前へ運ばれて行く。幸い自覚的には健康であるが、血糖値は少し高めに推移している。やれやれ。
* 勝手にお送りしております。お邪魔虫にはならぬよう。どうぞお気遣いなく。
「蒐める」癖がある、ようなないような。ただ、モノは大事にします、そしてリサイクル。
四歳の春、疎開先から東京の青山に住み着いて、燃料の木切れや荒縄を拾う癖が抜けず、東京の若い叔母によく遊んでもらいましたが、私が拾って歩くので赤面したと言っておりました。
備前は古いのが好きですが、焼き物にさほど趣味はありません。美術館で光悦などの名器に放心することはありますが。
叔父の家では、妻君の実家から引き取ったロサンジンの食器で客人をもてなします。主客ともに楽しむ。いいですね。食器は盛ってこそとも思います。大壷にはいまなら荻(荻窪駅に少しあります。多摩川ではそこらじゅうが)とか秋のススキもいいですね。
前の家を引き払うとき(母の転居、家族の転居、私の転居と引越しが同時期に三つ重なり)、右往左往しましたが、古文書や古書などはガレージに並べ町のみなさまに差し上げました。江戸初期の南蛮大壷(かの地では雑器)も差し上げました。
バグワンは深く知りませんが、ビデオをみたファッションに一言あるカミサンはおしゃれだと言ってました。ビデオは最晩年のころ?享年59歳。白髭から年配を感じますが、これも肌が若いとカミさんがポツリ。
木曾をどうぞ存分にお楽しみください。
* わたしに蒐集の趣味はない。手持ちの茶道具の数は多いが、ほとんど叔母の遺品。置いておいても息子建日子に趣味はなく、わたしが眼をあいているうちに処分した方が好いかなあといささか重荷にしている。場所もえらく塞いでいる。
頭の中で蒐集しているとすれば、それは魅力的な海外の映画俳優や女優の「名前」と、ビデオに撮ったその証拠品ぐらい。それと商売柄の辞書・事典が百種類は超えていて、もっともっと欲しい。
そんなことを云いながらも、頂き物だけでも工藝品は、いつ知れず、あっちにもこっちにも沢山溜まっている。陶藝だけでなくガラスや七宝も。繪はときどき買うが、貰ってもいる。亡くなった徳力冨吉郎さんの鮎や、池田良則氏の裸婦や、亡くなった俳優嵯峨善兵さんの祇園新橋図や、メヒコ墨絵の島田政治氏の風景やランプの繪や、少し珍しい手のものも。叔母からきた茶掛けには我が愛蔵作品が幾つもある。契月、五雲、竹喬、印象などの他に、保証の限りでないが宗旦の水仙絵入りの文、江月宗玩梅花絵入りの墨跡、松花堂「蝸殻」二篆字横物など。
ゆうべも妻と話していた、今日明日にも旧暦の七夕という、さる公家もの七夕を詠んだゆったりした歌懐紙の大軸があるのを、今宵は久々に出してきて、ダリの大きなリトグラフに替えてみよう。夕暮れにはまだ間がある、戸外はかっとあかく日差しがして、今夜は星が光るであろう。
* 日射しからりと夏本番。バテないうちに、「安倍晴明と陰陽道展」にいってきます。
龍安寺の蓮が見頃とのこと。
三宅八幡へも。以前いらしたとおっしゃったので、気になって。蓮華寺、崇導神社も参りました。よかったァ! 全くの独り占め。
実相院、圓通寺、下鴨神社と考えていたのですが、この時間なら大原がすいてるというので、三千院へ。
蝉時雨、青葉、夏の風。
みほとけをあれほど間近にして、動けなくなりました。御陵にお参りして、もうもう、心一杯。北の奥の大原勝林院を横目に、ツウッとはるばる東山七条の博物館へ。
村上豊さんと天野喜孝さんの絵を見て、あとは端折り、常設展に心入れたのですが、だめ。アタマにもココロにも入る余地がなかったわ。
* 怨霊としての菅原道真は、かなり忠平系の流したデマの臭いが濃いが、桓武天皇の皇太弟だった早良親王の怨霊は真実凄いモノだった。おそらくは、同じ父光仁天皇の皇太子が、母井上皇后と共に(桓武を担ぎ出そうとする)藤原氏によって大和五条に幽閉され殺されていた前例も、相乗的に懼れを深めたに違いないが、桓武天皇の後半生はまさにすさまじい怨霊時代であった。そのもつとも恐れられた早良皇太子の憤死後におくられたのが、「崇道天皇」の称であり、京都高野川上流三宅八幡のまだ奥に祭られたおそろしげな山陵が「崇導」神社である。それぁ「独り占め」だろうが、このはしゃぎっぷりではお婆さんではあるまい、物騒なことだ。きくだけで、すこし肌が泡立つ。昏い山気が津々として襲いかかってくる。
三千院は、苔の内庭にしずまりいます阿弥陀三尊の美しさ、跪坐して本尊につかえる観音勢至の両脇侍が印象にのこる。そして外の石垣と大並木。梅雨の明けた京都の緑はもうむれるように色濃いことだろう。
2003 8・1 23
* 宿題の多い夏です。 秦先生 **美大で油絵の勉強を続けています。夜間なので時間が短いということもありますが、デッサン・ドローイングにひと月、タブロー2点に四週間ずつ、フレスコ画実習二週間、で、今夏休みです。夏休みといっても絵の課題、学科のレポートなど沢山あって、ゆっくりしている感じではありません。日本画と油画を合わせて造形学科と言っていて、日本画との垣根は低いです。それはいいことだと思ってます。カリキュラムは一部と合同です。
こないだ描いたタブローは散々でした。だいぶ迷っています。エネルギーが足りないのかもしれません。疲れやすく、体調を崩しがちで会社もよく休んでいます。
学期はじめに描いたデッサンと今取り組んでいる風景画のスケッチを、大変恥ずかしいのですが添付しました。お目汚しですけれど…
展覧会は、実はあまり行っていなくて。遡ると、メトロポリタン美術館展(ジャック・ヴィヨンとバルテュスがとても良かったと思いました)、G・リヒター、E.A.T.展、サム・フランシス、舟越桂、北代省三、スタジオ・アッズーロ、、、といった感じです。フリーダ・カーロはまだ観ていません。もっと色々観ないといけませんね。
恋は、、、雲のように掴めぬところのある人に心を寄せて、でも相手は反応があまりなく。そもそもつかまえようとしてはならない気もして。私自身がまず立たなければ、いけないのです。だから、「ちゃんと」恋をしているには程遠いです。
先生のあの小説の中で議論・思索されている事柄は、自分に引き付けて考えられることもあり、とても刺激になりました。音楽については疎くて、あまりよくわからないのですけれど。おっしゃる「主人公の滑り落ちていった落とし穴のようなけわしい岐路」、はまだまだ見極められません。私自身の藝術に対する取り組みがまだまだだからだと思います。
最新の湖の本は、今のところ後半の二つを読みました。どちらも大変刺激的に読みました。四角いキャンバスにはどうも違和感を感じていて、いつかはそれを超越したいと少し考えていたところでしたので、特に。また、哲学の授業の試験で「記号としての藝術」について記述したばかりでしたので、「わかる」ということの罠のようなものを思いました。
球面絵画についてですが、鮫島大輔という人の展示で見たことがあります。
>http://www.japandesign.ne.jp/GALLERY/FUTURE/samejimadaisuke/
私の見たときははカフェのトイレに設置してあったので、あまりじっくり見られず、球面上で絵がどのようにつながっていたのかっきりとは記憶していませんが、なんとも不思議な印象を持ったのを覚えています。ご参考になれば。
* 送られてきたファイルのスケッチとデッサンが、ひとつは堅実につよく、ひとつは大胆に柔らかく、個性的によく把握されていて、感心した。予想していた以上の才能がパソコン上の写真からも感じられる。どうかからだを大切にし、勉強を実らせて欲しい。大企業での昼間の勤務もラクでないはずなのに、夜は美大に通い、まだべつのトライもと身構えている。この人も東工大でわたしの教室にいた卒業生の一人なのである。もうもう、同じ一つの、あの私の教室に固まっていた人達とは思いにくいほど、人それぞれの人生へ展開している。
2003 8・1 23
* 暑くなりました。関東も梅雨明けですね。お仕事進んでいますか? 藤村のことが念頭から去らない・・のではないでしょうか? つつがなくお仕事が済みますように。
いろいろこなさなければならぬことが重なると、意欲や気力、時にため息や焦りもミックスさせて・・あと何日経てばコトは終わっているんだと自分に言い聞かせ聞かせ行動します。時間の流れに自分を委ねます。
31日、久しぶりに、お定まりのような「京都観光案内」をました。東寺、西本願寺、清水寺、八坂神社、竜安寺、金閣寺。タクシーで効率よく廻ったとは言っても・・疲れました。
雲が切れると途端に強い陽射し。西本願寺や、竜安寺の蓮の花が印象的でした。竜安寺は本当にご無沙汰でした。外人が多く、縁側に坐ってみな長い時間庭を見ながら過ごしました。清水の緑濃い山も。奥の院の仏様、二百四十年ぶりにお姿を拝めます。
家に帰ったあとはさすがに足が痛く、,殊に膝の関節が・・なんて書くと、お年だねと言われてしまうかしら? 六道参りも五条坂の陶器市も大文字送り火も行きたいけれど、八月の京都は・・いささか躊躇してしまいそう。
夏を乗り切りましょう。お体くれぐれも大切に。
* ご苦労なことで、京都案内にもメニュが多すぎる気はするが、外国からの来客には、サービスは精いっぱいがやはり好いのかもしれない。
この暑い夏に手術するという気の毒な人も二人また三人とある。だれもだれもご無事ですように。
嫁いだ先で孫が生まれ、もう一月ちかく産婦と孫との面倒見に出向いて、つきっきりという、「婆バカ」に陶酔しながら疲労している人もいる。ご当人は「ナミの婆」の当然の仕事と胸を張っている。絵に描いたような母娘縦型。お幸せで羨ましいと云っておくか。 2003 8・2 23
* 黒体放射 2003.8.2 小闇@TOKYO
ものを見るには光が要る。赤いものが赤く見えるのは、赤い光だけを反射し、それ以外の光を吸収しているからだ。白く見えるのは、可視の範囲の光をほとんど反射しているからで、黒く見えるのは何も反射しないから。
すべての波長を吸収し得、そして発し得る理想の物体を、黒体と呼ぶ。
発し得る、には補足が必要だろう。我々は大半のものを、外光による反射で見ている。しかし、すべての物体は、常温で自ら光を発してもいる。見えないだけだ。光つまり電磁波のうち、目に見える範囲はとても狭い。その範囲から外れた不可視の光を、発している。
その見えない光を放つ物体の温度が上がると、光の波長は短くなる。低温では遠赤外線を発していた物体が、温度が上がれば赤から橙、黄、緑、青、藍そして紫と色を変える。これを、黒体放射と呼ぶ。
間違っていたら、すみません。
毎日、何かを読んでいる。話を聞いている。学んでいる。そして考えている。その軌跡を形にしたい。そう思った。
形にするには、それを続けるには才能が必要で、私にはそれが欠けていると思っていた。信じ込んでいた。けれど才能でそれを続けるように見えたひとが、重圧の下で、いや努力の下で続けていることを知った。2002年、夏のことだ。
光っているのなら、ちょっと、可視光に。見える光を放てるように、やってみよう。
あれから一年になろうとしている。
* こういう、短いと云えば短いけれど、力も意欲もなければとてもこう長くは書けないのが、まとまりのある「短文」で、へたすればタダの日記文になる。わたしの書いているような書き流しになる。
一日一日取り組んで休むことなく、この人は、三百日三百篇をとうに超えて、しかも一日一回も欠かさず休まず書き続けた。
その全部を、あるいは選抜したものを、ひっくるめた表題にするのに、これはじつに佳い題名ではあるまいか。「黒体放射」とは。こんなの、わたしが逆立ちしても出てこない。「小闇」の生活と勉強から噴き出てきた学術用語だ、佳いではないか。
人一倍忙しい職場にいて、家庭にもいて、「一期一日」を活かしきった成果が、とにかくも眼前に在る。出来そうで出来ないのは、「毎日」ということ。「続ける」ことの苦しさや難しさを、わたしもやはりこの人の今の年頃に、噛みしめるように日々堪えていた。
続けることは容易でない。一年も、纏まって体を成した短文を書き続けるのは、よほどの人でもなかなかできっこない。見返りの何もない無償の行為なのである、だが、酬われてはいると思う。この人も今は気付くまいが、いつか気付くだろう。よくやった。
2003 8・2 23
* 中学・高校の頃の友人で、「湖の本」を久しく支援してくれている、その夫人から、時折、メールをもらう。メールでなく「作品」も来て、感心することもある。
今夜も、かなり長い「実話」というものがメールに添えて送られてきた。京都大学のころの仲間内の再会などが書かれている、のかも知れない、長いのでまだトバグチをちらりと見ただけだが、「電子メール」というものが機縁として働いているように思われる。
* 電子メールは、なみの郵便の手紙・ハガキとかなり性質の異なるもので、慣れれば慣れるほど、特殊な性質に利用者自身が「おどろいて」いることがある。手書きのハガキや郵便では決して書かないことが書けるし、ふつう書くようなことが平気で省けたりする。
わたしは、メール往来の繁多な特定例は、我ながら気をつけ意識してフォローしているが、不思議な「虚実皮膜の間」にスパークする火花のような創作性を感じていることがある。虚でもなく実でもなく、しかし現実に推移して「ドラマ」が成ってゆく、とでもいえるのだろうか。わたしが若ければ、嬉しがって小説にも物語にでも仕立てたがるであろうが、そういう動機には流石に動かされない。ただ、静かに眺めているに過ぎない。
2003 8・3 23
* 小闇@TOKYO のエッセイ集『黒体放射』の全体を、総目次つき十ファイル分、入手した。ぜんぶ、私の作業場である「一太郎lite」に取り込んだ。
試みに「黒体放射」という語を検索すると、優に六百以上の厳格な学術的ファイルが上がってくる。三四読んでみて、畏怖して引き下がった。
小闇の『黒体放射』は、まだ単に執筆順にならべて保存しただけの形で、いくらか選抜し割愛も有るのかも知れないが、組み体裁にも何のはからいも加わっていないらしい。たぶん文章表現も書いたままであろう、このままでは「読者」は取り付きにくかろう。どういう体裁がいいか、編集してみるしかない。少しずつ「e-文庫・湖(umi)」にまず取り込んでゆく。ま、わたしの学生がわたしから「卒業」して行く、この人が一番手ということになる。
2003 8・3 23
* 藤江もと子さんの実録「灰色の家」を読み始めたらやめられず、それでも四分の一くらいか、面白く読み進んだ。この人は、夫もともども京都大学の理系で学んだ人で、すでに「e-文庫・湖(umi)」自分史のスケッチに、「新宮川町五条」という佳い述懐を発表している。夫君と同年、つまりわたしとも同年で、京都市の、いわば同じ地域で育っている。この新作は、大学時代の仲間達とひさびさの親睦会がもたれようとし実現してゆくところから始まっていて、さすがに理系、ほぼ漏れなくパソコンの使用には渋滞がない。話が気分良く展開しながら、また別の方面へ展開して行くらしいので、自然に引っ張って行かれる。
「e-文庫・湖(umi)」の書き手では、東京の藤江さんも、もう一世代若い姫路の高木冨子さんも、同じ京都大学を出た優れて知的な書き手である。高木さんとは、もうどれほどの昔になるか、たまたま上京されたとき、あわや見失いそうに池袋の雑踏で一度出逢ったことがあるが、もっと個人的にも親しい近い間柄でありながら、わたしはまだ藤江君の夫人と初対面すら果たしていない。しかし、メールを通じて敬愛・親愛の念を絶やさずもっている。この「灰色の家」を、良い形で、早く「e-文庫・湖(umi)」に収録したい。
わたしの東工大卒業生諸君とは、時代もうんと異なっているし、学生気質も違っていよう。同じ理系でも、京大と東工大のちがいは歴然とある。日々に若い、まさに若い「小闇」の「闇に言い置く」私語を読んでいて、いま藤江夫人の文章に接していると、またこれ一興というもの。「灰色の家」というのも、好題である。
2003 8・4 23
* 白樺や、落葉松の林の中で、涼んできました。
明日、たくさんの本がとどきます。その中に、彼の地についてまっさきにみつけたおもしろそうな本。たぶんいままでのわたしなら手にとることのなかった本が一冊。
大きくて、重たくて困ったので、やはり、なじみの本屋さんに送ってもらうことにしました。
泉鏡花。金沢の写真までたくさん映っていて懐かしい。犀川の辺、流し雛の碑までのっていて、鏡花の訳の美しい文があったので、買いました。 千葉県
* 学研版『泉鏡花』のことか、大判なりに綺麗に出来た本である。「高野聖」「歌行燈」という二大名作にかなり深切に注を付け、巻頭には、初期の佳作で好きな「龍潭譚」を口語訳した一冊。
2003 8・4 23
* 朝いちばんに、佳いメールが。さらりと、しかし少しも飾らずに書かれている。これが出来ないのだ、なかなか。ピカソのケルニカ、井上ひさし作「あくる朝の蝉」などに適切に触れてあり、こういうメール一つで、的確に一人の女性像が立ってくる。少しも甘えたところがない。妻として母として女として、みずみずしい。知性というものか。
*「灰色の家」を早速「e-文庫・湖(umi)」に加えて頂き、驚き、感謝しています。メールの引用部分と地の文をどう区別すればよいかと悩んでいました。文字のポイントを落としていただき、そういう手があったのだと勉強しました。
>>灰色の家 おもしろく読みました。生き生きしていました。気の乗っているぶん筆が走ったりもしていますが、瑕瑾としておきましょう、ゆっくり読み返してみて下さい。メールの往来はポイントを一つさげ、めりはりを付けてみました。>>
拙い文章を早速に読んでいただき有難う御座います。思いもかけぬ事の展開に私自身が混乱していたとき、書き留めてみようと背中を押されたのは、秦様の一言ではあるのですが、書いている中にそれによって自分の中が整理されても来て、後半部分はどんな結末が来るのか自分でわからぬまま同時進行で、忘れないうちにと、書いていました。気持ちが昇華されるより先に筆が進み、それ故に、お恥ずかしい。
もう何もかも秦様はお見通しだろうな、と思います。
書いたら、やっぱりとにかく秦さんに読んで貰おう。笑ってもらおうと。
そうすることで、自分の胸の内を鎮めよう、まあそんな所だったと思います。
絵で謂うなら面白いモチーフに出会ってとにかく一気呵成に書き上げたもの、時間を置いて、落ち着いて読み返してみます。
>>春愁に似て非ならずよ老愁も 湖
>>一抹の哀情掬すべきあり、と。
そういう雰囲気が伝わっているとすれば、目的は達しているかと、うれしいです。
この前のメールではあまりに長くなるので書かなかったのですが、先にお送りいただいた湖の本の、{繪の前で–「みる」と「わかる」と}—私がずっと考えてきたことで、秦様のお説にうなずき、うなずき、読みました。
ある繪の前で立ちすくむ……その様な幸せな経験を私もして、私なりに繪は「わからねばならない」などと言う思いから開放されました。
その繪はピカソのゲルニカです。
1967~68年にかけて私達家族はアメリカ西岸(サンノゼ)に居たのですが、夫の東部への出張にくっついて、まだ5才の長男を伴って私も急にボストンやニューヨークへ行くことにしました。夫は仕事があるので別行動。
息子とセントラルパークで遊んでいるばかりではつまらないので、近くの近代美術館に入りました、まったく何の準備も心構えもなく。
子供の頃油絵を習っていたので、先生の家には「みずえ」等置いてあって、ピカソ・マチスが如何なるものかくらいは知ってはいたものの、まあその程度、私はピカソよりはマチスの美しい色がひいきでした。
部屋を順に見てゆくうちに、とある繪の前で私は釘付けになりました。
雷に打たれたように感動しました。こんなことがあるのかと、おどろきました。
誰の繪—ピカソ。ピカソってこんなに素晴らしいのだ。
それから何年も経って、ゲルニカが祖国スペインに返還されるとかいうニュースで、その繪を見て、あっと驚きました。あれがゲルニカだったのだと。
何の予断もなく、防弾ガラスに隔てられることもなく、あの繪に出会えた幸運を今も私は感謝しています。
秦さんの講演記録を読んで、この事を私は思い出しました。
今もう一度油絵を描いています。下手は下手なりに、モデルにしたものを通して私が伝えたいものが描かれている、そんな絵が描けるようにと努力中です。
もう一つは、「私語の刻」にあった井上ひさし作品「あしたの朝の蝉」のことです。
知的障害のある人は「施設」で暮らすもの、というのが主流だった10年以上前に、私は「それはおかしいのではないか」と惑っていました。
その頃偶然出会ったのが、あの小説です。
冒頭に、どんなによくしてもらっても、他に家族と暮らせる方途があるならば、ここ(施設)は一日たりともがまんできないところ(少し違っているかも)とあって、私はそれこそ「目からうろこ」が落ちました。やっぱりそうなのだと。
そこで「何でも施設、は変なのではないか」という発言を、さるところでしたのが縁で「愛護」(現AIGO)という雑誌から「私が子供を施設に入れない理由」のタイトルで原稿を書くようにとの依頼がきました。おっちょこちょいの私は「はい、はい」と引き受けたものの、見本として送られてきた雑誌を見たら、これはまあ、全国の”施設対象の雑誌”ではありませんか!
さすがの”言いたいこと言い”の私も縮み上がりました。
考え、考えた末に、井上作品の冒頭部分を引用させてもらって原稿を書きました。
幸いこの原稿は好評でしたし、今や国を挙げて脱施設の時代となり感慨深いです。
私の大好きな、思い出深い井上作品です。 2003/8/5 杉並区
* こういう人も。
* 急に暑くなりましたが、御元気でしょうか。
先日からご連絡をいただきながら、まだ対応できずすみません。8月は、私の市民活動の大切な時で、平和の行事への参加、女性の人権についての活動、海外へのナガサキからのメッセージの発行などに追われています。もう少しお待ち下さいますようお願い致します。
原爆の作品は、なかなか出版してもらえず、自費出版になることが多く、いかにページ数や、挿し絵を少なくして費用の負担を軽減するかいつも悩まされます。その中でどうしたらより気持ちが伝わるか考えます。ネームバリュウのあるかたでも「平和、戦争」に関する本を出されている方は苦労なさっています。よろしくお願い致します。
* さもあらんと思う。飛び続けていないと落ちてしまう。不条理の蠅のようにでも人は生きて飛んでいなくてはならないかのようにカミュの「シジフォスの神話」で読んだのは、同じ人の「異邦人」や「ペスト」を耽読した学生時代であった、まだ高校三年生ころであったろうか。
次のは、昨深夜に。
* 長梅雨が明けてやっと夏になりました。湿気の体にまとわりつき、体の芯までカビの生えそうだった日々よりは、焼けるような夏のほうが好きです。「ペン電子文藝館」をたずねてみると、ずいぶんとリニューアルされたことに気づきました。
原民喜「廃墟から」を読みました。原爆の体験が、感傷的にではなく淡々と語られていました。「自分史」少しずつ手を入れています。私の戦後史でもあります。二人の「父」にも触れながら書き進めていきたいです。
重症の「黒ピン依存症」から少しずつ回復したいと思っています。「しなければならないこと」など実はほんの少しだけなのかもしれませんものね。
でも、明日も六時に「起きなければなりません」。そのためにはそろそろ「寝なくてはなりません」。この時間の制約さえなくなれば、どんなにか楽になるのでしょうけれども・・・。
悠々自適 マイペースの毎日、本当にうらやましいと思います。飲みすぎに気をつけられ、お元気に夏を過ごされますように。
2003 8・5 23
* 檜垣本 夕方、真っ暗にかき曇り、雷鼓。夜更けまで豪雨降り募る七夕でした。
前夜、天頂に輝く夏の大三角形と、少し離れて照る月を、吉野で眺めておりました。念願の、能「船弁慶」を、前シテ観世榮夫、後シテ大槻文蔵、ワキ福王茂十郎、アイ石田幸雄で観てまいりました。
榮夫さんのおみ足が、気がかり。この日がお誕生日とのこと。76才…って、同じ干支ですわ。
開演前、八幡神社へお参りしてきましたが、檜垣本猿楽座は観世座と古くから関係があり、笛や太鼓の名人も出ているそうですね。
下市 狂言は万作さんの「佐渡狐」でした。今も、あの差別感覚は同じですね。ニュースで、今だに、奈良や長野、岐阜など「海のない」と、形容詞がついて呼ばれることにも、嘆息します。
ところで、檜垣本のお隣は下市。
「小金吾も権太も悲し秋芝居」村上元三
駅前の商店街で、吉野の地酒を買い、権太のお墓を訪ね、釣瓶鮨屋「弥助」へ。鮎鮨と地酒。どちらも、おいしかったですよ。 囀雀
2003 8・5 23
* 言い換え 暮色迫り、ひっきりなし、台風の報らせ。昨日も雷雨でした。明日は立秋。日が落ち、雲も去って、墨色へと変わった空からは、半月が、まっすぐ伸びた青い稲穂に、美しい光を投げかけていました。
毎日の夕立にようよう息をつく塩梅。
お役所仕事の「外来語の言い換え案」に、ちっちゃい頭は、よれよれ。外来語か、和製英語かもわからないうえに、言い換えた日本語も、むずかしくて、わからないの。
「あんだってェ?」
こめかみに膏薬を貼ったおばあさんになった気分です。
* 同感。
* ナマケモノ 草むしりに夢中で熱中症になった、畑で倒れていたというニュースが続き、昨日は、名古屋で、ドライウ゛ァーが低血糖の発作を起こし、大きな事故になりました。
ありあわせの食品や雑誌を実家へ送り、「働き者でなくていいから、体大事に、二人で元気でいてね」と手紙を添えました。
偶然に、同日、穫れたての野菜が送られてきて、「親戚で評判の、働き者の人が、脳内出血起こして、気を付けなくちゃって言ってたとこよぉ」と母。
秦さんも、くれぐれも、ご無理なさらず、熱中し過ぎず、どうぞなによりおからだお大事に。
* いや、まったく。と云いながら、凸版との打ち合わせで、明日が一つ山場とほぼきまったので、それならばと今日午後は、もう一度念校用のゲラ一束を鞄に入れて涼しそうな所へ出かけ、読める限りを読んできた。そして日比谷で、鮨を食ってきた。「福助」が時分どきで待ち人多く、少し品下がるもう一軒の鮨やで食べた。むかしなら「きよ田」が近くて贅沢したところだが。あの主人は、病癒えて元気になったろうか。「きよ田」も「こつるぎ」も主人の病気で廃業した。二軒ともとびきりいい鮨を食べさせたのに。
2003 8・7 23
* 炎暑が続きます。昨夕、ラジオから流れてきた古いボサノバに息をつき、夜は、雨音に。
熱を冷まし、大地も大気も、しとど潤し、未明まで。空に残っている夏を、すべて地上へ落とすかのような、激しい雨でした。
おひるどき、さびしいとも、なつかしいとも思われる匂いが、どこからか、漂ってきます。温め直しのおみおつけ。ぺしゃんこに漬かった野菜。白いごはんだけはたっぷりあった、郷里のおひる。ほしがれひをやくにおひがする…
* 詩のようなメール。書き写しておくと、当地との距離は大きいにせよ「日本」の自然が目に見えてくるし、暮らしのにおいも。
2003 8・7 23
* 今日の、いえ、昨日の「闇」に置かれたことばに、なつかしい名がありました。
>>亡き父をこの夜はおもふ話すほどのことなけれど酒など共にのみたし
の作者井上正一でございます。20年ほどのつきあいは、1985年、彼の不幸な死で終ってしまいました。45歳でした。
さびしがりやで毒舌家で。師木俣修に「うたをつくるために生まれて来た男」と言われたひとでした。
一夜、彼と歌仙を巻いたことがありました。こちらが、うんうん苦吟してやっとつけると、すぐつぎの句を投げて寄越す。それがきらきらした句なので、こちらは本当にくるしくなって。ひどい目にあいました。
いつでしたか、先生がお寺でひるねをなさったこと、書いておいででしたね。正一もそうでした。曼殊院でも円通寺でもお廊下にながながと伸びて寝てしまう。どこのお寺でしたか、血天井のあるお寺でも。
「死なれた」とおもいました。
供ふると境内のむくげ手折りつつこゑあげてわらふ泣けさうになりて
あのこゑであのせきこむやうな早口でにくらしいことを言つてよもう一度
君の家より見ゆる川の名森の名を知りたり君を墓に訪ひ来て
亡くなって半年ほどして四国の彼のお墓をたずねました。
久しぶりに正一の歌集を読むことにいたします。 つくば市
* 連歌や俳諧でいう匂い附けのように話題がうねってゆく、時に、そのようにこの「闇に言い置く」ことばが、大きな呼吸をしてくれる。わたし一人では紡ぎ出せない「ことば」の連鎖が、思い寄らない場面転換を遂げて行く、それを、わたしはいつも夢見ている。多くの人達のおりおりのメールを精選し、あえてわがもののように此処へ連ねているのは、この「私語の刻」がそのまま歌仙を巻いたりするのと通い合う景色を得たいが為である。
2003 8・9 23
* テラスから 2003.08.08 小闇@バルセロナ
痛いほど鋭い太陽を知ったのは、五年前の夏。
ガラスを突き刺されたような衝撃に、思わず振り返った。ここは太陽の国スペイン。午後七時、斜め向かいの建物に進路を定めた西日は、思いがけない白壁の反撃に、気違ったような黄色い怒りを散らす。これほど暴力的な陽光は、ここでも久しぶりかもしれない。一体、どこで見たのだろう。手で庇を作りながら考えれば、あれは、真夏の海だと思い至る。
「今年は異常な暑さよ。」
毎年聞かされるお馴染みの挨拶に、私も、今年は相槌を打っている。
エアコンが飛ぶように売れ、街の暑さに拍車をかける。我が家ではまだエアコンを使っていない。良過ぎるほどよい風通しに、きっと、この小さなテラスの植物たちのせい。
ベンジャミンにアスパラゲラ。我がテラスの古株で、この夏、驚くほど成長した。顔色を見れば健康状態が分かるのは、みな同じなんだと思う。つややかに繁った葉をなでながら、今年は剪定の甲斐がありそう、とほくそ笑む。どれを散髪してやろう。いつも鋏を手に、庭を歩き回っていた母の影響だろうか。
ゼラニウムはもうない。アフリカから北上した害虫、天敵のいない彼らは、食べ尽くすことしか知らなかった。
アイビーは陽に焼け、ラベンダーは盛りを過ぎようとしている。
市役所から送られてきた種を、何とも分からず蒔けば、育ったのはオシロイバナ。あんなに身近にあったのに、夕方からしか花を開かないことに、今の今まで気づかなかった。やはり、私には観察眼が欠けている。あまり好きになれず、病気を理由に切り捨てたが、またにょきにょきと新しい芽を出してきた。その勢いある成長ぶりがおかしくて、今は放ってある。
期待の星はブーゲンビリア。初夏に買ってきた二種類の苗は、ぐんぐん枝を伸ばしている。とある日、隣り合わした二本の枝の葉が、集中的に食べられた。それ以来、その二本の枝はぴたりと成長を止めている。栄養を補強、回復に回しているのか、どうせ食べられるなら伸びても無駄と思っているのか。
南部風鈴が響けば、今日も夏だと思う。
* バルセロナの灼光をあびて風を鳴らす、南部の風鈴、聞こえてくるようだ。
2003 8・9 23
* 吹き降りの中、舞の稽古にゆきました。「松風」──。
『源氏物語』の「野分」のお話、よい折りに、あらためて再読、再々読のひとつ、なつかしく。
あの夕霧は、紫の上を見てしまった翌朝、祖母大宮のご返事を伝えるために、もう一度、六条院を訪い、まだ臥所にいる父光源氏が妻紫の上に何かささやいているのを聞いています。そして、父が、御方々の野分見舞いの供をして、娘と世には知られた玉鬘にたわぶれかかる父をも垣間見てしまう――。さぞや衝撃を受けたことでしょう。
野分という、人の心を妙にさわがす自然現象と夕霧の目とを通して、読者に見せてくれていた、くさぐさ。
先生の「野分」から、そんなことまで想われれたことでございました。のちには「御法」の巻で、息絶えた紫の上を、夕霧の目から隠すことも忘れて、じっと愛するひとの死に顔に見入っていた源氏も、思い出されました。
* このような感応を、はてもなく豊かに与えてくれる土壌としての、源氏物語。漫画で筋書きだけ知ってみても、とても源氏物語はよんだことにならない。たとえば「きよら」と「きよげ」という二つの語彙が、いかに精微に精妙につかいわけられているか、それは漫画では絶対に感得できない。文学はことばの秘儀である。
2003 8・10 23
* 急な山肌を上る、寺の細い参道。山窪の百地丹波守城跡へ向かう、昼なお暗く。どちらも、台風でかなり荒れていました。沿った流れは、水嵩増し、音高く、一族の墓地やお寺に、田舎へ越した最初の夏、土地の子たちに囃された肝試しを思い出しました。
でも、高徳寺からの大パノラマは、そらもう、お見事!
比自岐神社と神戸神社へも参りましたが、瞬間最大風速50m/秒以上だった5年前の台風に、鎮守の森もお社も傷んだそうです。木は戻りませんから、伊賀の神社を訪ねるたび、その爪痕がわかります。
2003 8・10 23
* 止ンダヨ、上ガッタヨ、台風ハ行ッテシマッタヨ。
一斉に雀が囀り、蝉が鳴き始めました。
雑貨屋で、陳列台のアクセサリーを直していた女のコが、「夏が終わっちゃう」。
山道を駆けおりる感覚。
宮崎アニメのように、カッコ良く浮いたり飛んだりできないから、足元を見て、手摺を掴み、夏の下り道をトロット。
上がる気温にふぅふぅ言いながら、絵に描いたような青空と、入道雲に、見惚れました。
昨日もまた、夕立。
そちらもさぞ暑かったことでしょうね。くれぐれもご自愛のほど。 囀雀
* 稀に見る雨台風で、各地、被害が大きかった。進路からは逸れたものの東京でもよく降って、やんだあとは、この暑さ。
作業は気を入れて進め、遅れ遅れてはいるけれど、三分の一ほどまで。この暑さと日照りでは外出の気もせず、クーラーの部屋でからだはラクをしている。呻くほど痛かったふくらはぎの攣縮も、二日ほど長い靴下で温め湯でも温めて、ようやく元へ戻った。
2003 8・11 23
* 感想・黒体放射 「黒体放射」という作品名に惹かれて、早速に読ませていただきました。
私は以前に小闇@さんが東工大の学生さんだったらしいと知った時点で、何となく男だと思っていました。今回、「佐和雪子さん」と知って、全く、私としたことが……と苦笑しています。でも、”オンナコワイ”の項まで来て、何かわかった気がしました。
オトコの中にオンナが一人だと、自分は見えないから違和感がない、という感覚、そのようにして自分の居場所を作っていた「昔」を、とっても懐かしく思い出しました。いまだに、そういうところがあります。オンナばかりって苦手です。普通のおばさん生活をしてるのでそれなりに上手にやってはいますが。
”Party is over”……まだまだ、途中なのではないかなあ、などと感じながら、今回掲載文を一気に読みました。
私の娘がちょうど「小闇さん」くらいの年令で、この間まで家電メーカーに勤め、似たような暮らしをしていたので、娘の話を聞く気分のところもありました。佐和さんは今丁度私の半分、私は30才過ぎてから人生の大転回を迎えて以来サイコロのように転がされて、思いもがけぬ体験をし続けています。だけれども、私は私で居たい。
黒体放射、素敵なタイトルですね。続きを楽しんでいます。
2003/8/11 藤江もと子
追伸 台風といえば私は枕草子の”野分たちたるあと”を思い出します。そして台風の翌日の、京都出町界隈、御所のあたりを。9日の台風の後は、私は東久留米で180度の二重の虹を見ました。
* 反応してもらえるだろうと、予想していたとおりにその人のメールが届いた。「e-文庫・湖(umi)」に「灰色の家」をほろ苦くあまく書いている、佐和さんと似た理系の環境で大学生活を送った大先輩格。わたしとほぼ同年。「”Party is over”……まだまだ、途中なのではないかなあ」という感想は、「灰色の家」からも出ている。「黒体放射」なんて題にピンととびつける人である、わたしなど、最初は「小闇」の、口から出任せかと思ったものだ。藤江さんに、感謝。「黒体放射」は、第一章に続いて、第二章も掲載した。「何となく男だと思っていました。今回、佐和雪子さんと知って」とあるのは、佐和さんのためには或る意味のプラスではあれ、またかなりの重荷も背負うだろう。すくなくも「のだ」という語尾は円くしたらどうか。「のだ」が成功する例はほんとうに少ないのが、普通。
2003 8・11 23
* 青山学院大学の元学長をつとめられた内藤昭一さんから、今年も、すばらしい桃を十あまり頂戴した。湖の本をお送りしている。梅若万三郎がまだ万紀夫だった昔から、能楽堂でときおりお目にかかる。万紀夫の長男紀長の結婚披露宴では、おなじテーブルに着いていた。温厚な長者である。
もう十余年も逢えないでいる娘朝日子の夫、孫やす香、みゆ希の父は、筑波での技官生活から、ようやく青山で念願の教職につくことが出来たと聞いている。内藤さんが学長のころであった。
2003 8・12 23
* ヘンな天候ですがお変わりございませんか。
残暑お見舞いというより梅雨の続くお見舞いを申し上げたいような天候ですね。
あまりお煩わせしては・・・と、少し遠慮していたのですが、7月上旬の「私語の刻」を拝見して、どうしても一言御礼を申し上げたくなりました。
保谷の(医学書院)寮時代の * *.さんや私を、こんなにも暖かく見ていてくださったのかと改めて感謝の気持ちでいっぱいです。
当時は学生気分が抜けなかったとはいえお茶を習うと称しながら、月謝を払うどころか、おいしいお茶とお菓子をご馳走になりっぱなしで、どんなにか礼儀も恩義も知らないヤツと思われても仕方ありませんでしたのに。改めて心から御礼申し上げます。それに、あのお湯飲みを今も使っていただいている由、感激です。
仙台では月遅れでお盆をしますが、その頃によく供される「ずんだ餅」をほんの少しばかりお送りしました。「ずんだ」は「豆打」が訛った言葉とか。枝豆を細かく砕いた餡です。今では仙台土産として年中手に入りますが。
奥様ともどもご健勝で、ぜひまた仙台にお出かけ下さい。その節はきっとご連絡をお待ちしております。
* うち続く宮城県の地震見舞いをこっちからしなくてはいけないところを、逆さまになり恐縮しながら、嬉しいメールであった。東北学院大の門衛室から電話で話した優しい声音が耳に残っているが、このメールにも、同じ声が聞こえている。
ずんだ餅。松島の宿で、宿入してすぐ出された。これが「ずんだ餅かぁ」と悦んだ。永井荷風「踊子」で、ヒロインが浅草の姉を頼って出てきたときに手みやげに携えてきたのが、故郷の母のつくった「ずんだ餅」であった。映画ではどんな味とも察しかねたが、餅だもの、食べたいなと、食いしん坊のわたしは想っていた。
松島では、ずんだかゆべしかと、少し荷軽な後者を買って帰ったが、わたしは「餅」と名が付くと無性に欲しい「餅好き」なので心残りであった。有り難い。
遠藤教授。仙台地方の地震にお怪我なきよう、祈っています。
2003 8・12 23
* 朝一番のメールに驚いた。追試してみると、なるほど、「ぱんきょう」とキイを叩くと「般教=(一般教育)」と、即、出てくる。機械の内蔵した辞書の、変換の、奇怪な機械性。
* 製「パン協」会ならいいのにな 夏という季節だからか、「東工大『作家』教授の幸福」に、春ほど欝の感を抱かず、それでもちょっと、学生さんや秦教授の、智と熱に当てられ(うら病んでるンです。イヤな雀)、ひるみ、一度に二、三篇ずつ読んでいます。
「パンキョウ」という、卑しく下劣な物言いに、ノックダウン。さらに、「釣瓶」は出ず、簡単に「鶴瓶」と変換する雀の携帯電話が、たった一度で「般教」と変換したことで、ノックアウト。
* 「うら病んでる」という囀雀サンの表記に、注目したい。わたしは、時に、試みる、とは書かず、心見る、と書いたりする。原意を摂ろうとして。「うら病む」は「羨む」と表記する以上にこの言葉の原意・本意を表現し得ている。「うら悲しい」「うら寂しい」「うらむ=うらめしい」などで分かるように「うら」はもともと心意・心情・魂めくモノゴトを指さしている。「もの悲しい」「ものものしい」「もの凄い」などの「もの」と同じであろう。羨むとは、そういう意味で、気分がわびしく病んでいる状態に似ている、というよりも、それその通りなのであろう。
わたしの東工大にかかわる本は『青春短歌大学』『東工大「作家」教授の幸福』『こころと春琴抄』など、他にも関連の著作があるが、きまって、この「羨ましい」が感想として伝えられてきた。ほんとうに、そうなら、わたしは嬉しく受け容れたいが。
2003 8・13 23
* 「ずんだ餅」が届いた。嬉しい。また栃木から真新しい「葡萄」がたくさん贈られてきた。ありがとう。お返しをしなくてはなどとわたしは全く考えない。そんなことでは下さった方の気持に背くからだ。嬉しければ心から嬉しいとだけ思えばいい。それをしないから心は歪むのだとバグワンも云う。
2003 8・13 23
* Ich muss gehen. 2003.08.13 小闇@バルセロナ
-Ich muss gehen. イッヒ ムス ゲーエン。私は行かねばなりません。-
彼は、ドイツ政府が出すその年の奨学金の応募学年に、一年満たなかった。それでも書類、筆記試験をパスし、面接に臨む。「なぜ一年待たないか」と問われれば、”Ich muss gehen.”と言い切った。
“moechte(したい)”ではない、”muss(ねばならない)”、それが、決め手だった。後に彼の妻となったドイツ人女性は、そう信じている。ああ、何という自信と確信。それを聞いた私は、思わず身震いし、たまらなく羨ましいと思った。
彼の渡航から30年後、私にもドイツ留学の機会が。研究のためでも何でもない。ただドイツへ行きたかった。その「したい」は久々の本物で、「しなければならない」に劣るとは思わなかったけれど、「何(の研究)をするの?」と聞かれ、答えられない自分、一見勝者であるように見える自分が、蓋を開ければ空っぽなことに、いつになく引け目と恥ずかしさを感じていた。
出発前、ゲーテ・インスティトゥート(ドイツ語学校)の建物にある、洒落たドイツレストランで、お世話になったオーストリア人の先生と、私の留学を祝う。どういう話の流れだったのだろう。恐らく、私は私の引け目を隠そうとし、彼の前で”Ich muss gehen.”と言っていた。いや、言ってみたかったのかもしれない。
長い沈黙。と、彼は考えるように、静かに言葉を運んだ。私は、一人の学生を知っています。彼は、ドイツへ行きたくて行きたくてたまらなかった。どうしても行かなくてはならない、と思っていた。そして、念願叶って行ったんです。でも、ドイツは、彼が考えていたような国ではなかった。期待はそれが大きい程、壊される時の衝撃も大きいものです。彼は現実を受け入れられず、留学の途中で日本に帰ってきました。以来、彼はドイツに嫌悪を抱き続けています。私は、「ねばならない」と思わせるほどの期待をもつことは、とても危険だと思っています。何よりも、自分がつらくなるでしょうから。
彼の言葉を思い出したのは、住もうと思ったスペインで。ドイツのようには、好きになれそうにない。でも、下手な憧れがないことは、住むには返ってよいのかもしれない、と思った。長い生活をしてゆくには、むしろ冷めた目が役立つ。「恋愛と結婚は違う。一番好きな人とは結婚しなさんな。」こんなセリフも、いつになく分かった気がした。
住み「たい」と思わなかったスペインでも、住ま「ねばならない」とは思ってこなかった。実は今、純粋に「ねばならない」ことなど、それほどないのではないか、と思っている。「ねばならない」なんて、そうやたらに使わなくていい。もし、あることを「したい」から「ねばならない」なら、今の私は、その原動力を「したい」で説明したいと思う。
* 最期の段落に注目したい。……「ねばならない」ことなど、それほどないのではないか、と思っている。「ねばならない」なんて、そうやたらに使わなくていい。もし、あることを「したい」から「ねばならない」なら、今の私は、その原動力を「したい」で説明したいと思う。……
少し年齢から見て「悟り」が早すぎないではないが、老境のわたしは、このとおり思っている。したいからしているし楽しんでいるが、せねばばならないようなことは、したくない。「こころにかけてする慈悲はじひのむくひをうけて苦しむ」と至道無難は歌にしていた。固定観念に随って習慣的にされている「ねばならない」ことほど、空洞じみいやみな負担はないだろう。だが、それこそ価値ある奮励努力だと、ふつう人は猛る。五十までは、それでもよかろうが。
* 秋の気配 2003.8.13 小闇@TOKYO
幾重にも、蝉の声が私を包む。地上三階は、ちょうど彼らと同じ高さに当たるのかも知れない。朝、風の向きが変わる前に、ベランダの鉢に水をやる。四年目のベンジャミンは、この夏、私の背を超えた。
去年までは、とりわけ去年は、少しずつ気温と湿度が下がって、夏が終わってゆくのがたまらなく切なかった。「そのまま」でいられないことが、哀しかった。今年は、今すぐに秋となっても、おそらくは何も感じまい。
気候のせいなのか、気持ちのせいなのか。
時間にしか、解決できないことがある。悩むしか術のない時期もある。
早く過ぎて欲しいそういうときに限って、逆に、現在へ強く固執する。まだ見ぬ明日への不安でいたたまれなくなる。
悩むのは、実は楽しい。そればかりに頭を使っていれば、現実を感じなくてすむ。手頃な逃避。
今も明日は見えない。不安もないわけではない。けれどそれ以上に、その明日の中に身を置いてみたい。
ひととき手の内にあったものを逃す悔しさに似た夏への決別は、今年は訪れない。
鉢の陰で、蝉が白い腹を見せて死んでいた。八月十三日。暦の上でも、既に秋。
* まだ見ぬ明日への不安でいたたまれなくなる。 ……。
さもあろう。三十過ぎ。まさしく、そういう実感にさいなまれていた、わたしも。若い友人達の多くが、いままさにそう感じて、来るのか来ないのかわからない「明日」に戦いていることだろう、その年頃だ。昨日はたしかに在ったような気がする、が、明日などけっして在りはせず、「今・此処」しか無いのである。「今・此処」が苦しいと明日を幻想し仮想し焦燥するが、「明日」とは決して無かったと確信できる語彙の一つであった。明日にかける「夢」はもてる。明日が夢に他ならないのだから。明日は現実にはならない。「明日の中に身を置いてみたい。」これが「夢」の同義語である。
ひとは「今・此処」にしか生きる場をもたない。置いた脚の爪先は、億兆尺もの奈落へ消え失せた断崖絶壁で、なにの足がかりもない。しかも踏み出せば踏み出した其処が「今・此処」だ。置いた脚の爪先は、億兆もの奈落へ切れ込んだ、常に断崖絶壁。闇にひとしい。その闇へ踏み込んで行く勇気。それが「実存」の勇気だ。
石川淳という作家は。その目の真ん前の「闇」に突入して行くのが、小説を「書く」、ものを「創り出す」ことだ、と、謂っていた。
2003 8・14 23
* 「般教」を拝読して思い出したことが。近くの大学でニセ学生をしていましたとき、上代文学をご専門の先生がおいででした。その先生が「般教」としてでしょうか、医学部の学生に、上代文学を講ずることになられました。
そのとき、先生は『萬葉集』から百首選んでそれを教材とされました。先生がおっしゃるには、どうせ、古典文学に興味を持つ者など少なかろう。けれど、彼らによい医者になってもらうこともさりながら、日本人のよき心を知って、よい人間になってもらいたい。いずれ、こっちの命をあずけることになる連中なんだ。萬葉のうたに感動する心も持たない奴に、大事な命をあずけるわけにはゆかん、と。
何ということない雑談をしていたとき、三島由紀夫の名が出ましたところ、「ミシマユキオって何する人かね」と問われて仰天したことも。このスゴイ人物は某大学の名誉教授という肩書きをお持ちでした。
わが器械は遅れているらしくて「麺麭教」と申しております。
* このメールで、わたしが、つッと立ち止まるのは、万葉集で「日本人のよき心を知って、よい人間になってもらいたい」とある一行。
「よき心」「よい人間」という物言いが、この先生の正確な直接話法とは限らぬコトを承知でいえば、やはり此処は倫理的な道徳的な社会的な期待の表明に思われる、が、同じように東工大で詩歌を、文学を語ってきたわたしは、学生諸君を、上の意味での「よい人間」にしようとは、ゆめ、考えなかった。要するに、自分で言葉を求め深め拡げながら、いかに言葉には限界があるかを察知して欲しかった。
「よい人間」「わるい=よくない人間」などという区別は、行けば行くほど曖昧模糊としている。漱石作『こころ』の「先生」は若い「私」にむかい、人間の善悪の区別がいかに無意味か、そんな区別が本来在るのではなく、人はひょいとしたことから突然「よく」も「わるく」もなるものだと吐き捨てていた。よいとわるいとの固定観念と化した「分別=心」がどんなに人を底なしの蟻地獄にひきずりこむものか、悲劇的か、おのれの「心」の頼りなさと、それを誤魔化すために駆使している「分別」のあざとさを想像してみれば分かる。学生や若い人達を道徳的・社会的に「よい人間」にするために文学や藝術があるのではない。それは或る社会や政治が人々にし向けているトリックであり、ある種の鋳型化である。文学や藝術は、人を一定の鋳型になどおさめないために存在している。だから文学や藝術には原則や規則が在るようでじつは無いのだ。人を豊かにし、体験を補い、より本質的により大切なものを己のために、また人のためにも見出しうる力をつけてくれる、かも知れないのが、文学であり藝術である。
「人間教育」という言葉で、だれかに都合のいい「鋳型教育」をはじめるときは、とてつもない人間破壊の不幸が迫ってくる。荒廃である。万葉集はそんな拷問なみの道具に使われようとして在るのではない。
2003 8・14 23
* おはようございます。 つと玄関をあけると、強い雨のしぶきがかかりました。夏を流し去るような激しい雨です。今日は敗戦の日ですね。
>>人を豊かにし、体験を補い、より本質的により大切なものを己のために、また人のためにも見出しうる力をつけてくれる、かも知れないのが、文学であり藝術である。>>と。
うなずきながら拝見しました。深く考えずに使われる「よい人」「正しい人」「まじめな人」などのことばが、いかに多いことでしょう。考えるほどに「よい」「正しい」「まじめ」という言葉を安易に使えなくなっています。
第二次世界大戦が終わって58年、私にとっても58回目のこの寒い夏の日は、二度と訪れない日です。敗戦が現在に大きな影をひきずっているように、今日という日も明日につながっていくのでしょう。けれども、私自身は、「今」「ここ」にしか存在しない。
豪雨の中、仕事にでかけます。今日は施設に消防署の立ち入り検査があるとか。昨日突然連絡が入りました。書類をそろえておかなければ。来年は会社設立 10周年。記念出版はやめ、ホームページのリニューアルをと思っています。 神奈川
* この界隈、大雨の警報が出ているそうな。瀧津瀬を聴くように強い雨束がまっすぐ地に突き立っている。
2003 8・15 23
* 夜前、トム・ハンクスらの映画「アポロ13号」をビデオでみはじめた。あのアポロより前、一九六九年七月二十日にアームストロング飛行士たちは人類初めて月を踏んだ。忘れもしない、一九六九・六・一九。わたしの太宰賞がきまった桜桃忌の、ほんのすぐアトであった。日本の敗戦はそのほぼ四半世紀前の今日八月十五日だった。わたしは国民学校四年生だった、母と、丹波の山の中に戦時疎開していた。
戦争に負けた、それは、山の暮らしから京都へ帰れるということでもあった。だが、もう一年余も、わたしが重い病気にかかって、母の手でかつがつ京都の懇意な医者の家に担ぎ込まれるまで、山の暮らしは続いた。その山の体験があったればこそ、わたしは後年に「清経入水」が書けた。太宰賞がもらえた。あの暑かった敗戦の日から五十八年。思えば思えばあれ以来毎日毎日が「今・此処」の生きであった。「明日」はむろん仮想したが、仮想でない「明日」など在りうべくもないのだった。
叔母の稽古場の欄間に、「あすおこれ」と扁額があげてあった。御幸遠州流の家元井上冷一風が弟子である叔母に与えた万葉仮名の書であったが、生け花の師が弟子に与えた言葉としては異例の字句だ。叔母が何と読んでいたかは知らないが、何と書いてあるのかと尋ねた社中やわたしに、「あす怒れ」とだけ読み下してくれた。「ふうん」と思いつつ「明日」の意味を感じ取ろうとはしていた。
さらに遅れて、わたしはこれも叔母が弟子入りしている裏千家「今日」庵の今日という名乗りのことも、よく思ったものである。「懈怠比丘不期明日」の偈に依って、これには、よく知られた逸話が添うている。
「明日」をめぐっては、二た色の思いを、人はもってきた。「あすなろう=明日成ろう」という希望と、「明日ありとおもふ心のあだ桜」よと、「夜半に嵐の吹」くを戒めた「今日」重視と。何事かを本当に成してゆくには、希望は希望としてその「希」にして架空の夢であるを承知の上、「今・此処」に徹するしかないと、毅い人ほど思ってきたのではなかろうか。海市ほども夢ははかない。夢は心をあやかす蜃気楼、それへ日々の力点をかけていては、影踏みのくるしみに自ら落ちこんでしまう。
* 今日、終戦記念日、あの日とこんなに気候が違うと、実感が湧きませんが、あの日はしっかりと記憶にあります。出征中で父のいない父の実家の、離れの疎開地で、照りつける外で、ラジオを囲んだ記憶。雑音のうえ理解できない玉音を聴きましたね。何しろ、住所が・・・浜というほど浜に近く、その庭の真白な砂上に松葉ぼたんが色とりどりに咲き乱れてきれいだなと感じたのだけが、妙にしっかりと連鎖します。
後に両眼を失った父が先祖の墓参をしたいと、ある夏、まだらボケの母は姉が看て家に残し、まだ元気と思っていた弟の車で東京からずいぶんな長旅をしましたが、何十年ぶりに訪れても、何の感慨もありませんでした。弟はその翌年の秋に他界しましたか。
はるかなあの当時は、近所に住む父の年老いた長姉が、優しく、空いたお腹をいつも満たしてくれ、後年のその折も、その孫夫婦が歓待してくれまして、心安まりましたが。
そんな日の今朝、以前にビデオ撮りの1956年のアメリカ映画「攻撃」を、時間がなくて途切れ途切れで、やっと観終えました。
1944年、ヨーロッパでのドイツと交戦中、話は戦地での米陸軍内部の良・悪の人間性を描いていて、いましがた残る終盤を観ながら、珍しく泣いてしまいました。
つくずくと戦争はごめんです。
すぐに巻戻して観直したい衝動にかられています。雑用がいっぱいあるのに。
* それぞれの敗戦であった。あの頃は、おおかたが「敗戦」とは謂わなかった、この人もそうだ「終戦」と謂っている。「占領軍」とはだれも謂わなかった、みな、「進駐軍」と謂った。心から敗れ、心から占領されたと身にしみていたら、われわれの「戦後」はいま少し徹したであろうに。これは「死ぬ」意味の同義語を夥しくつくってきた民族性とも関わっている。モノゴトを、ヒタと、直視したがらない。
2003 8・15 23
* ヤスクニ2003 2003.8.15 小闇@TOKYO
ヘリが旋回している。相当に低空だ。バタバタと、耳障りな音。私の頭上を弧の一点として飛んでいる。窓からしばらく眺めていたが、数は増えない。自衛隊機だろうか。
年初めのある日、遅い昼食を終えて歩く私たちの頭上を、新丸ビルの脇をすり抜けるように、ヘリが円を描いていた。その数は瞬く間に増え、ぶつかるのではないかと思うほど、混雑してきた。皇居上空は確か飛行禁止区域、だ
が、お構いなし。皇室関連で、何か事件か事故か。
携帯電話のニュースサイトは「総理、午後に靖国参拝へ」と告げていた。
それほどのニュースかと、ヘリのまさしく真下でそれを見上げていた。首が痛くなって我に返り、職場に戻った。
十五日を待たない此の八月。盛夏のはずの砂利の上を、冷たい風が吹いている。NHKの腕章をしたふたりだけが、季節を思わせる。車椅子での参拝者も、着いたバスから降りる同じくらいの年格好の老人たちも、触れようとすればそのまま姿を消すような、淡淡しさ。十五日に千鳥ヶ淵戦没者慰霊碑に手を合わせる総理は、この夏、靖国通りを渡れないだろう。
昭和三十年生まれの野田秀樹は、今年の芝居の中で、過去への電話交換手(=巫女)を演じる松たか子に、こう言わせた。
もう一度教えて。復讐は愚かなこと?
たった一日で何十万人もの人間が殺された。
その恨みは、簡単に消えるものなの?
一ヶ月しかたっていないのよ、あれから。
どうして、ガムをかめるの? コーラを飲めるの? ハンバーガーを食べられるの?
この恨みにも時効があるの?
人はいつか忘れてしまうの? 原爆を落とされた日のことを。その翌日、歩いたその町を。
焼けて流れて爛れて溶けたあの町とそこに張り付いていた人影を。
鳥居を抜け、交差点を渡ると、マクドナルドに行列ができていた。これが、日常。たまたま今日、その列に私はいないだけ。……六十年もたっていないのよ、あれから。松たか子の声がする。
境内にいたひとたちの透明さと、店先で財布を開けているひとたちの希薄さと、どう違うのか、うまく説明できない。信号が点滅しはじめて、私はひとまず走り出す。
* 多くを代弁されたようだ、ふと、深い息を吐く。
* 闇を時々覗き、闇に書きおかれた、闇の諸々の光を見ております。
その中で数文字の表現に厚みある生き方、飾らざる強い姿勢を感じ、日常のややもすれば虚飾の考えが補正されます。
何度でも補正したい。
「般若心経」を読んでもこのような補正を得られないが。
“moechte(したい)”と”muss(ねばならない)”の闇の光はおおいなる闇でありました。
藤村の「嵐」を読んでいませんので読んで見たい。
昔見た稲垣 浩監督、笠 智衆主演の映画のある場面の風景、懐かしい木造の教室と運動場の映画の場面が思い出されます。木曽路馬籠が夏らしい天気で蝉のレクイエムが空に響く天候でありますように。 川崎市e-OLD
2003 8・16 23
* 戦後は終わった。戦前に、するな。とありました。
広島市長の、わかりやすく、胸を打つことば。58年経ってようやく、聾の方が壇上に立って原爆を話すことのできたことの、衝撃と、かなしさ。
終戦(解放、でもありましょう)の記憶を共有して、思いをはせ、何かを考えることを忘れさせるかのような、涼しさと雨。その上、「過去だよ。そんなことより、停電になったらどうする」と。
私は、人工受精取り違えと、人工心肺装置に起因しているらしい、乳児心臓手術の失敗が続いていることに、重い心を支えかねています。 三重県
* しんと、眼とじている。
2003 8・16 23
* 大文字の時間だが、京都のお天気はどうだろう、甲子園のPLと福井商との試合では烈しく降りだしていたが。
* ところで「京をんな」のイメージはどうなのだろう、よその人目には。同年同年と書いていたが、わたしより一つ二つ若かった(失礼!)藤江もと子さんから、わたしを経由して佐和雪子さんにメールが来ている。「黒体放射」の全十章を一気に読んでしまったらしい。
* 再び黒体放射・小闇さんへの便り
秦恒平様 こんな肌寒いお盆の記憶はありません。例年この時期蓼科で過ごすのですが、明17日に恩ある人の忍ぶ会をする事になっていて、発起人に加わったので、東京に足止めです。だから、暇だから、と言うわけではありませんが、『黒体放射』全10章を読み通すことが出来ました。
ここから先は、小闇さんへのおたよりです。送り先がわからないから、秦様へのメールを拝借します。
* 小闇(佐和さんというより馴染みがある)さんへ
まじめに読みました。
でも「あっ、これ私と同じ」と幾度も笑ってしまいました。
例えば、私も、幼児の時も小学生の時にも、「こわい、にらむ」と、不評でした。最近小学校のクラス会に顔を出すようになって、みんな(特に男子)は、私がマイルドなおばさんに豹変しているので意外なようです。
中高は女子校だったので女同士では睨み甲斐がなく、専ら相手は先生。でも当時の先生は、「授業中”熱心に”じっとみつめられた」とおっしゃいます。
大学時代は女はみんなこわい目つきだったので、「女はこわい」で括られていた。
今も私は相手の顔をじっと見つめてしゃべります。特に男性相手に、真面目な話をするときはそうです。絶対、はずかしそうに目をはずしたり、うつむいてしゃべったり、そんなことするものですか!(年下の男性をぐっと見つめる変なおばさん)
娘が私に似て”にらむ”子だったのは遺伝かも知れないが、息子の連れ合いも、”こわい女”と言われ続けた人。息子がこわい系に惹かれたのはマザコンだと言う説もあります。会社で、こわいとセクハラまがいに言われていた娘も
やっと結婚して、こわい女とやさしい(ホントかな?)男の三組のカップルが出来ました。正月などは嫁・姑・小姑入り乱れて、意見を述べ合い、怒りまくったりして、男達は口がはさめない。
男にカウントされたこともありました。
修士一年目、研究室のみんなと秋の志賀高原に行きました。宿泊した薬師の湯から大沼池へと散策途中、姥捨て向きの河原で、対向グループとすれちがう際に、先輩が、「大沼池まであとどのくらいありますか」と聞きました。相手のパーティの人が「**分くらい」と言ってから私に気付いて、「あっ、女の人居るんですね」
すかさず先輩は平然と、「ああこの人は”男並み”です」と答えました。それってどういう意味?
でも、私はそれがなんとなくその時には”褒め言葉”に思えたのです。
それ以来私はますます男並み化して、猥談も素知らぬ風に聞き流し。だから今でも何故に当時のストリップ事情に詳しいのか、と驚かれる。
小闇さんを男だと早合点したことは、私からの”褒め言葉”だと許して下さい。
私が中学生くらいかな、先生が「らしくあれ」というお言葉を下さいました。かちん! ときました。なんで??
子供らしく、女らしく、受験生らしく、国立大学生らしく、妻らしく、母らしく、極めつけは障害児の親らしく—-らしく、なんてしたくない。
らしくって、周囲の期待にそうようにしろってことじゃないのかなあ。
私はいつも「らしくなく」をモットーに生きてきました。私は私。佐和さんの「黒体放射」に惹かれる所以です。
これから、もう少しふんわりと生きて、良い年をとって下さいね。 2003/8/16 藤江もと子
* なにしろ倍以上も年齢がちがうから、お互いの受け方も適当に逸れてくるだろう、が、宜しき出逢いではなかろうか。「小闇さん」への分は、転送。
わたしは、めったやたらに、「京をんな」たちを、大勢記憶している。ものごころ附いたときは、もう叔母の稽古場に「きれいなおねえちゃん」たちが、稽古日ごとにきれいな花緒の下駄をぬいでいた。人数は増えに増えつつ、わたしが東京へ出て結婚するまでそれが続いた。わが提唱になる「女文化」という質を、肌身に感じて多彩に見聞していたのである、日常的に。国民学校では、一年生ですでに男の子も女の子でも「すきやん」の噂をするような環境であった。オマケにわが町内は、同学年に男はわたし一人で、女の子が八人た。、いつも「女の中に男が一人」と囃されながら整列して登校したのである、わたしの責任ではない。
それからは、院を一年で遁走し、学部卒業の妻と東京へ出て来るまで、純真無垢の童貞ではあったけれど、「女」をみる深切においては、かなり京風の修行をつんでいた。むろん何度も女の子達に「にらまれ」たけれども、とても優しくも、され慣れていた。
小闇は根から関東の育ちで、藤江さんとはちがっていて、この二人が出会う図というのは少し想像しにくい。藤江夫人をわたしは顔があうという仕方では知らないからでもあるが。
* 雨、降りしきる。すこししいて仕事を追ってきたのでホッコリしている。肩先に煙のように寄っていたものを、ふっと払った気持。ゆっくり、自分の巣に籠もりたい。
2003 8・16 23
* はたさま 残暑、 お見舞い申しあげます。
『慈(あつこ)子』 重ね合わせ、重ね合わせ、重ね合わせ、三重に絡まり合わせ、
生誕の痛みと、男女のそれとのけはいの絡まり、
茶道の粋、京都の粋、東京、京都、への、などなど、
夫と妻の役割のいたしかたのない推移、など、憎愛、純愛、あるいは、あたりまえ愛、無責任愛、あるいは……。
など、物書きといたしましては、分析的に読んでいましたが、いつのまにか、引き込まれ、取り込まれ、特別、目新しい筋ではないそれを、兼好研究というテーマと重ねあわせる手法によって、あるいは、紐解く事によって、物語に深みというか、両面を垣間見せるという、なんと、鮮やかな……。
などと。
冷夏の夜に「朝まで小説」でした。お元気でしたでしょうか。 埼玉県
* ペンの例会で出会った詩人。関西から移転してきたと聞いた。烈しく、たたきつけるように烈しく詩を書いているのをもらった詩集で読んだ。この人最近パソコンを手に入れて、やっとメールなど出来るようになり、わたしの「慈子」も、「ペン電子文藝館」で読んでくれたらしい。出稿をすすめてはいるが、ダイナミックも極まる詩の組み附けなので、映像でなければ無理かも知れない。ときどき操作にゆきづまるらしく、メールで質問がくる。わたしにも応えられる範囲ではお互い様、返辞をしているが機械音痴のわたしの返辞ではアテになるまい。
2003 8・17 23
* 永昌寺連想 京都奈良も雨、近江も雨そして関東も雨がやみません。「闇」を覗くと京の雨は雨でまた風情を感じ、雨なら雨を楽しもうと悟ったような気分になります。
恵那山の懐に抱かれた永昌寺は、勤めた会社の馬籠育ちの故先輩のご縁で数回訪れ、お寺の離れに宿泊したこともあります。その先輩は東工大出身でした。会社を定年後これから文学、絵画鑑賞、山歩きをしてこれまでの「白紙の世界」を埋めていくといっておりましたが、藤村忌のにぎわいと文学のお話しを、お寺のお墓で聞き喜ぶことと思います。 川崎市
2003 8・18 23
* 小闇@TOKYOにはもう「卒業」証書を渡したようなもの、と、なると、毎日、新たに私を楽しませてくれる「サイト」を見つけないといけない。
わたしは、小闇二人のサイト以外は、たまに息子のをのぞく程度だが、バルセロナも息子も、滅多にサイトが変わらないので、とても毎日の楽しみには役立たない。息子のコメントは、年齢や仕事相応とは思われない軽さだし、思わず踏み込んでこっちも考え込んでしまうような、鋭い深い筆致はない。東工大の卒業生では何人か期待している書き手がいるのだけれど、みな働き盛り、ムリは謂えない。それを思えば、東京の小闇は、ほんとうによく書き続けたと、少し敬服する。
2003 8・19 23
* ある研究者の耳打ちである、「少女の友」と「少女倶楽部」を調べていて、「何と当時の女学生総数と両少女雑誌の発行部数の合計とは、ほぼ同じ!!豊かな読書体験を積んでいた、良き時代だったと感心します。ちなみに、現在の女子大生は携帯の通話料にお小遣いが飛んでしまうそうで、本を読まないどころか、定期購読している雑誌もないそうです」と。思わず、フウーンと声が出た。
2003 8・19 23
* ある若い研究者の耳打ちである、「少女の友」と「少女倶楽部」を調べていて、「何と当時の女学生総数と両少女雑誌の発行部数の合計とは、ほぼ同じ!!豊かな読書体験を積んでいた、良き時代だったと感心します。ちなみに、現在の女子大生は携帯の通話料にお小遣いが飛んでしまうそうで、本を読まないどころか、定期購読している雑誌もないそうです」と。思わず、フウーンと声が出た……と、書いたのへ、次のメールが飛び込んできた。わたしにはお馴染みの人である。
わたしに再度の感想を問われているが、さあて。
* 少女クラブ 馬籠へお出かけとのこと、私達も今日夕方から蓼科へ行きます。いつもなら猛暑を逃れて……と言うところですが、こう涼しいとはりあいがありません。でも山や花々と出会えるのが楽しみ。
「闇に言い置く」に「少女倶楽部・少女の友」のことが出てきて、生意気を顧みず、少しイチャモンを付けたくなりました。
年令からして私は戦前の「少女倶楽部」「少女の友」は知りませんが、今と当時とでは、”女学生”の実質がまるでちがうのではありませんか。
また”雑誌を買える女の子”というのも、やはり今とはまるで違うと思います。男でも経済的な理由で中学に進学できないのは珍しくない時代、女学校へ行かして貰えるのは、家が裕福か、それほど裕福でない場合は親が女子も教育が大切と考えているか、で決まったと母から聞いています。
そして雑誌が買える、買って貰える、のもやはり同様の家庭。「数が合っている」のもそういう意味では当然です。
少数の教養を身につけることが出来た女子が良質の本をよみ、手紙を書くにも不十分な教育で劣等感の中にくらした女性が多く居た時代が、必ずしも”幸せなよき時代”とは言えません。
今は中学までは義務教育、事実上高校全入、女子大生といっても一般化している、それに女学生と女子大生は年令が違う。他にも沢山の楽しみや情報獲得手段があることも考え合わせれば、両者を簡単に比較して結論を急がない方が良いのではないかと、私は感じました。
私事ですが、私は戦後すぐの「少女クラブ」の愛読者です。もうむつかしい倶楽部の字は使っていなかったと思います。
始めて手にしたのは、京極花遊小路河原町角の本屋さん、昭和23年頃、私は小学校4年、まだ女学生ではありません。(そう言う意味では、少女雑誌=読者は女学生、とも言えません。)紙が不足な時代、発行部数も少なくすぐに売り切れになるので、東山松原電車道の本屋さんに予約購読していました。発売日には松原通の坂を六波羅蜜寺を右に駆け上り、帰りは待ちきれず、”二宮金次郎”スタイルで、読みながら坂を下ったものです。
毎号表紙は小磯良平画伯による少女(画伯の二人のお嬢さんがモデル)の水彩画、今思えば、なんと贅沢な!
中身も錚々たる方が新しい時代をになう若者のためにと、すぐれたものを書いて下さって居ました。
もっともそのような時代は短くて、すぐに普通の少女向きの雑誌になりました。その時は「面白くなった」と感じたのですが、時が経って思い出されるのは初期の頃のものです。
何歳まで読んでいたか記憶がないのですが、最も熱中していたのは小学校6年生くらい、中学に入ったら「あれは子供のものだ」と、小説だって少女小説から大人向きへ転向しましたから。
当時も当然のことに、子供が雑誌を買って貰えるのは恵まれた家庭。収入や食べ物の値段に比べて相対的に雑誌は高かったのではないか。その分買う動機付けも確かだったし、大切に読んだと思います。
今の若者が昔のように文字に親しまないのは事実だし、雑誌ばなれも事実です。いまや漫画本すら読まないとか……。雑誌の作り手の意識だって、まるで違ってきています。
改めて、秦様のお考えや如何に? と。 2003/8/20 藤江もと子
* わたしを育ててくれた秦家は、いま思えば、すこし風変わりな家であった。裕福。とんでもない。貧寒。と云うほどではなかった、が、極めて節約の家庭だった。父も尋常高等まで進んだかどうか、母も同居の叔母も小学校どまりだつた。だが、祖父の蔵書は信じられないほど高級で、高価な充実した漢籍が、老子、荘子、韓非子から唐詩選、古文真宝、また史書の注釈から大辞典等まで三十冊は下らなかったし、和書も、秋成の古今和歌集注や神皇正統記、俳諧全集、謡曲本など、信じられないほど佳い物のすべてに秦鶴吉蔵書の書き入れがあった。「おじいさんは学者や」と父は云っていた。その父も通信教育の教科書を何冊もわたしの愛読書に残してくれていた。しかしこの父はわたしの読書好きを「極道」だときめつける人でもあったから、本を買って貰った覚えは三度となく、その本は何とも魅力に乏しい教訓的なものばかりであった。
我が家にあった雑誌は、母か叔母かの「婦人之友」「婦人倶楽部」のあわせて三冊か四冊がくらい階段の隅に捨てるともなく積んであっただけ。新聞すら、夕刊は不要としていたような家庭であった。だが嫁いできた母は、近代作家の名前とゴシップのようなものだけは何故かよく口にした。近代現代の小説単行本として読めるものは、ほとんど一冊も記憶になく、菊池寛の「真珠夫人」をどうして読めたろうかと不思議な気がする。まして雑誌なんて、医師の待合にしか無いものと思い切っていた。
そんな按配であったから、わたしは、本とは人に借りて読むもの、また人の家に出掛けて行って読ませて貰うもの、としか考えたことがない。少年向きに、ましてや少女向きにどんな雑誌があるかなど、夢にも思ったことはなかった。縁なき衆生であった。
古本屋での立ち読みは、わたしにとっては戦後生活の多大の恩恵であった。わたしは、小学校六年生頃から、東山線菊屋橋畔の古本屋で、店番のおばさんやおじさんを悩ませながら立ち読みの毎日だった。そんな時にも雑誌などめったに手を出さなかった。藤江さんのように定期雑誌を楽しめる育ちではなかった。
だが、バスで送り迎えの幼稚園時代があり、京都幼稚園では毎月「キンダーブック」が一人一人に与えられて、あれほど楽しみに楽しみにした読書体験は少ない。あの胸のときめく嬉しさは忘れようがない。そういう幼稚園にやってくれていた秦家であることは忘れてはならないのである。
* そんな次第であるから、藤江さんの「イチャモン」には、さもあろうと納得する以上の反論など、ない。わたしに耳打ちしてくれた研究者も、他の用事のついでに軽い気持でて書き添えてくれたに過ぎまい、何かの結論とは無関係な、話柄の一つであった。ただ、ホホウそうなのかと面白くその指摘に反応してはいたのである。
2003 8・20 23
* 明治22年生まれの小栗風葉の名は知らなかった、「寝白粉」は当然の文語体ですが興味あり、丁寧に読んで見ます。
母方の祖母が同じ22年生まれで、同時代。
すぐに没落しましたが、裕福な商家から河内木綿を扱う裕福な大店に嫁いだ、おっとりとしたごりょんはん(御寮人)でした。
母の話によると木綿は庶民の着物、毎夜の手伝いで驚くほどの現金収入をみたとか、ちょいと膝の下にくすねたとか、母の男勝りの気性が伺えて笑えます。その母の父(私の祖父)が、絹物に手を出して失敗してから没落しはじめ、早世したらしく、それでも、祖母は得意の仕立て物だけを、おっとりと、やり。
やむを得ず中学を出たばかりで大阪の官庁に入った長兄(私の伯父)は、理発な人でしたが、エリート意識ばかりが強くて家への仕送りが滞りがちで、必然、一転して長姉、気丈な私の母、が工場で働き、幼い弟二人と妹をみたと述懐していました。
祖母の妹(大伯母)は浮世絵に描いたような切れ長の目の美人で、生家が没落後、どんないきさつか上七軒で左褄を取り、定かには知りませんが、滋賀の旧家のボンの後妻にと曳かされ、後にはその親戚縁者のやっかみに耐えかねて、何もかも捨てて故郷へ戻ったらしい。子供がいたのかどうかも知りません。後に、子連れの実直な職人と再婚して平穏暮らしていました。
戦時中、伯父家族と隣合わせの家で独り暮らしの祖母の元へ、ただ独りで、強制の縁故疎開をさせられた国民学校二年生の私は、近くに住まいしていたその家族に出会っていて、その四、五年生だった連れ子の女の子も大伯母も、よく面倒をみてくれたと、僅かな記憶にあります。
祖母は小柄でみるからに上品な人でしたが、その妹、大伯母は子供心にも美人だなと思わせ、細っそりと程よい背丈の人で、田舎の近辺の人とは違って垢抜けていた印象でしたが、そんな複雑な話を当時は知る由もなく。
身内の誰だかに聴いた話によると、袖触れ合った私の行く末を高く評価してくれていたらしく、娘時代には予想通りに生長したかと、勤めていた高島屋まで、ちらりと出向いてくれていて、こちらはそんな思惑を露知らず、懐かしくて挨拶程度の話をしたのを覚えています。
その後会う機会は皆無で、予想通りに生長していたかどうかは闇の彼方、聴かぬが花かも。
その祖母からの途切れ途切れの明治時代の昔話が楽しい思い出ですが、詳細に聞く機会もあまりなく、今になれば惜しい。
そこで父と母の出会いが昭和初期の京都であるのですが、これがおきゃんな母らしくて面白いのですが、母が亡くなり、父が独りになってからぼちぼち聴いた話で、これも残念ですが詳細には聴き及んでいません。あの大伯母も少し絡んでくる話らしい。あの母がしばしば反抗に及んでも、最後は父の手中に収まった由縁が理解出来ます。すなわち押しかけ女房の弱み。詳しくは知りません。
のんびりしていたら、長くなりました。
今日出発と思っていました。私の勘違い。明日なのね。明日の天候は○だけれど、木曾の山中は雨が降りやすいから、△かな。
馬篭も妻籠も御岳も期待を持って何度か旅をしていますが・・・無理をした観光地の印象が深い。
それより、中央高速を車で駆けり、頻繁に姿を見せる三千米級の南、北、中アルプスの山並みを展望するのが、楽しい。
当然お泊りは温泉でしょうね。高速道路のトンネルを掘削中に出た温泉、通称トンネル温泉に泊った事もあります。いい温泉でした。
* もし「手書きの郵便」時代なら、だれもこんな「思い出の記」を、書きも、まして送って来もしなかったろう。小説家に手紙をだすなんてイヤと、男も女もよく云ったものだが、メールの時代になり、むしろ隠れていた鉱脈を掘り進むかのように、だんだん滑らかにモノを書いてきて呉れる。そうなると逆にこっちが物書きであるのがメリットにさえなり、読み慣れない相手に送るよりも送りやすくなるらしい。
わたしは「物書き」という立場をやや中性的中立感覚で守っているから、こういうメールにも深くは関わろうとしない、送られてきたら読むだけである。昔なら失敬して「小説」にと考えたに違いないが、そういう色気はもう無用と考えている。「小説」を書くなら、私自身の根からだけ掘り起こしてきたい。
しかるべき人なら、こういうメール文化の情況を、時代の批評としても解析するだろう、が、わたしは、それは意識して楽しんでいるけれども、厄介な議論の議題にまで深追いする気は少しもない。
この人の、この親族間の過去層へ亘って行く関心や追憶のうごきは、もう少し踏み込んで行くと、もっと纏まった回顧録へ繋がって行くだろう。これも歳、かも知れない。出来ることはしたらいいだろうと思う。
* 帰途、名古屋で宿を用意しましょう、翌日、名古屋をご案内しましょうと、地元の読者から有り難いご提案があったけれど、辞退した。一つには、講演の前後に、初対面の大勢さんと話してくると、いつものことで、とても気疲れがする。今度も、藤村記念館の方へはどうか構わないで欲しいとくどいほどお願いしてある。そのあと、名古屋でまた初対面のご夫婦と食事したり、翌日もおつき合い頂くのは、あまりに申し訳ない。まっすぐ東京に向かい、家でゆっくりやすむことに決心した。楽しみは、よりよい好機をえらんで、はればれと持ちたい。疲れてついつい言葉ずくなになったりしても失礼極まる。ご好意に、心よりお礼申します。
2003 8・20 23
* もし「手書きの郵便」時代なら、だれもこんな「思い出の記」を、書きも、まして送って来もしなかったろう。小説家に手紙をだすなんてイヤと、男も女もよく云ったものだが、メールの時代になり、むしろ隠れていた鉱脈を掘り進むかのように、だんだん滑らかにモノを書いてきて呉れる。そうなると逆にこっちが物書きであるのがメリットにさえなり、読み慣れない相手に送るよりも送りやすくなるらしい。
わたしは「物書き」という立場をやや中性的中立感覚で守っているから、こういうメールにも深くは関わろうとしない、送られてきたら読むだけである。昔なら失敬して「小説」にと考えたに違いないが、そういう色気はもう無用と考えている。「小説」を書くなら、私自身の根からだけ掘り起こしてきたい。
しかるべき人なら、こういうメール文化の情況を、時代の批評としても解析するだろう、が、わたしは、それは意識して楽しんでいるけれども、厄介な議論の議題にまで深追いする気は少しもない。
この人の、この親族間の過去層へ亘って行く関心や追憶のうごきは、もう少し踏み込んで行くと、もっと纏まった回顧録へ繋がって行くだろう。これも歳、かも知れない。出来ることはしたらいいだろうと思う。
2003 8・21 23
* 八月二十一日 2003.08.20 小闇@バルセロナ
全校登校日。確か、夏休みで緩んだ気持ちを、新学期に向けて引き締めるためと言われていた。今思えば、休みなのによく行った。学校がある日は学校へ行くのが当たり前だった。
八日ほどあったプールも皆勤。おじいちゃん、おばあちゃんの家に行くから、家族で旅行に行くから行けません、とは一度も言った覚えがない。心待ちにしてくれる人はいなかったし、父親と出かけることも、父親を置いて旅行することも、我が家では考えられなかった。今思うと、少し淋しい夏休みだった。
この全校登校日が、ある意味で嬉しかった。ラジオ体操もあと十日、そう思うと気持ちが楽になった。あと十日行けば終り、ではない。何しろ、私は行かなかったのだから。
ラジオ体操が、嫌いだった。
休みなのに、いつもより早起きしなければいけない理由が分からない。学校で作らされる夏休みの時間割に、八時起床として出せば、あとで作り直させられた。夏休みなのに、強いられることも気に入らなかった。早起きしても、顔を合わすのはピンクレディごっこに夢中な団地の子、カレンダーをスタンプで埋める熱意もない。心憧れる人でもいたら、早起きもしただろうか。
六年生の夏には、「ラジオ体操参加賞」として子供会からノートをもらった。赤、黒、青の薄い三冊のノート。一日も行かなかった私はお断りしたのに、お金を払っているからと。厭味な賞で笑ってしまった。
行かなかったなら、苦痛であったわけもない気がするのだが、やはりどこかで行かねば行かねば、と思っていたのだろう。もう行かなくてもいいや。そう思える八月二十一日、すっきり気分がよかったのを覚えている。
* いろんな夏休みがあったのだ。わたしも、だいたいツルんで何かを一声にやるのは大の苦手で、嫌いで、ラジオ体操など結局覚えきれなくて、余儀ないときもマゴマゴして先生によく怒鳴られた。そんなザマでは級長をやれと先生に指名されても、いいえ副級長でケッコウですと辞退して帰るありさまだった。前へ出てクラスメートに号令をかける、その「右向け」「左向け」の右とひだりの覚束ない少年だった。ラジオ体操などやれば、かならず港サカサマに動いたりして目立った。目立ちたかったのではない。
日銭を稼ぐ店売りの我が家も、あたりまえのように夏休みだからどこへ遊びに休みに行くなどいうことは、決して無かった。自分一人でアレコレしていた。此の小闇の胸の痛みとは、時代は隔ててもチクリと寂しく呼応するモノをわたしは忘れていない。それとても、いろんな夏休みが誰の上にも有ったのだといえば、済むことか。どうだか。
* さて、その夏休み気分で、昼過ぎには木曽へ出掛ける。
2003 8・21 23
* そのあとの一日を書くには、もう二十三日の午前二時半。名古屋経由で家に帰ったのが十一時半近く、二日分の郵便物の始末をつけ、二日分の夥しいメールの始末をいろいろつけ、「ペン電子文藝館」の校正も処置したり、卒業生からの二つも三つも四つものそれぞれに様子を異にした佳いメールにも、一つ一つ返辞を送ったりしているまに、夜がふけてしまった。今夜は、もう妻も寝静まっていよう階下におりて、源氏物語「若菜」上とバグワンとを音読してから、やすもうと思う。
なんと、記念館から本の土産が六冊も。これは重かった。だが、藤村の文献としてはいいものばかりなのではるばる持ち帰った。車中でも拾い読んでいて、藤村長男楠雄氏の藤村回想などしんみりと実に佳いので、それも寝床でまた読みつぎたくなりそうだ。
とはいえ、卒業生達のメールは、身にしみるモノも、嬉しいモノも、面白いモノもあり、明日とはいわず、ここに取り急ぎあえて転載しておきたい。みな、それぞれに異なる道を、しっかり歩いている。
それに特記しておかねばならない、今日の馬籠の藤村記念館講演会場には、東工大卒業生が、バッチリと顔の合う席にいて、昔懐かしい教室での顔と同じ顔をして、わたしの話すのを見ていたか聴いていたか。ビックリした。行きますと以前に聞いていた。知った顔が講演会に来ているとアガルから来ないでくれと云っておいたが、来ていた。嬉しかった。
* 秦さま こんにちは,ご無沙汰しております.**です.お変わりございませんか?
実は先月から(正確には7月16日発令)で東京大学に異動しました.ご連絡を早々に差し上げなくてはと思いながらばたばたとしており,遅くなってしまいました.申し訳ありません.登録メールアドレスを変更いただければとおもいます.よろしくお願いいたします.(自宅は引っ越しておりません.毎日大岡山を通り越して通勤しております)
春先に異動のお話をいただき,長い東工大生活にピリオドを打つべく,決心いたしました.
人間関係はすこぶる良好でしたし,戸惑いがあった新しい分野の研究も何とかやっていこうという意気込みも持っていましたが、長い間同じ環境にいて,周りには昔から知っていて,守ってくれる方々に囲まれていることに不安を覚えてもいました.
そんなときにいただいたお話で,上司だった教授も”若いうちにいろんなところを見ておくことは大事”といって,かなり中途半端な時期でありながら,気持ちよく送り出してくださいました.
新しいところはまだ,研究室が発足して9ヶ月で,学生も3名しかいないという,これまでとはまったく違う環境です.
実験室もまだまだ段ボールの山.まともな実験を行うこともままならず,私が入ってやっとスタッフがそろい研究室として本格始動したところです.
正直言って,自分がどう進みたいのか? なんていうことをいまになって悩みだしています.とはいえ,目の前に
片付けるべき仕事におわれて,時間が過ぎてしまう毎日です.
なんとか,この機会を欲張って,大いに自分の為に使いたいと思います.
近況はこんなところです.またご連絡いたします.暑くない夏,なんともすっきりしません.体調を崩されぬよう,ご自愛ください.
* トビ級で、四年生をやらずに院に入った女性。トビ級したがよいか、四年生をやはり経験するのがよいかと相談された昔が懐かしい。一年トクをすると思わず、一年ソンをするのだと思い、その分を気を入れて励むようにと、トビ級を奨めた。歌舞伎を見せてくださいと頼まれ歌舞伎座で三人だったかで白波五人男の通しを大いに楽しんだのも懐かしい。おそろしくむずかしいことを研究していても、ときたま、わたしに、噛んでふくめるように解説してくれる人でもある。
* 秦先生 少しだけわがままを言わせて下さい。下手な文章をお送りさせて下さい。誰かに読んでもらわうなどしなくてもいいのかもしれませんが。でも、読み手がいる、と少しだけ思いたいので。読み流してやって下さいまし。
——————————————-
そのとき私はミラノにいた。
八月のミラノの光は噂に聞いていた通り鮮やかに強く、乾いた空気の下、その光で肌はちりちりと焦げそうであった。
ロンドンでの仕事が終わって一息、ミラノでの仕事はロンドンにくらべるとごく気軽で、私は初めてのイタリアを満喫していた。
主人から「電話を下さい」というタイトルのメールが入っていたのは、半日ほど肌を焦がして歩き回って帰ってきたホテルでのことだった。今まで旅先から電話をしたことはほとんどない。
普段から穏やかな語り口の彼が、一段と訥々と語る。「お姉さんがね、植物状態に入っていると電話があって・・・」
肺塞栓。一瞬で魂が空に浮いてしまう発作だ。
明日の午後には延命装置を外すという。
時計を見る。日本では既に明日になろうとしている。
今飛び立てば間に合うだろうが、私の搭乗券の日付けは明日の午後。航空会社は閉まっている。割引チケットなので、書き換えは不可能かもしれない。
現実感の伴わないまま、同行者とともににホテルを出、何食わぬ顔で夕食の相談をしながら歩き出した。
ミラノはまだ透明な西日が街を支配していた。ドゥオモは、光によってできた複雑な陰を自らの中におとしこみ、さらに高い完成度を構成していた。
私はイタリアの明るく乾いた空気の中で、ガラスごしの景色を見るように、地球の裏側で今まだ辛うじて地上近くにいる魂のことを思った。その魂は、もう永遠にこの繊細な芸術を見ることはないのだろうか。
結局、最速でも予定より6時間早く着くものしか取れないことがわかった上、取り消しもできず正規料金が新たに加算されると聞いて、私はチケットの書き換えを諦めた。最速の飛行機で帰るにしても、飛行機が飛び立つ頃に装置は既に外されている。
翌日の朝、予定通りの航空機に乗るために、見送りの人とともに車に乗り込んだ。搭乗機の変更がない以上、私は同行者の誰にも事情を話すつもりはなかった。
車が走り出すと、この数日で既に見慣れてしまった煉瓦造りの壁が車窓に流れ、そこに強い朝の光が織りなす大胆な造型が映っていった。この造型も、もう姉は見ることはないのだろうか。
突然、私は姉はもうこの世にいないのだ、と思った。姉がこの造型を見ることは決してないだろう。装置をいつ外すのか正確には聞いていなかったし、装置を外した後にどれくらいの時間この世にとどめておけるのか、そしてそうできる確率がどのくらいか、私は全く知らなかった。
ただ、昨夕ドゥオモを見上げた時には地上近くに引き止めておかれていると思った魂が、今は手の届く範囲にはいないことだけは確実に感じた。それまで一度も流れなかった涙が頬を伝ったから。
東京に帰った後、私はちょうどその時間に姉の装置が外されたことを知らされた。
—————————————————————————–
再婚したばかりの姉でした。でも、結局は、そのことが姉の命を縮めました。
お気に障られたらごめんなさい。
少しだけ、文章にしておきたかったものですから。
学生気分で先生に甘えて送らせて頂いています。どうぞお読み流し下さい。
* mourning work=悲哀の仕事である。心して読んだ。光彩鮮明に印象深く書けていて、この涙をたしかに受け止めて逝ったであろう人の平安、この妹である筆者の平安を、あわせ祈りたい。
* 秦先生、残暑お見舞い申し上げます。大変御無沙汰しております。しかしホームページはほぼ毎日のように拝見しております。相変わらずお忙しそうですね。しかし、そんな中でも歌舞伎や花火を御覧になったり、仙台まで旅行に行かれたり、充実した日々を送られているようで素晴らしいなあと思います。
実は昨日ホームページを拝見したら、名古屋で一泊されるかもとのことでしたので、それでしたら是非名古屋を御案内しようかと思い、メールを書きかけていたのですが、その後再度ホームページを拝見したら、他にもそういう申し出があって、断られたとのことでしたので、私の書きかけのメールも削除したところでした。是非、今度名古屋近辺にお越しになる際にはお声をかけて下さい。
私の方は相変わらずの日々を送っております。先日岡崎の花火があり、見に行きました。といっても研究所の屋上は花火見物の絶好のスポットなので、単に屋上に上がっただけなのですが。
二万発の花火ということでかなり規模が大きく、期待していたのですが、正直言って少し期待はずれでした。最初の頃に上がった花火はいびつで、じゃがいものような形のものばかりで、色も大して綺麗ではなく、これがずっと
続くのかと思うとかなりがっかりしました。下手な例えですが、初めて入った食堂で、不味いカレーライスを食べさせられたような気分です。
大体カレーライスというものはどこで食べてもそんなにハズレを引かないものと思うのですが、そう思って注文して
不味いのを出されると、「ああ、カレーライスでも不味く作ることはできるんだ」と思いますが、花火に関しても今までこんな不満を持った事はなく、見に行けば大体満足して帰ってくるのが普通だと思っていただけに、正直、驚きすら感じました。
後半になってからは大分凝ったものも増え、なかなか良かったのですが、惜しいのは数カ所から花火を上げているにも関わらず、各打ち上げ場所の連携が全く取れていないようで、それぞれが勝手にどんどん花火を上げている状況なので、同時に良いものがあがってしまったり、どこからも花火が上がらなくなったりといった時間帯ができてしまったりといったことがありました。岡崎の人にとって花火は自慢の一つらしいので、あまり馬鹿にすると怒られそうですが、なんとなく本物が手に入らないので模造品で我慢したような気分です。
実は、ちょっと夏に入って病気をして、治療に行ったりしているうちにずるずると夏を過ごしてしまった感じです。病気自体は深刻なものではなく、もう大分いいのですが、なんだか怠け癖がついてしまったのか、雑用が多いせいか、
今一つ仕事に身が入らない状況です。なんとか気を入れ直して頑張らなくては。
まだ日に寄っては暑い日もあるかと思いますが、お体に気をつけて下さい。
* 花火とカレーライスとじゃがいもの話が、この学生クンらしいおもしろい調子で、笑ってしまった。名古屋でお誘いのあった人は、この彼と同じ岡崎の読者で、この研究所の彼も誘ってごいっしょに名古屋をご案内しますがということだった。これもおもしろい。
* 土 2003.08.21 小闇@バルセロナ
空が低い。遠くにあって実体のないものが、不気味にのし掛かっている。もうすぐ嵐になるだろう。雨は、燃え上がる松林の炎を鎮めても、乾き切った大地を傷めつけてゆく。きっと、いつものように。
渇き過ぎた大地は、水を拒む。なんと皮肉な話だろう。亀裂が入るほど乾いた植木鉢に、水をやってみればいい。沁み込むより先に、鉢の縁から溢れるから。雨も同じ。勢い得た水は、地表を削り盗り、海へと流れ込むだけ。
悪循環というのだろう。水のない地に植物は乏しい。深い根や広い葉は張れないし、たとえ葉が落ちても、それを分解する微生物が少ない。いきおい、土地はいつまでも痩せた状態から脱出できない。
そんな土地に育つのが、松。ここには松林が多い。浅い根しか張らない松は、大雨が降れば、簡単に根こそぎもがれてしまう。大地には、松を支える力はなく、松には、土を繋ぎ止める力がない。そして、両者を巻き込んで、水は走り去ってゆく。
森は水の貯水池、樹が土をつくる、と学んだ。水が沁み込まない、この乾いた大地を見るまで、結局は何も分かっていなかった。
水と土が森を育み、森と土が抱き合って初めて、そこに水が溜まる。雨が降った今日は、懐深い土が懐かしい。
* 書き手の彼女の「専攻筋の感想」であり話題である。こう教えられて、ああ、そうなんだと思い当たることがある。
* こういう手応え豊かな通信に接していると、なかなかわたし自身の東工大「卒業」は難しい。
2003 8・22 23
* 蛙、旅に出る 2003.08.22 小闇@バルセロナ
「フランス、イギリス、オーストリア、、、モロッコ、、、日本。全部で19カ国。」日本、と列挙する際の、誇らしげな口調に嬉しくなった。義父母が、今まで訪れた国を数えている。おとといの姉の誕生日パーティで、世界50カ国も周った夫婦がいたとか。外国旅行が別段趣味でもなく、外国語が達者でも何でもない義父母で、20カ国に近い。
日本から20カ国行くには、、、その度に、奮い起こさなければならないはずの勇気の量を想うと、急に切なくなった。
映画に出てきそうな、古めかしい佇まいのHauptbahnhof(中央駅)。
あの日…、外国が初めての私は、緊張した面持ちで、駅に列車が入ってくるのを眺めていた。日本と違って、ホームが低い。電車に乗るにも、一々ステップを登らなくてはならないから大変だ。それでも、知らない人同士が手を貸し合っている様子は優しく、いつの間にか微笑んでいた。降りる人を見送って乗り込もうとすると、目が留まる。扉のガラスに、各停車駅を書いた紙が張ってあった。
ミラノ。
一瞬、呑み込めない。
今着いたばかりの列車は、つまり、信じたくはないけれど、つまりイタリアから来たということ。今、私がこの列車を前にしているのと同じように、今朝ミラノ駅で、この列車の前に立っていた人がいた。
言葉を失った。これほどの決心で日本からやってきた国ドイツが、この列車にとっては、ただの通り過ぎる一つの国でしかない。そう思うと、急に胸が締め付けられるように切なくなった。
私がいた国日本では、どんなに離れていても、始発駅と終点駅は同じ国にあった。この電車に乗って、どこか知らない世界へ行ってみたい。そんな逃避への憧れをもつ人間も、今思えば、背後でいつも母国に見守られていた。
電車に乗るだけで、本当に知らない国に行ってしまう。言葉も民族も違う世界に。あまりのスケールの大きさに、自分が育ってきた世界が、如何に小さな、限りのある島であるか思い知った。私が闘いを挑んだのは、ドイツという一つの国ではない。無限に広がるヨーロッパだった。
* 井の中の「蛙」と謂う題であるらしい。いかにもありそうな感想で、その場にたてば似た感想をもつだろう。それにしても「闘いを挑んだのは」といったところに、バルセロナの小闇の意気が露われる。もうそこは通り抜けてきたから、「だった」と、こう書けているのだろうが「闘い」は続いている気配もする。ま、頑張りすぎないでふくよかに深い視線を「ヨーロッパ」に差し込み、しかも洞察の利いた「日本」像も描き直して欲しい。 2003 8・23 23
* 手術を終えたベッドからも、心待ちにしたメールが届いた。つつがなく回復へ向かわれるように。
* おかえりなさいませ。急に暑くなりましてのご旅行でしたが、お疲れはとれましたでしょうか。
二十一日にはご招待券を頂戴した「三井寺」を、友人と鑑賞させていただきました。東京もどんよりした蒸し暑さでしたが、能楽堂の中は気持ちよく冷えたシャンパンのようでした。
お能は大好きながら初心者ですので、初心者なりの感想を申し上げます。
梅若万三郎は私が今まで観たこともないような美しいシテでした。どれも似たような能面ですのに、演者によってまるで別人のように見えてしまいますのが不思議でなりません。面痩せした「母」役の能面の表情が、ひたひたと哀しみに彩られ凄艶でした。時々その母親の悲しい目元から観客の私が真っ直ぐ見つめられているような瞬間があり、その度にひやりとしました。
稚児役の小学校一年生か二年生くらいの男の子が、長い時間舞台の上で同じ姿勢で坐っているのが感心だわと目をやったそのとき、男の子が思わずあくびをして、しまったという顔をしました。そのようすの可愛かったことったらありません。抱きしめて私の息子にしたいと思ったくらい。ですからいっそう母子再会の場面が嬉しく、感動的でした。シテの万三郎が喜びの涙を流すのにつられて、私も泣けてまいりました。
夏の素敵な一夜をプレゼントしていただきまして本当にありがとうございました。翌日は携帯電話会社の強引かつ巧妙な基地局アンテナ設置の申し出を、素人の私が、書類の、電磁波に関する嘘の記述を証明して反駁するという実にいやな仕事がございましたので、きっとこの一夜がなければ耐えられませんでした。絵空事へのご招待心より嬉しく厚く御礼申し上げます。
今晩こそゆっくりおやすみになられますように。
* 万三郎の「三井寺」だと、まさにこういう感想になるだろう、なって欲しいなと願っていたとおりのメールで、代わりに行ってもらえ、本当によかった。能だけは、券があるから誰にでもというわけに行かないし、「三井寺」はことに差し支えさえなければ悦んで出掛ける能だけに、無駄にしたくなかった。万三郎の美しい能を分かる人に観てもらいたかった。子役のあくびがおかしい。ムリもない。
2003 8・23 23
* 講演会をふりかえって 久し振りにメールをします。前回メールをしたのは5月初旬だったでしょうか。あの頃はいろいろと会社のことで頭を抱えていましたが、その悩みも何とか乗り切り、また、毎日忙しく建築しております。
金曜日は突然、講演会にお邪魔しまして、もうしわけありません。来ないでくれといわれましたが、私が聞きたい気持ちの方が大きくなってしまったものですから。
21日の夕方まで仕事が忙しく、「行けるか、行かないか」と悩んでおりましたが、馬篭で先生の話を聞けるのはもう二度とない、まぁ、明日は明日しかないと感じ、ギリギリまで仕事をし、日程調整をして出かけることにしました。
まず素直に申し上げると、私は藤村の作品を一つも読んでおりません。気になっていた作家ではありますが、そのイメージの重さに手をつけられずにいた、といったところです。作品も知らずに講演に耳を傾けるのは意味があるのか、と批難される方もいるかもしれませんが、講演会を機に読もうということになればな、と思ったのです。(講演内容から、この思いは正しかった、と思いました。)
それはまた大学時代の授業のように、先生の話を聞く状況に自分を置くことによって、先生の話からなにを掴めるか、と、自分を試すことでもありました。まぁ、途中ウトウトとしてしまった部分もありお恥ずかしい限りですが、自分への思惑通りやはり考えさせられる部分があり、興奮しているところです。これを覚ます方法として少しまとめてみようと思います。
今回の講演を、私なりにまとめれば、藤村を、作品論ではなく、作家論的にを語ること、もしくは作品と作家の関係を語ることが大枠を形成していたと考えられます。
これまでの先生の、文学に対する私達への語り方は、基本的には作品論の積重ねによる作家論とでもいうような語り口だと感じてきました。しかし先日の講演は、作家論から導き出される作品論を展開されていたように思われました。つまりこれまで先生の話し方といいますか、作家と作品の関係の捉え方からすれば、その方向が逆になっていたのです。
これはどちらが正当とかいうことではなく、どう語り口(論点=断面)を切り出せば伝えたいことが伝えられるかという、方法の選択であると思います。深く考えれば本質的な違いを表しますが、正当不当という問題ではありません。しかし、大変重要な違いです。表現された作品によって作家を見るのか、ある作家によって生み出される作品を見るのかでは、見えてくるものが(語りうるものが)違うからです。
私としては、作品だけが存在すると考える方が好きな方向なので、今までの先生の語り方に共感していました。(作品は、作家を離れて語れるものでもありますが、やはり深い理解のためには作家についての知識及びその時代に対する知識があったほうが的確な把握が出来るとも、思ってはいます。)
しかし、それをあえて逆向きにする意図を、先生は、もっていたのだと講演後に感じました。
先生は、作家である自分を引き合いに出し、具体性を強く与えながら、作家藤村について語りました。それは、自分の手で動かしている「ペン電子文藝館」と「湖の本」が持っている政治性を語りながら、先生と藤村というまったく違う時代を生きている作家とを、逆に合わせ鏡のように語っていくやり方で、藤村の現代性と現在の政治とを直接結び付けてしまうという離れ業でした。といっても、これは先生の小説で用いられる手法であり、現実世界で行われる講演においても巧みな手つき成し遂げられました。(私がそれに気付いたのも、この文章を書こうと思った後ですから。)
さらに、ここでは「家」の問題を取上げていることも、先生と藤村の「相違と同一」を同時に表していました。
このような「二人」の作家を語ることは何を意味するのでしょうか。私はこう考えました。
それは作家を静的に捉えるのではなく、動的に捉えてほしいと先生が考えたのではないか、ということです。そのために先生は、作家藤村のあった姿(ある姿)を語るだけではなく、作家藤村の見ていた(見ている)ものを、現代に生きる先生を通して語ったのではないでしょうか。この講演は、作家の人となりを語る上滑りの作家論ではなく、表現者としての作家が間近に、切実に見つめていたもの、表現せざるをえなかったもの、語らざるをえない誠実さ汲み取る作業であったのではないでしょうか。
つまり作家のあり方を問題にすることを、作家に何が見えているか、という、表現者としてより具体的で切実な問題を主題として語ること、これが作家と作品の関係を語る向きを「逆にした」意図だと感じました。
さらに、言い過ぎを覚悟で言いますと、「作家の政治性」をどう捉えるかが、切実な問題として先生の中に座っているのではないでしょうか。それが作品を生み出すことと同等もしくはそれ以上の重みを持っていること、「現在」よりその重みを増して持ち始めていると言わざるをえない、と、感じていいるのではないか、と思わざるをえません。
講演の語り方とは別に、もうひとつ考えさせられていることがあります。
それは、作品論を語る前提としての作家論を語った後の、具体的な作品世界についての一節についてです。
先生は、藤村の(ことに「嵐」に至る以前の)作品は「暗く、騒がしい」世界を(いくらか響く調子で)表現していたと話されました。
この「暗く、騒がしい」という表現がとても気になっています。
ここで「暗く、騒がしい」世界を想像してみると、非常にビジュアル化することは難しい。しかし、確かにそういう世界が「ある」という確信だけは残るのです。深く沈んだ心の世界がざわめくような、そういた感じとでも言えばいいでしょうか。真っ黒な世界であるのに、その色の中に騒いでしまう何かがいつもある、そういった得体の知れない何かを「暗く、騒がしい」は表現し得ているように感じたのです。
最近は、表層的な表現を現代的だととらえる場合が多い、現代藝術及び建築の世界ですが、これを字義通りとっては、それこそ表層的な表現になってしまうのではないか、と感じています。そういう表層にも、先生の言われた「暗く、騒がしい」世界を表出するようなやり方が、その表層のどこかに得体の知れないざわめきを忍び込ませるよう
なやり方があるのではないか、と考え始めました。
表現を考えていく上で、今後も「暗く、騒がしい」世界を見つめつづけていきたいと思います。
以上、二つのことを、この講演会において感じ、考えることができました。単純な問題ではないし、表現者としての自分を考えると、「では、何をすべきか」と突きつけられている思いになり、ツライですが、あきらめずに考え、動きたいと思います。
まとまりのない文章となりましたが、お許しください。非常におもしろい講演会を、どうもありがとうございました。 柳博通
PS. 松本清張に関してはまたお聞かせください。今の先生の主題に最も近い存在なのではないですか。
* 篤実。疾風のようにひらめいたものも、掌中にじっくり鍛え直すタチの少壮建築表現者が贈ってくれた、熱の籠もった、クリアに堅実な「卒業」の挨拶である。きびきびと佳い文章になり、大学時代のようにぐるぐる回旋しないで、小気味よく腑分けして行っている。文章も長足の成長、と褒めておく。
藤村作品を一つも読んでいなくて、あの九十分講演をただ耳に聴いて、こう腑分けしてくれた、勘のよさ。
当日の「講演録」そのものは、ホームページの「講演録」一のファイルに入れてあるから、柳君は改めてまた見直してくれることもあるだろう。
忙しい勤務のさなか、それも金曜日といういう日に、あんな遠くまではせ参じてくれたことは、一つには島崎藤村と「馬籠宿」の力であり、柳君の場合は、谷口吉郎設計になる「藤村記念館」の建物も、多くを以ていつも呼びかてくるに違いない。この記念館の建築ぶりについては、わたしが「木曽で話す」と知ると、すぐさま教えてくれたのが柳君であった。
顔を合わす機会こそ容易にもてないお互いの忙しさなれども、このように気持はちかく親しくいつも通い合っている。講演中も、ああ柳君がむかし教室にいたときと同じ顔をして聴いてくれていると、感じ続けていた。不思議と安心な心地だった。有り難う。励まされているよ。いい夏になった。
2003 8・25 23
* 免許 2003.8.25 小闇@TOKYO
年末商戦に向けた年賀状作成ソフトの新版が、ちらほらと発表されている。
来年は申年。昭和十九年申年生まれの父は、来年還暦を迎える。三つ違いの母は五十七歳に。日常で親の年齢を意識することはほとんどない。改めて六十と五十七かと思い、従って私は来年三十二歳になるのだと認識する。
その五十七歳になる母が、調理師の試験を受けると言いだした。
父は一介のサラリーマンであり、実家は特別に裕福な家庭ではなかった。が、母が働きに出ることも、自動車の免許を取ることも、父は許さなかった。本当の理由は知らない。母の口を借りれば、それが「お父さんのプライドであり見栄」であった。
私は何度も母が、仕事をしたかったし、車の免許も欲しかったと言ったのを聞いている。そうすれば、私にピアノを習わせることもできたし、学年的には年子の弟と妹の幼稚園の送り迎えも楽だった、と。
その話を聞かされていた頃、私はそれを甘受している母を理解できなかった。地方の名家に訳ありの末娘として生まれ、女子高を卒業し地元の商工会議所に勤め、母を看取って見合いをし、義姉に追われるように父の元に嫁いだ母が、どうして「やりたいように」やらないのか、判らないでいた。
それをまたなぜ、空襲で淀橋の家を焼け出された長屋住まいの一人っ子で、父親の勤める会社が倒産したことで大学進学ははなから諦め工業高校に進み、母を亡くしその父と二人で暮らしていた私の父が、許さなかったのかも、想像もできずにいた。
母は、私が二十五歳になった頃、父の言うがままに私を育てたことを悔いているというようなことを言った。つまり、髪は常に短くし、ピアノを習わせずともバイクの免許は取らせ、電気系に進学させたことを。
私と妹とをなぜ同じように育ててくれなかったのかと、思ったことはある。七つ年下の妹は、髪は長く、バイクなど興味はないがエレクトーンを持っていて、私学の文学部を出ている。身体が弱かったこともあって甘やかされて育ち、私のことは呼び捨てにするくせに自分にはちゃん付けの妹。
今ここへ来て、調理師の免許を取りたいという母には、妹をそう育てることに、私への贖罪の意識があったのではないか。そしてようやく、自分のやりたいことに手を伸ばしている。
四半世紀後の私は、何か新しくやりたいと思うだろうか。
受験を知らせるメールには、受験資格の「一日六時間かつ週四日以上調理に従事している」証明を、今勤めている特別養護老人ホームが出してくれるかどうか判らない、とあった。
出して欲しい、と私は思う。老いた母を前に言うことではないが、親バカとはもしかして、こういう気持ちなのかも知れない。
* これまた気持のいい文章だ。お母さんに添いよるように理解をとどかせながら、父も妹も、あれやこれやも、短い文章で適切に、一刷け一刷けで適切に語っている。スケッチと述懐と、どこかで自身をやわらかに励ましている気味も窺え、好もしい。柳君も小闇サンも、知性を底支えている「気持ち」という温かいものを感じさせてくれるのが嬉しい。おかあさんの勉強が実るといいなと思う。そう、わたしにしてもそうだ、亡くなった秦の父や母の歳まで生きるなら、まだ三十年の人生が待っている。十年集中すれば何かには成るものだとすれば、だれもだれも諦めてしまわぬがよい。
2003 8・25 23
* 私に「卒業」などといわないでください。
お送りしたメールも、内容に飛躍があり、読んでいて「?」となる部分が、どうしても改められなかったのですが、生きた感想をと思い、推敲半ばで送ってしまったものです。これで「卒業」といわれては、こちらが困ります。
この秋には必ずお会いしたいと思います。先生の都合をお聞かせください。私と丸山はその都合にあわせます。
* 柳君に、「卒業」を拒絶された。ハイ、分かりました。
* 神奈川の今朝は、真紅の「朝焼け」と西に半円の大きな大きな虹が出ていました。天気が崩れる前兆ではありませんでした。
しかし、技術屋のお弟子さんといいますか、素晴らしい文章と主張を持って「書く」。建築という自分の作品が「目で見られる」。説明は無し。構造か、設計かその他か。詩心のある方のように思いますが。氏の清々しい飾らない文を読ませていただきました。さらりと谷口吉郎の話をされる。数ヶ月ぶりのメールであることを知りました。居眠りもしたようですが核心の「講演報告といいますか手紙」は、いい。作家論。先生の作家論も夢ではない。多くを学びました。感謝のメールです。 E-OLD 川崎
* 再会の宴 2003.08.25 小闇@バルセロナ
出されたものは一つ残らず食べる、ように育てられた。幼稚園から中学三年生まで、「ごちそう様」を唱える私の給食の盆は、いつも見事に空だった。おりこうさんのなせる技か、あなたは嫌いなものが何にもないと、母の暗示にうまく乗せられたのか。もちろん、何でも食べられることが、今の私にはとてもありがたく、誇りでもある。
生の塩漬け鱈にパプリカ、玉葱、オリーブを和えたサラダ、とカレーライス。今日の昼、サラダを少し残した。お腹が一杯の時は、無理して食べずに残すようになったのは、この四、五年のこと。残す害とお腹を壊す害とを、天秤にかけることを学んだ。
食べ物を残せるなんて、贅沢な時代になった。確かにそうだと思う。正確に言えば、残すこと自体が贅沢な行為なのではなく、残しても大丈夫な程そこに食べ物があることが贅沢なのだろう。
あの時代……、おいしそうに草を食む牛たちを見て、母は、牛になりたかったと言う。
飛行機の機内食を、無理して全部食べないよう、母に念押しする。耳を貸して欲しいから、優しく。食べたいならどうぞ。でも、夕食には美味しい物を用意して待っているから、お腹を空けておいてと。
(…何年も以前の話。)
母が、留学中の私を訪ねてくる日は間近、その週は落ち着かなかった。長旅の疲れはいかがなもの。お腹にもたれず、ドイツらしい軽食を。母が喜びそうなものを思い描いては、間違いのないよう、試し買いに出た。
当日、物置兼勉強机兼食卓に並んだものは、数種類の味わいあるドイツパン、サーモンに似た風合いをもつ、飛び切り上等な燻製ハム、好物のチーズ一盛、真赤に熟れた巨大ないちご。翌日からは遠出の予定、買いすぎてもいけない。
一通り見回しながら、母は目を輝かしてくれた。そして、ひどく申し訳なさそうに、「実は、お腹いっぱいなの」と。
列車はウィーンに向かっていた。旅の終りに、二人とも疲れの色は隠せない。窓の外を見ていた母親が、ふと振り返った。
……到着した日、分かっていたのに、せっかく用意してくれたものを食べられなくて悪かった…。でも、お母さんの時代に育った人は、食べ物を残すことができない。たとえ、あなたがばかにする機内食でも。あなたは、ひもじい思いをしたことがないから、お母さんの気持ちは決して分からない。
伝えたかった…。驚くほど声が震えてくる。母に、どれだけ私の気持ちが分かるというのだろう。言葉より先に、泪が泪が溢れてきて、向かいのおばさんが慌てているのも、もうどうでもよかった。
列車が駅に入る。ホームでは、友人夫婦が手を振っていた。夕食には、確かフォンデュを用意してくれている。
* 英語やドイツ語を習った頃、時制ということを大事に教えられた。日本語では気を付けていないと、いつ頃の話であるのかが混乱する。書いている当人には分かり切っている時制が、読み手にはわかりにくい。わたしの小説では、ポンポン時代が跳んで変わり、よけいに難しくなると苦情をよく聴いた。
上の一文も、わたしの理解が間違っていたらご免なさい、だが、あえて(何年も以前の話。)と間投詞をはさんでおいた。もう一つを云えば最後の所の「伝えたかった。」に今一押しの読者への親切があるといいのかな。具体的でとてもいい述懐で、しんみりした。
* 朝「嵐」を読みました。正確にいえば、三分の二ほどに目を通したというところでしょうか。父ひとりとなって四人の子どもの一人一人の個性と付き合っていく姿、手狭になってきたけれども住み慣れた「家」を住み替えることをめぐっての想い、などが時を越えて伝わってきました。家の外も中も嵐。
ああ、私もいくつかの嵐の中をくぐりぬけてきたつもりですが、現実の姿は間抜けで頼りない風情。くるくると周りの人間関係に振り回されて、今も風の中の木の葉のよう。 神奈川県
* この人も藤村のことはほとんど何も知らなくて、木曽講演の演題から「ペン電子文藝館」の『嵐』をダウンロードしたらしい。たしかに「嵐」では家の外も内も嵐だという藤村その人の述懐が芯に生きているけれど、そういう述懐から書き起こされていったこの作品は、彼の久しい「おぞき苦闘」からの、辛うじての脱却・新生・再生・甦生の兆しに落ち着いている。文体は平談するに似て卑俗でなく、静かなのである。わたしはこの作品を「破戒」から「家」から「新生」からの「到達点」として読み、そこに真の新生・再生・甦生と同時に、後期の静かな文体の出発点をも見ているのである。
正直のところ少なくも「家」「新生」の二作を通らずに読む「嵐」では、上のメールの人のような、アバウトな把握で終わらざるを得ない。藤村の場合は、一つの作品に入る前に、また前駆した作品が切実にものを云っている。
「家」を読んでから「嵐」に、「新生」を読んでから「嵐」に、さらには「破戒」がどのようにして未曾有の「緑陰叢書」なる自費自家出版として成ったかも知った上で、「嵐」「分配」等の名作に至ると、おどろくべき世界がそこから自分の魂に吹き流れてくるのを悟るだろう。
作家の作家自身の手になる出版の先駆は、島崎藤村の「緑陰叢書」に在り、その後続がわたしの「秦恒平・湖(うみ)の本」なのである、出版史・文学史的にみて。「ご縁」をもとにわたしが木曽で話した大きなポイントは、そこに在った。
* The dogs bark, but the caravan moves on.
a hard days night = マンギョンボンがやってきた!ヤア!ヤア!ヤア!
* 上の一行は、小闇@TOKYOの「闇に言い置く」常置のステートメントであり、下の一行は、毎日の記事に先だって出されるメーッセージである。表出が面白く、わたしは楽しんだり、首をひねったりする。
2003 8・26 23
* 恒平さん 湖の本、ありがとうございます。
「灰色の家」の余韻がまだ覚めやらぬところ、ちょうど、恒平さんや藤江さんが、そして私の母が、中学、高校を過ごした頃の京都に想いを馳せていました。恒平さんより二学年下の母は、恐らく藤江さんの同期、皆知らぬところで交叉していたのでしょうか。私にはあの頃の京都が、とても懐かしく感じられます。
私が懐かしい、なんておかしな話でしょう。でも、不本意な人生を送ってきた母の唯一の楽しい思い出、繰り返し聞かされた鴨沂高校の思い出ともなれば、それが私の想い出に重なっていっても、おかしくはないのかもしれません。「母の松園」で、また、京時代の母と、その後の母と私の関係を想わずにはいられませんでした。
私の母への愛情は歪んでいる、最近ふとそんなことを感じます。私が、母の反対に逆らって大学院をやめ、スペイン行きを決心できたのも、私が、大学に行かせてくれなかった祖母を恨み続けた母をずっと見てきたからかもしれません。母は、自分の人生を祖母や私のために捧げ、私は私で、母の(喜ぶ)ことが何よりでした。それでも、他人のために生きる、生きられることがどういうことか、少しずつ分かりかけていた頃。あの日、自分のために生きることを選んだ私は、初めて母を「赦し」ていた気がします。27歳の夏、長い道のりでした。
「再会の宴」は、「飛行機の機内食を、、、念押しする。」から最後までが、実は一続きの話です。あの時、母が機内食を無理して食べることは目に見えていたので、予め制したつもりだったのですが、、、
闇に言い置くのも、呪縛を解くように、母との絡み合った感情の縺れを消化したいからかもしれません。
母を想うと、「片想い」や「幸福」の詩が思い出されます。母にも幸福を追って欲しいと。 小闇@バルセロナ
* 書いてみて、確かめて行く、それをこの人は的確に意義づけてきた。書かずに思っているだけでは、此処まで来るのにもっとはるかな未来を要したかもしれない。呻くように書き、書いて視界を澄ませてきた。意志の毅さがある種の歪みを魔法のように正しかけている。それがこの人の「幸福」を追う意味であった。「幸福を追わぬも卑怯のひとつ」であった。
「片想い」と書いている。それは教室で示した窪田空穂のこんな歌の記憶が、いや記憶ではなく生存が云わせている。
たふとむもあはれむも皆人として( )思ひすることにあらずやも
今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその( )おもひ 窪田 空穂
『青春短歌大学』(平凡社版 湖の本エッセイ23)で、この二首について書いたことを以下に再録しておく。(校正はやや足りていないかも知れないが。)この歌の、せめて「片思ひ」という一語だけでいい、時々思い出して欲しい、いやあなたがたは忘れない、と話したのを覚えている。
☆ 痛み
たふとむもあはれむも皆人として( )思ひすることにあらずやも
今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその( )おもひ 窪田 空穂
虫くいには、同じ一つの漢字を補うように出題した。さて作者は……。いやいや作者の説明などはじめると、とたんに学生は退屈する。東工大の学生は概して人名、ことに文系の大物の名前に無関心であり、また、知らない。太宰治は通用しても小林秀雄は通じない。ときめく梅原猛などでもテンで通じない。まして突然の短歌の作者を、有名であれ無名であれ、それらしく納得したりさせたりするにはずいぶんな言葉数と時間とを要する。それは困るから、歌人についての解説は原則として省く。窪田空穂ぐらいな人でも、近代の短歌の歴史でベストテンに入る立派な人としか言わなかった。学生は当面問われている作品にしか意識がない。短歌史の時間ではないのだから、それでもいいとしている。
四七四人中で、「片」思ひ、と入れた学生、一二七人。四人に一人は超えた。好成績であるが、こう答を知ってみれば、こんな簡単で通常の物言いが、なんでもっと多くないのかと呆れる人もあるだろう。
一年生は五分の一しか正解していない。二年生になると、三分の一近くが正しく答えている。一九歳と二〇歳とのたった一年の差だが、ここに一つの意義がある。そんな気がいつもする。
試みに解答を羅列してみよう。「物」思い、「親」思いが多い。前者は手ぬるいなりに当たっていなくもない。ただ把握は弱い。表現も、だから弱い。後者だと後の歌に適当しない。意外に多く、「恩」という字を拾っている。なんとなく歌の意へは近づこうとしているのだ。しかし詩歌たる表現にはなっていない。「心」「子」「我」「恋」「愛」「人」「罪」「内」「昔」「熱」「温」「夢」「情」「苦」「深」「相」「今」「憂」「長」や「先」「女」「常」など、ほかにまだ二、三〇字も登場している。
「片思ひ」では、なんだかあたりまえすぎてという弁明が、次の週に出ていた。「片思ひ」といえば恋愛用語であり、この歌に恋の気配は感じられなかったので採らなかったという言い訳は、もっと多かった。空穂のこの短歌は、いわば二十歳の青春のそんな思い込みへ、食い入る鋭さ・深さをもっている。
人の世を人は生きている。世渡りとは人付き合いなのである、好むと好まざるとにかかわらず。無数の人間関係がこみあい、理性でだけの交通整理が利きにくい。人の心情や感情はとかくもつれあう。言葉というものが重要に介在すればするほど、必ずしも言葉が問題を整理ばかりはしてくれずに、むしろ足る・足らぬともに過度に言葉は働いて、不満や憤懣を積み残していくことになる。こと繁きそれが人の世である。
「たふとむ=尊む」も「あはれむ=愍れむ」も、このさいは人間関係に生じてくる一切の感情や言葉を代表して言うかのように、読んでよい。むろん親と子とのそれかと、第二首に重ねて察するもよく、もっと広げた人間関係にも言えることと読んでも、少しもかまわないだろう。要するにどんな心情・感情も、どこかで足りすぎたり足らなさすぎたりして、そこにお互い「片思ひ」のあわれや悲しみや辛さが生じてくる。それもこれも「皆、人として」避け難い人情の難所なのであり、だからこそ自分が他人に「片思ひ」する悲しさ・辛さ以上に、知らず知らずにも他人に自分がさせてしまっている「片思ひ」に、はやく気がつかねばならない……と、この歌人は、痛切に歌っているのだ。
残念なことに、自分のした「片思ひ」ばかりに気がいって、自分が人にさせてきた「片思ひ」にはけろりとしているのが「人、皆」の常であり、自分も例外ではなかった。そう窪田空穂は歌っているのである。しかも例外でなかったなかでも最大の悔い・嘆きとして、亡き「父・母」が、子たる私に対してなさっていた「しましし片思ひ」を挙げている。「今にして知りて悲しむ」と指さし示して歌人は我が身を恨むのである。父も母ももうこの世にない。この世におられた頃には、いつもいつも自分は、父母へ「片思ひ」の不満不足を並べたてていた。なんで分かってくれないか、なんで助けてくれないか、なんで好きにさせてくれないか。しかも同じその時に、「父母がわれに(向って)しましし」物思いや嘆息や不安の深さにはまるで気づかないでいた……。
「片思ひ」も、このように読めば、恋愛用語とは限らない。それどころか人間関係を成り立たせるまことに不如意にして本質的に大事な、一つの辛い鍵言葉であることに気がつく。ここへ気がついた時、初めて他人のしている痛みに気がつく。愛は、自分が他人にさせているかも知れぬ「片思ひ」に気づくところから生まれる。差別という人の業も、これに気がつかずに助長されているのではないだろうか……。
二年生が、一年生よりもうんと数多く「片思ひ」を正解してくれていたことに、「成長」の跡を見ていいと、わたしは、つよく思う。
そんなふうにわたしの理解を語った当日の学生のメッセージのなかに、「秦さんに教わっている多くのことは、いつかは忘れてしまうでしょう。でも、今日の『片思ひ』という一語だけは、忘れません。ありがとうございました」と書いたのが、あった。
たふとむもあはれむも皆人として片思ひすることにあらずやも
今にして知りて悲しむ父母がわれにしまししその片おもひ
巧みであるとかそうでないとか、そんなことだけで「うた」の値打ちを決めてはいけない。どれだけ自身の「うったえ」たいものを「うたえ」ているか、金無垢の真情が詩を育む。巧緻のみを誇るものに、恥あれ。ただし概念的にのみ翻訳されて愬えている詩歌も困る。窪田空穂のこの歌などは、真情のより優ったかつは微妙な境涯にある歌だと言うべきか。
* はるばる呼びかけてきた人よ。お元気でと応えておく。
2003 8・27 23
* 白百合が、丈高く咲いています。おげんきでいらっしゃいますか。
和歌の浦で、潮のかおりを存分に吸い込み、光降り注ぐ広いエントランスが特長の和歌山県立近代美術館で、「黒田清輝展」を見てまいりました。
紀州の晩れゆく夏の陽差しに、清輝の画。ベンチで足を休めていた女性が、
「なんャ眠(ねむ)たなるな」。
「昔語り」の画稿がたくさん。常設展に、不折の作品が一点、出ていました。
天守閣の吹き抜ける風と、山川の眺めを楽しみ、一服しようと入った西の丸庭園の茶室には、籠の掛花入に、秋海棠がいけてありました。 三重県
* 自分も行ってみたような、いい心地になる
2003 8・27 23
* もう一人の小闇さんへ 2003/8/28 藤江もと子
秦恒平様 私達の蓼科行きも好天に恵まれ、高原を歩き爽やかな汗を流して、身体も心もちょっと清らかなものと入れ替わった思いです。
ちょいちょいと「闇に云い置く」を読ませていただいているのですが、もう一人の小闇さん@バルセロナが(そもそも最初は小闇さんが二人とは思わず、一人でTOKYOとバルセロナを行ったり来たり、でも、変だなあ—内容の感じも違うし—??していました。)
拙文を読んで下さった事に驚き、お母様が—あの機内食を全部食べてしまった方が、私と同年の京都の方と知って驚きました。
私の母は(そしてその母=祖母も)鴨沂高校の前身京都府立第一高女の出身で、学区制にならなければ当然私を鴨沂高校に入れるつもりでした。だから私は鴨沂高校には親類筋のような親しみがあります。学区制そのままに進学すれば日吉ヶ丘高校の区域でしたから、今度は秦様の後輩になるところでしたが、母は次善の選択として私を
同志社女子に入れたのです。人の縁はすれ違ったり交わったりですね。
進学校の鴨沂に行っていればこんな苦労はなかったろうと、京大を受けると決めたときには恨めしくも思いましたが、いっそこわいもの知らずで巧くいったのかも知れません。
一人娘だった私の大学進学には何の支障もなかったのですが、友人には、お兄さまは大学へ行かれたが女は駄目というお家もあって、ご自分のお子さまでリベンジを果たされた方は多々あります。だから、お母様の「京小闇」さん(と勝手に名付けました)への思いは、なんとなく察せられます。
ところで母と娘の関係はなかなかややこしいものですね。
私は母に溺愛されましたが、すぐに負担に感じるようになりました。
「母の期待通りにはしない。もう母に理解されなくてもかまわない」と思えた高校2年の時が、母への決別だったと。それは同時に京大を受けようと決めた時でもありました。母は気付いて居なかったけれど。
いっそ母に理解されて居なくても良いと思ってしまえば、何事も乗り越えられました。結婚するときにも十分に泣かれたし—-。
それから平成10年に母と死別するまで、ちゃんと仲良し母娘を続けましたし、母を喜ばすことも好きでした。
母の晩年20年ほどは、私達夫婦はマスオさんスタイル(敷地が同じ)で住んでいて、最後の3年はまあ介護みたいな事もしていたのですが、母が、「あんたも(学歴に見合った)そこそこの偉い人になれたのに」と未練たらしく云うので、「でもね、それだったら、こうして、側で毎日世話なんかしてあげられないわよ」と嫌みの一つも言ってしまいました。
「本当に死ぬまで私の真意なんてわからないのよ、この人は」と思ったのですが、さて死なれて見ると、そのような心を開かない娘を持った母のさみしさに私自身が思い至るようになりました。
秦様のおっしゃるように、母も娘も(だれもかれも)「片思い」なんですね。
私にも、両小闇さんくらいの年令の娘がいます。彼女が私のことをどう思っているか—。母と自分の関係を反面教師にしてきたところがあり、それが良かったか悪かったか。
昨年アメリカに娘夫婦を訪問しました。
私もやっぱり機内食はしっかり平らげました。(パンやおつまみなどは食べずにしっかりバッグに納める”しまつ”ぶりです。)
そして娘の用意してくれていた夕食も、ちゃんと食べました。私は大食いなので幸せですね。
娘の作ってくれたものを食べるのは、母は本当に嬉しいものです。全部食べても、食べられなくても、泪がでるくらい嬉しいことです。
またまた秦様をメッセンジャーにしてしまってすみません。
* こういう「仲介」は、すこしも苦にしない。わたしの「闇」を利して、触れ合うことのなかった触れあいが生まれていることで、わたしの「日々」もまた表現できているし、ホームページという場の「展開」の可能性を想うことも出来る。おのずと取捨する自由もわたしの手にはあり、例えばこういう闊達な老境(失礼!)の思いが、半分よりまだ若い人の胸にどう届くか、それはもう委せておけば済む。
鴨芹(おうき と、云っていた。)高校か。
それならわたしの実兄北澤恒彦が同じ頃上級生でいたんだとも想っていた。京都の高校では伝統久しい一の名門進学校だった。わたしの地域校だった日吉ヶ丘高はまだ美大に間借りしていた新設校だった。
2003 8・28 23
* バルセロナが、「京小闇」さんと呼ばれていた。はからずも、うまい呼び名かもしれない。
* 昔の風 2003.08.28 小闇@バルセロナ
日本に里帰りした同僚が、ユーミンのCDを買ってきた。貸してくれると言う。気の進まぬまま家に持ち帰り、半ば義務で聞いている。やっぱり懐かしい。
「流行りの曲など」聴く術もなかった私も、高校に入ってからは、友人の好きな曲を借りて聴くようになった。ユーミンはその一つ。仲良しのいっちゃんが、熱心にジャケットを写してくれた。
ユーミンを聴くと、あの頃のいっちゃんを思い出す。文化祭の劇で、彼女は「北の国から」のれいちゃんを演じた。私は蛍ちゃん。お決まりの如く、彼女は純君役の木村君が好きになった。二人とも、箸が転んでもよく笑った。
聴覚の記憶って不思議。昔聴いた曲を久しぶりに聞くと、その曲とは離れて、それを聴いた頃の人や心境が甦る。季節の虫の音も、何だかよく分からずに、懐かしい。だからかもしれない。CDは、当時よっぽど好きだった「ニューシネマパラダイス」しか、ここに持って来なかった。それだって、聞いていない。中島みゆきや加藤登紀子なんて問題外。理由は分かっている。センチメンタルになりたくないから。
のれんを揺らす風が、心持ち涼しくなった。CDなら聴かなければいい。でも、この秋の気配は、きっと避けて通れない。
* 短く、適切に書けている。こんなふうに、自分史を「スケッチ」してゆけて、それが文藝であり得たなら「表現」の喜びは増してゆく。二つ、気の付いたことを指摘してみよう。
「流行りの曲など」聴く術もなかった私も、…… と書いてある、前の方の「も」である。此処は三つ書き方がある。(一)聴く術なかった私も (二)聴く術がなかった私も (三)聴く術もなかった私も である。一は、感情をあらわさない事実の直叙で、二もほぼ同じ。三の聴く術もなかったの「も」にはいろんな感情が上乗せされているので、読み手次第で受けとられようが動いてくる。こういう「も」は、書き手が自然に使いたくなる「も」で、自分の置かれた、強いられた、余儀ない情況の意図的な、あるいは無意識ながら提示的な指摘ないし強調になる。読み手は、ああ気の毒にとも、ちょっとイヤミにも、自分もそうだった同じよとも、理解したり反感をもったり共感したりも、するところ。つまり、この「も」には書き手が露出してきて、読み手に評価される「も」なのである。効果もあるが逆もある。
わたしなら、一か二でさらりと流し、他の全体の叙述により読者に印象を委ねるだろう。
もう一つは、「二人とも」の二人が、女同士のれいちゃんと蛍ちゃんか、仲良しになっている男の純ちゃんと女のれいちゃんなのか。一読、わたしはアトの二人と読んだけれど、そしてかすかに書き手は蛍ちゃんの疎外感も謂ってるのかなと読んだ、が、「箸が転んでもよく笑」うのは女同士かなともすこし迷った。もつともあの純ちゃんは男の子だがよく笑う少年であったから、その純ちゃん役もそうであったか。
* 残暑、厳しそうである。
2003 8・29 23
* 朝一番に、バルセロナのメール。彼女の「一期一会」の文章に関して、一つの「も」に触れたことへの、返事と消息。得心するところがあったらしい。元気そうなのが嬉しい。
* 私も、この場合、さらりと流せたらよかったと思いました。
感情は、気づかぬうちに、つい言葉の端々に出てしまうものですね。確かに、感情的に語られる言葉には、それがどんなによいことを言っていても、耳を傾ける気がしなくなります。トーンだけでなく、きっと、こういった助詞や接続詞の乱用に、疲れてしまうのでしょうね。もちろん、肝心な部分を流しすぎて、今ひとつ言いたいことが伝わらなかったりすることも多々あるのですが。
藤江さんのメッセージに、こんなに自分が励まされるなんて、正直びっくりしています。母の年代の女の方にも、母親の愛情を負担に感じ、決別した経験がある、とは。
”みんな自分が一番大変だと思っているんですよ。” 恒平さんのあの言葉も耳によみがえり、何だか気が楽になりました。
”娘の作ってくれたものを食べるのは、母は本当に嬉しいものです。全部食べても、食べられなくても、泪がでるくらい嬉しいことです。”
私もつまらないことにこだわっていました。その点で母と同じ。「自分は、、、のために、こんなに~したのに」と。
そうか、母もあの時嬉しかったんだ。藤江さんのおかげで、あの泪とも決別できる気がします。
明日からまた、二週間の休暇です。スコットランドを、自転車で一週間ほど走り、その後、ピレネーの山脈へ。
2003 8・30 23
*『寝白粉』(小栗風要)も『黒体放射』(佐和雪子)も、雑用に途絶えながらも、読み進んでいます。
若い人の文章は、これは男性か女性かと少し戸惑う乱暴さがありますが、この筆致が内容に合っているようです。
ウンウンと共感の部分が多々ありですが、三人目の子供を出産して生活に追われた多忙な私の三十歳の頃は、学歴、環境等々、内容は違えど、胸底から吐露する場はなかったなと、隔世の感を覚えます。
売文でなく、胸の奥をここまで吐露し発表して見知らぬ人の目に触れる、こんな場を持てるこの時代が、これ又、いいのかわるいのか、とも。大闇さんの影響大なんでしょうね、多分。
順調に進みましたか。
今夜は「ノッテイングヒルの恋人」がありますね。ちょっと歳をとってきましたが、英国の貴公子、ヒューグラントはお気に入りです。
*「黒体放射」線にまともにアテられたわたし世代のおば(あ)さんたちは、いちように、自分はもう御用済みになったようなとまどいに、ため息をつくようだ。たしかに見比べていると、「隔世」の感は避けがたい、とはいえ、実は、佐和雪子と同世代の読者もまたやはり大勢がとまどっている。そこが、おもしろい。
2003 8・31 23
* 発送の仕事は終わりましたか? 残暑は如何でしょうか? 関西は毎日厳しい暑さです。八月下旬伊勢などに行ってきました。僅かの日数でしたが、久しぶりの五十鈴川、伊勢うどんや手こね寿司、夏の海など汗だくになりながらも楽しみましたよ。
器械本体の不調に加えて、ADSLの故障のために接続が極めて不安定な状況になって、やっと昨日直してもらいました。八月の「私語」などやっと読めました。器械は再び、いずれ点検修理に出さなければなりません。が、今日は とりあえずほっとしています。
HPで、さまざまな方とメールされている状況のお忙しさ、そして勿論お仕事を思えば・・やはり根拠地である、あなたのお部屋に暮す、そのことの大事さ、大切さを思います。
わたしは根無し草の自分をいかんせん、外から見れば堅実な「主婦」A子わたしは、風立ちぬ、いざいきめやも、風に誘われてふらふらしたい。決して浮いた気分ではありませんが。でも、怪我なきよう、静かにと、あなたは。
* イーデス・ハンソンさんが、NHK大阪のインタビュー番組に出てらっしゃって、「山が好き」「紅茶が好き」…の前に、「◯より牛が好き」と、字幕。
司会の葛西アナが「さて、何でしょう」といたずらっぽい笑みを浮かべて、「正解は」
「虎より牛が好き」。
「ほんまは、もう(大阪ドームに)、行ってなあかんねん。4時半に入れてくれはるの(試合開始は6時)」
関西ならでは、ですわねぇ。
* タイガースよりも近鉄バッファローが贔屓ということ。「関西」女性もいろいろ、である。
2003 9・1 24
* 長月になりました。もと学生の皆様の「今様であった姿」が「虫食い」でほのぼのと想像できます。真面目な学生時代でしょうか。高校の国語、文学を読む時間もなく塾へ通ったのでしょうか。こんな裏話を、自分の不器用さを棚にあげ、闇を楽しんでいます。
窪田空穂短歌の虫食いはわかりました。「片思い」の澄み切った深さ。なかなか人生で気付きません。
両手と勝手。両手を広げる方。両手を広げて見る。
なにか教室の空気が蝉とともに夏を惜しむというのでしょうか。感謝です。 川崎e-OLD
2003 9・1 24
* 新涼 遅れてきた猛暑に降参。9月、9月、と呪文をかけたら、朝の空に、うろこ雲。風が払って碧天に、始業の鐘が響きます。
名張の旧い商店が、次々ギャラリーになっていきます。
この間、写真展をしていた店が、「伊賀焼新作」と看板を変えていたので、ちょっと覗いてみました。
* この人のメールは常に「短章」で、具体的に鮮明、達人の域にある。その地に自分も脚を置いたような風情に見舞われる。風たちぬ、いざ生きめやも。
2003 9・2 24
* 新たに相当な大人の女性が、「草闇」と自ら名乗って、九月一日から日々の「私語」を書き始めたと云ってきた。最初は、叢=草むらがいかに好きかを語り、二回目は俵万智の「勝手に赤い畑のトマト」の歌に触れている。
率直に云って二つとも練れていない。勝手に赤いなど、もっと滴るような切り口の味わいが、年の劫で有ってもいいのではないか。叢にしても、千坪の別荘のそのままの草むらや草花の話では、あまりにありのままになり、読み手は自分の問題へ繋いで行けない。「私語」だから繋がらなくてもいいといえるが、そうではない。ましてホームページに公開して行くことになれば、いかに「草の闇に言い置く」「私語」にしても何かしら訴求して行く発語の勢いがないと、自己満足の日記に終わってしまう。
若い「小闇」たちは、あれで幾らか我が身の血を流して書いている。だから衝撃がある。
草は、花や幹や根とどうちがうのか。民草といい草莽といい、また博物学や薬学へ道をのべた本草ともいう。いろんな草むらが日本列島にも海外にもひろがっている。子供の頃からの「好き」から、大人になり老境にすらさしかかってその好きがどう育ったり変わったりしたか、そういう壮大な基点や起点や気転が、ものの始めにバンと出ると、連載のつよい位取りがが出来たかも知れない。
「私語」をただの私語に終わらせない年の劫を大いに期待したい。これはおそるおそる手探りでやるより、天下に我一人と想ってやることだ。「言い置く」に値する瞬間風速を期待したい。
2003 9・2 24
* ご無沙汰しましたお元気ですか。9月になってしまいました。
休みを取って、いろんな用をしました。7月の末から暑い盛りのヨーロッパにいましたが。
帰ってきて、本(青春短歌大学下巻)に接して、アノころを懐かしみました。未だに、ライオンは、余計なことを言ったと恥じています。きっと寂しかったのですねアノころ。今は寂しさも、透き通るようなさみしさになったと思います。
今年は、涼しいいいところは東京だったのかもしれません。たくさんお話ができるといいのに、と。
* 寂しい人もさみしい人も、少なくない。まして秋へむかえば。
蝉なかず なぜなかないか なかないか。 遠
2003 9・2 24
* こんばんは。「e-文庫・湖(umi)」掲載(小説「夢の途中」)ありがとうございました。そして、メール文の改行では、お手数をおかけいたしました。
物語と文章の魅力について考えています。
魅力を感じる作品が、以前とは変わりつつあり、混沌としています。そのもやもやが、物語の突き抜けない弱さとして表れてしまっているのかなと思いました。強い把握と気迫が必要ですね。
佐和雪子さんの「黒体照射」と、バルセロナの方の書かれたものに、共感をおぼえることが多いです。
特に、ご両親についての文章は、わたしが自分で書いたように錯覚することがあります。同世代という親しみも感じています。お二人共、優秀な方なのでしょうね。
湖の本の新刊が届きました。ありがとうございます。はじめの方を読んでいます。原作どおりにいくつか虫食い部分を埋められたので、今ちょっとごきげんです。
奥さまのお体、大切にしてくださいね。おやすみなさい。 吉田優子
* <<本が届いて学生に戻る九月二日。>> 梨 2003.9.2 小闇@TOKYO
実家から梨が届いた。らしい。留守にしていたので、ポストには「ご不在連絡票」が入れられていた。今住んでいる建物には、宅配ボックスがある。そこに入れておいてくれれば、今日のうちにひとつ剥いて食べられたのに。そう思いながら靴を脱ぐ。
留守番電話にメッセージがあると、ボタンが点滅している。再生。宅配便の「セールスドライバー」からものだ。曰く、果物なのでボックスには入れませんでした。お客様がご希望なら、ボックスに入れます。お手数ですが、ご連絡ください。
久しぶりに丁寧な口調の、さわやかな、若い男性の声を聞いた。
雑誌などでよく、ホテルとかエアライン、メーカーのサポートに関する、ランキング記事を見るが、「全体」や「平均」で評価されるサービスの質は、個別にはなかなか実感できないことが多い。集合体のイメージは、そのごく一部でしかない、私とその集合体の接点で決まるからだ。
人間も同じ。私など割と露骨に嫌われることもある。もちろん私の性根や言動に負うところも大きいだろうが、最近は、それはその嫌うひととのインタフェースに問題があるんだなと、悠長に考えている。そこを頑張って解消すべく努力するか、まいっかと放置するかで、そのひとに対する私自身の気持ちが量れる。
そういうわけで私は、SとTのパソコン、Nの引っ越し部門には良い印象を持っていない。逆の人も多いだろう。広島のタクシーは高く評価している。それから、ヤマト運輸も。これまた、逆の人も多いだろう。
明日朝一番に、ボックスに入れてくださいと連絡をしようと思う。そのセールスドライバーに会ってみたい気もするが、きっと、会わないくらいがちょうどいい。とりあえず明日は梨が食べられる。それで良しとしたい。 2003 9・2 24
* ありがとうございました。また楽しみが増えました。
数年前に図書館で本を探していて、偶然『青春短歌大学』(平凡社)を見つけ、面白くて、そのまま読んでしまいました。今度はゆっくり楽しめます。
ご無沙汰していますが、元気です。ホームページを読むと秦さんとお話ししたような気分になってしまいます。以前の印象のままに今もエネルギッシュでいらっしゃるようにお見受けします。私は相変わらずその正反対で、何事にもまずは後込みして輪の外から眺めているという気質はなかなか変えることができません。
先日「満州」という文字が目にとまりました。実は私、満州生まれの引揚者なのです。当時三歳だった私には何の記憶も残っていませんが、他の人よりは多少複雑な思いのあるところです。
この夏の天候では紅葉はどうでしょうか。さわやかな風が待ち遠しいです。
奥様によろしくお伝えくださいませ。 千葉県
* このメールの人の名前だけは、久しく記憶にあるのに、住所録にもむかしから有るのに、じつは何も思い出せずに、ただ懐かしい気持がしている。メールをかわしはじめて、この人のメールはいつもわたしを静かな気分にするのだが、どうしてもいつの頃に出逢っていたかが思い出せない。会社の頃の同僚かしらんとも思うが、わたしはだいたい会社勤めのころの同僚とはつねに距離をおいていた。小説が書きたくて、時間が、金の粒のように大事だったから。満州はおろか、「以前の印象」も「奥様に」というのも見当もつかない。読者とは、このようにわたしには懐かしい身内である。こういう人達といっしょにこの歳まで歩いてきた。わたしは、そういう作家だ。
2003 9・3 24
* 土砂降り 近くに雷も落ちたよう、これで涼しく眠れそうです。
お昼は「歌行燈」で。泉鏡花の小説に因んだこのお店は関西風味の饂飩、蕎麦がメインのお店。記憶では確か桑名にゆかりの小説。違ったかしら。豊川稲荷の辺りが関西風の薄味と関東の濃い味の分岐点と聞いたこともあるので、其処は関西風味だと。ふすまに小説とおぼしき断片が毛筆で書かれています。
「竈」を読めない人もいて、私は「円髷」は読めても『串戯』で躓き、早大出の元国語の教師の友人も読めなかった。なんて読むのでしょうか。分からないと気色悪いので教えてください。漱石を始め、明治の文豪の小説は、若い人には古典といわれて久しいですが、あの「寝白粉」も丁寧なルビがなければ意味は汲み取れてもすらっとは読めないし、やはり古典に入るのでしょう。但しまだ読み終わっていません。
日差しを避ける意味もあって、ちょっと気になる映画「永遠のマリアカラス」を観てきました。平日のお昼というのに、中老女性で満席。シニアサービスのお陰。
オナシスと離婚、ケネデイー夫人ジャッキーと再婚の新聞記事をフアイルして、心の動揺のある彼女を、すべてフイクション、創作の域で、最盛期の美声を聴かせて、登場させています。1977年(私は丁度四十歳、そんなものに関心を持てる年ではなかった。)の日本公演では本人曰く、荒れた声で惨状を呈してトラウマになり、それを最後に舞台には立たなかったとか。外人には弱い日本人は、それを聴き分ける観客も少なく、ブラボーの連発の大盛況だったらしい。
フイクションとは聴いていたけれど、少し知っていたカラスの歌手になるまでの生い立ちなどより、こんな趣向のストーリーが面白かったし、劇中映画の「カルメン」も。スパニッシュダンスも好きなアリアも聴けてよかった。カルメンは全曲どれも好き。亡くなる寸前の53歳の頃をフイクションに、でした。
* 「ジョウダン」また「フザケ」る とも。
マリアカラスは、映画「エレクトラ」が印象に残っている。荒涼としたギリシァであった。
2003 9・3 24
* 朝に
涼しい日になりました。
初秋
ことばが、香って
美しい日になりました。
蝉の声も止み
朝はしずかに明けました。
きょうもお元気で。外出にはお気をつけて
2003 9・4 24
* 朝一番に開いた次のメールは、照れてしまいそうなお褒めの言葉であったけれど、わたしの不十分な意図をよく汲んでも下さっている。感謝にたえない。
* 青春短歌大学 昨日湖の本エッセイ『青春短歌大学』下巻を頂戴しました。ゆっくり学生さんの解答と比べながら読もうと思っておりましたのに、読みはじめたらやめられなくて一気に読み終えてしまいました。
夜も更けておりましたが、身体の奥からふつふつと底力が湧いてくるような感動をおぼえました。読書の興奮で、とても寝つけそうにありませんでしたので、少しばかりお酒を呑んでから休みました。何に感動したのか布団の中で転々としながら考えて、夢もたくさん見ました。
私が心打たれましたのは、おそらく先生の中に熱く燃える文藝への愛であり、若い世代への希望の眼差しであったように思います。『青春短歌大学』はこれからの若い世代がずっと読みついでいく必読の書にちがいございません。
まずこれだけの素晴らしい詩、短歌、俳句が集められていることが驚きです。膨大な作品の中から若者向けの美酒を選びぬくという厳しい表現行為に私は圧倒されてしまいました。しかもその困難な作業を先生は心から愛されただろうと想像しました。
選ばれたものは私の知っているような有名な歌句から、触れると血が噴き出すもの、心和むものまでじつに多彩な佳い作品の数々です。注意深く吟味され、しかも先生の鑑賞の手引きが鮮やかでみごとなのです。
目にあでやかに静かである(大初日海はなれんとして揺らぐ 上村占魚)
知的な趣向とみえて、よく生きた人の最期をしずかに頌えた秀逸(「畢」、猶「華」の面影宿すかな 吉野弘)
戦死という殉死の意義が痛烈に問われた、世界でも最も短い反戦詩といえる(遺品あり岩波文庫「阿部一族」 鈴木六林男)
少し例をあげましても、いかに優れて簡潔な批評か明らかですし、詩歌のように美しい日本語表現になっています。私は秦先生に導かれて、日本の優れた詩歌の旅人となり、この、世にも美しい旅に酔うことができました。
先生が『青春短歌大学』でなさろうとしたことは、日本の詩歌を、若者のみずみずしい心に直接届けること、そして彼等の人生に新しい色を加えることだったのでございましょう。先生の「学生諸君の内奥を、真実挑発し刺激する」ことはきっと成功なさいました。
工学部のキャンパスは私の知る限りにおいてどこか実験室の索漠とした雰囲気が漂います。先生の授業を受けた生徒さんたちは灰色の映像の世界から生き生きした彩色の世界に飛び込んだような衝撃を受けたであろうと思われてなりません。先生は多くの学生さんの視野をさっと拡げてしまわれました。
さらに、『青春短歌大学』は私のような中年読者の胸をも疼かせ滾らせてくれました。この中の詩歌は十代、二十代の新鮮な感性で触れるだけではあまりに勿体ないものです。私も大学生の頃にこんな授業が受けられたらよかったのにと羨ましくなりましたが、当時の私には理解も実感もできなかったろう多くの歌句と先生の解釈は「猫に小判」であったにちがいありません。
私が二十代であったら、切々と胸に迫ることはなかったであろうという歌句はたとえば次のようなものです。
雪女郎おそろし父の恋恐ろし 中村草田男
捨てかねる人をも身をもえにしだの茂み地に付しなほ花咲くに 斉藤史
東工大で先生の授業を受けられた学生さんには、この本を是非繰り返し読んでほしいと思いました。学生さんたちが、先生の本当の大きさ凄さをわかるのはこれから四十代、五十代、六十代になってからだろうと推察しつつ、私も先生の『青春短歌大学』などのご本とともに少しでも成長してゆけたらと願っております。
「彼や彼女たちの未来が楽しみなために、一年でもわたしは長生きがしたい」というお言葉にある先生の身にしみる人間愛に、私は胸が熱くなりました。「教えるということは希望をともに語ること」という言葉のように、先生は若い魂と希望をともに語ることのできる数少ないかたです。
『青春短歌大学』は久しぶりの感動的な読書となりました。ありがとうございました。
あとがきにペンクラブ電子文藝館の事業を、「良い樹を一本一本植えて行く」仕事と表現されていますが、この荒れ地に一つ一つ希望を植えて行く地道な営為を「知の巨人」の仕事と言わずして何と言えばよろしいのでしょう。
「知の巨人」というのは立花隆さんによく使われる形容ですが、本当の知性というのは立花隆さんのような難しいことを理解し説明する能力のことでしょうか。先生のように、明日を担う世代を励まし希望を与えることこそ真の知性だと私は捉えています。ですから、私は秦先生のような方こそ「知の巨人」と言う表現にふさわしいと思うのです。(きっと先生はそんなことはないとご謙遜なさいますでしょうが。)
相変わらず長いメールになってしまい申しわけございません。どのような「知の巨人」にも大切なのはお身体でございます。どうか奥様ともども水分などしっかり摂られて、血流よく血圧をコントロールされてお過ごしくださいませ。先生のお住まいでは雷雨の影響はございましたでしょうか? 品川
* ことばを強められているぶんを謙虚になだめれば、私の思いによく触れてもらっている。嬉しいと思う。この嬉しさを友に、今日は妻と歌舞伎座の昼の部へ。クラスメートの片岡我當を声援してやりたくて。
2003 9・4 24
* 京(風)の食品等を宅配するカタログの九月号をパラパラめくっていると、昭和六年のインクラインの写真が目に止まりました。まだ三十石船が台車に乗って動いています。お弁当持ちで見物人が集まったとか。その横をパンタグラフの付いた京津電車が走っています。ここは電車が走ってたんやで、と父からしばしば聴いていたのを、確認出来たわけです。戦前までは、蹴上げからは三条通りを通らずにこのコースで、仁王門に出たとか。瓢亭の塀越しに鬱蒼とした樹木が見えるのは、今も変らない景色でしょう。
秦さんの処からは少し遠方になりますが、このインクラインは少し足を延ばしたいい遊び場でした。
ところで、疎水の何処で泳ぎましたか。私など河童連中は、その少し下流、渓流橋との間に架けられた人は通れない鉄橋のアーチのてっぺんから立ちとびをして、向こう岸まで流されながら泳いだり、底まで垂直に潜り琵琶湖から流れてきた蜆を取ったりしていました。大らかでしょう。中学二年頃まで泳いだのかしら。
「かやくご飯」でしたか、「いろご飯」でしたか。今カタログで見ていて思い出しました、栄養のバランスが取れた「いろご飯」を何倍もお替りをして、生長した気がします。母は多忙だったのか、相当いい加減だったのか、いつも出し雑魚が入ったままでしたが。美味しかった。
* 我が家では「かやくご飯」と謂った。やっぱり味取りの出し雑魚がそのまま飯によく残っていた。出汁の出尽くしたような雑魚も、捨てては成らない貴重な栄養源であった時代だったろう。この中学のクラスメートは、女の子ながらあの深い疏水の急流に鉄橋の高いところから飛び込んでいたという。疏水ではときどき学童の水死もあった。
わたしは、他校区をまだ通り抜けてもそこへ泳ぎに行きたいほど熱心ではなかったが、男友達と数人で、あの平安神宮の朱の大鳥居前の橋の上から飛び込んだりした記憶が二、三回は有る。田中勉君、西村明男君、團彦太郎君らと今も交際が続いている。
2003 9・4 24
* 「青春短歌大学(下)」をお送りいただき、ありがとうございました。早速通勤の電車の中で読みました。当時のことを懐かしく思い出しました。
穴埋めも、今改めてやってみると、あの時は、たぶんこう入れたけど、今なら違う一字を入れるなぁとか、やはりいろいろ考えさせられます。環境の変化、心境の変化、いろいろな変化があったんだと思います。もちろん変わらない部分は全く変わらないのですが(笑)。
本の最後に、アーシュラ・K・ル・グィンのことに触れておられましたが、私も、高校時代の恩師に「闇の左手」を薦められて読んだのを思い出しました。当時私は、かなりのカルチャーショックを受けました。
来週末から10日間ほどスペインに旅行に行くことになっているのですが、そのとき、往復の飛行機が乗り換えも含めると実に40時間近くかかることから、持って行く本を考えており、グィンの本ならばと考え、一冊買って持って行くことにしました。
私の方は、先日少しメールに書きましたスペイン文化を普及させるNPO活動の方、何とか順調に進んでおり、8月末に設立総会も開催することができました。まだまだ始まったばかりですが、楽しくやっております。
先日行いました料理講習会の模様など、ホームページに載せましたので、お暇なときにでも、ご覧いただければ幸いです。
9月に入り、8月までの冷夏が嘘のように暑い日々が続いております、お身体には十分気を付けて下さい。
スペイン文化交流センターサラマンカ代表 河村浩一
HP:http://www.h7.dion.ne.jp/~npo_sal/
* 文字通りおいしいトマト栽培を研究し、成果をご馳走してくれた卒業生でもある。合気道のチャンピオンで、「幸福」を追わぬも卑怯のひとつと答えた数少ない、ほぼ唯一人の解答者であった。現実と理想とに架橋する意欲をいつももっている。
ホームページも開いてみたが、なるほどなるほど。着着とやっている。バルセロナの小闇はいま欧州の夏休み中で旅しているが、帰宅したらこのサイトをのぞいて上げて欲しい。
* 愛情表現 2003.9.4 小闇@TOKYO
「あ、そうだ。見なくていいの?」「何?」「阪神戦。今日は中継してるよ」「見なくていい」「何で」「今日は負けてるから」。
阪神タイガースのファンではなく、『強い』阪神タイガースのファン。これまでの十数年間は、シーズンのごく一部だけ、生活の中にプロ野球が入り込んでいたという。
合理的だ。
強いお父さんが好き、優しいお母さんが好き。いつも明るい彼が好き、笑みを絶やさない彼女が好き。知らないことなんてない先生が好き、親切でさわやかな先輩が好き。
対象がひとの場合、一度好きになったなら、強くなくなっても優しくなくなっても、私はずっと好きでいる。ときに暗くても、塞いでいても。意外と無知でも、横柄で執念深くても。
その対象を、真実、好きなら。
たとえ、ダメになって、腐ってぐずぐずに崩れても、手を差し伸べたり言葉をかけたりもしない代わりに、そばでずっとその様を見ている。
それが、冷酷無比で強情で、なかなか好きと口にしない、私なりの愛情表現。
* 愛情というと金魚すくいのアレのようにべちゃべちゃに濡らして、表現過多になり破いてしまうのが、普通。その方がそれらしいと好んでいる人が、この小闇型よりはるかに多いだろう。どっちが愛情深いかは別の問題。
2003 9・5 24
* 与謝野源氏・中間報告2
秦先生、 「青春短歌大学 下」は、上下の穴埋め、ほぼ解き終えました。これから本文に入ります。
昔講義では、ほとんど正解してなかったような気がします。最近まで、俳句、短歌はよくわからない、という苦手意識があって、当時も、問題を解くのに、ずいぶん肩に力が入っていたように記憶しております。特別な一字をうめこまなければ! みたいな感じで。今回は、どれほど正解しているのか、楽しみです。
源氏物語は、「東屋」です。実は、中巻を手に入れる前に、先に下巻があったので、待ちきれなく、浮舟のでてくる「東屋」から「夢の浮橋」まで先に読んでいました。しかし、中の君の妊娠、匂の宮が六の君と結婚、中の君が寂しさから薫に気持ちが傾いたことで、いよいよ恋心を抑えきれなくなってきた薫、中の君の出産、薫の二ノ宮との結婚、そういう前置きがあると、東屋から先だけ読んだときとは面白さが違います。
また、浮舟の母が、最初はずいぶんと自分たちの身分に引け目を感じて謙遜していたふうなのが、少将が常陸守の実の娘に鞍替えって侮辱されたのをきっかけに、自分と中の君の母とも親戚関係であったのに、なぜ自分の娘はこのような侮辱を受けなければならないのか、と、中の君に近づいていったことなども、リアリティがあって面白いです。
この8月から、フラメンコ・ギターを習い始めました。中学生のころ、クラシック・ギターをやっていたのですが、15年ブランクがあります。今はギターの練習をしているときが、一番楽しいです。
最近は、また、少しずつ前向きに活動的になってきました。ちょうど、大学に入学したときと同じような感じです。(螺旋、でしょうか。)時間を見つけて、本を読み、思ったことを書きとめ、ギターの練習もし、気がつくとちょっと無理をしていて、頭痛や微熱、ということもあります。もっとうまく時間をやりくりしないと、と思う今日この頃です。もう31歳ですが、そろそろ一人暮らしをしようとも思っています。
それでは、また、次回まで。先生もお体をお大事に、お願いします。
* 「一人暮らし」と来ると一人に一つの別の影の立つことが有り、女性の一人暮らし願望には、少しハラハラする。怪我のない満ち足りた自立の日々が来ますように。
2003 9・7 24
* お久しぶりです 今晩わ。
実は6月9日に、お姑さんが亡くなられました。初盆も過ぎ、納骨も無事済ませました。
で、昔の友達が、会いに来て呉れました。久し振りにゆっくりと時間が過ぎ、西池先生、秦さん(ホームページ)の近況など・・・話が盛り上がり、残暑も忘れ楽しい終日でした。
* 戦後の新制中学のクラスメート。数年前からパソコンをはじめたらしく、ときおり、写真のフアイルなど届く。まだなかなか他の友達はインターネットにも手がとどかないでいるらしい。この人をキイ局にして、わたしのホームページが故郷でときには話題にされているということか、電子の杖の余徳である。女の人で、われわれの歳になりお姑さんを見送るというのが、どんな感慨のものか、わたしの妻には「姑」という作品がある。妻は舅、義理ある叔母、姑と、いずれも九十過ぎた老親を三人も見送った。その感慨が凝って一つの作品になったのが、「e-文庫・湖(umi)」におさめてある「姑」で。
「で、昔の友達が、会いに来て呉れました。久し振りにゆっくりと時間が過ぎ、」など、感じが伝わってくる。平安を祈りたい。
2003 9・8 24
* 先日、TVで、神田伯龍さんの「河内山」を聞いて、木挽町の配役を思っておりました。又五郎さん、お元気かしら。舞台姿拝見したいわ。
文楽の切符が手に入りましたので、思いきってお江戸へ。
お仕事がはかどり、こころ充るお時間を過ごされますよう。くれぐれも、ご自愛をお願いいたします。
* 歌舞伎座での又五郎は、ちいさく品の良いおじいさんになり、口跡もちいさく痩せていたが、それでも佳い役所で「河内山」序幕おさえの老人はわるくなかった。なにしろ初代吉右衛門に仕えていた梨園の生き字引のような役者。舞台に出てくるだけで味になる。この人と、何かのパーティのおりにしばらく立ち話したことがある。役者とのそういう際の立ち話は、お人がまた別様に美しくにじみ出て興有るもの。歌舞伎の又五郎、狂言の萬(万蔵の頃)、新劇の仲代達也、浜畑賢吉、映画の田村高廣、能の友枝昭世など。また女優では吉永小百合、沢口靖子、香野百合子など。
2003 9・8 24
* 能登の羽咋にある釋迢空のお墓にお詣りしてきました。以前、お詣りしたときは、松林の中、という感じでしたが、松は枯れたのでしょうか、なくなっていました。垣ひとつ結われていず、壇が築いてあるわけでもないお墓です。迢空のたましひのさびしさが、そのまま、お墓にあらわれているようなお墓です。
墓石の脇に並んで、石の高さまで身体をかがめますと、砂丘の上にほそく日本海がながめられます。このたびは、曇っていて、さだかにはみえませんでしたが、以前、まいりましたときは、ブルーブラックのリボンのような海が見えて、ふいI悲しくなり泣けてしまいました。このお墓にねむっているおふたりは、この海を見ながら、何を思い、何を語ろうておいでかと、思ったりいたしました。
羽咋から、八尾に行き、風の盆を見、金沢へもどって縁者のところへ行ったりなどして、今、帰ってきました。
留守の間に「湖の本」が届けられていました。ありがとうございます。
また、中西進先生の「海の彼方」を「ペン電子文藝館」にとりあげたというメールも拝見しました。『漂泊』は、以前、読んだことがございます。再読、いえ、再々読になりますか。
『青春短歌大学』下巻を横目でちらちら見ながらキイを打っております。
* 南島に戦死した春洋さんと「ふたり」の折口信夫の墓がそんなであると知り、うたた心寒くも、いやその方が「ふたり」には寧ろ睦まじくていいのだとも、想われる。「海の彼方」を語らってられるかも知れぬ。
2003 9・8 24
* 女性の作品を「電子文藝館」に次々と紹介してくださるので、とても嬉しく思っています。どんどん開いて読まないと、あっという間に増えているので、とにかく敬服しています。
さわやかな秋の日であれば、何をいただいてもおいしく思ってしまう私ですが、それでもやはり栗が一番。栗ご飯が最高です。
娘が2、3日京都に行っていたとかで、明日、道明寺を届けてくれるそうですが、これは京都らしいお菓子なのでしょうか。
「私語の刻」を読ませていただいて、平成中村座はやはり昼夜いらっしゃるとのこと拝読。私は電話発売の日、お話中ばかりでついにかからず、歌舞伎座の売り出しの朝1時間半並んで、やっと買いました。気まぐれに行くだけの素人観客ですから、それでちっとも構わないのです。楽しみにしています。 勝鬨橋
* 猿蟹合戦だったろうか、囲炉裏の栗がかっとはじけて猿をやっつけたのではなかったか。「栗」というのはわたしの頭の中では、たいそうな褒め言葉で、好きな人を喩えるときにわたしはなぜか「栗の」ような人と出てくる。自然で硬質で木質の柔らかみや温かみもあり、知性的な感じを持っている。そして、火の中で熱くつよくはじける感じ。
口の中でむちゃむちゃとモノを言う人より、くりくりと明晰に温かくはなす人が好きだ。真っ白いなかにほの黄色い栗の実の飯。真っ白いなかにさみどりの豆ご飯、真っ白いなかに青のにおう七草粥。みな好きだ。
道明寺という菓子にかかわって、河内の道明寺のことを、大昔に随筆に書いたことがある。どこかの新聞であった。もともと餅が大好き、餅菓子が大好き。そのなかでも「道明寺」といわれる菓子はお米のつぶつぶ感が口触りに優しくて、ひとしお好きであるが、名前からして菅公ゆかりのあのお寺がかかわっているのだと想っている。優雅に柔らかみの美味しい餅菓子として、品のいいものである。
2003 9・8 24
* お元気でいらっしゃいますでしょうか。ご報告がありましてメールしております。
とうとう私もお母さんになれる日が近づいてきました。5ヶ月になれば大抵大丈夫ということでご報告いたします。研究室にはまだ連絡していないのですが、秦先生には先にお話しておきたくてメールいたしました。
予定日は2月14日、バレンタインデーです。
会社は12月半ばまで出社し、その後産休、育休、と取る予定です。
今から本当に楽しみで、日一日とお腹が大きくなってくるのを確認するのが日課となっています。夫婦ともども待望の赤ちゃんなので、大事にしたいと思っています。
まずはご報告まで・・・。
* こういう知らせが重なってきていい年頃を、わたしの親愛なる卒業生たちは歩んでいる。あんまり遅くなると別の心配もあるし、しかし出産にはむかしは問題にされなかった現代的に微妙なことも絡んでくる。だから、わたしの口から進んで話題にすることはない。それだけに、こうして心もはずむように知らせがあると、顔色も晴れるほど嬉しい。ご夫婦ともにわたしは知っている。佳いお子さんが必ず出来ると信頼できる。おめでとう。そして、お大事に。
* 友人である二人の画家から手紙が届いた。一人はこまごまと近況を。もう一人は、「・・・今日 遅くなりましたがあのあじさいの絵をお送りしました。 お気に召してくださると嬉しいのですが・・・それと別便にて 熨斗がわりもお送りいたしました。 美味しいお菓子をひとに教えられ、ぜひ召し上っていただければと・・・・押し付けがましく・・・お送りいたしました」と。佳い絵なのである、優美に。部屋をかざるのに小一年待つことになるが、来年に心優しい楽しみが出来たというもの。
2003 9・8 24
* ビデオ映画でもちょっと、はつってから、もう寝ようかと思っているところで、面白いのに出会った。待っていたということか。こういう「情報」はまちがってもわたしからは出ない。
* 表記 2003.9.10 小闇@TOKYO
かつて一世を風靡したものに、「ポスペ」おっと「ポストペット」というものがある。ピンクの熊がメールを運ぶ、というキュートでキャッチーなソフトで、 99年から2000年にかけて、無味乾燥と思われがちだった電子メールの世界に、若い女性を巻き込んだとされている。販売元はソニーコミュニケーションネットワーク、略してソネット。
その業界では有名な話だが、ソネットは「ポスペ」という呼称を認めていない。少なくとも全盛期当時は認めていなかった。曰く、「どなたが言い出したのか分かりませんが、弊社としてはポストペット、と表記していただきたく」。
「ポストペット」6文字、「ポスペ」3文字。所詮略せて三文字程度だが、文字の制約の大きい見出しなどではこれが非常に効く。これをトットト取って詰められればなあ、と思っても、ダメなものはダメなんである。
そう信じていたのに。今日乗った地下鉄に、携帯電話で使えるポストペットの広告があった。一番目立つキャッチは「ケポスペ」。言わずもがな、ケータイポストペットの略である。
ダメって言っておいて自分たちでやるなよなあ。うーん、これも時代のせいなのか。
思い出すのは、六本木に本社のある外資系。今でこそ「日本IBM」だが、しばらくは「日本アイ・ビー・エム」であった。右手小指が担うこの「・(中黒)」が、どうも入力のペースを乱していた。文字や打鍵の数の問題も、もちろんある。
なぜ日本IBMではなくて日本アイ・ビー・エムであったか。そう書くことが、その会社の希望であったからだ。そしてそれが「日本IBM」に変更されたのも、同じ理由。いい悪いではない。なんなんだろうねぇという話。逆じゃなくて良かった、という程度の。登記上は日本アイ・ビー・エムでも、「表記」というのはそんなもんだ。
日本電気を略して日電とせず、「NEC」と書くのも、そんなもんだ。
ついでに、「捨ててはいけない三社」というのもある。
「捨てる」というのは、文字を小さく表記することで、具体的にはヤユヨをャュョと書くことだ。捨ててはいけない三社は、「キヤノン、シヤチハタ、キユーピー。」断じて「キャノン、シャチハタ、キューピー」ではない。それが社名だからだ。厳然たる日本語の固有名詞を間違えるのは、「ポスペ」や「日本 IBM」のような舶来語の省略に伴う話とはちょっと、レベルが違う。
ところが結構、これを間違っている印刷物もある。カメラ雑誌や料理雑誌でも、だ。最近はその間違いが向こうから目に飛び込んできて、自分が間違えたかのように胸が苦しくなってしまう。
* 面白いでしょ。
2003 9・10 24
* 小闇の面白さに打鍵です。 若い人、教養があり肩で風を切って歩いた「誇り」が、実にいいと感じるメールを読みました。
「年年歳歳」阿川弘之著、「歳々年々」安岡章太郎著。
二人の方が「志賀直哉論」を書いている。安岡氏は若い年ごろに、阿川さんは1994年の「志賀直哉」。二人とも健在である。嬉しい。
新鮮な話題の「闇」に、メールです。感謝です。 神奈川県
2003 9・11 24
* 毎日パソコンでみています。とても楽しんでいます。有難うございます。 毎日毎日です。
一水会展 私は賞をめざしているのではないのです。ただ、先生が、この2年位前から注目してくださっているのを肌で感じていましたので・・・取り上げてくださったのが嬉しかったのです。斬新で色使いが美しいと・・・でも芯がない・・・デッサンがよわく奥のものが伝わってこない・・・とおっしゃられます。ご批評いただきたいのですが・・・・自分で反省いたします。ごきげんよう。
2003 9・12 24
* 9.11 女友達に頼まれ、CSで吉右衛門の「渡海屋・大物浦」を録画して休んだ昨夜、夢を見ました。渡海屋の、開け放した座敷に立って眺めているのは、船ではなくて、崩れてゆく真っ白なビル。爆風で飛んできた金色の仏像を、鋸を持った男が、鎔かすのだと言って、頭部を割りました。
昨日は、海士が海中で見つけた観音を祀ったという、浅草寺と似た縁起のお寺を、愛知県海部郡に訪ねたのです。名古屋から津島行きの電車に乗って、甚目寺へ。西枇杷島町を通りました。
東海豪雨は、3年前。9.11でしたのよ。
甚目寺町から長久手へ。
近代日本画ばかりの、小さな美術館へがあります。
おとめが、紅葉の下に膝をついている松園の絵に、「娘深雪」を思い、札を見ると、同じ製作年でした。1階から2階…矢印は、中庭に面したラウンジへ降りる階段を示しています。浅い角度で曲がる階段の、踊り場に、桔梗が揺れていました。
展示の最後は、安田靭彦の画。
長久手辺りには、たくさんの池がありますが、猫ケ洞池と、猫洞商店街へ行ってみました。弓用具専門店、茶道具・古美術店、老舗の和菓子店などあって、楽しかったです。
* ことがらの背後へ自分は隠して、属目を、体験を、印象をただ具体的に書いて旅の風情を伝えてくる。こういう筆致がいちばん読み手の共感や追体験を誘う。自分自身を飾ろうなどすると、すぐみえみえに、なにもかも臭くしまうものだ。わたしがこの人のメールをコレクトするのは、追体験が自然に出来るから。なんという、わたしは不精者だろう。いながらにして、旅なんて。
2003 9・13 24
* お返事ありがとうございます。
お腹の子は順調に、何の問題も無くすくすくと育っております。ちょうど先生がお返事を出してくださった日に5ヶ月検診に夫と共に行ってまいりましたところ、足まで伸ばすと17cmくらいまで育っていると言われました。一ヶ月前には数センチだったのに、もうそんなに育っているとは驚きでした。
会社で毎日顔を合わせている人たちからは、妊娠したころから私の表情が柔らかくなったと言われました。本人はあまり意識していなかったですし、今鏡を見てもさっぱり分からないのですが、何か私の気持ちの中でも変化があるのでしょうね。
でも、本当に待ち遠しく、毎日膨れてくるお腹を観察しては一人微笑んでいます。傍から見たら変な人なのでしょうけど、嬉しいのですから仕方が無いですよね。
実家の父も、報告したときには特に嬉しそうでもなかったのですが行きつけの飲み屋などでは、孫が出来ると皆に自慢していたようです。そんな話を聞くと、余計に心弾むものです。
秦先生にも祝福のお言葉をいただき、私の心もますます弾んでばかりです。
また新しい命が誕生しましたら、必ずご連絡申し上げます。
最近は残暑が厳しく、体調を崩される方も多いと伺っております。先生もお体にお気をつけて、お過ごしくださいませ。
* 文字通りこの通りに此の母親は思っている、と、わたしには分かる。教室の頃の、また結婚披露宴の日の、笑顔が、嬉しいように眼に浮かんでくる。
こんな、まともなことに、おそらく一種(意想外の)驚きを感じる人の多そうな現代ではあるが、明らかにこういう若い人も、いやこういう若い人達が、たしかに実在してしかも元気に力ある社会生活を築き上げている。何となく対極の生活感覚の人の方が多い昨今に思われるけれど、一概なことは決して言えない。どっちもが現実である。
怪我無くすばらしいお子さんに恵まれますよう、心より願う。家庭も、そして社会生活も研究生活も、みごとに、これまでのように元気に経営してほしい。
2003 9・14 24
* 朝一番の定期便で、東京の小闇から、例の清酒「成政」が贈られてきた。「敬老」の祝日にとどくよう手配してくれたのか、感謝。ここのところ手元に日本酒がきれていた。秋は日本酒が似合う。
同じ小闇が書いているのが、きのうわたしの書いていた気分に、かすかに呼応している気がする。チェッカーズだの「星屑のステージ」だのわたしには見当もつかないけれど、「C」への思いは分かる、気がする。このようにして過去は保存されつつ、しかし余儀なく記憶から薄れてゆく。
竹馬やいろはにほへとちりぢりに 久保田万太郎。 往時渺茫。
* undo 2003.9.14 小闇@tokyo
今はもう、どこで暮らしているか判らない、でも、小学校時代の親友を挙げろと言われたら、彼女しかいないというひとがいる。仮にCとする。C とは家も近く、登校時も学校でもべったりで、毎日一緒に帰っていた。遠回りして通る幹線道路はトラックの行き来がひっきりなく、Cと私は縦一列になって歩く。お互いの声はほとんど聞こえない。それでも私たちがその道を帰ったのは、その音が、実は都合が良かったからだ。
大きな声で、歌っていた。「星屑のステージ」を覚えている。チェッカーズの歌だ。確か私たちは、小学校六年生だった。
学校ではチェッカーズが大流行していて、Cも私もそのブームには乗れずにいた。が、シングルはすべてソラで歌えたし、アルバムも、テープにダビングしたものをどこかから手に入れていた。
Cは中学に入る直前にその街からいなくなり、一年と半年遅れて、私もその幹線道路から遠く離れた。それ以来一度も会っていない、歩いていない。だからこうやって、あの頃も楽しかったと振り返ることができる。
そのチェッカーズが、また私の視界に入ってきた。「暴露本」を書いた元メンバーはもうひとりの元メンバーとトークショーをし、それ以外の元メンバー、ただしメインボーカルを除く、は、バンドを結成する。らしい。
彼らには彼らでなにか深い思いがあるのかも知れないが、やり直しはうまくいかない。やり直せるくらいなら、終わるわけがない。終わったものは終わったものとして、触れない。
アルト・ハイデルベルグがなぜ美しい物語であるか。要はそういういことなのだ。私は、Cの今に興味はあるが、知らないままでいい。本当に、知りたくない。
*「今・此処」がだいじだ。
2003 9・15 24
* 残暑お元気で ブラジルより
ご無沙汰しています、筆不精の**です。
東工大を卒業なさるんですね。
けじめをつけるということでしょうか。
うーん、喜んでいいやら、哀しいやら・・・確かに、我々先生の弟子達は、とうの昔に卒業していますし。
そういえば、私の妹もとうとう4年生になり、研究室で忙しく過ごしているようです。(兄妹で保谷に訪れた)あれからもう4年も経つんですね。
私はというと、とうとう念願の「飛行機の開発」に携われそうです。
ちょっと嬉しく日々をすごしています。
本当は今日、骨折した話も書きたいのですが、大分文が乱れているので、次の機会にします。
先生も益々お元気でご活躍ください。
* 骨折とは気になるが。念願のいよいよ実現するというのが、嬉しい限り。
2003 9・15 24
* 立って待つ、居て待つ、臥して待つ…嫦娥に、赤い泣きぼくろ。
応挙展初日、朝刊で、NHKの俳句番組に眉村卓とあるのが目にとまり、チャンネルを合わせました。
番組の最後に、講師のセンセイが子規の句を紹介なさいました。お生まれになったのも、亡くなったのも、9月なのですね。
「糸瓜と木魚」を読んでは、長考。 風も清(す)んできました。
*「糸瓜と木魚」(湖の本4)は、正岡子規と浅井忠とを書いた、わたしの小説、二人はお互いに句と画の先生同士で、知己であった。浅井忠は日本の油絵に大きな基盤を成した明治の巨人の一人。
さらりと、こういうメールが朝一番に届いている。うまい茶を淹れてもらったような清爽感。有り難し。
2003 9・16 24
* 「お、ひ、さ」と、三井文庫の「雪松図」に挨拶。
金刀比羅宮の障屏画には「ごぶさたしております」とお辞儀をしました。
風を感じ、音を聴き、異世界の空を飛び、飛沫を浴び、寒さに身をすくめ、のどかな空気を感じ、………
そして、うふふぅと、山門の雪景色の写真を大伸ばしに貼った最後の展示室に入った途端、気分が悪くなりました。
大乗寺の三部屋を、障壁画だけ、再現してみせているのです。音も光も、縁側や畳の感触も、季節の湿気も温度も、流れている気も、寺への旅路もなく、…… 応挙の画だけ、掠って。 悪趣味!
* 応挙展のレポート、この違和感、その場にいるように分かる。気の毒!
2003 9・16 24
* 惜身命 2003.9.16 小闇@tokyo
「歌舞伎町アンダーグラウンド」を読んでいる。東京湾で遺体となって見つかったフリーランスライターが書いたものだ。amazonでも売り上げトップを独走中。本は売れないのではなく、売れるタイミングを逃しているだけではないか。
その死と著書との因果関係は明らかでない。おそらくずっと判らないままだ。誰かが言っているように、命をかけた仕事だったのかも知れない。もちろん、だからといって殺されていいわけではない。
仕事は人生の一部で、わりと中心近くに位置していて、最近思うにそれなりに素敵なものだ。うまく進めば嬉しいし、何かあれば、ほかではないほどのストレスを受ける。
けれどたぶん、捨てられる。今すぐに仕事のない生活は考えられないし経済的環境が許さないが、究極の岐路に立ったら、あっさり捨てると思う。例えば、仕事を捨てないと殺される、と相成った場合など。
そういう意味で、惜身命。明日死んでもいい、とは思ってはいるけれど、何かに殺されるのはまっぴらだ。そう、たかだか仕事なんかで。
* 貴乃花が大関か横綱かになったとき、協会の使者にした挨拶が「不惜身命」土俵を努めるという決意表明であった。で、すぐその週のうちにも、事に当たるに、あなたは「不惜身命」か「惜身命」かと学生諸君にアイサツを入れた。どちらが、どんな理由から、多かったとこの「私語」の読者は思われるだろう。
この小闇の今日のエッセイがその記憶とも触れているのは明らかだろう。
わたしは、小学校の五、六年生から叔母の稽古場で茶の湯の門前小僧となり、新制中学の茶道部では、もう部員の稽古の指導を任されていたし、高校では茶道部の運営をすべて任されていた。その高校か大学の初め頃に、わたしは生まれてはじめて原稿料に相当するお金を、裏千家の雑誌「淡交」にもらっている。学校茶道といった主題でのエッセイの募集があり、応じて賞金を受けとったのである。「を(惜・愛)しみごころ」といったことを書いたとおもうが、同時に「たかが茶の湯」とも書いたかも知れない。
少なくもわたしは茶道部のおなじ年代の部員達に、茶の湯よりも大事な何かに遭遇したとき「をしみごころ」と「たかが茶の湯」棄ててしまえることも大切だろうと話していたように思う。それでよく裏千家の懸賞に当選したと思うが、もっと後年には「淡交」に連載のエッセイのなかで、「たかが茶道具」と書いて、それを書き直せ撤回せよと編集部のさんざんな注文を聴かされた覚えがある。
「たかだか仕事」と小闇は三十の若さで書いている、が、わたしも、この思いは本当に早くからいつも胸の奥に抱いていた。太宰治賞を受けて、最も早くわたしが書いて筐底に秘め置いた(今も在る)のは、「作家、さよなら」という、既にして文壇への訣別の辞であった。そういう思いをあえて胸にしたまま、わたしはその後の作家生活へ入っていった。
わたしの云うことと小闇の云うこととはズレているかも知れない、すぐさま同じとは云えまいけれど、少なくもわたしは、一所懸命というところを超えた気持で、懸命に人生を努めてきた。よりだいじなものが見つかったときには棄てて良いと思いつつ茶の湯を習い、同じ思いで、文学・文藝にも邁進した。わたしが文学・文藝を愛していることはわたし自身が疑いもしないが、それでも同じに、今も思っている。
2003 9・17 24
* 脱線事故 昨日は琵琶湖、名古屋と事故のたて続けの大きなニュースで、最後に西武線の事故で驚いて、会議から無事に帰宅できるかな、地図を見て新宿線田無からタクシーに乗ればいいな等、思いつつ。
お疲れが溜まっているように見受けます。睡眠時間を充分にとって体調を整えてください。いつも、いつも案じています。お大事に。
最近の暑さのせいか、夜はテレビをつけたまま、早々にソフアーであられもなく眠りこけてしまいます。醜態。
でも、長時間睡眠を取って今朝もはつらつ、これから楽しい運動で大汗をかいてきます。 千葉県
2003 9・17 24
* 親 2003.09.18 小闇@バルセロナ
不幸な死があった。それを、直接告げられるために、かけつけてきた親。電話口の押し殺した声は、平静を保とうと怒って聞こえた。聞くほうは辛かった。
親は飛んできた。急いでも急がなくてもその事実は変えようがないのに、やはり飛んできた。きっと、少しでも早く着けば、それだけ時間を遡れるかもしれないと思って。
当たり前かもしれないけれど、当たり前だろうか。仕事で親の葬儀にも出られなかった、という話を聞く。それが、もし自分の子供だったら。きっと何も考えず、でも何を置いても飛んで行くに違いない。それが「親」、愛情とか義務とかいう言葉では説明のできない、これが「親」なんだ、と思った。
こんな時、よりによって阿川弘之著「年年歳歳」を読んだ。死んだと諦めていた息子の生還に、こらえてもこらえても溢れる、老いた両親の涙。
はるか海を越えて来たこの親の涙を、別の涙に換えられなかったのがつらい。
* おしまいの一行が、「別の涙」が、今少し適切だともっと訴求力が出て分かりよい。「はるか海を越えて来たこの親の涙」が、もし阿川弘之作の作中の親の嬉し涙を謂うのであれば。
この小闇は「ペン電子文藝館」の新掲載分をよく読んでくれている。阿川さんの作品で校正していた私もこらえきれず涙したのは、やはり此の「親の涙」の場面だった。
2003 9・19 24
* こんばんは。暑い日が続いていますが、体調はいかがですか。わたしは毎晩遅くまで映画を観てしまって、ちょっと寝不足です。
私語の刻で映画「真実の行方」に触れていらしたので、たまらずメールしました。わたしも観ました。四度目か五度目です。
アーロンを演じていたのはエドワード・ノートンです。彼はあれが映画初出演だったそうです。秦さんのおっしゃるように、演技賞ものでした。実際に、いくつか映画賞を受賞していました。オーディションで、彼は既に東ケンタッキー訛りを身につけていたそうです。彼が、ロイの人格に豹変したとき、あるスタッフは「殺される」と思ったそうです。「遺される子供は夫に育ててもらわねば」と。エドワード・ノートンの気迫が窺えるエピソードです。
その後出演した映画で、彼はハスラーだったり、不眠症の二重人格者だったり、スキンヘッドでマッチョのネオナチだったり、恋する青年だったり、まあ、いろんな顔を見せてくれて、飽きません。サスペンスである「真実の行方」の成功は、エドワード・ノートンが映画界において無名で、観る者に先入観を与えなかったことに因っています。ですから、秦さんがエドワード・ノートンをご存知なかったというのは、最も望ましい状態で映画をご覧になったということになります。キャラクターアクターとして定着した今の彼を知っていては、堪能できたかどうか・・・。
彼に対する最初の関心は、彼が日本語を話すということでした。「世界中がアイラブユー」というウディ・アレンのミュージカル映画を、ずっと前に観たことがありましたが、彼も映画も、あまり印象に残らなかったのに、今年、「レッド・ドラゴン」の宣伝のため来日していた彼が、インタビューの中で日本語を話しているのをまず観て、単純なわたしは嬉しくなってしまいました(十年くらい前、大阪で仕事をしていたことがあるのだそうです)。「ファイトクラブ」では、エドワード・ノートン演じるエリート会社員が、出張中に自分の住む高級マンションの部屋を何者かに爆破されたのをきっかけに、解放されたように物や地位への執着を捨て、危険な友人と共にファイトクラブなる地下組織のリーダーになってゆくという、物語はあくまで軽快なブラックコメディでした。殴り合って血を流すファイトクラブという組織の登場するこの映画の前宣伝を知っていたので、辛くなったら途中でやめようと思いながら観はじめたのですが、生理的嫌悪を超えて惹き込まれました。ショウウインドウに陳列された高級パソコンを破壊したり、”廃油を畑の肥にしましょう”と壁に大きくペインティングしたりする行為は、利益を生むことを最善とする、資本主義社会における物質至上主義への批判だと観てとれました。秦さんの「e-文庫・湖(umi)」にある、高史明さんの「いのちの声がきこえますか」を思い出しました。1+1=2であるということを追求し過ぎたための、現代の病理を描いていると。殴り合い
は厭ですが、その非生産性は、痛い痛い批評になり得ていると思いました。エドワード・ノートンだからこそのリアリティだったと思います。
今夜は、昨晩ビデオに録画した「リオ・ブラボー」を観ます。
電子文藝館も訪れています。岡本かの子の「食魔」を読みはじめたところです。
それでは、またメールしますね。くれぐれも、お体を大切になさってください。 群馬県
* 若い人が、自分の好きなものに、この場合映画や俳優に視線をむけて、話さずに居れない言葉で勢いよく話してくれる。へんな屈折も気取りもなく、真向きに健康に話している。シャワーをあびるような佳い心持ちがする。そして、ふーんと感心してしまう。エドワード・ノートン。その名前と演技とが、こうしてまたわたし自身の財産になるのだ。
たしかに映画「真実の行方」で特筆されねばならないのは、エドワード・ノートンであり、スターであるリチャード・ギアでもローラ・リニーでもなかったのだ。
* いつもメールの主とは、こういう具合に具体的に共感し合いたい。それにしても、吹き替えで聞き覚えていた主役の名前をアーロンともロイとも覚えられずにいた。頭が、ボロの網のようになっている。やれやれ。
2003 9・19 24
* こぬかあめ 彼岸に入るというのに、厳しい残暑が、昼も夜もなかなか去りません。
ごく静かに、降り始めました。細い細い雨です。
「或春の日暮です。唐の都洛陽の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでゐる、一人の若者がありました。」
そうそう、こうだったわ、と手を拍ち、「杜子春」を音読。今のTVやラジオから聞こえてくるお喋りの、半分ほどのスピードに、自然と、なります。そうして、息ふかく、「ことば」になって、胸にしみます。
お仕事がすすみますように。おん身くれぐれもお大切に。
* なるほど。芥川の「杜子春」を音読するのに早口はとても似合わない。似合う似合わないの問題でなく、自然と落ち着いた口調に恵まれるという、そこがたいせつだ。ゆっくり喋ればそれでいいのではない、静かな落ち着きと深みとが大切だ。
2003 9・19 24
* ベランダの斑入りのすすきの穂に、こまかなこまかな花がちらちらゆれています。可哀想に、吹き降りの雨には濡れても、朝露にしっとり濡れしほれることのない、わが家の秋草です。桔梗も吾亦紅、水引草、萩も。
『冬祭り』のかなしい女人たちのお墓の萩、水引草が思い出されます。
秋の雨、ではなく、野分の雨と風、にわかな秋の訪れでしょうか。 筑波
2003 9・21 24
* OH!人事 2003.9.21 小闇@TOKYO
自民支持者ではないし民自連合に入れ込んでもいない。すべては結果次第。
自民党の新しい幹事長はちょうど四十九歳。史上三番目に若い。これで総選挙は、少なくとも一審で負けた前幹事長よりは戦いやすい。
見るべきところを見た人事だ。人材を見ての判断かどうかは、判らない。確実なのは、誰に向けた人事なのかを強烈にアピールしていることだ。
自民党に所属する議員でも、自民党員でもない。その組織の外にいる、直接的な影響力を何も持たない、けれど命綱の端を握っている間接的な自分自身の支持層に直接訴える。国会議事堂に落ちた雷を死んだ親分の喝だと言っているような爺さんは、もう、勝てなくて当然だ。
例えば雑誌を作る場合。編集現場が耳を傾けるべきは読者の声だ。もちろん、読者の声と言っても、大きな声だけ聞いていては見誤る。
もうね、社内政治とか派閥争いとか個人的趣味とか、そんなことやってる場合じゃないだろう。と、思うのだが。まあ、この辺りで止めておこう。
そしてその当たり前の戦略がこれだけ大きなニュースとなる事実。何で自民党が変われて・・・。この辺りで止めておこう。ああこうやって硬直組織に不満を持つひとは、織り込み済み承知で、どうしたって新幹事長体制に期待する。
* およそ代弁してくれている。借りておく。題が利いている。
2003 9・22 24
* スカート 2003.9.22 小闇@TOKYO
私は、何と言えば良かったのだろう。
今日、スカートを穿いて会社へ行った。一年振りか、それ以上か。普段はパンツである。慣れているから。パンツよりスカートを穿いていた時間が長かったのは、制服のあった中学校の三年間だけだ。
朝から大変な攻撃を受けた。
「どうしたの?今日はどうしてスカートなの?」
私が男なら、今の社会常識に鑑みて、そう言われても仕方ないだろう。けれどそうではない。何と答えれば良いのだろう。
「パンツを全部クリーニングに出してしまったので」「いやあ、たまには女らしくしても良いかなと思って」あたりが妥当か? けれどまあ、正直、余計なお世話だ。スカート穿こうが化粧しようが、勝手じゃないか。
どうにか攻撃第一波をクリアして外出し、重い荷物を提げて職場へ戻り、不毛な長い会議を終えて呆然とコピーをとっていたら、また声がかかった。
「どうしたの?今日はどうしてスカートなの?」
言ったのは職場で一番の仲良し。疲れていたことも手伝って、その発言は私をカチンとさせた。
「どういう答えを期待して、そういうこと聞くわけ?」 ちょっと、余裕がなかった。
一日繰り替えされた質問を最後に放った相手は、「不愉快になった」と言って帰った。
あーあ。
で、結局、私は何と言えば良かったのだろう。それ以前に、スカートを穿かなければ良かったのか? 良いじゃないか何を着たって。水着やパジャマで出社したわけではあるまいし。よし、今週はずっとスカート。今決めた。
* 小闇の表情まで目に見え、くすくす笑ってしまった。
服装にわたしは神経質だろうか。どっちかといえば、無頓着でむちゃくちゃな方だ。
高校のあいだ、わたしは丸坊主の頭をしていた。丸坊主は既にして珍しかった。京都の冬は寒い、まして日吉ヶ丘はまさに山腹でもあった。目の高さに西に東寺の五重塔の相輪の頂があった。頭が寒いのでわたしは黒いマフラーをいつも頭に巻いていた。
大学の早い時期に盲腸炎の手術をした。術創が縦に15センチ以上も残ったような移動盲腸で手術時間もながかった。そのあと暫く、気に入りの和服着流しで教室に通いノートを取っていた。制服よりからだがラクであった。さすがに、そんな学生はキャンパスのどこにも一人もいなかったが、文学の教授にそういう人が一人だけいた。高校の時の碩学岡見一雄先生は弊衣に編み上げ靴という途方もない僧侶先生であった。この太平記などの研究で学界を圧倒していた先生から、わたしは古典は音読するとより美しく読めることを教わった。
勤務した医学書院は、医者・医学者・看護学者を相手にする堅い会社であった。「先生」は看護婦さんと謂えども「絶対」で、鴎外研究の泰斗である長谷川泉編集長からは、たとえ犬が西を向けば尾も「西」だという「先生」がいても、異論は腹の中にしまっておけと入社の前の面接で言われた。そういう会社ではあったけれど、そこへもやはりちょっとした病後の数日を、着物の着流しで出勤したことがあるし、冷房を節約していた時期、わたしは出社するとすぐさま短パンに履き替えて車内仕事を涼しくしていた。部下であり、今ペンの同僚委員で助けて貰っている向山肇夫君は、あの短パンには仰天したとよく回想するけれど、暑ければ涼しいように過ごした方が能率がいいし、「先生」の来訪が有れば、また取材に出るときは普通にしていたのだから、人様の方が頭が堅いと思っていた。夏は涼しく冬は暖かくと工夫するのが茶の湯だと利休は教えていたではないか。
議会や大学の教室ににジーンズ姿が好くないなどと話題になるときも、そうかしらんとイヤな気がしていた。羽田孜総理が、短い袖の夏向き執務シャツでテレビに現れたとき、似合ってはいなかったが、発想は是、と感じた。
衣服はおろそかにしていいわけでない。しかし囚われた衣服はおかしい。着ているもので人を見過ぎるヤツは嫌い。
この小闇、笑わせてもくれる。ついサイトに誘われ、書いてないかなあと何度でもあけてしまう。
そうそう、リードの部分に、「麻生新総務大臣! 就任会見で『IT、いわゆるフロッピー』はマズいですよ!」にも、笑ってしまった。麻生はともかく、前の総務大臣が引っ込んだ人事には、しんそこホッとした。あれは喰えない危ない顔であった。
2003 9・22 24
* 下谷竜泉寺町にある菩提寺でお墓参りをしてきました。鶯谷近辺はこじんまりとしたお寺が多くて、三々五々と墓参の人出、車も渋滞していました。いい日和なので駅から十五分徒歩で往復です。
鶯谷駅周辺はホテル街ですが、その一角以外は下町情緒豊かな庶民の町。迷路の様な車も入らない袋小路に数軒が軒を並べていたり、大抵の門口には植木や草花の鉢が整然と置かれています。尤も大通りのビルが多くなりましたが。ある一角は下町の山の手と呼ばれて、豪邸が建つとか。多分林家三平一門宅あたりでしょう。
九月も後十日。お月見の日、直植えから三本ばかり切ってもらった矢羽薄が、今や文字通りの枯尾花となりまし
た。それはそれで捨て難い風情を見せています。
* 我が家はお彼岸といえども、特別のことはしない。ふだんどおり位牌の前を少し腰低くして通るだけ。
2003 9・23 24
* 心嬉しい初メールが舞い込んできた。あわやイタズラメールかと削除しかけたが、サイズが穏当なので開いてみたら、間違いのない、そして若々しいメールだった。ハンドルネームから猫の好きな乙女であるなと見当が付いた。
2003 9・24 24
* ご無沙汰しております。約10年くらい前に東工大生だった**と申します。**さんの結婚式の時にお会いしましたが、覚えていらっしゃいますか?
今回は、東工大の授業の時に取り上げた短歌などの本を出すことになったとご連絡頂き、有り難う御座います。
あの楽しかった授業の内容が本になったのですね。是非読みたいと思います。私は上巻を持っていませんので、下巻と共に購入したいのですが、お願い出来ますか?上巻も購入可能な場合、その場合の振込み金額を連絡頂ければと思います。
一つくらい、自分の書いたものが載っていれば、嬉しいなあと思います。が、どれが自分のものだったか覚えていないので、もし載っていて、どれが私が書いたものか判るようであれば、何か一つ教えて頂ければ幸いです。
さて、ここで話は変わりますが、今は仕事の傍ら、ミュージカル劇団に入っております。11/21(金)~23(日)に公演を実施するのですが、今回は雑誌編集者を題材にしたものなので、もしかしたら先生にも楽しんで頂けるかもしれないと思いました。
もしご都合がつくようであれば、観に来て頂ければと思いますので、差し障り無ければ、パンフレットなどを送付したいのですが、大丈夫でしょうか? 前向きにご検討頂ければ助かります。
話は長くなってしまいましたが、今回はこの辺で失礼します。最近、涼しくなってきましたので、体調にお気をつけ下さい。
* 教室での表情までよくよく覚えている。感じのいい女三「弓」士たちのひとりで、三人仲間ではいちばん口数少ない人で、声音は思い起こせない。だが、書いていた字までわかる。あの大人しい人が大企業に研究職として籍をおいたまま、ミュージカルの劇団にもかかわっているというのが面白い。
日置流だったと思うがこの三人は一緒に弓をやりながら、めずらしく全く同じ研究室に属していた。コンピュータで検索すれば、わたしの学生たちはほとんど全員、大学時代の研究テーマや大学院の卒業論文題目がわかる。この三人の修士論文は、どう読んでみてもわたしの見当もつかない難しそうな題である。例えば「MOCVD法によるZnO薄膜の微細組織の形成とその電気的特性への影響」という修士論文は、ちかぢかお母さんに成ろうという日を待っている人の研究テーマだ。ひっくり返っても歯が立たない。歯の立たない世界が厳然としかも間近に在るということが、わたしにはいつも嬉しかった。それはわたしを謙遜にさせるし、なんだか嬉しくなるのである。その難しいことを少しでもわたしに分かりそうに話してくれる学生達が好きだった。このミュージカル劇に誘ってくれている美女はといえば、「イオン照射によるガラスからの銀微粒子析出」なんてことを大学院でやっていたのだ。
ところでわたし自身の卒論の題は「美的事態の認識機制」であった。
2003 9・24 24
* 朝に初めて届いたメールの人から、いままた「こんばんわ」と。学習院女子大学の四年生で、アルバイト先でわたしや妻ともう何度も出逢っているという可愛い人である。「インターネットで検索しておりましたら、秦様のホームページに出会いまして、大変嬉しくなり、メールを送らせて頂きました。私は、本を読むのが大好きなので、おすすめの本がございましたら、是非ご紹介して頂きたいと思います、よろしくお願い致します」などと朝には書いていた。朝は名前を読んでもどんな人とはしかと思いあたらなかったが、晩のメールで先ず確実に見当がついた。歌舞伎座などのあと、立ち寄ると、おとなしくにこやかに面倒をみてくれる人達のひとりだ。絵にも芝居にも興味をもっていると。
いろんなことがこの世間には有る。楽しいことも有る。
そういえば、十一月の顔見世に、我當君が出る。「近江源氏先陣館」で、北条時政とか。十月の金閣寺では赤面の佐藤正清を演る。師走の京都南座では二役演るらしいが、さ、京都まではどうか。
* 雨の一日 急に気温が下がりました。お変わりなくお過ごしでいらっしゃいますか。
高村光太郎の「栄螺」が11/7から一般公開されるそうですわね。写真でみてもきれい。
その記事の隣には、「安産利益の仏像盗難」の見出し。このところの仏像の盗難の多さはいったいどういうことでしょう。隣町でもありましたの。記事は、北滋賀の西浅井町。「あざい」と、濁って読むのでしたね。
* さりげないが。わたしの関心にピタリと焦点が合ってくる。夕刊のニュウスで一番眼の光ったのが、高村光太郎の、とうとう見つけ出された彫刻作品「栄螺」で、みるからに力作と分かるし、短歌も付いていて、夫人智恵子がらみとあるのも興味津々、わたしも機会あれば観てみたい。
それもそれ、近時仏像盗難の噂が多いのはこれ何事ならんという問題提起にも、ふと心惹かれる。ほんとうに、これは何事なのであろうか。
浅井を「あざい」と濁って読む話は、浅井忠を書いたわたしの小説「糸瓜と木魚」が記憶されてのこと。京都の植物園園長だった人の邸が、新門前の家の数軒東にあり、「あざい」さんと呼んでいた。近江で信長に討たれた浅井長政が「あざい」と発音すべきだったか、今、それは確言できない。
2003 9・24 24
* いつぞやは、一読者に過ぎませんのに温かいご配慮をいただきまして感謝致しております。
今年は 長梅雨・冷夏の後の猛烈な残暑でした。ここへ来て肌寒いほどの陽気に、夏物との入れ替えに慌てています。気温の変化の激しいこの頃 どうぞお体をおいとい下さますよう。
先週 名古屋能楽堂で観世流:能<通盛・葛城> 狂言<萩大名>を見てきました。
その前の帰郷の車中 <能の平家物語>を何度も読み返していたのです。お陰さまで能:<通盛>を充分愉しむことができました。小宰相と通盛を見ながら<北の方>のことを考えてしまいます。
萩大名は茂山千作氏:84才益々お元気で愛らしく演じていらっしやいました。
<来年の通し券>を申し込んでしまいました。
そして昨日は能<砧・菊慈童> 狂言<佐渡狐>
慈童を演じたのが8才の久田勘三郎君:凛々しくて 健気で かわいくて 充分魅了されました。茶掛けで見かける「福聚(寿)海無量」と、穆王が「福聚海無量」を書いて慈童に持たせたことが、繋がりました。
そういえば『修羅・七曜』:<海人>に出てくる”呉州赤絵珠取獅子鉢”が今年の<大師会茶会の菓子鉢に出ていたことも「茶道雑誌」で見つけました。こんなとき不思議に小躍りしてしまいます。
点と点:少しずつ繋がっていくのがとても<うれしいこと>です。<電子の杖>が少しずつ私の視野を広げてくれます。感謝! 愛知県
* いくつになろうとも、生き生きしていると、生き生きした体験が加わってゆく。わたしの作品とのたまたまの出逢いが、すこしでもお役に立っているなら有り難い。平泳ぎで、ゆっくり時の波を前へ泳いでいる人、日々に何かしらおどろきに眼をひらいている人、いいものだと思う。人生の全部をクロールや抜き手で泳ぎ切るわけには行かない。生き急いでは居ませんかと云われると、首筋がヒヤリとする。
2003 9・24 24
* カウンター 2003.9.24 小闇@TOKYO
いつも混んでいるその店のカウンターの奥は、焼き鳥の煙の吹き溜まりになっていて、十五分と座らないうちに髪にも服にもにおいがついた。嫌なわけではなく、むしろ楽しんでいた。溜まるのは煙だけでなく熱気もそうで、日が落ちても気温の下がらない街からそこへ逃げ込んでも、汗は噴き出すばかりだった。
その店から足が遠のいて、しばらく。数週間の無沙汰。
日中は二十度を超えるか超えないかの晩秋の気候で、夕方になって雨が降り出していた。車の流れは思っていたよりずっと速く、つまりこの数週間のうちに、あれだけ途絶えることの無かった人波はどこかへ引いていて、後部座席から雨に叩かれる窓越しに見るネオンは、まるで知らない街だった。
交差点の手前で降り、大粒の雨に横切って走る。寿司屋、中華料理屋、自動販売機、レンタルビデオ屋を過ぎて、カウンターの店。
引き戸を開けて入った店内に、客は二人しかいない。静かな街と低温で響きあうように、店の中もまた静かだ。
「降られたね」。
でも、ほんの少しの距離なんですけどね。客の一人は、もうフリースを着ている。ビールを下さい。それと焼き鳥、つくねとレバー。どちらも塩で。あ、つくねは二本にしてください。
店の外、焼き鳥のコンロのその向こう、コンビニに出入りする人の姿がよく見える。提げられる袋の大きさ、形状で、中身が判る。500mlのペットボトル、トイレットペーパー。パック詰めの寿司。牛乳、カップ麺、少し高級な。漫画週刊誌、シャンプー。100円のスナック菓子、夕刊紙。
雨に滲む灯はコンロの熱で陽炎のように揺れる。うつらうつらと、酔って眺めた対岸の灯を思い出す。もう少し暑かった、同じような雨の夜。思えばその夜も、すべてはこのカウンターから始まった。
奥の席からは、雨脚は判らない。でも、そろそろ帰る時間。席を立つ。ありがとうね、と声がかかる。店を出て右へ。手にしたジャケットを鼻で確かめる。かすかに汗のにおいがする。
* テンポよく、よく具象的に見ていて軽率な観念に走らない。コラムエッセイとして、藝が利いている。
これだけ書けると、では、小説も書けるか。
それが難しい。小説は、場面をつくる道具立てや背景だけでは始まらない、人と人との葛藤や関係がしっかり魅力をもって動き出さないと、いつまでもエッセイのままに終わる。エッセイから小説へ吶喊して行くのに、何が必要か。
或る意味で「我」を捨てなくては成らないだろう。エッセイは「我」の味であるが、小説は、どれだけ「我を殺して」活かせるかである。「他」としたたかに取り組まねばならない、「我」だけでドラマは生まれないからである。
2003 9・25 24
* 女友達が、先日、子供と公園を散歩しているところを、不審な中年男性に後をつけられ、家へは帰れず、飛込んだ交番は無人で、半泣きに、そこから110 番していると、その男が「居ないの?」と入ってきたというのです。
いただいた「逃げ羽も上手につかって」のアドバイスと併せ、震えた数日後、工事業者を装った男が、いきなりドアの鍵を開けようとしたのです。以来いまだに一羽で家にいるのがこわくて、囀雀はびくびくしています。
* いやな時世だ。テレビのニュースや報道番組やバラエティを見ていて、また新聞の見出しを見ていて、晴れやかに気持ちよくなること、あまりに少ない。
今日は桐生悠々を入稿し、夢野久作「悪魔祈祷書」をスキャンした。
明日は病院。今は、ぐったり。九時過ぎ。
2003 9・25 24
* アクターとして舞台に出ますので、もし良かったら観に来て下さい。 (といっても、まだ始めてから1年も経っていないので、まだまだですが・・・)後日、チラシやチケットなど送付させて頂きますね。
今回は、文芸雑誌、ファッション雑誌、ジャーナリズム系雑誌などを取り扱う雑誌編集者を舞台にした話です。
それぞれの部署で働く女性が様々な事情で、会社のお荷物部署である「第5編集部」へ左遷されてしまうのですが、そこで新しい雑誌を刊行し、各部員共々、やりがいなどを見つけて輝いていく、という話です。(詳細は、舞台をお楽しみに!)
劇団オリジナルのミュージカルですが、今回は演出補佐として木島恭さん(はだしのゲンというミュージカル演出で有名な方らしいのですが、ご存知ですか?)にお願いしています。
私は、フリージャーナリストの役+その他大勢の複数の役をやります。主役ではありませんが、そこそこ舞台には出ています。ちょっとですが、ソロもあるので、そんな私を観て頂けるだけでも、と思います。
私の所属している劇団について簡単に紹介させて頂きますと、団名は「コーラス・シティ」といって、社会人で構成されています。何年か前には、「あした天使になれ」といオリジナルミュージカルがNHK-BSで放映されたとか。
どんなところか、まだ私もよく分かっていないのですが、劇団を創立した方(藤本洋さん)がいずみたくさんなどとお知り合いらしく、年2回の劇団定期公演以外にも、環境問題の集会など各種イベントにも出演しています。(今週末はピースサンデーに出演します。)
今年の5月にも公演を実施したのですが、そのときは木島恭さんに演出・脚本をお願いしました。
劇団としては、来年20周年を迎え、その分については篠原久美子さんという脚本家に台本作成を依頼しています。
ご子息も先生のようなお仕事をしているのですね!文藝一家!? 天体観測は私も観ていました(面白かったです)。是非「共犯者」は観せて頂きます。
* すこし宣伝になるだろうか。
2003 9・25 24
* こんばんは。「私語の刻」で紹介されていた、元東工大院生さんの研究テーマ、面白かったです。
こちらは、先日ある理系友人とのメールのやりとりの中に出てきた、セミナーの名前です。
「ショウジョウバエ近縁種間における形態進化の分子発生学的基盤」
「アブラムシにおける単為発生プロセスおよび内部共生系の起源」
何だかさっぱりわからなくて、面白いです! それでは、おやすみなさい。 群馬県
2003 9・27 24
* 「崇徳院」へのおことば、ありがたくうけたまわりました。
「骨太に、大胆に」という仰せ、むつかしうございますが、そう、あるべく、努力したいと存じます。
怨霊として語られること多く、わたくしの興味も怨霊説話からでした。けれど、崇徳院のうた――まとまったうたとしては「久安百首」のみですが――を読むうち、歌人としての院を知らな過ぎたことに気づかされた次第でございます。
あと、讃岐幽閉時代の院、それから院周辺のひとたちを書きたいとおもっています。
うたにも、過分のおことばをいただき、疲れ果てていた心、よみがえる心地でございます。お医者さんも、落ちついてきましたねとおっしゃってでした。
やっと、心落ちついてきました。くさぐさのお励ましに、御礼申しあげるのが遅れました御無礼、おゆるしくださいませ。
高史明さまの「歎異抄」、ゆっくりゆっくり、水を飲むように拝読しています。水は、心に、全身に染みわたってゆくようでございます。ありがたいことに存じます。 茨城県
2003 9・28 24
* 一昨日、母親の助けを借り、女手で二人の子供を育てた女優の五十嵐めぐみの、LD(学習)障害、長男の生活を紹介したテレビ番組に触れました。昨夜は NHKの「鶴瓶」の番組で、宮崎の、同様の障害(この日本語はとげがありますが、)等を持つ成人の職業センターを紹介していました。
長く養護教育の現場にいた身内、いまは退職して都下で子供らに工作、工芸を教え、かたわらヨガの瞑想道場を主宰していますが、彼から、キアヌ・リーブスがLD障害で台本がほぼ読めなくて暗記している、との話を聞いたのも思いだしました。身内の彼の長男も、かろうじて学校へは行きましたが、そのようであったかと。
どちらかというと、心やメンタルの方ではなかった、それは後からついてきたのだ、と、少し気づくのが遅かった、でも重たいけど晴れた気分です。不足していることを人はよく補い合い、分かち合うことが大事ですね。小さきもの、弱いものに人一倍、いや万倍あたたかいまなざしを向け、実践する楽しみを見つけ得れば、と、晴れの気分です。お導きにいつも感謝しております。
* 「お導き」なんて、とんでもない、何もしていない。もさもさと「私語」しているに過ぎない。
2003 9・28 24
* 雲たなびいて 明かりをつけたとき、ジャズトランペットのソロが、ラジオから流れてきました。
稍寒の風に、一筋、金木犀の香り。蔓草の小さな朱い花が、一輪、細いうなじを風にまかせています。
郵便受けには、クリスマスコンサートの案内が届いていました。
きのう、「露の世」を読みました。 新潟県
* 夕方、近くの薬局へ聖路加処方のインスリンなどを受け取りに行った。空が高く明るく、大きな雲の峰が幾重にも赤い夕日に反映し彩を異にしているのが、珍しい美しさ。たちどまり、何度も首をたかくあげて見惚れた。「一筋、金木犀の香り」をわたしも感じた。季節のかわりめを今日はまざまざと風の音におどろき知った。あ、そうか「露の世」の時季なんだと、昔昔に書いた自分の作品を、自分も一人の読者のように思い出した。桔梗サン……。短いながらに、こういう印象うるわしい、そしてこまやかに自然な、的確な、メールが嬉しい。
2003 9・29 24
* Hello Hata-san,
Just a note to let you know that we just saw you on the “NHK Haidan” television program. You know that I had not seen you since the Kyoto Sanjo days long time ago, but I recognized your features of those days. Now you look the distinguished scholarly gentlemen of the position you have achieved. Hope to see you next month when we will be in Tokyo. We will be in touch for the exact time and date. Chiyoko also sends you greetings.
Edward Ikemiya
* 恐れ入ります。池宮夫妻は、京都三条河原町の朝日会館わきを、高瀬川まで入ったきわの洋館に、当時暮らしていた。夫人の姉上も同居し、その人が、叔母の稽古場へお茶とお花の稽古に来ていた。わたしは大学生だった。
この人達との交際は、わたしには何もかも新鮮だった。衝撃だった。憧憬の念ばかりを胸にし、わたしはおそるおそるこの池宮家によく出入りした。池宮氏はどこかしら京阪電車沿線の米軍施設に勤務していた。千代子夫人はよそでお茶を習っていた。自宅に畳の部屋をつくり炉も囲って稽古していたし、洋間に立礼式の設えをして、席開きの茶会もしたのを、わたしは裏方で、いろいろ手も知恵も貸した。そういうことの出来る大学生として、役に立ててもらえた。
その洋風の家は「李家(りのや)」さんという、知っている人は知っている或る名家のもちものだった。なにもかも私には珍しかった。
そのころ、彼女たち姉妹は何が何でも、扇雀・鶴之助のアツアツのファンであった。武智歌舞伎の華やいでいた頃だ。その扇雀がいま鴈治郎で、遠からず坂田藤十郎という上方歌舞伎創始期の大きな役者の名を襲ぐことになっているし、鶴之助はいまは中村富十郎、歌舞伎踊り最高の名人になっている。若い夫人との間に、最近また新しい子供が出来たおめでたい限りの千両役者でもある。
そうも思えば、わたしもまた久しく人生を歩んできたなあと思う。十月にも十一月にもその二人の芝居を木挽町歌舞伎座で妻と楽しむ。十月、当代の扇雀丈も出る平成中村座の芝居も妻は楽しみにしている。妻との結婚にも、この池宮家の人達は小さからぬ役割をはたし、私たちの背中をそっと前へ押してくれた。
池宮夫妻は今もお元気で、もう一人の親しかった年上の友達は、アメリカで亡くなってしまった、それが、かえずがえす哀しい。
2003 9・30 24
* 二時前に電気をけし、六時に床を離れた。すこし眠い。
* 学生時代に『慈子』を読んだという人と、夜中から今朝へメールが三往復した。泉涌寺や東福寺の秋が静かに胸に蘇る。ひとも、多く、慈子という。わたしも、やはり、そう思う。このヒロインを思うと、つぎからつぎへ他の人にそれが繋がれて行く。
四日のペン京都大会へは結局行きはしないが、休息するが、いちばん心身をやすめに行きたいとすれば、やはり来迎院や通天橋。清閑寺や正法寺。白河筋であり知恩院、将軍塚、南禅寺であり、平安神宮の神苑であり、永観堂や黒谷や法然院だ。銀閣、曼殊院、そして円通寺。光悦寺、金閣、妙心寺、竜安寺、そして広沢の池の北嵯峨から嵐山。苔寺へも思いははしる。
行かなくても、いい…。あそこには、過ぎて来たなにもかもが在る。
東京にも沢山ないろんなものが在る、が、懐かしさはかなりちがっている。
2003 10・1 25
* 秋の朝NHK俳壇を見て 秦恒平様
朝はつめたき水を汲むような清明に、NHK俳壇の再放送を拝見。冒頭ゲストの紹介で、ご自身の俳句
月皓く死ぬべき虫のいのち哉
を披露されました。忘れていた飯田蛇笏の芥川竜之介哀悼の一句
たましひのたとへば秋のほたる哉
を思い出し、二つの句にある深い闇に、光を感じました。ただこのことを書きたくてご多忙の中へメール致します。
秋、燦々と降り注ぐ朝。 神奈川県
* 私の句は、小説「みごもりの湖」の冒頭、清水坂の夕暮れにふと妻とともに骨董の店で買い求めた、姿美しいが「名ばかり丹波」の大徳利に秋の色をさし添え、自作の句の短冊の下にも置こうかと書いたのが初出であり、句は出来ていたのか小説のために即座に作ったのか覚えがない。その後に、小説「月皓く」を書いた。女主人公が、清水への初詣の道行に、おりからの月明かりのまま思い出して私に告げる句として使われている。この初詣は事実あったことで、時代はわたしが大学生のころであるから、もうそのおりに作っていたのか、どうか。
小説に利用した句には、「糸瓜と木魚」に、
あめの日の雨うつくしき秋桜
と書き入れている。作中の誰かの句としてつかったように思う。
菜の花に埋められたる地蔵哉
とは、よほど昔の自作と覚えている。これは類句がありそうで。
高校から大学時代に用いて今も座右にある英和辞典の見返しに、とんでもない斜めにはしった字体で、
死にいそぐ道には多き春の花
という、とほうもなくいやみな句を書いているのが、恥ずかしい。最近に、
コスモスの少し垂れしが美しき と。
俳句は難しい。うまいへたを云わないなら、短歌は口ずに流れ落ちるように、と謂うと涎のようだが、出来るけれど。秘めて出さないけれど、白状するとわたしは、すっごくセクシイな短歌がジョウズなのです。類似のそんな歌集を出して送ってくる若い人があるけれど、藝もなく、みな下品でただただ汚かった。お話しにならない。
2003 10・1 25
* 朝からさわやかですが、今日も来客用寝具の後片付けで大わらわです。医者の甥がトロント大に留学するというので、27~28日に我が家で歓送会をしました。総勢24人(うち幼児5人)でした。
そんなわけでテレビ番組は録画しておき、昨夜やっと見たのです。側で一緒に見ていた夫が、「懐かしいなー、変わってないなー」とうれしそうでした。ほんとうに、お変わりない、と思いました。
「花嫁の父」で思い出すのは、最後の、「息子は結婚するまでだが、娘は一生親の子供だ」という父親の言葉です。息子しかいない私には印象的でした。
留学する甥にも、あちらの人は家族を大事にするからクリスマスには帰してもらえるかしら、と言うと、「それより自分としては良い機会だから外国のクリスマスを体験してみたい」と返され、ちょっと詰まってしまいました。そんなことごくごく当たり前のことなのに、感じ方の違い、私の気持ちの小ささに気づかされました。
この快い季節はあっという間で、すぐ寒くなりますね。でも私は冬は嫌いではありません。
3日に「安全地帯」(御存じないかもしれませんね)のコンサートに行きます。 千葉県
* さ、分からない。夫婦して私を知っている。この前のメールでは妻のことも知っているとあった。心懐かしいのに、だが、この人たちのことが思い出せない。もう何年も、である。文通はずいぶん久しいのであるが。
2003 10・1 25
* 月光値千金 平成中村座初日。勘九郎さんの芝居だけでなしに、浅草はなにか派手派手しいイベントが行われているようですね。
11日に浅草で「エノケン生誕100年祭」があって、柳沢愼一(私は「奥様は魔女」のダーリンの吹き替えでしか存じません)が、エノケン・ヒットソングを歌うとか。前田憲男のピアノで。
いいなぁ。聴きたいなぁ。ぶん殴ってちょうダイナ♪ なンて、一緒に歌いたいわ。
* いよいよ始まるか。
卒業生出演のミュージカル案内も届いた。「編集者」を主題にした賑やかなミュージカルらしい。主題がいい、珍しい。新聞記者はよく小説やドラマの主人公になったけれど、わたしが小説を発表し始めたころ「編集者」の登場する小説は珍しいですねとよく云われた。74年大春闘のあと、三部作で「迷走」を出したときも「編集者もの」として注目され書評された。最近は息子も書いていたドラマ「編集王」のような人気マンガも出て、そう珍しくなくなっているが、先魁けた者として、いつも気にはかけている。東工大の卒業生でも編集者になった人は一人ならず居る。ミュージカルを少し下に宣伝しておく。こんな機会に卒業生諸君の顔が見られるといいが。私は今のところだが、どの日もあいている。
* 劇団のチラシ&チケットを送らせて頂きました。
以下の予定で公演を行います。
ミュージカル集団コーラス・シティ第32回公演
『EDITORS(エディターズ)』作・演出 田中広喜 作曲 徳永洋明 振付 asA
日時; 11/21(金)19:00~、
11/22(土) 14:00~&18:00~
11/23(日) 14:00~
※いずれも開演時間。開場時間は、開演の30分前。
場所; 労働スクエア東京ホール(最寄駅:八丁堀駅、新富町駅など)
料金; 3,000円 (当日精算券が秦の手元に二、三枚来ている。)
今回は、「フリージャーナリスト」の役をもらい、それ以外にも編集者などの複数の役をやりますので、ほとんど舞台に出ていることになりそうです。
生バンドでの公演となりますし、音楽は世界作曲コンクール3位の徳永さんという方が作曲したもので、演歌っぽいものからジャジーなかんじまで色々あって楽しめるかと思います。
お忙しいと思いますが、是非観に来て頂ければと思います。公演後、直接お会いできる時間があると思いますので、来て頂けるようであれば、事前にいらっしゃる日時を教えて頂けると助かります。
2003 10・2 25
* 街の使い捨て マスコミは、新幹線の話題でもちきりです。こないだまで、丸ビルに大騒ぎしていたのが、品川駅周辺、品川プリンス、お台場、大江戸温泉、汐留シオサイト、六本木ヒルズ、渋谷、新宿南口が「今」だそうです。原宿どころか、天王洲アイルもエビガデも、フジテレビでさえ古い古いと。
東京らしいところを、と訊かれ、訪ねたい、連れて行きたいと思う場所を探しました。地図を広げ、記憶の引き出しを、がったがたさせて。
白金台の、白く麗しき朝香宮邸。それを取りまく、武蔵野の面影いぱいの自然教育園はどうかしら。今もそのままでしょ?
* 庭園美術館はともかく、自然教育園はなつかしい。変わってもいまい。医学書院に勤務し担当の雑誌「公衆衛生」に力を入れていた頃、編集委員の先生が白金台の公衆衛生院におられ、よく通った。クラシックに壮麗偉容の大建築だった。奥の方にも大きな東大医科研があって、そこへは東工大から何人かが院へ転入というか転出というか、して行った。
この取材の帰りに、まぢかな自然教育園に立ち寄り、つまり仕事をサボッテ広い園内を一回りするのが今風の「癒し」の時間だった。ああ、あそこ。懐かしいと思う人がいるだろう。
東京らしいところ、か。よく知らない。浅草寺の界隈から、すこし奧へ待乳山の方、平成中村座が舞台をかつて仮設した辺り、また花火に招いてもらう、言問通りより奧の、吉原へもまぢかそうな辺りまで含めて、わたしはいつ知れず浅草が気に入っている。根岸の奥の方、寺町辺りもらしいといえばらしい雰囲気がある。ある歯医者さんに根岸の奥の方の時代物の鰻やへ連れて行かれ、ものめく風情の二階座敷で鰻懐石を食べたことがある。辺りの町筋は暗い闇に沈んだようで、しかも土地のお祭りに町内がさざめいていた。もう何年の昔か、懐かしい。
2003 10・2 25
* バルセロナが再開した。ほほう。柔軟になったなあ。
* お客様サービス係 2003.09.25 小闇@バルセロナ
確か、日本には、そういう名前の仕事が存在した。はきはきした声に、受話器の向うの笑顔が思い浮かぶ。ここはスペイン。分かってはいても、また腹を立ててしまった。
今週の土曜日から、「お客様サービス係」に当たる番号に、電話をかけ続けている。正確には夫が。既に十回は同じ説明をし、その都度、今日にも技術者を送る、と言われている。今朝は、「最優先に」と。
毎回、辛抱強く説明し、挙げ句「ありがとう」と電話を切る夫が、物足りない。文句の一言でも言ってやったら、と。とうとう痺れを切らし、仕事から帰って受話器を取った。
かけても掛けても話中。「お客様」の怒りはますます煽られる。苦情が多くて当然だろう。たった今、この電話線を占めている人たちも、きっと厭味の一つを言わずにはおれまい。ある人は怒鳴り、ある人は喚き散らしながら。
が、ふと、電話を受ける側の不機嫌な顔が浮かんだ。この電話が終わっても、次の電話、次が終わっても、その次。この仕事をしている限り、電話を取り続けなければならない。一つの苦情の終りは、新たな苦情の始り。なんとやりきれない仕事だろう。
一時間後に繋がった電話。私は夫と同じ説明を繰り返し、ありがとう、と電話を切った。
やれやれ。インターネットが使えるようになるのは、まだ先になりそうだ。
* 雨雨ふれふれ 2003.09.30 小闇@バルセロナ
何ヶ月ぶりのまとまった雨。おかげで、昼食に戻った私は、朝と違った服装で家を出た。さすがにヘルメットは持たない。タクシーを捕まえるまでに、びしょ濡れになった。服を着替えて、損した気分。
18時35分。建物を出る時には、雨はあがっていた。腕時計をもう一度確認し、家に向かって歩き出す。雨あがりだから、25分はかかるだろう。
大通りから右へ、一方通行の道に入る。確か、その辺りにY夫婦が住んでいる。6月に電話で話した人を思い出した。そろそろ電話をしなければ。今週、、、いや来週の初めに、きっと。正直、気が重かった。
6月末、仕事でYさんから電話を受けた時、切り際に、よかったら会いましょう、と言われていた。定年後、日本から住みに来られたご夫婦。窓口で見た顔を思い出す。印象は悪くない。それでも、警戒心が振り切れない。あなたは、利用されるだけかもしれないと。休暇から帰る日を聞かれれば、鬱や悩みの相談かとも疑った。ただ「はい」と言ったきり、いつまでも電話をかけない自分が、後ろめたくて嫌だった。
交差する人の流れに、突然、知った顔。Y夫婦と認識する前に、すでに声をかけていた。あれよあれよと、近くのカフェへ。
家に着いたのは、腕時計を見てからちょうど二時間後。
雨のおかげで得した気分。また、会ってもいいと思った。
* 海外で何ヶ月と「暮らして」くる知人は少なくない。この小闇は結婚もして生活し、日本の在外公館のようなところでサービスの仕事をしているらしい。いろんなことが有るのだろうなと思いつつ、東工大の卒業生でいま海外に何人いるだろうとふと数える気分になった。ブラジルで童貞をうしなった飛行機青年よ、今日も元気か。
2003 10・2 25
* 月 30日までの展示と知り、先日、湯木美術館へ、高野切「あまのはら」を見にでかけました。
展示室入口の壁には、籠にたっぷり、秋の草花。胸にある外の空気を、すべて吐いて。
寄付、腰掛、本席(あまのはら)、懐石、炭道具、後入、続き薄と、薄。
千鳥、波、秋風、夏月、十五夜、秋草といった道具の展示が続きます。
最後の、広間――。三笠山から月が上り、月光の下、満開に咲き誇る桜――「春日宮曼荼羅」。
立ちすくみ、涙ぐみました。
* 春日宮曼荼羅は、この世界が夢にほかならないことを酔うたように教えてくれる。すばらしい。立ちすくみ、涙ぐむというのが、そのままだと思う。
2003 10・2 25
* 一日の最後に、遠くからのきっぱりといい文章を読んだ。気をよくして、もう今夜はやすもう。
* 権威 2003.10.02 小@バルセロナ
後ろを走っていた白バイが、赤信号で真横に並んだ。白バイと言っても、バルセロナでは白に青と蛍光色の黄色が入る。いつもなら目もくれないのが、今日は、何故かじろじろっと見たい気になった。視線は感じるものなのだろう。ヘルメット越しの私の顔を顧みて、見慣れない目の形に一瞬止まったようだが、信号が青になり、そのまま行ってしまった。
緊張感はなかった。ここでは、お巡りさんを前にして、皆平気で、信号無視も見切り発進も違法駐車もする。肝心のお巡りさん自身、交通マナーを守らないのだから、人のことなど言ってもいられない。白バイやパトカーが通るだけで、みなの背筋が一瞬伸びて見えたのは、遠い国の話。日本の警察は、それなりに敬意を払われていた、いや権威があったと思う。
今から25年程前、まだ小学校にもあがらぬ私は、「警察の権威」に脅されたことがあった。場所は京都の梅小路蒸気機関車館、忘れもしない。
黒ピカの機関車たちはかっこよく、その中から一番を選ぼうと、私は行ったり来たりした。みんな同じに見えるだなんて、言ってはいけない気がしていた。マニアらしきお兄さんたちが、デッキに上がっている。機関車に紙を当て、一生懸命鉛筆を動かしている人もいた。でこぼこの文字を、浮かび上がらせているのだろう。さっきから登りたかった私は安心し、お転婆を発揮した。周りには、ロープも注意書きも見当たらなかった。
デッキに立ち上がろうとした瞬間、鋭い声がした。
「降りなさい。降りないと、警察につれて行くよ。」
電撃が走り、頭が真っ白になった。慌てて飛び降りれば、デッキは思いの外高く、足の裏がじんじんした。野良犬を蹴散らすような係りのおじさんに、私は走った。なぜ、、、デッキの上のお兄さんが頭から離れない。みんなが私を見ているようで、恥ずかしさに顔が火照った。心臓は潰れそうだった。
警察に連れて行くよ。そんな言葉でしか話せない大人は、大っ嫌いだと思った。今でも赦せない。
2003 10・3 25
* おはようございます。新婚旅行に出かけた娘から預かっている姫りんごが日に日に秋の色に色づいていきます。目の調子がよくないということ、心配です。京都南禅寺畔の初秋をのんびり楽しんでこられるとよかったのに。散歩に出かけられたり、庭の草木をながめたりされるだけでも、少し目を休められるとは思うのですが。
文藝館の立原さんの「冬のかたみに」さっと目を通しました。幼年時代お父様との触れ合いを中心に丁寧に述べられていますね。改めてじっくりと拝見したいと思います。昨晩は藤村の「破戒」を読みながら眠りました。丑松の新しい人生を余韻に感じながら。
イベントの準備であわただしくしています。自分で作ってしまったあわただしさです。しなくてはならないことではなくて、したかったことが、今度はしなくてはならないことになってしまいました。自ら刺した「黒いピン」です。これから準備に取り掛かります。
静かに秋の日を過ごされますように。 川崎市
2003 10・5 25
* 浅草 勘九郎さんの芝居を見に行った友人が、浅草のタウン誌を送ってくれました。
神谷バーや、ヨシカミの広告に、思い出すのは食べものやさんばかり。佃煮、てんぷら、トンカツ、どじょう、豆かん、麦とろ、そば、蛸まん…。
「浅草」と、古風な字のしたには、中村座の三色に白く家紋を抜いた表紙。題字は川端康成の手蹟だそうです。
川柳と都々逸の投稿頁が、浅草の風。
~\誰かに手紙を書きたくなった 俺と波しかいない宿
~\やさし過ぎると言われたキズが 消えず今でもひとり者
ですって。うふふ。
* 平成中村座浅草寺の興行は即日完売であったという。佳い席を昼夜通しでとれたなんて、ほんとにラッキーである。佃煮、てんぷら、トンカツ、どじょう、豆かん、麦とろ、そば、蛸まん…。天麩羅ぐらいか、他のどれも取り立てて好きとも言えないが、浅草へ行くとそれが懐かしく感じられることは確かにある。
そうそう望月太左衛さんが、さらに発展して国立小劇場で「鼓楽」の会、ぜひにと招待券が届いた。日本中でこれほど精力的に忙しい女性は少なかろうに、芸大の博士課程にこの春から進学している。先生で通用する人が、一学究として進んだ。この人の音楽は伝統の鳴り物お囃子を基本にしながら、地球や宇宙をいつも主題にひっぱりこんで、太左衛は作詞も作曲も演奏も演出もする。日本中に稽古場をもっているのではないかと思うほど、手広く、しかもそれに満足していない。えらい。
2003 10・5 25
* 以下の「小闇」の一文は、大事な点に触れている。この人がそれを肯定しているのか、否認に転じようとするのかは判然としていないけれど。
「慣れ」ないし習慣にいたる問題である。
* エクセラ 2003.10.5 小闇@tokyo
昔いた研究室には「お茶係」という役回りがあった。所属する教官、学生から集金をし、インスタントコーヒーなどを買い揃える当番である。当番になった私は、初回の購買で、ネスカフェエクセラを買った。ネスカフェゴールドブレンドより、安かったからだ。
買って帰って周りから罵倒された。インスタントコーヒーとはつまりネスカフェゴールドブレンドであり、それ以外はインスタントコーヒーとは認めない、それが当研究室の伝統である。
所詮自分の金ではないし、それ以降はゴールドブレンドに戻した。こういうつまらないところにこだわる人間とはつきあいたくないなと思った。
時は流れ、今日。切れたインスタントコーヒーを買いに出かけた。一本のゴールドブレンドと二本のエクセラが、同じ値段。迷わずエクセラを買った。
家に戻って、冷たい牛乳に溶かしてカフェオレもどきを作った。いつものゴールドブレンドと違って、簡単に溶ける。アイスカフェオレにはうってつけだ。
自分の選択のセンスにややうっとりしながら口をつける。
・・・。研究室にいた保守的な小舅たちの主張が少し分かった気がした。うまいまずいではなく、慣れの問題。つまらないところで、また学んだ。
* 慣れて、習熟することは、その限界と、さらなる手直しの大事さとを考慮に組み入れている限り、大切な、有効なことである。だが此処で小闇のいう「慣れ」は、かなりに「習慣」の意味のように読める。
わたしは心ならずも「心=マインドほ分別」をワルモノに言い続けている、(それには色んな展開や思索が加わるので、「心」という一字一語にあまりに過剰な意義を押しつけているのが問題なのであり、一概に言っている訳ではない。)それとほぼ同様に、「習慣」になずむことの怖さにも触れたことがあり、一つの胎毒また大毒だと思っている。「一期一会」を大切に思う者からはあたりまえのことである。習慣は、ときに美服であり時に襤褸である。いずれにしても人間をハダカにしない優しい或いは怠惰な防護服である。アランはその「美学」で語っていた、人間の自然は衣服をつけたときにあるか、つけずに裸体であるときが自然なのかと。アラン的には答ははっきりしているし、わたしもアランに反対ではない。だが、習慣にひきずりまわされることの余りに多い、余りに安易にそれが好きな日常や人生では困る。真に肝腎なこと、覚悟として、「念々死去・念々新生」のハダカに直ちに戻れる「バネ=発條」のつよさがなければならない。
わたしも、意図して日々に繰り返すことを幾つも持っている、が、それが「習慣」的に流れていないことを、大切に意識し、つとめて新鮮に繰りかえそうとしている。繰り返すことは、避けられない。繰り返すことは必然である、例えば日本の自然が四季を繰り返すように。しかも繰り返しの一度一度が、生涯にただ一度「かのように」繰り返せるかと古人は問いかけた。わたしも自身に問い続ける。「分別」と同様安易な「習慣」をわたしはほぼ敵視していることを、小闇の一文は、あらためて気付かせる。
2003 10・6 25
* どうぞお召し上がりください。よろこんでいただいて嬉しゅうございます。
余裕のないスケジュールで、新幹線の中でだけ、ゆっくりと車窓の秋の風景を眺めながめておりました。
(歌集「少年」)16,7歳であんなに素敵なうたを詠まれるなんて、なんて素晴らしいのでしょう。詠まれた方は生涯のお幸せでいらっしゃいますね。 東京都
* 海胆などを戴いた。メールの交換から京都の「泉涌寺」や「東福寺」が話題になったついでに、私の歌集『少年』のことになっていた。高校は二つのお寺の中途の丘の上、日吉ヶ丘に在った。わたしの文学は、まず此処で、短歌のある日々としてスタートしていた。短歌的な抒情はよかれあしかれ永くわたしの表現を律したかも知れず、やっと近年にそこをのがれ出て来たかも知れぬ。そんなに変わらないで欲しいと読者は言うのだが。
2003 10・6 25
* 秦先生 お久しぶりです。
私は元気、元気。なんとかやっています。ここのところは、仕事も少し落ち着いてきていて、毎日、電車で帰れるかなぁ、無理かなぁ・・・といった状態です。ここ一ヶ月以上、電車で帰れる日がほとんどなかったことを考えると、大幅な改善ですね。ただ、もう少ししたら、12月末に向かって再び忙しくなるはず。ちょっとした小休止といったところでしょうか。
相変わらず私は予算の仕事でかけ回っていますが、世の中的には大臣が変わったり、総選挙に向けた動きがあったりと色々です。大臣は、道路道路と道路ばかりですが、行革大臣時代と違い、我が省の守備範囲はとても広い分野を担っています。生活に直結した施策なども沢山あります。懸命に、日々過ごしておられる人たちにどんなメッセージを投げ掛けるのか。そもそも、投げ掛けられるのかどうか。少なくとも、息子さんには、今のところ期待しているところです。
柳とはメールのやりとりだけですが、秋には先生と会いましょう、ということで前から話をしていました。ご紹介頂いたミュージカルですが、11月末はちょっと厳しいですね。もともと、予算編成時期であることに加えて、国会の方も色々と動きがあるようですから。
もう少し早い時期が良いかな、ということで連絡をしておいたところ、今日先生のメールが柳から転送されてきました。柳には「その日でOK」と答えておきました。柳も大丈夫だと言っていましたので、確定ですね。
今朝から、仕事の合間を縫って書いていたら、結局色々になってしまいました。それでは、楽しみにしております。
* わたしも楽しみ。ともあれ、まずうまい酒で乾杯し、口をほぐしておいて、動くなら動いてもいいし。落ち着くなら落ち着いても佳いし。話し合うなら、クラブは適している。
2003 10・6 25
* 日本語の底荷 秦恒平様 歌集『少年』の幾つかの短歌を読ませていただきました。
読みながら、ある歌人の書いた文章が断片的に思い出され、その本を取り出し目をとおしました。作家の指標で始まるその第一章の文ですが、・・・
「短歌は日本語の底荷だと思っている。そういうつもりで歌を作っている。俳句も日本語の底荷だと思う。短歌、俳句ーそういった伝統的な詩歌の現代においてもつ意味は、この底荷としての意味を措いてほかに無いと思っている。
「底荷」とは空載時の船舶の重心を低くするために船ぞこに積み置かれる荷物を言い、ふつう、砂利が用いられる。」
「私は、短歌、俳句の言葉は日本語の中でもとくに格調の正しい、磨かれた言葉であると思っている。適確に物を捉え、思いをのべるのに情操のかぎりをつくし、正確に、真実に、核心を衝く言葉を選ぶのが短歌であり、俳句である。」
五音と七音を基調とする詩学、情操の豊か日本語へ思いを新たします。昭和二十年代の(恒平)短歌の命、永遠なりと読みました。 神奈川県
* 秋冥菊 白色だけを貴船菊と呼ぶと聴いています。鉢のひょろひょろと延びた僅か二本の茎に四、五輪輪の白い蕾が、気がつけば綻び初めて、秋を感じます。気紛れに化学肥料をパラパラと落とす程度で、そうなるまでの存在が薄いのに、もう何年もこの時期、私のアイドル。 東京都
* 朝一番のおくりものに、感謝。さ、木挽町へ。お天気はどうか。
2003 10・7 25
* リンゴ 『冬祭り』には、たくさんの美味しいものが出てきますが、なかでも、袋いっぱいのリンゴは、旅程でのタイミングも絶妙で、読んでいていつも喉が鳴ります。
雑誌を繰っていて、「無間道(インファイナル・アフェア)」のアンディ・ラウ(劉徳華)を見た瞬間、あのリンゴを思い出しました。あい変わらず、いい顔です。NHK教育「中国語講座」で、インタビュー・フィルムが流れましたが、真摯でまっすぐ、引き締まっていて爽やか、味わいは濃く。
林檎の香残る籾殻あたたかし (福田邦子)。
宏ッちゃんがロシアでかじったようなリンゴが食べたいわ。
* たしかに書いた気がするが。こと左様に作者より読者の方がよく覚えていてくれる。これでたぶん健康なのだろう、作者にも読者にも。
たいていの作者は、出版社があって作者が在ると考えている。読者が、などと言うと変わった動物に出会ったような顔をされてしまう、同業者たちの中で。
しかし作者が作品を介して魂の色を分け合っているのは、読者。わたしは終始そういう作者をしてきた。夏目漱石はそういう作者であったと思う。
2003 10・8 25
* 一水会出展の油彩、以前に増して、格別に美しく纏まっていると。いつもの例のモチーフ(円形枠の棚)が今回初めて、活かせたなとみました、後景に脇役風に置いた効果でしょうし、陰翳もやわらかに落ち着いています。
上ひだりの黒い人間のような樹木のようなシルエットはバランスを欠いて成功していない。そこだけ手抜きしたように感じてしまうラフな捌きです。これが無かったらどうでしょう。弱いですか。
絵の右側半分は佳いですね、美しい。下の左も、ほぼ。細い壺を垂直に置きたかったのはよく分かりますが、質感よわく、無意味に不安定です。
しかし、絵としては断然前進しています。
その上で、この先がどうなるか楽しみでもあり不安でもあり。
不安といえば、あなたの構図の甚だ特異なのは、視線の流れが右下から左上へという。これは珍しい例に属することを、十九世紀のヨーロッパの美術史学者が説いています。ふつうは、左下から右上へ、左から右へ、です。劇場の花道がひだりにつき、左の下手から右の上手へたいていは移動します、視線が。一という漢字を書いて見れば分かります。これは、意図してしましたか。これがあなたの自然ですか。悪いとは云いません、とにかく稀有の例とすら言えます。 湖
2003 10・8 25
* 安物買いの銭失い 2003.10.07 小闇@バルセロナ
四月から起動したある「日系」企業が、半年経たぬうちに、三人目の現地社員を雇うことになった。要は、一人目、二人目に見切りをつけられたのである。
私は、その二人を知っている。どちらも、咽から手が出るほど、仕事を欲しがっていた。通訳、翻訳、秘書業は言わずもがな、そこでの仕事はマーケティング。スペイン語、英語、日本語を駆使しての業務に、優秀そうな彼女らは、むしろ張り切って見えた。
会社は、利用できるだけ利用して、金の出し惜しみをした。抗議に対して返した言葉が、「日本では、(部品)組立てのパートさんも、このお給料です。」
スペインに、MERCADONA(メルカドナ)という名前のスーパーマーケットがあり、創業以来、脚光を浴びている。成功の秘訣は、従業員が正社員として雇われ、相応しい給料をもらっていることにあるそうだ。
それだけ。たったそれだけのことが、従業員に満足感を与え、彼らの志気を高め、結果、よい雰囲気とサービスを生み、それが顧客を増やし、商品の値を下げることに繋がっていると言う。安ければ顧客はますます増えるだろう。
私たちも実際、近所の七、八軒のスーパーマーケットを横目に、わざわざMERCADONAまで足を延ばしている。
どちらが賢いか。質や志気を侮り、けちることだけに喜びを感じている人間は、一生机で皮算用でもしていたらいい。気がつけば、かちかちやまの狸にでもなっているさ。
* オウ。
* みっともない 2003.10.7 小闇@TOKYO
野中某とか藤井某とか、ここまでいくと往生際の悪さとはこういうことだ、という見本のようで、ある種の清々しさを覚える。嘘である。
己の引き際を見誤ることほどみっともないことも、そうはない。
例えば恋人が心変わりしたのにそれに気付かず、あるいはうすうす気付いてはいても認めずに、いや彼女はきっと意地を張っているだけで、本当は僕のことをまだ愛しているのだ、とか。だから俺は押すぜ押すぜ、みたいな。このあたりの男心の葛藤の描写はどうやったって三谷幸喜に敵わないのでこれ以上触れないが、つまりはそういうことである。
「みっともない」成立の必要条件に、自分ひとりのつんのめった思いと、相手の気持ちの量れなさとを挙げたい。
判断の基準が渦中の自分の心のうちにしかないから、こういうことになる。防ぐのは簡単。自分がその騒動を、外からみたらどう思うか、想像すればいいだけの話。
電車の中で化粧をしないのもコンビニの前に座り込んでカップラーメンを食べないのも、長い列に割り込まないのもひとの持ち物をうらやましいと思ってもそう口にしないのも、私を捨てないでなんて口が裂けても言わないのも、そうしている自分ははたから見たらさぞみっともないだろうと思うからだ。
なんだか中高生向けの道徳の教科書にありがちな厭味な感じの流れだが、これが七十八歳男子と六十七歳男子の振る舞いによるものなのだから、日本というのも素敵な国だ。嘘である。
野中某も藤井某も、対峙すべき観衆の心がしらばっくれているのでなく本当に分からないのなら、冷静な眼の自分をもうひとり、蚊帳の外に置けばいいだけの話なのだ。もちろん彼らの場合は、私のような小娘とは違って地位や名誉に相応しい退路が必要なのかもしれない。そのプライドが何かをじゃましているのかもしれない。
しかし、私は彼らがどんな有益なことをしたのか存じ上げないし、あったとしても、過去の実績が仇となっている面もあるように思えてならない。なんにせよ、お釣りが来るくらい十二分に、みっともない。
* オウ。三十の「小娘」たちのこの機鉾よ。きみたちには、だが、責任もあるぞ。
* 美しい女先生 来日十年、日本語は難しいと言いながらも、相当堪能。故郷ジェノバでの二ヶ月の夏休みを終え、また日本へ。久しぶりの伊会話教室。
欧米では当然の習慣らしく、会話の中で何処の国、何処の都市出身かと聴いてきます。
「デイ ドヴェ セイ?(何処の都市出身?)」
「ソノ デイ キョウト」と返事をするや、ラテン系の気さくで美しい中年のマリネッラ ヴアーリ先生は、身を乗り出
して「オー、キョウト、ベッラ チッタ!(美しい町)」と返ってきました。
「イエース」いや違った、伊語では「シイー」と返答しながら、ホンマは、ローマとフイレンツエを併せたような古い歴史の街です、と答えたかったのに、当然、そんな難しい会話が出来る筈もなく。
何十年来のここ東京で、京都だと云うと大抵の人はヘンな期待をかけてつくずくと顔を覗きこんで、勝手な判断をしてくれて、気恥ずかしい思いの経験は何度もあり、京都出身者が皆々美人の筈がないでしょう、と身近にいる同歳、同郷者の友人と口を揃えて、そうよねえーと共鳴します。
まあ、それはさて置いて、京都が話題を膨らませるのは確かで、決していやではなく、むしろ身に纏うほんわかとした衣のように感じます。
* これがまた七十になるおばあさん。この人にも責任があるかどうか、わたしは判断を留保。
では、わたしには責任があるか。ある。シュワルツェネッガーには成れないし成る気もはなから無いが、今度の総選挙には、必ず責任を果たす。権利を行使する。自民政権には引っ込んで貰いたい。
2003 10・8 25
* セカイハツ 2003.10.8 小闇@TOKYO
世界初、を売り物にした新製品の説明会に出席した。セオリーどおりのプレゼンで、上座にはプロジェクター、手元には紙の資料。会が後半に入り、営業担当者が説明を始める頃になると、プロジェクターには手元にはない資料が投影され始めた。良くあることだ。三十分が過ぎ、ようやく最後の資料が映し出される。
そこには「世界発」の文字があった。説明していた営業担当者が間違いに気付き、「あ、これは世界初、ですね。世界で初めて」。するとパソコンで資料の投影をしていた社員が、その場で「発」を「初」に書き換えた。
いい時代になったものだ、と、思う。
OHPやスライドの準備がとても嫌いだった。印刷も何度もやり直した。私だけでなく皆そうで、地方の学会でのプレゼン資料にミスがあることに現地で気付き、コンビニのコピー機にOHPシートを手差しして新しい資料を作ったりもした。そう遠い話でもない。
その頃すでにノートパソコンもPowerPointもこの世にはあったが、まだ学会レベルには降りていなかったように思う。今はどうなのだろうか。
なんて、懐かしくもないのに振り返ってみたりして。
で、「世界発」、これも悪くないと思う。世界中から私のハートめがけて何かが飛んでくるようで、世界で初めてのものよりも、新製品としてはかなり魅力的。
* コラムとして、いい切れ味、面白い。
2003 10・9 25
* 十三夜の翌朝に。 二十歳のとき、無茶をやり同輩ともども破門されかけた師に、飲み屋でごちにあずかった。土佐っぽの師はたしか六十半ばだったが、いい飲みっぷりだった。説教は少なくとてもうれしかった。
いまごろ、君付けで呼ばれる酒席もとんと少なくなった。さ、遠慮無用、若いもんはどんどん食べて飲んでと。知命ごろまで、一まわり上の元気な長上者が飲み仲間でもあった。五十のとき、四十上の大先生と飲んだのが最後の記録か、さすがにご自宅まで送っていったが。
でも、昔の先輩、長上者は元気で飲みっぷりもよかったような。うまい酒肴でもてなしてくれる先生が何人かいた。いまは、いくつか年上の兄さん数人が君付けで呼んでくれるが、勘定はおあいこの付き合い。ちょっぴり寂しいが、還暦の歳になるとそんなもんだろう。
四、五十代、留学生や地元の大学生をよく飲み食いに誘った、自分も楽しんだ。催促ナシで金も用立てた。それも何だかなくなってきたような。これも、何やら味気ない、でもまだ老けていられないから、そのうち。先輩にもらった分は後輩に回さなくては。
十五夜よりずっと心に染みた十三夜が明けて、天気も上々、朝から仕事を片付け、母を五ヶ月ぶりに見舞う。都下ではまだ南へ飛んでいく雁は見られないだろうが、里の秋がきっと迎えてくれるだろう。いっときネオンの錦秋よさらば。 西多摩
* わたしの酒は、家で、妻と猫を相手の「ひとり酒」が大方、それで良い。それか、気の合った、むりにしゃべらなくていい、白い手先がときどき動く、静かな「おんな酒」。ま、そんな相手は、めったにいるものでない、創りだすものである。
2003 10・9 25
* 祝 光あれ真澄の天(そら)と海と人 遠
* 厚くお礼申しあげます。 退院時に黄疸が強く出ていると、二日間箱に入り光をあてられていましたが、他の女の赤ちゃん達は大人しく寝ているのに、この子だけが何時見ても大泣きで新生児とは思えない程、位置が横になる程の大暴れで、目を保護しているテープが剥がれた形跡もあり、目の見える二ヶ月までは気がかりで、密かにただひたすら祈っていました。我々の頃には未熟児の箱に入れられた赤ちゃんに事故が多くあったのが記憶に生々しかったからです。娘も同じ思いだったと後に聴きました。
幸いしっかりとした視力を持ち、両親譲りの黒目がちで二重の大きい目で、睫毛はこちらに欲しい程長く、色白で、髪の毛がまだ非常に薄いせいか、一見白人の子風。決して孫自慢ではありませんが、つい贈られた句にお礼の意味を篭めて書いてしまいました。有難うございました。
今朝は珍しく七時まで朝寝坊をしました。やるべき家事に大童で今やっと落ち着き、ご飯が炊けたようです。 京都市
2003 10・10 25
* 今朝も、のんびりと(か、どうか知らないが)プロペラの飛行機がゆっくり頭上を渡ってゆく。
* 絵の写真を機械のわきに立て、見ながら仕事しています。
黒い人体風と、細長い壺と。どっちかを省くなら人体の方、と思いながら凝視しています。視線の奧へ通るのを黒いシルエットが通せんぼして、そこで画面を限画し狭く妨げている感じです。この黒い武骨なシルエットが無くても絵画のバランスは崩れないで済む、絵の奥行きが明るく深く通るような、素人考えですが、感じです。
すると、前の壺もこんなにも長い首でなくて、首半分の長さで効果的なのではないのかなあと。
それにしても、あなたの絵で「美しい」季節感・構成感を感じた、ひょっとして初の制作ではないかなあ。いや、頂いた紫陽花が、おとなしいながらに、ずうっと日常に眺めていて佳い色彩の力を、あなたらしい品の良さで発揮しています、これも「美しい」作品です。
この今度の絵では、ことさらに、美しい右側に対し、左で黒い濃い影を置いて対抗させなくてもいい感じだなあ、やはり。それほど、右のあかい色彩群がはなやいで佳いですね、写真だけで云うのはナンだけど。
* 制作についての過程を、メールさせていただきます。
こんなにおっしゃっていただきけるなど予想もしませんでした。率直に嬉しいです。有難うございます。
あの作品の動機は、ムリをして最高のキャンバスを求めたことでしょうか。真っ白な画面の前に座ったとたん、わ!やった!! と快い興奮につつまれて、次々とイメージがふくらんで・・・すっかり私自身になれました。
観葉植物のクロトンはお店で迷わず求めました。さてこれと丸い飾り棚をどう配置すればいいかしら・・・どうすれば魅力ある奥行きのある構図がなせるか? バックにはどうしてもフェラガモの布地をあの色で入れたかったのです。
大きな画面に向き合ってあれこれと草稿を重ねました。
うしろの黒い人形も迷いながらいれました。 あそこにいれないと画面がもたないようにおもいました。
左前の骨董の引き出しは、こだわって買い求めたものです。
つぼはおっしゃるとうりで、あいまいですね。これはきちんと描いていたのですが・・・・かたい! ので、すこし消しなさい! と先生にいわれました。 私の不消化でおわっていた場所です。
それと、右下から左上に視線のながれる画面構成のことですが・・・意図したものではなく・・・・自分が描きたいように描いたのです。特異なものとはつゆしらず・・・です。
今回はとにかく開きなおって自分のやりたい放題に描いたものです。 先生の目を気にしないで・・・出品しないでも・・・いい・・・と・・・・。ところが先生はそれを出品しなさいといわれ、自身驚いたのです。
途中ですが・・・・またつづきをいれます。すみません。
* 永年にわたって、あまり褒めてあげられなかった、感想を聞かれれば悪態ばかり伝えていた、仕方がなかったが、少し変わってきた。悪態ばかり云いたいわけではなかった。よかったなあと思う。やはり多少でも褒める方が気分が好い。
2003 10・10 25
* 秦さん、こんばんは。
今週末あたり、秋らしく清々しい青空の下での散歩を楽しみにしていたのですが、あいにくと、いま一つすっきりしない空模様ですね。冷え込む夜も多くなってきましたが、お元気でしょうか?
先日、東郷青児美術館の「ゴッホと花」展に行って来ました。人込みにもまれての鑑賞を避けたく、仕事の折も良かったので、休暇を取って出かけました。
平日の午後に出歩くのは久しぶりでしたが、店に道に、存外と人出は多いものですね。何より、週末とは違い、日常の生活の匂いの濃厚なことが、今更ながらに印象的でした。普段の朝夜の通勤時間帯、目にするのは、同じような服装をしたサラリーマンやOLばかり。最近では、その光景にも慣れてしまい、すっかり当たり前のものになっています。
学校帰りの子供たちや、子供を遊ばせる母親たち、ゆったりと話しながら、楽しげに歩いてゆく学生たち。夕食の買い物に賑わう店や、食事の支度をする音。ちょっと前まで当たり前だったはずのことが、妙に眩しく目に映り、惜しいような気持ちにもなりました。日々、こんなにも多くのことを見過ごしながら生きているのかと。
もっと健全な仕事のありようはないものかと、ついつい考えます。働くことは、生活する上で必要なことですが、当然ながら、生活=仕事ではありません。にも関わらず、振り返ると一日の時間の大半は、働くことに費やされています。大学の同級生の生活などを聞いてみても、大体似たような感じのようです。
その生活の中で、充実感、達成感を味わうことも確かです。なのですが、ちょっと歪んだ何かを、これでいいのかという疑問を、ふとした時に、どうしても感じてしまいます。
社会を見渡してみても、過労で亡くなってしまう方々が多い反面、働きたくても職のない方々も大勢です。豊かに働くことができて、豊かに生活できる社会は、一体どうしたら達成してゆけるものなのでしょう? 折りしも選挙の時期ですが、各党の主張に慎重に耳を傾け、大切な一票を投じようと思います。決して、雰囲気にのまれた人気投票にしないように。
さて「ゴッホと花」展ですが、やはり印象的なのは、二点のひまわりとルーラン婦人画の「三幅対」でした。鮮やかな黄色に囲まれたルーラン婦人は、満ち足りた笑顔を浮かべているようにさえ見えます。あのように豊かな表情を持てるように、一日一日を、しっかりと受け止めてゆきたいものです。
ではまた。どうぞお元気で。くれぐれもお体を大切になさって下さいね!
* 国家公務員君のしばらくぶりの「あいさつ」であった。どうしても型通りに日々の流れてゆく息ぐるしさも有るのかも知れない、どこか破天荒にものの破ける楽しみも視野も欲しいのであろうなと想う。
この二十五日にはやはり別の国家公務員君と建築家君とに逢う。久しぶりのことで楽しみにしている。
わたしからは、卒業生のだれもかれも等距離に心親しいけれど、存外彼等は同じ同窓生とはいえ、専攻も学年も違っていて、間近な友人同士以外はわたしが感じているようには近くない。交流もないようだ、当然のことだろう。むりに顔を合わせても話題に詰まることもあるだろう、みな、それぞれにわたし、秦サンと話したいと思ってくれる。いつでも元気に応じられるようでありたい、それは秦サンの義務でも楽しみでもある。
2003 10・11 25
* 同感。東京の小闇がわたしもそう思ったままを代弁してくれたのが、小気味よくて。いい大人が、あっちでもこっちでも世迷い言を言っている、ばかばかしい。
* 別の人生 2003.10.11 小闇@TOKYO
歌手と元野球選手が離婚して、報道関係者にファクスを送ったらしい。なぜこの手の広報にはファクスを使うのだろう。
それはそれとして、そこに書かれていたという文面に、ふーんと思った。
お互いを尊重し別の人生を生きる選択をした、と言うのだが。 それと結婚離婚は別だよなあ。
本当にお互いを尊重し別の人生を生きることを是としているのなら、それは結婚生活を続ける理由にはなっても、離婚の理由にはなるまい。
それとも、結婚するとそのふたりは同じ人生を生きるんだろうか。ありえない。結婚していようが離婚しようが、もともと別の人生である。
まあもちろんファクスに事実を書かなければならない理由も書く必要もないのだが、だからってお互いを尊重とか別の人生とかって言葉を使うのは、センスのなさ丸出しである。
「同じ人生を生きるというのは幻想であることに気づき、それができないなら一緒にいても意味がないと思った」と、正直にこう書けばいいのに。
2003 10・11 25
* 天災の如きパソコン異変について。
ヒヤリッとしたお話を聞き、我がことの如く冷や汗をかきました。僕も何回かありました。
僕は電子計算機の世界を多少かじって生業とした卒業生ですが、電子の糸に頼っている情報空間は「吹けば飛ぶ」世界だと痛感しております。
コンセントがぬける。ゴミが付着する。環境的「摩耗」です。パソコンには目に見えない埃が宇宙からの電磁波の如く降りそそいでおります。日常の「手入れ」と「掃除」と機械への無言の「挨拶」が必要であるなあと思います。冷たい「機械」でも見方によっては「命」があるように思います。
異変が起きたときが「人間の腹のすわり具合」でことを好転させてくれるようです。雷が自分のパソコンへ落ちたらこれはどうしようもありません。かといって銀行のようにバックアップパソコン(システム)を用意するなどする気はありません。しても大体成功はしないと思っています(個人が責任を取れる世界での話です)。
便利になればなるほど「災害」を忘れてしまいます。便利さが増せばますほど「災害の影響」が比例して増すと思っています。昔「危険がいっぱい」といった題名の映画がありましたが(内容は別ですが)、まさに危険の中で、素晴らしい闇の音と色とを享受しています。 E-OLD
* E-OLDといえば、千葉の勝田さんはお元気だろうか。しばらく私からもご無沙汰してしまっている。のんびり酒を酌み交わしたいが、話題の合いそうな、年齢もそこそこの誰か彼か三人四人で出会うのもイイかなあなどと思っている。そうであるのがいいか、ないのがいいか、正直の所わたしには分かりかねるけれど。
2003 10・12 25
* 雷雨になりました。一段と秋が深まります。
「三岸好太郎・節子展」を見てまいりました。
印象的だったのは、ボール紙にのせた油絵の具の、温かさ。ゴッホがひまわりなら、好太郎は、鉄砲百合。伸びやかに開いてゆく花の背景の、澄んだ黄色。
一方、額縁の凝りようは、胃に脂がつかえる感じでした。
節子さんの長命は存じておりましたが、彼を喪ってのち、60数年もあったなンて。
子育ての30代の絵も、90才のときの絵も、変わらない画境なのと、晩年の絵が思いの外、大きく、確りとして、静かなのに、唸りました。 奈良県
* まだお休み続き。 物干し場では夏並に蒸し暑く辟易していたのに、もう曇り空です。
昨日は少しのんびりと、あれこれ溜まっていた身の回りの整頓が沢山出来ました。
そうそう、パソコンの状態はどうですか。
こちらも、一昨日、これまで見たこともないカラフルな幾何模様が前面に出現して、ウイールスに侵されたかなと肝を冷やしましたが、落ち着け落ち着け、と一度電源を切って入れ直すと正常にセーフテイモードが出て解決しました。
何がナンやら分らず、きっと何処かのキーに手が触れたのでしょう。
子守りを頼まれていますので、孫の顔を見に行ってきます。お持たせに、初物、松茸ご飯が炊き上がり、ほかほかと嬉しい気分です。食いしん坊は元気です。 京都市
* 痛み 2003.10.12 小闇@TOKYO
カリフォルニア大などの研究グループが発表したところによると、仲間はずれにされ疎外感を覚えるのも、体が痛みを感じるのも、脳内の反応は同じという。へぇ、だ。85へぇくらい。「知らなかった」ではなくて、「ああ、やっぱそうなんだ」。
仕事がせっぱ詰まっても、風邪をこじらせても、私自身がダメージを受けていることに変わりはなく、ああどこか温泉にでも隠れたいと思うのは同じ。
心理的な痛みと肉体的な痛みの決定的な違いは、再び痛むタイミングだ。
肉体的な痛みは、また同じ痛みが訪れるまで忘れている。またやってきたときに、ああこれはあの痛み、と思い出す。
心理的な痛みは、何か別のものに呼び覚まされた記憶によって引き起こされる。そして痛いなあ、と感じる。
記憶と痛みの訪れる順序が違う。
頭脳と心臓と、どちらに「こころ」とルビをふるか、という課題が昔あって、そのときは迷わず「心臓」と答えた記憶がある。今なら少し迷う。
心理的なものと肉体的なものと、それぞれの痛みは決して同じではない。それでも生理的には同じ痛みなら、いくらか救われる。
*「課題」を出したのはわたしである。こういう二者択一課題を「強制」しても、かならず一理屈つけてこの質問の仕方じたいが誤りであるとかナンとか言う連中がいるものだ。そんなことは分かっている。そこで強いて考えてくれよと問うている。心臓でも頭脳でもありません、「私」が「こころ」ですと答えてきた学生がいた。面白い答であった。だから「私=エゴ」はいつも不安定に千々に乱れるのだよ、と。
2003 10・13 25
* 浅草 メールありがとうございます。受付に1枚(座席券)、置かせていただきます。(秦建日子脚本)「共犯者」、私も見せていただきます。奥様のはげましに感謝いたします。よろしくお伝えくださいませ。
また、ホームページに私の事を書いていただき、有難うございます。それも中村勘九郎丈のそばで嬉しかったです。
先日、浅草中村座の舞台裏で宙乗りの出入り見ました。(チケットとれないので。)勘九郎丈は外にいる私達にも手を振ってくれました。疲れをみせない、観客を大切にする姿勢に頭が下がりました。鼓楽会の前、いいタイミングで拝見できました。
三輪山 じつは私が高校生の時、テレビで勘九郎丈の「三社祭」をみて、自分も藝をがんばろうと決心したからです。その時の気持ちをあらためて思い出し、このたび私の会に対しても、勘九郎丈の情熱を見習って今一度気合いがはいりました。
また、一昨日、三輪山、石上神宮に参りました。当日10月15日は、石上神宮のふるまつりと聞き、こちらで夜神楽ということかなと思いました。そして大学生の時、三輪山、石上神宮を教えてくれた東川光夫さんの御紹介で秦先生の作品に出会うことができた事を思い、不思議な御縁でつながっていると感じます。
鼓の縁 この度の会は、新たな縁を生み出す事が目標のひとつです。私が大学院に戻った理由は鼓の研究をし、鼓の博物館をつくるということです。(テレビの「なんでも鑑定団」出演がきっかけで知った鼓の生田コレクションを中心に、)邦楽以外の外の世界へもっとひろがってゆくことが必要と考えます。会当日のプログラムにもごあいさつありますが、後援会もたちあがります。多くの方々のお力を集めて、夢を夢で終らせることなく、実現したいと思います。これからも御指導のほど、よろしくお願い申し上げます。当日会場にてお目にかかります。 望月太左衛
* 文化界ですでに名を成し地位を築いていて、しかもこのように気迫と意欲とが具体的に伝わってくる。すばらしい。さすがに打てばみごとに響いて、謙遜である。鳴らない太鼓の高慢とは千里万里隔たっている。
2003 10・13 25
* さて、次のメールは長大であるが、優れて真剣、優れて謙遜に現状を「あいさつ」してくれている。観た二つの芝居(チリのアリエル・ドーフマンという作家の戯曲、及び、「Our Country’s Good~我らが祖国のために~」、ティンバーレイク・ワーテンベイカーという人の戯曲化した作品。)を克明に語っている、が、本題はさらにアトへ繋がっている。ちなみに、アトの作品は、以前たしか俳優座で上演されわたしも妻も観ている。)
このメールは、空疎な世迷い言とは、はるかに異なった「今・此処」に呻きながらも、生きて、生き行こうと努める若い精神の、苦渋の、しかも壮んな発露である。
この声をわたしは待っていた。打てばかならず響くと信じていたのである。
東工大の卒業生諸君、また打てば響いて下さる「闇」の彼方の親しい人達、どうかこの長い述懐を聴いてください。
* ご無沙汰してます。
こんにちは。お久しぶりです。先生の東奔西走のご様子、いつもWebで拝見しています。
こちらは、何度も本を送っていただきながら、何もご連絡をせずじまいでした。今年、何度か先生にメールを書こうとしました。一月くらい、ポツポツと書いては、断念しました。具体的なことばが書けなかったからです。私には、お伝えするような、主張も何も、ありませんでした。
仕事でならいくらでも、具体的な、意見もあるメールを書いています。しかし、そういう作業とは別に、いざ、個人的に書き始めると、最初なにか重さの感じられたものが、だんだんと軽くなっていったのです。
このギャップ、私がこの数年間、何もしてこなかった実証です。
が、そんなことをご相談にメールを差し上げたのではありません。
先々週、先週と、縁あって芝居を観ました。久々に、とても感銘を受けました。
先々週観たのは、「死と乙女」といい、チリのアリエル・ドーフマンという作家の戯曲です。
チリは1973年の軍事クーデターの後、約20年の間、ピノチェト将軍による独裁政権が続きます。この間に、判っているだけでも5万人以上が拷問され、数千人が殺害。現在は民主化して10年以上経っていますが、いまだにこれら人権犯罪の裁判が続き、行方不明のままとなっている人々が多くいます。新世紀になり、新しい大統領が、拷問真相究明委員会を設置し、国民同士の和解を訴えます。
ここまでは、史実。そしてこの戯曲は、場所を限定していませんが、以上のような国の、とある一日の、ある三人の姿を描きます。
一人は、独裁政権が形式的に終焉しつつも、いまだ前政権の要職が居残っているなか、新しく設立される拷問真相究明委員会の主査となった、弁護士。
もう一人は、その妻。まるで誰かに狙われているかのように非常に落ち着かず、一見、精神に異常を来たしているかに見えます。
ある夜、弁護士が帰宅し、遅い夕食を食べているところに、来客。先ほど、たまたま弁護士の車がパンクして、道端で立ち往生しているところを助けてくれた、通りすがりの医師です。
この医師は、一度は弁護士を家に届け、帰宅したが、車の中のラジオで、弁護士が拷問真相究明委員会の主査であったことを知り、挨拶にとやって来るのです。
夜遅いために、弁護士は医師を家に泊めますが、夜が明けると、弁護士の妻は、その医師を痛めつけた上に椅子に縛りつけていました。妻は、医師が、独裁政権時代に自分を拷問し強姦した男に間違いないと言います。その声、その体臭、そして、車の中にあったシューベルトの弦楽四重奏「死と乙女」のカセットが証拠だと。
医師はもちろん否定します。
妻は、そのまま医師を殺そうとし、やめさせようとする夫にすら銃を向けます。夫はなんとか妻に思いとどまらせようとします。もともと同志の活動家だった夫は、妻の苦しみを、そして、拷問当日のことも知っています。それに妻はかつて、その弁護士である夫の名前の自白を強要され、その名を秘したために、酷い拷問を受けたのでした。
しかし主査たる弁護士は、医師に、今の今親切な助けを借りていました。そういう恩のようなものもあり、妻の手でいま事件を起こしては、独裁政権下の要職にもあり、折角できた真相究明委員会にいて、真相を暴き責任を明らかにし、国民の苦しみを少しでも和らげることができなくなってしまう、と妻を諭します。
しかし、拷問によりいわばPTSDになっている妻は、その男の声、そして、「死と乙女」を聴くと平静ではいられなくなります。(かつて拷問されていた最中に、「死と乙女」がずっと流されていたのです。)
実は、その妻は完全に狂っていたわけでなく、医師に対し、なんとしても、自分の行(や)ったことを自白させたかった。(そして、自分が好きだった「死と乙女」を安心して聞けるようになりたい。)
夫は一計を案じ、寝室で妻に拷問された日の出来事を詳しく語らせます。もちろん、苦しみなしには語れません。
一方、居間では縛られている医師を説得します。妻は正常な意識になく、完全に医師を当事者と信じきっている。そのため、これから弁護士が語ることを書き、自分がやったと認めるしかない。妻は決して銃を放さず、常に二人に向けており、生きて帰るには、それしかないと。
医師は、断固拒否します。完全な思い込みで散々痛めつけられた上に、やってもいない非人間的な拷問行為を、自らやったなどとは決して書けない。尊厳ある人として、決して書くことはしないと。
妻が次第に我慢の限界に近づいて、荒っぽい行動を頻繁に取るようになります。しかし、弁護士は、あくまで理性的に、拷問に拷問で返すような、独裁政権のようなやり口を批判し、諭します。医師を殺してしまったら、妻の気は晴れても、今度は医師の家族が妻を赦さないだろう。いつまでたっても憎しみがなくならない。どういう事実が、苦しみが、あったとしても共存するより他に道がないと。
一方の医師は、狂った妻に理性的に語りかける弁護士の無意味な行為を批判します。弁護士が一見仲介役のように見えて、しかし銃を奪わず警察も呼ばないことに、実は妻と同様に自分を疑い、殺そうとしているのだと偽善を非難します。
板ばさみの弁護士はやがて、これ以上二人の仲介はできない、どうにでもなれとGiveUpします。医師は諦め、弁護士が言うとおりに、拷問行為を書き連ね、署名します。
弁護士が、医師の車を取りに出て、二人きりになったところで、妻が言います。本当は半信半疑だったが、やはり、医師こそが、自分を強姦した男だと確信したと。弁護士の一計を察し、わざと嘘をついて弁護士に事実のように語ったにも関わらず、その嘘が全て、医師によって有った真実に変わっていた、と。妻は医師に銃を向けます。
数ヵ月後、真相究明委員会が順調に動いており、そんななか、弁護士が妻とともに、シューベルトのコンサート鑑賞にやってきます。すると、向こうの方に医師が現われます。医師は、ずっと二人を見ています。そして、コンサートが始まります。
やがて、コンサートが終わり、幕。
弁護士を風間杜夫が好演。暴発寸前の妻の前で、銃を向けられても、しがみつくように決して理性を忘れないひたむきさが印象的でした。妻を余貴美子。この人も意外に舞台歴があり、決して異常ではない妻を、時に怖しく、そして哀しく、演じていました。医師は、立川三貴。私は初めて見た人ですが、劇団「円」の設立メンバーの一人とか。南米の男の持つギラギラした自信の塊のような、生命力溢れる様をよく演じていました。演出は木村光一。地人会の公演です。
少し話が飛びますが、私は昨今、国内の異常な事件には、怒りを感じ、海外では、イスラエルだけの専売特許と思っていた、「憎しみの連鎖」が、いつの間にか身近に迫っていることに、恐怖と、反発を感じていました。これは、ぼんやりとした、感覚です。
そんな年が早や数年。余りにも異常が続いて感覚が麻痺し、怒っているのか、憎んでいるのか、はっきりしなくなっていました。
そして、これからの時代、自分の身を守るためには、もっと、強い態度で、そういった暴力に向かわなければならない、そう思っていました。なめられちゃいかん、から、くるならこい、へ。自衛隊論議と同じです。
罪に対する怒りと憎しみは、尤もなものだ、しかし、それだけじゃないだろう、特に、「これから」を考えた場合、そういう怒り・憎しみでは、ことは繰り返すだけ。
こんな言説、今までは、楽天的、観念的、と思っていました。「現実は」「苦しみの重さは」という形で軽んじていました。
けれど、チリの人々は、独裁政権が終焉し13年が経ちますが、今なお苦しんでいます。そして、その中で見つけた解決策が、「和解」だった。いや、解決策ではなく、希望を託せるとしたら、そこにしかない。弁護士は決して妻に和解を、「勇気」を奮って「諭した」のではなく、もうそれしかないんだという悲痛な願いのように、「訴えて」いました。現在進行形のチリで描かれたこの「死と乙女」から、リアルな切実さを、感じました。
そして、人と人とが、こうも最悪な絵図を織ってきたのかと、実感しました。
軍事クーデターが成立した背景には、アメリカとソ連の冷戦があります。大した資源があるわけでもない南米の一国が、アメリカの都合で軍事クーデターを引き起こされた。引き金を引いたのはアメリカで、一旦発射された銃弾は、憎しみというエネルギーによって、チリ全土を二十年間引き裂き続け、今も傷跡が生々しい。この構図、よその国の話ではありません。
各国で上演されていると聞きます。(映画も、原作者が脚本に参加した、「死と処女」という題で、あるらしく、探しています。)
長くなりましたが、これが、一本目、先々週見た芝居です。
そして、二本目は、「Our Country’s Good ~我らが祖国のために~」といい、ティンバーレイク・ワーテンベイカーという人が戯曲化した作品です。原作は、「シンドラーのリスト」の原作者、オーストラリアの作家トマス・キリーニーの作品です。
舞台はオーストラリア、イギリスの植民地:流刑地だったころの話。こちらはもうすこしリアリズムから離れた芝居です。
流刑地に囚人とそれを監視する軍人たちが住んでいます。作中では、当時のイギリスで身分が卑しい者が、なんどか窃盗をする、それだけではるか地球の裏側に流刑されます。 史実としては、18世紀末から、流刑が廃止されるまでの約60年の間に、20万人もの囚人が流されました。つまり、数多くの人が常に流刑されていました。しかもその半数は、空腹のために食料を盗んだ者だといいます。
その流刑地には、囲まれた中で、囚人達のコミュニティができています。その中でも、貧しい土地の貧しい食料事情の中、囚人は時に食物を盗むのですが、初犯で鞭打ち、数度の再犯で、処置無しということで、簡単に絞首刑にされます。
流刑地で一向に窃盗犯がなくならない中~絞首刑がなくならない中で、時の総督が、囚人たちに芝居をやらせることを発案します。
看守の軍人達は猛反対します。囚人に芝居なんぞやらせても、労役から開放するだけであり、何も意味がない。だいたい、彼らは、人のものを盗んでも罪悪感のかけらもない、女達は飢えを凌ぐために簡単に春をひさぐ。そんな行為を繰り返す囚人達は生まれながらに人間未満、動物と同じ。そういう「人種」に必要なのは、罰であり、社会的規則の徹底である、と。
しかし、総督は耳を貸しません。総督は言います。生まれながらの犯罪者はいない。大昔すでに、ソクラテスは奴隷にも教育を施せば才能を発揮することを実証してみせた、生まれながらの奴隷がいないことを実証した。流刑地の囚人達は、動物的な扱いを受け続けるから、動物のような生活をし、繰り返し罪を犯すのだ。そんな彼らに、自分とは別人の、貴族や、将校を演じさせ、人間らしい扱いをし、させることで、人間らしさを取り戻すことができる。動物並みに抑圧された扱いから解放することで、人としての尊厳を自らつかみなおすことができる、と。
そこから先は、芝居の上演に向かって様々な事が起きるだけです。囚人達は、自分達と天と地の差の貴族を演ずることに苦心しつつも、やがて、誇りのようなものを見つけていきます。看守の軍人達は芝居の稽古の合間に盗みを働いたというカドで、出演者の生意気な女性囚を絞首刑にしようとします。軍人達は総督に逆らいますが、総督は、うまくいく自信はないけれど、信念に殉じ、囚人達が人間性を取り戻していくことに自分の地位を賭けます。
ちなみに、現代のイギリスでも、刑務所事情は非常に悪い。犯罪者の八割が再犯を重ね、女性の囚人の三割以上が精神の病に侵されているといいます。
これは、明らかに個人の問題ではない。そんな背景の中、芝居という姿を借りて、人間に、尊厳と、自発的な、能動的な、人間らしい志を与えるのが何であるかを見せてくれたのが、この作品でした。
いつからか、私にも、「人間らしさ」もいいが、まずはルールを徹底し、刑罰を徹底させることこそが、円満な社会生活を送るために必要だ、という、感覚が備わっていました。正直、私が言うのも何ですが、芝居を観ている最中、始めは、
「理想はわかるけれど、芝居程度で人間性を取り戻すという試みが現実的に成功するとは思えない。」と思っていました。
自分を省みますに、最近の新聞の社会面の影響があります。が、それだけではありません。会社で「人」を使うようになってから、なのです。会社では、使おうとすると、うまく使われてくれる人と、思い通りに使われてくれない人がいることを知りました。すると、私自身、以前よりも、上司の言うことをよく聞くようになり、また、言うことを聞かない人間に対して、苛々するようになってきます。それがプロ意識だと、変な勘違いを起こしていました。それからなのです。ルールを徹底すべし、という感覚が常に先頭を切るようになったのは。
しかし、芝居を観て、考え方が変りました。とは言っても、別に、舞台上で何か奇跡を見て、それを信じた訳ではありません。ただ、考え直したのです。
人間は決してパブロフの犬ではない。訓練、刷り込みで行動、ルールを覚えさせることはできても、それでは人間として、自発的にモノ・コトを変えていく力は生み出せないのではないか、と。
そして、この芝居のタイトルが、「Our Country’s Good」。
さて、お伝えしたかったことは、芝居の話ではありません。これまでは、前置きです。
実は、今月末に、子供が生まれるのです。いま妻は実家におり、医者からはいつ生まれてもおかしくないと言われています。おなかの子は、文字通りおなかの形が変わるほど動き回っています。
産みしより一時間ののち対面せるわが子はもすでに一人の他人 篠塚純子
いまでも忘れられません。この短歌を大教室で聞いたときは、正直言って、あまりの違和感に全く理解することが出来ませんでした。当時、子として、親は、肉・親であり、特別だったからです。
しかし、親になろうとする今は、以前のようなことはありません。母親がこのような歌を創ったことには、未だに素朴な驚きを感じますが、少なくとも男の私には、この「他人」感は、非常につよい。
どちらかというと、当惑しています。(もちろん、子供を授かりたくて授かった訳ではありますが。)当惑、というのは、正直言って、何が真実か、理想か、日々、働く中で、判らないからなのです。私が教えてほしいくらいなのです。
それなのに、子供に、何ををどう語っていけばいいのか?
お腹の子を前にして、早すぎると思わないでください。日々が過ぎるのがとても早いのです。今判らないのであれば、「そのとき」になっても、何も判らないでしょう。先生のお言葉も覚えています。
* この篠塚の短歌に関して正確にはこのようにわたしは話そうとした。(青春短歌大学上巻)
母と子とが「他人」は無いだろうと思われるが、よく考えればこの歌、なかなか鋭い批評をもっている。頷かせるものをもっていて、忘れ難い。
「他人」とは何で、「他人」でないなら、では、その相手は自身にとって真実何なのか、それを問う思考の体系と、「親子」を不動の軸にして人間関係を組み立てる思考の体系とは、この日本でも、鋭く一度衝突していい時機に、今、在る。そう、わたしは思っている。親子を、この歌のように、「他人」同士からの愛の出発と考える歌はかつて無かったかも知れない。
学生に、自己の発想の型をこれから後、より「親子型」へ誘うか「夫婦型」へ誘うかと聞いてみると、ほぼ二対一の割合で「夫婦型」と答える。タテよりヨコヘの思想や発想の転換の芽が出ているようだ。しかし、他のいろんな質問にも答えてもらっていると、本音は、ないし無意識には、まだまだ「親子」の縦軸を強烈に感じている者のほうが、東工大では多い。わたしはどうかと聞かれれば、若い時から意識して「夫婦型」にほぼ徹してきた。しかし学生諸君に強いたいとは思っていない。私の生い立ちはやや特殊にすぎる。学生諸君にはつとめて自然な発想をみずからていねいに培ってほしい。
親はなくても子は育つ。けれども、親は子に、何も語らないでもいい、そんな風には決して思いません、特に現代。
とは言え、日常、私自身は、真実・理想よりも、現実のほうばかり気にしています。現実が広すぎて、私はあまりに知らな過ぎるからです。
それに、この子が大きくなる頃は、今よりももっと厳しい時代だろうから、強く、たくましく、それこそ人を押しのけるくらいでないと駄目だと感じていました。自分の甘さで仕事が進まないこともあり、なおさら、現実的に動ける、そんな子に育って欲しいと。
しかし、観た芝居をきっかけに、考え直しています。子供に、真実・理想を語るということを。何が真実・理想か、「解答」は持っていないけれど、それでも、やってみようと。
先日、TBSで「さとうきび畑」という番組があったのを、ご存知ですか? 森山良子の「さとうきび畑」という歌がモチーフとなっています。その歌は、一度聴いたら忘れられない、悲しい歌です。沖縄戦でさとうきび畑のなかを死んでいった者を哀悼する歌です。
さて、その番組の方は、沖縄戦を、今の日本にしてみれば、真正面からドラマ化したもの。明石家さんまと黒木瞳の夫婦の6人の子供(今をときめく若い人気役者が演じます。)が、沖縄戦が始まっていく中で、次々と亡くなっていきます。つまり、沖縄戦でどういう殺され方があったのか…特に子供…が描かれるのです。
あるシーンでは、崖っぷちに看護隊として動員された女子中学生が列を成しており、そこを、順番に飛び降りる集団自殺を、そのまんま映像にして見せます。娘の一人、人気の駆け出し女優、上戸彩も飛び降ります。
最後は、徴用された主人公(写真屋の主人=明石家さんま)が、瀕死のアメリカ兵を見つけ、日本人将校に、殺すように命ぜられ、人を殺す為に生まれてきたんじゃないと泣いて拒否し、その将校に殺されます。
終戦の日でもなく、ただのTV番組改編期の、夜9時から11時40分という、そのような時間帯に、TVでそんな露骨な描写をした、佳作がありました。
見ながら、時間も悪い、テーマも重い、さてどれほどの人が観てくれただろうか、そう思っていましたら、視聴率がなんと28%。最大瞬間視聴率は33%。
その数字の解釈はいかようにもできますが、私は「捨てたもんじゃない」と感じました。
もっとも、戦争の事実を知る人からは、嘘が多く、軽く描きすぎだと言う非難も受けたようです。けれど、私は、タイムリーにこの番組を出したことを評価します。また、日本人が日本人に殺されるという、戦争の半面を、人気タレントを使って、そのまま描いたのは、画期的だったと思います。
いつぞや、先生に一筆、芝居を書いています、とお伝えしました。実は、昨年から今年の春にかけて、寝ずに、書いていました。「兵」を扱った小作をなんとか、著名な劇作家の指導を受けて、完成させました。とは言っても、先生の『懸想猿』を前には、あまりに恥ずかしくて、お出しできませんが。
リターンマッチで、今年もまた、書く事にしています。主題は変りません。
いい大学を出て、そこそこいい会社に勤め、部署が潰れかけながらも、幹部社員候補として居残り、子供もうまれ、ますます、身動きが取れなくなってきています。現実に流されています。
しかし、なんとか、理想と真実を求めていきたいと思っています。そして、それを、子供に正面切って伝えて、生きたいと考えています。そのためにも、芝居を書き続けていこうと思います。
できるだろうか、これでいいのだろうか、と、不安はなくなりません。あとは、信じて、実践するだけです。
長々と、自分のことばかり書き連ねてしまいましたことをお許し下さい。では。
P.S.
今、名前を考えています。
漢字は訓読みで、なるべく日本らしい名前がいい。…といっても、日本らしいという意味は、人それぞれでしょうが。先生のお子さんにも匹敵するくらいの…という意気込みも持って、万葉集の解説本を借りました。何より印象にあるのが、ギリシア人ラフカディオ・ハーン。彼は小泉八雲というすばらしい日本名をみつけました。ご存知の通り、「八雲たつ…」からです。しかし、なかなか難しい。無理はやめようと、再び漢字辞典とにらめっこです。
イチローのように、「実」が「名」を高めた例もあり、素直な名前を贈りたいと考えています。
* 嬉しく読んだ。繰り返して読んだ。ああ、ここへ出てきたか、こう出てきたかと。さきざき、容易いわけではあるまい、が、こう鳴り響くように自分の言葉で謙遜に書き起こされた声を聴くのは、ほんとうに嬉しい、励まされることである。ありがとう。どうか、元気な子供さんが母子共に幸せにやすらかに生まれますよう、願い祈ります。
2003 10・13 25
* 千葉のE-oldです。ごぶさたしてしまいました。E-oldもolderです。元気を貰いに、なるべく秦さんの頁を見て、色々な方々の日々を想像しています。
電子文藝館もありがたく、印刷しては読んでいます。
江戸川乱歩「押絵と旅する男」こういうの好きですね。でも桐生悠々も尊敬します。
その後、千葉の田舎にも、光ファイバーが来ました。すぐあたりまえになりました。
それから、元気出してやりにくい事をしてみようと、越中おわらの盆踊りを教わりに行き始めました。「おじさん! そうじゃない! こうっ!」なんて言われながら、息を切らしています。ほんとはやりたかったので、日々の暮らしとは別に頑張ってみます。
虫がやけになったように鳴きます。急に寒かったりします。くれぐれもお大事に。
* 盆踊り、か。ま、どういう事であったのか、盆踊りには血を沸かせた。戦後すぐのことである。中学生の三年間が沸騰の頂であったろうか。越中おわらのように静かな者でも風情のあるものでもなかった。瑞穂踊り、東京音頭、三味線ヴギ、炭鉱節、真室川音頭。そんなのを京都の祇園街や界隈で踊りまくった。その一端は、小説「或る雲隠れ考」のなかで書いている。
なにより盆踊りといえば京都は地蔵盆の八月下旬、暑い盛りの夜天下であった。開放的でなつかしく、昼間の出会いとはまるでなにもかもが様子を変えていた。女の子達の浴衣姿はほんとうに昼間とは別のものであった。
妻を別格にと言っておくが、それ以外にわたしの魂を魅了して放さなかった人も現実にいたわけで、それはやはり小説「罪はわが前に」に書いた「姉さん」であり、二人の「妹たち」であった。妹の一人は亡くなったと風邪の便りに聞いている、残念な。
この三人が盆踊りの先頭になって踊っていたのを、わたしは、今もありありと眼に想いうかべられる。離れたところから見ているだけで幸せであった。中学生であった。あの姉はどうしているだろう、あの妹はどうしているだろうと今でも思う。「身内」という私に独特のタームを与えてくれたのは彼女たちであった。死ぬまで、そう想ってわたしは老いてゆくであろう。
2003 10・13 25
* バルセロナが暫くぶりに書いていた。スペイン語で本を読み始めたという。きっかけは、「Die falsche Faehrte(誤った手がかり)」。空港バスで拾った本だとか。スウェーデン人 Henning Mankell 著、ドイツ語訳の刑事物。読みながら自ずと引き込まれずにはいられない小説だが、「ありふれた感想を聞かされるより、具体的な事象を並べられた方が面白い。」と、二年前に(このわたしに)言われた(らしい)言葉を思い出したと言う。
「スペイン語で本を読み始めたのは、何を隠そう、Mankell の本が読みたかったから。スペイン語は、話せるから読めると思っていた。ところが、読めば読むほど知らない言葉ばかり。五年経った今、自分の語彙の貧しさに気づかされている。 言葉の習得には『住む』のが一番と、その素晴らしい効果を信じすぎていたと思う。耳と口で覚える言葉と、読み書きで覚える言葉は違う。本を読む人、読まない人。どちらも生活には困らないけれど、この二つの間には、確かな隔たりがある」とこの小闇は適切に自覚している。どうせなら、「本を読む」スペインに住む人、になりたいと思ったと書いている。 いいですね。
* 旅支度 2003.10.13 小闇@TOKYO
窓を閉めていると部屋はとてもとても静かで、聞こえるのは冷蔵庫とパソコンの低く唸る音だけ。私が文字を入力すれば、少しだけ周波数の高い音がする。視線を左前方にやれば、ベランダのベンジャミンが風に揺れている。
昨日の夜も眠れなかった。本を閉じて灯を消すときから、今夜は眠れないなと分かっている。それでも眠ろうとじっとして、四時頃になって、ならもう寝るのは諦めよう、と決めて身体を起こす。ベッドを出て、いつも本を読む椅子に座る。でも本を読むわけではなく、ほおづえをついてカーテンを眺めている。
だんだんと、明るくなってくる。六時を過ぎて、カーテンを開ける。日がまぶしい。普段私が座っているこの椅子は、東を向いていた。
結局七時を過ぎてまたベッドに戻り、本を開いたとたんに眠って目が覚めたら正午前。ほどなくして雨。洗車機に運び込まれた車の中にいるように、窓という窓に水滴がたたきつけられ、内側が曇る。あかりをつける。エアコンもつける。旅の支度をしよう。
夕方近くになって雨は上がった。今度は南西方向から、厚手の白いレースのカーテンをつきぬけて、光が床に達している。カーテンの織りそのままの格子模様。あの天井の低い、空気のよどんだ決して愛していないわけではないオフィスにいるときも、ここにはこんな、ひとつひとつの粒子が踊っているような光が射している。
床の格子模様は、五分と経たずに消える。椅子から立ち窓を開ければ、秋の空気。東から西へと、雲が滑るように流れていく。
* 意識過剰でリアリティーに乏しい詩人の詩句よりも、詩的に斡旋された字句が佳い顔をして弾んでいる。生活者たち。遠くの、近くのこの「小闇」たちは、しっかり呼吸し「今・此処」を落ち着いて意識し生きている。具体的に生きている。
2003 10・14 25
* 秦さん、こんばんは。
>(秦テルオ展の券) 何枚入り用か言ってください。
どうも有り難うございます! ですが、よろしいのでしょうか・・? 妻と二人で出かけようと思いますが、もしご不足でしたら現地で買いますので、どうぞご心配なくお願いします。
>***君も一緒に会うこと、週日がいいのか、土曜日などがいいのか、いかが。
実は来月から、職場での部署が変わることになりました。仕事内容も、違ったものになります。一年間だとは思うのですが、週日はタクシー帰りの毎日となりそうです。
ですので、今月中でしたら週日が、来月以降でしたら週末が都合が良さそうです。秦さんのご都合はどのような感じでしょうか?
> 今日の「闇に言い置く 私語」に、卒業生男子が長いアイサツを送ってきています。少し長いけれど、目を向けてみてください。
読ませていただきました。
身の回りの現実は順調に進んでいるのに、それでも消えない焦りと、大事な何かを忘れているのではとの不安。
境遇が似ているということもあるのでしょうか、身中に直接響くものがありました。
と同時に、安心感めいたものも沸いてきます。ああ、やはりこういう感覚を抱いて生きてる人もいるのだと。
週末にでも、もう少し静かな気持ちで、じっくり再読してみます。
ではではまた!
2003 10・14 25
*「モー娘。内閣」に「マダムキラー政権」ですか。ウマイコトイイヨルワ。
今朝は、「藤井総裁は河内山宗俊」と。
「邪魔なところへ石原大臣」、「よもや首は、取れめぇがな」と、高笑いして帰るのかしら。 囀雀
* 知性でも機転でも諧謔でも、ある。かたくなに殻をかぶった夜郎自大からは生まれぬ視野確かな短句である。
2003 10・15 25
* 最近の世の中は、サスペンスドラマ顔負けの人の命を軽んじた際どい犯罪が頻繁に横行して、市民を慄かせていますが、これとて他人事ではないかも知れず。
昨日のドラマ「共犯者」の初回を観て、不審な不可解な人物の登場、短絡な殺人とその山中での遺棄現場、想像し得る次の殺人と、少し背筋が冷たくはなりましたが、話の展開は時効を待つ女性周辺を描くだけでなく、誉められている脚本ならば、例に依って、何かいいテーマを絡ませてくるのではと期待しています。 京都市
* ご親切というものであろう。
* 榛名の母のところへ行き、軽井沢の紅葉や温泉につれていったりと、親孝行? のまねをしてきました。すばらしい紅葉で、母に、みつゆびついて感謝されました。 京都東福寺のもみじのように紅葉がすばらしく、見渡すかぎりの秋満喫でした。
久し振りにホームページを拝見いたしましたら・・・杉原さんのことにふれられておられ。明日丁度銀座へ行く約束をしておりますので・・・拝見いたします。そーッと・・・。
2003 10・16 25
* お返事が遅くなって申し訳ございません。ちょっくらパリに行っておりました・・・。10年前に私が自炊生活していた頃とは全く違う街になっていてびっくり! でした。10年ひと昔とはよくぞ言ったものだ・・・などと変に感心したりして。
でもすごくいい「感覚転換」になりました! 来年はたぶん自分の作品づくりの転換期になると確信しています! (別に何を作ると決めたわけではないのですが。)
そしてその「本行寺」なのですが、既にもう行かれたでしょうか? このあたりの寺はあまりに多く、みんなお寺の名前よりも「ああ、あそこの角の寺ね~」って感じなので私も母に聞いてみました。もしまだでしたら母が調べていましたのでメールにて情報をお送らせて頂きます。
父の作品は恥ずかしくて実はあまり読んでいません・・・・。でも好きです。もしアップしていただけるなら電子文藝館で読みたいです。
感想は文藝館にメールで? ・・・なんだか不思議ですね、こんなのって。でも現代の良くも悪くもあるところの、良いところだ! と勝手に思っています。いつも父の作品を気にかけて頂いて本当にありがとうございます。
今月の21日は父の命日。しかし、娘はたぶん仕事でヒーヒーで多磨霊園には行けそうにありません・・・。許してパパ~! とココロで叫びつつ、その日の終わりには父に乾杯~! (毎日乾杯はしていますが・・・ね・・・)
季節の変わり目。どうぞお身体ご自愛くださいますよう。 台東区
* お忙しい中お出かけいただきまして、誠にありがとうございます。おかげさまで無事、舞台をつとめさせていただくことができました。当日、大きな地震がありましたが、ちょうど「三番叟」の舞台稽古の時でした。舞台監督さんから待避してと言われて、皆逃げました。地は動く、生きているということが体で再認識できました。そして本番。無意識でも地に対する畏敬の気持ちが入りました。
三輪山は寳先生の笛の会に参加させていただいているようで、幸せでした。桜井さんの歌謡とどんな風に聞いていただけたかと心配でしたが、お帰りにお会いした時、誉めていただいたので、ほっとしました。言葉の響きのすばらしさを邦楽を通してもっと広く知っていただきたいと思います。
アムリタはエレクトーンとお箏と鼓の音のバランスについて、国立劇場の音響さんに親身な御協力をいただきました。生の音中心の劇場ですから、いつもと違う音量にびっくりされた方も多いと思います。洋楽器との合奏が、単なる和洋合奏にならないようこれからも努力してゆきます。先生、これからも御指導、よろしくお願いいたします。有難うございました。 望月太左衛
* 静かな興奮がここちよく蘇ってくる。佳いものは佳いものである。
* ここ岡山も秋らしくなってまいりました。毎日お忙しくしていらっしゃるようですがお疲れを出されませぬようご自愛ください。
日本の政治の在り方などについて随時触れておられますが,私どもの気持ちを代弁してくださっていることを心強く思います。
今日振替で「青春短歌大学上・下」をそれぞれ2部注文いたしましたのでよろしくお願いいたします。私の手許には湖の本のほか平凡社版もあるのですが、友人のなかに短歌を作っている者がいますので読ませてあげたいと思います。田舎の家の庭に吾亦紅が咲いていました。
* 吾亦紅がこんなに吾亦紅らしい魅力で大きく取れた写真は珍しいなあと、心嬉しく秋を好感している。
2003 10・17 25
* 今日は「集金人」のようにブッシュ米大統領がのこのこ日本にやってきているようだが、なぜか新聞もテレビも、一つは藤井道路公団総裁の聴聞会と、もう一つはニューヨークヤンキースのリーグ優勝と松井選手の活躍ばかりを報じている。ブッシュで選挙に追い風と当初小泉自民党は考えていたろうが、あの多額のイラク復興大盤振舞いを「お土産」にアメリカさんに進呈など、大きな逆風でしかないと、さすがに首を縮めて報道に抑制を利かせたかと勘ぐりたくなる。
やっぱり心配してやったとおりに、石原ワカ大臣、藤井河内山との勝負で「ばかめ」とばかり玄関先で大見栄切られて、へどもどしている。悪党をあしらうほどには石原には読みも度胸も切れ味もないとよくよく任命賢者も国民も分かったであろう。「抵抗勢力」もとんだ悪党を切り札に隠していた。さすが猪瀬直樹はよく見極めていた。
民主党も、また、煮えてこない。マニフェストばかり云ってないで、鮮やかにカーブもきりながらの運転を。田中真紀子も未だ吼えない。告示前にごちゃごちゃやってまた不用意に脚を払われまいとしているのだろう。知恵は絞って爆裂してもらいたい。
2003 10・17 25
* ブッシュと小泉との肩を抱き合った図など、なんと醜く目にうつるものか。一つには、あの際の小泉首相の胸中にも脳裏にも「日本国民」の尊厳も幸福も宿っていないように感じられるからだ。勘には勘違いがある。が、勘で云うのではない。嘆く思いで云うのである。
2003 10・17 25
* 名古屋出張やNPO設立の届出など、あわただしい日々が過ぎました。
先日は楽しみにしていた「共犯者」拝見しました。かつてみたことのないカメラの動きに息を呑んで画面を見つめたのですが、最後まで観る事はできませんでした。そういう意味では非凡な作品だと思います。設定に多少無理があろうとも、私が見続けることができなかったのは、恐怖感があまりに強かったからです。「人をかつて殺した」ということだけでも恐ろしいのに、時効2ヶ月前にひたひたと追ってくる脅迫者。不可思議な出来事。ちょうど、逃げても逃げても、どの小路を曲がっても追いかけられ、どの家に飛び込んでも追跡者が迫ってきて、恐ろしくて恐ろしくて、最後に断崖から飛び降りる悪夢を見るように。
井上靖さんの詩集「北国」(「ペン電子文藝館」で)読み始めています。
お元気でお過ごしくださいますよう。この休日は娘夫婦や母たちと過ごします。 渋谷区
* この感想などは、或る程度脚本作家秦建日子の本意にちかいモノを観ているのであろう。有り難いことだ。ただ、観つづけていられない、という其の処を、エンタテイメント作者として何とか乗りきりたいところ。もともと不自然な設定、それでもそれを観させつづけるアイキャッチャーは何なのだろうかと、批評し思案してゆくなら、作者の苦心と同じ次元に、同じ地点に、例えばわたしも合流できるのだろう。
2003 10・18 25
* 杉原康雄さんがおっしゃってられました。 今回はやっと褒めていただけて、次へのステップになりました。と・・・喜んでられました。竹内浩一さんと大変親しくしているともおっしゃってられました。好感のもてるかたでした。
絵 薔薇の絵 について・・・・・私にはあのような絵は描けません。なぜならば・・・薔薇が同じ色ばかりで一枚の絵を仕上げておられるからです。バックに相当な苦心をはらっておられますが・・・・そのエネルギーを、ひとつかふたつの薔薇の花に与えて欲しいです。
偉そうにいいすぎたでしょうか? 描けないくせに・・・・ごめんなさい!
* この批評、おもしろいですね。
彼は、かなり意識して、でもそれでいいのだと思っているのかも知れません。絵が、形として美しく把握されて生きるなら、彩色には多くを頼まないという造形感覚・構築感覚かも。
彼病弱の事情から完成していない絵もあったようですが、基本的に彼は洋画家でありながら、ものの形を線で堅固に把握し、色彩は簡明に、およそ線構築の美感を助けるだけでもいいと。竹内君の美術にもそれが、ある。彼等の気持ちには、村上華岳が云っていた「色彩は瞞着」という思いが在るのかもしれませんね。ものの形をしっかりとらえて造形したい、という。
あなたの批評にも彼は聴かねばならないし、彼らの造形的把握からあなたが受け止めていい姿勢もあり得ます。
2003 10・18 25
* お久しぶりです。 アイピローの**です。日記はいつも拝読していますが、メールはご無沙汰しておりました。
前回メールを差し上げましたとき、仕事がない……とボヤイてしまいましたが、あのすぐ後に声を掛けてくれた知人がいて、お陰様で現在は、装丁やホームページなどのデザイン仕事が入ってくるようになりました。急ぎモノの依頼が多いので、毎日気忙しいのですが、それはそれでやり甲斐もあり、とても充実しています。
それで、来年用のオリジナル卓上カレンダーを作りましたので、先生にもぜひお使い頂きたく、あとで1部お送り致します。宅配便でお出ししますので、手紙が入れられませんで、不調法ですが、事前にメールでお知らせしておきます。
寒くなりました。猫が膝に乗りたがって、ニャーニャーと大騒ぎしています。お風邪など召しませぬよう、どうかくれぐれもご自愛くださいませ! 千葉県
* 香料といっしょにアイピローをもらったこの人の厚意を、今も感謝し常用している。
我が家の黒い青年マゴは、大きくならず、端正で、漆黒の座卓の真ん中で正座していたりすると、イギンの広告の黒い服の女神達よりも高貴な顔付きである。
2003 10・18 25
* いつか秋半ば 今朝は冷え込み、重ね重ね着で落ち着きました。
秋咲きの深紅の大輪、薔薇一輪に日が注ぎ、秋日和の日曜、まだ外も家も閑かです。月日と曜日の確認を日課にするのは、老齢者(?)には不可欠。加齢とともに人はせっかちになり勝ちですが、何事も慌てるとろくなことはないと、アワテンボウの私は毎度赤面しています。
今日は久々に、地域の手作りコンサートで、マリア・カラスやリストの曲を聴いてきます。 燕子
2003 10・19 25
* しっかりとしたデッサンの重要性は大事なだいじな要素です。その上をいかに展開させていくか? 色をのせていくか? からはじまります。 制作が・・・いくら抽象でも、デッサンがとれていないと・・・・・みられません。先生にいつもデッサンのことを指摘されています。デッサンをなおざりにしたことはありません。ただ(対象の性根が掴み)取れないことが多いのです。
学校時代にさぼっていたつけ! が、今押し寄せています。よく「みる」ことから・・・・・はじめます。
明日から白馬へスケッチ旅行をいたします。教室の25名です。切久保館に泊まります。やっと今年一杯で講師のバトンタッチができます。10年も携わっていたことになります、資格も人格もないのに・・・・。よくもついてきてくれました。お別れ写生会になります。
たくさんのご心配をおかけいたしましたが・・・・・やっとふんぎりがつきました。始めからの方には泣かれましたが・・・・こころを鬼にしました。 神奈川県
* 「デッサンがとれていない」「取れないことが多い」という述懐に、わたしが勝手に、(対象=モノの性根が掴み)取れないと注釈したけれど、ご当人の思いと同じかどうか分からない。この人は少なくも素人画家ではない。
2003 10・19 25
* 鳥も恋をするにきまっていますという、思いがけないメールが見知らぬ空から降ってきていて、驚かされた。よほど色んな人達が闇の向こうでわたしの私語を聴いてくれているらしい。
2003 10・20 25
* すっかり、秋らしくなりましたが、お変わりありませんか?
こちらは、二人とも変わらずに元気にしております。
が、ご報告があります。
先日、子供を授かることが出来ました。現在妊娠6ヶ月になります。来年2月中旬に、父、母となる予定です。
不妊に悩む、友人、親戚などの話を耳にしておりますので、二人の間に子供を授かったことを、とても感謝して止みません。主人も、一緒に妊娠百科を熟読し、なんでも快く手伝ってくれています。
いつかは子供が欲しいと願ってはいましたが、授かってしまうと、もう戻れない、引き返すことの出来ない、重大な責任を負ったことに、今更ながらに気がついて、妊娠を手放しで喜びたい思いと、気を引き締めなくてはいけないような思いとで、今を過ごしています。
また、育児関連書を読んでいると、両親が本当によく育ててくれたのだというのがよく分かります。そして、両親がしてくれたのと同じように、子供に対して接していけば良いのだ、という指針を、得たような気がしています。
残念なのは、ひ孫を心待ちにしてくれていた義祖母を、この5月に亡くしたことです。おなかにいることすら報告できなかった悲しみとともに、もしかして、義祖母が連れてきてくれたのかとも思いつつ、四十九日の法要で、静かに報告した次第です。
ところで、2年間住ん此の地から離れることになりました。主人が、母校の助手職に赴任することになり、11月から横浜に移り住むことになりました。喪中はがきも近々お送りする予定ですが、新住所を念のため書き添えます。
(略)
私のメールアドレスは変わりませんが、主人のアドレスは、また改めてご連絡いたします。
少し大きくなったお腹を抱えて、バタバタと引っ越し準備をしているところです。お腹の子供も、最近は大分動いて、元気なことを教えてくれます。
ホームページで、名前を考えていらっしゃる方のメールを拝見しましたが、我が家も、そろそろ、本格的に名前を考えなくては、と思っているところです。最近の子供の名前には、本当に個性的で驚くものが多いですが、一生を共にする、名前だけあって、心をこめて、考えたいと思います。
先生も、病院に何度も行っていらっしゃるご様子ですので、これから寒くなる季節、どうぞご自愛ください。
「共犯者」楽しみにしております。 それでは。
* さ、三人目の、出産予告だ、おめでとう。
どのメールでもそうであったと思うが、ほおっと胸をなでおろす安堵と信頼感を呼び戻された大人達も多かろう。こういう穏やかで健康な三十前後の述懐が、絶対に飾ったモノでも頑張ったモノでもない、実に自然に流露した本音であることを、わたしはその「人」をよく知っていて、何一つ疑うどころか、嬉しくて笑みこぼれる思いがするのである。どうか、あなたも、きみも、またあなたがたも、平安に元気にと、心より祈る。
このメールの夫妻は、二人とも同じ教室にいた。佳いカップルで、二人とももの静かで優秀だった。音楽を演奏できる心優しい夫人は、初ボーナスの頃に、夫と二人でわたしを街に呼び出し、神楽坂の有名な甘党の店に連れて行ってご馳走してくれたものだ、わたしが大の甘党でもあるから。そして二人して湖の本を応援してくれている。
博士課程をはやばやと好調に卒業した夫クンは、また日本の古典にも関心のあるもの静かな青年だった。佳い進路を確かにし、将来優れた科学者として大きく成ってゆくにちがいない。
幸せな家庭をきっちりと築いて力をあわせている若いこういう夫妻たちの家庭は、世の中に、多彩にたくさん有るのだ。それなのに極めて手荒い異様な世の中とばかり思えてとかく落胆してしまうのは、一に、マスコミが、そういう異様と荒廃の現象ばっかりを報道し続けているからだ。ときどき、この世界に新聞もテレビ週刊誌もなかったらどうだろうと、本気で思ってしまう。
われわれが結婚して数年は、余儀ない貧乏で、また意図してもだが、家に新聞を入れずテレビはなかった。ラジオだけで足りた。あの新婚の頃は、一つにはそれで生々清々とした気分でおれたのかも知れない。そして勉強も出来た。
* どうか、不用意な怪我だけはしないよう用心し、ことにこれから出産までは、あまり参考書にひきまわされるより、むしろ、この天与の機会を、心の底から楽しみに楽しみにして、毎日を喜びに溢れて暮らしてくださいませと、わたくしの家内も、心からの祝福をお伝えしてと申しております。同感です。
夫君の前途も祝します。きみのためには何一つ心配ということをしなくて大丈夫と、わたしはゆったりと信頼しています。健康。それだけです、お大切に。
奥さんはこの頃流行の殺伐としたものでなく、ふっくらとして優れたものに、心を触れていて下さい。
あなた方のためにも、良い政治の良い社会、平和な國を望みます、心から。
2003 10・21 25
* 1メートル 2003.10.21 小闇@TOKYO
占いとか運命とか魔法とか霊感とか祟りとかバチとかいったものは信じない。信じないけれど、ちょっと不思議な体験をしたことがある。
暑い夜だった。緑深い土地の、天井の高い部屋で眠っていて、目が醒めた。足側の壁は一面が窓で、カーテンはかかっていたが、深夜独特の薄明かりは部屋に忍び込んでいる。その明かりの手前、私の足元に、影法師が見えた。誰もいるはずがないのに誰だろう、と思ったとたんに、身体がベッドマットに押しつけられた。
ただただ重く、苦しくて、私は隣に寝ているひとにそれを知らせようとして、声を出そうとした。手を伸ばそうとした。けれど動かせるのは目だけ。私に何が起きているかつゆ知らず、背を向けて眠っている姿が見えるだけ。すぐに届くはずの、そのひとまでの1メートルが、果てしなく遠く見えた。
もういちど影法師を確かめようと視線を戻すと、もう何も見えない。天井の暗さも、窓の明るさも何も。感じるのは重さだけ。
思い出していた。ずっと昔にも、同じようなことがあった。それはいくつのときだったか、夏だった。何日か続いて家族にそれを話すと、疲れていたんでしょとだけ言われた。そうではなかったのだなと、マットに沈みながら思い、気付いたら朝になっていた。
私に背を向けて眠り続けていたそのひとは、それはきっと精霊が降りてきたんだよ、と言う。
私はその手のものは信じない。信じないけれど、悪い返事ではないと思った。それ以来、精霊には巡り会っていない。
* 「かなしばり」と謂ったが、私にも二度覚えがある。一メートルの脇に人のいてくれない、旅先のホテル、京都市内の大きなホテル、だった。一つは河原町の、一つは京都駅の西の。ともに夜中であったが、万力で平たく抑えつけられて微動も出来ない胸苦しい圧迫が暫く続き、やがて解けた。かなり恐かった。一人でホテルに泊まることは余儀なく多いので、今もいつもそれは念頭にある。それの起きたホテルは二度と使っていない。
2003 10・21 25
* 今朝飛び込んできた次のメールは、長いけれど、やはり此処に書き置かせてもらう価値がある。
* 秦先生 こんばんは。
先日は、返信をいただき、ありがとうございました。子供のことについて、お気遣いありがとうございます。そして、またもや返信が遅くなり、失礼しました。
返信を頂いた後「生活と意見」を見て、驚きました。先生のお言葉には、戸惑っています。あのメールは、ようやく「言い置く」ことができて、先生にお送りすることができました。私にとっては、言い、置けて、しかも先生に予想外のお返事をいただけましたので、私にとっては、もうそれ以上特別な意味は持ちません。素っ気無い失礼な言い方になってしまいますが、あのメールは私の手から離れていますので、あとは先生にお任せします。
25日は、折角のお誘いですが、先生も書かれている通り、妻に付き添います。ちなみに、出産にも立会います。壮絶らしいですが、身一つ痛めず楽をしている男としては、少しでも母子の力になりたいと思っています。同僚に言うと多くの人が驚きますが、私にとってみれば、立ち会わない方がズルい。(アメリカでは立ち会わない家庭は、家庭に問題があると受け取られるのだそうです。)
実は、これだけ返信が遅くなった理由の一つに、(此の「私語」のなかに書き込まれていた)**君? の言葉がありました。
>身の回りの現実は順調に進んでいるのに、それでも消えない焦りと、
>大事な何かを忘れているのではとの不安。
どうしてもひっかかってしまい、先生への返信として書きはじめたはずが、いつの間にかこの言葉の周りを回り出し、収拾がつかなくなりました。
二つ、ひっかかった言葉があります。
一番ひっかかったのは、「何か」と、曖昧なものとして書いていることです。
私の前で、子供が、逃れることのできない存在感を持ってゆくにつれ、一頃、絶望に近い気持ちになったことがあります。「子供」という窓を通して自分を、社会を、見つめ直したとき、自分の無力さを痛感したのです。
最たるものは、「教育基本法」の改変。
私は今の仕事漬けの生活を続けていては、子供と歴史観を共有できる自信がありません。
「子供ほしいね」と言ってる間の子供ではなく、妻のお腹をうごめく生き物、その存在感を前に、やっと自分が無力だと気づいたのでした。
それに、私は学生時代まで、「理想」「空想」しか掬い取ってきませんでした。それが、会社に入って、「現実」に叩きのめされ、少々の「理想」なんかでは立ち行かないことを知ります。さらに今は、後輩・工場の人々を多少とも動かすことをしています。突き詰めるところ、個人対個人という紐でできた網を、なんとしても目標に沿って動かさねばならず、「理想」なんて言う余裕はありませんでした。子供に必要なのものも、「理想」が一番ではない、そう思っていました。
その果てに、先日のメールがありました。
私はこれまで、辻褄合わせすることを、現実的に動くこと、と「勘違い」していたんです。あの二本の芝居を観ている最中、私は、理想を説く弁護士を、総督を「軽く」見ていました。ただの理想主義者だと。でも、彼らは違いました。理想を、「それは単なる理想だ」と言って否定され続け、確信が揺らぎ、それでも独り、実践、遂行するのです。日常を振り返ってみて、これは物凄いことだと感じます。
「自分は無力だ」なんて、当たり前。そこで「だから…」と甘いことを言ってはいけない、と、自省。
…いけない、また、深みにはまりかけました。これではまた返信をお送りできなくなります。
いずれにしても、子供が生まれ育つ前に、私の中で、「理想」という言葉が、生まれ変わったのは、とても幸運でした。
もう一つ、ひっかかった言葉は、「順調」という言葉。
身の回りの現実は、個人的な現実も、政治的な現実も、何一つ「順調」には進んでいないと思います。全て、「順序だてて」進んでいるだけです。将棋と同じで、歩が、一マスずつ、進んでいるだけ、まだ何も起きていない、だから、あたかも「順調」に、「自由」に駒を動かせると錯覚する。
具体的なことを書いていくと、これも収拾付かなくなります。
いま誰も何も言わないのを不思議に思うことは、自民党の「たかが公約」に、「防衛庁を防衛省に」と「2005年憲法改正」とが併記されていたことです。これだけ重大な事柄なのに、なぜ誰も具体的なことを批評しないんでしょう。この二項だけでも、突っ込み、質す所は山ほどあるのに。「たかが公約」と甘く見ているのでしょうか。
では。
P.S.
先日のメールを「生活と意見」に載せて頂いたとき、判読しにくかった部分を一部先生に直して頂いたと思います。
が、その結果として、「死と乙女」の説明について、実際の芝居と若干齟齬を来たしたようです。ひとえに私の書き方が明瞭でなかったのが原因です。それと、考え方次第では、齟齬とは言えないかもしれません。以下に記しますので、ご検討頂ければ幸いです。
■もとメール(『 』部が今回ご指摘したいところです。)
一人は、独裁政権が形式的に終焉しつつも、いまだ前政権の要職が残るなか、新しく設立される拷問真相究明委員会の主査となった弁護士。(中略) しかし、このような事件を起こしては、『独裁政権下の要職も残る中で』、折角できた真相究明委員会で、真相を暴き責任を明らかにし、国民の苦しみを少しでも和らげることができなくなってしまう、と諭します。
■「生活と意見」(『 』部が今回ご指摘したいところです。)
一人は、独裁政権が形式的に終焉しつつも、いまだ前政権の要職が居残っているなか、新しく設立される拷問真相究明委員会の主査となった、弁護士。
(中略) 妻の手でいま事件を起こしては、『独裁政権下の要職にもあり』、折角できた真相究明委員会にいて、真相を暴き責任を明らかにし、国民の苦しみを少しでも和らげることができなくなってしまう、と妻を諭します。
①独裁政権は形式的に終焉しました。つまり、対外的には民主化政体となっています。
②当初お送りしたメールでは…政体は民主政体。弁護士はその要職。一方、民主化されたのに、かつての独裁政権の要職も居残っている。つまり現在の自民党の「抵抗勢力」のような存在が多々いるため、事件を起こしたくない。
③「生活と意見」では、『 』部が、政体が事実上独裁政権であり、弁護士がその要職、という意。(確かに、間違っているわけではありません。)
ただ、芝居では、民主化したことが頻繁に語られ、だから彼ら元レジスタンスが表立って要職に就けたことも語られます。そのため、弁護士を「独裁政権」の要職としてしまうと、観た者の印象としては、「えっ?」と意外な感を受けてしまうのです。
* 理想の値いの低くされるのが、つまり「大人」の大人らしい社会であるという風に、とかく日本ではなりがちで、「現実的」「足が地に着いた」という評価を高いものとする。だが、じつは、それが自己弁護と欺瞞に簡単に転用されている悪しき実例が多い。いろんな場所での「自称大人」達の議論を聞いていると、そのウソにすぐ気が付く。「理想」という二字を胸の内に遺しているのが気恥ずかしいのである、悪しきごまかしの現実主義者たちは。大切なのは、現実に「今・此処」こそ理想的で在らねばならないはずなのに。
「教育基本法」にメールの触れているのが嬉しい。われわれペンの理事会でも、いち早く警戒の声を放っていたのが、前会長梅原猛氏であった。ただしあの時に、簡単に「心の教育」と発言されたのには失望した。「心」という一字を悪用し、基本法の理想をより管理的に保守反動的に動かしたいのが改正論者たちの狡猾な手であるのは確かだから。
2003 10・24 25
* ホンイ 2003.10.23 小闇@TOKYO
読売ジャイアンツにしか所属したことのない川相というプロ野球選手が、中日ドラゴンズの秋季キャンプに参加するという。
川相はご存じの通り、今年、世界最多犠打数という記録を樹立した。この手の滅私奉公が好きな日本人の心を、たとえそれがアンチジャイアンツの日本人の心であっても、がっちり捉えた。そして有終の美という言葉を好む日本人にはたまらない形で、現役を引退することになっていた。原辰徳監督の下で。
しかしこれまたご存じの通り、原辰徳はペナントレースの半ばで、そして任期の半ばで解任され、川相は、現役引退を撤回した。
あのセレモニーは、あの胴上げは、あのコメントは何だったんだ、と批判するのは簡単だ。そしてそうしてしまったから、そのまま引退するのも簡単だ。
が、川相は意を翻した。
川相が今後、記録を残せるかどうかは分からない。だからあそこでジャイアンツに骨を埋めた職人として選手生命を終えておけば良かったんだと、言われることになるかも知れない。
でも、一度そう言ったから、そうしたからと、その言動に縛られて、やっぱりやりたいと気付いたことを閉じこめることこそ卑怯だ。何か言い訳を、外堀から埋めているようで。そういう行為は、本意ではない。後になって取り返せるほど人生は長くない。判断は早ければ早いほうが良い。
川相には全うして欲しい。ジャイアンツもドラゴンズも、応援しないけれど。いやまあ今だから言いますけどね、今夜は金本が決めると思ってたんだよね。
* 翻意と本意。うまく活かして、さりげないが機微に属する線へふれている。
2003 10・24 25
* 帝国ホテルで、上尾敬彦、竹下和志君とあい、クラブでほぼ三時間余歓談した。若い人たちに食べ物の量は十分でなかったろうが、良いお酒をご馳走できたと思う。話題は尽きずに、楽しかった。
竹下君には二歳の坊やがあり、上尾君は新婚。二人とも、わたしの教室にいた。ながいながい付き合いである。もう三十前後、職場でも少しずつ重きをなしはじめて苦労も増している。それだけに自覚的に頑張っている人達との会話は、手応えもつよい。またさらにそれだけに、甘いその場限りのことを彼等に話してはいられない。
* 秋なかば、ジャケットだけで暑からず寒からず、気候としてはいちばん佳いときで、帰りの電車では少し汗ばんでさえいた。明日も卒業生二人と夕食する。
2003 10・24 25
* ロビン・ウィリアムズだかの主演、ロボット人生の映画が、家に帰ったら、途中だった。ちらと観ながらいい映画だなと感じつつ、しまいまで観てもおれず機械の前で今日をしめくくろうと。ところが、東京の小闇が、うまく、しめくくってくれていた。朝に夜に、ありがとう。三十なんだもの、この意気盛んを、「無理してらあ」などといなした気になっててはいけないよ、プロはこうでなくちゃ。めそめそした大人の多いご時世、これぐらいは「ユータッタ、ユータッタ」で宜しい。「聞こえてるよ」と返事しておく。
ちなみに日テレは、日テレか……。なんだか聞いた名前の局だ。
* 数字崇拝 2003.10.24 小闇@TOKYO
日本テレビのプロデューサーが、視聴率の操作を目的に興信所を使い買収工作をしていた。
視聴率は所詮いち民間企業の調査である、それを操作して何の意味があるのだろうか。もちろん視聴率は広告収入に、つまりは局の収入に直結する。
雑誌でもスコア調査というものがある。どの記事がどのくらい読まれたか、毎号毎号調査結果が上がってくる。それを見ておーと言ったり、ええっと言ったりするのである。ポーズも含めて。
読者に背を向けた記事を作ろうとは思わない。けれどおもねる記事も作らない。
これは数字がとれる記事だな、これはとれないな、と、毎回毎回思っている。数字がとれる記事ばかりの雑誌は、つまらない。数字が取れる記事と、文句の集中砲火を浴びる記事とが、いい案配で共存している。それが面白い、良い雑誌なのだ。
だから数字に一喜一憂しない。それがプロってもんである。思い上がり? その通り。でもそれくらいの矜持がなくて、どうして給与を貰えるんだろう。
ちなみに。数字を取れない記事の方が面白いんだよね、作ってるほうは。数字をとれる記事も楽しく作れるようになってしまったら、新しい課題を探さないと。困難がないと、記者としてでも編集者としてでもなく、人間としてダメになっていく。
*「ユータッタ、ユータッタ」と、パンツスーツ姿で超長い脚をくねらせながら、三人のイキのいい女の子たちが、なんだか社長か上司か会社かのわるくち歌を、よたって歌っているコマーシャル。何の広告だか全く覚えないのに、いま、わたしが一オシのお気に入り。あの真ん中の子は、「武蔵」のお通役ではないか。コマーシャルの方が断然あの子の魅力発散。
2003 10・24 25
* 田中真紀子が動き始めた。街頭へ出ての獅子吼を期待する。へんに遠慮しないでやって貰いたい。
* 道路公団総裁の「解任」など、とうの昔に腹の中で決めていたではないか。それをのびのびの「解任」に漕ぎ着けて、電光石火、次期総裁の任命できない大臣というのは、何なのだ。暫定的に副総裁が任に当たっているなどは、妙な話。小泉が選挙追い風にと狙った目玉人事の石原伸晃大臣の政治生命なんてものは、もう、線香花火の最後のポトリを待つだけだ。もう一人の目玉の竹中なんとか大臣なんて、いま何処にいるのかと見つからないほど、影が薄い。見るから低体温の女外務大臣など、何一つ役に立っていない気がしてしまう。やーい、何してるんだあ。
* 拉致被害・北朝鮮外交についての政策や主張が、いっこう選挙の争点に上がってもいない。
* 中曽根老人が癇癪玉まで破裂させて居座りたがる目的は。彼は、教育基本法と憲法との改定(改悪をはっきり含む)だと明言している。これは防衛庁の省に昇格公約とも密接に連携している。やがて父親になる昨日の卒業生メールが指摘していた、具体的な「不安」は、此処に、在った。
明白に中曽根は喋っている。わるく勘ぐれば中曽根にこれを吼えタテさせたくて、小泉総理が藪をつつきに出向いたかと思いたいほどだ。中曽根の言説の及ぼす反動的な影響を国民は心から憂慮し警戒しなければいけないだろう。
* 昨夜も若い二人と、歴史は下り坂を歩むとみているか、上り坂を歩んできたのだと観ているか、話し合ってきた。つまりは、だんだんよくなるのが歴史なのか、だんだんわるくなるのが歴史なのか、あなたはどう感じているか、ということだ。
昨日や今日の話ではない。少なくも五十年百年、五百年千年の単位で歴史をしかと見据えねばならぬという問いかけになる。織豊・徳川の時期まで、日本人は歴史は下り坂にあるという基本観念で生きてきた。すぐれた識者はそう論じている。わたしもそれに説得される。
それからあとは、では、どうか。江戸時代、明治・大正・昭和・戦後・平成。これぐらいは同時代と見極めねばならないだろう。われわれのこの先は、下りか上りか。手前一人の問題ではないのである。
2003 10・25 25
* 五時半に昨日と同じ場所で、柳博通君と、あいついで丸山宏司君と逢い、クラブに上がり、十時まで、かつて教授室でと同じようにたくさん語り合った。昔と同じように柳君が主に語り、丸山君が相槌を入れる。わたしはわたしで、いろんなことで口をはさむ。
二人ともに「おめでたい」ことがあり、それも嬉しく、話に夢中になれた。柳君は大手の工務店で大建築の設計管理をずうっと手がけてきて、さらに本社での中枢部門へ入っている。丸山君は霞ヶ関の本省で責任ある地位にもつき、予算の伴う企画に、また企画にともなう予算に、年柄年中精を出している。昔からの二人の仲良しぶりも、まったく変わりがない。
みんな元気に活躍している。うちの息子へもすぐ手の届きそうな年輩なのだ。そういう人達が社会を支え賑やかにして行く。どうか世の中を少しでも健康にしていって欲しいと願う。
そんな風に言いながら、まだまだ問題意識や問題提起では、わたしもそうは置いてゆかれはしないと思っている。とにかくも私でも、仮にまだ二十年は生きて行かねばならぬとすれば、老人で御座いと澄ましておれない、踏み込んで踏み込んで考えも行いもしなければならない。何が出来るか、何がしたいか、問題はそれだ。
あいかわらず、私からふっと「挨拶」をしかけ、そこから「問題」点がいろいろに解かれてゆく。生産的な会話も進む。
かつては、六十近い私に対し、彼等は二十歳の青春の顔をして、盛んに応酬した。あの頃はまたあれなりに談論風発で賑わったが、今は、七十近くなってきた私が、三十すぎたばかりの働き盛りとまともに語り合い、すると、思いがけない筋道が新しく目に見えてきて、三人して驚きあったりもできる。彼等は大人になった。それでもときどき二人とも昔のママの顔をする。そしてすぐ今の顔にもどる。わたしもそんな風にちらちら変わっているのかしらと思いながら、楽しかった。
淑やかに可愛らしい人が、終始、われわれの席のお酒や食べ物の面倒をみてくれて、若い二人とも、なんだか照れていたのが微笑ましい。この美しい人はわたしのメルトモなんだよと自慢すると、二人とも、なんでなんで、そんなあ、と学生時代のような声で羨ましがる。おかしかった。
あっという間の四時間半だった。
2003 10・25 25
* 「闇に言い置く」日々、気持ちよく読んでいます。
この一月でぐっと冷え込みました。バイクで動く身にとって、日々に厳しくなっていきます。夏は風を受けて気持ちよかったのが、その風に身を切られる思いで走っています。
福岡は日本で最も交通マナーの悪い街と言われています。九州全土から若者が集まる。雨の少ない気候ゆえ単車が多い。何より道路が複雑。悪いと言われて納得できる環境です。
原付より頑丈とはいえ、バイクも事故に合ったらただではすまない。寒さに気をとられて運転を疎かにしないこと。当面の注意事項です。
大学での生活が少し変わりました。二年後期から専攻課程が中心になります。良くも悪くものんびりだった教養課程をほとんど終えて、ようやく始まったかなという心地です。
「行政過程論」という講義があります。地方自治について具体的に学んでいます。
自治体、県議会、地方公務員など、さまざまな立場と、地域住民との関わり。ああなるほど俺の親父(=県庁職員)はこんなことをやっているんだなと、親しみめいたものを感じます。
単位には苦戦しています。もともと器用に立ち回るのは苦手なほうで、競争しているわけではないし、楽しくやれればそれでいいかなと。こんなことを親に言ったら心配されるかもしれませんが。
ともかく、のびのび楽しんでいます。
衆院選、福岡一区の現職は民主党です。ほかの候補に恨みはありませんが、民主党に投票します。
まだ選挙権を持たない友人はこう言います。
「俺なら自民党に入れる。民主党に変わっても、改革するだけの力がない。それができるのは自民党だけだろう」。
そうかもしれません。が、とにかく自民党はいったん下野するべきだと思います。
いずれ自民と民主がしのぎを削り合う関係になれば、もっと日本の政治は活発になる。「いずれ」に辿り着くために、今は民主党の勢いを買いたい。そう考えます。
先日「罪はわが前に」(湖の本28.29.30)を読み返しました。
秦さんのよく言われるとおり、本は繰り返し読んでこそですね。むやみに新しいものを買わず、気に入った作品を読み直すことに徹しています。高校のころは中古の文庫本を買いあさったものですが、もう古本屋に行かなくなりました。家の本棚に読みたいものがあるんだから、まずはそれを読めばいいじゃないかと。
「罪はわが前に」は何度目でしょう、忘れてしまうくらいです。読むたびに、三姉妹より迪子さんに惹かれていきました。中盤の迪子さんと諍うところから「転」が始まって、当尾家の問題を抱えつつ、「結」を迎えることなく「転」がり続けて幕を閉じる。秦さんのほかのどの小説より「おもしろさ」を感じる作品です。
本棚の小説がひと段落ついたら、電子文藝館を覗こうと思います。湖の本も楽しみにしています。身体の、特に目の負担に、よくよくお気をつけてください。
「闇に言い置く」は、読んでいて本当に気持ちいい。秦さんの意見はいかにも豪速球という感じで、すかっとします。
二人の「小闇」さんも、秦さんの影響を濃く受けていますね。さすがにいつもいつも150kmというわけにはいかないようですが、秦さんとはまた違った若さゆえの視点で、みごとなスライダーやフォークボールを決めてくる。おもしろいです。
そろそろ(今夜の)日本シリーズが始まるかな。おもしろい展開になりましたね。どちらが贔屓というのはありませんが、金本を応援しています。
それでは、迪子さんともども、どうかお元気で。
* 小学生の頃から手書きの手紙をもらってきた。はじめから、こういうぐあいに、きびきびと力づよい手紙をくれる少年であった。まだ一度も逢わないが、逢わなくても、一等若いわたしの友人である。いまは大学二年生。二十歳になるならずのはずだ、頼もしい。この青年が「闇に言い置く」ようになれば、一世代離れた二人の女性とはスパっとちがう世界を持ち出してくるだろう、けれど、今は奨めないし、それよりも本格の、構造の大きな知的世界の建築を期待している。出来る。
* 『罪はわが前に』は書き下ろした昔よりも、むしろ今より先へ行くにしたがい、私の作品史のなかで無視出来ないものになるだろう。読みやすいが、なまやさしい作品ではなかった。
2003 10・26 25
* メールを戴いてきちんと返事の送れずじまいなのがあるのを、許して戴きたい。「そ知らぬ顔」をしているのではありません。「ペン電子文藝館」の校正往来だけでかなりメールは輻輳し、手が回らない。内容が拝見しておくだけで足りている場合は有り難くそのままにもしている。それに私の消息なら、この「私語」で相当なことは分かってもらえる。返事や反応のぜひ必要と受けとったものには、わりときちんきちんと返事しているし、こっちから発信する例もすくなくない。
お詫びしなくてはならないのは、メールでない郵便を戴いた方への返事が、どうしても遅れ遅れて失礼していることだ。この場でどう詫びても郵便の人には伝わらない。ウーン。
2003 10・26 25
* 秦先生、おげんきですか。
本当にご無沙汰してしまって・・・送ってくださる本のこと(送金も)、先生ご自身のこと、いろいろ気になっていたのに、性分なのか、筆不精ですごしてしまいました。おげんきですか。
こちらは相変わらず、「超」のつく忙しい日々を夫婦二人共に過ごしていましたが、ここ1ヶ月ほど私のほうは、若干早く家に帰って家で夕飯を作って食べています。春先からなんとなく感じていた体の不調が、お盆明けに急に、あれこれとあらわれました。仕事などでストレスを感じていたのは自覚していましたが、身体症状として現れるとは、正直そのことのほうにびっくりしてしまいました。
秋という季節や、周囲のあれこれ、自分と照らし合わせてやや憂鬱になることも重なってか、ここのところ、すこし気持ちの沈んだ日々です。
でも心配しないでください。まずは体調を整え、体力をつけて、すべてはそれからだと自身に言い聞かせています。
考えてみれば、結婚して以来、いろんな楽しいことを忙しく経験してきましたが、気持ちの中で頼れる人が出来たせいか、自分で判断することをせずに、自分を後回しにする癖がついてしまっていたことに、今回の不調で気が付きました。思えば、仕事も家事も忙しいから、ゆっくり一人で新聞を読む時間も持たなかった。かつては当然のこととして持っていた一人の時間。それがなくなっていたことも、実は無意識にストレスになっていたのかもしれません。何も考えずにぼおっとする、、、そんな時間も全然なかった。世の中で、「癒し系」なんて言葉が流行りますのも、そんな時間が恋しい、という気持ちの表れなんだなと感じました。充実していても、味も素っ気もない乾いた日常を、潤したい。潤った気分になるようなすごし方、気持ちの切り替えができるようになりたい。きっとその方が幸せになれる気がします。
うまく書けませんが、久々のメッセージ、じっくり自分を見つめる時間をもてた事、本当によかったといま満足しながら書いています。こういう時間もしばらく持ってこなかった。それは正直に反省、です。
12月に多分***さんと会うと思います。たのしみです。そうそう、7月には*君の新居にいってきたんですよ。幸せそうでした。結婚式のビデオでは秦先生もみちゃった。
またメッセージを書いて、自分のことを考えたいと思います。
先生お体お大切に。それでは。
* とっても、を、十も二十も並べたいほど、嬉しいメールでした。
あなた、どうしてるかなあ、あなたのことは根は全然安心していていいんだが、ときどき小さな「調整期」がやってくる、元気だといいがなあと思っていたんですよ。それが、ちょうど来ているのですね。だいじょうぶ、やがて通り抜けてゆきます、落ち着いて自分を見ていれば。けれど、体はくれぐれも大切にして下さい。
「超」忙しいのは、やはりいろんなものが堪ってきてシンドイでしょう。が、かわすスベがまるで無いのではない。見つかります。一本脚では危ない、せめて仕事と自分と二本足で。できればもう一本、あなたならではの何か。
わたしのサイトには、同窓の人達の消息や、昔ながらのアイサツが、結構入っていますし、大勢が煙草のかわりに読んでいるようです。みんな未だお互いに身近に居ます。自分でも「闇に言い置く」サイトを開き、一日も欠かさず短いエッセイを一年以上もホームページに書き続けている、やはり「超」忙しいエディターもいますよ、女性の。それは、相当に読まれています。
***さん、ずいぶん元気になり喜んでいます。一度、みなで逢いたいですね。
あの人もこの人も、みな元気に幸せそうですよ。近いうちに、揃っていいことが有るかな。**君は、わたしが木曽馬籠、藤村記念館で講演したとき、わざわざ日帰りで聴きに来てくれてました。気が付いたら会場の真ん中に、昔の教室と同じに**君がいて、一瞬、アガリましたよ。
嬉しいな。みんなみんな元気に、ますます幸せにと祈ります。もう深夜だからこのぐらいにします。いつでも何でも遠慮無く言ってきてください。お大切に。
* 大学のオーケストラの中で、輝くように活躍していた、学問の方でも頭抜けて光っていた健康そのものの学生だった。いい笑顔をいつも惜しげなく振り向けてきた。ふっと思い出して、こういうメールになって声が届く。
調整期になると、ほんとうに賢く聡く切り返してゆく自生力のある学生だった。大丈夫。
2003 10・27 25
* 池宮夫妻との約束を、帝国ホテルで五時半としていた。時間はたっぷり有る、日比谷まで車に乗って宝塚劇場の前で降り、思い切って映画館に入った。時間のアンバイのちょうどよい「恋は邪魔者」という、気楽なだけの朗らかな映画を観た。ドリス・デイとロック・ハドソンの演じた四十年ばかり前の映画のリメイクで、みるからに往年のドリス・デイに似た、あれより少しセクシイで美しい、若いはち切れたヒロイン。あれのこれのというほどの何もない、たわいない映画で、気楽に見ている分には抵抗のすこしもない、疲れもしない、恰好の作品だった。残念にも男性俳優の方がわたしの好みで全くなく、それが口惜しかった。
* 五時過ぎに池宮さん二人と会い、メインロビーで、エディさんとわたしは軽くビール、千代夫人と妻は緑茶で、まずは嬉しく久闊を叙し、それから予約した中二階「セゾン」で、ゆっくり歓談、フランス料理を楽しんだ。なかなか佳いメニュで、量的にもほどよく珍しく、美味しかった。この選択は当たりだった。陶芸で人気の小十作、お祝いの「鯛」の箸置きなどをお土産に持参した。池宮さんたちは、この春、金婚であった。
夫妻は昨日はよそのホテルに入ってたのを、今日急遽帝国ホテルに移られていた。それなら安心、それで話ははずんで、食後は五階のクラブに場所を移し、懐かしい昔話にこもごも花を咲かせ、飽きなかった。
クラブでも、セゾンの入り口でも、写真を撮った。
お互いに、たしかに年はとった。四十数年にはなる。昔は、大事に欠かせない人であった池宮夫人の姉の大谷良子さんがもういない寂しさは誰の胸にも消しようなかったものの、だからこそ四人ながらお互いにまるで昨日のことのように、昔が今に蘇るのだった。
また、また、またいつまでも繰り返し逢いましょうと約して、名残惜しく別れてきた。
2003 10・28 25
* メールをいただいたのは、病院の検査から戻られてからだったのですね。「体調は急下降、」と・・わたしの心は悲鳴をあげています。このところ私語に一種乾いた感じを受けて悲しかったのなど問題ではありません。本当に本当に、しっかり自覚されて、節制なさってください。遠くから、こんなことしか言えないのが口惜しいです。どうぞ大切に、大切に、それのみ書きます。わたしはまだ今ひとつ体調が戻っていませんが、体を休めています。これは何も心配いらないことです。 播磨
さやさやと
窓の外の梢が揺れています。
冷たい雨も遠のいて
さやさやと 秋の朝。 揺れているのは梢ばかりでもありません。
きっと、樹木の根の先端まで ふるえはとどいているのです。
もとはといえば、わたしの周囲の空気がふるえていたのです。
胸の高鳴りのために。目覚めた瞬間からの。
都会の森のずっと向こう、今朝の湖の目覚めはいかがですか。 常陸
* ありがたい鼓舞であり激励であり、お叱りである。
* 夏といえどもプールの水はつめたい。意を決してすうっと水に入ってゆく。胸のあたりまで沈めてゆくとひたひたと身内に鼓動する興奮とも悲哀ともつかぬ奇妙な覚悟があった。何と無く、ああいう気分を思い出している。
* 枯尾花 野崎まいりをした、雨の日、曽爾高原への道に、2畳ほどもある岩が落ちたそうで、先日の友人とのドライブは、一部迂回でした。
紅葉にはやや早く、平日ということもあって、秋日和のなか、クルマは快調に進みます。柱状節理の絶壁と渓谷、そしてダムの縁を、蜿蜒と巡る道の先に、車止の標識。右手に細い土の道が延びています。
足元を気を取られ上りながら、ふと目を上げると、山腹から裾野まで、一面、すすき。それが風にそよぐさまは、山に腹這う大きな獣が伸びをしているよう。
「コーン!」狐が飛んでいく、幻。
* いい秋でありたい。
2003 10・29 25
* 昨日は突然お声をお掛けして大変失礼いたしました。
「細雪 松の段」が是非拝見したく三越劇場に参りましたが、ご挨拶するなどとは夢にも考えておりませんでした。ところが会場に着いて早々お見かけしてしまいました。
子どもの頃から人見知りの強い性格ですのに、さんざん迷いぬいたあげく、なけなしの勇気をふりしぼって厚かましいことをいたしました。驚かれましたとのこと、申しわけございませんでした。あまりに緊張していましたので、じつは自分がどんな言葉を発したのかもよく憶えておりません。奥さまにもご挨拶させていただければよかったのですが、舞台最後まで観る時間がなくあの休憩時間しか機会がございませんでした。どうか失礼のお詫びをお伝えくださいませ。
自分が何を話したのか憶えてはおりませんのに、先生の包みこむように豊かに深いご印象だけは温かく胸に滲みました。人間の出逢いには親しくしていても本当には出逢っていない場合もあれば、現実に逢っていなくても出逢っている人がいます。昨日は正真正銘の初対面ではございましたが、私はすでにご本の中で先生に出逢っていた
のかもしれません。まさに私の思い描いていたようなかたで、幸せを感じた一日でした。
先生のご体調が心配で一喜一憂しているのは読者のほうかもしれませんが、くれぐれもお大切にご無理なさらずお過ごしくださいませ。
* 恐縮している。印象深い出逢いであった。いつか再会もあるであろう。
2003 10・29 25
* この若いパパ(とママ)の朗報は、もう是非とも喜びをわかち持ちたく。おめでとう!!
良夜かな 子生まれ親も生まれける 遠
* (Bccで送付しています。)
今日(水)の午前4時半に、予定日より三日後にして、ついに子供が生まれました。3296gと、最近にしてはまあまあ大きめ。お医者さん曰く、とても元気な坊や。
黒髪ふさふさで、新生児室では早速看護婦さんにベッカムヘアで遊ばれました。
夫婦の第一印象が不思議と同じで、「声がいい」。泣き声が、よくある赤ん坊の声と違って、とてもいい声でした。
今回の出産は、難産でした。陣痛が始まったのが月曜の夜。病院入りも火曜のAM4時半、で、生まれたのが水曜のAM4時半なので、病院でも24時間、正味36時間の格闘でした。
私も出産に立会いました。と言っても、陣痛室から立ち会うものです。小田急の始発で火曜のAM6時入りしてから22時間半、知ってる人は知ってると思いますが、妊婦の馬鹿力と大声の叫び声に5分おきに力と声で対抗しなければならない。おまけに夫婦揃って、月曜から寝ておらず何度もくじけそうになりました。
子供が胎内から出てくると、疲れを忘れるといいますが、あれはウソですね。
22時間半は、忘れられるような疲れじゃありません。妻は当然、私もくたくたでした。
苦しさを忘れるといいますが、それは本当ですね。
陣痛の最中、陣痛監視装置の胎児心拍数が何度も200を超え、かたや妻は長時間の陣痛で衰弱する一方で、
やめることのできない出産に、二人の一方が傷つくのではないか、不安でした。
それだけに、母子ともに健康なまま、子供が胎内から無事やってくることができて、その瞬間、それまであったことが全部、もうどうでも良くなりました。
今はただ、無事済んだことが嬉しく、パパになったという実感はありません。その喜びは、病院から退院した後、お風呂に入れるときになるでしょう。 (楽しみ!)
病院は結構大きな総合病院で、都内のアクセスしやすいところにあるのですが、面会に行っても抱っこさせてくれるわけでもなく、ガラス越しに覗くだけなので、この先、一ヶ月検診が終わって完全帰宅する12月以降に、ぜひ坊や(名称未定)に会いに来て下さい。 (出張サービスもあり??)
(もし新生児のうちに病院に会いに来て下さるという方がいましたら、言ってもらえればご案内します。山手線沿いです。)
では。
P.S. 添付は、ビデオカメラのキャプチャー映像なので、ちょっと粗いですが、生まれて1時間後、分娩台の上の母親に抱かれたときの映像です。
写真は、フィルムでしか撮っておらず、現像待ちです。(デジカメは持ってない。)
* 残念ながら、写真を扱う技術がわたしには無くて。
なんという初々しくも高揚したいいレポートだろう。 おめでとう!!
* キウイ 2003.10.29 小闇@tokyo
茨城県で、畑からキウイが四百個ほど盗まれたという。計三万五千円相当。ニュースがそう伝えた日に、実家からキウイが届いた。換算すれば二千六百二十五円相当、つまりは三十個。一日一つ消費したら師走はすぐそこ。結構な量だ。
今の実家には、十四歳から数年間住んだ。二階の北東の角が私の部屋で、東には比較的大きな、北には小さな窓がついていた。窓から見えるのは畑とその向こうに民家で、引っ越した当初はずいぶん田舎に来てしまったなと思っていた。その気持ちはその後もずっと変っていない。
父が誰にも言わずに西側に空いていた土地も買ったのは、家が建ってまもなくだったと思う。すぐ隣に家が建つのが嫌だったからと説明したが家族の誰も納得しなかった。特に何に使うわけでもないその空間は、母によってすぐ畑と化した。
初めは葉物が中心だったが、苗をもらったのを機に果物にも手を出した。それがキウイだった。木としての成長は早かったが、実はなかなかならない。オスとメスが必要だった。母は、取り付かれたようにキウイ生産計画に邁進していた。
翌年、あまるほどの実がなった。母に呼ばれて庭に下りた私の目に映ったのは、たわわ、を百科事典で引けば、そこにはこんな写真が掲載されているに違いないと、そう思わせる景色だった。それいらい、需要を上回る供給が続いている。
白子のりの箱に整然と詰められ、送られてきたキウイにはそういう背景がある。ありがたくいただく。問題は、キウイを食べると胃が痛くなることだ。キウイに含まれるアクチニジン酵素が、おそらく体質的にダメ。同じ酵素を持つパパイヤ、パイナップルもダメ。実家が南国でなくて良かった。
* 佳いエッセイだ、間然するところ無くおもしろく書けていて、はこぶ足取りが重くない。うまい。
2003 10・29 25
* 「正倉院展」見てまいりました。
今夜は赤い月。もずが、鋭く一声鳴いて、ぽとり、どんぐりの落ちる音。
ご本、早速にありがとうございました。
宵迫る白毫寺は、萩もすっかり終わって人ひとりなく、古都が、しずまった水の底に在るように見えて、吹く風に、ゆら‥と、消えていってしまいそう。
ごきげんよく、お仕事がすすみますことを願っております。くれぐれも、ご無理は、なさいませんように。 大和
2003 10・31 25
* 西大寺は、京または奈良への通過点としての意識しかなく、あやめ池方向へは気が無いままでした。
この夏、「松園の下絵と素描」を見に、初めて松伯美術館へ行き、その折、半券提示で割引といわれて大和文華館へも足を延ばしました。池(蛙股池っていうんですってねぇ)の向こうに見える、中野美術館は、あのとき展示期間でありませんでした。
今回は、文華館に五島美術館のコレクション(懐かしいこと!)が来るというので、中野美も今度は展示しているとも確かめてから、出かけました。
――撲られました。「遅い、遅いよッ」って。遅いンだよ…ッ。
賑わう文華館にひきかえて、中野美術館には、誰もいなくて、かすかな音さえはばかられる館内に、華岳、波光、浅井忠。先日見てきた三岸好太郎。見に行こうとしていた劉生。
光雲「西王母」の、襟元に、どきどき。正面。右。左。眺め、眺めて、去りがたく。
波光「朝に遊ぶ子」の前から、動けなくなり、浅井の繪の、空気のよさに、さらに動けず。
池に、さざ波。一時間…ずっと、雀、一羽。
帰りに、リーフレットをいただき、駅で電車を待つひまに開けたら、真ン中に、「気稟の清質、最も尊ぶべし」と、白抜きで―。 叱られたァ。
* 囀雀サンの此のメールにいう「中野美術館」とは、京都の材木商だった先代が心魂を傾注して創り上げた小美術館で、珠玉とはこれを謂うかと思う宝物のような小さな建物に、宝石のような収蔵品がおさまっている。じつに佳い村上華岳が揃っているし、逸品の小品絵画が粒を揃えて光っているのである。今の館長は息子さんである。先代はわたしの大学専攻の先輩であり、温和な人で、美術雑誌の対談に引っ張り出したものの、話して貰うのに往生するほど口数の少ない人だった。美術館によせたわたしの原稿に、わたしの好きな芭蕉のそんな言葉が入っていたはずだ。
2003 11・1 26
* パンチ! 2003.10.31 小闇@TOKYO
ずっと欲しいと思っているものに、パンチングボールがある。子どもの背丈ほどのマッチ棒のような見てくれで、その頭の部分を打てば跳ね返ってくる、ボクシングのまねごとに使う的のことだ。まねごとだけれど、グローブは使う。
東急ハンズに行くたびに、展示品に一発食らわせてはすっきりしていた。部屋にあったらいいなあと思っていた。ダイエット効果とかストレス解消とかを期待するのではない。跳ね返ってくるものを打つ、という行為が日常にあれば、それは素晴しい。
買っていない。手が出ないほど高価なわけではない。部屋にあったらいいと思うのと同じくらい、ああいうものが部屋にあるのはやっぱちょっとオカシいんじゃないかとも思うのだ。
部屋に置いてあったところで、だれに見られるわけでも、咎められるでもない。が、親が見たら「あんたらしいね」と大笑いしそうなのが癪だ。「そんな金があるなら口紅でも買えば」と言われそうなのも癪だ。
でも。私は元々、逆上がりうんてい登り棒が全滅なことから証明されるように、腕にパワーがない。それを鍛えるには適している。特に左腕は、彫刻刀で左手中指の付け根をえぐって以来、力が入らない。それを人並みにしたいとささやかに願うことの、何がいけないのだろう。
後付けの理由はこの際どうでも良くて、要は欲しいのだ。エアロバイクやルームランナーよりずっと安いし、場所も取らない。なにより、パンチっていうのがいい。
で、意を決してハンズへ行くと、展示品はなく、もう売られていなかった。消化不良。帰ってきて通販サイトを眺めている。
* わたしも以前から、いたく欲しているが。
2003 11・1 26
* いいお天気
太陽はもっと高くなって
昨日の寒さはどこにいったのでしょう、
ストーブを抱えた日の次は
半袖になり、窓越しの満ちた光を受けています。
まっすぐな心のように。愛のように。 千葉
* こういう日記で朝を迎えている人もいる。ありがたい、そういう陽気の一日でありたいもの。
2003 11・2 26
* 佳い一日になった。留守に幾つも佳いメールが届いていた。湖面を去来する鳥や雲は、往くも来るもみな心親しい。
* 東京の小闇の以下の言論に共感する。国選弁護人というのは、建日子の書いた「最後の」弁護人のことだ。
* 法 2003.11.2 小闇@tokyo
松本智津夫被告の長い裁判がひとまず結審し、来年判決が下ることとなった。最終弁論での被告側の弁護団(渡辺脩弁護団長)の発言が、被害者の遺族の心を逆撫でしたとかしないとか、ニュースで大きく扱っていた。
被告の行って来たことと、国選弁護人の仕事振りとは、分けて考えたほうが良いのではないか。
国選弁護人が傍観者であったなら、また、一個人としてなら思いもしないことも、弁護士としての職を全うするには、ときとして口にしなくてはならないと私は思う。法に関わる仕事をしている人間には、それくらいの意気が求められて当然だ。
ひとは丸腰ではひとを裁けない。だから法治国家というものが存在する。
松本被告の弁護人は、与えられた職務を全うしようと努力した。それだけのことだ。
ひと月ほど前に、こんなことがあった。女子高生を拉致し殺害した被告への判決、無期懲役(久我泰博裁判長)。求刑は死刑だった。裁判官は言った。「犯人が人を殺すのは簡単だが、国家として死刑判決を出すことは大変なことです。納得できないと思いますが、そういうことです」。
つまりは裁判官として腹がくくれていなかったということだ。これだけの世論を正面から受けてのうえでの渡辺弁護団長の「『被告が黙っているので事件の真相がさっぱり分からない』という議論は間違っている。被告には沈黙する権利がある」という発言の、その重さ、潔さを久我裁判長は、どう受け止めるのか。
2003 11・2 26
* すべるように日が経つ。このごろは自転車にも乗らない。乗り物願望は、小闇のこんな若々しい感想が代弁してくれる。うらやましい。
* 秋晴れ 2003.11.3 小闇@tokyo
十一月になって何日も経つというのに、日焼けして蚊に刺されてしまった。紫外線と虫が減らないのなら、夏が終わる意味がない。
気持ちよく晴れたので、久し振りに自転車で出かけた。チェーンの錆び具合とサドルに溜まった埃が、どれだけ放っておいたかを物語っている。つまりは運動不足でもある。乗ってしばらく、なかなかペースが出ない。駅前を抜けて、自転車専用道路に入ったあたりから調子が出てくる。
結局、皇居前まで行った。
日曜の午後、内堀通りの東京駅側は、自転車専用道路として解放される。貸し自転車もある。三連休の中日とあってか、いつもよりはひとが少ないように見えたが、それでも自転車ライダーはたくさんいた。皇居見学の団体客よりも、いた。レースの練習中風情もいれば、自前のママチャリでかっ飛ばしているひともいる。子どもも多い。あほみたいに元気な男の子と、こまっしゃくれた女の子。四歳くらいの子が補助なし自転車を必死にこいでいる様は、プランクトンの鞭毛の動きを思わせる。
片側三車線の車道のど真ん中を自転車で走ると、何か天下を取ったかのような気になってくる。天下を取るのと、秋晴れの下を自転車で走るのと、どちらが気持ちいいだろう。東京駅へ続く滑走路の脇、銀杏はようやく色づき始めたところで、何人もが携帯のカメラで記念撮影をしている。正面には霞む東京タワー。
一時間ほど走った帰り道、普段行かないスーパーで、普段と同じものを買った。餃子の皮と、パスタと、エリンギ。リュックにぎゅうぎゅう詰める。ついでに、配っていた民主党のマニフェストも丸めて入れる。
部屋に戻って窓を開け放って換気をし、雑巾とクレ556で自転車をきれいにし、鶏の軟骨を叩いたものを入れ「パレスサイド餃子」と名付けたものを120個包み、そのうちのいくつかを焼いて食べた。アルコールは白ワインを一本、どこで買ったものかは忘れた。
翌朝、私は「半袖シャツを着てました」という証明のような日焼けと、首の裏っかわに、なぜ今頃というような蚊に刺された跡とを見つける。筋肉痛にはなっていない。症状が出るとしたら、おそらく明日だ。
* これが文字どおりの「生・活」というものなら、ずいぶんそれから「遠く離れて」わたしは生きている。そんな気持になる。わたしを捉えているのは、現にいま目の前に「ない」ことが多い。
例えば――織田信長天下布武の生涯が、夜前、本能寺で果てた。読み継いできた「日本の歴史」が、そこまで来た。克明に叙された彼の天下一統の戦歴、秀吉や光秀や勝家らをまさに駆使したその多くの戦歴は、なにかしらみな頭に残っていて往時遊歴の地を再訪するようであった。わずか二百足らずの本能寺を一万数千の兵と鉄砲とで取り巻かれた最期は、信長の言葉通りに「是非なき」ことであった。最期に彼信長は身を清め、身を拭うているところを兵に襲われ、傷つきながら奧に入って割腹したと伝えられている。
「ペン電子文藝館」では、明治期の時代小説で白眉といわれた石橋忍月「惟任日向守」や会員武田清の「武田終焉」をわたしは読んでいる。信長最期への必然を描いた作であったが、安国寺恵瓊の予言もしたたかに確かに在った。信長は、大彗星の光芒のように疾走して果てたが、武将というよりも政治家としての魅力は、秀吉や家康も、掴み込まれて到底離れ得なかったほど、大きかった。その感慨をまた深く持ってから、昨夜も三時半をまわって、やすんだ。
その前には、「夜明け前」を読んだ。二度目の江戸の地を踏んだ半蔵らの眼に映じた、江戸のさびれ、が印象的であった。一橋慶喜のつよい主唱により廃止した大名の参勤交替制は、滅びの前に鼠たちの逃げ出すように、長く人質同然に留め置かれた大名家の妻子や女達の帰国帰郷のラッシュとなり、各街道の宿村に一時の激動をあたえるとともに、また貧窮と出費の種もまいた。「江戸」から「京都」へと時代の軸芯が大きく移り動いていた。それもまた、印象深い史実であり、藤村のような筆の大家がそれをみごとに叙するさまは、歴史学者の歴史記述とは幾味もことなる感銘である。
そして亡き「柏木」衛門督の友たりし大将夕霧は、夫柏木に死なれた妻「落葉宮」を見舞いつつ、徐々に心惹かれて、とめどなくなっている。父六条院はさりげなく諭すが、息子は人のことだと賢しくおっしゃると頬笑んでいる。
* 昔は、夢中になって読書から「知識」を得ようとしたが、「知識」を、いまわたしは少しも欲していない。浅い知識をいくら広く得てみても、それは多く深くのものを見忘れさせ見落とさせ、人間を薄く偏ったものにするしか役に立たない「毒素」のようなものと実感してきた。知識は鏡を曇らせる、霞に、雲に、黒雲に、邪魔者に過ぎない。それあるがゆえに、かえって大切なものを見落としてしまう。たいせつなもの。それは、見えていない真実、静かさ、無心であろうか。さかしらは言わない、ただもう知識のためには読書していない。感じ、眺めているだけだ。それが楽しい内は読みやめないでいるだろうが、そんな必要も失せればわたしは書物を顧みないだろう。早くそうなりたいとまでも今は思っていないけれど。
2003 11・4 26
* せんせい 昨夜は随分遅い時間のメールでいらしたのに、あの時間からまた数種類の本をお読みになられるのでしょうか? 古典から、近代、はては文学以外の分野のものまで・・・ゆったりとゆたかな時間。
昨日は、母の帯の買い物に付き合わされているうちに、自分の帯を、衝動買いしてしまいました。沖縄の花織です。それで嬉しくて、機嫌がよいのです。「くだらない女どもよ」と、お笑いにならないで下さいね。 都内
* 帯を買うのは、男がベルトを買うのとはまるでちがう。もしそれで謂うなら往古、都の大貴族達が身に帯びた「石帯」などが相当するかも知れない、店で買うようなものではなかったが。婿の光源氏に舅の左大臣が秘蔵の石帯を贈って、自身の手で婿殿の腰につけてあげる場面が、早くにある。葵上の父大臣がなにやら伝来のいわれを話していたが、石とはいえ、それは宝石に類した品であった。
江戸の粋な男達も「帯」に何をしめるかは、お洒落のポイントであったらしい。その帯はよくない、こっちにしろなどと、親や大家が、息子や、なにかいわくある店子のために世話をやく場面は咄にもよく出てくる。
女の帯がどんなにその場で晴れするものであるかは、よく茶会の裏方にいて社中さんやお客の装いを見てきたから、肌身に感じて知っている。帯にはまさしくピンからキリがあり、むろん着物にも衿・半襟にも襦袢にも帯揚げにもある。むろん履き物にもある。佳い着物姿に出逢うと、一種ぞくぞくっとくる興奮を覚え、時に敬意すら覚えるものだ。
茶会が近づくと、着物の新調に付き合ってくれと叔母の社中に頼まれたこともあった。ヤボの限りの大学生に演じうる役どころではなかったが、おもしろ半分に年上の人にくっついて呉服屋の店頭へも行ったことがある。メールの人が、気に入った帯が欲しくて買ってしまい上機嫌というのは、幾らか懐かしさもいりまじり、さもあろうなと肯いている。いまどき、もうあまり聴かれぬコトになっている。靴でもハンドバッグでもないところが嬉しい。佳い。
京の祇園「ゝ屋(ちょぼや)」に、朱の松葉を花緒に散らした下駄が店先に出ていて、その当時叔母の茶室に稽古に来ていた、五つ六つ年下の子に、何とかしてああいう下駄を履かせてみたいと想ったことがある。お金はないから買うなど思いも寄らない、それだけに純然の想像であり、まさしき思い入れであった。そういう思いようも日々の楽しみの一つであり得た。そういう時代があった。あの子も、いいおばあさんになっていることだろう。
2003 11・5 26
* 眠れなくて 昔の勤め時代の奥さん友達に誘われて、「ホセ カレーラス」の歌を聴きにサントリーホールに行ってきました。白血病克服の後だからでしょうか、往年の声ののびや華やかさがなく、ピアノに片手をついて足を曲げての詠唱でした。全部私にとっては初めて聞く曲でしたが、途中から声に艶が出て、トスティの小曲は,胸に熱いものをよみがえらせてくれました。サービス精神旺盛で観客のアンコールに丁寧に応じて歌ったのはなんと8曲。中には日本語の「川の流れのように」も。おかげで帰ったのは11時過ぎになってしまいました。幕間に飲んだコーヒーが聞いて、疲れているのにまだ眠れません。夢も闇も無い日々は砂漠のよう。
秦テルオ展 娘はとても興味をもって行きたいといっています。
そろそろ眠らないと。明日も朝6時に起きなければなりません・・・。おやすみなさい。 神奈川
* この時節に、今は人を大勢つかっての事業が右肩上がりに展開していると洩れ聞くような人だが、日常のバランスはなかなか難しそうにも、こういうメールから察しられる。人に羨まれるような日々と窺われるけれど、心に抱いた砂漠もまた広いのであろう。「時間」というものに人は縛られている。時間を駆使ないしは使用しているようで、時間の前に餌食のように我が身を投げ出して東奔し西走し奮迅している。お金も貯まるのだろうが疲労も溜まる。仕事も疲労もあれもこれも、いずれをも「楽しんで」いるのなら、それは、えらいものだ。何をしても何の「楽しみ」もあとにのこらない、身内を癒さない、となると困るかもしれない。難しい。
わたしは静かに深い「闇」とは親しみたいが、胸をかき乱すだけのような「夢」はいらない。夢を見ずに眠りたいなあと毎夜のようにわたしは夢を憎んでいる。子供の頃から夢とは概して相性が悪い。夢のある人生、おお、いやだ。そんなものに人生を託せるだろうか。人生そのものがすでに夢・幻であるというのに。
2003 11・5 26
* テルオ展へいきました。 先ず、大変佳かったです。お礼を申します。教えていただき・・・。構図が心地よい。空気を画面一杯に感じます。 内面をしっかりととらえて描ききっておられます。何が描きたいか? 迫ってきます。 構成に新しさ! モダーンさ! を感じます。美工の図案科出身なのですね。
一言で、すばらしかったです。 ありがとうございます。 2時間ちかく会場におりました。 神奈川
2003 11・5 26
* お元気ですか。数日まったく器械に触れない日を余儀なくされていました。今日は静かにメールを書ける時間をもちました。紅葉は始まっていますが、まだ冷え込むこともなく、むしろ汗ばむ陽気。
いかがお過ごしですか? 楽しんで暮しながら、時折、生きていることすべて「夢、幻」と書かれている。そのままを受け止めてわたしは読みます。そして夢の中の「現」であれ、生きている以上「しっかり生きなければ」と、そのしっかりが漠然としたまま、でも、わたしも「今」を生きようと思います。
先日山に出かけて歩いていましたら、すぐ近くの茂みで突然がさっと音がして、なんと鹿が身をおこして走り去っていきました。鹿はその時まで眠っていたのでしょうか? 鹿がわたしに気づいて驚き息潜めていたのは、どれほどの時間だったのでしょうか。鹿が逃げ去った後、山の静けさに落ちていくような錯覚を覚え、不思議な時間を経験しました。
携帯からメールを送りましたが、文章が短かすぎて却って失礼だったかしら?
今月下旬には上の娘がシンガポールから帰ってきます。仕事をやめて次の方向を決めるまでしばらく家にいるようです。わたしはますます身動きが出来なくなりそうです。これはわたしの意志とは逆の方向ですが・・。
ウズベキスタンから帰国したときは成田経由で、快晴でしたので東京方面や富士山を機上から楽しみました。東京はとても近いのに、とても遠い。 播磨
* 秦テルヲ展を観にいきました。失恋と体調違和とで疲れた心でしたが、絵を観たことで、活力の沸くのを感じました。最初のほうにあった「煙突」の絵が好きです。津田、田中など知らなかった洋画家の絵に、はっとしました。
秦テルヲは構図や線に独特のものがあると感じました。何か独特のよい線だと。中盤の作品はシュールリアリスム的な何か、の迫力を感じました。ムンクにも似た凄み。またスケッチブックを大変面白くみました。仏画にはあまり興味を持ちませんでしたが、風景画は面白くみました。簡単な感想ですが、お伝えしておきます。 板橋区の卒業生
2003 11・6 26
* 昨晩は、寝ついて間もなく降り出した雨の音に目が覚め、そのまましばらく眠れませんでした。TVで、年輩の女流俳人が、与謝を旅したことを、興奮気味に話していましたの。若い母親と幼い男の子が、川で水遊びをしている映像に「夏河を越す…」の字幕がついて流れました。
ようよう「あやつり春風馬堤曲」を読み終え、はなに戻って、逸翁美術館で見てきた絵を思いだしながら、読んでいます。
「劉生と京都」の券が当たりましたの! 法然院の特別公開が明日までというので、行って参ります。
金福寺へも。 雀
* 葛づくし 葛西聖司アナウンサーの番組に、中西進さんがお出になりましたの。これまで存じませんで、物腰や、お顔立ち、声の音色に、ぽぉっとなりましたわ。
葛西アナは、葛湯をすすめて、「萬葉集のなかで、一番お好きなうたは?」。
中西さんは、「真葛原なびく秋風吹くごとに阿太の大野の萩の花ちる」とお詠いになり、「萬葉集ゆかりの地で、お勧めの旅は?」との問いに、「葛城の麓を夕方お歩きになるのがいい。日が…ぽとん、と、落ちる」と。
一羽きりの道の心細さに、半泣きで歩いた、葛城の逢魔が時を思い出しました。囀雀
* 朝に昼に晩に夜中にと、雨霰のように届いたメールが、ツキモノの落ちたようにパタリと途絶える。そういう例が過去に何度かあって、マンガ好きなティーンの少女であったり、家庭につらい問題のある青年であったり、夢見がちなオバサンであったりする。
メールのすがたかたちを見ていて、分かった。五、六回に一度くらいから、返事の間隔をだんだんあけて行くと、遠い雷の遠のくようにやがて、いや急速にとび去ってゆく。おもしろそうでも、そういうメールには独特の飾りっ気とクセがそれぞれにあり、クリアで確かな魅力には乏しく、結局はみな消去してしまう。
* そんな中で、もう千に及ぶだろう、囀雀さんのおそらく携帯からの短いメールには、風趣に富んだ境涯が、ときにつらいほどににじみ出て、表現も行動も具体的にわたしの関心事に、なかなかニクく触れてくる。もしメールが文藝にいつか数えられるななら、この人のは電子メール時代初期の或る一の集積になるだろう。
2003 11・6 26
* 永年、まれにあってこその小春日和なのに、? のつく程、違和感を覚える程、暖かい毎日です。汚染による地球の温暖化とか、自転がホンの微か早くなっているとか、従来の季節感、特に俳句の季語などが合わなくなるのではと。
それでも貴船菊の白い花びらが皆落ち、咲き乱れた友禅菊も花びらも落ち始めて、秋の深まりを感じます。
ぬくぬくと七時まで朝寝坊の連続で、今朝も六時からのイタリア語の番組を観るのも、録画も、手遅れでした。定番をうっかり抜かすと、どうも気色悪い一日になります。
毎日やるべき仕事をこなし切れずに、掃除が滞りがちになり、何故と考えるに、お話相手とお手伝いを懇願されて、ついつい娘と孫には弱くなりますね。声を出して笑い、半月もすれば寝返りが出来るかなと。
こうして家事時間が押せ押せになり、おばあちゃんは埃の部屋で生活するハメになります。まあ、イイッカ。
2003 11・7 26
* 棘 すっくと立った木の先に、一輪白く。その脇に、何本も、紅に‥艶やかに、香り豊かに、薔薇が咲き競っています。
明日は、立冬、そして…満月。私には解らないことばで、また、月とお腹とが話をし始めました。ほんと、仲良しさんだこと ― アイタタタ。
* 一瞬分からなかった、が。こういう表現もあるわけか。
2003 11・7 26
* 投票まぢか 雨が降れば投票に行かない若い連中がゴマンといる。お年寄りはもっと足腰がしっかりしてますよ。
不在投票なんて放ったからしの連中もワンサカ、ワンサカ。
10年間に7度も奉公先を変えた与党側党首もいる、なんですかねえこれって。
私よりいくつも若いのに、政権が変わったら不安だとのたまう零細商工者とも、酒の席でガンガンやったが、頭が固くて箸にも棒にもひっかからない。
安倍幹事長の演説に2時間も待たされていた応援弁士、支援者の塊。動かぬ真っ黒クロスケのようだった。野外特設の映写を熱っぽく見つめるニューシネマパラダイスの観衆はいなかった。
秦さん、ここは一発、尻を蹴っ飛ばしてくださいな。 西多摩
* 選挙ごとに、「日本」と「日本人」について、「尻を蹴っとば」すどころか、ためいきをついてしまう。先進・保守の国なのだ日本は。いいかえれば技術・安定の国なのだ。利益に従いそれに理屈をつけてゆく国だ。経済が見合うなら問題は先送りする国だ。公を都合良く立て奉るフリして私は無残に滅ぼして行く国だ。利権が肥大し福祉は消えて行く国だ。
自民党政権への屈従はまだまだ続いて、「私」は痩せて死に絶え「日本国」は国力を根から喪って滅びるに違いない。日本人が「歴史的に」先へ行くほど下降して行くという下降史観に支配されてきたというのは、上古も中世も今も、基本的に変化していない。いま「先はばら色」と、日本人のだれが本気で思っているだろう。小泉純一郎以下の自民党代議士でも思っていないはずた。田中真紀子は自民党はもう死体にひとしいと、のがれて出た。死んだも同じ国になろうとしている国だ、日本は。
それでもわたしたちは投票に行く。忙しい息子も、投票のためにだけ、そして一緒に昼飯にだけ帰ってくるとメールを寄越した。それでよい。
2003 11・7 26
* 外国で老いるということ 2003.11.06 小闇@バルセロナ
週末、義父が四人の我が子を集めた。義父の妹が末期癌、余命幾許もないと言う。話を聞きながら、思い出していたのは、この夏の病室。見舞い客として現れた義父の妹は、ベッドの上のやつれた私の義母を、口を開けば「あんたはいいわね。面倒を見てくれる子供がいて。」といって羨んでいた。
こういう場面に直面すると、私は、独り年老いて暮らす自分を想像する。漠然とした不安。それでも、その時になればなんとかなっている気がするし、なんとかなっていなければ、生きていないだろうから、やはり、なんとかなっていると思う。「今」生きていることに意を注げば、自然、行く先の不安は遠のくから不思議。
唯一つ、いつも私を不安にさせることがあった。外国で老いる、ということ。もし病気になったら、と。
外国では不安で、日本では安心な理由って、いったい何なのだろう。言葉? 今だって、病院には一人で行く。難しい専門用語を使われたら? 日本語だって分かりゃしないだろう。友達? 着実に絆を深めているのは、この地の友だろう。親戚? 日本にいたって助けは求めまい。社会保障? 私を保障してくれるのはスペイン政府。年金も、スペイン政府から。
そう考えてゆくと、外国ゆえに不安にならなければならない理由が、どこにあるのか分からなくなってくる。第一、今こうやって暮らしていて感じない不安を、なぜ将来感じなくてはいけないのだろう。
大事なのは、どこで生きるかでなく、どうやって生きるか。ここに来た時、言い聞かせていたけれど、それもそろそろ必要なくなってきた気がする。強がりだろうか。
* ウン。がんばってる。そのままでいいと思う。
2003 11・7 26
* 朝から5時まで京にいました。 朝霧の西大寺に案じたものの、京へ着いたらぬくぅてええ天気。法然院、(蕪村の)金福寺、(浅井忠の)金地院。お墓まいりもしました。どこも、雀の居る間ァだけ、人が少のゥて。
お午。のち、(粟田の)花園天皇陵、円山公園。双林寺、西行庵、護国神社は、すたすた歩き、(冬祭り、冬子法子のねむる)正法寺。古井戸に涙ぐみ、戻ると、女子学生がふたり。互いに息をのみました。「観光です」と名乗る互いが、安堵。「きれいですね」と、高い石段から、暮れゆく京の町を眺めました。雀は、(慈子の)来迎院へ。
胸絞られる思いでいっぱい。「劉生と京都」も「京都市美リクエスト展」も、みなパスしました。
* どんな暮らしをしているひとなのだろう。
東京の小闇の二本もおもしろく読んだ。「泣く」ということも、「携帯電話」のことも。感想もある。これから言論表現委員会のシンポジウムに出掛けるので、帰ってから書く。
* 涙の味 2003.11.6 小闇@TOKYO
泣かない子どもであった。ひとより我慢強いことを知ったのはわりと最近で、普通はみなそうなのだと思っていた。物心ついてから泣いたシーンは、すべて覚えている。一番強烈だったのは首筋に太い注射をされたとき、その痛みに涙が出たときだ。悔しさでなく、痛みでなくことが自分にあるとはなかなか認められなかった。そのとき、十歳。
ところが最近は、本を読んだり音楽を聴いたり、ちょっと何かを思い出すだけで泣いている。これまでの分を取り返す勢いだ。
泣いてたまるか、とか、涙を見せるのは恥、とかどちらかというとそういう思想を持っていたが、泣くのは楽だ。それで何が解決するわけではないけれど、泣いたあとの虚脱感、こんなことで泣いてバカみたいだなと思うことで、辛さとか苦しさとかに分類していたことが、実はそうでもなかったと気付く。
ちらっと見た女性誌にもそんなようなことが書かれていた。もしかしてトレンドなのだろうか。けれど雑誌がトレンドをリードできず、トレンドの後追いを初めて久しい。とうの昔の話なのかも知れない。
とはいえ迷惑だろうから、ひとの前ではあまり泣きたくない。ときどき親しいひとのまえでつい泣いて、あとでそっと「大丈夫?」と聞かれる。聞かれる頃には、「あ~、あれね」とアルバムを捲るような、昔話やヒトゴトのような記憶に昇華している。そして突然、また別の理由で泣き出したりして。
* un-mobile 2003.11.7 小闇@TOKYO
気付いて呆然とした。携帯電話を家に忘れた。鞄の中に見あたらない。パソコンの脇の充電器にさしたままらしい。しくじった。携帯電話を持たずに出社するのは、初めてである。今日一日、私の携帯電話に連絡を取ろうとするひとがその携帯電話が自宅に起きっぱなしであることを、知る術がない。不安ではあったが、実に自由であった。
職場では普段、机の上に置いている。女性用衣料の最大の欠点はポケットが少ないことだ。仮に小さなポケットがあったとしても、私の携帯電話はかなり大きい。
音は消しているが、着信があれば震えるし、液晶の画面が明るくなるのですぐに分かる。その画面は暗いままだと鏡のようで、誰かの影が映っただけでも着信かと勘違いすることも多い。
それが今日はなかった。電話そのものがないのだから、通り過ぎる誰かを着信と間違えることもない。
携帯電話もそうだし、ミニノートとAir H”でもそうなのだが、出先で誰かとつながれるのはとても便利だ。例えば、帰京前の新大阪駅、フライト前の成田空港。出張でなくとも、家を空けるときには必ず私はどちらも持って行く。
それでも、出先で電話が鳴るのは嬉しくない。パソコンを起動してネットにつないでも会社宛てのメールは見ない。おしかりや苦情が入っているかもしれないのが怖いのではなく、会社が嫌なわけでもない。会社から離れていられるときに、会社のことを知るのが、それができてしまうのが嫌なのだ。
帰って確認すると、着信あり。メールもあり。緊急の用事ではなかった。本当は普段から、必要ないものなだろう。だからといって明日から捨てられるかと言えば。どうなんだろう、実は簡単なことかも知れない。
* おもしろい。ふたつとも。
* 「泣く」という行為は、国により文化に属していた。「号哭」が一つの礼であったわれらの隣国もあり、その風は日本にも変容を経て入っていたのではないか、殯宮(もがり)では「遊部」などがさまざまに鎮魂・慰霊したが、その「えらぎあそぶ」作法には号哭が混じったのではないか、泣女(なきめ)という「役」どころのあったことは天若日子の葬儀にも明記されてある。
源氏物語を少年の昔に初めて読んだとき、大人達が、女とかぎらずむしろ貴族の男達がしきりに「泣いて」「涙する」さまに仰天した。男は人前で泣かぬもの、涙を人に見せるものではないと教え込まれた時代にものごころついていたので、まことに「めめしく」感じた。どうしてこう何かにつけて泣けるのだろうと呆れていた。
だが、光源氏たちほどでなくても平家の公達でもあらき東の武士達ですら、鎧の袖をぬらす風情はあった。後世にも「男泣き」に泣いたりすることが、必ずしも咎められていない、ただしそれだけ滅多には泣かなくなっていたのも確かで、平家物語はもとより太平記の武士達でも、まだ、ときどき泣いている。しかし織田信長とくると泣きそうにない。徳川の頃の侍達も男どもも泣くのを恥じていた。
泣くことすら出来ないのは、恥ずかしいではないかと、わたしは、年が行くに連れて思うようになった。感動してとどめえない涙は流してよいように思ってきた。今もそう思い、涙のために関所は設けていない。感動したい。やすい感傷はいやだけれど。
2003 11・8 26
* 鍋 2003.11.8 小闇@tokyo
冬になると、週末の夕餉は必ず鍋であった。湯豆腐か、水炊きか、すき焼き。水炊きは中に入れるものが毎回変わっていたとはいえ、最後に雑炊またはうどんをにするまでがルーチン化されていた。子どもとしてはそれがつまらなく、たまには土日に鍋じゃないものが食べたいと何度か抗議した。あるとき母は言った。「でもねぇ、お父さんがこういうのがいいんだって。みんなで鍋つつくのがやりたかったんだって」。父はひとりっ子。そして当時実家は六人家族。以来私は黙々と鶏や白菜や椎茸をポン酢で食べていたが、でもそれと私の夕食とは関係ないでしょとも思っていた。
昨日、「鍋奉行になる」というタイトルのムックを買った。レシピ集だ。この手のものを買うのは、初めてだ。「男子厨房に入ろう」というキャッチと、写真の豪快さ、文字の大きさから察するに、定年後の男性がターゲットなのか。確かに鍋はそういうひとに向いているかも知れない。奉行にもなるだろう。
実家三大鍋に加え、常夜鍋、牡蠣鍋、餃子鍋、豆乳鍋、つみれ鍋。私の鍋のレパートリーは、実家よりは多いつもりだが、まだ攻略していないものがいくつか載っていた。はりはり鍋はぜひやってみたいし、ラタトゥイユ鍋とか茄子と鮭缶の鍋なんてのはあまり味が想像できない。おでんも鍋なのか、ぐつぐつやっているものを食べる雰囲気ではないしすぐにお腹いっぱいになりそうだ。
実家を離れて久しいが、私も冬の週末は、土日のうちどちらか鍋を夕食にしている。建前上、血は争えないことになっている。野菜をたくさん取れるので身体にも良い。しかし本当の理由は準備も片付けも楽で調理しながら食べられるところにある。母もうまいこと言ったもんだ。そこは女の情けで指摘しないでおいてやる。
私は今日はきりたんぽ鍋、もう二人しかいなくなった実家は湯豆腐あたりだろうか。明日、両親三十二回目の結婚記念日。
* 両親の結婚記念日を覚えている娘って、いいなあ。
この小闇、以前なら「腹いっぱいになる」と書いていたろう、今夜は「お腹いっぱい」とある。「女の情けで指摘しないでおいてやる」は、ユーモアがくどいか。「指摘しない」で足りている。ま、こういうチェックはお気に召すまいが。あたたかいエッセイで、ご馳走の匂いも湯気もよかった。
2003 11・8 26
* 久しぶりにマオカットさんの、また岡崎の岩崎広英君のメールももらった。
2003 11・8 26
* 深更に来ていた建日子も早起きして、親子三人、近くの小学校で投票を済ませてきた。建日子はもうその足で車を駆り、都内の稽古場へ戻っていった。
不在者投票をした遠方の友より、早や、一言とどく。
* 今は不在者投票所もたいそうな人手なのですね。
菅代表の沖縄米軍基地撤退発言。自衛隊派遣中止発言に一票。
国が戦争を始めようとしたら、私はどうやって反対できるのか。いまならまだ止められるかも知れません。イラクへの侵略戦争の片棒担ぎもゴメンです。
最高裁判事の国民審査にも、判決内容により、はじめて×を投じました。
お忙しそう。ご自愛のほど。 北海道
* 今回程定まらないのは、初めてではないかと思います。
マニフエストを読んでも、何か虚しく。
政治家の腐敗を見過ぎたせいでしょうか。
戦後にやっとやっとやっと勝ち取られた女性の選挙権を、今の若い人達はどれほど知っているのかしら。当然の権利、義務の行使をどうして簡単に大勢が放棄するのかしら。
娘夫婦も選挙を終えてから、赤ちゃんを連れて遊びに出ると、メールをしてきました。
よしよし、それでいいのよ。 京都
* これから母たちの家に行き、そこから4人で投票に行きます。東京のベッドタウンの神奈川県民の政治への審判がどうでるか、楽しみでもあります。そちらは親子3人での投票ですか?
なんだか先週は眠れない日が何日もありました。あれやこれや。結局一夜漬けになる私ですけれど、日常のルーティンワークのほかに引き受けた仕事は、だんだん荷が重くなっています。でも、全部今まで撒いた種が芽を出しただけのこと。いそいそと準備に励むことにします。
二人の娘のことも気にしないでおこうと思っても気になります。
眠れない日はどうなさいますか? 翌朝6時に起きなければならないというプレッシャーさえなければ、静かな夜の瞑想を帰って楽しめるのにとも思うのですけれども。
庭にはコスモスが満開。太陽の日差しは頼りない日ですが、そろそろ出かける支度を始めます。
* むかしむかし、雪の朝にうけとった用事の手紙に雪のひと言も触れてなく、お冠の女の人がいた。徒然草の話である。今日この日の朝メールに、「選挙」に関心を示してない便りなんて、読めない。
* わたしは幸い、翌朝の用事がふつうは無い。また眠れないということもめったに無い。眼を酷使しているからたいてい眼精疲労で疲れており、眠りたければ闇にして、アイピローを目の上におけば自然に寝ている。直前に天井を見上げた真上へオーデコロンを三度ほど噴霧してから、アイピローを使う。薫りはこころよい闇へのいい先導になる。ま、眠れなければ幸いと何冊も本を読む。
深夜のリビングで、バグワンと源氏物語を音読し、床について日本の歴史と藤村「夜明け前」と、戴いたばかりの本などをひろげる。今は鏡花集と、角田文衛博士から届いた平安女人達を論じた論文集を楽しんでいる。必ず、いつかは眠くなる。
翌日早めに用のあるときは早めに闇に沈む。あああすは何も無い、出て行かなくていいんだと頭の中で確認する瞬間、幸せである。朝目覚めかけて、ああ今日は出掛けなくていいんだと再確認するときの安堵の幸せ。自由開店休業者の贅沢である。
2003 11・9 26
* もう夜通しする必要はあるまい。東京の小闇の感想で纏めておいてもらおう、もうわたしは、過ぎた選挙と思っている。誰もみなが、一人一人、小闇のように、きっちり自分の気持ちの中で「とじめる思い」を持てばいいだろう。
* 選択 2003.11.9 小闇@TOKYO
投票へ行ってから朝刊を読んだ。日経新聞一面、左側に政治部長の署名記事があった。タイトルは「時代の変わり目の選択」。最近読んだ中で、中立な立場から最も簡潔に今回の選挙を総括していると感じた。全国紙ではあっても経済紙、政治部への所属は決して名誉なことではないはずなのに、ときどき、こういう優れたコラムがある。
「こんどの選挙は、どんな結果になっても、日本の政治で、次への起点になる可能性をひめている」として、マニフェスト、将来への関心の具現化、政治体制を、その三つのポイントとして挙げている。
特に将来への関心の具現化として、ぼんやりした不安がはっきりした不安へ変わったことを指摘し、その根幹には「戦後政治の問い直し」があるとしている。
政治部長はいみじくも「どんな結果になっても」と書いた。連立与党が過半数を確保しようが、民主党が比例区で第一党になっても。たとえ田中真紀子が当選し、たとえ土井たか子はもとより山崎拓まで小選挙区で落選しても。たとえNHKの開票速報最初の当確が安倍晋三でも、たとえ土屋埼玉汚職知事の娘が当選しても。
そしてもっと私たちが意識すべき結果は、投票率だ。起点としてのポテンシャルを十二分に秘めたこの総選挙で投票率は伸び悩み、一方で、不在者投票をしたひとは前回の三割り増しとも聞く。意識の二極分化。
戦後政治の問い直しとはつまり、戦後民主主義の問い直しでもある。政治部長はこうも書いている。「政治はだれもみんな豊かで幸せになるためにあると考えるのか、それともある程度、差がつくのもやむを得ないと考えるのか」。これを選ぶのが、私たちだ。
「私たち」とは、つまり「だれもみんな」。今のところ。
2003 11・10 26
* 冷えます がたっと気温が下がり勝手なもので、暖房が恋しくなります。風邪引きさんもあちこちに。
視力の低下心配ですが、こればかりは自己管理以外にないですから、お気をつけて。
選挙もほぼ予測通りに終了しました。単純に云えば、老人が快適に暮せて、現役は職に付けて、若者が将来に希望を持てる国に、そして国際社会への連携も含めて、税金を有効に使って欲しい。それが当選した政治家達の使命。それだけ。
「英国強奪至宝展」は観ていません。あの行列には恐れをなします。
去年、ロンドンで古代ギリシャ、エジプト、ローマ時代の彫像、レリーフ等を観てきました。強奪品の陳列とは云え、入場費が無料、であるのは感心します。広いせいか、人影もまばらでゆったりと観られ感動もしました。蒐集の方法に疑問はあっても、その国に管理される事に依って、只の土に化したかも知れない文化が残されたと見れば、それで良く。
疲労していても、六、七時間熟睡すると、幸い身体は正常に回復しています。十分な睡眠時間、適度な運動、バランスのよい食事が三原則と分っていても。ムツカシイ。 東京
* 電子メールがこう普及しなかったら、日記も書かなかった、手紙も書かなかった夥しい人数が、いつしかに消息を告げあったり、感想を伝えたり、意見を述べあったりという機会は殆ど無かったろう。おどおどと手探りでキーを叩き始めた人達が、いつのまにか達者なE-OLDにもなり、自在に日々の思いを「文章」に託してソツなく、だんだん上手になる。
これは新しい文化と認定できるのではないか。
わたしのこの「闇に言い置く」サイトを覗き込まれている人達は、私のセッカチに騒がしい転換ミスだらけの文章にまじって、いろんな「表出」が織り交ぜられてあるのを、むしろ今では楽しまれているであろうと想像する。小さいながら此処に「世間」が浮かび上がり、ま、似た者同士にはなっているけれど、バラエティが無いとも言えない。
いわゆる「掲示板」はそれに当たるという人も有ろう。わたしはそう思わない。あれらの絶対大多数は無責任な落書きであり、垂れ流しの放言であり、有名な誰かが、いみじくも譬えたように、ときには「公衆便所」なみの臭気に満ちている。社会は普通の人の普通の言葉で基盤を形作られていなければ、壮大なものをその上に築き重ねることが出来ない。電子メディアのなかで、電子メディアなるが故に突飛で軽躁で浮薄な無責任言説だけが泡立つのでは、インフラ(社会構造の基盤機能)とは成り得ない。そういう飛び跳ねた現象はしかしまた社会の全体から見れば、極微少量でしか無い事実もぜひ分かっていたい。普通にまともに、少し遠慮がちに暮らしている普通人で、此の世は成っている。そういう人達の普通の言語生活を電子メディアが少し活溌に可能にしつつあればこそ、電子メディアはいよいよ、漸く、インフラたりうるのである。
2003 11・10 26
* 雨が、止みませんわ。 そちらはかなり気温が下がっているようですが、お変わりなくいらっしゃいますか。
前に、名張市の隣町に、阿保親王墓があるとお知らせして、青山町の「あお」と判ったことがございました。木津川の源流を抱えた町で、地震除けの「なまず石」を境内におさめた神社がありますの。秋季祭には、「なまずみこし」が出るそうです。名賀郡青山町。そのおとなり名張には、四十八滝があり、オオサンショウウオがいます。朝霧残る駅前の、コンクリの道、また、日の少し傾いた頃、花の下を、カガノリコさんが散歩していること、ありますのよ。
* わたしの読者だと、多くの人が、このメールで何を言ってきているか、すぐ判る。「なが」「な」「かが」…。ノリコは、そんな町へも。そんな町ではないかナと、少しオソレはなしていた。
さっきから、急速に冷えてきた。今夜は寒そうだ。明日は「電子文藝館」の委員会。明後日の晩は音取で「清経」の能。とてもとても楽しみ。明々後日の昼過ぎには日中文化交流協会の中国作家代表団歓迎会が有楽町であり、さらにその翌日は、俳優座の「三人姉妹」に招かれている。同じこの劇団でも、だんだん「三人姉妹」を演じる女優達の顔ぶれが変わって行く。それだけ年をとってきたわけだ。
俳優座とは、優に三十年、本当に長いおつき合いで、身に余る厚意を得続けてきた。感謝している。
2003 11・10 26
* 暫くぶりにバルセロナの声が届いた。不在投票したのだ。いま、連絡の付いた限りの卒業生は、一人残らず投票したと言っている。教室の昔から、熱を入れて、投票権だけは紙屑にして棄てるなとわたしは言い続けてきた。わずかでもいい、一人一人が動いてくれるのが大切だ。
* 選挙 2003.11.10 小闇@バルセロナ
投票から今日までの十二日間、落ち着かなかった。自分の票は確実に日本へ届いて欲しかったし、選挙の結果も待ち遠しかった。海外の投票期間は、十月二十八日から十一月一日。一定の条件を満たした上で、予め面倒な手続きをしておけば、衆参議院の比例代表選出議員のみ、投票できる。それっぽっち、、、とも言えるが、比例代表だけでも、今回投票できたのは、嬉しかった。
五日間の投票期間は、閑古鳥。システム上、海外に腰を落ち着けたような人でないと選挙登録が難しい。ただそういう人に限って、興味を持つのはむしろこの地の選挙。そういう声をいくらか聞いた。社会保障にしろ、教育にしろ、税金にしろ、移民法にしろ、直接生活に影響し、我が身に降りかかるのは、生活している土地の政治。政治をこれほど生活と近いものに感じたのは、これが初めてかもしれなかった。
今週末、カタロニア州議会の選挙がある。私にとって、長い選挙はまだ続いている。目が離せない。でも、興味を持てば持つほど、自分はまったく蚊帳の外、市民と同じ土俵には立たせてもらえないことを感じている。女だから、ではない。スペイン国籍のない私には、選挙権がない。
カタロニアの新聞では、投票率の低下を懸念。前回の七十台後半のパーセンテージから少し下がるのではないかと言う。日本、五十九、その差約二十。
スペイン人は文化レベルが低いとか、自己中心だ、浅はかだとか、ここに住む日本人は口々に言う。そうかもしれない。でも、生活を自分事として、自分の生活を生きようとしているのは、どっちだ。
2003 11・11 26
* 急に寒くなりましたね。十月の暖かかった分を差し引いたような気温です。わたしはすぐに風邪を引いてしまいますが、あまりひどくならなずに治るのは、数年前から常飲しているビタミン剤のおかげかもしれません。
今回の総選挙は、わたしが選挙権を得てから、最も投票に意義を感じたものでしたが、全体の投票率は低く、あれれ、「風の音に、 あの木々をゆるがせ、 野をわたり、 村を二つに割るものの音」に、耳を傾けていないのかしらん、とがっかりしました。それにしても、自民党があれだけ議席を減らしておきながら、小泉の「支持してもらっている」発言は、毎度の厚顔でした。わたしの希む世界平和と、常に逆行する人を、わたしは支持しませんが。
群馬では、五つの選挙区すべてで自民党の候補者が当選しました。他党の影が薄いのは、自民党が強すぎるからでしょうか。群馬には、福田、中曽根、小渕の、それぞれ二世がいます。わたしの住む町の選挙区では、小渕優子さんが圧倒的な勝利をおさめました。彼女に関して言えば、前回の選挙のときは小渕元首相の死の直後だったので、同情されたのは間違いありません。その後、地元回りに来た彼女を見て思ったのは、彼女が若くて、背の高い、見栄えのする女性だというです。それらのプラス要素を打ち消してしまうほどの対立候補は、今回いませんでした。
世襲といえば、主人公の工藤新一君と、幼なじみの蘭ちゃんとの恋の行方が気になって観てしまう「名探偵コナン」というテレビアニメの映画版、「ベイカー街の亡霊」は、世襲社会への批判でした。有力者のわがままな子供たちが、コナン・ドイルの小説を引用したバーチャルゲームに参加し(バーチャル空間での死は現実になってしまう、とんでもないソフトだったのですが)、親の七光りの通用しない世界で、名探偵コナンと力を合わせて見えない敵と闘うというお話でした。その映画の冒頭で「悪しき世襲制」という台詞を、ある登場人物が言いました。おっ、と思って見ると脚本は野沢尚さんでした。
野沢さんの書いた「結婚前夜」という佳いドラマを、ときどき憶い出します。登場人物が妻を殺害する内容の小説を書いたせいで、自分の妻が自殺したのではないかと悩み続けている推理小説家が、息子の浮気を詫びに、その婚約者を訪ねたことから、事態は急展開します。下町で父親の風鈴作りの手伝いをしている彼女は、頑なで、とても地味な女性でした。息子は別れた恋人とヨリを戻したいために、彼女を利用したのかもしれないと、小説家は考えますが、彼女の素質を見抜いて、マイ・フェア・レディさながらに磨き上げます。洗練された彼女に逢って、穏やかでな
い小説家の息子は、男として、父に対峙します。小説家は息子と勝負するつもりはありませんでしたが、すっかり自分を頼りにしている彼女に対しては、責任を取らなくてはならないと、息子と彼女の結婚前夜、彼女を連れ出します。そして、彼女の頑なさの理由かもしれない、今は別の家庭を持っている彼女の母親と、決着をつけさせるのでした。ここが素晴らしかった! 家族を捨てて恋に生きた女性は、一日たりとも娘を忘れていませんでした。幼い娘を置いてきてしまった身勝手は、彼女の深い業でした。そしてあれが、わたしの范文雀を見た最後でした。小説家は橋爪
功、あざやかに変身する美しい娘は夏川結衣でした。妻に去られ、男手ひとつで子供を育てた、娘の幸せを誰より願う頑固な風鈴職人に井川比佐志、結婚式の寸前にただならぬ様子で自分の父親と現れた花嫁を、事情も訊かず優しく受け容れた花婿は、ユースケサンタマリアでした。滅多にない適役ばかりでした。
まとまりませんが、、、わたしは元気にやっております。自分の読みたいと思うものを書こうと、毎日考えています。これからますます寒くなります。秦さん、どうかご自愛ください。
* 気をせかず、きちんと隅々までとらえて書けば、話題によっては長いメールになるが、それでよい。配慮を、文章を書くすみずみにまで行き渡らせてものを伝えるということを、このメールなど、大切にしているので、宛先であるわたしは、読みながら深切に書いて貰っていると思う。
「結婚前夜」というドラマは知らなかった。しかしおもしろいと分からせてもらえた。半端に書かれていれば、何が何やらわたしには分からなかったに違いない。メールには一人合点が多くなる。それでイザコザが起きている例もよく耳にする。
2003 11・12 26
* 野菜の話 2003.11.12 小闇@TOKYO
夏の天候不順のせいで今年の冬は野菜が高くなる、とどこかで読んだように記憶している。が、実際はそんなこと全然ない。少なくとも白菜、大根、水菜、レタス、菠薐草に関しては、ここ何年かで最も安いくらいではないだろうか。スーパーで見ると、今日だけ特別に安いような気がしてつい買ってしまい、結果、毎週同じものを食べている。
加えて先日は芹を買った。思っていたほど高くなかった。それより、普段行っているスーパーで、簡単に見つかったことに驚いた。この時期の都内では、何件か探さないと見つからないと思っていた。視野に入っていなかっただけだった。
何でもそうなのだが、知らないことはずっと知らないままでいってしまう。くわいという野菜というか根菜があるが、あれを初めて知ったのは、中学の家庭科の授業中。教科書をぱらぱらやっていたら、その文字列が目に飛び込んできた。くわい。正月料理の材料として挙げられていたそれが、漢字が想像できずに何なのか分からず、魚の名前かなぁと思っていた。 帰宅して母に聞いてみた。しゃきしゃきした根菜だと言うことが分かった。「そういえば家では一度も買ったことないね」と母。「お母さんあれ嫌いだから」。
そういうものがいくつもある。舞茸、母の好き嫌いとは別に、当時の関東地方では入手が難しかったものもある。例えば水菜もそうだし、香菜もそう。袋茸も豆苗もなかった。ライチを初めて見たときは、どうやって食べるのか分からなかった。
それに比べると今は、簡単に何でも手にはいるし、調理方法だってWebで検索すればたいてい分かる。何でも買ってみて食べてみればいいのだが、大根も白菜も美味しいので、冒険心に火がつかないでいる。
* こういうことはわたしは決して書けない、だから読んでいてふと興趣をおぼえる。たとえひとごとでも、この人はいきいきと具体的に暮らしているなあと感じるのは気持いいものだ。
2003 11・12 26
* 歯が痛いのは本当につらいですね。顔がなすびのようにゆがむほどはれて痛むのに、仕事に行かなければならなかったこともありましたっけ。こんなに医学が発達しているのに、歯の治療は昔と同じに麻酔をかけて削ってつめるだけ、そして手遅れになると抜くしかありません。一番簡単に作れそうな人工臓器なのに「歯」の世界は遅れていますね。歯医者は大嫌い。よほど痛まないと行きません。お大事になさってくださいね。
「共犯者」きのうは、なんとか最後まで見ることができました。漫画家の唇が噛み切られそうになった「本当の恐怖」は、やはり見続けることができないほど怖かった。殺されたOLがかっと目を見開いていたのも怖かった。車で崖から飛び込んだ共犯者たちは、きっと命は助かるのでしょうね。それも怖い・・・。相変わらず、かつてみたことのない構図、非凡なカメラの使い方も楽しめました。そう・・・ やっと楽しみながら恐怖を味わえるようになってきました。
* 歯のはなしは実感が持てるが、ドラマの方はちょっとご挨拶を戴いた感じもある。ああいう恐怖の煽り方は、ほんとうは、なにでもない。恐いとはああいうことだろうかと、わたしなどの感覚は少し違っている。見て戴けるのは本当に有り難いが。
2003 11・13 26
* 再び選挙 2003.11.17 小闇@バルセロナ
カタロニア州議会選挙は、面白い結果になった。結果が出た現在も、まだ、どの党が政権を握るのか分かっていない。決定権は、一手に第三党が握っている。第一党でも第二党でもない、第三党の党首が州知事になる可能性がでてきている。
カタロニアには、CiU(カタロニア連合)、PSC(社会労働党)、PP(民衆党)、ERC(左翼共和党)、ICV(緑の党)の五つの政党がある。党名には惑わされないでほしい。簡単に説明すると、CiUがカタロニア保守政党、PPがマドリッド中心主義のスペイン保守政党、ERCがカタロニアナショナリズムの政党。左翼という名前がついていても、マドリッドから見るから左であって、カタロニアでは極右ともとれる。右派が三つも存在するようで、はっきり言って分かりにくい。ひょっとして、ERCには保守派から急進派まで色々いて、スペイン(マドリッド)対カタロニアという構図があるからこそ、一つにまとまっているのかもしれない。ICVは急進派、PSCは日本ならば民主党か。
今回の選挙の最大の関心は、政権を四分の一世紀握り続けたCiUがPSCに敗れ、政権交代なるかだった。四年前、PSCはCiUに票数で勝ったものの、議席では四つ負けた。市議会同様、PSCはERCとICVと組もうとしたが、CiUがPPと連立したため、政権交代は実現しなかった。
そして今回。イラク戦争反対の声を挙げ、スペイン政府に歯向かったカタロニアで、ERCとICVが伸びるのは明らかだった。結果はCiU 46議席(-10)、PSC 42議席(-10)、ERC 23議席(+11) 、PP 15議席(+3) 、ICV 9議席(+6)、PSCはCiUに票数で勝ち、議席でまた負けた。
どの政党も、選挙結果をそれなりに喜んで見せたものの、内心の不安を隠し切れず息を潜めている。政権を動かすのは第一党でも、第二党でもなく、第三党のERC、というおかしな結果になってしまった。誰もERCが組んでくれなければ、政権は取れない。ERCは強気、PPはかんかんだ。
政治のコネで生きてきた役所やメディアの権力者は、今日も眠れぬ夜を過ごしているに違いない。よい気味だ。ERCよ、どうか期待を裏切らないで欲しい。
* こういう現地情報は、なかなか聴けない。興味深く読んだ。忙しくくらしているからか、この程度にと抑制しているのか、バルセロナからの声は間遠になる。なにか纏めようとしなくてもいい、にちにちの息づかいのような便りも、今少し数多く聴きたいが。
2003 11・18 26
* 「さむ、なったなぁ」
おだやかな言葉つきで、初老の紳士が、駅員とことばを交わしていました。
昨日は、零度近くまで冷えましたの。晩れゆく秋。そちらは、いかがですか。
こちらへ越してきたことで、お作の、京ことばへのつまづきの石がかなり除かれました。
(中日)新聞の連載、「河童」に、挫折―。「河童」のあとの「風の又三郎」の、なまりなつかしく、微笑みに、声も出
て、毎朝読んでいます。越後生まれの私は、東北のことばでしたら、聞き取りも、読むことも、わりとつまづかずにできますの。
* にわかに秋暮れてゆく。
* 痛くない 2003.11.18 小闇@TOKYO
厚生年金の負担率20%、労使折半なので実質10%へ。どうぞ。消費税の税率引き上げ。どうぞどうぞ。そんなのぜんぜん「痛み」じゃない。
今、私は毎月の手取額こそ把握しているが、総支給額はよく知らない。総支給額という数字から、厚生年金と所得税と住民税と組合費と遺族遺児年金とが引かれ、私の場合は十五万円がみずほ銀行に、残額が郵便局に振り込まれる。明細に印字された数値と、振り込まれる額の乖離。もう慣れてしまった。
その目で見ると、賃金闘争で示される当社の「三十歳モデル」の一時金は驚くほど多い。実際はここから、例の要素が引かれるわけだ。
そういう仕組み。
今後負担が増える分、給与に上がって欲しいとは思わない。制度上、そうするしかないのなら従おうじゃないの。負担増で支給減、それが我々の世代の宿命。そう、腹をくくっている。
だから、さっぴく側にも腹をくくってもらいたい。公費の無駄遣いをなくせ。国民年金未払いを撲滅せよ。収支がどうなりそうなのか、信頼に足る試算を明らかにせよ。それができないなら、負担増も税率引き上げも、言い出すのは百年早い。
だましだまし耐えてきた痛みは、痛いと認めた瞬間に、耐えられなくなる。守れない約束をこれまでいくらもぶち上げてきた日本政府よ、それでも私はあなたを信じたい。お父さんには、惚れた男には、最期まで強くあって欲しいと思うのと同じだ。だから、私はまだ、痛くない。
* イラク派兵のいいかげんや、国防次官のエゲツナイ恫喝的侮辱を附録にした悪代官風米国防長官の来日など、昔なら、国民も参加して大規模デモが実現していただろう。アイクが来たときの怒濤のような抗議デモを思い出す。
デモがいいかよくないかは俄に結論出来ないが、いずれにしても凄いほどのエネルギーが無くては生まれない。そういう政治的なエネルギーが大学生たちの中で憔悴消滅し、その連中がいま企業に溢れている以上、社民党や共産党に目が無いのは当然だ。或る一部の特権人種たちにはたまらなく嬉しい現状だろうが、国民の絶対多数は甚だしいワリを喰っていて、気が付いていても断念している。
安土桃山寛永時代が、猛烈な「黄金色の暗転期」であったように、バブルに浮かれての暗転はまだまだ抜け出せない。国民が、ことに若い世代が政治的なエネルギーをこうまでダウンさせているのだもの、ほぼ絶望のように感じられるが、この小闇のような自覚が、姿勢が、すこしずつでも回復してくればと願われる。忙しがってはいるが、じつは惰性の惰眠を貪っているだけかも知れない若い男達の意識こそ、問題だ。
2003 11・19 26
* ベランダの矢矧薄が風に吹き靡かされています。
いま、ある短歌誌に、定子中宮の辞世、
夜もすがら契りしことをわすれずは恋ひむ涙の色ぞゆかしき
を、めぐるあれこれを書いています。
定家は、「百人秀歌」で採らなかった後鳥羽・順徳両院のうたを「百人一首」に入れるために、「百人秀歌」から三首除きましたが、その三首のうちの一首がこのうたでした。
除かれても仕方ないうたは、ほかにいくらもありましょうに、よりによって、と、悲運の后宮に、肩入れする気も手伝い、「百人一首」をえらんだときの定家は、何を基準にし、何を目論んでいたのかしらなどと、生意気なことをおもったりいたします。
イギリスを訪問したブッシュは、大規模な反ブッシュデモに迎えられた、と、ニュースで知りました。日本に立ち寄ったときは、どうだったのでしょう。「湖」でおっしゃっての通り、デモをするエネルギーもなくなってしまったのですね。
「首切り」といわず、「リストラ」という何だか軽く聞えることばを流行らせたのはたいへんな知恵者、陰謀家。たぶん大企業の経営者か政治家お召し抱えの頭脳か。
とにかく、そのリストラに遭った友達が二人います。「何でだまって首切られているの。デモでもストでもやればいいじゃない」と、申しましたら、「そんなこと言うのは、むかしのひとだよ」と、言われてしまいました。気がついたら、デモもストもない世の中になっていたのです。そして、気がついたら、十六、七の少年・少女が親を殺し、親が子を殺し、通りすがりの人をムカつくといって殺す、おぞましい世になっていたのです。
こんなことをかんかがえていますと、悲運の后宮のところへ、なかなか、こころがもどってゆきません。
2003 11・20 26
* 優秀企業に勤務する卒業生女子の一人が、去年から参加している「ミュージカル集団コーラス・シティ」第32回公演の「EDITORS」を、妻と観てきた。日比谷線八丁堀の、「労働スクエア東京ホール」はペン本部からも近く、なんとなく馴染んだ土地なので、億劫ななにもなく、雲一つない快晴の秋空の下を、気をはずませて出向いた。
わたしはダンス・ミュージカルが好き。演技が美味いのへたのなど気にせず楽しめる。日頃はめいめいに自分の仕事をもった人達で構成された劇団であり、それにしてはといっては失礼なほど、きちんと仕上げた熱気と意欲の佳い舞台だった。
演出に感心した。おそらく台本のまま読んでも感興をおぼえるかどうか分からない組み立てなのを、音楽とダンスと人物や場面の流れるような自在な動かしかたで、求心力に富んで元気いっぱいの舞台に仕立てていた。
総合大出版社の、ジャンルを異にする四つの編集部と、会社から邪魔にされている第五編集室。文藝ありトレンディあり週刊誌あり総合雑誌あり。それぞれの持ち味や問題をうまくからめながら、左遷されて行く実力あり誠意ある編集長や編集者が、第五室へ追いやられ、それもいずれ「構造改革」路線のどこかの宰相風専務の意向で整理されてしまいそう。そんなこんなの中で、第五室が頑張るのである。
出版や編集にはわたしも内から外からかなり豊富に体験しているので、又一入の興味も湧いた。おなじ演劇でもミュージカルであるために、或る程度の無理やありえそうにない不自然もかなり雲散霧消してくれる。フムフムとなかなか面白い。これほど全面的に「編集と編集者」に取材して芝居にしたものは、わたしは聞いたことがない。「編集者」小説では断然先駈けた作品を書いたつもりのわたしには、「EDITORS」という題からして、惹きつけられていたのである。
さて私の元学生サンは、去年から入団とは思われない颯爽たるダンスと歌と働きで、大いに活躍していた。彼女はその社の編集者ではなく、左遷されてしまう総合誌の出来る女編集者と、がっちり組んだ、いわばフリーの記者役で、場面の大きな転換に繋がる取材で第五室の意欲の仕事に、応援もし、弾みもつけるという大事な役であった。それを元気に小気味よく果たして、ダンスのなかではめざましい横転回も見せたり、わたしは、あの大人しい声も聴かせないような「早蕨」サンがと、感嘆を久しうした。そもそもミュージカルに出るから見てくださいとメールしてきたのにも、仰天した。ほんまかなと疑った。あの物静かな、むしろネクラな風の女性がダンスして歌を歌うって。
だが、じつにおみごとであった。わたしは、真面目な熱意の編集がいかに恵まれずに行き詰まりやすいかを、よくよく知っているので、途中何度もほろりとした。涙が頬に伝う時もあった。しかも楽しんだのである、大いに。
* フイナーレにたくさん拍手を送ったあと、ロビーで「早蕨」サンと握手した。わたしの顔をみて歓声をあげて大喜びしてくれた笑顔は美しかったし、若い元気に溢れていた。会社では硝子関連の当然研究職に任じて、もうベテランの意気に近づいているだろう。その人のこういう表現活動である、心より拍手も称賛も送りたい。そうしたいことを、そうして、楽しんで成功させているのだ、どんなに楽しんで演技しているかは観ていてありあり分かった。それが嬉しかったし楽しかった。
* 妻と八丁堀から茅場町の方へ歩いたが、土曜日で店も開いていないので、日比谷へ戻り、例により「東天紅」て小さなコース料理を堪能した。ボジョレーヌーボーをグラスでとり、わたしは別にフェンチュウを二杯。静かなわたしたちの穴場の一つ。ゆっくり芝居のことや何かを話しながら、佳いメニューのうまい中華料理であった。
とっぷり暮れた宵の有楽町を歩いて地下鉄一本で保谷駅まで帰った。北風が吹いて冷えてきていたが、妻は元気で歩くと云う。風に向かって歩いた。黒いマゴが迎えに出てきた。
2003 11・22 26
* アメリカの絵本に、「空で、おばあさんのがちょうの羽むしりが始まった」とあるとか。伊吹山は雪化粧。余呉湖でわかさぎ釣りが始まったそうです。
降る雨は、時に驚くような音を立て、唐突に止み、くすべたような色をした伊賀の山は、日の光を返して、澄んだ大気に照ります。晴れると同時に、風が吹き荒び、清気は、きりきり肌をさします。
昨晩、八時を過ぎる頃から、部屋の空気がぴりぴりと変わって、冷えるきざし。早めに床に入りました。
冬間近。どうかご自愛のほど。
2003 11・23 26
* 誕生月 2003.11.24 小闇@バルセロナ
義父母から、私の留守中に電話があった。誕生日に、私に何を贈ろうか聞きたかったという。気づけば今年もまた、プレゼントの季節がやってきた。
欲しいもの、と聞かれると当惑する。もともと物欲はない方だ。それに、欲しいものは、欲しい時に、自分で買う。いつの間にか、それができるようになっていた。子供の頃には、想像もできなかったこと。プレゼントの行き交うこの時期になると、いつもあの頃が甦り、なぜか無性に哀しくなる。
欲しいものを買ってもらった記憶がない。私はねだらない子供だった。それを「よい子」と呼ぶか、子供らしさに欠けるととるかは知らない。素直に「これが欲しい」と言える子供を見て、最近はもう、嫌悪に近い嫉妬を感じない。子供はそれでいい、と思う。欲しがるものを与えるか与えないかは、大人の決めること。ダメと言われれば、その時子供は理由を考えるだろう。
私はその逆だった。「くだらない。」真っ先に大人の意見を耳にして、いつも、自分が欲しいかどうか感じるのを忘れた。匂い消しゴムも、絵柄入り折り紙も、二面式筆箱も、飾りつき鉛筆キャップも買ってもらわなかった。悲しくなんかないと思っていた。
小学六年生、スタジャンが流行った。後にも先にも、これほど欲しかったものは思い出せない。兄と親戚の「お下がり」っ子だった私は、新しいスタジアムジャンパーを羽織った自分を夢見て笑った。買ってもらう色は、決まっていた。濃いグレーの身頃に、薄いグレーの袖。豊島君と同じ色だった。
こんなに欲しいのに。初めて、買ってもらえない切なさを認めた。
プレゼントの季節が来ると、決まって哀しくなる。何が哀しいのか、自分でもよく分からない。
買ってもらえなかったこと、じっと我慢していたこと、欲しいものも欲しいと言えなかった自分。倹約に追われた母。それとも、欲しいものが何でも手に入るようになってしまった今の境遇?
いや、これもただ、秋風に舞うプラタナスの葉のせいなのかもしれない。
* そうだった、わたしも、親に、買ってとたのむ前から断念していた。ま、それほど哀しみもしなかった。断念の方が深かった。それに父はわたしに、学歴と養育と謡曲の美しさとを呉れた。母はいろんなことを識っていた。叔母は茶の湯や生け花や女の世界を呉れた。もらったものを、まずまず活かしてきたつもりだ。
2003 11・25 26
* そんなことをしているうちに、また卒業生の声が届いてきた。卒業後に外国へ旅などする機会があるつど、泰西の絵にふれはじめて、すっかり「絵が好きになった」とある。「最近のお気に入りはルノワールで、解説付きの画集を買ってしまいました。彼の描く人物は健康的で、幸福で、笑顔にあふれていて素直に素晴らしいと思います。人の表情のもっとも素晴らしい瞬間を、逃さずとらえていると思います。また、渋谷Bunkamuraで展示会が開かれていたミレーの描く世界も素晴らしいと思います。」とあって、「それでは、12月にお会いできるのを楽しみにしております」と結んである。ルノワールであれミレーであれ、またその受け止め方がどうであれ、研究室で尖端の顕微鏡を覗き続けていたような青年が、大学院の学問を終えて企業に籍を置いて、何年かしてこういう趣味と機会と感想を持ってきた、それがわたしは嬉しく愉快である。
ミュージカルの彼女からも見てもらって嬉しいと礼のメールが元気に届いた。
* 小闇@TOKYOが「風呂」のことを書いている。正しくは「浴槽」について主に書いている。そして「風呂上がり」という言葉で結んでいる。どうということはない、が、われわれが今風呂屋といっているのは湯屋である。もともと風呂は湯に漬かるのでなく熱い蒸気に当たる場所である。京の八瀬の窯風呂のように。ま、家の浴室でも湯気に当たるような気味も無いではないけれど、蒸気までは行かない。せっかく気持ちいい「湯上がり」という適切な言葉があるのだから、「風呂上がり」はどうかなあと思う。
2003 11・25 26
* 意地を張れ 2003.11.26 小闇@tokyo
テレビ朝日の社長が謝った。アサヒコムより引用。
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テレビ朝日系で9日放送された総選挙特番「選挙ステーション」に自民党幹部が出演を拒否した問題で、同社の広瀬道貞社長は25日の会見で、「政権党幹部の出演がなかったのは残念だが、テレ朝側にも非があった」と同社の報道自体にも問題があったことを認めた。
同党による出演拒否の理由は、民主党の閣僚名簿発表を元にした「ニュースステーション」(4日放送)内のマニフェストに関する特集が著しくバランスを欠いていた、としたもの。広瀬社長は「報道することは当然。だが、民主党を引き合いにマニフェストを説明したのは、視聴者に対して公平を欠いたと思っている」と語った。
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絶句。
現場の非を認めるということは、トップは当然引責ですよ。あなたの監督不行届なんですよ。いくら外部に丸投げの番組だからって、知らなかったじゃすまされないんですよ。雪印、JR東海バス、日経、日本テレビ。さんざん叩いてきましたね。けれどあなたのやったことは、これらのトップ以下ですよ。部下を売り渡して保身ですか。
トップなら、内心しまったと思っても意地を張れ。現場が暴走したと言うなら、それより大きな声で責任はすべて私にあると言ってみろ。
この報を耳にした現場の憤りが、私には分かる。
社長はご存じないようだが、ニュースステーションは一般に、報道番組ではない。よくできたバラエティである。「視聴者に対する公平」など、はなから期待していない。その高視聴率のバラエティに自民党幹部が出演しなかったのは、彼らもガキだからにほかならない。電波独占してなんぼの商売だろうに。子供の喧嘩に親が出て、その出方を誤った典型。アホか。アホならアホなりに口を噤んでいろ。
* 同感。
* 筑紫哲也が、小野清子法務大臣にめずらしく激怒していたのも、同感。あんなのは大臣ではない、官僚のメモ読み人形であり、法のなかに流れるべき血の温みをあたまから知りもしない愚物である。大臣も官僚も、人間をいたわる親切をもたず、都合のいいときにだけ法は運用し、都合が悪いと形式論理で冷え切った顔付きになる。国籍について、日本国の法律行使ほど杓子定規な文明国は他にあるだろうか。有るかも知れないが、自慢にはなるまい。筑紫は頑張って欲しい。
2003 11・26 26
* 遅ればせながら「秦テルヲ展」を観てきました。よきものお勧め、ありがとうございましました。
企画、構成、配置もしっかりしており、なかなかに充実した展覧会でした。
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……先日、いまにも雨が降りだしそうな、鄙の露天フリーマーケットで、野ざらし状態の油絵(10~40号)12点を捨て値で買い求めた。木枠から剥がされキャンバスのみ、経年の色のくすみも進み、厚塗りの油彩も剥離しはじめていたが、なぜか、荒らぶる魂に圧倒され連れて帰った。静物が11点、一番新しい1点は風景、画風の移ろいも感じる。10年余前に某都内デパートで展覧会をやった有名でない現存作家の画学生時代の習作(35年前ごろからの)と推察、あとは不明。
家に戻り、まず、保存不良、丸めておかれていたため波うっている布を引っ張り、一枚一枚壁にピンで止め、壁の余白いっぱいに8枚を並べてみた。さてどうするか? 下手に修復するのもいただけない。古い絵に合わせて色を塗るとあとで色が変わってくる。すでに古色をだしはじめている「ありの侭」を楽しんでみたい、気もする。せめて、木
枠に貼ってはみたいが、イタミも進み容易ではないかもしれない、額装は金をかければいつでもできる。作家の手を離れた、元絵とは様変わりした「迷い絵」の運命を考えている。どこにあっても、イタんでもイイものは残しておきたい。美しく映えるものだけが「名画」ではない、とも思う。また汚いものを拾ってきたとややあきれ顔のカミさんに、しばらく眺めていないと味はわかんないよね、と言われホッとした。
そんななか、ふと、「秦テルヲ展」を思い出し、期限2日前に観てこれた。
秦テルヲの絵は、正直言って、かなり「上手い」。枠からはみだしそうな、とくに若い時代の爆発的な作品を期待していたが、初期の暗い大作にしばらく足が止まった。あった、よかった。絵の運命と保存にも想いをはせている。テルヲもよくぞ蒐集、保存・管理されていたとも。発掘、再評価にふさわしい展覧会水準を維持できた基は、やはり作家の「力」であろう。型録から彼の経歴を読んでいる、棄教のことも。件の油絵作家の最近の絵もそのうち観てみたい、日展入選に名があがっているので。
* 何人もの人が秦テルオ展へ足をはこんでくれた。テルオを本当に追体験するのは容易でない。彼が凝視し体験した世界へは、なかなか近づけもしないからである。彼は京都の美校図案科に学んで、のちに「千総」という京都でも有数有力な染織の大店に務めて下絵を描いている。それで若い頃生計を保って母や弟妹を養っていた。彼は、だから、と云っていいだろう、何でも描ける自由さと技術の高さを持っていた。素人画家ではない、基礎が充実したプロであったが、そのプロ性に耽溺も安住もしないで、むしろ人の世の痛苦と不条理とを見詰める自分の心の震えに画技を従わせた。テルオほど画境を転じていった画家は少ない。アホウの一つ覚えのようにいつもいつも判でもついたような似た絵しか描けない絵師とちがった。展覧会を歩いて、これがみな一人の画家の作品かとみなおすと驚くほど画風も画材も画題もいろいろ。しかもそれを統一している技術が生きている。
2003 11・29 26
* 優れた日本文学を先人が遺してくれた恩恵を想いながら、木曽馬籠の「現場」の空気にふれて「藤村」を読むことの確かさ有り難さを、あわせて考えてみました。
外国文学ですと、トーマス・マンの「魔の山」を読んで、トルストイを読んで、すぐスイスの保養所やサンクト・ペテルスブルグへ気軽に行ってみるわけにはいかない。それが「三四郎」を読み、「こころ」を読み、宇治十帖を読んで、そのつもりになれば、東大の三四郎の池へ、鎌倉の海岸へ、宇治川の流れを見たいと思えば、時間さえあれば比較的簡便にその現場を訪れることが出来ます。泉鏡花なら金沢。川端康成の伊豆。
日本文学を、風土、現場、で考えることの意義へ思いを馳せることが出来ました。 川崎市
2003 11・29 26
* 秦さん、こんばんは。 段々と寒くなってきましたが、お元気ですか?
私は、11月から部署が異動となり、終電かタクシーでの帰りの毎日です。なかなか自分の時間が持てず、辛いところではありますが、折角ですので、むしろ楽しんで、いろいろ経験しておこうと考えています。
最終日前日に、券を戴いた秦テルオ展へ出かけてきました。
このような画家が、いたのですね。
もっともっと名前が通っていても良さそうなものですが。不勉強な私は、絵にも名にも、教えていただくまでは、全く触れる機会を得ませんでした。
画題は覚えていませんが、初めの方に展示してあった、確か工場から出てくる女工達を描いた絵を見たとき、顔すら判然としない彼女たちの抑鬱、諦念が、じわっと伝わってくるようで、思わず引き込まれそうになりました。
そして、さらにその延長上にあるのであろう、「絶望」そのものを表現しているかのような数点の絵。あれら程、人間の内面の葛藤、絶望、暗部などといったものを、赤裸々なまでに描いた絵画は、少なくとも私は、殆ど見たことがありません。
ミケランジェロのピエタなどと一脈通じるものもあるかに感じますが、テルオのものは、ドロドロとした愚かさ暗さを捨てきれない、それでいてどこかに動的なエネルギーを内包している。そういった意味で、遥かにずっと人間的、なのかもしれません。
数々の、ほとんど宗教画とも感じられる、数多くの、仏のごとき、穏やかな顔をした女性画や、聖母子画のような、母と子の絵。おそらくはテルオ自身の、「絶望」の時代を経た後の作品なのでしょうか。彼の到達したのであろう、一つの安らぎの境地には、心底ホッとしました。
しかし、何より目を引いたのは、何気ない風景や、人々を描いた絵でした。山並みや、田畑などへの視線が、なんとも深くて優しいこと。
葛藤の時代を経た後の境地に立って、きっと彼の目には、自然の営みや、一見当たり前の人々の生活が、かけがえなくいとおしいものに感じられたのではないでしょうか。
一つ謎なのは、自分と息子以外、全くといっていいほど、男性が出てこないことです。如来像のような絵ですら、やはり女性として描かれていました。
これは、テルオの絵全般にそうなのか、それとも、今回の展覧会に集められた絵がそうなのか。もう少し追求できれば、面白いテーマなのかもしれません。
ではまた、どうぞお体を大切にされて下さいね!
* ウーン! 霜月尽きて、はや木枯らしもきこえそうな深夜に、締めくくりにふさわしい卒業生君の佳いメールをもらった。初めて秦テルオの絵を観て、ここまでとらえてくれれば、画学生よりももっとヒューメンで心深く的確だと謂える。
テルオの絵は技術で云々出来ない。技術は素晴らしいものをもっていたが、もっと素晴らしかったのは人間の世間、ことに幸せを得ていなかった底辺女性達の苦悩と苦痛と絶望を共同体験するように描いて描いてやまなかった前半生の魔界体験の誠実さであった。彼はデカダンの極のように生きていると見せながら、描いて描いて描き続けておそろしく勤勉な画家であった。だから倫落の女たちの血の池に望んでいる苦渋を正確に見抜いて、リアルというよりも極めて表現的にイデアルな愛をこめて描く事が出来た。凄いほど巧いのであるが、巧いということに目が行く前にテルオの真面目さが誠実さが伝わってくる。それが徹底していたからこそ、結婚し子供が出来ると、その家庭生活を「恵まれしもの」と感謝して、妻子を宗教画のように描いてあらわし、仏の世界に、自然の精神的な生命に一転して我が身と心とを委ねきっていけた。
この彼がいうように、南山城の自然をとらえる優しいこまやかな視線と視野の深さとは、まことにすばらしい。
これほどの画家が、他の大勢の大家といわれた画家のように「有名」にならなかったのは、官製の画壇に、権威で出来る商業的な画壇に終生背をむけて踏み込もうとはしなかったからだ。
だが、何人かの優れた知性や感性は秦テルオを最期まで応援して生活の成り立つように心遣いを絶やさなかったのである。
よく観てくれました、U君。ありがとう。
* 秦テルオの練馬区立美術館での展覧会は今日十一月三十日で終幕。今度は京都で始まる。その会期の半ばに、わたしは出掛けていって講演する。その心用意が師走のわたしの宿題である。
2003 11・30 26
* とうとう、日本からもイラクの戦争でいのちを落とされた方が出てしまいました。
アメリカが利権がらみ、勝手によその国に乗り込み、火の手を大きくしておいて、みんな協力せよ、とは、何と身勝手な。そして、それにホイホイ乗る日本の政治家。おめでたいなどというのは、それこそおめでたいのかも知れません。彼らも、裏で何かたくらんでいるのかも知れませんもの。
それにしても戦意昂揚のためか、いきなり、戦地に飛んでいって、兵士のごきげんをとりむすんで、ウェイターまがいのことをするとは、あれでスタンドプレイのつもりなのでしょうか。兵士は、プレジデントが来た、来た、と大喜び…。まさか。
いつ、ミサイルが飛んでくるかわからない……。ギロチンの大きな刃の下で暮らしているような、時限爆弾がカチカチ秒を刻むのを聞きながら生きているような。
こういう状態というのは、人の気が荒れます。ますます、生きるのが難儀になってきました。
十一月の歌舞伎座、千秋楽にすべりこみました。おっしゃってでしたが、「盛綱陣屋」がすばらしかった。よく泣かされながら、それぞれの役者の起ち居、所作のうつくしさに、ぼうっとなり。こういう佳きものが観られるうちは生きてゆける。少々、ドタバタし、つらいこもあったものですから、そんなことをおもったりいたしました。
「河庄」は小春が、かわいそうでかわいそうで。時蔵という役者、何となく、好みではなかったのですが、よい小春をみせてくれました。治兵衛のような男にかかわったら、それこそ、難儀なことになる。おさんも小春もかわいそう。治兵衛とても、わるいひとではないけれど、などと、埒のないことでございます。
今月、あ、先月でございます、いろいろな用が重なって、目のまわるような忙しさで、何か、埃を立てて、あちこち、右往左往しておりました。あげく、コンディションをくずし、ご推奨の秦テルオ展に行きそこねてしまいました。
まだ、めんどうなことが片づいていません。早く片づけて、のんびり旅にでたい……。
歯のお具合はいかがでしょう。お疲れになると、弱っているところに出るものでございます。ご無理をなさいませぬように。
* アメリカがイラク国民に対し何らかの善意や温かい気持をもって戦争状態に突入したと、本当に信じられたらどんなにか気もラクになるのだが、なにしろネオコンの強欲と利権に引きずられた欲得ずく意図的な「暴行」だったと分かっているので、日本政府の判断に、わたしたちは賛意を表しがたいのである。それに、自衛隊本来の趣旨を強引に拡大し拡大しねじ曲げての「イラク」派兵は、私民感覚ではあまりにこじつけた安保条約のはみ出しで憲法違反であるとも、みな分かっている。はじめにムリ派兵ありき、理屈は後からこじつけようと。それも分かっている。
おまえがたにナニが分かるえらそうにと云う人もあろう。だが私民には私民のセンスがある。踏みつけにはされたくない。また本居宣長のことを云うが、かれの、治者の政治学や理想でなく、被治者によるいわば「治められよう」に関する政治学や理想が大事なのである。
総ての法律の肩に、「国民の国民による国民のための」という角書きを付けよというわたしの「立法」「法治」感覚は、つまりは「被治者」の立場を強いられる私民からの、当然のクレームだと、治者へのブレーキだと、受け取って欲しい。法律が「治者」を自認する本来「公僕」にすぎない連中の都合でばかり立法されるのでは、どこに民主主義が立つのかと、こんなマトモな感覚を私民が一人一人胸の内にも外にも確保してかかればこそ、公をコントロールすることが可能な「私の私」が確立できる。日本の民主主義には残念なことに「マグナカルタ」が無い。権利宣言の堅い基盤がない。その辺は、やはり敗戦のどさくさに「提供された」民主主義の弱みである。「勝ちとった大権利」としての民主主義ではなかった。暗然とする。
俳優座が見せてくれたイオネスコ作「マクベス」は、平和な人々の談笑で幕が開き、しかし、そこへ魔女達がひそやかにわりこんできて、時代も世界もまがまがしく悪意に操縦されて行く。あの舞台が頭の中に「地獄」のさきぶれのように蘇る。あの「魔女達」はさんざわるさのあげく、おそろしい「悪王」を据え置いて、次の次元へとび去った。その先が現代の今日只今であることを舞台は烈しく告げていたのだと想うと、やはりそうかと暗然とする。
* 師走にまで降りかかる晩秋の長雨。こんな時節に颱風の影響を受けている。
* 暖かい日が多くて、寒がりのはずの自分の体質が変わったのかと勘違いしそうです。
先月ふらりと日帰りで善峯寺と光明寺を歩いてきました。やはり紅葉は少し物足りませんでしたが、秋の風情を楽しみました。
11月24日(月)、TBSのミステリードラマのおわりに「秦建日子」さんの名を見た気がして、慌てて眼を凝らすともう次の画面で脚本として別の名が出ていました。私の見間違いだったのでしょうか。近頃読み間違い、見落としが多いのですが、そうでしたらごめんなさい。
海外に行った甥が予想通り言葉で苦労しているようです。昨年まで英語の添削指導をしていた私に多少の期待をもっての電話かもしれないのですが、聞くのも話すのも苦手で何の助言もできない自分に情けない思いをしています。
孫の世話をして余生を、なんてまっぴらと思っていましたのに、考えていた以上に心を孫に占められて「同居もいいかな・・」なんてキケンな考えが頭をかすめたりして、自分の気持の変わりように驚いています。孫だけでなく街でこどもを見かけると、いじめや事故、事件に遭わずにみんな幸せに育ってほしいと、つくづく思います。
戦時中、発つ前の特攻兵士に幼児を見せて、「この子たちの将来の日本のために」と言って納得させた、また納得した、と聞いたことがありますが、悲しい怖い話です。このごろ不安が切実さを増して、たびたびこの話をおもい
だします。
どうぞ風邪を召しませぬように。 千葉県
* こういう小旅行にわたしも飢えている。初冬のさびれた冷たい空気を胸にためて、ぽつぽつと歩いてきたいが。
* 特攻隊士に幼児を見せて死地への飛行を観念させたとは、なんという…。
* この間の月曜ミステリーが建日子の作かとは、ほかからもメールがあった。わたしたちは知らない。
* こんばんは 雨がよく降ります。師走というのに生ぬるいような雨です。
週の初め、仕事から疲れ果てて帰ってきました。なんとなく電子文藝館「招待席」の夢野久作『悪魔祈祷書』にアクセスして読み始めました。面白いこと・・・。不思議な文体の魅力に惹かれ、一気に読みました。今夜は久しぶりに秦さんの『蝶の皿』を読ませていただきながら休もうかと思っています。お元気に お元気に お過ごしくださいますように。 川崎市
* 妹が奨めてくれ、大津から、義弟の運転で途中越えをして日野富子が籠もったといわれる明王院へ、そして若狭街道を京都へ向かい、古知谷阿弥陀寺へ初めて行きました。紅葉が充分に残り、川あり滝あり、静寂そのもの。多分平家の落人部落かと思われる家紋を付けた立派な家が点在して。。
翌日は、折しも東映のテレビ撮影をしている大沢の池を歩き、嵯峨菊の咲く大覚寺を拝観してきました。
私の「今 此処」は京都です。
2003 12・1 27
* ご無沙汰しています。お陰様で家族一同機嫌良く暮らしております。
三日続きの雨が上がり、暖かい今日の陽差しはとても師走と思えませんね。
この秋もなにやら忙しく過ぎましたが、先日、私も秦テルオ展を見てきました。練馬美術館はバスだけで手軽に行ける上、会場が広すぎず、落ち着いて見られるので気に入っています。ときどき行きます。
秦様を前に感想を言うのは晴れがましいのですが、少しだけ。
私は一人の画家の若いときから晩年までの作品を拝見するのが好きです。自分が年を取るにつけ、どの様に人生を送るかを考えさせられるからです。
まずいつも、今回の秦テルオも、昨年の奥田元宋も、ピカソも、レンブラントも、みんな子どもの時からめちゃくちゃ絵が巧かったんやなあ—-と感動します。
それから絵が巧く描けることと、優れた作品を生み出すこととの違いを教えられ、画家として一生を送ることのすごさ、大変さを感じるのです。いつも今より上を求め続ける人生はシンドかったやろうなあ、と思い、命を絞るようにして生み出された作品を目にして、簡単に幸せになれる私達は本当に”ええ目”さしてもろてるんやなあ、と感謝するのであります。
私の父よりも年長の秦テルオが、あの頃の京都の街でかくも現代的であったことに驚き、その後の暗い時代をこんなやさしい気持ちの人が生きて行くのは本当に大変だっただろうと思いました。
晩年の仏様の絵には”秦テルオ”のサインでなく”輝男謹写”とあるのが印象的でした。自分が描いているのではない、誰かに描かせて貰っているという心境が良くわかり、感動しました。
毎日とはとても参りませんが、あれからも折に触れ気付いたことは文章にするよう心がけて暮らしています。
それと共に、一週間に一度以上は絵を描くことを自分に課して、そろそろ二年になりました。写生をすることと、作品にすることとは違うとか、でも困ったときの答えはやっぱりモデルの中にあるとか、やっと今頃気付いたのかと
笑われそうなことにも気が付いて、少しは進歩したかと思っています。人が一生かけて励む絵の道に、今頃から首を突っ込もうとする厚かましさは重々承知でも、ただ楽しく描いていれば良いという年寄りの暇つぶし、自己満足であっては嫌だという、生意気な気持ちです。
小さいときからの絵と私のかかわりも文章にしてみたのですが、しめくくりの今の自分の覚悟のところが書けず(つまりは心が決まっていない)、途中になっています。最後まで書けたときには秦様にご迷惑でも読んでいたたきたいと願っています。
これは先の「新宮川町五条」(「e-文庫・湖(umi)」掲載)の続編ともいえる「自分史・第二部」で、第三部はいよいよ、秦様にいわれた”書かねばならないこと”へと進まねばなりません。
大江健三郎氏を引き合いに出すのはおこがましいけれども、あの方の作品からご子息の存在が切り離せないように、私からも、知的障害のある息子の存在は切り離せない。しかし、良くあるような子育て体験記みたいなのは私には書けません。そんなにそればっかりで生きてきた訳ではないから。
息子の存在が陰を落としている、私自身の考え方生き方が書ければと—まだまとまらぬままに、ぐちゃぐちゃ、混沌としています。
今年は不思議ななりゆきで、アメリカ大陸に永住している友人3人とつぎつぎ再会する機会に恵まれました。みんな当然のことに65才。異国で年を取る、ということをそれぞれにポジティブに教えてくれて、感動しました。
でも、如何様に年を取るかは、どこにいようと結局は同じ、自分自身の心映えの問題と思います。日本にいたって甘えは禁物。
冬に向かって、なにとぞお身お大切に。
* 上等の地の塩。頼もしいなあと思う。
2003 12・2 27
* 結露 2003.12.1 小闇@TOKYO
放ったハナシコトバやカキコトバが、思わぬところで思わぬ反応を生むことがある。だってそんなの気にしない様子だから言ったのに、なんだ、と思わされる。逆ももちろんあって、言った本人は特に意識していないんだろうけれど、私の内面にぴたっとついて離れない、そういう薄膜のような感情を貼る言葉もある。
昔、情報概論の講義では、情報は対数関数で表すと教わった。最近、情報収集の方法について調べたとき、その筋の専門家は、「情報とは得るものではない」と言った。「情報とは、変化を引き起こすものである」。どちらも同じことだ。
漂う言霊が新たな感情を結ぶのではなく、言葉は波のように押し寄せて、それが感情の膜を揺らし、結果として嬉しくなったり嫌な思いをしたりするのだろう。
というようなことを、寝室の窓の結露を見て思った。ようやく晴れた。
2003 12・2 27
* 子規読んで鶏頭少し好きになる
穴に入る蛇さやうならさやうなら
届いた「銀座百点」に、こういう句があり、そして、また、
秋の夜や物音はみな我が身より
と。せや、ほんまに…。 伊勢
* デジカメ 2003.12.3 小闇@TOKYO
今使っているデジカメは三代目。最初は三洋電機のDSC-1を買った。確か7万円。当時にしてはシャッター間隔の短く優れた機種だったが、単焦点で、バッテリーが保たなかった。二代目はオリンパスのCAMEDIA C-2000Zoom。購入時で9万円ほど。200万画素3倍ズームは当時の流行りの仕様で、仕事でもずいぶんと活用した。ただ、3倍ズームのせいでボディが大きく、かなり大振りな通勤鞄に入れても、そこだけふくらんでいた。重いので、毎日持ち歩くには不向き。特に誰かの結婚式へ呼ばれたときなど、普段より小さな鞄には入らなかった。そして今使っているミノルタのDimage Xに落ち着く。レンズのせり出さない3倍ズーム機、発売当初はあまり食指が動かなかったが、友人が使っているのをみて、意外と画質が良いので、つい買った。6万円。
毎日持ち歩くには適しているが、マクロ機能がなく、基本的に撮影モードはオートで、シャッタースピードや絞り優先で撮る、ということができない。C-2000Zoomではできていただけに、歯がゆい。加えて、バッテリーがすぐなくなる。
こうなると次に買うのは一眼レフタイプということになる。しかし、20万円を超えるようでは決心できない。そう思っていた矢先、今年の夏の終わった頃に、キヤノンから「EOS Kiss digital」が発売された。レンズ込みで約13万円。手頃と言っていい。しかも私はフィルムカメラはEOS-1なので、このレンズが使える。
でも。やはり10万円の壁は高い。誰か買ってくれないかなぁ。
そうこう妄想しているうちに、今日、ニコンから、ニコン派待望の廉価版の一眼レフデジカメ「D70」のアナウンスがあった。発売は来年春の予定。価格は未定ながら、Kiss digitalにぶつけてくるのは間違いない。
この際、どっちでもいいから欲しい。できれば自分の財布を痛めずに。
私の父はニコン派である。実家にはレンズがごろごろしている。今度実家に帰ったときに言ってみようか。「これまでキヤノンを使ってきたけれど、今度の一眼レフデジカメは、ニコンにしようかと思うの。だって私、お父さんの娘だもの」と。言えばきっと買ってくれるに違いない。弟妹には悪いが、それが長女の特権である。けれどそこまで自分を捨て、かつ親を食い物にしてまで欲しいものか。まだ、機は熟していない。
* 文章としておもしろいから書き写したのでなく、わたし自身が前から欲しいと思いながら、どれを選んでいいのか分からず手を拱いていた、その心覚えとしてもらっておくのである。携帯電話は、人が持っていてくれればいいと思っている。自分で自分をくくった紐の先を、人手にゆだねるなんて、御免。
しかしデジカメはフイルムカメラより便利そうに思われる。妻は息子のお古を下げ渡されているが、その機械はいまいちに思われ、買うなら悔いの少ないのにしたいと思っていた。この小闇は、ま、専門家といえるその道のプロゆえ、とにかく参考に聴いておく。買ってはあげない。
2003 12・4 27
* 工医理薬農 2003.12.4 小闇@TOKYO
国立大大学院の博士課程で農学を学ぶ知人がいる。私よりだいぶ若い。年に数回、話をする。
その数少ないやりとりの中で、私たちの血税からなる国家予算の一部をふんだんに使って立派な博士になってくれというようなことを言った。ずいぶんな嫌味だが、私にしてはおとなしいほうだ。するとその博士候補生はこう切り返した。「工医理薬農ってとこですよ、予算的には」。工学部卒に分かるもんか、と言いたげだった。
私のいた研究室は、今思うと桁違いに研究予算があった。当時は金額の持つ意味が分かっていなかった。それでも確かに、消耗品に困ることはなかった。実験室だけでなく居室にまで、備品があふれていた。おそらく通常のティッシュの何倍もする紙のガーゼを、ティッシュ以上のペースで消費していた。
働いている今のほうが慎ましい。それでも恵まれた部署であって、ほかの部署のひとと話をすると、必ずと言っていいほどその話になる。あなたのところは予算があるからね、と。金がからむと人間恐ろしい。私の部署の予算と私の存在とは無関係なことでそれは承知しているはずなのに、容赦がない。
予算がない、と言う博士候補生は、きっと消耗品のことを言っているのだろう。ものがないのだ。それは金がないのとは違う。けれど、金がないとはどういうことかを、今、彼が知る必要はない。
* 結びの一句が刺激的。そして根のところでは、これは「優情」というものであろう。
工医理薬農の順に研究費予算配分が高いというのである、さもあろうかという体験的実感がまだ残っている。
言うまでもなくわたしは工学部「文学」教授であって、工学に携わるわけでなかった。だが年間に支給される研究費は、官と私を問わず、文学部の教授達が目の玉をまんまるに見開いて羨望するほど高額であったし、わたしは、授業内容を評価されて学長から臨時に二百数十万円の特別研究費までもらった。
もらったというが、むろん書籍でさえ私用に買えるわけでない。わたしは東工大の四年間で「研究」する気はなかった、学生達にいい「授業」をサービスする一念しかなく、それにはむしろ新規に取り込んだ材料よりも数十年身内に蓄えているモノの方が役に立った。
つまりわたしには金の使い道はほとんど無く、パソコンを二台、ワープロを一台買って、また教授室の設備を調えた程度で、あまったお金は、要するに大学に残してきた。
東工大は、たしかに、なんとなしに予算面で裕福に優遇されていそうであったが、足りていたわけではないだろう。足らなくて必要なところへきちんと金が回っていたか、わたしに分かるわけがない。日本の科学教育で、なにとなく工医理薬農という序列のようなモノがあるらしいことに、改めてフーンと思うばかり。
2003 12・5 27
* 大丈夫なわけがない 2003.12.06 小闇@バルセロナ
「あなたのところは大丈夫なの?」
電話口の母の第一声に、それ来た、と思う。二週間前の話。ところが今日は様子が違った。
「せめて、今を一生懸命生きなくちゃね、、、」
なんだなんだ。まるで、近い将来、私が死んでしまうような言い様だ。やめてよ、と思いながら、実際、日本にいる母の心配を笑い飛ばせない状況だけに、相槌を打つしかなかった。
トルコの英領事館爆撃に、日本の外交官射殺と続けば、いつになく「近いな」と思う。職場(日本在外公館)で、声を大にその話をする人はいない。他人事と思っているのか、タブーと考えているのか、あるいは下手に不安を増幅するだけだからと思っているのか。話さないから、むろん分からない。
一人、年下の研修生が声をひそめて聞いてきた、「怖くないですか」と。
怖くない、心配でない、とは言わない。でも怖いか、心配かと聞かれると、ある日突然「死ぬのは怖いか」と聞かれるように、答えに詰まる。今の職場は狙われる可能性が高いから、と、もし仕事を辞めても、いつもなら行かない時間帯に買い物に出かけてたまたま建物の瓦礫の下敷きになるかもしれない。新しい職を探しに行った先で、事故に巻き込まれるかもしれない。人間万事塞翁が馬。心配してもどうしようもない、と思っている。
でも、もし私がイラクに派遣されようとしている自衛隊員だったら、躊躇する。本気で辞めることを考えるだろう。大丈夫なんて、誰にも言えるわけがない。
「大丈夫」は「自分は大丈夫」の省略形。それも、いつまで言っていられることか。
そして、日本の自衛隊がイラク人への「加害者」にならない点については、「大丈夫」なのだろうか。
* スペインは比較的早くから米英寄りに動いてきた。そのまた日本の在外公館である。心より平安を祈る。若者よ、何があっても生きよと祈る。
2003 12・8 27
* 12月ですね。ご無沙汰してしまいました。お元気でしょうか?
周りはすっかり落ち葉して、二階から見ていると、ふかふかと、なにやらやわらかい感触がします。犬たちもいないので、一人でがさがさ、音を立てて歩くこともしませんが、いい冬になりました。
7日に東京を日帰りしました。が、連絡一つできなくて、とても残念だと感じました。10月にも仕事で友人と秋葉原のホテルに泊まりました。
むかしむかし講演会場でいちどだけご挨拶しましたの、あれが12月のいつだったか、覚えてはいらしゃらないでしょうね。私はよく覚えているのですよ。
あの頃気になっていた娘も、いまはママ業と研究職とで、充実しているようです。ヨーロッパと日本を行き来して、静かだったあんな子がこんなになるとは思いませんでした。
私は、私の人生は、分からないことばかり、を繰り返しています。変わらない一点はあるけれど。
お体の方の調子は、よろしいですか? どうぞお気をつけて、お元気で。お暇なときってあるのでしょうか? 常陸
* 下総の人は、ひょっとして昔の勤め先に、渡しよりもよほどおそく入社してきたような人なのだろうかとも想像するのだが、しかと、見当がつかない。そんなことは、だが、どうでもよく、湖の本や文通を介して今新たな出逢いのあったことを、有り難いともまた懐かしいこととも思う。
常陸の人とは、たしかに講演会場で、持参された本に手の震えたへたな署名をしたのをかすかに覚えている。師走であったとは記憶がない。二十五年にもなるだろう、娘さんも息子さんもお父上譲りの若くから学究であったと便りをもらっていた。若い人達の成長はめざましい。
先が短い、人生分からないと聞くのは心寂しいことであるが、わたしなど輪をかけてそんなことばかり私語してつい漏らしているのであろう。
2003 12・13 27
* お誕生日が近づき、おめでとうございます。充実した毎日を送っていらっしゃることを大変うれしく存じます。
この前は倉敷のお酒をお送りしましたが、このたびは岡山市のお酒にしました。「独歩」という地ビールも造っている宮下酒造のお酒です。19日~20日頃到着するようにと依頼してあるのですが、お口にあうことを願っています。
* 秦鶴吉といった祖父が七十八で老衰死したとき、たいへんな長生きに思われた。わたしの年で数えると、あと十年。フームという心地である。朧ろな記憶からいえば今のわたしの方が、その年頃の祖父より活溌な気はするが、父長治郎の六十八はどうだったろう、父は九十一まで長命した。母タカは九十六歳で卒去した。もう二十三年または二十八年ガンバラないと追いつかない。フムフム。推量のとても利かない長い歳月だ。
2003 12・14 25
* 討ち入りII 秦さん 零下15度の旭川茶会に行って来ました。暖かいホテルのロビーで立礼。野点傘に綿雪、ボヘミアン色グラスの水指、柊の棗に「雪」の銘が入った茶杓、小さなツリー型の干菓子。すっかりクリスマスのお茶でした。場所にもよりますが、凍り付く厳冬の旭川には合いました。
水屋見舞いに差し入れた、討ち入りにちなんだ菓子、蕎麦上用・「雪の朝」(ゆきのあした)、金団「千代田の松」。友人の菓子司に作ってもらったもの。
さて、うけましたかどうか。
帰ってまた実験。深更です。 maokat
2003 12・15 27
* 二三日やすんでいた「東京の小闇」が、一度に四つも書いている。最初の一つがいきなり刺激的。おっと声を発する初心者もあろうかと。
* ググる 2003.12.11 小闇@TOKYO
インターネットの素晴らしさをひとつ挙げろと言われたら、私は電子メールよりも検索エンジンを挙げたい。
アレってなんだっけ、あの歴史上の人物は何したヒトだっけ、となると大抵、検索エンジンに尋ねる。使うのはGoogle。まず答えはみつかるし、時間が許せばいくらでもそこからリンクの枝葉を辿れ、そこで意外な知識を得られることは多い。辞書代わりと言っていい。もちろん辞書ほど情報に確からしさはないが、それが楽しい。
けれど辞書も楽しい。仕事用の鞄に電子辞書を入れるようになってからは、中吊りで読めない字や知らない英単語があればその場で調べている。後々まで覚えているとは限らないが、リアルタイムに疑問が解けるその快感は何物にも代え難い。電子辞書を新しくするときには、広辞苑と英和和英辞典だけでなく、百科事典も付属しているものにしたい。
パソコンや電子辞書は、いつも手元にあるわけではない。例えば遊びに行った先、電車の待ち時間。こういうときに不意に調べもの欲が湧き上がることがある。こういうとき、辞書代わりに使うのは携帯電話だ。Googleは携帯電話でも使える。電波と電池があればいい。
例えば、遠い町のローカル線車内で知った長岡半太郎と本多光太郎の関係は、あとでそれを思い出すたび、そこに広がっていた景色をも思い出させる。非日常の思い出は、それ単体には意味のない音や匂いや手触りのせいで、予期せぬ甦りかたをすることがあるが、そのトリガーに、知らなくても生きていける知識、が加わる。
良い時代に生まれたかも。
ググる、とはGoogleで検索するの意味。
* わたしもGoogleを利用することがある。ただ、本気で仕事に利用するには、クリティクの必要な「情報」が多く、例えば信頼するに足る「史料」「資料」「業績」「事実」に出逢うまでに、相当な根気を用いる必要がある。電子辞書で言葉の意味やスペルをちょいと調べる程度ではおさまらない欲求に対しては、「情報量」が過剰に多いときなど、かえって不安にも邪魔にもなることがある。何でも引き出せる機械では、ツールでは、ないことも心得ていなければならない。そんなことを、以前「全国国語国文学学会」で講演したことがある。国文学上、どうかして知りたい機微の課題が幾つかあるが、それはどんなに「ググッて」もどうしようもないし、今後もないであろう。
同じような不満は電子辞書にもある。フォントが不正確で字形も書き順も掴めない漢字。その意味解説も、大辞典の完全複写ならまだしも、電子辞書用に簡素化してあると、おそろしいほど「真実」味すでに濾過され流出してしまっている。むしろ紙の辞書をこそ、こまめに引き、そして直ぐ隣の項目にも一連の目配りを欠かさないようにしていたい。
ただし、「検索」遊びは、ゲームなんかよりも何層倍も面白い。そのためには、せめてADSLにしておかないと、電話代が大変。
息子から送ってきた写真のファイルを、妻が自分の機械で開きだしたら、まんまと一時間もかかったというので、だから早くせめてADSLにして、トランプゲームからも卒業しなさいよと勧めている。
* 次のも興味深い、が、あとで少しコメントしたいかも知れない。
* 焼け木杭に火はつかない 2003.12.13 小闇@TOKYO
結論じみたものがみつからないままに、今日まで来た。なんとなく、落としどころがみつかったような2003年初冬。
焼け木杭に火はつかない、は私の持論。別れた二人がまた再び燃え上がるなんて、じゃあどうして別れるの、と思うのだ。合理的、AB型ですから。冷血、蠍座ですから。
別れたけれど良いお友達、というのを私は信用できない。お友達ですむなら最初からそれでいいじゃないか。お友達でいられないからお友達ではなくなるわけで、それなのに、「これまでね」と、突如何もなかったかのようにするのは辛い。正直に言うと、嫌だ。だから私の元恋人が友達に着地するまで、私には振れ幅の大きい過渡期が必要。
その過渡期を経て定常状態になって改めて、昔好きだった人を、ゼロから好きになることは、あり得る。焼け木杭に火がつくのではなく、あらたな茂みに火を注ぐようにして。それでかつては気付かなかったところを好きになったり、許せなかったところを許せたり。ひとはそれを大人の妥協というかも知れないが、そう悪いことでもないと私は思う。若すぎて、それだけが理由でうまくいかなかった恋愛の数々が、年を経て上書きされるなら、それはたぶん、良いことなのだと思う。
* こういうことを、こういうふうに考えこむ人っているんだなあと、思った。こういうのは、性質がではなく、時がでもなく、事実が証して行くことだろうに。
* もう一つ、読ませて貰おう。的確に来ている。賛成だ。
* チデジ 2003.12.14 小闇@TOKYO
四文字に略せるものははやる、逆に四文字に略せないものははやらない、とよく聞く。はやる方の例。キムタク、パソコン、プレステ、アメダス、エアコン、デジカメ、ただしこれは本来は三洋電機の登録商標。はやらないものの例。マルチメディア、E電、マニフェスト、テロとの戦い(文脈としてオカシイ。それを言うならテロへの報復)、ヘッドセット、PDA。
かなり無理のある分類だし理論ではあるが、まあそうかな、と思わせるものもある。
今月、放送業界だけが盛り上がってスタートした地上デジタル放送。その盛り上がり方は視聴者不在を絵に描いたような特別番組を放送するくらい凄まじいものであったが、それはさておきこの地上デジタル放送、その周辺では略して「地デジ」と呼ばれている。
ダメだろうな、という雰囲気が滲み出ている。
三文字だから、三音だからダメだと言うのではない。チデジ、という響き自体が、ヒサヤ大黒堂や韓国風お好み焼きを連想させて、とても新しいテレビ放送と感じさせてくれない。
何年か先には現在の地上放送は打ち切られ、すべてチデジにスイッチすることが決まっている。となるとそれは特別な名前の必要のない、当たり前のインフラになるのかも知れず、だったらチデジだろうがなんだろうがまあいいか、という気持ちにもなる。
しかしそれなら、もっとひっそり静かに滑り出すべきで、日本人がふたりイラクで殺されたばかりで、皆ニュースと言えばそればかりを知りたがっていた12月1日その日のニュースで何度も繰り返すようなものではない。
そう、ダメだろうな、という予感は、このあたりからも漂う。
* そうだろう、な。小闇の独擅場。
2003 12・15 27
* 真っ青な空から黄金色の吹雪。からっ風に鴨脚樹の葉が降りしきり、和菓子店には、手書きの「切り山椒」の紙。懐かしいお江戸の晩秋の景色。ふり仰げば、東京ご自慢の最新の高層ビル群。そのガラスや金属の反射光は、身も心もかさつかせます。乾燥注意報は、単に空気だけではありませんのね。
たまらず、鴨川べりの宿を取り、、京へ。
夜の暗闇に、せせらぎを聞き、昼はきらめく水面を眺め、貴船、宇治、琵琶湖を彷徨いました。
貴船神社、下鴨神社、萬福寺、義仲寺、石山寺…宇治上神社がよかったわ。そして、いちばん美しいのは夕茜に染まる頃、という石山寺が、残念なことに午後4時で閉門。園城寺へ参りましたの。こちらは、夜も入ることができますの。
闇に聞こえる、御井の晩鐘の激しさに、立ちすくみました。そして、翌日、鐘を拝見に伺いましたら、「修羅」のなかでお書きになってらっしゃる通り、撞かせていただけますのね。鐘の音に涙にじませ、暮れてゆく湖の景色に、立ち去り難い思いを抱き、ふりかえりふりかえり帰ってまいりました。
* どこにも楽しんでいる魂の色は表れていない、身の冷えた寂しみに包まれ、さながらに虚空を漂っていると読める。
* 木枯らしが吹き、幸いに障子を照らす日差しはあかい。
2003 12・18 27
*「古典愛読」は、中公新書で拝読しました。これも、わたくしの愛読書のひとつ、繰り返し拝読し、独り旅の道連れに何度もなってくれたご本でございます。
いやなことがあって、くずついている気分を払って読みはじめました。
読みはじめてすぐ、先生がお子たちに「本を読むのは……あらゆる学問やあらゆる判断やあらゆる行為の根本に本当に生きてくるものが、書物の中には含まれているから……」とおっしゃってのくだりに、ふっと、父のことをおもい出しました。
人との間合いをとるのが極めて不得手だったわたくしは、学校へゆきはじめて間もなく、学校へゆくのが苦痛になって、体調まで崩すようになりました。
そのとき父は、「無理して学校に行かんでもよろし。読み書きそろばんが出来れば、それでよろし」と言って、学校へは欠席届を出してくれ、家にある本は自由に読ませてくれ、算数はそろばんでなく、分数までを教えてくれました。
父も、「本を読むこと」の大切さを知っていて、不器用な娘を「本を読むこと」を以て育てようとしたのかと、これは、何度も何度も「古典愛読」を読みながら、このたび、初めて、思い至ったことでございました。不敏なことですが、先生のおっしゃる再読、再々読、いやいや、再をいくつか重ねても、なお、と、痛感いたしました。
お目のごようすが、気がかりですのに、つまらぬことをくだくだ記してしまいました。おゆるしくださいませ。
おいしいものをたのしそうに召し上がっているごようす、いつも拝読していて、たのしうございます。くすんでいたわが心がほうっとあかるくやわらかになるような。
一日おきにお天気具合が変化しています。おだいじになされますよう。
2003 12・18 27
* 明日は歯科医と聖路加(糖尿病)と電子文藝館委員会と、朝早から三連続になる。それで今年は一応の「上がり」となる。子松時博君が会いたいと云ってきている。二十二か三日にどうかと。
2003 12・18 27
* 「すっかり御無沙汰しておりましたが、お元気でいらっしゃいますか? 秦様は、もうすぐお誕生日なんですよね! 是非とも、私からお祝いさせて頂きたいのですが、明日は、お忙しいでしょうか?」と、若い人からメールでお誘いがあった。残念ながら、明日はたぶん休息して、二十一日、妻と映画を見にゆこうかと話している。二十三日は卒業生君と、上野で絵をみようと約束した。
その若い人には、よければ、その日に割り込みませんかと返事してある。実現すれば、独身の三十青年は喜ぶだろう。それは愛らしい女子大生なのである。
2003 12・19 27
* バルセロナから通信が入ったが、以下のこんなのは、何がどうなっているのか信じられない。わたしの体験でこんなことは一度もない。
* 1284通 2003.12.16 小闇@バルセロナ
電子メールをほとんど使っていない。何しろ、開くのが面倒くさい。受信前の「メールチェック」にかかる時間、およそ5分。その間、机の前に座って待つ辛抱がない。一回に投げ込まれる数を50通とすると、99%がビアグラだとか3インチ伸びるとかいうメッセージ。送信先に男女の区別はないらしい。鬱陶しいから三、四日開かないと、今度は150や200にまで増えている。当然の結果。だから、なおさら開きたくない。
「次の言葉が含まれている場合は、サーバーから削除」というメッセージルールに、その都度追加すれば済む話。でも、それももうしていない。追加しても追加しても、翌日にはもう別のメールが紛れ込むのが分かっているから。第一、これ以上追加したら、受信前の「メールチェック」に5分どころか10分も20分もかかってしまうだろう。
昨日、「次の言葉が件名に含まれている場合は、サーバーから削除」に登録されていた言葉を、すべて削除した。メール受信に5分もかかるなんてばかげている。5分待った挙げ句、約50通が網の目をくぐってくる。いい加減すっきりしたい、と思った。
今日からは、「メールチェック」の必要がない。メールを開けば即、「メール受信」のサインが出た。
いいぞ、と思うのは早かった。、、、225、226、227、、、受信数が止まらない。411、412、、、564、565、、、600を越えた。慌てて削除してゆく。ところが、削除した先から、また受信。日にちを遡って受信拒否されていたメールが、湯水のように流れ込んでくる。
受信を一時停止。「未受信メッセージ1056通」が表示された。メッセージルールを開き、「次の言葉が件名に含まれている場合は、サーバーから削除」にマーク。頻繁に現れる言葉を「件名」から拾っては、登録してゆくうちに、偶然、友人からのメールを発見した。”Happy Birthday”。 Happy のおかげで、これも削除されていた。
メッセージルール作成後に、再度受信。最終受信数は1284に留まった。面倒なメッセージルールも鬱陶しい「メールチェック」も、実は役に立っていたことが分かった。
同時に、何のために自分はメールを持っているのだろう、と思わずにはおれなかった。 2003 12・19 27
* 雪の予報に寝もやらず、朝早い電車に乗って京へ。一日中、牡丹雪でした。
水無瀬神宮から北上し、金閣寺で時間いっぱい。雪の京の、景色も音も満喫。游行雀は、祇園会館脇のたき乃で蕎麦の夕食。今、長楽館で熱い珈琲を喫んでいるところです。明日のお誕生日、ご機嫌よくお過ごしになれますよう。
2003 12・20 27
* 雪景色 水無瀬神宮、長岡天満宮、光明寺、大原野神社、勝持寺、地蔵院、二尊院、金閣寺。天王山、北山、東山の雪景色にも、ためいきが洩れました。正伝寺でしたかしら、ゴルフ場が中を通っているお寺へも参りました。雪を踏む音、木々の枝から、また、社寺の大きな屋根から、滑り落ちる音など、懐かしい音を沢山聞きました。
なによりも、京の明るい雪空が、いいですわねぇ。
* 羽をうってでも飛翔し鳥瞰しているのだろうか。東京は、凄み有る木枯らしである。
2003 12・20 27