☆ 中島みゆき 雄 ボストン
中島みゆきは,僕が中学生の頃,ニッポン放送でオールナイトニッポンのパーソナリティーをしていた.妙なテンションのしゃべりと,反面暗い雰囲気の音楽に少々抵抗があり,あまり馴染めなかった.
今日,改めて聴いてみると,詩もなかなか深いものが多いし,結構良い曲が多いのだなあと思った.
特に「ファイト!」と「永遠の嘘をついてくれ」は胸に沁みた.後者は吉田拓郎との共演で,つま恋コンサートでのコンサートの模様のビデオだが,二人とももうかなりのお歳なのに,本当にカッコイイ.なんだかジーンとしてしまった.
もともと僕は新しい流行曲がそんなに得意ではなくて,僕よりも上の世代の方々が好みそうな曲ばかり聴く傾向がある.卒業シーズンの曲といって思い浮かべるのは「卒業写真」や「春なのに」であって,間違っても「My Graduation」ではない.そのMy graduationでさえ,もう9年前の曲なのだから驚く.ちなみに「春なのに」も中島みゆきの曲だということを今日知った.
ちなみに,Dreams Come Trueのビデオもいくつか見つけ,お気に入りに入れたのだが,そんな矢先に,ボーカルの吉田美和のご主人の訃報を知った.たしかつい先日は,大掛かりなライブをやっていたはず.そんなライブの最中にも,ご主人が生死を彷徨う状態だったとは知らなかった.しかもご主人は僕より若くて33歳とのこと.さぞ辛いだろう.ご冥福をお祈りします.
* 結婚式か披露宴かのバックに、新郎が好きな中島みゆきの曲を勝手に流したと新婦が泣いて憤慨していたことがあった。そのご亭主が、中島みゆき秀作集だとテープを作って、呉れたことがある。聴いていると、頭の芯から湿気で腐ってきそうで辟易しつつも才能はあるなと評価した。しかし聴き直そうとは思わず、テープはたぶんどこかでホコリにまみれているだろう。
あの夫婦、仲良くしているかしらん。お嬢ちゃん達はもう適齢期ではないかしらん。
2007 10・1 73
* 息子がおもしろおかしげにわが家に持ち込む業界のウラ話を聴いていると、「人の世」のアホらしさやウソだらけに呆れ、一刻も早くこんな世間にサヨナラが云いたくなる。もう、生きていても何一つよいことはないなあと思う。
それでいて、ゆうべおそく、わたしはこんなメールをわたしよりも十も年上の人に書いていた。
* つややかな新米をたっぷり賜りまして、大よろこび、早速戴きました。ふくよかに匂う瑞々しさに感嘆。美味しうございました。有り難うございます。妻も大喜び、よろしく御礼をと申しおります。
急に秋冷えの風情におどろいていますが、なかなかそうは行くまい、まだ暑い日もつづきそうなどと、あれこれお天気の行方を占っています。そういうことを強いられている地球環境の熱化、心配ですね。つい、自分たちは、ま、ひどいめにあう前に‥ などと思ってしまうのも、老境の意気地のなさかと、反省したり、へこんだり。
お互い、大切に長生きして、一つ、先行き「此の世」はどんな風になって行くか、とことん見ていてやりましょうよ。
お大切に、*****さん。 秦 恒平
2007 10・1 73
☆ 急に涼しくなりましたね。お元気ですか、風。
花に、変わりありません。髪をばっさり切ったことくらいかな。ショートカットになりました。
眼を休めるには、ときどき遠くを見るのがいいそうですよ。とはいえ、近隣に家が立ち並び、視線がさえぎられてしまうのですよね。
風、眼をお大事に。
花は、これから図書館へ行きます。元気に行ってきます。
2007 10・2 73
* 青山学院大の今の学長が、人情本などの研究で知られた武藤元昭氏ですよと人に聞いた。
十数年のお付き合いになる元の内藤昭一学長は、フランス文学者で能もお好き。梅若家のいまの跡取りが結婚披露宴の席で隣り合い歓談いらい、能楽堂でもときおり出逢う。毎夏韮山の別荘から、美しい立派な桃を下さる。「湖の本」をずうっと見ていて下さる。此処の教授ではもう二三人湖の本の定期の読者がある。
2007 10・2 73
☆ お元気ですか、みづうみ。
急に肌寒さまで感じるようになりましたが、お身体の調子はいかがですか。わたくし、平熱が三十五度なのに、三十八度六分の熱を出してふうふういってました。夏からいきなり晩秋に飛んでしまいそうな雨空のせいでしょうか。
毎日刻苦勉励のみづうみに、風邪のつけいる隙はおありにならないでしょうけれど、充分暖かくしてお過ごしください。
私語で、「息子がおもしろおかしげにわが家に持ち込む業界のウラ話を聴いていると、「人の世」のアホらしさやウソだらけに呆れ、一刻も早くこんな世間にサヨナラが云いたくなる。もう生きていても何一つよいことはないなあと思う」と拝見しました。
宝くじで大当たりするとか、電車の隣に座った絶世の美女に「あなた素敵」とキスされるようなよいことは難しいかもしれませんけれど、生きている限り佳きことはこれからもたくさん訪れるでしょう。時々こんな風に書いてみるのがみづうみの悪い癖ですね。その度に、一々心配するわたくしのような人間のいる幸せを感じて、お元気に次の診察まで節制なさいますように。
わたくし自身も最近落ち込み激しいのですが打開しようとがんばっています。どんな人生でも生きていること、死んでいくことはらくにはできないことをしみじみと学んでいます。ユーモアのスパイスがあればいいのですが、ユーモアのセンスは生まれつきのもので、残念ながらわたくしには豊かと言い難く。
お書きになるものは深刻なものが多いのですけれど、いただくメールから察しても、きっと実物のみづうみはイメージを裏切るほどユーモア溢れる方だろうなと想像しています。とくにわたくしをからかう時のおかしさったら! これからも辛辣にからかってくださいますように。
早めにおやすみなさい。 わたくし
2007 10・2 73
* いま「見ぬ世の友」に逢いに階下へと思って、「mixi」でマイミクさんの日記に眼が行った。思わず「クククッ」とコメントを入れたが、どうもこのままにしておけない。此処へも、欲しくて。「純」さん、いつも相済みません。
☆ 熊谷陣屋 そして少年? 純
(歌舞伎座の九月=)吉右衛門さんをはじめとして、弥陀六の富十郎さん、義経の芝翫さん、みんなみんなとてもよかった。特にトミ~はよかったなぁ!!抑えているのに情があふれ出るようで、こういうお役がやっぱりいい。
実は福助さんの相模だけが、どうしてもちょっと語りすぎ、という気がしてならなかった。
セリフはもちろん決まったものなのだけれど、なんというか、演技が「情」を強調しすぎているような気がして。武士の妻であるからは、もう少し理性的であって欲しいし、それでもなお感情を抑え難くて、というのがぐっとくるのだけれど、情が先に立っているような感じがあったなぁ…。
以前こき下ろしたけれど、勘三郎さんの政岡は、押さえ加減が、よかったなぁ…。
などと今さら。
立場がまた微妙に違うのだから、福助さんは福助さんでよかったのかな…。
それにしても笑った話。
私は昼の部をかぶりつきで見ていました、一人でおとなしく。
2人ほど隔ててやはり1列目に座ってらしたご夫婦の、だんな様がお芝居がお好きらしく
「やっぱり芝居はかぶりつきだよ!ここじゃないとな!」
などとおっしゃっていたので
「うんうん、そうだよね!近いと迫力が違うもんね!」
などと心の中で相槌を打ったりしていたのですが。
熊谷陣屋が終わったあとの幕間に、だんな様。
「うーん、しかしすごかったなぁ!芝翫と芝雀がそっくりだったなぁ!オレ、見分けがつかなかったよ!」
などと、ものすごい暴言を!!
「イヤっ! そっくりじゃないし!」
と心の中で叫ぶわたくし。
親子だと思ったのか?
ちょっと違うと思わないか?
…
*******
さきの週末、3年ほど使っていたかばん(もう使っていない)を処分しようとして、なぜか解体することにした。革と布製のかばんで、値段のわりには、かなりしっかり作られており、解体作業するのになかなかの手ごたえを覚えました。
革の部分は何かに使おうと思って手元に取っておく。
時計とかラジオを解体してしまう少年のような成人われは
五・七・五・七・七
* クククッ‥。 湖
2007 10・2 73
* 東工大に行って、いちばんいきいきとトクをした気がしたのは、教授室に話に来る学生諸君から、専攻している科学の話の聴けることだった。
要するに自分自身の世界が限りなく知らなかった世界で相対化される嬉しさであった。そしてわたしのあの大学で学生諸君に対しなすべき仕事も、また、同じそれであった。お互いに深く識っている世界があり、まるで知らない世界は、だが、その何千・何万倍も広いこと。それに自覚的に気がつき、それに謙虚であること。そして相対化することの大切さにせめて気づくこと。
* それはよく話し合った、若い若い学生たちと。たった四年半だった。だが得てきたものの大きかったこと、嬉しかったこと。
2007 10・3 73
☆ 「一太郎」のソフトに必ず他社文書交換という項目があるはずです。一太郎で書いた文書を他社の文書形式に変えてくれます。おわかりにならなければ、一太郎のサポートセンターに電話すると親切に教えてくれるでしょう。
メールに添付して送る文書をオアシスかワードに変換していただければ、こちらのパソコンで開いて読むことができます。画面をみながらクリックするだけで出来るのでとても簡単なのです。わたくしのようなパソコン音痴でもすぐにできるのですから。
お相撲をご覧になったんですね。
お相撲、一度桟敷で見てみたいものです。子どもの頃は大鵬がとにかく好きでした。あの頃のお相撲は形としても美しかった印象があります。ハンサムではないけれど北の湖も絵になる横綱だったのに、今は頭の高い冴えない理事長なんかになってしまって。
それでも、スターが出て昔のような大相撲にならないかという期待はもっているのですが。
では、「見ぬ世の友」によろしくお伝えください。 わたくし
* 比較的新しい一太郎ソフトを使っているが、「他社文書変換」なんてモノ見たことがない。どこを開けばあると教えて欲しいが。 2007 10・3 73
* すぐ以下に出る、「世に」という古語は、此の「世間で」の意味に重ねて、「むちゃくちゃな」という強意の意味もある。人をあざとく陥れようと、まことしやかに、実はむちゃくちゃな、悪質な作為と虚偽とを世に吹聴してまわる人間がいる。
また、聞く側にもさまざまな反応が出る。
何百年も昔に、兼好は、すでに、そう書いて笑っている。
兼好の才能の、ないし性質のおもしろいところは、そのような「虚言」に反応する、そういう「世人」のさまざまな表情や反応を、のがさずすばやく捉えてしまうところ。
その「さまざま」は、読みやすく、原文のあとへ、生形貴重さんに教わり、今の物言いに置き換えてみる。
☆ 達人の眼 兼好 徒然草(第一九四段)より
達人の、人を見る眼は、少しも誤る所あるべからず。
例へば、或人の、世に虚言(そらごと)を構へ出(いだ)して、人を謀る事あらんに、素直に、実(まこと)と思ひて、言ふままに謀らるる人あり。余りに深く信を起して、なほ煩はしく、虚言を心得添ふる人あり。また、何としも思はで、心をつけぬ人あり。また、いささかおぼつかなく覚えて、頼むにもあらず、頼まずもあらで、案じゐたる人あり。また、実しくは覚えねども、人の言ふ事なれば、さもあらんとて止みぬる人もあり。また、さまざまに推(すい)し、心得たるよしして、賢げにうちうなづき、ほほ笑みてゐたれど、つやつや知らぬ人あり。また、推し出(いだ)して、「あはれ、さるめり」と思ひながら、なほ、誤りもこそあれと怪しむ人あり。また、「異なるやうもなかりけり」と、手を拍ちて笑ふ人あり。また、心得たれども、知れりとも言はず、おぼつかなからぬは、とかくの事なく、知らぬ人と同じやうにて過ぐる人あり。また、この虚言の本意を、初めより心得て、少しもあざむかず、構へ出したる人と同じ心になりて、力を合はする人あり。
愚者の中(うち)の戯れだに、知りたる人の前にては、このさまざまの得たる所、詞にても、顔にても、隠れなく知られぬべし。まして、明らかならん人の、惑へる我等を見んこと、掌(たなごころ)の上の物を見んが如し。但し、かやうの推し測りにて、仏法までをなずらへ言ふべきにはあらず。
* 上の「虚言」を聞いて、こんな人たちがいるものだと、仮に十箇条を兼好は数え上げている。
一 素直にだまされる人。
二 あまりに信じ込んで、さらに嘘を作り上げてつけ加える人。
三 まったく関心を示さぬ人。
四 すこし怪しいぞと思われるので、信じることもできず、思案し続ける人。
五 本当とも思えぬのに、人のいうことだからさもあろうと思う人。
六 いろいろ推測して、解ったふりをして、質そうに頷き笑ってはいるものの、まったく解っていない人。
七 嘘を見破って、こうだろうと思いながらも、自分も間違っているかもしれぬと思い、疑わしく思う人。
八 格別違ってもいないのだと手を打って笑う人。
九 嘘だと解っていても、知っているとは言わず、知らぬ人と同じようにしている人。
十 嘘を言った人の意図を初めから解っていて、その嘘に協力する人。
* 兼好の観察のたしかなこと。本当に眼のある人の前では、このような「さまざま」は、言葉や態度から、すぐに解る。兼好はそう見抜いている。そしてもちろん、仏法の方便を上のようなあざとい嘘と同列に論じてはならないと結んでいる。
あざといウソは、冷静に裁く人の眼には、「そんな事実は無かった」と、結局バレてしまう。あたりまえだ。
* かかる「世に虚言(そらごと)」を、自分の身にふりかかって体験してみると、上に列記の「さまざま」は、可笑しいほど目に見える。そんなときにはっきり「身内」も見える。
2007 10・4 73
* 「截金」の人間国宝江里佐代子さんが、海外で急の客死、と。惜しみて余りある。これからの人だった。
以前はほんの小範囲でだけ、識られていた。「截金」という古代からの技法自体がほんとうに地味なモノであった。
わたしは、江里佐代子を識るよりよっぽど昔に、『畜生塚』という小説で、「截金」の厳しい修業のなかから、この技術に新しい現代の息吹を、意匠や着想の面から吹き込んで行く「繪屋町子」という少女との恋物語を書いた。桶谷秀昭氏が称賛してくれた作であり、町子と宏とは、「日吉ヶ丘高校」の生徒であった。町子は「美術コース」で日本画を専攻していた。
のちのちに、江里佐代子の仕事と経歴とをみつけた。まるで「繪屋町子」のモデルその人に思われるぐらい、してきたことが、そっくりだった。ただ繪屋町子や宏よりだいぶん若い。江里さんは、たんに「截金」を仏像・仏具の装飾にだけ用いるのでなく、思い切り縦横に多くの器具の意匠や装飾に活かしていた。小説の中でヒロイン「町子」がそうしていたのと、そっくりに。
そして『畜生塚』を介し、わたしたちは知り合った。作者と読者との間柄になるだけでなく、わたしは、彼女と、仏師であるご主人とを、雑誌『美術京都』の巻頭の鼎談に引っ張り出し、丁寧にインタビューした。好評だった。他の選者達の江利佐代子を識る機縁ともなり、梅原猛さんも感歎してくれた。
ほどなく、江利佐代子はわたしたちの選考する「京都美術文化賞」を、選者一致、工藝部門で授賞した。展覧会活動等も大きく認められ、やがて「人間国宝」にも認定された。みごとな展開になった、それはそれは嬉しい成り行きであった。
銀座「和光」で繰り返し展覧会があると、ひょいと顔を見にいったりした。展覧会の案内はいつもきちんきちんと丁寧であったし、「湖の本」のとてもいい読者であった。海外での仕事や発展があると、嬉しそうに様子を知らせてくれた。
海外で、客死。信じられない。信じられない。残念。夫君も、片手をもがれた心地でおられよう、心よりお悔やみ申し上げる。ご夫婦とも、私の日吉ヶ丘高校のずっと後輩にあたっている。
「截金」という優れた表現技法の伝統に、停滞無かれとも心より切に願う。佳い後継者が育てられていたろうか。
☆ 夕刊を開いて絶句 泉
江里佐代子さんがパリで急死と。日吉の後輩ですね。二年程前に六本木一丁目の泉屋博古館で、人の技では最高だと思い、そしてあのはんなりと上品な色使いの作品を、震える感動で食い入るように時間をかけて観たのを思い出します。
この世の人の明日は読めない無情さが、ひしひしと胸を刺します。
今朝の新聞では、愛読していた、若桑みどりさんの訃報を目にしたばかりでした。
2007 10・4 73
☆ hatakさん maokat
もうどなたかがお知らせしていると思いますが、一太郎画面の左上、「ファイル」の上から6番目に「他形式の保存/開く」というのがあり、Word文書を開いたり、一太郎文書をWord文書として保存したり出来ます。
午後に雷鳴、土砂降りがあり、雨後虹がかかりました。空気は冷たく、夜の闇が濃く感じられます。
* ありがとう。maokatさんも、国立大学の教授になっていた。情理伴なった、すばらしい先生にちがいないと信頼し敬愛している。「文質彬彬」と、遠い昔に長谷川泉にもらった四字を、わたしはとうの昔、この人に、嗣ぎ贈っている。だいじにだいじに生きて下さい。
* これもまた嬉しい。
☆ 教育の賜、四季 ハーバード 雄
今朝は9時から,他のラボと隔週で行なわれるセミナーに参加.各ラボから演者が交代で選出され,毎回2人が話をすることになっている.演者は簡単に自分の仕事の紹介をする.長くなってはいけないので,使用できるスライドは7枚以下という決まりになっている.
今日の後半の担当者は,うちのボス.しかしながら,スライドは一枚も使わず,テーマも「良いテーマと悪いテーマとは何か,皆で討論しよう」というもの.ライアンは「スライドを準備するのが面倒だから手抜きをしたんだ」といって,セミナーには参加しなかった.
ボスは,「とある会社で売られている抗体を使うと特異的に染まる,ある脳の一部分について」というテーマで学位を申請した大学院生の例を挙げた.皆,それを聞いて,腹を抱えて笑っていた.学位は認められず,後にもう少しマシなテーマで学位を取得したとのこと.
セミナーが終わり,セミナー室から引き上げる途中,ボスが「目は大丈夫?」と声をかけてきた.「何も無いようだ」と伝える,と「それは良かった」とボス.さらに,「今日の午前中はラボにいる?僕は教授室で書き物をしているけど,実験のことで何かあったらいつでも声をかけて」
改良を重ね,打つべき手は全て打ったはずなのだが,神経細胞の活動が見えずにいる.昨日も試してみたがダメ.今日は別の実験をするつもりだったが,そうボスに言われて,今日もトライすることにする.しかし実を言うと,金曜日の昼にも一度見てもらっており,改善すべき点を指摘されていたのに,友人が遊びに来たのをいいことに,何も直さずにサボっていたのだ.恥ずかしい.
それらのポイントを直すだけの時間的余裕が無かったので,そのまま標本の作成を始める.先週のボスの指示により,普段使っている部分の神経組織ではなく,もっと多数の神経が束を成している,大腿部の神経を用いる.神経を取り出して溶液の入ったディッシュの上に置き,ガラス電極で神経の束を吸い込み,電気刺激を与えてオシロスコープで観察する.
やはりダメか.と思っているところにボスがやってきた.「すみません.この間指摘していただいたことをまだ直していないんです」と率直に謝ると,「いいんだよ,気にしなくて.うーん,ちょっとノイズが多いね.ちょっと見せて」といって,オシロスコープや刺激装置のつまみをいじり始めた.
すると突然ボスが,「Hiro,これだよ.これが活動電位だよ」と言う.驚いてしゃがみこみ,オシロスコープの波形に見入った.
ボスが指差したあたりを見るが,なにやらノイズのような不鮮明な波形が見えるのみ.しかしボスが刺激の強さを変えていくと,確かに波形が変化していく.活動電位って,こんなに小さかったのか.論文や教科書で見るのと,大分形が違う.
「おめでとう」と言ってボスが手を差し延べてきた.ボスとセットの前で握手をする.
とはいえ,この実験はあくまで,セットがちゃんと動いているかどうかのための確認の実験に過ぎない.論文のデータにはならないし,大学の学生実習でやってもおかしくない程度のごく易しい実験だ.しかし,慣れないハンダ付けに苦戦しながら,ひと夏かけて,自分で一から実験セットを組んだ.訳の分からないノイズを取り除くのも並大抵の苦労ではなかった.そうして初めて得られた,真の実験結果なだけに,今までのことを思うと,涙の出るほど嬉しい瞬間だった.
それにしても,ボスが見なければ,僕にはこれが活動電位だとは到底思えなかっただろう.もしかすると,既に僕はこれと同じものを見ていたのに,気づいていなかったのかもしれない.そう素直にボスに伝える.ボスは事も無げに答えた.”But,you will.”
結局,教育というのはこういう部分が大事なのだろう.教科書を読んだり,論文を読むだけなら僕一人でもできる.しかし,オシロスコープに描きだされる波形だけを見て,どれが真実のデータであり,どれがアーチファクト(人為的に得られた,真実でないデータ)なのかを見極めるのは本当に難しい.それらを正しく見極めるには,正しく導いてくれる指導者と,時間を掛けて自分の目を磨いていく以外に道は無い.
冒頭のセミナーの話に戻るが,「何が重要なテーマで,何がそうでないか」というのも,研究者全てが常識として持っているようでありながら,実はそうではない.本人の資質もさることながら,どういう研究室で,どういう指導者と接することによって磨かれてきたかも重要なファクターなのだと僕は思う.
利根川進がノーベル賞受賞直後に立花隆と対談形式で著した「精神と物質」という本がある.この中で利根川進は,「自分にとって最も勉強になったのは,がん研究でノーベル賞を受賞した,レナード・ダルベッコの研究室でポスドクとして働いた経験だった.何が重要なテーマで何が重要でないか.何がやるに値するテーマで,何が値しないか.そういうことは,一流の研究者と接することで,初めて身につくのだ.ノーベル賞受賞者の研究室からノーベル賞をもらう研究者が現れることが多いのは,そういう理由だ」と述べている.
何が重要か.何が真のデータか,そういうことを見極めるためには,良い指導者の下で研鑽を積むことがいかに重要かが分かる.
興奮さめやらぬまま居室に戻ると,日本のボスからメールが入っていた.現在投稿しようとしている論文のことで,共同実験者からメールが届いたので,それに対するやり取りを,昨日からしていた.
もしかすると,追加実験をしに日本に一時帰国しなければならないかもしれない.しかし,なるべくならばそれは避けたい.どうしても必要ならば,今出している公募の面接に通れば一時帰国するかもしれないので,それに絡めてということもできるかもしれないが,最近分かって来たいくつかの情報によれば,どうもこの公募には通りそうに無い.
その旨を伝えると,日本のボスからの返信メールが入っていた.「なるべく追加実験は,共同研究者にお願いして足すようにします.でも,それと関係なく,新しい大学に移る前にでも,一度遊びに来てください」とあった.
さらに,こんな文章が続いていた.「君(=僕)の職探しは、もっと楽観していいのではと思います。いますぐがいいかどうかはべつとして、君のような人材で、職がみつからないようなら、日本の将来はないと思っています。」
お世辞とは分かっているが,新しい大学へのお誘いを断った直後だけに嬉しかった.
夕方早めにラボを抜け出し,毎週水曜日の合唱練習に参加.今日の曲はとびきり難しかった.今週日曜日からは,ベートーベンの第九の練習も始まる.忙しくなる.月末にはシンフォニーホールのステージで,墨田区から来る「国技館で第九を歌う会」の人達と一緒に第九を歌う.楽しみだ.
クーリッジコーナーまで電車に乗る.実は今日練習に参加したもう一つの目的は,最近クーリッジコーナー近辺にオープンした和食レストラン「四季」に寄ることだった.日本人向けの情報誌JMagazineで見かけたのだが,日本の居酒屋で口に出来るようなメニューが並んでいる.是非とも行かねばと思っていた.
まずは,日本酒の飲み比べ.4種類ほどの日本酒がお猪口に入って出てきた.つまみは刺身,銀だらの西京焼,漬物,白和えを注文.三色そばも注文した.
写真には撮らなかったが,刺身はどれも新鮮で美味.特に鯖がこってりとしていて美味しかった.銀だらの西京焼も最高.これが食べられるなら,もうニューヨークの日本食レストランに行かなくてもいいくらいだ.漬物はちょっと残念で,柴漬けや沢庵などの盛り合わせだった.唯一良かったのは野沢菜.三色そばも,蕎麦そのものはごく普通だった.白和えは,アスパラガスだのトマトだのが入っていて,一見綺麗だが味は求めていたのと少し違った.もう少し豆腐と胡麻を多めにして,こんにゃくなんかを入れて欲しかった.
でも,どれも美味しいことは間違いない.満足した.リピーターになること間違いない.ただし,どれもかなりのお値段だったので,そう頻繁に来ることはできないだろう.金額だけを見れば,ニューヨークに行って日本食レストランに入るのとさほど変わらない.でも,頼むメニューを工夫すれば,相当楽しめそうだった.
クーリッジコーナーからバスでハーバードスクエアまで出る.もう10時を過ぎているのに,バスには大勢の客が乗っていた.ハーバードスクエアから徒歩で帰宅.
* わたしの気持ちも、すーーぅッ、とする。「雄」
2007 10・4 73
☆ 色々
お元気ですか、みづうみ。
診察結果はいかがでしたか。もし良くなくても、これは異常事態でしたからそのせい。もし良かったら、こんな状況でも大丈夫ということ。どうぞご無理なさらず、「大事に大事に」お過ごしください。
「截金」の人間国宝江里佐代子さんの訃報記事に、思わずあっと声が出ました。截金については「畜生塚」で初めて知りました。複雑な截金の作業工程をあれほど美しく文章で表現することのできる二十七歳の青年は、やっぱりなあと感嘆いたしましたっけ。
江里さんの作品は人間国宝展などで拝見していました。「畜生塚」を読んでいなければ、深く観ることは出来なかったと思います。
截金の作業は命を削る緊張と根気を強いられるものでいらしたのでしょう。お身体に過酷な負担がおありだったかと、若すぎるご逝去を心から悲しみました。
京都では秋の「ずいき祭」。お祭には鯖寿司を作って配る習慣があると聞きました。家庭で鯖寿司をつくると二日か三日かがりだそうですが、プレゼントされる人たちがウラヤマシイ。食べたいです。結婚前は食中毒を恐れて両親から厳禁されていたので、結婚後に内緒で食べました。いけないと言われていることをするのが、ちょっとワクワクするのはこの年になっても同じ。
明日から三連休。こんなに三連休ばっかりあって日本は大丈夫かと心配です。
予定は何もなくずっと在宅でしょう。家の中の本の整理をしなくてはいけないのですが、本はなんて重たいのかと思います。移動予定の辞書や画集など少し動かすと後で腰が痛みます。読むのは楽しいのに、スペースの大敵なのが本。たまるばかりでため息です。
三連休も関係なくお仕事でしょうけれど、時々なつかしい京都の鯖寿司などイメージして、食べたつもりのダイエットにもお励みください。おやすみなさい。 わたくし
2007 10・5 73
* なつかしや、千葉のE-OLD 笠さんのメールが届いた。おお‥うれし。
☆ 秦さんへ ごぶさたしております。
いつも素晴らしい方々に囲まれて、ほぼお元気そうで何よりです。
秦さんのホームページを拝見していると、おじさんも一寸だけ、縁台の端に坐らして貰いたくなります。
別にどうという事もないのですが、平家の人達を真似て「平成納経」をしてみました。かなりいい加減ですが、秦さんに、ちらっとだけ見て貰いたいと思いました。
http://www.cc.rim.or.jp/~katsuta/ho/hn.html
いいわけは省略です。
瑛さんにも、沢山霊山寺院の写真など見せて貰い、元気を頂いております。
安詳徐歩 くれぐれもお大切にしてください。 笠拝
* このサイトがすばらしい。毎日少しずつ読誦させていただく。今夜はもう、目も疲れた、気も疲れた。やすませていただく。
2007 10・5 73
☆ 町子さんが 壽
私も京都新聞の夕刊を読んでびっくりしました。実はお名前は失念していたのですが截金と書いてあるのを見て一気に「畜生塚」の記憶がよみがえりました。町子さんが亡くなられたんだ・・・と。
湖さんが驚き悲しんでおられるだろうと、すぐにHPを訪れたのですが、PCが重くて繋がらず今になりました。
心からお悼みもうしあげます。。
* すこしまた此の世が寂しくなりました。
町子も、紀子も和子も、秀蓮も、菊子や直子も、冬子や法子も、雪子も、京子も、また貞子も、また夕日子もやす香も、みんな、わたしから死んで行きました。 湖
2007 10・6 73
* こんな温かいいいメールをもらう資格が自分に有るのだろうかと、かるくくちびるを噛む。嬉しいことだ。ちょっとならず気弱な返辞をさしあげたのに、早速。有り難い。
☆ 秦さんへ 千葉 e- OLD
拝復
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江寧に帰ると恵遠は伯麟とその妻の縋るような瞳に逢った。死期を間近に待つ老いた二人は恵遠と互いに拝し終ると今生の意味を問いかけた。恵遠は涙して暫くさしうつむいたまま言葉もなかったが、漸く顔をあげるとその昔そうしたように祖父と祖母の傍へ寄り、自分の手でしなびた黄色い年寄りの掌を一つに合わせてやり、自分も熱誠を顔に表わして合掌するや「南無阿弥陀仏」と十声し、息を調えて訓すようにただ一言、「此の世のことはみな、夢まぼろしと思せよ」と告げたのである。 (湖の本6 『廬山』より)
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ずっとですが、この場面が、何度も何度も目に浮かんできます。
有難いメールを賜り、心より感謝申し上げます。
「牛」の「追従」と「理解」も、ありがとうございます。(いつもいろいろそうですが。)
話は変わりますが、楽しいことをひとつ:幻灯機(プロジェクター)を手に入れました。畳一枚を横にした位のスクリーン付きです。これにDVDを入れるとでっかい絵と音もすぐ出ます。今やってみているのですが、竹原はんさんが舞っています・・「・・・ほんに昔のむかしのことよ・・」の「雪」とか「葵の上」
とか。秦さんがご覧になったらきっと歓ぶだろうなぁと思いながら見ています。
ほんとの話も少し: わたくしも日一日藪を潜り抜けるように・・どじ・・あまりあります。その上老妻に・・文句を言われ・・辟易しています。世の中自分以外は変えられないなぁと思っていますが、自分が一番そうのようです。都合の悪い事は「忘れちゃえばいい」「知らん顔する(自分にも)」ようにしています。
糖の「数字」がとても良いので大安心しております。一番の主治医はご自分だと思います。いろいろお気をつけてください。悪玉コレステロールの薬はわたくしも数年飲まされています。時々検血されます。いろいろ飲まされるので、つい(後輩ですので)「薬漬けだな」と言ったら、「だから生きていられるんです」と言われました。
お会いしたいですね。機会があればいいなぁと思っております。この間、東京へ行って来ました。主治医(の一人)が定年後、駿河台の病院へ移ったので出かけてきました。腰もなんとか大丈夫でした。
わたくしは秦さんのホームページを拝見しているので、ついご無沙汰してしまいます。ごめんなさい。
急に寒くなりました。くれぐれもお大切にしてください。 笠拝
* 眼をとじて、昏々と眠っているときがある。ふと眼をあけて、落胆するのである。
* 笠さんと会う夢をみて、今夜はもう寝よう。
☆ 風。お元気ですか
と、いつも書いていますが、元気でないときがあってもいい、と思っています。
空元気は、無理が出ます。
自然でいいんです。ね、風。
日が短くなり、夕方の散歩は蝙蝠が不気味ですが、富士川の河川敷は、ひろびろとして、気持ちいいですよ。
花粉は堪(こた)えますけれども。
花はとても元気ですよ。 空元気でなく。
* ありがとう、花。
2007 10・6 73
* このところ三連休がよくある。郵便がこない。
☆ この秋は 慈
隠れ蓑の実が それは沢山ついて まだまだ青いのに 毎日柄ごとばらばら落ち
その足元の藪蘭は 花がこれまでになく沢山で・・・さあ結実はどうでしょうか。
そうそう 鯛釣り草の株分けは 折れやすい根が絡み合って団子のようになっていて 思いの他苦労しました。芽が皆、育ってくれますように。
2007 10・7 73
* もう、やすみたい。千葉の勝田さんにお返辞をと思いつつ思いつつ、気の弾まない、しかしそれをしないでいたらもっと気の沈みそうな仕事に駆られていた。勝田おじさんのことは、思っているだけで胸があたたかい。いま寒かったり冷たかったりする何もかもが、イヤ。
2007 10・8 73
☆ 馬糞ちゃん 馨
新聞の記事に、牛糞からバニラの香りを抽出する技術を開発した女性にイグ・ノーベル賞が贈られた、とありました。イグ・ノーベル賞はハーバード大系の科学雑誌が設立した賞で、「笑わせて、そして考えさせてくれる研究」に贈るのだとか。
「ひえ~、牛糞からバニリン(バニラの香り成分)!?」と思いましたが、ジャスミンの香りは人糞の匂いと化学構造がかなり近いという話も聞いたことがありますし、においの成分は精密に分離していけば、かなり面白いところから面白いものが取れるのかもしれないですね。
それよりも、この若き26歳の女性、成果を出すために来る日も来る日も牛糞を扱っていたはずですが、その心意気に拍手。
日本人って、特にイメージに弱い人種らしく、食器などにひと頃よく使われていた尿素樹脂。発売当時は全然売れなかったそうです。これをユリア樹脂(尿素の化学用語がユリアです)と言い換えたとたん、爆発的に売れたのは有名な話。
そういう文化の中で育ってきたうら若き女性が、乗り越えたのは技術の壁以前に、心の中の「う…糞は…」という気持ちだったのかも。
糞といえば、知人から聞いた話。彼はある大学で製紙科学(紙を作る科学)を教えていたのですが、そこでやはり心意気のある女子学生が、中国の文献にある「馬糞紙」を再現したい、と卒論テーマに選んだそうです。
紙というのは、樹木を繊維に分解して、それをさらに叩いたり切ったりしてパルプにしたものを漉くわけですが、馬糞の中には未消化な植物繊維が山ほど出ているそうです。これを洗って漉けば、製紙工程の前半が省略できる効率的な方法だったのだとか。彼女は熱心に馬糞を調達して、再現にいそしんだとのこと。
「で、結果は??」とわくわくして尋ねると、「う~ん…馬糞はあまりにもまだ未消化過ぎるみたいですね」と彼の弁。つまり、きちんと消化しきっていずに繊維がもとの植物に近い状態で出るので、漉くのには固くて、あまりいい紙にならなかったとか。
「サラブレッドじゃなくて、道産子みたいな馬種ならもう少しちゃんと消化したのかもしれないですけどね」
なるほど。 とすると、牛糞とかだと今度は消化しすぎていて紙にならないのかなぁ。 馬糞紙の話で思い出しましたが、イギリスの自然史博物館のミュージアムショップでは象の糞から作られた紙が売られているそうです。象くらいが紙にするのにちょうどよい糞なのかしら。こちらも担当は女性だったりして。
馬糞卒論の彼女はこの一件以来、「馬糞ちゃん」と愛されキャラになっています。
ちょっと男気のあるこういう話、なぜか主役は女性が多いんですよね。
ついこの前は、別の知人から電話がかかってきました。
「実は彼岸花の糊の再現を卒論テーマにしている学生がいるんですが、サンプル要ります?」
「いるいる!!」と間髪入れずに返事。
彼岸花の根が猛毒なのは有名ですが、これで作った糊で文書などを継いでいくと、この毒が防虫・防黴効果で、虫が食わないし、カビも生えないのだそう。これまた本当かどうかわからない話ですが、かなり苦労してできたという糊、到着をちょっと楽しみにしています。
ただ、電話では「でもやっぱりカビは生えました」とのことで、大爆笑。まだまだ虫除け効果の方はわからないですよ~、と期待しています。これを作ったのも女子学生だそう。
でも、自分で作るのはちょっとコワいかも。こちらは男気のカケラもない小心者な私です。
* おもしろい。少し気分が、シャンとした。ありがとう。
2007 10・8 73
☆ 秦さん、こんにちは。 敬
大変ご無沙汰してしまいました。
この三連休で、金木犀もほのかに香るようになり、秋の気配が急に濃くなったのを感じます。紅葉は平年より遅れるようですけれども。
早いもので(英国から=)帰国して1年がとうに過ぎてしまい、自分の翌年に留学に出たメンバーもとうに日本に戻ってきて、それぞれ新しい部署で頑張っています。
思えば、去年の夏に、今の職場へ着任した時には、いわゆる時差ボケ以上に、時間の流れが全く違う二つの世界の境界を、ある日不連続に踏み越えてしまったような、妙な違和感にしばらく悩まされました。
それが、季節も一巡り以上が過ぎてしまうと、自身がおかれた状況は、相変わらず仕事に忙殺されて、なかなか自分の時間を作ることも出来ないままですが、それでも、「今・此」のこの目の前に繰り広げられる生活こそが、生きる場所となり、それなりのリアリティを得ているのですから、人間の不思議な適応力を思い知らされます。
今年も一つ、大きな転機を迎える事になりそうです。
来月にも、子供が生まれる予定なのです。妻のお腹も、このところ日に日に大きくなってきて、手を当てていると中で元気に動いているのが、よく分かります。週末ごとに、必要な品を揃えたり、育児書を読んだり、名前を考えたりとしていることも手伝ってか、現実味も急速に増している感じです。
本当に自分の子供が生まれてくるんだなあ、早く会いたいなあと、ただ単純にとても楽しみです。これまで、それ程子供好きではないと思っていたのですが、今から、案外と親ばかになってしまいそうな予感です。
とはいえ、世の中では、心暗くするニュースが増えるばかりで、将来、生き易い世の中でないことも案じられ、その事が、これまで以上に他人事ではなくなったと感じています。恐らく心配事も次々とたくさん出てくるのでしょうね。
秦さん、ご心労の多い状況が、お体にも障っているのではと心配しています。くれぐれもご無理のないようになさって下さい。
また近くお会いできる機会を楽しみにしています。
* また一人お父さんが出来る、おめでとう。柳君も丸山君も林君も、みんな立派なお父さんぶりです。さぞかしきみもと、微笑ましく、嬉しいこと。
立派ないいお母さん達も増えています。
教室の昔のみんなの顔を思い浮かべて、ときどき、クククっと笑えてきます。笑うのはほんとにいいことです。わたしはますます「おじいやん」になります。お子さん達の結婚式まではムリだけれど、すこしでも元気にみんなの成人してゆくのを楽しみにします。
このファイルの一等うしろに、あの教授室の写真が入れてあるのへ、君たちの顔を思い浮かべながら、ときどき立ち返っています。みんなの声まできこえてきます。
2007 10・9 73
☆ (イグ)ノーベル賞 ハーバード 雄
日本はこの3日間,連休だったようだが,ここアメリカも3連休.今日はコロンブス・デーという祝日.しかし,週末充分休んだので,今日は出勤.夕方には臨時のセミナーもある.
実は日本から来られた先生が,明日,メディカルエリアでセミナーをされるのだが,隣のラボの日本人ポスドクYさんと昔からのお知り合いということで,インフォーマルなセミナーを我々のラボのお茶部屋で開いて下さることとなった.セミナーは聞きに行きたかったものの,メディカルエリアまで行く気がせず,どうしようかと躊躇していただけに,有り難い.
朝,目覚めると,ここ最近では珍しく,激しい雨が降っていた.少し遅めに出勤し,実験にとりかかる.連休ということもあって人影もまばらで,実験しやすい.
夕方からセミナー.セミナー前に,演者の先生に,簡単にご挨拶する.Yさん以外にも,この先生とは共通の知人がいる.世界は狭い.セミナーの内容は大変素晴らしく,参加していたのは隣のラボのメンバーが殆どだったが,皆口々に「いいトークだった」と絶賛していた.
セミナーを聞いてから,帰宅して夕食.今日のメニューはタイ風ヌードルと鶏肉のワイン煮.タイ風ヌードルはインスタントだったのだが,昨日買ってきたコリアンダーともやしを大量に入れたせいで,お店で食べるような味になった.鶏肉のワイン煮は僕のレパートリーの一つだが,今日のは上出来.満足.
さて,今日はコロンブス・デーであると共に,我々,生命科学の研究者にとっては特別な日でもある.今朝未明に,今年のノーベル医学生理学賞受賞者が発表された.
今年の受賞者はカペッキら3人.特定の遺伝子を生まれつき持たないように遺伝子改変されたマウス(ノックアウトマウス,という)の作成法およびその元となる技術の開発を行なった人々だ.ノックアウトマウスの作成は,いまや遺伝子の機能解析には欠かすことのできない技術.ノーベル賞を受賞するのは,もはや時間の問題だったし,むしろ遅すぎる位だった.
ラボに着き,ふざけてライアンに「しまった.ノーベル賞,取り損ねちゃったよ」と言うと,ライアンもふざけて「今年もかい?まあ,また来年があるよ」.僕らはお互い冗談で言っていることを百も承知なので冗談として通用するが,エライ先生の中には,本気でそう思っている人もいるのかもしれない.
研究者というと,すぐに「頑張ってノーベル賞を獲ってね」などという人がいるが,僕にとっては,まったく別世界の話のように聞こえる.ノーベル賞より,宝くじを買ったほうが,まだ当たりそうな気がする.もっとも,初めからノーベル賞狙いで研究する人など,ほとんどいないと思うが.
ノーベル賞よりも,僕にとって親近感が湧くのは「イグ」ノーベル賞.毎年,ハーバードやMITの教授達が選考にあたり,エクセントリックな研究に対して与えられる.授賞式はハーバード大学のSanders Theatreで行なわれる.先日,大学時代の友人Aがボストンを訪れた際,写真に納めていた教会風の建物だ(僕の日記にも写真がある).僕のラボからは目と鼻の先.相と知っていれば,見に行けばよかった.
式典の冒頭で,ノーベル賞ではスウェーデン王室に敬意を払うのに対し,イグノーベル賞ではミートボール(スウェーデンの名物料理)に敬意を払うという.また,式の間中,観客が飛ばす紙飛行機の掃除夫を務めるのが,本物のノーベル賞受賞者というのも笑える.
イグノーベル賞も,ノーベル賞同様に色々なセクションから構成されるが,今年の化学賞に輝いたのは、日本人の女性.なんと牛糞からバニラの芳香成分「バニリン」を精製したという.小学生の頃,糞の匂いを千倍位に希釈すると,バラのような香りになると科学辞典で読んだことがあるが,本当に牛糞からバニリンを精製する人がいるとは驚き.
もっとも,これは馬鹿に出来ないのであって,本物の方のノーベル賞をもらった人の中にも,似たようなことをした人はいる.ヴァンダービルト大学のスタンリー・コーエンは,男性用トイレの横に巨大なタンクを用意し,「ご協力いただける方は,ここで用をたしてください」と書いておいたという.
コーエンがノーベル賞を受賞した研究は,成長因子の発見に関するもの.マウスの顎下腺をすりつぶしたものを生まれたてのマウスに注射すると,目が開くのが数日早くなる.なんとも素朴な(というか,この実験自体,なんでそんなことをしようと思ったのか意味不明だ)発見が発端だった.そこからコーエンは,レヴィ=モンタルチーニと共に,細胞の増殖を制御するような物質が存在することを提唱し,上皮増殖因子EGFと神経成長因子NGFの存在を明らかにしたのだった.
したがって,上に挙げたトイレの例は,ノーベル賞とは関係のない研究.しかし,コーエンによれば,ノーベル賞を獲る秘訣は「月に一度,クレージーな実験をすること」なのだそうだ.コーエンはノーベル賞を一度しか受賞していないが,イグノーベル賞ならば何個でも獲れるかもしれない.
ちなみに,過去にイグノーベル賞を受賞した日本人は他にもいる(Wikipediaの項参照).ドクター中松も受賞しているのは、さすが.しかも,フロッピーディスクではなく,彼が受賞したのは「栄養学賞」だそうで,受賞理由は「34年間、自分の食事を撮影し、食べた物が脳の働きや体調に与える影響を分析したことに対して」だそうだ.
ちなみに今年の受賞者達の中で,僕のラボで人気のあったのは,平和賞だった.
投じると相手がこちらに対し性的魅力を感じてしまい,戦闘意欲を消失するという,その名も「ゲイ・ボール」の開発.今朝,大学院生のコーリーが僕の居室にやってきて,この話をし,「でもYouはもともとゲイだから,こんなものは要らないな」.コーリーは,自分の下品なジョークに乗ってこない相手は,皆ゲイとして扱うのだ.「お前に投げてやろうか」と言ったら,慌てて出て行った.
* こういうエッセイを、タダで読めるんだから、有り難い。私一人の世界をさかさにして絞ってもこういう話題は出てこない。文壇のうわさ話などもし聴かされても反吐が出てしまうだろう。「雄」君も、いっちょう元気のない秦さんにサービスだいと、聴かせてくれているのかも。ありがとう。
「馨」さんに先に「馬糞ちゃん」を聴いていて、ひとしお。
2007 10・9 73
☆ 母の誕生日に ─一杯の珈琲から─ 麗
一昨日は母の誕生日だった。
ついでに言うと,故宮沢喜一氏や,大学院の指導教官も同じ誕生日だ。
母とは,諸般の事情から,決して,折り合いがいいわけではない。しかし,「仲良くしないと(母が)死んじゃってから後悔するわよ。」などと,「世間の常識」を耳に入れてくれる親切な方々がまわりに多いので,「そのご厚意に感謝しつつ」,常識の範囲で接している。しかし,数年に1回,大衝突を繰り返している。東京と札幌,離れて暮らしているのは,幸いといえば幸い。近くなら,年に数回以上となるだろう。
夏に,京都の珈琲店の方と,少々お近づきになった。mixiで,「友人の友人」に当たる方だ。送って下さったサンプルは,非常に美味だった。
なぜか,私の中で,この美味しい珈琲と母が結びついた。母は,珈琲が大好きなのだ。
「誕生日に珈琲を贈ろうか」
なぜか,そう思った。
そこで,京都に,「誕生祝い」のセレクトをお願いした。母の好みを簡単に伝えたところ,私の好きな,「ケニア」の豆や,お店オリジナルのブレンドを選んでくれた。さらに,母のために,オリジナルプレンドまで作って,送ってくれた。会ったこともないものに,何という気遣いを。京都人の「おもてなし」の心の一端に触れた思いだった。
昨夜,母から電話があった。
「箱を開けるなりとてもいい香りが家中に広がって…」
「私のためにオリジナルブレンドを」
と,珍しく,感謝と感動しきりだった。
この一瞬‥‥。
感謝します。「巌」さん
coffee豆 凛
焙煎&小売 JR加茂駅近く
* 嬉しいマイミクさんのお心遣い。凍えがちな老いの胸が、温かく。花咲く心地。
☆ ずいき 恭
サトイモの茎、それも紫色した茎を買い求めたのが日曜日。いつも買うのは色の薄いものだが、見かけるとつい買ってしまう。たっぷり出汁をとって白しょうゆで炊く。夏なら冷やして食べるといい。その時の気分で甘い味付けにしてみたりする。
サトイモの茎は「ずいき」、漢字になると「芋茎」。乾燥したものが「いもがら」。何処だったか、芋がらを祭りに使うところもある・・京都・・京都の北野神社だったと思う。小さい時はずいきの味は分からなかった。京都でずいきを美味しいと知った。
濃い紫の、その皮の繊維を剥き始めた途端に紫の色が飛び散り、指先は紫に、やがて鈍い黒に変わった。ああ、今日は人に手を出せない、見せられない・・。思い返すまでもなく指先に色がつくこと、染色や絵を描くことに縁があった。それに比べれば料理で指が染まるのは・・やはりこれも腐れ縁?で日常的な出来事。それでも指先が染まるのは何故か幼い遊びのような気がして楽しいなあと気をとりなおした。そして何より夕食には美味しいずいきが楽しめる。
* ずいきを食べさせられるのは、茄子なみにイヤやったなあ。
☆ 学位審査 ハーバード 雄
今朝は9時から大学院生コーリーの学位審査会の予演会があった.学位審査会は11日.今さら予演会などやって,指摘された箇所を直せるのだろうか.
しかも,この週末,コーリーはフットボールの試合を見に,男6人で車をチャーターしてペンシルバニアまで出かけたのだ.僕もしつこく誘われたが,男6人で車の中で寝泊りしてフットボールの試合を見に行くなんて,考えただけでぞっとするので断った.それにしても学位審査1週間前だというのに余裕がある.
僕の時なんて,準備に追われ,ろくに寝られない日々が1ヶ月近く続いたというのに.あまりに体力を消耗してしまい,学位審査が終わってすぐに高熱を出し,1週間ほど入院してしまったほどだった.
もっとも,コーリーの場合は,既に4報も,全て一流誌に筆頭著者として論文を出しているのだから,これで落とされることはあるまい.
いつになく緊張気味のコーリーは,原稿を準備してあったのか,まるで原稿でも読んでいるかのようなトークだった.セミナーとしては,格調高く,データも充分なので,これで問題はないと思うが,学位審査の発表としては少々問題もあった.
学位審査といっても,大学によって基準も審査方式もバラバラであり,同じ大学でも学部が違うだけで形式がガラリと変わる.例えば,東大の場合,理学部だと審査担当の教授の前で報告をした後,改めて公聴会という形で審査が行なわれたと思う.公聴会は誰でも聞きに行くことができる.また,確か主査と副査は,指導教官である教授と助教授が入ったはず.
これに対し,僕が体験した医学部の場合は,審査員に指導教官が入ることはできない.教授会で勝手に決められた審査員が5人集められ,狭い部屋に審査員の教官5人が並んで,その前で発表することになる.発表の途中でも,どんどん質問が入る.
アメリカの場合がどうかは分からないので,今日はおとなしく黙っていたが,僕が気になった中のいくつかの点は,やはりラボのメンバーからも指摘されていたようだ.
僕が大学院時代に指導教官からキツク言われたのは,「学位審査会は,普段のセミナーや学会とは全く異なる心構えで臨め」ということだった.発表の仕方についても,口うるさく言われた.大まかに纏めると、以下の通り.極端な部分もあるので,指導教官によっては,これと正反対のことを言う人もいることだろう.
1.一番初めに,自分のやったことの結論を,簡潔に箇条書きにして,纏めて言ってしまう.
2.説明に使う図は全て自分で,このためだけに作る(他人の作った図や,以前,別の目的で作ったスライドをそのまま使わない).
3.少しでも特殊な実験方法は,必ず図を作って説明する.
4.スライドの中にケアレスミスが無いように気をつける.
有効数字や,顕微鏡写真のスケールバー(大きさを表す棒)にも細心の注意を払う.
1は,人によって意見が大きく異なるだろう.推理小説の犯人を先にバラしてしまうようなものだからだ.聞いていてドキドキしないし,何より,話す本人が一番気乗りしない.しかし,審査会の場合,ドキドキは必要ないし,むしろ不必要とさえいえる.
普段のセミナーならば,聞きにきている人は自分の意志で参加しているわけだから,ワクワクするような話を聞きたいだろう.しかし,学位審査の審査員は,好きこのんで聞きに来ているわけではない.従って,これからどういう話になるかよりも,なるべく早いうちに内容を把握することに関心がある.このため,いつまで経っても犯人が分からないようなトークは,かえって審査員の心証を損ねる,ということらしい.
普段のセミナーならば,聞いていて理解できない場合,「ああ,自分の勉強が足りないのだな」と思うだろうが,審査員の教官がそんな風に思うことは,まず無い.内容が理解できない場合,その原因は全て発表者にあると見なされるのであり,「この俺様が理解できない話をするなんて,こいつはよっぽどバカな奴に違いない」と思われるのが関の山だ.そんな愚を犯す位ならば,初めに手の内を明らかにしてしまったほうが良いという訳だ.先に犯人を明らかにしてしまっても「刑事コロンボ」や「古畑任三郎」は楽しめるように,予め結論を言ってしまったほうが,ロジックの展開に集中して聞いてもらえる.
2は,当たり前のように聞こえるかもしれないが,実はやりがちなこと.
スライドの図を作るのは,意外と手間がかかる.特に,学位審査直前の時期は,いくら時間があっても足りない.そんな時,自分の仕事の背景となる部分に関して説明しようとすると,ついつい,昔作った図や,誰かが同じようなことを発表するのに使った図を使ってしまいがちだ.しかし,自分の発表に少しでも関係ないことが入っていた場合,そこから思いもかけない攻撃を受ける可能性がある.
発表者の研究内容を,審査員が全て把握しているとは限らない.むしろ,全くの分野外のことも少なくない.しかし,審査員という立場上,少しでも質問しなくてはと思うので,何か手がかりになるものはないだろうかと目を光らせている.借りてきた図の中に,自分の研究とは関係ないので気にも留めていなかったような箇所が,たまたま審査員の良く知っていることだったりすると,そこを手がかりとして質問攻めに遭う可能性がある.少しでもリスクは減らさねばならない.
3もやりがちなこと.
普段のセミナーでは,結果ばかりを紹介することが多いので,よほど特殊なものでない限り,いちいち実験方法の図を挟むことはしない.しかし,これは博士号を与えるかどうかの審査なので,本当に発表者が自分のやった実験をきちんと理解しているのか(教授に言われるままに動いただけではないのか)を試すという側面もある.それに,実験方法を逐一把握していた方が,聞いていて理解しやすい.
4は言うまでも無い.しかし,これもやりがち.学位審査は加算方式ではなく,減点方式だと考えて,少しでもミスを犯さないようにすることが大事.
これらは,あくまで学位審査用の心構えだが,普段のセミナーでも有効な場合もある.これらの心構えを通じていえることは,「バリアフリーな発表」を心がけよ,ということになるだろうか.聞いている人に,できるだけ負担を与えず,理解するためのエネルギーを使わせないようにするという意味だが,この心構えは普通のセミナーでも大事だ.話の上手い人はこんなことに気を遣う必要はないだろうが,普段話ベタな人でも,心構え一つで,随分と発表のレベルが変わる.この場合,口の上手い下手は関係ない.
僕がセミナーなどで心がけているのは,マックス・デルブリュックが弟子に説いたという教え.
マックス・デルブリュックは分子生物学の生みの親ともいうべき科学者.もともとは物理学者だったが,エルヴィン・シュレディンガー(朝永振一郎,リチャード・ファインマンと共にノーベル物理学賞受賞)の書いた「生命とはなにか」という本(岩波新書に収録されている)を読んで,生命科学に転向し,物理学者らしい要素還元主義的手法を生命科学に持ち込むことによって,分子生物学という全く新しい分野を切り開いた.
話を元に戻すと,デルブリュックの教えは次の二つ.
1.聴衆は完全に無知であると思え.
2.聴衆は高度な知性を持つと思え.
名言だと思う.話の下手な人の多くは,この二つを忘れていることが多い.特に多いのは1を忘れ,前提となるような知識や背景をすっ飛ばして話してしまう人だろう.特に,自分の研究に没頭している人ほど,相手が自分と同じ知識を持っているとは限らないのだということを忘れてしゃべってしまう.
これは,ある建物までの道順を説明するのと似ている.
いきなり目標物のすぐそばから説明を始めてしまっては,聞いている人はさっぱり分からない.どこまで詳しく説明するかは,相手次第ということになる.お互い近所なのならば,お互い良く知っている近所の店などから話始めれば良いだろうし,一方で外国からの訪問客に説明するならば,空港からの道を説明しなくてはならないだろう.相手がどの程度自分と共通の知識を持っているのかということを,適切に把握しておく必要があるだろう.
しかし,最初無知だったとしても,一旦前提となる知識を与えられたら,思いもかけないほど素晴らしい質問をされることもある.無知だから,きっと大した質問はできないだろうなどと考えていると,とんでもない目に遭う.相手は高度な知性を持っているのだという敬意を持って接しなくてはならない.
* 貴重な助言だ、わたしにですら、役に立つ。嬉しくなってくる。
2007 10・10 73
☆ お元気ですか 播磨
「元気でいる。それがどんなに貴重なことで、どんなに難しいことか。」
そう書かれたメールを戴いてから、連休も過ぎてしまいました。今は体育の日が八日ですが、以前は十日でした。祖母が亡くなったのが今日十日で、四十年近く経ってもこの日は悲しい思い出が溢れます。
江里佐代子さん、そして若桑みどりさんの訃報。まだまだお二人とも活躍してほしかった。
若桑さんはイタリア美術が専門なので何冊も著作を読みました。また彼女自身の女性としての生き方の模索から生まれた著作にも真摯なものが窺われました。
最近のあなたの述懐には生き難さに触れるものが間々読み取れます。本音で書けばわたしもまた、そのようなものに負けそうになります。
「本訴」への移行は必至なのでしょうか? あなたをあまりに苦しめる訴訟が、あの人たちが、わたしは憎い。せめて没交渉の薄闇の中に退いたままであってほしかった。
少し前に、文学などから例を挙げて、憎しみや勇気について書かれていましたが、そのお気持ちは痛いほどに伝わってきます。
「罪を憎んで人を憎まず」と言われますが、わたしにはそう思えない。きれい事でなく、人を憎むのが自然。罪と書くと、それは曖昧な、抽象的なものになってしまいます。
悪いことをするのは人、なのですから。
まだ半袖の服で過ごしています。彼岸花も咲いています。刈り取られた稲の根元からは再び茎が生え出て30センチほども伸び、青田のごとき風景です。祭りの季節になって、今週末は、ここの氏神さんの神輿渡禦、楽しみにしています。
前線が南に去って関西は暑い陽気になりました。今年もまた秋を迎える頃になって風邪を引いて長引いていますが、ほぼ普通の暮らしになりました。退き屈した毎日でした。
元気でいる、その貴重さを、時間を、思います。
ラーメン、カレーライス、餃子の取り合わせはあまり健康的メニューではないけれど、何とも庶民的。美味しければそれこそ大歓迎。あの記述は嬉しいですね。わたしも美味しいラーメンなど食べたいな、引きこもり生活はいけないと自戒。
どうぞ元気にお過ごしください。お体ご自愛ください。
目、大切に。案じています。
* ありがとう。
* 悲しいことでもあるが、こういう無条件に身のそばに立ってくれる人がいると、時の間胸が温かくなる。自分よりも激し、言を切してくれる人がいると、落ち着ける。ワケ知り顔にどっちともつかない賢さで宥められたりすると、なかなか静かではおれず迫り激してくるモノに負けそうになる。弁護士や息子達に制されているから此処へ出さずにいる沢山な文章がある。「人間研究」としてよほど興味深く辛辣なモノであるが、わたしは自分の「人生」という長編小説の一部として、それらを記録して間近に置いている。好機が来れば躊躇しないで公開する気でいる。
2007 10・10 73
☆ お元気ですか、みづうみ。
私語が更新されていると、本当にほっとするこの頃です。このような日々を、みづうみの生きて書いていてくださいますこと、わたくしの一番の幸せです。
右眼の具合が心配です。かならず理由があるはずですので、色々な先生にかかってみてくださいますように。伯父は緑内障でほとんど片眼なのですが、非常に細かい資料を読み込む研究を続けて、本を書いています。でも、不便でないほうがよいですから、お大切になさってください。
もう一つ現実的なことを。
ワードが入っていなくても、変換作業をすればみづうみの書いたものをワード形式で送ることは可能なはずです。少なくとも私の機械では、一太郎が入っていませんが、一太郎形式で原稿を送付できました。みづうみの機械でも必ず出来ると思います。
ハーバードの雄さんの日記、いつも感心して読んでいます。マックス・デルブリュックのアドバイス、「聴衆」を「読者」に置き換えると、物書きにもとても適切な教えと思いました。
涼しくなってきて、やっと袷の着物が着られるようになりました。先週までは単衣でしたの。花としてはそれほど好きでもないのですが、秋になって嬉しいのは菊柄の着物。菊は着物に描くと生き返るように映える花です。とくに乱菊模様の着物は気持ちまで華やかになるのが不思議です。
おやすみなさい。 わたくし
* ここで一つ、一太郎をどう他の形式でファイル送付できるのか、具体的な手順を教えてくれると真似てみますのに。
2007 10・10 73
* アル・ゴアのノーベル平和賞に賛同する。いろんな議論もあるではあろうが、いま地球と人類にとって最も重要な危機的話題へまっすぐ突入し拡大して、多くの関心と論議を喚び起こしてくれたことに、わたしは感謝している。価値ある授賞である。
☆ アル・ゴア ハーバード 雄
朝一番から実験を教わりに他のラボに行く.教えてくれるのはポスドクのモニカ.うちのラボのポスドクJCの奥さん.
ここ最近,夜更かしする癖がついてしまって,朝早く起きるのが大変.今日もやっとの思いで起きて,身支度を整えて出勤.
今日行った実験は,マウスの大脳皮質と海馬の神経細胞をタンパク質分解酵素を使ってバラバラにし,細胞培養用ディッシュに蒔くというもの.その際, DNAを神経細胞に導入することも併せて行った.これまで,小脳の神経細胞を分散培養したことはあるが,大脳皮質と海馬は初めて.
あまりにグロテスクになるので詳細は省くが,実体顕微鏡下で鮮やかに胎児脳を取り出し,脈絡叢を取り除いていく様子はさすがに手馴れている.実験だけでなく,後片付けなども完璧で,まさにお手本といったデモンストレーションだった.実験室全体も,良く整理整頓されていて,うちのラボとは大違い.なかでも,うちのラボで部屋を最も汚くしているJCの部屋とは大違い.この二人が夫婦で同じ部屋で暮らせるのが不思議だ.
タンパク質分解酵素で脳の組織をバラバラにしている間に休憩をとり,自分の居室に戻る.しばらくメールチェックなどをしていると,後ろでライアンが奇声を上げた.
「ゴアがノーベル平和賞をもらったらしいよ.信じられないよ.なんであんな奴がもらうんだ.おかしいよ」とライアン.相当頭に来ているらしい.
僕の認識では,ゴアとブッシュが大統領選で戦った際,多くの知識人たちはゴアを支持していたように思ったので,
「でもブッシュと比べたらマシだったんじゃないの?」と聞くと,
「よせよ,ブッシュと比べたら,そりゃ誰だってマシになるよ.比べる相手が悪すぎる」とライアン.
ちょうど居室に入ってきたボスに向かってライアンがその話をすると,ボスは爆笑して,
「僕も今朝知ってびっくりしたよ」.
「なんでそんなにびっくりするんですか?」と聞くと,
「だって彼の話していることは,別に彼が言い出したことではないじゃないか」とボス.
普段,周囲の人々の生活態度を見ていても感じることではあるが,やはりアメリカでは地球温暖化に対する認識が決定的に不足しているように思われる.実際,知識人達の中には「地球温暖化はゴアの言うほど深刻な問題ではなく,もっと他に是正すべき問題がある」と論じる人も少なくないようだ(例えば http://anond.hatelabo.jp/20070125145018).
僕のラボのお茶部屋には,飲料水を飲むための装置とタンクがある.ラボの誰がやったのか知らないが(多分プラスチックカップの消費を抑えたい秘書のフィリスあたりだと思うが),ゴアの写真とともに「地球に優しくするために,プラスチックカップの使用はなるべく控えましょう」などと書かれた紙が,この装置に貼られている.
しかし良く見ると,ゴアの鼻の下には,ヒトラーのような髭が描きこまれている.きっと,ゴアのことを好きでない誰かが手を加えたのだろう.
前から書いていることだが,アメリカと中国がこの問題に真剣に取り組まない限り,日本が何かしたところで,焼け石に水といった気がしてならない.とはいえ,人工衛星から見た夜の地球は,日本だけが国土全て光って見える.こんな国は他には無い.そういったことを考えると,やはり日本の責任も大きいのだろう.
再びモニカと実験をしに,モニカのラボへ向かう.しかし,ちょうど昼食時にさしかかってしまったせいで,いつもモニカと昼食を共にしている技術補佐員から「まだランチにいけないのか?」と逐一プレッシャーがかかり,最後の方はモニカも急いで実験してしまったので,最後は駆け込むような実験になってしまった.
モニカとの実験が一段落したのは午後2時.閉店間際のカフェテリアに行き,最後に1個残っていたローストビーフサンドイッチと,これも鍋の底に1杯分だけ残っていたトマトスープで昼食.
3時からはコーリーの学位審査が無事に終わったことを祝してのパーティーだった.3時になってセミナールームに行ってみると,巨大なピザが8枚も並んでいた.後はダイエットペプシが3本ほどあるだけ.うーん,もうちょっと他に何かないのだろうか.
「おめでとう,ドクター」と呼びかけると,コーリーも嬉しそうにしていた.
4時になり,再びモニカのラボに戻り,液体培地を交換する.神経細胞は既にディッシュの底に張り付いている.まだ形はおかしいが,1週間もすれば充分実験に使えるに違いない.来週以降には,これを使った実験をしたい.これで何かポジティブな結果が得られると良いのだが.
* ゴアへの水のかけ方はいろいろ聞いている、が、この問題をノーベル賞委員会が評価するほどまで彼が率先世界に広げたことに意義がある。科学者ではない政治家の彼に、この問題で専門的な最初の発声が可能なわけがない。しかし政治家として最初にこれを耳にしたとき、すぐ、まっすぐ反応したという姿勢とセンスは褒められていいことだし、身を働かせてその声を広げていったことは、世界政治家として立派なこと。科学者間の議論は議論として活溌に為されていいが、大事なことは「手遅れ」の「回復不能」へ地球と人類を陥れないで欲しいということ。この問題には「緩和ケア」は無意味なのだから。
* 「雄」の言うとおり、わたしもそれを言ってきたが、アメリカと中国とが大国エゴを平気で振り回している限り、本当に本当にタイヘンなことがそう遠からず起きてくる虞れはある。
ノーベル平和賞は、大国への「警告・警鐘」として聴かねばならない。
2007 10・13 73
* 川崎のE-OLD「瑛」さんから十牛図にふれたメールを戴いた。あわせて伊那の加島さんのことや彼の「タオ」の話、そしてバグワンなどにも触れてあった。
加島さんがバグワンに拠りながら「老子」を語ってこられたことは、ご本人にも確かめたことがある。『十牛図』についても、バグワンの理解は透徹していて深い。この十の牛の繪や詩は、ともすると何かしらカンタンに深遠なことを判ったつもりにさせてしまう弊害をももっていて、むろんそれは繪や詩の咎ではない。
もしまだ手にはいるのなら、バグワンの『究極の旅 十牛図』を入手し、無心に三度はただただ音読されるのを、わたしはどなたにも勧めたい。知解は危険。禅に、知での接近ほど無益で有害なことはない。無心に無心に無心に。
* マイミクの小森さんが、ビトゲンシュタインとバグワンとのことを「mixi」日記に書かれていて、目を引かれた。この二人の世界史的な思想家の出会いには深甚の興味を覚える。小森さんとは、もともとバグワンからご縁が出来たと記憶している。
2007 10・14 73
☆ 雪景百華 七 maokat
旭川に初雪今日は鍋にする
朝晩だいぶ冷え込んできました。温室には一足先にボイラーが入り、研究室にも今週から短時間暖房の試運転が始まるとか。
テレビは、冬タイヤとストーブとシチューの宣伝ばかり。ニュースでは旭川に初雪が降って、手稲山にも初冠雪とか。
夕方暗くなる時間も早くなってしまい、今日は早めに切り上げて、家で鍋。土鍋に出汁をひき、あり合わせの野菜、椎茸、白菜、玉葱にルスツ産の豚バラ肉を投入。つゆはたっぷりの大根おろしに、生醤油とすだち。
身体と部屋と心持ちがあたたまりました。暖まりすぎて、そのままソファで寝てしまいました。
夜中にゴミ出しに行き、冷え切った外から家に戻ると、ついさっき出るときには気づかなかった、家の生暖かく湿った、いろいろな食べ物の混ざった匂いが、温気とともに身体を包み込みます。この感じが、好きでもあり嫌いでもあり。
このまま寝る、というわけにもいかず、ふとんの中に論文を引っ張り込んで、ぐずぐずと校正をします。せめて、ノイマン&チェコフィルの『スラブ舞曲』など聴きながら。
* hatak は、しばらく、よこになります。
☆ 眼のお疲れがひどいようで心配していますが、日々の記録を拝見すると気力の充実がくみ取れて、何となく私のほうが元気づけられています。
代わり映えしませんが岡山のお酒をお届けします。お酒にしようか果物にしようか迷ったのですが、なにかお酒も少しお上がりだったように書いてあり、いいのかなとも思ったりして。2,3日うちに着く予定になっています。 玄
* 励まして頂いているのが、わかる。有り難うぞんじます。とびきりいいお酒を、嬉しく頂戴しました。清酒の季節になりました。
☆ 今、京都新門前の骨董通りの「鉄斎堂」ギャラリーで、伊藤髟耳一門の展覧会をされています。伊藤夫人が今日横浜に帰られて、いろいろとお話を伺いましたら、どうも恒平先生のお住まいがあったところに近い 近いところのようで、とても懐かしく、メールさせていただきました。私も、あのあたりは伺いましたね。 懐かしいかぎりです。
江里佐代子さんがフランスで客死され、衝撃でした。 惜しい方が亡くなられました。 損失ですね。いろいろと恒平先生を慕われておられ、立派なお仕事をつぎつぎとなされて 日吉ヶ丘の誇りでしたね。 いまだに信じられません。 ただただご冥福をおいのりするのみです。
ごきげんよろしく。 郁
☆ ただいま、ひと息ついています。
HPで目の調子が悪いのを読み・・それが糖尿病に由来していないことに少しだけ安堵しつつ、やはり目を開けていられないようでは大変と心配でした。
それでも鴉は多忙な日々を送っていらっしゃる、それが励みに、良い刺激になっている。本当に嫌なことはちょっと脇に置いて楽しまれるよう。
今日の鳶は、今週末に搬入の絵を数日で仕上げなければならないと、少し「奮闘」していました。周辺の町の展覧会です。
住んでいる所の美術展で町長賞という知らせがあって嬉しいはずなのに妙に白けた気持ちとは、我ながら嫌な奴です。が、気を取り直して新しい絵に取り組もうとしています。日本画の伝統的な花鳥画がやはり自分には合わないと思いますが、身の回りのさまざまなものと、日本と真剣に向かい合わなければとも思います。
わたしの日常は実に単調、それにめげないこと、鬱に陥らないこと、何かを創り出そうと努めること・・。
どうぞ気晴らししてください。体、大切に、気をつけて。 鳶
2007 10・15 73
☆ 水が冷たくなりました。 囀雀
貴船菊に冷たい雨が降りしきる暗い日中におセンチになっていると、翌日は夏日になるような陽気で、芭蕉忌も時雨どころか眩しいほどの陽射しでした。
金木犀の花が散り敷いて、駐車場のコンクリに黒猫が一匹、のの字になって日向ぼこ。
朝寒夜寒の日々となりましたがお変わりございませんか。
東京は気温の低い日が続いているようで、暑さ疲れが出たり、お風邪を召してらっしゃらないかと案じています。くれぐれもおからだお大切に。
一昨日、四ヵ月ぶりに遊山してまいりました。
前回は宮滝。今回は飛鳥です。稲渕の棚田に晩稲を刈るのを眺め、服の裾に草の実をつけて帰ってきました。
飛鳥資料館に寄りましたら偶然に二日前から山田寺出土品が重文指定を受けた記念という特別展が始まっていまして、出土した東回廊の一部を使用しての復元を目にして帰りに、山田寺跡で風に吹かれ、室町時代の十一面観音をまつっているという大化山山田寺の小さなお堂にお参りして帰りました。
2007 10・17 73
* 次の「雄」くんの提起は、広範囲に波動して行く大きな問題。希望もあり心配もある問題。
☆ 国際化 ハーバード 雄
今朝は週に一度のプログレスレポート.担当はライアン.
昨日用意していたスライドは,少々ふざけたものが多かったことを日記に書いた.どうなることやらと心配していたが,案の定,最初のスライドにアル・ゴアが出てくると,笑いと共に「おーい,ライアン.どこに行こうとしてるんだ?」というボスの突っ込みが.ライアンは地球温暖化に関する研究を複雑系の例として挙げ,それに類するものとして神経回路網形成の話に結び付けたかったようだが,少々強引すぎて失笑を買っていた.しかしそれ以外は,相撲の写真も綿棒の話もかなりウケていた.これらのジョークを挟む場所も絶妙だったし,データそのものも中々良かったので,皆,素直に笑うことができたのだろう.
昼食を摂り,しばらくして来客.実は今日,僕が現在留学助成金をもらっている団体の関連団体から,お偉方が二人インタビューに来ることになっていた.この団体は,日本の研究施設に外国人を招聘することを目的としている政府系団体.ちょうど僕とは逆の立場にある人達を支援しようという訳であり,そのような事業を進めていく上で,どういうことが今後の日本に必要なのか,日本を離れて海外で研究している研究者達に話を聞くことが目的らしい.
併せて,外国人のことだけではなく,僕のように外国に出て行った研究者をいかに呼び戻して,そうした日本の国際化に役立てるか,ということについても範疇において仕事を進めているらしい.
相手を気遣って建前ばかり述べるのが大人の態度かもしれないが,僕は日頃思っていることを素直にぶつけた.その中には,先日嫌な思いをさせられた事務の問題もあった.このことで恨んでいる訳ではないが,もし本気で外国人を受け入れるつもりならば,旧態然とした事務方の意識を変えることが重要だ,と言った.本筋から外れた意見かと思ったが,実は多くの人が指摘する問題なのだという.おそらく他の人達も似たような経験を持っているのだろう.
日本に居た頃に見た例だが,外国人の職員についても,日本人と同様に出勤簿に判子を押さなくてはならない.しかし「トム」だの「マイク」だのといった判子が文房具屋で売られている訳も無いから,これらは当然特注となる.大体3千円は取られるだろうか.何も分からない外国人は,そんな判子を見て最初は “Cool!”などと言って喜んでいるが,後になって,その代金は自分が払うのだということを知ると憮然とする.きっと,何でこんなものに3千円も払わなくてはならないのか,意味が分からないだろう.
他にもあれこれと話をしたのだが,その中で僕が驚かされたのは,彼らは半ば本気で,将来的には日本の大学や研究機関の教授やグループリーダーの3割程度は外国人が占めてもおかしくないと考えていることだった.「優秀な研究者を積極的に海外から取り込むことによって,日本の研究水準を高いものに維持したい」と彼らは話していた.もちろん,そうなれば国内で僕らがつくことのできるポストはどんどん減るだろう.正直言って嬉しくない情報だ.
今まで,僕は日本に帰って,将来は日本で自分の研究室を主宰するようになることを最も希望していた.ただ,もしかすると海外で自分の研究室を持ち,そのまま海外に住み続ける可能性も無い訳ではないだろうとも思っていた.しかし,日本のポジションを外国人が占めるようになり,自分が締め出されるという可能性は,不覚にも考えたことがなかった.
考えてみれば,アメリカの大学や研究機関で,生粋のアメリカ人の占める割合は決して多くない.イギリスやドイツからは勿論,最近は中国からの研究者も多くいる.勿論日本人も少なからずいる.アメリカの場合,こうした外国からのポスドクを多く取り入れることで,働き盛りの科学者達を手にすることができるわけであり,アメリカのサイエンスのレベルを維持する上でも,こうした海外からの研究者受け入れは重要な意味を持っていると思われる.もちろん「アメリカに住めばアメリカ人になる」というお国柄だからこそかもしれない.しかし,多かれ少なかれ,似たようなことは他の国でも見られる.国際化するということは,或る意味こういうことなのかもしれない.単に海外の文化を取り入れるのが国際化ではない.人的交流といえば聞こえが良いが,あえて悪い表現を使うならば,外来種が在来種を駆逐したとしても,或る意味それは仕方がないというところか.
研究者だけが特殊な世界と思われる方もいるかもしれないが,僕は決して対岸の火事ではないと思う.既にこれまで,いわゆるブルーカラーの仕事は南米などからの移民が多く占めていた.実際,工場の多い地区などでは,そうした国からの人々を多く見かける.逆に工場を海外に作るケースも既に一般化している.しかし,最近では,いわゆるホワイトカラーの仕事に関しても,積極的に外国からの働き手を受け入れるケースが増えてきていると聞く.そうした外国からの移民を積極的に受け入れ,日本国民として認めれば,労働者の質も或る程度のレベルで維持することができるだろう.少子化問題なども,形の上では解決するかもしれない.
こうした形を,果たして本当に日本人は望んでいるのだろうか.
「これからは国際化社会だ」という言葉に悪い印象を持つ日本人は多くないだろう.しかし,国際化を歓迎する日本人に,「もしかしたら自分達の仕事も彼らに奪われるかもしれない」という意識は薄いのではないだろうか.
語学留学する人達の意識も,多くの日本人の意識と大差は無いように思われる.せいぜい「これからは国際化社会だから英語が話せた方がいい」とか,下らないところでは「英語が話せるとカッコイイ」とか「外国人と友達や彼(女)がいるとカッコイイ」なんていう理由で漫然と海外に来る人も少なくないかもしれない.今に日本が色々な肌の色の人々で占められ,日本語も変遷を遂げるかもしれない(あるいは日本の中で様々な言葉を話す人々を頻繁に見かけるようになる)という可能性について,多くの人は考えないのではないかという気がする.
多くの日本人は,そうした意味での「国際化」を本心では望まないのではないか,と僕は思っている.日本人の多くが英語習得に苦手意識を感じる理由の一つは,実は国際化することによって異質な人々が入ってくる可能性に抵抗感を感じるからなのではないか.もっと簡単に言うならば,「日本人は英語が「話せない」のではなく,実は意図的に「話したくない」のだ」という気がしている.
インタビューは90分にも及び,おかげで午後から参加しようと思っていたコネクトミクスの講義には大幅に遅刻してしまった.僕の研究内容とも大いに関係する内容.僕のカルシウムイメージングさえうまくいけば,彼らのやっていることはあっという間にやりつくすことができるのに,と講義を聴きながら思う.休憩時間に,演者に話しかけようとタイミングを伺っていると,肩をコツコツと叩く人が.誰だと思って振り向いたら,ボスだった.
「研究の具合はどう?」
きっとボスも僕と同じ事を先ほど考えていたのだろう.そろそろなんとかしなくては.
2007 10・17 73
☆ 耐震偽装 司
構造計算書の偽装がまた見つかった。姉歯事件以来2件目とか。
姉歯以降も、耐震偽装ではないかという事件が何件もあったが、それぞれの構造設計者が「偽装ではない。構造設計についての考え方の相違だ」という様な主張をしていたので、構造設計者自身が「偽装した」と認めたのが姉歯以来ということらしい。
にしても、姉歯の時は構造計算書のページの欠落などもあったのに比べ、今回のは3,800ページにも及ぶ構造計算書の中の161カ所の数字の書き換えと 8カ所の切り貼りとか。
構造計算書の1ページに何文字入っているかは知らないが、仮に少なく見積もって1,000文字だとすると、今回の偽装は大凡2万文字中の1カ所くらいの割合の偽装(書き換えor切り貼り)を担当者が見つけ出したことになる。
そういえば、報道によると「今回の偽装は巧妙」(そういえば、姉歯事件の際にも「これは巧妙な偽装だから」との言い訳が言われていた様な気が・・・)と言われているらしいが、「NG」の文字を「OK」に張り替える作業を“巧妙”とは私は思わない。ただ、2万分の1の間違いを探し出すのというのも、相当な根気の為せる業なのかあるいはたまたま運が良かったのか担当者の能力の高さによるものなのか、いずれにしても大変な事であることは間違いないと思う。
もちろん問題はこんな事ではなく、姉歯事件での教訓が建築界に全くいかされていなかったということが問題。姉歯事件があったにも関わらずこういう事件がまた起こったことで、市民は「やっぱりやってんじゃん」と思うだろうし、なおさら「姉歯事件の前はもっとみんなやってたんじゃん」と思うだろう、ということを真摯に反省しなければいけない。
実際に偽装をしているかしていないか、ということが問題なのではなく(もちろん偽装などしていないという前提なのだが)、信頼を無くした、という事を受け止めて、建築界としてどうしなければいけないのか、考えなければいけないのではないか。
そういう意味で言うと、良いか悪いかは別として行政は今回の法改正で1つの答えを出している。果たして、この答えが正解なのかどうか、正直に言うと行政の人間にも分からない。でも、国民の信頼を回復するための、1つの回答であることに間違いは無い。
これまで偽装などしたことの無い設計者には迷惑な話であることは百も承知だが、国民の“信頼”を回復するためには、致し方ないのではと思う。
姉歯の時にも感じたが、今回の事件でも孫請けの零細な構造設計者が悪者にされていることが何とも腑に落ちない。
私たちが日常手にする工業製品にしろ食品にしろ、何かの欠陥があれば販売をしたところに文句を言う。
例えば、NECのパソコンを使っているが、これに欠陥あればNECに苦情を言うだろう。NECは自分の製品に欠陥があったことについて、自らの責任で謝罪をし修理をするだろう。たとえ、欠陥の理由がパソコンの中に使われている1つのネジが問題で、しかもそのネジを作ったのが孫請けのどこかの町工場であったとしても、その町工場に責任を押し付ける事は、決して無いはず。ネジの性能も含めて、販売主であるNECがきちんとチェックをして、製品として納入しているのだから。
今回、建築主も元請設計者も、「孫請に出したことなど知らない」というスタンスであり「うちは偽装には関与していない」という主張を繰り返している。孫請けに出した下請けも「偽装には関与していない」と主張しており、目下の悪者は孫請けの設計者だけである。
もともと安い賃金で無理な日程で仕事を押し付けられている構造設計者が、こういうときに社会的にだけでなく、発注者からも全く守られない様では何ともいたたまれない。もちろん、意図的に、法律に反する行為をした構造設計者が批判されるのは当然なのも分かる。ただ、先の例の様な工業製品の場合を比べると・・・ということを考えると、何とも腑に落ちない・・・という気になるのは私だけだろうか。
* やれやれ困りましたね。
2007 10・18 73
* 朝いちばんのメール・メッセージに思わず、にっこり。
☆ 湖さん 優
メッセージをいただき、(昨日の)朝からうれしい気持ちで過ごしました。
お目にかかったことが無いのに近しい気持ちでおります。声も存じ上げないのに常に心の中で「会話」をしています。
ここのところ職場であまりにもエクセル表とにらめっこしていますのでなかなか家ではパソコンに向かうことができずにいました。返信が遅くなってしまいました。
京都はまだ紅葉というには早いのですが、大学院の門のそばに植わってるクロガネモチノキの紅い実が徐々に色づくのを見るのを楽しみにしています。
幸せなことですが、仕事を本当に楽しんでしています。湖の本に出会えたことひとつだけをとってもこの大学で仕事ができて良かったと感謝しています。(当時はアルバイトでした)
ほかには コンサートに行くのが何よりも好きです。
ジャンルはポップスでもクラシックでもロックでもなんでもかんでもの雑食です。
(ご存知ないかもしれませんが山崎まさよしというアーティストが一番好きなんですよ)
HPを拝見していると眼の調子がよろしくないとか。
無理してませんか? なによりもお体お大事に。
家が近かったらご本の発送の手伝いとかに行けるのになぁと、なかば本気で思ってます。封入作業は得意なのです。
これは私が「優しい」のではなく、たぶんにそういうことをするのが好きだからですよ(笑)
作業の段取りとか効率のよい方法とかを考えるのが好きです。
では、今日はこのへんで。
* 京都の秋を問うてみたのへ、優しい返辞だった。ありがたい。
いまは、なによりも心やすまる。
2007 10・19 73
☆ 人が住み暮らしてこそ 巌
少し前の日記に書いたようにお隣さんは廃墟になっています
人が住まなくなると 家屋は驚くほど早く傷んでいきます
家屋よりもう少し空間を拡げてみて
少子化という事が問題として取り上げられて かなりの年月になると思います
一年 都市部を離れて思うのは 少子化が今後どうなるかというよりも すでに 人口減や人口の偏在の進行がよほど問題だと
少子化というのは あくまで日本国籍を持った人を対象にした話であって かつ出産率の高い地域でも 就学 就業で地域外へ出て行く人の方が 流入してくる人よりも多かったり 職住の場所がどんどん離れて行っていたりしていないだろうかと
道州制の議論は永らく行われているが その時 北海道はそのまま独立した「道」と思っているらしい はて 今 人口は 563万人(平成17年調査)で 減少傾向
東京都周辺への人口集中はどんどん進み 神奈川 埼玉 千葉 は全て 北海道の人口を超えていてかつ増加傾向
人口の減少・偏在の改善が無いままでは 道州制も何も あった物ではないのでは?
とにかく 活力の源は人口にあって 人が行きかう 人が住み暮らすことが必要で
農村も山村もそこに人が住み働き暮らしているからで
過疎化が進めば 山村・農村は ただ荒れた山・野原
その改善手段もはっきりいえば 国籍なんか構ってられない
暮らす人が まず増えて欲しい というのが郡部での本音だと思う
それも職住近接がなによりなので その仕事作り
これが 当面の主題なのです
* これが じつに難しい。名案 ありませんか。
2007 10・19 73
☆ おはようございます、風
富士もよく晴れています。
富士山が、うっすら雪をかぶっていますよ。
暖かい季節には、雲をまとっていて見えませんでしたが、少し寒くなり、空気が澄んで、よく見えます。この町は、富士山のよく見えることだけが美点です。
風、右腕をいためているのですか。お大事になさってくださいね。
『花と風』、また、読みました。風のごく初期の著作なのですよね。風の思想の基礎となるものがおおよそ認められるなあ、と思いました。
三島の死の頃ですか。花はまだ生まれていませんねえ。
柔らかな花びらのように、生き、書く。
花びらのように成ろうとして「成れる」ものではなく、「成る」ものかなあ、と思っています。
ゆうべの風の私語。
今、何より風を辛くさせ、細心の注意を払わなければならないことでありましょう。時間もパワーも割かれるでしょう。風のたよりの寡少になるのは仕方ないこと、と思っていました。時間ないだろうなあ、と。それより花だよりを待っていてくださるらしいことが、とても嬉しかった。
風が、いつもいつもエネルギー充填できますように。
花は、いつもいつも想っています。お元気で。
2007 10・21 73
☆ 歌集『少年』
「みずみずしい」の一言につきます。漢字ではありません、平かなです。お若い頃から難しい語彙を使いこなしておられるのに驚いております。すばらしい才能ですね。とても及びません。多才なことはエッセイから想像しておりましたが、今回は別な驚きでした。ますますの御活躍をおいのりいたします。
節分の日 春を待ちつつ 名古屋大学名誉教授
2007 10・21 73
☆ こんばんは! 京ののばらです。
昼間は秋晴れで過ごしやすいですが、日が暮れるとぐっと冷え込んできます。
今日は久しぶりに東京の孫たちが来て、賑やかに水炊きを食べて帰っていきました。
11月には東京へ行く予定です。
京はまだ樹の葉も青々として、紅葉にはしばらく間がありそうです。
お身体もお気持ちもお疲れのご様子ですが、お大切にお過ごしくださいますように。
眼も無理されませんよう。
お返事もなにも要りません。
平穏にお過ごしになれますように願っています。 従妹
2007 10・21 73
☆ おはよ、ございます、風
お元気ですか。晴れがつづいていますね。
きのうは、伊豆の戸田(へだ)という町へ行きました。
安政の大地震で、下田に停泊していたロシアのディアナ号が大破してしまい、代わりの「ヘダ号」を造ったところだそうです。以来、戸田だけでなく、富士山麓までも、ロシアと関係が深いみたいです。
土肥金山にも寄りました。
金の延べ棒がディスプレイしてあり、触れるのですが、片手ではビクともしませんでした。
ひとつ12.5kgだそうです。
帰りに地物のお鮨を食べました。
しらすも桜海老も、スーパーで買うのと全然違い、臭みがなく、おいしかったです。海鮮は新鮮さが命ですね。
富士浅間の花は、元気に過ごしています。
2007 10・22 73
* 自然、「父なるもの・父たること」が念頭にあって、東工大の教室でも、学生諸君の胸をついそれで叩いたものだ。いま、ふとその「本」に手が伸びたので、頁を開き彼らの「挨拶」をもう一度聞いてみたくなった。彼や彼女たちは、わたしの授業を聴きながら、それでもわたしから押し出した問にも「書いて」答えていたのである。
父へ ー父なるもの・父たることー 『東工大「作家」教授の幸福』より
☆ 大学生になって初めて故郷を立って長春に向かう時でした。生まれて18年間、親を離れたことのなかった私の初めての旅立ちに父も母もすごく心配そうでした。母が「お金がなくなったらすぐ手紙を書いてね」とか「食べものに絶対ケチしないでねー」とか言うのにくらべて、父は無口に黙っていました。列車が間もなく来る時に、父が「ゆでたまごを買ってくるから」と一言を言い残し、広場の向こうへ走って行きました。広場が混雑していて、父の前へトラックが来た。そのトラックの前に立ちとまった父の背影(うしろ姿)が小さく、弱く見えました。その一瞬、なぜか涙が溢れてしまいました。私のことを愛して心配してくれている父に、「安心して下さい」と言いたかった! その時、親に安心させるように立派に強く生きていくようにと決心したのです。今でも父のそのうしろ姿が忘れられません。 (中国人研究生 女子)
★ 夫君がドクターを修了直前の、小さい子のある奥さんが、わたしのところで一年間だけ、主として漱石周辺の勉強をしていた。学部の授業にもよく出て来て、みんなと一緒に書いたり考えたりしていた。大学は中国で卒業していた。卒論には漱石の文学を書いたそうだ。
東京へ単独で出て来て暮らしている学生たちの、ことに男子は、むろん女子も、お母さんには最敬礼にちかいのが、まず、一般的である。有り難みに日常の具体的なものがしみついている。
そこへ行くとお父さんとは、アンビバレントなものがある。その辺を、引き出してみたかった。
漱石作『こころ』の「私」が、しきりに「先生」と「父」とを比較している。中山明という若い歌人によれば「父島」という島は厳然と常に在り、しかし、息子も娘も、その島から遠ざかることも近寄ることもない距離をおいて、人生という海を航海したがっている。で、「父なるもの・父たること」について、問うてみた。 (秦)
☆ 率直に言うと、我が家はどちらかといえば貧乏である。衣食住に困っていることはないが、私を私大に入れるとか下宿させるとかいうことになると、さっとお金を出せるほどではない。家も大きくないし、車も隣の家の400万円の新車と比べると見劣りする。私はその事を思うたび父を恨んでいた。父は「世の中にはもっと貧しい人もいるのだ」と言って今の状態に満足し、上を見ようとしない。私は内心、「もっとばりばり働いてよ」と思っていた。
その父が脱サラした。二年程前のことである。
「上に命令されるばかりの仕事はもう嫌だ。自分なりに働きたい。働いてお金を稼げばいいってものではないんだ。」
これから受験もあるのに、我が家はもう終いだと私は絶望的になった。しかし家族で父の仕事を助けているうちに、働く父を見るのははじめてだなあと思い、今までになく頼り甲斐のある人に感じた。父に対する私の憤りや恨みは完全に消えた。そして私は東工大に入学し、生まれて初めてバイトをしている。予備校のアルバイトである。友人は、時給も安いし時間も拘束されるし、家庭教師の方がいいよ」と、さんざんなことを言った。昔の私だったら割りのいいバイトにさっさと変えていただろう。しかし今の私は違う。
「家庭教師は自分一人での孤独な仕事。私は、先輩がいて一年生がいて事務の人がいて、そういう中でわいわい仲よく仕事をするのが好きなの。」
父に言いたい。「お父さんがあのとき今までいた会社を辞めた理由が分かってきたよ。働くってことは、ただお金をもらうことでも、肩書きをつけることでもないんだってことが…。自分のしたい楽しいと思う仕事をするのが一番幸せなんだよね。」
ろくに口も利かず顔も合わせなかった父が、だんだん身近に感じられて、とても嬉しい。 (女子)
☆ 「十七にして親を許せ」ですか。ぞくッとしました。だんだん父に対する目が厳しく冷たくなっている自分に、はっと気付いて。また自分の傲慢に気付いて。
先日母が弟を叱っていた。そこへ父が帰って来て、「また同じことを言われてるのか、バカ野郎。何度言われたら分かるんだ、バカ野郎…」
僕はそれを聞いて、帰ってくるなり叱られてしゅんとしている弟に、バカ野郎、バカ野郎とえらそうに言う父に腹が立ち、
「バカ野郎しか言えねえのかよ。もうちょっと言い方を考えろよ、頭わるいんじゃねえのか」
父は黙った。僕は叱ってほしくなった。なぐってくれと思った。苦しかった。2日後、父に僕はあやまった。父の目を見れなかった。父はなにげない返事をした。父がどんなふうに考えていたか分からないが、つらい2日間だった。 (男子)
☆ 私にとっての父は、小学生の頃は絶対的なものだったのを覚えている。共に遊んでくれたり色々教えてくれたりしたけれど、さからえる人間ではなかった気がする。(暴君ともいえたかもしれない。)私が成長するにつれ、父も人間がかわった。よくなった。
中学から高校にかけて、私は父を否定していた。(父親を認めなかった。)父は憎悪と軽蔑の対象だった。(その背景には、まあ、いろいろあった訳だが。)その反面父を尊敬していたと思う。父の中にある天才性を感じていた。しかし、それを否定した。2つの相異なる感情が心をうごき、憎悪etc.が勝った。人を好きになるより嫌うほうが楽だったからかもしれない。
そのころ私は父とはほとんど話をしたことがない。話しかけられても、無視していた。自分が男なら、何度も、なぐりたい、と思ったことがあった。一度、父を挑発して、なぐりあいになりそうなこともあった。(母にとめられたが。)
今は、私たちの間にそういう溝はない。父も、私もかわったし、私のそういう状態は、父には、けっこう痛切に感じられるらしかった。(母曰く。)それに、これは何のいい結果ももたらしはしない。
父は決して太い大黒柱ではない。しかし、今思うと父親として失格ではなかったと思う。夫として失格であった。そこに様々な感情がうごめいていたのである。今、私は、憎悪より尊敬の念を持っていると思う。(軽蔑の念はまだ持っているかも。)しかし父親を尊敬するなんて、愚劣な事の1つだと思うが。どうであれ、私の成長の中に、大きな位置を占めたのは父であったことは確かだと思う。 (女子)
☆ 受験の済んだ今年の3月、東京へ出てくる前に父とキャッチボールをした。4、5年ぶりだった。その時、僕の思い切り投げた球を父は捕らずに避けた。同年代の中では非力な方の僕の球を、「見えない」と言ったとき、どうすればいいのか迷ってしまった。
「ドクターコースまで進むと、父の定年にひっかかるかも知れない」という事もその時初めて認識した。今まで父に対しては「おとなしい人だ」という思いだったが、それでも「強い父」を期待していたのだと気付いた。
父とじっくり話し合ったことがないので、この夏あたり広島に帰った時、酒でもくみかわそうと思っている。 (男子)
☆ 父は好きです。本当に何でもできる。小さい頃から遊んでくれたし、料理も上手。父の考え方も私は大かた同意ができます。父は8割ぐらいは理想的な父であったし、今もそれは変わらないと思います。だんだん私が大人になって、父を父としてだけでなく1人の人間としてみる様になって、(母の人間としてのおろかさと比べて)ますます父が立派に見える様になりました。母の、子供のような部分をどうしてあんなに寛大に許せるのか。とても父が大きく感じられます。
父は昔の日本の父のように無口で家族を支えるタイプではありませんし、家族にバカにされて、すねてしまう事もありますが、父の事を自慢できる位、私は父が好きです。友達はみんな父親なんて別に好きじゃないと言いますが、私は父と仲良しです。でも普段は気付きませんが、最近父が急に老いたように感じる瞬間があり、そういう時は非常に心細くなります。今まで私の上から私を見下ろしていた父が、だんだん私より小さくなって消えてしまう様な恐怖を感じます。そんな時は父が死んでからの事etc.を考えてしまうけど、父が死んでも平気なように強くならなくてはいけないと思っています。 「父。安心して死んで行けるようにするから、何も心配しないで、疲れたら死んでいいよ」と言える様になりたいです。 (女子)
☆ 別に感動させる話はありませんが、誠実なあの父に愛されていることが私は嬉しい。昔はケンカもしたし殴られたりしたけど、そのおかげで、いい父親と思えるようになった。祖父が頑固で、父はそれが嫌だったから、今、こうしていると思う。普段言えないので、ここで、父に、一言。
「少しは尊敬もしているんだからね。」 (男子)
☆ 昨年の夏、ほんのささいなことがきっかけで父とけんかをしました。その日以来、私は父と口をきかなくなりました。父の顔すら見るのも嫌でした。父に話しかけられても、私は何も答えようとしませんでした。
それから1か月後、この状態を見かねた母の仲介で、父と話しあうことになりました。
父はかなり頑固な性格で、決して自分の言い分を崩そうとしません。私はそれを崩したくて、必死であれこれと父に言い返しました。その最後に、私は、思わず、こんなとんでもないことを言ってしまったのです。
「お父さんは家にいても邪魔で、自分勝手なことばかり言って、私や母のペースをくずしているのだから、休日もゴルフにでも行ってしまった方がよっぽどマシだ」と。
その言葉を聞いた瞬間、父は急にこれまで有った勢いがなくなり、力の抜けた様子で、
「おまえ、ひどいこと言うなあ」とぼそっと言いました。その時、私は久しぶりに父の姿をまじまじ見たのです。白髪はいっそうふえ、なんだかやつれたように見えました。どっと後悔の念が私の中にこみあげてきました。一か月にもわたって父と口をきかなかったことに何の意味があったのでしょうか。とても自分が恥ずかしかったのを覚えています
。それ以来私と父はうまくいっていますが、まだまだ若いと思っていた父も、あと七、八年で定年になります。そして私もいずれは結婚などで父と別れて暮らすときが来るでしょう。父にはただ一人の娘である私にとって、将来の父の姿を考えると、ちょっと心配になってしまいます。 (女子)
☆ 僕の父は、父親に早く死なれているので、僕に、「おまえはお父さんがいて幸せなんだぞ」とよく言います。
小学生くらいまでは、父はなんでも知っていて、父のする事はなんでも正しい大きな存在でした。中学生、高校生の時は、父などというものは僕にとっては何をするにも障壁となり、敵でした。それは今でも変わりませんが、1~3年前から父が感情をあらわにするようになり、弱さを見せるようになったと感じています。
先日も父と2人でお酒を飲む機会があったときも、酔っぱらいながら、「今日は楽しかったなあ」と何度も言いました。その時、(父親=祖父に早く死なれて)お手本の無いまま、父が父として悩みながら僕を育ててくれたのだと思い当たりました。
今、僕はやっと父がいて幸せだったと感じはじめています。 (男子)
★ 読んでいて、感傷と笑われるだろうが、わたしは涙ぐんでいた。このお父さんの「今日は楽しかったなあ」が、しみじみと分かるからである。わたしの息子はもう社会に出ているが、まだ幼稚園だった昔から今まで、かわりなく息子の「存在」そのものにどんなに励まされ慰められてきただろう。そんなことを思うのも、わたしの「弱ってきている」証拠なのだとは分かっているが、わたし自身は、むかし、実の父のためにも育ての父のためにも、この学生のような、わが息子のような息子では全く無かった。それだけでもわたしは自分の人生を失敗であったと痛切に思う。 (秦)
☆ 父よ。現世からあなたと語り合おう。酒をくみかわしながら明るく楽しく語り合おう。現世から天国。天国から現世。このすれ違いは人の若さと老いとのすれ違いである。ただただ、未来について語り合おう。私とひざをつめて語り合おう。生きるとは何かを。 (男子)
☆ 私はものごころついたときから、父よりも母のほうが好きでした。父は私にはとても優しい人です。それでも私は彼が好きではありませんでした。おそらく自分自身が嫌いな部分が、父に似ているからでしょう。ふだんは私の奥底に隠れている激しさや他人への批判やもののい方、それらが、彼から受けついだものだということが、苦いほどによく分かるのです。彼のそんな部分を見るたびに私は彼を不快に思ってしまうのです。
けれどもこの春(進学し)私は家を出ることで、心の中に少しの変化が生じました。一人になって、考えや生活が私の裁断一つにかかったことで、私は自分を支えているものが彼からの影響を多大に受けていることに気づきました。それらは彼が言ったことそのものであったり、全く反対のものであったりしますが、彼あってこそのものであるのは確かです。そのことにまだ多少の苦々しさを感じはするものの、今までの私と彼との歴史を感じさせられ、胸にくるものがあります。
おそらく彼は私より先に死ぬことでしょう。私がそのとき何を思うかはよく分かりません。けれども、そのときこそ、私は彼にゆずられた全てのものを、苦さを感じることなく、誇りさえ感じられるときだと思います。 (女子)
★ まるで、わたしの娘が語っているような錯覚にとらわれる。いやいや、それはわたしがまだ甘い。せめてこうであってくれればいいがと、願うにとどめよう。 (秦)
☆ 私は父が嫌いでした。今は、そうではありません。酒を好み、ものに感動して涙など流す父。理不尽なことには心から怒る父。父への感謝をうまく表に出すことができません。
近づきもせず遠のきもせず、一定の距離を保ったまま。それでもじっと見守ってくれている父です。父が好きです。 (男子)
☆ 自分が成長するにつれ「絶対なる父」は崩れ去っていった。父の言葉にも疑問を持つようになり、父がそんなに強い人間でないと感じるようになったとき、私は悲しいような、寂しいような気がした。そんなふうに私に思われている父がかわいそうになった。父にだって弱いところがあって当然だ、が、父には常に強くあってほしいのだ。せめて私には弱いところを見せてほしくない。 (男子)
☆ 少し前、母から、私のまだ小さかった頃の話を聞きました。父は最初は会社勤めをしていましたが、業界の不調もあり、数々の会社を転々として非常に苦しい生活だったそうです。あげく祖父のやっていた店を継ぎたいと申し出ましたが、祖父と揉めて、ずいぶんひどいことも言われたそうです。それでも父の努力で商売は好調に推移し、今では一戸建ての家も持てるようになりました。
私の記憶にはそんな苦労を見せた父の姿はありません。私には見せたくなかったのです。ふだん陽気な父にそんな苦しい日々があったとは夢にも想像できなかった。私は父の雄大さをはじめて感じ、父が越えられるだろうかと思いました。越えたくも、越えられて欲しくなくも、あります。 (男子)
☆ 父の実家はとても複雑で、家中で裁判をやっている。親と子で。兄と弟で。兄と姉で。姉と弟で。父の実家には愛、家族愛などというものは存在しない。その裁判は今は20年以上にも及んでいる。私の生まれた頃から争っているのだ。
その反動であろうか、父は私たち家族を非常に大切にする。我が家は3人家族なのだが、いつも一家で行動する。両親を私は一番に愛している。今、東工大でこんな楽しい思いをしていられるのも、父の教育への理解があってこそだ。裁判のせいで、父の親、つまり私の祖父母は私の父の溜めていたお金や家を取りあげ、会社までくびにしたのだ。父は私と母とをかかえて、ひとりで一円からお金をためて、30歳にして新入社員(再就職)となって、初めからやり直して来たのだ。どんなにつらかったろう。どんなにお金をかけて私をこの大学まで入れてくれたろう。
父はよく私に、「自分のような思いはさせたくない」と言っていた。私を愛するあまり父は私の受験の終わるまで、自分の学歴さえ私に偽り生きてきたのだ。
大学生になって、幾つもの父の苦しい過去を知った。父はその間も私に「苦しい」の一言も漏らさなかった。なんと偉大なのだろう。私はこの年になり初めて父を尊敬している。
大学生になるまで、尊敬する人はと聞かれると、偽善で「両親」などと言っていたのだが、今では本当に尊敬している。 (女子)
☆ 父は船乗りなので私は人生の半分も父と一緒に生活してはいないし、これから先も一緒に暮らす機会は無さそうだ。そのせいかも知れない、私は父に嫌悪感など感じないが常に緊張する。幼い頃も休暇で帰ってくる父は、父という名の特別の客のような気がして、妹たちがするようには抱きついていけなかった。そういうふうに甘えるのはいけないんだという意識があった。あのときの父の気持ちはどんなだったろう…。今だに緊張は解けない。父と二人で話す時はとてもぎごちなく、かろうじて父にそれと感じさせないようにしている。なにかマニュアルに従って話しているようで、母とのようには喋れない。
しかし父は変わりつつある。年を取り、単身赴任するようになり、父は以前ほど厳しくなくなった。娘の機嫌をとるようになった。自分から家族に溶け込もうとするようになった。そして私は父のそういう変化が分かるようになった。
父と私の関係は、「これから」であると思う。 (女子)
☆ 子供の時、父は世界中で最も偉大な人でした。父を見る私の目にはいつも尊敬と畏怖の念がありました。父は私の行動や考えにいつも絶大な影響を与えました。そんな父を憎んだことも少なからずあります。いつも私の前を歩いていた父。しかし今は父への劣等感はかなり小さくなり、父の背中に手の届きそうなほど近づいているように感じられます。尊敬の念は残りましたが、畏怖の念は消え去りました。もはや完璧な支配者などではなく、欠点だって少なからずある一人の人間として見られるようになりました。
将来父と私は完全に横に並んで歩くことになるのでしょうか。どんどん成長するにつれて変わって行く「父」とは何なんでしょうか。自分が父になったら分かるのかな。それでも分からないのかも。
ともあれ「私」を一番よく知っている人間、それが「我が父」です。 (男子)
★ 「これから」という一語に、希望が光る。また、「我が父」と囲った気持ちが、びしっと胸に届く。
まだまだ、ある。
子供の病気に心を砕いた父親。死にかけてこどもにその命を必死で祈られた父親。学歴にこだわり、子供に「いい学校へ行ってくれ」と辛かった過去を切々と語る父親。
まだまだ、ある。全部をここへ挙げたいほど、いい文章がここに揃っている。
嫌われ、憎まれ、敬遠され、疎まれ、敵にされ、壁にされ、無視され、それでも子供達は「父親」を見捨ててはいない。安心した。むろん甘い気持ちでは居られないのが父親である。峻烈な父批判もある。憎悪の的にもなっている。
ただ、こういうことは、ある。
半年たち一年たったところで、そういう過酷な父への言葉を、静かに訂正して来る学生も、事実、いるのである。だから、あえてそのテの「過酷に過ぎる」乱暴な文章はここに拾わなかった。
学部の一般教育でも、「知識」を授けるのは主たる目的であろう。しかし東京工業大学での「文学」の教師を引き受けたわたしは、文学の知識をあたえるのを第一の仕事とはしない。
文学・芸術に接したとき、そこから「人生」を感じたり知ったり、また深く強く励まされたりできる為の、「自分の言葉」を紡ぎ出させることに力点をおいてきた。文学史なら読書でまかなえる。文学の研究方法は東工大の学生にほぼ無用である。篤志の者には教授室のドアがいつも開けてある。
アカデミックに文学を概論し講義せよという、大学側のらしい、声が聞こえて来ないでもない。お望みに応じるのは容易である、が、くみしない。
文学部でなら大事である。東工大でも数人になら可能だろう。わたしは、しかし、一人でも多くの「東工大」学生たちに、「文学」の面白さと、面白さの深さとを、己が感性と思索とにより発見し体験してほしいのだ。ただ五人や十人のために、作家生活の道草をくうのでは堪らない。わたしは、わたしにできる最善を、学生たちのためにしたい。故郷や親や友人についてしばしば学生に考えさせようとするのも、自身の「根」に、とらわれることなく、だが枯らさないで欲しい、それが二十歳の「文学的青春」を豊かにすると思うからである。
一読、なんと幼いのだろうと学生の手記を侮る人もあるかも知れないが、間違っている。これは高校生をやっと抜け出てきた世代の文章であり感慨である。述懐である。幼いのではない、真面目なのである。
この素直さは、現代がもっとも大切に見失わないでいたい希少価値だと言っておく。 (秦)
* 十数年ぶり、東工大の大教室に戻った懐かしさ。こういう「あいさつ」を、わたしは四年間に単行本の「百冊分」も学生達に書かせ書かせ書かせて、毎週一枚も余さず読んでいた。毎週毎週、突き刺すような質問を学生諸君につきつけ、唸らせつづけた。だが、だからこそ彼らはよく「書いた」のだ、希有な自問自答の体験として。
一枚も散佚させずそれらは今もわたしの身近に保存されている。結婚式の披露宴で久しぶりに披露してビックリさせたことも何度か。
2007 10・24 73
☆ 受話器に足 司
子供って大人では想像できない発想をするときがあって、時々ハッとさせられ、時々大笑いさせられる。
先日、保育園から祖母の家に引き取られて、仕事で遅くなった母親と電話で会話をしていた時の話。
保育園での出来事を一生懸命話す娘。
どういう経緯でその様な話になったのかは知らないが、彼女は保育園で裸足で外で遊んでいたらしく、その足のまま靴を履いて帰ってきたそうな。
で、母親曰く 「そのまま履いたら、足がばっちぃでしょ? ちゃんと洗わないと靴も臭くなっちゃうじゃない!」
そうすっと母親の耳に、祖母の大笑いが聞こえてきた、とか。
「そんなに臭くないよ!」と言いたいがため、娘は、自分の足を一生懸命受話器に押し付けていたらしい・・・・。
家に帰ってその話を聞いた私も、大笑い。
でも、そういう事をした娘に、「臭いは無理だよ」と言うのも、もったいないのでそのままにしておこう、と、これは妻と同意見でした。
いつか、臭いも送れる電話機ができるかも知れませんしね。
* あの教室の男子君。いまはこんな佳いお父さんに。しかし、葵ちゃん、やるなあ。おじいちゃんも大笑いだ。
* なにもみな、事のととのほりたるは、あしき事なり。し残したるをさて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり。
しばらくながめているがよろしからん。 遠
☆ みづうみへ 漣
それ わたしいちばんにがてなこと やりすぎ いきすぎ かんがえすぎ きまじめにとらえて おもしろみふそく 。
あじわうこと ひいてみること おもしろきこと
たしかに こどもたちといると ながめてる
ひとは子をうみ育て わがみうつして じぶんもそだつとよくわかる
わたしに 父はいない
そして今まだ 母にもなっていない
まだまだか、、、
「私語」の東工大学生さんの文章を読み なみだがあふれる
うらやましくて あたたかくて
どうにもできぬが ちゃんと父をみてる
ながい時間がながれてる りかいしようと すなおに山にむかっている
かれらはそれを自分の言葉にしたことで 自分も父母として みられていることを わすれない きっと
父をこえずにきた わたしのまなびのときかも いまは
みづうみ
おだやかな父の背中を思い出す
みづうみ ありがとう
そして 東工大の学生さんの「今・此処」を 祈ります
* 佳い明日がきますように。
2007 10・24 73
* 読んで欲しいと「小説」が送られてきた。中編という規模だろうか、書き出しから、簡潔な、佳い文章で書かれている。少し時間を掛けて読む。
* 「mixi」では、「甲子」老の旺盛な筆意と表現に敬服している。「mixi」でのこまぎれでは作品が惜しい。少しも早く「e-magazine 湖(umi)=秦恒平編輯」に手を尽くしたいと思う。四国の「六」さんはどうされているだろう。
2007 10・25 73
☆ 恒平さん バルセロナ 京
今日は、雨上がりの空にスピード感のある雲が流れ、小学校の運動会など思い出しました。
今朝、東工大の夢を見ました。いつも同じ筋書きの夢で閉口ですが。
久しぶりに東工大を訪れると、構内の雰囲気がまるで違うのです。 空気が明らかに華やいでいて、いつの間にか女子学生がうんと増えています。
久々に顔を出した私に、関心をもつ人はいません。
そこで、決まって、単位が足りないことに気付くのです。どう数え直しても、卒業には一つ足りない。まさか、もう一年やり直さなければならないなんて! と絶望で頭が真っ白になってゆくのです。
これ、学部も院も、よく計算して、必要最低単位の講義しか受けなかったことの、ツケ、ですね。参りました。
恒平さんの日々、読んでいます。
しばらくお便りできずにいましたが、ようやく元気になりました。(ご心配なさりませんよう。)
コンピューターの前に座ると、ほぐれかけた肩凝りが思い出したように強張るので、まだたくさんは書けませんが、いつも傍にいることをお伝えしたく、今日はお便りします。
京
追伸:次回二回分の湖の本の代金送金しました。
* ありがとう、京。
すくなくも、東京とバルセロナとボストンとに「東工大」のトライアングルが出来ていて、この磁場は、わたしを元気に刺激してくれる。
☆ 京都 maokat
起床後、河原町のホテルをチェックアウトし、大徳寺へ。
28日は利休居士の月命日で、聚光院にて法要。拝服席。続いて山内の掛釜のうち、瑞峯院へ。二時間待ち。。。。
しかし穏やかな天気に方丈より枯山水をながめて過ごす二時間は、心地よかった。床には「春秋富」。
堺町の松屋常磐で松風を買い、三条のイノダ本店で遅い昼食。
ここのビフテキサンドイッチを食べるたびに、「西は牛、東は豚」を実感する。この厚さ、そして柔らかさ、ゴージャスさ。私にとってはイノダのたたずまいを含めこの一品に関西食文化圏が代表されている。
混雑の四条、五条、七条を抜け、京都駅からはるかに乗って、関空、千歳、札幌と帰り着いた。
* 簡潔に行き届いた「日記」を読むと、これでいいんだなと思う。わたしは、書きすぎている。「松風を買い」に、ジンと来た。「イノダ本店」もジンと来た。里心というものか。無常の思いかも。
2007 10・28 73
☆ 初紅葉 ゆめ
秋かけて言ひしながらもあらなくに
木の葉散りしくえにこそありけれ (伊勢96)
秋も深まってきました。上のうたのようになりませぬよう、お会いしたいものです(ふふふ)…。
仕事の細かさにもようやく慣れて、真面目に通勤しております。夏の終わりに少し胸のふさがる憂鬱な出来事が発生しまして、少々げんきがありません。でも時間が一番の解決かなと思い、休日にはぼんやりと窓から外の林を眺めていたり…
11月末に休暇がとれたので、一泊旅行にいってきます。富山湾越しに立山連峰をのぞめる「氷見」までゆき、帰りは「こきりこ節」で知られる「五箇山」集落にも寄ってきます。往きは新幹線で越後湯沢へ、それから「ほくほく線」に乗り換え「親知らず子不知」海岸を右手にみながら一路富山へ。氷見まではずっと海沿いです。途中源義経伝説で有名な「雨晴(あまはらし)海岸」も通っていきます。義経一行は、氷見近くの「伏木港」から「如意の渡し」と呼ばれる渡し舟で小矢部川を渡り、奥州へ逃れた、と言われています。かつて越中守であった大伴家持もたくさんの歌を万葉集に残しています。
立山に降り置ける雪を常夏に
見れども飽かず神からならし (巻17・4001)
おいしいお土産をお楽しみに!
富山の「鱒の寿司」は、十二月にはいったらまたお届けしますね。
お嬢さんとのこと、お辛いですね。自我の強いお嬢さんにとって、先生は、目の前に立ちふさがる高い山のように思えるのかも知れないなあ…、なんてちょっと思ったりします。
* この教わった道順の通りに電車に乗ってみたくなった。初冬の北陸か。今年の冬は寒いように天気屋さんが今日話していたなあ。
☆ みづうみ お元気ですか。
わたくしの腰痛は治りません。毎日痛みます。一生ものを抱えてしまったのかもしれません。毎日毎日が空虚です。読まれるあてがない日記を書いているみたい。喪失感ばかりつのり、茫然として気力がわきません。
みづうみの人生は過酷なようですが、それでも、書くという一点でこれほどお幸せな人生はないでしょう。
すったもんだしているうちに、早くも十一月が来ます。お誕生月が近づいてきましたね。今年のお誕生日もお元気にお迎えくださいまして、ささやかなプレゼントをお受け取りくださいますように。 わたくし
2007 10・29 73
☆ あさぎまだら 碧
十日ほど前だったか、市内の病院に集団で来ていると新聞に載りテレビでも紹介されていた。
「うちにも来てるよ」と呟いた母。でも私は見ていなかった。
今日のお昼前、久しぶりに庭を眺めていたら、綺麗な蝶が藤袴の花にとまっている。名前どおりの浅葱色。どちらが内か外か知らぬが、一方には黒の縁取りと浅葱の青、時折大きく広げて見せる翅の美しいこと。もう一方には濃茶が加わり、莟めても華麗といいたい、<ステンドグラスの様>と書かれたのも頷ける。
幸い姉の来ている日、携帯電話のカメラに収めてもらった。
「藤袴にしか興味がないらしいよ」
「じゃあもっと増やさなきゃ」
☆ 今日は休業 巌
先週末は 木津川市加茂まつり ”恭仁京~当尾の里” という商工会の催し物があり その間は なるたけ営業していて欲しいと商工会からの意向を受けて 定休日(日、月)は返上。
土曜日はあいにくの雨だったが 日曜日はよく晴れ 海住山寺 浄瑠璃寺 岩船寺 などで特別展もあり ウォーキングで廻られる方も多く 町全体が賑わっていた。
定休日の代わりに 今日は午前中を休業にして 京都国立博物館で開催されている「狩野永徳展」へ。
会館前にたどり着けたおかげで 洛中洛外図 唐獅子図 檜図 の三屏風は、込み合う前に観る事ができた。
この時代の工芸品・美術品は 制作依頼者の意思が強く反映されている。
鉄砲伝来の年に生まれた永徳の活躍した30数年間の時代の空気の濃密さに、圧しつぶされそうになる。
* 永徳はほんとうに豪放・剛健。
ただ、内へ溜めた力であるよりも、外へ外へ漲る力だと思います。
大学の日本美術史の講義はいつも寺社の実物の前に座らされて聴きましたが、永徳の鳴り響くような魅力に先ず打たれました。
そのうち、長谷川等伯の、内面へ充実して行く沈潜の魅力と相俟ってはじめて、安土桃山の永徳なんだなと思うようになりました。
ま、わたしは安土桃山時代を、時代としては「黄金色の暗転期」と観てきたので、永徳らの金碧障壁畫に心から感嘆しながらも、やはり草庵小間の茶の湯よりに想いを預けがちです。佇み眺める時間の長さでいうと、等伯に、より深く惹かれますが、しかし永徳展、観たいな。 湖
* メールも来ていない、眼も霞んできたので、やすみます。
2007 10・30 73
☆ 絶対音感 ハーバード 雄
今朝もマウスを使った実験.ガラス針を使って神経節にDNAを注入し,さらに神経細胞がDNAを取り込むように,電気パルスを与える.電極の先端がピンセット型になっていて,2本の電極の間に神経節を挟み,微量の電流を瞬時にかける.この機械は解剖部屋に設置されているので,解剖部屋に行って実験した.
すると,横で脳のスライスを切っていたタミリーが,電気パルスの音をまねして「ピッ,ピッ」と高い声を挙げた.「これは何の音かしらね.ラかしら」とタミリー.実は彼女も(僕の所属しているのとは別の)合唱団に所属している.僕が「これはファのシャープだと思うけど」というと,「Hiro,あなた絶対音感あるの?」とびっくりしていた.
自慢ではないが,僕には絶対音感がある.小学生の頃にピアノを習っていたせいだと思う.
しかし,本で読んだところでは,絶対音感を身につけるためには,もっと小さい頃からトレーニングする必要があるということなので,さほど練習熱心というわけでもなかった僕に,どうして絶対音感が身についたのかは,良く分からない.特に苦労してトレーニングしたという記憶もない.
絶対音感があるというと,すぐに、「じゃあ,これは何の音?」といって,そこらじゅうで鳴っている音を当てさせる人がいるが,大抵の音はいくつかが混ざり合っているので,そうなると良く分からない.あまり高すぎても良く分からないし,低すぎても難しい.
ただ,サイレンや電話のベルなどは明らかに分かるし,音楽ならば,聴けばすぐに音符となって頭に浮かぶ.普段の実験室でも,遠心分離機が回っている音などは,ある一定の高さの音になっていれば分かる.
電気生理学で使うアンプの中には,細胞とガラス電極の間の抵抗を数値だけではなく,音で表す機能がついているものがあるのだが,これだとパソコンのモニターを見なくても,今どのくらいの抵抗値なのか分かる.この話をしたら,タミリーは大笑いしていた.
実は,多くの人には絶対音感は無いのだということを知ったのは,大学に入ってからだった.
合唱のサークルで,新しい曲を練習する際,音符に「移動ド」でドレミファを書き込むのが,僕には理解できなかった.「移動ド」と「固定ド」は高校の音楽の時にも習ったが,なぜこんな面倒臭いことをするのか,僕には理解できなかった.歌う前にピッチを合わせるために小さな笛を吹く理由も良く分からなかった.「ファ」は「ファ」じゃないか,と思っていた.
あるとき,歌う前に先輩が吹いた笛が半音ずれていたので指摘した際,皆が絶対音感を持っているわけではないのだということを初めて知った.このとき何故「移動ド」が必要なのかも分かった.
絶対音感を言葉で表現するのは難しいが,感覚としては「色」に似ている.
ドにはドの色があり,レにはレの色がある.ドとドのシャープは,断じて同じ色ではない.むしろ,オクターブ違っている方が,例えば薄い緑と濃い緑のようなもので,判別が難しい.同じ人が歌っていれば分かるが,男声と女声だと尚更分かりにくい.
「絶対音感がある」というと,びっくりする人が多い.何か特殊な技能でも持っているかのようで,急に尊敬のまなざしで見る人もいる.そんな時はちょっと誇らしくなるがが,日常生活では,はっきり言って何の得にもならない.むしろ,音に敏感になるせいか,タイマーの音や遠心分離機の音などが気になって仕方がない.しかも微妙に音がずれていたりすると気持ち悪くて仕方がない.カラオケなどに行って,声が出ないからといってキーを下げると,とても気持ちが悪い.いっそオクターブ下げた方が,まだマシだ.
タミリーが「ラ」の音を出してくれというので出すと,それを元にして彼女は鼻歌を歌い始め,また脳のスライスを切り始めた.
* いやいやいいや、雄クン。尊敬する尊敬する。能ある鷹だねえ、隠していたな。
いま隣室で、毎日一時間、欠かさない妻の「ピアノお楽しみ」が聞こえているが、妻に絶対音感は、まるで無いなあ!? きみ、妻の月光をそばで聴いてたら、気が狂うかもしれん。幸か不幸かわたしは狂わないけれど。
2007 10・31 73
☆ 湖(うみ) さん 巌
コメントありがとうございます。
コンサート等で使われる大型スピーカの前では 音と共に 大きな音圧(空気の振動)を感じる事があると思います。
あのような感じを 四百年を経て損傷したり形を変えても 今も尚当時の演者(作者の永徳 や依頼者の例えば秀吉)の意思を伝播し続けていました 安土桃山の時代の空気は長谷川等伯にてその最期を見取られた 時代の勢いが息絶え転ぶその最後にそのような空間を秀吉は選び 等伯は創った その充実にも惹かれます 。
三年先の約束として 長谷川等伯展を開くと 出口で 京博は張り紙していました。
☆ 秋の味覚 珠
人間ドッグへ。築地のとある予防医療センターは数年ぶり。落ち着いた内装とスムーズな運びに熟練を感じつつ、、、ほぼ無事終了。
軽食を頂きながら時間を過ごし、結果説明という段取りらしい。ゆったりした窓側のカウンターからは、ところどころ黄色くなった土手の並木と川が見える。その景色をさえぎる様に置かれたチラシが目に入る。”旬を味わいましょう”とある。
柳葉魚(シシャモ)
アイヌ伝説によると、飢饉の年に神様が人々のために川に柳の葉を流したところ、魚に変身し、人々は飢えから救われたそうです。柳の葉はアイヌ語で「スス」、魚は「ハム」。「ススハム」が変化して「シシャモ」となりました。
最近は「樺太シシャモ」のカペリンという魚が90%で、世界各国より冷凍空輸されています。北海道で水揚げされる「本シシャモ」は10月から11月産卵前が旬とされ、漁期になるとシシャモ寿司が味わえます。
無花果(イチジクク)
古代エジプトの壁画にもブドウウと共に描かれており、さらには旧約聖書にも数多く登場する歴史ある果物です。「知恵の木」「生命の木」とも呼ばれ、アダムとイブ゙が身体を隠すのに使ったのもイチシジクの葉です。
蛋白分解酵素を含み、植物由来ではパパイヤの「パパイン」パイナップルの「フブロメライン」などと同じく肉料理を柔らかくする効果を持っています。
そういえば、先日食べたシシャモは美しく、美味しかった。ちょっと金色がかって透明感があり、まるで酔ったのかと思うようにほんのり目の周りをピンクにさせて。卵もしっとりふっくらして、穏やかなしお味だった。もうちょっと食べたら、、止まらなくなりそうで、我慢した。食べればよかった。私は食いしん坊、あのシシャモが忘れられない。
無花果も好き。あのボワッとした甘さとプチプチした種の感触を思い出す。乾燥もよいが、やはり生に限る。これも食べたくなる。
この2つ、数多ある秋の旬の代表として推挙されるとは、ビックリ。
2007 10・31 73
☆ みづうみ お元気ですか。
最近パソコン仕事の時にひざ掛けを使うのですが、今日はひざ掛けの中に小猫がもぞもぞ入り込んで寝てしまいました。湯たんぽのように猫で足元の暖をとりつつ、少し邪魔なので早くどいてくれないかと待っています。
ここ数日、出逢いの頃からのメールを読み返していました。時間が経つと見えてくるものがあります。湖面に浮かぶ紅葉みたいに裏を見せ表を見せ浮いたり沈んだり。今思うと、湖の中を魚のように自由に泳いでいればよかった。みづうみは最初からずうっとぶれることなくほんとうに変わることがなかった。
重たいお仕事が続いていらっしゃるのでしょう。どんな風に自転車に乗って、耐えていらっしゃるのかと思うと涙がこぼれます。
どうぞお元気でお過ごしください。 わたくし
* 人間が冷淡に出来ているのか、わたしは、変わらない。変わる必要がないのだから。
* 三響会でニアミスのマイミクさんがいた。
☆ あああああ~!!! 淳
湖さま~!
私も夜の部、9列目中央やや上手よりに座していました~!!
台風の中を見に行って、劇場から出てみると風はすっかりなくなっていました。
こんなに近くにおられたのに~!! 気づかなかったのが不覚! 不覚!
勘十郎さんの舞踊、とても美しくて私もうっとりでした。
最後の一角仙人もとても面白かった。
ただ、太鼓や鼓や笛の音を聴かせる、という意図ならば、最初の(能の)五変化につけた舞はいっそ、いらなかったようにも思いました。
道成寺も、高砂も、みなそれぞれの舞の一歩一歩に、感情の高まりがあるのだ(ろう)けれど、メドレーでやってしまうと、時々肩透しを食ったような気分になります。。。
いろはの「い」の言うことですから、悪しからず…。
若手さんたちの舞台を堪能できたのが、やっぱり一番楽しかったです。
最後に地謡をしておられた方たちも、一緒に立ちあがってカーテンコールに参加して欲しかったです。
残念。
* ニアミスでしたね、残念無念。
能の五変化は、「舞囃子」というきまりの演目をメドレーにし、神・男・女・狂・鬼により舞も囃子も変わる景気を見せていたんですね。舞にうまいへたがありすぎて調和がよくなかったけれど、趣向は尋常でした。
一角仙人の地謡は上手でしたね。謡のおもしろさを躍動させていました。
勘十郎も納得させてくれましたね。
十一月は、山城屋の玉手御前を、国立劇場で大いに楽しみにしています。歌舞伎座は夜の部の「山科閑居」に期待しています。
またニアミスならぬ、出逢いがありえますように。 湖
2007 10・31 73
☆ お元気ですか、風。
朝は青空が出ていましたが、天気予報はどれも雨。当たりました。
ほんとに降るのかなあ、と、富士を見上げ半信半疑で、青空の下、おつかいに行きました。午後は家にいられます。
次回湖の本発送の準備中でしょうか。
花は、風の『漱石「心」の問題』を持って、階下へ行きます。
2007 11・1 74
☆ 文学と音楽と、なんだか似ているなぁ。
私は音楽の人間ではないけれど、なんとなく、そんな風に思いました。
絵画も、文学と似ているなあ。 淳
* 文学はほんらい音楽です。文学の根は詩歌ですもの。優れた文体は、音楽です。
「音楽」と書いて「音学」と書かなかった幸せを感じるとき、
「文楽」と書かずに「文学」と書いてしまった不幸を思います。
文学を絵画のように想いはじめたときから、文学は「映像の手下」とおちぶれ、「文学の音楽」を見捨てはじめたのではないでしょうか。
文学は音楽です。 湖
2007 11・1 74
☆ 走り 藤
お陰様で夫婦そろって元気にしております。
秦様のHPを拝見するのが日々の楽しみ。
”はしり”って「走り」なんですね! 言葉自体は勿論知っていたし、使っていましたが、どんな字なのか考えても見なかった。
私の生家京五条の家の「走り」は、もとが造り酒屋だから 広いというか、長いというか——
中学生の頃「ローラースケートはいて台所仕事をしたらどやろ」と本気で思ったことがあったくらいです。文字通りの「走り」、女たちが走るように行き交っていました。
「流し」のあたりのことは前にも『新宮川町五条』の中に書きましたが、大きなおくどさん、鍋などの入った戸棚、流し、井戸が順に並ぶ対面に 一間幅くらいの板の間が、舞台のように土間よりも高く作られていて そこで大家族が一列に箱膳を並べて食事をしていました。
上座には火鉢があり、いつも「ほうじ茶のやかん」がかかっている。今で言えば、DK(ダイニングキッチン)。給仕役は土間を背に座る決まり、大柄な母は後ろのたたきに落ちそうでした。
落ち着かなくて、しかも冬は恐ろしく寒く—–
「他に一杯部屋があるのに、どうして走りで食べるんやろ」と不満でした。
—などと昔語りをするのは
あまり、よい傾向ではない
と秦さん言われてしまいますね。
そのせいかどうか、今でも私はDKとかLDKが好きではなく、家の台所は4・5畳あり一人二人なら食事が出来ないこともないけれど、
絶対にテーブルや椅子を置かない、置かせない。他のことにはずぼらもののくせに、冷やご飯を一人で食べる昼食でさえも、せっせと隣室のテーブルまで運びます。このこだわりは何?
月に二度やそこらは自分で車を運転して東久留米まで行きます。
運転しながら「秦さんがヘルメットかぶって現れはったらどないしょ」
でもあの辺の道は、車の方も自転車の方に接触しないかととても気を使います。どうか、どうか、気を付けてサイクリングして下さいませね。
* こんな桁ちがいに大きい広い家で育った人も世の中には、いっぱい。わたしは、ついに畳が八枚敷かれた部屋を持たないまま死ぬらしい。丹波に疎開していたとき、裕福な農家の離屋を借りて暮らしたが、この離屋に八畳間があったがあれはわが家とは謂えない。家は、しかし、ただの「壁」だもの。これで良いと思っている。隣室では妻がピアノを楽しんでいる。わたしは此処で機械に触れている。
2007 11・2 74
☆ ほんとうに 愛
文学は音楽ですね。
「音楽」と書いて「音学」と書かなかった幸せを感じるとき、
「文楽」と書かずに「文学」と書いてしまった不幸を思います。
ああ、ほんとうに・・・。
☆ 霜月 鳶
今頃は聖路加でしょうか。足の症状は如何ですか、心配です。
海外をさまよいたいですが、さまよってはいませんでした。
霜月になってしまいました。
過ぎ去ったことが、過ぎ去ったはずのことが亡霊のように現れて、この半月ほどわたしは鬱屈したまま何も書くことができませんでした。外見の穏やかさが重荷でしたが、わたしは態度一つ、行動一つできませんでした。行動しないことが「決意」でしたから。
曖昧な表現ですが、せめてこうして書くことで少しだけ軽くなるかしら。
文学は音楽・・文学の根は詩歌、その言葉を心に刻みます。
☆ こんにちわ、風
降り出しそうな空です。洗濯物は家の中に干しました。
お元気ですか、風。
わたしの子供の頃は、川端や吉屋信子の書いていたような「少女小説」は姿を消していたと思われ、読んだ記憶がありません。
「小説」の形態では、一九八〇年代後半に登場した「コバルトノベル」のターゲットが、明確に少女でしたが、「小説」というより「メモ帳」といった方がいいくらい余白だらけのものばかりで、川端らとは並べられません。
(現在、「コバルトノベル」系の流れは存続しているらしく、図書館や書店に「ヤング小説」とか何とかいうカテゴリーがありますね。)
今日、かつての「少女小説」の位置にあるのは、「コバルトノベル」などではなく、一九七〇年あたりから隆盛した、青池保子、木原敏江、大島由美子、槇村さとる、竹宮恵子ら女性漫画家による、少女漫画ではないかと思っています。
わたしは、少女漫画全盛の一九七〇年代生まれですからね、随分読みましたよ。
(川端や吉屋信子が「少女小説」を書いていたように、少女漫画も、専業化される以前は、手塚治虫や川崎のぼるや赤塚不二夫ら少年漫画家が描いていましたが。)
日本を「漫画・アニメ大国」と謂うとき、荒廃した世界での戦闘ものや、やたらとかわいい女の子の出てくるものを指しているようですが、上に挙げた女性漫画家たちの、繊細な心理描写で日常の出来事を描いた作品が顧みられることの少ないのは残念です。
以上、風のメールの「少女小説」の語を受け、思ったことです。
ちなみに、今回送りました『朝霞さんの乳房』の登場人物は少女たちだけれど、少女漫画を念頭に置いて書いたのではありません。
お怪我のないよう、お過ごしください。花は、とても元気です。
* 新作はたいへん安定した文学的な文章で手に入って書かれている。一昔以前の女子高校を舞台にしていて、生徒間の心理的な葛藤や親愛や軋轢が、浮わつかずに追跡されている。いわゆる通俗な少女小説ふうではない。かといって斬新で大胆な風俗というのでもない。まだぜんぶ読めていないから多くは言えない。
原節子、木暮実千代、杉葉子、若山セツ子らそれに池部良らの映画『青い山脈』を観たが、これは数ある青春映画の中では評判のワリにやや見劣りがする。原節子の演じる島崎雪子先生の美しいことは言語道断といいたいほどで、これは保存したいけれども今井正の監督映画にしてはチャチな出来だと思う。こうなっては困る。
しかし川端康成の『伊豆の踊子』でも少女小説として売られていたように思う。あのように書ければすばらしい。あの小説の魅力は、ひとことでいうと花だ。はんなりとした味がファシネーションを成している。
☆ 新幹線 泉
箱根の山が見えて後少しです。
悲田院に参りました。
東福寺の紅葉は始まったばかりで静かでした。
今朝 古門前通りの思文閣で公開の、石山寺所蔵の源氏物語に関連の絵を観、博物館の常設展を覗きました。
近江八幡は同級生のボランティアガイドの案内で、旧交も温めました。
もう品川に到着しましたよ。
2007 11・2 74
☆ 初雪 maokat
この日記を書くようになってから、今年の初雪はきっと、底冷えする暗い午後、藻岩山の方から細かい雪が静かに降りてくるのだと、勝手に想像してました。
昨夜二時過ぎまで仕事をしていて、朝を寝過ごし、雨の中出勤しました。そしたら昼のニュースで、朝方のみぞれが一時雪になって、札幌は初雪を記録しました、と。
見てないよ、今年の初雪。も一度降り直してよ。
紅も黄も 目に滲みたり 初小雪
* 和して hatak
くれなゐや 黄や 秋かぜの果てどころ
小雪とて おのづからなる泪かな 湖
2007 11・3 74
* 「Always 三丁目の夕日」の続編は昭和34年を描いたそうで、つまり私たちが上京し結婚し就職した年にあたるので、わざわざ映画館へは行きませんが、テレビで早めに映してクレンかなあと思っています。
市ヶ谷河田町、女子医大の真裏の静かな細道の奥のアパート、六畳一間で、二年暮らしました。
フジテレビが医大のとなりにありました。開局して間が無く、テレビを観たり、平気で撮影中のスタジオへ夫婦で忍び込んだり、頼まれてエキストラに出たりしました。「黒龍」のコマーシヤルに出ていたそれは綺麗な岩下志麻が、地下廊下を行ったり来たりしてセリフを暗記していたり。顔が合うとにこっと笑ってくれたり。
新宿まで歩いて伊勢丹の中を観て歩くだけで、あのころは十分な娯楽になりました。ほんとに観て歩くだけです。
あのころの都電のガタガタ音が耳にのこっています。
卵は一つ、葱は一本買っていました。一日の一人の食費は八十円が精一杯の貧しさでしたが、ちっとも苦にしませんでした。
そんな昭和三十四年でした。小説を書きたいなあと思いながら、まだ書き出していませんでした。 湖
2007 11・3 74
* 心嬉しいメッセージが、幾つも届いていた。やす香のお友達が佳い写真をそえて、和やかなメール。重苦しいモノのぬけきらない日常を、ほうっと温めてもらった。写真に見入った。
* はるばるポーランドから、マイミクにと。
「ご無沙汰しております。ポーランドに住む先生の教え子です。<創>という名前で登録しております。
8月まで多くの作品の現場を抱えておりましたが、一段落しました。そこで、もう長いこと、先生に「文章を書きなさい」と言われていたのを実行にうつせるか、とミクシィを始めることとしました。
継続に自信はありませんが、コツコツと更新できればと思います。よろしくお願いします。」
☆ クラコフ→カトヴィッツェ 創
11月1日~3日にかけてクラコフ→カトヴィッツェを旅行してきた。
クラコフはポーランドの古都、かつて住んでいたプラハと相通じる所がある。都市としてはプラハのほうがおもしろいが、ヴァヴェル城とプラハ城を比較するとクラコフのほうが良いかもしれない。
カトヴィッツェは驚くべき都市だった。ある通りがすべて上質なモダニズム建築に覆い尽くされている。こんな通りは世界広しといえどもここいがいないのではないか。
ポーランドにいる間に是非もっと調べておこう。
* 大歓迎 待ちかねたよーい。元気なアイサツを、楽しみにしています。あいかわらず、苦しい日々ですが、楽しい日々に化学変化させようと気を働かせています。
よいお仕事を続けて下さい。いい日本語を忘れないで。
奥さん、ボクちゃん、によろしく。 湖
2007 11・4 74
* 「mixi」の「マイミクさん=相互交信の信頼関係を結んだ人」をわたしは今五十一人もっている。昔からの「湖の本」のお仲間が大半をしめるが、「東工大」「京都」「e-OLD」「ペンクラブ」などで結ばれてきた人たちも、「mixi」上での新たなご縁で親しみあった人たちも。あまり数を増やしたいとは思わない。
マイミクさんの日記や作品は自動的に眼に入るよう設定されているので、丁寧に付き合おうとすると相当な時間が必要になる。時間を掛けても丁寧に付き合いたいと思うから数ばかり増やそうとは全く願わない。
マイミクのなかに、おのずと幾つかのグループが出来て行く。私=「湖」というキイステーションを中継して、それまでご縁のなかった人たちが交信されたりマイミクになったりされていると、ああこれが「mixi」だなと気が晴れる。
「mixi」にも、ずいぶん醜い悪用が流行したり蔓延ったりしていない段ではないのだが、それは自律的に排除していさえすれば大方問題はない。無考えにマイミクを受け容れていると、しらぬまにややこしい情報網の餌食にされかねない。
ともあれ、わたしのマイミクさんたち、ご老体の甲子さんを筆頭に、こもごも活況を呈されている。ご健康を祈ります。
☆ 河田町 秀
マイミク「湖」さんがHPに、昭和34年に市谷河田町に上京、あら所帯を持った、と書いていたのを懐かしく読んだ。
先月、埼玉のお寺さん参詣のあと、まだフジTV嘱託をつとめている兄貴と、みちみちしんみりと話した。
兄貴はフジTV(当初の社名は富士テレビジョン)開局二年目から勤めている。入社は昭和35年春(実習期間は前年から)。
局は何度も訪ねた、あそこらあたりに知り合いもいたし(病院の先生やらお偉いさんやら)、バブル絶頂・崩壊時期にボクの職場もあった。坂下の富久町だったが。
そんなこんなでフジTV、河田町界隈の思い出のおすそ分けがある。
開局間もないころ、録音技術担当でデンスケ持って河田町フジTVへとタクシーに乗ったら、不安的中、市谷の日テレに運んでもらった話。
当時、東京のTV局で知られているのは、(内幸町のNHK=日本薄謝協会は別にして)民放では赤坂のTBS、市谷の日テレだった。フジTVって富士電機の子会社ってな話もザラだったとか、隔世の感しきり。
河田町のフジTV通用門口に、労組の赤旗が翻っていた時代のこと。兄貴や仲間は構内の事務室や近くの事務局によく寝泊りしていた。経済闘争が欠かせない時代であった昭和40年代。時々訪ねては、社員食堂や通用門口の喫茶店でお茶や飯をよばれたりした。
ボクとは違って真面目でひたむきな兄貴には、一目もニ目も置いていて、尊敬していたっけ。よく説教もされたが。
それから時が経って、バブルの頃、ボクが上ッ調子で羽振りが良かったころ、親分の代貸格で運転手付き黒塗り高級車で局に何度か乗り付けていた。
そんなときにも、マジメにやれよと何度も諭されたっけ。
先夜再々観賞した「夕日の三丁目」で思い出したこともあった。
東京タワーもいろいろからんでくる。
あれは、泣けて笑えるいい映画だね。いつ観ても。
2007 11・5 74
☆ 河田町 珠
湖は女子医大の裏手にお住まいでしたか。
私は、女子医大の看護短大に入り、その後13年間余丁町に住んでいました。あの界隈は戦後焼け残ったところだと、大家さんのお爺さんお婆さんが昔話をいろいろして下さり、三交代勤務をいいことに、ウロウロ街なかを徘徊しては、古い家や庭を覗き込んでいたものです。
今はもう面影なくて、私が住んでいた古い家は道路拡幅で取り壊され、街はマンションばかりとなってしまいました。コンビニエンスストアなぞ、あの頃はほとんどなく、夜勤に皆でつまむお弁当作りが大変でしたが 最近はコンビニエンスストアで買って持ち寄るようになっていて、楽ではあるものの それぞれの個性が全くみえなくなってしまい、残念です。
便利さと共に失ったものは大きく、これを戻したいとそこに拘ると、これまたおかしな按配でもあり、このバランスを上手くとることに かえって技術を要するようです。ネットなども便利ですが、何に使いたいか判っていないと依存にもなり、時間を簡単に失います。
メールがあり、携帯があり、かんたんに様子のやりとりができるけれど、これが無い時代の人と人との関係はどう育ったろうかと。
距離感がなくなるのです。メールや携帯での日々のやり取りは いつも相手を近くに感じさせ、そこでたくさんな錯覚も生まれます。もっと手間をかけて何かをかなえてゆく、そんな時間があるべきかとと、思います。
湖が奥様と過ごした季、よかったですね。
手間をかけて何かを共にする、最たるものは家族を増やす事でしょうか。
私のような年齢になると、これまたちょっと。わが師には、「まだ半生だから余計むずかしいわ」とも言われました。そのうちには、「空気になるのよ」と。。。
私はまだまだ、なにもかも初心者コースのようです。
真夜中、冷えてきてます。
足には手当てを、お大切に、湖。
* 河田町 湖
昭和三十四、五年の河田町は閑散としていました。若松町という都電の駅でした、国立東京第一病院も近く。
女子医大病院には、関光さんという、後に看護協会会長にもなった女傑の総婦長がおられ、就職当時かわいがってもらいました。勤務先で「看護教室」という准看生徒対象の雑誌編集を担当し、関さんは委嘱したえらい編集委員でした。その仕事で女子医大にでかけ、その脚で病院の真裏のアパートで一休みしてまた会社に帰ったり、そのまま「直帰」したり。朝に女子医大に「直出」したり。いくらかラクをしました。
アパートのあった閑静な細道の出口に銭湯があり、都電へ出て行く途中に簡易裁判所があった記憶があります。飯田橋の方へむかう都電の乗り場前に民藝雑貨の店がありました。線路沿いに牛込北町の方へ坂道を歩いて行くと途中に小さな古い映画館があり、『おはよう』『秋刀魚の味』などを観た覚えがあります。
関総婦長の近くにいた若い、つまり就職したばかりのわたしとそう年の違わない看護婦と仲良しでした。なつかしく思い出します。
短大というのは、何年頃の話ですか。ずっと後のことでしょうから、榊原先生を招いて心臓の研究所が新しく建ち、急激に女子医大が大きく伸びていった頃かな。フジテレビも引っ越して行きました。
三島由紀夫が自決した元の陸軍省の辺へはよく歩いていました。乗り物賃がなく、よく歩きました。二年ほどのあいだ、わたしは財布をもてなかった。なにかあれば本郷の赤門前から河田町の家まで歩いて帰りました。そういうものだと思っていたので平気でした。
☆ つづき 珠
私の女子医大看護短大の卒業は昭和60年ですから、心臓血圧研究所も、大きくそびえる中央病棟もあって、大学病院として充実していた頃でした。病院から河田町の交差点へ行く道すがら、左手には簡易裁判所がありました、今も、あります。(たまに大学へ行くので。)
河田町の飯田橋行きバス停のすぐ前に、民芸雑貨「備後屋」があります。多分、湖の住んでた頃からあったのでしょう。一度建替えて、ビルになりましたが、漆喰風の店はかわらず 落ちついた雰囲気です。私はこの店に足繁く通い、ささやかですが家の品々を求めました。今もそこここに、その品物があります。
銭湯があって、簡易裁判所を通るとなると、たぶん女子医大では1号館、2号館と呼ぶレンガの建物(旧弥生講堂がある)の裏手あたりに
アパートがあったのでしょうか。少し坂道をのぼって簡易裁判所を左にみながらの通勤ではありませんでしたか? 裏手あたりが一番低く、またその向こうは坂、、、小さな坂の多い一帯、それだけに目線がかわって思わぬウ゛ューポイントがあったりしました。坊城さんという大きなお宅の灯篭は格別で、しんと静かなお庭をよく覗き見させて頂きました。
湖のご存知の総婦長さん方、私は存じ上げませんが、女子医大の看護は熱い先輩方によってつくられた情熱の看護教育であったと、今は誇りに思っています。
私は卒業してから血液内科・呼吸器内科病棟に14年間、一番高い場所にある病棟で、富士山や新宿の夜景を患者さん方と共にみながら働いてきました。せつない別れが多く、年間約100名近くの方をみおくりました。忘れられない人はその中でも 10人程度。今もまだ3名ほどはご家族とも連絡をとりあうおつきあい、看護の、長い時間での「喪」の仕事だと思い交わしています。 珠
2007 11・5 74
☆ アウシュビッツ ポーランド 創
今回の旅行の最大の目的はアウシュビッツに行くことでした。
私は既に2年前に一度訪れたことがありましたが、妻がまだ行ったことがなかったための再度の訪問となりました。
アウシュビッツ(ポーランド語ではオフィシエンチム)は戦争の悲劇の証であり、戦争の残虐性の証であることで、これからも、いえ、これからこそ、その重要性が増していくと感じます。
私にとってのこの地は、本当に悲惨な悲劇を想像できないということ初めてを痛切に感じさせる場所として、記憶されています。アウシュビッツにはアウシュビッツⅠとⅡがあり、Ⅱをビルケナウと呼びます。
Ⅰには多くの遺留品(正確には没収物)が展示され、また銃殺刑に使われた中庭など、生々しい悲劇の「場」が、今でも残っています。子を持つ身としては、小さな子の衣服を見ると、自然と涙が流れてしまいます。
Ⅱはそのようなものが残ってはいません。あるのは馬小屋を改造した囚人(!)用バラック、そしてガス室の残骸のみです。しかし実際にはこちらこそが殺人工場であり、何倍もの犠牲者を出しています。
このⅡは何倍もの悲しみがそこにあるにもかかわらず、その悲惨さが全く想像出来ません。要約すれば、Ⅰは生活の一部として悲惨さがあるが、Ⅱでは生活全体が、生活そのものが悲惨となり、そのような悲惨を私が想像できないのです。どのように感じ生きていたのか、それが想像出来ません。
このような想像を絶する悲劇の起こらないことを願います。
本日のヤフオク:「保健住宅」山田醇 創
山田醇は明治~大正~昭和にかけて活躍した建築家。
私には辰野事務所に関係した住宅作家としてしか認識がなく、本書のタイトルから興味を持った。
山田は、明治45年に帝大から辰野・葛西事務所に入所、大正6年には独立する。
代表作は閑院宮邸。
本書は昭和14年発行であり、東京駅と辰野金吾」によると 15年頃には廃業(?)となっているので、廃業する直前のものとなる。
近代主義建築の目標の一つには「衛生」があるが、タイトルずばり 「保健住宅」というのは重要な書籍であろう。
藤井厚二とともに今後考えていきたい。
本日のヤフオク:ル・コルビュジェ展(1961)図録 創
コルビュジェに関する書籍、図録は既に何冊か持っているが、ほとんどが80年代以降の最近のものばかりであり、巨匠としての回顧録であった。
今回のものは1960~61年にかけて行なわれた世界巡回展の図録であり、かつ50年代に入りチャンディガール、ロンシャンと以前の「白い箱」の作風を裏切る作品を発表したばかりで、その活動が大きな節目を迎えた後のもの。
59年には上野の西洋美術館が、60年にはラ・トゥーレットが完成する。まだ確定しないコルビュジェの記録として、楽しみだ。
さらにおもしろい事実は、本展の日本展実行委員長が、前川國男であること。前川にとっても展覧会のあった61年は、前述の西洋美術館の正面に東京文化会館が竣工する。
つまりこの展覧会は、前川の主義を主張する展覧会でもあったのだと考えられる。
* 創クンの「mixi」登場をよろこぶ。建築のお仲間達にも知ってもらいたい。
2007 11・5 74
☆ 鴉へ 鳶
二日早々にメールを戴いていましたのに、今日になってメールを開きました。
映画館でぐっすり寝てしまう、とは、「おじさん」してますねえ! 損したような、でもそれ以上に幸せ気分かもしれません。能を観て眠るとは少し違うかもしれませんが。
何とか日々を暮らしています。
今は豚ばら肉(脂肪が少ないのを選んで買いました)を煮込みながら書いています。
ちょっとした時間には先日骨董市で買った錫の急須を磨いています。紫の染めや泥大島の着物に袖を通したりしています。騙し騙し、楽しんでいる
ようにみえるでしょ?
一番のテーマにしたいとおっしゃる、そのテーマが「大衆や労働者農民らの抵抗運動が常に道半ばに破綻し崩潰した、<破綻と崩潰の研究>・・」だと書かれているのは、驚きでもありました。同時に意味を重く受け止めます。が、それにしても「破綻と崩潰」の研究とは悲しい響きです。
失礼は承知で書きますが、あなたの日常にそのテーマが一番であると、わたしはそのようには認識してきませんでした。底辺にあるものへの眼差しは十分存じています、分かっています。が、何よりも行為者として、抵抗者としてのあなたの姿、ここに ? マークをつけたら叱られてしまいますが、わたしには想像できない部分もあります。少なくともお兄様が組織に属して闘ったのとは大きく異なります。(それは反面教師として、鏡面には私自身の姿も映っています。)
重量感のある『民衆の抵抗運動の研究』をするためには、元気で気力があること・・特にその気力の強さが不可欠でしょう。たとい微かな仄かな光明であっても、未来の方に確かな確信があれば、人は地道な忍耐を求める仕事に邁進するでしょう。現代は、現在はどのような状況にあるか。ぬるま湯に浸かってみな中産階級と言っていた状況は吹き飛ばされて、組合運動、労働運動は腑抜けになって、既得権利さえ底なしに失っています。いつの間にやら格差格差と寒々しい状況です。
若い人たちの間にどれほどの抵抗運動の力が潜んでいるか、存在しているか・・? 大いに期待したいのですが。
わたしたち団塊の世代にほぼ括られる研究者が、学園闘争の後、さて民衆の歴史、抵抗運動の歴史研究にどれほどの成果を挙げてきたのか、残念ながらわたしは殆ど無知です。
「鳶は若い。一つ、重量感のある研究を始められよ。」と書かれています。Mixiに書いたやや固い内容の文章のほうをHPに載せていただいていますが、その方がわたしらしい文章なのか? など思ったこともありました。
社会的な問題への関心は常にありますが、寧ろ自分の中心課題としないようにしてきました。およそ政治的な人間ではないと知っていますから。探求・・ただしそれが「行動」に結びつかないこと、それは恥ずかしいことでもあると、今も思います。関心あることの微小な証として、そのような作業をす
ることは可能かもしれない、保留しつつ考えます。
同世代の辺見庸の『独航記』や、昨年買った『抵抗者たち』という本が手元にあります。著者は米田綱路(よねだこうじ) 1969年生まれで戦後の空気を知らない世代、その人が記すことのかなりを、例えば花岡事件、国鉄解体とリストラ、三里塚闘争など、わたしは本当に表面的にしか知らなかったことに、逆にショックを受けました。
戦後日本の経済成長の中で急先鋒に立ち、働いてきたのはあなたの世代であり、わたしたちの世代でした。そしてそれなりの経済的恩恵も受けてきました。
懐かしい昭和と、映画などでさまざまに郷愁に誘われても、そしてそれは確かに懐かしいけれど、父や母、亡くなった人たちが懐かしいけれど、其処に戻って暮らしたいとは思えない。それは既に過去、過去の幻影、ともすれば自分で作った勝手な幻影。
平成になって、既に十九年、来年は二十年とは、恐ろしい。
勝手なことを書きました。書くよりも、飛んでいって会いたいですよ。
良い季節を楽しまれますように。
こちらでは今年の紅葉はまだまだです。京博の狩野永徳展が今月半ばまでなので、早めに出かけねばと思っています。
* 歴史記述を顧みていて、世界の近代であれ、日本の近代であれ、民衆や働き手達の闘いは、悉く中途で挫折している。
前車の覆轍をすこしも身にしみて顧みないで、またぞろ無防備に無思慮にことだけを起こして「勝つ」用意が無い。しかし、それらから学ばねばならない。決して挫折と崩潰の理由は複雑怪奇でなく、箇条書きにしてでも纏まるだろう。だが、大衆は、労働者達はそれに学ぼうとしなかった。そして潰えてきた。悔しいことだ。
小沢と福田の密室合議は、とほうもないまたしても挫折と崩潰を導き、国民や私民の議会制民主主義にかけてきた希望をシャボン玉のように吹き消した。
歴史から学べば、かなり多くの愚が避けられる。挫折と崩潰との歴史を書くのは情けない悲しい気弱いことではない。ほんとうに成功するためには、きちんと押さえて前者の轍を踏まないために。私民への愛情ある学者や批評家なら、少し努力し勉強していい論文にして欲しい。フランス革命の成功の前には、歴史的な文献になったいくつものパンフレットが書かれた。
政権の座にありついた連中を権力者だと思うことがそもそも間違いではないか。その権力を彼らに与えている、与えうるのは、権力の源泉は、われわれ私民の腹中にあり胸中にある。それを忘れているから、いけない。
2007 11・5 74
☆ みづうみ お元気ですか。
病院の結果が良好で本当に嬉しいです。それにしてもおみ足も眼もくれぐれもお大事にしてください。とても心配しているのです。
金曜日は脚が痛んで、肌寒い一日で、しかも雨。映画館で戦闘映画を観ながら熟睡。みづうみの孤独な半日が、小説の印象的な一場面のように読めました。わたくしも別の場所でさびしい気持ちを抱えて過ごしていました。いろいろの想いを抑えることも、命が消耗していくようです。
みづうみはせめて、最近封切られた『チャタレー夫人』をご覧になったら、原作には到底及ばなくても、少し楽しい映画観賞になったのではないでしょうか。
以前にBSで『真珠の耳飾りの女』を観た感想をわたくしは書いていませんでしたね。
あれは一度でも「妻」という立場になった女には、恐ろしくむごい映画でした。なんで私をモデルにしてくれないの、という所帯じみた妻の嘆きは、藝術家の妻の避けられない嘆きですし、長年連れ添った妻の嘆きにも通じるものがありました。よく出来た作品ですが、楽しんだり共感するどころではなく、気落ちする映画でした。
でも、あとで考えると、フェルメールの藝術の「質」を鋭くついた映画だったと感心します。フェルメールは視覚的に限りなく美しい絵画を描いたけれど、ダビンチやレンブラントにある何かが決定的に欠けていると、わたくしは感じます。
ダビンチやレンブラントの作品の前では、描かれた人間の心臓の熱い拍動を感じ、時に血飛沫を浴びたようになり、畏敬の念に打たれるけれど、フェルメールの作品に対しては畏敬の念は生じません。どこまでも透明に純粋に美しいと見とれています。天才の業に違いなくても与える感動の質の異なることに驚きます。
みづうみは藝術家としてフェルメールの道を選ぶのか、ダビンチやレンブラントの道を選ぶのか、どちらですか。ご自身がどちらの行き方も選べるだけの才能をお持ちのことに気づかぬみづうみではないと思っています。
わたくしがいつもみづうみに突きつけたいのは、みづうみ版「***」を書いてくださいという熱い訴えでした。『親指のマリア』を描いた作家は、フェルメールの世界にとどまる人ではないと思っています。
相変わらず不遜なことを申し上げましたが、よくも悪くもこれがわたくしなんでしょう。お笑いになってください。
爽やかに秋晴れですが、雨になるという予報でした。マイミクになれないので、毎日妬いています。
胸の重いことでしょうけれど、どうか今日も一日お元気にお過ごしください。 わたくし
* 手厳しいが、いい、有り難い批評家。
* 逢花打花 逢月打月
出典は調べていないが、玉室宗珀の書に。「打」一字は「打(だ)し」と訓む。打つ意味でなく、「受け容れる」の意。風流の花月、自然の花月と謂うにとどまらない。極端な場合、花とは生、月とは死でありうる。逆でもいい。美でも醜でも、戦争と平和でも、悪と善とでもありうる。そして「受け容れる」とは「受け容れない」ことである。だから「受け容れる」のである。花も月も、何処に在るというモノでない。無いモノでもない。「打」とは、颯爽。
2007 11・5 74
☆ 虫の音もいつしかやんで 雀
澄みわたった川水に霧の立つ朝が多うなりました。南座にまねきが書きあげられたそうです。
山も里も色づいて、もずでしょうか一鳴き二鳴き、声音が窓の外を遠ざかってゆきます。冬隣の糠雨。
おかげんいかがですか。
過分のお返事、まことに申し訳なく存じます。
お返事いただいた頃、「三輪山に行ってみたい」と友人から外出の誘いがございまして、大神神社でご平安を、狭井神社にご病気の静穏をお祈りしてまいりました。
今年は6月のはなから、暑さ負けで、ねじを巻いても巻いてもゼリー菓子のようなオツムはとけてゆく一方。吉野の宮滝で夕まぐれまでぼんやり過ごしたのが機首を上げた最後で、計器停止ぎりぎりの低空飛行でした。
時候というのはよくできているものですね。秋彼岸に入ってようよう戻り、隣市で古い時代劇映画の上映会があるというので出掛けたところ、その4本のうち 3本が甲斐庄楠音の美術・衣裳だったものですから、うれしくて。
映画のおもしろさも発進ブースターとなって、“明日、十五夜の光を浴びたら「元気です」って、メールを送りしましょ”と思っていました。
その日は国立(小)千穐楽。吉田玉男一周忌の劇場ロビーから、「こんな日にこんな電話…どうして…」と涙混じりに、(望月)朴清さんが亡くなったと、友人からの電話。雀はふたたび沈みました。
祖父三世朴清と同じ戌年のお生まれで、七代目の「鏡獅子」で歌舞伎に入り、朴清を襲名。これで76才(三世の享年)を越したら本当のおじいちゃん孝行と常々おっしゃってらしたのに。
還暦の春、戌年生まれの成田屋が初めて右京をつとめた「身替座禅」立鼓で、最後も大好きな成田屋さんの舞台でした。翌月はお気に入りの「奴道成寺」だったのに。
お祖父さまの太鼓、お父さまの小鼓に加わって、天の鼓で六代目の「鏡獅子」を打って孝行を仕上げてください。お酒もどうぞお好きなだけ。御冥福を祈ることができるようになって、気がつけば月は虧け、満ちて、のちの月。今年は十五夜も十三夜も月夜が続かず雨曇りでした。
夏に入る頃、母が外来語辞典を見繕って送ってほしいと頼んで寄越しました。雀もかねがね欲しいと思っていたので、主人に郊外の大型書店まで連れてってもらい、見立ててもらいました。そのとき夏休み対応の文庫本売り場に『古美術読本(二)書蹟』を見つけて、雀躍。それを含めて数冊購いましたが、わからなくて、のみこめなくていまだ読み切れません。再三再四読み返しほかへ北(に)げ、また読み返して少し手がかりをつかむというざまで。でも豊かに遊楽な苦戦苦闘です。
『猫と庄造と二人のをんな』。『細雪』(これはくじけて中巻を抜きました。再チャレンジします)。『黄漠奇聞』『星を売る店』『弥勒』などの、“足穂のお月様”新潮文庫『一千一秒物語』。乱歩の肌合を感じながら、「『いき』の構造」「風流に関する一考察」へうつり、神戸、横寺町から牛込、茗荷谷へ歩くような鏡花の「薄紅梅」「雪柳」「縷紅新草」。
ときにお尋ねの“美味いもの”ですが、ゆでたてのうどんにたっぷりのおろし生姜と刻みねぎを乗せたもの、郷里から届いた新米でつくる卵かけごはん、スーパーの惣菜売場で買うできたての揚げ物、コンビニのおでん、近所のおじいちゃんから思いがけずいただいた冷たいブラックチョコレートひとかけと指折り、三輪でにゅうめんを食べた門前食堂のおやじさんの顔や和菓子屋のおじいさんを思い浮べ、つれあいが自分のついでにいれてくれたパックのコーヒーに気がつきました。
作り手が至近にいるものは美味しい。
ありがとう、おいしい、ごちそうさま。この一言に笑顔になる人がいるたべものはまちがいなくおいしいです。 囀雀
* しばらくぶりに、よく囀ってくれました。ふさがりそうな気分が晴れました。
* e-OLD作家の甲子さんに、ジャムをたっぷり大きな壜入りで頂戴した。本体かも知れないが、壜の大きさからするとおまけのように、なんだか「ちっこい雪だるま」みたいな二体のチーズも戴いた。さ、これはどういう風に食べるチーズだろうと、妻としばらく話し合った。
☆ CACIOCAVALLO 甲子
お口に合うかどうかも判らずお送りしました。ラベルの見開きにご注意ください。味よりも、面白いので・・・面白いのが好きなものですから。というより、昔からのものらしいのですが、そんな時代にテフロン加工のフライパンなんてあったのかしら、と首を傾げます。
諸事ご繁多の様子、面白・おかしみもご賞味いただければ、と存じまして。
* いってらっしゃい は、気楽トンビのような友人に、半ばやっかんだ出無精なわたしのアイサツ。
☆ ベルギー・オランダ旅日記 1 Haarlem 恭
「怪我のないよう、いってらっしゃい。異国の空を悠々遊弋してくると、いい、注意深く。」
友人はメールでそのように書いていた。異国の空を悠々遊弋できるほど言葉に堪能でもない、さらに問題になるのは常に念頭にある金銭的余裕
のないことだが、気分だけは緊張しつつも悠々遊弋するだろう。これが肝心なこと。
七月のヨーロッパは暑かった、その暑さは八月には退いて、チェコでも、オランダでも20度前後の日々が続いている。地中海周辺の国々ではもちろん30度以上の夏。40度の数字も天気予報のテレビの画面に出ている。イタリアやギリシアに行きたいけれど、暑さは敬遠するしかないので、ひたすらベルギー、オランダに留まる予定。
プラハからの飛行機を降りる直前になっても今夜はアムステルダムに泊まろうか、どうしようかと考えあぐねていた。これまで訪れたことのある街はできる限り避け、訪れたことのない街に宿泊しようと決めた。アムステルダムは乗り継ぎの長い待ち時間を利用するなど、これまで三回訪れているのだから。
夏だというのに暗い空の下、雨が降りしきっていた。
オランダのハーレムは勿論ニューヨークのハーレムの名前の元になった街。アムステルダムの西、電車で二十分ほどの近郊の街だ。空港からアムステルダム駅まで行かずに、いくつか手前の駅で乗り換えた。雨がまだ降り止んでいない。緑溢れる草地と水路、点在する家を窓外に見ながら夕方のハーレムに着いた。
ハーレムに行きましたよと言うと、「えっ、ハーレム?」と反応が返ってくるだろう。美女あまた侍る男の楽園ハーレム? まさか!! 或は・・ニューヨークのハーレムを連想するかもしれない。どちらも何やら胡散臭い感じで・・。けれどもハーレムはオランダの静かな街。ただし今日は土曜日。夏のバカンスの真っ最中の週末は殊に賑わって、街は浮かれている・・一人旅の最初は興奮と不安が半ばしてせめぎ合う。今夜のホテルを探してまず決めること、それが先決。担えない荷物の重さ、生き難い重さは一切排除して一人旅の最低限の荷物だが、広場まで十分近く歩いただけで、それでも重いと感じる、それはわたしの不安の重さでもある。
・・案の定、週末、市で賑わう広場周辺の二軒のホテルで満室ですと断られた。ホテルのスタッフにこの近くの他のホテルを教えてと頼むと、市庁舎の脇の通りを百メートルくらい進んだ左手に一軒あるから行ってみてと言われて、望みを繋いだ。そしていくらか高いなあ、足元見られているなあと思ってみても、とにかく部屋を確保してホッとした。旅の一番目の敷居を跨いだ感じで安堵。一階が大衆的なレストランで、脇の狭い階段を上り最上階の部屋。窓を開けると空が近かった。
荷物を置いて早速グローテ・マルクト広場に戻った。花を中心にさまざまなものが売られていたが、そろそろテントをたたみ始める店が多かった。広場に面したカフェやレストランは曇り空でも椅子やテーブルを石畳の上に置いて、そして人々は外の喧騒の空気を思い切り楽しんでいた。家族連れやカップルの幸せそうな表情に余分な感傷や孤独感を抱かないこと、そう身構えるのは自分の弱さだ。幼い子たちに自然に微笑みかける。
セント・バフォ教会、旧肉市場などすべて既に閉まっていたが、どれも立派な堂々とした建物だ。海に開いて嘗ては海洋王国オランダの一翼を担う商人の旺盛な活動が確かにあった・・。教会は後期ゴシック、モーツアルトが11歳の時ここでオルガンを弾いたとか。
商店街のいくつかには洗練された商品もあり、ドレスや骨董品店のショーウインドウの布地・・イタリア製の薔薇つまみ細工をした布地・・などつい目を奪われたが、旅はこれから、すべて目の楽しみにとどめる。
明日は日曜日、日曜日・・観光地では必ずしも店が閉まっていないが・・それでも多くの店が閉まり、美術館も午後開館という。フランス・ハルスの絵は次の機会に。KLMでヨーロッパに入る機会はこれからもあるだろう。
* 前の{雀}さんでも、この気楽トンビ君でも、なんと精神ののびのびしていることか。人間味も豊かで、文章に知性も楽しさも溢れている。「甲子」さんも、八十代半ばにして日々小説創作の筆は健やか、「mixi」にも、もう沢山な読者が生まれているだろうと想う。
2007 11・6 74
☆ 嗣ぐ maokat
ある方に大切な言葉を「嗣ぎ贈」られた。自分にはとても重いと思ったが、同時にこの言葉に恥じないようにしようと心躍った。同じような気持ちは、以前にも味わったことがある。それは、博士号を取得したときだ。
私は学位を得ずに就職した。熱帯作物学専攻だった私に、配属された研究室の室長だった上司は、半年間かけて植物病理のイロハをみっちりと教えてくださった。今自分が同じ役職になってみて、それがいかに大変だったか、身に染みてわかるようになった。半年後室長は大学に出られ、私は沖縄に転勤した。作り話のようだが、沖縄に一人行く私に、室長は桐箱に入った茶杓を下さった。「これを持っていきなさい。頑張りなさい」と。
転勤して五六年経ったころ、東大の教授になられた元室長から「そろそろ博士論文を書きなさい」と電話があり、私の母校の教授に紹介状を書いてくださった。紹介していただいた先生を主査に、そして三人の副査のうちの一人を、元室長にお願いして、私は博士号を取得した。学位記を頂いたときの気持ちが、まさに上と全く同じものだった。学位の重みを感じ、また同時に私に学位を授けてくださった先生方に恥じない研究をしようと、心が躍ったものだ。
今年から母校の教授を客員し、今博士課程二年次の院生を一人預かっている。順調にいけば、来年度末には、この人に学位を授けることになる。残念ながら私は元室長ほど優秀な研究者ではないが、それでも私にしていただいた十分の一でもこの人にしてあげられたらと思い、兼業の中時間をやりくりしている。次の博士が誕生したとき、院生でシリア人の彼に、この室長の話をして、もしチャンスがあれば、彼にも同じことをして欲しいと頼むつもりだ。
いただいたものは「嗣ぎ」送る。出来る出来ないは別にして、そうありたいと思っている。
☆ maokatさん ハーバード 雄
良いお話だなあと思いながら,読ませて頂きました(何回も読んでしまいました).
僕は課程博士でしたので,状況は大分違うと思いますが,学位取得までには,本当に色々な困難がありました.その過程において,どれだけ多くの人のお世話になったか,両手ではとても数え切れません.
頂いたものを「嗣ぎ」送るように,僕もそうなれたらと思います.
* わたしの大事なマイミク二人に、はるか海をへだててこういう疏通がある。
雄君はわが学生君であったし顔は覚えているが、maokatさんとわたしは、まだ一度も逢ったことがない。必ずしも、逢うということに人はあせる必要はないのだ。二人とも理系の博士で、雄君は絶対音感の声楽家でもあり、maokatさんは逢わなくても分かる、きちっとした茶人だ。わたしは、無茶人。
☆ やっと ハーバード 雄
今日は週に一度のプログレスレポート.担当はJC,僕のやっている研究と,かなり関係する話をした.興味が近いせいもあってか,面白く感じた.ジョンが細かい質問を次々とする.
いつの間にか,プログレスレポートでの会話が,ある程度聞き取れるようになったことに気づいた.
未だに日常会話を聞き取るのには苦労しているし,特に訛の強いJCやジョンの英語を理解するのは大変だが,こうして興味のある内容ならば,英語のことを気にせずに内容に集中できている自分に,ふと気づいた.なかなか目に見えて進歩しているようには思えなくても,少しずつでも英語が聞き取れるようになってきたのかもしれない.
プログレスレポートが終わり,しばらくして廊下を歩いていると,研究室から出てきたボスと,ばったり出くわした.「何かある?」と聞かれ,「後ほどお話が」と言うと,「ちょっと妻から電話がかかってきたので,これから出かけるけど,午後には時間があると思うよ」とボス.
最近,心なしかボスの目が冷たいような気がしている.いい加減,データが出ないことに愛想をつかしているのかもしれない.あるいは,ボス自身は何も変わらないのだけれど,そのことに僕自身が負い目を感じているのかもしれない.この分では,留学助成金が切れたら,ラボには置いてもらえないかもしれない,などと思ったりする.
「後ほど」と言ったのには理由があった.昨日,電気生理学の実験をしていて,気になる結果が出ていた.前にも見たことがあるトレースなのだが,細かく値がぶれている.もしかして,これはシナプス電圧変化ではないだろうか?
あいにく,僕の使っているオシロスコープは旧式のものなので,記録も残せない.そこで,あまりエレガントではないが,持っているデジカメのビデオ機能で,オシロスコープのトレースを録画しておいた.
夕方,教授室で書き物をしているボスを見かけた.ドアも開いたままなので,邪魔しても良いかと思い,ドアを軽くノックする.デジカメを片手に教授室に入り,画像を見せた.
するとボスは,「Hiro,これだよ,これ.Great! Great!」
ようやく,電気生理学実験で本当に成功した.ここまで本当に長かった.
この実験は,最終的な目標そのものではないが,それでもずっと乗り越え難い壁として存在していた.
いくつか技術的な指示を出してから,急にボスが口を開いた.
「Hiro,アメリカのThanksgivingは体験したことある? もし良かったら,今度ウチに遊びに来ないか?」
なんだかようやく,このラボの一員になったような気がした.
* よそながら嬉しくなる。
☆ 筏師 雀
熊野市に、20メートルの高さにくくりつけた籠めがけて、火のついた松明を投げ入れる祭りがあると耳にしたのは、地蔵盆の頃。今年も暑さにバテて京北の松上げを見に行けなかった雀は、心が捉えられました。そこへ地方のテレビ局がニュースの最後にその祭りを紹介したのですから、身を乗り出さずにはいられません。
9/8(土)、紀和町小川口…。
瀞峡とそこから七里御浜へ注ぎ込む川の分岐点です。少し下ったところに入鹿八幡宮や丸山千枚田があり、11月に「せぎ漁」という子持ち鮎をとる伝統漁法が行なわれると以前聞いて、興味を抱いていた地でした。
熊野川水系にあった筏師伝統の行事を復活させようと、18年前から始まったそうで、やや簡便化されてはいますが、まぎれもなく「松上げ」です。
若狭神宮寺の宮司さんが「若狭から熊野へ、龍のように水がつながっているんですよ」
とおっしゃってらしたことをあらためて思いました。 囀
2007 11・7 74
☆ おはようございます。風。
昨日は、お仕事頑張ったのですねえ。
花は、私小説についての評論を読みついでいます。また評論が書きたいので、創作もしながら、私小説のことはいつも念頭に置いています。
『私小説の』云々と題してある、ごく最近の評論を図書館で借りたのですが、冒頭から中村光夫と小林秀雄批判でした。
中村を、「日本特有の文化をそれだけで遅れた、不十分な、あるいは変体種と捉える典型的な論者」と書いていますし、小林の『私小説論』の中に、「鴎外と漱石とは、私小説運動と運命をともにしなかった。彼らの抜群の教養は、おそらくわが国の自然主義小説の不具を洞察していたのである」とあるのを、著者は「意外な一節」だと言い、「がっかりする」と書いています。「小林といえども、遅れた国のロマンはやはり遅れており、倒錯は必然だという中村光夫『風俗小説論』紛いの、近代主義流の俗説に同調するのかと、考え込んでしまう」と。
終始甚だ不親切な文章なので、この著者の謂う「近代主義」の意味がよくわかりませんが、中村や小林は、日本が単に遅れた国だと謂ったのではなく、日本が近代政治の内的成熟をひとっ飛びにし、ヨーロッパで既に出来上がっていた制度だけを移入した不幸を謂っていたのではないかと、わたしは思うのですが。
この著者は、つぎの章で、川崎長太郎について書いています。かなり賛美しています。「『社会化された私』の典型が見える」とまで言っています。
わたしには、川崎長太郎は、社会参加を放棄し乞食同然に自らを落とした「逃亡奴隷」そのものに見えますが。
著者の意見は、ことごとくわたしと異なるので、読んでいると、ちょっとムカッとしますが、こういう考え方もいまだにあることを、頭の隅に置いておくのは必要かなと思いました。
さて、今日もちょっとおつかいに出かけます。
ガソリン代が高騰してまして、車での外出は控えめに、できるだけ一度にまとめてしようと心がけています。
風。 花はいつも「いま・ここ」で、元気に生きています。
☆ 私語で書かれた「打」 珠
水を浴びたような気分でした。すっきり目が覚めた心地。
湖のおかげです。
先日来、女子医大の頃のことを文字にしたせいか、あの日々が急に鮮明に思い出されてきています。
今と違った意味で、必死に仕事に向かい合っていました。
看護師としてどう患者さんと向き合うか、という私の看護がハッキリみえたのは、1年半闘病したある女の子との時間があったから。
その子は19歳で発病し、もうすぐ21歳という直前、逝きました。湖の愛しいやす香さん、同じ年頃だと、、、昨年の「私語」、私は彼女とやす香さんをかさね、胸くるしく読ませてもらっていました。
彼女の形見にご両親がくださった小さな金色のペンダントトップ、それは今も私の宝物で、楽しいお出かけには首で揺れつつ一緒に出かけます。
思い出すことしかしてあげられませんが、いつまでも思い出してくれる人がいるかは、生きた時間数とは違いますよね。きらきらひかる、輝く時に逝ったやす香さん、
もしかすると、どこかで私のような看護師の心にも何かを残しているかもしれません。
湖に思い出させて、悲しくさせてしまうと思うのですが、私には、書くとまた彼女が生き生きとするようなそんな気がして、様子をみながら女子医大での出逢いと別れ、書いてみようかと思います。
私の記憶の中、今もまだ鮮明に、あの時に、生きてるのです。これは、私の「喪」の仕事になるのかもしれません。
湖、どうぞ泣いて目薬ながさないで。
大事にしてくださいね、湖。
ありがとうございます。
* 瞬間風速を受けるようにわあっと仕事が殺到し、うろうろしながら気をひきしめて、一つ一つ片づけ片づけ、それが「用意」になって行く。用意がなければ仕事はどこかでくんずほぐれつ、固まってしまう。
ほっこりとした正月をいまから期待してしまうのだけれど、ほっこりどころでない、苛烈な不快な事態が予想され、予告・警告すらされている。倒れないようにしなくちゃ。
法廷を経由して、夕日子たちの作成した文書が届いているが、まだ見ていない。代理人からの出廷報告もまだ落ち着いて読めていない。それは、わたしにすれば、全く不毛の、単なる迷惑、単なる厄介。
それより「湖の本」の新刊を無事に送り出したい。また書き下ろしの仕事も仕上げてしまいたい。
2007 11・8 74
☆ みづうみ お元気ですか。
みづうみのご体調の違和感、とても心配しています。今のみづうみがストレスの塊であることは承知の上で、ご無理なさいませんように。お大切にお過ごしください。
朝ですのに、わたくしは睡魔に襲われています。早起きでしたから。ですが、今日は昼過ぎから銀座に出かけます。人に逢うのではなく、某展示会のご招待いただいて。滅びゆく伝統技術を、自分の眼の黒いうちは絶滅させたくないと格闘しているものづくりの方々を応援するためです。世の中、ほんものの美しいものを創る人にはお金がなく、お金や権力のあるところには、美しいものが生まれない。うまくいきません。
わたくしが一番応援しているのはみづうみです。
ご本楽しみに。行ってきます。 わたくし
☆ 理研シンポジウム ハーバード 雄
今日,明日と,理化学研究所脳科学総合研究センターとMIT Picower Instituteの合同シンポジウムがMITで開催され,聞きに行ってきた.この二つの研究所がメインではあるが,他の大学からも錚々たる顔ぶれが集まっている.昨日まで北米神経科学会だったので,そのサテライトシンポジウムといった意味合いもあるのだろう.
どのトークもおそろしく中身が濃い.
Ed Callawayのウイルスを使った神経回路標識法, Allison Doupeはゼブラフィンチという鳥を使って,歌を聴いたときの神経細胞の活動の様式を解析していた.ゼブラフィンチは歌の学習モデルとして良く用いられる鳥だが,今回は学習過程というよりは,聴覚系の情報処理機構を解明することに重きを置いていた.
ちなみに,ゼブラフィンチはつがいになると,お互いの歌を真似し合うのだそうだ.なんとも仲むつまじい話ではないか.
コロンビア大学のRene Henは、不安に置かれたときの海馬における神経細胞の増殖についてトーク.一昔前までは,脳の神経細胞というものは発達期に増殖したらおしまいで,大人になったら神経細胞は死ぬ一方だと考えられていた.しかし最近では,脳の一部の領域に関しては,大人になってもどんどんと神経細胞が作られることが明らかになってきている.
特に有名なのは記憶・学習に関係すると言われている、海馬という部分で,例えばタクシーの運転手などは,他の職についている人に比べて海馬の神経細胞が多いという報告がある.確かにタクシーの運転手をするためには色々な道を知っていなくてはならないわけで,そうした記憶・学習のために神経細胞が増殖するのかもしれない.
Henが、トークの最初で引用した話だが,双子のうちの片方が戦争に参加したといったケースを調べた結果,海馬の小さい人ほど,不安にさらされると PTSDになりやすいのだという.
逆に,不安にさらされると海馬での神経細胞新生が抑制されるというような報告もある.僕自身は,この辺の話題にはあまり関心がないので,あまり熱心に聴いていたとは言えないのだが,この辺は最近のホットなトピックスであり,実際,会場には多くの人が話を聞きに来ていた.
理研の、見学先生の小脳顆粒細胞の初代培養系を用いたライブイメージングのデータも素晴らしかった.
こういうトークを聞いていると,やる気が湧いてくる.
「そうだ,この手があったか」とか
「こういう研究をすると面白いかもしれないな」といったアイデアが湧いてくる.明日も面白そうなトークが目白押し.楽しみだ.
2007 11・9 74
☆ DICE-K ハーバード 雄
昨日に引き続き,今日もシンポジウム.今日は主に記憶・学習や,その基盤となる分子・細胞レベルでの話.一番話を聞きたかった,Duke UniversityのMichael Ehlersがキャンセルしたのが残念.しかし,それでも充分に中身の濃いシンポジウムだった.
中でも圧巻だったのは,やはり利根川進.
利根川ラボでは以前から,脳の中でも記憶・学習に重要と言われている「海馬」に着目し,海馬で発現する遺伝子のノックアウトマウスを作り,その影響が記憶や学習にどのように現れるかについて解析している.
実は,遺伝子改変マウスを使った研究は,あまり僕の好みではない.以前,この日記にも書いたように,ノックアウトマウスとは,「ある着目した遺伝子を生まれつき持たないようにしたマウス」.ノックアウトマウスの行動を調べることで,着目した遺伝子が生体内で何をしているのかを知ろうというのが,この技術を利用する目的といえる.
しかし,これはひどく乱暴な話だと僕は思っていた.いうなれば,パソコンに繋がっている電源プラグをいきなり引っこ抜くようなものだ.
電源プラグを引っこ抜いたからパソコンが動かなくなったといって,「だから電源プラグはパソコンの機能にとても大事な部品です」と言われれば,文句のひとつも言いたくなる.そりゃあそうかもしれないけれど,電源プラグを引っこ抜いても,ハードディスクがクラッシュしたとしても,一見同じように見えても意味合いが全然違うだろう.ましてや,抜いた電源プラグがパソコン本体ではなくてモニターのものだったら,パソコンそのものは全く正常なのに,見た目は壊れたようになってしまう.本質的な点を見誤る恐れのある技術だと思っていた.
しかしそうした欠点は,ノックアウトマウスを扱っている研究者も良く分かっている.そこで,少しずつでも,上記の「電源プラグ」のようなことが起こらないような工夫や改良を重ねている.たとえば,カペッキによって開発された初期のノックアウトマウス作製法では,着目した遺伝子をマウスの「全身で」働かなくなるようにすることしかできなかったが,現在では着目した遺伝子の働きが例えば脳だけで壊れるようにするといった,「組織特異的な」ノックアウトも可能となっている.
利根川ラボでは,この技術をさらに徹底させ,海馬の中の,さらに限られた場所だけで遺伝子が働かなくなるようなマウスも作っている.そして,こういうマウスを作ることによって,海馬の中のどの部分が,記憶の中でもどのようなことを担当しているのかといったことを明らかにしている.
今回の発表では,さらに推し進めて,「ある特定の時期だけ,特定の場所だけに限定して遺伝子の働きを抑える」といったマウスの作製法を編み出していた.つまり,今までは空間的に限定されたノックアウトマウスの作製には成功していたが,これをさらに推し進めて,時間的にも空間的にも限定した形で,ある遺伝子の働きを見ることができるような方法を開発したのだ.
この手法では,ドキシサイクリンという薬を利用している.ドキシサイクリンが作用している間は遺伝子の働きは正常なのだが,ドキシサイクリンが無くなると,とある特定の遺伝子の働きが抑えられるという仕組みになっている.この方法そのものは以前から知られている手法なのだが,これを今までの部位特異的なノックアウトと組み合わせて,時空間的な遺伝子の働きを抑制し,最終的には海馬の特定の神経回路だけを遮断して,記憶や学習にどのような影響が生じるかを見よう,というもの.この手法が優れているのは,食物の中にドキシサイクリンを入れたり除いたりするだけで,ある特定の遺伝子の発現を制御できるという点.同じ個体でありながら,特定の回路のスイッチをオンにしたりオフにして,その機能を確かめられるというのは,かなり有効だと思った.
この手法を利根川進はDICE-K(Doxycyclin-Induced Circuit Exocytosis Knockdown)と名づけていた.爆笑とはいかないまでも,聴衆はくすくすと笑っていた.実は利根川進のサイエンスの話を,しかも英語で聴くのはこれが初めてだったが,結構ジョークも言うし,堂々としていて,カリスマ性のようなものを感じた.
びっくりしたのは,ニューヨーク州立大学のTodd Sacktorの発表.ある酵素の阻害剤(ZIPと名づけられていた)を入れると,記憶・学習が消失してしまうという内容だった.サッカリンで味をつけた水を飲ませた後にリチウムを注射して吐き気を起こさせると,通常のマウスではサッカリンの味のついた水を飲まなくなるのだが,ここでZIPを注射すると,忘れて普通の水のように飲んでしまうという.
別の例としては,回転している円盤の上にマウスを置き,ちょうど時計の11時と1時の間あたりに電流刺激が生じるような区画を作っておく実験をしていた.記憶・学習能力の正常なマウスは,決してその場所に近づかないように,その区画から離れる方向に動くのだが,そのように記憶させたマウスにZIPを注射すると,そのマウスは記憶を失って,危険な区画に平気で入ってしまう.この様子をムービーで示していた.果たしてこれは信じてよいものだろうか.
その他にも,エジンバラ大学のRichard Morrisも講演していた.モリスはマウスの行動解析で有名な「モリスの水迷路」を開発した研究者.ノックアウトマウスの行動異常を調べる実験として非常に有名な実験系で,プールの中に一箇所だけ底の浅い部分を作り,濁った水を張っておいて,その中にマウスを入れるというテスト.マウスは水を嫌うので,ひたすら泳ぎ回ったあげく,底の浅い部分を見つけてその上に乗るようになるのだが,マウスをプールに入れてから底の浅い部分までに到達する時間を計ることで,どの程度場所を記憶・学習したかを試すというもの.もっと年配の研究者かと思っていたが,まだまだ現役バリバリといった様子の研究者で,いかにも頭の良さそうな人だった.
昼休みに,おとといすっかりディナーをご馳走になってしまったK先生に,せめてものお礼ということで,昨夜HarvardのCOOPで買っておいたものをお渡しする.ラボのメンバーで食べていただくようにミルクチョコレートと,お子様のためにTシャツ.独身男の僕には,どのくらいの大きさの服がぴったりなのか,全く見当もつかない.壁に貼ってあったサイズと年齢の対応表を身ながら考える.散々悩んだあげく,「大は小を兼ねる」ということで,2歳半のお子さんにしては大きめのを買った.すぐに着られるようになるでしょう.
ついでに,昼休みを利用して,一時帰国用の航空チケットの発券を旅行代理店に依頼する.結局,今月の26日にボストンを発ち,12月7日まで滞在することにした.こちらの都合もあって,色々と代理店の人にお願いしたが,やるべきことはやってくれるものの,非常に態度が悪い.どうして海外にいる日本人向けの店員というのは,こうも礼儀作法を知らないのだろう.
まだ日本の大学2校の公募の結果は来ていない.もし万が一面接に選ばれて,このチケットの日程では間に合わなかったらどうしよう,などと不安になっている.どうせなら11月半ばから帰国にしておけばよかったのだが,こういう判断を先延ばしにしてしまい,結局最悪の結果になるのは僕にとっては日常茶飯事.計画性の無さと見通しの甘さのせいだろう.公募にアプライしておきながら,今となっては,選ばれないことを密かに願っているのは変な話だ.
午後からのセッションは,演者が一人減ったせいもあって,早く終わった.最後に伊藤正男・理研BSI初代センター長が挨拶に立った.今年は理研脳科学総合研究センターができてから,ちょうど10年なのだとか.もうそんなに経ったのかと驚く.BSIができたのは,僕が大学院生の頃だった.自分自身のことを顧みると「もう10年も経ったのか」と思うが,研究所から発表される論文の数や質のことを思うと,「たった10年で,良くこれだけの論文を出したものだ」と思ったりもする.
シンポジウムでは理研やMITにいる日本人の研究者の方々と沢山知り合いになることができた.これを期に,色々な方とのネットワークが広がるといいなあと思う.
☆ のばらです 従妹
こんばんは!
この月初めに東京の娘宅に二泊してきました。3日に、「童謡コンクール・グランプリ大会」というのが、五反田のゆうぽうとで催され、九州代表で出場のため長崎から来られる女性に会うのが、今回の一番の目的でした。娘と同世代の彼女とはネットの中だけの付き合いでしたが、彼女の歌声をどうしても聞きたいとの思いで、出会いを実現することができました。
東京で一人行動するのは初めてでしたが、山手線の沿線でしたのでなんとか迷わずに行けました。
いつも大泉学園の駅で→(次は)保谷を目にする度に、ふと行ってみたい気持ちになります。
お目の具合もよくないご様子、自転車などくれぐれもお気をつけてください。
京都の紅葉も遅れ気味のようです。
お気を悩まされることなく、お過ごしになれますようお祈りしています。
2007 11・10 74
☆ 画面の字を大きくする方法 e-OLD 笠
秦さんへ
インターネットの画面の最上欄は題名で、その下の欄には「ファイル」「編集」「表示」「お気に入り」・・とあります。
(1)その中の「表示]をクリックすると、メニューが出ます
(2)その中の「文字のサイズ(X)」にカーソルを合わせると
(3)「最大(G)」「大(L)」「中(M)」「小(S)」「最小(A)」と
出ますので、「最大」か「大」をクリックします。
大きくなる筈です。
寒くなります。どうか、いろいろと、くれぐれも、お大切にしてください。
わたくしは相変わらずくぐり抜けるように日々を過ごしております。
自分のこともそうですが、もっと困った方達が大勢いて、困ります。
明日は日曜日なので、少し秋の夜更かしをしました。おやすみなさい。拝
* 試みて、すぐ、メールの字も、「mixi」の字も大きくなった。字が見えると生き返った心地がする。感謝します。
こんなことも出来ずに、十年も、大きなホームベージを動かしてきたんですね。以前なら出来たのか知らん。とにかく今はアタマが、円滑にこういうことに思案利かせてくれない。
2007 11・11 74
☆ お元気ですか 風
お仕事は大変でしょうが、制御しながらなさってくださいね。
ご依頼の件、まず、画面の文字を大きくする方法です。
1.画面左下にある「スタート」をクリックし、「コントロールパネル」を選びます。
2.作業する分野の中から、「デスクトップの表示とテーマ」を選びます。
3.作業の中から、「画面解像度を変更する」を選びます。
4.「画面のプロパティ」ウインドウが開きますので、「設定」タブを選び、更に、ウインドウ下部にある「詳細設定」を選びます。
5.「全般」タブの「画面」の部分に、「DPI設定」というのがあります。風のパソコンでは、「通常の設定」になっていると思われますので、そこを「大きなサイズ」に変更し。「OK]をクリックしてみてください。
6.パソコンを再起動します。
これで、風の眼への負担が軽減してほしい。文字が大きくならなかったら、またご連絡ください。
外はいいお天気ですよ。 元気な 花
書きもらしましたが、手順5で「大きなサイズ」に変更し、「OK」をクリックしますと、既存のフォントを使うか、CD-ROMからインストールするか訊かれるかも知れません。既存のフォントがあれば、それを使いたいので、「はい」をクリックしてください。
そのあとに、再起動するかどうか訊かれると思います。
うまくいきますように。 花
* 感謝。どかんと字が大きく出来て、画面がみやすくなった。ただ受け取る人に大きすぎていないかと、少し心配。
2007 11・11 74
☆ 百人一首の雪 maokat
土日に良く働いたお陰で、半年前からうまくいっていなかった実験(5’RACE)が成功しました。勢いに乗って、月末東京国際フォーラムに出すポスターを仕上げ、11月上旬締め切りだった報告書に載せる実験を始めました。明日の実験の準備をして、家の近くのロイヤルホストで2時間、学会誌の校正も。PC からメールで編集事務局へ訂正箇所を送れば、0時近く。今日もあっという間に終わってしまいました。
このところ寝る前に、百人一首を読んでいます。百首のうちで雪の字がある歌、いくつあるでしょう?
答えは、四首プラスαです。
田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ(山辺赤人)
君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ(光孝天皇)
朝ぼらけ 有明の月と みるまでに 吉野の里に ふれる白雪(坂上是則)
花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり(入道前太政大臣)
雪に興味があって、百人一首を読んだ人がどのくらいいるか知りませんが、そういう目で見てみると、「田子の浦」は、なんだか銭湯のペンキ絵のようで、雪の実景がわいてきません。「君がため」の雪は、舞台を美しく演出していますが、しょせん主役は君と我。雪は衣手に降る添え物です。「花さそふ」は、雪の字はあるものの(桜)花を歌っているので、論外です。
残る「朝ぼらけ」の歌が、雪を表現の主体において、しかも風流の王道である「花月」を脇に添え、美しく歌い上げています。雪が気になる私も大満足の一首。朝の雪もいいでしょうね。それにしても、百人一首に雪の歌がこれだけとは、以外でした。昔の人にとっては温暖化した現代より身近なはずの雪。歌では表現が難しい対象なのかもしれません。
私が見つけたもう一つの「百人一首の雪の歌」。それは次回ということで。
* こんな話題に誘われる季節が来ているんだと、わたしは、なかば潰れた眼にうっすら涙をためる。
次便を楽しもう。
* まるちゃんの七五三のはなしに、遠く異国の天才が祝意を送っている。なつかしいねえ。
2007 11・12 74
☆ 根を詰めてお仕事なさった風、ゆっくり休まれましたか。
ときには寝溜めなさってくださいよ。
花は、風の現在の苦境を、我がことのように感じています。多くの人が、風の力になりたいと思っているはずです。
風のため、具体的に何かできるといいのですが。
せめて、大勢の気持ちを、お力にしてください。
新刊の発送、今回くらいは日程を延長なさってはいかがでしょう。くれぐれも、痛い「腕」を悪化させないようになさってくださいね。
2007 11・13 74
☆ お元気ですか。 珠
”私語”に気配なく、お忙しいのか、体調ゆえかと気にかかります。
今日の夕刻、仕事が終わろうとした頃に、何となくいつもと違う外の色合いに、外へ目を向けました。高層ビルで働く私には、いつも絵のような街の景色、好んで目をおくのは、遠くに見える富士の頂と空の色。
真正面には、じっと動かず絵はがきのような東京タワーがあるのですが、なんと今日はその東京タワーがブルーに輝いているのです。あぁそうだと、、、忘れていたのは、プロ失格。今日は「世界糖尿病デー」なのでした。
国際学会やWHO、国連など世界規模で糖尿病抑制に向かおうと、今宵は世界各国の名所やビルがブルーに輝いているはずです。その輝きがどれほど人を動かすのかわかりません。でも、自分の周りの人が、糖尿病ってどういうものか、少しでも注意をはらうことがあれば意味あることに違いないでしょう。
私は、「ブルーライト東京タワー、、、」と字余りな歌を心でカラオケしつつ、湖のことを思いだしました。
「美味しい物を食べないで」などという野暮なことは言いませぬ、が、それでもどうぞ、こんな病に、欲の権化のような糖尿病に、勝手にさせてはだめです。最近はコントロールは順調と拝読してますが、自転車でも両の足で歩いてもいい、自分が生きる以上のエネルギーなど、うっちゃってください。まぁやりすぎて、いためても困るのですが。今日はブルーな東京タワーに同調して、珠は、白衣を纏って、心配と願いのありったけで、湖と糖尿病の取り組みを、祈ります。
(低血糖時のブドウ糖をお持ちでなければ、処方してもらえると思います。少しの糖ですぐ血糖上昇、菓子やお酒では時間がかかって危険&取りすぎます。)
お大事に、湖。どうぞ、いつもいつも。
* 最近、ようやく、看護大学を出たお人と知った。佳い手仕事の趣味をもった人とも察している。「私語」がご縁でメールを貰うようになっている。「私語」そのものがいわば「湖」なのである。いろんな露の珠が自然と湖を成してくる。
2007 11・14 74
☆ 日々雑感 菊
日本橋の高島屋で洛趣会という京都の物産展が開かれていました。いづう、鶴屋吉信、あの大原女家、三島亭、イノダコーヒー、萬養軒、ゑり善、伊と忠、宮脇賣扇庵、松榮堂等々、京都の老舗の出店でした。
古文書の帰りに立ち寄り、着物箪笥にはこれと決めている匂い袋「誰が袖」を購入。あとはもっぱら食い気に走り、生湯葉、生麸、千枚漬け、いづうか三島亭で迷った末にすき焼き用のお肉等を買い、イノダコーヒーで一服しました。
帰ろうとして会場を一巡しながら、ある店の素晴らしい碁盤と碁石に目がとまりました。その瞬間、涙が滂沱として流れ、自分でもうろたえてしまいました。見事な碁盤と碁石に、父が晩年使っていた碁盤と碁石の傷み具合が重なり、たまらなく泣けてきたのです。
父はアマながら大した碁打ちでした。父に碁盤と碁石くらいプレゼントすることがあってもよかったのに、自分はそんなことすらしなかったという悔いがこみあげて、どうにも涙がとまらなくなりました。亡くなって六年、私が父を思い出して初めて流した涙なのでした。
父と仲がよかった娘ならよくあることですが、私は生前父をほとんど憎しみに近い嫌悪感で見ていました。父はさまざまな点で間違った人で、一日も家庭に平和を与えられない人でした。でも、亡くなってから月日が経ち、あれほどの憎悪も嫌悪も消えました。子どもの頃に自分が「愛されていた」という感覚だけがあとからあとから甦ってくるのです。私はもう少し父にやさしくあるべきでした。碁盤と碁石が記憶の裂け目になって、私はその穴に落ちて、冷たい娘であった自分を振り返って泣きました。
私と父の関係は、父と娘の一つの不幸な形なのでしょう。失って初めてわかることだったのかもしれません。
たしかなのは、愛された記憶はいつの日か必ず愛されたものの中に甦るということです。夕日子さんもいつか涙を流す日が来るのだと思います。
幸か不幸かてんで凡人なので、まあなんとか「枠」の中で毎日を過ごしています。以前、「根にある不良性」というお言葉をいただきました。もしそのようなものがあって、うまく隠していたり忘れていたりするなら、せめてどこかへ効果的に顔を出してくれないかしらと願っています。
書き下ろしのお仕事を楽しみにしています。そのためにも、眼をいたわってください。名医を見つけてください。心身ともにゆったりとする時間をお作りください。お元気でいらしてください。いつも湖のお傍にいます。 菊
* 碁盤と碁石というのがフレッシュなモノザネで、話が生き生きした。
☆ お元気ですか、風
今日は、パソコンのインターネットが全然繋がりませんで、ひょっとして風の送ってくださっているかもしれないメールが、全然読めません。
平野謙の『芸術と実生活』が面白くてたまりません。今、漱石のところを読んでいます。
インターネットが復活したら、もう少し長いメールを書きます。 花
* 復活しましたか。
平野謙は論の起こし方や運び方が刺激的ですね。読んでいる分にはとてもおもしろい。
平野らの、あの当時は動かしようの無かった小説論が、いま、このコンピュータ時代にどれほど健在であり得ているかの吟味が、再検討が必要な時です。大きな時代変換の視野や視点をしっかり持って思索して下さい。
2007 11・15 74
* 階下での晩・夜の仕事を一応十時で切り上げ、機械の前へ来た。戸外はどこも冷え冷えしていたが、最高裁や国会前のあたりも、まだ燃えるような銀杏並木の黄葉ともみえなかった。
☆ 紅葉黄葉 ボストン 雄
改めてケンブリッジ市内の紅葉が見ごろであることに気づく.少し前までは,紅く色づいた楓が目に付いたが,今は黄色く色づいた楓が多い.既に枯れかけている葉も多く,茶色く見える木もある.これら黄色や茶色の葉が,煉瓦造りの建物に良くマッチしていて,なんともいえない趣がある.
特に,ハーバードのビジネススクールの近辺は美しい.左手にビジネススクールの建物群,右手にはスタジアムがあり,この道沿いの紅葉が,今まさに見ごろ.
カーラジオからは,色々なクリスマスソングが流れている.もう,そういうシーズンなのだろう.
☆ 百人一首幻の雪の歌 maokat
今日の札幌は、朝方の雨が昼前からちらちらと雪になり、夕にはけっこうな降りになりました。夜職場を出るときに気温はマイナス0.5度。今マイナス2度まで下がっています。こんな日は仕事などせず、早々と寝るに限ります。
さて、百人一首に詠まれた雪の歌は、四首。ところが、愛読している『好き嫌い百人一首』(湖の本 エッセイ36:27)には、
めぐり逢ひて 見しやそれとも 分かぬ間に 雪がくれにし 夜半の月かな (紫式部)
とあるではありませんか!
この歌の私判冒頭には、下の句の「月かな」について「後の世のたぶん誤写が定着したかと言われている。なかなかの誤写で、わるくない」とも。
こうしてみれば、「雪がくれにし夜半の月かな」もわるくありません。本歌「雲がくれ」は、あわただしく帰ってしまった幼友達を詠んだもの。さて、写し「雪がくれ」は、どう読まれるか。
私なら、さしずめ、寒い冬の明け方にみじかい逢瀬を惜しんで帰る男の背中を思い浮かべます。別れに、冴え渡る月影も曇って、いましも雪が降りはじめ、みるみる男の後ろ姿が、雪に紛れて白く消えていきます。そのはかないこと。
本歌の舞台は、黒いフェードアウトに終わりますが、写しでは白くフェードアウトします。こうして終わる方が、私は好きですね。
* ウッソーと大あわてで調べますと、目次代わりの百首一覧が、てっきりl「雪隠れにし」になっていました。
平謝り。ごめんなさい。
さいわい、本文の方は見出し歌「雲隠れにし」と正しく、かろうじて、ホッ。魯魚のあやまりで逃げ切れない不注意な校正ミスを犯しました。もういちど謝ります。
真さんの、親切なはからい、感謝します。
読者のみなさん、謝ります。 著者 秦 恒平・湖
2007 11・16 74
☆ 紅葉山川満 珠
今日は秋の茶会。まだ暗いうちに起きて、髪をまとめ着物をきる。
着物は月1、2回しか着る機会がないが、不思議とすっと着られる時と、何度やってもうまくいかない時がある。着物や帯の違いというより、単なる運のような感じであり、こればかりはやってみなくちゃわからない。今朝は思いのほか一度できまり、出かける時間にも余裕ができた。
成城にある茶席では、社中揃って慌しい準備、、、喜寿をこえめっきり足腰の弱くなられた師は、静かに竹一重切の花入と向き合い、照葉や椿を生けてられた。
どんなに準備をしても、何かはおこる、だから茶会は厳しく普段を試される。釜、茶碗、、小さくて大きな問題が、皆の知恵寄せ集めてそれなりに落ち着いてゆく。独りじゃできない、しみじみ思う。
私も点前を、した。キンチョーしてなかった、だからよくなかった、ように思う。
道具を運び座る、蓋置を置き、柄杓をとろうと目を向けると、着物の袂が触れたのか、ゆっくり柄杓が転げていくのが見えた。よぅく、見えていた。慌てず転げた柄杓を取って半東に渡し、清めてきてもらう。待つ間、正客に一礼「失礼いたしました」そしてそのまま点前を続けた。
茶杓を清めて茶器の上に置く段になって、自分の手の震えに気がついた。衝撃の出だし、、にキンチョーの階段を一気に昇ったらしい。
一番困ったのは、茶器から茶をすくう時。茶杓にすくった茶を茶碗の底におく、、その何とムツカシイことか。震える手は、我が手であってもどうしようもない。どうしようもない自分だけが、其処に、お客様の前にいる。そのどうしようもない自分にがっかりして、ようやく手の震えも諦めたかのように消えていった。
穏やかな陽射しの一日、床には「紅葉山川満」、色満ちてまた明日、そう、またはじまる。
キンチョーは必要。足りない我を自覚するからキンチョーする。謙虚に、静かにキンチョーを抱きしめ、パートナーにしたい、秋の日に学ぶ。
* 茶の作法を自分で習ったり人に教えたりしていた昔を、また茶会当日の空気を、ありありと思い起こす。この珠さんの流儀はわたしの習った裏千家とはちがうのではないかと想う。「茶会は厳しく普段を試される。釜、茶碗、、小さくて大きな問題が、皆の知恵寄せ集めてそれなりに落ち着いてゆく。独りじゃできない、しみじみ思う」は、佳い言葉だ。
床はどなたの書だろうか。「山川紅葉満」とありたい気がするが。あるいは「紅葉満山川」か。
☆ 三昧 maokat
昨夜研究室を出ようと思ったら、実験室でアラームがピーピー鳴っていた。超低温槽が故障して温度がマイナス51度まで上昇している。メーカーに電話したものの、東京のカスタマーセンターに通じただけで、夜8時過ぎではどうしようもない。やむなく、400リットルの内容物を全て出し、他の低温槽に分け入れた。
お陰で今朝は、メーカーからの電話で起床。いつもの朝食をとり出勤。温室の水遣り後は、昨年から書き始めようと思っていた論文に着手。書くと言っても、いきなり書き出すわけではなく、まずはデータの過不足を整理したり、図表を作成したり。この仕事に結構集中した。時間を忘れた。気がつけば夜。
外はマイナス3度の世界。帰宅後、パスタ125グラムを茹で、辛子明太子で和える。大葉を散らし、この間福岡で買ってきた有明海の海苔を火取り、細く切って散らす。所要時間15分。満足は限りない。
土日と家で夕食を食べ、少し健全になったような気がする。
寒い夜長、洗濯でもしながら、論文の続きを楽しみたい。
* ああ、佳い文章、静かな述懐。
2007 11・18 74
* 湖の本が届き始めた。
☆ 湖のご本 香
秦 先生 ありがたうございます。前回の『閑吟集』と合はせて「湖版」の二冊、器械のそばの机に置かせていただきます。器械に対ふのや考へに倦んだとき、つと手を伸ばせばとどくところ――。
どのページをひらいても、よき先達が待つてゐてくださり、中世の謡の世界に、中世のたましひにみちびいてくださる。
さりながら、よき先達の御目をはじめ、お身のつつがが案じられてなりません。
風戀ふればよるべなしやの たどきなしやの 北に南におちつきがたし
「この世は時雨よのう」さと過ぎて 濡るるもあれば 濡れて乾くも
してやられ またしてやられ堪へたりな 冬すすき 姥の痩髪
天命とならば素直に命終受けむ 素直ならずとも何としやうぞ
遊びをせむと招けば来る鬼族の彼はやさしき〈泣いた赤鬼〉
齋藤史先生の晩年の作品ですが、昭和の乱世を生き抜いたおひとに、『梁塵秘抄』『閑吟集』などの中世の謡ひものは、親しいものであつたのでせうか。亡くなられるほんの二月ほど前に、口述された最後のエッセイでも、
〈仏は常にいませども現ならぬぞあはれなる〉後白河法皇はどの様な節に「今様」
を謡われたものか。
と、謡ふものとしての『梁塵秘抄』をおもつていらつしやいました。ご存命でいらして、秦先生と、中世の謡ひものについてお話をなさつたら、と、かなはぬことをおもつてゐます。
「死んだふりしてる」などとふざけ半分に言つてゐますが、少々申しにくい身内の者の不祥事に巻き込まれて、ほとほと困じ果ててゐます。
MIXIも、アクセスできなくなつてしまひ、なにか、窓がひとつ、閉ざされた感じでございます。
ともだちが径二センチほどの豆独楽をくれました。まはしてあそんでをります。
☆ お疲れ様 泉
体調は如何? お元気ですか。私のpcは完全に破損しています。ビスタは評判が良くないので購入を躊躇されるけれど、無いとボケそうやしなぁ。でも、諸々の記憶はまだまだしっかりとしているから、ご安心あれ。
身体をダマシダマシ、楽しい事のみチョイスして無理をしないで(ウッソー)遊び、のんびりと暮らしています。
故郷京都へは、行けるチャンスを逃がさずに行きたい。当たり前やけど心が落ち着く地です。 特に、泉山と東福寺、三条神宮道辺り。
☆ こんばんは! 京都ののばらです。
新しいご本「梁塵秘抄」届きました。いつもありがとうございます。
体調のお悪いなかでこれだけのご本を完成され、発送の作業もお疲れのことでしたでしょう。
私語の刻を読んでは、はらはらと心配したり、お芝居を楽しまれている様子にほっと安堵したりしています。
こちらは昨日の小春日和が嘘のような、木枯らしの吹く寒い日になりました。
昨日は友人達と大津市坂本から安楽律院、飯室松禅院、西教寺と、時折きれいな琵琶湖を望みながら、のどかな山道を歩いてきました。
私はいつも元気にしています。
冷え込みも厳しくなる折から、くれぐれもお大事にお過ごしくださいますように。 母方従妹
* ありがとう。
☆ 湖の本 郁
本日拝受いたしました。有難うございました。お身体が不調でおられますのに、敬服いたします。私にはむずかしそうで理解にくるしみそうですが
ゆっくりと心に写しながら拝見させていただきます。
明日から榛名のほうへいきますので 帰り次第送金させていただきます。
母もだいぶ弱ってきているようですが、もともと丈夫な身体ですので なんとか寝込まずにはいるようですが、寂しいらしく来て欲しいとばかり電話があります。
何事もすぐ忘れてしまうようですので、明日いきましても またすぐに来て欲しいと懇願されます。切なく可哀想でなりませんがこうして人生の終焉をむかえるのでしょうね。自分のことにように身につまされてしまいます。ここまで長生きはしたくないなーと。おもいますが運命は決められているのでしょうね。
母はいつも寂しいのでしょうね。今は特別養護老人ホームにおりましてすべて至れり尽せりのようですが、やはり人間は愛情がなによりなんですね。
私なども 時折いろいろと考えてしまいます。恒平先生どうぞお元気でいらしてくださいませ。ご健勝をひたすらお祈りもうします。
* 「湖の本」を受け取り、「何が秦さんをささえているのでしょう」というメールも、もらった。何だろう。
2007 11・18 74
☆ ありがとうございました。 玲
「湖の本」に添えていただきました先生のお言葉で、再びマグノリアにお迎えさせて頂ける事と存じ上げました。
どの季節頃か、先生のスケジュールの中へお入れ願います。
奥様に『人間の運命』お読み頂いて「ありがとうございます」と、お伝え下さいますよう。
お寒くなってまいりましたので、お体クレグレもお大切にお頼み致します。
☆ 月の境の鋭さに 雀
こがらし一号ときいて毛布を一枚足しました。朝のオリオンの大きかったこと。
お障りございませんか。おんみ一層お大切になさってくださいませ。
紅葉が遅れ東福寺では臘八大接心に観光客がかかりそうとのこと。
恵那、中津川、妻籠宿さらに付知峡、谷汲、大垣と、美濃遊山をしてまいりましたが、どこも三分から五分といった具合で、かえり咲きの桜が見られました。
雪待ちといった山の麓の田畑にときにまじる茶畑、山の端に沈む弱々しい陽の光を受けて黄金色にかがやく集落の大銀杏、小流の傍の祠…。弱ってゆく生命の気に同調していくのと同時に、そのいちばんかどッこが赤くちりちりし始める、そんな安堵感に満ちる季です。
「古美術読本(二)書蹟」は大岡信さんから読みはじめました。天心、露伴はまず文そのものに歯が立ちません。 囀雀
☆ 早速のご返事 香
うれしく拝見いたしました。何とか、しのがねばなりますまい。
国立劇場の「玉手」、心が動かなくはなく、芝居断ちも今月なかばで終りですけれど、何となくぐづついてゐて、どうやら見のがしさうでございます。通しは文楽で観たきり……。
合邦の庵室跡と天王寺をたづねたこともありました。天王寺には、段ボールで囲ひをして、地面にぢかに蒲団をしいて寝てゐるホームレスがゐました。俊徳丸は筵囲ひでしたが。
歌右衛門の玉手、合邦は先代の仁左衛門と今の三津五郎のお祖父さん、合邦の女房は多賀之丞。俊徳丸は延若。と、わたくしの何度か観た「摂州合邦辻」のベスト・キャスティング。
残念なことに現藤十郎の玉手、観てゐません。
こんなことを思ひ出し、お話し申しあげてゐる間は、鬱陶しいことも遠のいて。
* 「鬱陶しいことも遠のいて。」これが、大事なこと。 いい「友」は、要るのである。いい友はいるのだろうか、ほんとうに‥と、妻とよく語らい遠く案じている日々である。
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☆ 「何が秦さんをささえているのでしょう」 晨
私に、見えるのは、生きていて受容したものを、言葉にして伝えたいという、もう、生きているその事のようなぶれない、妥協しない姿勢です。ご本人に言ってみてもね。
麻田浩さんが亡くなる少し前の、高島屋での個展で、胸をつかれた絵がありました。こんな孤独の中に居ると、突然、なにかに気が付き涙がでました。絵をみて、涙が出たのははじめてです。
麻田さんには、なにも言いませんでした。手のすいた麻田さんが律儀に、全部の作品について話してくれました。とりとめのない話。この二つの黒は、どうちがうか、といったような。その絵については、あたらしいところへいける気がする、と。
私は、違うと思っていました。
個展の作品のなかの、2点ほどのなかに、新しいきざしを、かすかに感じていました。どれがいい、ときかれたときの、答えはそのなかの1点をいいました。
健康が優れず、美禰さんが、こまかく気をくばっていました。地下で、うなぎの、安売りをしているよ、なんていう夕食の献立のおしゃべりもしたりして。のうてんき。
先日、その絵をみました。しずかにみられました。
* わたしは「すごい」という批評語は嫌って避けていますが、ときどきはっきり意識してつかいます。麻田の世界は、凄かった。あれでは俗世的な意味での精神の平衡は保てない。次元をかえていえば、麻田は平安に、あの夥しい「あそこ」へ身を置いていたのだと想うけれど。だから「痛ましい」というばかりの同情はしないのだけれど。しかし必然生きてはいられないはずだと胸に落ちました。
人は絵画としての技法や工夫に驚嘆するかもしれないが、幸か不幸かわたしにはそんなことは、聞いても分からないし深い興味はもてない。それよりもまっすぐ絵画の中へ、奥へ、入って行く。そうして画家の声なきことばを、呼吸を、喜怒哀楽を聴き取ろうとします。
あの展覧会を、がらんがらんの会場で一人っきりで観たのを、せめても今も有り難かったと思い、引き込まれるように図録をときどき開いています。どの繪が好きだったのか、教えて下さい。
2007 11・19 74
☆ 湖の本
『梁塵秘抄』を頂戴いたしました。ありがとうございます。『閑吟集』とあわせて、「湖の本」として手元に置けますこと、しみじみ嬉しく思います。長いこと待っていました。
この二冊がどんなに素晴らしい名著であるかは今さら申しあげる必要もないことですけれど、この二冊は秦恒平文学を語る上で、必須の手引き書のような作品と思っています。繰り返し繰り返し読み、文学者秦恒平の思想と感性を自分の血肉とするまで読み込んでみたいと思います。
でも、なぜでしょうか。今回の『梁塵秘抄』を手にした時、涙がこぼれました。心身ともに極限の中を、鉄の意志でこの一冊を送り出してくださったお姿が浮かんでしまいました。まさに、お命を削る思いの配本でいらしたのではないかと、泣けてしまいました。
みづうみに「身内」とは思われていないわたくしですけれど、「真実の家族は本来の家へ帰った日に、はじめてわかる」のなら、その時「おかえり」「おかえりなさい、みづうみ」と元気に逢えますことを祈り続けます。 わたくし
* 人に指さすように、あなたは、きみは「身内」だなどと言うことは、極めて例外はありうるにしても、ま、ありえない。小説『畜生塚』の語り手が、ヒロインに告げていた「真実の家族は本来の家へ帰った日に、はじめてわかる」というのが本当だろうと想う、そういうことが、あり得るとして。
☆ 底冷え maokat
hatak さん 『梁塵秘抄』到着しました。
日中も零下の真冬日となり、本も底冷えの中、金属製のポストにコトリと納まっていました。
古代人の赤裸々な声、鋭い眼、つい目をとめてしまいます。「飽かで退く」など。
寒き夜を暖かくお過ごし下さい。御礼まで。
* 数多い今様の詞句から、発止と打つように「飽かで退(の)く」に目が留まる、さすが。そこにこの読み手の真実があり、あるいは葛藤もあるならんか。
☆ 「湖の本」送って頂き、ありがとうございました。 珠
昨夜手にしてから、ついあちこち読み始めてしまい、いえいえ最初からよ、、と 自分に言い聞かせて、今日は留守番に置いてゆきました。
私は一度に何冊もの本に手をつけることができません。
通勤では、座ると寝てしまって乗り過ごすし、立って読んでいるとこれまた駅を過ごしてしまうことが多く、最近は通勤中は我慢して読まないようにしています。
夜、帰宅後、最近はチクチク仕覆を縫って過ごしていますが、これからの寒い夜、早々にベッドにもぐり、「湖の本」を寝る前の愉しみにさせて頂こうと思います。
いろいろばかり、つぎつぎとでしょうが、どうぞいつもその中で、「颯爽」とあられますように。
大事にしてください、湖。 (インフルエンザ予防接種はお済みでしょうか。お忙しいでしょうが、これもぜひ。) 珠
* 注射はぜひ受けてきたい。毎年の例が、今回は少し遅れている、明日にでもと。
2007 11・19 74
* 馬場一雄先生、島尾伸三氏の手紙あり。
* 馬場先生と初めてお目にかかったのは、医学書院に入社して二年目の中頃だった、わたしはまだ二十五歳だったし、先生もまだ東大小児科の助教授室に居られた。
娘・夕日子が生まれるというので、わたしは何かしら記念になる仕事をのこしたくて、ご相談に行ったのである。
そのころわたしは月刊雑誌を二冊担当の編集者で、書籍企画は義務でなかったが、義務でないから努めないという編集者ではなかった、未開拓で、越境が可能ならどんどん越境して、義務でもない企画書を書いて義務でない企画会議に出て行った。わたしは、何でもいい赤ちゃんの医学研究書を企画してみたかった。
幸いわたしは「助産婦雑誌」という月刊誌編集を命じられていたので産科の専門医や時に小児科医とも接触があり原稿依頼もしていた。
当時、生まれたての赤ちゃんを、産科医は新産児、小児科医は新生児と呼んでいて、産科医による『新産児』の臨床本は出ていたが『新生児』という本はまだ出ていなかった。なにより両科で赤ちゃんのいわば「取り合い」のような按配だった。これはマズイんじゃないと新米編集者は考えていた。じつは両科にもマズイと考えている医師がいた。馬場先生は小児科側の指導的なお一人であった。
東大で小児科と産科とが協力して『新生児研究』といった最新の研究成果を出し合う大規模な共著が出て、その気運からせめて「新生児研究会」といった「学会の一歩手前」のような全国組織が生まれ得ないものか。そう願って、馬場一雄先生の助教授室のドアをノックしたのだった。
* たいへんな経緯を経て、画期的な大共著の『新生児研究』が東大両科の高津忠夫、小林隆教授の監修、馬場先生と産科の広川統先生の編集で刊行になり、全国規模の「新生児研究会」も発足し、日本医学会の分科会としての「新生児学会」に成長していった。わたしにすれば、それこそは「夕日子」記念碑であった。
「湖の本」に、必ずお手紙をくださる馬場先生。わたしの体調にもご心配戴いた。
* 島尾伸三氏は、大先輩島尾敏雄さんの子息。ユニークという言葉はこの人のためにある。「湖の本」をいつも応援してくれる。
☆ ご本拝受 雀
驚きました。さぞご心痛のこととお察し申しあげます。奥さまの一日も早いご快癒をお祈りいたします。
おひとりで発送作業をなさってらしたのでしょうか。お疲れを残されませんよう切にご自愛をお願い申しあげます。こまめなうがい、そして手洗い。水分をとること。冷やさないこと。そうしてくれぐれもお怪我をなさいませんよう、どうかおからだお大切に。
“老妻”なンてお書きになるから。「湖の本」読者にはそういう表現はNGですよ。
瀞峡から奥瀞を回ってまいりました。やはり紅葉は遅れていますね。松上げをする川原や、子持ち鮎を漁る仕掛け“せぎ”(竹や木で関をつくり引き返す鮎を視て網を投げるのだそうです)、丸山千枚田など見てまいりました。
いよいよさんま寿司の季節。さんまやさばを美 味しい寿司に仕上げるのがウデ。尾鷲でおいしいお寿司にありつきました。
近鉄で松阪へ出て、尾鷲まで往路はJRを復路は国道を走る特急バスを利用。海浜に、車窓の景色の違いに、気持ちがのびました。 囀雀
* 大事なメールが「SPAM」で括られて届いていた。数が少なくて幸い見つけたが、何故こんなことが起きるのか。何十も固まっているときは容赦なく一括削除してきたが、そんな中に緊急の大切な通知など入っていたら、おおごとになる。危ないこと。
☆ こんばんは。 昴
『梁塵秘抄』、届きました。有り難うございます。口で伝えられるものと、書き写されて伝えられるものに最近、興味があるので、『梁塵秘抄』を読んで勉強していきたいと思います。
『愛、はるかに照らせ』は二十首以上印を付けている所で止まっています。落ち着いたら、まとめてみようと思います。
「健康大切に」という言葉、有り難うございます。
湖先生こそ、お体大切にしてください。
* 元気に健康を本当に回復して、夜空の昴が煌めくような、きらりと詩性に富んだ短い表現で、時としておどろかせるこの人の述懐を聴きたい。
2007 11・21 74
* 忘筌といい、如庵、待庵といい、このところマイミクさんのなかで茶室の話題が散発している。
歌舞伎の感想を書くと、どうやら歌舞伎好きの人たちから「足あと」が降るように来る。「mixi」のおもしろさで、コミュニティーをさがせば無数、多彩に「世間」も「関心の話題」も広がって行く。あまり足を取られたくないのでわたしは自身で覗きに行くことはしないのだが、たいへんな食通もわたしのマイミクの中におられる。食の店を開いている人も、茶の店を開いている人もあり、作家も脚本家もいる。
☆ Pad Thai ハーバード 雄
今日は,隣のラボのインジュンとランチに行くことになっている.この間の誕生日のお祝いだ.
「You,見ろよ」と居室の外から、ライアンが呼ぶので出てみると,外は激しく雪が降っていた.昨日の初雪とは比較にならないほどの降り方.しかし,気温が高めなので,積もることは無いだろう.
しばらくして,隣のラボのプログレスレポートが終わり,インジュンが居室に入ってきた.「凄い雪が降ってるけど,大丈夫?」とインジュン.「大丈夫だよ」と答えると,「では少し早めだけれど,行こう」とインジュン.
「どこに行きたい?」とインジュンが聞く.
「何かご希望は?」と聞き返すと,「韓国料理以外ならどこでもいい」とインジュン.インジュンは韓国人だから,勿論韓国料理は好きだ.しかし,それが故にボストンの韓国料理には満足できないらしい.僕もボストンの日本料理には満足していないから,その気持ちは良く分かる.「じゃあ,タイ料理はどう?」と僕.
ハーバードスクエア近くのタイレストランに行く.なぜか数日前からPad Thaiが食べたくて仕方が無かった.
Pad Thaiは,甘酸っぱい味付けの炒麺.具は鶏肉や卵,ネギ.砕いたナッツがふりかけてある.こちらでは定番料理の一つで,どのタイレストランにも置いてあるが,日本では食べたことがなかった.
この店のPad Thaiは,麺が少し平べったいが,コシがあってとても美味しい.最初出てきたときは,量が少ないなあと思ったが,ゆっくり食べているうちに満腹になった.
僕の実験プロジェクトのことや,隣のラボの日本人Mさんの話,今インジュンが出そうとしている論文の話などをする.Mさんの論文は,最近Nature誌にアクセプトされたらしい.インジュンも,Natureに改訂版を送っているところだが,審査員たちのコメントからして,まず間違いなくアクセプトされるだろう.僕の周りの人々が,次々と良い論文を出していく.僕もこの流れに乗れると良いのだが.
ハーバードスクエアにあるHolyoke centerに用があったので,ハーバードスクエアでインジュンと別れる.インターナショナルオフィスのある8階に行き,帰国に際してパスポートやビザに不備がないか,見てもらった.この時期はアメリカを離れる人が多いので,色々トラブルがあるとインターナショナルオフィスから注意を促すメールが届いていたので,念のため確認してもらった.その足でハーバード大学の生協に寄り,いくつか買い物をする.
ラボに戻ってきてからは,ひたすら実験.夕方からセイリーンが現れた.この間,シュシェンの演奏会に来られなかったのは,パソコンがクラッシュして,その対応に追われていたのだとか.Thanksgivingの休暇の前までにデータ解析を仕上げたいらしく,夜になってもパソコンに向かって電子顕微鏡の画像とにらめっこしている.
「Youは,こんなに遅くまでいつも実験しているの?」とセイリーンが聞く.
「最近はサボりがちだから,今日はたまたまだよ」と僕.
「サイエンスセンターのカフェテリアに御飯を食べに行かない?」とセイリーンが誘う.僕も確かにお腹が空いてきた.こんな時間でも開いているカフェテリアがあるのかとびっくりしたが,なんのことはない,たまに僕も利用しているカフェテリアだった.グリーンハウスという名前がついているのを知らなかった.
ここのカフェテリアのメニューは,いかにもアメリカらしい.ピザ,ハンバーガー,ブリトーなど.この中で好きなのは,強いて言えばブリトーだが,今日はピザを選んだ.セイリーンも同じくピザ.
セイリーンはアメリカ生まれのアメリカ育ちだが,ご両親が台湾出身ということで,家庭ではアジア系の食事で育ったという.そのせいで,今もアジア料理のほうが口に合うのだとか.日本のカレーライスが好物だという.インドに行ったことがあるそうで,同じインドでも北インドの料理は美味しいけれど,南インドの料理は不味いなどという話をしていた.
明後日から土曜日まで,サウスカロライナのご両親の下に帰省するとのこと.サウスカロライナにはアジア系の食材店が無いのだそうで,ボストンから帰る際には,チャイナタウンで何か買って帰ってきてくれ,と頼まれているらしい.
食事を済ませてから再びラボに戻り,測定を続ける.粘った割には思うような結果が出なかった.一時帰国までに,もう少し良いデータを取りたい.
* 「雄」の日々を覗かせて貰うことで、わたしは、なにかしら増殖感を満たされているらしい。
2007 11・21 74
* うかつに「SPAM」メールは確かめもせず一括削除していたが、相次いで二人の、本来削除されるべきでないメールが「SPAM」処理されていた。気づいたからよかったが、困ったものだ。どんな失礼や、どんな被害が起きるか知れない。
☆ Thanks giving 前夜 ハーバード 雄
昨日遅くまで実験したにも関わらず,家に帰ってからもあれこれとやっていたため,寝たのは3時になってしまった.おかげで今朝は眠くて参った.
祝日の前でも,多くのラボメンバーは普段と変わらない生活を送っているが,今日は様子が違う.
聞くところによれば,Thanksgivingは日本の正月のようなもので,多くの店が閉まると言う.今日も半日または夕方までで営業を終える店も少なくない.
朝,ラボに着くと,コーリーが居室に入ってきた.彼は今日の夕方,実家のあるペンシルバニアに戻るという.何をするのかと思いきや,ひたすらビールを飲み続けるというから,これも日本の正月と大差ない.
コーリーいわく,「僕らの家族は,皆お互いのことが嫌いなんだ.だから別々に離れて暮らしてる.だけど,Thanksgivingには,一応,皆集まる.でも,15分も経つと,お互いのことが嫌いだったことを思い出すから,後はひたすら酒を飲んで誤魔化すんだ」.
それを聞いていたライアンは,「僕もそう.だけど,僕は酒が飲めない.だからThanksgivingには実家に帰らず,Christmasだけで済ませているよ」
アメリカ人というのは,もっと楽観的なことを言う人達かと思っていたが,うちのラボのアメリカ人は,そうでもないらしい.
皆,早めに仕事を切り上げ,”Happy Thanksgiving!””Happy Turkey day!”などと声をかけては,ラボを後にする.
隣のラボの学生のエマが,インジュンと一緒になって,Thanksgivingの翌日(金曜日)に,郊外のアウトレットへ行く話で盛り上がっている.
Thanksgivingの翌日は,年に一度の大安売りの日となっているらしく,郊外のアウトレットモールは深夜から開店するところも少なくないという.彼女達はWrenthamのモールへ行くらしい.何時ごろに行くと,駐車場が空いているかなどを熱心に語っていた.
そんなに特売なのだったら,僕もちょっと覗いてみたい気もするが,なにしろ僕は目をつぶると自分が何を着ているか全く分からないほど,服装には無頓着.持っている服のほとんどはユニクロかGAPという有様だ.アウトレットまで行って買うようなブランド物は,まさに「豚に真珠」といったところで,正直,全く関心がない.
6時前に実験を済ませ,合唱の練習に行くために車を取りにアパートに戻る.いつもは隙間の無いほど車が停められているOxford streetだが,今日はガラガラ.今週もDさんと一緒に車で練習会場へと向かう.
今日練習したのは,ヘンデルの「メサイア」からの抜粋.後3週間で演奏会だというのに,この程度の仕上がりで,果たして大丈夫なのだろうかと不安になる.
今日はThanksgiving前日とあって,参加者もまばら.ベースは二人しかいなかった.
指揮者の先生も真剣になっているのか,休憩もなしで,2時間ぶっ続けで練習.最初は気にならなかったが,途中から寒さが気になった.歌っている間は分からなかったが,すっかり身体が冷えてしまったようだ.
帰りの車の中でも寒かったし,アパートに戻ってきてもまだ寒い.風邪をひかないように気をつけなくては.
* 追体験の楽しみで、雄クンの日記を愛読している。
2007 11・23 74
☆ 甘える・甘えられる関係 創
大学時代の文学概論(だったか?)の授業で、「親」について挨拶せよ、とのお題が出された。次の週、親と子の関係として、どちらがどちらに甘えるのが自然か、という講義になったと、記憶している。もしくはこれらは違うお題の挨拶の授業であったかもしれない。
私に鮮明に記憶されているのは、私は「子が親に甘える」ことが自然である、と挨拶したことに対し、秦先生は「親が子に甘える」ことが自然である、と述べられていたことだ。当時の私は「自然か?」という問いに対しては、「扶養されている身である訳だから不自然」と感じていた(と思う)。
しかし、わが子を持つようになって、この秦先生の回答は、残念ながら「理解できる」ようになった。私は2歳に満たないわが子に甘えている。具体的な「扶養」というような些細な点ではなく、「生きる」という、より根源的な意味で私はわが子に甘えている。
生きる力という意味で、彼は非常にたくましく、私はこれからさらに甘えていくことになることも、感じている。つまり授業で秦先生が伝えたかったその真意を全く理解できていなかった、ということだ。これも言葉では伝えきれないことなのかもしれませんね。(私が青かったというだけかもしれませんが。)
一方で、このことは、親から子へ「思うこと」であって、子が親に「理解すること」でもないように思う。一方向のみしか存在しない理解だとも感じている。わが子がこのことを学生時代に理解してくれたら、それはそれで恐ろしい。それを理解するような深刻な事件か状況が彼の周りに起こったということだろうから。
私は「幸いにも」そのような状況には置かれず、生意気の限りを尽くし一人で生きてきたように振舞ってきた。先生が授業でも触れていた「十七にして親をゆるせ」の必要がなかったわけです。
この件をはじめ、親子関係の連鎖は無数に無限に続くありふれたものでありながら、こんなことにも気づけない難しいものである、と感じるようになったわけです。こう思うとき、秦先生ありがとう、と思わざるをえません。
* ありがとう。写真のボク、クリックしたら大きく見えるんだ。大きくなったねえ。二人に似ているよ。そうだよ、こどもが親を育ててくれるのさ。
☆ ニックネーム変更 創
poplifeandcoにはコダワリ持っていたわけではないので、湖さんの勝手なご提案を勝手に受け入れ、「創」と変更。私の名付け親ですね、湖さま。
poplifeandcoは「873面白化計画」を遂行していたときに、思いついたニックネーム。アパレル・ブランドの「Max&Co.」とか設計事務所で「&Associates」とか使うことから思いついた。直訳して「弾ける生活とその仲間」だ。
ある時期、私は「面白くない人間」になっている、と湖さんにコテンパンに言われたことがある。そのとき私はある事件で落ち込んでいて、優しい言葉を待っていた、にもかかわらずだ(笑)。しかし、おかげで目が覚めた。そこから上記「873面白化計画」に入ったのだ。なので、poplifeandcoも源泉をたどれば、湖に至る。
そのせいでポーランドにいるということにもなるのだが、、、、(笑)
そういえば『面白い話』は、未読のまま実家の押入れに眠っている。帰国したら読んでみよう。
* 創意工夫。謂えばカンタンだが容易でない。容易でないから励んでいるのが、この人。奥さんも赤ちゃんも、お元気で。
☆ 教員という仕事 司
教員をしている妻と外出すると、色々なところで出会いがある。
七五三の時も、とある巫女さんから「○○先生ですよねぇ? ○○でお世話になった○○です。」と突然声をかけられ、しばし妻と彼女との立ち話に付きあった。
先日、買い物に出掛けたときは、スーパーの中でデート中(だと思うが)の今の教え子2人とばったり。ズボンを半分下ろした男の子と幼い顔のクセに妙に大人びた格好をしている女の子・・・。正直に言うと、見た目は頂けないが、うちの3歳と1歳のチビにも「こんにちわ」と笑顔で話しかけ、あやしてくれた。その素顔が垣間見えて何ともいい感じ。
デート中に先生と会うのもどうかとは思うが、どちらの子供(巫女さんは既に成人だったが・・)も妻を「先生」と呼び、先生である妻も彼・彼女らに笑顔で話しかける。
そんなときの妻は母から先生の顔に突然変わる。子供たちも、生徒の顔に変わる。
教員とは何ともうらやましい仕事だなぁと正直に思う。
18歳。高校3年生。既に推薦で進学先は決まっていたという。将来の夢はスチュワーデスだとか。夜10時、塾の帰り道。歩道を自転車で走っているところを左折してきた車に捲き込まれて亡くなった。
夢は一瞬で潰えた。棺には成人式用の着物が一緒に入れられたとか。
担任ではなかったらしいが妻の昔の教え子。担任であった先生は事故の翌日、彼女の自宅を訪問してご家族とお話をしたと言う。
こんな悲しみにも正面を向いて立ち会わなければいけない。
私など、話を聞いただけでどうにも堪らなくなってしまった。何も言えない、何もできない・・・と思う。これでは教師は務まらない。
教員とは何ともうらやましい仕事だが、この仕事が務まる妻もまたうらやましいと思う。
* こういう柔らかいハートの「司」をもった行政って、いいなと思う。奥さんもお子さんも、お元気で。
「司」クンの結婚式、あんなに生徒たちが大勢参加して楽しかったのは、初めての体験だった。奥さん「先生」の人徳を目の前に観た。
「創」クン夫妻には、わたしは結ぶの神であったなあ。みんな幸せでいてほしい。
* 生きているだから逃げては卑怯とぞ幸福を追わぬも卑怯のひとつ 大島史洋
☆ 祝日も 朝働けり 除雪跡 maokat
勤労感謝の日。例年になく今年は冷え込み厳しく、日中晴れても雪がとけません。夜帰れば、自宅前の路肩に除雪された雪の塊が小山をなしていました。
この山が日に日に高くなり、やがて背丈を超えれば、真冬。何度か排雪され、解けて小さな黒い塊になり、やがて元通り消えてなくなれば、春。とはいえ、まだ冬は始まったばかりです。
* 枕草子の「雪山」を思い出しました。
2007 11・24 74
☆ 秦恒平先生 初めてメールを致します。
12月においでくださること、とても嬉しく感謝いたします。
七十の手習いのPC、どうなることか皆目見当も付きませんが 無事に届きますように・・・・ 念じております。 楊
* まもなく群馬県に講演に行くが、不思議なご縁で群馬県へは前後十度ほども、各地で「著者を囲む会」や講演に呼ばれてきた。久しいお付き合いの読者も多く、今度二度目に出かける市からも、ながいお付き合いの「湖の本」読者が、はじて今朝メールを下さった。「電子の杖」に馴染み始めたとは、とてもいいこと。インターネットは老境を励ます「電子の杖」だとわたしは言い続けてきた。「e-OLD」のお仲間もずいぶん増えている。久しぶり再会の楽しめる何人もの顔がおぼろであるが浮かんでくる。
2007 11・25 74
☆ 秦先生 馨
このところ体調がすぐれず「mixi」もすっかり読むだけになってしまっております。ただ、私の不調は時期がくれば治るのですが、先生のお具合の悪いのを心配しております。お目は先生の生命線、くれぐれもお大切になさいますよう。
湖の本のお礼も遅くなりました。いつもありがとうございます。ゆっくりと読ませて頂きたいと思っています。
先日、パソコンを整理していましたら、ときおり書いていました歌が出てきました。下手な歌ばかりですが、なんとなく我が家の小さな来し方を思い出し、少し甘えて送らせて頂きます。
花びらを蜆のかたちといふ吾子よ 静かに豊かに汽水に咲きゆけ
2年半前の春、裏山からたくさんの山桜が花吹雪になって谷戸一面に降りしきる中、思い立って外で朝食をとりました。その時にまだ幼稚園だった娘が舞い落ちる花びらを拾い上げ「お母さん、花びらってシジミの形だね」と言った一言に、シジミの棲む汽水域の豊穣さを思い出し、そういう子に育ってほしい、とすらりと出てきた歌です。
そして、翌年の花吹雪の時は、息子が生まれた時期で、入院中の私は家にいなかったのですが、娘が夫に頼んで花を見られなかった私のために花壇のチューリップを撮影しておいてくれたのも思い出です。
千年を経て横たわりいる佳人見つ 寝入りし吾子の息聴くがごと
息子を生んで、そして仕事に戻った時、千数百年を経て、初めて日のもとに出た美女が待ってました。くらい中では何度か会って来ましたが。これからの仕事だなぁ、と、明るい光のもとで対面した時、彼女達を見つめる視線が、我ながら我が子を見守る目になっているのに気づき、ふふ、と。
3Dでディテクトされし吾子はまだ五輪旗のごと風をはらみて
今月の初め頃できた歌です。超音波を使った検診で、小さなマルだけで構成された二等身の体が見えました。ジタバタと動く姿が風をはらんだ五輪のようにも見えて。
というわけで、私の現在の不調はつわりです。仕事に戻ってまだ半年ですし、全く予定外のことなのですが・・・。
最近あまり「mixi」を更新せず、先生がご心配なさっているのではないかと思いまして、メール差し上げています。
仕事の方も順調で、育休中に仕上げた論文が掲載になり海外でも話題になっている、などと噂を聞いたり、いくつかのプロジェクトの大枠の予定を立て始めたり、と軌道に乗り始めたところですので、休むのはもったいないなぁ、と思わずにはいられないのですが、もう一度子ども達とやわらかな日々を送れることを、贈り物のように楽しみたいな、という気持ちも多分にあります。
まだ不安定な時期ですし、順調に子どもを産んできた友人でも三番目を流してしまった、という話をあちこちで聞いたりしていますので、この子に本当に会えるのかはわからないのですが、自分の安産体質を信じて、バタバタと出張暮らしを続けています。(そうは言っても、新幹線から下りて吐き、乗りかえて吐き、なんてやっている情けなさですが。今回、今までで一番しんどいのは、きっと年のせいのような気がしてなりません。)
「mixi」での書き手が増えていらして、先生のHPを読むのが本当に楽しみです。同窓生も多いようですが、みなさん私より一学年くらい上かしら。ポーランドの「創」君だけが同学年ですね。(彼はきっと私のことなど忘れていらっしゃるかと思いますけど。)
海外生活では私の同級生も、アメリカ暮らし5年目の人がいますが、年明けに二人目の赤ちゃんが生まれるそうです。みんないいパパ、いいママになっていってますね。こんな些細なことにでもふと涙ぐんでしまうところが、つわり中で少し情緒不安定なところなのかも
しれません。
寒さに向かう季節、どうぞどうぞご自愛下さいませ。
* 三人めの天与のいのちに幸あれと、お母さんの健康ももろともに祈ります。いい歌日記をもらいました。
「司」クンも「山楓」クンもあなたと「あの日」教授室で会っていますよ。みな同じ学年です。「mixi」に少しずつ昔の仲間たちが加わってくるのを心待ちにしています。「創」クンは最近飛び込んできてくれました。
☆ 冬の始まり オホーツク 昴
窓が朱色に染まっている時、外の世界はいつもと違うらしい。
学校に行こうと外に出たら、細かい霰のような雪が降っていた。
北西の風が雪を激しく舞わせて、無防備な顔に当ててきた。
視界を白くするほどの雪が降っているのに、ちゃっかり太陽は出ていて、金色の輪の中に白い体をおさめていた。
子ども達は頬だけ真っ赤にさせながら、登校してきた。
年長の子は、年少の子に雪がかからないように、コートでかばいながら歩いてきた。
昨日は、甥っ子の誕生日でした。
今日は、風邪でダウンしていました。熱が出ないのが、なにより。インフルエンザの予防接種、どうしよう?
甥っ子にうつってないといいのだが…。
☆ 玉手御前の愛 淳
国立劇場の『摂州合邦辻』 藤十郎さんの玉手、我當さんの合邦、私の大好きな「吉弥さんのおとく」。秀太郎さんの羽曳野、三津五郎さんの俊徳丸。
シブイ! 配役だけでいや増す期待である。
国立劇場のいいところは、あまり商業ベースには乗らなさそうな演目も丁寧に演出して上演する点にある。だって国立だから。
で、今回も実に39年ぶりの通しでの上演である。合邦は最後の大詰のみ(もしくは三幕目から)の上演が多いけれど、やっぱり通しで見られるのは流れもよくわかって、いいなぁ。
かつて私は玉手の恋に主眼を置くよりも、親の立場によりそってこの演目を見ていて、娘を思って切ながるおとくと合邦に涙したのだけれど(そして今回もやはりこの両親に寄り添って涙を流したけれど)、通しで見るとやはり「これは恋の物語なんだな」と、浅香姫を打擲する玉手の激しさにいっそう涙を誘われた。
武家の女性としての生き方を通さねばならない一方で、自分ではどうしようもないくらいにつのる俊徳丸への想い。玉手は自分を終生記憶させ、自分が俊徳丸にとっての無二となるために、自己犠牲の道を選択したのではないか。妻となることはできない身の、あれは究極的な選択ではなかったか。あのように死ぬことによって、玉手は妻という立場、母という立場を越えてゆく。なんという壮絶な恋物語だろう、と私は胸震えました。
ちょっと泉鏡花の「外科室」を思い出した。
私はやっぱりこの演目が好きだなぁ。
現実における「こうあるべし」という観念(これも人間が作ったものなのだが)が、人々の強い情念とぶつかり合う時に生まれる悲劇、そこに人間の切なさとか悲哀が凝縮されている。
* 「淳」さんの玉手への感情移入は、さこそと共感する。鏡花の『外科室』とリンクされたのも佳い、われわれ自由な読書人・観劇人の在りようはこれでいい。
「いい読者」は「いい記憶」の持ち主と、ナボコフは言っている。一つの作品の中のあれこれを覚えているだけではない、自分の生きてきた感動のさまざまをよく覚えていて、おもいもかけぬところとところとが、釦と釦穴のようにひたっと合ってくる喜び。そういう喜びはいっそ「創造・創作」に近い。
ナボコフが、やはり「いい読者」の条件に挙げている「少しでもいい創造力・創作のセンス」と望んでいたのが、是に当たるだろう。
☆ スケッチ ボストン 雄
昨日,ヒャーノに言われて思い立ち,この週末に靴を買うことにした.ハーバードスクエアまで歩く.
今週初めまでは色づいた葉が沢山残っていたが,今週になって,一気に葉が落ちてしまった.歩道は,街路樹からの落ち葉で敷き詰められている.足で落ち葉をかき集めながら歩く子供.それをたしなめる親.
セールということで期待していたが,行った店のせいか,あまり安くは無い.普段買っているスニーカーの方が安いのだが,適当なものが見つからない.結局,革靴2足買うと1足分を半額にしてくれるということで,革靴を2足買った.半額にしてもらったおかげで,どうにか普段買うスニーカー位の値段になった.上の階にはGAPもある.コートを買おうかと思ったが,こちらもさほど安くなかったので,買うのを止める.
少し腹が減ったので,ハーバードスクエアのピザ屋Cambridge 1に立ち寄る.まだ日が高いが,Harpoon UFOを注文.このビールは酵母をろ過していないのか,少し濁っている.レモンが添えられていたので,搾ってビールに入れる.さっぱりとしていて美味しい.ハーフサイズの,クリスピーで美味しいポテトのピザをつまむ.
ハーバードヤードを突っ切って帰宅しようとしたところ,門のところで隣のラボのボスと擦れ違う.軽く会釈.
* こういう簡潔なスケッチの目に観るように具象的なのが、この筆者の、生得の強みか。
☆ 美しき 白き雪こそ 人殺め maokat
まだ初冬の内ですが、雪崩で人が亡くなっています。
大雪とその後の暖かさで、ふうわりと積もった雪が一気に雪崩を起こすのです。山岳会のベテランでも、引き返す判断が少し遅れただけで、事故を引き起こしてしまいました。
美しい冬山に魅せられる人の気持ちも分かり、人の智慧の小さな綻びを、残酷なまでに突いてくる雪の恐ろしさも痛感しました。
亡くなった方々のご冥福を祈ります、が、残された方々の気持ちを思うと、いたたまれません。
* もちろん、ゆるして下さるお人のものだけであるが、このように万華鏡のように各地からの声を、こう此処へ拾わせていただくことで、わたしは、自分の「私語」に温かい厚みを得ている。
もしわたしのリクツっぽい文章ばかりだったら、どんなに味気ないか知れぬこの「私語の刻」を、それとない「対話の刻」にも「はんなり」させて下さる声々に、わたしは感謝している。わたしが、どのような「けはい」「おもい」「こえ」を感じながら「いま・ここ」を渡って生きているかも分かって頂けるだろう。
すべては幻影、すべては夢とながめることも出来るけれど、かなしいかな、人はみなそのような幻影や夢の中で、いずれの日にかおとずれる「目覚め」を待っているのだ。
2007 11・25 74
☆ 秦さん。今月13日に、無事第一子が誕生しました。 敬
男の子で、3880gと大きかったです。名は航太朗(こうたろう)としました。
出産には立ち会うことが出来ましたが、母子ともに大事なく、元気に産まれてくれて、何よりホッとしました。
困った時の神頼み、とは少し違うのかも知れませんが、考えられることを全部やったあとには、自然と祈りたくなる気持ちが生まれるものですね。天命を待つ、というような静かな境地ではなく、むしろ、何にすがってでもという心境でしたが。
この先の子育ては、どうなる事か全くの手探り状態ですが、あまり気負わずに、でもその一つ一つのプロセスをしっかり受け止めつつ、大切にしたいと思います。
* 祝 航太朗くん 萬歳 秦 恒平
航太朗くんの元気な生誕を祝し、
ご両親の健闘を称えます。おめでとう。
穹(そら)をゆき洋(うみ)をゆき陽はほがらかに
太(おほ)いなれきみの志すこと 秦 恒平
安心しました。とても嬉しいです。
* 子育てすると思うより、子に育てられる親の気持ちで、と、すすめたい。
2007 11・26 74
* 暫くぶりに建日子が電話をくれて、しばらく近況を話し合い、気持ちが吹っ切れた。良薬であった。
ロサンゼルスからも電話のお見舞いがあった。感謝。
2007 11・26 74
☆ はやく元気に 鳶
半月ほどご無沙汰してしまい、久しぶりにHPを読みました。インフルエンザ注射の後の不調、如何ですか。今はまだ小春日和の日も楽しみですが、くれぐれもお体大切になさってください。ストレスの連続・・斜めに構えて風圧をいくらかでも避けてくださいと遠くから,たとい、愚かでも真剣に書きます。
祇園の峰子のドラマ、昨夜の松本清張のドラマ、わたしも見ておりました。
ドラマの最後に激しい怒りを覚えたことが書かれていましたが、わたしは怒りでなく、冷ややかな目で底知れない沼を眺めていました。冷ややかにしかなれないが、過去形で語られるものでは決してないこと、今も跋扈跳梁しているこの世かなと・・。
峰子さんのは終わりに彼女の現在の顔写真があって、祇園を去ったあとのほぼ三十年の歳月を想いました。確か日本画家の奥さんになったと記憶していますが。
彼女たちの日々を想像することさえ難しいのですが、彼女の書いたもののなかには納得させられるもの多々ありました。
わたしは多忙と不思議な空白の中を漂っている感じです、充実しているとは言いがたい。切迫した状況で暮らしているのではないから、ちゃんと生きなさいと、そう鴉に言われそうです。
早く早く体調が良くなりますように。
2007 11・26 74
☆ ボクの秘境 瑛 e-OLD
今日は小春日和。ふらふらと小田急線の「秦野駅」から大山への山道を歩いて、「聖峰」へ行きました。紅葉を見るため。最近はこのあたりの山里に「クマ」が姿を見せると聞きました。僕も「鈴」を、一人歩く山道では「からから」鳴らしながら、樹林の合間に見える天空の紺を見ながら山を歩きました。
漱石は「草枕」で山を歩いているが、温泉でありました。
山は、声をかけてくれるような「母の懐」にいるような気がふとしました。
2007 11・26 74
☆ 雅致とは ほど遠い、わたくしから。
お元気ですか、みづうみ。もしかしたら、わたくしって誰? と忘れられているのかもしれませんね。
インフルエンザワクチンの副反応も心配ですが、お眼が何より気がかりです。原因を早くつきとめて治療なさいますように。眼に症状が出ていても、眼に原因がない場合もあります。インフルエンザもどきを退治してから、お早めに精密な診察をお受けくださいませ。きっと改善されましょう。
毎日場所が変わるしつこい腰痛に苦しみ、湖の本の振込すっかり遅くなってしまいました。本日送金完了しましたので、よろしくご確認くださいませ。
昨夜の「点と線」わたくしも面白く観ました。昭和三十年代の話が、今現在の話のように、日本の社会は少しも変わっていない。小悪は滅びても、巨悪は生き延びるというのが松本清張の世界で、そのまま現在の悪夢のことでもあります。
祇園のドラマは見損ねました。「黒髪」がお座敷で舞われるようすが見たかった。みづうみに「黒髪」から一気に「山姥」にいかないようになどとメールでけなされたのがなつかしくてなつかしくて。
横尾忠則さんのブログでこんな文章を読みました。
体が痛いと思考が止まって、感覚だけになる。感覚というのは「今」を示すので、過去や未来には手が届かない。思考っていい加減なものだ。思考が自分だと思ったら大間違い。本当の自分は思考の中にいない。もっと別の場所だ。
人間は過去にも未来にも存在していません、たった今しか存在していないのですから、今に全神経を使ったらどうでしょうか。あなたもぼくもなるようにしかならないのです。このようにして今日まで生きてきたんですからね。
これを読んで、みづうみと共通するものを感じました。「今・此処」に全力で命を燃やすことのできる人こそ天才というのでしょう。
わたくしはバグワンを忘れたり捨てたりしているわけではないのですが、「わたし」を捉えて目覚める境地を求める高みになど達しておりません。襤褸をいっぱい身にまとっているわけでして、まだまだ何かになろうとあがいています。
この週末、日帰りで京都に紅葉狩りに行こうと娘に誘われています。座っているより歩いているほうが腰にはよいみたいですが、さて、どこが見頃でしょうか。
この秋も桔梗柄の着物を着そびれてしまい、もうじき冬景色。ホットカーペットにもぐりこんで寝ている小猫の天下泰平が羨ましいことです。
おやすみなさい、みづうみ。 わたくし
2007 11・26 74
* あまり本気にされないかも知れないが、昨日か一昨日に「雄」くんのスケッチを転載しておいたのを、何と言うことなく立ち戻って読んでいる。
いかにもスケッチである。何の観念もリクツも抽象もない。しかし、じつは具象のなかに観念が、具象のとらえ方にリクツが、さっと走る具象の一筆書きに巧まぬ抽象が、生きて在るのだなと、わたしは感じる。
* 十時過ぎた。からだを横にしに行く。
2007 11・26 74
☆ 長兄を亡くしてしまいました。 楊
この27日が通夜となります。
「死なせた」と言うことより「死なれた」という感慨のほうがとても大きいです。心が詰まって言葉になりません。 また後ほど・・・・・。
* もしや 私の群馬で存じ上げている**さんは、あなたと、****さんとおっしゃる久しく湖の本をお支え頂いた方があるのみですが、その方のことでしょうか、年配からも、なにとなくそのように察しられますが。
死なれるのはかなわない。それが私の文学を下支えた基本の思いでした。自分の死ぬのは一度ですが、なんと生涯に多くの死なれて・死なせてに遭遇することでしょう。
こころより哀悼の思いを届けます。お大切に、お嘆きをむりに抑えられることなく、悲しい限りを歎いて泣いて、しばらくはともに亡くなられた方の近くにいてあげてください、そして帰ってこられますように、あなたの世界へ。『みごもりの湖』の終幕のように。 秦 恒平
2007 11・26 74
☆ 寒くなりました 藤
秦恒平様 急に寒くなり身も心もびっくり致しました。湖の本『梁塵秘抄』有り難く受け取りました。
秦様が身をけずるようにして作って下さって居る本なのに、それを十分に読みこなす力のない自分が申し訳なくて—ぱらぱらとページをめくっております。
祇園のドラマ珍しく夫と共に”熱心に”見ました。
京ことばが下手やしいらいらするわ、といちいちケチをつけ、踊りが下手や、着物に変なシワがある、とかと文句をつけ、そのくせやっぱり懐かしい京都、祇園界隈——-夫婦そろってがやがやとテレビを見ている今を幸せに思いました。
松本清張の「点と線」も見ました。
夫は出張の車中でよく清張の推理小説を読むようですが、私は秦様同様に登場人物がみんな”哀しい人”すぎて後味がつらくて
余り読みません。私の好みは哀しいのにどこかおかしい人たち。
昭和30年代が丁寧に再現されていてこちらも又懐かしかったけれど、「結核で療養している佳人」とか「夜行列車で20時間近くもかけての旅」とか今の視聴者には実感が伴わないでしょうねえ。
一つ違和感があったのは、「安田」がうなぎを食べる前に使ったおしぼりタオル。あの頃はあのような青緑の格子の入ったおしぼりはなかったと思う。白とか、白で端だけが薄青とかでないと—–
テレビ見て文句ばかりつけて、いやな婆さんになったなあって自己嫌悪(もうすぐ私も70才です)。
いろいろ、つぎつぎ、お身体の不調があるようで心配しています。
お大事になさって下さいませ。 2007/11/27
☆ 京の地元もの 泉
孫が幼稚園でもらってきた風邪(流感ではなく)のおこぼれを貰い、熱が出なかったせいか長引き、中耳炎になり、今治療中。従いまして私は片眼でなく片耳で過ごしています。
「点と線」「球形の荒野」は松本清張の小説ではのめり込ませた二作です。
初テレビドラマ化の「点と線」は、ベテラン脚本家竹山洋の腕前と云いたい、いいテレビドラマであった、と。これもビデオ撮りしてのめり込みました。
京都物は、悲しい性で、つい方言のイントネーションのあら探しをしてしまう。
峰子さんのドラマは、確か東京育ちの筈の白川由美と、あのいけず役の戸田菜穂は完璧でした。
祇園甲部の舞妓さんが、例えオフでも白川行者橋を散策している場面は違和感があります。
以前に観たテレビ小説で、洛中の商家を一歩出るや、次の瞬間には南禅寺の水路閣を散歩しているなんて、なんやこれは、と距離感のつかめている者は白けてしまいます。
な~んて、いやな婆さんやなア やれやれ
* 期せずして故郷も互いに接近した、老主婦さんたちの感想。
「藤」さんのご亭主はわたしの同級生だが、彼と「泉」さんとわたしとが、話題になっている白川行者橋、楊並木の白川に架かった何本かの御影石でできた細い橋、まで行こうとしたら、ま、早足三分で三人の顔が合う。そして祇園の舞子、藝妓たちにしても普段着でなら直ぐそばの古川町へ買い物に来るのに散歩の範囲なのだから、べつだん可笑しくない距離だけれども、祇園の女の姿のままあの白川沿いを歩くなどということは、感覚的に、どんなに距離は近かろうとも、まず、決してない。ありえないと地元のモノは知っている。だがまあ、そこが映画なのである。あの美しい景色を取り込まない手はない。なにしろあの辺は、マーロン・ブランドが日本へ来て、いちばん印象的だったと漏らしたところだ、あのマーロン・ブランドの表敬には、いっそ地元のモノがびっくりしたもんだ、なんやね、あんなとこがええのかな、と。それほど馴れて、肌身に馴染んだ景色だ。
* みなみなそろって、e-OLDs。インターネットがなかったら、こんな感想がただ交わされるだけでなくこう公開されることもない。居丈高に、こういう交流は対話でも会話でもないと怒る人もいるし、わたしも信じすぎないでいる方だが、なかなかどうして、電子の杖は、健康で真面目な老境を励ましているのである。
藤さんも泉さんも、上の文章を、わざわざ手紙で書いて切手を貼って私に送ってくれるだろうか、それは考えられない。メールにはメールの利もあることに素直であっていいのである、もはや今日。悪用する人を警戒することだけ覚えていた方がいい。
☆ 久しぶりの曇り空です。そのせいか、心なし暖かいですよ。お元気ですか、風。
花は、平野謙の作家論に刺戟を受け、あたためている評論の構想を少しずつ固めています。
平野謙の『芸術と実生活』は、昭和二十年代から四十年代に発表した評論を一冊に纏めたものでしたが、二十年代に書かれたものと、四十年代に書かれたものとでは、平野の私小説の読み方に変化が見られました。
変えざるをえない社会の変化があったのでしょうが、その柔軟な読み方に感心させられました。批評とは、こうでなくてはならない、と思いました。
作者の年譜と見比べながら読まなければならない私小説もあれば、実生活をもとにフィクションを作り上げたものもあれば、フィクション部分がほとんどを占める小説もあります。
それらが、一人の作家の作品中に混在していることだってあります。読み手は、少なくとも批評しようとする者は、それらを慎重に峻別する努力を怠ってはなりません。
時代があとになってくると、私生活をほじくりかえすみたいな私小説的読み方を嫌うあまり、テクストクリティークに偏りすぎている評論が多く見られます。
わたしは、明治以来の小説や評論を読む中で、現在は、私小説的読み方・非私小説的読み方の両方をフレキシブルに稼動させ、一人の作家の作品群を読み解く批評が存在すべきなのでは、と思い、実践に向け、準備をしています。
とはいいましても、風の置かれている状況と体調が心配で、いろいろなことが手につきません。
どうか、風の眉が少しでもひらきますように。 花
2007 11・27 74
* 体調最悪。最悪の負担で、喉を引き裂くように咳と痰とが襲い、膿様の洟が襲い、眼は分厚い目やにに塞がれている。家の中にもう風邪薬がみな切れてしまい、しかし薬屋は遠く、私も妻も出歩けない。
そんな中ででも、わたしは休んでいられない。いま文藝春秋の寺田さんからお見舞いの電話があったが、電話に出る自分の声が声になっていない。寺田さんもおどろいて電話を遠慮されたほど、ものの譬えが当たっているとは想われないが踏みつぶされた蟇蛙のようなひどい声だ。
果たして十二月二日に群馬に出かけて、人さまの前で話せるだろうか。いま断っては主催者が迷惑されるだろうが、この声で、まともに高崎の奥の方まで電車を乗り継いで行けるだろうか。行かねばならない、行ってみるばかりだ。
* お見舞いのメールをたくさん頂いた。感謝します。朝よりも、もう日付のそろそろ変わる今が、よくなっているともやはり思われないが、仕方あるまい。
2007 11・28 74
☆ 越中五箇山 ゆめ
に旅してきました。
立山連峰はすっかり銀嶺となっていて、いつものように私を迎えてくれました。
ご本戴きました。再度じっくりと読ませて戴きますね。
こきりこは放下にもまるる、こきりこのふたつの竹の世々をかさねて、うちおさめたるみ代かな (閑吟集19)
☆ 秦さんへ e-OLD 千葉
(1)明日(29日)近くの医者へ行く。出来れば電話で予約する。タクシーを呼んで楽をする。
医院へ着いたら倒れる(横にしてもらう)。
事情を話して、なんとかして欲しいと言う。
(やりとりの中で都合が悪くなったら、遠くの知り合いの医者が「そう言ってなんとか頼んでみるように言われた」と、ひとのせいする。
あと三日あるので薬を飲んで頑張る(ふとんの中で臥ている)。
(2)当日は一番楽なように行く。
出来れば車で迎えに来て貰う。出来るだけタクシーなどを使う。健康保険証を持参する。
困りました。取り急ぎ。どうかお大切にしてください。 拝
* 感謝します。今日は、殆ど半眼で仕事。これはしかし左目に負担を掛けすぎる。どう霞んでいても左眼にもはたらいてもらう。問題は「声」だ。役者じゃないので、このヒドイ声をどうかして話すだけは話せるようにしたいが、チエがない。
2007 11・29 74
☆ 近頃の郵便局 E-OLD 神戸
あいた口がふさがらないとはよく言ったものだ。
近所の暇な老人しか来ない郵便局でのこと。
列をなしているわけでもない。郵便振替で代金を払おうとしただけだった。
「おぬし、これが見えぬか。民営化後の局ではローテク番号札、再利用可能な番号を取って順番待ちしてもらわないと処理はしてはならない法律ができたのを、おぬしは知らないのか」
「そんな注意書き見えるか。しらんわ。」
またされること30分。サービス低下で、なんの民営化か。
局員はコンビにの仕事にはまず不適格。
こんなスローモーな会社自体をコンビニで再教育してもらいなさい。
* 同感。さ、もうやすもう。明日一日で、声はすこしでも、もどるかしらん。
2007 11・30 74
* 凛々歳暮
☆ 岡山にも冬がやってきて、枯れ薄が師走の風に揺れています。秦さんそして奥様もお加減がよくないとのこと、これから寒さに向かいますので、お大事にと念じています。
岡山の特産ということになっている「愛宕梨」をお届けします。二十世紀梨ほど甘くないのですが珍しさを楽しんでくださればと存じます。
早い御快癒を希っています。 玄 e-OLD
* 声は今朝も相変わらず。軽快しているとも言えず。あと二十七時間ほど。どうなることか。
2007 12・1 75
☆ 今年は衣笠山の錦繍がことのほかきれいで、五色に彩られています。
乗り物の混雑がしんどくなってきて、歩いていて目に映る紅葉を楽しんでいます。
奥様共々一日も早いご快復をお祈りしています。
マスクをして寝るのは、少し窮屈ですが、喉にいいようです。くれぐれも、お大事に。 京の従妹
☆ 「今」いきの根をとめられないために。咳、咽喉に、マスクと、のど飴を。 晨
* マスクやのど飴のレベルでは無くなっているが、マスクもしている。飴は甘いのがよくない。だれか、酒を勧めてくれないモノか。
2007 12・1 75
* 山口の「碧」さんに、かたじけない嬉しいメッセージを頂いた。
2007 12・1 75
☆ 京から帰ってきました。おん身案じられてなりません。心底ご平安をお祈りいたします。
法然院で、谷崎さんと、このたびは稲垣足穂と九鬼周造のお墓にお参りをいたしまして、覚悟以上の人込みに、経ヶ岬へにげました。
籠(この)神社から伊根の細い道をうねうね進むあたりから、空が暗くなってまいりまして、宇良神社に着く頃にはかなり激しい降りになりました。経ヶ岬から新井崎の棚田に降り、宇良神社に戻った頃、空が明るみ、湾に虹霓がかかりました。
―雨に唄えば。虹の彼方に― 囀雀
☆ hatakさん
体調良くなられましたか? お出かけの際は無理をせず、くれぐれもお大事に。
大徳寺で、続き薄の茶をしました。紅葉も、弘入も、嘯月の菓子も何もかも、ただ目の前を通り過ぎて行くばかり。不在の友のみ胸のうちにありました。明日、岡山の病院に見舞い、札幌に帰ります。 maokat
* みなさん、お幸せに。
2007 12・2 75
☆ 金婚 晴
渋川市でのご講演を無事終えられ何よりでございました。ほっとしておりますが、その後のお体が案じられます。くれぐれもお大事になさってください。
我々夫婦は金婚の日を祝って、エーゲ海クルージングと張り込みました。
「年を取ったら、洋上の船の上でゆっくりと本を読む」
これがずーと憧れていたことでした。
3千人近い旅客(日本人は30人ほど)が乗っている船に、図書室もあると案内されていましたが、イタリアの客船ですし、英語が公用語でないと聞いていましたので、日本語の本は無いだろうと思い込んでいました。それで持ち込む本を選ぶのにいろいろ迷いました。1冊は「湖の本」と決めていましたが。
『愛、はるかに照らせ』ならどんな状況でも何度も読めるからと、選びました。
そして晴れた青いエーゲ海の洋上で、プールの横でデッキに寝転び読みました。
イタリア船は陽気で、大きな劇場も備えている豪華な楽しい船でした。そして嬉しいことに日本語の図書棚もありました。45冊ですが。その本も部屋に持ち帰り読みました。本を読む時間は次々のスケジュールで流されそうでしたが。
優雅な時間を過ごせた感謝とともに、下船時「湖の本」を日本語図書棚に寄贈してきました。プレゼントにと余分にいただいていたのが役に立ちました。次に乗船した人が読んでくださるでしょうか。お許しも得ず失礼しました。
ご講演が終わられてもご多忙が続くと存じます。どうぞお体お大切にお過ごしくださって、近づくお誕生日をお元気でお迎えください。
☆ お元気ですか
お加減いかがですか、みづうみ。早く高崎往復のお疲れのとれますことを願っています。
土曜日には、京都の紅葉に染まってきました。日帰りでお上りさんコース。青空清々しい上賀茂神社から光悦寺、大好きな永観堂、みづうみの通っていらした中学を横目に見ながら、東福寺。夕方になって祇園で雨に降られました。
覚悟していたのですが、東福寺が一番混んでいて満員電車なみでした。でも、閉門間際に入ったのが幸い。ある瞬間から急に人が少なくなって、通天橋から暮れゆく紅葉の景色を存分に眺めることができました。
一日中ずっと、京都はみづうみの場所なのだと思い続けていました。みづうみは故郷を血肉として描くことのできた幸せな方です。東京もんは羨ましい。
いつも、みづうみの作品世界に寄り添っていたい わたくし。
* みなさん優雅な日々で。
わたしは、絶叫に近い連続の咳き込みで、喉から血が出そう。痰は少し減り、凄い声でも言葉になりかけているが、夜中も咳に襲われる。
2007 12・2 75
* 咳き込みは言語道断、ひっきりなしに熱が来て汗を掻いて冷える。咳く。洟も止めどなくかむ。そうしながら、黙々と手仕事は欠かさなかった、夕方四時過ぎて今日は一段落した。
☆ 御身、ご不調にもかかわらず、わざわざ群馬の奥までお越し下されてありがとうございました。さらに悪化させてしまわれたのではないかとご案じ申します。
日々のお励みを垣間見るに、御自らを過酷にお使いなされているかのように見受けられます。
どうぞご自愛下さい。 群馬の外れより。 久々
2007 12・3 75
☆ 続き薄 maokat
茶会当日。準備は二人で。炉に炭を次ぎ、湯を沸かす。竹一重切に花を活けてもらっている間に、濃茶、薄茶を漉して、出雲焼の茶入れと栗生地の茶器に茶を掃いてゆく。この時間だけ、自分がどこにいて何をしているのかを忘れ、集中していた。
準備を終え、定刻になった。
客を迎えた寄付に、白湯を出す。事情を知らずに愛知からやって来た次客は、僧形のM若和尚と二人きりで、さぞや緊張していることだろう。
寄付の床には、鹿のつがいに「谷紅葉」。
席入りをしても、二人。水屋も二人。席主不在の由を述べ、今日は彼の再起を祈って代理で、お茶を差し上げますと告げた。濃茶をしてもらいながら、若和尚が嘯月の雪餅を召し上がるのを見ていた。お茶が点ち、主客の隔てなく皆で頂く。茶は甘く旨かった。
茶碗が返ったところで、続き薄となり、干菓子が出たところで、交代。建水と薄茶用の茶碗を持って出て、点前を始める。自服も含め、四服点て、四器並んでの拝見。道具を仕舞い、お礼を述べて、次回はN君、次回はN君と、繰り返し繰り返し、会を終えた。
片付けが終わり、大徳寺を辞したのが、午後四時過ぎ。皆予定があり、名古屋の人は名古屋へ、Mさんも明日から東京とのこと。結局、N君を囲む予定の懇親会は、水屋の二人でしんみりと。木屋町の町屋の雰囲気を楽しんだ。
食事も終わり、宿に戻り、今日も何もせず、明日の岡山行きを思い、就寝。
* まるで幾昔前の秦さんの小説の場面かと想われそう。
こういう茶数寄の世界があるということ、もう今のわたしは修業未練でここへは入れないが、様子だけは手に取るように知れる。
* 前シテは茶室に不在であった。後シテの場面がもう一つ続くが、あえて此処には遠慮して出さない。
2007 12・3 75
* 京都へ行っていた人から、おいしい「阿闍梨餅」を送って頂いた。絶品、すぐ手が出てしまう。のど飴にと、「祇園小石」も。粋な味。ほかにも。感謝。
☆ お体の具合がよろしくないようで心配しております。早くの快復をお祈りしております。
京都は少々遅く感じられる紅葉が、このところの寒さでキュッとひきしまった美しさです。
先週末は退耕庵でのお茶会でした。
師匠の三回忌の追善を兼ねての月釜だったのでシンプルなお運びのお点前。
なのにやっぱり緊張するんですよね。お茶杓を持つ手が震えなくなるのはいつの日か(笑)。
通天橋への観光のお客さんや、交通整理のマイクのざわめきが、中まで聞こえてきてました。人の多いのは誰も嬉しくないとは思いますが、並んだ甲斐があったと思って帰ってもらえたら、東福寺の好きな私は嬉しいです。私は静かな時に行きたいですけど(笑)
さて、もっと書きたいこといっぱいあるんですけど、仕事中なのでこのへんで。
何度も書きますが、本当にお体ご自愛ください。 壽
* 東福寺と、字をみるだけで、身が締まるような恋しさを覚える。帰りたい。
* 帰国中の「雄」くんからも、メールでお見舞いがあった。「mixi」にも書いていた。
☆ 本郷、都路里 雄
今朝は,小雨の降りしきる中,本郷へ.
実家に届いていた郵便の中に,東大生協からの葉書があった.生協の脱退手続きをしていないので,生協本部まで来て欲しいとのこと.そういえば大学院を修了した時に,脱退手続きをしていなかった.いちいち行くのも面倒だが,1万6千円が還ってくるというのは,悪い話ではない.
僕は大学院博士課程を東大で過ごしたが,本郷ではなく,白金台にある医科学研究所で過ごしたので,本郷には馴染みが無い.それでも,事務手続きや,講義を聞きに行くなどで,何度か本郷には足を運んでいる.
赤門をくぐり,医学部2号館の前で左折し,突き当たりを右折して,安田講堂へと坂を下る.購買部で本部の場所を確認.書籍部のある建物の2階とのこと.
手続きはあっさりと終わった.名前などを記入し,判子を押すと,それと引き換えに金を渡され,それでお終い.なんともあっさりとしたものだ.
1階に降り,書籍部を覗く.ここの本の品揃えは,大きな書店と比べてもひけをとらない.事務に手続きなどで本郷に来るたびに,羨ましく思っていた.白金台には,本屋はおろか,図書館もない.あるのは図書室1つだけ.
来た道を引き返し,電車で銀座に行き,ボスとその家族へのお土産に,漆塗りの箸を購入.
そこから歩いて汐留へ.カレッタ汐留にある,抹茶の辻利へ入った.本店は京都にあるが,一度前を通りがかった時には,大勢の人が並んでいて,とても入れそうに無かった.
恥ずかしながら,抹茶パフェを注文.パフェなんて食べるのは10年以上ぶりかもしれないが,あまりの旨さに言葉を失う.
日本の料理は何を食べても旨いが,スイーツは特に,アメリカを大きく引き離している.
* 十五年半も東大赤門の近くに勤務し、東大はこよない散策、それどころか大事な取材先だったので、匂いだけでも懐かしい。
そういえば、医学書院で机を並べ、のちにやはり巣立ってハードボイルドの翻訳や研究家になり、最近大著を出した中島信也君(小鷹信光)から今日、佳い手紙を貰っていた。
☆ 前の週末 都内の恵比寿で演奏会を開いた。 松
関東の友人たちに忘れられないようにと企画して、はや7年目。
メンバーは少しづつ変わってきているが、毎年この時期になると、人が集まる。今回はいつになくにぎやかな演奏会だった。
個人的にはアンダーソンの『シンコペイティッド クロック』をみんなで遊べるように編曲するために多大な時間を費やし、いささか演奏は消化不良だった。直前にまとめて仕上げてしまうくせが、いつになっても直らないのがいけないのだと思う。
若い頃(?)はそれでも集中力で切り抜けてこれたが、これだけピアノをさわる時間が少ないと、それもできない。少し活動する場所、曲目を絞って、演奏の完成度を上げていきたい。
今回はプーランクのフルートソナタが難曲だった。なかなか耳に馴染まないし、しかも怪しい和音が多く、どうしても楽譜を確かめてしまう。耳で納得できない音楽だ。
* 「松」クンも、東工大の卒業生。昔からのピアニスト。
* ただもう、今日ははやく眠りたい。疲れた。
2007 12・4 75
☆ 「夜の寝覚」に 壽
チャレンジします、と無謀な宣言を以前にしてしまいましたが、自分の 古典教養の無さを実感する・・という結果に、めげています。
最初は本文を読むことへのチャレンジだったはずなのですが、(古典文学大系の)脚注の訳文を読んでそれから頭注と本文を読む・・という逆転でなんとか読み終えました。
もっともっと短い「和泉式部日記」にチャレンジ予定で借りてきました。また報告します。
* 「夜の寝覚」は優れた現代の日本語に翻訳する値打ちのある、ある種の現代感覚に富んだ古典で、完本ではないのだが、十分鑑賞に堪える。
物語をまずアタマに入れて、それから本文の味わいに深く触れて行くという順番でいいと思う。ただ、失礼ながら注釈本の現代語訳は、たいてい文藝とはべつの「説明」で終わっている。
落ち着いた気分で自分で訳してみたいなあと何度も思うが、いまの神経のささくれた状態では、物語への冒涜に成りかねないと遠慮してしまう。
「和泉式部日記」は短いけれども、「日記」らしさの省略叙法が用いられていて、原文はなかなか「文藝」ふうに凝っている。事実としての人間関係を表立たすことなく、読者の推察に任せるというやはり「文藝」が用いられている。その辺にも、この本が和泉式部自身の日記であるか、後生の創作的偽書であるかを論 (あげつら)われる岐れ目になっている。しかし、これは優れた文学、私小説の先駆の一つです。
古典の原文に親しむには、「夜の寝覚」の著者に擬されている人の「更級日記」や、また先行した「紫式部日記」後続の「讃岐典侍日記」の方が、原文に直に当たるには当たりやすいかもしれません。
2007 12・5 75
☆ 待降節 瑛 e-OLD
「待降節」はクリスマスの4回前の日曜日から始まり、クリスマスの前日までであることを知る。
日本のお正月への「序奏」では感じられない時期を、一月も心して待つ。待降節とは、「クリスマスを待望する時期」という意味。
初めて教会へ行ったのは小学校4年か5年生だった。インフルエンザの注射を学校で打ってもらい、熱気味な体を意識しながら家へ帰り、それから異文化に触れるわくわくした気持で、クリスマス・イヴの郷里の教会へ友人と行ったことが昨日のようである。
聖書を買ってもらって読んだが、最初の「系譜」に驚いた。その後時々聖書を読んだ。「山上の垂訓」その他を少しではあるが。
「われらとともに留まれ。時夕べに及びて、日も早や暮れんとす」。
エマオの宿でイエスが二人の弟子と会っている場景は、レンブランドが描いてルーブルにあるという。
昭和25年に買った本、聖書の写真を今日の日記にする。感謝の気持ちである、「足跡」である。
* 何故かわが家にも新約聖書と讃美歌集とがあり、秦の叔母がある時期に人から貰っていたものではないかと察しられる。一編の小説がそこに横たわっていた気もする。
二書ともに今もわたしの座右にあり、新約聖書は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ傳だけは何度も読んだ。般若心経はべつとしても、仏典とは、もっと遅れて出逢っている。
いま私は「旧約聖書」の「詩篇」を読んでいる。旧約を読み、新約聖書を全部読み通すまで、まだ数え切れない歳月を要する。
知識は求めない。救われを願いもしない。ただ無心に読んでいるだけであり、それで足りている。
☆ 幸福 雄
今日は,元ラボへ.大学院時代の恩師に会いに行く約束をしていた.和光市にある理化学研究所に向かう.大学院時代の同期と飲みに行く予定も入れてあった.恩師は午前中しかラボにいないとのことなので,朝からラボへ.
あいにく先客がいたので,建物内をぶらぶらしていると,大学院時代お世話になった先生とばったり会う.研究室を案内してもらう.やはり,理研の設備は充実している.さらに,大学院時代にお世話になった,別の先生のラボにもお邪魔し,しばらく話し込む.
ようやく元ボスに時間ができたようなので,簡単にご挨拶.この分野の現状の厳しさなどを聞く.
大学院時代の同期と話をし,昼食を摂りに食堂へ.理研には2つ食堂があるが,今日は少し高級な方のカフェテリアへ.それでも,カレーライス,小鉢,味噌汁,ヨーグルトのデザートを頼んで,合計470円.安い.しかも味も素晴らしい.理研に来るたびに,食堂の充実ぶりに驚く.
ラボに戻ってからは,先日ボストンでお会いしたK先生や,元ラボの先輩であり,今も研究上つながりのあるM先生を訪ねる.しかし,あいにくK先生はご出張中とのことで,メモのみ残す.M先生は夕方になってようやくコンタクトをとることが出来た.研究上のお願いがあったのだが,あっさりとOKをもらう.やはり実際に会ってみて良かった.
夜6時にラボを出て,同期のKと先輩のHさんと3人で,和光市の駅前の飲み屋で酒を飲む.やはりこの業界は楽ではない.楽ではないけれど,毎日を充実して生きているということは,それだけで幸福なのではないかという気がしてくる.
* 幸福とは、そういうものだと、思う。若い、こういう気概に励まされる。
2007 12・5 75
☆ 咳喘息 莉
先月は咳のでる風邪がとても流行りました。ちょっとした風邪が気管支炎になってしまうようで、むせこむような咳を特徴に、”咳喘息”と診断されています。気管支拡張薬や吸入薬、洟もアレルギー薬などが効いています。お近くに呼吸器内科を標榜する医師はいませんか。
普通の風邪よりも消耗しますので、是非受診し、少しでも症状が楽になってほしいと思うのです。
ワクチン接種は免疫系を手薄にしますので、その結果ひいたのではないかと思います。
もし周囲に呼吸器内科がなければ、都心になりますが知り合いの医師をご紹介いたします。
* なるほど咳喘息そのもののような症状である。
今日も自転車に乗ろうかと思っていたが、その元気がない。でも、ポストへまで走る用事がある。済ませたら、今日も早く寝てしまおう。
あすは、聖路加。
* 気が焦っても回復はしていない。落ち着くことだ。
2007 12・6 75
☆ 慶事 maokat
元部下で、研究室がなくなってからは同室の同僚となった女性研究員が、来春学会賞を受賞することに決まった。
入省以来たった一つのテーマを追い続け、男社会の中、しかも学問の境界領域で、正当な評価を受けず、辞めずにがんばってきた、のを脇で見てきた。並大抵のことではなかった。
一番喜んでいるのは、受賞者に名を連ねている故 I 室長だろう。
おめでとう。
* こういうのが好きだ、よそながら。心嬉しい。
* 芯が抜け落ちているような不快感。八時だが、もうやすもう。
2007 12・6 75
☆ 臘八接心の明ける日
『ばいばい年の暮れ』に書いた、バイバイと言って急逝してしまった元室長の七回目の命日が、明後日。この室長の下で励まし続けられ、元室長の周旋で北大の社会人枠に入り、博士になり、母でもあり、またプロ級のパティシエでもある私の同僚の学会賞受賞を、元室長がどれほど喜んでくれただろうかと思います。
あの世でも喜んでいるだろうけれども、私は元室長の喜ぶ顔をこの世で見たかったと、つくづく思います。
また、今も病床の友を思うとき、こうして深夜まで働けるわが身の幸福を思います。
捨てるに惜しくない身なれども、私たちは知らぬうちに体を粗末に扱ってしまいます。
さて自分の健康も考え、私ももう帰ることにします。hatakさんも暖かくしてお休み下さい。 maokat
* 「捨てるに惜しくない身なれども」とまでは、胸の内に止めておきたいですね。
* ながく同僚委員であった高橋茅香子さんの懐かしいメールを頂いた。どこかの区の教育長もされながら、翻訳や執筆に忙しくされているはず。かちどき橋近くの仕事場を、同じ建物の中で引っ越されたとか、引っ越しはタイヘンだなあ。
2007 12・9 75
* 「mixi」のあるためか、このごろメールが減り、むしろ手紙・ハガキのお便りを戴くことが増している。
* 小林保治さんにお手紙を戴いていて、それは平家物語にかかわる一つの不審を質問してあったのへの、親切なお返事であった。残念ながら、だが不審はまったく晴れず、小林さんからある専門家に問い合わせて貰っていた返事も、全然「分からない」ということであった。少し落胆もしたが、少し勇気づけられもした。つまり「想像する」自由が許可されたのに等しいからである。
同じことで、一つ、べつに調べておかねばならぬことがある。わたしと同じ関心を、ひょっとして(まったく方角違いで重なりもしないか知れないけれども) 亡き円地文子さんも持ってすでにそれについて書かれていたかも知れないという情報を小耳に挟んでいる。それを確かめてしまうと、創作へ動く自由が得られる。かなり大きな図書館に行かないと掴めそうにない。
2007 12・11 75
☆ エクセレント maokat
アルゼンチン植物病理・生理学研究所(IFFIVE)から、セルジオ・レナルドン博士が来日。三年前、この研究所を訪問し、セミナーを二回開き、ラテンの楽しい時間を過ごした。札幌では明日から三日間の予定で、セミナーを一回してもらい、マクロアレイという実験法を技術移転する。
夕方ぎりぎりまで職場で仕事をし、六時にJICA札幌センターまで迎えに行く。我が家からは、三分の至近距離だ。今日は夕食をご馳走しようと思い、いつか海外からお客さんがあったら連れて行こうと思っていた江別のイタリアンレストラン「マリナーラ」へ。
半時間ほどで、マリナーラに到着。門を入り雪の小道を歩く。まるで友人宅を訪れるような雰囲気。店に入ると先客は一組だけだった。
ここは古い和風邸宅をイタリアンレストランに改築したため、フローリングの床、木製のテーブルセット、床の間、ピアノ、欄間と襖が独特の調和をみせている。席に着くと、客人はぐるりを見回して、とても気に入ってくれた様子だった。店には静かにジャズが流れていた。
ワインリストを持ってオーナーのマリさんが挨拶に出てきた。客人は赤ワインをたのむ。続いて事情を話して頼んでおいたコース料理が運ばれてきた。まずは、平目のカルパッチョ。いつものあっさりソースと違って、今日はクリーム色のソースがかけ回してあり、水菜が散らしてある。お客人はこのソースが気に入ったらしく、とりわけた大皿に残っていたソースまできれいに掬って食べてしまった。珍しい味のソースは、柚と胡椒のフレーバー。悲しいのは、せっかくの「平目のカルパッチョ柚と胡椒ソース水菜添え」が、私のつたない英語では「白身魚のカルパッチョ日本特産の冬によく使う柑橘と胡椒ソース加えて関西特産鍋用野菜」などと、味気ないものになってしまうこと。
次に運ばれてきたのは「プロシュートとモッツァレラチーズのサラダ」。これも、いつも私が食べているものと少し違い、ガーリックが効いていて、力強い味だ。パスタはトマトソースで、具にいろいろのキノコとベーコンが入っていた。パスタを食べ終わるころ、道産コムギ自家製パンが出る。BGMはいつしかカーメン・マクレエに変わっている。オーナーの実家は製粉会社を営んでおり、このパンはとりわけおいしい。アルゼンチンも小麦の大産地でパンは美味しかったが、客人はまたもや、大皿のソースをきれいに拭ってパンを食べた。 次は魚。レアーにソテーしたサーモンとイカが美しく盛られ、緑のハーブで飾られて出てきた。客人はその盛りつけに感激の様子。最後に、お肉の国アルゼンチンの客人を満足させるために作ってもらった、豚肩ロースの野菜煮が鍋ごと登場。両手にのりそうな肉の塊を、大きな木製スプーンで切り分けていく。六時間煮込んだという肉は、ほろほろと溶けるような柔らかさ。頼りない量の日本料理を食べ続けてもやもやしていたお客人もきっとこれには満足してくれたことだろう。とうに許容量を超えた私を尻目に、おかわりまでして、鍋のおおかたを食べてくれた。野菜の甘味が肉に染みて美味しかった。
甘さ控えめのデザートと濃いブラックコーヒーで、ディナー終了。隣室の和室を見せてもらったり、写真を撮ったりして、歓談。厨房から出てきたマリさんを交えて少し話す。
客人に料理の感想を聞くと、間髪入れず「エクセレント」と返ってきた。特に、ガーリックの味付けが美味しかったと。そういえば、今日はガーリックがよく使われていたなと思っていたら、マリさんは「そうでしょう」ととても満足げに頷いている。二品目のサラダにガーリックを多めに使ったドレッシングをお出ししたら、お客さんがとても美味しそうに召し上がっていたものですから、あとの料理も、ニンニクでいきました、と。私がつたない英語で、なぜ日本の年末は第九をやるのか、とか、「戦争と平和」のクリスマスに仮装したロストフ伯爵家の一族が、月光の下トロイカに乗って鏡のような街道を疾走する場面は、真冬の北海道でなら、追体験できる、とか苦心惨憺しているとき、オーナーシェフは客人の細かな反応を見て、味付けの組み立てを変えていたのかと、感服。
そうなれば、いつも決まって食べる元気が無くなったときにこの店を訪れることが多い私には、カルパッチョもサラダもパスタも優しい味で、時としてメインディッシュに肉の塊が見えないことがあったのにも、今にして納得。
これぞ「エクセレント」に値する、日本のイタリアンレストランだと、ゲスト以上に嬉しく帰路についた。こういう店こそ、☆などつけずに大事にしていきたいものだ。
* マイミクさんには、期せずして「グルメ」が多い。みな、美味そうに書かれる。わたしなどガサツに食欲を満たすだけ、お恥ずかしや。
2007 12・11 75
* 今日も何通か手紙や葉書をもらった。高麗屋の女房さんのも。折り返し、来年二月の初代白鸚二十七回忌追善歌舞伎を、予約。
* お葉書を戴きました。恐れ入ります。
昨日は国立劇場を楽しみました。めあては『松浦の太鼓』で、むかしむかし南座で観た思い出をさぐりながら、大高源吾も松浦侯もきもちよく拝見。年の瀬にじつに良くはまってこころよいお芝居でした。めでたく、わたくしどもの一つの五十年を祝うことが出来ました。
二月の御先代追善の歌舞伎座、心待ちにしていました。
白鸚さんは、京都の、むかしのわが家の敷居を跨いで入られた唯一の歌舞伎役者、私が手づから、おもとめの電池を手渡し代金を戴いた、ただ一人の俳優さんでした。昨日のことのように思い出せます。新門前通りの「岩波」という宿から、顔見世の南座に出勤されていました。
二月 七段目 それに 鏡獅子 楽しみです。
お正月も早々の舞台、二月へも続いて、春にはラ・マンチャも。くれぐれも皆様、お大切にと願います。
今年、たくさん楽しませて貰いました。
来年も相変わりませずよろしくお願いします。 秦 恒平
2007 12・12 75
☆ 今年も鱒の鮨を ゆめ
お送りしました。1週間以内にお届けできると思いますので、どうかお楽しみに。いつも喜んでくださって私も嬉しいです!(お礼状など、どうかご心配いただきませんように)
「フェルメール展」来週で終わりとのことで、六本木の国立新美術館まで初めていってきました。他の風俗画はサッと通り過ぎ、お目当ての「牛乳を注ぐ女」のフェルメールブルーに逢ってきました。オランダ・デルフトに行って他の作品もぜひ見たいものです!!
かつて防衛庁のあったあのあたり、瀟洒なビルが建ち並び、陽が落ちるにつれてクリスマスイルミネーションがきらきら・・。久しぶりに六本木の夕暮れを楽しんで散歩してきました。
最後は先生もお気に入りの「六本木CLOVER」でお茶を。広々と静かで上品なあのお店、私が中学生だった頃からあの場所にあったんですよ。シュークリームやケーキが美味しいと評判でした。
そうそう、交差点角の誠志堂書店がなくなっていたのは残念でした。あそこの長女と私、同じクラスで、学校帰りにはよくあの書店に立ち寄ったものでしたから。(まあ、あの立地では書店をしているより、貸しビルにした方が利益があがるのでしょうね・・・)
今年は新しい仕事について気持ちも落ち着かず、また次々つまらないトラブル(階上住居からの水漏れ騒ぎとか・・・)に巻き込まれたり、以前の手術後はじまった「腰痛」がぶり返したり、と、もうひとつパッとしない一年でした。来年はもう少し気持ちに余裕をもってすすみたいなと思っています。
先生もどうか暖かくして、美味しいものを召し上がって、お元気にお過ごしくださいね。
* フェルメールの「牛乳を注ぐ女」には感歎した。生涯に何点とは出逢えない名品だった。比較的まぢかに住んでいても、なかなか「ゆめ」とも出逢えないが、新宿でいちど能登の料理をご馳走になったのは、春、花のころであった、何年も前だ。
元気に大きな声で、はきはきと話す人だった。
☆ ご丁寧に 郁
恐縮いたします。喜んでいただけて嬉しく存知ます。(白馬の)妹が、りんご農家と親しくしていますので、美味しいのをおくってくれているものと思いますが。林檎は健康にいいですのでどうぞご賞味くださいませ。
作品 今年はいいものを見ていただけなくて残念でございました。 写真などお送りしたものですが 今年の一水会のはまあまあだったのではないかと。自身の力を出し切った積りでしたが。私はここまでしか今は描けません。 体調もすこし崩しましたし。 だんだん元気のある作品が描けなくなるのではないかと。このごろ思い始めております。
母のことでも有難うございます。 嬉しくて涙がこぼれそうです。こんなに言ってくださる方はそうはいません。心から感謝いたします。 会いました折には話しておきます。(認知症きみで。)どうぞ分かってくれますように、と、祈る思いです。
後になってしまいましたが ワクチンで体調を崩されておられますよし どうぞお大事になさってくださいませ。
ではまた。ごきげんよう!
2007 121・12 75
* 松本幸四郎丈の名前でいただいたお歳暮が、和光の「しるこ」というの、ちょっと佳いでしょう。甘い味で。
2007 12・13 75
☆ お元気ですか
よほどひどいお咳のようでしたので、心配でなりません。心身のお疲れが極限にきての結果でしょう。聖路加でお風邪のほうの診察はお受けにならなかったようで残念でした。みづうみを案じて落ち着かない日々を過ごしています。メールも途絶えて、ふと気づくとみづうみのことを考えて暮らす日々。悲しいものです。薄紙をはぐようにでも、快方に向かっていかれますことを念じています。 わたくし
☆ 創作 菊
> 新しい小説が書けていい状態にも、あると言えるようになった。書きかけのモノも、あらたに書き起こすモノも、着手可能になってきて、来年は少し毛色の違った小説の年でもありたいと思うのである。
私はこのお言葉を心から喜んで読みました。秦さんに新しい小説を書いていただきたい。それが秦さんを癒し励ます最高の道です。そして新しい作品でどうか、文藝への愛ではなく、生身の人間への愛を描いて読ませてほしいと願ってやみません。『親指のマリア』に描かれた人間愛をもう一度読みたいのです。
フェルメールの繪のような、絵画として最高の達成であるけれど「繪のための繪」でなく、人間愛のための繪を描いていただきたいのです。なぜなら、秦さんがどんなに深い人間愛の人であるか、知っているから。
☆ 雨
寒い雨の中を病院なんて、おそろしく気の滅入る朝でいらっしゃいましたね。私は身体の節々が痛む状態で、昼間中家で寝込むはめになりました。
眼科の検査はいかがでしたか。 朱
2007 12・13 75
* 清瀬市の西の端まで走り、同じ道を戻るつもりが間違えて、迷子になってしまった。二時間強で帰宅、102は、久しぶり血糖正常値。田無の人に、富山の鱒寿司と、同じ「今井」という店の特製イカ墨の塩辛を戴いたのを、絶好の肴に、山口の俳人に頂戴の名酒「獺祭」を二合。久しぶりに酒と肴の恰好のうまみに気持ちよく酔う。もう一押し、神戸からいただいた「讃岐うどん」もと思ったが、不許可であった。
2007 12・14 75
* 新潟の禅僧、別撰の「越乃寒梅」を下さる。
2007 12・14 75
* 滋賀県の五個荘からお餅が送られてきた。いましも池袋の藝術劇場で「第九」を聴いているmaokatから、桐箱の名酒が届いていた。
体調を案じてくださるお便りが絶えない。いまだに声帯にケロイドでもあるかのような引きつった声をかすれさせて、わたしは、たくさんたくさんお礼を申し上げている。
* 目黒で能一番を見終え、白金の寺で、やす香の墓前に佇んで泣いておりました時分にメールを頂戴していたようです。
お心入れの名酒も頂戴しておりました、帰宅して歓喜の声をあげました、お気持ちに、そしてお酒に。
今年の「第九」は東京でしたか、池袋とは、最接近。このぶんで、やがて邂逅の機会に恵まれるかと、期待しています。あわてることはありませんが。
あいかわらず声帯にケロイドでも出来たような声をしています。よくなりません。咳き込むと疲れます。能楽堂でいちどだけ足掻くように咳込みが来て弱りました。幸い一度で済みました。
墓参りは寂しいモノでした。持ち合わせの本で、詩を読んでやりました。
maokatさんのお仕事は、好調のように察しています。ますますお大切に、さらに力ある新年をお迎え下さい。 hatak
2007 12・16 75
* 次の一文は、身に堪えた。
途中から涙で目がふさがりなかなか読めなかった。こういう文章は、つよい。「mixi」のなかで、うっかり見落とすところだった。
☆ 諏訪のおばあちゃん 珠
今日は不思議と祖母のことを思い出す。帰りの電車でうとうとしていたら、夢に祖母がでてきて懐かしい声を聞いた。寒くなってきたからだろうか。
父が亡くなって母が仕事に出るようになり、私は鍵っ子になった。寒くなって農作業が一段落つくと、冬を我が家で過ごすために、祖母が諏訪から出てきてくれた。家に帰った時に祖母がいる、、、嬉しくていつの間にか走って帰った。
私が大学に進学した頃だろうか、田舎の寒さは厳しいが、東京へ出てくるのもしんどいからと滅多に来なくなった。だから祖母に会うために、毎年何度も諏訪へ帰った。友達も連れて行き、皆フアンになるユーモアのある祖母だった。足腰は弱ってきても村の中では存在感があって、「おばぁにちょっとな、、」といつも人が寄ってきた。
そんな祖母が不整脈から脳梗塞となり、突然倒れた。左半身麻痺と失語症とが後に遺った。
理解力はしっかりしていた祖母は、一時食べる事を拒否した。私は孫として看護師として、あらん限り戦った、「もうほっとけ」という祖母の気持ちと。ただ生きて欲しかった。
子供の時から冬中一緒に過ごし、食べ物を粗末にするなとどれほど怒られたことか、、そのことを私は祖母に繰りかえし言った。そう言ってた自分がいま粗末にしていると。食べないだけじゃ死ねないのよと。繰り返しそう言った。今思い出しても悲しくなる。家族の誰も悲しがるばかり、何も言えなかった。励ましもならず、事実を突きつけるしかなかった。それでも、祖母は、ため息をつきながら食事をまた摂りはじめてくれた。
日中誰もいない農家、祖母が自宅へ戻ることは叶わず、結局施設に入居となった。「おらのうちへかえりてぇ」何度も祖母は口にした。せめて外泊をと、母を伴って諏訪に帰り、2ヶ月に1度、3泊4日の外泊をした。夜間のおむつ交換に、うとうとしていても祖母は必ず「ありがとよ」と言った。暗闇のなか、ベッド゙の横に敷いた布団に入るとその言葉が胸につまり、泪があふれた。ほぼ1年半をそうして過ごし、正月の外泊に温泉旅行を準備していた矢先、母が誕生日の朝、祖母は静かに逝ってしまった。
その2週間前、いつものように外泊し、家から施設へ送ろうと車に移動した時、「おれはいかねぇ」としきりに言っていた祖母。何とか正月にと約束をして施設の部屋へ戻ったが、自分のベッドをじっと見て、
「ほぅか、そういうことか、、、おれのうちはここか、、」
小さくつぶやくように言ったあの声が、あの表情が今も浮かぶ。亡くなって、もう6年。
おばあちゃん、94歳まで長かったでしょう、私はまだ半分にもならない。相撲を見ても、おでんを見ても、綿を見ても、おばあちゃんを思い出す。
「お針をするときゃ、そばによるでない」
皆に”はんてん”を作りながら、いつも言ってたっけ。私もまだお針をしてるけど、あの頃教わった糸の繋ぎ方、もう一回聞きたかった。
* 記憶にある祖母の声
「おれはやっかいにはなりたくねぇ」(祖母初の海外旅行に向け、毎日散歩をし歩く練習をするにあたって一言)
「ごしたてぇなぇ」(疲れたときよく言った)
「わりぃがちょこっとみてくれねぇか」(小さな目に睫が抜けてよくはいってた)
「おら ねるぞ」(早寝早起き 寝る前には梅酒一口)
「われ ひるめしふえるぞやい」(ラーメンの鉢を前にボーッとテレビ゙に夢中なワタクシ、ラーメンはのびて増えた。。。)
「ほうか、ほういうことか」(うなづきながらよく言ってた)
「おしょっさまえ」(諏訪のあいさつ)
「おりゃ ずくがねぇ」(やる元気がないときに)
「ほらぁよくした よくした」(ほめるときに)
「そら!そらいけ!」(相撲の取り組みを見ながらよく言ってた)
「おら なんにもいらねぇ」(欲しいもの聞くといつもこう言った)
「おりゃいけねぇ きちまっただか」(道を間違えたとき)
「気をつけてな しっかりやれよ」(帰るときいつも、いつも)
「おれにゃぁむつかしいこたぁよくわからねぇ」(いろいろ聞くといつも最後はこう)
まだ思い出しそう。おばあちゃん、短い言葉多かったね。学校も行ってないから字が書けないと隠れて字の練習をしてた。絶対に見せてくれなかったけど、私たち孫からの手紙を練習台にしてたの、知ってました。
お針も上手で、靴下の穴いっぱい繕ってもらった。子供に、孫に、ひ孫に、その家族まで”はんてん”皆大事に着てますよ。私にも「われもな 先にやっとくからな」と笑いながら2枚、ありがたく現在も保管中。もう諏訪の山にも雪、今年の冬は、「御神(おみ)渡り」あるかしら。
春になったらお墓参りに帰ります。
* 堪らない…。
2007 12・16 75
☆ 師走の風も ゆ
だいぶ身にしみる寒さになってきました。自転車乗りはしばらくお休みですね。
「鱒のすし」美味しく召し上がって戴いたようで良かった!! あの墨いかの「黒づくり」、お酒のさかなですけれど、私は朝から暖かい白いご飯にのせて食べています。
また花の頃、お会いしたいですね。「秋かけていいしながらもあらなくに…」なんてせっつきませんので、ゆっくり風邪を治してくださいませ(笑)。
十一月末の五箇山への旅のこと、富山湾の漁港・氷見のこと、そこから海越しにみえた雄大な立山連峰のこと、「こきりこ節」で有名な五箇山の里のこと(流人の里、そして加賀前田藩の深山の軍需工場として有名ですね)、そして山を下りた帰りにたまたま通りかかった「井波」という町のこと。ここは広大な富山平野の一隅にぽっかりと出現した素敵な町でした。木彫りの里(獅子頭の制作で日本一とか)として有名だそうですけれども、私はまったく知りませんでした。
それやこれや、おみやげ話、いろいろあるんですよ。
☆ re-search ハーバード 雄
先日,アインシュタインの次のような言葉を知った.
If we knew what we were doing, it wouldn’t be called Research.
研究をしていて一番不安になるのは,自分のしていることが全く的外れで,意味の無いことなのではないかと思う時だ.今の自分も,勝手知ったる分野を離れ,ボストンで全く新しいことを始めている.それだけに,結果も出ないまま悶々としていると,自分がどちらの方向に進んでいるのか分からなくなる.おそらく今の不安な気持ちの最大の要因はここにあるのだと思う.それだけに,あのアインシュタインですら,こんな風に考えていたのだと知ると,気が楽になる.もっとも同じレベルで比べてはいけないのだろうけど.
そんな話を先日,ポスドクのジョンとしていたら,隣のラボのボスがジョンに言った言葉を教えてくれた.
「研究というのは,自分の知りたいことがこっちの方向にあるに違いないと思って探しても,大抵見つからない.だから,また違う方向に向かって探していく.その繰り返しだ.だから研究はre-searchなんだよ」
隣のラボのボスは仕事を進める上で非常に論理的に方針を立てていく人であり,実際,その方針に従って多くのポスドクが仕事を進め,素晴らしい成果を挙げ続けている.そんな人がこんなことを言っているのは意外でもあり,また心強くも感じた.
もう少し,今のまま頑張ってみようと思う.
* ああ、そうだねえ。
☆ 第九 maokat
八時半にタクシーを頼み福住駅まで。金曜から断続的に降り続いていた雪が一段落したらしく、朝は薄日が差していた。大雪の影響で、高速道は制限時速五十キロ、一時間かけて千歳空港へ到着した。十時半のANA便は定刻に羽田に到着。京急品川経由で池袋へ。東京芸術劇場の隣のビルでお昼。和食だが付け合わせにポテトサラダが付いている。ジャガイモの需要はこんなところにもあるのか、こうして年間三百万トンのいもが消費されているのだな、と感心する。
先週アルゼンチンの客人に話したとおり、年末の第九を聴く。沼尻竜典・日本フィル。
私が高校生のころ、日本フィルは親会社に解散され、自主運営をしていた。何度も河田町の楽団事務所へ通ったが、電気もガスも切られたビルは廃墟のようで、蠟燭の明かりで譜面を読みながらバイオリンを弾いている人がいた。いまでもあの音色が忘れられない。
今でも憶えていることが他にもある。高校生の私と楽団員のおじさんおばさん(といっても今の私より若かっただろうが)で、食事に行って、たしかうどんか何かを食べたと思う。私は、皆年上の人ばかりだったので、当然ご飯ぐらいご馳走してくれると思っていたのだが、お勘定が割り勘で、学生の私もしっかりと代金を取られてしまった。たしかこの時財布には帰りの電車賃そこそこしか入っておらず、会計の段になって、冷や汗をかいた。財布の中身にも冷や汗をかいたが、むしろ、学生の遊び半分でのこのこと「日本フィル闘争」なるものを冷やかしに来ていた自分が恥ずかしくなり、いたたまれなかった。
河田町のうどんの店は思い出しても赤面するが、同じ楽団員さんに連れて行ってもらった新宿歌舞伎町の「ランブル」という名曲喫茶は、大学を卒業するまで、熱心に通い続ける店になった。ここで受験勉強をし、場所柄社会勉強も少しし、グレン・グールドのモーツアルトや、カザルスのバッハに出会った。今は無くなってしまったが、たまに歌舞伎町の桜通りを懐かしく思い出す。
以来、所は北海道、筑波、沖縄、北海道と移り変わっても、機会あるごとに日本フィルの公演には足を運んでいる。高校のころから聴き続けているので、鑑賞や評価というより、親戚が出演しているコンサートを聴きに来る感じがする。まず、客席が埋まっているか気になり、次に誰かが目立ったミスをしないか緊張する。そして皆々の演奏を観て聴いて、誰それの顔色が悪かったりすると、心配になる。今日も札幌出身の後藤さん(ビオラ)が今ひとつ元気がないようで気になった。こんな具合だ。
今日の公演は、第九の前に合唱があった。オケを入れず、東京音大の合唱だけで、武満徹の「明日ハ晴レカナ、曇リカナ」「死んだ男の残したものは」「うたうだけ」を聴く。
昨日ノ悲シミ
今日ノ涙
明日ハ晴レカナ
曇リカナ
昨日ノ苦シミ
今日ノ悩ミ
明日ハ晴レカナ
曇リカナ
明日ハ晴レカナ、曇リカナ
言葉が明瞭に響き、ストレートに胸に響いた。いいなぁと思いつつ、舞台に目をやる。オーケストラは次の第九まで出てこないので、ステージの真ん中には人が一人もいない。そこには放射状に無人の椅子と楽譜立て、大型の楽器だけが置かれている。合唱団はその向こう、ステージの一番奥に並んでいる。したがって、舞台の手前だけを注視すると、沼尻氏は、まるで無人のオーケストラに向かって、一人で指揮をしているように見える。無人の舞台で一人激しく指揮をする人というのは、なかなか異様なものだ。これで音がなければ、狂人ではないか。私は楽器を演奏したことがないので分からないが、やはり名演奏のためには、指揮者が一メートル四方の木の台の上で、身悶えたり、般若のような形相をしたり、目を見開いて音を要求したり、気持ち悪いほどにっこりしないとだめなのだろうか。大変だなぁ、などと考える。
頭の半分で、武満徹を楽しみ、もう半分で一人踊りする沼尻氏を考察しているうちに、第一部が終わった。
休憩を挟んで第二部。第九。日本フィルは先日の日経新聞にも「一発屋」と書かれていたように、熱の込もった演奏をするため、細かいアンサンブルやなどは、はやり乱れることがあるのだろう。しかし正指揮者の沼尻氏は、破綻しないタイプの指揮者だと思った。淡々と演奏が続けられている。
ここでも演奏を聴きながら、思考が遊離していろいろなことが頭に浮かんでは消えてゆく。まず、第九をはじめて聴いた神奈川県民ホールの夜。あまりに衝撃が強く、山下公園から桜木町まで歩いて帰る間に、一緒にいた母と姉に口がきけなかった。次には一度きり行った日比谷公会堂。非常に古めかしいホールと渡邉暁雄の指揮が似合っていた。普門館のカラヤン・ベルリンフィル。生前唯一度聴いたカラヤン。ホールのせいで最悪だった。新宿厚生年金会館では、演奏中に席を立ったことがある。第四楽章シラーの「そうだ、ただひとつの心なりとも この世でわがものと呼び得る者も歓呼せよ それが出来なかった者は泣きながら この団結から去らねばならない」というくだりだ。大学の第二外国語にドイツ語を専攻したのがこの時だけ、役に立ったというよりも、仇となった。
生演奏を聴いているときの私の頭の中は、たいがいこんな具合になる。こういうことは、家でCDを聴いていても決して起こらない。この時の自分の脳波がどうなっているのか、一度見てみたいものだ。きっと、極めて特異的な波形を示しているだろう。
強いて言うならば、座禅をしている時、これに似た感覚を味わう。江戸時代に開かれた日本最南端の臨済宗寺院、南海山桃林寺が石垣島にあり、茶礼したさに、五年ほど早朝座禅に通った。夜型の私がよく五時起きして行ったものだと今でも思うが、まだ身体に力が有り余っていたのだろう。容赦なく襲ってくる蚊や眠気と戦いながら、息を整えていると、頭の中の半分で蚊の羽音や線香の匂いを意識しながら、もう一方別次元のところでいろいろなことが頭に浮かんでは消えて来るようになる。もちろん、この雑念を消し去るのが座禅の目的なのだが、たかだか五年では、雑念が消えることなど、ほとんどなかった。ただしこの時の独特の感覚は身体が覚えていて、それが生演奏を聴いたときの感覚とよく似ているのだ。
さらに言うならば、演奏に意識が集中すると、雑念を思い浮かべる余裕が無くなり、聴くのに精一杯になる。このあたりが、演奏に感動するピークだ。さらに演奏に感動しすぎると今度は、身体的な圧迫感が起きて、鑑賞が妨げられる。心臓が高鳴り、脈拍が早くなり、胸が苦しくなる。こうなると、感受性の許容範囲を超えて身体がついていけなくなってしまうのだ。こういうことは滅多にはないのだが。
こういう経験を他の人もしているのかは、知らない。ただ間違いなくいえるのは、私は音楽の素人で良かったと言うことだ。少しでも楽器の演奏経験があれば、きっとその楽器のパートや、曲のスコアが気になって、私の様には、頭の中にいろいろな発想が泡のように浮かんでは消える領域が出来ないのではないかと思う。これは、どこへ行っても植物があれば、葉っぱを裏返して、病害の有無を確認してしまい、大草原や山並みや田園風景などを単純に鑑賞できない自分の経験が裏打ちしているのだが、いかがなものだろう。
こういった具合で、やはりいろいろな想いが去来し、今年の第九もつつがなく終了した。
五時近くでも明るい東京の宵を楽しみ、池袋から便利な新宿湘南ラインで横浜経由、山下町の定宿へ入る。日が良いのかロビーに結婚式で着飾った人が溢れている。一階のカフェでお気に入りのドライカレーを食べ、コーヒーを心ゆくまで飲んで、部屋に戻り、この日記を書いている。もう三時間ほど経ってしまった。
* 早く「e-magazine 湖(umi) = 秦恒平編輯」へのわたしの姿勢を回復し、そこにmaokatさんや、鳶さんや、甲子さんや、また雄クンらの専用のパートを創って、エッセイ集や小説集として、ひろく読んでもらえるようにしてみたいなあと思う。まだまだ、「明日は 晴れかな 嵐かな」という天気予報では覚束ないのだが。
☆ e-Taxへの再挑戦 麗
感冒から復活。励ましのおことば有難うございました。
快復後,最初に行ったところは,税務署でした。
一昨年,e-Taxに切り替えようと申請して,識別番号なども交付を受けていたのですが,実行できずに時間ばかりがたってしまいました。
画面上で自動計算してくれるのは,とても便利なのですが,それをネット上で送付できず,印刷して税務署に送るのが精一杯。e-Tax講習会を開いてくれるというので,申し込んでいたのですが,先週はキャンセル。幸いにも,今日の回に「空き」があったので,そちらに回してもらいました。
講師の税務署員は,自明の理とばかりに早口でまくし立て,またたく間に2時間が過ぎました。行ってみて分かったのですが,この,e-Taxは,実行するには,結構物入りです。住基ネットの証明書の交付や,ICカードリーダライタの購入が必要だそうです。市役所に2回も行ったり,何千円も支払ったり…それを聞いて,また,くじけそうになりました。
個人的に質問したとき,思わず言ってしまいました。
「郵送した方が楽みたいですね」
税務署員は,当然のことですが,また早口でまくしたてました。
「一度手続きしてしまえば,あとはずっと楽になりますから。」
「初回の控除で元は取れますよ。」
とか何とか。
私より年上の方々も大勢,受講しにいらっしゃっていました。その方たちも含めて,理解が深まったとは思い難いものでした。聞けば,e-Taxの使用率は,現在2.5%ほどだそうです。開始年に限り,5千円までの控除を設けるなど,あの手この手で広めようとしているようですが,どんなもんでしょう。
これを読んで,やってみる気になった方,いらっしゃる?
* 妻に聞いてみよう。
2007 12・17 75
* 昨日、広島の藤田理史君、ボーナスがタクサン出ましたからと、よく選んだ広島の名酒を二種類贈ってきてくれた。元気はつらつ。ありがとう。
☆ 祝 玄 e-OLD岡山
やがて七十二歳のお誕生日、おめでとうございます。すこし元気を取り戻されたのかなと嬉しく思います。
よろこびを分かち合いたいということで、ほんの気持ちだけのお祝いをお届けします。森田酒造の「荒走り」をと思ったのですが生憎店頭に見つからず、「破天」という意味不明の銘柄にしました。
新しい子年がお二人にとってよい年でありますようお祈りしています。
* 生涯在酒 ありがとうございます。
2007 12・18 75
☆ W.ケンプ著 鳴り響く星のもとに 白水社刊 (絶版)を読んで 松
大好きなピアニスト、W.ケンプの著書が、先生の書棚にあった。中古を手に入れようとしたが、難しかった。そこで、先生にお願いして貸して頂くことにした。
W.ケンプの幼少時代から、プロのピアニストとしてベルリンフィル(指揮A.ニキシュ)にデビューしたすこし後ぐらいまでの話が書いてある。
ケンプの父親がオルガニスト、ピアニストであり、兄弟も音楽に親しんでいた。ピアノを弾き始めたきっかけがすごい。父の練習しているモーツァルトのソナタを弾こうと、一人で鍵盤をさわっているうち、いつしかオリジナルな曲となっていたそうだ。父親は驚き、五線譜にわずか五歳のケンプが弾いた曲を書き留めてくれたそうだ。
習わずにピアノを弾くことができ、しかも作曲もしてしまうとは天才としか言いようがない。
個人的にはデビュー以降のことが詳しく知りたかった。共演した、ニキシュ、フルトヴェングラー(二人で連弾している写真が載っていた)、ヴァイオリニストのクーレンカンプの話など本当に興味がある。
ただ、この本はギリシャや昔のヨーロッパのたとえ話が多く、非常に読みにくい。ヨーロッパの人には当たり前の話かもしれないが、文化を知らない私にとってはいちいち訳注に目を通すことになり、面倒だった。
ケンプはロマンチックなセンスをもちながらも、楽譜を重視した演奏をしている。勝手気ままにテンポを動かしたりはしないが、ピアノの歌わせ方、深みのある響きは素晴らしい。すこしだけ間を空けたり、テンポを変えたり、音色を変えたりして雰囲気を作るのもうまいというか本当に自然。CDを聞いていると、すっと、音楽が耳に入ってくる感じだ。以下の演奏が素晴らしいと思う。
<R.シューマン 幻想曲Op.17 1957年モノラル録音>
ロマンチックなシューマンにケンプの演奏はぴったりだと思う。ケンプはクララ シューマンの楽譜を校訂しており、曲への理解、共感も大きい。めくるめく1楽章、素晴らしい歌い回しの3楽章など魅力的な録音である。
このときのピアノはベヒシュタイン?(ケンプは戦前はベヒを使用していた。)とても透明な音がする。技術も衰えていないので、聞きやすい。
他にもクライスレリアーナ、フモレスケで見せる暗い情熱的な演奏、アラベスクの美しい歌のある演奏も素晴らしい。
<F.シューベルト ピアノソナタ第21番>
このシューベルト最後のソナタは『歌』全編すばらしい歌の連続。素朴で暖かいメロディーをこんなに自然に歌わせることができるのはケンプならでは。
<L.V.ベートーヴェン ピアノソナタ第15番田園、31番>
ケンプはベートーヴェンの中でも暖かい田園ソナタが素晴らしいと思う。
そして、複雑だけど美しい31番のフーガで見せる響きもケンプならでは。
* わたしはケンプにもピアノ演奏にもほとんど縁のない者だが、東工大で仲良くなった「松」クンの、こういう述懐を聴くのが、楽しい。そういえば、わたしの乏しい持ち盤にはケンプの演奏は一枚もないようだ。
話は変わるが先日続けて二度観た映画『秋のソナタ』で、娘のリブ・ウルマンと母親で著名なピアニスト役を演じていたイングリット・バーグマンが、ショパンの同じ短い曲をそれぞれに弾いたのを聴いたが、おっそろしく難しい音楽だったので、たまげた。
2007 12・19 75
☆ 記者発表 司
以前「mixi」に書き込みをした新たな耐震偽装に関して、その建物の安全性について検証をしていた結果が、先週公表された。
公表は、行政からと設計者からと両方からなされていて、その内容は
行政:「建築基準法に適合しないものと判断いたしました」
設計者:「建物の全棟とも必要な耐力を確保している」
というもの。
一体、この違いは何なのか。
実態としては、「必要な耐力は確保しているけれども、法律には適合していない」という事なのだろうと思う、が、実態は別として、こういう公表の仕方が、果たして市民の理解を得られるのかどうか、というのに疑問を感じる。
行政の側にいる人間としては、法律に適合するか否かが問題であって、「法律に適合していないけれども安全」とは言えないのは充分理解できる。
一方で、法律への適合可否はよく分からないけれども、「必要な耐力は確保している」と広く市民に言い放つ設計者の感覚が、正直、理解できない。
建築基準法の基準は過剰だ、と言いたいのかも知れない、が、法律は法律。それを守ることが大前提で、市民は法律に合っている事を前提に、建物を買い、安心して生活できる。
法律に合っている建物でも安全で無い、となれば、それは行政の責任であり、法律を早急に改正するなりの対応策が不可欠となる。
設計者は、市民と法律とを繋ぐ専門家のはず。その専門家が、「この建物は安全だから、法律に合っているかどうかはどうでもいい」と言ってしまったら、市民は一体何を信ずれば良いのか・・・・。
ま、建築基準法自体も、市民の信頼を全面得ているとは言い難いのかも知れないが、こういう時期だからこそ、行政も設計者も一体となって信頼回復に当たらなければいけないのに・・・・と、残念でならない。
私の感覚がおかしいのかなぁ・・・
崎陽軒のシュウマイで、パッケージの材料表示順が違っていたことだけで、商品回収をし、幹部が全面的に謝罪したのとは大違いだなぁと思わずにはいられない。パッケージの表示がどうであろうと、シュウマイの美味しさに変わりは無かったなぁ・・・。
暫く前から時々書き込んでいた、私の所管の条例改正案が、先日の議会の委員会を、無事に通過。賛否は挙手でやらないので、最終的に満場一致なのかどうかは分からないが、まぁ何より何より。
折角だから、本会議通過、公布の日に、「条例が改正されました!」と記者発表しようと関係者で検討中。
私の名前で記者発表されるのは、はじめて。
行政絡みの不祥事での記者発表が多いなか、私の初の記者発表は「いいこと」で良かった!
* 良かった良かった。
2007 12・19 75
☆ 終わり始まりそして続き maokat
今週はじめて研究室に出勤する。鹿児島からポンカンが届いており、研究室に柑橘の良い匂いが満ちた。北大の教授からごくろうさまでしたと封書も来ており、これは三年間務めた学会誌編集幹事の任期が今月で終わることから。
アマゾンからは、注文した洋書と、生方貴重氏の『利休の逸話と徒然草』が一緒に届いていた。こういう組み合わせの注文もめったにあるまい。
前者をテキストに、来月から職場で新しく輪読会が始まる。月二回のペースで、担当者は洋書二十頁の要約を作る。私の担当は来年の五月だ。連休に準備をしよう。
後者は、「続き薄」の点前を調べていて、古い『茶道雑誌』に生方氏の連載を見つけ、読んでみたくなったもの。本当は連載されていた『茶心の背景和歌と仏道』を読みたかったのだが、こちらは既に絶版。
夕方までに実験のおおよその結果が得られた。良い結果でもあり、悪い結果でもある。この病害の研究を進めていく上では、新しい発生の証拠をつかんだこの実験は、行政の理解や協力を得たり、研究資金を獲得するには、いい結果だった。しかし防疫上は、とても重要で、深刻な結果が出てしまった。
これまでは、生産地の産業が立ちゆくように、とか、所轄官庁から睨まれずに予算が獲得できるように、とか考えていたけれど、今日からは、「わが国」のことを考え、国土をこの病害から守ることのみ最優先に考えていきたい。
官庁も生産団体も、ごく狭い視野でしかものを見ていない。生産団体は深刻な経済的損失が起きていない今、いたずらに風評被害を煽るつもりかと、「今後一切の協力を拒否」すると脅したけれど、今徹底的な調査と隔離対策を打たないと、本当に深刻な経済的損失を招いてしまう。そうなった時には、もうもとのきれいな生産地には二度と戻れないのだ。
官庁に至っては笑止千万で、さまざまな偽装問題でただでさえ大変なのに、これ以上ややこしい話を持ち込んでくるな、とある担当者は電話でわめき、他の担当者は来年度当たり配置換えになりそうなので、やっかいな問題に足をつっこまずに、この問題は「先送り」したいとの気配が見え見えだ。一番力になってくれている担当者のポストは、あまり発言力がない。こんなことで、官庁の対応は決まっていくのだ。この間まで、I 種国家公務員だった私には、この辺の事情は知りすぎるほど知っている。だからこそ、「一研究者の分際で」と言われながらも、この件については頑張っておきたいのだ。ポスト削減の数合わせだけに拘っている今の独法では、私の後には、この研究を担当できる後任研究者などは配置しないだろうことは明白だ。この病害に対処できるウイルスとカビの専門家がたまたま揃って同じ研究所にいたことは、単なる偶然かもしれない、しかし天の采配かも知れない。どちらかは知れないが、その偶然に感謝して、とにかくこの問題を解決する方法を考えていかなければならない。
いろいろなことが終わり、また始まる。そして、毎日続くのは単調な実験。私の人生は、こうして続いていく。
* さまざまに真剣に真摯に生きている人たちが世の中に大勢いること、自分一人だけが生きているわけでないことを、わたしはこういう「声」「言葉」に励まされて思い知るようにしている。
2007 12・20 75
☆ おはようございます、風
寒くなってきましたね。お体の具合はいかがですか。
義父の一周忌が無事終り、とんぼ帰りしましてから、一緒に英語の勉強をしている人たちとの忘年会がありました。
家の大掃除ではなく小掃除をしまして、荷物を整理し、減らせるものは減らし、ゴミをまとめ、リサイクルステーションへ運んだり、なんとなし、気せわしい師走です。
うっとうしかった髪を切り、さっぱりしましたが、変な頭になりました。
書いたものを読んでいただき、ありがとうございました。また、次、がんばります。 花
☆ おん祭り 冬本番 巌
日曜日には 誘ってくださる方があり 春日若宮のおん祭へ
初めて 深夜に行われる遷幸の儀と暁祭に参列することができ
澄み切った星夜の下の漆黒の闇の森の中 もののけを感じてきた
明けて今週は たくさん頂き物があった
お向かいから水菜と白菜のおすそ分け
川崎の従姉から コーヒー美味しかったと とても美味しい練り物天ぷらを
ご近所さんから「そろそろ冬至やね お風呂に入れるか?」と言って 大小の柚子を
それと 迷惑な隣の廃墟からうちに伸びた枝になった 蜜柑
蜜柑はご近所さんたちとで山分け
柚子は小振りのものをジャムにして少しお返しにした
今週末か来週には おん祭の馬長児の「ひで笠」につける山鳥の羽根を
奉納された笠置の鳥肉専門店さんで用意していただける
きじ肉等で 今年縁のできた方々多くと 鍋忘年会
* 南山城の風情と匂いとが、届いてくる。
2007 12・20 75
* 岡山から珍しいお酒「破天」、群馬から食べよいソーセージ類を戴く。広島の理史くんが選んでくれた純米のお酒もじつに美味しかった。それで疲れが抜けていって寝たのだと思う。酒に油断はしていないが、百薬の長という信仰だか信頼も確かにちらと生きている。
* 今夜で、息子の書いていた「ジョシデカ」なる連続ドラマが終わるらしい。十時から、おしまい編を、観よう。七十一歳最後の晩の酒の肴にしよう。
2007 12・20 75
* 零時過ぎ「一番乗り」のメールをじめ、朝一番に、何人もの、「誕生日」を祝って下さる便りが届いていた。感謝。感謝。
ことに、やす香のお友達が、やす香のぶんもともに、優しく祝い、見舞ってくださり、感動。息子の連続ドラマ最終回も観ていて、「好きでした」と。ありがとう。みなさん、ありがとう。
2007 12・21 75
☆ 一番乗り
でお誕生日のお祝い申しあげます。七十二歳おめでとうございます。益々の文学者の花盛りの一年でありますこと、信じています。
ウィスキーのコマーシャルではありませんが、「人生美味しくなってきた」とプレゼントの銘酒の数々を、無数の夢とともに味わっているみづうみのお姿、想像しています。
ナースのわたくしとしては、これ以上のお酒はいかがかと、みづうみのお好きな食べ物、酒の肴のほうを送らせていただきました。お気に召していただけましたら幸いです。
愛と尊敬をこめて わたくし
☆ お誕生日おめでとうございます。 珠
多くのお酒が届いているご様子に、陶淵明の「止酒」を思いだして 勝手に笑み浮かび、美味しそうに盃を傾ける湖を、見てみたい、、など思うのです。
そのうち一献、ご一緒叶うときを、夢にしましょう。
お酒にあう「肴」でもと思ったのですが、変わっちゃいました。心ばかりの品、お送りしましたのでご笑納下さい。
いつも湖の言葉、そして私語が、身のうちで語りかけ、沈透=静かにさせてくれます。
どうぞ、大事に、御身大切に、湖。 72歳の「今・此処」、楽しみにみています。
☆ 舞台の本番中で何もお祝いめいたことができなくてごめんなさい。正月、行きます。 建日子
☆ hatakさん 七十二回目のお誕生日おめでとうございます。
今頃は歌舞伎座を楽しまれていることと思います。
九度熱発した昨日の今日なので、半休をとり家で静養しています。この部屋は日当たりが良く静かで、冬の日を浴びながら、『罪はわが前に』を読んでいます。ちょうど二冊目に入ったところです。ゆっくり秦作品を堪能するお誕生日のお祝いの仕方もあったのですね。風邪にも感謝。
ご無事に、ご無事にとお祈りするばかりです。どうぞ、ご無事に来年の今日まで、と祈ります。
追伸:利休の本楽しみにお待ちしています。お忙しいところお気にかけていただきありがとうございます。 maokat
☆ 遅ればせながら 秦 先生 お誕生日 おめでとうございます
お寒くなります。 御身お大切に 文
☆ 七十二に寄せて
恒平さん どんなに眉を顰め胸を痛める内容であっても、「闇」が更新されているとほっとします。
親のありがた味とは、結局そこ(生きてくれていること)に尽きるのかもしれぬと、昨夜、思い立って母に手紙を書きました。
「閑吟集」「梁塵秘抄」ありがとうございます。吸い付くように読みました。
恒平さん、迪子さん、どうかどうかお身体大切にお過ごしください。 バルセロナ 京瓜坊
追伸. 一時の不調からは回復し、今、私はとても元気です。
* 留守中に到来物が幾つかあつた。留守にしていて申し訳ない。
* 堀武昭さん(国際ペン理事)の心強いメールも戴いていた。
* もう日付も変わって瞼も重くなっている。やすもう。
2007 12・21 75
* 飾り付けた、鯛の姿焼き、を戴いた。クリスマスのケーキも戴いた。すばらしく美しい四国の柿も戴いた。感謝。
2007 12・22 75
☆ ゆっくりできる 昴
休みになって、疲れがちょっと出てきている。
歯の痛みはまだ治らない。
とにかく今は、ゆっくり休もう。
木曜日のドラマ「ジョシデカ」は、最初のほうはあまり好きでなかったけど、回を重ねるごとに「いいな」と思うところが結構出てきた。もっとちゃんと見ていればよかったと、後悔。
なかなか落ち着いて書けなかったこと、やっと書けた。
おや、歌舞伎で「舌切り雀」をやっているんだ。
他のお伽草子や昔話も歌舞伎になっているのかな?
道成寺は、お伽草子だけど…。
* maokatが発熱しながら、「mixi」に、佳いエッセイを書いている。すこし長いけれど、大勢に読んで貰おう。
☆ 熱出て思うこと maokat
金曜の夜から三十八.九度の熱が出て、悪寒、発汗を繰り返していた。一晩に三度も四度も、肌着はおろかパジャマまで絞れるほどの汗をかき、起きては、着替え、水分補給、服薬、洗濯を仕掛けてまた寝る、の繰り返しを際限なく続けていた。二組のパジャマではとても足りず、クローゼットから夏用のシャツとチノパンをもう二組出してきて、それを着て寝ていた。チノパンさえも汗でじっとりと色が変わった。汗で濡れたベッドも不快だったが、そのうちに、右半分と左半分を移動しながら寝ることを思いつき、これは功奏して、乾いた布団で暖かく寝ることが出来た。
律儀にコンマ一度上がらず、三十八.九度を示していた熱も、発汗後は三十七度代に下がるようになり、さっきの大汗の後は、なにか大きな峠を越したような感覚を覚えた。
何が大変といって、昨日と今日の温室の水遣りは、危険かつ難儀なことだった。九度の状態で車を運転し、職場の温室で水を撒いてくるなど、今思い出してもイヤになる。我ながらよくしたものだと思う。土曜は、羊蹄からウイルスの実験をしに来ている人もいたが、話もそこそこに、実験の手技だけを説明して、早々に帰ってきてしまった。往復四時間かけて通ってきてくれているのに申し訳なかったが、余儀ないことだ。昨日も今日も雲の上を歩く思いで家に戻り、そのまま布団に直行だった。
今日の夕方になって、それでもようやく物思いのできる余裕が出てきたと見え、布団から身動きもできぬままいろいろなことを考えていた。
子供の頃のことはあまりよく憶えていないが、体はあまり丈夫な方ではなく、寝込んで学校を休むこともしばしばあった。長野の木曽福島に住んでいた小学校二年の時、父が倒れ、松本の病院へ入院した。母は付き添いで松本へ行き、私と姉は、隣村の伯母、母の長姉の家に預けられた。伯母は国道沿いに小さな食堂を経営しており、夫に先立たれて従姉妹三人を養っていた。このおばさんは、大柄でむっちりと太っていて、おおらかで気さくでいい人だったが、私は好きでなかった。何というのか、だらしない気がしたのである。まず思い出すのは、食べ物をたくさん作ること。伯母と私二人の昼食のために、大鍋に一杯素麺を茹でてみたりする人なのだ。台所にはいつも昨日一昨日に作りすぎた余った食べ物が鍋に入ったまま放置されていた。私は子供心に、そのだらしなさが許せなかった。
この食堂は結構繁盛していて、昼は工事関係者などが作業着を着てたくさん来ていたし、週末の夜は同じ連中が、今度は酒を飲みにやって来て、店では酔っぱらいが騒ぐし、奥では客らが家に入り込んでジャラジャラと五月蠅く麻雀をするのに閉口した。
今思い返せば、生涯嫌いになってしまったものの多くが、伯母の家に預けられている間の体験に基づくものなのに気付く。
太った女の人が嫌い。有り余る食べ物が嫌い。今でも冷蔵庫の中は必要最小限のものしか入れず、余分なものが入っていると、気が落ち着かない。煙草嫌い。だらしない酔っぱらい嫌い。麻雀嫌い。ビートルズ嫌い。これは、従姉妹が夜通し聴いていたから。
両親と離れ、慣れない環境での生活も影響し、いつしか私は体調を崩し、何も食べられないほど衰弱してしまった。気に病んだ伯母さんが一生懸命料理を作れば作るほど、それは枕元に放置されて、寄食の分際も子供心に分かっていただけ、さらに私の容態を悪くした。かなり衰弱したのだろう、ついに私は、誰かに抱き抱えられ、タクシーで医者へ連れて行かれた。古い医院には女医さんがいて、優しく診てくれたことを憶えている。またタクシーで伯母の家に戻り、そのまま夕方まで寝かされていた。
夜になり、伯母が枕元にやってきて、「てっちゃん、何か食べれるかい?」と聞くのに首を横に振った。小半時して再びやって来た伯母が、「てっちゃん、これ飲んでみるかい?」と手にしていたものは、暖めた牛乳に砂糖とインスタントコーヒーを入れたもの、つまり即席の珈琲牛乳だった。私は枕辺に漂ってきたコーヒーの香りに、まず食欲がわいた。おばさんは最後の賭でもしているような切迫した顔つきだったが、私が「うん」と頷いて起きようとすると、大喜びで甘い甘い珈琲牛乳を飲ませてくれた。
この時伯母が作ってくれた珈琲牛乳の味を私は一生忘れない。妹の夫は生死の境をさまよっており、甥までただならぬことになってはと、伯母も必死だったろう。この珈琲牛乳をきっかけに、私は回復した。そして、長じてからは自他共に認める珈琲好きとなり、今でも生豆を買って、自宅で焙煎し、焙煎香につつまれてうっとりし、毎日を自家焙煎珈琲の朝食で始めている。もちろん、カフェオレも大好きで、外でも飲むし、風呂上がりに飲む珈琲牛乳も好きだ。これもそれも、思えば、伯母さんが作ってくれたあの珈琲牛乳との強烈な出会いが、きっかけになっているのだと思う。好きになったものも嫌いになったものも、幼児体験に強く動議づけられている。恐ろしいものだ。
さんざん伯母に世話になっておいて、その後私は大変なことをしてしまった。元気になったらなったで、伯母の家のだらしなさが気に入らず、ついに家出をしてしまったのだ。伯母の家から二三分の所に伯父の家、母の実家があり、こちらは手広く民宿を営んでいた。ある日私は一人で伯父の家に行き、おばちゃんの家には戻らない、とかたくなに言い張って、祖母の部屋に立て籠もってしまったらしい。伯父も伯母も困惑しただろうが、まだ祖母が元気でいたため、しばらくは祖母の部屋にいたような気がする。
民宿では、一家総出で夕食の準備をする。私も配膳を手伝ったり、時には注文のビールを運び、お客さんに、「小さいのに偉いねぇ」とチップをもらったことなどもあった。夕食のメニューのうち、胡桃の入った味噌和えだけは、祖母の担当と決まっており、この献立の時には私に必ず大きなすり鉢を持たせて、胡桃、味噌、酒、砂糖、味醂と材料を合わせ、最後に「てっちゃんこれでいいかね」と、祖母は味見をさせてくれるのだった。今思えば、料理の上手だった祖母から私が伝授された料理は、この一品限りで、今でも胡桃を胡麻に変えて、親しい人に振る舞ったりしている。
松本の丸の内病院で父が亡くなり、私の寄留生活も終わった。母は生活のため、木曽を離れる決心をし、川崎へ一家は転居した。後年伯母は糖尿病を病んだが、医者の言うことを一切聞かず、白内障や他の様々な合併症を併発し、従姉妹の嫁ぎ先の川崎近辺の病院を転々とし、横浜の病院で息を引き取った。一度だけ、横浜の市民病院へ母と一緒に伯母を見舞ったことがある。「わざわざありがとう」といわれ、胸がふさがった。祖母は九十の長寿を全うし、伯父もガンを病んだが、もう思い残すことは何もないと書き置きして亡くなった。
母は今年、永年住んでいた川崎の家を立ち退きにあい、すったもんだの末に、虹ヶ丘の高齢者向け公団住宅に入居した。新しい住居から、横浜の市民病院は目と鼻の先だ。その母が、築地塀に伽羅蕗の咲く絵葉書に、「あの引越が夢のように思います。先日には○○で一緒に働いていた人が来ました。良いところで帰りたくないと言って五時までいました。栗平から持ってきた植木も、冬なのに生き生きとして来ました」と近況を伝えてきている。
* こういうふうにモノは思い出すもの。思い出すときに思いだしておかないと、生涯忘れてしまうもの。
2007 12・23 75
☆ 播磨の鳶はとても元気なのに、寂しいです。でも、シャンとしています。おやすみなさい。
* カパッと喉からはずれたように、一つ排痰しました。もうそろそろ声も、もとにもどるのでしょう。バグワンなどの音読も、再開しました。
あけがた、ずうっと井上靖との夢をみていました。よほどの田舎で、木蔭で、朱盃で酒を酌み交わしていました。もう一人いたのは誰だったろう。辻邦生さんだったかな。
若い学生たちでも、大教室の三分の二以上が、「寂しいか」と聞かれて「寂しい」と自覚していました。人と生まれて「寂しくない」方が少数派なんです。しんしんとした気分。むしろそれに心惹かれているときがある。「一定(いちじょう)、人は寂しけれ。」むしろ正常・正定なんでしょうよ。
創りなさい、創りだしなさい、身内の寂しさを熱にもし、素材にもして。元気に。
おはよう。好天です。 武蔵のカアカア鴉
☆ ポーランドで働くと 創
ポーランドにいると、多分日本の高度成長期までの会社・社会って、こんな感じだったんではないかな、と思ったりします。みんな家族的な感じで、仲間意識、一体感の中で仕事をしていたんじゃないかと、想像しているので。
僕は1999年に働き始めたので、まったく想像の域を出ませんが、親父の仕事に対する思いなどをみると、憧れさえ感じます。
日本人会のソフトボール大会が年に一回あるのですが、日本人ばかりですが、大変盛り上がります。日本では会社の運動会、園遊会なんてもう昔話ですよね。あれって連れて行かれた子供は案外楽しかったんですがね。大人の世界を垣間見るみたいな感じで。
こちらでは社員同士、日本人同士の距離がとても短いように感じ、面倒くさいと思いがちな(めんどくさいと言われている?)人間関係も、実はそんなでもないんじゃない? と思っています。一緒に仕事進めるのはやっぱり難しいですけどね(笑)。
ただこういう繋がりを大切にしようとすると、いわゆるビジネスライクにせざるを得ない状態に陥ったとき、大変悩みますよね。それが嫌だから、事前に深く入り込まないという策に出ているんでしょうね。
でも、プライベートなこととビジネスって、そんなにキレイに分けられるものなんですかね?
* 樹氷の写真もみせてもらった。寒さまでは実感しないが、美しい「氷世界」だ。
世界史を読み続けていると、「ポーランド」は、苦難の経歴にすさまじく政治的にも暴力的にも傷つけられてきた国の最たる一つだが、おそらく建築の面影や遺跡にも爪痕がのこっているだろう。建築家の「創」の眼や神経にそれらの写るさまも報告して貰いたい。
☆ みかんとシナモン 馨
と書くと、なにやらおいしそうなタイトルですが、この二日間に息子クンがやらかした惨事に使われた凶器です。
親戚や知人からみかんの段ボール箱が届くこの季節、届くなり箱が開くのを玄関で座り込んで待ちかねる息子。
そう、みかんが大好きです。
段ボールを開けてもらうとニコニコと一つ取り出して、皮をむきます。みかんが好きなのは味もさることながら、この皮むきの楽しさもある模様。この間、決して座りません。皮は点々と、ヘンゼルとグレーテルの森のパンクズよろしく、彼が歩いた道筋通りに落ちていきます。
後を追って拾い集める私。
途中まで食べると、もう一つ箱から出しに行く彼。
「まだあるでしょう!!!」と怒鳴って戻す私。
段ボールの蓋を慌てて閉めました。
そして午後。うとうととリビングのソファでまどろんでいて「ぎゃぁ~、お母さーん、すごいことなってるよぉー!!」と娘に起こされると、目の前には・・・みかん10個分くらいが、皮は数センチ角に切り刻まれ一面に散らばり、中身は、ある房はかじられて捨てられ、ある房はそのまま床に置かれて踏まれ・・・リビングはみかん風呂状態。
そして容疑者はその横のカーペットの上でうたた寝していました。
翌日。
二階にいた私に聞き覚えのある「ぎゃぁ~、お母さーん」という娘の声が下から聞こえ、「シナモンまき散らしてるぅーー」
今度はシナモンか・・・。
下に行くと、リビングのテーブルやカーペットの上に、まだあまり使っていないシナモンの瓶1本分がすべてふりかけられていました。
家中、アップルパイを焼いたかのような匂い。
昨日の今日なのでダンナ・私ともどもガンガンに叱りましたが、わんわん泣きわめいてその場に突っ伏し、しかも、時折ちらっとこちらの様子をうかがう…。形勢が悪いままだなと思うと、もう一度顔を伏せてアーン、アーンと声だけ出してみたり。
こういうことって、1歳8ヶ月にしてどこで覚えてくるんでしょう? 娘はこの手のいたずらも、泣きまねも、人の顔色窺いもなかったんですが、これは男女の差ですか? それとも第二子だから? 単なる個体差?
最近、一日中、子どもを叱っています、私。
猫の砂場をひっかきまわすのが趣味な時期もありました。一度は口に入れていたことも・・・。
化粧品の入っている引き出しの中は、いつもめちゃめちゃ。一番高い美容液に限っていつもどこかに持ち出すし。
今年のクリスマスツリーは、かわいそうに息子の手の届かない高さより上にだけオーナメントを飾られているので、重心が狂ってます。(こういう防御策を講じたのは娘です)
引き出しやキッチンにそれなりに対策を取るのですが、チャイルドゲートは破壊されるわ、引き出しのロックは引きはがされるわ、コンロのチャイルドロックも解除して火をつけているわ、目が離せません。
最近、ダンナと「うちの子って、何か取り柄ある?」と、真剣に話し合う毎日…。
これって男の子の普通なんでしょうか……。
でも、他の子を見ていると、うちのはちょっとスゴすぎる気がする…。
男の子を育てているママさん達に、日々敬意の念が深くなる今日この頃です。
* グァハハハ。 でも、こういう男の子を、もう一度また育ててみたいなあ。
☆ こんにちわ、風
いいお天気になりましたね。風、お元気ですか。お体の具合はいかがですか。
徐々によくなっているようですが、まだ咳がつづいて苦しいのでしょうか。
寒いときですから、ご無理なさらぬよう。
年末年始は、また夫の実家へ行くことになりそうです。
五日間くらいは滞在することになりそうな雰囲気。冷蔵庫の中身を片付けたり、洗濯や 掃除も済ましておかないとならないので、ぬかりのないよう、スケジュールを頭の中で 組み立てています。
年賀状の印刷もして出しておかなければ。
気分的に追われている心地のする師走です。 花
2007 12・24 75
* 故福田恆存先生の奥様からお手紙を戴いた。ことに湖の本の『愛、はるかに照せ』を褒めて頂いていた。これはやす香を喪った悲しみの日録『かくのごとき、死』のあとへ送り出した一冊で、もともと、二十余年まえ、娘・朝日子が帝国ホテルで華燭の典を迎えた当日に「あとがき」を書いた、講談社からの刊本『愛と友情の歌』の復刊であった。
「絶唱」という言葉があるなら、この本でのわたしの撰歌と鑑賞とは「絶評」と称えたいと、劇作家の松田章一さんが手紙を下さったように、たいへん好評で、校正を手伝ってくれた妻など、今でも「あんなに感動して泣いた本は無い」と言ってくれる。福田夫人もまたそう告げてきて下さったし、贈り物にという追加の注文もとぎれなく来ている。
今日も禅家の方が贈り物にと注文してきて下さった。嬉しいことだ。
* やす香の死このかた、理不尽な苦しみに悩まされ続けてきたし、それなりにわたしも踏ん張るしか堪えようがなかったけれども、その中でわたしの根の立場をと表現すれば此の『愛、はるかに照せ』であった。これ有って、わたしは悔いなく迷い無く「いま・ここ」に立ち続けてこれた。それは、そう言い切れる。
2007 12・24 75
* 日本人のクリスマスって、何。分からない。
☆ 松山 司
この3連休を使って、愛媛県松山市に、この1年色々とお世話になった祖父母と共に、もちろん娘2人も連れて、旅行してきた。
松山は、私が小学校4年から中学1年にかけて父の転勤で移り住んだ街。私の今の仕事というか、建築やまちづくりを志すきっかけとなった、原点の様な街。
海・川・山があり、その全ての場所で色々な遊びをした。お城や温泉、古い街並みもあり、その全ての場所を日常生活の場としていた。田や畑、川や海でとれたものが、そのまま食卓に上った。
そんな街が大好きで、東京に帰ってきてからもとにかく度々訪れた。結婚してからも、妻と一緒に既に5回は行っただろうか。
行って何をするわけでもない。今回も、銀天街と大街道という商店街を歩いて、道後温泉に浸かって・・それだけ。松山城にも上らなかったし、(某氏には怒られそうだが)坂の上の雲ミュージアムにも行かなかった。
でも、松山は充分堪能した。商店街は、地元の店と新しい店とがうまく共存しているし、街行く人達も元気そう。道後温泉界隈も、段々開発は進んできているけれども、きちんとコントロールされている感じがする。お城は相変わらずデンと上の方に居て、きちんと街を見下ろしていて、道後温泉本館は街の端っこの方で相変わらず美しく建っている。路面電車は少しづつ新しい車両に更新されている様だが、30年近く前と同じ木の床の車両がガタゴトガタゴトと走っている。
ひいき目に見ているからかも知れないとも思うが、毎回一緒に行く妻も、「また行こう」といつも言ってくる。今回一緒に行った祖父も「よくシャッター通りにならないで色んな店がやっているねぇ」と感心している。
道後温泉の熱いお湯に、1歳になる娘を入れてきた。数千年の歴史のある温泉に1歳児が悠々と浸かっている様は何ともほほえましく、これもまた松山の魅力。
元気な秘密をきちんと分析して、他の街へも波及させるのが私の仕事かなぁと思うことも無くはないが、松山に行くとそんな気も失せて、ただ、のぉんびりしてしまう。
新しくできたふるさと納税制度。愛媛は私のふるさとでも何でもないが、少しでも役に立つのであれば、と、今から心に決めている。
2007 12・25 75
* 寒い、が、晴天。
☆ 炭をつぐ 瑛 e-OLD川崎
クリスマスも過ぎて日は年越しへと移る。
雪が深々と降る宵に炭火をかき混ぜながら 明治は遠くなりにけりと読んだ時代が思い出される。
『古典を読む』。 もうこんな言葉、つぶやきも、平成の今にはない。
森 鴎外の五十代の結晶の作品と石川 淳か誰かが言った『伊澤蘭軒』を、漢文が読めないながら今年は読み始めた。明治・大正文学が「古典」とは違和感があるが、やはり自分の古典となっていることに、唖然とし、かつ安堵する。
「動物たち」に「過去」を思い出すような記憶があるのだろうか。人間だけが「業」として持っている「イリュージョン」だろう。
最近は「万年筆」を使わない。打鍵に慣れて「字」をどんどん忘れる。時代の「摂理」でありましょうか。
映画「マルサの女」を見る。今日。
* やす香のお友達からの、嬉しいメールが入っていた。いい春が待たれる。
2007 12・26 75
☆ お元気ですか、みづうみ。
今年も最終週になりました。わたくしは公私ともに片づかないことばかりで新年に突入しそうです。新年といいましても、昨日に続く今日、今日に続く明日なのですから、しかたありませんね。食材だけはやたらに買い込んでいますが、これは食いしん坊のせい。
みかんとシナモンのかわいい坊やをお育ての「馨」さんにお伝えください。
私の知り合いの坊やはこたつの上に乗って、牛乳の一リットルパックをばらまいて遊んでいました。自分のウ○○を丸めてお団子にして並べご満悦だったと、今でも語り草の親戚もいます。
西原理恵子著『ああ息子』などお読みになると、ウチよりスゴイという息子たちでいっぱいでしょう。以前に読んだ記憶によると、マヨネーズを一本床にぶちまけてそこで泳いでいた坊やとか、お葬式に列席していて突然「ぼくらはみんな生きている」と大声で歌いだした坊やなどとくに印象的で、お母さんのお怒りに同情しつつ、もうお腹を抱えて笑ってしまいました。
「馨」さんの益々のご奮闘に遠くからエールを送らせていただきます。いい息子さんが育っています。
みづうみはどちらにお出かけでしょう。寒いですから、暖かくしてお出かけください。年末の街の賑わいはなんとなく嬉しくなりますね。 わたくし
2007 12・26 75
* 原典『平家物語』を聴く会から、巻第一を贈ってきてもらった。喜多郎のテーマ曲ではじまり中村吉右衛門が「祇園精舎」野村萬斎が「殿上闇討」その他「祇王」を平野啓子が、「鹿谷」を片岡秀太郎が、語っているらしい。DVDのようだ。亡くなった梶原正昭さんらが監修している。お付き合い久しい山下宏明さんらが推薦されている。事務局の古場英登さんから鄭重な挨拶を戴いている。恐れ入る。
2007 12・26 75
* 大きな帛紗バッグ型、干支の猪唐草とでも謂いたい珍裂のケースを誕生祝いに戴いていた。湖の本の『梁塵秘抄』『閑吟集』を対にして収めると、ぴたり。朱の題字が並んで映えて、有り難し。
* 手持ちの本を送ってさしあげたmaokat さんのメール、結びの部分を。
☆ お礼に添えて maokat
今年は映画二十本、コンサート三回、そして読書は、歳末にやっと五冊だけでした。こんなに少ない年も珍しいです。
仕事は丸々一年を費やして、学会発表も論文書きもあきらめ、ひたすら日本中のサンプルを独力でかき集め、一種の告発のようなことをしてきました。
年押し迫った昨日、遂に法律に基づいて対処すべき証拠のデータを上司から農水省に提出してもらい、首脳への報告も済ませ、あとはお沙汰を、首を洗って待つだけです。さいの目がどちらに出るか、年明け頃には分かるはずです。
そんな中でも、明るい話があり、この仕事を一緒にやってくれている私よりやや若い同僚が、私が属している研究所群の中で、今年最も優れた研究成果をあげた一人として表彰されることになりました。私も共同研究者として、名前をあげてもらっていて、二人での受賞ということになりました。予算も協力も得られずに一年間苦しんできただけに、知らせを聞いた時は、嬉しいというよりも、「これで研究予算の心配をしなくて済むかも」とまず懐具合に気がとられ、同じようなことを考えていた同僚と二人で笑いました。
大仰に授賞式なども筑波でするそうですが、たまにはそういうものに出てみるのも良いかもしれません。
不思議なもので、茶の湯も頼まれるまま、春に流儀の支部茶会を男子で、今月は瑞峯院で濃茶まですることになろうとは、想像もつきませんでした。この分では来年もどうなることやら全く想像もつきません。
長々と書いてしまいました。今日の夜から、出張ですので、旅の行き帰りに石勝線の車中で、お送りいただいた御本を読ませていただくことにいたします。
年の内をお元気で、歳末の池袋買い出しなども、無理せずにご無事でお出かけ下さい。
御礼かたがた、ご報告まで。
2007 12・26 75
☆ 振り返る ボストン 雄
ボストンに来てから,ほぼ1年間経った.この1年間は,本当に色々なことがあった.色々な人々との出会い,異国での生活への戸惑い,新しい研究分野への移行,色々な人々との別れ...来たばかりの頃のことを思い返すと,とても今年の出来事とは思えない.もっとはるか昔のような気がする.
この1年間で,自分はどの程度変わっただろうか.
そう大きくは変わらないような気もする.英語は相変わらずだし,研究も進まない.せっかくアメリカに来たというのに,ボストン以外の場所を訪れたのは,ニューヨークに1泊しただけ.同じマサチューセッツ州のウッズホールやケープコッドなども,訪れていない.
僕がもう少し積極的な性格だったら,あるいは一緒に生活する人でもいれば,もっと色々な体験ができただろうと思う.残念といえば残念.
しかし,多少は変わったかもしれない,とも思う.
まず一つは,何でも自分で極力やるようになったかなということ.
日本にいた頃の僕は,何でも人任せであったような気がするし,それで済んでいた.しかし,アメリカに来て,自分の身は自分で守るしかないという立場に身を置いたことによって,そうもいかなくなった.無駄な時間という人もいるだろうが,少しは逞しくなったのではないか,と自分で思ったりもする.
そして,サイエンスに対する視野が,少し広がったような気がする.
日本にいた頃に自分が見ていたサイエンスは,大げさに言うならば「箱庭」だったような気がする.しかし,こちらに来て,さまざまな研究者と語り,様々な優れたセミナー・シンポジウムに触れることができた.それらは,箱庭では決して見ることのできないような風景だったように思う.
僕は日本のサイエンスを否定しているのではない.美しい箱庭には独自の美しさがある.日本のサイエンスのレベルは概して高いと思う.しかし,反面,画一的であるような気もしている.そこには変な形をした木や,思いも寄らなかったような形の岩を見ることはできない.「こんな変な形をした木や岩も,それはそれで価値あるものなんだ」という認識を持つことができるようになった気がする.
そして逆に,日本のサイエンスへの見方も,ほんの少しだけ変わったような気がする.
まだ年末には数日あるが,これからの1年間は,一体どんな1年間になるんだろう.期待もあり,また不安もある.どんな1年になるにせよ,それを楽しむことができればいい,と思う.
* いただいているお手紙の類にお返事がついつい出来ぬママでいるのが、気になる。
2007 12・26 75
* 「mixi」で二人の「ひとりごと」を聴いた。耳に留まった。一人は、わたしのごく若い友人。会ったことはないが。ニューヨークで独りでダンスなどを懸命に勉強して帰ってきて、立派にある大きな劇団に入った人。ポツンポツンとメールを交わして、わたしは激励してきた。いつか舞台を見にゆきたいと楽しみにしています。
☆ マジで独り言です。 炎
やるからには きちんとやりたい
白黒はっきりしないと 前に進めない
これがあたしの 長所なのか短所なのか。
今は短所になってる。 苦しいよー
だけど みんなに追い付こうとして、ただただがむしゃらに それだけの毎日を続けて得るものって
心の強さ
表現力
の割合が大きくて。
あたしが今ほしいのは 心の強さと表現力を しっかり人に伝えられる
『身体能力。』
それ以外のなにものでもなく。
ゆっくりでもいいから 確実に身体と向き合って身体を変えなきゃ。
骨、筋、バランス、固さ。あたしには課題が山積みでいっぱいいっぱい。
ただがむしゃらにやり続けても、心と身体は 変わらないって気付いてる。
あ、多少は変わるとおもう。
あたしの場合が、がむしゃらにやっても
日々『なんちゃってダンサー』に近付いてしまうだけ。
心だけで表現するダンサーなんていない。
ってゅーか 気持ちだけで踊るのは 格好悪いってあたしは思うから。
心に見合うだけの身体が必要なんだと思う。
観る人と見られる人がいて初めて成り立つこの職業
当たり前なことだけど 見られることに責任があるんだ。
あたし 人の数百倍不器用みたい。
器用になりたいけど なろうとすればするほど 自分を見失うからー
考え始めたら すぐにいっぱいになって てんぱって 失敗するんだ
あたし何がやりたいんだ
人を楽しませたい
それで舞台に立ちたい
だったと思う。
いや、そうなの。 そうなんです。
だけど
あたしが今ほしいものは 踊れる身体なんだ。
だから、 出来る範囲でマイペースに ちゃんと自分と向き合っていきたい。
でも それが無理な生活をしてるから。くるしいよー。
今の自分いやだー ダンサーでも舞台人でも なんでもない。
全部甘い。全然中途半端。
でも
もたもたしていられず。
もー 自分の頭悪さ加減呪いたい
踊りうまくなりたい
ダンサー、舞台人のみなさん。
あたし多分今 そーーーとーーー 滅入ってます弱腰
なんか言葉ください。
あたし 踊るのが好きみたい
でも 踊ってる自分が どんなんだったか忘れてしまいそうだぉ。
* お友達のたくさんなコメントがもう入っていて、わたしから口出しの必要はないが、「からだ」と「こころ」とにふれて微妙に難しい問題の糸をまさぐっている。この「私語」の読者で此の道にかかわった人もいるので、気持ちを伝えたいと想った。
「マジで独り言」なのでなく、「マジな独り言」だ、わたしは耳を傾けて聴いた。
2007 12・27 75
☆ 「雄」さんへの応援 楊 在ノルマンディ
秦様 ボストンの「雄」さんの1年を振り返っての述懐、大きな共感を持ち、応援をしたくなりました。
日本の科学について、それは高い水準にあるが画一的で箱庭のようである、外に出て箱庭では見ることができないような風景を目にして「変な形をした木や岩も、それはそれで価値あるものなんだ」という認識に達したと書かれています。そこにこの方の大きな成長が見られます。それは科学だけではなく、社会のすべてのことに当てはまることに、やがて気が付くことになるでしょう。
そしてもう一つ、彼は大切なことに気が付きました。人任せではいけない、自分の身は自分で守るしかないと覚悟が決まったことです。漱石が英国で文学と苦闘しているときに、他人本位ではいけない自己本位にならなければならないと悟ったと「私の個人主義」で語っているのを思い出します。
1年のボストンでの経験で、雄さんがこの2つを得たのは大変な成果です。彼の書いているものは一見すると自分のしている実験や細々した日常のようですが、日々を書き留めつつ彼がもっと普遍的な何かを会得しつつあることが感ぜられます。それは彼の精神が広がっていくのに私たちが立ち会っていると言ったら良いかもしれません。
来るべき年が彼にとって一層の魂の躍動の年となるよう応援をします。
* 「雄」君は、自分自身の時空に、生活に、決して小さくない危機をいつも自覚している。じぶの「いま・ここ」に欠けていたり欲しかったりするモノを、てらいなく意識して暮らしている。これが、出来そうで誰にもは出来ないのである。まったく同じような状況にいながら、身に迫り来る危機のようなものから眼をそらして、意外に消費的に歌を歌ってだけいる人もいる。「雄」君の危機の自覚には容易ならぬモノがひそみ、しかもそこに立ち向かう日々の姿勢が「日記」に良く出ていた。観ていて下さる人があるんだと、わたしも喜んでいる。
2007 12・27 75
☆ 秦先生へお歳暮 松
こんばんは、「松」です。
年の瀬が迫り、寒い毎日が続くようになりました。お元気でいらっしゃいますか?
『青春短歌大学』をまた読みました。「書く」ことによって自分の意志を表明しようという先生のお心がよく分かりました。
なかでも窪田空穂の『片おもひ』の歌に、また心新たに非常に共感しました。
私も他人へ「自分の想い」が届かないと、いらだってしまいます。
その割に自分の受けた恩に対しては無頓着なのかもしれません。
静岡に住み半年になろうとしておりますが、当地のお茶は本当においしいことが分かりました。少しばかりですがお送りしました。
寒い中、おいしいお茶で暖まっていただければと思います。
寒くて長い冬も始まったばかりですが、ご健康には十分留意してください。
奥様にも宜しくお伝えください。
* ありがとう。きみの幸せを願っています。
生きているだから逃げては卑怯とぞ幸福を追わぬも卑怯のひとつ 大島史洋
わたしたちの教室の、自然な合い言葉になっていたのを、思い出します。
大きな富士山をまぢかに観たことがなく、いちど観にゆきます。いいポイントを教えて下さい。
温暖化の影響が静岡のお茶や蜜柑の栽培にあらわれかけているとも聞きました。地球を守りたいですね。
2007 12・28 75
☆ 秋葉原へ 花
風、お元気ですか。
ご近所には、同じ世代の人がいて、話も合うし、仲良くしています。井戸端会議ですけどね。
きのうは、ちびっこ二人のうち、お姉ちゃんの方が、幼稚園の冬休み中に、うちに来たがっていたこともありましたが、二人のお母さんが、年末にディズニーシーへ行くための防寒着を買いに行きたいのだけれど、子供二人を連れてでは難しいので、ちょっと見ていて欲しいと頼まれました。
激しい子供なので(子供はみんなそうかな)、注意は必要だけれど、適当に相手しています。
ご近所間の頼まれごとって、もちつもたれつ、といいましょうか、お互い様になることもあるでしょうし、助け合いていどに引き受けてもいいかな、と思っています。無理はしません。
厭なのに引き受けて、陰で文句を言うのは、わたしの一番されたくないこと。
いい塩梅に本音で接すると、長く親しくできるのではないかな、と思っています。
花は、明日、夫の付き合いではるばる秋葉原へ行きます。つくばエキスプレスが引き込まれて以来、ちょっと駅前が変わりましたとか。おしゃれなインテリアのお店があるようなので、花の興味はそこです。
明後日の昼に家に戻り、夕方に関西へ、夫の里へ発ちます。
* 帰省、ということの殆どなくなった生活だと気がつく。
2007 12・28 75
☆ みなさん、新年を迎える準備中かと存じます。
家庭内LANのわが家でも、新しい年のカレンダーを貼ったりしてます。
亡くなった親父の残した人生訓が色あせてきたので、コピーしなおしました。その人生訓の下に、今は大学生の息子の作品がありました。
「ぱそこんつうしんは止めよう」です。いまなら
「mixiは止めよう」でしょうね。あはは。
パソコン通信で月10万円て人もいましたからね。
今は安くなりました。これで離婚した人も多いでしょう。
うちは、パソコン通信ではまだ離婚に至ってません、あはは。
みなさんmixi辞められますか?
それが2008年の問題だ(笑) 直 e-OLD神戸
* 同じ意識をかかえた人、さぞ多いと思うし、それでもやめられないと思う人も。「mixi」を辞めようかなと数度考えたけれど、気持ちをマイミクのうちに限るようにしてから、この人達の声は、出来れば聴いていたいと思うように変わってきた。マイミクもいろいろだけれど、いろいろなのが「mixi」だと思い、心親しいマイミクを、もう少し迎えたいと思う日々もある。個から個への電子メールと、幾らかは公開された「mixi」と。両方にメリットがある。人への信頼があるところでは、デメリットはかんがえにくい。SPAMなみに悪意で悪用する人もあるのが不快だけれど、無視する手で、済むと思う。
☆ 頭痛の種 昴
薄曇りの中、枯野に沈んでいく太陽に追いかけられながら車を運転していた。心臓に空洞があるような重さを感じる体調の悪さ。鎮痛剤を飲みながら実家まで。
体調はあんまり良くないけど、昨日先輩の先生から言われたことを、書いておこう。最近、記憶力が落ちているような気がするし、そうでなくても人間は忘れる生き物なんだから。
・「考える」こと。
・人をすごいと思うなら、その人に近づける努力をすること。
・自分にできることは、できる、できないことは、できないときちんと言う。
・準備をきちんと行う。
・基礎をやり直す。
・中学校も小学校も体力的にはどちらも同じ。
長い時間話していたのに、これだけなのかな? 大切な何かを落としていそう。
最近、歯痛や頭痛、むくみなどがどういうメカニズムで起きているのかということをネットの情報を見ながら考えることがしばしばある。自分の病気限定だけど、病気マニアになっている。
そりゃ、暗くもなる。
断ち切って、健康的に別のことを考えないと。
* 自分の病気に「同化」すると、暗くなる一方です。自分でないもう一人の自分の病気を、「観察」するのは有効です。
自分の「体」は、家屋でいえば壁や屋根や床のような建物そのものだと想い、「自分」とは、それらに囲まれ包まれている「内なる空気」だとわたしは想っています。「内なる空気」は、壁達の「外なる空気=天」と全く同じです。
そんなふうに想っています。 湖
☆ 羽織 瑛 e-OLD川崎
昔の宿題を思い出す。昭和20年代の小学生のころ。 いや高校生であっただろうか。人間の記憶はあてにならない。
宿題帳のざら紙の上の文章。年齢の尺度は「かぞえ年」。
主人公は除夜の鐘を書斎で聴く。
百八つの梵鐘。ふっとたれかが後ろから羽織を着せてくれる。
年の重みである。
平成でこの様な羽織を着たい。
* 何とも知れず温かい。
2007 12・29 75
☆ 歳末 ボストン 雄
10日ほど前に,ポスドクのジョンからCDを借りたことを思い出し,iTuneにコピーする.居室でライアンと3人で雑談をしていた時,バッハの「マタイ受難曲」の話題が上ったのだが,ジョンが是非これを聴いてみてくれといってCDを貸してくれたのだった.僕もマタイは既にiTuneに入れてあるのだが,僕の持っているCDはカール・リヒター指揮の1958年の演奏.ジョンが推しているのはレオンハルト指揮の古楽器による演奏なので,聞き比べてみた.
聞き比べるといっても,なにしろ長大な曲なので,全部を聴くのは疲れる.僕が好んで聞くのは,冒頭のコラール.全くの偶然だが,レオンハルト指揮の演奏がYoutubeにアップロードされていた.古楽器でない演奏も載っているので,聴き比べると面白い.あと,有名なアリア「憐れみ給え、わが神よ」好んで聴く.
レオンハルト盤は,古楽器による演奏ということで,ピッチが低めに設定されており,そのせいか,くすんだような色調を感じる.しかし,演奏自体はテンポも早く,全体的に軽やかな印象を受ける.リヒターのは大分重たい.
実は3月の終わりにボストンシンフォニーも「マタイ」を演奏する.指揮者はベルナルド・ハイティンク.現在存命中の指揮者の中では,最も尊敬している指揮者.決して派手ではないが,誠実な音楽作りが素晴らしいと思っている.ウィーンフィルと一緒に録音したブルックナーの交響曲第8番は,僕の中では同曲のベスト盤だと思っている.ハイティンクがボストンシンフォニーと,どんな「マタイ」を聴かせてくれるのか,今から楽しみ.チケットは既に購入してある.
☆ 歳末 東京 珠
昨日、ひとまず今年の勤務は終わった。
前々日から40℃まで発熱して一人休み、前日には嘔吐・下痢でまた一人、昨日は最後だからと無理して出勤してきたスタッフが蒼い顔してすぐにトイレに駆け込むといった散々な状況で始まった。お腹の風邪、、といってしまえばそれまでだが、薬を処方しても吐気で飲めないから、刻々と進む脱水状態を点滴でおいかけるといった治療になる。
「どうしてこんな日に、、」「最後なのに、、」
うわ言のように繰り返すが、歩いて帰れる状態まで落ち着くのを待って、家へと見送った。その後昼過ぎで、診療終了。
片付けた後、納会となったが、家族のいるスタッフは一刻も早く帰りたそうで、早々に散会とする。今年は風邪の流行が早かったように思え、スタッフにも体調不良者が続出した年の瀬。休みに入って寝込んだりせず、元気に新年を迎えてほしい。
夕方から更に職場全体での納会となったが、人のいい男性が体調不良であまり飲めない上司の代わりに杯を重ねていたらしく、気づくとフラフラで、、頭から床に倒れる、酩酊状態。蒼い顔、あぁ、、、残念なことに上司の為に飲んであげたのに、上司を心配させることになってしまった。
せめて車に乗せられるようにするために、点滴。医師と交代で様子をみながら、残った仕事を片付ける。真面目な男性は、意識が戻るにつれハイな気分になったらしく笑顔でヒピースサイン、何とか車に乗せて帰す。今日、目が覚めて、昨日の失態数々覚えているのかしら。記憶のないことを祈ってあげましょう、一応。でも新年じゃなくて、年忘れでよかったですね。
そんなこんなで、仕事納めは点滴で始まり、点滴で終わった。
自分の残した仕事を片付け、持ち帰る仕事をまとめたら、外は霧雨けぶる今日になっていた。仕事納め、終電で帰宅とは。今年も、よく働きました。
今朝起きて、一日年賀状書き。。。減るどころか、毎年増えるばかりの年賀状。普通に考えれば当然なのだろうが、賀状だけのやり取りの人も多くなってきて、せっかくなら、来た年賀状に→お返事する年賀状、にしたい。「仕事はどんな様子ですか?」などという一言へのお返事は、来年の年賀状では、遅い。問題は、新年初出勤で顔を合わせる同僚には年賀状が届いていないとかっこ悪い、、ということ。さて、次の年賀状書きまでに考えよう。今年の分は大方書いたし、ひとまず宿題終了気分、安堵。
* 年賀状は、葉書でもメールでも、わたしは「全廃」ときめた。たいせつなお付き合いは、三百六十五日のうちに、心籠めて、する。そうは言いながらご挨拶やお礼や消息を漏らしてしまっている例が、今年も幾つも。口は調法だが手も足も追いついていない。
2007 12・30 75
☆ 野々宮宗八 maokat
帯広より戻り、二十八日御用納め。実験はうまくいかず。午後二時より来客。出張移動中に、漱石『三四郎』読み始める。
帰宅後二十九日昼まで、十二時間以上寝る。夕方散髪。夜から年賀状を作る。
三十日、年賀状を持ち、家を出る。某所に籠もり、年賀状書き。食事をしたり、温泉に入ったりしながら、年賀状半分ほど書く。
『三四郎』読了。「罪はわが前に」が、どのように登場するのかがわかった。
研究者としては、三四郎や美禰子よりも、野々宮さんに目がいく。
「学問をする人が煩瑣い俗用を避けて、なるべく単純な生活に我慢するのは、みんな研究のためやむをえないんだから仕方がない。」
基本的には、明治末も現代も、研究者の精神構造など、何一つ変わってはいない。
読書はこの後『狭き門』と、『こころ』へ続く予定。
* 簡潔な文体。
* 『三四郎』の三四郎が『それから』の代助、『門』の宗助になるのではない、これはよく読み誤られている。野々宮宗八が代助の前身であることは、美禰子と野々宮との関係を正しく読んでいれば容易に分かるのだが。三四郎は『こころ』の「私」の前身なのである、わたしの読みでは。
2007 12・31 75