* 突如として京都の菩提寺から、新年の「寺報」に原稿を書けと、待ったなしの電話。お寺さんには勝てない。
* わたしの信、念仏、法然 秦 恒平 (常林寺檀家)
「ご平安に」と書き添えて手紙を終えることが多い。「お平らに」「お静かに」という挨拶にどこかで似ている。過ぐる「前世紀」にもそう声をかけて見送った。「新世紀」を迎えての気持ちも同じである。斯くありたいと願っている。
兄は彦根で生まれて父の名をもらい、恒彦といった。わたしは昭和十年の末も末に平安京で生まれて、恒平と名付けてもらった。そう朧ろに聞いている。さきの師走に、だから満六十五歳になった。兄には前年秋に死なれた。生みの親、育ての親、妻の親たちもとうに此の世にいない。妻の兄ももういない。それが不思議とも、それが自然とも、時々の気分で受け入れながら、いつか死ぬ日のことを、気ぜわしくもなく思い入れていたりする。
無常は迅速だという。だからどうすればいい、わるい、と惑ってばかりなのも苦しい。死が、一瞬の好機かのように訪れてくれれば有り難いと思うが、そううまく行くまい。「ご平安に」と人さまを言祝ぐのは、我が内心の「不安」が照り返しているからかも知れぬと苦笑しつつ、いわば「待老期」に突入した実感を、静かに胸に抱いている。六十五なら立派に年金年齢ではないかと言われても、母の一人は、九十六歳まで長命している。あます三十一年かと指折れば、そう老人がっていられない。で、好きな句を小声で口にする。
明日への信いくらかありて種子を蒔く 能村登四郎
沙石集であったか、本の題は朧ろになっているが忘れられぬ話がある。高徳の僧が庵居して行い澄ましていたが、ある日、裏山から崖崩れし、庵ごと埋もれてしまった。人々が急いでかけつけ、かろうじて師僧は救い出された。幸い五体は無事であった、のに、ご本人は浮かぬ顔をしている。命助かっての浮かぬ顔はと問われて、僧はこう答えている。山が覆いかぶさって来た咄嗟に、わしは「南無観世音菩薩」と唱えてお助けいただいた。あの時に、なんで「南無阿弥陀仏」と唱えて西方浄土に迎え摂っていただかなかったかと、それが、残念でならない……。
この説話、深読みも利きそうにわたしを永く惹きつけていたが、今は、さほどでもない。一瞬の好機をのがした話と謂えるが、素直に、良かったではないかとも思う。あまり高徳の人の言とも思われないし、現世利益の観音と摂取不捨の阿弥陀とをあざとく対比して見せた説話の手ぎわも、やや鬱陶しいのである。右の掲句に謂う、いくらかの「信」の方が、まだしも仏様に嘉みせられるのではなかろうか。
わたしは現代を生き、明日へ歩んでいる。頭の中には、一例が三部浄土経や般若心経の意義も、また古事記や源氏物語もいつも生きているが、インターネットの電子の網に対するグローバルな好奇心や信頼も旺盛に巣くっている。地獄を信じないように、極楽のことも、それ自体としては信じていない。ただ、往生極楽にふれて法然上人が最後の最期に『一枚起請文』を遺して下さった恩徳の広大は、こころから信じ、ただもう感謝に堪えないのである。この気持ちを、道筋立てて説明する気にはなれない。説明できないとも出来るとも考えないのである、考えていては信じていないのと同じである。
平安に生き終えて平安に死んで行くのに必要なのは、わたしには、法然上人の教えて下さった「南無阿弥陀仏」で足りている、他は無用で、頼りに成るとは思わない。
2000 12/18