* 昨日、冥界の「お父さん」の繪が金澤から届いた、薔薇。今まで描いた中でいちばん好きだと。花のいのちのそよぎをとらえて、目を吸い取るような出来映えに妻と感嘆。そして、克明な手紙も読んだ。
2006 10・1 61
* 秦先生 ご無沙汰しております。
ブログを毎日拝見していながら、いかがお過ごしですかと書くのもおかしいのですが、けれどもやはり、ご心中を100%お書きにはなれないでしょうから、私達読者の与り知らぬ部分も含めて、いかがお過ごしですか、と書かせて頂きます。
めっきり秋めいてきました。
今年の秋、このあたりでは、なぜか曼珠沙華が例年になく多く禍々しいほどに咲き誇り、娘が「赤い道だね」というくらいの毎日です。
新学期が始まって早々、娘と同じクラスの男の子が突然に亡くなってしまい(本当に一晩のことでした)、私にも娘にも大きな衝撃でした。曼珠沙華の多さは今夏に旅立った人が多かったからなのかもしれない、彼岸まで赤い道しるべを作っているのかもしれない、と思ったりもしています。
でも、昨年は悪阻で食べられなかった庭の茗荷も今年は堪能していますし、もう散ってしまいましたが金木犀かぐわしく、爽やかなよい秋です。
今日は雨ですが、それはそれで優しい気持ちになれて、こんなふうに珠玉のように平穏な毎日が送れることこそ、本当に幸せなのだと思います。毎日毎日を、刃の中の綱渡りのように送っていた少女時代の自分に、こんな日が待っていたんだよ、とそっと教えに帰りたいなどとも。
ここ数年、何度も身近な人のお葬式がありました。そして思うのは、曼珠沙華の道の中をあの世まで持って行かれるのは、ただただ自分自身のやわらかな心だけなのだと。
お金やおいしい食事や身の回りのものなどもちろんのこと、悲しみも憎しみも現世に置いていかれる。
そして、悲しみに比べて憎しみはどれだけ自分の力で制御できるものであろうか、と。
憎んでも憎んでも、それはなんとはかないことなんだろう、と思います。近年亡くなった肉親の一人は、憎しみを制御できずに逝きました。でも、そんなことで暮らすのはどんなに空しいか。 と、さわやかな秋風の中、思います。憎
む相手を力ずくでねじ伏せても、自分の心は決して晴れないのですから。自分の心がやわらかさを取り戻せるのは、唯一自分が人を許せた、受け入れられた、と思うとき。
こんな話はここまでにします。
実は先生に夏前からお伝えしたいと思いながらも、こんな他愛のない話などお送りしていいような場合でない、と思ってためらっていた話があります。でも、なんとなく今、お伝えしたくなりました。
京都に村上重というお漬け物屋さんがあるのをご存知でしょうか(ご存じないわけないですよね、すみません)。先日、お中元に使わせて頂いたのですが、先方が別宅にいた関係で、お送りしてからすぐに受け取れずに、お店の方に品物が帰って行ったそうです。その後、お送りした方から連絡が行っていついつなら受け取れます、と日時を言われた時に、村上重さんは、わざわざ新しいものを無償で送って下さったのです。
京都の心意気を感じました。
京都の心としてもう一つ。
京都のある中堅会社に勤める知人から聞いた話ですが、その会社ではご挨拶に伺う時、ある和菓子屋さんのものを必ずお使いするそうですが、なぜか必ず本店に買いに行かされる。デパートにも入っている有名店なのに、本店にしか行かず、急用で本店が休日だったりすると、大騒動になるそうです。なぜそれほどに本店にこだわるのか謎だったらしいのですが、知人は、包装の仕方が微妙に違うということに最近気がついたそうです。デパートで買うと、デパートのシールが最後に貼られますし、途中包装紙をセロテープで止める。けれど本店ではセロテープは一切用いず、最後にお店のマークのシールをピッと貼るだけなのだとか。もしかしたらお味の方も微妙に違うのかもしれませんが、こんな包装の違いにもいかにも京都を感じます。少しだけイケズのエッセンスの入った、でも豊かな文化を背負った京都です。
などなど、ずるずると深みにはまるようにあの街には少しずつからめとられてしまいますね。学生の頃に、恋したように通いはじめて、その後、仕事で行くようになり、いろいろな面を見れば見るほど「おもろいなぁ」と飽きません。
どうでもよいお話をだらだらと失礼いたしました。
人生は自分の力ではどうしようもないことも多いのですが、心の持ちようだけは自分で少しだけ変えられると最近感じています。
実りの秋をお楽しみ下さいませ。 典 卒業生
2006 10・1 61
* 秦さん あれ程に充実した内容のホームページを、運営者の確認を取ることもなしに全削除するとは、そのような事が起こり得ることに、心底驚愕しています。
デジタル社会における表現の自由は、かくも危うい足場の上に成り立っているという事なのでしょう。権力者による言論統制も、さぞや簡単な事でしょう。
自分にとっても、この10年近くの大事な歴史が消し去られたようで、どこかにポッカリ穴が開いたような心持です。
決して許されて良い事ではなく、一日も早い復旧がなされるべきと思います。
と、ともに、どうぞご心労がお体に響きませんようにと、お祈りしております。 敬 卒業生
* 先生のブログは、私にとって毎日の家庭教師のような存在です。
それが開けないとは、誠に残念ですし、これまで蓄積された私たちの財産を奪われたような感じで、ほんとうに腹がたちます。
しかるべき方法による説明もなく、着信したか読んだかの確認もなく一方的に消去してしまうなど許せることではありません。
法的手続きによってすぐ復旧できると思いますが、電子的著作物の保存の権利について、確実にしておきたいものだと思います。
一読者として、抗議の手を挙げさせていただきます。 重
* 電力,ガス,水道に電話など社会的インフラは,本来ギャランティのある社会基盤です。
一方,インターネットはギャランティがないベストエフォートという宿命的脆弱さをもっていながら,今や完全に社会的インフラとなってしまいました。
プロバイダーがむいている方向は、政府ではなく社会に対してであり,責任は表現の自由の確保なはずですが,残念ながら無自覚すぎますね。
ネットが誰でも自由に参加して発言できるという市民参加型革命の幻想がいまだ続いていて,過剰に反応した結果が「プロバイダー責任法」という論理破綻な法律ができたと思っています。
「責任」のとるべきベクトルが間違っています。
本来,決めるべきことは電話と同じ通信の秘密や信書の秘密を保証することだったのではないかとも思います。 ペン同僚委員
* やす香さんのご逝去をお悔やみ申し上げます。さらに今回の事件が重なり、さぞおつらいこととお察し申し上げます。
それにしても、このようなことがあるのですね。
ビックリしてしまいました。今までのご苦労が一瞬にして消えてしまうなんて、アナログ人間の私には、信じられない出来事です。よりによって先生にこんな事件が起きてしまうなんて。これを契機に世の中が著作権、ホームページのありかたなど再認識するようになるきっかけになればと願いますが、いずれにしても、先生のホームページの内容は復活できるのでしょうか。当然出来ますよね。
先生が怒りや、このことで仕事をする時間がなくなってしまうことなどの様々なストレスで、体の調子を崩しませんように、案じております。どうぞあまり無理をなさいませんように。また、先生の願っている方向に解決するよう祈念しております。 安
* 湖様 心晴れない日が続いていることと思います。
HPが何らかの形で完全に復旧することをお祈りしております。
今日は本当に久しぶりに家に閉じこもり、一人で休日を過ごしました。
「市民ケーン」のDVDをワインを飲みながら見ました。オ-ソン・ウエルズが20代で主演・監督したというこの作品、実は初めての鑑賞でした。
アメリカで成功を収めたケーンの心象のジグソーパズルの中で見つけることのできなかった1つのピース「バラのつぼみ」・・・・ 。
人の心の痛みも愛も「親子関係」という逃れることのできぬ人間関係に始まるのですね。
だれもが完全なジグソーパズルを完成させることは不可能なのではないかと思いますけれども。
雨が静かに、終わりかけた芙蓉の花に降り注いでいます。
心落ち着くフォーレのレクイエムを聴きながら、一人の夕食を始めることといたします。 波
* なにごともさっさと退却しようとは考えない、そういう「退屈」は嫌い。しかし、それに「重き」を置いているかとなれば、じつは、成るものは成り、成らぬものは成らないとだけ考えている。「退蔵」は本当の人間なら理想としていい最も優れたこと。わたしはねばり強い、が、執着しない。退却はしない。つまらぬことに吶喊もしない。
* 明日の晩、久しぶりに卒業生と会う。
2006 10・1 61
* 唖然としています。私はてっきり、「調停」が始まったシルシかと受け取っていました。恒平さん側に、ホームページを一時的に削除した方がよい、という判断があった、と。
それなら騒がず静かに待とう。そう思っていたところが・・・。大変な世の中になった、と思います。
相手は、そういう騒ぎを起こすのを、「生きる最大の目的」にすらしている感じです。
どうか、相手の息の根を止めても、止められることのないよう(事故、病など)、くれぐれもご留意ください。
『聖家族』を本で読む日を待っています。 バルセロナ 京
* 有元様 すばらしいマスカット頂戴し家内が大喜びしております。有り難うございます。わたくしもおいしく頂いております。
自転車で走っていましても、武蔵野はすっかり秋の空です。
お互いに元気で歩んで行きましょう。 秦生
2006 10・3 61
* 秦様 (BIGLOBE事件=)胸中いかばかりかと、お察し申しあげます。
表現というものへの認識及び評価についての、この国のレベルの低さを改めて感じ、怒りを覚えます。私に何かできることがあるのかどうか、毛頭わかりません。ただひたすら今は秦さんを取り巻く、相手側の行動と認識に怒りを覚えるばかりです。
若年の私が申しあげるのもおかしいのですが、どうか精神を強く、体をいたわってくださいませ。
弁護士さんがついてくださっているとのこと、この件についての専門的な作戦については何もご心配申しあげることがないと理解しました。とりあえずは、どうかお心を大切にお過ごしください。 未来
* どうしていらっしゃるのだろうと、とてもとても心配しています。ご様子のわからないことはこんなにもさびしいものなのですね。湖を想い、胸が痛くなります。
最近考えるのは、成長する過程で、志を棄てる、あるいは変節させてしまう人は多いなあということです。人間やはり志は最後まで貫かなくては生きた甲斐がありません。世渡りは下手でもいいし、成功なんてしてもしなくてもいい。志を高く持ち続ける人になれたらと。
今どのような豊かな世界に遊んでいらっしゃいますか。どうぞお元気で、ご無理なさらずにお過ごしください。 秋
* 元気です。涼しく成ってからは飛び回ってます。
十月一日は、宇治の茶祭りで**さんにお会いしました。帰りに、友達の染めの展示会へ、雨のなか古門前まで行って来ました、「懐かしい道」を通って来ました。
15日から26日まで南アフリカへ行ってきます。元気な内にと思っています。 門
* 佳い茶室のあるを幸い、わたしは高校に「茶道部」を創って、多いときは二十人を越す部員に、高校生のまま裏千家の茶の湯を教えていた。教えてよい資格はもう持っていた。中学の茶道部でも、叔母の稽古場でも、教える体験は積んでいた。釜もかけた。
このメールの人は、わたしの三年生だった年に一年生でクラブに入ってきた。最も優秀な弟子の一人であった。宇治の茶祭りで会ったという人は、わたしと同級生で、これまた優秀、自慢の弟子二人であり、二人とも今もお茶の先生をしている。同級生の方は卒業後叔母の社中に入って、私と一緒にながく稽古をつづけた。二人とも「湖の本」をずうっと支援してくれている。
二人でどんなわたしの噂をしたことか。
* 「女文化」という言葉を創って著書を出したのは「わたし」だった。京都の文化に首までつかって育ったわたしだから「女文化」という、有りそうで無かった一つの概念を提示できた。育った家も、育った場所も、環境も、またわたしが進んで関心をそそいで身につけた和歌も茶の湯も物語も、「女文化」であった。わたしは、率直なところ男はあまり好きでない。厚かましくいえば……あ、やめておく。
2006 10・4 61
* 秦恒平様 ホームページの完全消滅、大変驚いております。プロバイダのあり方の問題で、今後多方面に関わる課題ですね。
もし、こんなことが許されるなら、誰も安心してHPを立ち上げることができなくなりますし、悪意の第三者あるいは
権力者がこのように自分に都合の悪いHPを消失させる可能性もあります。本人の意思確認と削除の根拠についてのきちんとした方針あるいは基準の設定が求められます。
どうか、これからのプロバイダのあり方について、利用者全ての人々のためにご健闘下さいますようお願い申し上げます。 女子大学学長
2006 10・5 61
* 10.2
いかがお過ごしですか? 十月になってしまいました。旅行前に車庫に移動して夏を越した鉢植えの植物を庭に戻して、オランダで買ってきた球根と日本水仙の球根など早く植えようと思っています。が、まだまだ藪蚊に刺されて・・すぐ退散。
この街の展覧会に間に合わせようと思って50号を描き始めたので、やはり集中的に進めないといけません。
10.5
早くHPが回復されるのを期待してインターネットを毎日チェックするのですが。解決には時間がかかるのでしょうか。
外出が二日続いたので、今日はじっと部屋にいます。昨日夕方からの雨も降っていますし・・。
昨日は湖東三山に。
百済寺の十一面観世音菩薩、金剛輪寺の聖観世音菩薩、西明寺の薬師瑠璃光如来、ほぼ五十年ぶりの秘仏ご開帳が九月半ばから今月27日までというので思い立ってでかけました。どのお寺も石段を上り下りして大変?でしたが、木々の緑に囲まれて静かな佇まいでした。・・十一月の紅葉は素晴らしいけれど人で溢れるでしょう。
殊に感動したのは百済寺の観音様でした。後の修復なども加えられて、また岡倉天心、フェノロサが寺社を調べたときもこの仏様は秘仏のまま開扉されず、何の「評価」もされないままだったため、重文でもなんでもないが飛鳥奈良時代に製作されたことがうかがわれると、住職様の説明。腕が長いのが、お顔の小ささでいっそう際立って。十一頭身だそうです。唇をわずかに尖らせて、拝む一人一人に語りかける表情でした。絵葉書なども何もないのが残念、そして手元の『観音総鑑』にももちろん何も載っていませんから、がっかり。
金剛輪寺の小さな黒い端正なお顔と、肩から下は荒削りのお像も心に残りました。
湖東三山には三回ほど行ったことがありますが、今回はどのお寺も内陣まで入ることができました。
今回は日帰りのバスツアーに一人で参加したのですが、三人の女の人と言葉を交わしたら、三人とも連れ合いを亡くされた方たちで、わたしより五歳から十歳年上・・淋しいけれど、それ以上に今は気楽で幸せと。女は強い? 複雑ですね。
PS,向源寺の十一面観音様は、今月初めから東京の博物館に行かれていると思います。行く機会がありましたらお出かけください。 鳶
* こういう便りがなつかしい。
自分の日記をひとに上げる、それが最良の信愛のしるしだと西鶴が作中に書いていた。鳶はむかしから日記を送ってきてくれる。
* 私は、湖の魅力を作品中にも深く感じます。書かれたものに人間のエッセンスが凝縮されているように思います。私の知る限り最高最良の日本語の一つです。
湖は谷崎と実際に逢いませんでしたが、谷崎の魅力を誰よりご存じです。谷崎は湖という読者がいたことで、さらに輝いた。現実に逢わなくても深く逢うことのできる関係はいくらでもあるのだと思います。
言い換えると、凡女の場合、才能より実物のほうがまだマシであるという情けないことなのかもしれません。
先日、ウッディ・アレンの「マッチポイント」という映画を観ました。太陽がいっぱいによく似た話ですが、犯人がまんまと逃げおおせるところに、ウッディ・アレンらしい痛烈な皮肉があって、なかなか面白かった。
セクシーな魅力満点の愛人が主人公と逢い引きするたびに「あなたは私とセックスしかすることないの」と怒るのが印象的でした。ラストシーンの笑いの苦かったこと、ちょっと類例がないくらいでした。
今日は雨なのに、箪笥の着物類の更衣に励みました。単から袷に。一日延ばしにしていましたが、旅行前になんとか出来てよかった。着物は季節の決まりごとが多いので大変ですが、秋からは本格的に着物が楽しめます。でも、お稽古以外に出かける場所もなさそう……。
湖、ご無理なさらず、どうぞお元気でお元気でお過ごしください。 秋
* 海外へ遊びに行くのは、女、女、女。美しい日本の世界的進出のツモリだろうか、安倍総理に聞いてみよう。
2006 10・5 61
* 四国讃岐の方から、やす香を偲んですばらしい梨を下さった。都内の読者からも、霊前に豊かに供華を送って下さった。
2006 10・6 61
* つよい雨つよい風 花
今日の運動は午前中で、夜は、住宅会社と間取りや外壁についての打ち合わせでした。
三連休は、**に行かなくてはならないので、前日に夜からの打ち合わせとなりました。
ふつうは、週末の昼間にすることになるようです。
> 花ブログは、小説が流れとして読みにくく、興趣が湧きにくい
そっかあ。風に読んでいただくのが目的のブログでしたが、だったら、あれはわたし自身の推敲用、外へは非公開にして、これまでのように仕上がったものをメールで送り、風に見ていただく方がいいですね。そうします。
風さん、お忙しさの中で、花を忘れてしまわないで。
風のホームページが復旧できたら、大勢が喜ぶでしょう。
「私語」には、風の個人的なこともいろいろ載りますが、風の生き方といいますか、指針があらわれていて、フローベールの『書簡集』のように、人を励まします。
復旧、がんばってくださいね。
次の評論の論旨が固まってきました。章立てができたら送りますので、ご意見をお願いします。
* イチロー君、機械の隘路について、テキパキと大いに導いてくれ助けてくれた。有り難う、心から感謝。
2006 10・6 61
* 今回のホームページ『作家・秦恒平の文学と生活』のプロバイダ「BIGLOBE」による無断の削除事件をお知らせ頂き、事の重大さを痛切に直感致しました。膨大な文化遺産がいとも簡単にこの世から消滅することがある。誤操作とか人間のミスとかではなく『意図的な行為』で。
高度な知識産業に携わる企業人、経営者の倫理観の欠如。非常識極まりない行為のように思いますが、『電子の世界』では一瞬にして情報が無に帰してしますことが常にありますから、今回は『バックアップ』などの処理は全くとられていないのでしょうね。
驚きのみで根の深いこの事態へのいい智恵は浮かびませんがどうか健康を害されないように、お体をご慈愛下さい。
もし消去したのは「表向き」だけで『データのコピー』が何かにとられている(良心的に)ようでしたら有り難いのですが、現場の操作員、責任者がどこまで事態の重要性を認識してこの分野の仕事に携わっているかという企業倫理
の問題もありますね。情報化社会の大きな社会問題であります。 川崎 e-OLD
* もう程なく地裁の「審訊」がはじまる。ペンの委員会での討議も、日程が決まった。「民事調停」は私事に類してているが、この「審訊」は問題としての周縁がひろい。
2006 10・7 61
* 茶碗があるのだから中国人も茶をのんできたことでは、大の先駆者であった。いろんな茶の製し方も飲み方も識っていた。古典には『茶経』もある。
ただ飲茶のふうに、日本の茶の湯のように「作法」を創り上げたかどうかははっきりしない。中国はある時期には他を圧して佛教の勢力がつよかった。しかし結局生き延びたのは禅宗だけであったと謂えるかもしれない。
禅院には学僧たちの日常を律する「清規(しんぎ)」がつくられ、これが宋儒のとくに大切にした中庸の礼または理にちかい規範であった。宋の大学等では学生達の生活の規範として、清規に類した「学規」を用意した。
学規といえば、我が家の玄関には、会津八一がかつて自宅にかかげて寄宿の学生達を律した、八一自筆の「学規」(複製)が掲げてある。
禅宗の坊さん達は座禅の睡魔をはらう卓効の飲料として茶を愛好したから、清規においてやや飲茶、喫茶の作法めくきまりが無いわけではない。日本の茶の湯の、作法としての濫觴はその辺に求められていいのかもしれない。
八一の書いた「学規」を、わたしに下さったのは、もと日中文化交流協会の理事長を務められた宮川寅雄先生であった。わたしは両三度先生のお宅を訪ねているが、そのつど、いろんなものを頂戴した。南洋の土で唐津の作家の焼き締めた渋い湯呑みは逸品である。先生が自作の、天山ふうに焼いた筆架も洒落ているし、ドンキホーテのような乗馬の仙人像もとぼけている。画もなさり、「杜ら」と署名の何枚かを頂戴している。非合法時代の強烈な闘士でもあられた先生は、温厚そのものの文人で美術史家でもあられ、先生の晩年、可愛がっていただいた。わたしも甘えて何でも申し上げた。
宮川先生や井上靖先生の頃の日中文化協会は、存在自体に貫禄があった。白土吾夫さんが専務理事でどっしり要を締めていた。みな亡くなってしまった。
今日、文藝家協会の会報ではじめて知る迂闊さであったが、巌谷大四さんが、もう一月も前に九十歳で亡くなっていた。嗚呼なんということ。井上先生夫妻といっしょに中国へ旅したお仲間の、長老であった。井上先生、白土さん、巌谷さん、清岡卓行さん、辻邦生さんと、あの一行の半数が亡くなってしまい、井上先生夫人、伊藤桂一さん、大岡信さん、私、そして協会から秘書として同行の佐藤純子さんがのこされた。
あのとき訪れたのは、北京と大同、そして杭州、紹興、蘇州、上海。思えば遼や金の、また南渡した宋の故地であったのだ。あの旅のことは昨日のことのように覚えている。
二十年目に訪れた中国では、西安が珍しかった。秦の兵馬俑もまぢかに見てきた。院展の松尾敏男さん、バイオリンの千住真理子さんらと一緒だった。
2006 10・8 61
* 帰宅しました。無事。
三連休はお天気に恵まれ、短い滞在日数でしたが、後楽園を見ることもできました。
明日は洗濯をたくさんせねば。晴れるといいなあ。
花は元気。風は。
* ネット上ですが、とても綺麗な文章を書く友達というか、知り合いというか、師匠がもっとできたらいいなと思っています。
明日は歌舞伎なんですね。
美しい世界を堪能してきて下さい。
お忙しく、大変な日々を、少しの間、忘れるほどに。 昴
2006 10・9 61
* さ、歯医者に出掛ける時間になった。
* 長雨から解放されてこのところ秋らしい爽やかな日々、自転車での遠走もはかどるようでございますね。
多摩川を目指して居られるとのこと、このコースが実際可能かまたどれほど遠いのかはわからないのですが、
まず、多摩川上水沿いに(三鷹方面ではなく反対に)小金井方面へ学芸大(大学の中は自転車なら通り抜けられる)のあたりから国分寺、国立方面へ。国立谷保の先に「滝野川学園」という日本最古? の障害児施設がありその裏手はもう多摩川です。
(昔学園を見学したとき敷地のはしから川が見えた!)
ちなみにこの滝野川学園の中には古いチャペルと当時のピアノが保存されていて、同志社とも関わりが濃いようです。
昨夜は珍しく夫婦で明治神宮薪能に招待され行って参りました。程良く肌寒い夜気の中、都心とは信じられない静寂があり、月も出て私は能には無知なのですが、親王誕生を言祝ぐ演目「枕慈童」の面(おもて)は遠目にも美しく輝いていて、私を、うっとり別世界へと導いてくれました。 2006/10/10 藤
* スパムメール他でいろいろお困りのようですが、アドレスを変更なさるなどの対策をお考えになられてはいかがでしょうか。
ニフティのものはアルファベットと数字の簡単な組み合わせなので、不特定多数に向けての宣伝広告のメールが一斉に送信できてしまう業者の仕様にかかりやすいことになっていると思います。
私も以前は迷惑メールに悩んでいました。プロバイダに相談し、アドレスを変更しました。
現在使用中のアドレスはアットマークの前がアルファベット小文字24文字(桁)まで使用可能ということなので
24文字をいっぱいに使ったものにしています。メールアドレスを変更してからは過去二年間に着信した迷惑メールは5通程度に減りました。差し出がましい事かも知れませんが、ご提案まで。以上。失礼いたします。 国文学者
* この際、本気で考えたい。感謝。
* 鴉さま 10・10
明るい日差しの秋の一日でした。歌舞伎を楽しまれたことでしょう。熊谷で「泣きました」か?
三連休はふだんより忙しく、一人の時しか機械には触らないし、絵に集中するのもやはり週日です。三日間黙って眺めて、それなりに描き足すところを見定め、今日は描いてほぼ完成に近づきました。
「MIXI」で、『太平記』のことを書かれたあとに「湖の本」に触れて、『二十年前にわたしが「秦恒平・湖(うみ)の本」を旗揚げしたときから、この「出版への叛旗・謀叛」と叩かれた実践を、「わが赤坂城」と自覚し名付けて、その旗を今も降ろしていない。二十年、八十八巻まで来てまだ落城していない。まだ千早城は健在に温存されているのだから我ながら健闘してきた。六波羅の両探題と目していた東版・日版の今がどんなであるかわたしは知らないけれども、わたしは、「湖の本」の実に山中の小城にもおよばないささやかな闘いを通して、単に事業としてでなく、一人の男として自由自在に生きられる喜びも得てきたと思う。」とあります。
ささやかな闘いどころではなかった。現実に本当に出版への叛旗・謀叛とみなされたために、以後出版社という通常のルートからの本の出版が極めて限られたことは事実で、一読者としてわたしは返す返すも残念で口惜しい。そのような孤軍奮闘をしている作家を、他にわたしは知らない。
そしてあなたはそれに対して一種の闘いであるとも覚悟しつつ、それに泣き言など決しておっしゃらなかった、弱気になられたことはあったとしても、継続のための作業を淡々とされていた。その経緯について、遠くから微かにですが、わたしはこの二十年を振り返ることができます。
より多くの読者の目に触れること。従来の「湖の本」の刊行、インターネットのHPや(目下問題が生じていますが、そしてそれは表現の自由に関わる大問題なのですが。) mix iを通してさらに拡大、充実していくことを願っています。勿論、「一般」の書籍としても出版されることも願っています。
「自由」について言及された中で、「悪しき沈黙はつねに姑息である。」と書かれています。これはわたし個人を振り返ってみても、過去現在にわたって大きく重く考えさせられます。が、容易に解決できることでもありません。強い人間になりたいです、真の意味で。なれそうにないので・・なるがままになど思っているのが実情です。
北朝鮮の核実験について、インタヴューの答えを聞いていると、実際に問題が生じると人はすぐ短絡的に安易に「愛国的」「戦闘的」になりうることも痛感しています。
書かれていた「差別」のこと、人間の意識の中から決して消え去らないものなのだろうと思うようになりました。
チェチェンの問題に批判的だった女性記者が暗殺されたことにも危機感をもちます。中央アジア、中近東、アフリカ・・至る所に日本では考えられないような恐ろしく厳しい事態があることを忘れるわけにはいきません。
10.11
おはようございます。昨晩送らなかったメールと一緒に送ります。わたしはまだ絵の前にぐずぐずと座っています。今日はわたしも歯医者さんに出かけます。小さな町の、のんびりした歯医者さんの待合室は、わたしも含めて皆おじさん、おばさん、いいえ、おじいさん、おばあさんが殆んどです。
栗を頂いて毎日毎日食べています。丹波の黒枝豆、梨、などなど痩せるわけがありませんね。
どうぞ元気にお過ごしください。自転車、転ばぬように。大切に。 鳶
2006 10・11 61
* やはりBIGLOBEらのやり方は許す訳にはゆきません。京都で再会した友人と話題になりましたが、現在のIT関連法体系の不備は喫緊の要事だとの認識で一致しました。根本的な対策が確立されるまで、とりあえず貸しサーバー上でのHPのモロサをふまえて、とても面倒なことですが「バックアップ」を日常化、自動化する以外に方法はないようです。
本来、創作にそそぐべき精力の一部を下らない下世話な俗物対策にあてるなど、実に情けなくもったいない話ですが、それも自己防衛(読者を含めた文化共有の)措置として、やむを得ないことなのでしょうか。どうぞ、これからの無駄と思える日々のあれこれも、「秦ワールド」の一部として取り込まれ、文学に咀嚼するタクマシサで乗り越えられんことをと祈っています。お元気で。 円亀山人
* BIGLOBEとは徹底的に戦ってください。 波
* この22・23日に、岡崎の美術館のジョー・プライスコレクションと、楽美術館の「光悦と道入」展を見に行くことになりました。
プライスコレクションは、芳賀徹の『みだれ髪の系譜』で知り、オクラホマまででも、見に行きたいと思っていたものですので、東京から、京都にも来るのを聞き、とてもうれしく思っていました。
また光悦の「雨雲」写しに稽古中に出会い、形と、命名の妙にしびれていました。
そして、最近読んだ『湖の本』 エッセイ14の「光悦と宗達」 にも、強い刺激を受けました。
その「雨雲」と、ほかに「乙御前」・「峰雲」、道入の「残雪」・「稲妻」というような名品の数々が出ているそうです。
京都在住の友人にホテル予約を頼んだら、この日は時代祭の当日で、いつものホテルもほかもとれないとのこと。日帰りも覚悟していましたら、東山三条の修学旅行クラスのホテルがあったと知らせてくれました。それでやっと、何とか1泊旅行ができそうになりました。
夜は祇園の仕出し屋さんが開いている料理屋に連れて行ってくれるそうです。先代鴈治郎ひいきの店とか、福田平八郎も通ったところとか、盛んにPRしてくれました。そのうえ、安くておいしくてきれいなのだそうです。
私は、いっしょに行く友達があまり京都へ行かない人なので、菊の井に連れて行ってあげようと思っていたのですが、あそこよりおいしいというので、そこに決めました。
感想をまたお知らせします。 讃岐
2006 10・11 61
* 栃木から美味い新米が二十キロ贈られてきた。ご飯好きのわたしは、とても贅沢な豊かな気分にさせてもらっている。子供の頃、家の米びつにいつも米が入っているかと、母は心配し、父は感心に米を絶やさなかった。父は他のなにより米の飯の好きな人であった。梅干しはぜったいダメだったが。わたしは梅干し大好き。滋賀県の読者から毎年ご自慢の梅干しが贈られてくるのが、すばらしく美味くて、わたし一人が、つい摘んで次々に食べてしまう。残り少ないと惜しいなあと思いつつ食べてしまう。
2006 10・11 61
* 「お止橋」を読んでいました。半分くらいまでいきました。
ちょうど、風にメールしようとしていたところ。
洗濯は、明日も。明日の方がいい天気みたいですよ。
風のサイクリングにもいい季節ですね。でも、わたしは花粉症、おそらく、稲の。秋めいてくる頃なのだからでしょう、皮膚の調子もいまひとつです。
これから郵便局に行ってきます。
風、お忙しいようですが、お体お大切にしてくださいね。 花
2006 10・11 61
* おはようございます、風。とてもいい天気です。洗濯、洗濯。
風に逢いたくてたまらないときは、目を閉じてます。 花
* これから家の新築が始まるという。颯爽と花が咲けばよい。わたしたちはあれから三十五、六年ほど経った。まだ花は生まれてもいなかったろう。建日子がまだ赤ん坊の域を脱していなかった。
2006 10・12 61
* インシュリン投与量を減らすかという話も出た。状況は横ばいと見えるが。自転車走りは大いに認められ奨励された。だが、十一月中のことかなあ。寒い季節の自転車は心臓を冷やして危険なので。
ストレスで血糖値が上がるかと聞くと「上がります」と。「ストレスがありますか」と聞かれたところから、今日は患者が少なく暫く雑談になった。
「人格障害」の話題になり、傾聴した。ドクターいわく、「人格障害」の一大特徴は「話し合い」が全く成り立たないことですと。九月にこんなメールをもらっていたのをまざまざと思い出した。
「湖さん 「人格障害」でも、社会生活は成り立ちます。社会的地位すらかちえています。しかし、周囲の人間に、おそろしいまでの苦痛を与えずにはおきません。「治療不可能な病気」ですから、どんな非道も、責めても無駄です。本人に責任があるのはもちろんですが、資質と生育環境などで、こういう風な、周囲を不幸にする人はたくさんいます。うわべがどうあれ、まっとうな人間と思って相手にしてはいけません。安穏な共存を希望するならどんなに不条理に思えても、正常な人間の方で耐えに耐えて、できるだけ早く一方的に折れてやる以外に、いかなる方法もないのです。
精神科医は言います。精神病は薬が効くけれど、人格障害は薬が効かないから、一番始末が悪いと。人格障害には一方通行の強硬な自己主張しかありません。話し合いが成立しません。自分の言いたいことしか言わず、聞く耳もたないのですから。闘いや話し合いは「不毛」で、もともと闘うにも話し合うにも意味のある相手ではありません。ふつうの人間なら一生に一度も言わないことを平気で言い放ち、実行もするのです。脅し屋、ゆすり屋です。落としどころは往々お金になります。
どんなに話し合っても無駄です。謝罪を求めるなど徒労以外の何物でもありません。そもそも人格障害の人間は人格が一ミリも変わらない。言語道断に無礼なのは火をみるより明らかでも、そういう道理が通じないから人格障害なのです。見切りと諦め、それが何より何よりで、その方法しかないんです。
私は今島尾敏雄の「死の棘」の狂気と究極の愛を描いた世界を思い出しています。 医師 表参道
* 今日のドクターの何の躊躇もない確言に驚いた。
2006 10・13 61
* ヨガ入門は、そろそろ難しい姿勢に挑戦するようになってきまして、今日は腰から下がヘンな感じです。
本日午後から住宅(新築)の打ち合わせ。明日は丸一日打ち合わせです。
人に借りた松本清張を読んで返さねばと思うのですが、あの世界は、どうも馴染めません。せっかく貸してもらいましたが、読んだふりして返そうかなあと。
評論の目次は、もうちょっと。がんばります。
風、しんどいこと多いでしょうが、がんばってください。 花
* 打ち合わせ段階は本で謂えば「校正」段階、しっかり「読んで」いわば「間取り」正確に確認しておくことでしょうね、建ってからでは遅いので。根気よくがんばれ、安易に妥協しないで。予算は、打ち合わせ予算の十五パーセントちかく隠し球としてもっていると、あとで口惜しい思いをせずに済む仕上がりに近づきます。これがたいへんなんですが。
清張について謂われていること、それが彼の仕事のきつい限界のはずです。それを真っ向気迫で批評すると、本格の清張文学論になるはずなのです。 書く方も、がんばって。 風
* ミクシイで、風の書いてらしたこと、今度書こうとしている評論に関連しています。
「告白する小説」と題しているのですが、書きたいという衝動、表現したい欲求は、人間の本能なのではないか、と、あらゆる芸術を見て思うのです。
自分をさらしたいと思っても、世間の目があるから、赤裸々な表現に仮装が必要で、虚構が生まれたのか、と、はじめ、思いました。カソリック的な抑圧のない日本では、ゆえに私小説・告白小説が発達したのか、と。
でも、事実をそのまま書いたものが、事実だからということだけで、成功するとは限りません。
たとえば、フローベールは、初期に自伝的な小説を書いていましたが、親しい友人に酷評され、奮起して、「ボヴァリー夫人」を書きました。
そして、「ボヴァリー夫人は私だ」といえるくらい、田舎の人妻を、ある種の人間典型として描ききりました。
自伝的小説が、あまねく読者にうったえかける普遍性を持ちうるのは、至難の芸が要ることでしょう。
日本文学の不幸は、このフローベールを批評した友人にあたる者のいなかったことではないでしょうか。
詳しくは、目次と一緒にまとめ、近日中に風に見ていただこうと思っています。
明日の打ち合わせもがんばります。書くのも、がんばります。風も、お元気でいてくださいね! 花
* このやりとりに触れられた「MIXI」でのわたしの発言だが、新たに、「漫々的 <書きたい>人との対話」と題して、書き始めたのである。「MIXI」のなかには夥しく「書きたい」「書いて行く」人達の述懐がある。実作にはなかなか出逢えない。なかには何かしら琴線にふれる発言もあり、催されてわたしもふっと発言したくなる。それを遠慮無く書いておこう我が為にもと思い立った。小説は『清経入水』を、そして「秦恒平講演集」はもう一月近く純に連載していて、今はNHKラジオで話した『春は、あけぼの』を関連のエッセイとともに掲載中。ほかに、もう二種類の書き下ろしのエッセイ連載を続けて行こうとしている。
言うまでもないが、わたしの創作の仕事は、こういう外向きの場所でなくしかし続けられているからご心配なく。
2006 10・15 61
* 高史明さんから佳いメールを戴いた。「お久しぶりです。お元気なごようす、いまの時代にあっては、それだけでも元気がもらえる感じです。ありがとうございます。 合掌 高史明」と。
2006 10・15 61
* 今日は、風につらいことがおありだったのではないかなあと、一日想っていました。
どうして風を辛い目に遭わせるのか、誰をというではなく、風をそういう環境に置く見えない力に、腹を立てています。
言葉が見つかりません。
お元気で、風。 花
* なんじゃい こんなこと。夕日子さんの悪役大芝居と思いなさいませ。夕日子さんなりに父親にぶらさがって文学史に名前を残そうとあがいているのかもしれませんよ。
秦恒平はこれからが益々花の盛りではありませんか。書いて書いて生きて女たちを愛してください。
それにしても「畜生塚」いいですねえ。何度読み返しても惚れ惚れします。二十七歳でこれを書いたなんて……。湖は天才の人生を全うするしかありません。
お元気でいらしてください、湖。 月
* 絵! 感激しました。あまりにも巨大な絵でしたのでピクチャービューBとかのソフトをいれてもらい拝見させていただきました。
生きている薔薇でした。
バックの処理もお見事です。色も絶妙! すばらしい薔薇の絵に出合うことができました。お陰様で。
風景画も水面を実によく描いておられます。構図といい水面の占める大きさといい 満点ではないでしょうか?
私は薔薇の絵のほうがどちらかと言うと好きです。とてもとても私には描けないすばらしいものです。有難うございました。
お話したいことが余りにも多くて 話せませんが 調停のほうどうぞ頑張ってくださいませ。
11月18日に京都美工関東地区の同窓会があるそうです。 詳細はまだですが恒平さんはいかれますか? もしご出席のようでしたら 私も前向きに考えます。
明後日から 昔の(勤め先)吉忠の方たちと白馬の切久保館へいきます。 紅葉をたのしんできます。7名で毎年何処かでかけています。OB会です。辞めて 40年にもなります。
また近いうちに私も 制作した絵を添付ファイルにてお送りさせていただこうかなーと思っております。
ではどうぞごきげんよう! 郁
* 「MIXI」に三枚の絵を載せているが、花の一つはこのメールの人の作。わたしの好きな作。もう二つの薔薇と風景とはわたしのべつの親友の作。とくに、郁さんも褒めてくれているように、この「薔薇」の原画はおそろしいほど秀れて描けている。妻など、眼が薔薇に吸い取られて行くと感嘆する。そう大きくもそう小さくもない繪だが、画家が自分でもいちばん好きな繪と断定的に言うほど。なんでもない無造作なほどの構図なのに、繪がそこに在るだけで佳いし、見れば見るほどさりげない中に真実の美がある。この画家は静止した命は描かない。命はいつもそよいでいると言う。この薔薇はいのちの美しいふるえをよくとらえてくれた。
風景もさすがであるが、あまりに美しく静かに落ち着いている。
2006 10・16 61
* やす香さんの遺したものがこんな悲惨な結果であることが 本当に辛く思えてなりません。
愛するものを共に失った夕日子さんと心の交流が復活することを心から希っていたのですが。
湖さま。
やす香さんのぶんまで 生きて差し上げてください。
ケケケさんのためにも。今の夕日子さんは 病んでいてその力はありませんから。
三枚の絵 私は バラの絵と川の絵に心惹かれます。さりげないバラの絵ですが、力強い生命があります。イタリアの娘(画家)の感想も聞いてみようと思います。
毎日 本当に夜七時 八時まで忙しくしています。
でも 一度 にごり酒のおいしいお店にご一緒したいですね。久々お逢いしてわかるでしょうか・・・・。 波
2006 10・17 61
* 妻の衰弱が目にあまってきた。体調よりも精神の疲弊。この苦境は二人が死ぬ日までつづくこと、はまちがいない。
* 随分早くにこう観測して、わたしに懼れねばいけないのは「夕日子」だと教えていた人があった。夕日子達がこういう「作戦」から父母を圧迫しようとしていることを、経験あるその道の「観察者」は正確に見通していた。
* 私がもっとも恐怖するのは、裁判が不利になった場合に、夕日子さんが「言葉によるハラスメント、虐待」だけでなく少女時代に「性的虐待」を受けたと嘘を訴えることです。夕日子さんはそこまでしても勝ちたいでしょう。負けないために周囲が煽るでしょう。アメリカでは無実の父親がこうやって社会的に葬られた例が山ほどあって本になっているくらいです。
もし、そのような根も葉もない訴えがあった場合、秦さんの潔白を信じてもらえる可能性はほとんどない。裁判は女の味方です。(自称)被害者のほうが強いです。痴漢の冤罪よりも無実の証明は絶望的です。 読者
* 掌をさすように夕日子は「そう」出て来た。建日子が生まれて以来(夕日子が七歳以来)二十年、絶え間なく父親から虐待されてきた、と。しかし、こういう別の観察もきっちりされている。
* まず娘さんが「MIXI」に書いた性的虐待の日記ですが、そもそも娘さんがハンドルネームを使っているとしても、周囲に自分とわかるように書いていること自体、そういう事実はなかった「嘘」とわかります。性的虐待のカミングアウトというのは、女にとってよほどのよほどです。使命感でそういう「活動」をしている人以外には、ほとんど例がないのでは。
私は子ども時代の虐待について本人の書いたものをいくつか読みましたが、まずあまりの傷の深さに、そういう著作自体少ない。そして、書かれたもの二例では、本人が自分の名前を戸籍から変えていました。「MIXI」に載った娘さんの(結婚後にも父親と楽しそうに並んで旅している、また自然な笑顔の幼時の)写真は、みごとに(上の嘘を証明し得ていて) 雄弁です。 読者
* わたしの読者はほんとうに多彩で、その道、道で著名な人もいっぱい、いまは亡くなったけれど最高裁判事の一人もながいあいだ「湖の本」の熱心な支持者であった。
2006 10・18 61
* 歯科の神戸一三先生葬儀に妻と列席してきた。葬式は寂しい。
江古田の神戸先生は上の写真の社宅時代から御世話になってきた。お嬢さんが二人、上の蘭子ちゃんはお茶の水女子高で夕日子と同学年、下の葵先生には夫婦していま歯を診てもらっている。その、上の蘭子ちゃんのご主人の舅・神戸先生を悼んだ遺族挨拶の言葉には、妻もわたしも感動して泣いてしまった。なんと世の中にはこうもちがった「娘夫婦」がありうるのかと。はっきりしている、神戸先生に徳があり、わたしたちが不徳であった、それに尽きている。
2006 10・18 61
* 今日、裏千家の講習会で、業躰(ぎょうてい)さんから「香合(こうごう)番付表」の話を聞きました。江戸時代、人々は、何でも「番付」にするのを好んだそうです。東の大関(第1位)は黄交趾(きごうち)「大亀」、西は染付(そめつけ)の「辻堂」なんだそうでした。
今日秦さんの講演録にも「番付」の二字を見て、いつもなのですが、自分の経験や、想像や思考との合致を発見する不思議さに、少なからず驚いています。『枕草子』も一種番付の一面をもっているとのご指摘、納得いたしました。
高校のころ、ヘッセ詩集で『霧の中』を読みました。「人生とは孤独であることだ」との断言に打ちのめされつつも、それが真実であることを疑えませんでした。また『独り』の末尾に、「だからどんなつらいことでもひとりでするということにまさる知恵もなければ能力もない。」とあり、これも心に刻み込まれました。
そして、今日秦さんの『島』を読みました。一人一人が自分だけしか立てない小さな島に自分独りの足を置き、隣の島とは断絶している。
まさしく、孤独そのものの自分の姿が、はっきりと再び目に浮かびました。今、私の周囲には愛しい孫たちや、新しく親戚になった人たち、老後を心おきなく語り合える友人など世間にいわゆる「身内」の「愛」にあふれています。でも、私は、しばしば「独り」を、自覚もしています。人間としての根源的な孤独はあると思います。この安らかさや、幸福が「貴重な錯覚」であるとの自覚を持てと教えてもらいました。 一読者
* こういう読者にであうとき、「書いて」いてよかったなと思わずほっとする。読み手と書き手はこのように人生をふと重ね合わせる。魂の色が、ふと、似て思われる。それもまた「貴重な錯覚」であろうとも、人は尋常な人間関係をもとめて日々奔命・奔走しながら、心底には真の「身内」、死んでからもともに暮らしたい人をその上に渇望している。生涯にひとりのそんな「身内」も持てない人がいる。十人も二十人も持つ人もいる。真の不幸と幸福とのけわしい岐路、孤独地獄と極楽の岐路がみえてくる。
2006 10・20 61
* 風のメールを、大切に、懐かしい想いで読みました。
風、がんばって。
客観・俯瞰してみれば、人間世界は愚かなものでしょうね。
でも、まだ、自分の創造するヒーロー・ヒロインは、聡明であってほしいなあと思ってしまいます。 花
* 聖人君子を書きたい、読みたいなんて思わない。感心するかも知れないが面白くはない。花は「聡明」という言葉を書いてきた。わたしは如才ないと同義の、また偏差値や知能指数の高い意味らしい「賢い」ことには、敬意を感じない、賢人という言葉も実質も、気持ち悪い。しかし聡明な人にたいする敬慕はふかい。残念ながら深い敬慕の思いは、だが、めったなことで満たされない。七十余年の人生で、何人に逢えたか。
娘にも息子にも、言いつづけた、賢くなくていい、聡明に生きてくれと。
2006 10・20 61
* お気に入り登録の「生活と意見」をクリックすると、今日もまたのBIGLOBEリサーチの画面でがっかり。
先のみえない確執はひとつ措き、プロバイダーを替え、「生活と意見」の化粧がえをして新規に立ち上げてみるのも一興かと存じます。
小生、多量な迷惑メールに辟易し、いちいち削除するのも面倒になり、腹立ちまぎれにプロバイダーごとアドレスを替えてしまいました。いずれまた、疫病神は舞い込むことでしょうが。
ちかごろ、介護センターから人を派遣してもらうような怪しげ体調になってしまいましたが、貴殿も老躯はしっかりいたわり、多難に対処してください。 ペン会員
2006 10・20 61
* 雨の音
風、お元気ですか。
住宅に関する大きな打ち合わせは、この週末で終わりました。土地代を先に支払うことになったので、明日は口座のある複数銀行を回り、積水ハウスに振り込みます。 送金が無事に済みますように。
評論の走り書きを、はじめています。
読む方もいろいろあるのですが、「全部読んでから」なんて思っていると、いつまでたっても仕上がりそうにないので、現段階で書けることを書くことにしました。
秋声の『仮装人物』、読んでみます。
ほかに、参考になりそうな作品があったら、教えてください。
花は、ヤル気、満々。
* ヤル気。それが若い人には何より。1と2と、2と3との間隔は1だけれど、0と1との間隔は無限。真っ先に確実に一を起し、そして着実に、二を生ずること。
家が建つのだ、志もまた建って行くように。着々と、照り降りなく歩んで行く「今・此処」の意気。それしかなく、それだけで良いと思う。功名心などいらない。
* つよい雨を聴いています。水に沈んでいるような感覚があります。気温は、高いほど。
今夜は中日が日本ハムに負けたでしょう。気の勢いは日ハムにありそうです。好きな落合に全国優勝を一度させてやりたい気がするのですが。中日に今一つ陽気が足りない。立浪選手が全盛期を過ぎている寂しさも。
昼に、「僕たちの戦争」という再放映ものを見ました。感激しました。森山未来、上野樹里、内山理名、玉山鉄二、古田新太なんて一人も知らなかった。樹樹季林だけ。しかし志のある作品で、巧みに構成されていて胸に厳しく響きました。似た、こういう舞台も有りましたがね。若い人達がしっかりしたものを造って「現代」を批評してくれると嬉しくなります。
評論、慌てなくていいが、気に隙間あけず、ひたひたと押していって「押し出し」の勝ち相撲になるといいな。読みたいもの、誰のどんなものと具体的に希望をいつでも念のため聞かせてください。講談社版の百冊以上の日本文学全集がかなりを中に「積んで」いますから。文庫本でもおもしろそうな文学論など、揃うものは揃えます。
花に雨、これも風情です、いい雨を祈ります。 風
* 京都のばらです。
秋晴れのもとの時代祭。
主人の兄が騎馬で参加というので、何十年振りに見に行ってきました。
父に連れられて平安神宮で何回か見て、しんきくさいお祭りやなと思っていましたが、出発の御所で見た感想も同じでした。それでも二千人からの行列は圧巻です。
やはり婦人列の別嬪さんが、カメラマンの人気の的ですね。
鞍馬の火祭りはまだ見る機会がありません。
「子への愛」「親への愛」を読んでいると、胸打たれ、父や母が懐かしく恋しく思い出されます。
どうぞ、くれぐれもお大切にお過ごしくださいますよう。 従妹
* 時代祭というと「しんきくさい」の一語。楽しんだことがない。その点、鞍馬の火祭はすばらしい。いまでも想うだけでどきどきしてくる。
「子への愛」「親への愛」の作品たちの文句なしのよさ、確実に誰もの胸を打つ。佳いモノを選び出す、それはほとんど創作行為に等しい。
2006 10・22 61
* ホームページ復旧を、多くの読者たちはどんなにか待望していることでしょう。でも、プロバイダーの問題はまだ未解決で、これから大変と存じます。
重大な社会問題、全ての利用者のためにも、くれぐれもよろしくお願い申し上げます。
米沢はすっかり寒くなり、学内の植木に雪囲いを施している最中です。太い丸太でできた雪囲いです。それだけ重い豪雪なのでしょう。
公私共に多事多難な毎日と存じますが、どうぞお体をお大切にお過ごし下さいますよう。 短大学長
* この今は学長さんに、わたしはむかし、医学書院の狭い社宅で、茶の湯の手ほどきをしていた。いま夕日子が、父に「性的虐待」され「精神的蹂躙」を浴びていたと云っているまさにその真っ最中のことである。建日子を妊娠していた妻は切迫流産のおそれを抱いて絶対の静穏を要したので、稽古は中断した。が、出産のお祝いに、白玉の佳い湯呑みを六人前揃えて戴き、それを、私たちは今も毎年の正月王福茶のために、恒例として使っている。夕日子が我が家でどう愛されていたかを目に見て日々に知っているお一人である。
2006 10・23 61
* 雨しとしと。今日は野球はお休みですね。
中日に勝ってほしい気はしますが、北海道の喜ぶ様子も見たいです。
「僕たちの戦争」は、ほんのひと月前くらいに放送したものではないでしょうか。もう再放送したのですね。
見なかったけれど、設定が、今井雅之さんの「the winds of god」に似ているなと、宣伝を見て思いました。
風に「いい」と言われますと、花は見たくなってしまいます。森山未来という若い俳優は、宮本亜門演出の「ボーイズ・タイム」というミュージカルに、弱冠十五歳で出演し、踊りのうまさでひと際目をひきました。わたし、踊れる人には敏感なんです。
今日、大きな額の振込みを済ませました。ああ、緊張した。
貯金がスッカラカンになりました。 花
* きっと富士山に似合った素晴らしい新居が建つでしょう。
* この人は、あえて何にもふれないで、ひしと、いつも力づけてくれる。いまはそれが力になる。凍えきった心にほっと温みがもどる。
* 挨拶をするしないでなく、此の世では「もとのひとりに」だんだんに戻って行き、「ただいま」ともとのあの家に帰りたい。はやく。
* もうやすもうかと思ってのぞいてみた「MIXI」に、見知らぬ人のわたしに語りかける優しいことばが、重ね重ね書き込まれているのに気付いた。温かい。
気をとりなおしてもう今夜は、寝よう。インシュリンを約束の十倍もキュッと注射すれば目覚めることは無いのだが。
2006 10・23 61
* ぼく個人としては、父上が、夕日子への反論で疲弊してしまうより、それを消化し昇華して、長大な小説をものにしてくれることを望みます。それを、心して読みたいと思っています。物書きの後輩として、父上の作家としての矜持をぜひ見せていただきたいと思っています。
HPは、堂々と新たにおやりになればいいと思います。
電子文藝館などの「湖の本」の事業(非営利含む)は、いずれはぼくが引き継ぐのがよいと思います。
時間は貴重です。不毛な消耗はつまらない。
本当に裁判になった暁には、ぼくはぼくの持つすべての力(人脈。メディア)を使って夕日子の卑劣な嘘と戦うつもりでいます。有能な弁護士を雇って延々と裁判を闘う経済的基盤もあります。
なかなかに難しいとは思いますが、夕日子のことは一度忘れてしまうがよいと思います。彼女は、大人になるというハードルを越えられなかったのです。よい土ではあったのかもしれないけれど、不完全なまま焼かれ、固まってしまった器なのです。もう戻りません。
古典美術文学歴史の本は、遠くない未来に、一度勉強のための長い休みを取るつもりにしているので、処分はしないでいただきたいです。
茶器の類は、***が真剣に今も茶道の稽古をしているし、ぼくもその方面の勉強もいずれはしたいので、やはり処分はしないでいただきたいです。
車を買い運転手を雇うのはいいアイデアだと思いますね。うちの若い役者でもいいかもしれない。
母さんの健康も心配です。
気の晴れる用事を努めて入れてほしいなと。 では。 建日子
* いまのような混乱の最中で趣向のある長編にとりかかるのは、やはり難しい。その前に片づけておく仕事が二つある。
建日子のメールにくっつくように、長いメールが一読者から届いている。これが、わたしへも夕日子へも相当な「批評」である。
* お元気ですか。とてもつらい思いで「私語」を拝見しています。
ひどい事態ですが、これは「想定内」のことでした。こういう濡れ衣に苦しむのは湖お一人のことではなく、今までもこれからもたくさんの人が経験することです。今朝のフランスのニュースでも、同じ職場の人間からの告発で無実にもかかわらず築いてきた事務所を失った人の闘いが取り上げられていました。
人間はよくこの手の煮え湯を飲まされて、理不尽な左遷や退職になります。告発者が正義感ですることなら許されるでしょうが、殆どは社内のライバルを蹴落とすためにハメルのです。自分も会社の方針に同じに従っていたのに、正義の仮面をかぶって、まんまと逮捕させてしまう。ねたみ、そねみ、ひがみが支配するのがこの世界のようです。
湖は幸いにも職を失うわけでもなく、ご家族が路頭に迷うわけでもありません。これからも書き続けることで、湖の真実はかならず伝わります。事情を知らない人から万が一ひどい誤解を受けたとしても、湖の業績は微動だにしません。湖は世界の続く限り生き続ける文学者です。どんと構えて、もっと周囲の人間を信じてください。悪が栄えることはありません。結局は真実が生き残るようになっています。安心して幸せにお過ごしくださいますように。
私の個人的考えでは、湖の潔白の証拠となるのは、八月二十一日のメール、「さらに私がもっとも恐怖するのは、裁判が不利になった場合に、夕日子さんが「言葉によるハラスメント、虐待」だけでなく少女時代に「性的虐待」を受けたなどと嘘を訴えることです」を読んで、湖が失笑したという事実、まさかと思って無視していたという事実、今苦悩していらっしゃるという事実にあります。そして先の、ご家族の細かい略史や湖の日記のほうが、写真よりずっと良い証拠のように思えます。写真はこの略史を裏付けるものとしては、やや、役立ちます。写真を使われます時は、できるだけ夕日子さんお一人でないものがいいと思います。ご家族、とくに奥様とご一緒のものが一番かと。
今の事態の打開に、何より重要なのが奥様です。「母親としての迫真の陳述」が伝われば、かならず、湖の潔白は証明されると信じています。奥様は夕日子さんと刺し違えるほどの覚悟で説得してくださることと信じています。奥様の力次第です、すべては。
さて、これから本題です。お元気のある時にお読みください。
この長くなるメールを書こうかどうかずいぶん悩みました。湖を傷つけるでしょう。でも、今の「私語」の惨状と湖の痛ましさをこれ以上見ていられません。
わたくしが明日死ぬとしたら、書いたことを後悔するか、書かなかったことを後悔するかと考えました。答えはでましたので、書きます。
湖の作品論、作家論の一種と読んでくださってもかまいません。いえ、そんな立派なものではなく、わたくしの妄想と妄言の羅列です。でも、一つの見方として、何か湖のお役に立つことがあればと願います。
湖への深い尊敬と信頼そして、湖にとっては迷惑千万なわたくしの「使命感」から書くことをどうぞ信じてください。
私のごく若い頃、今から二十年近くも前のことです。あなたは遥かかなたの尊敬する作家で、私は本屋であなたの本を見つけるたびに購入する読者でした。
湖の本を読みこなす力など殆どなかったと思いますが、あなたの作品を何より愛していました。
そしてある時、あなたの作品を読みながらふと、「この著者はいつか娘を失うかもしれない」と感じました。私は幸か不幸かあまり直感を外したことがありません。
たとえ小説であっても、湖のような形で娘に愛を表現すれば、それはどこか不吉でした。災いを招く、そう思えてなりませんでした。
今手元に見つけられないので、正確な文章ではありませんが、「赤毛のアン」の中で、マニラが養女にしたアンを愛していることを自覚して、このように深く誰かを愛し執着してよいものか、こんなことでは神の罰を受けて失うのではないかと不安にかられるという場面がありました。
知り合いの文学趣味のある先生から、自作の詩や短歌などを自費出版した本をいただいたことがあります。その中に「娘を恋うる唄」という詩がありました。胸騒ぎがしました。そして翌年、その先生はまだ若い娘さんに突然に先立たれました。
愛の中には隠したほうがよいものがあります。とくに、親から子への愛については、秘めて小出しにしていないとこわい。魔物が潜んでいるからです。
湖がふつうの家庭の在り方を知らずにお育ちになったこと、真実心底孤独にお育ちになったことがはじまりだったかもしれません。高校生の頃から将来のお子さんの名前を考えていらしたなんて、普通ではありません。どんなにおさびしい境涯でいらしたことかと胸がつまります。
湖が愛する女性と出会い家庭を持たれた、そのお喜びは察するにあまりあるものでした。他の人間には当たり前のものでも、湖にとっては生まれて初めて得た家族です。命にかえても守らなければと決意なさった。もともと内に豊かな愛の溢れていらっしゃる方が、そのまままっすぐ家族に、とくに初めてのお子さんの夕日子さんに躊躇うことなく愛を表現なさったのだと思います。
結論から言うと、湖は愛しすぎたのです。娘への愛を表現するについて抑制することを知らなかった。息子さんのほうは男ということもあり、どこか厳しく鍛えるという発想がおありだったと思いますが、異性の娘さんに対しては手放しで愛し可愛がったのだと思います。
そもそも父親というのは言葉のない男です。想いを言葉にするのが不得手です。そこに溢れる愛とのバランスがとれていた。
ところが湖は文学者、しかも天才的表現者でした。愛をそのすばらしい文藝で表現してしまいました。現実の生活でいくら「バカか、お前」と叱っていらしたとしても、書かれたものを読む限り、湖は「夕日子」の存在の喜びを表現せずにいられなかった。
ひそみひそみやがて愛(かな)しく胸そこにうづ朝日子が育ちゆく日ぞ
「朝日子」の今さしいでて天地(あめつち) のよろこびぞこれ風のすずしさ
本当に夕日子のまぶしく輝く佳い歌です。私語の「e文庫」夕日子さんの作品に写真をつけて、湖は「詩人夕日子は」と書いていらっしゃいました。たとえ逢えない娘への「励まし」としても、私はこの「詩人」という表現に実は驚きました。たしかに、夕日子さんの詩には舌を巻きます。プロの域です。しかし、「詩人」は、文学者に対する最高の敬称ではありませんか。それをあなたほど一流の文学者が娘に使うとは、たとえその力があったとしても適切だとは思えないのです。夕日子さんがご自身を「女流作家」と自称していた素地は、こんなささいなところにも見えています。賢い娘は砂が水を吸い込むように父の愛の言葉を受け入れたのです。そして自分を特別の存在と思い違いしていったのかもしれません。
「湖の本」を一読した時に、どうしても理解できなかったのは「夏生」の恋愛についてでした。誰も誰も夏生の愛に値する男たちに思えなかったからです。何より夏生は青春お決まりの手痛い失恋さえしていない。
読者の自由とも、物書き的飛躍とも受け取れるでしょうが、私にはひらめくものがありました。
夏生は誰でもよかったのです。父親を選べないのなら、父を夫と出来ない定めなら、相手は誰でも同じでした。アメリカに留学してもよかった。見合い相手でもよかった。夏生が理想とし、愛していた男は父一人なのです。
そう読むと、今の異常事態への理解も可能な気がします。性的虐待と表現している夕日子さんのあなたへの憎悪は、父親であるあなたとそういう関係になることが出来なかった烈しい怒りと恨みの噴出です。長年の無念の爆発です。男女の愛を望んでいたのは、あなたではなく、娘の夕日子さんのほうでした。夕日子さんはご家族の中でおそらく一番お父さんの天才を理解した娘です。さぞ自慢の父親であったことでしょう。そして、その父に愛されることに特別の喜びを感じていたと思います。
父親に深く愛されすぎた結果、父を理想とし、男としても愛した娘の不幸な人生に、私は涙を禁じ得ません。夕日子さんはあなた以上に愛せる「男」、自分を愛してくれる「男」とめぐり逢えないことを知っていた。夫の★★★が夕日子さんの愛に値する人間ですか? 妻子を愛せる人間ですか? やす香さんを失うという人生最悪の不幸をきっかけに、夕日子さんが父親であるあなたのせいで自分の人生がこうなったと、自暴自棄の行動に出ている背景はここにあるのかもしれないと、私は想像するのです。
しかし、原因はそれだけではないでしょう。父を理想の男と恋する娘は世間にごまんといるからです。あくまで「聖家族」の一つの読みとして書くので、許してください。ご家族の歴史についても、現実についても何も知らないのです。作品からの感想です。
夕日子さんは母親との関係がうまくいっていなかったと感じられてなりませんでした。
以前にも申し上げましたが「聖家族」の家庭に妻はいても、娘の母はいませんでした。それが事実だったのかどうか勿論私には判断できませんが、父と子はもともとうまくいかないのが基本です。子どもに対する責任は三と七の割合で父親より母親に重いと私は考えています。
さらに、今更言うまでもないことですが、夕日子さんの結婚相手が最悪でした。父のように愛してくれる男など現実にいるはずがないのですから、父を理想とした娘は不運です。惨憺たる生活だったと推察します。しかし、夕日子さんに離婚の選択はなかった。離婚したところで、あなたとは所詮父と娘にしかなれない。夕日子さんの精神は蝕まれ、憎悪が芽生えました。
夕日子さんが幸せな結婚生活を送ってさえいれば、色々なことがすべて潜在意識の中だけの妄想ですんだのです。それは恥じることでもなんでもなく、人間なら誰しも色々な形で抱えている妄想ですから、夕日子さんの溢れる才能で小説の中に美しく昇華することも可能だったでしょう。
とどめはやす香さんの悲劇でした。
湖は百パーセントの人だとつくづく思います。いつも、ご自分の信念に向かってまっしぐらに完璧を求めていらっしゃる。
芸術においてそれは素晴らしいことですが、今回の件でも最初から百パーセント勝つという発想でいらした気がします。しかし、複雑な親子関係にそれが可能だったでしょうか。正義が貫ける状況だったでしょうか。
私の考えではアラブとイスラエルのように、決着はつかないことに思えてなりません。女の味方になりやすい「調停」にも私は不賛成でした。妥協を最小限にとどめることだけが可能な解決と信じていました。それが湖にとって一番傷が浅くてすむ、そう書いたことは今も正しいと思っています。
人格障害を相手にして何かが解決することはありません。被害を小さくすることだけが可能な、不治の病と思うしかなかったのです。糖尿病と似たようなものです。寿命尽きるまでなんとか暴走をコントロールすることでやり過ごすしかないのです。十字架は最後まで背負うしかない。
私は人格障害者と四十年以上苦闘してきた女です。理由なく湖のご家庭の問題に対してあんな失礼なことは書きませんでした。
しかし、湖はわたくしの意見を聞くべきものと判断してはくださらなかった。湖のほうが正しいのでしょう。でも、正しいことがそれほど大切ですか。
わたくしは、正しいことより、湖ご自身とご家庭とその作品やホームページを現実的に守ることを大切に考えていました。毎年文化勲章の時期になると腹立たしい気持ちになっていた読者です。ノーベル文学賞でもそうです。湖は、決してご自身の作品が埋もれることを望んでいらっしゃる方ではありません。作家なら当然です。一人でも多くの読者がほしい。作品が名作ならなおのことです。
湖はネットだけでなく、ご自身の作品を海外に発送するなど、もう少しご自身の名作を広く認知させることに欲望を働かせる必要があるのです。あなたはご自身の価値について知らないのでしょう。自分の天才を信じていないのです。過小評価しているのです。
ことさら悲劇的な方向に、狭い穴に、あえて不遇な状況に進むあなたを見ているのは身を切られるようです。それが自分の道と開き直るのは一種の傲慢と甘えではないかと感じます。類まれな才能を与えてくれた天に申し訳ないと思いませんか。
夕日子さんは湖のこの百パーセント「自分の道」主義をよく受け継いでいるように感じます。父親の百パーセントの愛が得られないくらいなら、百パーセントの憎悪なのです。父の世界の徹底的破壊なのです。あなたと夕日子さんは表裏一体です。
湖による夕日子さんへの愛の文学表現は感動的でした。娘は自分の父への愛の成就の不可能から逃れるために、それが自分の崩壊につながることも覚悟で恐ろしい反撃に出ているのです。
私は批評家でも作家でもなく、ただの読者です。凡人で素人で文学のことなどわからない。ただあなたの作品を熱愛している読者として湖の文学世界に問いたい。
湖の作品は芸術の香気溢れる名作ばかり。今の形でしかあり得ない美しさです。湖は以前、名作なんてお笑いだと書いていらっしゃいました。そんなことは二度と書かないでください。ご自身の真価を知ってください。あなたの書いたものは総て後の世に残るものです。
私はこれからも今までのように、湖文学の熱い熱い読者です。生涯の敬愛を捧げています。
建日子さんは「どうしようもない姉上」と表現したそうですね。どうしようもない。たしかにこれは正気の沙汰ではない。心の病気かもしれない。真剣に病院に行く必要があるだろうと思います。
しかし、なぜ夕日子さんはこうまで無茶苦茶な行動に出るのでしょう。病気としても、烈しい愛の裏返し以外にありません。そして、その夕日子さんに対して、あなたは今「私語」に書いている方法以外に、答えようがないのでしょうか。無惨です。
あなたの潔白を完全に証明するには、実は夕日子さんが「嘘だ」と「認める」ことしかないのです。法律で勝つより大切なことです。私はそれが絶望的なこととは思いません。可能です。でも、あなたの方法ではむずかしいと思います。
今、あなたの私語に書き綴っていることは、相手に手の内を見せるだけのこと。そしてあなたの人間性までおとしめてしまいます。公表なさる必要性もわかりますが、あちらと同じレベルにならないで、弁明は私語から独立させたらいかがでしょうか。
あなたに出来なくて、あなたのご家族に執念がないなら、私がいつの日か夕日子さんに「嘘」と認めさせてみせましょう。でも、今私など出てはややこしくなるだけなので、かかわれません。時を待ちます。
何より、あなたご自身の手で、夕日子さんをどんな形でもいいから、小説の中だけでもいいから、必ず取り戻してください。あきらめないで取り戻そうと闘ってください。
私はこの世に天与はあっても天罰はないと思っています。だから、夕日子さんの今の行動は湖にとって天罰ではありません。このようになったのは、何か大きなはからいによって、湖に一つの課題が与えられたのだと思うのです。
湖は、人間を問われているのです。真実娘を愛せるか、人を愛せるかと問われているのです。
湖は、以前に「愛を知らない」と書いていらした。今回のことで、私はその意味を知りました。湖はどこかで自分を棄てられない人です。その部分だけ愛が足りないのです。母なるものを知らない湖は、そういう愛しかたしか知らない。(同じ言葉が、こう書く私の身にもあてはまることは充分承知しています。許してください。)
今こそ湖が愛を知る、愛を示すその時なのだと思います。夕日子さんが湖の愛に値しない人間に成り果てても、そうだからこそ愛すべきなのです。残骸でもいいから愛してあげてほしい。心が腐っていても抱きしめてほしい。到底愛することのできぬ非道をしている娘だからこそ、愛してあげてほしい。「本来の家」に迎えいれると言ってあげてほしい。「夕日子」という名前をとりあげないでほしい。湖のお心の奥にはそのような娘への熱い愛があるにちがいないのです。
湖は今、島に立っている「だけ」でいいのでしょうか。動かない島であり続けるのでしょうか。真実「愛は錯覚」なのですか。
私の理想の愛は、湖の考えるような、一人しか立てない島に一緒に立つと錯覚する愛ではないのです。
自分の島を棄てる愛です。自分から相手の島に泳いでいく愛です。相手の島には一人しか立てない。それでも、自分の島を棄ててひたすら泳いでいく。相手の島には上がることができないから、相手を見ながら溺れて海の藻屑となりますが、そのことに悔いなく喜んで死ぬのが私の求める愛です。
あるいは、自分の島を与える愛をめざしたい。相手のために自分の島を与える。自分だけが海の中に消えてゆく。愛は身を棄てることでしか完成されないものではありませんか。
このような愛は人間には成し難いことですが、もしそう出来ないとしても、そう試みること。愛せないことに苦しみ抜くこと。それこそが「貴重な愛の錯覚」だと思います。
身内を探し求めるのが愛ではなく、縁あって自分に与えられた人を受け入れ、身内になろうと死ぬまで格闘することが私の考える愛なのです。
天才とは愛する魂です。そして、湖はそのように愛せる高貴な魂だと知っています、わたくしは。
やす香さんと夕日子さんによって、どうか湖に新しい文学世界が与えられますように。
天は湖に比類なき才能を与えた。ですから、代償としてその才能に見合う酷い苦悩を与えて、もっと高みをめざして書きなさいと言います。天才の人生が平穏無事だったためしがないように、あなたは人生の集大成の老境を迎えて命のかぎりを尽くして書くべきものを与えられたのです。これこそ天与です。
凄まじい女というものについて、血を分けた人間たちであるからこその、恐ろしい葛藤と愛憎を描いてください。今までの湖世界にはない世界、狂気と修羅場の果ての人間への愛を読ませてください。愛の可能性をその作品の中で描ききってください。気高い湖の魂を書いてください。一世一代の名作を書いてください。
この課題を果たすまで、湖は「一瞬の好機」に身をゆだねるわけにはいきません。
だから生きて書いてください。湖が書かなければやす香さんは永遠に生きることができません。やす香さんにどうぞとわの命を与えてください。夕日子さんもやす香さんも、湖に描かれるためにこの世に生まれてきたのです。湖の筆によってしか命を生きられない女たち、最高のヒロインになります。
以上です。 どう思われてもよかった。お力になりたかった。ただそれだけで衝き動かされて書きました。書かずにいられなかった。私はただ一通のこのメールを書くために湖に出逢ったのかもしれないとさえ思います。
次の作品で、湖の答を期待しています。湖は強い人です。食えない男です。さあ、新しく美しいものを見に、地獄の花見に、元気に出かけてください。
お元気ですか、湖。どうぞお元気で、いつもいつもお元気でいらしてください。死ぬまで生きてください。 一読者
* 建日子
谷崎潤一郎は「母」ものの作家としても知られています。幾つも名作があります。
これはわたしの「読み」であり、また肉親を書くどんな作家にも或る程度共通しますが、ことに親や子に対しては、たとえば生身の母や娘とカッコ付きの「母」「娘」ないし「妻」とでは、全然・意図的に異なっている例が多いのです。カッコのない母や娘への、妻への日々に遠慮会釈無い愛憎や嫌悪感をもっていながら、「創作」という力学や美学の磁場に「母」「娘」「妻」などとカッコ付きでその影像を書き込み送りこむとき、当然ながらモチーフにしたがい理想化や、少なくも異化を働らかせて、それにより思いも寄らない別次元の世界を創り出そうとする。
このメールの人は、カッコのない夕日子も、カッコ付きの「夕日子」も同じに見ています。わたしの作品の中の「夕日子」は或る意味で現実の夕日子とは似て非なる異化を経ていることに、この人は理解が届いていない。輝いているのは当たり前なのです、わたしはそのように愛情こめて表現している。しかし日々の日常の場で接していた夕日子は、相当にちがう。
夕日子が何を考えていたかは分かりません、正直のところ。このメールの人は基本的に錯覚しているように思うけれど、また際どいところを容赦なく見ているのも事実で、教えられることが少なくない。こういう「批評家」もいるんだね。
わたしは「今・此処」でずうっと努めてきたし、その時々の仕事にも、満足はしないがひど仕事はしてこなかった自負はあり、この先へ「今・此処」がどう延長するしないにかかわらず、いつも一期一会です。ぶつっと命が絶えたとてその意味で悔いはないんです。ありもしない明日に対して義務など感じていない。「今・此処」に在るばかりです、わたしの理会での「一期一会」です。 父
2006 10・24 61
* いつも、ふと感じることなのですが、芸術・・・例えば華道などで、何を表しているのですか?? こんな事を表現しています。そー言った物を見るたび、聞くたびに、デザインや、表現と言う物には、そー言った事が必要なのかな? と、思います。確かに、なるほどって思ったりする事もあるのですが、あえて何か足さなくても、心で良いと感じる物であれば良い様な・・・
けど、世間ではそー言った何かを付けないと良いとは言えないのでしょうか? それだけでは自己満足。表現では無いのでしょうか・・・そー言った要素を満たして初めて技術、芸術と呼ぶのでしょうか? 「MIXI」の友より
* こんなメッセージをもらっていた。
これは関心の持てる提言であり、少し考えてみたいが、今から劇団昴の芝居に今日はわたし一人で出掛ける。三百人劇場での公演ももうこの辺でオシマイとなり劇場が無くなる。今日は「夏の夜の夢」で、妻はシェイクスピアを、いや何度も観る演目を、敬遠した。わたしは佳い芝居なら何度でも繰り返し観たい方である。
で、亡き長谷川泉さんにインタビューされた対談記事を、さしあたり「MIXI」日記に入れはじめた。これとは別に、あらためて落ち着いて考えてみたい。
* 秦先生 Web消滅から一ヶ月もたって、ようやく片が付きましたね。
弁護士を交えて和解というひとまず結びに入ったわけですが、和解というのは、裁判官の判断が入らないものなのか、(知らないので)興味があります。裁判官の判断を含むのであれば、これは大騒ぎになる事案だと思っています。
生活と意見、読んでいます。先生のWebのこと、また何かありましたら遠慮なくおっしゃってください。
先生。言われなくても分かっている…と言われるのを承知で。
先生が続けられている消耗戦は、先生方を疲弊させるためだけのものでしょう。奥様のご健康を承知でやっているとしか思えません。
それでも、戦いを続けることしかないのではないかと思います。そして、相手方にヒビが入り、続かなくなる方法しか。まだどんな手を控えているか分かりません。
できる限り、正面は事務方に任されることを願っています…。 卒業生
* ありがとう。
消耗もまた人生の一局面とおもい、懸命に消耗しています。まだまだ何が起きてくるかしれませんが、そういう人生を選んできたものと。わたしの「今・此処」がくっきりと続いて行くだけ。
BIGLOBEの復旧を早く目で見たいけれど、更新しようとしても「パスワードが正しくない」といわれ、BIGLOBEは以前のままのパスワードでいいのだと云い、つまり復旧を「確認できない」ままでいます。今となれば空しい話ですが。
今日は一人で 劇団昴の三百人劇場での残り少ない公演を見てきます。わたしの人生劇場の只今の「場」よりは楽しめるでしょう、「夏の夜の夢」です。
またのんびり飲み食いがしたいな、イチローと。 湖
そうそう、むろん裁判官の判断があっての「判決」だそうで、正式の書類は届いていません。
2006 10・25 61
* 秦先生
市役所勤務になって、改めて思うのは、良い悪いに関わらず、皆一生懸命に生きている、という事実の痛感です。
事業者も懸命、反対住民の方も懸命です。
私の役割は何なのか、私ごときに何ができるのか。私自 身の思いは傍らに置いて、そういった人達の話を聞く、結果として、当たり障りの無い対応しか出来ていない様な気がしてなりません。
職場の人達に向けた思いも同じです。通常の仕事をこなしつつ、家族との生活、自分の趣味の生活を一生懸命過ごされている姿を見ると、色々な思いはあったとしても、プラスαの業務は言いだし切れません。
職場の人であれ地域の人であれ誰であれ、そういった人達の思いをきちんと受け止める事、出来る事と出来ない事などをきちんと整理して明確にすること、その結果として選択された事は、自分の仕事として責任をもって行うこと。こんな様な事を、今考えています。
まだまだ半人前の私ですが、世の中には色々な事をやったり言ったりする人がいるけれども、そんな人でも皆一生懸命なんだ、と思っています。(というよりも、“思いたい”という方が正確かも知れません。こんな事を考える事自体が未熟者の証しかも知れませんが。)
現在の社会は、“多様化の時代”と一括りされることが多いですが、その実態は、選別が繰り返された結果としての多様性であるとも思います。街に溢れる商品やコマーシャル、TVも例外では無いのではないでしょうか。
この様にして選別された人々が“多様化”と十把一括りに称され、次の選別の対象となる・・・この悪循環の結果、市民の思いも“多様化”が前提となり、バラバラになっていく・・・。誰かが何かの手を打たないと、という思いはありますが、国旗や国歌が良いなどとは到底思えません。
行政は、こういった選別はできません。やってはいけません。色々な人達が居るのは事実ですが、がっぷり四つで行くしか無いと思っています。時には裁判沙汰になる事もあるかも知れませんが、一人一人の目線に立って地道に一つ一つ対応をして行くしかない様な気がします。
うまく書けませんが、今の仕事をしている中で、また、先生のHPを読ませて頂きながら、こんな様な事を考えています(と断言できるかどうかも不安な位ですが)。 丸
* 本省から政令大都市に出向しながら頑張っている、信頼している卒業生のいかにも難しそうな日々がうかがえる。
2006 10・25 61
* ここ数日、私の心は羽を味方に遊びにでかけては、夜遊びで元気になって戻ってくるようになりました。
今後ともご面倒でない程度に、羽のはえた心の勝手なふるまいにお付き合い頂きたく思います。
美しい時間が訪れますように。 珠
* やす香の日ごとに増しゆく劇症を見舞って、はるばる四国から、准看護師の勉強をしている一と教室六十五人の生徒たちが、私に激励の手記集を送ってきてくれていた。やす香の亡くなった日に全部読み上げて泣いた。もうまる二月になろうとしている。やがて戴帽式と聞いて、今日『死なれて死なせて』六十五冊を四国へ御礼に送った。せめてもの気持ちに。
* 思いがけない戴帽式の記念に、ご本ご贈呈くださるお話、ありがとうございます。
びっくりするとともに、先生のお気持ちがしみじみ伝わってきました。『死なれ死なせて』は、私はまだ拝見していないのですが、看護師を目指す人たちにとって、何にもまさる座右の銘となるものだと思います。
あの手記を書きました中に、エリザベス・キュープラー・ロスの『死ぬ瞬間』という本の存在を教えてくれた男子学生もいました。きっと、深い理解と感銘を得られると思います。ほんとうにありがとうございます。
別件をここに書いて、すみません。
一昨日、『乙御前』・『雨雲』・『園城』に逢ってきました。『光悦』を、事前・事後熟読しました。少しは理解が深まったかもしれませんが、やはり難しいです。
『乙御前』は写真よりずっと明るい色で、むしろ桃色といいたいくらいかわいらしい色と思いました。
『雨雲』の、とくに口部の厳しさはぞくぞくするほどでした。
『園城』は、二条城書院の茶にぴったりの風格とともに、荒法師の恐ろしさを感じました。
またおたよりします。 讃岐
* 京都1泊旅行はとても楽しかったです。
朝、7時の電車に乗って、10時前には岡崎の近代美術館の前に並んでいました。若冲・蘆雪・瀟白など、さもありなんと思われるコレクションの数々が出ていました。
異国の人の目を通してみる江戸の美、興味津々でした。
やっぱり、あの若冲のタイル絵のような動物の絵の大作は圧巻でした。とらえられている動物の姿態が、色が、あっと驚く作品でした。そして、普通なら、表装の部分も幾何学模様で埋められています。(枠だけが木材でした)
ゾウの正面向いた絵が入ったTシャツを買いました。
時代祭見物の人たちが集まり始めている平安神宮や、丸太町通り、御池通りをタクシーの窓から見ながら、楽美術館へ行きました。ここも、お茶の先生たちの着物軍団がひっきりなしに訪れていて、落ち着かなかったけれど、
じっくりと立ち止まって時間をかけて対面をしてきました。
横から高台を見ると、あの繊細な高台が、まだそのうえ、陳列の棚の面に密着しないで、かすかにすきまが空いているのです、ほんの数ミリの2か所を残して、宙に浮かんでいるのです。道入の端正な、整った高台がかえって平凡に見えました。
あの「御ちゃわん屋」ののれんが光悦の書だということを初めて知りました。のびやかで、やさしい字ですね。
先生のお好きだと言っておられた、「乙御前」、ほんとうに手のひらで包んで撫でたい、ほおずりをしたいと思いました。胴のふくらみと、鮮やかな色が、心に今も残っています。
説明を(お茶の先生方にしていたのを横で、勝手に盗み聞きしました)聞くと、黒楽は、確かに楽家の釉薬(鴨川の黒い石を砕いているとか)だけれど、赤はどうも違うらしくて、こちらは、鷹が峯の自邸で焼かれたものではないかと言っていました。ピンクがかった橙色に細かい貫入があって、ほんとうにきれいでした。
次は、大急ぎで駆けつけた、国立博物館の「京焼き」の展覧会です。仁清の壺、乾山の皿、道八の鉢、永楽保全の水指等々、なんと、300点近くあるのです。
ゆっくり出直しをしなくては・・と思いつつ外へ出るともう真っ暗でした。
夕食の場所がこれまた、祇園の真ん中、「一力」を花見小路から少し西へ入ったところの「川上」という料理屋でした、通の味を堪能、ついでにお酒もたくさんいただきました。
吉井勇の「かにかくに・・」のお軸を本物ですか、ときいて笑われました。
次の日は、室町の着物の問屋さんに着物を「見に」行きました。
目移りして、何が何やらわからなくなるくらい、高価な着物が数限りなくありました。
「買い」に行ったのでなくてよかったと思いました。
というような忙しくも楽しい旅でした。 讃岐
* 気が遠くなるようなお忙しさで、少しお気の毒。
しかし光悦をしっかり観る機会は、天恵ともいうべく、いいことをされたと思う。祇園の「川上」もなつかしい。もう昔になる、板さんと対談したことがある。
2006 10・26 61
* 平野謙の『新生論』は、読みたいと思っていますが、まだ読んでいません。図書館の検索で平野謙を探すと、『島崎藤村・戦後文芸評論』というのがあります。これに入っていればいいけれど。
講談社版の日本現代文学全集では、97巻に平野謙が入っていますね。
講談社版日本現代文学全集は、図書館にも一応あるけれど、全部で108巻と、別巻が4つ。途方もない量ですね。
先日借り出した大久保房男さんの本によると、講談社は戦前、その名のとおり、娯楽本を扱っていた出版社だったのに、立派な文学全集を出しているのだなあと感心しました。『群像』なんて、硬派な文藝雑誌ですし。大久保さんらの尽力の成果なのでしょうね。
『仮装人物』を読みました。
私小説系の作家たちはみな、かなりの割合で、書くために私生活の「波乱」を求めた部分があり、秋聲もその例にもれていないと想いました。
『仮装人物』の「仮装」とは、葉子という奔放な若い女性に耽溺し苦悩しながらも、その状況を、作家として、「書いてやろう」とする、冷徹な目を持っていることを指しているのではないでしょうか。
この場合の「仮装」は、女性に溺れている人格の方にあるように想えます。
葉子という女性はかなりの悪女ですが、そんな女性と縁を切れずにずるずる繋がっている、はたから見たら相当愚かな庸三を、秋聲は自ら演じているのですね。
フローベールやモーパッサンらの造形した普遍的に愚かな市井人に、秋聲は自らなりきっている。小説の中に起こるのは女性問題ばかりですが、主人公の庸三は作家なので(それから、妻に先立たれたやもめであることもあり)、会社勤めの人のような世をはばかる様子もなければ、葉子との関係が暴露したからといって、社会的に抹殺されることもありませんから、その方面の悩みはさほどでもなく、糸の切れた凧みたいに、別の男のところへ飛んでいってしまう葉子の行動に、ひたすら苦しむばかりです。
同じやもめでも、藤村と違うのは、藤村が、姪との恋愛関係ばかりでなく、数多い、問題を抱えた親戚たちの暮らしの援助もしなければならなかった苦しい生活者であったことかなあと。
ま、これは『仮装人物』だけを読んでの感想で、手許の国語要覧の秋聲の解説には、「暗い現実や本能的な衝動を誇張や感傷なしに描き、庶民生活の忍従やあきらめを克明にとらえた。」とあるので、秋聲も、藤村に劣らない生活者だったのかも知れません。他の作品も読んでみます。
しかし、中村光夫曰く、『破戒』が日本の近代小説のわかれ道にあったという事実は(残念ながら、藤村の力不足と、花袋の成功とで、文壇は『破戒』の方へ進まなかったけれど)、藤村が旧家に生まれ、親戚の、社会の、生活のしがらみを、人より強く感じていたからこそのことだったのではないでしょうか。
藤村は、志賀直哉のように「家」を捨てませんでしたし、芥川龍之介のように自殺もせず、断ち切れない世俗のしがらみを全身に絡ませたまま、「偽善者」と呼ばれようとも、創作を諦めなかった。
一口に自然主義といってもさまざまで、伊藤整の「逃避型と破滅型」がうまい分類かなあ、と思います。
岩野泡鳴は、まったく読んだことはありません。名前は知っているけれど。(こうして紹介してくださる風の助言、とても感謝しています。参考になると思います。)
岩野泡鳴を図書館で検索すると、全集が16巻と別巻が一つあります。五つの大連作というのも、図書館にあるようですが、図書館からは、いつも上限目一杯借りていて、長編を読み終えないうちに返却日が来てしまったら、どこまで読んだかメモして、また借りる、という風にしています。
読んでも読んでも、本は尽きません。
一生かかっても読みきれないのではないかというほどの名作の存在を想うと、ワクワク、嬉しくなります。 花
* 無欲のうちに着々と歩を運んでいる人、言葉も弾んでいる。こうなってくると毎日が満たされ、楽しめているだろうと思う。
はじめてメールをくれた何年も前は、コチンコチン。書いてくる文章もギクシャクしていた。いま一人ひそかにブログで書いている作など、別人のようにらくに書いている。らくが即ち佳いというのではないけれども。予期していた以上にねばり強い勉強家で、くさらないのがいい。
* ヨガから帰宅。先生に、「体やわらかくなったね」と言われてゴキゲンです。
ベンベヌート・チェリーニは、図書館蔵書検索でヒットしませんでした。会田雄二さんも。でも、記憶に留め、折に触れて探してみます。
創作とは、ショッキングな事実を露骨に記したものでなくとも、それが佳いものであればあるほど、はだかの作者がそこにいるものだと思います。
鴎外の「ヰタ・セクスアリス」が、どんな過激な性遍歴を記した雑文より、興味深くおもしろく感じられるのも、そのせいかと。(もちろん、鴎外の教養の高さと、文章のうまさのせいもあります。)
お元気で、風。 花
* 現在のわたしに、「いかがおすごしでしょうか」とメールで挨拶されると、ぐらりとなる。
2006 12・27 61
* 来春の書道展に向けて作品の制作やら、なにかと多忙らしい***さんが、27日は空いているから平成館の「仏像」展を観に行かないと誘ってくれたのは、三週間も前でした。
仏像の林立は贅沢に拝観できるものの、私は遥々とお寺を訪ねての拝観が好みのようです。それでも、端正で美しい十一面観音を見比べておりました。
関東以北に多いという鉈彫りの仏像は、円空や木喰とは違った素朴さで、関西人としては目新らしく。
彼女がお目当ての滋賀、向源寺の国宝、十一面観音菩薩が後期の展示で、残念、出直します、と。 私は関西の仲間とお寺で拝観していていたのを想い出して。
淡交のこの二人、話をしていて共通のアイドル(?)が判明。
興福寺の阿修羅像。
こんなに胸キュンに好きなんて、この歳で 、人には恥ずかしくて言えないよね。
奈良にはこの像を観たさに行くようなものよ。
そうそう。
ひょんなことで、えにしがあった彼女です。
湖の本エッセイの「蘇我殿幻想」は心服しました、と。碩学の書道仲間にお貸ししましたら、こんな風に書けるのか、と同じく感服されたそうです。 ほな 又 泉
* やす香さんの三回目の月命日になりました。三カ月が三十年にも思われるひどい時間でございました。喪われたものの大きさ、かけがえのなかった日々を思い、私も涙を抑えきれない日々を過ごしていました。
このような日々では心身ともにお疲れになりますことは当然ですが、どうかお元気でいらしてください。切なる願いです。
>なにか、あたらしいことを始めてみたくないですか。
もちろん始めたい。今少しでもお役にたてることをしたいです。 「あたらしいこと」とはなんですか。教えていただければ嬉しいことです。役に立ちそうな時にはどうぞお声をかけてください。喜んで働きましょう。
>創作にとりかかりたいが、余震のある間は手をつけまいと思います。かならず文章が汚れるから。
創作姿勢を教えていただいたようです。
余震の勢いで書くもののよさというのもあると思っていました。文章はあとからでも書き直せるけれど、当事者の感情は冷静に書かれたものより、今此処の感情の迸るに任せるほうがインパクトがあるかもしれないなどと思いました。時間が経つと忘れる部分もあるから早く書かなければなどとつい焦ります。湖速攻のメールほど喜ばせてくれたものはありませんけれど……。
>お稽古は順調でしたか。お母さんの体調はこのごろどうですか。猫はお元気ですか。
扇を飛ばしまくる(つまり不細工に落としまくる)「桐の雨」がすんで、「朝戸出」を始めました。袂から抜いた襟元に手を出すという緋牡丹お竜一歩手前のどっきりする所作(色気のある人がすれば)のある舞いです。
母は季節の変わり目で不調ですが、入院するようなことはありません。猫はびっくりするほど大きくなりました。家に来た時には掌サイズでしたのに、体重は三倍になっています。啼いて甘える手練手管はたいしたもの。猫ながらあっぱれな女で半ば呆れながら感心しています。
ゆっくりおやすみくださいますように。やす香さんが湖の夢に現れてくださいますように。 東雲
2006 10・27 61
* 「MIXI」の「足あと」をみていて、なんでこの人がわたしのところへと首をかしげる例がいっぱいある。プロフィールを見て、少し分かるときも、まるで分からないときもある。新しい会員を捏造して偵察にきていると分かる例もある。「MIXI」は必ず誰かの推薦がなければ入れず、推薦者は自動的に「マイミクシイ=親しい仲間?」になるから、一人もマイミクシイのない会員というのは原則いないだろうに、現にマイミク非在の人の「足あと」もあらわれる。なにもかもアイマイ。だから「ブロック」してしまう。
しかしプロフィルを見ていて、おやおやと忽ち気がうごく時もある。いかにも「美空ひばり」の好きそうな人のようなら驚かないが、あれあれと思う人の「好きな人」の欄にひばりが好きとあると、ひばりを「初恋の一人」と秘めてきた古稀の爺はすぐ嬉しくなる。「メッセージ」を入れると、忽ちに元気溌剌、生彩に富んだ声が返ってくる。まだまだバーチャルの限りで、だから保てるのかもしれないが、「MIXI」ではこうして「影像世間」がひろがる。わたしが、「MIXI」以前の小説家のままであれば、絶対に触れあいもしなかった人達と、今、触れ合っている。あきらかなわたしの「いい読者」たちもそこにたくさん実在しているが、名も住処も知らない人、ニックネーム一つで付き合う世界である、が、確実に二十歳代と思われる友達をいまわたしは、アメリカにも沖縄にも北海道にも東京にも京都にも、ずいぶん多く得ている。
何度も何度もやめてしまおうかとイヤな思いをした「MIXI」だが、今もやめないで、信じられないほど沢山な作品を提出してきた。つまりわたしはニックネームに隠れないで、「秦恒平」の名を明示して、自分の作品を公開している。
* わたしが「美空ひばりが好き」に引っ張られ、「足あと」へメッセージしたその沖縄の若い人は、好きな「源氏物語」を「検索」して「MIXI」のなかのわたしに行き着き「足あと」をつけました、仲良くして下さいと弾むような佳い返辞が、今朝来ていた。
なんだか「MIXI」の宣伝役をしたテイタラクであるが、それだけに「MIXI」の運営は十分「深切・鄭重」であって欲しい。
2006 10・28 61
* ホームページでよそ様ご家族の ”もめごと”を読むというのもおかしなもの、と思いつつも目が離せず拝読しています。
しかし、読むほどに一体全体このような事が裁判の対象になりうるものなのかと、法律にうとい私は困惑してしまいます。
確かに「訴状」はきつい言葉で書かれていますけれど、内容を普通の言葉で言い換えれば、親子のあいだ、父娘の間、娘夫婦との間でそんなに珍しいことでしょうか?
訴えるほどのことなのでしょうか?
自分の下に弟妹が生まれて親の愛情が移ったと感じた子どもはちっとも珍しくなんかありません。
女の子より男の子の誕生を周囲が望みちやほやするのも(個人的には不愉快ですが)、家族制度の改革を訴えるのならともかく、親を訴えるのはお門違い。
父親が可愛い娘の縁談につぎつぎケチをつけて”妨害”したという笑い話はそこここに転がっていますし、結婚式の時に両家のいわば習慣の違いでぎくしゃくし、中に入った子ども夫婦が困った、などと言う話も山ほどある。
結婚後、夫が海外に行っての留守中に娘が孫連れて実家に来るなんてごくごく普通の話、その間に何をどれだけ食べたとか、何を買ってやったとか「いろいろかかって大変なのよ」とうれしげに友人にぼやいて見せる祖母はいても、それは孫自慢の延長線。
どれも、どうしてそこまで”角の立つ”言い方が出来るのかと、全く不思議ではありますが、事ここに至っていちいち反駁せねばならぬ秦様ご夫妻のお気持ちを思うと、どれほどにお辛かろうかと、それがご健康にさわらねばよいがと、ただただお案じしています。
順調で幸せなときには、内在されていても目立たなかった人間関係のひずみや不満が、不幸な出来事をきっかけに露呈し極端な場合夫婦やその周囲の関係を破壊する、長年「親の会」の相談員をしている私は障害のある子どもの生まれた家族で体験します。
逆に不幸を共有することで関係がしっくりと良くなる例も沢山見ます。
やす香さんの突然のご病気が良い方へのきっかけになれば、と祈っていた私なのですが、どうも逆に出てしまったようです。あまりにも早い死への経過だったからでしょうか。
なんとか、どうか穏やかに納まりますようにと祈っています。
それはきっとやす香さんの願いでもあると思うからです。
お身お大切になさって下さいませ。 2006/10/28 藤
* その通りだと思っている。夕日子も★★★も、よほど秘め隠して、やり過ごしたい負い目をもっていた。その糊塗のために、父親であるわたしを「性的虐待者」とまで捏造して視野をくらまそうとした。
十三歳の少女が的確に指摘していた、夕日子さんは自分の「責任に恐怖」しているのですと。やす香から半年ものあいだ「まったく目を離して」いてあのような事になった、その「責任に恐怖して」、しかも白血病・肉腫と知って愕然と、とりかえしのつかぬ責任を自覚していた。「死なせた」と自身嘆いている祖父母に、自分達を「殺人者」だと「キャンペーン」していると逆上したのもその自覚の裏返し、一種の糊塗行為だった。
「やす香との「マイミク」であった祖父のわたしに、(★★の両親は少なくもやす香が「白血病」と知るまで「MIXI」と無縁だった。またやす香が二年半も以前から祖父母と仲良く復交を楽しんでいたことも知るよしなかった。)ただもうヤミクモに「敵意」だけをぶつけてきた。やす香の悲しい死をまんまと「かくのごとき、死」に仕立てて行ったのである、この両親は。
2006 10・28 61
* こういう嬉しい「MIXI」メッセージが届いていた。申し訳ないが東工大というご縁に甘えて、私のジマンの一つに書き込ませて頂く。ごめんなさい。
* 秦さん URL、ありがとうございます。
>(おもしろいエッセイを心行くまで読みたいと、プロフィールにある=)わたしはエッセイ本も何十冊も出しています、読んで下さい。
秦さんの御本は、『少年』『慈子』『お父さん、繪を描いてください』を読ませていただきました。いつかメッセージを送りたいと思っておりましたが、おそれおおくてなかなか果たせませんでした。HP削除という不幸な出来事をきっかけとしてやり取りさせていただけたのは申し訳なくも思います。
わたしが関心のある領域にいつも秦さんがいらっしゃるという印象を持っています。著作権について認識を深めようと手に取った『デジタル著作権』という本に秦さんが寄稿されていたのがお名前を知ったきっかけです。
最近も、著作権団体による期間延長のアピールに対してなされた評も素晴らしいものでした。
さらに、わたしは東工大で経済学を学んでおりました。秦さんの次の次にあたるのでしょうか、井口先生や、社会学の橋爪大三郎先生といった東工大の文系教員があつまってできた文系と理系の学問の融合を目指す大学院に、今年の三月まで通っておりました。
そして、大学生のとき以来短歌に興味を持っています。『少年』に示された端正なうたのお姿を読むたびに思わず身震いします。
犯罪者のような顔写真の人間の「足あと」がついているのに気味悪く思われたかもしれませんので、自己紹介させていただきました。これからもmixiの連載や「闇に言い置く」を読んでいきたいと思っています。 東工大院卒
* 励まされる。わたしの当時の学生クンたちより、よほど若い人のよう。
* おはようございます。 ゆうべのヨガで、背中が筋肉痛です。背筋をかなり使ったのだと思います。
花は、いろいろしながら、元気いっぱい。
* タントラの徒につながるからか、わたしには、ヨガは、「もっともっともっと」と段階をふんでとどまるところない即ち「不自然」の代名詞のように思われる。信仰を伴ったヨガは「もっともっと」と肉身に負荷をかけてゆく。信仰をともなったその修業と実践は、「もっと」の究極へ向かおうとするが、そんな究極のあるわけがなく、どう段階を踏んでみても内奥の扉をひらく鍵にはならない。たんに修業の為の修業になる。
まして信仰をはなれてスポーツのようにこの「もっと」を肉身に試み続ければ、自然当然に「不自然」な不可能へぶつかり、からだを毀しかねない。花にはわるいが、そういう感想をもっている。ほどよく鍛えて、楽しむのがいいと思う。背筋に損傷を生じるこわさは、まして途方もないのだから。
あ、風は、ヨガにやきもちをやいている、と花は思うかな。
* 湖さん おはようございます。
美しい青空が目覚めの贈り物のようで、気持ちのいい朝、いえ昼。
素敵な名前を頂いたたことを湖さんのHPで知りました。ありがとうございます。名は言霊となって私を導いてくれるでしょう、好きな響きでうれしい。
その字の成り立ちを知りたくなりました。字の中にある朱は大好きな色。激しすぎずおさえめの朱、私の珠はどのような色合いに、そしてどんな感触で...湖さんの掌のなかで暖められ、時にはその湖に浮かべられ楽しくたゆとう珠となるのでしょうか。
「青井戸」はあの茶碗と関係がある小説でしょうか。HPに収蔵されているのでしょうか、探してみます。
根津さんには最近ご無沙汰していますが、ようく行きました。師は根津さんのお道具の仕事をしていましたので、思わず道具に触れさせて頂く機会もあった縁のある美術館です。
上京中の***さんと一昨日ご一緒してきました。
縁の糸がキラキラ輝いてみえる一週間でした。 珠
* 「青井戸」は、新潮の編集者に、もう少しでも長く書いてあれば芥川賞に推したい作なんですがねえ、あまりに短篇と慨嘆され、それだけで嬉しかった。育てられた茶の湯という師に、一礼を返したような小説であった。ホームページには、特別の場所におさめた。
* 鴉、今日がよい一日でありますように。こう書くと毎朝聞いているFMのバロック音楽のアナウンサーの言葉とまったく同じになってしまうのですが、とにかく「よい一日でありますように。」それは人に対しても自分に対しても。
昨日北京から戻りました。十月の北京はまだそれほど寒くなく、いい時候でした。
故宮は広かった、さすが中国の王朝の権力構造は強大で怖い・・。外朝にあたる太和殿、中和殿、保和殿のあたりは謁見や審問の場。この広場に点々と列になった白い石は、この上に人が立って上奏や謁見を待ったとか。乾清宮は皇帝の執務室。昔ゼミや購読会で読まされた「朱批諭旨」などはここ書かれたのだなと奇妙に懐かしい思いがしました。内朝の西太后や宣統帝溥儀にゆかりの場所なども説明されましたが、それ以外はほとんど通り過ぎました。故宮を四時間ほどかけて廻って・・通り過ぎた感、対象が大きすぎるのです。
ただ歩き回るだけでは決して分からない多くの、歴史のかなたに去っていったものを感じ取るためには・・今回の旅はあまりに不十分だったと残念に思い、反省していますが、改めてさまざまな本を読んで補っていくことにします。
テレビなどで最近の中国の目覚しい経済発展は知っていたものの、実際に北京の大きな道路に沿って三十階ほどの高層建築が「群生」し、自動車が溢れて到る所で渋滞している様子、沸騰するアジアのエネルギーを感じました。あっという間に変貌を遂げるのは、土地が国有で、政府がほとんど意のままに「開発」を推し進められる状況があるのでしょう。
日本に帰って、大阪の街が静かで小さく見えたのは、北京を見た後だからですね。オリンピックに向けて急速に変わったと言われる東京のように、北京も、中国社会も今大きな転換期。良い面も悪い面もすべて呑み込んで、公害問題も抱え込み拡大させながら。
とにかく大きなうねりを目にしました。
繰り返し、よい一日でありますように。今年はいつまでも夏の名残の日差しです。これからHPを読みます。
メールがあまり届かないのは、お忙しいからでしょうが、気に懸かります。
* いま中国は、「北流」と呼ばれる流民の北京集注を大筆頭とする、都市部への人口集注を、際だった「時代」現象にしている。逆に言えば火の消えたような広大無辺の中国大陸も実在しているわけだから、北京や上海に仰天するだけでは片手落ちなので、人的エネルギーの大きな深い落差を、アイマイに相対化するのでなく、リアルに二つとも睨まねば展望をあやまるかも知れない。北京と上海とを見てくると、いや西安でも杭州でも同じこと、あの「人繁昌」をみてくれば中国のエネルギーには胸倉をつかまれた驚愕や懼れをすら感じるが、それだけが中国かどうかの見極めを、落ち着いてする必要もある。
わたしは初の訪中以来四半世紀余も「人民中国」という雑誌に目をふれているが、その現象的な変貌は凄まじいまでであるけれど、本質的変貌がどんなものかには軽々にものを言いにくい。
現象だけで一例をエピソードとして言えば、華国鉾も鄧小平も亡く、訪中したわたしたちの招待車に同乗して、長旅の全行程を一人の通訳として接待役で同行してくれたトウ・カセン氏が、いまや中国の外務大臣より権威有る外交担当の衝にある。しかし党独裁のたぶん国家そのものが、今なお「一言堂」であることに変わりはないだろう。
* 新しいURLでの復活安堵致しました。嬉しく読ませていただいています。日常の生活に張りが戻ってきた感じです。またMixiでも新しく秦さんの読者も共感者も増えたご様子、私まで何か心強い思いです。是非その方たちのためにも、ご健康で過ごしてください。
今週の始めに「湖」宛に書かれた「一読者」の長いメールを読ませていただきました。
どうしても引っかかるものがあります。
「今の事態の打開に『母親としての迫真の陳述が必要』とか『娘と刺し違えるほどの覚悟で説得』とか書かれていました。後のほうには『聖家族』の作中には、「妻はいても娘の母はいない」とも書かれています。
読みが浅いのかも分かりませんが、筆力がなく言葉足らずになりますが、私も思い余って。
この家族にはよき妻とそれ以上に慈母がいます。
そしてこの母は刺し違えるのでなく、どれほど自分一人を刺し、苦しんでいることでしょうか。
あれほどの母恋いの作品を書かれておられる秦さんが愛されている妻です。その妻がよき母親でない筈がないのです。子どもたちを慈しみ愛し育てた母です。
秦さんの多くの作からも読み取れるのではないでしょうか。
今回の件に関しても、普通人には考えられないほどの執拗さで(ゴメンナサイ)書いて身を削り削り決着をつけようとなさっておられるのも、妻への限りない深い愛情がさせていると確信しています。
迪子さんのお気持ちを思うと辛くて分かって欲しくって書きました。何よりもご夫妻のお心の平安を祈っています。
運転手つきの車でのご旅行案など書かれていましたが、良い季節も短いです。自然はお二人を大きく包んでくれることでしょう。ぜひ実現してください。 晴
* 妻にもわたしにも有り難いお気持ちと読んで、感謝申し上げる。たしかにわたしが「普通人には考えられないほどの執拗さで(ゴメンナサイ)書いて身を削り削り決着をつけようと」しているのは、自分を守ると同じく、妻であり息子である者の名誉を守りたいからで、それを愛情と呼ばれればそれに相違ない。
「この家族にはよき妻とそれ以上に慈母がいます」は、妻には嬉しい声援だと思う。この場合の「この家族」とは、とりもなおさず「秦家」を意味されているだろうし、あの「一読者」の筆致もまた似たものではあったけれど、『聖家族』という未完のフィクションの「奥野家」「妻」と、「秦家」のわたしの妻と、この両人、は区別した方がいい。これはモデル小説を意図してはいないから。
建日子への最近のメールに添えて谷崎潤一郎の例をあげたと覚えているが、谷崎は、きこえた「母恋い」作品の作家であった。だが、現実谷崎家の母、カッコのつかない母と、母恋い作品の「母」、カッコのつく「母」とは、書き方が違っていた。一般化してまでは敢えて言わないけれども、向き合い方も表現の質も谷崎の場合意図して「異化」されているとわたしは読んできた。
おなじことは、わたしが「妻」を書くときと、ま、日記にしか書かないけれども現実の妻とは、やはりちがう。このちがいを、「一読者」さんは、作品の「妻」側から読み込んで混同され、「晴」さんは妻の親友として平生のわたしの妻から見て同じく作品の「妻」と混同されている。
現実の妻は慈母という美称には照れるであろうけれど、確実に言えるのは、妻がなにより実の娘の、またその夫の無道な、考えられない蛮行により日々五体と精神を痛めていること。わたしは、それを許さない。
2006 10・28 61
* hatakさん 今日の札幌は晴天。羊ケ丘は晩秋の木々が美しく、丘の起伏に沿って白樺やポプラの色模様が見えています。
食糧を仕事にしていながら最近「食べること」に情熱を失っていたと、夕方思い立ち買い出しに行きました。食材の豊富な豊平の大型店舗は大変な賑わい。駐車場にテントを張って、大根、鷹の爪など漬物の材料が山積みにされ、目の前で飛ぶように売れていきました。
夕方から風が冷たく、日が落ちるとまるで冬のような気配。自然、鍋の材料を買い求めます。白菜は四分の一で五九円、十勝正直村の焼豆腐一丁百八十九円、知床地鶏百四十七円、北見産玉葱四個で百二十八円、具は全て道内産で揃いました。
土鍋に日高昆布で出汁を引き、鶏肉でスープが乳白色になったところで、スダチのポン酢で野菜をたくさんいただきました。外は7℃。二重窓のガラスが湯気に曇って部屋全体が温まります。仕上げに用意してあった道産米「おぼろづき」とイクラの醤油漬けは、腹ごなしにこのメールを書いてからいただきます。
来週は札幌も初雪とのこと。そちらの「季のもの」は、今何でしょうか? maokat
* しらたまのつきになごりの酒くみておもひのたけのかぐやひめこそ 翁
2006 10・29 61
* 秦さん。民事調停と審尋、ともにお疲れさまです。
大兄のホームページに以下のような記述があってから、電子文藝館のメーリングリストに何らかの告知が載るのかなと思っていました。
大兄からの告知があれば、メイリングリスト上で、一言書きたいと思っていましたが、とりあえず、大兄宛に書くことにします。
* 地裁審訊の判決書が届いていた。大山鳴動して鼠も出なかった。長くて数日ということだったから仮処分申請に同意しお願いしたが、一ヶ月余もかかり、結局復旧したという画面もみることなく、BIGLOBEを解約した。何の必要があってわたしのこの六月、七月、八月の全部の「私語」削除を容認して「和解」なのか、わたしには全然理解できない。わたしのために何の利益をはかろうと仮処分申請してくれたのか、尽力の成果がどこにあったのか全く理解できない。
この事件で法律家とも当事者として話さねばならず、ほとほと驚愕したのは法律家の言葉はじつに耳に入りにくいと云うこと。しかし裏返すと、法律家の耳にはわたしのような文学者のことばはほとんど一顧もされないほど無意味で無効なのである。裁判官はそういうことには一顧もあたえませんと、さらさらと云われる。ダメダ、コリャと人間を務めているのが情けなくなる。
「プロバイダ責任制限法」に基づく、今回の大兄のホームページの全面削除問題に対する審尋での裁判所の「判断」は、私も腑に落ちません。
私の拙い知識で判断するに、「プロバイダ責任制限法」は、免責手続法なのですね。
迅速な手続きを最優先するため、類型的、形式的な、つまり、あまり、判断力を必要としない、機械的な判断で、「迅速かつ適切な対応」をするように法は、薦めています。
インターネット上での個人の権利侵害が多発する中で、プロバイダに迅速な対応を求める代りに、手続きさえ、ルールに則っていれば、最大限に免責する法律のようです。異義申し立てがあったら、プロバイダは、発信者に連絡をして、7日間経っても、反論がなければ、速やかに削除する、という手続きは、この法律が定めています。従って、ビッグローブには、瑕疵がないというのが、そもそもの裁判所の前提なのでしょう。
著作権上の問題があるとすれば、当該の日記の引用だけのはずなのに、一部を削除するという対応ではなく、まったく無関係の「秦文学館」ともいうべきホームページ全体を削除したという「過った判断」は、何ら問題にされず、ビッグローブには、何のおとがめもなしということなのでしょうか。せめて、過った判断だというような裁判所の見解が示され、その上で、過失の重大性の有無を判断し、云々という文脈ぐらいには、なるのかなと期待をしておりました。
ビッグローブの問題点は、
1) 削除した範囲の是非→これは、明らかに、「非」であって、過剰な対応です。
2) 判断基準の是非→1)の判断をした基準は、なんであったのか。これは、是非とも知りたいですね。
3) その上で、今回の削除にあたって、ビッグローブに「重大な過失」があったのか、どうか→今回の審尋の結果示された裁判所の判断を見ると、裁判所は、ビッグローブに「重大な過失」があったとは、認定していないんですね。情報が、プロバイダによって、「過って削除」されても、ほとんど免責されてしまうということのようですね。
プロバイダ責任制限法の「著作権関係ガイドライン」という文書を読むと、ガイドラインは、「プロバイダ等が責任を負わずにできると考えられる対応を可能な範囲で明らかにした」として、さらに、「裁判手続においてもプロバイダ等が責任を負わないものと判断されると期待される」と明言していますが、今回は、本当にその通りに進行しています。
さらに、新たに、審尋で示された削除範囲も、ビッグローブの全面削除の「精神」と通底していて、「私語」の、6、7、8月分の全てという、類型的、形式的、機械的な判断で、規模は、ビッグローブより小さいものの、「過剰な削除」という点では、同根なのです。因に、例えば、6月の場合、6・22以降は、日記の引用などが多用されるものの、それ以前は、「普通の」の「私語」という作品です。
審尋の結果、ひとつのプロバイダの問題にとどまらず、プロバイダ責任制限法の問題性の深刻さを改めて浮き彫りにし、この問題については、裁判所も当てにならないということがはっきりしたわけで、自分のホームページやブログを持つ、私たち(個人も、ペンクラブのような団体も含む)としては、誰かにいちゃもんを付けられ、それぞれのプロバイダにたれ込まれたら、7日間以内に、精々反論をしないと、今回同様の目に遭うこと必定ということです。法も法の番人も、電子メディア時代の情報発信を保護してくれないということを社会的に訴えて、問題を顕在化するしか、私たちの前には、途はないようですね。
民事調停に関する記述も痛ましく、是非とも、いずれは、文学作品に昇華させてください。ご子息が、冷静に父上を支援しているのには、ホッとします。奥様ともども、心身共に、御自愛専一にと願っております。 英
* がっくり消耗のあまり二つの委員会に「報告」すべきを失念していた。問題は、指摘されているその通りだと思う。こういうことが平然と為されて差し支えない不備な法律のまえで、不当な不利益を「和解」の美名で結局押しつけられるのでは、堪らない。
2006 10・29 61
* 『畜生塚』に併行して、大原富枝さんとの懐かしい対談『極限の恋』を「MIXI」に連載しはじめた。汚されきったいまの気持ちを、絶妙にバランスしてくれる。
こういう小説を書き、こういうことを思っていた、考えていた、まさにそのさなかで、わたし秦恒平は、実の娘・★★夕日子を、「虐待」「性的虐待」していたと、娘の七歳以降「二十年」「四十年」にわたり、ずうっと「虐待」「性的虐待」されてきたと、その「実の娘」から、いま公然とうったえられている。 ★★ 夕日子は夫・★★★(青山学院大学教授)とともに町田市に暮らしていて、「民生・児童委員」を務めていると「肩書き」にいう。
父親のこのむちゃくちゃな悲しみが、わたしの生き方・書き物を通じて、はたして人に伝わるのだろうか。絶望にちかい絶望を堪えてわたしは絶望などしてはいけないのである。わたしは「今・此処」に生きて懸命。そのあかしはわたしの「文学と生活」とで示す以外に無い。
* ★★★と秦家との確執は、★★が、オーバードクターとして就職難に喘ぎ、わたしが偶々東工大教授に就任したまさにその時に表立った。★★からムチャクチャに親を罵倒した手紙で「暴発」(当時、妻・夕日子の表現)した。
さらに時久しき断絶を経て、不幸、今年の夏、★★の長女やす香が劇症の癌「肉腫」で亡くなったときに、またも★★★の名で、わたしを「告訴・訴訟する」と今度は「威嚇」してきた。その「理由の最たる」ものは、われわれ祖父母自身、手も尽くし得ないで可愛い孫を「死なせてしまった」と嘆いていた、その「死なせた」を、「やす香の両親を、やす香を殺した殺人者だと謂い広めている」「キャンペーンしている」とねじ曲げて釈ったのだ。
わたしには、早くに弘文堂「死の文化叢書」の一冊に、版を重ねよく読まれた『死なれて・死なせて』の著書があり、その「死なせて」と謂う意義は、誤解しようもなくハッキリしている。「死なれる」のは主情的な悲しみであるが、「死なせる」のは人間存在のかかえた根源苦・業苦のようなもので、自責の悔いとして表れる。『心』の「先生」の友人「K」を死なせたのも、薫大将が宇治大君を死なせたのも、ハムレットが多くを死なせたのも、建礼門院の存在がじつに多くを死なせたのも、知勇の宗盛が我が子知章をむざむざ死なせたのも、ヒースクリフがキャサリンを死なせたのも、ファゥストがグレートヒェンを死なせたのも、みな「殺した」というのとは異なる。下手人ではないが、「死なせた」のである。
たとえ一時逆上したにせよ、しばらくもすれば、青山で教育哲学を教えるという教授が、またお茶の水で哲学を専攻し、いまは市の民生・児童委員を務めると称し、さらにどういう気か「女流作家」をすら自称するほどのインテリ夫婦が、ものの道理の分からぬ筈はないと思うのだが、エスカレートにエスカレートして躍起になり、いまわたしに「インターネット上での謝罪」や「賠償金」を請求している。
* 十数年前の「暴発」にも、★★★の滑稽としか謂いようのない「浅解・誤解」が引き金になっていた。娘の聟である自分が、なぜ秦恒平の「身内」ではないのか、と。そう叫んで彼は暴発した。
いきなり誤解と言っては失礼かも、しかし早稲田政経出の「秀才」という仲人口であったのに。秦恒平の「身内」観が独自・独特のものだとは、彼を娘に引き合わせた仲人さんの****教授もよく御存じである。ただの知人ではない、わたしの「いい読者」であった、氏は。むろん娘・夕日子も父親の「身内」観は十二分に聴いている。
ましてその★★の誤解を生んだのが、紀伊国屋ホールで上演された、俳優座加藤剛主演になる漱石原作『心 わが愛』を、家族みんなで「観た」あとだったのだから、それはもう、お笑いというしかないのだった。わたしが脚本を書いたこの『心 わが愛』は、漱石の原作を借りて、利して、といってもいい、わたしの「身内」観を主題に劇化したと謂えるものだった。劇場は通路にも客の座るほど、消防署から注意が来かねないほどいつも満員だった。劇評もびっくりするほどよかったし、「真面目な作の真面目な感動」と謂われ、分かりにくいなどとは謂われない芝居だった。いま、NHKが藝術劇場で放映したビデオで見直しても、どうするとあんなバカな★★★の憤懣がとびだすのだろうと笑えてしまう。
むろん娘の夫になったばかり、ろくに話す機会もない★★★が、わたしの「身内」でなどあるワケがなかった。
彼は親類縁者だから「身内」だと言い張る、が、わたしは舞台の上でも著書の上でも、人間とは、「自分」「他人」「世間」の三種類しかなく、親も兄弟も親類も自分ではない以上「他人」=知っているだけの人の意味だと、子供の頃から思い決めていた。「世間」とはつまり知らない人。
しかし人はそれでは寂しすぎる。だから死んでからも一緒に暮らしたいほどの「本当の身内」が堪らなく欲しくなる。その「本当の身内」とは何だろう、というのが平たく謂ってわたしの文学の動機であり主題であった。その一つだった。★★★はそれが理解できず、また文学への、あるいは文士である舅への軽蔑の念から、理解しようとすらしなかっただけのことなのである。そして秦の家に行っても、夕日子とやす香の写真は飾ってあるのに俺のはないと、家に帰ると妻に当たり散らしたというのだった。
* わたしの多年の「いい読者」たちは、こんなことは、寝言でも言えるだろうほどよく知っている。やす香の死をめぐる信じがたいような紛糾の経緯も、よくよく知って貰っている。
わたしには何の闘う武器もない、「書く」ことでしか身も守れない。裁判も法律もアテにはならない。
秦さん いたましいと、また、そんなことバカげている、放っとけばいい 相手にしなければいい と言われても、この「死なせて」「身内」の象徴的な二つの事例からしても、相手はもう盲目滅法に暴走している。わたしの読者にはさまざまな地位や職種の大人が多いが、その中にはこういう★★夫妻の動きを、掌をさすように懸念していた人もいた。何度も紹介しているが、何度でも紹介する必要がある。そしてわたしは絶望などしてはいけないのである。どんなに言う大勢が在ろうとも、わたしはわたしと妻とのために、かかる無道の前に絶望してはならないのである。
その読者の一人は、はっきり、こう予想していた。
* 私には、あなたが作家としてご自身の作品を守り、言論の自由を守り、それでも夕日子さんのためを思い、訴訟には強いて勝たなくてもいいとお考えのように見えてしまいます。
これは、最悪ではないでしょうか。
さらに訴訟があなたの心身の健康に与える負担を思うと、ぞっとします。何十年も訴訟している例をいくつも知っています。泥沼です。
そして、相手の弁護士を甘く見てはならないと思います。
まず、実の娘からの告訴を煽るということは良識ある弁護士ならしません。「九十五パーセント勝つ」という妙な強気もおかしい。これはかなり質の悪い「やくざ」な弁護士がついていると推測すべきです。
さらに私がもっとも恐怖するのは、裁判が不利になった場合に、夕日子さんが「言葉によるハラスメント、虐待」だけでなく、少女時代に「性的虐待」を受けたと「嘘を訴える」ことです。夕日子さんはそこまでしても勝ちたいでしょう。負けないために身辺・周囲が煽るでしょう。アメリカでは無実の父親がこうやって社会的に葬られた例が山ほどあって、本になっているくらいです。
もし、そのような根も葉もない訴えがあった場合、裁判は女の味方です。自称被害者のほうが強いです。痴漢の冤罪よりも無実の証明は絶望的です。あなたの作品はことごとく抹殺され、百年は埋もれなければならない。あれほどの名作なのに。日本語の宝なのに。
私の願いは、一先ず譲歩して、「告訴」騒動を鎮めてくださることです。ご家族、弁護士さんなど色々な方々とご相談して、あちらの要求がこれ以上傲岸に過大になる前に、お考えいただけないでしょうか。
その上で決断されたご判断は一番正しいことですし、それを心から支持して、あなたとご家族の皆さまのお幸せをお祈りし続けることに少しも変わりありません。 読者
* いくら何でも度はずれていると、わたしはメールのこの辺は読み飛ばしていた。
ところが、夕日子は「木漏れ日」名義の「MIXI」日記を利し、しかもそれがわたしには「読めない」ように画策しておいて、八月以降、公衆相手(六百万人)に、じつに、読むも忌まわしい上記に危惧されたとおりの「嘘を訴える」ことをしつづけていた。
わたしには、それが読めなかった。人がコピーして送ってきてくれない限り。よほど見るに見かねて癇癪玉を破裂させた人が、全文を、送ってきてくれた。
ひと言だけにしよう、あきれ果てた。
もうひと言、何と情けない人間になったのだろう、わたしの娘は。
* わたしは、ものに書く場合、政治と外交とは、別。それが普通の批判や非難にあたる場合は、いわゆる「ウラ」を確保してでなければ、断定しないようにしている、当然の作法である。推測は人性の自然であるが、それも前後の状況から推して、蓋然性を堅くにらんで、する。まともな評論や批評は、そうでなければ出来ない。
それぬきに、好き勝手なでたらめな「作文」は、幾らでも出来る。誰にでも出来る。上のメールの人が、「心から危惧」し予測していたことを、夕日子は臆面なく、とうに、やり始めていたんだ。それも実の父や母に向けた、むちゃくちゃな「悪声」「誹謗と中傷」。
* そこまでやって、いったい夕日子は、何の自意識から「責任遁れ」しようとしているのだろう。
我が家はきわめて狭い家で、しかも妻と私は何十年、常にまぢかに暮らしてきた。わたしが一人の時は、書斎とも呼べない窮屈な机に向かい、夢中で依頼原稿を書きまくっているときだけだった。
* もう一人の読者はこう書いてくれている。
* 娘さんについて考えたことを書きます。まず娘さんが「MIXI」に書いた性的虐待の日記ですが、そもそも娘さんがハンドルネームを使っているとしても、周囲に自分とわかるように書いていること自体、そういう事実はなかった「嘘」とわかります。性的虐待のカミングアウトというのは、女にとってよほどのよほどです。使命感でそういう「活動」をしている人以外には、ほとんど例がないのでは。
私は子ども時代の虐待について本人の書いたものをいくつか読みましたが、まずあまりの傷の深さに、そういう著作自体少ない。そして、書かれたもの二例では、本人が自分の名前を戸籍から変えていました。 読者
* 夕日子はおそらくこの二つの読者メールを「逆手に利用」しようとしたのではないか。「使命感」を偽装して仁義なき闘いに勝利をめざしているのだろう。上の「読者氏」は、つまりは秦さんが「★★★」で「目をすった」のが根本原因でしょうと冷徹だ。一言もない。だが絶望してはならぬ。
この半月ほど克明に「★★指弾条々」に答えてきた全部を写真ももろともに印刷した。これは個と個との間の内緒ごとではない。町田簡易裁判所に公然提出された文書そのものへの否定の反駁である。
裁判所に提出するが、わたしの気持ちは裁判官や調停委員や自分の弁護士よりも、インターネットの「読者」に向いている。わたしはそこで身内ならぬ「身方」を得なくてはならない。異例の手段であるが、「インターネット時代の一つの実験」をもわたしは意図している。すでに「MIXI」を舞台にくりひろげられたやす香の死への「全逐一」は「死」を迎える全く新しい次代の新しい「先駆の一例」を世界に提示したと、専門書の中で冷静に評価されている。そういう時代、そして「かくのごとき、死」が在った、現実に在ったのである。愚劣きわまりない「かくのごとき、闘い」もまた在ることから、わたしは身を退かない。夕日子が「MIXI」で隠れてしていたような卑劣なこと、何一つの裏付けも実感もなく、父を「性的虐待者」として指弾していたようなことは、わたしはしない。アケスケに真っ当に、わたしはそれと闘う。
2006 10・30 61
* 日本でいちばん長続きしている雑誌。それは、丸善の「学鐙」で。鴎外も漱石も書いていた。日本の知識人ならここへ一度は「足あと」をつけたいところだ。その歴代編集長のなかで名声のひときわ高かった北川一男さんを偲ぶ会に、わたしは裁判の煽りでどうしても出られなかった。今日奥さんの編まれた『塔の旅』という遺稿集が贈られてきた。エッセイを書く人のお手本にしたい多彩で且つ端正な名文家の精髄。しかし何よりも最後に病床で原稿用紙に自筆された奥さんへの「金婚」を祝い感謝されている乱れ文字の美しさ。感動。
この北川編集長にわたしは、『一文字日本史=日本を読む』をまる三年間にわたって、また谷崎論を三連載、その他にも東工大を退いたときなど、計四十回以上も書かせて貰っている。大きな恩人のお一人であった。偲ぶ会への不参、まことに心苦しいことであった。
* もう一冊の特筆ものは、元「群像」の鬼といわれた名編集長大久保房男さんの新刊『日本語への文士の心構え すぐれた文章を書くために』である。お説の相当量はくりかえし教えられてきて心身にすりこまれているが、なおかつ堪らなく面白くタメになるからつい笑ってしまう。妻はわたしより先に一晩で読み上げてフフフフと笑っていた。わたしはいま笑っているが、けっして軽く見て笑っているのではない。身を縮めてじつに心して照れ笑いをしているようなもの。そこが門外漢の妻とは違い、臑の傷が痛んでこないかとハラハラしているのである。
ひとかどの作家が平気で書いていると、そこは実例に事欠かない大久保さん、出す出す、 「馬脚を出す」「札片を撒く」「溜飲を晴らす」「古式豊かに」「自前を切る」等々等々、笑ってしまう。いつどこで笑われているかと思うべきであるが、あまりのことにガハハと笑う。
この本、読み終えたら人にあげよう。
2006 10・30 61
* 秦 恒平 様
プロバイダの大問題が法律上では、そういうことになるとは驚きです。司法は、法に書いてないことは何もできないのですね。法も司法も、技術の現実の進歩に追いついていないのでしょう。本当に残念です。
「闇に言い置く」を拝読して、私たち(**さんと私)が、御礼に差し上げた湯呑みが、今もお役に立っていると知り、嬉しいやら恥ずかしいやら、ビックリ致しました。
毎週のように(社宅の部屋へ)押しかけ、全く月謝も払わず、それどころかいつもおいしいお菓子までごちそうになって茶の湯の基本と心を教えていただきました。
その当時の夕日子さんはよく覚えています。おっとりと上品でしかも賢くしっかりしたお嬢さんでしたね。虐待など、とうてい信じられるものではありません。当時の社宅の物理的環境から考えてもあり得るはずもないと断言できます。もちろん、当時の夕日子さんのご様子から考えても。
どうぞ、奥様ともども、お大切に。 米沢女子短大学長 遠藤恵子
* ご心配下さって、有り難い。ほんとうに有り難い。
* 時計を見ると、まだ台所に立つのには早い時間。日暮れが早くなりましたね。
HPを読んでいて 紀伊国屋ホールで俳優座再演の『心 わが愛』を観せて戴いた頃は、まだ両家交流のある時でしょう。
姉弟(夕日子・建日子)であなたの事を話しているのが、耳に留まりました。なんて? それはナイショ。大した話ではなかったから。食いしん坊とか・・・なんとか。分かる分かる。(^o^)
私は中央のいいお席を戴いていました。隣りが婿殿だったのでしょう。その向こう隣りが夕日子さん、その後ろに建日子さん。幕間に弟さんがお姉さんにフランス語で新聞読んでいるの、凄い、ただのマンガだけよ。なんて、私一人だったので、会話が聞こえてきました。小さいお孫ちゃんはお留守番の様子。
書きたいのは、幕が下り、誰もが拍手をします。普通、拍手はパチパチパチパチと。感銘を受ければ更にアンコールの拍手になります。
ところがお隣りから、パーーチパーーチと間延びした拍手が聞こえたのです。こんな拍手を聞くのは初めてでした。 ウン? 何故?
その不審の想いが永らく脳裡に蔓延(はびこ)っていました。
婿殿との関係を全く知らなかった頃の挿話、初めて話します。
私は、あなたを信じています。
秋の気候、いいですね。走っていますか。
ほな さいならは云いません。ほな 又。 泉
* それでいて、「●、なにかというとスグ、秦恒平の聟だって自分から言うのよ」と、夕日子はよく笑っていた。東大の女性教授が一言で言ってのけたものだ、「嫉妬です」と。
2006 10・30 61
* いつか、涼しくなったらお酒をと申しましたが、お体に障ってはと気懸かりで、とりあえず小ぶりですが塩蒸しの桜鯛をお届けします。2日に到着予定です。
お酒も召し上がられるようでしたら清酒・焼酎(麦,芋,黒糖,米などのどれか)その他指定していただいたものをお誕生日前後にお届けしたいと存じます。
夕日子さんはきっと病んでおられるのだと思います。どこかの時点で自分が過ちをおかしたことで自分を赦せなくなっておいでなのではないでしょうか。その怒りの矛先が、最も安全な父親へ向かったのではと推測しています。
時の解決を待つほかに、よいてだてがみつかることを願っています。外側の人間の無責任な言葉をお許しください。お二人の御無事をお祈りしています。 元
* 夕日子は病んでいると言ってくださる人の気持ちは、言うまでもなく庇っていてくださるのであり、有り難いと思う。病んでいるのかどうか、わたしには確言できない。
* しかし、今年の二月二十五日から今日に至る、「★★夕日子」発信になる、『がくえん・こらぼ』という個人ブログの日録が、幾つかの意味で甚だ独特。自称「特技」が「机上の空論」で、「長所」は「おもしろがる」とある、この夕日子自身の自覚と、相当よく符合しているらしいのは、事実と思われる。
* いったい夕日子は、やす香と行幸とが我が家へ嬉々として遊びにきた、正にその二月二十五日以来、そのブログを用いて、何を、実現したかったのか。
(ちなみに、その日の姉妹の保谷へ行きたいのという申し入れは、行幸からまみいに先にあり、「一人で行く」というオファーだった。だがそれと知ったやす香も「一緒に行くわよ」と、二人で尋ねてきたのだった。行幸は少し早めの誕生祝いを貰って帰った。やす香にはまた適切な機会にねと、ご馳走しかしてやらなかったのが今となっては心残りで、今もそばのやす香の写真に詫びている。)
* で、「ぬぼこ」こと★★夕日子は、在住する町田市内らしい「がくえん、という小学校区に散在するグループや個人をコーディネート(=取り纏め、仕切りを=)したいとひそかに願っている、一主婦のブログです。具体の活動報告より、『思い』を書くことのほうが多いかも。きのうを整理し、あしたに臨む、きょうの私の心の内・・・かな(笑)」と、真正直に看板が掲げている。ブログに筆録された総量は、「一太郎」に置き換えて、七十頁分に及んでいる。
「ぬぼこ」が分からない人もありそうだ。
浮き橋の上から天つ神さまが、地表の混沌をこおろこおろと攪拌したあの鉾だ、夕日子は「かき混ぜる」のが好きなのだ。
その肝腎の「コーディネート」という目的の方は、「笛吹けど人踊らず」まだ寥々と、協力者にも去られて、事実上空回りしているようだが、こういう仕事はそう簡単に短時日で成るわけがなく、折角踏ん張って、初志をのべたら良い。まだ文字どおり「机上の空論」を「おもしろが」っている程度らしいが、その軽薄さが、願いの筋を人の和や輪とともに成しえられない「理由」なんだろうと思うし、昔から父親によく呆れられたように、いまだに、「おまえは、セリフしか知らないんだ」ということだ。
夕日子自身もブログの中で何度か自認している、「口さき」「口八丁」だけで「お祭り」気分でやれると勘違いしているあたりが、贔屓目にも歯がゆい。つまり自分が「おもしろが」りたいのでは、舞台の役者が率先笑ってしまっているのと同じ、ハートのない上滑りだけを招くのは目に見えている。
だが、何とかの上にも何年と謂う。、コケの一念とも謂う。なにより人に信頼され愛されて歩むべきだろうに、とんと、それが見えないのは、つまり「自己満足」を追いながら、こうすれば人も満足するに違いないのにと、暗に「お祭り」を他に強いているからだ。方法論なしに手探りで奔走しても、大きな仕事は成らない。協力を断念して去っていった人の意識の高さにくらべると、「机上の空論」とは、よく自分が分かっていると褒めてやるべきか。
* ま、それだって、いいのだ。好きにする「自由」は本人にある、他人にトバッチリをひっ掛けないなら、だ。夕日子のとにかく飯より好きそうな「コーティネート」は、いずれ、モノの「上手」になり、市会議員くらいに推されるのかも知れない、ハハハ、頑張るがいい。
* しかしながら、夕日子は、トバッチリをひっ掛けなかったろうか。
夕日子が此のブログ始めの「二月二十五日」という日付に注目する。先も言うように、、やす香とヶヶヶの姉妹が我が家に遊びに来て、雛祭りに打ち興じ、池袋で「寿司田」の寿司を大騒ぎで食べて帰った、当日のことである。即座にわたしがやす香と、入会したばかりの「MIXI」で、「マイミク」を約束し合った当日である。
夕日子は、もうブログの立ち上げに夢中のようだし、やす香は、これに先立つ一月十一日に、「痛」一字を「MIXI」に掲げて、はや劇症の進展を言葉で自覚していた。
* わたしたちは、どうか。
妻は二月二十五日のやす香が、ともすると畳や廊下に寝そべるのがとも気になったと言っていた。だが、あのような「病気」を、その時点ではとても想像も出来ず、その後は、もう、病院に「肉腫」を見舞う日まで、やす香とは一度も逢えなかった。しかし「MIXI」は毎日観ていたし、メールも祖父母ともにやす香と交換していた。
気が狂いそうなほど、やす香の「MIXI」に連発する「容態」が心配で、わたしは妻にも当たるほどだったが、メールしたりメッセージする以外の「手」はついに出せずじまいだった。われわれがやす香を「死なせてしまった」と嘆くのは、そこだ。
* では夕日子のブログでは、どうか。日々の「思い」も書くと夕日子は言い、事実たくさん書かれている中で、「やす香入院必要」と電話で知らされるその瞬間まで、夕日子のブログ日録は、ただの一個所ででも、やす香について触れていない。我が子の異様な容態を懸念した記事も、言辞も、じつに「絶無」なのである。ひたすら「コーディネート」へ熱中、また高邁そうな言説も展開していて、ただ「読む」だけなら、父親をもつい嬉しくさせるほどツンツンと身を反って得意満面書いているけれど、あれほどやす香が病苦に呻いて、泣いて、愁訴し激怒しているどんな日にも、ただの一個所でも、二人の書いている「記事内容」は、ほんの一ミリも接触した例が無い。全然みつからない。
どうか、只の一個所でも、「やす香が心配で母親はこうした」「ママが気遣ってこうしてくれた」という一致点が見つからないかと、詳細なやす香の「病悩全日記」と夕日子の「全日記」をくわしく照合してみたが、わずかな接点のただ一つも指摘できなかった。
* これで何となく合点が行く。「著作権相続」を楯にわたしのホームページをぶっ潰した★★夫妻が、何を恐れて人目から「やす香日記」を隠したかったか。
言うまでもない、やす香の「MIXI」日記が明白に刻々と告げている「病症」の烈しさだけではなくて、それから完全に「目を離していた」「手も出さなかった」「言葉もかけなかった」らしき事実であったのだ。いやいや「目を離して」いたどころか、「目もくれていない」のであり、その責任を指弾されるのを ★★夫妻は「恐怖」していたのだ。
* 悲しいことにしかし<事実は否定できそうにない。昨日引用しておいた「七月一日の夕日子日記」は、それより「二週間」前に、突如として「入院」の必要を告げてくる、病院からか、やす香からか、の一本の電話に仰天する夕日子を浮き彫りにしている。
それでいて、わたしの「死なせた」という、語彙そのものに根拠も意味づけもきちんとされている言葉に対し、祖父母は、われわれ両親を「やす香殺し」「殺人者」と言っている「キャンペーンしている」などと、中学生以下の理解の薄さで、告訴の訴訟のとわめきだした。
頭を少し冷やせば「死なせた は 殺したでない」ぐらい、やす香のお友達でも分かってくれている。「わたしは大学で哲学を学んだ」とブログにも立派に自負している夕日子のこのお粗末には、お茶の水女子大学も嘆くだろう。
* わたしは、例の「二十年ないし四十年」もの「虐待」「性的虐待」という夕日子の「言いがかり」が、いかに慌ただしく捏造された虚妄であるかを、もう縷々この場で反駁した。この場でしたのは、この場でこそ知友にも読者にも一般にも分かって貰えるからであり、その他に、この様な破廉恥な言いがかりを逆に攻撃するどんな場所も無いからだ。わたしは、わたしの名誉も妻や息子の名誉も守りたい。そのために紙の本を出版しているヒマもない。
誰かの予言の如く夕日子と★★★とは、「真っ赤なウソ」を恥ずかしげもなく言い立てて、その立場を喪っている。此処に書いたものをわたしはむろん活字媒体で世に訴えることも辞さない。
* 繰り返し指摘する。夕日子は、やす香生前のあのように激越な症状の展開に対し、おそらく六月十六日前後の「入院勧告」を受けるまで、事実上有効な何一つもしていなかった、もしローティーンの子に対してなら、それぞ「虐待」といわれて仕方ない、情けない冷淡さを、自身暴露していた。
夕日子のブログとやす香のブログのいわば「日付合わせ鏡」を見れば、露骨なほど二人に愛と信頼の連繋が無かったのは明瞭であって、それが、ブログにただ一言(かなりアイマイに綺麗につくろって、だが)出ている「自責」の一語に繋がっている。
この母親も父親も、親・舅を告発できる何一つの権利も足場も持ってはいなかった。祖父母は一切のやす香の医療事情を知らされていなかった。しかもわわれは、一度と
して★★の両親がやす香を「殺した」などと口にも書きもしていない。殺人者なんかであってはそれこそ大変だった。よくわたしの日記を読めばいい。
* こうも批判した上で、これはおかしいけれど、足かけ九ヶ月の夕日子のブログを逐一日付順にならべ、字句は触らないが無用な分かち書きなどを整理していって、つくづく夕日子の文章に接しながら、けっこうわたしは純粋にものを「読む」楽しさも楽しんでいた。
なるほど「机上の空論」の多さに苦笑してしまうが、その一編、一編だけで読んで「なかなかよく書けているエッセイ」が幾つかあり、「おう、うまいうまい」などと内心褒めていた。こう書ける人はそうはいない、しばらく音沙汰ない東京の「小闇」の短いエッセイとは、またちがったいい味をみせることもある。多くはない、たいていはいやみに空疎に文を舞わしているだけだが、でも書けるじゃないか、それならこんな駄文にいま力を磨り潰していないで、本格の小説を書かないか、書かないでいるともう「小説の文章」が出てこなくなるよと、すっかり忘れ果ててしまうだろうよと、心配した。
何の「高慢に」自称文筆家が自称女流作家に批評するなと、また喚かれるかも知れないが、わたしは「書ける夕日子」の長生きを、まだ心底願っているというのが本音だ。
* 代理人から「和解案」というのが送られてきた。よく、検討するが、わたしはこんな段階で妥協する気などない。
* 日付はもう変わっている。十月は尽き、十一月だ。さ、機械を消して、この椅子のまま「瞑目」しよう。三十分。小一時間。
うつつあらぬ何の想ひに耳の底の鳥はここだも鳴きしきるらむ 湖
2006 10・31 61
☆ 秦 先生 ゆうべからの深い霧は今朝になって晴れました。これから筑波は霧の季節です。
先生には、しのぎ難かったでしょう夏もゆき、秋も過ぎようとしています。
かなしみを啖(くら)ひてふとれとのたまへり息(いき)をするだに辛(つら)
くゐる日に 木俣 修
わたくしにうたの手ほどきをして下さった先師が、六歳のお子を脳腫瘍でうしなわれた時の作品で、「かなしみを啖ひてふとれ」とおっしゃったのは、親交のあった加藤楸邨さんとうかがっております。
先生の、この数ヶ月は、まさに「息をするだに……」の日々でございましたでしょう。
先生のお身が損なわれるようなことがないようにと、お案じ申しあげるばかりでございます。 香
2006 11・1 62
☆ 湖さん こんにちは。
ずいぶん遠くまで走られたご様子、拝読いたしました。
国立には祖父母の東京宅があり、小さい頃には雑木林をぬけてよく自転車で走りました。
野川、是政など懐かしい地名です。今日のような暖かき一日は、行けるところまで行ってみたいと思わせる一日なのでしょうか。
小学生の頃、どこまでもどこまでも...と多摩川を下って走り続け、どんどんどんどんいい気になってこいでいたら、突然の海。
これ以上自分が行けない事をみせつけられて、呆然としたことを覚えています。行けないと気がついたところから逆に引き返す道は足取り重く、真っ暗になって母から激しく怒られたことを記憶しています。
湖さんがふと曲がろう、右へ左へ…と思われるのはどんな瞬間なのでしょう。何に誘われているのでしょうか。ちゃんと家へ戻れる…戻る…これすごい事のように思います。
「青井戸」「慈子」を載せられた湖の本がお手元にあるようでしたら、分けて頂きたく思います。
本の装丁はどのようになっていらっしゃるのかわかりませんが、今感じるままにその本にも着物を誂えたいと思っています。 珠
* この嬉しいメールで、わたし自身も興味と関心で思い返すのは、「湖さんがふと曲がろう、右へ左へ…と思われるのはどんな瞬間なのでしょう。何に誘われているのでしょうか」というところ。
まったく足任せに何の予備知識もない北多摩や西多摩を走っていながら、たしかにわたしは、この道へ、こっちへ、こんどはそっちへと咄嗟の判断を繰り返している。
昨日など、是政などいう、下保谷からみれば途方もない遠くまで行き、その辺で多摩川は断念したのだったが、そこからはるか東方向の「野川公園」まで、はじめかなりの下り路を快適に利し、そしてふと丘陵の中腹の小径へ紛れ入り、弱上下をうまく繰り返しながら、疲れないような道を、もの珍しい家中、野中、山添い道を、走りつづけていともご機嫌な気分でいたときなど、どうしてこううまく道を選んでいるのだろうと、自分でも少し呆れていた。
ま、ひらたく手早くいえば、急な登り道らしいと避けて行くのだが、登り距離がそう長くないと見通せばがんばって登ってしまう。すると、かならずあとに下り道がくるなどと、はなはだ功利的にも判断している。
だが、それだけではない。今少し微妙にすぎた勘が働いて、おお、よしよし、いいとこだなあという知らない道を、すいすい走っているのだから、面白いというより、時にとても不思議な気がする。
* だが「ちゃんと家へ戻れる…戻る…これすごい事のように思います」というのは、いくらか珠さんにべつの思いがこもっているかも知れないけれども、実地のはなしに限れば、「帰る」方がアテ知らずにどんどん「行く」よりも、うんとラク。東西南北が分かっていれば、そして都下の市の名とおよその配置が頭に入っているから、帰りは迷うことが全然無い。我が家からひたすら南行すれば、東西にはしる青梅街道とか新青梅街道とか千川上水とか玉川上水とかがあり、それだけで西東京がどの方角か簡単に分かる。時間によるし天候によるが、太陽の位置がいつも方角を教えている。ことに磁石を胸ポケットに持っていれば方角をあやまる心配はすこしもないから、どんな知らない遠方からでも確実に、行きよりも効率よく時間も短く帰ってこれる。
気になるのは「これすごい事のように思います」という「すごい」は少し分かりにくい。もし漢字で「凄い」と書かれていればギョッとしたか知れない。わたしの語感では「凄い」とは夜分にあれた野中の墓場をとおるような凄惨な印象にむすびつく。いまどき若い人達の賑わった街中ででも「スゴーイ」「スゴーイ」と耳にすると、そういう用法になっているんだからとやり過ごしているけれど、やはり違和感はある。日本の批評語の一つだから、意味合いがあまり安易に移動していると、はなしが通じにくくなるのを恐れるのだ、ただしそんな例はほかにもいっぱいあって、だから、「言葉は、アイマイ」「言葉は、ほどほどのもの」と思い「言葉は、過信しない」ようにしている。
☆ 秦さん、きのうの四時間のツーリング凄かったですね。だいぶ年下の私など及びもつかぬ健脚、気力、足腰。我が小サイクリングコース・野川公園まで接近 ご体格にふさわしい風を巻き走り抜ける爽快感が伝わりました。
庭に太目の樹がございましょうか。四股を踏んで、鉄砲をうち膂力さらに鍛えれば四肢に躍動みなぎり、草相撲挑戦可能。別に、シニア陸上短距離出場も。七十歳代の部、百メートル、十六、七秒で疾走叶えばメダルも夢でなし。
方角違いますが、広い西武園競輪場は開放感にあふれ気持ちがいいですよ。若いお仲間がいっぱい。車券買わなくても楽しいです…….どうぞ安全に楽しくお励み下さい。応援しています。 多摩e-OLD
* この人も、「凄かった」と。
* なぜ多摩川がそんなに「遠い」のかと不審にかられ、地図を観ていて、わたしの昨日の「思い違い」が分かった。わたしは終点の是政駅へ走っていたのでなく、萩山から終点の国分寺駅に到達していたのだった。是政駅へは武蔵境駅から南西へとローカル線に伴走しないといけなかった。昨日のわたしは国分寺駅から東向きに小金井市へ走り降って野川公園に行き着いていた。
それにしても前後三時間強。今日は武蔵境へまず到達してみよう。そこまでは、近くなくても分かっている。駅の南口にあったフランス料理の「バンクール」はとても佳い店であった。タバコ専売公社時代の役員をされていた読者に、何度かそこでご馳走になり、また妻とも二度三度食べに行っていた。保谷からバスで行けた。
思い違いは、分かってみると面白く、またそれなりに理由があるものだ。是政へは何でも東西でなく南北に走る線路に沿えば行けると想っていた。それは正しいが、そんな線路がほかにもあったわけで。
☆ 湖さん こんにちは。
ずいぶん遠くまで走られたご様子、拝読いたしました。
国立には祖父母の東京宅があり、小さい頃には雑木林をぬけてよく自転車で走りました。
野川、是政など懐かしい地名です。今日のような暖かき一日は、行けるところまで行ってみたいと思わせる一日なのでしょうか。
小学生の頃、どこまでもどこまでも...と多摩川を下って走り続け、どんどんどんどんいい気になってこいでいたら、突然の海。
これ以上自分が行けない事をみせつけられて、呆然としたことを覚えています。行けないと気がついたところから逆に引き返す道は足取り重く、真っ暗になって母から激しく怒られたことを記憶しています。
湖さんがふと曲がろう、右へ左へ…と思われるのはどんな瞬間なのでしょう。何に誘われているのでしょうか。ちゃんと家へ戻れる…戻る…これすごい事のように思います。
「青井戸」「慈子」を載せられた湖の本がお手元にあるようでしたら、分けて頂きたく思います。
本の装丁はどのようになっていらっしゃるのかわかりませんが、今感じるままにその本にも着物を誂えたいと思っています。 珠
* この嬉しいメールで、わたし自身も興味と関心で思い返すのは、「湖さんがふと曲がろう、右へ左へ…と思われるのはどんな瞬間なのでしょう。何に誘われているのでしょうか」というところ。
まったく足任せに何の予備知識もない北多摩や西多摩を走っていながら、たしかにわたしは、この道へ、こっちへ、こんどはそっちへと咄嗟の判断を繰り返している。
昨日など、是政などいう、下保谷からみれば途方もない遠くまで行き、その辺で多摩川は断念したのだったが、そこからはるか東方向の「野川公園」まで、はじめかなりの下り路を快適に利し、そしてふと丘陵の中腹の小径へ紛れ入り、弱上下をうまく繰り返しながら、疲れないような道を、もの珍しい家中、野中、山添い道を、走りつづけていともご機嫌な気分でいたときなど、どうしてこううまく道を選んでいるのだろうと、自分でも少し呆れていた。
ま、ひらたく手早くいえば、急な登り道らしいと避けて行くのだが、登り距離がそう長くないと見通せばがんばって登ってしまう。すると、かならずあとに下り道がくるなどと、はなはだ功利的にも判断している。
だが、それだけではない。今少し微妙にすぎた勘が働いて、おお、よしよし、いいとこだなあという知らない道を、すいすい走っているのだから、面白いというより、時にとても不思議な気がする。
* だが「ちゃんと家へ戻れる…戻る…これすごい事のように思います」というのは、いくらか珠さんにべつの思いがこもっているかも知れないけれども、実地のはなしに限れば、「帰る」方がアテ知らずにどんどん「行く」よりも、うんとラク。東西南北が分かっていれば、そして都下の市の名とおよその配置が頭に入っているから、帰りは迷うことが全然無い。我が家からひたすら南行すれば、東西にはしる青梅街道とか新青梅街道とか千川上水とか玉川上水とかがあり、それだけで西東京がどの方角か簡単に分かる。時間によるし天候によるが、太陽の位置がいつも方角を教えている。ことに磁石を胸ポケットに持っていれば方角をあやまる心配はすこしもないから、どんな知らない遠方からでも確実に、行きよりも効率よく時間も短く帰ってこれる。
気になるのは「これすごい事のように思います」という「すごい」は少し分かりにくい。もし漢字で「凄い」と書かれていればギョッとしたか知れない。わたしの語感では「凄い」とは夜分にあれた野中の墓場をとおるような凄惨な印象にむすびつく。いまどき若い人達の賑わった街中ででも「スゴーイ」「スゴーイ」と耳にすると、そういう用法になっているんだからとやり過ごしているけれど、やはり違和感はある。日本の批評語の一つだから、意味合いがあまり安易に移動していると、はなしが通じにくくなるのを恐れるのだ、ただしそんな例はほかにもいっぱいあって、だから、「言葉は、アイマイ」「言葉は、ほどほどのもの」と思い「言葉は、過信しない」ようにしている。
☆ 秦さん、きのうの四時間のツーリング凄かったですね。だいぶ年下の私など及びもつかぬ健脚、気力、足腰。我が小サイクリングコース・野川公園まで接近 ご体格にふさわしい風を巻き走り抜ける爽快感が伝わりました。
庭に太目の樹がございましょうか。四股を踏んで、鉄砲をうち膂力さらに鍛えれば四肢に躍動みなぎり、草相撲挑戦可能。別に、シニア陸上短距離出場も。七十歳代の部、百メートル、十六、七秒で疾走叶えばメダルも夢でなし。
方角違いますが、広い西武園競輪場は開放感にあふれ気持ちがいいですよ。若いお仲間がいっぱい。車券買わなくても楽しいです…….どうぞ安全に楽しくお励み下さい。応援しています。 多摩e-OLD
* この人も、「凄かった」と。
* なぜ多摩川がそんなに「遠い」のかと不審にかられ、地図を観ていて、わたしの昨日の「思い違い」が分かった。わたしは終点の是政駅へ走っていたのでなく、萩山から終点の国分寺駅に到達していたのだった。是政駅へは武蔵境駅から南西へとローカル線に伴走しないといけなかった。昨日のわたしは国分寺駅から東向きに小金井市へ走り降って野川公園に行き着いていた。
それにしても前後三時間強。今日は武蔵境へまず到達してみよう。そこまでは、近くなくても分かっている。駅の南口にあったフランス料理の「バンクール」はとても佳い店であった。タバコ専売公社時代の役員をされていた読者に、何度かそこでご馳走になり、また妻とも二度三度食べに行っていた。保谷からバスで行けた。
思い違いは、分かってみると面白く、またそれなりに理由があるものだ。是政へは何でも東西でなく南北に走る線路に沿えば行けると想っていた。それは正しいが、そんな線路がほかにもあったわけで。
2006 11・2 62
* 岡山からお志の、すばらしい桜鯛を戴いていた。落ち着いて、明日、ご馳走になる。家にいま生憎酒が無いんだから。最良の酒を買ってきて、何よりも好きな魚の鯛を、心行くまでご馳走になりたい。
馬場あき子さんからも新しい歌集を戴いていた。
2006 11・2 62
☆ お手元から旅立ってご本が届くこと、首を長くして待っています。
> わたしの私語はいま清んでいないので、無理に読まなくていいんですよ。
気持ちのままに…読みたい時に、たぶんそれが私にとって必要な時と思っています。
「私語」、清んでいないとおっしゃいますが、湖さんの目は清んでいます。
私の迷う言葉を、ごまかしを、そのまましっかとその目にとめて下さいました。「あっ、やっぱりばれた…」という気がしました。「すごい」は、誤魔化して飛びついて置いた言葉です。
「戻る..」ということは、我が家、現実の生活へと引き返す道のように思いました。見知らぬ道のあちこちに目を留めつつ、前へ右へ左へと進む道。
進む時に私を誘う何か、どこかの地点で今日はここまで…と思う何か、そして現実へ、生活へ戻るという当然さと、うたがい。そして戻る道筋での思いと選択。そこに何かがあるかもしれないと、湖さんのその瞬間瞬間に言葉を向けてみたくなりました。
でも、ごまかした。
ふと、肉体の無心な動作かもしれないと思ったから…。
単純な動作を毎日毎日行うことで、単純さの中にとても素直な美しさをみることがあります。
「~のため」とか「~だから」など、目的も理由も結果すら考えることなく、まるで小さな子供が自然に行う美しい単純さ、そんな無心な動作かもしれないと一瞬思ったからです。
自転車とはいえ小旅行のような出来事ですが、頻繁に、距離も延ばされてきていた湖さんからそんな無我夢中の子供のような無心さも感じられていました。
私の悪いくせ、考えすぎかな…と、どちらも言葉にのせずに迷ったまま言葉から手を離したのです。手近な言葉に飛びついて…、普段いい加減にしている事を見られてしまいましたね。
でも、うれしい。湖さんの掌で泳いだ気分。
湖さんの掌からこぼれ落ちない様、游(い)かせてください。
> 雑誌「なごみ」のなごりの特集にわたしが珍しい茶会の話を書いていたの、記憶にありますか。 湖
記憶の引き出し開けてみましたが、残念! 記憶にないようです。
珍しい茶会とはどのような茶会の話しでしたでしょうか?
「なごみ」は多くが本棚にあります。探してみますので教えて下さい。 珠
* 「べつのおもいがこもっているかもしれないけれど」と意識して付記していたように、わたしのいわば「帰巣」本能のようなものへ質問が来ていると感じ、わたしは、わざとそこはすりぬけて別の返辞を書いていた。向けられている「そのこと」には、安閑とはなかなか触れにくい。触れてものをいえば、何かしらものごとが一気に強く動いて行くだろうから。
帰って行く「家」は此の世にもあり、彼の世にもある。此の世の「家」も彼の世の「家」も同じと想える人も在りうる。此の世の「家」など無きも同然に荒らしている人達も在る。「帰って行く」とは恐ろしいほど本質的なコトの一つだと、わたしは知っている。
2006 11・3 62
☆ 『廬山』拝読いたしました。 格調高い文章と、思わず引き込まれる流れに一気に最後まで読み進みました。と言いましても、朝の十時から夜の二時まで働いていますので、確かに一か所で中断したのですが。
今日が祭日とも知らず、会社に出るつもりがいきなり午前に空白が出来、後半の四分の三ほどを一気に読み進みました。
感想を申し上げるのは当然のことでしょうが、なにぶん教養も表現力も不足する身の上、賞賛することさえが失礼になる可能性も高く、内容に立ち入らない無礼をお許し下さい。
ただ、一つ。最後の恵遠の言葉、一読したときには正直に申し上げまして唖然としたのでしたが、再読しまして、「これしかない」のだと漸く理解しました。
そもそも私如きの感想など取るになりないものですね。失礼になるという考えこそが失礼だったのかも知れません。 通
* とんでもない。有り難う存じます。
* 触れておいでの、「恵遠」が祖父につげる最後の一語を、いま本をひらいて読み返してみた。瞬時に目の前も泪ににじんだ。宗教や信仰に関して、この三十年で私はずいぶん遠くまで歩いてきてしまったけれど、この一語、いままさにわたしの思いだ。
雑誌「新潮」編集部でついに通らなかった、雑誌「展望」では一決で通った、そして芥川賞の選考では近代日本の私小説の大きな存在、瀧井孝作・永井龍男両先生が推して下さった。すべて不思議なようで不思議ではなかった。のちに偉大な「恵遠(えおん)法師」となるちいさな「劉=四郎」の旅を、わたしは、全身で追いかけた。
『撰集抄』という本に出逢っていたわたしの幸運にも頭を垂れたい。
2006 11・3 62
☆ かくよぉ① maokat
地球上の生物種は一億以上あるといわれている。
そのうち物を書き残すことができるのはホモ・サピエンスという種、ヒトのみである。
ではなぜヒトはモノを書き残すのか?なんのために?
生物種は、子孫を残すことで種の存続を図る。種の存続はヒトを含む全ての生物種が行っている普遍的な現象である。ヒトとヒトが有性生殖をして、F1をつくることで親の遺伝子(ジーン)が後代の子に伝わる。遺伝子はデオキシリボ核酸という物質でできているから、種の存続では、親という個体の一部が物理的に子孫に伝えられている。
もう一度問おう。ではヒトという種だけがモノを書くのはなぜだろう?
もしかしたらそれは、ヒトが非物理的に(も)個体の存続を図っているということではないだろうか。
私は論文を書く。書いた論文はたとえば七十年後の二〇七六年に誰かに引用されるかもしれない。現に今私は一九三二年に書かれた論文を引用して仕事をしている。論文を書いた人はおそらくもう生きていないだろう。でもその論文を引用することで、例えば一九三二年にジャガイモの研究をしていて葉っぱが黄色く巻き上がる病気を発見した「人」がいたことを二十一世紀の私は感じることができる。
これは論文に限らない。紫式部も清少納言も泉鏡花も谷崎潤一郎ももう生きていないが、人は『源氏物語』『枕草子』『天守物語』『細雪』を読むことで、数百年前や半世紀前に生きていた人の存在、その人となりや息遣いまでを感じることができる。これは、子が親の姿かたちを物理的に受け継いで、親がいなくなってもその子の中に親の姿をとどめるのに似る。ただし違っているのは、書いたモノは非物理的に存続し、時間軸を飛び越えられるという点だ。
換言すればヒトはモノを書くことで「非物理的な個体の存続」を図っているということだ。もっと簡単に言えば、物理的に子孫を残すのではなく非物理的に「生きた証し」を残すということだろう。
書くことにはもう一つ意義、というかそうせざるを得ない衝動があるように思う。上でヒトは「個体=自己」の存続のためにモノを書いてきた。しかし、場合によっては自己の存続よりもっと重要な動機に突き動かされて、ヒトはモノを書く。それは自己にとってかけがえのない「非自己」の存在、その「生きた証」を、書くことで後代に残したいという願いだ。
例えば親や妻や子、友人、恋人、同時代に生きた強く心惹かれる人など。場合によっては人でなく他の生物種の場合、さらには非生物種であっても書く人にとって「生きている」と思われる対象でもよい。
自己、非自己に関わらず個体の存在を強く書き残したいという衝動は、その存在が消滅しそうな、あるいは消滅してしまった時により強く感じる。ヒトの場合個体の消滅とは「死」である。つまりヒトは死を感じた時何かを後代に存続させようと願いモノを書くのではないだろうか。対象が自己の場合は個体の存在を非物理的に後代に存続させるため、非自己の場合には、自己と同等以上に大切なその存在を後代に存続させるため。
そして、後者の行為を別の言葉で表すならば、それは「追悼」であり「供養」にほかならない。
かくよぉ②
私が「書くよぉ①」を書いた理由。
午前中の温室仕事を済ませ、家の近所の蕎麦屋で新蕎麦を食べた。店は住宅街にひっそりと建っていて、親子二代の夫婦が経営している。時季は新蕎麦、かぐわしい香りを堪能した。
初々しい若女将に送り出され、店の前に停めた車のエンジンをかけたとき、後ろから軽自動車が走ってきた。私の車の脇を通り過ぎ、その車が十メートル進んだところで左側から何かが飛び出して来るのが見えた。その灰色の物体は車の下で二転三転した。前の車は、何かを轢いたことに気付いて一度停まったが、そのまま走り去っていった。
轢かれたのは猫で、それからしばらくは凄まじい光景だった。
わずか一分ほどの光景である。この一切を見ていたのは、私だけだった。その後、私はどうしたか。
轢かれた猫の末期をみとったか。市役所に連絡したか。汚れた路上を清めたか。
否。
私は、ただ一散に逃げたのである。
とにかくどこへでもいい、少しでも早く、少しでも遠くに、車を走らせることしか私は考えていなかった。
半時間も走り、はるか遠くへ来てから、私は車を停めた。逃げた自分が哀しかった。何から逃げたかったのか、そして逃げたのか、良くわかっていたから。
ニ三年前、身近な人が相次いで亡くなり、やっぱり病室や、遺族の家から逃れ出たい強い衝動に、何度も襲われた。
いい加減歳もとり、自分では克服したと思っていたが、何のことはない、十に満たない子供のころと全く変わりがない。それがわかって哀しかった。
最近はいい気になって、委員になり偉そうに政策を提言し、人の論文の審査をして、茶碗をこねくり回して和敬の静寂だのといっぱしのことを言ってきた。だが自分に備わっていたはずの知識、分別など、小さな猫の魂切れにあっけなく吹き飛んでしまった。その後とった行動は、小二の子供と同じだった。
せめて、私が見た一つの命の終わりを、書くことだけはしておきたい。つい半日前まであった、今はない命である。それが私以外の誰にも見られることなく終わったこと、しかと書き留める。
ただ、自分が哀しい。
* 後段。「魂の色」のほんとうに似たお一人である。
前段。なぜわたしは書きに書くのだろう。むなしいことをイヤほど知っているのに。たぶん、私の場合「今・此処」に生きて在る、それだけを時空に刻印しているのだろう。年老いてわたしにはもう未来を恃む気はない。それで人に怒られることもあるが。もしわたしに未来があるとしても、線的に延長した先のはなしではない。わたしの未来は「今・此処」を垂直に上下した見えない梯子のように「在る」のかも。上の方でも、下の方でもわたしを呼んでいる声がする。「はい、ただいま」と、まだ答えていないが。
☆ 秦先生 ご配慮ありがとうございます。
幸いにも校正は何度も頂いております。(最終校とおっしゃられた稿で重大なミスが見つかり、申し出たところ三回目の校正までさせて頂きました。)
理科系の論文はコンパクトですので、ここまで長い文章を書くのは明治産業史で書いた修論以来のことです。
息を整えて長い文章を書いていく難しさを再認識し、このような機会を与えて頂いたことに本当に感謝しています。
ありがとうございました。
おかげさまで我が家の「第二子長男」は家族中の愛情をたっぷりと受けて、すくすく育っております。
先生のお書きになられるものの中に登場する建日子さんが、日だまりのような存在であるのを拝見するにつけ、こういう息子に育ってほしいと思ったりもしております。特に最近際立つ建日子さんの精神の健やかさ・お強さ、これこそ「第二子長男」や、と手前勝手に思いこんでいたり。
上の子も待ちかねた兄弟でとてもかわいがってくれていますが、これは事前に「お母さんは女の子がいいの」と散々主張した母親を記憶しているためではないか、と。「女の子は自分だけ」という優越感で、噂に聞く焼きもちや赤ちゃん返りもなく、とても余裕のある心理状態のようです。
夕日子さんの足に建日子さんが頭をのせて午睡されているお写真、あたたかなものが溢れていますね。建日子さんは今の息子より1、2ヶ月大きいくらいでしょうか。夕日子さんも娘より少しだけ年嵩なご様子で、なんとなく我が家に重ねて微笑んで見ておりました。
実家でも来し方いろいろありましたし、これからどれだけ今の家族でいられるかわかりませんが、それだけに最近はまめに写真やビデオを撮るようになりました。今までは「親バカみたい」と、突っ張っていた素直でない母でした。二人目が生まれて、少しだけ幸せな親バカになりました。
少しずつ寒さが忍び足で近づいております。
サイクリングが順調なご様子。お風邪など召されませんよう、ご健勝をお祈り申し上げます。 典
* いい論攷を「美術京都」にもらった。財団の母体は好景気の銀行、原稿料もちゃんと支払ってくれるはず。東工大の卒業生に美術系の科学論文というのが、頼んだわたしの嬉しい自慢。
あの無心に昼寝している幼い姉と弟の写真は、撮ったわたしも大好きな心和む一枚。
* 日付が変わった。別段のことなし、階下で本を読みに、機械から離れる。
2006 11・3 62
* 書いても更新を忘れていることがある、夜前の私語もいま送りだしたという按配。
* 朝からいいメールをもらった。都下の玉川学園で、地域というか学区域というかの「コーディネーター」に熱中している娘・★★夕日子のブログを、「検索」で簡単に見つけました、みな読みましたという人から、その「批評」が届いていた。辛辣で痛烈だった。
2006 11・4 62
☆ 祝日で、ナチュラルビクスがお休みでした。お休みがあると間が空いてしまい、体を動かしたくなってきます。
風の自転車小旅行は順調のようですね。
事故に遭わないように、それから、汗をかいて、風邪を引かないようにしてください。
花も元気です。
電車に乗って、のんびりした旅も、いいかもしれませんね。日帰りでも、温泉につかってゆっくりなされば、気分転換になるでしょう。北村透谷が、鬱になると旅をしたそうです。その気持ち、わかります。
どんな人の上にも、モメゴトの降ってくる時期があるものです。せめてひと区切りつくまで、それは風を悩ますでしょう。だから、ムリして平常にならなくていいんです。
花は、富士の麓でいつも風を感じています。
2006 11・4 62
☆ 多摩川到着おめでとうさん。よく走りましたね。
娘達は平気でこの辺りまで、子供を乗せてのサイクリングやマラソンをしてきますが、何しろ七十の爺さんやから、がんばり屋や。
私にはとても走れない、頑張れない。往復で一時間30分程が限度かな。
多摩川競艇場のある西武多摩川線是政終点駅近くのあの辺りは、川崎から東名高速に入る時に、婿殿が川南の道路をよく使います。景観がはんなりと大らかで、いい道。
小金井市の南部、東八道路を越えた南側で、小金井街道と新小金井街道が交差するのを地図を眺めていて、発見しました。
成る程そうなのか、と納得。お気楽便乗者の疑問が解けました。
動いた道筋を地図と照らし合わせると、面白い。 泉
2006 11・4 62
* メールを呉れる人は、なぜか真夜中人が数多い。わたしもそうとう遅くまで機械の前にいがちだったが、努めて日付の変わる頃には機械をしまう習慣にし、階下での読書に時間をわたしたい。
2006 11・4 62
* 次のお目当て友枝昭世の「花筐」が始まるまでの休憩中に、堀上謙さんに声をかけられた。ホームページを連日読んでいて心配している、あまりのことに声もかけにくくて。夫婦して心配しているが元気か、大丈夫か、と矢継ぎ早に。ウーンと心が萎れた。
次いで馬場あき子さんともしっかり立ち話。元気か元気かと先輩の馬場さんに心配させているのも、みな、わたしの置かれている理不尽な苦境をご存じなのだ。馬場さんと堀上さんとは親しいお仲間。馬場さんは相変わらずお元気そう。もう四十年ちかいお付き合いになる。優しくされて、やり心は萎れた。
あわやという一瞬、早大教育学部教授、小林保治氏とオオウと廊下ですれ違う。夕日子たちの仲人さん。
2006 11・5 62
☆ バルセロナの京 恒平さん、多摩川到達おめでとうごさいます。サイクリング記、わくわくしながら読んでいます。
野川公園に行き当たったところで、私も思わず地図を探してみました。恒平さんを追いながら、すっかり一緒に走っている気分です。
ついに多摩川に到達したときには、グーグルアースで是政橋を確かめ、とても嬉しくなりました。
多摩川には、大岡山(東工大)にいた二年間、どれだけ頻繁に通ったことでしょう。二子玉川園の駅を降りてから、土手に出るまでの逸る気持ちが、恒平さんの奮闘を読んで、甦ってきました。
「○○荘」と名のついた錆びれた風呂なしの部屋でいいから、多摩川沿いに住みたい、と***君と夢見たものです。
湖の読者の甲子さんが、確か多摩川沿いに住んでいらっしゃるかと。
とてもとても懐かしいです。 京
* みな、これは、一種の激励なのである、わたしへの。堀上さんが能楽堂の廊下で、溢れるようにして口を切ったのも、ホームページを読んでいるとあんまりつらくて秦さんに声のかけようがないというのも。そうなんだろうと思う。アイサツのすべが無い、それほどむちゃくちゃになっていて、何で…と呆れてしまいながら、状況の烈しさに思わず目を覆いたくなるのだろう。それが分かっているので、優しくいたわりの声が掛かるとまたひとしお気が萎える。
少女の頃実の父に病死した母のあとを追って自殺されているわたしの妻は、だから決して自ら死ぬというようなことは言わない人であったが、先日、「こんどばかりは、そんなわたしでも、もう生きているのがいやになりそうだったの」と、ほろりと漏らした。夕日子は父のわたしだけでなく、家裁への提出文書には母親への容赦ない憎念をさえ書き込んで憚らない。どうなっているのか。
2006 11・5 62
* ものの数分間、インターネット通じ、急いでメールを受信。瀧のように不良メールが来ている。
☆ うちも、時間帯によっては、インターネットの接続スピードの遅くなることが増えました。大勢が利用しているからだと思います。
黒豚って、やわらかくておいしいですよね。
わたし、とんかつは、ときに油っぽくて苦手だったのですが、先日行ったとんかつ屋さんの使用していた黒豚は、やわらかくてさっぱりしてました。また食べたいな。 花
2006 11・6 62
* 午後三時半までインターネット、杜絶。いま、復旧している。その間に受信したまともなメールの、ちょうど二十倍がスパムメール。せっせと削除。どっちもご苦労なこと。
* maokatさん 数日前のmaokatさんのメールをわたしは、なにげない挿話のように読み、猫が轢かれるなんてイヤだなあとよそながら嘆いたのでしたが、なにかしら残響するものがあり、気がかりです。
主題は 逃げる 逃げ出す ということでしたか。
あの猫の場合ならわたしもひたすら逃げましたね、きっと。わたしは人が喧嘩しているとさっさと遠のくのです。とにかく私も逃げ出す方です。
しかしmaokat 逃げてはいけない時も有ります。そこの見極めはじつに大事で難儀ですが、存外に自分の内奥では答が「見えて」居るときもあるものです。轢かれた猫から逃げても悔いはたぶん残りようがない。しかし悔いをのこす逃げをうつと、つらい。わたしはジタバタと見えても思えても、逃げてはいけないと見えているときは、皮を剥がれるほど苦しくても逃げないよう、臆病心の目をふさいででも前へ踏み込むようにしています。
なんだか むちゃくちゃ アテズッポーを喋っているのかも知れません。そうならアハハと笑って下さい。 お元気で。 hatak
☆ hatakさん 連休三日間かけて、明日からの会議資料を精査していました。いまようやく終わったところです。
私が逃げているのは死の影。どんな命でも死なれるのはこりごり。見ず知らずの猫にでも悔いは残ります。
もしかしたら、私には「逃げる」か「のめりこむ」かしか選択肢がないのかもしれません。
仕事、お茶などは後者、その他は前者なのかも。
しかし、人も変わるもの。この先どうなるかはわかりません。
hatakさんのように「今・此処」だけでは私はだめです。「明日」があるから今日もここまでやれるし、やりたいのです。
あたたかい雨が続いてまだ雪が来ません。人に教えられ、この時季の札幌の美しさに気づきました。何に夢中になって、季節の色を見逃しているのか。
ありがとうございました。お体おいといください。 maokat
* ――「今・此処」だけでは私はだめです。「明日」があるから今日もここまでやれるし、やりたいのです。
これが羨ましい。わたしも若かったときは「明日」に引っ張ってもらった。いまのわたしには、「明日」は無いと見切る気力だけが残っている。懈怠比丘不期明日。わたしに言わせれば、「明日」は無いかも知れぬから今日「今・此処」がやれる。今日庵のいわれも、その筈。
――人に教えられ、この時季の札幌の美しさに気づきました。何に夢中になって、季節の色を見逃しているのか。
途方もなく大切な述懐。
maokatさん 明日の幻影に、今日を見失わないで。
* 東工大の若い若い学生諸君にいきなり聞いた、「寂しいか」と。全員に近くが寂しいと吐露して真率だったのをわたしは忘れない。孤独ではないが、やはりわたしは今も寂しい。そんな秋? いや季節感ではない。存在しているものの、根源の痛みのように寂しいと思う。仕方がない。
☆ 城景都氏の描いたHPの表紙絵が画面に現れ、湖の全貌が再復活して、本当に久しぶりに安堵したのですが・・今現在、機会の調子はどうでしょうか?
非常時! ・・十二分に察していても、やはり寂しいです。
夕日子さんのブログを見ました、読みました、繰り返し、重なる記載も、読み落としはないか確認しつつ読みました。記載量自体が多くありません。そしてmixyの方はまったく読んでいませんので、果たしてこれだけの「曖昧」な記述から、わたしが感想を述べることに、懸念も戸惑いもあります。
またあなたのHPから多くの事実も先入観もわたしの中には既に存在しています。できる限り静かな目で物事を観察したいといつも自分を牽制してきました。これまで思ったさまざまも、敢えて書くのは押しとどめてきました。夕日子さんを突き放して眺め、批評批判することも「保留」してきました。
やはり親子なのだからと、夕日子さんはいくらか問題ある人だとしても、親子の情けは分かってくれるだろうと・・冷静に「保留」したいと、今も半ば思っているのです。人を見る目のいかにも甘い・・と指摘されるとしても。
そしてブログを読みつつ思いを敢えて書いていると、いつしかそれは半ば以上夕日子さんに向かっての文章になっていました。
わたしは彼女に、できる限り人を傷つけない静かな人であってほしいと思います。親を、わが子の四十九日も終わらないうちに告発することなど、どんな理由であれ考えられないのです。
人間関係の修復を今更言っても現段階で、おそらく不可能でしょう。せめて書かれているように「没交渉」であればいい。これ以上裁判などを行い互いを傷つけることは、意味がないこと、虚しいことです。
以下は簡単な感想です。
ブログから窺われる、一主婦の像は、実を言っていかにも掴みにくい。ブログを立ち上げる動機も、伝えたい思いも、中途半端で底が浅いのです。コンピューター画面でであう多くのサイトは・・かなりがその傾向にとどまっているのが実情ですけれど。
「ひそかに取り纏めたい」とコーディネーターを目指していますが、訴求力の弱さ。一回限り、単発的なイベントなら何とかなるかもしれませんが、離れていった友人の主張するような息の長い、展望をもったものを作り上げていくことはできないでしょう。(当人はそれでいいと述べていますが・・・)
今月初めに行われた地域のイベントの記事に、「安請け合いのコーディネーター、つまりわたし」と書かれています。夕日子さん、あなたは安請け合いの祭り好きなコーディネーター、それでいいのですか? それを一年に一度すれば、それでいいのでしょうか?
祭りを行ったこと、その意味も充実感もあるでしょうが、たとい一地域と限っても、小さな集団をまとめてコーディネートしていくだけでも、やはり日常の中で培われた信頼関係が必要でしょう。そしてそれがあなたの本当に目指していることかどうかも。
最初の画面の左側に出てくる項目で留意されるのは、「愚痴」。
何故、この教育や地域を考える人が愚痴というものを「強調」するのか・・愚痴が人生の生き甲斐・・それはい
かにも寂しい感じがしました。
そして一番愕然とするところ、七月三十一日、「娘というカテゴリーは、今日で終わりにしよう。」という記述でした。娘というのはカテゴリーに過ぎないのでしょうか。カテゴリーとは、部類、範疇・・。
存在の基本的な在り方という意味で娘を家族をとらえてカテゴリーとしているなら、それならいっそう「今日で終わり」など決して言えないと思うのです。
自分が産み育てた大事な大事な娘。もちろん彼女にとってそうであったでしょう、喪失感に打ちのめされていたでしょう・・それはあまりに当然、自然の思いと察するのですが・・だからこそ、それはどう考えても「娘というカテゴリーを終わり」としていくような類のものではないはず。
娘の死後、母は茫然自失し・・一種の「忘却」を課してカテゴリーを終わりにすると書いたのかもしれない。けれどもわたしは納得できませんでした。封印、忘却と思っても、どんなに思っても、それはできないし、長い長い時間の中でようやく、やっとやっと否応なく受け入れていくしかないこと、悲しみを緩和させていくしかないことでしょう。
確かにこのブログが書き始められて以来、直接的に「娘」の存在が書かれ語られたことは入院の記事にいたるまでありませんでした。娘が通っていたらしいフランス語を教える私学のことは語られますが、その時も身近な娘の教育やこれからの彼女の夢とともに、彼女の大学生活が語られたことはありませんでした。それが娘の日常に何ら問題が生じていない状況であったら、ただ読み過ごしていったでしょう。が、この時期すでに深く静かに悲劇は進行しており、そして凄絶な悲劇が逃れようなく突出してしまったとは・・。
死までの非日常的な、混乱した、動揺激しいさまざまな展開は察するにはあまりあることであり、母として必死な時間だったでしょう。何もできないことに、娘に代わって上げられないことに絶望するしかない。その間の記述に、七月の記述の痛ましさに、頭を垂れるしかありません。
が、二週間の自分の活動の「ブランク」云々は、理解に苦しみました。娘の生死をかけた最期の闘いと自分の闘いは同列でないことを、母は謙虚に受け止めなければならなかったでしょうに。
娘は、在るはずだった時間をすべてすべて諦めなければならなかったのです。どれほどつらいことだったでしょう。「世界は広いのに。わたしはもっともっと生きたかったのに」と。
十月十日、「社会復帰はこのイベントからということになった。」と。
夕日子さん あなたの社会復帰とは何か??
それまでの大きな事態はなんだったでしょうか? 社会復帰できなかった、果たせなかった、永遠に断念するしかなかった娘・・それこそが問題だったのに、口惜しいことだったのに。
HPで露わにされている、被害妄想としか思えない告発文・申し立ての条条!
なんと大げさで、ぎらぎらとおどろおどろしく、汚い羅列、わたしにはそのように見えました。
裁判などで過ごす時間ではない、今こそ亡くなった人を静かに思い偲ぶ時間ではないでしょうか。
ただし誤解してほしくはないのです。わたしは自分が子を喪うという、そのような大きな苦しみを体験していないのであり、あくまでも母としてあまりに過酷な体験をしてしまった人を、さらに苦しめたくはありません。苦しみの中から人を受け入れていく大きな愛を、さらなる愛を望みたいのです。それだけを望むのです。痛みを、傷みを知る人だ
からこそ、わたしは望むのです。
補足; 「ぐんもー」と書かれた人の一人だろうか、わたしは? そのように一括りされることは、拒否する。秦氏が、ある読者が述べたような100パーセントの人だとは思わないし、大げさな礼賛もしない。しかし秦氏は実の娘を何十年にもわたって性的虐待するような人では、ない。
PS
今日は立冬、木枯らしが吹きました。風邪引かぬよう、くれぐれもご自愛されますように。拙い感想です、どうぞ許してください。 一読者
* 多くのいわゆる聖者や賢者たちがいて、バグワンは指さす、彼らは「苦行」していると。だが、それら苦行はすべて彼らの「心=マインド=分別」がしていること。彼らはイツも正しいことをしてはいるが、その正しい行いは内発的なものでない、と、バグワンは指さす。「それは意図的な、計算ずくのことだ」と。彼らはいつも経典と首っぴきで、なにが正しくてなにが誤りなのかを「調べ」ている。彼らは彼ら自分自身の洞察を持っていない。凡庸な学者と同じだ。修行や苦行や訓練は彼ら自身の心の投影にほかならないのである。
わたしもそう思う。自然、いわゆる聖者や賢者と呼ばれ自分でもそう思っているような多勢は、行き着くところニルヴァーナ(涅槃・解脱)の罠に陥ってしまう。彼らはひたすら欲望する「光明」を得ようと。目的はそれなのだ、だが、問題が其処にある。「光明」は「悟り」は、欲望の対象になんかならないものだ。悟りを、enlightenment を、欲望し渇望した瞬間、おまえは罠に落ちている、と、ブッダは明言する。
光明は、悟りは、慾の対象にはできない。野心の対象にはならない。解脱は「目的地」ではない。達成目標なんかでは在りがたい。そんなことでは、なにもかもエゴトリップになる。最悪の罠―――。
深く静かに自分自身をのぞきこめとバグワンらブッダは教える。此のわたしは、己のうちなる闇におそれず沈んで行くだけだ、自身の本来、本性、光明を感じながら。
* なにもしないで、なんでもする、それがぜひ必要なら、うんこをつかんでも投げる。
* 「今・此処」で、かりそめの遊びなど、したくない。
2006 11・7 62
☆ 機械は、まだ休憩中でしょうか。
風は、せっせとお仕事なさっていることと想います。
わたしは、今夜岡山へ発ち、日曜に帰ってきます。
朝夜が寒くなってきました。お出かけの際は上着を忘れずにね。 花
☆ 数え歳で祝う慣わし。同期生は早産まれもみ~んなで自祝しました。
今回の同期会は場所を変えて、紀伊国屋文左衛門の屋敷跡といわれる都立清澄庭園内の涼亭でありました。
こんな会が始まってから、もう五年にもなるのでしょうか。お世話役が毎度変わらず率先して働いてくださるので、それに報いる意味もあり、元気な間は出かけます。
こじんまりと纏まり、故郷を離れた同期というだけの縁で、二十人足らずが、和気藹々と過ごせる刻は、出会い冥利に尽きるというものでしょう。
手入れよく、落葉樹の少ないこの回遊式庭園は、凛とした青鷺や白鷺の姿が観られ、上々の秋晴れ。
**ちゃん達と懐かしい! と拾ったのが、椎の実でした。
小学生時代に登った粟田山の椎の実の粋場(すいば)、偶然二人共が、毎日曜日にボランテイアに通った府立図書館付属の子供閲覧室、高校時代にその図書館へ勉強に通い詰めた***クンは京大に入ったとか、あの京都アリーナ―へはよく滑りに行ったとか、いつの間にかそこが西洋美術館に建て変わったとか、京都市美術館の池の鯉に麩をやりに行ったとか話が連鎖して、人の輪が広がる内に話が飛躍して、先日の高校問題に。
詰まるところ日本史や世界史の履修をカットしてはいけない、教えるべき、若者が知るべき科目だと、昔の高校生は怒る、等々。
一年の内の数時間を他愛なくお付き合いが出来るのも、古稀まで生きていたからって事です。
運命ばかりはママナラナイけれど、傘寿も白寿も迎える気力で生きましょうヨ。 泉
* 秋冷え。春が待たれる。
2006 11・10 62
☆ 湖へ お休み前のメール、うれしく受け取りました。
毎週金曜日の夜、珠はお茶の稽古に出かけています。
老齢の師は一人暮らし、遅くてもよいからといつも稽古の始まりは早くて20時。今日の私はあたふた仕事を片付けて、何と到着は21時。丁度仲間の稽古が終わって、22時頃より私の番。
炉開きなので、壺飾りなどという滅多にしない飾り物と、お薄。
稽古が終わってお釜や水屋を片付けたら、もう23時半でした。
なんともはや、師の寝る時間を奪う稽古ですが、これが師のいのちを延ばす稽古になってほしいと思いつつ、ほぼ終電で帰宅しました。
湖のこえが聞こえてほっとしました。
インフルエンザワクチンの後は体が一時的に弱ります。数日は無理せぬように、くれぐれも。
珠は元気です。 珠
* 叔母の昔の稽古場を思い出しました、やはり十一時近くまでおそいお稽古の人がいました。わたしもよく叔母の代わりにお稽古をみましたよ。もう全部記憶から返してしまいましたが。
日記書いていますか。「MIXI」も観られなくて。
お仕事、よく分かりませんが。珠はホスピスにでも勤務ですか。ドクターですか、ナースですか。 湖
☆ 頭痛で寝ていたら、ひなが真横にきてゴロゴロしながら一緒に寝てくれました。霜
2006 11・12 62
* 新しいADSLのルーターが届いた、新配線は二十七日に。さ、うまく稼働させられるか、だ。
* 何をどう触った結果やら、いま辛うじてインターネット復旧していて、開けぬママ受けていたメールが六百通ちかく。しかしまともなメールは十数通。削除作業だけでうんざりする。またすぐ落ちこむのだろうが、連絡は今のうちに貰いたい。
2006 11・23 62
☆ 秦さんへ ごぶさたしております。どうされているかなぁと思っています。
落花生やのおじさんが、やっと届けに来てくれましたのでお送りします。少しですが、ご笑味ください。
秦さんのホームページがないと、ほんとに張り合いがなくなりました。残念でなりません。
湖の本をまた一から読もうかなと思っています。マウドガリヤーヤナや最上徳内さんにも会えますから。
千葉も冬が近いです。
どうか、くれぐれもお大切にしてください。 千葉 E-OLD
☆ 相変わらず走っていますか。
格安ツアーで山は薄化粧の蔵王温泉に一泊してきました。蝉の声ならぬ時雨の音を聴きながら、傘をさし
て紅葉最中の立石寺(山寺)の五大堂まで上り(時間制限での上りはしんどかった! もう此処は最後にしよう、と心の内に呟いて)、鳴子峡、松島瑞巌寺、銀山温泉の散策と盛り沢山の東北旅行でした。
古稀の歳なりに、の~んびりと過ごしてきます。
さてさて、このメールが無事に届くのかしらね。 泉
☆ 愛蔵の本が一冊増えました 雀
興福寺と春日大社は藤原不比等が平城京遷都にしたがって創建したと思っていたところ、名張に元春日の一社があり、神護慶雲二年正月に鹿島から神が出立して遷座したときいて、道鏡が最高権力にいた頃じゃないのと俄然興味が湧いて周辺の元春日を訪ねていたときのことです。
城上郡安倍山が現在のどの地にあたるのかわからなくて、安倍寺近くに春日神社があるのを訪ねてみました。池の端の小さな社で池には吉備瓦窯跡と解説板が立っています。祭神のなかに天武天皇と大津皇子が加わっているので、なぜ春日に? と不思議でした。
「死者の書」を読んで頭を掻きました。あの池は磐余池(いわれのいけ)だったンですね。数日かかって「死者の書」を読み終え、今朝からいそいそ二回目に入りました。ものの数頁もゆかないうちに、秦さんが傍らにいらしてくださって、お作のあれこれを聯想してぼんやりとすること、読み終えたくない思い、最初に戻って繰り返すたのしみを思ってみること、それらの愉悦がくるくる入れかわりにおとずれました。
読み終えたとき窓の外にひろがっていた黄昏の景色とひえびえとした空気に気がつき、別世界を旅した幸せにひたりながら、以前と違う深く複雑な感慨は、出会いや、お作や、年月や、旅によって得られたと、しみじみありがたさを感じました。これからこの本を手に取るたび、この気もちを思い出すことでしょう。 囀雀
☆ 空とんで、鳶は仙台にいます。昨日は立石寺に上りました。紅葉が遅いのは地球温暖化の影響でしょうか。今日は松島に行きます。
旅先からインターネットにアクセスしましたが、機械不調のようですね。連絡がつかない。呆然.虚しく帰ります。鳶
☆ 木の実落ちて ぼったりと重なった雲から冷たい雨が降り続く今日のような日には、ことさら湖北の観音が恋しくなります。小谷城址から道に迷いとうとうたどりつけなかった小谷寺の如意輪観音に執心の雀です。
「盲目物語」を読み始めました。お作のあの場面、この場面を思い出して地図をながめ中断が長引きます。囀雀
☆ 秦先生 お元気ですか 林
☆ 風のインターネットが復活したら、メールくださいね。 十六夜の花
☆ 湖さま お礼が遅くなりました。能に関する著書のご紹介有難うございました。
私も三週間ほどパソコンの調子が悪く手を焼いていました。
自転車の遠乗り、、汗をかかれませんか。今は愛知県在住ですが、私も以前に練馬区に住んだ事がありますので、見知ったあちらこちら。湖さまの自転車の走るルートを一緒に思い巡っています。風邪などお気をつけになられて下さい。
先ほど鶴見俊輔さんとの対談集をこちら「MIXI」で見つけましたが、
文言の前に
[秦]
[鶴見]
と区別してあるので私の様な者にも読みやすいですが、「闇に言い置く-私語の刻」を読み進むと、最後に別の方のハンドルネームがあって あらこれは[湖] さんのお気持ちでなく、投稿文なのね、、と遡って読み直すこと時々。
段落の初めの[*印]を、別のマークに区別するなど、、と思いました。
三枚のお写真、見せていただきました。きっと天国で、同じ笑顔で微笑んでみていらっしゃる事でしょうね……。 増
☆ 絲をくるやうに 天武天皇の御代、難波の浦に流れついた地蔵菩薩像のゆかりの地を探しながら湖北へ歩をすすめた上人が、一本の柳の大木の下に地蔵像を下ろして休息したところ、像は光明を発しそこから動かなくなったので上人はそこに地蔵像をまつることにし、柳の木の下が「木之本」の名の由来とのこと。
眼病に霊験あらたかという木之本地蔵院の本尊。賎ヶ岳の麓でいまも繰られている琵琶・三味線・琴の糸。姉川の戦の折、土に埋めて守られた渡岸寺十一面観音。「盲目物語」を続けて何度も読むうち、余呉の鏡湖にそれらがうつっているように想えてきました。 雀
☆ 機械はまだ回復しませんか? 心配しています。早く機械の根本的な対策を。携帯電話があったら!!
風邪ひかれぬよう、お元気に 鳶
☆ 少し嬉しかった事がございましたので、ご報告申し上げます。
先日、古本屋で少し諦め気味に、雑誌「太陽」のバックナンバーを漁っておりましたら、なんと、ありました1974年12月号!
是非とも初出誌で「三輪山」を拝見したいと思っておりましたので感激でした。
版画の挿絵もイイ感じで、やはり何かご縁があったのかと感謝の気持ちで一杯になりました。 神
* なんとなく、ほっとして。
2006 11・ 23 62
☆ 繋がった! 機械の一時的な幸運でしょうか。でも、嬉しい。
お送りした富士山の写真は、けぶったような全容にかすかに茜色もたゆたっていて、うっとり眺めました。平地からだとどうしても電線や何やらに遮られ、きれいに抜けて見えることが少ないんです。もっともっといいビュースポットを見つけます。
平野謙の文庫本は、『島崎藤村・人と文学』という題で、「破戒」「春」「家」「新生」それぞれ論じたのと、「藤村の生涯」だとか「晩年の藤村」など、いくつか収録されています。
「新生」論は読み終えました。これ以上はないというほど、平野謙は藤村をよく読んでいますね。この論でいわれていることが定説になっていますよね。
自分の評論「告白する小説」を書きすすめてもいます。
今年の内にも、ほんと、風とお逢いできるといいのだけれど。お逢いしたい。 花
* 二週間ほどインターネットがダメでしたが、メールというのは、あくまで補助・連絡・消息ですね、郵便やハガキとちがい簡単に毎日でも一日に何回でもメールは可能だから、密に、親密に感じ錯覚してしまうのでしょうが、錯覚ですね。空疎感を回数で補っても生彩は生じない。遠隔地の人とは、でも、実に有効ですね、但し過剰に頼むべき手段ではないようです。「まこと=真言・誠」「みこと=御言・命」ということばを、おそれ敬いたい。
平野の「新生論」は、検事と弁護士の二役をめまぐるしく演じ分けながら、捻子釘を作品に打ち込む勢いでしょう、息をのみます。作品論の一のお手本としてあまりに鮮やか、あっけにとられますね。
わたしは、「心」や、「夢の浮橋」「春琴抄」「蘆刈」などを論じるとき、作品の「本文をよく読んで」観念的に逸脱しないように努めました。本文から好き勝手に飛躍し乖離すると、その隙間から論旨が錆びて腐蝕してきます。それを避けるためにも、愛読できる作品を論じるのが深切です。批判のために論じると、身振りが大きくきつくなり、格好がいいようで、とかく作品本文から浮きあがりかねない不安がうまれるものです。
お義父上のご病気ご平安を祈ります。お大事に。 風
2006 11・24 62
☆ この夏、「天野」と名のつく山、里、川への遊山をいたしまして、“天野川の旅”で、福田寺に立ち寄っておりましたので、近くの湖岸に舟をひそませたくだりをリアルに読みました。
悲恋伝説があるという朝妻神社と天野川をはさんだ世継の蛭子神社から始め、宇賀野にある元伊勢坂田宮、長沢御坊福田寺、熊野神社、後鳥羽神社と名越寺、息長宿祢王古墳山津照神社とたずね、居醒の清水、定家逗留の藤川宿、柏原宿の京極家墓所、「かくとだに…」の「もぐさ」店などを時間の都合であきらめて、番場の蓮華寺にお参りして帰りました。
この旅の前に、天野山金剛寺、觀心寺など河内を遊山し、松上げの頃、花背から常照皇禅寺への道を訪ねておりましたので、天野川から帰って光厳・光明両天皇のご生涯をさらってみました。ため息をついて年表を書く手を幾度も止めました。先だって深草の十二帝陵を訪ねて驚きました。長慶天皇御陵に比べ、12人いっしょくたでこんな小さい御陵なンて…北朝もお気の毒なことでした。
いま、雀の胸を占めているのは度会郡にある伊勢内宮別宮瀧原宮と、かつらぎ町天野の丹生都比売神社の霊気、久多集落と“くたくた道”の景気、そしてお綱かけ神事の翌日に訪れた花の窟で見た、綱に下げられた花のなまめかしい色です。 囀雀
☆ 穏やかな晴れ。家の建方工事がはじまっているので、雨は降ってほしくないんです。まだ屋根はありませんから、内部の建材が雨ざらしになってしまうので。住宅メーカーの人は、「大丈夫」と言ってくれますが、降らないに越したことはありませんものね。
平野謙が藤村をあそこまで読み込んだのは、惹かれるものがあったからでしょう。愛情が文章にあらわれています。愛ある批評とそうでないものとは、読み込みの深さが違うと思います。
読み込んだ上での批判。中村光夫の『志賀直哉論』もそうとう厳しく、志賀直哉はとても腹を立てたようですが、中村光夫が志賀直哉をほんとうに嫌いだったなら、あれだけの長文を書かないと思います。中村光夫は志賀直哉を、コテンパンにしても耐えうる大きな存在、「好敵手」と目したんじゃないかな、と思っています。
雨あがり、風はサイクリング中かな、と。事故に遭いませんように。 花
☆ ながいお休みでしたね。順調に繋がりますように。
今日は雲ひとつない秋晴れ、天神さんの銀杏が見事に色付き、朱色のお社と青空に映えて綺麗でした。紙屋川沿いのお土居も静かで、紅葉が堪能できました。
又、毎日お声が聞けますのを楽しみにしています。
お元気でいてくださいますように。 のばら 従妹
☆ 今日 フイリップ・ノワレの訃報を。76才とあり、そう歳の違う人ではなかったのだ、と知りました。若い頃のちょい役を観たことがありますが、これも観た「地下鉄のザジ」で、名前が知られたとか。何といっても「ニューシネマ パラダイス」「イル ポステイーノ」で味わいを見せてくれた俳優さんです。
ビスコンテイの映画は今回ビデオに入れ直しました。映画でなければ味わえない、遠い遠い夢の夢のようなおハナシ。時代物のコスチュームも含めて好きなジャンルです。
「寅さん」は毎年一月に映画館であははあははと大笑いをして観ていた程のフアンですが、ウイーンロケものだけを見逃しているので、近々放映とか、楽しみにしています。アガサ・クリスティーものもあるらしいので、これも待たれます。
クリント・イーストウッド、モーガン・フリーマン、ヒラリー・スワンクの「ミリオンダラーベイビー」が早や民放であるらしく、お見逃しなきように。とても佳かった。
生きてるって素晴らしいでしょう。額に皺を寄せて、鬱にならなんように。年寄りは気侭に生きてれば、勝手に日が過ぎていくもんよ。寿命が来た時に、この世におさらばしたらええのんちゃうやろか。
あしたはあしたの風がふく。マーガレット・ミッチェルはうまい事ゆうたはるワ 泉 2006 11・24 62
* 医学書院で、主任を務めていた頃のデスクに、中島信也という早稲田を出て来たほんの少し若い部下がいた。学生の頃からハードボイルドの翻訳などしていて、わたしの京都の中学で一つ上の、秀才山下諭一らと仲間であるらしかった。山下ユウちゃんも中島君の先輩格、ハードボイルドの畑でもう名を売っていた。わたしの最初の私家版を「いい道楽だね」と評したのも山下先輩であった。
中島君から「秦さんも書いてみませんか」と誘われても、あまりに行き方の違う方面で、仲間に加われるとも加わりたいとも思わなかった。それよりも彼に頼まれ、担当していた親しい産科医を奥さんに紹介し、その甲斐あってか子供が出来たと聞いたような記憶がある。
おなじデスクに小高光夫君がいて、中島君は自分の名前と小高君の名前を混ぜ合わせ、小鷹信光という筆名でたくさんな翻訳本をハヤカワなどで出していた。日本ペンクラブにも在籍していたような退会したような、記憶はアイマイだが、何かの折りに本を贈ったかして、細い縁の糸は繋がっていた。
そして昨日、五百頁も越す早川書店刊『私のハードボイルド』という「固茹で玉子の戦後史」資料と回想とを贈ってきてくれた。昔の同僚のために乾杯した。
あまりに畑が違いハードボイルドの消息には疎いわたしであるが、帯をよんでみると「固茹で玉子野郎=ハードボイルド・エッグ」とはもともと「ケチん坊」の意味であったとか、戦前に初めて「ハードボイルド」を日本に輸入したのは『丹下左膳』の原作者だったとか書いてある。村上春樹とレイモンド・チャンドラーの『長いお別れ』の関係は? などともあるから、秦建日子の方が読みたがるかもしれない、いやいやわたしもチャンドラーなら、東工大時代に通勤電車で何冊も読んでいた。
中島君が退社したのとわたしが太宰治賞をもらったのと、どっちが早かったか、忘れている。彼の方が一足早く独立したのではなかったか。
* 医学書院ではわたしの太宰賞と同年か次の年だったかに雑誌「宝石」でミステリーか何かの賞をとった人がいた。いまどうしているか知らない。またやはり一時期わたしの課にいた中川史郎君が「群像」に作品をだして芥川賞候補になったことがあるが、その後そのまま棒を折ったようである。ずうっと遅れて、ずうっと後輩の樋口君が出て、今も「三田文学」などで評論家をやっている。われわれの編集長長谷川泉は、森鴎外研究の泰斗であった。
* 千葉の勝田さんからぷりぷりとした良い「落花生」をたくさん頂戴した。また、海のない甲州で何故とおもうほどすばらしく立派な「鮑」の美味しそうなのを、二杯、ある歌人に戴いた。スグにも食べたいが、お正月までと妻は大事にしまいこんだ。見るから歯触りの柔らかさ豊かさも感じられそうで。いいお正月さんに来て欲しい。
* 四国からは讃岐の特産であるという「磬石」を頂戴した。小槌で打つととても堅い澄んだ音色がする。讃岐にしか出ないという石だそうで。音色というのは、しみじみと人を落ち着かせる。二十年ほど前にやはり読者に頂戴した信州産の陶の鳩笛を、いつもそばに置いてときどき吹き鳴らしている。
2006 11・25 62
☆ 瀧原宮・瀧原竝宮
砂も流す急流の瀬に倭姫命が困っていると、真奈胡神が出迎え姫を渡してくれました。姫はそこに御瀬社(現・多岐原神社)を定めのちに「三瀬の渡し」ができました。
真奈胡神の案内で姫はさらに上流へと進み、“大河の瀧原の国”に新宮をつくります。それが現在の瀧原宮・瀧原竝宮だそうで、西国三十三所巡礼は、伊勢神宮に参り三瀬の渡しを渡り瀧原宮に詣でてのちに、青岸渡寺に向ったとのこと。
おはらい町もおかげ横丁も、もちろん古市ようの門前町なども一切ありません。周辺の“道の駅”はどこも木材・木工、猟師・漁師がもたらす山の幸、手わざの品々にあふれ、小椋、木治といった名字をみつけた雀はしこぶちさんを思って瀧原宮への道を進みました。
入り口に衛士がおひとり、宮域に神職さんがおひとりというしずかな神域。ゆっくりと砂利を踏む足音と、ほぅっと小さく息を吐く音がきれぎれに聞こえてきます。
宮域はまるきり伊勢内宮の雛形でしたが、御手洗場は本当に漱ぐ清流で、身を浸したら生き返るのではないかしらと思いました。『冬祭り』の最終章がこれほど実感できたのは初めてです。
せせらぎを耳に大樹のなかを歩むと、あたりが明るく開け、白と黒の丸い石を敷いて域を分けた宮があらわれ、胸にもオツムにもびゅぅっと風が吹きました。
ならんだ御殿の東は一段高く、南面して若宮神社、西面して長由介神社と川島神社とが同座した社殿が建っています。
磯の香を、懐かしく思わせる程度にとおのかせて、山の神と谷の神とが肉感を加えた濃厚な生命の霊気は、ぬくくてまたひんやりとして、しっとりやわらかで、また、かりかりとかたい肌合。若水復水そんなことばが数日経ってゆらゆらうかんでまいりました。 雀
☆ 疋田 電化方式が統一され、琵琶湖をめぐるJRが先月21日に「環状化」されました。これにより湖東を通って京阪神から敦賀へ新快速が一気に走り始め、「かにかにツアー」も、湖北・小浜の観音めぐりも、観光客を招こうとヒートアップしております。雀にとってだいじな摺り針峠、新疋田駅に、新快速は停っているのかしら。
実家と往復のつど、列車の窓から山を眺め湖をのぞみ、停車時間の終わりごろにようやく、“この「新」てなンなのかなァ”とぼんやり疑問を抱き続けておりました。この夏近江を旅しておりましてふと手にした小冊子から、偶然にその訳を知りました。
外国人技師に頼らない鉄道トンネルの第1号が、大津線の旧逢坂山トンネルだそうで、次に完成したのが柳ヶ瀬トンネルだそうです。
昭和32年に深坂トンネルを経由する現路線が開通したため、旧路線は柳ヶ瀬線としてローカル化し昭和39年に廃されました。トンネルは現在自動車専用で、出入口に設置された信号機による交互通行で、「大型車不可、高さ制限3.5㍍、」として使われているとのこと。
木之本→中之郷→柳ヶ瀬→雁ヶ谷→刀根→疋田→敦賀→新保という柳ヶ瀬線。地図を広げてルートをたどってみましたら、その先は今庄→武生→鯖江→(北ノ庄)福井、岐れて一乗谷、越前大野、白山…人が歩き、牛馬が行き交い、泰澄が歩き、十一面観音が伝わり、お市がゆき、鉄のレエルが敷かれ・外され、鉄の馬が走り自動車が行き来する…うつりかわり、ですわねぇ。 雀
2006 11・25 62
* 勝田さんが、また「マウドガリヤーヤナ」なんか読み返したいと言われていた。わたしもふと読み返したくなり「MIXI」に連載することにした。「マウドガリヤーヤナ」の分かる人には興味を惹くだろう。読みやすい利きやすい語り口で語っている。
* 戴いた「磬石」の鳴りが佳い。黒いマゴも畏まって耳澄ましている。
2006 11・26 62
* 瀧のように不正メールが殺到していた。やれやれ。
☆ 美濃 雀
紅葉狩のクルマで混む前にと、先月の末、揖斐川の西岸をさかのぼってみました。
上野から桑名まで自動車専用道路を使い、名張→上野→柘植→関→亀山→鈴鹿→四日市→朝明川→桑名→不破といきたかったのですが、行き当たりばっ旅のうえに、大海人皇子の道筋をなぞり、十一面観音を訪ね、芭蕉の旅も迹(たず)ねたいという欲深雀は、青墓で時間切れ。Uターンとあいなりました。養老寺(十一面千手観音)から養老神社へ、さらに滝へと歩き、赤坂の勝山安楽寺に差し寄り、青墓の円興寺址へ行き、神戸の日吉神社に寄って旅の決着をつけました。いつか番馬から醒ケ井→柏原→今須→不破→野上→垂井と走ってつないでみたいです。
JR美濃赤坂駅からすぐのところに、お墓がひしひし並んだ小山があって、背筋に冷たいものがはしりました。それが勝山(オカチヤマ 52 メートル)でしたの。大海人皇子が戦勝祈願をし、戦ののち大友皇子の冥福を祈ったという安楽寺があります。
最澄創建の円興寺は聖観音を本尊として、また地主神をまつった白髭神社でもあるそうです。現在は麓におりていてかつて寺があった小山には遊歩道がめぐっているときいたのですが、人の気配はなく、川べりを渡る板は苔に覆われ径には落ち葉が積もり、「義朝のォ心に似たりィ秋の風ェ、酔狂酔狂」とつぶやきつつも養老の上り下りのあとで足元に気をとられながらの山道、少々骨が折れました。
寺の門址に「苔埋む蔦のうつゝの念佛哉」の句碑が立ち、さらに道をゆくと石仏と石塔が取りまくなかに五輪塔が三基並んでいます。向かって右から、義朝、義平、朝長とのこと。お参りをして笑いそうな膝を気遣いながら下りてまいりました。
安八郡神戸の日吉神社は鳥居に「日吉新宮」の扁額がかかり、塔が空に描くうっとりするようなシルエットに見とれていたら、立て札で、狛犬・お社と三重塔・地蔵・十一面観音が交ったままのこっていると教わりました。最澄が日吉山王を勧請した神社だそうですね。
御在所山などつぎつぎと峯々がのしかかり、ふりむけば暴れ川がうねっているその隙間に道が通りクルマは走ってゆきます。雀はのんきに景色を楽しみ、大海人皇子に比べようもないズルをした旅でしたが、それにしても遠いなぁとふくらはぎをさすりさすり、ため息をつきました。 囀雀
* 勝山や、義朝らの墓や。みな、身にしみる。こういう「雀聞記」は、縁のない人には只の道楽と見えるかも知れないが、とても、有り難い。とうていわたしは脚を運んで行けそうにない。雀はわたしの代わりに飛び廻ってくれており、しかも行き先がすべて凡でない。
☆ もうすぐ師走ですね ゆめ
街路樹もすっかり紅葉して、もう冬ですね。
長らくご無沙汰しておりました。何しろ、今までにない長期休暇なので、面倒なこと、気がかりなことすべて忘れてのんびり旅していました。
先生もおげんきでだいぶ自転車で遠出されているご様子。あのパワーにはほんと敬服しております。
10月の終わりから11月初旬にかけてまたインドネシア・バリ島へいってきました。
何回も訪れているので、観光名所はわずかにして、街や普通の村々を歩き、訪れている外国人や現地の人々ともたくさん会話をしてきました。インドネシアは義務教育制度がしっかりしており、よほどの年輩者以外英語がとても上手です。学校の前を通ると子ども達が「ハロー」と話しかけてきます。赤道直下で昼は毎日30度を越える暑い地域ですから、学校は朝の8時から1時まで。給食はなく自宅にもどって食べるとか。
また、10年前とくらべて街中が格段に明るくなりました。昔は山道など漆黒の闇で怖いほどでしたけれど。鉄道がないバリ島なので、バイクが重要な交通手段となっていて、いたるところで、「ホンダ」などの中古バイクをみかけます。2人乗り、3人乗り(3人乗りまでok)でかなりのスピード。日頃はのんびりしているバリ人なのに、車にのると人が変わってしまうようです(笑) ヘルメットは必着ですが、おかしいのはヒンズー教徒の場合はあの独特の頭にしめている「ハチマキ」のようなもの、イスラム教徒の場合、男性は黒のイスラム帽、女性はベールをしていればヘルメットなしでいいという交通規則。ヘルメットなしでも神様が守ってくれる、というわけでしょうか??
現在インドネシアはイスラム教が9割をしめており(大統領もイスラム)、ヒンズー教の島・バリ島は特異な存在。公務員や教員といった職につこうとすると、まずヒンズーでは駄目で、そのため免許証の宗教欄(!)などにあえてイスラム教と書く人々も少なくないとか。八百万の神々の国からきた日本人には想像もできない大変さがあるようです。
でもバリ島は観光があって他の地域より比較的経済が豊か、「イスラムのジェラシーね。それでお寺のガルーダ
(ヒンズー教の聖鳥)なくしてしまえ、なんて乱暴なことをいう」と現地の人は笑っていました。
いつもは「モンキーフォーレスト通り」など、街中で便利なロケーションの簡素なホテルを予約しますが、今回そこの予約がとれなかったため、少し街中からはずれた渓谷沿いのホテル「マヤ・ウブド」をとりました。
山間部のウブドウでは最初に開発された老舗のリゾートで、後楽園がいくつもはいってしまうような広大な森の中にあります。ゲートには「テロ防止」のため、24時間体制で複数のガードマンが車のトランクをあけてチェックをしています。
成田空港が混んでいて飛ぶのが一時間遅れ、ホテルに到着したときはすでに夜中の12時をまわっていました。(時差は1時間減)「水の王宮」をイメージしたエントランスには点々と灯りが灯され、水音高い大きな池の中を渡っていきます。まるで「秦の始皇帝の宮殿!」と同行の友人。
すると、「トッケ~」といきなり木陰から声が。トカゲ(ヤモリ)の声が広大な森の中にこだましました。この「トッケー」、なにも悪さしないどころか、家を守るお利口なトカゲなのです。小さいのは7,8センチ、大きいのは30センチもあり、森や草むら、あるいは家の壁や天井などに、夜よく見かけます。
普通の村々を風になってビレッジウオークしてきました。ウブドウのにぎやかな通りを抜け、15分ほど渓谷沿いにくだっていくと、やがて川の水音が聞こえてきてウブドウ発祥の寺院「グヌン・ルパ寺院」に到着。緑の苔むした橋を渡り、川沿いにどんどん進むとやがてあたりはひらけて草原となり、小さな草花が風にゆれています。向こう岸にはホテル・イバやピタマハのコテージが。気持ちいい川風をほほに感じて歩いていると、急に土手から裸足の変な男が「ハロー」と出現。「椰子の実を買わないか」と英語半分、バリ語半分。「ノーノー」とことわってものんびりついてくるのでしばらくおしゃべりしながらお散歩することに。向こう側からはガイド連れの外国人夫婦がやってきました。「ハウアーユー」、「ファイン、アンドユー」「○○高原にはいったか?」などなどしばらく会話。中学生程度の英語でもちゃんと通じるものです。
ホテルのフロントやショップの人々は、商売柄日本語も上手ですが、やはり一般の人々とは英語が共通語になります。なにしろインドネシア語は挨拶と食事の注文程度しかできない私ですから。(今度はもう少し勉強しようと思います。)
しばらく歩いて民家も見えてきたところでバリ風の宿屋兼カフェ「クラブ・ココス」を発見、お茶・小休止することに。しぼりたて100パーセントのライム・ジュースを。このカフェ、なんでも「クタ」の村長さんと村の人々との共同企画のようでした。この一本道は車がはいれないので、ウオーキングには最適です。そしてさらに歩き続けるとウブドウにたくさん住んでいる絵描きさんたちの住居・ミニギャラリーが点在。水田風景もさらに広がってきます。その小さなギャラリーで今回の旅の記念に小さなバリの細密画を購入しました。バリの深い森に不思議な白い鳥が何羽も飛んでいる印象的な一点です。
バリ島は金・銀は産出しないのですけれど、細工は有名で「チェルク」村では代々金銀細工のみを生業とするんですよ。銀90パーセントでできた「ガムラン鈴」をいくつか買って友人のおみやげにしました。銀の鈴もとても繊細な音色です。
雇用保険も年内で終わるので、そろそろ来年からのことを考えはじめています。「議事録」仕事の面接には先日いってきました。来年の1月末に少しデジタルテープの訓練、その後2月あたりから週何日か仕事ができそうです。ただ、時給が多少安くても地元で少し楽なパートを探したほうがいいのかな? とちょっと思案しています。
親友出演の悲願の作品「ヒロシマのホタル」上演拡大の協力も頼まれていますし・・・
またおたよりいたします。 ゆめ
* 長い旅行記を本で読むのは退屈するが、こう適当な長さで人の旅を共有するのは、バーチャルだけれど、気楽に安上がりで、想像も楽しめる。
人の体験を具体的に共有できるとき、メールはわたしのように閉じこもっている者に、ほどよい楽しい刺戟である。此処へこうして転載させてもらい、わたし自身の世界がなごやかに具体的に開けて見える、それが有り難い。
☆ 週末から流行り病の腸炎にやられてげっそりしていました。
私語を拝見する限りでは、お元気そうで何よりです。何やらおかしな風邪が入り込んでいますので、くれぐれもご注意を。
ご注意、気をつけて、としか言いようがないのは やはり「病は気から」の部分があるからだと思うからです。
同じ病で倒れた人を看て、「もしかして..自分も」と思ったら、その夕方から発症しました。自分でその一瞬扉を開け病を招き入れたと言えるのかもしれません。
だから、油断してはいけません。
繰り返し思い出し、決して中には招き入れませんように願います。 鮠
* ちょっと変な腸炎の噂をどこかで、テレビであったか、聞いていた。みなさん、気をつけましょう。
☆ やす香さんの四回目の月命日を迎えました。あの日からほとんど毎日同じ曲を聴き続けていて、今日もずっとその音楽を流していました。バッハですが、珍しいサキソフォンの演奏でそれは美しいアルバムです。
機械は復旧の見通しのようで何よりです。私語の更新がない日々、とても心配していました。機械のせいだと思うようにし、心配しすぎないようにと言い聞かせていましたが、それにしても交わすメールすらない日々のなんとさびしいことだったでしょう。
十月、十一月と珍しく旅行が続きました。体力とお財布はかなり消耗していますが元気です。 木守
2006 11・27 62
☆ 昨日は舞の会をお楽しみになったようですね。
セルリアンタワーの能楽堂は駅からタクシーに乗るには近すぎるけれど、歩くと長い長い歩道橋なので、雨の日、着物の時には足元が悪くて困りものです。でも、ホール自体はこじんまりして静かで、大舞台より舞の所作がよく見えるので好きです。ギタリストから薩摩琵琶奏者に転身した人の演奏会も聴きに行きましたが、音響のいいホールでした。
最近なぜか琵琶に魅かれます。湖は琵琶はいかがですか。湖の作品に琵琶の曲をつけてくれる人がいないかと秘かに願っているのです。湖の作品は音楽のように美しいので、きっと佳いものができるはず。
今日はいつもお願いしている呉服屋さんに、袖を引っかけてびりっといった着物のお直しをお願いしに行きました。鶸色に誰が袖模様の描かれた刺繍の訪問着。
「これはこれはええおきもんどすなあ」と褒められたので、「お稽古に使っているんです」と返答したら「えっ」と絶句、呆れられてしまいました。そんなに佳い着物だったとは知らず、お古なのでじゃんじゃん着ていました。お稽古こそ上質の着物でというポリシーはあるにはあるのですが、単にものの価値がわからなかっただけ。情けない人です。
その点、我が家の猫のほうがものを見分ける感覚は優れているかもしれません。絹ものの着物の上には喜んで乗っかってすりすりしますが、ポリエステルの着物には見向きもしない……。
すべての出逢いは別れを含んだ人生の必然なのだと思っています。親しくしていても、出逢うことなく、したがって別れることもない関係というは世間にたくさんありますから。
連日のお出かけでお疲れのでませんように。それから最近いささかカロリーオーバー気味にお察ししてご案じ申しあげております。 鶸
* 「すべての出逢いは別れを含んだ人生の必然」だろうか。死別を謂うならそのとおりだが、それを措くなら「人生の偶然」ではあるまいか。真に「必然」ならたとえ物理的に遠く離れようと「別れ」とは謂うまい。
* 昨夜はさすがに佳い和服のひとを何人も見かけた。あれで正面の「松」がもっと典雅に美しく描けていれば、都内でも裁量の能楽堂の一つに数えられる。並んだ座席の人の膝前をほぼらくに通れる、あれほど嬉しいサービスはない。このメールの人も、まえに「鐘の岬」を習っていたのではなかったか、わたしは坂東玉三郎「鐘の岬」の美しさに舌を巻いたが。
2006 11・29 62
☆ 秀吉および秀長の養子 を調べていると、そこここに枝が伸びて、オツムのなかに、「へぇ!」とランプが点いてばかりいます。
たとえば、八条宮→後水尾天皇→東福門院和子と、文智女王→一絲文守→西賀茂の霊源寺→岩倉具視→岩倉→藤原藤房→元伊勢日雲宮。
小督→家光→知恵伊豆→柳沢吉保→吉里→大和郡山城。筒井順慶→大和郡山城→郡山豊臣→伊賀上野城→藤堂高虎→丹羽長秀→秀吉と柴田勝家。
整理したところから、囀ってみます。
1561 秀吉(25才)ねね(14才)結婚。
1579/6 丹羽長秀(45才)の3男高吉、佐和山城に生(秀長の嗣子秀保と同い年)。
1581 秀次(14才)秀吉(45才)養子縁組。
1582/6 (本能寺の変、山崎の戦) 信長4男於次(秀勝)(15才)が信長葬儀の喪主をつとめ、光秀の亀山城をもらいうける。近江坂本には丹羽長秀(48才)。高吉(4才)秀長(42才)養子縁組。
1583/4 (賎ヶ岳の戦) 丹羽長秀(49才)戦功により北ノ庄に移る。
1584 (小牧・長久手の戦)。8.11 大和郡山城主筒井順慶病死(36才)。後継は順慶の姉と順慶叔父順国の子、小泉四郎改メ筒井定次(23才)と決まる。定次室は信長むすめ。
1585 うるう8.18 筒井定次(24才)伊賀9万5千石に国替。9.3 秀長(45才)が関白秀吉(49才)と同道、郡山城へ入る。
この年、丹羽長秀歿(51才)。秀次(18才)近江に入り、八幡山に築城。安土の城下町を移す。
1586 秀吉の養子信長4男於次(秀勝)歿(19才)。後嗣なく丹波亀山城には前田玄以が入る。秀吉(50才)は秀次の弟、秀勝(18才)も養子とする。秀勝室は浅井長政むすめ小督。
1587 秀長大納言となる。
1588 秀長(48才)養子秀保(秀次の弟、10才)が嗣子と決まり、4月、秀吉(52才)の命により高吉(10才)は秀長の養子を解消され、1万石で藤堂高虎(33才)の養子となる。
1589/5 茶茶(23才)が鶴松を生む。智仁王子(12才)と秀吉(53才)の養子縁組解消。八条宮家創立。
1590 秀次(23才)清洲城主となる(100万石)。近江八幡城には京極高次(28才)が入る。高次室は浅井長政むすめ初(20才くらい)。
1591.1.21 秀長歿(51才)。秀保(13才)大和郡山100万石を嗣ぐ。藤堂高虎(36才)・高吉(13才)は宇和島へ。8月に鶴松が夭逝し秀吉は秀次(24才)を嗣子にする。
1592 (朝鮮出兵)秀吉養子秀勝戦死(23才)。小督(21才)徳川秀忠に再嫁。
1593.8.3 茶茶(27才)が秀頼を生む。秀吉(57才)はねね(46才)の甥木下秀俊(12才)との養子縁組を解消し小早川隆景(61才)の養子に出す。秀俊を秀秋と改める。
1595 秀吉(60才)は秀頼(3才)を世継とする。4.16 秀保(17才)家臣によって殺され京六条に葬られる。郡山豊臣滅亡。7.8 秀次(28才)関白解任、追放。 7.15 秀次切腹。聚楽第廃棄。 8.2 三条河原で妻子ら処刑。京極高次大津城にうつり八幡城廃城。秀次の父は讃岐へ流。秀吉姉出家(日秀尼)。嵯峨に住。
1596 日秀尼は後陽成天皇から村雲の地と瑞龍寺の号と寺禄1千石を賜る。
1597(朝鮮出兵)。小早川隆景歿。秀秋15才。
1598 秀吉歿
1600 (関ケ原の戦) 小早川秀秋(19才)東軍に寝返る。藤堂高虎(45才)・高吉(22才)今治城に入る。
1602 高虎に高次生まれる。
1608.6 伊賀上野城主筒井定次(47才)改易没収。高虎(53才)伊勢・伊賀22万石に国替。家康(67才)の命によりそのうち2万石で高吉(30才)が今治城に残される。
1615(大坂の陣)
1616 家康歿
1624 ねね歿
1630 高虎歿(75才)。高次(29才)が嗣ぎ高吉(52)家臣に下る。
1635 高次(34才)は伊予2万石と伊勢国内2万石との替地を命じられる。
1636 高次(35才)の命により伊勢国2万石のうち5千石を名張に替地。高吉(58才)名張に入る。
1670 高吉歿(92才)
1676 高次歿(75才)
名張市丸ノ内に「名張藤堂家邸跡」として屋敷の一部が遺り一般公開されていますが、初代が「湖北の人」ということも波瀾万丈の生涯を送っていたことも、まったく知りませんでした。 囀雀
* 何かの年譜を引き写した結果でなく、雀のまさしく「関心」が作り上げた年譜であり、こういう作業の面白さは、経験者しか分からない。堪らん…のである。そしてそこから生まれ出る者が生まれ出た。雀から何が生まれるかは問わない。強い濃い関心から、自在に深入りして楽しんで欲しい。この楽しさは、次にいう委員会のそれとは余りに筋も質も深さもちがうが、わたしにはどっちも見棄てられない。
2006 11・29 62
* 昼飯までに今日の用事をかたづけ、恵比寿へ出掛けるまで、出来ることをしておきたい。
☆ 新しいルータで、インターネットは滞りなくなったのでしょうか。メールも無事ですか。
今朝は、SPAMメールがひとつも来てなくて、あれ、と思いました。いつもたくさん来るのですが。プロバイダの方でチェックを厳しくしてくれたのかな、それともたまたまかな。
先週あたりから、ぼちぼち歩いています。図書館や英会話教室へ行くとき、車をよして、徒歩にしてみました。
今住んでいるところからは、どちらにも三十分くらいで着きます。ちょうどいい有酸素運動かも。お腹を空かせて、食事をおいしくいただくためには、やはり、週一回あるかないかの市民講座では、足りませんね。
できればコンスタントに散歩をつづけたいですが、炎天下でもなく、花粉も感じられない今しかできないことだなあ、と思うと残念。
風、お忙しいでしょうが、お元気でお過ごしください。 花
* お舅さんの病状に異変がないと良い画と想っていた、大事なさそうで何より。
新しいルーターに実は取り替えていない。今までのが順調に機能しているので「惜しく」て、それにヘンに触ってどうにもならなくなるとイヤだしと思って。だが何だか、急にべらぼうに機械が重くなった。取り替えなくてはいかんという警告かもしれない。
☆ 先生のメールを読みますと、どうしてもADSLだのホームページだのヘルメットだのといったキーワードが、お節介な気を呼び起こします。
その中で、早いに越したことがないものといえば…ヘルメットです。
池袋の雑踏の中になってしまいますが、大きめな自転車店があります。大きい店であれば、こういった、スポーツタイプではない(と言えなくもない)ヘルメットも扱っていると思います。
http://www.intertecinc.co.jp/bellhelmets/citi.html
(これよりも平凡なヘルメットになると、工事用の重いヘルメットくらいしか思い浮かびません。)
それから、季節を問わずあると便利なのが、グローブです。長く乗っていると、お世話になる(=ずっこける)機会があるかもしれません。(私も救われた経験があります。)
ご都合よい日があれば、一度そういうお店に入ってみるのはいかがでしょうか。私は12/9以降の土日(できれば土曜夕方以降)であれば都合がつくと思います。
最近は同時期に何冊も本を読んでいます。読書にあてる時間は変わらないので、遅々として進みません。
その中で、シェイクスピア作品が続いています。松岡和子女史の新訳に助けられ、楽しんでいます。すぐに本題に入る単刀直入な導入とか、王の時代に王を笑うなど、実に書きっぷりが力強い。読み終わる度に本が減るどころか、増えてしまっています。
それでは。 イチロー
2006 11・30 62
* 木下順二さんが亡くなった。湖の本をずうっと観ていて下さり、ときどき御本も戴いた。劇場へも招いて下さった。「馬」「馬術」にたいそうくわしい方で、馬の話ばっかりの御本もあった。思想的にも堅固な意志をもたれ、微塵の不安なくおつきあいが可能だった。
また大きな確かな存在が、この世から欠け落ちてしまい、寂しい。
* 親友の女優原知佐子の伴侶である実相寺昭雄さんも亡くなったと、訃報。藝大を退官の記念会が奏楽堂であった日に招かれ、はじめて顔をみた。活字の世界ではちょくちょく一緒に目次に名前をならべていた。ロマンポルノと謂うのだろうか、『増鏡』か『とはずがたり』かに取材した妖しげな監督映画を観たこともあるが、実相寺さんの名を高からしめたというウルトラマンのことは何も知らない。
原知佐子が悲しいだろう。死なれるのはほんとうに悲しい。せめて十分に悲しんで悲しみ抜いて立ち戻ってくれますように。明日本郷辺で葬儀と報じられている。
2006 12・1 63
☆ 発送ご用意の追い込みにかかっていらっしゃるようですね。
いつも申し上げることですが、ご無理をなさらないよう。腰をギックリしないでください。ほんと、心配しています。
昨日は、富士山麓を正味一時間四十分くらい歩きまして、さすがにちょっと下半身がだるいです。これが何ともなくなるくらい筋力・体力がつくといいなあ、と思っています。 花
* 本の発送が頭にあり、気分的には停滞し、しかもイラついています。この作業をどうっと押し流してしまえばさっぱりするでしょう。自転車にも乗ってられない。
一時間半も、歩くために歩くのはしんどいなあ。京都の山辺のように歩いて静かで美しいところだといいんだけれど、保谷はダメ。武蔵野には歩きたいところは多いけれど、そこへ行くまでが無味乾燥。で、自転車に乗ります。
自転車だと鼻唄うたっていても、ぶつくさひとりごとしていても平気ですからね。気が散っては危険だけれど。
学生クンがヘルメットを買えと言います、買いにつきあってくれるそうです。グローブも買えといいますが、何の事かな。 風
☆ 秦さん こんばんは。
防衛「省」昇格関連法案、教育基本法の改悪など、安倍政権は、キナ臭いことばかりやり、実に、うさん臭い限りです。嘘をつき、本音を隠して、ことに当る「狡い大人」の典型的な行動パターンです。若者がいちばん嫌うタイプです。
防衛「省」昇格は、小泉政権のときの、自衛隊のイラク「派兵」方法に対して、100万票あると言われる防衛族有権者の機嫌を損ない、04年7月の参院選挙で立候補した防衛族候補3人の全員落選(合計30万票)という結果を踏まえて、来年、07年7月の参院選挙で、100万票以上を取り戻すための、「お供え」ということのようです。
それにしても、自民党の復党問題(有権者に背を向けて、安倍に誓約違反の時は、辞職を誓うというのは、なんとも、有権者を馬鹿にした話ではありませんか)にせよ、なんでも、選挙対策に利用されるデタラメさに、いつまでも有権者は、馬鹿にされ続けるのでしょうか。「目覚めよ、有権者」というところです。
それでいて、この「お供え」は、やがて、集団的自衛権の行使解禁から、憲法9条の蹂躙、改憲に繋げようとしているのは、見え見えです。
さらに、教育基本法の改悪も、改憲への流れです。ある意味で、安倍政権は、「着々と」ひとつの流れを作っています。それを許しているのも、多くの有権者です。ひとつひとつに執拗に「拒否」の意志を示して行かないと日本は、大変なことになります。
きょうの中国残留孤児対応策について、政府の敗訴は、一服の清涼剤になりました。裁判官に、まだ、人物がいたのですね。
さて、がらっと、変りますが、甲州の「鮑」(煮貝と言います)が、なぜ、山の中、海無し県の名物料理かという疑問にお答えします。
武田信玄は、ご承知のように、一時、駿河まで侵攻しました。海のない甲州の武将にとって、海は、憧れでした。
撃ち破った今川家臣の「今川水軍」を軸に、信玄は、伊勢水軍を加えて、「武田水軍」を作りました。武田水軍は、「北条水軍」や信長の「九鬼水軍」と対抗しました。
その武田水軍の秘中の秘料理が、「煮貝」なのです。鮑の鮮度を保つために、独特の醤油漬けにし、駿河から中道往還を走り抜け、府中(甲府)の信玄に海の珍味を届けたのです。
甲州では、北寄貝を甲州の寒暖の差と八ヶ岳颪の強風に晒して乾燥させて作る「姥貝」も、名物です。
ふたつとも、いろいろなメーカーが、作っていますが、山梨県でもデパートやスーパーでは売っていない「みな与」という店のものが最高です。昔ながらに伝統的な製造方法をとっていて、もちろん、保存料など添加物が入っていないため、賞味期限が限られています。また、かなり高価で、万円単位なのが、残念ですが、おいしいです。
「煮貝」も「姥貝」も、超高級つまみですが、煮貝は刻んで、煮汁とともにご飯に炊き込むとおいしいですし、「姥貝」(一片が、数百円から千円相当)も、つまみでたべるのも良いですが、もったいない。細く削って、お茶漬けにするのもおいしいです。
甲州は、葡萄、桃、サクランボなど四季を通じて採れるいろいろな果物、ワインは、名物として知られていますが、海のない甲州の「煮貝と姥貝」は、隠れた名物です。
このほか、地酒、ウイスキー「白州」など、山間地の地下水の良さを利用した酒類、幻の寿司米こと、武川米、武川の長芋、納豆、豆腐(つまり、大豆)、あるいは、小豆を利用した大福などの和菓子も、おいしゅうございます。手打ちの蕎麦もよいですね。
まあ、「私語の刻」を見て、「鮑」の秘密をお知らせしたくなりました。
今月の歌舞伎座は、3日(日)に昼夜通しで拝見に参ります。11月は、新橋演舞場の「海老蔵忠信」も、荒削りながら、「成田屋による澤潟屋型外連の継承宣言」で、なかなか良かったです。海老蔵の若さは、猿之助の熟成とは、違った清新さを感じさせました。
大兄にとって、多難な、何とも嫌な年になった2006年も、遂に、極月に入りました。
自転車乗りは、気を付けてください。奥様ともども、御体調も気を付けてください。
また、ゆるりと、会いやしょう。 英
* 佳いメール、嬉しくなる。年忘れに、どうか無事な師走であって欲しい。
2006 12・1 63
* 今日、もう一つ嬉しいことがあった。「美術京都」が届いて、巻頭に「梅の井」主人三好閏三君との「対談」もさりながら、論文に、東工大の教室や教授室でおなじみだった、その後も湖の本やメールや「MIXI」でもお馴染みの早川典子さんが、『古糊』という主題で、すばらしい研究成果を紹介してくれたのである。
日本の美術、ことに紙本や絹本の軸物も屏風なども、またそれらの修復にも「糊」それも絶対的に佳い糊がどんなに大事な必需品か、少し想像を働かせれば容易に見当が付く。見当はついても、その「糊」づくりにその道の家も人も信じられない積年の苦労と秘製・秘蔵を余儀なくされてきた。糊は灼けもし乾きもする。優れた作品の隠れた支えの糊効果がやわいものではお話しにならないし、醜く、黒ずんでも困る。
早川さんらの研究は、だが、そういう「古糊」の化学的・科学的秘密を明らかにするだけでなく、その一方ですばらしい「古糊」の「上」を行くほど上質に精錬された糊の製作・製造に踏み込んでいた。
「美術京都」にぴたりだと原稿依頼したとき、早川さんは第二子出産を控えていたのだった。だが、書いてくれた。赤ちゃんも無事に生まれた。そして佳い原稿が掲載できた。
2006 12・1 63
* 妻が原知佐子喪主の実相寺昭雄告別式にゆきたいというので、十時前に出かけた。本郷の麟祥寺なら分かっている。
予想通り大勢の焼香、行列した。銀杏などの黄葉が美しく快晴。原知佐子は毅然と姿勢を正して喪主席にいた。実相寺さんは、テレビ、映画、藝大の先生、絵も描いたしエッセイも洒落ていた。整然とまた盛大な、きもちのひきしまった告別式だった。
2006 12・2 63
☆ 花が歩くのは、目的地があるからです。図書館とか英会話教室とか、家の建築現場とか。
ウォークマンで音楽を聴きながら歩くと、時間を感じませんよ。横目でちらちらよそ様の家を見て、「この家おっきいなあ、敷地100坪、建物延べ床60坪だな」などと思いながら。
風の新刊は何でしょうね。楽しみ。焦らず慌てず配送なさってください。元気な 花。
☆ 聖武天皇といえば奈良の大仏と「正倉院展」の時期にはたびたびテレビで映像が流れます。とはいえ聖武天皇が自ら綱を引いた仏像がこれと思ってはいけないのですよね。
大仏殿でガイドさんが「大仏殿はいままで2度焼失されておりまして、今のお顔は江戸時代に再建されたものです」と説明なさるのを、ぼんやり鵜呑みにしていました。
1180年平重衡焼打のとき60才だった重源は5年後に大仏殿を再建し75才で東大寺を、翌年狛犬を、83才のときに南大門再建・金剛力士像開眼供養。 85才で入寂します。
ですが大仏殿は1567年にふたたび焼討に遭い、このとき首が落ちたのですね。筒井順慶が三好三人衆に近づいて松永久秀を滅ぼそうとしていたとき久秀は三人衆が陣した大仏殿を焼討。今度は再建・開眼供養まで125年もかかりました。焼討からちょうど百年、今度は二月堂が焼失。博物館にある焼けた光背はこの火でしたのね。2年後にお堂再建、その15年後徳川幕府から大仏殿再建の許可がおります。
二月堂焼失は「達陀」の残り火が原因とか。この時東大寺僧公慶は20才、2回目の参籠でした。37才になった年、大仏殿再建が許され、翌年彼は初めて修二会咒師を任されます。それを勤め終えたあとは生涯修二会に参籠せず再建勧進に専念。1705年、58才での入寂でした。この前年に元禄が終り宝永に改められています。元禄の年月は東大寺再建の年月でもあったのですね。
その公慶最後の修二会に42才の芭蕉が参籠していたのです。氷の僧の、あの句です。
3年後の4月大仏殿再建開始。このすぐあと芭蕉は奈良に逗留しています。若葉して、の句のときです。次の年「おくのほそ道」の旅から伊勢遷宮を見物して伊賀に帰郷。
11月に伊賀を発って奈良経由で秋に成った落柿舎を祝いに出かけ去来と鉢叩きを聴いています。
1692年3月、東大寺大仏開眼供養(公慶45才)。5月中旬、芭蕉庵再興成る(芭蕉49才)。そして1694年5月江戸出立。最後の旅となります。
6月に芭蕉庵で妻寿貞尼が歿し芭蕉に同行していた息子の二郎兵衛は報を受けてすぐ江戸に戻ります。7月、二郎兵衛と義仲寺で落ち合い伊賀上野へ帰った芭蕉は15日に二郎兵衛と妻寿貞尼の魂祭をし、9月、去来故郷の長崎を目指して伊賀→奈良→大坂へ。「菊の香にくらがり越ゆる節句かな」。
10月大坂にて「枯野」の辞世。
妻の死、菊、暗峠で闇からぬけた越えたというのはその前に再建された大仏を拝んでいたからと、雀は勝手な想像をしています。 囀雀
☆ 冬の雨です。遠山のかすみ様を見ると榛原や信楽はみぞれか雪―。どうかどうかご自愛のほど。
先日のメールで順慶と秀秋を同じ歿年にしていました。
どちらも大きな戦の2年後に若くして亡くなっているといいたかったのに、そそっかしいこと。お詫びいたします。
さて、旧マキノ町在原の“在原業平の墓”が気になって仕様がないと言っていた友人が、鉄道好きの“鉄ちゃん”だったことを思い出して柳ヶ瀬トンネルの話をしてみたら、案の定おお乗り気。「明日ならあいてる」と言うのであわてて旅の計画を立て、昨日、朝は7時過ぎに出かけて夕方まで湖にひたっていました。
マキノ白谷の古墳群、業平の墓、愛発関址、廃線柳ヶ瀬線、柳ヶ瀬の町、北国街道、毛受兄弟の墓、墓谷山の裾野にある2座の丹生神社と菅並の洞壽禅寺、余呉湖。
木之本I.Cから京都へというプランニング。
湖東君ヶ畑か京北前ヶ畑かと想像していた菅並ですが、上流でダム建設をしているため道はキレイに拡幅され、地域開発が進んでいました。もちろん社寺境内はそんなこととは無縁で、引き締まった空気が清らかです。
久多といい菅並といい、とても佳いところをお教えくださったこと、心から感謝します。
建物はすっかり雪囲いがされ、ぽつぽつ降り始めた雨はぐんぐん気温を下げてゆきます。伊吹山に目を遣ると黒雲が空を埋め、その下は真っ白で山が見えません。いよいよ雪の季節です。
京都東I.Cから東山トンネルを抜けた時刻が午後4時。いつも利用する直通特急が京都駅を発つまで2時間あるので泉涌寺近くで降ろしてほしいと頼むと承知して、「あの信号が泉涌寺口だから。ここを入ると剣神社。じゃね」と言う言葉と同時にドアが開きました。剣神社てなにかしらん。
テントも足場も取り払われた泉涌寺門を初めて見ました。長い修理期間でしたね。閉門時刻を迎え閑散とした道をずんずん進みました。御陵への道に門扉が閉ざされていることが分かりまた門へ引き返しやみくもに南へ、東福寺を目指して歩きました。夕刊配達の青年、宅配便の車、煮魚の匂い、陶芸の工房…。四辻に出た雀の目の前を自転車が走り去ります。制服姿の学生がペダルもこがずに連なって下ってゆきました。高校の前に来ていたのです。東福寺への矢印を見つけました。栗棘庵。明暗寺。ここまでくればなんとかなります。月が輝き出しくろくなった梢をくろい鳥が渡ってゆきます。東福寺の門が閉められてゆくのを見、その音を耳に残しながら右折してゆるやかな下り道をおりました。夕焼け。たそがれ。宵闇。うつろうと
きとこの場処を楽しみ、ゴキゲンな気分で東福寺駅へのびる商店街の店店を覗きながら京都方面行きのJRに乗りました。 囀雀
* おお、泉涌寺、東福寺。雀は、わたしと歩いている気だろう。
わたしには、青春をうずめてきた時空間。夕暮れの泉涌寺・東福寺は閑散として最上の刻限。しばし歌集『少年』をひらいていくつもの歌を読む。ああ京都へ帰りたい。
* こう書いてもたぶん転送できまい。
2006 12・2 63
☆ 今年も早や師走を迎えました
夏まえから パソコンの不調と、折から自身の不調が重なり、家の手入れなどもありまして、全く機械を開くことも出来ずにいました。
12月に入り、電話を光プレミアムに換えたのを機に、機械も、プロバイダーも新しくしました。
「私語の刻」早速読ませていただきました。直近の日記は出すことができませず、11月中頃の辺りを読んでいます。お孫さんを亡くされたお悲しみ、夕日子さんとのお辛い確執、思ってもいなかった日々をお過ごしのこと、たまらない思いで読んでいます。
夕日子さん中学生のころでしたか、家の前のプールで子供たちと水遊びをしている様子が写真に残っています。ご結婚のとき頂戴した先生のお原稿は私の宝物で大切に保存しています。
先生ご一家が一日も早く平安な日々を迎えられますようにと願っています。建日子さんご活躍ですね。テレビドラマは欠かさず拝見しています。本も読んでいます。東京で公演を拝見できたらと楽しみにしています。
美術京都のご対談拝読しました。2月、京都にいらっしゃるのでしょうか、お目に掛かれれば嬉しゅうございます。
少しの酒で真っ赤になりますが楽しんでいます。
寒くなって来ました。奥様共々お大切にお過ごしください。 和歌山 E-OLD
* 心配していた。ほっとした。同年。音沙汰がないと心配だ。
原知佐子のご主人実相寺さんなどわれわれより少し若かった。今年は死なれたくない人に何人も何人も死なれてしまった。清水九兵衛さん、木下順二さん、白土吾夫さん、米原万里さん、神戸一三医師、ああそれに、孫のやす香……。
和歌山からの幸便にすこし気を晴らしたい。少し年輩、石川県の井口哲郎さんからも自筆の佳いなつかしいお手紙を戴いた。
2006 12・4 63
☆ 漸く機械が修復されたと喜んでいましたら、再びさまざまな問題が生じているようですね。機械が重く、そのうちに全くインターネットが普通になった苦い経験は、今年前半わたしにもありました。再インストールして、やっとやっと回復しましたが。どうぞ気分一新されるためにも根本的な解決に早く向かってください!
そしてコンピューターに加えてどうぞ携帯電話でメールができますよう・・、これは鳶のぼやきです、苦いぼやきです。
このメールはいつ読まれるかしら、きっと数日以内には読まれるから心配はしていません。けれども今度メールを送ってくださる時は、どうぞ機械と携帯両方に送っていただけませんか、お願いします。
一日の記載に木下順二さんのことが書かれていました。木下さんは夫の遠縁にあたる人です。姑から木下さんの話を幾度か聞いたことがあります。
また同日に「古糊」のことが。糊は絵を描く者にはとても大事なこと、良い情報があれば是非とも知りたいと思ってしまいました。
世の中の憂きことばかり多いのを鴉は嘆いていらっしゃる。報道されるさまざまをせめてしっかり聞こうと耳傾け、振り返ってみると、その殆どはただ聞き流している自分の鈍感さに驚きます。嘆いても嘆いても世の中の悲惨や苦労はなくならない。今が一番悪いかどうかは・・それもわたしには分かりませんが。それでも僅かの気力を奮い立たせて周囲、地域、世界への関心を持ち続けて、何らかの行為をしていきたいと、愚かで非力の鳶はいつも思います。
そう書いて、さて最近の現実のわたしも、かなり凹んで日々を過ごしておりますよ。傍目から見れば決してそのようには見えないでしょう。十月北京、十一月姑を温泉に連れて行き、その後東京、仙台(立石寺、松島、平泉)。今月初めには姉妹と京都にも出かけています。京都では神護寺、西明寺、高山寺、真如堂、下鴨神社、髙桐院・・と紅葉を追って。そして一人になると、まったく何もできない、手足を失ったかのようにじっと暮らして自分と向き合っている、そんな毎日。もっとも焦ってはいません、半ば嘆きながらも、省みることが必要なのだと。
これから外出しなければなりません。このメールがちゃんと、すぐに届きますように、そしてメールが届きますように。
風邪引かず、血糖値も問題なく、元気に過ごされるよう!!! 鳶
* 感傷的に今がいちばん悪い時代と謂うのではない、が、国と政治とが音頭を取って国民を追い立て押し込めている方向や場所には、地獄臭が立ち上っていると言っておきたい。私民の心根が無反省に腐って行くようにと、愚民化の政策が功を奏している点では、一見平和な今日は、少なくも戦後最悪の危険期とみえてしまう。想えてしまう。少なくも政治も大企業も権勢と慾とでしかものを発想していない。国と人とのためにという発想は、行政の端々に至り、もはや窒息死しかけているではないか。
アメリカ型の二大政党など、まやかしであり、米国の民主党も共和党も要するに大差はない。アメリカはしかしアメリカだ、日本ではないのだ。だが日本の自民党と民主党とでも同じく、大差ない。公明党は勝ち馬に乗るだけの党だし、共産党も社民党も、もはや在れど無いに同じい。社会党一党で少なくも三分の一を確保していた時代のあったことを、国民に思い出させる器量が福島社民党に欠如していて、空疎に空転している。
共産党はいつも党の建前の方が、国民のために身を捨てて働くよりも遙かに大事な党だし、つまり野党は事実上存在しない。なさけない、不健全。
2006 12・5 63
☆ 私語もちゃんと更新されてますよ、風。
歩いてきました。郵便局と図書館へ。郵便局は、用が足りなかったので、もう一度行かなくてはなりません。郵便局までなら、片道二十分くらいですから、ちょうどいい散歩です。
風も汗を流して作業なさっていることと想います。がんばってくださいね。 花
☆ 大阪からの帰路ですが、お会いすることも出来ないので残念に思います
今年も暮れますが、お年賀も失礼しなければなりませんね。無念でお寂しいでしょう。
どうかお変わりなくお元気で、おいしいお酒をおのみください。私もなんとなく元気ですが、調子がとりにくいです。今年はいいことも、いやなこともけじめがつき、ぼんやりした気分てす。 穂
☆ 村雲御所瑞龍寺にうかがって拝観をおねがいしたところ、ちょうど庵主さまが来客を送り出したところに行き合い、庵主さまはお午も召し上がらずわたしたちを案内してくださいました。ご門跡は90才を超えられ、現在こちらでお暮らしではないそうで、77才の庵主さまは「喜寿でもこの世界では若い若いって言われるのよ。困っちゃうわ」とおっしゃいます。大河ドラマもご覧になってらして「家族を引き回すところだけはやらないでってお願いしたのに。あれを見るのが一番いや」と眉を曇らし「一番お可哀いそうなのはお初さんですよ」とおっしゃったので、雀は、京極高次のことを調べてみようと思いたちました。
1523年 北近江守護京極高清とその子高吉(1504生20才)は朝倉氏によって追放される。
1538年 高清歿。高吉35才。
1563年 高吉(60才)と浅井長政の妹とのあいだに高次生まれる。
1567年 武田元明(16才)が家督を嗣いで若狭守護となる。
1568年 元明(17才)は朝倉義景の庇護下に入る。
信長(35才)が六角氏を観音寺城から逐い足利義昭を奉じて上洛。
1570年 姉川の戦(高次8才、元明19才)
1572年 高次弟高知生まれる。
1573年 小谷城落城(高次11才、元明21才)。
?年、 高次元服。信長小姓となる。森蘭丸(1565生)は高次の2才年下。
1581年 一家で受洗(高次19才、竜子?才、高知10才)。高吉歿(78才)。
1582年6月、 本能寺の変。高次(20才)は妹竜子の夫である若狭守護武田元明(22才)とともに光秀に味方。
7月、 元明は秀吉に自害させられ竜子は秀吉妾(松の丸殿)となる。
(1583年正月の終わり頃に北ノ庄を訪ね初と婚約)
1590年 高次(28才)は秀次の後釜として近江八幡城に入る。
1595年 高次(33才)大津城に移る。宰相となる。秀次切腹。八幡城廃城。
1598年 秀吉歿。松丸殿は高次(36才)のもとへ。
1600年 関ケ原の戦。高次(38才)は徳川にくみして大津城に籠城。戦後、小早川秀秋の兄、木下勝俊(1569生、32才)に代って若狭小浜城主(92000石)となり、勝俊は剃髪して木下長嘯子と号。
1609年 高次47才で歿。初は出家し、松丸殿は京の寺へ入る。
東山や大原野などに閑居し1649年81才で歿したという木下長嘯子。西山の金蔵寺を訪ねたとき本堂の奥に庵址があるとききました。そのときは丸覚えで帰ったのですが、どういう生まれでどういったことから出家したのかが胸に落ち、寺から眺めた京の景色が、一枚フィルターを重ねた色になりました。 囀雀
* 歴史に学ぶとは、こういうことで、ただ読書だけしていても薄い知識のままである。なによりも自身の不審のつよさや晴らしたい意欲のつよさが大切になる。
次の雀さんの一文に、わたしは感じ入った。こう言えるところまで、たった一人で歩んできた人である。
☆ お勉強 まさかこれほど自分が「戦国時代」について知識をもつようになるとは思ってもみませんでした。事実と違っている箇所も、勝手な想像で結びつけているところも、間違って簡便本の記述のまま信じているところもあるでしょう。それは十分承知のうえで、ひとりよがりにおもしろがっています。それでも知識を得て勉強になったことが嬉しく、自分がけっこうねつこいとわかったことに驚き、そしてなによりそれをしている最中が愉しかったことが一番の益でした。
好きな役者がドラマに出演したとか、流行りの時代小説を一冊読んだとか、検定を受けるため勉強したというのではまったくなくて、「盲目物語」一篇を読んだことから気ままに気の向く方向へ自分で調べ、そうして行くうち、あちこちつながったというだけなのですけれど、戦国時代も南北朝も後鳥羽天皇の時代も、谷崎(潤一郎)さんをきっかけに楽しんでお勉強いたしました。
体調も世の諸事も忘れ、調べてゆくこと、それによってまた一層作品を楽しめることに耽溺し、本心から愉快でした。とにかくエネルギーが落ちて何にも心動かされないようなときに楽しむことができることが、嬉しく救いでした。また、思いの深さが重くのしかかるようなことは一切なく、土台のしっかりとした気持ちのよい“娯楽”であったこと、そのなかに奥深い魅力がそこはかとなく漂っているため、書かれていることに興味がわき、知りたくなって、知ってまた読み返したいと思わせたのです。知るにつれ判るにつれ、わずかな差であってもその段階毎に楽しみがあって、きりなく愉しい。
なンて “モノスゴイ”文藝なのかしらと思います。
雀のお勉強はまったくの自己流で、ご本に、前後を見なさいとあったように存じますが、その点がいつもかなり大甘でいけないなぁと思っています。
手を使って裏白紙にボールペンで書いてゆくふるいやり方をしています。何枚も書き直していくなかで、だんだんと系図と生没年と年表を書く癖がつき、これは日本らしい政治の仕方であるようですが―天皇と摂政と寺、また天皇と関白と藤原氏、天皇と将軍と執権、天皇と将軍と管領、天皇と将軍と老中・側用人というように、年表を縦と横に分割してつくってゆくパタンになってまいりました。そして遊山をしながら、後醍醐、光厳、後鳥羽、後水尾の4人の天皇名が重なっていることにも気がつき始めたところです。 囀雀
ーD
2006 12・5 63
☆ JR線がなぜ御所(ごせ)からあんなに曲がるのか納得しました。
高田―御所―葛城川南進―五條という予定が、あちこちで起った用地買収反対運動のため巨勢山丘陵の東へ迂回して、曽我川の谷から重阪峠越えをするルートとなったそうで、その変更ゆえに北宇智駅がスイッチバックになったとのこと。
直江津⇔長野での二本木駅以来もう何年も体験していないスイッチバック。奈良県唯一というそれを味わうべくでかけました。
吉野口駅で近鉄からJRに乗り換え、北宇智、五条と乗って反対のホームで次の電車を待って引き返しました。
北宇智駅に停まると運転手さんが右手に金色のハンドルレバー、左手に運行表を持って車輌を降り、線路を歩いて最後尾車輌の運転席ドアを開け席に着きます。レエルが切りかわっていることを確認して発進。がたんとひと揺れして列車は反対方向へ進みます。雀は窓ガラスに顔を押しつけて本線と分岐したレエルを見、懐かしさに頬がゆ
るゆるになりました。
車窓から、また運転席後ろから見る景色も好みののどかさ。近鉄の王寺⇔生駒、橿原神宮⇔古市、JR笠置⇔柘植、桜井⇔天理などに加え、JR吉野口⇔五条も雀の気に入りの路線になりました。
この日の遊山は、往路、市尾駅で降りて大きな古墳と神社になった古墳に立ち寄り、吉野口駅で小昼。売店で買い求めた駅弁“柿の葉ずし”を待合室で電熱器の暖房に当たりながら食べました。手編みの敷きものがカラフルに待合室の木製の長椅子を飾り、白ペンキで塗られた建物に電熱器の赤色が懐古の情を誘います。駅舎を出ると大きな観光案内図と「巨勢の道」と短冊石ようの案内があり、案内をたどって玉椿山阿吽寺と冬野山正福寺という巨勢寺子院を通って難なく巨勢寺塔址に到着しました。
JRと近鉄の線路の分岐点になった小さな丘が塔址だそうで、そこから曽我川を渡って住宅地を通る細い坂道を登った突き当たりが、天ノ安川神社。石棺の破片かというような白い石が散らばる境内は石、棺ぐるみ古墳の横穴が公開されています。絵馬が掲げられた割拝殿の端に腰掛け、巨勢丘陵に向かいあい、集落を見下ろしてみました。
巨勢山は椿の春野とうたわれたそうですね。霜と氷の初冬に訪ねた雀は葛城と似通った冷え込みを感じました。ただ葛城と違うのは春の息吹が狭い谷に堆積して、むせかえるような陽気と生命力が山辺河端をうずめるのではないかしらと想われたこと。
また旧町や曽我川沿いの道を歩いてみて、両側から迫る山の濃い空気を感じました。巨勢氏はこの生気が醇に凝った人々ではなかったかと、“蟠拠”の文字が頭のなかにせり上がり、圧せられる思いがしました。 雀
* 文章、うしろの二段落の佳いこと。
2006 12・6 63
☆ 「MIXI」ほんとに「妙な世間」のようです。いまだによくわかりません。
秦さんのページを見るだけにしています。
毎日来る「MIXI」コミュニティニュースを見ると、登録してからいきなり、かなりの方々からアクセスが入っていて驚いているのですが、失礼して黙っています。
秦さんの文章が読めるようになって、うれしく思っています。
『問題は、この私、である。』 おかげさまで元気が出ます。
千葉もしんしんと冷えています。くれぐれもお大事にしてください。
あたたかい日にでもやっぱりお会いしたいですね。 E-OLD
* 足あとの累算が10000になる。わたしのようにマイミクも少なく日記は書かずに勝手な作品ばかり連載している者にしては、正味十ヶ月で一万はいい数字なのかもしれない、二月の中頃に入会して1000の足跡が付いたのは五月末頃ではなかったか。
自分から好奇心からも「足あと」をどんどん付けて行くと、関心の鉱脈に触れる。出身大学でも高校でも、趣味でも、職業でも、コミュニティをさぐって行くと、おやおやという世間に行き当たる。ときどき妙な人とも出会う。藝のプロにも出逢う。わたしは仕舞い弘法の日に七十一歳になるが、すこしだけ年を忘れるときが「MIXI」にはある。若い若い人と話し合うのは、やはりおもしろい。わたしより年寄りという人をまだ知らないでいる。同い年の人が出来た。
2006 12・6 63
☆ 近江八幡 水郷めぐり、食事、八幡山からの眺望、城下町の町並み、堀割。
女性に人気の観光地として滋賀県で長浜に次いで光が当たっているのが近江八幡でしょう。雀は十一面観音を本尊とする古い寺のあること、沖島、奥津島神社、日牟礼八幡宮、長命寺山、姨綺耶山、奥島山のつながりに興味をもったこと、伊崎不動の明王像は葛川明王院と比叡山と同じ材から彫られていること、伊崎の竿飛びが葛川明王院の樽乗り同様修験から出ていること、像を彫った相応和尚は浅井郡出身ということ、を、おいおい知り興味を持っていましたが、あまりに女性向けの宣伝が鼻について二の足を踏んでいました。
そこへ大河ドラマ「秀次切腹」。さらにNHKはアーカイウ゛ス番組でウィリアム・メレル・ウ゛ォーリズ(一柳米来留)ゆかりの近江八幡という旅番組を放映しました。
そのなかで、自分の故郷倉敷のようにしたくないと、喫茶店を営むかたわらまちづくり活動をしている女性が登場したので、倉敷でがっかりした雀はやはりそうかと納得し、それが商業界と行政の観光事業に利用されたり押しつぶされていないか、魂がどこかに残っていないか知りたくなって、近江八幡市の観光課に、資料請求の電話をかけました。
その翌日、ひさしぶりに電車に乗ったところ、隣客が、昨日は一日近江八幡で写真を撮っていたと話しているので思わず声をかけましたら、ご親切に網棚の荷物を下ろしてクリアケースにきれいに整理された資料類のなかから雀に散策地図をくださって、見どころ、所要時間、感想、さらにはデジカメの画像まで、詳細にお教えくださったのです。
「よかったよ。ぜひ行ってごらんなさい」とおっしゃるので、呼ばれているような気がして訪ねる場所を選り直しました。
十一面観音が安置されている古寺に詣で、ウ゛ォーリズゆかりの建物を巡り、瑞龍寺の庵主さまにお目にかかり、城下町らしい和菓子や、牛肉に湖魚の昼食に舌鼓。“むべなるかな”の旅でした。
八幡山から眺める世離れて美しい近江の景色と結んで、日蓮宗が強く英語教師としては辞めざるを得なかったウ゛ォーリーズがその後日本人の妻をめとり帰化して戦争の難しい時期もこの地にとどまり、雀が生まれる頃まで近江に生きていたこと、土地の代議士が「謀反人のくせに」と吐き捨て、ほかのように銅像を駅前に立てることがで
きなかった秀次のこと、しっかりと憶えました。 雀
☆ 沖之島 大嶋 奧津島 日牟礼八幡宮に着いたとき本殿では結婚式が行なわれていました。それが済んで一般参拝が許されるまで、本殿の周りを歩き、鎮守大嶋神社と書かれた社があること、誉田別尊、息長足姫尊、田心姫神・湍津姫神・市杵嶋姫神(宗像三神ですわね)の三柱が祀られた本殿の裏に、屏風岩や長命寺につながるという井戸“鏡池”があるのを見て、大嶋・奥津島神社への興味がかきたてられました。
成務天皇が高穴穂宮に即位の折、武内宿禰に命じてこの地に大嶋大神を祀ったといい、雀は野洲町の兵主大社に参ったとき高穴穂宮から湖水を渡しお迎えした八千矛神(大国主神)が祭神で、今もそれを模した祭礼が行なわれているという由緒を思い出しました。
991年に一條天皇勅願により峰に宇佐八幡宮を勧請。1005年、麓に下の社を建て、600年後、秀次が城を築くため上社を下社に合祠しました。その近江八幡城は5年で廃城。小谷寺を創建800年後に麓におろして築いた小谷城は50年で滅び、多聞城は7年で壊滅。こちらもはるかに眺望寺・眉間宝寺の年月が長いでしょう。
食事をしに小さな店に入ると、地元のお客さんがむべの実を持って入ってこられました。佐佐木神社へ行ったとき花が咲いているところに出くわし、天智天皇がその名のもとになったというおはなしとともに憶えていた蔓性の木です。
「いまがちょうどむべ狩シーズン」と実を見せてくださいました。あけびに似ているが裂けないと書いてあった通りの形。やさしい甘さだそうです。
大嶋・奥津島神社は神宮寺の阿弥陀寺も立派に現存して東西二本の参道があり、東は桂太郎公爵、西は近江神宮宮司の揮毫による石柱が立っていました。
境内にむべが栽培され天智天皇のエピソードを説明した札が添っています。
大嶋は大穴牟遅神を、奥津島神社は奥津島姫神を祭るとあるのは田心姫神が大国主命と結婚した神ということと結びつきます。
帰路、瓶割山麓の岩倉に馬見岡神社、福寿寺、妙感寺、諏訪神社を訪ねました。二つの寺はどちらも名勝庭園というのですがとても色が違っていて、黄檗宗と日蓮宗の違いか、ご住職の人物の違いかとうなずいていたら、どこからか鐘の音。5時になっていました。 囀雀
* いまぶん 雀さんの囀りのほうがはるかに興味深い。
2006 12・7 63
☆ 恒平さん mixiにご招待、ありがとうございます。
積極的な利用方法はそのうち・・・まずは、恒平さんのmixiを覘けない歯痒さから、解放されるかしら。
先週、スペイン人と結婚し、子供もいる親しい友人から、夫婦の危機を告げられました。
いつも元気でたくましい友人の、やつれ切った顔を見ながら、私たちがこの地で築いてきたはずの基盤のもろさに、そのもろさを見せ付けられることに、どうにもならない憤りを覚えました。年月かけて固めてきた土台は、実は「夫」という小スペインの上に築かれていただけだったのかと。いえ、片足ぐらい、夫より下の地盤に触れていると思いたいけれど、タフにやってきた、と信じてきた一本足だけに、バランスも失いやすい。
ふと、昔、長野の善光寺で見た六地蔵を思い出しました。
片足を胡坐から崩し、蓮の外に出している(水に浸している)お地蔵さんがいて、お地蔵さんもやっぱり足が熱いのかしらね、と、やはり片足を布団から出して寝る夫と二人で笑ったものです。
不安定な友人と安定したお地蔵さんが、同じ様子をしている(胡坐をかいて片足を外に出している)ことに、なんだか可笑し味すら感じられました。
一方でまた、別の親友が、生まれた子供のアトピーに悩みノイローゼ気味、自国にいないことが様々な面で悪影響し、ただでさえ苦しい状態を何倍にも増幅していることに、ある種の無力を感じながらも、力になるには、私がそれらに影響されることなく安定していること、と思っています。
私はとても元気です。
そう言えば、恒平さんも亥だったのですね。
十一月末に誕生日を迎えた私は、十二月二十一日までの間、ちょうど恒平さんの半分、亥の年です。
新年は、恒平さんに頂いた益子で、ぐいっ、とやろうかしら。
あのぐい呑みを頂いたとき、私は、それが私の何より好きな薄模様であったことに、心底驚いたものです。 京
* 半跏思惟のおろした片足が「蓮池」にひたされてあるとは、ウカツにわたしは想ったこともなかった。京に、教えられた。妻いわく、インドは暑いんだもの、その筈よと。なるほど。わたしの観察が緩かった。
もう一つ驚いた。
東工大に就任した春、京は二年生だった。わたしの三分の一ほどの年齢だった、皆。いつごろ半分になるんだ、きみたちはと笑い合ったことがある。京はその「半分」に到達したらしい、ちょいとわたしが若返った気もして、嬉しいではないか。
バルセロナで、元気に元気に暮らして欲しい。
バラの一輪を手に、教授に逢いに来てくれたこともあった、京。
☆ ご本届きました振込み済ませました。今回はいつもの二倍くらいの厚みでしたね。さぞ費用がかかったことと想います。
散歩中、動物に出会います。
わたしをじーっと見る犬。
浅い用水路に足を浸す鷺。
流れの速い用水路に、並んでツツツと浮かび流れる二羽の鴨。おもしろかったです。
今夜遅い新幹線で夫の実家へ行きます。日曜に戻ります。
今日はとても寒いですね。あたたまりたい。
風邪ひかないでくださいね、風。 花
☆ 岩倉 柄本明は秀吉をマンガチックに拵え過ぎた気がしますが、雀が秀次がらみで大河ドラマを見ていた頃、“秀吉は、朝鮮、中国、ルソン、インドまで含めた大陸制覇を計画していて日本と中国においた関白職を朝鮮には予定していなかった。秀吉には朝鮮半島は“国内”とみなされていてこの朝鮮観はその後の近代日本にも引き継がれる”と、読んでいた本で目にして、彼にこんな秀吉を演じさせる脚本であって欲しかったナと思いました。
大陸制覇計画に名が出ている人のなかで、雀は、若宮と八条宮につっかえたのです。
豊臣秀次、羽柴秀保、宇喜多秀家、羽柴秀勝、羽柴秀俊は調べたなかにあって後陽成天皇もといいたいところでしたけれど、16才で正親町天皇から譲位され、41才のとき16才の第3皇子後水尾天皇に譲位したことしか知りませんでした。
秀保と同い年で、鶴松誕生により秀吉養子を解消され、親王宣下、宮家設立となった八条宮。その4年後に後陽成天皇皇子良仁(7才)が親王宣下、皇太子となり、その2年後、第3皇子政仁誕生。さらに2年経って秀吉没。
後陽成天皇(28才)は皇太子(11才)ではなく、弟の八条宮(20才)に譲位の意と家康に伝えますが、家康はこれを拒絶。そのため良仁親王は14才で落飾を強いられ、それでも八条宮への譲位はさいごまでかなわず後水尾天皇へ譲位ということになり、さらに平徳子以来という武家出身の中宮徳川和子を押しつけられ、高倉帝と小督が後水
尾とおよつ御寮人に生まれ変わったようなさまになったのですね。
和子が産んだ男子はすぐさま親王宣下されたにもかかわらず、2子続けて夭折し、紫衣事件のあと後水尾天皇は興子皇女(11才)に譲位します。2年後、上皇は24才の一絲文守を召し、翌年、梅宮文智女王(14才)が鷹司家に嫁ぎました。
6年後女王自ら離縁。後水尾上皇(43才)は一絲文守(31才)のため西賀茂に霊源庵を創ります。これがのちに霊源寺(現・霊源皇寺)となり岩倉具視が久我具尭3男で岩倉具起弟の一絲文守開基のこの寺で出家、と、つながるのですねぇ。
さて離縁から2年後、ようやく文智女王(22才)は出家をゆるされ、修学院円照寺に住まいます。翌年一絲文守(34才)は亀岡に法常寺を開山し、のち永源寺80世となって日野の法明寺再興に関わるなどしますが、沢庵遷化の翌年39才という若さで入寂してしまいます。10年後、文智女王(38才)は後水尾上皇(61才)とわかれ、大和八島
に移り、奈良円照寺を開きました。この寺には東福門院(50才)が山ひとつ寄進しています。 囀雀
☆ 岩倉つづき 京北をぐるりとまいた日、最後に霊源皇寺へ参りました。
きれいな白といった印象のお寺で “お手植え見返りの桜”があり、門に「岩倉具視出家の寺」と解説看板があって、雀は、いつ? なぜ? と知りたくなり今度は岩倉具視のことから、江戸末に家茂将軍と孝明天皇が半年の間に世を去った不気味さ、明治天皇が16才で践祚しそのあと元服、大政奉還、暮れに結婚と、泥縄式に運ばれていたこと、西南戦争のときは大和巡幸中で天皇が政府要人と京に滞在していたこと、特命全権大使の岩倉具視が天皇の委任状を持参していないことをアメリカ大統領から指摘され、伊藤博文らが日本まで取りに帰ったこと、さまざま驚きあきれ、無知を恥じました。
ちょうど、文化の日がどうして“文化”なのかと大阪民放のワイドショーでやっていたのを見て、四大節と戦後の祝日、文化勲章以外廃された叙勲がいつ復活したかなど、知らなかったことがたくさん見つかった時期でもありました。
そんななか、岩倉の石座神社は明治まで山住神社が石座の社であったこと、10/22夜に雌雄の大蛇の形をした松明を点ずる祭りがあるときいて、秋の一日、岩倉駅から川沿いの小道を歩いて二社を訪ねてみることにしました。
岩倉は初めてではありません。雨の京を寺の庭ばかりはしごして過ごしたとき、実相院を見に来ています。
さわやかな秋日和。野道をォゆけばァと薄の穂を振り振り歩く気分で山住神社を尋ねると、鳥居の先にロープが張られているので立ち話をしてらした地元のかたに「お参りしたいのですが」と申しますと、にっこりと笑顔が返ってきましたのでほっとして境内に入りました。
いわくら…ですわねェ、これは…平群町の石床神社でもそう思いましたが、額にがあんとくるカミサマの「いわくら」です。最初に地主神にごあいさつしたせいか、これから岩倉村をお訪ねしますという心持ちになりました。クルマで乗り付けたのではわからないと色々な人がいうのは、こういうことかと実感し、共感しました。
実相院門前にたむろするタクシーをすりぬけ、右に折れて、冷泉天皇皇后御陵、そして石座神社に参り、実相院と岩倉具視幽棲旧宅と巡りました。
実相院はご本尊が修復から帰ったばかりで、なおかつ、皇室関連寺宝出陳中。後水尾天皇の「忍」、後陽成天皇宸翰、明正天皇作「三十六歌仙」、永源寺と円照寺にも寄進された東福門院作「馬郎婦観音像押し絵」と、お勉強していた名が、いっぺんに出てきました。
生きる、生き抜くって、こういうことなのかなァとため息をついたことがあります。
家康、後陽成天皇、八条宮智仁、秀忠、良仁廃太子、家光、松平信綱、東福門院和子、後水尾上皇、明正上皇、文智女王…亡くなった順です。 囀雀
* 興味津々。そして心底感服。ついに、明治近代の大きな勘所の一つ、岩倉具視らの渡米、伊藤博文の急遽帰日の一幕にまで雀は手を掛けてきた。
本の上を滑っているのではない、雀はつねに現地をとびあるき、そこで関心を持ち関心を押し広げて、また、現地へ飛んでゆく。軽率な囀りではないところ、なまじな学者より真率である。しかもこの人はこれで名を挙げよう、本にしようなどと思いもしない。なまぐさみが全く抜けている。
初めてメールを交換しはじめた七、八年昔は、その前にも一読者として文通があったが、けたたましいアプレゲールかしらんと想像していた。しかも鬱におちこむ。名張へ移転を期に「囀りと遊山の行脚」を嗾したのが、こういうところへ迄到達して来たのだ、おどろいて、よろこんでいる。支える動機にわたしの小説等への類のない親炙も働いていると見えて、感謝に堪えない。
☆ 三雲、岩倉そして畑野 亀岡市畑野の大梅山法常寺は後水尾法皇勅願寺として創建されたもので、その9年前(寛永 9年)、一絲文守が25才で隠棲した桐江庵が初まりだそうです。沢庵が赦された年。梅宮文智女王が結婚した年です。
門前まででもと思ってでかけた雀は、畑野の景色に見とれ案内を見落とし間違った道をのぼっていたらしく、通りかかった軽トラの窓が開きました。お寺の名前を告げると運転席の男性が、案内してあげるからついていらっしゃいとおっしゃって、ご住職は勤めに出ているけれど、奥さんがいると思うから声をかけてあげる、と…雀は僥幸にことばもありませんでした。
門前からすべて、参道も石垣も苔も紅葉も建物も景気も、京の著名な禅寺で得た印象をひきしぼって地におろしたような、今までにない衝撃をうけました。男性のあとをついて参道を進みながらたびたび歩みがとまり、息を吐いて辺りを見回すばかり。なるほど永源寺につながる地の気、景色と感じました。
奥様は庵址と墓所はさらに山の上で、その足元ではとてもとまずおっしゃって、明治になってから近くの廃寺の仏像や檀家さんを預かるようにはなったけれど、観光拝観はもちろん取材も受けず開扉もしないとのこと。
もみじの名所としてカメラを持った人がひきもきらず訪れるそうですが、そのときも変わらないそうです。本当に不思議に有り難いご縁で本堂と開山堂のお参りがかない、感激に包まれてお寺をあとにしました。そして奥様とお話しているうちにそよ風のように去ってゆかれた軽トラの男性が、カミサマのおつかいと信じられてなりません。
かたや岩倉は明るくひらけた隠栖地の雰囲気です。少し―だけ―離れて、生あたたかい、未練たらしい遁世隠居が可能な感じ。
道の石仏に足を止めると隣の石に「万里小路(までのこうじ)藤房髪塚」と彫られているのであっと小さな叫び声をあげました。湖南市石部町三雲の妙感禅寺でその名を目にしていたからです。
三雲は十一面観音の多いところで上乗禅寺もその一宇。元伊勢の「淡海国甲可日雲宮」は信楽の日雲神社ではなく石部町三雲の上乗禅寺ときいて、ほんの数日前、集落の道の果てに建つそのお寺を訪ねていたのです。1メートル余りの長谷寺式十一面観音を本尊とし、すがすがしく整えられた庭や建物に好い気持ちで境内の社にお参りしました。確かに神明宮と額がかかっています。
このお寺は信長の兵火に遭い、のちには火災で全焼し神明宮境内に遷したそうで、近くの同じ妙心寺派の妙感禅寺には十一面千手観音がというので、そちらに足をのばしたところ藤房に出会ったというわけです。そこには「万里小路藤房墓所」と。建武新政で流刑から帰京したものの、行賞などの不公平に、岩倉に籠居していたそうですね。
囀雀
* わたしも遠く及ばない。連れて歩いて欲しいと思うほど。精神的に健脚になった人。季節によっては青息吐息のように弱る人。しかし立ち直って、歩きに歩く。ご主人の理解と協力とが「二人」の楽しみにもなっているようで、いいことだ、ほんとうに。
2006 12・8 63
☆ 想像していた以上の分厚い持ち重りするご本に、覚悟を感じました。量だけでなく、重たい重たい中味のご本であることに、粛然と襟を正す思いです。
このつらく悲しい酷い文学世界を歩んで行く気力があるでしょうか。でも、読まなければなりませんね。
さらにさらに名作を書き続けてください。長生きしてください。
それにしましても、いつもの倍以上の重たいご本の発送、どんなにお身体の負担でいらっしゃいますか。どうぞご無理なさいませんように。 冬
☆ 私は穏やかな師走を迎えています。
「私語」で窺うご様子から、奥様の体調も含め気にかかっていました。
そのようなお忙しい中、「湖の本」をお送り頂きありがとうございました。昨夜遅く、マドレデウスのコンサートから帰宅したら届いていました。
久しぶりのテレーザの歌声は、冷たく頬をうつ海風。清涼剤のようにすっとして、その後は温かさに満たされました。
新しいCD「美しきわが故郷」「無限の愛」を全て歌ってくれました。前半はオフホワイトのドレスでしっとりと想いを歌いあげ、後半は真紅のドレスでリスボンの街中、港や海を一緒に旅させてくれました。そして、テレーザの歌声や
ギターの音色をリスボンにいるかのようにみせてくれる照明の素晴らしいこと。ほとんど何もセットがない舞台で、唯一石を削ったように見える壁が一つ。
照明は、これをリスボンの石畳の街並へ、古城の中へ、小さな酒場へ そして陽光や夜の闇へと知らぬ間に変えていきました。華美でもなく、寂しげでもなく、美しかった…。海の匂い……。
テレーザは英語がとても上手になっている上に、「ありがとうございました」と澄んだ日本語で何度も繰り返しました。言葉の美しさは、発音などではなく、きちんと伝えたい気持ちをのせて話せるかだと、しみじみ感じながら拍手を贈りました。
寒さ厳しい折、冷たく凍った人の心はこちらの心も冷やします。今はただ大切に、凍傷せぬようご自分をお守りください。
本に下さった「お幸せに」を、大事に戴きました。幸せは種。日々育てるものでしょう。毎日、丁寧に、ささやかに出来ることをして育てます。
それを下さった湖にも、そうであってほしいと願いつつ。 珠
☆ 12・9 泣きながら読みました。・・時が、さらに経過した時、作者は、また新たなものを紡ぎ出していかれるだろうと思います。
先のメールで「鳶は外に外に向かっている・・」と書かれていますが、果たしてそうでしょうか。外見にはそのように見えましょうか? 鴉は内に、と対照的に、反対方向に向かっているように考えたことは、ついぞありません。ただ体が動けるうちに大いに動き回り旅行したいという、同世代の人たちとさして変わらず、ただその癖が少し激しいということにしてくださいませ。
十牛図のことがふと頭をよぎりました。外を飛び歩く鳶はさしずめ彷徨い尋ねる第一の「尋牛」図から、せいぜいどんなに頑張っても第三の「見牛」あたりまで、それが鳶わたしの限界ではないかしらん。
十二月の静かで寂しい雨が降っています。 鳶
☆ 冷たい一雨ごとに、冬本番になっていく今日このごろですね。師走、今年も「富山の鱒の寿司」の好機となりました。この時季になると、どうしても「雪に覆われた立山連峰」を想い、無性に食べたくなる故郷の味です。高岡から雨晴海岸を通って氷見にむかう地は、ちょうど富山湾がカーブしているため、海をへだてて神々しいばかりの立山連峰を臨むことができます。昨年とても喜んで戴いたことを思い出し、ささやかながら送らせて戴きます。一週間くらいで届くかと思いますが、どうか召し上がってくださいね。(お礼状などくれぐれもご心配いただきませんように) ゆめ
2006 12・9 63
* 朝飯前に「MIXI」に連載の『能の平家物語』を完了。二月十五日に連載し始めた書き下ろし『静かな心のために』以降、自分でおどろくほど沢山な自作を、『最上徳内北の時代』ほどの長編小説も含めて、つぎつぎ連載し続けてきた。かつては出逢うこともゆめ想われなかった新しい読者を得ている。ありがたい。
2006 12・10 63
☆ 秦先生 10日ほど前に「美術京都」、大層たくさん拝受いたしました。すぐにお礼を申し上げようと思いつつ、私が体調を崩し順に子ども達にうつしてしまい、その間に幼稚園や身の回りのお約束も多く、などとドタバタしているうちに先生の方からのメールを頂いてしまい、本当に申し訳ありません。
先生の「冷えますね、お大事に」のお言葉が身に沁みる師走です。
データを図示しながらでないと中々伝わらない内容を、縦書きの雑誌の中で、どの程度表現できたのかは不安ですが、先生がお書き下さった編集後記に「沈糊という言い方」を掬い上げて下さっていたのを拝見し、多少なりともこちらの世界の方のご興味にひっかかるような部分があったのであればうれしく、安堵しております。
偶然にも雑誌を頂いた同じ日に、この原稿を書く直前に投稿していた古糊の英語論文がアクセプトされた連絡がありました。査読期間が長いので有名な雑誌でしたので随分とかかりました。英語圏の方達からこの内容はぜひ投稿しておくよう、と言われて苦手な英語で遅々として進まない中を書き進めていたものですが、これでようやく肩の荷がおりました。
この一連の研究に携わる中で、自分の能力というものを社会の中の一つの歯車として機能させていく方途を教えて頂いたように思っています。歯車としてこの人間が多少は役立つだろうと思って下さる方がいらっしゃるからこそ、実にたくさんの方達の協力をたまわりましたし(原稿最後の謝辞の長さは尋常ではないのをご覧頂いていると思います)、だからこそ得られたデータは私個人のものでなく、できる限りたくさんの方が活用できるようにしておかなければならない。
人は皆、誰もが小さな歯車になれるものですね。仕事はお休みを頂いて娘のお友達のママさん達とよくつきあうに連れ、その思いを深くしています。誰もが小さな特技を持っていらっしゃるのです。娘のソルフェージュの時間に、声楽を学んでいらしたママがアリアを歌って下さったこともありますし(なんて贅沢なレッスン!)、お正月のお飾りの作り方を教えて下さったママは中学の頃から描かれた絵を何百万かで売ってらしたとか。自分で作ったアロマテラピーの石鹸を見せて下さったママは実は理系出身で機械直しが上手でした。
一人二人でなく、本当にみなさんがそれぞれ何かしら小さな世界を持ってらして、私は頭を低くして「自分の専門しか能がないなぁ」と謙虚な気持ちにならざるを得ません。私の場合、研究職の性分で、初めての冬を越す子どものために編み物を始めたりすると、ついついそれにかかりきりで集中してしまい、他のことがお留守になってしまうもので。手芸その他、できなくはないけど、主婦としては失格ですね。
後先になりましたが、「湖の本」お送りいただきましてありがとうございました。封を開け、中を開いて息をのみました。先生のお覚悟を感じます。
寒さが一日ごとにつのってきております。
温かいものが恋しくなる季節です。体調が良くなってきたので料理に少し手をかけようかと甘鯛を買いました。かぶら蒸しにするつもりです。師走になったので春に仕込んだ味噌の封も開けたのですが、これもおいしく。
先生も佳いものを体に優しくお召し上がりになって、くれぐれもおからだをおいたわり下さい。 典
2006 12・10 63
* 横浜の堤さんから林檎を、栃木の渡辺さんから苺をたくさん戴いていた。
☆ 冬らしく 111日目 今日は30センチぐらい雪が降った。
風がなく、しんしんと雪が降った。
実家にいたので、除雪車が道路を通るのを待って、家に帰ってきた。
雪の日は、音が遠くに聞こえていい。
道路は圧雪のところがあったり、アイスバーンになっていたり、様々。気を抜くとハンドルがとられる。
冬の海は、凍っているかのように、波がどろりと寄せてくる。なのに、雪は静かに降っている。
川は凍って、その上に雪を乗せている。
白鳥が、大きな体を丸めて川の上に立っている。
大きな、雪のかたまりのよう。
国後島は、霞んでいる。雪が降っているのかもしれない。
冬の景色は何故だか、かなしい。 昴
* 昴を「MIXI」に誘ってからもう「111日」も経ったか。詩になっているのに惹かれ、引かせてもらった。
2006 12・10 63
☆ しばらく湖の本が届かないので心配していました、昨日、冷たい雨中宝ガ池のホテルから帰ったら届いてました、無事であったなと安心しました。今日、数頁開いて辛いこと知りました、思わず大谷本廟の方を向いて合掌しました。来年は良い年で有ります様、念じて居ります。 清
☆ バグワンの言葉が目にはいりますと深く懐かしく読んでおります。『湖の本』のページは王朝文学と古事記と歌舞伎、能、映画、姫の紀行文、スペインの風その他その他でありますが、時々じっくり読んでおります。自分の『殻』がなかなか抜けられません。
二上山、畝傍山、天香具山、耳成山を先日登り散策して来ました。怨霊が多くおりました、まほろばは。
日々寒さがつのりますが勢いでお過ごし下さい。 川崎 E-OLD
2006 12・10 63
* ゆめさんに富山の「鱒鮨」と「黒づくり」を戴いた。鮨の、魚も美味いが純白の鮨飯が美味も美味。それよりまた数段美味い珍味が、富山の「黒づくり」つまりイカ墨での塩辛。美味い。甘みすらあって、文字どおりの絶品。沖野さんから秘中の秘酒と名高い清酒も戴いたし、石川の吟醸元からの、粋の粋の清酒萬歳樂も戴いた。ほんとうは、まだまだ、とてもとても「これからが大変」なハラを括らねばならない来年を迎えるのであるから、引き締まってゆかねばならないけれども、今年も余す二十日というもの、ゆったり超然と遊んで暮らしたい。
「湖の本」新刊に、各地の読者からぞくぞく激励の声や応援が届いている。今度の本は、いわば「世間の常識」をはみ出たものをもっている。もしも事前に世間に対し相談をもちかけていたら、百が九十九まで自重をすすめられたに違いない。分かっていた。
わたしは、だから弧り決意し覚悟して用意し、決然出版した。出版するなら「今」でなければならない。来年では、まして二年三年五年十年後では「ダメ」なのである。「覚悟」とはそういうものだ
2006 12・11 63
☆ 柏原宿徳源院にある京極家のお墓に参りました。 鎌倉護送中に斬首された北畠具行という方のお墓もございました。
番場宿の蓮華寺、坂本の西明寺とともに、うかがってはじめてひしひしとならぶ敗者のお墓のいわれをうかがい、圧されのけぞり詣でるといったことが続いています。
小谷城跡は熊出没のため入山禁止。小谷寺は法要が始まっていて拝観がかないませんでした。
矢合神社で15匹の蛇を産んだことを恥じて淵に身を投げた虎御前媛のおはなしを知りました。
姉川の名も、日照りの年に雨乞いに入水した姉妹のゆえとききました。
園城寺三尾神社もそうですけれど、近江を遊山していますと蛇と美女の悲劇のおはなしに、桜の古木や血の色をした紅葉をともなって出会うことが多うございます。 雀
2006 12・11 63
☆ 四国の**です。驚くべき大冊拝受いたしました。
妻が郵便ですよと手渡したとき、片手で受けとって思わぬ重量に一瞬、気持の方が揺らめきました。内容を確認するにつれて、その重さが単なる物理的なものではないと判明し、肉体感覚に直結する精神宇宙のなせるわざの不可思議に、想いをめぐらせています。暑く長く苦しかった、この夏の宿命的ともいえる「悲哀の仕事」を紙の形で再確認し、同年生まれとして「闇に言い置く」べきくさぐさを自己に問い直しています。
日本現代文学のなかでも特異な位置を占めるはずのこの仕事(仕事、プロ等のコトバは嫌いですが)が、未完の現在進行形であることの意味を、深く噛み締めて拝読しています。ありがとうございました。
以下は、話題が変わります。
11月2日に隣町である善通寺市の「四国学院大学」の新図書館の、一般へのお披露目があり参加しました。すでに一ヶ月前に開館していたのですが、市民をはじめ関係者への披露(全館案内や図書館職員による懐かしいリードオルガン三台の演奏会、簡単な立食パーティと充実した内容でした)が、少し遅れて開かれたものです。
一番驚いたのは一階フロアーのIT受付席を通り過ぎた場所に、天井まで吹き抜けの大書架コーナーがあり、漢籍の大著「四庫全書」1600冊がぎっしりと並んでいたことです。学内でも今のところ利用者は、たった1名とのことでした。
この大学は敗戦直後に設立されたアメリカ資本のミッション系の大学(前身は「四国キリスト教大学」)ですが、今では一般大学になっています。私が新制中学卒で社会人となり、仕事のかたわら同大学図書館に入り浸っていたのは、はるか50年も昔のことで、新設の図書館は三代目となります。
不思議なご縁で、その後、妻が「子ども読書運動」で同図書館の司書の方と知り合い、今回の出席となりました。 成
☆ 重たい本、行き帰りの通勤時に鞄に入れて持ち歩いています。少しづつ、読み進んでいます。
色々と嫌な事が多々ある世の中ですが、正面から向き合っていかないとと、心してあたっています。
最近、仕事柄、表に出る機会が多くなっています。まだまだ未熟者の私は、「市の担当課長の***です」と言う事に躊躇します。特に、市の考え方に反対派の多い時は。同様に、「地元市に住んでいる***」としても「まちづくり」に積極的に参加しなければいけないのではないか、と思い、少しづつそういった会合にも出始めました。でも、やはり自分の住所氏名等を公表しつつ自分の意見を発言する事に躊躇します。
まだまだ、ですね。頑張って精進しなければ、と思います。
話は変わりますが、先日の日曜日、我が家もあまりの天気の良さに誘われて銀座まで車をひとっ走りさせました。築地で美味しいお寿司を食べ、三越で仲人の先生宅に年末のご挨拶に伺う際の買いものをして、木村屋でパンを買って帰ってきただけですが。
木村屋で妻が買いものをしている間、2階への階段を少しあがったところから店内を眺めて、「あぁ、そういえば秦
先生もよく木村屋に来られているよなぁ。まさか今日は来て無いよなぁ」なんて思ったところです。ちょっとのところでニアミスしていたみたいですね。
とりとめもありませんが、湖の本の受領ご挨拶まで。 丸
* 全国有数の大都会で「課長」職というのは、激の激職だろう。いい奥さんと可愛い子が二人。頼もしい。
☆ 一度も京都を訪れずに一年を終えるのも心残りなので、11月30日・12月1日と一泊して息子と二人で京都に行ってきました。
目的の一はお墓参り、でも本当の目的は京都市立美術館で「浅井忠と関西美術院展」を見ること、でした。この展覧会があることを知ったのは秦様のホームページでの会話から、その時は既に府中での展示は終わっていて、では京都まで行こうかなくらいはちらと思ってはいたのですが——-
その後京都市美術館ホームページから出展作品の中に私の師・水清公子の若き日の作品があると知り、はっきりと「行かねば!」と心を決めた(まあ、なんと大層な)のでした。幸い二日ともお天気に恵まれ紅葉もまだちゃんと待ち受けていてくれました。
いつもの様に出発点は東大谷墓地、円山公園、知恩院、を経て岡崎へ。やはりこの展覧会はここで見なくては—-来て良かった!
昔の記憶にある沢山の先生方の若き日の作品の勢揃いで大いに満足しました。私が親しく記憶している水清公子先生はもう60才を過ぎて居られ、さばけたおばあちゃんと言った感じ、絵はやさしく美しかったのですが、今回出会った絵は、やはり美しくはあっても挑戦的(と私には感じられ)、
「ああ先生、頑張ってられたのだなあ」と始めて ”一人の先輩女性としての師”に出会うことが出来て、なんだかとてもうれしかった。
永観堂、南禅寺を訪れ、再び岡崎へ、「星野画廊」の看板にここは秦様のお話に出てくる所だと思い出し、恐る恐る中へ入り絵や書物を見せていただきました。
ふと手にした本『石を磨く』に心惹かれ購入、夜ホテルで落ち着いてから、帯に秦様の文があるのに気づいたのでした。素敵な本ですね。(見本には帯がなく、売り物は既に茶封筒に入れて置いてあったので。)
そうこうするうち日が落ちて、知恩院の三門に半月がかかり、高台寺にさしかかったらライトアップに長蛇の列、
ねねの小路とやらの奥の雰囲気の良い店で、ウエッジウッドのカップで美味しいコーヒをいただき、もう退散。安井から駅前のホテルまで市バスに。
「馬町」という停留所名が、なんだか、とても懐かしく耳にひびく。
翌日は地下鉄で烏丸今出川まで行き、同志社の横を通って(何年ぶりか!)出町から鞍馬へ行ってみました。
叡電の車両は新しくなっていましたが、比叡山がぐんぐんと迫ってきて山麓にこんなに落葉樹が多かったのか、とその山肌の色の多彩さに驚き、さすがに鞍馬までくると”山里の秋”が懐かしく残っていました。
鞍馬から出町へ戻りまだ時間があったので京阪電車で、東福寺まで。なんとあの(なんでもない)東福寺駅前からして”観光地”と化していました。
お寺にさしかかると、たこ焼きの旗。ちりめん山椒や八つ橋、陶器を商う土産物街が出来ていたり、そこをバスガイドさんが旗立てて客を誘導していたり– —
通天閣に入るにはディズニーランド並みの行列、と聞いてはいたが、さすがに紅葉も盛りを過ぎた平日とあれば行列用にジグザグに張られた縄は用無し。無事通天閣をわたり方丈のお庭も拝観して時間切れ、京都駅に向かいました。
二日間にわたって紅葉づくしの旅、身体の中まで紅く染まった気分、息子も大満足してくれて、それが私には一番うれしかったです。
夫はというと、入れ替わりに社用で台湾へ。なかなか一緒に京へは行けません。
写真を二葉(栄光会館、東福寺の紅黄葉)つけます。お目よごし。 2006/12/12 藤
* 元気いっぱい、羨ましい。そして行かれたどこもかしこも、みな自分の肌身に彫みこまれた、風景や名前。東福寺も紅葉の時だけで、季節はずれに行けば閑散として広らか。行きたくなる。
2006 12・12 63
* 「他言無用ライヴ」とかいう演藝について書いたものも来ていたが、事情がよく分からなかった。
☆ ご本と前後して届いた季刊誌で八木重吉という詩人の詩をよみました。
こころよ/では いっておいで/しかし/また もどつておいでね
もどってこられるか、もどってきたときうけいれてもらえるか、やわらかに変形してスムースにもどることができるか、そういったもろもろをなにも考えず、ほぅって「いってきます」というのが雀です。
何百年を経てまた、まつろはぬ人、漂泊の民がうまれています。古代をひきずる奇形の存在かのように人に思われ、コンピュータには幽霊かバグのように扱われて。インターネット社会やコンピュータネットワークに参加しない人は生者ではない亡霊の存在になってゆきます。念じる力が出せないとき雀は窓の外で囀ることも肩に止まることもできず、くちばしとつめでうちへうちへかいてゆきます。 囀雀
* この雀の「自意識」は、月日を追い歳月を追い、社会現象化してゆくと想像される。使う人と働く人の「区別」が尖鋭に意識された時代があった。テレビに出る人とそれを見る人との区別された時代になっている、今は。コンピュータを咀嚼する人とその毒に当てられる人とが現れつつある。
2006 12・12 63
☆ 札幌も暖かく 過ごし易い一日でした。
昨日出張より戻り中三日でまた次の出張です。
お送りいただいた湖の本が、机の上で手にとられるのを待っています。なんと重い、思いの籠もった本でしょう。
出張で行った博多で、飴色に美味しそうなからすみを発見しました。少し早いのですが、お誕生日のお祝いに地酒を添えてお送りしてあります。
行く年よりも来る年に期したい今年でした。
お大切に。 maokat
* たいへんな激務ですね、それでもどこかあなたの旅は楽しげで。胸懐がせせこましくないからでしょう。
あなたを「文質彬彬」と評しえた根拠は、「随処作主」の胸懐のあたたかさだろうと羨ましい。ますますお元気で。心の苗のよい言葉を培って下さい。 hatak
2006 12・14 63
☆ ありがとうございます。ご心配をお掛けしてしまいまして申し訳ございません。 母はいつまでも元気で、いつ
もいっしょにいて、と、錯覚しておりました。腰などは痛いものの なんとか車に乗れば あちらこちらと行けるものですから ずーっと、など思っていました。
突然の入院であたふたとあわててしまいました。じつは 今月の4 5 日には一族で草津温泉を予約しておりまして 母も楽しみに楽しみにしていたものですから 全員驚きやら 残念やら キャンセルなどなどにおおわらわいたしました。
私ももうこれでお別れなのかと思うと つらくて自然に涙がこぼれて仕方がありませんでした。全身の機能が衰えて ああ人間はこういうふうになるのだなーと。 思い知らされました。
このままいつまで病院にお世話になりますやら 分かりませんが 姉妹で交代で見舞おうと 心残りないようにと 今は思っています。 お励まし本当に有難うございました。 心から感謝いたします。
りんご 喜んでいただけ嬉しく思います。 最高の食通でいらっしゃいますので、なにがよろしいか? とまよいますが このりんごは切久保館の推薦の美味しいりんごでございます。なにとぞご賞味くださいませ。
また お目にかかれますのを夢みております。ごきげんよろしく。 郁
* 郁さんの母上には京都でまだ高校時分にも、また東京ででも郁さんの個展の折など、何度かお目に掛かったし、歌を読まれた歌の感想などを書き送って文通もしていた。老いて達者に海外への旅などされていた。画家の娘より一段と知性ゆたかな賢母であったが。ご平安に。
☆ 雨のなかのサッカーを見ていました。魔術師みたいなプレーに、観客は大喜び。わたしもテレビの前でホオッと感心していました。
それにしても、海外のサッカー選手のスケジュールは過酷です。
たとえば今夜試合のあったスペインのFCバルセロナは、スペインリーグを戦いながら欧州チャンピオンズリーグに出、さらに今夜のトヨタカップです。たまに親善試合もあります。タフでなくては務まりませんね。
今いちばん楽しいのは、器の本を見ているときです。
和の器なら、土ものがいいな、淡い色あいのものや粉引がシンプルでかわいい。パスタなど洋食にも合うでしょう。
濃い色の釉の大皿か、焼き締めなんかがあるといいアクセントになりますね。洋食器なら、白。つやつやしてるのがいいなあ。白い小ぶりのカップアンドソーサーでコーヒーを・・・などと、食卓に並べる図を想像してうきうきしてます。
今週は天候がいまひとつですが、風は何してお過ごしですか。花は元気に暮らしていますよ。
* 「器」は陶磁器の基本形で、碗と皿と壺とが、また基本形。ためらいなく此の碗は最高、此の皿すばらしい、此の壺なら欲しいと思えるようになれば、半歩前進。そのあとは、最高と思ったよりもまだ最高が、素晴らしいと観たよりさらに素晴らしいが、欲しいと思った彼よりこれが欲しいが、次々に目の前を通過して行くのに堪え忍んで、最高の域を、すばらしいの深みを、欲しい欲しいの洗いかえを続けて行く。器ほど簡明で器ほど奥深い難しいものはない。しかし器は秘蔵してしまってはしかたがない。しかし毀してもいけない。
陶器の器を洗って無造作に伏せて置いてはいけない。時に糸底の欠けていたりが時代物の景色になっている例は有るが、器の口づくりのおよそに欠いたものや傷つけたものは、あつかった人のあらけなさを想わせ、情けないものである。
☆ 映画「硫黄島からの手紙」が話題ですね。娘を連れて観に行くつもりです。私は戦争を知らない世代ですけれど、娘の知らなさとは大違いです。親が金輪際ごめん被りたいという戦争を経験している世代の無知と、親が戦争経験のない無知では天地の違いがあります。憲法改正論議が現実のこととなる時期だからこそ若い人には是非戦争を知ってほしいと願います。
かくばかり世は衰へてひとりだに謀反人なき国を危ぶむ
日本人はもつと怒れと若者に説きてむなしく老いに至りぬ 岡野弘彦
もう一つ「麦の穂を揺らす風」も観たい観せたい映画です。どちらの映画監督も、ものを見る眼が公平で、狭量なナショナリズムによる批判などものともしない。尊敬します。 霜
2006 12・14 63
* 高麗屋の奥さんからは国立劇場で三ヶ月つづいた真山青果「元禄忠臣蔵」中村吉右衛門、坂田藤十郎、松本幸四郎三人の大石内蔵助お芝居のディスク三枚を頂戴した。十、十一月はどうしても観ているゆとりがなく残念無念であったので、このご厚意はなんとも有り難い、嬉しい。この夫人らしい、走り書きながら気さくで行き届いた添えの手紙もあった。
* 栃木からは赤ちゃんの拳ほどもある、宝玉のように赤く輝いた苺が八パックも贈られてきた。週末に息子がくるときに食べさせてやりたい。広島の理史くんからも純米と吟醸と二種の土地の名酒。冷え込みがちな師走の胸懐を、みな心優しく温めてくださる。
* 金澤にいる画家の「お父さん」からもありがたい心親しい手紙をもらった。彼の苦闘もつづいている。広い世間には、つらい、悲しい、苦しい思いの人達が、少なくないどころか、あまりに多いことが分かる。わたしのように書いてあからさまにする気も勇気もなく悶々と我一人の胸にかかえ持った人達を、今度の『かくのごとき、死』をきっかけに何人も何人も知った。
2006 12・19 63
* 久しい、親しい歌人の青井史さんは歌誌「かりうど」をながく主宰していたが、健康をいたわり、思い切って終刊にするという挨拶入りの終刊号を送ってきた。健康はどうぞ大切に大切に労って欲しい。終刊の報せは、惜しいがちかごろ潔いあいさつであった。青井さんは、馬場あき子さんの「かりん」から立派に自立して、「かりうど」で与謝野鉄幹の大著を仕上げられた。これは立派な大仕事で敬服した。たとえ終刊しても青井史の名は「かりうど」とそこで大輪の華のように咲いた鉄幹研究の詳細なこととともに忘れられないものになる。ご苦労さんでした。またペンの例会へ佳い笑顔を何度も見せてください。
* 夕刻前、妻と出かけ、久しいお付き合い、家に初めてみえたのがちょうど二十年前、の倉持光雄さんと会った。倉持さんの知人である人ともお目に掛かって、一時間半ほど話し合ってきた。有益であった。
2006 12・19 63
☆ 「壁」脱稿 甲子
MIXI へのお誘い、ありがとうございました。ご招待いただいた当初は、閲覧を、と考えておりましたが、先生の日記欄を拝見しているうち、この日記欄を下書きの替わりに書いたらどうなるやろ、とふと考え、「通訳たち」という連作形式をとってみました。
始めてみると、推敲の行き届かない初稿の連載、その苦しさ・恥ずかしさ・に打ち震えます。
やっと「壁」というサブタイトルのものを書き終えましたが、うちに秘めた「壁」のひと文字が読む人に伝わりますのやら、下半身の冷え込み以上に骨ががたがたします。
目の前の欅、もうすっかり葉が落ちて裸樹となりました。先日撮ったCT 写真のように、自身の骨格を見る思いです。
つまらぬことを書きました。冬至間近、寒さいっそうふかまるでしょう。
奥様ともどもお風邪など召さぬよう、お気をつけください。
* 推薦し招待した甲斐があった。「下書き」に勇を鼓してあたる真似を、わたしは、いちばん最初の「静かな心のために」で試みたが、ぶっつけ本番という気分で緊張した。
いま北海道の昴さんが「お話し」を勇敢に書き継いでいて、わたしは感心している。いずれ推敲の時機が来るとして、いま書きたいものは、いま書いたがいい。
詩を、それも詩のまねごとのようなものでない詩を、この「MIXI」を利用して書き継ぐ人がいてもいい。たいていの人には詩はおそろしくて薦めないが、この人ならと嗾したい人もいる。
☆ 鴉さま 12.15 金曜日 月曜日から更新されていなかったHPに新しい書き込みがされてあって、ホッとしました、機械の不調ではありません、ね?
12.16 土曜日 どっちもどっちとあっさり嘲笑う人、そういう人は、あらゆることにそのような安易な判断をしたり顔して済ましている人ですから、放っておくしかありません。常識を振りかざす人、その範囲の中で価値判断する人、彼らはある意味でとても強い人ですけれど。
夕日子さんたちの、ついに出た具体的な要求が、インターネット上での謝罪と50万円づつの賠償金とある、先日の記載に、えっ と絶句しました。何を考えているのかと。
徒労、荒廃、無残。
ごくあたりまえの人間としての感情、親の愛情や恩に対する感謝の片鱗までも、どうぞ見失わないで。
「すべて私の不徳」とおっしゃらないでください。最現役で生きてください、これまでも「今・此処」の生を自覚されながら、最現役でしたよ! これはエールです。
12・19 やす香さんのお友達と交信ができた様子を読んで、お気持ちを察しています。
本数冊などを送りました。「文藝愛」?? お誕生日の頃に届くにはあまりにささやかな小包ですが。ドンキホーテ・・そしてダークピットの本、お手元にあるやもしれませんが、気休めにフッと気を抜いて楽しんでくださればと思い、手元にある比較的新しい出版のものを。
宇宙論は気持ちを引き締めたい時、読んできました。くよくよ悩んでいる時は宇宙の広大さを読んで自分の存在の儚さ、悩みの小ささを改めて思ったり・・実に安易な解決方法だなあと笑われそうですね。でも、日頃の読書範囲からちょいと離れるのも、よいものです。
封筒に入れた「耳掻き」は知り合いが作ったもので、皆の評判がいいので送ってみます。固い箱に入れなかったのでちゃんと壊れないで届くか、少し心配です。
この一年はあまりに多くのことがありましたね。メールが双方向でないのは「諦めて」いますが、やはり残念で寂しいです。新しい年には淡々と明るくメールを書くようにします。 鳶
☆ 『湖の本・かくのごとき、死』を、ありがとうございました。
拝読しております。誰かに話さずにはいられない気持ちになっております。
そんなとき、秋の講座の最終回で、せっかく受講してくださった方とお話もしたいと思って皆さんに声をかけて昼食をとりました。
その中で私のブログが話題になり、最近更新した内容に『湖の本』のことがあってと話をしましたら、多治見市の方が「古くからの読者です」とおっしゃって、いかに秦先生のファンであるかをお聞きしました。
そういう方が受講してくださったことも嬉しかったですし、この本についてお話できる方がいたことを嬉しく思いました。
師走の言葉どおり、お忙しい日々と思いますが、どうぞ御身体大切になさってください。
ひとことお知らせせずにはいられませんでした。 ペン会員
☆ 新刊『かくのごとき、死』のあまりの切実さ、哀しさ、重さ(内容)。人間が立ち向かわなくてはならない厭なことは世間には多々あるのですが、先生のご心情、ご同情申し上げます。またそうまでしなくてはならない選択を押し付けた輩に対する憤りを共有することも、お伝えしたく存じます。 桂 京都
☆ 良いお年を 今年もあとわずかとなってまいりました。
湖のホームページ http://umi-no-hon.officeblue.jp/ ご紹介頂きまして「生活と意見 闇に言い置く-私語の刻」読ませていただいています。
秦建日子様のブログも読ませていただいてしまいました。
「親孝行と猫孝行」がなんとも暖かくて優しくて、、、。
秦様、新しいメガネのお写真をご披露なさってくださいね。
新年が秦様と奥様に良いお年になりますように祈念いたしております。 若女
* 岡山から、秘酒一升。あれもこれも、金澤から戴いた「黒づくり」を佳い肴にいまも呑みたい呑みたいが、あすは聖路加で検査が二つ。糖尿病と視野検査。畏まって、今夜は遠慮。しかし一晩ぐらい畏まってもダメにきまっている。
* 今日、倉持さんに、「秦さん、半分ぐらいは死ぬ気で自転車を走らせているでしょう。それはやめてください」と云われた。
2006 12・19 63
* クライヴ・カッスラーの作三種その他を含めて、鳶さんからセルバンテスの『ドン・キホーテ』などを戴く。カッスラーは東工大に通っていた頃愛読した作者の一人で、届いた本は新刊か、みな目新しいのが有り難い。久々にこういうのも読んで鬱散しなさいという御厚意であろう、感謝。
* 思いがけなく、「MIXI」で仲良くなった新婚のお嫁さんから、明日わたしの誕生日にと、華奢に可愛いバラの鉢植えを戴いた。ありがとうございます。
* 世の中はほんとうに、いろいろ。いろいろが、いい。単一で単調では仕方がない。不徳であるが弧ではないと嬉しく有り難い。
2006 12・20 63
☆ 近年になく東山は今だにカラフルです。湖の本…どうして、何で、と思いながら読みました。悲しい、辛い70歳でしたね。71歳、お誕生日おめでとう、楽しい事があります様に。
明日私は南座の顔見世です。今年も行けて感謝。
今年も後少し。体に気を付け、自転車でむちゃしたらあかんえ! 清
☆ こんにちわ。 気が付けばもう冬至、慌ただしく過ごしています。今月初旬に脳内出血で十日間入院しました。幸い麻痺も言語障害もなく、歩行時のふらつきを家でリハビリーしています。一人で五役七役を担って疲労困憊で、暗い 年末です。過労と低気温は体調に容赦がありませんでした。何時までこの状態が続くのか分かりませんが、当分は近辺のお使い以外は篭の鳥状態です。
あなたも問題山積しているでしょうが、お気をつけて。病魔に襲われてからの後悔は、先に立たへんえ。 泉
* 湖 お誕生日おめでとうございます 6.12.21 0:15
本日お誕生日のささやかなプレゼントを送らせていただきました。到着は明日お誕生日当日の予定です。
糖尿にはあまりよろしくないのですが、時々はいいですよね。「空(くう)」と、和菓子を送らせていただきます。「空」は以前に送らせていただいたことがありました。愛知県の外に出ることはめったにないお酒ですが、最近杜氏さんが変ったというので味が変っていないことを願います。
和菓子は、「一口おこし」と、お干菓子です。
「一口おこし」は青山のこのお店が年末だけ作るもので、一年前から予約するお客さんもいる名物。向田邦子さんもお好きだったそうです。かりんとうを召し上がるので、歯は大丈夫だと思うのですが、もし固かったらごめんなさい。どなたかにさしあげてください。
お干菓子もこの店のものはおいしいのですが、本場京都のお菓子に比べますといかがでしょうか。
夢の一つに、ご愛用のお茶碗で、点てていただいたお茶を喫むというのがあります。やす香さんのご霊前に、お点てになったお茶と一緒にお干菓子をお供えいただけましたら……。
お酒もお菓子も、奥様にここまでとお許しをいただいてからにしてくださいね。
毎日のさびしさを少しでも紛らわせたいという理由もありますが、古文書の読み方を本気で勉強しようかと思い立ちました。古い戦記や手紙や日記や漢詩集がかなりあるのです。漢文の素養に欠けるため、達筆すぎて読めないため、内容のわからない古文書を退治したいと決意した次第です。量が多いので十年は格闘する楽しみがありそうです。何かアドバイスがありましたらよろしくお願いいたします。
今日近所のパン屋さんに買物の途中で、以前から気になっていた古本屋に入ってみました。重厚なインテリアの感じのよいお店なのですが、古本屋としてはだめでした。よい本屋に入った時の身震いする感じがわかないのです。古本屋に入って一冊も欲しいと思う本がなかったのは珍しいことです。
それもそのはず。歓迎してくれた品のよい店主の方は、定年後の趣味でご自身の集めた本を売るお仕事をはじめたそうです。つまりご自分が愛読している本はご自宅で、その残り物が店に並んでいるのです。本選びがぬるいと感じたのは、プロではないの一語に尽きました。商売ではないので、最良の本をお客にとは考えていないのです。
店主さんは「純文学は売れなくてねえ」と言いましたが、売れ筋の本を売るならそんな古本屋は意味がない。古本屋が宝の山なのは、探して探し求めるその「一冊」が「魂」があるから。
西陣の帯の老舗「帯屋捨松」の木村登久次会長のこんな言葉を読んだことがあります。
「売れる、売れへんというのは、何を基準にしますのや? 山と一緒で何合目に基準を合わすかでっしゃろ。頂上狙(ねろ)たら、ひとつしか売れしまへんやろ」
さすが、京都の心意気です。
ところが、この書店で思いがけず素晴らしいものを見つけました。店主の坐る場所の上に掛けられていた小さな繪に目が釘付けになりました。
佳い繪は一瞥でわかるものですね。縦十八センチ横二十五センチくらいの風景画でした。
思わず「佳い繪ですねえ」と感嘆すると「ありがとうございます、じつはこれは叔父の描いたものです」というお答え。美大に通っていらしたそうですが、若くて戦死なさったとのことでした。旧アメリカ大使館近くを描いたものだと。
「この繪は無言館に行くことになっているんですよ。僕が死んじゃったら保管に困るんで、他のパステル画なんかと一緒に引き取ってもらうんです」
星野画廊においてもふさわしい繪でした。無名の若い画学生のたしかな才能が、その小さな画面に刻印されていました。生き残ることができたら、この才能を大きく開花させたでしょうに、志半ばで戦地に倒れたことはどんなに無念であったことでしょう。
作品はどのくらい残っているのかと訊ねましたところ、恵比寿のアトリエが戦災にあって殆ど焼けてしまったというので、絶句しました。口惜しいと思いました。人の営みの愚かさ、はかなさ。命だけでなく、作者の魂までも爆弾で一瞬に奪ってしまうのが戦争なのかと、言いようのない気持でした。
「無言館」が日本に存在して本当によかったと思います。無知無能無慈悲な政治家と軍人と無力な国民による国家の強制によって、可能性も夢も打ち砕かれた若者の慟哭を、一人でも多くの人が観て感じるべきです。
それにしても、この一枚の繪の命がけでありますこと、圧倒的な力で胸に迫りました。人のよい店主でしたけれど、こんな片手間趣味の古本屋ではいけません。趣味でも、やるからには徹底しなければ。我が身を猛省した次第です。
言い方を変えれば、才能というのはいかに命がけになれるか、なのかもしれません。命がけのものだけが人を奮い立たせ、真実に迫ることができるから。
『かくのごとき、死』 命がけの作品です。湖の他のすべての作品のように……。今身にふりかかる火の粉を払うために闘う、書いて闘う、そういう環境は天才に与えられた定めなのでしょう。湖の七十代はさらにさらに命がけで走り続け、もっと「書く」という使命があるのです。
日付変りました。お誕生日おめでとうございます。
七十一歳、益々命がけで書き続けてください。一刻も早くおさらばしたくなるような世の中かもしれませんが、湖は世界に希望を作る人なのですから、死に急いではいけません。ペンの『電子文藝館』を作られたあの驚異の粘りで、今までのように文学の王道を突き進んでください。
湖にしか書けない世界を、次々に読ませてください。 一陽来復
2006 12・20 63
* 述懐 あはれともいふべきほどの何はあれ冬至の晴の遠の白雲 七十一郎
* 日のいちばん短い日に生まれた。
* 朝一番にお祝いの名酒・お干菓子をもらった。
昨日頂戴した、手作り、竹の長い細い「耳かき」が嬉しかった。美しく削れてある。
むかし茶杓削りを試みたことがあった。弥栄中学茶道部のみんなにも削って御覧とすすめたら、中に、美しく削ってきた二人が居た。いまはどこかで、もう、しっかりいいお婆ちゃんになって元気でいるだろうが、幼かった面影が、みな、目にある。
「耳かき」といっしょに大好きな最中と抹茶ももらっていた。このごろわたしは、朝晩に抹茶を自服でのんでいるので、さっそく新しいお茶で最中を頂戴した。お茶は子供の頃から好き。餡菓子がむかしはとびきりの貴重品だった。佳い干菓子もお茶にはうってつけで、酒の重なりそうなときはお茶にし、どちらも気長に楽しみたい。
* 誕生日にゆっくり家でくつろいでて、出掛けないのは珍しい。大勢さんに早め早めからいろいろにお祝い戴いていて、ふくよかな思いに、温まるように家で落ち着いているのも、樂、福、というもの。鳶の呉れたカッスラーを読んでくつろぐか、ドン・キホーテのとてもみごとそうな訳本を読むか。自転車で走るには寒すぎるようだが。「元禄忠臣蔵」第二部を妻と楽しむのがなによりだろう、美味い酒、肴で。そしてお茶とお菓子で。
☆ お誕生日おめでとうございます。
仕事がうまく片付かず、ろくにお祝いもしてあげられず申し訳ありません。
それまでの一年間がつらかったぶん、71歳の年が幸多いことをお祈りします。
23日の夜に、そちらに行きます。 建日子
☆ お誕生日おめでとうございます。
大変なことの多かった年を乗り越えて、新しく重ねられた年が平穏でありますよう、お祈りしています。 のばら
☆ お誕生日、七十一郎氏。京都は終い弘法さんの賑わい。
耳掻きなどおよそ気恥ずかしいものを送ったことが、半ば気に懸かっていました。嬉しかったとあるのに一安心しました。静かに家に篭もる一日も貴重ですね。
わたしはお篭もりの毎日は機械と絵と本を相手にしています。失敗続きの絵に再び取り組んでいます。顔をなんとか修復しないと前に進めないのです。疲れて気分転換にお掃除・・!
明日は奈良に思い立って出かけます。 鳶
* 有難う。今日は、人みなの平安を願おう。
☆ いかがお過ごしですか、風。今日は誕生日でしたでしょうか。おめでとうございます。
先週の金曜に、ホスピスにいる関西の義父の容態が急変したというので、とるものもとりあえず駆けつけました。
義父は持ち直しましたが、いつ急変するかわからない状態ですので、週が明けてもわたしは**に残り、実家と病院を毎日往復しています。
今日になってミクシイメールの使えることを思い出し、**実家のパソコンを借り、こうして風にメールを書いています。
このままこちらで年を越すことになりそう。
ミクシイは定期的にチェックするつもりですので、ご遠慮なくメールしてくださいね。
なかなか大変ですが、花は元気です。
* 心配していたので、連絡にホッとした。覚悟はさだめてられたようだが、歳末年初のご苦労は、重々。みなみな、お大切に、ひとしおの平安あれ、と。
☆ 七一歳の誕生日、おめでとうございます。七一年生きているということを、うらやましく思いつつ、気が遠くなるような感じもいたします。
何はともあれ、体に気をつけて、日々お過ごしください。 昴
* オホーツクに臨んださいはての学校で、生徒たちと日々健闘しまた勉強している、先生。うんと若い先生なのだろう。
☆ hatakさん七十一回目の誕生日おめでとうございます。
おいしいものを召し上がりましたか?
心行くまでお酒も召し上がりましたか?
では、明日から、七十二をめざして、進みましょう。
MIXIの奧から「今・此処に、お誕生日おめでとうございます」の声もお伝えします。 maokat
* ありがとう。お元気で。
* 画家ドガの名高いダンスデッサンなどを、これも優れた詩人ポール・ヴァレリーが美しく語りついで、清水徹さんが訳された本がある。『ドガダンスデッサン』、訳者に頂戴した。
昨日は金澤の「お父さん」画家が述懐の長い手紙を読んで、ほろりとし、また亡くなった石久保豊・白寿媼の遺していた病床日記も読みかけ、わたしの名前も出ていて、ほろりほろりした。
2006 12・21 63
* きのう元岩波書店におられた高本邦彦さん、河出書房の小野寺優さんからもお見舞いや励ましのお便りを戴いた。恐れ入ります。
また思いがけなく、先日理事会あとにふと暖簾をくぐった京料理「鈴木」の女将からも誕生日を祝う手紙や干支の品々を頂戴した。びっくりしました。感謝。二人口での料理の鴨鍋をわたし一人のために用意してくれたのが、それは美味かった。ちかごろあれほど満足した食事は珍しかった、雑炊まで、ほかほかと美味しく食べてきたなごりも失せぬ内の心づくしで、嬉しかった。ホームページをみたのであろうか。
2006 12・22 63
☆ やす香様のこと、かぎりなく痛ましく、遅ればせながら心よりお悔やみ申し上げます。
また、発病前後から亡くなられた後まで続く、さまざまな経緯についてのご心労は、計り知れないものでありましょう。くれぐれもお大切に。
インターネットは便利ではあるけれど、悪く利用されないよう、用心が肝要というのが、私の感じ方でありましたが、『かくのこどき、死』を読んで変わりました。「私語の刻」に書いておられる、「そういう革命的な新機械環境の効果ないし毒性を前提に」の、むしろ「効果」を読むことができたと思います。
今年も、もう終わります。奥様の心臓病と秦さんの糖尿病、お気をつけてお過ごしください。
追伸 私事ですが、この5月はじめに、くも膜下出血をおこし危ない橋を渡りました。幸い開頭せずカテーテルによる塞栓術がうまくいって(プラチナの糸毬入りの、高価な頭です)後遺症は全く無く、仕事に復帰しております。暫くの間は、もしかしたら今、自分はいなかったかもしれないという妙な気持ちが拭えませんでした。 矢
☆ お辛い日々を過ごされた古希のお歳であったか、と、お察しいたします。
冬至と重なるお誕生日、おめでとう、などの言葉は控えさせていただきます。お芽出とう、なら別でしょうか…。
わたしのほうでは、孫娘が祖母(わたしの妻)の亡前すれすれに、留学していたデンマークから帰国し、現在某電器メーカーのIT部門で働いております。その話…。
北欧では太古から冬至の祭りがあり、友人など招待し、ペーチカ囲み合唱などして過ごす。お祭りというより、お祝いに近い、と話していました。実際に体験してしてきたのですから、孫にはたいへんによい勉強であった、とわたしも喜んで聞きました。
シベリウスの楽曲などにも、冬至の祭りの舞曲があり、極北の人たちにとっては、これから寒さ厳しくなる、ということより、太陽が還ってくる、ということの方がはるかに大きな喜びなのでしょう。温帯地域に棲息するわたしたちには判らないことですが。
後から浸透して行った耶蘇教徒の知恵者が、この冬至祭りに便乗してクリスマスをでっち上げた、という説もあります。調べたわけではありませんので真偽は判りません。
枯れ枝の やがて花咲く葉も揃う 甲子
* わたしより十一歳も長者である人の、きびきびした物言いの懐かしさ。そういえば、三百人劇場でついこの前に観てきた「夏の夜の夢」は夏至の祭りであったとか。冬至といい夏至といい、さしせまった実感からあまりに遠く今日我々の日頃のあるのは、かなり寂しいことである。日一日と日の長くなってゆく極の日に生まれていたことを、今はささやかな励ましとして喜ぼう。
☆ お誕生日おめでとうございます。71歳のお年こそは、奥様とともに、HPに書かれていますように 楽、福と、ふくよかな時を過ごされることが出来ますようにと祈っております。
千石の三百人劇場が、今月で閉館とのこと。
ずいぶん早い時期から、この劇場へは思い出したように行きました。映画も見た覚えがあります。秦さんのHPでの評を読んで早速にと駆けつけたこともあります。
良い演目であれば、当日券で一人ででも気取らずに行ける暖かい雰囲気がありました。最近では「怒りの葡萄」「アルジャーノンに花束を」などの良い作品を見せてもらい満足していました。眼の不自由な方への音声ガイドがあったり、劇場の方の暖かい手助けが見られたりで、これからも気楽に安心して通えると思っておりましただけに残念です。
最後の舞台が「八月の鯨」
ずいぶん前に映画を見た覚えがあります。最終幕を迎える劇場にも何よりも我々夫婦に適した演目、と、今回は主人を誘い出かけました。
同じ時代を生きたものに分かる喜び、悲哀、ほんとうに静かに話しかけられ、考えさせられました。俳優の方々も同じような年齢とか。年を重ねられた方が出せる味に魅せられました。
パンフレットの中の寄稿文に、登場人物に季語の「冬紅葉」の言葉を送りたい。老いは決して惨めなものでなく、逆に光を感じさせることも出来ると、と、書かれていました。私たちも一時でもそうありたい、と願いつつ良い舞台を見せてもらえたと、二人して満足して帰りました。
また良いお芝居や舞台のご紹介を、HPでお待ちしています。
迪子様ともに お体にご留意くださり、お元気で年末年始をお過ごしください。 晴
2006 12・22 63
☆ 誕生日お慶び申し上げます。
受診結果「横ばい」は、old には一番良い判定だと思います。新年はまたひと回りの干支です。益々のお元気をお祈りいたします。
いろいろたくさん「MIXI」ご教示、ありがとうございます。いっぺんに分かった(?)ような気になれました。
実は、川崎の0LDさんから、入会の体験についてお問い合わせがありました。題して「知的空間の劇場を恐れる」でした。新しい、ソーシャル・ネットワークの世界に、e-old たちがいろいろの反応をしているのを感じます。
今後ともよろしくお願いします。 e-OLD 千葉
☆ お誕生日おめでとうございます。冬が訪れるというその日から、日が追い追い長くなってゆくことに、いつも意外な思いを抱きますが、冬は着実に春に向かっていることを、同時に気づかされる日でもあります。どうぞ、迪子様ともどもおからだお大切にお過ごしください。 バルセロナ 京
2006 12・22 63
* クリスマスには興味がない。makioさんに戴いた薔薇の鉢植えがまぢかに優しい。二輪が濃淡、紅色に咲き、もう二つしっかりした蕾が開花を待っている。塗りの華奢な小箪笥にのせると綺麗にはまっている。
* 一頁大のドレのエッチングと見開きに、長編『ドンキホーテ』の粗筋を詩的にあざやかに抄約した文庫本は、見るからに読むからに精緻に藝術的意図の発揮された一冊で、大判であればさらにみごとであったろうが、文庫本で持ち歩けるのが、繪がすばらしいだけに楽しい有り難い鳶の贈物だった。まずこれを存分に楽しみ、そして原作を読むことにした。
2006 12・24 63
* 「MIXI」の「足あと」が今朝「10003」になっていた。この数字にたいした意味はないが、ネット世間で「湖」が或る程度所をさだめたらしいということか。
新しい「足あと」がつくとわたしは覗き返しに行く。ひとつにはイヤミないたずらに遭いたくないからだが、昨夜、京都の母校「日吉ヶ丘」に縁のあるらしい人が「足あと」をつけていた。相当の後輩ではあるがそれは構わない。こっちは七十一だもの、後輩でなくてはおかしいし、同輩ならむしろ照れてしまうだろう。
メッセージを送ったら、すぐ返辞があり「マイミク」にと望まれた。日吉ヶ丘の後輩では三人目になる。
☆ 日吉出身です。
木下順二さんは日大芸術学部に通っていたとき、特別講義を聴きました。
新門前のお生まれなら、当時…昭和初期から43年頃まで繩手通にあった、「まんざい」といううどんやをご存知ではないでしょうか。祖母の実家です。
いまは同じ場所で「コテラデンキ」といい、大叔父が経営しております。
祖母の女学生時代はお隣は大村しげさんのお宅でお友達だったようです。亡くなられる、少し前に連絡が取れて、懐かしげに話しをしていたのをそばで聞いておりました。
その祖母も2年前に嫁である母のあとを追うように亡くなりました。
71歳のお誕生日、おめでとうございます。 これからもご活躍されるよう、お祈りしております。
よかったらマイミク申請だしますのでお仲間にさせてくださいませ。
母方の四人兄弟姉妹、上二人は桃高ですでに亡くなり、下二人は日吉出身でまだ若いので、母方の祖母も娘・息子の分まで生きるのだと頑張っております。
近しい者がたくさんいなくなり、そして同窓会をきっかけにこんなふうに大先輩とお知り合いになれるなんて、素敵な世の中ですね。
メッセージ、心から感謝いたします。 鈴
* この人、「馬」そのものが好きと。「馬」が好きで馬文化に精しかった、それがまことに佳い隠し藝のようでもあった木下順二さんを思い出させた。
うーんと実家と近い辺りでご縁があったようだ。わたしの父は「ハタラヂオ」の店をあけていて「コテラデンキ」の名も店もわたしは知っている。おうどんの店があったろうこともぼんやり記憶している。
少しずつこういう「MIXI」仲間ができて行く。人はなかなか信じにくいかも知れないが、わたしは、知らない人とわりとすぐ近づきになれる。食べ物屋の店でも、これはいい店だなと思うと店の人とわりとすぐ親しくなる。すると次からが心もちよくなる。
だれであったろう、そういうわたしを目の当たりにして感心していたことがあった。
わたしは決して人嫌いではない。心もちのいい人をいつも尋ね求めている方だ、思想からして当然ではないか。
* 「MIXI」の「足あと」が今朝「10003」になっていた。この数字にたいした意味はないが、ネット世間で「湖」が或る程度所をさだめたらしいということか。
新しい「足あと」がつくとわたしは覗き返しに行く。ひとつにはイヤミないたずらに遭いたくないからだが、昨夜、京都の母校「日吉ヶ丘」に縁のあるらしい人が「足あと」をつけていた。相当の後輩ではあるがそれは構わない。こっちは七十一だもの、後輩でなくてはおかしいし、同輩ならむしろ照れてしまうだろう。
メッセージを送ったら、すぐ返辞があり「マイミク」にと望まれた。日吉ヶ丘の後輩では三人目になる。
☆ 日吉出身です。
木下順二さんは日大芸術学部に通っていたとき、特別講義を聴きました。
新門前のお生まれなら、当時…昭和初期から43年頃まで繩手通にあった、「まんざい」といううどんやをご存知ではないでしょうか。祖母の実家です。
いまは同じ場所で「コテラデンキ」といい、大叔父が経営しております。
祖母の女学生時代はお隣は大村しげさんのお宅でお友達だったようです。亡くなられる、少し前に連絡が取れて、懐かしげに話しをしていたのをそばで聞いておりました。
その祖母も2年前に嫁である母のあとを追うように亡くなりました。
71歳のお誕生日、おめでとうございます。 これからもご活躍されるよう、お祈りしております。
よかったらマイミク申請だしますのでお仲間にさせてくださいませ。
母方の四人兄弟姉妹、上二人は桃高ですでに亡くなり、下二人は日吉出身でまだ若いので、母方の祖母も娘・息子の分まで生きるのだと頑張っております。
近しい者がたくさんいなくなり、そして同窓会をきっかけにこんなふうに大先輩とお知り合いになれるなんて、素敵な世の中ですね。
メッセージ、心から感謝いたします。 鈴
* この人、「馬」そのものが好きと。「馬」が好きで馬文化に精しかった、それがまことに佳い隠し藝のようでもあった木下順二さんを思い出させた。
うーんと実家と近い辺りでご縁があったようだ。わたしの父は「ハタラヂオ」の店をあけていて「コテラデンキ」の名も店もわたしは知っている。おうどんの店があったろうこともぼんやり記憶している。
少しずつこういう「MIXI」仲間ができて行く。人はなかなか信じにくいかも知れないが、わたしは、知らない人とわりとすぐ近づきになれる。食べ物屋の店でも、これはいい店だなと思うと店の人とわりとすぐ親しくなる。すると次からが心もちよくなる。
だれであったろう、そういうわたしを目の当たりにして感心していたことがあった。
わたしは決して人嫌いではない。心もちのいい人をいつも尋ね求めている方だ、思想からして当然ではないか。
2006 12・24 63
* 市会議員の選挙したあと、しばらく郊外を自転車で走り、帰ってからボーンハムを削りながらエビスビールで好い気分になりました。
クリスマスイヴは何にも関係ありませんので、ノンビリしています。
息子が大きな猫を預けて行きましたので、猫二匹に怪我のないよう気を配っています。
今日辺りは(義父上の)告別式などで緊迫しているのではないかと。お大切に、花。
こちら、今日は小春日を思わせる快晴です。 風
☆ 花 こちら吉備の国も晴れ。
風はヱビスビールがお好きですか。わたしの母が大好きなんですよ。
サイクリング再開なさいましたか。ほんと、暖かくて、外に出るのが億劫にならない冬です。地球温暖化ですね。
おっと、今洗濯が済んだと、洗濯機が知らせてきました。干したら典礼会館へ行きます。今日は葬儀です。
お元気ですか、風。
2006 12・25 63
☆ 先日の、私のメールの後の * のところが、もう一つ心に落ちてこなくて、何となく一日中ひっかかっていました。お気を悪くされたのではないかと、(事実なさっておられたのでしょう。すみません)後悔しきりでした。
私の書きぐせで、核心を避けて、引用や比喩を使いたがり、相手の方の読み取りに寄りかかった文章になってしまっていました。
正直、最後のところは、先生を時代の旗手のような(あのフランス革命のドラクロアの絵みたいな)書き方になっていて、有頂天の気味がありました。
「要するに」を使うのは、堕落だと光太郎が言っていましたが、その「堕落」をしてしまっています。
もっと、正直に、そして、論理と、理性で、文章を書く勉強をしたいと思いました。
で、本日、もう一度「ん?」と、読み直しました。
『表現』、『他者』、『照り返し』のところ、よくわかりました。
確かに『幻像』かもしれません。隣の『島』の人にかけた愛、という橋は、『美しい錯覚』であると言われたことも思い出します。
「不即不離」という宿命から逃れられない「言葉」を使って現す「実体」は、どこまでいっても歯がゆさが残り、過不足を避けられないのだと思います。先生の『丁寧』な、そして、厳しい字句の一つ一つから、『難しい機微』を、座右に、以て銘することを改めて思いました。
でも、とまた思ってしまいますが、このHPにおける表現形式は、十分メジャーであると思います。
携帯をいつも手から離すことのない私の教え子(中学生)が、携帯小説に応募して佳作になったと言っていました。
「せんせ、けーたい持っとん?」
「へえ!メールできるん!」といわれています。
こんな、若い子の幼い世界のずっと先に広がっている、知的に洗練された大人の表現世界を教えてやりたいと思います。(前に、HPやめないで、と言ってくれた中学生の便りもありました。)
だからやっぱり先生は、時代を切りひらいていく作家だと思います。
あらあらまた「要するに」になってしまいました。言葉足らずの失礼の段どうぞお許しください。
こちらで「天ぷら」と呼んでいるいわゆる薩摩揚げの類とかまぼこを、少々、お送りさせていただきました。お召し上がりくだされば幸いです。 洋
* 全然お気になさることはなく。お気に止められたあたりの * は、それなりに大事な認識に触れているのかも知れません。
自分を自分だけが見て分かっていると思うのを、わたしは、いつも自分に戒めます。自分にも人にも分からない自分を、「可能性」や「未知」として大切に感じながら、自分には分からず、人からは分かっているらしき自分の存在することも、大切にと。
他に学んで在る自分を、軽んじてはいけないと思っています。
ディスプレイの前に頂戴した「磬石」を横たえ置いて、気を静めるように、しばしば「磬を打って」黙想します。有難うございます。
押し迫りました、お大切に春をお迎え下さい。「MIXI」にもどんどんお書きになれば。 湖
2006 12・25 63
☆ 暖冬のせいか、あの気管支に潜むイジワル虫の穏やかなのが幸いし、古稀の婆も、多忙な仕事をこなせています。
考えてみれば、病院でなら分担の仕事、介護、リハビリ―介助、寝所の用意、食料などの買出し、賄い、洗い場、掃除、洗濯、電話の応対、等などを一人で担っているのですもの。
まだ戸外へ出られる状態ではありませんが、狭い部屋をぐるぐると歩くのに、ここ二日前からは、付き添わなくても杖を付きつき一人で歩ける状態にまで快方に向かい、三食の食欲がないので、お十時、お三時をプラスして、小さな子供を諭すように叱咤も激励もして勧めてきましたが、昨日あたりから、分量がやや増えてきました。
明後日は、退院後初めて病院で診察を受けます。
今年は拝顔のチャンスが一度もありませんでしたね。
最後の三百人劇場『八月の鯨』を観に行きたかったのですが。
こんな時は京都の景色が浮かびます。
そんなワケで、気力で私は元気にしています。 泉
* たいへんなことだ。「老」はすでに。「病」は眼前に。「苦」は生涯。「死」が、一瞬の好機であればいいが。今日も妻と話していた、「おばあちゃん(恒平の母)の年までにあと二十五年だよ、せめて十年がんばらなくちゃね」と。
2006 12・25 63
☆ マゴとグーは仲良くしていますか。クリスマスを「との」と過ごしています。パソコンのマウスの横がお気に入りの場所なのでかなり邪魔ですが、今の私の唯一のお相手となれば冷たくあしらうわけにもいかないので、尻尾の位置を時々ずらしてもらいながらなんとか仕事していました。
猫を飼うのは初めてなので、「との」だけの特徴なのか猫はそういうものなのかわからないのですが、トイレに行くたびについてきて済むまでドアの外で待っているし、入浴すれば必ず湯船まで覗きにくる忠義な猫です。
来年の情報を一つ。ネットのこんな記事ご存じですか?
「玉三郎&菊之助シネマ歌舞伎…来年1月13日から東劇で公開 歌舞伎俳優・坂東玉三郎(56)と尾上菊之助(29)が演じ、大当たりした舞踊公演「京鹿子娘二人道成寺」がシネマ歌舞伎として、来年1月13日から2週間、東京・築地の東劇で公開されることが2日、分かった。
玉三郎は「歌舞伎を映像化することにより、歌舞伎を見たことがない方にも足を運んでいただけました」と喜ぶ一方で「今回はシネマ歌舞伎でしか見られない、映像の特性を生かしました」編集にも積極参加。3月には大阪、4月には京都での上映も決定。華麗で妖艶(ようえん)な2人の舞いが、今度は映画で注目を集めそうだ。」
実際の舞台を観るのが一番なのですが、なかなか歌舞伎のチケットも取りづらいですから、この映画には是非行きたいと思っています。私も妖艶に舞いたい……なんて。フフ。 木枯
* 今年の玉三郎と菊之助の「二人道成寺」は、これまで数々観た舞踊歌舞伎で、最も興奮した一つです。去年でしたか菊五郎達の「達陀」にも興奮しましたが。菊之助が玉三郎をしのいで美しくゆうゆうと踊ったのが、流石の玉三郎に気の毒な気がしたほどでした。ぜひ御覧になるといい。わたしも、映像では角度や視点を強いられそうなのは気になるけれど、観てみたい。
どの猫も同じく、そのようにトイレの前で待ち、浴室にも現れます。信頼されているのです。 湖
2006 12・26 63
☆ マインドの在所 甲子
昨日までとはうって変わった曇天、女心、いえ男心のように目まぐるしいこと。
今年はげに騒がしき師走、お変わりはないでしょうか。
白一色の厚い雲を背景に、欅の尖枝が天を指しています。先日のCT 写真の血管像のように、枝あり、小枝に分かれ、毛細枝までくっきり。
撮影の少し(十分ぐらい)前、造影剤なるものを注射されました。一二分で胸(心臓)が熱くなり、二の腕・肩・首・脳髄にも達し、やがて足先まで届いて撮影となったのですが、その間、これで下半身でなく頭蓋を撮影したら、マインドの在処もつきとめられるのではないか、など愚にもつかないことを考えていたものでした。
一昨日次女が、二ヶ月ぶりに訪れました。イブだから、とチョコフレークを盛り上げた小さなケーキ持参です。イブなどに関心はありませんが、シナモンの効いたケーキは好物、早速皿とフォークを用意し、コーヒーもブラックのままで食しました。
食べ終わって手術を受ける旨を話し、CT 写真を見せたのですが、
「この、上の両側に写っているのが肺なの?」
「バカ、下半身に肺があるか。お前じゃあるまいし。腎臓だ」
「ふーん」と見ていましたが、写真とわたしの顔を交互に眺めて、
「お父ちゃんはさ、死んだときどういうお葬式をあげてもらいたい?」
「え、えぇーっ」
「お母さんのときと同じふうでいいの」
「お、おい」
父には「ちゃん」を使い、母は「さん」と言う。
亡妻のときは棺のまわりに花を沢山飾り、無宗教を宣言して香典・供華のたぐいはいっさいお断りし、妻の好きだった合唱とモーツァルトの組み合わせ「レクイエム」を鑑賞したのでしたが……
ほんとに…、この娘の脳髄は、いまどのへんに血漿を集めているのだろう。
今夜は荒れ模様とか、あと幾日もないこの年。どうぞお大事に…、 甲子
* ありがとうございます、甲子さん。暖かにお過ごし下さい。
* そういえばこのクリスマスはケーキの一切れも縁がなく、ツイッギーなかりんとうを肴に酒ばかり飲んでいた。なんとなく気にしていると、すこしも前と変わりなく一升瓶は四日で明いている。主観的に適量なのか。適であろうわけはないのだが。
2006 12・26 63
* 倉持光雄さんの親切なメールをもらった。感謝。
2006 12・27 63
* 「MIXI」からメッセージが幾つも届く。ありがたいコメントも。感謝。
☆ 実は、先生のページを勝手に「お気に入り」に登録して自分の方からはアクセスしやすくしておりました。
もともとミクシィに紹介して頂いたきっかけは、ママさんの輪を作りませんか、とのことでしたが、どうも専業主婦の生活にPCは馴染みにくいらしく、お仲間でログインし続ける人が減ってきました。ですので、内容に少しずつ地を出し始めています。
こんにゃくの話はその端緒。先日書いた息子の話でも、科学者の習い性である再現性の確認をさりげなく盛り込みました。先生が定期的にご覧になるのを意識するとなると、また少し内容が変わる予感がしております。それも嬉しく。
嬉しいと言えば、美術京都に書かせて頂いた原稿、少し嬉しいことがありました。
お世話になった京都の工房にお礼を込めてお送りしたのですが、内容をお褒め頂いた上で「30部ほど頂戴したい。もちろん有償で」とご連絡頂きました。
京都の方はどんなひどい内容でも必ず何かしら褒めて下さいますが、自分が評価しないものは決して手元に置こうとはなさらないですよね。中に盛り込んだ内容が、特に工房で見聞きした内容として書いているものが、不正確であればこういうご連絡はないはずですから、本当に嬉しい連絡でした。幸い編集の方から多めに頂いているのでお代を頂く必要もなく、お送りできます。
本当にたくさんの方の好意に支えられている自分を思います。
何より先生のご好意も。 馨
2006 12・27 63
☆ こちら、昨日は霰が降りました。
帰省している4歳の孫娘が、まるい雪が降ったと教えに来てくれました。
北風も強く、山茶花の花びらが掃いても掃いても落ちてきます。瀬戸内海を渡る鉄道、「マリンライナー」も一時運休になりました。
貧乏暇なしの私は、明日まで仕事です。30・31で一気にお正月モードに切り替わります。
お風邪など召しませぬよう。
よいお年をお迎えください。 讃岐
* 禅のお坊様から、新潟の、心癒しのワインを紅白頂戴した。久しい文学の友からも、すてきな紅茶。そして客人のグーと主人の黒いマゴとは穏やかに対座している。二月の歌舞伎座、予約が出来た。燦々、歳末の陽光。風は吹いている。近場を、あれこれお使いに出掛ける。
2006 12・29 63
* 湖 佛教の本とは、経典のことですか。佛教の解説本ですか。読みたいのは、信仰心からですか。安心が得たいからですか。知識欲からですか。
佛教は知識欲は満たしてくれます、豊富に。しかし本を読んで「安心」を得ようとしても、ムリでした。まるで、むり。信仰の入り口までは行けたけれど、なまじの知識がその奧へ踏み込ませない。
バグワン・シュリ・ラジニーシとわたしは出逢いました。十数年前に。
無心に読む、読んで聴く、なら、彼の法話『存在の詩(うた)』『般若心経』『究極の旅(十牛図)』(めるくまーる社)などに出逢われますようお奨めしたい。
ごめんなさい、でしゃばって。あるいはあなたと対話できる時機があるかもしれないと思いました。わたしが元気であるなら。 秦恒平
☆ 湖 さま。
まさかこんなところで私の好きな方(けれどもとても遠くにいらっしゃる方)に触れることができるとは夢にも思っていませんでした。その上さらに、覚書のようなつまらないものにコメントまでいただけるなんて…!
私の喜びと感動はどれほどの言葉を尽くしてもお伝えすることは出来ないと思います。それと同時に、好きな方と言葉を交わす、ということにとても緊張しているのも確かなことなのですけれど…。
「仏教の本を読みたい」というのは、「神話を読みたい」という思いとまったく同質のものです。多分それは、知識欲のようなものだと思うのですが、自分でもよくわかりません。
私にとって長いこと、世界は不定形で意味をなさないものでした。私という存在が、いま、ここにいる、ということの意味を、私はずっと見出せないまま生きてきたように思います。世界は混沌としていて、私もまた、その混沌の一部分であるように感じていました。
けれども、神話・宗教といったものに出会ったとき、ハッとしたのです。自分よりもずっと前に生きていた人々もまた、混沌の中をなんとか生きてきた、その知恵が神話であり、宗教であると感じたのです。
そうして改めて、いくらかは神話も読んでみて、私の世界は少しだけ意味のあるものになったような気がします。
ですから、実は私に「信仰心」というのはあまりありません。ひとつの世界を知る手立てとしての仏教、という位置づけです。(もし私に信仰心があるのならば、私は文学を信仰していると思うのです)
バグワン・シュリ・ラジニーシという方は浅学ゆえに存じ上げませんでした。教えていただいた本に、この冬挑戦してみようと思います!
湖さま
私はあいまいな記憶しか持たない欠如のある人間ですけれど、湖さまとのお話が許されるのなら、そのためにもなんとか本を読み続けたいと思います。
お元気でおられることを、信じております。 鶴
* 湖 ありがとう。気長に、お互い気楽に、いろいろ話し合って行きましょう。すこしも気兼ねなくいつでも声を掛けて下さい。
2006 12・29 63
* 『岩佐なを銅版画蔵書票集』を戴いた。吸い込まれる美しさ、精緻さ。久しいお付き合いの中で、季節ごとに戴き続けていた蔵書票がずいぶん沢山になっている。岩佐さんは、H氏賞詩人でもある。ついでに言うと、男性である。
岩佐さんと同じようにユニークな藝術家で、わたしは原光さんとも久しいお付き合いがある。原さんはボードレールや『白鯨』その他の優れた翻訳本を立派に自家出版の一方、世界的に活躍の山岳や海洋の写真家で、豪快で鮮鋭な画像を創りつづけている。
岩佐さんとも原さんとも文字どおり「一面識」だけであるのに、とても久しい。お二人ともに最初から「湖の本」を応援して戴いている。
2006 12・29 63
* じーぃッとしていて、自分が眠いのだと気が付く。暮れの三十日なのに、わたしは眠いなら寝ても構わない。どこかへ買い物にいっても好きに昼飯を食いにでかけても構わない。正月は簡略に迎える。息子が来てくれるだろう、一両日ボンヤリしていてもちっとも構わない。
言論表現の同僚委員である長田渚左さんがめずらかなお酒を下さった。恐縮です。
英国屋へ、この暮れに出掛けるのは面倒なので、仕立て上がったわたしのスーツと妻のオーバーコートは家へ送ってほしいと頼んでおいた。今朝着いた。お天気が良ければ正月の歌舞伎座にと思うが、一日中座席に座っているのだからあまり意味がないか。
2006 12・30 63
☆ 今年もいよいよカウントダウン メールを有難うございます。
寒くなりましたね。自転車乗りは休業ですか。
(夫の)歩行状態は快癒しつつありますが、まだ戸外の散歩は控えています。というより、冷気と、多忙で介添えする時間が取れません。
今、二階の自分の部屋で、引き出しの整理をやり始めました。
娘は手伝う気持ちはあっても子守に追われて、特に役立ちませんが、孫は癒しの役目をするかと、昼食を挟んだ時間に日参させています。
ところが、大変なやんちゃ坊主で、あちこち引っ掻き回して大騒ぎ、その上大食漢ときては、例年通りのお節の用意もしていても、チョイ、お疲れバアバです。とにかく、ムリのない程度に頑張って、睡眠で回復するように心掛けています。その隙間をみて、パソコンを開けるのも、三日に一度程でしょうか。
お嫁ちゃんがデザインの年賀はがきに急遽便乗してプリントしてもらいましたが、あなたにはご無礼しました。72歳、周り歳の猪の絵が面白かったのですが。
来年はお互いに佳い年でありたいですね。 泉
* 「MIXI」に、歳末随感を十日書こうと。「芥川のこと」「病院」「かなひたがる」「寅さんたちの国語」「和歌」「丹波篠村」「京都」「ソ連へ」「お酒」と、思いつくままに書いてきた。
「MIXI」にマイミクを一気に倍増した。「e-OLDS」や「湖の本」など、心親しい人とさらに半歩一歩近づきたかった。但し年齢だけは分からない。湖の本の人は、当たり前のこと、分かった人しか誘えなかった。かすかに見当はついていても確認出来ない人が何人もある。若い人にもお年寄りにもある。
日記を読ませて貰う。老若男女、住まいの在り処、お仕事で、暮らしの顔がちがってくる、それが逸興。
2006 12・30 63
☆ 富士の麓へ帰ってきました。久しぶりの自宅は、ヘンな感じ。違和感があります。
義母は、「お正月に一人なんて」と気の毒がったけれど、わたしは、起きている間中気を張っていることに疲れてしまったので、理由を作って戻って来ました。
今朝はゆっくり起床し、どっさりあった洗濯を済ませました。
風のない、穏やかな大晦日ですね。
お元気ですか、風。花は元気ですよ。
* お舅さんの最期の看取りから告別式、その後と、お嫁さんはたいへんだったろう。
2006 12・31 63
☆ 「秦恒平論」擱筆のあと兆した或る思念のもと、先月の三十日から今月の二十九日まで、底辺で社会を支えるある小さな集団に属し、まるで軍隊に入隊したかのような隔絶した生活を経験いたしました。新聞も書籍も読まず、バソコンにも触れず、曜日を忘れ、食事を制限して終日ただひたすら肉体を酷使し精神の錆びを落して、大袈裟に
いえば自己再生を試みてみたのです。
この経験がなにをもたらしたかはまだ判然としませんが、邂逅と至福と苦難のこの一年を締めくくるに不可欠の「行」であったかと解しております。
その「行」をやり終えた結願の日の翌日に、先生からミクシィへの招待を頂きましたこと、「ごくろうさん」と、ふっと温かいお茶を手渡されたごとく感じて、よろこんでおります。
先生と奥様に暖かき春が早く訪れますようにと願っております。 六
* どんな「行」であったのだろう。
2006 12・31 63
☆ 先週「新・日曜美術館」の次回予告に「松田権六」とありました。今日放映かは聞き漏らしましたが、2ヶ月程前に東海地域で放映されたNHK名古屋制作の番組かしら。名古屋に転勤してらした石澤典夫アナ肝いりで、いい番組でした。
先日雪がちらつきました。雀がぷんぷくりンにふくれて繁みに群れています。そちらも冷えていますでしょう。お障りございませんか。数年前は東寺のしまい弘法に出かけたりしていたのに、なにをしているのか、すっかり日を過ごしてしまい、お誕生日のお祝いも申しあげないまま。申し訳ありません。ご無事にお過ごし、と心よりねがっています。
17日の朝、カーウ゛を曲がるトラックのライトがときおり周囲の森に差し込む、アスファルトが敷かれた山道を、二人で歩いている夢を見ました。少し上り坂で、深山にはいっていくというより峠越えにどこかへ出る道で、電車に乗ってご一緒に街へ帰るはずが、途中でお姿が消えてしまわれたので案じられて、数日胸騒ぎがおさまりませんでした。
今年のさえずりおさめが、なんともヘタクソで、長くなってしまってお詫びします。
地蔵盆の一日、避暑を兼ねて伊都郡天野・星山へ丹生神社の大本丹生都比売神社を尋ね、真田庵など立ち寄って南海高野線に乗った雀は、せっかく天野で澄んだ気持ちを、気の詰まる駅の雑踏でよごしたくなくて、河内長野駅で近鉄に乗り換えて帰ることを思いつきました。そして車窓の景色と地図とを交互に見ているうち、河内に何度も来ていながら弘川寺を訪うていないことを思い出し、天野で西行妻子の塚に詣ったのも縁かもしれないと、川西駅で電車をおりました。
残念ながら西行記念館は春秋のみ開館とのことでしたが、お墓に詣り裏山や境内を歩きまわったあと、風の通り抜ける書院で庭を眺めて過ごしました。
蕪村ひいきの主人は「芭蕉から蕪村にいかない?」と言うのですけれど、西行にむかわないかしら。先日も、「います・中山を過ていにしへ常盤のつか有」という「野ざらし紀行」にあった近江路を、鳥居本から垂井まで宿場をたずねたずね遊山したとき、醒ケ井で「西行水・泡子塚」と書かれた湧き水を見つけて、「これだもん。芭蕉さんはゼッタイここに寄ってるわ」と思いました。塚は中山宿を過ぎたところで見つけました。不破関資料館で地図をいただきお勉強をしてから、野上行宮推定地にも行って、藤川宿、春照宿、米原から鳥居本へ出て帰ってきました。
さて、『おくのほそ道』は、越後人には評判が良くないンです。書店に平積みされた「えんぴつでなぞる『おくのほそ道』」に刺激され一度は書き写してみようと取り組みました。名文で美文で、だけどなんだかおもしろくない。いかにもよそものの旅です。
別の紀行文、若いときの文を読んでみたくなって、まず『野ざらし紀行』と『笈の小文』を書き写してみました。そうしたら、雀が名張に越してきて訪ねたところ、それも○○さんの△△、○○の舞台になった△△というような箇所がちょこちょこ登場します。なぁんだ見たがりだァと急に親しい人とかわり、地図を広げ眉を開く思いで書き写しました。それから改めて『おくのほそ道』を書き写すと印象が違います。
出てくるのが男の名や話題ばかりということにアブナイ“おとこ”が見えたり、泣き虫だったり、愉しく書き終えました。
「秋十とせ却て江戸を指古郷」に、雀の名張暮らしも来年5月で丸10年になることに思い至りました。三鷹暮らしが10年弱、名張も10年、“却て伊賀を指古郷”かもしれません。今年は時雨忌時分に伊賀上野の芭蕉記念館など歩いてみようと思った矢先、ラジオで、例の「えんぴつでなぞる『おくのほそ道』」を監修したガッコのセンセがゲストに招かれていたので、やじ馬気分で耳をそばだてました。 囀雀
☆ 水辺の芭蕉 その番組には、中学生の時から「おくの…」の道程をたどり幾度となく踏破したという嵐山光三郎さんも呼ばれていて、机上の学問より実地に感じることのほうが大事と喧嘩腰なのがおかしく、最後まで飽かず聞きました。
我々が芭蕉のたどった道を訪ねる時間差は、三百数十年。芭蕉が西行を慕い訪ねた五百年の時間差に比べたら全然ふるいむかしを訪ねているワケじゃないンです。
芭蕉を俳聖なンて持ち上げちゃぁだめなんだ。ワルなんですよ、芭蕉は。それも流行のちょいワルどころじゃない、本ワル、大ワルです。
嵐山さんがそんなことを熱っぽくおっしゃったのが耳に残り、芭蕉の年譜を確かめに図書館へ行って、芭蕉関連本を何冊か開いてみました。
「良忠(俳号蝉吟)死去。その位牌などを高野山に納め帰郷後主家を辞して京へ出る」 「『三十番発句合』(貝おほひ)を天満宮に奉納し江戸へ下る」では、まったく済まなかったのですね。そして西鶴と並べた年表は突風のように雀を撃ちました。
これまで蕪村とくらべたりならべたりしているものは目にしてきましたが、西鶴とのそれは初めてで、ときに手が止まり涙をにじませて年譜を書き写しました。
西鶴はまさに才覚の男。芭蕉の存在が彼を、早さ・数・イベントといった商業的俳諧に向かわせ、“大坂”の“町人”文化の西鶴をつくりあげたと聞きかじっていた「俳人西鶴」に詫びる気持ちが、ふつふつとわいて、芭蕉が元禄時代の人という実感も得ました。
「おくの…」は物見と移動、しかも一度きりの旅。東の人がみちのくを訪ねるのと西の人がそうするときの感覚の違いは、現代と元禄時代の違い以上に違いますでしょう? 江戸から伊賀、伊賀から芭蕉が歩いた道を訪ねるほうが理解のたすけになるかもしれません。みちのくや信濃にひきかえ、何度も訪れ滞在している湖南、鳴海、嵯峨野、大垣は、訪ねる相手がいることもさることながら、広やかな「水」が共通の魅力ではなかったかと思います。深川も水に囲まれていますし、滝を訪ねることもしばしばありました。松島、日本海、須磨、伊良湖…広やかな水に接するとき芭蕉ははしゃいでいます。
この秋、路面電車とトロッコ列車に乗りたくて、紅葉真っ只中の嵯峨野へ出かけ、嵐山に歓声をあげ―あの琴きき橋の茶屋名物「桜もち」をやっと口にすることができました。びっくりしました、おいしいの。よくできてますねぇ。京の人が桜もちを作るとこうなるンだぁと、あらためて京感覚の理解を深めました―てくてくと落柿舎に向かいながら、芭蕉は水辺が気に入りの「水芭蕉」だったンだわと思ったのです。
「あの山の向こうはどうなっているのだろう、とは、盆地に生まれ育った者の共通する疑問である」と津和野出身の安野光雅さんがおっしゃってらしたのですが、芭蕉もそうだったろうと想像しますと、海も湖も大池や大川、どれも伊賀盆地にはないものです。船に乗ることなどさらになかったでしょう。
盆地は故郷を思い出すけれど、広い水がある辺は異世界。
芭蕉が出仕した藤堂新七郎家当主良精は長男にも次男にも早世され、三男良忠を嫡子とします。ところが彼は25才で良長(3才)を忘れ形見に世を去ってしまい、新七郎良精(66才)は良忠後室小鍋を良忠弟良重(18才)にそわせ家嫡とします。ところが良重も24才で亡くなるのです。2年後、良長(俳名探丸)が11才となった年、新七郎良精は74才で生涯を閉じ、良長が新七郎を名乗ります。
伊賀土豪末裔の郷士松尾与左衛門と柘植郷桃地氏むすめの次男(長男半左衛門と姉がひとりいます)として生まれた芭蕉は、10才のとき幼名の金作を甚七郎と改め、5000石の侍大将藤堂新七郎家の三男良忠(12才)の小姓として出仕。13才になった年の2月、父が世を去ります。この年、西鶴(15才)が俳諧を学び始め、北村季吟(35才)は宗匠として独立しています。
家督を嗣いでいた兄が父代わりとなって19才の芭蕉は忠右衛門の名で出仕。藤堂家から宗房の名をいただきます。季吟(39才)に学ぶ良忠(21才、俳号蝉吟)に料理人として仕えながら俳諧に足をふみ入れました。 囀雀
☆ 芭蕉の出仕 1666年4月25日、良忠歿(享年25才)。6月、良忠の位牌などを高野山に納める使者に宗房(23才)が任命されます。帰国後致仕を願いますが許されず居候となる。実家にも居づらく京へ上ります。
29才のときには良忠弟良重が歿し(享年24才)良忠遺児良長(9才)が後嗣となります。宗房は名を甚七郎に戻して江戸に下ったといわれる一方、31才の初夏、藤堂新七郎良精の媒で季吟の伝授書「埋木」が贈られ、2ヶ月後、良精が歿したのち宗房の名を藤堂家に返上して江戸に下ったとも書かれています。
芭蕉は31才までに若君、若君、父、若君、若君、主君と見送っていたのですね。
良忠遺児の良長は11才で藤堂新七郎となり、のち父の享年を越した春、下屋敷の花見に芭蕉を招きます。芭蕉は謫居の杜国に逢ったのち、郷里で年越しをして、2月に伊勢参宮にかこつけて杜国と落ち合い伊賀へ戻り、吉野への旅を練ったり、父の三十三回忌法要に出席したりしながら、暖かくなるのを待っていました。
「さまざまのことおもひ出す桜哉」。
3月下旬、高野山参詣。良忠の位牌を持って山を上ったのが22年前の6月。この6月は母の7回忌。
「父母のしきりに恋し雉の声」。
8月、姨捨山で月を眺め、「俤や姨ひとりなく月の友」「身にしみて大根からし秋の風」。
善光寺詣ののち、「吹とばす石はあさまの野分哉」と涙を飛ばし深川に帰ります。
一方西鶴の家族ですが、ほとんどわかっていないとのこと。
芭蕉より2年早く生まれ、芭蕉が19才で藤堂新七郎家に出仕した年にはすでに点者となっていたのですね。商人としても一人前になり妻を迎え子が生まれ、芭蕉が「貝おほひ」を奉納して江戸へ下った翌年(1673年)の冬、「西翁」の一字をもらい「鶴永」から「西鶴」となります。
明けて33才の正月、初めての署名はどれほど誇らしい気持ちだったでしょう。ところが翌1675年4月に妻が25才という若さで亡くなり、34才の西鶴は3人の子とのこされます。子の一人は盲目の乳飲み子だったそうですね。5日後、追善の「一日独吟千句」。そして商人を捨てます。
翌月、71才の西山宗因江戸下向。歓迎の興行に芭蕉(32才)も一座し初めて「桃青」の号を用ています。
冬、西鶴剃髪。鑓屋町の草庵に入ります。
1682年正月、芭蕉(39才)は初めて「芭蕉」と署名します。3月、宗因死去(享年78才)。12月28日江戸駒込を火元とする大火により深川の草庵類焼、甲斐に避難した芭蕉は翌1683年6月に母の訃報をうけます。そして1684年8月、初めての旅に出立します。
「野ざらしを心に風のしむ身哉」。
ところが旅の途中で、「しにもせぬ旅寝の果よ秋の暮」になりました。
1682年に戻ります。3月に師宗因をうしなった西鶴(41才)は10月に浮世草子第1作『好色一代男』を刊行。翌春師の一周忌法要をして「精進膾」を刊行します。師が世を去って10年、同じ3月に西鶴(51才)は盲目のむすめをうしないます。
1675年4月に乳飲み子だったとしたら、19か20才になっています。秋、西鶴は熊野に遊び、翌年1693年8月10日大坂に歿しました。享年52 才。
この1693年の3月下旬、芭蕉庵では芭蕉養子桃印(芭蕉姉の子、享年33才)が世を去りました。宗因歓迎興行に一座した翌年、帰郷して当時16才の彼を江戸に連れ帰り、以来17年。芭蕉(50才)は閉庵・面会を謝絶しています。
桃印の一周忌が済んだ翌1694年5月、芭蕉(51才)は長男二郎兵衛(19才)を伴い、去来の故郷長崎へと旅立ち、落柿舎から伊賀の実家に着いて数日後、妻の訃報が届きました。7月15日伊賀上野で妻の魂祭をして、9月に奈良暗峠越えで大坂へ。到着した翌日から病を得て、10月12日、大坂南御堂前に歿。享年51才。
作品解説を読んでも頭が痛くなるばかりで、美術でも文藝でもこういう面で親しさを感じると、作品に肌近く寄ることができます。あまり知りすぎたり調べすぎるときらいになるでしょうけれど。
今年は雀にとって訃報の多い一年でした。12月になってわかった逝去もあって、会いたい人の9割9分が彼岸にいってしまいました。今夜は飛鳥の鐘を聞きに行ってきます。板蓋宮伝承地に立つと、岡寺、飛鳥寺、橘寺の三方から響いてきて別世界ときいて。
深草を歩いてみたこと、愛宕山の西から化野へでたこと、…囀りたかったけれど、年越しの宿題になりました。 囀雀
2006 12・31 63