ぜんぶ秦恒平文学の話

交遊録 2008年12月まで

* 今朝の「雄」くんの長い日記は、一字一句、おもしろく読ませた。

☆ ピンホールカメラ 2008年10月01日11:44  ハーバード 雄
・ 朝一番にプログレスレポート.イギリスから来ているエイドリアナが最初に30分くらい話して,その後,残りの時間を使ってJCが発表するとのことだったが,エイドリアナが質問攻めにあったため,結局彼女が話しただけでお開きとなってしまった.
質問攻めになるのも無理はなくて,突っ込みどころ満載のセミナーだった.しかも,何を聞いても「それは知らない」「それはやってないから分からない」といった答えばかりで,自分がしゃべったこと以上のことを答える気が無いのではと思ってしまう.僕は(英語が聞き取れないという理由もあってかもしれないが),真剣に聞くのを早々に止めてしまい,他のことばかり考えていた.
ラボメンバー達は,お人よしなのか単なる粘着気質なのか,それでも食い下がってあれこれ質問していた.最近ラボに加わったダーウェイは,「そんなものを研究して何になるのか?」とでも言わんばかりの質問をし,タミリーに「じゃあ,貴方はこの研究に価値が無いとでも言うの?」と食い下がられていたが,エイドリアナ本人が「私も意味ないかもしれないと思っている」などというので,がっかりする.
この間の日曜日,ラボでエイドリアナに会ったので少し話したのだが,僕はどうも彼女を少し買いかぶりすぎていたらしい.土日もラボに来たり,ボストンに来てまだラボとアパートの往復しかしていないというので熱心な人だと思っていたのだが,うちのラボメンバーの労働時間の話題から,「私は学位を取った後は,1週間に4日以上は働きたくないわ」との言葉に少々驚かされた.土日を休むのは別に悪いとは思わないけれど,さすがに週の半分近くを休んでいては,仕事はそうは進まないだろう.
今日のセミナーを聞いていて,ボスが「この実験の目的としていることを本当に追究するとしたら,毎日同じマウスを手術して,時間経過を追って観察しないとダメだろうね」とコメントしたのだが,「私はできない」とエイドリアナ.ボスが,「何故?そうか!確かイギリスでは,同じ動物を2度以上手術してはいけないと,法律で禁止されているんだよね.ゴメンゴメン」と応えていた.確かにイギリスの動物愛護運動は,ちょっと度を越しているケースが少なからずあり,動物実験施設に入り込んだ運動家が研究者を射殺する事件さえ起きている.法律で実験が禁止されているのは事実なのかもしれないが,それまでの彼女の話を聞いていたせいで,皆信じていないように見えた.
この人は,学位を取って,この先どうするつもりなのだろうかと考えてしまった.もっとも学位取得者のキャリアパスは欧米では日本よりはるかに選択肢が多様なので,別に大学や研究機関に残り続ける必要はない.しかし,週の半分を働くだけで食べていける職業なんてあるんだろうか.別に他人は他人なので,人生観・価値観の違う人がいるのは当たり前だし,干渉するつもりはさらさら無いが,熱意の無い人と一緒に働くのは心地よいものではないし,わざわざエジンバラからボストンまで来て実験しているので意欲的な人だと思っていただけに,ちょっとがっかりだった.

・ プログレスレポートが終わってから,ヒャーノと雑談.彼は昨日ラボにいなかったのだが,この週末,ニュージャージーに用があって出かけていたらしい.
たまたま先週,ニュージャージーにあるスーパーミツワの話をして,ホームページのアドレスを知らせてあげたのだが,早速行ってきたとのこと.「あそこはいいよ.すごくクリーンだし,品揃えも素晴らしいし.是非行くべきだ」とヒャーノ.
さらに先週,ミツワのフードコートには山頭火というラーメン屋があるという話もしたのだが,早速食べたそうで,「とても美味しかった.スープがとても濃くて,ああいうラーメンは初めて食べた」と感激していた.次は是非,同じニューヨークにある「一風堂」で,とんこつラーメンにチャレンジして欲しい.
ヒャーノがふと,かばんから紙袋を取り出すと,「これ,Youにお土産だよ」といって手渡してくれた.中をみると,焼酎「よかいち」が入っていた.感激.高かっただろうに申しわけない.ありがたく頂くことにする.
ヒャーノは来年の1月に,久しぶりに韓国に里帰りするという.ついでに東京に寄りたいので,いくつか質問があるという.どうやら奥さんが僕に聞いて来いとでもいったようで,質問の書かれた紙を見ながら色々聞かれた.「銀座,東京駅近辺,渋谷,新宿,六本木,上野の中でホテルを見つけるとしたら,どこにするか」などの質問だったが,僕だったらそれらには宿は取らないだろうな.理由はマチマチだけれど.

・ 今日もボスの光学の講義に参加.今日は,いわゆる講義スタイルではなくて,デモンストレーションなどを中心としたものだった.顕微鏡の照明に関するデモンストレーションと,偏光についての実演.やはり百聞は一見にしかず.教科書で読んで分からないことでも,こうやって実演してくれると非常に分かりやすい.
ついで,かねてから宿題となっていたものについて,学生から送られてきたパワーポイントファイルを紹介.学生は自分のスライドについては自分で説明していた.
今日までに出されていた課題は,「ピンホールカメラを作って,何か写真を撮ってくる」というもの.顕微鏡とピンホールカメラは直接関係ないのだが,レンズがなくとも小さな穴を開けただけでカメラになるというのは驚きだし,幾何光学を理解するうえではタメになる. 5人以下の班または個人で,1個のカメラを作り,それで写真を撮ってパワーポイントファイルとしてメールで送ったらしいのだが,皆,ユーモアのある出来栄えのパワーポイントで楽しめた.
何を使っても良いので,使い捨てカメラを壊してレンズを取り除いて作った人もいれば,マッチ箱や空き缶に穴を開けた人もいた.手軽にラボにあるもので済ませてしまえということで,ラボに転がっていた空き箱に注射針で穴を開け,X線フィルムに焼き付けた人もいた.中には,ラボの顕微鏡にくっついている CCDカメラを取り外して,上に穴の開いたアルミホイルをかぶせて作ったなんていう猛者もいた.素子を壊したりした日には,その学生の所属ラボのボスから,うちのボスに苦情がきそうだ.
残念ながら,多くの写真は失敗作だった.かろうじてシミのようなものがうつっているX線フィルム,何か模様のようなものが映っていると思ったらマッチ箱の中の模様だったとか,そんなものばかり.中には中々の出来栄えのものを提出している学生もいた.ピンホールカメラで撮った写真は,遠近感が無い.遠くのものも,近くのものも全てにフォーカスが合うのだ.手前にいるネコが巨大にうつったり,遠くにあるはずの電信柱までがくっきりと写っていたりして,なかなか面白い.
感心させられたのは,皆,色々と創意工夫を凝らしている点.失敗してもめげずに,どうやったらうまくいくかを考えて,色々試行錯誤した過程が見られて楽しめた.先ほど例にあげたマッチ箱の模様のついてしまった人は,中を黒く塗ってみたり,穴の大きさを厳密に比較して,どの程度の穴が一番良く写るかを調べている人もいた.
これって,まさに研究そのものだよな,と思った.やれと言われたからやりました,ではなくて,やってうまく行かなくても,あれこれ試行錯誤を重ねて改良する.皆で同じようなものを作るのではなく,少しでも人と違うカメラを作ろうとしていて,それも面白かったし,素晴らしいなあと感心させられた.
なんだかすっかり僕もピンホールカメラが欲しくなってしまった.といって,早速こんなものを買おうと思ってしまった僕は,既にキットに慣らされすぎた分子生物学者の典型で,なんだか情けない(http://www.sha-ran.co.jp/p-sharan/m-1.htm).

* 「生活」という二字があまりに記号に化しているけれど、「生=活」と読んでみるとわたしの好む「生彩」という二字の有無の問われているのが生活だという実感が湧く。上の「雄」くんの一文など、若い羨ましい幸福な「生活者」が、彫り込むように書いている。

☆ 蝋燭の炎に浮かび上がる鬼女たち   燦
能は月見から紅葉狩りへと季節が移っていく。
長野の戸隠山の鬼女伝説からなる話の「紅葉狩」を観て来た。
「時雨を急ぐ紅葉狩り」と謡い 現れ出てきた美しい貴女と侍女たち。
笛の音が響くと
紅に染まった全山が広がる。女たちが酒宴を開く。
鷹狩りに来た武将平ノ維茂一行が通りかかる。
女たちに酒宴の中に入るように勧められる。
「袂にすがり留むれば、さすが岩木にあらざれば。
心弱くも立ち帰るところは山路の菊の酒」と謡い
美しい女に「林間に酒を暖めて紅葉をたくとかや」と盃をさされる。
美酒に、妖艶な歌や舞に魅了されてしまう。
扇を手に取り眠った所作の維茂。
貴女の舞が突然急になり、塚の中に消える。妖しい風が吹くよう。
狂言方が出てきて「神慮で維茂の危急を救う」と夢の中で話し太刀を与える。
後の場面になり、紅葉の塚から鬼神が現れる。
鬼揃の小書きの演出。
侍女たちも鬼になり、総勢の立ち回り舞う姿は200本の蝋燭の炎に照らし出され、影が揺らめき、雷鳴が鳴り響き豪華絢爛。
豪華な装束の鬼女たちの華やかさに酔いしれる。
能楽堂でなく、ホールでの能ならではの演出に観客も幽玄さに豪華さに酔いしれた。
蝋燭の火入れ式も厳かで、神事のような気分ながら、幕の開く前のわくわく感で一杯になった。
「紅葉狩」の始めに祝言の「高砂」の舞い囃子。
狂言「千鳥」 仕舞「松風」「菊慈童」と能舞台のフルコース。
蝋燭能で「紅葉狩り」と分かりやすい演目だったので、能初体験の若い知人を招待した。
能の前に舞台の説明やあら筋の話などがあったので、知人も理解が深まり充分楽しんだようだ。
知人は幼稚園の園長をしていることもあり、この美しさ佳さを持つ古来の芸能を小さいときから見せてやりたいと話していた。
この公演は所沢市文化振興事業団主催で多くの市民に古典文化に触れる機会をとの目的から催された。
ホールで多くの観客を動員できて、豪華演出も可能で大成功だったのではないだろうか。
佳い舞台を観た後の帰り道は豊かな気分で遠路も暗さも気にならなかった。

* ていねいに観ている。熱心なフアンは、こういうふうに観て「酔いしれ」て、こういうふうに「書いて」いることが多い。「あらすじ」を含む綺麗な絵葉書の上を、滑り台に酔うように滑り降りる。それでいいのだ、藝能の楽しみは。或る程度までは。

* 書き手が心親しい人であると、しかし、ふと問うてみたくなる。
「で、あなたに『鬼』とは何なのですか。絵葉書のような美しさに『酔いしれ』ながら、そのときあなたの胸の奥であなたの『鬼』は何を呟いていましたか。それとも不在ですか」と。
上のような「あらすじレポート」は、それなりに参加しなかった人を魅するであろう。が、それは書いた人にも読む人にも「体験」に深まらない。「燦」さんにしても、あらすじという「知識」のレベルで「観ました経験」を一つ積んだだけで済みかねない。
もう一つ奥へ。もう一つ奥で、自分自身の生活や生彩と交叉してくる感想がぐうッと湧いてきて、そこにまた人にも我にも新たな葛藤や問題が生まれてくる、そんな「立ち向かい」。
一つ上の「雄」くんの日記がわたしを動かすのは、その「立ち向かい」が見えるから。彼は簡単には「酔いしれない」で自分と周囲とを見ている。少なくも今日の日記では。
2008 10・1 85

* 夜前、とうとう『太平記』全四十巻を読了。
はっきり言って後半は竜頭の蛇尾。しかしこういう「文飾日本語」がゆたかに創造されていた歴史的事実には感心する。滝沢馬琴が後世文飾の限りを尽くして読本を書くが、なんとなく文体がぎごちない。『太平記」のそれはホンモノの流暢を最期までうしなうことがない。流石と言っておく。

* 大久保房男さんの一冊は、最終の文壇ゴルフのパートだけ興味が持てなかったが、他は、襟を正すほど愛読した。お礼申し上げる。こう書いても、たぶん機械になど手も触れまい大久保さんには伝わらないんだ。このごろ手紙というのを書かないので、つい礼を欠きかねない。
2008 10・1 85

☆ いいお天気  花
風、お元気ですか。やっと晴れましたね。
夏掛けを洗濯しました。
長雨のせいで玄関ポーチのタイルやコンクリートについた苔を、ブラシでこすって洗い落としました。
爽やかな陽気ですが、動くと暑いです。
近所のおじいさんが、桶の中で木の棒を動かし、里芋を洗っています。ゴッシュゴッシュと音を立てて。
郷里のご近所さんも、よく里芋を洗っていました。懐かしい。
どうか国民は国会や政治の動きに眼を向け、投票してほしいと思います。
わたしの一票だけでは、流れを変えられない。
民主党に政権担当能力があろうがなかろうが、一度政権が変わらないとだめです。与党と官僚の癒着を断たなければ。できれば、定期的に。
チェーホフは、ちゃんと読んだことはありません。いずれ、読みます。興味はありますから。
今は評論をがんばります。
ではでは、風、お気をつけておでかけになってください。
2008 10・2 85

* ニール・サイモンの脚色でチェーホフの掌編作品を、前後十二話にして観せてくれた。三越劇場。とても観やすい前から四列目ほどに席を貰っていた。
立川三貴が舞台まわし役の作家チェーホフをたくみに演じ分け、三田和代、松本紀保、井上堯之、小野ヤスシら異色の個性派が顔をならべて「チェーホフ」文学の香りを十分感じさせてくれた。チェーホフってほんとこんな感じだよと、わたしは読書体験で裏打ちして舞台に何の違和感もなく、笑ったり感じたりほろりとしたりしつづけた。演出もうまかったが、俳優の一人一人の反応が深切だった。
チェーホフから身振りの大きい大感動のくるはずがない、波動はちいさいが、質的な苦みも甘みも淡さのうま味もが、確実に胸に迫ってくる、それがチェーホフだ。満足の行く観劇。またまた原作をいろいろ読んでみたくなった。
チェーホフに接すると、かならず、「で、いまのきみは今・其処に満足しているかね」と訊かれる。ウーンと唸ってしまいながら、人間の歴史に百年、二百年は長いのか短いのかと、ふと苦虫を噛み潰しているような自身の戸惑いに襲われる。

* 言うまでもなく、これが立川三貴の本舞台で、テレビの時代劇などに現れるのは「応用編」であるのだろうが、こうして本舞台での演技を見せて貰えると、ありがたいことと思う。暢達という二字のふさわしい、観るから違和感のない親しめるアントン・チェーホフであり、その変化(へんげ)ぶりであった。三田和代もまた然り。
そして明晰の科白力でいつもわたしを感嘆させる松本紀保の豊かな可塑性。おどおどした小娘でも細君でも、またオーディションを受けにモスクワまで来たオデッサ女優が、おっそろしく美味い「三人姉妹」を語りわけるのも、娼婦の役でも、切れ味豊かな変わり身に本領を存分発揮してすばらしかった。
まためずらしや井上堯之の唄出演で、三田和代と、見せ聴かせた老いらくの寂び寂びとした抒情の一場面には、身につまされる心地で深くほの温かく魅了された。ほろっと来た。

* フランスから帰ってきた「琳」さんを誘った。幕間に高麗屋の夫人が、めずらしく洋装で席まであいさつにみえた。三田和代の弟だったかペン委員会の同僚だった三田誠広君も来ていた。
はねたあと、三越真向かいのビル九階の精養軒で三人で食事した。「琳」さん、フランスのお土産を下さる。地下鉄大手町駅で別れてきた。
満員の地下鉄でも西武線でも『モンテクリスト伯』もう離れられない。深い地下牢獄のさらに地下道を通じ合ってファリア法師とエドモンの出逢い。わたしが全編の中でもっとも励まされ勇気と智慧とを与えられ感動するのは、其処だ。
そしてファリア法師は「息子」と愛したエドモンの目の前でついに死んだ。そこまで来た。
ほんとうに隅から隅まで、みな記憶している。それなのに純粋に胸は鼓動し掌は汗ばむ。デュマの文章には美的な文飾や表現はむしろ乏しい。無いとすら謂える。つよい濃い線を彫り込むように、事柄だけがのっぴきならない勢いでずんずん進んで行く。何らの晦渋も微妙もない。断乎としてじつに面白くことが運ばれる。もう、とまらない。もう、逃げられない。
2008 10・2 85

* 書いて外へ出してきた初出原稿は、コピーし、カードにもデータを記録して掲載原本ともども保存してきたけれど、コピーの類が、劣化して読み取りにくくなってきた。今のうちにスキャンして機械に入れてしまわないと難儀なことになるが、あまりに厖大な量で、茫然としている。パソコンで書いたかなりの量は機械にのこっているが、ワープロ段階の昔のものは、さてディスクすら見付けるのが容易でない。
いまも『北の時代』を岩波「世界」に連載していたちょうどその頃新聞に書いたコラム原稿をさがしたけれど、機械とはいえ「ワープロ」時代のことで、もはや簡単に探し出せない。せめてコピーを見付けたいのに三十余年も前で、整理もわるく、見つからない。

* 何を探していたか。当時岩波「世界」の若い編集者氏が毎月のように原稿を受け取りに家まで来ていた。原稿が無くてもよく話しに来て楽しい酒にもなった。妻はそういう来客達の接待にいつも追われていた。
そんなある日、わたしは「世界」君に、いまの日本、近未来の日本で難儀な負担になる問題は何でしょうねと尋ね、編集者氏は言下に「教育」と言い、わたしは即座に「世襲」と言った。わたしの挙げた二字一語に「人類の歴史」の重なっていたこと、ことに日本史における世襲の「重負担」が意味されていたこと言うまでもない。
以来三十年、「世襲」はいまや、わたしの憂慮していたとおり、例えば政治世界でもっともイヤな有毒瓦斯に成り、腐臭だけでない実害をもたらしている。麻生新内閣の閣僚の大半が世襲議員である。そしてそれが日本の政治の強い力どころか、どうしようもない空疎・脆弱・特権化の害毒に結びついている。小泉・安倍・福田、麻生。彼らの世襲の血はすこしも国民のタメにならない。

* 三十余年まえ、あのころまだ生まれてまもなかつたろう、ボストンの「雄」君が、いま、同じことを沈痛に話題にしている。

☆ サラブレッド 2008年10月03日09:31   ボストン 雄
・ 昨日の昼,DさんとランチにLE’sへ.フォーを食べ,店を出ようとすると雨が降って来た.急いでハーバードのCOOP書籍部に行き,本を物色する.
もう止んだかなと思って外に出てみたが,雨は却って激しく降っていた.諦めて裏口から抜け,向かいにあるハーバード関係のグッズの置いてある店舗へ.そこで僕もDさんも,「ハーバードカラー」の臙脂色の傘を選んだ.せっかく来たついでに,あれこれ見ていたが,その間にも同じことを考えてか,次々と人が入ってきては傘を購入していた.
レジに向かうと,僕の前に年老いた女性が,ひとり、買った傘の支払いをしようと、手に、白と臙脂のストライプの折り畳を握っていた.だがレジ係の初老の男性は,その人の選んだ傘には値札がついていないからダメという.同じタイプのならここにあるよと別の傘を見せるのだが,「それは臙脂色だけでしょ.私は,このストライプが気に入ったのよ.この白が入っているのじゃなくちゃ嫌よ」と主張する.渋々,レジ係はレジを離れ,傘置き場に商品を探しに行った.
やがてレジ係は所望のストライプの傘を持って戻ってきたのだが,いざ老婦人のクレジットカードを通すと,「あれ? これはダメみたいだよ」と.
「ああ,今月は病院に行ったりあれこれ使ったからだわ」と婦人は絶句.現金の持ち合わせも,他のカードも持っていないということで,傘を置いてそのまますうっと店を出ていった.
正直言って,あまりに待たされイライラしていた.しかし,いくら今月病院に行ったからといって,傘一本買えないとは...背中を小さく丸め,髪もまばらな後ろ姿を見て,なんだか気の毒で悲しくなってしまった.
言うまでもなく,アメリカは格差社会だ.この傾向はきっと永く変わらないだろうし,最近の金融破綻によるアメリカ経済の悪化は,貧困層を一層追い詰めることだろう.
・ 小泉政権が「自民党をぶっ壊す」といってあれこれやったが,結局壊れたのは弱者の生活基盤だけだった.そんな格差社会を,日本人は望んでいただろうか? 病院に行っただけで,雨が降っても傘一本買えない社会を,望んでいる人などいるだろうか?
そんな弱者に向かい,「人生いろいろ」などと無責任な言葉を吐き,自分は息子に地盤を譲ってさっさと引退する政治家を,何故高く評価している日本人が未だに多いのか.
先日,研究者交流会で後半に話していた某東大教授は,「日本はこのまま黄昏を迎えるのか,それとも痛みを伴った改革を受け入れるのか」と話していた.しかし,黄昏を迎えようと,痛みを伴った改革を進めようと,つねに痛みに晒されるのは弱者だ.そのことに,あの演者は気づいていない.いや,気づいて分かっているのかもしれないが,自分は高みの見物を決め込んでいた.
・ 昨日の深夜,日本の情報番組を観ていた.長渕剛と志穂美悦子の娘である長渕文音が今度映画デビューするそうで,その映画「三本木農業高校・馬術部」の宣伝を兼ねた特集だった.あの二人にそんな大きな子供がいたことも知らなかったし,たいそう美人だったのにも驚いたが,そんなことよりも,この映画の原作となったドキュメンタリー映像に深い感動を覚えた.長渕自身,インタビューで,
「果たしてこのドキュメンタリーを越える映画が作れただろうかと思ってしまい,役作りに悩んだ」と答えていた程だった.
(以下,内容について書いているので,映画を観る方は読まない方が良いかもしれません)
この映画は青森県の十和田市にある三本木農業高校の馬術部にいた湊香苗さんという高校生と,盲目のサラブレッド「タカラコスモス」との間の交流についてのドキュメンタリー映像を元に作られている.
タカラコスモスは中央競馬に17回出場した牝馬だが,1勝も挙げられずに中央競馬を去った.しかし,その後,乗馬として大学馬術部に引き取られ,そこで才能を開花させ,この大学を全国大会で優勝に導くほどだった.
ところが,程なくして,タカラコスモスの目に異常が現れ始める.治療を試みるも回復せず,以前からこの馬に興味を持っていた三本木農業高校の教諭により引き取られ,さらに治療に専念するが,ついに完全に失明してしまう.
湊さんは,この盲目のサラブレッドの世話を担当させられた.視力を失ったタカラコスモスは不安と苛立ちで全く人を寄せ付けなくなり,身体を拭かせることさえ拒んだ.しかし,湊さんが世話をするうちに,次第に湊さんに心を開くようになっていく.
なんとかタカラコスモスに活躍の場をと考えた顧問教師が,タカラコスモスを繁殖牝馬として北海道に2ヶ月間送り,奇跡的に子供を授かり出産する(「奇跡的」だったのは,人間では70歳にも相当する高齢であり,しかも初産だったため).湊さんは,この子供に,タカラコスモスと自分の名前「香苗」の一部をとって「モスカ」と名づけた.
盲目のタカラコスモスが誤ってモスカを踏みつけないように,モスカの首には大きな鈴が下げられていた.鈴の音が少しでも自分から離れると,タカラコスモスは狂ったように啼いて辺りを探す.
盲目のタカラコスモスの世話で,ただでさえ手一杯なのに,その上小さなモスカの世話まで加わって,湊さんは大変そうだった.「一度でいいから遊びに行って見たい」と湊さんは語っていた.
「デートなんかしないの?」とのインタビュアーの問いに顔を赤らめながら,「彼氏なんていない」と答える湊さん.本当に朝から晩まで,この二頭の親子の馬の世話に明け暮れていたのだろう.
しかし,やがてモスカが別の厩舎に引き取られる.サラブレッドは小さい頃に親と引き離さないと,その後の調教が困難になるかららしい.
引き渡しの日は、朝から親子を引き離すことになっているらしいが,モスカは柵を越えて再びタカラコスモスの居る厩舎に戻ってしまう.しかし,夜にはとうとう引き離され,悲しげな啼き声を上げながら,モスカは去っていった.湊さんは号泣しながら「モスカはわがままだから,きっと向こうでも迷惑かけるに違いない」などといいながら,タカラコスモスのいる厩舎に行き,「モスカ,行っちゃった」と言うのが精一杯のようだった.
タカラコスモスは目が見えないので,大会には出場できない.湊さんは,大会に参加する際には常に他の学生が世話をしている馬を借りて出場していたが,やはり息が合わないのか,落馬することも多かったようだ.そんな湊さんを後輩達は「下手くそ」といって哂ったらしいが,湊さんは笑ってやり過ごしていたという.
偉いなあ,と思った.
「目の見えない馬の世話をさせられて嫌じゃなかった?」とのインタビュアーの問いに,「なんで私だけ,という気持ちはあった.でも,もし目が見えていたら,タカラコスモスと私は会えなかった」と湊さん.
一番胸を打たれたのは,湊さんの高校生活最後の馬術大会のシーン.それまでタカラコスモスとの出場は許されなかったが,最後の大会だけ,タカラコスモスと出場することを認められる.この大会は,速さや障害物などで競うものでなく,馬術の技術を競うものであったので認められたのだろう.
ただし,当日の朝になって,タカラコスモスは前右脚を捻挫してしまう.直前まで冷やしたり痛み止めを注射して,なんとか大会には出場できたが,演技を始めてすぐにタカラコスモスは脚を引きずり始めた.さらに,目が見えないので,枠にぶつかったりもした.しかし,その中でもタカラコスモスは最後まで演技をやめず,湊さんの手綱捌きにあわせて停まったり後退したりと演技をこなした.湊さんとタカラコスモスの息は本当にぴったりと合っていた.
「普通の馬だったら,あんなことは絶対にできない.かつて「女王」と言われた馬の意地であり,湊さんとの絆の深さゆえだろう」と顧問教師は語っていた.
湊さんの高校卒業で,タカラコスモスとの生活は終わる.卒業式を終えてまっすぐに厩舎に行き,タカラコスモスに卒業を報告すると,この日のために縫ったというタカラコスモスのための防寒着を着せ,厩舎を後にするところでドキュメンタリー映像は終わる.
・ 失明し,絶望の中で奇跡的に授かった子供さえ奪われてしまうとは,惨い話だ.しかし,それが「サラブレッド」ゆえの宿命なのかもしれない.サラブレッドは文字通りthoroughbredだから,徹底的に品種改良された血統の馬なのだろう.
しかし,血筋が良いからといってそれに甘んじたのでは真の競走馬は得られない.幼い頃に親に引き離され,しかるべく教育を施されてきたのだろう.おそらくタカラコスモス自身も,そうした経験をしているに違いない.
・ 最近,麻生太郎だの,小泉ジュニアだのの話題で頻繁にサラブレッドという文字を目にする.別に僕は子供が親の職業を継ぐのが悪いことだとは思わない.親の背中を見て育つうちに,次第に同じ職業を選ぶ人もいるだろう.歌舞伎の世界など,未だに世襲がほとんどだろうし,それでいて名優を生み続けている.しかし,それは幼い頃からの厳しいトレーニングがあってのこと.
政治の世界に果たして「サラブレッド」は必要なのか? あまり好きな言葉ではないが,「昼の光に,夜の闇の深さが分かるものか」.医者に行っただけで傘も買えなくなるような人の気持ちが理解できるのか? もしサラブレッドが政界に必要なのだとしたら,それは真のサラブレッドであって欲しい.
もし本当に政治家として育てるのならば,幼い頃からそれなりの教育が必要であるし,せめて自分の地盤を譲るなどということはすべきでないと思う.
麻生太郎は「ずっとほうっておかれたので,生まれは良いが育ちは悪い」などと自ら言っているし,小泉だって離婚して息子の面倒など殆ど見ていなかったのではないか? 地盤を譲られただけで簡単に政治家になれるようで,果たして良いのか? 職業選択の自由があるから,政治家の子息が政治家になることを阻むことはできないだろうが,せめて同じ地盤から出馬することは禁止してはどうか.
安易に「サラブレッド」などという言葉を,「政治家には使って欲しくない」.

* 「世襲」には、トクだから世襲したい、ソンだから世襲させておくという、過酷な二面がある。
両方を合わせて言えることは、つまり「手分け」の「手直し」をしないのである。人間根源のエゴのつくる、「つよい我欲」と「よわい立場」とを、「世襲」の二字は本質として体している。
「世襲」こそ日本を悪くしてきた。そう言い切れる過去が、伝統藝能伝習の一部を除いて、日本史の総体を成してきた。藤原や源・平という世襲もあれば、人外を強い強いられる世襲もあった。表裏一体、つまり人間の世界に固定した「手分け」を全然「手直ししない」エゴが、強烈に絶対的にモノを言い続けてきた。
もし今日只今のまま悪しき世襲慣例を看過し続けると、大きな「トク」にしがみつく者等の対極に、またもやおおきな「ソン」を過酷に世襲させられる生まれながら不幸不運な階層が固定して行くだろう。反省のない安易で強欲な世襲は、格差の極端な不幸をなによりも「日本」という国に与えてしまうのである。
深く深く懼れねばならない。聡明に手直しを急がねばならない。 2008 10・3 85

☆ 歩く歩く 2008年10月03日09:20   悠
歩くのが大好きな息子。保育園に行くとき、玄関でバギーへの乗車拒否を示し、すぐさま玄関ドアの前で待機。手をつないで歩いていくようになりました。
葉っぱに手を伸ばしたり、大好きなバスが見えなくなるまで手を振ったり。
いつもの三倍時間がかかりますが息子は疲れた様子はなくむしろご機嫌。少しだけ家を早く出て、この時間を楽しみたいと思います。

* このお母さんの短いなかに盛り込んでいる生活の生彩は、詩、の豊かさを十分たたえている。短く書くのはじつは、とほうもなく難しいのに、やすやすと書ききって何も余していない。
2008 10・3 85

☆ こんばんは!  琳
昨日は、楽しい一日をありがとうございました。
とても元気になれる劇でした。
一番最初から私は舞台に引き込まれてしまい、チェーホフ役の人が客席に問いかけた時、うっかり答えてしまいそうになった程でした。
私の一番好きな話は、“誘惑”でした。
なんとも巧妙な話で、スルスルと上手く事が運び、私も一緒になって紀保さん演じるマダムを騙した気分でした。最後は上手く行き過ぎたからこその失敗。納得してしまいました。
目指しているものは同じでも、違う答えを出す。
人の考えている事は、分からないからこそ面白いのですね。
チェーホフは人を楽しませ、感心させる天才です!
沢山笑い、同時に納得もさせられた劇でした。
植物画、とても綺麗で家に帰ってからも何度も眺めていました。本当に写真の様で写真以上!
それに添えられた大好きなフランス語。読んでいて幸せです。
とても大切でお気に入りの本になりました。
今日は朝から新宿で、“闇の子供たち”という映画を観てきました。
タイを舞台に、まるでものであるかの様に扱われる子供たちを助けようと、必死で戦う人たちの話です。
しかしこの映画は決してそれだけがテーマなのではなく、人間ドラマでした。誰もが持っている自分の中の闇を、不意に真正面から向き合わされてしまった人間を映した映画でした。なかなか言葉で表現するのは難しいので、是非観て頂きたいです。
昨日の立川三貴さんに続いて、今日もう一人いい俳優さんを見つけました。江口洋介です。軽くて都会的でそれのみの人だと思っていましたが、いい俳優さんです! 日本でもこんなに映画が作れるなんて、衝撃でした。
観終わった後、やっと口から出す事が出来た言葉は、「すごい映画。」でした。
いつか建日子さんにも、この様な映画を作って頂けたら嬉しいです。
朝夕冷え込んできたので、キンモクセイがいい香りを醸し出しています。キンモクセイ大好きです!
前の家にはキンモクセイが2本ありました。
小さい頃キンモクセイのお花は、おままごとのご飯でした。
なんだか懐かしい木です。
どうぞお風邪など召しません様に。

2008 10・3 85

* さきほど岡山の有元毅さんご好意の、備前焼作家の「茶碗」一枚を頂戴した。この前にも、備前焼の花入れを頂戴した。ともに備前の味わい濃い気鋭の仕事と観ている。有元さんに心より御礼申し上げる。

* いま、ある人の作品を預かっていて、やや判断しかねている。
当人は「詩」といわれ、わたしには「詩」と読めない。特定の人たちを見入れた「檄」と読める。
その人は、詩とは、人への「応援歌」だといわれる。応援歌も詩であり得ぬわけではない。人を励ます詩はいくらもある。問題は、詩である応援歌か、詩とは呼べない応援歌かだ。だが一種の「詩論」とともにその人は代表作として四編の作を添えておられる。詩としてのみ「e-文藝館=湖(umi)」に掲載するのは躊躇われるが、詩論に添えたサンプルとして一つの論説として受け容れるか。迷っている。その人に恥を掻かせたくない、掻くのがわたしであっても、それはガマンできるが。
2008 10・5 85

* 有元毅様
昨晩 お心入れの備前の茶碗を頂戴し、心躍らせて拝見しました。有難うございます。
作意の毅い男性的なお茶碗でした、長いこよりを、ふたすじみすじ、胴に舞わして焼き付けてある手触りがやや痛いほど茶碗の持ち主に覚醒感をくれるのが珍しく、初めてみる趣向でした。
見込みは広く平豁。中央を外して思いの外大きめにブラックホールのような海鼠肌がまるく目をあいています、これにもびっくりしました。
糸底は平淡に低く大きめに安定しています。
総じて剛胆に大きく、背丈よりもやや平(ひら)に豊かなお茶碗です。少し湯にならして、一碗たててみようと思い、手にして眺め、置いて眺めしております。
心より御礼申し上げ、ありがたく頂戴致します。
すこしずつ小寒くすらなりゆく秋、くれぐれもお大切になさってください。私どもはやがて母の十三回忌に京都へ参ります。例のとんぼ返しに戻って参ります。
政局はいたずらに大事な政治空白を延期して民意をおそれ萎縮している様子です。気を緩めずに、機会を待ちたいと思い居ります。
どうか、ますますお元気で。   秦 恒平
2008 10・6 85

☆ 秋の卑弥呼 瑛 e-OLD川崎
ここまれにみる好天が続いたので10月3日(金)に山へ行った。目指した山はハイキングを兼ねての「市民ウオーク」の参加者で群れをなしていたので予定を変更し、「岳ノ台」へ登った。
ヤビツ峠でお昼となり、誰もいないベンチで汗でびっしょりの肌着を干す。いい気分。男の洗濯であり山山を仰ぎみて着替えをする。
紅葉が近い。細い雨もとっくに止んで、青空を白い秋の雲が静かに流れる。ふとご無沙汰していた「詩」を思い出す。
「山のあなたの空遠く <幸>住むと人のいふ ああ、われひとと尋(と)めゆきて 涙さしぐみ かへりきぬ、・・・。」
カール・ブッセ の上田敏訳の「声明」と、今ここにある自然の息吹きに遊ぶ。
午前中に大山へ登った登山者がおりてきた。しばし話す。還暦のネズミだという。横浜線の長津田(ながつた)の人で意気投合し年男が二人、これからの未来への豊富をさわやかに語った。僕は先輩であった。
目指す山へ登り、登山道にある枯れ木の女王に久し振りで会った。雷にもやられずに凛と手を差し伸べている姿に僕は惚れ込んでいる。命名しているのですが、『卑弥呼』。

* 小気味いい写真、「瑛」さんの爽快な秋晴れ。

* 「卑弥呼」とは。これ、やがて新刊の今度の湖の本でも繰り返し語っている。

☆ 買い物は昨日済ませました 花
ので、今日は英語が終わったら真っ直ぐ帰宅しました。
> 幸か不幸か能楽堂の見所はせいぜい半数の客で、
この週末は、なんとなし、街に人手が少なかった気がします。週末はいっぱいの図書館もスーパーも、いやに空いていたし。
風、耳鳴りは、お疲れと心労のせいでしょうか。どうか、お大事になさってくださいね。
ゆっくりお休みになれるといいのにと、花はいつも願っています。
批評には批評の難しさがあるなあと感じています。作品の背景に作者の実像を、どこまで投影すればいいのか、そのさじ加減が難しいです。特に、日本の私小説あるいは私小説的作品は。
平野謙の「ひとつの反措定」(岡田嘉子と杉本良吉のソ連亡命について書いたもの)が、「下種の勘ぐり」と言われてしまったのを最近読み、ウーンとうなっています。
ひとつひとつの作品に、誠実に向き合うしかないなあ、と。そうすれば、作品の要求している「読み」が見えてくるはず、と、信じてがんばります。
風、お元気ですか。
花は元気に元気に富士の胸を見上げながら過ごしていますよ。
2008 10・6 85

* 俳優緒形拳への哀悼は、「珠」さんに代わって貰う。

☆ 「今」 2008年10月08日03:17 珠
緒形拳さんが亡くなられたと聴き、しばし呆然。
好きな役者さんだった。以前は頑固なおじさんというイメージで、時折怖くも感じるけれど憎めないところのある役が多かったが、ここ10年くらい懐の広い温かさを感じるようになっていた。つい少し前、モントリオールだったかの映画祭で受賞した作品にボケた老人役で出演されていて、予告編だったが髪がまっ白になっていて一瞬吃驚した。随分年をとった役をされるようになったなと思いながら、小さな子供と同じ目線で旅をするその映画にとても惹かれ、何とか観たいと思ったが叶わなかった。
その後、テレビで広島原爆についてだったと思うがドラマに主演されていて、ふと見ていたら引き込まれた。呉だったと思うが、その街にたった一軒残る帽子屋さんのお爺さんだった。東京に住む息子が独居老人の父の安否確認を依頼する巡回警備会社の担当者をからかったり、少々ボケて我が侭を言ったりする日常生活。それがその若者の落とした手紙を拾った事から、末期の病にある彼の母親に逢うために共に東京へと旅をする。
彼の母は幼い頃に彼を置いて出て行き、それ以来逢っていない。今更、、と躊躇う。そして帽子屋お爺さんは、その手紙にあった名前に、若い頃の大事な女性を想いだす。家の都合で呉から広島へ転居することになった彼女を、必ず見送りに行くと約束しながら、出征する軍人さんの急な帽子の直し作業に、間に合わなかったあの日。
以来逢うことのなかったその人は、その後広島で被爆したらしいと聞いていた。若者は母の被爆は知らなかったが、調べるなか、母が自分を置いて出て行かざるを得なかった理由に、その被爆があったと知る。そして二人は東京へ。ようやく探しあて、その女性と再会。帽子屋さんは、田中裕子さん演じる女性に、自分は、あの日見送りに行かなかったのではなく、行ったけど間に合わなかったことを、ただただ詫びるのだった。穏やかな笑みで逢えたことを感謝し、二人は懐かしい時間を語り合う。若者もまた、母との長い時をうめ、二人で呉に戻るのだった。
見ていて、これは被爆をあえて話しの中心に置かず、その時代を生きた人を描くことで今もある身近な被爆を作品にしたのだろうと思った。それでも、この展開は少々無理があるだろうと感じていた。ところが、緒形拳さん演じる帽子屋さんから目が離せなくなったのだ。その旧い店のように朽ちてゆく仕事や家族、そして自分。その事実を感じながら、今出来ることに頑固に突き進む。悲観的でなく、大切な物・人にはとても優しい穏やかな視線。
そうかぁ、、出来ないこと、うまくいっていないこと、哀しいこと、そう見ればそれに違いないのに、誤魔化しでなく、投げやりでなく、人は「今」を大事に生きられるんだ。「過ぎてきた時間」に「今」が生きる。減ったとあれこれマイナスを思ってしまうけど、マイナスを多く感じた時は、それまでの時間につながる「今」をみればいい。その表情に、間に、演技とは思えない人生をみせてもらって、温かく元気になっていた。
こう在りたい。これからも。心からご冥福をお祈りします。
2008 10・8 85

* 此処へ予告もしないで留守にしたので、「馨」さんや「雄」クンらに心配させたようだ、ごめんなさい。
2008 10・10 85

☆ コミュニケーションそれぞれ  馨
「こじゃぱ~」というのが最近の二番目二歳児の多用する言葉です。
モノが落ちると指さして「こじゃぱ?」
食べたいものがあると指さして「こじゃぱ~」
遊びたいものがあると指さして「こじゃぱ~?」
どうやら「これは?」の意味らしいのですが、広範囲に使い過ぎて「please」とか「よろしく」の意味になっているよう。
この前はウッドデッキの柵によじ上り「こじゃぱ!! こじゃぱー!!! こーじゃーぱーー!!」と泣き叫んでいました。
降りられなくなったから下ろして、の意味です。
何にでもかんにでも濫用しないように。
この二歳児、このところ急速に意味ある言葉が増えてきて、大人とある程度会話が出来るようになりました。(ただし発音は舌足らずなので、こちらの推理力がとっても必要)
おもちゃの電車をわざと二つぶつけて「おこんじゃった、たいたい」(転んじゃった、痛い痛い)。
ぬいぐるみを寝かせて「ぴっぴーたん、ネンネ」(ミッフィーちゃん、ネンネ)。
暗くなってからベランダに出て、いきなり私のところに走ってくると「うきたん、ピーピーピー!」。
??? 難易度高いぞ  「虫さん、りーりーりー」かな。 息子はにっこり。ピンポンだったようです。
自分はあまり喋れないのに、虫の声には気がつくセンスにびっくり。
一方で思う通りにならないと「いやう(違う)、やーじゃーもん! ばーか、ばーか」
いったいどこでこんな言葉覚えてくるのでしょう。さすがに2年生のお姉ちゃんはそんな言葉は使わないじょ。
三番目の息子クンは、最近よく笑うようになりました。
目が合うと誰とでもニコニコ。
中でも、私の顔がイコール食べ物と認識したようで、とびっきりの笑顔。
うーん、母も嬉しいよ。(その後は早く飲ませろ、と泣き顔になるのがナンなのよね)。
二歳の息子1は、息子2が泣くと「エンエン。っぱい!」と代弁。ついでにお尻のにおいもかいで「ウンチ!」
私がのぞいて息子2が笑顔になると「あ、わやった(笑った)」と自分もニコニコ。
お腹がいっぱいになった赤ちゃんがブリブリブリ…とすると「あ、また!また! ぅンチ!!」
はいはい、人のことはどうでもいいからアナタもちゃんとトイレでして下さいね。
そばで娘が「私もよく言われているけどS見てると、ホント『人のことより自分のことをきちんと』って思う」
そうなのよ。
あなたもそうして下さいね。
コミュニケーション発達にはそれぞれの段階があるのです。母はその段階に応じて叱っているんですよ。
娘が今年の誕生日プレゼントとして私にくれたカードセット(手製)には「背中マッサージ券」や「洗濯物たたみ券」「お料理券」「お買い物券」などいろいろ入っていました。何回でも使用可能だそうです。ありがたや、ありがたや…。
こんなにたくさん日頃から手伝ってもらっていたんだな、と改めて思いました。
でも、お母さんは、「宿題を言われなくてもやる券」も作っておいてほしかったな。

* 読み終えて、ホオ~っと、しました。感謝。
2008 10・10 85

☆ 木曽の痩せも  雀
まだなほらぬに後の月 (芭蕉)
主人の勤務に三連休が増えました。代わりに6日間連続勤務が増え、7、8、9月は
猛暑もあってまるきりからだやすめの連休となり、今回は給料日寸前。ありがたいけれど複雑です。
1日からパラミタミュージアムで「江里佐代子展」が始まり、明日から大和文華館で朝鮮山水の展示。飛鳥の万葉文化館の「田中一村展」は18日からとまだ早く、MIHO MUSEUM「川端康成・安田靫彦展」に出かけようかと決めかけて、「十便十宜図」が21日からの出陳とわかり、延期。白紙に戻りました。
ほんの数日前、会社から帰るなり「丹後半島に行ってくるわ。山と海と二泊で」と主人は夕食を済ませると指定席切符を買いに出かけてゆきました。雀はこの 3日間ひとり好き放題ということになります。
急な話ですが、この原因は春にさかのぼります。
めっきりテレビのプロ野球中継が少なくなり、夕食時に雀が録画している教育テレビの「高校講座」世界史、日本史、地理を見ることが増えました。
世界史「鎮護仏教」の回で、仏国寺の石塔が映し出された瞬間、「あぁ、これが…あれかァ」と声をあげたので、「石塔寺と法然院のでしょう」と言うと、
「俺、法然院行ってないよ。哲学の道も歩いたことない」と言うのですよ。
40数年前の一浪の痛みがまだ残るのか、東山とくに左京区は忌避地域らしいのです。
蕪村のお墓も住んでいたところも知らないンだと思って、ちょうど名張駅前から嵯峨まで往復3000円でフリータイム6時間というバスツアーに休日が重なっていたので、東山を案内しようと2人分申し込みました。7月初めの京都行きはそれです。
京都東I.Cを降りてすぐ高倉天皇御陵でしょう。そして大谷本廟が視界に入る往路。
それに対し復路は渡月橋たもとの駐車場を出発したあと、小野篁が使った井戸があったあたりを左に法金剛院の前を通り過ぎ、左手に鹿ヶ谷や蹴上の疏水を見て天智天皇山科御陵。お名残は人康親王の四宮と、蝉丸トンネル。
ガイド嬢気取りで説明しながら、口に登場する人物がなんて偏っているンだろと苦笑してしまいました。
雀が考えていたプランは、金福寺と詩仙堂を見たあと、ごはんを食べてタクシーで法然院へ行き、主人の干支である子が社前に据えられている大豊神社まで哲学の道を歩くというものでした。
ところが初ッ端に乗り込んだタクシーが衝突されてケチがつき、詩仙堂と哲学の道は、暑さで割愛。ごはんを食べに木屋町に行って瑞泉寺。しぜんお墓参りばかりになるのは雀一羽のときと同じです。嵯峨野は昔ふたりで歩いたので、今回はバス出発まで近くを歩いただけでしたが、光厳天皇遺髪塚を見つけました。
この10日ほど後、「哲学の道に狛ネズミがいる神社ってある?」と訊くので、「そこへ連れて行こうと思ってたのに『哲学の道はもういい。わかった』ってタクシー探しに行っちゃったンじゃないの」。もぅ。雀が牛になりました。
目にした雑誌にこまねずみが載っていたのだそうです。
それで、故郷で一茶の生家とお墓、名張に越してきて芭蕉の生家とお墓と見ること ができたのもなにかの縁。蕪村のお墓にも行くことができたうえからは、彼の生家を見てみたいというのですよ。
毛馬に行くと言うので、芭蕉の生家に上野と柘植があるンだから、蕪村だってまず母方の故郷が生家なんじゃない? と振ったら「野田川をこすうれしさよ背にリュック」になったようで、3日間、めいっぱい使うつもりで張り切ってしたくをしていました。
12日は伊賀市で「第61回芭蕉祭」が予定され、宮津市では「第9回蕪村まつり」。10/10-12に宮津市寺町をライトアップするとのこと。
雀は明日「琵琶湖三島めぐり」の船旅をしてきます。ちょうど頃合いの気候みたいで、船上で感じる湖水をたのしみにしています。名残の月が昇る前には帰ってきます。
ご平安のうちにお月見ができますようお祈りしております。 囀雀

* 面白きご夫婦さんである。

* さ、また日常生活。イヤーなことも避けがたいが、ごまかさずに「今・此処」のこととして対処しながら。
2008 10・10 85

* 鎌倉の「馨」さんが、歌をつくって行く気になった。メールの中に次々織り込まれてきた。「聞馨集」となづけて、当方でも記録して行こう。措辞はだんだん落ち着いてくるものだ。
マイミクさんたちの中にも同じような動きが見えてきている。
佳いメールや佳い日記が自然に書けていれば、詩は、そこへもう影を宿そうとしている。機械から生まれる平常の日本語に、そういう兆しの現れくる時機が来ているのだと思われる。

☆ 秦先生  馨
金木犀の香る季節になりました。
夏に引っ越しをしたのですが、新居には金木犀が四本あり、いっせいに香りを漂わせ始めました。
来年あたりはもう少し大きくなった木から、早めに花を取って桂花陳酒を作ってみようかしら、などと考えています。
湖の本をご準備されていらっしゃるとホームページで拝見していました。
新居の住所をお送りしていなかったように思います。遅くなりまして申し訳ありません。
新住所は 割愛 となります。
前の家は花で有名なお寺の参道で、あまりの観光客の多さに辟易としていましたが、新居は住民しか入ってこないところで、引っ越してほっとしています。裏は山、ホタルやカニがいる川が目の前で、子ども達の格好の遊び場となっています。
湖の本は、上記の住所にお送り下さいますよう。
証明の難しい言論問題に日々取り組まれどれだけの心身の疲労を伴うかと、あらためて先生のご健康が気づかわれます。どうぞどうぞおからだをお大切になさって下さいませ。
2月に父、3月に祖父が亡くなりましたが、こんな中でも、子ども達の顔を見ると疲れが融けてゆく毎日です。

真四角の毛布の三隅をそれぞれに握りしめおり起きて見つれば
長短の性質(たち)は違えど大中小同じ顔して寝入りし吾子ら
母の吾に贈りたまひし何よりははらからのありき吾もまた子らに

「完」といふ字を思わせし葬儀かな この如月は光に満ちて

静かに老いていった父は、その生き方の総まとめのように亡くなりました。父のような父であったことに本当に感謝しています。
金木犀の香る季節は喉を痛めやすい季節でもあるようです。くれぐれもご無理をなさらないよう。

追伸
無事にお帰りになられたとのこと。ほっと安心いたしました。
心配性なもので、思わずミクシィで足あとをつけて頂いた息子さんの方にまでメールしてしまいました。
ご多忙な方なのに私の心配にお付き合い頂いたりして、本当に申し訳ないことをいたしました。お許し下さい。
水曜日のメールにも書かせて頂きましたが、最近、五七五七七の中に家族への思いを入れることが多くなりました。
いつだったか先生に「短歌を作ってみませんか」とお誘い頂いたことを思い出して、下手な歌を少しお送りいたします。

夕映えに染まりたる子らいとしくて帰り来よとは声かけられじ
「おはよう!」と蓮花はじけし音のごとその後は笑みて走り寄り来む
いと清き明るき深き香しき花開くやふに四月子笑まふ
ゆるやかに坂をくだりし父送り今また母が坂に立ちおり

お旅の疲れをゆっくり癒されますよう。 馨

* ご心配かけました。京都へ行く「予告」を省きましたので、ご心配かけました、ごめん。
環境、ますますよくなったようで、それが日々のお暮らしに反映していますようで、私どもまで余映にあずかっています。
ご不幸続きでしたね、お悔やみ申します。何も何も安らかにと祈ります。
胸中に不快がありますと真夜中にもどきっとして目が覚め、安定剤が欲しくなったりしますが、堪えて、本など読んでやりすごします。老境の健康不安に重なってきますといけません。なるべく楽しく過ごして過ごしてと心がけています。
あなたをはじめ、卒業生たちのメールや日記にたくさん励まされたり癒されたりしています。幸せなことです。
ご一家のますますの平安を祈ります。
新住所のこと、手配しました、ありがとう。

追伸 お歌は当方にも記録して、読んで行きます。感想なども時折に挟んで送りましょう。
こういう仕方での「述懐」もいいものです。あなたに似合っています。
上手にと願わずに、先ずは素直にことばが弾みますように。それが心地よい流露感を伴ってくるとつまり自然に上手になっているわけで、その先はしっかり思いを彫琢してゆけばいいと思います。語法はいつのまか正しく身に付きます。
急ぐ旅ではありません、楽しんで思いを「具体・具象」に、つまり自然や暮らしに預けて行く旅です。 楽しんで下さい。 秦 恒平

☆ 昨夜の雨も上がり、今日も暑い位の良いお天気です。
叔母さんの十三回忌の法要無事お済ませになり何よりと存じます。
私語が更新されていなかったので、もしか京都へお出でになっておられるのかと思いを馳せていましたが、お元気でお帰りのご様子、ほっと安心しました。
的を絞った市内巡り、毎日暮らしている私にも参考になりました。
三島亭のすき焼き、まだ食べに行ったことがないんです。
主人は食い道楽でなく、何でもいいからと家で食べるのが好きな人です。料理があまり得意でない私は外食は大歓迎なのですが。
そのうち何とかおだててでも行ってみたいと思っています。
またお忙しい毎日でしょうが、くれぐれもお大切にお過ごしくださいますよう。 みち  従妹

* いつもお墓へおいで下さり、有難う存じます。みなさん、ご平安に。 恒平

☆ 京都   泉
ご用も兼ねて楽しまれたよう、お元気で何よりです。
私の体調はまだ快調とは言えず、京都は遠く、想いばかりを馳せています。
この週末は粟田祭やなぁなんて。小学生の頃には気を惹かなかった由緒ある祭事を、今の歳で見聞したく。
そんなワケで近々帰郷の予定は残念、ありません。焦らず落ち込まず淡々と日々を過ごしています。

* この人の粟田小学校とわたしの有済小学校とが合併して、名も新たに「白川」小学校。昨日、タクシーで校門前から粟田坂をのぼってきた。
とびきりの元気じるしが体調を案じていると、こっちの気もふさぐ。お元気でと祈る。

☆ 「澱」  2008年10月11日04:54   珠
ニュースを見ていると背筋が強張る。暗澹たる経済、政治、そして世界。残念ながら、世界中でこの影響を受けない人はほとんどいないのだろう。金額の多寡ではなく、廻る因果のように末端まで届いてしまう。経済は生き物。感情的な反応で動き、のたうちまわる。暴れる獰猛な生き物を、しっかと見据えて身を盾に向かう勇気ある人はいないのか。
私の職場では診療に加え、健康診断も行っている。
高齢になって働いている方の状況は、見ていると比較的似ている。若い頃から既往症がとても多い。勝手な想像だが、長期間仕事に携わるのは難しく、体調をみながら仕事をしてきたのではないだろうか。家族のいない方も多く、健診結果の危険な「!」に受診・治療を勧めると「お金がかかる」「お金がない」という返事をよく聞く。仕事をしてるのに、、と思うが「給料日まで無理」と言われると、結果の危険さと、抗えない現実に、脱力感を覚える。医療費は高い。世界に比べれば破格に安いと思うが、それでも高血圧で30日分の薬などもらうと3割負担なら軽く8000円位はかかるだろう。痛くも痒くもないからだの為に1万円札を使っても、現実には楽しくも嬉しくもならない。
教育も、指導も、とても大事だと思う。だが、高齢者の老化に伴う変化や染み付いた生活習慣を今更変えることは、相当に難しい。それが必要なのか、、とすら思う。
健康とは何か。
「死なない」ことではない。本人がよく生きて、そしてうまく死ねたなら、「健康」と言っていいのではないだろうか。今は、人によってはよく生きることを得られる時代になったと思う。でも、うまく死ぬことの難しさは皆感じているのではないだろうか。
高齢者にうまく老いてうまく死ねるようであってほしい。それまでの生活習慣や老化にペナルティーを与えるような社会ではなく、治療が必要な時期がきたら躊躇なく受けられる、そういう社会にならないだろうか。
今、「健康」は「贅沢」になりつつあるらしい。ささやかな贅沢一位が‘お酒’なら、痛くもない病気治療という贅沢は何位くらいになるのだろうか。。。「健康」になるために生きているのではない。「健康」に生きてゆきたいだけだ。
日本で、世界で、お金が消えてゆくのは、目的と手段を間違えた結果だろう。もったいない。こうしているうちにも多くの財源が消えてゆき、そのツケは澱のように弱者に降り積もるように思えてならない。
誰か、いないか、何か、できないのか。切ない。

* 切ない。

☆ 光と影  ハーバード 雄
・ 昨日の日記でGFPのことを書いた.GFPそのものを精製したのはノーベル賞の下村氏.GFPを利用したのが,残りの受賞者であるロジャー・チェンとシャルフィー.
ならば,GFPの遺伝子を単離したのは誰なのか?
昨日の日記では,企業の研究者と書いたのだが,そうではなかった.今朝,nprに載っていた記事を読んで,暗い気持ちになってしまった.
要するに,この研究者は,研究費が獲得できなくなったために研究職を諦め,今ではアラバマ州でバスの運転手をしているという.良く冗談半分に「これがダメだったら,タクシー運転手にでもなるか」などと言う研究者は居るが,実際にそうした道を選ばざるを得ないというのは,なかなか厳しい.そして,今も生活は困窮していて,貯金を使い果たしそうになっているという.
かたやノーベル賞で,かたや失業・困窮とは,なんともつらい話だ.
アメリカで研究を続けた下村氏にしても,取りまく環境は同じことだったろう.こうした基礎的な研究を「維持」することは,アメリカにおいても難しかったことだろう.マスコミは安易に「頭脳流出」というが,日本を離れてアメリカで研究を続けるには,大きな覚悟が必要だったのだと思う.
今回,自分以外の研究者達がノーベル賞を獲ったことについて,件の元研究者は,「自分だったら,こんなことはできなかっただろうから,それは納得している」とのこと.
「ただ,もしアラバマ州に来ることがあれば,ディナーでも御馳走して欲しい」という言葉が泣かせる.

* これも切ない。
2008 10・11 85

* 今朝は、先ず力の入った長文の「来信」を最初に置く。

* 「☆ 大学の研究者が言わないような類の『科学』の話」と「題」してある。「論考」であり「論説」であり、理系研究の根幹に触れて、端的に勝つ多彩に「問題」を洗い上げている。
断っておく、「三編・三部」に分れ、すこぶる長文である。が、非理系もいいところの作家である秦さんが、興味津々、一行もとばさず一気に読了した文面でもある。あらためて「e-文藝館=湖(umi)」の「論説」室にも掲載し、場合によりこの後にぜひ期待したい「意見交換」もそのまま其処へ採って、「今日に裨益する」気鋭の声と言葉とを大事に保存したい。大いに期待。
この投じられた一石、いや「三部・三石」に対し、本質的に深い関心のもてる理系・科学系の(それ以外も含め)読み手が、この秦恒平サイトの読者には、決して少なくないはず。
ことに論点や観点は、今日の科学研究や教育や大学・企業に及びつつ、母校「東工大」に対しても、鋭角に、また広角に、言葉も意見も深く具体的に及んでいる。
行政府にいる「司」クンや、ハーバードの「雄」クンへの言及も具体的に含まれている。そもそも卒業生諸君は、概して、この長文の提言者である「仁」クンの経歴にちかい道を歩んでいる。例えば科学書等の「編集者」にも具体的に「仁」クンの発言は膚接している。わたしの知る限り、卒業生の大勢が「わがこと」として関心をよせるのではないかという気がする。
むろん東工大の卒業生だけではない、わが友「maokat」さんのような年配の研究・教育者にも濃い関連がある。大きな企業の研究職の人は、わたくしの若い友人達にはとても多い。さらに現に大学の先生達もいる。研究所勤めの人もいる。特許庁での優れた研究者たちもいる。しかもわたしの知る限り「論客」が多い。おめず臆せず率直な批評や感想を寄せて欲しい。わたくしのサイトが、こういうことで、いわば四通八達のための交叉点の役をしうるなら、本望である。
「仁」クン自身は、てらい無く、率直に経歴も語り継いでいるので、余計な紹介の労は省く。

* 教室と教授室とを離れて十余年、今にしてこういう「挨・拶」の言葉の届くのを、とても喜んでいる。
「挨」も「拶」も、昔に話したことがある、「力つよく押す」意味である。いろいろにこの「科学の話」に押し返してくれると嬉しい。
ノーベル物理・化学賞の話題に賑わう今、もっともふさわしいことではなかろうか。

☆ 大学の研究者が言わないような類の「科学」の話  仁 08.10.11

~はじめに~
最近ノーベル賞の発表が続いておりますが,感慨深いものがあります.(秦)先生もご存知のとおり,僕は 10 年以上自分の web ページを持ち駄文を掲載し続けてきました.しかし,企業の研究員という立場上,研究そのもの,あるいは研究をとりまく科学技術環境については,なかなか思ったことを書けません.企業の研究員が研究所外で研究について語るためには,弊社では「所外発表申請」なるものの決裁を必要とします.そこで,今日は自社グループの看板を背負った研究員としてではなく,先生の教えをいただいた一東工大OBとして,日本の科学技術について思うことを述べたいと思います.
基本的に,この文は文字通り「闇に言い置く」つもりで書きましたが,もし先生のご判断で他の方の参考になる部分を感じられましたら転載ください.話の内容上,第三者がこれをご覧になったとして僕個人を特定するのは難しくないでしょうが,あくまで筆名による個人的な意見だと受け止めていただけたらと思います.

■ 大学の研究者が言わないような類の科学の話 1
~今年のノーベル化学賞と海洋天然物化学~

今年のノーベル化学賞受賞者が GFP の下村氏になって,ここ名古屋の報道は大変なことになっている.今年は 2002 年度に続いて物理学賞,化学賞の日本人ダブル受賞となったが,さらに,物理学賞は名古屋大学出身の小林・益川氏が受賞,化学賞は助手~助教授時代に名古屋大学におられた下村氏が受賞されたからである.自分は名古屋大学に在籍したことはないが,毎年トライボロジーの分子理論を教えに行かせていただいている非常勤講師として何となく嬉しい.
ハーバード「雄」 さんが 「mixi」 にて詳細に解説されているように,下村氏の受賞理由はオワンクラゲにおける GFP 系の発見であるが,もともと海洋生物の発光系としてはウミホタルなどのルシフェリン-ルシフェラーゼ系が 1917 年から知られており,このルシフェリンを結晶化した (すなわち分子構造が詳細にわかる) 人として下村氏は有名であった.
こんなことを,現在は民間の研究所で「摩擦」を研究している僕が書けるのは,人生最初の自然科学研究を行った分野が海洋天然物化学だったからだ.
海の生き物は様々な特殊な分子を活用して生活している.トラフグのテトラドトキシンのような毒や,タコの墨,配偶者そのものや精子などを誘因する様々なフェロモンの類,エネルギーを得たり光を感知したりするための色素,そして,発光する物質だ.
現代の分子生物学では,生命にとって最も重要な分子とは,タンパク質,核酸,糖,脂質であると習う.それぞれの構造,機能,代謝などを習うだけで大学を卒業した気分になり,お腹がいっぱいになってしまうわけだが,海洋天然物化学が扱うような特殊な分子は,これらとは毛色が違う.いってみれば,生命というロールプレイイングゲームで体験する物語における,ストーリーの主流からはそれている「特殊アイテム」である.それがなければゲームをクリア出来ないくらい絶対必要というわけではない.しかし,敵をやっつける強烈な毒であったり,光ったりして,その分子の関わる現象自体が不思議であり,また,テトラドトキシンの分子構造を眺めたときに、「どうしてこんな形をしているのだろう」と感じるような,ほれぼれするような姿をそれぞれの分子はしていたりして,興味が尽きない.
そんな海洋天然物化学と僕が関わったのは, 4 回目の大学一年生のときだった. 1 回目,2 回目の大学一年生のときは,そもそも大学に入ることが出来ていなかった.いわゆる浪人という奴である.仕方がないから,雑誌を通して知った早稲田大学の SS 先生に現代詩を送りつづけて,添削していただいていた.
3 回目の年は,ようやく大学に入って上京したが,首都東京そのものと,そこで出会った人々に圧倒されている間に一年が過ぎてしまった.いわゆる留年だ.文学の教授として来られた秦先生と出会ったのも,この頃だと思う.文学青年崩れの僕からみて,秦先生のお話,講義,著作,すべてが新鮮だった.東工大でこんな真正面から文学的な先生に出会えるとは思わなかった.
留年の理由は,フランス語を落としたことが理由であるが,そもそも「ランボー全詩」を愛読するにも原著ではなく粟津則夫訳であったのが敗因であった.ただし,当時のルールで,規定の専門科目の講義の単位をまとめて 2 年分とれば 、3 年目は 2 年分の学生実験だけで済むから留年は解消できると聞いて,せっせと講義には出た.しかし,父親を亡くして経済的に自活していた僕が大学で学びつづける理由は,基本的には講義を聞きにきたのではなく,研究をしにきたからだった.早く研究がしたかった.普通の人は卒業研究をする年齢でもある.
ということで,勝手に研究をはじめることにした.指導教官として,大学入学前からお世話になっていた HM 先生にお願いして,研究テーマを与えていただいた.それは,マボヤの表皮から付着忌避物質を抽出して物質を同定する,という海洋天然物化学のテーマだった.
HM 先生の研究室は海洋天然物化学ではなく,分子発生学を看板にしていた.もう少し細かくは,精子が卵にたどりついて受精する際に相手を自分の仲間だと認識する「先体反応」という難しい現象だった.扱っていた実験動物としては,イトマキヒトデとマボヤと,アフリカツメガエルが中心だった.海の生き物であるヒトデとホヤは三浦半島や三陸などに採取しにいって,海水で満たした水槽に入れておくのだが,この水槽がどこの鮮魚店よりも高性能で,新鮮に実験動物を生かしておける素晴らしい装置である.水槽の中のホヤやヒトデは,どれだけ見ていても飽きないものだ.
HM 先生もマボヤを何百匹も眺めている間に,あることに気がついた.
マボヤはソフトクリームのような形状をしている.クリームの部分は,赤紫色の柔らかいイボに包まれた半球に口と肛門に相当する穴が突き出ており,外の海水を出し入れしている.下半分のコーンに相当する部分は,岩などに固着するために黄色くザラザラした円錐形だ.
マボヤは誕生したときの幼生のときは,おたまじゃくしのように泳ぐ.しばらく泳ぐと,固着して,そのままその場所で成長する.大人になると,立派なソフトクリームの形になる.岩などにへばりついているため,コーンの部分には,フジツボやムラサキイガイなどの似たような生き方をする貝類も自分より大きなホヤの体に固着している.
HM 先生の発見は,他の固着生物はコーンの部分には固着するが,クリームの部分には固着しない,ということだった.
僕が何か実験をさせてもらえませんか,と 、HM 先生の研究室を訪ねたときに与えられたテーマが,
「なぜ他の生き物はクリームの部分に固着しないのか」というものだった.マボヤの表皮は原因となる忌避物質を含んでいるから,というのがもう一歩踏み込んだ推察だった.そういう物質があるならば,ホヤは天然の防御物質を持っているといえる.すると,その物質を濃縮して船の底に塗ったら,現状において固着生物をつけないために使われている有機スズ系の塗料の代替になる環境負荷の低い材料になるのではないか,というのが工学的にみた着眼点であった.
これは面白い,と思って,さっそく実験をはじめた.成分を取り出すためには,有機溶媒などを選んでホヤの皮を浸して成分を抽出して,次に溶媒を揮発させて成分を濃縮する,という作業を繰り返す.今度は,水と有機溶媒などの二成分系で分離することもできる.
ともかく,そうして選び出した物質に,固着生物が最初に固体表面に付着することを嫌がらせる忌避活性があるかを調べなければならない.この作業をアッセイというが,その方法を文献調査すると,ターゲット物質を塗ったシャーレにフジツボの幼生を放し,一晩ほど経過した後に何匹固着しているかを調べる,というのがあった.しかし,フジツボの幼生を採取できる季節は限られていたので実験開始当初は入手できなかった.
そこで,ムラサキイガイがどうやって固着するか,というのを観察した.海水を浸したシャーレにムラサキイガイを置いて,ルーペの下で,どう行動するか眺めるのである.すると,
(1) イガイは最初に足を出して,シャーレ表面をなめるように調査する.
(2) 固着しようと思ったら糸を数本出す.
(3) その数本の糸を殻の中に引っ込めることによって, シャーレの面に対して垂直に起き上がる.
(4) さらに多くの糸を出して,安定に表面に付着する.
という、 4 つの過程を必ず経るということがわかった.
気に入らない表面だと,(2)までは行うが,(3)の過程に入らないこともわかった.
さらに,(3)の過程に入る時間は平均15分弱ほどだということもわかった.すなわち,15分待って,(3)の過程に入るかどうかをみたら,付着忌避活性があるかどうかを判定できる.
これが,僕の生み出した新しいバイオアッセイ法であった.この方法なら,フジツボの幼生が手に入らなくても良いし,従来よりもはるかに短い 15 分ほどで判定できる.
アッセイ法さえ確立したら,あとは調べていくだけである.その中で,何十種類もの成分を分離していったが, HM 先生はタンパク質が怪しいと述べた.僕は,もっと単純に赤色の濃い画分の方が忌避活性が高い気がした.しかし,赤色の元であるカロチノイドに忌避活性があることはこれまで報告されていなかった.その頃に読んだ本のなかでバイブルに近い位置づけにあったものは,
『化学総説 25 海洋天然物化学』日本化学会編,学会出版センター(1979)
であった.
この本には一通りの海洋天然物の分子構造が示されていた.さらに,この本の冒頭で全体の概論を書かれていたのが,今年のノーベル化学賞の下村先生のボスである平田義正教授であった.
ともかく,カロチノイドでも様々な分子が載っており,眺めているだけでも楽しくなった.本にはきれいな分子構造が載っているが,それを特定するためには,様々な機器で分析を行わなければならない.ただ,これに関して東工大には、一流の装置が揃っていた.このために必要な NMR,FT-IR,などの装置の勉強を次ぎにはじめた.
そうこうしている間に,ある国立の研究所のチームが南洋で何百種類の生物を採取して,そこから忌避活性の高いものを選び出すという研究の結果を示した.そのなかで,一番高い活性を示したものが Halocynthiaxanthine というカロチノイドだった.「ホヤの赤」という意味である.
研究による敗北の悔しさを噛み締めたのは,それがはじめてだった.大学入試に落ちたときよりもショックであった.
しかし,研究についていろいろなことを学んだ.研究テーマの設定のしかた.実験計画の組み立て方.得られたデータの解釈からストーリー全体に位置づけることまで.助手の CM 先生には手取り足取り実験について教えていただいた.もう一人の助手の MM 先生をはじめとするほかの研究室の皆様にも,最初は教授の連れてきた落第生のことを嫌だったとは思うのだが,親切に教えてくださった.イタリアから来た研究者の一家と横浜まで阪神戦を見に行く,といった研究室の様々な行事にも誘っていただいた.研究室を訪問された,細胞接着物質を発見してノーベル賞候補である TM 先生についても,その研究が面白いからと質問をしている間に,実は実家の同じ通りの出身だということを知って驚いたりした.研究は,人間がやるんだということを理解した.
そもそも,HM 先生の専門は発生学であり,付着忌避活性は主流のテーマからは遠い.しかし,先生がすぐに課題を与えてくれたということは,常日頃からあらゆることを研究テーマにしてやろうと興味の目を張り巡らしているということだと思った.
実際,HM 先生は動物学会などにおいて出会った様々な研究者に大事な着想を惜しげもなく与えることで有名であり,ファンが大変多い人であった.さらに,その後に出会った分子生物学者の誰よりも, HM 先生は博物学者的であった.すなわち,学問が生物学や地学などに細分化される前の,ダーウィンや南方熊楠などの往年の大博物学者が活躍していた時代の研究者のように,世界の不思議について何にでも興味を持っておられた.
大学の生物系の教員には,こういう博物学者的な人が一定数必要である.しかし,どうも減少しているように思えるのだ.無駄な勉強を無駄と恐れずに重ねていって,森羅万象に対して臨機応変に対応できる人物というか.大学には,ある一定の「無駄」のバッファーがなければ,学生にしても臨機応変に対応できなくなってしまう.
僕が現在研究しているトライボロジーという分野は,物質の界面における摩擦や摩耗の起源について探求する理学的側面と,潤滑油や添加剤,しゅう動材料,コーティングなどを開発する工学的側面とを持つが,大学には正式に学べるコースがない.東工大にも,化学工学の MM 先生や機械工学の NT 先生という有名な教授がおられるが,研究室に配属されるまでいわゆるトライボロジーは学べない.しかも,そこで学べるのは,誤解をおそれずにいえば,既存の確立した潤滑油添加剤の化学や流体潤滑理論の延長であり,僕がスーパーコンピュータを用いて行っているような統計力学や分子理論を駆使した研究については,まだ手をつけはじめた段階といえるので,研究者個人が手探りで行うしかない.
しかし,ホヤの海洋天然物化学の研究を通して必死に学んだ有機分析の知識のお陰で,卑近な例でいえば,理論屋であるにも関わらず表面分析の実験的な論文の査読を行うことができるし,もっと全般的には「界面」の問題について既存の学問から離れた着眼点から考え始めるきっかけとなったともいえる.
科学は,何が役に立つかわからない.だからこそ,大学には無駄が必要だと思う.
産業界に身をおくと,理学部出身で活躍している人が意外に多いことに気づく.それも,生物系だったり理論物理だったり,およそ機械工学や電気工学などとは関係のない分野だったりする.日本が科学技術において世界に伍していけるのは,そういう無駄な勉強をした人々が産業界で活躍しているからだということを,是非心の隅にとどめておいていただきたい.
そういう人材を輩出するためには,繰り返すが大学では無駄な研究が必要であり,理学部にも存在意義があるといえる.

■ 大学の研究者が言わないような類の科学の話 2
~今年のノーベル物理学賞と日本の基礎研究~

今年のノーベル物理学賞受賞者は南部,小林,益川の 3 氏と決まって最初の興奮が日本におとずれた.この 3 氏とも,素粒子物理学では避けては通れない理論を提唱した人物であり,ノーベル賞受賞は当然ということらしい.素粒子物理学そのものはあまり良く理解していないので,学術的にこれ以上突っ込んだ話はできないが,益川氏の受賞直後のインタビューなどを見ていて、わずかに心にひっかかった点から,今日の話を書きたい.
益川氏は,受賞がうれしいかと質問されて,自分が予測した 6 種類の素粒子のうち最後のものが数年前に実験的に確認されたので,それを越える喜びはない.ノーベル賞受賞というのは社会的なお祭りだ,と答えられた.
ノーベル賞は社会的なお祭り,これほど簡潔にノーベル賞の本質を言い表した言い方も珍しい.
確かにそうだ.これは祭りなのだが,祭りであるからこそ,祭りのご神体である受賞者本人には関係ないかもしれないが,周囲の人間にとっては重要である.先ほど,素粒子物理学は判らないと書いたが,素粒子物理学の理論の研究者というのは元そうだった人も含めて何人も知っている.
少し話が個人的なものに飛ぶが,僕はマボヤについての最初の研究を HM 研究室でさせていただいたあと,分子生物学に飽きた.
なぜかというと,ものすごく簡単にいうと,分子生物学とは生命現象を司る分子をひたすら特定していく学問だからである.遺伝子は核酸である,ある酵素はこういうアミノ酸配列のたんぱく質である,この酵素を活性化する補酵素はこういう分子である,といった感じに「特定」していく.
ある生命現象を司る分子を特定できれば,たとえば薬を開発することはできる.特定の化合物が不足していたら,それを補えばいい,という単純な話だ.
しかし,これは生命という物語において登場人物を特定する作業にすぎないのではないか,と思ったのだ.ドラえもんという物語があったとして,このお話はドラえもん,のび太,ジャイアン,スネ夫,しずかちゃん,から主に構成されますよ,と告げられたとする.のび太はかくかくしかじかの性格で,ドラえもんはそののび太を助けるために未来から派遣された存在です,といった感じに多少詳細に告げられたとする.これではドラえもんの面白さの何割もわかったことにはならないのは明白だ.登場人物を特定しなければ物語ははじまらないが,物語そのものではない.少なくとも個人的にはそう思ったのだった.
のび太はこういうことをジャイアンにされて,ドラえもんにこういうふうに泣きついて,といったことを,見たい.これは,生物物理学の話だ. Ca2+イオン濃度がこのように振動するから粘菌変形体糸が自励振動を行い,粘菌全体が餌の方に移動する,といったことを TY 先生のもとで研究したのが卒業研究 (本年度イグノーベル賞を受賞された北大の中垣俊之氏と同じ分野である).
しかし,粘菌変形体糸一つとってみても有機化学を学んだ身からすると,それを一本の糸と近似するにはどうも複雑すぎる.もう少し簡単な系はないか,ということで一本の DNA 分子の周囲のイオンの雲 (イオン雰囲気) の動きを KK 先生のもとで研究したのが東大の大学院時代であった.
あとから考えると,マボヤの研究をさせてもらった HM 先生の研究室がもっとも有力な研究室であった.先生は学会長など重要な役職を歴任されているし, OB も立派な研究者になった方が多い.何より資金もあった.
卒業研究を行った TY 先生の研究室は,お金がなかった.これは,先生個人の責任というより生物物理では良くあることである.しかし,たとえば顕微鏡像の動画をとるにしても,我々のように 1 秒30コマの通常のビデオで解析するのと, 1 秒に何千何万コマも撮れる装置とでは,研究内容も異なってくる.試薬を入れるエッペンドルフチューブ一つをとっても, HM 研では当然使い捨てであったが,TY 研では洗って再使用するのを見て驚いた.こういう経済状況の割には,TY 研究室の研究室の先輩方は良く工夫をして研究し,現在に至るまで活躍されていると思う.ともかく,同じ大学の同じ学科でも「経済格差」は存在し,これは東大駒場の大学院にいっても同じであった.
そこで,自分が独立するときのことを考えて,理論屋に転職しようと思った.学部 4 年生の時点では計算機シミュレーションはさっぱり知らなかったが,計算機シミュレーションを主体とする研究室を受験した.理論屋ならば,どんな僻地の貧乏な学校の教員になっても単身で研究を続行できる.
しかし落ち着いて考えたらわかるように,生体分子の理論屋になる,ということは,理学部の物理学科などを出た理論物理の本道の人々と仕事がバッティングするということだ.しかも悪いことに,理論物理の研究業界の最大の特徴は,博士号をとっても研究職になかなか就けないということなのだ.たとえば,10 人が博士号をとったとしても,パーマネントの研究者にすぐ就けるのは 1 人いるかいないかであり,何度かポスドクを経験したあとでも 2-3 人の人しか研究者にはなれない.この惨状はもともとの出身である理学部の生物系の出身者にいおいても同じであるから,不思議に思わなかった.
しかし,トライボロジーのような機械工学の場合は違う. 10 人が博士号をとったら,9 人はすぐにパーマネントの研究職につける.生物や物理の諸君,驚くなかれ.これは調べたらすぐにわかる.もちろん,パーマネントの研究職の中には生物や物理の諸君が嫌う企業研究者も含まれているが,ともあれ,自分が博士課程で行った研究の続きを生涯継続できるのだ.
話を僕のキャリアに戻すと,結局,生物の物理学で学位をとるという最悪の選択をした者が選ぶことができた進路は,ポスドクになるか,研究をやめるか,ということだった.
僕はポスドクになって人生を消耗するのが嫌だった.この制度は間違っていると思う.中央官庁で常勤職員として働いている妻もいるので,ポスドクとして渡米することは考えなかった.そこで,どんな僻地の小さな学校でも構わないからとパーマネントの教員の公募に応募しつづけたが,結局どこにも通らなかった.中央の大学で大型計算機を駆使して役に立たなさそうな基礎研究をしたコネのない若者は、小さな学校では嫌われる.これは,就職活動当初は冗談だろうと思っていたが,学位取得後何年にもわたって採用活動などを通じて実際に論文数が 1 報だけであっても高等専門学校の教員に採用されるという地方国立大学出身者の事例を複数目撃すると,そう思われてならない.
小さな学校では何よりも協調性を期待される.自分でいうのも何だが,自分では協調性はあると思う.周囲が実験屋ばかりの研究室で孤立しがちな理論屋として楽しく仕事をさせていただいているし,学会の研究会の幹事などを通じて同業者の方々にも楽しんでいただけていると思う.仕事場でもその周囲でも,若い人々の進路や悩みの相談窓口にもなっている.当時の願いとしては,小さな学校で,水泳部の顧問をやりたかった.しかし,僕の公募に際しての申請書類はどうも履歴書そのものが偉そうに見えるのではないかと思うのだ.東大や東工大の教員になるには実力が不足していて,小さな学校では拒否される.ともかく,もう一つのやりたかったことである出版業に携わることになった.
やっと,「素粒子物理学の理論の研究者というのは何人も知っている.」という話に戻ることができた.理工系専門書籍の出版社に入社したのだが,ここには理論物理や数学が専門だった人が大変多い.自分の所属した第二編集部 (といっても部員は 10 名にも満たないが) の部長は,旧帝大の理学部物理学科で素粒子物理学の理論で博士課程まで進まれた人だ.他にも,その隣の部長も理論物理だったし,ヒラ社員にもいた.もちろん,大学院から今に至るまで理論物理 (正確には理論物理化学) に片足を置いているから,理論物理のポスドクや教員の方々には散々お世話になっており,ポスドクになった後,消息を絶ったという人も沢山みてきた.
益川氏の言う「ノーベル賞は社会的なお祭り」という言葉を聞いて最初に実感したのは,益川氏のような一人の素粒子理論のヒーローを生み出した背後につみあがる無数の研究者の屍の姿であった.ノーベル賞は,彼らを慰霊するお祭りでもあるのではないか.オリンピックでも何でも,勝者に対して「皆様のおかげで勝てました」と言わせるマスコミの姿勢が批判されることがある.
たしかに,この言い方が定着するのは変だ.しかし,本人が慰霊の言葉を言わなくてもいいかもしれないが,この祭りをきっかけに,誰かが指摘しなければならないことだと思う.
このことを現在の職場である研究所で話すと,「でも,この受賞が理工系離れを食い止める一つのきっかけになれば,とも先生は語っておられたよ」と言われる.たしかにインタビューでその言葉も聞いた.
この言葉尻に噛み付くわけではないが,産業界に身をおく者として,この点については少々補足したい.
物理や生物にどっぷりと浸かっていると忘れがちになるが,国がスポンサーになって基礎研究を行うかどうかは,国の文化的土壌と経済力に左右される.極端なことをいえば,科学技術に軸足を置いた加工貿易国であっても,応用研究だけで国の経済を成立させることは可能である.実際に,韓国と台湾はそういう国である.日本の人口は 1 億 3 千万人であるが, GDP の 3 割は直接製造業によっており,残りの第 3 次産業にしても電化製品や自動車などの貿易黒字を生み出す製造業をサポートするために存在しているといっても大きく間違ってはいない.人口は日本よりは少ない韓国や台湾の経済も,ほぼ同様の構造である.理系ノーベル賞受賞者の数で基礎力を測るのは異論があるかもしれないが,韓国はまだおらず,台湾は一人である.これらの国における基礎研究の実力については,トムソン社の論文引用数のデータなどを見ても判るだろう.
日本は,韓国と台湾のような戦略をとっても構わないのに,好き好んで基礎科学をやっている.しかも,これは第一回ノーベル賞に北里柴三郎が幻の受賞者となったことからもわかるように,明治時代以来の伝統だ.日本がそういう特殊な国だということを指摘したおきたい.欧米だってそうだろう,と反論されるかもしれないが,欧米は科学発祥の地である.我々が付き合う必然性はないともいえる.
この日本における基礎科学の特異性を踏まえてこそ,秦先生のページ(闇に言い置く私語の刻)における、
☆ ちょっと一休み 2008年06月05日20:10  司
という「司」さんの意見が納得できると思う.
注意深く述べておくが,基礎科学は人類の科学文明的な発展にとっては当然ながら必須である.しかし,それはアメリカに任せておけばよいという極論だって可能である.ただ乗りしているわけではない.アメリカには第二次大戦前後にユダヤ人をはじめとする欧州全体からの大量の頭脳流入があり,共産圏の崩壊後に東欧からの大量の頭脳流入があって,今のアメリカの基礎科学がある.ここ 20 年ほどは中国からの流入も激しい.アメリカは世界の頭脳を集めているのだから,その成果を世界に還元するのは理にかなっている.
それ以外の応用科学だけの後進国は,「国家国民のための研究」を文字通り行えば良いのである.
司さんの意見に対する、
☆ 研究者と研究と国民と 2008年06月19日08:26 ハーバード 雄
「雄」さんの意見も,基礎科学研究の現場にいる人としてはもっともな主張だと思う.研究者にとっては,実験し論文を書くことまでが本当の仕事なのであって,広報活動をするのは別のプロに任せるべき仕事であるが自分達も努力していた,という指摘はもっともだと思うし,ポスドク問題についても正しく書かれている.
ただ,揚げ足をとるようだが,数点指摘しておきたいことがある.
> 「自分の研究」と「国家国民のための研究」と、はたして区別がつくだろうか? という点。
これは,内心がどうあろうが、国立研究教育機関の従業員は「国家国民のための研究」をやっていると,看板だけは絶対に掲げておくべきだと思う.たとえば産総研の常勤研究者を一人雇用するのには設備投資も含めて大体 5000 万円のコストをかけているという資料をみたことがあるが,こうした基礎研究を行う研究機関に出資しているのは間違いなく「国民」なのである.科学的発見の伝承経路についてサッカーの例を挙げておられた.これは,その通りと思う.ただ,たとえば国が特定のスポーツに出資する理由はオリンピックの種目であるからであり,たとえば多分最近はオリンピックの種目ではないカバディの天才がいたとしても,国からの支援が得られないのは必然だと思う.
要するに,誰がパトロンであるか,というパトロン意識を研究者が持つのは給与所得者として最低限の常識だと思う.自分が国から給料を貰えるのは,海洋天然物化学でも素粒子物理学でも結構だが,何か特定の「国民が期待する科学分野」の研究を行っている人だからなのだ.
このパトロン意識という問題をあえて指摘した上で,「国民が期待する科学分野」の選定方法について考えたい.
「雄」さんは、
> しかし、その価値判断は、傲慢とも取れるだろうが、どうか研究者にお任せいただきたい。
と書かれているが,僕は研究者だけに任せるのには反対である.
基本的に,研究の価値は,研究業績の発表の場であるジャーナルの格によって,科学者同士の間で判断が下される.つまらないと同業者に判断された成果は,ジャーナルにアクセプトされない.
したがって,ある研究グループの外部評価基準に特定のジャーナルへの掲載数を用いるのは,国民というパトロン側としては自然であり,これは本来研究者同士の価値観に基づいているわけだから,一義的には「研究者にお任せ」しているといえる.
ただ,これだけでは足りないと思う.たとえば,素粒子物理のジャーナルとして有名なものに Physical Review C があるが,この Phys. Rev. C に掲載されるクオリティだからといって,無制限の数の研究者に素粒子物理の研究に国は出資できない.素粒子物理の研究の必要性そのものを国が,ひいては国民が理解している必要がある.繰り返すが,日本であえて素粒子物理の研究をする必然性が必ずしもないからだ.
日本は,湯川からはじまる素粒子物理の伝統があり,日本での研究は大変な貢献をしていると聞く.しかし,その素晴らしさを嫌というほど国民に説明しなければいけない.
これは,研究者個人もさることながら,研究機関の事務系,さらには中央官庁,マスコミ,啓蒙機関が必死になって取り組むべき問題である.僕が学位取得後にバスの運転手にならずに出版社の編集者になったのは,この視点があったからだ.短い期間だったが,物理学辞典の編集にも携わった.物理学を面白がる人が増えたら,出版社も食べていけるし,常勤研究者を一人でも多く雇えるようになる.
日本には素粒子物理を面白がる伝統がある.ブルーバックスの南部氏の著作を 2 万部増し刷りしたと聞く. 2 万部というのは,たとえば初版,第 2 刷 … と 20 年間で達成したとしても,出版社にとっては神のごとき偉業だ.それを,たった一週間で成し遂げたのである.それだけ「祭り」の参加者がいるということである.パトロンへの啓蒙とは,こうした全体の話だと思うのだ.だから,上で素粒子理論の博士は 10 人中 1 人程度しか常勤研究職につけないという話を書いたが,そうならなかった人々は,官庁,マスコミ,そのほかの啓蒙機関に活路を求めるべきである.このようなことを可能にするためにも,たとえば官庁の採用年齢制限を引き上げる必要がある.
あとは,研究者の人生設計のコーディネーターを用意する必要がある.
若手研究者には,不思議なくらい自分の人生設計を考えることに絶望している人が多い.自分にはどうにもならない力が作用しているように感じるからだろうか.
あとは,研究者はスポーツ選手であるかのような傲慢な思想を持っている人が多い.とくに,パーマネントの職を得た大学理学系の教員にはそういう人が多い.こういう人々からすると,研究とは修行であり,スポーツ選手と同様に勝つか負けるかの厳しい戦いであり,負けたら何も残らない,と考えている.もしスポーツ選手のようであったら,成功したら何億円も報酬がもらえて当然ではないか.
基礎科学は儲かる商売ではない.儲かるのは技術 (発明考案) であって,科学そのものではない.そして,論文を書く人以外に,教育を行う人,研究を技術的にサポートする人,研究環境の整備という側面からサポートする人,など様々な役割が必要なのであるから,そうした立場に研究経験者がなるべきなのだ.僕の兄はボストンの MGH に留学していたが,そのときの大家さんは学位を持った編集者だった.日本には学位を持った書籍編集者は大変少ない.要するに,科学の周辺産業に携わる人々の学歴が低学歴だ.理学系は人材が豊富なのだから,プレーヤーにならなかった人々に用意できる職種は多いと思う.こうしたことを,自分はスポーツの勝者だと思っている大学教員が弟子に指導するのは,困難であろう.そこで,コーディネーター的な仕事が重要となる.
冒頭の益川氏の「ノーベル賞は社会的なお祭り」という話に戻ると,この祭りを通して,素粒子をはじめとする日本の基礎科学の現状を説明して,国民に理解を得られるような活動が行われるきっかけになってもらったらと思う.
素粒子物理は日本において重要なお家芸である.今後とも発展させなければならない.しかし,産業に直接役に立つものではない.だから,学位取得者全員に研究職を用意することは出来ないにしろ,少しでも研究経験が役に立つ職を用意するようにすべきである.
この話の 1 にも書いたように,僕自身の現在の研究に理学系で学んだ一見無駄な学問が役に立っている.では,僕自身の現在の研究が国民の役に立っているかというと自信を持って立っているとは言えないが,少なくとも役に立つ方角に向いている,ということはいえる.こんなものは一例にすぎないが,基礎科学の周辺業界を活性化させる必要があるといいたかった.

■ 大学の研究者が言わないような類の科学の話 3
~企業で基礎研究を行うということ~

現在は出版社をやめて,企業研究所で研究者として生活している.このきっかけは些細なもので,ある日,化学物理の若手研究者のメーリングリストを見ていたら,「トライボロジーの分子シミュレーションを用いた研究を行う人を募集」という記事を見つけたからだ.メールの差出人は,誰でも知っている有名メーカーのグループ会社の基礎研究所であった.そのメールを見た時点では,トライボロジーなる学問が存在すること自体を知らなかった.しかし,統計力学に詳しい人を求めており,トライボロジーの経験を問わない,ということであったので興味をひいた.分子シミュレーションについては大学院で用いた研究手法であり、僕は,一応得意であった.
早速,グーグルで「トライボロジー」と検索すると,「日本トライボロジー学会」なるものが存在することを知った.トライボロジーとは摩擦・摩耗・潤滑についての科学と技術であり,「τριβω (こする)」というギリシア語を語源とし, 1966 年に作られた言葉だ.日本トライボロジー学会は古くは「日本潤滑学会」と称していた.これなら少々わかった気になる.
ともかく,学会がある.しかも,ある年度の学会誌の特集号で「トライボロジーと分子シミュレーション」の特集号があった.これは早速読まねばならない,ということで,採用担当者にメールを送った.最初の質問として「この公募の内定者はいますか?」というものを送った.研究者の公募には,コネで内定者が決まっているのに形だけ公募を行うというものが多すぎる.そうではない,ということだったので,名古屋までいって面接を受けることにした.
購入した学会誌の解説記事を読みながら研究所を訪問すると,現在の上司にあたる人が迎えてくれた.早速,「今は某大学でこういう研究をしている人たちと共同研究をしている」といって,分子動力学の画像を見せてくれた.まさに,数時間前に新幹線の中で読んでいた学会誌の解説記事のグループだった.「知ってますか?」ときかれて「知っています」と答えた.嘘ではなかったが,言うべきことを全て言ったわけではない.それからは,話がトントン拍子に進んで,内定をもらえた.
企業での研究の詳細は書けない.大変残念なことだ.大学で研究をしている人たちのブログなどを読んでいて,もっとも羨ましく思うのは,この部分である.我々の研究グループは研究資金もそれなりに潤沢であり,研究テーマについても比較的自由である.とくに文科省のプロジェクトを通じて行っている研究については全くの基礎研究であり知的好奇心を満足させる.研究テーマの設定がどれくらい自由かというと,文科省のプロジェクトの申請書類を通るくらいの自由度だ.つまり,大学等の研究者と同じレベルの足かせ,パトロンに対する説明責任を負っている.現在もっと「摩擦とは何か」という物質論の根源に迫るさらに基礎的な研究も開始しており,既に所外発表をしているのでここに書けるわけだが,ここまで萌芽的な研究には国家プロジェクトの予算すら当初は下りないだろう.
逆にいうと,現場の裁量で研究テーマを管理している.だから,大学にいるときと同じように,新しい知見が刺激するし,海外を含めた研究機関から次々と訪問者があったり,逆に自分が海外にいったりと,研究者同士で交流しているので,そういう出会いについても書きたいことが山ほどある.しかし,「発見したこと」でもって商売をしている我々としては,ブログにそうしたことを書くことは,発見しかけたものについて書くことであり,企業としてはなかなか許容できないことである.
しかし,これだけは言えるということは,我々は運が良いこともあって,基礎科学のトップジャーナルを狙えるような研究を行う環境下にある.実際に,現在の研究所長は Science 誌のファーストを有している金属の科学の常識をかえた研究者でもある. 1000 人ほどの従業員の中で研究者が 7 割ほどで,学位取得者が半数弱であるが,全員がこのようなもろな基礎研究を行っているわけではない.
そういう企業で研究をさせてもらっている身として,「雄」さんの、
> 基礎研究を民間の研究機関で行うことは可能だろうか?これまでの歴史からいっ
> て、ほぼ不可能であると思われる。実際、そのような趣旨から作られた三菱化
> 学生命研究所は、2010年3月に閉鎖されることが最近決まった。
という書き方には,若干の抵抗を感じる.
アカデミックの立場の人は,研究所が閉鎖されることをもって「基礎研究はできない」という根拠にされがちである.もっと大きな例では,最近勢いを失ったアメリカのベル研究所の例がある.しかし,本来の判断基準にされるべきは,研究所がアクティブであった期間の実績である.組織が改変されるのは別に企業に限ったことではなく,あらゆる組織には寿命があって,国立の組織は企業に比べると寿命が長いというだけのことではないか.三菱の L 研は,東工大の長津田キャンパスから近くにあって有名であったので,良く話題にのぼる.「雄」さんのように、「だから企業では研究ができない」という論拠にされた例も他の人から聞いたこともある.そう言われたときに,正面きって「いや,僕の研究は基礎研究です. Nature に載ったこの論文をどうぞ」と言えたら簡単なのだが,そんな簡単に成果は出ない.
ただ,これは企業研究否定のテンプレートにはならないことをご理解いただきたい.
とくに,僕の大学院時代の分野である高分子科学については,高分子科学というジャンルそのものを作ったノーベル物理学賞受賞者の Flory がデュポンなどの企業研究所で主要な研究を行っていることから,企業に対するこうした偏見が少ない.あるいは,分子シミュレーション屋としては,液晶などに使える粗視化分子間相互作用の研究者である Gay-Berene や,シリコンなどの共有結合性の半導体を計算するときの最もポピュラーな手法を提案した Tersoff など, IBM の研究者たちの恩恵抜きには仕事が進まない.
こうしてみると,僕の挙げた名前の多くは物理・化学としては物性論であり,生物学や素粒子物理などは確かに企業での研究は難しい場合が多いだろう.したがって,「企業で基礎研究をしにくい」のは生物学や素粒子物理についてはその通りだと思う.さらに,アメリカではともかく,日本ではバイオテクノロジーは未だに産業ではない.河合塾の研究員が,「子供達の間では最近は理工系とくにバイオ系の人気が高まっている」と述べていて,なんと愚かなことと思った.バイオで食えるのは,医師や薬剤師などの免許関係の職業である.これは,テレビ局が許認可事業であり行政に守られているから,テレビ局員の給料が高いのと全く同じ構図である.このことと,博士号以外に何の資格も得られない東工大の生命理工学研究科のバイオ研究とは全くの別物だと思った方がいいくらいだ.
日本が戦後長らく得意としてきているのは,機械と電気のいわゆる「機電系」である.これらには,間違いなくバックとなる産業がある.博士号を取得した 10 人のうち 9 人は研究職につける分野だ.
一方で,生物工学というものは,化学,製薬,化粧品,食品の一部には寄与しているが,機電系に比べると圧倒的に市場規模は小さい.日本の製薬会社は業界再編が進んでいるが,その主たる理由は日本の製薬メーカーは全部が合体しても欧米のトップメーカーに勝てないからだ.これは,偏見抜きの事実である.
問題は,そのことを学生達は知っているかということだ.良く,「理工離れ」といわれる.これは,機電系を中心とした工学部の人気低下である.あるいは,それを支える高等専門学校などの人気の相対的な低下とみてもいいだろう.産業の空洞化は確かに進んでいるが,これらは基本的に機電系と化学工学といった「正常な理系」の問題である.
一方で,「ポスドク問題」があるが,これは主として理論物理とバイオ系など「異常な理系」の問題である.理論物理にもバイオにも,後背地たる産業がないのだから,これは当たり前のことなのだ.この分野間のねじれについては,あまり指摘がないのが不思議である.この区別は,研究者のコスト意識 (パトロン意識) とともに是非持つべき視点だと思う.
「正常な理系」においては,企業の研究開発者が浮かばれない,ということは実際のところあまりない.給料は悪くない.いわゆる文系よりも大企業に就職しやすい.大阪大学の助教授が,毎日新聞社の調査を用いて「阪大出身者について理系よりも文系の方が 5000 万円生涯所得が多い」という文章を商業誌に書いていたが,「正常な理系」に限っていえば格差が出る根拠がないと思う.実際に,東工大の同期で博士課程に進学した者を除けば生活に困るような人はほとんど居ないし,東工大や東大以外の大学では吹き荒れていた就職氷河期の嵐も存在しなかった.生命理工学部ですら,修士で切り上げていれば大丈夫だった.
やはり,問題は「異常な理系」の側だと思われる.
ただし,サブプライムローン問題の起源のように,「正常な理系はお買い得」といって「異常な理系」と区別して切り離して「売る」わけにはいかない.国家として日本の力の根源は,科学技術力,もっといえば製品レベルの応用科学的な産物であるが,その応用科学が強い理由は,「自前の基礎科学」が存在するからだ.「自前の基礎科学」と「異常な理系」とは,ほぼ重なる.だから,「異常な理系」は,国家が保護しなければならない.
上の基礎科学に,「自前の」とつけたが,これは日本の産業文化の特色と強く関係している.機械,電気といった分野に関わらず,日本のメーカーの研究者は日本人が大半である.これは,欧米の標準からみたら常識ではなくてある意味異常なことである.欧米の学会に現れる研究者の国籍は,実に様々である.とくに,アメリカについては,いかにも WASP な人というのは少数派なのではないかと思うほどである.研究室の PI (主席研究者) に相当する人々の白人率は高いが,それ以外の実働部隊については世界選抜チームといった感じである.ヨーロッパだけでなく,中国,インド,中近東など実に多様な背景の人々と出会える.これは,大学,国立研究機関,民間企業の区別なく,そうである.アメリカを代表する企業のアメリカの研究所を訪問しても,出てくる人々はいわゆるアメリカ人ばかりではない.
ひとくちに中国系といっても,何代も前からの移民の子孫,台湾や香港系の人,それから中華人民共和国の人,顔つきこそ似ているが,会話をしていても意識がまるで違う.いろんな人がいて,しかも元気だ.
翻って,日本の企業はといえば,21 世紀になるというのに日本人ばかりで研究をしている.アメリカの西海岸にいくと特に強く感じるが,日本人の良くいえば上品,悪くいえば引っ込み思案な性格で,アグレッシブな中国系の人々に良く対抗できるものだと思う.ともかく,日本人は基本的には地味に自分達の内輪でものづくりを行うことを得意としているようなのだ.要するに人材についても「自前」なのだ.そうであるからこそ,基礎研究も「自前」でなければ,外国に伍していけないと思う.
卑近な例でいえば,上に物理学辞典を編集したことがあると書いたが,物理学辞典の著者は錚々たる「異常な理系」側の先生方だ.しかし,英語でない言語で,このレベルの物理学辞典を編纂できる国というのは大変限られている.多分,フランス語,ドイツ語,ロシア語だけであろう.
日本の技術者は日本語で考える.これを低レベルというなかれ.母国語でものを考えるということは,デカルト以来の実学たる自然科学の本質の一つであるのだ.
僕が就職して一番悩んだことは,日本語論文の投稿を上司に勧められたことだった.僕が専門としていた高分子の理論物理化学の分野では, J. Phys. Chem. B や,あるいは J. Chem. Phys. といったジャーナルが日常的に投稿する先の雑誌であり,せっかくの研究成果を日本語論文誌に投稿するということは,ある意味屈辱的なことだった.しかし,日本の学会誌に投稿した論文によって学会賞を得られたら,名誉になる.社内で今の基礎研究の業務を続けるには,都合の良い話であった.
ちなみに,トライボロジーを専門とする国の研究機関の研究室でさえ分子シミュレーションに軸足を置いた研究をすることは気づかなかった.それを,僕のボスは「今なら業界をリードできる」ということで,僕を採用して研究をはじめさせてくれたのだった.
会社に入って研究成果がではじめ,そろそろ論文にまとめようと思っていた頃,ふと科学者としての原点に立ち返って、原典を読もうと思い,デカルトの「方法序説」を読んだ
.そこには,意外なことが書いてあった.
まず,デカルトが「方法序説」を書いたのは,哲学者のためではなく技術者のためだったということだ.デカルトといったら哲学だし,実際に手にした岩波文庫も哲学者が訳したものだが,実はこの本には「私は哲学のことは良くわからない」と三行ほど哲学について言及しているだけである.この「序説」自体は,のちに続く膨大な分量の光学や気象学といった実学を説明するための序論なのである.さらに,デカルトはフランス語でこの本を書いた.その理由は,実際の観測を行う現場の技術者は、当時の学術上の公用語であるラテン語を読むのに苦労するだろうから,ということであった.
これは母国語である日本語で,科学技術について書くことの意味を知った瞬間であった.もちろん弊害もある.日本でもっとも力を入れている科学技術の分野は,理論物理や生物学ではなくて,機械工学や電気電子技術である.しかし,トムソン社のランキングなどを見ても,日本の機電系の科学技術力は評価の対象外となっている.なぜかというと,日本では機械工学や電気工学については国内の和文雑誌が主要な研究業績の発表の場となっており,国際的な還元ができていないのだ.
最近,このことが問題となって,機械系の学会でも次々と英文雑誌が創刊されている.自然の流れだとは思うが,企業研究所の中で活躍している科学者は実は有名大学の大学院出身者ばかりではないこと,たとえば高専や短大を出た人たちであっても革新的な技術を開発して基礎研究に貢献しているという事実を知る者として,複雑な心境である.
次に,企業研究者としての僕のささやかな試みについて,書いておきたい.
秦先生は,日本の問題の多くは「世襲」であると述べておられる.僕もそのとおりだと思う.大学院の頃に自分の分野であった高分子科学については,東大,東工大,農工大などの有力な教授のいる研究室での研究ばかりがクローズアップされていた.同じ東大であっても,僕のいた KK 先生の研究室は業界の主流ではなかったため,国内の研究会などで声をかけられて発表する機会も,なかなかなかった.そのため,道場破りのようなつもりで,他の研究室の人たちと交流させていただいた.これは大変良い勉強となった.
しかし,悲しい思いをすることもある.博士課程を無事に修了して,とある国立研究所の「公募」の面接にいったことがある.その研究所に早くついたため,食堂で一人でコーヒーを飲んでいたら,公募をかけていた当該研究室の研究者とリクルートスーツを着込んだ若者とが談笑して歩いていくのをみた.面接前から採用対象者が決まっていたのであった.
自分が新人研究者の採用担当となったときに,一度やりたかったことは,この「研究者の世襲」を打破するということだった.トライボロジーという学問において,僕自身はソフトマターの研究者であった.ソフトマターとは,コロイドやゲルといった柔らかい物質である.固体界面の物理学については,もっと得意な人がいるであろう.ということで,僕自身がひっかかった物理や化学の若手研究者のメーリングリストに,応募の文面を載せた.固体物理の理論は先に述べた「異常な理系」の一分野であるので,有能な人材が必ずひっかかると思っていた.
合計 10 名以上の人々が来ていただいたが,中でも目をひいたのは,現在の我々の研究室の最若手の KS 君である.彼は,高校からある国立大学に飛び入学するという制度の一期生であった.多くの仲間が東大や MIT などの大学院に進む中,愚直にも入学した大学の博士課程に進んだ.しかし,研究テーマとしては理論計算の研究室に飽き足らず,理化学研究所の実験屋の研究室にもぐりこんだ.こんな研究人生があるとは知らなかった,完全なる「公募」であった.
公募で来てもらった彼にとっても,僕にとっても,我々のグループで研究を行うということは,専門分野を大きくかえることになる.そこで研究者にとって重要となってくるのは,「ストーリーの連続性」だと思う.研究の出来不出来はストーリーの出来不出来であると,単体の研究ごとに言われているが,研究者の人生においても,ストーリーは重要である.僕にとってのストーリーとは,大学院から現在にいたるまで一貫して「界面における分子集団のダイナミクス」を追求しているということである.
大学院の頃は,溶液中の高分子電解質という巨大なイオン (DNA イオン) の周囲の低分子イオンが階層構造を形成するというものだった.電池などでみられる電気二重層と,ほぼ同じものである.現在は,固体表面の油のようなやわらかい物質の挙動を研究している.やわらかい物質,すなわちソフトマターの界面というものは,生命が誕生した物質的な現場そのものでもある.「外」と「内」とにわかれたときに,生命と非生命からなる外界,という区分ができたのであり,これらの系は統計熱力学的には, van der Waals,水素結合,長距離クーロンという 3 つの力に支配された分子集団の系だとみることができる.油,水,塩は,それぞれの支配力を象徴する物質である.これらの系について,大型計算機を用いて解析を行っている.したがって,僕の内なるテーマは「界面における分子集団のダイナミクス」に加えて「ソフトマター」「計算機シミュレーション」というものが加わる.
「DNA」と「潤滑油」というと,一見全く別のものに思われるが,このように内なるテーマ,すなわち研究者としてのストーリーの連続性を確保すると,安心して新しい領域に切り込める.
現在の仕事内容からみた東工大の教育の特色についても,何点か付け加えておきたい.
東工大の教育のユニークな点は,バイオ系であっても物理学や化学といった基礎科目を大事にすることである.東大の場合は,バイオ系である理科2類に入学するためには物理,化学,生物,地学の 4 科目から 2 科目を受験したら良い.したがって,物理学を避けて大学に入ることが可能である.一方で,東工大は物理,化学が必須である.これは大変良いことだと思う.現在であっても,自然科学の基盤になっているのは物理学であるためだ.さらに,生命理工学部では,半分が理学部の生物系や生物物理系,残り半分は化学工学系の教員でカリキュラムを組んでいる.化学工学には応用物理的な観点が随所で必要となっている.たとえば,比熱,熱力学の応用という観点から「ヒヨコがポカポカ暖かいのは何故か」という具体的な問題を熱力学的に解かされたりした.あるいは,化学工学ではプラントの設計などもしなければならないから,管を流れる流体についての知識が必要である.そこで,流体力学の基本的な概念であるレイノルズ数といったものも学ぶ.トライボロジーの研究にはこれは大事である.たとえば,「サメ肌の水着の原理を機械のしゅう動面に適用できないの?」といった質問に対しては,水着と一般的な機械部品のしゅう動面とではレイノルズ数が違うということを指摘したら良い.熱力学と流体力学は,機械工学における「四力学」の二つである.残りは機械力学と材料力学であるが,前者は教養の力学の発展である.後者は剛体の力学であるから,僕は大学院で半屈曲性の高分子の問題として学んだ.
大学ではいろんなことに目移りして留年したりして,ひどい卒業生だと思うのだが,今になって思うと,大変良い教育を受けてきたのだと思う.要するに,先にドラえもんのたとえ話を用いたように「生命という物語の登場人物を確定していく作業」である分子生物学の王道とは,少々観点の異なる教育を東工大では受けることができる.この傾向は,同じ生命理工学部でも理学系よりも工学系の方が強いとは思うが,通常のバイオ系の人材よりも,全般的に「つぶし」が利くのである.
以上のような感じで,ぼんやりと「ノーベル賞」を眺めつつも,我々は民間研究所で研究を行っている.基礎研究の成果は,人類の発展に役に立つはずである.そういう意味で,良く考えるのが「ヨーゼフ・ハイドン」という作曲家である.
ハイドンは,エステルハージ家の一従業員として作曲し,そして,彼の同時代の誰もなし得なかった弦楽四重奏や交響曲といったジャンルの確立という業績を残した.ハイドンの「皇帝」という曲は,ドイツの国歌になっている.しかし僕がそれよりも好きなのは,2 曲のチェロ協奏曲である.ともかく,ハイドンの交響曲は,人類の宝だといって誰も異論はなかろう.
ここから学べることといえば,たとえ一私企業の従業員であっても,人類への貢献は可能だということである.ハイドンのパトロンはエステルハージ侯であった.僕が働いている企業も個人の名前が冠されている企業であるが,そのトップにいる人は,万博の会長として環境問題について考えを述べたり,科学技術への根本的な貢献を願っている.我々は,彼の願望に答えられるように,頑張って研究するのみであると考えている.

以上で,小論を終わらせていただくことにするが,自分でも気づかないような問題点をあらわしている気もする.直接お気づきになったら,それでもいいし,秦先生を通して何かお気づきになった点があったら,指摘していただきたい.
2008 10・12 85

* いの一番に、東工大で現に学生達を指導している卒業生「光」くんが、「挨拶」をくれた。嬉しいこと。
この人が教室にいた風貌を、毎時間アイサツしてくれる筆致や感懐を、わたしは忘れていない。いちばん感心しているのは、じつに文章が佳くなったこと、人柄がうまく行文に照映し、しかも佳いユーモアをいつも漂わせてけっして激しないこと。それも嬉しい。
ご一緒に読んで下さい。

☆ 秦 先生 メールありがとうございます。  光
大学に席を置く私にとっては、気になるタイトルであったので早速読ませていただきました。
今回、「ポレミーク」という言葉を初めて拝見しました。便利な世の中で、広辞苑には載っていませんでしたが、web上では「論争的、議論性」とカッコ書きがありました。
今回のテーマでもある「科学研究」の世界では、ディスカッション(討論)が仕事のようなものです。
とてもこれだけの長さと量の論説には及びませんが、1時間の講演に対して質問で手を挙げるくらいのことはさせていただけたらと思い、メールを返信させていただくことにしました。
* * *
私の思う「研究者」とは、”科学”を操る職人集団である、というものです。
「作家」が文字を操る職人集団、というのと同じだと思っています(違っていたらすみません)。
ここでいう”科学”というのは、「自然に対する思考方法の一つ」という意味で私は使っています。
そう言う意味では、”科学”はもちろん万能ではないし他にも方法はあるとは思いますが、現時点でパワフルであることは認めてあげてもいいと思います。
さて、「作家」の先生がいつもいつも文学賞をとるような「作品」を書いているわけではないのと同じように、研究者もいつもいつもノーベル賞をとるような研究をしているわけではありません。
内容も、目的に応じて研究しているわけで、大学であれば大学での、企業であれば企業での、個人であれば趣味での研究をしていると思います。
もちろん、「ただ」では研究はできませんから、それぞれにスポンサーがいるわけです(資本主義だから?)。
スポンサーは、国民であったり、個人であったり、もしかしたら人類かもしれません。
大学だからといって、なんでも研究をやっていい訳ではありません(そんなことない、とお叱りをうけるかもしれませんが)。大学の目的の一つは、教育だと思っています。
大学が基礎研究をして企業が基礎研究してはいけない、という議論は少し乱暴で、目的は何か、で基礎研究をやるかやらないかが決まるのではないかと思います。
大学で基礎研究が多いのは、「教育」の上ではいろいろと都合がいいからだと思います。
“科学”を操る職人集団は、それぞれの立場でそれぞれの目的のもと、「仕事」として研究を行っているものと思います。
そうした研究活動の結果の中から、ノーベル賞が与えられます。
ノーベル賞は、(理想的には全人類からの)研究結果に対する感謝の表れだと思っています。
例えば、偶然発見されたとされる抗生物質は、どれだけの人々から感謝されたことでしょう。
ノーベル賞をとりたい、というよりノーベル賞をとれるような研究をしたい、というのが多くの研究者の気持ちではないでしょうか(私だけかもしれませんが)。
世間がノーベル賞をお祭り騒ぎにしている現実は、科学の恩恵と世間の意識の乖離の現れであって、人類側の立場としては少々寂しさも感じますが、研究者側の立場としては感謝を強要するのも奥ゆかしくないと思うと仕方がないことかなと思ってしまいます。
本論説に、ノーベル賞受賞者はヒーローで背後には無数の研究者の屍の姿があり、彼らを慰霊するお祭りがノーベル賞祭りである、趣旨のことが述べられていました。
ヒーローの背後に目を向けるという筆者の主張に私は同意見ですが、おそらくここで言うところの研究者達は自分のことを屍とは思っていませんし慰霊なんてやめてくれ、と言うと思います。
サッカーの試合でシュートを決めた選手がMVPに選ばれたからといって他のポジションの選手が屍だとは思わないのと同じように、研究は決して一人で完結するものではないことを知っているからです。
本論説では「基礎研究=無駄だけど必要なことです」との論旨と感じました。「大学では無駄=基礎研究は必要」とも。
私も、本質的な部分で筆者の言わんとしていることに同意です。
研究には、無駄がつきものです。いや、無駄がない方が不自然です。
私は、実験で失敗する学生に野球の話をします。
イチローだって、打率3割だよ。だからといって、10打席のうち7打席は無駄かというとそんなことはない。その打席がなければ、ヒットもなかったから。ましてや凡人の我々は10のうち、うまくいくのが1か2あれば御の字だ。
同じことは、10人の研究者がいたら1人か2人はいい結果を出すかもしれない、とも言えます。
大学では、別に「無駄」だと思って研究しているわけではないのですが、教育的に将来の研究者には『研究には必要な「無駄」がつきものだ』ということを身をもって体験してもらうようにしています。
研究室のゼミで、すばらしい結果の論文を読んでいても学生に、この論文を書くのにどれほどの「無駄」実験があるか想像できるか、聞きます。
我々研究者が気をつけなければいけないのは、無駄以前の「なんちゃって研究もどき」にならないように、質の高い「無駄」かもしれない研究を目指さなくてはいけないことなのです。
大学とか企業とかに係わらず、”科学”を操る職人集団として。
* * *
「押し返し」になっているかどうかはわかりませんが、「四通八達のための交叉点」という言葉に対する賛同の意思表示として書きました。

* 同じく卒業生ではありますが、この方はわたくしともそう年の違わないほどの大先輩さん。パソコンが不具合になると、泣きついて助けて頂くこともしばしば。ペンクラブに入っていただいた。

☆ 秦先生  理@神戸e-OLDです。
なかなかの長文、一度読んだくらいではコメントもできないので、もう一度読んでみました。大学卒業後の職場も経験も違いますが、感じたことを書きました。

第一部を要約すれば、研究には無駄が必要という主張である。そうかも知れないが、浪人して大学入学した場合など、卒業後に就職した勤務先で同期との年齢差があるにも関わらず、賃金や待遇において同じあるから、意識の上で微妙に影響があるはず。できることなら同期と同じ年齢であることが、社会生活上好ましいと思います。

第二部は、大手企業に在職した経験があり、またここ十数年大学の非常勤講師を務めている立場からすれば非常に興味が持てました。
> 若手研究者には,不思議なくらい自分の人生設計を考えることに絶望している人が多い.自分にはどうにもならない力が作用しているように感じるからだろうか.
研究者に限らず、大学を卒業しても正社員としての職に就けない若者が増加しているのが今のわが国の雇用の現状である。大企業と言えども正社員の数を減らし臨時の派遣で済ます使い捨ての時代である。まじめに勉強をし、まじめに働けば普通の生活ができるという百年二百年先を見据えた政府の雇用の施策が望まれるが、これに絶望しているのではないだろうか。
> あとは,研究者はスポーツ選手であるかのような傲慢な思想を持っている人が多い.とくに,パーマネントの職を得た大学理学系の教員にはそういう人が多い.
これには強く同感します。いくら経験があろうとも実力があろうとも博士号がなければ助手(助教?)にもなれない。人に金をかけなければならないのに、経費節減で誰もやりたがらない教育は安上がりな非常勤に任せる。自分達は研究に没頭したいのが本音と感じます。
> 論文を書く人以外に,教育を行う人,研究を技術的にサポートする人,研究環境の整備という側面からサポートする人,など様々な役割が必要なのであるから,そうした立場に研究経験者がなるべきなのだ.
様様な人が支えあって世の中は動いて行きますね。そういう役割にお金を支払うということがあれば、もっと仕事は増え雇用状態も改善されるでしょう。

第三部も結局は雇用問題と言うことだと思います。「仁」さんは、たまたま企業の研究所に就職が叶ってハッピーでしたね。
> 研究者の公募には,コネで内定者が決まっているのに形だけ公募を行うというものが多すぎる.
大分県の教員採用問題をもし出さなくとも、古くから存在している慣例ですね。根絶は難しいものの一つでしょう。
> 良く,「理工離れ」といわれる.これは,機電系を中心とした工学部の人気低下である.あるいは,それを支える高等専門学校などの人気の相対的な低下とみてもいいだろう.
ある高等専門学校の教育に非常勤で関わっていますが、人気低下に伴い入学する学生の質の低下が顕著で、本末転倒なのであるが、学習意欲を高めるために大学への編入を奨励している事実があります。大学の理工系学部には高専卒業生を受け入れる枠があり、同じ学力だとして普通高校から進学するより入りやすい側面もあります。

結論として、基礎分野のノーベル賞は、この国に住む国民の一人として嬉しいことです。
しかし、その研究で国民を幸せにできるかといえばノーです。百年二百年先を見据えて、若者が将来に希望を持って生活できるような仕事を創出すること、まじめに勉強をすれば正規の職に就け、報われるような世の中の出現です。そのような社会の創出に役立つ科学技術に力を注いでいる人こそ報われるべきです。

* もうお一人、ペンの同僚でわたしより幾らか若い詩人、しかし理系企業で研究色の濃そうな責任有る立場を守っているのではと推察している友人からも。

☆ 秦 恒平様   精
ご無沙汰いたしております。
おもしろい「論説文」を紹介していただいてありがとうございました。
学問の分野と、実業の世界での研究者との間で揺れ動く筆者の素直な気持ちが読み取れて、久しぶりに爽やかな興奮に包まれています。
大学での研究分野の違いによる研究者への扱いの違いは、私たち、工場技術者にも漏れ伺ってきたことですが、その実態を見せ付けられたように思います。おそらく書かれているようなことが本当なのでしょうね。
筆者は現在のところ企業の研究者として満足できる生活を営んでいるようですが、その反面として「無駄な研究」への言及もあり、その態度は立派だと思います。それを理解しようともしない研究者が意外に多いというのが私の認識でもありましたので、よくぞ言ってくれたと思っています。
自分の例で恐縮ですが、私は大学も出ず、工場の技術屋として会社人生を締めくくりました。今は違いますけど、私が高卒で入社した1968年当時は、大卒は京大・東大・東工大・阪大・北大といった、当時の国立1期だけという陣容でした。その彼らの実験助手として勤務し始めたのですが、人による違いもありますけど、おおむね人間的にも優れた人たちが多く、科学的なアプローチを教わりながら人間としての生き方も教わったように思います。この論説文は、当時の上司たちの話を聴いているようで、懐かしい思いにも捉われました。
しかし、私にとってのそんな恵まれた環境の中でも、ある違和感が常に付き纏っていて、それは退職した今でも変わりません。彼らの会社における最終目標は何かというと、管理職・役員への道だったように思うのです。もちろん、中にはそういう道を目指さずに研究職一本を望んで、そのためフェローという役員待遇の職も出来たりしましたが、それは極一部の人たちでしかありませんでした。多くの大卒技術者は管理職・役員への道を望み、そのため、直接利益の挙がる研究、認められやすい研究へと走っていたように思います。申すまでもなく企業は研究だけをやる場ではなく、利益追求が課題ですから当然でしょうが、その過程で有能な人材が多く淘汰されてきたのも、また事実と云えましょう。もったいないことです。
私は実験助手から、最終的には立場上は彼らと対等の地位になりましたが、仕事の内容には苦心しました。彼らは上述のように目立つ研究をやっていますので、同じ土俵に上ることは考えず、仮に同じ土俵に上っても勝てる機会は少ないと思って、ニッチ(隙間)を狙いました。主たる研究と研究の狭間にある研究というものは多く存在しているもので、それを拾い集めるというハイエナのようなものです。しかし、それをやりながらコーディネーターの必要性を痛感し、そんなところにも活路を見出して行きました。筆者は、規模の違いこそあれ、そんな私の生き方と近いものを持っているように感じました。
この論文は、秦さんのおっしゃるように論説室に掲載したいですね。
科学論文としても研究者のエッセイとしても面白いものです。理系・文系などという狭いジャンル分けを越えた佳品だと思います。

* 年齢やキャリアのちがいが、「仁」君の挨拶に応じる論点の差異にも、噛み口の差異にもなっていて、わたしはそれにも心を惹かれる。ほぼ同期の卒業生諸君が、敢然と挨拶をしてくれるといいなあと、なんだか高い桟敷で見物しているようだと不謹慎がられそうだが、大事なことではあり、好機でもあるように思う、が。
大教室で学生諸君にモノを書かせ続けた昔、そのなかに、「ちょっと堅い話も仕合いたいのだけれど、仲間同士、友人同士だとついついいつもハメを外した冗談ばかりで過ぎてしまいます。すこしちがう盛り上がり方もあるだろうにと、物足りなく思うときがあります」という述懐をよせた人もいた。
優れた理系編集者として活躍している女性卒業生もいる。声が聞けるとといいが。マイミクさんにも優れた現役の研究者たちがいる。わたしの久しい読者の中にも声の有りそうな何人もが思い浮かぶ。
2008 10・13 85

☆ やっと、ホッと。 沙
京都は、よく晴れていましたね。
なん十ねんぶりかに、青蓮院、知恩院さんのみちを歩きました。道幅が広げられていて、よそよそしいところを、記憶にあったものを数えました。
樹をゆらす風の音は、そのままかも。どうぞお元気で。

* 連休が通りすぎてゆく。わたしには関係ないが。せっせと用事を前へ進めている。

☆ 美術館ふたつ 秋らしく。 2008年10月13日22:33   惇
どうしても行こう、と思っていた展覧会が三井記念美術館であったので、東京国立博物館の琳派展とセットにして行ってきた。
三井の美術展は題して「茶人のまなざし 森川如春庵の世界」。名古屋市博物館で春にやっていたものの巡回展として東京へきたものである。
森川如春といえば、十代のうちに光悦の茶碗「乙御前(おとごぜ)」と「時雨」を所有していたことで有名な茶人で、例の(夏に箱根に行った時の下見編で話題にあげました)原三渓とか益田鈍翁らとの関わりでも知られる。
私は20歳の時に、京都旅行で出会った乙御前の写しに惚れていまい、購入もしたものの、以来、いつか本物を見たいなあと漠然と思ってきたのでありました。
今までにチャンスがなかったかと言われればそんなこともなかっただろうけれど、なぜか、今回の展覧会では「乙御前」が出る!と言うのに強い磁力を感じてですね。タイミングだと思うのです。
で、乙御前見たさに展覧会に行ってきたのだったが、もうもう!! 実によいものがたいへん出展されていて、大興奮の展覧会でありました。(しかしこういうところに興奮する、というのを理解してくれる人は少ないですね。)
お茶碗では念願かなって見た乙御前、琥珀や瑪瑙のような深みを持つ朱色で、つやつやと美しい。
所有している写しは、かなり大ぶりで厚みのある茶碗なのだが、本物は薄い。小ぶり。きめの細かい赤肌のなんと色っぽいことか。
よく志野の肌を女性の肌に比することがあるが、赤楽のあの歳月を経た美しさはまた全然ちがった色艶である。高台のつぶれているところから優雅に立ちのぼってくる線の、なんとも見事な女性的丸み。「時雨」の持つ男性的なシャープさとは対照的で。
のぞきこんだ茶碗のうちに、吸い込まれるような赤みの傾(ママ) れがあって、どこまでも完璧にうつくしい茶碗であった。ウットリ。
時雨も相変わらず切りっぱなしのような口のあたり。潔い線。
あと、ととや茶碗「小倉山」というのが出ていて、これがまた、もう、涎が出るほどすばらしくいいお茶碗であった。白緑というのかしら、うす~い上品な色目にぽつぽつとまあるい斑のあるお茶碗で、そのぽつぽつとしたけしきを紅葉に見立てたらしかった。
あれと「乙御前」だけでも、もう一回見たいほどのいいお茶碗で、これは朝鮮のお茶碗。
志野もかなりの数が出ていた。
昔は志野のぽってりとした肌が好きで、ほっこりと赤みを持つ白い肌がなんとも色っぽいなぁなどと思っていた。今は少しつくりが大きいなあと感じる。あの肌合いを堪能できるのには、若干大きめの作でないとならないのかもしれない。
卯花垣(ちょっと字が違うけど)、亀のをの山、大海老。
あれは女性の肌というよりも、大地そのものだなあと感じる。
黄瀬戸もよかった。
青磁や白磁の冷たく完璧な美しさも好きだが、一方であたたかい土の匂いのする器にも心惹かれる。作り手の「手」が感じられるあたたかさがある。
お茶碗だけでなく、お軸などもものすごくて、やっぱり違うなあとうなってしまう。集まるところに集まるのだな。
藤原佐理はあるわ、西行はあるわ、石山切はあるわ、息を呑む。
あと特筆すべきは伝羽田五郎の黒漆の小棗「五郎棗」で、これがもうもうもう、本当に美しいのである。そもそもが漆って美しいんだけれど、この小棗はかたちもよいし、やっぱりこれももう一度見たいもの。
琳派展はやはり人がすごかった。
でも、その話はまた次回。
とにかく、三井の展覧会は興奮した。
そしてまた無理をして(食べまくったために)体調を崩し、今日は1日腹痛とともにすごした。
あほ~
2008 10・13 85

☆ 秦先生  仁
先生にお送りさせていただいた後,大変恥ずかしくなり,一旦は撤回しようとまで思いましたが,先生直々に掲載してくださり,他の皆様からの応答もいただけて,書かせていただいて良かったのかもと思い直しております.
先生のお書きになられているように,皆様,さすがここの読者,いや連歌の連衆のような方々であり,様々な世代,お立場からの見方をうかがい知る大変勉強になり,かつ励まされます.

「光」さん:
母校の先生ということで,ご活躍を期待いたします.
無駄の重要性について教えられているということ,素敵だと思いますし,「教育」のための「基礎研究」という側面,なるほどと思いました.
ご存知とは思いますが,昨今は産学連携ということで,大学にも産業的な出口が見えるようにとの圧力が強まっているかと思います.
しかし大学教育は,あくまでも最低限の条件として,現時点までに出来上がっている学問体系の習得・伝授であって欲しいと思うのです.
どっちが企業なのだ,と思うような応用研究はいらないと思います.
「屍」については,説明不足ですみません.僕の言いたかった「屍」とは,
文字通り研究をやめて,アクティブな研究者から見ると存在していない人たちのことです.現役であり続けるかぎり,祈られたり回顧される必要はありません.
たとえばボストンの「雄」さんが先日述べておられたように,ノーベル賞シュートのアシスト的な仕事をした研究者がバスの運転手をしている,そういう「屍」です.
僕自身も,何度も「屍」になっています.学部の同窓からも,卒研での生物物理の先輩からも,大学院の高分子の人々からも,研究者としては居ないものと同然です.
でも,つい先日,2 年前に投稿した論文を,この分野の大先生が引用してくれているのを確認しました.ああ,つながった.そういう瞬間は,グランドに出てプレーしているのだと実感します.
日本の現代詩で「荒地派」という一派があり,彼らの詩は観念が強くて自分にとって親しみやすいというものではないのですが,第二次大戦で多くの同僚,詩人を亡くしたという思いの上に作品があります.
研究者の「屍」について考えると,荒地派の田村隆一さんの詩などをなぜか思い出します.

「理」さん:
「雇用問題」とのご指摘.普段仕事で書く文章はもう幾分かは論理的なのに,おぼろげな雑文を書いてしまい,と思っていましたので,隠れたテーマを良くぞ発見していただいたという気持ちです.
恥ずかしながら僕も数年前まで,自分の育った愛知県の管理教育的な風土が許せませんでした.朝早くに学校に来ること,規律を守らせること,など.
しかし,産業の少ない県を旅して,あるいは子供の世代を育てることを考えて,この地方が何故一見窮屈な文化を持っているのかに気づきました.
「雇用問題」は最重要といって良い問題なのだと思います.
第一部の同期同年齢の原則はもっともで,自分自身などは既に通常の出世を諦めているという意味では不健全です.ただ,最近は 30 代半ば世代の就職氷河期の人材不足を埋めるための中途採用や,優秀な外国人の正規雇用化などで,従来型の組織が流動化していて,やるべき時 (チャンス) にやる,といったスタンスで仕事をするのが良いのかもしれません.ともかく、
> まじめに勉強をすれば正規の職に就け、報われるような世の中の出現です。
は,全くそのとおりだと思います.
高専についてですが,次の「精」さんへの文章とも関係しますが,毎年新人を受け入れている実感からいうとハイレベルを維持しているように思うのですが,実際は独法化の影響などもあるのでしょうか.

「精」さん:
僕の会社では研究員系と技師系という区分がありますが,いわゆる欧米の研究者とテクニシャンという関係とは少々異なり,互いの入れ替えが比較的自由であり,古き良き日本企業風土がギリギリ守られています.たとえば先輩にもともと技師系の方で,稼働中のエンジンの中を観測する世界唯一の技術を開発し,定年退職後,別メーカーに役員待遇で迎えられた方がいますが,「精」さんのお話を伺っていて,その先輩を思い出します.
上記の区分でいうと研究員系の人たちが,いわゆる出世を望むがために研究テーマにひずみができる,という指摘は重く受け止めたいと思います.
現在の会社は正確には工場を持たない非メーカーですので,出世したとしても幸か不幸か研究の現場からは出られません.事務方や特許関係に移動して研究を降りるという選択肢はあります.役員の人々でも,解放後,嬉々として実験をされたりしています.このことと,ご指摘の点との関係については,長い時間をかけて検討すべき問題のような気がいたします.
やはり,まとまりがなくて申し訳ありません.
現時点では様々なひずみがありますが,現役組は退場組を,正規職員は非正規職員を,生者は死者を,せめて想像することができたらと思いました.

お忙しい中で度々長文をお送りしまして,申し訳ありません.
日に日に涼しくなっておりますので,ご就寝の際は暖かく,ということでお願いいたします.

* ああ、もうそろそろ日付が動く。階下でもう少しし残している仕事をしてから、就寝前の本を読みます。
2008 10・13 85

* 今朝一番に、心親しい人のメールを受け取った。お忙しい日常の時間を割いてもらい恐縮。この人は「仁」くんや「光」くんより、たぶん一世代以上年長の植物学研究者であり、学会等をはせまわり、国内の大学で教授相当の指導もされている。執心出精の茶の湯びとでもあり、エッセイも小説も書かれる。それ以上の詳しいことは知らない、じつはお目にかかったこともないが、久しい読者である。

☆ 長文になってしまいましたが、「仁」さんへお返事です。  maokat

はじめに、「仁」さんにこれだけ長文の論考を書かせた、ノーベル賞二部門日本人受賞のインパクトを感じました。一部の方を除いて、理系の研究者にはいい文章を書ける方があまりいないので、「仁」さんおっしゃるとおり、科学の啓蒙活動の一環として、今後もわかりやすく美しい文章で科学を語って頂けたらなぁと思います。
さて、私は基礎科学とは対極にある、応用科学の、さらに現場に最も近いところで研究をしている立場ですので、Scienceというよりも、自分ではむしろ科学技術に近い仕事をしていると思っています。しかし、そんな現場に近い職場でも、これまで一連のノーベル賞の話題で取り上げられているPCRや、 GFPを使った実験をしていますので、基礎科学の恩恵に充分与っているものです。
「仁」さんの書かれたことは、立場や分野は違いますが、良く理解でき、また、そうだそうだと頷く点が多くありました。特に、第2部の中に興味を惹く部分がありましたので、いくつか、言及してみたいと思います。
まず、日本の科学史に触れた部分があります。
「日本は,韓国と台湾のような戦略をとっても構わないのに,好き好んで基礎科学をやっている.しかも,これは第一回ノーベル賞に北里柴三郎が幻の受賞者となったことからもわかるように,明治時代以来の伝統だ.日本がそういう特殊な国だということを指摘しておきたい.欧米だってそうだろう,と反論されるかもしれないが,欧米は科学発祥の地である.我々が付き合う必然性はないともいえ
る.」
では、なぜ科学発祥の地でない日本は、明治以来好き好んで基礎科学をやってきたのでしょうか? その特殊性はどこから来るのか、さらに一歩踏み込んで、そこを考察してほしいと思います。明治の前には鎖国中の江戸があるのですが、この特殊性の源は、江戸時代にあるのかな? とあてずっぽうに考えたりするのですが。
次に、「国立研究教育機関の従業員は「国家国民のための研究」をやっている」「誰がパトロンであるか,というパトロン意識を研究者が持つのは給与所得者として最低限の常識だと思う.」「このパトロン意識という問題をあえて指摘した上で,「国民が期待する科学分野」の選定方法について」、ボストンの「雄」さんの、「その価値判断は、傲慢とも取れるだろうが、どうか研究者にお任せいただきたい」に反論する形で、「僕は研究者だけに任せるのには反対である」といっておられます。論点は、この後続いて、「研究をする必然性」を「嫌というほど国民に説明しなければいけない」と移って、研究者は研究をするばかりではなく、(パトロンである)国民に研究の必然性を説明する義務がある、と強調されています。
研究者個人にも、そして研究機関でも、その姿勢自体は、とても大切なことです。私の属している産業省の独法でも、広報啓蒙活動に力を入れてきています。しかし、その実態は大変お粗末な物で、広報担当の部署を設けて、素人を配置するだけです。この後、仁さんが述べておられるとおり、「研究者になれなかった人々」の活路としても、啓蒙機関が重要と思います。それと同時に、広報活動に
はプロがいるのですから、そういう人材を組織の中に取り込むか、うまい形で連携して、プロの手で売り込んでもらう必要があると思っています。
いずれにせよ、相応の予算が伴う話ですから、本当に広報が必要だったら、思い切った予算措置をして、プロの手で広報をした方が、素人が拙いやり方で予算を浪費するよりも、よっぽど効果的だと思います。研究機関と広告機関との間に立って連携をはかる人材も必要で、これも現場がほしいけれどもなかなか手に入らない人材です。
最後に、「研究者はスポーツ選手であるかのような傲慢な思想を持っている人が多い.とくに,パーマネントの職を得た大学理学系の教員にはそういう人が多い.こういう人々からすると,研究とは修行であり,スポーツ選手と同様に勝つか負けるかの厳しい戦いであり,負けたら何も残らない,と考えている」という部分があって、個人的には、この部分に最も興味を覚えました。
ここで、ひとまず「仁」さんの論考への感想を終え、次は、上の文章に触発された私自身のことについて書きたいと思います。色々刺激的な話題を提供してくれた「仁」さんと、話を振ってくださった秦さんにはお礼申し上げます。


「仁」さんの論考を読んで、研究者としての自分の立ち位置をもう一度見直すことになりましたので、ここからは、それについて書いて置きたいと思います。
主には「研究者はスポーツ選手」というところに反応したのですが、それは最後に述べるとして、その前に、私が属している元国立研究機関の独法の現状と、「誰がパトロンであるのか」「パトロンである国民」について、言及したいと思います。
まず、独法(独立行政法人)という組織について。これは、サッチャー首相時代に、イギリスがやった政府のスリム化をそっくりまねしたもので、それまで、国立の試験研究機関であったものを、政府から切り離し、独立した別法人にするというものです。橋本・小渕内閣で独法化への流れができ、産業省の試験研究機関は、2001年から独立行政法人となりました。続いて2004年から国立大学も法人
化され、「国立大学法人」という矛盾を孕んだ名称の法人が誕生しました。
さて、もともと産業省の国立研究機関で行っていた研究は、「民間では採算があわないが国民のために必要なので国が行うべき課題」でした。しかし、独法は「民間では採算があわない課題」をやるものの「自分で儲けて食べていかなくてはならない」組織です。また、法律に基づいて、年毎に数%の予算が削減されます。独法が生き残りをかけて金儲けをし始めると、産業界からは「民業圧迫」
「公共の組織にそぐわない」と反発が来て、「儲かることは民間で」となります。つまり、独法はそのままいても予算が小さくなってゆき、頑張って金儲けをすれば民間組織に持って行かれてしまうので、わかりやすくいえば、「潰すための組織」になっているということです。
では、そういった組織の中で、研究者は誰のために研究をしているのでしょうか? ここからは、「誰がパトロンであるのか」「パトロンである国民」の話になります。結果からいうと、独法の研究者は「かつては」「パトロンである国民」のために研究をしていたと思いますが、現在パトロンは、残念ながら国民ではありません。独法のパトロンは主管官庁です。独法は5年ごとに組織や研究内容の見直しがあるのですが、2期目ぐらいから、私たち末端の研究者の目にも、「旦那」が誰であるのかがはっきりしてきました。一番わかりやすいのは、省が持つ研究プロジェクトが、研究者からの提案型でなく、省の部局からの課題設定型になったことです。つまり、「旦那」は、国民ではなく、行政省なのです。ここで、行政が、国民の代弁者であれば、独法の研究者は、間接的に「パトロンである国民」のために仕事をしていることになるのですが、私の経験からみると、行政に発言力があるのは、国民ではなく、産業界と政治家です。
例えばこんなことがありました。私がやっていたある研究の結果が、産業界にとってあまり歓迎できない結果だったことがありました。もともとは、産業界からの強い要望があって、所管官庁が緊急予算をつけてくれ、独法機関の長からの特命で緊急的に始めた研究でしたが、その結果は、「旦那」の「旦那」の産業界には困った結果だったことから「旦那」の所管官庁は掌を返すように予算を打ち
切り、独法内でも「今後この研究には予算をつけない」と決まりました。
この一事で、独法研究者の「旦那」が誰であるのか、明白になりました。そして、私が思うに、この研究は「国民」ないし「国家」にとっては、きわめて重要で、先の先を見据えて、すぐに手を打っておかなければいけないものだったのです。
もう一つ例をあげます。昨年の年末に議員立法である法律が成立しました。それについての研究は私が所属する独法で行われていたため、今年から急遽その研究を始めざるを得ないことになったのです。そこまではいいのですが、この研究内容というのが、失礼ながら「政治家の人気取り」としか思えない内容で、政治家のパフォーマンスのために、しぶしぶ研究をやらされる担当研究者は、哀れとしかいえません。
最後にもう一つ。原油価格が高騰すると、必ず降ってくる研究課題があります。オイルショックの際にも、80年代にも、そして去年からも、代替エネルギーに関する緊急予算が沢山つきました。これ自体は、悪くありません。しかし、これまでの経緯を見ていると、この手の予算は、原油価格が落ち着くと、すぐに消えてなくなります。本当に国が代替エネルギーの研究を大切と思うのだったら、原油価格が少し下がって当面やりくりできるようになったからといって、研究予算を止めるべきではないはずです。研究者としても、このテーマでがんばっても、「のど元過ぎればなんとやら」で予算が切られるとわかっていれば、この課題をライフワークにはしづらくなります。結局お茶を濁すような研究で、バブルな研究予算を浪費することになります。
私がここでいいたいのは、行政を動かせる立場にある人は、目先のことに左右されず、長期的な目で、研究予算を配分してほしいということです。理想的には、「パトロンである国民」がそうあってほしいのですが、現実は、国民はパトロンではなく、また、世論=国民のご意向はマスコミによって大きく振れてしまいます。


では最後に「研究者はスポーツ選手」について。
「仁」さんの「研究者はスポーツ選手であるかのような傲慢な思想を持っている人が多い.とくに,パーマネントの職を得た大学理学系の教員にはそういう人が多い.こういう人々からすると,研究とは修行であり,スポーツ選手と同様に勝つか負けるかの厳しい戦いであり,負けたら何も残らない,と考えている.もしスポーツ選手のようであったら,成功したら何億円も報酬がもらえて当然ではない
か.」というところ、頷ける部分もあるのですが、私自身をいえば、ちょっと違うなという感じがしました。多分多くの研究者は、報酬の多寡を主眼に研究をしているわけではないので、それにも関わらず、スポーツ選手のような修行をし、勝ち負けに拘る研究者は不思議としかいいようがありません。
私の場合は、もうちょっと変かも知れませんが、「研究とは修行であり」という部分は大いに当たっていて、さらには「研究とは密室の祈りである」という言葉が、感覚的に最もしっくり来るのです。この言葉は村上華岳の「藝術とは密室の祈りである」という言葉を改変したものですが、ある意味研究と藝術の共通性を物語っているように思えます。この仕事を二十年以上していて、私のような研究者であっても、ごくごくまれに、これまで誰も知らなかった自然の摂理のほんの少しの隙間を、ちらりと垣間見る瞬間があります。この感覚は、多分、藝術家が精進の末に体感できる感覚に非常に似ているような気がします。
藝術の方へ話が飛んだついでにもう少し。私は趣味で茶の湯をやっているのですが、茶の湯というものは、ありとあらゆる藝術を包括しています。工藝に例をとっても、茶人一人いても何もできず、さまざまな工藝家のサポート無くしては成り立たない藝能といえるでしょう。茶道具を作る工藝家を「職家」といいます。茶道の家元にはこのような職家の集団が何百年も前から付き従っていて、彼らの技能無くしては、茶道の道統は成り立っていかないのです。
どうも私は、科学の総体をこのように捉えているのかも知れません。私の研究など全体の中にあっては、取るに足らないものですが、できれば職家さんのように、その小さな研究無くしては困る、というような小さな場(ニッチ)を得たいと思っているのです。そして、職家さんの表に出ない生き方にも惹かれます。そこには無言の自信が感じられます。表に出てわぁわぁいわずとも、作るものをみ
れば、一目瞭然だろう、わかるひとにはわかる、という強い自信です。
まぁ、こういう自信は未だ湧いてこないのですが、そういうことを考えながら、不安定な組織の中でも、深夜の実験室で、一人過ごしているわけです。

* 感謝。感謝。

* 相次いで、二人の女性研究者からも、所感が届いている。多忙の中で反応して下さり、感謝します。二人とも印象深い優しい学生たちで、信じがたいほど優秀、聡明だった。二人とも早くから大学人になっている。届いた順に、メールを紹介する。

☆ 秦先生、こんにちは。  百合
百合です。メールありがとうございました。
実は、ノーベル物理学賞の小林先生は私の高校の大先輩なのです。(研究内容が全く違うものでしたので、面識は全くありませんが…)
素粒子物理学は基本の「き」も知らないような状態ですが、以前お二人の理論が実験で証明されたというニュースは鮮明に覚えています。
また、化学賞については、主人が海洋微生物を扱っている関係で、説明してもらいました。
いずれも、非常に有意義な研究だと思います。
化学賞といえば、N先生(あまり伏せ字になってませんが)はとある分科会での挨拶において、
「こんな役にも立たない研究をしている人が、これほど沢山いて驚いた」
と述べたそうです。立派な方ですね。
さて、ざっと「仁」さんの文章を読ませていただきました。
>  研究者はスポーツ選手であるかのような傲慢な思想を持っている人が
>  多い.とくに,パーマネントの職を得た大学理学系の教員にはそういう
>  人が多い.
これは、私も思っていたことです。
よく「勝者」という言葉を口にする研究者は多いです。近ごろは若手でパーマネントに就けた研究者にも多いので困りものです。
これまでに「あり得ない」「何かの間違いだ」「絵空事だ」と却下された学術論文が、後になって正しいことが証明された例(さらにはノーベル賞に至った例)がいくつもあります。
要するに、専門家などと偉そうなことを言っても、この程度なのですよ。
ただ、「研究」と言える代物を提供できる大学が非常に限られていることも、悲しいことですが事実です。
確かに、日本には理系の専門知識を生かせる職業が極端に少ないですね。
理系離れはますます進んでいますし、ここで打開策を打ち出せないと、大変なことになりそうです(もうすでになっていますが)。

☆ ご連絡ありがとうございました. 悠
大変興味深く,お察しの通り,自分を省みる機会となり,今,すっきりしない気持ちでいます.
これまで,それぞれの環境でそれぞれのやり方があり,それを探りながら,あまり自分から大きなアクションを起こさずに過ごしてきました.
もちろんそういうやり方に不甲斐なさを感じてはいるのですが,日々の雑用に没頭し,問題意識と向き合うことを避けてきたと思います.そうせざるを得ないかのように.
今はちょうど来年度の科研費の応募書類を作っているところです.
身につまされながらも,ここ(=東大)でのやり方を強く意識しながら準備しています.
こんな毎日です.うまく考えを漏らし伝えられないのですが..
それでは.また.

* 期待していた人からも。わたしの新制中学・高校ころの友人の夫人、年齢もちかい。京大に学んで、繪も文章も美しくかかれる。夫君は原子力関係の大きな責任者の地位にあり、なお貢献されている。

☆ 秦恒平さま   藤 e-OLD杉並
またしばらくご無沙汰をしていました。お陰様でつつがなく日を送っております。
☆ 大学の研究者が言わないような類の「科学」の話
早速拝読しました。
研究者にあこがれ、大学院へ進んだものの、すぐにそのコースから降りてしまった私などは、「屍」以前のチリ・ホコリくらいの存在なのでのこのこと皆様のディスカッションに参加など出来ないのですが、興味は津々とある分野なので、以下はいつものような秦さまと私のあいだのお喋り、思い出話の類とお読み下さいませ。

私は父から「何の役に立つかわからない研究が、突然脚光をあびることがある」とか、「なんとはなしに見逃していた現象が、実は大きな発見の糸口であった」とか、地味な努力や根気が大切と聞いて育ったのですが、それよりもまず、やはり、研究者には「常識にとらわれない目(感性)」と「独創性」が必要だと思っています。
私には研究者に必要な常識にとらわれない目・独創性が欠けていることに気付きました。
あこがれはしたものの、適性を欠いていた点では、私にとって研究者も宝塚スターも同じだったのかもしれません。
基礎研究が大切なこと、一見無用に見える研究の大切さはいうまでもありません。昨今は大学などの研究にも予算に対する成果主義が及んでいるようで心配です。
私の大学院入学式の時、総長(解剖学者)は挨拶の中で、「大学院は学問が好きで好きでたまらない人の来るところ」とおっしゃいました(私はちょっとあせりました)。
研究者になるのも、結局は「研究が好きで好きでたならない」からで、それがどれだけ(すぐに)役に立つとか、賞がもらえそうとか、
出世して良いポストに着けそうとか、どれだけお金になるかとかは、「目的ではない」というストイックな考え方があります。
誰しも少しの野心くらいあって当たり前だし、あってかまわないと思います。
第一それなりの経済的な基盤が確保されなくては研究どころではありません。だから充分な研究費とポストが用意されることは必要です。
しかし外から見れば、中には自己満足的な研究者がいないとも言えず、そのあたりのバランスをどうとるかが難しかろうと感じています。
ところで「仁」さんは、研究的な仕事を辞めたら「屍」と書いて居られますが、そこまで言わなくても良いのではないかなあ—-と私は思います。
「研究者って、そないなえらそうなもんやろか」という気持ちがあります。
たとえ研究者から離れて別の仕事についていたとしても、世の中は大概そのような(研究的でない)仕事で支えられているのですから。
「どちらもあり」で良いのではないでしょうか。
学生の頃はみんな「研究者」にあこがれたものです。
卒業から50年近くたち約四十名のクラスメートは(数名の物故者を除いて)仲良く70才を過ぎました。
望み通り大学で研究者として業績をあげた人も、海外で活躍した人も、研究所を率いた人も、企業の役員や社長になった人も、
まるで別分野へ行った人も、家庭で子育てに励んだ女子も、みんな一緒に毎秋一泊旅行を楽しんでいます。
「役に立つ研究」「役に立たない研究」が簡単に見分けられないように、人生も、どのコースが一番良かったかなんて、もうどうでも良い気がします。
幸せなことに私たちの卒後50年は、真面目に努力すれば報われる時代でした。
もちろん報われ方に大小はありましたが、みんな家庭を持ち、家を持ち、車も持ち、子どもをしっかりと教育出来ました。
今は将来に展望が持てない時代、といわれています。
私たちは出だしが”ないないづくし”の大貧乏時代でしたから、ささやかな事にも達成感、満足感が持てました。
生活には高望みしせず、仕事の成果に喜びを見いだしていた気がします。そうやってやっと手に入れた(一応)豊かな生活の中で育った子ども世代がそれ以上の達成感、満足感を得るために、将来の展望が見えないとは皮肉ですね。

話がそれて行きますが、秦さんや私が学生の頃、出町橋畔に「江崎さん」とみんなが呼んでいたダンス教習所があったのをご存じでしょう?
同志社と京大の中間点だったから両大学の学生が出入りしていて、同志社の友人に教えられて、私も短い間でしたが通っていました。
このダンスの先生(すなわち江崎玲於奈氏の母上)と私はなんだかウマがあって、組み合ってダンスを教わりながらたわいなくお喋りしていました。
練習場は普通の住宅の二階で、一階は先生のプライベートスペース、ここがまるで片づいていなくて、中央には描きかけの人物像の油絵が。(後に新制作協会の所属と知りました)
トイレをお借りしたのですが、家の構造は京のうなぎの寝床、ごちゃごちゃの中の奥の細道をやっと厠にたどりつきました。
この先生はまことに風変わり、発想が奇抜、個性的。母の知り合いの取り澄ましたおばさま方に辟易していた若い私には、「こんな自由な女の生き方もあるのだ!」と衝撃的でした。
それから数年後、ご子息のノーベル賞受賞を知り、「ああ、あの母にして、エザキダイオードのアイディア、ノーベル賞!」と、妙に納得したものです。
そして大いに影響を受けた私は、個性的な母となって息子を育てようと志したのでありますが、部屋の片づかないところと、ごちゃごちゃの中で油絵を描くところだけは達成したものの、息子は単なる変わり者、東工大を出て某電気メーカーに(平凡に)勤務しています。
では今日のおしゃべりはこれくらいで。
このところ京都に行く機会が無く、秦さまの京旅行のお話しその場をイメージしながら楽しく読ませていただきました。

* 「人間味」と謂う。そういう味のある人たちとの此の世だと思えるときが「幸福」なのであり、藤江夫人のこういう達意の文面にふれていると、日々の不快を静かに溶かされる。藤江さんに限らない、「仁」くんをはじめこうして何人もの人と或る特定の話題を介してふれ合う幸福をわたしは、かなり手前勝手に喫している。不徳も極まった男だが、こういう時に心豊かに孤でない有り難さを頂戴する。

* 人は、時として、とても曲がりにくい曲がり角に当面したり、袋小路に似た隘路に首を突っ込んで途方に暮れるもの。わたしは、そんなときに、ま、藻掻いたり喘いだりと同じ意味ではあろうが、何かしら工夫して曲がり角で転ばないように、袋小路を抜け出すように、妙なことを始めたりする。「e-文藝館=湖 (umi)」の拡充もそうなら、「闇に言い置く私語の刻」にいろんな趣向を置いてみたりする。「気」が唾液のように湧いてくると、その「気」に羽をあたえて空を飛んでみたいと空想もする。
わたしはもともと躁よりは鬱に沈みやすい素質とみているが、それをかわして行く工夫そのものを、七十年、けっこう楽しんできた気もする。
2008 10・14 85

☆ 書の道   光
大学生だった、ある冬の日。
実家のコタツに一応正座して、半紙を目前に筆を持って対峙した。
漢字6字を一気に書き上げる。
その間、息をしているかどうかさえわからないーー全神経は半紙の上にしかないから。
書道の師範昇格試験課題作品の提出日を次の日に控えていたための、だったと思う。
* * *
書道は小学生の頃の習字から近所の教室に通わされていた。
明治産まれの祖父が、当時は尋常小学校しか卒業させてもらえず、大人になってから「字」を書くことに苦労したという話を聞かされた母親の意向だったと思う。
当の私にとっては、書道に対して特段の愛着があるわけでもなく、姉と共に毎週教室に通い、課題をこなし、ただそれだけであった。 半年に一度、昇段試験というものがあった。
長く続けていればほぼエスカレーター式に、十級から始まり一級までくると初段から五段へと段位が上がる仕組み。
五段までいってしまうと、あとは師範昇格試験を受けるしかなくなる。
それも、一気に「師範」になれるわけではなく「準師範」「師範」とステップを踏まなくてはならない。
書道を初めて十数年、別格に字がうまくなったわけでもないが、エスカレーター式に五段まで行き着いてしまった。
受験料も高かった記憶があるが、そのころはもう試験を受けるしかもうやることがなかったので、先生の勧めもあってまずは「準師範」目指しての課題作品に取り組んでいたのだと思う。
* * *
何枚も、何枚も、ひたすら書いた。
自分ですら、これではだめだろう、と思う程度の字しか書けなかった。
むしろ、一番最初に書いた作品がまだ、ましな出来映えであった。
差し指と中指と親指で支えているほぼ垂直の筆に、微妙に角度をつけながら再度試す。
いくら書いてもダメ。ダメなものはダメ。目に見えない超えられない、何かがある。
自分に絶望した。
気づいたら、コタツでうとうとしていた。明け方の4時半。
しまった。よほど驚いたのか、今でもその時計を見たときの映像は、記憶に焼き付いている。
また、半紙に向かう。
数枚書いたところで、はっと気づいた。
仮眠して、無駄な力が抜けたためか、無心だったためか、これまでにない清廉さを感じる字が書けている。
しかし、そのことに気づいたときには、もうその後はいくら書いても同じ字は生まれてこなかった。
* * *
結局、書道の先生が選んだのも、起きがけに書いた作品だった。
その後、異例の準師範をとばしての師範合格通知をいただいた。
そして、私は書道から手を引いた。
「道」を垣間見て、自分には無理だと悟ったからだと思う。

* こういう一編を、「光」クンの温容を思い出しつつ読んでいると、はじめてわたしは、和んでいる自分に向き合える。

☆ 秋の日に   昴
ひさかたの光をあびてもみつ葉は犬の午睡を見つつ輝く
明け方の頭痛に独り寝肌寒し
どうっと吹く風に流れる山葡萄

今日は行書の練習をしました。
行書、難しい。
上手な字が書けるようになりたい。

* リハビリの場所を替えて、日々に書に向かっているという、はるか北の国の「昴」さん。歌も句も、流露の道を見付けたようである。

☆ 獅子舞 2008年10月14日22:05  悠
連休中は息子と実家に行ってきました.秋祭りの獅子舞を見せてやろうと連れて行きました.
息子は当初太鼓と笛のリズムに合わせてカラダを動かしご機嫌.そして拍手喝さい!!
ところが,我が家に来てもらって玄関から勢い良く入ってきた時には泣いていました.怖かったのね.食べられそうだった??
町内の小さな祭り.今でも続いていることに感慨深く,また息子と見ていることがなんだか不思議な感じでした.
どういうわけか実家のほうでは祭りは神輿ではなく獅子舞が多いように思います.
私が通っていた小学校では5年生が獅子舞をやることになっていて,笛,太鼓,獅子,天狗ごとに前年度担当した6年生から一対一で教えてもらうシステムがありました.2週間ぐらい習ったあと,ひと月あまり練習して,学校祭や,イベントで披露することになっていました.私は縦笛担当.4つの演目,今も吹けると思います.
息子は時折片方の足だけ爪先立ちになっていることが.そうね.獅子の後ろのほうの人はそうやっておどっていたよね.

* 懐かしい。『みごもりの湖』や『冬祭り』などで、わたしはこういう世界に全身でなついていたのだと思う。

☆ 風と同じく、
帰ってきました。疲れました。
昨夜は、バタンキューでした。
丸二日の郷里滞在でした。
母と妹と、レストランで食事したり、雑貨店を見てまわったり、お墓参りしたり、祖母のいますむかつてみんなで暮らした家に寄り、祖母と母と叔父の膠着した関係はどうにもならないと再確認したり、その家で飼っていた、いまは、仲良しのお宅で飼ってもらっている老犬(牡)に逢ったりしました。
もともとそのお宅で生まれたのを、母がもらって来たのでして、彼にしてみれば、実家にいるようなもので、今は亡き母犬にそっくりの彼は、大事にしてもらっているようで、よかったです。
犬が四匹、猫が八匹、金魚の水槽が二つあるほどの、動物好きの家族なんですよ。
さてさて、今日のうちに疲れをとって、明日からに備えます。花は元気にしていますよ。
風、お元気ですか。ではでは。 花

* 連休を里帰りしてきた人も、また「常の日」に戻って行くのだろう。
2008 10・14 85

* マイミクの「瑛」さんからも一文いただいた。わたしより心もちお若いe-OLDながら、矍鑠、登山と長路の散策を常に楽しまれ、文学藝術にも心を寄せていつも発言されているが、機械工学のみちを 歩んでこられたとは、この一文で確かに承った。感謝。

☆ 秦 恒平様   瑛
「大学の研究者が言わないような類の「科学」の話」の「仁」さんの論説を、ある感動を持って読みました。久し振りの日本人科学者のノーベル賞受賞のニュースで、湯川秀樹、朝永振一郎、福井謙一各氏の受賞の時代を思い出し、ノーベル賞受賞の系譜へ思いを馳せていたときだけに深く印象に残ります。今回の「話」で研究者の世界を具体的に垣間見ることが出来ました。
僕は機械工学を学び電子計算機という名前が生まれた時代から「初期パソコン」の時代まで産業界で製造、設計、電子計算機のソフトウェア開発畑を歩いてきた一応技術屋の卒業生ですが、研究を仕事にされている方々の「論考」を読み感銘を受けた一人です。正鵠を得た理解にはほど遠いのも恐れずに、思いつくままの読後感を書きます。

研究者の幸運はどんな師につくか、研究課題を寝食を忘れるほど魅力あるものにしていく熱意をどう作っていくか、研究材料(マボヤ)との時間の経過を忘れる親密な交流の日々、研究結果の発表の遅速による挫折感の話は身につまされました。
ひところNHKで放映された「プロジェクトX」などの製品開発物語とは派手さが違えども、開発海洋天然物化学を専攻されて研究に精魂つくす体験談は、産業界の機械・電機系技術分野とは違った「厳しい孤独との葛藤」があるように思います。
いい意味でも悪い意味でも多士済々のつわもの集団の中でもまれながら仕事の一部を担当するのとは違って、研究部門での仕事は自己の能力、たとえば「個人力」が要求され、文学者、作家、藝術家を連想いたします。

研究が役に立つかどうかという問題ですが日本が高度経済成長という高速道路へ乗り出した昭和50年(1975)に大手町の経団連会館で「組織と文化」という演題で、文化人類学者の梅棹忠夫が講演した。毎月一回の経団連クラブの昼食会に呼ばれたときのことで講演内容が後日「中央公論経営問題」昭和55年秋季号に「武と文」という題で記載された。梅棹忠夫は学者(大学教授を代表とした人文系も理数系も含めて)は「無為徒食の徒」だという。氏は「学問には役にたつものと立たないものがある」とも言っているが、そんなことがはたして前もってわかるのかどうかは、やはり疑問ではないか。
それほど人間は賢い動物ではないと謙虚なままが人間楽であると僕は思ってきた。いつも達観してきたほど自信はないが自分の思考能力を超える問題にあうと「役に立たなくてもよいぞ」と一休みした。気がついたら大過なく定年を迎えていた。
「論考」の後半では理論物理学の話、デカルト、ハイドンの話など多くの示唆に富むお話が紹介されました。僕なりに理論物理学の系譜を素人門外漢ながら考えてみますと、どうもノーベル賞を受賞した博士達が誰を「師」としていたか、しているかにふと思いが行く。素粒子の世界、目に見えない世界を構想しながら湯川秀樹は「老荘の哲学」と遊んでいたと思う。氏の著書にも荘子の「混沌」がでてくる。湯川秀樹のその時代の周辺には、日本に量子力学の拠点を作ることに尽くし、宇宙線関係、加速器関係の研究で業績をあげた仁科芳雄(にしな よしお、1890年~ 1951年)が居た。
仁科は湯川秀樹、朝永振一郎らの後のノーベル賞受賞者たちを育て上げた。湯川、朝永とともに日本の素粒子物理学をリードしたもう一人に、仁科の理化学研究所に籍を置いた元名古屋大学教授の坂田 昌一(1911年~ 1970年)がおり、多くの弟子を育てたのである。
坂田昌一は坂田学派と呼ばれる多数の弟子を育て、2008年ノーベル物理学賞を受賞した小林誠さん、益川敏英さんへとつながる。ノーベル受賞者の皆さんが、「日本の現代物理学の父」とも呼ばれている仁科へと繋がっているのは研究者の精神的風土・文化または気質のDNAが共通したところがあると考えても良いのではないか。
研究にしても社会の仕組みにしても指数関数的に進歩した「コンピュータという道具」にすべてが依存する世界になってきている。どこかが「故障」すると世界が止まるほど機械、装置に依存している。発明・発見の成果は恐ろしいものでうまく使いこなせないところが出てくるのが人間だとも考えられる。そのことを故糸川英夫は「世界の三悪人フランシス・ベーコンとデカルトとニュートン」が作った西洋文明だと著書に書いた。「知は力なり」の信条を持つデカルトが『論説』で紹介されていたように、より多くの人が理解しやすいように公用語であるラテン語ではなくフランス語で「方法序説」を書いたことがなんとなくわかる気がしました。
最後に、エンジニアの世界は最初は「ソリスト」になることから仕事を覚え、素質があるなら「指揮者」へと変貌していくのがこの世界では期待されているように思いますがどうでしょうか。
研究の仕組みの改善、政策その他課題は多いが、学問するなら役に立たない学問の方を僕はえらびたい。「論考」があらためて色々と「考えるヒント」をあたえてくれました。ありがとうございました。 2008年10月15日

* 思いがけず東工大に教授として就職することがなかったら、わたしの日録にこんな話題がこんなふうに登場することは無かったろう。就任した期間は辞令の上では六十歳定年までの四年半でしかなかったが、以来十余年、わたしは幸いにこの世界とこんなふうに繋がったままでいられる。単純に喜んでいる。

* 「仁」くんが一石を投じてきたとき、この問題は想像以上に厳しく、いままさに働き盛りのわが卒業生諸君から感想や反応を急いで求めることは難しいと咄嗟に感じた。一方年配の関係者からはお声が届くに違いないと思った。
現在、わたしの学生諸君からは、発言者をのぞき、共通して今しも大学で教職にあり指導者的な立場にある三人(女性二人)からだけ、声が届いている。企業で研究職にある人たちにも強い感想があるだろうが、それを適切に言葉に置き換えるのは容易でないのだろう。此処にも一つの「現実」が透けて見えるといえば言い過ぎか。
2008 10・15 85

* 来て欲しい人の声が届いている。東工大の教授室で歓談の頃から、この人の意志は明瞭で爽快ですらあった。古美術や古文献をあつかうときに不可欠な「糊」の研究成果はみごとだった。母としても妻としても、その日常はたびたび此処に送られてきて、わたしや妻を楽しませてくれる。

☆ ホームページでの討論、拝見しています。 馨
秦先生
ようやく晴れてきて、気分も少し晴れやかになる心持ちです。
先生のホームページ、拝見しています。
「仁」さんの問題提起、私もいろいろと思いは巡るのですが、私自身をふりかえれば、いろいろな意味で発言する権利がないように感じて、あえてお送りするのを控えました。
発言する権利がない、に少し説明を付け加えれば、私という人間が能力以上に恵まれ過ぎているという点に尽きます。
理系の大学に進学していながら、修士では歴史学の手法を学び、しかも学部・修士の双方の知識をまさに必要とする(生かせる)職種に就き、まだ博士号をとってもいないのに研究職として働くことが出来ていることです。独法で、比較的資金にも分析機器など設備にも恵まれていますし、今の研究スタンスだと学部の専門のように深夜まで研究室にこもらなくとも成果が出るという時間的自由もあります。にもかかわらず、特許を取ったりメディアに取り上げられたり、と成果にまで恵まれている。
さらに言えば、定職に就いている夫がいるため、いざとなれば仕事を辞めるという逃げ道すら用意されているのです。そして、上司が通常では考えられないくらい育児に理解があり、三度の育休をすべて1年以上与えてくれて、その分の仕事をひっかぶってくれました。
こんな私が研究者としての問題提起に足を突っ込むのは、あまりにも思い上がりではないか、とモジモジしているのが本当のところです。
ただ、「maokat」さんのお書きになられたの中の、「独法(=独立法人のことか)」というものが帰納的に先細りになってお取り潰しに収束する、という記載は瞠目しました。研究で採算を取れ、ただし取った分だけ予算は減らす、という我が職場でのお上のお達しについてはもう何年も前から胸につかえていたのですが、最終目的が研究所解体、と示されれば深く納得します。
その独法の中では、テーマ設定については確かに強い束縛があります。ハーバードの「雄」さんの文章にも発言者「仁」さんの文章にもテーマ設定という問題提起が含まれていますし、これは研究者として切実な部分であると思います。ただ、このあたりも卑怯で流されやすい私は、ごまかして暮らしてしまっています。お上が決めてくるテーマ設定の中をそっと探索して自分の興味の持てる題材を探し出して研究対象とする,という逃げ方をしています。自分の能力がこれこれでなければ生かせない、というほどに私は自分の存在が大きなものとは感じていないこともあり、正面切って対立するよりも、一見、受け入れたような形の中で、静かに自分が楽しめ、人様の役にもどこかで立ってくれるような部分を見いだしていけばいい、という子どものような態度を取ってしまっています。世の中、じっと様子を見ていれば必ずこの手の隙間が浮かび上がってくるものですし。このあたりが、京都の知人に「あなたは京都の飛び地」と言われる所以かも知れません。
研究者としては明確な目的意識があるべきなのでしょうが、私は自分自身が組織の、家庭の、歯車になることが苦痛でなく、その与えられた環境の中でひそやかに自分が楽しめればよいという程度に利己的です。能力相応以上に恵まれた人間だけがもつ傲慢さなのかもしれません。(もちろん、日々の仕事の中では小さな怒りを持たない日の方が珍しいくらいですが、社会というものがいろいろな価値観で出来ている以上、当然という程度の怒りですんでいます。)
修士の時の恩師は歴史学に数値分析を持ち込んだ先生で、統計的に見た数字からくっきりと歴史的事実が浮かび上がってくるという鮮やかな研究をされていました。この成果を授業で話された時、東大の数値計算系出身者が「先生の話は非常に面白かったのですが、これを外挿(ママ)してこれから起きることを予測したりとかそういう提言はしないのですか」と素朴に、でも少し非難をこめて尋ね
たことがありました。そのとき、先生は「面白い以外に何があるんですか(何が必要なんですか)」と返事をしたのが鮮烈な記憶となっています。
この先生に習ったこと、そして私の父が研究者であり「世の中、何がためになるかなどはわからない。自分が興味を持てることを着実に進めれば道が開ける」という考えの持ち主であったこと、などが私の考えをさらに裏打ちしているかもしれません。
つまり、私は研究を通してスポーツ的な功名を得るという発想を教えられずにこの年まで来てしまい、しかも「食う」手段として研究をやり続けなければならない、という現実的なモチベーションすら持たない状況に身を置いています。それでもやはり、研究を続けているのは、研究を通じて新しいことを発見した時のワクワク感、それを論文や学会で発表したときの達成感、成果を周りから有用だと理解して頂いた時の嬉しさ、などを素朴に楽しんでいるからだと思います。
ただ、こういうものを「素朴に」のみ楽しめる私の状況はあまりにも恵まれ過ぎていて、そんな私が研究者としての葛藤などについて言うのはおこがましい、というのが正直なところです。

研究の話はこのあたりで。また少し歌をお送りします。
歌を作るのは、日々を通り過ぎずにメモ書き程度にでも記憶にとどめたいという気持ちからはじまりました。子ども達の写真を撮る代わりに作っているような。
と、書いて気がつきましたが、このあたりにも文学を志すといった向上心などなく自分の便宜を優先してしまう私の性格が出てしまっていますね。

いつの日にも思い出づらめ半刻も月みる吾子を抱きゐしこの夜と  (十三夜の月見)
湯上がりの桜貝色子の耳に砂粒をのこし連休行きぬ
兄の積木の倒さるる音に泣く赤子(あこ)よ ゆめにも砲弾(たま)の音をな聞きそ

古典は読むばかりで文法をきちんと覚えたことがない(あ、このあたりも努力ギライの性格が…)もので、韻律がいい加減になっている自覚はあるのです
が、どう直してよいかわからず…。
歌を作る、と先生に申し上げた以上と思い、短歌のための基礎的な文法の本を読み始めたりしていますが、おかしい言葉遣いがあればご指摘頂ければとても嬉しく存じます。(下手な歌をあまり公にしないで下さいましね。)
またしても長いメールとなりました。
こういうメールを受け取って頂ける先生のいる幸せを、しみじみと噛みしめています。
裁判沙汰は心身を消耗しますし、生活をささくれ立たせますね。先生、くれぐれもお大事にされて下さい。

* わたしの就任した頃、東工大学生の男女比は13:1ないし11:1と聴いていた。その数少ない女性達にみな男子を凌ぐ気力があり優秀であった。それが楽しかった。
現在、研究という場を離れていても理系の高い教育を受けてきた人たちが(家庭を含む)さまざまな持ち場で果たせる「科学」性についても、「仁」くんは発言してくれている。歌を作り詩を書いて、科学編集者としても佳い仕事をしている女性を二人知っている。その声も、届かないだろうか。阪大にいるすこし若い女性研究員からも。
さらに期待したい、どなたであれふと立ち寄って下さった、この世の中の科学者、科学研究者から割り込んできていただけないものか。

* さらにさらにわたしの娘にも希望したい、イキサツからひととき自由に離れて、お茶の水女子大で哲学を学んだ一人として、こういう討論にもまたちがった立場から発言を寄せてくれると嬉しい。同じことは、いま創作者としてひた走っている息子の秦建日子からも、さらに先輩である甥の黒川創からも、畑違いは違いとしても発言が得られないものかと希望している。

* もうこの「私語の刻」で全容を読み返して貰うのは手順が煩わしくなった。
「e-文藝館=湖(umi)」の「論説・意見」室へも一括掲載してみる。発言の順に、そしてわたしの私語もそのまま繋ぎのために保留しておく。
ウエブの目次から、「e-文藝館=湖(umi)」(英字部分)をクリックし、ジャンル「論説・意見」室を開いて下さい。

* 「e-文藝館=湖(umi)」 論説・討論室
☆  大学の研究者が言わないような類の「科学」の話  「仁」 08.10.11  以下は、編輯者が東工大教授を務めていた頃の一学生「仁」くんから届いた「挨拶」に発しています。(あえて全て仮名にします。率直で忌憚ない発言を求めるために。但し編輯者へは、と言うより秦 恒平宛にはみなさん何方であるか明かされています。)
「挨拶」とはどちらの字も「強く押す」意味です。私の学生諸君は教室でも教授室でもいつも私の挨拶を食らっては押し返して書き続け語り続けていたのです。
「仁」君の挨拶は、此度は、いわば私という編輯者を結節点にして他のかつての同窓生やまた広い世間の研究者や科学者に投げかけられたものと理解して、此のホームページの私の「生活と意見 闇に言い置く私語の刻」を、願わくは「四通八達の交差点」に利用しようと思いました。日録のこと故、日が経つと討論の全容が一望しにくくなりますので、最初から予定したとおり、この「e-文藝館=湖(umi)」「論説・意見」室に、一括順次掲載することにしました。
どなたでも、自由に割り込んでご発言下さい。ついでながら、「e-文藝館=湖(umi)」の全容にもお目を向けて下さいますと本望です。(秦 恒平)
2008 10・16 85

☆ おはようございます、 風。
お元気ですか、風。
今朝の花は、洗濯・ゴミ出しと、忙しかったですよ。
外はスカッと晴れています。
郷里に比べて、富士山の高いここはあたたかく、特に、きのうは暑かったです。
風は、今日も発送準備に励んでいらっしゃるのでしょうか。
それにしても、バナナが入手困難ですねえ。
ダイエットにいいと、メディアで紹介されたせいとか。
ではでは、風。発送準備の進み具合、体調など、お大事に。 花
2008 10・16 85

☆ みづうみ  秋の
お元気ですか。
相変わらず出入り激しく過ごしています。色々なことでプンプンしながらも元気です。
みづうみは京都で美しい曙をごらんになりましたごようす。羨ましく思いました。お泊まりのホテルに泊まりたいと思うものの、ちょっと怪談めく噂も洩れ聞いたりします。歴史のある都にはこの手の話はあって当た前。是非一度東山方向の部屋からみづうみが奥様と味わう三十六峰の曙を眺めてみたいものです。
湖の本の発送が始まりますのでしょうか。百冊にも届きそうと伺うと気の遠くなる思いです。質量ともに充実した偉大な歩みにご尊敬の念を新たにするものです。
読ませていただくほうは嬉しいばかりですが、毎回のみづうみの肉体労働を想像しますと、複雑な心境です。どうぞご無理はなさいませんように。
毎日「私語」の編集をしながら、この作家の大いなる幸福の一つは湖の本の読者のような、大変レベルの高い読者層を得ていることであろうと思い続けていました。(私の例外はさておいて)
今日はお稽古でした。谷崎も愛していた地唄「残月」を舞っています。夭折した弟子を偲んで作られた曲だそうですが、しみじみと名曲を味わう喜びおわかりくださいますでしょう。

磯辺の松に葉隠れて 沖の方へと入る月の
光や夢の世を早う
覚めて真如の明らけき 月の都に住むやらん
今は伝てだにおぼろ夜の 月日ばかりや巡り来て

「残月」峰崎勾当作曲  作詞不明

曲の聴き取りが難しいのですが、「残月」がお稽古できるようになったことだけでも、進歩であります。十一月には名取式。心しずかに迎えたいものですが、あんなことこんなことで当分騒がしいのでしょう。たまには誰かに慰めてもらいたいと甘え心が顔をのぞかせるのですが、そんな奇特な人はいません。ため息。
みづうみからメールいただくのをとても楽しみにしばらく過ごします。どうぞお元気でいらしてください。

* 椿山荘での結婚式に出た昔の学生君が電話をくれた。この人も論客であった。きっとメールをくれることだろう。

☆ 雀です。
「三輪神社で写典ていうのしてみたい」と言う友人がありまして、お参りにでかけておりました。
冷やそうめんとにゅうめんがメニューにならぶ夏日続きですが、黒ずんだ〆縄やちぎれかかった勧請縄に年の残りを感じます。
明日は卯の日。大神神社でも狭井神社でもご病気の軽減をお祈りして、展望台で山々の気に浸って帰ってまいりました。
月光と澄んだ空に、邪鬼が退散しますよう。少しでもおすこやかな毎日でありますよう心よりお祈りいたしております。囀雀

* ありがとう。
汀なす蘆のさゆれの湖雀 囀りきかな秋のうれひに  遠

* 讃岐のお人に、それは立派な熟れた梨を頂戴した。有難う存じます。

* 京都博物館の館長さんだつた興膳宏さんから、新刊『中国古典と現代』を頂戴した。感謝します。

* 奈良県の永栄啓伸さん(近代文学会会員)が、皇学館論叢に『秦 恒平「初恋」論 ─ 連鎖する面影のなかで ─』を書いて贈って下さった。有難う存じます。
『初恋』(原題『雲居寺跡』)という作品は、手頃の中編ということもあってか、よく話題にしてもらえる。亡くなられた河上徹太郎先生は雑誌に発表するとすぐ頷いて下さり、同じく亡くなられた宮川寅雄先生も、単行本になったすぐに「あの作、たいへん有り難かったです」と仰りビックリしたが、京都の河野仁昭さんも熱心にあちこちで紹介して下さった。萬田務さんも批評を書かれ、原善君も早くに詳細に論じて呉れている。永栄さんの今度の論はまた切り口が新しく、相当の長編で。有り難いこと。
2008 10・16 85

☆ よろしければ…  笠 e-OLD千葉
秦さんへ  ご無沙汰しております。ほぼお元気そうで何よりと桜の中の秦さんを眺めています。
『‥「科学」の話』のメールを戴き恐縮です。『e-文庫・湖(umi)』の当初、場違いのおじさんにもお誘いを受け困惑したのを思い出します。連日第一線の方々のご意見が行き交い、工学部というのはすごいなあと拝見しています。殆ど分かっていないおじさんは黙っていればいいではないかと思っていたのですが、ことによると、どなたかこの『闇に言い置く』の「週間こどもニュース」的な解説をしてくれるかもしれないと考えました。
無駄と云えば世の中の殆どは無駄だと思うことがありますが、それがあるのはきっと何かわけがありそうですからそれでいいの
だと思います。ロールプレイングゲームは来春「ドラゴンクエストⅨ」が出るので楽しみです。やはり場違いでごめんなさい。急に涼しくなって来ました。どうかくれぐれもお大事にしてください。 拝

* 秋の展覧会も特別心惹くものがない。街の秋色に目をやっている方が落ち着く。

☆ 秦先生・奥さま  讃岐
お心のこもったお便りありがとうございました。
梨の季節になりますと、やす香さんが思われます。
梨と、それからミカンも・・、と「おじいやん」と「まみい」に願われたやすかさんのことを思い出すと、今でも泣きそうになります。
あれ以来、梨は、『永訣の朝』の「あめゆじゅ」や、 『智恵子抄』のレモンと同じ、清らかで純粋な永遠の食べ物に思えています。
当地にも、おいしい「幸水梨」があるのですが、直売所が見つけられないうちに時機を逸しています。
「新高」は、硬くて、甘みももう少しなのですが、とれたて、というところに免じて、お許しをいただいています。
でも、あのとき、高野で求められたのも、あの季節から考えると、長期保存できる新高系であったのかも知れないなあ、と思ったりもしています。 ワレモコウや、ナンバンギセルのその後をお知らせくださりありがとうございます。
来年、ひょっこり咲いてくれること期待しております。
ワレモコウは、うちに置いておいたのは、とっくに枯れてしまいましたのに、大切にされて幸せだなあと思いました。
先日行きました山歩きで、刈田のあぜにツリガネニンジンとワレモコウがいっぱい咲いているのに出会いました。あいにくの雨も幸いして、少し倒れそうになるくらいしっとり露を含んで、薄紫とえんじ色とが混ざり合っていました。
野の花は、やはり野で見るのがいちばん美しいように思われます。
それから、磬石(サヌカイト)のこと、うれしく、また不思議な気がいたしました。
先生のお作の人物の名前と、母の名前が同じであったのを発見したときはびっくりしました。めったにない、それも、母の父が自分が発見した石の名にちなんで名付けたという名前です。今まで、同名の方には一人も出会っていません。
たいへん驚き、失礼を顧みず先生との因縁をさえ感じました。
母の父は、真宗興正寺派の僧侶で、京都の霊山にしばらく住んでいました。母も小学校から、女学校卒業までを京都で送り、同級生に千さん(塩月弥生子さん)がいるのを自慢にしています。
祖父は、その後間もなくなくなりました。
声明の研究家であったようで、名を知る人もあったようです。
最近になって、大原宝泉院のご住職が、声明関係から祖父のことを知られ、母のところに来られたのだそうです。そのときにサヌカイトをお注文くださり、母が大喜びで制作をしていましたことを思い出します。
その後も、何かとお便りをくださるようで、今もご住職のお軸を飾らせていただいているようです。
そんなこんなのご縁で、先生にたたいていただいているサヌカイトですが、それがまあ、大原でまた先生にめぐり会って鳴らしていただいたとは・・・。
母にこのことを知らせましたら、たいへん喜んでいました。
不思議な出会いをお知らせくださって、ほんとうにありがとうございました。
百舌が鳴いて、山では栗がひっそりと実を落としています。
秋が深まり、「霜降」も間近。
お風邪をめしませぬよう。

* 心温かな世間もある。有り難いこと。

* さ、気を変えて、明日からの発送を。
2008 10・17 85

☆ 科学の話ではありませんが。 京 バルセロナ
恒平さん
視点の異なる人たちの意見が二つ三つ加わるだけで、どんどん話が面白くなってきますね。どんな反応が聞こえてくるか、毎日興味津々「闇」を開きました。他人に期待しておきながら自分はだんまりを決め込んでいる、いつもの「mixi」の無愛想さでは、ちょっと済まされないものを感じますが、自分の考えが口を突いてくるほど纏まらないのも正直なところです。相変わらず、一度に入ってくる情報があまりに多いのですよ、「仁」さんの話には。
東工大は出たけれど、科学や研究者の話になると途方に暮れます。バイト以外の私の就いた職は、バイクのサスペンションを製造する日系企業の即席通訳と、現在の事務職。仕事が人生の中心なら、私の七年半の大学生活は、まるまる「無駄」と言えるかもしれませんし、大学の学問を最重要視するなら、私は人生の挫折者と言えるかもしれません。が、私はそのどちらとも思っていない。
私にも、東工大を出て例えば証券会社に勤める人に、東工大を出た意味を問うた時期があり、「工業大学は出たけれど・・・」と自らを嘲笑する時期もありましたが、三年前受けた企業の面接で、学歴と職歴の不協和音を指摘された時、いつの間にか、東工大を出て証券会社に勤めたっていいんじゃないか、と考えている自分に気がつきました。「無駄」を許容できるようになったんですね。
「仁」さんも昔は、根底では「無駄」な雑学の推進者でありながら、常に人生への悲観を口にしている学生でしたから、若手研究者が《不思議なくらい自分の人生設計を考えることに絶望している》のは、それだけ余裕がないからではないでしょうか。みんなどこかで「無駄だって必要」と思っているに違いないのです。それを確信もって公言できるのは、無駄も報われることを知っている、自分の「今」を肯定できる人なのかもしれません。

「国家国民のための研究」

以前これについて書かれていた「司」さんには申し訳ないのですが、これを聞いて私が連想したのは、「軍国国家の秘密研究機関で生物兵器を開発している研究者たち」でした。「国家国民のため」という言葉は、分かりやすいようですが、とても分かりにくい。みんなそれぞれ様々な方向を向いて生きているのに、この言葉によって、突然一括りにされ一方向に向かって前進しているような錯覚を覚えさせられるのです。
その実、どの方向に向かっているか分からない。友人を見て、同僚を見て、家族を見て、自分の周りを見回して、果たして私たち、そんなに同じ方向を仰いでいるでしょうか。自分のためになることが妻のためにならなかったり、同僚の利益が自分に不利益を生んだり、良かれと思ったことが相手を怒らせたり、世の中そんなことだらけだと思うのですが。
この言い様にひっかかる理由は、もう一つ、私の仕事上の経験が関わっているからかもしれません。今は裏方の仕事に移りましたが、 4年前まで、海外で盗難にあった人や、お金の足りなくなってしまった人をアテンドする職にいました。呆然として日本の住所も思い出せない人、憮然としたまま一点を見つめている人、わなわな震えて泣き出す人、やり場のない怒りをぶつけてくる人、色々な人がいました。その中に数は少ないのですが、威張り散らす人がいました。自分は被害者だから、困っているから、何から何までお膳立てしてくれて、出費も代りに被ってくれるのが当たり前と思う人。自分のやるべきことはむろんやらずに、何でも他人に責任を押しつける準備があるのです。そういう人の決まって口にする言葉が、「日本国民が困っているのに」でした。
この言葉、実際言われてみるまで気づかなかったのですが、会話の途中で突然言われると、本当にびっくりするものです。そして面白いことに、私は今でも覚えているのですが、「日本国民が困っているのに」というセリフのもとにお金を借りに来た4人のうち、4人全員が、二年経っても三年経ってもその返済をしていない。彼らの借りたお金こそ「日本国民」の税金なのに。
「司」さんは恐らく、私の見た人たちとまた対極にいる人々を見て、「国家国民のため」という言葉が口を突いてきたのだと思います。ただ「国家国民のため」という言葉は、もっともらしく聞こえて、実は責任や目的を明らかにしたくない人たちに利用されやすい言葉でもあることを、意識していたい。
自分のやっていることが税金で賄われていることに気付くことは、とても大事なことです。その上で、基礎研究など「国家国民」に囚われずに研究してもよいのではないか、ボストンの「雄」さんのような研究者に任せてもよいのではないか、と私は思っています。  「雄」さんの《しかし、その価値判断は、傲慢とも取れるだろうが、どうか研究者にお任せいただきたい。》に、私は彼の研究に対する強い覚悟と責任を感じるのです。

科学や研究とは随分反れた話になってしまいました。
毎晩時間切れで、気が急いたりもして、もう一つ書きたいこともあったのですけれど、今回はこの辺で。
金木犀や吾亦紅の話を聞くと、日本がとりわけ懐かしくなります。先週は母から「秋刀魚一匹78円」の話など聞き、遠くの秋をますます感じています。恒平さん、迪子さん、どうかくれぐれもお大事にお過ごしください。 京

* 「笠」さんや「京」さんの声で、話題が少し広く寛いだ場へ動いた感じがする。科学とも研究とも自分はいまのところ関わっていないと感じる人も、畑ちがいと感じる人も、「国民」「税金」ということになるととても無縁でない。そしてまた思いが湧くかも知れない。
この六月五日付け「司」くんの一文にわたしはあえて意見を付さなかった。「これは、注目する人があるだろう」とだけで。容認にも否認にもいろんな手がかりを含んでいると思い、しかも門外漢のわたしがモノをいうより、もっと適切な発言者がわたしの近くには大勢いると感じていた。
2008 10・18 85

☆ さて、おかしな日本語だったようでごめんなさい。
ファイルは添付しておりませんでした。
でも、秦さんから直接メールをいただけて何よりうれしいです。
鶯谷駅前の蕎麦屋(公望荘)へは何度か行っています。店が休みの時は駅構内の立ち喰いそばやで我慢します。その二階席からは電車の行き来するのが見えてちょっといい気分です。またひょこりと。
パソコンが不調で難渋していますが、「維摩経ノート」も作ってみました。よろしかったらちらっとだけご覧ください。
http://www.cc.rim.or.jp/%7Ekatsuta/yu/yu.html
「阿弥陀経ノート」も表紙をつけました。
http://www.cc.rim.or.jp/%7Ekatsuta/a/ami.html
陽気の変わり目はお年寄りの体調が乱れ気味で、医療の現場はきびしいです。(人のこといえませんが。)
どうかくれぐれもお大事にしてください。 笠e-OLD 拝

* 上の「笠」さんの『維摩詰所説経ノート』は、信じがたいほどの有り難い労作である。冗語を挟まない、その冒頭を「e-文藝館=湖(umi)」の「人と思想」室に掲載した。御経が、どのように「読まれ」うるか、どうかその頁を開いて感嘆・称賛されたい。
このホームページの目次から、「e-文藝館 =湖(umi)」の英字箇所をクリックされれば、ジャンル「人と思想」の中に容易に見付けられる。経文の文句がみごとに表覧にされてある。文句原文も、読みくだしも、現代語訳もきれいに表覧できるのである。わたしの力の限り紹介させて頂く。『阿弥陀経ノート』も。
なんという高邁で有り難い労作であるか、言葉もない。
2008 10・18 85

* 三時半。一休みに機械の前へきたら、「花」のいつものメール。
2008 10・19 85

☆ 秋の生りもの 2008年10月19日21:04   馨
最近、ホントは通り抜け禁止の切り通しを通って、近道して帰って来る我がムスメ。
通行禁止の理由は落石らしいのですが、その実その心配はほとんどなく。しかし、数十mほどとは言え、完全な古道の山道になるので、変質者など防犯の方が心配。
と、いうわけで「どうしても通りたい時は電話しなさい」と言ってあります。
電話がきてすぐに家を出るとちょうど切り通しを越えたところでお迎えできるので、そのままもう一度切り通しを通り直して来た道を帰ってきます。
先日は、その切り通しを越えてすぐのところに住むお友達が遊び来てくれ、その送迎に一日に2回、山越えすることに…。大した距離ではないのですが、舗装してない坂道を一気に上り下りするので、スリングで、7キロの赤ん坊を抱えた身にはいい運動になってしまいます。
お友達を送って帰って来ると、切り通しに入る直前の地面の上にごろんと茶色いかたまり。・・・・これは!!  アケビ!!
「わー、アケビだ。蔓はその辺にいっぱい見かけるけど、実は時々しか見ないよねー」と言っていると、上を見上げた娘が
「なってるよ!」
頭の少し上に、あけびが5、6個ありました!
取るぞー、取るぞー、久しぶりにアケビ食べたい~。 前のうちの近くになっていたのは、人目を気にして取れない場所だったもんね。ここならよじ上って取っても人目につかないし!
赤子もろとも枯れ葉まみれになりつつ、取りました、大きいアケビ一つ。うふふ。娘と種の周りをかじりかじり種を捨てつつ山を越える親子二人(+赤子)。こんな姿、誰にも見せられません。ホント引っ越してよかった!!
そうそう、アケビって、柿の味がすると思うのは私だけかしらん。強烈に甘くて、香りは不思議と柿にそっくりだと思うのですが。
先週は、ご近所にザクロの木を見つけました。娘に、以前から鬼子母神の話をしていてザクロの話を聞かせていたのですが、実物はようやく教えられました。昔はごときおり見かけたのですが、最近はとげのある木は嫌われるのか見かけないですよね。
そのお家の前で少し離れたところにある椎の実をかじりつつ、カタツムリや死にかけの蜂を覗き込んで子ども二人が遊んでいると(注:さすがに私は椎の実はかじってません。皮もちゃんと回収)、中からお家の方が出てきてしまいました。
声をかけられて「ごめんなさい、ごめんなさい、息子がカタツムリが好きなもので、しかも娘がザクロを気にしてしまって…」と謝ったのですが、親切な方で「ザクロ、一つお持ちになりますか?」と、取って下さいました。
家の前に居座った挙げ句、本当に申し訳ないです。
親切なご近所さんに頭が上がらない毎日です。
夏に幻想的な花を咲かせていたカラスウリは、雌株は一本だけだったらしく、お隣の家のそばでいくつもまっかな実がなっています。これもまたこのあたりの子ども達のおもちゃになり、この前は一個100円です、とへたくそな字で札が立っていて売りつけられるところでした。100円か10円か1円だそうです。違いはなぁーに?
カラスウリって、長いこと烏瓜だと思っていましたが、唐朱瓜と書くのだそう。納得!!
唐朱って、辰砂だとネットでは書かれていますが、色としては鉛丹に近いような。
蔓植物は突然と顔を出すので面白いですよね。裏山にもムカゴが実りはじめています。
赤い実をつけた蔓はここの裏山で初めて見ました。こちらはヒヨドリジョウゴというのだそう。
ご近所から新米やリンゴのお裾分けも。本当にいい方達ばかりで感謝の気持ちでいっぱいです。
実りの秋ですね。

* すばらしい。い~い気持ちの秋心地。
2008 10・19 85

* ほぼ予定した全部を送り終えて、これから手の届いていなかった追加分を用意して送り出す。

☆ 能率良く 08.10.20 15:17  花
お仕事なさったようですね。
ご本、届きましたよ。うちの郵便は、夕方四時くらいに配達されていると思いましたが、正午くらいに来ていたときもありました今回のは、厚めですね。重かったでしょう。
楽しみに、読みます。
お元気ですか、風。
今度の土曜は、学生時代の友人の結婚披露パーティーが、新宿であります。日帰りする予定です。
十一月の最初の三連休は、夫のいとこの結婚式が横浜であるとかで、関西から義母が来ます。前日に、箱根で紅葉を見たい義母を連れて行きます。混雑しそう。
ではでは、風、腰をギックリしないように。花も気をつけます。

☆ 湖の本  郁
エッセイ45拝受いたしました。有難うございます。面白そうな内容ですしっかりと読ませていただきます。明日から留守にしますのでもうしわけございませんが入金がおくれますがご容赦くださいませ。
今朝ほど水野さんから電話をいただき 湖の本が届いたのを喜んでられました。そして阿部さんと連絡が取れたので秦恒平先生とお会いできれば幸せです。と申されていました。阿部さんもあちらこちらと旅行されておられるそうです。先生のご都合にあわせますのでとのことでした。
先生は超お忙しいかたなのでともうしておきましたが いかがでございましょうか?
私はお会いしたいのはやまやまですが恥ずかしいです。 どうしてでしょうか?
やっと私ももとに戻りつつありまして コスモスなど描いたりしていますが。 小手先ばかりではないみとうしをつけねばと思っております。
どうぞくれぐれもご自愛くださいませ。

☆ 湖の本拝受  藤
秦恒平さま 湖の本、本日到着いたしました。ありがとうございます。
しおりにお書き添えいただいた「一篇お送り下さいませんか」にドキッと。
ずっと種切れ状態のようになっていて何も書けなかったのですが、ふとしたきっかけで、前々から気になっていた母の実家の思い出を添付のような文にまとめいたところでした。
読んでいただけばわかりますが、母の実家はすっかり形を失いました。母の弟妹も次々に他界してしまったた今、たまたま疎開という形で母の実家で数年を過ごした私のわずかな記憶も貴重になってしまいました。
没落してゆく家を書いた文学作品はいろいろあります。それらとは比べようもないささやかなものではありますが、失われて行ったものや人への哀惜の念には変わりない気がします。
書き始めたきっかけはテレビ番組ですが、途中で行き悩んでいました。この九月始め「南フランス・ミラノの旅」というツアーに参加して息子と共にとても楽しい経験をしたのですが、帰って来てから急に続きの筆が進みました。
未熟なものですが、声を掛けていただいたのに勇気を得て送らせていただきます。読んでいただければ光栄です。

☆ 仙酔島  碧
いいお天気が続くので先週金曜日、思い立って福山は鞆の浦まで日帰りで出かけました。
お昼にはお蕎麦を食べるつもりでしたが、団体さんで貸切、一時間はかかるといわれ、向かい側の仙酔島に渡りました。瀬戸内海国立公園記念切手の第一号となった場所だそうです。
国民宿舎二階の食堂で海を眺めながら「瀬戸内御膳」鯛のかぶと煮をいただきました。魚のアラ煮きは苦手なのですが、思い切って口にした途端、なんと美味しい! このかぶと煮目当てに訪れる客も多いというのも頷けます。
食後、少し海岸を散歩。鞆の浦に戻って、朝鮮通信使の定宿だったというお寺から「日東第一形勝」なる眺めをゆっくりと。

* 鯛のかぶと煮、大好き。ウーン羨ましい。下関からは、すぐだもんなあ。
2008 10・20 85

* 「科学・研究」討論にさらに二人の論点が加わった。
一人は行政官僚である「司」くん、一人は民間で異色を発揮している「皓」くんの、それぞれに誠実な、刺激的でもある発言が加わった。
じつを言うと、ハーバードの「雄」くんから長文の、よく纏まった所感が届いたのだけれども、わたしにも理解できる現在只今彼のために私的に微妙な影響を考慮し、あえてわたしはそれを掲載しない、少なくも当分時機を遅らせたいと判断した。当然、彼にもそれなりの配慮が適切に有ることと思っている。

* では二人の「挨拶」を聴きましょう。

☆ 秦先生 HPでの議論、読ませて頂いています。  司
読むたびに、色々な事が頭をよぎり、なかなか整理することが難しく困っていました。
何より、自分は東工大という恵まれた環境で学ばせては貰いましたが、常に周りの(勉強が出来るという安易な意味でない)色々な優秀な先輩や友人たちに引っ張られながら、結果として今の職場でも働かせて頂けるという思いがあり、そういう私が何か言えるような事など・・・という思いが強くあったこともあります。(謙遜じゃありません! 本当にそう思ってい・・・)
ただ、事実として今こういう仕事(=某省本庁・役職)をしている以上、責任として何らかのご挨拶をしなければいけないとも思い、一つの区切りとして私なりに自分の思いをまとめてみました。
ここに書いていないことでも、もちろん私なりに思いの有る点は沢山ありましたが、あまり色々な事を書き始めると、自分でも何を書いているのかよく分からなくなってしまうので止めました。
MIXIもあまり肩を張らずに気軽に少しづつ更新できるようにしたいと思っています。
それでは、挨拶します。

総じて、やっぱりなかなか私がしっくり来ないのは、「研究者(官民の別なく)の方々は、何のために研究をされているのでしょう?」という疑問にぶち当たってしまうから、かも知れません。
研究者の方の意見を聞いていると、「日本の科学技術力の向上」、「若者の理工離れの歯止め」という様な社会性のある話の一方で、「研究の先を越された」、「研究予算が取れなかった」、「就職先が無い」という様な個々人の話題についても言及されることが多々あります。
私にとっては、この辺が違和感の理由ではないのか、と勝手に解釈しています。誤解を恐れず言えば、プロスポーツ選手が「社会貢献の為に頑張っています」と言っている様な感じかも知れません。もちろん、プロスポーツ選手の競技とは別の社会的な活動を色眼鏡で見ているわけではありません。
研究者には、大まかに謂って次の様な方が居るんだろうなと、私は、思っています。
自分の研究が他人(ひと)のより秀でていたり、他人がやらない事であったりする事に「目的」を見いだす人と、
人類の為に、社会の為に役立つ一つの行為として研究というものを進めている人と。
いずれにしても、研究者自身がやりたいと思った事をやっていることに変わりは無いのでしょうが、「同じ結論」を導き出したとしても、前者の方は「その人自身の成果」にこだわるのであって、後者の方は「誰の成果でも良いから」ということになるでしょうか。
極端な例えであることは承知の上です。また、もちろんのこと、一人一人の研究者たちが、ほぼこの両面を持っている事がほとんどだと思っていますが、ただ、私の出会った研究者の方には、明らかに前者に軸足をおいている例が多かった様な気がします。そういう方達と色々なやりとりをした中で実感したのは、研究者は総じてこの前者と後者の使い分け(意識の使い分け?)が下手だなぁという思いです。それが多いのです。
研究予算の要求書の中で、たたき台は研究者自身で作る事例がありますが、それらを見ていると、明らかにどこか他でもやっていそうな研究内容と被(ダブ)っていることがあります。もし、何らか成果を世の中に出すのが目的であれば、他の研究者たちとも協力しながら、彼自身の役割(すなわち我が研究機関の役割)として、これだけの効率的な投資をして欲しい(=予算をつけて欲しい)と、本来はそう書くべきなのですが、なかなか納得して貰えません。
ほんの一例ですが。履歴書から見てその人のしてきた研究内容とは少し逸れるのを承知の上で、でも、こういう研究をしてくれませんか? と研究機関の人事採用者が問いかけている、そういうことも、まま、有る。採用されたければ“やってみます”と答えてくれれば良いんですが・・・・研究実績や能力には全く問題ない方でしたが、結局採用されずにどこかの大学研究室(どういう所属なのか分かりませんが・・・)に戻っていかれました。
ウソをついて欲しいとまでは言いませんが、本当に研究を続けたいのかと思う事が結構ありました。
研究者の世界には私も良く分からない部分が多いのですが、他の分野を例に考えれば、例えば(私の学んだ)「建築」の世界も似たようなものか知れません。
世の中の為になると言って大層な設計をする人がいますし、地元の方々と何の儲けにもならないような街づくり協議会に、夜な夜な通ってきてくれる建築家もいます。機械的な設計を沢山こなして生計を立てている人もいれば、貧しい生活をしながらもただ自分のやりたい建築だけを追い求め続けている人もいるでしょう。
ただ、建築の世界が、研究者の世界と違うのかなと思えるのは、そういった建築の専門家(設計や街づくりに建築士の仕事として取り組んでいる狭義の建築専門家)を取り巻く人達にも、じつは建築を専門としている(していた?)人や理解している人がとても多いことかも知れません。様々な「広報」関係に携わっている人のなかに、もともと建築に関わっていた人がいたりします。「行政」の世界にも建築出身者は沢山います。そういった人たちは、日常的には建築と無縁の仕事をしていることも多いです。建築出身で、様々な方面で活躍されている方は沢山いますよね。
私も思うのですが、大学での専門研究の内容は、今の日常に、ほぼ、なにも役だっていません。たぶん、他の方々も同じじゃないでしょうか。でも、やっぱり建築なり、街が好きで、自分自身にはそういう才能は無かったけれど、世の中の素晴らしい建物や街は一生懸命PRしたいと思うし、そういう建物や街が増えていって欲しいと思う気持ちは常にあります。とくべつコレという具体例があるわけでは無いのですが、色々な場面で“建築を職業とする人たち”を“建築を専門としていた人間”として何とかフォローしてあげたいと思ってしまいます。恐らく、他の方々も同じではないかと思います。

研究者、という定義はどういうものか分かりませんが、研究者に近い方を仮に「博士号取得者」とするならば、少なくとも行政の世界(研究機関などを除いた狭義の意味での“行政”)には(科学技術系の(ただし、医学系は除きます))博士号を取得した方はほとんどいないように思います。
国会議員にも、物理や化学で博士号を持った人が、いや、物理や化学を専門としていた人でさえ、どれくらいいるでしょうか。単に私が知らないだけであれば、大変失礼な話で申し訳ない限りなのですが、少なくとも私はそういった方々が、日常的に新聞や議会等で科学技術に関する話をしているのは、ほとんど聞いたことがありません。
もちろん、議会や行政などの世界に飛び込まなくても。例えば、研究者の方々が様々なジャンルを飛び越えて、一団となって、(継続的に)何か社会的な活動やメッセージを発し続けている例って、あるのでしょうか。
研究者の方々が世の中に全く役に立たない研究をしているとは思っていません。ただ、もっと研究者自身、もしくは研究者を支援する人たちが、例えばパトロンである国民の気持ちをグイッと掴み取るくらいの気持ち(気合い?)で色々な活動をし続けないと、“頑張って研究をしているから見て下さい”では、此処でも言われている様な問題はいっこう解決に向かわない様な気がします。
なぜなら、少なくとも今の私の気持ちとしては、基礎研究の予算をつける位なら、もっと良い街や良い建物が日本の国に沢山できて欲しいと、そういう街や建物で国民が生活できるようになって欲しいと、そう思うからです。

自分の事を棚に上げて書いてしまいました。相当、自分の事に目をつぶって、書き進んでしまいました。恥ずかしい限りです。
振り返って、自分はどうなのか?
前に、マスコミの方と話をしたときに言われたことがあります。
そんなに世の中の為になっているという自信があるなら、どんどん新聞やTVに出れば良いと。官僚がどれだけ良い仕事、世の中の為になる仕事をしているのか、新聞やTVを通してアピールすれば良いではないか、と。そういう希望があるなら俺に言ってくれ、と。
いや、無理です・・・・って。
そのくせ、自分たちの仕事を確保するための“色々な活動”には一生懸命です。
新聞やTVに直接アピールする程では無いけれど、自分の中では「国民の為になっている」と思い、自分の担当事業の予算要求をしたり、事業をきちんと進めない公共団体を叱ったり(!)・・・・・
たまたま、行政というカテゴリーに属していること、建築というカテゴリーに属していること、そしてそういったカテゴリーが持つ社会的位置付けみたいなものが後押ししてくれるから、私自身が何か動かなくても、自分は自分の思う様に仕事を進めているだけで前に進んでいく・・・みたいな。

あぁあ、結局行き着くところはこういうところなんです。こうなると、これまで書いてきた内容が凄く上辺(うわべ)だけの様な気がしてきてしまい、後悔し始めてしまいます。
ただ、1つだけ(自分の事を棚に上げずに)言えることがあります。
今回のノーベル賞に際して、官房長官が、「基礎科学こそ、国が戦略的に政策とすることも含めて、しっかりバックアップしなければいけない」と言っていました。新聞紙上でもこういった論調は結構ありました。
これは「違う」と私は思いました。
新聞紙上で科学記者が言うのはいいです。科学技術担当の文科省の役人が言うのでもいいです。でも、国全体を見なければいけない官房長官の言う事じゃないんじゃないの? という気がします。
例えば、この間大阪であった火災の様に、一晩1,500円で個室ビデオ店に泊まれる日が月に2,3回しかない人たちを目の前にしてそんな事が言えるかどうか。
どこかの世間知らずの知事が「一晩200~300円で泊まれる宿なんて山ほどある」って言ってましたが、そんな宿、有るわけ無いんですが、仮に、仮にです、一晩200円だって毎日泊まれば月6,000円です。月に6,000円も出費出来ない位困窮している人たちが今の日本にどれだけ大勢いるのか。そういう人たちが目の前に沢山いるなかで、「基礎科学こそ重要だから、税金をつかってバックアップしなければいけない」なんて、官房長官が断言したらいけないと思います。
予算が付くかどうかでポイントになるのは、施策の重要性ももちろんですが、「優先性」もとても重要です。なぜ今やらなければいけないのか、なぜ他の施策より優先されるべきなのか。きちんと説明しきれていないかも知れませんが、要求説明資料を書くときなどには、私は、明日の食事に困っているような方たちを思い浮かべながら、そういう人たちに面と向かっても説明できる事を書こうとします。
税金から予算を貰って仕事をする、というのはこういう事だと私は思っています。
少なくとも、研究予算には、こういう観点が無いと感じます。
「研究には無駄が必要だ」と。実態は確かにそうかも知れません。でも、その無駄の為に使われた予算を、今日明日の食事に困っている人に、今日泊まるところに困っている人に使えれば、そういう人たちが半年でも、いや一日でも栄養のある食事、お風呂に入って布団で寝られる事ができる、という想像力さえあれば、きれい事として「無駄も必要だ」とは、少なくとも税金から給料を貰っている人は言えないはずです。
物理学賞をとった益川教授がインタビューで「大変な予算を国民からいただいてやってきており、成果は還元しなければと思っている」と答えられているのを聞いて、とてもとても嬉しく思いました。
国民が一所懸命働いたお金を使って「研究」をやっているという、そういう気持ちのあるのが嬉しかった。たぶん、益川教授は「無駄が必要だ」とは、言わないと、思います。

* 学生時代から「司」くんのことを秦教授は「栗」ちゃんと思っていた。人間さまを、「二」種類に分けてみてごらんと「挨拶」した日、学生諸君は山のように面白い二分別例を提出してくれた。感心した。
わたし自身は、ときどき、一例として「栗」タイプの人と「柿」タイプの人がいるなあと考えている。栗の実と柿の実との「実」の感じにそんな大差があろうとは思わないが、ちがうことはハッキリちがう。「司」くんの美点は「栗」ちゃんだと思ってきた。わたしは栗も柿も大好きである。

* さてもう一人の「皓」くんは、挨拶の強手だった。合気道の全国チャンピオンですらあった。この人の結婚式にもわたしはよばれて行った。

☆ 秦先生、先日はお電話にて失礼致しました。  皓
お話いたしましたように、今月末に引越します。引越し先の住所は、(省略)です。よろしくお願いいたします。

それにしても、盛り上がっていますね。遅ればせながら、東工大の卒業生として、「科学」については、あまり書けないのですが、私なりの視点で少々書かせていただこうかと思います。
簡単に経歴を申し上げますと、私は、東工大の修士を出た後、企業で害虫駆除の研究をし、その後、スペインの文化を学ぶために一年スペインに滞在、そして、現在は、製薬企業で医薬品の開発をしています。
ほとんど前置きもなく「質問する」のもどうかとは思いましたが、冗長になるのは避けたかったので、質問からさせていただきたいと思います。
さて、「あなたは誰ですか?」という問いに、「仁」さん、その他の方々は何と答えるのでしょうか?
「科学者」なのでしょうか、「日本人」なのでしょうか。両方かもしれません。
私も、両方かもしれませんが、その前にただの「人」だと思っています。
私もかつては、ノーベル賞を受賞するような研究がしたいと思ったこともあります。科学者を目指す人なら、皆、一度や二度は思うことでしょう。しかし、今考えるに、何のためにノーベル賞が欲しかったのか。地位や名誉だったのでしょうか。お金でしょうか。もしくは、ノーベル賞級の人の役に立つ仕事ができれば良かったのでしょうか。日本国民のために、ノーベル賞を獲りたかったのでしょうか。どれも正解の一つかもしれませんし、別な考え方の方もいらっしゃるでしょう。
「仁」さんは、科学をベースに書いていらっしゃる。だから、次のような文章になる。
> 科学は,何が役に立つかわからない.だからこそ,大学には無駄が必要だと思う.
という意見に、私も賛成です。その通りです。科学の発展という観点で見れば、大学に無駄が必要という意見になるし、人間の成長という観点で見れば、他の方々も言及しているように「人生にも無駄が必要」ということになるでしょう。
私が問題かもしれない思うのは、この文章の前提となっている「科学の発展」という点です。
発展しないよりは、発展した方が良いと言えるでしょうか。私が述べるまでも無く、科学の発展には、良い面ばかりではなく、負の面も多くあります。戦争に使用する武器や原爆などは、まさしく負の部分でしょう。もちろん、科学の発展がなければ、こうしてメールやネットを通じて、遠い地球の反対側にいる人と、簡便にコミュニケーションをとることは出来なかったわけで、科学の発展を全て否定するつもりも毛頭ありません。

ただ、「人」として、生きていくのに、「現在の我々は幸せなのか」と問いかけたいのです。科学の発展によって、以前に較べれば、出産時の死亡率は低下したかもしれません。その一方で、携帯電話を持ち、仕事に追い回され、うつ病を発症して自殺してしまう人は増えました。
私は現在製薬メーカーで、医薬品の開発をしています(研究職ではありません)。製薬メーカーとして、新しい薬を世に送り出すことは、会社の利益にもつながりますし、もちろん患者さんのためにもなります。その一方で、医療費は増大し、今までだったら亡くなっていた患者さんは長生きし、高齢化社会となり、年金の財源に困ることになります。これに関しては、製薬メーカーの責任というよりは、政治の無策の方がはるかに悪いとは思いますが、科学にせよ、企業活動にせよ、良い面と悪い面は、常に表裏一体であるということだと思います。
これ以上便利になる必要が、どこまであるのでしょうか。しかも何かを犠牲にしてまで。ゆったりとした暮らしができれば、それで良いと思っている人もいるのです。
では何故、科学を発展させるのか。それは、新しいことをしないと、金を稼げないからではないでしょうか。研究者は、新しい研究をすることで、評価され、金をもらう。企業は、新しいモノを作って、利益を上げる。それは、今の世の中がお金で回っているからです。一個人が生活していくためには、お金が必要で、そのために、いろいろなことをしているだけなのではないでしょうか。もちろん、お金以外に知的好奇心を満たすためや、精神的充足のために、いろいろな活動をする人もいます。お金以外のために活動することを趣味と呼び、お金のために活動することを仕事と言うのかもしれません。
科学の研究というのは、ある意味趣味と仕事を両立させてくれる部分が多いところなのでしょう。しかし、結局は、国民のためとか、人の役に立つためとか言っても、結局は「自分のため」というところに帰結するように思えて仕方ありません。そしてそれは、別に悪いことではないと思います。

さきほど、私の仕事は医薬品の開発と書きましたが、確かに本業はそうです。でも、それ以外に、スペイン文化の普及活動として、NPO法人を設立し、活動しています。スペインの文化や藝術、料理などをイベントを通じて一般の方に知っていただく活動です。これは、まさに趣味です。趣味が高じて、現在は、会社でも、仕事の一環として、社員間のコミュニケーションを良くすることなどを目的として、社員を対象としたスペイン料理の講習会の開催もしています。これについては、趣味と仕事の両立ということになると思います。
今更私が述べることではないかもしれませんが、製薬会社がどんな薬を開発するのかの意思決定の過程を少し考えて見ます。
製薬会社によって、強い分野があるわけですが、研究の段階で、その強い分野の薬を開発しようとしても、なかなか思うようにはいきません。例えば、ガン関連に強いA社の研究所でガンを標的にした薬を開発していたのに、薬効評価をしてみたら、うつ病に効く薬ができてしまった、というケースもあるわけです。さて、うつ病に効くと分かったところで、それをA社で開発するという選択肢もありますが、うつ病に強いB社に開発権を譲渡するという選択肢もあります。その B社に譲渡した際に受け取ったお金で、ガンの画期的な薬を開発しているが、開発するだけの力のないベンチャー企業のC社を買収して、ガンの薬を開発する。ただ、その一方で画期的な薬であっても、その病気の患者がわずかしかいない病気の場合、薬を開発しても、採算が合いません。だから企業は、そういった疾病の薬は作りたがりません。
そこで、オーファンドラッグ(希少疾病用医薬品)という制度があります。簡単に言うと「対象患者が5万人以下の、まれな疾患に用いる医薬品」のことで、オーファンドラッグの開発には、医薬品を開発する上で、国から多少の優遇があります。とは言え、製薬メーカーとしては、対象患者が20万人くらいはいないと、利益がでないとも言われています。
そうすると、単純に考えただけでも、5万人以上、20万人未満の患者の薬は、製薬会社は開発しないことになってしまうでしょう。そして、現実に、事業性を評価して、そういった薬は開発されないことがほとんどだと思います。
「企業」とはそういうところです。どんなに困っている患者さんがいたとしても、利益が見込めなければ、開発はしないことになるでしょう。
科学の基礎研究の場合は、その研究をすることによって、どのくらいの人の役に立つのか、または儲かるのかということはほとんどの場合計算できないということなのではないでしょうか。計算できないから、有益とも無益とも言えず、無益かもしれないけど、もしかしたら有益かもしれないということで、研究をする。そういった研究が1個や2個では、結果はでないかもしれないけど、何千、何万という研究があれば、一つくらいノーベル賞級の発見につながるのかもしれません。そこが、先程あげた製薬会社の例との大きな違いでしょう。
でも、個々人としては、やっぱり「自分のため」に研究をしているのだと思います。それは、自分の意思で、その研究をしているのだから。
「いや、これはスポンサーに押し付けられたから仕方なくやっている」というのであれば、辞めれば良い。辞められないのは、地位を守るため、お金のため、結局自分のため。
自らのポリシーを貫くために辞めるなら、それも自分のためだし、お金のために辞めないのも自分のためではないでしょうか。
社会は人の集合体。その社会を構成する人は、それぞれ皆自分のために生きている。結局それだけで良いのではないか。そう思った次第です。科学という視点からは、かなり脱線してしまいましたが、感じたまま書いてみました。
乱文お許しください。

一点重要なことを書き忘れていました。

結論として、人がそれぞれ自分のために生きている社会である現実のようなことを書きましたが、だからこそ、教育が大事だということを書いておりませんでした。
皆が高い倫理観、平たく言えば「良心」を持っていなければ、酷い社会になってしまうということだと思います。そして、その酷い社会が現実のものとなりつつあるのが、今の日本のような気がしています。
小さい頃からの宗教教育・道徳教育など、そういった点をきちんとしなければ、さらに悪くなっていくことと思います。 皓

* 乱文どころではない。教室で、いつもまっすぐわたしの方へ顔を向けていた「皓」くんの若々しい毅い表情が懐かしく思い出せる。

* 建築の「創」くん、特許庁の「敬」くん、「竹」くん、商社の「松」くん、電機メーカーの「イチロー」くん、県警の「旗」くん、編集・記者である「小闇」さん「謙」くん「遼」さんたち、塾経営の「昂」くんたち、藝大へ入った「叡」さんたちも、読んでくれているだろうか。
この日記をさかのぼって全容を読み取るのは煩わしい。「e-文藝館=湖(umi)」の「論説」室を開いてもらえば、日を追っての討論が見えてくる。
こんな「討論」に何の意味があろう、無用の遊びだと思う人もいて可笑しくない、が、そう思うにもまた、ただの「人」たる誠実は問われることだろう。

☆ 運動会 2008年10月21日08:59   悠
日曜日、息子の運動会がありました。予行演習では固まって出来なかったお遊戯が、できるかなぁ、と楽しみにしていきました。
これまで、色々と想定外の行動を起こしてきた息子。すんなりよくできました! とはもちろんなりませんでした。お遊戯、親子で参加する障害物競争、すべてダンナにだっこされ寝たまま終了してくれました。暖かい日差しの下、そうとう気持ちよかったみたいです。熟睡していました。
来年はどうかしら? かけっこにでられるかな?

* 大丈夫。

☆ こんにちは、風。  08.10.21 11:40 花
発送は、あとひといきですね。慌てずに。
昼間は日差しが強く、まだまだ暑いです。これでは、なかなか紅葉がはじまりませんね。
お元気ですか、風。
花は、日曜日に、「柳生一族の陰謀」という映画をレンタルして観ました。1978年の東映の深作欣二監督作で、萬屋錦之介が柳生宗矩をやっている映画です。錦ちゃんが、ひとりで歌舞伎をやっていて、痛快です。
花は、錦ちゃんが弟と出ていた「殿さま弥次喜多シリーズ」が好きです。たわいのない映画だけれど、気楽にたのしめますから。
ではでは、風、休憩もちゃんととってくださいね。

* わたしも、なぜかしらんこのところ『子連れ狼』のような出来のいい時代ものに目をとめている。『篤姫』も相当回数観てきたのはヒロインもいいし、周囲の女達がよく人選されているからか。男どもはすこしかったるい。
昨日も、松平健が三船敏郎や晩年の錦之助のあとを追うかなと期待したい新シリーズの初回特別版を観ていた。初めて観るような佳い若い女優が出ていて、目がとまった。
2008 10・21 85

☆ 秋晴れが続きます。 泉
湖の本96巻目が届きました。お疲れ様。ご苦労様。
記念の100巻までは後少し、ガンバリヤさんだから、大丈夫!
志を聴いて、そして創刊からの二十年余りは、永い永い時間でありながら、送られてきた「湖の本」を手にして読むだけの私には、短くも思えます。
孫は幼稚園の遠足での時間延長をいい事に、秋晴れに惹かれ、娘と二人でのんびりと、すべて大江戸線を駆使して神宮外苑、絵画館周辺を歩きました。やんちゃ坊主がいないのは、こんなにもラクチンであるかを実感して。
新宿で昼食、久し振りに都庁の展望台に上り、我が家方面を確かめて、帰ってくる子をお迎えの時間だという娘と別れ、そこから一人で、御徒町から上野公園へ出ました。
やっと、気持ちよく歩ける体調になり、とても嬉しく、先ほど電話をしてきた弥・レ(=中学同窓のレディたちの一人の意味か)が、声のハリが違うと云います。
回復までに医者があきれる程長くかかりました。すべては終生悩まされるであろうアレルギー体質のせいですが、生きている証拠と思えば、なーんてこともないのとちがうやろか、ナーンテ。
本日の万歩計は約「二万歩」をさしていました。
明日も運動を楽しんできます。  ほな又

* 二万歩は「凄い」なあ。
2008 10・21 85

☆ 蓼科へ。古希に墓参り   珠
先週末は、諏訪へ出かけてきた。母の誕生日は祖母の命日でもあり、古希の報告とお墓参りをしようと母を誘った。
5年前、秋の穏やかな陽が昇っても、祖母は目覚めなかった。早朝には色づく葉に霜がつき、日が昇れば山は美しく輝いていた。
毎年お盆に帰省するばかりで、雪の降る前の蓼科には出かけたことがない。泪で霞みながらも、秋の山の美しさには目を見張った。祖母の愛した蓼科の自然、その一番美しい季を皆に見せようと祖母は逝ったのかもしれないと思った。

土曜の昼近くなって出発。母を迎えに行き、知己の人々へのお土産を車に積み込んだ。母の実家には、独り住む伯母がいるので当然其処へという母を説得し、今回はゆっくり山を見たいからと実家近くの蓼科東急ホテルを予約した。その辺り一帯、元は区の財産だった場所。山小屋風の落ち着いたホテルだが、実家に近すぎて却って泊まる機会がなかったので楽しみ。
よくある中央道の渋滞にウンザリしながらも、八王子あたりからの山迫る道では側壁の蔦が紅く染まり、美しいグラデーションを見せてくれたので、遅々とした動きも気にならなかった。
午後遅くなって、母の実家に到着。温かい陽気に驚き、5年前の祖母をおくった時との気候の違いを実感する。独り暮らす伯母は、しばらくぶりだが元気そうに見えた。だが、花を作って出荷する仕事は灯油の値上がりもあってとても厳しいと、口から洩れるはため息と愚痴ばかり。これから冬。ビニールハウスの温度を調節しながらでは、確かに大変だ。。生活必需品ではない‘花’は、不況でまず売れなくなる品だろう。こういう時だから‘花’を、、と思いたいけど。
遅い昼食を頂いて、母の知人宅を廻る。今年は秋になって温かく、野菜が採れて困っているから帰りに積んでいってとあちこちで言われる。母は嬉しそう。。。相当な荷物になると覚悟。
暗くなって、村はずれの山道を抜け、蓼科東急ホテルに到着。最近鹿がよく出るから気をつけてと言われたら、途中の道で小鹿に遭遇。親鹿でなくてホッ。鹿とぶつかったら私の車ではひとたまりもない。
ホテルはラウンジ゛の暖炉に火が入っていて、燻すような匂いに運転の疲れが融けだすよう。高原というより、山の谷間にあるホテル。周囲の山の遠くに、星が瞬いているのが見える。明日は八ヶ岳がそこに見えるだろう。
チェックインして、温泉へ。母の実家の村と同じ泉質、肌はしっとり、すべすべ。2週続けて温泉に入るのは初めてかもしれない。やはり慣れたこの泉質、肌にはうれしい。夕食に軽くつまみながら、母とビールで古希前夜を祝った。
母の若い頃の話を車中で聞いた。高校生になり上諏訪で下宿した頃のこと、大家さんに泥棒が入り母の寝ていた部屋の窓から逃げたという。寝ていた布団の足元を通っていった泥棒に、顔を見られたと思って怖くていられず、しばらくは下を向いて歩いていたとクスリクスリと思い出し笑い。母は戸締りにはとてもうるさくて、それは母子家庭だからかと思っていた。ぼそぼそ話したその口調から、そのショックは相当だったと推察。お陰でその心配性は私もそっくり受け継いで、戸締りを確認しても用心にと、寝室の扉には鈴が下げてある。我ながら可笑しいが、こんな流れとは知らなかった。

翌朝、ゆっくり寝坊。朝から母は友人と電話で話している。妹が珍しく電話をしてきたと思ったら、母の誕生日を忘れ別件での電話だった。「やっぱりね」と母と笑う。からまつ林に降り注ぐ木漏れ日に目をやりながら、静かな朝食。木立の向こうには教会があり、式の準備をしている様子がよく見える。その奥には池、そして遠く八ヶ岳も見える。
「静かでいいわね」母も気に入ったらしい。食後、ゆっくりとからまつ林を散策。甥への土産にどんぐりを拾った。
チェックアウトして、山へ向かう。母は未だお墓参りが済んでいないことを気にしつつ、車外の彩りに歓声をあげていた。横谷峡から乙女滝へと歩き、蓼科を愛した映画監督小津安二郎の別荘‘無芸荘’に寄る。囲炉裏に火が入り、腰を落ち着けて話し込む雰囲気。小津監督の愛した蓼科は、まさしく祖母の愛した蓼科だろう。蓼科山は腰に雲をまとい、八ヶ岳は優美な稜線を見せる。山の中腹はもう黄みがかり、所々に紅い彩が浮かんでいる。
母の実家の隣村、父のお墓へ先に参る。今夏は従兄がお盆の送りをしてくれたと聞いていた、その蝋燭が墓に白く残る。父の墓からよく見えた八ヶ岳、今は防風林の丈が伸びて隠れてしまった。そこに山はある、父にはどこからでも見えるだろう。父の村で遠縁のお宅にご挨拶。80代でも小母さん元気に野良仕事をされていて、採ったばかりの野菜を頂いた。
母の実家へ移動し、伯母と連れ立って祖母のお墓参りへ。祖母のお墓からは美しい八ヶ岳がよく見える。西日があたってきた八ヶ岳は赤く染まっている。祖母にとっては何よりの場所。
伯母と遅い昼食を過ごし、帰り仕度。母の友人などから続々と野菜が届く。移動の八百屋さんが開けそうな有様。皆一様に持っていってと車から下ろしながら、私の小さな車に心配そうに目をやる。「ちっちぇなぇ」という言葉を耳にしながら次々と野菜を積み込む。皆安心して食べられる食材には違いないが、こんなにもらってどうするの、、、というほど頂く。(以下に)
キャベツ・白菜・トマト・ミニトマトト・きゅうり・じゃがいも・ヤーコン・紫芋・人参・大根・長ねぎ
南瓜・糸瓜・ピーマン・パプリカ・茄子・セロリ・ズッキーニ・ほうれん草・フルーツほおずき・かりん
手作り味噌
夕刻、重たくなった車を労わりながら出発。ゆっくりと山の裾野を中央道へ向かう。インターチェンジ゛に乗ったらもう日が暮れてくる。帰りもまた、渋滞の表示。まぁこの荷物ではそんなに早く走れないから、皆と一緒にゆっくり走れて却ってよかろうか。。
結局九時過ぎに母の家に到着。電話をしておいた妹もほどなく到着、行商のように野菜分け。妹は食べ盛りのいる家族4人、喜んで半分以上をもらってくれた。私はほんの少しで充分。田舎の野菜なら料理もする気になるだろう。ありがたい。叔父への届け分も預かって、解散。
花梨の甘い香りを抱いて、家に帰った。これで役目、無事完了。

* 折しも蓼科へ行かないかと息子の誘い。蓼科には幼なじみの友人が、プチホテルを経営していて、一度泊まってきた。
自動車、そうとう途中渋滞しそうだな。
2008 10・21 85

☆ 湖へ  珠
ご無沙汰しています。
「湖の本」を送って頂き、ありがとうございました。丁度今日は私の誕生日だったので、郵便箱の包みを見つけて嬉しい贈り物と勝手に解釈させていただきました。
「色」から鏡花、谷崎まで、幅広い一冊に新たな一年の始まりに楽しみに読ませて頂きます。
一昨日は横浜に泊まってきました。ゆっくりと穏やかな日を港で過ごし、秋の空と海をスケッチしてきました。昨日は久しぶりに横浜美術館へ寄って、「源氏物語の1000年」という特別展を見てきました。
全体に絵が中心の構成で、紫式部の人となりや石山寺での日々、その後源氏物語が時代を経て伝わってゆく様々な写本、絵巻からマンガ、
そして世界への広がりまでが展示されていました。
古来何と多くの画家が、源氏物語を絵にしてきたのかと驚きました。江戸時代の、現代ではマンガのような挿絵と本文の色々を見ていると、
次を貸して、、と友に本を借りた自分と同じかもしれないと、ふと思いました。時代が違って借りる本が違っていただけとすると、現代のように借りるよりも安易に買えてしまう時代では、密やかに長く続く作品は生まれてこないかもしれないと、ふと思いました。
今回の展示で目を奪われた作品は、ほとんど‘九曜文庫’からでした。初めて耳にした文庫だったのですが、研究的な視点から源氏物語の
多くの作品を持っていることを知りました。一つの文庫ができるとは、さすが源氏物語、と思います。「語り」もされているようで、今後気にして
調べてみようと思いながら帰路につきました。
先般からの「科学・研究」の議論、最初から発言したくなっていました。立場違えど、研究者の方々だけが論じることではないと思いましたので。しかし仕事がひとしきり忙しく、夜にパソコンに向かう時間がとれなかったので、先に考えをまとめようと、毎日印刷した「私語」を持ち歩いて考えています。どこかで書いて送りますので、無愛想などと思わずにいてください。
こうして長くなってしまうのが悪い癖ですね。
蓼科行き、お気をつけて。これから日々寒くなります。
それこその、一番美しい季節。
どうぞ、お大事に。

* 同じ人が「mixi」にも日記を書いていた。展覧会の部分のみ重ねて読み取る。

☆ 横浜美術館へ。  珠
「源氏物語1000年」という特別展を開催中。しばらくぶりの横浜美術館だったが、平日のためか比較的空いていて、お年をめした方ばかり目に付いた。最近視力が落ちてきて、眼鏡をかけても見えていない私には薄暗い照明はきつい。お年の方も口々に、見えないと仰って展示品との境にあるガラスに額をぶつけていた。お仲間の気分になって、遠慮なく顔を近づけ見ていった。
今回初めて、源氏物語に多くの写本があったことを知った。その中心になる写本は聞いたこともあったが、長い歴史の彼方から何と多くの写しがされてきたものかと驚く。その微妙な字の違いや様々な絵、読みたい人がいたからだと思うが、そこには美的な競い合いのような広がりが見て取れる。室町時代には既に人物帖のようなものまであって、特徴や人となりまで書かれている。何となく現代の攻略本と同じようにも思え、最近ではハリーポッターを思い出す。次を読みたくてわくわくする感じは、時代が変わっても同じだろう。それでも1000年読み継がれる物語とは、ただ繋げようとしても出来ることではない。今は便利でいつでも本が手に入る時代だけど、写本は写経の如く深い理解や記憶につながる方法だったのかもしれない。
最近、老化防止対策に「徒然草」や「枕草子」を書き写す本が出ていた。次は「源氏物語を写してみよう」なんて出るのかもしれない。 夕刻、帰宅。蓼科からの野菜を煮込み、やさしい味の夕食。誕生日。過ぎた一年に、きちんと頭を下げたかったが叶わず、心からの感謝を静かに想う。この年になっても知らなかった自分がいる。情けないが、叩けば埃ならぬこれが今の自分。日々を大切に、前へ進む。幸せは人にしてもらうのではなく、自分でなるものだと身に沁みて分かった。身についた色々な余分、うまくそいで単純になってゆきたい。
さぁ自分のペースで「今・此処」を大事にいこう。

☆ 歌舞伎座  ボストン 雄
・ 日本のテレビでニュースを見ていたら,歌舞伎座の建物が老朽化のために建て直しになるという.しかも,新たにできる建物は,オフィスなども入った現代的なものになるとか.実に残念.
僕は歌舞伎座には2度しか行ったことはないけれど,あの雰囲気がとても好きだった.あの建物の中で見るからこそ,より一層,歌舞伎が引き立つように思うのだけれど.
歌舞伎を見たのはたった2回だけれど,いずれも素晴らしかったという記憶がある.
初めて見た歌舞伎は3階の席で舞台は遠く,しかも内容も現代の創作劇であり,たわいもなかったのだけれど,腹を抱えて素直に楽しめた.
二度目の時は「俊寛」と「十六夜清心」を観たのだが,解説イアフォンの助けもあり,奮発して良い席を取ったせいもあって,迫力ある舞台を楽しめた.
建て直される前に,また行きたいなあ.

* 来年中はいまの歌舞伎座で観られるが。寂しいが、また大きな曲がり角を「歌舞伎」が曲がって行くと謂うこと。
いまでこそ「伝統」藝能だが、もともとは「現代批評」の歌舞伎である。どんな環境にも適応し、いつまでも美しく、辛辣で優しい「表現」を提示しつづけて欲しい。
「雄」くんの「mixi」日記がいろんな事情があるらしく「マイミク限定」になるというので、一年余、さまざまに楽しませて貰った「雄」日記の此処への書き写しは、今日で最期になる。感謝。

* 昨日の「皓」くんが文字化けを訂正し、一点追加してきてくれた。追加分は、昨日のアイサツの末に書き添えたので、読み取って欲しい。

* わたしの読者には、思えば「理系夫人」が何人もおられる。「馨」さんや「悠」さんや「百合」さんのように事実理系研究者であるのを謂うのでなく、夫君が理系の研究者である奥さんの意味であるが、指折り数えても何人も思い出せる。「藤」さんは自身理系出身でもある。そういう奥さん方の立場でも、「科学・研究」に感想がある筈だなと、いま、想っている。
2008 10・22 85

* ハーバードの「雄」くんから、改めて討論に加わる長文での発言が届いた。出そろうべき人の声が揃ってきた。

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☆ 「仁」さんの文章に。  ハーバード「雄」
秦先生,遅くなりましたが,「仁」さんの書かれた文章への僕の意見を述べさせて頂きます.僕は「仁」さんのおっしゃっていることは,それ程—少なくとも「仁」さんが差異を強調される程は—僕の意見と違っていないと思います.それは僕の言葉が足りなかったことも一因でしょう.この際,その誤解は解いておきたいと思います.と同時に,「仁」さんのおっしゃることの全てに僕は賛成している訳でもありません.
全てを記述することは不可能ですので,特に気になった点について書かせて頂こうと思います.大分長くなってしまいますが,長文お許し下さい.

1.「屍」のためのセイフティーネットを

まず初めにお断りしておきたいのですが,僕は研究を道半ばにして諦めた人のことを「屍」などという言葉で表現してはいません.「仁」さんは「mixi」での僕の文章を引用されていないので,秦先生のホームページをご覧になった方の中には,ひょっとすると僕がそのような言葉を使ったかのように思われる方もおられるかもしれませんが,それは断じて違います.だいいち,某国立研究所の常勤研究職のポストを捨てて,現在海外でポスドクをするという不安定極まりない道を選んだ僕は「屍」予備軍の最たる例です.仮に道半ばで研究の道を諦めることになったとしても,自分に対して「屍」などという言葉を使う気はさらさらありません.

以前僕は,「しかし,(何を研究すべきテーマとするか,)その価値判断は,傲慢とも取れるだろうが,どうか研究者にお任せいただきたい」と書きました.これに対して「仁」さんは異を唱えておられます.しかし,「仁」さんの結論とされていることは,僕も概ね同意見です.これは,僕が「研究者に」お任せ頂きたい,と手短に書いたことが良くなかったのであろうと思います.勿論,テーマの有用性を客観的に評価できる人が存在することは必要であり,研究者だけがお互いのテーマを評価しあうことは,馴れ合いにも通じることでしょう.

もう少し詳しく説明させて頂くならば,僕が言いたかったのは,何が真に重要な研究であり,何が研究に値しないのかを,「正しく」評価できる人間に価値判断を委ねるべきであり,そのような人間のことを僕は以前の文章で「研究者」という言葉を用いて示したかったのです.

例を挙げます.

とある国会議員が,ショウジョウバエの分子生物学の研究を取り上げ,「蛆虫の研究などに国民の税金を使うのは無駄遣いだ」と発言したそうです.極端な意見ではあるかもしれませんが,同じように考える人も少なくないのではないでしょうか.そもそも,なんでまたショウジョウバエなんて研究するのか.気味が悪い,と思われる方もおられることでしょう.少なくとも,ショウジョウバエの研究などにお金を使うくらいならば,その分を癌やアルツハイマーの研究に使ってはもらえないだろうかと考える人は多いのではないでしょうか.しかし,大学で生物学を学んだ方ならば,ショウジョウバエがトーマス・ハント・モルガンに端を発する遺伝学に古くから使われてきた,優れた実験動物モデルであることをご存知のはずですし,実際,癌遺伝子や神経系に重要な働きを持つ遺伝子の多くが,ショウジョウバエの遺伝学によって同定されました.或いは逆に,既に見つかっていながらその機能の分からなかった多くの遺伝子が,ショウジョウバエの研究によって,その機能が明らかになった例も少なくありません.おそらく,国会で質問に立った議員は,これらのことを知らなかったのでしょう.

今回ノーベル化学賞を受賞した下村博士の受賞理由は,クラゲの発光タンパク質を見つけたことです.しかし,もし下村博士がノーベル賞をもらわなかった場合,この研究が有意義な研究であると判断できた日本国民は,果たして何割いたことでしょうか? おそらく,「ずいぶんと優雅な研究ですね」「無邪気な研究ですね」などという評価は好意的なほうで,多くの方は「光る蛋白質なんて研究して何になるんですか?」「同じ税金を使うならば,クラゲなんかじゃなくてもっと有意義なことに使うべきではないですか?」と思われたかもしれません.しかし,生物学の研究者の間では,下村博士がノーベル賞をもらうであろうことは,かなり前から話題になっていましたし,受賞は当然であると考えている研究者は多いと思います.それだけ,下村博士の発見は,現代の生物学を大きく変えたと言えますし,直接的には病気などの治療には結びつかないとしても,間接的には臨床研究にも大いに役立ったと思います.

こうした価値判断を下すためには,国民の誰もがその「常識」を持つことは難しく,やはりある程度の専門的訓練を受けた者があたるべきでしょう.ノーベル賞が与えられようと与えられまいと,その研究の真価を正しく理解し,評価できる人間が絶対に必要なのです.そういう意味で,僕は「研究者に」任せて頂きたいと書いたのです.

そうした任に当たるのにふさわしい人材は,研究を道半ばにして諦めた方の中にも少なからずいると僕は思います.研究を途中で断念せざるを得なかったのは実力が足りなかったからではないのか,そういう人が価値判断に携わって良いのか,と思われる方もおられるでしょうが,僕はそんなことは無いと思います.研究が上手くいくか否かは,本人の資質だけではなく,運に寄るところも大きいと思います.時代が早すぎても遅すぎても正当な評価を得ることは難しいでしょうし,ちょっとしたボタンの掛け違いから,不本意な結果に終わることも少なくないのです.また,実験遂行能力は長けていなくとも,豊富な知識を有し,的確な判断を下すことのできる人は数多くいます.いまや国立大学は全て独立法人化され,「maokat」さんのおっしゃるとおり,パトロンは行政庁なのでしょうから,行政庁はそうした専門知識を有する職員を多く雇用すべきであると僕は考えます.そうした専門知・u梹ッ(化け文字ママ)に長けた人たちが個々の研究を正当に判断することで,日本の科学研究をあるべき姿に導いていくことができるのではないかと考えています.そして,これが学位を取得しながら職にあぶれている人たちのセイフティーネットとして働けばと思っています.これは,「仁」さんの意見とも概ね同じであろうと思います.そんなのは甘い考えだ,とおっしゃる方も多いでしょうし,それは僕も分かっています.しかし,こういう人たちは,もしその機会が与えられたならば,その能力を遺憾なく発揮し,期待に充分応えられるだけの働きをするであろうことは,自信をもって申し上げることができます.

もちろん行政庁だけにセイフティーネットを期待することは無理でしょう.ただでさえ公務員を減らそうという時世だというのに,むしろ増やすような提案ですので,現実的ではないでしょう.かといってメーカーなどに全てを委ねることも難しいでしょう.企業はえてして修士課程を修了した人材のリクルートには積極的ですが,博士課程に進んだ者に対しては消極的だからです.これは,企業に入ってからの再教育がしにくいことと,博士号取得者に支払う給料が若干高めになるからということが原因であろうと思われます.僕は,できれば出版社や新聞社,テレビ局などが,積極的にこれらの人たちを雇用してくれたら,と思っています.この点も,「仁」さんの意見と同じであると僕は思っています.

残念ながら,現在のマスコミの「科学」に対する理解度は決して高いとは言えないと僕は思います.中には優れた番組や書籍もあるのですが,期待を裏切られることが多いのが実情です.そこで,これらのレベルアップを図るべく,専門知識を有する人材を積極的に雇用して欲しいのです.

僕自身,自分の行なった研究で二度ほど新聞に取り上げてもらったことがあります.記者会見を開き,自分の研究について説明し,質疑応答を行なった上で記事にしてもらう訳ですが,記者会見の後で電話での応対を求められることも少なくありません.そのような場合,記者と話していると,彼らが内容を理解していないのは明らかでした.記者が自分で書いた記事を読み上げてから「これで良いか」と聞くのですが,自分で書いた記事を読みながら笑っていることさえありました.自分で読み上げている記事の内容が分からないから笑っているのです.何度訂正しても,「では,これでいいでしょうか?」と言って読み上げる文章は,最初に読んだものと何も変わっていない.

何度か同じやり取りをした後で僕は気付きました.この記者は,内容を正すことを僕に求めているのではない.僕に「それでいいです」と言わせることで,ある種の「お墨付き」が欲しいのだ.上司から「この記事は意味が分からない」と言われたときに備えて,「でも,これで良いと研究者本人が言っていました」と言うための根拠が欲しいのだ,と気付いたのです.もう少し熱心な新聞記者の方は,その発見に至るまでのドラマに着目され,そこに焦点を当てて記事にしておられました.

これはまた別のケースですが,ある論文の内容について解説を求められ,記者から取材を受けたことがあります.この記者は大変な才能の持ち主で,僕の話した言葉を逐一,見事な文章に仕上げていかれました.出来上がった文章を僕が読み返しても,まさに完璧でした.しかし,記者自身は,その内容について理解してはいないようでした.つまり,この記者は,聞いた内容を文章化することについては大変な能力を持っておられるけれども,その内容を理解しているわけではないのだと分かりました.作業が終わり,一息ついたところで記者の方と雑談をしたのですが,なんとその記者は,僕のところへ取材に来られる二日前まで南極で生活しておられ,南極から環境についてのリポートをずっと書いていたのだということでした.ただでさえ細分化の進む科学の世界で,研究者どうしでさえ異分野のことを理解するのは難しいのに,これでは内容が理解できないのも無理はありません.

国民の多くが科学に接するのは新聞でありテレビです.その記事を書いている記者自身が内容を理解していないのですから,どうして読者が理解できるでしょうか? 結果として科学は「良く分からない,難しいもの」というイメージが定着してしまうのだと僕は思います.本来,科学は楽しいものであり,わくわくするものです.もし,そのことを的確に伝えることのできる人がマスコミに増えたなら,それは国民全体の科学に対する理解を深める上でも大いに役立つと思いますし,そうした社会が実現できることは素晴らしいことだと僕は思います.

しかし現実には,マスコミにとって,科学は分かりにくいものであったほうが,むしろ好都合なのではないかという印象すら受けることがあります.実際,「科学者」としてマスコミに登場し,コメンテーター的な役割を務める人の多くは,実際には科学者と呼ぶには程遠く,自身は何もしたことのない人である場合が少なくないのです.そして,そうした人たちが逆に持てはやされる傾向があります.

彼らの文章はえてして難解であり,何を言っているのか分かりにくく,実際のところは何も言っていないものがほとんどなのですが,「読んでも,あるいは話を聞いても分からない」ということが,却って彼らの「賢い」というイメージを読者に植えつける上では有効であり,負のスパイラルとなっています.本当は実名を挙げて言いたい位ですが,やめておきます.こういう「知識人」の存在はマスコミにとって好都合であり,国民の科学に対する理解度を上げることなどは眼中に無いのが,今のマスコミの本音であろうと僕は思っています.なんとか,この負のスパイラルを断ち切るためにも,専門知識を有する人が積極的にマスコミの世界に取り込まれればと思います.

2.漁業・農業・林業 ~企業で基礎科学研究は不可能か?

以前,研究を民間にゆだねてはどうか? という問いに対し,僕は次のように答えました.

「基礎研究を民間の研究機関で行うことは可能だろうか? これまでの歴史からいって,ほぼ不可能であると思われる.実際,そのような趣旨から作られた三菱化学生命研究所は,2010年3月に閉鎖されることが最近決まった.」

これに対し,「仁」さんは異を唱えておられます.

まず誤解されている可能性があるので申し上げておきますが,僕は企業でいかなる研究もできないと思っているわけではありません.僕は日本でもアメリカでも,これまで数多くの企業研究者達と接してきました.彼らは総じて極めて優秀です.言い方を変えるならば,ダメだなと思われるような人が極めて少ないのです.これは,大学院修士課程を出てから,企業内で徹底的に教育されるためなのでしょう.そして,とくに大企業の場合はそうでしょうが,研究費も大学や公的機関よりもはるかに潤沢です.おまけにお給料も企業の方が大学よりも圧倒的に多い.

更にいえば,企業の多くが研究者を海外の大学に留学させています.彼らと話して驚いたのは,そのような場合,家賃は通常企業が全額負担するのであって,彼ら自身の給料から払うわけではないのだそうです.全てがそうではないですが,企業によっては出張時にはビジネスクラスの航空チケットが渡されるところも少なくありません.こちらで貧乏ポスドク暮らしをしている者としては,「なんだ,企業に行っても同じことができたんじゃないか.何故僕は企業に行かなかったのだろう」と思わないでもありません.特に,なけなしの貯金をはたいて航空チケットを買い,窮屈なエコノミークラスの座席に収まっている時など,なおさら恨めしく思います.飛行機の座席はともかくとして,企業研究者が恵まれていることは確かです.

しかも,企業で基礎研究とはいわなくても,もっと応用的研究に携わっている場合でも,やっていることそのものは大学での研究と大して変わらないことさえあります.むしろ大学の場合,自分で研究費を調達しなくてはなりませんし,その他細々とした事務手続きなどにも追われます.おまけに教育機関でもありますので,実習があれば研究は中断せざるをえませんし,日常の大学院生の指導も大変な労力を要します.純粋に研究活動に打ち込むという意味では,むしろ企業の方が恵まれているかもしれません.

しかし,あえて僕は三つの問題点を,企業での基礎研究に対して申し上げたいと思います.

一つは「上の意向」についてです.この「上の意向」如何で,個々の企業研究者の研究の方向性がガラリと変わってしまうのが企業の研究の大きな特徴であると僕は感じています.勿論,大学などの公的研究機関でも,グラントが続かなくなったりして研究の方向性を変えざるを得ないことは往々にしてありますが,それは研究者自身の責任でもありますし,規模を縮小したり,あるいは目先を少し変えるだけで,本質的には大きな方向転換をせずに済むことが多いと思うのですが,企業の場合は違います.その研究者がいかに優秀であっても,そしていかに多くの成果を挙げていたとしても,上が方針転換をすればそれに従わざるを得ないのです.

僕はそうした例をこれまでいくつも見てきました.もしその研究者が,そうした状況を受け入れることのできる人ならば,企業での研究は悪くないと思います.与えられたテーマ・環境の中で自分の実力を出すことに生きがいを見つけることができる人ならば,たとえ大きく方向転換を迫られたとしても,それほど苦痛を感じないに違いありません.しかし,少なくとも僕のような者には,それは耐え難いと思います.「何を研究するのか」は,僕にとっては「何故研究者という職業を選んだのか」とほぼ同義であり,自分がベストを尽くし,業績も挙げながら,抗いがたい「権力」によってそれを捻じ曲げられるのは,到底受け入れることはできません.そんなことならば,初めから研究者などという道を選ばなければ良かったと思うことでしょう.

二つ目は,企業において,長期的展望に立つ研究を行うことは難しいと思われる点です.基礎科学研究には,大きく分けて漁業的な研究と農業的な研究,そして林業的な研究があります.
漁業的な研究とは,今日やればすぐに結果が出るというものです.
農業的な研究は,種を蒔き,水や肥料を与え,数年後に結果が出ることが期待できるものです.
それに対して,林業的な研究は,今木を植えたとしても,自分の世代に収穫を期待することはできません.自分の子供,孫の世代になって,ようやく実を結ぶ,という性質のものです.

企業は利潤を追求するのが至上目的ですから,漁業的研究に多額の投資を行い,短期的に結果を出すことには積極的ですが,林業的な,長期的なビジョンに立った研究を行うことは難しいのではないかと僕は感じています.非常に安定した収益を上げている企業が,時々長期的ビジョンにたって純粋な基礎科学研究の研究所をつくることがありますが,景気の影響を大きく受けるのも確かです.

確かに,長く続くか否かよりも,そこで何がなされたかに注目すべきだというのは正しいかもしれませんが,逆に「長く続ける」ということには,それ自体が意味を持つこともあるのです.特に林業的な視野を求められる研究の場合,次世代の人類のために今何ができるかを考えることは,利潤追求を主たる目的とする企業では難しいと僕は感じています.

三つ目の問題は,守秘義務の問題です.「仁」さんご自身がおっしゃっているように,企業には守秘義務があります.大学などの公的機関における研究にも守秘義務が無いわけではありませんが,それでも企業ほどシビアではないでしょう.しかし特に日本では,大学などの公的機関においてさえ,意見の交換に対して非常に閉鎖的であると感じることがあります.

研究活動において,ディスカッションは極めて重要です.誰かと意見を交わすことによって,1+1が千にも万にもなるようなことは良くあることです.自分の考えていることについて話すことで,思いも寄らなかったような発想を他人から得られることは少なくありません.他人のアドバイスをもらうだけで自分から何も発信しないのでは,そうした態度はフェアとは思えませんし,第一,自分の得るもの自体が少なくなると思います.自分からボールを蹴りだしてこそ,相手がパスを返してくれるのです.

日本の研究室では,ライバルに対して自分達のやっていることを話すことに対して消極的,または否定的なラボも少なくないのですが,アメリカに来てみると,そうでもないことが分かります.勿論,彼らも全てを見せるわけではないのでしょうが,意外なほどオープンに重要なものを見せてくれることがあります.実際,僕の所属しているラボには,来年から半年間,ライバルにあたるドイツの大物研究者がサバティカルとしてやってくることが決まりました.勿論,彼が来ることを受け入れた以上,彼の見たいものを見ることを妨げることはできないでしょう.多くの重要なアイデアは流出するでしょうし,だからこそ彼もわざわざドイツから来て,半年間も滞在するのでしょう.しかしそれでも,彼とディスカッションすることに価値があると思うからこそ受け入れるわけです.そしてそれ以上に,「科学は人類が共有すべきものであって,個人が囲い込んで利益を上げるのはアンフェアである」という認識を研究者達が強く持っているからなのでしょう.したがって情報交換という行為そのものを拒絶する企業の体質は,基礎研究とは相容れないように僕には感じられます.

3.能者多労

「仁」さんの文章の中に,「研究者の中には自分があたかもスポーツ選手であるかのような傲慢な考えを持つ人々がある」とのくだりがありました.しかし僕は,これは決して悪いことだとは思っていません.「スポーツ選手ほどの収入があるわけでもないのに」とも書かれていましたが,研究者が数億円だの数十億円だのといった収入を手にするのは全く非現実的ですし,スポーツ選手といえども,そうした巨万の富を得ている人は,ごくわずかの人たちでしょう(ただし僕は,そもそも野球を始めとする一部の種目のスポーツ選手の収入は高すぎると,かねがね思っていますが.いかに感動的であれ,ボールを打ったり投げたりするだけで何億円もの金が手に入るというのは馬鹿げていると思います).人は収入の多寡ではなく,何を成し遂げるかで真価が問われるべきであると僕は思っています.

勿論,全ての研究者がスターということがありえないでしょう.そして,そんな実力の無い人までが自身に対して過度に尊大になることは慎むべきだと思います.しかし,僕はある意味において,研究者がいい意味での「エリート意識」を持つべきだと思っています.僕自身,傍からみれば不安定な立場にあり,収入も低く,未成熟な研究者かもしれませんが,その種の意識を持っています.

子供の頃,多くの野球少年が王や長嶋,ベーブルースらに憧れを持つように,僕はパスツールやコッホに憧れを持ち,彼らの伝記をむさぼるように読みました.いつか自分もこんな風に研究をしてみたいと思いましたし,父にせがんで安い顕微鏡を買ってもらったりもしました.しかし,僕の親戚には研究者はおろか,大学に行った人すらわずかでしたから,自分が研究者になることなど夢のまた夢と思っていました.学校の成績も,数学や理科は文系科目に比較すると決して良くはなく,やはり自分には向いていないのかもしれないとも思いました.しかし,自分の得意なことではなく,自分の好きなことを職業にしようと考え,理系に進むことにしました.

研究室に入ってからも,実験は決して得意な方ではなく,手早く要領よく作業を進めることは苦手であり,修士課程の1年生の頃,研究者の道を諦めてまったく無縁の文系企業に就職しようかと真剣に考えていた時期があります.しかし,仮に企業に入ったところでそこで全てが上手くいくと限ったわけでもないのだから,それならば一度,博士課程で環境を変えてみて,自分の納得のいく環境でリスタートし,それでダメならば諦めればよいではないかと考え直しました.博士課程で移った研究室でも辛い思いをしたことは何度もありますが,結果的には水が合ったのか,少しずつではありますが自分の頭で考えたことを,実際に手を動かして実験で示すことができるようになっていきました.

博士課程でも決して華々しい成果を挙げることができたわけではなかったので,ポスドクを1年しただけで,学部生の頃から憧れ続けていた研究所に助教として採用されるとは思いもしませんでした.教授とはまったく面識もコネもありませんでした.僕は教授を存じ上げていましたが,教授は当然僕のことなど知らず,各方面にずいぶんと聞いて回ったようでした.新しくできた研究室ということもあって,研究者は僕も含めて3人しかおらず,一から研究室をセットアップしましたが,その4年後にはネイチャーやサイエンス,米科学アカデミー紀要といった一流雑誌に論文を発表できるラボになるなどとは想像だにしませんでした.そして,アメリカに渡る留学助成金を得,今では以前から論文を読んで憧れていたボスの下で,思う存分好きな研究に打ち込んでいます.周囲にはノーベル賞を受賞した研究者や,これから受賞するであろう人たちもたくさんおり,彼らと対等かつフランクにディスカッションする機会に恵まれています.日々の生活は決して華々しいわけでもなく,全てがOKというわけではないでしょうが,それでも僕は充分ハッピーです.不安定な生活基盤その他の理由で,時としてひどく落ち込むことは確かですが,それでも今のような生活を送れることを,僕は心から有難く思っています.

こうした研究生活を望んだとしても,全ての人がそれを手にすることができないであろうことを僕は理解しています.勿論,自分自身でできる限りの努力はしてきたつもりですが,おそらく僕は恐ろしいほどラッキーだったのでしょう.そういう意味で僕は自分を,ある意味エリートであると思っています.偶然にせよ何にせよ,そういう素晴らしい体験をさせてもらっているのだから,それを社会に還元するような行動をとるべきであり,自分にはその責任があると思っています.

常々思うのですが,特に日本では,「出る杭は打たれる」ではないですが,横並びでなくてはならないという考えが蔓延しているように思います.しかしその中で,自分は他人に対して優れていると本心では考えている人も少なからず紛れ込んでいます.表面上あたかも横並びであるかのように振る舞うことは,自分を良い人であると見せるための有効な手段だと考えてなのかもしれません.実際,日本では「普通」であることが一番暮らしやすいのです.しかし,本当はそうした優れた能力を持ちながら「普通」であるフリをすることは,ある意味において自身の果たすべき責任を放棄しているのであり,卑怯だと僕は思います.民主主義においては全ての人が平等であるべきなのでしょうが,しかし個々人の能力はそれぞれ異なるのは事実です.横並びになることが民主主義ではないのであって,何かに秀でた人がいるならば,その人がリーダーシップを発揮して,あるべき方向へと社会を牽引していくことが,真の民主主義だと僕は考えます.

勿論,これは科学の世界だけ(化け文字を推測)の問題ではなくて,全ての職種においていえることでしょう.この節の表題に用いた言葉は,大学生の頃,マレーシアからの留学生に教わった言葉です.文字通り,能力のある者は労も多いのです.能力を与えられたことは素晴らしいことでもありますが,同時に多くの責任を引き受けることにもなるのであり,決して楽なことではありません.しかし,そうすべきなのだと思います.

話を元に戻します.最初の節において,何を研究すべきで何がそれに値しないかは研究者自身に委ねるべきだという意味のことを書きました.ただし,研究者という言葉の中には,実際に研究している者だけを含むのではないことも書きました.しかし,同時に僕は狭義の「研究者」が決めるべきであるとも考えています.偶然か必然かはさておき,研究活動に携わることのできる研究者は,やはり選ばれた存在なのですから,その能力を発揮して,私欲に囚われず,将来の人類がどういう社会を築くべきなのか,その中で研究者がどのようなテーマを追求すべきなのかを見極める必要があると思っています.

そのことを踏まえて再度「国家国民のための研究」という問題に言及したいと思います.今の日本の基礎科学研究は,明らかに「漁業的研究」に偏りつつあります.これは科学技術政策を推進する上で強い権力を有している人物が,そうした研究を志向しているからであり,実際,世論もその方向性を支持していると思います.しかし僕は,これは非常に危険な傾向であると思っています.一見地味で,成果が上がっているのかどうかも分かりにくい「林業的研究」を今のうちからやっていかないと,いずれ森は枯れることでしょう.漁業的研究でさえ,乱獲を続ければ魚はいなくなってしまいます.僕らの次世代,さらにその次の世代に大きな禍根を残すことになりかねません.だからこそ,今ここで一層,基礎研究の重要性を訴えたいのです.

ちなみに韓国や台湾は応用研究しか行われていないと「仁」さんはおっしゃていましたが,僕はそうではないと思います.現に多くの韓国人,台湾人がアメリカに来て基礎研究を行い,その成果を持って母国に帰るのを間近に見ています.またそれぞれの国でも,留学経験を持たずとも「ネイチャー」などの一流誌に論文を発表する研究者が増えつつあります.韓国や台湾といった国々が応用研究にのみ国力を注いでいるように見えるのは,単にこれらの国々の政治的・経済的成熟度の問題であると僕は思います.時が経てばいずれは基礎科学研究でも目覚しい成果を挙げるでしょう.

現実世界での研究者の生活は,決して華やかなものではないかもしれません.研究活動そのものも,僕が子供の頃読んだパスツールやコッホの世界とはかけ離れているようにも思います.しかし,それでも,やはり僕は研究者という道を選んでよかったと思っています.僕は自分のしている仕事が好きですし,今,多くの人に理解されているかどうかは分かりませんが,いずれ必ず重要な研究になるだろうと思っています.だからこそ,次の世代を担うであろう子供達にも,科学の楽しさ,素晴らしさをわかって欲しいと思います.

おそらく「憧れ」や「夢」は人類が進歩する上において欠かせない原動力であったと僕は思います.物質的に満たされなくとも,憧れを持ち,夢を追い続けることで,人類は色々な可能性にチャレンジし,様々なものを生み出してきたのだと思います.

全ての科学者がスターになることは無理かもしれません.しかし,多くの夢を与えるスポーツ選手達のように,科学者も子供達が憧れ,夢見る存在であり続けて欲しいと僕は願っています。
2008 10・22 85

☆ hatakさん maokat
湖の本到着しました。「蛇」の文字に腰が一二寸退けましたが、そのまま読み始めました。それにしても重いですね。発送のご苦労を思いました。
前回は10巻分ほどまとめて振り込みましたが、今回はあまりプレッシャーにならぬ程度に振り込ませて頂きます(少し時間がかかります)。
次回上京は、12月に学位審査会があります。その翌日なら時間があります。ご予定あえば是非お目にかかりたく。

* 十二月のことはまだ何も決めていないが、うまく予定は合いそうだ。合えば「初対面」という意外な出来事となる。実際は十年ほどかも知れないが、三十年もお付き合いしてきた気がしている。

☆ お礼  閤
この度は「湖の本」『色の日本・蛇と世界』をご恵贈下さいましてまことに有難うございます。
グロテスクとアラベスクの人間のせいでしょうか、収録のご講演の中では「蛇と鏡花」に強く惹かれました。
そして、「鏡花文学の核心にわだかまるものは、端的に『蛇』へのアンビバレンツ」であり、「水神へのいわば畏れと帰依心だと思う」
とのご指摘に、わが意を得た思いがしました。
わたしがよって立つ幻想と怪奇の世界を英語ではhorrorと申しますが、このhorrorなる言葉を字面のまま「恐怖」と訳すことは以前から愚かと感じていました。
horrorとは「畏怖」つまり「恐れ」「敬う」感情に他ならないからです。「畏怖」なきhorrorなど、ただの「気持ちの悪い小説」「嫌な小説」でしかないと私は軽蔑しております。
残念ながら、現在の私は営業的な理由で幻想怪奇の短編集が出せなくていますが、それでも、先日お送りした「異形コレクション」のようなアンソロジーに飽かず室町幻想を書き続けております。
…などと、わたくしの話はどうでもいいことでして、秦先生の文章に接するたびに、叱られ、励まされている気がしてきます。
取り急ぎお礼のみにて失礼します。 拝
2008 10・22 85

* わたしの謂う「理系(研究者の)夫人」の声が届いて喜んでいる。早速紹介する。

☆ お元気ですか。  鳶
暫らく家を留守していましたので、HPを読む機会がありませんでした。
ノーベル賞受賞のニュースから、さまざまな科学研究者に関する問題についての論議を読み、繰り返し読みました。が、私自身は科学関係には全くの門外漢で、何を書いていいやら。
研究者の裏方の立場から書くしかありません。
夫は国立の研究所に勤めた後、現在は大学で物理を教えており、数年後に退官します。私自身は(京都大学=)文学部大学院に進んだ時に夫と知り合い二年後に結婚。その頃は大学院に進むのは研究者になることを意味していたような時代でしたが、さまざまな事情があり、結果的には修士課程を終えて研究室から離れてしまいました。ですから「藤」さんや「京」さんの書かれていることに大いに共感し、同時に複雑な感想をもちました。
昔も今もドクター過程終了後、ポスドクの就職は困難で、30歳過ぎて就職が決まるまで、二十代すべて見事に「貧困」でした。私は子供を育てながら(保育園などに預かってもらえなかったです)働きました。
「藤」さんの言われる「第一それなりの経済的な基盤が確保されなくては研究どころではありません。だから充分な研究費とポストが用意されることは必要です。」は身に沁みて感じます。
「東工大は出たけれど、科学や研究者の話になると途方に暮れます。」と「京」さんは書かれています。昔から、そして恐らく現在でも私自身が潜在意識として執拗に持ち続けている思いに似ています。
娘の年齢に近いバルセロナの「京」さんは、「仕事が人生の中心なら、私の七年半の大学生活は、まるまる「無駄」と言えるかもしれませんし、大学の学問を最重要視するなら、私は人生の挫折者と言えるかもしれません。が、私はそのどちらとも思っていない。」と書いています。私がこの域に達するまでに、ずいぶん長い時間を歩いてきたように思います。
受験する人を泊めてあげて、彼女は結局不合格で就職したのですが、その人から「国立の大学を卒業して、税金を使って、あなたは社会にそれを返していない。」と批判されたことがあります。確かに私自身のいい加減さもあったかもしれませんが、それなりに懸命に生きてきました。繰り返し指摘する彼女とは数年後に絶交してしまいました。苦い思い出です。
いつでしたか、かなり最近のこと、「京」さんへのメッセージ・エールを読みました。そのような肯定の言葉を私は若い時期に欲しかった・・と、つくづく思いました。(あなたはあなたの避けてはならない道を勇気を持って歩いてきたのです。引け目も無用、言い訳も無用です。秦9.23)と。
学部の研究室でまず言われたことは・・研究者になるのは能ではない、「運、鈍、根」で乗りかけた舟が沈むまでと。
運は、まあ大学も受かってここまできたし、鈍や根気は本質では鈍以外の何者でもないのに、早とちりのいい加減は危ないなあと思いつつ・・要するに能力はもちろん必要なのですが、そのほかの素質としても不適格だったのでしょう。それに「運」には経済的な条件も含まれていました・・。
大学院に進みたいと話したとき 女子の先輩に即座に、「やめなさい、借金・・奨学金の借金が増えるだけ!」と言われて驚きました。殊に女子は就職口がない。
確かにあの頃女子の先輩を見ても、唯一研究所の助手を務めている一人だけで、その方は同年輩の方と比較すれば明らかに
冷遇といっていい状況にありました。なかなか夢はもてませんでした。単なる憧れだけで研究は成り立ちません。大学に残るなら女子大の家政科などの研究室に残るほうが確実でしょ、と誰かが言いました。そこは女性が多い場所ですから。
現在卒業者名簿などで辛うじて分かる範囲の知人を「研究室」に限ってみると、やはり明確な意識を持ち、結婚された相手も同業者の方・・。
けれどもうこの年齢になってみるとそれぞれ退職したり、人生何を以って「勝者、敗者」など、それさえいきり立つこともありません。いきり立ちようがありません。
研究が実験が大好きで、数式や物理の理論の式ほど綺麗で美しいものはないと今でも語る夫も、「雄」さんが書かれたように大学に移ってからは教育、大学内の役職、雑事に、更に付属機関の役職も兼任し、多くの時間とエネルギーを使って携わってきました。退職
までの限られた数年をどう過ごすか、ため息も混じっています。学生がそのまま年とった、と表現できる、ある意味では潔いとも思われる日々でした。裏方としては静かに見守ることしかできません。
「雄」さんが「何を研究するのか」は,僕にとっては「何故研究者という職業を選んだのか」とほぼ同義であり,自分がベストを尽くし,業績も挙げながら,抗いがたい「権力」によってそれを捻じ曲げられるのは,到底受け入れることはできません」と語られる真摯な思いを痛切に受け止めます。
独立法人、(と書きつつ、国公立と書くほうが私にはまだ分かりやすい? そして行政庁とある限り。やはり官ではないか・・)に所属し、あまりにささやかながら、最近の深刻な経済状況も、企業に勤める方からすれば気楽な暮らしに甘んじていられる、この安定さ加減に複雑な気持ちです。
最後に「皓」さんの大事な指摘 「だからこそ、教育が大事」・・・ 皆が高い倫理観、平たく言えば「良心」を持っていなければ、酷い社会になってしまう・・・その酷い社会が現実のものとなりつつあるのが、今の日本のような気がしています。
小さい頃からの宗教教育・道徳教育など、そういった点をきちんとしなければ、さらに悪くなっていくことと思います。」
インターネット上のさまざまな犯罪も、現在の金融危機を引き起こしている経済活動も、一定の倫理観をもっていれば、いくらかでも回避できたのではないか。実に甘い考え、本来人の性は悪なのだと、どんなに指摘されようが、やはり、だからこそ人間の智恵を信じ、単に国家の要請、国家に都合よい人間を作るためではなく、人はよき人になるべく、たゆまない努力や教育が大切と思うのです。
とりとめなく書きました。
朝から記載を読みかえし、考えあぐねて、きわめて私的なことの羅列に終わること、お許しください。

* こういう「声」で、ぜひ全体に、或る揺らぎとともに均衡を得ておきたかった。

* ありがとう。錦上に花を添えて貰ったと喜んでいます。討論ももう収束していいでしょう。
例によって、余計なことばかりしていると叱られそうなことで。叱り給うな。とにかくも「今・此処」に向き合っているのです。
精神の空疎化や汚れを「e-文藝館=湖(umi)」の作業で癒している内に、なんと、この構造物を、近代文学・文藝の流れだけでなく、古典文学の流れにまで溯り、その紹介にも自分の能と好みを活かそうかなあと思い着いています。詩歌の畑なら出来る。随筆でもできる。いや、何だって出来る。出来ることがあるなら、無意味な喧嘩に思いをそそけだたせ消耗して暮らすより遙かにいいと思います。肉体労働でからだをいためなくても出来る仕事なら、なおさらです。むろん、創作も。
なにかしらまだ噴火したいものが蠢いている気がします、体奥に。心奥に。それを大事にしたい。 鴉

* 自覚や鋭い問題意識がないと、こういう討論にはなかなか口が出せない。こういう討論自体を否認するという意識すら優にあり得るだろう、但し発言するより何倍もの誠実な自問自答が必要であるのだが。
「笠」老人が求めておられたように、そろそろ「全容の」の取り纏めた「解説」が欲しいところだが、それを誰かに求めることはこの際ムリである。わたしは呼び出し役であって行司はできない。
可能でたぶん有益であるのは、「少し言い残したことがある」とでも再度の発言を随意もらうことがあれば、ぜひ。
そして、こと面倒をお願いするが、討論の提起役をはからずも引き受けてくれた「仁」くんの総括的な感想を貰っておきたいが、どんなものでしょうね。

* 繰り返し言うが、この「科学・研究」に関する「討論」を、この日記欄で拾い読むのは煩わしいであろうから、「e-文藝館=湖(umi)」の「論考・討論」室に、日を追い発言の順にすべて取り纏めてある方をお読み取り下さいますよう。
2008 10・23 85

* 自転車にと思ったら、ザーザーいう大雨におどろいた。

☆ 湖の本エッセイ45戴きました。 ゆめ
まず、「わたくしの谷崎愛」から読ませて戴きました。先生の、お元気そうで意気軒昂な雰囲気が私にも伝わってきて大変嬉しくなりました。日大藝術学部での講演、「学生に化けて受講しちゃおうかな」と思ったくらいでしたので(ムリ、ムリ・・・)、ここで拝読できたのは、幸いでした。
私が最初に谷崎作品を読んだのは高校生の頃で、当時は複雑な人間世界の味わいに関して、いまひとつ理解できない部分があったのですけれども、それでもなにか他の作家と全然違う不思議な味わいを覚えたことをはっきり覚えています。とくに「人形浄瑠璃」の世界の妖しさに眼を見張ったことでした。それにしても「谷崎の隠し子だ、という噂が一時あった」というくだりには、思わず笑ってしまいました。でも深く納得です!!
9月の終わりに遅い夏休みをとって、「ベトナム縦断」をしてきました。
私、なぜかアジアが好きで、外国に旅すると、否が応でも自分が「日本人」であることのアイデンティティーを感じさせられるのですけど、特にアジアに行くと「我ら同胞!」と強く感じる瞬間が必ずあるのです。言葉もそうです。中部地方のフエを車で走っていると、山がみえてきたので、「あ、山だ!」といいましたら、現地の人がベトナム語でも「ヤマ」というのだ、と教えてくれました。また、韓国ドラマをみていても「先生」とか「約束」などの言葉が同じ発音なのですね!!
発展途上の社会主義国はかなりめまぐるしく、「何でもアリ」の混沌世界で驚くようなことが本当にたくさんありまして、ここにとても書ききれないくらい。制度はしっかり社会主義なのですが、やはり資本主義にがっちりその尻尾を押さえ込まれている、といった感じでした。政治、労働、社会保障、教育、日常の生活、いろいろな話を見聞きしてきて、とても興味深く印象に残りました。
同じアジアでも、インドネシアやタイに行った時のようなのんびり旅にはならず、とにかくぼんやりしていられないため、かなり疲れました。喧噪のホーチミン、メコン川デルタクルージング、古都フエ、港町ホイアン、そして首都ハノイと、美味しいベトナム料理に333(バーバーバービール)、フランスワイン、エレファントフィッシュに生春巻きなどなど、しっかり食べて楽しんだ8日間でした。 ゆめ

* 能登の人、とても元気な人。先日、国立能楽堂のあと、ちかくで能登料理の店「五万石」を見付けて上がった時分、「ゆめ」さんは、アジアから帰ってきたか、まだかの頃であったらしい。
「谷崎愛」といえば、いま、わたし機械の中から取り出し、懐かしい『夢の浮橋』を読んでいる。東京へ出てきた年の秋にこの名作は雑誌に出て、貧乏暮らしのわたしはそれを買って読んで、イカレタものであった。
あの六畳一間の貧乏暮らしの頃、新婚の我々は京都から僅かに残して持参した二三冊の谷崎集の小説を、わたしが音読し妻は聴いて楽しんでいた。テレビなど持たなかった。新聞も取っていなかった。
のちのち『夢の浮橋』論こそがわが谷崎論の眼目となった。まだ娘も息子も生まれていなかった。新宿区河田町。東京女子医大病院の真裏の細道にわたしたちは暮らしていた。テレビの観たいときは、近所のフジテレビに潜り込んだ。撮影しているスタジオにも潜り込んだ。コマーシャル出演のうら若い岩下志麻が廊下を往き来しながら科白を覚えているのともすれちがった。にこっと笑顔を呉れた。

☆ 琳 です!
こんばんわ ご本頂戴いたしました。ありがとうございます。
やっぱり、京都にいらしていたのですね!
紅葉は少し早かったでしょうが、青葉の紅葉もまた違う趣きですね。テレビのCMで、JR東海、大原三千院見ました。黄金の阿弥陀様も映っていました。きっと本物は素敵でしょうね!
京都のプロのおじい様おばあ様のご旅行って、どんなに素晴らしいのでしょう! お母様の十三回忌、おじい様もお心を込めて祈っていらしたのでしょう。丁度、『君のためなら千回でも』という映画の原作本を読み終えたところでした。アフガニスタンを舞台にしたお話です。イスラムのアッラーの神を崇めるところが、違和感なく本から入ってきていた時期でした。タイムリーにおじい様の熱烈なお祈り。。。周りの方にも篤い波動が伝わった事でしょう!!
また来週の火曜日に、能を見に行きます。またもや、初心者でも楽しめるという解説付きのものです。今度はどんな風に表現されるのか、楽しみです!
昨日大学院の願書、無事提出いたしました。今後の研究計画書も提出、なんとか自分なりにまとめる事ができました。まだ受かってもいないのに、ひと安心しています。
卒論は12月中旬が締切ですが、院試は11月8日なのでまず院試から。
姉は企業の研究者を目指しています。最近のおじい様のブログ是非見せてあげたいのですが、まだ忙しく教えてあげられません。姉も11月に3つ程、口頭発表を控えています。発表が終わったら早く教えてあげようと思っています。研究者の卵の姉には、なにか心を掴むものがあると思います。
ご旅行のお疲れ、ご本の発送、お疲れ残しませんように。

* 前回は「羽衣」だった。今度は鬼の能など観るのだろうか。「悲しみ」の極に人は鬼になる。かならずしも嫉妬や憎悪で鬼になるのではない。そして、鬼を脱却する、心優しい素養豊かな人ほど。

* 一つ、この妻に宛てた「琳」さんのメールに、わたしの熱烈な仏前拝跪が書かれているが、これは妻のいたずらがしからしめたことで、三千院の往生極楽院、あの三尊仏のまぢかに堂にあがったわたしは、けっして五体投地の礼拝をしたのでなく、ただただ正坐して膝を堅い板敷きに折ることができないため、ははあッと頭の方からひれ伏し、膝は床にあずけ尻を盛り上げて、つまり正坐できなかっただけなのである。あの阿弥陀さんの両脇侍の菩薩さんは、寺の謂う「大和座り」つまりは前屈みに踵に尻をおいた跪座の姿勢をされている。それも出来なくて、わたしは頭を思い切り下げて尻は上げていたのだから、なんともいえぬ不格好な不作法者であった。「おじい様の熱烈なお祈り。。。周りの方にも篤い波動が伝わった事でしょう!!」には、参りました。
2008 10・23 85

☆ 病むことと,生きることと 2008年10月23日18:54   麗
最近,病む人の話を何度か聞いた。
自分で自分が制御できない。妄想が起こる。幻聴が聞こえる,気力が萎える,疎外感や不安から他罰的になる。家族や友人などが攻撃対象となる場合も多い。
関わる側も,「まとも」に戻ってほしい一心で,治療を勧める。あくまでも,病む人に「良かれ」と思って。
これが,病む人にとっては大変な苦痛,らしい。太宰の『人間失格』では,家族にだまされて精神科に連れていかれ,いたくプライドを傷つけられた,絶対許せない,という描写がある。これは,太宰自身の経験に基づく。病む自分が受け入れられないと,良かれと思う周囲のかかわりも,恨みや憎しみのの原因にされ,攻撃の理由とされるのだ。
家族や友人知人が病んでいる人は,その関わりに自分自身も疲れきってしまう。
他を攻撃しても解決にならない。関わってくれる人もどんどん減っていく,気がつけば,まったく孤立した自分がいる。この段階で病む人は,自分自身を罰し始める。全世界が許せなくなったということは,自分自身も許せなくなったのだ。自らの存在を自らの手で消し去る場合もある。
聞けば聞くほど辛くなってくる。そんな話を何度か聞いた。
今朝,武田鉄矢のネットラジオ番組で,北海道は浦河にある『ベてるの家』について語っていた。病む自分を受け入れ,治ることよりそのまま生きることを重視する,という生き方。この施設の理念は次の通り。
—*—
・三度の飯よりミーティング

・安心してサボれる職場づくり

・自分でつけよう自分の病気

・手を動かすより口を動かせ

・偏見差別大歓迎

・幻聴から幻聴さんへ

・場の力を信じる

・弱さを絆に

・べてるに染まれば商売繁盛

・弱さの情報公開

・公私混同大歓迎

・べてるに来れば病気が出る

・利益のないところを大切に

・勝手に治すな自分の病気

・そのまんまがいいみたい

・昇る人生から降りる人生へ

・苦労を取り戻す

・それで順調
——–
病む人も関わる人も,病むことを受け入れ,病むままに生きる。それこそが,病むことと正しく関わる,ただひとつの方途だろうか。その難しさを,あまりの難しさを,改めて知る,上の理念。

浦河ベてるの家
http://www18.ocn.ne.jp/~bethel/index.html

* つくづく同じことを思う。他人事(ひとごと)としてだけではない、我が事としても。わたしが、よそめにムヤミヤタラあれもしこれもして気ぜわしく見えるとしたら、自分で自分の「今・此処」を創りだして堪えているのである。ボウとしていては、「不快」に屈して「鬱」になって仕舞いかねない。さいわいにしてわたしは不徳であるが孤ではない。孤に陥るおそれは生来持っていると分かっている、だから、だから、自分で自分の「今・此処」を創りだして堪えるのである。
2008 10・23 85

☆ 作   昴
小倉山なきし子鹿のピィピィと声聞くときぞ秋はかなしき
打瀬舟静かな水面暗き影
袴着をむかえる前の娘達輝き続けよ花の咲くまで
橋架かる小川の傍の電柱や

枕詞を使って短歌を作ってみたらどうだろうと思ったけど、北海道では作れないということ発見。
季節感も地名も違いすぎます。

* 枕詞の時代ではありますまい。 遠
仔鹿なく背の尾の森の夕日かげ彩づく秋と見つつ愛(かな)しむ

たが影や水面(みなも)くれゆく打瀬舟(うたせぶね)

橋というふしぎの界(もの)を風が渡り人影ににて立つか電柱   2008 10・23 85

☆ お礼遅れ申し訳ありません。
19日にご本が届いておりました。いつもながらあたたかいお励まし、ありがたくあつく感謝いたします。
後日あらためてお礼申し上げます。きょうはこれでおゆるしくださいませ。
一雨ごとに肌寒さがくわわります。くれぐれもご自愛のほど。 湖雀(うみすずめ)

☆ 湖の本  晨
『色の日本・蛇と世界』頂戴しました。一昨日に届いていたのですが、母の病院に付き添い心配もし、疲労困憊でメール書く元気がなく御礼が遅くなり失礼しました。この状態しばらく続きそうです。
今回は大物作家とがっぷり取り組んだ充実の文学講演集ですね。たいそう分厚いご本です。重さに泣く力仕事でいらしたでしょうし、あの価格ではまた出血サービスではございませんか。とにかく、何度も一所懸命読むことで少しでもご恩返しいたしたく思います。

「科学」討論面白く拝見させていただいています。計算すればしょっちゅう一桁間違える極端な理数オンチのわたくしが口をはさむのはおこがましいので読み手に徹していますが、とりあえず一つ。

私は内容をよく理解出来たとは言い難いのですが、日本の科学の未来は明るいかもと、とても心強く嬉しく読んでいます。なぜなら、参加の皆様の理系知性プラス文系知性に惚れ惚れしているからです。
自分の考えをこのようにわかりやすい明晰な文章で表現できる方々にパソコンマニュアルを書いていただけたら、どんなに多くの人が助かることでしょう。

たまたま私の知っていた大学の先生、科学者とその卵たち(東工大や東大工学部の一つの科)だけで、理系学者を語ることなどできませんが、その限られた範囲内で感じていたことはいくつかあります。
まず、彼らは非常に能力の高い秀才集団で、人柄も好もしいのですが、欧米の工学部教授たちのような意味での知識人、教養人たるべき教育をどの時点においても受けていないようでした。専門以外の深い話はあまりできなかった。勉強に忙しすぎたのかもしれません。
それから彼らのもう一つの特徴は政治指向が非常に保守的だったこと。カーター前大統領を破ってレーガン新大統領が誕生した時、多くの学生達が大喜びしていたのにちょっと驚いたことを憶えています。
たとえばあの当時の文系東大生の場合、他国のこととはいえ、共和党支持と民主党支持は拮抗していたのではないでしょうか。私の卒業した大学も保守的な風土ではかなりのものですが、それでもあそこまで共和党支持の学生が多いなんてことはあり得ませんでした。
どんな政党を支持していても、科学者としての優劣に関係ないのは当たり前ですが、一抹の不安も抱きました。保守安定指向が研究においてプラスの面ばかりではないでしょうし、権力側に動かされるだけの有能な歯車にはならないでね、とそんなことを、遥かに能力の劣る私如きは心配したものでした。
ですから、みづうみの私語に登場する科学者の皆様が私にはとても新鮮でした。やっぱりいたではありませんか。文化、教養高き理系の頼もしき学者さんたちが。見るべきことを見て、批判すべきことを批判して、将来の展望も希望も創ることのできる上、良い文章がお書きになれる。素晴らしいです。益々意見活発にこれからも活躍していただきたいものです。チンプンカンプンながらご研究を応援しています。
思い切り、科学討論内容とずれましたが、とりあえず登場した役者さんたちが大好きというつたない感想申しあげました。
みづうみは発送作業のお疲れのでませんように。毎日お大切にお過ごしくださいませ。

* この読者がわたしの謂う「理系夫人」であるかどうか、どういうエリアの方か、何一つ、知らない。「討論」にエールを戴けて、感謝。ご病人をどうぞお大切に。
2008 10・23 85

* この一年余を家族に心配かけぬよう秘しながら「鬱」のためのクスリを服していますという便りをもらう。
「今回(湖の本新刊)の私語の刻、湖様の湖面のように澄んで落ち着いた気持ちが伝わってきた思いです。
私は、自分のある状況をありのままに受け入れながら、いま ここを大切に、日々生きていますのでご安心ください。言い訳がましい現状報告になりましたが、思い切って私の状態をお伝えしておきます」と。
鬱の孤愁から逃げ延びようと事業の手をひろげ過ぎていないかと案じていた。平安を祈ります。

☆ (前略)冒頭の「色の日本」まず拝読致しましたが、私が漠然と考えておりました「色」について、様々な、しかも最深への眼差しもあたえられて御考察に次々と啓発されました。例えば古代の青磁の色に魅かれての小説「秘色」、平安時代の色の飛躍、薫君と匂宮の「光」との関係、古事記の「花」と巌と、「いらう」が、「いろ」から発していること等々、目からウロコが落ちる想いが致しました。
又「私語の刻」のペンクラブにイヤ気がさしている内部事情も私なりに感得致しました。
本日も取り敢えずの御礼まで一筆啓上致しましたが、百巻御達成へ向って、さらに着々と歩を進められますよう、併せて祈り申し上げます。草々不一   元文藝誌編集長

☆ (前略) とりわけ「蛇と世界」という異色のテーマ、興味津々頁をくっております。有難うございます。いかにも秦文学の世界で感銘しております。鏡花、藤村と刺激的な主題でした。有難うございました。  元女子大学学長
2008 10・24 85

☆ PS.ベトナム 越南への旅  ゆめ

緑したたる通りに統一会堂あり 我立ちし此処 戦車突破すと聴く

コロニアル館の窓は色硝子 かの国もまたあおによしなり

常夏の街を自転車の群れ過ぎゆけり 白きアオザイの乙女 一陣の風

農民のバイクの籠に積まれいし 子豚らは市場へ 朝陽さすなか

出航の合図響きてゆるゆると 龍の降りたる水のさなかへ(ハロン湾)

文章にすると長くなるので、短く印象をまとめ習作してみました。
昨日は「霜降」とか。あっという間に今年も終わってしまうのですね。
総選挙は年内にあるのか? ないのか? 忙しい毎日が待っています。
どうぞ、健康に気をつけてお過ごしくださいね。 ゆめ

* さすがに読み込んできた人の措辞のおもしろさがある。
2008 10・24 85

* 「科学・研究」討論に特許庁の「敬」くんが加わってきてくれた。深度のある思索を明晰な文章にして「あいさつ」出来る学生君であった。今回も、言を切することなく輪郭美しく適確に発言してくれている。藝術、藝術家にまでおもいをひろけでくれているのが有り難い。
教授室で、よく日暮れまで二人で話した。いろんな相談も受けた。フルートの名曲をいくつもテープに編輯してくれたのを、いまも大事にしている。
あわやわたしの勤務した医学書院の後輩編集者になりかけ、わたしは賛成しなかった。今の職場のことは何も分からないけれども「敬」くんにふさわしいと勝手に思っている。結婚にも立ちあえたし、一年の英国留学も見送った。頼もしい人で、想像以上に庁内でもえらくなっている気がする。まだ、ささやかながら、この人「茶の湯」びとでもある。自称「親ばか」の夢中のパパさんでもある。だいたい東工大卒業生の父親くんたちはそのようである。

☆ (前略)科学・研究に触れて 敬
私は、来年の3月頃からまた、3年ほど海外赴任の予定となり、ここ半年くらいで、一応の仕事ができる程度にフランス語を習得しなければならなくなってしまい、四苦八苦しているところです。お茶は、細々とですが続けています。いつかどこかのタイミングで、もっと本格的にも取り組んでみたいと思うのですが、もっと先になってしまいそうです。
ぜひまたお会いできるとうれしいです。今は部署も異動したため、平日でもいつでも大丈夫です。
「科学・研究」討論、自分自身は研究からは遠く離れていますが、皆さんの議論を興味深く読ませて頂きました。専門家の方々の深い議論の中で、とてもまとまった意見は述べられないのですが、特に「無駄」ということについては考えさせられましたので、思いつくままに少しだけ書いてみたいと思います。
「仁」さんのいわれる、大学や研究においては、目に見える成果に直結しないような「無駄」が必要というのも、至極もっともです。しかし一方で、「司」さんのように、「無駄」なことにお金を費やすくらいならば、今日明日の生活に困っている人達に使うべきという見方も、当然出てくるでしょう。今の日本では、特に後者の視点を重視する圧力が、どんどんと強くなっていると感じています。もちろん、今日一日をどう乗り切ろうかという現実は、まさに目前に置かれているため、力強い説得力持っています。家もなく食べるものにすら困っている時には、宇宙の成り立ちも、素粒子のありようも、それどころではないでしょうから。
一行政庁である私の職場においても、元総理の「無駄ゼロ」のかけ声を待たずしても、「無駄」を省き、効率化を進めるという意識は、働き始めて以来、年々強くなっています。800兆にも達するといわれる財政赤字が無くとも、国民からのお金で仕事をしている以上、当然無駄遣いは許されません。実際に効率化された点が多いのも事実です。しかし反面、即効性の効果の見えにくいことは、本来必要であるはずなのに、削られてしまいがちです。例えば職員に対する研修は、職場として人を育てるために必須のものですが、研修の時間や機会を減らすことの影響が分かりにくいため、これは見方によっては、必要以上の研修を行い、無駄遣いをしている、ということになってしまいます。
しかし、人を育てるためにお金を使うことは、果たして本当に「無駄」なのでしょうか。「雄」さんの書かれていた、「漁業・農業・林業」の語を使わせて頂くならば、この例にとどまらず、今の効率化の流れの中で、「農業」的、「林業」的なものと、文字通り「無駄」なものとが、混同されて、切るべきでないものまで切られてしまっているケースが、かなり有ると感じています。しかもその影響は見えにくく、十年単位で段々と出てくるものであるため、気付いたときには「森」が枯れ始めていたということにもなりかねません。
国立大学、国立研究所、国立病院、行政庁の業務の一部も、国自体が行う必要がない、または、より効率的に業務を行うためという名目により、独立行政法人に移行されてきています。これも当初は、予算や人員の弾力的な運用が可能で、国と民間の長所を併せ持ったものになる、というようなことが言われていたと記憶していますが、10年ほど経った今、「maokat」さんが書かれていたように、その正体が見えはじめています。事業は親元の官庁の監督下にありますので、自由には出来ませんし、予算も年々圧縮されていきます。民営化への圧力も加速度的に強くなってきています。結局のところ、人減らしのための方便であったかとまで勘ぐりたくなる程です。大事なものまでまとめて切ってしまおうとするような側面が確かにあります。

ちょっと話がそれてしまいましたが、何が本当に「無駄」なことであるのかは、実は線引きが難しいにも関わらず、市場の真っ只中にある民間企業はもちろん、現在は行政においても、短期的に形にならないもの≒無駄、と割り切ってしまっているやに見えます。そして、そのあおりを最も受けやすいのは、直ぐには目に見える成果を出しにくい基礎研究や教育、そして恐らくは音楽や美術といった藝
術ではないでしょうか。それらはいずれも、非常に地道な下積みが必要で、「農業、林業」的な性格のものですが、簡単にモノになるものではない点で共通しています。
社会の中で、どの位の「農業、林業」的なことが許容され得るのかは、社会情勢などに応じて、その時代時代を生きる人達が、それらをどのように捉えるのかに左右されると思います。例えば今回のノーベル賞のニュースなどに触れると、やはり多くの人は、基礎研究は大事だなと思うでしょうし、そうすると、大学や研究所で、巨額な研究予算を使うことに理解を示す人が増えることになるでしょう。
音楽でも、音楽家の育成にはお金がかかるでしょうが、その人の創り出す藝術に感動するとき、金勘定に対するシビアさは、かなり鳴りを潜めるものでしょう。
もちろん、お金をかければ必ず育成できるものでもなく、これも研究と同じでしょうか。
科学者にしても藝術家にしても、「maokat」さんの言われる、「密室の祈り」により、「こちら側」にはないものを、ある意味命がけで、「あちら側」から持ち帰ってくる。その持ち帰ってくるもの、それは自然の摂理ともいえるのでしょうし、この世界そのものの根本、存在そのもの、といっても良いのかもしれません。
そういったものを、科学や藝術といった、ある種の「言語」を使って、人間が理解しやすい形にしてくれる。そしてそれを、その他の人々は、あるものは賛嘆を、あるものは感動をもって受け入れるでしょうし、あるものは黙殺するでしょう。詰まらない事をしていると非難することもあるでしょう。科学者や藝術家は、そういった存在なのだと、自分は(かなり当てずっぽうに)推測しています。そして、科学者や藝術家たちを、現実において金銭的、社会的に支えるのは、その他の受け取る側の人々であり、彼らにそっぽを向かれたとき、科学も藝術も、現実的に存在できなくなってしまいます。とはいっても、特に藝術家の場合、歴史的には、そっぽを向かれることが多いため、パトロンのような存在が重要であったのでしょうけれども。

これだけ効率化が求められ、日本という国に余裕がなくなっている今、悲しいかな「祈り」自体の質は推し量ることが出来ないものであるため、科学者が、自らの行っていることを、自分を支えている多くの人々に分かるように説明することが、不可欠になってきたのでしょう。科学者だけの役割とは思いませんが、いくら文科省の役人が声を大にして説明しても、聞く耳を持って貰えないのが今の社会でしょうから。
断片的な考えばかりでうまくまとまりませんが、明日読み返すと恥ずかしくて送れなくなりそうで、なかなか集中した時間もとれませんので、ひとまず送ってしまいます。
だんだん寒くなってきましたので、くれぐれもお体を大切にお過ごし下さい。

* ありがとう。はからずも「敬」くんは、この討論に一つの「結び」の言葉を呉れたように思う。

* そして今、またお一人の発言が加わった。医学者・医師の発言は来なかったけれど、看護師という立場から「科学・研究」への思いと視野とを培ってきた人だ、聴かせて戴こう。

☆ 研究・研究者へ看護師からの視線  珠
そろそろ‘まとめ’を、、という頃になってしまいましたが、遅ればせながら書いてみました。
私の立ち位置は、発言されてきた皆様とは少し違った現場。その中でも共通点や、感じたことなど多くあり、まとめの苦手な私には脳裏で多くの言葉が浮かんでは消えるという、意味深い楽しい10日間でした。
私は看護短大を卒業して看護師になり、大学病院でがん看護を中心に14年勤務した後、現在は診療所で日常診療と健康相談などしています。いつの間にか、ナースになる前より、なってからの人生の方が長くなりました。
「研究」というと、大学病院時代の医師たちを思い出します。
先生方の多くが学位をとる為に、診療の傍ら研究に没頭していました。若い頃は、「研究中で手が放せない」という医師に、患者さんが呼んでるのに、、と怒ったり、「研究だから」を医師は問答無用のように使うから困ると思ったものです。
ですが、段々年を重ねてゆくと、飲み会の後でも、「どうしても今夜研究の続きをしなくちゃいけないから、、」と研究室に戻ってゆく様子や、患者さんが先生を呼んでいて「研究中で、ちょっと待って」という時に、何とかしたいけれど行けない状況に苦しみを感じている様子が見えるようになりました。「研究」は、自分で計画して自律し進めていかなくてはいけない、とても難しい仕事だと思うようになりました。臨床で医療に携わりながら同時に研究をされていると、優先度を試されるような場面も多く見え、研究内容は分からなくても、自己を律して臨むそういう「研究」をされる医師たちに、少し尊敬すら覚えるようになりました。
その後、自分でも臨床研究に関わったり、文献も読むようになったので、以前のようには「研究」そのものにひれ伏すことは無くなりました。それでも未だ、私の知っている多くの人は多分あの頃の私のように、研究内容は分からなくても、「研究者」というだけで「すごいですねぇ、、」「まぁご立派で」と言うことと思います。

そのなか、私は、「理解」ということの難しさを思います。どの方のご意見にも大きく頷く部分はあって、社会の在り方、この国のゆくえを自分の場所から憂え、願い、祈り、そして日々悩みながら実践されている姿を感じることができます。単に真面目、、とかではなく、迷いながら在る様子は
非常に人間らしく、研究内容は分からなくてもその一生懸命な姿勢に、私が採用担当者なら合格点をつけるでしょう。研究内容の価値判断や国家国民のための研究、、私も国民の一人ですが多分いくら説明をされテレビ・新聞で読み聞きしたとしても、概要くらい分かった気になるだけで、その価値判断などは到底出来ないでしょう。その時に何を見るか、、それは”人”そのものです。
今回のノーベル賞受賞の一連報道で受け取ったのは、受賞された先生方の科学大好きなやんちゃ坊主のような可愛い頑固さと、落ち着いた寡黙さと、はにかむ笑顔でした。お二人一緒に出られた番組で、もうちょっと研究についての説明を聞いてみたいと思う一方で、キャスターはお二人がどのように一緒に研究されたかの様子を尋ねてゆきました。その質問で苦笑いされ「私は益川さんを研究していたわけではないので、、、」というお返事が、実は一番印象的でした。哀しいながら、キャスターは分かっていたのでしょう、実際多くの人は何を見たいのか、知りたいのか。ここには多分、「研究者」の求めたい「理解」と、国民の多くが知りたくて、そして理解できることの「ギャップ」があります。

医療現場で、様々な年齢の、それこそ国会議員から役者、教育者、会社員や学生さんなどと真っ向から関わってきて、40歳近くで心底分かったことは、「人はこんなに分からないんだ」でした。
「理解」は言うまでもなく大事ですし、それがあって人は何か行動へと向かうと考えていました。
ですが、どんなに説明しても理解に至らない、理解したように繕うだけということは多くあります。誰だって利口に見えたいし、男性は特にプライドもあって「分からないように見せない」ことに上手です。説明の仕方など、こちらの技術の問題として検討してばかりいたので、しばし呆然としたものです。
それからは、少し角度を変えて「理解してもらうのは難しい」をスタートラインにし、理解を求めるよりも、どうすればグラッとでも影響することができるか、、を考えて関わるようになりました。そのために、看護技術の勉強より、人が何をどうやって理解して動くか、それに影響するのはどんな事かと、社会に目を向けるようになりました。そうすると、哀しいながら例えば医療者のどんな説明よりも、テレビでみの(もんた)さんが言った健康対策の方が人を動かしているのです。
何故でしょう。。。テレビだからではありませんでした。私がそこに見たのは、その場にいる観客の「分からなさ」をよく分かったプロの技術でした。これには医療者は学ぶべきところがあると思いました。「研究者」は知的な真面目な方達なので、こういった「人の心を手玉にとる」ような感じには嫌悪感を感じられるかもしれません。
ただ現状でも、「研究者」として社会や人に何かしら理解してもらうために、多分皆さんの相手である「行政」「旦那」「パトロン」ひいては「国民」の理解を得ようと各個人で分析したり、そして対策を個人的な努力でされていることと想像します。最近よく記事になるポスドクの就職問題や、
大学全入時代でのレベル低下などからも思うのですが、まずは、単に学位を持った人というのでなく、「研究」を主とする「研究者」専門職を、もっと社会に認知させることが必要だと思います。
その認知には啓蒙・広報は当然大事で、そこで本当のプロを求めないと、社会の多くの人の「分からなさ」を想像できぬまま、届かぬ球を投げて徒労ばかりということになってしまうでしょう。

今回多くの方が、研究に携われない方々へのセイフティーネットなどについて述べていらっしゃいましたが、今や、国に期待しても‘夢’‘幻’でしかないでしょう。また、理解はされても、遠い先を見る余裕はなく。
では、この時代、国に影響し行動させるものには何があるでしょうか。私には、集団の力、特に高齢者の力が大きいと思います。「研究」をされていた「研究者」は、定年後どうされるのでしょう。
先日アメリカ在住でノーベル賞を受賞された先生は、ご自宅に研究室がありました。そういう方も稀にはいらっしゃるのでしょうが、多くは定年で研究もお終いになるのではないのでしょうか。。。
もう既にあるのかもしれませんが、研究者は必ずどこかの研究室を経ていたはず、、それを辿って取りまとめ、人的資源として活用できるような機関、「研究者」が学会を越えて日本の「研究者」としてある意味まとまって、国に科学の行く末を進言できる機関、そういった「研究者」のための「研究者」による機関が必要だと思います。高齢者になった「研究者」が鍵ではないでしょうか。相当の人脈や経験をお持ちのはずで、それをむざむざ思い出の彼方に仕舞われては勿体ないです。
研究計画書や、研究予算申請書などでの上手いアピールの仕方を苦手な人は、学んでいる間に現役の研究時間は減ってしまいます。行政側にいた方や、予算を上手く獲得してきた先生方は、高齢者になったら自分の組織の益でなく、国の科学者のこれからに寄与してくれるのではないかと思いたいのですが。。。まとまるのが難しそうな「研究者」のイメージですが、まとまらねば衰退し、研究は外国で、、となっていくように思えてなりません。高齢者になってきた「師」は、この国の良き伝統だった地道な仕事の仕方、育て方をご存知でしょう。その経験こそ大事な遺産。子供は減ってゆくので、自ずと自国の研究者も減ることになるはずで、科学だけでなくこの国はやせ細ってゆきます。
まさに今、先の先をみすえられるのは、本当に分かる「研究者」しかいないと、今回皆様の意見を拝読しながらつよく思いました。
科学技術の進歩に、通信技術の発展、社会や他国との付き合い方まで、今や‘働く’なかで求められることは非常に多く、細い橋の上を何とかバランスをとって渡っているような感覚があります。
好きな事でさえ、仕事として続けていると嫌な物を引き寄せてしまい、うんざりします。「研究者」が日常に疲弊しては、良い発想は生まれないでしょう。どなたかも書かれていたように「研究者」は藝術家ともいえるでしょう。その自由柔軟な発想の遊びなくては、作品である「研究」は後世に残りません。残すために、その大事さをまず知っている「研究者」の皆様方の危機感に火を点けて、大きな炬火にしてほしいと思います。

昨年だったと思いますが、現在増えているメンタルヘルス疾患についての研究会で、ある企業の調査報告を聞きました。仕事のモチベーションを左右する項目で、その企業の研究所とそれ以外な事業場で、はっきりとした違いがありました。一般職ではほとんどの職場で‘裁量権’が重要でしたが、研究職では‘上司のサポート’が大事とはっきり出ていました。人は環境に影響されます。これは、ある研究所での結果にすぎませんが、研究者に良い研究(仕事)をしてもらうために大事にすべきことが何か、ある程度想像できます。単に、働く人という括りではない配慮が必要でしょう。勤務時間や休日取得という一般的な物指で「研究者」を見たら、「研究」など出来そうもなく。。。「研究者」が「研究」できるような配慮、望む働き方を、大学も企業も独法も本気で考える時期だと思います。
日常研究では「個」を尊重し自己管理を任せる代わり、数年に一度、欧米のようにサバティカルなどとしてまとめた休暇がとれるようにするなど必要ではないでしょうか。雇用されたから雇用者なのでなく、「研究者」という独特な職種だと、やはり社会に認識してもらう必要があると思います。そういった点で、私は看護と研究には、似た部分を感じます。
「看護師さんて何する人?」
これは答えやすそうで、とても難しい質問です。採血して、点滴したりして、病気の人の身体を拭いたり、話を聞いたり、、これでは子供はキョトンとして魅力は伝わりません。看護師だからこそ出来ることは何か、、これをはっきり社会に伝えきれていないので、要らないという人はいない職業ですが、そのわりには報酬にも結びつかず、忙しさ故、離れる人も後をたちません。
「研究」も、その仕事(成果)を評価して報酬を決めるのはとても難しいでしょう。それでも、お金は後からついてくる、、と私は思いたい。成果と、その評価は一致しないのは仕方なく、でも大きな見返りではなくても、どなたかも書いていらっしゃったように、「わかる人にはわかる」と思うのです。お金は大事ですが、お金から物を見るせせこましさを覚えてしまうと、専門職として大切なことや物を感じる力は鈍ってしまうように思います。

40代も半ばになって社会の様々な問題を思うとき、それを変える役目は自分の世代にあることを否定しようもなく、30代には上の世代の人に表現していたことも、今は自分はそれに対して何をしてきたか、何が今できるだろうかと思うようになりました。専門職としてそれなりに良い評価をもらいながら生きてきた自分として、毎日丁寧に仕事をする以外に、社会に対してきちんと役を果たしてきているだろうか、、と振り返ります。
「雄」さんが、「エリート意識」という言葉を使われたと多分同様に、私も以前から「選ばれしひと」という言い方で同じことを思ってきました。幸運や出逢いに心から感謝し、今あることの不満よりも、その先をゆく義務があると感じます。こう思えるくらいに、私も偶然にこの狭い医療の世界でも幅広く豊かな人々と出逢い、恵まれた医療活動をすることができています。
そういうなか、そういうなかだからこそでしょうが、「私」の方を向いたらバチがあたる、誰かがみていて気がつくだろうと思います。それを保つ厳しさは、哀しきプロの孤独感といえるでしょうか。。
今回、多くの方が書かれたことは大変貴重で、私には自分のこの10年間の意識の変化を思うにつけ、それぞれの皆様の5年後、10年後の意見もまた同じように聞いてみたいなと思うのでした。

「研究者」という方々の、その「研究」の微妙な隙間に対する感受性が高ければ高いほど、自分の言葉で表現することにもこだわりがあるでしょう。研究をされている間はディスカッションや具体的な方法で進むでしょうが、それを論文にまとめるという段では、さぞかし大変なことだろうと思いました。
そんな「研究者」の特性は感じながら、今回のノーベル賞が単に国民のお祭りで収束するのでなく、この国の科学界にとって大きな転換点になってほしいと思い、「基礎」と「応用」の違いも知らないままに、「漁業・農業・林業」という表現には嬉しくなって、思うところ長々と書かせて頂きました。
あぁそれにしても、研究者の皆様は頭の中に引き出しをお持ちですね。1、2、3とタイトルなど付けて書き分けてみたいと、心から思いました。これも、専門家の皆様のトレーニングされてきた成果であって、そこらの雑誌より楽しく読むに値するものでした。この「生活と意見 闇に言い置く私語」に討論の始終を掲載して下さって、本当にありがとうございました。

寒くなってきますので、どうか、湖、おからだに気をつけてお過ごし下さい。くれぐれも、お大事に。  珠

* 想えば五十年近く前、わたしの日々は医学・看護学研究書の出版編集者として、日々お医者さんや公衆衛生マンや看護婦さん助産婦さん保健婦さん達とお付き合いしていた。「珠」さんは当時のそういう人たちからは娘さんの世代に当たる。難しい勤務の日々であろうと想像する。一つ残念なのは、目下の話題である医師不足や看護師の不足にも触れて貰いたかった。

* 最初の発言者「仁」くんにも、一応の「結び」文を求めておいたのが、いま、届いた。上の「敬」くん、「珠」さんの文だけは、目に入っていなかったものだが。

☆ 秦先生   仁
ここ数日は失礼いたしました.院生の頃から,自分の作った分子シミュレータ,「誰も知らなかった自然の摂理のほんの少しの隙間」を観るための道具,に番号をふっていたのですが,今週はその通算 6 代目を作っておりました.「maokat」 さんのこの言い方,とても判る気がします.
理論屋の場合は,ついつい自分の作った道具に惚れこむあまりにモデルの方が自然よりも完璧だと思ってしまう刹那があります.ですので,自分の道具は非力ではあるが「ほんの少しの隙間」を観ることができるかもしれないのだ,という姿勢を崩さないように自戒しています.
(討論に加わられた)皆様には,ただただ圧倒されていますので,今まで先生のこの「生活と意見 闇に言い置く私語」を拝見していたように,ただ拝読できればと思っておりましたが,ボールを投げていただきましたので、書きたいと思います.

☆ 大学の研究者が言わないような類の科学の話   仁

~まとめられないのでガイド~

皆様から様々なご反響をいただいて,嬉しいと同時に,それぞれの立場からの真摯なご意見を拝見するにつれて,言い出しっぺの責任のようなものも感じた.

いろいろなことを書いているので,自分でも結局一番何が言いたいのかが明瞭ではないのだが,そもそも書いたモチベーションは,「理」さんのご指摘どおり,企業側から基礎科学の現状を見たときの若手研究者の「雇用問題」について,だといっていいと思う.この「雇用問題」については,一番有名なのは「ポスドク問題」であり,これについては,「笠」さんご指摘の「週間こどもニュース」的な解説としては wikipedia の「ポスドク問題」の欄のご一読をお勧めしたい.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%89%E3% 82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC

皆様のご意見も含めてこの「雇用問題」を整理したいと思うのだが,どうも簡潔にまとめられない.ただ,皆様のご意見を読んでいただく際の指針を提案したいと思う.
大別すると,(1) 社会の仕組みの問題, (2) 現場組織での問題,(3) 個人の気持ちの持ち方・姿勢,の 3 階層の問題が混在している,という観点から見たらいかがだろうか.たとえば,「基礎研究を評価するのは誰であるべきか」を例題に考える.

現状では旧国立研究所において「maokat」さんの言われるとおり,政治家,産業界,所管官庁,といった外部者および当該独法機関の上層部の連携で,研究現場が不要に混乱するという実態があるという.
(1)  社会の仕組みという観点からは,僕や「雄」さん,「司」さんも間接的に述べているように,セーフティーネット (研究経験者を社会の広い業界において採用する) を産業界や所管官庁あるいはマスコミにまで広げて,これらの関係者がより深く基礎科学のあるべき姿を描けるように能力向上した上で,予算配分などを行うようになるべきだと思われる.そうしてはじめて,「京」さんをはじめとする「国民」という言葉を使うことにひっかかりを感じる方々も納得できるシステムになると思われる.
一方で,(2) 現場組織においては,そういう理想的な社会構造に変わることを待っているわけにもいかないから,運用上の工夫を重ねるべきであろう.これは,官にも学にも属さない僕からは間接的にしか判らないことだが,たとえば有力大学に重点配分されている COE 予算によって,学科単位で混乱がおきているように見受けられるという問題がある.
COE がとれたら,院生に旅費や給料を支給できるといった大きなメリットがある反面,自分の研究室の本来のテーマから大きくはずれる研究を実施せざるを得ないことがある.現場の運用上の工夫として,院生には自分の研究室の本来あるべき研究テーマに沿ったストーリーを用意しつつ,COE が掲げる目標に沿っているかのように物語を構築するといった努力が必要であろう.
当欄に参加されている他の皆様がもっと良い例を書かれているように思えるので,読み直していただきたい.たとえば,「光」さんはご自身の研究現場において基礎研究における無駄を学生に説くことによって広い意味での基礎研究への理解の形成に寄与されていると思う.
この問題について、(3) 個人の気持ちの持ち方については,それぞれの立場において千差万別であるから,まとめるのは難しい.とくに,配偶者が研究者の方々や,科学技術と関連のない人生を歩まれている方々については,これが正解・正論だなどと言いようがないため,ただただ「なるほど」と伺うばかりである.

話はそれるが,東京工業大学は、東京職工学校という元の名が示す通り一義的には科学者・技術者を養成する大学であるため,それ以外の人生選択,典型的には思想家の吉本隆明氏や作曲家の倉本裕基氏のような人が出るのは想定の範囲外といって良かろう.政治家の菅直人氏などについては,たとえば中国の指導者は理工系のテクノクラートが大変多いことを考えると,もう少し科学・技術に明るいところを見せて欲しいと思うが.ともかく,東工大という共通点を通して語るならば,科学・技術について語るのが妥当と思うが,秦先生の謂われる「理系夫人」については,ここでさらに深堀りするか別の機会にするかはともかく,語る価値のある着眼点だと思う.
研究者の人生は「旅」になってしまうことが多い.僕の父も研究者であったため,母と他の家族に苦楽を与えたし,僕も現在妻に迷惑をかけている.これについては「百合」さん,「藤」さん,「馨」さん,「京」さん,「鳶」さん,「晨」さん,沢山の論客がおられることを知って嬉しかった.
複数の人の思いが入り乱れたときに,「皓」さんの,結局心が大事である (とまとめてしまって良いのか) というご指摘を大切にすべきだと思う.本人だけではなく,家族をはじめとする周囲の人々の幸福のために,生きているのだと思う.本日後半ではとくに,偉そうなことを書く予定であるが,実は周囲の人々を幸福にできなくて,その一歩先の人を幸福にすることは難しいと考えている小心者である.しかし,心の問題は一番難しい問題であるということは言うまでもないと思う.
皆様からいただいたご意見を整理することは難しいので,皆様の書かれていることが社会,現場組織,個人の三つの視点のどれかということに着目して読み直していただくと,理解もしやすいのではないか,ということを言い出しっぺとして指摘させていただいた.

~「雇用問題」について,付記(総括的な感想にかえて)~

秦先生から「総括的な感想」をというボールを投げかけていただいて,うまく受け取られているか甚だ疑問であるのだが,自分の例を中心に書かせていただいたパート 1~3 にかえて,今度は自分の周囲を例にして,「雇用問題」にまつわる具体例をいくつか紹介したい.

職場では,毎年のように採用活動をしている.就職サービスの企業から送られてくるデータを見たり,会社説明会で学生さんにお話をさせていただいたり,大学をリクルート目的で訪問したり,といった直接的なものから,企画させていただいている学会の研究会や,大学での集中講義,共同研究のための訪問などを通じて院生の皆さんと対話することや,社内での若手との対話を通じて,仕事上,この「雇用問題」と向き合っている.
食事中もこの問題が話題になる. 30 代半ばの同年代の同業者に関しては,仕事上付き合う近接分野の研究者にはポスドクが大変多い.弊社内でも民間企業としては最大規模と思われる数の任期付研究員が在職している.あるいは,昼食を食べる仲間には元東大や東北大の任期切れの助教がいたり,逆に社宅の同期が京大の助教になって出て行ったりして,任期付助教の問題についても考えさせられる.
家族の不安も大きい.仕事を離れても,最近は友人や親戚の若手研究者がポスドクになる際に,その両親に,本人の希望の妥当性や将来展望を第三者的な立場から説明するという機会が多い.「イスラエルの大学が良いので行きたいと言ってるが,息子は正気なのか」といったお母様の質問に答えたりしている.
プライベートな人生設計上の問題でもある.自分あるいは交際相手または配偶者が不安定な研究者であるために,生活面で,あるいは心理的に不安定になるというケースも多い.自分自身,5年近く東京-名古屋間で自費・自己都合・単身赴任の状態であったが,そういう遠距離結婚・恋愛をしている仲間も大変多い.ポスドクでヨーロッパに赴任するに際して結婚して,現地で子供を作ったのは良いが,二つ目のポスドクに移るに際して妻を離縁したという知人の話などを聞くと胸が痛む.
これが一般的な雇用問題と同じであるかどうか.「理」さんからご指摘いただいたように,どんな職業であっても若い間は苦労がある.僕も 1990 年代をまるまる 20 代として過ごし,その間をフリーターとして自活した経験からみて,赤木智弘さんの「「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」に書かれているような,社会全体の雇用問題という背景があることは肌で理解しているつもりだ.コンビニのおにぎりを 100 円という低価格で食べられるのは,安い労働力のお陰だということはフリーターにとっては常識である.労働組合は通常正社員しか保護しないから,自分がはじめて労働組合員になったときに,「社会で本当に困っている人のために組合は何も機能していない」と心の底から主張したこともある.

しかし,ポスドクの問題は一般的な問題とは少々異なる.まず,景気の影響は受けるにせよ,「異常な理系」でない側の,機電系を代表とする「正常な理系」の人々には雇用問題はそれほど深刻ではなかった.確かに,バブル崩壊以降に入社した大手企業の 30 代社員は手薄である.しかし,機電系の人々は大手から漏れても中小に就職できるといった,厚い雇用元の層が存在し続けている.
先日,東工大に社会人課程博士として在籍している僕の職場の先輩が,「ポスドク問題」を語る東大・東工大合同のセミナーに出席させられた.そのとき,全体を仕切っていると思しき「異常な理系」側の人々の悲痛な主張と,僕の職場の先輩の属する化学工学という「正常な理系」側の人たちのテーブルにおける反応とで,明らかな温度差があったそうだ.この理工系内部における状況および問題意識の乖離が第一点.

次の点は,中途半端に欧米を模倣して,大手の大学や国立研究機関から順番に任期付にしていったため,優秀な研究者ほど任期付職に就かざるを得ないという状況となったこと.「藤」さん,「鳶」さんが知っておられるであろう,伝統的な博士の就職難は人文・社会科学と,物理や生物学において昔から存在した.しかし,昔の研究者の場合は上から認められた順番に,それなりのパーマネントのポストにつくことができた.僕の大学院の指導教官のさらに師匠は,戦後まもなく初期のフルブライト奨学金を得て渡米したが,彼の時代は留学という名の在外研究 (定職を持っている人の国外研究) であった.僕の父も,国立大学の常勤教官としてアメリカで研究していた.そうでない人は,副手といった本質的に臨時である職についていたため,本当の若手の間しか大学にいられなかった.現在では,正規のキャリアとしてポスドクが位置づけられていて, 2 度も 3 度も任期付の職を経験するため,すぐに 30 代後半となる.給料は悪くない場合もあるが長期の身分保障がない.これがなければ,結婚もしにくいし,自宅を購入するローンも組めない.

このポスドク問題は「異常な理系」側の問題である.機電系を代表とする「正常な理系」においても,たとえば産総研や国立大助教のポストは最初はポスドクであるように,アカデミックなポストは「異常な理系」と同様に任期付であり,一見一律にみえるが,ポストを失ったときのセーフティーネットの有無が,背景に産業があるかどうかで全く異なる.このセーフティーネットの必要性については,「雄」さんとほぼ同じ考えである.たとえば,新聞記者に研究経験のある人を入れる必要性など,全く同感である.

セーフティーネットを必要としているのは「異常な理系」であるということをもう少し掘り下げて考えてみると,「異常な理系」においては,人材の流れとしてはアカデミックな側からそうでない側 (メーカー,非研究系公務員,マスコミなど) への流れが形成されているといえる.するとこれは,アカデミックをやめる,あきらめる,といった経験を,多くの若手研究者が経験するということを意味する.このときに,どう自分の中で心を整理するかという「哲学」ともいうべき,心の問題が存在する.僕が前項で提案した分類において,社会的にでもなく,現場組織の工夫としてでもなく,個人の問題として個々人が解決すべきと思っている問題はここである.僕自身が「そのとき自分はどう考えたか」という実例を示したのが,最初の秦先生への手紙 (パート 1~3) であった.企業研究者としてハイドンのように基礎研究を行いたい,ということであった.

このとき,「屍」という言葉を使ったことに多くの方々からの反響があったことは,意外であった.
自分としては,狭義の研究者 (=定期的に原著論文を発表する者) として生き続けたい,「屍」にならないようにしたい,ということを日々考えているので,自然に出てきた言葉なのだが,たしかに他人からいきなり「屍」と言われたら衝撃を受ける.これは,新聞記者が「ブンヤ」,会社員が「リーマン」と自称するような,自分が言うときと他人に言われるときとで印象が違う言葉であろう.つまり,一義的には個人の心の問題である.
「瑛」さんが書かれたように,研究者はソリストから指揮者になる場合が多く,そうなったら「屍」なのだろうか,といった高次元の問題もあるだろう.これは,産官学のいずれにおいても見られる過程である.教授や研究室長にならなければ思った通りの研究が出来ないにも関わらず,そのポストについたら研究が出来なくなるというジレンマも往々にしてある.これは良く判らないので,現段階では先輩方にお任せするとして,本稿では博士号を取得してから数年~10数年程度の若手の問題に絞って考えたい.
大学院の後輩にあたる女性で,理論物理の本当に基礎的な問題に取り組んでいる博士課程の院生のエピソードがある.彼女は,博士課程がもうすぐ終わるのだが,ポスドクになることに不安があった.かといって,民間企業で使えるような研究テーマではなかったが,企業就職を考えていた.そのとき,瀬戸物 (陶磁器) の博物館を訪れた.瀬戸物が躍進したのは,明治時代になって狩野派の画家が大量に失職し陶藝に分野を変更し藝術性を持ち込んだためであった,とそこには書いてあった.ファインアートである理論物理から産業へ転身する自らを,黄昏の狩野派の画家になぞらえたわけだ.読者によって,いろいろ感想が異なるであろうエピソードだと思う.
他のケースをざっと紹介すると,大学院で生命の起源について生体高分子のシミュレーションを通して研究していたが,教職を経て,民間企業に任期付研究員として転職したという人もいる.彼は,企業の人々に変わった視点から世界の見え方があることを示したいと言っている.
逆に,同じような生体高分子のシミュレーションの分野の研究者で,30 代半ばまで海外ポスドクを繰り返したあと旧帝大の准教授になったが,特に哲学的な思い入れはなくて,ただ面白いから解析しているのだ,ということを断言している人もいる.彼の指導教官は人文学的な意味でユニークな発言で知られる人であるだけに,興味深い.
大学・大学院の同期の友人には,分子生物学で大学院を修了し学振特別研究員となり,高 IF の業績を連発しほどなく助手に採用されたが,30 代半ばの最近ビール会社に転職した人がいるが,彼は助手時代は自分が民間企業に行くことは全く考えていなかったと思う.
共同研究を通じて知り合った旧帝大の化学工学系の院生がいた.彼は,せっかく「正常な理系」である化学工学であったのに,僕の専門と同じ分子シミュレーションを選んだのが悪かったのか,我々の競合企業に入社後,ほどなく退社し,田舎に帰って塾講師をしているという.大変優秀な人であったのにその企業で能力を活かせなかったのが残念だと思う.
何人かの例を挙げさせていただいたが,どの人も 20 代後半から 30 代にかけていろいろなことを考えざるを得ない立場だったと思われる.「雄」さんの言われる,いい意味での「エリート意識」,は素晴らしいと思う.この意識を誰もが持っていても不思議はないと思われるが,その中の何人かは,途中でその意識を修正する必要があっただろう.

では,いつからいつまでこの「エリート意識」を持っていたらいいのだろうか.かつては,旧帝大クラスの助教になった時点で,まあ科学者として指導的立場になるべきエリートとして自他ともに認識したら良かっただろう.上記の「狩野派」さんには,院生にしてはちょっと早いのではないかといった突っ込みも出来ただろう.
現在では,明らかにエリートとして問題がないと思われるレベルの人から,あまりそうでない人まで,一斉に三十路をはるかに超えても決着のつかないレースに参加するのが「異常な理系」の世界なのである.
これについて,僕自身がどう対処したかといったら,先に述べたように「ハイドン」を模範として,企業の役に立ちそうな分野を作り,基礎と応用との両者を楽しめる企業の研究室に潜り込み,研究人生における自分のストーリーを修正はするが骨抜きにはしないと自戒しつつ,暮らしている.
他の皆さんはどうするのだろう.幸福感というのは個人個人によって異なるから,結局は個人で解決するしかない.そして,本欄に参加された多くの方々がヒントを述べておられると思う.最終的には七十代になって「藤」さんの述べておられるような境地に皆さんが達することができたらと願うばかりである.

企業で基礎研究は困難という「雄」さんのご指摘はもっともであり,アカデミアに残ることができれば,そこが基礎研究に最も相応しい場所であることは言うまでもない.基礎科学が「林業」的であるべきだという指摘なども,大いに賛同する.以下で述べる修正点を除けば,「雄」さんのご意見は全面的に同意するし,なるほどと新たに思う点が多かった.アカデミアで基礎研究を行うのが理想だというのは,そもそもの前提であるが,実際にはじめてみたら企業でも基礎研究が出来ないことはないという自分の実例を示すことによって,人生設計の変更を迫られた人々へのヒントとなったらと思って書いている次第である.したがって,企業側の宣伝口調になることはお許しいただきたい.

まず,企業の守秘義務の問題について小さな修正をさせていただきたい.
僕が研究内容の詳細について書かないのは,この文章が秦先生のページとして残るからであって,直接会って会話をする分には書き物よりもはるかに我々はオープンであることだけ指摘しておきたい.ディスカッションが重要なのは,応用も含めてあらゆる科学技術の研究において基本である.情報というものは,出さなければ受け取れない.ディスカッションのためには,僕はアメリカにもヨーロッパにも行くし,逆に向こうから来られる研究者を迎えるためのシステムもある.今でも自分の書いた論文の更に先の問題について,共同研究契約など結んでいない大学の先生と話し合っている.話が盛り上がらなければ共同研究も何もないわけだし.学会の委員会で会うごとにディスカスする先生もいる.要するに普通の研究者である.
また,大学や国立研究機関では研究ユニットごとに意外な壁の高さを感じることが多い.たとえば,隣の研究室と同じ高額な装置が二台別々に置いてあったりする.民間企業の良いところは,効率化のためと称して,こうした壁が低いところである.気が向いたら,高額な装置を使う分析屋,モノをこするのが専門の実験屋,分子よりオーダーのはるかに大きな連続体理論の解析屋,といった別部署の研究者といつでも情報交換できる文化がある.面白いテキストがあれば部署の壁を越えて輪読も行うし,基礎的なアイディアを闘わせる会もある.これは「業務上のプライバシーがあるかどうか」ということと背反であるが,とりあえず日本の企業文化の良い点だと指摘したい.
外部からみて守秘義務の問題が煩わしく見える理由は,真の意味での現場の研究者ではない,「情報の流通」を生業としている人々が企業には居るからである.彼らにとっては,情報の不均衡が飯のタネになっている.しかし,彼らの存在は必要である.

もう一つ,僕の韓国と台湾は応用技術立国であるという意見についてであるが,「maokat」さんからの宿題,「雄」さんからの反論もあるので考えたい.
まず,韓国と台湾は現在はたしかに基礎研究にも優れた研究環境が整いつつあるが (渡米者が多いのは全世界の特徴であるからさておき),非欧米で日本と並んで基礎科学の伝統があるインドのことを考えたら違いが一目瞭然かと思う.インドには,ボース=アインシュタイン凝縮で有名なボースや,分光学で有名なラマン,あるいはタンパク質の立体構造についての基礎概念を提出したラマチャンドランなど,20 世紀のはじめから自国で学び自国で研究を行うノーベル賞級の研究者が多数存在した.
「maokat」さんの「この特殊性の源は、江戸時代にあるのかな?」であるが,僕もそう思う.
以前,自分の祖先と同じ村で同じ名字の人々が,尾張藩の藩校である明倫堂において漢学と医学の教員を務めていたという古い本を見て,さらに調べた.その創始者は有隣舎という私塾を開いており,これは藩校が出来るよりも前のことだと知った.他の藩の藩校の歴史をみても,藩中央の学校が出来るよりも前から私塾が存在する例は多い.つまり,江戸時代には武士でも僧侶でもないのに田舎に私塾を開くという,自然発生的に学問を目指す人々がいた.
博物学の本を見ると,江戸の博物学は庶民レベルで相当浸透していたという.南米由来のトウモロコシの栽培は農民から農民に伝わったそうであるし,金魚や朝顔といった珍奇な生物の品種改良については,武士の地域振興策から発展して町民に広がったものである.日本酒は低温発酵をはじめて利用したバイオテクノロジーの産物であることは生命理工学部で習う.機械工学については,武器の製造は禁止されていたため,からくり人形として発展した.
中央集権ではなかったため,各藩が地域の自然を活かして独自に産業を興さなくてはならなかったという事情もあるのではないかと思う.

話がそれたので「雇用問題」に戻すと,「異常な理系」に従事している若手研究者は,その絶対数がアカデミックポストの正職員の何倍もあるため,いつか方針転換しなければならない人が沢山いる.この問題について,社会,現場,個人の各層においてどう対応したら良いかについて考えたい,という話の続きをする.
社会レベルにおいては,既に述べたようにセーフティーネットを構築するべく,責任のある立場の人々には是非対応してもらいたいわけだが,若手の個人レベルで微力ながら貢献できることもある.これまた卑近な例で申し訳ないが,学会や研究会の活用である.
上述したように,分子シミュレーションをトライボロジーに応用するという研究会を企画させていただいている.この会は,会員数は正規の委員で 50 名程度と小規模であるが,産官学のいろいろな立場の方々に参加いただいている.トライボロジーは潤滑の技術であり,これはダ・ヴィンチや産業革命以来,もっと古くはエジプトのピラミッドを作るときから用いられているが,分子シミュレーションを用いた応用方法については,まだまだ基礎的な研究が必要である.
しかし,我々が研究会をはじめてからの数年の間にも,これを学んで学位を取得した人が出始めていたり,メーカーにおいても専門の研究開発者が採用されたりしている.分子シミュレーションは,同じシミュレーションという言葉がついても,機械工学や建築・土木などにおける構造計算や流体計算などの CAE (計算工学) と異なり,産業の基盤技術としては認知されていない.酒の席で,とある大手メーカーの研究所長から「分子シミュレーションは要らないんだよ」と厳しい言葉をいただいたこともある.したがって,我々は異なる大学やメーカーといった立場を超えて,同業者同士で協調して,我々の技術の優位性,利便性を主張していかなくてはならない.個々の研究においてはライバルであっても,業界の振興は我々全体の死活問題であるから,仲間なのである.

「舟」という言葉を僕は好んでいる.この研究は何人乗りの舟であるか,といった話を研究チーム内で行う.より広くは,我々の舟にのって大学院を修了した人が,大学に残ったりメーカーに入ったりして活躍したら,舟は立派な船となり,日本は沈没せずに済んで,世界は摩擦がゼロになってエネルギー問題から解放される...
これは,きれいごとに聞こえるが,真剣にそう思っているし,多くの人々と利益が一致するので,誰彼構わず,この説を説いてまわっている.
もっとも,大学院生個人個人のレベルでは,我々の技術が現段階では本質的に「異常な理系」の側のものであるため,難しい問題も抱えている.たとえば機械工学科に進んで卒業研究時に分子シミュレーションの研究室に配属されたとする.先生は,理学部物理学科的なマインドであったりする.すると,本物の物理屋である競合者がひしめく「異常な理系」側の成功を想像しがちになる. Phys. Rev. Lett. に何報載るかが偉さの基準であるし,修了後はポスドク街道に突き進む.機械工学の基本である四力学を授業レベルでしか理解せずに,かといって分子シミュレーション屋としても本物ではないという中途半端な状態だ.
こういう不幸な人が出現しないためにも,アカデミックではなく産業側に「船」を拡張しなければならないと思う.分子シミュレーションの隣接分野にバイオインフォマティクスという生物学と情報学を合わせた分野があるが,産業の芽が見える前にアカデミック側の臨時ポストを大量生産してしまったように見受けられる.産業側への拡張において説得力を持つためには,実績を出さねばならない.だから,僕が参加させていただいているような国のプロジェクトで得られた基礎研究的な成果を,競合他社も含めた業界全体に啓蒙することは有意義であると考えている.すると,全体的に我々の技術を用いた開発事例が増える.
もちろん,先に研究をはじめた弊社がプライオリティを確保し続けるべく努力するわけであるが,結果として「船」は大きくなる.
と,まるで他人の役に立っているかのようなことを書いたが,これは自分の例としては,そういう理想をボヤっと持ちながら暮らしている,というだけのことである.
一方で,これに関連してアメリカの同業者で文字通り素晴らしい活動をされている方がおられるので紹介したい.
彼女は EY さんという日系人の女性研究者であるが,三世であるため日本語は全く喋らない.数十年前にイエール大学を卒業した才媛で,全米で五本の指に入る大手企業系の研究所に入り,トライボロジーの分野で論文も何十も書かれ,現在は著名な学術雑誌のエディターも務めておられる.その企業にはテニュア (終身在職権) 制度があって,彼女は還暦を越えても研究を続けられるのだが,まだ仕事を続けている理由は研究をしたいからではない,研究は十分やった,という.
彼女が在職しているのは,研究や学術活動ともう一つ, 20 年ほど前から,地域の高校生の子供たちの中で貧しいが成績の良い子に,長い夏休みの間にその企業研究所で仕事を手伝ってもらって,給料を与えるという,アメリカ化学会のプログラムを推進しているから,なのだそうだ.その地域の高校は,全米でも有数の荒廃した地区にあり,学校に入るのにも金属探知機のゲートをくぐって登校するという.当然,貧富の差が激しい.子供達が正当な労働の対価として得る給料は,その一家が半年一年暮らせるほどのものだという.
僕はせいぜい「同業者」という社会の拡張しか考えていないわけだが,彼女は,社会そのものに寄与しているのである.

さて,社会と個人との中間である現場組織における「雇用問題」への取り組みを書いていないのだが,これは現場のことであるだけに,例の守秘義務がある.たとえば,あまり書きすぎて僕の上司がこれを見たら悲しむだろう.そこで,最後に,「舟」に関してハイドンの面白いエピソードがあるので紹介したい.
ハイドンはエステルハージ侯に,楽団員とともに雇われていた.ハイドンは,歴史的に大変重要である交響曲と弦楽四重奏曲という形式を完成させるという大仕事をする傍ら,侯爵の愛好する「バリトン」という弦楽器のために何十曲もの「バリトン三重奏曲」を書いた.これは,最近になってレコーディングされている膨大なハイドン作品群における最後の秘境である.この作品群によって侯爵はご満悦であったであろう.
一方で交響曲は,エステルハージ侯爵家の楽団員たちによって演奏される音楽であった.あるとき,侯爵の長期休暇に楽団員たちが付き合い,それが長くなりすぎて不平がたまった.すると,ハイドンは最終楽章で楽団員が一人,また一人と帰っていくような交響曲を書いた.侯爵は楽団員たちの意思を読み取って,家族のもとに戻る許可を与えたという.これが「告別」という名曲である.ハイドンは,パトロンのため,そして同僚たちのために働いて,「舟」を安定に存続させ,結果として歴史的存在になった.
こうしたハイドンの生き方は,勤め人として細部に至るまで参考になる.まあ,彼は天才であるから別格であるといってしまえばおしまいであるが,我々には天才の示した手法を参考にする自由はあると思う.

以上でありますが,相変わらず話が蛇行してしまって,本当にすみません.
今日はこれから,チェロのエキストラとしてお手伝いさせていただいている地域のオーケストラの定期演奏会のリハーサルと本番であります.
アリアーガ「幸福な奴隷」序曲,モーツアルトのピアノ協奏曲 20 番,メンデルスゾーンの「スコットランド交響曲」です.
アリアーガは,二十歳で夭逝したスペインの作曲家ですが,この作品は十四歳のときのものだそうです.穏やかな田園風景の描写から序曲ははじまります.
こんなふうに穏やかに暮らしたいものです.  仁

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* 感謝します。
いま、わたしは、何とも言えず嬉しく、誇らしくもある。
わたしが東工大に勤めたのは、ユメにも予想しない「善意のイタズラ」のような事であったけれど、一貫してそれをわたしが感謝し喜んできた思いの、まさしく「裏付け」をわたしは此処で、このように実現し得ている。問題意識にも表現力にも才能や人間性にも溢れたこういう学生君たちが、とほうもなく大事な問題について、教室以来、卒業以来十数年の「体験」と「思索」を活かしてまた新たな「挨拶」をしてくれている。節度と知性。しかもこういう諸君が今もわたしの「読者」として売れない先生を元気に支えていてくれているのだもの。そしてさらにそのまわりに、こういう若い人たちの発言に身を寄せて下さる先輩・大人の方たち。嬉しいという思いがあたりまえであろう。
まだまだ話題は尽きないだろうと思う、打ち切りにする必要もなく、このまま、「e-文藝館=湖(umi)」の「論考・討論」室に一纏めに置いたまま自然の「補遺・補充」をも期待しよう。
2008 10・25 85

* 十月十二日に時宜を得て始まった「科学・研究(者)」に関わる真剣な討論は、今日、特許庁の「敬」くん、看護師の「珠」さん、そして最初の発言・提言者であった「仁」くんらの適切な、明瞭な発言を加え、新たな側面への視野も得ながら、また大きく発展した。発言されまた読んで下さった方々にお礼を申し上げる。これでオシマイとも思っていない。
討論の量も質もハンパではない。
この日録をはじめからスクロールしてではとても難儀なので、また月を越して行くとも想われるから、全ては、この同じホームページの中の、「e-文藝館= 湖(umi)」その「論考・討論」室を開いてご通読いただきたい。此処を開くには、ホームページ表紙をクリックし、現れた目次から「e-文藝館=湖 (umi)」の必ず「英字=e-Literary Magazine Umi」の上をクリックして下さい。「e-文藝館=湖(umi)」目次の「ジャンル」別「著者」別から目的の作品等が簡単に引き出せます。
この討論のためには、著者別では、「に」の項の「仁」を、ジャンル別では「論考・批評」室で「仁」を開いて下さい。
2008 10・25 85

* 大小の文藝誌、詩誌・歌誌・句誌、同人誌、また小説や詩歌の単行本を戴く。及ぶ限りは目を通し、しかしなかなかお礼状にまですぐ手が着かず失礼することもあるのが心苦しい。
それにしても、さまざまに「文学」活動されている。孤独に続けておられる方もあり、仲間での例も多い。すべて一隅を照らすいとなみであり、大海の小波にひとしいけれど、目を向けていると教えられたり感銘を受けることが有る。胸の痛むのは、いつしかに幾つもの訃報に触れること。
2008 10・25 85

☆ 『湖の本 エッセイ45 色の日本・蛇と世界ほか(文学講演集)』昨日届きました。 ペン会員 兵庫県
ありがとうございます。
「島崎藤村文学と私―ペンクラブ、緑陰叢書そして『嵐』―」から読ませていただきました。
文藝出版においてなかなか増刷ができないしくみ、また図書館利用者である読者の意向を確かめようとしない出版社や著作者への批判など、興味深く読みました。
「私語の刻」にもペンクラブへの批判があります。
電子文藝館を企画し建設した責任者としての、秦さんの自負を感じ取りました。
今後ともますますのご活躍をお祈り申し上げます。
2008 10・25 85

* 朝一番に、聞き慣れたことだが、旨い一服のようにこういう話が気持ちいい。(この一服は、わたしの場合煙草でなく、お茶。)

☆ 一番スケールが大きくて一番スケールが小さい話    光
第二次ベビーブーム世代は、なんでも数が足りなかった。
病院の産科のゆりかごから小学校の机まで、とにかく押し込めて無理にでも入れられていたような状態であった。当然、中学校や高校の受験も激化。受験戦争などと言われて、やれ勉強しろだの何だのと、子供たちは振り回されることになる。
小学生までのんびりしていた我が家でも、さすがにまずいと思ったのか、中学に上がった頃から近所の塾に行かされることになった。
塾の先生は、どこぞの大学院生だという話を聞いたことがあったが、それはさほど重要ではない。国語の担当の先生だったか、授業の最初の5分間に必ずちょっとした「小話」をしてくれたのが楽しかった。
今でも覚えているのが、「ユリイカ」。「我、発見せり」という意味のギリシャ語だそうだ。かの有名なアルキメデスが、お風呂に入っているときにアルキメデスの原理をアッと、ひらめいたときに発したという。

もう一つ覚えているのが、これまでに私が聞いた話の中で「一番スケールが大きくて一番スケールが小さい話」。
我々がいる宇宙は、ビッグバンから生まれていまでも拡がっているそうだが、その中にはたくさんの銀河系があり、その中の一つに太陽系があって、その中の惑星として地球があり、その地球上で我々がこうして暮らしていることになる。
そんな人間はというと、たくさんの細胞からできていて、その細胞はさらにたくさんの原子からできている。
原子はさらに複数の素粒子から構成されているが、その素粒子の一つ一つの中は実は別の宇宙なのだという。

我々の今いる宇宙も、どこか別の宇宙の、誰かの体の中の細胞の、原子の中の素粒子の一つなのかもしれない。
と思うと、そのスケール感は爽快ですらある、と、思った。

* 大勢愛読していたボストン「雄」くんの「mixi」日記がいろんなしがらみからか、此処へ転記出来なくなり、ちょっと淋しい。
2008 10・27 85

* 勤めた会社で、むかし、「助産婦雑誌」の編輯を担当していたことがある。その前に「看護教室」そのあとで「看護学雑誌」も担当した。
助産婦さんでは、のちのち大学教授になられ定年後の今も帝京大学に出勤されている青木康子さんが、今も「湖の本」の最初からの継続読者。何十年もお目にかからないが、つい間近に心親しい。
はじめてこの先生に原稿依頼に行ったときは、渋谷の日赤本部産院にお勤めで、当時では珍しかった妊産婦への「保健指導」を実践されていた。雑誌編集委員をお願いしていた賛育会病院や都立築地産院の院長先生だった木下正一先生、竹内繁喜先生の示唆で青木さんに原稿を頼みにいった。わたしは新人の編集者でせいぜい二十五歳前の青年だったが、産院という外来ではあまり見かけない人種であった。幸いわたしはそんなことに臆する方ではなかったので、平気で外来にある指導室の部屋の前で来意を告げておいて、立って呼ばれるのを待っていた。
青木さんはわたしより心持ち年長であったとはいえ、若い助産婦さんであった。木下先生、竹内先生のお名前も出しながら保健指導室の問題で、具体的にしばらく連載できないかと頼んだところ、原稿依頼を受けるのは初体験であったようで、苦吟のすえの返辞が初々しく印象的だった、「家で母と相談しまして」と。
あれからもう半世紀近い。看護学では当時聖路加も日赤もせいぜい短大だった。東大に保健学科が出来たのは後年だった。あの当時青木さんのように初々しかった看護前線にいた人たちが、その後、ぞくぞくと「えらく」成ってゆき指導的地位について看護学を押し上げていった。今も親しく、やはり「湖の本」を支えていてくださる整形外科ナースだった当時徳永(金井)悦子さんも、やはり日赤系の大学教授に成っていった人。
東大に保健学科が出来、そこで助教授を務められていた木下安子先生は、わたしの最初の私家版、むろんタダでまいて頭さげて貰ってもらっていた一冊に、「五百円」を包んで下さった。むろんわたしは遙かまだ遠く「作家以前」であった。
そんなふうにわたしは、いまいう看護師さんたちにもお医者さん達にも励まされ励まされ毎日歩んでいた。

* つい横道に逸れたが、わたしが医学書院の編集者として占めていた領域は、主として小児科学、産科学を芯にしていた。ドクターともナースとも親密に付き合った。その体験からふと、昨今の医師・看護師「不足」問題に思いが行くと、ひどく胸痛む。
「助産院」が当時は当然のように定着していて、有力な指導的な在野のそういう人たちにもわたしは取材していた。いつのまにか助産師業がひどく立ちゆきにくく制度化されてゆくのも、遠い外野からなんとなく心ゆかぬ思いで観ていた。いま、もっと効果的に助産師資格の人たちを地域で活用できないのか、と、なにごころなく、わたしなど、期待するのだが。
2008 10・27 85

☆ 秦 恒平様    2008/10/27 藤
私の拙い文を早速に読んでいただき、(「e-文藝館=湖(umi)」自分史室に=)掲載していただいたことは、「闇に言い置く」の中で知りまして、御礼を申さねばと思っていたところでした。有難うございました。声をかけて頂いたお陰です。感謝で一杯です。
科学・研究の討論、「なるほどねえ」と最近の様子を興味深く読ませていただいています。
先のノーベル賞の受賞対象の研究はいずれの方もお若いときのもので、今回に限らず湯川先生や朝永先生のお仕事も、数学フィールズ賞の広中先生のお仕事も、お若いときの、才能が冴えわたっていた時期のものでした。
誰にも(大天才にはおよびもつかぬものの)若くて気力みなぎり冴えていた時期があったなあ——としみじみしてしまいます。
あの(フェラーリ・ディーノの=)叔父にもそんなときがあったのを、私だけでも憶えていてあげたい、そんな気持ちもあって書きました。
秋も深まって参りました。
どうか、どうか、奥様ともどもお身お大切に。
2008 10・27 85

* 昨夜、やはり久しい読者の「小説」寄稿があった。読んでみて、佳い話材だとおもしろく思ったが、文字等のヌケなど、読みと推敲とがまだ必要だと思った。手が入ったら送り返して欲しい。

☆ ありがとうございます。  周
ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。「湖の本」『色の日本・蛇と世界』をいただきました。早速、むさぼるように拝読致しております。
源氏物語の光・匂い・薫りのお話や、川端文学に対する痛快なお説など、勉強になりました。一冊読了するたびに、豊かな気持になることができます。書架にぎっしりと並ぶ「湖の本」は、私の知の財産です。
お言葉に甘えて、近作を添付させていただきました。ご一読賜りたく。最近流行のきざしのある女流能のあやうさについて書いたものです。
ますますのご健勝をお祈り申し上げます。

☆ お元気ですか、風。  08.10.27 14:28  花
いやー、今日は、暑い暑い。ほんとに、もうすぐ十一月ですかー、って感じです。
風、いかがお過ごしですか。もう本の発送は完了なさいましたか。
花は、英語から帰ってきて、お昼ご飯を済ませたところです。
土曜は、新宿で学生時代の友人の結婚披露パーティーでした。数年ぶりに、新郎新婦を含めた仲良しの友人たちに逢い、たくさん喋って、楽しかったです。会場周辺のインテリアショップのはしごもしたので、疲れました。二次会は遠慮し、秋葉原に寄ってから新幹線に乗りました。
かかとの少し高いブーツは、底にクッションもなく、足がとても痛くなり、帰宅したら、バタンキューでした。
曇って蒸し暑かったのですが、街にはジャンパーやコートを着た人がたくさんいて、「みんな着るものが読みにくい時季なのね」と思いました。
十一月に入っても、少しのあいだ、暑そうですね。
2008 10・27 85

* さてさて、お元気ですか。築四十年のわが家はあちこち傷んで、ゴトゴトとしょっちゅう手入ればかり必要になっています。家主の躰と一緒であるなあと慨嘆しています。

昨日は晩にNHKホールで伝統藝能を鑑賞してきました。極め付けは第二部の「河庄」。藤十郎になってから初めての紙屋治兵衛で。絶品。我當が情の篤い兄を一心に立派に務め、小春は時蔵が稀に見る熱演でした。すばらしい舞台でした。一晩限りの上演ですから、精魂を尽くしてくれるのが見応えになります。特上の席をあてがってくれましたので、花道芝居などまるでわたしのために演じてくれるように見ものでした。第一部の音曲や狂言や舞踊の印象も吹き飛んでしまう近松劇のすばらしさ。根の疲れる発送仕事あとのいい楽しみでした。

要するに技術・技能の問題であるより、「人間の劇」を確実に端的に深く捉えるということなんですね、感動とは。幕がおりロビーに出て、松嶋屋の番頭に礼を言うている間にも泪のあふれる芝居でした。

幸い今度の講演集は各編好評で、「色」「蛇」などと刺激的に表題したのも効果的だったようです、「あとがき」もで内容を持たせましたので、満足してくれた人が多かった。よろこんでいます。
十月もあと三日。山種美術館のカレンダー、酒井抱一の美しい「秋草鶉図」から、十一、十二月は東山魁夷の「年暮る」に変わります。一面京の瓦屋根に雪が降っています。
2008 10・28 85

☆ メールをさしあげたのですが…  香
秦 先生
久しくお目にかゝつてゐないやうな、朝ごとにお声をお聴きしてゐるやうな。
ゆふべ、真夜中に、 メールをさしあげたのですが、「failure notice」といふことで、届かなかつたやうです。今朝も試みてみたのですが、どうした具合かやはり、届けられないといふメールが来ました。
思ひついて、「mixi」メッセージにさせていたゞきました。

湖のご本をありがたうございます。六日ほど家を留守にしてゐまして、お礼申しあげるのが遅れました。
神戸に用があつて、その前後を利用して京都の街をあるいてきました。一日、調子をわるくして、宿でぼんやり雨を見てゐましたが、あとは元気に、羅城門の址、朱雀門の址といつた、何も無い址をたづねあるいてきました。
今は花屋町通と名が変つてゐる左女牛小路を河原町通から島原まで、雨の中をあるいたりしました。
独りあるきが好きなのによく道に迷つてばかりゐまして、うろうろ、あつちへ行つたりこつちへ行つたり、能率のわるいこと、われながら呆れてしまひます。
迷はなかつたのは、法金剛院から待賢門院さんの御陵への道。前に一度詣つたことがあるせゐもありますが、お寺の裏手、ぐるつと弧をゑがくやうにあるけばよいのですから、迷ひやうがありません。
お寺でも御陵でもわたし独りでした。
前はかうした御陵やお墓に、花を一輪だけお供へしたのですが、とりかたづける方が、すぐ、来てくださらなかつたりするといやですから、このごろはお香にしてゐます。今度は雨でしたので、すぐ消えてしまひました。でも、かをりはよくたちました。『繪巻』を読んでさしあげよう、今度,うかゞふときは。さうおもひました。

* メールがとどかなかったというのは気になる。ほかにもそんな例があったのだろうか。なにしろ海外からのウイルス・メールはじつに頻繁に来て、駆除通知が多い日は十も来る。

* 法金剛院は待賢門院璋子のだいじのお寺、名こそ流れてなほ聞こゑていた「瀧」の寺でもある。白河院に育てられ、鳥羽天皇の后になりながら白河院の愛を承けて崇徳天皇を産んだかといわれ、それが保元の乱の遠因になるのだが、待賢門院贔屓の西行法師に手をひかれわたしは、この美女の醜聞を清めたいためにも『繪巻』という小説を書いたことがある。よく覚えていて下さいました。

☆ 晴れ!  花
パソコン部屋の窓から見える空に、雲がありません。眩しいくらいの日差しが、青空に白く反射しています。空気がカラッとしてい、洗濯して八時頃干したタオルが、もう乾きはじめています。
お元気ですか、風。
今朝はちょっと冷え込みましたね。秋を感じました。
この一日に関西から訪れる義母と、二日の日曜に箱根へ紅葉狩りの予定です。混みそう。
秋の空のご機嫌をうかがいながら、義母のためお蒲団の用意をしなければ。ではでは。
2008 10・28 85

* むかし『最上徳内』連載を担当してくれた岩波の清水克郎氏が、久しぶりに「保谷のお宅が懐かしい」と手紙を。
あの頃顔を見ると酒になった。「思えばあのときに初めてワープロの原稿を経験したように思います」と書いている。「もう二五年の前になりますが」とも。
この連載の途中からわたしは妻に清書の負担をやわらげたいと東芝が売り出したトスワードの第一号機を買い、買ったその日からもう使い始めたのだった。打ち出せる画面は「二行」だった。六十万円台であった。
日本の国にこれから何がネックになってくるかという話題で、清水さんは「教育」といいわたしは「世襲」といって、議論したのも懐かしい。
2008 10・28 85

* 喜多流シテ方の名手塩津哲生氏からは「毎々時間は掛けますが(湖の本)完読し藝の糧にさせて頂いております。厚く御礼」と。有り難いこと。

* 講談社の元役員から、「創刊22年になると知り、持続する志の高さに敬伏するのみです」と。最終章「私語の刻」で、大久保房男さんの『文士と編集者』について書かれたこと、両手を挙げて賛意を表します。ペンクラブ会長が日本文学を代表する『顔』の項の皮肉にはうなずき、大久保さんが『文学の鬼』として会長にふさわしいという所は笑い出し、会長選挙の◎印は名案と思いました」などとも。

* ペンでは、二年目ごとに、理事三十人を会員選挙する。会員名簿に、三十人分「○」印をつけて投票とし、当選した三十人理事で会長を互選してきた。
その互選方式が、なにとやら一種「禅譲」にちかい出来レース風になるのは宜しくない。ペンの会長は日本文学を代表して世界へだす「顔」に等しいのであるから、会員二千人にも、自分ならこの人が会長にふさわしいという「意思表示」の機会だけでも与えるべきだろうとわたしは繰り返し提案してきた。
方法はじつに簡単明瞭。三十人に「○印」をつけて事務局に送るときに、一人だけ「◎印」をつければ済む。但し「会長」という実務に「人気投票」だけではいけないのであり、この「◎」の集計は、理事での互選の際の参考にのみ止め、強制力は持たせないとも「注」をつけてきた。
しかし、理事会ではかつて誰一人としてこれに賛同する人はなかったのである。不思議でならなかった。わたしに向かい「会長になろうという気持ちなら、立候補されたら宜しかろう」などと滑稽な見当違いを言い散らす人までいて、おはなしにならなかった。

* わたしは梅原猛会長の推薦理事として理事会入りした。新会長は、上の三十人のほかに十人の理事を指名推薦できる決まりである。梅原さんはその十人にわたしを加えて新会長に就任された。
氏の顔を潰さないため、わたしは真面目に理事を勤めた。ペンの「ホームページ」をつくり、「電子メディア委員会」を起こし、「ペン電子文藝館」を創設し軌道に乗せた。超少数意見でも、思うところはいつも遠慮無く発言してきた。そして理事六期に及んでいる。が、会員選挙で当選しないときは、二度と「会長推薦の理事」は引き受けないと決めていた。
だれが会長になどなりたいものか。わたしが本音で願うレイタースタイル(晩年)は、宿題の仕残しなど気にしない、気儘な毎日だけ。そこで、途方もない非常識なモノを創りたい。
2008 10・28 85

☆ 届きました~  昴
ありがとうございます。「湖の本」、届きました。そして、お礼のお返事が遅くなってしまい、申し訳ありません。
冊子小包を母が私に手渡す時、宛先の文字を見て、「達筆だねぇ!」とその一言だけ言いました。暫く小包を眺めてしまいました。もちろん、本の方も、じっくりお読みしています。
学生の頃から鏡花の蛇に対する感覚に興味があったので、ワクワクしながら読み進めています。
後半の方は自然主義になるようなので、学び直す気持ちで読んでいきたいと思います。
末に、恥を晒して申し訳ありませんが…

誰がために染めにし色と問はれけり 頬の凍れる冬の模様に

色があればと思う日々です。   昴

* 我が魂の色をみつめてごらんなさい。昴色をしているはず。
2008 10・28 85

☆ 『文学講演集』御恵送賜わり、ありがとうございました。はじめに「私語の刻」を読み、『三人姉妹』の読み方などに全く共感しました。若い頃 新劇に入れあげていた私としては、ご指摘のことがよく分ります。そして現実認識も(Now,Hereの)。
つづいて『川端康成の深い音』を読みました。ずいぶん、横道の多い、屈折したお話ですが、川端の文体にある体音、体覚の音楽というのも、よく分かりました。チェホフの通底音とは異質な川端の体音にも魅かれます。
ありがとうございました。 歴史学 名誉教授

* よく読んでいただけて。有り難いこと。

☆ 白秋の一じつ、ご著書有り難く拝読いたしました。日頃不勉強の身には一つ一つ身に浸むお話ばかり、特に神話と蛇と鏡花の繋がりは興味深く、僭越ながら共感をもって読み、今後の参考にさせていただこうと一人決めいたしました。
ありがとうございます。 ペン会員

* あれあれと、十月が消えてゆく。いやになるなあ。
2008 10・29 85

* あれあれと、十月が消えてゆく。いやになるなあ。

* このところ、よそながら聞こえてきて情けなく胸の痛むのは、或る噺家と離婚して後の元細君の言いたい放題で、それにどんな背後や足下の事情があるのか知れぬにしても、口汚くてとめどなくて抑えがたく病的なこと。その「病的」な印象にこっちの胸も黒ずんでくる。やりきれぬ。

* そんなとき、わたしをほうっとさせるのは「悠」さんや「馨」さんのお子さん達を書いた日記。
「うまい仁丹」というのは書いている自分にも妙なモノだけれど、もしそんなものがあるなら、それらは、わたしをとても落ち着かせる「うまい仁丹」のように喜ばせる。

☆ あきらめません!   悠
おしゃべりが増えてきた息子。独自の単語を駆使してジェスチャーをまじえ要求をつたえてきます。
まんま! は欲しいもの、してもらいたいことに使用。食べ物にかぎりません。指差しで対象物を特定します。
だーっ! はものを別のところに移す動作を表す言葉。飲み物が空になったとき、まんま! と合わせて使い、おかわりを手にしていきます。
最近飲み過ぎのイオン飲料をやめさせようと、このおかわりの要求をわからないふりをしてやり過ごそうとしましたが、大泣き。新しいのを納戸に取りに行くように私の手を引きつれていき、納戸の前で、キャップを開けて容器に移し替えて自分が飲み干すまでの一連の動作を泣きながら、まんま! を連呼しながら、やってくれました。
なかなかの「交渉人」です。
こちらが折れて、おかわりをゲット。満足そうに寝ていきました。午前二時半の出来事です。

* いまトルストイの『復活』を読み進んでいるが、トルストイは、この「悠」さんのような観察と表現とで小説を書いて行く。『戦争と平和』も『アンナ・カレーニナ』も同じである。わたしもつくづく思うことがある、こういう風に小説の場面を書いて行きたいと。
2008 10・29 85

☆ おはようございます。  杜
秦先生  御本を送っていただきながら,ご挨拶おくれ失礼しました.
息子は5歳になりました.早いものです.私は変わらずの生活です.
先生のページは読んでいます.「司」くんの意見に反論があります.
また,私は研究とは縁遠い業務に従事していますが,だからか,皆さんの論調で違和感を感ずるところがあります.
私のおかれている状況をそのままお話できれば,少しは説得力も持てようものでしょうが,そうできない込み入った事情があります.
(しがらみではなく,個人的なものとも違います.)
で,具体的な話を濾過して文章を書いてみたところ,味がすっかり抜けてどこかで見たようなモノになってしまい,そのまま日が経っています.
またメールします.ではまた.

* 「杜」くんは、あの討論には加わってこないと予想していました。「杜」くんには、知性と感情との割り切りようのない、「人」たる坩堝がある。それが結局は多くを避けて通る、或いは人の通らない方へ黙って逸れると人から見られやすくて、じつはそんなことなく、「杜」くん風の筋がガンと通っていることになっているのでしょう。
わたしの教室に下見・下聴きに来て、終えたあと、まっすぐ、「ぼくは先生の授業には合わないと思います」と言いに来てくれたの、覚えていますか。しかもその後最も親密にわたしの教室や教授室や家にも来続けてくれて、今日があります。
この出逢いの、謂わば一種言い難い錯綜のなかで、「杜」くんは個性を創ってきた。「創」君と二人で芝居など始めたときもわたしは興味深く二人を「柿」の実のように眺めていました。
わたしは。わたしは「渋柿」かな。
2008 10・29 85

☆ おはようございます、風。
風、お元気ですか。
今日は早くからパソコンに向かっています。
今日は、一日家にいられるので、書いている評論に追い込みをかけます。
午前中に英語のある日(月・水)は、金融機関や買い物などのおつかいもするので、勉強にとりかかれるのは、午後三時とか四時くらいになってしまいますが、短い時間でも、集中するのが大事、と思っています。
NHKホールの歌舞伎、いいなあ。
東京に住んでいると、劇やコンサートにすぐ行けていいなあ。うらやましいです。
佳い劇が観られてよかったですね。ああ、花も観たかった。
風の講演を書き起こしたものは、とても読みやすく、好きです。語りかけられているのが、心地よいです。
ほんとうは、一度でも風の講演なさっているところを見たいのですが、風は知った人に見られる(聴かれる)のはお好きでないみたいなので、遠慮しています。
どんな風にお話しになるのかしらん。
ファイルを添付しました。四つある中の、一番最近の稿です。指摘を受けましたこと、その先を書くのが大事、ということ、考えています。
富士山は、まだ雪の冠をかぶっていません。
今頃、紅葉しているのかも。
ではでは、花は勉強に戻ります。

☆ 展示会  松
ここ1ヶ月ほど準備していた展示会が昨日開催された。私はグループ内のとりまとめ役だったので、展示する試作作成を他の人に依頼したり、展示物、展示パネルについて専門の会社と話し合いを続けていた。何とかある程度の展示物をそろえることが出来てよかった。
説明員としてブースに立ち、開発中の試作品について来場者に説明した。それなりに来場者も多く、説明で大忙し。立ちっぱなしなので非常に疲れた。今後話しが展開していきそうなメーカーの訪問もあり、楽しみである。
夜は会社の上の方々と、準備担当者との懇親会+ご苦労さん会が開かれた。
節目節目に必ずと言っていいほど飲み会が企画される。中途採用の私にとっては、多くの人と知り合うことが出来るのがいいところ。
そういえば勤め会社が変わって1年以上たち、ようやく違和感無く勤務することができるようになった。緊張することが減ってきている感じがする。仲間も増えて居心地がだいぶよくなってきたからだと思うが、新しい環境に慣れるためには長い時間が必要だと思う。

* 「毒にも薬にもならない」メールを秦さんは喜んでいると腹立たしそうに叱ってくる人がタマにいる、が、「毒にも薬にもならない」のが「無事」の日々には貴重なのであり、強烈な毒はもとより迷惑だが、強烈であろうが無かろうが「薬」ものまなくて済むなら済ませたい。「毒にも薬にもならない」貴重さをわたしは大事に思う。足腰も思いもよわりかけた老境にはなおさらで。
好いのみものは、清水。酒も、刺激的なまぜもの無し、清水をのどごしにひくようなのが旨い。

* 杜撰なわたしの誤記を訂正してくださるメールは、じつに嬉しい。たいてい書きっぱなしで、済ましている。看護師を看護士と書いていたりする。いちばんいけないのは人さまの氏名を誤記することだが。なんてズボラなんだろう、わたしは。
2008 10・30 85

* この二三日で、メール以外に、八人も「mixi」メッセージを貰っている。耳寄りな話もまじり、思い賑わう。

☆ 十月尽  湖雀(うみすずめ)
いただくお気持ちのおおきさにお礼が遅くなりましたことお詫び申しあげます。
いつもお励ましくださって本当にありがたく幸せをかみしめております。
暑さがおさまったあとの好調は上滑りで、沈んで鈍い低調と繰り返し。出続けては閉じ籠もる調子です。手で書いていても漢字が出てこなくて文章も順序よくできないのでふさいでしまい、なかなかメールまでいきません。囀りたいことはいろいろありますので、できたところから送信いたします。
(鹿の=)角伐りが終わると「正倉院展」が始まります。今年は伊勢の斎宮歴史博物館で阿倍内親王と井上内親王を中心とした展示をしているそうなので、ひさしぶりに多気に行ってみようと思っています。香肌峡の紅葉と高見山のみぞれ混じりの時雨が待っている気がします。
さて、琵琶湖三島めぐりへ出かけた日の朝、NHK大阪のアーカイウ゛ス番組が「近江商人のふるさとをたずねて」といった番組を取り上げていましたので、録画ボタンを押してあらまし見て後日ゆっくり再見しました。
画面は西陣の大店の店先から始まり、自宅から通い続ける社長さんや、移住して空屋敷になった豪邸の鍵を預かるおばあさんに取材しながら、蒲生野の実りのなかをゆく2輛連結の黄色い車輛、五個荘の掘割にうつる白壁また板塀、近江八幡の町並み、八幡堀、日野のさじき窓など、藻が浮いた堀やこぼち屋根や塀まで映していました。
昭和61年10月放送の「きんき紀行」という番組とわかり、(五個荘へ=)ご講演にいらっしゃった折はこのような景色だったのかしらと何度も何度も巻き戻して見ておりました。
観音正寺が焼けたのはそれから数年後のことですね。落慶法要まで十年以上かかったのですか。室生寺の塔のようにはいかなかったのですねぇ。
先月、永源寺から峠越えにいなべの莵上神社へ行こうとして、崖崩れで通れず、西へ安土へとクルマを走らせました。雀は落慶法要の少しあとに偶然新しいご本尊を拝むことができたのですが、主人は何度も安土へ出かけ桑實寺参詣もしていながら観音正寺参詣に恵まれず、このたび念願の丈六千手観音拝顔がかないました。雀も、拝まれて黒みを帯びはじめている総白壇製の観音像に感慨をおぼえました。
話は彦根行きの日に戻ります。
朝上がりで、室生、長谷と進む先に雲で半分かくれた三輪山が見えてきました。
“しかも隠すか雲だにも”。
「わたしこれから近江に行くのぉ」と心で話しかけ京都で乗り換え、彦根へ。あとで近江遷都の季節とは逆と知って赤面です。
彦根駅から港への道すがら「彦根市立図書館舟橋聖一記念館」と書かれた看板に気がつきました。「井伊大老」―ではなくて「花の生涯」ですね、大河ドラマ第1作になった。
そういえば播磨屋が、三宅坂でひこにゃんと写真におさまったとか。
来月は高麗屋の乱歩。
それがきっかけで、甲賀三郎が、諏訪明神と水口町の龍王山大岡寺千手十一面観音の霊験譚の主人公からとったペンネームと知りました。蛇身となって水口へ戻った男‥そんな話があったとは。

切り山椒へなへな雨の一の酉  (有馬朗人)

西は亥の子餅、東は初酉という季節。雨もつめたくかわってきます。
どうか日々おすこやかにお過ごしくださいますよう。 湖雀

* 心身を洗い流された気がする。ありがとう。
「甲賀三郎」の名のこと、初めて知った。そうか水口にも蛇譚があったのか。
水口宿本陣に、わたしの母方祖父は生まれたと聞いている。甲賀者といっていいのだろうか。そして父方祖母かその前当たりが、柳生の里の出とも朧ろに聞いている。
2008 10・30 85

☆ ド・モルガンの法則 2008年10月30日21:08   司
「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」いわゆる情報公開法には、行政文書の公開に関する条文が並んでいて、その第5条は行政文書の開示義務を定めている条文です。
その本文及び1項一号を抜き出してみます。

第5条 行政機関の長は、開示請求があったときは、開示請求に係る行政文書に次の各号に掲げる情報(以下「不開示情報」という。)のいずれかが記録されている場合を除き、開示請求者に対し、当該行政文書を開示しなければならない。
一 個人に関する情報(事業を営む個人の当該事業に関する情報を除く。)であって、当該情報に含まれる氏名、生年月日その他の記述等により特定の個人を識別することができるもの(他の情報と照合することにより、特定の個人を識別することができることとなるものを含む。)又は特定の個人を識別することはできないが、公にすることにより、なお個人の権利利益を害するおそれがあるもの。ただし、次に掲げる情報を除く。
イ 法令の規定により又は慣行として公にされ、又は公にすることが予定されている情報
ロ 人の生命、健康、生活又は財産を保護するため、公にすることが必要であると認められる情報
(ハもありますが、ここでは略します。同様に二号以降もありますが略します)

あっち行ったり、こっち行ったりと忙しい条文ですが、端的に言えば
「行政文書がαに該当する場合を除き開示しなければいけない」と定めているのが本文で、αの1つである1項一号は
「A又はBであるもの、ただしイ又はロに該当する場合を除く」
というのが全体の構造です。
これでも分かりにくいですね。

論点を明確にしましょう。
上記条文に沿って当該行政文書は「不開示情報である」と確定させるためには、「αに該当する」ことを証明すれば良く、それはつまり「Aであること、かつ、イではないこと、かつ、ロではないこと」を証明するか
「Bであること、かつ、イではないこと、かつ、ロではないこと」を証明することになります。
同じ事を言い換えます。
「Aであること」又は「Bであること」を証明します。
その上で、
「イでないこと」かつ「ロでないこと」を証明します。
つまり、イでないこととロでないことについては必ず両方とも証明しなければならず、加えてAかBはどちらかを証明する必要がある、ということになります。

逆に、当該行政文書は「開示情報である」と確定させるためには、
「αに該当しない」ことを証明すれば良く、それはつまり
「Aでないこと、かつ、Bでないこと」を証明するか
「イであること」を証明するか
「ロであること」を証明するか
のいずれかです。
つまり、一番簡単にはイであることか、ロであることのいずれか一方だけを証明すれば当該行政文書が開示情報であることが確定できるのです。

当該文書が開示情報であるか否かを条文に沿って議論する時には、当該行政文書のAへの該当性、Bへの該当性、イへの非該当性、ロへの非該当性・・・というように個別条文毎に論証をしていくので、個別条文の1つ1つ・・と、更には条文の中の一言一句への適合性・非適合性・・・と段々枝葉末節(という言葉が適切かどうか分かりませんが)へとはまり込んでいってしまいがちです。

で、さてその辺の論拠が一通り出揃った時に、アレ? と思ってしまう事があります。
上記の例で言えば、不開示情報であるためにはAへの該当性が証明できればBへの該当性を証明する必要が無い、とか
逆に開示情報であるためにはAへの非該当性を証明するだけでは足らずBへの非該当性も証明しなければいけない、とか。

ところで、上記のAとBの関係って、昔高校数学でならった ド・モルガンの法則の1つ
___ _ _
A∩B=A∪B

なんですってね。
今日はこんなことを「議論」していたもので、ちょっと頭の整理も兼ねて書き込んでみました。

* ウワッ。興味有るけど、でも、これ、だれかに、さらに手引きして貰いたいなあ。

☆  金色の鳥の銀杏 2008年10月30日21:35   瑛 e-OLD川崎
快晴の空のしたにいこう。大山は雲が湧き富士山は見えず。
櫻の木の下に新聞紙を広げ腰をおろし昼の弁当のひと時を過ごす。
ときおり枯れ葉が舞いながら落ちてくる。
何やら居ると思ったら毛虫が僕の腕を這う。
桜の大樹の上の青空には銀色の翼が飛ぶ。空を泳ぐ鮎である。鯉のぼりのようなアユである。まっすぐに流れる。
数時間を過ごし西のほうへ山をおりると「金時山」が黄金の中で自己主張をしている。舞台でいえば「ハイライト」の色である。

歌を思い出す。
金色の小さき鳥のかたちして いちょう散るなり 夕日の丘に

* ああ、これで、今夜の機械を静かに閉じられる。
2008 10・30 85

☆ 風。 08.10.31 19:33  花
お元気ですか。
暗くなるのが早くなりました。朝晩冷え込ます。
あったまりたい。
スキャナを、楽天市場(インターネット販売)で購入しようと思っています。
インターネットは安いです。
底値のものを見つけては、これまでにも楽天市場でいろんなものを購入してきたのですが、この際、「楽天カード」(クレジットカード)を作ろうと思い立ちまして、今申込中です。数日中に、カードが手許に届くと思います。
届いたら、インターネットで、ポチッとボタンを押し、購入するつもりです。
蓼科、いいですね。
花は行ったことないなあ。
寒いでしょうから、防寒を忘れずにね、お気をつけて。
花は元気に過ごしています。ではでは。

* さ、十月を見送ろう、平々淡々と。
2008 10・31 85

☆ おはようございます、風。 08.11.01  11:28  花
早朝、お向かいのお宅の植木の剪定の、ブィーンという音に起こされました。
晴れているので、きのうより暖かいです。
お元気ですか、風。
ゆうべは、あんまり寒いので、ファンヒーターを出しました。急に冬になったみたいだなあと思いながら。
今冬は、「ホットマット」というのを買おうと考えています。電気毛布より小ぶりで、ホットカーペットより柔らかいものです。ソファに敷けば、お尻あったかになるでしょう。
ではでは、風、ハバナイスデー。
花は元気ですよ。
2008 11・1 86

☆ こんばんは。  琳
寒さが一段と増して参りましたが、お変わりございませんか?
私は、元気元気です☆
大叔母様のお見舞いと、瑞聖寺さんと、いらしたのですね。
大叔母様90歳、お大事になさって下さいませ。
やす香の今度のお花、どんなお花が咲くのでしょう? 春、芽を出すのが楽しみです! やす香のお庭とおばあ様のお庭は、繋がっているのですね! ロマンチックです。
私は先日、院生で、パリの大学院に通っている方のお話を伺う事が出来ました。パリでは、院生なのに研究者の卵として周りの人は見てくれており、今現在の生きている研究が出来ると満足されていました。
その方の友人が映画の研究をしていて、私が来年からお世話になる(院試に合格したらですが)フランス人の先生が映画研究の世界ではょっと有名だという事も教えてもらいました。
そのフランス人の先生を私は前から大好きです。シーズン毎に髪の色を変える(一番多いのはピンク色です。)迫力のある女性です。その先生の元でこれから2年間きっちり基礎を学び、パリの大学に行きたいと今考えています。
やす香がどんな未来を選んだのか、私には分かりません。あの当時の夢のままユネスコに行っていたかもしれませんが。。。
ひとつ分かるのは、お金に直結するだけの仕事は選ばなかったろうという事です。
能楽ですが、行って参りました。。。
実は狂言、寝てしまいました!
見に行く前に新宿まで行ったのが祟ったようです。その日は新宿伊勢丹でワコールのセール初日でした。
母の若い頃は違ったそうですが、私達は大抵ブラとショーツはお揃いにします。セール会場ではそれがバラバラに売っています。しかも大量に、山積みになって。。。大勢の人に紛れて探すのです。初日じゃないとサイズが揃わなく、ペアにもならないのです! 初日でもすごく大変で、会場には選んだブラに合ったショーツを探してくれるスタッフまでいます。それでもなかなか見つからないのです。
当日は、その中で姉と私用に7セットもゲットしました!
すごい成果です☆
能楽までの間に急いで行ったので、往復の電車はずーっと立ちっぱなしでした。しかもこの間買ったお気に入りのヒールの靴を履いていました。
急いで家に帰り、夕飯の用意をし、また急いで能の会場に向かいました。それで、やってしまったのです(泣)!
気が付いたら狂言と能の間の休憩時間でした。
狂言の内容、全く覚えていません。
あんなに楽しみにしていた狂言なのに。。。
休憩時間に展示してあった能面と、能装束を見ました。
紅唐織りの紅葉の装束が、未だ見た事がありませんが、吉野山の紅葉の様でした! とっても綺麗でした。
能は堪能出来ました!
大鼓は残念ながら、ユネスコの時のおじいさんには敵いませんでした。
掛声の裏返る声が、ユネスコの方は力強く、心地良い声でした。それだけで一つの音楽の様で、私は聞き惚れていました。みんながそうだと思い、期待していましたら、今回の声は響きませんでした。会場のせいかもしれません。
やっぱり能楽堂がいいです!
葵上という演目でしたが、六条御息所のお話でした。生霊は怖いイメージでしたが、鬼はなんだか可哀想でした。
悲しみが鬼になるとおじい様は仰っていました。
やす香はあんなに苦しくて悲しかったのに。。。私はやす香の中に一度も鬼を見た事がありません。
もしも、あの苦しみの日を一日だけ私が変わる事が出来たら、やす香は何をしたのでしょう。
もしかしたら、好きだった人のところに駆けて行ったかもしれません。
あるいは、許しを乞わなくてはいけない人がいたら、そこへ駆けつけたかもしれません。
そしてもしかしたら、大切な人全員のところに行き、大好きだよと伝えたかもしれません。
いつも私達にしてくれていた様に。

燻蒸、おばあちゃまやりましたね!
蜘蛛の死骸がゴゾゴゾだなんて、恐い・・・
ネズミも秦家から引っ越してくれるといいですね! まーごちゃんもネズミと同居では怖いでしょう。。。
うちの子は私の知らない間にゴキブリを追い掛け、捕まえてくれます。そして食べてしまいます。。。頭だけ残して。。。恐い。。。私は苦手です。
寒くなったのでメルクルを抱っこしています。
おじい様おばあ様、お風邪を召しません様に。
まーごちゃんをだっこして。。。

* やす香を死なせてしまい…取り返しが付かない。あの二月から六月まで、「mixi」日記を読み続けていた間に、何とか、どうにかしてやりたかったと、今も悲しく悲しく、妻と悔いるばかり。

* 琳さん。優しいメールを、有難う。 湖
十二月に、前にあなたの観た梅若万三郎の能「頼政」があります。今日観てきた友枝昭世とならんで、わたしは万三郎の能もながく観続けてきました。能をとても美しく舞う人です。源三位(げんざんみ)頼政は、驕る平家にいちはやく反旗を翻した源氏の武将ですが、また優なる歌人としても当時名高かった人です。旗揚げは早く潰えましたが、哀れ深く美しい能が観られます。
その前に万三郎の長男が「菊慈童」という神秘の少年を演じます。また三番目には「鐵輪(かなわ)」という怖い能が予定されています。狂言は新年を前に「福の神」。
うちのおばあちゃんは能というと目の玉がでんぐりかえるように眠くなる人なので行きません。自由席ですこし見づらいかも知れませんが、手持ちの入場券を送っておきますので、すこし早いめに行き、すこしでも観やすい席から楽しんで下さい。強いません。券を使わなくてもちっとも構いませんからね、気を遣う必要はありませんよ。
2008 11・2 86

☆ 気長に頑張りました。 泉 e-OLD多摩
この連休に引き続いての晴れ予報が、今の気分と重なって晴れやかです。あなたはお元気ですか。
今回は医者からお墨付きをもらうまで、と、自己判断で止めずに週一、四ヶ月通い詰めた甲斐があり、「もういいでしょう」の言葉に、思わず出た「又の折りにはよろしくお願いします」「いや、こちらこそ」と、常は能面の様な医者からの言葉に、顔が綻びました。
時々病を得るここ3,4年は、いかんせんお気楽婆にも、メメントモリが去来します。
昨日は、暗闇の五時出発で、ダイバー婿の車に便乗、西伊豆海岸へ日帰りし、帰路は府中多摩川辺りで、渋滞に遭い、少々疲れました。
ピークを過ぎた浜辺は穏やかで、波に洗われた石ころをビニール袋に沢山拾い、101,102と覚え始めた数を数えるのに夢中の孫との今少しと思える至福の刻です。
湾を隔てた正面に、土色の富士が全容をみせていましたが、冠雪の富士の息を呑む美しさには、とても及びません。
さて、暖かい日差しの間に、わたしもサイクリングに出ようかな。

* 元気ジルシの権化のようなお人に病み疲れられると、よそながら心細いことを実感した。気長に頑張られて、けっこう、けっこう。
2008 11・2 86

* 朝一番に、気がかりな「mixi」日記が出ていた。決して今今の目先に止まる示唆ではない、が、いちばん気になる「予防接種」の是非と副作用事故について触れてない。それが焦眉の急なんですが。

☆ 新型インフルエンザのことなど 「理想」と「現実」    珠
数日前、新型インフルエンザ゛対策の講演会にでかけた。今年の春頃から目だって案内が増え、学会・行政機関・製薬会社・NPO法人など主催もいろいろある中、選んで出席してきている。
毎回、帰りにはため息しか出ない講演内容が多く、何をしたらよいか、、というより、何も出来ないだろう感ばかりを強く感じた。メディアからも同様に出席しているので、当然報告の論調も、危機感を強く表現する内容で活字になっている。

今回は、厚労省からも担当官が出席するというので、少しだけ期待して出かけた。結果として、思わず声が洩れるほどの苦笑いしかなかった。
でも最後に、久しぶりに真っ当な医師の話が聞けた。
インフルエンザウイルスの、正しく日本を代表する臨床専門家であるその先生は、日本の対策はおかしな方向に向かっているという事を繰り返された。欧米先進国の対策と異なる希望的感染防御対策ばかりが目立つと。
世界共通なのは、手洗い励行。あとは、カナダ゛では簡単なマスクだけ、アメリカではマスクと手袋といった状況。日本ではガウンテクニックなど完全防備、、なぜか「どんどん過剰になる対策」は、科学的とはいえない。

新型インフルエンザ゛対策はとても大事だが、まずは過去のインフルエンザ゛大流行に学ばなくてはいけない。どのインフルエンザ゛も鳥だけの病気から変異して、人に感染してきた。その都度、人にとっては新型インフルエンザ゛だった。誰も免疫をもたなかったから、世界中で大流行して多くの人が亡くなった。今でも世界中で季節的に流行し、人の亡くなる病気でもある。
ただ、人類が生き残っているのは、新しいインフルエンザウイルスへの免疫を獲得してきて、致死的な経過が減ったからである。だから、新型インフルエンザ゛も国民皆が感染する病気だと考えなくてはいけない。大正初期のパンデミック(大流行)の頃は、抗生物質も無かったし、当然タミフルなどの抗ウイルス薬もなかった。今はそれがある。早くできる治療をしながら、何とかワクチンが開発されるのを待つ。現在、国の整えた対策マニュアルでは、水際作戦で国内へ持込をさせないとか、自宅に引篭もるという対策がある。現実には、季節流行でさえコントロールできていないのに新型対策でやろうとすることそのものに、無理があるのではないか、というのである。国民のほとんどが感染するという前提に先に準備が必要なのに、現在は感染しないようにすることに力が注がれている。

今の対策マニュアルでは、新型インフルエンザ゛を疑う患者は地域の‘発熱相談センター’に相談し、その指示で‘発熱外来’を受診するとなっている。そこでは誰が働くのか、それはどこの病院が担うのか、その時には開業医は処方に足るタミフルを発注できるのか、、など厚労省担当官に対して現実的な質問がぶつけられた。それには、ただ平身低頭、「先生方からのご意見を伺いながら検討を進めてゆきたいと思っています」を繰り返すばかり。。
あぁ、机上の空論である。
エライ専門家は、熱のある人がどうやって医療機関を受診し、そこで待って診療を受け、家に帰って休むのか、、想像できないのだろうか。発熱相談センターへの電話相談など、年金問題での相談窓口への電話の通じなさから学んでもよいのではないか。素人さんに電話を受けてもらうなら、何のための相談電話か分からないし、また医療者を電話の前に座らせていられないほど患者は多くなるはずなのに。。

個人は当然のこと、毎年のインフルエンザ゛流行期のように咳エチケットなどで予防に努め、熱があって療養する時のため自宅に食料・飲料は準備すればいい。一番の問題は医療機関だ。爆発的に増加したインフルエンザ゛発症者と不安にかられた微熱の人まで、医療機関に押し寄せるだろう。うちは通常診療だけしかできないので、発熱外来へと言うようなものなら、どんな事になるかは簡単に想像できる。また、ガウンテクニックにマスク・ゴーグルで感染防御対策を、、など言いだしたら、一般外来診療ではやりきれない。そこまでしなくちゃいけないなら、休診するしかないという医療機関もでるだろう。どちらにしても、スタッフは女性が多く、子供が病気又は預けられなければ出勤できない可能性も高い。先日の調査では、新型インフルエンザ゛が流行したら辞めたいという看護師は3割を超え、医師ですら2割近かったという。一番近くでまず患者に接する医療者の、その安全を護りながら働いてもらう対策、そして重症者をすぐに受け入れ治療できるような感染病床と機器の準備は、仲間に聴いても、手付かずとしかみえない。

マニュアルとは難しいものだと思う。お役所は、危機管理として何かにつけマニュアル作成を求める時代で、確かに整理してゆくことで見えてくる問題点はあり、良い機会にはなる。それでもどちらかというとマニュアルが作成され、それに伴って動いていたかどうかで責任回避できるという点が大きいように思う。私には、国は理想的な内容でマニュアルを用意しましたから、後はこう出来るように皆さん頑張って、、としか読めない。これではむしろ、ただ手かせ足かせだけにならないか。地域によって居住者の人数も違えば、医療機関の数や規模も違う。大人数の患者をどう診るか、国が主導しているが、先日の妊婦さん救急搬送問題でも明らかなように、何かあれば責任は自治体に向かうだろう。国ばかりが、メディアで何か「しているしているという顔」をするのはおかしい。現実の診療では国は何の力にもならないはず。国のすべきことと、地方行政のすべきことが、ごちゃごちゃになっていると思えて仕方ない。

インフルエンザ゛は経済と深く関係すると言われている。早い治療を可能にするには医療が身近ということ、予防にはワクチン接種が誰でも可能ということ、などなど全てに渡って経済と密接に関係する。経済の研究者が予測した新型インフルエンザ゛の影響は、インフルエンザ゛治療の専門家の死亡率などより悪い。経済の視点では、その方が危機管理対策の準備はしやすいに違いない。今のように世界経済の悪い時には、なおさらだろう。
ただし、自然は経済の感情的反応を越えたところにある。経済から科学者の意見を聴くのではなく、正しい評価のできる科学者の意見を、正しく聴きとって対処を考えたい。

治療薬は昔より増え、科学の進歩に伴う情報もある。情報伝達も即時に可能で、移動手段もある。豊かになった現代、自然の猛威に対処できるだろうか。経済に裏打ちされた社会的な治療要求に、医療者はただ一生懸命に奉仕し、乗り越えてゆけるだろうか。経済と科学、発展した現代に生きて、人はその発展を使いこなせるのだろうか。
医療者としては、できることをするしかない。まずは忙しい医療者に、正しい情報がきちんと伝わるようにと願う。

スタッフが来れなくても診療しないわけにはいかない、、といううちの医師と話しながら、でもやはり先生一人では無理です、、と言うしかなかった。今年の冬は、しばらくぶりでインフルエンザ゛が猛威をふるうだろうと聴いた。これも予行演習、忙しいその時こそ問題点もみえてくる。医療機関として出来ること、考える機会にしよう。まずは、予防接種だけど。

* その「予防接種」の副作用で去年、我々夫婦は死にそうに苦しんだ。今年も予防接種に「当てられた」という噂が入ってきて、恐怖感で予防接種「パス」という結論へ我々はにじり寄っているが、「珠」さん、これを如何。
2008 11・3 86

☆ 恒平さん  京
お帰りなさい。蓼科に行かれたんですね。写真、嬉しそうに写る迪子さんがまた嬉しくて、我が親のように何度も見返しました。
親の嬉しい顔を見て、胸締めつけられる歳になってから、親の嬉しい顔が見たい、と切に思うようになりました。子の幸せは親の幸せ、とはよく聞くけれど、逆もアリ、です。 京 バルセロナ

* 京、ありがとう。お元気ですか。

☆ 珠です。
湖へ  お帰りなさい。
諏訪湖の輝き、そして山や高原の色も目に浮かぶようです。
日に日に気温も下がり、黄金も紅も、色鮮やかに山を彩ってゆく季。
この美しい季節をご一緒したいという息子さんのお心使い、何よりでした。
私の母も誘って連れて出ると、嬉しいとしきりに言ってくれます。それでもお金の事など心配して必ずひと悶着……なかなかすんなりとはいきません。
「その気持ちと時間だけで充分」と母は言いますが、私もいい年の娘で、それも独身の申し訳なさもあって、唯一の家族である母にそのぐらいは
させてほしいと思うのですが……。それでも親は「親」なのでしょう。いくつになっても子供に迷惑はかけず、出来ることは自分でするという意思も理解できるので、お互い理解しあって、最後はジャンケン…となったりします。
もういない吾が父だったらどうかしらと思いつつ、息子さんへの嬉しさや感謝と同じくの申し訳なさや感謝を読ませて頂きました…。私は子の立場でしか分かりませんが、親に何かした時は少し自分が真っ当な大人になったかと勝手に安堵の心地。そしてそれは次への力に繋がるようです。その意味で、親は居てくれるだけでありがたいのです。させてくれ、受けてくれる存在として「親」に感謝を感じます。湖の息子さんも、運転で疲れてもきっとご両親を案内出来てほっと安堵の旅だっただろうなぁと、勝手に同調して読ませて頂きました。

さて大事なこと、インフルエンザ予防接種についてです。

> その「予防接種」の副作用で、去年、我々夫婦は死にそうに苦しんだ。今年も予防接種に「当てられた」という噂が入ってくる。恐怖感で予防接種「パス」という結論へ我々はにじり寄っているが、「珠」さん、これを如何。

昨年の出来事は覚えています。
私がメールで予防接種を忘れずにとお勧めし、11月21日に接種されたのでした。その後の辛い日々も、拝読しながら私には何も出来ず過ごしました。あのような出来事は記憶に残るのですが、それでもやはり私は、予防接種はお勧めしたいと思います。
インフルエンザ予防接種では、「副反応」といって軽くインフルエンザに罹ったような症状のでる方が案外多くいらっしゃいます。残念ながら予防接種で重篤な状態に なった方もいらっしゃるわけで、もし自分がそうなったら少ない確率でも100%になります。
ですが、インフルエンザは毎年死亡者のでる疾患には違いないのです。湖は糖尿病なので炎症には弱いはず、そして卵アレルギーなどで接種不可能ではない以上、やはりここはお勧め したいと思いました。

昨年を読み返して思うのですが、目の件や自転車の日録から、湖には、秋にもアレルギーがあるのではないかと想像できます。そういったアレルギーがベースにあると、気管も過敏になっていて、予防接種の副反応症状も出やすいように思えます。加えて昨年は、予防接種の日に少し熱が高めであったのに、翌日も自転車でお出かけされました。もし今年、接種をされる場合は、接種前2日くらいは自転車は控えて散歩程度にし、接種後3日程度は主に自宅で静かに過ごされるような体調管理が必要だと思います。慌しく睡眠不足などされている時に接種すると、私たちの言い方ですが「予防接種に負け」ます。病気にならずに免疫をつけるという虫のよい話なのですから、病気で苦しい休養でなくても、同じ日数分くらいは、免疫が早くできるよう休養モードで生活してほしいのです。
それが無理な場合や、副反応がもし出たらしんどい…… という方は、それも仕方がありません。
予防接種は受けずに罹らないように努め、もしインフルエンザの症状がでたら速やかに受診して投薬を受け休養する事も、今の日本であれば可能だと思います。私自身、卵アレルギーがあり、以前押し切って接種してもらったら血圧低下など恐ろしいことになりました。以後は禁忌なので、予防にとても気を使っています。ですが、いつか新型インフルエンザが起こってそのワクチンができた際に、卵アレルギーだから接種しないかと問われれば、診療に携わる以上アレルギー反応の対策をしてでも接種するかもしれない思います。感染して倒れてしまうか、接種して生きる可能性に賭けるか……どちらにしても危険を秤にかけて決めるしかありません。
今年は、ここ数年と全く違うワクチン株が入っているワクチンです。今月来月のお出かけ予定などをよくご検討頂き、休養モードが可能なら接種をされる事を具体的に考えてみてはいかがでしょうか。
任意ほど難しいものはないと、最近の麻疹の流行でも考えさせられました。しない理由も、する意味もどちらも理解できると思います。ただ、理解できても感情的に嫌なものは嫌なものでもあって。そこを理屈で越えてはいけないと思っているので、最後はお心のままに。。。
それが一番です。
長々とまた書いてしまいました。失礼致しました。洗い髪も乾いたので、休みます。
おやすみなさい。湖。どうぞお気をつけて。   珠

* ありがとう。ありがとう。勇気を持ち、理性的に、予防接種決断します。

☆ 蓼科の紅葉  鳶
三日間、三人の時を楽しまれたこと、本当に良かったです。
過重な親思いさせてしまったと感じていらっしゃるようですが、建日子さんは運転がお好きなのだと思います。運転が気にならない人には四、五時間のドライブはあまり苦痛ではないと・・ドライブの後、確かに疲れて暫らく「爆睡」しますけれど・・これは我が家の例からも確信できるのです。
ただただ楽しまれたことを、よき収穫であったとどうぞ思われますように。
そう書くわたしたちは毎月のように片道五時間ほど岡崎(=の親の家)まで出かけています。この半ばも義母を連れて紅葉狩りの旅に出かける予定ですよ。
昨日はテレビをかなり見ていました。アメリカ大統領選挙、オバマ氏の政策・・など多くの意見も聞き、わたしなりの思いもありますが、何よりも初の黒人大統領ということが齎す感無量の思いをテレビの画面の人々から受け取りました。
旅の疲れが残りませんよう。大切に

☆ いいお天気ですね、風。お元気ですか。  花
息子さん、頑張りましたね。
風は息子さんの運転を気の毒に思っていらっしゃるようですが、息子さんは、ご両親を喜ばせたい気持ちの方が先で、疲れるとはいえ、心地よい達成感があるんじゃないかしらん。
ほんとうにしんどくて危険だと思ったら、車で行こうなんて、誘わないと想いますよ。
黄葉を満喫できて、よかったですね。
予期した黄葉をばっちり見ることができたなんて、幸運ですよ!
ではでは。花はとても元気です。
2008 11・6 86

☆ 福井勇の柿  星野画廊 京都
秦先生 福井勇の柿の絵を(この日記に=)掲載していただき、誠に有り難うございます。
作者名を福井清から「福井勇」に訂正していただければ幸いです。
当方で開催中の静物画名作コレクション展でも彼の柿が大人気です。

☆ お月さまの大きさ   馨
先月、十三夜で「おつきまだねー」とお月見をして以来、空を見上げては月をさがすのが大好きになった二歳の息子。
朝起きて来ては残る月をさがして見ていたのですが、朔の月の頃はあまりお目にかかれずに「いナいネー」と言っていました。
ようやく三日月を過ぎる頃から「あ、おっきさまだ!」と、夕刻に会えるようになりました。
昨日はきれいな半月。
保育園の一時保育のお迎えに行き、車に乗り込んでエンジンをかけると、「あ、おっきさま、いた!」。
正面はきれいな夕焼け雲。だけどお月さまは見えないよ。と、顔を覗き込むと、「おっきさま、いた」と、カーナビの画面を指さす息子。画面はちょうど材木座周辺で、空色の海に白抜きで和賀江島が映っていました。その色のコントラストが、たしかに昼の月そっくり。
なるほど!
「月」と一口に言いますが、月の大きさのイメージって人それぞれだそうです。
私は長いこと10cmφくらい、と言っていましたが、息子とよく見るようになると2cmφくらいかなー、と。
10cmのイメージは、もしかすると満月の日、月の出の直後の印象かも。
高度が低い時って、大きく見えますよね。夕焼けが赤いのと同じ原理かな。
カーナビの画面上の月(和賀江島)は直径8mm程度。これが息子の見ている月の大きさのようです。ためしに縮尺を変えて、3mm程度の和賀江島にすると「おっきさま、いないよ」と言われました。
ふむふむ。
今度は縮尺を大きくして1.5cmくらいの和賀江島にしてみたのですが、残念なことに、その大きさになると和賀江島の上に「遺跡」の地図マークが入ってしまい、白抜きにならない・・・。
息子の見ている月は1cm弱、ということのようです。
家に帰って暗くなってから、ご飯の前にもう一度「あんぶん」の「おっきさま」を見ました。最近は、そのそばを点滅しながら通っていく飛行機もお気に入りです。
一緒に月を見ていても、きっと感じている大きさは違うのかも。ちょっと寂しいような、でも、面白いような気持ちの母親です。

* 広島で働く藤田理史くんが元気なシャンとした手紙をくれた。経済・金融の混乱はまちがいなく理史くんの職場にも響いているというが、そんななかで彼は彼の「今・此処」を懸命に明日へ繋ごうとしている。どうか幸あれと願う。願う。
2008 11・7 86

☆ 枯れ葉   瑛 e-OLD川崎
ゆるやかな時間があって好きな丘があり天気が良い。
秋は照る日があり慈雨が降り山道が昨夜の雨でしっとりする。
山を歩きたいと思う日である。七回目の年男の日が過ぎた。
自分の鍍金がどんどん剥がれていく。風に吹かれ葉が枝を
はなれるように。

今朝NHK零時十分からの『羽生善治の勝負の真髄』を見る。
一言一言の声もいい、対談のアナウンサーが真剣に問う。
質問を真摯に受け止めて真面目に応える。春風のごとく爽やかな 時間を共有することが出来ました。

* こころ嬉しく。
2008 11・8 86

☆ カンドコロ  maokat
筑紫哲也さんの訃報を、沖縄の人々は悲しんだことだろう。
太田昌秀元県知事が地方紙に談話を寄せている。「基地問題から文化まであらゆることに理解が深かった。取り組み方が東京の目線でなく地元と同じ視点だったため、沖縄のあらゆる層の人たちが、筑紫さんの文章や発言に励まされ、勇気をもらったと思う。」
キー局のキャスターでは、唯一沖縄の実情を理解して報道をしてくれていた人。
オバマ次期大統領に浮かれているが、その陰で、在沖縄米海兵隊8000人のグアム移転が先送りになりそうなことはほとんど伝えられていない。金融危機で米国防予算が削減される。移転も当然延び延びになる。しかもこの移転にあたって、米国は日本政府に6000億円の費用負担をさせる。延び延びになっている間にも、酔った米兵が民家に入り込んだり、タクシーを強奪したりしている。
マスコミは、落語家の痴話喧嘩を取り上げる暇があったら、自国民の生命財産を危うくしているこういう状況を報道してほしいのだが。
Self-Defenseと名乗っている組織の将は、自軍の上官、しかも最高司令官(総理大臣)の統制に従わなかったことをあまり自覚していない。上の米軍で同じことをしたら、どのようなことになるか知っているのだろうか?
そんなことをしている暇があれば、(もう一度言うが)自国民の生命財産を危うくしている状況をこそ、「Self-Defense」すべきと思うがいかが?

* ありがたい一文。だいじなことほど、カンドコロが報道されない。鼎の軽重をまともに問う力量がマスコミに無いことを歎く。
2008 11・9 86

☆ 鴉   体調いかが、案じています。 鳶

* 鳶   なんとなく。用心します。あなたも大事に。この寒くなるときに(今度の海外は=)何処へ行きますか。 鴉

☆ よかった。
HPを見て少しホッとしました。用心が肝心、無理なさらないように。今現在は落ち着いていますか?
今日は何処にも出かけず、といってもそういう日が殆どなのですが、再びボランティア団体に託す衣類を纏めていました。春になったら改めてまた春物夏物を整理します。
エア・ポケットに落ち込んだようなわたしの「推敲と構成の作業」も気を取り直して進めるしかなく、開始すれば早々に脇道にそれて、まったくわたしの思考回路は気まぐれで、交通渋滞を起こしています。
久しぶりの海外旅行は北アフリカのチュニジアです。シチリアとは海を隔ててごく近い、古のカルタゴの地。風土やイスラム教社会であることなど昨年行ったモロッコと似ているでしょうが、ローマの強い影響下にあったわけですから更なる興味が湧くところでしょう。ユーロが安くなったので本当はヨーロッパ一人旅行がいいのですが、夏の終わりに娘と約束して計画していましたので・・。旅行の時期にもあまり寒くはなっていないと思います。
今週は石山寺と比叡山に行く予定もあり、週末は岡崎、そして月末にはチュニジアといささか慌しくなります。
くれぐれも大事に、大事に、大事に。 鳶

☆ おはようございます。 花
お元気ですか、風。
「小石川の家」は知りません。 映画なのですか。それとも、テレビドラマですか。おもしろそう。
花は、田中裕子という女優が好きです。
花の子供の頃、彼女は、「おしん」だとか、映画でも高倉健の「夜叉」、鈴木清順監督の「カポネ大いに泣く」、「男はつらいよ」など、いろいろ出演し、活躍していましたが、お色気過剰といいますか、当時の言葉でいうと「ぶりっ子」っぽい演技が苦手でした。
花が大人になったせいか、今はそんなの気にならなくなり、「向田邦子シリーズ」ドラマのビデオを借りて楽しんでいます。
寒いですが、花はこれから医療保険の無料相談というのに行ってきます。
ではでは、風。

☆ 日本をあとにしてちょうど40年、京都・西大路四条にあった妻の実家を引き払うことになりました。切ろうとしてもとうてい切れない縁(えにし)のふるさとですが、一応のピリオドです。 たなか つとむ

* 我當の芝居を観て帰って、勉さんのメールに接しました。カナダ住まいになりきるということですか。そしてときどき旅行者として帰国されるということですか。
いまは、もうカナダですか。日本においでですか。おいでなら、機会が有れば一度会っておきたい。
京都とのご縁がたとえ一時的といえども切れるというお気持ち、察するに余りあります。
往時茫々。とはいえ、残り少ないなかでも互いに元気な顔をなお一度も二度も三度も見たいモノです。
我當も脚の故障をかばいながら彼なりの円熟を実現し続けています。わたしも機会あるつど欠かさず舞台を観て、励ましまた励まされています。
とにもかくにもご健康を祈ります。ご面倒でも、再々のお便りをお願いします。 秦 恒平
2008 11・11 86

* 毎日冷えて、曇天つづき。今日は小雨も落ちて。
「復活」を読み継いでいます。「復活」というと可哀想なカチューシャと思うのが常ですが、どうしてどうして。この小説、トルストイの「反体制」というに止まらない痛烈なヒューマニズム作品だと、感動もし、納得しています。
徒刑囚に陥るヒロイン、その裁判、その牢獄、その刑地への過酷な移送。作の運びから必然のこういう状況を確乎と備えた上で、それにかかわる大臣、貴族、高級官僚、典獄、獄吏たちのありようを徹底的に批判して行くトルストイの思想的政治的な立場は明瞭。それが観念的・概念的・抽象的に成らぬように場面場面の具体と人間性把握のありのままの凄みが、作品を生き生きとしたものにしています。ロシア国教というキリスト教も、ほぼ全的に否認されて行く。容赦ない筆の運びに魅されるにつれ、大正の日本知識人が受け容れていたトルストイズム理解の場当たりの安さも、恥ずかしいほど見えてきて、いよいよトルストイが大きな作家であることに胸打たれます。 風

☆ 『復活』には(半分くらいしか読んでいませんが)、アンチ・エスタブリッシュメントなものが根底にあり、さまざまな階層の人たちの、それぞれの醜悪さ・ご都合主義・保身・手前勝手などが、具体的な描写によって語られていますね。『復活』だけでなく、『戦争と平和』も。農奴たちの血と汗を搾取している実感などまるでなしの貴族バカボンボンが、カード賭博で莫大な税金に相当する賭け金を、どんどんスッていくところが、強く印象に残っています。『復活』で、農地解放するネフリュードフは、作者トルストイの実際の姿と重なります。
いったい、トルストイと同じ目線でものを見ていたエスタブリッシュメントが、当時、彼の周りにどれくらいいたかと考えるとき、貴族に生まれた彼は、孤独だっただろうなと想います。支配階級にある彼の書いた、アンチ・エスタブリッシュメントなものを根底に持つ小説は、当時のロシア社会で、どのように受け取られ、理解されていたのか、興味がわいてきます。
「大正の日本知識人が受け容れていたトルストイの人道主義理解の場当たりの安さも恥ずかしいほど見えてきて」とおっしゃるところ、なんとなくわかります。吉行淳之介も、『復活』は、自分が不幸にした女を救いに走るというところがクサくて鼻についた」というようなことを書いていましたし。 花

* 吉行が言っていたのは知らないけれども、言いそうなことだ。吉行の限界だろう。
だが『復活』のモチーフは、そういうところを肝腎要で逸れていて、しかもネフリュードフの自己解剖には、辛辣でかつ純に筋が通されていて、そんな「鼻につく」くさみとは別の「徹底」を得ている。それにわたしは心動かされる。
2008 11・12 86

* 麻生総理の現ナマのバラマキ案という、あれはいったい何なのだろう。あの人、そんなことが「政治」だと思っているのだろうか。

* くらべものにもならないことだが、四国の「讃岐」さんに吾亦紅の花を送って貰ってもう二ヶ月は過ぎたろう。はじめは吾亦紅十九顆の花が認められ、思い挿しの靨の酒器にそれは気持ちよう挿せていた。わたしは、観るつど一つ二つと数を数え癖が付いている内、二十顆に一つ増えた。それからも一つ二つと毎日何度も数えてきたが、元気がいいというのか環境がよいか、よく水を上げた。わたしは気がつくと水を足してきた。もう枯れるかと思いつつそれにしても元気だと観ている間に、一昨日ごろになって、何と数えて二十一顆と花がまた一つ増えたから偉い。わたしは感動している。ひからびた様子もなく細い枝もこきみよく元気に伸びている。
麻生政治のわけのわからなさに比して、吾亦紅の生命感は潔い。 2008 11・12 86

☆ 阿波丸と消えたゴム長靴 2008年11月12日21:20  燦
歴史を訊ねる会の方たちと、増上寺や近くの丸山古墳を訊ねて歩いた。
案内を見たときに増上寺内の徳川家の歴代将軍や和宮の霊廟見学などのほかに「阿波丸遭難慰霊碑」があり、驚いた。
阿波丸事件はもう歴史なのだ。
増上寺の大きな山門をくぐり少し歩いたところに殉難者合同慰霊碑がある。阿波丸に乗船して、殉難した2000人に余る人たちの名が一人ひとり刻まれている。
ありました。
私の叔父の名が。「  頼政」と。手でなぞってみた。カメラに納めた。慰霊祭に参列したときとは異なる気持ち。
1945年終戦の年。3月には私たちの下谷の家は戦火に遭い焼け出された。打ちひしがれていたであろう家族に朗報が。
逓信省の役人としてシンガーポールに赴いていた叔父が帰国してくると。
絶対安全な緑十字の船に乗るのでと。逓信省や外務省などの上官たちと一緒だから安全だと。
本土決戦が近くなってきたので、大事な人は帰してもらえるのだと聞かされ、私は信じていた。
「ほしがりません 勝つまでは」と言っていた国民学校2年生だった私はその頃もう内地では手に入りにくいゴム長靴をお土産にと慰問文にねだって、首を長くして待っていた。
生まれたばかりの娘と新妻を置いて、叔父はアメリカの潜水艦の魚雷を受けて海の藻屑となり去ったのだ。
その叔母は気持ちは今も新婚のままだ。80歳を過ぎてもまだ夫のことを「頼政さんがね‥‥」と話す。
従妹は全く父親のことを知らないので、話をした事のある私を羨む。
従妹のアルバムには新妻と軍刀を持った勇ましい父親の姿だけ。
阿波丸事件は戦後も、いろいろ日米間で問題になったが、事件の真相ははっきりされないまま、今ではもう歴史の一つなのだろうか。

* 「e-文藝館=湖(umi)」に、このまま戴く。
2008 11・12 86

☆ ごぶさたしました。 笠 e-OLD千葉
何でもありません。
ほんとに、何もしなくても時が過ぎて行きます。まわりにもそういう人が多いので、知らぬ間に見習っているのかも知れません。いけないとも思いません。
この一週間余り「光ファイバー」が断線して、インタネットも使えなかったのですが、さして困ることもありませんでした。静か・・でした。
でも、何か面白い事はないかなあとも思っています。
柿日和。くれぐれもお大切にしてください。 拝
2008 11・14 86

☆ 小春日和  泉 e-OLD
お元気ですか。相変わらずあれこれとご多忙ですか。
医者から解放されて、気持ち晴れやかで嬉しく、ここ連日都内都外に出て、健康体を満喫しています。
今日は友人と映画「ブーリン家の姉妹」を観てきました。
16世紀、イングランド国王ヘンリー八世を芯に、史実を骨子にフイクションも加味して、息もつかせぬ程に暗く暗く展開する物語。後年エリザベス一世となる子を産んだナタリー・ポートマン扮するアン・ブーリンが、幽閉された後、断頭処刑までを。
私は美しい衣装やアクセサリー、背景に目を惹かれます。
ここ数年、選んで観た映画の主演女優にスカーレット・ヨハンソンが多く、「真珠の耳飾の少女」が初めて印象深く観た映画だった、と。
映画はやっぱり手軽で面白く。
2008 11・14 86

☆ こんにちは! 琳
院試の発表ありました!
ちゃんと受かっていました!
これでひと安心です。
実は頂いたパズル。。。試験の前日なのに我慢出来ずに遊んでしまいました。心配掛けてはいけないので隠していましたが、嬉しくてついつい遊びました。おじい様にお話ししたら、叱られますでしょうか。。。
昨日は、国立劇場に江戸川乱歩の人間豹の歌舞伎『江戸宵闇妖鉤爪』を見に行ってきました。
以前高校の授業の一環で歌舞伎を見ましたが、自分で行った初めての歌舞伎です。私の大好きな江戸川乱歩を、上手に歌舞伎に仕立てていました。小説にはない場面も描かれていましたが、歌舞伎は染五郞さんの人間豹でした。
小説では奇怪さとおどろおどろしさが表面に出ている作品ですが、今回は人間豹の虚しさや悲しみが表現されていました。最後は少しホロリとさせる終わりで、私はとってもとっても気に入りました! 歌舞伎の初心者には、もってこいの面白さでした。
私は江戸川乱歩の、人間の盲点を突いた恐怖を描くところが好きです。
長編よりも短編の話の方が、面白さを発揮できていると思っていました。でも江戸川乱歩が人間豹を一番気に入っていると言う事は、長編の方が自分の思った世界を表現出来ているのでしょうか。
私はその事にも気がつかず、ただ乱歩が好きだなどと言っているなんて、未熟でした。
でもやはり私の好きな話は短編で、『赤い部屋』がお気に入りなのです。今まで誰も考えた事のない、江戸川乱歩独特の魔法にかかった様で、初めて読んだ時に衝撃を受けた話だからです。
まだ乱歩を完全制覇は出来ていないので、卒論が終わったら読破したいと思っています。
歌舞伎って、すごいですね!
舞台装置も大掛かりで、回転したり、下に下がったり。。。驚きました。
背景に描かれていた不忍池も素敵でした!
情緒もあり、奥行きを感じさせ、これにも感心しました。
染五郞さんの宙吊りも楽しませてくれました。
染五郞さんって、すごく綺麗な役者さんですね!
テレビで見た事はありますが、やっぱり舞台役者さんです。
女形は春猿さんでした。
春猿さんも若い役者さんなのに、若い女性もしっとりした落ち着いた女性も、本当に柔らかく美しく演じていました。
まだ歌舞伎初心者なので、ただただ楽しかったです。
院試が終わったので、全力で卒論を仕上げます!
ではでは、ご報告まで。
インフルエンザにお気を付け下さいませ。

* 甥の黒川創が東京へ出てきてうちの近所にアパート住まいしていた頃、ちょくちょく顔を出した。彼には縁の遠かった、たとえば歌舞伎のことなど話してやると、いつのまにか歌舞伎をみて、ひとかどの批評めくことを言ったり書いていたりした。顔を合わすつど、なにかしら新たに身に帯びてそれを私たち大人に感じさせた。そういうところが頼もしかった。
やす香の大親友も、メールをくれるつどわたしたち老人の頬を綻ばせてくれる。映画や能や歌舞伎へのわかわかしい感想が、なにかしら「青春」というものの背に生えた大きな翔のように感じられる。そういうまぶしさにわたしたちは励まされている。
2008 11・15 86

☆ 気になって言い置く  珠
そう、忙しいと却って気になるから、言っておこう。
先日来、防衛省の田母神氏の論文が賞をとった件が参考人招致にまで発展し話題になっている。内容もさることながら、私には「何故アパホテルがそのような懸賞論文を募集したのか」「大賞をとるからには誰かが選考しているはず、一体誰が何を見てるのか」と気になっていた。
アパホテルといえば全国に安価なビジネスホテルを展開していて、私も利用したことがある。安価の割には居心地の良いコンパクトさで、部屋の回転率も良さそうだ。最近は地方都市だけでなく、都心の一等地にも進出してきてビジネスマンには名前の行き渡った感がある。耐震強度の偽装問題の後半、名前が出た際にも、女性社長は即座に会見し利用客に対応するなど、ギリギリの価格でも真っ当なホテル?? という印象だった。
しかし、今回の一件を見聞きしていると、違った側面が見えてきた。
アパホテルの会長さんは男性。社長さんが表にでてたので、会長さんがお爺さんとかかと思いきや屈強な男性だと初めて知った。防衛関係の方々とは永の付き合いがあるようだ。防衛省を退官した人がアパホテルに再就職していたりもする。以前からある「わが国、日本」への思いの強さから懸賞論文となったようだが、今この時期に‘第一回’募集となった点には意味があるのではないかと思えてしまう。
迷走する政界、弱体化する国、国民の不満、官僚の牛耳る役所そして防衛省、、小池百合子氏は苦手だったけれど、防衛省の隠れた危険さをある意味で白日の下にぶちまけたとは言えるだろう。今の防衛省は勝手な意思をもった団体のように感じられる「危険」印象いっぱい。今後、何かしら権力の分散なども検討されるのではないかとすら思える。そんな弱体化する団体から、その所属も明らかにして応募するという行為は、影響力も分かった上で敢えて「討って出た」ということではないのだろうか。
アパホテルの会長さんは、以前から田母神氏や政治家と会談された様子を公開してきている。その共通な歴史認識から今回の出来事へと発展しているのではないだろうか。300万円の賞金をホテルがだす論文、、ホスピタリティーやサービスといった論文ではなく、全く違う類いに、である。それも自民や民主の政治家に献金もして、会談歓談もしているとされる、名の知れた成長する企業で起こった事に驚きを禁じえない。そら恐ろしくすら感じる。
国とは、国会議員とは、何をみているのか。自衛隊のセクハラ隠蔽事件が明らかになってきた中で、田母神氏が自衛隊の機関紙、それも巻頭で書いた文章が出てきた。そこで、不祥事の隠蔽は自衛隊の弱体化を防ぐ意味からある程度仕方ないと驚くような事を書いている。
また、反日的日本国民という言葉も出てくる。驚くばかり。それこそ税金を投入されている機関紙ではないのだろうか。そんな足元の綻びすら見えなくなっている政治家とは裸の王様以外の何者でもない。
環境は人を作る、、と思っているが、いつも敵を想定した仕事をしていると、自分たちの意見にそぐわないものは‘反’になってしまうのだろうか。。
何が反日か、何が親日か、、シアワセ呆けした私たちに判別できるだろうか。己のなかの‘敵’と戦うことから逃げているだけではないのだろうか。
今の政治は情けない。でも、だから駄目だ、どうしようもないでは済まない。そこで頑張らせ求めていかないと、温かいベッド゛を提供するホスピタリティーから気がつくと思わぬ病気になってしまっている気がしてきた。一見真っ当な感じほど恐いものはない。
小泉劇場ではないが、繰り返し主張されると人は信じてしまう危険がある。どうあるべきか、、国も経済も先が見えないなら、過去を紐解いてこの国の護るべきものをもう一度確認し直すことから始めるしかない。田母神氏の論文を含む受賞作は本になるという。概略だけでなく、まずきちんと読んで、「こういう人がいる」という怪訝な事実から現実として受け止めていかなければ。
あぁ、しっかりせよ、政治家!

* 「ペン電子文藝館」「e-文藝館=湖(umi)」の論説・解説室で、せめて下記を読んで欲しい。
文部省 「あたらしい憲法のはなし 附・日本国憲法」

井上清 日本近代略史1
「近代天皇制の確立 新しい権力のしくみ」
色川大吉 日本近代略史2
「近代国家の出発 自由民権請願の波」
隅谷三喜男 日本近代略史3
「大日本帝国の試練 大逆事件 明治の終焉」
今井清一 日本近代略史4
「大正デモクラシー 関東大震災」
大内力 日本近代略史5
「ファシズムへの道 準戦時体制へ ファシズムの日本的特質」
林茂 日本近代略史6
「太平洋戦争 総力戦と国民生活」
蝋山政道 日本近代略史7
「よみがえる日本 占領下の民主化過程」

読み終えてさらに意欲が湧けば、どうか、中央公論社版『日本の歴史』から、上記責任編集者の執筆になる「明治維新」以降の七巻をぜひ読んで、学校教育の不備と至らないところを補って貰いたい。上記七人の先生方の七巻からなるいわば『日本近代通史』は、その精神において一貫して立派であると、わたしは心から推す。
2008 11・16 86

* 石川の井口哲郎さんからお手紙を貰った。いまどき手書きの長いお手紙は貴重品だ。恥ずかしながら手書きの手紙を久しく書いたことがない。せいぜい葉書。
文学館長を退かれてからは少しゆとりが出来たろうか。わたしのことを日々「エネルギッシュ」だと書いておられる。そうかなあ。
今月末に石川から東京の方に出て見えるそうたが、めぐりあううまい時間があればいいが。二十八日に息子達と食事の約束が出来ている。土、日に、ご都合が合うだろうか。
2008 11・17 86

☆ 半身浴  悠
息子がお風呂で湯船に浸かりません。
浴室に入るのは嫌がりませんが、湯船は断固拒否。無理に入れると必死になって、這い出ようとします。
その代わりなのか、洗面器とバケツに溜めたお湯には浸かって満足そうにしています。
いくら小さい息子でも洗面器ではおしりまで、バケツでも腰までしか浸かりません。シャワーや湯船から汲んだお湯を肩からかけてや るのですが、それで十分だと思っているみたいです。これから寒くなるので心配です!

* なるべく遠慮しているが、こんな「mixi」日記は見遁せない。可愛い。
2008 11・19 86

☆ 鴉さま   鳶
HPにトルストイの「復活」や懐かしい作家の記述があって、再読から豊かな収穫を得ていらっしゃる御様子。「朝の一服」で詩歌を取り上げることへの感懐・・微妙でした。書くという作業、あるいは描くということも・・何のために、だれのために、それに連なるようにわたしには思われます。
冬型の気圧配置になって昨晩はエアコンをつけました。
庭の柿の葉もかなり落ち晩秋の趣です。蘭やアロエなど寒さに弱い植物には今日中にビニールで覆いを準備してあげないといけません。
チュニジアへ旅行の支度はまだ何も手付かず、その前に目途をつけたいものがあって、少し緊張しています。
先週は石山寺と比叡山に行きました。
石山寺本堂から見下ろせる谷、展示されていた高野切第二種が心に残りました。途中三井寺から坂本と穴生衆の集落とその石組を見て、現在わたしが住んでいる町の出身、そのご縁で天台座主・故山田恵諦師の旧居で、師にまつわるお話を聴きました。この夏は空海に関する本を読んでいたので、自然にその中では最澄に触れる箇所も多く、あらためて日本仏教に二人が占める意味を、そしてそれに連なる限りなくさまざまなことを考えさせられます。・・それにしては恐ろしく貧弱なわたしの知識と思考ではありますが。
比叡山の夕暮れの紅葉、もちろん美しかったです。黄葉も緑の杉も錦織りなして美しく・・やはり深い紅色のもみじに嘆声が洩れました。根本中堂のいかめしさは江戸時代の建物といえば納得、江戸の寛永寺は比叡山から移された総本山・東叡山・・今は一部が上野公園なっているというのも時代と、納得。
そして犬山や恵那峡の秋を楽しみました、もっとも週末は曇りで少し雨も降ったりと天気は今ひとつでしたが。姑の楽しみの一つは、やはり「美味しいものを食べること」。
食べることは生きることでもあります。亡くなった父母にも生前美味しいものをもっともっといっぱい食べさせたかったと今になっては遅すぎる嘆きです。イタリアやトルコなど旅行に連れて行ったことくらいでしょうか、わたしの母孝行は。
外出が続いてさすがにわたしも疲れました。
晩秋の日々をどうぞ健やかにお過ごしください。風邪など引きませんよう、元気に。

* ありがとう。あなたからのメールは、いつも「ビタミン愛」です。幾種もの微妙に効用と味わいを異にした「ビタミン愛」を、わたしは諸方から豊かに頂いている。

* 昨日は岡山の有元毅さんから、もう亡くなっているある女性画家の展覧会について、親切にお知らせ頂いた。以前にもその画家の繪を教えて頂いた。
金谷朱尾子(かなやにおこ)さん。
笠岡の竹喬美術館でいま回顧展がひらかれている。その非凡なデッサン力は文化勲章の日本画家高山辰雄が認め、同じく文化勲章の評論家河北倫明が「戦後を代表する女性画家」として注目した。しかし惜しくも病気で五十歳を越えすぐ亡くなった。
この画家金谷朱尾子の画業の根の一つに、わたしの小説『慈子』があった。一九八○年の「想変相図」は生涯の代表作だが、『慈子』を題材に取り組んだ鮮烈の作。金谷はさらに自信作「慈子の風景」を描くことで画業の大きな転機を迎えたといわれる。
わたしは、残念ながら金谷さんの作にまだ出逢えていない。有元さんは、わたしを誘ってくださっているのであろう。

* 歳末が近づき、年内に近縁を喪われた方のご挨拶が毎日のように届く。
2008 11・19 86

☆ 風、こんばんわ。
すっかり暗くなりました。
今日は、午前に買い物、午後には医療保険の見直しのための説明を受けてきました。
暖かく、穏やかな日でした。
高麗屋が乱歩ですか。意欲は買います。
こんにちの歌舞伎は、団菊が権威的に護っているところを、猿之助が飛び出し、玉三郎はいろいろやって歌舞伎に戻り、勘三郎とその仲間たちがスウィンギング・ロンドンならぬ、スウィンギング・歌舞伎をやっているように見えます。
「スウィンギング・ロンドン」とは、1960年代のイギリスの若者文化を指す言葉です。
「スウィング」の語義、 ”ある軸を中心として回転したり揺れる” のとおり、イギリスの古くからの、かったーい伝統から軸を外さずに既成枠をはみ出したのが特徴で、「平成中村座」で勘三郎とその仲間たちのやっていることは、わたしには「スウィンギング・歌舞伎」、もっと精確にいうと、「スウィンギング・歌舞伎座」に見えます。
歌舞伎はカブいてこそ、ですから、どんどんカブいちゃっていいのです。
染五郎は、歌舞伎が好きで一所懸命なのですが、「高麗屋の若旦那」にまとまっているのが、役にもにじみでている感じです。
そう、だから、彼は、和事が似合うと思うのです。
封印を切っちゃう若旦那とか。
ご本人も、そうとわかっているみたい。
高麗屋は、十代目にして和事!
>ハミ出ない。一所懸命だが、それでは時代を江戸時代へ持っていっただけで、「カブキ=批評」にならない。
ハミ出る魅力って、ありますよね。
評論にも、ありますね。
ハミ出過ぎて、根拠も示さず思い込みに走ると、読んでいておもしろくなくなってしまうものがあるけれど、いざ自分が書くとなると、ハミ出る加減が難しいです。
ハア、自分の書いたものを客観的に見るのが、こんなに難しいとは。
風、「私小説史ふうの概略をスケッチして」いるのですか。
このメールに添付したのは、先日書いた花の評論です。
出来がいいのか悪いのかまったく自分ではわかりませんが、風の気分転換・暇つぶしになれば、と、思い、送ります。
読まなくても構いません。
今しなければならないことを(いやなこともあるでしょうが)、なさってください。
ではでは、花は風のことを、いつも想っています。
お元気ですか、風。 花

* 優しい陣中見舞い。感謝。
「スウィング」の語義、 ”ある軸を中心として回転したり揺れる” のとおり、イギリスの古くからの、かったーい伝統から軸を外さずに既成枠をはみ出したのが特徴で、「平成中村座」で勘三郎とその仲間たちのやっていることは、わたしには「スウィンギング・歌舞伎」、もっと精確にいうと、「スウィンギング・歌舞伎座」に見えます、と、花は言う。的確。

* わたしに言わせると勘三郎という役者は、はたの役者が普通に歌舞伎として演じるとごく退屈な芝居を、とてつもなく面白いものに組み替えてしまうセンスをもっており、その方向へ串田和美など使ってうまい仕事にさせてしまう。海外でも成功してきた「夏祭浪花鑑」でも「法界坊」でもそうで、まるで、こうだ。つまり観客の方を舞台から見ながら、「ね、あほらしい、バカみたいな芝居でしょ、笑っちゃうね」と自分でも笑っておどけてしまうことで観客を妙に安心させ笑わせてしまう。そうして置いて、カンドコロでぎゅうっと締めて芝居を盛り上げる。そういう緩急自在の芝居の読みがある。

* さて例のスケッチは、まだ堅苦しい。とにかく、揉み揉みとやっている。ただ、そればかりを遣ってもいられない。
2008 11・20 86

* わたしの育った京都の同じ町内で、戦時の国民学校時代、わたしより二年上の剽悍な少年Aが、同年の温厚で大柄な少年Bをいつも言語道断にいじめ抜いていた。だが、ある日、ついにB少年は決然と立ち、まさに一騎打ち、A少年を腕力ないし暴力で徹底的に復讐し、力関係は掌を返したように覆った。これしかない。わたしは観ていてそう感じた。
丹波の山奥の村の国民学校に疎開転校したとき、わたしよりやはり二年上、或る部落の少年A率いる一団が、別の部落からの高等小学校一年、つまり一つ年上の孤立した少年Bを、日ごと、徹頭徹尾目を覆いたいほどいじめ、痛めつづけていた。ところが、ある日、田舎の学校の運動場を追いつ追われつ、いじめ団の主将A少年と孤独ないじめられ役B少年とが、一対一、一騎打ちの体で猛烈に闘い初め、Bは、Aを、完膚無きまで暴力的に圧倒した。勝負あった。そして、陰湿を極めたいじめはかき消すようになくなり、運動場はB少年の晴れて天下と帰した。これしかなかった。やはりわたしは観ていてそう感じた。
疎開先から京都の敗戦後の小学校に帰ると、教室の中でやはり或るA少年とB少年とが烈しく葛藤していた。そしてこれまた二少年の互いに泣き叫びながらの一騎打ちの乱闘でお山の大将争いの決着が付いた。勝手にやっとれとわたしは思っていた。

* いまのいじめはこんな単純な物でないようだ。弱かった側が、強い側を、腕力で逆転すれば済むような単純な組み立てでほんものの「いじめ」問題は出来ていない。まして精神論では片づかない、が、とかく識者は精神論で批評している。精神でも論理でもない利害と感情とを深い基盤に陰気に隠しているから「いじめ」は複雑怪奇なのである。きれい事では済まない。もっと凄いきれいきたないの思いが絡まっているのだ。どこかでは、凄惨なほどのリベンジが発動されるだろう、それはもうテロリズムになる。それしかない、とは、やはり怖ろしくて言えないからこそ「いじめ」問題は小手先の議論や創作では片づかない。

☆ 霜晴れに山の彩も豊かに深まり   湖雀(うみすずめ)
オリオンがりんりんと明けの空にきらめいています。冷え込みました。お風呂でよくあたたまって、お怪我のないように。またどうかお風邪などお召しになりませんよう、お大切になさってくださいませ。
飛鳥園に出むいた日はもたもたしていて松伯美どころか中野美に立ち寄る時間さえとれず、大和文華館のみ見学してセミナーが終わったあと入江泰吉記念写真館に行くのがやっとでした。
大和文華館で朝鮮山水の展示を見ていましたら、1550年―「若き日の信長」の頃ですね―に描かれた「観音菩薩三十二応現図」のキャプションに「中宗の王妃が、早世した仁宗のために描かせたもので、彼は『チャングムの誓い』に登場した病弱な皇太子です。」とあるので苦笑してしまいました。見破られてるぅ。
「チャングムの誓い」は見ませんでしたが、現在見ている「海神」で悪女を演じている女優が朝鮮王朝世祖の世子嬪役で賞をとった「王と妃」というドラマがあり、安平大君が登場するので見てみたいなぁと思っています。
さて、斎宮歴史博物館「阿倍内親王と井上内親王―神につかえ仏にいのる」。
企画展と思いこんでいましたら平成20年度の特別展だそうで、崇福寺の舎利容器をタッチの差で東京に奪われたと解説しながら学藝員さんがくやしさをにじませてらっしゃいました。
出陳品に津市の鳥居古墳から出土した甎仏や押出仏があり、古墳と渡来宗教の仏教が合流するのは時代的に考えられるというお話にはっとしましたし、伊勢神宮に、丈六仏が据えられた神宮寺がつくられ、道鏡失脚ののち移転し、廃寺になったという新たな知識を得ました。
常設展や体験館も二度目となるとまたおもしろく、喫茶や昼食、ビデオ鑑賞などで5時間以上滞在してしまい、香肌峡の紅葉も高見山の時雨も、ヨルコトアタハズ。来た道を戻り、帰ってからいきつけのラーメン店に夕飯を食べに行き、「え? 明和町‥って、また、地味に遠いとこ行ったなぁ」と驚かれました。同じ時刻に店に入った男性は恵那峡に行ってきたと言うので、なおさら、なにがあるのぉ?と不思議がられ、後日あらためて主人に「明和町てなにがあるの?」と質問があったそうです。
通行量の多い国道、しかも熱田神宮⇔伊勢神宮の大学駅伝の当日に、ぴりぴりしながら片道2時間半も走って行く、どんな価値ある場所があったかしらん、しかも5時間滞在して、まだ足りない、おもしろかったって、いったいなに? どこ? ってわけです。主人は説明してもわかってもらえなかったと笑っていました。たしかに。
斎宮歴史博物館のラックに五條市立文化博物館のチラシが置いてあって、22日(日)に五条駅前からバスに乗って博物館から始まり市内をめぐるバスツアーがあることを知り、申し込もうかと話をしていた矢先、名張の観光案内所に桜井周辺のフリーペーパーが1冊だけ残っているのをみつけました。開いてみると五條市の小さな記事が載っています。持ち帰って読み直しましたら、五條の城下町を繁栄させたのが松倉重政だったというので、あれ、聞いたことある名前、と、オツムの抽斗を探しました。
島原の乱の原因を作ったといわれている大名でしょう?
彼の住したのが二見城で、地図に載っている二見城跡の意味がわかったことも嬉しかったのですけれど、それ以上に彼が大坂の陣の功により1616年に大和五条藩から肥前4万石に移封され、それが有馬春信が流罪先で斬首された4年後ということや、春信の居城が一揆勢がたてこもった原城だったということに、あらためて “そぉかぁ”。
あさって五條に行ってまいります。古社寺旧蹟、もみじ狩、柿も味わいを深めている頃でしょう。 湖雀

* タイヘンなおねえさんです。そして、これで、この「湖雀」さん、或る意味わたし「湖」のオッカケのつもりのようです。

☆ 島影と山影  湖雀
三島めぐりツアーは10/11~13のみの募集で、雀が参加した日は54名と盛況でした。
彦根駅前からバスで出発。
彦根港―(航行20分)―多景島―(30分)―竹生島―(60分)―沖島―(60分)―彦根港というルートで、行ったり来たりしているあいだに三つの島と沖の白石は船の位置によって姿を変え、比叡、比良、伊吹、伊香の連山、繖(きぬがさ)山、三上山などと目印となっていることが、よォくわかりました。
山岳修験の山々は街道からだけでなく湖上からも目立ち、それぞれ特徴があるので見分けやすいンですね。きぬがさの山容をとっくりと見てきましたよ。
竹生島→沖島と、沖島→彦根とが同じ時間かかったのは、やや波の追い風と高波の向かい風の差です。沖島でボランティアガイドさんと話に花を咲かせている間に、航行中止寸前のつよい波になっていたそうで、添乗員さんは堀切港へ渡ってそこへバスを廻送させることを会社に相談してらしたとのこと。
竹生島を出航したあとデッキに上がっていたら、兎の群れが走るような白波が次から次と起こるのです。後ろに進めない兎の群れ。
沖島に「蓮如旧蹟」とあるのは彼が乗った船が風に流され漂着したからだとか、保元の乱のとき源氏の落ち武者が6人漂着したことが元服式を兼ねた火祭り(大どんど焼き)のもとになっているとかいうお話をうかがいました。
「急がば回れ」って〈矢走の帰帆〉の矢橋から大津まで行く旅人に、風で押し戻されるときもあるから陸路を行けということわざなんですってねぇ。納得です。
この十日前、近江八幡の水郷めぐりバスツアーにうかうか出かけ、こちらも存分たんのうした雀。野分で流れ込んだ泥水と静かな湖水がバイカラーのシトリンのような湖面に目を見張ったばかりで、三島めぐりのときは霽れて空が灰色から青色にかわるとともに湖面も瑠璃色を深めていくうつろいや湖水を渡る風、それぞれのかたちを見せる四方の山を波がつくる小さな虹の向こうにたのしみました。
近江八幡水郷めぐりのバスツアーでは城下町散策の時間もあり、雀は八幡商人の館を利用した資料館へ行ってみました。1棟は伴蒿溪の実家です。
廊下に何枚も色あせたモノクロの写真がかかっていたので目を寄せてみたら古い石塔の写真でした。近江の石文化ね、と、そのときはそのまま終わったのですが、あとから市の南に岩倉という地があり、日野の蔵王地区と並んで近江屈指の石の産地ということがわかりました。
岩倉地区といえば、かつて古い石庭をもつお寺を見に寄ったことがあります。
新幹線で参道が分断された篠田神社には古式花火の祭りが遺り、武佐宿はこのすぐ東。南は八日市市です。武佐は、石と古墳と古式花火の町だったということかしら。
澤の主。古代墳墓。火薬。かがみ、カガヤク目‥そんな古代の空気を感じていると新幹線が通って、まるでSF映画のデジャウ゛みたいでした。  湖雀

* さながら、わたしに代わって、わたしの行ってみたくて容易に行けないところへ、やすやすと出かけて行ってくれる。ありがたい「湖すずめ」。
2008 11・21 86

☆ 風、お元気ですか。  08.11.22 10:27 花
おはようございます。
今のところ、穏やかなお天気で、空もあおあお、上々です。
少し雪をかぶった目ぢかな富士山がきれい。
家の紅葉の、根元から三本生えた幹のうち一本の葉が、真っ赤に変わり、それを窓から眺めるのが、とても好きです。
さてさて、風、なにもなにも、無理は禁物です。お大事に。ではでは、お元気で。

* 朝夕におおきな富士が見えるというのが羨ましい。昨日妻と出かけ、西武線の練馬高野台から富士見台の途中で、好天に聳える富士を西空たかく繪のように遠望した。はっと胸の内が開け、声に出し喜んだ。
2008 11・22 86

* 有元毅さんに、広島の名酒「御前酒」二升を頂戴した。純米で、金賞の品評を得たとある。たしかに美味しい。酒に佳い季節になった。有元さんには戴くばかりで、有り難い。人づてに知ったが、ながく校長先生をなさっていたそうで、わたしよりお年かさに感じているが、政治むきの気持ちなどで、共感し合うところがあり、そういう知己はことに頼もしく心強い。
2008 11・23 86

* 「愁人知長夜」  「哲」様
美しい印影、無明長夜を眠れぬ哀しみも想います。
お手紙有難うございます。受勲なさいましたとか、自然の成り行きですね。
お孫さん達のこと。うらやましく、また心嬉しくも。同女と京女とは、ふたつながら私も縁がありました。私のかよった幼稚園は京女の付属でした。
今月末かと勘違いしていましたが、今週末に東京に見えますか。ということは、金曜夜の今時分はもう東京なのでしょうか。または明日から土日月と三連休を利していらっしゃいますか。お泊まりがどちらとも知れなくて残念ですが、この三日ともわたくし、お呼び出し下さればちょっとでもお目にかかりに街へ出向きます。浅草で気に入りの鮨などとふと思い、いやいやお魚嫌いの「哲」さんには失敗したなあと思い出したりします。
歌舞伎座は、昼の部の山城屋の「吉田屋」を楽しみました。「盟三五大切」は仁左衛門が好演していました。国立劇場はとにもかくにも高麗屋二代が江戸川乱歩に食いついていました。これも意欲。今日は俳優座の生真面目なホームドラマを観てきました。
家内と辛うじて体力的に倶に楽しめるのは、お芝居だけで、よく出かけています。愁いを忘れる玉箒。
幸便に拝眉の時あらば嬉しく、ごムリの折はどうぞ十分晩秋・初冬の東京をお楽しみになれますように。
メール、せいぜい手をのばして下さいまし。 では   秦 恒平

* 無明長夜 「哲」様
残念でした。私が、おいでは月末、まだ間があると勘違いしたのがいけませんでした。メールが遅すぎました。こうなると電話には電話の即決の便利があると思いますね。電話が苦手でメールに便利を得すぎているのが、片手落ちでした。残念。
メールを多用していますと、受信にもいつも対応できます、なにしろ朝から夜中まで機械と向き合える用意が出来ていますので。で、つい先方さんもそのように思いがちなのが勝手な思いこみで、一般には、そうでないのです。日が経ってからメールを読んだという連絡は多いです。
なにをしていても無明長夜の思い深く、今生を退散できるならそうしたい願いが濃い霧のように胸に籠もっています。自分の仕事のことは、昔も今も自分の願うように、したいように好きにしているので苦もないのです、が、婿と娘とからの居丈高に「謝罪と損害賠償」と銘打った裁判書類の標記を目にするだけで情けなく人心地を喪ってしまいます。そういう毎日の中で余命を繋いでいますので、私の日々は「エネルギッシュ」なのではありません、ジタバタがそう見えるだけです。ハハハ
お目にかかると、こういう顔を見せてしまうという懸念があります。「哲」さんを困惑させます。
来年は、うまくすると三月に金婚の日を迎え、師走には、よほどうまくいくと湖の本が百巻に成ります。どちらも達成といったモノでもコトでもなく、ただもう苦笑で迎えるだけです。ハハハと笑いましょうか。
冷えてきました。お大切にお過ごし下さいますよう。 秦 恒平
2008 11・24 86

* 嬉しいことがあった。「ぜひ文藝批評(作家論・作品論)をお書きなさい」と奨めてきた人の、予想をグンと飛び抜けた優れた評論作品が舞い込んだ。一読、これは「e-文藝館=湖(umi)」への掲載を急ぐまい、もっとしかるべき機会を他に求めた方がいいと思った。手伝えたら手伝ってあげたい。
小説には読み手によりどうしても向き不向きや好悪の判別がついてまわるが、評論は一読して図抜けたモノとつまらぬモノとが評価できる。文藝評論を歴史的にも多数読んできた、書いてきた体験からも、また行文の確かさからも出来は見て取れる。扱われている作家と作品にも親しく、納得も強い。高ぶることも気取ることもなく、落ち着いて書いている、読みこんでいるのが素晴らしかった。ちょっと敬服した。
2008 11・24 86

* 笠岡の竹喬記念美術館前から、有元毅さん御夫妻の和やかな写真が届いた。わたしより五つご年長と知った。

* 有元様  お揃いのお写真、きれいに受信しました。おもわず、ゆったりした気持ちになりお二方と対面の時を楽しみました。有難うございます。私は昭和十年、妻は十一年生まれの同窓です。共通の話題に恵まれ、ものの感じ方や意見にもお互い通りのいいよろしさがあります。支えられる日々に実感があります。
有元さん、名酒も、おいしく戴いております。酒は飲むもの、酒に逃げるということのないように心がけています。お礼申し上げます。
小野竹喬という方の繪が好きです。晩年へかけて画境をとても色佳く深められましたが、しかも精神はしっかりした線の画家でした。記念の美術館の出来ているのを嬉しく思っています。
ついついお国のこと、苛立ちに困じて忘れていようと諦めがちですが、こんな時にこそと眼を明け、弱りがちな心に鞭を当てて総理に憎まれ口も叩いています。
ますますお大切に、奥様も御ともどもお元気にお過ごし下さい。  秦 恒平
2008 11・24 86

☆ 更紗で夢見   珠
土曜日は動けなかった。持ち帰った仕事をしなくちゃ、出かける予定も、、けれど一日ソファでゴロゴロしてしまった。怠惰な一日。レースのカーテンの向こう、青く清んだ空は遠かった。
昨日は仕覆(しふく=茶入・茶碗など茶の湯の道具を包んだ袋類)の稽古へ。朝から持ち帰った仕事を一つ片付けて、安堵の気分。失せた集中力はなかなか戻らず、縫っていても欠伸がでる。目も霞み、針は指をつつく。何とか小さな品を仕上げてみたが、こんな稽古ではいけませぬ。。。
帰り際、師が手に入れられた「頼山陽」の軸を拝見。茶掛というより文人向けだが、品のある字に見とれてしまった。
今朝、空はすでに薄曇り。午後から雨の予報。降らないうちに戻りたくて、珍しく身支度も素早く家を出る。風がないので歩けば暖かい。約30分で五島美術館に到着。特別展「古渡り更紗ー江戸を染めたインドの華」へ。
有難いことに、日頃から師の収集される裂や仕覆で、古渡り更紗を手にとって拝見させて頂く機会がある。とても好きな裂。貴重さ故、道具の格からも私の道具に誂えることはなかなか無いだろうけど。。見るだけで嬉しい。あの裂、この裂、、と更紗のもつ穏やかな気配にやさしい気分になりながら、大事に手鑑(てかがみ)として伝えてきた手厚さに、貴重さだけでない愛しさを感じる。小さな、1cm 強ほどの裂を、丁寧に和紙に貼り込む作業。美しいものへのこだわり、そしてその裂の系統をも辿る探究心。知的な殿方たちのなせる業に今更ながら頭が下がる。
更紗には、草花や動物、鳥などを描いたものが多い。自然を写しこんだ手描きの裂の温かみに惹かれる心は古も同じなのだろう。武野紹鴎作の茶杓に添えられたその筒を包む裂。人に見せることのない裂だからこそ、選ぶ目に人を見る。黄色地に流れる藍の水流に散らした花模様。細身の茶杓に水の流れを見たのだろうか。それとも一片の笹の小舟を想ったのだろうか。。東インド会社の印が残る更紗は初めて。裂の長旅、歴史の旅、よく此処まで来たものだ。感謝。
たっぷり時間を過ごし、帰路に着くと雨が降り出してきた。思わず速足になる。途中一度上がり、そのうちに帰り着いた。その後はざんざん降り。。
今週は今年の正念場。厳しい仕事がたまっている。更紗の世界に心残したままではマズイだろう。最近スイッチの切替が下手になったようで、寝ていておかしな夢をみる。ま、どうせ見るなら更紗で作った白衣ならぬ更紗衣での仕事がしたいなぁ。ちょっと派手かもしれないけど。。

* 「珠」さんの日記が、近来、とてもよく書けていて。
五島美術館から案内も図録ももらっていて、更紗を見に行きたいなと思いつつ、つい遠さに脚が出なかったが、代わりに観てきてもらえた心地。先日「お宝鑑定団」でたくさんな更紗の端切れを大きな一面に美しく貼り込んだのを出された婦人があり、その心意気に深く感動した。
珍裂屋はわたしの育った町の近在に何軒もあり、茶の湯の仕覆や帛紗などでもいろいろに手に触れてきているなかでも、更紗はことに気を惹かれるモノだ。「珠」さんの日記はお稽古や茶の湯の体験を通していて、いわゆる知識の披瀝ではないところが、よく優しく胸に届く。こういう日記が、読んでいても楽しい。
手元の「更紗」特集など、そうなんだ「珠」さんにあげればどうだろう。五島美術館に一緒に行けていたら楽しかったろうな。
2008 11・24 86

☆ 湖東へ仲間達と一泊ツアーです。  泉 e-OLD
こだまと観光バス仕様の庶民旅行で疲れましたが、好天に恵まれ、歳甲斐もなくはしゃいで、充分楽しんできました。
西明寺、金剛輪寺、百済寺と琵琶湖からはやや離れて山中に。紅葉は極まり、これら古色蒼然のお寺へのお参りは最後かもと胸中に、長い階段や坂道を登り詰めました。
初めての長浜に泊まり、翌日は愛知の香嵐渓へ。
四千本あるらしい紅葉は美しく水面に映えていましたが、嵐山からの命名と聴き、むしろ、混雑騒然、すき焼きの匂いが鼻に付く神護寺抜きのシーズン中の高尾みたい、と思わせました。
紅葉の京都へはやや行く気が失せて、歳のせいか華やかな満開の桜ならまだまだ追いかけたい、と想うこの頃です。
それにしても京都はいつでもよう混んでますわ。ほなまた

* お元気ですね。
2008 11・24 86

☆ お元気ですか  鳶
昨日本を送りました。笠岡の展覧会(金谷朱尾子回顧展)の図録です。もしかしたら既に届いているかもしれないと思いますが・・。わたしは先週思い立って出かけました。
描かれた「慈子(あつこ)」の表情は石本正さん、あるいは文庫本『慈子』の表紙の森田曠平さん描く女の表情に似通っているようにも思えます。女の人の絵が訴えかけるものが分かるだけに、同性としては、いっささか、つらいものがありますが、彼女に更なる時間が与えられていたら・・と。
明日(海外へ)旅行に出発です。夜の便ですので京都に立ち寄って紅葉を楽しみます。

* 鳶はお元気ですか。いい土産話の成りますように。胸の扉をひらいて、楽しく旅が調いますように。心より満たされた旅のご無事を願います。からだ、壊さぬように無事で。 鴉

☆ ありがとう。 ローマの歴史は中公文庫モンタネッリ著ですか? あれにはカルタコなどの章ももちろんあり,テレビでご覧になったポンベイのことも。読書楽しまれますよう。。 鳶
2008 11・26 86

* 大事な声を伝えておこう、朝一番に読んだ。

☆ 軍用機で友好? 2008年11月27日23:18  maokat
在沖米海軍が「11月28日、沖縄の石垣空港を強襲用ヘリコプターが使用する」と、空港利用を沖縄県に「通知」してきた。「申請」でも「要請」でもない「通知」。日米地位協定を盾に民間施設も自由に使うという傲慢な態度だ。しかも、その目的が「市民交流、日米友好のため」とは噴飯ものだ。
石垣空港は、純然たる民間空港。付近に米軍の軍事施設もなく、今回の「通知」には、まったく合理性が認められない。住宅地の真っ只中にあるこの空港は、国内の地方空港のなかでは運行スケジュールが過密なことで知られており、滑走路も短いため、離着陸には高度な操縦テクニックが必要だ。加えて南国特有の天候の急変もあり、いつも危険と隣り合わせで運行している。過去には一度オーバーランの事故も起きた。そういう状況の民間空港へ「友好」と称し、イラクでも使われている強襲ヘリで乗り込んでくる米軍はいったい何様のつもりだろう。
平時でさえこういう感覚の組織が、有事の際、目の前を逃げ惑う民間人(他国人)に何をするか、想像に難くない。今すぐ、直ちに、沖縄から出て行ってもらいたい。さらに頭に来るのは、日本政府の対応だ。自国の領土で占領軍まがいの行為がまかり通っていることを、多分麻生総理は、知りもしないだろう。
同じ米軍は、北海道の矢臼別演習場(根室管内別海町など三町)で行っている実弾射撃訓練について、これまでの方針を突然転換し、今年から訓練を非公開とし、説明会も行わないと「通告」した。地元自治体は不信感をあらわにし、道知事が上京し防衛省などへ要請した結果、今日になって米軍は非公開通告を撤回した。
米軍にとって北海道は対ロシア、沖縄は対中国・北朝鮮の軍事上の重要地点だ。北の本務(軍事訓練)通告さえ撤回したのだから、南の本務外(自称友好)通知も是非撤回してほしい。矢臼別の撤回には、道知事の上京とあわせ、道選出国会議員の政治的圧力がものをいっている。残念ながら、日本政府に働きかける力=政治的圧力は、西高東低ならぬ北高南低。ここにも南北問題が存在している。
私は、なりゆきを注視している。

* 私たちも注目する。
2008 11・28 86

☆ よく降りました。   08.11.28 10.36  花
明け方、眠い耳に、ざあざあと大雨の音が聞こえてきました。
これから晴れてきそうです。
花は、先日インターネットで買った「マイクロファイバー毛布」と「マイクロファイバー敷きパッド」を使いたくてたまらないのですが、一度水に通してから、と思ってい、晴れるのを待っています。
この頃流通してきた「マイクロファイバー」なる繊維は、糸と糸のあいだに空気を溜め込むので、とても暖かいです。ソファの上用に、「マイクロファーバー電気敷きパッド」を購入したのですが、マイクロファイバーが体温を溜め込むのか、スイッチを入れなくても、ホカホカします。これで、病み付き。
早速、寝床用に、毛布と敷きパッドを注文しました。ネットで、飛ぶように売れています。きっと、暖かいのでしょう。暖かいだけでなく、肌触りがすべすべと柔らかく、たまらない!
風は、歯医者さんにおでかけでしょうか。
疲れると、歯、というか、歯ぐきが痛むのね。花も、ありますよ、そゆこと。対処法は、口腔内漱滌剤を使うことです。正しい使い方は、口に含んで数十秒クチュクチュするのだそうですが、花は、含んで一秒くらいで、オエッと出してしまいます(反射が強いのです)。そんな使い方でも、かなりラクになります。こちらも、おすすめです。
ではでは、あと少しの校正をがんばってください。
2008 11・28 86

☆ 新幹線「ひかり」号 2008年11月30日23:56  珠
緊張した週は、過ぎた。。ひと息つけるだろうか。つきたいなぁ。
慌しく過ぎた霜月をおくる、街路樹の紅い葉が降る。バラバラ、かさかさ音たてて。降りそそぐ。夕暮れ、空には閉じた目のような月。輝く一番星、葉の落ちた枝の合間に瞬く。風のちからを想う、晦日。
昨日、国立にいる祖母を訪ねた。年が明ければ96歳。。よくここまできた。
久しぶりの祖母は、叔母曰く私が来ると聞いて、甘えて、調子が悪くなってるようだと。ベッド゛の中。声をかけると笑って手を伸ばす。久しぶりだが、本人の訴えとは裏腹に顔色もよく元気そう。私にできるのは、ひたすらに聴くこと。蓼科の家で一人気ままに過ごした長い年月のせいか、叔父夫婦の世話になる今の生活は不満ばかりらしい。毎度のこと、愚痴のてんこ盛りを聞く。
デイケアにも出かけている。動けないはずはないがベッド゛から起つ気配のない祖母の横で、からだの不調と早く逝きたいという話の繰り返しを聴く。一時間半ほどすると、ようやく叔母の声かけを受けいれて、お三時をしようと、起きてテーブルへ歩く。足取りは以前より覚束ない。それでも小さな段差はゆっくりマイペースで越えてゆく。ケーキもお茶も美しく頂く。おしゃれな祖母は着てゆく服が同じものばかりだとデイケアへ行きたがらなかった。お嫁さん泣かせ、息子泣かせで意思のはっきりした祖母だったが、さすがにここにきて立場は変わりつつあるようだ。その分、、というのか、耳もあまり聞こえず目も翳むという状態のためか、時折違う自分だけの時間世界へ行ってしまう。
私の顔を、急に不思議な表情でまじまじと見て、「おまえさん誰かね?」と言う。私の名前を言うと「ほぅ、そうかぁ、、」と。そしてそんな会話は無かったかのように、直ぐに私に向かって話の続きを始める。
その後ベッド゛に横になって二時間近く、再び祖母はしゃべり続けた。少し寝たら、、などかけた私の言葉も、サラリとかわされた。ひたすらしゃべり続けたのは、私の小さな頃の、元気だった父と滋賀で過ごした日々のこと、そして父が亡くなるまでの出来事。
嬉しそうに目を細め、「びゅわーん、びゅわーん走る、白い光の超特急、、われ歌ったらぁ。。びゅわーん、びゅわーんってなぁぇ」
そう、その通りに家のすぐ近く、高架をゆく新幹線を見てよく歌った。父と私と祖母と出かけた琵琶湖へのドライヴ゛や、家を建てようとしたら父が病気になったこと、父の亡くなる時のことなど、、私の知らないことまで、笑って、泣いて、しゃべっていた。後で母に聞いて知る、本当のことばかり。
祖母の記憶には、初孫の私とでは、楽しかったこと、哀しかったことに大きなパンドラの箱があるのだろう。息子である父を喪った後の人生、祖母は、強くあるしかなかったろう。父がいたら、とは言わないが、祖母を喜ばせるようなこと、ちゃんと私はしてきたろうか。パンドララの箱を開けるような時間世界に生きる今となっては、もう、小さな私になって、祖母と一緒に「びゅわーんびゅわーん走る、、」と歌うだけ。
目を閉じれば今も見える、あの高架の上を、びゅわーんという音でゆく新幹線。
そして今日、着物を着ていると、テレビ゛から流れてくる「びゅわーん、びゅわーん走る、、」懐かしい歌声。あの新幹線「ひかり」は、今日が最期というニュース。
おばあちゃん、「びゅわーん」は夢の超特急に、本当になっちゃった。また一緒に歌って新幹線「ひかり」、想い出して笑おうね。

* 九十六歳か。秦の、育ての母を思う。新幹線ひかりの最期の日に結びが利いて、一文にシマリがついている。ウエブの文章にもこうして文藝の匂いのする述懐が増えてくる。

☆ サハラ砂漠の鳶
鴉、お元気ですか。ローマの遺跡からサハラへ。気候もほどよく寒くもなく楽しんでいます。鳶

* サハラ砂漠の鳶へ
大いによろしい。十分楽しんで。ただし何もかも用心して安全に。
鴉は歯を脹らしながら 九十七巻めを入稿へ漕ぎ着けました。
ローマの歴史が面白い。ローマ「帝国」は重苦しいが、「帝国以前」のローマは面白いなと前に世界史を読んだときから、妙に懐かしく感じていました。
金谷朱尾子の図録、感謝。いい画家だったんだ、とても力を感じました、ごまかしていない。そして励まされもしました。
ゆうべ、フランス革命真っ最中の公爵オルレアンと、英国人の貴夫人グレース・エリオットの映画を観ました。あのときのパリの街はどんなだったんだろうという想像をやや満たされ、興味深いものでした。
いま、横の機械で、「女優マルキーズ」を流しています。フランス語がいい「音楽」になります。コルネイユやラシーヌに愛された女優。ソフィ・マルソーが演じています。
今日は、作品に手を出します。師走になりました。お元気で。 鴉

* サハラ砂漠から携帯のメールが届くのかと、なんだか、考え込んでしまった。

* つい先日、「mixi」の「朝の一服」で、父の遺品の明珍の火箸をうたった一首を出しておいたら、北海道からコメントが来て、今度はまた昔の学生さんからもコメントが来た。コメントの出てきかたは話題によりいろいろになるが、いい気分になれる。

☆ 明珍(みょうちん)よよき音(ね)を聞けと火箸さげ父の鳴らしき老いてわが鳴らす   藤村 省三

初句は、「この火箸はモノがいいんだよ、明珍の作なんだよ」という直接話法。「明珍」は具足鍛冶師で、他に火箸や釻など茶道具の名品も製した作者の家名。金の含量が多めで、チリーンチリーンと佳い音色がする。今は亡い父の自慢の品で自慢のしぐさだったのを、いつとなく年老いて自分も、そっくり踏襲しているのだ、苦笑いの内にも、感慨深いものがある。作者のまぢかで自慢のしぐさに小首をかしげているのは、はたして子か、孫か。私も子供の頃に実はよく鳴らして遊んだ。「国民文学」昭和五〇年八月号から採った。

☆ コメント 2008年11月26日 17:42  麗
ご無沙汰しています。
実も義理もありがたいことに存命ですので、どんな品物で偲ぶことになるのか、と、ふと思われました。
明珍の墓所は、確か千駄木のあたりでしたね。近所のてんぷら屋「天安」の穴子天丼が我が家の好物でした。
東京暮らしの頃を思い出しました。まったく関係ない感想で相済みません。

* 湖(うみ) 2008年11月26日 21:29
明珍のお墓は知りませんでした。
穴子天丼とは堪りませんねえ、何を見当に行くと見つかりますかねえ、天ぷら屋さんは。
其処で聞くと明珍の菩提寺が分かりましょうか。
実の親御さん達も、義理の親御さんも健在ですか。お大事に。 秦 恒平

☆ 麗 2008年11月27日 15:17
文京区向丘2丁目 光源寺
明珍宗妙(五十八代目)
明珍宗胤(五十九代目)
明珍宗正(五十五代目)
明珍宗政(五十六代目)
以下より
http://www.kokohe.com/info01/art.html
天安
http://www.manabook.jp/aji03sp0320tenpura.htm
同じサイトの「天仲」や、両国駅前「天亀八」も好きでした。後者2階座敷で結納を交わしました。
またまた関係ない話題で失礼しました。もう,私の通っていた頃から、代も変わっているかと思われますが、いらっしゃったらご感想などお願いします。

*湖(うみ)  2008年11月27日 20:28
ありがたく。本郷の方へ足の向いたときに参りましょう。
最上徳内のお墓も近いように思いますね。お寺の多いところかと。
明珍がそんなに代を重ねていましたか。これも教わりました。
そちらとても寒いと。お大切に。

☆ 悠  2008年11月30日 23:44
以前,大学の講義(学生実験)の一環で、姫路の明珍さんに火箸づくりを教えに来ていただいたのを思い出しました.
大岡山の構内で、レンガで即席の火床をつくり、鉄の丸棒をあっためては鎚でたたく...なかなか思うように火箸の形にならず、大変な作業でした.明珍さんが目の前であっという間に作られたお手本に習い、同じ材料で我々が作ったのは...当然の音色(?)でした.

*湖(うみ)  2008年12月01日 09:29
へーえっ。
明珍ふうの火箸をつくりましたか。あの音色のほんとうの組成は何なんでしょう、金の含量だなどと勝手な理由を聞いていましたが。 なにが目的のなにがカンドコロの実験だったのか、興味が湧きます。
いま明珍家は姫路ですか。それも知りませんでした。
いろいろ興味深く拝見。
お元気で。坊やも。 湖

* 「麗」さんが結納を交わしたといわれる両国駅前の天麩羅店というのが、もしいま大江戸線両国駅を出た右斜め向かいぐらいの老舗店なら、わたしは、あそこの美術館へ出かけた機会に食べに入った気がする。桜の頃だったような。

 

* 栃木から、新米を十キロ頂戴した。久しい読者の一人からお洒落そうな紅茶のセットを戴いた。サハラから、砂漠と遠山との蒸気に揺れたような写真が来た。
近藤富枝さんから新刊『文士の着物』を戴いた。谷崎の見たことのない和服の写真、懐かしい松子夫人らの華やかな写真が出ている。漱石の珍しいのも。立原正秋さんの和服はすっきりしていた、いつも。一つには体型か。
2008 12・2 87

* やす香のお友達に心配かけてしまった。あやまります。

☆ 大丈夫でしょうか?  琳
こんばんは!
すっかり朝晩寒くなってまいりました。
私の小さなお庭の紫蘭やきぼうし達は、葉っぱを黄色から茶色に変えてきました。
冬が直ぐそこまで来ていますね。
お変わりございませんか?
と言うより、久々にブログ拝見して、ビックリ致しました!
おじい様 お顔に怪我、踏み台からの着地失敗、ただただビックリ、心配です!
家にあった、未使用のキップパロールというお薬お送りいたしました。
これも我が家の常備薬です。驚くほど早く、傷が塞がります。
私が小学校で怪我をし、保健室に行った時初めて出会った薬です。保健の先生が、このお薬は怪我が早く治るので、お家でも買いなさいと言って下さったお薬です。
お顔なので、お薬が合わないと心配ですが、合わなかったら何か別の時にでもお使い下さい。咄嗟にお送りしてしまいました。どうぞお大事になさって下さいませ。
お顔に傷なんて。。。そんな貫禄はいりませんので、いつものおじい様のお顔に戻って下さい。
私はいつものおじい様のお顔の方が好きです。
卒論、少しめどがたちました。
昨日未完成ながら、担当の先生に見て頂きアドバイスを頂戴しました。
もうひと頑張り、頑張ります!
終わったら。。。映画の研究です。。。
これからまたもうひと頑張りします。
ではでは、取り急ぎ。

* 恐縮。
2008 12・3 87

* 京都の、もう仙に近い陶人の、これまで戴いたのとはっきり作柄の替わった湯呑みと大口のぐい飲みとを、今朝、頂戴した。これまでは、ふわりと掌に軽い造りだった。こんどはしかと持ち重りして下に置くと根が生えたように存在感がある。釉薬の発色も落ち着いて深い。
2008 12・4 87

* 京都の、もう仙に近い陶人の、これまで戴いたのとはっきり作柄の替わった湯呑みと大口のぐい飲みとを、今朝、頂戴した。これまでは、ふわりと掌に軽い造りだった。こんどはしかと持ち重りして下に置くと根が生えたように存在感がある。釉薬の発色も落ち着いて深い。
2008 12・4 87

* 師走になりました。
maokat さん お忙しそうですが、初対面のこと、当日のご予定はどうでしょうか。
わたくしは、前夜すこしおそくまで他出しておりますけれど、当日昼以降なら町へ出かけて行けます。帝国ホテルのクラブルームをつかうことが可能です。昼間のクラブは飲食はごくかんたんなことしか出来ませんが、ゆっくり話せます。
五時半以降なら、そこそこ食事も出来、ゆっくり話せますので、私は、ふつう夕刻以降に馴染んでいます。あなたのスケジュールや此方へ見えてのいろんな御用も想いますので、あなたに合わせようと思います。
ご都合などお知らせ下さいますか。とりあえず要用のみ。  hatak

☆ 師走になりました。
楽しみにしております。前日東京農大で院生の口頭発表、審査会があります。夜は多分会食になり少し遅くなると思います。しかし、この日は一日予定を入れておりませんので、時間はどうとでもなります。夜も何もありませんのでご都合の良いお時間をご指定下さい。夜は横浜の宿へ帰りますので、日比谷からでしたら中目黒へ出ても渋谷へ出ても良く、助かります。
ご連絡お待ちしております。 maokat

* maokatさんとメールを往来しはじめたのは十年前の夏頃かららしい。「闇に言い置く 私語」を書き始めていたのだろう。爾来、しかしながらメール往来と作品の消息だけであった。その間に沖縄勤務から北海道勤務へ替わられ、ほかにも大学の先生も勤めるなど、様子はいろいろ変化したけれど会う機会はなかった。
とうとう私の方から会いましょうと。たいそうな気分ではなく、昨日さよならを言ってきた人に今日またこんにちわを云うほどに気安く会いたい。

☆ いま   花
テレビで「源氏絵」についてやっています。
外国にいくつもあるようですね。絵があると、文化の違う者にもわかりやすいと、フランスの女性研究者が言っています。
お元気ですか、風。
さてさて、(夫の里へ帰省の=)買い物など昨日済ませた花は、ゆっくりしています。
荷造りは明日にします。出かける頃に、降られるかも知れません。
パソコン部屋は、足先が冷えるので、モコモコしたスリッパを履くことにしました。
快適です。おすすめですよ。
ではでは。

* 毛革の、踝を包んでくれる軽い沓を、いまも履いている。温かい。
グノーシス文書には、歴然と父母神思想に触れたものが在るという。新井奥邃はこの今日的にも未来的にも展開と帰依の魅力を蔵した信仰を、何から、誰から得ていたのだろうと、興味の油然と湧き起こるのを覚える。
2008 12・4 87

☆ RE: いままで。  花
> 新井奥邃の父母神思想がどこに、誰に由来したかの不思議を考えながら、
風は、つぎつぎにいろんなことをお考えになるのね。それはきっと、風に根をはった幹の伸ばした枝々なのでしょうね。
お元気ですか、風。
窓の外は、雨が激しくなってきました。
実は、昨日、夫が体調を崩し、会社を早引けしてきました。
今日は大事な仕事があるとかで休めず、早めに帰るからと言って、普段より遅くでかけて行きました。
インフルエンザでないといいけれど。
今夜(夫の里へ)発つ予定は、厳しそうです。 明日の朝、様子を見て、発てるかどうか、といった微妙なところです。
さてさて、花は、普段より気合を入れて「イソジン」でうがいします。(いつも「イソジン」でうがいしているのです。咳がかなり軽減されましたよ。)韓国に、「イ・ソジン」という俳優さんのいるのをご存知? 有名なうがい薬と同じ名前なので、花は覚えました。
ではでは、風、人の多いところには、行かないで済ませられれば済ませ、行かなくてはならないときは、手を洗い、うがいを忘れずにね。花も気をつけます。
2008 12・5 87

* 湖の本表紙絵の城景都氏から、額に入った肉筆原画が送られてきた。表紙装幀の堤さんから例年の信州林檎を戴いた。
2008 12・6 87

* これには、嬉し泪。

☆ お豆腐騒動 2008年12月08日10:06   馨
我が家の近くには週に二回、夕方にお豆腐屋さんがお豆腐を売りに来ます。
昔懐かしいラッパの音がすると、娘と息子はすっ飛んで来て
「お豆腐屋さん来たよ!!」
「おとうちゅ、おとうちゅ!」
小銭を持って、お遣いに行くのが大好きな二人。
先週もいつもと同じように出かけて行ったのですが、雨が降っていて二歳児がたどたどしく傘をさして歩いていたら、どうやらお豆腐屋さんはいなくなってしまったよう。
「傘さすと歩くのが遅いんだから!」と、弟を怒りつつがっかりして帰って来た娘。
「雨の日は仕方ないのよ。また今度行ってね」と慰めたものの、怒りはおさまらないよう。
その怒りのとばっちりを受けて、目に涙を溜めて帰って来た息子。
その後、私が家中の戸締まりをして階下に下りてくると
「おとうちゅ、ないの?」と自責顔の息子のみがソファにいて、娘の姿は消えていました。
慌てて家中探しても、どこにもおらず、傘がないのに気づいて外に行くと、傘をさして家の前の街灯に下にしょんぼり立っている娘。
近づくとこちらも泣き顔。
どうやらお豆腐屋さんの帰り道を捕まえようとしていたようです。
今日は三番目クンの離乳食用にとってもほしいの、とやわらかいお豆腐を頼んでいたので、どうしても買わなきゃ、と思い詰めていた模様。
仕方がないので、近くのコンビニに絹ごし豆腐を買いに行かせることにしました。
真っ暗な中に子どもを一人で出すのは初めてな上、お遣いはお店の人の顔がわかる小売店にしか行かせてなかったので、コンビニに行かせるのも初めて。でも、この顛末に蹴りをつけるには仕方ない、という感じです。
娘には、余ったお金で好きなオヤツ買っていいよ、とこれまた初めての特別オマケもつけました。
置いていかれる弟は
「じてんしゃ? ダイジョブ?」と、玄関でお見送り。
「大丈夫だよ」と、本当は歩いて出かけるのに、弟に合わせて優しく返事する娘。
姉弟、ようやく和解しました。
ちょっと心配しながらお風呂掃除をしていると
「おかあさん、ただいま~」
朗らかに帰って来た娘の声で、あー機嫌が直ったなぁ、と背中で感じつつも、掃除し続けてると
「お金余ったからね、お母さんにチョコのオヤツ買ったよ。このまえおやつに食べちゃったから。S(弟)にはアンパンマングミ。お父さんにはビール飲むとき用にうまい棒」
あーら、お父さん、ビールにうまい棒、食べたことあったかしらん。でも、その気持ちが嬉しいヨ。
「うまい棒ね、3本買おうと思ったけど、3円足りなかったから2本なの」
算数もだいぶできるようになりました。
「十分、十分。ありがとう。で、あなたには何を買ったの。」
「ううん、何も」
「え、自分には買ってないの?」
「うん。みんなの分買ったら、もうお金あまらなかったし」

ありがとう。

お豆腐は、おみおつけと離乳食とになりました。
いつもと少し味の違うおみおつけ。
顛末を聞いた主人も
「おいしいね。」

* 「mixi」の日記も、いろいろ。

☆ 風、お元気ですか。
昨日遅くに帰宅しました。
インフルエンザではなかったようで、まだ体調がぐずついているものの、ほとんど快復しているみたいです。
花はうつされることなく、無事に過ごしています。元気にしています。
関西へ出かけた日はとても寒く、法事のあと、みんなで近くの温泉郷へ行ったのですが、雪が降っていました。
この冬はじめて見る雪に、ちょっと興奮、だって、東海は降らないんですもの。
温泉のお湯はアルカリ性で、お肌ツルツルになり、満足でした。
食事もおいしくてよかったです。
が、短い時間に何回も移動し、ちょっと疲れました。
今日は、英語のあと、空っぽの冷蔵庫を補充し、明日から崩れるはずの天候に備え、蒲団を干しました。
日に日に、寒くなってきます。
冬ですもの、当たり前ですよね。
沼正三さんが亡くなったのですね。
『家畜人ヤプー』を読んだことはないけれど、サブカルチャーの世界に確実に位置を占めている小説だと認識しています。
大きなおつとめが済んだので、ひとまず、年末まで落ち着けます。ではでは。 花。
2008 12・8 87

☆ 師走になりました。  ゆめ
お変わりなくお過ごしのことと存じます。
今年も早や暮れて、「鱒の寿司」の季節となりました。本日注文しましたので、1週間内外で到着するかと思われます。どうぞ北の味を召し上がってくださいませ。(先生ほど喜んでくださると私も嬉しいです。またくれぐれもお礼状のご心配はなしで・・)
アルプスの峰々、立山連峰はもうすっかり銀嶺になっているのだろうなあと、ときどき懐かしく父母の故郷を想っております。
来年度もいまの職場で働く予定になりました。サービス業ですから、たいして面白いこともないのですけれど、なにしろ自転車で10分とかからない場所ですし、またこんな時代ですから、続けられるときまで今少し続けようと考えています。
め先生もどうかよいお年をお迎えくださいね。 ゆ

* この人の下さる北陸の鱒鮨、それに墨烏賊の塩辛のとびきり美味さ、いつもビックリしてしまう。能登料理の「五万石」で、いちどこの人と食べたいと思うのだが。

* 広島の藤田理史君から会社の現状を知らせながら、ボーナスが出ましたと、旨そうな清酒が贈られてきた。感謝。
石川県の醸造元「萬歳楽」も暮れのごあいさつ。
折良く京都の漬け物も一樽。感謝感謝。

* やす香のお友達からは、頬の切り傷のための特効薬を頂戴した。幸いに、治っているそうである。
2008 12・8 87

☆ 合図    悠
先週一週間を私の実家で過ごした息子.日曜の昼にこちらに戻り,今日から保育園への通園を再開しました.
ちょっと風邪気味のようですが,元気一杯.久々の保育園で,お友達とすぐに仲良く絵本を読み始めました.一歳児同士でもなんだか会話が成立しているようでした.
夕方迎えにいくと,先生から「保育園での生活やルールを忘れてしまったようで,少し戸惑っていました.」とのこと.おもちゃを奪ってしまったりしていたようです.
まだ十分にお話が出来ない息子たちのクラスでは,おもちゃを貸してほしいとき,手を重ねてパンパンすると”貸して!”の合図になっているそうです.
これを実家でもやっていたようです.
実家で小型犬が息子の持っていたおせんべいを隙を見て取っていってしまった後,大泣きして,”貸してってやらないでとっていった!! おばあちゃん,ちゃんとワンちゃんに教えて!!!”といわんばかりに手をパンパンして,犬を指し,訴えていたそうです.犬には通じないよね....
私も息子との生活リズムに戻りバタバタ.
ご飯を食べず ”ねんね,ねんね” と連呼してタオルを抱いて寝いってしまいました.夜中に起きて”まんま”と言い出しそうです.
元の生活リズムに戻るまで,しばらくかかりそうです.

* 「馨」さんといい「悠」さんといい、なんとなく嫁に出した先から、孫たちのようすを知らせて貰っている心地で。感謝。
2008 12・8 87

☆ 今年の紅葉は   ゆめ
いつもの年より、鮮やかですね!
昨年の今頃はぎっくり腰になり、その後もしばらく腰痛が続いたので散々でしたけれど、今年はげんきにやっております。
仕事以外で続いているものといえば、朗読のワークショップ(こもれびホールの企画で先生は現役の声優さんです)、英会話(NHK3で週一回)、それと「糠味噌」でしょうか(笑)
旧約聖書は長い休憩中。世界のはじめての物語をクリスマスも近いことですし、また読みはじめようと思います。中高生時代にはバイブルの時間もあったので、一通りやった(はず)でしたけど、もうあらかた忘れました。アダム、イブ、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、ダビデ、ソロモン、そしてキリスト誕生から現代へと滔々と流れるこの大河、本当に興味深い挿話がたくさんありますね。そうそう「イスラエル」という言葉が初めて出てくるのはヤコブの時代でした。
太宰治の作品に『恥』というのがありますね(世間知らずの若い女が貧しいなりでいきなり作家を訪ねてしまうという・・・)あの作品、一度朗読してみたいなと思っているのです。その冒頭にサムエル後書の「タマル」の話がありました。

☆ 風、お元気ですか。
さてさて、花の息抜きは、よく考えられた住宅の間取りやインテリアを眺めることです。
好みの家具や雑貨の置かれた部屋の写真を見ると、興奮します。呼吸がハアハアなります。インターネットにもいろいろ写真が載っているので、ときどき訪問しては、眺め飽きません。
「第四階級の文學」は、以前に、ペン電子文藝館で読みましたよ。こういう時代があったのだなあ、と、想いました。
『蒼氓』と『三等船客』も、よく記憶に残っています。『蒼氓』は部分収録だったので、つづきが読みたいなあ、と、思いながら、果たせずにいます。
夜になると、字を書く手が震えることがあります。
単に空腹のせいと考えていたのですが、低血糖の症状なのだとネットに書いてあり、そうだったのか、と驚き、確かに花は、甘いお菓子をあまり食べないことに思い当たりました。
これからは、三時のおやつに甘いものを摂ろうと思います。ではでは。
2008 12・9 87

* 滋賀県の読者から、わたしの生母に関して調べた「一文」を下さった。初めて知る新事実は少なく、まだまだあまりに曖昧なところ多く、はっきり間違っている記載もあった。一人の人物の輪郭を辿るのは、こういうことは、実に難しく根気が要るものである。しかも一つの間違いや曖昧が連鎖して、関係者に響いて行く。感謝して、しかし公表などは慎重に願いますと返信。

* もうお一人未知の人から、よくは知らない画家に関した一文が届いた。読んでみようと思う。

* 凄いようにザザ降りの音がする。あれやこれやしているうちに一日が過ぎて行く。
2008 12・9 87

また一つ階段を上るのか降りるのか知ったことかの吾が吾亦紅(われもこう)  湖

* 師走も半ばになりました。お変わり有りませんか。
秋ぐちに四国からはるばる頂戴したあの吾亦紅が、まだ二十顆、ぱっちりと元気なんです。水もよく吸い上げています。吾亦紅を三つ四つは風情で愛したことありますが、二十顆も細い細い枝に留まってみんなパチッと空間に位置をしめている星座のような美しさは、すこぶる心ゆくみもので、新発見でした。朝に昼に夕に眺め、今も数を一つ一つ確かめて、励まされる思いで愛しています。
それだけのことを申したくて。
今日は、プロポーズして満五十一年目なんです。生きています。
あなたもお元気で。 湖
2008 12・10 87

* いま、「悠」さんに纏めてもらった、今年一月半ばからの「mixi」日記を、一日のこらず全部読み返している。間違いがないかと読み返すこういう作業はややシンドイものだが、この人の育児日記は、読み返しているそれ自体が不思議に嬉しくて、つい他の仕事がとまってしまうほど。やっと「三月」に入ったところ。
読んでいて感心するのは、このお母さんの表現の簡潔で要を得ているところ。そのために一種懐かしい音楽の聞こえてくる文章になっていること。むだにぞろぞろ書いていない。物書きの鑑のよう。このお母さんがとても忙しい理系の研究者であること、そして人柄の行き届いて優しいことがかかわっていると思う。一番に感じるのは清潔な文体から来る気稟の清質。ラコニックにちかいのである。

* 志賀直哉の文体を特徴づけて、「ラコニック」という。ラコニア即ちスパルタの別名に拠っている。いわゆるスパルタ教育の厳しさと直哉とに関係はないが、その文章の削ぎ落とすべきは徹して削ぎ落とした、文飾のない簡素・簡朴の極みのような表現を「ラコニック」と評するのである。バッハの無伴奏曲のような印象か。無類の音楽美。
これを悟ることが、文学に志す者の、第一のとは言うまいむしろ究極の門であろう。そして不思議にも対蹠の感をもちやすい谷崎文学の流暢な音楽も、漱石文学中期以降の簡潔な音楽も、それぞれにラコニックの空気を擁している。優れた文章はみなそうなのである。
2008 12・10 87

☆ 五條   湖雀(うみすずめ)
西吉野村と大塔村を編入し、南朝や天誅組の史蹟のかなりをかかえることになった、奈良県五條市。紅葉狩をしながらの五條歴史遊覧は、大和高田でJR和歌山線に乗り換えての往路に、吉野口で近鉄に乗り換え橿原神宮前駅に出名張へ帰る復路をとっての、
日帰り“鉄ちゃん”旅でもありました。市立文化博物館主催のツアー参加は、50人。
12の式内社と歌枕に始まり、和田の堀家住居、松倉重政が築いた城下町のうち新町村とそこに遺る町屋、五條代官所跡、俳人藤岡玉骨邸と盛り沢山。内の大野からの眺望、五新線の遺構の見物もありまして、帰ってから情報の整理と復習に苦心しました。
賀名生(あのお)行宮(あんぐう)は非公開のため、隣に市が駐車場と資料館を造成して堀家から提供された資料や物品を展示し、集会やイベントに使える建物も隣に建てていました。
堀家の裏山には北畠親房墓といわれる五輪塔があって、すぐ近くには高校の分校があったそうですが4年前廃校となり、更地になった分校のグラウンドに、墓所の紅葉が散ります。墓所には銀杏と紅葉の大木が目にしむ見頃を見せ、快晴の空に映えました。
さらに堀家ご当主のご好意により、屋敷内で直に解説をしていただいたのですから盛り上がったことといったらありません。
式内社は、① 一族の神 ② 水、雨、丹生、雷、火の神 ③ 葛城の高天山系の神と3つに分けてくださったのでわかりやすく、二見氏は隼人の支流と教わったことも助かりました。
賀美、那珂、資母の郷は、カミ、ナカ、シモ。宇智と阿陀の郷は、ウチとアダ。これは内と敵かしら、とすると、二つの大野は狩猟地と漁猟地の違いだけではないようですね。
そして「海のない大和国だから紀伊国への憧れが強く、大和から紀伊に入った感慨はここを詠んだ歌の多いことからうかがえる」と橋本市のパンフに書かれた真土山は、吉野川と紀ノ川の、柿と蜜柑の、大和国と紀伊国の、いちばんは畿内と畿外の境界、境部、阪合部‥なるほど。
さらに大荒木の浮田の森です。
五條は寺院の瓦の生産地とのことで、五條駅の改札を出ると須恵と書かれた住所表記に迎えられますが、荒坂窯は浮田・荒木田の粘土を使った窯なのでしょうか。
これは聯想が伊賀の荒木に飛びます。又右衛門の生誕地、荒木です。
伊賀市府中の御墓山古墳から伊賀一ノ宮、荒木地区、伊賀国分寺、久米川、遊部を出した比自岐地区、領主谷川(陵守谷?)、水の祭祀遺跡城之越、別府地区、青山地区、丹波の姫君を母として穴太部の祖となった息速別命が住んだという阿保まで、陵墓関連の地が南北につながっていることに膝を打ちました。
また桜井のフリーペーパーが葛城に取材した連載を始め、それを読みかじっていたことも役に立ちました。
明日香村もそうですが、御所(ごせ)市にも、風景を守る運動があるそうで、記事をきっかけにして高天山~北山~神福山の山麓と、葛城氏、鴨氏、役小角について、また稲作について頭を突っ込んでいます。 湖雀

* 目をみはる勉強。教籍にあった人でも何でもない一主婦さんだが、この人が近畿一円の歴史を探って歩き回る視線の深さは、素人離れがしていて、ロマンへの愛に溢れている。
つづく一文にも新鮮な視覚があり、びっくりした。

☆ 金魚と吉保、伊賀焼と順慶    湖雀
大和郡山、尾張国海部郡弥富、江戸川‥どこも金魚の名産地ですが、これは郡山から江戸へ金魚の行商がされて、弥富を金魚の休息地としたからとききました。
柳沢吉保の死から10年、子の吉里が38才になり、信鴻が生まれた1724年。甲斐国甲府藩から大和国郡山藩に転封され、金魚も一緒に郡山にきたのがルーツといわれています。
一方伊賀焼は筒井順慶の嗣養子(甥)がルーツなンですね。
順慶はお家再興のため光秀をたのんで信長に近付き、光秀の子息や信長の息女をもらっていて、男子は養子にして女子は甥の小泉四郎に与えています。 1584年の小牧・長久手の戦の最中に郡山城で順慶が病没し、小泉四郎が筒井定次と改名して後を継ぎましたが、1585年、小牧・長久手戦の国替により筒井家は伊賀へ減転封。代わりに羽柴秀長が入城し、その150年後、柳沢吉里が甲斐国甲府藩から転封されてきたのです。
伊賀に入った24才の若き藩主筒井定次は、伊賀上野に城を築き道を付け替えて城下町を作ります。1592年、朝鮮出兵に参陣した定次(31才)は長崎で受洗。
このとき初代長崎奉行だったのが唐津城主の寺澤広高(30才)。そして名護屋には古田重然(50才)が参陣していました。織部焼、伊賀焼、唐津焼‥朝鮮の技法そのままでない、漢字からひらがなをつくったくらいの発明をした此の三家が悲劇的な滅亡をしていること、また、松倉重政が筒井定次の臣だったことにおどろいています。
先月16日に五條市で松倉重政公をたたえるイベントが開催されていたようでポスターがあちこちに残っていました。また顕彰碑があって、松倉重政は定次の臣だったことにびっくり。1608年に1万石で大和国五條に入封というのは主君が改易されたからなんです。そして紀ノ川を臨む二見村に城を築き水運を占有、道を付け替えて城下町をつくり経済を発展させました。
さて寺澤広高は戦功により1601年に肥後天草4万石を加えられ12万石となります。
翌1602年長崎奉行退任。長男、次男と産まれ、大坂夏の陣には摂津まで赴きました。
この1615年ですが秀頼に通じたかどで3月に定次が嫡子とともに賜死し、6月には古田織部が切腹しています。
寺澤志摩守広高は1633年に71才で歿し、長男が早世していたため1609生の次男堅高(25才)が後嗣となります。
島原・天草の乱のとき、島原は1630年に没した松倉重政を嗣いだ藩主で、天草は1633年に没した寺澤広高を嗣いだ藩主だったのですねぇ。
天草領は収公となり、寺澤堅高は出仕停止処分となります。1647年、堅高切腹(39才)、寺澤絶家。藤堂高虎が伊賀焼を再興したものの、やめてずいぶんたっていました。
今度、三窯の焼物を目にしたなら、感慨が違いますわ、哀悼哀惜の気持ちになりますでしょう。 湖雀

* とても面白いところを観ている。元気な昔なら、長編一本の歴史随想を書いて唐津、伊賀、織部に一掬の泪をそそいだかもしれない。
弥富の金魚が、柳沢国替え道中の中継小憩地であったとも、はじめて教えられた。

* 宛先に、undisclosed recipients:  件名ナシ、本文も全くナシ、そして発信者は むちゃくちゃにいろいろな不規則極まるアルファベットで10字ほどと、@msn.com @nifty.com その他いろいろで、連日のようにメールが届く。
事実はメールと謂えない、メールの抜け殻である。
これは、何なのでしょう、お分かりの人教えて下さい。宛名が複数になっている。むろん削除するしかない。奇妙にも是は「SPAM」指定されてこない。もう記憶の限りでも半年かそれ以上になる。記録しておく。
2008 12・10 87

* きのう、重ねて藤田理史くんの選んでくれた名酒二種を頂戴した。彼は新潟の出身、酒どころ。勤務地の広島も酒どころ。かなり、やるのかなあ。
遠からず家庭をもつことだろう。少年の昔は馬が好きだったし、九大の学生時代はバイクをとばしていた。いずれは内実に蓄えて醗酵させているであろう「表現」の酵母が、香りたつようにと見守りたい。
2008 12・11 87

* 晴れて、冷えている。冬。
「ゆめ」さん厚意の、鱒寿司に黒造り添えて到来、「一の蔵」のとびきりも。暮れであるなあ。十六日に歯医者通いが決まっているが。ほかは七十三になる誕生日だけ
2008 12・12 87

☆ お元気ですか、風。  花
いいお天気ですね。
図書館で洋書ペーパーバックの『PRIDE AND PREJUDICE』を捲ってみたら、読めそうだったので、アマゾン書店に注文したら、丸一日経ずして届きました。
『PRIDE AND PREJUDICE』でエリザベスを愛する、ダーシーの側からの話を、ジェーン・オースティンでない女性が書いたという、『Darcy’s Story』も注文しました。
エリザベスの視点で描かれた『PRIDE AND PREJUDICE』では深く描かれていないダーシーの、「いかにしてエリザベスの謙虚で熱心な求婚者に変わりえたか」、を描いているそう。
誰もが知りたかった、ダーシーの内面で起こったロマンティックな事件を、ジェーン・オースティンが降りてきたかというほどの筆致で書いているのだそうで、買って読んだ人の評価はどれも絶賛。
期待大です。
ほかにも、北欧インテリアの写真集を買いました。
いちばん欲しかったのは、スターンの『トリストラム・シャンディの生涯と意見』の原書だったのですが、ペーパーバックが安すぎて、送料無料になる千五百円に達しないので、『PRIDE AND PREJUDICE』も一緒に、と思い、それでも千五百円にならなくて、じゃ、これも、あれも、となりました。
千五百円なんて、すっかりオーバーしましたが、ま、いっか。
2008 12・12 87

* 電車の往き帰りにかなり校正をはかどにらせた。余儀なく電車の中は書斎になる。銀座で地下鉄を降り、地下廊を日比谷へ向かう途中に喫茶ルームがあり、そこでも三十分以上校正できた。あそこは時間の調整と仕事に好都合。帰りも、保谷駅までずうっと校正、校正。

* 帝国ホテルで、初対面の、久しい読者と会った。クラブに入り、「伊勢長」の弁当で、歓談三時間。あいにくお客さんは下戸。わたしは、ホステスがあとで心配してくれたほどブランデーを呑んだ。心配するぐらいなら途中でして欲しいナ。

* 会った一の目的、選んでおいた茶道具の三種、絵軸、香合、盆を謹呈したかった。活かして欲しい。いい人の手に収まったと思う。
絵は、細い長い瀟洒な軸で、上から下へずうーっと余白の、裾に二疋の「鈴虫」を早い筆で描いた墨画。風情満点、天地に虫の音の聞こえる余韻の作で、待合掛けの逸品。叔母も愛し、わたしも愛して、よく使った遺愛、自慢の品だ。「秋石」という、幕末から明治の、茶の世界では名の知れた、風情と練達の画人の秀作。
香合は、高野槇で彫った素木肌の「蓮華の莟」。清潔の二字をかたちにしたようなふっくらと清々しい作で、裏千家先々代家元、淡々斎の好み物、箱書がある。「千家到来」と書留がある、なにかの機に配り物にされた「員のもの」か知れぬが、きれいに莟に彫ってある。
盆は、秀吉の昔の渡来人家系、「飛来(ひき)一閑」何代目かの伝来の作で、飛来家は、紙を器胎に漆がけした、まことに快い軽みの道具を家の藝に創ってきた。朱塗五角盆、は干菓子器としても茶入等の飾り盆としても趣味豊かな逸品。
この三つを、手近なところから選んでおいた。茶の湯執心出精の人に活かして欲しいと願ったのである。
道具屋はうるさいほど買いに来るが、売ろうとはなかなか思えない。それより茶の湯びとに活かして欲しい。ただ困るのは、この世間の人たちが、「他流の道具」は使わないという偏見の持ち主であること。なんというバカげたことかと思う。今日ホテルまで来て貰った北海道の人は、表千家流で多年稽古しており、あるいは淡々斎の好み物で箱書の香合など、使い道がないなどいうのでは残念だと思う。聡く活かしてくれると思う。

* 茶の湯は何十年「お稽古」してきたからといって、じつは役に立たない。稽古は稽古、茶の湯ではない。茶の湯の人は真実自由人でなければならないが、お茶を「稽古している」と、逆にこの精神の自由を根こそぎ奪われてしまうことが通常なのである。その辺がじつに難しく残念で、困惑もする。

* 「伊勢長」は、前日歌舞伎座「吉兆」と較べてもまずまずの献立と器とで、酒肴としては及第だったが、お酒のいけないお客さんには腹に満ちたろうか。
もっとも話題はたっぷりあった。
一昨日にこの人、近郊住まいの母上と歌舞伎座の夜の部を観ていた。わたしたちの一日前であった。「名鷹誉石切」「高坏」「籠釣瓶花街酔醒」だから、昼の部より平均点は高い。
話題は、籠釣瓶の切れ味と八つ橋凄絶の愛想づかし、この大人しい人にはいささか刺激的過ぎたらしく、師走の大切り打ち出しに、あんな怖い芝居でいいのですかと聞かれた。季節も違うし、と。もっとも昼のきりの「佐倉宗吾」の大雪のあとで歌舞伎座から夜分の木挽町に出されるのも寒い。
「籠釣瓶」は人によっておしまいの、「籠釣瓶‥‥は、斬れる」のあとで憎い間夫繁山栄之丞を斬り殺すまで、多いときは手当たり次第に惨殺するのだが、高麗屋は、きれいに「八つ橋」と女中一人とだけで幕にした。よほど後味は綺麗で好かったのである。

* そして話題は茶の湯のことが沢山あった。
指折り数えると、メールよりもっと以前からの「湖の本」のながいお付き合いである。「私語」にも心止めてよく目を向けていて貰うので、話題に滞りがなかった。有り難かった。

* それにしても、ヘネシーがうまく、かなりすこし過ごした感はある。
2008 12・12 87

☆ よかった。 ゆめ
(鱒・黒づくり) ごゆっくり召し上がってくださいませ。でもそればかりですと、コレステロール値がぐっとアップしそうですから、野菜もご一緒にどうぞ。
今日は郷里の老母に年越しのお菓子を送ろうと、デパートに出かけました。ついでに京・一保堂のほうじ茶や、新潟の鮭茶漬け、好きな和菓子と買い込み、ついでにブラウスまで衝動買いしてしまいました! 楽しい一日でした。
2008 12・13 87

☆ 信楽、飛鳥、天王寺
「十便十宜図」が出陳されるのを待ちかねて、とはいっても都合がついて出かけたのは20日も経ってからで、信楽の紅葉がこちら(名張)とは比べものにならないくらい冴えて美しく、道中の目を奪いました。
浦上玉堂「凍雲篩雪図」と富岡鉄斎「蝦夷人図屏風」の展示最終日に当たったMIHOMUSEUM「川端康成と安田靫彦展」は、内容が多岐にわたり盛り沢山で飽きなかったです。
ですが行くたび混雑が増してマイリマス。佐川美術館もそうですが、金属に爪をたてるような感覚を受ける空間で、しっとり地味なところが感じられないので、雀はどうも苦手な場所です。
その夜、「日曜美術館」の再放送を見ていましたら、同展示が“今週のギャラリー”で紹介され、さらには行こうと決めていた万葉文化館「生誕100年田中一村の100点」展が取り上げられていたので、うむむと唸りました。ますます混んでしまう。
雀は奄美の繪は好きではなく、彼の変遷がわかる展示というのにひかれて、一度行ったきりの万葉文化館をもう一度見ることも楽しみにしていたので、翌週、びくびくして出かけました。
やはりかなりの混雑です。展示室もともかく、売店は人だかりがしていました。
9才で鉄斎ばりの南画を描き、漢詩や署名の手跡もいっちょまえなのに息をのみます。鉄斎は一村が美大受験勉強の追込みに入ったときに亡くなっているのですね。
そして彼の絵から漢詩が消え、干支を入れた署名が消え、南画を離れてさまざまな画を実験している時代にうつったとき、どこかで見たようなと首をかしげる色つかいを見つけました。川端龍子です。
鉄斎が歿した5年後の1929に「青龍社」を創立していて、このとき一村は22才だったのですねぇ。
母を喪い、弟二人と妹を喪い、父を喪い、姉に遠慮して生涯独身を貫いた一村。
旅に出たことに勝手な想像をしたりしながら見ていくうちに、奄美の一村という第一印象がずいぶん変わりました。  湖雀

* 「うみすずめ」の囀りは楽しい。ことに田中一村への短い言葉での伝記的な紹介の中に、この画家を「芯」でつかんだ把握がある。玉堂や鐵斎の作の題のさりげない提供にもゆるぎない名作への視線が伸びている。どちらかというと病弱であるこの人の、この動いて出逢う精神力と価値観とには敬服する。
ぐだぐだといやみな愚痴をたいそうにならべて平気な人たちのメールも、じつは、わたしは幾らも受け取らねばならないが、むろんそんなねじけたものは右から左に捨て去っている。

☆ 三井寺展
新羅明神坐像だけ見たらそれでいいと思って行った大阪市立博物館「三井寺展」は、案の定ものすごい人込みで、ヘタヘタのカラカラになってしまいました。
仏像と障壁画は展示の後半でしたから、たいていの人はエネルギーを使ってしまって空気が淡く、人いきれもなくて、さらには仏像好きの人もいることで同士の無言の思いやりでゆうっくり見られてよかったです。
西国三十三所の観音堂本尊〈如意輪観音〉。微妙寺本尊〈十一面観音〉。近松寺本尊〈千手観音〉。それとどこだったかしら、千手観音が出ていて、雀はこれだけで充分。
新羅蕃神堂といっていませんでしたかしら。あの建物があるあたりの空気を思い出して新羅明神像を見あげました。坐像に加え画が二幅出ていて、肥満体の男性坐像で口を開けた憤怒の表情がなんともエキセントリックでした。
白髭明神に天智勅旨の“比良”明神と神号がついているのを、雀は単に比良山の神だからと思っていたのですが、白髭は新羅の訛で、ヒラやシラがつく神にシラギを疑っていいらしいとわかり、へぇっと驚きました。
白い髭を生やした老人で、ここで生まれたとは言わないけれどここに長いこと住んでいると名乗り、釣りをしている老人。
筑紫国の白日別はシラギではないか、白山神社があるところの川の名がむかし比楽川と記録されていることから白山比売神の別名ククリ媛は高句麗の訛じゃないか、枚聞(ヒラサキ)神が航海・漁業の神というのもシラギからの名か、など、ヨモツヒラサカのヒラとシラギのシラが、にこいちになるかしらと考えが入りこんでしまいました。  湖雀

* この「シラ」「ヒラ」問題もコトが大きいのである。直ちに新羅へ結べるかどうか何とも言えないが、わたしは、あの新羅攻めの神功皇后伝説に出てくる醜悪な海神「磯良」のことを、いつもここで思い出す。
上田秋成もこれを「いそら」と訓んでいたが、わたしは「シラ」であろうと半ば確信している。そこから日本中にあらわれる「しら」山や「しら」浜などの意味を想うのである。「白」という字がたんに純白潔白という以外の、或るオソロシサを秘め持つであろうことを「白神」「白姫」などの名乗りに想うのである。
三井寺下の新羅明神はわたしの小説『秘色(ひそく)』をしめくくる秘所であった。懐かしい
2008 12・13 87

☆ 博士学位請求論文公開発表会 2008年12月13日12:14
ほぼ一年ぶりに自宅で目を覚ます。白湯一杯で家を出、麹町のクリニックへ。採血後、汗をかきつつカレーを食べ、半蔵門・東急線で用賀へ。浅煎り珈琲の美味しい店でしばし書きかけの論文に手を入れる。用賀駅前からバスで大学へ。就職の決まった修士院生とミャンマーのウイルスについて、意見交換。今年夏のトルコの国際学会で台湾の研究グループが興味ある発表をしていたので、その検証試験をしているとのこと。台湾中興大学の黄先生とは不思議なご縁で、数年前ニューヨーク州のジェネバから国境を越えカナダのケベックまで旅行をした。その先生の最新発表を講座の学生が検証している。

博士課程の学生の口頭発表が始まる。きっちり40分で終了。学科の教授との間で質疑応答。彼の発表内容は自然科学の病理学だが、興味深いことに社会科学系の教員から多くの質問が出ていた。研究成果の社会に与えるインパクトや、防疫など経済システムにどう結びつくかという質問は意義深い。自然科学系の研究者からはなかなかこういう質問は出てこない。
口頭発表が無事終わり、後は審査した論文へコメントをつけ、来年一月の教授会で学位授与が決まる。まずは順調に進んでいる。学生君と一緒に食事をし、バスで元来た道を用賀に戻り、東急線たまプラーザで下車。バスに乗り継ぎ、自宅へ戻る。珍しく甥が遊びに来ていて、夜遅くまで話してから就寝。  maokat

* クリアな行文、こういう簡潔の美にいまのわたしはつい心惹かれる。若いといっても立派に壮年のよくコントロールされた生活がここに浮かび上がっている。くだくだしくならないと言うことの大切さを想う。
2008 12・13 87

* 「mixi」に連載の「悠」さんの長男君との日々を、「e-文藝館=湖(umi)」随感随想にもらい受けた。すべて読み返してみた。小さかった昔の娘や息子を夫婦して一心に育てた日々が懐かしくなる。この日記、保育の専門家「波」さんの感想を得たいもの。
2008 12・15 87

☆ 今年の年末年始は、熊本へ出かける予定です。古稀の母が、動けるうちにあちこち行きたいというので、お互いに行ったことのない熊本を訪れることにしました。
お酒が過ぎる、、はよくありませんが、美味しいお酒を少し、、は誰しも思うもの。熊本のお酒をお送りしてしまうかもしれませんけれど、どうぞ、ほどほどに、願いますね。
私は、若い頃ほどには飲めなくなりましたが、お酒、好きです。
使う機会は少ないのに、気に入りのぐい飲みは、酒豪かと思うほどいくつもありまして。
そのうち、一献。持参のぐい飲みを育てるようなお酒をご一緒できると嬉しいです。
冷えてくると、温まりたくて、知らぬうちに飲みすぎてしまうようです。
どうぞ温かくありますように。
寒い季節は思考が暗くなりがちに思え、ここのとろこmixiに距離をおいています。
心にある「暗」を字にしたり、言葉にすると、どうもどんどんそちらに引っ張られるようで。。つかずはなれず、、でいこうと思います。
ご心配をおかけして、申し訳なく。そして、心配してくださる方の在ることに、心からの感謝を。
お大事に。湖。
いつか、お逢いできる日を、たのしみに。   珠

* 熊本というと思い出す。
京都発、(鹿児島)指宿行、「各駅」停車というのへ京都で乗り込んだ。文字通り各駅停車。いまでもそんなダイアは組まれているだろうか。
初めのうちは楽しかった、四人がけ向かい合いの座席が、くるくるといろんな乗客の交替で彩られる。話題も言葉も変わって行く。
しかしまあ、時間のかかること、かかること、しかも永い永い「停車」がある。
下関まで来て、これでまだあの大きな九州を縦に各駅停まって指宿までかと、そろそろ発狂しそう。もう二昼夜にちかい間一つの座席に坐っているのだもの、尻は鉄板のように硬くなって痛む。ウーん、それでも…と、熊本駅まで頑張って、そこで腰の蝶番もさび付き、ガマンしきれず、よろよろと魔の列車からこぼれ落ちてしまった。初志不貫徹。
むろん熊本市の何一つも予備知識がない、いやいや、加藤清正の熊本城があるはずと思うまに目についたのは、駅構内のポスターの一枚、「水前寺公園」だ。歌手の水前寺清子がデビューしていたのだろう。よし水前寺公園へ行こうと決めた。
入り口の前まで行った。するとそこに銭湯があいていた。お風呂やないか。公園よりも湯に漬かりたくなった。
湯に漬かっていると、なんだか無性に京都へ帰りたくなった。
公園に背を向けて、一散に熊本駅に戻ると目の前に「京都行き急行」が来る。それっと飛び乗った。

* その後、平凡社の仕事で、九州中の窯場をタクシーで何日も駆けめぐったとき、熊本城の天守にも登った。
2008 12・17 87

* 「徹子の部屋」で、高麗屋の女房・藤間紀子さんのインタビューを聴いた。初めてどこか劇場のロビーで口を利いていらい、何年になるだろう、わが家ではもっとも心親しい人の一人で、外づきあいの少ない妻には気の置けない気持ちのいいお知り合いになっている。歌舞伎座などへゆく嬉しい気のハリのひとつに、この奥さんの笑顔と気軽な立ち話の楽しみがある。
この人を通して、幸四郎の舞台にも染五郎にも松本紀保や松たか子の舞台にも心おきなくわれわれは親しんでいる。いつもホントウにいい席を用意して貰っている。
いいインタビューだった。東大寺での千回勧進帳にもほんとに行ってみたかった。
幸四郎、染五郎、齋三代の連獅子など観られるまで、われわれ二人とも元気でいたいモノだ、待ち遠しい。
一月早々には松たか子と宮澤りえが競演の野田秀樹の芝居があり、幸四郎が座頭の工藤祐経をつとめる「壽曽我対面」もある。二月には松本紀保のでるチェーホフ劇のとびきり、「ワーニャ伯父さん」もある。春にはまた「ラ・マンチャの男」があるだろう。
少年の昔からの「高麗屋」との不思議に有り難いご縁をわたしも妻も心から喜んでいる。

* 去年の暮れは、その幸四郎が大石の、真山忠臣蔵だった。それで、手元にのこしてあったたまたま、直木三十五の『討入』を、「e-文藝館=湖 (umi)」に載せてみた。四十七士の名前など思いだした。
歴代天皇百二十五人は順序正しく暗誦できるが、赤穂の四十七人はなかなか全部覚えきれない。
直木のこの作は、『南国太平記』から見ると気も手も抜けていて、やはり今日読んだ梶井基次郎の『のんきな患者』や昨日の宮嶋資夫の『坑夫』などとは遙かに比ぶべくもないが、本懐遂げた翌日の読み物としては恰好であろう。

* 夫婦して観ましたよと藤間さんにメールを入れておいたら、「ワアー有り難うございます」と返信あり。「公共の電波で話す事の難しさ、俳優さんは大変だなあとつくづく思います。どうぞ、来る年もよろしく御願い致します」と。こちらこそ。
2008 12・17 87

☆ 栗のお菓子をお送りしました。 松
秦先生へ   こんばんは。
寒い日が続きますが、お元気でいらっしゃいますか。
今日、衛生管理者という資格試験のために名古屋に行ってまいりました。
その折に、木曽の名物『栗きんとん』を久々に見つけましたので秦先生にもお送りしました。1週間ぐらいで届けられるとのことです。
栗の自然な甘みだけで作っている、非常に上品なお菓子です。是非召し上がってください。
ここ2週間ほど試験対策でずっと机に向かっていました。法律関係の話が多くなかなか覚えられず苦労しました。いっぽうで普段仕事の仕事の中で、多くのことが法律で決められているということに気づきました。
昨日の「朝の一服」に載っておりました、田舎のモールァルトのフーガの話ですが、モーツァルトもピアノ曲で一曲だけフーガを書いています。とても感動的な良い曲なので、是非一度聞いていただけたらと思います。
これから寒さが厳しくなりますが、風邪などひかれぬように気をつけてください。

* 「松」クンは今は富士山麓で大きな会社に勤めている。なるほど、そういう勉強も必要と云うことは、管理職になったのかな、そろそろそういう卒業生が増えてくるだろう。厳しい折です、心して日々をお大切に。
手持ちのディスクを調べてみたが、モーツアルトはバイオリン曲とシンフォニイとが一枚ずつ。バッハが沢山、それからグレン・グールドの演奏がたくさんあると分かった。
2008 12・17 87

* 旅疲れ癒えける頃か冬ざれのまそらに鳶の一つ舞ふみゆ

にくていの鴉一羽は口あきて空へ片羽をハタと鳴らしつ   遠   08.12.17

☆ 鴉に。    鳶
メールありがとうございました。歯の痛みは治まっていますでしょうか?
鳶は・・そう、旅疲れ、舞い疲れですね。
帰国するまで身体は実に快調でした。長いフライトも座席が空いていて横になれたのを幸い、かなり眠り、翌日は普段通りに過ごしました。が、やはりその後は、時差ぼけや風邪に近い症状が続いています。今週末、客を家に招待する用事と絵画展の作品搬入が重なり、少々神経質になっています。
今日(昨日)のHPにモンタネッリの『ローマの歴史』について書かれていましたが、わたしは旅にこの本を持ち歩きました。再々読? 何回目か、数えていませんが。やはりローマとチュニジアの歴史(ハンニバルやカルタゴ)は、今回の旅と深い関連がありましたから。またエトルリヤやギリシアとの関わりも、シチリアも、常に関心の範囲内ですから。そして、たまたま鴉と同じ時期に同じ本を読んでいるという、勝手なひそかな楽しみもありましたから。
文庫本の裏表紙には辻邦生さんが書いてられます、「読みだしたら止められないような本がある。小説の場合もあるし、ノン・フィクションの場合もある。だが、歴史でこんな面白い本はちょっと例がない。ローマ史は大体陰気臭いときまっている。ところが、これはそうではない。シェークスピア劇が連続上演されているようだ。息つく暇もない。人間臭さでむんむんする歴史である。」と。
今度訪れたカルタゴ遺跡は、もう御存知のように、ローマに破れて焼き尽くされ、人が住めないように塩を撒かれましたが、やがてローマのアフリカ支配の一大拠点として栄えました。遺跡にあるのはローマのものばかり、それも見事に壊れた石の遺跡・・。名将ハンニバルの彫像の苦渋に満ちた表情はどこで見たのか、記憶定かではありませんが、不思議に明瞭に思い出します。彼は戦いに敗れてトルコに逃れますが追い詰められて毒を飲んで自殺。ただし彼の遺骸は見つけられなかった、というのが一つの慰めのような気がします。
「歴史に愚と不幸以外のどんな聡明や幸福が酌めるというのか、それはたいがい錯覚であり、人類はせっかく手にした聡明や幸福もあっというまに永い永い暗い愚と不幸の手に手渡し平気でのたうって苦しんできた。それが分かる」と鴉は書かれています。私たちが生きてきた、そして生きている今現在もその同じ歴史が進行していると強く感じます。
日本に戻ってたちまちに日常の世の中の状況に揺られています。同時に、失業率50パーセントというチュニジアを思い起こします。ニュースは深刻な不景気の話、社会正義の実現は不可能と、嘆きたいことばかり。
庭の紅葉はまだ紅葉を僅かに残しています。
夜のフライトでしたので、出発当日に京都まで行き、清水寺の紅葉を楽しみましたが、その余韻とはいえないまでも、庭のひこ生えの小さなもみじも捨てがたいのです。南天は既に鳥たちに実をすっかり食べられてしまいました。
くれぐれも風邪など引きませんよう。今年は早くもインフルエンザへの注意報が出されたとか。常に体調、気遣ってください。
2008 12・18 87

☆ お元気ですか、風。
ニュースを見て心配になり、やはり受けておこうと、最寄のクリニックに電話したら、インフルエンザの予防接種の受付は、明日までとのこと。
あわてて行って来ました。今のところ異変はありません。
これまでに予防接種を受けたときも、大丈夫でした。
ではでは。日々、お大事に。 花

☆ 今年も後十日あまり  泉 e-OLD 西多摩
ぼちぼちと迎春用意のあれこれを揃えながら、少しも慌てずに暮らしています。実家の母親が何歳の頃に新年の準備からサッと身を退いて交替したかな、などと思いながら。
交友関係からみると、私の交友は非常に狭いです。新たに友人を増やすすべも欲もなく、このごく少数の友人達との今を大切にしています。往々にしてくだらないバカ話で盛り上がりますが、これもこの歳になれば大切です。
あなたともいつも話をしています。
日吉の東京同期会は幹事さんの肝いりで秋に一度催されます。落伍する人はほぼいない元気印が多く、お裾分けの元気を貰い、楽しみ、再会を約します。
同期であればよかったのに、といつも思います。

☆ はだあい   湖雀
MIHO MUSEUMレストランに空席待ちの列ができているのを目にして、朝宮に蕎麦を食べに行くことにしました。せせらぎのほとり、斜面をのぼる茶畑のつけねにある小さな店は、蕎麦も店の夫婦の雰囲気もよく、ご自慢の葛湯ようの蕎麦湯を、おかわり。
そして、この時期できあがる新茶、晩秋番茶を知って、道すがら、製茶直売の店に誇らしげに幟や貼り紙が出ていたわけがわかりました。
その半月後、思いもよらない場所、丹波篠山で、そのお茶に再会したのです。
丹波の紅葉名所と松茸ごはんというふれこみで、古刹名刹を3宇めぐるだけのシンプルさに飛びついた日帰りバスツアー。送られてきたタイムテーブルと突き合わせようと京都府の地図を広げ、「兵庫県」の丹波とわかった、不知。無知。
光秀の焼討ちで寺も仏像もかなり焼け、国宝の少ないことが当節観光産業では不利なのだそうです。それで味覚が集中する秋に紅葉とカメラ三脚OKで集客しているようす。
人気のタンバリュウ発掘地ってここでしたのねぇ。
ハコモノは作らずに「恐竜が見ていた景色」として売りたいと活動している話を以前にテレビで見ていたので、そう考えると車窓の景色も違ってきます。そうしたら伊賀上野から乗車したおじいさんが「伊賀とおンなしやなぁ。山の中で」と言うので、そういえば、と、景色の印象が深まりました。
丹波今田(こんだ)町を通っていたこと、そこが丹波焼の産地と知ったのは、帰ってしばらくたってからのことです。栗、松茸、黒豆、山芋ばかりを名産と思い込み、丹波茶も杜氏の里ということも知りませんでした。
茶畑が前に広がる篠山のお寺で「紅葉のあとはぼたん鍋が美味しくなるからぜひまたいらっしゃい。地元の野菜と味噌だからおいしいよ」と聞いて、やっぱり伊賀に似た風土なのかしらと思いました。赤目の松茸、伊賀の牛、豆腐田楽、じねんじょ料理、醤油・味噌・酒、ぼたん鍋、
そして信楽のお茶。あっと思いました。信楽焼と丹波焼の膚です。不知累加。
思えばこの秋は焼物産地の景色を目に留めた秋でした。
木曽路や南信州への旅で、多治見・土岐・可児。MIHO行きで信楽。丹波篠山紅葉狩で今田町。最近は伊賀の式内社めぐりをしていて阿山町丸柱をゆっくり見てきました。
見よう買おう知識を得ようと産地を旅していた昔は、景色は見えても見えずでしたわ。
空の色、山のすがた、田畑のようす、人の暮らし、はなしことば、吹く風。
空気を感じて帰ることで、歴史を調べるときも景色を思い、それとあわせて焼物のはだあいを思い出すと、覚えますねぇ。読みかじり聞きかじりで、見よう買おうとばかりしていたのでは得られなかった、もっと大きく深い記憶です。 湖雀

☆ 一声はつげの在所へほととぎす   湖雀
卓袋の句碑が松尾家菩提寺、柘植の万寿寺門前に立てられていました。
「鉄ちゃん」の話の種がそれからこれと情報がつながり、横光利一と柘植のかかわりを知ったことから何度目かの柘植逍遙。
大分県宇佐郡生まれの父と伊賀町東柘植村生まれの母。そのふたりの結の神が「鉄道」らしいのです。
1874神戸⇔大阪、1877神戸⇔大阪⇔京都、1880神戸⇔大阪⇔京都⇔滋賀県大津、1884神戸⇔大阪⇔京都⇔敦賀、と、関西に鉄道が伸びていた頃、滋賀県東部から名古屋また京都、さらには奈良、大阪へと計画した〈関西鉄道〉が申請されました。
許可が下りたのは滋賀県草津⇔熱田、それと草津⇔津のみだったのですけれど、1888に許可が下りてすぐ、伊賀と鈴鹿を結ぶ加太(カブト)トンネルが着工されました。
柘植駅前で旅館や駅弁製造をしていたお店が喫茶店として続いているというので何度か寄ったことがあります。ご夫婦のお話では三重県で初めて鉄道の駅というものが建設されたのが伊賀町柘植。街道から離れたなにもないところに宿舎が建ち、男性が集まって工事が始まったのですから、近隣からそれにあやかって商売をしようと人が集まりました。利一の父は工事に従事して彼女と知り合ったンんですよ、きっと。
工事着工が1888年。娘が生まれ、1898年には息子が生まれ、1904年に朝鮮の鉄道敷設工事に参加するため父は海を渡りました。利一はその間、母と姉と3人で母の実家がある柘植で暮らしたらしいのですね。1910、朝鮮併合。1912、森敦誕生。そうつなげてみました。
そして芭蕉200年忌を記念して柘植では松尾家直系の子孫から土地の寄贈をうけて芭蕉公園を造成したそうで、これが1894年。利一は村の子供たちが “芭蕉さん”と呼ぶその公園で遊んだそうです。
宣伝が大規模でぱっと目立つ観光地を簡単にめぐって歩ける伊賀上野に比べて、柘植はとっつきにくい観光地です。その分、何度訪れても発見があり飽きることがありません。
油日岳と霊山が毎回違う顔を見せるのも楽しみのひとつです。  湖雀

* 脚の運びようが、ただ者ではないです。
2008 12・18 87

* やす香のお友達から、快哉の声が夕べのうちに妻に届いていた。

☆ 卒論終了!!!
こんばんは!
たった今、卒論プリントアウト終わりました!
終わって直ぐのメールです。
この嬉しさをお伝えしたくて、メール致しました。
雪の結晶の紙石鹸、すごく嬉しかったです!
とてもとても眠いです。。。
あとは、明日起きるのを忘れないだけです。
10時に学校行きます。
そしたら提出して、解放です!!!
バンザーイ☆
明日、学校への電車の中で『ゲド戦記』読み始めます。
愛猫はそばで爆睡中です。
おやすみなさい!!!  琳zzzz

* よかった、よかった。

☆ お久しぶりです。  従妹・のばら
街路樹もすっかり葉を落とし、街も初冬の風景になりました。
主人がたまたま受けた血液検査で、急性肝炎と診断され、11月中旬に二週間入院していました。
症状は何も無く至って元気だったので、本人も周りの者もただびっくり。
ウイルス検査は全てマイナスで安静と点滴だけの入院生活。
それでも数値は全然下がらず、やっとそれまで飲んでいた薬を止めてみるということになりました。
もう我慢の限界にきていた主人は、安静を条件に退院。家に帰って二週間で平常値に戻りました。病院もその時点で、たぶん薬の害だろうと認めました。
主人も産まれて初めての入院生活でしたが、もうすっかり元の生活に戻りました。
私も毎日の病院通いで、紅葉も楽しめませんでしたが、家族の健康の大切さを実感しました。
恒平さんも奥様共々お大切にお過ごしくださいますよう。
長女一家も30日に帰って来ます。賑やかになりますが、二人暮らしに慣れてしまっていて、何かと大変です。
今年は一度も東京に行けなかったけど、またお逢いできますよう。 みち

* 無事でよろしかった! お互いに、とにもかくにも用心の日々を。
2008 12・19 87

* 明日は、院に合格した人を祝って祝いたい。

☆ 湖へ   珠
おはようございます。
私の大事なぐい飲み、、たくさんあるのですが、眺めてよいもの、ふれてよいもの、そして口をつけてよいもの。
おのおの可愛さには色々あります。その中でも、特には3点でしょうか。
まずは、勢いある刷毛目の盃。これは三島を得意にされる吉田明氏の作品で、仕覆の師に頂戴したものです。どちらかというと男っぽい、口にきりっとした感触のある品です。背筋を伸ばして手にしたい、大人の日の盃と思っています。
そして、小さな赤楽。杉本貞光作。ころんとして可愛く、ちいさなそのなかを隠すように、口あたりは内側にやわらかくカーウ゛しています。高台も、少しおしゃまな恥じらい風にくるっと小さくて、愛しいです。これは、吾が手のなかで転がすばかり。。
大人の飲み物を受けるには、まだちょっと、、と、箱入り娘になっています。
あとは、井戸の杯。対馬で作陶する武末日臣作。この方の作品が好きで、15年程前から東京で個展をする際には足を運びました。その方の珍しく小さな作品。2つ出来て、一つづつ展示されていましたが、その対の感じに心を惹かれて2つ一緒に手に入れました。聞香杯のような筒型で、水の滴る井戸茶碗の肌をしています。対を、ひとつでは使う機会なく、最近は、茶箱の茶巾筒にでもしようかと考えたりしています。

そして、お茶道具。秘蔵というものは数点。
弘入の黒楽筒茶碗と、同じく弘入隠居判のある手びねり黒楽小碗。箱を作って、仕覆を作り。。昨年暮、大徳寺瑞峯院での茶会に使わせて頂きました。
茶入も一つ。仕覆の師匠は出雲出身。その縁で、楽山焼の二代空斎作の茶入を手に入れました。これも昨年瑞峯院での茶会で使用したもので、金流しのみえる硝子様の釉が美しいものです。
あとは香合で、明治頃の作でしょうか。染付で松に雀の絵付けが可愛く描かれ、小さな火屋のついたものです。これは香合としてより、飾ってご覧頂き愉しむというものです。
そして、幼少頃からの茶の師匠が、亡くなる前夜に手ずから下さったお軸が一本。
流儀のもので、花押のあるものはほとんどありません。稽古用には、様々数点ずつを
その知人のお母様の道具から頂戴しています。ただし、家には畳もなく、せめて点てだしで茶碗を使う程度で、釜などは仕舞ったままです。家に誰かを招く、、ということはほとんどありません。それより、一日在宅する日すら、現実には年間数えるような有様です。若い頃は、師匠の家で稽古茶事をして、客も、亭主も、半東も、裏方も体験してきましたが、三交代勤務のあの頃でさえ、今よりは時間があったからと思えます。

誰かのために、、と、仕事時間以外での私が、茶を点てたり、人のことを懸命に考えるのはむしろ避けたいと、自分を護るところが今は、あります。
20代半ば家元での合宿稽古で、担当になられた内弟子の先生から突きつけられた質問がありました。
「君たちは、何のために茶をするのか」
それは、それまで考えたことのないことで、返答に窮し。人をもてなすためにするのではないのか、、と言われて、呆然自失の態でした。
その後、いろいろ、さまざま考え混乱した後、私は、お茶は我が看護の仕事と同じ、 「人のために、、」であると思いました。そして、私にできる人へのおもてなしは何か、、と考えて、自作なら、、と思い至り、たまたま出逢った「なごみ」に出ていらっしゃった、今の仕覆の師匠に手紙を書いて、稽古に伺うようになり今に至ります。この仕覆の師匠の下で稽古できたことが、私のお茶にとても影響してきたと思います。
仕覆師として流派の区別なく創作や指導をされる師匠なので、流派のいろいろなしきたりの違いや、本当のよいものを、近くで拝見させて頂きました。流派の書き付けなど、この師の前では何の意味もありません。千家の極めは、目のある人にとっては必要ないと、知りました。おかげで、
「よいもの」と、「すきなもの」の違いを、少しづつですが分かるようになってきたと思います。
このような稽古場なので、自然、お茶に流派の拘りはなくなって、喫茶でも美味しくさえあればよし、クリーミーな抹茶も好きです。流儀で知っていること、知っている人の世界でしか通用しないお茶をするつもりはありません。だから、老齢になられて、流儀茶会を華々しく催す時期を過ぎた
今の茶の師は、拘りない茶の湯の稽古をさせて頂け、ありがたく。むしろ、今の慌しい私は、師匠に茶の湯でもてなされているという、甘えの稽古をさせて頂いているのだと想っています。
いつかは、これらの師に、してもらったことを生かすために、人をもてなしす機会を積極的に作る時期がくるのだろうと、そうするだろうと思っています。今は、そのように、この世を泳ぐ多くの人からいつか交歓しあえる仲間(私の解釈では湖の言うところの、同じ島に立つ人)を見極め、縁を繋いでゆく時期かと、仕事に没頭する頭のどこかで願うように、想っています。

あ、花器については、我家の花器はほぼ酒器です。お酒を入れる機会はないので、大事な酒器には花一輪、たまに生けます。家にいる時間がないので、帰ってきて萎れた花を見るのは私自身が哀しくなります。日中家にいられた時に、マンションの中庭から椿一枝、頂戴しちゃいます。
今は、仕事で人のことを考えてばかりいるので、それ以外の時間に、自分に差し伸べられた何かを感じると、とても救われます。若いときのように、仕事とそれ以外に時間の切替が難しくなりました。
喫茶だけしたいなら、お茶の稽古には忙しいなか出かけないでしょう。複雑な人間関係が稽古場にはあったりもしますが、誰かとする茶にはたまらなく惹かれて、今はしてもらうばかりですが、稽古に向かいます。
そういう意味で、茶の湯の懐のひろさが好きです。
長くなってすいませんでした。
このまとまりのつかなさは、一生かかって削ってゆく、私の人生そのもので。
長文におつきあいのほど、ありがとうございました。
週末は温かいようす。良い日でと祈っています。
どうぞ、くれぐれもお気をつけて。    珠

* 茶の湯執心出精のひとの、懐を覗き込むような質問に、丁寧に答えて戴いて嬉しい。たいへん分かりよく話して戴けた。
2008 12・20 87

☆ おてつだい  馨
二歳の息子はここのところ、「待っててね」ができるようになりました。
何かをしたいとき「◯◯が終わったらね」とか、「じゃ、これをやったら次はこれこれしてね」とか、時系列の交渉が可能になったので、夏から初秋の頃の待ったがきかない大変な時期を一つ乗り越えられました。
6ヶ月の三番目クンは、ひたすらに放っておかれるのに慣れているせいか、手元に小さなオモチャを置いておけば、静かにいじって遊んでいます。
彼がいたずらし放題になるまでのこれから数ヶ月、ちょっとだけ生活に余裕が出るかも。
真ん中クンの最近のブームはお手伝い。
ホットケーキを作る時に卵を上手に割ってくれるようになったのは夏頃ですが、その後、お野菜をお鍋に入れる、まぜまぜする、などにも上陸。
一緒に台所に立っている限り後ろで予想外のイタズラをされる心配もないので、一つずつお仕事をあげることにしています。
そして、先週からついに包丁きりにも挑戦。 お姉ちゃんも3歳前後で包丁を使い始めましたが、その子ども用包丁を息子クンへ。娘は最近は大人用の菜っきりの方が重さを利用して切りやすいことに気がついたらしく、あっさり譲ってくれました。
人参のしっぽや菜っ葉の茎など、まぁ、失敗したら捨ててもいいかな、と思えるものを渡しておくと、「キコキコする」と言って丁寧に切ってくれます。ただ、横で私がトトトト、と別のものを切り始めてしまうと、同じ速度で包丁を叩き付けることだけに集中するので、全く切れず。
でも、とにかくその時間分はヘンなことをされる心配がないのが嬉しい。
お料理ができ上がり始めると「タテタンが運ぶね」と、頼みもしないのに自分でさっさと持っていきます。
洗濯物干し、洗濯たたみ、掃除機がけ、すべてやりたがるのですが、お付き合いしていると時間がかかって仕方ない。
ここで邪魔だから、と邪険にするとあとあとお手伝いしなくなるかも,と懸念して、ぐっと忍耐。 お手伝いがお手伝いとして機能するまで、親の忍耐力の勝負だなぁ、と。
お姉ちゃんはようやく「お味噌汁作って」と具を出しておけば出汁取りから全部できるようになりました。万歳。
長い道のりでした…。
真ん中クンも早くこうなってラクさせておくれー。
あまり嬉しくないお手伝いも。
雨の降った日に干し柿を取り込んでおくと「これ食べてい~い?」と、ヒマさえあれば周りをうろうろ。
先日は、そろそろ渋も抜けて来たかな、と試食を許すと姉弟で3つも消えました。
干し柿って小さいけど、柿一つ分あるわけで、かなりお腹が満たされるらしく、予想通り夕飯はイマイチ。
なのに二人は「お味見したんだよ」と、お手伝い気分なのがなんとも。
年末に向けて、どこまで「お手伝い」が機能するか…やっぱり私の忍耐力向上キャンペーンになるのだろうなぁ。

* こんな子たちがいつも三人も、みぢか・まぢかに在ること、羨ましい。
2008 12・20 87

* 清水焼の清水六和のことを調べていた。
明治から戦後まで活躍して、たしか陶藝家として初の藝術院入りした人だった、清水六兵衛家代々でもことに此の五代目はたいそう「名人」の盛名が高かった。この父の薫陶で子息六代目はまた一段飛躍して「文化功労者」になったけれど、此の五代「六和」さんの存在は実に大きかった。
千葉まで、清水六兵衛代々展を観に出かけたことがある。五代目六代目の造形に感嘆した記憶がある。
六和作の大きなみごとな菓子鉢があり、叔母の自慢の所持であった。茶会でよく用いた。また六和「扇流し」の佳い彩絵茶碗がある。仁清にならったと、紛れない六和自身の箱書がある。造形に一ひねりあり、技術的に高い。綺麗な仁清風なので、なんどか茶会で贅沢な替え茶碗につかい好評であった。
じつは白状ものだが、叔母が稽古場で菓子器に使っていた、六和作の、しぶい、しかし手の掛かった器があったのを、東京へ貰ってきていて、あろうことか、何度も煮物鉢に、いやいや即席ラーメンの丼代わりにも使っていたことがある。使い勝手がよかったのだが、いくら何でも五代六兵衛に申し訳ないと、今は何処かに大事にしまい込んである。
六代目のも一つぐらい在るだろう。七代目六兵衛は彫刻家の清水九兵衛さんでもあり、一緒に京都美術文化賞の選者を務めてきた二十年近くの間に、制作された茶碗やぐい飲みを幾つも頂戴した。それはもう完璧に現代藝術である。亡くなられて、いま、八代目さんとも文通などの往来がある。
2008 12・20 87

☆ おめでとうございます。☆☆☆  琳 12.21 0:00
☆おじい様、七十三歳のお誕生日おめでとうございます☆
☆☆☆おじい様のこれからの一年が幸せでありますように☆☆☆
クロマゴちゃんにもよろしく☆☆

今年もやっぱりやす香のセリフです。

やす香の世界で、少女時代の私は一緒に遊んでいるのかもしれません。
きっと今頃、おじい様のお誕生日ね、と話しているのでしょうね。
やす香なら、「どんなサプライズを起こそうか??」と、言うでしょう。
サプライズ起こって!

* ありがとう。午後、楽しく会いましょう。

☆ お元気ですか。  珠真
お誕生日おめでとうございます。
一番にお祝いをお伝えできるといいんですけれど。
この新しい一年の、本当に喜ばしい記念すべき実りの年となりますこと心よりお祝い申しあげます。めでたく金婚式をお迎えになり、お仕事では湖の本百巻の達成です。気の遠くなるような偉業です。一日一日の積み重ね、一巻一巻の積み重ねが、まさに蓮の葉の上の露の雫が深い深い湖になるように、百巻となるのでございましょう。
一人の作家が、望めばいくらでも手に入る世俗の利得を排し、ひたすら読者の魂に届く名作を書き送り続けた営為は、かけがえのないものを守り続けた勇気ある闘いでありました。
湖の本の読者であることは誇りです。そして、お誕生日のお祝いを申しあげることの出来るのを幸せに思います。こんな嬉しいことはありません。

新味はないのですが、お肴のほうをと、「めで鯛」を送らせていただきました。電子レンジでなく、オーブンかグリルか網で温めてお召し上がりくださいませ。どうかお祝いの席でお口にあいますように。

新しい年をどうかお元気に、ご無事で、ご無理なさらず、みづうみらしい烈しい日々を楽しんでお過ごしください。少しも変わることなく、いつもお幸せをお祈りしています。お役に立ちたいと思っています。

* ありがとう。大好物の鯛、いただきます。一陽来復。お幸せに。平安を祈ります。

☆ Happy Birthday!  玄
誕生日おめでとうございます。来年の今日までつつがなく時が過ぎていきますようお祈り申し上げます。同じことの繰り返しですが清酒をお届けしますので御賞味ください。

* 心より御礼申します。元気に努めます。一陽来復。お大切に。

☆ おめでとうございます。  湖雀
お誕生日おめでとうございます。
夜明けが早くなってまいりました。太陽復活の日。どうか光多き一年でありますよう。心からご平安お祈りいたします。

伊勢一志郡八太の波多神社にお参りしてまいりました。
波瀬川のほとりに佳いご神木とともにあるお社で、境内に足を踏みいれたとき聯想したのは、むかしの熊野本宮鎮座地。神社から雲出川をどんどんさかのぼって、伊勢奥の津まで行ってみましたら、広くない川に岩がごろごろとあります。
白洲正子さんの「万葉の歌の場合、現実の舞台は極く小さいのがふつうである」という文を思い出しました。
奈良県山添村の式内社、神波多神社がかの地で、磐群は神野山の鍋倉渓ではないかという説もありますが、受ける霊性からしても経路からしても、こちらだわぁと思います。
ゆついはむらにくさむさず―
どうかおすこやかに。
湖雀

* 清潔な霊気とともに(常にもがもな)と祝ってくださり、嬉しく。常乙女(とこをとめ)にてとはゆきませんが、常親爺らしく。ハハハ

* 妻が歓声をあげたような美しい香(幸)袋を頂戴した、ありがとう。

☆ 湖さま
お誕生日 おめでとうございます。
今年の裂で、ささやか、香袋作りました。
どうぞこれからもお元気で。  珠

* じつは夜中、三時十分、血糖値が70まで下がった。えもいわれぬ不安感が襲うのでからだが判断する。起きて測ると、掌をさすように低かった。糖分をとり、やすんだ。

☆ こんにちわ、風。
そして、お誕生日おめでとうございます。
予報は雨になると言っているけれど、とてもいい天気です。
日々おすこやかに。
ではでは。 元気にしている 花 より

* ありがとう。どうぞ、お元気で。

☆ お誕生日おめでとうございます☆
あらたな年も、どうか健やかに☆
今日は稽古で伺えませんが、近々、どこかでまた保谷に遊びに行きます。 建日子

* ありがとう。きみも元気で、怪我無くと祈っていますよ。父

* 「めで鯛」で戴いている佳い酒いろいろで坏を傾け、赤飯と吸い物で昼ご飯を祝う。
2008 12・21 87

* 三時半に「琳」さんと鶯谷駅で会い、ともあれと駅前の「公望荘」で蒸籠蕎麦を手繰って、そこで院進学のお祝いに、五代清水六兵衛・六和作「仿仁清翁扇流」の茶碗を呈上。やきものに関心を育ててもらうには絶好かと思う。
タクシーで雷門へ。師走歳末日曜の仲見世はびっしりの人の波。波のうねりにまかせてゆっくり歩いて、浅草寺本堂に上がる。
奥山をもう一度国際通りへ、そしてまた米久わきへ入って、浅草の見本市のような展示場を見物してから、鮨の「高勢」に五時に入る。
うまい肴をたっぷり。「琳」さんと妻とはビールのあと白いワイン。わたしは酒とワイン。主人の親切な応対もたのしく、よく飲んで食べてよく話してきた。銀座の「きよ田」の話なども出来て、懐かしいやら嬉しいやら。
そういえば大学に受かった夕日子を「きよた」でご馳走して祝ってやったのが懐かしい。隣席の小学館篠氏に、小娘に過剰サービスですよと笑われたが、娘にはいいものをいいものとして覚えさせたかった。
今晩は、大学ではない、大学院に合格したやす香のお友達にご馳走して、自分の誕生日も一緒に祝った。この二年、どんなに慰められ癒されてきたか、計り知れない。
食後は寄り道しないでまた鶯谷駅に車で戻って、山手線、池袋で「琳」さんを見送った。
佳い一日になった。
2008 12・21 87

☆ からす,誕生日おめでとう。元気によい一年であるように。 とび

* 千回の弁慶きッと泪せり   湖
藤間紀子様
七十三歳の誕生日を、西浅草の「高勢」で静かに食事し、帰宅して、ふたりで、録画しておいた勧進帳そして高麗屋のみなさんのお幸せなご健闘を、心嬉しくしみじみ拝見しました。佳い日の佳い時間を満喫しました。感謝します。
高麗屋さんに宜しく。皆様ますますのご平安ご活躍を、さきざき、いつまでも楽しませて下さい。一言御礼。 秦 恒平

* さ、「めで鯛」肴で、もう少し美酒に酔い、お茶にしよう。良き日に感謝する。
2008 12・21 87

☆ 一陽来復
hatakさん
佳き誕生日をお過ごしになり、酒、肴、人と街とを楽しまれて、おめでとうございます。
札幌はそろそろ根雪になります。どうぞお大切に。  maokat

* ありがとう。お大切に。 hatak

☆ ただいま、私とお茶碗、無事に帰宅致しました。
今日は本当に本当に楽しい一日ありがとうございました。
新宿から各駅停車に乗り、座って眠りながら帰って来たのでこの時間になりました。
お茶碗、私にとっては国宝級です!  琳
2008 12・21 87

* ジョン・ウエインにリタ・ヘイワースとクラウディア・カルディナーレのサーカス映画が、ほろりほろりと胸つまらせて泪を誘う映画だった。
昨日戴いた「めで鯛」の片身を肴に赤いスペイン・ワインを晩の食事前に呑んだ。
「鯛」って、なんでこう美味いのか。臭みのみじんもない白い身のホクホクと美味い鯛を口に含んで、ワイン・グラスをしとっと傾ける。
下関から、純米大吟醸の「獺祭」を二本戴く。
富士の「松」くんには、木曽の栗きんとんを戴く。
2008 12・22 87

☆ 秦先生へ   松
メールありがとうございます。
遅ればせながら、お誕生日おめでとうございます。
栗のお菓子ですが、自分で何度食べても飽きない素朴な味で、おいしいものです。喜んで頂ければうれしいです。

アメリカ発の金融恐慌。証券会社、銀行など金融機関が本来お金の無い人に無理やり消費を勧め、返済できなくなりこういう事態に陥ったと理解しています。
日本のメーカー、金融機関もアメリカの人達の過剰な消費に依存していたかと、反省すべき点は多いと思います。
これからは本当に必要なもの、省エネルギーだったり、環境対策の商品だったり、医療、健康に関するものが売れていくかと思います。どのメーカーも安穏としていられるところはないかと思います。

今年もいろいろと良い相手を探していましたが、今のところお話できるようなことはありません。生涯のパートナーを見つけることが、本当に難しい、ということをこの年で痛感しています。これからも頑張って探していきます。
機会がありましたらお会いしたいと思います。
奥様にも宜しくお伝え下さい。
2008 12・23 87

* 千葉のe-OLD勝田さんに、名産の落花生をたっぷり頂戴した。デジカメにおさめた勝田さんの写真を何枚ももっている。駒込の六義園や、渋谷松濤の能楽堂や、浅草や、池袋の「たん熊北店」などで撮っている。大人の風格、懐かしい。
勝田さんは、御経にくわしい人のようで、じつはこの前から教えて頂きたい質問が一つある。幸田露伴翁が、或ることで言及している御経があり、はなはだ珍しい題目なのである。
いつでも逢える逢えると思ううちに師走も切迫し寒くなった。お元気に春をお迎え下さい。

☆ 冬ざれ   花
ともあれ、好天はつづくようです。
昨夜、NHKBS2で「乱」の放映の前に、仲代達也さんのインタビューがありました。
はじめて黒澤明の映画(「七人の侍」だったと思います)に出たとき、エキストラの一人であった仲代さんに、監督は歩き方の注意にはじまり、何度もやらせて、罵詈雑言の嵐だったと。
当時、俳優座の研究生だった仲代さんは、それで、歩き方は大事なんだと知ったそうですが、二度と黒澤さんの映画には出ないと決心したのだそう。
数年後、「椿三十郎」への出演依頼があったとき、断ったのだけれど、直接監督に口説かれ、出ることになった、とか、勝新太郎の降板により、出ることになった「影武者」では、戦のシーンで落馬し、肋骨を折り、救急車で運ばれ、映画の出資者であったコッポラさんらがアメリカから見に来ている日だったので恥ずかしかったとか、「乱」で、仲代さんの演じた大殿が、燃え盛る城に取り残される場面の撮影では、助監督さんさえ仲代さんをセットに置き去りにし、「危険を感じたらここから逃げてください」と、逃げ道を指示しただけで、役柄同様、焔の中に取り残された話ですとか、とてもおもしろかったです。
乱の撮影中、黒澤監督が、「どうして人は殺しあうんだろうねえ」と、素朴な発言をしていたと、仲代さんは、印象深げに語っていました。
天才と呼ばれた、しかも晩年の黒澤監督の発言にしては、素朴すぎるけれど、そんな純粋さが、黒澤さんの真髄であったのではないか、と。
「乱」は、画がきれいなので、引き込まれます。
改めて見てみると、仲代さんの大殿が、なかなか滑稽でした。
ではでは、風。

* 黒澤映画で仲代さんを初めて観たのは『用心棒』だったと思う。『天国と地獄』でも準主演していた。
私の親しい読者が、ひところ仲代さんのツキビトをしていて、無名塾が出来て以後は俳優座の制作にいた。この人から、再々俳優座や無名塾の芝居をみせてもらうキッカケが出来、今以て、俳優座との久しいご縁がある。四十年近い。
手元には、その人が気を利かせてくれたのだろう、仲代さんや加藤剛さんや岩崎加根子さんらの色紙がある。直に著書のやりとりもあった。仲代達也も加藤剛もいい俳優だ、みな、年取ってきたけれど。
2008 12・23 87

☆ 拝啓 ごぶさたしております。 笠 e-OLD千葉
(落花生)お送りしっぱなしでごめんなさい。千葉の風味をと思いまして。「半立ち」という種類だそうで皮の内側が茶色で、作っている人は自慢気です。
今年もどんどん過ぎて行きます。いろいろ本当にありがとうございました。どうかくれぐれもお大切に佳いお年をお迎え下さい。敬白

* 恐れ入ります。お便りは仙厓の絵のあるはがきで。出光美術館でご一緒に観て、なにかと話し合ったことのある懐かしい「お月さま幾つ」の絵だ。

* 札幌のmaokatさんが、今年を振り返って、考えさせられる良い論説を書かれている。「e-文藝館=湖(umi)」の「論説」欄に戴いた。此処にも、年内書き込ませてもらう。

☆ 毒入りギョーザで悪いのは? 平成二十年を振り返る:   maokat
そろそろ今年(平成二十年・2008)を振り返る時期になってしまった。
昨年から今年にかけて、食品に関する偽装、毒物・異物混入事件が相次いだ。農産物に関わる仕事をしているので、一連の報道で説明してもらえなかったことについて述べておきたい。

11月のある会議で、日本の農薬登録を担当する法人の役員が挨拶した。
「毒入りギョーザ事件以来食品に混入する殺虫剤がマスコミに取り上げられているが、気になるのはあたかも殺虫剤が悪者として取り扱われる傾向があること。悪いのは殺虫剤自体ではなくその使い方(ギョーザの場合は食品に混ぜ込む、残留農薬の場合はしてはいけない使い方をしている)にある。」

この挨拶には共感するところが多かった。

農薬といえば、マスコミでは悪役として取り扱われることがほとんどだ。たぶんこの傾向は、高度経済成長が終わり、公害など負の部分がクローズアップされて来た頃から始まったのだろう。できるだけクスリを使わず「安全性の高い」「ナチュラル」な状態で育ってきたものを口にしたい。そういう願いは、私も一消費者として持っている。しかし同時に、一億三千万人分の食糧を生産し供給し続けることが、いかに難しく、大変なことか、農業・農政に身を寄せている立場としては、その苦労も理解しているつもりだ。

食糧は、われわれが想像するよりいとも簡単に足りなくなる。団塊の世代以上の方は思い出してほしい。ついこの間まで、三食ちゃんと食べる、銀シャリをお腹一杯食べる、ということがいかに難しく、有り難いことであったか。また、それ以降の世代の方だって、冷害の1993年に国産米(日本の主食!)が払拭して、タイ米を緊急輸入したことを憶えているだろう。もっと若い方には、一時期バターがスーパーの陳列棚から消えてしまったり、小麦製品が軒並み値上がりしている今年のことならば知っていることだろう。
小麦の話は、オーストラリアの干ばつや、バイオエタノール用作物との土地の競合など、主に海外での小麦生産の事情により起きたものだが、食糧輸入や自給率の話はまた別の機会に述べるとして、今回は国内の農業事情に話を絞って話を進めていきたい。

化学肥料、農薬、大規模化、機械化、農産物の規格化、周年栽培、近年は担い手の集約化。これらが一億三千万人の胃袋を維持している日本農業の根幹だ。そして、基本的にはこれら根幹を構成する要素は変わらないと私は思う。しかし、農産物の評価が量から質へと変わり、食の安全に対する意識が高まって「安全性の高い」「ナチュラルな=減農薬、無農薬、有機栽培の」農産物に対する需要が多いのも確かで、これからそういう農産物がますます増えてくることも間違いないだろう。

食べ物を作る生業=農業には、より良い食料を食べたいという消費者の欲求に答える使命と、国民に安定的に食糧を供給し続けるという使命の、両方がある。農薬に例をとっていえば、前者と後者では、役割や重要性が全く異なる。それぞれの役割を理解した上で、減農薬や無農薬栽培に対する考え方を持ち、食品混入などの事件にもこの役割を理解した上で冷静に対処してほしいものだ。

では順を追ってみてみよう。
「減農薬、無農薬、有機栽培」などの農産物に消費者の需要が高まれば、そのような農産物を作る、作りたい農家も増えてくる。しかし、化学肥料・農薬を使わない農業は、気候の変動などに収量や品質が左右されやすく、場合によっては生産皆無の年もありうる。そういう時に、売り上げゼロになってしまった農家が潰れてしまっては、何年経っても化学肥料・農薬を使わない農業は定着しない。そういうリスクを認識した上で、農家を潰さない仕組みを作ることが必要なのだ。また、不作の年には、品質の悪い農産物しか出来ないことも想定される。
さらに、当然のことだが、化学肥料・農薬に頼らない栽培は大変な手間がかかり、相当なコスト高になる。フランスなどで流通している有機栽培農産物と同じものを日本で安定的に食べたいと思うならば、消費者は、腹をくくってほしい。より良いものを食べるにはそれなりの負担が必要。天候不順で生産が無かった農家への補償、不作の年には品質の悪い生産物でも買って消費してくれること、そして手間に見合った価格で生産物を買ってくれること。
こう書いてみて、化学肥料・農薬を使わない農業の買い手は、こういう農家のパトロンになるということなのだと気付いた。お金を払って、こういう農家を育てるという表現が一番ぴったりするし、さてそう書いてみて、改めて、これは今の農政や大型スーパーを核とした物流組織とはしっくりいかないなぁという感じが、鮮明になる。

一方、食糧安全保障は、外交、防衛、教育、福祉といった国が責任をもって行うべき基本的な施策で、消費者の欲求とは別の観点から考える必要がある。冒頭出てきた毒入りギョーザ事件以来、すっかり悪者になっている化学農薬だが、一億三千万人を飢えさせないためには、化学農薬はなくてはならないもの。といってもあまりピンとこないかもしれないが、食糧生産に危機的な状況が訪れた際には、化学肥料、殺菌剤、殺虫剤の有り難さを、われわれは再認識することになるだろう。また、そうならないまでも、農業生産現場においては、これらの肥料農薬を日々適正に使用することではじめて、スーパーの食料品棚を一杯にすることが出来るということを忘れないでほしい。

「ナチュラルな」食べ物を食卓に届けるために、もう一つ大切なことがある。減農薬、無農薬、有機栽培の定義をはっきりして、その認証制度を設けると共に、偽装をさせない仕組みを作ることだ。例えば、農薬を何%減らせば、減農薬というシールを貼っても良いのか、今は統一的な規格が定められていない。無農薬と一口に言っても、薬の代わりに酢を撒いたらどうか?酢の代わりに活性炭では?その代わりに鉄を水に溶かしたら?さらにその代わりに銅を水に溶かしたものを撒いたら?など、無農薬と農薬のボーダーがはっきりしていない(正確には多くのものがボーダーライン上にあってどちらになるかまだはっきり決められていない)。「有機栽培」というシールを農産物に貼るためには、どのような土作りを何年前からしていて、実際に有機栽培が適性に行われ、他の農産物が混入していないことを証明し、常に検査していなければならない。これはけっこう大変な手間だが、厳しい制度を設けない限り、またぞろ不正、偽装が頻発し、かえって有機栽培農産物の信頼を失うことになる。先に挙げたフランスの有機栽培認証制度はまさにこのようなことを細かく調べて運用しているので良い例になると思うが、フランスは欧州では指折りの農業保護政策をとっている国であることも知っていてほしい。
「安全性の高い」農産物を食べるためにも、今まで以上にチェック体制を強化する必要がある。一口に、また簡単に「安全性」というが、例えば農薬の安全でなかった使用例の中には、 ① 生産者のミスなどで本来その作物に使ってはいけない農薬を使ってしまった、 ② 正しい農薬を使ったのだが撒く時期を間違え、成分が生産物に残留してしまった ③ 生産者に過失はないが、隣の畑からドリフトして(漂って)きた農薬が混入してしまった ④ 生産者の悪意により使ってはいけない農薬を使った、 などいくつものパターンが考えられる。また事故米のように、生産者の手を離れた後、流通過程に原因がある場合もあるし、ギョーザ事件のように農業とは関係ない場面で故意に混入される場合もある。どのケースについても、農薬の正しい使い方を守っていれば、問題は発生しないので、今の制度をより厳格に守ってもらうことが重要だ。

すっかりはやりとなってしまった食品への農薬混入事件では、「こんなアブナイものをなぜ使っているのだ」というような、直情的短絡的な思考から、農家が農薬を正しく使えなくなることを危惧する。

さらに、危惧していたことがまさに現実になってしまったが、事故米不正流通事件では、大阪農政事務所の一課長の不正が、いつのまにやら「国の出先機関の農政事務所は必要ない」という話にすり替えられている。
事故米事件の遠景には、1993年のガット・ウルグアイ・ラウンド農業合意の結果、日本は1995年から買い手のない外米を毎年輸入しなければいけない義務が生じたこと、その保管料が年間150億円もかかっていること。さらには農政事務所(旧食糧事務所)がいつも行革の削減対象に上げられて、職員の志気が著しく低くなってしまっていたことなど、制度的な問題点があるのだが、今回の事件でそこに鋭く切り込んだ報道はあったのだろうか? 元々売れない外米を抱えている農水省がそれを買ってくれる加工会社の検査をするという仕組みも変だが、検査の主体が国から自治体に移れば、広域(三笠フーズの場合は大阪と九州)に亘る不正行為を見抜けなくなり、現在よりチェック体制が脆弱になってしまうことは明らかだ。国の出先機関全てが必要とは思わないが、食品の検査制度は国のお仕事。消費者庁でも何でも良いので、食品に関わる一連の検査体制を一元的に管理する国の機関が出来てほしいと私は思う。

漢字はものを良く現していると感じ入るが、農産品には商品として販売される「食料」と国民生活に不可欠な「食糧」としての別々な顔を持っている。食べ物について大揺れになった今年、食べる人も作る人も、そして(本来)その仲立ちをする農政も、農業の二面性を良く理解して、農薬を含む農業に対するバランスの取れた考え方を持ってほしいと思う。

* 次の「日記」も、「e-文藝館=湖(umi)」の「随感随想」に頂戴したい。

☆ 逢いに、「山口 薫展」   珠
昨夜の冷たい雨は上がり、遠く雲間に青い空が見える。やり残した感のあることを、する貴重な日。パソコン作業などを済ませ、昼過ぎに家を出る。晴れているものの、頬にあたる風はキリリと冷たい。

本日最終日の世田谷美術館「山口薫展」へ。京都の何必館から我家近くに来ているというのに、なかなか行けなかった。やさしい光に満ちた穏やかな絵、「おぼろ月に輪舞する子供達」に、久しぶり、逢いたかった。

この絵にはドキドキさせられてきた。ずっと以前、何必館で目にした時はほわっと温かい気持ちになって。絵の架かった一番奥のそこだけ、別な光の注ぐ明るさを感じた。でも、絵の前から動けなくなったのは、別な絵だった。
それから数年後、紅葉の頃にお茶(茶の湯)のことで京都に出かけた。夜、祇園白川近くを歩いていたら、小さな店先のウインドウにこの絵を見た。ポスターを額に入れたのだったが、どこかで見た懐かしさと、夜の路でそこだけ明るい感じがして足が止まった。先を行く友に急かされながら、目だけ何度もその小さな窓を振り返った。そのまま想いだせず、いつの間にか忘れていた。
それから少し後のクリスマス頃、ある人とのメールのやり取りのなか、「こんな絵が似合うかも」という言葉と一緒にクリスマスプレゼントがファイル添付されてきて、開けたら、この絵だった。息をのんだ。急に、数ヶ月前の小さな窓の明るさがよみがえり、今自分が何を見ているのか分からなくなった。待っていたものが、急に目の前にあった。贈ってくれたその人に、何必館の絵だと教えられ、以前見た時の様子も戻ってきた。それからは、京都へ行くといつも寄る何必館に、その絵に逢いに寄った。

ここしばらく、逢ってなかった。今年の誕生日も近くなった頃、通勤の帰りに駅ビルの自動ドアを通ろうとしたらそこにその絵があった。思わず足が止まり、そばに寄った。近くの世田谷美術館で山口薫展をするというポスターだった。
来てくれたんだ、そう思った。
きつい年だったから。絵の方から、来てくれたんだ、そう感じた。
それからの毎日、朝に夜に、そこにポスターは架かっていて、大丈夫だよと励ましてくれているようだった。誕生日もやり過ごし、その絵を目の頼りに往来するうちに、ある朝、別な絵になっていた。

近くにいるうちに、必ず逢いに……、と、思いながら、気づけば最終日。結局、またクリスマスプレゼントトのようなものか……歩きながら思わず笑っていた。自然の描く美しい葉の色を見ながら歩く。風は冷たいのに、寒桜は陽に向かって花をつける。逢える……。

こんなにたくさんの山口薫作品を見たのは初めてだった。戦前、戦中、戦後と、時代と絵との変遷がよく見えた。群馬県榛名への疎開中、農作業をしながら描いていたらしく、このあたりから牛や馬、田畑のモチーフが多く現れる。そして終戦の頃、銃を描いた絵を満たす赤、紅、茜。何と様々な赤だろうか。怒りとか、血とかいうイメージではない、美しい哀しさを感じる赤だった。そしてその後、削ぎ落とされるように、絵は具象から抽象に向かい、病をえてからの切ない美しさには妖精のような透明な空気感すらある。

絶筆のその絵の少し前の作品「サラサラ粉雪ふる」音のない静かさは少し淋しそうで、それでもやさしさに満ちている。‘やさしい’という言葉はあまり好きじゃないが、それはそれしか謂いようない、心温かくなる、やさしい絵。
赤の絵では「矢羽根飛ぶ」に魅せられた。織物のような微妙な息づかいのある赤、さまざま。空気を一緒に織ったのだろうか、色にふくよかさを感じる。モチーフは銃から矢羽根に変わり、具象から抽象化したけれど、奥行きある赤は時を経てそこに繋がったと想った。

「おぼろ月に輪舞する子供たち」では、紅い馬がいる。牛や馬のモチーフはどんどん変化して、この作品では馬を中心に抽象化してきている。そして山口薫が若いときから好んだ菱形、田畑を抽象化した絵にもよく描かれている。
この絵の真ん中、子供たちの踊る中にある菱形めいた花壇を、私は花咲くお墓かな……と想っていたけれど、大地そのものなのかもしれない。

画家は、ちょっとお茶目な、愉しいところのある方だったらしい。小さな貝で作ったおもちゃや、ノートの走り書きなど、生活の楽しみ方に独特なやわらかさを感じる。扇子に風景をスケッチし、ペンで、「ポータブル手動式作風器涼風おのずから湧く扇子かな 風と共に去る」と書いてある。暑い夏の陽が見えるようだ。

制作に行詰っていった山口は、ウィスキーと煎茶を交互に飲みながら過ごす日々だったという。胃がんになって手術、治療をしたのは女子医大だった。そして 60歳、女子医大で亡くなった。私はそのとき、五歳。それから十五年後に女子医大で働き、そして今、山口薫の絵に励まされる。不思議なこと。ささやかな「点」が、後に「糸」に見える。いや、見たいのかもしれない。生きてみなきゃ、わからない。

世田谷美術館から、扉にクリスマスリースのかかる住宅街を歩いて、玉川高島屋へ。ずっと思いながら、ずく(=?)がなく後回しにしてきたこと、「眼鏡を作りに」行く。老眼も始まったのか、とにかく見えない。目が疲れて痛くなる。こんな状態では、新年を迎えても先など見えまい……と、重い足を向ける。

検眼の小父さまは、さすがプロ! デパートなら、値引きはないけど人は揃えているかも……と思ったとおり、検眼しながら色々な話を聞くことができた。目は体力と同じで、筋力という意味で男性の方が調節機能の落ちるのは遅いらしい。男女差というよりは、筋力差ということらしい。目の筋肉は今更鍛えるわけにいかないから、眼鏡でよい調節を目指すしかない。結局、今まで矯正しなくて済んでいた乱視を矯正し、近眼の調整をしてもらった。そして新しく、レンズ゛下部の方だけ少し近視を弱くいれておく、特殊レンズ゛にすることで初期老眼に対処することになった。遠近両用は未だちょっと……と思っていたので、この提案は嬉しかった。眼鏡を外せば見えるんです……が、そのまま適ったようなもの。あとは出来上がるのを待つだけ。どう見えるか、楽しみ。
よく見えるようになった眼鏡をかけて、また来年も絵を見よう。これからは、信頼できる歯医者さんと、眼鏡調整師さんは、友、いえ杖かもしれない。大事にしよう。

* 京都祇園の何必館は、妙に里のように懐かしい。懐かしい匂いがする。館が出来上がるまでに、いろいろ梶川とも話し合った。オープンは、当然、村上華岳展と山口薫展と、魯山人や富本憲吉のものが並んだ。梶川は、記念にと、山口薫の少年時代の「絵日記」を呉れた。画集も貰っている。
「珠」さんは、「おぼろ月に輪舞する子供達」の他に佇立した作があったと書いているが、題は挙げていない。何かな。

☆ 秦先生   馨
七十三歳、おめでとうございます。
前にもお送りした気がしますが、母が同年同月の生まれであること、不思議なご縁を感じます。
親孝行の気持ちの薄い私は、母の誕生日の翌日に実家に行った時も、何もせずに帰って来てしまいましたが・・・。
私の誕生日になると、一所懸命「肩たたき券」や「お手伝い券」を作ってくれる吾が娘を見ると、情の薄い自身をふりかえってちょっと反省したりしています。
先生のこの一年がお健やかなものでありますよう。

歌をお送りしたいと思いつつ、時間が経ってしまいました。
気の向くままに書き付けていたものなので、いざお送りしようと見直すと我ながら「もう少し」と思うものが多く、絞ってしまって大した分量ではなくなりました。(かと言っても、お送りするものも「うーむ」という感じなのですが。)

日々を送る中で、思うこと考えることはたくさんあるのですが、三十一文字にふわりとつかみ取る技術は中々身につけられないらしく、この気持ちを刻もうと思いつつも逃してしまった瞬間もいくつもあります。
心理的な瞬発力がいつか身につけられるといいな、と心に留めています。
以前お送りした中で先生が直して下さったものを見ては、一文字の威力にひれ伏したい心持ちになっています。

幸四郎の千回勧進帳、ドキュメンタリーの前半を見逃してしまいました。お孫さんへ教えられている様子など拝見したかったな,と残念でなりません。
雀さんのメールの中にMIHO MUSEUMが出ていたのを読んだ翌日に、若冲の最晩年六曲一双発見の記事を新聞で読みました。   MIHOの館長が鑑定されたのだとか。新聞に出ていた小さな写真でも息を飲むほど力のある絵で、若冲かどうかなどどうでもいいと思わせるほどでした。
絵画というのは文学と同じく、年を取るごとに境地の広がるものなのだと。
反対に数学や作曲などは、どうして若いときでないと才能が煌めかないのだろう,とそんな話を主人としたりしています。ただ、岡潔氏は、東洋人の場合、数学でも境地が年ごとに開けてくる、と書いていらっしゃいますが。そして鈍才が努力でそこそこまでいかれる分野と、決して到達できない分野と。
化学や生物は前者でもいろいろと成せるものが多く、鈍才の一人としては化学をやって正解だったなぁなどと笑ったりもしています。

話がどんどん逸れていってしまいそうなので、このあたりで。
記録的にあたたかい冬至だったそうですが、いよいよ本格的な寒さが来るようです。
くれぐれもお大切にされて、良い年をお迎え下さい。

その山の大木ふたつ深呼吸する音たてて雨匂ひ落つ  (ほか約二十首)

* 山かぜに雙の大樹は息づきて匂ふがごとく雨粒落とす

やすらかに眠らまほしと思いつも父よ母をぞ守りあれかし

* 父よやすく眠りたまへと祷(ねが)ひつつ現身(うつしみ)の母を守りたまへとも

* ありがとう。歌は、別に保存して丁寧に読んでいます。初めの二首をこんなふうに私なりに読み取りましたが。 湖
2008 12・24 87

* maokatさん、珠さんの歳末の文章を「e-文藝館=湖(umi)」の「論説」「随感随想」室に展示させてもらった。

☆ 丹波篠山紅葉古刹ツアー   湖雀
青垣町檜倉の高源寺、青垣町沼の円通寺、山南町の岩屋山石龕寺。これらを〈丹波紅葉三大名刹〉というそうですね。雀が参加したバスツアーはそのうちの円通寺を省き、代わりに丹南町味間奥にある大国寺を加えたものでした。
焼き討ちされた丹波には現在国宝の仏像がなく、15体ある重文のうち5体を所有するのがその大国寺とのこと。日本一低い分水嶺というのも初耳の、見知らぬ国、兵庫丹波。古寺と仏像に加えて地名も興味をひきました。行き先が、タキ、タカ、ヒカミの3郡、しかもそこには三国岳が3山、三岳が1山あるというのですから、どれほど霊的な場処かしらと思いました。
黄や紅で身を飾った山々。そのかたちは三角定規のようでぼやけたところがありません。ニシキという地名をいやおうなしに憶える紅葉の渓流を、橋を渡り渡り右に左にと見てゆきながら、不粋なコンクリなどない川岸と流れの中に点在する大小の岩に目を奪われ、二本の鉄路が馬蹄形をした闇に吸い込まれていく景色や渓流を透かし編みするように架かっている小さな鉄橋に、感激のため息をもらしました。
篠山川の支流が流れる谷間。奥まった集落の狭く曲がりくねった道を山につきあたるように進んだ先に大木の切り株と標石があり、小さなお堂がしずまっていました。
銀杏の落ち葉は黄金色に輝く繻子となって弱まった日光を射返し、本堂の前には深紅の紅葉が枝を広げています。周りは白い花がひそやかに咲く茶畑があるばかりで、人の声も器械の音もわたしたちバスツアーから発する以外ありません。
大化改新の頃建立されたという安泰山大国寺では恰幅のよいご住職がお子さまおふたりと迎えてくださり、少し遅れて清楚な奥様が熱々の晩秋番茶とおみおつけをふるまってくださいました。
案内されて本堂に上がると見慣れぬ薬師如来坐像とそれをはさむ大日&阿弥陀如来の坐像。ローヤルストレートフラッシュとでもよびたい陣容です。
大日如来ようの宝冠と衲衣に、阿弥陀如来と同じ上品上生の印相を組み、そこに薬壺を乗せた薬師如来像は、国内ではこの1体しか現存していないそうで、左右に控える持国天と増長天を合わせた5体が、重文とのこと。
本堂も重文で、古来のまま自然光と蝋燭のあかりで拝むことができるのはまさにかくれ古寺。国宝ではこうはいきませんものねぇ。
3日前の冷え込みで雪が降り、紅葉はくろずんでちぢんでいましたが、このあと巡った2宇ともに、なんとかまだもっている、間に合ったァと感謝したいような古寺でした。
紅葉狩に間に合ったというよりも、観光化で荒らされてゆく景気がかすかに辛うじて残っているという安堵です。そしてかなしみとすまないという思いがありました。自分ひとりの欲として間に合った喜びも覚えて自然とお堂や塔に安置されている古仏に、また鳥居や古びた社に頭を下げていました。
駐車場で地元のおじいさんから昔の参道のおはなしを伺ううち、苔にとけてゆきそうな古い石仏にちらばり落ちる紅葉や苔むした石段に散り敷いた紅葉が夕間暮れにくろくなり、小さなはだか電球の明かりがぽつんぽつんと灯されてゆきました。
くれてゆく山のいろ、風波も岩も隈にとけて見えなくなる景色とあわさって、なにかしらのカミおわしますという印象を残した丹波篠山の旅でした。  湖雀

☆ お元気ですか、風。
昨夜、やっていましたねえ、戦争のドラマ。
クリスマスイヴに戦争の映画とは、やるなあ、と思いましたが、花は完全に見逃しました。
どうしたら殺しあわずに生きていけるのだろうか、は、人類にとって、これ以上ない難しい命題だと思います。
いいお天気なのですが、風が強いので、ベランダの洗濯ものが飛びました。
「なんとなく意気のあがらない」風、強く吹いていてくださいね。
「エッセイを書く」ということ、やってみます。
ではでは。 花

* 「日記」「メール」という、書き流し書き飛ばしても構わないという気楽さ、あるいは安易さで書かれる言葉には、長もあるが短が大きい。ことに文学・文藝に気のある人が垂れ流すように日記で満足していてはいけないことを、わたしはよく承知している。
せめて少なくとも、ひとまとまりする「エッセイ作品」の下地を創っているぐらいの気で、下地から、いい「随筆」作品やいい「批評」作品へ仕上げて行くと良い。

* 高麗博物館の歴史担当者から、岡百合子さんを介して問い合わせがあった。さきの「文学講演集」のなかで「蛇と世界」「鏡花と蛇」について語っているところを、更に聴きたいと謂うほどの依頼で。年明けには法廷関係の用も予定されていたりし、また云うべきは大方言い尽くしている気がして、人前へ出ていってもう話すタネがないとお断りした。
2008 12・25 87

* 高麗博物館の歴史担当者から、岡百合子さんを介して問い合わせがあった。さきの「文学講演集」のなかで「蛇と世界」「鏡花と蛇」について語っているところを、更に聴きたいと謂うほどの依頼で。年明けには法廷関係の用も予定されていたりし、また云うべきは大方言い尽くしている気がして、人前へ出ていってもう話すタネがないとお断りした。

* メールを戴きました。
正直に申し上げて、わたくしのあれらの稿には、ありたけを吐き出していまして、あれ以上の余裕は、もう無いのです。
書けるだけ書いてあり、不審や疑点も、モノにより調べて行かれれば、探索なされば、ほとんど突き止められることばかりです。
今一つ、わたしは「蛇」が徹底的に苦手で、これらを「書いて」いるのも大変なガンバリなしには出来ないほど、なんです。
苦手に思う生物的・心理的な理由の根に蟠って、不当な人間差別や社会差別が在るであろうと思う反省を乗り越えたく、あえて「蛇」小説も書き「蛇」論考も書いてきましたが、容易なことではありませんでした。
そんな次第で、真面てに「蛇」について人様と話し合うのは、いつも、叶わない堪らない気持ちです。
ペンでの演説と、鏡花を語っての水神論とで、目下わたくしに可能な全部を吐き出しています。あとの追究などは、どうか皆さんにお任せしたいと存じます。とても大きな、意味深い大事な課題が此処には在ると信じています。
みなさまのご勉強に成果を祈っています。秦 恒平       2008 12・25 87

* 飯島愛という「出演者」を、大概の場合わたしはかなり気に入って観て聴いていた。表情や発語や言葉に、ある種「もののあはれ」と人生とが感じられた。盛大な自由を風船のようにとばしつづけながら、不自由の糸を手元にシッカリ掴んでいる人のように感じて、意識的な生き方にそれはつきものの「あはれ」であるなと眺めていた。
孤独な死が報じられたとき、この人の場合とは質的に大差はあるが、孤独な女性達の、また男性達の自殺がこのさき増えに増えて行くだろうという無惨な予想もしていた。

* 東工大で、「孤独と病気と兵役と貧乏」とを、どの順におそれるかと、千に及ぶ学生達に問うたとき、彼等エリートたちは、兵役はまず考えにくい、貧困は考えていない、と切り捨てていた。
孤独と病気とを恐れる学生が、五対三ほどの差であった。
学生が兵役を恐れないのは、労働者が団結を忘れているのと同じほど鈍感なのだし、未来の貧乏は自分たちに問題じゃないという楽観も、のんきなものだと思わせた。
そのことは、今は措く、が、優秀な頭脳の青年達の大半が「孤独」をひどく恐れていた現実は、予想通りだった。孤独と孤立とは少し違うと規定すれば、学生達のオソレは「孤立」の方に傾いていたのだろう。

* 豊川行平という東大教授がおられた、わたしは当時看護系の雑誌の新米の編集者だったが、或る機会に豊川先生はわたしに訊かれた、「若い看護婦達がいちばん常日頃考えている、望んでいることは何だと思う」と。わたしは言下に答えた、「結婚」でしょうと。先生は暫く黙ってわたしの顔を観ておられ、やがて溜息をつくように「きみ、よく分かっているねえ」と信じられない顔をされた。
わたしは、小さい頃から叔母の茶の湯や生け花の稽古場に入り浸って、年上の、あるいは年頃の社中のにぎやかな会話を聞いていた。どんなに性格や仕事や環境がちがっていても、彼女たちが言わず語らずねちっこいほど堅持している希望が「結婚」であるのを察するのは、そう難しいことでなかった。看護婦だから結婚を無視してほかに特別の希望を持っているとは思わなかったのである。

* だが、女性でも結婚願望が二の次ぎ三の次ぎになってゆく時代が来ていると思うしかない世相の変転を、否定出来なくなった。
煽りで、家庭をもって安心して仕事に向かいたい男性たちの「結婚できない」時代もモロに来た、津波のように。
そして労働者は労働組合を足蹴にし、若い男女は結婚を、したければいつでも可能なことのように幻想しはじめた。フリーターたちが、労働はしたいときにすればよいものと考えたのと、じつによく似ている。
まちがいなく、フリーターたちは路頭に放り出され、まちがいなく結婚して家庭を持てない人たちの孤立と孤独は深まり、不幸な死すら避けがたくなってゆくのではと、わたしは恐れた。
わたしは、お節介だとは思わずに、親しい学生諸君(大方男子)に結婚を本気で求めるようにと勧めた。結婚しさえすればいいのではなく、結婚生活とはとほうもなく奥深く難しいものだが、その難儀を身に抱くと抱かぬとは、また大きな差になる。
失敗する結婚の多いことは知っていた方がいい、が、だから結婚は無価値などとは謂えない。

* 比較的身近なところでも、定年近くまで独身だった、経済的には何の問題もない男性の淋しい自殺を、わたしは聞いている。『こころ』の「K」や「先生」は「淋しくて」自殺した。彼等は、そして作者の漱石はその淋しさを「寒しい」と表記している。身にしみ入る寒さ。その「寒さ」を、若い美しくすらあった女性の孤独死に感じ取り、寒さは強か伝わってきた。
2008 12・26 87

☆ 花も、
クリスマスの騒ぎようは、あまり好きではありません。
多くの日本人にとっては、単純に「パーティー」のチャンスのようですね。
最近は、ハロウィンまで賑やかに楽しむようになってきていて、「ナンダロ」と思います。
お元気ですか、風。
一昨日の公民館大掃除で本棚の担当になり、本を大量に出し入れしたせいか、肘から下が筋肉痛です。
風は、いつもこんなふうに腕を痛くしながら、『湖の本』を発送してくださっているのかなあ、と、感謝の思いです。
読者として今年もほんとうに、よい年でした。ご本に風のぬくもりを感じられる時間は、花にとって、とても大切。
今、少し、風が吹いているみたい、勉強部屋の窓から見える空に、小さな雲が流れて行きます。
なかなか素敵な、ピクチャーウィンドウなのですよ。
ではでは。

☆ 光琳
21日は私の方こそ、お祝いして頂きありがとうございました。
いっぱいお話したい事があるはずなのに、お顔を拝見すると何にも言わなくても楽しいです。
お話しなくても、ご一緒しているだけでお話した以上の気持ちでホッとします。
不思議です!
お茶碗、枕元のお気に入りの飾り棚にメインで飾っています。
もちろん、寝ぞうが悪くても割れないようにガードした場所です。
とても優しい、やわらかい女性を感じさせるお茶碗です。
お紐は母が元通りに結んでくれました。
母は独身時代お茶を習っていたそうです。
お紐結びも先生に教わっていたそうです。
何故か言い忘れてしまいましたが、21日は観世能楽堂で能を見てから伺いました。
菊慈童でした。
以前見た葵上とは違い、賑やかで華やかでした。
おじい様のお誕生日にぴったりだと思いながら見てきました。
あまりにタイムリーでした。
色々一度に体験して、とても贅沢で幸せな一日でした。
まだまだ年末までいっぱい映画を見たり、本を読まなくてはいけません。
ゲド戦記は今二巻までいきました。
以前お話しした川崎市アートセンターで、フランス映画特集があります。
学校のライブラリーにも保存されていない古い映画が盛り沢山です!
全部見たい! 幸せです☆
しかも学生は安いのです。
今日もまた風の強い日です。
冷え込みますので、暖かくお過ごし下さいませ。
またメールいたします。

* 佳い字なんだけど「琳」だけでは少し淋しく、「光琳」さんにしよう。
あの茶碗は、陶聖「仁清」の原作に「倣」えてあった。仁清の風を襲ったのは尾形乾山であるが、より深く濃く兄の尾形光琳が絵で体現したのが「仁清風」だと謂えなくない。仁清の真骨頂は、器胎を軽やかに薄くひき上げる轆轤の神技、そして趣向の華麗、絵付けのみごとさ。
あの六和さんが模した「扇流し」の茶碗は、絵付けの優しさ美しさとともに、轆轤でひきあげながら茶碗に大きなひねりがついている。技として、たいへん難しいのであり、箱に書かれた「倣仁清翁」の四字は六和さんの自信の表現であろう。
いつか平成の「光琳」さん、お母さんのあとをついであの茶碗でお茶を点てるかも知れない。あのひねった器胎で茶筅をつかうのも、なかなかのコトになる。楽しみ。

* 「菊慈童」は、菊の葉におりた露の滴りが不老不死の薬となり、七百歳の長寿を保ったという祝言能の名曲。わたしの上げていた梅若研能会の切符で、松濤の能楽堂に先ず行って、それから鮨の「高勢」へ来てくれた。わたしの誕生日と重なっているのは知っていた。気の利いた「お祝い」をしてもらっていた。
2008 12・26 87

☆ 今年をふり返り  珠真
みづうみ、お元気ですか。
maokatさんの論説を読んで、この一年考えてきたことと深く共鳴するところがありました。何かを買うという行為にもっと自分の意志と責任と覚悟を持たなくてはいけないという思いを、今年ほど強く抱いたことはありません。

平和ボケ日本、巨大消費社会にどっぷりつかって、私たちは安易に物を買ったり、買わされすぎてきたと思うのです。安くお得に買うことより、正しい方法で作られた物を適正価格で買うことが広く認知され大切にされなければ、あらゆる分野で志ある作り手が滅びるしかないという危機感を強く持ちました。
国内の良き生産者を支えるために、安全な食品は高くても購入するという決意を一人でも多くの消費者が持たないと、生産者は生き残ることが出来ず、日本はとんでもないことになりましょう。
農業だけでなく、林業でも漁業でもあらゆる分野で、消費者は賢く物を買うことにより、社会により良いかたちで貢献できるはずです。

酪農家が採算がとれなくなって廃業が急増していますが、日本のような自給率の低い容易に飢える国が、牛乳という貴重な栄養を失うことは恐ろしいことです。乳製品が今の二倍三倍の価格になっても国内の酪農家を絶やさぬようにする必要がありますでしょう。国の公的支援が大切なのは勿論ですが、この国の展望なき愚かな政治に期待しては手遅れです。消費者の意識を変えるほうが話が早い。消費者が安いことを優先して食品を購入する時代はもう終わりにすべきと感じます。
着物もあと五年で礼装用の本当の意味で上質なものは生産出来なくなると危惧されています。源氏物語の姫君たちから綿々と続いてきた雅びな着物文化もあとたった五年で終焉とは無念です。一度斜陽になった業界を救うことは不可能に近く愕然とします。
すでに黒留袖などの高級生地を作る産地が倒産廃業の嵐で皆無に近い壊滅状態。その後の染め、刺繍の加工も職人の高齢化と採算割れ、後継者不足に喘ぎ、呉服店も流通の不明朗さと高額ローン規制などの影響で廃業ばかり。帯にしても、新しい織機を作るメーカーすらない現状とか。
来年の成人式の晴れ着は中国産の安い生地にインクジェットでプリントされた着物を、そうと知らずに高く買わされた娘さんたちで溢れるわけです。『細雪』姉妹の、昭和の日本人が着ていたレベルの着物はどんどん手に入らなくなっていきます。
作り手を支えようと財布を細らせても頑張る消費者が増えなければ、こういった伝統工芸関係は着物に限らず早晩全滅です。時代の流れでしかたないと諦めて、日本から消えてほんとうによいものなのかどうか、今一度考え直す時期でしょう。高額のエルメスのバッグを購入出来る消費者などは、せめて年に一枚でも着物を作って生産者を支えてほしいと願うのです。

出版についても似たような状況が感じられてなりません。安く大量に売ることを前提とした粗製濫造が続いて、このままではほんものの藝術をうみだす作家が日本から払底していくでしょう。文藝として優れた日本語の遣い手を世に出し、作家として大切に育み守る志はどこに消えてしまったのか。読者は出版社に踊らされずに、自分でほんものを選んで価値ある本を購入していかなくてはなりません。
もし優れた日本語による文藝が育たなくなった時、日本語は世界共通語の英語に対して単なる現地語に落ちぶれ、日本文化も日本人も間違いなく滅びていきます。

考えてみれば「湖の本」は、採算を考えない秦恒平という稀有の作家のただ孤独な営為ではありませんでした。極上の文藝を守りたい、最良の作家=生産者の価値ある作品をなんとしても守りたいという読者=消費者の決意のようなものが存在したからこそ、もうじき百巻にもなろうとするまで二十数年も続いているのです。自画自賛するみたいですが、これは生産者と消費者の理想のかたちに近いと言えるかもしれません。(湖の本の価格が適正であるかどうかについては、そうではないとお察ししまして申しわけなく思っています。)

消費行動は受身であってはならない、世界への意思表示である。今年、私が痛切に感じたことでした。

相変わらず長々と書きましたが、これがたぶん今年最後のメールということでお許しください。
今年良かったことは、細切れの時間をやりくりして毎日継続し、読みにくい大作などカタイ本をかなり読めたこと(みづうみの足元にも及びませんけれど)、みづうみの「私語」を最初から読み返せたこと、地唄舞にやや進歩あって名取になったことでしょうか。
新しい年についてはわかりません。みづうみに色々ご指導いただけたらという小さな願いが叶えられたら嬉しいことです。「知ったこっちゃない」と拒否されるかな。
年末年始、主婦は肉体労働でヘロヘロになります。みづうみはお仕事に励みつつ、重苦しいことも抱えながら、美酒と御馳走の日々をお過ごしかもしれません。すべてほどほどにお元気でお幸せにありますように。どうぞ佳いお年をお迎えくださいませ。

* ありがとう。心より感謝申します。すこしでもいい春になりますように。地唄じゃないが、いつか「奴さん、どちらへ」でも教えて下され。

☆ 鴉へ  鳶
十二月もいつの間にか26日。今日が御用納めというところもありますが、連日ニュースで耳にする派遣社員の解雇もこの週末は一段と厳しいのでしょう。本当に不安に駆られる世の中が現出しています。
暮れから正月にかけて忙しい日々が始まります。4日から7日まで韓国に行きます。円高でアジアに出かける人が多いとか。十月に既に決めていたことなので便乗ではないと思っても、やはり世の中の大勢のなかに自分が浮き流れているのを痛感します。韓国は二
度目。前回は慶州など地方を回ってソウルは見ていないに等しいので、今回はソウル中心に気楽に歩くつもりです。
今年は自分の弱さに嫌でも向き合った年でした。弱さと仲良くなった年でした。
来年は飛躍とは言えないまでも「飛び躍る」年にしたいです。飛び躍ってばかりじゃないかと笑われそうですが。
詩の原稿は、一枚が36行に設定してあるワードで約250枚分、もう少ししたら収拾のめどがたつと思います。今の時点で助言をいただけたら、どんなに嬉しいことでしょう。が、鴉の厳しさが分かる鳶としては、甘さを断つしかないのです・・。
今日はこの兵庫地方にも積雪注意報が、京都は初雪、東京も寒いことでしょう。
くれぐれもお体大事に大事に。風邪ひきませんよう。
良い年をお迎えください。

*「動かなければ出逢えない」と口癖の友人画家は、よく自作にそう書き込んでいました。動けるのは、からだが健康だから。こころも健康でありますように。おおいに飛躍あれ。いろいろ閾値を跨ぐには、努力と同時に、無心の勇気も。わたしは、絵のように真実枯木寒鴉であれればいい境涯ですが。枯れ木が折れ、いつ落っこちるか分かりません。カアカア。
2008 12・26 87

☆ お元気ですか、風。
花の年末年始は、今日は午後から、夫と、東京の街なか、六本木あたりをめぐり、一泊します。
車で行きます。
明日は、帰宅の途次、御殿場のプレミアムアウトレットへ寄る予定です。
いいコートがあったら、買いたいなと思っています。
月から水までは家で過ごし、元日から四日は夫の里に帰ります。
五日までが冬休みです。
ではでは、風、お元気で。

* 歳末から年始へ、生活を移動する人はそろそろ動き出す。
勤務の昔は、妻子を安全に先に京都へ送るために、汽車の切符を苦労して手に入れた。自分はとり歳末勤務を終えてから東京を発った。
歳末の京都は、思えば嫁である妻には仕事も多く、しんどいことであったろう、が、それなりに、時間が出来れば一緒に町歩きを楽しんだ。晩はよく繁華街へ出歩いた。
幼い娘の手を引いて、わたしは京の古社寺もよく経巡った。三十三間堂、醍醐三宝院。ニッカのカメラで沢山娘を撮した。
新年には祖父母や叔母も一緒に、祖父の思い立ちで写真館で写真を撮らせたりしたこともある。建日子も生まれていて、娘には祖母が丹精の和服の晴れ着も着せた。祇園で花簪なども買った。
夢のようである。しんしんと底冷えする京の大歳であったが、心持ちは暖かかった。

* 京は雪だそうだ。
2008 12・27 87

* 同僚理事の早乙女貢氏が亡くなった。わたしよりだいぶ年配。合掌。
わたしより若い人も亡くなってゆく。
2008 12・27 87

☆ あんと! 2008年12月28日17:32   悠
息子のおしゃべりが急速に発達しているようです.
返事は「あーい!」.最近上手に返事をしてくれるようになりました.
「お風呂に入ろうか?」ときけば「あーいぃ!」と片手をあげて元気にお返事.「お買い物に行く人」と聞けば「あーい!」と返事をしながらコートと帽子を探しに行く.お返事が出来るときはすんなり次の行動に移ってくれます.
昨日から「あんと」が加わりました.”ありがとう”らしいです.
大好きのジュースを渡すと,「あんと」.「どういたしまして」とこちらは自然と笑顔に.駄々をこねて獲得していったリンゴジュースをあげた場合でも,思わず許してしまいます.

* 「悠」さんの日記に最良の「題」ができた。
「あんと!」
もう大方は「e-文藝館=湖(umi)」に掲載されているが、総題に迷いがあった。迷いは吹っ切れた。心から楽しませてもらったよ、「あんと!」
2008 12・29 87

☆ 石堂町   湖雀
煤払ふ忍者屋敷の忍者たち  (八鳥泗静)
大晦日にむかって天気が荒れてゆくようですね。くれぐれもご自愛のほど。

団塊の世代の自発的また勧誘的な動きの一つに“ひとり修学旅行”があるらしいです。一昨年は比叡山、昨年は高野山と、主人は“ひとり夏期講習”といったおもむきの夏休みを続けました。
特に高野山は千里御前が亡くなった宿の伝承地や苅萱堂、真田父子蟄居の九度山と、興奮を引き出す材料があり愉快な旅をしたようです。
暮れの休日出勤のはなしをしていた過日、「旧校舎の講堂入口にかかげられていた佐久間象山像は河野通勢の筆によるものです」と、彼の展覧会が正月8日まで信濃美術館で開催中である旨の連絡が主人のもとに届きました。
盆正月の帰省はもう何年もしていません。
親戚も年寄り、銀行、農協、役場の用事がたまっていることもあって、この10月、主人は派遣の仕事を一日休んで休日につなげ、久しぶりに帰省しました。 9時に開くのを待ち兼ねて用を済ませ、長野市街を散策したところ、五輪で変わり、いままた寂れ、むかしのひかりいまいずこという淋しさだったとのこと。
多賀大社や伏見稲荷など関西の名だたる大社寺の門前町もかなり寂れていますもの。
はなの世は仏の身さへおやこ哉
長野に帰って時間があると石堂町を歩く主人が、いままで往生寺に一度も行ったことがないというのが不思議でした。
女子校が2校あって、長野市近辺の男子高校生にとって特別な地だったンですって。いまだに「オウジョウジ」と口にするだけでも恥ずかしいらしく、善光寺からそっち方向にはとても行けないということみたいです。
今回のみやげ話は、芭蕉が妙高山を遥拝したのではないかという理由について、西行が妙高山に行っていたらしいだけでなく、木曽義仲が信濃国司だったとき妙高山に神社を建立したからではないかというのです。まつった神の一柱が、新羅明神とか。 湖雀

* maokatさんが、この「雀」さんに何だったか渾名をつけていた、遊行小町だったかしらん。最初、わたしは「囀雀(てんじゃく)」さんと名を献じたが、最近は親愛をこめて「湖雀(うみすずめ)」さんと呼んでいる。
マル九年を越したこの雀さんの囀りは、いまや「地誌的」「民俗的」にたいした内容を抱え込んでいる筈。
2008 12・29 87

☆ お元気ですか、風。  花
よい天気ですね。
ご近所の掃除機や高圧洗浄機の音に煽られるように、大掃除の真似事をしています。
何も寒い時季にはりきらなくても、普段からこまめに掃除していればいいのですけどね。
さてさて、東京は、行く前は面倒に思っていましたが、行ってみれば夫とふたりで、まあ、楽しみました。
御殿場アウトレットは、いつもながらたいへんな人でした。
広い敷地に更に店舗が増えていたので、目当てのものだけを探し、疲れすぎないようにしました。
考えていた赤地にタータンチェック模様の冬コートはなく、近いものはありましたが、鏡で見てみると、赤がきつい感じがし、結局、オレンジ色のコートにしました。
商品は、既に春物に移行してい、コート自体少ない中、半額で、お得でした。
さて、花は、これからガラス拭きです。
ではでは。

* むかしむかし、妻が大学を出るまえ、東京の兄夫婦の家で正月を過ごし、オレンジ色に細い黒でタータンのオーバーコートを買って、着て、京都へ帰ってきたのを思い出す。
楽しんで、観て、買って、正月を迎えられるのは、この時節、幸せなことである。いつまでもと願う。
若い人たち、年のいった人たち、だれにも平安な新年が来るといい。
2008 12・30 87

☆ ゆっくりしています。  08.12.31 11:48  花
山陽道に着くのは、明日です。
今日は、することもなく、朝寝坊をして、のんびり過ごしています。
長時間の自動車旅は疲れますので、体力温存です。
お元気ですか、風。
風も、年末年始くらいはお仕事を休み、ゆっくりなさってくださいね。
ではでは。

* さすがにメールも少ないなかで、「花」さん歳末の声をもらった。北富士からはるか吉備の国まで自動車旅とは。運転好きの人たちには苦にならないと聞くが、感心する。ご無事で。
2008 12・31 87

* マイミクの「うきふね」さんが、「朝の一服」にコメントを下さっていた。
「mixi」に参加し積極的に日記を書くことで行動にもハバが広がって、それがまたいい日記につながるという、望ましい連鎖。感心する。自然当然にマイミクも増えている。

* 「mixi」の「マイミク」というものが人によりどう想われているか知らないが、人により、うまくその仕組みを生かしている。「うきふね」さんなど佳いお手本のように見える。
お茶のお稽古を実に多年熱心につづけている人でも、人のためにお茶をたててあげることは滅多になく、簡略な作法ですら客を迎えてお茶を点てて差し上げたことは無いと聞くと、わたしは驚いてしまった。驚いて思わずその人に、「それじゃ「mixi」に参加してながら、マイミクをちっとも増やさないのと同じだなあ」と言った。
「それ、うまい譬えですね」と感心しながら、たぶんその人は何かしら思い当たったのでは無かろうか。

* その日の「朝の一服」には佳い作品が並んだ。大晦日、大歳の最期に、もういちどそれを読んで頂き、「うきふね」さんのコメントを記録させて頂こう。

☆ 猪鍋(ししなべ)や吉野の鬼のひとり殖ゆ   角川 春樹

「言霊の鬼、前登志夫氏」と添えてある。私には分かる気がするが、前氏を知らぬ人には無理だろう。それならば採るまでもないようなものだが、この句、そんな限定を大きく超えた魅力がある。たんに一人の現代歌人をほめるだけでない、もっと初原へ帰って「鬼」そのものへの強い愛を感じさせる。
鬼が「ひとり殖」えた…、それがなぜ作者の喜びになりまた私の喜びになるのか、理づめに説く気も起きないがいわば「鬼の世界」を信じているのだ。むごいばかりな「人の世界」に無い、貴い秘密を抱き込んだ真実を信じ愛しているのだ。「吉野」はそういう世界だったと、古いものの本には証してある。だが「吉野」ばかりか「日本」中がひろくそういう世界だった。昭和五九年『補陀落の径』所収。

☆ この祭はかなしみ多し雪が疾(はし)り鬼が裸体であることなども
見捨てられ追はれし村も遠ざかり鬼のしづかにねる雪の洞   春日井 建

今は昔朝けの堂に栗鼠は来て籠(こもり)の鬼と遊びけらしな   木山 蕃

春日井の昭和四五年『行け帰ることなく』から二首、木山の昭和五四年『鬼会の旅』から一首を採った。日本中に、「鬼祭」「鬼会」といえる催しは数多い。が、何故かという事までは人はあまり考えない。自分とは関係がない…という気もするのだろう。そうだろうか。ここに挙げた歌で「鬼」は雪のなかを「裸体」で「見捨てられ追はれ」て、わずかに村はずれの「雪の洞」や「堂」に籠もりながら、人外に栗鼠などと遊んで心をやっている。まぎれもないそれは敗者の境涯のように想われ、人はさも「鬼」だもの当然かのように思い切って、顧みない。そこを敢えて顧みて本当に自分は、自分たちの歴史は、敗者でなく勝者のそれであると断言できるのかどうか、よく思い直してみたがいいだろう。日本の歴史で、もっとも「かなしみ多」く、「愛」に欠けていた部分として「鬼」の世界への偏見と差別が、ある。自分だけは「鬼」ではないなどという思い上がった誤解から自由にならない限り、日本人の暮しに、真に高貴な「自由」は確立できないだろう。

☆ わが合図待ちて従ひ来し魔女と落ちあふくらき遮断機の前   大西 民子

前の岡井隆の歌でいう「通用門」が、この歌では「遮断機」という一層毅然たる表現に転じている。「われ」と「魔女」とは異なる世界を踏み越えて変身の間際の、同じ二つの顔に相違ない。この歌でも「われ」と「魔女」との価値判断はしていない。出来もしない。「われ」のなかにいつも「魔女」は潜み、「魔女」として生きる暮しが「われ」の暮しでもある。お互いにしめし合わせて不都合なく生きて行くよりないと、世界を分かつ「遮断機の前」は、両者が慎重に瞬時に打合せを遂げる秘処なのである。むろん作者が勤めの退けどきや、通勤途中の踏切などにうち重ねて想像してみるのは、「岡井隆氏」の場合と同様、いっこうに差支えない。ただ、そこで読み止まっては面白くない。これらは私のみる所、自身および「生きる」ことへの、まぎれない、「愛」の歌である。昭和三五年『不文の掟』所収。

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ウキフネ 2008年12月30日 21:17 「鬼」
ミクシィで、秋にいただいた大きな課題。私の中の不在の「鬼」
能の鬼の面をみると、恐ろしいより哀しみを思います。
今日の3首。続いて大西さんの魔女の1首に、来年への生き方を示されたような。大げさですが、足の立ち位置のようなものを思わざるをえません。
「鬼」に対しての解説を読ませていただいても、まだまだ理解が届きません。
ー 「鬼の世界」が貴い秘密を抱き込んだ真実を、愛し信じている。ー
自分の中の「鬼」を見ようとしない事は、自分自身以外の人に対しての愛の不足でしょうか。
自分だけは「鬼」ではないと偏見と差別を持って別の世界を見ている自分がいるのも事実です。
世の中にしっかりと「立ち向かい」が出来ない、平衡感覚だけで過ごしてしまいがちなことが、自分自身が自由でないことです。
やはり難しい課題です。が、考える機会をいただき有り難く、しっかりと受け止めて過ごしたいと思っています。
「朝の一服」連載を、来年も写真と共に楽しみにしています。
どうぞ平安な良い新春をお揃いでお迎え下さい。
2008 12・31 87

☆ 本年もお世話になりました。
ご厚情を賜りましたことに心より御礼を申し上げ、どうか来る年も同様に、できましたら本年に増して、と、伏して心よりお願い申し上げます。
今日はいちにち小雪が舞いました。そちらも冷たい冬のから風が吹いていることでしょう。
くれぐれもおん身お大切に。お幸せなお年越しでありますようお祈りいたしております。 湖雀・名張市
2008 12・31 87

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