* 誡められていたのに、よく飲んでよく食べた。そうそう、朝に舞い込んだ宅急便の「おせち」は、或る映画女優の事務所から建日子へのものと判明した。帰りに、三浦景生作、巧緻に創られた陶器に染色した春めく香合やなにか、いろいろ持たせてやったのと一緒に、持って帰った。今は二人とも舞台の稽古に全身を縛られている。調理されたいい「おせち」は役に立つ。
彼らが帰ったあと、忘れていたたらば蟹の豪快な脚を五本も平らげて、ワインを。絶好味。いやもう戦中の欠食児は、いつまでたっても口いやしい。勘弁なと云っておく。
さて年賀状の返事も書かなかった。機械をしめてやすもう、とても眠い。もう十五分で元日も通りすぎて行く。それでいいのだ。
2005 1・1 40
* 二日に聴いた太左衛さんらの「四季の壽」のめでたい詞がしきりに耳に蘇る。めでたい語彙なのではないが、「京の町のヤショーメ」の「ヤショーメ」は、亡き父の口ずさみで聴いた頃から印象的だった。「八瀬女」である。
あの唄に何度も「蛤子、蛤」と唄われる。蛤はむかしから女性になぞらえ謂われてセクシイな喩になっている。我が家は、昔から、大晦日にはじまり三が日、晩の食事には蛤椀を欠かしたことがない。その蛤を買いに行くのが、東京での暮らしではわたしの役目にされていて、大晦日に町に出掛けて三十、四十と買って帰る。今年の蛤はとても上等で美味かった。
あすは、七草粥で雑煮を祝う。野菜嫌いなのにわたしの大好きな粥で、こればかりは青い野菜が真っ白い粥を清くいろどり、見るからに嬉しい。
2005 1・6 40
* 小豆粥の雑煮を無事に祝う。正月の三が日(白味噌仕立て)、四日(澄まし焼き餅)、七日(七草粥)、十五日(小豆粥)、新年のそれぞれの美味風味であった。鏡割りの善哉は、糖尿病検査の後日へまわしてもらった。むずかしくいえば女の骨正月とかいろいろあり、二十日頃までお正月であったろうが、我が家ではもうずうっと、十五日でお正月を通りすぎることにしている。
今朝は冷え込み厳しく、小雨がやがて雪になりそうな気配だが、昼過ぎには妻と出掛ける。秦建日子作・演出の『月の子供』とやら、もう十一日から始まっていて、今回は長丁場、二十三日まで続く。好調のようである。もう一度は観にゆく気でいる。
来週は藝術座の澤口靖子の芝居もある。病院の診察もある。こう遊び忙しい一月ははじめてだが、多年「労働」のボーナスだと思っている。
2005 1・15 40
* 明日の診察は無防備。 昨日も今日も酒を飲んでいる。
栃木の大苺を二箱も戴き、毎度夫婦して一パックずつ連日賞味し、まだ有る。このごろ、これに砂糖を少し使っている。美味い。
近江のたねやの銘菓も幾種も戴いて、あまりうまさに親の敵のように戴いてシマッタ。辛抱のない私である。
だれかが、「ほんとうに美味しいと思ってなら、いいんですよ」と宣った、が、あれは悪魔の囁きか天使のお告げなのか。甘いものが欲しく欲しくなったら、「代わりにわたくしを食べて下さい」というひっくり返りそうなメールで諫止した人も以前にいたが、あれも、悪魔の囁きか、天使のお告げであったのか。
明日が佳い日でありますように。
2005 1・18 40
* 妻が友達と晩の音楽会に出ていたので、五時にはひとり家にいて、帰るさ買ってきた桜餅二つ、麩饅頭一つを晩飯の代わりに。いやいや、飯がほんの少し残っていたのを、小鍋で出汁粥にして卵でとじたのが、なかなか美味であった。
2005 1・19 40
* 舞台に満足して、新宿経由、ここで若い友人のために我々も加わってちょっと面白い買い物をした。そして別れ、われわれは大江戸線で練馬へ戻り、帰宅。戴いていた美味い肉をしゃぶしゃぶに、川崎の妹が暮れに呉れた佳い白ワインで、おそめの夕飯にした。
2005 1・22 40
* 三百人劇場なら帰りに巣鴨の「蛇の目」で寿司と決めていたのに、池袋ではアテはずれ。簡単にと、東武デパート地下の「寿司岩」カウンターで、特上の握りに、妻は蟹を、わたしは鯛と穴子とを加え、ビールの小瓶を二本。タネは新鮮で吟味されていた。満足して、快速電車で帰宅。
2005 1・25 40
* ステーションホテルで、閉店したバー「ベレー」のすまママの八十歳の誕生祝いをした。百四十人も集まり、おおかたは漫画関係の人達。文士らしいのとは一人も顔が合わず、小学館の相賀会長と少し立ち話して。妻と、うまい食べ物をほどほど食べ、いろんな飲み物をほどほど飲み、最後に作ってくれたママの水割りを飲み干して、早くに失礼し、寄り道しないで帰宅。なんだか、どうっと疲れた。
この一月は、ザ・ロンゲスト・マンスであった。二月も楽しみたいが。だが春近づくにつれ、花粉症だけでなく、気の重ーいこともある。
2005 1・29 40
* さわやかに佳い味の寒鰤を肴に、小山富士夫のめずらしい形のぐいのみで美味い日本酒を堪能した。
2005 1・30 40
* 巣鴨の「蛇の目」鮓と思って歩いているうち、こぢんまりとした田舎風仏蘭西料理と看板を上げたビストロを見つけ、とびこんだ、これが、当たり。おいしくて、店の気分も良くて、サービスもよくて、大満足。こういう店を見つけてあると、三百人劇場へ通うのがいっそう楽しくなる。
太平洋戦争の終末、原爆が落ち御前会議の聖断でポツダム宣言を受諾し無条件降伏するところを、異様なほど緊迫した気持ちで、西武線で読みふけりながら、帰った。
2005 3・16 42
* 銀座文春画廊で故幸田侑三画伯の遺作展を観た。奥さんとお目に掛かり、いろいろお話しも聴いた。幸田さんの繪は、生前から或る程度継続して「知求会」展で観てきた。
この会には水芭蕉を描き続けた佐藤多持画伯もおられ、佐藤さんは最近亡くなられた。幸田さんは新世紀に入ってやがて亡くなられた。最期まで表面張力の清水のこぼれないまま静かにはりつめた清冽な具象画を描かれていたが、画学生の頃にはやはり抽象を通ってこられていて、その抽象画にも透徹した幸田さんの具象表現と端的に臍の緒のつながっていることを納得させるものがあった。物静かな、病弱ながら凛とした画風にほんとうは燃えているような詩情の把握をわたしは感じていた。わたしの華岳を書いた『墨牡丹』などがご縁になり、湖の本もずうっと講読して下さったし、その後も奥さんが支援し続けて下さっている。奥さんは銅版画家である。
むかし懐かしい文春画廊での遺作展は、寂しい中にも故人の画境で埋め尽くされて、しみじみと思いがけず長時間繪に見入っていた。わけて下さるなら買いたい作が数点あって、目星をつけておいた。しかしまた奥さんの元気な間は分散しないのがいいのかも知れない。
幸田家は父君の昔から銀座アカネヤ、製菓店で喫茶室もかねていたが、幸田さんはその父君とは幼くて死別、画業と家職との両方を兼ねていた時代もあったらしいが。
わたしより五歳の年長でしかないが、どこかに大正のハイカラな教養のうかがえそうな静かなダンディだった。わたしが繪をみにゆくと、寡黙に、しかしじっとわたしと歩をともにされて、ひと言二言の感想にもじっと聴き入るような人であった。
* こういう懐かしい美しい時間をすごしたあとは、何となくわたしも胸を開かれて、それでと言うのもヘンだが、銀座でイチバンうまい、銀座でいちばん高い、銀座でいちばん量のある「洋食」をと思い立ち、三越裏の「ミカワヤ」に入った。うまくて量があって、決して高くはなかった、いや安いよと思った洋食のコースは、デザートに至るまで贅沢で、ハウスワインも佳いのを出してくれ、満腹し満足した。
三年あまり前に、岡本かの子の小説を電子化してくれた人に、お礼の昼食を御馳走したのがこの「ミカワヤ」だったのも思い出した。アイピロウを貰ったのも思い出した。
2005 3・31 42
* 歯医者、今日は代診のはず。神戸さんは、だがやがて退院、復帰されそうと聞いている。ぜひそうお願いしたい。お大事に。もうやがて出掛ける。
* 神戸医師が退院されていて、わたしたちのために診療に出て来て下さった。少しずつでもいい、はやく恢復していただきたい。
* 帰りのバスを途中下車し、以前にわたしが見付けて時折寄っていた、ぐりる「リヨン」で、昼飯にした。柔らかポークのカレーライスを食べたのが美味かった。ソムリエもいるかなり本格のからりと明るい店で、コースの部屋と、ワン・ディッシュの部屋とが分けてある。こういう店を、あちこちに見付けておくと、とても便利、とても気分が好い。
2005 4・14 43
* 六時半過ぎて散会、さっさと出て、クラブに直行し、まるでトロのようなサーモンを切らせ、「響」をゆっくりダブルで五、六杯堪能し、空腹だったのでチャーハンを頼んだ。名大におられた山下宏明先生の「平家物語と祇王などのこと」(抜き刷り)を面白く読んだ。わざわざわたしへの「学恩」を謝する献辞が付いていて、恐縮した。また同僚委員城塚朋和氏の中国煎茶器をめぐる細かに興味深い考察論文にも、思わず時と場所とを忘れた。
帰途は、貝塚茂樹の「世界の先史時代」を楽しみ読みながら、混んだ電車に揺られていた。
2005 4・15 43
* 皇居を見下ろしてお茶をのんだあと、帝劇モールにもぐり込んで、おそめの昼飯に「きく川」の鰻で菊正二合を分け合った。歓談、二時十五分に別れて、わたしは一路有楽町線で、保谷までと思ったが便が合わなかったので、池袋下車して、東武の「木村屋」プチパンを七八つ買い、どうしても欲しくなり「仙太郎」で、たっぷり餡の最中を一つ売って貰って、地下道をゆらゆら歩き喰いしてから保谷へ帰ってきた。歩こうとしたら、雨がバラバラ。目の前のタクシーに飛び乗った。
2005 4・16 43
* 兼好法師はいい友、あしき友を徒然草に挙げている。わたしには、どうか。
良き友は、酒を勧めてくれる人、止めてくれる人。悪しき友は、酒を勧めてくれる人、止めてくれる人。
いくらでも飲んでしまう、それが、難。広い世の中には、わたしが酒など飲めぬ男と思いこんでいる人も、ときどきいるから可笑しい。
2005 4・17 43
* 山口の俳人から、名高い佳い米を13%にまで磨いて醸した純米の清酒「獺祭」が、二本、贈られてきた。妻の報せでわたしは仕事を中断し、駆け下り、その場で二合余をきゅうっと、清水を吸うように飲んだ。
美味かった美味かった、美味くて堪らない。有難い。
そして二階にもどり、昭和天皇の死のことをしばらく考えて過ごした。
2005 4・21 43
* 歯医者に。帰途、先週同様「リヨン」で軽食の昼。来週は土曜に。
2005 4・22 43
* 夜前は、床に就いてから二時間半も五種類の本を読んでいた。歯医者を忘れていたわけではないが、八時に起きたときはかなりつらかった。それかあらぬか、歯医者の帰り道、ひどくからだが重くだるく感じられた。「リヨン」で空き腹に生ビールをああ美味いと思って飲んだのが、小瓶一本の少量なのに、よくまわった。保谷の「ぺると」でコーヒーを飲んでマスターと妻と三人でお喋りしている間も、すこしだるかった。
だが、仕事は仕事で、はかどらせている。まだ九時半をまわったばかりだが、今夜ははやくやすもうと思う。
にわかに、明日の午後、都内へ出かける用が出来た。さほどではないが、今日は風もよく吹き、眼のふちがヘンに熱ぼったい。
2005 4・22 43
* 夫婦で歯医者通いも三週目、そのあいだに、すっかり新緑一色に。点綴して、つつじやさつきやすみれ系の花花が新鮮無垢な花色を誇るように、咲き燃えている。閑静な住宅街に歯科医院はあり、家々は思い思いに好みの花を咲かせている。静かで、日光は透くようにあかるく、うっとりする。春爛漫、こういう日はそう再々はないものだ。
* 帰り道、バスを途中で降り、フランス料理の「リヨン」で、今日は昼のフルコースを奢る。ワインがよく、満足の食事だった。保谷駅ではスーパーで買い物、「ぺると」で若いマスターと雑談して、ゆったり歩いて帰宅。
2005 4・30 43
* 人によると十日間も連休だそうだ。勤め人はどんなにラクだろう。わたしたちもお相伴して、なにもかもほっぽり出してノンビリさせてもらいたい。ただしノンビリすると、つい酒を飲み、ものを食べるからいけない。辛抱のない爺ぃになったものだ。
2005 4・30 43
* 京都の鮓の「ひさご」から筍が届いている。今晩は一キロほど太りそうだ。有難し。血糖値が高めに推移し、消えていた掌のジンジン感がまた戻ってきている。
2005 5・3 44
* 京のやわらかい良い筍に次いで、栃木から、小振りに愛らしいような甘い西瓜を四つも戴いた。はや、夏気配がした。
2005 5・4 44
* 妻と、四週目の歯医者。行きは曇っていて、医院へは小雨を逃げるように十一時前に入ったが、帰路はうっとりする晩春の晴れた空に、たなびく雲の白さ。
* 江古田駅近くに、「リヨン」ではなく、「甲子(きのえね)」という蔵造りめく、とても佳い蕎麦屋がある。土間店がゆったりし、家の造りはどっしりし、壁の繪がみなおもしろく、蕎麦だけでないいろんな酒の肴が、みなこの店独特の風味と工夫で出され、さらにうまい酒がある。そして出される食器も酒器も素朴で、しかも雅。
なにしろ同じ歯医者へ四十年できかない。いつ知れず見付けてある食べ物店のなかでも、この蕎麦の「甲子」は、はなはだ上等なのである。妻はとろろ、わたしは二段のざるをもう一段追加して、純米の「沢の井」を。この徳利も猪口も、突き出しの和え物もよかった。池袋へ出て普通の和食に高い金をつかうよりよほど気が利いていて、時間も取らず、保谷駅からゆったり歩いて帰った。黒いマゴが、「お、もう帰ったの」という顔で陽あたり良好の前の道まで出迎えてくれる。
2005 5・7 44
* 気温と服装とお天気・元気が合っていたのか、街は一日快適だった。仕上げは「福助」の佳い寿司と酒とでさっぱりし、コーヒーは、線路下のスタンド「ベッカー」で、チョコ・クロワッサンを一つ、ほの甘くてよろしかった。有楽町、銀座、日比谷辺が、いまぶんいちばん気持ちが落ち着く。そして持参の校正も、往来の車中ふくめて、ほぼ予定通りはかどらせた。
2005 5・25 44
妻と歯医者にゆき、かえりに沼袋の寺筋、日蓮宗の久成寺や真言宗の密蔵寺などの木深い杜を見上げ、明治寺百観音をみてから西武新宿線の沼袋駅まで歩いた。新宿線の各駅停車で所沢まで乗り、駅ビル四階の「ななかまど」という土佐料理の店で、簡単な会席弁当を肴に、「鬼辛」など三種類の超辛口の酒を、朱塗りの枡でけっこうに楽しんだ。酒を注ぐのに溢れるほどサービスしてくれたが、三合とは無い。妻は、赤芋からつくった焼酎をロックで。のんびりした広い店で、家へ遠くもなし、気楽に二人で喋ってから池袋線で帰った。
『墨牡丹』上下の注文が来ていた。うまいものを食おうという「会」の案内も来ていた。
2005 5・28 44
* バルセロナ土産の白ワイン。さっぱりしていて、酔いが深い。すこぶる美味い。今晩は、この瓶を楽しんで飲み干そう。「亜刺比亜人エルアフイ」も読み終えた。京薩摩焼の周辺もアタマに入れた。月曜火曜水曜は、気持ち、早めの夏休みにもしてしまおう。
2005 6・5 45
* 岡山からの贈り物、文字どおりの「葡萄」酒が、美しいロゼと澄んだ白とで届いた。 2005 6・5 45
* さて、京都はむやみと暑い梅雨前の日照りで、対談後のアタマのくらくらするにまかせ、反射的に、西の大原野、青葉に燃える「花の寺」の、さすがに蝉の声こそまだだが、桜青葉の青々とむれている西行出家を伝える「西行桜」の名刹を慕わずに居れなかった。
あれから何年になるだろう、いま、盆暮れにすばらしい昆布を送ってくれる祇園の料亭「千花」へ、汗みずく「花の寺」からタクシーでいきなり乗り付けて初めて暖簾をはねたとき、板場に、西行の生き姿ではないかと想うような古武士のような板さんが、いちげんのわたしをきちんと迎え入れてくれたのだった。
わたしはそれまで「千花」を識らなかったが、運転手が「佳い店」と奨めてくれたのだ、いや、まことに佳い店で酒を飲むにはあんなに上等のカウンターの店はないと思い、以来、何かというとものにも紹介し、また店を訪れる。
糖尿の患者には或る意味で酒の進む店は控えねばならないのに、控えきるには本当に惜しい、懐かしい店なのである。あの時の生き姿西行はんは、代が変わっても今も接客の間合いもたしかに、土間で話し相手をしてくれる。
花桜ならぬ青葉の匂う花の寺に、人影などありはしない。それだからこそ、夢うつつの幻影はたちまよう。
2005 6・7 45
* 雨中、すぐ渋谷から中野へ移動し、駅のわきの寿司「つねの匠」という珍しい名前の店に入ったのが当たり。妻の注文にもわたしの注文にも、神経の行き届いた上ダネ、うまい料理が出て、ぐいのみの八海山もうまかった。おかわりをした。清潔な漢字の広いゆったりした店でとても気に入った。生け簀から出したばかりの鯖の握りのうまかったこと、びっくりした。
2005 6・10 45
* 劇場を出たら四時過ぎ。ちゃんこの「若」の店も覗いたが、五時からで、二人とも気は無かった。交叉点をわたって、用品店でわたしのシャツを買ったら、サービス期間だと言って白い長い傘を呉れた。五時前だったが蟹の「瀬利奈」に入り、蟹しやぶのコースを頼んだ。ビールから初めて、剣菱。二人とも満腹した。借り切ったように廣い店に我々だけであった。
2005 6・21 45
* 失礼をあえて顧みず、この「述懐」を闇の彼方にある多くのハートと、わかち持ちたい。
* にがい ジャム
「私語」の上では清酒党のようにお見受けし、お口にするものも日本食が多いようですので、さすがは京風、わたしのような雑食民とはちがうわい、と思いつつ、お送りしました。トーストなど召し上がるのか、ジャムなど口にされるだろうか、と鳴りを潜めておりましたところ、ご返信をいただき、やっと安堵いたしました。
やがて三十にもなろうという孫が、どういう考えなのか、大学を出るとすぐ信州に根を下ろし、冬はスキーのインストラクター、夏は高校・大学など運動部合宿の「賄い方?」みたいなことをしております。将来をどう計画しているのだろう、と心配するのはわたしばかりで、親が黙認しているものを口出しもならず、黙って視ております。
その孫の知り合いが地場産の果実を使ったジェリー飴を作っておりましたが、五年ほど前からジャムを作るようになりました。地場産だけを扱っていますから季節により、あるいは材料の出来不出来によって扱う果実も違ってくるようです。
子や孫や曾孫などの出来不出来と同じようなものでしょうか・・・
今回のご本、たいへん楽しく読ませていただいております。いま、「葬」の章を読み終わりました。たいへんな遅読ですが、わたしは、どの場合も二三ページ読んでは戻って読み返します。自分なりに納得してからでないと先に進めません。
読書の楽しみを初めて知ったのは、同じ東京の下町に住んでいた豊田正子という少女の書いた「綴り方教室」という本の版権に、問題が発生し、新聞種にもなりました。その経緯を説明してくれた小学校の先生から、オー・ヘンリーの「賢者の贈り物」を読んでみなさい、と教えられ、正月のお年玉で買ったのがはじまりです。
一度読んで大笑いし、二度目に「はてな」と感じ、三度目のときは鼻の先が急に痛くなって、涙がとまりませんでした。ああ、これが愛、これが人生なんだ、と教えられました。(その年、二二六事変がありました)。
以来、一度通読したぐらいで、感想など手軽に述べるべきではない、作者の真意、狙い、といったものをじぃっと深く見極めるべきだ、と思うようになりました。
ただ、今回の「葬」のなかに、《「生きて生きている」ものと「死んで生きている」もの》という言葉がありました。はて、わたしはそのどちらに属するのだろう、と考えてしまいます。
戦後すぐのころ、田村隆一の詩に、
わたしの屍体は
立棺のなかにおさめて
直立させよ (うろ覚えです、失礼します)
詩そのものもさりながら、そのときわたしは、「立棺」という文字に凍り付いてしまいました。「立棺」というものが実際にあったのだろうか、当時、辞書などというものはなく、図書館もありせんでした。新刊本は茶色がかったザラ紙だったし新聞もタブロイド版だったと記憶しています。確かめ、調べることもなく、わたしは考えました。わたしの父が死んだときは「坐り棺」というのでしたし、母の場合も、昨年失った妻のときも寐棺を使いました。四千年昔のエジプトの墓から出るものもすべて寐棺です。(新たに発見されるものの中には寐棺でないものもあるかもしれませんが、)
「立棺」というのは、田村隆一の造語かもしれない。もしそうだとすれば、なんと凄いことだろう。
言うまでもありませんが、棺というものは屍体を収める器のことです。それが立っている。
・・・ひょっとするとそれは、現にいま立って、動いている、この肉体のことを示して言っているのではないか・・・
わたしの考えは間違っているかもしれません。ですが、わたしはその考えに囚われ、慄然としました。わたしはそれまでも、それからも、そしてこれからも、迂闊に過ごす時があるかもしれない、そのとき、わたしは生きて、しかし実は死んでいるのです。
棺を装って、きらびやかに装って、しかし中身は腐臭激しい屍体なのです。
ああ、あのころ、(ときとして今でも)、民主主義、いや民主主義者と自称するやからが何とも許せなかった。きのうまで一億玉砕と叫んでいたおなじ唇で、今日は一億総懺悔などとうそぶき、A級戦犯を裁いたのだから、禊ぎが済んだ、などと厚顔な口をきく。
そう、棺を覆って終わるのではない、武田泰淳の「ひかりごけ」のように、人肉食で命をつないだのかどうかを裁く権力は、人々の汗でのどを潤し、血を啜っている。
とんだ辛口のジャムになってしまいました。お許しください。
肉体労働が続くようで、しかしお躰のほうが大事です。おいといください。 甲子
* いま、繰り返し読んだ。大正十三年が甲子歳であるから、そのお生まれならほぼ一回りお年上である。力在る語気と述志の張りは、心根太くお達者なことを感じさせる。それが先ず嬉しかったと、今は感謝に添えてそれだけを言い置く。
夜も更けている。おやすみなさい。
ジャムは、何の掛け値もなく、こんなに美味いジヤムは知らないと叫んだほど美味かった。ズシーンと大きい瓶にいっぱい入って、半ダースも。林檎と葡萄と。むろんわたしは、パンも、うまいパンは大好き。ジャムと来ると、舐めすぎて胃をこわした漱石を思い出し自戒するほど、舐める、いや食べてしまう。妻は隠し場所に苦慮するが、わたしはまた見つけるのも巧い。
2005 6・25 45
* 委員会のあと、ふらりと銀座で下車し、一丁目の、へんに懐かしい地下の「第一楼」で、簡略に空腹を一応満たし、紹興酒二合とビール。「世界の歴史」は、ヘレニズム文化の拡散を、プトレマイオス王朝の推移などとともに読み込んで。まっすぐ銀座一丁目から帰る。
2005 6・27 45
* 余儀ない用事で、三十五度の日照りの下を、市役所と郵便局とへ自転車で走った。真夏、真夏。汗が絞れるほどになったけれど、快感も。途中、かりんとうを製造している工場に寄って、いろんなのを買ってしまった。砂糖まぶしなのに。身の細いあげたてのが好きで、毒々しい茶色の太いのはあまり好きでない。甘いのも辛いのも満遍なく好き。なんだか、今急に、汗をだくだく掻きながら熱いすき焼きが食べたい。しかしこの暑さではやはり悪趣味かなあ。
すき焼きというと浅草の奧の「米久」、あの間口の広い古い昔の旅籠の入り口のような古びた風情が懐かしい。浅草の花火のあとに一人で立ち寄り、酒が過ぎて立ち損なったりしたのも懐かしい。こう暑いからよけいに思い出す。それでしばらく遠慮していたが、小一年してまた行った。むろんそんな粗相を覚えている様子なく、安心して美味しく食べた。畳座敷のきわに古びた泉水がある。それがちっとも綺麗でないのまで落ち着く。
2005 6・28 45
* 市役所に行くのは面倒であったが、途中に「かりんとう」の工場があり、これが目当てで日照りの下を飛び出していった。いろんな種類があり、詰め合わせた箱で買ってきて、二種類二袋をいちどきに食べてしまい、妻に叱られた。京土産の羊羹も、いろんな種類が小さく詰め合わさっていて、これにも誘惑される。おいしいジヤムもある。糖尿病は所詮よくならないだろうが、気にかけてインシュリンには精勤に付き合っている。しかしあまり理性的ではない。理性という言葉がカントを学んだ昔からあまり好きでない。
2005 6・28 45
* 朝から何にも食べていないし呑んでいない、何処へも寄らずに七時過ぎには帰り、入浴して体重をはかったら、昨日より二キロもすくない。ではお蕎麦でもと、戴いたばかりの蕎麦をゆでてもらい、これも今日届いた萬歳楽のお中元古酒、大吟醸「白山」を有難く栓を抜いて湯呑みにイッパイ頂戴した。うまーい。血糖値はいっこう下がらない。
2005 7・2 46
* 作家の近藤富枝さんから御馳走を頂戴した。「小分け」した珍味のいろいろで、酒の肴には、ぴたり。岡山のまさに「葡萄」酒の白いのに、「小女子(こうなご)」小分けした一袋をあわせ、夕飯に。その岡山の、酒ではないとれとれの「葡萄」をいましも送って戴いた。感謝にたえぬ。そして、なんと横綱朝青龍の強いこと。魁皇のあれでよう勝ったと呆れた珍相撲。妻は葡萄酒の勢いをかりて、日課のピアノを「鳴らし」ている。脹ら脛の肉ががビクビク痙攣している。
2005 7・10 46
* 昨日近藤富枝さんに戴いた小分けの御馳走に、鰻の甘煮が入っていた。京の縄手の鰻茶漬を思い出していた。
わたしは、子供の頃からこの手の蛋白質が大の好物で、遠足の弁当に、母がなけなしの台所費用から肉を時雨煮ふうに煮て入れてくれていると、遠足そのものよりも嬉しかった。わたしは概して並んで大勢で歩く遠足というものに心の浮き立ったためしがない。歩くなら独りか、心知った人と二人で歩きたい。三人でともなれば、つい自分は独りになっている方が気安かった。
2005 7・11 46
* 鰻を食べませんかと誘って下さる人がある。鰻は比較的よく一人で有楽町「きく川」に寄っている。卒業生やE-OLDのおじさんを誘ったこともある。
いま単純に何か食べたいとなるとどうしてもあっさりした鱧のおとしなどに憧れる。が、先日行った西武の「たん熊北店」は、やや肩すかしを食った。銀座の「シェモア」で開店に一時間はやいとわかり落胆したこともある。何が食べたいだろう、今なら。銀座か新宿の「柿傳」八寸で、うまい酒がのみたい。わたしは少しも達観などしていなくて、要するに食い意地がはっているのだ。美食願望ではない、むしろ大食願望の方だ。
2005 7・17 46
* 委員会へ少し時間が早すぎると、有楽町「きく川」ですてきに大きい鰻の蒲焼きと「菊正」一合を平らげながらローマ帝政の頭のところを読みふけっていて、あわや遅れそうになった。
委員会は結果的に、わたしから提出していた、小栗風葉「寝白粉」を掲載するかどうか、また「読者の庭」をオープンする件、さらには六百に及ぶ掲載作品への道しるべの案内標を立てようという件だけで終始した。
作品の委員による推薦など、過去同じことを言い続けてほとんど何の成績も上げていないので、どう分担しようとも永い目では成績を上げることは事実上無理と分かっている。
根源は、「校正の能力」を委員に求めるしかない、他は何を言っても始まらないとわたしは痛感していた。
* 銀座へひとり戻り、「三笠会館」の「秦淮春」で、汾酒と紹興酒とをたっぷり、そしてうまいコース料理を食べ、満足して帰った。池袋まで、保谷まで、乗り越さずに、よく寝ていた。気の狂ったような雨には、一度もヒドク降られずに帰った。
2005 7・25 46
* 鶯谷からタクシーを使って浅草寺裏へ。四時半についた。ひさご通りの「米久」に直行、一人前、その代わり「トク」のすき焼き。御飯など遠慮。お酒一合。ぺろりと美味かった。このまえ「米久」へと思い立ち、生憎定休日で果たせなかったことがある。玄関で太鼓がドンと一つ鳴る。客は一人の意味か。すき焼きはさっさと片づけて、お通しの肉の佃煮でゆっくり酒をのみながら、ローマ帝国がじりじりと坂を転げ落ちていくあたりを読み進めた。
* 花屋敷から浅草寺へ。まだ日盛りの中で花火目当ての人がカビのようにひしひしと本堂にこびりついていた。路上にも溢れていた。夏空が高く、少し曇っていた。露伴の「五重塔」は名作だと云われるが、わたしはさほど好きだったことがない。そう思いながら塔をみあげてきた。
* お目当ての「ローソン」で、智恵も働かずに、なんとなく「サントリー」のダルマを一壜買ってしまった。またなんとなく「リッツ」を一函買ってしまった。自前でこれを飲み出したら花火どころじゃなくなっちまうと思い、缶ビールの心持ち大きいのを一つ買い足しておいて、そのビルの屋上へあげてもらった。今晩は太左衛さんは留守だけれど、是非どうぞと三度も親切にメールをもらっていた。
ここまで、汗みずくであったけれど、屋上は流石に風が流れていた。六時、まだ誰もみえてなくて太左衛さんの弟子筋の人が椅子を出してくれた。茣蓙に坐るより椅子が大助かり。サントリーのダルマは、「寄付」のつもりでその人に渡してしまい、缶ビールを少しずつ口に含みながら、屋上の夕明かりで難なくローマ帝国史を読んでいた。
追々人も見え始め、世話をしてくれる人から酒の肴やビールの追加などいただいた。隅田川の上流と下流といってもそうは離れない二つの場所から、夥しい花火が競うように打ち上げられる。わたしの居るところは、上流の花火が目の前に、手で掬ったり受けたり出来そうな絶好の場所。六時半、四十五分と、上と下、互いに迎え打ちに小手調べの打ち上げが始まり、七時になるともう宵空へ無数につぎつぎと打ち上がる。
取材か、客を乗せてもいるか、ヘリコプターの音も絶え間ない。
* なんと綺麗なものだろう、花火とは。感傷に襲われることもなく、心地よくいくらか米久の酒とローソンの、また振る舞いのビールとに酔い、とろりとした気分で歎声を放ち拍手をしながら、双眼鏡もデジカメも使って、ひとり大わらわに花火を楽しんだ。
八時半にきっかり終わる、終わり間際の乱れ打ちの華やかであったこと。一つ一つの花火の工夫や華麗さをいま此処で書き表してみせるサービス心はないが、やっぱり一人ででも、来て良かったと想った。
太左衛さんのお嬢ちゃんが母親の名代できちんと挨拶に来てくれたし、帰りには一人でエレベーターまで見送って、帰り道の混雑ぶりを案じねぎらってくれた。さ、もう高校に入ったろうな。行儀も良く浴衣も似合い愛想よろしく何より気働きが行き届いている、まだ幼くさえあるのに。もう何年も引き続いてみているが、すっかり大人しい少女になった。気持ちよく、さよならをして。
* 晩の奧浅草の賑わいを楽しみながら、帰りはもう鶯谷まで歩くと覚悟して歩いた。一人なら何でもない。入谷まで来て、ああ去年豪勢に喰った欧羅巴料理の「ビストロ・KEN」は此処だなと確認したし、他にも食欲をそそるいい感じの店は幾らもあったけれど、自重してどこへも寄らず、鶯谷駅から真っ直ぐ家に帰ってきた。
帰りは「戦争と平和」を読む。ナポレオンがモスクワへ入城しようとし、勿論降伏したロシア貴族団の出迎えがあると期待したのに、モスクワはもはやカラッポ。そういうところを読んでいた。アンドレイは重傷を負い死んだと伝えられているし、伯爵ピエールも、けったいな彼ならではの、混乱と冷静と分別と動顛のカオスのなかで、人の逃げ落ちたモスクワにうろついている。そして、アンドレイは実は瀕死のからだを偶然にも前の婚約者ナターシャのロストフ家の親切に抱き取られており、それをナターシャだけが知らされていない。
トルストイの「戦争と平和」やローマ帝国の歴史と隅田川の花火とが、何の撞着もなく互いに不純にもならずに、わたしの脳裡にきれいにおさまってくれる。それが安心というもの。
2005 7・30 46
* にわか雨もあり、やや過ごしやすい街なかであった。しばらくぶり街へ出て、不思議なほどはなやかに気が晴れた。夕方寿司の「福助」で、酒二合の前に呑んだ冷えたビールがとびきりうまかった。
2005 8・9 47
* (もう三時前になる。)第三部がハネて、九時半過ぎ。すぐタクシーでホテルのクラブへ。
妻は新しく入ったという海外のビールを小さなコップで。わたしはブランデー、そして21年ものの竹鶴。サーモンを切ってもらい、ブルーチーズなども。結婚退職して行くという久しいお馴染みの女性と三人で歓談しながら、酒がうまかった。十時半過ぎに退散して、うまい工合に乗り継いで午前さまにならずに帰宅。佳いメールが幾つも来ていた。
そうそう妻が、新しい佳いボトルをわたしのためにキープしてくれたことも書いておかねば。なんと60.7度。
2005 8・15 47
* 帰りに酒を呑まない算段をして、池袋東武地下の「寿司岩」に入り、ビールの小瓶一本で、寿司は特上、さらにずわい蟹二貫と中とろ一貫を追加して、簡明な夕食。デパートを出る間際に、金柑ほどにまるめた餡いりドーナツ一袋を買ってしまって持ち帰ったところ、妻はピアノの稽古に余念無く、これ幸いと一袋(二十玉ほど)みな喰ってしまったが、一つ一つ小さく食べやすく美味かった。わたしを美食家だという人は間違っている。
2005 8・21 47
* 某氏の出版記念会、乾杯のアイサツをして、ほとんど飲み食いせず、すぐ出て来た。中村雀右衛門が稽古の前に来て挨拶。それぐらいなもの。
池袋に戻り、プラザの「つな八」で特上の天麩羅に五つほど注文増し、瓶ビールと冷酒二合のんで、帰る。帰るつもりが気が付いたら、所沢駅。ひばりヶ丘、東久留米、清瀬、秋津、所沢まで乗り越し。やれやれ。で、肩の荷が下り、やれやれ。うっかり「出席」の返辞をするものでない。
2005 8・29 47
* 帝国ホテルの昼クラブで休息。それから言論表現委員会に出かける。
議論は曖昧模糊、とても実務的な取りまとめの会議とは思われず、ビジョンがいっこう焦点も佳い輪郭も持たない。見えてこない。ナントカ成るだろうという、結果は見切り発車で、シンポジウムの案がアンになりきらずに団子に丸められた。
アンはアンであるから或る程度甘く出来ていても、どんな皮にくるまれて佳い菓子になるのか、とんと見えない。ネットの問題で「案」を大きくとりまとめようとするのに、肝腎のそのネットと、自身の手で日々組み合っていない人が、概念的な情報と判断だけで強引に結果をつくろうとすると、仮にパネラーの人選をしてみても、その一人一人が何を「役」としてどう求心的に話すのか、形のある繪柄になりにくい。会場に現れる聴衆の期待も事前に汲みとられず、また組みこまれていかない。
会議が、「合議」になっていないのだ、所詮練り上げたアンにならない、出たとこ勝負の駄菓子めく。ものの企画・起案・実現で会社時代から鍛えられた目には、だらんと、徒労感が湧く。
* で、徒労をなだめるべくまたクラブへ寄り、60.07度という新作のうまいウイスキーを数杯、角切りステーキと蝸牛・パンで、『戦争と平和』最終部を読みふける。伯爵ピエールとナターシャの、ロストフ伯爵とマリアの幸福な結婚生活。重苦しくみだれがちな会議の後味がたちまちに清められて行く。アイスクリームとコーヒー。機嫌良く退散して地下鉄に乗る。もうちょっと食べたいなと思い、西武池袋の構内で立ち食いのラーメンを久しぶりに。これも美味し。さらに機嫌良く駅からは小雨をさけてタクシーで帰宅。
2005 8・30 47
* 風が強まっているが晴天、朝八時にして暑い。颱風は日本海山陰沖を北へ向いている。
* 九時過ぎには家を出て築地聖路加病院へ。午後の雨降りも予測は半々、晩へかけ治まってゆくとか。
* 傘をつかう必要もなかった。診察は可も不可もなく、問題なく。
昼過ぎに解放され、銀座一丁目の駅を上へあがり、目の前の「シェ・モア」でフランス料理の昼食。フォアグラを主の、濃厚なオードブル。あっさりと松茸のコンソメスープ。鯛を中心のうまい魚料理、馬肉をソースでしっかり味付けた珍しい肉料理。デキャンタで少し軽めの赤ワイン。パンにバター。多彩なデザートとダブルのエスプレッソ。こってりと楽しんだ。
持参のプリントの書類を読みながら、ゆっくり二時間。そして足元の有楽町線ですうっと一本で保谷まで帰る。
往きの有楽町線では、目を閉じて海外の有力な女優たちの名前を百十数人まで数え、百人一首の作者を九十人あまりまで数えているうち、新富町まで着いた。帰りは「世界の歴史」中世のヨーロッパに読みふけって。
妻に、駅売店で「週刊現代」を買ってきてと頼まれ、勘弁してくれと言ったが、ま、息子の「連載エッセイ」を読みたいのだろうしと、売店へ立ち寄ると「完売です」と在庫なし。フーン。なんでや。
2005 9・7 48
* 聖路加へ行く妻にくっついて早く家を出た。銀座一丁目で別れて地下鉄をおり、さて日射しのギラギラする銀座通りにヘキエキし、以前歌舞伎座の帰りに寄った地下のイタリア料理の店に入って、スペシァルランチを注文。ちいさいビールと、可愛らしい女の子がわたしの顔を見ながらなみなみとサービスしてくれる赤ワインを二杯。そして中世ヨーロッパの歴史を楽しんだ。
2005 9・15 48
* うっとり眼をとじてしまうと、引き込まれるように寝入って行く。はっと目をあいて、だが、また眼をとじている。オリサイタルの前に、妻に強いて三鷹駅前で夕食に食べてきたロースカツが、久しぶりで、うまかった。あのときのビールがいまごろ眠気になっているのか、いま日付の変わる正零時。
2005 9・27 48
* 時計を忘れて家を出ていたが、三越へ行ったら、そのあと、真向かいのビルの九階にある上野精養軒へ寄ろうと決めていた。前に妻と、加藤剛の芝居をみたあと寄った。
九階で、すいている。今日もフロアをわたしが一人借り切ったていであった。ラムチョップをメインに、オードブル、スープ、パン、デザート、みな美味しかった。ビールと、から口のシェリー酒と赤ワインをならべ、世界史を読みながら一人の昼食をゆっくり楽しんだ。親切なウェイトレスが二人で面倒をみてくれた。ああいう静かな店が好きだ。
佳い食べ物の店をみつけるのが好きだ。着る物や持ち物にわたしは贅沢は求めない。
2005 10・1 49
*「夢の仲蔵千本櫻」は、日生劇場によくマッチし、密度もテンポもよく、とても楽しめる佳い舞台だった。前から四列目の真ん中、舞台にも花道にもまた脚をのばすにも絶好最適の席をもらっていた。感謝。
中村仲蔵というと、三遊亭圓生の名人藝の咄で隅々まで覚えているほど、下地がある。加えて浮世絵の写楽実像探索でも、仲蔵も、また中村此蔵の名にも、なじんでいる。仲蔵は、江戸歌舞伎の世界では名跡も門地も縁故もない、彼のいうところ「犬猫同然」の最低、「稲荷町」と呼ばれる下っ端役者であった。それが、江戸三座の一つ森田座の座頭千両役者にまで実力でのぼりつめた。奇蹟というに等しい事実であった。
その森田座で初の座頭芝居を打ち上げる舞台と、舞台裏・楽屋裏の錯雑とした成り行きを、仲蔵・此蔵という師弟役者が、筋を通して盛り上げて行くのが今日の舞台。
松本幸四郎が演出し主演し、市川染五郎が父子で奮闘する。片岡秀太郎、片岡蘆燕、上村吉弥、大谷友右衛門、市川高麗蔵、松本錦吾、澤村宗之助、松本幸右衛門らが、手堅くワキをかためて、ほぼ申し分ない娯楽性も意欲もある舞台。終始、義経千本桜が面舞台に演じられている設定であり、たとえば鮨屋の権太が此蔵最期とかみあうなど、巧に段取りが進み、ほろりと泣かされてしまった。
とことん楽しんだ。昔から贔屓の幸四郎、高麗屋。嬉しいほどの芝居見物だった。染五郎も着々大きくなって行く。さらにもっと、もっと、よく「踊れる」役者にと願う。
* はねてから日比谷公園でウォールバスケットの花展などを、ひろびろとした芝生で観て、一息入れてから帝国ホテルの「ザ・クラブルーム」十五周年記念のメニュで夕食を楽しんできた。シャンパン、そして赤・白のワインがサービスされ、洋風のオードヴル、和風のオードヴル、北京料理の鮑とブロッコリーの甘煮、そして寿司源の寿司、刺身と松茸御飯など、お好みに選べる六種の料理に、芝居の感想もいろいろ、文字通りに舌づつみ。満腹。有楽町線までそぞろ歩いて、帰宅。
* ねむくなった。夜更かししても、もう、どうにもならない。
2005 10・13 49
* 二キロもの精製されたクリームチーズを戴いた。ほかにもパック入りのクリームチーズやパイナップル味のチーズなども。ずしんと持ち重りのする一包みの純白なチーズに、ビックリしている。おいしい。
チーズもいろいろあるが、白いクリームチーズと刺戟のつよいブルーチーズが好きで、和洋の酒に合わせられる。芳醇な秋の御馳走を、感謝。風邪をひかずに健康でいられそうな気がする。
2005 10・24 49
* 午前からいま宵の六時まで、作業。京都の寿司「ひさご」から、沢山な松茸の籠が贈られてきたのを、汁にし、また牛肉ともあわせて、晩餐。体重増をあんじて大好きな松茸飯を控えている。西村五雲の「秋香」と題したついた土の香もする松茸の繪軸をしまい込んでいるのを思い出した。
2005 11・1 50
* 鈴本のあとに入った上野の「天寿々」で、一品「烏賊ですか、牡蠣ですか」と板さんに聞かれた。妻は烏賊、わたしはむろん牡蠣を頼んだ、今秋の初物だったが、美味かった美味かった。しかし牡蠣は慎重に食べた方がイイ。お奨めにしたがい、あさっての糖尿診察のあと、銀座日動画廊のちかくで個展を一つ観て、そしてどこかビヤホールで、わたしも生牡蠣や牡蠣フライを盛大に食べながら「少年」の校正をしてこようか。
2005 11・2 50
* 節食していたので、検査後、院内食堂でステーキを食べながら『少年』を念校した。上田さん竹西さん、また田井さんの有難い文章を読んでいると胸が熱くなる。
診察後に、銀座で松井由紀子さんの小さな個展をみたが、数年前に観たときは夫君の恒男氏が健在だった。NHKのドラマディレクターであった松井さんは、わたしが作家になりたての昔から変わらぬ有りがたい読者であったが、二年前に亡くなった。湖の本はその後も由紀子夫人がつづけて読んで下さっている。
繪は、前に観たときよりぐんと胸に触れてくる抒情の詩性にあふれ、簡略に似た筆法でありながら美しい音楽が画面からよく聴こえてきて、魅せられた。感心した。さりげない小品がよくみると緻密に描かれてあり、それが画面の上で昇華されているので静かに美しいのである。感心した。恒男さんから、ワイフが繪を描いている、観てやってくれませんかと声が掛かって初めて知った。
今回は、グンと佳い内容で、二十点ほどの小品のすくなくも半数ぐらいには心惹かれた。気に入った小品を一つ、家へ届けてくれるように画廊に頼んできた。
* 泉屋博古館へは脚の便がわるいとみて諦め、予定通り牡蠣フライでビールをと、ニュートーキョーに行った。牡蠣はやはり美味かったから、大ジョッキのビールもじつにうまかった。シーフードのパスタは余分であったかも知れないが、そのおかげで居座る時間がとれ、甲子さんにあずかって読んでいた小説を、また読んだ。
今まで読んだ甲子さんの他の三作より、この作がいちばん完成度の高い短編に感じられた。ごく幼い男の子のめから親たち大人の世界を眺めるというむずかしい書き方をわざわざ選ばれている。そして成功している。それにともなう瑕瑾はある、が、小説の力学や美学を歪めるほどではなく、やむをえない。むしろ、それらを蔽いとり、この作は深みも優しさも静かさも、あるもののあわれに光っていると感じた。しかも「時代」の鼓動が正確にとらえられている。ビックリするうまさである。川端康成賞の候補作ぐらいの妙味がある。
* で、気持ちよく満腹し、それ以上の寄り道もせず保谷まで帰り、しかし「ぺると」でちょいと歓談、歩いて家に帰った。家でまたすこし夕飯に肉を食った。今日はそういう日と決めていたのだから、それで、よい。
柿の木に柿の実が生りそれでよし 遠
2005 11・4 50
* 銀座の画廊で先日買った絵が家に無事届いたというので、それならと立ち寄って支払ってきた。それから「福助」で遅い遅い昼飯を食った。寿司職人がいやに若返っていて「握り」が頼りない。三年では若すぎる。飯がばらけるような寿司を食わせていてはいけない。肴は美味いけれど馴染みの職人が転勤したり店を替えて出て行ったりでは心細いではないか。
で、まっすぐ帰宅。
2005 11・10 50
* 幕間に、京都聖護院八つ橋の「生八つ橋」を、妻とうまいなあと言いつつ食べてきた。堅いのもイヤ、餡も敬遠。香ばしい生八つ橋が大好き。
人形町界隈もわたしは好き、此処には江戸の残り香がある。
* ひとり茅場町で下車し、「ペン電子文藝館」委員会に。委員会は、させることもなし。
* 倉持光雄氏を誘って、茅場町の駅近い小料理の「つくし」でよく飲みよく食べ、そして二人に共通の話題は、ハイ、歌舞伎。楽しんで楽しんで役者をあげつらい舞台をあげつらって、談論風発、二合徳利を四本倒し、倉持さんはナマビールも飲んだ。刺身、白子、白焼きのアナゴ、焼き椎茸、牡蠣フライとか何とか、好きなだけ食べて、さっと店の前で別れてきた。
家に帰ったら、倉持さん、どこかの最寄り駅から無事になんとかなど、我が家へ電話をくれていた。こういう話題が的をもって纏まる酒は景気がいい。
彼は、雀右衛門の熱い贔屓。わたしは、目の前の佳いものが何でも佳い。
2005 11・21 50
* 渋谷のなにとかいう背の高いホテルで建日子と会い、彼の車で中目黒の家などへ立ち寄ってから、麻布十番の宮崎料理の店「ひむか」で親子三人歓談、たっぷり御馳走になった。嬉しく楽しい、想えばあまりこれまでになかった時間であった。わたしは、なにも遠方まで旅行などしなくてもいい、こうしてこころおきなく飲み食いして話せれば、都内で十分に嬉しいのである。
建日子の目には、ずいぶんわたしの体力など落ちて見え、心配させているのかも知れない。ま、スローダウンは余儀ないこと、大きな怪我だけはしないように心掛けている。
建日子には心行くまでの仕事をしてもらいたい。結局は良い仕事こそ良い力になり、次へ繋がる。いいかげんなことをしてはならず、自分自身に羞じなくて済むように心も手も尽くしてほしい。
〆張り鶴の佳い酒を好きなだけ御馳走になり、好きなだけ食べ物も御馳走になり、母親も嬉しそうで、よかった。西武線では保谷止まりに乗った安心で、わたしはよく眠っていたらしい。
2005 11・24 50
* 昨日来のどんよりとした疲れで、正午頃まで寝てしまった。
富山のすばらしい鱒の押し寿司が贈られてきて、おまけもついた。墨を含んだ黒い烏賊の塩辛。鮓は、早速お昼に頂戴したが、鱒のほのかに甘味すらある上品なあじわいといい鮨飯のうまさといい、満悦。感謝。
2005 11・25 50
* 例によって一万円の会費が払ってあっても、わたしは、大混雑の中で立食できない。ほとんど飲みもしなかった。そして八時半、疲れているのでタクシーで帝国ホテルへひとり移動し、クラブにやっとひとり落ち着き、強い酒で、おきまりの角切りステーキ、エスカルゴを食べ、ほうっと一息ついた。空腹での強いお酒がジンジン身に沁みた。キープしてあるウイスキーの一本は、1990年余市で蒸留のNIKKA。アルコール分が67%もあり、わたしはそれを生のママ飲む。生のママでないと、せっかくの酒の香も味もうすまってしまう。ま、毒をのんでいるのと変わらない、愚の骨頂だけれど、ときどき此処へにげこんで、ひとり放心したり、お行儀のいいホステスと仲良くお喋りしている。此処だとまず誰とも出会わない。
しかし以前一度だけ、家のすぐ近所の人が、某出版社勤めの接待のためかなにか数人で来て客をもてなしているのと鉢合わせしてしまったことがある。
* 千夜一夜物語を読みながら帰宅。
2005 11・25 50
* 喜んで戴けて嬉しいです 我が家にも今朝ほど「鱒のすし」到着、さきほどの昼食で郷里の味を味わいました。押し寿司は全国各地にありますけれど、これには確かに北陸の香りがするのです。 ゆめ
* わたしは、もともと先ず「酢」の味が好き。鮨飯の味がだから、美味しい白米飯や白粥とならんで好き。そして年を取るにつれて佳い魚の味が好きになって (煮魚の腥いのは叶わない、)それで鮓が大の好物になっている。「食べる」となると鮓、天麩羅、鰻と思いつき、としのせいか鰻はやや後退しているが、先日京の縄手「梅の井」で食べた鰻はほんのり香ばしくすらあり、美味であった。
「梅の井」ちかく、四条縄手「蛇の目」鮓の鱧鮓も大々好き、そして酒なら四條縄手東の「千花」へ立ち寄る。ときには四條小橋西をすこし下がった「杉」へも寄る。河原町でなら四條少し上がる西の「ひさご」寿司がよく勉強して、大の人気店。ほんとうに贅沢をする気の時は、木屋町西の「たん熊北店」の座敷に上がり、ひとり、ゆうっくり喰って呑んでタンノウしてから東京へ帰りの新幹線に乗ったりする。祇園富永町から、一流割烹であった「浜作」が姿を消したのはじつに残念。ま、一泊二泊の京都でなら、今挙げたそれぐらいの店があれば、足りる、十分に。
四條寺町の西に、以前は仏蘭西料理の「萬養軒」があった。今はこれも姿を消していて残念。
肉や中華料理なら、寺町三条の「三島亭」のすきやき、中華なら河原町から姉ヶ小路へ入ったところの、なんとか謂った老舗が懐かしい。
ああ、わたしは何を「私語」していることか。
2005 11・26 50
* 「おまけ」に戴いた「黒つくり」墨をふくんだ烏賊の塩辛が、すこぶる美味。日本酒払底のため、ワインでこれを賞味、しろい飯にも好適で、いい夕食が出来た。美味いものは美味い、嬉しくなる。
2005 11・26 50
* 「美術京都」の発行元であるスポンサーから、川端の老舗八起庵のおいしく、しかも扱い便利に仕立てた「鳥なんば」を詰め物にして貰った。もう早くも歳暮の訪れ。おいしく戴いている。
2005 11・29 50
* 感謝します。
幸い、と言うか予想どおり「狭心症検査」は心臓肥大もなく、心電図にも不安なく、今後も半年一年に一度ずつ継続検査とていればいい、「お薬も出しません」と、完全に無罪放免。運動して瘠せろ。何処へ出向いても同じことを言われます。
* 二時に放免されたので、帝劇モールの「香味屋」に入り一揃えの定食を。ちいさい生ビールと赤のグラスワイン。感じの佳い昔ながらの洋食屋で、店内には落ち着いた高級感があり、わたしは贔屓にしている。ご自慢のビーフシチューとメンチカツ、その取り合わせ皿をメインに、オードブル、コンソメスープ、牡蠣グラタン、サラダ、パン、そして小味なデザート、美味いコーヒー。「南総里見八犬伝」をびゅんびゅん読み進みながら、店内に相客は無く、のうのうと食事も読書も楽しんだ。
2005 11・30 50
* 東京はあまりにデカイ都市だけれど、交通網に恵まれてもいて、移動が苦にならない。車中で読む本を持っていれば、時には、電車になるべく長く乗っていたい気がすることもある。都心から上野へ、また浅草へという移動は、このごろのわたしには、都心から渋谷や新宿へ移りうごくより、不思議に気楽である。一つには食べ物の店に気に入りの有ると無いとでもきまってくる。渋谷にも新宿にも、心静かに、鄙びていても美味くて落ち着くという店を今は知らないのである。
2005 12・2 51
* ああ、なんだか急に、新宿に「玄海」がいまもあれば、美味い鳥料理と鍋とが食いたくなってきた。伊勢丹のわきにある「田川」の「ふぐ」も懐かしくなってきた。不満が身内に湧いてくると食欲も多彩に現れるというのは不健康なのか、せめても健康なのか。
バカを言ってないで、さっさと階下で本を読んで、寝てしまおう。そのうちに歌集が届くだろう、そのうちに妻と一緒に久しぶりに京都へ行ける、顔見世芝居が観られる。
2005 12・12 51
* アキレス腱の痛みは脹ら脛にのびあがり、腰にも来て、歩行かなり苦痛。それでも地下鉄で出町から三条に、そして古門前の思文閣にたちより、此処の会長とのいずれの「対談」にわたりをつけておいて、切り通し「菱岩」に立ち寄り、明日の仕出し弁当を頼んで、二人分一万二千円余を支払っておいた。
新門前を狸橋までそぞろ歩き、やきものや道具類の店に替わっている、元の我が家跡もちょっと覗いてから、新橋へ。「菱岩」で聞いておいた、フランス料理「萬養軒」に寄り、五時過ぎの食事を予約。縄手から四條をまた東行して「鍵善」に入り、黒蜜の「葛きり」を、しばらくぶりに楽しんだ。
昔懐かしい老舗であるが、奥をおしひろげ、気持ちよい店にしてある。祇園では観光客にも人気の店だが、売り物は昔のまま吟味よろしく、葛きりは美味い。店内の古美術、絵、版画、また「顔見世の楽屋入まで清水に」とある先代吉右衛門の句色紙など、さすが京の老舗の懐のたしかな深さを思わせた。
そこから五時過ぎに、「権兵衛」「いずう」の前をぬけて映画でしばしば馴染みの辰巳橋から西へ、「萬養軒」へ入った。佳い席を作ってくれていた。
* 「萬養軒」はもとは四條通りの目抜き一等地にあり、京都では随一といっていい老舗のフランス料理店だった。美術賞の財団の理事会などもしたこがあり、われわれ夫婦も随分昔に一度食事していたが、この一二年、その店を見失い、ひどく気にしていた。今日タクシーの運転手に、祇園新橋に移ってますと聞かされ、「菱岩」の女将さんにも聞くと、確かに新橋にと。古稀の南座では「菱岩」の仕出しを楽しみ、出来れば前夜は「萬養軒」がいいんだがと妻と言い合っていたので、これ幸いと予約を入れた。
四條のハイカラな店とは様変わり、祇園甲部の町並み保存地区、しっとりとした和風の構えの奧に、落ち着いた店をつくっていた。ま、事情あって四條の店から移ってきたのだろうが、フルコースの料理は、じつにメニュもめずらしく、また美味しく、満足した。ワインもピタリと料理にかない、心地よい酔いを得た。坪庭の奧は高い塀、その東手二階には灯のいろ美しい瀟洒な障子窓がみあげられて、お芝居の書き割りのようで書き割りならぬ風情のよさ。店内にかけた絵もわるくなく、神下雄吉(?)の洋桃の絵は、とくに妻が気に入った。
* もうこの上飲みたい食べたいはなく、明日には来る南座のまねきを見上げて写真に納めたりしながら、師走四條通りの夜をゆるゆる、ゆるゆる西へ歩み歩み、念のために風邪薬を買っておく程度にして、烏丸のホテルに戻った。
妻は疲れもしたであろう、ワインにも酔ったようで、シャワー程度ですぐ寝入り、わたしは校正したり八犬伝を読んだりしてから入浴し、それでも十二時までには灯を消して朝まで寝入った。
2005 12・20 51
* 古稀、七十の誕生日、六時半に目覚め、窓に東山の曙を見る。心爽やか。
* 朝食ははぶいて、八時半、荷物を預けて、チェックアウト。車で、圓山公園の「いもぼう」下まで。
そこからは朝早やの静かな公園を心行くまでそぞろ歩いて、この艶に優しい造園の粋をそこここに認め認め、楽しみ合った。せせらぐ水音の底知れぬ静けさ。花なき花木の枝がちに冴え冴えとしたすがやかさ。木々の遥かに知恩院の大きな甍。旧大倉邸のハイカラ、八坂神社境内へ導く朱の鳥居、そして鴉を絵のように青空にとまらせた名木枝垂れ櫻。
氏神八坂神社に七十の寿と平安を謝し、今後を祈り、末社末社に遙拝して、朱の楼門から四條大通りへ降りていった。
弥栄中学をのぞきこみ、紅殻塗りの茶屋一力ぞいに写真をとり、香を買い、古美術・茶道具の店をのぞいて店員と談笑、そして、十時少し過ぎて、中村鴈治郎改め坂田藤十郎襲名、師走顔見世興行の南座に入った。
* 松嶋屋の番頭さんに支払いし、私にも祝いの品をもらい、六列目真中央絶好の席に入る。東京だと、木挽町でも三宅坂でも客はみな「歌舞伎」を観る気持ちだが、南座では「芝居」を観るのである。劇場は最も歌舞伎狂言にふさわしい広さ(狭さ)であり、そのために「舞台」が「花道」が、身近に感じられる。名古屋の御園座でも大阪の松竹座でもそういう感じだが、ことに南座は芝居の味わいが濃まやかに伝わる。
* 昼の部の最初は、趣向の「女車引」で、松王妻の千代に魁春、梅王妻の春に扇雀、櫻丸妻の八重に孝太郎の所作事の、清元に、誂えたように、
「摘草や ほんの嫁菜の姉妹(おとどい)が 思ひ思ひの料理草 古来稀なる七十の賀の祝とて昨夜(ゆふべ)から 雑煮の支度提灯で もちっと精出せ合点ぢや…」
などという詞がでてくる。扇雀がなかなかの踊り上手をみせ、魁春に拮抗。孝太郎がすこし「踊り見栄」に首を大きくふりすぎるのが気になったが、はんなりと、遊び心横溢の祝言ものと観てとれて、賀の祝いの私には結構な一番目であった。
* そして新藤十郎お目見えの初狂言は、常磐津「夕霧名残の正月 由縁の月」で、扇屋の夕霧に雀右衛門がしんみりとつきあい、鴈治郎改め新山城屋は、ほんものの紙衣を着た藤屋伊左衛門。扇屋の主人三郎兵衛に我當、女房おふさに我當のすぐしたの弟秀太郎。この二人が、舞台半ば、亡くなった夕霧がふたたび冥土へ去ったところで、伊左衛門を中に、三人で趣向の「口上」となる。遙々来た私たちにとびきりのご馳走で、なんともいえず目出度くも嬉しくも、心華やいだ。芝居としては、むろん「吉田屋」の夕霧と伊左衛門纏綿の情緒が好きで、またあれは勘当もゆりて、結末がたいへんめでたい、なぜあれでなくて「ゆかりの月」かいなと思っていたが、なるほど新山城屋を中に、関西の重鎮松嶋屋の長兄と次兄とでおめでたい「口上」の祝言なら、納得した。
* 「菱岩」から届けられた弁当一人前を、場内で二人で食べた。とても一人では食べきれない御馳走で、用意の純米名酒が美味い。「菱岩」は、江戸時代半ばから京都で名代の「仕出し料理」の店、わたしの家の西町内にあり、一つ上の娘さんがながく叔母の社中であった。その縁もあり、初釜にはきっと「菱岩」の料理が縁高で出たし、茶事のときにも「菱岩」か「辻留」に料理に出張して貰っていた。
そんな店であるから「弁当」といってもまるで概念がちがっていて、大きな木の器にびっしりといろんな御馳走が二十数種もつまってくる。むろん揚げ物など混じらず、何もかも手を尽くして調理し料理した、粋で、味で、美しい食べ物が揃ってくる。
今度の京都は、芝居もさりながら「菱岩」を仕上げの眼目と思ってきた。思ったままの、それ以上の大満足で二人とも満腹した。
* 弁当幕間の次は、播磨屋の吉右衛門が当たり役、「腰越状 五斗兵衛三番叟」で、めでたき大酒の祝言劇。左右から、腹に一物の大酒を強いに強いるのが、このところいつものように、歌六と歌昇の、萬屋兄弟。よく役に嵌っていて、わたしはことにこの頃は歌六が贔屓。先代吉右衛門を思い出してしまう。
当代吉右衛門の悠々と手慣れて巧者な大酒のみのおもしろさに先だって、吾々夫婦が気持ち応援している若き尾上松緑の亀井六郎が、「小田奴」たち相手におおらかな所作の歌舞伎を楽しませる。「松緑」とても佳い佳いと言い合いながら、楽しんだ。
鴈治郎長男の翫雀が、癇癖気味の義経を頑張った。吉右衛門の五斗兵衛が大酔うのまま小気味よくあしらう「雀踊り」のけっこうなことも、言うまでもない。わたしは、壜に余していた酒を、五斗兵衛ほどの量ではないが、機嫌よく舞台と調子を合わせてみな飲み干した。
* 四番目にも所作事が二つ。先ず、仁左衛門の「文屋」に、からみつく武骨揃いの官女達がおもしろく、松嶋屋は悠然、さらさらと踊って陽気にからり。
そして次の「京人形」を、今日は御大菊五郎が左甚五郎。人形の花魁が菊之助で、これが目覚ましいまで美しく、しかも人形ぶりの踊りが硬軟まじえてじつに巧み。前には扇雀の人形を楽しんだが、菊之助の美しさは、若いことも若いだけに光り輝くようで、もっともっと長く観ていたかった。どれが好きと言われると、「京人形」の音羽屋と言いたいほどの嬉しい出来映えであった。
* さて大喜利は待ってました、二百三十一年ぶりの新藤十郎の天満屋お初と、長男翫雀が演じる平野屋徳兵衛の、近松作「曽根崎心中」が三幕。
これぞ上、方の和事の極致。扇雀時代の鴈治郎が、鴈治郎を継ぐよりも坂田藤十郎になりたいと望んでいた念願の大名跡で、渾身・懸命のお初。ああ、ああ、文句なしにおみごとであった。濃艶な京料理の味佳さに似た、深い濃い味わい。情緒は纏綿、殉情の哀愁に惹かれ引かれて心中する二人。翫雀の藝根性の太さがうかがわれる熱演も好もしく、胸に刃の最期には浄福の愛の、はかないが美しい恍惚と陶酔もうかがえて、ぞうっと鳥肌が立った。申し分無しと言っておく。
* 十時半開演の四時十分まで、六時間近い充実の大サービスに、おお満足。昼夜入れ替えの雑踏の劇場前で、「菱岩」からもう一人前の弁当を受け取り、タクシーでホテルに戻って荷物を受け出し、予定の新幹線を、四十五分ほど早めて、らくに乗車。
ほっこりして寛いだところで、味のかわるのを用心し、今度は大きめの冷たい缶ビールといっしょに、もう一度「菱岩」の弁当をゆっくり満喫した。おなじものを一日に二度食べても、なに不服もない実質の美味さ、豊富さ。京料理の本領を味善(あんじょ)う行った「しっかり」味。みずくさい、ひつこい、あじないものが微塵もないた。おいしかった。
2005 12・21 51
* 能楽堂から近い、千駄ヶ谷駅よりの地下食堂で、タラバガニを蒸したのやナマの刺身や餃子にしたのや、そして鯛の刺身やホタテ貝の蒸し物などを食べ、酒を三合あまりは飲んで寒風の保谷へ帰ってきた。
* 近江五個荘の川嶋さんから餅がたくさん届いていた。また名だたる清酒や外国の紅白ワインなども頂戴していた。
2005 12・24 51
* 大阪産経に二本エッセイ原稿を送り、これで新年の正月下旬まで足りている。年内にもう二本ぐらい書けるだろう。
とにかくも、ラクになった。湖の本の校正をはかどらせておこう。そして、うまい酒を飲もう。金沢から粕漬け、糠漬けの酒肴・海の幸が送られてきた。河豚も鯖もあれもこれもしっかり漬けて、食べやすくスライスしてある。赤ちゃんの拳ほどの苺も、栃木から、また頂戴した。映画を観て、やすもう。
2005 12・27 51
* 昼前に出かけて、無くてはならない京都の雑煮用白味噌と、蛤とを買い、文房具を少し補充し、西武八階の「伊勢源」に入った。なぜか鰻が食べたかった。で、特上の鰻重を註文し、生ビールで口を示してから、店内で見つけていた濁り酒「津軽の風」をコップに注いでもらった。病みつきになりそうに美味い濁り酒で、ほろほろと酔いが出た。鰻も美味い美味い。このシーズンにかぎり一度に四本しか手に入らない濁り酒だと店の女将は言い、つまりわたしはちいさな幸運を得たのである。
ご機嫌で地下におり、すこし私のために酒の肴を買い足して、帰った。
往き帰りに八犬伝。面白い。
2005 12・31 51